まんがなど
(21.04.25更新)
虹ヶ咲の二次創作を追加。



発行物ご案内
(19.12.01更新)
今年の新刊まで追加・整頓しました。
電書化、始めました。
電書へのリンク
こちらから
、著者ページが開きます。

過去日記一覧(随時リカバリ中)

過去日記キーワード検索
終了しました(22.11.19)
Author:舞村そうじ/RIMLAND
 創作同人サークル「RIMLAND」の
 活動報告を兼ねつつ、物語とは何か・
 どんなメカニズムが物語を駆動し心を
 うごかすのか、日々考察する予定。

【最近の動向】
当面は新刊がない予定です。

WebまんがSide-B遅々として更新中。

小ネタですが本篇更新。三年ぶり。(23.12.24)

旧サイトは2014年8月で終了しました(お運びいただき感謝)。再編集して、こちらの新サイトに少しずつ繰り入れますが、正直、時間はかかると思います。

[外部リンク]
comitia
(東京名古屋新潟関西みちのく)
あかつき印刷
POPLS

日本赤十字社

愛と劣情の馬たち(Instagram)

if you have a vote, use it.(save kids)

(24.04.14)メイン日記(週記)更新。吾々=オタクは事実上、世界を制した。けれどそれは本当の勝利だったのだろうか。韓国の評論『魔法少女はなぜ世界を救えなかったのか?』を手がかりに色々と。画面を下にスクロールするか、直下の画像をクリックorタップ、またはこちらから。



(24.4.15/すぐには消さないかも知れない)誰も騒いでないのは誰も気にしてないからかも知れませんが、もう新型コロナのPCR検査は(発熱後などで保険が適用される場合を除き)全額自己負担で20,000円〜みたいな処しかないって知ってました?それで皆さん大丈夫なの?だいじょばないの自分だけ?あと私事だけど、余裕が出来たら本描きしようと思ってたネーム、注釈つけないとダメ?
 「今PCR検査ふたりぶん予約したから金曜の退勤後に受け手ね(はぁと)という台詞にキャプション「この作品はフィクションであり実在の人物・事件とは関係なく、またPCR検査が5000円くらいで済んだ頃を想定した話です
【セールのお知らせ】BOOK☆WALKERで同人誌・個人出版の電子書籍コイン30%増量キャンペーン・4/12(金)〜18(木)まで一週間。ふだんサイトで言ってることよりは分かりやすい(?)舞村さんのまんがも対象です。いつものことですが、まずは無料の冊子・試し読みからどうぞ。下の画像か、こちらから。
電書へのリンク

(外部リンクが開きます)
扉絵だけじゃないです。side-B・本篇7.1話、6頁の小ネタだけど更新しました。

(外部リンクが開きます)
今回ひさしぶりにシズモモの過去エピソードを見直し「やっぱり好きだな、この話とキャラたち」と再認できたのは幸せなことでした。そして色々あったり無かったりしても、ペンを持って物語を紡いでいる時が、自分は一番幸福らしいとも。次に手をつける原稿は(また)シズモモではないのですが、何しろ描くことは沢山あるのです。
ちなみに今話タイトルの元ネタは井上陽水の「愛されてばかりいると(星になるよ)」。同曲が収録されたアルバム『ライオンとペリカン』のB面(side-B)に入ってる「お願いはひとつ」は個人的に一番好きなクリスマスソングの最有力候補です。レノンと争う。
【電書新刊(無料)】3/21の創作同人電子書籍・新作いっせい配信(外部リンク)に合わせて、2016・18・19年のペーパーまんがを一冊にまとめました。Web上では公開済の小ネタ集ですが、再編集で読みやすくなってます。『RIMpack 2016・2018・2019±』(BOOK☆WALKER)無料なのでガッついて宣伝でもないし、気が向いた時にどうぞ。下の画像か、こちらから

RIMLAND、電子書籍オンリーですが20ヶ月ぶりの新刊『読書子に寄す pt.1』リリースしました。
タイトルどおり読書をテーマにした連作に、フルカラー社畜メガネ召喚百合SF「有楽町で逢いましょう」24ページを併催・大量リライト+未発表原稿30ページ以上を含む全79ページ。頒布価格250円(+税)で、一冊の売り上げごとに作者がコーヒーを一杯飲める感じです。下のリンクか、こちらから。『読書子に寄す pt.1』電書販売ページへのリンク画像
書誌情報(発行物ご案内)はおいおい更新していきます。(22.11.03)
【生存報告】少しずつ創作活動を再開しています。2022年に入ってから毎週4ページずつ更新していたネーム実況プロジェクト、7/29をもって終了(完走)しました。
GF×異星人(girlfriends vs aliens)

これまでの下描きは消去。2023年リリース予定の正式版をお楽しみに。(2022.08.08)

僕らの時代・あるいはスーパー剣をやめる〜ペク・ソルフィ+ホン・スミン『魔法少女はなぜ世界を救えなかったのか?』(24.4.14)

 【長めのマクラ】
 あっ「harmoe」と思った。電車の中。大学生か、20代でオフィスカジュアルか、兎に角それくらいの男性。白いパーカの胸にワンポイント、なんとかコシノ・なんとかロンドンとかみたいに淡いブルーで入ったロゴは、女性アニメ声優ふたり組の音楽ユニット名なのだった:
ファンクラブグッズ≪はるもえroomパーカー≫受注販売決定!(harmoe official fan club/外部リンクが開きます)
←今は何でも検索・特定できる時代。たぶんコレだと思う(すでに販売は終了の模様)。たまさか自分はそっち方面にやたら記憶力がいいので名前を憶えていただけで、その活動もメンバーのプロフィールすら詳らかには知らなかったのだけど、それはまあ今回の主題ではないです。
 三ヶ月前に理髪店(美容室ではない)でしてもらったスポーツ刈りをそのまま伸ばしっぱ・ショボくれた中高年男性の自分より、ずっとシュッとしてオシャレで身だしなみにも気を使ってる若者の上衣が、言われないと分からないけどオタクのグッズ。私オタクです!二次元キャラ大好き!ばーん!みたいに派手派手しくはない・街なかに融けこんで何の違和感もないステルスな、けれどディープなオタクグッズに(すごい時代が来たのかもなあ)と感銘を受けたのも、実は初めてではない。
 いや、そもそも「私オタクです!」という自覚があるのかは兎も角(長めの余談参照)今はむしろ逆に(ステルスどころか)ばーんと派手派手しく推しキャラの缶バッヂやグッズ・小さなぬいぐるみなどを―まるで防御力の上がる護符みたいにびっしり装備した、あるいはワンポイントツーポイントであしらったカバンやトートバッグは外出して見かけないほうが珍しい。※横浜在住で東京に出入りしてる場合の話です。
 街頭にはアニメやゲームの広告があふれ、そうでない商品もアニメっぽいキャラクターのイラストで飾られる。実写映画の俳優がアニメ映画に声優として起用され、当代の人気ロックバンドが主題歌を担当する。あるいは逆に、アニメ畑(?)から出たアニソンが世界まで席捲し、ミュージシャンがホワイトハウスの晩餐会に呼ばれる。
 昔は(デヴィッド・ボウイやピンクフロイドを聴いてた←それはそれでレトロ趣味だったんだけど)自分も長じて中年老年になったら年相応にブルースやクラシック・演歌など聴くようになるのだろうか、などと思ったものだ。だが現実には今だにデヴィッド・ボウイやピンクフロイドを聴いてて―逆にエイフェックス・ツインやデフトーンズが加わったりして―最近は宇宙ネコ子をよく聴いてます―単にロックが中高年の趣味にスライドしただけだった。いや、それはちょっと別の話。今時のコンテンツについていけずに・あるいは昔話のほうが楽しくて『スチュワーデス物語』とか大昔のテレビドラマの思い出に興じてる人たちもいる。
 でも、んー、別の話でもないか。昔だったら時代小説を読んでたような年齢層で(時代小説も変わらず人気のようだけど)代わりに「ファンタジック」と間違った和製英語で敢えて呼びたくなるような異世界を舞台にした小説に向かう読者も少なくないらしい。成人の子どもがいてもおかしくない年齢層の社会人がスマートフォンでのぞきこむ画面ではアニメ絵柄の美少女や美青年がゲームをナビゲートしている。そもそも「大のオトナが携帯ゲームに夢中になっている」。単に吾々は「それ」がなかった頃は麻雀やトランプに興じて、詰め将棋や詰め碁の小さな本を電車なんかにも持ち込んだりしてたんだよ、というだけの話かも知れないが。そして自分はそれらを批判したり否定したりできる立場ではないし、逆に素晴らしい時代になったと思うこともあるのだが。

 要するに、よしあしの問題は一度措くとして、オタク趣味は事実上かなりの勝利を納めたのだ。それが吾々の趣味であるとしたら、吾々は勝ったのだ。当事者によるオタク考察の古典であろう中島梓コミュニケーション不全症候群(1991年→1995年ちくま文庫/外部リンク)が「社会の成員すべてが大人になることをやめてしまったら社会はどうなるのか」と慄きをもって問うたように。いみじくも先週の日記で取り上げたスマッシング・パンプキンズの歌のように吾々がみんな「永遠に若く美しく凍りつく夜」を選んだらどうなるのか、街じゅうがアニメ絵のコンテンツにあふれた現在、吾々はその答え合わせをしているも同然だ。それは認めなければいけない。
 「吾々は虐げられてきた」そういう側面もあるのかも知れないが「とはいえ今の吾々は勝ったも同然だ」という事実を否認するわけにもいかない。何しろ国政選挙ですらオタク趣味やオタク活動の擁護を全面に出した候補者が漫画家や漫画ファンの圧倒的な支援を受けトップ当選する時代だ。中島梓の別名義である栗本薫のデビュー小説の名を借りて言えば、今は「僕らの時代」なのだ。
 何度も何度も言うけれど、本当に良い時代になった。たぶん吾々は老いても死ぬまで次々供給される萌えコンテンツに事欠かないし、とくに若い人たちはその趣味を隠す必要もなく、かつ「隠さないでいい」年齢層は順次ひろがっていくだろう。ついでに言えばネットワークの普及で、たぶん相当にニッチな趣味でも同好の士は見つかるようになった。少なくとも孤独でないということが、どれだけ貴重か(これほどワガママに孤立を満喫してる僕が言うくらいだ)。オタク的なものに救われたことのある人間なら、今がどれだけ恵まれた時代か分かるはずだ。
 そのうえで「僕ら」は「本当に勝った」のか・吾々が望んでいたのは本当にこういうことだったのかと問う必要がある。ない人にはないのかも知れないが。

      *     *     *
 というわけで【ようやく本題に入る】
 ペク・ソルフィ+ホン・スミン魔法少女はなぜ世界を救えなかったのか?(渡辺麻土香訳/晶文社2023年/外部リンクが開きます)の書影を見たときは驚いた。数年前に台湾で表紙買いした繁体字の青春小説『玻璃弾珠都是猫的眼晴。』(張嘉真/三采文化2019年)が読みそびれているうちに邦訳が出たかと一瞬だけ思ったのだ。…単に同じイラストレーターの作品を装画に使ってると気づくのに時間はかからなかった。
 薄幸そうな少女が涙を流す『玻璃弾珠…』と、涙を流す少女に天使の翼と悪魔のツノが加わった『魔法少女は…』書影。
低級失誤 Saitemissという台湾のアーティスト、画集が一時期日本でも手に入ったけどギリ品切れで逃がしたのが今でも口惜しい…『夢の中でなら君にキスできる』(タコシェ/外部リンクが開きます)
 アニメ・ゲーム・文学に児童文学・そしてアイドル…商業主義がコンテンツ化した「少女」が、消費者である現実の少女たちに与えた影響を考察する、韓国の元・少女(つまり当事者)二人による評論。
 中身を読んで、また驚かされたのは題材となるコンテンツの多く(タイトルにあがった魔法少女アニメでいえば『魔法使いサリー』から『アッコちゃん』『メグ』『クリーミィマミ』『セーラームーン』『どれみ』『プリキュア』と、ことごとく)が日本製であったこと。他に取り上げられたディズニーアニメやK-POPは逆に日本の若年層も海外コンテンツとして受け容れているもので、韓国の本と日本の訳書の橋渡しになってる装画の台湾も含め(Saitemissが「最低ミス」という日本語であることも認識しておきたい)、少なくともアジアの「吾々」は大体おなじようなコンテンツの波に浸ってることが分かる。オタク趣味による均質化。良く言えばグローバル。
 悪く言えば…大きな市場として「発見」された少女たちに向け制作された大量のコンテンツが、一方ではたしかに少女たちをエンパワメントしながら、そのエンパワメントには限界があり抑圧や搾取も隠されていた。少女コンテンツの光と影、といった処だろうか。

 多岐にわたる本書の内容すべてを網羅はできない。書名のもとになっている魔法少女の章を見てみよう。先に挙げた魔法使いサリーから「女の子だって暴れたい」をキャッチフレーズにしたプリキュアまで、日本のアニメが生んだ魔法少女たちは国境を越えて観客層の少女たちに夢を与えてきた。だが著者たちは、それが同時に搾取や抑圧の周到な道具だったことも見逃さない。
 「少女」でなくなったら魔法少女を「卒業」させられる主人公たちの力は、たとえば『サリー』のようにご町内の小さなトラブルの解決にしか行使できず、慎ましくあることを強要されてきた。(※本書から少し離れて注釈すると小さな望みが自動的に批判に値するわけではない・たとえば『おジャ魔女どれみ』の主人公の一人が魔法使いになって叶えたい願いが「離婚した両親を復縁させたい」だったように、ローカルな願いが当事者にとっては世界の覇権より切実なこともあるとしてもだ)
 後々は良妻賢母が期待されるような古めかしい魔法少女像が人気を失ない低迷する中、ファッションや遊びをエンジョイする少女たちがミニスカートのセーラー服に変身して、世界征服を企む敵と対決する『美少女戦士セーラームーン』に現実の少女たちは喝采する。だがそれは少女たちをエンパワメントすると同時に「ミニスカートにハイヒール姿の性役割を植えつける」ものでもあった。「女の子は何にだってなれる―ただし若くて美しい"少女"でいる間は」という呪いは過酷なダイエットを強いられるアイドルにも課せられているが、その考察は本書に譲る。
 問題は「あなたたちは自由だ」「思い通りの自分になれる」というポジティブな励ましが「そのためには、もっと商品を買いなさい」「よき消費者でありなさい」という強迫と表裏一体なことだ。感動的なストーリーで催涙弾と呼ばれるくらい視聴者の涙を絞ってきた『どれみ』シリーズの制作陣が「作品を作っている間はタイアップ玩具の売り上げが最優先で、物語がどう受け止められているかなど考える余裕もなかった」と回想しているのはソコソコ衝撃的だ。「『東映の魔法少女シリーズは、2020年(中略)に至るまで(つまり『魔法使いサリー』から50年間)テレビシリーズのディレクターに女性を起用していませんでした」という指摘もまた。
 今の世の中、ディズニープリンセスやジブリアニメの「ヒロイン」たちが現実の女性をいかにエンパワメントしているかと説く言説には事欠かないだろう。「ワンピースに学ぶリーダーシップ」「鬼滅の刃の組織論」みたいなビジネスおためごかし(語弊)なら尚更ありそうだ。かく言う自分も『魔女の宅急便』は地方から東京に出てきて働く若い女性アニメーターの物語だと宮崎駿監督じしんが述べていたのを敷衍して、『もののけ姫』が劇場公開された頃、エボシ御前は「ここをいいアニメスタジオにしよう」と言ってるのだなと考察したことがある。だが現実はどうだったか。
 「『セーラームーン』の成功に寄与した女性アニメーターたちは皆、どこに消えてしまったのでしょうか?」と韓国の二人の著者は問いかける。「その当時、少女たちが憧れた「働いて消費するキャリアウーマン」たちは、もしかすると世界最大の男女賃金格差の溝に落ちてしまったのかもしれません」
 エボシ御前が夢みた「いい村」に最も近かったと思われるスタジオのひとつ・京都アニメーションはガソリンによる放火で多数の命が奪われる大惨事に見舞われた。アニメファンは男性たちも「俺たちの京アニが」と憤ってみせたが、事件前のネットには雇用条件や福利が平等で女性スタッフが多く活躍する同所を「逆に男性差別」と揶揄する声もあったはずだ。あれが事実上のフェミサイドであったことは微妙に言及が避けられているのではないか。

      *     *     *
 勇気や励ましと表裏一体で少女たちに届けられる「よりよい消費者であれ」というメッセージには、そして「よりよい消費対象であれ」というメッセージも否応なく含まれている(と、考えざるを得ない)。
 性的であることは一辺倒に非難されるべきことではない。思春期の人間が性にめざめ、自分の中にある性を力能(パワー)として実感するとき、それが性的な装いや振る舞いに現れるのは可憐なことであり、それを望む誰にでも認められるべき幸福でもある。だがそこに搾取や力関係が絡むのは別問題だ
 アニメの魔法少女やステージのアイドルは、魅力という力能を発揮して少女たちを勇気づけると同時に、性的なコンテンツとして消費されもする。魔法少女にしてもアイドルにしても「成年男性」「おじさん」といった本来なら場違いだったはずの消費者層を新たに「発見」してしまったことは大きな弊害を生んだ可能性が高いと(他ならぬ「おじさん」の一員である自分も)(だからこそ)認めざるを得ない。
 本書ではさすがにそこまで言及されてはいないが、魔法少女が世界を救うという名目で実は搾取される存在だという現実を容赦なく暴いた作品に(東映の王道魔法少女とは別系統にあたる)アニメ『魔法少女まどか☆マギカ』があった。だが欺瞞を暴き、魔法少女すべての救済を願った『まどか』の批評性は、登場する(年齢的には中学生にあたる)少女たちの性的消費物としてのコンテンツ化を排除するものでは全くなかった。励ましと搾取が同居しうるように、鋭い批判と「そんなものさ、だから勝つ側になって興じろ」というニヒリズムも両立しうる。
 『セーラームーン』にしたって、コミックマーケットなどで販売される二次創作物でどれほど性的コンテンツ化されたか分かったものではない。そのサイクルの中には販売者・消費者として女性のファンも少なからず含まれるはずだが、それがどこまで「性の解放・自由な性の謳歌」であり、どこから「非対称な性の搾取や・搾取構造の再生産」か判別するのは難しい←不可能だと構造の温存を擁護しているのはではなく「難しい」という話。
 それを解きほぐすのは非オタクの全面的な否定や見下しでも、反発するオタクの全肯定・アンチ否定でもなく、どちらかというとオタク的気質もコンテンツに対する愛情や敬意もある・けれど問題意識もある当事者の、多方面から何度もアプローチする根気ある考察になるだろう。本書はその果敢な一歩と言えるはずだ。(この項いったん終わり)

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 【長めの余談】
 一度ハッキリ断言しといたほうが良いと思うので断言するけど(ということは前に何度も言ってる可能性が高いけど←こういう方面の記憶力は全く乏しい)作り手でも受け手でも表現・創作界隈は何しろ評価や売上=結果が全てかつ結果は自分の実力・実力は自分の努力の成果となりがちなので、基本的に避けがたく資本主義や新自由主義・差別や弱者蔑視と親和性が高い。社会悪にきちんと向き合う作家は、知らない子どもが溺れてるのを助けようとして自らも落命してしまう聖人くらい稀でイレギュラーな存在だと知っておいたほうがいい。
 『魔法少女はなぜ世界を救えなかったのか?』の著者たちは、ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』を引用し「グーチョキパーは互いに限界を定める(という"約束を守る")から遊びとして成立する、どの手にも勝てる"剣"や"ライター"を持ち込んだら遊び自体こわれてしまうと子どもでも理解する」と指摘している。
 だから子どもたちには遊びの自由が必要なのだという著者たちの意図とは少し逸れるが、子どもでも理解している遊びのルールが分からず「こっちはスーパー剣だ」「だったらこっちはスーパーウルトラ何とか剣だ」と自分が勝つまでチップを釣り上げていくのが資本主義というゲームであり、さらに大人の中でも最も高い地位にある連中が「お前の国の国民を一日に千人殺してやる」「だったらそっちの国民を一日に千五百人殺してやる」と自分のものでもない人命を賭けるのが近代戦争という愚行だ。報復合戦をやめろ、少しも面白くない。
 バイデンやネタニエフは自分ひとりでリングにでも立ってデスマッチで決着つければいい気もするが、そうするとプーチンがすこぶる有利になってしまい不本意なので話をオタクに戻すと、そうしたゴリ押し頼みで自分の支出や思い入れをエスカレートさせていくのはオタクというより「資本主義・商業主義化したオタク」の不幸で、「私はチョキだからグーには負けるなあ」あるいは「ここにラクダには勝てるがヒトデには負けるモモンガや、パーと組み合わせるとチョキと組んだ戦車に勝てるコインランドリーを加えましょう」と勝ちでも負けでもない「あいこ」の手を増やしていく「手」もあるのになと思ったりする。

 スーパーウルトラ何とか剣で一人勝ちしたいという(子どもでも無理だと分かる)欲を捨てようとしない人は、オタク的なものから得られる精神的・現実的な利得は独占して勝ち誇りたいが「大いなる力には大いなる責任が伴う」と言われると急に「オタクは無力で差別されるマイノリティなんだ」と言い出し、なんなら「弱者のオレに償え」と要求するムーブすらかましかねない。
 あるいはオタク的な楽しみを心ゆくまで享受しながら「やっぱりオタクってキモいよね」という蔑視も内面化しているのかも知れない。ふたつ前の職場で出会った男性はスーツにネクタイだがアニメ絵のゲームキャラの缶バッヂやクリアファイルをデスクに飾り立て、この主題歌はすごいよ年末の紅白まちがいないと吹聴し(実現はしなかった気がしますが)つまりオタク趣味が社会的にも認められ栄誉を得ることを良しとし、ゴジラやエヴァンゲリオンの新作映画は公開初日に劇場に行く猛者だったが(念のために言うと仕事はきちんとされるし悪い人ではなかった。コロナ禍に飛んだブルーインパルスには大喜びしてたけど)オレはオタクじゃないよとも言い放ち、エヴァにも○まぴょい伝説にも関心のない僕をあぜんとさせたものだった。だってオレはコミケとやらには行ったことないもん
 スマホを操る指の爪までオタク趣味に浸っていながら、こんなふうに自己定義してる人も、また少なくないのかも知れない。「私たち皆が大人になることを拒んだらどうなるのか」という中島梓の問いを(長い文章だったので)もういちど蒸し返しておいてもいいだろう。
 

(同日追記1)今回は(も)余裕がなくて文章だけで申し訳ないけど出来れば挿し絵にしたかった件として『パラサイト』のポン・ジュノ監督(韓)のデビュー作『吠える犬は噛まない』は中年男性の主人公がカラオケで唄うのが『フランダースの犬』主題歌の韓国語版でびっくりして確認したら映画の原題じたい『フランダースの犬』で二度びっくりということがあった。コンテンツは軽々と国境を越える。
(2)本書が考察の対象としているのは児童も含んだ少女全般だけど、60年代フランスで社会学者たちが(ティーンエイジャーの)少女という概念を発見して興奮を隠しきれない様子を克明に記した『オルレアンのうわさ』については20年3月の日記参照。
(3)カバンに推しキャラの缶バッヂやぬいぐるみを装備している少女たちの、どこからがオタクかという問題もある。ディズニーやサンリオ・ジブリのグッズを装備しているのはオタクの証明にはなるまい。『ちいかわ』もそうだろう。『呪術廻戦』ならどうか。『free!』はどうか。「コンテンツ資本主義」とか、もっと大柄な尺度が必要なのかも知れない。ハチワレ(ちいかわ)のぬいぐるみは僕もちょっとほしい。

アメリカの夢の機械〜ジョナサン・デミ監督『ストップ・メイキング・センス』(24.4.7)

 まだ設営のスタッフが行き交う、何もない舞台の上で男が一人、持ってきたラジカセでリズムを流しギターを弾いて歌い出す。
 二曲目でベースが加わり、演奏の間に背後でドラムセットが組み立てられる。三曲目はドラマーを加えた三人で、そしてコーラス隊が、二人目・三人目のギタリストが、パーカッションが、なんか不思議な機材から不思議な音をモニョニョ〜ンと出すバーニー・ウォレルが加わり、おじいちゃんでも孫の園児でも「なるほど、それぞれこんな音を出してるのか」と分かるロックの教科書。いや、ロックの先にある何か。
 後に『羊たちの沈黙』を撮ることになるジョナサン・デミ監督の、もうひとつの傑作。トーキング・ヘッズの絶頂期をとらえた(というか、この映画でグループに絶頂期をもたらした)『ストップ・メイキング・センス』画像リストア・音響リマスター版での再上映。実はDVDを持ってて少なくとも2ケタ回は観てるけど、映画館の大きなスクリーンで観られて好かった。
 
配給のA24がつくった予告篇を飾る「the greatest concert film of all time」(コンサート映画の史上最高作)、ピーター・バラカンさんも同じお墨付きをDVD版に寄せていた。まあ宣伝文句ではある
 正直、好きなミュージシャンのライブ映像がファンにとっては至高だろう。そこまでファンではなかったのがライブ映像を通しで観て熱烈にハマってしまうケースも少なくない。
 それでもなお『ストップ・メイキング・センス』を突出して稀有な「映画」にしている理由は、単に「すぐれた音楽映画」という枠を越えたところにあった。

      *     *     *
予備知識になる話と余談をたたみました。(クリックで開閉します)。
 十分すぎる根回しをした(たたんだけど)うえで、結論を急ごう。
 うんざりするほどの物質文明・消費社会・経済至上主義、神なき近代合理主義のうえに築かれた物量のアメリカ・50個の星が国旗にかがやく豊かで貧しいアメリカは、同時に(たぶん物欲と同じくらい強烈に)物質では満たせない魂の救いを求めている。
 『IT』に代表されるスティーヴン・キングのモダンホラー小説が。
 そのエッセンスを「俺たちは永遠に凍る 永遠に美しく 永遠に自分たちの内にこもったまま―俺たちを若いまま保ってくれる夜が来た」と一曲に凝縮したスマッシング・パンプキンズのゴス・ロックが。
The Smashing Pumpkins - Thru The Eyes Of Ruby(外部)
あるいはドナルド・トランプを救世主としてあがめる陰謀論者たちが、ホラーとしてしか体現できなかった「ひたすら物質に夢と救いを求めるアメリカの、もうひとつの(精神的な救いという)夢」を『ストップ・メイキング・センス』はポジティブに描きえた、稀有な成功例なのだ。

 ★(余談3/たたみました)。(クリックで開閉します)。
 たぶんそれは同作がステージで現出させた夢、アメリカが圧倒的な物欲と表裏一体で隠し持っていたスピリチュアルな夢が、カルトやオカルトの方向に向かわず、ステージ上での(肉体をもった)演者たちの「人種を超えた融合」という現世での社会的な夢に結実したためでもあるだろう。ステージの下でも、観客席で黒人も白人も入り交じって踊り、歓声をあげる姿が映し出される。
 30年後、ソロになった白人デヴィッド・バーンが今度は黒人のスパイク・リー監督を迎えて制作した新たなステージ映画『アメリカン・ユートピア』が、最後の最後に言葉でのメッセージとして表明した社会への夢(ネタバレなので伏せます)を
David Byrne's American Utopia | clip -Burning Down The House(外部)
『ストップ・メイキング・センス』は音と映像でおのずから示していた。トーキング・ヘッズ自身も以後の活動で、この奇蹟的な高揚感をマークすることは、ついになかった(気がする)。本作が「最高のコンサート映画」な所以である。

      *     *     *
 (余談4)
 ジョナサン・デミ監督の遺作となった『幸せをつかむ歌』には、やはり時をおかず亡くなったバーニー・ウォーレルがミュージシャン役として出演・旧交を暖めている由。未見なのでコレは宿題。
幸せをつかむ歌』予告(外部)
 『羊たちの沈黙』で(誘拐した女性を地下の穴に閉じこめたまま)バッファロー・ビルが化粧して踊るシーンで流れるニューウェイブ風の曲、流し聴きで「I'm crying, crying…」と聞き違え、なにか適当なラブソングのたぐいかなと思っていた楽曲。実はcryじゃなくてfly、「I'm flying flying flying over you」私は(私の可能性を否定する)あなたを越えて飛んでいくよ…という内容だった。デミ監督の音楽への造詣の深さを再確認できるエピソードも含め、以下のブログを参照:
GOODBYE HORSES - Q LAZZARUS/Q・ラザルス 和訳(radictionary - 音楽好きのための外国語辞書/2023.6.6/外部リンクが開きます)
性格もとことん悪い猟奇殺人者バッファロー・ビルの造形は、トランスパーソンやLGBTQ全般への差別や偏見を助長すると公開当時から批判されたし、その批判も当然と思う一方で(ちなみに演じた俳優さんも事実上キャリアを絶たれてしまったという…)選んだ楽曲は「蝶のように変身する」というレクター博士の洞察の先=蝶として飛んでいくという願望まで象徴していて、いや人でなしの悪人なのだが(そしてそれが差別的なイメージを広めたのは本当に遺憾なのだが)極悪人なりのキャラの作り込みが伺えて、表現のチカラと限界について少し考えてしまう。
 2024年の今になって見返すと『ストップ・メイキング・センス』で描かれた融和の夢に、アジアンやヒスパニック・ましてムスリムの姿がないことにも否応なく気づかされる。その限界を、はしなくも露呈していることも含めて、やはり一度は観ておくに足る傑作だと思う。横浜のシネマ・ジャックアンドベティで4/12まで(外部リンクが開きます)

小ネタ拾遺・24年3月(24.04.01)

(24.3.2)3月2日はルー・リードの誕生日。今年はスゴい「歌ってみた」が来た:
Keith RichardsI'm Waiting For The Man(公式/Youtube/外部リンクが開きます)
「俺にとってルーはピカイチだったね。マジもんだよ!アメリカの、いや全ての音楽にとって重要だ。奴と奴の犬がいなくて淋しいよ」
犬?それってまさかdogと同じD始まりの…(それ以上いけない)

(24.3.6)いろいろ紙の本を読むのと並行して、スキマ時間にスマホで電書版をちまちま進めてたジュリア・セラーノウィッピング・ガール トランスの女性はなぜ叩かれるのか』(サウザンブックス/外部リンクが開きます)ようやく読了。社会的な不平等(貧困や被暴力)への怒りに満ちたショーン・フェイ『トランスジェンダー問題』(23年2月の日記参照。あちらも重要)とはまた違った内省的(?)アプローチで、シスジェンダーでも男性でも自分自身の・あるいは自分以外の属性の人も含め、人にとってジェンダーやセクシュアリティって何だろう・どうすれば自身の性で自身をエンパワーメントできるのだろうと改めて自問するヒントをくれる好い本でした。すごく局所的なことを言うと作家および作家志望・とくに百合やらBLやらあるいは異性愛でも知的に感情的により満足した作品を手がけたいと思ってる人には、すぐ応用できる即効性ではなくジワジワ発想の体幹に効く柔軟さを期待できる本でもあると思います。次に読む本に迷ってるひとは是非。

(24.3.8)さいきん初めて知ったんだけどヨ・ラ・テンゴがカヴァーした
Friday I'm in Love(公式/Youtube/外部)のMV。
Wednesday Thursday "HEART ATTACK"って、そういう意味じゃないから!!(heart attackは心臓発作。為念。あとなにげに製作費すごそうだよね…)ダイナソーJrがカヴァーした「Just Like Heaven」でも思ったけど、アメリカのインディーズ・オルタナ勢が(イギリスの)ザ・キュアーをリスペクトしてるのが伝わってきて心温まる一方で、あんたらザ・キュアーを何だと思ってるんだという気持ちも無くはない。
Dinosaur Jr. - Just Like Heaven (Live on KEXP)(YouTube/KEXP公式/外部)
(まあ本家のザ・キュアーもたいがいアレだよねというのは措く…ともあれ皆様LovelyなFridayを)

(24.03.13)久しぶりにアガンベン『創造とアナーキー』(先月の日記参照)を読み直してたら「誤った趣味が露わにしているのは、〜できる能力の水準における欠如というよりも、〜しないでいられる能力の水準における欠如である」
 『創造とアナーキー』書影。この本は図書館で借りて済ませたんだよねと思ってたら実は持っていた
センスのないひとは、何かするのを控えておくことができない。センスの欠如とは、つねに〜しないではいられないことなのであるという箴言に出くわし、むせび泣いている。畜生ためになるぜ(最近かかりきりの原稿に「もうちょっとこのへん詳しく」と8ページ加筆を決めたばかり…)

(24.3.17)中国茶などを少しずつ飲む用の茶器、丁寧でない生活がたたって落としたり何だりで欠けが目立ってきたので替えを探していたのですが…(いやメイドインチャイナで500円くらいの廉価品なんですけど)なぜか出町で落手しました。京都の。前後の事情は来週というか
 新旧チャイナ茶器。旧は縁に欠けがちらほら。側面から見ると新しいほうがだいぶポッタリしてるけど、まあ慣れるでしょう。
18きっぷで毎日7時間くらい電車に乗って、三日で50kmくらい歩いて(娯楽や息抜きが強迫観念になったら現世が地獄って先週の日記で書いてたよね?)流石にへとへと。

(24.3.19)今の上皇つまり先代の天皇誕生日が代替わりで直ぐに休みでなくなったのに昭和天皇の誕生日は祝日として残り続けてるの、制度的な理由(エクスキューズ)もあるんだろうけど、端的な話この国のマジョリティが見たい夢の正体が隠れてる(隠しきれてない)のではと思いつくなど。ルル説明するのも面倒なので各自で勘ぐってください。

(24.3.20)西洋音楽史の学年末テストで単位を落としそうな生徒のためのサービス問題「この中で自身のバンドに専念するため直ぐ脱退した助っ人メンバーは誰でしょう」
 (ヒント・髪)まで書き添えずにいられない、先生は心配性。
 
ちなみに正解は↓このひと=プライマル・スクリームのボビー・ギレスピーさんなんだけど、あーこれは(髪質だけじゃなく)音楽性も合わんわというか、自分のバンドだと別人のように楽しそうですね…
 Primal Scream - Jailbird (Official Video)(YouTube外部リンクが開きます)

(24.3.22)また地中海を中断、縁あってミルチア・エリアーデ『世界宗教史』(ちくま文庫/とりあえずI巻だけ)に寄り道中なのだけど
バビロニア語のもっとも美しい祈りのひとつは、ありとあらゆる神々に、祈願者がその名を知らないことを謙虚に認める神々にさえ向けられている。「(中略)おお、存じあげぬ神様、私の罪は甚大です!……おお、存じあげぬ女神様、私の罪は甚大です!(略)見捨てないでください!(強調は舞村。以下も)エリアーデ大先生、よく笑わずに書けるな…いや笑ってらしたかも知れんが…
 書影。地中海IIIの上に乗った世界宗教史I(文庫)。キャプション:いや確かに3/10のダンテの回で高慢を捨てた謙遜が救いの道だと書きましたけどな?でも案外これが源流だったりして…
※ちょっと言葉足らずだったので補うと(神々は人の願いをかなえてなんぼ的な取引意識とは対極な)ヨブ記からダンテ・20世紀のバルトまで一貫してる「神の偉大に拮抗しようとする(した)だけでおこがましい」という圧倒的な屈従意識や生きてるだけで罪深い的な罪悪感の源流かもなと思ったのです。
ちなみに地中海で「そんなん笑うが」と思ったのは「地中海は、イスラム教徒の土地でさえも、ぶどうの木とワインの国である。イスラムの詩人以上にワインをほめたたえた人がいるだろうか
そしていわゆる地中海性気候について書いた
初期のオリエント的な画家たちはぴかぴか光る色調で我々をいつもだましてきた。一八六九年十月、フロマンタンは、メッシーナから船で遠ざかりながら、まさに次のように記している。「雲におおわれた空、寒い風、にわか雨、天幕に雨滴が落ちる。物悲しく、まるでバルト海だ
あはははは。読書は(も)楽しいぞ。

      *     *     *
「俺は君たちが想像を絶するものを色々見てきた オリオンのそばで焔に包まれていた宇宙船 タンホイザー・ゲートの闇の中で輝いていたオーロラ あの目眩く瞬間もいずれは消える 時が来れば涙のように 雨のように」(日曜洋画劇場・吹替版に基づく)
ロイ・バッティ(-2016)
ルトガー・ハウアー(-2019)
寺田農(-2024) さよなら、また別の星で逢いましょう。(24.3.23)
※追記:宮崎駿監督はブレードランナーの吹替をテレビで観て、寺田氏にムスカをオファーしたそうですよ…


(24.3.24/すぐ消す/月末に拾う)YouTubeで目当ての動画の前後に入る広告、まあそれは仕方ないのだけど、世界的大企業コカコーラのWeb限定らしきCM
オツカレタイムに贅沢ミルクコーヒー| ジョージア(コカコーラ公式/外部リンクが開きます)
「一度見たら忘れられない独特な動き」「癖になる歌とダンス」などと業界ニュースサイトに書かせているけど、端的に十年くらい前の中小企業・赤城乳業 BLACK TV-CM(YouTube/外部リンク)のアイデア再利用(無断)(a.k.aパ○リ)だよね?とゲンナリした直後、
入ってきた二本目の広告が「富士○のパソコンは神!ジャパンクオリティさすが!と外国人親子に言わせるCM」(YouTube/外部)。逆の意味でジャパンクオリティさすが…と(とうに知ってたけど)落胆の連打でした。

(24.3.25追記)前者についてはエリアーデ『世界宗教史1』の昨日ちょうど読んでた箇所にも「古代エジプトのラムセス三世は墓の壁に己の事跡として先代ラムセス二世が征服した都市名を刻み込んだ」とあったので人類の臆面のなさは四千年前から変わらんようですが…

(24.3.26)CMのパクリは容認しがたいのに音楽だと「そう来たか!」「よくぞソコから持ってきた!」と喜んじゃう違い、説明が難しいのですが(芸をパクるのと、パクリが芸になってるの違い…んー、やっぱ分かりにくいか)
Lady Gaga - Bad Romance(公式/Youtube/外部リンク)
おっ○い花火に気を取られて(←語弊)15年ほど気づかなかったけど、絶対に何処かで聴いたことあると思ったら、あって当然だよコレでした→
Electric Light Orchestra - Don't Bring Me Down(YouTube/公式/外部リンク)
←そう言われて観ると冒頭のしょうもない2コマアニメ(ネオン)も、ガガ様の踊りと見比べてしまうな…(しまうな)ガガ様&バックダンサーズの踊りは4:15〜の足踏みダンスが白眉だと思います。

(24.3.27)Bad RomanceのMV、いろんな解釈があるんだろうけど「私は芸を売るけれど私そのものまで買えると思うなよ(火だるまにすんぞ)」と額面どおりに受け取ってしまったのは、立体オブジェみたくクルクル回され最高値で落札されるガガが、異形に過激に転生したかのように「傷物の中古品として私をサザビーで買い叩いた好事家気取り、てめえのペ○スでも咥えてろ」と四つの瞳で歌い上げたメラニー・マルティネスのせいかも知れない。昨年聴いてグッときた歌のひとつ。
【和訳】NYMPHOLOGY - Melanie Martinez(ロンリーハーツクラブ/外部リンク)
Bad Romanceの映像(歌詞はそんなに大したことない)とNYMPHOLOGYの歌詞の間に、レプリカントやヴァーチャル彼女が都合よい傷物として買い叩かれる『ブレードランナー2049』を挟んで、並べてみたくなる。どちらかと言うまでもなくガガ様に黒焦げにされる立場の者ですが、一応そういう立場だよな自分という自覚はあるのです。ヴィルヌーヴ(ブレラン2049)の監督には自覚、あるのかしら…

 本サイトで何度も何度も再確認した「私たちには私的な苦痛を(鬱怒でなく)公的なイシューに変える言葉が足りてない」という『目が眩んだ者たちの国家』(18年12月の日記参照)の指摘は政治の言葉について語ったものだけど―詩歌にも同じ「公共の言葉を与える」役割は期待されているのではないか。僕たちの、あなたの周りにある歌は今、その火急かも知れない要請に応えているだろうか。なんてことを思った三月でした。また来月。

抹茶パフェが消えた日〜春の18きっぷ旅行2024(後)(24.3.31)

 ここ数年、奥歯を図案化または立体オブジェ化した歯科の看板ばかり見てきたせいで(奥歯じゃなくて)「歯」という字の図案化に「これは新しい」と思ってしまい、吾ながら少し冷静を失なってるなと。下に「大阪下町焼」とあるけど名古屋です。
 「健康は、歯から口から笑顔から」と銘打ち、歯という字の中が米じゃなくて笑顔になってる歯医者の看板。下に「大阪下町焼」の別看板。
 ちなみに↓コレは地元ヨコハマで採取。よく見ると「歯」という字の頭に奥歯が。
 歯という字の上の「止」の左の縦棒が奥歯の形になっている歯科の看板。

      *     *     *
 今回の18きっぷ旅行では名古屋から快速で30分の岐阜(岐阜市。県庁所在地)に宿を取ったのですが、宿の共同のシャワー室ではなく歩いて3分の銭湯へ。
 岐阜・天然温泉「のはら湯」の外観。
湯上がりにプハーと地元の瓶牛乳を飲んだら、銘柄がたなはし牛乳(公式/外部リンクが開きます)。どう見ても岐阜・駅前に黄金色の信長像がある「岐穂市」を舞台にした宮原るりさんのギャグ四コマ『みそララ!』『恋愛ラボ』にメガネの棚橋兄妹という濃ゆいキャラが出てくるのだけど(宮原キャラに濃ゆくない人が居たか?と言えば居なかった気もしますが)なるほど地元愛のこもったネーミングだったのかと知れたのも遠出して現地を訪ねる面白さ。
 前回も拾った『夢みる名古屋』(21年2月の日記参照)で名古屋より好いと著者の絶賛が気になっていた岐阜。今回は宿泊地としてのみの滞在で満喫とは行かなかったけど、駅直結の呑み屋通りに面白さ・味わいやすさの片鱗をうかがえたかも。当方下戸なのですが、呑んべだったら・それも皆でワイワイ騒げばええやん(あ、自分が一番苦手なタイプのノリだ…)みたいな集団だったら楽しいだろうなと想像できるオープンな感じ。言いがかりかも知れませんが。
 今年1月の金沢旅行で事前に調べて色々訪ねた中、時間が合わなくて(あと風雨が凄かったからね…あの氷雨の中に被災地の方々も支援に駆けつけた各地の消防や自衛隊の方々も居たことを忘れてはいけないよ)入りそびれた「21時にアイス」という店、岐阜にもあったので足を延ばしてみたのだけど―
 あ、うん、実は金沢店の前を開店時間前に通った時も周囲が歓楽の飲み屋街みたいな感じで察してはいたんだけど、自分などが簡単に入れるタイプのお店ではなかった…遊び上手な大学生男女なんかが集まる感じでした…
 左:岐阜の地図「21時にアイス」右:名古屋(栄)の地図「25
時までアイス」
ちなみに名古屋・栄の歓楽的飲み屋街には「25時までアイス」という店もあった模様(近くまでは行きました)。30歳若かったら、こういう処に入り浸る人生もあったかも知れませんが、ははは。んにゃ、自分が生まれた年代も、ハードコアな今池で本屋をハシゴしてホクホクしてる人生も取り替えたいとは(あまり)思わないけど。

      *     *     *
 はい、翌日の京都も「とりあえず一乗寺に人気の本屋があるから行ってみよっか」と歩いてきました。最初は京都駅周辺で一度くらいタワーに登ってみよう・水族館に行ってみようか・上洛のたびに毎回毎回「近場だからすぐ行ける」行きそびれてる三十三間堂を拝観しようかなど事前には思いつつ、結局は本屋に向かって鴨川沿いを延々歩く。そういう人生。
 鴨川沿いを北へ南へ
こんなの京都じゃなくても良かったじゃんと思いもしたけど、まあ1月の金沢では犀川沿いも浅野川沿いも歩きそびれたからね…
 そして「多恋人(たれんと)」とか「来夢来夢(らいむらいと)」とかいう店名を「しょーもなっ」と思いつつ嬉々としてコレクションしてる人生。それに答えてくれる京都。大蔵人(オークランド)もCUT-B(かっとび)も、ごめんちょっと分からない(多恋人なら分かるかと言えば分からないが)…CUT-Bはカッ飛んだ髪の連想からか、ちょっとBUCK-TICK(バクチク)を彷彿とさせますね←いちおう謝っとこう、すみません…
店の看板。左:バー「大蔵人(oak-land)」右:理髪店「CUT-B(かっとび)」

 一乗寺に行ったのは初めてかも。宮原るりさんが岐穂もとい岐阜の地元牛乳をキャラ名にしたように、京都が地元(なんだよね?)の麻生みこと氏のデビュー長篇『天然素材で行こう』は登場人物の姓が京都の地名由来で、とくに濃ゆかったのが一乗寺クンだったなあ。京都を舞台にした今のまんが絹田村子数字であそぼ。』でも出てきたように地元の大学生にとってはラーメンの激戦区らしい…と思い出したのは現地で店々の前にできた行列を見てから。行列は苦手なのと(数学でも現実でも←あ、上手くない?ちょっと上手くない?)考えなしに先におなかいっぱいになってたのでラーメン屋はスルー。
 んー、実は本屋も軽くスルー。前日の今池が良すぎて、こちらもおなかいっぱいでした。京都の独立系書店のはしりで、イギリスのガーディアン紙が世界の美しい本屋ベストテンに選んだ処なんですけどね。今ほど社会派でなかった15年前の自分だったら夢中になったかも。本屋も御縁なのだ。

 本を買ったのは出町でした。つまり復路も鴨川沿いを延々歩いて一乗寺から出町経由で三条まで。
 ところで三条あたりの街路で見かけたコレ、何処かで見たような気がするんだけど何でしたっけ?
 タイル貼りの壁に並んだ謎のパーツ。人の身長くらいの高さで上にV字型の金具(先端が引っかけるようCの字型になっている)・下に輪っか。
知ってるよアレじゃん、というかた(出来れば)拍手で御教示いただけると嬉しいです。
 

 そんで出町。京都アニメーション『たまこまーけっと』のモデルになったアーケードの商店街なのですが:
 また話は脱線する。前に東京の大久保でダルバートを食べてた時のこと。ネパール料理店ということでインドカレーのお店ふうのインドっぽい歌謡曲が店内BGMで流れていたのですが、3時間くらいあるボリウッド映画で流れてそうな音楽が不意に途切れて「保険料が戻ってくる○○社の生命保険…」と日本語のCMが割り込んできた。どゆこと?ああいう音楽、テープじゃなくて有線放送か何かを契約してるのだろうか。で、そうしたチャンネルがインド歌謡曲の間に日本語のCMを入れることにしたとか?だとしたらスマン!日本の資本主義がスマン!と(スクティをモグモグしつつ)いたたまれない気持ちになったのだけど
 何の話か。出町商店街のアーケードには以前からありがとう」「今日も元気だという看板がかかっているのだけど、久しぶりに訪ねた三月。前に訪ねたのは五月だったので、実は前からこの時期にはかかってたのかも知れませんが
 出町商店街のアーケード。2018年5月には「今日も元気だ」だった看板の下に24年3月は同じ大きさで「e-taxで申告だ」の看板が下がってる。
おのれ!おのれ徴税国家!
 …出町商店街は大通り沿いのお餅屋が行列の人気なのだけど、別のお店で桜餅セット、中国茶の茶器・すぐき・古本屋で白水社版シェイクスピアの『リア王』を買いました。すぐきとシェイクスピアが並んで緑とクリーム色の京都カラーなの、ちょっと良きでしょ?
 左:リア王。右:すぐき。
三条まで歩いたのは昔からあるブックオフと「京はやしや」の抹茶パフェ目当てだったのだけど、後者は見つからず。前日の小倉トーストの件もあるから自分の見落としかとも思ったけど、やっぱり閉店してたみたい。二年前から京都に住んでる甥っ子にも奨めていたのでショック。行けたかしら。
店舗案内・京はやしや(外部リンクが開きます)
ヨコハマの「日の出らーめん」が日ノ出町(横浜)からは撤退して、なぜか名古屋で複数店が栄えてる話をしたけど、なんとこちらは香港や横浜まで店舗を広げながら京都からは消えてしまったらしい。んー、今回は名古屋で食べそびれた台湾ラーメンやシロノワールを戻ってきてから食べて「ここまでが遠足です」と思ってたけど、横浜の京はやし屋で来週の誕生日にでも食べるか抹茶パフェ。

 おまけ。豊橋(駅構内)のおにぎりセットと、浜松のキーマカレー。
 左:おにぎりセット。左からツナ・梅干・昆布にお味噌汁で500円。右:浜松「カルダモン」のキーマカレー。名前のとおり紅いカルダモンが散らされている。
 ここ数年、夏の18きっぷ旅行は戸外が暑すぎ・むしろ「熱い」レベルで無理がすぎると痛感しており、春のうちにと彷徨ってきた次第。あまりアレを見なきゃココに行かなきゃとガッつかず、遠くに行ってフラフラするだけのスカスカな旅行でいいやと思って行ってきたのですが、こうして記事にまとめると充実して見えるのが面白いですね。
 切符はもう一日ぶん残っているけど、あまり無理せず済ませるつもりです。

名古屋カルチャーは死なず〜春の18きっぷ旅行2024(前)(24.3.30)

 それまで存在すら知らなかった本を夢のなかで読んで「こういう本があったんだ」と目が醒めてから実際に読んでみるという稀有な体験をした。
 黎明期のコンピュータ開発のパイオニアで、プログラミング言語COBOLの開発者としても知られる(昭和ごろにはCOBOLのおばちゃまと呼ばれていた。モアベターよ!)グレース・ホッパーの伝記。夢の中では四六版・活字のしっかりした和書だったけれど、現実世界だと日本語で読めるのは児童書の絵本のみ。でも良書でした:
ローリー・ウォルマーク文/ケイティ・ウーグレース・ホッパー プログラミングの女王(長友恵子訳・岩崎書店/2019/外部リンクが開きます)
シリーズ「世界をみちびいた知られざる女性たち」の一冊。
 その界隈(人生訓・名言界隈)では「許可を得るより、まずやってみて失敗したら謝るほうが簡単じゃね?」で名高いらしい彼女のチャレンジ人生は、子どもの頃に時計を分解して組み立て直しても動かず「なんで動かないんだろう→もういちど分解からやってみよう」と家にあった時計7つを分解して、ついに自力で時計の仕組みを会得した「成功」体験に始まる。真空管時代のコンピュータの回路に羽虫が挟まってるのを発見して「これが本当のバグ(バグという言葉は以前からあった)」という逸話も有名だけど、どれくらい彼女が偉大だったかはフラッシュバックで描かれた冒頭のエピソードに詳らかだ。本当に初期のコンピュータで二進法だか16進法だかのプログラムを書いていたとき「何度も同じ計算をするなら、毎回そのコードを書くんじゃなくて、コードをひとまとめのコマンドにして、それを毎回呼び出せばいい」と気づいたのだ。
 それまで0110111100101110とか0A 21 34 FFとかだったコードをADD(加算)とかINPUT(入力)といった自然言語(に近いもの)で記述できるようにしたのも彼女だという。何の話か。人間の言語の世界でも、吾々は「毎回はじめから一行一行プログラムを書かなくても、一連のコードを一語で呼び出せるコマンド」を使い回して生きている。「彼は他人にも自分にも厳しくて怖い人だと思っていたけれど、そんな彼でも誰かの苦境を哀れんで優しい気持ちを表出することがあるんだなあ」という長いコードの代わりに吾々は「鬼の目にも涙」という言葉を使うことができる。目の前で起きていることを理解するのにも「あ、これは『鬼の目にも涙』だ」「出たな『永田町の論理』め」と(長いプログラムを集約した)ショートカットを呼び出すことで、一から考えることをショートカットできる。そのフレーズを知らなければ、思いあたりも思いつきもしなかったことを感じたりもするのだ。

      *     *     *
 というわけで「漂泊の思いやまず」また18きっぷで漂泊してきました(なんつう迂遠なマクラだ)。
 「大阪の味」串かつ屋と横浜家系ラーメンが並ぶ名古屋(千種)の写真と、日の出らーめん(名古屋)の店頭写真。
まずは名古屋。大阪発祥を謳う串かつ屋と横浜家系ラーメンが、あまりに良い並びで笑ってしまったけど名古屋。いや、名古屋の人だって毎日きしめんでは苦しかろう。本家の横浜・日ノ出町からは撤退してしまった日の出らーめん(神奈川県内にはまだ残ってる)がなぜか複数店舗、生き残ってるのも名古屋。
 JR線を主体にした名古屋めぐりの地図。
 パンクロックの聖地でコロナ禍以降「今池ハードコアは死なず」のキャッチフレーズで盛り上げている今池。ライブハウスに通ったりはしなかったけれど、同人誌の即売会目当てで名古屋に足を運ぶようになって以来、なんだか好きな区画のひとつだった気がする。「台湾ラーメン」味仙の本店をはじめとする飲食店、ミニシアター、銭湯にスーパー銭湯、それに書店、などなど。
 ガガステーキのレアポークステーキと、店の外観
味仙本店は夕方からの営業、先週の日記で書いた「うそつかない」ステーキハウスも気になったけど、もっと気になった「レアポークステーキ」を昼食に。生肉(危険)ではなく真空低温調理で「究極に柔らかい肉塊」「豚肉の常識が変わる」と謳う品なので、なるたけゴツい肉塊を注文して感激するのが良いのかも。いちばん薄め(といっても分厚い)のテキは値段も手ごろ、流行るといいですね。
 二書店で買った本4冊の書影。左から真木悠介『気流の鳴る音』、HAPAXII-1、ミラン・クンデラ『笑いと忘却の書』、ミルチア・エリアーデ『世界宗教史1』。名古屋名物・青柳の「かえるまんじゅう」を配して。
 新刊の人文書を取り扱うウニタ書房、本が好き+今の社会に考えるところがある人はかなり惹かれる本屋だと思います。お店でもらったビニール袋、読む者を未知の世界に連れ去るようなUFOの図案にOnly the book opens the future(未来を切り開けるのは本だけ)のロゴが素敵。
 左:ウニタ書房の袋。三角形に図案化されたUFOが牽引ビームを出してる図案に「Business Sports Amusement Philosophy Project Creation Information」「The World of book」「Only the book opens the future」のロゴ。右:シマウマ書房の茶色い紙袋。店名の横に添えられたシマウマのスタンプと、袋をとめるシマウマ柄のテープ。
シンプルな茶の紙袋をとめるテープが白黒ゼブラ柄なのもチャーミングなシマウマ書房、19世紀ポルノ小説の古典(未読)の名前に乗っかった『ファーニー・ヒルの娘』どんなインチキかと思ったら原著者クレランドによる正統な続編らしい。『ファーニー・ヒル』の発禁処分で打ちのめされたクレランドが再起を賭けた遺作とか何とか。自分は手を出さなかったので、運が良ければまだ文庫の棚に残ってるかも知れません。クンデラとエリアーデを買いました。

 18きっぷがあるので今池から徒歩で千種に戻って、鶴舞から大須まで歩けばいいかなと思ったら意外に長かった1500メートル。味噌かつの本店がある矢場町から上前津あたりまでは昔ながらの古本屋が並ぶ通りだけれど、鶴舞→上前津に至る通りにも古書店がちらほら。今池の二店が今回は好すぎておなかいっぱいでスルーしましたが関心のある人は名古屋で古本、イケるかも知れません。
 左:大須商店街。招き猫像のあたり。右:新雀本店のみたらし団子。
大須商店街。新雀本店の甘くないみたらし団子、コロナ禍・不景気でも健在で何より…と思ったら
 三画像、左から:アーケードの天井。天井から下がった「大須演芸場」の案内。入口外観。演目の掲示。
ありゃ。10年前(2014年)に畳まれた大須演芸場が復活してる。前にあった頃には快楽亭ブラックの落語を観たりしたなあ。話を地理的に少し戻すと、今池で惜しまれつつ閉館した名古屋シネマテーク(入ったことはない)も同じ敷地でナゴヤキネマ・ノイ(外部リンク)として復活したようだし「名古屋カルチャーは死なず」は伊達じゃないのかも。

 あいにく演芸場は開いてなかったので、大須の一発ネタを御笑納ください。いやコレをネタと解釈してしまう心が汚れているのだが…
 「大須の溜まりBAR」CHARAの店頭のぼり「食えよ、俺のフランク」
 大須から高速道をくぐる幅広の大通りをわたって(何度か言及してるけど21年2月の日記で取り上げた矢部史郎『夢みる名古屋』の指摘どおり一度で渡りきれない幅。どうせなら待たされる中間にチュロスの屋台でも出せばいいのに)
 左:たしかに長いよね…と距離を示す矢印つきの若宮大通。右:名古屋市科学館の外観
即売会で地元のかたから前にオススメいただいていた名古屋市科学館(外部リンク)コロナ禍以降、即売会から事実上引退した今になってようやく訪れることができました。目玉のプラネタリウムは調整中で入れなかったけど、なるほど面白い。
 というのも展示のほとんどが体験型のアトラクション(?)で、たとえば発電ひとつ取っても運動エネルギーが電気に変わる→ハンドルを回して発電してみよう!で普通の科博は終わりそうなところを、次は位置エネルギーが電気に変わる→錘を持ち上げ落として発電してみよう!(他にも発電だけで何種類かあった)と、すこぶる盛り沢山。校外学習らしき中学生ズはもちろん、若いカップルも意外に多かったのも頷ける。二人とか多人数でワイワイするのが良い施設だと思います。
 遠心力による潮汐を体験してみよう!ハンドルでプレートをグルグル回すと、回転する薄い水槽の中・平らに沈んでいた沈殿物が中央が凹んで両端が盛り上がる。地味に面白い!
目を疑う「内臓パズル」があるとゆうことは
 内臓パズル。目を閉じた人体模型の腹部が開かれ、内臓パーツが「入れてみよう」と言わんばかりに並んでいる
当然のように展示室の反対側には「骨パズル」が。ははは。
 骨パズル。

      *     *     *
 名古屋駅前の一日中「モーニング」をやってる・コーヒーに小倉トーストがついてくる(それはもう「小倉トーストにコーヒーがついてくるセット」で良いのでは)喫茶店が行ってみたら○イーツパラダイスと☆野珈琲店(微妙に伏せ字になってない)になっていた、あんまりだ!と思ったら通りを一本まちがえただけで小倉トーストのお店も健在だったのは御愛嬌。
 スイパラと星野珈琲店。
冒頭で名古屋なのに串かつ・家系ラーメンとあきれてみせたけど、どこかの土地の食べ物が肩書きを保ったまま他所の土地に根づき広まるのは悪いことではないのでしょう。かく言う自分も今回の名古屋で食べそびれた味噌かつは岐阜で、台湾ラーメンとシロノワールはそれぞれ東京と横浜でいただいたのでした。
 左から東京(神田)の台湾ラーメン・岐阜の味噌かつ・横浜のシロノワール。神田味仙の台湾ラーメン、今池本店とも大須店とも微妙に違って面白い…
 岐阜、それから京都の話は後篇で。

 

君のように生きれたら(仮)〜『イシ』『気流の鳴る音』(24.03.24)

※今回とりあげる二書とも書かれた時代の関係で南北アメリカ大陸の先住民を「インディアン」、また『気流の鳴る音』では先住民を「原住民」と表記していますが、引用ではそのままとします。
      *     *     *
 ちょっと整理させてほしい。レヴィ=ストロースが『悲しき南回帰線』で文化人類学の先達として敬意を表していたのはアルフレッド・クローバー(夫)で、実際に接した夫が(娘のアーシュラ・K・ル=グウィンいわく)「辛くて」書けなかったイシの生涯をまとめたのがシオドラ・クローヴァー(妻)だったようです。今年1月の日記を訂正。
 というわけでイシ 北米最後の野生インディアン』(行方昭夫訳/岩波現代文庫/外部リンクが開きます)今は自宅に本を増やせる状態ではなく図書館で借りて済ませようかとも思っていたのですが、武蔵小山とお別れ(1月の次の日記参照)のタイミングに古本屋で出逢ってしまったので記念だーと購入(ダメダメ)。ありがとう武蔵小山と西小山。トンテキも美味しうございました。
 『イシ』と武蔵小山のトンテキ。カットされた状態で出てきました。
でも本棚に余裕あるひとは持つに足る、いま19ハタチくらいの人に推奨する基本図書100冊みたいのがあれば選定まちがいなし、古典の風格をもつ名著でした。もちろん何歳で読んでもいいし(現に自分がこの歳)今生で読めてよかった。

 1911年、カリフォルニアの田舎で保護された中年男性は副題にあるとおり「北米最後の野生インディアン(先住民族)」だった。自身の名前すら持たず、人間を意味する「イシ」の名で呼ばれた彼はカリフォルニア大学の設立まもない文化人類学科に迎えられ、中世も古代も飛びこえた農耕以前の石器時代と20世紀の文明社会・一身で二生を生きながら西欧人がもたらした結核の病ではかなくも世を去る。
 正直この本を読むべく運命づけられてる人は(僕などより先に)とっくに読んでそうで説明不要な気もするのだけど、滋味が細部に行き渡って噛めば噛むほど味わい深いが
 キャプション:木の棒を使ったイシの火起こしに感激した加大ウォーターマン先生が自分の学生に「君たちも火が起こせたら単位を認めよう。まずは私の実演を見なさい」と言ったはよいがイシみたいには火が起こせなくて単位要件化は(火だけに)立ち消えになった話、すごくいい…(ウォーターマンの似顔絵を添えて)
(個人的には加大の文化人類学科の設立にパトロンとして多大な貢献をしたのが新聞王ハースト…ではなくハースト夫人だったことが『市民ケーン』との対比で印象に残ったりもした。充実した生を生きられたらしい)
 彼の「発見」を描く導入部をのぞけば本書はシンプルに二分できる。カリフォルニアの先住民ヤナ族のあらましと彼ら彼女らが白人の侵略によって(イシひとりを残し)絶滅に至った過程を描く前半と、生きた標本として・それ以上の存在として西欧人たちの中で送った第二の短い生を活写する後半だ。
 言うまでもなく、この前半がつらい。序文でル=グウィンが「ナチによるユダヤ人大量殺戮に等しい」と書き、あるいはより端的にアメリカン・ホロコースト(昨年10月の日記参照)と名指される西欧からの侵略者による先住民族の撲滅は、とくにゴールドラッシュで抑制を失ない非道さを増した。驚かされるのは白人たちによる「戦利品」としての皮剥ぎの横行だ。白人たちを襲い頭皮を剥いだのは平地の先住民で、イシたち山岳地帯の住民に皮剥ぎの風習はなかった。もとより平地人たちの皮剥ぎも侵略者への報復であり、それ以前に彼らの世界観や宇宙観・伝統や宗教に基づく神聖な行為だったはずだ。それをパロディ化した醜悪さだけで、本書が告発する侵略者・植民者・あるいは先進的と自ら驕る近代人(とくに金銭に目が眩んだ者たち)の堕落ぶりは十分に代表されうるだろう。
 この堕落に対比されるように、まるで滅びた種族が自分たちの最良の資質を最後の一人に託したように、本書の後半で描かれるイシの肖像は高潔な善良さに満ちている。彼が属するヤヒ族の語彙ではgoodbyeを「君は残れ、私は行く」と表現したという。その言葉に相応しい、慎ましやかな含羞みを「残る」近代人たちに贈って彼は「行った」。残るのが私たちで良かったのか(あまり良くないのではないか)という苦味とともに。

      *     *     *
 ある程度(読書)年齢を重ねると、本は一冊で読むものではなくなるらしい。ある本を読めば他の本と関連づけられる。あるいは共鳴し、時には反発して補ないあう。同じ本を読んでも、読む側の履歴によって、得られる内容は時にまったく違ったものになりうる。
 次に読む本として、旅先の名古屋で手にしたのが真木悠介気流の鳴る音 交響するコミューン』(1977年→ちくま学芸文庫2003年/外部リンク)だったのは「引きが良かった」かも知れない。たまさか本屋でパラパラめくって目に入った人間主義(ヒューマニズム)は、人間主義を超える感覚によってはじめて支えられうるというフレーズに惹かれてレジに運んだのだが、読んでみるとカルロス・カスタネダの要約を中心に(北米と中南米の違いこそあれ)『イシ』が語らなかったことを理論的に補完するような内容だった。
 書影。イシ(左)と気流の鳴る音(右)
 真木(敬称略)自身の「アメリカ・インディアンの中の文化的に最も遠い二部族の言語の相違は、中国語と英語の間より遠いという」彼ら彼女らをひとくくりにするのは「旧大陸人の偏見である」という釘差しを大急ぎで引用したうえで、はしょって述べるとカスタネダは70〜80年代に一世を風靡した異端の文化人類学者だ。メキシコ先住民の呪術師ドン・ファンに弟子入りした彼は様々な試験や試練・イニシエーションを経て、自分の中にこびりついた近代人としての偏見を粉々に突き崩されてゆく。
 あるいはなかなか偏見を捨てられない、と言ってもいいかも知れない。師ドン・ファンはカスタネダが近代人としての世界観に「耽溺」していると指摘し、その自覚を絶えず促すが、呪術師もまた呪術師の魔術的な世界観に「耽溺」しているだけだと言う。真の自由の道は、どちらの世界にも「耽溺」せず、醒めた感覚で間を進めというものだが、その道はその道で当然ながら孤独な隘路となる。耽溺は束縛で、吾々は…少なくとも僕は「世界の外に出る」ことを絶えず夢みてしまうけど、たとえば魔術や幻覚剤がもたらすような別世界は別の「耽溺」でしかない、そしてどこにも耽溺しない自由な道は逆に何処かに「耽溺」してはいけないのか・それが「根をもつこと」ではないのかと反問したくなる寂しい世界であるらしい。真木は著者としての力量で最終的に(なんとなく)安心できる足場を読者に与えてくれるけど、途中ちょっと途方に暮れる気分にもなった。それも含めて良い読書だったと思うのだけれど…

 一冊では自立し自足して見えた『イシ』の世界が、別の本と照らし合わせることで、また違う顔を見せたように思えた。顔と言うより語られない後ろ姿だろうか。
 『気流の鳴る音』は70年代後半という執筆時期から、カスタネダと並行して水俣の惨劇が少なからず参照される。アメリカ先住民の絶滅と同様、利益に目が眩んだ近代人が人間にたいして暴虐をはたらいた惨劇だ。チッソを訴えた被害者の一人は言ったという。「銭は一銭もいらん。そのかわり、会社のえらか衆の、上から順々に、水銀母液ば飲んでもらおう。上から順々に、四十二人死んでもらう。そのあと順々に六十九人、水俣病になってもらう。それでよか」(石牟礼道子『苦海浄土』)。こうした呪詛は、イシの中になかったのだろうか。
 あるいは真木は言う。「アメリカ原住民たちは白人が彼らを奪い、彼らを捕え、彼らを虐殺したことよりも以上に、白人による自然の破壊にたいして許すことのないいきどおりを抱いたという。それは(中略)彼らの生と死とを支える大地だったのだ。その解体は彼らの生を奪うだけでなく、その死をも奪ってしまった」(D・ブラウン『わが魂を聖地に埋めよ―アメリカ・インディアン闘争史』草思社の記述に基づく由)。こうした憤激は。
 白人社会に投降し、初めて学者たちと接したイシは(彼の言語での)数詞を教えてくれという問いに十までしか数えず「これで終わり」と答えた。学者たちは彼が十までしか「知らない」ことに驚き、それは彼が物心ついたときには一族が滅亡寸前の困窮状態で、十以上の人数も収穫も知らなかったからだと推定した。ところが後に大学で仕事を得て、給与として貯蓄したコインを彼は何十枚も数として数えることが出来た。「彼にとって数えるというのは、ビーズ、宝物、箱の中の矢筒の数(中略)一度に捕えた鮭など具体的なものを数えることを意味したのだ」。正しく質問しなければ正しい答えは得られない、フィールドワークの基本を失念していたことを学者たちは恥じたという。
 彼の出自を尊重し、人格に敬意を払う人々に囲まれ、穏やかな微笑みをたたえて短い第二の人生を送った彼にも、やはり奪われたことの痛みがあったのではないか―ただ、それを引き出す「正しい質問」がなかっただけで。
 ※いや、『イシ』にも彼の一族が受けた迫害について「それには答えたくない」と穏やかに拒絶するしかなかった「間違った質問」が彼に群がる人々から多々あったことも、やんわり書かれてはいるのだが。同書の前半を占める「皮剥ぎ」を含めた植民者の非道は、イシからの聞き取りではなく著者シオドーラ・クローバーが外部の資料≒皮を剥いでやったぜという奪う側の自慢などから丹念に再構成したものだ。
 それは逆に救いだったかも知れないと考えるのは傲慢だろうか。もし「正しく問われない」ことで痛み自体が彼の中ですら対象化されず、煮えたぎる「鬱怒」(前回の日記参照)ではなく、意識に上らない穏やかな寂寥で済んだのであれば。
 むしろ、奪われた者の苦悶や憤激を自覚しなければいけないのは、正しい質問を与えられぬまま穏やかに微笑んでいることが許されないのは、奪う側に立つ吾々だろう。あるいは、耽溺の外の孤独な道を知らなければならないのは、耽溺がもたらす害毒をまだ停められる段階にある(と信じる)吾々だろう。虐殺を、自然破壊を、吾々は正しく問い、正しく数えなければならない。
 シオドーラ・クローバーは責務を果たした。読む吾々もまた、晩年のイシのように穏やかに生きれたらと願う前に清算すべきことがある。←自分でも実行は容易くないことを書いているが、理念としてはそうなので、ここではそう結論づける。先に引いた「人間主義は人間を超える感覚によって…」とは、水俣で水銀禍の先触れとしてあった魚や猫の異変を正しく問い、正しく数えていれば、人間までの拡大は防げたという文脈の言葉だった。

 
『イシ』を読み終えるタイミングで次の本で真木のカスタネダと水俣に出会えたのは「引きが良かった」のだろうけど、読んでる最中の名古屋でインディアンズ・ステーキハウス(公式/外部リンクが開きます)なる地元チェーンに出会ってしまったのは、いや平地と山地では「英国と中国くらい」違うけど、いやそれ以前にコンプライアンス的にどうなんだろうと思うけど、どうなんだろう…
 名古屋「インディアンズ・ステーキハウス」の外観と、頭に羽飾りをつけ腕を組んだ典型的「インディアン」に「インディアンうそつかない」のキャプションが添えられた看板。の写真。
ここで記述することすら何だか躊躇われる「インディアンうそつかない」という文言、かつて存在したことさえ忘れていたぞ…(お手ごろなランチがあったけど昼食は近場の別のところで食べました。その話は来週以降)

打ちのめされるようなすごいダンテ〜須賀敦子・藤谷道夫訳『神曲』(24.03.10)

 出藍の誉れと言うべきだろう。

 あるいは牛に引かれてと言うべきか。
 ダンテ・アリギエーリ神曲 地獄篇(第1歌〜第17歌)』(須賀敦子・藤谷道夫訳/注釈・解説:藤谷道夫/河出書房新社2018年/外部リンクが開きます)を手にしたのは、当然のように須賀敦子の名前に惹かれてのことだった。
 『ミラノ 霧の風景』に始まる名エッセイの数々と、キリスト教への信仰に裏打ちされた深い人間性。長く暮らしたイタリアをはじめとするヨーロッパ文化と文学への造詣の深さ。それぞれ別のところで書かれたものだが「選挙権を持つ者は社会の不平等を等閑にしてはならない」「信仰を持つ者がまず避けなければいけないのは、直ぐに社会の役に立たなければいけないという誘惑だ」という相反する言葉は、相反そのままに(自分の場合はとくに前者が)思考の錘として心に残っている。※両方とも今ここで通じやすく改変してるので注意。
 書影。『神曲』(左)と『ミラノ』(右)
98年の逝去から20年、『須賀敦子の本棚』という新シリーズで刊行された本書は地獄・煉獄・天国の全百歌にわたる『神曲』のうち地獄篇の前半のみ収録している。帰国したばかりの須賀(敬称略)が、イタリア語の初歩も覚束ない大学生の『神曲』読書会を指導することになり、その一人(藤谷)が研鑽よろしくダンテ研究を本業とするに至った。先立って須賀が自身の勉強のために残していた試訳を弟子が監修し、須賀の文体をなるべく残したまま学術的な精確さを期した。
 というわけで本書は実質的には、監修者である藤谷氏の脚注や解説を読む本ということになる。これが実はすごかった。最も精密な新しい邦訳として話題を巻いた、講談社学術文庫の原晶訳が2014年だから、18年刊行の本書はさらに新しい。最新だからというだけでもないだろう、今まで自分がおぼろげに読んできた『神曲』は何だったのかと(専ら己の迂闊さに)あきれるくらい鮮明なヴィジョンに打ちのめされた。

      *     *     *
 まず目のウロコを叩き落とすのは、『神曲』では仏教でいう「鬼」のような悪魔の獄卒が罪人たちをトゲのついた金棒(いや悪魔だと巨大なフォークか)で攻撃したり、血の池・針の山に追い立てたりはしないという指摘だ。
 ダンテの地獄では、人は生前の罪に応じた形で自ら進んで自らを罰する。蓄財に淫した者は汚物の詰まった無価値な球体(めっちゃ重い)をフンコロガシのように転がし続け、生前怒りに身を任せた者は死後も噛みつきあい互いの身体を引きちぎりあう。何とでも交換できる貨幣を至上の価値だと物神崇拝した「金の亡者」は本当の亡者になったとき自身が顔貌を失ない誰とでも取り替えのきくノッペラボウと化し、何も描かれていないノッペラボウの旗を追いかけまわす。
 そして咎人たちは、自身が無価値なものに追い立てられていると気づかない。「なぜなら人は生きてきたようにしか(死後も)生きられないからである」「悪魔の手間はかからない」このルールを知らされることで、今まで平板なスペクタクルに見えていた地獄の解像度が4K並みに跳ね上がる。他人事ではない、むしろ自分も地獄落ちの罪状にどっぷり浸っているという実感もだ。
 ダンテの世界観では浪費や大食も地獄行きの特急券となる。自分の財産を食いつぶした程度で地獄?そうではないと藤谷(敬称略)は解説する。神の前では「自分の財産」などというものはない。「あなたが独り占めしているのは飢えている人々のパンである」(アンブロシウス)「羊皮紙を緋色で染め、文字を書くのに金を溶かし、写本に宝石を鏤(ちりば)める。こうしてキリストは彼らの戸口の前で裸のまま亡くなっていくのです」(ヒエローニュムス)といった聖人たちの引用を前に、己の地獄落ちを確信して、うなだれずにいられようか。
 あるいは第七歌(123行〜)で藤谷が「鬱怒」と独自の訳語を案出した、怒りを義憤・公憤として表に吐き出さず内心に溜めこんだ罪(と、それに応じた沼底地獄)の身につまされようはどうだ。要は「不満たらたら」ということだろうが、日々感じつつ内に押さえこんだ「ムカつき」が「憤怒」と呼ぶに相応しいほど攻撃的で自身を苛み傷つけることを、吾々はよく知っているのではないか。
 「あなた地獄の刑期を少しでも軽くしたいと称して電車の座席とか譲るよう心がけてるよね一応」と水を向ける「ひつじちゃん」に「そこで他の譲らない乗客やマスクしない乗客なんかに鬱怒を燃やしてる時点で地獄の刑期マシマシってことです(あと高慢の罪ね)」と眉をハの字にする舞村さん(仮名)のイラスト。
 ちなみにこの「鬱怒」を集英社文庫の寿岳訳は「鬱々」河出文庫の平川訳は「心中に憤懣がもやもやとしている」と訳し、講談社学術文庫の原訳は「怠惰という霧」としたうえで「怠惰とする説、怒るべき時に怒らず鬱屈した感情を抱え続けたとする説、また怠惰でなく羨望とする説もある」と註をつけている。2014年の原訳が最も堅実な訳と称賛される所以だろうし、個人的には今ひとつ「ノレなかった」理由でもあるだろう。翻って藤谷解釈の(物議を呼びそうな)断定的な側面も察せられるというものだ。

 実際「ああも取れるし、こうも取れる」「解釈は各々の読者に委ねる」ではなく「こうだ」だと断定する藤谷のヴィジョンは単語レベルでなく、すでに見たように地獄観を、ひいては『神曲』全体を圧倒的な明晰さで一新する。
 たとえばダンテは現世フィレンツェでの政敵を地獄に落として苦しめている・『神曲』はザマアミロと溜飲を下げる娯楽巨篇だという俗説を、藤谷は厳密に斥ける。生前の罪が許されないと判断すれば恩師でも地獄に落とすし、義人と見ればイスラム教徒のサラディンをも辺獄から救い出すのがダンテだ(ちなみにイスラム教の開祖ムハンマド自身は地獄のかなり底のほうに居たと思う。まあ中世カトリックの考え方ではある)。
 多くの女性を有徳者と称揚しているのも当時としては画期的で、つまりは既成の権威を恐れぬ横紙破りだったという。口語=トスカーナ地方の方言を用いて書き、また当時は誰にも顧みられなかった古代の詩人ヴェルギリウスを積極的に再評価したダンテは確かに「文芸復興」ルネサンスの先駆者であった。
 その一方で、忘却の彼方から引き上げられ、地獄・煉獄の先導者として頼もしさを見せつけるヴェルギリウスもただ絶賛されてるわけではないのが(藤谷が読み解く)『神曲』の重要なポイントだ。キリスト生誕前に没したため洗礼の秘蹟に預かれなかった辺獄の住民ゆえ、天国に入ることは許されずベアトリーチェに先導役をバトンタッチするヴェルギリウス(ツンツンしてるベアトリーチェより萌え度が高い。ダンテのほっぺにチューしたりして読者の地獄行きの罪状を増やしている←個人の感想です)だが、
 キャプション「ヴェルギリウス様ちょっとハク様を彷彿とさせるよね(※個人の妄念です)」で、金髪に桂冠をかぶったハク様が「お食べ」と古代ローマのパンを差し出してるイラスト。
すでに地獄・煉獄の時点で、その理性一本槍の思考はたびたび限界を露呈していることが厳しく指摘される。古代ギリシャ・ローマ的な理性、の限界を超えてダンテを導くのは神の恩寵であり、ダンテ自身だ(と思われる)。(と思われる)と留保をつけたのは本書が地獄篇の途中で終わってしまっているからだが、藤谷のまなざす方向は明らかだ。
 ダンテの地獄巡りは他人事の物見遊山ではない。人々が罰せられている怯懦や鬱怒・高慢などの罪はダンテ自身が内包するものであり「このままでは地獄落ち確定」と案じた聖母マリアのはからいで始まった旅の中で、ダンテは怯懦の罪を思い知り(第三歌)、義憤を表に出し(第八歌)、高慢を改める(第十歌)。私見を挟めば、吾々の多くは様々な罪状を合わせ持っているはずで、どれかひとつの地獄に選ばれて永劫に閉じこめられるのは妙な話ではあった(その点、仏教の地獄は一つ刑期を終えたら次へと順繰りだった気がする)。『神曲』の要点は罪人が各々の地獄や煉獄に振り分けられることではなく、ダンテが己の罪を数えて洗い出し、改め、ついには師(ヴェルギリウス)をも超えて天国の恩寵に至ることだった。そしてそれはダンテひとりの話ではない。
 そもそも第一歌人の世の歩みのちょうど半ばにあったとき(私は正しき道の失われた暗い森の中をさまよっていた)」という冒頭は「ダンテ35歳」のことだという通説も藤谷は誤りでしかないと一蹴する。別の箇所の記述でこの時のダンテは34歳だと知れるし、中世ヨーロッパに「人生70年」という表現もない。「ちょうど半ば」とは世界の寿命が13,000年とされていた当時、その中央(6,500年目)にあたる西暦1300年という意味だ。個人の年齢など知ったことではない、これは天文学≒当時の先端科学に古代ローマの文芸、ラテン語に俗語、社会情勢、つまりは創造された全てを網羅し綿密に配置して、全人類の救済を企図した(神がダンテに託した)宇宙規模のプロジェクトなのだという、これほど確信に満ちた『神曲』像は(たぶん)なかった。
 縁あって自身が選んだ研究対象に「人類史に折り返し点を刻みつける大事件」くらい絶大な価値や意義を見出せるのは幸福であり僥倖だろう。今まで『神曲』に親しんできた人は無視しえない新釈だと思うし、新しい読者は(地獄篇の前半のみとはいえ)本書から入るのが一番かも知れない。河出からは平川祐弘訳が文庫で出ているので別の版元が名乗りを上げる必要はあるだろうが+どんどん衰退していく出版界にそれを世に出す力があるか分からないが、藤谷氏による完訳が成し遂げられれば読書界を震撼させる「事件」になるはずだ…という俗な予言(?)はさておき。

 地獄に落ちたら出られない、煉獄の罪人は長い刑期を経て天国に行けるが、刑自体は生前の行ないで決められ死後には変えられない、というのも『神曲』の残酷なルールだ。たとえ来世があろうとも、人が心を改めるチャンスは生きてる今しかない、それがダンテの企図した全人類救済のプログラムだった。
 まして本サイトで何度が取り上げている「宗教や説話が説く来世は(地獄も極楽も黙示録も修羅道も)吾々の現在の姿に他ならない」という説(2020年4月の日記など参照)を代入したらどうか。死んで地獄に落ちるまでもなく、鬱怒の沼に沈んでゴボゴボ言ってるのも、金銭というノッペラボウの旗を追いかけて自らも使い捨てのノッペラボウと化しているのも、汚物にすぎない富や名声をゼエゼエ言いながら転がしているのも、現世の現在の吾々ではないか。無神論者よろしく来世を信じないなら尚更「やばい、このままじゃ死んだら地獄だ」ではなく「やばい、これが地獄か」とビビるべきなのだ。
 過食に苦しみ、課金に悲鳴をあげ、娯楽や息抜きだったはずの趣味やSNS・人によってはニコチンやアルコールが強迫観念と化して首を絞められる「快楽の地獄」中毒や耽溺の地獄ほど、『神曲』の亡者たちは現世の吾々なのだと痛感させるものはない。地獄篇の第五歌で「地獄に落ちても寄り添い続ける恋人同士」として愛されてきたパオロとフランチェスカの扱いは「なに言ってんだ、こいつらは地獄に落ちてるんだぞ」というルネ・ジラールの至極まっとうな指摘(21年1月の日記参照)を知って以来、自分の中でいわば『神曲』への理解度を測る試金石となっているのだが、もちろん藤谷氏はこの点でも遺漏はない。なぜこの二人が地獄に落ちたか、ジラールに劣らず冷徹な解説は各自で精読していただくとして、真の愛が(ダンテのベアトリーチェに対するそれのように)むしろ人を自由にする反面、執着する愛が(現世でも)ジラール言うところの「寄り添いながら相手の顔すら失認する」生き地獄と化すさまを、吾々はプルースト『失われた時を求めて』のスワンやシャルリュス・主人公の懊悩でイヤというほど確認してきたはずだ←いや皆様は僕の肩越しに。
 書影:神曲(原訳・地獄篇)と失われた時を求めて(逃げ去る女)。「まさかダンテとプルーストが、それもジラールを仲介にここで繋がるとはねえ…これだから読書はやめられない(←地獄?)」
 全ては神の計らいだから罪も更生のため用意された試練と思いなさいは良いとして、義なら来世で報われるのだから現世の不幸も甘受して赦しなさい(復讐は神がする)(カエサルのものはカエサルに)でいいのかという根本的な疑問は別の機会に考えよう。ダンテも怒りの声を正しく上げるのは良しとしているのだ。とはいえ―
 今なにげに重大な指摘をしたわけですが…?というキャプション。ひつじちゃんのイラストつきで。
 人の世の半ば・ダンテの壮大な全人類救済プランから、さらに700年。弱者は裸のまま戸口の外に放棄され、欺瞞と迫害は絶えることがない。ますます現世を地獄に塗りかえている吾々に、恩寵はあるのだろうか。

      *     *     *
 煉獄篇第十一歌に登場するシエナのサルヴァーニは高慢な野心家だったが、友人にかけられた(金貨一万枚の)法外な身代金を短い期限で工面できず、広場の地べたに粗衣で座りこみ恥辱に全身を震わせながら人々に支援を乞うた、その一事で地獄行きを免れたという。来世を信じられなくとも、現にこうして彼の名は生前の権勢ではなく人を救うためプライドを捨てたことで(のみ)後世に残っているし、死後を待つことなく現世のその瞬間まさに魂は救われていたのだろう―などと言うことは容易い。でもそれを他者の善行として「いいね」するのでなく自身が実践することが(駱駝が針の穴を通るより)難しいことも吾々は知っている。

      *     *     *
 吉行淳之介氏の恐怖対談シリーズで瀬戸内寂聴尼が楽しげに披露した説話によれば、仏教では女好きに特化した地獄があって、抜き身の剣がそそり立つ山の天辺の美女(の幻)を目指して罪人たちは率先して刃で吾が身を切り裂いてゆくのだそうな。ようやく美女のもとに辿りついたと思ったら幻は消えて、今度は山の(球形なのかな?)底に現れるので、また剣の山を飽かずに降りてゆく、その繰り返しが永劫に続く。ダンテの地獄に似てる気がする。たまりませんな。

小ネタ拾遺〜24年2月(24.3.3)

(24.1.31)実は20分ほどかけて半分ほど和訳したんだけど日本語ページがあった(ははは)。とくに最後の一行「私たちはまた…」で「本当ロクでもないな行政」と思った人は前のめりに検討を。ドイツ・ボン大学のラインハルト・ツェルナー教授が発起人だそうです。
「群馬の森」朝鮮人労働者追悼碑の撤去停止を求める(Change.org/和文24.1.31/外部リンクが開きます)
→遅かった。なんてことだ。朝鮮人追悼碑、群馬県が撤去し更地に がれきの山も、本社ヘリ確認(朝日新聞デジタル/24.1.31/外部リンク)月初にああは書いたけど、かく言う自分の正気が枯渇寸前ですよ…

(24.2.1)「本書は数式を多用する。でも大丈夫、飛ばしていい。いや違う、分かった顔でどんどん先に進め。分かった顔が大事(要約)」という巻頭言に励まされ読みはじめたロジャー・ペンローズ『皇帝の新しい心』予想してたけど数式に入るずっと前からサッパリ分からない。でも不思議と面白い。AIに意識は宿るのか?という難題を、そもそもヒトの意識は量子論なしで語れるのか(いや語れない)という更なる難題で対消滅させる本らしいです???
 邦題が好すぎるロジャー・ペンローズ/林一訳『皇帝の新しい心』書影。
詳細は読了して書けることがあったら。濁りきった金魚鉢みたいな社会で、世界や宇宙の広さ深さは救い。
(24.2.7)いちおう読了。自分には難物だったぶん感じる処も沢山あるけど(後日まとまるかは不明)まだAIが理論的可能性でしかなかった1989年に
「アルゴリズムはそれ自体では、真理を決して確証しない。真理を生み出すのと同じくらいに、虚偽だけを生み出すアルゴリズムを作るのはやさしい。アルゴリズムが正しいこと、あるいはそうでないことを決定するには、外部からの洞察が必要である」と、まるで30年後=現在の「平気でデタラメを言うAI」の猖獗を看破していたようで興味深い。難しいなりに楽しい読書でした。
書影『地中海II』(ブローデル)表題部分のアップ。
(同日追記)続けてブローデル『地中海』のIIを読み始める。読み始めて早々
「シチリア島の島民は橋の建設のために税金を払うが、政府は他の目的のために金を使う。したがってシチリアの内陸には十八世紀以前にはきちんと整備された道路がない」
の一節にダメだ…人類、昔からこうだ…と心が折れそうになりつつ、豊富な知見と四方山をフェデリーチェなど(昨年10月の日記参照)オルタナティブな史観とどう摺り合わせていくかは個人的な(余生の)課題。

(24.2.3)「選挙は理想の候補者がいないから棄権するものではなく一番マシを苦々しく選ぶ・一番当選させたくない奴を落とすものだ(だから投票に行きましょう)」という文言に偽りは100%ないけれど、実際そうしてマシを選んで「なんでこんなの選んだの」と嘲られる悲哀もヨコハマ市民は知ってますよ…
米軍、イラク・シリアの親イラン組織を報復攻撃 戦略爆撃機B1を投入(毎日新聞/24.2.3/外部リンク)
それでも横浜はカジノは回避したうえ結果的に菅義偉政権に引導を渡したし(それで出てきたのが岸田というのは措く)アメリカのトランプ再臨だけは勘弁してほしいし、京都はマトモでしかも勝ち目のある市長候補がいるのだから本気でどうにかしてほしい。
(同日追記:「京都市長選のマトモでしかも勝ち目のある候補者」って考えてみたら具体的に誰のことか名指ししてるも同然なので、公職選挙法に抵触しないよう、日付が変わって投票日当日になったら消しますね。ははは)
(追記→負けちゃった…これが「民意」かと思うと本当にガッカリ…)

(24.2.4/すぐ消す)放映も残り3回くらいということで、間欠泉のように時どき噴いて出た王様戦隊キングオージャー(公式/外部リンクが開きます)語りもそろそろ終了ですが、生まれた時から2000年来の宿敵を倒すのに避けられない手続きという大義名分こそあれ、不老不死のチカラを手放すのに「キングオージャーの他の王様たちと一緒に歳を取りたくなった」と言うジェラミー、本当にギラたちのこと大好きになっちゃったんだな…(昨年9月あたりも業が深かった)本物ヒメノが婿取り決定戦する時は、セバスチャンと本気で争う姿を見せてくれてもいいぞ…(いや想像でしか観られないのだが)

(24.2.4)・署名:UNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)への資金拠出を見合わせた日本政府【ならびに各国政府】に撤回を求めます(change.org/24.1.28〜/外部リンクが開きます)に賛同しました。2/3のサイト日記で近隣愛と遠心愛って話をちょっとしたけど(まあ皆様お察しのとおり)わりかし後者ベースらしい自分は、かなり怒ってます。・UNRWAのパレスチナ支援・日本参加70周年特設サイト(外部)も一応。経済状況が許せば支援も(←これは自分宛)

(24.2.5)最近こんな感じのスマホゲームの広告を頻繁に見るよね…なキビシめの降雪がヨコハマにも。足元が厚みのあるミゾレ化して(底は氷水)逆にヤバい。(1)とりあえず店の前をキレイに除雪してるコンビニ店員さんに待遇面の報いがない世の中 is SHIT
 あまり切迫感ないけど雪の夜道。目の前を知らない人が二人、行き越していったところ。
そしてどうにか帰宅してから(2)こんな感じの時に地震が起きたら、どんだけ絶望的だろうと考えてしまった。オチとかはない。首都圏の皆様どうぞ御安全に。もっと大雪に見舞われてる地域の方々は尚更。

(24.2.6)こんな夜は早々に布団かぶって寝るに限ると21時に床入り→午前2時に目が醒めてしまい寒くて眠れない負けパターン。ありものの野菜に刻み生姜たっぷりのスープで内側から暖めて、眠気が戻ってきたので再び寝ます。
 味噌汁碗(小)に注いだ生姜野菜スープ画像。
玉ねぎ・ほうれんそう・刻み生姜・大さじ半分くらい残ってたオートミール。だしは顆粒の昆布だし+ヴィーガン味覇+隠し味に酒粕。胡椒とクミン・カレー粉でスパイシーに。

(24.2.10)そういえば今の職場で「花粉が来た今年はものすごく酷い頭が重くて何も考えられない」と午後じゅうグッタリしていた同僚が花粉ではなく新型コロナだったので…とくにノーマスクでもう大丈夫と思ってるひと、まだまだですので…

(24.2.10/未使用だったけどサルベージ)SNS経由で知った記事。It’s time to admit that genes are not the blueprint for life「遺伝子が生命の青写真、ではないと認める時だ」(ネイチャー/24.02.05/外部リンクが開きます)は、科学者が一般向けに「細胞はマシーンで、DNAがそのプログラム」という比喩を濫用するのは怠惰で時代遅れ、生命現象にはもっと複雑な要因が絡んでいる、という主旨らしい。とはいえScientists must take care not to substitute an old set of dogmas with a new one. (科学者は旧いドグマを新しいので直ぐに置き替えようとすべきではない)It’s time to stop pretending that(中略)we know how life works. (生命のことなら分かってますというポーズをやめて)発見と新しい理論の構築をこれから始める十年にすべき、という結論。

(24.2.11)ミニトマト、とゆうかトマト全般お安めな昨今なので「怒りに我を忘れた王蟲」風カレー。
 楕円形の白いカレー皿に盛りつけたカレーライス。一緒に火を通したプチトマト7つを片側に寄せて王蟲の攻撃色を、キャベツのコールスローでわしゃわしゃした前脚を表現。おまけ画像として、食べ終えた皿に追加したコロッケ。
おまけ:その芋、金色の衣をまといて…(皿に残ったカレーを拭い取るべし)

(24.2.12)あ、いや、こうすれば(似てないのを)かなり誤魔化せるて分かってたんですけど
 先だっての似てないブルース・リーの絵、服を黒い縞の入った黄色いトラックスーツにして、手にヌンチャクを持たせたの図
これは別の映画で、(Don't think,feelの台詞があった)『燃えよドラゴン』じゃないから若干誠意を欠くかも、と「考えて」しまったのよ…

(24.2.14)本描きで絵を整えすぎ、ネーム時のラフな走り描きにはあった「味」が消えてしまうこともある。そう思って敢えて間抜けめに「崩した」ほうが奏功することも。まんがは楽しいぞ。
 「はぁ?」と呆れ返るアスミ(主人公)。TAKE1では口を大きく開け「整った」あきれ顔をTAKE2では鼻の下をコミカルに長くラフ時の間抜け感を再現。こちらを採用。

(24.2.18)体調が許してくれたので、一時間ほど?スタンディングに参加してきました。HANDS OFF RAFAH ラファに手を出すな 全国連帯デモ(新宿/2.18.17:00〜19:00)(Instagram/外部リンクが開きます)暖かくなってきたら、また頑張れるかな。

(24.2.20)ラピュタがまだ牧歌的なのは国が滅びて残ったのが園丁のロボットなところで、日本だったら廃虚を最後まで這い回るのは国税取り立てマシーンだろう。

(24.2.22)久しぶりにマフラーを巻く。寒の戻りだ。違うか。

(24.2.23)現時点で最新号のビッグイシュー日本語版2/15号(公式/外部リンクが開きます)で表紙と巻頭インタビューを飾っているボーイジーニアス「女性やLGBTQ+の権利侵害にも声を上げてきた、彼女たち」とあるけれど、パレスチナについてはどうなの?と記事に共感・共鳴すること、あるいは街頭でビッグイシューを手にすること自体ためらった人がいたら、その留保は解除してよさそう。
ボーイジーニアス、2024年グラミー賞のレッドカーペットで「停戦を求めるアーティスト」のピンを着用(Teen Vogue/2024.2.4/英文/外部リンク/グラミー賞7部門ノミネートですってよ)
同記事からリンクが張られている、バイデン大統領に向けた・停戦を求めるアーティストの署名(外部リンクが開きます)にはAから読んだだけでもアダム・ランバート(紅白観ました?)、アラン・カミング、アルフォンソ・キュアロン、アリッサ・ミラノ、アンドリュー・ガーフィールド、アニー・レノックス…場合によっては「良かった、このひとをまだ心置きなく好きでいられる」と安堵する名前がちらほら。場合によっては【あなたの「推し」はパレスチナについて何か表明していますか?】と問うのは残酷なことかも知れないけれど。そもそも【あなたは何か表明していますか?】と問うことも。
とくにこの国において【何が私たちを黙らせているか】というのは個々人の意気地とかよりネットを含む社会構造の問題な気がしてるので、この話題は「考え」育てて改めて形にしようかとも思っています。

(24.2.24)香港映画(および香港社会)で見過ごされがちだったフィリピンからの出稼ぎ労働者をフィーチャーした『淪落の人』(20年5月の日記参照…って、もうそんな昔か)に続いて、パキスタンからの非正規滞在者を可視化したアンソニー・ウォン主演の新作映画『白日青春 生きてこそ』を観てきました。
参考記事:香港デモ支持した俳優アンソニー・ウォンさん 新作から語る今の社会(朝日新聞デジタル/24.2.9/前半無料/外部リンクが開きます)
難民認定の門の狭さや就労禁止・強制送還など日本とも通じるところがありつつ、最初は差別感情むき出しの主人公も出世街道を目指すその息子も別々に大陸から来た移住者で、吾々香港人は誰も彼も多かれ少なかれ流れ来て流れゆく存在・同じ枝に羽を休める渡り鳥じゃないかという問いかけの形は、単一民族だの2600年の歴史だのを過度に神話化した日本社会で提示するには神話破壊から始めなきゃいけないんだなとか考えたり。
 映画『白日青春』パンフと、ジョルジョ・アガンベン『例外状態』

(24.2.17)北陸の震災を受けて、三条周辺が舞台だった22年のアニメDo It Yourself!! -どぅー・いっと・ゆあせるふ-が3/1まで全12話チャリティー配信。ふわふわしてるのにネジがきっちり締まってるとでも言いますか、個人的には、前から気になってた店+1回分だけの18きっぷを使う口実とはいえ、本作で主人公たちも食べてたのがダメ押しで三条までカレー食べに行った程度には高評価な作品(ベタ惚れやん…)
 いつぞやの拍手お礼のリサイクル。三条スパイス研究所のビリヤニセット。ビリヤニといってもあっさりめで付属のカレーや漬物と合わせると丁度いい塩梅になるスタイル。好かったです。
視聴自体は無料で、間に入る広告収入全額が新潟への寄付になる由。ひたすら観てて心地よい良作なので、支援も兼ねて是非。

(24.2.28)【昆虫モチーフの作風→ラクレスは世界最大のカブトムシ「ヘラクレス」由来かぁと気づくのに10ヶ月くらいかかった】先週つつがなく大団円を迎えた『王様戦隊キングオージャー』。主人公に立ちふさがる梟雄ラクレスがシリーズ後半、髪をオールバックにして再登場したとき「完全に隙のないオールバックじゃなくて少しハラリと前に垂れてるほうがいい」と演者みずから提案したと知り(公式参照外部リンクが開きます)「さすが邪知暴虐の王、髪フェチの弱点を熟知している」と畏怖した舞村さん(仮名)は
 「民は道具、私が国だ!」と凄むラクレス(ハラリと落ちた前髪に矢印)と「ひまわりの布教部員」たくみん(三つ編みの後れ毛に矢印)。あまりないツーショット
アニメ『Do It Yourself!!』のメガネ乙女たくみんの三つ編みの、ほつれというか後れ毛にも「さすが髪フェチの(以下同文)…新潟の被災地支援チャリティ配信、金曜日まで。(終了しました)

無法の世界〜ジョルジョ・アガンベン『例外状態』再読(24.2.25)

 アガンベンと彼の「例外状態」については20年7月の日記でサラリと触れているのですが、数年ぶりに再読して改めて思うことがあったので少し整理してみました。と言っても、やっぱりよく分からなかったので分からなさぶりは2)に押しこめて、サンドイッチのパンにあたる1)と1')の現状整理だけ持ち帰ってもらえればなと思います。

1)現状の整頓(パート1)
 法は支配であると同時に庇護でもある。たとえば納税の義務と、社会保障。教育を受けさせる義務と、教育で得られる恩恵。法は罪を罰するが、法で定められた以上の罰が科せられることはない(罪刑法定主義)。
 にも関わらず、法(立法)の庇護が適用されず政府なり行政機関なり(行政)が思うがままに人権を制限する無法地帯=ワイルドゾーンが存在する。ワイルドはワイルドだろう?(旧い)ではなくトランプのワイルドカードと同じ「何でもあり」の意味だ。日本でいえば刑務所の受刑者に対する虐待、そして何より本サイトでしつこく、しつこく、しつこく、しつこく言っている入管の問題・有罪とされた受刑者でさえ「刑期」として確定されている拘留期間が恣意的に延長され「いつ出られるか分からない」入国管理局、その中であらゆる人権侵害がワイルドカードのように許されている入国管理局がまさに、法治国家と呼ばれる社会の中の真空地帯・無法地帯の実在をあきらかにしている。
 2003年に書かれたジョルジョ・アガンベン例外状態(上村忠男・中村勝己訳/未來社2007年/外部リンクが開きます)は2001年9月11日のテロを受けてアメリカが遂行した「テロとの戦い」で露見した捕虜虐待の人道的罪を「法が自らを停止した」制度的・構造的な悪として描出する。少し長めに引用すると
「ブッシュ大統領の「軍事命令」の新しさは、一個人についてのいかなる法的規定をも根こそぎ無効化し(中略)法的に名指すことも分類することも不可能な存在を生み出した点にある。
 ジュネーヴ条約にもとづく「捕虜」(POW)についての規定を享受できないだけではなく、アメリカの法律にもとづいた
(略)被告人でもなく、たんなる拘留者(detainees)であるにすぎない彼らは、純然たる事実的支配の対象であり、法律と裁判による管理からまったく引き剥がされているため、期限の点のみならず、その本性自体に関しても、無限定な拘留の対象なのである。
 これと唯一比較が可能であるのは
(略)市民権とともにあらゆる法的アイデンティティを喪失していた(略)ナチスの強制収容所においてユダヤ人の置かれていた法的状況である」
 もちろん大急ぎで「いやだから本質的には入管も同じだよ」日本だけでなく少なくともイギリスでも状況は似たり寄ったりだよ(23年2月の日記参照)と言わなければいけないけど、言い換えると、米軍がグアンタナモにこじ開けたのと構造的には同じ無法地帯が、各国とりわけ日本の入国管理局に具現化されている、その現実に吾々は少しは動揺すべきではないか、という話を本サイトでは繰り返し繰り返ししてきた。なぜなら、これは国家が「こいつの人権や市民権は制限していい」と判断した者をどう遇するかという、すでに実在する具体例・雛形だからだ。これを第一の問題としよう。

 20年1月の日記などで繰り返し参照したとおり社会学者のテッサ・モーリス=スズキは個人が主権者として国家に支配力を及ぼす場としての「投票所」と、国家が個人を主権(および人権)を剥奪された者として遇する「入管」を二項対立として提示した。(自由を耐え忍ぶ(辛島理人訳/岩波書店2004/外部リンク・17年1月の日記参照)
 図解「個人と国家が接するところ」個人が主権者として国家の政策に関与する投票所・対・国家が主権を有さない者として個人を遇する入国管理局
 けれど現代の吾々は、主権者として投票で制御しているはずの国家が、法も国民の意思もないかの如く恣意的に振る舞う別種の無法地帯も目の当たりにしている。これが第二の問題だ。
 上記の二項対立を「料理の三角形」的な三項対立の図に描きあらためると、こんな感じだろうか:
 A・国民主権(投票所)では「制御不能」なB・法律を無視する国家(上の無法状態=例外状態・国会停止・クレプトクラシー)がC・人権を剥奪された人々から「剥奪」する(下の無法地帯=入管・グアンタナモ)。またAの主権者はCの被剥奪者に「転落の可能性」をもつ。「こんな感じ?」と言う「ひつじちゃん」のワンポイント挿し絵つき。
米国による捕虜虐待=国家によって法の庇護が剥奪される「下の無法地帯」を序論の「まくら」にしているとは言え、アガンベンが『例外状態』で着目しているのは「上の無法状態」だ。それは上記20年7月の日記でふれたとおりアガンベン自身が体験した自国イタリアの80年代以降の腐敗であったし、それに先立つファシズムやナチズムの姿であったし、何より政府与党が繰り返し(行政が法を停止できる)緊急事態条項の成立を目指し、国会の開催を義務づける法の規定を無視して「閣議決定」の効力を異様に伸長させ、また周知のとおり与党議員の脱税や政治資金の流用が「お咎めなし」としてまかり通る現在の日本の姿でもある。
 「政府の独断が過ぎる」「これでは法治ではなく人治だ」あるいは「入管の人権侵害はおかしい」という声は多く上がっている。けれど多くのinformationを「ワイルドゾーン」「例外状態」と名指し、両者を有機的に関連づける・社会の中に位置づける・歴史として物語化する、まとまった言説や書物にたどりつくのは現状まだまだ難しい。コンパクトだが多層的で晦渋な、アガンベンの著作を読み解くことが(少なくとも自分には)求められる所以だ。

2)本の読みかた
 ここまでのまとめ
入管問題から議員の脱税まで個々に「ひどい」「許せない」でなく法の停止(ワイルドゾーン・例外状態)という一つの現象として把握できる
・例外状態についてはアガンベンが踏み込んだ検証をしている

 これで『例外状態』の概要を手短かに要約できればめでたし、めでたし。だがそうはいかない。邦訳で200ページ足らずの本が、なんともいえず難しいのだ。
 もとよりアガンベン、叩かれることも多い人だ。佐々木中に叩かれ(今年1月の日記参照)ジュディス・バトラーに叩かれ(昨年11月の日記参照)柿本昭之に叩かれ(20年3月の日記参照)、デヴィッド・グレーバーが「デリダやフーコーなどフランス勢が枯渇したので"流行を追う大学人""魅惑のメタ理論を求めてイタリアやスロヴェニア"に飛びついてる」と揶揄してるのもアガンベンのことっぽい(民主主義の非西洋起源について以文社。ちなみにスロヴェニアはジジェクでしょうね…)。格好の叩き台でもあるのだろう。重要な視座を提供するがゆえに「そこまで言えるんだったら」と不徹底を叩かれる。または逆に不用意さを責められる。
 個人的に困惑させられるのは、やたら話を掘り下げるところだ。本来それは良いことのはずなのだけど、たとえばフーコーなどが近代の病弊として指摘した問題を、引き継いで掘り下げるのは良いけれど「それは古代ローマまで起源が遡れる」みたいに広げてしまう。すると近代になって生じた=解毒・克服もできそうな問題が、普遍で不変=人類の努力では改変できないことに思えてしまったりするのだ。「たかだか近代に始まったことじゃないか」と言えなくなってしまう。構造主義に歴史が否定された時の苦痛も、こんなだったのかも知れない。
 『例外状態』もまた、今の入管やグアンタナモ・緊急事態条項などのヒントを求めて飛びつくと、古代ローマの護民官制度や初代皇帝アウグストゥスの時代まで遡る議論に「取りつく島もない」と翻弄される。T.S.エリオットが言ったのと同じ、まず受け容れる忍耐が必要な本だ―というのは再読して気づいたことだ。
 そうして(自分が求める答えでなく)書いてることに虚心に耳を傾けた今回の再読で得ることは多かった気がしますが、目が醒めて時間が経つにつれ夢の内容をボロボロ忘れていくように、読んでる最中は「ふむふむ成程」と思ったことが、今となっては面白いくらい再構成できない(ダメダメじゃん!)
 「さわり」だけ紹介するならば
・例外状態は単なる逸脱ではなく、とくにフランス革命以降の近代法体制において「法自体の名のもとに法の効力を停止する」組み込み式の機構であること
・奴隷解放のリンカーンや国際連盟提唱のウィルソンなど、メジャーな歴史では民主主義の擁護者と捉えられがちな大統領が、むしろ例外状態の導入を推し進めたこと
・単に法の停止でなく「法は撤廃されないまま、ただ無効化され」「法として制定されていないことが事実として効力を発揮する」事態であること
・ローマの皇帝は法的には法で定められ権力(権限)の行使を委任された者という扱いだけれど、実際には当人の属人的な権威が支配を正当化していた
など吟味すべき命題が多く提示されている。ドイツの社会学者マックス・ウェーバーは支配の三類型として伝統的支配・合法的支配・カリスマ的支配を挙げたが、カリスマ的支配がカール・シュミットなどによってヒトラー登極の理論的根拠とされたとき、その正統性の根拠が指導者と追随者とのあいだの血筋(出自)の同一性だったことは、現代的な政府の専横と民族主義・レイシズムの親和性の高さを考えるうえで参考になる問題だと思う。
 そして例外状態が近代法の逸脱でなく、根源に仕掛けられた自爆装置である以上、統治が暴走し「死を招く機械」となることは不可避で「例外状態から法治国家に回帰することは不可能である」(魔法から解放されても魔法にかかる以前の状態には戻れない)というアガンベンの結論は、また憤激と議論を呼ぶものだろう。ナチの支配を理論的に準備したとされるシュミットと、ナチのユダヤ人迫害に追われ命を落としたヴァルター・ベンヤミンは、しかし学問的には関心領域が重なる同士で、いわば同じ玉を取り合いながらシュミットは国家の至上性に、ベンヤミンは国家や社会を解体する革命に賭けたのだとアガンベンは言う、例外状態を、近代の法も制度も解体することでしか解除できない呪いとすることで、アガンベンはベンヤミンに見出したアナーキーな夢を見ようとしているのかも知れない。「対処療法ではだめだ、すべて御破算にしろ」と―この点にはまだ検証と吟味・考えることが必要だけど。

1')現状の整頓(パート2)
 「法技術的な意味で言えば、イタリア共和国はもはや議会制国家ではなく、政府主導の国家なのである。
 しかも、注目すべきことにも、程度の違いはあれすべての西欧民主主義国において今日進行中のこれと同様の憲法制度の変質は、法学者や政治家たちには完全に自覚されているとしても、市民たちにはまったく気づかれないでいる」

 単行本『例外状態』と、いわばワイルドゾーンに囚われた香港のパキスタン難民を描いた映画『白日青春 -生きてこそ-』のチラシ。
 法治がなければ法治の停止(例外状態)もないわけで、近代的な例外状態は革命後のフランスで祖国防衛のため軍隊が一時的に地方(や場合によっては国全体)を掌握する「戒厳」に始まる。緊急事態下での退避措置だった戒厳のエッセンスが、間を置かず文民政府にも採用される。その極点にある「われわれの民主主義を守るためなら、いかなる犠牲を払っても大きすぎるということはない。まして民主主義それ自体の一時的な犠牲などものの数ではない」(ロシター、1948年)という見解を「グロテスク」と断じるアガンベンが、新型コロナ初期・ロックダウンに従順な人々を見て嘆いたのは(賛同するかは兎も角)筋が通っている…という横道はさておき。
 ・農家に増産指示、罰金も 食料危機時の対策法案、概要判明(24.2.8/共同通信/外部リンクが開きます)
という記事、政府が供給目標を設定。農家に増産計画の届け出を指示できるとし、従わない場合は20万円以下の罰金を科すにポイント・オブ・ノーリターン的なヤバみを感じてしまう。
0)そもそも意図的にせよ結果的にせよ政策で食糧自給率を下げてきた張本人である政府が「いざとなったら政府の計画で農家に言うこと聞かせるぞ、えへん」と宣う(のたまう)のがちゃんちゃらおかしい(その供給計画とやらも原発や万博や辺野古基地やマイナンバーカードみたいに自滅的な内容にならないと?)…というのはむしろ末節で
1)政府が繰り返し導入をはかっている緊急事態条項の、いわば裏口からの持ち込みであること
2)しかも(0で述べたように基本無能な政府が)「目標は政府サマが決めるから、実現のための計画はお前らが策定しろ」というの、本来は政府がやるべき公助を子ども食堂に丸投げしたのと通じる+新たに「拒否したら罰金な」が加わってるのが家族を養おうとしないのに所有権だけは主張するDVみたいで本当にトキシック
3)そんなこと言ったって、もし食料がなくなったら困るのは私や(こうして異を唱えてる)お前自身じゃないかと反論して政府を擁護する(政府サマにたてつくな)向きもあるかも知れないけど、個の生存・個の自由の確保が→なぜか国家による直接の命令・統制・罰則に直結するの「おかしくね?」と一度、立ち止まって考えるべきでは
4)しかもそれが「みんなのため」「国のため」「絆」みたいな美名を帯びながら実際には「私たちみんな(=国家)のために一部の国民は罰則つきの決定権に服従しろ」と=「みんな」とは正反対の「分断」を推進しているのも異様だ。
 外国人など異分子の排除(排除しながらの包摂)が良いと言ってるのでは勿論ない。ただ今まで「異分子を差別してるつもりでも、いずれその矛先は自分たち自身に向くぞ」と言ってきた、その狼が「万一の時には」と留保つきとはいえ現実に来てしまった(かも知れない)ことに一人おののいている。
 入管について等(本日渋谷で予定されていたデモは雨天延期だそうです)もっと現状でワイルドゾーン・例外状態が関わることに言及できたらと思っていたけれど、この一件で疲れてしまった。来週は休ませてください(月末の小ネタ拾遺はします)

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 例外状態の恒常化についてアガンベンは「市民たちはまったく気づいていない」と嘆いてるけど、僕はむしろ「みんな気づいてるけど、そういうもので仕方ない(またはもっと積極的に「それで何がいけないの?」)と受け容れてる」ほうが怖い。
 マイナカードを強制はしないけど紙の保険証廃止とか、まさにアガンベンが言う「法はあるが有効でなく、法にないことが効力をもつ」例外状態だと思うのだけど。

猫とザッパとアガンベン〜『ZAPPA』『創造とアナーキー』『ボブという名の猫』(24.2.18)

 少しずつ中国語の勉強も再開してるのですが、その「勉強」。日本語では学習を意味する「勉強」という言葉が、元の中国語では「無理する」「仕方なくする」「我慢してする」みたいな意味らしいと知り、それだけなら言葉って面白いねハハハなんだけど
 用例「仰不要勉強自己(Don't force yourself)(無理しなくていいってば)
半世紀くらい前まで商品を「まける」価格を下げて提供するという意味で使われてた(らしい)表現「勉強する」「もう少し勉強してよ」「せいいっぱい勉強してます」ってコレか!と気づき、ガゼン色めき立つ自分。てゆか逆になんで日本では勉強=学習か。意味がネジ曲がったのか、それとも中国でも勉強=学習だった時代があって、言うなれば呉音と漢音みたいに別々の時期に、ふたつの「勉強」が時間差で日本に定着したのか。一を知ると、逆に二も三も分からないことが増える。
 もっともらしく言えば、知るとは、知の可動域が広がることなのだろう。前にも(わりと最近)こんなことを考えた気がする。←後で思い出した。文末参照。

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 先週の日記で引用したシモーヌ・ヴェイユの「たとえば何処かの国の首都を新たに知ったところで真理に近づけはしない(要約)」で思い出した別の言葉がある。
 Information is not knowledge (情報は知識ではない)
アインシュタインの言葉だそうでThe only source of knowledge is experience.(知識の唯一の源泉は経験だ)と続くらしいのだけれど(本当かなあ)、僕が知ってたのは別の、個人的にはアインシュタインのよりずっと好いと思うバージョンだ。できれば憶えて帰ってほしい:
 Well, information is not knowledge.
 Knowledge is not wisdom.
 Wisdom is not truth.
 Truth is not beauty.
 Beauty is not love.
 Love is not music.
 Music is the best.

(あのね、情報は知識じゃないの
 知識は知恵じゃないし
 知恵は真実とは限らない
 真実と美も違うし
 美と愛も別物だけど
 愛だって音楽じゃない
 一番なのは音楽よね)
音楽が禁じられた世界を描いたフランク・ザッパの大作アルバム『ジョーのガレージ』に登場する一節だ。
 映画館の入口で撮った『ZAPPA』のポスター画像。タバコを咥えたザッパ。
 ※今週の日記(週記)は、この後のザッパの話もアガンベンの話もツイッター(現X)で2022年に「つぶやいた」内容のサルベージ+再編集です。

 その名も『ZAPPA』、文字どおりフランク・ザッパ=実験的な音楽や下品な歌詞(ウッカリ食べた黄色い雪は誰かの小便の跡だったとか…ここには書けない差別的な歌詞も少なくない)・過激な言動と超絶ギターで勇名・悪名をとどろかせた鬼才ミュージシャンのドキュメンタリー映画を観たのは22年の6月。どうせまた「よかった」なんでしょとお思いでしょうが、もちろん良かった(と書いてる当時の自分)
 エイドリアン・ブリュー、テリー・ボジオ、数多くの弟子を輩出した中でも、とくに有名だろうギタリストのスティーヴ・ヴァイが長めに話してるのもまた良かった。
参考:スティーヴ・ヴァイ、フランク・ザッパのツアーは過酷なスケジュールだったため、睡眠中にも曲を学ばなければならなかった(amass/23.8.3/外部リンクが開きます)

 奇想と言うのか、とにかく発想の幅が広くて、かつ発想した音楽をイメージどおりに具現化したい人だった。スタジオでも、ステージでも。楽器でも何でも全ての音源をデジタル化し思いどおりに加工できる、今なら当たり前かも知れないけど40年前には一台一億円したという万能サンプリング機(シンクラヴィア)を導入して一人でアルバムを作ったこともあった。ライブ演奏でも(ヴァイなど)豊富な人材を道具のように酷使したりもしたが、音楽を通して(ヴァイなど)人に惜しみなく与えもし、敬愛されつづけるザッパ。しかし享年わずか53歳とは…
 プルースト(1871-1922/享年51)・ザッパ(1940-1993/享年53)いや、ヒゲと早世と子供時代の喘息以外とくに共通点ない二人だけど色々身につまされる…とプルーストを読みながら泣く舞村さん(仮名)。
 理想の音楽の追求は流通面にも関わる。業界でもいち早く独立レーベルを立ち上げ、好きなように作品をリリースできる環境を手に入れた。そして、せっかく自分は自由でレコード会社の顔色を気にしなくてよいのだからと、80年代初頭にプリンスなどが(猥褻な歌詞で)槍玉にあげられ進められた歌詞検閲との闘いを、わざわざ進んで買って出る。日本では冷笑勢が「ビートルズ(ジョン・レノン)の平和主義を揶揄した」と曲解して広めた「俺はデンタル・フロスの歌を作ったが、それで皆の虫歯がなくなったか?」も、本来は検閲に抗するためのレトリックだったはずだ。
 話を横滑りさせると、プリンスは90年代いよいよ所属レーベルとの関係が悪化し、頬に「SLAVE(奴隷)」と直書きし「Prince(1958-1993)」と墓碑銘のようなジャケットのアルバムを最後に「プリンス」という名前の使用すら止めてしまう。当時は奇行と呼ばれ(The Artist Formally Known as Prince - 元プリンスという新名称は当時ミームになったはずだ)ある意味で中年クライシスの典型症状でもあるけど、映画『ZAPPA』を観ると、また印象が変わってくる。なにしろザッパは言うのだ。音楽家を目指すなら不動産鑑定士の資格を取るべきだ、音楽で食べていかなくてもいいようにと。
 丁度この映画を観た頃、もう評価は不動なんじゃないかと僕でも思うような日本の一流ミュージシャンが、近年は音源制作がままならない、自分が信頼できる技倆の演奏者とアルバムを作ることが予算的にむずかしいと吐露していて(たぶんサブスクによる収益配分の変化などもあるのだろう)ショックだったのを憶えている。プリンス、ザッパ、それにまだ存命のブライアン・イーノとリチャード・D・ジェイムズ(エイフェックス・ツイン)…自分が知るかぎり、この四人は未発表の音源を山ほど持っていると言われる天才鬼才だけど、それもまた視点を変えれば、山ほどの楽曲を制作できてもなお、それを作品=商品として流通に乗せられるかは別という話かも知れない。採算とか損益分岐線とか。
 同時期(つまり2022年)に読んだアガンベンの芸術論を思い出し、表現者にとっての幸せって何だろう、と少し考えてしまった(ようだ、当時の自分は)。
 キャプション「個人的にはイーノ先生には「Windows95の起動音」の報酬だけで一生無理せず好きな音楽だけ作っていける収入があってほしい…買い切り・歩合制どっちだったんだろう←下世話」

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 ジョルジョ・アガンベン創造とアナーキー』(岡田温司・中村魁訳/月曜社)は薄くて(アガンベンにしては)とっつきやすげな一冊。冒頭のエッセイは、芸術は「芸術家」と「作品」どちらのものかと考察していて面白い。
 とっつきやす「げ」←とっつきやす「い」とは言ってない…と苦笑する「ひつじちゃん」の挿し絵。
 著者によれば古代ギリシャでは芸術は出来上がった作品に宿るもので、それを作る芸術家自身の身分は低かったという。それが中世ヨーロッパ=トマス・アクィナスの頃になると、世界を創造した神になぞらえ、人間も内なる芸術・自身のうちにある真実や善性を作品としてアウトプット=創造するという考え方に(次第に)移行し、20世紀には芸術は芸術家の行為・パフォーマンスに宿ると認識されるに至る。
 もちろんアガンベンの思索はもっと晦渋なんだけど、芸術の芸術性が作品にあるのだとすれば、芸術家自身は残余に過ぎないから身分が低かったのも分かるし、芸術を遂行する芸術家の行為こそが芸術なのだとしたら、作品こそが抜け殻の残余ということになる(のも理論的には分かる)。まあ無理に二項対立・三項鼎立(古代・中世・現代)にせず都合に応じて使い分ければ良くね?とイイカゲンな自分は思ったりするのだけれど、物語には物語の神様がいる=創作物の価値(芸術性なり何なり)は作家の外にある、という信仰なしに全部「私(たち)」の手柄という姿勢で創作ができるひとたちを僕はちょっとおそろしく思うほうなので、古代の考え方も、あるていど理解できる気もするのだった。
(とはいえ、物語は物語の神様が授けてくれる(アイヌ神謡集で神様が獲物となって人間のもとに来てくれるように)という信仰は、作者の無責任を保証はしなくて、同時に描いたものは自身を通したものであり、描かれたものに作者は全面的に責任を負うとも思っているのだけれど)
 はい、話が逸れました。戻します。

 芸術を作品による独占(古代)から解放し、作者に内から備わっている真実の表出とも考える中世とも訣別し、(ミサがキリストの奇跡の再現ではなく再現前・再演であってそのつど奇跡であるように)芸術もその試み自体が毎回あたらしい芸術なのだとした20世紀的な考えかたは、今度は商業主義と結びついて芸術・芸術家のパフォーマンス・そして商品の三者を同一視するようになった。俗にくだいて言うと「芸術とは芸術家っぽい振る舞いのことで、それはカネになる」。かかる現状をアガンベン先生は嘆いているようだ(たぶん)(晦渋なのよ)。それに対して、じゃあどういうのが望ましい方向なのかを示唆する結語はなかなかに美しい。彼は言う。
「芸術家や詩人というのは「そして実のところあらゆる人間は
「創造する力能ないし能力を所有していて
「あるとき意志の作用によって、あるいは神的な能力を受けて、その能力をはたらかせようと決心する者
「のことではない」

(パラフレーズ:芸術家や詩人だけが創造する力を所有していて、その行使が芸術になるわけではない。創造力は誰でも持ってる)
 芸術家や詩人とは(と言うより、あらゆる人間は)
「むしろ「周囲にある世界を用いると同時に自分の四肢を使用することによってのみ
「自分自身を経験し、みずからを生の形式として構成することができる生きものなのである」

 画家は絵筆を、コントラバス奏者はコントラバスを、そして世界と自分の四肢を用いて、自身の生の形式を表現する。そこで問われているのはキュレーターや、まして販売者にとっての価値ではないだろう。アガンベンは結語する。
「問われているのは「その人物の幸福以外の何ものでもない」
素敵じゃないか。

      *     *     *
 今日の日記(週記)の冒頭に書いた「知るとは、知の可動域が広がること」前にも同じようなことを考えたと思ったら、わりと最近じゃなくて5年くらい前。実話をもとにした『ボブという名の猫 幸せのハイタッチ』という映画だった。薬物依存に苦しむホームレスの青年が猫との出会いで生きる希望を取り戻す話なんだけど、猫がいれば万事快調ではなく、その存在ゆえ窮地に陥ったりもする。ただ、良いことも悪いことも、つまり可能性の幅そのものが広がる。縁とか救いとかって、そういうものかも知れないと感じたのだ。
 ボブが表紙のビッグイシュー日本語版と、せっかくなので最新号の書影。
 オープニング・シーンで最後の状況が提示され「どうしてそうなったか」以下のストーリーで経緯を展開する(多くの)劇映画と同様に、ドキュメンタリー映画『ZAPPA』は彼の晩年・1991年プラハのステージ映像で始まる。「ビロード革命」を成し遂げたチェコの文化特使に任命され、ソ連からの解放を祝うコンサートに招かれたザッパは
参考:フランク・ザッパはチェコの文化特使だった:彼と自由を求めた東欧諸国の深い関係(udiscovermusic.jp/22.4.16/外部リンクが開きます)
ステージで乞われギター演奏を披露する。自分の思い通りに「音楽する」ために流通もバンドメンバーも支配し、時には政府も敵に回したザッパが、そうやって作られた彼の音楽を・あるいは(アガンベン流に言えば)彼の20世紀な芸術家としての振る舞いを支持する人々にほだされ、身上だったコントロールを人生の最後の最後に手放した瞬間だった。僕としては、もう何もつけ加えたいと思わない。少なくとも今は。(しゃべりすぎました…)

      *     *     *
(24.2.20追記)Information is not knowledgeの伝・オリジナル版に(僕が)あんまり感銘を受けないのって「経験のみが知識にうんぬん」が、光の速さの列車やら落下するエレベーターやら実体験ではない思考実験の数々で理論を構築したアインシュタインにそぐわない(いかにもザッパらしい改変版に比べれば尚更)人となりが伝わってこない、せいではないかと思い当たるなど。実際にそう言ったのだとしても「アインシュタインが言った」は、皮肉だけどknowledgeやましてwisdomにならないinformationの模範例に思えてしまうのだけど、どうでしょう?

ヒトラーvsシモーヌ・ヴェイユ〜『根をもつこと』(24.02.11)

「イギリスが最も偉大なのは孤独であるときだ。そしてフランスは、自国のために戦うとき、フランスらしさを失う。(中略)人類のために戦うフランスは素晴らしいが、自分たちのために戦うフランスは何の価値もない」
アンドレ・マルロー(ブルース・チャトウィンによるインタビューより。チャトウィン『どうして僕はこんなところに』)

1)ブルース・リーvsシモーヌ・ヴェイユ
 人文系出版10社合同の復刊リクエストが今年も(とっくに)始まっている。
書物復権2024 リクエスト締め切りは2月29日(外部リンクが開きます)
毎年ここで各社の候補から気になるものを選んで、なおかつ「他に復刊してほしい本があれば」でシモーヌ・ヴェイユ『ギリシアの泉』(みすず書房)をリクエストしてるのだけど、今年はどうしようかなあ。ちょっと他の本を選ぶ集中力がない(お疲れ)し、たとえばロシアの若者が軍隊で「演習だよ」と言われて派遣された先がウクライナの戦場だった的な話が伝わってくる現在こそ広く読まれてほしい反戦エッセイ「『イリアス』あるいは力の詩篇」(2019年3月の日記参照)コレ自体はちくま学芸文庫か何処かのアンソロジーでも読めた気がする。でも集中力がないので(お疲れ)今パッとネットで探し出せない。やっぱりリクエストしておくべきか。
 書影『根をもつこと』。画像にかかった縞模様はブラインドの影。
シモーヌ・ヴェーユ根をもつこと(山崎庸一郎訳/春秋社/新装版2020/外部リンクが開きます)は冨原眞弓訳・上下巻で岩波文庫からも出ているみたい。ちなみに岩波の表記は「ヴェイユ」。
 「置かれた場所に根をもちなさい」みたいな人生訓かと誤解させる書名や「ぼくらはいま この世界とどうやって繋がればいいのだろうか?過去と未来をつなぐ魂のことば」といった帯の惹句からスピリチュアルな観念論を連想しがちだが、実はヴェイユの著作の中でもかなり政治色や時事性が高い。というのも本書、第二次世界大戦中ドイツの属国となったフランスから逃れたヴェイユがイギリスに置かれた亡命政府の要請に応えて書いた、根こぎにされた祖国をどう取り返すかという具体的なプログラム・提言の書なのだ。

 しかしまずは本書の英訳にあたり添えられたT.S.エリオットの序文を虚心に受け止める必要がある。
「どの程度まで、あるいはいかなる点で彼女に共鳴するか、ないしは意見を異にするかを考えて気を散らしてはいけないのだ。われわれはひたすら、ひとりの天才的な女性、その天才が聖者のそれにも似た一女性の人格におのれをさらさなければいけない」
1952年。英語圏ではまだ知れ渡ってなかったかも知れない、あまりに独自でエキセントリックとさえ思われかねない苛烈な思想家を、初っ端で拒絶されないため必要な予防線でもあったのだろう。けれど同時に、おおよそ書物や思想に、わけてもヴェイユのような存在にふれるとき、折々で思い出すべき心構えでもある。本に自分自身ばかりを読み出そうとしていないか、本の言うことをちゃんと聞いているか。
 としたうえで本文から自分にとっての見どころを抜粋するのは早くもエリオットの助言から逸脱してる気もするのだが、共鳴するか意見を異にするかで気を散らすより前に「おおお」と動揺してしまったのが
「思想の流通がおこなわれる世界、かつ、その思想を広めることをのぞんでいる世界は、週刊、半月刊、月刊の機関誌にのみ権利を有することになる(べきである)人間にものを考えるように求め(←強調は引用者)人間が白痴化することをのぞまないなら、これ以下の間隔はまったく必要とされない」
何を言ってるのか。思想つまりアレは正しいコレは正しくない・何が善で何が悪かといったイシューを人が「考える」には、ひとつのイシューあたり一週間や半月・一ヶ月の時間が必要なんじゃないの、ということではないか。それ以下の間隔で次々イシューを取り扱うとき、吾々は本当に「考えて」いるのか。140字に収まる誰かの意見を、10文字に収まるヘッドラインを鵜呑みにして「感じて」いるだけではないのか。
 『燃えよドラゴン』のブルース・リーDon't think, feel(考えるな、感じろ)」の名言を一撃必殺のパンチのように繰り出したけど
「考えるな、感じろ!(Don't think, feel)」と拳を突き出すブルース・リーの肩を後ろからつかみ「いーや少しは考えさせなさい」と青筋を立てるシモーヌ・ヴェイユの絵(この挿し絵はフィクションであり実在の人物には一切関係ありません)
※似顔絵が下手だと何か怒られたとき「いや別人ですよ?ブルース・リーこんな顔でしたっけ?」と言い訳できるので良い(良くはない)
※そういえば年末年始に千葉の実家に帰省したとき、地元エリア情報など載ってるフリーペーパーで、クロスワードのAからJまでつなげて出来る懸賞応募のキーワードがヒント「今年は辰年。竜にちなんだ映画の名台詞」とあって解いてみたらドントシンクフイールで感心した。さすがエリートを名乗るだけある(外部リンクが開きます)
 逆に吾々は「感じたばかりで済ませるな、考えろ」というメッセージも受け止める時期に来ていないだろうか―そんなことを「感じて」しまったのである。
 終章で蒸し返される「ある瞬間にブラジルの首府がどこかを知らなかったのに、つぎの瞬間にそれを学んだとするなら、彼は一つ余計に知識を得たことになる。だが、なんら以前より真理に近づいたわけではない」という一刺しに始まる、では知識が人を真理に近づける場合と近づけない場合の違いは何だろう?という問題設定も興味深いが、ヴェイユの「回答案」は割愛する。まあ読んだひとは「なるほど賛成するしないじゃなく聖者めいた天才」と慄くことになるでしょう。
 あるいは(現代では小学生でも古代の賢者より物識りだと言われるが)「教室で教えられる太陽は、子供にとって、彼が見る太陽となんらの関係も有しない」(から物識りでも何にもならない)という辛辣なパンチがいいとこに入った日には、(あの向こうに宇宙があるんだな)と少し謙虚な気持ちで朝の青空・日没時の夕焼け・星のない夜空を眺めたり。
 ・ここまで(1)のまとめ:『根をもつこと』―「読む」って何だろう(自分が読みたいことだけじゃなく、ちゃんと著者を受け容れてる?)・「考える」って何だろう(感じてるだけで済ませてないか?)・知識って何だろう、などなど、物を読み考える(そして書く)営みを基本から捉え直す契機が必要だなあと「感じ」させられる読書でした。

2)ヒトラーvsシモーヌ・ヴェイユ
 しかし今回の日記は後半も「考えた」に達しない「感じた」程度の感想に終始します。
 あらためて認識したのは、第二次世界大戦中にフランスで生まれた親独のヴィシー政権が少なくとも知識人(インテリ)層あるいは良心的な人間には耐えがたい恥辱だったことだ。昨年『欲望の現象学』を読み返したときも(昨年11月の日記参照)戦後のルネ・ジラールが、自身の唱えるセルバンテス以来の近代の病の終着点であるかのように苦々しく回顧してるのを見て「占領で作られた傀儡政権だし(国民あげてアメリカニズムに寝返った何処かの国と比べて)そこまで悲観することかな」と思ったりしたのだけど、ましてやヴェイユ、ユダヤ人のヴェイユ、英米軍のノルマンディー上陸(1944年6月)を知らずに亡くなった(1943年8月没)最晩年のヴェイユにとってもまた、母国の屈服とナチズムへの追従はフランス・ヨーロッパ・近代の「間違ってたところ」の帰結・総決算に思われたのかも知れない。
 そこからフランスを、そしておそらくヨーロッパ近代そのものを救う「新生フランス」の青写真については割愛する。T.S.エリオットが「賛否は後にして一旦受け容れて!」と予防線を張らずにおれなかった「聖人のような天才」の所業だとだけ仄めかして先を急ごう。

 なぜフランスは、ヨーロッパはナチスの台頭・ヒトラーの出現を許したのか。
 もっともらしく煽るなら、かつて「労働者階級が政権を奪取し生産工程を掌握しようと、各労働者に割り当てられるのが意義を感じられないほど細分化された流れ作業であるかぎり、疎外はなくならない」という痛烈なストレートでマルクシズム(レーニン)のダウンを奪った(自由と社会的抑圧/岩波文庫)ヴェイユは、ヒトラーをどう攻略するのか。
 キャプション:でも現実の桎梏を射貫く炯眼にたいして理想主義すぎる「その桎梏を除去できれば労働は人生唯一の目的にして喜びとなるはず」という信念とはまだ和解できない…(労働は素晴らしい・労働は真理・労働は神聖・そうでしょ?働け、働けとゾンビのように迫るヴェイユを「いやその労働であなた自身ボロボロになったじゃないですか…」と両手で遮る舞村さん(仮名)のイラスト。舞村さんのトレーナーの背中には「働いたら負け」のロゴ)
 そもそも「天才的なひらめきを見せる直観をのぞいては(中略)知的創意にたいする好みも能力も欠けていた」ヒトラーは、その優生思想・アーリア至上主義じたい、困窮の若い日々に彼が憎しみを刷り込まれた対象=ユダヤ人の選民思想から丸々借用したのだ(ヴェイユはわざわざ言及してないけど「千年王国」という発想もそうかも知れない)というのは最初のジャブに過ぎない。ワンツーパンチ。
 現実の脆弱な肉体としてはスターリニズムにもナチズムにも勝てなかった非運の天才が、思想のリングではまたしても一撃で宿敵を沈める。ナチスの独裁者にたいしてヴェイユが放つ看破の一撃は、ヒトラーをヨーロッパ近代への反逆者・進歩する世界の時代錯誤な敵・非理性の怪物とみなす大方の見方に反し、むしろ彼こそがデカルト以来のヨーロッパ近代の正当な嫡子・科学至上主義の完成者だという裁定だ。
 重力あるいは暴力・権力・そして経済力、エネルギー不変の法則に従うように自在に姿を変えながら、要は「力」のみが宇宙を支配する。それを「真理」として受け容れてしまった時点で、ヨーロッパは早晩ヒトラーを生み出す・ヒトラーに行き着くことも受諾したのだ。他ならぬヒトラー自身の勝利宣言を、ヴェイユは『わが闘争』から引用する。月が惑星のまわりを回るように、力のみが弱きものを従える世界で、人間だけが力の法則の例外者として自然を支配できるなんてありえない、人もまた自然の法則・力の支配に奉仕する運命なのだ…(要約)

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 いつも取り上げるたび前半のイーリアス論ばかり話題にしてしまう『ギリシアの泉』だが、その後半にはプラトンやソクラテス以前の「まだ哲学になっていない」と近代以降はいわれる神秘思想の再評価が示唆されている(本サイト日記「ソクラテスの師匠たち」参照)
 ヴェイユのローマ的なもの・カトリック的なもの・そして近代理性への不信と敵対心、それらによって(時には暴力的に)否定された神秘思想や異端への傾倒は、専門家には常識なのかも知れないけれど、いち素人の自分にとっては、まだ分け入ってない森のような、時間が許せば踏み込みたい分野ではある。個人的な話だけれど、笠井潔《矢吹駆シリーズ》最新作煉獄の時(文藝春秋/2022年/外部)を読んでヴェイユそしてスペインや南仏の異端という視点からシリーズ全体を見直す必要があるのかも、とも思い始めている。それは遅ればせながら・そしてカルトやオカルト・陰謀論に陥らないように気を配りつつ、(その建前が至る所で崩壊しはじめているように思えてならない)資本主義や近代国家主義を問い直すチャレンジにもなるだろう。
 ↑このへんは「あ、舞村さん(仮名)またウワゴト言ってるよ」と軽く読み流してくださいね…と苦笑いする「ひつじちゃん」
 …カルトやオカルトと言えば、冒頭に挙げたチャトウィン『どうして僕はこんなところに』にはドイツの作家ユンガーからの、こんな引用もあった。「ヒトラーの非凡さは、二十世紀がカルトの時代だと気づいたことにある。それゆえ、良識ある知性の持ち主には、ヒトラーを理解することも阻止することもできなかった」
 いっけんヴェイユと真逆のことを言ってるみたいだけれど、実は両者は同じことを言ってるのかも知れない。もしユンガーの言う20世紀の本質(カルトの時代であること)が、近代合理主義からの逸脱でなく、その帰結であったなら。西欧の勝利=技術万能・理性至上主義もまた、一種のカルトだったとしたら。
 (と、ドヤって終わるつもりだったけど余談↓)
 「真に勝利したのは、ナチズムではなかったか?」という柿本昭人『アウシュヴィッツの〈回教徒〉』帯文
 真に勝利したのは、ナチズムではなかったか?という柿本昭人『アウシュヴィッツの〈回教徒〉』(春秋社/2005年/外部)の問い、アウシュヴィッツという極限状況ですら見られたヨーロッパのムスリム差別を告発する同書の問いは、イスラエルが虐殺する側に回り西欧が加担する今、悲惨なほどに重要性を増している。本サイト20年3月の日記で同書を取り上げた時には、話が逸れてしまって(エリオット言うところの「気を散らして」しまったのだ)同書の核心であるイスラモフォビアの問題にキチンと向き合えなかったという反省がある。
 藤原辰史『ナチスのキッチン』(水声社→共和国)については比較的よく書けた・自分にとっての要点を抜き出せた気がしています。21年2月の日記参照。

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『アウシュヴィッツの〈回教徒〉』品切れなのか…リクエストしようと思ったら「書物復権」春秋社さんは不参加。重い本だけど古書店か図書館でどうぞ!

WE ARE NOT ALONE〜コン・ダーシャン監督『宇宙探索編集部』(24.2.3)

 WE ARE NOT ALONE(宇宙にいるのは吾々だけではない)は、いわゆるUFO・空飛ぶ円盤・異星人とのファースト・コンタクトを描いたスティーヴン・スピルバーグ監督の映画『未知との遭遇』のキャッチフレーズだった。1977年。ピンクレディーの「UFO」は翌78年のヒット曲だが、同名の日清カップ焼きそばは76年の発売。ちなみにアニメ『UFOロボ・グレンダイザー』は77年放映開始だがパイロット版は75年制作らしく(Wikipedia調べ)ははは、掘り起こせばキリがない。
 「1976年の『UFO戦士ダイアポロン』はUFOと(なぜか)アメフトがモチーフで、主人公がアメフト風ロボで戦ってる間、仲間たちはUFOから支援するみたいな話だった気がしますが、ほら話すとキリがない」というキャプションに「操縦じゃなく主人公がロボと合体・巨大化してロボと内側から一体化して戦う異色作でした」という図解。ダイアポロン、頭部の前面についたヘッドプロテクターがアメリカン。
フィンガーファイブの「恋のアメリカンフットボール」が1974年だからUFOと一緒に(一緒でもないだろうが)アメフトもブームだったのかも知れないけど、だから話を広げるなと言っておるのだ。要するにスピルバーグの映画もUFOというネタ自体、ALONEではなかった。

 ギリシャの太陽神はアポロではありません(←この台詞の直後、救急車で搬送)
 漢字で書くと孔大山、孔子の子孫にあたるというコン・ダーシャンは70〜80年代のUFOブームを当事者としては知りようもない90年生まれ。今年はじめての映画、とゆうか半年くらい映画館に足を運んでなかったのですが『宇宙探索編集部 JOURNEY TO THE WEST』を地元ヨコハマのミニシアターで観てきました。
 北京電影学院(大学院)の卒業制作がスマッシュヒット、といっても世界で770億円の興収を記録したという『流転の地球』のグオ・ファン監督などが支援した本格作品。でもタッチは手作り風。どっちだ。むしろ「長篇デビューが人間ドラマに主眼をおいた異色SFの佳作」という意味で、ダンカン・ジョーンズ監督『月に囚われた男』が好きだった人はまた琴線に触れるかも知れません
 『宇宙探索編集部』パンフと、アポロつながりでアポロチョコ。
 とはいえ話のベクトルは正反対。無機質な月面基地が舞台の『囚われ』とは真逆に『編集部』は北京郊外・オンボロ公営住宅の二階から始まる。数十年前のUFOブームで一世を風靡するも今は暖房費も払えない雑誌『宇宙探索』の事務所。各所でフェイク・ドキュメンタリー風と呼ばれているけど、手持ちカメラで細かく細かく切っていくカット割りが異様にテンポいい。「異様にカット割りのテンポがいいインディペント作品の佳作」という意味で『リバー、流れないでよ』が好きだった人の琴線にも触れるかも知れません
 地球外文明との科学的接触を大真面目に夢みつづける編集長=主人公の宝物「本物の宇宙服」をめぐる冒頭5分のエピソードだけで会員デー料金1100円の元が取れるくらい可笑しい。けれどもちろん映画は始まったばかり。三国志でいう蜀のあたり、田舎の村で謎の怪光が目撃され(日本の狛犬さんみたいな)獅子像の口中にあった取り出せないはずの玉が消えた(村人たちは菩薩が現れたと騒いでいる)という情報を追って「宇宙人の仕業に違いない」主人公と編集部員たちは最後の貯えをはたいて西に向かう←あらすじだけ書き出すと「バカなの?」と思われるかも知れませんが、
 不要かも知れませんが今週は画像が少なくて
寂しいので故宮博物院(台湾)の獅子を参考に。口中に玉はないかわり前脚で押さまえてます(写真)。
空飛ぶ円盤や異星人とのコンタクトを信じ続ける主人公が世間的に残念なひとなのは間違いない。「墜落した円盤の乗組員の遺体を冷凍保存してある」と主張するおじさん(かつて中国に実在したらしい。世間を騒がせた罪で5日間拘留)に「見たければ520元(日本円で1万円強)」と言われ、停めようとする編集部員を振り切り520元を払ってしまう主人公、たしかにUFO雑誌の主幹以外に何かを任せてはいけない人な気がする。
 それはSFなのか、と思う人もいるだろう。正直なところ僕じしんSFを期待して観に行ったわけではなかった(こらこら)。だが話が進むにつれ、主人公の残念さ具合(毒キノコに中たったりする)も周囲のてんやわんや(感心するほど絶妙にテントが丸焼けになったりする)つまりコメディとしての可笑しさはキープしたまま、宇宙人だか菩薩だかは分からないけど何かあるらしい(でもうさんくさい)機運は高まっていく。人里を離れた山中に分け入り、監督はこの珍妙な聖杯探究譚にどうオチをつけるのか?
 「なんかしっちゃかめっちゃかな聖杯探究譚にあぜんとするオチがつく」という意味で、『モンティ・パイソンのホーリーグレイル』やアレハンドロ・ホドロフスキー監督『ホーリー・マウンテン』が忘れられない人にも向いてるかも知れません…

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 いろいろ引き合いに出したけど、そしてどれもコジツケな気もしますが(こらこら)「○○に似てる」とか考えなくていい、すぐれてオリジナリティのある好篇でした。少なくとも自分は、冒頭に引いたWE ARE NOT ALONEという言葉を心のなかで何度も反芻せずにはいられなかった。円盤に乗った異星人のことではない。この宇宙のどこかに―ではなく、同じ地球・同じアジアの・ともすれば「習近平の悪の帝国」で済まされがちな隣国にも、こんな残念無念な人(人たち)がいる、それはまあフィクションの主人公なんだけど、いるんだなあ、「私たち」は孤独ではなかったよと、しみじみ嬉しくなってしまったのだ。
 UFOに限ったことではない。今週のまとめ:『宇宙探索編集部』、夢や理想で人生(半生)を棒に振ってしまった(かも)と時に途方に暮れがちな人にオススメかも知れません。
 夢がかなった!だと(自分はそうではないし…)と共感できない、といって夢は夢でした…では単に物悲しい、そういう意味でも「どうオチをつけるのか」本作の落とし加減は絶妙。言い替えれば(たとえば『エブエブ』とかでなく)本作に「招かれた」「この結末に救われた」「この主人公は自分そのものだ」と思えてしまう人は、ちょっと心配な気もしますが…
 
 世の中には、とゆうか時には一人の人間の中にさえ近隣愛と遠心愛があって、家族や身内・仲間を大切にしようと思う気持ちは異物を排除し(もっと悪いことには異物を排除することで身内の結束を高め合う)差別や縁故主義につながる反面、遠い北京の(それも架空のキャラクター!)偏屈おじさんや異星人にまで共感しがちな遠心愛は半径10mの隣人と上手くやっていけないミザントロープと表裏一体だ。しかしそれらは機会を改めて考えることにしましょう。

 物語を牽引する謎の答えに最も肉薄し、いわば皆の一歩先を行く若者(頭に鍋をかぶっているのだが)に主人公が投げかける「もし君が(私より先に)異星人に逢えたなら、訊いてほしい」という問いと、それに応じた鍋少年の答えが忘れたくない好さだった。WE ARE NOT ALONE =WE ARE ALL ALONE。1976年のヒット曲。聴いたことないけど。
 そしてそれまで田舎の木々や牛やロバや畦道ばかり手持ちカメラで捉えていた映画が最後の最後にSFらしい映像を炸裂させる。あーこういうことね(知ってた)かも知れないけれど、何度も繰り返された結末をまた現代にふさわしくリニューアルした、きれいな結末だったと思います。
 ★映画『宇宙探索編集部(ムヴィオラ公式/外部リンクが開きます)

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