まんがなど
(26.05.28更新)
『台湾でしたい50のこと』更新。
    *  *  *
台湾でしたい50のこと
第3話 更新
(26.07.26)



発行物ご案内
(19.12.01更新)
更新とどこおってます。
電書化、始めました。
電書へのリンク
こちらから
、著者ページが開きます。

過去日記一覧(随時リカバリ中)

過去日記キーワード検索
終了しました(22.11.19)
Author:舞村そうじ/RIMLAND
 創作同人サークル「RIMLAND」の
 活動報告を兼ねつつ、物語とは何か・
 どんなメカニズムが物語を駆動し心を
 うごかすのか、日々考察する予定。

【最近の動向】
当面は新刊がない予定です。

WebまんがSide-B遅々として更新中。

小ネタですが本篇更新。三年ぶり。(23.12.24)

旧サイトは2014年8月で終了しました(お運びいただき感謝)。再編集して、こちらの新サイトに少しずつ繰り入れますが、正直、時間はかかると思います。

[外部リンク]
comitia
(東京名古屋新潟関西みちのく)
あかつき印刷
POPLS

日本赤十字社

愛と劣情の馬たち(Instagram)

if you have a vote, use it.(save kids)


港の上に広がる空の写真を背景にロゴ「MY税金 MY CHOICE 防衛所得税 導入反対」
ロゴは勿論「MY BODY MY CHOICE」が元ネタなので、流用すな・簒奪やめいという場合は修正します。(24.12.13)

(26.08.08)メイン日記(週記)更新。ブードゥーの呪術で、SF的手法で、東京都現代美術館のナイトミュージアムで「別の世界(認知)」を求める。画面を下にスクロールするか、直下の画像をクリックorタップ、またはこちらから。


『台湾でしたい50のこと』第三話『桃園で傘を買う』アップしました。下の画像か、こちらから。

【セールのお知らせ】BOOK☆WALKERで電書まんが50%コイン増量キャンペーン・8/17(月)9:59まで。
一度に税別1500円以上の購入のみ対象なので、RIMの電書は他のかたの作品(商業作品など)を購入して値引きには少し足りない時の充填剤などに(も)どうぞ。
まずは無料の冊子・試し読みから。下の画像か、こちらから。
電書へのリンク

(外部リンクが開きます)
(26.08.05/小ネタ/すぐ消す)あるよと言われたら「そりゃあるよね」と納得の、ミルクじゃなくて脱脂粉乳と植物性油脂で廉価なコンデンス「クリーム」。輸入元はお馴染み神戸物産・ということは原産地は…と確認してコレも納得。Made in ベトナムでした。
 写真:トマトとサバのカレーに、宇治金時のかき氷、コンデンスクリームのチューブ。
 納得できないひとは「ベトナムコーヒー」で検索。
ふだんづかいできる反差別Tシャツがあると自分が便利なので作りました。わりと厚手で丈夫です。

    ***   ***   ***
【M7.1 熊本地震】緊急支援を開始。被災地へご支援を(ピースウィンズ・ジャパン/空飛ぶ捜索医療団"ARROWS"/READY FOR/外部リンクが開きます)

(26.07.23)署名私たちは、ムラト・チチェク氏の死を取り巻く状況が明らかにされることを要求します。(change.org/外部リンクが開きます)に賛同しました。
この署名はトルコ語で書かれているため「クルドを知る会」のXでの紹介もシェアします。Xのアカウントがない人でも読めるよう
「クルドを知る会」による署名の呼びかけ(主ポスト)
署名じたいの声明文の和訳〜主ポストで「コメント欄の日本語訳を…」と書かれているものです。
両方ともリンクを張っておきました。
      *     *     *
署名まとめ。しばらく存置。
入管庁は在留許可手数料の法外な値上げを撤回してください(change.org/外部リンクが開きます)
「(新)憲法改正に反対します。(同)
原発の「建て替え」方針に反対(同)
中東情勢によるナフサショック等の建設資材緊急対策を求める請願署名(同)
華やかな-大阪-関西万博-の裏で苦しむ建設業者を救って-370億円の黒字の一部で-未払い10億円の解決を(同)

【電書新作】『リトル・キックス e.p.』成長して体格に差がつき疎遠になったテコンドーのライバル同士が、eスポーツで再戦を果たす話です。BOOK☆WALKERでの無料配信と、本サイト内での閲覧(無料)、どちらでもどうぞ。
B☆W版は下の画像か、こちらから(外部リンクが開きます)
電書へのリンク

サイト版(cartoons+のページに追加)は下の画像か、こちらから
サイト内ページへのリンク

扉絵だけじゃないです。side-B・本篇7.1話、6頁の小ネタだけど更新しました。

(外部リンクが開きます)
今回ひさしぶりにシズモモの過去エピソードを見直し「やっぱり好きだな、この話とキャラたち」と再認できたのは幸せなことでした。そして色々あったり無かったりしても、ペンを持って物語を紡いでいる時が、自分は一番幸福らしいとも。次に手をつける原稿は(また)シズモモではないのですが、何しろ描くことは沢山あるのです。
ちなみに今話タイトルの元ネタは井上陽水の「愛されてばかりいると(星になるよ)」。同曲が収録されたアルバム『ライオンとペリカン』のB面(side-B)に入ってる「お願いはひとつ」は個人的に一番好きなクリスマスソングの最有力候補です。レノンと争う。
RIMLAND、電子書籍オンリーですが20ヶ月ぶりの新刊『読書子に寄す pt.1』リリースしました。
タイトルどおり読書をテーマにした連作に、フルカラー社畜メガネ召喚百合SF「有楽町で逢いましょう」24ページを併催・大量リライト+未発表原稿30ページ以上を含む全79ページ。頒布価格250円(+税)で、一冊の売り上げごとに作者がコーヒーを一杯飲める感じです。下のリンクか、こちらから。『読書子に寄す pt.1』電書販売ページへのリンク画像
書誌情報(発行物ご案内)はおいおい更新していきます。(22.11.03)
【生存報告】少しずつ創作活動を再開しています。2022年に入ってから毎週4ページずつ更新していたネーム実況プロジェクト、7/29をもって終了(完走)しました。
GF×異星人(girlfriends vs aliens)

これまでの下描きは消去。2023年リリース予定の正式版をお楽しみに。(2022.08.08→滞ってます)

この世の外に出る〜『ブードゥーの神々』『この世界からは出ていくけれど』『はじめて、びじゅつ』(26.08.08)

 0) (マクラ)
 前にも書いたかも知れないけれど『狂気の歴史』(口惜しいが未読)で一躍脚光を浴びたミシェル・フーコーは、どうしてそんなに狂気にこだわるんだ・あなたは狂気というものを肯定的にロマンチックに捉えすぎなのではないか―そんな風に問われ、こんな風に切り返している:「私ひとりが狂気というテーマに肩入れしすぎだと仰いますが、私たち人類がパーティーだといって集まって、することと言えば何でしょう?お酒を飲むか、ドラッグをやって、皆で正気を失なうことではないですか」(正確な出典をいま思い出せないし探す余力がないので記憶による引用です)
 もちろん『狂気の歴史』(返す返すも未読)でフーコーが描いた(らしい)のは「ロマンティックな狂気」ではなく、おそらくそうロマンティックでもないだろう「狂気」を排除し隔離することで「正常」が作られていった歴史なのだろうけど、まあ生きてるうちに読めたらいいなと思っている同書のことはさておき。

      *     *     *
 1)ブードゥーの神々
 ゾラ・ニール・ハーストンブードゥーの神々 ―ジャマイカ、ハイチ紀行』(原著1938年/常田景子訳・ちくま学芸文庫2021年/外部リンクが開きます)は、自分のために用意された―とは言わないまでも、ここ数年の自分の関心からは避けて通れない一冊だった。副題のとおり、ハイチにまつわる本だ。
『ブードゥーの神々』書影にキャプション「いやハイチに関心を持つと言っても多々ある移り気な関心のひとつで要はつまみ食いですよ…」
 本書が描くのは、スーザン・バック=モースヘーゲルとハイチ』がヨーロッパより早く人権憲法を打ち立てた先駆者と称揚したハイチではない。その「奴隷にあるまじき先駆」への報復としてヨーロッパや合衆国に発展の芽を摘まれつづけたと浜忠雄ハイチ革命の世界史 ―奴隷たちがきりひらいた近代』(岩波新書2023年/外部リンクが開きます)が告発する(23年10月の日記参照)被害者としてのハイチでもない。
 言い直す。自由や平等・人権や理性といった近代が賜った宝玉(ほうぎょく)を取り合う視点から、バック=モースはその宝玉は本来ハイチのものだったと画期的な論考をぶちあげ、一方で浜氏などは人類普遍に得られるべき近代の宝玉を西欧の暴虐で取り上げられつづけてきたハイチ(はじめ植民地)の悲惨を告発してきた。

 ※その宝玉が実はキズモノで、外面(ソトヅラ)では自由平等博愛を謳いながら、内面では差別と収奪が本質だったかも知れない二面性については一旦措く。一旦措くと言いつつ24年4月の日記を蒸し返しておくし、その前週まさにバック=モースの見解として紹介した「初めから革命は裏切られていた」も蒸し返しておくし、その破綻がパレスチナに顕現したことを告発するスラヴォイ・ジジェクのショート動画もリンクを張ってしまうわけだが
ガザで起きていることはヨーロッパの死であると語るジジェク[日本語字幕](YouTube/25.02.06/7分くらい/外部リンクが開きます)

 けれどアメリカの人類学の草分けたるフランツ・ボアズ(未読←正直)の、黒人女性としては最初の教え子だったハーストンが(奴隷階級から立ち上がりハイチ建国を成し遂げた初期の英雄ルヴェルチュールやデサリーヌには一定の敬意を示しつつ)1938年に描き出すのは、人権や平等あるいは理性といった近代の(ソトヅラの)精華に背を向け、別のルールのゲームを続ける=だから近代化というゲームでは西欧に到底かなわないハイチの姿だ。
 その「別のゲームのルール」とは、前近代的な権力争いであり、むせかえるような男尊女卑であり、そしてブードゥーの呪術だ。
 今では原形をとどめないほど独り歩き…どころか近年は全力疾走するほど変わり果てた概念であるが、なにしろ「ゾンビ」概念発祥の地であるハイチ。死者と生者がふつうに共存(?)し、互いに影響を及ぼしあう、一時の富と引き替えに家族の命を差し出す取引をした人々の破滅の物語が複数形(人々)で伝えられるような地に取材して、現地の呪術師たち(複数形)に順調に弟子入りまでして、著者は、近現代の物質文明に生きる吾々が知らない「もうひとつの世界」に踏みこんでゆく。なにせ本書には「この人はゾンビ」とキャプションのついた白黒の肖像写真まで収録されているのだ。
 これは異世界の疑似体験、文化や制度の違いによって(個人どころか社会集団まるごとが)こんなに異なる様相で世界を認識しうるという疑似体験としては、相当なものではないでしょうか。
 しかも世に流布するオカルト譚の多くが「エイリアンと裏取引している現政府」とか「成功をもたらすスピリチュアルな法則」みたいに現行の制度の中でチート(裏ワザ・ズル)をする話か、さもなくば○○の呪いのように現行の社会から滑落する恐怖しか語っていないのに対し、ハーストンが取材したブードゥーの世界は彼ら彼女らに上から課せられていた世界経済や世界情勢とは別の(死者たちの)世界を見ていた・別のルールに従っていたと思うとなおさらに興味深い。いや、もちろん命の取引で「富」を得るとか俗な利益はともなっているのだけど。
 画像。「今回も載せれる画像ないから押し寿司の写真でも見てくれ…(ベジの人には迷惑)」ということで、3p四方くらいのキューブ型の押し寿司が色とりどり詰め合わされた折り詰め写真。
 第一の問題は先に示唆したように、この「異なる世界の捉えかた」に―キリスト教やイスラム教が・あるいはサパティスタ運動の根幹にある中米先住民の世界観が持っていたような―社会そのものまで転覆する力はないこと。
 第二の問題は、示唆される「別の世界」が、それはそれであまり感心できるものでないことだ。
 同書解説(今福龍太)によれば、黒人ゆえの差別を受けない境遇に恵まれて育ったハーストンは、まず被害者として自己定義して→そこからの解放を唱えた当時の人種闘争に対し、白人社会など歯牙にもかけないコスミックな存在としての黒人(そして女性)の生の喜びを謳い上げる作家として、トニ・モリスンなど後の世代に多大な影響を与えたという。それはいい。
 ただ彼女が取材したハイチやジャマイカの呪術社会は、搾取も不平等も男尊女卑もえげつない。フェデリーチが中世ヨーロッパの農村社会に・グレーバーらが北米先住民の社会に見た、近現代の吾々が良しとする自由や平等といった価値観の先取りは、残念ながらブードゥーの世界観にはない。アルコールやドラッグ・あるいは「狂気」によって異なる認知を得られますよと言われても、それが悪酔いやバッドトリップだったり「皆に陰口を言われている」みたいなパラノイアだったら、誰が(変化に飛び込む)赤いカプセルを選ぶだろう。
 ブードゥー社会に(せっかく死者と生者の境界を取っ払いながら)みなぎる不平等・不公正は、その淵源であるアフリカの部族社会で既にそうだったのか。もしかしてアシル・ムベンベが告発するように部族社会の文化が西欧の植民地支配によって歪んでしまった(昨年11月の日記参照)側面はないのか、それを確認する余裕は当面じぶんにはないのだけれど…

      *     *     *
 2)この世界からは出て行くけれど
 ベンヤミン・ネタニエフやドナルド・トランプや(以下略)あるいはGAFAMやイーロン・マスクがのさばる現行社会の転覆については、いったん措こう。
 またまたキム・チョヨプで申し訳ないがこの世界からは出ていくけれど』(原著2021年/カン・パンファ ユン・ジヨン訳 早川書房2023年/外部リンクが開きます)は逆に、世界や社会どころか生物的な条件が変わったため異なる現実認識をもつに至った人々を描く作品ばかりを収録した特異な短篇集だ。
 ちょっと昔の本だけど、事故による脳の欠損で自分の右側しか認識できなかった患者など、さまざまな「異なる認知」を持つ人たちを紹介した『妻を帽子と間違えた男』ほか脳外科医オリヴァー・サックスの著作のSF版といった趣きでもある。
 画像:「キム・チョヨプの書影も撮ってなかったのでクレーンでも見てください、すまねえ…本当にすまねえ…」というキャプションと、うろこ雲の空を背にビルの天辺に設置されたクレーンの画像。
 事故などで後天的に失なわれた腕や足をまだあるように感じる幻影肢(ファントム。たとえば義足に馴染むために有用と読んだことがある)を敷衍して、本来なら有してない三本目の腕の幻肢に焦れる人々を描いた「ローラ」は全編の白眉であるように思う。同作が提示する「理解できない相手を愛することは可能か」という問いは、腕の本数に関わらぬ本質的な問いかも知れない。

      *     *     *
 3)はじめて、びじゅつ。
 亡くなった山田五郎さんが美術館や博物館は(他所から目玉作品を呼んでくる企画展も良いかも知らんけど)その館じたいの収蔵品を常設展で観なさいよ安いしという話をされてて、ちょうど東京都現代美術館が真夏の夜の時間延長をしていたのでコレクション展「はじめて、びじゅつ」を400円で観て来ました。
サマーナイトミュージアム2026開催のお知らせ(東京と現代美術館/外部リンクが開きます)
コレクション展『はじめて、びじゅつ(同/〜26.08.16)
 写真4点。左から東京と現代美術館のエントランス・広々とした通廊・ポスターが貼られたコレクション展の立て看板・「はじめて、びじゅつ」とタイトルが振られたポスター。
 作品じたいの写真が撮れなかったので相変わらず画像がさびしいのは仕方ないとして。
 ナイトミュージアム本体は21時まででもレストランはオーダーストップの19時にギリギリ間に合わず、前に来たとき結構おいしい印象のあったパフェ(期間限定ものでメニューは変わっているけど)を試せなかったのは無念だったけど、それもさておき。はい、ふつうに好い展示でした
 写真3点。左から2階のレストランに向かう階段(ただし自身の目当ては地下階レストランのほう)・「CLOSED」と表示された受付・期間限定「キャラメルチョコバナナパフェ」のメニュー写真。
 さまざまな作家の作品を少しずつ・雑多とは言うまい・ゆるい括りで並べた展示は、逆にSNSやショート動画の細切れに慣れた今の吾々には親しみやすいのかも知れない。(とくに日本で現代美術とゆうとイメージされがちな?)作家個人のアティテュードやパーソナリティ≒俺が俺がという自己主張とも違って、Let me show you the world in my eyesとゆうかIf I can make the world as pure as strange as what I seeとゆうか(どっちも有名な歌詞なんで気になったひとは検索してください)それぞれの作家が異なる感性で捉えた世界の美しさ―ストレンジな美しさを、観賞という形で追体験できる感じ。
 死者と生者の併存を社会単位で成立させたブードゥーの呪術世界。今の吾々とは異なる世界認知のありかたをSFという力業で提示したキム・チョヨプの短篇集。なんのことはない、(とくに現代)美術もまた、世界の認知を歪ませる・ぜんぜん別の感覚がありうることを観る者に示してくれるものでもあるのだ。これも前出の再度再度の蒸し返しだけれど、初めてドラッグを試した若年デヴィッド・ボウイが何てことない路上のひび割れに魅了され延々眺めて飽きなかったたという話を思えば、すぐれたアートはドラッグなしで・ドラッグのように異様な世界を見せてくれる。いや「異様な世界を」でなく、ラリったボウイがそうだったように、何の変哲もないと思っていた「この世界」こそ延々眺めて見飽きることのない「異様な」美しさに満ちていることを教えてくれる。
 今回の展覧会では金氏徹平やガブリエル・オロスコの写真に「写真」「アート」として切り取ることで見慣れた風景が見慣れない「アート」として立ち上がる不思議な感覚を味わえた(オロスコの写真「僕の犬のカウチ」はひとしきり感心したあと「bokete(画像に可笑しなキャプションをつける大喜利)じゃん」とも思ったけど)。そして展示された「アート」から視点を横や下に外すと、目に入った周囲の壁や板張りの床に「この壁や床だって同じようなモノじゃん」「アートとして展示されてるモノと何が違うんだ」と気づく。悪口ではない。
 昨年の暮れに小石川植物園に行ったとき書いたように(あ、若年ボウイのドラッグ話はココでしてますね)植物園の中で珍しい植物を観て魅惑されるだけでなく、園の外に出ればふつうにある周囲のなんてことない街路樹や植え込みの草木・雑草までもが同じように美しく個性的なものとして立ち上がってくる・日常で摩耗したその感覚を賦活させるだけでも「植物園」としてキュレーションされた場所に出向いて良かったと感じた。同じように(すぐれた)アートは「この作品スゲー」だけでなく、そのスゲーと思った視線を美術館の外に逸らせば、外の世界=この世界も同様にスゲーと(再)認識させてくれる。
 便器を美術展に出品したアート作家は「何が美術だ、この便器と変わらないじゃないか」と言いたかったのかも知れない。けれど逆に、いちどアートを鑑賞した目は「なんだ、身の回りの事物だってアートじゃないか」と認識を改めることができる。
 グレーチングが少し写り込んだ(写り込ませた)路傍の花の写真にキャプション「世界はストレンジで美しい。ドラッグや呪術なしでも。」
 そんなんじゃツマラナイ、もっとこうドーンと!バーンと!認知が書き換えられる異常体験がしたいんだよ、という中学二年生みたいな抗議は自分の中でいったん棚上げにしよう(あ、そういう気持ちはあるのね)(そして「いったん」てことは完全には諦めてないのね)
 いま確認しておきたいことは二つ。
 ひとつは疑問で「アルコールやニコチン・ドラッグで酩酊する皆さんは世界の認知が変わったと思うんでしょうか」自分は知覚の変容にすごい興味があるけど下戸なので、アルコールで酔えるひとが羨ましいと言いすぎて「そんな期待するようなもんじゃないよ」と窘められたことがあるけれど、どうなんだろう。
 ふたつめは疑問というより課題・宿題なのだけど、アートが人の認知を変えるとして、それを社会(の不公正)の転覆にどう接続していけるのだろう
 アルコールがもたらす酩酊・知覚の変容は―最後の晩餐の「このワインを私の血と思って飲みなさい」から金曜夜の居酒屋の「イェーイ!乾杯」まで―(既存の)共同体の結束を強めるか、あるいは共同体から一人酔いへと滑落するひとを生むばかりで、まあ歴史上「タバコ喫って革命」「酔った勢いで政権転覆」なんてことはなかった気がする。ボストン茶会事件を思えば、紅茶のほうがよほど既存体制への異議申し立てにつながったというのは冗談として―
 ブードゥーの世界観が、近代西欧のネガである植民地支配に抗するのに利さなかった(らしい)ことは書いた。
 アートが時に体制を翼賛する諸刃の剣になるのは分かっている。せめて諸刃ならば一方の刃は、人の世界の近くを揺さぶり賦活するとともに、その揺さぶりが「このままではいけない」「もっと公正な社会を」という変革や転覆に接続できるものには、なれないものだろうか。
 今回の展覧会のタイトル「はじめて、びじゅつ」の由来になったという作家・大岩オスカールの組作『戦争と平和』には、厚顔無恥に「戦争できる国へ」を標榜する官産複合体の政治家たちに冷や水をぶっかける政治的な力が確かにある。
 作品は作品そのもののために作られるので、メッセージ性などは邪道だという意見にも一聴の価値はある。けれどアートと通して世界を認知する仕方を変えられるなら、せめて悪酔いやバッド・トリップでなく、もちろん体制への迎合でもなく、より望ましい世界への変成を願ってもいいのではないだろうか。

 
 追記1)とはいえ「現代に生きる吾々」の世界認知だって一枚岩ではない。まだ勉強中で何か知ったげに言えることはないけれど、障害者やLGBTQ(SOGI)の人たちに見える世界のことを少しずつ読んでいる。
 追記2)ずっと行きそびれてるのだけど、東京都現代美術館の向かいには(バーミヤンなんかと並んで)ミールスやマサラドーサなど南インド系のカレー店があって気になっている。日中に訪なうひとには試してみてほしい。
 追記3)高校の美術の授業でメゾチントを制作したことがあって、もちろん高校生が週に一時間だか二時間だかの授業で銅板に刻み目をつけるわけにもいかず透明なプラ下敷きを削ったのですが、世界的にも珍しいというカラー版メゾチントで知られる浜口陽三の展覧会が丁度やってたのを観に行ったことがあった。今回の現美の展覧会では彼の代表作・さくらんぼのメゾチントも一点展示されていて、そーか、現代美術だったのか浜口陽三。
・参考;ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション(外部リンク/ここも十年以上前に観に行ったなあ)

内奥まで・けれど等距離で〜大岡昇平『武蔵野夫人』『事件』(26.08.02)

 「僕は別に文学を書きたかったわけではなく、ただ知りたいと思っていただけでした。しかし文学は一体書かれずに知れるものだろうか」大岡昇平(孫引き)

      *     *     *
 本当のことを言おうか。私は文学(小説)を知らない
 そんな谷川俊太郎ばりの告白をしたくなるような、実は自分は小説のことなんて何も分かってなかったんじゃないか・「またしても何も知らない舞村さん(仮名)」だったんじゃないかと動揺が停まらない、異様な小説に出逢ってしまった。

 大岡昇平武蔵野夫人』(1950年/新潮文庫)。いや今ごろ『武蔵野夫人』を初読するほうが余程おどろきだが。もう何十年も前に「そういう小説がある」と知ったものの、その時は読むタイミングがなくて、それが先月、市立図書館の棚で偶然「目が合って」せっかくだから読んでおくかとカウンターに持っていった。
 凄い小説だった(自分的には)。
 戦後すぐの武蔵野。国分寺市のあたりに恋ケ窪という地名があって、その周囲で展開する若い人妻・道子とビルマの戦場から引き揚げてきた従弟・勉の悲恋の物語だ。『野火』(さすがに読んでる)でも見られた自然風景への執拗ともいえる観察眼は本作でも健在で、
 キャプション「…などと、もっともらしく書いてはいるけど、ソレ(大岡昇平における自然観察への深い関心)は自身でつかんだ感覚ではなく丸谷センセか池澤夏樹氏あたりの単なる受け売りなのではという気はする(正直)」自分のテキトウさに眉をひそめる自画像を添えて。
まだ農地か山林(里山?)で緑が深い東京西部の情景描写は一度「聖地巡礼」で現地を訪れてみたい・でもまあ当然のように小説で描かれた景色などコンクリに替わって見る由もあるまいと相反する感情にとらわれる…と言いつつ物語の後半、望みの薄い恋を諦めようと勉が移り住む五反田の風情は、たぶん間違いなく今の五反田には残ってすら居ないのだろうけど、ちょうど本書を読みながら(また歩きながら本を読んでやがる)歩いたそのあたりに、なんとなく「ぽい」雰囲気を感じてしまったのは文学の魔術と言えるだろうか。とはいえ「凄い」とたじろいだのは、そこではない。
 自分はあまり土地観のない西東京の地図。新宿(南に五反田)から西進した国分寺の北あたりを「このへんが武蔵野夫人の舞台」南あたりを「そしてこのへん『まちカドまぞく』の舞台」と指さす『まぞく』のリコくん。
 たいがいの小説は、主人公の視点・目線で描かれる。たとえば「走れメロス」なら、メロスがどう思った(まあのっけから「激怒した」なわけですが)か・何を見て何を考えたかは描かれる。けれど奸佞邪智の王(名前を忘れちまったなあ)や親友セリヌンティウス・妹やましてその婿や走るメロスに襲いかかる盗賊の内面までは語られない。いやどうだったろう、語られたっけ。王はかれこれこういう理由で人を信じなくなり暴君と化したのだ、みたいなことは1)人々の伝聞という形で描かれた2)王自身の台詞として語られた・ならいいけど3)「このように王は思ったのだ」とか地の文で軽く書いてやがったっけ大宰。まあ1)だったろうと思うことにして話を進める
 進めると言いつつ横道に逸れると、あだち充氏のまんがでは、たとえ主人公であっても内面の声がフキダシで語られることはない。これは自分で読んで発見したこと。むかし兄が持ち帰ってきた『H2』を当時の最新刊(20何巻だったと思う)だけ軽い気持ちで読んでみたら存外おもしろく「念のため一冊前の巻だけ」「もう一冊前の巻も」と遡り遡り、最初の一巻まで読んでしまった不思議な体験をしたことがある。自分が夢中になるタイプの話でもないけれど、やはり一流なのだとは思った次第。
 図解。「あだち充まんがには内心を表出するフキダシはない」(でも作者が語り手のナレーションはあった気がする)とあだち作品の画風を模して説明する羊帽の女の子「ひつじちゃん」のイラスト。
 まんがでありながら手法は映画的といえるのかも知れない。カメラは人物の姿や言動を外から捉えるのみで、その内面にフキダシをつけて語りだすことはない。
 小説にも映画的に外面だけ描かれるキャラと、内面まで描かれるキャラがいる。とくに顕著なのは一人称「私」で語られる物語だろう。『アレクサンドリア四重奏』でも『失われた時を求めて』でも語り手=主人公の「私」は(外面しか見えない)周囲の人々の内面を測りかね、思い違えては振り回される。

 『武蔵野夫人』で読者が目にするのは、真逆の事態だ。道子。従弟の勉。道子の夫である秋山。秋山夫妻の隣人である大野。大野の妻で秋山と不倫関係にある富子。登場人物は少ないが、その全員の内心・内面が均等に地の文で語られる。それも「道子はこう思った」ではなく「道子はこう思った。それはつまり、当人はこう思ってるが、実はこういう本心を自分でも気づかず抱いている欺瞞だった」みたいに当人の内心すら超えた冷徹な分析をもって描かれる。
「こうして彼の思想は自分の恋を社会化することによって、それを殺す方に傾いた。しかしそれは彼に、今この時道子は何をしているであろう、ほんとに自分のことはもう思ってくれないのであろうか、などと考えるのを妨げない。恋は思想によって殺し尽くせるものではなかった」
 作者当人の述懐によれば、本作のこうした技法はレイモン・ラディゲの小説『ドルジェル伯の舞踏会』(1924年)に倣ったそうで、つまり先例のあるものらしい。「盤上のチェス駒を動かすように」人心の機微を描くと評されるその作風・技法は『武蔵野夫人』ではチェス盤の駒というより、三次元の世界に住む吾々が二次元世界の人々の愛憎を、その内臓まで見透かすように見てしまう凄み・怖さを感じさせた。ラディゲの本歌を知らないので断言はできないけれど『武蔵野夫人』の筆致には、冷徹の一線を越えたニヒリズムのようなものさえ感じてしまう。どうかすると
「東京の山手の焼跡に彼は崖端浸蝕谷の美しさだけを見た。戦場で人間に絶望していた彼は、すべてを自然に換算して感じた」
と描かれるような(本作を支える重要な要素である)勉の自然観察への愛着と細やかさ(何しろストーリー的にも彼は多摩湖を観にいくのに従姉を誘った帰路、台風のせいで帰れなくなり連れ込み宿で一夜を過ごすことになる)すら、終盤では
「古代多摩川の三角州(す)が俺に何の関係がある(中略)彼は初めて復員後彼に憑(つ)いていた地理的興味が一種の感情的錯誤ではないか、と疑った」
迷妄に過ぎなかったと断じられてしまうのだ。
 『野火』の大岡昇平だ。この突き放したニヒリズムは戦場で培われたものでないと―いや安易に決めつける資格は吾々には、ないのだけれど。
 ともあれ、すべてを(冷徹に・そして等距離に)提示しようという本作での著者の姿勢は、たとえば
「事件がそれを要求するまで、財産について語らなかったからといって、読者を欺(あざむ)いたことになるだろうか
という一節にも明らかだ(強調は引用者)。【ここから8/4加筆】ふつう物語の中で起きていること(まして各々の登場人物の内面や・さらにその奥に潜む人間的な本質など)すべてが読者に開示されることはない。むしろ読者は登場人物たちの言動から「これはこういう意味ではないのか」と読みを広げていくものだ。
 キャプション;たとえば今年の春に出て少し紹介した朱喜哲『バラバラな世界で共に生きる』が書いてる哲学者リチャード・ローティの読みがナボコフ『ロリータ』のその後の読解に多大な影響を与えた話など参照のこと。(『バラバラな世界で共に生きる』書影を添えて。)
すべてを読者に開示する(べきだ)という『武蔵野夫人』の姿勢は、読み手に誤読や深読みの余地を与えない。
加筆ここまで】主要な登場人物すべての心理の動きを描きだす中、唯一その内面が明かされないのは大野夫妻の娘で九歳にしかならない雪子なのだが、まだ描くに足る内面の機微を持たない年齢ゆえに描かなかっただけと言わんばかりに「彼女のように両親に心を傷つけられた娘は、やがて誰かを傷つける女になるだろう(メモを取りそびれたのでニュアンスです)」と、まだ来てもいない未来の姿を分析される(そしてその分析も、相当に肯定感が低い)。
 なんて息苦しい、けれど濃密な小説。いや世の中の、大学でも文学部を選んだり、ちゃんと文学文芸・小説に向きあってきた人たちは、こんなものを読んでいたのか。

      *     *     *
 そんなわけで『武蔵野夫人』を読んで、ちょっと思ったのは「この技法で書かれたミステリがあったら読んでみたい(かも?)」だった。いや、そんなこと可能なんだろうか。探偵も容疑者も、真犯人すらも「内心でこう思ってる」「が、それはこういう自己欺瞞なのであった」とすべて手札が開示され「読者を欺かない」ミステリ、あるいはアンチミステリ。
 ところがここに、同じ作者の『事件』という小説がある。これは読むでしょう。
 書影。『武蔵野夫人』と『事件』。
 『事件』(新潮社1977年→創元推理文庫2017年)。第31回日本推理作家協会賞。
 欺かないよう大急ぎで言っておくと『武蔵野夫人』みたいな小説では、もちろんない。ほとんどの人物は外面の言動のみを描かれる。それはそれとして、本作も緻密きわまりない。神奈川の田舎町で起きた女性刺殺事件、容疑者として逮捕されたのは19歳の少年だったが、公判では思いがけない展開が…という内容なのだけど
 本文の写真とキャプション:後半この章題【新事実】を見て「これ以上読み進めたら停められなくなる、ここで止めよう」と本を置いた時、老いを感じましたね…若ければ「おお来た来た!」と夜更かし・夜明かし上等で読んでたはず…
 やー法廷サスペンスなんて読むの『カラマーゾフの兄弟』以来じゃないか、いや佐藤賢一王妃の離婚』があったっけ、なんて与太はともかく、それくらい充実の読書。そして
「事故によらなければ悲劇が起らない。それが二十世紀である」
という『武蔵野夫人』の謎めいた一節を『事件』の「事件」に投影したり、まして「このあと彼は怪物になってしまうかも知れない」と言われた勉の「その後=怪物になること」を『事件』で裁かれる未成年の「宏」に投影するのは直前に読んだ別の本に引きずられすぎと言うべきだろう。けれど物語は宏の弁護を引き受けた老練な菊池弁護士を中心に描きながら、彼をも正義の主人公として理想化し感情移入させることは避けるように「ここで彼は(法廷上の駆け引きを)ちょっとやりすぎて判事に悪い印象を与えた」みたいに書いたり、あるいは終盤・判決前の打ち合わせで今まで名前しか出てこなかった若手判事が「異議あり」を唱えて最後までハラハラさせたり、明らかに弁護側に肩入れしてはいるだろうけど、やはり冷徹なまでに全てをニュートラルに捉える(まるで地形を眺めるように)独自な立ち位置は共通しているように思われた。
 それを「突き放している」と断じてしまうには、僕は氏の小説を(そして小説全般を)読んでなさすぎる。突き放して描くことの是非も分からないし。
 ひまわりの花の写真。
 『武蔵野夫人』が敗戦直後の中産階級の没落を描いてどうとか、『事件』が都市化で変容する若者のとか、そういう社会的なテーマまでは到底到達しませんでしたが、こういう感想(日記)もいいでしょ。
 要は「攻めあぐねました」「完敗でした」と両手を上げるしかない二冊。でもちょっとだけフフッてなってしまった箇所も『事件』にはあった。「内面」が語られる主人公格の一人=野口判事(ちなみに僕の地元ヨコハマの妙蓮寺に住んでいる・もちろん半世紀くらい隔たっているのだけど、なかなか好い処なので妙に嬉しいですね)を描く終盤の描写に 「判事にとって、一番いやなことは、法廷へ出ることである。といったら、大切な人民の裁判にたずさわる人間としてけしからん、と抗議が出るかも知れないが、どんなことでも、それが職業となれば、そういう心理になるのは止むを得ないのだ。弁護士だって、朝起きて一番気の重いのは、裁判のある日だし」
と寄り添ったあと
新聞小説作家は毎日書き継がねばならぬ小説を、毎朝、重荷と感じているのである
(強調は引用者)
果たして本作、1977年に単行本が刊行されながら60年代が舞台なのを訝しんでいたら、もとは61年から62年が舞台の新聞小説だったことを読後に知った。単行本の刊行が遅れに遅れたのは(希望の持てる話だ)考証の厳密をきわめるためだったらしいが、十五年を経て、またさらに後年も加筆を経てなお、この「新聞小説家はつらい」の一節が削られることがなかったのには、冷徹冷徹と重ねて評してきた作者の、思わぬ可愛さがこぼれ出ているようで微笑ましかったのである。やられっぱなしの今回、一矢報いた感じでしょうか。

小ネタ拾遺・26年7月(26.08.01)

 や、今月(もう先月ですけど)は失敗だったと自分でも思ってまして。二つ三つくらい、小ネタとして小出しにせず、まとめればメイン日記(週記)に出来たんじゃない?と。我慢が足りなかったです、はい。
 とゆうわけで今回は特例として小見出しをつけてみようと思います。三番目の「捨てたもんじゃない?」が真の小ネタ集って感じです。
 1)植物の世界 2)陳さんは幽霊 3)捨てたもんじゃない?

      *     *     *
1)植物の世界  今回のトップに戻る 2)陳さんは幽霊 3)捨てたもんじゃない?

(26.07.09)一冊の本に埋めこまれた、その核あるいは芯、その本を紡ぐ言葉すべての雛形=DNAのような一節・を・見出す喜びを書いたのが(アミン・マアルーフの小説の、そのような一節を取り上げた)6/27の週記だったわけですが、キム・チョヨプのポスト・アポカリプスSF地球の果ての温室で(原著2023年/カン・パンファ訳・早川書房2023年/外部リンクが開きます)に同様の一節を探すなら、おそらくそれは終盤に伝えられる ★こちらは最近出た本だしネタバレ避けのためたたんでおきましょう(クリックで開閉します) (既読もしくは既読になったひとは「答え合わせ」してくださいね)だろう。それに続く
地球という生態において、人間はつかの間の招待客にすぎません。それも、いつでも追い出されうる危うい立場にありますは2020年代の今、SFという形式が示しうる最も率直な諌めでもある。ちったぁ謙虚になれ人類。
 光沢のある木の葉の陰になった『地球の果ての温室で』書影。
 ただし―吾々が住む惑星の描く楕円軌道がそうであるように―この物語世界には二つの中心があって、もう一つの核心は―これも伏せるか―  ★舞村(仮名)またソレか!と言われそうな「○○」。(クリックで開閉します) 読むひとが読めば、本作もまた「ふたりの子どもが手をたずさえて、見知らぬ太陽の焦熱地獄へ突進していくシルエット」なのだ←(みんな知ったかぶりしてそうなわりに)この元ネタが分かるひとも多くはない気もしますが…
読後さいしょに思ったのは「これ、映画にならないかなあ!」という下世話な感慨で、強烈な印象を残す登場人物のひとりを僕は(マレーシアあたりが舞台の物語だから不適切といえば不適切かも知れないけれど)ティルダ・スウィントンの姿で思い浮かべてしまったのでした。

(26.07.01)かき氷機(先月の小ネタ参照・ちなみに8/1現在めちゃめちゃ結果が出ていて今夏アイス的なもの一切買っていません)と同様コレも結果が出てからと思っていたのだけど、正直どうなれば正解=結果が出たことになるのか分からないまま(調べろよ)今年は水耕で空心菜を育てています。生き物を育てたりお世話したり一緒に暮らしたりするのは自分には無理だと思ってたけど+最初はどうなることかだったけど、液肥を1000倍希釈から500倍希釈にしたら二ヵ月でこんな感じ。もう一ヶ月くらい様子を見て、それから収穫のことを考えるつもりです。7月。
 豆苗用プランターふたつで1ダースほど、高さ25cmくらいに伸びた空心菜。
(26.07.04)空心菜。さいしょ液肥が薄かった時は出てくる葉が弱々しい黄緑色で、しかも葉の随所が茶色く枯れはじめ、流石に検索で少し調べたら「風とおしが悪いと褐斑病になる」とあり―実際には液肥の濃度の問題だったわけですが―子どものころCMソングで聞き慣れた「褐斑病」!褐斑病は葉を枯らすのです♪」褐斑病を吾がこととして受け止める日が来るとは…人生なにが起きるか分からないと少し面白かったです。
…若い人たちにはサッパリ何のことか分からないと思うけど、分かる世代はたぶんフルコーラス歌えるこれは♪葉の汁を吸うアブラムシ♪の歌:
フマキラー カダンCM(YouTube/外部リンクが開きます/虫の映像がどアップで出るので注意)
(26.07.15)月初「もう一ヵ月様子を見る」と投稿した空心菜。基本的に一枚葉を出しながらメインの茎一本がどんどん伸びてく感じで、これでは一度の収穫で終わってしまう・どうしたもんかなぁと思っていたのが、この半月で(一枚葉で終わらず)自身の葉を展開する新しい茎が生えはじめた…根元のほうに。こう来るのか。
 写真2点。左:伸びていくメイン茎の先端。笹の葉のようなフォルムの一枚葉の細い茎を伸ばしながら、実はその根元からさらに細い茎の先端を出している。右:めちゃぶっとく育ってしまったメイン茎の根元、液肥に浸けてる部分から新しい茎(葉ではなく、枝分かれする葉をもつ新しい茎)が小さく伸びはじめている。それも複数。
 すでに育った苗だと「ゴツい」の域に入りつつあるメインの茎をぶった切って(食べて)こちらの小さな茎を育てていく時期に入ったのだろうか。いいかげんキチンと調べろとも思うが「すべて間違い」という可能性に直面したくなくて逃げつづけている。こういう生きかたをしてはいけませんよ(とくにお給料をもらう仕事では)。

(26.07.26)どうして全部いっぺんに来るかなあ。サラダ油900mlとシャンプー600mlが同時に切れ、豆乳1Lとトマトジュース900mlと全粒粉パンも今日のうちに買う必要があり、出来れば米粉500グラムと玉子と納豆とサバ缶とキノコとヨーグルトも買い足したく、そのうえ図書館に出向く必要があり、夕方からまた雷雨の予報で日中に用向きを済ませる必要がある…外に出たくない…
 半熟の目玉焼きをトッピングした豆カレー
この暑さはどう考えても人為による気候変動の産物なので、少しでもCO2削減に貢献すべく豆カレーを作ったりしているが…ガッデム…カレー粉もそろそろ買い足しか…(かわいそう)
(同日追記)米粉はあきらめて1ダースまとめて取り寄せ決定。賞味期限が一年半くらいなので、まあ使い切るでしょう+一袋あたり単価は現状スーパーのが若干お安いのだけど、実は少しずつ進んでる値上げの今後の度合いによっては、逆に若干お得になるかも知れない…それを嬉しいとは思えないだろうけど

(26.07.28)キム・チョヨプ地球の果ての温室で』に参考文献として挙げられていたステファーノ・マンクーゾ+アレッサンドラ・ヴィオラ植物は〈知性〉をもっている 20の感覚で思考する生命システム』(原著2013年/久保耕司訳・NHKブックス2015年/外部リンクが開きます)。植物は人間の「五感」はもちろん―葉が光に伸び、逆に根は光を避けて伸びるのに「視覚」がないなんて考えられるだろうか―電気や磁気などヒトが生身では捉ええない感覚まで持っている。本の中の「光のほうへ伸びる葉茎」のイラストが、今ちょうど育ててる空心菜の伸びっぷりソックリで笑ってしまった…
 右に『植物は〈知性〉をもっている』の当該ページ、左にイラストとソックリな方向(西日のほう)に葉茎をわっと伸ばす空心菜(たち)。
 しかしまあ読むと、ジャストナウで育ててる空心菜を収穫しにくいこと、食べにくいこと。いやぶった切って茹でて食べちゃうんですけど。すまん。今は脇芽を伸ばしつつ、新しい種も播いて二期作を始めたところです。
 湯通しして揚げエシャロットをまぶし、胡麻油で和えた空心菜の写真。右にパプリカとキノコのスープ。
(26.07.30)注文していた米粉1ダースが届く。賞味期限が一年半くらいあるので、まあ使い切れると思いたい。今は蒸しパンばかり作ってるけど、他のレシピにも挑戦したいところ。しかしコレ、散らかった部屋で何処に置こうと思ったとき、数年前に衝動買いして一度しか使ってないスーツケース、あれに裏側を表にして詰め込んで永田町とか怪しい目つきでウロウロして職務質問され「君このスーツケースを開けてみたまえ…わっ!なんだこの真っ白な袋は!」「米・粉・だ・バーカ!」みたいなことは、残念ながら裏側も真っ白でなかったので現実味なかったけれど
 米粉の袋。裏側にも色々印刷されている。
いや正当な理由で権力に逆らいたくなる契機はいくらでもあるのに、そんな無益な冗談で喧嘩を売ってどうするの。昨年サイト日記で取り上げたマイケル・ポーラン欲望の植物誌』という(昨年7月の日記参照)すこぶる面白い本で、コレは枝葉に過ぎるので(植物だけに枝葉…うっさいわ)紹介しなかったのだけど、あくまで植物愛好家としての興味からマリファナの一種を育ててみていた著者が、ガチで警察のお世話になりかけ「冗談でも警察のお世話になるのは止めたほうがいい。どんな無関係そうな嫌疑でも勾留されてるあいだに家宅捜索され部屋も本棚もメチャメチャにされるから」と書いていて、んー、正当な理由で権力に逆らうことを僕は決して否定しないけど、否定しないだけに、痛くもなかったり何処か痛かったりする肚を探られる・プライバシーとか滅茶滅茶にされるリスクは知っておいたほうが良いと思うのでした。家に無事かえるまでがデモ(クラシー)ですから。
(26.07.31)前から入れたかった支い(つっかい)棒を立てる。見てのとおり、ものすごく簡単なやつ。
 根が伸びるスペースを作る他ため豆苗プランターの底の部分を持ち上げて育てている空心菜。西日に傾かないよう、細い木の棒でつっかえの支柱を立てた。
 『植物は〈知性〉をもっている』も参考にして根を伸ばせる余地も増やしたのですが、収穫で太いメイン茎を切ってしまうと、そちらに水や栄養を供給していた根からの供給が「それじゃ」と簡単に脇芽に移ってはくれないようで、脇芽から伸びた茎はメインほど太くはならずヒョロヒョロした感じ。簡単ではないですね。二期作で播いた種も本葉を伸ばしはじめて、思った以上に楽しいですね(心のリソースを持ってかれるとも言う)。虫もつかず(カダン、カダン、カダンも不要で)初心者向けかも空心菜。

      *     *     *
2)陳さんは幽霊  今回のトップに戻る 1)植物の世界 3)捨てたもんじゃない?

(26.07.05)これもまだ結果は出てないんだけど三日坊主はどうにか回避ということで、春に台湾で買ってきた中国語(繁体字)百合ホラーコメディ『我的室友陳小姐是幽鬼(My Ghost Girlfriend)』も1日1ページの超スローペースで読み進めています。基本「勉強はしない」「分かんないところは飛ばす」「文法も発音も憶えない」「とにかく読み進める」毎日スマホのカメラが読み取った中文を翻訳にかけ、機械的な翻訳を(ゆるく本文と照らし合わせつつ)こなれた日本語に直していく作業を進めるうち、だんだん訳文を見なくてもニュアンスが読めるようになってくる。てゆか流石は漢字、
「他不知道,我住的不只是一棟老舊的公寓,更是赫赫有名的凶宅。」
とか読むだけなら読めちゃうでしょ―
「他(奴は)不知道(知る由もなかったけれど),我住的(私が住んでいるのは)不只是(ただのアレじゃないんだよ)一棟(一棟の)老舊的(老朽化した)公寓(アパートじゃなくてね),更是(さらには)赫赫有名的(悪名高い)凶宅(恐怖の館なんだなぁ)って。
 幽鬼(ユーレイ)の室友(ルームメイト)・陳小姐は、ひょっとして生まれて初めて?(いや死んでからだが)出来たBL友達が満更じゃなくて「私たち同担ね!」とはしゃいだり、主人公に迫ってきた悪霊を「彼女にちょっかい出したければ私の屍を越えていきな!」と撃退したり、生身で迫ってきたストーカーもアレしたり、甲斐甲斐しくも積極的なんだけど
 原作準拠で「私」の背後からヌッと姿を現し「ストーカーさん…KEEP YOUR HANDS OFF MY GIRL(私の彼女に手をだすなよ)」と凄絶な笑みを浮かべる陳小姐と「陳小姐…KEEP YOUR HANDS OFF MY胸部(どさくさで何処さわってんだ)」と怒りに震える「私」のイラスト。
「逆カプ推しでも同担なのか?」「いや(乗り越えようにも)もう屍すら残ってないだろ」と現状は塩対応ぎみな主人公。台湾では2月のバレンタインより盛り上がると言われる旧暦の七夕情人節(今年は8/19)頃には40頁くらい読み進めている予定なので、多少は進展があるといいですね…

(26.07.06追記)『陳小姐は幽霊』、もともと陳小姐自体も主人公がパソコンでBL画像を閲覧していたら「ちょっと、それ逆カプ!」と出てきて正体を暴露したのだけれど、けさ読み進めたページでは主人公の友達が家具と壁の間に隠れていた幽霊を「物が動いてたり何か食べられてたりするから変だと思ってさぁ」監視カメラを設置したところ「何してたと思う?私のスマホで勝手にゲーム内課金してやがった!」自分、ホラーに詳しくないけど最近の幽霊って皆こんなですかね?いや、ジョージ・ロメロ監督の『ゾンビ(DAY OF THE DEAD)』だって甦った死者がショッピングモールに集っていたのは生前の行動を反復していたわけで、今どき死んでも一番の未練はやっぱりそのへんか…もちろん「気がついたらこんなに課金してた…本当に自分が課金したの?(してたわ…)誰かがスマホを乗っ取ってたんじゃない?(自分だったわ…)」というゲームあるあるを反映してもいるのでしょう。現代も大変だ。

(26.07.17)この話は前にもしてるかも知れないけれど、Twitterでだったかも知れないし、(僕には)ちょっと面白い話なので再度(?)してしまう。
『陳小姐は幽霊』具体的にはスマホで撮った繁体字の本文をパソコン(Mac)に読み込んで、Macの画像から文字読み取り→そのまま翻訳機能を使い、訳が生硬な処はネット上のG○○gle翻訳(いちおう伏せ字)のセカンド・オピニオンを参考にしたり、日本語ではなく英語に訳したりして(華文は語順的に日本語より英語に近いとかある)いるのだけれど―
わりとこなれた訳を出してくれるG○○gle翻訳、アイスランド語にアイマラ語からンダウ語・ンデベレ語まで数百の言語を双方向に翻訳できると豪語するG○○gle翻訳は、実は日本語と中国語・モン語とシロンスク語を相互に訳してくれるわけではなく、どうもあらゆる言語を英語に翻訳し、その英文をあらゆる言語に翻訳することで数百の言語を通訳しおおせているらしい。
なぜそんなことが分かるか。訳しちゃうんですよ―「弟」を「兄」と。
 「我弟 不爽地[目へんに登]我 一眼」という華文に、不機嫌そうに夜食の入ったレジ袋を差し出す「弟」のイラスト。
「我弟 不爽地[目へんに登]我 一眼」、
Macの翻訳だと「弟は不機嫌そうに私を睨みつけた」となる文章を
兄は」不機嫌そうに私を睨みつけたと。
そんな間違いをするのは、中国語の原文を読まずに
My brother glared at me unhappily」
という英訳(だけ)を見て日本語に訳した場合に限るはず。
僕じしん英語のコンテンツを読み聴きすることは好きなほうだし、あるていど英語を理解できることで恩恵を受けてもいる。それでもやっぱり、英語(およびアメリカ語)帝国主義め…みたいな気持ちに少しならないでもない。
実は先月の日記で取り上げたアミン・マアルーフ『アイデンティティが人を殺す』では、自分の第一言語と第二言語としての英語だけでなく、それに加えて何か第三の言語を習得することが、これからの吾々に必要なのではないかと説いていて、それで「読むだけ」からでも中国語を分かりたいなと思って日々つとめているのです。
あまり関係ないけど、自分の恋人や連れ合いのことを「私のハチミツ」「お砂糖」「甘い心」「赤ちゃん」とか呼ぶ言語(英語)ってのも、それはそれで面白いですよね。

(26.07.18/苦言)スマートフォンで何かネット関連の操作をしようとすると差し挟まれてくる広告に、システムの警告を模して「○○件のウイルスが検出されました」とか「ご使用のPDFアプリが期限切れです」とか言って「なのでコチラをクリックして(弊社の)アプリをインストールしてください」みたいなのがあるんだけど、これって虚偽じゃん(ウイルスの件数まで特定できるわけがないし、なんならiPhoneで「お使いのAndroidの…」とか言ってくる)虚偽ってか詐欺じゃないの?こういう広告を出すことに同意してる(本来閲覧したかった)サービスの提供者も同罪で、関係者全員いま関わってる仕事いったん全部中止して代わりに、ちょっと罰でガレー船とか漕いでもらうよう法改正とか出来ないのかなあ?
 写真:まっすぐ伸びた茎から紫の百合根(鱗茎)みたいなものが半球状に出て、その上に逆立てた髪のように細い紫の花がみっしり咲いている美しい花。キャプション「はい、お馴染み辛辣な文面を緩和する和みお花画像です。撮影地;新芝運河(東京・品川と田町の間)」
いやまあ拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる(いま自民党が無くしたがってる憲法の文面)なのでガレー船はないんだけど、そうじゃなくて、
これに限らず何かするたび現われる「本来のサービスを見たければ先に途中に最後に観てね」とばかり割り込んでくる広告が、消すためのバッテンが小さかったり「これで終わりで消せる」みたいなサインをタップすると「ざぁんねんでしたぁーまだ終わりじゃありませーん報酬を得られませんが中止しますかぁ続きを見ますかぁ」みたいなトラップ(控えめな表現)を繰り出してきたり、総じて「観る人への悪意に満ちている」「観る人を不快な気持ちにさせるよう設計されている」の、ひとつには広告の視聴が本来受けたいサービスを受ける対価として要求される「労働」であって、労働なんだから苦しめという(わりと被害者が加害者に転じた的な哀れさのある)価値観に基づいてるてのもあるかも知れない、それは考えたいひとは各自で考えるとして―
まだ自分の中で上手く文章化できてないんだけど―この「上手く文章化できてない」て言いかたでも分かるとおり―僕みたいに「どうすれば過たず伝達できるか」まんが(滞ってますが)みたいな創作でも本サイトの週記(滞ってますが)みたいな文章でも、表現する内容をなるたけ誤解のないよう伝えることに日々腐心して生きてきた(でないと「本サイトの文章は分かりにくくてスミマセン」とか「自分のまんがが面白いか以前の、ちゃんと内容が理解されてるかが確信もてず煩悶する」とか普通ならないでしょ)仮に「お前らガレー船でも漕いでろ」みたいな悪口(拷問は絶対に禁止)でもブレヒトやロシアン・フォルマリズムみたいな異化(すんなり呑み込まれず理解や咀嚼に時間がかかる表現のが尊い)でも、その悪意や咀嚼に時間のかかる表現じたいは過たず理解されてほしい・理解してくれる相手を期待して発せられる、それが表現であり発語だという立場で生きてきた人間にとって、
相手にスムーズに伝達することを目的としていない、お前らどうせ見たくないんだろ的な姿勢でバッテンを小さくしたりする、ましてや虚偽を押しつけてくる、いわばディスコミュニケーションを押しつけるコンテンツを割けがたく大量に浴びていることは、受け手としてのバランス感覚や(本来それなしにコミュニケーションも何もありゃしないと僕などは信じたく思っていた)コミュニケーションへの信頼みたいなものを著しく損ないはしないのだろうかと気になっている。過たず伝わる自信はないが。
(同日追記)僕はとくに老いてからの筒井康隆をあまり好いてはいないし(過たず伝われ)これも別に彼じゃなくても他の誰かがきっと書いてたと思う話だけど、彼の初期の短篇のレコードで音楽を聴こうとしても間に広告が入る、広告の入らないレコードはないのかと訊いたら「当店で一番高価なレコードです」と無音のレコードを出されたという話、半世紀前に現代を予言してやったぜと(憶えてたら)ほくそ笑んでるかも知れない。いちおう無音ではない本サイトが自分で作ったTシャツや電子書籍の宣伝をするくらいは許してほしい、関係なく「ウ○コがドバドバ出てほしいひと絶対みて」みたいな広告(悲しいかな実在する)を差し挟んでるわけじゃないのだから。

(26.07.22)そんなことを書いた矢先(まあ矢先も何も日頃オールウェイズネット広告にストレスを溜めてるんだけど)『陳小姐は幽霊』けさ読んだ分で、幽霊の陳小姐が外出のあいだ主人公を守るため呼んできた代理の幽霊・張小姐が「陳小姐も心配性だなぁ、こんなオンボロアパートに空き巣も押し込み強盗も来るわきゃないのに…ギャー何か来た!ヘルプ!張小姐ヘルプ!」「ヘルプしますが先に短い広告を聴いてください…私にもノルマがあるんです…」あんたのノルマなんか知るか、ギャー!というギャグがあって、薄々気づいてはいたけれど、無理やり差し挟まれてくる(そして大概しょうもない)ネット広告にうんざりしてるのは世界共通か…
(26.07.23)四月に旅行した台湾でもスマホを使えば広告動画は不可避なもので、設定を引っ張ってきたらしい日本と同じ日本語の広告動画が半分・向こうのショップやデパートなんかの広告が半分だったのだけど一度表示されて興味ぶかかったのがムスリマ(イスラム教徒の女性)向けファッション広告。左の「Corporate Neutrals(日本でいう「オフィスカジュアル」かも)」も興味ぶかいけど、やっぱり目を惹くのは右のデニム生地。
 スクショ三点。左から「Corporate Neutrals」と銘打ったツーピース(下はゆったりしたパンツ)・「Soft & Flowy」と銘打たれた柔らかい記事のワンピース・そして「Dark & Denim」はヒジャブからシャツ・パンツまで青いデニム生地で、黒いシャツを羽織っている
ことさら台湾で日本より多くムスリム・ムスリマの人たちを見かけた感じもないのですけどね。日本でだって沢山みかけるけれど、彼女たち彼たちが何処でどんな服を調達してるか、なんてことはあまり目に入ってこなくて、その片鱗が見える扉がたまさか旅先の台湾で開いたということか。

(26.07.31)そして二年の月日が流れ去り。春に台湾で買ってきた中文の百合(?)ホラーコメディ『我的室友陳小姐是個鬼(My Ghost Girlfriend)』いつ(?)は無くなるの、いつfriendがGirlfriendになるの?と読み進めていたら二ヶ月目(6月から読んでる)の終わりになって急展開。というのも章題が「故事正式開始」(物語が正式に始まる)。どうやら今まで数ページ単位の短篇形式で進んできたのは助走か「お試し」で―単発的にネットで発表して手応えをつかんで本格的に動かしはじめたのかも。
二次元(しかもBL)が一番とはいえ主人公にも満更じゃないオタク幽霊の陳さんに対し、もっぱら塩対応だった主人公をどうデレさせるかと思いきや、いきなり「和 陳小姐 住 在一起 大概両年」(陳さんと暮らしはじめて、もう二年)…そう来たか。今では消灯して寝入りばな互いに「おやすみ」を言い合う仲で「実のところ陳さんは(「見える」人なら)十人が十人振り返る美女なのだが、おやすみなさいと囁く声さえ聞ければ、彼女が部屋のどこにいようと私はその姿を確かめる必要さえないんだ」(かなり盛ってる意訳)…デレデレじゃんか主人公(願望)。まあ今だに「家賃を払ってるのは私なんだが?」とかツン全開ではあるけれど。

      *     *     *
3)捨てたもんじゃない?  今回のトップに戻る 1)植物の世界 2)陳さんは幽霊

この項は本当に小ネタまとめ。
(26.07.10)けさ見た夢。夢のなかでディズニー『ファンタジア』(未見)を観ている。とゆうか『ファンタジア』の中にいる。といっても完全な「実写版」なのだが、緑ゆたかな森の中にいて、小鳥の鳴き声がチチチチと自分のまわりで輪を描き、天から声が降ってくる。「そう、ここファンタジアでは鳥の声もサラウンド」「音楽はハンス・ジマーよ」1955年くらいの映画じゃなかったっけ、それでハンス・ジマーはないだろう(リメイクか?)と夢のなかでツッコミを入れながら目が醒める。起きて確認したら1940年でした。ハンス・ジマー、生まれてすらいないぞ(1955年でも)。やっぱりリメイクか。いずれにせよハンス・ジマーが音楽の『ファンタジア』はちょっとイヤかも。まわりを(サラウンドで)飛んでるのが小鳥じゃなくてコウモリだったりして。おはようございます。

(26.07.11)たとえばこの記事などが伝える、ヨーロッパでは「エアコンを備えた住居が少なく(中略)猛暑の影響を受けやすい」といった事情が今この国でどれくらい共有されているか知らないけれど
ドイツ、熱波で5千人死亡か 政府研究機関が推計(共同通信/26.07.09/外部リンクが開きます)
共有されたら共有されたで新型コロナのときと同様に「備えがあったり地の利があったりして熱波の被害も比較的まぬがれている選ばれた国ニッポン」だから(脱炭素ふくめ)対策なんて無用みたいな認識が流布しないかと取り越し苦労で案じている。
 2024年の写真。街頭の液晶掲示板に示された「厳重警戒 金沢市(7月)22日15時現在 気温32.3℃ 熱中症に注意!こまめに水分補給を!」の文言。
 三年前すでに災害ボランティアも「これ以上気温が上がったら中止します」と警告される状態だったのだが本邦も。
(26.07.29)そんなことを言ってたら熊本の地震。ナオミ・クラインが『楽園をめぐる戦い』で書いていた、プエルトリコの大規模停電で活躍したという「太陽光で稼働するフルサイズの冷蔵庫」のことを考えている。23年11月の日記参照。
 【M7.1 熊本地震】緊急支援を開始。被災地へご支援を(ピースウィンズ・ジャパン/空飛ぶ捜索医療団"ARROWS"/READY FOR/外部リンクが開きます)
なかなか現地までボラには行けない距離ということもあって僕も寄付したし、すごい寄付があっという間に集まっているけれど、同時に寄付しか出来ない歯がゆさみたいなことを感じてもいる。さいきん見た話で、気候変動≒CO2排出による地球温暖化に取り組む科学者に「いま一般の人々にできる最も手っ取り早く・かつ有効な対策は」と問うと圧倒的多数が「投票。正しい政治家を選んで」だったという。
ちなみに熊本のゆるキャラ「くまモン」をこよなく愛している某国の人たちが、また寄付とか支援とか申し出るのでは…と想像すると「嬉しい」とか「愛されてる日本」とか思えず「頼むもう止めてくれ」と思うの、なんだろう…?自国肯定感の低さ?

(26.07.11)なぜか一ヶ月無料お試し状態になってしまった某動画サブスクも今日でおしまい。たいして観られはしなかったけれど(忙しいんよ)前から気になってたアニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』をフル観賞。面白かったです。バンドもので、しっかりと曲が好い。意外だったのは二次創作では共依存ぎみに熱烈両想いだった主人公ぼっちちゃんとドラマー虹夏ちゃんのカップリング(ぼ虹)が実物を観ると「あ…そうでもないんだ…
まあ別の某作品で、作中に非業の死を遂げたキャラが、二次創作では生き延び今も人生を謳歌している設定の作品が多すぎて、そっちから入って後から原作を観た(読んだ)ひとが「え…こいつ死ぬん?」と驚愕した話もあるってほどなので驚くにはあたらないんだけど、
逆に「公式が最大手」と呼ばれるくらい「お互いの好きそうな小説をプレゼントしあったら同じ本だった」とか「無料券をもらって二人で焼肉デートすることになりテンパった片方が服だの何だのに40万使ってしまった」とか「きっとまた逢いに来ますからといって異世界に帰っていったプリキュアが我慢できなくて翌日ソラシド市に朝食を食べにきた」とか(※三つとも百合)そんなのばかり摂取していたので、久しぶりに「してやられたなぁ」と思ったのでした。
 アニメ『上伊那ぼたん、酔へる姿は百合の花』OPアニメの「いぶき」と「ぼたん」を「ぼっちちゃん」「虹夏ちゃん」に置き換えたGIFアニメ。
これは「ぼ虹」それぞれを演じてる中の人つながりで作った『上伊那ぼたん(外部リンクが開きます)』のパクリGIF。四時間クオリティなので色々ゆるしてほしい。

(26.07.16)これもアニメの話。久しぶりの衝撃で、街ゆく人々・レストランに行列をつくる人々・混みあった電車の中でスマートフォンをのぞきこむ人々、眼に入る全ての人たちが今「天幕のジャードゥーガルを知ってる人」「天幕のジャードゥーガルを知らずに生きている人」に二分できるんだなと思ってしまった。なんて大仰な。いや昨晩まで自分も「知らずに生きてきた」組だったんだけど。
世の中はどんどん崩壊している、それは間違いない。けれどそれは全てひとしなみにダメになるんじゃなくて、暴力や愚鈍さで崩れていく部分もあれば、それに逆らうように素晴らしい華が(徒花かも知れないにせよ)咲きもするモザイクなんだと実感する。その意味で物語が描く13世紀と、この物語自体が咲き出た21世紀が重なりあう。てゆうか、十年前にカートゥーン・サルーンのアニメーションを観て「ジブリアニメの最高傑作を創ったのは、スタジオジブリじゃなかった」くらいの衝撃を受けて、でもオタク文化が日本も、日本ゆえの限界も越えて世界に広がるのは嬉しいと思ったのが、今カートゥーン・サルーンの系譜につらなるアベル・ゴンゴラ氏と日本の京都アニメの系譜につらなる山田尚子氏のタッグという形で回収されたのを見て(もちろん未読の原作からしてスゴいのは当然のこととして)世界も捨てたもんじゃない、とは思わないけど、世界「全部が」捨てたものではないと思い直している。
※ちなみに街ゆく人を二分するという意味では、今この国に暮らす全てのひとが「ウィシュマ・サンダマリさんを知ってる人」と「知らない・もしくは知ったことではない人々」に二分されて見えることが、しばしばある。名前はすぐに憶えられるものではないかも知れないけれど、ムラト・チチェク氏の事件を知っている人たちは、どれくらい居るのだろう。
(26.07.12)日本公開の映画にも出演経験のあったクルドの映画人が八王子の警察署で勾留中に死亡。8日間にわたり拘束されており死因は非公開、トルコ領事館を通して家族に死亡の連絡が入った時には死亡後さらに5日が経過していた。
クルド人映画監督のムラト・チチェク氏が、日本での勾留中に死亡(OudaisさんのBluesky/26.07.11/外部リンクが開きます)
些事だけど投稿主のプロフィールがひとこと「何者でもない」というの、自分もかつてTwitterで似たような肩書きを使っていたので(「しいて言えば何物でもない」)感じるものはある。それにしても、
「このような外国人への人権無視を許していたら、そのうち吾々日本人の人権だって無視されるようになる」みたいな論法はマヌーヴァーとして自分も使ってこなかった訳ではないけれど、実のところ日本人に同様の被害が及ぼうが及ぶまいが(冤罪への対応や今後の方針など見るに「及んでない」とも言えないと思うが)相手が外国人であろうと、こんなことが起きる国は×××だし「他所の国だって同じようなことはあるはずだ」と言うのなら、その他所の国とやらも含めて全部×××なのだと言いたい。何か間違っていますか。

(26.07.13)これは実写の話。折しも配信で観た映画ひつじ探偵団(カイル・バルダ監督/外部リンクが開きます)は、愛する牧場主を毒殺された羊たちが真相究メェー(究明)に乗り出すユーモア系ミステリだけど「しばしばミステリにおいては事件とは別に探偵自身が解かれるべき真の謎(問題)として立ち現れる」のセオリーどおりに羊たちの特性として暴かれる
・都合の悪いことは意図的に忘れる力を持っている
・それで自分らが不死でないどころか食用肉ですらある現実を見逃し続けている
・そして内輪でも特定の羊を差別する自分たちを省みない

が、あまりに今この国の現状に刺さりすぎて…けれど他所で書かれた小説を原案にした他所の映画ということは各国共通の病弊でもあるのだろうか…だとすれば目を背けてる同志だからではなく、目を背けていることに違和感を持つ同志として吾々は手を取り合えないものだろうか。映画の羊は自分が賢いというメェー妄(迷妄)から目覚め、泣きながら本当の自由と賢メェー(賢明)さ・そして友愛に自らを開いてゆくけれど、さて現実の人間は。
(と言いつつ配信を観る直前マトンビリヤニをたらふく食べてしまった自分…)

(26.07.20)アニメ版でようやく齧りはじめた『天幕のジャードゥーガル』。観る前の先入観で、モンゴル対イスラームよりもっと大きく分断され、支配者と被支配者・侵略者と犠牲者として対立する「男と女という二つの民族」―みたいなものを想定していたけれど、実際はそう明快に割り切れるものではないようだ。女性にだって抑圧する側に廻る者もいるし、僕などは素朴にすがってしまいそうな「知」=迷信でなく事実を貴ぶ志ですら、その「知」のために弱者を蹂躙する足がかりになりうる(その両方がアニメ第四話の時点では同じ人物に体現されてるのも悲喜劇だけど)あたり…実に好いですね(血涙)。すぐれた物語はいつだって「世界はお前の先入観より(善かれあしかれ)大きくて深いよ」と教えてくれる、これはミラン・クンデラが言っていたこと

(26.07.23)署名私たちは、ムラト・チチェク氏の死を取り巻く状況が明らかにされることを要求します。(change.org/外部リンクが開きます)に賛同しました。
この署名はトルコ語で書かれているため「クルドを知る会」のXでの紹介もシェアします。Xのアカウントがない人でも読めるよう
「クルドを知る会」による署名の呼びかけ(主ポスト)
署名じたいの声明文の和訳〜主ポストで「コメント欄の日本語訳を…」と書かれているものです。
両方ともリンクを張っておきました。

(26.07.27)そういえば数年前、紀文が大豆タンパクの代用かば焼きを開発したという話はどうなったんだろう。てゆかフードロス削減とか販売ノルマの弊害とか、そもそもウナギの絶滅危惧はどうなったんだろう。もっと言えば能登の復興は、福島の放射線は、日本人の戦争加害は、関東大震災での朝鮮人や中国人の虐殺はどうなったんだろう。関西万博の不払いは。サナエトークンは。戦争に負けて日本人は天皇崇拝をやめたんじゃなかったっけ?
 左:一正の「うな次郎の味つけをしたカニカマ」と、それを載っけたごはん。右::丑の日の夕餉。アジフライ(見切れ)・ごはん(見切れ)に白菜のうま煮。
 さすがに食べたのは丑の日の当日ではないけれど(惨めすぎる)「うな次郎」の一正が売り出した「うな次郎ふうカニカマ」代用うな丼としては(一時ネタになった「蒲焼きさん太郎」丼には一歩譲るが)かなりの極北とは思う。実際の昨晩は「う」のつくもので「うま煮(白菜の)」をいただきました。天皇制はそろそろ止めてもいいんじゃないかと思っています。
(26.08.01追記)高市内閣の支持率が急激に(?)下落とか言われても、そもそも何で支持してたんだよとか思うに「やっと酷さに気づいたか」と素直に喜ぶこともできなくて―どうせ「愛子さまを女性天皇にしない自民党に失望した!」とか、そんなんじゃねーの?と白眼視したりしている自国肯定感の低さ。やだなあ。個々の人々には(街で袖すりあうレベルでも)素敵な人はいるのだけど。まあ自分も、せめて外面は善い人でありたいと思う今日この頃です。また来月。いやもう来月なのだが。

『台湾でしたい50のこと』第3話アップしました(26.07.26)

 予定というか当初の目論見では月1回のペースで更新するつもりだった旅行エッセイまんが『台湾でしたい50のこと』第3話は倍の2ヵ月かかってしまいました。
 しょうじき本気で取り組みたい作品は他にあって(GF×異星人とか)本作はある意味じぶんの中では「余技」または「余戯」みたいな位置づけだったのだけど、こうも執筆に時間を取られると「場合によっては(うっかりしたら)これが遺作」みたいな事態も、ありえないではない。サクサク描き進めたいのだけど、同時に大事にしなければと思う次第。その意味で、どうせ遅れてるのだしと、描く予定はなかった(エブリデイ・レインボウは当初から入れる予定だった)圓山での父の姿を加筆できたのは自分にとって好かったと思っています。
 2019年・圓山の仏具店というか日本でいうダルマさんサイズの仏像が並んだ仏像店。

      *     *     *
 第3話で描きたかったことの一つは「おまけ(2)」で描いた「折りたたみ傘のシワはアイロンで伸ばせる」で、ちなみに富雨洋傘は「お買い上げいただいた傘は永年(無料だったと思う)修理保証」を謳っているけれど、さすがに日本に持ち帰ってしまったら自分で手入れするしかなかろう、ということで、横浜の時に恐ろしい強風で骨がポキンとやられない限り、大事に大事に使っていこうと思っている現在。
 同様に長年「これを直すのは無理だろう」と思っていたのが、着ては脱ぎ洗って干してまた着て…を繰り返すうちTシャツの首まわりがヨレヨレに波打つなのだけど、実はこれも直せる・少なくとも緩和できると近ごろ知った。
首元がヨレヨレになったTシャツ。元に戻す裏技は「氷水」だった(TBSラジオ「ジェーン・スー生活は踊る」2025.05.07/外部リンクが開きます)
 コレ、「こんなに見事にヨレヨレが緩和できるんですよぉ」と写真でも撮っておけばと気づいたのが実際に氷水で試して「あ、本当に上手くいった」アフターになってからで(馬鹿だなあ)またすぐ「ビフォー」になるだろうと思ったら、今度はなかなか(再び)ヨレヨレにならない。それはもちろん素晴らしいことなんだけど

 もう20年以上も前に書いたエマールという短い小説は、長年つれあいに家事を任せきりだった男性が一人になって、お弁当を自分で作ったり「エマール」でセーターを洗ったり私は初めて『生活』というものを自分でしてみることを面白がっているのですと微笑む話で、書いた本人もけっこう気に入っている。とゆうか、あれは一種の自画像で(まあ現実の自分はミニスカートが似合う女子高生に好かれたりはしないのだけど)「生活」を愉しむ初心者の気分は、今もずっと脱けきらない。
 言い替えると自分は、いつまで経っても「生活」でも仕事でも人間関係でも、おおよそ「馴染む」ということが出来ない人生不適合者・とば口で逡巡しつづける永遠の初心者(アマチュア)であるよう自らに呪いをかけているわけだが―20年よりもっと前の有名なまんがで「君はプロフェッサー(教授)にはなれない―せいぜいマスター(修士)だ」と言われた主人公でも最後はプロフェッサーになったのではなかったか―アマチュアの語源がラテン語の「amator(愛する人)」だというのが本当ならば、自分は(仕事や人間関係はともかく)生きること自体は愛好している、ある意味で幸福な状態を保持しているとも言えそうだ。

 むしろ惜しまれるのは、たとえばそれこそ20年くらい前には、圧力鍋でよく鶏手羽と白米を一緒に炊いた「おかゆ」を作っていたとか、トマト缶とサバ缶で無水カレーを作っていたとか、その時々で「生活を愉しんで」会得した料理やら何やらを、近頃はすっかり忘れてしまっている・実践できなくなってしまっている、ことだろう。それらに比べると食事を中食や外食で済ましてしまうことは簡単で手っ取り早く、けれど「生活」とは言えない(とも思う)。
 近頃のマイブームは、千切りにしたジャガイモに塩と片栗粉をまぶしてフライパンで焼くことで―とろけるチーズも焼き合わせれば、パッケージが銀色だろうが何色だろうが市販のポテトチップスは基本もう要らないかなと思える(原理的には市販のハッシュブラウンなんかも)。
 焼きじゃがいも。チーズがこんがり焦げている。
 もちろん「あのハッシュブラウンやポテトチップスが恋しいんだよ」ということは十分ありえるけれど、今まで積み上げてきたはずの「生活を愉しむ」レシピを一過性の流行で終わらせず、十全に使い回して行けたなら「生活」を商品に譲り渡さず、より自律的に生きていくことが可能なのではないか。

 これは人によるのだろうけど、自分にとっては創作もそうで―いま毎日少しずつ読んでいる台湾のオタクの生態を描いたホラーコメディ(中文・繁体字)ではBL愛好家=いわゆる腐女子の主人公たちが二次元のネタを享受することを「吃糧」食べ物(糧)を食べる(吃)と表現しているのだけれど、創作ができる人間は、いわばその「糧」を自炊できる・一部とはいえ自給自足できるとも言える。
 それは音楽でもスポーツでも釣りでも登山でもそうで、自分で糧をつくれる人は、大仰に言えばメディアとか資本とかが供給する糧から少しだけ独立した「生活」が出来る。散歩でも洗濯でもいいのだ。それは孤独と同義語であるかも知れない。でも愉しいよ。

 『台湾でしたい50のこと』第三話『桃園で傘を買う』
 

とんこつとAI〜『アタリ文明論講義』(26.07.05)

 物は言いよう、とゆうか、受け止めようなのかも。
 とんこつラーメンの独特の匂いは細菌由来なのでは…という話を、僕は菌的なものが繁殖しない「工夫」をしたら「臭い(におい)」を「抑えられた」という文脈で聞き知っていたのが、その「菌」がバクテリア以前の古細菌だと特定したのが九州の大学の先生で「あの匂いがないと物足りない」「特定できてスゴい(自賛)やったなぁと」ポジティブに捉える人だったというニュース。好きこそ物のあはれなりけり、という感じで実に好いですね。
”クサウマ”豚骨ラーメンは発酵食品だった スープの中に35億年以上前から存在する古細菌「スルフォホボコッカス」発見 専門家がDNA解析(RKB毎日放送NEWS/26.06.30/外部リンクが開きます)
 臭い(におい)を抑えることに「成功」したのは地元九州ではなく、とんこつラーメンを他所の客でも受け容れやすいようローカライズした東京の「九州ラーメン店」だった…というのは話が上手すぎなので僕の記憶の捏造な可能性が高い(だったら書くなよ)のだけど―東京であれ何処であれ、それを「臭い」と捉えたラーメン店は「臭い」さえ抑えられれば、その正体は特定されなくても良かったというのは、ちょっと面白い。あ、いや、違う
 とんこつラーメンの豚骨臭を「匂い」何なら「香り」だと思ってるラーメン店もまた、菌の種類が分からなくとも「匂い」をもつ原スープさえ特定できれば後はそれをキープできれば良かった。スープをキープ。まあそれはいい。ラーメン店がライセンスを与えて売ってるお土産用のラーメンでも「あの匂い」を出したい大学教授だけが「原因」を、「因果関係」を突き止めた。
 言い替えると「因果関係」を特定できなくても「相関関係」が分かれば、とんこつラーメンの「匂い」を出したり「臭い」を抑えたりは出来る。
 …もう察しのついた人もいるだろう。本サイトの(少なくとも近頃の)定番パターンだ。
 似たような話を、たまさか読んでいた本で(再)認識したところだったのだ

      *     *     *
 ジャック・アタリアタリ文明論講義(原著2015年/林昌宏訳・ちくま学芸文庫2016年/外部リンクが開きます)
 正直に言いますが、この邦題は本書の内容を正しく反映はしていない。フランス語での原題そのままの邦訳副題「未来は予測できるか」も正直あまり正しくない。あ、いや、たしかに「未来は予測できるか」がテーマなんだけど、著者から期待できる「こうして私は未来を予測している」「あなたも未来を予測できる」メソッドの話は最後の1/10くらいしかない。
 残り9割…とは言わないが、前半の5割は古来より人類が、どのようにして未来を予測しようと試みてきた、その歴史だ。未来の歴史ではなく「未来予測の歴史」。手相占い・占星術・神のお告げ―いずれもアタリ氏自身が説く「メソッド」には役に立たない迷信・を「こんなこと信じてきたんですよ、人類って面白いですよね」と総ざらえする本。まあ余技・または余戯として書かれた本なんじゃないかなあ。契約で何か一冊出さなきゃいけなかったとか(すべて何の根拠もない憶測です)。そう割り引いて読むと、んー、読み物としては面白いんじゃないでしょうか。僕はソコソコ面白く読みました。
 思えば昨年ハマった14世紀の歴史書=イブン・ハルドゥーンの『歴史序説』(昨年8月の日記参照)も「私自身はこんなの毫も信じていないけれど、何が信じられてきたかは歴史の重要な構成要素だから」とばかりに著者自身が虚妄と断定する砂占いやお告げ板のシステムを延々と詳述していた。そういうものなのだろう。
 アタリ先生の著書に話を戻すと、いわく「中国では、未来を占うためにカラスの動きを観察する」。第一作『ボーン・コレクター』がデンゼル・ワシントン主演で映画化もされたジェフリー・ディーヴァー「車椅子探偵リンカーン・ライム」シリーズの第三作だか四作目だった『石の猿』という小説では、犯罪組織「蛇頭」を追ってNYにやってきた中国の刑事が「重要な手がかりがあった。いま私が見たカラスの動きは―うわああ呆れた目で見ないでくれ!ちゃんと意味のある話なんだ!」と言い出す場面があったけれど、読んで20年くらい経った今思うに、あれはかなり正しく彼の国の伝統(だと西洋で思われているもの?)を描写していたのかも知れない。
 あるいはいわく、アレクサンダー大王の軍隊は専用の占い鳥の飛びっぷりで作戦を決めていたが、あるとき兵の一人が飛んでるその鳥をウッカリだか悪意でか矢で射落としてしまった。なんてことすんだ、吾が軍の将来がかかっていた鳥だぞという叱責に兵士ぬけぬけと答えるに「自分が殺されるのさえ予想していなかったのだから、その鳥に未来を知る能力などあるわけがない」(タムルードに書かれているという小咄)。

 驚いたのはアタリ先生が、日本人も「九九」や惑星の配列なみに暗誦しているであろう「十二支」について「仏陀が地上を去り、涅槃に入ったときに仏陀の呼びかけに答えた一二の動物の名がつけられている」と書いていることだ。いや初耳なんですけど。てゆか、ある時「競走で上位12番までに入った動物を干支にしよう」と誰かが言い出して、一位の牛の首にひっついてたネズミがゴールで先に飛び出して最初の干支になり、競走の日は翌日とネズミに騙された猫は干支に入れなかった(それで猫はネズミを追い回すようになった)話しか知らんのですけど!?
 福島県双葉郡・葛尾(かつらお)村の情報を紹介するサイトの記事が丁度よかったので引用すると、
意外と知られていない涅槃像のこと(葛尾コラム/22.02.03/外部リンクが開きます)
寛延三年(1750年)葛尾村の薬師寺に寄贈された涅槃図には「50くらいの動物たちが描かれています。その中には、ゾウなど当時の日本では見ることができなかった動物や(以下略)とのことで、いや龍がいるようには見えないし、逆にゾウは十二支の中にはいない。ちなみに「50種くらいの動物の中に、ネコはいません。これはネズミがお釈迦様の使いとされていることに由来します」ということで、確かに猫は涅槃図に居ないのだが、居ない理由はネズミに騙されたからではなさそうだ。
 さらにWikipediaで「十二支」を調べてみると(こちら/外部リンクが開きます)
 それ自体は動物に関係のない子丑寅卯…という十二支の漢字が先にあって、音の似ている動物の名を「当て字」で落とし込んでいったという白川静の説があるようだ←斜め読みの雑な読解なのだが(何しろ色んな説や解説が錯綜していて読みにくい)少なくとも動物たちの競走で決めたわけではない。釈迦の入滅に立ち会った十二の動物だというアタリ氏の説も、面白いけど出所不明のマイナーな説という理解で今のところは落ち着きそうだ(僕の中では)。
 Wikipediaの記事によれば、ベトナムでは卯年にあたる年が兎ではなく「猫年」となるともいう。出典として貼ってあった三年前の記事をそのまま転用しておくので、猫好きな人は見て癒やされてください。ベトナムに行くなら卯年の旧正月に。
ベトナムは「ねこ年」旧正月の準備着々(AFP BB News/23.01.20/外部リンクが開きます)
 ベトナムの招き猫を模写したイラストにキャプション:ベトナムの卯年(ねこ年)記事の現地写真に「招き猫」が沢山写ってるのどうゆうこと?招き猫ってアジア共通なの?と思ったひとは各自で調べてくださいな(舞村も調べたけど)
 ちなみに、ちなみにで気になること全部を(調べて)書いてたら、終わる文章も終わりやしない。未来予測に話を戻そう。

 個別的な占いとは違い、大づかみな世界観による未来予想(そして過去の理解)として「まず黄金時代があって次に銀の時代となり銅の時代となり、今は鉄の時代で争いが絶えない」とか「人類はどんどん堕落していくので最後に裁きの時が来るだろう」など、おおむね下降史観に基づく終末論が古来から多かったようだ。誰しも避けられない衰えや死・あるいは長じるにすれ生じる世の中への失望を、民族や人類ぜんたいに投影した結果かも知れない。下降史観といえば昔「昭和になってこのかた、夕立も雷もショボショボしてる。明治の雷はもっとドドンと落ちて、その後カラッと晴れ上がったもんだ」なんて言い草まであったらしい(ほらまた横道に逸れている)。
 ただし気象の変化は(明治を懐かしむ偏屈の屁理屈であったりもするが)観測データに基づき科学的に量れるものでもある。
 アタリ先生いわくデルフォイの神託や、コーヒーを淹れた後の茶殻の形など「予言」「予想」の形で知ろうとされてきた未来は、歴史がくだるにつれ、だいぶ科学的・かなり実証的な「予測」で推し量られるようになってくる。遠方との貿易による保険の必要や利子の発生、さらには複利の出現により、経済の分野では未来が計算によって描けるようになる。
 けれどやっぱり、全てのメカニズムを測定し計算し未来を知ることなど「科学」「実証」を名乗っても、そうは出来ない。階級闘争の歴史は必然的に社会主義ひいては共産主義社会の到来に帰結するだろうというマルクスの「科学的」唯物論は、マヤの予言やノストラダムスの予言なみに盛大に外れた。その共産主義を実現しようとしたソ連では「科学」はむしろデータの捏造に帰結し、誤った農業政策で多大な死者を出した。なんだかサヨクの悪口ばかりみたいだが、ソ連が倒れ歴史は終わった・後は自由主義が勝ちつづけるだけという「予言」も、もっぱら自由主義じたいの自壊で怪しくなりつつある…

      *     *     *
 …そこでようやく今回の本題に戻る。理論による「科学的」な未来予測が怪しくなる一方で、台頭してきたのが「相関関係」による「予想」だったとアタリ氏は言うのだ。
「コンピュータは、因果関係ではなく、相関関係を見つけるだけの新たなテクニックを多用する」
「だが、相関関係がなぜ今後も続くのかについては誰も解明しようとしない」

動物が地震を予知するメカニズムは不明なままでも、動物の異常行動を前兆として地震の発生を予測できる。とんこつスープの匂いの素が特定できなくても、経験則で臭い(におい)を抑えたり、好ましい匂いを増やしたりできる。
 干支が一周するくらい前にリリースされた、Insect Taboo(InsestではなくInsect)という謎ユニットのアルバムに―うろ憶えなのだけど―仕組みはサッパリ分からなーい♪だけど操作は出来ーるー♪というワンコーラスだけで終わる謎ソングがあったが(しかも「Principle of the World」という曲名)あれは存外、現代人のテーマソングに相応しかったかも知れない。
 「人は皆があると言えば行ったこともない国の存在でも信じる」というポール・ヴェーヌの議論(22年12月の日記参照)を蒸し返すべきだろうか。「手相や神託なんかを信じていた蒙昧な古人と比べて、現代の吾々は科学的に実証的に、理性的に物事を考えている」と自負する分、かえって現代人は輪をかけて蒙昧だという話だ。コンピュータの発達によって、膨大なデータの集積と分析が可能になれば尚更そうなる。極端な話、仮に「青一色の打ち上げ花火が上がった翌日は晴れる」というデータが統計で取れれば、そこにどんな理由があろうとも…いや、馬鹿馬鹿しいからやめよう…豪雨災害が予想された前の晩に青い花火を上げてみる価値はあるかないか…
 今やめてみた極端なたとえでも分かるように、相関関係による類推にも限界がある。ワインの摂取と長寿には相関関係がありそうだというので一時期ポリフェノールの効果などが原因として推定されたけれど、「ワインを恒常的に摂取できるのは豊かな階層で、長寿はむしろ豊かさと相関関係にある」という反論が出たり、結局ワインもアルコール摂取なので適度でも何でも身体には悪いという反証が出たりしているらしい(あいまいな記憶に基づく叙述なので、これも振りかざしたい人はきちんと調べてください)。

 1)それでもコンピュータを援用した大量データ処理に基づく類推(理論ではない)は「AI」の普及により、さらに爆発的に人類に受け容れられつつあるようだ。
 2)様々な質問に答えてくれるAIは、しかし質問に対する答えを「考えて」いるわけではなく、ただクラウド上の膨大なデータから統計的に正しそうな答えを集計で得ているだけだ、という僕の理解は合っているのだろうか。いまAI自身に「あなたは思考しているの、それとも統計をまとめているだけ?」もっとハッキリ「あなたが自我を持ち思考する日(シンギュラリティ)は来るの?」と訊いたら、AIは何と答えるのだろう。いや、それをAIに問うことに何の意味があるのだろう、AIの答えがネットに蓄積された吾々自身の見解の総和でしかないのなら?
 3)アタリ氏の著作によれば、たとえばSNSでの「喘息」に関するポストの増減は、病院に来院する喘息患者の数と相関関係があるのでデータの収集によって病院側は「予測」を人員の配置や病床の増減に役立てられるという。同様のことが株式の売買にも応用できるとか。これはすでに「予測」ではない、すでに起きている体調不良や株式売買への関心を(少しばかり)先んじて知ることが出来たというタイムラグの問題ではないか。ちょうど情報網の充実によって戦争の勝敗やタイタニック号の沈没を他社より先に知った会社が儲けを出したという、氏が書いているエピソードのように。
 4)株の売買については予言の自己成就、という概念も頭にちらつく。○○銀行の経営が危ないらしいという「予言」を信じた人たちが解約や預金の引き落としに殺到し、本当に銀行がつぶれてしまうというアレだ。
 本当は1)AIの普及・3)SNS統計による来院や株売買の「予測」・2)AIは自身が考えているだけではなく単に吾々の総意をまとめているだけ(では?)・4)予言の自己成就、という順番で文章をまとめるべきだったのかも知れない。ただ自身が文章なり何なりを構成するうえでは1)正→2)反→3)正→4)反と自分のなかで対話のピンポンが続くし、一度そうして構成されてしまったものを1)→3)→2)→4)と構成しなおすのは、思考するのとはまた別の脳の部位が必要なのだ。
 今回の週記で最後の横道逸れをするならば(前にも書いたかもだけど)フーコー『性の歴史』の一冊目も、性じゃないや正→反→正→反の連続で、もうちょっと正正正→反反反みたく整理しておくれよと思ったものだけど、存外フーコーもそうした内的対話の人だったのかも知れない、や、少なくとも『正の歴史』じゃないや『性の歴史I』はそうだった。何の話でしたっけ。
 そう、最後の横道の話でした。とゆうか今回の週記ぜんたいが大きな迂回で
5)皆がAIの託宣に夢中なのも、実は統計でまとめられた大数=吾々の総意という鏡をのぞきこんでるだけ・だとすると若干いじらしい(そんなに皆さびしくて「みんなと一緒」が良いのかしら)反面、合わせ鏡をずっと覗いてると閉じた無限の鏡像の深淵から鬼だか悪魔だかが出てくる迷信がなかったっけと思ったりもするのでした。それは鏡像(類推)であってプリンシプル(of the World)ではないのだから…
 …という結論めいたものすらスッ飛ばして
 写真。麺ダイニング「福」の九州ラーメン白と博多酢もつ、『アタリ文明論講義』
「そんなわけで、長年入りそびれていた近所のラーメン屋で九州ラーメンを食べてきました」で今回は良い気もする。「これが発酵食品とはねえ」と言うには、もっと真っ白な博多ラーメンみたいなお店があれば尚よかったのだろうけど、まあそれは別の日に縁があればということで。

小ネタ拾遺・26年6月(26.06.30)

(2026.06.01)韓国のSF作家キム・チョヨプの作品集惑星語書店(原著2021年/カン・パンファ訳・早川書房2025年/外部リンクが開きます)を読了。少しネタバレになってしまうので当該部分は伏せると、冒頭の掌編「サボテンを抱く」に妙な既視感を憶えたのはいちおうネタバレなので伏せます(クリックで開閉します) という主題が、同じ早川の台湾文学コレクション1 近未来短篇集(2024年/外部リンク・(今年3月の日記も参照)に収録された姜天陸の短篇「小雅(シァオ ヤー)」と重なったため。各々まったく異なる展開を見せるけど、SF作家という少し持ち上げて言えば船の舳先に立って水平線の向こうから見えてくる景色を真っ先に見る人たちが今、台韓という隣国で「そこ」を関心領域として共有していることに少し慄いた。
既視感といえば表題作「惑星語書店」の書物というガジェットを媒介に、二人の女性の間で顧客と販売者の枠を越えた親しい感情が芽生える結末に―「舞い上がるような、ダンスでも踊りたい気分だった。わたしたちは友だちになれるだろうか?もしなれなくても、彼女に会えたことが嬉しかった」―日本の、王谷晶さんの短篇集完璧じゃない、あたしたち(2018年→ポプラ文庫2019年)に収録されてた「あなたのことを考えると無駄になる」を思い出して、ちょっとフフッてなった。こちらは靴という商品を媒介にした女性ふたりのロマンス。いや、それ以外は似ても似つかないというか、同じ原子で構成されながら構成の向きが正反対な光学異性体みたいで、
 書影。『惑星語書店』『完璧じゃない、あたしたち。』
サイエンス・フィクションとシスターフッドは相性が良いのかも、どっちもSFだし(超適当で無責任)。同じ本を読んでも「それでどの別の本を思い出すか」は千差万別。それを孤独と厭うか、かけがえのなさと貴ぶか。6月です。

(26.06.03)いい具合にヘニャったトップ○リュの焼きそば麺(半額見切り品)を焼かないで、四月に台北の夜市で食べた台南名物(台南には行けなんだ…)タウナギ麺を見た目だけでも真似してみる―イワシ缶で。これはこれで!
 左から延三観光夜市の光る看板・魚へんに善・魚と書いて「タウナギ」炒麺のメニュー文字。アルミの皿に盛られたタウナギ炒麺。それを真似したイワシ炒麺。イワシにホウレンソウ・輪切りにした鷹の爪を散らしている
台北で食べれる台南名物では碗■(米へんに果)ワーグイも美味しかった。真っ白なモチモチの生地の下に甘辛の具がたっぷり。あっちは真似…出来なかないだろうけど、たぶんえらい手間。どっか日本で食べれんかな。

(26.06.06)東京で所用の帰り、足を延ばして第7回難民・移民フェス(外部リンクが開きます)を少しだけ覗いて来ました.東京タワーの真下にメッセージ性の高いTシャツや缶バッヂを身につけた人たちが(そうでなく普通にカジュアルな人たちも)わんさかわんさか。ナンと春巻き(の皮)の中間くらいの生地で挟んだ焼きバナナサンドに、デーツを芯にしたトリュフチョコ、バクラヴァ「もどき」って何ですか?と尋ねたら本物のバクラヴァがパイ生地なのに対して「もどき」はクッキー仕立てとのこと、ピスタチオ味。赤いジュースは何だろう、訊きそびれたけどザクロ系かなあ(明日のメイン日記に続く予定…)。
 左から焼きバナナの薄生地サンド・デーツチョコ・バクラヴァもどき・赤いジュース。
チョコがけデーツ(トリュフチョコ)は高騰が続くとゆうか環境的持続性が危ぶまれるカカオの使用量は少なめに甘味(満足度)はキープという意味でも伸び代があるスイーツかも。てゆか元からデーツ文化圏な人たちが自分たちの間で定番にしてくれて、そうした人たちが今後も日本に住みつづけてくれて、日本人の自分なども(もちろんお金を出して)お裾分けにあずかり双方ニッコリみたいな形が望ましいので、今の国を挙げての排外路線はやっぱり気に入らんのです。

(26.06.11/ちょっと悲しい話)いわゆる「四苦八苦する」の四苦が生・老・病・死の苦しみなのは知っていたけれど残りの四苦(あわせて八苦)の中に、わざわざ一項目たてて「怨憎会苦(イヤな相手に出会う苦しみ)」が挙がっており数千年前・釈迦の時代からそうなのかーという悲しい感慨がある。昨年から(だったっけ)会社勤めを始めた甥っ子1号の目下の悩みが「反りの合わない同期と春の異動になっても同じ職場にまた配属されて離れられない」であるらしい。
(26.06.12追記)ちなみに四苦八苦の前半の四苦は「海は死にますか 山は死にますか」でお馴染み(?今のひとは御存知ないか)往年のヒット曲・さだまさし防人の歌」二番のサビでそっくり借用されている。海は死にますかと同じメロディで「生きる苦しみと 老いてゆく悲しみと 病の苦しみと 死にゆく悲しみと」と歌われるのだ。
てゆか実は「海は死にますか 山は死にますか」じたい「山川草木悉皆仏性」だけでなく―いや、この言葉は(草木などの仏性を否定していた)古代仏教ではなく比較的あたらしい概念なのだと説く岡田真美子氏の論文東アジア的環境思想としての悉有仏性論(『東アジア仏教:その成立と展開:木村清孝博士還暦記念論集』2002年/外部PDFが開きます―本サイト今年3月の小ネタも参照)によれば戦前・戦中派の人々の間には膾炙していたという乃木希典の詩句「山川草木轉荒涼」をも踏まえていた可能性が高いと見ていいだろう。「防人の歌」は乃木希典と日露戦争を描いた映画『二百三高地』の主題歌として書かれたのだから。映画制作者から「随意契約」でオファーされたのか、競合するミュージシャンとの「競争入札」に臨んで勝ったのかは不詳だが、よく作り込まれている(と考えられる)のは事実だ。さだまさし侮りがたし。
ちなみに上記論文には「防人の歌」(←あ、これ自体については言及まったくありません)に先立つ1960年代、環境保護の文脈で山川草木悉皆仏性の概念が浮上してきたことが示唆されているが、そもそも「山川にも仏性がある」「成仏する」から「山も川も死ぬ(海は死にますか 山は死にますか)」と話を一気に「死」へと転換し、最終的には「私の大切なふるさともみんな逝ってしまいますか」という悪く言えば脅迫めいた詠嘆に落としこんでゆく「防人の歌」は(四苦八苦や悉皆仏性という仏教の概念を「防人」という仏教にはあまり由来しない制度と結びつけたことも含め)宗教・あるいは宗教的な「魂」などを足がかりにした環境保護の思想が、けっこう容易く国家主義に接続され、からめとられうることを示してはいないだろうか。エコロジーとナショナリズムは親和性が高い(側面もある)のだ―遺憾ながら、と敢えて言いたい。

(26.06.14)操作を誤ったのだか、罠にはまったのだかして、Amaz○n primeの無料お試し期間を始めてしまった。まあ有料会員に移行する(つもりは全くないので)ギリギリ直前まで、時間と相談しながら劇場で見逃していた映画など積極的に観てやろうと思いつつ、まずは『瑠璃の宝石』とか観始めてます。
(同日追記)空腹ではないが何かに飢えている・でも手に取るもの手に取るもの「なんかコレじゃない」で自分が欲してる味覚に至れない、そんなことってありませんか?あ、いや昨日(強制的に)お試し開始させられたア○プラの動画ラインナップの話ではなくてね?なくて…ね?(昨晩てはじめに観たサスペンス映画が微妙だったらしい)(気になってた『落下音』を映画館で見逃してしまい、まあ自分に向いてたかは兎も角「落下音の口になってたのにー」て事はあるかも知れない)(ありがたいことに読書はアタリが続いている)
(追記の追記)土日それぞれ一本ずつくらい映画を観たかったけど、無理ですね…どんどん時間の使い方が下手になってるかも。そして近ごろ映画とか観るたび「なんで皆こんなに部屋が片づいてるんだ」と思う悲しさよ(どこ観てんだ)…また後二時間たらずで週末が終わります。おやすみなさい、また明日。

(26.06.16)観光やグルメよりも地元民らしく?食材の調達に行くほうが多い横浜中華街。長く個人的な名所だった超級市場(食材と雑貨のお店)が閉店・ここでしか調達できない廉価な乾燥大豆ミートが入手できなくなって二年。アメリカ産の大豆を長野県で加工という製品だったので、松本に旅行した際にスーパーで探したり、あるいは素食(ベジタリアン)が盛んな台湾で同等の商品が手に入らないかと市場や迪化街を虚しくさまよったり、実はけっこう苦慮していたのだけど
 写真2枚。左:お店の閉まったシャッターの上に「中国超級市場2階営業中」の貼り紙。右:「畑のお肉」という乾燥ひき肉と、それを使って作ったチーズ担々麺。
閉じたはずの店舗の二階で営業再開しているのを発見。お土産物の物産中心になった印象だけど大豆ミートは健在で、またベジ寄りの生活に戻れそう(動物蛋白も摂取してるけど)。中国語の本も少し売りはじめていて『羅小黒戦記』の小説版だかスピンオフだか―ということは簡体字かしら―など何冊も?あったので、中華街に出向く機会のあるファンのかたは覗いてみては。

(26.06.17/センシティブな話題)リアル店舗でのDVDレンタルという業態が急速に廃れたためシリーズ途中まで観て途絶えていた『ルパパト』こと『快盗戦隊ルパンレンジャーvs警察戦隊パトレンジャー』でしたが、YouTubeで毎週2話ずつの「再放送(配信)」で無事完走できそう。まだレンタルDVDで観ていたシリーズ序盤、快盗側の「ルパンブルー」と警察側の「パトレン1号」がそれぞれ「イケボ」「胴間声」の擬人化みたいなハマり役で、絵まで描いて大喜びしていたのですが
 イラスト。青い覆面に青いシルクハットを軽く持ち上げ「イケボ」と言ってるルパンブルーと、「胴間声ーっ」と絶叫しているパトレン1号。
この手の番組(戦隊とかプリキュアとか)の常として一年にわたる長丁場のテコ入れと、親御さんの夏のボーナスを見込んでか新しい玩具の市場投入を兼ねてチームに加わる「追加戦士」の枠がある。『ルパパト』だと中盤から登場する「X」こと高尾ノエル・国際警察に所属するパトレンXでありながら潜入捜査官として快盗にも協力するルパンXでもある=つまり構成上も二つの戦隊を橋渡しするポジションの彼が―先に謝っておこうスミマセン―童顔ならぬ童声というか、オールマイティな強キャラの位置づけに反して敵の怪人なんかに反撃を受けて「ギャー」とか上げるハイトーンの悲鳴がいちいち画面映えして嗜虐心だか被虐心だか分かんないけど、新たな第三の属性で本当に良かった(本当にスミマセン)…それがまた制作陣も分かってるみたいに攫われて敵の本部で十字架にかけられたり「危ないっ!」と味方の前に立ちはだかって敵の攻撃を身代わりで受けたりするんだ…。その分野に詳しくはないんだけど、アニメーションだとKENNさんという声優さんが、バトル物なんかで悲鳴を上げさせたら最高だなあと感心したことがあって大丈夫かこの話題
 イケボのルパンブルーと胴間声のパトレン1号、それに悲鳴で魅せるX。他のキャラも漏れなく愛おしく(温水洋一さん絶対に途中で本性を現す黒幕だろうと思ったら純粋に善意の味方キャラで重ね重ねスミマセン)良いシリーズでした。

(26.06.19)もっと確たる成果が出てから報告でもいいんだけど―ずっと前からしてみたかった、かき氷機(機?)を買って夏のアイスに置き換える始めました。
 写真二枚。左:下向きに傾けた扇風機みたいな外見で背面にハンドルがついたかき氷機と小さなガラス器につくられたミルク宇治金時、パックの「ぜんざい」と「粉末緑茶」・練乳のチューブ。右:ミルク宇治金時のアップ。
初回は自分にサービスで小豆あん(市販のぜんざいパック)を使ったけれど、慣れたら自分で緑豆を茹でて台湾風にしてみる所存。あと台湾風といえば現地では大きさにビビって食べられなかったマンゴーかき氷に、ジュースか何か使ってジェネリックで挑戦できそうとか、練乳と卵黄で倉敷風(西日本風?)のミルクセーキを作るとか、あとは業スーでシロップ買ってきて実は一度も食べたことないブルーハワイに初挑戦してみたり?
 写真二枚。「杏仁露」と書かれた直径10cmくらいの小さな器。一面に張られた小豆の上にひんやり盛られたかき氷。小豆あんをアルミのレンゲでかき分けると、底には切れてないカタマリの杏仁豆腐が。
 ↑これは十年ほど前に迪化街で食べた杏仁露。器の底に張られた杏仁豆腐を小豆あんで覆い隠して、さらにかき氷を盛りつけた小碗の涼味。小豆あんでなく緑豆あんも選べたが、今もあるのかは不詳。

(26.06.20)「子どもを寝かしつけたらサッカー観戦」とか「勝利を祝ってビールで乾杯」とか「AIに訊ねてオフサイドのルールをおさらい(こういう広告は見たことないから僕の創作なんだけど)」みたいなアドがネットにもリアルな街にも溢れている今月の現状に、半年後これと同じくらいの状況が「改憲推し」で仕組まれるのかと。旧い(そして現実の生物界ではないらしい)喩えだけど、海に転げ落ちてゆくレミングのよう。
(同日追記)

(26.06.21/おわび)こう見えて―どう見えてるのか知らんが―例によって気力が満タンの30%くらいまで落ちこんでいるので(去年の今ごろ「よーし金曜の夜だし仕事ハネたこの足で池袋から神保町まで歩くかー」とかやってた頃はまだ70%くらいあったと思う)東京どころか自宅から駅まで歩くこともあたわず…ヘイトにNO!6/21国会前アクション(移住連とno_hate_2026/Instagram/外部リンクが開きます)参加者の皆様、応援しておりますので…ご無理はなさらず…

(26.06.22/エレジー)あらためて、つくづく、「郡上先輩にとって特別だった寮長をマーク外す飛び込みでサッと奪い去る上伊那ぼたん」なんだよなあ……原作の中でも特に好きなジンランちゃんの「早く帰ってきてね?」までアニメ化ぶんに入るといいなあ。もう入ってる?(遅れて観てる)。おやすみなさい。
(26.06.23追記)フジファブリックを通過しない人生だったけど、時々ネットで流れてくる女声のカヴァーにハッとなったりしています。
 
(06.23追々記)あまりにノーコンテキストな朝の書きつけだったので文脈を補っておくと、アニメ『上伊那ぼたん』に、ギターが得意な女の子が楽器店で、機嫌を損ねた相方が好きなフジファブリックの曲を弾き語りしはじめて、サビは二人で合唱・にっこり仲直りというエピソードがあって、別の曲だけど「若者のすべて」(のカヴァー)を思い出した次第。
ちなみに「マーク外す飛び込みでサッと奪い去る」の元ネタは、フジファブリックではなく小沢健二。為念。

(26.06.24)宮澤賢治以来(?)電柱にロマンを感じるひとは少なくないようだ。僕は純粋に歩きにくくて邪魔としか思えないのだが「そういえば昔の電柱は本当に木だったんだよなぁ」…金属製の胴体や、合成ゴムのカバーにまでプラタナスのような(?)模様を施した電柱を見かけて、面白いことを考えるひとが居るもんだと少し感心してしまった。「電柱 プラタナス」「電柱 模様」などで検索しても、製品名や番号は出てこないのだけど…
 プラタナスのような(?)模様が施された電柱の写真。金属製のものと、滑り止めのような縦の溝が入った合成ゴムが巻かれたもの。
 しかし原発には何のロマンも認められない。ロマンじゃなくて金満に群がる輩の宿り木になった現代では尚更のこと。
・署名:原発の「建て替え」方針に反対(change.org/外部リンクが開きます)に賛同しました。

(26.06.26)炭酸が飲めるひとがエナジードリンクで日中の意識を(正気を、とは言うまい)保っているように、炭酸が飲めない自分は読書で日中の意識を保ってる気がふとする。正気を、とは言うまい。

(26.06.28/少し長めの小ネタ/すぐ消す/月末に拾う)先月末に名前だけ取り上げたチョン・セランの短篇集『私たちのテラスで、終わりを迎えようとする世界に乾杯』で印象的だったのは、酔っぱらいが騒ぐ繁華街も女同士ふたり車で間を通り抜ければサファリパークの珍獣を眺めるようで怖くない―という見立てのショート・ショート(ショート・ショートだと、この見立てひとつで作品が成立する)で「いや嘘だ、やっぱりああした酔っぱらいたちは怖い(要約)」と吾に返る一節だ。マイクロアグレッションからDVやストーキング・あるいはもっと大きな戦争犯罪まで、世の中に横溢する無神経な暴力。勝ち誇り、あるいは自分たちが勝ち誇っていると自覚する必要すらないほど吾が者顔で世にのさばる強者への恐れや不信は、この作家の暢気そうなポジティブさを裏地のように支えている。世界はわりと酷い場所だと、そういう認識に立ったうえでの、敢えての暢気でありポジティブなのだと思う。
J・J・J三姉弟の世にも平凡な超能力(原著2014年/古川綾子訳・亜紀書房2024年/外部リンクが開きます)もまた、そんな暴力と無神経に満ちた世界で、主人公たちが各々1人とか2人とか3人とかを小規模な奇跡で救出する物語だ。実は善と悪はキッパリ二分できる両極端ではなく、両者のあいだには暢気な善や小さな親切と・些細な無神経や暢気な悪みたいなグラデーションの領域があって(とはいえ両者にキッパリ境界線はあるのかも知れないが)うっかりセクハラなジョークをかましても指摘されれば「すみません無神経でした」と是正できる人も、いい感じの彼氏だと思ったら実は警察案件な暴力男も、そして野生の幻覚キノコで酔っぱらってるだけなら微笑ましいけど(?)銃と山刀を提げて襲いかかってくる馬鹿もいる…
 書影。『レオ・アフリカヌス』と『山崎方代の百首』そして『JJJ』。
 なんか僕なので小難しい話になっちゃったけど、それをすんなり楽しく読めるのがチョン・セランのいい処かも知れません。読みやすくて面白いですよ?鎌倉で歌碑を見かけたのが御縁で読んでみた山崎方代の歌集と並べると、大それてないない暮らしを大切に生きようと前向きな気持ちになる話。
 僕は韓国映画とか好きなわりに、旅行の訪問先としてはあまりイメージを描けないんだけど、訳者が著者に現地で案内してもらったという「坡州(パジュ)出版都市」という字面には少し惹かれてしまった。そして「坡州出版都市」て何だ、と検索したら、久しぶりにWikipediaから「寄付してちょ」のお願いが出たので、久しぶりに小額を寄付しました。小さな善意で少しずつ世界を救っていくのだ。また来月(嘘。まだ早い)。
・ちなみにWikipediaでない参考記事はこのあたり(代わりにまあ広告がすげぇや):パジュブックシティに行って来ました!(SEOULnavi/2005.10.31/外部リンクが開きます)

(26.06.29)いつもビッグイシューを買う時おつりが出ないよう500円きっかり用意して払うことにしていたんだけど、この日は小銭を作る余裕がなくて「すいません千円からで大丈夫ですか」と訊いたら「千円札のほうがいいですよ、電気料金なんかの支払いの時じゃらじゃらせずに済むから」という言葉をもらって
 イギリスのシンガー・Rayeをフィーチャーしたビッグイシュー最新号。
それは「よかった探し」かも知れないけれど、実際、今まで「売ってる」ひとに気をつかってるつもりだった自分は、売った人はそれを今度は「使う」んだと長らく気づかずにいたのだと少し恥ずかしく思うのだった。想像力の射程が短かったのだと。少しずつでも認識を延ばしていきたいものです。また来月。

旅にヤンデレ〜アミン・マアルーフ『レオ・アフリカヌスの生涯』(26.06.27)

 毎月末に更新しようと思っていた台湾旅行記(まんが)が間に合わなかったので―どうせなら当初の目論見より加筆してやろうなどと開き直りつつ―差し替えで短めの話。

    ***   ***   ***
 昔はデラシネ(根なし草)などと言ったのである。
 旅にヤンデレ(違う)夢は枯れ野を駆けめぐる。

 突然ふってわいたアミン・マアルーフ再評価(新たに読んだものもある)、『レオ・アフリカヌスの生涯 地中海世界の偉大な旅人』(原著1986年/服部伸六訳・リブロポート1989年)も、はい、面白かった。いや、すごい面白いんじゃないかな。
 逆に分かりにくい喩えかも知れないけど『黒の過程』(マルグリット・ユルスナール作。16世紀フランドルを流離う錬金術師の物語)とか『享楽主義者マリウス』(ウォルター・ペイター作。2世紀のローマでエピクロス派・ストア派・さまざまな思想を遍歴した主人公がキリスト教徒として生涯を終える話)とか好きなひとはピンと来そう。立志伝とか歴史の立役になるような生涯ではないんだけど、その傍流・歴史の激動の中で、地理的にも、思想的にも流浪する主人公。
 マアルーフが題材に選んだのは実在の人物で、ハッサン=アル・ワッザンとしてグラナダに生まれた彼はフェズ→トンブクツー→カイロ→コンスタンティノープルとマグレブ諸国〜地中海を渡り歩き→そしてローマでヨハネ=レオ・ド・メディチ(またの名をレオ・アフリカヌス)と名前を変えたのち、かつて栄華をきわめたカルタゴの遺跡に辿りつく。そこを現世での終の住み処・けれど「あの最後の"場所"へ向かって行く」最後の中継点と定めて(実際にはそれから30年くらい生きる)―
 とすればこの富と没落・愛と別離・奴隷に身を落としたかと思えば教皇の側近に昇りつめもする、そしてその間ずっと世界の知を求めつづけた彼の浮沈の半生を、あるいを本書のテーマそのものを集約しているのは、まるで蝶番のように長い物語の真ん中あたりに置かれた、こんな述懐に違いない:
「誰でも同じようにキャラバンの中に溶け入ることができる(中略)
 数週間あるいは数ヵ月のあいだ、同じ方向へ進み、同じ危険に直面し、生活し、食べ、祈り、喜び合い、苦しみ合い、そして時としては共に死なねばならないとき、これらの旅人はお互いに他人であることをやめる
(略)
 それは一つの部落であって
(略)この部落から見ると、あらゆる国、いま別れてきた国も、いま通過しつつある国も、すべて遠い国に見えるのだ」

 もう本サイトで何度も何度も引用した、元はバタイユに由来するというあの書名=「何も共有していない者たちの共同体」と、その著者が自身の体験から書いた「異国で何も頼れない状態に陥って、言葉も通じない、信じられる理由もない赤の他人になぜか救われる」という(23年5月の日記参照)その意味が、15世紀と16世紀の狭間を生きた世界人レオ・アフリカヌスの人生観にも木霊しているのが分かるはずだ。民族も宗教も異なる者に幾度となく救われ、異邦人をこそ友として持つ生涯。
 写真。『レオ・アフリカヌスの生涯』と、坂田靖子「タマリンド水」のトートバッグ。
 ↑むかし友達にプレゼントされた坂田靖子「タマリンド水」の扉絵をプリントしたトートバッグ。異国で遭難した主人公が、言葉も通じない人たちに救われる短篇だった。

 あるいはイヴァン・イリイチが『シャドウ・ワーク』で書いたとおり、ジェノバに生まれジェノバ方言からラテン語・ひいてはポルトガル語・スペイン語へと使用言語を変えていくクリストファー・コロンブスの生きかた(25年5月の日記参照)も、この時代にあってはそう珍しいものでもなく、ひとつ国に留まらないという意味では(ルウム人の都でついにキリスト教の洗礼まで受ける)吾らが主人公の魂の兄弟と言えるのかも知れない。実際「レオ・アフリカヌスの生涯」は「地球は丸いのだから西方に行ってインドに到達する」と資金集めに奔走する「クリスバル・コロン」の旅路と一瞬だけ交錯するのだ。
 何より、本作を読んでようやく、これもまた何度も此処で引用した「土くれより創られし我が身なれば、それがありし何処も我が祖国にて、世の人すべて我が同胞なり」という詩句(24年7月の日記参照)、あれを書いた詩人もまた―11世紀シチリア「出身の」アラブの詩人と言うからには―生まれた国を「出身」と呼ぶような旅の・流浪の生涯を送ったのではと思い当たる。それはまた、生まれ育ったベイルートを政治的理由で去った作者アミン・マアルーフ自身の境遇にも重なる―十年後・西欧世界に台頭する反イスラム主義を危惧して、帰属意識(アイデンティティ)は人を殺すと説いた彼の世界観・道徳観にも。

 「愛国心を持つなら地球に持て」と言ったといわれるジミ・ヘンドリックスは、今でこそアメリカのシンボルのように思われているけれど、最初に受け容れられたのはイギリスのライブハウスでだったという。ちなみにこの「地球に」は原文だと「Earth」なので、それは彼がクールに「太陽から三番目の石(Third stone from the sun)」とも呼んだ惑星のことかも知れないが、小文字のearth=千年前の詩人が謳った「土くれ」だと思ってもいいように思う。
 実際に各地を放浪したり、他の国に移り住んだり(移り住むことを余儀なくされたり)せず、長く一箇所に留まるような生涯でも、自分の出自や今いる場所への帰属意識が希薄なタイプの人は一定数いるような気がしてならない。
 いや、それは「定数」ではなく変数・社会の関数で、人が定住志向になるか移動志向になるかは社会的状況に大きく左右される部分のが強いのかも知れないけれど(典型的には19世紀にアイルランドから北米大陸に渡った人たちや20世紀に日本から南米大陸に渡った人たち、21世紀の今まさに難民と呼ばれている人たちは、皆がみな自発的に出立を望んだわけではないだろう)
 どちらかというと真逆に帰属意識(愛国心や愛郷心・国旗や特定の血筋を賛美すること)が声高に称揚される今のこの国でも、それは「声が大きな者(国家とか企業とか)」が声高にそう喧伝してるだけで、必ずしも皆の自発的な思いではないのではないか。今この場所に自分のアイデンティティまで預けたつもりはないと燻(くすぶ)る、声にならない声も一定数あるのではないか。
 もうここにはいられない、早く旅立とうと謳うボカロ曲(あ、いや、これを「ボカロ曲」と分類していいのかも分からないくらい今どきの音楽には疎いのだけど「BAD LANDに生まれただけでBAD LIFEがデフォ」とか結構エグい歌詞を見る気がするボカロ曲周辺)を耳にして、よく言えば(?)漂泊の想い・悪く言えば厭世の情が基調音になってもおかしくない現状なんだよなと改めて想う。若い人は尚更そうかも。
 
 ちなみに「旅人同士の一体感の前では、どんな街も通過点にすぎない(要約)」というレオ・アフリカヌスが青春の感慨を語る次のページには、そんな彼がアトラス山脈(どこだ?)の麓で世慣れた伯父に耳打ちされた、こんな言葉がある。
 「もし誰か、吝嗇(けちんぼ)は欲求不満の娘だ、というものがいたら、お前はその者に言ってやるがいいよ。吝嗇を生むのは税金だ、とな」
 地図。地中海(途中で停まってるブローデルも読まなきゃなあ…)のすぐ南・アフリカ大陸の最北部を横切るアトラス山脈。ちなみにアフリカ大陸とアラビア半島の間・紅海の先端が何かと噂のホルムズ海峡。
 ああ、16世紀にしてそうか―いや遠い日本の貧窮問答歌から800年は経ってると思えば「まだ」そうか、「相変わらず」そうかと思うけど。
 現代の日本ではこの6月末がだいたい、地方税の一括払い・または分割払い一回目の〆切であるように思われる。皆様もう払われましたか。旅に出たくなりませんか?(そういう話じゃなかった気がする…)

    ***   ***   ***
(追記)SNSのタイムラインで、同じ朝日新聞の一日違いの記事がキレイに並んでて力ない笑いがこぼれてしまった。
「家賃上昇の凍結」が実現へ ニューヨーク・マムダニ市長の看板政策(26.06.26/外部リンクが開きます)
最低賃金1500円、期限先延ばし 政府調整「30年代前半早期に」(←あ、こっちはニッポン/26.06.25/同)

糊して生きる〜夢の話(26.06.21)

 自分が見た夢の話ほど、他人が聞かされて面白くない話はないという。
 …けさ見た夢の話をさせてもらう。ちょうど書こうと思っていた別の話のマクラに(寝て見る)夢が(素晴らしいという意味で)「夢みたいな話」なんて事は早々ない、「夢と知りせば醒めざらましを」どころか醒めて「やっぱり現実のほうがいい」と思う夢ばかりだ―みたいな話を置くつもりが、いやそのマクラは少し推敲が必要だなとばかりに「醒めざらましを」とは言わないまでも「もう少し見ていたかった」ちょっと面白い夢を見たのだ。

      *     *     *
 夢の中の僕は駅のベンチに座っている。
 背もたれのない、人工皮革の黒い真四角のクッションが並んだ待合いベンチで(夢の記憶はすぐ揮発するから目醒めた今となっては詳らかではないが、もしかしたら遅延した列車を当てどなく待っていたのかも知れない)例によって文庫本を開いて読んでいると、隣席の若者が珍しく興味をもったらしく、横からのぞきこんでくる。
 何だろなと思ったら、ちょうどめくって読みはじめた新しいページ・新しい章の見出しが「智学」という二字で(どういう文脈の本でそういう章題になったかも不詳。知りたいのだが)
 章の見出しが「智学」となっている文庫本の図像。(いや、わざわざ作らんでも…)
 横から覗きこんでいたのはスポーツ留学生なんだろうか、筋肉ありそうなガタイを白いジャージに包んだ外国の若者で、その胸に「智学」と青い糸で刺繍されている。あー智学院だか智学館だかいう学校があったなあ(智学」だと起きてから確認)、彼にしてみれば「なんだなんだ、自分が通ってる学校のこと読んでるぞ?」と関心をもった・なんなら関係者に挨拶せねばとでも思ったようだ。トリニダード・トバコから来たらしい。
 どうも季節は冬だったようだ。何か話さねばと英語で「How about Japan?」と尋ねると、夢なので英語で言ってることもなぜか概ね意味は分かるので、どうやら正月に餅を食べた・しかし餅というのは恐いもので食べて死んだ者もいるとニュースで見た、そんな話を聞かされた。
 あー餅というのはライスをマッシュ&マッシュしてペーストにしたものだからね、スロートのインサイドにスタックして息が停まるんだよ、みたいなことを英語で言おうとして(そもそも「マッシュ&マッシュ」はどうなのよ)「ペースト」が相手の青年に伝わらない。ペースト↑?ペースト↓?発音が悪いのか。ならば文字で伝えようかと思ったら恥ずかしいことにペーストの綴りが記憶にない。pastは過去だ。pea…?いやpeaは「ピー」、豆とかだな。スマホで「ペースト」と入力し英語の綴りを検索しようとするも、焦ると余計にモタつくものだ、フリック入力で「ペ」「ー」「ス」「ト」が上手く入力できないまま…目が醒めた。

 夢には法則がある。
 ○○は金運の兆しとか、そんなのではない。見ている者が知らない事物を夢の中で見ることは出来ない(夢の中で作曲するみたいな話はあるが)。無理にその先を見よう・知ろうとすると夢はそこで強制終了される(つまり目が醒める)。この夢の中では「ペースト」の綴りが出てこなかったので「はい無理です」と僕の目は醒めたのだ。
 なので、次に似たような夢を見たときは「ペースト」の綴りを説明できるよう、起きてさっそく調べてみたと思し召せ。
 ・ペースト(paste)は、高い粘性のある流体。(Wikipedia)
あーそっか「p・a・s・t・e」と言えばよかったのか(夢で)と得心した後、ふと気づく。もしかして、ペースト(paste)とパスタ(pasta)って同じ語源?
 現実のほうが夢より「やっぱりいい」のは、主導権が自分にあって、そうと望めば何処まででも調べられるからだ。実は夢のなかで「えっとペースト、ペースト、コピーはcopy、カットはcut、キーボードのVの処にペーストって英語で綴りを書いてなかったっけ?」と虚しく足掻いたりしたのだけど、
 キーボードの写真。Vのキーに「ペースト」の英文はなかったずら…
 もしかして貼りつける「ペースト」と柔らかい「ペースト」は同じ語源(柔らかいほうのペーストで貼りつけるからペースト?)で、しかも「パスタ」とも同じ語源?
 …調べてみたら、そのとおりでした。
「paste」の意味・使い方・読み方・例文(モチタン英語辞典/外部リンクが開きます)
いわく「pasteは、ラテン語pasta(生地)を源に古フランス語を経て英語に入った語で、「練ったもの」を指す名詞が糊を意味するようになり、そこから「貼り付ける」の動詞になった」
 そういえば、今みたいな固形スティック糊・さらには透明なアラビア糊よりも前、糊というのは軟性プラスチックのチューブに入った粘度の高い白色のペーストで、あれはまさに米を原料にしたものではなかったか。そういうのを「ヤマト糊」と言うのではなかったっけ?
 …調べてみると、今度は少し違った。
 ヤマト糊の語源は「お米を使った糊」「お米を糊にする国で、僕は生まれた」ではなくて単にメーカーの名前。確かに糊の歴史の最初はお米を原料にした「姫糊(ひめのり)」だったのが→姫糊は腐りやすいのでホルマリンで保存性を高めた(もうひとつのメーカー名「フエキ糊」は品質が変わらない「不易」が語源の由)→しかしホルマリンは毒物で子どもが誤食しても害にならないよう現在はヤマト糊がタピオカ・フエキ糊がトウモロコシのでんぷんを原料にしているそうな。
たかが糊、されど『でんぷん糊』!(『営迫工房』のブログ/2020.12.06/外部リンクが開きます)
このブログにも書かれているように、そういえば「糊口を凌(しの)ぐ」なんて表現もあった。「口に糊する」「口に糊して生きる」などとも言う。
 口に糊=開かぬようギュッと閉じて、このことは内密に…という意味ではない。そういう時は「口にチャック」と言う。話が逸れた
 「糊口」の出典は中国の古典・春秋左氏伝だそうで、この「糊」がヨーロッパ圏でペーストの語源である「パスタ」と同じで「粉もん食って生きる」だったら面白いけど、そうではなくて糊=ペースト状の粥、薄めた粥でどうにか食いつなぐ・やっとの思いで暮らしを立てている、くらいの語源と意味のようだ。んー、でも中国ではお粥も貧しい食事とは限らんからなあとか、肝心の『春秋左氏伝』は「糊口」をどういう文脈で書いてるかまではネット検索で出てこないから「粉もん」にワンチャンあるのでは…とか悪あがきは(今は)やめておこう。餃子・ペリメニ・ラビオリ・日本の「おやき」や大福まで含んだ「ダンプリング文化圏」がユーラシア大陸に広がるように、パスタとペーストと糊が同じ語源で広がっているのが面白い、今回はそれで十分。

      *     *     *
 十分と言いながら派生した余談として、パソコンのキーボードでペースト(貼りつけ)に「V」のキーを割り当てる慣わしの話を少し。
 コピーがC、すべて選択がAllのAで、終了がQuitのQ、それらは分かる(QはWindowsユーザーの人にはあまり馴染みがないかもだが)。なんでペーストがVなのという素朴な疑問にたいして「Pはプリントが先に使ってしまっているから」「AやC・カットのXと近くにまとめて(さらに右手でマウスを操作していても左手だけで打てるので)使い勝手を考えた」など諸説あるが…個人的には(他に誰も言ってないので違うんだろうなと思いつつ)アラビア糊のスティックを貼りつけるように逆さにした状態はVの字に似てないか?そう思って、そうやってV=ペーストを脳内に位置づけたものだった。
 
 あ、うん、実は「Xはハサミ」というのも俗説とゆうか本来の「語源」ではないらしい。これも調べてみた。
カット、コピー、ペースト、アンドゥをX,C,V,Zに割り当てたのは誰なのか(usagimaru/note/24.2.1/外部リンクが開きます)
 ちなみに上記のブログで触れられてるZ=アンドゥはアンドゥで、抗生物質や原子爆弾・ポストイットやそもそもコンピュータなどに匹敵する20世紀最大の発明のひとつだと思っているのだけど(ポストイットを20世紀最大の発明のひとつと言ったのは…ドナルド・ノーマンだったかしら←うろ憶えなので迂闊に信じないように注意)今回の日記(週記)の議題とは関係ないので措く(ほっとくとどんどん派生しちゃうんだよ)。
 話を戻すと、上記のブログによればXはハサミではなく「削除」(ペケかも…まあこれも今回は本題ではない)・そして本題のVは「挿入」を表わす記号だから「ペースト」をアサインしたのだという。謎はすべて解けた!
 たしかに文章の途中に加筆や入れ忘れなどを挿入する時は、挿入したい箇所の上にVの字を入れるものだ。
 すべて解けたと言いながら、本当は世の中に謎が尽きることはないし、真実がいつも一つとも限らない。糊にまつわる派生の余談をもうひとつ。
 十年以上も前にネットで読んだ話題。嘘ひとつ封をし終えて卓上のアラビア糊は寝静まるかな(斉藤真伸)という短歌に「意味不明で理解できない」という評が短歌誌に載って「いい歌なのに」とプンスカしているTwitter(現X)の投稿。読んだ僕は思った。この「理解できない」の評者は「アラビア糊」という言葉を知らず「卓上のアラビア・糊は静かに」と分かち読みしてしまい「なんで唐突にアラビア?理解できないぞ?」と考えたのではないか。
 別の場所で(これは僕じしんが原典を読んでの話)「川越ゆき」という言葉を折りこんだ―電車の「川越行き」と考えれば簡単にスジが通る歌を評者三人が「川越ゆき」という人名と思いこみ「ここで唐突に固有名詞が入るのがシュールで良い」などと評価されていたことがある。誰でも言葉を知らなかったり(ペーストの綴りが出てこなかったり)うろ憶えだったりすることはあるので、それで意味不明と思ったことは「意味不明・理解できない」ではなく「そこがいい・シュールだ」と褒めておいたほうが後のち傷は少ないと思うのだが如何でしょう。(この項おわり)
 大矢復『パスタの迷宮』(洋泉社y新書)と、スティック糊の写真。
 …「おわり」と言いつつ屋上に屋根を重ねるが(今週はクドい)なにせ一知半解・知ってるようで知らないことが多いと今回の日記の今までだけでも再確認できた自分。「アラビア糊」を液体糊の別称だと思い込んでるけど、それって合ってるっけ?と気になり、念のため確認したら面白いことが分かった。
 実は「アラビア糊」で(なるべくGoogle社のお世話にならないよう別の検索エンジンで)調べると、最初に出てくるのは「封筒の封の部分についている、水などで湿らせて貼る塗布された糊をアラビア糊と呼ぶ」という説明なのだ。なるほど、それで「嘘ひとつ封をし終えてアラビア糊」か、いやでもソレだと「卓上のアラビア糊」とは言わないだろう、やっぱり液体糊のことじゃないのか…
 両方とも「アラビア糊」と呼ぶらしい。透明な液体の糊も「アラビア糊」でいいのだ。その名も「アラビック・ヤマト」という液体糊が50周年だかで作られた特設サイトに、ちゃんと説明があった。
ひみつ6:なぜアラビックヤマト?(ヤマト糊公式/外部リンクが開きます)
それによれば「昭和30年代まで、アラビアゴムの樹液を主成分としていた液状のりを、別名「アラビアのり」と呼んでいました」で、アラビアゴムを合成樹脂に置き換えたのが、ペーストの「V」の由来としてもおなじみ(だからその解釈は違うて)アラビック・ヤマトというわけだ。封筒に塗ってある糊・透明な液体糊・どちらもアラビア糊。真実がいつも一つとは限らない。目が醒めているかぎり謎と謎解きは続く。素敵じゃないですか。
 夢のなかで僕(と智学館の留学生)が待っていたのは「川越ゆき」の列車だったかも。それはないか。

アミン・マアルーフを再発見する〜『アイデンティティが人を殺す』『サマルカンド年代記』(26.06.14)

 800年も埋もれていた『ルバイヤート』と、21年も邦訳が棚上げにされていた著作。今こそ本書が必要な時だと判断されての邦訳だとしたら…という話。

    ***   ***   ***
 先月5月の終わりだから半月ほど前の話になりますが、山下公園で開かれた第二回ヨコハマ反戦・反差別読書会に参加してきました。第一回の様子は先月の小ネタを参照。←そこで書いたとおり、第二回はキチンと読む本を選んで、アミン・マアルーフアイデンティティが人を殺す(原著1998年/小野正嗣訳・ちくま学芸文庫2019年/外部リンクが開きます)を再読。5年前の冬に鎌倉駅前の島森書店で買って(よく憶えてるな)すぐさま一読・これは重要な本だと思いつつ十分に咀嚼しきれず宿題にしていた、コンパクトながら侮りがたい一冊でした。
 書影。『アイデンティティが人を殺す』と『アラブが見た十字軍』
 アミン・マアルーフ。『アラブが見た十字軍』というタイトルからして稀有な歴史書(2012年9月の日記参照―当時この本を選んで「9.11」に取り上げた自分の反骨よ…)の著者にして、アラブ圏(ベイルート)生まれのキリスト教徒・しかも母はカトリックで父はプロテスタントという出自をもつ彼は、生まれてから得た様々な要素の複合は誰ひとりとして同じでない・そっくり同じ遺伝子を持つクローンの双子ですら生まれ落ちた瞬間から別の人生を歩んで「取替え出来ない自分」を構築するのだという意味で「アイデンティティ(という語)」を捉えなおす(原義に立ち返る?)ことを提唱する。
 キャプション「たとえば個人情報なんかでも『日本人である』『男』なんて情報ではコレっぽっちも『あなた』という個人を特定なんてできないわけですよ…」(電話番号・氏名・生年月日・住所・好きな食べ物・マイナンバー・病歴などの属性を示すキャプションに囲まれた自画像を添えて)「なのになぜ『性別』や『国籍』等だけで自他を定義したがるのか」
 原著が書かれた1998年―『文明の衝突』などという言葉で西欧と中東の対立が煽られる状況への焦慮もあっただろう。実際その煽られた対立は三年後にNYのツインタワーを倒壊させ泥沼のテロ・反テロ戦争に「結実」してしまう。
 だから短期的には聞き入れられなかった(とも言える)この諌言の書で、著者は人種・国籍あるいは宗教…といった属性ひとつだけを「アイデンティティ」と呼ぶ誤用、それで個々人まで決めつけようとする浅慮をやんわりと、だが手厳しく批判する。
「誕生以来のイスラムの歴史についての分厚い書物を十冊読んだところで、アルジェリアで起こっていることはまったく理解できないでしょう。しかし植民地主義と脱植民地主義に関して書かれた書物を三十頁はど読めば。よりよい理解が得られるでしょう」
「ヨーロッパを近代化したのはキリスト教だったでしょうか?
(中略)次のように言うのが妥当でしょう。宗教は近代化の「推進力」などではなく、むしろ近代化に対して、しばしば激越な抵抗を示してきました」
 僕が最初プルースト(失われた時を求めて)の言葉として知り、のちに(ギー・ドゥボールを通じて)14世紀アラブでも言われていたと知った箴言を、著者はレジスタンスとしてナチに銃殺されたフランスの歴史学者マルク・ブロック(1886〜1944)の言葉として引用する―どの民族か・どの宗教かで全てが決定できるわけではない、なぜなら「人間はもはや彼らの父親の息子というよりは彼らの時代の息子なのだ」と。

 ここまではよい。分かりやすい。なんなら此処で帰ってもらってもいい
 キャプション「なのにどうして話を難しくしたがるのか」(苦笑する羊帽の女の子「ひつじちゃん」のカットを添えて)
 5年前に本書を初読で「意外と手ごわい」と思った(あ、たかだか舞村(仮名)の感想ですので皆様は物怖じせず手にして軽はずみに読んじゃってください)のは、「叡知とは尾根を縫っていく道、ふたつの断崖のあいだ、ふたつの極端な考え方のあいだを走る狭い道なのです」という語り手の姿勢のせいでも、あったかも知れない。
 聖アウグスティヌスが時間について「誰もがそれ(時間)が何かを知っている。だが誰もそれ(時間とは何か)を人に説明できない」と書いたように、本書の訴えることは読んでるぶんには十全に理解できる。共感も、同意もできるだろう。
 けれど「普遍性と画一性は違う・普遍性は多様性と矛盾しない」「(複合的なアイデンティティの一部に過ぎない)民族や宗教で個々人を拘束してはいけないが、同時に(複合的なアイデンティティの構成要素としての)宗教や民族性・わけても言語を個々人から奪うことも許されない」といった思念・観念は、直観できるひとには「あ、うん、正しい」とすんなり直観できるだろうが、いざ自分が説明する側になると「なんで?」「そうは思わない」というひとを説得するのは意外に難しい。気がする。
 個別性と普遍性の両立というポジティブな提案を、どっちつかずの妥協や、双方をチクチク批判するだけのコウモリ、さらには「調和も中庸もありえない、狭いセクトにこもった狂信とファーストフードのような画一性・どちらに転げても地獄でしかない(そして必ずやどちらかに転げ落ちるしかない)両極端のジレンマがあるだけ」という悲観と峻別することは(とくに実践的には)そう簡単でなく思えるのだが如何か。
 文明を「衝突」以外の形で出会わせようと、移民という事態の当事者双方に著者は呼びかける。移民の側には「あなた方が受け入れ国の文化を受け入れれば受け入れるだけ、あなた方の文化はその国に受け入れられる」受け入れる側には「自分の文化が尊重されていると移民が感じれば感じるだけ、彼は受け入れ国の文化に開かれていくものです」と。だがそれは「そうに決まっている」「黙っていてもそうなる」自明の理ではなく「かくあれかし」「妨害がなければそうなるはずなのに」という願いであり、現実にはそうなりがたいという嘆き、ぜひとも現実に実装されるべきだが、著者自身が言うように「狭い道」険しい隘路ではないのか。
 キャプション「the narrowest path is always the holiest(最も狭き路こそ最も神聖なり)と古い唄は歌うのだけど、同時に「その路を裸足で歩み命を危険に晒せ」とも歌うのだな」園唄(JUDAS)を歌うマーティン・ゴア(Depeche Mode)のイラストを添えて。
 短いスパンで見ると今「多様性を保ったままの普遍」という理想は猛烈なバックラッシュを受けている。前世紀にチトーが独裁をもって統合した多民族国家ユーゴスラヴィアは無惨に崩壊し、なにより多様性のトップランナーだったアメリカ合衆国が(政治や経済の首領みずから手を下す)最悪の分断で試されている現状に、僕は少々、悲観的になりすぎているかも知れない。

 だが長いスパンで見れば―パリでもモスクワでも上海でもプラハでも「ファースト・フード」の看板が目に入ってくる一方で「世界中どこでも、昔から海外に広まっていたイタリア料理やフランス料理や中国料理やインド料理ばかりでなく、日本料理やインドネシア料理や韓国料理、メキシコ料理やモロッコ料理やレバノン料理など、この上もなく多様な料理に出会う機会が増えているのもまた事実なのです」と述べる著者は、ピエモンテ人が自分を「イタリア人」だと思った瞬間から(同じイタリアの)ナポリやヴェネツィアの歴史に無関心でいられない・さらに自分を「ヨーロッパ人」だと思えばリューベックやアムステルダムにだって無関心ではいられない、そのように(元の小さなピエモンテへの帰属意識という「アイデンティティ」は保ったまま)自らを「ヨーロッパ人」と思えるようになる日を希望として語る。
 書影(タイトル部分のアップ):『大衆の反逆』と『アイデンティティが人を殺す』
 それが『大衆の反逆』という誤解されがちな書名とは真逆に、民主主義と自由主義を最も寛大で、最も高貴なイノベーションだと称揚したオルテガ・イ・ガゼットの主張(アラゴン人からスペイン人へ・スペイン人からヨーロッパ人へ、さらに世界人へ―2016年11月の日記参照)と一致することに僕は打たれる。叡知の狭い尾根にそれぞれ真逆のルートから登攀を挑むように―オルテガが徹底してエリート・貴族の立場から語った理想を、アミン・マアルーフは世界のいたる街で韓国料理やレバノン料理に舌鼓を打つ凡庸な庶民・けれど取替えのきかない個々人の立場から説き起こそうとしていることにも、だ。
 ―今度こそ、これで十分でしょう。生国レバノンのクォーター制や、フランスのライシテ政策に対する彼の見解については「個々人」で読まれ、各自で判断を下してほしい。少なくとも「反戦・反差別のための読書会」で「あ、だったら」この本と思い当たる程度には、読む価値のある本だと思います。

      *     *     *
 僕自身こうして『アイデンティティが人を殺す』について(どうにか)語れるようになるまで、初読から5年を要してしまったわけだが「刊行後、大きな反響を呼んだ名エッセイ」と版元の筑摩書房が謳う本書じたい、邦訳の出版までに20年の時を隔てているのは不思議なことだ(ただし日本国内で特にクルド人など中東出身の人々への差別・迫害が顕在化したタイミングという意味では時宜にかなってはいる)。
 彼の名を世界的に高らしめた『アラブが見た十字軍』が原著1983年→邦訳86年、同じく高い評価を受けた(らしい)小説『サマルカンド年代記』が原著1988年→邦訳1990年と(リブロポートという版元の強力なプッシュもあってか)短いスパンで矢継ぎ早に邦訳にこぎつけた事を考えると、アミン・マアルーフ自身が日本では「忘れられた著者」だったのかも知れない。『アイデンティティが人を殺す』での再発見が、それを忘れられて「いた」に変えることを期待しつつ―
 読書会の後すぐ『サマルカンド年代記』も読んでみたわけです。『十字軍』と同じく牟田口義郎氏の訳。またか…と思われるでしょうが、これがまた滅法に面白かった(こんなんばっかりだな本サイト)。いや聞いてくれ
 『アイデンティティが人を殺す』『アラブを見た十字軍』と並べて『サマルカンド年代記』にハイライトした書影。「どやぁ…」とキャプションつき。
 「『ルバイヤート』秘本を求めて」と副題のついた本作。その名のとおりアラブ・イスラム文化を代表する詩篇『ルバイヤート』をめぐる物語で、まず前半では11世紀を舞台に『ルバイヤート』の著者であり当代きっての知識人として知られた(のちの非ユークリッド幾何学の先駆とされる研究まで手がけていたらしい)オマル・ハイヤームと権力の頂点にあった宰相ニザーム=ル=ムルク、そして「アサシン」の語源として知られる暗殺教団を結成することになるハサン・サッハーブ、三つ巴の交友と訣別が語られる。ちなみに「アサシン」の名は「ハシーシュ(大麻)」麻薬による洗脳で暗殺者を作り上げたことに由来するという俗説は斥けられ、創設者ハサン・サッハーブが弟子たちを「アサーシユーン(アサース=原理原則に忠実なる者)」と呼んだことに由来する…などなど、ちりばめられたディテール。そしてエキゾチックで先の読めない展開。未読者には興を削ぐかも知れないけれど、敢えて一例を挙げるなら宰相ニザームを暗殺せんとする陰謀の逸話はどうだろう。
 オマル・ハイヤームの紹介で若き秀才ハサン・サッハーブを宮廷に迎え入れた宰相は、やがて野心もあらわに牙を剥いた若者との謀略合戦に勝利し、その放逐に成功する。だが追放された野心家はニザームの主君であるスルタンに接近、両者は結託して老いた宰相の暗殺を画策する。暗殺者が待ち受ける砂漠に宰相を連れだしたスルタンは「父」とまで呼んでいた・今は疎ましくて仕方ない老人にそなたはまだどれほど生きると思っておるかの?と問いかける。旅路が彼の死を目した罠であることも、既に病で己の命が長くないことも承知の老宰相は「末長く」ぬけぬけと答える。「夢で預言者(ムハンマド)に〈生涯に積んだ善行ゆえに、余はそなたに死ぬ時を選ぶ特権を与えよう〉と言われたので〈私の望みは主たるスルタンより早く死ぬことだけです。主の死の床に立ち会う苦痛だけは御勘弁ください〉と答えたところ〈その願い、聞き届けたぞ〉と預言者は申され、こうつけ加えました。〈その方はスルタンより四十日前に死ぬであろう〉と」(強調は引用者)。どうするスルタン、「わしを殺せばお前の余命も四十日だぞ」という老獪な脅し、真に受けちゃう?
 …なんと全編この調子なのだ。面白くないわけがない。
 しかも驚くべきことに、この面白さは現代=20世紀初頭に舞台を移した後半でも持続する。
 生前ニザームにより「イスラームの教えに反するから秘匿せよ」と命じられ、オマル・ハイヤームの死後モンゴル軍の侵入により失なわれた『ルバイヤート』は19世紀末、西欧にその存在を知られ熱狂的なブームを巻き起こす。ともに詩の熱烈なファンだったことで結ばれた両親のもとに生まれ、ミドルネームに「オマル」とつけられた米国青年ベンジャミン・Oが後半の主人公だ。彼が数奇な運命の導きでヨーロッパに、さらには中東に渡ってオマル・ハイヤームが遺した『ルバイヤート』幻の原本に巡りあう聖杯探究譚に、現在(20世紀初頭)はイランと呼ばれるペルシアで再び起きる政変がダイナミックに絡みあう…
 
 西洋の近代的な小説と中東で育まれた芳醇な語りのハイブリッドという見立てを民族や宗教といった雑なくくりを批判する著者は良しとはしないかも知れない。が、まあ面白いこと。
 そして無益な類比かも知れないが、たとえば同じ時代の日本―たとえば藤原定家と後鳥羽上皇の和歌を通じた関係が承久の乱と絡んでスリリングに叙述され(テキトウです)さらに後半、時代が飛んで明治の日本で、たとえばフェノロサに随行して来日したお雇い外国人を語り手に(テキトウです)消息知れずだった定家撰『百人一首』の原本が発見されるも関東大震災で再び散逸してしまう(超テキトウです)なんて小説が、フランスなりアメリカなりに渡った日本人作家によって仏語なり英語なりで書かれて世界的な評判になる―そんな事って起こりうるかなと考えると、断絶だ衝突だと言われながらも西欧と中東の距離は(少なくとも日本と西欧・あるいは日本と中東よりずっと)近いのかも知れない、そんなことも考えました。

 『サマルカンド』に先立つ最初の小説『レオ・アフリカヌスの生涯』も原著と間を置かずリブロポートで邦訳されていたようで、これも近いうち読んでみようと思っています。

時限つき二件〜三渓園・瑞泉寺(26.06.07)

 しばらくは近場を旅しようということで、神奈川県内の日本庭園を二つほど訪なって来ました。
 三渓園は横浜市中区・地下鉄の敷設が頓挫した経緯から、時に「陸の孤島」などと呼ばれたりする本牧の、さらに奥の院みたいな印象の位置取り。現存の鉄道は最寄りの山手駅からでも2km以上の距離で、バスを使うのが現実的。現実的でない自分は歩いたのだけど(どこから?と問うてはいけない…)
 地図。横浜駅から中華街までの距離の、ちょうど倍くらい遠い三渓園。最寄りの山手駅からも離れている。横に添えたのは同日撮った中華街の写真で、どうやら少なくとも中華街からは歩いた模様。
 築いたのは実業家の原三渓(富太郎・1868〜1939)。岐阜出身で横浜の豪商に婿入りし、開国後の絹貿易で家業を発展させた由。そういえば神奈川県庁と中華街の間・パスポートセンターなどもある超一等地にはシルクセンター・シルク博物館(外部リンクが開きます)なんて施設もあり、西洋向けの絹が明治の殖産興業に果たした役割の大きさは富岡製糸工場(群馬)などにも伺えるけど、横浜の隆盛にも大きなウェイトを占めていたと改めて知るわけで…
 そうして積んだ富を投じたのが、あらためて横浜 三渓園(外部リンクが開きます)。少し端折り気味でも1時間は楽に散策できる広さに、池は造る橋は架ける、樹は植える、そして気に入った建造物を各地から持ってくる(お金持ちってすごいなあ)
 三渓園の随所に配された和建築を三点ほど。
 もっとフォトジェニックな池!橋!奥に三重の塔!みたいな眺めは入園して早々に拝めるのだけど、まだ自分のエンジンがかかってなくてスミマセン、上記の公式ホームページを御参照ください…春の花々と新緑ばかり撮りまくってしまった。
 上から蓮池の蓮・白いツツジの花・年季の入った樹皮。
 しかし実は面白いのが、本牧のさらに奥・現代から隔絶したかに見えるアナザー・グリーンワールドが、高台を登って三重塔の反対側・先々代の原善三郎が建てて(伊藤博文が命名したとか)三渓が増築しインドの詩人タゴールが長期滞在したという松風閣の跡地(関東大震災で倒壊)・現展望台から見はるかすと
 松風閣からの眺め(パノラマ写真)。
パノラマ写真へたっぴ選手権で歪んでいるのは御愛嬌として、戦後の横浜をまた隆盛たらしめた京浜工業地帯の石油(ですよな?)タンクと湾岸道路がガッツリ見渡せて、借景のスケールがデカい。
 左写真:湾岸道路側に出ると切り立った崖だったのが分かる。右写真:湾岸道路(高速)の下を歩きます。
なおコンビナート側の出口から出ると高台が切り立った崖になっていて、これもまた絶景のひとつ(?)。高架の湾岸道路の下を根岸方面に歩いて帰りました。
 自分も長年ヨコハマに暮らしながら三渓園は初めてだったし、遠くから来る人にはやっぱり奥地で思い切らなきゃ訪れる機会も中々ないと思うけど(ええんやでハマに来てくれるだけで…)金沢文庫などと並ぶ和のボーナスステージとして「いいところでした」と誘い水を撒いておく次第です。

 原三渓、庭園を築いたりタゴールを泊めたりしただけでなく、美術界のパトロンとしても多大な功績を残したらしく。
 いま横浜美術館で開かれている暢気に描け―没後110年・日本画の革命児 今村紫紅展(外部リンクが開きます)で大々的に回顧されている今村紫紅(1880〜1916)もまた、横浜で三渓の支援を受けた一人だったという。
 いや、三渓園も初めてなら、紫紅なる画家を知ったのも今回が初めてなのですが、やー良かった。琳派の流れを汲む日本画の俊英として明治の日本で頭角を現し、夭折した晩年にはアジアに現地取材してインドや東南アジアを題材とした大作で新境地を開いた。
 中国の故事に材をとった「虎渓三笑(←いかにも知ったげに書いてるけど当然これも今回初めて知った)」や、こちらは大メジャーな風神雷神などユーモラスにデフォルメされた絵にも、写実的な花鳥画にも魅入られる。周知のとおり最近ようやく植物(花や樹木)に関心が出てきた自分だけど、本展では鳥の絵(だいたいは掛け軸)が波長的にピンと来ました。とくに中国由来で日本画の題材として好まれてきた(←当然これも今回知った)「叭叭鳥」が何度も描かれてて、好きだったのかなあ。
 写真。紫紅展のカタログと、鳥の絵の絵はがき。
 残念ながら日本画も、観るだけですら元手がかかる(展覧会の入場料に、やっぱり買わずにおれないカタログ代…)という悲しい再認識もあったけど「さわり」だけでもと思ったときに最適の作家かも知れません。どこか別の街にも巡回したらいいのになあ。

      *     *     *
 鎌倉の瑞泉寺(外部リンクが開きます)は関東でも観られる夢窓国師(夢窓疎石)作の庭園ということで、これも別の日に(そりゃあ別の日だろう…)一念発起、出向いてきました。
 地図2点。左の地図1は路線図で、大船・北鎌倉・鎌倉の各駅がほぼ等距離にあると見てとれる。右の地図2は鎌倉駅周辺で、鎌倉駅を出て(激混み観光エリアを通ったりしながら)鶴岡八幡宮に至ったら、そこで東に折れ、鶴岡八幡を起点に荏柄天神までを倍した距離に瑞泉寺がある。荏柄天神で手を合わせる「アケルちゃん(ショートカットのボーイッシュな少女)」のカットを添える。
 私事なんだけど(この週記じたい私事以外の何物であるものか)鶴岡八幡宮〜瑞泉寺に向かう細道の途中にある荏柄天神社(外部リンクが開きます)は自作まんが『二人は恋人同士になれるかも知れない』で男装コスプレイヤーのアケルくんがコス仲間の姉さんたちに連れられて大学受験の合格祈願に来たところで―
※現在はBOOK★WALKERの電子書籍として販売中ですが「読んで気に入ったら有料のボーナストラック(後日譚)をどうぞ」な体で当該お参り部分を含めた正篇ぜんぶ(全体の65%まで)無料で読めるので、下の画像か、こちらからどうぞ(外部リンクが開きます)。
 
―自分が鎌倉再訪した日も荏柄天神には修学旅行の班行動らしき中学生(?)の姿が散見されましたが、さらに瑞泉寺は鶴岡八幡宮からでも歩いて30分くらい要する・そしてバスなどもない奥地なので参拝客は少なめ。凝った庭園をマイペースで観賞できるはずです。
 そしてスマンこっちも植生が見事だ。
 写真三点。左から青々と曲がりくねった古木・ツツジの咲き乱れる細い通廊・星形の大きな白い花をつけるアジサイ。
 自分は美術館でも庭園でも(先述の三渓園などでも)ついついイヤフォンでアンビエント・テクノなどを聴きながら観賞してしまうのだけど、この瑞泉寺にかぎってはイヤフォンを外して周囲の葉ずれとウグイスの声に聴き入ってしまった。いちおう動画(10秒)を貼っておきます。音が出ます注意
 
 (動画を再生できないときは右クリックで「コントロールを表示」を選んでください)
 (スマートフォン等で画面に動画じたい表示されない場合を想定し、またInstagramにも動画を上げておきました。外部リンクが開きます)
 写真4点。左から地蔵堂・錦塀晩鐘(鐘つき堂)・晩鐘のそばの白象の置き物・本堂。
 しかし夢窓国師の作庭として国の名勝にも指定されているのは花樹にあふれた境内ではなく、(こちらも)その奥で意外なランドスケープを見せる庭園。
 写真。緑一面だった景色が一変、剥き出しの岩肌には洞穴がうがたれ、手前の池には小さな木の橋がかかっている。右に小さく本堂。
今回は二回目なのでパノラマ写真も慣れてきた(?)。天然ではなく人為的にうがたれた洞穴(昭和45年に再現)は、掘られた当時は座禅などにでも使われたのか、そういう見立てで観賞・観想するものだったのか。洞穴に至る小さな木橋も、池も含めて立ち入りはできない(それはそうでしょう…)
 写真2点。左:山崎方代の歌碑。右:大宅壮一の碑。
境内には下田から密航を試みる(失敗)前に吉田松陰がこの寺に挨拶に来たことを示す碑(徳富蘇峰の筆による)や久保田万太郎・吉野秀雄・山崎方代の句碑・歌碑、それに大宅壮一の碑なども林立。
 余談ながら山崎方代の碑に彫られた歌は「手の平に豆腐をのせていそいそといつもの角を曲がりて帰る」。久保田万太郎の碑は「いつぬれし松の根方ぞ春しぐれ」という句だが、万太郎といえば「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」なので鎌倉でお豆腐が買えたらよかったかも知れないが果たせず。そして豆腐にかぎらず万葉集の「石麻呂にわれ物申す夏痩せの良しといふ物そ鰻(むなぎ)取り食(め)せ」(大伴家持)から現代まで、食べ物の句や歌ばかりを集めた詞華集、探せばありそうだけどどうなんだろう。歳時記よりもずっと食い意地に特化したもの。怒られるか。
 さらに余談を重ねれば『恋人同士』の口さがない姉さんたちなら大宅壮一の碑文「男の顔は履歴書である」「くっだらねぇなぁ」「男尊女卑」「いや英語で人間全体をman(男)と呼ぶみたいに、これも人間全般くらいのつもりで男と言ってるのかも知れんぞ」「それだって男尊女卑じゃん」くらいは言ってそうな気がしたけれど(手厳しいから瑞泉寺の作庭も「緑の庭から無常観あふれるランドスケープ出現でビビらせてやろうって狙ってる感がちょっと小賢しい」とか言うかも)
 そんな姉さんたちが荏柄天神の帰りにアケルくんを連れてった(であろう)「キャラウェイ」のカレーを食べに激混みの鎌倉駅前・小町通りに戻る。40分待ちくらいの行列で南無ほかほかのチーズカレー。しかし悲しいけれど普通盛り(ごはん550g)は持て余す齢になってしまった…次回があれば小盛りかも。
 写真2点。左:キャラウェイのチーズカレー。山盛り白ごはんの天辺にトッピングされた黒い干しぶどう・添えた薬味(黒いチャツネ・緑の刻み菜・赤い福神漬・黄色い刻みたくあん)にミニサラダの取り合わせ。右:ホイップクリームをトッピングしたグレナデンのゼリー。
 食後はコーヒーでも良かったけれど「グレナデンのゼリー」なるものが気にかかる。店員さんに訊いても赤いゼリーですよ程度の情報しかなく、食べてみるとザクロっぽい、ザクロかなと検索で確認したら「グレナデン」やっぱりザクロでした。うまし。

 帰路は北鎌倉を経由して大船まで一時間ほど歩く。メインの通りは北鎌倉駅あたりまで線路の西側なのだけど、駅の東側・切り立った高台がちの小道には、その高台を通す名物トンネル(洞門)がある。
 緑の洞門こと北鎌倉隧道(ずいどう)は剥落のため立ち入れなかったけど
 写真3点。左:赤い門が据えつけられた「赤の洞門」。中:赤門の額「御会席・成吉思汗料理」。右:緑おいしげる中に掘られた青の洞門。
赤の洞門は健在。「御会席・成吉思汗料理」の額のとおり、かつて高台の向こうにあった料亭のために通された隧道で、かなりのレア物件だと思うのだが通退学の高校生は「もう見慣れて珍しくもない」とばかりに通り過ぎていくのも趣ぶかかった。大船行きのメインロードに合流するあたりで、もうひとつ青の洞門にも遭遇・通過。
 大船まで歩いたのは―や、電車を使わず「歩いた」のは単にケチだけど―閉店(店主引退)が告知されているポルベニールブックストア(外部リンクが開きます)に立ち寄るため。
 店主さんのSNS(Bluesky)で紹介され気になっていた朱喜哲バラバラな世界で共に生きる リチャード・ローティの哲学』(NHK出版新書2026年/外部リンクが開きます)と、「I STAND with PALESTINE」の缶バッヂを購入しました。
 写真。『バラバラな世界で共に生きる』と缶バッヂ。背景に今村紫紅のウグイスを描いた絵はがき。
三渓園や瑞泉寺は今さら逃げやしないけど、ポルベニールブックストアの営業は夏くらいまで(詳細未定)・横浜美術館の今村紫紅展は6/28までということで、気になったらお早めに。

    ***   ***   ***
(26.06.20追記)ポルベニールブックストア正式な営業終了が8月末に決まったそうです。
当店の後継の方の決定、および営業終了日決定のお知らせ(公式/26.06.18/外部リンクが開きます)

前の記事へ 記事一覧 ページトップへ