まんがなど
(19.12.22更新)
今年のペーパまんが総集編を追加。



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(19.12.01更新)
今年の新刊まで追加・整頓しました。
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過去日記一覧(随時リカバリ中)

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Author:舞村そうじ/RIMLAND
 創作同人サークル「RIMLAND」の
 活動報告を兼ねつつ、物語とは何か・
 どんなメカニズムが物語を駆動し心を
 うごかすのか、日々考察する予定。

【最近の動向】
半年は新刊がない予定です。
2月東京コミティアは欠席。
4月名古屋に参加申込済。

WebまんがSide-B遅々として更新中。

note絵更新。(16.05.26)

旧サイトは2014年8月で終了しました(お運びいただき感謝)。再編集して、こちらの新サイトに少しずつ繰り入れますが、正直、時間はかかると思います。

[外部リンク]
comitia
(東京名古屋新潟関西みちのく)
あかつき印刷
POPLS

日本赤十字社

if you have a vote, use it.(save kids)

日記更新。かつて一斉を風靡したサブリミナル広告の話(前編)。下の画像かこちらから。(20.02.23)


ひとつ前。新作まんがのお知らせ。下の画像かこちらから。(20.02.16)

※2/23から番号が変わります。ご注意。


タイムセール終了。また逢いましょう〜(別に通常時に御購入いただいてもいいのですが)(20.02.27)


5月の東京、2月に引き続きサークル参加を見送りました。じっとしています。
4月の名古屋はサークル参加申込済。不備や抽選がなければ、誕生日の翌々日に。

新潟コミティアが6月開催で動いてるようなので、これも前向きに。(20.01.26)

「現代」は遠くなりにけり(前編)〜W.B.キイ『メディア・セックス』(2020.02.23)


 現代の奇書、という形容がスッと頭に浮かんだ。いや「誰かがそう言ってた」ではなく形容したの自分ですが。ウィルソン・ブライアン・キイの『メディア・セックス』(原著1976年・邦訳1989年/植島啓司訳/リブロポート)。
 かつて一世を風靡した(?)同書を見かけたのは昨年末、東京某所の古本屋。UFOやオカルト・陰謀論の書籍ばかり取り揃えた、これも奇なるお店だったが、レジスターでなく店主みずから小さなガマグチ財布を開いてお釣りをくれたのが、また異界のようで慄いた。趣味でやってて、もう採算は度外視なんだろうなあ。数日後、同じ東京の別の某所、本郷・東大そばの古本屋ではキャッシュカードで支払いができ5%還元まであったので、逆の意味で驚いたのですが。東京いろいろ。商売いろいろ。まあ、この話は余談なので早々に切り上げるとして―

 『メディア・セックス』の主題を大づかみに言うと「広告は自己利益のため、サブリミナル効果で消費者を煽っている」だろうか。
 まずは前史として1950年代。アメリカの映画館で、通常は知覚できない一瞬だけの「ポップコーンを買おう」「コーラを飲もう」というメッセージを挿入したフィルムを上映したら、ポップコーンとコーラの売り上げが激増したというのがサブリミナル伝説の嚆矢と言われる。これ自体、作り話とも言われている。日本では1990年前後、邦画の広告や本編にサブリミナルなメッセージが挿入される騒動があり注目を集めた。冗談とか、それ自体が話題作りのためという形で処理されたようだ。繰り返しになるが本書の邦訳は1989年。与えた影響は無視できないように思う。
 ただし。
 それまでの言説と一線を画し、キイの著作が大きなインパクトを持っていたのは、このメッセージが直接的な「買え」などではなく、性的な誘惑だったことだ。それも映像の1コマにメッセージを差し挟むのではなく、二次元の画像=広告写真や商品に、意識はできないが潜在意識では知覚できる微妙な濃度や曖昧さで「Sex」と書かれている(リッツ・クラッカーの表面にまで!)それもビッシリと、と主張したのだ。

 奇書と呼ばざるを得ない所以である。
 十分にリラックスして眺めれば、容易に「Sex」の文字を判別できるようになると著者は言う。著者が受け持つ学生たちは、次々とサブリミナルなメッセージが読めるようになったと言う。キイの別の著作『メディア・レイプ』巻末に寄せられた伊藤俊二氏の文章によれば(彼自身でなく)知人の編集者が、メッセージ判別能力を会得したという。それは心霊写真ブームのような、背景の滝壺や森林の中に顔(霊)が見えるのと同様の思い込みではないのか。肝心の本の口絵写真は縮小や複写のせいで鮮明度が低く、サブリミナルな文字を読み取ることは著しく困難で「ここに実は、こうメッセージが書かれている」という絵解きを並べられても、なんら確証にならない。僕が作った上の図像のように、画質をリアルタイムに調整できるパソコンのフォトレタッチ・ソフトがあれば、まだ検証できたかも知れないが…

 また著者は「大手の広告代理店なら、こうした技法はデザイナーの常識だ」と説くが、彼の著書以外でそれらが暴露・内部告発された話は伝わってこない。しかし著者は「メッセージはあるし、読みとれるし、業界では常識だ」と言う。
 思いあぐねた取材班は(つうても僕ひとりですが)横浜市A区に飛んだ(実際は歩いた)。市立図書館の分館の書庫にある、キイの他の著作を借り出すためだ。乗りかかった船だが、しかし大変な船に乗ってしまった。

 とりあえず日本語で容易にアクセスできるキイの主著は三冊。
 『潜在意識の誘惑』(原題 Subliminal Seduction 1973年/邦訳1992年)
 『メディア・セックス』(原題 Media Sexploitation 1976年/邦訳1989年)
 『メディア・レイプ』(原題 The Age of Manipulation 1989年/邦訳1991年)
 あまり内容の変わらない三冊目は斜め読み、とりあえず『潜在意識の誘惑』を通読。うーん、分からん。それはそうだろう。当人の主張だけを掘り下げて、その真偽を判定することは難しい。
 ただ強いて言うならば、一冊目から二冊目までに、著者の主張は深化・過激化・過剰化しているように見える。例示される図像における「Sex」の書き込みの密度が違うのだ。

 いや、一冊目『潜在意識の誘惑』でも「もっと小さな書き込みが無数にある」と文章では言っているのだが、それを実際に図で提示したのは『メディア・セックス』が初めてで、よりスキャンダラスな方向を打ち出したことは間違いない。性的な誘惑で消費を煽ると広告業界を批判した著者が、同じ集客法(サブリミナルではないが)に走っているのは少し皮肉だ。
 『潜在意識の誘惑』では広告写真に埋め込まれた犬やサソリ・白鳥などのシルエットを読み取り「犬は人類最古の友で、これをウイスキーの広告に忍ばせるのは…」「サソリが象徴するのは…」「白鳥は…」と図像学やユング的(?)な意味づけを施している。正直ちょっと無理があると思うのだが、逆にキイの思索がテーマ的にも性的な誘惑に絞り込まれる過程を、一冊目と二冊目のあいだに読みとれるかも知れない。

 思索を(状況証拠だけで)妄想・妄執と言いかえるのは著者に対して酷で非礼だろうが、広告産業の誘導によってアメリカ人は性に取り憑かれているという著者の主張は、それ自体が性的な強迫観念に取り憑かれた「現代」アメリカを体現しているようにも思えてくる。
 ここまで、よくも悪しくもインパクト絶大だった「クラッカーの表面にビッシリと文字」の説明に終始してしまったが、キイの主張はそれだけではない。盛り込みすぎてもいけないので、以下は次回に続きます。またしても、月またがりで申し訳ない。

『メディア・セックス』のほうは文庫化もされたようです。いやほんとに、一世を風靡したのよ。

エア即売会にまんがを描きました(2020.02.16)

 今回の日記は、日記というかお知らせです。
 「第2回 一次創作限定エア即売会」(今回が最終回だそうです)に参加しています。
 コンビニのマルチコピー機に誰かが登録した画像・文書を、その登録番号を公開し、第三者が自由にプリントできるネットプリント機能。デモのプラカードにも使われている同機能を利用し、創作者がいっせいに自作を公開する催しのようです。
#第2回一次創作エア同人誌即売会_お題枠(twitter/お題「プレゼント」)
#第2回一次創作エア同人誌即売会_フリー枠(twitter)
 面白い企画で、ちょうど描きたい話もあったので、フリー枠で参加することにしました。
 新作の7ページまんが(表紙を入れると8ページ)。セブンイレブンのマルチコピー機…要はどの店舗にもたいてい置いてある今「ふつう」のコピー機ですが、そのネットプリントボタンから入って→
 ・免責事項(お札などをコピーしない等)を確認・OKしたら→
 ・8ケタの予約番号75691396】(2/23〜3/1まで)を入力→
 ・紙のサイズ(A4)・カラーの有無(白黒)など確認する画面で「両面」を選択→
 ・両面コピーのモード長辺とじ」を選択(「2枚を1枚に」は触らなくていいです)→
 A4白黒・両面コピー1枚(40円します)をプリントしたら、表紙にあたるページの指示に従い、紙を2回折って底辺をカットすると、文庫サイズ8ページのまんがになる寸法です。

 どれだけ刷られても作者の懐は温まらないし、読む人もお金を払う、LOSE-LOSEの企画(?)ですが、まあいいでしょう。本来の「同人誌」って、そういうものだったはずです。
 まんがは描き下ろし。「2月2日(ツインテールの日だそうです)にツインテールで登校してきた幼馴染の機嫌を損ねてしまう」話です。二次創作ではないのですが、アイディア的に元ネタがあって
幼なじみがツインテールにしてきた話(新居さとし)←こちらは無料で読めます
にインスパイアされた話になってます。だからタイトルが「Answer」。まあ正直、元ネタのほうが面白いのは世の常ですが、同じ題材でもそれぞれの作者らしさが出るあたりを味わっていただけたらと思います。  企画の開催期間は2/15〜3/7。セブンのネットプリントは1週間しか登録できないので、そのつど登録しなおして期間中はいつでもプリントできるようにする予定です。番号が変わるのでご注意ください。

伽藍とパサージュ〜栗原康×白石嘉治『文明の恐怖に直面したら読む本』(2020.02.09)

「バリケードが三日しかもたないのは、蜂起した群衆が我身可愛さで秩序に逃げ戻るからではない。(略)
 バリケードの経験は、燃えあがる真実であるからこそ三日しかもちこたえられない。(略)
 叛乱は敗北する。秩序は回復される。
 しかし、叛乱は常にある。秩序は叛乱によっていつかふたたび瓦解するのだ。
 永続する敗北それ自体が勝利だ」

(笠井潔『バイバイ、エンジェル』)

 前回の日記で予告した、栗原康×白石嘉治文明の恐怖に直面したら読む本』(Pヴァイン、2018年)。
 今どき珍しい、無類に面白い本でした。人に薦めたくなる。難解じゃないかなーと心配したりせず、安心して薦められる。対談形式の話し言葉は読みやすく、内容もディープなのに分かりやすい。魔界転生から長渕剛まで、芸術から政治経済まで多彩(雑多ともいう)なテーマを取り上げながら統一性があり、血みどろの歴史を語りながら、どこかユーモラス・そして詩情に溢れている。
 分かりやすさの理由は、明瞭に示された対立軸だろう。順を追って説明します。
 著者たちは、吾々の社会の歴史を、えらく大づかみに要約する。
「組織の中心にいるのが、古代ではカミだった。それがそのあとヒトに変わります(中略)
 産業革命以後(略)はモノが中心になっている」(白石)
図式化すれば
カミの支配(古代:平安時代くらいまで)
ヒトの支配(近世・近代:鎌倉〜江戸くらい)
モノの支配(産業革命以後・人新世(アントロポセン))
 たとえば、平安時代に死刑がなかったことは、この区分によって説明される。カミが畏れられていた頃は、ヒトがヒトを死なせるのは越権行為だった。だが、武士の世になりヒトが文明の基底になると、同じヒト同士だから殺せるようになる。あるいは今どき、江戸の世が理想化され時代小説が好まれたりするのは、モノの支配に疲れた現代人の「ヒトが一番だった時代」へのノスタルジーと捉えられる。
 「江戸には人情があった」「平安時代は人の命を大切にした」みたいな美化とは違う(まして「そうした人情や人命尊重が日本の心だった」などとはならない)過去を測るモノサシが、こうして吾々のものになる。

 著者たちが提示する対立軸は「ココロが大切にされた過去vsモノが支配する現代」みたいなものではない。むしろ、上に立つものが替わっただけで、支配の構図に変わりはない。
 その象徴として挙げられるのが、巨大建築だ。
「文明であるかぎりやっていることはおなじで、とりあえず大きな建物をつくる(略)
 ピラミッドにしろ、古墳にしろ、ヴェルサイユ宮殿にしろ、江戸城にしろ」(白石)
 現代美術家の会田誠が2018年の個展で「セカンド・フロアリズム宣言」として二階建てより高い建物は破壊しろと主張した事例には、ちょっとビックリした。最近、自分も創作SFのアイディアで似たようなことを考えていたからだ。まあSFの話はさておき「三階建て以上の建物には邪悪な意志がやどっている」と白石は言う。「「おまえ、死んでもいいから、これつくれというのが巨大建築です。巨額をつぎこんだオリンピックの競技場設営で起きている、劣悪な環境下での労災・事故死などがおのずと想起される。著者たちは核施設こそ現代のピラミッドであり、伽藍なのだと直言する。
 会田の展示では床に六法全書が打ち捨てられていたという。法は巨大建築(的なもの)をつくるために整備されたといえるからだ。文明の目的が巨大建築(的なもの)ならば、それを達成する手段は法であり、表象だと著者たちは言う。表象とは、読みかたが一義的に決まっている記号だ。今日の稲や麦の状態は、未来の収穫を予測させるための表象であり、その予測は過去の収穫との突き合わせで得られる。稲や麦はこうあるべきという一義的な像が、今日の穂に表象される。法や国旗は、一義的な読みかたを人々に強いる。

 これに対して(お待たせしました)提示されるのは非農耕的な人々が生きていた徴候の世界だ。徴候は、一義的には決められない。山を歩いているときに、草むらが揺れる。それは獲物となるウサギかも知れないし、脅威となるクマかも知れない、あるいは単に風かも知れない。狩猟民はそれを瞬時に判断し、行動するが、世界はつねに一義的でない多様性に揺らいでいる。
 一義的な表象に対する、多義的な徴候。徴候から多義的な世界を読み取る力能。巨大な建物(伽藍)に対する散逸、逃散、裂開。それが著者たちの提示する対立軸だ。

 典型として挙げられるのは念仏。伽藍的なものに組み上がった平安仏教の体制にたいし、法然が念仏ひとつで打ち立てた対立軸は、親鸞、空也、一遍へと深化し(ここまでニコニコ合いの手ばかり入れていた栗原氏が大いに語るところによれば)悪人を取りこみ、獣と一体化し、歌や踊りでアナーキーな揮発性の楽土を「今ここ」に現出させる。
「鎌倉仏教も「でかい建物はいらない」という運動として捉え直すことができますね。(略)
 街で空也が念仏をとなえていたら、民衆が勝手に屋根を作ってくれたりするんですよ。(略)
 あとは全国放浪すればいいとか」(栗原)
 カミからヒトへ、ヒトからモノへ。支配のモードの端境期・文明の(表象の、巨大建築の)統治が弱まったときに出現する多義的な徴候の世界を、著者たちは「中世」と呼ぶ。「中世的なものは、時代を問わずに出現する。ダンテの神曲。プルーストの小説。ベンヤミンのパサージュ。レヴィ=ストロースや、ロラン・バルト。ほろびゆく中米の先住民族に取材し『国家に抗する社会』を記したピエール・クラストル。ギロチン社。女相撲。本書がどこか詩情に溢れていると冒頭に書いたが、それも不思議ではなかった。詩情もまた、一義的な表象・伽藍を建てる支配的なものに逆らうものの属性だからだ。

 伽藍とパサージュ。巨大建築vs踊り念仏。文明vs中世。あるいは弥生vs縄文。
 「中世」は時代区分に関係ない「状態」のことだと著者たちが言うように、それは時間軸でなく空間・特定の地域にも出現する。本書は(カミに対するヒトの支配が決定的となった)島原の乱から説き起こされるのだが、その対岸には石牟礼道子が描いた水俣があり、石牟礼には島原の乱を描いた小説もあるという。この地域=九州西岸は入江が入り組み、農耕が発生しにくいという話から、同地は大正時代のアナキスト伊藤野枝が住んでいた場所であり、さらにブレイディみかこの出身地でもあり…と縄文的・アンチ表象的な「土地柄」が現出されていく過程はスリリングだ。それが妥当かどうかは分からないが。
 妥当かどうかは分からない読みで、一義的な表象を都度くつがえしていくことは、徴候的であり力能的であり、中世的な自由を都度うちたてることでもあるだろう。本書は文明がいかに吾々を支配しているか、いかにそれに逆らうか、という明解な視座で、歴史や文化・過去から現在までを見直すガイドブックであり、有用なモノサシと言える。
「民衆に民意なんてない(略)
 たしかに民衆はいる
(略)。それは人民とよんでもいいかもしれない。
 民衆、人民、つまりピープルはいる、と。でもそのピープルに民意などというものはない。
 国家の権力は、そのないはずの民意をあたかもあるかのようにみせかけて、
 その民意をくみとるというかたちで発生する」

ピープルが不在のところに造られる「民意」、それがポピュリズムだと著者たちは喝破する。
 なんで世の中こんななんだろ、と嘆きに押しつぶされそうになったとき、その嘆きに別の方向から光を当ててくれる、オススメの一冊です。

念のために言うと、著者たちが提示する「中世」的というオルタナティヴは、残念ながら、今のモノなり政府なり経団連なりが支配する状況を完全にくつがえし、別の理想社会を打ち立てるものではない、と思う。それらは別の巨大建築であり、人を自由にしない体制にすぎない(と著者たちは考える)からだ。革命ではなく蜂起。ヨーロッパの不可視委員会や、日本の「素人の乱」にも通じる思想だと思う。それでいいのか、未来のよりよい社会を考えなくていいのかとは僕も思う。けれど同時に、自らアナーキストを名乗る著者たちが引用する、マルクスと同時代の思想家ランダウアーの啖呵もひとつ、懐に忍ばせておいて良いと思う。ここが新天地じゃなかったら、どこにも新天地なんてねえんだよ!

無法と分断〜入管について(後編)(2020.02.02)

【入管=入国管理局が不法滞在者として収容している多くの外国人にたいして、虐待といえる非人道的な扱いを続けている問題について、自分自身が第三者として見聞きしたことと、政治思想の本などで読んだことを、わりとチグハグに往復させる、ちょっと特異なアプローチを試みています。きちんと基礎から把握するには、それに相応しい記事や文章を参照してください】

 5.
 茨城県牛久市、東京都品川区、そして大阪市などでは、入管の外からの抗議の呼びかけが実施されている。外からの呼びかけに応じて、中から「ありがとう」「つらいよ」などの声があがる。
 2019年1月、大阪入管前での抗議の日にタイミングが合い、旅行中の自分も参加した。大阪入管 仮放免だせ」「大阪入管 今すぐ出せと、入管の中のほうがリードして、コール&レスポンスされる一幕があり(大阪は進んでる…)と驚かされた。


 6.
 テッサ・モーリス-スズキは、法が恣意的に運用され無効化される場をワイルドゾーンと呼んでいる。トランプでいうワイルドカードのワイルド、何でもありの無法状態と捉えていいだろう。
 学問的な関心から、このワイルドゾーンという語を追ってみたのだが、今のところ芳しい成果は得られていない。この概念のネタ元としてモーリス-スズキが言及しているのは、歴史学者のスーザン・バック-モースや社会学者のジグムント・バウマン。それぞれの著書を拾い読みして、それぞれ興味や関心をかきたてられることは多かったのだけど、ことワイルドゾーンについては、あまり突っ込んだ議論を、まだ読めずにいる。
個人と国家が接触するところ:個人が主権者として国家の政策に関与する投票所・対・国家が主権を有さない者として個人を遇する入国管理局(再掲)
 モーリス-スズキは個人=市民を軸に「個人が主権者として国家に接する投票所」の対極として「国家が主権を有さない者として個人を遇する入国管理局」を位置づけた。
 だが「法が無効化され恣意的に運用される場所」という現象を軸にすると「国家の主権がおよぶギリギリの端であり(相手が国民でないのだから)、個人の権利が剥奪される入国管理局」の対極にあるのは「国家というシステムの中心・最上部で行政府が法を無視し、恣意的に統治をなす事態」だろう。公職選挙法違反に該当する事態の追及から首相をはじめとする与党の政治家が逃げ回り、国会を通さない閣議決定で自衛隊を中東に派遣する、この国の状態そのものだ。

 こうした国の中心で政府が法を無視する状態を、どうやら「例外状態」と呼ぶらしい。カール・シュミットはナチス・ドイツによる政権運営を、この例外状態であるとし、政治のひとつのありかたとして称揚しているようだ。これに対しジョルジョ・アガンベンは9.11後のアメリカの振る舞いを、例外状態として批判しているという。正直、このあたりは勉強が追いついていない(哲学者であるアガンベンの著作は、ちょっと歯が立たないくらい難しい)。
 仏文学者の白石嘉治は栗原康との対談『文明の恐怖に直面したら読む本』(2018)で、契約が法に優先する現代の状況を新封建主義と呼ぶ動きがあると述べている。ブラック企業のような社会対個人のレベルだけでなく、TPPのような国家間の協定でも、法の支配にヒトの契約が優先される。入国管理局で行なわれていることも、その一環であり、また今後の社会の雛型となる先端でもあると、今の自分は考えている。
この本は、そのうち日を改めて取り上げます。

 7.
 入管問題を「なんか社会の隅っこで非道いことが行なわれている」でなく、その非道さは(法の失効という意味で)今の社会全体が抱える問題に根本から関わるかも知れないんだよ、という話をまとめることが出来たと思う。
 もうひとつ、この件について今まで上手く言語化できてなかった話をしたい。
 2019年3月。品川の東京入国管理局が、体調の急変を訴えた収容者や家族の要請を無視し、救急車を追い返した事件のことを書いた。
 現場には(たまたま体が空いていたので駆けつけた)僕や日頃から収容者の支援をしている人たち、つまり日本人と、当事者の家族や友人であるクルドの人たちが半々で集まっていた。救急車での搬出が拒否され、入管の職員と押し問答になるクルドの人たち。僕が恐怖したのは、もしここに日本人の支援者がいなかったら、ということだった。

 実際には日本人の支援者がいた。駆けつけた中には在日朝鮮人で、みずからが被る差別と日々たたかっているひともいた。けれど、そうしたいわば加勢なしに、クルドの人たちだけが集まり、日本人の入管職員と押し問答する、そんな構図も理屈としてはありえた。この国が、相容れない二つの社会を内包し、分断される事態。
 吾々が「ひとつの吾々」でいられるのは、日本の側から加勢する者があり、また外国籍の人たちが、まだ日本の個々人を見限らないでくれているからだ。
 「彼ら」は「彼ら」なんだよ、「吾々」じゃないと冷淡な態度を示す人たちは、本当に「彼ら」と「吾々」が分断されてしまうことが、怖くはないのだろうか。
 もちろん「分断はある」とも言える。国籍だけでなく、貧富や、あるいは政治的な信条などで吾々はすでに分断されているのかも知れない。でも、それを乗り越えて「吾々」をひとつに、つなぎとめる者が何人かはいなければ、吾々は本当にバラバラになってしまう。
 こういう視点、「自分はマジョリティなんだけど分断が怖い」という視点での意見は、あまりない気がするので、上手く伝わらないかも知れない。もちろん捉え方しだいで、自分もマイノリティに属することはあるだろう。けれど、マイノリティに己を擬して、代弁者として述べるのでなく、マジョリティの側からみてもコレはまずいと言う者が一人はいていいだろうと思い、書いている。
 異物など不要だという人たちは、生身の人間を異物として排除しつづけることが、怖くはないのだろうか。

自分は入管問題に理論面からアプローチした変わり種(異端)と書いたけれど、もちろん直接のきっかけは実際に入所者が受けた迫害を告発し、救援を訴える人たちのアクションがあったことでした。面会や支援の第一人者によるレポート。本で入るなら、まずここから。

アムネスティが3月末までをメドに署名を募っていますが、驚くくらい反応が薄いです。難民の収容・送還に関して基本的なことがまとまった声明文を一読のうえ、可能なひとは賛同を。
外国人の長期収容に終止符を!

無法と分断〜入管について(前編)(2020.01.26)

【入管=入国管理局が不法滞在者として収容している多くの外国人にたいして、虐待といえる非人道的な扱いを続けている問題について、自分自身が第三者として見聞きしたことと、政治思想の本などで読んだことを、わりとチグハグに往復させる、ちょっと特異なアプローチを試みています。きちんと基礎から把握するには、それに相応しい記事や文章を参照してください】

 1.
 もう一年近く前になる。2019年3月。18きっぷで東北をめぐる小旅行の最終日。仙台から普通列車で6時間かけ東京に戻り、巣鴨の台湾料理屋で夕食を済ませた頃だった。「品川の東京入国管理局に収容されているクルド人男性の体調が急変し、病院への搬送を求めているが入管側が拒否している、可能な人は救援アピールのため入管前に来てほしい」という呼びかけがTwitterで発せられたのをスマホで読んだ。

 後述するが入管問題に前から関心があり、中の人が外の友人や家族と連絡をとるためのテレホンカードを支援したり、街頭や入管前でのスタンディングなどに参加していた経緯があった。「それに、せっかく乗り放題の切符があるのだし」という小物っぽい理由で品川へ。19時半。倉庫街の周囲にビルの明かりもなく、真っ暗な東京入管前に到着。外の家族が呼んだ救急車が真ん前の車道に横づけになりスタンバっているのに、入管のガラス扉は閉じられたまま。寒気がした。

 自分のような日本人(在日朝鮮人のかたもいらした)と、当事者の家族や友人と思しきクルド人が半々だろうか、数十人。家族が救急隊員に事情を説明し、警察官とともに中に入るが、押し問答のすえ救急車は誰も乗せないまま帰されてしまう。独特なアクセントの日本語で入管職員に詰めよるクルドの人たち。体力が限界で、自分は21時に現場を離れ横浜に戻ったが、その後もういちど救急車が来て、ふたたび門前払いされたという。当日の経緯は、次の記事などに詳しい。当夜、収容者の容態の急変に対応できる医療関係者は、入管の中にはいなかった。
東京入管、救急搬送必要な収容者を迎えに来た救急車を追い返す異常事態(選挙ウォッチャーちだい/ハーパー・ビジネス・オンライン)

 2.
 フーコーやドゥルーズと(大体)同時代人だが、今では忘れられた感の強いフランスの哲学者アンドレ・グリュックスマンが、その著書で、こんなことを書いている。
「近代工業は階段の下(略)最も脱知性化された労働のなかに(略)最も知力ある労働者を置く(略)
 その労働者はだいたいは複数の国語を話し、いくつもの国のことを知り、
 いくつもの歴史的時代の経験者であり
(略)
 彼を取り巻いている者たちが知らない共同体や連帯への感覚を持ち合わせている。
 つまり移民のことである」
(『思想の首領たち』原著1977年)
 「移民」「外国人労働者」という言葉で個人的に連想するのは、2011年3月12日つまり東日本大震災の翌日の晩に、節電で暗くなった横浜駅の構内コンビニで、レジに立っていた片仮名の名前が名札に書かれた男性店員のことだ。トイレットペーパーの買い占めだの、それを冷笑する人だの、首都圏で多くの人々がエゴを剥き出しにする中(むろん立派な人々もいただろうが、自身はのうのうと贅沢な暮らしを享受しつつ地震や津波を「天罰」とうそぶいた当時の都知事など、今でも許しがたい)遠い異国まで来て天災に見舞われ、すぐさま帰国することも覚束ない人たちは、どんな気持ちで働いていたのだろう。
 入管に収容された人たちの中には、数ヶ国語を自由にしながら宗教的な理由で帰国もできず、理不尽な拘束に耐えるしかない人もいる。思わずニヤリとさせられる、ユーモラスな絵心の主もいる(後述の記事を参照)。むろん、教養や才能のある人たちだから不当に扱うな、というのではない。自国を離れ、別の国に生活を移すだけでも、吾々の多くが自身に起こると想像すらできない体験を彼ら彼女らはしてきたとも言えるが、それだから、というのではない。ただ移民や外国人労働者・入管の収容者たちには(吾々ひとりひとりがそうであるように)各々の経歴も人格もあり、にもかかわらず吾々はその人格性を剥奪し「最も脱知性化された」者たちとして遇していないか、という問題がある。

 3.
 平成30年(2018年)、吾が国での難民認定申請者数は10,493人(前年に比べ9,136人(約47%)減少)。
 難民認定手続の結果、在留が認められた外国人は82人。
 (「平成30年における難民認定者数等について」法務省・入国管理局)

 4.
 移民から人格や個性を剥奪し、異物として遇する吾が国の「受容」(受容してないわけだが)のありかたを、最も極端な形で示しているのが、不法滞在者を収容している入管=入国管理局だ。
 全国の入管が収容する外国人は1200名余り。劣悪な環境下で病死や自殺が相次ぎ、抗議のためのハンストが100名単位で行なわれている。
 とくに非人道性が指摘されているのは仮放免の制度だ。申請しても許可されるかの判定が通達される時期が不明で、却下されれば三ヶ月間は再申請も出来ない。仮放免中は就労が許されず、多額の保証金とともに経済的な負担となる。最近ではハンストで生命の危機に瀕した収容者を仮放免し、二週間後に期間の延長申請に来た者を認めず、そのまま再収容する、罰か見せしめのような対応が常態化している。
 入管行政の諸問題は、たとえば次の記事などに詳しい。先にふれた「思わずニヤリとさせられる、ユーモラスな絵心」のイラストを見れば「不法滞在者」のイメージもだいぶ変わるのではないか。
長期収容、自殺未遂、餓死...問題続出の背景に何がある? 18年勤めた元職員が語る「入管」の闇(樫田秀樹/週プレNEWS)
 注目すべきは、記事中の次の指摘だ。
「入管の問題は3つ。
 一つは基準がないこと。これをやれば収容、これをクリアすれば仮放免といった基準がない。
 二つ目が、許可・不許可の判断プロセスが不透明。
 三つ目が、収容に裁判所など外部が関わらないこと。
 だから、入管は自らの裁量だけで長期収容ができる」

 入管行政のこうした恣意性は、実はずっと前から学術的に裏づけられ、いわば予言されていた。本サイトで前にも取り上げた著作『自由を耐え忍ぶ』(2004年)でテッサ・モーリス-スズキは次のように述べている。
「一般に国民国家は、越境できる者とできない者を分類するある程度の指針となる法規を持っている。
 しかし、個々にどのように法規が適用されるかを決定するのは出入国管理所の現場の係官である。
 最も民主的と呼ばれる社会においても、出入国管理官の権力は恣意的であり、絶対的だ」

モーリス-スズキは個人と国家が遭遇する、二つの両極端な場所を挙げる。一方に市民が主権者として国家の方策に関与する「民主主義の聖地」としての投票所。その対極にあるのが「国家が非市民に対処する」出入国管理所だ。後者は権力が恣意的に行使されるワイルドゾーンであり、そこでは「移民が法を破壊しているのではなく、法が移民を破壊している」(ヘルナンド・デ・ソト)。

 法が恣意的な運用で有名無実化されている現場は、他にもあるじゃないか。そう思われるかも知れない。労基法を無視したブラック企業や、生活保護を求める困窮者の「水際作戦」での拒絶、それから……そのとおりなのだ。というか、だからこそ。入管は、吾々の国や社会が国民・市民でない者をどう遇するか、国民・市民としての属性が剥奪されたとき吾々がどう遇されるかのモデル・雛型ではないか。
 そういう、いわば理論からのアプローチで、僕の場合は入管問題に関心をもつようになった。変わり種で、少し異端かも知れないという居心地の悪さを感じながら。(後編につづく)

本サイト・2017年1月の日記で取り上げています。

方法論へのいざない〜秋田麻早子『絵を見る技術 名画の構造を読み解く』(2020.01.19)

 ★美術的なものに関心も憧れもあるが、今ひとつ鑑賞の仕方が分からない
 ★自分が好きな絵の「好き」に自信がない
 ★美術館や展覧会を心から楽しめてる気がしない
 ★他人のがじっくり展示を観てる気がする。自分も滞在時間を伸ばしたい
 …こんな悩みを、ひそかに抱えている人はいませんか?だとしたら、あなたに必要なのは「自分自身がほしいものを真っ直ぐに欲するのではなく、他人がほしがってるものを真似して欲しがる」近代人・現代人の病を見据えたルネ・ジラールの著作かも知れません。他人をモノサシにして「滞在時間の長さで負けた…」などとクヨクヨするのは止めましょう…というのは、まあ冗談なのですが
冗談だからな…本当に買われても困る値段だぞ…
 ぶっちゃけ、上にあげた「症状」は全て僕自身のもので、上記のとおり「虚栄心が強すぎ」と診断する方法もあるけれど★より深く絵画を楽しみたい作品からもっと学び、感得できることがありそうな気がする、という方向で打開を計ることも出来るだろう。
 別の言いかたをすると★今まで「多くの作品に接することで、おのずと見かたが熟成されていく」自己流に頼ってきたので、キチンとした見かたを体系的に学んでいない―という自信のなさがある。アマチュアリズムというのだろうか。創作のしかた、本の読みかた、映画の見かた、料理に掃除、およそ人生の万事において「とにかく触ってみれば分かる」で済ませてきたので、逆に自分のやりかたに常に自信がない。四角い部屋を丸く掃いてるような不全感が、つねにつきまとう。
 書店や図書館に足を運べば「絵画の見かた」「西洋絵画が分かる」みたいな本は少なくない。それら全てに目を通したわけではないが、本当に分かるの?と不信の目で見てしまう。この絵はココが見どころ・この絵は実はこう見るべきで…と説かれても、それは「回答」なので、自分が別の絵を「解く」ことは出来なそうに思えてしまう。

 秋田麻早子絵を見る技術 名画の構造を読み解く』は問題の「解きかた」に重点を置いた、かなり良い感じの本でした。読むと自分の視覚に「絵画アイ」が搭載されたような錯覚を味わえる。実際、読みながら時々目線を上げると、絵画じゃなくて周りの風景に線が引かれて見えて困った(笑)
 本書が駆使するのは、まさに絵の中に(脳内で)線を引くなどして、構図の巧みさを読み取る方法論。まず絵には鑑賞者の視線を一番に引きつけたい「フォーカルポイント」があるという。中世ならイエスや聖人。近代なら、まあそれなりに。絵の中心は目を引く。大きな対象も。暗い中の明るい箇所や、明るい中の暗い箇所。人の顔も目を引く。
 この基礎から著者は、絵画の技術と技術史を詳らかにする。それまで絵の中心に置かれていたフォーカルポイント(聖者)を絵の片側に振り、反対側の群衆とバランスを取る手法を確立したティツィアーノ。さらに画面の脇・しかも奥に小さく描かれた聖者でも、闇の中の光という明暗差で視線を誘導する技法はティントレット。逆にコントラストを下げることで、人々の中のイエスを親しみやすい存在として描いたレンブラント
 バランスを取るにはシーソーと同じ力学的原理がとか。二つのフォーカルポイントが同等のバランスで釣り合う絵画では(天地創造の神とアダムや、向き合ってトランプをする二人とか)では両者をつなげる結び目(神とアダムの触れる指、トランプの札)が重要とか。さまざまな技法を紹介しつつ、著者は「絵画の歴史はフォーカルポイントの集中と分散の繰り返し(でもある)」と結論づける。こう考えると絵画を前に「フォーカルポイントはどこだ?見つからない!」ではなく「んーこの絵は分散型か」と思えるだろう。一点を刺すピンではなく、度合いを測るモノサシが手に入るのだ。
 同様に、絵の輪郭やコントラストも「シャープ」と「ぼかし」の反復運動として捉えられる。陰影にメリハリをつけるのはテネブリズム(代表的な作家はカラヴァッジォ)→グラデーションをつけてぼかすスフマート(ダ・ヴィンチ)が主導権を握るが→ゴーギャンの時代に日本の影響で復活・クロワゾニスムと呼ばれたという。その日本では輪郭を描く絵画を鉤勒(こうろく)・描かないものを没骨(もっこつ)と呼び、明治時代に没骨で描いた横山大観などは「朦朧派」と揶揄されたとか。
 色彩派(カラリスト)の代表は、モップで描いたと揶揄されたドラクロワ。対するデゼーニョ派(素描派)のアングルは画面を「舐めて」描いたと言われる。両者を組み合わせると、周囲は荒く描き、重要な部分を丁寧に描いて「フォーカルポイント」を強調する技法になる。本書ではサージェントが挙げられているが、個人的に思い出したのはフェルメール。といった具合に応用が効く。色彩=絵の具の歴史なども面白いのだが、ぜんぶ紹介しても仕方ないので先を急ぐと―

 本書の魅力は、この絵の魅力はこうなんですよという「回答」でなく、それを導く「解きかた」に主眼を置いてる点、というのは先にも書いた。その「解きかた」も、個々の要素がバラバラな「点」ではなく、二項対立の往復運動という「スケール」として把握できること。これは今、述べたばかり。
 そして、絵画はこのように技法や構造を理詰めで観て(も)良いのだ、という著者の確信が、本書の強みだと思う。
「解剖学的正確さより構成の見事さのほうが優先される」
「大抵の人は構図が立派なら多少の歪みには気づかないものです」
「ルネサンスの巨匠は、画面に一定の秩序を保ったままで、なおかつ自然な表現をする、二つの目標を同時に叶えた」

アートは爆発や衝動かも知れないが、それを鑑賞者に見せるための構図や秩序・技法は存外まじめに踏襲されているものなのだ―そう考えることで、少なくとも、美術館での滞在時間は伸びるだろう。
「重箱の隅をつつくのは褒められた行為ではありませんが、絵の場合つついてもかまいません。
 巨匠はぬかりがないので、つつかれても
(中略)困らないのです」

 …読めば実践したくなるもの。展覧会に出向くのは年に数回あるかないか、なのですが、東京都現代美術館でダムタイプ展を観てきました。機材がガチャガチャ言う現代アートで西洋絵画を観る技術が役に立つわけない、と思いきや
ダムタイプ|アクション+リフレクション(東京都現代美術館・2/16まで)

テクノロジーと、人間の性や身体性の対立や軋みを主題にしたと思われる作品群も「ここで冷たいシステムで割り切れない人間らしさを滲出させるためにも、システムの側のリズムや反復はキッチリ作り込まれて、しょうじき快感だな」と感じさせられたりして、応用が効く(という錯覚?)を愉しみました。技法はカッチリ、いっそ技法だと感じさせないレベルまで作り込んで、そのうえに人間性を滲み出させる。創作にも応用できそうです。

ちなみに本書を読んで最初に思ったのは「これの神社仏閣や、城郭編がほしい」でした。仏像なども、かなあ。そうゆう意味では哲学なんかも○○論と△△論の往復運動で捉えられそうな気がするし…つくづく自分は体系的な思考を知らない、よく今まで生きてこれたものだと、逆に面白かったりもするのですが。

ウソは射程距離が短い〜佐藤亜紀『掠奪美術館』(2020.01.12)

 2020年初春。ネット上に「ソクラテスの箴言」を称する流言が広まった。おおよそ、こんな内容だ。
「ソクラテスの『無知は罪なり』という言葉はよく知られていますが、その続きはあまり知られていません。『知は空虚なり』『英知あるもの英雄なり』と続くのです」
 「Aはよく知られていますが、実はB・Cなのです」と称しつつ最初のAもウソッパチというのは騙しのテクニックとして興味深いので、元の流言の口調をなるべく再現したけれど、要は「無知は罪なり・知は空虚なり・英知あるもの英雄なり」…この文言を「ソクラテスはこんなこと言いそうにない」あるいは「言葉の古さ新しさがチグハグで何か不自然」と直感できないのは、ちょっと危うい気がする。教育や教養・一般常識・良識といったものの敗北ではないか。
 これはソクラテス当人ではなく、悪名高い新興宗教の教祖が「ソクラテスの霊言」として言ったものだ、という話も、どうやらデマであるらしい(英知あるもの…あたり、いかにも言いそうですよね)。またソクラテスが「無知は罪」だと言ったと、キェルケゴールが書いてるそうなとか、いろいろ尾ヒレはつくのだけど省略。
 返す返すもフェイク・トゥルース、デマと捏造の現代である。自分だって時おり引っかかる。いちばん最近だと「スーパーの野菜売り場が柚子に『冬至のゆず湯にどうぞ』と札をつけたら、食料品でなくなり軽減税率が適用されないので、消費税8%で売ったら即しょっぴいてやろうと国税局が網を張っている」という流言に、コロッと騙されました。実際には8%でお咎めはなかったらしい。もっと単純に「シーズーは鳩」とか、なんでそんなの一瞬でも信じちゃうかなあ!?というネタがあるのですが、それも後回し。

 封建社会だったころ「妻は夫の三歩後ろを歩け」と言われたのは、男尊女卑ではなく、サムライはいつ敵襲を受けるか分からないので妻を守るため後ろにかばったのだ、なる風説を見かけたことがある。後世(つまり21世紀の現在)になって作られたウソの解釈と評されていたように思う。数年前「黒猫が目の前を横切ると不吉」なのは、福をもたらす黒猫が自分を素通りしてしまうので不幸なのだ、という風説が急に現れたこともあった。生まれて数十年、聞いたこともなかった説が突然に広まりだしたので、あれも近年の捏造ではないかと疑っている。
 江戸しぐさだの、宴会での作法だの。これに「ソクラテスの箴言」を加えてもいいだろう。こうした歴史捏造系のデマ・虚言には、なんとなく「あ、ウソっぽい」と感じられる特性がある。理に落ち「すぎる」のだ。妙に功利的。現在の価値観に不自然にフィットしており、現在の誰かに都合がいい…
 「昔からの言い伝え・昔の人が言ってることだから、現在の吾々から見たら少し世界が違う」感じ、が、しない。むしろ現代的な価値観から逆算したことが透けて見える。なんというか、今に媚びている。

 そんな風に思うのは、フェン・メーヘレンの逸話のせいだろう。
 ファン・メーヘレンは20世紀オランダの贋作画家である。フェルメール風の絵を自分で描いて「未発表作品が見つかりました」と称し、ナチスの高官に売っていた。これが戦後、売国的な所業として告発され「いいや、むしろ贋作でナチを騙してやったのだ」と無罪を主張するため、裁判の場で「フェルメールの新作」を描いてみせ、周囲はびっくり仰天という、なんとも言えない話が残っている。
 この「世紀の贋作」はインターネットでも、たとえば
ナチスをだました男、メーヘレンが描いた"フェルメールの贋作"全11点【画像集】(ハフィントン・ポスト)
あたりで閲覧できるのだが、皮肉なことに「これはナチも裁判所も騙されて仕方ない」という感慨は湧きにくい。むしろ、何でこれで騙せたのだろうと不思議になるのだ。ソクラテスはこんなこと言いそうにない。これではどうにもフェルメールらしくない。
 その謎を解くカギとなるのが、佐藤亜紀掠奪美術館』(1995)の指摘だ。美を解さぬ公衆にはもったいない・掠奪して秘蔵したいくらいだと、偏愛する絵画への思い入れを語り尽くしたエッセイ集で、著者はメーヘレンの限界をこう刳り出す。
「彼ら(贋作者)が知っているのは(中略)彼らの時代におけるフェルメールであり、レンブラントであり、レオナルドだ。(中略)
 贋作は、時間の経過につれて次第に、真作に対して人々が抱くイメージからずれていく。(中略)
 概ねの真作はこのイメージの変化を受けとめるだけの柔軟さを備えている。(中略)
 我々の見るフェルメールは、僅か半世紀で、それだけ変わったのだ
20世紀中盤には20世紀中盤のフェルメール像があり、同じ時代の子だったメーヘレンの贋作は、そのフェルメール像に忠実だったからこそ、玄人までも騙し得た。けれど時間の経過で日の差す角度が変わるように、吾々が同じフェルメールに求める「らしさ」も変わる。真作は真作のままだが、贋作はなぜこれが信じられたのかと思うほど「らしくなさ」を晒してしまう。
 そう分析したうえで、佐藤氏は「そもそも真贋なぞどうでもいい」と笑い飛ばす。だがソクラテスの言葉や宴会の作法の真贋が笑い事でないと思う向きには、この逸話はウソを見分ける多少の手がかりになるだろう。
 贋物は本物よりも射程距離が短く、(繰り返しになるが)「今」に媚びている。
 虚言は、実在の人物や風習を「今」の人々が飲み込みやすいよう、たわめて丸める。本来なら批判されたり、見かたが変わることで乗り越えられたりするべきものを、丸めこんで飲み込ませる。
 フェイクの「真実」は、現実とウソなしに向き合った時より、吾々が進める距離を短くし、誰かにとって都合のよい「今」に吾々を閉じ込める。贋作の絵画は、それ自体が古びるが、過去の捏造は吾々のほうを固陋にし、未来を奪う。
UFOなんかも不思議ねーで終わらせときゃイイものを政府による隠蔽工作とか良い異星人vs悪い異星人とか「今」ウケを狙いだすと俄然つまらなくなるのは、当人たちは「してやったり」なつもりでも(あるいはそれゆえに)想像力の範囲がちんまりしてしまうからではないかと…
 昨年末、NHKの紅白歌合戦で、往年の名歌手の特徴をAIとCGで再現したものが、番組の目玉として「登場」していた。「新曲」を披露し、なんだか「令和の皆も頑張って生きてね」みたいなメッセージを最後に発したのを観た。それは故人のイメージを「今」に都合よく加工した創作で、悪くいえば捏造・デマや虚言と同類に思えた。むろん、スターの、まして舞台上の発言など、当人も含めてるとはいえ多数の人間が関わって練り上げた「作品」だろう。それでも、当人が不在の「作品」まで受け容れ、感動すらしてしまうのは、これもまた「ちょっと危うく」ないだろうか。

 …などと述べたところで、かく言う自分がどれだけ当てにならないか示すため、話を蒸し返す。十年以上前だと思う。エイプリルフールに「吾々がイヌと思って接している動物は、イヌという一つの種ではない」という記事を読んだ。哺乳動物であるイルカが、海での生活に適応した結果、魚のようなシルエットになる。これを「収斂進化」と呼ぶ。イヌと呼ばれる一群も、この収斂進化で似た容姿となった多様な種の集合体であって、と記事は書いていた。いわく、吾々がチャウチャウ犬と思っている動物は、実際には齧歯類の一種である。シーズーに至っては、鳩の仲間であると。
 信じられないことだが、一瞬は信じた。これは、時代性がどうとか無関係な、また別の「思考の空隙を突かれた」みたいな話だと思うのですが…まあふつうは一瞬でも信じませんよね。どうかしていましたと言いたいところだけれど、わりとオールウェイズどうかしてるんだよなあ。


「何か変なんじゃないの、とでも尋ねようものなら、即座に、甘い、という返事が帰ってくる。
 彼らにとっては今現在のやり方、今現在の世界観以外は全て、甘い、のである。
(略)
 それがリアリズムというものなのだろう。(略)
 だが時々、私は本気で心配になることがある―
 ―例えば二十年先がどうなるのかを、彼らはまるで考えてないのではないか」

『掠奪美術館』この日記のため四半世紀ぶりに読み返したけど、やー、改めて面白かった。とくにダヴィッドが描いたナポレオンの「男であることの病」を論じた一章は、かつて身も蓋もなさにゲラゲラ笑ったものが、四半世紀後の今となっては現実が追いつきすぎて笑えないという…

2019年の三冊(2020.01.05)

 と言いつつ、2019年に出た本は一冊しかない。すでに紹介した本の蒸し返しもあります。まんがも一冊。互いに関連しないし、方向性も濃度も違う。三冊の内どれか気に入れば他も…は逆に保証しかねますけど、どれか気になるのがあれば。


 1)温又柔台湾生まれ、日本語育ち』(白水社Uブックス) すまん、親本は2015年です…
 文筆家としても鳴らした漫画家の吉野朔実さんが、かつてこんなことを書かれていた。
 夜中のTVでやっていた政府広報。こんなコピーでした。
「外国人だから、身体障害者だから、差別地区出身者だから、女だから、子供だからといって差別をするのはやめましょう」
 私は、自分が差別されているなんて、それまで知りませんでした。
 これによると、差別されていないのは、
「日本国籍のある差別地区出身者ではない健常な成年男子のみ」
 ということになります。
 自ずと、差別をしているのはこの人達なのだと解ります。

(『眠れない夜には星を数えて』大和書房)
 日本国籍を有すること。一応まあ健康であること。ヤマトンチュであり、シャモであり、もしかしたら東洋鬼や日本鬼子でもありうること。選挙権を有する大人であること。そして男性であること。多くの局面で己が強者・マジョリティであり、寝返りを打てばネズミをつぶしてしまう象になりうること、その加害性に無頓着ではいられない。
 タイトルどおり「台湾生まれ、日本語育ち」という経歴をもつ著者の思いを、簡単に「国籍や育ちなど関係なく、誰でも感情移入できる普遍的なものだ」とマジョリティが言うことは、場合によっては詐取や簒奪・強奪になりうる。

 と前置きしたうえでなお、このエッセイが放つメッセージは感動的だ。マジョリティかマイノリティかに関係なく(と、ああ、簒奪したくなってしまう)人は自分になる・自分であるためには、自分だけの言葉を発見し、獲得し、確立しなければならない。レッド・ツェッペリンの「天国への階段」が、たった一つの「その音」を見つけられれば、すべての迷いが晴れ、吾々はあの「階段」にたどり着けるだろう(でもって、その音を奏でるのは俺たちだ)と謳ったように(そういう歌詞なんですよ)、「その言葉」を見つけた喜びを著者は歌う。
書き終えた瞬間、読まれたいという欲望が、書きたいという衝動を、はっきり上回った
(強調は原文の傍点に基づく)
日本人以外の出自を持ちながら日本語での表現を追究しつづけた先達・李良枝を卒論のテーマに選んだ著者は「あなたは李良枝をとおして自分自身を語ろうとしているに過ぎない」と注意される。それを踏まえて、著者は言う。
ひょっとしたら、いつかだれかが、わたしの小説をとおして、彼自身について、彼女自身について、語らずにはいられなくなるかもしれない?
 それを夢想するとき、わたしは狂おしいほど、すがすがしい。
(こちらの強調は引用者)
 ところがページを繰ると、この著者が「台湾生まれ、日本育ち」であり続けるために、自ら発することを望まぬ言葉を求められる。要は行政上の申請書類というやつだ。制度ともシステムとも、国家とも「日本」とも呼ばれるものに強いられた「言葉」を著者は呑み込めず、タオルを投げるように他者に委ねる。先のページで歌われた喜びが高らかなだけ、この落差は強烈だ。
 著者の感受性と、著者の立場だから気づき得た、この「自分のものでない言葉の強制」は、けれど著者だけのものではないだろう。「自身をこのように語れ」と望まぬ言葉を強要されるとき、人は誰でも「マジョリティかマイノリティかに関係なく」と自称しうる、被抑圧者の立場になる。被抑圧者であり抵抗者・「狂おしいほど」に自分でありたいと望む、一個の個人に。
 

2)シモーヌ・ヴェイユギリシアの泉』(みすず書房) こちらに至っては70年前の文章だ…
 こちらについては、すでに昨年3月の日記(こちら)で書いてるので割愛いたしますが…
 まあ三冊選ぶなら、この本も(だろう)と昨年のうちにボンヤリと決めていて、年が明け、1月3日。トランプ大統領の命令下、イランの有力者ソレイマニ司令官が爆撃で殺害され、イギリスほか世界中のTwitterのトレンドには「第三次世界大戦」という言葉が並んだ。

(バグダッドは殺害の場。「コーチェラ」だけは無関係な、ロック・フェスティバルの会場だ)
「いつでも人間というものは不在の敵よりはるかに強い 出発のときは、かれらの心は軽やかである」
戦場に向かう男たちの、古代ギリシャから第二次世界大戦まで変わらない軽率さと死を前にした無力。そして、そんな軽率さすら許されず奴隷として踏み台にされる、さらに弱い女性たち。ヴェイユが透徹した目で見透かしたこと・白くなめらかな石に鉄筆で刻むように書いた言葉は、戦場へと駆り立てられる者たち・送り込む者たちに届くことがあるのだろうか。
 世界じゅうのTwitterが「World War III」のハッシュタグで埋め尽くされているころ、日本のトレンドだけは、テレビの正月特番の話題で埋め尽くされていた。昨年末のうちに国会をとおさず、政府が閣議だけで決めた海上自衛隊の中東派遣は「盟友」トランプの、この暴挙のあとでも強行されるのだろうか。

 いつまで、こんなことを許し続けるつもりなのか。取り返しがつかなくなるまでか。


3)こめり月にむら雲、花にあらし』(Jパブリッシング)
 これはどうにか昨年の本。最近ますます漫画を読まないようになった+BLには、それこそ傑作や力作が山ほどあるのかも知れないけれど、たまたま(縁あってと言え)手にしたコレが好かったので。
 第一話に相当する部分が著者のTwitterで公開されていて(→こちら。「十年来の親友にまた告られた話)読んだら好ましく、即座に単行本を購入。
 京都の若き日本画家という(関東の庶民には)夢物語に近い設定、でも美大生が就職は出来そうになくて才能を頼みにどうにか絵画で食っていきたい的な生活感の取り合わせが面白い。登場人物みんな京言葉で、んー、やはり憧れの気持ちが勝るか。
 BLに登場する女性キャラの、言うたら「待遇が良い」と何か嬉しくなるみたいで、本作は「ばあちゃん」「画廊の尚子さん」とも良キャラでした。なんか酸いも甘いも嚼み分けた女性たちが、いちばん年若の男子カップルを「よしよし」と雑にかわいがってる感は、BLを愛でる女性(あるいは男性でも)をメタ的に表してるのかも。
 もっと激しく読む者の気持ちを上下させ、かきむしり、打ちのめす作品もフィクションならあるのだろうけど。もっと難しい世界の深奥を考えさせたり、社会の不均等をこれと指差し義憤をうながす書もあるのだろうけど。そうでなく枕元に置いておける本もほしい。そしてそういう逃避ともいえる本も、できれば誰かを踏みつけないもの、そしてやっぱり少し上の感性が行き来してる世界を垣間見させてくれるものがいい。2019年の自分には、これが「いい塩梅」の一冊でした。

 2020年は積ん読から片づけていく、そして年の後半はブローデルの大著『地中海』が解禁となる(条件を課していた)予定。

あけましておめでとうございます。(2020.01.01)

Web書道.comで作成した画像を編集・加工しました…
 ポーランドで生まれ、イギリスで亡くなったジグムント・バウマン(1925〜2016)という社会学者が『リキッド・モダニティを読み解く』(ちくま文庫)というコラム集で書いています。「新年に祝うものは希望である」と。
 これがほしい、あれを叶えたいではなく。
「今度こそ(中略)希望が挫折したり、砕かれたりしませんように、
 決意が希望を見捨てず、途中で萎えたり、停滞したり、活力を失ったり、過去の希望や決意と同じ道をたどりませんように……。
 毎年新年に祝うのは希望の再生なのである

 イギリスでは願いというより、決意をあらたにするらしい。悪い習慣を断ち、良い習慣を身につける。大事にすべき人を大事にする。具体的な方策は人それぞれでも、要は心を入れ替え、真人間になる。今年こそ、今年こそ…そうした異郷の風習を、たぶんバウマン先生は少し皮肉に、けれど慈しんでいたのだろう。
 …新年に神社で手を合わせ、思いつくことがない時は、岡倉天心の『茶の本』に出てきた慈悲と節倹と謙遜というフレーズ(順番は違ったかも知れません)を唱えるのですが、またソレで行くにせよ、もう少し気の利いたことを思いつくにせよ、今年は「この新年の願いが、くじけませんように」と付け加えてみるのも良いかもと思った次第。皆様の願いもまた、叶いますよう。
 

「狭さ」の外に出る〜レヴィ=ストロース『われらみな食人種』(2019.12.29)

 中学生や高校生の頃は、クリスマスの自分用プレゼントはレコードだった。まだ音楽の媒体が、配信やダウンロード・CDですらなかった時代。少し昔の音楽を掘り始めた頃で、ベルリン時代のデヴィッド・ボウイや、ピンク・フロイドの『ザ・ウォール』とか買ったりしたものですよ(壁つながり?)
 …消費社会となった現代において、サンタクロースの風習には子供にプレゼントをあげる時期を限定する教育的効果も見込まれると、文化人類学の泰斗レヴィ=ストロースは説いている。
 もう好きな時に何でも買える・欲望に歯止めがない大人となって「クリスマスだから」という理由で買い物をする重みはなくなったけれど、随想集『われらみな食人種』(創元社)は久しぶりに、この日だから手にしたい一冊になった。なにせ上にも引いた、巻頭エッセイが「火あぶりにされたサンタクロース」。いいね、いいね、いや別に「クリスマス粉砕」とか思わないけど。

 1952年のクリスマス・イブ前日にフランス・ディジョンの教会が、異教的なサンタを公的機関まで一緒になって称揚するのはけしからんと、実際にサンタクロースの像を火あぶりにした椿事は、翌日のイブに市役所前でサンタがキリストばりに「復活」する皮肉な顛末となったらしい。『悲しき熱帯』(1955年)に先立つこと3年・まだ何物でもなかったレヴィ=ストロースは、この騒動に古代の習俗から戦後アメリカ文化の物量にあかせた流入まで、盛り込めるだけの知見と四方山話を盛り込んでいる(たとえば「フランスのGDPが戦前の最高水準に追いついたのは、ようやく1949年だった」とか←いや、これは邦訳につけられた註釈ですが)。その論旨と結末は、関心のある人が各自で確認するとして…

 この随想集じたい「盛り込めるだけの知見と四方山話」のオンパレードと言える。冒頭の火あぶりサンタ(略すな)を除けば、ベルリンの壁が崩壊した直後の1989年〜9.11テロの前年である2000年まで、イタリアの日刊紙に寄稿した文章を集めた、いわばシングル集・裏ベスト。「本格的な著作と向き合う際に必要とされる詳細な用語」なしの「理想的な“レヴィ=ストロース入門”」とは訳者の言である。社会学の祖とされるオーギュスト・コントが晩年イタリア崇拝にのめりこんだ話(1994年)などは、もちろん内容も充実してるけど、寄稿先へのサービスかも知れない。そんな感じに肩肘張らない本だとも言えます。
 ひとつのトピックを取り上げたエッセイでも、それこそ古代から現代まで様々な話題が「リンク」のように散りばめられているので(ただしインターネットの記事と違い、実際にリンクは張られていない)読書や人生の経験を重ねたひとは「あ、これ知ってる」「こう来たか」という楽しみがあり、逆に若い人は後々「これ知ってる、レヴィ=ストロースの本で読んだ」と思い当たる楽しみが待っている。そんな感じに、密度の高い一冊だと思います。

 性格上、時事性も高い。その中には読む側を当惑させ、反発すら憶えさせるものもある。1989年の「社会の諸問題―女陰切除と補助生殖」は、その最たるものだろう。エッセイ前半のトピックとなっている(アフリカを中心とした)女子の割礼・女陰切除を、おぞましい人権侵害と考えないことは、しょうじき自分には難しい。だが著者は文化人類学者として、その習俗には(それが行なわれる)社会内部での必然性があると指摘して、別の社会の住人による一方的な断罪に異を唱えるのだ。
 こうした葛藤に関して、フランスは特に悩みぶかい国かも知れない。冒頭にあげたサンタクロースの火刑だって、端から見れば椿事だが、背景にはフランス社会の徹底した政教分離(ライシテ)がある。イスラム教徒の女子が学校でヒジャブを着用することを禁じ、紛糾しているのと同じ原則だ。シャルリー・エブドの襲撃事件だって、同じ葛藤の、やりきれない産物であったろう。

 新大陸発見の衝撃を初めて正しく受け止めた人物としてレヴィ=ストロースは(同じフランスの)モンテーニュを挙げ、彼が直面したジレンマを次のように要約する。「一方の側には、歴史上の全社会を批判対象にして合理的社会というユートピアの夢をあたためる啓蒙哲学がある。そして、もう一方の側には、ある文化が異文化を評価する拠り所となるどんな絶対的基準も受けつけない相対主義がある」
 アフリカ系移民の「野蛮な習俗」を批判するにあたり、アフリカは野蛮で遅れていて、一本の進化の線のうえで西欧のほうが先を行っているという世界観は許されない。そのことを著者は繰り返し主張する。割礼にも、カニバリズムにも、サンタクロースにも各々の文化的必然性があると。
「視点を変えると、農耕は退化の表現でもあった。(中略)
 カロリーが豊富でも主要栄養素の含有量は少ない数種類に作物が限られ、栄養摂取状態は悪化した。
 およそ数千は知られた食用資源となる植物、あるいはかつてそうだった植物のうち、
 農耕の対象となったのはわずか二〇種ほどにすぎない」

と指摘する、1990年のエッセイのタイトルは「社会には一種類の発展しかありえないのだろうか」だ。農耕と畜産は感染症の拡大・定着の原因ともなった。90年代に前景化した狂牛病の問題なども、それにリンクしている。
 もちろん、農耕を選んで人口が爆発した現在の状態で、すぐさま「数千の植物」を採取する社会に戻れはしない。逆に「野蛮」が一本の線上で過去にあって、現代が失なった素晴らしさを有する黄金時代なのだ、という誤解を斥けるため、非農耕社会でも「すべての個人が(中略)同等の恩恵を受けていたわけではない」と留保もする。

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 エッセイ「社会の諸問題―女陰切除と補助生殖」の後半は、生殖≒親子の定義をめぐる現代科学と社会通念とのコンフリクトがテーマだ。人工授精、卵子提供(精子提供もあるだろう―2011年6月の日記参照)、代理出産。すなわち「父と母」以外の第三者が受精→出産までのプロセスにかかわる「補助生殖」。だが「第三者」とは誰なのか。遺伝子上の親である男女から受精卵の提供を受けた代理母が「産んだのは私だ」と親権を主張する例は、実際、ニュースになっていたはずだ。
 レヴィ=ストロース先生が提示するのは―解決ではないが―そういうのは遺伝子工学がない世界でも実例があったよ、というオルタナティヴだ。具体的には、嫁が夫に輿入れする前に愛人を持つことが公とされ、子連れで嫁ぐ(子は愛人ではなく夫の子とされる)ブルキナファソの事例。富裕層の女性が妻を持ち、その妻に男をめあわせ「吾が子」を作らせるナイジェリアの事例。男が独身で亡くなると、遺産の家畜で親戚の男が妻を買い、生まれた子は(独身で亡くなった)死者の子とされるスーダンの事例。
 (前に日記で書いたとおり―2016年4月の日記参照)SF作家のアーシュラ・K・ル=グウィンが「男女2人ずつ・計4人で初めて成立する異星の婚姻」を生物学的に特殊な設定を用いず、社会の制度だけで組み上げてみせたように。
 文化の線は自分たちの一本きりだと思った西欧人が「こんな複雑な事態は、医学の進歩があって初めて起こった。前例がなくて大変だ」と騒ぐ補助生殖のかたちは「別の文化の線ではあったよ」とレヴィ=ストロースは挙げているのだ。それは解決ではないが、問題を相対化する(と、彼は考える)。「原因に遡ろうと望む限り(略)問題は解決不能なままにとどまる」。だが、別の世界に同じ構造があることで、問題はある意味、問題ではなくなるのだと(「「コルシ・エ・リコルシ」―ヴィーコを追いかけて」2000年)。

 『われらみな食人種』は、さまざまな形で「これ一本きりだ」と思っていた世界観に穴を空ける。それは民博(大阪の国立民族学博物館)などで展示を見たとき「あーダメだー自分はもうダメだー」と痛感させられる、その書物版だ。
 「もうダメだー」は自分が創作(まんが)に手を染めてる特殊な事情による。民博(など)で、同じ地球上ですら人間の生活の形態がこれほど多様で、意外性に富んでいることを目の当たりにすると、自分(たち)が異世界だファンタジーだ、SFだ異星人だといって描いているイメージの「狭さ」を再確認させられるのだ。

 その「狭さ」は、もちろん現在コンテンツとして流通している「ファンタジー」や「SF」の先例に準拠してるから、という側面もある。だが、それより先に、現在の西欧覇権の線から逆算した過去や未来を「異」世界や「異」星人の文化に投影した結果ではないか。ギリシャ風の円柱が立ち並ぶ神殿と、人々が小麦粉のパンを食べワインで乾杯する「異世界」。その異世界で洗練されたエルフたちがそうであるのと同様に、なぜか白人として描かれる(人類より進んだ)異星人たち…

 父シオドア・クローバーが文化人類学者だったル=グウィンは、自らのSF小説に登場する地球人型の人類を、アフリカ由来のような黒人として設定した。食物ひとつ取っても、南アメリカでは塊茎が、南アフリカでは堅果が「メインディッシュ」として利用されていたとレヴィ=ストロースは挙げている。
 服装だって、武器の形態だって、今「異世界」としてデフォルトで描かれているものとは、かけ離れた世界を探求することだって出来たろう。それをしないのは経済や効率かも知れないが、少なくとも「狭い」。そのことを痛感するたび、恥ずかしく、いたたまれない気持ちになるのだ。

 吾々自身が近代的で、迷信から解放されてると自尊している文化や社会制度の根底にも「未開」や「野蛮」な構造がある、と気づかせるのも文化人類学の効用のひとつだろう。『われらみな食人種』という書名からは、そちらをこそ汲むべきだったかも知れないが、今回の日記では略した。世界を一本線だと思いこむ「狭さ」を指摘し、社会の別のありかたに心を開かせる効能ばかりを話題にしました。
 著者も再三、述べているように、別の文化は解決(特効薬)ではない。人工授精による代理母の問題には、どこかの地域の婚姻形態を適用すればいい…みたいには行かない。ただ「問題には少なくともそれぞれ別々の相当な数の解決策があって、そのどれかが自然で自明だとみなされるべきではない」と、十年前(2009年)に世を去った文化人類学の泰斗は諭す。それだけでも変わってくるものは、あるのだと。
 【ここからは、本に基づかない結論
 …あらためて要約すると、多文化のコンフリクトを前に吾々は「すべての社会・文化を批判対象として普遍の正義(未来)をめざす」「あらゆる社会・文化(過去)を等しく尊重する」ふたつの選択肢の間で揺れ動く。慎重なレヴィ=ストロース御大は踏み込んでいないが、この言うたら水平な二項対立には「権力」という垂直方向からの干渉もあるのだと思う。
 つまり権力や多数派(マジョリティ)が、一文化でしかない自身を普遍の正義だと偽装して、他の文化を普遍の名のもとに裁く。あるいは、あらゆる文化は尊重されるべきと主張しながら、自文化だけを擁護し他の文化を圧し潰す。
 さらに言えば「すべての文化は尊重されるべき」と言っても、それぞれの文化・社会には、そのままであったほうが有利な者と、抑圧される者がいる。抑圧や不公平の温存は「文化だから」で片づけていいものだろうか。
 現代には、圧倒的な資本による消費のコントロールという問題まである。「普遍」や「あらゆる」あるいは「文化」「伝統」だと思われているものに、実は権力・力の有無による勾配や不均衡があることを、無視してはいけないと思う。吾々は、自分たちを閉じ込める、うぬぼれた「狭さ」の外に出なければならない。これは(読んだから辿り着けたとは言え)ここまで読んできた本を、裏切る結論だろうか?

レヴィ=ストロース随想集『われらみな食人種(カニバル)』創元社(公式)

「マブリー」に託されたもの〜映画『守護教師』『無双の鉄拳』(2019.12.22)

 腕が直径50cmなのだそうだ。
 人気急上昇中の俳優マ・ドンソク。主演映画『守護教師』『無双の鉄拳』の二本立てを、キネカ大森の名画座興業で観てきました。

 単純化すると「強面マッチョ」。韓国全土でゾンビ・パニックが発生する社会派ホラー『新感染ファイナル・エクスプレス』で怯懦な主人公をどやしつけ、豪腕でゾンビをなぎ倒す助演でブレイク。『神と共に』でも第二部のキーパーソンとなった。これはネタバレのため作名は伏せるが、とある映画では最後に悪事が露見し「てめえら、どけどけ!」と人々を押しのけ逃げる犯人の前に「たまたま行き合った通行人A」でゲスト出演。「どけだと?あぁん?」と、一睨みで犯人の足を止めてしまう。

 一方で彼ほど、出演作を観る前と観た後で、印象の変わる俳優も珍しいかも知れない。
 「ラブリー」をもじって「マブリー」と言うらしい。やはり「強面マッチョ」枠でブレイクしたアーノルド・シュワルツェネッガーも、ステータス確立後「シュワちゃん」と呼ばれる愛され路線に転じたものだが、既にドンソクもその域に居る。
 もちろん怒らせると怖そうだ。が、シュワルツェネッガーのレンガを縦にしたような風貌と違い、マ・ドンソクはアンパンマンやドラえもんのような丸顔。本国で放映された女性向けコスメの広告での、ピンクのエプロン姿など「萌えキャラ」と呼ぶに相応しいほどだ。

 今回の二本立てを組んだキネカ大森さんの、やたら力の入ったコラージュ・ポスターでも「武器は腕っぷし」「殴って解決!」といったキャッチフレーズと「チャーミングな漢」「愛されマッチョ」といった文言が併記されるカオス状態。大きな体にやさしい心このあたりが今、位置づけの中央値なのかも知れない。
 映画自体も、愛する者を奪われた屈強な主人公が怒りの拳で悪を粉砕…そういうのは、まあ(観るけど)満腹気味だなあという、失礼な先入観を良い意味で裏切るものでした。

 鑑賞中の満足度では『無双の鉄拳』に軍配が上がる。公式のキャッチコピーは死にたい奴から、かかってこい。むしろ「だけど妻にはとっても弱いんだってさ」と付け加えたい。
 かつては牛殺しと恐れられた男が愛を知り、今は奥さんが介護関連・夫は魚市場で働く慎ましい暮らし。この愛しい妻が誘拐され、かかってきた脅迫電話は身代金の要求ではなく、逆に「金をやるから女房のことは諦めろ」。わけがわからない。もちろん妻を取り返したいドンソクに、ちょっとスティーブ・ブシェミ入ってる相棒、それに相棒が連れてきた怪しい探偵の言うたら三馬鹿トリオが、なんだか同じくらい迂闊な警察、そして残忍な割にこちらも詰めが甘い犯罪組織と、三つ巴の死闘を繰り広げる。残忍な割に(大事なことなので二度言いました)お笑い率が高い。『神と共に2』を知ってる人は可笑しさ二倍だと思うけど、今度はカニの先物取引に手を出して大変ですドンソクさん
 観た後にじわじわ来るのが『守護教師』。正義感が嵩じてボクシング協会で乱闘を起こし失職したコーチが、どうにかありついた職が地方の女子高の体育教師。キャピキャピ(古語)の女子高生に囲まれたマ・ドンソクという絵面は笑いを誘うけど、こちらの語り口は甘くない。名作『アジョシ』のキム・セロンが物語を牽引するヒロインとして登場。失踪した同級生を探し求める彼女に振り回されるうち、新任のドンソク先生は閉鎖的な町の暗部に踏みこんでいく…
 どちらも「何が起きているのか」の全容を、巧みに伏せて読ませない。事態がおおむね明らかになった後も「勝てるのか?ドンソク」と、また読めない。これで人生や映画観が変わった!級の名作ではないけれど、いずれも娯楽作品として十分に及第点だ。だが、それだけではない。
 両作品に共通する「悪」の造型・属性が興味深く、心を惹きつけた。

 そもそも今どき、映画における「悪」とは何か。近年の韓国映画の悪役といえば、犯罪組織だったり犯罪組織だったり国家だったり悪徳政治家だったり、金持ちだったり犯罪組織だったり連続誘拐殺人犯だったり、連続誘拐殺人犯だったり連続誘拐殺人犯だったり(わりと気が滅入るラインナップですなぁ)「アンダーグラウンド賭け囲碁の顔役」なんて変わり種もあったけど、話がわやくちゃになるので深入りはしない。
 ワールドワイドに話を広げても、犯罪組織だったり国際謀略組織だったり、国家だったり政府だったり、国際謀略組織に乗っ取られた政府だったり、古代文明の亡霊に未来からのターミネーター、怪人・ギャング・宇宙人…
 …『守護教師』『無双の鉄拳』の「悪」の社会的な肩書きはネタバレになるので伏せる。共通していたのはその属性だ。どちらの映画も「女性をモノ扱いし、暴力で支配しようとする男の邪悪さ」を、倒すべきターゲットにしていたのだ。

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 アメリカの辞書『ウェブスター』が選んだ「今年の新語」が、単数形のtheyだった。heやsheに包含しきれない性的属性をもつ・あるいは性的属性に束縛されない人たちを指す代名詞だ。今回の本題には関係ない「呼び水」なので先に進む。
 同じ選定者によるものか、別の似たような企画かは思い出せない。数年前に英語圏で「今年の言葉」に選ばれたのがfake truthだった。悪い意味で、すごい時代になっちゃったなぁと思ったが、たちまち現代の根底にある現象として定着してしまった。fakeを流す側が、truthのことを「フェイクだ」と言いふらすほどに普及した感すらある。日本の胡散くさい流行語大賞や、ふぬけた「今年の漢字」とは射程距離も深刻度も違った。
 ここからが本題・そして個人的な話。ウェブスターは今年の単語を「they」にしたが、この一年、何かと自分の脳内に浮かんだ概念は「男性の有害性を解毒する必要がある」だった。
 たぶん様々な人が、様々な形で指摘・指弾してきたはずだ。もっと身も蓋もなく「中高年男性の有害性」と言ってもいいかも知れない。
 なんだそれは、男性差別だ!という反論に「そういう反射的な反発も含めてのことです」と再反論して、話をもつれさせる気はない。「あー確かに」「なるほどそういえば」と同意した人だけ、この後も読むと想定して話を進める。
 横柄、粗暴、マウンティング、ホモソーシャル。男なら勝て、相手を打ち負かせという価値観。嘲笑、露悪、開き直り。強要。支配。俺も若い頃はヤンチャしたと言うときの「ヤンチャ」の内容が洒落にならないことと、それを得々と語る「今」の無反省。
 野球の試合、ここ一番の打席で見事ホームランを打った選手が「男になった」と讃えられる。思い込んだら試練の道を征くが「男の」ど根性…今までは男性的な美徳として挙げられがちだった「タフネス」「マッチョネス」「男らしさ」「漢らしさ」といった属性が、カードをひっくり返したようにセクハラ・パワハラとして負の側面を剥き出しにした。20年くらい前に「フラジリティ(繊細さ)」「ヴァルネラビリティ(傷つきやすさ)」といった概念が多く言及され、何か世界を変えそうな気がした、それと正反対の要素が社会を押しつぶそうとしているようにも見える。
 あんな事件や、こんな騒動のたび(中高年)男性の暴力性や支配欲、男らしさの呪縛みたいなものを解毒できないものか、と思うことが増えた。もしかしたら、その慨嘆の一番の崖っぷちには「Make America great again」を訴える、あのアメリカ大統領が居て、メキシコ国境の壁の上で「男らしさ」を振り回しているのかも知れない。

 『守護教師』『無双の鉄拳』ふたつの作品を並べると、悪人たちの外面的な「正体」以上に、悪事の根底にある「女性をモノ扱いする悪しき男らしさ」が際立つ。
 それに怒り、拳を振るうマ・ドンソクに期待される「解毒者」としての役割もだ。
 マ・ドンソクが演じるキャラは、聖人君子ではない。ケチケチと面倒くさそうに振る舞うさまも、いじけてスネるさまも似合う。何より、怒らせると怖い。不機嫌そうに睨まれるだけで怖い。だが、そんな彼が劇中では、己の凶暴さを自覚して「お嬢さんお逃げなさい」と村娘を促す、森の熊のようなジェントルさを見せる。
 顕著なのは『守護教師』だろう。同作のドンソクは、キム・セロンに恋愛感情や下心を抱かない。あくまで生徒として遇し、脅かさない。その安心感。『アジョシ』が最後、小学生キム・セロンに不完全ながらも「まともな子供時代」を贈ってやろうとするように、『守護教師』のマ先生も高校生キム・セロンに「歳相応に戻れ。まだ君は子供じゃないか」と願うような贈り物をする。映画に登場する学校関係者は生徒たちを「女」か「学費滞納者」としか見ていない。着任したばかり、しかもどうやら滞納の取り立て業務にしか期待されてない「なんちゃって教師」の彼だけがマトモな大人なのだ。
 これも話が逸れるのでサッと飛ばすが、こうした「もはや有害になった男らしさに、自身も毒されて苦しむ人物」を二作連続で体現したのが『マン・オブ・スティール』『シェイプ・オブ・ウォーター』のマイケル・シャノンだと思う。後者を観たのが2018年初頭なので、その頃から「有害な男らしさ」は自分の意識の片隅にあったようだ。彼はたぶん非常に表現力のある役者で、マッチョさを剥き出しにすればするほど、なんとも「受け受けしい」(すみません)フラジリティを発散していた。

 ならば当然「有害でない男らしさ」を体現するヒーローも求められる。なんとか2.0とか5.0とか命名された事物は大抵うさんくさいので使いたくないのだが、バージョンアップした「新しい男らしさ」が求められている。それも火急に。
  映画の世界でその需要に応え、あるいは自ら作り出しているのは、たとえば自分の赤ん坊を抱っこ紐にゆわえつけ、ヨレヨレのジャージ姿でパパラッチされたダニエル・クレイグかも知れない。ダンディが身上のボンド俳優がなんて情けない、と揶揄される一方で、これが今の男らしさだよと称賛もされた。映画の中でも、あんな俳優や、こんなヒーローが、そうしたロールモデルと目されてもいるようだ。
 そうした(男らしさの弊害を解毒するような)新しいロールモデルの大本命に、なりうるのではないか。「マブリー」なマ・ドンソクは。それはもちろん、今後の彼がどんな役柄を演じていくか次第なのだけど、今回の二作は、そうなれるだけのポテンシャルを感じさせるものだった。
 おそらく(少なくとも現時点で)作中で彼が見せる暴力は、向かう先が慎重にコントロールされている。それは『新感染』や『神と共に』からも見て取れることだ。「マブリー」に託された期待は、僕が思っていた以上に大きく、そして重いのではないか。

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 【今日の要旨:かつては社会を牽引する原理だった「男らしさ」の負の側面が表になり、様々な弊害を呼ぶようになった今、それを解毒する「新しい男らしさ」のロールモデルとして一番期待されているのは、ひょっとしたらマ・ドンソクかも知れない】
 …『守護教師』でも『無双の鉄拳』でも「そうは言っても、いざとなれば腕っぷしで事態を打開できる力を持っていること」が気になってはいる。殴ろうと思えば殴れるし、まあ実際に最後は殴っちゃう男。
 それ以上に気になるのは「暴力を過ちとして封印した男」という設定だ。元から暴力を手段にするなど考えないジェントルな人間ではなく、かつては怒りにまかせて暴力を振るい、改心や挫折を経て、その暴力を封印した男。
 それは「なんだかだ言って最終的には力でしか解決できない局面もあるので、力を保有しているべきだ」ということなのか。それとも「元からジェントルな男?いるわけないよ。まずは男であることの有害性を自覚しろ。そのうえで解毒なり封印なりに努めるんだ」ということなのか。正直まだ分からない。どちらにも転びうる。
 それでも、とくに『守護教師』のラストは、結果的とはいえ「怒りに任せた暴力」の封印を意識していたと思う。それを抑えきれなかった映画の冒頭から比べると、彼も(救うだけでなく)感化され、成長したキャラクターなのではないか。『無双の鉄拳』でも、本篇が始まる手前で同様の感化があったはずだ。
 『守護教師』のキム・セロンも『無双の鉄拳』の誘拐された奥さんも、自分たちを取り巻く有害な男らしさに、全力で抵抗する女性たちだった。そうしたヒロインや弱き者に感化され、ドンソク演じる主人公も己の力を制御する道へ進み出したのだとしたら、それは悪党をぶっ飛ばす以上の勝利かも知れない。

追記】弊害が目立つようになったマッチョイズムを解毒する新しい「男らしさ」の担い手として、もうひとり、ザ・ロックことドウェイン・ジョンソンも候補に入れていいかも知れない。少なくとも、いくつかの作品には、そうした契機を感じます。マブリーといいロック様といい、腕力で勝てる者のなさそうなキャラクターが、そのアドバンテージを自ら放棄するような役柄を演じるのは「強者の余裕」かも知れないが、そうでない気もする。ザ・ロック氏に関しては、当人がうつ病サバイバーであることも、そういう印象につながってるかも知れません。(2020.2.12)

青春しゃくまんルーブル〜映画『ロング・ウェイ・ノース』(2019.12.15)

 『ロング・ウェイ・ノース 地球のてっぺん』は夏に日本公開されて評判を呼び、各地のミニシアターを転々としながら上映を続けているフランス発のアニメーション映画だ。自分も11月に、ようやく鑑賞にこぎつけました。

何よりまず、美しい。輪郭線を極力排した、少し前の「マルチメディア」作品のような画面。これで楽しめるの?スカスカだなぁと思わない?そんな懸念は観たら吹き飛び、逆に自分が絵本の世界に入ったような臨場感を体験できた。帝政ロシア時代の、サンクト・ペテルブルクの貴族社会。走る汽車から流れ去る、荒涼とした景色。茶色と灰色で出来た、シケてるけど温もりのある港町。大海原と帆船の狭苦しいキャビン。そして、ひたすらに白い氷原。
 目を奪われながら、だが同時に思わずにいられなかった。(似てる…)
 (『よりもい』に、似すぎている…)

 北極点を目指す探検行で消息を絶った祖父。流れるようなクリーム色の髪をもつ孫娘のサーシャは(100万ルーブルの賞金を釣り餌に)荒くれの船員たちを動かし、祖父の名誉を取り戻すべく極地に挑む。
 いや、そっくりなのだ。一昨年テレビ放映され高く評価された『宇宙よりも遠い場所』通称「よりもい」に。こちらの舞台は現代。日本初の民間による南極観測で行方不明になった母を追い、流れるような黒髪の少女・報瀬(しらせ)がバイトで貯めた100万円を握りしめ、同年代の少女や大人たちまで巻き込んで、ひたすら南極を目指す話だった(似てるでしょ?)。
 これがまた面白かった。全13話のうち、南極に着くのはようやく9話か10話くらいなのだが、群馬←→新宿間で右往左往してる第2話の時点でもう、転げるほど可笑しかった。なにせ、こちらの報瀬ちゃんは志の高さや思い込みの激しさとは裏腹に、計画性も実行力もない「ポンコツ」と判明し、仲間になった少女たちからリーダーを解任されてしまうのだ。クーデターを起こした仲間たちは、呆然とする報瀬を前に拳を突き上げる。
南極いくぞーっ」「おーっ!
あ、すごい、と思った。報瀬のダメなところには容赦ないけど、彼女の夢は否定しないんだ。この時点で、すでに南極は彼女「たち」の夢になっている。そのテンポの良さ。
 そして夜の新宿の繁華街・ネオンの中を逃げ回る彼女たちにオーバーラップする劇中歌を思わず二度聴き・三度聴きした。
両手いっぱい ありったけの人に 意味なんかないって言われ続けたとしても
さあ前を向いて 間違いなかったんだって言ってやるんだ

こんな身を切るような、ルサンチマンに満ちたアニメ劇中歌、ありか。いや、あった。「レリゴー」だ。しかし「レリゴー」こと「Let It Go(ありのままで)」のエルサ(アナと雪の女王)には、また後で出てきてもらおう。『よりもい』劇中歌の、見返してやる、という思いは『ロング・ウェイ・ノース』サーシャの、常軌を逸した執念そのままでもあった。

 13話かけてポンコツを克服した(とゆうか、まあ見れる程度に均していった)報瀬ちゃんと違い、サーシャの成長は目覚ましい。
 諦めようとするのは港で船に置いてけぼりにされた一度だけだ。料理屋で最初は仕方なく始めた下働きで、彼女はジャガイモ剥きや薪割りを、というより「何かを身体で習得することというメソッド自体をメタ的に習得する。念願かなって船に乗り込んだとたん、キャビンにあった本を頼りにロープの巻き方を自習し始める姿は、まばゆいの一語に尽きる。
 だがその、まばゆい一途さは、妄執を研ぎ澄ますことでもある。
 祖父の轍を踏むように航海は頓挫する。困難な旅路が続き、ついに船員たちは乏しい食料を前にエゴを剥き出しにし、氷の上に落ちた料理の一切れまで奪い合う。たぶん最も信頼していた、淡い好意すら抱いていたかも知れない少年にまで罵られ、サーシャは泣きながら吹雪の中に飛び込んでいく。
 だが、浅ましい姿を見せ、いがみあう男たちの中でも文句ひとつ言わず、毅然と前を向き続けるサーシャこそが、最も「どうかしている」存在ではなかったか。

 報瀬の場合、その妄執は南極に行くため一人で貯めた100万円(心優しき同伴者・キマリちゃんが思わず噛んで言うところの「しゃ…しゃくまんえん…」)として実体化されている。
 激情、と言ってもいいかも知れない。
 理解ある大人や友人に支えられ、初めて氷原を踏みしめた時の叫びがざまあみろ!な彼女である。
 友情ですら「私の友達を傷つけたな!」という怒りの言葉でしか表現できない彼女である。
 物語の最後に彼女が、お宝の100万円をあっさり南極に置いてゆくのには、さまざまな深い意味があるのだろう。再び戻ってくる約束のためトレビの泉に捧げた(法外な)掛け金でもあろう。だが逆に、あらゆるものを破壊する激情を持ったままでは、祖母の待つ日本に・新しく出来た友達とつかず離れずで送る日常に帰っていけない、ためでもあるはずだ。

 それは人界から隔絶された氷の宮殿を断念した、『アナと雪の女王』のエルサの姿にも重なる。

 自分の認識では(2014年4月の日記参照)「Let It Go(ありのままで)」は、そこで終わってはいけない悲しい歌だ。強い想像力を持つ者は、一度はそれを思い切り解放しなければ先に進めないが、また地上に戻ってくる手立ても見つけなければ生きていけない。そんなことを書いたように思う。
 『アナ雪』のラストで皆に受け容れられ、街の広場の氷の彫刻という「公共アート」程度に力の行使を抑制してしまうエルサに、失望する声もあったのは知っている。気持ちは分かる。うーんと思う。だが、あのまま氷の女王として突っ走ればどうなっていたか。それは北極点を求め続けた、サーシャの祖父の末路が示している。その危険を軽んじたまま、エルサにもっと大暴れしてほしかったと願うのは「公共アート」の結末を「なにせディズニーがこれで良しとしたのだから」と「ありのままで」受け容れ称賛するのと、同じ程度には後のことを考えてない(ように思われる)。
 エルサ、サーシャ、ついでに報瀬。三人が示しているのは、人の持つ想像力・夢や情熱は、一線を越えれば妄執であり、しかも困ったことに妄執と化してこそ大きな力を発揮して、人々を動かし、ときに偉業をも達成してしまうこと、ではないか。
 …一瞬だけ話を飛ばすと、自分の念頭には『大脱走』でリチャード・アッテンボローが演じたビッグXの姿がある。物語の上では、あまりに沢山の仲間に自分と同じ夢を見させた者、あまりに沢山の仲間を自分の夢に巻きこんでしまった者は、自らの破滅でそれを贖わなければならない(ことが多い)。
 乗船後に独習したロープワークで嵐のさなか救命艇を救い、氷壁で船長の足を引きちぎりそうになった綱を素早く手斧で断ち切るサーシャは、たしかに超人だ。最終的に彼女の判断はすべて正しく、周囲が最初から素直に従っていれば、もっとトントン拍子に探検は進んでいたかのように見える。だが、本当にそうだろうか。
 事あるごとに現実の身体を重石にして彼女の足を引っ張り、ヒトとしての醜さを曝け出し続けた船員たちは、むしろ結果として全力で、サーシャを現世につなぎとめていたのではないか。帰る家があるはずだ、その妄執を暴走させてはいけない、祖父のようにはなるなと。

 さんざんネタバレしておいて、今さら伏せるのもどうかとは思うが『ロング・ウェイ・ノース』には、何もかも正しかったサーシャが一度だけ、偶然というか不可解な・御都合主義ともいえる奇跡に導かれ、欠けていた最後のピースを埋める場面がある。観ているほうも(これは何?幻覚?)と訝しむ場面だ。正直あんまり上手くない。ちょっとズルい。しかしアレも、そうした物語上の「ズル」なしに全て理詰めでサーシャが目的を達してはいけないと、逆にわざと残された、安全装置としての瑕瑾ではなかったか。
 もう一度まとめると、大きな夢や想像力は、破壊的な妄執でもある。それは人を救いもするし、危険に陥れもする。
 『よりもい』の報瀬が怒りと復讐心を爆発させるとき、そこには確かにカタルシスがある。世の中には、人生には、許さなくてもいいことがあるのだと教えてくれる。だが同じくらい、許すことも尊いと、報瀬に寄り添うキマリちゃんは背中で語る。それはギリギリ土壇場で、サーシェンカを救う側に回る船員たちに託された思いでもあるだろう。
 物語は、ひとつの正解を出すものではないのかも知れない。そして物語は、それ単体で観るものではないのかも知れない。自分の中ではサーシャと報瀬、そしてエルサは、同じテーマを三つの異なる視点から見た、それぞれの幻像だった。あるいは、雪と氷の三姉妹。

 【追記】
 的なことを考えた後で、観ました『アナと雪の女王2』。んー、まあ、そうなるかぁという着地点。話も世界観も「エルサの宙づり状態を解消する」という目的から逆算されたように見えてしまったのは、作品の揚力不足か、自分の先入観のせいか。
 最後に除幕される像で、『ロミオとジュリエット』で和解したモンタギューとカピュレットが「二人の像を作ろう」と言い交わすエンディングを連想したのは、少し強引かも知れない。でも、そちら世代のエピソードに思い切って重点を置くことで、今度は(これも海外の傑作アニメーションだった)『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』あたりと響き合うストーリーにも出来たのではないか。具体的には
一応たたみます。読むひとは自己責任でどうぞ。(クリックで開閉します)。
そんな風にも、出来た気がする。ちょっと残念。
 (追記の追記:かように自分の評価は辛めなのだが『アナ雪2』韓国では一千万人を動員する大ヒットだという。「不和で分断され、片方は霧に閉ざされてしまった二国を、思いやりに溢れた子供世代が和解させ解放する」というテーマに対して、受け止める側の切実さが違う…というのは雑すぎる見かたかも知れない。でも物語の意味は受け手がつくる、と改めて考えさせられる)

センセイの鞄(違)〜張■瑜『班雅明先生的神祕行李箱』(2019.12.08)

※■は草かんむりに倍。

 中国語は、まあ出来ないの部類に入る。学生時代に短期集中講義で四声(発音)などの基礎をやり、最終日には皆で水餃子を作った。どちらかというと「手作りの水餃子は美味い」ほうが身になって残っている。近年になって何度か行った台湾(台北)でも「にーはお」「謝謝」と「請給我一個(ひとつください)」みっつで乗り切った(まあ筆談や、英語が使えるので)。ひどい奴なのだ。
 …絵本なら読めるのではないか、字数も少ないし。という気持ちは、ちょっとあったと思う(ただしそれは、小説などの単行本も何冊か買ってしまってることを説明できない気もする)。2017年に台北を訪れたさい、書店街で『班雅明先生的神祕行李箱』なる絵本のポスターを目にした。山高帽をかぶって「神祕行李箱(ミステリアスなスーツケース)」を抱えた班雅明なる先生は、最初ハリー・ポッターや「かいけつゾロリ」の仲間なのかと思った。

 一度は宿に戻ったのだったか、Wi-Fi接続できる場所で書名を検索したあたりで気がついた。班雅明はBan yaming(ばんやーみん)。実在の哲学者ヴァルター・ベンヤミン(1892-1940)を主人公にした絵本だったのだ。
 ふたたび書店に取って返して、買い求め、しかし結局は積んだままになり二年。そのあいだに名著の文庫化と評判の高かった『中国語はじめの一歩』などを読み、まあ身についたわけでもないのですが「頑張ろう、頑張れば出来る」という機運が徐々に高まり
 
 今年の秋に岩波新書で、今度はベンヤミンのほうの入門書と思しき柿木伸之ヴァルター・ベンヤミン 闇を歩く批評』が出たのに合わせ、1日に見開き2ページずつ、ウェブ翻訳の助けを借りながら、班雅明先生の旅路に取り組みはじめた…


 「そう遠くない昔、とある大都市にベンヤミン先生という、differentな人が住んでいました。
  頭脳のうちに沢山の素晴らしいアイディアを宿した哲学者でした」

 絵本の結語までベンヤミン先生の形容として使われる、このdifferentは日本語に訳しがたい(該当する中国語も、ちょっと日本の漢字に置き換えられない)。異なる?並外れた?世に合わない?
 
 だいぶ前…いや「そう遠くない昔」か…スティーブ・ジョブスが居た頃のAppleがキャンペーンで打ち出していた「Think different」がニュアンスを把握する助けになった。アインシュタインやガンジー、イサドラ・ダンカンなどの「differentな考え」で世界を変えた人々をフィーチャーした広告だった。だがまさに、このdifferentな人々を逮捕せんとする政府によって、班雅明先生は逃亡を余儀なくされる。
 すでに道路は封鎖され、街は監視下にあった。逃げる方法は山越えだけだ。

 他の逃亡者たちが夜明け前に集まって気を揉む中、ギリギリ遅れてやってきた班雅明先生は、運ぶだけで汗だくになる重たい行李箱(スーツケース)を携えていた。
「對我来説、這個箱子是世界上(私に言わせれば、このスーツケースは世界で
 最最重要的東西、比我自己的生命還重要」最も重要なもので、私の命よりなお重要なのです)
 岩をよじ登り、丸石に足を取られ、黒苺灌木叢和橄欖樹林(ブラックベリーの草むらとオリーブの林←こういうの読むと「中国語って楽しそう」と思うでしょ?)を抜け、後は国境管理所ひとつ越えるだけとなる。無事に通過して喜びあう人々。しかし、班雅明先生ただひとりが拒絶され、本国への送還を告知される。
「人々が最後にベンヤミン先生を見たのは、山にある小さな旅館でのことでした」
 え、うそ、班雅明先生…!

 もちろん「ベンヤミンの絵本か、読もう」と思うくらいだから、彼に何が起きたかは知っている。ユダヤ人の彼は亡命に失敗し、山中で自ら命を断つのだ。1945年までにナチスが命を奪った人々の列に、彼も連なる一人だった。しかし迂闊なことに、この期に及んでまだ、「私の行李箱の中身は…うふふ、ヒ・ミ・ツ」とばかりにウィンクする表紙に釣られて、それはまだ先のこと、この絵本の班雅明先生は無事に逃げ延び、数年の最後の日々があると思っていたのだ。
 だが並行して読み進めていた岩波新書のほうで、絵本に登場する「亡命する人々を助ける、親切な費特可太太(フェトカ夫人)」が、彼の途絶した山越えの同行者リーザ・フィトコだったと確認できてしまった。
 もう駄目だ…班雅明先生…
 「出口のない状況に置かれ、けりをつけるほかなくなってしまった。
  私が生を終えようとしているのは、誰ひとり私を知る者がいない、ピレネー山脈の小さな村だ」

  (柿木伸之『ヴァルター・ベンヤミン』より、アドルノに宛てた最後の手紙)
 「このあと、彼は消えてしまいました。
  彼が何より大切だと言っていたスーツケースも、一緒に消えてしまったのです」

  (『班雅明先生的神祕行李箱』)
 岩波新書の評伝は、スーツケースの中身は、彼の原稿だった(ろう)と述べている。だが絵本の後半は、それは何だと推測する人々を、戯画化して描く。私は写真家なのだが、彼の大事な行李箱の中身も、写真に関する論文だよ。いやいや、私の思想へのアンサーとなる論文だ。我が国を脅かす、折りたたみ式ミニ戦車だ!あー、なんて馬鹿げてる!ピレネーの酔客たちは言う。一番だいじな物なんて、逃げた先で恋しくなるだろう、郷里の美味しい食べ物に決まってるよ!特産のソーセージとか、お祖母ちゃんが作ったジャムとか!

 中身が何であるにせよ、それはきっとdifferentな物だったに違いありません、と絵本は結ばれる。巻末の「保護者の皆様へ」みたいな解説ページでは、ヴァルター・ベンヤミンと同じだけの分量が、亡命ルートを組織して約8万人を救ったというリーザ・フィトコ(1909-2005)に割かれている。そしてまた、本文のペースをつかむためには…と後回しにした著者の巻頭言は「家から追われた人々に捧げる」という献辞に始まっていた。
 元はドイツ語で出版され、逆輸入の形で中国語に戻された絵本らしい。改めて思うのは、国際社会では現在、国とすら認められていない、台湾という「家」のシビアな状況だが、それはひとまず措く。

 …行李箱の中身を「ソーセージとかジャムだよ!ハイおしまい!」と決めつける酔客たちの結論は、ひどいように見えて、実はある意味で、班雅明先生への心づくしの手向けとも言えないか。そんなことを思ったのは、たしか柴田元幸さんが『生半可な學者』の中で紹介していた、スチュワート・ダイベックの小説のためだ。短篇集『シカゴ育ち』の、ロシアから亡命してきた老教授が、研究室の壁に「自分が育った街の、美味いパン屋を記した地図」を貼り、二度と帰れない故郷を思い出す「よすが」にしていたという話だ。
 ベルリンで過ごした自らの幼年時代を回顧し、小さき事物それぞれの由来を慈しんだ(というイメージのある)ベンヤミン先生が、最期を共にしたのが郷里のソーセージや「お祖母ちゃんのジャム」だった…自らの名が、次の世紀まで語り伝えられる第二の生を得ると知らず、それと真逆の絶望のなかで死んでいった彼に、そんな慰めも、あっていいのではないか。
 

 【追記】
 …ここで終わってもいいのだが、岩波新書の『ヴァルター・ベンヤミン 闇を歩く批評』も良かったので、駆け足で紹介する。
 アウラやパサージュ、複製芸術、神話的暴力と神的暴力、そしてパウル・クレーの天使など、際立った(differentな)概念をいくつも提示しているベンヤミンだけれど、その文章自体は、けっこう晦渋でとっつきにくい…というのが、若い頃に著作に挑んでの印象だった。同書はそれを、理解しやすく解きほぐしていると思う。ハンナ・アーレントやアドルノ、ブレヒトなどとの交流が明らかになったことで、積んでいる本の今後の消化計画も決まっていったのだが…

 新書『ベンヤミン』によれば、ベンヤミンは人間の言語活動の中でも、各々の事物(被造物)に最初に名前に与える瞬間を、(神が創造によって存在を肯定した)事物を、人が改めて肯定すること・「事物の言語」と呼んで尊重した。その対極にあるのが
 ベンヤミンによると、「人々を特定の行為へ動かす」ための手段としてのみ言葉が用いられるとき、その行為は、計算された効果でしかない。
 言語が「たんなる手段」と化すところには、みずから何かを始めるという意味での行為―アーレントが語った世界に「始まり」をもたらす行為―はもはや存在しない。
 そのとき、空虚な言葉が自動的に連なって、「蔓延(はびこ)って」いく。
(中略)
 常套句と化してさらに増殖するのだ(柿木『ヴァルター・ベンヤミン』)
と糾弾されるものだ。これをベンヤミンは否定的な意味で「神話」と呼び、神話的な暴力を批判した。実際の歴史から切り離された、常套句の組み合わせから成る架空の国粋「神話」で人々を「動かす」ファシズムは、その意味でも彼の敵であった。

 ドゥルーズ=ガタリや、アルトーの翻訳で馴染みのある宇野邦一氏の『アメリカ、ヘテロトピア』は、ハンナ・アーレントの思想を「はじまり」の政治学と呼ぶ。アーレントが讃えるアメリカの(ふつうは独立と言われる)「革命」は
 ひとつの政体、憲法、公共性、法的空間を構成する「はじまり」の過程は、
 別の制度や法や権力によって決定することができない。
 決定されるとすれば、それは「はじまり」ではない。
 「はじまり」における構成の力は、はじまりそれ自体から生成されるほかない。

として理想化される。アーレントを評価したアントニオ・ネグリ言うところの「構成的権力」、既存の権威や権力を根拠とせず、みずから生成し構成される権力。それは、アーレントの「ベンジおじさん」だったベンヤミンが理想化した、被造物に名前が与えられる瞬間・事物の言語と、通い合うものではなかったか。
 しかし…

 ** ここからは自分の中で未消化 **
 少し横道に逸れたつもりで読んだ別の岩波新書・木田元ハイデガーの思想』(1993年)。これも分かりやすい本だったが、読んで著しく困惑させられた。ハイデガーを実存主義に位置づけてきた大著『存在と時間』が、実は後半の本論が執筆されなかった序論に過ぎなかったことを理路づける同書もまた、彼の思想を
「存在を生成として捉え、生きた根源的自然の復権を企てる哲学」
と位置づけているからだ。
 細かい説明は省くが、プラトンの「イデア」のような「事物(存在)に先立つ本質」の希求を西欧哲学が陥ってきた罠と捉え、「存在が生成する瞬間」の把握を目指す…それ自体は珍しいことでは、ないかも知れない。
 木田も述べるように、古事記も最初の神々を「おのずから成る」存在としてきた。ドゥルーズ=ガタリが、現在の病を過去のトラウマに帰する精神分析を批判したのだって、同じ主題の変奏と言えよう。聖書の「ヤハウェ」という神の名ですら「ありつつあるもの」=常に生成しつつある存在と捉える学説に接したのは(中国語の短期集中より前の話)良い思い出だ。
 以前、自作の個人誌でも引用した「人は二つの点の間に線をみてしまうよう呪われている」というシモーヌ・ヴェイユの言葉も、ベンヤミンが「神話」として批判したのと同じものを捉えているような気さえする。

自分はむしろ、星の間に線を引いて星座を作るのが物語(創作)と思ってきたので、それが呪いだという指弾は耳が痛い。と同時に、ひとつひとつの星が生まれる瞬間を見据える、という発想には、思考(と創作)の幅を広げてくれる可能性があると思う。
 しかし、互いに交流があったとも考えられない二人だが、ベンヤミンの三年後、ヴェイユもまたナチスとの闘争に疲弊して落命したことを思うと…
 …この一群に(あまりよく知らんものの)ハイデガーを加えるのはなあ!と思わずにはいられない。

 若き日のアーレントはハイデガーの弟子であり、のちに訣別したが恋仲でもあったという。アーレントの「はじまり」の政治学。「それぞれの言葉がそれ自身に相応しいかたちで何かを語り出す息遣い」を追求したベンヤミン。形而上学を批判して生成の哲学を企てたハイデガー。アーレントの思想形成に、死別あるいは生別した二人の先達は影響しているのか。しているとしたら、それぞれの影響の度合いは。
 似通った点を抽出し、それぞれにフィードバックすることで認識が深まる。それは尊いことだ。しかし「どれもこれも結局は同じことを言ってるんだよねー」で括ってしまい、物事が有耶無耶になる、危険な領域に足を踏み入れかけている気もする。むしろ「同じような発想が、なぜかくも違う道に分かれたか」その弁別こそが懸案なのかも知れない。なにしろ(あまりよく知らんものの)ナチスへの協力を終生批判されつづけたハイデガーである。「似たような考え」とまとめられてしまうのは、自らの哲学を賭けてファシズムを批判し、死を選ばざるを得なかった「ベンジおじさん」にとって、あんまりな話ではないか。
   
未読のアーレント『暗い時代の人々』の一章はベンヤミンに割かれ、そこでハイデガーの名前がチラと出てくるのを書店でのチラ見で確認したのだが、キチンと読めば三者の関係が、少しは見えてくるのだろうか。

死と和解せよ、生と和解せよ〜S.ソロモン他『なぜ保守化し、感情的な選択をしてしまうのか』(2019.12.01)

 ***答えが正しいかはともかく、その答えが問いを明るみに出すこと自体が有益なこともある***

 松本の古書店めぐりで入手した本の一冊が、南和子暮らしの老いじたく』(ちくま文庫)だった。実家の両親はまだまだ健在だが、家の中での転倒など、いつ何が起こるか分からない。かく言う僕自身だって他人事ではなかろう。著者は転倒しての骨折がもとで、一気に身体が弱り、生活や外出の困難を痛感させられたという。
 親本の出版は2004年。杖や車椅子などの選びかた・家の中のバリアフリー化から介護制度の利用法・エンディングノートまで、この分野の古典といった感がある。言いかえると、この15年で過去のものになった事柄も多い。何より、想定されているのが老いに対峙するだけの十分な貯えのある層、なことに隔世の感がある。「坂道を転げ落ちるように老いはやってくる」と説いた同書から現在までに、それこそ転げ落ちるような貧困の拡大があったのだ。先日のニュースでは、70代のアルバイトの男性が、建設だか何だかの現場で転落して亡くなったと報じていた。
 それでも書物から学ぶことは多い。(老いたら)寝ているときでも常夜灯などで床まわりは明るくしなさい、と著者は説く。深夜に目が醒め、お手洗いに立つときなど、足元が覚束なくて危険だと。ふーん、そんなもんかぁと思いながら帰宅した晩、明かりを灯さずに踏み入った自室で、床に転がっていたプラスチックのケースを踏み抜きコケそうになった。ケースは壊れた。そんなもの床に置いてるのが間違ってるわけだが、いやいや、本から学ぶことは多い。(まずその「本」とやらを床に積むのやめようなという話でもあるが)

 世相が暗いせいだろうか、老いを通り越して「死」について考えることが増えた。死にたいと願うわけではない。逆に、死にたくはないのだが、いずれ死ぬのだなあと、しみじみ悲しくなってしまうのだ。思えば十代の頃も、夜中に眠れず悲鳴をあげるほど、いつか自分が消滅してしまうことが怖かった。今はそんなギラギラ(?)した思いではないが、どうそれを、かなうものなら心安らかに受容できるかは、残された人生で最大の難題かも知れない。
 こんな風にクヨクヨしてるのは自分だけかと思いきや、人類の歴史をドライブし、文化も戦乱も生んできたのは、まさに死の恐怖なのだと名指しする本に出会った。

 私たち人間は自分がいつまでも弱くて死の運命を避けられないと認識し、そのせいで身のすくむような恐怖を感じる。文化的世界観と自尊心は、この恐怖を管理するのに役立つ。(中略)
 しかし、異なる信念をもつ人々に遭遇すると、自分たちの文化的価値観と自尊心への信頼を保つのが難しくなる。そのあとほぼ必然的に、悪意のあるいざこざが
 シェルドン・ソロモン、ジェフ・グリーンバーグ、トム・ピジンスキー共著『なぜ保守化し、感情的な選択をしてしまうのか 人間の心の芯に巣くう虫』(インターシフト/合同出版・邦訳2017年)。長いなあ!しかも偏った邦題と言える。感情的なのが保守だけとは限らない。これに関しては、政治的な意味合いを付与しないほうが好かったのではないか。帯に書かれた(今注目だという)「恐怖管理理論」を前面に出すほうが、内容に即していたようにも思われる。
 添えられた副題「人間の心の芯に巣くう虫」のほうが、ほぼ原題「THE WORM AT THE CORE」に沿っている。むろん、この「虫 WORM」が、死の恐怖である。著者たちの論旨は明快だ。人は死を恐れる。その恐怖を和らげ、忘れるためにあらゆることをする。自分の子孫を残したいと望む。不朽の名声を象徴的な不死と看做す。帰属集団との一体化に、精神の安寧を求める。そして気晴らしによって、やがて来る死という現実から目を逸らそうとする。
 本書の特色は、この人類普遍ともいえる問いと答えを徹底していることだろう。著者たちによれば、人類が文化や文明を築いたのも、それをぶち壊すような虐殺や大量破壊に走るのも、死を恐れるがゆえだ。それらを証明するため、被験者たちに死を想起させる映像や文章を見せ(一方で見せない組と比較して)消費行動について、裁判の判決について、など、などの質問をして有意な影響を導き出す。

 だが、どこまで真に受けて良い話なのだろう。
 ただでさえ、人と人が言葉をたたかわす際「死」というカードは強い。「そんなこと言って、もし人が死んだらどうするんですか」といった無理やりな恫喝を何度も目にした(直に聞いたこともある)。馬鹿げてると思うような理屈でも、逆にだからなのか「人が死ぬ」と掛け金を釣り上げることで相手を圧倒しようとする、それくらいに「死」は強力な呪いだ…むしろ用いる側にとって。(聞かされる側はドン引きすることがある。思ったほど効果を上げられず、用いる側は余計かたくなになる)
 本書で説かれる「死の恐怖」の効果は、ワンクッション置かれることが多い。たとえば飛行機が乱気流に翻弄されたとき「この飛行機にはジョージ・クルーニーも乗ってるんだって」と聞くと、そんな有名人が一緒なら落ちないだろうと安心する例が挙げられる。また、二つ並んだ同じような絵画でもジョニー・デップが描いたと言われたほうに人は価値を見出すという。ここにあるのは名声を持つセレブリティに感情移入し一体化する現象であって、その原因が死を恐れるからだ、と断言するのは少し飛躍がないか。
 強い指導者や集団に傾倒する理由は、死への恐怖でなく、孤独への恐怖や決定する責任の回避でも説明できるはずだ。皮肉なことに、生きることはしばしば、死ぬことに劣らず面倒で悲しく、そして恐ろしい。

 それでも本書が身につまされるのは、○○は死の恐怖を回避するためではないか、という仮の答え(著者たちにとっては正解だが)を設定することで、人の愚かな○○の大半を総ざらいできるからだ。ナルシシズム、狂信、ナショナリズム、自発的隷従、レイシズム…答え(本書の場合は死への恐怖)の是非はさておき、それによって明るみに出る問い(なんでそんなことをするのか、それは愚行ではないのか)が有益なことはある。これっておかしくない?と指摘されるまで、盲信の内側にいる人はおかしいとすら気づけない時が多いのだ。
 個人的に説得力あるなーと思ったのは、テネシー・ウィリアムズの戯曲『やけたトタン屋根の上の猫』から引用された警句だった。
「人間はいつか死ぬ動物で、お金が手に入れば買って買って買いまくり、買えるものをなんでも買うのは、買ったものに永遠の命がまぎれているというばかげた望みが心の奥にあるからだと思う」
 独裁者への心酔や、大量虐殺に比べたら、ささやかな罪かも知れないが、積ん読という悪徳は、これかも知れないなと思ったのだ。すぐに読むあてもない本を買っては積み上げる時、人はそれを読む時間が自分にないかも知れないことを想定しない(か、少なくとも見てみぬフリをする)。それは、いつ来るか分からない「読む時」を負債として所有することで、死を先延ばししようとする(自分は死なない、だってまだこんなに未読の本を積んでいる)むしろ積極的な逃走の営みではないのか。積ん読を後ろめたい悪徳ではなく、むしろ自慢のようにひけらかす行為は、そんな心理の所産なのでは…とは、意地が悪すぎるだろうか。
 
 (買って、読んで、読み返さない本を蔵書として持ち続けることはどうなのか)
 (大体お前さんが人生の大半を削ってやってる創作とか、こうした文章こそって話でもある)

 少し前に読んだ山内志朗過去と和解するための哲学』(大和書房)という一冊を思い出した。読みながら、いやむしろ自分は未来と和解したいのだがと思ったことを。未来、つまり身も蓋もなく言えば避けられない死・および死に至る惨めな道行きと和解したいのだと。
 死と和解するとは、それに至る生と和解することと、しまいには区別がつかなくなるのかも知れない。死を恐れずに済むようにと願う前に、生きることを恐れない・恐れずに生きることこそ肝要なのだとしたら…ああ、それは困ったことに、死と和解するのと同じくらい難しい。難しいことじゃありませんか、ねぇ旦那!あっしら凡俗って奴には、逃避せず日々の暮らしと向き合うってぇことが、おっ死ぬのと同んなじくらい難しいんでさぁ!(急にロシア文学の卑屈な男みたいな口調になって終わる。部屋は片づかない…)
 

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