まんがなど
(19.12.22更新)
今年のペーパまんが総集編を追加。



発行物ご案内
(19.12.01更新)
今年の新刊まで追加・整頓しました。
電書化、始めました。
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過去日記一覧(随時リカバリ中)

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Author:舞村そうじ/RIMLAND
 創作同人サークル「RIMLAND」の
 活動報告を兼ねつつ、物語とは何か・
 どんなメカニズムが物語を駆動し心を
 うごかすのか、日々考察する予定。

【最近の動向】
当面は新刊がない予定です。

WebまんがSide-B遅々として更新中。

6年ぶりの本篇更新。(20.05.17)

旧サイトは2014年8月で終了しました(お運びいただき感謝)。再編集して、こちらの新サイトに少しずつ繰り入れますが、正直、時間はかかると思います。

[外部リンク]
comitia
(東京名古屋新潟関西みちのく)
あかつき印刷
POPLS

日本赤十字社

if you have a vote, use it.(save kids)

サイト日記更新。映画『追龍』を「とにかくすごい」で終わらせない。下の画像か、こちらから。(20.09.20)


ひとつ前の日記。ひろしまタイムラインその他について書きました。こちらから。(20.08.30)



みちのくコミティア6参加・運営の皆様おつかれさまでした。
困難な状況下での変則的な開催でしたが、どんな形であれ、次がありますよう。

会場で、また並行して開催されていたBOOK☆WALKERの電書コイン増量セールで、RIMの発行物を購入いただいたかた、ありがとうございました。(20.08.19)

7/23の創作同人電子書籍「いっせい配信」で『フューチャーデイズvol.5(5+6)』と、電書オリジナルの新刊『こんな時でも描いてた漫画』をリリースしました。下の画像か、こちらから
 
書誌のアップデートは、少しお待ちください(HTML書類を50ページくらい、手作業で書き換えにゃならんのよ…)(2020.7.26)


香港がワルだった頃〜バリー・ウォン監督『追龍』(2020.09.20)

 冒頭、こんな主旨の字幕がスクリーンに現れる。「かつて香港は腐敗した悪徳の都だった。ヤクザと警察が裏で結託し、麻薬で街を支配していた」…これから始まるのは、それに敢然と立ち向かったヒーローの物語、そう期待しても無理はない。だが違う。本作品はけっして暴力を賛美し、犯罪を助長するものではありません的な形式上の「おことわり」だったのかも知れない。『追龍』は、腐敗時代の香港でヤクザ(いわゆる黒社会)と警察それぞれを牛耳った、二人のワルをこそ描く映画だった。
 2017年・香港、バリー・ウォン監督。ちょうど同年秋、旅行で訪れた台湾・台北でも劇場公開中で…時間を作れず見逃した。ひょっとしたら日本には来ないのではないか。どうやら来ないらしい。諦め半ばに想いは募り2020年3月、ついに6月下旬の日本公開がアナウンスされる。だがその直後からコロナ禍で映画館が軒並み自粛を余儀なくされ、業界自体の存続が危ぶまれ…この時期が一番つらかったかも知れない。最終的に「7月に延期」だけで済んだのは御の字でしょう。
 
 そう御の字。逆に期待しすぎず行こう、多少出来が残念でも観られただけで御の字くらいの気持ちで行こう…そんな覚悟で公開初日の映画館に向かい、映画館に入り、上映が終わり、映画館を出て、主演のドニー・イェンとアンディ・ラウが立ち並ぶサイン入り特設ポスターを観ながらボンヤリ思った。…現時点で本作、今年のベストなのでは?

 ドニー・イェン。ジャッキー・チェン、ジェット・リーの後に続き(もっと言えばその前にはブルース・リーがいたわけですが)香港アクション界を牽引するスーパースター。二つ名は「宇宙最強」。ハリウッドに進出しての『ローグ・ワン〜スターウォーズ・ストーリー』では、ライトセイバーも銃も使わず長い棒一本で帝国軍をバッタバッタと薙ぎ倒す武僧を演じた。ブルース・リーの師匠にあたる詠春拳マスターを演じた『葉問(イップ・マン)』シリーズの完結編も、同じ7月に日本公開されたばかり。
 「幅の広い演技者」と言われたいタイプなのだと思う―近作は坊主に近い短髪がデフォルトだったが『追龍』ではまさかのパーマ。出落ちか、ネタかと思いきや、得意のアクションも封印・義理がたいが直情的なマフィアのボス・シーホウで新境地を開いた。
 

 一方、どの作品でも安定のアンディ・ラウ。こちらも香港を代表する俳優にしてミュージシャン。タフでクールで、イヤミなくらい格好よく、悪役も映える「心にやましいところがありそうな」ハンサム。警察がマフィアに送りこんだ潜入捜査官と入れ違いで、マフィアのほうが送りこんだスパイとして警察内部でまんまと昇進していく『インファナル・アフェア』でブレイク。自らの出世作にもなった同作に立ち返るように、『追龍』では上司の娘との婚約を足がかりに栄達の道を邁進する・逆に言えば己の魅力と才覚以外に後ろ盾のない、野心家の警察官ロックを演じている。
 
 シーホウとロック。お互い何物でもなかった二人が出会い、手を結び、ここから義理あり人情あり恩義あり裏切りあり、意地と卑屈と忍従と怒りのちゃぶ台返し、暴力、暴力、暴力の物語が展開していく。
 そう、香港なら香港という器に「盛れるだけ盛った」、描けるすべてを描きつくしてやろうという、こういう作品に自分は弱い。ここがイイ、ここが刺さるとピンポイントで突いてくるのでなく「面」で、これでもかと全面で面白さを押しつけてくる。観ているうちに「ありがとう、あの頃の香港の姿をこんな形でそっくり描き残してくれて」と、知りもしない「あの頃の香港」をこよなく愛していた錯覚に陥る。

 圧巻は成り行きで悪の道に踏みこんだシーホウと仲間たちが逃げこみ、根城にしていく九龍城砦だ。その、せせこましい存在感。登場早々はチンピラのケンカ・後半は杖をつく身となったドニー・イェンゆえ華麗なカンフー・アクションなど見せられないかわりに、人ひとり通る幅しかない・そのかわりドアあり隠し扉あり段差あり上下からの攻撃ありと、ダンジョンばりな城砦内での乱闘は泥くさくもトリッキーで(その風物が今は失なわれたことを思うと)文化遺産のよう。
 
 九龍城は映画の描く「あの頃の香港」を凝縮させた中心だが、物語の香港は遠心的にも広がっている。シーホウ率いる一党は、食い詰めて密航してきた大陸出身者で、香港で一旗あげてさらに家族を呼び寄せるのが夢だ。のし上がった彼が郎党とともに乗りこむのは、タイの麻薬地帯。一方、ロックが属する権力組織の頂点には「本国」イギリスから赴任してきたラスボスがいる。
 「本国」イギリスから来たワルに、それと癒着した黒社会の旧支配層。共通する敵を相手に結託した、若い二人は出世するにつれ、しだいに反目も深めてゆく。互いにスパイを送りあい、猜疑心で罠を仕掛けあい…
 それでも裏切りや疑心暗鬼より、圧倒的に「信頼」が幅をきかすのが『追龍』だ。同郷の絆でむすばれたシーホウの手下たちは命を落としかねない異郷の銃撃戦のなかでも「俺たち最期まで仲間でいれてよかったな」と言わんばかりの兄弟愛を見せつける。シーホウの実の弟・ヘロインで身を持ち崩していくインテリ少年が見せる意気地。終盤にサプライズで明かされる、思わぬ人物の献身。後ろ盾のない…と書いたロックの傍らにも、食えない部下(演ケント・チェン)がひとり付き従い、彼に忠誠を尽くしていく。片足の自由を失なったシーホウを看たことがキッカケで二度目の妻となる看護士も、悪行の果てに香港脱出を画策するロックの(元は出世目当てで結婚した)妻も、愛情というより「ワルの同志」のように見えてくる。
 
 まとめます。香港なら香港という器で出来ることをすべて盛りこんだ作品。アクションあり策謀あり「人の業を肯定する」と言わんばかりにあらゆる負の感情を憐れみながら描きつくしてなお、それらを(共犯意識とも言える)信頼と献身が圧倒する物語。いや、まだ足りない。
 そうやって怒涛の「面」で押してくる物語が、あらゆる局面で火花を散らしながら、しかも最終的には(手を結びつつ別々の道を歩み続けた)主人公ふたりの訣別に収斂していく。世界に二人だけが残され、その二人が袂を分かつとき、暴れまわったドラゴンの目に、点睛が刻まれる。
 「語り尽くせない見どころと、それらを貫く、ただ一本の線
 …こういう時とかく使ってしまいがちな「とにかくすごい」を、どうにか別の一文に置き換えることが出来ただろうか。

 クライマックスシーン。それまで疑いあい反目しあい、なんなら命を狙いあったシーホウの名を、悲痛な声でロックが呼ぶ。たぶん通り名の「跛豪」と呼んだのだろう。それがまるで「阿豪!」(「阿○」で○○さん、○○ちゃんという愛称になる)と叫んだように聞こえた。ロードショー期間は終わり、次に観られるのは配信かDVDかだけれど。そのころ、本作でかくも愛された香港がどうなっているか、どうか香港らしい香港のままでと祈るほかないけれど。別に「跛豪」と呼んでいてもいいのだ―アンディ・ラウの悲しい叫びを再確認したい。
 ・映画『追龍』公式サイト(外部サイトが開きます)
 
 (すみません、もう上映終わったかのように書いちゃったけど、鹿児島市・刈谷市では9/24まで・そのほか9月下旬以降に公開の映画館たくさんあります。公式サイトをご参照…)

失なわれる受難(2020.09.13)

 ●8.6と9.1の注目点が慰霊から「ヘイト」に移ったこと
 9月1日と8月6日は、かたや関東大震災・かたや広島への原爆投下で10万人単位の命が奪われた日だ(以下9.1、8.6と略する)。前者(1923年)の二年後に治安維持法が制定され、原子爆弾投下をもって降伏(1945年)が決定づけられたと考えると、日本がファシズムに傾倒した時代を二つの災禍が標識のように挟んでいるとも取れる。

(むろんそれ以前に台湾併合や韓国併合があり、また治安維持法の1925年は男性のみとはいえ普通選挙法の年でもあるのですが)
 8.6には広島で平和記念式典が開かれ、9.1は防災の日。ともに人々の受苦に思いを馳せ、死者を追悼する節目だった二つの日付。だが今年はどちらも、まったく異なる意味合いで語られることになった。

 まず8.6について。今年はNHK広島がキャンペーン「ひろしまタイムライン」を実施した。1945年にSNSがあったらという設定で成人男性・成人女性・少年=三人の「アカウント」を作成し8.6の数ヶ月前から人々の生活や見聞をTwitterで発信、現代の人々が原爆禍を追体験する主旨のコンテンツだ。啓発的な試みと評価される一方、一面的な切り取りになることへの懸念もあり、賛否両論だった同イベントは、しかし予想外の形で大炎上することになった。
 最年少の男子という設定のアカウントが、8.6を経て8.15→敗戦後の混乱の日々に、吾々は戦勝国の人間だと驕る朝鮮人たちに暴力を振るわれ嘲弄された…と憤る「発言」を発信。遡って6月の時点から彼らが蛇を食べていただの「もうじきお前たちは敗けるヨ」と片言の日本語で言われた等、当時の広島にも多く居た朝鮮人たちへの侮蔑や憎悪を煽る発言を繰り返していたと判明したのだ。
 実際の広島では朝鮮半島出身の住民もまた、原子爆弾の惨禍に見舞われた被害者であった。当時の人々が置かれた状況を思えば、日本人より過酷なこともあったろう。「普通の日本人」三人のみに集約された「当時の再現」は、そうしたマイノリティの存在を拾いそこねてしまうのではないか。そんな懸念は皮肉にも、斜め上(だか下だか)の形で的中してしまった。少年のモデルとなった人物の当時の日記にない発言が別の資料から盛り込まれたり、アカウントの文言を作成する現代の中学生たちが「当時の感覚になるため」教育勅語の書き取りをさせられたり、「ひろしまタイムライン」は多くの問題を抱えたコンテンツだったことが明らかになる。
 その後も新たな問題点の掘り起こしが跡を絶たないのだが、とりあえず暫定のまとめ→
(1)"炎上"は何故起きた?5分で理解る「ひろしまタイムライン」の抱える大きな課題。
 (Acceso./NOTE)
(外部サイトが開きます)

 順番が逆になってしまったが、9.1にまつわるヘイトの問題は「ひろしまタイムライン」に先行していた。2017年に就任した小池百合子都知事が、それまで歴代の都知事が9.1に発していた朝鮮人虐殺に対する追悼文を出さないと決めたためだ。
 さらに横網町公園の朝鮮人犠牲者追悼碑の前で行なわれていた慰霊祭に、虐殺を否認する右翼団体が押しかけ、同じ場所でヘイト街宣をする問題が生じていた。これに対し今年、都が慰霊側とヘイト側の双方に「騒ぎを起こさない」とする誓約書の提出を要求。慰霊祭をヘイトスピーチで挑発し、カウンターや反発が起きようものなら「騒ぎが起きた」として諸共にイベントを中止に出来る。ヘイト側を利する要求は、多くの反対が寄せられ取り下げられたが、今年の9.1でコロナ禍を鑑み朝鮮人犠牲者追悼式典がオンライン開催となる一方、ヘイト団体は構わず公園で「真実の慰霊祭」を実行したようだ。
 このヘイト団体で、かつて(都知事になる前の)小池氏は講演を行なっている。朝鮮人の犠牲者も「関東大震災の犠牲者」として一緒に追悼しているから良いのだという都知事になってからの見解が、こうしたヘイト団体の主張に適うことは言うまでもない。地震や火災などの災害で命を落とすことと、「井戸に毒を入れている」などのデマを信じた日本人によって虐殺されるのは「一緒」でないことも、説明するまでもないだろう。
 このあたりで釘をさしておくと、問題なのは1923年や1945年のこと(ばかり)ではない。過去に朝鮮人に対する憎悪を日記につづった人が、後に当時の自分を省みて考えかたを変えることもある。逆に過去のあやまちを「あやまちではない」と否認することも。そして、過去にことよせてヘイトや差別を訴えるものが、現在のマイノリティに対して、どのような態度で臨むか。
 ●過去をどう扱うかは、現在の吾々自身をどう扱うかの問題であること
 ここまでは、すでに知られていることの再確認である。
 ここから、あまりされていない(と思われる)話をする。

 ●朝鮮人を除外することで日本人の「慰霊の取り分」が増えたわけではないこと
 当時、あるいは自発的に、あるいは半ば強制的に、あるいは強制的に日本に住まっていた朝鮮半島出身の人々。8.6と9.1、二つの惨事で被害を受けた彼らから「被害者」という属性を剥奪することで、同じ惨禍に遭った日本人は「被害者」としてより多くの取り分を得ることが出来るのだろうか。
 そうではないように思われる。
 
 ●むしろ日本人の慰霊まで一部「ヘイト」に置き換えられてしまったこと
 ひろしまタイムラインや、(草の根から都知事まで一体となった)関東大震災における朝鮮人虐殺の否認が示しているのは、8.6や9.1という本来は「被害を受けた人々を追悼する機会」だったものが「レイシストのヘイト祭り」として簒奪されてしまった現状だ。その簒奪された分には、当然、日本人の被害者に向けられるべきだった慰霊も含まれている。
 「サヨクがあれもヘイトだこれもヘイトだと騒ぐから、本来は慰霊の機会だったものが台なしにされたのだ」という反論は(どちらが先に「仕掛けた」か考えれば)盗人たけだけしい見当違いだと分かる。「ひろしまタイムライン」の少年アカウントは進駐軍の兵士ではなく、自分たちが抑圧し差別してきた朝鮮人に憎悪と被害者感情を向けた。それは戦争に対する抗議ですらない。8.6や9.1に対する意識が、災禍を被った人々の追悼や痛みの共有から、差別感情の肯定・再生産へとシフトしつつあるのではと懸念する所以だ。

 ●「被害者の追悼」が「日常を生きた人々の顕彰」に変質しつつあること
 ヘイトによる簒奪だけではない。ひろしまタイムラインと並行して今夏、マスメディアが主導するかたちで行なわれた1945年を振り返る企画が「あちこちのすずさん」だ。
 すずさんは(これまた)言うまでもないかも知れないが、こうの史代氏の漫画と片渕須直監督による映画化作品『この世界の片隅に』の主人公だ。戦時中の窮乏や原子爆弾の投下・敗戦までを一人の主人公の体験に集約した物語が、逆に沢山の「すずさん」が居たのだと普遍化されたことになる。
 問題は「すずさん」が「戦争の中にも日常はあった」「泣くこと笑うこと、愛したり悲しんだりすることは、戦時中でも平和な時代でも変わらない」というメッセージの担い手として認知されたことだ。社会現象としての「すずさん」は、異様に水増しされた代用ごはんに四苦八苦したり、呉の軍港で暢気にスケッチをしていて憲兵に嫌疑をかけられ「こんなに抜けてるスパイがいるものか」と嫁ぎ先で笑い話になるユーモラスな存在だ。
 原作の漫画や映画は、すずさんと彼女を取り巻く世界を多面的に描く。だが、本人の意思なく結婚を決められ、嫁ぐや家政すべてを(それも戦争末期の窮乏下で)背負わされる、あるいは銃撃で義理の姪と自らの片手を失なうといった受苦・被害の側面は、すずさんが「すずさん」的なもの・「あちこちのすずさん」として普遍化されるにあたり、脱色され漂白されはしていないか。あるいは、憲兵に見咎められても笑い話では済まず、それこそ治安維持法や何やかやで拷問され、落命した多くの人たちがいた事実は。
 ロングランの大ヒット作となった映画が再上映された劇場の物販コーナーでは、パンフレットなどと並んで「すずさん」のイラストを箱にあしらった帝国海軍の戦艦のプラモデルまで販売されていたという。
 
 原作や映画には、すずさんが自らの加害性に気づき号泣する(と取れる)場面がある。だが、そうした他者への加害性も、被害=吾々自身に対する加害性も「戦争中でなくても、とかく人生はままならないものだ」という形で中和する危険性が「すずさん」受容のストーリーにはある。「そうした苦労をユーモアや丁寧な暮らしで乗り切るのが良いのだ」あるいは「戦争だろうと窮乏下だろうと、あるいは結婚も自分の意思で決められない家父長制社会でも、泣いて笑って愛した人生は輝かしいのだ」という「話のずらし」がある。
 もちろん、どんな暗い時代でも抑圧下でも人生は輝かしいし、その尊厳を他にはない形で照らし出したからこそ『この世界の片隅に』は傑作たりえた。けれど、すずさんの「すずさん」化には、戦争という特別に加害性を持った人や社会の営為をあたかも自然災害と同様のように漂白し、そのシステムに押しつぶされた人々を「健気に生きていた」「輝かしかった」「いっそ勝ったと言ってもいい」「勝者」に仕立て直す、詐術がありはしないか。
 もういちど言う。過去をどう扱うかは、現在の吾々自身をどう扱うかの問題だ。1945年のすずさんを「健気に生きてたから素晴らしい」「すずさん」に変形するのと同じメカニズムで、吾々は3.11(東日本大震災)の被災者や、日付のないコロナ禍に見舞われた現在の吾々に「ポジティブに立ち向かう」ことを強いてはいないか。助けてくれと泣き言をいうな・自ら助け「絆」で共に助け合え、そして何なら己を犠牲にして公を助けろ。
 そのような物語を公によって押しつけられる人々の類型を、カギカッコつきで仮に呼ぶ「すずさん」とは別に、もっとモデル化された存在として、吾々はすでに知っている。戦争に駆り出され、戦地で落命しながら「彼らの犠牲のおかげで現在の繁栄がある」と呼ばれる存在―「英霊」だ。吾々はすでに8.15を知っている。閣僚や、軍服のコスプレをした人々が靖国神社で(当事者たちの意思を無視して)「英霊」を称える日。そうした参拝が、旧日本軍の侵略を受けた近隣諸国の感情を害し、傷つけると分かったうえで行なわれるヘイト祭り。すずさんの「すずさん」化が、8.6や9.1のヘイト化が、あるいは自助や共助を押しつける政策が行きつく先は、災害や疫病・あるいは困窮による「被害者性」を奪われた「英霊」化ではないだろうか。

     *      *      *

 ここまでモタモタ言ってきたことを簡潔にまとめると、こうだ。「被害者性を剥奪される日本人」。
 8.6や9.1といった追悼の機会を「ヘイト祭り」に乗っ取られ、また「戦禍や災害に負けない私たち」であることの称揚(強制)によって、吾々は他ならぬ吾々自身の被害者性を削り取ってきたのではないか。そして
 ●被害者性の剥奪は「ヘイト」の帰結であること
 どちらが卵で、どちらがニワトリか、今は断定できない。けれど現在のヘイトをめぐる問題として、いま自分の中には二つの言葉というかイメージがある。
 ひとつは新約聖書にある「迷いでた羊」のたとえ話だ。イエスが弟子たちに言う。「羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷いでた一匹を探しに行かないだろうか」「もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹よりも、その一匹のことを喜ぶだろう」(マタイによる福音書)。
 もうひとつは、今回のコロナ禍に関連して、古田肇・岐阜県知事が述べたという「私たちは在住外国人のことを外国籍の岐阜県民と言っている」という言葉だ。
外国人にコロナ予防周知 自治体、多言語チラシやSNS活用(岐阜新聞)(外部サイトが開きます)
 
 実を言うと、羊のたとえが若い頃にはピンと来なかった。はぐれた一匹の羊を探してる間に、残り99匹の羊が迷子になったり、狼に襲われたりはしないのだろうか。だが時を経て、今では違う視点から考えられるようになった。社会が災禍に見舞われたときに、在住外国人を「外国籍の吾々」として助けることは、はぐれた一匹の羊をまず助けることだ。はぐれた羊は外国人とは限らない。病気の者、困窮する者、障害のある人、シングルマザー、高齢者…はぐれた一匹を助けない羊飼いは、残り99匹の羊も見捨てることになる。
 もちろん吾々は羊の側でもある。自らが羊飼いを兼ねる百匹の羊だ。「天災や戦禍に乗じて、マイノリティを呪い排除したとき、吾々は吾々自身を被害者として遇する資格をも失なってしまう」という言いかたは少し乱暴で、ここまでの話の一面しか集約できていない。だが一匹の羊を見捨てることにした99匹の羊は、他のどの羊が「次の一匹」になっても、もうそれを助ける道理を持っていない、弱い者から次々に見捨てられていくという理解はどうだろうか。
 イエスは宗教家だから、その発言を社会に直に当てはめるのは、ときに危険かも知れない。だが福音書のこの言葉には(善きサマリア人のたとえなどと併せ)天国のことだけでなく、地上で人がどう社会を営んでいくべきか、示唆するものがあると思う。

●「慰霊」そのものの機能が社会から失なわれつつあること
 戦争や災害による被害者性を奪う者には、どうしても避けられない「風化」「時の経過」もある。
被爆資料2万点がほぼ死蔵 長崎原爆資料館 学芸員不足、調査分析追いつかず(石川陽一/共同通信)
(外部サイトが開きます)
先の戦争のことを、原子爆弾の被害を、受難を忘れてはいけない。忘れてほしくない。そう考える人たちがまだ沢山いらして、資料の供出を続けている。だが「対応にあたる学芸員はたった2人」「とてもじゃないが一つ一つの資料の精査まで手が回らない」。ここにあるのは単に(それはそれで大問題なのだが)文化全般にたいする軽視なのかも知れない。だが、この軽視にはまた行政の「いつまで被害の話をしているんだ」という意識もはたらいてはいないか。
人知れず消えた慰霊碑(NHKニュース)(外部サイトが開きます)

 ●「愛国」は「弱者としての国民を愛する」ことではなく「ヘイト」と「英霊の称揚」で出来ている
 ヘイトを振りまき、歴史を否認し、軍備や戦争への寛容を煽る者は「愛国」と口にする。だがそれは、国を構成する国民たる吾々自身を「愛する」ことではない。私は戦争や災害や疫病や困窮で被害を受けています、国を愛すると言うなら国民であり受難している私を救ってくださいと訴える者が「愛国」の対象として受け容れられることはない。「愛国者」に許されているのは、吾が国はすごいと称えること・それと表裏一体のヘイトと、自己を犠牲にして公に尽くすことだけだ。
 弱者や被害者を「社会の一員」として迎え入れず、他所者や足手まといとして排除し放逐し「吾々を憎んでくる敵」としてヘイト祭りの生贄に祭り上げるような社会は、自分たち自身からも弱者・被害者といった属性を剥奪し「英霊」の群れとなる。
 
 ヘイトはいけない、ということを「マイノリティへの攻撃だから」たとえば女性という不利な立場にいる者として、民族差別などで不利を被る人たちに共感できる・老いなどで弱者の局面に陥ることもあるのだから…という視点から考えることは、むろん大事だ。だが、ヘイトはマジョリティの側をも損なうのだ、あるいは数的にはマジョリティでありながら弱者になることだってあるのだ(収奪される国民=英霊にさせられるように)といった側面で考えられる機会は少ないように思う。今回の日記は、今まで使ってなかった筋肉を使うように疲れた。あるいは、間違った・無理な筋肉の使いかたをしているかも知れない。
 などと留保しつつ、最後につけくわえたいことは、こうだ。
 マイノリティや弱者の迫害と、社会の中心層(マジョリティ・いわゆる「普通の日本人」)からの被害者性の剥奪が連動しているだけではない。もうひとつ。日本人が日本人自身を保護されるべき被害者として・つまり「人として」敬意をもって遇さなくなったことと―先月末、病気を理由に辞任を表明した首相にたいして「まず感謝の言葉を述べるべき」「退任"される"と敬語を使え」といった崇拝が求められることも、おそらく無縁ではない。崇拝の強要は、すでに現首相の後継者と目される官房長官にたいしても「失礼なことを言うな」という形で現れている。それもまた、一方から削った分を、もう一方に盛ったに等しい、算数の問題なのだと思う。たぶん。
 ●ヘイトと被害者性の剥奪が、支配者への敬意の強要とも連動していること
 

 私たちは、ひと握りの支配者が独占しようとしている同情や敬意を、私たち自身の手元へと取り返さなければならない。そしてそのとき、同情や敬意に値する「私たち」には、真っ先に排除される対象であった弱者やマイノリティが、当然のように含まれていなければならない。
 最初にはぐれた羊のように。外国籍の岐阜県民のように。

圧倒的なオリジナリティ(への意志)〜藤のよう『せんせいのお人形』(2020.08.30)


 親戚をたらい回しにされた天涯孤独の少女・スミカを引き取ったのは独身男性の昭明だった。彼はスミカに言い渡す。「俺は教育するよ。君を」
 …という説明から想像・懸念・あるいは下世話に期待されるような全ての醜悪なことと、まるで真逆の展開をするのが藤のようせんせいのお人形』だ。言い落していたが昭明さんは「ショウメイ」と読む。そして彼はカトリック系お嬢様学校の、倫理教師。「君を教育する」は、文字どおりの意味なのだ。
 まずは立ちかたから指導する。頭のてっぺんに糸がついてて、垂直に上に引っ張られるのを意識して、背筋をまっすぐに。だがタイトルに相違して、昭明はスミカを思いどおりの操り人形にしたいのではない。どうせ自分はこんなものだと卑下せず、周囲からも「こんなものだろう」と見下されない、魂の入ったひとりの人間としての尊厳を、彼はスミカに与えようとする。言うまでもなく、それは誰かが「教える」のではなく、当人が自ら「発見」しなければ、最終的には得られないものだ。
 もちろんスミカは、昭明の期待に応える。学校でも「いたの?」と言われるネグレクトされた存在だった彼女は友人を得て、周囲を動かし、実は心にわだかまりを抱える昭明が(俺なんかより、よほどマトモな人間なのでは)と一目おく存在に、草花が伸びるように成長していく…

 「天涯孤独な少女が年上の男性に引き取られる」は、ひとつの定番・ジャンルと言ってもいいだろう。数多くの作品が生み出されている。下世話な欲望にまみれた、見たこともない醜悪なものもあるのだろう。傑作・名作もある。傑作・名作ではあったが、現在においては不適切だったり誰かに都合のいいファンタジイな側面だったりを、悲しく厳しく見直さなければいけない作品もあるだろう。
 『せんせいのお人形』は、そうした過去の類作につらなる最新の成果だ。過去の美しいところ・こころ動かすところを継承し、現代にふさわしくない点を改め、そして今までなかった新たなエピソードや美しい場面を付け加えている。伝統とは本来、そういうものであるべきだった。「過去に何度も語られたことだけれど、こんな描かれかたは考えもしなかった」先行作品の滋養を受けて、しかし先行作品になかった要素を加える。オリジナリティとは本来、そういうものではなかったか。
 …話が先走りすぎた。いったん手綱を緩めよう。
 

 ファンタジイではないので(あるいは本作のファンタジイは別のところにあるので)スミカは親戚をたらい回しにされたけど天才児…なんてことはなく、ふつうに、致命的に勉強が出来ない。高校に入れたのが謎だと言われるほど最初の段階でつまづいている彼女が、まともな保護者を得て初めて、勉強することの必要と意味に直面を余儀なくされる。家庭教師たちはサジを投げる。数式の解きかたではなく、数式を解くということ自体が理解できないのだ。
 昭明も、こればかりは助けることが出来ない。彼に出来るのは屋根裏にある膨大な積ん読の山を、彼女に開放することだけだ。現文が得意な学友に秘訣を尋ね、日本史が得意な学友に理由を尋ね(ゲームが入口の歴女だった)(刀剣が人の形になって主君とロマンスするらしかった)(まあそれは措くとして)、自分は自分に向いた勉強法を、自分で見つけるしかないとスミカは悟る。昭明が開放してくれた書物の山と、乏しいながら蓄えてきた感受性を頼りに「何のために勉強するのか」「学問とは何なのか」を彼女はひとりで探究する。
 僕はいわゆる「積ん読」は言い訳できない悪徳だと思ってるけど「前途有望な若者に好きに読みなさいと蔵書を開放できる」のは数少ない美徳かも知れない

 単行本で言うと、二巻の半ば。スミカが自分だけの「勉強とは何か」を導き出すエピソードは、本作がもっとも高い到達点をマークする瞬間だ。
 そこで案出された「答え」には参考文献もあるようで、どこまでが作者のオリジナルかは詳らかでない(本当は確かめてから日記を書くべきなのですが…すみません)。だが問題は、物語の外の楽屋話ではない。
 吾々は皆、学校で学問を身につける。1+1は2である。7×9は63である。聖武天皇は大仏を建立し、メサビ鉱山は鉄を算出する。プラトンのイデア・スピノザの汎神論といっても、吾々は誰かが要領よくまとめた内容を「そういうものなのだ」と渡されては呑みこみ、呑みこめなかったものは「身につかなかった」と諦める。三角関数を駆使し、シュレディンガーの猫をジョークの種にしながら、吾々は二次方程式もツルカメ算も、自分で案出することはない。
 子供の発想は柔軟?物心つく前からアンパンマンやミッキーマウスに囲まれ、既存の物語を大量に浴びた子供たちに、愉快な思い違い以上の「柔軟な発想」があるだろうか。自分の思いをストレートに赤裸々に描いた・語ったと誇らしげな若者の作品や言葉が「ありきたりな赤裸々」のパターンにはまりきった陳腐な作品なのを見るにつけ「オリジナリティ」という言葉が十分に咀嚼されないまま礼賛されていることの弊害を思う。オリジナルであることは、そう簡単ではない。
 …ネグレクトされ「注ぎこむ」教育を丸ごと呑みこめずに来た来歴が、逆にスミカというキャラクターを通して「誰かに答えを教えられるのでなく、自分で問い自分で答えを導き出した」奇跡的な瞬間を顕現させる。吾々の多くが学校では、ついに出会うことのない奇跡だ。それがどんなに得がたく貴重なものか、昭明には分かる。その観念的すぎる賞賛の言葉は、完全にはスミカに届いていないかも知れない。だが彼の祝福は伝わる。だからスミカは、会心の笑みを浮かべる。

 まんがの絵で表現される笑顔もまた、吾々が「笑顔はこう描くものだ」と教えられ呑みこんできた、コンベンショナルなものだ。端的な話、両目を逆U字型に閉じたものが「笑顔」だというのは日本のまんがにだけ伝統的な「あたりまえ」で、たとえば先週の日記で紹介したアメコミ『サンストーン』の登場人物たちは(目を細めはしても)目を閉じて笑うことはない。
 スヌーピーなどが目を閉じて笑うのは「嗤い」や「ご満悦」で、歓喜の笑みで目を閉じることはないという。
 学問とは何かを発見した(自ら「発明した」と言ってもいい)瞬間、スミカが浮かべる笑みは、既存の日本まんがの「笑顔」の域を大きく逸脱している。既存のまんがに慣れきった目には、ぶざまにすら見える。
 そうでなければならない。他の誰にも教えられず、自分だけの思惟で問いと答えを導き出した瞬間は、人生における奇跡だということ。(恋愛でも復讐でもなく)それこそが本作が提出できる最も高きもの・提出することで物語の歴史に加えることのできる貢献だと、作者は十全に知悉している。ならば、そこに至ったスミカの笑顔もまた「みんなこうしてるから」という定型的の描きかたで飾られてはならない、そのことを作者は知悉しきっている。

 もちろん『せんせいのお人形』は、これだけの話ではない。スミカと昭明、周囲の人物が織りなす物語はときに可笑しく、ときに美しく(天文に関するエピソードが多いのも魅力だ)、苦い試練や葛藤に満ち、赦しと慈愛に溢れ、そしてやっぱり大層ロマンチックでもある。けれど何より、本作の最大のギフトは、スミカの会心の笑みに集約された、圧倒的なオリジナリティ(への意志)だ。その理想の高さゆえに本作は、子供のころに展望台でもらった(あるいはもらいそこねた)文字の打刻されたメダルのように、読者の宝物になるだろう。
 
(今のところ)単行本は第一部・完を銘打った三巻まで。配信版では既に全エピソード完結しているんだけど、好きすぎて読み終えてしまうのが怖い…(とゆうか、最後まで見届けずに日記にしてしまい、本当にすみません)

仰向けに倒れても〜ステファン・セジク『サンストーン』(2020.08.24)

 「ポリティカリー・コレクトネス(政治的ただしさ・ポリコレ・PC)のせいでアメコミは多様性を失なって、つまらなくなり、北米でも(多様で面白い)日本発のコミックスに販売のシェアを奪われている」そんな言説をネットで目にした。売り上げのことは分からない。ポリコレと呼ばれるものを攻撃したいがために、都合よく統計を切り取ったとの批判もある。分からない。
 ただ確かなのは(1930年代〜60年代なかばまでハリウッドを支配したヘイズ・コードとは違い)ポリティカリー・コレクトネスは作品の多様性を奪うものではないだろう、ということだ。それまで白人男性が独占していた変身ヒーローの役に、黒人やアジア系・女性がつくことが「多様性の喪失」になるとは思えない。話の幅という意味でも、たとえば第二次大戦中の米国内での日系人差別を描いた『They Called Us Enemy』(彼らは私たちを敵と呼んだ/未読)もあれば、ネットで知り合った女性のカップルがBDSM(ボンデージ・ディシプリン=拘束・調教SM?)にのめりこむ『サンストーン』のような作品もある。しかも『サンストーン、たぶんポリティカリーにコレクトな話なんですけど
 …ここで『They Called Us Enemy』ではなく『サンストーン』を手にしてしまうのが、自分の残念なところかも知れない。すみません…
トランプのアメリカに警鐘を鳴らすジョージ・タケイのグラフィックノベル
 They Called Us Enemy
(渡辺由佳里/洋書ファンクラブ)
(外部サイトが開きます)

 敢えて煽れば「ポリコレ・ポルノ」。えーっ、ポリコレでポルノなんて、ましてSMなんてありえるの?そんな疑念は、読めば否応なく叩き壊される。全裸も陰毛も、数々の緊縛プレイも隠さず描かれる本作で何より強調されるのは(支配でも恐怖でもなく、屈辱や恥辱でもなく、ひょっとしたら性的な快楽ですらなく)「信頼」をどう構築するか、だからだ。

 鍵になるのは「セーフワード」という概念だ。
 SMに限らないのだが性行為中の「いや」「やめて」「苦しい」といった言葉は、拒絶なのに媚態と誤解され(あるいは誤解したという口実で)無視されて痛ましい事態や、おぞましい事態になることがある。それを防ぐため前もって決めておく「本当に拒絶」の言葉がセーフワードだ。「植木鉢」とか「スパゲッティ」とか、行為中に口走りそうもない言葉を選んで、誤読の余地をなくす。そう目新しいアイディアではないかも知れない。日本のとある二次創作まんが(百合)で「本当にダメなときは私の鼻をつまんでください」という可愛らしいものもあった。
※具体的に言うとコレです→
Flavor:orange chocolat』(アストラッテ/メロンブックス通販)(外部サイトが開きます)
オリジナルなら卓抜だし、元ネタがあるとしても、そういう設定を持ち込むことが歓迎されているのは(そうでなかった頃より)ずっと進んでて好ましいことだ。
 「サンストーン」はアリーリサの間で結ばれるセーフワードだ。それぞれ女王サマ願望とドレイ願望を抱え、悶々と思春期をすごした二人。プログラマーとして若き成功者となったアリーには同好の士アランがいたが、互いにSだったため「実験」は失敗・親友関係はつづくも性的なパートナーは得られていない。一方のリサは自分の被拘束願望を家族や友人・恋人にも明かすことができず婚約破棄・ウェイトレスをしながらネット小説の投稿で憂さを晴らしている。コミックス第1巻はそんな二人がネットで出会い、おそるおそるオフラインでも出会い、意気投合して有頂天になるさまを描く。どれだけ有頂天て、一回目のセッションが大成功で舞い上がったリサ、二回目のセッションでアリーを訪ねたとき冬のコートの下がパンツ一丁(艶っぽくトップレスとか言いなさいよ)。愉快だな君たち!

 グラフィックの美麗さは特筆する必要がある。誠文堂新光社から出ている紙の翻訳版はB5版フルカラー、画集やデザイン図案集としての価値さえある。

 しかし第1巻で満足したあと、全5巻を最後まで手にしたくなったのは、画集としての価値のせいではない。ストーリーが気になったからだ。
 2巻以降、何が起こりうるのか?想像(心配)したのは、こんなことだ。
・SM趣味を活かしアーティストとして成功したアランは、アリーとリサの良き理解者として好意的に描かれているが、やはりSである彼がリサを横取りしようとして陰鬱な展開にならないだろうか?
・同僚のヴァレリーが、リサの同性愛やSM趣味に気がつきアウティングのような形で厄介事をもたらさないか?
・そして、悠々自適の成功者であるアリーと、アマチュア作家で貧乏暮らしのリサ、境遇や人生にたいする満足度の差は二人の関係に影を落とすのではないか?
 結論から言っておくと、こうした自分の予想はことごとく外れる
 まずアラン。すごくいいひと。や、第1巻の時点で最強に好い人なんだけど。自身の嗜癖を仕事に活かし、SMクラブの調度や拘束具・衣装などのデザインで満足な地位を得ている彼は、学生時代には「男らしくない」といじめられたほどの気配りの主で、その思いやりとユーモアは物語を支え続ける。
 リサの天敵のように描かれていたヴァレリーも実はむしろ理解力のある善人で、1巻での意地悪そうな相貌は、リサ自身が抱いていた反発や恐れを勝手に投影していたものだと2巻以降で明かされる。アウティングどころか、無関係な第三者ならではのリリーフポイントもバッチリ用意され…(以下ネタバレにつき省略)
 …わりと大事なことを述べていると、おわかりいただけるだろうか。『サンストーン』では主人公ふたりの関係を脅かすのは、外部の妨害者ではない。多くのロマンスで主人公たちを脅かすのは、周囲の無理解、二人の仲を妨害する「お邪魔虫」、あるいは事故や不治の病といった「外部からの試練」ビルの壁から外れたレンガが、主人公の頭上に落ちてくるような「アクシデント」にすぎない。『サンストーン』でアリーとリサを苦しめ試練を与えるのは、あくまで互いの怯懦や不信・互いの嫉妬・互いの関係性だけだ。多くのロマンスがもつ「イヤな気分」なしに読み進められる所以である。
 もうひとつ、読み手を「イヤな気分」にさせないのは、登場人物たちが繰り広げる性愛が、徹底して合意をベースにしていることだ。
 リサを「支配したがる男性」はいくらでもいるだろう。だが彼女が求めるのはそういうものではない。小説を呼んで誤解したネット上の読者に、リサ自身が答えているように奴隷願望は「レイプされたい願望」ではないのだ。作中に登場する拘束プレイは全て、合意と安全の確保を絶対的な条件にしている。なんらかの落ち度でその確保に失敗した事例は「失敗した事例」としてキチンと断罪される。
 だから作中で描かれる性的な行為には、屈辱や恥辱・不本意といったものがない。合意なしに下着姿や裸体に出くわすことは「ラッキー」ではなく、ひたすら「気まずい」ことだし、性は何かのご褒美でもない。脅しや取引で性行為を強要されることも、酒や薬物・催眠などによる酩酊でなし崩しに性行為が行なわれることもない。SMの快楽はたえず上昇をめざす「カーブ」として常に危惧されコントロールが求められるが、快楽に「堕ちる」といった描かれかたはしない。
 列挙してみると、現在の日本の物語市場での「性」の位置づけが偏っている・少なくとも唯一無二の普遍的なものでは「ない」ことが浮かび上がってくる。この国では「性」は淫らな悪徳・屈辱や恥辱をともなう「堕ちる」もので、しかも「だからこそ劣情を刺激する」ものと捉えられる局面が多すぎはしないか。ゲームで負けると美少女のキャラクターが服を剥ぎ取られるとか。少年マンガ誌で人気投票のランキングが落ちると女性キャラのヌードや下着姿を描くペナルティが課せられていたとか。映画やTVドラマが興業的に失敗するたび、仕事に窮した主演女優が「脱ぐ」のではという憶測が週刊誌を賑わせるとか。

 だが、話を『サンストーン』と「サンストーン」に戻そう。セーフワードの話だ。
 SM行為は下手をすると命に関わるので、信頼と安全の確保は絶対条件になる。そのため「これを言ったら本当にストップ」というセーフワードが設定される。アレ?と思うひとがいるかも知れない。SMには奴隷の口に嵌めこみ、発話能力を奪うギャグボールというアイテムがある。アレを噛まされたら、セーフワードはどうなるの?

 『サンストーン』2巻の冒頭で、それは鮮やかな逆転として説明される。ギャグボールを使用すると、奴隷はセーフワードを言葉として発することができない。だからこそ発せられない「ノー」を仕草や反応で察知する感覚が、相互理解が、言葉を使っていたとき以上の信頼関係が絶対に必要になる。それは両手をしばられ目隠しをされた状態で仰向けに倒れるようなもので、パートナーは支えてくれるという絶対的な信頼がなければならない。
 こうして言葉を介した信頼→言葉すら介さない信頼に早くも2巻で到達してしまった物語に、これ以上なにがあるのか。
 もちろん決まっている。理想の「プレイ」相手に巡り会ったリサは、プレイの枠を超えて、アリーに恋してしまうのだ。自信に満ちた「女王様」アリーにではなく、セーターのセンスが超ダサで、眠ればイビキがひどく、破滅的なネトゲ中毒、そして過去の失敗を悔いつづけ今も不安に怯えている「アリーキャット」に。もちろん「アリーキャット」の不安の大半は、彼女もまたリサに恋してしまい、それを言い出せずにいることで、プレイは過激化の「カーブ」を描きながら「友達同士から踏み出せない」悶々が繰り広げられる。
 陳腐と言えば、陳腐かも知れない。だが、古代ギリシャから現代のラブコメまで、主人公カップルが出会い恋をして交際を重ね、いわば最後の「秘儀」として互いの身体をゆだねる「性」があるパターンに対し、「性」から始まり信頼が深まったうえで互いの生まるごとを引き受ける「恋愛」が最後の「秘儀」になる、この対比はちょっと面白い。

 アリーとリサの「性」を可能にしたのはストップするためのセーフワードだったが、二人が「恋」するのに必要なのは鍵を外すための「別の言葉」なはず…やっぱり「あれ」か?アイで始まってユーで終わる「あれ」ですよね?と待ち望みつつ読み進めるのは楽しい体験になるでしょう。陳腐だっていいじゃないか。

 先に「性」があって、徐々に信頼が深まり「恋」に至る関係も、世の中を見渡せば、そう珍しいものでもない気もする。「性」を描きながら、セーフワード設定のように相手の合意や意思を尊重する関係もまた。だから『サンストーン』は唯一無二の珍しい作品ではないのかも知れない。だがそれは、本作の不名誉にはならないだろう。むしろ、こうした価値観を良しとする作品や現実の事例が多いことは、この国で「性」として流通しているものが本当に普遍で絶対なのか、問い直す契機になるだろう。
 もちろん、唯一無二でなくても『サンストーン』はそうしたテーマを見事に浮き彫りにした作品であり、グラフィックは美麗で、ストーリーも最後まで飽きさせない。
 ひとつ言い落していた件を最後に書いておこう。
 第1巻を読んだ時点では、成功者であるアリーと、しがないウェイトレスのリサの「格差」を作者はどうするつもりだろうと気になった。しかし物語が展開するにつれ、リサが創作者であることの「強み」は増し、時には二人の仲を脅かすほどの力を振るいつつ、最後にはストーリーを完全に支配する。どうやら(嗜癖を仕事になしおおせたアランの後を追って?)作家リサには商業的な成功も約束されているみたいなのだが、そうでなくても薄給のウェイトレス稼業で口に糊しながらネット界では創作で一目おかれる彼女の姿は、日本でコツコツ執筆にいそしむ同人作家たちを嫉妬させ、勇気づけもするだろう。
 お安くはないけれど、第1巻を読んで「これだ」と思ったひとの期待は裏切らない作品だと思います。自分は大満足でした。

自分は2巻以降、セールにつられて電書版で購入したのですが美麗なグラフィック…以前に細かい文字を読むので難儀しました。紙版をオススメします。

エアみちのく旅行(2020.08.16)

 いつもの日記(週記ですけど)をお休みして作成したエアみちのく旅行記、日記ページに組み入れることにしました。自キャラの絵を写真に組み入れる遊び、クセになりますね。下の画像か、こちらから。

時間を我らに〜中井紀夫「死んだ恋人からの手紙」(2020.08.09)

(今回の日記にはテッド・チャン「あなたの人生の物語」ジェイムズ・ティプトリー・Jr「そして目覚めると、わたしはこの肌寒い丘の上にいた」のネタバレがあります)

 3月の日記で、時間の話を少しした。ミハイル・バフチーンの考察によれば、たとえばダンテの時代(14世紀)には天国と地獄は上と下=垂直軸の問題で、時間は…少なくとも重要ではなかった。それが16世紀、ラブレーの時代になると、過去から未来へ進む時間・より進歩していく人類という観念が意識される。近代になれば時間はさらに等速度に進むものとして生産や賃金体系とつながっていくだろう(これは3月の時点ではなかった考察です)。一方、こうした時間観にクィア・テンポラリィ論や『時間は存在しない』といった形で異議申し立てが始まっている。もしかしたら、吾々が当然と思ってる「時間」感覚も今後うつろうのかも知れない…
 こっそり直したけどダンテの時代を誤認しててラブレーとの間を60年程度と勘違いしてました。60年ならすぐでも200年だと結構かかりますね。でも近代成立からそろそろ200年…
   *   *   *

 読む者をひたすら鼓舞する創作の指南書『自家製文章読本』で井上ひさしは書いている。
ヒトは言葉を書きつけることで、この宇宙での最大の王「時間」と対抗してきた
 過去から未来へ、たゆみなく流れる時間の先にあるものは個人の死や人類・宇宙そのものの終焉であり、そして流れが奪っていくのは吾々にとってかけがえない事物の記憶であろう。直接に「死」や「忘却」と言わないための婉曲表現だったかも知れないが、それらをひっくるめて「敵は時間」と仮にでも名指したのは興味ぶかいことだ。
 ルキアノスの月旅行記や『かぐや姫』すらSFだと強弁するのでないかぎり、つまり(時間がより過酷に人々を支配するようになった)近代以降に成立した、いわゆるSFの最初の作品が『タイムマシン』だったことは、なかなかに味わい深い事実だ。しかし、あまり深い意味はないのかも知れない―少なくとも、この時点では。『タイムマシン』が成し遂げたのは、ただでさえ過ぎ去る時間をむしろ加速し、数百万年先の生物の滅亡まで先取りすること・いわばマッドサイエンティストを描くことで科学の暴走に警鐘を鳴らすように「時間はヤバいぞ、恐ろしいぞ」と訴えることに留まる。過去に戻って時間を書き換えよう・タイムパラドックスで時間そのものを無化してしまおうという企図はまだ、この作者の念頭にはなかった。
 一方で現代=21世紀に入ってからの流行は、なんといっても「ループ」だろう。同じ時間を何度も繰り返すことで、失敗を取り消し、人生をやり直し、言うなれば時が用意した破滅を出し抜く。だがこれなら、近代の時間観への果敢な挑戦だろうか。そもそもループ自体が望ましいことではなく「正常」な時間へ復帰することが脱出であり救いである場合が多い。ループを利用して、自己に有利なよう世界を書き換える「チート」(ズル)も、逆に近代や現代のシステムに異議は申し立てず、むしろその範囲内で搾取する勝者の側に回ろうという意図が強いように思われる。

 過去から未来へ不可逆的に流れる時間に、SF的な枠組みで対抗する。そんなヴィジョンを持つ作品がないものか。意外かも知れないが、ウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』が自分にとって、それにあたる。1984年に書かれ、一作でサイバーパンクという新しいジャンルを打ち立てた、これまた古典だ。電脳空間(サイバースペース)での冒険を描き、きらびやかな新語が散りばめられた同作は、なかなか難解で、筋が読み取りがたい。だがそんな中、物語の黒幕ともいえる存在が、主人公に語りかける場面がある。
「いいか、あんたですら活字のパラダイムに毒されてる。読むのがやっとのあんたですら、な」
「誰でも、記憶は良いんだ」「ただ、その記憶に出入り(アクセス)できる人間は多くない」「多少なりとまともな芸術家は、やれるもんさ」
あんたがたは、いつも模型(モデル)を造ってる。環状列石(ストーン・サークル)大伽藍、パイプ・オルガン、加算機械」「でも今夜の仕掛け(ラン)がうまくいけば、ついに本物があんたの手にはいる
記憶がホログラフィ的なんだ、あんたがた
(ハヤカワ文庫SF/280〜282頁より抜粋。強調は引用者。括弧内は読みがな。)
 ホログラフィの部分が、よく分からない。ここで言ってることは何だろう。「あんたがた」人類が、ストーン・サークルや大伽藍、パイプ・オルガンでたえず模型(モデル)を造りながら、ずっと手に入れられずに来た「本物」とは何か。「活字」のたとえが推測の鍵になる。活字とは、文章とは、時の流れのように一直線に読まざるを得ないものだ。だがそうでない、順々に読んでいく一直線・でない形で「記憶」にアクセスできるとしたら。そして「誰でも、記憶は良い」のだとしたら。
 人類が電脳空間に自我を解き放つことで、得られるものは何だろう。空を飛ぶような流れと化して、氷の防壁に守られたサーバを攻略するスリル?自身を変容させ、ファンタジー世界の戦士や、美少女バーチャル・アイドルになった自分を体感できること?…時間への、自由なアクセスなのではないか、それは。
 一語一語を順々に追って文章を読むようにではなく、チェス盤を上から見下ろし、どの駒を動かしてもいいように、自在に記憶に、世界に、時間にアクセスする。もちろん、動かせる駒は一度にひとつですらない。『ニューロマンサー』の終盤で主人公は、痩せこけたハッカーである自分の姿を、自我の外から見る。そして電脳空間で彼が目撃する「データの巨大な段のひとつの端」に佇む「三人の人影」のうち、一人は彼自身だ。
 またまたSFの古典。アーサー・C・クラーク幼年期の終わり』(1953年)は、宇宙からやってきた優れた種族「オーヴァーロード」の仲介によって、人類が新人類・超人類へと進化を遂げる物語だ。キューブリックが映画化した『2001年宇宙の旅』の雛形でもある。だがこの「どう新人類なのか」よく分からない、それは旧人類の吾々には知り得ないことだとばかりボヤかされていた像が、『ニューロマンサー』でクッキリと、ひとつの像を結んだように思えた。2020年の今あらためて読み返すと、これはこれで解像度が低いのだが。
 ホメロスが『イリアス』や『オデュッセイア』を、稗田阿礼が『古事記』を口承していたころ、その膨大な文章は「流れ」の形で記憶されていたのではないかと言われている。たとえば琵琶法師に『平家物語』の、巴御前が敵の首ねじきって落ち延びていくところ演ってと「ランダムなアクセス」を求めても、にわかには応じられない。冒頭「祇園精舎の鐘の声…」とは言わないまでも、「義仲最後」の冒頭あたりから順を追っていかないと「思い出せない」形になっていたという説だ。文章を石板やパピルス・木簡や紙に書き残す技術の登場で、かように膨大な記憶を持つ必要はなくなり、同時に暗誦の能力も衰えていく。だが手書きが活版印刷に、タイプライターがワープロに、パソコンに置き換えられてもなお、一直線の文章という「パラダイム」は揺らがなかった。近代以降、時間が労働や生産と結びつけられ、その支配力を強化させたのは先に述べたとおりだ。
 だがその一方で、人類は常に「別のアクセス法」を幻視してきた。ストーン・サークルに、パイプオルガンに、「それ」をモデル化していた…という物語はどうだろうか。並列処理が身上のAIがいざなう新しい知覚の次元で、人類は死や宇宙の終焉すら、チェス盤の隅に追いやれるのかも知れない。


 SFが時間を無化する「手法」が、もうひとつある。人が空間を自由に移動できるように、時間も自由にできるという設定を創出し、その制約下(というか、制約からの開放下)で物語を綴る技法だ。
 そう言うと分かりにくいかも知れませんが、要は順番をむちゃくちゃにして語っていく手法です。いきなり、主人公が死んでいるところから始まる。なんだと思ってページをめくると、次の章では若者の主人公が戦場を右往左往している。かと思ったら次の章では、主人公は中年・主人公は子供・いっそ主人公が死んだ後の世界…なんならSFでなくても使われる技法かも知れない。
 はい、やっぱり古典でした。カート・ヴォネガット・ジュニアスローターハウス5』(1969年)。通常爆弾で広島や長崎の原子爆弾よりも(その場では)多くの市民を殺害した、連合軍によるドレスデン爆撃を描出し再反省をうながした作品でもある。主人公は時間をランダムに行き来しながら、人生の虚しさに翻弄される。名作なのです。
 もう一本の作品も、現代の古典と遇される。現代といっても、もう20年以上経っているのでネタバレしてもかまわないと思いますがテッド・チャンあなたの人生の物語」(1998年)。やはりランダムな時間に呑まれた主人公を描きながら、こちらの作品は愛を語る。僕の評価がやや口ごもる感じなのには理由があるのですが、やはり名作と言われています。
 『スローターハウス5』も『あなたの人生の物語』も、地球人とは時間の把握が異なる異星人との遭遇によって、かれらの認識体系に巻き込まれるかたちで主人公たちは線形の時間からの離脱を果たす(それを望む望まないは関係なく)。『幼年期の終わり』で人類が新人類に進化するのにオーヴァーロードの力を借りたように。

 中井紀夫の短篇「死んだ恋人からの手紙」は、同様の語りの技法を導入するにあたり、異星人の助けを必要としない。2020年の現代において、あるいは20歳を過ぎたくらいの年齢でもって、SFを読むような人なら誰でも知ってそうな科学的知識を応用することで「時間にたいしてランダムな語り」を成立させてしまったのだ。
 1993年の作品だったように思う。テッド・チャンの短篇が絶賛されたとき、そう手放しで評価できなかったのは、この(より出来のいい)先行作品を知っていたせいだ。たぶん早川書房のSFマガジン誌に発表され、同年ハヤカワ文庫JA(国産のSF作品を収めるレーベル)がまとめた年間ベスト選集に収録された。短篇集の形で、中井の単著として世に出ることはなかったと思う。なぜか。日本SFに全球凍結のような冬の時代が到来したからだ(たぶん)。たぶん、としか言いようがないのだが、もともと不定期だったSFマガジンの年間ベスト選集も翌1994年で発行が停まった。日本SFが息を吹き返すのは2000年代後半、伊藤計劃や冲方丁が現れた頃ではなかったか。ともあれ「死んだ恋人からの手紙」が古典的名作と呼ばれることはなかった。
 しかし世の中には、再評価・セカンドチャンスがある。
 吾が世の春を再び迎えている(ことを願う)日本SFの、新しい旗手という位置づけで良いのだろうか。昨年『なめらかな世界と、その敵』で絶賛された(すみません未読です)伴名練氏が編者となった、ハヤカワ文庫JAのアンソロジー「日本SFの臨界点」恋愛篇の表題作が、まさかの「死んだ恋人からの手紙」なのだった。
日本SFの臨界点[恋愛篇]──死んだ恋人からの手紙(Hayakawa Online/外部リンク)
 『なめらかな世界と、その敵』は「SF愛に溢れている」との評価が高すぎて、それってSF中退組の自分などには敷居が高いのでは?と手を出しそびれていたのですが、いいひとだなあ編者(そして著者)。著作、読んでみようかなあ。皆様は「死んだ恋人からの手紙」を読んでください。(今日の日記ひとまず終わり)

   *   *   *

 今日の日記、ここで終わってよいのだけど少し追記。
 中井紀夫がすごい作家だなあと思ったのは、リリカルな「死んだ恋人からの手紙」の翌年「銀河性豪伝説」なる短篇で再びSFマガジンの年間選集を席巻しているからだ(両者の発表年度、逆だったかも知れない)。
 いや、話は最後まで聞きなさい。「銀河性豪伝説」すげーと思ったのは、同作がはからずもジェイムズ・ティプトリー・Jrの傑作「そして目覚めると、わたしはこの肌寒い丘の上にいた」へのアンサーになっていたからだ。これも古典コテンなので、どんどんネタバレしてしまうが―「地球人類は、異星人と性交できない」という話だ。
 いや、話は最後まで聞くのだ。銀河社会にようやく限定的な参加を許された地球人たちにとって、多種多様な異星人たちは皆、性交渉など不可能な化け物たちだ。にもかかわらず、人類はその怪物たちに魅了されてしまう。交わることの不可能な渇望に一方的に突き動かされ、宇宙ターミナルで人類はひたすら異星人に屈従する。CIA職員の前歴をもつティプトリーは、アメリカの物質文明(コカ・コーラなど)が途上国の文化を根こぎにする様子を、異星人による精神的な収奪に投影したのかも知れない。解釈や要約では伝えきれない、異様な迫力をもった作品だ。
 「銀河性豪伝説」は一人の物好きな地球人が、異星人の男性器を自らに移植する(次々に取り替える)という馬鹿げた方法で、ティプトリーが案出した極限状況を、あっさり覆してしまう。両者を突き合わせた馬鹿も、おそらく自分くらいだろうけれど、中井紀夫という作家の特異性の説明にはなっているのではないか。
 もっともいいタマはわるいタマにもっとも近いタマである
エマーソン・レイク&パーマーの楽曲をヒントに文庫5巻にわたる大作を書き上げた(これもまた途方もない発想の)長篇『タルカス伝』の、何巻目かの「あとがき」で中井は書いている。
エースをとれるような打球というのは、コートのいちばん端っこ、ラインに乗るような打球なのだ。
 選手はみなあと一歩でアウトになってしまうようなタマを打とうと必死になる

これが小説のたとえなのは、言うまでもないだろう。たやすく打ち返されてしまう、コートど真ん中の球を打っても相手からエースを取ることは出来ない。
 別の巻では、こう書いている。いまだどこにも存在したことのないような物語を語りたい
「SFを書きたいとか、ヒロイック・ファンタジーを書きたいとか、そのようなことをめざして書きはじめられた小説(中略)(中略)SFになるか、ヒロイック・ファンタジーになるか、(中略)それだけのことでおしまい(中略)そんなのは、つまらない
こうした氏の大見得に、たぶん自分は大いに影響を受けたし、もしかしたら「SFを愛しSFに愛されるSF界の旗手」みたいに評価される作品に手が伸びなかったのも、すべてをSFの手柄に囲いこんでしまうような雰囲気が気に障ったせいかも知れない。

 そこまで評価したうえで、さて、中井紀夫の作品は「もっともいいタマ」なのだろうか。分からない。「いまだどこにも存在したことのない」着想で「コートのいちばん端っこ」を突く作品群だったことは、疑うべくもない。
 彼の作品を、誰もが認める「エース」にするのに足りなかったのは、たとえばティプトリーの持つ異様な迫力、球威や球速だったのだろうか。「死んだ恋人からの手紙」は、恋人からのメッセージすらバラバラにされる世界で、それでも異星人との相互理解の可能性をも示唆して終わる。「銀河性豪伝説」も、ふざけた設定と語り口ながら、やはり同様の希望を提示していた。そうした希望や楽観は、絶望や断念・手に入らないものを語る物語より、ひと味の塩気が足りない・そんな理由で中井作品は日本SF冬の時代に呑まれてしまったのではないか…
 もちろんそれは、結果を原因と混同した、過小評価かも知れない。あれは外部からの避けられない災害で、著者の特性に帰せられるものではない、「死んだ恋人からの手紙」こそ不当にも評価されずにいたエースだった、欠けるところのない名作だ…そんなふうに評価してくれる人が現れてくれると嬉しい。(今日の日記・今度こそ終わり)
 ミシェル・フーコー1975-1976年度コレージュ・ド・フランス講義『社会は防衛しなければならない』(筑摩書房)について蒸し返す。
 この講義に関しては、すでに2017年8月の日記で取り上げている。ただ、その時の記述はフーコーの講義シリーズ全体を紹介する体裁だった。今回は、その時も一応ハイライトではあった「生政治とレイシズム」の箇所だけを、いわばズームするように取り上げ直したいのだ。
 
 周知のとおり、コロナ禍は続いている。
 しかし日本では、感染爆発がもう来るぞ、今に来るぞと言われながら中途半端な宙づり期間が続く一方、先んじて社会のほうが軋み(きしみ)の音をあげている。医療機関に一向に予算が回らず、内閣も地方自治体も明後日の方向でエゴを追求する姿をもう隠そうとすらしない。倒産や雇い止め、貧困への転落、格差の拡大。
 ウィルスそのものより速い社会崩壊を、端的に示していそうで怖いのが「安楽死」「尊厳死」「優生思想」など口あたりのいい字面で「命の選別」を持ち上げる思潮が盛り上がっていることだ。(優生思想・優生主義にまったく良いところはないのだが「優」の一文字で何だか良さげに響くことが忌まわしい。歴史修「正」主義にも通じる言葉のトリックだ)。テキトウにHINOMARUを持ち上げ批判されたミュージシャンが今度は「才能のある者には優良な子孫を残すため国家がふさわしい配偶者をあてがうべき」と発言。政府与党も「親しみやすい絵柄」でダーウィンの誤った解釈をばらまく。
 7月には京都で医師が、嘱託を受けたという形で難病患者を殺害。石原慎太郎・元東京都知事が(さっそく)(また)嬉々としてしゃしゃりでて「命の選別」を礼賛、当然のように非難されゴニョゴニョと謝罪。
 さらに確信犯的なのが維新だ。「人工透析患者は税金食いだから治療させず殺せ」と主張する男を候補に立てたように、本質がそうなのだろう。京都の事件を受け「尊厳死を政治的課題として検討すべき時だ」と公言。それどころか、自身が難病患者である、れいわの舩後議員が尊厳死の前に「生の尊厳」の確保をと訴えると「議論の旗振り役になるべき舩後議員なのに残念」と揶揄。さらに松井一郎・大阪市長は「舩後氏は難病でも生きる価値を見つけられたが、生きる価値を見つけられない難病患者もいる」と発言。
 神奈川県・相模原市で、知的障害者施設の利用者が元職員によって数十名、殺傷された事件から4年。よりによって事件のあった7月に、(死刑判決を受けても改心の意を示していないという)犯人に与するような声が、地方自治や国政を担う者・人気のミュージシャンから上がっている、おぞましさ。この国では、自身の犯罪が安倍首相に賞賛してもらえると信じていた犯人が「結局は正しかった」ことになってしまうのか。

   *   *   *

 1976年3月17日。この年、全26回の講義でヨーロッパにおける戦争観の推移を分析してきたフーコーは、近代における生権力の誕生について語りだす。
 生権力は、国家や権力が臣民の「健康」に介入し、より衛生的で、より健やかであるようコントロールする19世紀の発明だった(と、フーコーは主張する)。その発明は資本主義の成立とシンクロするもので、それまで「生きるに任されていた」人々は生産の単位として統計に組み込まれていく(生経済20年7月の日記も参照)。レディオヘッドの曲にあるように"Fitter Happier More Productive"(より適応して、より幸福に、より生産的に)というわけだ。
 それでは「本質的に生命を最大化し、その持続期間を延ばし、そのチャンスを増大させ、偶発事を回避したり、欠損を補ったりすることがめざされている」権力が、どうしてその同じ口で「殺し、死を要求し、死を求め、殺させ、殺せと命令を与え、敵だけでなくみずからの市民をも死に曝すことができるのか?」とフーコーは問い、自ら答える。
「そこに、人種主義が介入してくるのだと思うのです」
 人種主義、直訳すれば(あれ、逆か?ともかくだ)レイシズム差別。もちろん差別・レイシズムといったものは以前からあったと、フーコーは急ぎ注釈をつける。だが昔の人種主義は国家とは「別の場所で機能していたと思うのです」としたうえで、彼は言う。
「人種主義を国家のメカニズムに組み込むことになったのは、生権力の出現なのです」
「その時、人種主義は(中略)権力の根本的メカニズムとして定着したのであり、
 その結果、なんらかの時期に、なんらかの範囲内で、そしてなんらかの条件下で、
 人種主義を経由しない国家の近代的機能などほとんど存在しないのです」

 ここで言われているのは、恐ろしい話だ。先月の日記で紹介したとおり、イタリアの思想家カヴァレーロは近代国家はテロルの延長上にあると主張している。アガンベンは法律を無視した行政の専横(例外状態)は例外でなく国家の本質だと説く。同じようにフーコーは、レイシズムこそが近代国家を駆動する「根本的メカニズム」なのだと言う。
 それこそ「近代的精神」と呼ばれるような理性や博愛や平等意識が近代社会を生んだ…という幻想はくつがえされ、三者三様に国家の原罪があばき立てられる。世界の経済を裏であやつる委員会があるとか、人類の文明は異星人がもたらしたとかいうオカルトも色あせる「怪物は…お前だぁーっ!」ガチのヤバい話。だが先を急ごう。

 生権力・生政治は臣民を、生産力を有する「人口」として扱い、その生産力が最大になるよう健康を管理する。しかし人種主義・レイシズム・差別は
「権力が引き受けた生命の領域に切れ目を入れ」
「権力が引き受けた
(人類全般という)種を、(中略)人種という下位区分に分割できるように」
する機能を持つ。なぜそんな機能が必要か。それはおそらく、生権力の目的が「最大多数の最大幸福」などではなく「効率的な生産」にあるからだ。
 医療や衛生にはコストがかかる。まして、それが経済のマターであるなら、健康の保障にも「損益分岐点」がある。生権力・生政治を「生経済」と置き換えることで、そのような理解が可能になる。人口の再生産に寄与しない者・より高い生産力を持たない者は「コストカット」の対象になる。「吾々の」社会にいながら「別の」社会に属し、スムーズな生産には望ましい社会の同質性を低める者…外国人の排斥は、そのような「計算」の結果なのだろうか。
 だが、ここでボールをフーコーに、生経済から生権力に戻そう。
 
 彼は言う。いったん引き受けた全人口を(必要に応じて)再分割するのがレイシズムの第一の機能。そして第二に
「「殺せば殺すほど(略)より多くを死ぬに任せれば、
 その事実自体によっておまえはより生きることになるだろう」といったタイプの、
 ポジティブな関係を確立する役割を、人種主義は持つことになるのです」

 これは以前からある「戦争型の関係―「おまえが生きたければ、他者が死ななければならない」」と同等だが、その現れが全く別質なのだとフーコーは説く。生政治と結びついた人種主義=レイシズムが提示するのは、軍事や戦争ではなく「生物学的」な関係で、つまり
「劣等種が消滅すればするほど、異常な個人が抹殺されればされるほど、(略)
 個人としてではなく種としての私―はより生きることになるし、より強く、より活力に溢れ、より繁殖力を持つことができる」

 不健全な者が排除されれば「私たち」は全体として、より健やかになる。人々の生を増進するはずの生権力が、全体の生を向上させないものを排除する死の権力に転換される―人種主義=レイシズム=差別を蝶番に。1976年3月17日、ミシェル・フーコーはこのように語った。生産性の側面から見れば尚更…と、もう一度ボールを生経済に戻す必要があるだろうか?

   *   *   *

 生命力や生産力において劣る者を排除すればするほど、残った者たちは「より生きる」ことになる。
 大阪の「維新」が体現しているのは、このようなレイシズムに裏打ちされた生権力ではないだろうか。彼らが公務員や公営バスの運転手の給与が高すぎると引き下げを要求したとき、逆に民間の給与を合わせて上げるべきだという異論は聞き入れられなかった。自身の生産力を上げるのでなく、他者を削ることで相対的に自身の生命の価値が高くなったと計算する。そのようにして図書館を削り、文楽を削り、朝鮮学校を、そして保健所を、医療機関を削ってきた。
 その行き着く先が二つ―ひとつには、難病の当事者に「尊厳死の議論を進める旗振り役になれ」と要求する死の論理の噴出であり、もうひとつは東京ですら青ざめる急速な感染拡大だ。劣った者・異質なもの不要な者は排除せよという維新の論理は「にもかかわらず」ではなく「そんなだから」という順接で、感染拡大に結びついていると、なぜ維新に拍手する人々は思わないのか。

 もちろん、フーコーだ生権力だを持ち出さなくても、現在の大阪の破滅的な凋落(遠い関東からだと、そのように見える)は「ドケチ」のひとことで説明できるのかも知れない。
 「ドケチ」と、大阪人は(愚鈍な他地域の連中と違って)何にでもオチをつけなければ気が済まないし「おもんない」と言われるのが何より屈辱なのだという「お笑い体質」は、実際には体質ではないのだと思う。一方で大阪には「知らない人にも飴ちゃんをあげるおばはん」というドケチとは真逆の行動様式がある。朴訥な大阪人もいるだろうし、『細雪』のような細やかさもあったはずだ(そうでなくて、どうして文楽が生まれ得ただろう)。(とゆうか、それを「体質」と言ってしまったら、それこそレイシズムだ)
 だが「ドケチ」と「お笑い体質」が大阪なのだと主張する者の声が大きく、人々の思考を水路づければ、それがもたらす弊害は現実のものとなる。今の大阪が「お笑い」だと思っているものは序列の押しつけであり、内輪でのくすぐりあいであり、ツッコミという罵倒であり、「いじり」という「いじめ」であり、強者への媚であり、劣位の者を小馬鹿にする「嗤い」だ。他者を下げれば下げるほどおもろくて自分らの生命力は増す…その思考様式はやはり生権力の負の側面や、レイシズムと親和性が高いものではないか。
 今回の日記、維新を生んだ大阪ということで罵り倒してますけど、北新地の「すんどぅーふ」屋など心からつぶれないでほしい…
 ナチスの「生権力」や「優生思想」は、国民の健康増進を謳いながら大量の他国民のみならず大量の自国民まで死に追いやった。それは「にもかかわらず」ではなく、「生権力」にビルトインされた排除の論理がもたらした「だからこそ」の帰結ではなかったろうか。レイシズムの度合いと、感染拡大が比例してるように見える自治体は、大阪だけではない。それは「外」を排しているように見えるレイシズムが、実は同じ排斥の原理を共同体の内にも振るっていることで、説明できるのではないか。
 今回の日記に、これといった「オチ」はない。「おもんなく」て、結構。

コントロールは失なわない〜陳浩基『世界を売った男』(2020.07.26)

 今回の日記は、久しぶりに「日記」です。社会性ゼロ。教訓なし。政治的な思索も、公共性に関わる提言もなし。ひたすら趣味に走ります。
 というのもテーマがデヴィッド・ボウイですので。ハハハ。

 (マイケル・ジャクソンやプリンスのような急逝と異なり)がんのため自身の引き際や、没後のことも周到に「コントロール」できたのかも知れない。2016年、三年ぶりの新譜発表のわずか三日後というタイミングで世界を悲嘆に突き落とした逝去後も、誕生日である1月8日などを狙って、動画サイトYouTubeを通してボウイの未発表音源は定期的にリリースされ続けた。
 それもそろそろネタ切れかと思われた今年の7月4日、高音質のライブ音源が次々と公式チャンネルに上がってきた。なぜ生粋のイギリス人だったボウイの音源が、アメリカの独立記念日に?…どうやらボウイ側ではなく、音源を掌握していたアメリカのラジオ局が公開に踏み切ったらしい。そしてこの音源が、個人の感想ですが圧巻だった。
 1995年、アルバム『アウトサイド』をリリースした頃のライブなのだが、70年代後半〜80年の楽曲も多数セレクト・それらがいちいち「えっ、こんな曲まで?」というニッチなナンバーで、しかも90年代ふうにアップデートされたアレンジで唸らせる。ライブまでフォローしてる熱心なファンやマニアには常識だったのかも知れないが、公式のスタジオ盤アルバムしか知らない自分は「この時期のボウイ、こんなすごかったの?」と耳からウロコが落ちる「事件」だった。
 
 すごかったのはアレンジだけじゃない。少し説明させてほしい。
 今でこそ当人がアイコンであり、強烈な「キャラ」として認知されているけれど、元々デヴィッド・ボウイは架空のキャラを演じることでキャリアを始めた人だった。
 最初のヒット曲「スペース・オディティ」(1969年)は人類初の偉業を成し遂げながら事故死が暗示される宇宙飛行士「トム少佐」を主人公にした物語ふうのシングル。それから数年、ハードロックに挑んだり、逆にソフト路線になったりの試行錯誤を経て1972年。地球を救うため宇宙からきた男がロックスターになるも、ショービジネス界に呑み込まれ自らが破滅する(?)という物語仕立てのアルバム『ジギー・スターダスト』でボウイは「ジギー」としてブレイクする。
 あまりのファンの熱狂と、演じることへの疲れ(飽き?)から翌年「ジギーやめます」宣言をした、さらに翌1974年、ボウイはミュータント犬に変貌する。ボウイ自身の下半身が犬になった衝撃的なジャケットのアルバム『ダイアモンドの犬』は巨大化した猫やネズミ・「ダイアモンドの犬」に脅かされる人類が、やがて「1984」ばりの「ビッグ・ブラザー」に屈従していくディストピアを描いた(?)。(?ばかりで申し訳ないけど、ボウイの歌詞は抽象度が高くて「こう」と言い切れんのですわ)
 その後のボウイは(ジギーや犬に比べると曖昧な)「シン・ホワイト・デューク」を演じたりしつつ、ベルリンに移り住んだ70年代後半を通じて徐々にメイクを落とし、キャラを封印し、やがて生身の人間デヴィッド・ボウイとして80年代に世界的なヒーローへと変身していく。「レッツ・ダンス」が大ヒットし、映画『戦場のメリークリスマス』で坂本龍一やビートたけしと共演。
 けれど…あの、まだこの話つづけていいですか?…かつてジギーに倦んだように、ボウイは自分自身に倦んでいく。才能の枯渇を噂されるようになったボウイは80年代の終わりに「今までの曲はもう演奏しない」と宣言・突然バンドを組むもアルバム二枚で解散、90年代の彼は一応は良作を輩出しつつも決定的な一打には欠けた試行錯誤の日々を重ねる…
 という分かりやすいストーリーは間違っていたのではないか。公開されたライブ音源は「中年クライシス時代」と勝手に自分が決めつけていた90年代ボウイの充実ぶりを再認識させるものだった。振り返ればいち早くインターネットに手を出したり、世界的なスターとしてはたぶん初めて自分の新アルバム製作を債権化して利益を出すなど、今のクラウド・ファンディングのはしりみたいなこともしていた。新世代のリスペクトも受け、ぜんぜん時代の寵児だった。
 95年に製作された『アウトサイド』も、そんなボウイの充実とクライシス・両面を併せ持つ作品だった。久しぶりに物語仕立ての内容で、うさんくさい探偵ネイサン・アドラーと牛の頭をかぶった殺人鬼ミノタウロス・双方をボウイが演じる(?)『羊たちの沈黙』や『セブン』ばりのサイコスリラーは(実際、このアルバムに収録された曲が『セブン』のエンディングに使われた)全10枚のシリーズになる予定だったらしい。もちろん一枚で頓挫した。80年代に才能の枯渇を疑われたボウイは、逆にこの頃ダダ漏れる才能の「コントロール」が効かなかったのか、映画のサントラ風のインストゥルメンタル曲が多用されたアルバムは、目鼻立ちのクッキリした佳曲をいくつも含みつつ、全体的には散漫とした印象だった。
 それが件の(←あっヒト偏に牛…ミノタウロス?)(ごめんなさい)(あの…まだついてきてます?)ライブで変わった。散漫な捨て曲は蒸発し、かわりに70年代〜80年の、アルバム全体でストーリー化されてはいないが、物語仕立てだった単曲ばかりピックアップされ、セットリストに加わったためだ。
 つまり勝手に夢みてしまったわけだ。殺人鬼ミノタウロスと探偵ネイサンの追跡劇に
俺を車に釘で打ちつけてくれたら、あんたが誰だか教えてやろうとすごむ自称占い師の奇人「ライオンのジョー」、
デヴィッドどうしよう、奴らが廊下で待ってるんだとすがりついてくる「ティーンエイジ・ワイルドライフ」、そして
ずっと前にあなたは死んだのだと思ってたと主人公に言われ「それは人違いさ、私は決してコントロールを失なわないとうそぶく「世界を売った男」などが加わった、言うなればデヴィッド・ボウイ版アベンジャーズのような完全版『ネイサン・アドラーの日記』も、彼が本気を出せば可能だったのではないかと。
   

   *   *   *

 「世界を売った男」は「トム少佐」と「ジギー」の間に録音・発表されたアルバムのタイトル曲だった。発表当時は商業的な成功は収められず、長いこと「不遇な作品」扱いだったように思う。
 状況が一変したのは90年代にカート・コバーン(ニルヴァーナ)がカヴァー曲として取り上げたためで、急に「ああ、ボウイの代表曲のひとつだよねえ、最初から知っていたよ」と言わんばかりの持ち上げられかたをされるようになった。まるで歴史を修正するかのように。公文書を改竄するかのように。偽りの記憶を信じこむように。
 そんなわけで「世界を売った男」をタイトルに掲げた小説があれば、喜び半分・疑い半分の目で見てしまう―街で「ニルヴァーナ」のロゴが入ったTシャツを着た人、どれだけが本当のニルヴァーナのファンなんだ?と疑いの目で見てしまうように。
 まあ自分も服用経験ないのにケロリンのTシャツ持ってますけど
 でも作者が香港のミステリ作家・陳浩基(ちん・こうき/サイモン・チェン)なら期待度は8割まで上がる。日本でも海外ミステリ・ランキングの一位になった『13・67』(2014/邦訳2017)は、出世下手だが明晰な推理力をもつベテラン刑事の生涯と、半世紀にわたる香港の歴史をシンクロさせた味わい深い(そして今となっては哀愁に満ちた)連作だった。
 『世界を売った男』は、そんな陳浩基の初長編にあたる。よしんば題名だけがボウイのパクリで中身は全然関係なくても、少なくとも小説本体でまで「ハズレ」を引くことはない。そう思って手にした。端的に言うと賭けは大勝利。2011年に刊行された原著のタイトルこそ『遺忘・刑警』だが(つまり『世界を…』は邦訳スタッフがつけたもの)、冒頭にはボウイの同曲の歌詞が堂々と掲げられ、作中でも同曲のシングルレコード(!)が小道具として登場・いわば作品のまんなかで蝶番のような役割を果たす…とは身びいきが過ぎるか。
 文庫版の解説は恩田陸。本格ミステリの視点から本作を評価する解説だけど、そもそも既存の作品や楽曲を作品のモチーフにして、それを作中で誇示するの大好きでしょ恩田さん。というわけで
陳浩基世界を売った男』、恩田陸ファンなら読んで満足の確率高し
 (重要:ボウイのファンでなくても楽しめる内容なので心配はいりません)
 発端は2003年に起きた夫婦惨殺事件。誰の目にも犯人が明らかな事件の「真相」を疑い、単独調査を進めていた刑事が、なんとその最中に6年間の記憶を失なってしまう。気がつくと2009年。自分の身に何が起きたのか。それは事件の真相と関係があるのか…これだけの餌を丸鶏のようにフックで吊るされただけで、もうたまらん!てなるでしょう。なので多くは語らない。それこそ6年以上前の本ですし。
 ただ「もちろん期待は裏切られない」とだけ言っておきます。ボウイだけでなく冒頭には(セブンと同じ)デヴィッド・フィンチャー監督の背筋も凍る傑作『ゾディアック』や、日本の古畑任三郎・『踊る』の青島刑事までもが引用され面映い。すこぶるどうでもいいけど詠春拳も木人つきで登場。
 何より、幕切れの鮮やかさ。終盤の謎解きはかなり複雑だけれど、それすらひっくり返し「納得の読後感」に記憶を上書きしてしまう力がある。言いたくて仕方なかったオチ、言ってもいいでしょうか。「吾々がついに相対する、この小説の『世界を売った男』は作者本人だった。陳浩基。最後の一行まで、彼は決してコントロールを失なわない(ドヤァ)」

  
 これは(も)臆断ですが陳浩基『世界を売った男』、ミステリ映画として『サスペリア2』が好きなひとも、かなり気に入ると思います。

なぜイタリアか〜岡田温司『イタリア現代思想への招待』(2020.07.19)

 イタリアの現代思想が気になっている。
 たぶんきっかけはワイルドゾーンだ。これ自体はイタリア発のキーワードではない。ポーカーのワイルドカードのように何でもアリの、恣意的な法運用がなされる「ゾーン」。2017年1月の日記でも述べているように、オーストラリアの社会学者モーリス-スズキによる「出入国管理所はワイルドゾーン化しやすい典型的な場所だ」という指摘は、吾が国の入管問題で正しさが証明されている。国籍の保護下に置かれない人々が収容される入管は、国家が社会的弱者をどう扱うかの先触れ・雛形のようなものだ。公文書の改竄や議会の軽視など、政府の無法性・恣意性があらわになっている今、この概念の掘り下げは(自分がこの社会を納得するために)必要なのではないか。
 そう思ったが、ワイルドゾーンの探究は簡単に進まなかった。アメリカのバック-モース、ドイツのバウマンといった人々の文献にもあたったが、今のところ望むほどの直接的な成果は得られていない。
 かわりに浮上してきたのが例外状態というキーワードだ。国家の法に基づく運用が「例外」的に停止された、行政の恣意的支配。ドイツの政治学者カール・シュミットに遡る概念だが、近年これを拡張したのがイタリアのジョルジョ・アガンベンだった。アガンベンは9.11でのアメリカの行動を例外状態として批判する一方、その観念を古代ローマくらいまで遡り、例外状態はむしろ国家成立の根幹と切り離せない、などとしている。らしい。
 らしいと言うのは、アガンベンの著作が自分には難解すぎて歯が立たないからだ。ちなみに彼の思想には既に批判も多い(2020年3月の日記参照)。
 それでも今、イタリアの現代思想が気になっている。…フーコーやドゥルーズ、ジラール、あるいは読んでないけどデリダといった「現代思想」が現代といっても半世紀前の思索なせいもある。まあ半世紀前の思想でもまだ消化しきれてない=その批判を社会が克服できてないから参照の意味はあるし、ジラールの弟子筋のデュピュイのようにフランスにも現役の思想家はいるのだけれど。
 アガンベンは90年代から執筆を本格化させた思想家だ。ジラールがこだわったパルマコン(聖なる生贄・スケープゴート)を発展させたようなホモ・サケル(サケルはsacred=聖なる)概念に取り組んだ大著は数年前に完結したばかり。
 一方でドゥルーズ=ガタリを現代社会に肯定的な形で敷衍したアントニオ=ネグリという人もいる(らしい。こちらの『帝国』は大著すぎて手が出ない)。ネグリとアガンベンは友人だが論敵でもあるようだ。

 新しい・旬であるとは、それだけ現代社会を理解する鍵として期待できるということだ。思想や哲学はもっと高尚なもので、そうスパンの短い成果を求めてはいかんよ、みたいなことは大学の研究者が言ってればいい。もっと実践的な意味で、イタリアに興味が湧いてきた。
 しかし問題はふたつ。1)実際の著作は分厚く難解。2)そもそも邦訳がない。
 それならと手を出した入門書が岡田温司イタリア現代思想への招待』(講談社選書メチエ)だ。
岡田温司イタリア現代思想への招待(講談社BOOK倶楽部)(外部サイト)
 まだ東日本大震災もドナルド・トランプの大統領就任も知らない世界、とはいえ9.11やその報復として行なわれたアメリカの中東攻撃はすでに起きており、2020年が抱える諸問題はおおむね出揃っていた2008年の発行。
「フランスの巨星たちがあいついでこの世を去ったあと、なぜ、イタリア思想の重要性に注目が集まるのか(中略)
 ジョルジョ・アガンベン、ウンベルト・エーコ、アントニオ・ネグリ、マッシモ・カッチャーリ……(中略)
 哲学、美学、政治学、社会学、宗教学、女性学など幅広い分野での彼らの刺激的な仕事を、
 明快な筆致で紹介する」

 著者のキュレーションが巧みなため・あるいは問題意識が明確なためだろう、現代イタリア思想だけでなく、その源泉となったニーチェやハイデガー・フーコーなどの特質も手際よく紹介しつつ、現代社会に対峙するヒントとなるキーワードが次々と打ち出される。自分の今後の勉強につながりそうな概念を二つだけ挙げておこう。

 【生経済(ビオエコノミア)】ラウラ・バッツィカルーポ
 生政治(ビオポリティク)はミシェル・フーコーが打ち出した概念だ。近代以前の君主が領民の死を統制する(「首を刎ねろ!」)ことで権力を振るい、生に対しては「好きに生きろ」と放置していたのに対し、近代の権力は出生率や健康状態など国民の生をコントロールし、そこから脱落したものは「死ぬに任せる」。その悪しき範例はゲルマン民族の健康増進を政策にしたナチズムで、生政治が「死政治」と表裏一体だったことは無辜の人々を計画的に殺戮したホロコーストで明らかとなった。
 バッツィカルーポは「生への究極的な権力が与えられているのは、いまや政治ではなくて経済ではないか」と指弾する。フーコー自身も生政治をはじめとする近代の諸観念が(たとえは彼の初期の研究対象だった精神病患者の収容にしても)人民を資本主義的生産に組みこむ過程で生み出されたことを明らかにしており、その視点からフーコーを読み直す必要もあるだろう。何より、コロナ禍と医療崩壊が切迫した問題となっている今、まことしやかに取り沙汰される「生の選別」自体、「政治」が経済に乗っ取られていることを如実に示しているのではないか。
 経済も本来の語源は「経世済民」で…みたいな話は面倒なのでしません
 バッツィカルーポの著作『生の支配―生政治と経済』(2006年)は本邦未訳。

 【恐怖主義(オッロリズモ)】アドリアーナ・カヴァレーロ
 オッロリズモはテロリズム(イタリア語だとテロリズモ)への対抗概念である。9.11以降とくに顕著となったテロと「対テロの戦い」は、両者の区別もつかない暴力の応酬となった。これはテロルを「暴力を行使する者」を主体として捉えるからだとカヴァレーロは主張する。彼女がとなえるオッロリズモは、テロルを「振るわれる者−(攻撃を受けた「国家」や「権力」ではなく)突然の暴力に硬直し逃げることもできない無力な被害者」の視点から再構成せよと要請するものだ。
 もしかしたら、これはさほど目新しい思想ではないのかも知れない。地下鉄サリン事件の際、報道機関などがこぞって「テロルを行なった側」に関心を傾ける一方で、ひたすら被害者の声を聞き取ろうとした村上春樹アンダーグラウンド』のような仕事もあった。カヴァレーロが求めるオッロリズモに一度そうして接近した著者は、ふたたびそこから離れていったようにも思われるが…

 …カヴァレーロは(フランス革命に顕著なように)西欧の近代国家は成立においてテロルに容認的であった、なんのことはない近代政治はテロルの延長なのだという主旨の告発もしているようだ。アガンベンが、法を無視した例外状態こそ国家の成立時ほんらいの姿ではないかと思索したのと通じる、近代国家の「原罪」を掘り出す試みとも考えられる。
 何より、テロルを「殺す側の論理」でなく突然の暴力にさらされる者から捉える視点は、難民や香港の民衆といった「国家の側からのテロル」に、さらには人が主体ではない理不尽な暴力=新型コロナの恐怖に直面した人々の体験に、言葉や概念を与える鍵になるのではないか。一部の国家においてはコロナ禍もまた、政府の無策や棄民政策という「白色テロ」なのでは…というのは言い過ぎかも知れないが。
 カヴァレーロの著作『恐怖主義、あるいは無防備な者への暴力について』(2007年)も本邦未訳だが、岡田がカヴァレーロへの影響を指摘するジュディス・バトラー生のあやうさ―哀悼と暴力の政治学』、スーザン・ソンタグ他者の苦痛へのまなざし』は、いずれも邦訳あり。村上やアガンベンは男性だが、カヴァレーロ、バトラー、ソンタグ、それに「生経済」のバッツィカルーポとも女性なことも示唆的…かも知れない。(ちなみにテッサ・モーリス-スズキ、スーザン・バック-モースも女性です)

   *   *   *

 【例外状態】ジョルジョ・アガンベン
 なぜ今、イタリアなのか。自分のことだから、単にフランスを食べ飽きたので次の未知を求めて…ということもあるだろう。上に見てきたように現在の社会問題を考察するヒントに溢れていることもある。ジラールやフーコーに関心をもってきたので、二人を「いいとこどり」して発展させたようなアガンベン単身への興味も大きい。
 アントニオ・ネグリは1970年代のイタリアを震撼させたテロ組織「赤い旅団」への関与を取り沙汰され収監・国外に亡命するも、90年代に自身の政治的信条にしたがい帰国し再収監された異色の哲学者だ。勉強不足でネグリ当人について判断はできないが、まずは取っかかりにとトニ・ネグリ名義の小著『未来への帰還 ポスト資本主義への道』を手にした。逮捕を意味する帰国の直前に編集された雑多な断片集だが、そこにアガンベンも原稿を寄せていた。
 「記憶と忘却のうまい使い方について」と題された邦訳わずか4ページの少文でアガンベンが指摘しているのは、70年代の重苦しい「鉛の時代」を経たイタリア社会こそ「例外状態」だったということだ。不穏分子を監視するためイタリアの政治家階級が「法秩序にはなじまない諸原理を」「特措法の形で導入し」「憲法上の自由に重大な制限を加え」ていた当時の状況を、アガンベンは「個人的自由、集会権、住居不可侵、宗教あるいは電話の秘密保持に関するドイツ憲法の条文を失効させた、ナチス政府によって一九三三年二月二八日に布告された「民族と国家の秩序防衛」が、第三帝国の最後まで、つまり一三年間も効力をもちつづけたこと」になぞらえている。そして二十年間におよぶ警察と市民の共犯関係を、彼は腐敗と断じる。
 例外状態を古代ローマまで遡って考察した『ホモ・サケル』の第一巻刊行は1995年。ネグリの再収監は97年。膨大な資料を駆使し、結果的には例外状態や生の尊厳を奪われた人間の状態を告発してるのか「良かった探し」してるのか分からないと嘆かれもする、彼の晦渋な思索がしかし、純粋な学術的関心ではなく(少なくとも最初は)自国の、目前の政治的荒廃を前に着想された(かも知れない)ことは、示唆的ではないだろうか。
 
 さきに自分の言葉で「不穏分子を監視するためイタリアの…」と書いたが、日本なら「反日分子」と言われるかもしれない。この国で7年も続いている「例外状態」と政治の荒廃・打ち続く災厄は、アガンベンやバッツィカルーポ、カヴァレーロのような新しい思想を生み出すだろうか。フーコーやドゥルーズが目前の政治的課題に関与しながら紡ぎ上げた思想を、現実から遊離した流行ゲームとして消費してきた人たちでは無理だろうか。


 『イタリア現代思想への招待』面白いだけに、その思想の根底にキリスト教(との対決)があって、それも非常に面白いだけに、とく非キリスト教圏の吾々はこれに心服するだけじゃダメなんじゃないの!という危機感も煽られる。そんなわけで、ちくま新書から全8巻でリアルタイム刊行中の『世界哲学史』に早く取り組みたいのだが…
ちくま新書『世界哲学史』(外部サイト)

文化の別名〜映画『ブレッドウィナー』(2020.07.12)

 ウポポイ、とはアイヌ語で「(大勢で)歌う」という意味らしい。
 北海道白老町にオープンした「アイヌ文化復興・創造拠点」。博物館に体験型の公園や食堂、そして明治から昭和にかけ学術の名目で本土に持ち去られた遺骨の返還を受けた慰霊施設などを備える。新千歳空港から方向は反対で札幌とだいたい同距離、交通など考えると(とくに今は)首都圏からのアクセスは容易くはないが、一度は訪れてみたい場所だ。個人的にはHPに掲示されたイナウの写真だけで魅了されてしまう。
ウポポイ〜民族共生象徴空間(外部サイト)

 「そこで人々は神に捧げるイナウを作り…」とは、知里幸恵アイヌ神謡集』(岩波文庫)に頻出するフレーズだ。木を削り波打つ帯が重なるようにしたイナウは、大阪の民博や愛知のリトルワールドで見ることが出来る。本土の博物館で観られるということは、元々あった場所から引き離されたわけだよなあと思いながらも「六本木で芸能人を見かけちゃった!」みたいにテンションが上がる。特殊かも知れない。逆に僕は、芸能人を見かけても上がる気がしない。
 『アイヌ神謡集』のイナウと、このたびは幣も取りあえず手向山(ぬさ)、そして岐阜などで名物の五平餅=御幣餅が、神に捧げるという意味合いや形状・名称などで相通じるのも面白いところだ。
柳田国男『山の人生』に、木の板に貼りつけた餅を山の神に捧げた的な記述があったと思います
 『アイヌ神謡集』を読んだのは何十年も昔で、もう細部は完全に忘却しているのだが、印象的な話がある。神々が人間の傲慢さに腹を立て、もう鮭などの贈り物を止めてしまおうとした時、賢いカラスだかキツネだかが(フクロウだったかも知れない…本当に忘却している…)赴き、人間のために擁護のチャランケ=議論を仕掛けるという話だ。
 同じ時期に、旧約聖書のロト(ソドムとゴモラ)の物語を題材にしたブレヒトの戯曲『セツアンの善人』を知ったこともある。架空の街セツアンに、一人でも義人がいたら世界を滅ぼすのをやめようと二人の天使が訪ねてくる物語だ。やはり大体おなじころ観たSFコメディ『花嫁はエイリアン』も、地球人は存続に値せずとする異星人を前にダン・エイクロイドとキム・ベイシンガーが「人類の文化」としてミュージカルを歌い踊る話だった。
 若い頃に出会ったテーマは引きずるもので、「人類は存続に値すると証(あかし)だてを迫られる」という主題は自分でも作品化しているし、なんなら何のために物語はあるのかという問いに対する有力な答えの一つとすら思っている。物語に「ため」なんてないよ、娯楽や暇つぶし・現実逃避のためのモノさ、という意見もあるだろうけど…
 

   *   *   *

 コロナ禍による緊急事態宣言が解除された6月。再開された映画館で最初に観たのはスーダンのドキュメンタリー『革命シネマへようこそ』だった(2020年6月の日記参照)。
 一方、4月・営業休止が迫る地元のミニシアターで、最後にコレは観ておかねばと駆け込みで足を運んだのがノラ・トゥーミー監督『ブレッドウィナー』だった。『ソング・オブ・ザ・シー』『ブレンダンとケルズの秘密』を生んだアイルランドのアニメーション・スタジオ=カートゥーン・サルーンの新作だ。とくに『ブレンダン…』には(自分にとって)今世紀で最も重要な映画、というくらい感銘を受けたので(2018年9月の日記参照)ハードルは高くなったが、『ブレッドウィナー』もまた、人にとって物語とは何か・文化とは何かを考えさせられる深みのある作品だった。

 舞台は原理主義者タリバーンの制圧下にあるアフガニスタン。アイヌやスーダンと同様、この地にも名誉として人々の心を支える歴史や文化があり、それは同時に強者に翻弄される受難の歴史でもあった。主人公パヴァーナの父は、そんな文化の担い手である教師だった。父と母、姉とパヴァーナ、それに末っ子の赤ん坊。戦禍の続くアフガンで、長男はすでに命を落としている。文化の破壊者であるタリバーンによって父が連れ去られ、一家は支え手を失なう。女ひとりでは外出も許されない原理主義の支配下、パヴァーナは髪を切り、男装した少年として街に稼ぎに出る…
 まずは代読と代筆で身を立てようとするパヴァーナの客となるのが、父と同世代の兵士ラザク。いかつい容貌だが眉は下がり、大きな背も丸めた彼は失意の男。パヴァーナは彼の死んだ妻からの手紙を読んでやり、悲しむ彼に礼を尽くす。父が教えた識字と礼節=文化は彼女に糧を与えるだけでなく、最後の窮地でラザクの命がけの厚意を引き出すことになる。
 とはいえ、男装したパヴァーナは読み書きでは食べていけず軽作業。文化の無力…
 一方、タリバーンのありようを集中的に体現するのは憎悪に満ちた少年兵だ。彼は恩師だったパヴァーナの父を憎み、男装して街に出たパヴァーナを追い回す。稼ぎ手を失なった一家は、誰かが外に出ないと餓死してしまうという明白な事実に、彼は関心すら払わない。映画もまた「彼にも彼の正義がある」などと同情を示すことはない。改悛の機会も与えられぬまま、彼は戦争の世界に呑み込まれていく。
 そして別の少年の物語が、パヴァーナの苦難と並行して語られる。アフガニスタンの古典的な民話の主人公である彼は、ゾウに奪われた種籾を取り戻すため、動物と友誼を結び星々と語らう。他の国なら三枚のお札を使って山姥から逃げたり、かまどの中のパンに埋もれた干しぶどうが宝石に変わったりするような話だ。ファンタジーめいた彼の冒険は絵のタッチも変えて描かれ、パヴァーナの行く手を指し示すが、やがて驚きの結末にたどり着く。

 どう驚きなのか。それはネタバレなので明かせないが
 『ブレッドウィナー』の劇中劇は、僕にピエール・グリパリの童話『ピポ王子』を思い出させた。
 童話とは何か・語りとは何かをたえず意識させるメタ童話のような同作で、特に印象的なのは小屋の話。小屋は魔女が支配しており「彼女が聞いたことがない」「とても美しい物語」を話すことができないと来訪者は小屋を出ていくことが出来ない。誘い込まれた人々は皆、知ってる限りの美しい物語を魔女に語ったが「とても美しいね。でもその話は知っているよ」と返され、囚われの身となっている。
 ピポ王子もまた、とても美しい物語を語るが「それは知っているよ」で返され、三度目の、最後のチャンスで自身の来歴を語る。つまり童話『ピポ王子』が語ってきた最初から今までを。これなら魔女も聞いたことがない。物語は王子の生まれる前から旅に出て、森に迷い、魔女の小屋に誘い込まれるまでを語る。「誰も知らない、とても美しい物語」を語る試練に二度まで失敗したことを語る。「それからどうなったね?」と魔女が問うとピポ王子は答える。もちろん、誰も知らない、とても美しい物語を語ることが出来た私は、魔女の呪いを解くことが出来るのです!
 こうして王子は、自身も、囚われていた人々も、人々を呪い続けた魔女すらも解放する。

 小屋の挿話が、いや、『ピポ王子』の物語全体が示唆するのは、人は誰もがピポ王子なのだということだ。誰の人生もが今まで語られたことのない、とても美しい物語なのだということ。他の旅人たちは、それを言う勇気がなかったため、呪いの小屋から出られなかった。だが人は、読者の「あなた」は、どんな人生を送ろうが、それが美しい物語だと魔女を説き伏せることが出来る。
 『ブレッドウィナー』の劇中劇は、同じことを教えてくれる。同じだが少し違う。誰の人生も、パンに埋もれた宝石のように、美しく貴重で、唯一無二のものだ。その主人公としての栄誉は、現世で報われず命を落とした者にも与えられなければならない(どうしてそういう結論になるかはネタバレなので詳述できないが)。
 思えばパヴァーナが、ラザクに示した礼節も、強そうな男に対するものではなかった。家族を失ない悲嘆にくれる男、死んでなお家族に愛の言葉を残そうとした伴侶への礼節だった。今回の日記の冒頭で「物語は何のためにあるのか」と自問自答した。映画『ブレッドウィナー』が(あるいはウポポイの慰霊施設が)示唆するのは、物語も文化も、無念のうちに死んだ者を悼むためにある(そういう側面もある)ということだ。
 そして誰もが選ばれた「王子」であるのと同様に、誰もがまた死の無念から逃れられない。だから(この意味での)文化に無縁な者はいない。虐げられたどの民にも、心の支えとなるべき栄誉があるように。どの民にもまた、嘆きと屈辱があるように。
 美しさとは、ハッピーエンドのことではない。富や繁栄が美しいのではない。たぶん成功や栄達を計るのとは別の価値観として、美しさはある。その別名が文化なのではないだろうか。
 
 文化は心の支えとして人々を生かし、また人々は文化を次代に伝えるため生かされる装置のようでもある。それもまた、気高いと同時に悲しいことだ。『ブレッドウィナー』は吾々が、生まれては地に落ち、また次の芽を生むために死んでいく種籾であることを問わず語りに示す。それでもなお、人生は美しく、世界は存続に足る。文化は、物語は、それを証だてる。それでは救いきれないものがあり、それらは別の手段で救われなければならないにしても。
 逆に文化が勝利や栄達を約束したり、文化の名のもとに犠牲を強いたりする時には警戒する必要があること。

 映画『ブレッドウィナー』の原作はデボラ・エリスの四部作。いずれ読まなければならないので、自分のためのメモも兼ねて。
 

選挙に行きましょう〜2020年夏(2020.07.03)

 ここ半年、生存報告も兼ねて毎週日曜日には日記らしきものを書いているのですが、今週は前倒しで金曜更新です。なぜか。「選挙に行きましょう」という話が特定の候補の上げ下げになると、都知事選の投票日にあたる日曜では公職選挙法に抵触するおそれがあるから。(追記:後で見返すと特定の候補の「下げ」だけだった+落選運動は当日でも抵触しないので日曜でも良かった)
 はい、隣県の神奈川から、おせっかいにも「投票に行きましょう」という話をします。時間がないので簡潔に。

 結論から言うと、東京都のコロナ対策は全方位的に酷い。建物を赤く光らせるだけの(バットマンを呼ぶんじゃないんだから)「東京アラート」も、行政の責任を個々に丸投げした「自粛から自衛へ」も、ついには感染者数と警戒を連動させない宣言も。それは国政の「緊急事態宣言」が補償や医療拡充などの対策をまともに伴わない気分だけの宣言だったことを、より純化した産物だった。
 ピンポンゲームのように、その無為無策が今度は国政や、他の地方自治体に投げ返される懸念は強い。都の首長を決める有権者が、世間全般に及ぼせる権力・影響力はまことに大きい。
 なので投票に行ってほしい。
 ここまでのまとめ。コロナ関連の都の対応が、国や他道府県に波及すると困る。都の有権者にはしっかりしてほしい。

 このように投票を促すと「権力・影響力といえば聞こえがいいけど、それって『責任』だよね?重たいよ!」と感じる向きもあるだろう。「現状では現職が圧倒的に優位と言われてるのに、勝てない投票をする意味ってあるの?
 チッ、まずいところに気づきやがって…ではなく。
 「勝てない投票に意味はあるか」問題については
選挙では僅差の逆転もあるので諦めてはいけない
投票率があがること自体、為政者に有権者の存在を意識させることなので良いのだ
という反論・提起がなされている。後者については、こちらの記事が(簡潔にと言いつつ既に長くなってる本サイトの日記などより余程)簡潔にまとめている→
ぶっちゃけ、投票ってメリットある?」(春日そら/note)(外部サイト)
 「三分で読める」こちらの説明で、納得できれば良し。投票に行きましょう。
 ただ問題は、投票率が上がろうと、仮に投票者の49%までがノーを突きつけようが51%で勝てば、
 さらに多くの候補で票が割れたり、そもそも投票しない人が増えれば、ハードルはますます下がります。2016年の都知事選で現職の小池百合子氏の得票率は44.49%(過半数でない)・投票率59.73%を掛けると27%の「民意」しか得ていません。
いちど勝ってしまえば「民意を得た」と称し、反対者がどれだけ言おうと好き放題するタイプの政治家がおり、困ったことに現職の都知事はその筆頭に思われることだ。

 だから今回、ホンネを言えば選挙には勝ってほしい。しかしそれは「※無駄に長い比喩なので消しました」みたいな理想論だ。
 都知事の任期は四年ある。勝ってしまえば安泰の四年だ。自分に投票しなかった有権者の、どころか自分に投票した有権者の意向すら馬耳東風と無視しかねない為政者の存在を前に、勝てない投票の意義を(保険として)至急に案出する必要がある。
 僕が考える対案は「投票率が上がっても(直接には)変わらない為政者がいるかも知れない。だが投票することで隣人や自分自身は変わるし、それが政治を動かすことはできる」というものだ。
 逆に言えば、投票率が上がれば自動的に為政者がそれを意識するわけではないだろう。選挙で負けたら諦めてしまい、また粛々と「自衛」に戻ってしまう有権者ならば。為政者をおびやかすのは選挙で反対票を投じ、日常でも政策のおかしなところに声をあげていく市民ではないか。
 そして、そのような市民に隣人や自分自身を変えていくのに、選挙ほど、候補者や人々の声を聞き「なるほど、こういうことが問題なのか」「アレとコレがつながってるんだ」と知ることほど効果的な機会はそうない。
 かつて最低賃金上げろデモで見かけた、ダンボール紙に手書きで「野菜を食べたい」と書かれたプラカが忘れられない。デモと同じで選挙も、すでに固まった自分の主張を持っていくだけでなく、他の人の主張や訴えに耳を傾ける貴重な機会と考える。
 実は、すごく面倒くさいことを言っている。「意見があるなら投票で示せ(他の場所で文句言うな)」という、よくある主張とは真逆に「投票だけじゃダメだ、日々要求を出せるような自分を錬成しろ」と言っているのだから。
 だが吾々には、選挙に拠らず、本来なら和牛券とお魚券(とマスク)が配られて終わるはずだった国のコロナ対策を、一律十万円の給付に変えた実績がある。
 それは言い替えれば、今の吾々には「数ヶ月の自粛なのに一ヶ月分(十万円)の給付しか引き出せず、東京アラートや何やかやを止められない」程度のチカラしかない、ということでもある。でも「最初から何を言ったってムダ」じゃないことは、兎にも角にも給付された十万円が示している。
 

 本当はこういうことを、もっと早く(投票日の前々日などでなく)言えれば良かったのかも知れない。しかし自分も、今回の都知事選でさまざまな声が上がるのを見聞きして、ようやくここまで考えつき、考えがまとまったのだ。
 先の「3分で読める投票に行くべき理由」のnoteを書かれた春日そら氏が別の場所であなたは、ひとりひとりの人間は、もっと丁重に扱われるべき尊い存在なんだよって、うまいこと伝えたいとつぶやかれていた。それは今まで(少なくとも自分には)言語化されていなかった、新しい概念のように思われた。「あなた自身も自分で卑下せず、尊重に値する存在だと確認するために投票に行こう」と言うときに、たとえば選挙権を有さないまま、国や都の決定に従わされている人たちの苦渋を引き合いに出すべきだろうか。このあたりの思考や思索は、どんどん鍛えられていいと思う。
 今回の都知事選に限らず。選挙権のある人は、それを行使しましょう。言うなれば、より自由に手足を動かせるように。

「民主主義というものは(中略)スポーツにおける「フォーム」のようなものなのである。(中略)
 トレーニングしだいで豊かになることもできれば、衰えることもできるのだ」

 (フェリックス・ガタリ『闘走機械』)
 

 おなじかたの記事。こちらも「選挙」という場を通して言語化された思索。参考になるし、目の前の選挙を越えた生活の指針になると思います。
【投票先、どう選ぶ?】 なにも考えられないくらい疲れている時の、投票先の選び方(春日そら/note)(外部サイト)

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