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Author:舞村そうじ/RIMLAND
 創作同人サークル「RIMLAND」の
 活動報告を兼ねつつ、物語とは何か・
 どんなメカニズムが物語を駆動し心を
 うごかすのか、日々考察する予定。

【最近の動向】
当面は新刊がない予定です。

WebまんがSide-B遅々として更新中。

6年ぶりの本篇更新。(20.05.17)

旧サイトは2014年8月で終了しました(お運びいただき感謝)。再編集して、こちらの新サイトに少しずつ繰り入れますが、正直、時間はかかると思います。

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日本赤十字社

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サイト日記更新。ルネ・ジラールで読み解くアメリカ大統領選挙。下の画像か、こちらから。(21.01.17)


ひとつ前の日記。『神曲』の邦訳三つ読み比べと見せかけて…こちらから。(21.01.10)




第14回いっせい配信「2020年11月」にて電子書籍版フューチャーデイズ5(7+8)の頒布を開始しました。紙版の2冊を1冊に、約3年かけて続いた電書化ですが、いよいよ紙バージョンの進行に電書が追いつきました。この先どうなるか(配布形態)は考え中ですが、まだまだFDは続きます。(2020.11.2)


満場一致が示すこと〜ルネ・ジラールで読むアメリカ大統領選挙(2021.01.17)

 われわれは、ケーアス、生贄を捧げるものでありたい、屠殺者ではなく。
(『ジュリアス・シーザー』第二場第二幕・小田島雄志訳)

 供犠の時を四年間、待ち焦がれていた。人々の心が憎悪で沸き返り、偽物の王を処刑台に追い上げる日を。そのような日を待ち望んではならないと、強く戒められていたにも関わらずだ。

    *    *    *

 その論評を、個々人の欲望・羨望にまつわる考察から始めたルネ・ジラールは、しだいに思索の対象を社会的・文化人類学的な分野にまで広げていった。『暴力と聖なるもの』『世の初めから隠されていること』『身代わりの山羊』…中期の著作群でジラールが大きな関心を示すのは供犠=スケープゴートの問題だ。
 ジラールによれば・羨望=互いの模倣による競争がエスカレートし極限に達するか・疫病などの社会不安で共同体は危機に瀕する。
「同一性、画一性のなかにいつでも一切を落ちこませるものは、逆説的ながら、他と異なろうとする欲望です」(『世の初めから隠されていること』)
親子や兄弟姉妹さえ互いに競争しあう、ただの「敵」になる。誰をも等しく襲う疫病が、個性や肩書きを無力化する。そのようにして共同体は無秩序な、いわば「モブ」の集団になる。沸騰寸前まで熱せられた分子のように、水の一滴も投げ込んでやれば暴力の応酬=社会の崩壊につながる危機だ。
 この危機を解消する魔法が、スケープゴートの追放だとジラールは言う。社会不安・互いの憎悪の理由を誰か一者に押しつけ、満場一致で追い出すことで、無秩序だった顔のない群衆が共同体としての秩序を一気に回復する。
 重要なのは、この放逐が「満場一致」でなければならないことだ。そうでなく中途半端な、総員の同意を得られない「あいつを追い出せ」は、すぐに「お前こそ出ていけ」と模倣され、暴力の応酬に拍車をかけるだけだろう。
マイルドに「追放」と書いてるけど、ジラールは身もフタもなく「殺害」と言う。
 初期のソネットから晩年のロマンス劇まで、シェイクスピアの諸作をジラール流に解釈した『羨望の炎 シェイクスピアと欲望の劇場』(小林昌夫/田口孝夫訳・法政大学出版局)によれば、戯曲『ジュリアス・シーザー』は、まさにスケープゴート劇=供犠のメカニズムを体現しているという。
 平日に仕事着も着ず、職務を放り出してシーザーの凱旋を見物に行く大工たちを描いた冒頭は(ジラールに言わせれば)秩序が崩壊し人々がモブと化した社会の危機を描いている。細かいことを端折ると、憂国の士ブルータスは共和制ローマを崩壊から救うため、シーザーをスケープゴートに仕立て、彼を粛清することで秩序の回復をはかろうとする。
 だが続くのは暗殺が「満場一致」の賛同を得られなかったため、人々が陥るさらなる混乱だ。シーザー暗殺の義を説くブルータスの演説が、シーザーの腹心であったアントニーの弁舌によって覆され、聖なる生贄を捧げる供犠だったはずの暗殺は、ただの屠殺として人々の激昂を呼ぶ(ブルータスの仲間と同じ名前だっただけで、無関係の詩人が虐殺される)。この混迷に蹴りをつけるのは、皮肉なことにブルータス自身となる。アントニーと、シーザーの養子オクテーヴィアスの連合軍に破れ、自害した彼を勝者たちは
「彼こそ一味のなかでもっとも高潔なローマ人だった」(アントニー)
「その徳にふさわしい遇しかたをしよう、できるかぎり礼をつくして葬儀をおこなうのだ」(オクテーヴィアス)
と聖別する。言うまでもなく英語表記のオクテーヴィアスが、後にアントニー=マルクス・アントニウスをアクティウムの海戦で破り、初代ローマ皇帝アウグストゥスとなるその人だ。
 まとめて言う。シェイクスピアの戯曲は・共和制ローマ崩壊の危機を・シーザーをスケープゴートにすることで救おうとしたブルータスが(満場一致の同意を得られず)供犠に失敗し・さらなる暴力を呼んだあげく・ブルータス自身が理想のスケープゴートとされ・彼が望んだ共和制の再生でなく逆に危惧した帝政の誕生により秩序が回復される…そんな皮肉に満ちたドラマとして読み解くことができる。
 
 問題は、この供犠=スケープゴートの追放や処刑による秩序の回復を、ジラールが賛美も推奨もしていないことだ。
 おおよその理解では、ジラールは次の二点で供犠の無効化を説く。ひとつは法の支配が広まることで(供犠を必要とするような)際限のない報復の連鎖に歯止めがかかること。
 もうひとつは、相互模倣が対立や暴力に帰結せず、むしろ競争の激化が経済を駆動する稀有なシステム=資本主義が世界に定着したことだ。もっとも資本主義は、引き換えにその成員たち(互いのマウンティングに終始し、誇示的消費をやめられない吾々のことだ)に絶え間ない神経症をもたらす。だが古い供犠のシステムを復活させて、この新しいメカニズムを停めることは不可能だし、望んではいけないことだとジラールは説く。彼は言う。
「人間は供犠を介することなしに永遠に和解しあわなければならない(中略)
 さもなくば、人類の近い将来における絶滅を甘受しなければならないのです」
…『世の初めから隠されていること』(原著1978)年の発言には、競争社会が生んだ環境破壊や、当時は東西対立のため今よりずっと切迫していた核戦争への懸念が反映されているだろう。しかしなお「和解」はスケープゴートを伴うもので、あってはならない。
 なぜか。もちろん排除されるのがシーザーひとりでも暴力は暴力なのだが、現実の「供犠」はずっと多くの、それも王ではなく貧者や弱者・女性や子ども(ジラール言うところの「すべての犠牲にされやすいもの」)の、そして放逐では済まず殺害によって成る。戯曲の中のアントニーとオクテーヴィアスすらブルータスを討伐する前に、手付金のようにローマの元老院議員100人を粛清した。中世のペストに怯えた人々のユダヤ人排除、フランス革命にともなう恐怖政治、関東大震災後の朝鮮人虐殺、ナチスによる人道的犯罪…
 このあたりの経緯は『身代わりの山羊』を取り上げた2012年2月の日記を参照してください

    *    *    *

 かようにジラール自身によって戒められているにも関わらず、自分は四年間、スケープゴート放逐の儀式を待ち望んでいた。2020年、アメリカ大統領選挙によってドナルド・トランプが追放される日を。
 かの人物が選挙で勝利した2016年は、絶望の年だった。もちろん、煮えくり返っていたのは2012年からだ。太平洋の向こうではない自分の足元のことで八年間、絶望しっぱなしだった。国会前に60万人の群衆が押しよせ岸内閣を退陣に追い込んだような、隣国の韓国で百万人のデモが朴槿恵政権を倒したような「満場一致による追放」は、今の日本には期待できない。それが制度によって合法的に可能である・人々がまともならば四年後には陶片追放のチャンスがやってくるアメリカが羨ましかった。
 いや、わりと冗談ではないのだ。今回の選挙で、開票にまつわる云々に人々が一喜一憂していた頃、ずっと考えていた。アメリカの大統領選挙とは、流血をともなわない形で洗練された、合法的な供犠=スケープゴートの放逐による共同体の秩序回復の儀式ではないかと。
 もちろん眉に唾をつけていい。大いにつけなさい。望ましいのは他人の言ったことの鵜呑みや・まして呑み込みもしないコピペの同調ではなく、誰もが自身で考えること。だから自分も考える。ヒントになるのはアメリカの大統領選挙を(日本から見て)分かりにくくしていると言われた、州ごとの選挙人総取り制度だ。
 たとえばペンシルバニア州に50人の選挙人がいるとして、州の選挙で共和なり民主なりの候補が競り勝つと、たとえそれが一票差の半々でも「じゃあ26対24にしましょう」ではなく勝ったほうが50人総取りになる。それは「アメリカ」と吾々が呼ぶ国家がUnited States(州の集合体)であり、州の自主性・自律性が重んじられていることを考えると、不思議と腑に落ちることでもあった。それぞれの州がひとつのState(国)であり、その決定は満場一致でなければならない。スケープゴートの追放の他に、こうした満場一致が求められた場を、吾々は知っている。現代の民主主義が(今では現実的でない)理想と仰ぐ、古代の民会だ。
 大統領選における州ごとの選挙人総取り制度・の根幹にあるのは、古代の民主主義の理想である満場一致を、後からこじつける形でも、擬似的でも再び顕現させようという儀礼的な意図ではないか…というのが自分の仮説だが如何か。
 そして改めて、この満場一致はスケープゴート追放(による秩序回復)の満場一致と同じものだ。血なまぐさい生贄の儀式と違う(けれど本質的には同じな)のは、昨日まで選挙を争っていた対立候補が、自ら最も重要な「満場一致」の先導者となることだろう。通例、選挙の結果が決すると敗者は真っ先に「勝者と一丸となって今後四年間のアメリカを作ろう」と自らの支持者に訴える。勝者もまた敗者の支持者たちに「あなたたちと一緒に今後四年間のアメリカを作ります」と呼びかける。かの国の大統領選挙を、国が真っ二つに割れる「合法化された内戦」とも称するらしい。自分が付け加えたいのは「流血をともなわない、洗練された供犠の儀式」でもある、ということだ。
 もちろん再任もあれば、同じ政党で大統領職が継承されることもある。だが原理的には四年ごとに、前任者の完全降伏と放逐によってアメリカは、歴代の大統領が(つまりアメリカ自身が)為したあらゆる悪政も失政も「チャラ」に出来る。道を誤り、失敗した大統領はいるが、彼(将来的には「または彼女」)は満場一致の儀式によって正しく追放され、アメリカという理想・アメリカという理念は傷つかない。これはたいへんな巧緻にして狡知ではないか。

 だいたい、そんなことを考えていた。だからトランプや支持者たちが実際には吾々が勝った・不正によって負けたと称しても、いちいち呼応して一喜一憂しようとは思わなかった。アメリカはバイデンを、と言うよりトランプ追放を選んだ。これは満場一致の選択だったと、歴史は後づけで認識するだろう。どれだけトランプやQアノン(敵対者の陰謀を信じるトランプ支持者)やJアノン(なぜか日本でトランプを応援する人たち)が悪あがきしようと、アメリカという制度は最終的には秩序を取り戻す。あるいは、それに失敗すればアメリカは崩壊する。それだけのことだと言えるし、自分には「アメリカ滅びろ」と思う積極的な理由はないので、秩序の回復が「まずは」望ましいと考える。
 ではなぜ「まずは」と留保をつけるか。四年ごとに供犠を行ない秩序を取り戻すアメリカという国の、供犠を必要とする無秩序ではなく秩序もまた、信用できないと思うからだ。
 ジラール自身は語らなかったが(そんなこと言ったら大統領選のことだって語ってない)「供犠を介した和解」ではいけないと彼が強く否定したのは「そうした和解が結局は破局を回避しえない」事例もまた多かったからではないか…そんな風に邪推したくなる。アウグストゥスが治めたローマは知らない。だがマリー・アントワネットからロベスピエールまで数多の首をギロチンで落とし、血まみれでようやく勝ち取ったナポレオンの下の秩序はフランスに、国民一丸となっての対外戦争・行かなくてもいいロシア遠征まで含めた殺戮と消耗を強いた。スケープゴートとしてユダヤ人を絶滅収容所に送ったナチス・ドイツ、朝鮮人を虐殺した日本が「満場一致」で邁進した自滅への道については言うまでもない。
 アメリカが大統領選によって「満場一致」で・だが平和裡にスケープゴートを追放し秩序を取り戻す、それは大いにけっこうだ。だが秩序を取り戻したアメリカはベトナムで中東で、「満場一致」のアメリカは世界中で何をしてきたか。常に己の過ちを修正し、マイノリティに門戸を開き、より民主的・より多様な人々から成る社会として自らをアップデートしつづけるアメリカは同時に、常に外部に討伐すべき「ならず者国家」を設定し、満場一致の愛国心で焼夷弾を、ミサイルをドローン爆弾を、生命ある人々の上に落とし続ける、世界で最も好戦的な国家でもある。
 その好戦性は、制度化された=社会の運営の根幹にまでビルトインされた供犠の儀礼の(洗練され押し隠された)残虐性・ジラールが批判しつづけた「満場一致」の暴力性と本当に無縁なのだろうか。
 アメリカが今回の試練も乗り越え、トランプの放逐に成功し、秩序を取り戻すことを(四年間その存在に煮えくり返っていた身として)心から願っている。だが個人的には、アメリカという国家自体に、まだ気を許すことはできない。

 Jアノンが奇論・こじつけを弄して他国の大統領(それも敗けた)を信奉するのが滑稽なように、世界に暴力をアウトソーシングしている「アメリカの正義」を、民主主義を求める非アメリカ人は過大評価=無条件で賛美し、己の手柄のように誤認してはいけないと思う。それが自分の頭で考える者の矜持であり、自力で(国内の)民主主義と秩序回復を勝ち取るだろうアメリカの人々への敬意でもあると。
 ←この日記を書いてる時点で悪魔のように高い。図書館で読みましょう!

読み比べ『神曲』3×3〜ルネ・ジラール『地下室の批評家』(2021.01.10)

 1)翻訳×3
 自分には審美眼やセンスがない・日本語すら覚束ないと、前回の日記で言いはしたが、もちろん多少の判別はつくのです。同じ文章の翻訳なら
a.一切は機械をなしている。天空諸機械。天の星々や空の虹。アルプス諸機械。これらの機械は、レンツの身体のさまざまの機械と連結している。ここにあるのは機械のたえまなく唸る音。

b.すべては機械をなしている。天上の機械、星々または虹、山岳の機械。これらが、レンツの身体のもろもろの機械と連結する。諸機械のたえまないざわめき。
は、ちょっと違うな程度は分かる(ジル・ドゥルーズ=フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス』a…市倉 宏祐訳、b…宇野邦一訳)。
a.生い茂る栗の木の下で
 俺はお前を売り、お前は俺を売った
 奴らはあそこに横たわり、俺たちはここに横たわる
 生い茂る栗の木の下で


b.おおきな栗の木の下でー
 あーなーたーとーわーたーしー
 なーかーよーくー裏切ったー
 おおきな栗の木の下でー

だったら、なおさら分かるというものだ(ジョージ・オーウェル『一九八四年』a…新庄哲夫訳、b…高橋和久訳)。
 とはいえ正直、どう違い、どちらが良いのか言語化するレベルには至っていない。初めて見た訳文を親だと思ってしまうこともあるだろう。平易で明快な訳を欲することもあれば、凝った美文に酔いたい気持ちもある。明晰さと詩的な美しさはバーターなのだろうか。
 
 前回の予告どおり、かねてから懸案だったダンテ神曲』三つの訳の読み比べに、いよいよ着手しようと訳本を揃え始めた。
 そもそも『神曲』を読んでみようか、読書のレパートリーに『神曲』がある人生を送ってみようか、そう思ったのは須賀敦子氏の影響だろうか。四方田犬彦氏の影響だろうか。日本の文庫のように持ち運び容易なコンパクトな版でイタリア語の『神曲』を持ち歩く老婦人のエピソードを読んだのは、さてどちらの著書でだったか。地獄篇第五歌・愛ゆえに罪人とされたフランチェスカ・ダ・リミニの逸話が好きだという老婦人と、エッセイの語り手は飛行機で隣り合ったのではなかったか。
 本年も「資料になる本が直ぐ出てこないので、あてずっぽうな記憶で書く」スタイルでやっていく所存みたいです…
 最初に読んだのは集英社文庫・ヘリテージシリーズの寿岳文章(1900-1990)訳だった。その特色は独特な語り口だ。
ひとの世の旅路のなかば、ふと気がつくと、私はますぐな道を見失い、暗い森に迷いこんでいた。
ああ、その森のすごさ、こごしさ、荒涼ぶりを、語ることはげに難い。思いかえすだけでも、その時の恐ろしさがもどってくる!
その経験の苦しさは、死にもおさおさ劣らぬが、そこで巡りあったよきことを語るために、私は述べよう。そこで見たほかのことどもをも。
後述するが、個人的には一番好きな訳だと思う。けれどただちに買い求めなかったのは「ますぐ」「こごしさ」と既に片鱗を見せている独特な語彙や、その語彙の中に(キリスト教文学の金字塔なのに)仏教用語を多用したと批判されていたため、ばかりではない。明晰さと詩的な美しさはバーターではないか。美しいがこの訳文だけで済ませて「寿岳文章の」でなくダンテの『神曲』を把握したと思うのは危険ではないか。

 そんな思いで、実際に買い求め書棚に収めたのは河出文庫の平川祐弘(1931-)訳だった。
人生の道の半ばで正道を踏みはずした私が目をさました時は暗い森の中にいた。
その苛烈で荒涼とした峻厳な森がいかなるものであったか、口にするのも辛い。思い返しただけでもぞっとする。
その苦しさにもう死なんばかりであった。しかしそこでめぐりあった幸せを語るためには、そこで目撃した二、三のことをまず話そうと思う。
こうして見ると、寿岳訳だけだと若干ヤバいな、危ういなと思うでしょ?平易で読みやすい訳だと思います。
 問題は、平易なぶん寿岳訳よりは感動が薄めなこと、そしてこれは全く訳文に影を落としてはいないのだけど、訳者の平川氏が自分とは相容れない=若干ヤバいな、危ういなと思う思想の主であること。簡単にいうと日本スゴイのひと。ダンテをここまで丁寧に訳し、その政治的背景まで解説できる人が、どうして私人としてはこうも固陋なのと失望させられた一方、国粋主義や表裏一体の他国蔑視に走るのは無教養なよるべない人々ばかりでない・知性も教養も人が固陋に陥らない保証にはならないのだ…という苦い教訓を与えてくれた訳者。最近では、菅首相による日本学術振興会への弾圧(というにもレベルの低いイチャモン・言いがかり)を支持しますという、櫻井よしこ氏が筆頭の宣言に名を連ねてしまってます。でもこの訳文は憎めない。逆に日本スゴイの人は訳よし訳者よしで万々歳…とは思いたくないけれど。

 寿岳訳は1974-1976年。平川訳は1966年に初訳したものの改訂を重ね、全面的に見直したのが2008年の河出文庫版。
 これら先達を凌駕する正しい訳と鳴り物入りで登場したのが2014年・講談社学術文庫の原基晶(1967-)訳。
我らの人生を半ばまで歩んだ時 目が覚めると暗い森の中をさまよっている自分に気づいた。まっすぐに続く道はどこにも見えなくなっていた。
ああ、その有様を伝えるのはあまりに難しい。深く鬱蒼として引き返すこともできぬ、思い起こすだけで恐怖が再び戻ってくるこの森は。
死にまるで変わらぬほど苦しいのだ、しかしその中で見つけた善を伝えるために、目の当たりにしたすべてを語ろう。
冒頭の一節はイザヤ書の「人生の半ばで私は地獄の門に赴いた」を踏まえたものだと訳注にある。「まっすぐに進む道」とはヨハネによる福音書の「私は道であり、真理であり、命である」の引用であると。そういう文脈があるので「まっすぐな道を見失った」だけで人生のことだと分かれよ―原文への忠実度が高い訳だとそうなるようだ。わざわざ「人生の道の半ばで正道を踏みはずした」と意訳してくれた平川氏の親切が改めて知れるし、訳としての精確さとニュアンスの伝わり加減も時にバーターなのかもと考えさせられたりする。
 パッと見「エモさ」では平川訳にもまして感動の薄い生硬な訳にも見えるが(とゆうか寿岳訳がエモすぎるのだ)、まだキチンと読んでないので未知数。文芸的・詩的な喜びでは寿岳訳、平易さでは平川訳、考証の精確さでは原訳らしい…というのが暫定的な結論でよろしいか←いま流行りのブログ風に「いかがでしたか?」と書くのもアリかな、いやナシだろと思ったら、かわりに仕事の起案文みたいになってしまった…
 ちなみに寿岳訳・平川訳では各章の前に簡単な要約がついてて親切です。

 2)地獄・煉獄・天国
 そんなわけで、読み物としては寿岳文章訳の『神曲』が抜群に「エモい」です。くだけた言い方を重ねてしまえば「キャラ立ち」が違う。人生の正道を踏みはずしたダンテが生きながらに地獄・煉獄・天国を踏破する。キリスト生誕以前に死んだので天国には行けないが地獄・煉獄に属することも出来ず「辺獄(リンボ)」に居る古代ローマの詩人ウェルギリウスがダンテの道行きを案内するのですが、このウェルギリウス(寿岳訳だとヴィルジリオ)が『千と千尋』のハク様なみに優しく頼れて萌える。天国には入れない彼が煉獄篇の最後で姿を消したあとのロスときたら。
 一方、バトンタッチして天国の案内をするベアトリーチェ。ダンテ永遠の片想い相手・理想の女性として知られるべ樣ですが、終始優しかったヴィルジリオに比べ、そのドSなこと。「節穴だらけのおことの眼にも、はきと意味が見てとれるように」分かりやすく話しましょうとか、私を永遠の恋人と言いながら別の婦人に心を移しましたねと罵るさま、蔑みの冷たさが映えるのは寿岳訳ならでは。そもそも迷えるダンテが地獄煉獄天国を訪問できるよう取りなしたのは彼女らしいのですが、すでに魂が天界に属しているせいか、意外なくらい人間味が乏しい。
 なので読んでいて楽しいのは煉獄篇。地獄篇はすごいぞ、スペクタクルだぞSFだぞという意見もあるのは知っている。個々人の好みでしょう。自分の場合は咎人に救いの余地のない地獄より、苦役は負うものの救われる希望がある煉獄のほうが読んでいて清々しく心に沁みる。そしてまだ人間の身に、天国篇はちょっと難解。地獄=スペクタクル、煉獄=癒やし、天国=お勉強、これが二つ目の×3。よろしいでしょうか。
 

3)フランチェスカ・ダ・リミニをめぐる解釈×3(2?)
 ダンテの『神曲』。三人の訳者によって味わいが三様だし、地獄・煉獄・天国の趣もまた三様という話でした。
 以下は余談で、読む人によって解釈がこうも変わるかという話。
 先述のとおり地獄篇第五歌は愛欲で身を滅ぼした者が墜とされた第二圏を活写する。クレオパトラやトロイのヘレネー、トリスタンなど居並ぶこの地獄にありながら、なおも寄り添い続ける二人がダンテの注意を引きつける。フランチェスカ・ダ・リミニとパオロ・マラテスタ。フランチェスカはパオロの兄ジャンチオットの妻であったが、夫の不在中に情を通じ、戻ってきた夫に殺された。
 寿岳の訳注によれば結婚は政略結婚でジャンチオットは醜男、断られないよう眉目秀麗なパオロを代理に立て求婚させたという。ボッカチオが記した同説をやはり是とする平川の注では、このエピソードがダヌンツィオや与謝野晶子などに愛されたと解説されている。
 対して原の脚注は冷静だ。「パオロがジャンチョットとしてリミニに送り込まれ、フランチェスカが欺かれて結婚したという逸話は正しくない(中略)彼女が彼と恋に落ちるのは結婚後のことである」
 原氏の立場はニュートラルと言えるが、「熾の火燃ゆフランチェスカのこの中にありとも見えて美しきかな」(与謝野晶子)のように賛美されたこのエピソードを「騙されてはいけない」と厳しく弾劾するのが、誰あろうルネ・ジラールだ。よくよく考えてみなさい、二人がいるのは終わりある償いの業に励む煉獄ではなく、救いの余地がない地獄ではないかと。
 短めの文章を集めた『地下室の批評家』(白水社)の中でも、とくに短い一文「『神曲』から小説の社会学へ」は、『欲望の現象学』に連なる初期ジラールのエッセンスが10ページ足らずに凝縮されたエッセイだ。そのさらに前半部のみの『神曲』にふれたパートで、ジラールは言う。「今はわが身から取り去られた美しい容姿」とフランチェスカが語るように、二人はすでに肉体を失なった分身で、寄り添ってはいても真の結合は不可能であると。
 さらに彼が指摘するのは、二人が不倫の恋に落ちたきっかけだ。「ある日、つれづれに、私たちはランチロットが恋のとりことなった物語を読みました(中略)読みもてゆくうちに、いくたびかふたりの眼は合い、顔は色変え(中略)こがれてやまぬほほえみが、思うひとの口づけを受けたくだりを読んだとき、永久に私と離れないあのひとは うちふるえ、私の口を吸いました」地獄でも引き離せない、真の愛で結ばれた二人?これが?とジラールは問う。ここにいるのはランスロットと王妃ギネヴィアの不倫の恋を本で読むうち、不倫の恋に落ち、物語の二人が接吻する場面で口づけを交わす男女だ。
 『欲望の現象学』で描かれた、騎士物語を模倣して愚行を繰り返すドン・キホーテや、恋愛小説に憧れて破滅するボヴァリー夫人と同様、『神曲』の二人も物語に影響されコピーした欲望で身を滅ぼした男女でしかないとジラールは裁定する。フランチェスカはこう語る。「その物語の書(ふみ)と、物語の作者は、げにガレオット」ガレオットはランスロットをそそのかし、主君アーサーの王妃ギネヴィアとの不倫の恋を取り持った不忠の騎士だとジラールは解説する。これは自分たちをそそのかした書物を糾弾する、フランチェスカの呪詛として読まなければいけない。
 己の欲望は、本当に自発的なものか。初期ジラールが説いたのはそれを疑うことだった。すでに皆様お気づきのとおり、自分が『神曲』を手にしたきっかけは、このイタリアの古典をこよなく愛する人たちのエピソードを「読んで」その「欲望を模倣」したからに他ならない。三種類の訳をすべて手中にし、比較しようという今回の日記のネタも、前回の日記で記したとおり、『センセイの鞄』三書体の読み比べという楽しげな遊びを見て「真似したくなったから」。
 面映い話である。
 

 追記
 オーウェル『一九八四年』の「憎しみの歌」については、以下のブログに詳しい。自分のテキトウな日記などより、よほどキチンとした文章です。
テレスクリーンと黄色い調べ『一九八四年』既訳のまちがいについて(野菜生活)(外部サイトが開きます)
 高橋訳では「大きな栗の木のしたで」が元ネタとして、新庄訳ではそうした元ネタなしで直訳された「憎しみの歌」が、実は別の元ネタをもっていたという説得力のある話。自分は原詩There lie they, and here lie weのlieが新庄訳では「横たわる」になってて、それはそれで詩的で美しいのだけど、この場合「嘘をつく」のほうのlieなんじゃないかなーと思っていた節があって。高橋訳は「嘘」を採用してると思われる一方、件のブログに紹介されてる元ネタにはThere we sit both you and me座る、という単語がほの見えることから「横たわる」にもまた1ポイント入ったか、難しいなあと思っているところ。
 ちなみに新庄訳の「横たわる」って本当なの?と思ったキッカケは、デヴィッド・ボウイの「ヒーローズ」終盤の一節がWe may be lying, then you'd better not stayのlieが「嘘をつく」だったから。愛を貫こう、一日だけでも英雄になれる、そう言ってる自分たちの言葉だって「嘘 lying」かも知れない、だったら君はもう僕と一緒にいないほうがいい…
 ちょっとルネ・ジラールの「己の欲望は、本当に自発的なものか」と響き合ってるな、と感じてもらえたなら幸いです。本当はボウイの話まですると追記が長くなりすぎるとも思ったけれど、本日1/10は『一九八四年』とも縁のある彼氏が天に戻った日なので、まあ偲ぶキッカケになればと。
 来週は、後期ジラールとアメリカ大統領選挙の話をする予定です。

サード・アイ・ブラインド〜正木香子『文字と楽園』(2020.12.27)

 思えば今年の1月は「恥ずかしながら自分には"美"が分からん」という話で始まったのだった。
2020年1月19日の日記(秋田麻早子『絵を見る技術 名画の構造を読み解く』の紹介)
絵や映画を見て「いいな」「美しいな」と思っても、その美しさを言語化できないし、自分が「ちゃんと鑑賞できてる」のか自信がない。「えっ、この俳優って世間的には"大根"なの?」ということもあるし「やっぱり本は紙でなきゃ」というコダワリに全面的な同意を示せないのは一応まんがの作者としては致命的な無神経さかも知れない。翻訳小説の文体が苦手でさーえっ、どうゆうこと?」そう、審美眼やセンスの問題になると文章の読解すら覚束ないのだ、実は。
 じっさい本サイトの文章も、これだけ沢山あの小説はどうだ、この映画はこう素晴らしい言うても「こう組み立てられた部品から、こういうストーリーやテーマが抽出・抽象されるので、それが面白い」って話ばかりでしょ?たぶん前にも書いてるとおり、走ってるスポーツカーの速度や加速度を割り出す「微分」が自分の本分で、その車体の美しさやステアリングの好さといったものは、とても扱えない。
 そういう自分だからこそ、文章で大事なのは(三島的な綺羅びやかさではなく)まず第一に達意(意味が通じること)だよと説いた丸谷先生を師と仰ぐようになったのだと思う…
 だから美術館でずっと時間をかけて鑑賞できる人が羨ましいし、アクション俳優の殺陣の優劣や、音楽のコード進行の妙を語れる人にも「かなわんなあ」と思う。

 正木香子文字と楽園 精興社書体であじわう現代文学』(本の雑誌社)も、そんな感慨を抱かせる一冊だった。つまり、面白いがサッパリ分からん。サッパリ分からんというのは、著者が思い入れる精興社書体という活字セットの良さがだ。
 岩波書店の創設者・岩波茂雄と肩を並べる盟友だった印刷業者・白井赫太郎が創設した精興社。その書体で刷られた書物には、言うなれば独特のアウラがあると著者は説く。ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』に十歳で出会い、書物が語りかける内容だけでなく、それを印字する特定の書体に魅せられた著者。人が自ら語る半生の記録は珍しくない。読んできた本を通して己を語る自伝も少なくないだろう。ただそれが、特定の書体と分かちがたく結びついた事例は珍しいのではないか。
 …失礼ながら「奇書」という単語も頭に浮かぶ。みすず書房の創設者・小尾俊人氏も精興社の書体にあこがれて出版業を志したというから、分かるひとには分かるのだろう。しかし、あの書物は素晴らしい・この小説に感じ入った…という語りが「第三の目」でも有するかのように「その感動は精興社の書体そのものの感動と不可分であった」となるとき、これは本当なのか・著者の幻覚ではないのかと。疑うわけではない。ただ、たとえば本書では取り上げられていない別の本が精興社の書体だったとして、その書体ならではの良さが自分に分かる気がしない。いや、取り上げられている本ですら「そう言われて手にしてみたら(かつて読んだ本すらある)なるほど、この得も言われぬエモさは精興社だったからですね!」と納得はできないだろうと確信できる。
 そこまで踏まえたうえで、本書は異様に面白い。取り上げられた「精興社の本」はエンデの他に三島由紀夫『金閣寺』、堀江敏幸にジュンパ・ラヒリ、遠藤周作の絶筆…おそらく本書のクライマックスは村上春樹『ノルウェイの森』なのだろうが「奇書(失礼)」としての白眉は、やはり川上弘美センセイの鞄』評だろう。
 前章で堀田善衛『インドで考えたこと』(精興社書体)と椎名誠『インドでわしも考えた』(凸版明朝体)を比べ論じる宙返りを決めたあと、繰り広げられるのは同じ川上弘美のベストセラー小説を、三つの判型・三つの書体で読み比べるウルトラCだ。
「一冊目は、二〇〇一年刊行の平凡社の単行本。
 二冊目は、二〇〇四年刊行の文春文庫。
 そしてもう一冊は、二〇〇七年刊行の新潮文庫」

 最初の単行本の活字は「石井明朝オールドスタイル」。広告やポスター、あるいは『太陽』のような雑誌で使われていた書体で、90年代から小説の本文に使われだしたらしい。著者は言う。「文庫版の解説によれば、人生も終わりにさしかかろうとしている老年男性が三十歳以上も年下の女性とむすばれるストーリーは、当時、「しばらく小説から離れていた、多くの中高年男性を舞い上がらせた」という。ひょっとすると、そういうターゲットを想定して選ばれた書体だったのかもしれない(強調は引用者)
 三年後の文春文庫版で使われた活字は「凸版明朝」。一冊目が「センセイ」目線に思えたのに対し、こちらは語り手たる「ツキコさん」の呼吸に近く「恋愛にちょっと不器用で、サバサバした性格の女性」が自然に浮かんで感情移入できたという。
 そして三冊目、二度目の文庫化と相成った新潮文庫版は。言うまでもなく、著者がこよなく愛する精興社書体で印刷された同作は、その目にどう訴えかけたか。…もちろん、それをここで明かすことはできない(本書を読みましょうね)。しかし「そんな馬鹿な!(そんな上手い話が)」と思わずツッコミを入れつつ、川上作品の読者には納得度も高いムーンサルトが決まる。圧倒的に「オチ」の精興社バージョンに肩入れしつつ、三冊を「きっとそれぞれが、出会うべきひとと縁をむすぶために、別々の「本」として生まれたのだろう」と結ぶ着地もキレイ。
 
 結局のところ「この書体がスゴい」で終わらず、著者のなかに「こうあってほしい」本や文章のスタイルがあって、それが精興社という特定の印刷会社の活字と結びついている。だからスポーツカーの速度や加速度にばかり目が行く自分のような読み手にも、同書は面白いのだと思う(奇書ではないかと思う所以でもあるが)。
 …昨秋の、松本への一泊旅行で手に入れた一冊である。書物で真っ先に問われるべきは(手ざわりや佇まいではなく)意味だろう、意味がアルファでオメガだろうと思う審美眼に欠けた人間にとっては、まさに本は「読んでナンボ」なので、一年遅れとはいえ、無事に読めて良かったと思う。
 それで自分も精興社書体の本を意識的に読んでみよう…とは行かなかったが、同書の感慨に押されて、年来の懸案?野望?夢?を実行に移すことにした。…ダンテ神曲』日本語訳の読み比べである。とりあえず地獄篇だけでもと思い、三種類を揃えた。来年さいしょのサイト日記は、この話になります。それでは皆さま、よいお年を。
 

つかずはなれず〜映画『彼女は夢で踊る』(2020.12.20)

 こっ恥ずかしい歌詞といって最初に思い浮かぶのは何ですか。そういうこと、そもそも考えませんか。自分のばあいロキシー・ミュージックの「プジャマラマ」の一節なのだけど
The world may keep us far apart, but up in heaven angel, you can have my heart
(世界が二人を遠く隔てても 雲の上の天国では、エンジェル、僕のハートは君のものさ)

 レディオヘッドの「クリープ」の日本版CDの歌詞カードもYou're just like an angel(あ、またエンジェルですね)はいいとして、続く一節が
Your skin makes me cry 「その柔肌 涙が出るぜ
その柔肌と来たか。涙が出るぜと来たか。すごい邦訳だな、おい!と感心したものですが。

 時川英之監督の映画『彼女は夢で踊る』のラストで同曲がかかった時には「天使」も「柔肌」もすっとばし途中から邦訳の字幕が出た。
 それでいいのだと思う。柔肌を見せて踊る天使のようなヒロインのテーマとして、逆に相応しすぎて映画が歌の説明のようになってしまう。
 曲名の「クリープ」、But I'm a creep「だけど、僕はイヤな奴だから」と訳したのも「おっ」と思った。広島で何十年も続いた老舗ストリップ劇場。その名物支配人には、若い頃ひとりの踊り子に恋した秘めたる思い出があった…という物語で、犬飼貴丈が演じる青年時代の主人公を「イヤな奴」と思うひとは居ないだろう。ならば「クリープ」はどう訳せばいいか。ダメ男とか、虫ケラとか、そんな自虐的なニュアンスの言葉だ。「ストリップの観客とは恋仲になれない」とヒロインがはねつけると「友達でいいです」と食い下がり「怖っ」と引かれる主人公だから「キモい奴」はどうだろう。それとも「弱虫」か。あえて「イヤな奴」という「それだけはハズレ」な誤答を示しておいて、正解は観客に委ねる。ああでもない、こうでもないと反芻させる。主題歌には、こういう「つかずはなれず」な使いかたもあるのだなあと感心した。

 弱虫というか、馬鹿正直というか。大阪から来て広島で恋に落ちた主人公は、ヒロインのそばにいたくて、そのままストリップ劇場に転職を決めてしまう。スタッフになればステージは観放題、逆に観てなきゃいけない(トラブル対応係として)ようなものだが、彼は彼女のステージだけは観ようとしない。「友達でいい」という自分の言葉を守るためか、「観客とは恋仲にならない」という彼女の言葉を真に受けて「だったら観なければ…」と一縷の望みを守るためか。いずれにしても融通のきかない生真面目さで、しまいには「どうして私のステージは観てくれないの」と言われてしまう…
 
 主人公は過去と現在の二人一役。黒い瞳が印象的な青年と、パーマにヒゲの現在は正直、似ても似つかない。現在の主人公を演じる加藤雅也も、若い頃はその美貌で吉永小百合を死に至らしめたほどのハンサムなのだが(映画の話。泉鏡花原作・坂東玉三郎監督『外科室』)骨格からして違うのだ。なのに、ふてぶてしい現在のストリップ劇場支配人が、かつての馬鹿がつくほど正直で気弱な若者のままだ、同じ中身だと感じさせられる瞬間が幾度かある。似てないからこそ、その瞬間が映える。これも「つかずはなれず」の巧みかも知れない。
 主人公の二人一役に対し、若い頃の想い人を演じる岡村いずみは「現在」の主人公を翻弄する若い踊り子の一人二役。このシンメトリーも面白い。シンメトリーといえば、さらに現在の主人公と心を通わせ合うベテランの踊り子は、実際にストリッパーとして人気ナンバーワンの矢沢ようこ。女優が演じるストリッパーと、女優を演じるストリッパー。前者のテーマが「クリープ」で、後者のステージ曲は松山千春の「恋」、この対比も佳い。
 
  そして矢沢氏が女優として見せるのが、口紅を落とした「すっぴん」なのも味わい深い。岡村演じるヒロインは「ステージで裸になると別の自分になれる」と言う。脱ぐことで踊り子は「裸という衣裳」をまとうのかも知れない。一方で、きらびやかな踊り子は口紅を落とすことで「素の自分」になる、あるいは素の自分という「役」になる。同様に観客は、気弱で押しの弱い青年が、呼び込みの青い法被をまとうことで「口の悪い名物支配人」のペルソナを憑依させていた・彼もまた演者だったことを知る。
 「クリープ」はI don't belong here、僕の居場所はここじゃないという歌詞を繰り返す。(裸やすっぴんも含め)何かを纏うことで、人は何かを演じる。素顔でさえ「素顔という役」かも知れない反面、演じた「別の自分」が自分に変じること・演じた自分を「僕の居場所はここじゃない」と思いながら全うせざるを得ないこともあるだろう。…ひょっとしたら「クリープ」に相応しい訳語は「負け犬」かも知れない。この映画には各々の人生で各々の役を演じる吾々、とくに「損な役回り」になった人々・上手くいかなかった負け犬への慈しみがあると思う。何が損かなんて分からない、人生に勝ち負けなんてないだろ、というメッセージも含めて。

 邦画はなぜか苦手なのですが、時々観ると好いものですね。12/18(金)からは東京のキネカ大森で上映中です。
 映画『彼女は夢で踊る』公式(外部サイトが開きます)
 

何が種を蒔かせたのか〜加藤幹郎『ヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学』(2020.12.13)

 アルキメデスは言った。適切な支点さえ与えてくれれば、私は地球をも動かしてみせよう。
 たった一つのクリティカルな問いが、誰もが知り、内容も熟知していると思いこんでいた物語の、意味も解釈も根底から覆してしまう。
 加藤幹郎が『「ブレードランナー」論序説』(2004年)で放ったのは、まさにそんな魔弾のような問いだった。映画の冒頭、夜の高層ビル群から噴き上がる炎を映し、画面いっぱいに広がる「あの青い瞳の持ち主は誰?



 同氏の2005年『ヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学』(みすず書房)もまた、たった一つの銀の弾丸をめぐる…思わずそれ自体「物語」と呼んでしまいたくなるスリリングな考察だ。著者は言う。
「初めてヒッチコックの後期代表作と呼ばれる一〇本ほどの映画(中略)をまとめて見たとき、正直なところ
 どこがそれほどおもしろいのかいまひとつよくわかりませんでした」

たしかに「他のサスペンス映画とはまったく違う」気がする。皆も「ヒッチコックはすこぶるおもしろくて、たいそう独創的で偉大な映画作家だ」と言う。でも、誰の評論や解釈を呼んでも「何が違うのか」「どう独創的なのか」心から納得できる答えが得られない。彼を「映画史上もっとも偉大な監督のひとり」たらしめる、しかしまだ誰も、ヒッチコック自身すら口にしたことがない秘密があるのではないか…
 …むろんこれは、本書の「たった一つのクリティカルな問い」では、ない。重要だし最終的にはそれを明かすのが目標だが、なんとも大づかみな問い=「ヒッチコックのどこが偉大なのか」を攻略するために、著者が放つ銀の弾丸はこうだ:
「『裏窓で、本当に殺人はあったのか(なかったんじゃないの)

 すごいでしょ。もうこれだけで『裏窓』を知ってる人なら「ピタゴラスイッチ」のように全てが動き出すでしょ。
 再確認すると『裏窓』は1953年のハリウッド映画。自動車レースの取材中クラッシュに巻き込まれ足を折ったカメラマンが主人公。アパートの自室で無聊をかこつ彼は、退屈しのぎに向かいのアパートの人間模様を観察するうち、住人のひとりが奥方を殺害・肉切り包丁でバラバラにしスーツケースで運び出す「様子」を「目撃」してしまう。状況証拠だけでは取り合えないと友人の警部に言われた彼を、恋人が助け向かいのアパートに潜入するが、彼女に、そして動けない彼自身にも「犯人」の手が迫る…
 もうすでに「本当に殺人があったの?」という問いを知ってるがゆえに、どうしても「様子」「目撃」そして「犯人」とカギカッコつきで書かざるを得ないが、気づかないうちは誰もが、誰もが、すべて「あったこと」と信じて同作を楽しんでいた。ヒッチコック本人の前で「模範解答」の解釈を披露するフランソワ・トリュフォー監督はじめ、誰もが。
 
 気がついてしまった後では、満足そうに眠りについた主人公の横で、恋人がそれまで読んでいた『ヒマラヤ探検記』をファッション雑誌に取り替えるラストシーンも、まったく違った味わいになるだろう。細かくは書かない(いちど書いて消した)。観れば分かる。むしろ吾々はもう二度と(トリュフォーのように)無邪気に『裏窓』を観ることは出来ない…

 では『裏窓』で何が変わったのか。何がヒッチコックを「最も偉大な映画作家の一人」たらしめたのか。
 著者の答えは、ヒッチコックは外見と内実の乖離を映画に持ちこんだ、ということだ。

 哲学者のジル・ドゥルーズはヒッチコックを「蝶番(ちょうつがい)」として映画史は二分されている、と語っているらしい。著者(加藤)自身は110年の映画史をより細かく5つに分類しているのだが、ここでは粗雑に「ヒッチコック以前・以後」という二分法で話を進めよう(すみません)。
 …19世紀に発明され、20世紀に急速に発展した映画。日本出身の早川雪洲が歌舞伎の「睨み」を応用して、悪役の凄みある表情を見せる。それを画面に大写しにするクローズアップの発明によって、映画は演劇からの離陸を果たしたという説がある。
 対して著者は20世紀前半、つまりヒッチコック以前の映画のキイとなったのは「切り返し」の手法だったと指摘する。有名なクレショフの「モンタージュ技法」の実験を思い出せば良いのだろうか。一人の男の顔が「クローズアップ」で大写しになる。次にスープの入った皿を画面に映すと、男の「表情」は「うまそう」と語っていたことになる。子供の笑顔を映せば、慈愛に満ちた男の「笑顔」が現れる…
 本書で紹介される1891年のエピソードは印象的だ。この年、フランスのジョルジュ・ドゥメニが自分の顔のクローズアップを撮影し、円盤状のフェナキスティスコープで再生した。まだスクリーンへの上映ではなく、覗き窓式の、もちろん音声などついていない機械で、しかし聾唖者はドゥメニの唇を読むことが出来た。その唇はわたしはあなたを愛していますとつぶやいていた…雪州の活躍は1910年代以降なので、それより以前。トーキー以前に初めて映画に記録された「音声」は、日本人悪役の「睨み」よりも前にクローズアップの歴史を開いたのは愛の言葉だった―なんとも美しい話ではないか。
 そうして映画史の前半、言うなればスクリーンは観客に愛を語りつづける。主人公の正面からのクローズアップを観て、観客は自分たちが見つめられている・愛されていると感じ、同時に前後のショットで映し出されるスープや子供を(主人公と一緒に)(主人公に同一化して)見つめ、それらを愛する。
 
 この切り返し編集の欺瞞を最初に告発し、
  映画にまったく別のヴィジョンの可能性をあたえたのがヒッチコックなのです

 「信用できない語り手」という文芸用語・概念について、10月の日記で少しふれた。『裏窓』で、『サイコ』で、ヒッチコックは観客が信用できない・愛せない・一体化できない新しい映画の語りを提示した…というのが著者の導き出した「答え」だった。
 そしてこの「別のヴィジョン」「外見と内実の乖離」が結実した映像を、21世紀の吾々はよく知っているはずだ。(雪州の前にドゥメニがいたように)前例があるのかも知れないが、僕を含め多くのひとが「それ」を知ったのは1999年のハリウッド映画。ネタバレを避けるため作品名は伏せるが、『ブレードランナー』を思わなくもない夜の高層ビル街。しかし屋上から天に炎を噴き上げるのではなく真ん中から爆発し崩れ落ちていくビル群をラストに描いたその映画で。吾々が観たのは謎の男に引きずり回された主人公のそれまで二時間が、謎の男など居ない彼の自作自演だったという、その後なんども模倣され定番の技法と化した映像だった。
 
 ※これは今年(2020年)のMV。

       *   *   *

 興味ぶかいのは、同じような現象が小説の世界でも同時期に起きていたことだ。「物語の語り直し」である。
 またしても「自分の知る限りでは」なのだが、そしてこちらはいいかげんネタバレしても構わないだろう―1957年〜60年に発表されたロレンス・ダレルの『アレクサンドリア四重奏』もまた、21世紀を予言するような作品だった。『ジュスティーヌ』『バルタザール』『マウントオリーブ』『クレア』…語り手(主人公)とは別の登場人物たちを題名に据えた四部作。作家志望の主人公と謎多き人妻ジュスティーヌの恋を描いた第一作のあと、両者の共通の友人だったバルタザールが現れて告げる。「君が『ジュスティーヌ』で書いたこと、あれは全くの間違いだよ」腰が抜けるほど驚いた。マジか、と思った。そうして第二作『バルタザール』では主人公が知らなかった新事実をもとに同じ物語が一から書き直され、さらに第三作・第四作…
 こちらの技法も1999年前後には、広く一般化していたはずだ。1998年に開始された上遠野浩平のライトノベル『ブギーポップ』シリーズがそうだったように記憶しているし、今野緒雪マリア様がみてる』でも一つのエピソードが別キャラの視点で語り直される手法が多用されている。
 
 なるほど終盤の種明かしで、それまでの語りすべてが虚構としてひっくり返される「叙述トリック」は(それこそ「語り手が犯人」なミステリ小説の昔から)あった。けれど現在のように、同じ話をまるまる(別視点で)語り直す手法は新しいのではないか。あるいはマルチシナリオのゲームやループもの、二次創作の隆盛と影響しあってるのかも知れない。そして映画でも、この「まるまる語り直し」技法を採用した作品が日本で異例の大ヒットを記録したのは(なんなら邦画が苦手な僕ですら観た)記憶に新しいところだ。

       *   *   *

 映画界でヒッチコックが、小説でダレルが1950年代に仕掛けたメカニズムが、20世紀の終わりになって一気に蠢動し、21世紀も20年を過ぎた今ではクリシェ・もしくは「世界とはそういうものだ」という了解として一般化している…そう考えると面白い。
 いや、面白いでは済まないのかも知れない。
 昨年9月の日記で紹介したミチコ・カクタニ真実の終わり』は、いま猖獗を極める「フェイク・トゥルース」に警鐘を鳴らす本だった。本来は弱者やマイノリティ・収奪されてきた者たちの権利回復だった「文化の価値は相対的なものだ」という主張が、収奪する側に簒奪され「真実はいくらでもある→だからホロコーストや南京大虐殺はなかったと主張してよい」と悪用されたのではないか―大雑把にまとめると、こうなるだろうか。
 カクタニはラカンやデリダ、フーコーといったポストモダンの思想家たちには、現在の「世界の関節が外れてしまった」状況を準備した責任があると批判する。だが、フーコーよりもデリダよりも前に「真実はひとつではない」という装置を社会思想の分野でセットしたのは、サルトルを打ち負かしたクロード・レヴィ=ストロースではなかったか。彼が『悲しき熱帯』出版で華々しく世に出たのも1955年だった。

 実のところ映画でも小説でも、それらがなぜ半世紀後の21世紀に「花開いたか」と問えば、冷戦の終結で東西対立という単純な世界観が崩壊し、より複雑な多文化の衝突が生じたのでは―と答えることも可能だろう(なんで最後になって、そういう面倒な混ぜっ返しをするのか)。では50年代に「種を蒔かせた」のは何だったのか―それはまた、別の問いだ。誰か頑張って(そして丸投げで終わる)。
 
 追記:信じがたいことに加藤幹郎氏、今年の9月に63歳で逝去されていました。この日記をあらかた書き終え、最終確認で検索して知り、ちょっと今、ガチでショックです。そう多くを拝読してないのですが、創作について強い学びを受け取ったと思います。謹んで弔意を表します。

ここには人間なんていない〜トマス・ピンチョン『V.』(2020.12.06)

 たとえば街路を歩いていて。ふと周囲を見渡して。およそ自分の目に入る範囲内の地表という地表が、すべてアスファルトかコンクリートで窒息せんばかりに覆われていることに気がついて、愕然とすることはないだろうか。なんてすごい世界に自分は来てしまったのか。どうして僕はこんなところに?

  *   *   *

 自作の話なので、分かるひとにしか分からないと思うが図書館妃(としょかんひめ)』に名前だけ登場する「フス・インバネス」のモデルが、トマス・ピンチョンなのだった。(ただし、そのインバネスが最初の小説で数十の出版社にボツを食らったエピソードのモデルは『ジム・ボタン』を断られつづけたミヒャエル・エンデ)
 その晦渋な内容と重層的な構成・凝りに凝った大作に影響され、前途有望な新人作家が「ピンチョンもどき」になってしまい担当編集者を嘆かせる…そんな逸話を読んだのは『本の雑誌』連載の青山南氏のエッセイだったと思う。例によって恥ずかしながら、今パッと原文を取り出せないのですが。
 図書館妃で飾られてるのは全てレメディオス・バロの絵画で、その存在を知ったキッカケは『競売ナンバー49の叫び』でした
 当人も人前に姿を現さず、謎多き作家として知られるピンチョン。熱力学の第二法則そのものを小説化した短篇「エントロピー」や、万国郵便制度の背後に隠された秘密結社の存在だか不在だかに主人公が翻弄される中篇「競売ナンバー49の叫び」は(よく分からんなりに)どうにか読んでいたものの、途方もないという風聞ばかり伝わってくる『V.』や、さらに途方もなさそうな『重力の虹』(アメリカで最も多く論文などで参照された小説らしい)・数十年ぶりの新作と話題をまいた『ヴァインランド』などの長篇には尻込みして手が出せず、今生では無理かなーと思っていたピンチョン。
 それが縁あって最初の長篇『V.』を手に取り、読む機会に恵まれた。嬉しかったなあ。原著は1963年・邦訳1979年(三宅卓雄ほか訳・国書刊行会)。
 んー難しかったです、終わり、で済むならサイト日記に書くことはない。それに「難しかった」では同書の難しさを説明できない気がする。文章の一行ごとに意味不明で、読み進めることもできないタイプの難しさではない。個々の場面やエピソードに(それほど)難解なところはなく、ふつうに物語として・時には描写に引き込まれるように読み進められる。
 ただ、それが何を意味しているかが分からない。「個々の」と書いたように物語は19世紀末から20世紀中葉・第二次大戦後の(小説にとっての)「現代」まで雑多なエピソードが入り乱れ、重なり合い、ヨーヨーのように時空を往復するのだけど、それらを結ぶ一本の「糸」が見えるようで見えない。ついでながら、ややこしく舞台を出入りし、ときに時代を超えて再会したり親子だったりする登場人物たちが(自分目線だと)「キャラ立ちが弱くて」これ誰だったっけ?と混乱してくる。皆、地味で埋没するタイプでもなく、むしろ強烈な性格や境遇のキャラが多いのに「強烈だけど…誰だっけ?」となる。
 ひょっとしなくても、自分は小説を読むのが下手なのではないか。あんな作家・こんな作品も読んでないし、自分には荷が勝ちすぎる相手だったのではと思いつつ、それでも「それらを結ぶ糸」の一本か二本かは手繰れた気がする。本当はもっと沢山の「糸」があるのだろう、ただ自分が読みきれてないだけ…と思わされるのが謎めいた作家・謎めいた作品たる所以かも知れない。

 『V.』の主たるプロットも二本。一本は第二次大戦後の「現代」を舞台に、ニューヨークで無為徒食の生活を送る「ダメ人間」プロフェインの冴えない日々が描かれる。もう一本は19世紀末〜現代をスイッチバックする複雑なエピソード群で、プロフェインの知人でもあるステンシルが、動乱の歴史の影で暗躍した謎の女「V.」の足跡を追い求める聖杯探求譚らしい。
 
 が、後者について語れることは、今の自分にはない気がする。歴史の背後に存在する謎の…という設定は後に書かれた「競売ナンバー49の叫び」の秘密組織トライテロを彷彿とさせるが、陰謀論やオカルト(あるいはファンタジー)めいた設定のわりに「V.」はそれだけで雑多なエピソードと物語を牽引しうる強靭なワイヤーではない。
 自分の気にかかり続けたのは、二つのプロットを共通して貫く「世界観」のような一本の糸だ。こちらの糸もまた単体では物語すべてを牽引しえないのだが…わざわざサイト日記で一項目たてたくなるだけの「引っかかり」がこの世界観にはあった。この小説の主人公は、たしかにプロフェインやステンシルもしくは「V.」その他おおぜいの強烈な人々だ。しかし本作に横溢するのは「もはや世界の主人公は人間ではない」という認識・世界観ではなかったろうか。

 他の小説や物語と同様『V.』には大勢の人々が織りなすドラマがある。けれどそのドラマには絶えず「人でないもの」が侵入し、世界の主導権を奪おうとしている。
 「もの」と言っても津波や白鯨のような自然物ではない。たとえば鼻の大きさに悩む若い娘の軟骨を切り裂き、理想の顔を造り上げようとする美容整形。たとえば百貨店でクリスマス・プレゼントとして幼獣が売り出され、成長して飼えなくなった家庭がトイレで流し、下水道で人々を脅かすようになったワニ。軍艦の強力なレーダーの前に立つと電磁波で精子が死ぬので避妊具が要らないとそそのかされた水兵が、他の水兵がうっかりレーダー前に置いたハンバーガーがじゅうじゅう音を立てて「焼き上がる」のを見て(要は電子レンジと同じ原理だ)あやうく命拾いする逸話…『V.』のエピソード群を貫いているのは、自然物ではなく、まして「人間ドラマ」でもなく、人が造った製品や機械・システムといった人工物が人々を振り回すことこそ現代の本質だ、という認識かも知れない。
 現代パートのプロフェインは、そんなカラクリに多少なり意識的な男だ。「彼とものとは仲良く生きてゆけない」「生き物でもない金をかせいで、それでもってまたぞろ生き物ではない物を買おうと働くやつなんてどうかしている…が、そんな彼でさえ軍艦でハンバーガーを焼き(結果的にだ、意図してじゃない)、下水道でワニと対峙し、ものの世界から抜け出せない。下水道でのバイトの次に彼がありつくのは警備員の仕事だが、そこで彼が出会うのは自動車事故や放射線障害の仮想テストのため、内臓がわりの袋に水溶液を満たしたビニール人形たちだ。
「十八世紀には、人間をぜんまい仕掛けの自動人形とみなすと都合のよいことが多かった。
 十九世紀になると、ニュートン物理学がかなり消化され、又、熱力学の研究が盛んになったから、
  人間はむしろ効率四十パーセントの熱機関とみなされた。
 二十世紀の現代では、核および原子以下を対象とする物理学が隆盛で、
  人間とはX線、ガンマ線、および中性子を吸収するもの、ということになった」

 ピンチョンに言わせれば、世界のもの化は19世紀にはもう始まっていたのだろう。世紀初頭のグランド・ツアー流行を経て、1830年代にはドイツのベデカー社が近代的な旅行ガイドブックの発行を開始する。ピンチョンは書く。
「その世界は(中略)「観光客」と呼ばれる種族以外に住む者はいない。
 その風景は生命なきものたる記念碑や建築物、
 それと概ねものに近いバーテン、タクシー運転手、ベルボーイ、ガイドによって構成される
(中略)
 不況と繁栄は為替相場にのみ反映される(中略)観光とは超国家的なものと見なすこともできるのだ」
20世紀の終わりを憂鬱に飾ったレディオヘッド『OK、コンピュータ』の最後の曲が「ツーリスト」を歌ったことを連想させられる一節ではないか。
 連想させられる事物は芋づる式にいくらも出てくる。「僕は機械になりたい(I Want to be a machine)」と歌ったジョン・フォックス。「ウィー・アー・ザ・ロボッツ(テンテケテン、ピュン!)」と歌ったクラフトワーク。ミック・ジャガーは「ラジオが要らないインフォメーションばかり押しつけてくる」と不満(ゲット・ノー・サティスファクション)をかこち、佐野元春は「そこにあるのはシステム」と歌い出す。東京湾の真ん中でパトレイバー操縦士の少女は叫ぶだろう―「ここには、人間なんていない」
 1982年、映画監督のゴッドフリー・レッジョは北米先住民ホピ族の語彙から、それを「コヤニスカッティ(バランスを失なった生)」と呼ぶことになる。70年代に『潜在意識の誘惑』『メディア・セックス』などを著したウィルソン・ブライアン・キイが幻視(それはまさに幻視としか言いようがなかった―20年2月の日記参照)したのも、同じ「それ」だったかも知れない。歴史のターニング・ポイントで何度も出没する「V.」のように、何度も会ったことのある「それ」を一言で要約できる言葉は…あ、ひょっとして「疎外」?
 ※疎外といえば名著『自由と社会的抑圧』。

 『V.』が描く「もの」の支配は、たとえば先端の流行やブランドが散りばめられたポップな作品群(その系譜には「聖地巡礼」を呼ぶ今どきのアニメも連なるのだろう)とも一線を画する。誇示的消費と言われるように、ブランドや流行り「もの」は持つ者に個性やキラメキ・ときめきといった幻想を(いっときでも)与えるだろう。『V.』が描くのは真逆の、のっぺり無個性なマス・プロダクションの世界であり、自らもそんな大量生産品と化したかのような人間の姿…だと思う。先に書いた、この小説の(強烈な性格にも関わらず)これ誰だっけ?と絶えず見失なうブラー(ぼんやり)効果は、案外そんなマスプロ化の効果ではないのか。
 
 ヨーヨーのように現代と過去の往復運動をつづけた物語は、1919年のエピローグで幕を閉じる。この小説を引っ張る複数の糸の、今のところ僕が把握できる二本のうちの一本=謎の女「V.」をめぐる冒険も、ここで一応のカタがつく。
 けれど、もう一本の糸=「もの」化する世界というテーマの白眉は、その一章前で語られるキルロイの逸話だろう。キルロイとは第二次世界大戦中に生まれ、戦場の至るところに「キルロイ参上(Kilroy was here)」なる文句とともに描かれた、壁の向こうから鼻を突き出し(垂らし)ているキャラクタの落書きだ。このミームに対し、もっとも「人間らしい」解釈=だらりと垂れた鼻は男性の性的能力喪失への不安を象徴している…といった説を「便所心理学」と一蹴したピンチョンが唱える「キルロイの正体」は、そこまで(ステンシルが「V.」を追うように)「ものもの化する人間…」と見えない糸をたぐってきた読者を「ピンチョンさん、あんたここまで」と、ちょっと感動させるものだ。
 (気になるひとは図書館などで当該のページだけめくってみればいいし―実際に挿し絵つきなので見つけるのは簡単だ、なんならWikipediaの「キルロイ参上」の項にも図つきで解説されてます)
 そして『重力の虹』や『ヴァインランド』は詳らかでないけれど、少なくとも『V.』や前後する短篇中篇で、ピンチョンがこうした「もの化した世界」を肯定しているわけではない、ことだけは明らかだ。情熱をこめて、執拗に描くからといって肯定しているとは限らない。逆に不快なものから目を逸らすことが出来ない・不快だからこそ20世紀の病巣として、それを告発せずには居られない、そんな関わりかたもあるのだろう。寡作で寡黙な覆面作家が、めずらしく発表したエッセイということで、日本では雑誌『夜想25 ユートピア特集』に翻訳が掲載されたエッセイが「ラッダイトをやってもいいのか?(Is it OK to be a Luddite?/1984)」…すなわち「機械」をブチ壊せ!という檄だったことを、懐かしく思い出している。
   
 ピンチョンが20世紀(半ば)の「もの」化を描くにあたり19世紀から話を説き起こさなければならなかったように、彼が描いた20世紀はもちろん21世紀の今まで継続している(そう思えばこそ取り上げたのだ)。
 だが同時に、20世紀と21世紀には断絶もある。次回は20世紀のうちに準備されていた、21世紀への断絶の話をする予定です(またもや他人様のフンドシでだけどな)。

I've had my share.(2020.11.29)

 子供の頃や若い時、崇敬の対象となるのは、たいてい自分より年上の存在だ。だから齢を重ねると、憧れだったスターや導き手だった作家が先んじて、次々と「向こう側」に籍を移し、自分もいずれ…と意識させられる。自身の一部だった好きな景色を少しずつもぎ取られ、そのぶん現世は疎遠になる。たぶん(夭折せずに済んだ)誰もがたどる道だ。
 言い替えれば、毎年おなじように星々は夜空から消え去っていたのに、それを惜しむ世代でなければ気づかなかったのだ。けれど自分より少し前を走っていたランナーたちがコースから消えだすと、にわかに痛感させられる。最近あまりに打ちひしがれる訃報が多くないか。世界、滅びちゃうんじゃね?もちろん勘違いだ。けれど真実でもある。私という現象を構成するのは「私」を取り巻く世界で、それは「私」とともに消滅していくものらしい。
 と、頭では分かっていても「なんで今年はこんなにも」と打ちのめされる「厄年」がある。自分の場合は2016年だったかも知れない。1月にデヴィッド・ボウイが、4月にプリンスが相次いで世を去り、年の終わり11月にはレナード・コーエン、ダメ押しで12月にジョージ・マイケルを奪われた。ちなみに前半と後半の狭間ではイギリスでブレグジットが可決、アメリカでドナルド・トランプが大統領選挙に勝ち、自分にとって大事な世界の何かが死んだりもしたのですが、それは別の話。
 ま、この国に住んでたら2012年以降、心は死にっぱなしですが…

 さて、2016年に自ら「スターマン」となってしまったデヴィッド・ボウイだが。彼の代表曲「ロックンロールの自殺者」と、彼の盟友で2013年に没しているルー・リードの「スウィート・ジェーン」が、おおむね同じようなことを歌ってると気づいたのは心なぐさめられ、勇気づけられる出来事だった。
 どんな歌でもたいがい「アイラブユー」で同んなじと言えるんじゃないの、というほど粗いくくりではない。もう少し細かくて、ビートルズの「エイト・デイズ・ア・ウィーク(1週間に8日キミを愛したい)」と五月みどりの(古いなぁ)「一週間に十日来い(とことん、とことん)」が同じという程度には似ているらしいのだ。自分の解釈違いかも知れないが。
 「ロックンロールの自殺者 Rock'n'Roll Suicide」はボウイを一躍スターダムに押し上げた名盤『ジギー・スターダスト』のラストを飾る名曲だ。話せば長いし、抽象的でコレと自分には確証できない歌詞だけど、若くして人生に倦み果て、絶望したと思しき主人公に向け、ボウイは呼びかける。
 Oh no love, you're not alone
  (ああ違うよ愛しいひと、君は一人じゃない)
 You're watching yourself but you're too unfair
  (君は自分のことしか見てないけど、そんなのアンフェアすぎる)
 分かりやすい英語ですねえ(笑)。分かりにくい行を少し飛ばして核心部に進もう。
 I've had my share, I'll help with your pain - You're not alone!
 I've had my shareという表現は、フランク・シナトラの「マイ・ウェイ」にも、クイーンの「伝説のチャンピオン」にも登場するらしい。私は私の取り分を取ったよ≒(世界が与える)人生の苦痛の、自分に割り当てられた分をもう自分は取ったよ≒人並みにつらい目は見たよ、くらいの意味だろうか。
 でもそれが、他者へのエンパシー?につながるのが、ボウイの、この歌の稀有なところだ。ロックンロールに自ら埋葬され、殻に閉じこもり(watching yourself)、命を絶つことすら考えてるかも知れない人に、ボウイは叫ぶのだ。I've had my share、気持ちは分かるよ、僕だって同じように絶望したことがある、けれど(あるいはだからこそ)「苦しいなら僕が力になろう ― 君は一人じゃない!」
 

 なにしろボウイ畢生の絶唱なので「ロックンロールの自殺者」の歌詞や、その意味を熟知している人は少なくないだろう。
 でも「スウィート・ジェーン Sweet Jane」の歌詞を正しく理解している人は、ほとんどいないかも知れない。理由がある。ルー・リードが60年代後半に結成し、ボウイほか後進に多大な影響を与えたバンド=ザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンド。「スウィート・ジェーン」は、活動中は不遇に終わった彼らの四枚目のアルバム『ローデッド』中の一曲だが、そこで歌われ収録された歌詞には重大な欠落があるのだ。
 VUを聴いたことない人でもアンディ・ウォーホルがデザインしたバナナのジャケットは見たことがありそうな、彼らのファースト・アルバムに収録された「ヘロイン」。ソロになったルー・リードの大ヒット曲「ワイルド・サイドを歩け」。この二曲に並ぶほどの、ルーの代表曲が「スウィート・ジェーン」だと思ってほしい。これも簡単には要約できないが、ショップ勤めのジェーンと銀行員のジムという、ロックらしからぬ堅実なカップルが主人公らしい。そしてロックバンドに所属する「俺」。もしかしたら二人は、ルーが大学で詩人デルモア・シュワーツに師事していた頃の同窓生なのかも知れない。
 貯金が第一・暖炉を前にラジオでクラシック音楽を聴く…そんなジェーンとジムを、語り手は「落ち着きやがって」と嘲ったり、責めたりはしていない。「踊りに行くのが好きな連中もいる 働かなきゃいけない者たちもいる - この俺を見てみろよ」ニューヨークで成功できず、拠点となったボストンで精力的にステージをこなしていたVUにとって、ロックは生活のかかった「仕事」だった。
てゆか、自分の解釈が間違ってなければだけど、ステージで観客を前に「これ仕事なんだぜ」と歌ってるとしたら、ルー・リード、逆に最高にロックじゃないですか…
 続くパート=歌の核心部はこうだ。
 And there's some evil mothers
 They're gonna tell you that everything is dirt
 You know that women never really faint
 And that villains always blink their eyes
 And that, you know, children are the only ones who blush
 And that, life is just to die
 踊りに行く人々もいる、働く人々もいる、そしてevil mothersもいる…と羅列されるから、その後の行も語り手が「ああでこうで、人生ってのは結局死ぬためのものさ」と唄ってる、と、思ってはいけない
 実はここに秘密がある。唐突にあらわれる思わせぶりなevil mothersとは、実は「邪悪な母親たち」ではないのだ。1993年にVUは再結成し「スウィート・ジェーン」も演奏されたが、1969年当時は卑語としてレコードに収録できなかった真の歌詞がそこで歌われている。「And there's some evil motherfuckers」マザーファッカー=クソ野郎どもがいると。なぜクソ野郎か。どうクソ野郎なのか。
 They're gonna tell you that(クソ野郎どもは君に言う) - このthatも見逃せない。And that, And that...「何もかもdirt(汚い、まやかし)だ」から「本当にfaint(失神)する女なんているもんか」「villains(ヴィラン=悪党ども)はいつも目配せしてる」「顔を赤らめる(blush)のは子供だけ」「人生なんて死ぬためのもの」ここまではすべて、語り手=ロックンロール・バンドにいる俺ではなくクソ野郎ども=Evil motherfuckersの言い分なのだ。
 1993年のライブ版には、スタジオ盤にはない、もう一つの重要な「加筆」がある。ここまでが「クソ野郎ども」の言い分で、ここからは「俺」=語り手のターンに戻ると明白に分かる「But I tell you some(thing)」=だけど「俺」からも言わせてもらうとだな…という前置きだ。

 But everyone who ever had a heart wouldn't turn around and break it
 And anyone who ever played a part wouldn't turn around and hate it
 前置きがなくても「But」と入れば、ここから話が切り替わるのだなと分かる。だが今、Googleで「Sweet Jane」を検索すると出てくる歌詞は、このButがAndになってしまってる。歌詞を正しく理解している人がほとんどいないのではと危惧する所以である。けどまあ、スタジオ盤をキチンと聴けば確かに「But」と言っている。ライブでは丁寧に「話を切り替えるぜ」と前置きがついてくる。吾々はもう、そう承知したことにしましょう。
 では、どう切り替わるのか。ここは意訳で「いやしくも」とタンカを切らせてもらいたい。クソ野郎どもは「全てdirtで、人生はjust to dieだ」と言う。(でも俺なら言うね)「いやしくも心ってものを持ったことのある奴なら そんなふうに背を向けてit(人生)を壊したりしない」
 そして「Anyone who ever played a part」とは何だろう。「役を演じた(played a part)」ことのある奴なら誰でもとは。日本語でも「役回り」という言葉がある。銀行に務めたり、店員として働いたり、あるいは詩を勉強したりロックンロール・バンドで演奏したり。あるいは笑ったり傷ついたり。世界の、人生の中で何らかの「役回り」を演じたことのある人間なら「背を向けてit(人生)をヘイトしたり(蔑んだり)しない」。

 異口同音、ならぬ異「句」同音とでも言うのだろうか。
 デヴィッド・ボウイとルー・リード、自分にとってはスターの中でも特大のキラ星(間違った日本語)だった二人が、かたや「I've had my share」かたや「Anyone who ever played a part」と、つまり「僕だってつらい目に遭ったことはある」「しょっぱい目を見たことがあるなら」経験というものがあるから「君を助けよう」「人生を蔑むな」優しい心をもつことが出来ると、それぞれの代表曲で(ものすごく大雑把に言えば)同じメッセージを発していた。
 繰り返し言うが、それはとても心なぐさめられ、勇気づけられる出来事だった。
 

 自分にとっては2016年が「魔の年」だった。けれど他ならぬ今年=2020年こそ、北極星や南十字星のように仰ぎ見て憧れ、指針にもしていた存在を立て続けに失なった厄年だったという人もいるだろう。
 というか(「だろう」ではなく)5月にジョージ秋山氏・つい先日には矢口高雄氏の逝去が報じられ、この両氏がピンポイントで「推し」だった人を知っているので、あまりのことに声のかけようもないのだった。代わりにここで、こうして日記(週記)を書いている。
 むしろ当人には届かなくてもいいのだ。ボウイとルー・リードは異口同音に「気持ちは分かる」と言うが
 You speak of my love
  like you have experienced love like mine before
 But this is not allowed. You're univited.
「あなたは私の愛を語ってみせる 自分も同じような愛を経験したことがあると言わんばかりに
 でもそんなのは許されない あなたは招かれてない(あんたなんかお呼びじゃない)」
という強い拒絶も吾々は知っている(アラニス・モリセット「Univited」)。つらさの真っただ中にいる者には「私のこのつらさを勝手に分かるな」と全てを憎む権利がある。
 同情や慰めの言葉が、実はそんな「優しい自分」を認めさせたい「ものほしげな言葉」になることを僕は恐れる。だからこれは、今だれかに直接あてた言葉ではない。
 今ではなく、いつか不特定な「あなた」が推しを失なって悲嘆に暮れたとき、ボウイとかルー・リードといった人たちが「つらい・しんどい目に遭ったから他人のつらさ・しんどさも分かる」と歌ったことを思い出して、それがいくばくかでも慰めになればいい。
 あるいはいつか、不特定な「あなた」の近しいひとが推しを失なって悲嘆に暮れたとき、手が届くなら親切にしてあげてほしい。あるいはそっとしておいて、気持ちの中で「分かる、分かるで」と思ってあげてほしい。I've had my share, you're not aloneと。それが「心ってものを持ったことのある奴」のあるべき姿だから。

消えたコロナ禍(2020.11.23)

 (11月前半は「充電」でサイト日記をお休みしていました)

 「コレ」こと、コロナ禍は続いている。
 「コロナ禍は続いている」という枕詞で、何度このサイト日記(正確には週記)を書いたことだろう。と言いたいところだけど、実際には三回でした。毎週日曜には更新していた日記で、どうやら6月でこの記述は止まっている。
 もちろん、その間もコロナ禍は続いていた。社会に背を向け、フィクションの世界に没入していたわけではない(むしろ社会的な発言は多かった)。だけれど自分もまた「コロナより社会的不公正が(少なくともこの国においては)先に吾々を害しそうだ」という名目で、コロナを二の次にしてはいなかったか。
 
 今年4月の日記で、フィクションはどうコロナ禍と対峙するのだろう、という話を書いた。
 他のことを色々と書きすぎて今ふりかえると読みにくいのだが、たとえばプリキュア(子供向けアニメ)の送り手は「どうしてプリキュアたちはマスクをしないで外で出歩いたり、遊んだりできるの?」という子供の疑問に困ったりはしないか、という主旨の話だ。プリキュアだけではない。現代を舞台にした漫画の描き手が「これから漫画をどう描けばいいのだろう?登場人物にマスクさせる?それとも、この作品中では『ないこと』にする?」と悩んでいた。
 今は11月。コロナ禍は続いている。
 僕の観測する(とても狭い)範囲では、現代を舞台にしたフィクションの一部だか大半だかは、コロナを「ないこと」にして話を進めているらしい。
 せっかくなので例を引き継ぐと『プリキュア』は二ヶ月ほど制作がとどこおり、それまでのエピソードの「ふりかえり」放送でつないだ後、夏から再開された本放送ではプリキュアも街の人々もマスクなしで外出し、ショッピングや食事を楽しんでいる。他のアニメやテレビドラマでも、登場人物たちが律儀にマスクをして外出し、食事シーンでも透明な「パーテーション」のない座席を囲んでいる。ようだ。
 漫画は分からない。ビジネスパーソンを主人公にした人気漫画では、コロナ禍への対処そのものをモチーフにした作品もあるようだし、たとえば今日は9ヶ月ぶり?のコミティアなのですが(自分はサークル参加・一般参加ともに欠席しています)マスクやソーシャル・ディスタンスをテーマにした新作を携えたサークルもあることだろう。

 ただまあ、少なからぬ現代もののフィクションは、コロナを「ないこと」「なかったこと」にしているようだ(違ってたらすみません)
 気持ちは分かる。恋や友情を深めたり、出世をめざして駆け引きしたり、殺人事件の捜査をしたり、アイドルになって歌い踊ったりする=それらの基本になる感情表現は、マスクつきでは難しい。逆に「なぜ殺したんですか!?」とか「一度もかわいいって言ってくれたことないよね!?」といった場面でキャラクターがマスクをしていたら、台詞に合わせてヒョコヒョコ動くマスクが気になって仕方ないだろう。
 それに、作品は残るものだ。再放送もあればDVD化・ブルーレイ化もある。何年も後にリピートして、あるいは初めて出会う受け手もいる。コロナ禍がどうにか収束した後、マスクをした人々が出入りする紙面や画面を見るのは、作品そのものへの没入を妨げることだろう。
 だから理解はする。いいでしょう。コロナ禍は「ないもの」として話を進めましょう。コロナ禍の有無にかかわらず、世の中には語られるべきことが沢山あり、その本質に肉薄するために、マスクや透明なついたては余計なのだから。
 (繰り返し言うが、いま供給されてるコンテンツの多くが、意識的にマスク着用を描いてたらすみません)
 
 それでも、少しだけ「これでいいのか」と思うのは、仕方ないことではないか。物語を愛好し、物語が個人や社会に及ぼす影響・社会から受ける影響を考える、自分のような(ひょっとしたら迷惑な)趣味を持つ者の場合は。
 液晶画面の中でマスクなしに笑い、泣き、青春を謳歌するキャラクタを観て(素晴らしいな)と思う反面、少しだけ思うのだ。
 たとえば政府や経済界は、コロナ禍を「ないこと」のように振る舞っている。GoToキャンペーンや都構想の住民投票を強行し「人類が感染を乗り越えた証として」オリンピックを開くと豪語し、社会保障や、何より必要な医療機関への支援を怠っている。…そう批判し、非難するとき、お前が愛好し、お前自身が生産にたずさわってる「物語」=フィクションもまた、コロナ禍を「ないこと」として振る舞っていないかと。そのことは、お前=僕自身がコロナに対して「油断」することの遠因になってはいないかと。
 4月の日記と同様、この11月の日記にも「答え」はない。
 4月には、こう書いた。「結局はいつもの綱渡り、「社会のことなんか知らねぇ楽しければいいんだ…で、いいのか?」と「社会に有効で有意義でなきゃダメだ…は罠じゃないのか?」の間で各自、右往左往するしかないのだろう」
 しかし、4月にはこうも書いていた。「それでも、やがて作家たちは適応するのかも知れない。コロナ後の世界に」。今のフィクションは「コロナのある世界」に適応しているだろうか?「コロナを『ないこと』にしている社会に適応しているだけでは、ないだろうか?
 お前=僕は、どうなのだ?

信頼できない私たち〜多和田葉子『雪の練習生』『献灯使』(2020.10.18)

 君は月の上を歩いてみたことがあるかい。(『雪の練習生』)

 例によって自分が不勉強で疎かっただけかと思ったら「信頼できない語り手」は、意外と新しい用語・概念らしかった。廣野由美子批評理論入門〜『フランケンシュタイン』解剖講義』(中公新書・2005年)によれば1983年、ウェイン・ブースが『小説の修辞学』で初めて提唱したという。デヴィット・ロッジカズオ・イシグロ日の名残り』の主人公をその典型として、語り手の欺瞞がしだいに暴かれる=読者が欺瞞を見破る体験を提供することが、作者の狙いだと説明している。
 
 個人的には、作者が意図したかは兎も角フィッツジェラルド『偉大なるギャッツビー』はギャッツビー以前に語り手が信用ならない男だと感じた記憶がある。有名なミステリの「語り手が犯人」とか、世界最古の「信頼できない語り手」はいわゆる「嘘つきのクレタ人」かもなあと思ったり、はい、ここまで全てマクラです。

 文庫解説では興を削ぐからと伏せられているが、帯とカバー裏のあらすじ紹介で大体わかってしまうから気にせず明かしてしまおう。多和田葉子雪の練習生』(新潮社/2011年→新潮文庫/2013年)の語り手は、なんとまあホッキョクグマである。しかも親子三代。
 まさに信頼できなさの極北と構えるべきか。極北、ホッキョクグマだけに!(誰が上手いことを言えと)それとも動物ならではのウソ偽りない語りを期待するか。
 
 結論だけ言うと、信頼できないどころではない。書かれてる何もかもが信用できない。そもそも語り手自身が、己の語りを信用していないのだ。その覚束なさは、読み手たる当方の足場をもグラつかせる。語っているのは誰なのか。ホッキョクグマは本当にホッキョクグマなのか、それとも何かの比喩なのか。終盤に登場する黒髪に紅い唇のスーパースターは、語り手がドイツ語圏にいて文章が日本語だからミヒャエルと表記されているけど、作者が在住しているドイツや英語圏で翻訳・出版された時には、綴りは同じMichaelではないのか。
 語り手はホッキョクグマだが、キツネにつままれた心地(誰が上手いことを言えと!)。幾層にも塗り重ねられた仕掛けに、どこまで翻弄されればいいのか。それとも何もかも受け止め「とにかく面白い話」として受容すべきなのか。
 難しく考えるな、今の自分や政治的信条に有利な「教訓」を引き出そうとするな。ただ可哀想ねステキねステキねと戯れよ、が正解なのかも知れない。だが、逆方向に天秤を傾ければ、信頼できないのは語り手でも作者でもなく、もはや読んでいる自分自身だという酩酊感を味わえる。

 …お酒を飲めない・というか「飲むことを積極的に拒否する」生き方を選択した反動かも知れない。酩酊する・認識が歪む・自分が自分でなくなる状況に、今も不当な憧れがある。もちろんアルコールが脳に及ぼす効果なんて、憧れるほど面白いもんじゃないよと理解してはいる。薬物による幻覚も、宗教による陶酔も、まずは理論的に信用も信頼もできない。それでもなお、自分の認識の縁を超えた向こうに素晴らしくストレンジでピュアな世界があるのでは―なんて、夢と知りつつ思ってしまう。UFOやビッグフットを信じてないけど好ましく思うように。逆に「いやアメリカ政府が墜落した円盤の情報を秘匿していて…」などと、それらを躍起になって「認識のこちら側」に持ってこようとする向きには共感できないように。認識できないものを認識できないままに認識したいのだ。神様、お電話ください。
 自分を自分でなくさせる―文学は、意外な裏口かも知れない。思えば20年近く前に初めて読んだ『容疑者の夜行列車』(青土社)からして、多和田葉子は読むこちら側を「信頼できない」の境涯に引きずり込もうとしていた。ようだ。なにしろ同書の主人公は二人称の「あなた」だった。
 
 残念ながら当時はまだ、作者の手管に乗っかる準備がこちらに出来てなくて、心から「連れ去られる」感覚は味わえなかったと記憶している。いま再読すれば変わるかも知れない。先週の日記でも書いたとおり、同じ本の文字をなぞっても、求める準備が出来てないうちは与えられないものだ。

 『雪の練習生』で楽しく酩酊できた余勢を駆って、しかし過去に読んだ本の再挑戦ではなく『献灯使』を新たに読む。講談社/2013年→講談社文庫/2017年。2018年、全米図書賞翻訳部門。『雪』のMichaelにも増して、どう翻訳したのかと不思議になる強烈な言葉遊びも相まって、期待どおりに(?)幻惑される。
 こちらは3.11=東日本大震災と、それにともなう原発事故に呼応して書き綴られた連作だ。放射能の影響を連想させる環境汚染で、生物として変容しつつある曾孫世代と、狼狽しながら生き抜こうとする曾おじいちゃん・曾おばあちゃん世代…SF作家アーサー・C・クラークの警句「高度に発達した科学は、魔法と区別がつかない」をもじって「高度に発達した文学・あるいは社会批評は、SFと区別がつかない」そんなフレーズが思い浮かぶ。
 分量も一番多い表題作は、いま読むとコロナ禍による社会・文化の分断をこそ連想させるかも知れない。だとすれば、本作が日本を含めた世界に与えるインパクトはより深く、多層的なものになるだろう。日本に暮らしてきた立場で見ると、3.11で吾々の政治や社会がとっさにとった防御の姿勢=うずくまり頭ごと両耳を抱えこんで不都合は聞こうとせず、それでいて経済の活性化や成長を謳う姿勢は、このたびのコロナ禍で繰り返されたのだなと実感する。一度目は何とやら、二度目は何とやら。そして、あれほどショックだった「一度目」を、いつのまにか前世くらい過去に追いやってしまってる、己の記憶のいいかげんさ…
 しかし「本作はコロナ禍の今こそ、改めて真価をあらわす」的な読みは、即応性・即効性に傾きすぎだろう。深追いはしない。『雪』と同様、こう読めば「解けた!」と納得できる「謎解き」は求めず、謎は謎のまま翻弄されるべき作品なのかも知れない。
 クラークのSFと違い、『献灯使』の新世代は、旧人類を超えた存在ではない。そうした「新人類」観が無意識に依拠していた、経済発展や社会の高度化と生物としての「進化」を混同した「進歩」のイメージを批判するかのように:「献灯使」で描かれるのは、独力では食事も歩行もままならない新世代に、それでも人間性の継承や、ひょっとしたら人間観の更新を期待するしかない旧世代の姿だ。その結末を前に、もしかしたら旧世代の、さらに親世代にあたるかも知れない吾々は、吾々自身が変容するような酩酊感を味わうことになる。
 そして知るのだ。アルコールや薬物・宗教や神秘体験に憧れ、多和田作品で出会えた気がした酩酊感・自己喪失・認識の変容は、今までと違う「信頼できない自分」に新しく出会うことではなかった。凡庸だが正常に生きてきた・つもりだった「今の自分」「今までの自分」がガラガラと崩れ、信頼できなくなる体験だったのだと。それは脳みそを後ろからつかまれ、闇の中に落ちていくような体験だったのだと。

 まこと、ロマンチックな狂気など存在しない。それはとても素敵なこと。これから進む目の前に廃墟があるのでなく、今まで歩んできた道が廃墟だったと知らされて。瓦礫の中に立ちすくむ吾々は、さあ、これからどこに行こうか。
 

「国体」の憂鬱な正体〜白井聡『永続敗戦論』(2020.10.11)

 0.「天皇」という媒介なしに
 こんなに上手く行くとはと、当の本人たちも拍子抜けしているのではないか。先月の日記で最後のカードとして提示した、首相や元首相・現在の内閣を牛耳る与党が「崇拝の対象」に成りおおせた件だ。
 
 専横と「愛されたがり」は前首相の個人的な資質に起因するのではなく、社会構造的なシステムの産物だったのかも知れない。パンケーキ好きで庶民性をアピールしながら、学術会議の人事に介入し記者を隔離して己の優位を誇示する新首相は、前任者の路線を忠実に継承している。
 問題は、その前首相や新首相の専横が「総理様に逆らう奴らは売国奴、非国民」と言わんばかりの追従に支えられていることだ。かつて「逆らう者は非国民」と指弾されるほどの権威を持つ者は天皇だけだった。
 万世一系の天皇を現人神(あらひとがみ)として頂点に仰ぐ権威主義・国粋思想の体系を「国体」と言った。1945年の敗戦とともに天皇は人間ということになり「国体」は消滅したはずだが、その後も日本の権威の中心は天皇であるという暗黙の了解が(つまり「消滅してなかった国体」が)この国の右翼・保守的な人々の行動原理であり続けた…そう、自分などは理解していた。
 だが現状はどうか。もはや「虎の威を借る狐」ではない。靖国参拝やオリンピックのような国威発揚・あるいは「国益」や排外主義といった「愛国者」たちのキーワードと、与党の閣僚たちは天皇という媒介を必要とせずに直結している
 吾々を戦争の泥沼に引きずりこんだ日本のファシズムは、天皇制という日本独自の現象の理解なしには解明できないものではなかったのか。国体と呼ばれるモンスターは天皇という御神体=現人神の求心力と不可分ではなかったのか。
 そこで「そうではない、国体の本質は天皇制の護持とは別のところにあるのだ」という指摘に巡り会った。求めよ、さらば与えられん。いや違う。かつて同じ本を読んでいながら、求めていない時には見過ごしていた箇所が、求めたとたん目に飛び込んできたのだ。

 1.「国体」の憂鬱な正体
 白井聡永続敗戦論』(2013年/太田出版→2016年/講談社+α文庫)。該当の、国体に関する部分は同書のほぼ最終章に登場する。書物が思索を積み重ね、最後にもっとも大事な結論に逢着すると考えれば、それを見過ごしていたのは「すみません、きちんと読めていませんでした」と告白するに等しい。恥ずかしいことです。
 
 たいそう話題になった本だと記憶している。内容としては戦後の「平和な日本」「民主的な日本」の、戦勝国であるアメリカへの圧倒的な屈従と、アジアに対する敗戦の否認という二重の欺瞞を告発するもの…という要約でよいのだろうか。同書の大半を占める、このテーマについて今回は触れない。収拾がつかなくなる。
 3.11や領土問題・核兵器など具体的な項目について加えられた、詳細な考察も同様にスキップする。その物量に圧倒され(再武装や憲法改正に積極的な者だけでなく非核や憲法護持を唱えてきた者も戦後の欺瞞を支えた共犯者なのだという糾弾が耳に痛く、読み進める障害になったことは公正を期すために言っておく必要があるかも知れない)正直かつての自分にはたどり着けなかった最終章に話を進めよう。

 1945年、どうして日本は本土決戦を断念し、無条件降伏を選んだか。二発の原子爆弾投下が日本を降伏に踏み切らせたという「物語」は、かなり早い段階で棄却してよいだろう。決定的だったのはソ連の対日宣戦だったという説もある。それを自分は「ソ連にまで参戦されたら、いよいよ勝ち目がない。降伏しよう」程度の意味に(つまりは薄ぼんやりと)考えていたのだが、同書は当時の史料を元に、思いがけない結論を導き出す。
 著者が取り上げるのは1945年2月に近衛文麿が敗戦不可避と訴えた、昭和天皇への上奏文だ。
最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に候
治安維持法・特高警察によって徹底的に叩き潰されたはずの「左翼分子」が国内で潜在的な勢力を増し、軍部や皇族にまで浸透して「我国内外の情勢は、今や共産革命に向かって急速に進行しつつあり」とする近衛の主張を、著者は「一見して異様」とする。たしかにそれは、産業も報道機関も○○人によって支配されている、という陰謀論と同質のパラノイアだ。だが(近衛以外も共有していた)そのパラノイアが、護持しなければならない「国体」の正体を裏側から浮き彫りにする。
 次いで白井が援用するのは思想家・河原宏(1928-2012)の論考だ。もし日本が本土決戦に突入したら指揮系統は崩壊し、分断された各部隊は「独自の判断で」戦闘行動を決定せざるを得ない状況が現出しえた。実際には本土決戦が選ばれず、無条件降伏となったことで―河原は言う。
「日本人が国民的に体験しそこなったのは、
 各人が自らの命をかけても護るべきものを見いだし、そのために戦うと自主的に決めること、
 同様に個人が自己の命をかけても戦わないと自主的に決意することの意味を体験することだった

 ソ連参戦が1945年8月の日本に与えた衝撃は、必ずしも物理的なものではなかったのかも知れない。大急ぎで言えば、ソ連や中国・カンボジアなどで示されたように、共産主義・社会主義もまた、人々の自主性を奪い抑圧し死に至らしめる、巨大なシステムに成りかねない。しかし現実ではなく、幻想の共産主義と、幻想の本土決戦がもたらす国民の自主・自由に「国体」の護持者たちは恐怖した。
 それは「国体」の本質が「天皇」とは別だったからだ。ページ的には遡って、そして何重にも引用を重ねて著者は看破する。端的に言えば犠牲を強いるシステムとしての国体と。
 国家を存続させるため、自らの利益を捨てても国家・社会を護ろうとする国民―を産出するシステム。そのため国民の自由・自主性をパラノイア的に恐れ、敵視するシステム。その依代としての天皇と、逆に敵意の依代としての「サヨク」・(幻想としての)共産主義。そう考えたとき、さまざまなことが―本当にさまざまなことが腑に落ちる。
 が、これ以上この文脈で追究すると、白井氏の著書から離れてしまう。離れるのであれば、いっそ白井氏の著書の引用と注釈は一旦ここで打ち切ろう。

 2.ネオ・ファッショ
 国体の本質は天皇制ではなく「端的に言えば犠牲を強いるシステム」であると白井聡『永続敗戦論』は結論する。
 大いに納得できる話だ。だが犠牲を強いられる吾々は、本当に純粋な被害者なのだろうか。
 …アメリカのトランプ大統領の(今に始まったわけではない)狼藉ぶりを嘆いていたら「日本はまだマシだよな。天皇には悪事を為す権限がない」と言われたことがある。いや、そもそも今の日本の主権者は天皇じゃなくて国民ですし。それに今の天皇は自ら率先して悪事は為さないかも知れないけれど、内閣の悪事を制止することも(でき)ないよ?と思ったのだが、のちのち考えたのだ。
 日本国憲法下の天皇は(口出し出来ないという形で)首相や内閣・国家が為す悪事について免責されている。天皇は日本国民の統合の象徴であって、その地位は主権者たる日本国民の総意に基づく。悪政に口出しできず・したがって免責されている天皇を象徴と仰ぐことで、吾々は何かしら、自分たち自身の政治的不作為を免責しているのではないか。
 天皇制を、まさに「犠牲を強いるシステム」の中心として批判する論説は少なくないだろう。逆に皇室の構成員に個人としての人権が認められていないがゆえに、天皇制を批判する声もある。だけれど今、自分が気にかけているのは、天皇をイノセント(無罪)な存在とすることで―それは明治憲法の「神聖ニシテ侵スベカラズ」の「カジュアル版」ではないのか―自分たちの道義的責任も、なんとなく有耶無耶にしてしまう国民の側の狡知だ。
 むろんその「利用」は1945年の敗戦まで遡る。一億総ざんげ、なる言葉はあったらしい。だが実際には、昭和天皇が戦争責任を免れたことで、彼を現人神として・「国民の統合の象徴」として仰ぐ日本国民は、自分たちも免罪されたとみなしたのではないか。

 同時に浮かぶのは昨年、あいちトリエンナーレの「表現の不自由展」を巡って発せられた言葉だ。天皇の写真が燃やされるというアート作品について(いろいろ経緯はあるのだが省略する)このように非難する声が上がった―国民の統合の象徴である天皇の御真影を傷つけるとは何ごとか
 その文言を目にした当時は、天皇擁護もそこまでアクロバティックになるものかと頭を抱えた。だが実際に起きていたことは逆ではなかったか。あるいは文字どおりではなかったか。天皇が神聖なのは「日本国民」の御神体だから。国体が人々の自発性を奪い、権威に従わせるシステムだとしたら、そこに祀られる御神体を「天皇」から「日本国民そのもの」に取り替えて何の不都合もなかった。
 そして、その神聖さを保証するのが「多数派だから」「選挙で勝ったから」「民意を得たから」だとしたら、これまた多くのことに筋が通る。「文句があるなら選挙で勝ってみせろ」と「文句があるならこの国から出ていけ」は表裏一体だ。実際に両者は「選挙で決まった政府の方針に反対なら、この国から出ていけ」という形で融合している。
 皮肉なことに、戦後70余年にわたり吾々が仰いだ民主主義そのものが(「民主主義=多数派の支配」と曲解された形で)「国体」=抑圧のシステムの御神体に収まりえるなら…天皇制という装置を介することなく、吾々が吾々自身を御神体として「犠牲を強いるシステム」を稼働させることに「成功」するなら…
 それは明治維新から始まった「国体」プロジェクトの、最も純粋で、もっとも憂鬱な成就たりえる。
 
 …白井氏の緻密な論考とは全く別の、ロープウェイで登るような手抜きのルートではあるが、同じ山頂にたどり着いてしまったのかも知れない。吾々の「平和な戦後」「民主的な戦後」は何か根本的なところで欺瞞のある、紛い物ではなかったのか。
 

愛と恐怖と公正と〜『瞳の奥の秘密』『シークレット・アイズ』(2020.10.04)

 ジュリア・ロバーツが『瞳の奥の秘密』のハリウッド版リメイクに出演する…と、ホームレスの自立支援雑誌『ビッグイシュー』のインタビューで知ったのは、ついこないだ(昨年くらい?)と思っていた。実際には記事は2016年のもので、すでに4年が経過していたのだった。恐ろしきかな、人生!
 

 『瞳の奥の秘密』で経過するのは、25年という歳月だ。ファン・ホセ・カンパネラ監督。2009年のアルゼンチン映画。
 物語は1974年にブエノスアイレスで起きたレイプ殺人事件の顛末と、それに関わった人々の25年後を描く。むごたらしい事件を前に(実はゆったり落ち着いた全体の雰囲気とは対照的に、冒頭の犯行シーンがあまりに生々しく注意が必要)義憤にかられる主人公ベンハミン(リカルド・ダリン)。彼は裁判所の下級官吏だ。警察ではなく彼や同僚が事件にのめりこんでいくのが見慣れない設定で、これも様々な国の映画を観て得られる愉しみかも知れない。
 忖度を知らず同僚も判事も敵にまわすベンの、味方となるのは二人。エリートとして赴任してきた女性上司のイレーネ(ソレダ・ビジャミル)。酒に溺れる年上の部下パブロ(ギレルモ・フランチェラ)と、気を揉むベンのコンビネーションは先月の日記で取り上げた『追龍』のロックとピギーを思わせる。というか、よくは知らないが「十津川警部と亀さん」もこんな感じなのだろうか。
 移民労働者を適当に犯人にでっちあげようとした同僚を左遷させたベンだが、事件は暗礁に乗り上げ一年。妻を殺した男を探し続ける夫モラレス(パブロ・ラゴ)の姿に打たれたベンは再び奮起、パブロやイレーネの協力で犯人確保にこぎつける。しかしなんと左遷させた同僚が報復のためコネを利用、大統領の後ろ盾を与え犯人を釈放してしまう。逆にならず者に命を狙われるようになったベンハミンは、ブエノスアイレスを追い立てられ…
 
 25年後、失意を抱えたまま定年退職となったベンハミンは心残りだった事件の足跡をたどるうち、衝撃の結末に至る。そしてもう一つの心残りだった、自ら身の程知らずと諦めていたイレーネへの慕情。キーワードとなるのは冒頭と結末で彼がノートに書きつける、二つの言葉。興を削ぐのでアルゼンチンの公用語であるスペイン語から、英語に移し替えていうとfear(恐怖)とdear(親愛)。それは25年前すでに若いイレーネには似合わない中年男だったベンが内心に抱いていた劣等感・愛への恐れだったのか。
 …それとも彼が垣間みた、権力の恐ろしさか。作中の事件と前後して勢力を拡大した軍部が1976年にクーデターを起こし、アルゼンチンは「汚い戦争」と呼ばれる国家テロの時代に突入する。

 ビリー・レイ監督によるリメイク『シークレット・アイズ』(2015年)の歳月は、25年から13年間に圧縮されている。原作がアルゼンチンの暗い時代を暗示したように、ハリウッド版の翻案は9.11テロ直後をいわば「アメリカが最も暗かった時代」として選んだ。
 大きな変更点がいくつもある。まず、ジュリア・ロバーツは主人公が憧れるエリート検事ではない。そのポジションにいるのはニコール・キッドマン演じるクレア。ロバーツが演じるのは主人公レイ(キウェテル・イジョフォー)の同僚の捜査官ジェスで、殺害されるのは彼女の17歳の娘なのだ。ベン・イレーネ・パブロの三人が正義感と職業倫理で、いわば外部から関わった事件に、母であるジェスも親しい間柄だったレイも当事者として呑み込まれる。二人をそれぞれ突き動かすのは、犯人への憎しみと、「あのとき自分が…していれば」という悔恨だ。
 テーマは「内在化」「内面化」かも知れない。犯人が「アンタッチャブル」になる経緯も単純ではない。原作の犯人は捕まってから「逆転ゲーム」で権力の後ろ盾を得たが、『シークレット・アイズ』の犯人は当初から対テロの情報提供者として手が出せない立場にある。テロとの戦いは、当時のアメリカにとって絶対の大義だった。それが偽りだったのではないかと自問されている今でも、9.11で失なわれた人命や傷まで否定されることは許されないのだろう。
 
 善vs悪・法vs無法・正義vs権力との癒着、シンプルな二元論で描くことが許された20世紀のアルゼンチンと違い、21世紀のアメリカは善と悪の単純な腑分けを許さない。悪は自らに内在するもので、正義の行使も悪を含まざるを得ない。言い替えれば『シークレット・アイズ』はアメリカ=権力=国家=正義がその行使の段階で悪を内在させる・正義が暴走したり正義が独善的に振る舞うことは認め、それを糾弾するが、アメリカそのものの善性の否定・自国そのものが悪に乗っ取られ腐敗の帝国と化したと認めることは許さない、のかも知れない。
 権力が振りかざすfear(恐怖)に対して、dear(愛)がなす報復の容赦なさは『瞳の奥の秘密』の「見せ場」の一つだったが、そうシンプルに「愛」が勝つことも『シークレット・アイズ』では許されない。まるでfearとdearの相克に、fair(公正さ)が介入するように「それはダメだ」「気持ちは分かるが、それを物語の解決にしてはいけない」と原作を覆す。むしろ、原作において(アルゼンチンの物語として)最も大事だったかも知れないその一点を、(アメリカの物語として)否定するために作られたリメイクとすら思えてくる。確信犯の仕事なのだ。
 実際『シークレット・アイズ』の「添削」ぶりは凄まじい。主人公たちを事件の外部から内部の当事者に移し替えたのもそう。権力の後ろ盾を初期設定に移し替えたのもそう。現代パートのドラマを増やし、バランスを取っている。原作で主人公たちが犯人を追い詰めるため利用する、いくつかのアンフェアな行為も削られることなく再現されながら「ほら、アンフェアだから上手くいかなかったんだ」という側面が際立つよう、巧みに翻案されている。主人公が婚約者(のちには夫)のいる女性に寄せる恋心も、原作とは異なる場所に着地して「あーそっちかー」となる。
 総じて言うと『シークレット・アイズ』は作家にとってリメイク・翻案・換骨奪胎のお手本となる、模範的な作品だ。原作の緩いところはキビキビと締まり、勢いで押し切った箇所には丁寧な必然性のパッチが当てられている。そのうえで、9.11と言うより、それ以後の自らの行動でアメリカが負った傷や負債を、苦い結末に反映させた一作でもある。結末の変更は議論を呼ぶかも知れないが、原作の容赦ない結末が暗い一つのカタルシスを与えたように、それが(理屈としては内在させながら)表立っては切り捨てたかに見える反面に、キチンと言葉を与えていた。

 そして、丁寧に添削された『シークレット・アイズ』を並べることで、『瞳の奥の秘密』の刈りこまれない「情」も際立って見える。これはリメイクの徳と言うべきだろう。
 特に際立つのはパブロという敗残者のもつ哀しみと、敗残者だから犯人に肉薄できる哀しい智慧、敗残者なりの正義と主人公への哀しい献身だ。それに『シークレット・アイズ』が現代アメリカの言うなれば恥部=つつけば痛い腹を敢えて掴むように、『瞳の奥の秘密』は自国が最も腐敗していた時代の「恐れ」=恐怖による支配・その恥辱を無情にあばきたてる。その、リメイクに比べると素朴な善悪の二元論は、アルゼンチン(に生きる制作者)が負った恐怖と恥辱の深さをこそ、物語るのかも知れない。
 
 最後にやはり、問わなければならないだろう。『瞳の奥の秘密』と『シークレット・アイズ』、今の日本はどちらに近いだろうかと。前者が「汚い戦争」に前後する時代・後者が9.11後の自国が最も好戦的だった時期を自らの暗部としたように、吾が国にとって最も暗く、恥辱に満ちた腐敗の時代があるとしたら、それは2012年〜2020年・もっと続くかも知れない「今」を置いて他にないだろうと。幸いにも殺人事件ではなかったが、時の権力者=総理大臣と昵懇の間柄だという理由でレイプ犯が不起訴となりおおせたのは(アメリカでもアルゼンチンでもなく)他ならぬこの日本なのだ。
 ・伊藤詩織さん、TIME誌「世界で最も影響力のある100人」に選ばれる 大坂なおみ選手も(ハフィントン・ポスト)(外部サイトが開きます)



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