まんがなど
(26.05.28更新)
『台湾でしたい50のこと』更新。
    *  *  *
台湾でしたい50のこと
第3話 更新
(26.07.26)



発行物ご案内
(19.12.01更新)
更新とどこおってます。
電書化、始めました。
電書へのリンク
こちらから
、著者ページが開きます。

過去日記一覧(随時リカバリ中)

過去日記キーワード検索
終了しました(22.11.19)
Author:舞村そうじ/RIMLAND
 創作同人サークル「RIMLAND」の
 活動報告を兼ねつつ、物語とは何か・
 どんなメカニズムが物語を駆動し心を
 うごかすのか、日々考察する予定。

【最近の動向】
当面は新刊がない予定です。

WebまんがSide-B遅々として更新中。

小ネタですが本篇更新。三年ぶり。(23.12.24)

旧サイトは2014年8月で終了しました(お運びいただき感謝)。再編集して、こちらの新サイトに少しずつ繰り入れますが、正直、時間はかかると思います。

[外部リンク]
comitia
(東京名古屋新潟関西みちのく)
あかつき印刷
POPLS

日本赤十字社

愛と劣情の馬たち(Instagram)

if you have a vote, use it.(save kids)


港の上に広がる空の写真を背景にロゴ「MY税金 MY CHOICE 防衛所得税 導入反対」
ロゴは勿論「MY BODY MY CHOICE」が元ネタなので、流用すな・簒奪やめいという場合は修正します。(24.12.13)

(26.09.05)逆になぜこの長さの話が小ネタで納まると思った自分。先日の小ネタを仕立て直してメイン日記(週記)更新。人類学の「原初的負債」という概念から、予想外に広がりました。画面を下にスクロールするか、直下の画像をクリックorタップ、またはこちらから。


(26.09.07/小ネタ/すぐ消す)秋刀魚タイム。
 写真。細長い四角皿の上に乗った秋刀魚の塩焼き大根おろし添えと、麦入りごはん。
『台湾でしたい50のこと』第三話『桃園で傘を買う』アップしました。下の画像か、こちらから。

もう隔月でいいと思い始めている。
ふだんづかいできる反差別Tシャツがあると自分が便利なので作りました。わりと厚手で丈夫です。

【電書新作】『リトル・キックス e.p.』成長して体格に差がつき疎遠になったテコンドーのライバル同士が、eスポーツで再戦を果たす話です。BOOK☆WALKERでの無料配信と、本サイト内での閲覧(無料)、どちらでもどうぞ。
B☆W版は下の画像か、こちらから(外部リンクが開きます)
電書へのリンク

サイト版(cartoons+のページに追加)は下の画像か、こちらから
サイト内ページへのリンク

扉絵だけじゃないです。side-B・本篇7.1話、6頁の小ネタだけど更新しました。

(外部リンクが開きます)
今回ひさしぶりにシズモモの過去エピソードを見直し「やっぱり好きだな、この話とキャラたち」と再認できたのは幸せなことでした。そして色々あったり無かったりしても、ペンを持って物語を紡いでいる時が、自分は一番幸福らしいとも。次に手をつける原稿は(また)シズモモではないのですが、何しろ描くことは沢山あるのです。
ちなみに今話タイトルの元ネタは井上陽水の「愛されてばかりいると(星になるよ)」。同曲が収録されたアルバム『ライオンとペリカン』のB面(side-B)に入ってる「お願いはひとつ」は個人的に一番好きなクリスマスソングの最有力候補です。レノンと争う。
RIMLAND、電子書籍オンリーですが20ヶ月ぶりの新刊『読書子に寄す pt.1』リリースしました。
タイトルどおり読書をテーマにした連作に、フルカラー社畜メガネ召喚百合SF「有楽町で逢いましょう」24ページを併催・大量リライト+未発表原稿30ページ以上を含む全79ページ。頒布価格250円(+税)で、一冊の売り上げごとに作者がコーヒーを一杯飲める感じです。下のリンクか、こちらから。『読書子に寄す pt.1』電書販売ページへのリンク画像
書誌情報(発行物ご案内)はおいおい更新していきます。(22.11.03)
【生存報告】少しずつ創作活動を再開しています。2022年に入ってから毎週4ページずつ更新していたネーム実況プロジェクト、7/29をもって終了(完走)しました。
GF×異星人(girlfriends vs aliens)

これまでの下描きは消去。2023年リリース予定の正式版をお楽しみに。(2022.08.08→滞ってます)

原初的負債と、しっぺ返し〜『可能なるアナキズム』『植物は〈知性〉をもっている』(26.09.05)

 最近の論調とゆうか雰囲気では『贈与論』(実は後回し後回しにして未読)のモースとアナキズムを結びつけるのは常道な感じがしていたので「元々そうではなかった」(彼が生きてた頃はアナキズム≒黒色テロなイメージだった時代的制約もあり)モース本人はアナキズムに冷淡だったという前提から、「にも関わらずモースをアナキズムの文脈に果敢に位置づけ直す」のが(ややこしくてスマン)山田広昭可能なるアナキズム マルセル・モースと贈与のモラル』(インスクリプト2020年/外部リンクが開きます)。かの大マルクスや、実はモースの叔父でもある社会学の祖(の一人)デュルケームから、ポランニーや柄谷行人、『国家に抗する社会』のクラストルや『負債論』(未読)のグレーバー・『ゾミア』のスコットまで、逆にさまざまな思想家・学者が「贈与」をどう捉えてきたかを詳らかにする、良質なガイドブックでした。
 敷きつめられた真っ赤なサクランボの写真が目を惹く『可能なるアナキズム』表紙。
ちなみに数行「友情出演」的な感じでドゥルーズ=ガタリも出てきて「おお」と思ったんだけど、「おお」も何も逆に自分などはD=Gが『千のプラトー』で言及してたのがキッカケでクラストルを読むようになったクチなので、久しぶりに答え合わせというか「自分の関心の進めかた、あながち間違いでもなかった?」と…まあ個人の思い出なんざどうでもいいんだ
 こちらは真っ赤な花びらに赤いオウムの写真が目を惹く『国家をもたぬよう社会は努めてきた クラストルは語る』(酒井隆史訳・解説)の表紙。文化人類学×アナキズムの本って、もしかしてこういう美麗な表紙が流行りとか…?(サンプル二冊じゃん)
 言い替えると、この人を結びつけていいなら、あの人だって結びつくのでは?と各々の関心領域によって補助線が延びる・口を出したくなるのが本書の功徳で(要はココからが今日の本題)個人的にはモース『贈与論』の根幹にあるという「原初的負債」つまり人は生まれながら(この世に存在できている・一人前になるまで養ってもらった)「借り」を世間やら社会やら・わけても死者やら「神」やらに負っている=だから自分も他人に贈与して恩恵を返していかなければいけない、という概念を読み知って、それって(ついこないだ関連書で触れなおした)レヴィナスの思想じゃんと。
 ここでワンクッションのキャプション「すごく雑駁に、そして卑俗にくだいた話なので見当違いだったら大変に申し訳ありません」。ニガムシを噛みつぶす…とまでは行かないまでも心苦しげにシカメ面する羊帽の女の子「ひつじちゃん」の挿し絵つきで。
 「レヴィナスじゃん。完」では不親切が過ぎるので(自分が知ってることは皆が知ってると思うなよ)雑に俗に説明すると人類は、神みずから天地創造した「世界」を譲ってもらって=おかげで「存在」できてるという圧倒的な負債・負い目を(神にたいして)持っているのだが、なにしろもう神は譲った「世界」を退いてしまっているので(神に直接)負債を返すことはできない、そこで人類は寡婦や孤児や異邦人を歓待することで=譲ってもらった「世界」を楽園にすることで恩を(負債を)返すしかない―というのがレヴィナスの思想であるらしい。違ってたら本当にスマン。
 当然ここにはホロコーストを生き延びてしまった彼の、彼を含む多くのユダヤ人の、死者にたいする負い目が投影されてもいただろう。「自分は○○だから(ex.道徳的にすぐれた人間だから)救われた」と自己正当化できないほど、自分より立派な人も、逆に救われるべき子どもや弱者もひとしなみに殺されてしまった時「ならば自分(たち)は自分(たち)が生き延びたことには意味があったと事後的に証明できる生きかたをしなければならない」と考えた人たちがいた。たとえ今のイスラエルがその対極にあるとしても、かつてそのように考えた人たちはいた。その悲壮な決意が、あるいは光州事件を受けた80年代の韓国で私は幽霊が存在することを信じる幽霊が私に「つぶて」を持たせたという形で「非同時」多発的に生まれたことを吾々は知っている(21年3月の日記参照)
 もちろんマルセル・モースとアナキズムの接続をはかる本が、レヴィナスや李珍景まで手を回したら収拾つかなくなるだろう。けれど読む側が「そっち方向」まで話を引っかき回すのはアリかなと思った次第。

 『可能なるアナキズム』に話を戻すと、
 古くニーチェやグレーバー、それに著者自身は(実は)この「原初的負債」にネガティブだ。特にその「借り」感覚を国家や共同体が簒奪し「貸し」として成員を隷属させる可能性への著者の強い忌避感と警戒心は、集団への疎外感と憎悪に半生を焦がしてきた自分も共鳴すべきものだろう。
 けれど同時に「国家」に抗する「社会」とか、「何も共有しない者たちの共同体」といったキーワードを知ってしまった今では、国家の必要性そのものは信じていたらしいモース(こう書くとたしかにアナキズムじゃないですね)ほどポジティブにはなれないにしても「原初的負債」あるいは単に「負い目」という感覚は、それこそ身も知らぬ他人への親切みたいな形で、「集団への献身に回収されるのとは別の仕方で」活かせるのではないかと考えはじめている。
 その意味では、改めて【こういう処で恩を押しつけられるの窒息しそうに苦しい人もいらっしゃるだろうことは理解していたいが】「社会学や近代思想は近代的個人の理念型として無人島に自活するロビンソン・クルーソーみたいな自主独立人を想定するけど、なんでそいつオムツを替えてもらったことありません最初から大人でしたみたいな顔して存在してんだよ、人類の誰ひとりとして物心つくまでに誰かに食から排泄まで世話してもらってない奴なんていないだろ」て(少なからずフェミニズム的視点から)タンカを切ってたの、誰だったか思い出せないかなあ…
 というわけで(?)『可能なるアナキズム』刊行当時にリリースされていた対談は、これから読みます宿題です:
[対談]マルセル・モースと贈与のモラル 森山工 山田広昭(インスクリプト公式/外部リンクが開きます)←途中まで読んでます。今ここに書いてる駄文よりずっと面白く、ためになると思います…

      *     *     *
 すでにかなり加筆してるのだけど、元は長めの小ネタとして書いた、以上のような話に加筆を重ねてメイン日記=週記に格上げしようと思ったのは、この「原初的負債」で思い出した、もう一冊の本があったからだ。
 7月の小ネタで軽くふれた、ステファーノ・マンクーゾ+アレッサンドラ・ヴィオラ植物は〈知性〉をもっている 20の感覚で思考する生命システム』(原著2013年/久保耕司訳・NHKブックス2015年/外部リンクが開きます)は、古来(人類を頂点におく)生物のピラミッドで下層の存在と侮られてきた植物が、下等でもなければ愚鈍とみなすべきでもない、端倪すべからざる存在だと説く好著だ。早い話が葉緑素を持たない人間はじめ動物は、太陽エネルギーを栄養素に変えてくれる植物なしには生きられない。食物だけでなく、衣服をつくる繊維も、家や家具になる木材も、思考を書き留める紙もみな、植物が太陽エネルギーを変換することなしには得られなかったものだ。
 けれど同書でとくに心を打たれたのは、いま吾々を何重にも悩ませている化石燃料=石炭のみならず石油も、元は植物プランクトンの死骸の滞積だという一節だ。なんのことはない、いま吾々が石油だナフサだガソリンだと思っている物も、植物のはたらきで蓄積可能な形に変換され・じっさい何億年も蓄積されてきた太陽エネルギーに他ならないのだ。
 自分が、あるいはヒトが生まれながらに負っている「原初的負債」と言われて、この「植物への負債」を思い出さないのは、こと自分にとっては難しいことだった。ぐうぜん手にした本が、読み手それぞれの必然を作る、読書とはそういうものだろう。
 『植物は〈知性〉をもっている』書影。表紙イラストの、樹が生い茂る花が咲きみだれる緑ゆたかな地表と同じくらい大きく描かれた「根っこ」が「私たちを支えている、見過ごしてる部分の大きさに謙虚になれ」という本書の主題をよく表しているのです。
 マルセル・モースによれば「贈与」という言葉には「毒」という意味もあるらしい。贈与が負債を生み隷属を生むとか、より贈与したほうが優位に立てることからポトラッチのような蕩尽合戦が始まるとか、文化人類学的な意味で「贈与=毒」であることについては(この週記では)措く。その毒がむしろ「戦争よりはマシなポトラッチ」みたいな形で暴力回避に用いられている(らしい)ことも措く。薬が毒でもあるという「パルマコン」についても。
 ただ、むしろ専ら受け取る側(人間)の受け取りかたの下手さによって、化石燃料という自然の、植物からの贈与が毒と化しているのが21世紀の現在だというのは、本サイトを見てるくらい世をすねてる人なら(失礼)同意いただけることではないだろうか。20世紀の後半には、その枯渇によって現代文明を破滅させると言われた化石燃料が、実は真逆に?明後日の方向で?地球温暖化・気候変動という「別のかたちで」人類を危機の淵に立たせるとは。下手っぴの代表格みたいに愚かしい為政者の、ポトラッチより破滅的で愚かな戦争によって起きている石油危機・生活への圧迫については言うまでもない。
 もちろん(もっぱら楽しみのために)山ほどの紙を浪費し蕩尽し、自動車用のガソリンどころかジェット燃料まで燃やして生きてきた自分が高みから説教する資格はない。けれど、言うなれば近現代になって急に使えるようになった化石燃料という贈与を、ただ浮かれて燃やして(さらには気候変動を招いてmountains crumble to the seaさせたりして)自滅するのでなく「化石燃料は、それを上手く使って発展した現代文明で太陽光発電とか風力とか、植物を介さず太陽エネルギーを直に使えるシステムを定着させるまでの、いい「つなぎ」だったよねと振り返れる未来を作ることも出来たのではないか。
電気代たった800円。世界最大の電気飛行機、27分の初フライトに成功(Kenji.P.Miyajima/GIZMODO/26.08.31/部リンクが開きます)
なんて記事を読むと、そんな「未来」はギリギリまだ可能ではないか、なんて楽観的な気持ちになってしまう。ここ100年か200年くらいで作られた儲けのシステムを変えることが出来なくて真っ先に破滅しそうな本邦では、体験できない未来かも知れないけれど。

 
 これは「原初的負債」から少し焦点がズレるので(追記)扱いにするけれど、先月の日記で宿題にしていた(?)トマス・ラカーセックスの発明 性差の観念史と解剖学のアポリア』(原著1990年/高井宏子+細谷等訳・工作舎1998年/外部リンクが開きます)を図書館で借りてきて読んでる処。なにしろ「これ貸し出し期間中に読み終わらなかったので延長させてくださいとカウンターで言うには恥ずかしすぎる本なので、今おおいに焦りつつ読み途中なのですが
 『セックスの発明』書影。タイトル部分だけでもカバーなしに往来で読めないくらい恥ずかしいが、実は画像には入ってない装画がもっと恥ずかしいポール・デルヴォー
 残念ながら(?)エッチな気分には全然ならない。ある意味ミシェル・フーコーの『言葉と物』と『性の歴史I』を橋渡しするような主題の本で(実際『言葉と物』も参照されている)面白いっちゃ面白いのですが、先月の日記でも書いたとおり、面白くないのは「かなり最近(17世紀くらいまで?)男女は生物学的には別の性別ではなく、一種類しかない性(セックス)の程度問題だった」という過去のエピステーメー(世界観)が現代に比べて良かったとは少しも思えず(その点で「中世ヨーロッパは近現代よりずっとマシだった」と主張できるシルヴィア・フェデリーチや、「未開と呼ばれる人たちは国家に至れなかったのではなくて暴力の害毒を避けるため意図的に国家を回避したのだ」と主張できたクラストルのように幸せではない)ラカーが描く「ワン・セックス」の世界は「男も女も性はひとつだが、パワーがあるので性器が表に出たのが男・劣っているので内に引っこんだのが女」「女とは劣った男」という現代において代替にも何にもなりゃしない男尊女卑の価値観なのだった。(あ、ただ近現代=ツーセックスの時代に流布した「女性に性の快感はない」という説が否定されてるのだけはポジティブに興味深いかな…かわりに「女のほうが淫乱」みたいに言われてるので一長一短だけど)
 それでつくづく思ってる(読み途中で現在進行形)のは、この「女は劣った男」という男尊女卑の構造って、「生物のピラミッドではヒトが頂点で植物は底辺(実際には植物なしにはヒトなんて生きてもいけないのに)」と似てるなあって。や、生物学的にはオスとメスに優劣などない・のかも知れないけれど(逆に福岡伸一『できそこないの男たち』は「生物学的にはオスはメスより劣ってる」という大胆な提言で、すべて鵜呑みは危険なのはともあれ興味ぶかいのですが)
 
 男性と女性、ヒトと植物、資本家とワーキングプア、独裁者と臣民、宗主国と植民地、元宗主国と元植民地―後者に依存しているのは前者なのに、逆に前者が後者を「劣ったもの」と見下し威張り散らす構造。なんなんでしょうね。

小ネタ拾遺・26年8月(26.08.31)

(26.08.05)あるよと言われたら「そりゃあるよね」と納得の、ミルクじゃなくて脱脂粉乳と植物性油脂で廉価なコンデンス「クリーム」。輸入元はお馴染み神戸物産・ということは原産地は…と確認してコレも納得。Made in ベトナムでした。
 写真:トマトとサバのカレーに、宇治金時のかき氷、コンデンスクリームのチューブ。
 納得できないひとは「ベトナムコーヒー」で検索。

(26.08.02)生きてきて初めて、ドライイーストでふくらました生地をパンに焼いて、自分で育てた野菜を収穫している。客観的に今夏の自分すごく面白くないか?
 左から:イースト菌で膨らんだ米粉の生地・こんがり焼けた米粉のパン・収穫した空心菜・を湯通しして胡麻油と醤油膏で和えたもの。
 主観的にはバーンアウト寸前なのだが(このままでは壊れると思ってる時あなたはすでに壊れている、て誰の言葉だったっけ?)。肺活量が枯渇して本来あがっていいはずの悲鳴も出ない(けど外面的には穏やかに見える)状態が続いている。

(26.08.01)今の仕事、面白いけど「面白いと思わなきゃやってらんない」くらい疲弊するんですわ、脳が。これはたまらん、いま必要なのは糖分じゃなくてビタミンだ!レバニラ!と退社するなり最寄りの中華に駆け込んだら、月末で金曜の夜て条件もあったんでしょう、自分以外は十数名単位の「うぇーい」みたいな人たちで、そうゆうお店で、あ、すみません、お呼びでない客でした?いやだってさ、定食を頼んで小皿に山盛りのピーナッツがついてきたの初めてですよ?面白いけど完全に「ビールも飲むよな」って布陣でしょ?
 品川某所のレバニラ定食。たっぷりのごはんにどっさりレバニラ、玉子とわかめの中華スープに杏仁豆腐、そして小皿に盛られたピーナッツ。
 レバニラは大変おいしゅうございました。「自分はアウェーかも知れないけど、このお店のレバニラは推せる」レベル。それだけ疲弊してたって事かも知れませんが。8月。あ、いや食べたのは7月末日なんだが

(26.08.04)地震に見舞われた熊本のショッピングモールで会社が従業員を店内に戻らせたところで爆発が…という話で、どうしてもセウォル号の事故を思い出さずにはおれない。言わずもがな、な事かも知れないけれど、あるべき文脈(仮。もっと適切な言葉があるのでしょう)に位置づけておくことも追悼なのだと思うので。


(26.08.10)靖国神社で軍人コスプレ禁止と仄聞しても、世の中が好い方向に進んでる雰囲気が皆無では、逆にナチスが台頭する過程で突撃隊だっけか?が切り捨てられた先例しか思い当たれず、寿ぐ気にはまったくなれない。

(26.08.11)相変わらずメンタルが崩壊寸前=気を抜くと苦い記憶や悲観・被害妄想や自罰感情ばかりワーッと襲ってくる精神状況で(つまりどう考えても外的状況よりその悪い面ばかり捉えてしまう内面の不調と思われる)セロトニンを補給しようとバナナを買ってきたり、少しでも自己肯定感を上げようと毎日それでも出来てること「毎日1ページずつ中文の本を読み進めてる」「それでも朝食と昼食は自分で調理して準備してるぞ」に「電動歯ブラシで歯周をケアしてる」をつけ加えることにしたと思し召せ。
 写真2点。左;「夕餉は時々サボっちゃう…」のキャプションとともに「なぜラー(なぜ蕎麦にラー油を入れるのか)」の大根おろしそばの写真。右:円形ブラシの「オーラルB」の電動歯ブラシ。
てゆうか三ヵ月に一度の歯科検診がいつにも増してボロボロな結果で一念発起、近所で特価底値だった○ral-B(いちおう伏せ字)を購入。三ヶ月後の自分に期待なのだけど、ネットで確認したこの電動歯ブラシのレビューに「一回のブラッシング時間が2分なので、自分で3分磨いていたより時間が節約になって良い」そんなか、そんな余裕ないんか。なんか自分以外の日本人も、みんな病気か、病気寸前じゃないのか…

(26.08.12)心が弱ると哲学にすがったりするわけで?内田樹レヴィナスの時間論(新教出版社・2022年/外部リンクが開きます)は同社『福音と世界』(自分も時々しか読まないのだけど、実は「産獄複合体」とか「ストリーミング(見せ物化)されるパレスチナのジェノサイド」とかハードコアな記事を軽々掲載する侮れない月刊誌)の連載をまとめたもの。中盤あたりまで読み進めたところ
 書影。『レヴィナスの時間論』と『福音と世界』を並べてみたりする。
 ハイデガー(未読)を頂点とする西欧哲学の「日常への頽落を断ち切って、真の実存に目覚めよ」という思想に対し、レヴィナスは哲学が邪魔物と斥ける日常の煩わしさ(仏教が言うところの八苦ですな)の只中にこそ、むしろ実存と哲学の契機があるのだと説いているようだ。日常を軽んじるなと。
 で、それを噛み砕いて本書が「貨幣の幻想性を語る書物の著者も印税を貨幣で受け取ることは拒まないし、国家は擬制であると語る人も海外でその所説を講ずるためにはパスポートを申請する」そして「絞首台に登る階段で躓(つまず)けば死刑囚も転ばないようにバランスを取る。死刑囚に向かって「あと少しで死ぬ身なのだから、今ここで転ばないようにすることには何の意味もない」と言っても、死刑囚にバランスを取ることを禁じることはできない(強調は引用者)と書いてあるのを見て―そんなこと言われたら思い出さざるを得ないでしょう、みんな思い出しませんか、石田三成を
 もう二ヵ月もすれば今年もまた柿を手に取るたび彼のことを思い出すに違いないのだけど、こんなところでも三成ですよ。あらためて、当人には何のなぐさめにもならない気もするけれど、当人が死しても記憶に残りつづけることの不思議さを思ったりしています。レヴィナスの話をするのかと思って読み進めたひと、こんな展開でごめん(哲学とは…?)

(26.08.15)Her aim is true.小宮りさ麻吏奈特別読切『とうめい(トーチweb/26.08.14/外部リンクが開きます)完璧です、参りましたと白旗をあげても(8月15日だし)いんだけど、少しだけ言わずもがなのことを書いておくと描く対象がキチンと目の前の現実ですごい。冒頭ポテチとアクスタの連打で、もう感心してしまった。
 たぶん今日はコミケでもあると思うんだけど、あそこに並ぶ作品の多くが現実離れした架空の世界のルールに(律義に)則って異世界だの百合だの「わからせ(知らないひとは知らなくて全然よい)」だのを描いたり読んだりしてる中―僕もそういう架空世界を享受する側でもあるので完全否定はしないけど―いま目の前にある世界をきちんと見て、それをメッセージ性のある作品に昇華させている。意地悪くいえば、強烈なサタイア(風刺・皮肉)だと「とうめい」な世界で唯一提示される「色」を目に思わされる。Her(herですよね)aim is trueと。
 …かえって分かりにくくなっちゃいましたかね。分かんないよと思ったひとは百聞は一見に如かず、ということで作品のほうを
 そしてくどいけど、コミケに並んだアレやコレやと同様、今日8月15日を靖国参拝の日だと思っている人たちが見てるのもまた非現実な架空世界なのでは、だけ申し添えておく。たとえ描かれる世界は非現実でもコミケやオタク関連の経済効果(そしてそれに消尽させられる人たち)が現実なように、靖国やレアアース・男系天皇あるいはMake America Great Againなども唱えてることは非現実そのものでも(今度はトラ公「ホルムズ海峡は米国の領土」とかほざいてるそうな)その影響は現実となって弱い者をもろに直撃する。「そんな弱者は知らん」「別に迷惑してないし」と嘯(うそぶ)けるひとは、それは単に自分がまだ「迷惑をかける側」にいるだけかもと省みたほうがいい、年に一度、8月15日くらいは。
 『とうめい』の熱さに当てられたひとは、同じトーチwebのZONニーハオ、おいしい東京日和。(外部リンクが開きます)でクールダウンするも良し。ヘチマおいしそう。

(26.08.16)ミャンマー「春の革命」から店名をとった日暮里のSRR(Springtime Revolution Restaurant)(公式/外部リンクが開きます)は本国の民主化運動を支援する目的でつくられたレストラン。本場現地の味と評判の高いランチビュッフェを食べてきました。
 写真。左から・空心菜とキノコの炒め物・鶏肉と鶏卵のカレー・バサ魚のカレー、じゃがいもの辛味炒めとごはん・バサ魚のアップ。
 メインのカレーはカレー「炒め」な按配で日替わりでこの日は鶏肉・鶏卵・そして白身魚。脂の乗った白身魚がおいしくて店員さんに伺ったところ(表のメニュー看板に書いてあった…)バサ魚というナマズの仲間。別の具材が出される日には、またその美味しさがあるでしょう。個人的にはこのバサ魚にありつけて幸運でした。この日はじめて食べたヒヨコ豆の豆腐の揚げ物(写真まんなか・タケノコみたいな色で四角いやつ)とミャンマー料理の定番・夕顔の揚げ物も好吃。
 写真、左から溶き卵たっぷりのモヒンガー、店舗の外観・ランチバイキングの中身を書いた黒板。
 これもナマズ・の出汁をきかせたスープにお素麺くらいの細麺をつけて食べるモヒンガーは土曜ランチのサービスらしく、これもラッキー。もっと辛いメニューになる日もあるらしいけれど、この日はマイルド・けれど本格ミャンマーの味を堪能しました。お会計は現金のみ。

(26.08.17)「お盆休み延長して!」 公民館の入り口“封鎖”する南箕輪村の伝統行事「盆正月」(信濃毎日新聞デジタル/26.08.17/外部リンクが開きます)南箕輪村田畑区。「公民館の出入り口が正月飾りや子どもみこしで「封鎖」された。17日朝、公民館を訪れて状況を確認した平岩弘幸区長(70)は「これは困った。片付けるのに時間がかかるなあ」と話し、区内の各組長に「片付けが必要なので今日は休んで」と電話で連絡」地方紙の会員(無料)に登録しておくと、実はけっこうな頻度で和み記事の配信がある。今日の小ネタはもう少し世を憂うつもりだったけど、こちらも明日に延期します(笑)

(26.08.18)そんなわけで内田樹レヴィナスの時間論(新教出版社・2022年/外部リンクが開きます)つつがなく読了。やー面白かった。この人がレヴィナスに事よせて説く「何を言ってるかサッパリ分からないけど、たぶん自分にとって重要なことが書いてある(気がする)という根拠のない直感を信じて本を読む幸福」に思えば僕は多くを学んだ(気がする)。本書が題材とする『時間と他者』はレヴィナスの著作でも一番薄い(邦訳95頁)が難解で脱落者が続出という問題作なのだけど、ちなみにその原文95頁を四倍に開く約400頁の本書が終盤も終盤になって「何が書いてあるのかだいたい分かる。レヴィナスを読んでいる時に五行以上の文章の意味が「だいたい分かる」というのはかなり例外的な経験である(強調は引用者)と来たのには「やってくれるなあ」と笑ってしまった。「それは(分かるのは)レヴィナスについての理解が進んだというより、レヴィナスはこの時代の哲学者の誰も言っていないことを言っているらしいということにようやく慣れてきたからである(同)。レヴィナスほど稀有ではないかも知れないけれど、本書を読了後、街の書店で思わず(自分にとって「サッパリ分からんが重要な気がする」の筆頭とも言える)アガンベンの著作を勢いで買い漁りそうになってしまった。やはり、読むことでしか得られない喜びはあるのだと思う。たとえサッパリ分からなくても
 芒のような小花を放射状に丸くつけた花の画像。
 それはそれとして本書で著者が引用している旧約聖書の一節を見て(レヴィナスはホロコーストの後にユダヤ人社会の精神的支柱となるべく奔走した人物であるし、著者の内田氏は長くミッション系の大学で教壇に立っていた)ぐええ、となってしまった。「モーセが山から下りて、民に告げた神の戒律」のひとつである:
在留異国人を苦しめてはならない。しいたげてはならない。あなたがたも、かつてはエジプトの国で、在留異国人であったからである
げんざい日本で最も膾炙している新共同訳の記載は「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であったからである」(出エジプト記22.20)とアッサリしているけれど、それにしたって、この教えを(しかも最重要人物であるモーセの名のもとに)掲げておきながらイスラエルが、まさに自分たちが未曾有の虐待や圧迫に瀕した後で、まして自分たちが客人の立場で、パレスチナに対して行なっている暴虐は何よと、かつてコレも別の本での引用を通して旧約聖書の「詩篇」を読んだ時の憤り(23年11月の日記参照)が、カサブタを剥がすように再び疼いた。
 神道にも仏教にも在留異国人にたいする寛容の教えなど期待できそうもない日本のような風土に居ることの不幸―なんて思うことも少なからずある今日この頃だけれど、仮に民族の宗教がそれを説いていたって何の歯止めにもなってない実例をまざまざと見せられると、んー、アミン・マアルーフが言うように問題は信仰ではないのかも知れないと思い直したりもするのでした。差別反対。

(26.08.19)昨日ちょうど読んでた赤阪俊一・柳谷慶子編著『ジェンダー史叢書8 生活と福祉(明石書店・2010年/外部リンクが開きます)所収の論文「日本近現代の住居空間と日記時間」(西川祐子)は「明治のはじめには、第一次産業就業者が人口の八〇ないし九〇パーセントを占めていたのであるが、現在はすでに一〇パーセントを切っている(中略)劇的な産業構造の変化」の下で「家」の変容を追った力作。その後半はタイトルのとおり「日記」をテーマに、かつて家父長が(小作人をも含めた)イエ=農業経営体の運営指針として記録していた日記が近代以降「家政」をあずかる主婦の家計簿へと姿を変えた経緯を描く。その中で1917年発行の『主婦之友』が先導した「貯蓄の薦め」は子弟の教育と住宅購入という上昇志向があらわであったという。食費を削り、被服費を抑え、貯蓄に傾けられた家計のありかたは戦争突入とともに「物資と資金と国民の時間すべてをつぎこむ総力戦」へと変質する。「町内会は隣組に、ひいては各家庭に国債、愛国貯金、飛行機献金など、名目をかえては尽きに幾度となく戦争基金の徴収を割り当てた。(中略)かつては階層上昇のためであった「家庭」家族単位の貯金が、根こそぎ国家の戦争のためにもってゆかれる仕組みが見て取れる(例によって強調は引用者)
 写真:『生活と福祉』書影に重ねてキャプション「吾に返ると自分でもなんでこんな本読んでんだ?て本がまた面白くてな」
 同じ昨日高市政権の成長戦略「家計の投資比率4割」は誰のため?(毎日新聞/26.08.18/外部リンク/有料記事で冒頭しか読めないし、開くと高市首相の顔が出てくるので注意)という記事の見出しに、誰のためも何も「歴史は繰り返す/二度目は茶番として」というフレーズが頭をよぎる(戦争すら経由しないゆえ際立つ茶番度と根こそぎ感)、それだけでも本を読む・あるいは歌を聴く価値はあるってモノなのです。悲しいほどツマらないね、千回も見た光景だものごらんよ、あの石器人たちが行くのを…キテレツきわまる見せ物じゃないか…(Life on Mars?/David Bowie)

(26.08.21)まだスタンディングに行っていいメンタルじゃなかった。人をこんな惨めな気分にさせやがって、ほんと許さんぞトランプ。
 溜池山王・アメリカ大使館前のスタンディング風景(夜景)

(26.08.22)こんな夢を見た。横浜市の、たぶん昔すんでた上大岡のほうだと思うけど、高台の上の住宅地を歩いている。昼間で周囲に誰もいないやと思ったら、わりと長めの白髪に白髭・よく言えば芸術家ふうの作務衣を着たおじいさんが、ワンピースを着た中高年の女性と立ち話をしている。どうやら女性のほうが大家で、おじいさんは借家人という関係らしい。女性が何か言って歩み去る。おじいさんにとっては都合の悪い話だったようだ。とつぜん巨大な犬か、いやトラだな、横浜の住宅地になんでトラがいるんだよ、おじいさんの背後からやってきて頭をすりよせる。おじいさんはゴロニャーンと甘えるトラの頭を撫でながら「あいつ、やっつけちゃおうか」みたいなことを囁いた。するとトラは―スティーブ・アルビニの歌じゃないけど「メタファーじゃなくて、本物のトラ」だ―歩み去っていた女性を背後から【ゴア注意】【あっ「ゴア」って身体の切断等を伴う残虐描写ってことです】ちょっと古い言葉でいうと「マミって」しまう。おじいさんはワザとらしい棒読みで「あああーなんてことだぁー」とか叫んでいる。遠目だから分かりにくいが女性の頭部を口中にしたままトラは逃げ去り(人の頭部がすっぽり入るほどトラの頭って大きいかと気にしてはいけない。夢だから)てゆうか気にすべきことは他にある。果たして、一度は逃げ去ったはずのトラはぐるっと周囲を一周して、おじいさんの元に戻ってきた。おじいさんはまたトラの頭をゴロニャーンしながら、遠目ですべてを目撃していた僕のほうを見て、トラに囁いた―「あいつもやっちゃおうかなぁ
そのままおじいさんは童話に出てくるような小さな家(たぶん借家)に引っ込んでしまい、トラがこっちにやってくる。幸い僕のそばには白い大きめの砂利を敷きつめた駐車場があり、僕は礫(つぶて)を投げる(昨年7月の日記参照)。礫が鼻先に当たるとトラは少し怯むのだが(かわいいやっちゃ)着実に距離を詰めてくる(かわいくない)。これはまずいなと思ったあたりで当然ながら目が醒めた。礫を投げつつスマホで警察に連絡すべきだったのかも知れないが、そんな器用なこと出来た気も「もしもし警察ですか?トラに襲われてます」と言って信じてもらえる気もしない―目が醒めるなり考えたのは大体そんなことだった。
なんか村上春樹の小説じゃなくて、安西水丸さんが挿し絵を描いてたコラムのほう(分かる人は分かれ)みたいなテキトウな夢だが、いや楽しくはなかった。舞村さん(仮名)メンタル不調とか言いながら楽しそうな夢を見てんじゃないですかってぜんぜん楽しくないよ。これがメンタル不調だよ。そういえば千葉県柏市に住んでいた小学生のころ、やはり人っ気のない昼下がりの住宅地でライオンに遭遇し(だからなんで柏にライオンがいるんだよ)逃げのびたと思った先の角の向こうから回りこんでて現われたライオンに飛びかかられ、鼻先を必死で押しのけるところで醒める夢をみたことがあった。半世紀を経て「本当に怖いのは人間(借金か何かあるおじいさん)」とディテールが細かくなって吾ながら成長がうかがえるけど、いや嬉しくはないって
なんかこう「えっ貴女みたいな美女が手ずから作った中華料理をたらふく御馳走になったあと膝枕で寝かしつけてもらえるんですか、困るなぁ牛になっちゃいますよ」マキシマイザーマキシマイザー♪みたいな都合のいい夢は見れないものか。わりと切実に願っている。
(追記)マキシマイザーじゃなくて(そっちは各自で調べよ)スティーブ・アルビニの「メタファーじゃないぞ」の歌はコレ(2分43秒くらい)
SHELLAC - Squirrel Song 貧乏な男が節約法を思いついた。郊外の林の中の一軒屋の天井裏でsquirrel(リス)を殖やして、リスが駆け回る熱で暖房費を節約するのだ。目論見どおり天井裏はリスで一杯になったが、最終的に男は破滅せざるを得なかった…冬になると数千匹のリスどもは部屋を暖めるどころか、天井裏で一斉に冬眠してしまったのだ…「This isn't some kind of metaphor... God damn, this is real!(メタファーじゃねぇぞ…畜生、現実の話だ!)」そんな馬鹿な。

(26.08.25)もう8月も25日。一ヵ月が過ぎるのがこんなに速いのに、なんで一週間はこうも長いのか。(ヒント:賃労働)

(26.08.27)図書館に本を返すついでに立ち寄った鶴見(横浜市)で、久しぶりにスープカレーが食べたくなり降り立った地下の食堂街が、いつのまにか中華料理(餃子)・中華料理(四川)・中華料理(四川)・ラーメン(家系)・ラーメン(激辛系?)・中華料理(街中華)と、さながらミニ中華街(違う)の様相を呈しており(排外主義を煽るつもりはミリ無いので注意)ただスープカレーが惜しかった。
 店頭写真。左から中華料理(餃子)・中華料理(四川)・ラーメン(家系)・ラーメン(激辛?)。
 一軒だけ孤立奮闘のうなぎ屋はポリシー上スルーして酢豚をいただいたのでした←外食じたいをスルーする余力はなかった。翌朝(今)の疲れを鑑みるに(また)レバニラのが良かったのかも知れないが、黒酢の効果に期待(効いてない)。
 写真左から中華料理(四川)・うなぎ屋・そして実際に食べた酢豚定食。

(26.08.27)気候変動の影響やもと言われているネパールの洪水被害に・参考:ネパール洪水の原因は? これまでに分かっていること(CNN/26.08.27/外部リンクが開きます)取り急ぎ小額ながら寄付をキメた直後、石川・富山で豪雨の報を目にして自失している。5地区約270世帯が孤立 石川・富山、未明から再び特別警報可能性(朝日新聞/26.08.27/外部リンク)
これだけだと書いてる自分も気が滅入るので全然かんけいないリンクを貼るけど米澤茜(Ave Mujica)さんのソロ曲、めっちゃ好みかも。70年代をリバイバルした90年代をリバイバルしてるみたい?(超テキトウ)
米澤茜 - It's You(外部リンクが開きます)

(26.08.28)もう8月も終わりということは、あっという間に9月1日が来る。政治主導と言われる現今のレイシズムに、小池都知事の(関東大震災で虐殺された朝鮮人・中国人への)追悼拒否が先発隊として与えた悪い影響って実は大きいのではないかと改めて考える。何重にも絡まった電気ケーブルのような、この国の排外主義を「ほぐす」手がかりとして。

(26.08.29)29=ニクの日だけど朝からお魚。自宅から歩いて25分の横浜市中央卸売市場の、一般人でも入れる食堂で「富士山サーモンの桶寿司(豚汁つき)」をいただく。「持続可能な養殖スタイルを追求」と謳う富士山サーモンの概要はこちら(公式/外部リンクが開きます)。
 写真3点。左から・みっしり集まって咲いた百日草・写真つきメニューが並ぶ食堂の入口・輪を描くように敷きつめられた赤身のサーモンに大葉とガリとレモンスライスを載せたサーモン桶寿司(豚汁つき)。
 新鮮な海鮮が観光地価格でなく市場(いちば)価格で食べられる、本来もっと地元民は通っていい処なのだろうが数年いろいろあったり無かったりして(お金とか心のゆとりとか…)(今だって無いは無いが…)足が遠のいていた。一ヵ月か二ヵ月に一度くらいは通うことにして?次は鯖の桶寿司をいただきたい。
 写真2枚。紫ピンクな花をつけたサルスベリと、よく見る紅ピンクのサルスベリ。
 帰り道にタワーマンション街で紫のサルスベリを見かけて、そういう品種かと思ったけど数メートルを隔てた同じ建物のサルスベリはよく見る紅ピンクで、土が違うのかも知れない・いや分からない。
 このあたりには土日だけやってる宮川香山のギャラリーがあって→こちら(公式/外部リンク)横浜に遊びに来るひとにはオススメしたいけど、かく言う自分もなかなか訪ねられてない。あざとさと風格を兼ね備えた(←言いかた)存外ミュシャが好きな人とかに刺さる焼き物かも。焼き物一般が好きなひとにも。
 まだ開いてる時間ではなかったので「まいばすけっと」で牛乳由来のと同じ値段で売られていた、豆乳とココナッツオイルで作られたシュレッドチーズを買って帰りました。肉の日に、かえって環境負荷を意識する午前中。まあ午後(夜)は日和って肉欲に溺れてしまうかも、だけど。

(26.08.30)ふたつよいことさてないものよ。昨日買った豆乳使用の代用チーズだけど、改めて成分表を見ると代用のほうはタンパク質の含有量が圧倒的に少なくて、とゆうかそのまま炭水化物に置き替わってしまっている。
 写真。牛乳チーズと豆乳チーズ・パッケージ裏面の栄養成分表示。豆はエネルギーが少し低めでコレステロール0だが、牛に豊富なタンパク質はほとんどなくなり炭水化物に置き換わっている。また牛乳チーズに豊富なカルシウムも貧弱で、そのかわりカリウムに優れている。
豆乳じたいのタンパク質含有量は牛乳と遜色ないので・参考:豆乳vs牛乳、どっちがいいの?栄養素について管理栄養士が解説(豆乳マイスター通信/22.01.31/外部リンクが開きます)豆乳チーズはそれを活かしきれてない、まだ改良の余地を残した分野なのかも。あるいは豆乳本来の低脂質があだになってるのかもなあ←チーズとして錬成するには脂質不足で、ココナツオイル等で補った結果、豆乳本来の高タンパクが損なわれている?(←ぜんぶ思いつきなので注意)。ふたつよいことさてないものよ(二回目)…
そいえば「まいばすけっと」はカカオ豆をヒマワリか何かで置き替えた代替チョコも売り出しているけれど、あれもポリフェノールとかチョコ元来の健康成分はどうなっているのだろう…
※なにごとも程度問題なので「だったらウナギだって代替品(次郎とか)では摂取できないビタミンがあるのでOK」とは(自分の中では)ならない現状。

(26.08.31)今夏のメンタルは本当にヤバくて、しかし世の中には自分なんかより、もっと厳しい崖っぷちをこらえている人たちも沢山いらっしゃるのだろう。可能なら凌ぎきってほしいが、ここで挫けた人たちも(むろん生き延びてはいてほしい)僕は責めんよ。ねぎらいと、いたわりの言葉しかない。よく頑張った。また来月。
 コンデンス「クリーム」のチューブに印刷されたハラル認証マーク。ベトナムだからイスラム圏ではないはず。見習いたい、この営業姿勢。


 

性と体温〜経過報告(26.08.23)

 自分で自分のこと「こっちの月」とか言えちゃう中薗さんちの妹。本当は来週あたりが満月なので、そこにぶつけても良かったけど、描けちゃったので(貯めておけないタイプ)。
 突発まんが「in the cool(?) August moon」1:夜の縁日を背に「目の健康のために毎日5分くらいは1kmくらい遠くを眺めるべきらしいんだけど」と話す中薗兄。「うん」と相槌を打つ中薗妹(理恵きゅん。浴衣姿で長い髪を蝶の形のバレッタで結わえてポニーテイルにしている)。2:「うん」という妹の相槌にかぶせるように大きな満月を描いて、3:「あの月を見れば37万km遠くを眺めたことになるのかなぁ」と月を見ながらつぶやく兄。「…」と少し呆れ顔で見ていた妹は 4:ふいにハッとして 5:「もしかして、すごく遠回しな求愛ですか?(月がキレイですね的な…??)」まくしたてる妹(血はつながってない)に「え」と兄の目は点になるが、かまわず「こっちの月は手の届く距離にいますよ??」顔を真っ赤にして熱弁する義妹に「月面飛行士なみに飛躍するね、うちの妹さんは…」と感心(?)する中薗兄であった。
 今週のメイン日記(週記)これだけでもいいんだけど、いま気にかかってる本まわりの話を少しだけ。もう何冊か読み足してからのほうが話がまとまって良い気もするが、貯めておけないタイプなので。

      *     *     *
  菊地夏野・堀江有里・飯野由里子編著クィア・スタディーズをひらく 3 健康/病、障害、身体』(晃洋書房2023年/外部リンクが開きます)所収の「「双性の巫人」という過去の身体を読む」(光本順)は、種子島広田遺跡で発掘された貴人が
 『クィア・スタディーズをひらく3』書影。
男性でありながら女性の装飾品と女性のポーズで葬られていたことから「双性の巫人」≒異性装者ではないかと話題になった、その顛末をめぐる小ミステリだ。雑駁にまとめると、当初もちあがった異性装説≒ヤマトタケルあたりを嚆矢とする日本史上の・そして世界的にも珍しいものではない 「男女の性別を越境することで現世と異界の境界も横断するシャーマンすなわち巫人」の系譜(23年7月の日記参照)に広田遺跡の貴人も該当するのではないか―という説は現状「装飾は男女関係なしに貴人のもので異性装とは言えないのではないか」という説が公式には採用されているようだ←雑駁すぎて間違いがあったらスミマセン。関心のあるかたは各自で掘り下げていただくとして、個人的に気になったのは「そもそもジェンダー(男女の別)ってそんな近代のように明快に二分化されうるものだろうか」という文脈で書かれた、こんな一節だ:
「例えば赤阪俊一によると、中世西欧は性別が体温や湿度の高低差によって認識された社会だとされる」(強調は引用者)
どゆこと?よく(しょうもない)漫画や映画などでありがちな「お、お前、女だったのか!?」が服を脱いだらどうとか身体に触ったら柔らかい感触がどうとか(ああ本当にしょうもないなあ)いわゆるラッキースケベ的な状況でなく「この体温…女か?(ぎゃー男よ)」みたいな案件があったとでもいうのか。
 なんかものすごく興味本位な表現になってしまったが大真面目な話だ。[赤阪 二〇一〇]と註記された原典を当たってみることにした。その赤阪氏が編著者に名を連ねる赤阪俊一・柳谷慶子編著ジェンダー史叢書8 生活と福祉(明石書店2010年/外部リンクが開きます)を紐解いてみた。
 「双性の巫人」論文がサラっと引用している件の論文は赤阪俊一「異性装のジェンダー構造」。中世ヨーロッパで諸々の理由により現われた異性装者―男性の女装より、女性による男装の報告が圧倒的に多い―については、これも多くは述べない。多くのばあい「男性」でないと職業(兵士とか)に就けないため生活の方便として男装というケースがもっぱらで、ジェンダーやましてセクシュアリティを越境・超越しようという積極的(?)な動機はないと見ていいだろう。踏みこんだ考察は、やはり関心や切実性のあるひとに譲る。ここで問題にしたいのは、やはり男女を分ける境界そのものだ。
 赤阪氏の叙述によれば「初期中世の北欧のサガに登場する女と男を研究したクローヴァー(キャロル・クローヴァー。後述)は、この世界では、生理的な意味での女が社会的な男になりえたし、生理的な意味での男が社会的な女でもありえたという」後のキリスト教社会とは異なり、11世紀ごろまでは人が「生理的な意味での男と女」ではなく「頑健な男(含む・頑健な女)「それ以外(たいていの男、子ども、奴隷、老人、障害者等が含まれる)」とに分けられたという
 ちなみにキャロル・クローヴァー氏は後に中世研究から映画史研究に転向し、ホラー映画で最後に生き残る純潔な女性=ファイナル・ガール(Wikipedia/外部リンク)概念の提出者として名高いらしい。が、それも関心あるひとに譲って話を先に進めよう。
 キャプション:このさっきから連呼してる「関心のあるひと」が結局「未来の自分」なことも十分ありえるけど、やっぱり今みてる「お前だー!」(懐中電灯で顔を下から照らし、怪談の決め台詞のように画面のこちらを指さす羊帽の女の子「ひつじちゃん」のイラスト)という可能性も確保しておきたい
 さらに大胆な仮説として赤阪氏が紹介するのは「トマス・ラカーのワンセックス・モデル理論」というものだ。具体的には
 「古代以来の解剖学の知見では、男と女の身体的歳は存在しなかったし、生殖器官ですら、同じものが外に出ているか、内側にはいり込んでいるかの相違だけだと考えられていた」「もちろん現実世界では、男と女の違いは歴然としていたのであるが」「セックス、すなわち身体上の性別や身体が一種の付帯現象であり、われわれが文化的カテゴリーとしてとらえるジェンダーのほうが第一義的であった」のが「一八世紀になって「とある日に、現在セックスとして知られているものが発明された。生殖器官は…(中略)…絶対的な性差を保証する基盤となる」という(強調点は引用者)。「もちろん現実世界では、男と女の違いは歴然としていた」し、多くの場合(キリスト教社会の影響によるまでもなく)男性が女性の優位に立つ男権社会だったのだろうけれど、それはそれとして肉体的には男女は相同であり、その差は社会的な役割(ジェンダー)によるほうが大きかったと言うのだ。
 それをさらに掘り下げたのが『クィア・スタディーズ研究3』に引用されていたジョーン・カッデンの説だ。これも端折りつつ引用すると、カッデンによれば中世ヨーロッパでは「性差の基本にあるものは」「男女間の温度の相違」「女よりも男の体格が大きいのは、男の温度が高かったからであり」「温度の低さゆえ、女には体力がなく、男がもっている荒々しさが欠けている」
 男は温度が高いので精液をつくり、温度の低い女は経血をつくるだの、女は男より湿度が高く湿気は移動しやすいので「だから女は気まぐれで、いつも新しいものを探している」とか(娘ごころは山のお天気かよ)これはこれでしょうもなくて女性蔑視な論の当否を問うているのではない。結局「男の温度と男の湿度が標準の温度であり、湿度であった。女はこの標準からの逸脱、あるいは標準に達しない人間という位置づけである」と赤阪氏が要約するとおり、男性優位の視点は歴然としている。ただ、だからこそ「温度を上げて」男のように振る舞うことで、兵役に就いたり、あるいは司教にまで昇りつめたりする「男装者」が現われえたのだ…というのが本稿の要旨だ。
 僕などはビクトリア朝イギリスを描いた坂田靖子氏のまんがで、名優の子でありながら娘ゆえに舞台に立てないとされたヒロインが男装してハムレットを演じたエピソードを思い出すし(『バジル氏の優雅な生活』)百年以上を経た日本で、梨園の名家に生まれ、誰もが認める才能を有しながら、娘であったがゆえに伝統の継承ラインからは外された「雪の女王」のケースを想起してしまうのだけれど、これも掘り下げるひとが掘り下げるテーマとしたい
 ちなみに同じ『生活と福祉』に掲載された八木祐子北インド農村の住まいと女性の生活空間」(これも好い論文)によれば、ヒンドゥー社会では逆に「女性はシャクティという性的エネルギーを多くもつため、男性に対して「熱い」身体をもつといわれている」そうで、つまりはテキトウなのである。中世のヨーロッパなりインドの伝統社会なりが、近代にはない「正しさ」を持っていたと安易に持ち上げることは禁物だろう。ただまあ、それはそれとして。

 ワニやトカゲ、カメなどの性別は温度で決まる(参考:「ワニは卵の温度によってオス・メスが決まるってホント?」ニッポン放送NEWS ONLINE/2018.11.30/外部リンクが開きます)。ただしこれも孵化する前の水温によってオスかメスかが決定され、孵化後は別に「あー暑いから性別でも変えるし」とはならない。あらゆることは「だから人間もコレが正解」とはならない。
 ただ「男女の性差は言うほど生物学的に決定的か?」と問うことには、あながちトンデモと無差別に却下しきれない側面もあると思うのだ。もちろんトンデモに足を踏み外す危険はつねに想定しなければならないだろうけど、なにせ真逆な男女の性差至上主義のトンデモが皇室典範うんぬんで胡乱さを見せつけている現今なのだ。
 すでに紹介したように(23年3月の日記参照)「男女(オスとメス)はX染色体とY染色体でキッパリと二分されてるものではなく、性ホルモンの濃淡で・外性器以外ほとんど差がない幼少期→肉体的に性差が極大化する青壮年期を経て→再び性差が減衰していく老年期、と虹のようなスペクトラムを行き来する」見解が「科学的に」浮上してきてもいる。図式を再掲するとこう:
 上記の図解と付記:「もちろん全ての個体がスペクトラムの一番端まで行くとは限らないし、どこに位置するかは個体差・個人差があると考えていいと思います」
 男女の身体に相違はさほどなく、同じ性器が(男性のように)外にでているか(女性のように)内側にあるか「程度の違いしかない」という捉えかたに、それはそれで一理あることは関心のあるひとなら周知のことだろう。

 ジョーン・カッデンの研究は残念ながら2026年現在も邦訳はないようだ(Wikipediaも英語版のみ)。
 トマス・ラカーセックスの発明 性差の観念史と解剖学のアポリア』(原著1990年/高井宏子+細谷等訳・工作舎1998年/外部リンクが開きます)が邦訳されていて―やめてこの表紙ほんとにやめて図書館なり本屋なりで貸し出し受付なりレジなりに持ってくひとの身になって本当にやめて
 いずれにせよカッデンの邦訳はなく、ラカーの著作も30年前。二人の学説を紹介した赤阪氏の論文も十年前のもので、それを引用した『クィア・スタディーズ3』の文章が2023年ということは、逆にこの十年、赤阪氏の文章以外に「この分野」の参照先にできそうな論文なり何なりが日本の学術界には現われなかったと考えるのが妥当なので、この方面の問題意識は、この国ではあまり根づかず開花してない現状と言えるのではないか。赤阪氏には(「カール禿頭王は本当に禿げていたか?」なんて愉快な論文もあるらしいけど)
ジャクリーン・マレイ「ひとつの肉、ふたつのセックス、みっつのジェンダー?」(埼玉学園大学紀要2009年/外部リンクが開きます)
の翻訳もあるけれど、これも2009年だ。
 もちろん上述したように「性差スペクトラム論」を取り上げる単著も発行され、また「性の目的は本当に子孫を残すことだけか?」と問いかける『進化が同性愛を用意した』のような(さっきもリンクしたけど23年7月の日記を再参照)意欲的な著作もあらわれている。
 けどまあ、やはり「性の多様性」への科学的なり人文科学的なりからのアプローチは、あまり学問的でない異性愛至上「感覚」や男尊女卑「気分」に押され負けてる現状じゃないかなーと個人的には懸念している、これもまたエビデンスのない「感じ」に過ぎないけれど。
 大絶滅展が圧倒的好評だった(行列が一時間待ちで断念した)上野の国立科学博物館では秋から特別展「生きものたちの性(26.10.31〜27.2.21/外部リンクが開きます)が開かれるらしい。SNSで軽く物議をかもしていた(?)のが「展示構成」(外部)に記載された
「※すべての生きものに恋愛感情が認められているわけではありませんが、本展では一般に理解しやすい表現として「恋」「愛」という言葉を用いています。」という一節で、んー、「性」をテーマにしながら、おそらくは圧倒的な資料収集力を持ちながら、どうも展示の方向性はわりあい保守的な、やっぱり生物の基本は異性「愛」みたいな路線になってしまわないか。並ぶのイヤさに葡萄を酸っぱくしているわけではないけれど、少し構えながら注視しています。さあ頑張って図書館いくぞ。

この世の外に出る〜『ブードゥーの神々』『この世界からは出ていくけれど』『はじめて、びじゅつ』(26.08.08)

 0) (マクラ)
 前にも書いたかも知れないけれど『狂気の歴史』(口惜しいが未読)で一躍脚光を浴びたミシェル・フーコーは、どうしてそんなに狂気にこだわるんだ・あなたは狂気というものを肯定的にロマンチックに捉えすぎなのではないか―そんな風に問われ、こんな風に切り返している:「私ひとりが狂気というテーマに肩入れしすぎだと仰いますが、私たち人類がパーティーだといって集まって、することと言えば何でしょう?お酒を飲むか、ドラッグをやって、皆で正気を失なうことではないですか」(正確な出典をいま思い出せないし探す余力がないので記憶による引用です)
 もちろん『狂気の歴史』(返す返すも未読)でフーコーが描いた(らしい)のは「ロマンティックな狂気」ではなく、おそらくそうロマンティックでもないだろう「狂気」を排除し隔離することで「正常」が作られていった歴史なのだろうけど、まあ生きてるうちに読めたらいいなと思っている同書のことはさておき。

      *     *     *
 1)ブードゥーの神々
 ゾラ・ニール・ハーストンブードゥーの神々 ―ジャマイカ、ハイチ紀行』(原著1938年/常田景子訳・ちくま学芸文庫2021年/外部リンクが開きます)は、自分のために用意された―とは言わないまでも、ここ数年の自分の関心からは避けて通れない一冊だった。副題のとおり、ハイチにまつわる本だ。
『ブードゥーの神々』書影にキャプション「いやハイチに関心を持つと言っても多々ある移り気な関心のひとつで要はつまみ食いですよ…」
 本書が描くのは、スーザン・バック=モースヘーゲルとハイチ』がヨーロッパより早く人権憲法を打ち立てた先駆者と称揚したハイチではない。その「奴隷にあるまじき先駆」への報復としてヨーロッパや合衆国に発展の芽を摘まれつづけたと浜忠雄ハイチ革命の世界史 ―奴隷たちがきりひらいた近代』(岩波新書2023年/外部リンクが開きます)が告発する(23年10月の日記参照)被害者としてのハイチでもない。
 言い直す。自由や平等・人権や理性といった近代が賜った宝玉(ほうぎょく)を取り合う視点から、バック=モースはその宝玉は本来ハイチのものだったと画期的な論考をぶちあげ、一方で浜氏などは人類普遍に得られるべき近代の宝玉を西欧の暴虐で取り上げられつづけてきたハイチ(はじめ植民地)の悲惨を告発してきた。

 ※その宝玉が実はキズモノで、外面(ソトヅラ)では自由平等博愛を謳いながら、内面では差別と収奪が本質だったかも知れない二面性については一旦措く。一旦措くと言いつつ24年4月の日記を蒸し返しておくし、その前週まさにバック=モースの見解として紹介した「初めから革命は裏切られていた」も蒸し返しておくし、その破綻がパレスチナに顕現したことを告発するスラヴォイ・ジジェクのショート動画もリンクを張ってしまうわけだが
ガザで起きていることはヨーロッパの死であると語るジジェク[日本語字幕](YouTube/25.02.06/7分くらい/外部リンクが開きます)

 けれどアメリカの人類学の草分けたるフランツ・ボアズ(未読←正直)の、黒人女性としては最初の教え子だったハーストンが(奴隷階級から立ち上がりハイチ建国を成し遂げた初期の英雄ルヴェルチュールやデサリーヌには一定の敬意を示しつつ)1938年に描き出すのは、人権や平等あるいは理性といった近代の(ソトヅラの)精華に背を向け、別のルールのゲームを続ける=だから近代化というゲームでは西欧に到底かなわないハイチの姿だ。
 その「別のゲームのルール」とは、前近代的な権力争いであり、むせかえるような男尊女卑であり、そしてブードゥーの呪術だ。
 今では原形をとどめないほど独り歩き…どころか近年は全力疾走するほど変わり果てた概念であるが、なにしろ「ゾンビ」概念発祥の地であるハイチ。死者と生者がふつうに共存(?)し、互いに影響を及ぼしあう、一時の富と引き替えに家族の命を差し出す取引をした人々の破滅の物語が複数形(人々)で伝えられるような地に取材して、現地の呪術師たち(複数形)に順調に弟子入りまでして、著者は、近現代の物質文明に生きる吾々が知らない「もうひとつの世界」に踏みこんでゆく。なにせ本書には「この人はゾンビ」とキャプションのついた白黒の肖像写真まで収録されているのだ。
 これは異世界の疑似体験、文化や制度の違いによって(個人どころか社会集団まるごとが)こんなに異なる様相で世界を認識しうるという疑似体験としては、相当なものではないでしょうか。
 しかも世に流布するオカルト譚の多くが「エイリアンと裏取引している現政府」とか「成功をもたらすスピリチュアルな法則」みたいに現行の制度の中でチート(裏ワザ・ズル)をする話か、さもなくば○○の呪いのように現行の社会から滑落する恐怖しか語っていないのに対し、ハーストンが取材したブードゥーの世界は彼ら彼女らに上から課せられていた世界経済や世界情勢とは別の(死者たちの)世界を見ていた・別のルールに従っていたと思うとなおさらに興味深い。いや、もちろん命の取引で「富」を得るとか俗な利益はともなっているのだけど。
 画像。「今回も載せれる画像ないから押し寿司の写真でも見てくれ…(ベジの人には迷惑)」ということで、3p四方くらいのキューブ型の押し寿司が色とりどり詰め合わされた折り詰め写真。
 第一の問題は先に示唆したように、この「異なる世界の捉えかた」に―キリスト教やイスラム教が・あるいはサパティスタ運動の根幹にある中米先住民の世界観が持っていたような―社会そのものまで転覆する力はないこと。
 第二の問題は、示唆される「別の世界」が、それはそれであまり感心できるものでないことだ。
 同書解説(今福龍太)によれば、黒人ゆえの差別を受けない境遇に恵まれて育ったハーストンは、まず被害者として自己定義して→そこからの解放を唱えた当時の人種闘争に対し、白人社会など歯牙にもかけないコスミックな存在としての黒人(そして女性)の生の喜びを謳い上げる作家として、トニ・モリスンなど後の世代に多大な影響を与えたという。それはいい。
 ただ彼女が取材したハイチやジャマイカの呪術社会は、搾取も不平等も男尊女卑もえげつない。フェデリーチが中世ヨーロッパの農村社会に・グレーバーらが北米先住民の社会に見た、近現代の吾々が良しとする自由や平等といった価値観の先取りは、残念ながらブードゥーの世界観にはない。アルコールやドラッグ・あるいは「狂気」によって異なる認知を得られますよと言われても、それが悪酔いやバッドトリップだったり「皆に陰口を言われている」みたいなパラノイアだったら、誰が(変化に飛び込む)赤いカプセルを選ぶだろう。
 ブードゥー社会に(せっかく死者と生者の境界を取っ払いながら)みなぎる不平等・不公正は、その淵源であるアフリカの部族社会で既にそうだったのか。もしかしてアシル・ムベンベが告発するように部族社会の文化が西欧の植民地支配によって歪んでしまった(昨年11月の日記参照)側面はないのか、それを確認する余裕は当面じぶんにはないのだけれど…

      *     *     *
 2)この世界からは出て行くけれど
 ベンヤミン・ネタニエフやドナルド・トランプや(以下略)あるいはGAFAMやイーロン・マスクがのさばる現行社会の転覆については、いったん措こう。
 またまたキム・チョヨプで申し訳ないがこの世界からは出ていくけれど』(原著2021年/カン・パンファ ユン・ジヨン訳 早川書房2023年/外部リンクが開きます)は逆に、世界や社会どころか生物的な条件が変わったため異なる現実認識をもつに至った人々を描く作品ばかりを収録した特異な短篇集だ。
 ちょっと昔の本だけど、事故による脳の欠損で自分の右側しか認識できなかった患者など、さまざまな「異なる認知」を持つ人たちを紹介した『妻を帽子と間違えた男』ほか脳外科医オリヴァー・サックスの著作のSF版といった趣きでもある。
 画像:「キム・チョヨプの書影も撮ってなかったのでクレーンでも見てください、すまねえ…本当にすまねえ…」というキャプションと、うろこ雲の空を背にビルの天辺に設置されたクレーンの画像。
 事故などで後天的に失なわれた腕や足をまだあるように感じる幻影肢(ファントム。たとえば義足に馴染むために有用と読んだことがある)を敷衍して、本来なら有してない三本目の腕の幻肢に焦れる人々を描いた「ローラ」は全編の白眉であるように思う。同作が提示する「理解できない相手を愛することは可能か」という問いは、腕の本数に関わらぬ本質的な問いかも知れない。

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 3)はじめて、びじゅつ。
 亡くなった山田五郎さんが美術館や博物館は(他所から目玉作品を呼んでくる企画展も良いかも知らんけど)その館じたいの収蔵品を常設展で観なさいよ安いしという話をされてて、ちょうど東京都現代美術館が真夏の夜の時間延長をしていたのでコレクション展「はじめて、びじゅつ」を400円で観て来ました。
サマーナイトミュージアム2026開催のお知らせ(東京と現代美術館/外部リンクが開きます)
コレクション展『はじめて、びじゅつ(同/〜26.08.16)
 写真4点。左から東京と現代美術館のエントランス・広々とした通廊・ポスターが貼られたコレクション展の立て看板・「はじめて、びじゅつ」とタイトルが振られたポスター。
 作品じたいの写真が撮れなかったので相変わらず画像がさびしいのは仕方ないとして。
 ナイトミュージアム本体は21時まででもレストランはオーダーストップの19時にギリギリ間に合わず、前に来たとき結構おいしい印象のあったパフェ(期間限定ものでメニューは変わっているけど)を試せなかったのは無念だったけど、それもさておき。はい、ふつうに好い展示でした
 写真3点。左から2階のレストランに向かう階段(ただし自身の目当ては地下階レストランのほう)・「CLOSED」と表示された受付・期間限定「キャラメルチョコバナナパフェ」のメニュー写真。
 さまざまな作家の作品を少しずつ・雑多とは言うまい・ゆるい括りで並べた展示は、逆にSNSやショート動画の細切れに慣れた今の吾々には親しみやすいのかも知れない。(とくに日本で現代美術とゆうとイメージされがちな?)作家個人のアティテュードやパーソナリティ≒俺が俺がという自己主張とも違って、Let me show you the world in my eyesとゆうかIf I can make the world as pure as strange as what I seeとゆうか(どっちも有名な歌詞なんで気になったひとは検索してください)それぞれの作家が異なる感性で捉えた世界の美しさ―ストレンジな美しさを、観賞という形で追体験できる感じ。
 死者と生者の併存を社会単位で成立させたブードゥーの呪術世界。今の吾々とは異なる世界認知のありかたをSFという力業で提示したキム・チョヨプの短篇集。なんのことはない、(とくに現代)美術もまた、世界の認知を歪ませる・ぜんぜん別の感覚がありうることを観る者に示してくれるものでもあるのだ。これも前出の再度再度の蒸し返しだけれど、初めてドラッグを試した若年デヴィッド・ボウイが何てことない路上のひび割れに魅了され延々眺めて飽きなかったたという話を思えば、すぐれたアートはドラッグなしで・ドラッグのように異様な世界を見せてくれる。いや「異様な世界を」でなく、ラリったボウイがそうだったように、何の変哲もないと思っていた「この世界」こそ延々眺めて見飽きることのない「異様な」美しさに満ちていることを教えてくれる。
 今回の展覧会では金氏徹平やガブリエル・オロスコの写真に「写真」「アート」として切り取ることで見慣れた風景が見慣れない「アート」として立ち上がる不思議な感覚を味わえた(オロスコの写真「僕の犬のカウチ」はひとしきり感心したあと「bokete(画像に可笑しなキャプションをつける大喜利)じゃん」とも思ったけど)。そして展示された「アート」から視点を横や下に外すと、目に入った周囲の壁や板張りの床に「この壁や床だって同じようなモノじゃん」「アートとして展示されてるモノと何が違うんだ」と気づく。悪口ではない。
 昨年の暮れに小石川植物園に行ったとき書いたように(あ、若年ボウイのドラッグ話はココでしてますね)植物園の中で珍しい植物を観て魅惑されるだけでなく、園の外に出ればふつうにある周囲のなんてことない街路樹や植え込みの草木・雑草までもが同じように美しく個性的なものとして立ち上がってくる・日常で摩耗したその感覚を賦活させるだけでも「植物園」としてキュレーションされた場所に出向いて良かったと感じた。同じように(すぐれた)アートは「この作品スゲー」だけでなく、そのスゲーと思った視線を美術館の外に逸らせば、外の世界=この世界も同様にスゲーと(再)認識させてくれる。
 便器を美術展に出品したアート作家は「何が美術だ、この便器と変わらないじゃないか」と言いたかったのかも知れない。けれど逆に、いちどアートを鑑賞した目は「なんだ、身の回りの事物だってアートじゃないか」と認識を改めることができる。
 グレーチングが少し写り込んだ(写り込ませた)路傍の花の写真にキャプション「世界はストレンジで美しい。ドラッグや呪術なしでも。」
 そんなんじゃツマラナイ、もっとこうドーンと!バーンと!認知が書き換えられる異常体験がしたいんだよ、という中学二年生みたいな抗議は自分の中でいったん棚上げにしよう(あ、そういう気持ちはあるのね)(そして「いったん」てことは完全には諦めてないのね)
 いま確認しておきたいことは二つ。
 ひとつは疑問で「アルコールやニコチン・ドラッグで酩酊する皆さんは世界の認知が変わったと思うんでしょうか」自分は知覚の変容にすごい興味があるけど下戸なので、アルコールで酔えるひとが羨ましいと言いすぎて「そんな期待するようなもんじゃないよ」と窘められたことがあるけれど、どうなんだろう。
 ふたつめは疑問というより課題・宿題なのだけど、アートが人の認知を変えるとして、それを社会(の不公正)の転覆にどう接続していけるのだろう
 アルコールがもたらす酩酊・知覚の変容は―最後の晩餐の「このワインを私の血と思って飲みなさい」から金曜夜の居酒屋の「イェーイ!乾杯」まで―(既存の)共同体の結束を強めるか、あるいは共同体から一人酔いへと滑落するひとを生むばかりで、まあ歴史上「タバコ喫って革命」「酔った勢いで政権転覆」なんてことはなかった気がする。ボストン茶会事件を思えば、紅茶のほうがよほど既存体制への異議申し立てにつながったというのは冗談として―
 ブードゥーの世界観が、近代西欧のネガである植民地支配に抗するのに利さなかった(らしい)ことは書いた。
 アートが時に体制を翼賛する諸刃の剣になるのは分かっている。せめて諸刃ならば一方の刃は、人の世界の近くを揺さぶり賦活するとともに、その揺さぶりが「このままではいけない」「もっと公正な社会を」という変革や転覆に接続できるものには、なれないものだろうか。
 今回の展覧会のタイトル「はじめて、びじゅつ」の由来になったという作家・大岩オスカールの組作『戦争と平和』には、厚顔無恥に「戦争できる国へ」を標榜する官産複合体の政治家たちに冷や水をぶっかける政治的な力が確かにある。
 作品は作品そのもののために作られるので、メッセージ性などは邪道だという意見にも一聴の価値はある。けれどアートと通して世界を認知する仕方を変えられるなら、せめて悪酔いやバッド・トリップでなく、もちろん体制への迎合でもなく、より望ましい世界への変成を願ってもいいのではないだろうか。

    ***   ***   ***
 追記1)とはいえ「現代に生きる吾々」の世界認知だって一枚岩ではない。まだ勉強中で何か知ったげに言えることはないけれど、障害者やLGBTQ(SOGI)の人たちに見える世界のことを少しずつ読んでいる。
 追記2)ずっと行きそびれてるのだけど、東京都現代美術館の向かいには(バーミヤンなんかと並んで)ミールスやマサラドーサなど南インド系のカレー店があって気になっている。日中に訪なうひとには試してみてほしい。
 追記3)高校の美術の授業でメゾチントを制作したことがあって、もちろん高校生が週に一時間だか二時間だかの授業で銅板に刻み目をつけるわけにもいかず透明なプラ下敷きを削ったのですが、世界的にも珍しいというカラー版メゾチントで知られる浜口陽三の展覧会が丁度やってたのを観に行ったことがあった。今回の現美の展覧会では彼の代表作・さくらんぼのメゾチントも一点展示されていて、そーか、現代美術だったのか浜口陽三。
・参考;ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション(外部リンク/ここも十年以上前に観に行ったなあ)

内奥まで・けれど等距離で〜大岡昇平『武蔵野夫人』『事件』(26.08.02)

 「僕は別に文学を書きたかったわけではなく、ただ知りたいと思っていただけでした。しかし文学は一体書かれずに知れるものだろうか」大岡昇平(孫引き)

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 本当のことを言おうか。私は文学(小説)を知らない
 そんな谷川俊太郎ばりの告白をしたくなるような、実は自分は小説のことなんて何も分かってなかったんじゃないか・「またしても何も知らない舞村さん(仮名)」だったんじゃないかと動揺が停まらない、異様な小説に出逢ってしまった。

 大岡昇平武蔵野夫人』(1950年/新潮文庫)。いや今ごろ『武蔵野夫人』を初読するほうが余程おどろきだが。もう何十年も前に「そういう小説がある」と知ったものの、その時は読むタイミングがなくて、それが先月、市立図書館の棚で偶然「目が合って」せっかくだから読んでおくかとカウンターに持っていった。
 凄い小説だった(自分的には)。
 戦後すぐの武蔵野。国分寺市のあたりに恋ケ窪という地名があって、その周囲で展開する若い人妻・道子とビルマの戦場から引き揚げてきた従弟・勉の悲恋の物語だ。『野火』(さすがに読んでる)でも見られた自然風景への執拗ともいえる観察眼は本作でも健在で、
 キャプション「…などと、もっともらしく書いてはいるけど、ソレ(大岡昇平における自然観察への深い関心)は自身でつかんだ感覚ではなく丸谷センセか池澤夏樹氏あたりの単なる受け売りなのではという気はする(正直)」自分のテキトウさに眉をひそめる自画像を添えて。
まだ農地か山林(里山?)で緑が深い東京西部の情景描写は一度「聖地巡礼」で現地を訪れてみたい・でもまあ当然のように小説で描かれた景色などコンクリに替わって見る由もあるまいと相反する感情にとらわれる…と言いつつ物語の後半、望みの薄い恋を諦めようと勉が移り住む五反田の風情は、たぶん間違いなく今の五反田には残ってすら居ないのだろうけど、ちょうど本書を読みながら(また歩きながら本を読んでやがる)歩いたそのあたりに、なんとなく「ぽい」雰囲気を感じてしまったのは文学の魔術と言えるだろうか。とはいえ「凄い」とたじろいだのは、そこではない。
 自分はあまり土地観のない西東京の地図。新宿(南に五反田)から西進した国分寺の北あたりを「このへんが武蔵野夫人の舞台」南あたりを「そしてこのへん『まちカドまぞく』の舞台」と指さす『まぞく』のリコくん。
 たいがいの小説は、主人公の視点・目線で描かれる。たとえば「走れメロス」なら、メロスがどう思った(まあのっけから「激怒した」なわけですが)か・何を見て何を考えたかは描かれる。けれど奸佞邪智の王(名前を忘れちまったなあ)や親友セリヌンティウス・妹やましてその婿や走るメロスに襲いかかる盗賊の内面までは語られない。いやどうだったろう、語られたっけ。王はかれこれこういう理由で人を信じなくなり暴君と化したのだ、みたいなことは1)人々の伝聞という形で描かれた2)王自身の台詞として語られた・ならいいけど3)「このように王は思ったのだ」とか地の文で軽く書いてやがったっけ大宰。まあ1)だったろうと思うことにして話を進める
 進めると言いつつ横道に逸れると、あだち充氏のまんがでは、たとえ主人公であっても内面の声がフキダシで語られることはない。これは自分で読んで発見したこと。むかし兄が持ち帰ってきた『H2』を当時の最新刊(20何巻だったと思う)だけ軽い気持ちで読んでみたら存外おもしろく「念のため一冊前の巻だけ」「もう一冊前の巻も」と遡り遡り、最初の一巻まで読んでしまった不思議な体験をしたことがある。自分が夢中になるタイプの話でもないけれど、やはり一流なのだとは思った次第。
 図解。「あだち充まんがには内心を表出するフキダシはない」(でも作者が語り手のナレーションはあった気がする)とあだち作品の画風を模して説明する羊帽の女の子「ひつじちゃん」のイラスト。
 まんがでありながら手法は映画的といえるのかも知れない。カメラは人物の姿や言動を外から捉えるのみで、その内面にフキダシをつけて語りだすことはない。
 小説にも映画的に外面だけ描かれるキャラと、内面まで描かれるキャラがいる。とくに顕著なのは一人称「私」で語られる物語だろう。『アレクサンドリア四重奏』でも『失われた時を求めて』でも語り手=主人公の「私」は(外面しか見えない)周囲の人々の内面を測りかね、思い違えては振り回される。

 『武蔵野夫人』で読者が目にするのは、真逆の事態だ。道子。従弟の勉。道子の夫である秋山。秋山夫妻の隣人である大野。大野の妻で秋山と不倫関係にある富子。登場人物は少ないが、その全員の内心・内面が均等に地の文で語られる。それも「道子はこう思った」ではなく「道子はこう思った。それはつまり、当人はこう思ってるが、実はこういう本心を自分でも気づかず抱いている欺瞞だった」みたいに当人の内心すら超えた冷徹な分析をもって描かれる。
「こうして彼の思想は自分の恋を社会化することによって、それを殺す方に傾いた。しかしそれは彼に、今この時道子は何をしているであろう、ほんとに自分のことはもう思ってくれないのであろうか、などと考えるのを妨げない。恋は思想によって殺し尽くせるものではなかった」
 作者当人の述懐によれば、本作のこうした技法はレイモン・ラディゲの小説『ドルジェル伯の舞踏会』(1924年)に倣ったそうで、つまり先例のあるものらしい。「盤上のチェス駒を動かすように」人心の機微を描くと評されるその作風・技法は『武蔵野夫人』ではチェス盤の駒というより、三次元の世界に住む吾々が二次元世界の人々の愛憎を、その内臓まで見透かすように見てしまう凄み・怖さを感じさせた。ラディゲの本歌を知らないので断言はできないけれど『武蔵野夫人』の筆致には、冷徹の一線を越えたニヒリズムのようなものさえ感じてしまう。どうかすると
「東京の山手の焼跡に彼は崖端浸蝕谷の美しさだけを見た。戦場で人間に絶望していた彼は、すべてを自然に換算して感じた」
と描かれるような(本作を支える重要な要素である)勉の自然観察への愛着と細やかさ(何しろストーリー的にも彼は多摩湖を観にいくのに従姉を誘った帰路、台風のせいで帰れなくなり連れ込み宿で一夜を過ごすことになる)すら、終盤では
「古代多摩川の三角州(す)が俺に何の関係がある(中略)彼は初めて復員後彼に憑(つ)いていた地理的興味が一種の感情的錯誤ではないか、と疑った」
迷妄に過ぎなかったと断じられてしまうのだ。
 『野火』の大岡昇平だ。この突き放したニヒリズムは戦場で培われたものでないと―いや安易に決めつける資格は吾々には、ないのだけれど。
 ともあれ、すべてを(冷徹に・そして等距離に)提示しようという本作での著者の姿勢は、たとえば
「事件がそれを要求するまで、財産について語らなかったからといって、読者を欺(あざむ)いたことになるだろうか
という一節にも明らかだ(強調は引用者)。【ここから8/4加筆】ふつう物語の中で起きていること(まして各々の登場人物の内面や・さらにその奥に潜む人間的な本質など)すべてが読者に開示されることはない。むしろ読者は登場人物たちの言動から「これはこういう意味ではないのか」と読みを広げていくものだ。
 キャプション;たとえば今年の春に出て少し紹介した朱喜哲『バラバラな世界で共に生きる』が書いてる哲学者リチャード・ローティの読みがナボコフ『ロリータ』のその後の読解に多大な影響を与えた話など参照のこと。(『バラバラな世界で共に生きる』書影を添えて。)
すべてを読者に開示する(べきだ)という『武蔵野夫人』の姿勢は、読み手に誤読や深読みの余地を与えない。
加筆ここまで】主要な登場人物すべての心理の動きを描きだす中、唯一その内面が明かされないのは大野夫妻の娘で九歳にしかならない雪子なのだが、まだ描くに足る内面の機微を持たない年齢ゆえに描かなかっただけと言わんばかりに「彼女のように両親に心を傷つけられた娘は、やがて誰かを傷つける女になるだろう(メモを取りそびれたのでニュアンスです)」と、まだ来てもいない未来の姿を分析される(そしてその分析も、相当に肯定感が低い)。
 なんて息苦しい、けれど濃密な小説。いや世の中の、大学でも文学部を選んだり、ちゃんと文学文芸・小説に向きあってきた人たちは、こんなものを読んでいたのか。

      *     *     *
 そんなわけで『武蔵野夫人』を読んで、ちょっと思ったのは「この技法で書かれたミステリがあったら読んでみたい(かも?)」だった。いや、そんなこと可能なんだろうか。探偵も容疑者も、真犯人すらも「内心でこう思ってる」「が、それはこういう自己欺瞞なのであった」とすべて手札が開示され「読者を欺かない」ミステリ、あるいはアンチミステリ。
 ところがここに、同じ作者の『事件』という小説がある。これは読むでしょう。
 書影。『武蔵野夫人』と『事件』。
 『事件』(新潮社1977年→創元推理文庫2017年)。第31回日本推理作家協会賞。
 欺かないよう大急ぎで言っておくと『武蔵野夫人』みたいな小説では、もちろんない。ほとんどの人物は外面の言動のみを描かれる。それはそれとして、本作も緻密きわまりない。神奈川の田舎町で起きた女性刺殺事件、容疑者として逮捕されたのは19歳の少年だったが、公判では思いがけない展開が…という内容なのだけど
 本文の写真とキャプション:後半この章題【新事実】を見て「これ以上読み進めたら停められなくなる、ここで止めよう」と本を置いた時、老いを感じましたね…若ければ「おお来た来た!」と夜更かし・夜明かし上等で読んでたはず…
 やー法廷サスペンスなんて読むの『カラマーゾフの兄弟』以来じゃないか、いや佐藤賢一王妃の離婚』があったっけ、なんて与太はともかく、それくらい充実の読書。そして
「事故によらなければ悲劇が起らない。それが二十世紀である」
という『武蔵野夫人』の謎めいた一節を『事件』の「事件」に投影したり、まして「このあと彼は怪物になってしまうかも知れない」と言われた勉の「その後=怪物になること」を『事件』で裁かれる未成年の「宏」に投影するのは直前に読んだ別の本に引きずられすぎと言うべきだろう。けれど物語は宏の弁護を引き受けた老練な菊池弁護士を中心に描きながら、彼をも正義の主人公として理想化し感情移入させることは避けるように「ここで彼は(法廷上の駆け引きを)ちょっとやりすぎて判事に悪い印象を与えた」みたいに書いたり、あるいは終盤・判決前の打ち合わせで今まで名前しか出てこなかった若手判事が「異議あり」を唱えて最後までハラハラさせたり、明らかに弁護側に肩入れしてはいるだろうけど、やはり冷徹なまでに全てをニュートラルに捉える(まるで地形を眺めるように)独自な立ち位置は共通しているように思われた。
 それを「突き放している」と断じてしまうには、僕は氏の小説を(そして小説全般を)読んでなさすぎる。突き放して描くことの是非も分からないし。
 ひまわりの花の写真。
 『武蔵野夫人』が敗戦直後の中産階級の没落を描いてどうとか、『事件』が都市化で変容する若者のとか、そういう社会的なテーマまでは到底到達しませんでしたが、こういう感想(日記)もいいでしょ。
 要は「攻めあぐねました」「完敗でした」と両手を上げるしかない二冊。でもちょっとだけフフッてなってしまった箇所も『事件』にはあった。「内面」が語られる主人公格の一人=野口判事(ちなみに僕の地元ヨコハマの妙蓮寺に住んでいる・もちろん半世紀くらい隔たっているのだけど、なかなか好い処なので妙に嬉しいですね)を描く終盤の描写に 「判事にとって、一番いやなことは、法廷へ出ることである。といったら、大切な人民の裁判にたずさわる人間としてけしからん、と抗議が出るかも知れないが、どんなことでも、それが職業となれば、そういう心理になるのは止むを得ないのだ。弁護士だって、朝起きて一番気の重いのは、裁判のある日だし」
と寄り添ったあと
新聞小説作家は毎日書き継がねばならぬ小説を、毎朝、重荷と感じているのである
(強調は引用者)
果たして本作、1977年に単行本が刊行されながら60年代が舞台なのを訝しんでいたら、もとは61年から62年が舞台の新聞小説だったことを読後に知った。単行本の刊行が遅れに遅れたのは(希望の持てる話だ)考証の厳密をきわめるためだったらしいが、十五年を経て、またさらに後年も加筆を経てなお、この「新聞小説家はつらい」の一節が削られることがなかったのには、冷徹冷徹と重ねて評してきた作者の、思わぬ可愛さがこぼれ出ているようで微笑ましかったのである。やられっぱなしの今回、一矢報いた感じでしょうか。

小ネタ拾遺・26年7月(26.08.01)

 や、今月(もう先月ですけど)は失敗だったと自分でも思ってまして。二つ三つくらい、小ネタとして小出しにせず、まとめればメイン日記(週記)に出来たんじゃない?と。我慢が足りなかったです、はい。
 とゆうわけで今回は特例として小見出しをつけてみようと思います。三番目の「捨てたもんじゃない?」が真の小ネタ集って感じです。
 1)植物の世界 2)陳さんは幽霊 3)捨てたもんじゃない?

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1)植物の世界  今回のトップに戻る 2)陳さんは幽霊 3)捨てたもんじゃない?

(26.07.09)一冊の本に埋めこまれた、その核あるいは芯、その本を紡ぐ言葉すべての雛形=DNAのような一節・を・見出す喜びを書いたのが(アミン・マアルーフの小説の、そのような一節を取り上げた)6/27の週記だったわけですが、キム・チョヨプのポスト・アポカリプスSF地球の果ての温室で(原著2023年/カン・パンファ訳・早川書房2023年/外部リンクが開きます)に同様の一節を探すなら、おそらくそれは終盤に伝えられる ★こちらは最近出た本だしネタバレ避けのためたたんでおきましょう(クリックで開閉します) (既読もしくは既読になったひとは「答え合わせ」してくださいね)だろう。それに続く
地球という生態において、人間はつかの間の招待客にすぎません。それも、いつでも追い出されうる危うい立場にありますは2020年代の今、SFという形式が示しうる最も率直な諌めでもある。ちったぁ謙虚になれ人類。
 光沢のある木の葉の陰になった『地球の果ての温室で』書影。
 ただし―吾々が住む惑星の描く楕円軌道がそうであるように―この物語世界には二つの中心があって、もう一つの核心は―これも伏せるか―  ★舞村(仮名)またソレか!と言われそうな「○○」。(クリックで開閉します) 読むひとが読めば、本作もまた「ふたりの子どもが手をたずさえて、見知らぬ太陽の焦熱地獄へ突進していくシルエット」なのだ←(みんな知ったかぶりしてそうなわりに)この元ネタが分かるひとも多くはない気もしますが…
読後さいしょに思ったのは「これ、映画にならないかなあ!」という下世話な感慨で、強烈な印象を残す登場人物のひとりを僕は(マレーシアあたりが舞台の物語だから不適切といえば不適切かも知れないけれど)ティルダ・スウィントンの姿で思い浮かべてしまったのでした。

(26.07.01)かき氷機(先月の小ネタ参照・ちなみに8/1現在めちゃめちゃ結果が出ていて今夏アイス的なもの一切買っていません)と同様コレも結果が出てからと思っていたのだけど、正直どうなれば正解=結果が出たことになるのか分からないまま(調べろよ)今年は水耕で空心菜を育てています。生き物を育てたりお世話したり一緒に暮らしたりするのは自分には無理だと思ってたけど+最初はどうなることかだったけど、液肥を1000倍希釈から500倍希釈にしたら二ヵ月でこんな感じ。もう一ヶ月くらい様子を見て、それから収穫のことを考えるつもりです。7月。
 豆苗用プランターふたつで1ダースほど、高さ25cmくらいに伸びた空心菜。
(26.07.04)空心菜。さいしょ液肥が薄かった時は出てくる葉が弱々しい黄緑色で、しかも葉の随所が茶色く枯れはじめ、流石に検索で少し調べたら「風とおしが悪いと褐斑病になる」とあり―実際には液肥の濃度の問題だったわけですが―子どものころCMソングで聞き慣れた「褐斑病」!褐斑病は葉を枯らすのです♪」褐斑病を吾がこととして受け止める日が来るとは…人生なにが起きるか分からないと少し面白かったです。
…若い人たちにはサッパリ何のことか分からないと思うけど、分かる世代はたぶんフルコーラス歌えるこれは♪葉の汁を吸うアブラムシ♪の歌:
フマキラー カダンCM(YouTube/外部リンクが開きます/虫の映像がどアップで出るので注意)
(26.07.15)月初「もう一ヵ月様子を見る」と投稿した空心菜。基本的に一枚葉を出しながらメインの茎一本がどんどん伸びてく感じで、これでは一度の収穫で終わってしまう・どうしたもんかなぁと思っていたのが、この半月で(一枚葉で終わらず)自身の葉を展開する新しい茎が生えはじめた…根元のほうに。こう来るのか。
 写真2点。左:伸びていくメイン茎の先端。笹の葉のようなフォルムの一枚葉の細い茎を伸ばしながら、実はその根元からさらに細い茎の先端を出している。右:めちゃぶっとく育ってしまったメイン茎の根元、液肥に浸けてる部分から新しい茎(葉ではなく、枝分かれする葉をもつ新しい茎)が小さく伸びはじめている。それも複数。
 すでに育った苗だと「ゴツい」の域に入りつつあるメインの茎をぶった切って(食べて)こちらの小さな茎を育てていく時期に入ったのだろうか。いいかげんキチンと調べろとも思うが「すべて間違い」という可能性に直面したくなくて逃げつづけている。こういう生きかたをしてはいけませんよ(とくにお給料をもらう仕事では)。

(26.07.26)どうして全部いっぺんに来るかなあ。サラダ油900mlとシャンプー600mlが同時に切れ、豆乳1Lとトマトジュース900mlと全粒粉パンも今日のうちに買う必要があり、出来れば米粉500グラムと玉子と納豆とサバ缶とキノコとヨーグルトも買い足したく、そのうえ図書館に出向く必要があり、夕方からまた雷雨の予報で日中に用向きを済ませる必要がある…外に出たくない…
 半熟の目玉焼きをトッピングした豆カレー
この暑さはどう考えても人為による気候変動の産物なので、少しでもCO2削減に貢献すべく豆カレーを作ったりしているが…ガッデム…カレー粉もそろそろ買い足しか…(かわいそう)
(同日追記)米粉はあきらめて1ダースまとめて取り寄せ決定。賞味期限が一年半くらいなので、まあ使い切るでしょう+一袋あたり単価は現状スーパーのが若干お安いのだけど、実は少しずつ進んでる値上げの今後の度合いによっては、逆に若干お得になるかも知れない…それを嬉しいとは思えないだろうけど

(26.07.28)キム・チョヨプ地球の果ての温室で』に参考文献として挙げられていたステファーノ・マンクーゾ+アレッサンドラ・ヴィオラ植物は〈知性〉をもっている 20の感覚で思考する生命システム』(原著2013年/久保耕司訳・NHKブックス2015年/外部リンクが開きます)。植物は人間の「五感」はもちろん―葉が光に伸び、逆に根は光を避けて伸びるのに「視覚」がないなんて考えられるだろうか―電気や磁気などヒトが生身では捉ええない感覚まで持っている。本の中の「光のほうへ伸びる葉茎」のイラストが、今ちょうど育ててる空心菜の伸びっぷりソックリで笑ってしまった…
 右に『植物は〈知性〉をもっている』の当該ページ、左にイラストとソックリな方向(西日のほう)に葉茎をわっと伸ばす空心菜(たち)。
 しかしまあ読むと、ジャストナウで育ててる空心菜を収穫しにくいこと、食べにくいこと。いやぶった切って茹でて食べちゃうんですけど。すまん。今は脇芽を伸ばしつつ、新しい種も播いて二期作を始めたところです。
 湯通しして揚げエシャロットをまぶし、胡麻油で和えた空心菜の写真。右にパプリカとキノコのスープ。
(26.07.30)注文していた米粉1ダースが届く。賞味期限が一年半くらいあるので、まあ使い切れると思いたい。今は蒸しパンばかり作ってるけど、他のレシピにも挑戦したいところ。しかしコレ、散らかった部屋で何処に置こうと思ったとき、数年前に衝動買いして一度しか使ってないスーツケース、あれに裏側を表にして詰め込んで永田町とか怪しい目つきでウロウロして職務質問され「君このスーツケースを開けてみたまえ…わっ!なんだこの真っ白な袋は!」「米・粉・だ・バーカ!」みたいなことは、残念ながら裏側も真っ白でなかったので現実味なかったけれど
 米粉の袋。裏側にも色々印刷されている。
いや正当な理由で権力に逆らいたくなる契機はいくらでもあるのに、そんな無益な冗談で喧嘩を売ってどうするの。昨年サイト日記で取り上げたマイケル・ポーラン欲望の植物誌』という(昨年7月の日記参照)すこぶる面白い本で、コレは枝葉に過ぎるので(植物だけに枝葉…うっさいわ)紹介しなかったのだけど、あくまで植物愛好家としての興味からマリファナの一種を育ててみていた著者が、ガチで警察のお世話になりかけ「冗談でも警察のお世話になるのは止めたほうがいい。どんな無関係そうな嫌疑でも勾留されてるあいだに家宅捜索され部屋も本棚もメチャメチャにされるから」と書いていて、んー、正当な理由で権力に逆らうことを僕は決して否定しないけど、否定しないだけに、痛くもなかったり何処か痛かったりする肚を探られる・プライバシーとか滅茶滅茶にされるリスクは知っておいたほうが良いと思うのでした。家に無事かえるまでがデモ(クラシー)ですから。
(26.07.31)前から入れたかった支い(つっかい)棒を立てる。見てのとおり、ものすごく簡単なやつ。
 根が伸びるスペースを作る他ため豆苗プランターの底の部分を持ち上げて育てている空心菜。西日に傾かないよう、細い木の棒でつっかえの支柱を立てた。
 『植物は〈知性〉をもっている』も参考にして根を伸ばせる余地も増やしたのですが、収穫で太いメイン茎を切ってしまうと、そちらに水や栄養を供給していた根からの供給が「それじゃ」と簡単に脇芽に移ってはくれないようで、脇芽から伸びた茎はメインほど太くはならずヒョロヒョロした感じ。簡単ではないですね。二期作で播いた種も本葉を伸ばしはじめて、思った以上に楽しいですね(心のリソースを持ってかれるとも言う)。虫もつかず(カダン、カダン、カダンも不要で)初心者向けかも空心菜。

      *     *     *
2)陳さんは幽霊  今回のトップに戻る 1)植物の世界 3)捨てたもんじゃない?

(26.07.05)これもまだ結果は出てないんだけど三日坊主はどうにか回避ということで、春に台湾で買ってきた中国語(繁体字)百合ホラーコメディ『我的室友陳小姐是幽鬼(My Ghost Girlfriend)』も1日1ページの超スローペースで読み進めています。基本「勉強はしない」「分かんないところは飛ばす」「文法も発音も憶えない」「とにかく読み進める」毎日スマホのカメラが読み取った中文を翻訳にかけ、機械的な翻訳を(ゆるく本文と照らし合わせつつ)こなれた日本語に直していく作業を進めるうち、だんだん訳文を見なくてもニュアンスが読めるようになってくる。てゆか流石は漢字、
「他不知道,我住的不只是一棟老舊的公寓,更是赫赫有名的凶宅。」
とか読むだけなら読めちゃうでしょ―
「他(奴は)不知道(知る由もなかったけれど),我住的(私が住んでいるのは)不只是(ただのアレじゃないんだよ)一棟(一棟の)老舊的(老朽化した)公寓(アパートじゃなくてね),更是(さらには)赫赫有名的(悪名高い)凶宅(恐怖の館なんだなぁ)って。
 幽鬼(ユーレイ)の室友(ルームメイト)・陳小姐は、ひょっとして生まれて初めて?(いや死んでからだが)出来たBL友達が満更じゃなくて「私たち同担ね!」とはしゃいだり、主人公に迫ってきた悪霊を「彼女にちょっかい出したければ私の屍を越えていきな!」と撃退したり、生身で迫ってきたストーカーもアレしたり、甲斐甲斐しくも積極的なんだけど
 原作準拠で「私」の背後からヌッと姿を現し「ストーカーさん…KEEP YOUR HANDS OFF MY GIRL(私の彼女に手をだすなよ)」と凄絶な笑みを浮かべる陳小姐と「陳小姐…KEEP YOUR HANDS OFF MY胸部(どさくさで何処さわってんだ)」と怒りに震える「私」のイラスト。
「逆カプ推しでも同担なのか?」「いや(乗り越えようにも)もう屍すら残ってないだろ」と現状は塩対応ぎみな主人公。台湾では2月のバレンタインより盛り上がると言われる旧暦の七夕情人節(今年は8/19)頃には40頁くらい読み進めている予定なので、多少は進展があるといいですね…

(26.07.06追記)『陳小姐は幽霊』、もともと陳小姐自体も主人公がパソコンでBL画像を閲覧していたら「ちょっと、それ逆カプ!」と出てきて正体を暴露したのだけれど、けさ読み進めたページでは主人公の友達が家具と壁の間に隠れていた幽霊を「物が動いてたり何か食べられてたりするから変だと思ってさぁ」監視カメラを設置したところ「何してたと思う?私のスマホで勝手にゲーム内課金してやがった!」自分、ホラーに詳しくないけど最近の幽霊って皆こんなですかね?いや、ジョージ・ロメロ監督の『ゾンビ(DAY OF THE DEAD)』だって甦った死者がショッピングモールに集っていたのは生前の行動を反復していたわけで、今どき死んでも一番の未練はやっぱりそのへんか…もちろん「気がついたらこんなに課金してた…本当に自分が課金したの?(してたわ…)誰かがスマホを乗っ取ってたんじゃない?(自分だったわ…)」というゲームあるあるを反映してもいるのでしょう。現代も大変だ。

(26.07.17)この話は前にもしてるかも知れないけれど、Twitterでだったかも知れないし、(僕には)ちょっと面白い話なので再度(?)してしまう。
『陳小姐は幽霊』具体的にはスマホで撮った繁体字の本文をパソコン(Mac)に読み込んで、Macの画像から文字読み取り→そのまま翻訳機能を使い、訳が生硬な処はネット上のG○○gle翻訳(いちおう伏せ字)のセカンド・オピニオンを参考にしたり、日本語ではなく英語に訳したりして(華文は語順的に日本語より英語に近いとかある)いるのだけれど―
わりとこなれた訳を出してくれるG○○gle翻訳、アイスランド語にアイマラ語からンダウ語・ンデベレ語まで数百の言語を双方向に翻訳できると豪語するG○○gle翻訳は、実は日本語と中国語・モン語とシロンスク語を相互に訳してくれるわけではなく、どうもあらゆる言語を英語に翻訳し、その英文をあらゆる言語に翻訳することで数百の言語を通訳しおおせているらしい。
なぜそんなことが分かるか。訳しちゃうんですよ―「弟」を「兄」と。
 「我弟 不爽地[目へんに登]我 一眼」という華文に、不機嫌そうに夜食の入ったレジ袋を差し出す「弟」のイラスト。
「我弟 不爽地[目へんに登]我 一眼」、
Macの翻訳だと「弟は不機嫌そうに私を睨みつけた」となる文章を
兄は」不機嫌そうに私を睨みつけたと。
そんな間違いをするのは、中国語の原文を読まずに
My brother glared at me unhappily」
という英訳(だけ)を見て日本語に訳した場合に限るはず。
僕じしん英語のコンテンツを読み聴きすることは好きなほうだし、あるていど英語を理解できることで恩恵を受けてもいる。それでもやっぱり、英語(およびアメリカ語)帝国主義め…みたいな気持ちに少しならないでもない。
実は先月の日記で取り上げたアミン・マアルーフ『アイデンティティが人を殺す』では、自分の第一言語と第二言語としての英語だけでなく、それに加えて何か第三の言語を習得することが、これからの吾々に必要なのではないかと説いていて、それで「読むだけ」からでも中国語を分かりたいなと思って日々つとめているのです。
あまり関係ないけど、自分の恋人や連れ合いのことを「私のハチミツ」「お砂糖」「甘い心」「赤ちゃん」とか呼ぶ言語(英語)ってのも、それはそれで面白いですよね。

(26.07.18/苦言)スマートフォンで何かネット関連の操作をしようとすると差し挟まれてくる広告に、システムの警告を模して「○○件のウイルスが検出されました」とか「ご使用のPDFアプリが期限切れです」とか言って「なのでコチラをクリックして(弊社の)アプリをインストールしてください」みたいなのがあるんだけど、これって虚偽じゃん(ウイルスの件数まで特定できるわけがないし、なんならiPhoneで「お使いのAndroidの…」とか言ってくる)虚偽ってか詐欺じゃないの?こういう広告を出すことに同意してる(本来閲覧したかった)サービスの提供者も同罪で、関係者全員いま関わってる仕事いったん全部中止して代わりに、ちょっと罰でガレー船とか漕いでもらうよう法改正とか出来ないのかなあ?
 写真:まっすぐ伸びた茎から紫の百合根(鱗茎)みたいなものが半球状に出て、その上に逆立てた髪のように細い紫の花がみっしり咲いている美しい花。キャプション「はい、お馴染み辛辣な文面を緩和する和みお花画像です。撮影地;新芝運河(東京・品川と田町の間)」
いやまあ拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる(いま自民党が無くしたがってる憲法の文面)なのでガレー船はないんだけど、そうじゃなくて、
これに限らず何かするたび現われる「本来のサービスを見たければ先に途中に最後に観てね」とばかり割り込んでくる広告が、消すためのバッテンが小さかったり「これで終わりで消せる」みたいなサインをタップすると「ざぁんねんでしたぁーまだ終わりじゃありませーん報酬を得られませんが中止しますかぁ続きを見ますかぁ」みたいなトラップ(控えめな表現)を繰り出してきたり、総じて「観る人への悪意に満ちている」「観る人を不快な気持ちにさせるよう設計されている」の、ひとつには広告の視聴が本来受けたいサービスを受ける対価として要求される「労働」であって、労働なんだから苦しめという(わりと被害者が加害者に転じた的な哀れさのある)価値観に基づいてるてのもあるかも知れない、それは考えたいひとは各自で考えるとして―
まだ自分の中で上手く文章化できてないんだけど―この「上手く文章化できてない」て言いかたでも分かるとおり―僕みたいに「どうすれば過たず伝達できるか」まんが(滞ってますが)みたいな創作でも本サイトの週記(滞ってますが)みたいな文章でも、表現する内容をなるたけ誤解のないよう伝えることに日々腐心して生きてきた(でないと「本サイトの文章は分かりにくくてスミマセン」とか「自分のまんがが面白いか以前の、ちゃんと内容が理解されてるかが確信もてず煩悶する」とか普通ならないでしょ)仮に「お前らガレー船でも漕いでろ」みたいな悪口(拷問は絶対に禁止)でもブレヒトやロシアン・フォルマリズムみたいな異化(すんなり呑み込まれず理解や咀嚼に時間がかかる表現のが尊い)でも、その悪意や咀嚼に時間のかかる表現じたいは過たず理解されてほしい・理解してくれる相手を期待して発せられる、それが表現であり発語だという立場で生きてきた人間にとって、
相手にスムーズに伝達することを目的としていない、お前らどうせ見たくないんだろ的な姿勢でバッテンを小さくしたりする、ましてや虚偽を押しつけてくる、いわばディスコミュニケーションを押しつけるコンテンツを割けがたく大量に浴びていることは、受け手としてのバランス感覚や(本来それなしにコミュニケーションも何もありゃしないと僕などは信じたく思っていた)コミュニケーションへの信頼みたいなものを著しく損ないはしないのだろうかと気になっている。過たず伝わる自信はないが。
(同日追記)僕はとくに老いてからの筒井康隆をあまり好いてはいないし(過たず伝われ)これも別に彼じゃなくても他の誰かがきっと書いてたと思う話だけど、彼の初期の短篇のレコードで音楽を聴こうとしても間に広告が入る、広告の入らないレコードはないのかと訊いたら「当店で一番高価なレコードです」と無音のレコードを出されたという話、半世紀前に現代を予言してやったぜと(憶えてたら)ほくそ笑んでるかも知れない。いちおう無音ではない本サイトが自分で作ったTシャツや電子書籍の宣伝をするくらいは許してほしい、関係なく「ウ○コがドバドバ出てほしいひと絶対みて」みたいな広告(悲しいかな実在する)を差し挟んでるわけじゃないのだから。

(26.07.22)そんなことを書いた矢先(まあ矢先も何も日頃オールウェイズネット広告にストレスを溜めてるんだけど)『陳小姐は幽霊』けさ読んだ分で、幽霊の陳小姐が外出のあいだ主人公を守るため呼んできた代理の幽霊・張小姐が「陳小姐も心配性だなぁ、こんなオンボロアパートに空き巣も押し込み強盗も来るわきゃないのに…ギャー何か来た!ヘルプ!張小姐ヘルプ!」「ヘルプしますが先に短い広告を聴いてください…私にもノルマがあるんです…」あんたのノルマなんか知るか、ギャー!というギャグがあって、薄々気づいてはいたけれど、無理やり差し挟まれてくる(そして大概しょうもない)ネット広告にうんざりしてるのは世界共通か…
(26.07.23)四月に旅行した台湾でもスマホを使えば広告動画は不可避なもので、設定を引っ張ってきたらしい日本と同じ日本語の広告動画が半分・向こうのショップやデパートなんかの広告が半分だったのだけど一度表示されて興味ぶかかったのがムスリマ(イスラム教徒の女性)向けファッション広告。左の「Corporate Neutrals(日本でいう「オフィスカジュアル」かも)」も興味ぶかいけど、やっぱり目を惹くのは右のデニム生地。
 スクショ三点。左から「Corporate Neutrals」と銘打ったツーピース(下はゆったりしたパンツ)・「Soft & Flowy」と銘打たれた柔らかい記事のワンピース・そして「Dark & Denim」はヒジャブからシャツ・パンツまで青いデニム生地で、黒いシャツを羽織っている
ことさら台湾で日本より多くムスリム・ムスリマの人たちを見かけた感じもないのですけどね。日本でだって沢山みかけるけれど、彼女たち彼たちが何処でどんな服を調達してるか、なんてことはあまり目に入ってこなくて、その片鱗が見える扉がたまさか旅先の台湾で開いたということか。

(26.07.31)そして二年の月日が流れ去り。春に台湾で買ってきた中文の百合(?)ホラーコメディ『我的室友陳小姐是個鬼(My Ghost Girlfriend)』いつ(?)は無くなるの、いつfriendがGirlfriendになるの?と読み進めていたら二ヶ月目(6月から読んでる)の終わりになって急展開。というのも章題が「故事正式開始」(物語が正式に始まる)。どうやら今まで数ページ単位の短篇形式で進んできたのは助走か「お試し」で―単発的にネットで発表して手応えをつかんで本格的に動かしはじめたのかも。
二次元(しかもBL)が一番とはいえ主人公にも満更じゃないオタク幽霊の陳さんに対し、もっぱら塩対応だった主人公をどうデレさせるかと思いきや、いきなり「和 陳小姐 住 在一起 大概両年」(陳さんと暮らしはじめて、もう二年)…そう来たか。今では消灯して寝入りばな互いに「おやすみ」を言い合う仲で「実のところ陳さんは(「見える」人なら)十人が十人振り返る美女なのだが、おやすみなさいと囁く声さえ聞ければ、彼女が部屋のどこにいようと私はその姿を確かめる必要さえないんだ」(かなり盛ってる意訳)…デレデレじゃんか主人公(願望)。まあ今だに「家賃を払ってるのは私なんだが?」とかツン全開ではあるけれど。

      *     *     *
3)捨てたもんじゃない?  今回のトップに戻る 1)植物の世界 2)陳さんは幽霊

この項は本当に小ネタまとめ。
(26.07.10)けさ見た夢。夢のなかでディズニー『ファンタジア』(未見)を観ている。とゆうか『ファンタジア』の中にいる。といっても完全な「実写版」なのだが、緑ゆたかな森の中にいて、小鳥の鳴き声がチチチチと自分のまわりで輪を描き、天から声が降ってくる。「そう、ここファンタジアでは鳥の声もサラウンド」「音楽はハンス・ジマーよ」1955年くらいの映画じゃなかったっけ、それでハンス・ジマーはないだろう(リメイクか?)と夢のなかでツッコミを入れながら目が醒める。起きて確認したら1940年でした。ハンス・ジマー、生まれてすらいないぞ(1955年でも)。やっぱりリメイクか。いずれにせよハンス・ジマーが音楽の『ファンタジア』はちょっとイヤかも。まわりを(サラウンドで)飛んでるのが小鳥じゃなくてコウモリだったりして。おはようございます。

(26.07.11)たとえばこの記事などが伝える、ヨーロッパでは「エアコンを備えた住居が少なく(中略)猛暑の影響を受けやすい」といった事情が今この国でどれくらい共有されているか知らないけれど
ドイツ、熱波で5千人死亡か 政府研究機関が推計(共同通信/26.07.09/外部リンクが開きます)
共有されたら共有されたで新型コロナのときと同様に「備えがあったり地の利があったりして熱波の被害も比較的まぬがれている選ばれた国ニッポン」だから(脱炭素ふくめ)対策なんて無用みたいな認識が流布しないかと取り越し苦労で案じている。
 2024年の写真。街頭の液晶掲示板に示された「厳重警戒 金沢市(7月)22日15時現在 気温32.3℃ 熱中症に注意!こまめに水分補給を!」の文言。
 三年前すでに災害ボランティアも「これ以上気温が上がったら中止します」と警告される状態だったのだが本邦も。
(26.07.29)そんなことを言ってたら熊本の地震。ナオミ・クラインが『楽園をめぐる戦い』で書いていた、プエルトリコの大規模停電で活躍したという「太陽光で稼働するフルサイズの冷蔵庫」のことを考えている。23年11月の日記参照。
 【M7.1 熊本地震】緊急支援を開始。被災地へご支援を(ピースウィンズ・ジャパン/空飛ぶ捜索医療団"ARROWS"/READY FOR/外部リンクが開きます)
なかなか現地までボラには行けない距離ということもあって僕も寄付したし、すごい寄付があっという間に集まっているけれど、同時に寄付しか出来ない歯がゆさみたいなことを感じてもいる。さいきん見た話で、気候変動≒CO2排出による地球温暖化に取り組む科学者に「いま一般の人々にできる最も手っ取り早く・かつ有効な対策は」と問うと圧倒的多数が「投票。正しい政治家を選んで」だったという。
ちなみに熊本のゆるキャラ「くまモン」をこよなく愛している某国の人たちが、また寄付とか支援とか申し出るのでは…と想像すると「嬉しい」とか「愛されてる日本」とか思えず「頼むもう止めてくれ」と思うの、なんだろう…?自国肯定感の低さ?

(26.07.11)なぜか一ヶ月無料お試し状態になってしまった某動画サブスクも今日でおしまい。たいして観られはしなかったけれど(忙しいんよ)前から気になってたアニメ『ぼっち・ざ・ろっく!』をフル観賞。面白かったです。バンドもので、しっかりと曲が好い。意外だったのは二次創作では共依存ぎみに熱烈両想いだった主人公ぼっちちゃんとドラマー虹夏ちゃんのカップリング(ぼ虹)が実物を観ると「あ…そうでもないんだ…
まあ別の某作品で、作中に非業の死を遂げたキャラが、二次創作では生き延び今も人生を謳歌している設定の作品が多すぎて、そっちから入って後から原作を観た(読んだ)ひとが「え…こいつ死ぬん?」と驚愕した話もあるってほどなので驚くにはあたらないんだけど、
逆に「公式が最大手」と呼ばれるくらい「お互いの好きそうな小説をプレゼントしあったら同じ本だった」とか「無料券をもらって二人で焼肉デートすることになりテンパった片方が服だの何だのに40万使ってしまった」とか「きっとまた逢いに来ますからといって異世界に帰っていったプリキュアが我慢できなくて翌日ソラシド市に朝食を食べにきた」とか(※三つとも百合)そんなのばかり摂取していたので、久しぶりに「してやられたなぁ」と思ったのでした。
 アニメ『上伊那ぼたん、酔へる姿は百合の花』OPアニメの「いぶき」と「ぼたん」を「ぼっちちゃん」「虹夏ちゃん」に置き換えたGIFアニメ。
これは「ぼ虹」それぞれを演じてる中の人つながりで作った『上伊那ぼたん(外部リンクが開きます)』のパクリGIF。四時間クオリティなので色々ゆるしてほしい。

(26.07.16)これもアニメの話。久しぶりの衝撃で、街ゆく人々・レストランに行列をつくる人々・混みあった電車の中でスマートフォンをのぞきこむ人々、眼に入る全ての人たちが今「天幕のジャードゥーガルを知ってる人」「天幕のジャードゥーガルを知らずに生きている人」に二分できるんだなと思ってしまった。なんて大仰な。いや昨晩まで自分も「知らずに生きてきた」組だったんだけど。
世の中はどんどん崩壊している、それは間違いない。けれどそれは全てひとしなみにダメになるんじゃなくて、暴力や愚鈍さで崩れていく部分もあれば、それに逆らうように素晴らしい華が(徒花かも知れないにせよ)咲きもするモザイクなんだと実感する。その意味で物語が描く13世紀と、この物語自体が咲き出た21世紀が重なりあう。てゆうか、十年前にカートゥーン・サルーンのアニメーションを観て「ジブリアニメの最高傑作を創ったのは、スタジオジブリじゃなかった」くらいの衝撃を受けて、でもオタク文化が日本も、日本ゆえの限界も越えて世界に広がるのは嬉しいと思ったのが、今カートゥーン・サルーンの系譜につらなるアベル・ゴンゴラ氏と日本の京都アニメの系譜につらなる山田尚子氏のタッグという形で回収されたのを見て(もちろん未読の原作からしてスゴいのは当然のこととして)世界も捨てたもんじゃない、とは思わないけど、世界「全部が」捨てたものではないと思い直している。
※ちなみに街ゆく人を二分するという意味では、今この国に暮らす全てのひとが「ウィシュマ・サンダマリさんを知ってる人」と「知らない・もしくは知ったことではない人々」に二分されて見えることが、しばしばある。名前はすぐに憶えられるものではないかも知れないけれど、ムラト・チチェク氏の事件を知っている人たちは、どれくらい居るのだろう。
(26.07.12)日本公開の映画にも出演経験のあったクルドの映画人が八王子の警察署で勾留中に死亡。8日間にわたり拘束されており死因は非公開、トルコ領事館を通して家族に死亡の連絡が入った時には死亡後さらに5日が経過していた。
クルド人映画監督のムラト・チチェク氏が、日本での勾留中に死亡(OudaisさんのBluesky/26.07.11/外部リンクが開きます)
些事だけど投稿主のプロフィールがひとこと「何者でもない」というの、自分もかつてTwitterで似たような肩書きを使っていたので(「しいて言えば何物でもない」)感じるものはある。それにしても、
「このような外国人への人権無視を許していたら、そのうち吾々日本人の人権だって無視されるようになる」みたいな論法はマヌーヴァーとして自分も使ってこなかった訳ではないけれど、実のところ日本人に同様の被害が及ぼうが及ぶまいが(冤罪への対応や今後の方針など見るに「及んでない」とも言えないと思うが)相手が外国人であろうと、こんなことが起きる国は×××だし「他所の国だって同じようなことはあるはずだ」と言うのなら、その他所の国とやらも含めて全部×××なのだと言いたい。何か間違っていますか。

(26.07.13)これは実写の話。折しも配信で観た映画ひつじ探偵団(カイル・バルダ監督/外部リンクが開きます)は、愛する牧場主を毒殺された羊たちが真相究メェー(究明)に乗り出すユーモア系ミステリだけど「しばしばミステリにおいては事件とは別に探偵自身が解かれるべき真の謎(問題)として立ち現れる」のセオリーどおりに羊たちの特性として暴かれる
・都合の悪いことは意図的に忘れる力を持っている
・それで自分らが不死でないどころか食用肉ですらある現実を見逃し続けている
・そして内輪でも特定の羊を差別する自分たちを省みない

が、あまりに今この国の現状に刺さりすぎて…けれど他所で書かれた小説を原案にした他所の映画ということは各国共通の病弊でもあるのだろうか…だとすれば目を背けてる同志だからではなく、目を背けていることに違和感を持つ同志として吾々は手を取り合えないものだろうか。映画の羊は自分が賢いというメェー妄(迷妄)から目覚め、泣きながら本当の自由と賢メェー(賢明)さ・そして友愛に自らを開いてゆくけれど、さて現実の人間は。
(と言いつつ配信を観る直前マトンビリヤニをたらふく食べてしまった自分…)

(26.07.20)アニメ版でようやく齧りはじめた『天幕のジャードゥーガル』。観る前の先入観で、モンゴル対イスラームよりもっと大きく分断され、支配者と被支配者・侵略者と犠牲者として対立する「男と女という二つの民族」―みたいなものを想定していたけれど、実際はそう明快に割り切れるものではないようだ。女性にだって抑圧する側に廻る者もいるし、僕などは素朴にすがってしまいそうな「知」=迷信でなく事実を貴ぶ志ですら、その「知」のために弱者を蹂躙する足がかりになりうる(その両方がアニメ第四話の時点では同じ人物に体現されてるのも悲喜劇だけど)あたり…実に好いですね(血涙)。すぐれた物語はいつだって「世界はお前の先入観より(善かれあしかれ)大きくて深いよ」と教えてくれる、これはミラン・クンデラが言っていたこと

(26.07.23)署名私たちは、ムラト・チチェク氏の死を取り巻く状況が明らかにされることを要求します。(change.org/外部リンクが開きます)に賛同しました。
この署名はトルコ語で書かれているため「クルドを知る会」のXでの紹介もシェアします。Xのアカウントがない人でも読めるよう
「クルドを知る会」による署名の呼びかけ(主ポスト)
署名じたいの声明文の和訳〜主ポストで「コメント欄の日本語訳を…」と書かれているものです。
両方ともリンクを張っておきました。

(26.07.27)そういえば数年前、紀文が大豆タンパクの代用かば焼きを開発したという話はどうなったんだろう。てゆかフードロス削減とか販売ノルマの弊害とか、そもそもウナギの絶滅危惧はどうなったんだろう。もっと言えば能登の復興は、福島の放射線は、日本人の戦争加害は、関東大震災での朝鮮人や中国人の虐殺はどうなったんだろう。関西万博の不払いは。サナエトークンは。戦争に負けて日本人は天皇崇拝をやめたんじゃなかったっけ?
 左:一正の「うな次郎の味つけをしたカニカマ」と、それを載っけたごはん。右::丑の日の夕餉。アジフライ(見切れ)・ごはん(見切れ)に白菜のうま煮。
 さすがに食べたのは丑の日の当日ではないけれど(惨めすぎる)「うな次郎」の一正が売り出した「うな次郎ふうカニカマ」代用うな丼としては(一時ネタになった「蒲焼きさん太郎」丼には一歩譲るが)かなりの極北とは思う。実際の昨晩は「う」のつくもので「うま煮(白菜の)」をいただきました。天皇制はそろそろ止めてもいいんじゃないかと思っています。
(26.08.01追記)高市内閣の支持率が急激に(?)下落とか言われても、そもそも何で支持してたんだよとか思うに「やっと酷さに気づいたか」と素直に喜ぶこともできなくて―どうせ「愛子さまを女性天皇にしない自民党に失望した!」とか、そんなんじゃねーの?と白眼視したりしている自国肯定感の低さ。やだなあ。個々の人々には(街で袖すりあうレベルでも)素敵な人はいるのだけど。まあ自分も、せめて外面は善い人でありたいと思う今日この頃です。また来月。いやもう来月なのだが。

『台湾でしたい50のこと』第3話アップしました(26.07.26)

 予定というか当初の目論見では月1回のペースで更新するつもりだった旅行エッセイまんが『台湾でしたい50のこと』第3話は倍の2ヵ月かかってしまいました。
 しょうじき本気で取り組みたい作品は他にあって(GF×異星人とか)本作はある意味じぶんの中では「余技」または「余戯」みたいな位置づけだったのだけど、こうも執筆に時間を取られると「場合によっては(うっかりしたら)これが遺作」みたいな事態も、ありえないではない。サクサク描き進めたいのだけど、同時に大事にしなければと思う次第。その意味で、どうせ遅れてるのだしと、描く予定はなかった(エブリデイ・レインボウは当初から入れる予定だった)圓山での父の姿を加筆できたのは自分にとって好かったと思っています。
 2019年・圓山の仏具店というか日本でいうダルマさんサイズの仏像が並んだ仏像店。

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 第3話で描きたかったことの一つは「おまけ(2)」で描いた「折りたたみ傘のシワはアイロンで伸ばせる」で、ちなみに富雨洋傘は「お買い上げいただいた傘は永年(無料だったと思う)修理保証」を謳っているけれど、さすがに日本に持ち帰ってしまったら自分で手入れするしかなかろう、ということで、横浜の時に恐ろしい強風で骨がポキンとやられない限り、大事に大事に使っていこうと思っている現在。
 同様に長年「これを直すのは無理だろう」と思っていたのが、着ては脱ぎ洗って干してまた着て…を繰り返すうちTシャツの首まわりがヨレヨレに波打つなのだけど、実はこれも直せる・少なくとも緩和できると近ごろ知った。
首元がヨレヨレになったTシャツ。元に戻す裏技は「氷水」だった(TBSラジオ「ジェーン・スー生活は踊る」2025.05.07/外部リンクが開きます)
 コレ、「こんなに見事にヨレヨレが緩和できるんですよぉ」と写真でも撮っておけばと気づいたのが実際に氷水で試して「あ、本当に上手くいった」アフターになってからで(馬鹿だなあ)またすぐ「ビフォー」になるだろうと思ったら、今度はなかなか(再び)ヨレヨレにならない。それはもちろん素晴らしいことなんだけど

 もう20年以上も前に書いたエマールという短い小説は、長年つれあいに家事を任せきりだった男性が一人になって、お弁当を自分で作ったり「エマール」でセーターを洗ったり私は初めて『生活』というものを自分でしてみることを面白がっているのですと微笑む話で、書いた本人もけっこう気に入っている。とゆうか、あれは一種の自画像で(まあ現実の自分はミニスカートが似合う女子高生に好かれたりはしないのだけど)「生活」を愉しむ初心者の気分は、今もずっと脱けきらない。
 言い替えると自分は、いつまで経っても「生活」でも仕事でも人間関係でも、おおよそ「馴染む」ということが出来ない人生不適合者・とば口で逡巡しつづける永遠の初心者(アマチュア)であるよう自らに呪いをかけているわけだが―20年よりもっと前の有名なまんがで「君はプロフェッサー(教授)にはなれない―せいぜいマスター(修士)だ」と言われた主人公でも最後はプロフェッサーになったのではなかったか―アマチュアの語源がラテン語の「amator(愛する人)」だというのが本当ならば、自分は(仕事や人間関係はともかく)生きること自体は愛好している、ある意味で幸福な状態を保持しているとも言えそうだ。

 むしろ惜しまれるのは、たとえばそれこそ20年くらい前には、圧力鍋でよく鶏手羽と白米を一緒に炊いた「おかゆ」を作っていたとか、トマト缶とサバ缶で無水カレーを作っていたとか、その時々で「生活を愉しんで」会得した料理やら何やらを、近頃はすっかり忘れてしまっている・実践できなくなってしまっている、ことだろう。それらに比べると食事を中食や外食で済ましてしまうことは簡単で手っ取り早く、けれど「生活」とは言えない(とも思う)。
 近頃のマイブームは、千切りにしたジャガイモに塩と片栗粉をまぶしてフライパンで焼くことで―とろけるチーズも焼き合わせれば、パッケージが銀色だろうが何色だろうが市販のポテトチップスは基本もう要らないかなと思える(原理的には市販のハッシュブラウンなんかも)。
 焼きじゃがいも。チーズがこんがり焦げている。
 もちろん「あのハッシュブラウンやポテトチップスが恋しいんだよ」ということは十分ありえるけれど、今まで積み上げてきたはずの「生活を愉しむ」レシピを一過性の流行で終わらせず、十全に使い回して行けたなら「生活」を商品に譲り渡さず、より自律的に生きていくことが可能なのではないか。

 これは人によるのだろうけど、自分にとっては創作もそうで―いま毎日少しずつ読んでいる台湾のオタクの生態を描いたホラーコメディ(中文・繁体字)ではBL愛好家=いわゆる腐女子の主人公たちが二次元のネタを享受することを「吃糧」食べ物(糧)を食べる(吃)と表現しているのだけれど、創作ができる人間は、いわばその「糧」を自炊できる・一部とはいえ自給自足できるとも言える。
 それは音楽でもスポーツでも釣りでも登山でもそうで、自分で糧をつくれる人は、大仰に言えばメディアとか資本とかが供給する糧から少しだけ独立した「生活」が出来る。散歩でも洗濯でもいいのだ。それは孤独と同義語であるかも知れない。でも愉しいよ。

 『台湾でしたい50のこと』第三話『桃園で傘を買う』
 

とんこつとAI〜『アタリ文明論講義』(26.07.05)

 物は言いよう、とゆうか、受け止めようなのかも。
 とんこつラーメンの独特の匂いは細菌由来なのでは…という話を、僕は菌的なものが繁殖しない「工夫」をしたら「臭い(におい)」を「抑えられた」という文脈で聞き知っていたのが、その「菌」がバクテリア以前の古細菌だと特定したのが九州の大学の先生で「あの匂いがないと物足りない」「特定できてスゴい(自賛)やったなぁと」ポジティブに捉える人だったというニュース。好きこそ物のあはれなりけり、という感じで実に好いですね。
”クサウマ”豚骨ラーメンは発酵食品だった スープの中に35億年以上前から存在する古細菌「スルフォホボコッカス」発見 専門家がDNA解析(RKB毎日放送NEWS/26.06.30/外部リンクが開きます)
 臭い(におい)を抑えることに「成功」したのは地元九州ではなく、とんこつラーメンを他所の客でも受け容れやすいようローカライズした東京の「九州ラーメン店」だった…というのは話が上手すぎなので僕の記憶の捏造な可能性が高い(だったら書くなよ)のだけど―東京であれ何処であれ、それを「臭い」と捉えたラーメン店は「臭い」さえ抑えられれば、その正体は特定されなくても良かったというのは、ちょっと面白い。あ、いや、違う
 とんこつラーメンの豚骨臭を「匂い」何なら「香り」だと思ってるラーメン店もまた、菌の種類が分からなくとも「匂い」をもつ原スープさえ特定できれば後はそれをキープできれば良かった。スープをキープ。まあそれはいい。ラーメン店がライセンスを与えて売ってるお土産用のラーメンでも「あの匂い」を出したい大学教授だけが「原因」を、「因果関係」を突き止めた。
 言い替えると「因果関係」を特定できなくても「相関関係」が分かれば、とんこつラーメンの「匂い」を出したり「臭い」を抑えたりは出来る。
 …もう察しのついた人もいるだろう。本サイトの(少なくとも近頃の)定番パターンだ。
 似たような話を、たまさか読んでいた本で(再)認識したところだったのだ

      *     *     *
 ジャック・アタリアタリ文明論講義(原著2015年/林昌宏訳・ちくま学芸文庫2016年/外部リンクが開きます)
 正直に言いますが、この邦題は本書の内容を正しく反映はしていない。フランス語での原題そのままの邦訳副題「未来は予測できるか」も正直あまり正しくない。あ、いや、たしかに「未来は予測できるか」がテーマなんだけど、著者から期待できる「こうして私は未来を予測している」「あなたも未来を予測できる」メソッドの話は最後の1/10くらいしかない。
 残り9割…とは言わないが、前半の5割は古来より人類が、どのようにして未来を予測しようと試みてきた、その歴史だ。未来の歴史ではなく「未来予測の歴史」。手相占い・占星術・神のお告げ―いずれもアタリ氏自身が説く「メソッド」には役に立たない迷信・を「こんなこと信じてきたんですよ、人類って面白いですよね」と総ざらえする本。まあ余技・または余戯として書かれた本なんじゃないかなあ。契約で何か一冊出さなきゃいけなかったとか(すべて何の根拠もない憶測です)。そう割り引いて読むと、んー、読み物としては面白いんじゃないでしょうか。僕はソコソコ面白く読みました。
 思えば昨年ハマった14世紀の歴史書=イブン・ハルドゥーンの『歴史序説』(昨年8月の日記参照)も「私自身はこんなの毫も信じていないけれど、何が信じられてきたかは歴史の重要な構成要素だから」とばかりに著者自身が虚妄と断定する砂占いやお告げ板のシステムを延々と詳述していた。そういうものなのだろう。
 アタリ先生の著書に話を戻すと、いわく「中国では、未来を占うためにカラスの動きを観察する」。第一作『ボーン・コレクター』がデンゼル・ワシントン主演で映画化もされたジェフリー・ディーヴァー「車椅子探偵リンカーン・ライム」シリーズの第三作だか四作目だった『石の猿』という小説では、犯罪組織「蛇頭」を追ってNYにやってきた中国の刑事が「重要な手がかりがあった。いま私が見たカラスの動きは―うわああ呆れた目で見ないでくれ!ちゃんと意味のある話なんだ!」と言い出す場面があったけれど、読んで20年くらい経った今思うに、あれはかなり正しく彼の国の伝統(だと西洋で思われているもの?)を描写していたのかも知れない。
 あるいはいわく、アレクサンダー大王の軍隊は専用の占い鳥の飛びっぷりで作戦を決めていたが、あるとき兵の一人が飛んでるその鳥をウッカリだか悪意でか矢で射落としてしまった。なんてことすんだ、吾が軍の将来がかかっていた鳥だぞという叱責に兵士ぬけぬけと答えるに「自分が殺されるのさえ予想していなかったのだから、その鳥に未来を知る能力などあるわけがない」(タムルードに書かれているという小咄)。

 驚いたのはアタリ先生が、日本人も「九九」や惑星の配列なみに暗誦しているであろう「十二支」について「仏陀が地上を去り、涅槃に入ったときに仏陀の呼びかけに答えた一二の動物の名がつけられている」と書いていることだ。いや初耳なんですけど。てゆか、ある時「競走で上位12番までに入った動物を干支にしよう」と誰かが言い出して、一位の牛の首にひっついてたネズミがゴールで先に飛び出して最初の干支になり、競走の日は翌日とネズミに騙された猫は干支に入れなかった(それで猫はネズミを追い回すようになった)話しか知らんのですけど!?
 福島県双葉郡・葛尾(かつらお)村の情報を紹介するサイトの記事が丁度よかったので引用すると、
意外と知られていない涅槃像のこと(葛尾コラム/22.02.03/外部リンクが開きます)
寛延三年(1750年)葛尾村の薬師寺に寄贈された涅槃図には「50くらいの動物たちが描かれています。その中には、ゾウなど当時の日本では見ることができなかった動物や(以下略)とのことで、いや龍がいるようには見えないし、逆にゾウは十二支の中にはいない。ちなみに「50種くらいの動物の中に、ネコはいません。これはネズミがお釈迦様の使いとされていることに由来します」ということで、確かに猫は涅槃図に居ないのだが、居ない理由はネズミに騙されたからではなさそうだ。
 さらにWikipediaで「十二支」を調べてみると(こちら/外部リンクが開きます)
 それ自体は動物に関係のない子丑寅卯…という十二支の漢字が先にあって、音の似ている動物の名を「当て字」で落とし込んでいったという白川静の説があるようだ←斜め読みの雑な読解なのだが(何しろ色んな説や解説が錯綜していて読みにくい)少なくとも動物たちの競走で決めたわけではない。釈迦の入滅に立ち会った十二の動物だというアタリ氏の説も、面白いけど出所不明のマイナーな説という理解で今のところは落ち着きそうだ(僕の中では)。
 Wikipediaの記事によれば、ベトナムでは卯年にあたる年が兎ではなく「猫年」となるともいう。出典として貼ってあった三年前の記事をそのまま転用しておくので、猫好きな人は見て癒やされてください。ベトナムに行くなら卯年の旧正月に。
ベトナムは「ねこ年」旧正月の準備着々(AFP BB News/23.01.20/外部リンクが開きます)
 ベトナムの招き猫を模写したイラストにキャプション:ベトナムの卯年(ねこ年)記事の現地写真に「招き猫」が沢山写ってるのどうゆうこと?招き猫ってアジア共通なの?と思ったひとは各自で調べてくださいな(舞村も調べたけど)
 ちなみに、ちなみにで気になること全部を(調べて)書いてたら、終わる文章も終わりやしない。未来予測に話を戻そう。

 個別的な占いとは違い、大づかみな世界観による未来予想(そして過去の理解)として「まず黄金時代があって次に銀の時代となり銅の時代となり、今は鉄の時代で争いが絶えない」とか「人類はどんどん堕落していくので最後に裁きの時が来るだろう」など、おおむね下降史観に基づく終末論が古来から多かったようだ。誰しも避けられない衰えや死・あるいは長じるにすれ生じる世の中への失望を、民族や人類ぜんたいに投影した結果かも知れない。下降史観といえば昔「昭和になってこのかた、夕立も雷もショボショボしてる。明治の雷はもっとドドンと落ちて、その後カラッと晴れ上がったもんだ」なんて言い草まであったらしい(ほらまた横道に逸れている)。
 ただし気象の変化は(明治を懐かしむ偏屈の屁理屈であったりもするが)観測データに基づき科学的に量れるものでもある。
 アタリ先生いわくデルフォイの神託や、コーヒーを淹れた後の茶殻の形など「予言」「予想」の形で知ろうとされてきた未来は、歴史がくだるにつれ、だいぶ科学的・かなり実証的な「予測」で推し量られるようになってくる。遠方との貿易による保険の必要や利子の発生、さらには複利の出現により、経済の分野では未来が計算によって描けるようになる。
 けれどやっぱり、全てのメカニズムを測定し計算し未来を知ることなど「科学」「実証」を名乗っても、そうは出来ない。階級闘争の歴史は必然的に社会主義ひいては共産主義社会の到来に帰結するだろうというマルクスの「科学的」唯物論は、マヤの予言やノストラダムスの予言なみに盛大に外れた。その共産主義を実現しようとしたソ連では「科学」はむしろデータの捏造に帰結し、誤った農業政策で多大な死者を出した。なんだかサヨクの悪口ばかりみたいだが、ソ連が倒れ歴史は終わった・後は自由主義が勝ちつづけるだけという「予言」も、もっぱら自由主義じたいの自壊で怪しくなりつつある…

      *     *     *
 …そこでようやく今回の本題に戻る。理論による「科学的」な未来予測が怪しくなる一方で、台頭してきたのが「相関関係」による「予想」だったとアタリ氏は言うのだ。
「コンピュータは、因果関係ではなく、相関関係を見つけるだけの新たなテクニックを多用する」
「だが、相関関係がなぜ今後も続くのかについては誰も解明しようとしない」

動物が地震を予知するメカニズムは不明なままでも、動物の異常行動を前兆として地震の発生を予測できる。とんこつスープの匂いの素が特定できなくても、経験則で臭い(におい)を抑えたり、好ましい匂いを増やしたりできる。
 干支が一周するくらい前にリリースされた、Insect Taboo(InsestではなくInsect)という謎ユニットのアルバムに―うろ憶えなのだけど―仕組みはサッパリ分からなーい♪だけど操作は出来ーるー♪というワンコーラスだけで終わる謎ソングがあったが(しかも「Principle of the World」という曲名)あれは存外、現代人のテーマソングに相応しかったかも知れない。
 「人は皆があると言えば行ったこともない国の存在でも信じる」というポール・ヴェーヌの議論(22年12月の日記参照)を蒸し返すべきだろうか。「手相や神託なんかを信じていた蒙昧な古人と比べて、現代の吾々は科学的に実証的に、理性的に物事を考えている」と自負する分、かえって現代人は輪をかけて蒙昧だという話だ。コンピュータの発達によって、膨大なデータの集積と分析が可能になれば尚更そうなる。極端な話、仮に「青一色の打ち上げ花火が上がった翌日は晴れる」というデータが統計で取れれば、そこにどんな理由があろうとも…いや、馬鹿馬鹿しいからやめよう…豪雨災害が予想された前の晩に青い花火を上げてみる価値はあるかないか…
 今やめてみた極端なたとえでも分かるように、相関関係による類推にも限界がある。ワインの摂取と長寿には相関関係がありそうだというので一時期ポリフェノールの効果などが原因として推定されたけれど、「ワインを恒常的に摂取できるのは豊かな階層で、長寿はむしろ豊かさと相関関係にある」という反論が出たり、結局ワインもアルコール摂取なので適度でも何でも身体には悪いという反証が出たりしているらしい(あいまいな記憶に基づく叙述なので、これも振りかざしたい人はきちんと調べてください)。

 1)それでもコンピュータを援用した大量データ処理に基づく類推(理論ではない)は「AI」の普及により、さらに爆発的に人類に受け容れられつつあるようだ。
 2)様々な質問に答えてくれるAIは、しかし質問に対する答えを「考えて」いるわけではなく、ただクラウド上の膨大なデータから統計的に正しそうな答えを集計で得ているだけだ、という僕の理解は合っているのだろうか。いまAI自身に「あなたは思考しているの、それとも統計をまとめているだけ?」もっとハッキリ「あなたが自我を持ち思考する日(シンギュラリティ)は来るの?」と訊いたら、AIは何と答えるのだろう。いや、それをAIに問うことに何の意味があるのだろう、AIの答えがネットに蓄積された吾々自身の見解の総和でしかないのなら?
 3)アタリ氏の著作によれば、たとえばSNSでの「喘息」に関するポストの増減は、病院に来院する喘息患者の数と相関関係があるのでデータの収集によって病院側は「予測」を人員の配置や病床の増減に役立てられるという。同様のことが株式の売買にも応用できるとか。これはすでに「予測」ではない、すでに起きている体調不良や株式売買への関心を(少しばかり)先んじて知ることが出来たというタイムラグの問題ではないか。ちょうど情報網の充実によって戦争の勝敗やタイタニック号の沈没を他社より先に知った会社が儲けを出したという、氏が書いているエピソードのように。
 4)株の売買については予言の自己成就、という概念も頭にちらつく。○○銀行の経営が危ないらしいという「予言」を信じた人たちが解約や預金の引き落としに殺到し、本当に銀行がつぶれてしまうというアレだ。
 本当は1)AIの普及・3)SNS統計による来院や株売買の「予測」・2)AIは自身が考えているだけではなく単に吾々の総意をまとめているだけ(では?)・4)予言の自己成就、という順番で文章をまとめるべきだったのかも知れない。ただ自身が文章なり何なりを構成するうえでは1)正→2)反→3)正→4)反と自分のなかで対話のピンポンが続くし、一度そうして構成されてしまったものを1)→3)→2)→4)と構成しなおすのは、思考するのとはまた別の脳の部位が必要なのだ。
 今回の週記で最後の横道逸れをするならば(前にも書いたかもだけど)フーコー『性の歴史』の一冊目も、性じゃないや正→反→正→反の連続で、もうちょっと正正正→反反反みたく整理しておくれよと思ったものだけど、存外フーコーもそうした内的対話の人だったのかも知れない、や、少なくとも『正の歴史』じゃないや『性の歴史I』はそうだった。何の話でしたっけ。
 そう、最後の横道の話でした。とゆうか今回の週記ぜんたいが大きな迂回で
5)皆がAIの託宣に夢中なのも、実は統計でまとめられた大数=吾々の総意という鏡をのぞきこんでるだけ・だとすると若干いじらしい(そんなに皆さびしくて「みんなと一緒」が良いのかしら)反面、合わせ鏡をずっと覗いてると閉じた無限の鏡像の深淵から鬼だか悪魔だかが出てくる迷信がなかったっけと思ったりもするのでした。それは鏡像(類推)であってプリンシプル(of the World)ではないのだから…
 …という結論めいたものすらスッ飛ばして
 写真。麺ダイニング「福」の九州ラーメン白と博多酢もつ、『アタリ文明論講義』
「そんなわけで、長年入りそびれていた近所のラーメン屋で九州ラーメンを食べてきました」で今回は良い気もする。「これが発酵食品とはねえ」と言うには、もっと真っ白な博多ラーメンみたいなお店があれば尚よかったのだろうけど、まあそれは別の日に縁があればということで。

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