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Author:舞村そうじ/RIMLAND
 創作同人サークル「RIMLAND」の
 活動報告を兼ねつつ、物語とは何か・
 どんなメカニズムが物語を駆動し心を
 うごかすのか、日々考察する予定。

【最近の動向】
当面は新刊がない予定です。

WebまんがSide-B遅々として更新中。

6年ぶりの本篇更新。(20.05.17)

旧サイトは2014年8月で終了しました(お運びいただき感謝)。再編集して、こちらの新サイトに少しずつ繰り入れますが、正直、時間はかかると思います。

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(東京名古屋新潟関西みちのく)
あかつき印刷
POPLS

日本赤十字社

if you have a vote, use it.(save kids)

生政治とレイシズムの呪わしい癒着、そして大阪への苦言。下の画像か、こちらから。(20.08.02)


ひとつ前の日記。日記更新。デヴィッド・ボウイのファンも大満足・陳浩基『世界を売った男』。
こちらから。(20.07.26)



7/23の創作同人電子書籍「いっせい配信」で『フューチャーデイズvol.5(5+6)』と、電書オリジナルの新刊『こんな時でも描いてた漫画』をリリースしました。下の画像か、こちらから
 
書誌のアップデートは、少しお待ちください(HTML書類を50ページくらい、手作業で書き換えにゃならんのよ…)(2020.7.26)


生政治とレイシズム(2020.08.02)

 ミシェル・フーコー1975-1976年度コレージュ・ド・フランス講義『社会は防衛しなければならない』(筑摩書房)について蒸し返す。
 この講義に関しては、すでに2017年8月の日記で取り上げている。ただ、その時の記述はフーコーの講義シリーズ全体を紹介する体裁だった。今回は、その時も一応ハイライトではあった「生政治とレイシズム」の箇所だけを、いわばズームするように取り上げ直したいのだ。
 
 周知のとおり、コロナ禍は続いている。
 しかし日本では、感染爆発がもう来るぞ、今に来るぞと言われながら中途半端な宙づり期間が続く一方、先んじて社会のほうが軋み(きしみ)の音をあげている。医療機関に一向に予算が回らず、内閣も地方自治体も明後日の方向でエゴを追求する姿をもう隠そうとすらしない。倒産や雇い止め、貧困への転落、格差の拡大。
 ウィルスそのものより速い社会崩壊を、端的に示していそうで怖いのが「安楽死」「尊厳死」「優生思想」など口あたりのいい字面で「命の選別」を持ち上げる思潮が盛り上がっていることだ。(優生思想・優生主義にまったく良いところはないのだが「優」の一文字で何だか良さげに響くことが忌まわしい。歴史修「正」主義にも通じる言葉のトリックだ)。テキトウにHINOMARUを持ち上げ批判されたミュージシャンが今度は「才能のある者には優良な子孫を残すため国家がふさわしい配偶者をあてがうべき」と発言。政府与党も「親しみやすい絵柄」でダーウィンの誤った解釈をばらまく。
 7月には京都で医師が、嘱託を受けたという形で難病患者を殺害。石原慎太郎・元東京都知事が(さっそく)(また)嬉々としてしゃしゃりでて「命の選別」を礼賛、当然のように非難されゴニョゴニョと謝罪。
 さらに確信犯的なのが維新だ。「人工透析患者は税金食いだから治療させず殺せ」と主張する男を候補に立てたように、本質がそうなのだろう。京都の事件を受け「尊厳死を政治的課題として検討すべき時だ」と公言。それどころか、自身が難病患者である、れいわの舩後議員が尊厳死の前に「生の尊厳」の確保をと訴えると「議論の旗振り役になるべき舩後議員なのに残念」と揶揄。さらに松井一郎・大阪市長は「舩後氏は難病でも生きる価値を見つけられたが、生きる価値を見つけられない難病患者もいる」と発言。
 神奈川県・相模原市で、知的障害者施設の利用者が元職員によって数十名、殺傷された事件から4年。よりによって事件のあった7月に、(死刑判決を受けても改心の意を示していないという)犯人に与するような声が、地方自治や国政を担う者・人気のミュージシャンから上がっている、おぞましさ。この国では、自身の犯罪が安倍首相に賞賛してもらえると信じていた犯人が「結局は正しかった」ことになってしまうのか。

   *   *   *

 1976年3月17日。この年、全26回の講義でヨーロッパにおける戦争観の推移を分析してきたフーコーは、近代における生権力の誕生について語りだす。
 生権力は、国家や権力が臣民の「健康」に介入し、より衛生的で、より健やかであるようコントロールする19世紀の発明だった(と、フーコーは主張する)。その発明は資本主義の成立とシンクロするもので、それまで「生きるに任されていた」人々は生産の単位として統計に組み込まれていく(生経済20年7月の日記も参照)。レディオヘッドの曲にあるように"Fitter Happier More Productive"(より適応して、より幸福に、より生産的に)というわけだ。
 それでは「本質的に生命を最大化し、その持続期間を延ばし、そのチャンスを増大させ、偶発事を回避したり、欠損を補ったりすることがめざされている」権力が、どうしてその同じ口で「殺し、死を要求し、死を求め、殺させ、殺せと命令を与え、敵だけでなくみずからの市民をも死に曝すことができるのか?」とフーコーは問い、自ら答える。
「そこに、人種主義が介入してくるのだと思うのです」
 人種主義、直訳すれば(あれ、逆か?ともかくだ)レイシズム差別。もちろん差別・レイシズムといったものは以前からあったと、フーコーは急ぎ注釈をつける。だが昔の人種主義は国家とは「別の場所で機能していたと思うのです」としたうえで、彼は言う。
「人種主義を国家のメカニズムに組み込むことになったのは、生権力の出現なのです」
「その時、人種主義は(中略)権力の根本的メカニズムとして定着したのであり、
 その結果、なんらかの時期に、なんらかの範囲内で、そしてなんらかの条件下で、
 人種主義を経由しない国家の近代的機能などほとんど存在しないのです」

 ここで言われているのは、恐ろしい話だ。先月の日記で紹介したとおり、イタリアの思想家カヴァレーロは近代国家はテロルの延長上にあると主張している。アガンベンは法律を無視した行政の専横(例外状態)は例外でなく国家の本質だと説く。同じようにフーコーは、レイシズムこそが近代国家を駆動する「根本的メカニズム」なのだと言う。
 それこそ「近代的精神」と呼ばれるような理性や博愛や平等意識が近代社会を生んだ…という幻想はくつがえされ、三者三様に国家の原罪があばき立てられる。世界の経済を裏であやつる委員会があるとか、人類の文明は異星人がもたらしたとかいうオカルトも色あせる「怪物は…お前だぁーっ!」ガチのヤバい話。だが先を急ごう。

 生権力・生政治は臣民を、生産力を有する「人口」として扱い、その生産力が最大になるよう健康を管理する。しかし人種主義・レイシズム・差別は
「権力が引き受けた生命の領域に切れ目を入れ」
「権力が引き受けた
(人類全般という)種を、(中略)人種という下位区分に分割できるように」
する機能を持つ。なぜそんな機能が必要か。それはおそらく、生権力の目的が「最大多数の最大幸福」などではなく「効率的な生産」にあるからだ。
 医療や衛生にはコストがかかる。まして、それが経済のマターであるなら、健康の保障にも「損益分岐点」がある。生権力・生政治を「生経済」と置き換えることで、そのような理解が可能になる。人口の再生産に寄与しない者・より高い生産力を持たない者は「コストカット」の対象になる。「吾々の」社会にいながら「別の」社会に属し、スムーズな生産には望ましい社会の同質性を低める者…外国人の排斥は、そのような「計算」の結果なのだろうか。
 だが、ここでボールをフーコーに、生経済から生権力に戻そう。
 
 彼は言う。いったん引き受けた全人口を(必要に応じて)再分割するのがレイシズムの第一の機能。そして第二に
「「殺せば殺すほど(略)より多くを死ぬに任せれば、
 その事実自体によっておまえはより生きることになるだろう」といったタイプの、
 ポジティブな関係を確立する役割を、人種主義は持つことになるのです」

 これは以前からある「戦争型の関係―「おまえが生きたければ、他者が死ななければならない」」と同等だが、その現れが全く別質なのだとフーコーは説く。生政治と結びついた人種主義=レイシズムが提示するのは、軍事や戦争ではなく「生物学的」な関係で、つまり
「劣等種が消滅すればするほど、異常な個人が抹殺されればされるほど、(略)
 個人としてではなく種としての私―はより生きることになるし、より強く、より活力に溢れ、より繁殖力を持つことができる」

 不健全な者が排除されれば「私たち」は全体として、より健やかになる。人々の生を増進するはずの生権力が、全体の生を向上させないものを排除する死の権力に転換される―人種主義=レイシズム=差別を蝶番に。1976年3月17日、ミシェル・フーコーはこのように語った。生産性の側面から見れば尚更…と、もう一度ボールを生経済に戻す必要があるだろうか?

   *   *   *

 生命力や生産力において劣る者を排除すればするほど、残った者たちは「より生きる」ことになる。
 大阪の「維新」が体現しているのは、このようなレイシズムに裏打ちされた生権力ではないだろうか。彼らが公務員や公営バスの運転手の給与が高すぎると引き下げを要求したとき、逆に民間の給与を合わせて上げるべきだという異論は聞き入れられなかった。自身の生産力を上げるのでなく、他者を削ることで相対的に自身の生命の価値が高くなったと計算する。そのようにして図書館を削り、文楽を削り、朝鮮学校を、そして保健所を、医療機関を削ってきた。
 その行き着く先が二つ―ひとつには、難病の当事者に「尊厳死の議論を進める旗振り役になれ」と要求する死の論理の噴出であり、もうひとつは東京ですら青ざめる急速な感染拡大だ。劣った者・異質なもの不要な者は排除せよという維新の論理は「にもかかわらず」ではなく「そんなだから」という順接で、感染拡大に結びついていると、なぜ維新に拍手する人々は思わないのか。

 もちろん、フーコーだ生権力だを持ち出さなくても、現在の大阪の破滅的な凋落(遠い関東からだと、そのように見える)は「ドケチ」のひとことで説明できるのかも知れない。
 「ドケチ」と、大阪人は(愚鈍な他地域の連中と違って)何にでもオチをつけなければ気が済まないし「おもんない」と言われるのが何より屈辱なのだという「お笑い体質」は、実際には体質ではないのだと思う。一方で大阪には「知らない人にも飴ちゃんをあげるおばはん」というドケチとは真逆の行動様式がある。朴訥な大阪人もいるだろうし、『細雪』のような細やかさもあったはずだ(そうでなくて、どうして文楽が生まれ得ただろう)。(とゆうか、それを「体質」と言ってしまったら、それこそレイシズムだ)
 だが「ドケチ」と「お笑い体質」が大阪なのだと主張する者の声が大きく、人々の思考を水路づければ、それがもたらす弊害は現実のものとなる。今の大阪が「お笑い」だと思っているものは序列の押しつけであり、内輪でのくすぐりあいであり、ツッコミという罵倒であり、「いじり」という「いじめ」であり、強者への媚であり、劣位の者を小馬鹿にする「嗤い」だ。他者を下げれば下げるほどおもろくて自分らの生命力は増す…その思考様式はやはり生権力の負の側面や、レイシズムと親和性が高いものではないか。
 今回の日記、維新を生んだ大阪ということで罵り倒してますけど、北新地の「すんどぅーふ」屋など心からつぶれないでほしい…
 ナチスの「生権力」や「優生思想」は、国民の健康増進を謳いながら大量の他国民のみならず大量の自国民まで死に追いやった。それは「にもかかわらず」ではなく、「生権力」にビルトインされた排除の論理がもたらした「だからこそ」の帰結ではなかったろうか。レイシズムの度合いと、感染拡大が比例してるように見える自治体は、大阪だけではない。それは「外」を排しているように見えるレイシズムが、実は同じ排斥の原理を共同体の内にも振るっていることで、説明できるのではないか。
 今回の日記に、これといった「オチ」はない。「おもんなく」て、結構。

コントロールは失なわない〜陳浩基『世界を売った男』(2020.07.26)

 今回の日記は、久しぶりに「日記」です。社会性ゼロ。教訓なし。政治的な思索も、公共性に関わる提言もなし。ひたすら趣味に走ります。
 というのもテーマがデヴィッド・ボウイですので。ハハハ。

 (マイケル・ジャクソンやプリンスのような急逝と異なり)がんのため自身の引き際や、没後のことも周到に「コントロール」できたのかも知れない。2016年、三年ぶりの新譜発表のわずか三日後というタイミングで世界を悲嘆に突き落とした逝去後も、誕生日である1月8日などを狙って、動画サイトYouTubeを通してボウイの未発表音源は定期的にリリースされ続けた。
 それもそろそろネタ切れかと思われた今年の7月4日、高音質のライブ音源が次々と公式チャンネルに上がってきた。なぜ生粋のイギリス人だったボウイの音源が、アメリカの独立記念日に?…どうやらボウイ側ではなく、音源を掌握していたアメリカのラジオ局が公開に踏み切ったらしい。そしてこの音源が、個人の感想ですが圧巻だった。
 1995年、アルバム『アウトサイド』をリリースした頃のライブなのだが、70年代後半〜80年の楽曲も多数セレクト・それらがいちいち「えっ、こんな曲まで?」というニッチなナンバーで、しかも90年代ふうにアップデートされたアレンジで唸らせる。ライブまでフォローしてる熱心なファンやマニアには常識だったのかも知れないが、公式のスタジオ盤アルバムしか知らない自分は「この時期のボウイ、こんなすごかったの?」と耳からウロコが落ちる「事件」だった。
 
 すごかったのはアレンジだけじゃない。少し説明させてほしい。
 今でこそ当人がアイコンであり、強烈な「キャラ」として認知されているけれど、元々デヴィッド・ボウイは架空のキャラを演じることでキャリアを始めた人だった。
 最初のヒット曲「スペース・オディティ」(1969年)は人類初の偉業を成し遂げながら事故死が暗示される宇宙飛行士「トム少佐」を主人公にした物語ふうのシングル。それから数年、ハードロックに挑んだり、逆にソフト路線になったりの試行錯誤を経て1972年。地球を救うため宇宙からきた男がロックスターになるも、ショービジネス界に呑み込まれ自らが破滅する(?)という物語仕立てのアルバム『ジギー・スターダスト』でボウイは「ジギー」としてブレイクする。
 あまりのファンの熱狂と、演じることへの疲れ(飽き?)から翌年「ジギーやめます」宣言をした、さらに翌1974年、ボウイはミュータント犬に変貌する。ボウイ自身の下半身が犬になった衝撃的なジャケットのアルバム『ダイアモンドの犬』は巨大化した猫やネズミ・「ダイアモンドの犬」に脅かされる人類が、やがて「1984」ばりの「ビッグ・ブラザー」に屈従していくディストピアを描いた(?)。(?ばかりで申し訳ないけど、ボウイの歌詞は抽象度が高くて「こう」と言い切れんのですわ)
 その後のボウイは(ジギーや犬に比べると曖昧な)「シン・ホワイト・デューク」を演じたりしつつ、ベルリンに移り住んだ70年代後半を通じて徐々にメイクを落とし、キャラを封印し、やがて生身の人間デヴィッド・ボウイとして80年代に世界的なヒーローへと変身していく。「レッツ・ダンス」が大ヒットし、映画『戦場のメリークリスマス』で坂本龍一やビートたけしと共演。
 けれど…あの、まだこの話つづけていいですか?…かつてジギーに倦んだように、ボウイは自分自身に倦んでいく。才能の枯渇を噂されるようになったボウイは80年代の終わりに「今までの曲はもう演奏しない」と宣言・突然バンドを組むもアルバム二枚で解散、90年代の彼は一応は良作を輩出しつつも決定的な一打には欠けた試行錯誤の日々を重ねる…
 という分かりやすいストーリーは間違っていたのではないか。公開されたライブ音源は「中年クライシス時代」と勝手に自分が決めつけていた90年代ボウイの充実ぶりを再認識させるものだった。振り返ればいち早くインターネットに手を出したり、世界的なスターとしてはたぶん初めて自分の新アルバム製作を債権化して利益を出すなど、今のクラウド・ファンディングのはしりみたいなこともしていた。新世代のリスペクトも受け、ぜんぜん時代の寵児だった。
 95年に製作された『アウトサイド』も、そんなボウイの充実とクライシス・両面を併せ持つ作品だった。久しぶりに物語仕立ての内容で、うさんくさい探偵ネイサン・アドラーと牛の頭をかぶった殺人鬼ミノタウロス・双方をボウイが演じる(?)『羊たちの沈黙』や『セブン』ばりのサイコスリラーは(実際、このアルバムに収録された曲が『セブン』のエンディングに使われた)全10枚のシリーズになる予定だったらしい。もちろん一枚で頓挫した。80年代に才能の枯渇を疑われたボウイは、逆にこの頃ダダ漏れる才能の「コントロール」が効かなかったのか、映画のサントラ風のインストゥルメンタル曲が多用されたアルバムは、目鼻立ちのクッキリした佳曲をいくつも含みつつ、全体的には散漫とした印象だった。
 それが件の(←あっヒト偏に牛…ミノタウロス?)(ごめんなさい)(あの…まだついてきてます?)ライブで変わった。散漫な捨て曲は蒸発し、かわりに70年代〜80年の、アルバム全体でストーリー化されてはいないが、物語仕立てだった単曲ばかりピックアップされ、セットリストに加わったためだ。
 つまり勝手に夢みてしまったわけだ。殺人鬼ミノタウロスと探偵ネイサンの追跡劇に
俺を車に釘で打ちつけてくれたら、あんたが誰だか教えてやろうとすごむ自称占い師の奇人「ライオンのジョー」、
デヴィッドどうしよう、奴らが廊下で待ってるんだとすがりついてくる「ティーンエイジ・ワイルドライフ」、そして
ずっと前にあなたは死んだのだと思ってたと主人公に言われ「それは人違いさ、私は決してコントロールを失なわないとうそぶく「世界を売った男」などが加わった、言うなればデヴィッド・ボウイ版アベンジャーズのような完全版『ネイサン・アドラーの日記』も、彼が本気を出せば可能だったのではないかと。
   

   *   *   *

 「世界を売った男」は「トム少佐」と「ジギー」の間に録音・発表されたアルバムのタイトル曲だった。発表当時は商業的な成功は収められず、長いこと「不遇な作品」扱いだったように思う。
 状況が一変したのは90年代にカート・コバーン(ニルヴァーナ)がカヴァー曲として取り上げたためで、急に「ああ、ボウイの代表曲のひとつだよねえ、最初から知っていたよ」と言わんばかりの持ち上げられかたをされるようになった。まるで歴史を修正するかのように。公文書を改竄するかのように。偽りの記憶を信じこむように。
 そんなわけで「世界を売った男」をタイトルに掲げた小説があれば、喜び半分・疑い半分の目で見てしまう―街で「ニルヴァーナ」のロゴが入ったTシャツを着た人、どれだけが本当のニルヴァーナのファンなんだ?と疑いの目で見てしまうように。
 まあ自分も服用経験ないのにケロリンのTシャツ持ってますけど
 でも作者が香港のミステリ作家・陳浩基(ちん・こうき/サイモン・チェン)なら期待度は8割まで上がる。日本でも海外ミステリ・ランキングの一位になった『13・67』(2014/邦訳2017)は、出世下手だが明晰な推理力をもつベテラン刑事の生涯と、半世紀にわたる香港の歴史をシンクロさせた味わい深い(そして今となっては哀愁に満ちた)連作だった。
 『世界を売った男』は、そんな陳浩基の初長編にあたる。よしんば題名だけがボウイのパクリで中身は全然関係なくても、少なくとも小説本体でまで「ハズレ」を引くことはない。そう思って手にした。端的に言うと賭けは大勝利。2011年に刊行された原著のタイトルこそ『遺忘・刑警』だが(つまり『世界を…』は邦訳スタッフがつけたもの)、冒頭にはボウイの同曲の歌詞が堂々と掲げられ、作中でも同曲のシングルレコード(!)が小道具として登場・いわば作品のまんなかで蝶番のような役割を果たす…とは身びいきが過ぎるか。
 文庫版の解説は恩田陸。本格ミステリの視点から本作を評価する解説だけど、そもそも既存の作品や楽曲を作品のモチーフにして、それを作中で誇示するの大好きでしょ恩田さん。というわけで
陳浩基世界を売った男』、恩田陸ファンなら読んで満足の確率高し
 (重要:ボウイのファンでなくても楽しめる内容なので心配はいりません)
 発端は2003年に起きた夫婦惨殺事件。誰の目にも犯人が明らかな事件の「真相」を疑い、単独調査を進めていた刑事が、なんとその最中に6年間の記憶を失なってしまう。気がつくと2009年。自分の身に何が起きたのか。それは事件の真相と関係があるのか…これだけの餌を丸鶏のようにフックで吊るされただけで、もうたまらん!てなるでしょう。なので多くは語らない。それこそ6年以上前の本ですし。
 ただ「もちろん期待は裏切られない」とだけ言っておきます。ボウイだけでなく冒頭には(セブンと同じ)デヴィッド・フィンチャー監督の背筋も凍る傑作『ゾディアック』や、日本の古畑任三郎・『踊る』の青島刑事までもが引用され面映い。すこぶるどうでもいいけど詠春拳も木人つきで登場。
 何より、幕切れの鮮やかさ。終盤の謎解きはかなり複雑だけれど、それすらひっくり返し「納得の読後感」に記憶を上書きしてしまう力がある。言いたくて仕方なかったオチ、言ってもいいでしょうか。「吾々がついに相対する、この小説の『世界を売った男』は作者本人だった。陳浩基。最後の一行まで、彼は決してコントロールを失なわない(ドヤァ)」

  
 これは(も)臆断ですが陳浩基『世界を売った男』、ミステリ映画として『サスペリア2』が好きなひとも、かなり気に入ると思います。

なぜイタリアか〜岡田温司『イタリア現代思想への招待』(2020.07.19)

 イタリアの現代思想が気になっている。
 たぶんきっかけはワイルドゾーンだ。これ自体はイタリア発のキーワードではない。ポーカーのワイルドカードのように何でもアリの、恣意的な法運用がなされる「ゾーン」。2017年1月の日記でも述べているように、オーストラリアの社会学者モーリス-スズキによる「出入国管理所はワイルドゾーン化しやすい典型的な場所だ」という指摘は、吾が国の入管問題で正しさが証明されている。国籍の保護下に置かれない人々が収容される入管は、国家が社会的弱者をどう扱うかの先触れ・雛形のようなものだ。公文書の改竄や議会の軽視など、政府の無法性・恣意性があらわになっている今、この概念の掘り下げは(自分がこの社会を納得するために)必要なのではないか。
 そう思ったが、ワイルドゾーンの探究は簡単に進まなかった。アメリカのバック-モース、ドイツのバウマンといった人々の文献にもあたったが、今のところ望むほどの直接的な成果は得られていない。
 かわりに浮上してきたのが例外状態というキーワードだ。国家の法に基づく運用が「例外」的に停止された、行政の恣意的支配。ドイツの政治学者カール・シュミットに遡る概念だが、近年これを拡張したのがイタリアのジョルジョ・アガンベンだった。アガンベンは9.11でのアメリカの行動を例外状態として批判する一方、その観念を古代ローマくらいまで遡り、例外状態はむしろ国家成立の根幹と切り離せない、などとしている。らしい。
 らしいと言うのは、アガンベンの著作が自分には難解すぎて歯が立たないからだ。ちなみに彼の思想には既に批判も多い(2020年3月の日記参照)。
 それでも今、イタリアの現代思想が気になっている。…フーコーやドゥルーズ、ジラール、あるいは読んでないけどデリダといった「現代思想」が現代といっても半世紀前の思索なせいもある。まあ半世紀前の思想でもまだ消化しきれてない=その批判を社会が克服できてないから参照の意味はあるし、ジラールの弟子筋のデュピュイのようにフランスにも現役の思想家はいるのだけれど。
 アガンベンは90年代から執筆を本格化させた思想家だ。ジラールがこだわったパルマコン(聖なる生贄・スケープゴート)を発展させたようなホモ・サケル(サケルはsacred=聖なる)概念に取り組んだ大著は数年前に完結したばかり。
 一方でドゥルーズ=ガタリを現代社会に肯定的な形で敷衍したアントニオ=ネグリという人もいる(らしい。こちらの『帝国』は大著すぎて手が出ない)。ネグリとアガンベンは友人だが論敵でもあるようだ。

 新しい・旬であるとは、それだけ現代社会を理解する鍵として期待できるということだ。思想や哲学はもっと高尚なもので、そうスパンの短い成果を求めてはいかんよ、みたいなことは大学の研究者が言ってればいい。もっと実践的な意味で、イタリアに興味が湧いてきた。
 しかし問題はふたつ。1)実際の著作は分厚く難解。2)そもそも邦訳がない。
 それならと手を出した入門書が岡田温司イタリア現代思想への招待』(講談社選書メチエ)だ。
岡田温司イタリア現代思想への招待(講談社BOOK倶楽部)(外部サイト)
 まだ東日本大震災もドナルド・トランプの大統領就任も知らない世界、とはいえ9.11やその報復として行なわれたアメリカの中東攻撃はすでに起きており、2020年が抱える諸問題はおおむね出揃っていた2008年の発行。
「フランスの巨星たちがあいついでこの世を去ったあと、なぜ、イタリア思想の重要性に注目が集まるのか(中略)
 ジョルジョ・アガンベン、ウンベルト・エーコ、アントニオ・ネグリ、マッシモ・カッチャーリ……(中略)
 哲学、美学、政治学、社会学、宗教学、女性学など幅広い分野での彼らの刺激的な仕事を、
 明快な筆致で紹介する」

 著者のキュレーションが巧みなため・あるいは問題意識が明確なためだろう、現代イタリア思想だけでなく、その源泉となったニーチェやハイデガー・フーコーなどの特質も手際よく紹介しつつ、現代社会に対峙するヒントとなるキーワードが次々と打ち出される。自分の今後の勉強につながりそうな概念を二つだけ挙げておこう。

 【生経済(ビオエコノミア)】ラウラ・バッツィカルーポ
 生政治(ビオポリティク)はミシェル・フーコーが打ち出した概念だ。近代以前の君主が領民の死を統制する(「首を刎ねろ!」)ことで権力を振るい、生に対しては「好きに生きろ」と放置していたのに対し、近代の権力は出生率や健康状態など国民の生をコントロールし、そこから脱落したものは「死ぬに任せる」。その悪しき範例はゲルマン民族の健康増進を政策にしたナチズムで、生政治が「死政治」と表裏一体だったことは無辜の人々を計画的に殺戮したホロコーストで明らかとなった。
 バッツィカルーポは「生への究極的な権力が与えられているのは、いまや政治ではなくて経済ではないか」と指弾する。フーコー自身も生政治をはじめとする近代の諸観念が(たとえは彼の初期の研究対象だった精神病患者の収容にしても)人民を資本主義的生産に組みこむ過程で生み出されたことを明らかにしており、その視点からフーコーを読み直す必要もあるだろう。何より、コロナ禍と医療崩壊が切迫した問題となっている今、まことしやかに取り沙汰される「生の選別」自体、「政治」が経済に乗っ取られていることを如実に示しているのではないか。
 経済も本来の語源は「経世済民」で…みたいな話は面倒なのでしません
 バッツィカルーポの著作『生の支配―生政治と経済』(2006年)は本邦未訳。

 【恐怖主義(オッロリズモ)】アドリアーナ・カヴァレーロ
 オッロリズモはテロリズム(イタリア語だとテロリズモ)への対抗概念である。9.11以降とくに顕著となったテロと「対テロの戦い」は、両者の区別もつかない暴力の応酬となった。これはテロルを「暴力を行使する者」を主体として捉えるからだとカヴァレーロは主張する。彼女がとなえるオッロリズモは、テロルを「振るわれる者−(攻撃を受けた「国家」や「権力」ではなく)突然の暴力に硬直し逃げることもできない無力な被害者」の視点から再構成せよと要請するものだ。
 もしかしたら、これはさほど目新しい思想ではないのかも知れない。地下鉄サリン事件の際、報道機関などがこぞって「テロルを行なった側」に関心を傾ける一方で、ひたすら被害者の声を聞き取ろうとした村上春樹アンダーグラウンド』のような仕事もあった。カヴァレーロが求めるオッロリズモに一度そうして接近した著者は、ふたたびそこから離れていったようにも思われるが…

 …カヴァレーロは(フランス革命に顕著なように)西欧の近代国家は成立においてテロルに容認的であった、なんのことはない近代政治はテロルの延長なのだという主旨の告発もしているようだ。アガンベンが、法を無視した例外状態こそ国家の成立時ほんらいの姿ではないかと思索したのと通じる、近代国家の「原罪」を掘り出す試みとも考えられる。
 何より、テロルを「殺す側の論理」でなく突然の暴力にさらされる者から捉える視点は、難民や香港の民衆といった「国家の側からのテロル」に、さらには人が主体ではない理不尽な暴力=新型コロナの恐怖に直面した人々の体験に、言葉や概念を与える鍵になるのではないか。一部の国家においてはコロナ禍もまた、政府の無策や棄民政策という「白色テロ」なのでは…というのは言い過ぎかも知れないが。
 カヴァレーロの著作『恐怖主義、あるいは無防備な者への暴力について』(2007年)も本邦未訳だが、岡田がカヴァレーロへの影響を指摘するジュディス・バトラー生のあやうさ―哀悼と暴力の政治学』、スーザン・ソンタグ他者の苦痛へのまなざし』は、いずれも邦訳あり。村上やアガンベンは男性だが、カヴァレーロ、バトラー、ソンタグ、それに「生経済」のバッツィカルーポとも女性なことも示唆的…かも知れない。(ちなみにテッサ・モーリス-スズキ、スーザン・バック-モースも女性です)

   *   *   *

 【例外状態】ジョルジョ・アガンベン
 なぜ今、イタリアなのか。自分のことだから、単にフランスを食べ飽きたので次の未知を求めて…ということもあるだろう。上に見てきたように現在の社会問題を考察するヒントに溢れていることもある。ジラールやフーコーに関心をもってきたので、二人を「いいとこどり」して発展させたようなアガンベン単身への興味も大きい。
 アントニオ・ネグリは1970年代のイタリアを震撼させたテロ組織「赤い旅団」への関与を取り沙汰され収監・国外に亡命するも、90年代に自身の政治的信条にしたがい帰国し再収監された異色の哲学者だ。勉強不足でネグリ当人について判断はできないが、まずは取っかかりにとトニ・ネグリ名義の小著『未来への帰還 ポスト資本主義への道』を手にした。逮捕を意味する帰国の直前に編集された雑多な断片集だが、そこにアガンベンも原稿を寄せていた。
 「記憶と忘却のうまい使い方について」と題された邦訳わずか4ページの少文でアガンベンが指摘しているのは、70年代の重苦しい「鉛の時代」を経たイタリア社会こそ「例外状態」だったということだ。不穏分子を監視するためイタリアの政治家階級が「法秩序にはなじまない諸原理を」「特措法の形で導入し」「憲法上の自由に重大な制限を加え」ていた当時の状況を、アガンベンは「個人的自由、集会権、住居不可侵、宗教あるいは電話の秘密保持に関するドイツ憲法の条文を失効させた、ナチス政府によって一九三三年二月二八日に布告された「民族と国家の秩序防衛」が、第三帝国の最後まで、つまり一三年間も効力をもちつづけたこと」になぞらえている。そして二十年間におよぶ警察と市民の共犯関係を、彼は腐敗と断じる。
 例外状態を古代ローマまで遡って考察した『ホモ・サケル』の第一巻刊行は1995年。ネグリの再収監は97年。膨大な資料を駆使し、結果的には例外状態や生の尊厳を奪われた人間の状態を告発してるのか「良かった探し」してるのか分からないと嘆かれもする、彼の晦渋な思索がしかし、純粋な学術的関心ではなく(少なくとも最初は)自国の、目前の政治的荒廃を前に着想された(かも知れない)ことは、示唆的ではないだろうか。
 
 さきに自分の言葉で「不穏分子を監視するためイタリアの…」と書いたが、日本なら「反日分子」と言われるかもしれない。この国で7年も続いている「例外状態」と政治の荒廃・打ち続く災厄は、アガンベンやバッツィカルーポ、カヴァレーロのような新しい思想を生み出すだろうか。フーコーやドゥルーズが目前の政治的課題に関与しながら紡ぎ上げた思想を、現実から遊離した流行ゲームとして消費してきた人たちでは無理だろうか。


 『イタリア現代思想への招待』面白いだけに、その思想の根底にキリスト教(との対決)があって、それも非常に面白いだけに、とく非キリスト教圏の吾々はこれに心服するだけじゃダメなんじゃないの!という危機感も煽られる。そんなわけで、ちくま新書から全8巻でリアルタイム刊行中の『世界哲学史』に早く取り組みたいのだが…
ちくま新書『世界哲学史』(外部サイト)

文化の別名〜映画『ブレッドウィナー』(2020.07.12)

 ウポポイ、とはアイヌ語で「(大勢で)歌う」という意味らしい。
 北海道白老町にオープンした「アイヌ文化復興・創造拠点」。博物館に体験型の公園や食堂、そして明治から昭和にかけ学術の名目で本土に持ち去られた遺骨の返還を受けた慰霊施設などを備える。新千歳空港から方向は反対で札幌とだいたい同距離、交通など考えると(とくに今は)首都圏からのアクセスは容易くはないが、一度は訪れてみたい場所だ。個人的にはHPに掲示されたイナウの写真だけで魅了されてしまう。
ウポポイ〜民族共生象徴空間(外部サイト)

 「そこで人々は神に捧げるイナウを作り…」とは、知里幸恵アイヌ神謡集』(岩波文庫)に頻出するフレーズだ。木を削り波打つ帯が重なるようにしたイナウは、大阪の民博や愛知のリトルワールドで見ることが出来る。本土の博物館で観られるということは、元々あった場所から引き離されたわけだよなあと思いながらも「六本木で芸能人を見かけちゃった!」みたいにテンションが上がる。特殊かも知れない。逆に僕は、芸能人を見かけても上がる気がしない。
 『アイヌ神謡集』のイナウと、このたびは幣も取りあえず手向山(ぬさ)、そして岐阜などで名物の五平餅=御幣餅が、神に捧げるという意味合いや形状・名称などで相通じるのも面白いところだ。
柳田国男『山の人生』に、木の板に貼りつけた餅を山の神に捧げた的な記述があったと思います
 『アイヌ神謡集』を読んだのは何十年も昔で、もう細部は完全に忘却しているのだが、印象的な話がある。神々が人間の傲慢さに腹を立て、もう鮭などの贈り物を止めてしまおうとした時、賢いカラスだかキツネだかが(フクロウだったかも知れない…本当に忘却している…)赴き、人間のために擁護のチャランケ=議論を仕掛けるという話だ。
 同じ時期に、旧約聖書のロト(ソドムとゴモラ)の物語を題材にしたブレヒトの戯曲『セツアンの善人』を知ったこともある。架空の街セツアンに、一人でも義人がいたら世界を滅ぼすのをやめようと二人の天使が訪ねてくる物語だ。やはり大体おなじころ観たSFコメディ『花嫁はエイリアン』も、地球人は存続に値せずとする異星人を前にダン・エイクロイドとキム・ベイシンガーが「人類の文化」としてミュージカルを歌い踊る話だった。
 若い頃に出会ったテーマは引きずるもので、「人類は存続に値すると証(あかし)だてを迫られる」という主題は自分でも作品化しているし、なんなら何のために物語はあるのかという問いに対する有力な答えの一つとすら思っている。物語に「ため」なんてないよ、娯楽や暇つぶし・現実逃避のためのモノさ、という意見もあるだろうけど…
 

   *   *   *

 コロナ禍による緊急事態宣言が解除された6月。再開された映画館で最初に観たのはスーダンのドキュメンタリー『革命シネマへようこそ』だった(2020年6月の日記参照)。
 一方、4月・営業休止が迫る地元のミニシアターで、最後にコレは観ておかねばと駆け込みで足を運んだのがノラ・トゥーミー監督『ブレッドウィナー』だった。『ソング・オブ・ザ・シー』『ブレンダンとケルズの秘密』を生んだアイルランドのアニメーション・スタジオ=カートゥーン・サルーンの新作だ。とくに『ブレンダン…』には(自分にとって)今世紀で最も重要な映画、というくらい感銘を受けたので(2018年9月の日記参照)ハードルは高くなったが、『ブレッドウィナー』もまた、人にとって物語とは何か・文化とは何かを考えさせられる深みのある作品だった。

 舞台は原理主義者タリバーンの制圧下にあるアフガニスタン。アイヌやスーダンと同様、この地にも名誉として人々の心を支える歴史や文化があり、それは同時に強者に翻弄される受難の歴史でもあった。主人公パヴァーナの父は、そんな文化の担い手である教師だった。父と母、姉とパヴァーナ、それに末っ子の赤ん坊。戦禍の続くアフガンで、長男はすでに命を落としている。文化の破壊者であるタリバーンによって父が連れ去られ、一家は支え手を失なう。女ひとりでは外出も許されない原理主義の支配下、パヴァーナは髪を切り、男装した少年として街に稼ぎに出る…
 まずは代読と代筆で身を立てようとするパヴァーナの客となるのが、父と同世代の兵士ラザク。いかつい容貌だが眉は下がり、大きな背も丸めた彼は失意の男。パヴァーナは彼の死んだ妻からの手紙を読んでやり、悲しむ彼に礼を尽くす。父が教えた識字と礼節=文化は彼女に糧を与えるだけでなく、最後の窮地でラザクの命がけの厚意を引き出すことになる。
 とはいえ、男装したパヴァーナは読み書きでは食べていけず軽作業。文化の無力…
 一方、タリバーンのありようを集中的に体現するのは憎悪に満ちた少年兵だ。彼は恩師だったパヴァーナの父を憎み、男装して街に出たパヴァーナを追い回す。稼ぎ手を失なった一家は、誰かが外に出ないと餓死してしまうという明白な事実に、彼は関心すら払わない。映画もまた「彼にも彼の正義がある」などと同情を示すことはない。改悛の機会も与えられぬまま、彼は戦争の世界に呑み込まれていく。
 そして別の少年の物語が、パヴァーナの苦難と並行して語られる。アフガニスタンの古典的な民話の主人公である彼は、ゾウに奪われた種籾を取り戻すため、動物と友誼を結び星々と語らう。他の国なら三枚のお札を使って山姥から逃げたり、かまどの中のパンに埋もれた干しぶどうが宝石に変わったりするような話だ。ファンタジーめいた彼の冒険は絵のタッチも変えて描かれ、パヴァーナの行く手を指し示すが、やがて驚きの結末にたどり着く。

 どう驚きなのか。それはネタバレなので明かせないが
 『ブレッドウィナー』の劇中劇は、僕にピエール・グリパリの童話『ピポ王子』を思い出させた。
 童話とは何か・語りとは何かをたえず意識させるメタ童話のような同作で、特に印象的なのは小屋の話。小屋は魔女が支配しており「彼女が聞いたことがない」「とても美しい物語」を話すことができないと来訪者は小屋を出ていくことが出来ない。誘い込まれた人々は皆、知ってる限りの美しい物語を魔女に語ったが「とても美しいね。でもその話は知っているよ」と返され、囚われの身となっている。
 ピポ王子もまた、とても美しい物語を語るが「それは知っているよ」で返され、三度目の、最後のチャンスで自身の来歴を語る。つまり童話『ピポ王子』が語ってきた最初から今までを。これなら魔女も聞いたことがない。物語は王子の生まれる前から旅に出て、森に迷い、魔女の小屋に誘い込まれるまでを語る。「誰も知らない、とても美しい物語」を語る試練に二度まで失敗したことを語る。「それからどうなったね?」と魔女が問うとピポ王子は答える。もちろん、誰も知らない、とても美しい物語を語ることが出来た私は、魔女の呪いを解くことが出来るのです!
 こうして王子は、自身も、囚われていた人々も、人々を呪い続けた魔女すらも解放する。

 小屋の挿話が、いや、『ピポ王子』の物語全体が示唆するのは、人は誰もがピポ王子なのだということだ。誰の人生もが今まで語られたことのない、とても美しい物語なのだということ。他の旅人たちは、それを言う勇気がなかったため、呪いの小屋から出られなかった。だが人は、読者の「あなた」は、どんな人生を送ろうが、それが美しい物語だと魔女を説き伏せることが出来る。
 『ブレッドウィナー』の劇中劇は、同じことを教えてくれる。同じだが少し違う。誰の人生も、パンに埋もれた宝石のように、美しく貴重で、唯一無二のものだ。その主人公としての栄誉は、現世で報われず命を落とした者にも与えられなければならない(どうしてそういう結論になるかはネタバレなので詳述できないが)。
 思えばパヴァーナが、ラザクに示した礼節も、強そうな男に対するものではなかった。家族を失ない悲嘆にくれる男、死んでなお家族に愛の言葉を残そうとした伴侶への礼節だった。今回の日記の冒頭で「物語は何のためにあるのか」と自問自答した。映画『ブレッドウィナー』が(あるいはウポポイの慰霊施設が)示唆するのは、物語も文化も、無念のうちに死んだ者を悼むためにある(そういう側面もある)ということだ。
 そして誰もが選ばれた「王子」であるのと同様に、誰もがまた死の無念から逃れられない。だから(この意味での)文化に無縁な者はいない。虐げられたどの民にも、心の支えとなるべき栄誉があるように。どの民にもまた、嘆きと屈辱があるように。
 美しさとは、ハッピーエンドのことではない。富や繁栄が美しいのではない。たぶん成功や栄達を計るのとは別の価値観として、美しさはある。その別名が文化なのではないだろうか。
 
 文化は心の支えとして人々を生かし、また人々は文化を次代に伝えるため生かされる装置のようでもある。それもまた、気高いと同時に悲しいことだ。『ブレッドウィナー』は吾々が、生まれては地に落ち、また次の芽を生むために死んでいく種籾であることを問わず語りに示す。それでもなお、人生は美しく、世界は存続に足る。文化は、物語は、それを証だてる。それでは救いきれないものがあり、それらは別の手段で救われなければならないにしても。
 逆に文化が勝利や栄達を約束したり、文化の名のもとに犠牲を強いたりする時には警戒する必要があること。

 映画『ブレッドウィナー』の原作はデボラ・エリスの四部作。いずれ読まなければならないので、自分のためのメモも兼ねて。
 

選挙に行きましょう〜2020年夏(2020.07.03)

 ここ半年、生存報告も兼ねて毎週日曜日には日記らしきものを書いているのですが、今週は前倒しで金曜更新です。なぜか。「選挙に行きましょう」という話が特定の候補の上げ下げになると、都知事選の投票日にあたる日曜では公職選挙法に抵触するおそれがあるから。(追記:後で見返すと特定の候補の「下げ」だけだった+落選運動は当日でも抵触しないので日曜でも良かった)
 はい、隣県の神奈川から、おせっかいにも「投票に行きましょう」という話をします。時間がないので簡潔に。

 結論から言うと、東京都のコロナ対策は全方位的に酷い。建物を赤く光らせるだけの(バットマンを呼ぶんじゃないんだから)「東京アラート」も、行政の責任を個々に丸投げした「自粛から自衛へ」も、ついには感染者数と警戒を連動させない宣言も。それは国政の「緊急事態宣言」が補償や医療拡充などの対策をまともに伴わない気分だけの宣言だったことを、より純化した産物だった。
 ピンポンゲームのように、その無為無策が今度は国政や、他の地方自治体に投げ返される懸念は強い。都の首長を決める有権者が、世間全般に及ぼせる権力・影響力はまことに大きい。
 なので投票に行ってほしい。
 ここまでのまとめ。コロナ関連の都の対応が、国や他道府県に波及すると困る。都の有権者にはしっかりしてほしい。

 このように投票を促すと「権力・影響力といえば聞こえがいいけど、それって『責任』だよね?重たいよ!」と感じる向きもあるだろう。「現状では現職が圧倒的に優位と言われてるのに、勝てない投票をする意味ってあるの?
 チッ、まずいところに気づきやがって…ではなく。
 「勝てない投票に意味はあるか」問題については
選挙では僅差の逆転もあるので諦めてはいけない
投票率があがること自体、為政者に有権者の存在を意識させることなので良いのだ
という反論・提起がなされている。後者については、こちらの記事が(簡潔にと言いつつ既に長くなってる本サイトの日記などより余程)簡潔にまとめている→
ぶっちゃけ、投票ってメリットある?」(春日そら/note)(外部サイト)
 「三分で読める」こちらの説明で、納得できれば良し。投票に行きましょう。
 ただ問題は、投票率が上がろうと、仮に投票者の49%までがノーを突きつけようが51%で勝てば、
 さらに多くの候補で票が割れたり、そもそも投票しない人が増えれば、ハードルはますます下がります。2016年の都知事選で現職の小池百合子氏の得票率は44.49%(過半数でない)・投票率59.73%を掛けると27%の「民意」しか得ていません。
いちど勝ってしまえば「民意を得た」と称し、反対者がどれだけ言おうと好き放題するタイプの政治家がおり、困ったことに現職の都知事はその筆頭に思われることだ。

 だから今回、ホンネを言えば選挙には勝ってほしい。しかしそれは「※無駄に長い比喩なので消しました」みたいな理想論だ。
 都知事の任期は四年ある。勝ってしまえば安泰の四年だ。自分に投票しなかった有権者の、どころか自分に投票した有権者の意向すら馬耳東風と無視しかねない為政者の存在を前に、勝てない投票の意義を(保険として)至急に案出する必要がある。
 僕が考える対案は「投票率が上がっても(直接には)変わらない為政者がいるかも知れない。だが投票することで隣人や自分自身は変わるし、それが政治を動かすことはできる」というものだ。
 逆に言えば、投票率が上がれば自動的に為政者がそれを意識するわけではないだろう。選挙で負けたら諦めてしまい、また粛々と「自衛」に戻ってしまう有権者ならば。為政者をおびやかすのは選挙で反対票を投じ、日常でも政策のおかしなところに声をあげていく市民ではないか。
 そして、そのような市民に隣人や自分自身を変えていくのに、選挙ほど、候補者や人々の声を聞き「なるほど、こういうことが問題なのか」「アレとコレがつながってるんだ」と知ることほど効果的な機会はそうない。
 かつて最低賃金上げろデモで見かけた、ダンボール紙に手書きで「野菜を食べたい」と書かれたプラカが忘れられない。デモと同じで選挙も、すでに固まった自分の主張を持っていくだけでなく、他の人の主張や訴えに耳を傾ける貴重な機会と考える。
 実は、すごく面倒くさいことを言っている。「意見があるなら投票で示せ(他の場所で文句言うな)」という、よくある主張とは真逆に「投票だけじゃダメだ、日々要求を出せるような自分を錬成しろ」と言っているのだから。
 だが吾々には、選挙に拠らず、本来なら和牛券とお魚券(とマスク)が配られて終わるはずだった国のコロナ対策を、一律十万円の給付に変えた実績がある。
 それは言い替えれば、今の吾々には「数ヶ月の自粛なのに一ヶ月分(十万円)の給付しか引き出せず、東京アラートや何やかやを止められない」程度のチカラしかない、ということでもある。でも「最初から何を言ったってムダ」じゃないことは、兎にも角にも給付された十万円が示している。
 

 本当はこういうことを、もっと早く(投票日の前々日などでなく)言えれば良かったのかも知れない。しかし自分も、今回の都知事選でさまざまな声が上がるのを見聞きして、ようやくここまで考えつき、考えがまとまったのだ。
 先の「3分で読める投票に行くべき理由」のnoteを書かれた春日そら氏が別の場所であなたは、ひとりひとりの人間は、もっと丁重に扱われるべき尊い存在なんだよって、うまいこと伝えたいとつぶやかれていた。それは今まで(少なくとも自分には)言語化されていなかった、新しい概念のように思われた。「あなた自身も自分で卑下せず、尊重に値する存在だと確認するために投票に行こう」と言うときに、たとえば選挙権を有さないまま、国や都の決定に従わされている人たちの苦渋を引き合いに出すべきだろうか。このあたりの思考や思索は、どんどん鍛えられていいと思う。
 今回の都知事選に限らず。選挙権のある人は、それを行使しましょう。言うなれば、より自由に手足を動かせるように。

「民主主義というものは(中略)スポーツにおける「フォーム」のようなものなのである。(中略)
 トレーニングしだいで豊かになることもできれば、衰えることもできるのだ」

 (フェリックス・ガタリ『闘走機械』)
 

 おなじかたの記事。こちらも「選挙」という場を通して言語化された思索。参考になるし、目の前の選挙を越えた生活の指針になると思います。
【投票先、どう選ぶ?】 なにも考えられないくらい疲れている時の、投票先の選び方(春日そら/note)(外部サイト)

やがて悲しき牛の尻〜ヴァージニア・ウルフ『自分ひとりの部屋』(2020.06.28)

「文学は蜘蛛の巣のように、たぶんそっと軽くではありますが、
 四隅でしっかり人生につなぎ止められています」
(ヴァージニア・ウルフ)

   *   *   *

 ちょっと持ち上げアピールが煩いかなぁと思いつつ、丸谷先生を「先生」と呼ぶのは、創作や表現の師匠として私淑(勝手に弟子を自称)しているからだ。不肖の弟子である。まあそれはいい。
 ミステリにも造詣が深かったが、食べ物を語ることも大層お好きだった。前にも引いているのだが(2000年3月の日記参照)『007』の原作者イアン・フレミングが説いた小説作法の引用が強い印象に残っている。
「こんなふうに書く方がたしかに読者の感覚を刺激する(中略)
 「彼は”本日の特別料理”−すばらしいコテージ・パイと野菜と、それから自家製トライフル(中略)−であわただしく食事をすませた」と書くかわりに、
 「”本日の特別料理”というやつは一切本能的に信用していなかったので、彼は両側を焼いた目玉焼き四つと、バターをつけた熱いトーストと、それからブラックコーヒーの大きなカップを注文した」」

(『好きな背広』)
 美食を愛し、多くの文章も書いた作家(丸谷氏のことです)が食事描写として、ゴテゴテしたカタログのような羅列ではなく、シンプルで庶民的(だが湯気が出るように熱々)な食い物をガツガツかっこむ姿を良しとしたのが面白い。美辞麗句で飾り立てるより、文章の極意は「達意」(きちんと意味が通じること)だと説いた先生らしいとも言える。
 そんなわけで、御自身の食を語った文章でも、賛辞より悪口のほうが冴え渡り、記憶に焼きつけられている。『男ごころ』(新潮文庫)に収録された、国鉄時代の食堂車の鰻定食が酷かったという文章。白ごはんの上にウナギの蒲焼きが乗り、タレが白飯に染み渡るという食べ物だが、
「御飯が一番大事であることはみなさん御承知の通り」
鰻飯(お重かな?)だけど一番大事なのはウナギじゃなくて御飯、と初手からヒネリつつ「そんなの皆さん知ってますよね?」的に話を進めるレトリックから
「ところが、その炊き方がなつてゐないんですね。グチヤグチヤである。じつにまづい。それは例の国会図書館の食堂の、白い皿の上にあつたものと同系統のまづさであつた」
「例の」と言われても該当する文章がないのだが、「国会図書館の食堂みたいな」という分類だけで(ああ、なんか官僚的で索漠としてるんだな)と、まずさのベクトルが示唆される。「白い皿の上にあったもの」というモノ化。
「京都で行つた料理屋のうちの一つ、河久の若大将にこの話をすると、それはとぎ方のせいぢやないか、手でではなく機械で研ぐので、扱ひが乱暴になつて、米が砕けてしまふため、味が落ちるのぢやないか、とのことであつた。(中略)
 若大将さらにつづけていはく、米はたくさん炊くほうがおいしいと言ひますが、あれにも程度がありましてね。二合よりは一升のほうがおいしいし、一升よりは二升のほうがおいしい。しかし、それ以上は駄目なので、うちは二升までしか炊きません。もちろん手を使つてとぎます。
 言はれて見ればごく当たり前のかふいうことをしないで、機械じかけでとぎ、三升も四升も(あるいはもつとたくさん)一度に炊くから、ああいふ恐しいものが出来上がるのですね。
(中略)
 もちろん御飯だけがいけないわけではなく、蒲焼それ自体も生な感じで、なまぐさくて、気味が悪かつた。これだけひどい鰻飯を食べたことは今まで…一度ありましたね。十年以上前、これも食堂車
(中略)で口にした、鰻定食である。注文するとき、その記憶がよみがへつたため、あわててもう一品、魚フライ定食も頼んだのです」
その御飯がどんなか、なんでそうなるのか、理詰めで攻める。名人の談話を引用し、どうすれば美味しく炊けるかとイメージをふくらましたうえで、それをひっくり返す。「こんなの今まで…」という紋切り型を「いや、一度あった」とヒネり、「やっぱり食堂車だった」国会図書館の食堂と同じ類似による強調・かつダメ押し。あの手この手の技法を駆使し「兎に角まずさを過たず伝えたい」という気迫(しつっこさ)が師匠である。
 しかし、イアン・フレミング流の?技が冴えるのは、保険だったはずの魚フライ定食・海老とワカサギと鱈のフライの描写だ。
「が、これもいけなかつた。
 悪口を書くのがもういやになつたから、これは詳しく言はないで、結論だけにする。まづい。

(強調は引用者)
 
   *   *   *

 「小説とは、ゴシップの領域の拡大であり、演劇とはスキャンダルの領域の拡大である、
 とヴァージニア・ウルフは書いてゐた。
 まるで一突きで急所をゑぐつたやうな、鮮やかな指摘である」
(丸谷才一『遊び時間』)

 ミステリに造詣が深く、食べ物を愛する丸谷先生は、いわゆる女流文学(閨秀文学などとも言いましたなあ)についても「文章を書かせたら女性のほうが上手いのは当然」くらいの態度で臨んでいた。ことさらフェミニストというわけではない。敗戦時に学生で「これで兵隊に取られずに済む」と喜んだという、いわば昔のひとだから、今から見れば男尊女卑的なところもあったろう。聖人化するつもりはない。ただ、日本の平安文学と近代英文学が専門領域なら当然の見識だった。
 さらに自身が小説の師と仰いだのがジェイムズ・ジョイスで、彼と並んで「意識の流れ」の技法で知られたのがヴァージニア・ウルフだったから、そう言及はないにせよ「当然」一目は置いていただろう。
 関心は持ちつつ、なかなか手が出なかった彼女の作品(怖かったわけではないです)を読む機会に恵まれた。
ヴァージニア・ウルフ自分ひとりの部屋』(平凡社ライブラリー)(外部サイト)
 1928年に行なわれた、二つの講演を編集したものらしい。〈女性と小説〉という題で依頼されたはずの講演は、どんどん横滑りして第一章の半ばでもう、こんな描写に行き当たる。
「夕食が始まりました。スープを召し上がれ。肉汁で作った、透き通ったスープでした。空想を掻き立てるものは何もありません。透明なスープの底にお皿の模様も見えそうでしたが、模様はなく、無地のお皿でした」
「次に牛肉と青野菜とジャガイモの付け合わせが来ました。その質素な三位一体は、泥でぬかるんだ市場にたたずむ牛の尻とか、縮れて端が黄色くなった芽キャベツとか、値引き交渉とか、月曜の朝に女たちが手提げを片手に歩いている光景を連想させました」
 自分も腹が立ったら「自分の鼻くそで窒息してしまえばいいのに」とか「カシミアのセーターの背中にびっしりオナモミが引っつけ」程度のことは考えたり言ったりするけど、もう足元にも及ばない。
「次にビスケットとチーズが来て、水差しが何度も回されました。ビスケットというのはパサついているものであり、それは芯までビスケットそのものでした」
 極めつけはプルーン。「無慈悲な野菜(果物ではありません)」「守銭奴の心根のように筋張っている」「八十年間ワインと暖房を倹約してなお貧者に分け与えようとしない、そんな守銭奴の血管を流れる血液のように汁気がない」いちど守銭奴と言ってから、いいや、ただの守銭奴じゃなくて八十年間…とイメージをふくらませる畳み掛けのくどさもさることながら、「プルーンをも喜んでいただく寛容な人もいると思いいたさねばなりません」のイヤミの強烈さ。

 だが、この語彙力の乱打と言うべきメシマズ描写に「量はたっぷりあり、炭鉱夫はきっとこれよりわずかな食事にしかありつけないことを思えば、食事に文句を言う筋合いはありません」という一節が混入すると、もう笑ってはいられない。なぜ語り手は、こんな「泥でぬかるんだ市場にたたずむ牛の尻」のように惨めで「無地のお皿に透明なスープ」回されるのは水差しという貧相な夕食を摂る羽目になっているのか。
 それは、女性が男性と同じように大学に通うための基金自体きわめて貧弱で、作家がゲストとして分け前に預かる女子寮の食事などに、とても予算を割くことができなかったからだ。1860年代から60年かけて、女子の高等教育のために、家事や子育ての間をぬって女性たちが集めることが出来た資金は3万ポンド。 「掻き集めたお金は一ペニーにいたるまでカレッジ建設のために取っておかねばならなかった。
 快適な設備は後回しにする以外なかった」
(脚注より)
 男性の潤沢な寄付によって造られた男子向けの大学の図書館に、女性は立ち入ることが出来ない。芝生すら、横切ろうとすれば制止される。もう笑ってはいられない。

   *   *   *

 実は本書=この講演録の結論は冒頭ですでに先取りされている。
女性が小説を書こうと思うなら、お金と自分ひとりの部屋を持たねばならない
 だが、このシンプルな結論を過たず伝えるため、彼女は自身を取りまく世界をことごとく語り尽くそうとする。夕食がまずいとなれば「どうまずいか」牛の尻や守銭奴の八十年を持ち出して、くどいくらいの説得を試みる。
 それはまるで、あらゆることは「分かりやすく」「伝わりやすく」要約してしまったら「うん、それなら知ってる」「もう分かってるよ」と素通りされてしまうと危惧するかのようだ。実際、そうして彼女が「正しく」伝えようと繰り広げる比喩は(値引き交渉とか)いちいち心に響き、90年前の思惟と思索が一つ一つ、痛々しいくらい「それな」と現代の吾々に突き刺さる。

 世の男性にとって、人類の半分=つまり女性を無条件で自分より劣った存在と考えることは、自分の姿が二倍に大きく見える魔法の鏡を手に入れたに等しいと著者は看破する。根底にあるのは、他人より優越していないと安心できない・自我を保てないという呪いだ。その呪いは、人類の半分を「安くして」自己の優越を確認すれば解けるかといえば、そうではない。富と権力を手にした者が懐中にハゲタカを飼わねばならず、より多くの所有や獲得をという渇望に、自らの内臓をついばまれる様子を彼女は見て取る。
 そして(もしくは「だがしかし」)こうした洞察も、安定した収入がなければ得られないと著者は説く。財布から10シリング出すたび心配しなければならないこと、家賃や食費を確保するため(作家の場合、己の節を曲げて文章書きと雑用とが混在した)薄い稼ぎの労働をしなければならないことが、どれほど己を卑屈にし、思考を妨げるか。弱者は弱者で、生活の窮迫に心を喰われてしまうのだ。
 わたしたちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾られねばならないという(國分功一郎『暇と退屈の倫理学』)。戦中戦後をくぐり抜け、高度成長期まで辿り着けた(ついでに言えば男性の)丸谷先生は、パンに事欠かない境遇を手に入れたうえで、食堂車の定食にバラを求めることが出来た。だが、ヴァージニア・ウルフが描いた90年前の世界と、吾々が暮らす今の世界は、バラを求める者はパンにも事欠き、パンに事欠かない者はバラを求めようとしない(ハゲタカに内臓を喰われ続ける)、そんな二極化の地獄ではないか。
 ここまでのまとめ「搾取の構造が思考まで妨げるという指摘には男女格差の問題を越えた射程がある」ここからのまとめ「とはいえ本書の眼目は男女格差」

 けれど、ことを人類の残り半分まで拡張し、持てる者と持たざる者の対立に帰してしまうことは「いかに女性が不当な地位に置かれてきたか」という本書の訴えを「男だってつらい」と強奪することになりかねない。J.K.ローリング(女性)は『ハリー・ポッター』第一作を生活保護を受けながら書いたが、デビュー作『キャリー』を子供が寝静まった深夜の台所で書いたスティーヴン・キング(男性)だって「自分ひとりの部屋」を持ってなかった?いやいやいや。それで16世紀のロンドンで、女性が詩人や劇作家になることが制度的に不可能だった(後年の研究では異論もあるようです)その不公正まで帳消しには出来ない。
 いかに女性が自分の人生を、思索を、執筆や表現の機会を許されなかったか。プルーンのまずさと対峙した時と同様、著者はもう、馬の魂が冴えるまでと言わんばかりに書き尽くす。すでに見たように、その文章はあまりに「取れ高が良い」。拾えるところが多すぎるので、今こそ言うべきかも知れない。「結論だけにする。(男女格差は)ひどい
 思い切り端折ったけれど、それらは既に克服された、今さら読む必要のない昔話…でもない。たとえば、フローベール(ボヴァリー夫人)やシェイクスピア(ロザリンドクレオパトラハーマイオニー)、古代ギリシャ悲劇(カッサンドラメディアアンティゴネー)まで遡った、文学は堂々たる主人公として女性「キャラ」を称揚するのに現実世界の女性は二級市民か奴隷扱いだという指摘はどうだろう。今この国の漫画やアニメでは、女子高生が南極に行き、バンドを組み、鹿肉やフォアグラを調理し、キャンプに行き、もう少し年上で飲酒ができるヒロインたちは居酒屋めぐりをし、なんなら女子中学生が世界を救う(それも毎年)。
 かく言う自分も、女子高生がバンドやってて人類を救う話を描いてますが(クリックすると電子書籍の販売ページに飛びます)
 それらの作品に決して侮れない名作・佳作があることは否定しない(オタクだから)。
 だがそれをもって「ほら見ろ、この国では女性が尊重されてるんだ」などとは、とても言えまい。2003年に政府が立てた「2020年までに女性管理職の割合を30%にする」という目標は今年3月の時点で外資系企業17%・国内企業8%の達成率で「目標を2030年に先延ばしする」とアナウンスされたという。ここで「それは女性に能力がないからだ」と言うひとは、この文章を「世の男性にとって」のあたりから読み直すべきだろう。

 そんなわけで、『自分ひとりの部屋』は90年前の講演録でありながら、現在にビシビシ突き刺さる。逆にそれは恵まれた体験ではないか。現在がどうなってるかなど想定もせずに書かれた文章を読んで、それを現在に適用するとき、読み手の脳のシナプスは素晴らしく活性化しているに違いないのだから。
女性が小説を書こうと思うなら、お金と自分ひとりの部屋を持たねばならない
 このテーゼを証明するために、著者はあらゆる故事を引き、景色を描写し、比喩に比喩を重ねる。逆にそれは、要は「女性に、自分の人生を持てるだけの収入と時間を与えよ」というテーゼを門にして、扉を開く鍵にして、社会とは何か・表現とは何か・自由とは・人生とは何か、およそ創作者が知っておくべき万象にアクセスできるということだ。とくに創作について得られる知見の多さは強調したい。文筆によって稼ぐとはどういうことか。作家にとっての誠実さとは。詩と小説の違いは。どこまで作者は作品に影を落とすべきか。なんなら百合について(!)。語彙の多さだけでも、大いに刺激され、勉強になるだろう。
 繰り返し言うが、本書の「取れ高」は異様に良い。それにアクセスするためなら、著者の「フェミニスト的」主張くらい飲み込みなさいな。存外、飲み終えたら「なんだ、自分もフェミニストだ」と気がつけるかも知れない。
 
いつまでか分からないけど『自分ひとりの部屋』電子書籍が値引きで大変オトクです!

怪物はどこにいる〜宮部みゆき『火車』(2020.06.21)

 犯罪を犯さなくてすむのは賢い者で、愚かな者は犯す羽目になる、
 あるいはいつそ、運のいい者は犯罪を犯さず、運の悪い者は犯罪者になる、と言ひたいかのやうだ。

  (P.D.ジェイムズ『罪なき血』書評―丸谷才一『ウナギと山芋』中公文庫より。強調は引用者)

   *   *   *

 お店の中で小さな子供が「○○がほしい」と駄々をこね、泣き声をあげる。実際に見ることは少ないが、絶無でもない光景だ。けれど、その子供は一味違った。まだ言葉も覚えたてと思しき幼児が
(その商品を)買いたい、買いたいー!
と泣き喚いていたのだ。おお、すごいな!と感心してしまった。その齢で既に物を「買うこと」自体の快感を知っているのか、末恐ろしい子だ!と思ったのだ。今にして思えば幼さなすぎて「(お母さんが)買って」もしくは(自分は)買ってほしい」の主客を純粋に(文法的に)取り違えただけかも知れないが
 物やサービス=商品を「買うこと」は、それ自体で快楽だ。購入した商品の使用価値や、それを所有することで示せるステータス的な価値以前に、お金を払うこと自体に癒やしや救いとすら言える快楽がある。無理もない話だと思う。財布からお金を出して、商品を買うとは、商品を供給する人や社会とつながることだからだ。
 「人は一人では生きていけない」などと、さも素晴らしいことのように言われるが、「人は愛なしでは生きていけないが、問題は、にも関わらず多くの人たちが愛なしに生きねばならないことだという言葉もある(出典不詳)。部族や村落の共同体が崩壊した近現代、日々お金を払い何かを購入することで、ようやく「一人じゃない」生きかたが出来る者たちもいた(いる)のだ。TwitterやFacebook・InstagramといったSNSがない時代は、尚更そうだったかも知れない。
 貨幣・消費と社会については掘り下げるとキリがないので、ここで止めます(マクラだし…)

 「買いたい」と泣く子供に衝撃を受けたのと、宮部みゆき火車』(新潮文庫)を読んだのは、どちらが先だったろうか。当人の経済状況では本来できない多額の買い物を、後払いのローンでしてしまう「カード破産」をモチーフにした1992年の社会派ミステリ小説だ。
 投票しようにも誰もマトモな候補者がいない、などと言われる東京都知事選で「実はいるマトモな候補者」宇都宮けんじ氏をモデルにした人物が同作に登場していたと知り、数十年ぶりに読み返してみた。多額の買い物で…と言っても、それが本当に地獄行きの車(火車。仏罰で死に瀕した平清盛を迎えにきたやつだ)に変じるのは、金利が金利を生み数百万・数千万にもなる消費者金融のカラクリのせいで、それを是正すべく闘い続けていたのが、作品の助言者として献辞も捧げられている弁護士の宇都宮健児氏であった。のみならず、これまでにも都知事選で百万単位の票を集め次点となっている、知る人の間では有名人なのだ。
 つまり今回の日記「やーマトモな候補者がいない」とか逆に「野党の候補が割れちゃったよー」とか言ってないで、いいから宇都宮氏に入れなさいよと売り込む狙いが見え見えなのですが。売り込みたくもなるでしょう。2016年、アメリカ合衆国・大統領選挙の有権者でない世界中の人々が「トランプだけはやめて」と願ったように、今「頼むよ都の有権者」と歯ぎしりしている他道府県の住民や、都に在住しているのに選挙権を持たない人々は少なくないはずなのだ。※当方・神奈川県在住。
 商品の購入によって社会とつながる…という話で始まった今回の日記ですが、投票は、ロハだから。買い物とは別の仕方で社会と関わり・つながれる重要な機会だから。お願いしますよ、ほんとに。

   *   *   *

 さて、以下は余談である。
 『火車』が発表され、絶賛された頃「しかし…」と苦言を呈する評があった。事件を追いかける刑事の、まだ10歳の息子が実は養子で、そのことを当人に告げていない(しかも「12歳になったら教えような」と約束しあっていた伴侶は事故で先立っている)というエピソードは、謎解きに寄与しない不要なものではないかという主旨の批判だ。
 そうだろうか、と僕は思った。むしろ複数の点で、この小さな秘密こそが『火車』を小説として駆動させるために不可欠な、心臓部の歯車だというのが僕の見立てだ。

 これは再読して見直したことだが、まずひとつ。本篇では養子の事情が、こう語られる。
「智は本間と千鶴子の実子ではない。まだ乳飲み子のときに、養子にもらった子供だ。
 特別養子制度という、子供の産みの親の姓名を戸籍上に記載しない制度が認められる前のことだった」

 (強調は引用者)
制度が認められた後であれば、実子でないことを告げねばと悩む必要もなかったことが示唆される。この小さな「制度の遅れ」エピソードは『火車』という小説全体を凝縮した、いわば雛形なのではないか。
 すでにサラッと見たとおり、本作の主題は(宇都宮弁護士などの尽力により)法が整備され是正される「前の」消費者金融が、人を破滅させるカラクリだ。メインテーマだけではない。
・法的には返済責任がない家族にまで圧をあたえる取り立て業者の脱法的な手口。
・相続放棄によって親の借金を負わずに済むはずの制度、が機能しないケース。
・犬を飼えないはずの団地の子供が犬を飼い、ペット飼育に制限がないはずの戸建て家持ちの子供が犬を飼えないという皮肉から生じる軋轢。
ザルの目を細かくすれば、もっと拾える。刑事とはいえ休職中で手帳を振りかざせない主人公が私的に捜査を進めるための抜け道まで含めて、『火車』はそれ自体「バグが仕様」である社会・システムの穴・法治主義のセキュリティホールが、人々を不幸に・ついには地獄にまで落とす、巨大な歯車装置であるかのようだ。
 制度のバグに翻弄され、逆に制度をハッキングすることで生き延びようとする犯人の行動もまた、既存のミステリとは一線を画していた。『火車』には別の文脈で「脱皮を繰り返すヘビ」という喩えが出てくるが、追う側からは不可解と思えた犯人の行動が、当初の計画Aが失敗してプランBに乗り換え、またプランAに戻るというイレギュラー処理だった(だから把握されにくかった)と明かされる終盤は、まさに身をよじらせながら脱皮するヘビのように壮絶で、読者の背筋を凍らせた。
 一羽の蝶の羽ばたきが、地球の裏側の気候を変えるように、犯人すらコントロールできないカオスとして生成される犯罪。それは犯人が緻密な完全犯罪計画を組み上げ実行し、それを探偵役が現場から遡り逆算・解体(リバース・エンジニアリング)に成功したとき事件が自動的に解決する、(古典的な情報伝達モデルを思わせる)古き良きミステリの終焉を告げていた。大げさかも知れないが。

 「養子の件」はさらに、物語の決定的な局面で主人公の態度を決定する。
 念のため確認しておくが、親子に血の繋がりのないことは、罪でも咎でもない。だが既に見たように、法的には何の問題もないことが社会的・世間的には「傷」になる。それはもう、社会哲学や倫理学の問題だ(5月31日の日記参照)。「痛くもない腹を探られる」と「脛に傷を持つ」の中間で揺らぐ主人公は、社会の「バグ(仕様)」のせいで翻弄される苦しみを、身を持って知っている。
 だから、ついに犯人の所業の全容を知った彼は「許せない」「非道い奴だ」と断罪するのでも「犯人もまた社会の犠牲者なのだ」と免罪してみせるのでもなく、心の中で告げるのだ。
もう、よそうやと。
 血縁でないことを傷として抱える刑事と、血縁ゆえに家族の借財から逃れられない犯人の、皮肉な対比。
 今回の日記、すでに『火車』のいわゆるネタバレをしまくっているのだけど、別に心配してはいない。「ここがこの小説のキモ」と思ってる人は、たぶんそんなに居ないだろうと思うからだ。しかし、こと自分に限っては『火車』の、他の宮部作品を含めても、最も印象に残った言葉はこのもう、よそうやだった。
 
 …初期の宮部作品には、犯罪や悪・怪物的なものを自身とまったく無縁なものと考えない、一方まちがえば自身も悪に取り込まれ、怪物になりかねないという共感や共鳴があったように思われる。それは恐怖でもあり、真っ当な主人公たちが、悪の誘惑から懸命に逃れようとするにしても、だ。
 人情味あふれつつも正義の立場を揺るがせない探偵や刑事が犯人に「同情」してみせるのとは違う、同類意識とは言わないまでも「共鳴」や「共感」の架け橋をつなぐ、「養子の件」は物語に不可欠のパーツだった。

 しかし後年、この「怪物を自身も内包している自覚」は宮部作品から失なわれていく。
 直木賞作品となった『理由』や、大作『模倣犯』では、もはや怪物は理解も共鳴も不可能なものとして、吾々の外部にある。『模倣犯』のラストで、登場人物の一人が「お前たちのような冷酷な者は、私たち真っ当な暮らしを営む人間と同じ地面に立ってはいないのだ」と犯人を断罪する場面は象徴的だった。
 そうして僕は宮部作品から離れた。村上春樹が『ねじまき鳥クロニクル』や『海辺のカフカ』で、なにか邪悪なものを金属バットなどで暴力的に排除することを「必要なこと」として描くのに違和感を憶えたのと、同じ時期だったと思う。(春樹氏とのつきあいは、離れたりまた近寄ったりで続いているが…)

   *   *   *

 【まとめ。『火車』は制度の穴・法治主義のセキュリティホール・社会のバグすら仕様として作動し人々の暮らしを破壊する怪物のようなシステムと、それに呑み込まれ自らも怪物と化した者の「他人事ではない」悲劇であり恐怖譚である。(しかし後年の作品は「まともな吾々」と「怪物」を切り離してしまう)。】

 四半世紀ぶりの再読で『火車』には、後年の「吾々」と「怪物」の切り離しを促す断絶も、内包されているように思われた。その反面、宇都宮弁護士などの奮闘があるにも関わらず、法治主義のバグ・社会のセキュリティホールは極地のオゾンホールのように拡大してもいる。カードローンに苦しむのは自分探しや変身願望に捕らわれた人たちという通念はとうに消え失せ、ふつうに暮らしたい・生き延びたいと思うだけで火車に追い立てられる社会に、この国は変じてしまった。
 「人を怪物として再生産してしまう巨大な『火車』マシーン」と対決するヒントが、宮部氏ほどの優れたストーリーテラーの近作に期待できないとしたら(や、近作は拝読しておらんのですが)それはとても残念なことだ。

 とはいえ。それでもなお。『火車』には恐ろしいほどの迫力と、ページをめくる手を止めさせないリーダビリティがある。人は(とゆうか自分は)なぜ好きこのんで、こんな怖い話を読みたがるのだろうと、ページを閉じて街角で考えこんでしまうほどに。
 なんだって人は、怖い話を見聞きしたがるのだろう。それは世界が、森の中でいつ毒の棘に刺され命を落とすか分からない太古から、気づけば数千万円の負債に巻き込まれかねない現代まで、そして時代がどう変わろうと最終的に老いて病んで世を去らねばならない人生そのものが、無情で恐ろしい巨大機械だから、かも知れない。物語を通して人は、邪悪で巨大なものの姿を垣間見る。そこで自身を悪と切り離し安心するか、自身に内包されている悪や死と向き合うかで、その後はまったく変わってくるのだが…
 『火車』の結末、ついに犯人に手が届いた主人公の刑事は問いかける。教えてほしい、君は何物なのかと。その内心には、どんな恐怖や憤怒が渦巻いているのかと。

 She said "I know what it's like to be dead" (彼女は言う、死ぬってどんな風だか知ってると)
 "I know what it is to be sad" (悲しいってどんな気持ちだか知っていると)
 And she's making me feel like I've never been born
 (そして彼女は僕を、生まれてこなかったような気持ちにさせる)
  ("She said she said" The Beatles)
 
 『火車』なぜかAmazonのリンクが貼れないので、丸谷先生の『ウナギと山芋』貼っておきますね。今回の日記「『罪なき血』に見るイギリス探偵小説の終焉」説に多くを負っています。しかし、こんなしんどい日記になるとは(先週は)思わなかった…

寓話としてのSF〜『ハオ・ジンファン短篇集』(2020.06.14)

 Shift-JISでは「ハオ」に該当する漢字が出ないため片仮名表記とします
 梶尾真治(カジシン)だったと思うが、森下一仁だったかも知れない。たぶん1980年代前半のSFに「ちり紙交換」をモチーフにした短篇があった。「ご家庭でご不要になりました古新聞・古雑誌・その他ボロきれなどございましたら、どうかお気軽にちり紙交換に申しつけください」と録音テープをスピーカーで流しながら、街を(を、だったかも知れない…当時の意識としては)巡回する軽トラックが居たのだ。文言のとおり、古新聞などを出すと引き換えにロール式のトイレットペーパーを一つとか二つとか呉れる。もっと昔は、四角い「落し紙」だったのだろう。
 小説では近未来、社会で用済みとされた高齢者(当時は「老人」と呼ばれた)が自発的に巡回の処理車に身を委ね、遺族は「処理」され一束のちり紙と化した身内の亡骸を受け取る。人間が選別されるディストピアを、身も蓋もなく廃品回収になぞらえたわけだ。小説では「処理」されたての紙は、四角い落し紙だったと思う。暗澹たる設定だが、どこかノスタルジックな抒情を感じさせる作品だった。
 誰が作者かすら詳らかでない(本当にすみません)何十年も前の短篇を思い出したのは、例によってニュースのせいだ。コロナ禍にともなう医療崩壊の可能性を踏まえて、どこだかの医師が高齢者向けの「私が受ける治療の機会を若者に譲ってください」と宣言するカードを提唱したという。そりゃあ思い出しますよね、高齢者が自発的に「処理」される話。

 無論、思い出されるのは「姥捨て山」の民話でもいい。80年代初頭に短篇を書いた作者も、かかる時代の到来を真剣に予測し憂慮したわけではないだろう。それでもSFは、外挿法(エクストラポレーション)と言って、書かれた当時=現代の社会問題を、遠い未来や銀河の他の惑星の状況に落とし込む手法を身上としている。らしい。正直わからない。
 SFに限らず、物語は物語それ自体の完成度に奉仕するものであり、社会に物申してるか否かが評価の基準ではないだろう。
 とはいえ、物語の形をとることで初めて伝わりやすく対象化される思想や問題提起もある。
 もっと下世話な観点で考えると、ストーリー展開の面白さ・描写の巧みさやキャラクターの魅力といった、物語の「良さ」を構成する要素には、当然「社会問題をビビッドに(あるいは象徴的に)反映しており、なんとも考えさせられる」も含まれるはずだ。物語それ自体の完成度を追求した結果、社会性を帯びても不自然ではない。
 しかしやっぱり「今の社会と引き比べ、身につまされる思いをさせる」ことばかりを狙うのが創作でもないだろう。読み手にしても、そうした効能ばかりを求めていると自分が不純に思えてくる。単に同じコード進行(物語から教訓を引き出し、身につまされる)ばかりだと食べ飽きる、ということかも知れないが。

 …なぁんて、うだうだした懐疑を「なに言ってんの?」「逆に政治や社会性を持ち込まない○○(芸術でも、何でも)って何なん?」とねじ伏せるような迫力に満ちた短篇が「北京 折りたたみの都市」だ。
 中国系アメリカ人のテッド・チャンケン・リュウに続き、中国本土からも『三体』の劉慈欣などが現れ進境いちじるしい中国(系)SF。早川書房から出たアンソロジー『折りたたみ北京』の表題作でもある。
 
 著者はハオ・ジンファン(冒頭にしるしたとおり本サイトの形式では漢字が表示できないので、不本意ですが片仮名表記とさせていただきます)。これまた不本意なことにハヤカワのアンソロジーは読みそびれていたが(すみません)その単著を読む機会に恵まれた。
ハオ・ジンファン短篇集(及川茜訳/白水社/2019年)(外部サイト)
 で「北京 折りたたみの都市」。これが凄い。ヒューゴー賞。映画化も予定されているという。たしかに、人口問題を解決するため(?)都市を三つの階層に分け、時間区切りで「休み」の階層を「折りたたみ」交替制で運用するスペクタクルは、巨大スクリーン向きだ。のっけから酸辣粉や山積みのナツメ・胡桃を供する露店が登場し、焼きそばに焼きビーフン・回鍋肉に水煮牛肉といった庶民の食事から、富裕階層の豪華なパーティーまで、いや、食べ物ばかりでなく生活描写も全般にわたって「映える」。
 しかし本作の凄味は、生活感たっぷりに活写される各階層の格差だ。
 これは現実の話(比喩のため話を一旦、現実に戻します)、たとえば旅行。一番速い新幹線からハイヤーに乗り継いで観光スポットを巡り、予約の必要な名店でコース料理に舌鼓を打つのと、一番安い深夜バスで現地入り・コンビニの無料Wi-Fiを頼みに徒歩か地下鉄・食事も何食かは現地スーパーの値引き弁当みたいな旅行は、同じ土地を訪ねても「レイヤーが違う」。実際には両者はしばしば混じり合い、境界も定かではないが…
 
 折りたたみ式の北京は、文字どおりにレイヤーが違う。貨幣の価値も人命の重みも、三つの階層ではドラスティックに異なる。その違いをリアルに描き分けるとともに、まさに物理的なレイヤーとして断絶させることで強調したのは、SFならではの手柄だろう。SFえらい。SFすごい。
 問題は、ここで描出された格差のほうは、とても「SFならでは」の誇張に思えないところだ。エリートが豊かな暮らしを享受する第一階層の富が、実は最底辺の第三階層から・それも時間や人生を収奪することで得られていると示唆するところまで含めて、この物語は(未来どころか)最初にWebに発表された2012年の現実そのものだったし、2020年の今はますます現実そのものだろう。とくに日本では

 SFといえば(ここで話はまた少し逸れる)昔からの定番に「人類が一定の発展段階に達したとき…」というネタがある。
 最もよく知られた例は『2001年宇宙の旅』だろうか。宇宙の彼方からやってきた高度な知的存在が、月に強力な磁力を発する石板を埋めておく。それを人類が掘り出し、太陽の光を受けると信号を発する。地球にいた猿たちが進化し、月面に埋まった石板を掘り出す=宇宙旅行ができるテクノロジーを手に入れたと分かる仕掛けだ。
 『2001年』だと件の知的存在は、人類は次の段階に進化する準備が出来たと判定するが、他の作品ではそうとは限らない。宇宙に進出する能力を手にしてなお好戦的であり続ける人類は、宇宙全体の脅威だとして、遥かに高度な文明をもつ存在に罰せられ、地球から外に出られなくなってしまう。そんなSFも多く書かれている。
 21世紀、正確には2010年を過ぎたあたりから、人類には(宇宙からの外的な攻撃がなくても)内側から自壊するブレーキが備わっているのではないか、そんな疑念や諦念にとらわれるようになった。物体が光速に近づくと重量が増して加速できなくなり、とうとう光速を越えられないように。時代が進むほど社会はより民主的になり、公平性も増していくと思われたものが「これ以上は進めないよう自爆装置が内蔵されてます」と言わんばかりに崩壊するさまを見てきた十年(とくにこの五年)だった。
 「北京 折りたたみの都市」が未来どころか現代・現在に見えるのも、そのせいかも知れない…どんな暗い未来を予想しようと、現実が未来に追いついてしまい、描こうとする未来を現実の救いのなさに引き寄せ、越えられなくしてしまうのだ、なんて(それこそ)SF的なことを考えたくもなる。

 短篇集に収められた七つの作品は、それぞれ方向性も「身につまされ」度も違う。これなら昭和の日本のSFとそう変わらないなという話もある(だからダメというわけではないが)。
 そんな中、時代に追いつかれる形で「北京」に匹敵する痛烈さを獲得しているのが「繁華を慕って」だ。
 「弦の調べ」と二部作をなす作品で、宇宙からの侵略を描いている。鉱物資源が目当てで地球を収奪しに来る異星人もまたSFの定番だろうが、もうひとつ「芸術」も奪いに来たというヒネリが効いている。自分たちより圧倒的に優位に立つ存在として異星人を崇め、自らを貶めて魂を収奪されるジェイムズ・ティプトリー・Jrの傑作「そして目覚めると、私はこの肌寒い丘の上にいた」とも通じるテーマだが、こちらはもっと即物的だ。
 
 というのも鋼鉄の身体をもつ異星人たちはナチスが美術品を略奪するように、貪欲に芸術を求める。劇場やコンサートホールは攻撃されず、特におメガネにかなった芸術家は異星人が造った楽園に隔離され、安全も創作活動も保証される。このため人々はこぞって自らや、自分の子供を芸術家にしたがるのだ。もちろん楽園は檻であり、芸術家として成功するためには異星人の侵略に協力する必要がある。自分の才能が本物であったと信じたい、死んだ後でもいいから正当に評価されたいと苦悶する主人公と、広場に集まる避難者・抗議者たちが対比される場面は、最近われわれが見た光景を思い出させないか。
おまえのためらいは連中のためだろうが、連中とおまえに何の関係があるのだ。
 言っておくが、やつらのために考えたところで、やつらはそれに感謝などしないぞ
 コロナ禍による緊急事態宣言・自粛ムードの中、ネットには「芸術家」たちの声が溢れた。
 劇場などの閉鎖により、直接に仕事を奪われた役者やミュージシャンだけではない。「外出自粛が奨励される今だからこそ、家で楽しめる電子書籍やオンラインコミックを奨励しよう(と言いながら自作をアピールする)」「今までに描いたイラストの代表作4枚をアップロードして、次の人にバトンをつなげよう」中には「人々の心を和ませるため、旧作を再掲示しよう」なんて文言もあった。いやそれ、仮にも表現者を自称するものが、そんな(自己利益のためなのが見え見えなのに人々に恩を着せるような)杜撰な言葉選びでいいの?
 大急ぎで新作を造り披露する者もあれば(僕もその一人だったが)、新作はないけれど旧作を見て私を芸術家だと認めてくださいと乞う人たちもいた。
 未来が脅かされたように感じられた時だからこそ、自分は表現者でいたい、アーティストとしての自己を全うしたい、という気持ちは痛いほど分かる。だが、広場に集まる避難者・抗議者たちとの断絶の可能性に、バトンを廻しあう「芸術家」たちは、どれくらい自覚的だったろう?
 大衆は芸術を理解せずアーティストを憎んでおり、むしろ足を滑らせ失敗するのを心待ちにしているのだ、という口説き文句は、異星人の口を借りた吾々(創作者)自身の内声ではないか。実際に、東京都が都の望む「芸術」作品の作り手を募集して、生活の資を求めるクリエイターたちが殺到する事例もあった。が、そうしたあからさまな事例に限らず、さまざまな局面で(芸術家としての)吾々は、3メートルの高さから人を見下す銀色の異星人に「魂を売れ」と持ちかけられているのではないか。
 あまり普遍性のない「痛烈さ」だし、作者もそこまで考えて書いたことではないかも知れない。だが時に物語は時の因果をねじ曲げ、現実のほうを引き寄せる。先週は、ひょっとしたら「政治的でありたくない」という願いが、もっとも政治的な反抗になるかも知れない状況について考えた。今週は逆に、政治から切り離され純粋に「芸術家」でいたいという願いが、もっとも政治的な奸計の手先に人を変えてしまう物語を前に、考え込んでいる。
 来週は、もう少し(あるいはものすごく)気楽な話をしたいものです。
  
 アーシュラ・K・ル=グウィン(もちろん優れたSF作家だ)の評論集『夜の言葉』に収録された「魂のなかのスターリン」は、検閲からの自由を訴えていたはずの作家が、商業主義には容易く魂を売り渡してしまう危険を説く。のだが、6/14現在のこの古書価格は高すぎますね…

映画館が滅びた世界〜『ようこそ、革命シネマへ』(2020.06.07)

 コロナ禍はまだ続いている。
 第二波の到来が危ぶまれているが、実際には、この国においては第一波が終わってすらいないはずだ。緊急事態宣言という名の自粛の強要は、それに伴う補償をしたくない政府が経済をなんとかしろという突き上げに音を上げ、実際の収束に関係なく終わるだろう…そんな悲観的な予想は(経済どころか)検察人事にともなう批判に耐えかねた首相が、国会から有権者の目を逸らすため前倒し解除に踏み切るという、斜め下の展開で覆された。
 映画で言うと『ジョーズ』の、例年どおり海開きをして観光客を呼びよせるため、専門家の警告を無視して「もうサメは退治した。心配ない」と発表した市長が、どうしても頭に浮かぶ。『ジョーズ』で大成功したスティーブン・スピルバーグは後年、H.G.ウェルズの古典『宇宙戦争』をトム・クルーズ主演で映画化したが、こちらでは火星から襲来し人類を蹂躙しつくしたエイリアンが最後、地球土着のウィルスに感染し、あっけなく全滅する。吾々は悲観と楽観、「このままではジョーズの入れ食いだ」と「アジアは欧米ほどひどくない。夏にはウィルスも下火になるだろう」二本のスピルバーグ作品の間で板挟みになっている。
 この時代を皮肉るマクラって必要なの?と自分でも思ったりしますが「こういう時代だった」という記録として後々むしろ有用かも知れないので続けます
 映画館の営業再開も、純粋に嬉しい・よくこの二ヶ月を持ちこたえてくれたという気持ちと、時期尚早ではないかという不安、歓迎と懸念で板挟みなのは自分だけではないだろう。懸念どおり時期尚早だったとしたら、ダメージの「第二波」は本当に取り返しがつかないかも知れない。この時期、映画を見る・映画館に足を運ぶことは、皮肉なことに自粛直前の四月よりなお強く「これが最後かも知れないから」という焦りを伴っている(気がしないでもない)。
 渋谷のユーロスペースで上映の始まったドキュメンタリー『ようこそ、革命シネマへ』は、そんな歓迎と懸念=まとめて言えば映画を慕う気持ちを再確認するのに相応しい一作だった。もしも地上から、映画館というものが無くなってしまったら…そんなSFか思考実験みたいなことが、実際に起きた国の話である。

 2019年、スハイブ・ガスメルバリ監督。フランス・スーダン・ドイツ・チャド・カタール合作。
 描かれるのは、さらに4年前の2015年。内戦と政変が繰り返され、90年代に軍事政権によって映画産業が潰されたスーダンで、その再興を図る四人の老人が主人公だ。
 いや、このおじいちゃんたちが「かわいい」。突然の停電・復旧がいつか問い合わせても「分からない」と返される冒頭から、監督・証明・撮影・そして主演「女優」グロリア・スワンソンになりきって『サンセット大通り』ごっこをする四人。オンボロ車がエンストし、みんなで押す四人。屋外で雑魚寝し、お互いを散髪してやり、誕生日には「1本が22と1/3年分な」とロウソク三本立てたケーキで祝う四人。君たちは、アレか、『まんがタイムきらら』に出てくる仲良し女子高生か?萌え萌えキュンか?
 
 だがこの仲良し四人組が、40年前には各々将来を嘱望された映画監督だったとなると、話は重層的になってくる。オンボロ車を押し、各地を廻って十人規模の野外上映会を開く四人。ノートパソコンをプロジェクターにつないで、上映するのはチャップリンの『モダン・タイムス』。音響がままならないから、あまり鑑賞に支障の出ないサイレント映画なんだ…と思い当たれば、陰影はさらに深まるだろう。最年長でリーダー格のイブラヒムさんがスマホを手放さず、ラクダと自撮りする場面は観客席の、ほのぼのした笑いを誘う。だが本来、彼も仲間たちも、スマホの自撮りではなく映画を作り、チャップリンの白黒映画でなく自分たちの作品を世に問う半生を送るはず、ではなかったか。
 
それでも映画を愛し、映画に賭けつづける彼らには、学生時代の夢を捨てきれないまま大人になり、ついには老境を迎えた「永遠の高校生」「フォーエバー・ヤング」みたいな、いさぎよいペーソスが漂う。こんな風に人生を棒に振れるなら悪くないと一瞬、錯覚するほど。
 だが彼らの夢を途絶させたのは、軍部のクーデターであり、政治だった。そこを錯覚してはいけない。

 打ち捨てられ、少年たちがサッカーに興じる遊び場となった野外映画館をよみがえらせ、劇映画の上映をしようという大きな企てに、老人たちは着手する。
 どんな映画がいい?アンケート用紙を配ると「まずはアクションだな。人を呼ぶにはアクションだよ」「スターウォーズ」「サルマン・カーン」おおっと、インドのスーパースター・サルマン、スーダンでも人気か。…しかしそこには、かつて映画協会がスーダン独自作品の配給を禁じられ、海賊版のインド映画ばかりを上映しながら衰退していった歴史がある。まったく、どんなエピソードにも政治や社会は影を落としているのだ。
 やがて四人が選んだ映画は何か…これは観てのお楽しみ。感染予防を意識して、声をひそめた観客席からも、音にならないどよめきが走ったとだけ言っておこう。本作のハイライトのひとつだと思う。
 だが四人の意気込みを、ふたたび政治が阻む。2015年。テレビでは得票率95%で再選を決めた大統領が7000年の歴史を持つ国家と「民主主義」は世界のお手本だと自賛し、軍および「選挙の適切な運営に寄与した」警察・そして反乱分子を排除した治安部隊への感謝を表明する。95%の得票率というだけで、どんな「適切な選挙」だったか想像はつくだろう。
 パンフレットによれば、この映画の完成直後・2019年に、30年続いたバシール政権の独裁が平和的デモによって打倒された(ただし反動勢力の台頭による混乱は続いている)という。だがスーダンにとっては克服した(と思いたい)直近の過去を描いた本作は、日本に暮らす吾々にとっては将来、進んでしまうかも知れない道を暗示する不吉な予言に見えてこないだろうか。映画鑑賞に政治を持ち込むな?中立的に観ろ?独裁体制下のスーダンに生まれ育ち、映画の完成時40歳だったスハイブ・ガスメルバリ監督は「本作は政治的な映画なのでしょうか?」と問われ、もちろんです!と答えているのだが。

 映画はことさら政治を前面に出してはいない。四人がことさら政治的な主張をするわけでもない。ただ映画を愛しているだけだ。それはまったく非・政治的な願いとも言える。だが、彼らが国や独裁者でなく映画を愛することを選んだとき、言うなれば「非政治的でありたい」という彼らの願いこそが、もっとも政治的な反抗になった。
 その程度にはフクザツなんだよ、「○○に政治を持ち込むな」とか政治性ど真ん中の戯言を弄んでるボクちゃんたち。
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 久し振りに渋谷に出たついで、Renge no Gotokuに出向いてみた。
 渋谷駅の…東…西…ええと、あのへん(渋谷の地理は分からん)で数十年にわたり親しまれながら、再開発であえなく立ち退きとなった排骨担々麺の名店・亜寿加が同じ渋谷で場所を変え、復活した店だ。東急なんとかタワーの裏手、中目黒駅のほうにワーッと登っていくほうに(だから分からんのだて)スマートフォンの地図を頼りに行ってみると、出ていた看板が
渋谷のワルフードが、ここにある。
わ…ワルフード?いや、たしかに排骨担々麺って、ちょっとワルなイメージあると言えばあるけど…大いに動揺しつつ、よく見たら「渋谷のソウルフード」だった。ソと、ウの天辺の小さな縦棒がコントラストで見えにくくなっており、やー誤解したわ、めんごめんご。

 再確認しておくと、パンチのある排骨には優しい広東スープでなく、ガツンと拮抗できる坦々風味が好いと思っている。熱い麺もいいけど、自分は圧倒的に冷やしを選んでしまう。サービスの白ごはん小も、高菜漬けも健在。新しい趣向として冷やし排骨には胡瓜のほかに水菜も盛られ、お皿もキリッと冷やしてある。ポットの冷水にはミントらしき葉が浮かべられ、なんだか細かいところの解像度が上がった感じ。
 かつて亜寿加の店員だった人が、神保町で開いた排骨担々麺のお店もあって、こちらも健在の様子。どちらも生き延びてほしい。
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 ・映画『ようこそ、革命シネマへ』公式サイト(外部サイト)
 6月上旬現在は、渋谷のユーロスペースで上映中。オンラインのチケット購入ページに入ると「やべ、客席ぜんぶ埋まってる…隣席の人とか気になる…」とビビるけど、実際には一席とばしで接触をさけるようになっていて、ただ元から座れない席も「人が取ったので座れない席」と区別がつかない模様(たぶん)。

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