まんがなど
(19.04.05更新)
昨年のペーパまんがと二次創作を追加。



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(19.12.01更新)
今年の新刊まで追加・整頓しました。
電書化、始めました。
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過去日記一覧(随時リカバリ中)

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Author:舞村そうじ/RIMLAND
 創作同人サークル「RIMLAND」の
 活動報告を兼ねつつ、物語とは何か・
 どんなメカニズムが物語を駆動し心を
 うごかすのか、日々考察する予定。

【最近の動向】
半年は新刊がない予定です。
2月東京コミティアは欠席。
4月名古屋は考え中。

WebまんがSide-B遅々として更新中。

note絵更新。(16.05.26)

旧サイトは2014年8月で終了しました(お運びいただき感謝)。再編集して、こちらの新サイトに少しずつ繰り入れますが、正直、時間はかかると思います。

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(東京名古屋新潟関西みちのく)
あかつき印刷
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if you have a vote, use it.(save kids)

サイト日記。最初はハリー・ポッターや「かいけつゾロリ」の仲間かと思った。
台湾の絵本の主人公・班雅明先生とは?下の画像か、こちらから。(19.12.08)

ひとつ前。人類の愚行すべてを「死の恐怖」で説明する力業な本の話。こちらから。(19.12.01)


12/10(火)2:59まで】財布のフタを閉める暇も与えない、またBOOK☆WALKERの電子書籍・実質半額で買えるコイン50%還元セール。今回は同人(自主制作)に限らないので、気になる商業出版物でコインを稼ぐもよし、RIMの冊子で稼いだコインを使うもよし。作者の取り分は減ったりないので、遠慮なくトクしてくださいな。下の画像か、こちらから

11/24の東京コミティア130(おつかれさまでした)で今年のRIMの即売会参加は終了。腰を据えて次作に取り組むため、次回・来年2月の東京ティアは参加を見送る予定です。正直5月も考え中。4月の名古屋は初売りがあるため前向きに検討中ですが…
そんなわけで、先日の新刊『カーテンコール e.p.』まで加えて、発行物リストを更新しました。下の画像か、こちらから

今年のペーパーまんがは年内に取りまとめ予定です。(19.12.01)


センセイの鞄(違)〜張■瑜『班雅明先生的神祕行李箱』(2019.12.08)

※■は草かんむりに倍。

 中国語は、まあ出来ないの部類に入る。学生時代に短期集中講義で四声(発音)などの基礎をやり、最終日には皆で水餃子を作った。どちらかというと「手作りの水餃子は美味い」ほうが身になって残っている。近年になって何度か行った台湾(台北)でも「にーはお」「謝謝」と「請給我一個(ひとつください)」みっつで乗り切った(まあ筆談や、英語が使えるので)。ひどい奴なのだ。
 …絵本なら読めるのではないか、字数も少ないし。という気持ちは、ちょっとあったと思う(ただしそれは、小説などの単行本も何冊か買ってしまってることを説明できない気もする)。2017年に台北を訪れたさい、書店街で『班雅明先生的神祕行李箱』なる絵本のポスターを目にした。山高帽をかぶって「神祕行李箱(ミステリアスなスーツケース)」を抱えた班雅明なる先生は、最初ハリー・ポッターや「かいけつゾロリ」の仲間なのかと思った。

 一度は宿に戻ったのだったか、Wi-Fi接続できる場所で書名を検索したあたりで気がついた。班雅明はBan yaming(ばんやーみん)。実在の哲学者ヴァルター・ベンヤミン(1892-1940)を主人公にした絵本だったのだ。
 ふたたび書店に取って返して、買い求め、しかし結局は積んだままになり二年。そのあいだに名著の文庫化と評判の高かった『中国語はじめの一歩』などを読み、まあ身についたわけでもないのですが「頑張ろう、頑張れば出来る」という機運が徐々に高まり
 
 今年の秋に岩波新書で、今度はベンヤミンのほうの入門書と思しき柿木伸之ヴァルター・ベンヤミン 闇を歩く批評』が出たのに合わせ、1日に見開き2ページずつ、ウェブ翻訳の助けを借りながら、班雅明先生の旅路に取り組みはじめた…


 「そう遠くない昔、とある大都市にベンヤミン先生という、differentな人が住んでいました。
  頭脳のうちに沢山の素晴らしいアイディアを宿した哲学者でした」

 絵本の結語までベンヤミン先生の形容として使われる、このdifferentは日本語に訳しがたい(該当する中国語も、ちょっと日本の漢字に置き換えられない)。異なる?並外れた?世に合わない?
 
 だいぶ前…いや「そう遠くない昔」か…スティーブ・ジョブスが居た頃のAppleがキャンペーンで打ち出していた「Think different」がニュアンスを把握する助けになった。アインシュタインやガンジー、イサドラ・ダンカンなどの「differentな考え」で世界を変えた人々をフィーチャーした広告だった。だがまさに、このdifferentな人々を逮捕せんとする政府によって、班雅明先生は逃亡を余儀なくされる。
 すでに道路は封鎖され、街は監視下にあった。逃げる方法は山越えだけだ。

 他の逃亡者たちが夜明け前に集まって気を揉む中、ギリギリ遅れてやってきた班雅明先生は、運ぶだけで汗だくになる重たい行李箱(スーツケース)を携えていた。
「對我来説、這個箱子是世界上(私に言わせれば、このスーツケースは世界で
 最最重要的東西、比我自己的生命還重要」最も重要なもので、私の命よりなお重要なのです)
 岩をよじ登り、丸石に足を取られ、黒苺灌木叢和橄欖樹林(ブラックベリーの草むらとオリーブの林←こういうの読むと「中国語って楽しそう」と思うでしょ?)を抜け、後は国境管理所ひとつ越えるだけとなる。無事に通過して喜びあう人々。しかし、班雅明先生ただひとりが拒絶され、本国への送還を告知される。
「人々が最後にベンヤミン先生を見たのは、山にある小さな旅館でのことでした」
 え、うそ、班雅明先生…!

 もちろん「ベンヤミンの絵本か、読もう」と思うくらいだから、彼に何が起きたかは知っている。ユダヤ人の彼は亡命に失敗し、山中で自ら命を断つのだ。1945年までにナチスが命を奪った人々の列に、彼も連なる一人だった。しかし迂闊なことに、この期に及んでまだ、「私の行李箱の中身は…うふふ、ヒ・ミ・ツ」とばかりにウィンクする表紙に釣られて、それはまだ先のこと、この絵本の班雅明先生は無事に逃げ延び、数年の最後の日々があると思っていたのだ。
 だが並行して読み進めていた岩波新書のほうで、絵本に登場する「亡命する人々を助ける、親切な費特可太太(フェトカ夫人)」が、彼の途絶した山越えの同行者リーザ・フィトコだったと確認できてしまった。
 もう駄目だ…班雅明先生…
 「出口のない状況に置かれ、けりをつけるほかなくなってしまった。
  私が生を終えようとしているのは、誰ひとり私を知る者がいない、ピレネー山脈の小さな村だ」

  (柿木伸之『ヴァルター・ベンヤミン』より、アドルノに宛てた最後の手紙)
 「このあと、彼は消えてしまいました。
  彼が何より大切だと言っていたスーツケースも、一緒に消えてしまったのです」

  (『班雅明先生的神祕行李箱』)
 岩波新書の評伝は、スーツケースの中身は、彼の原稿だった(ろう)と述べている。だが絵本の後半は、それは何だと推測する人々を、戯画化して描く。私は写真家なのだが、彼の大事な行李箱の中身も、写真に関する論文だよ。いやいや、私の思想へのアンサーとなる論文だ。我が国を脅かす、折りたたみ式ミニ戦車だ!あー、なんて馬鹿げてる!ピレネーの酔客たちは言う。一番だいじな物なんて、逃げた先で恋しくなるだろう、郷里の美味しい食べ物に決まってるよ!特産のソーセージとか、お祖母ちゃんが作ったジャムとか!

 中身が何であるにせよ、それはきっとdifferentな物だったに違いありません、と絵本は結ばれる。巻末の「保護者の皆様へ」みたいな解説ページでは、ヴァルター・ベンヤミンと同じだけの分量が、亡命ルートを組織して約8万人を救ったというリーザ・フィトコ(1909-2005)に割かれている。そしてまた、本文のペースをつかむためには…と後回しにした著者の巻頭言は「家から追われた人々に捧げる」という献辞に始まっていた。
 元はドイツ語で出版され、逆輸入の形で中国語に戻された絵本らしい。改めて思うのは、国際社会では現在、国とすら認められていない、台湾という「家」のシビアな状況だが、それはひとまず措く。

 …行李箱の中身を「ソーセージとかジャムだよ!ハイおしまい!」と決めつける酔客たちの結論は、ひどいように見えて、実はある意味で、班雅明先生への心づくしの手向けとも言えないか。そんなことを思ったのは、たしか柴田元幸さんが『生半可な學者』の中で紹介していた、スチュワート・ダイベックの小説のためだ。短篇集『シカゴ育ち』の、ロシアから亡命してきた老教授が、研究室の壁に「自分が育った街の、美味いパン屋を記した地図」を貼り、二度と帰れない故郷を思い出す「よすが」にしていたという話だ。
 ベルリンで過ごした自らの幼年時代を回顧し、小さき事物それぞれの由来を慈しんだ(というイメージのある)ベンヤミン先生が、最期を共にしたのが郷里のソーセージや「お祖母ちゃんのジャム」だった…自らの名が、次の世紀まで語り伝えられる第二の生を得ると知らず、それと真逆の絶望のなかで死んでいった彼に、そんな慰めも、あっていいのではないか。
 

 【追記】
 …ここで終わってもいいのだが、岩波新書の『ヴァルター・ベンヤミン 闇を歩く批評』も良かったので、駆け足で紹介する。
 アウラやパサージュ、複製芸術、神話的暴力と神的暴力、そしてパウル・クレーの天使など、際立った(differentな)概念をいくつも提示しているベンヤミンだけれど、その文章自体は、けっこう晦渋でとっつきにくい…というのが、若い頃に著作に挑んでの印象だった。同書はそれを、理解しやすく解きほぐしていると思う。ハンナ・アーレントやアドルノ、ブレヒトなどとの交流が明らかになったことで、積んでいる本の今後の消化計画も決まっていったのだが…

 新書『ベンヤミン』によれば、ベンヤミンは人間の言語活動の中でも、各々の事物(被造物)に最初に名前に与える瞬間を、(神が創造によって存在を肯定した)事物を、人が改めて肯定すること・「事物の言語」と呼んで尊重した。その対極にあるのが
 ベンヤミンによると、「人々を特定の行為へ動かす」ための手段としてのみ言葉が用いられるとき、その行為は、計算された効果でしかない。
 言語が「たんなる手段」と化すところには、みずから何かを始めるという意味での行為―アーレントが語った世界に「始まり」をもたらす行為―はもはや存在しない。
 そのとき、空虚な言葉が自動的に連なって、「蔓延(はびこ)って」いく。
(中略)
 常套句と化してさらに増殖するのだ(柿木『ヴァルター・ベンヤミン』)
と糾弾されるものだ。これをベンヤミンは否定的な意味で「神話」と呼び、神話的な暴力を批判した。実際の歴史から切り離された、常套句の組み合わせから成る架空の国粋「神話」で人々を「動かす」ファシズムは、その意味でも彼の敵であった。

 ドゥルーズ=ガタリや、アルトーの翻訳で馴染みのある宇野邦一氏の『アメリカ、ヘテロトピア』は、ハンナ・アーレントの思想を「はじまり」の政治学と呼ぶ。アーレントが讃えるアメリカの(ふつうは独立と言われる)「革命」は
 ひとつの政体、憲法、公共性、法的空間を構成する「はじまり」の過程は、
 別の制度や法や権力によって決定することができない。
 決定されるとすれば、それは「はじまり」ではない。
 「はじまり」における構成の力は、はじまりそれ自体から生成されるほかない。

として理想化される。アーレントを評価したアントニオ・ネグリ言うところの「構成的権力」、既存の権威や権力を根拠とせず、みずから生成し構成される権力。それは、アーレントの「ベンジおじさん」だったベンヤミンが理想化した、被造物に名前が与えられる瞬間・事物の言語と、通い合うものではなかったか。
 しかし…

 ** ここからは自分の中で未消化 **
 少し横道に逸れたつもりで読んだ別の岩波新書・木田元ハイデガーの思想』(1993年)。これも分かりやすい本だったが、読んで著しく困惑させられた。ハイデガーを実存主義に位置づけてきた大著『存在と時間』が、実は後半の本論が執筆されなかった序論に過ぎなかったことを理路づける同書もまた、彼の思想を
「存在を生成として捉え、生きた根源的自然の復権を企てる哲学」
と位置づけているからだ。
 細かい説明は省くが、プラトンの「イデア」のような「事物(存在)に先立つ本質」の希求を西欧哲学が陥ってきた罠と捉え、「存在が生成する瞬間」の把握を目指す…それ自体は珍しいことでは、ないかも知れない。
 木田も述べるように、古事記も最初の神々を「おのずから成る」存在としてきた。ドゥルーズ=ガタリが、現在の病を過去のトラウマに帰する精神分析を批判したのだって、同じ主題の変奏と言えよう。聖書の「ヤハウェ」という神の名ですら「ありつつあるもの」=常に生成しつつある存在と捉える学説に接したのは(中国語の短期集中より前の話)良い思い出だ。
 以前、自作の個人誌でも引用した「人は二つの点の間に線をみてしまうよう呪われている」というシモーヌ・ヴェイユの言葉も、ベンヤミンが「神話」として批判したのと同じものを捉えているような気さえする。

自分はむしろ、星の間に線を引いて星座を作るのが物語(創作)と思ってきたので、それが呪いだという指弾は耳が痛い。と同時に、ひとつひとつの星が生まれる瞬間を見据える、という発想には、思考(と創作)の幅を広げてくれる可能性があると思う。
 しかし、互いに交流があったとも考えられない二人だが、ベンヤミンの三年後、ヴェイユもまたナチスとの闘争に疲弊して落命したことを思うと…
 …この一群に(あまりよく知らんものの)ハイデガーを加えるのはなあ!と思わずにはいられない。

 若き日のアーレントはハイデガーの弟子であり、のちに訣別したが恋仲でもあったという。アーレントの「はじまり」の政治学。「それぞれの言葉がそれ自身に相応しいかたちで何かを語り出す息遣い」を追求したベンヤミン。形而上学を批判して生成の哲学を企てたハイデガー。アーレントの思想形成に、死別あるいは生別した二人の先達は影響しているのか。しているとしたら、それぞれの影響の度合いは。
 似通った点を抽出し、それぞれにフィードバックすることで認識が深まる。それは尊いことだ。しかし「どれもこれも結局は同じことを言ってるんだよねー」で括ってしまい、物事が有耶無耶になる、危険な領域に足を踏み入れかけている気もする。むしろ「同じような発想が、なぜかくも違う道に分かれたか」その弁別こそが懸案なのかも知れない。なにしろ(あまりよく知らんものの)ナチスへの協力を終生批判されつづけたハイデガーである。「似たような考え」とまとめられてしまうのは、自らの哲学を賭けてファシズムを批判し、死を選ばざるを得なかった「ベンジおじさん」にとって、あんまりな話ではないか。
   
未読のアーレント『暗い時代の人々』の一章はベンヤミンに割かれ、そこでハイデガーの名前がチラと出てくるのを書店でのチラ見で確認したのだが、キチンと読めば三者の関係が、少しは見えてくるのだろうか。

死と和解せよ、生と和解せよ〜S.ソロモン他『なぜ保守化し、感情的な選択をしてしまうのか』(2019.12.01)

 ***答えが正しいかはともかく、その答えが問いを明るみに出すこと自体が有益なこともある***

 松本の古書店めぐりで入手した本の一冊が、南和子暮らしの老いじたく』(ちくま文庫)だった。実家の両親はまだまだ健在だが、家の中での転倒など、いつ何が起こるか分からない。かく言う僕自身だって他人事ではなかろう。著者は転倒しての骨折がもとで、一気に身体が弱り、生活や外出の困難を痛感させられたという。
 親本の出版は2004年。杖や車椅子などの選びかた・家の中のバリアフリー化から介護制度の利用法・エンディングノートまで、この分野の古典といった感がある。言いかえると、この15年で過去のものになった事柄も多い。何より、想定されているのが老いに対峙するだけの十分な貯えのある層、なことに隔世の感がある。「坂道を転げ落ちるように老いはやってくる」と説いた同書から現在までに、それこそ転げ落ちるような貧困の拡大があったのだ。先日のニュースでは、70代のアルバイトの男性が、建設だか何だかの現場で転落して亡くなったと報じていた。
 それでも書物から学ぶことは多い。(老いたら)寝ているときでも常夜灯などで床まわりは明るくしなさい、と著者は説く。深夜に目が醒め、お手洗いに立つときなど、足元が覚束なくて危険だと。ふーん、そんなもんかぁと思いながら帰宅した晩、明かりを灯さずに踏み入った自室で、床に転がっていたプラスチックのケースを踏み抜きコケそうになった。ケースは壊れた。そんなもの床に置いてるのが間違ってるわけだが、いやいや、本から学ぶことは多い。(まずその「本」とやらを床に積むのやめようなという話でもあるが)

 世相が暗いせいだろうか、老いを通り越して「死」について考えることが増えた。死にたいと願うわけではない。逆に、死にたくはないのだが、いずれ死ぬのだなあと、しみじみ悲しくなってしまうのだ。思えば十代の頃も、夜中に眠れず悲鳴をあげるほど、いつか自分が消滅してしまうことが怖かった。今はそんなギラギラ(?)した思いではないが、どうそれを、かなうものなら心安らかに受容できるかは、残された人生で最大の難題かも知れない。
 こんな風にクヨクヨしてるのは自分だけかと思いきや、人類の歴史をドライブし、文化も戦乱も生んできたのは、まさに死の恐怖なのだと名指しする本に出会った。

 私たち人間は自分がいつまでも弱くて死の運命を避けられないと認識し、そのせいで身のすくむような恐怖を感じる。文化的世界観と自尊心は、この恐怖を管理するのに役立つ。(中略)
 しかし、異なる信念をもつ人々に遭遇すると、自分たちの文化的価値観と自尊心への信頼を保つのが難しくなる。そのあとほぼ必然的に、悪意のあるいざこざが
 シェルドン・ソロモン、ジェフ・グリーンバーグ、トム・ピジンスキー共著『なぜ保守化し、感情的な選択をしてしまうのか 人間の心の芯に巣くう虫』(インターシフト/合同出版・邦訳2017年)。長いなあ!しかも偏った邦題と言える。感情的なのが保守だけとは限らない。これに関しては、政治的な意味合いを付与しないほうが好かったのではないか。帯に書かれた(今注目だという)「恐怖管理理論」を前面に出すほうが、内容に即していたようにも思われる。
 添えられた副題「人間の心の芯に巣くう虫」のほうが、ほぼ原題「THE WORM AT THE CORE」に沿っている。むろん、この「虫 WORM」が、死の恐怖である。著者たちの論旨は明快だ。人は死を恐れる。その恐怖を和らげ、忘れるためにあらゆることをする。自分の子孫を残したいと望む。不朽の名声を象徴的な不死と看做す。帰属集団との一体化に、精神の安寧を求める。そして気晴らしによって、やがて来る死という現実から目を逸らそうとする。
 本書の特色は、この人類普遍ともいえる問いと答えを徹底していることだろう。著者たちによれば、人類が文化や文明を築いたのも、それをぶち壊すような虐殺や大量破壊に走るのも、死を恐れるがゆえだ。それらを証明するため、被験者たちに死を想起させる映像や文章を見せ(一方で見せない組と比較して)消費行動について、裁判の判決について、など、などの質問をして有意な影響を導き出す。

 だが、どこまで真に受けて良い話なのだろう。
 ただでさえ、人と人が言葉をたたかわす際「死」というカードは強い。「そんなこと言って、もし人が死んだらどうするんですか」といった無理やりな恫喝を何度も目にした(直に聞いたこともある)。馬鹿げてると思うような理屈でも、逆にだからなのか「人が死ぬ」と掛け金を釣り上げることで相手を圧倒しようとする、それくらいに「死」は強力な呪いだ…むしろ用いる側にとって。(聞かされる側はドン引きすることがある。思ったほど効果を上げられず、用いる側は余計かたくなになる)
 本書で説かれる「死の恐怖」の効果は、ワンクッション置かれることが多い。たとえば飛行機が乱気流に翻弄されたとき「この飛行機にはジョージ・クルーニーも乗ってるんだって」と聞くと、そんな有名人が一緒なら落ちないだろうと安心する例が挙げられる。また、二つ並んだ同じような絵画でもジョニー・デップが描いたと言われたほうに人は価値を見出すという。ここにあるのは名声を持つセレブリティに感情移入し一体化する現象であって、その原因が死を恐れるからだ、と断言するのは少し飛躍がないか。
 強い指導者や集団に傾倒する理由は、死への恐怖でなく、孤独への恐怖や決定する責任の回避でも説明できるはずだ。皮肉なことに、生きることはしばしば、死ぬことに劣らず面倒で悲しく、そして恐ろしい。

 それでも本書が身につまされるのは、○○は死の恐怖を回避するためではないか、という仮の答え(著者たちにとっては正解だが)を設定することで、人の愚かな○○の大半を総ざらいできるからだ。ナルシシズム、狂信、ナショナリズム、自発的隷従、レイシズム…答え(本書の場合は死への恐怖)の是非はさておき、それによって明るみに出る問い(なんでそんなことをするのか、それは愚行ではないのか)が有益なことはある。これっておかしくない?と指摘されるまで、盲信の内側にいる人はおかしいとすら気づけない時が多いのだ。
 個人的に説得力あるなーと思ったのは、テネシー・ウィリアムズの戯曲『やけたトタン屋根の上の猫』から引用された警句だった。
「人間はいつか死ぬ動物で、お金が手に入れば買って買って買いまくり、買えるものをなんでも買うのは、買ったものに永遠の命がまぎれているというばかげた望みが心の奥にあるからだと思う」
 独裁者への心酔や、大量虐殺に比べたら、ささやかな罪かも知れないが、積ん読という悪徳は、これかも知れないなと思ったのだ。すぐに読むあてもない本を買っては積み上げる時、人はそれを読む時間が自分にないかも知れないことを想定しない(か、少なくとも見てみぬフリをする)。それは、いつ来るか分からない「読む時」を負債として所有することで、死を先延ばししようとする(自分は死なない、だってまだこんなに未読の本を積んでいる)むしろ積極的な逃走の営みではないのか。積ん読を後ろめたい悪徳ではなく、むしろ自慢のようにひけらかす行為は、そんな心理の所産なのでは…とは、意地が悪すぎるだろうか。
 
 (買って、読んで、読み返さない本を蔵書として持ち続けることはどうなのか)
 (大体お前さんが人生の大半を削ってやってる創作とか、こうした文章こそって話でもある)

 少し前に読んだ山内志朗過去と和解するための哲学』(大和書房)という一冊を思い出した。読みながら、いやむしろ自分は未来と和解したいのだがと思ったことを。未来、つまり身も蓋もなく言えば避けられない死・および死に至る惨めな道行きと和解したいのだと。
 死と和解するとは、それに至る生と和解することと、しまいには区別がつかなくなるのかも知れない。死を恐れずに済むようにと願う前に、生きることを恐れない・恐れずに生きることこそ肝要なのだとしたら…ああ、それは困ったことに、死と和解するのと同じくらい難しい。難しいことじゃありませんか、ねぇ旦那!あっしら凡俗って奴には、逃避せず日々の暮らしと向き合うってぇことが、おっ死ぬのと同んなじくらい難しいんでさぁ!(急にロシア文学の卑屈な男みたいな口調になって終わる。部屋は片づかない…)
 

マツモト買い付け紀行(2019.11.24)

 松本には前から行きたいと思っていたのだ。
 十年ほど前、メンタルの不調で休養を取ることになった冬。18切符を使い、長旅に出た。金沢に向かう途上、長野を最初の宿泊地にした。善光寺に詣でて(隣接の東山魁夷の美術館が素晴らしかった)、境内にある洞のような穴に入った。暗闇を手探りで進み、岩肌に掛けられた鍵に触れれば幸福とか幸運とかいうアトラクションだったが、まだ精神が不安定だった。視界を失なったとたん動転してしまい、鍵にはさわれず口惜しい思いをした記憶がある。
 しかし本題は松本だ。昨年の初夏、上諏訪で開かれていた、街のあちこちの酒蔵を使った古本市というイベントに足を運んだ。そのときのことは漫画の題材にしたのだが(ペーパー漫画の総集編2018所収「彼女と彼女と酒と古本と彼女と」)、今年の本題は松本。

 先の豪雨で多くの地域が被害を受けた。松本も例外ではなく「友人のやってるビジネスホテルが宿泊客の大量キャンセルで泣いている」という嘆きの声がツイッターで拡散された。いわく、観光シーズンだが繁忙期料金にすら出来ない。紅葉の松本城を見に来てほしい。
 ツイートは数千か1万くらいリツイート(拡散)されていただろうか。だが、この善意の拡散者たちは大半が「誰か行ってあげて」と促しているだけで、本当に松本に泊まりに行く、素直というか、馬鹿はおるまいと思われた。いや、思い当たる馬鹿が一人いた

 結論から言うと、松本、素晴らしいところでした。
 街はおおむね平坦で歩きやすい。駅前や繁華街は賑わっているし、和レトロ・洋レトロの入り混じった街並みは見飽きない。

 駅から城までの間を東西に一本、川が通っている。街のあちこちには用水路、そして和風に昔を模した水飲み場が設けられており、至るところを水が巡っている快い印象を受けた。かつては城下町で木造建築が多く、防火が喫緊の課題だったのかも知れない。

 今のところ、街の推しは松本城・同市出身のアーティスト草間彌生・マスコットキャラクターのアルプちゃんらしい。プレミアム商品券を周知し、特殊詐欺への警戒をうながすアルプちゃん、かわいい。

 もちろん松本城への愛着は一番で、繁華街のなかに松本城の巨大なパネルを掲げた建物があったり、松本城を模した古本屋があったり。

 街なかに設置された灯籠ふうの電燈には、松本の主の入れ替わりを家紋で示した図が入っているなど。
 しょうもない見どころ(いや、それを見どころと思ってしまう自分がしょうもないのですが)として、ドラッグストアのマツモトキヨシ松本にあってフフッとなったりしたのですが ※マツキヨは千葉県松戸市が発祥の地だったはず。

それ以上に目を引いたのが駅前の「アメリカンドラッグ」。長野〜新潟にチェーン展開してるらしく、まあ中身はふつうのドラッグストアなのですが、この手のお店にありがちな童謡風のメロディと歌声で店舗名を連呼するジングル…ではなくおー♪おおー♪アメーリカァーン・ドラァァッグ♪ウエストコースト風?のサウンドで凛々しい男声ヴォーカルが響き渡る、味わいぶかい店内でした。
 (画像右の、含蓄が深いようで意味不明な布団屋の看板は別のところで撮影)
 しかし、ユルめの面白写真を撮りに松本まで出向いたわけではない
 風情のある街並みも良かったが、松本の特色として古本屋めぐりがけっこう捗ることを挙げておきたい。

 足を運べたのは5軒くらいだったけれど、さらに数店が徒歩範囲内にあるのでオススメです。面白いもので、最初に入った古本屋で(とりあえず何か一冊は…)とP.K.ディックの未読の文庫を買ったところ、次に入った古本屋に雑誌『銀星倶楽部』のP.K.ディック特集が。自分には思い入れの深いティプトリー・Jrも寄稿しており、これは御縁だなあと。松本の古本屋は、見えない糸でつながっている。
 そして三軒目に入ったお店で横浜から来たと話すとじゃあ次は○○と○○に行きなさい松本の古本屋は、見える協力態勢でもつながっている(笑)。
 御教示いただいた二つのうち、一軒はセレクトされた新刊が中心(?古本はなかったかも?)の独立系書店だったのだけど、先に教わってないと絶対に本屋だとは分からない。とゆうか一度は通り過ぎた

 文芸や詩歌、そして本にまつわる本が充実した小さな店内(靴を脱いで、絨毯敷にあがる)で目を引いたのが正木香子文字と楽園 精興社書体であじわう現代文学』(本の雑誌社)。今まで考えたこともなかったが、三島由紀夫の『金閣寺』と堀田善衛の『インドで考えた』・村上春樹『ノルウェイの森』など多くの書籍が同じ書体で刷られているらしい。少し中身を見て、川上弘美センセイの鞄』が単行本と最初の文庫化と二度目の文庫化でそれぞれ書体が違う、そのことによって小説の印象まで変わることを検証するくだりで、たまらずレジへ。こんなアプローチの批評があっただろうか?

 駅ビルに入ってる書店は改造社。コンパクトながら地元の旗艦店らしい矜持にあふれた品揃えで、具体的には人文や社会問題コーナーの充実と、郷土関連。山岳にまつわる本の特集がクマれて…もとい、組まれていた(三毛別羆事件の本なども複数あったのでつい)のも信州の土地柄かも。
 泊りがけの夕食は駅前で蕎麦。ツイッターで悲鳴を上げていた場所かは知る由もないけど市内のビジネスホテルに宿泊して、翌朝の朝食バイキングも満喫。東京方面に戻る前の昼食は、たぶん「松本 牛めし」で検索すると出てくる小さな料理屋で。とろとろに煮込まれた分厚い牛すじが最高でした。
 神社の前に昔ながらのお店が軒を連ねる「縄手通り商店街」も風情があって好いところでした。これから18きっぷのシーズンに、松本、いかがでしょう。自分は今回、過去のことを思い出して、善光寺の洞に再挑戦したくなったけど…

追記。
草間彌生氏の出身地ということで、バスも赤い水玉模様にラッピングされたりしていた松本から帰ってきて半月。ビッグイシューの最新号の表紙とカバーストーリーが草間氏で、ありゃまあ、これも御縁かと。幼少期からの幻覚や長じての差別(女性差別に、渡米してからの東洋人差別)に苦しみながら、もがくように制作を続けてきたことが分かる良記事でした。

他の記事も読み応え十分(地図の読み方など。新潟や金沢など、昔からの繁華街と駅が離れているのは・蒸気機関車だった頃は煤煙を避ける必要があった・切り返しなどに場所が要るというのも言われなければ思い当たらないことで興味ぶかかったです)。一冊350円の売上のうち180円が、販売するホームレスの人の収入になります。

世界の関節が外れるとき〜劉慈欣『三体』×ミチコ・カクタニ『真実の終わり』(2019.09.08)

塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味がつけられよう
『マタイによる福音書』5章13節(新共同訳)

 すごい人気じゃないか。劉慈欣の『三体』(早川書房)。
 近所のK書店では、話題の新刊を置く平積み棚すら超えて、東野圭吾の新刊と一緒に店の入口に積まれている。別のK書店(ありゃ、こっちもKだ)では1メートルの立て看板に当店の店長絶賛!の手書き。
 個人的には熱望していた。2015年に「グレッグ・イーガンや伊藤計劃も真っ青・中国SFの会心作(日本でも翻訳が進行中)」と読んで以来、ずぅーっと待ってた。でも、こんな評判になるとは。
 もちろん、出てすぐ読んだ。ワクワクもんであった。でも、世間的に、これ、面白いの?
 読書家で知られるバラク・オバマ元大統領も、Facebookのマーク・ザッカーバーグも絶賛している。たぶんトランプは読んでない。でも本当に面白がられてるの?今やアメリカと肩を並べる二大国となりつつある中国発のベストセラー、だから飛びつかなきゃダメだ、そんな感じで飛びついてない?評をいくつか拾ってみたけど「中国。ベストセラー。ヒューゴー賞」といった現象だけ紹介して「その内容についてはネタバレになるので明かせないが、評者は驚嘆した」いやそれ、心から驚嘆してます?

 別にSFの良い読者ではなかった。過去の名作も取りこぼしの方が多いし、最近の動向にも全然ついていけてない。
 その乏しい観測範囲内で言うと『三体』、実に好ましい。宇宙スケールの壮大な物語と地上のサスペンスが噛み合ったり、主人公がいきなり中国古代の英傑と冒険する羽目になったり、そのケレン味とダイナミックさが、十代のころ夢中で読んだ山田正紀の作品を彷彿とさせる。ロシア革命当時のシベリア鉄道で怪僧ラスプーチンと対決して最後はプテラノドンが出てきたり、終戦まもない日本で弥勒菩薩の降臨をめぐってエスパーたちが『スキャナーズ』ばりの死闘を繰り広げる、あの世界。
 劉慈欣『三体』、山田正紀が好きな人には保証つきです。(完)
 いや、(完)じゃない。
 逆に言うと『三体』、凄い凄いと皆が言うけど、山田正紀ほど凄いか。現代(1980年代)の日本で鬱々とした思いを抱えて夜の街をさまよう主人公が、ふと見上げたビルの電光掲示板に「西暦2×××年、もう延命の手立てがなくなったので、人類は自分たちが到達できた最も遠い場所=木星の衛星軌道上に人類滅亡の記念碑を建造することにしました」と電光ニュースが流れるのを見て「そうだ!俺は2×××年の人間だけど、人類滅亡をめぐる争いに敗れて、この80年代に流刑されたんだ!」と思い出す『最後の敵』(日本SF大賞受賞作)ほど凄いのか。いや、そもそも凄いって、そういう飛び道具的な凄さだけでいいのか。
 
 修正。劉慈欣『三体』、山田正紀が好きな人には保証つきだけど、もう少し地に足がついた感じです
 でもやっぱり似てる。「馬鹿なんじゃないか?」と思うほどの奇想と、SF的なアイディアを現実世界に無理やり適合させる強引さ、そしてラストの「なんか分からんけど、やったるぜ!」という破れかぶれのカタルシス。
 僕がたまたま山田正紀に夢中だった十代を過ごしただけで、同じような(壮大バカ大真面目)SFは、過去いろいろあったのかも知れない。
 では逆に『三体』が「あの○○が帰ってきましたよ」以外に、独自のものとして提示しているものは何か。ヴァーチャル・リアリティ?ナノマテリアル?そういう小道具は比較的どうでもいい。「現代」「中国」「SF」として『三体』が提示したものは、二つある。

 一つは、多くの読者が賛同してくれるのではないかと思う。『三体』が現代的な理由のひとつは、今まで(とくにSFの形では)知られて来なかった中国社会の姿を、ベールを上げて見せていることだ。ちょうど、ソ連を舞台にしたミステリ『チャイルド44』が、看板としては「ソ連で起きた連続少年殺人事件!サイコパス!?怖い!」だったのが、中身は「事件を捜査する主人公の、家庭生活にまで入りこんでくるソ連の監視社会!怖い!」だったように
 
(トム・ハーディ、ノオミ・ラパス、ゲイリー・オールドマンと個人的に好きな役者が揃った映画も好かった)
 『三体』が晒すのは、知識人が迫害された文化大革命の傷の深さと、その傷を癒やさぬままに敷かれた現代中国のハイテク監視体制の閉塞感だ。それを味わうだけでも、『三体』には小説としての楽しみがある。
 では『三体』が(たとえば1980年代の諸作にはない)現代SFとして提示している、もうひとつの独自性とは何か。
 それは同作が、はからずも、2010年代の世界を席巻している「反知性」「反理性」の暴風を暗示していることだ。

 「はからずも」と書いたのは、それが作者・劉慈欣の属する中国を苦悶させているようには、(少なくとも日本からは)あまり見えないからだ。
 『三体』は、無学な少年兵たちによって知識階級が弾圧され、死に追いやられた、文化大革命の無残な描写から始まる。数十年後の「現在」その呪いは変奏され「もし科学者が、科学法則を信じられなくなったら、どうなると思う?死ぬかな?」という突飛な疑問が、疑問でなくなり、最先端の研究に従事する学者や研究員たちが、次々と死に始める。最終的に宇宙の彼方から(!)人類に届けられる「たった十文字のメッセージ」は、社会問題に意識的な読者には痛撃だろう。それは「はからずも」今の吾々そのものを指しているからだ。

 山田正紀は妥当だろう。『チャイルド44』も、まあ分かる。
 しかし劉慈欣の『三体』に、ミチコ・カクタニの『真実の終わり』(集英社)をぶつけるのはどうか。異種格闘技というか、手術台の上のミシンとコウモリ傘が過ぎやしないか(この比喩も、20世紀で賞味期限は切れたかも知れないが…)
 だが両者は、今年の前半に邦訳が出た話題の書、という以外にも共通点を持っている。『三体』は科学面で、『真実の終わり』は文化面で「何が正しいのかの基準・正しさへの信頼が失なわれたら、吾々はどうなってしまうのか(破滅するしか、ないのではないか)」と問う書物だからだ。
 ニューヨーク・タイムズの書評欄で30年以上も健筆をふるい、いわばアメリカ文学の一面を牽引した(という)ミチコ・カクタニが、初めて著した単著は文芸批評ではなかった。ドナルド・トランプを第一走者とするフェイクニュース・フェイクトゥルース時代の到来に警鐘を鳴らし、なぜこうなってしまったかを分析した論考だった。
 同書が話題をまいた理由のひとつは、現在のフェイクトゥルースが跋扈する状況を準備したのは、20世紀後半のポストモダン思想だと指摘・糾弾したことだろう。ラカンやデリダ、フーコーなどが槍玉に挙げられているのだ。その是非については、ここでは深追いしない。だが、話をもう少し平らにならして「近代では科学革命をいちはやく成し遂げ、世界の牽引役となった西欧の思想・思考が唯一の理性的なものとして君臨した」→「だが帝国主義・植民地支配の没落とともに、思想面での西欧中心主義は批判され、非西欧など別の立場からの異議申し立てが起きる(これ自体は悪いことではない)」→「ところが、その論理を逆に支配層・保守層が盗み取り、真実は言う者の数だけあるのだとして、理性や知性を破壊しはじめた」と言い替えたらどうか。
 それまで圧倒的な強者の立場に居た者が、弱者の異議申し立ての道具と、被害者としての立場を簒奪し「男性差別」「日本へのヘイト」などと言う状況と似ているのかも知れない。でもまあ、これも今は措く。

 『三体』と『真実の終わり』を続けざまに読んだのは、まあ偶然なのだけど、かように両者には共通点がある。言うまでもなく、そう思ったのは、同じ危機感をずっと自分が共有しているからだ。
 2019年9月の一例を挙げよう。安倍首相との会談を終えたドナルド・トランプ米大統領に、日本の記者が、わが国の首相はどうしたと問うと、トランプがJust leftと答えた。これを「ただの左翼」「よう、左翼」と解釈し、問うたのが朝日新聞の記者で、アメリカの大統領にも日本のサヨクは見下されていると嗤う言説がネットに飛び交った。
 当然、それは違うと指摘された。このleftは左ではなく去るという動詞leaveの分詞形で、Just leftとは「去ったところだ」「もう行ったよ」という意味でしかない。こういう間違い・勘違いは珍しくない。(泊原発を「柏原発」と言ったり、珍しくないほうが問題じゃないか?と思いはするが)
 問題は「よう左翼」勢が単に無知というだけでなく「去ったところだ」だという指摘に対しても「ただの左翼という解釈もありえる」と頑なに譲らない論陣(論でも何でもないのだが)を張り続けたことだ。「そもそも」という言葉を首相が「基本的に」という意味で誤用し、誤用を指摘されるとそもそもには基本的にという意味もあると国語辞典を書き変えるような閣議決定を政府がしたこともあった。
 嘘が嘘と判明しても、嘘ではない、嘘でもいいのだと言いはる。南京大虐殺から日本酒の注ぎかたまで、まるで現実を憎むかのようにデマが日々量産される。これは何なのか。

 塩がもし、塩としての力(食品に塩味をつける・腐敗を防ぐ)を失くしてしまったら、お前はどうやってお前自身に塩をするのかと福音書は言う。
 シェイクスピアの戯曲で、信じていた秩序の崩壊をまのあたりにした王子ハムレットは「世界の関節が外れてしまった」と叫ぶ。
 すごく間抜けなたとえで恐縮なのだが、ずっと頭にあるのは(やはり80年代の)ゆうきまさみの漫画『究極超人あ〜る』で悪の博士が開発した「まぬけ時空発生装置」のことだ。そのまんま名称のとおり、周囲の人間を間抜けにしてしまう装置なのだが、これが永田町の国会議事堂か、首相官邸の地下に設置され、2012年このかた、ひそかに作動を続けているのではないか。あるいは都庁の地下かも知れない。でなくてどうして、オリンピックの暑さ対策にアサガオの鉢植えを並べ、涼しさを演出するなんて馬鹿げたことが言えるのか。
 …という嘆き(ぼやき)を、少しSF的に言い替えると、ある程度まで人類が文化や文明を発達させると、何かトリガーが作動して、それ以上は発展せず文明が崩壊するようなメカニズムが、あるのではないかという疑惑になる。
 むろん冗談だ。今年はアポロ11号が月に着陸して50年。人類が月に到達したことが、その発展の一つの指標となり、宇宙の彼方の別の知性の行動をうながすとは、SFの定石ではないか…というのは、さらに冗談だ。
 けれど「より理知的に・より公正に」と進められたはずの世界把握の改革が、逆に文明の崩壊につながったというミチコ・カクタニの論考を読んでいると、少なくとも、このサーモスタットのような(アイロンなどが熱を持ちすぎると電源が自動的に切れる)回路を迂回しないと、人類に先はない(かも知れない)という気にもなってくる。文明が発展すると必ず、そういうサーモスタットが発動する仕様ではないにしても、現に今この世界では、バグ(プログラムのミス)としてでも、そんなメカニズムが発動している。
 「塩が効力をもたない」時代、事実や理性が、人や社会の行動を律する塩にならない時代の到来そのものは、冗談ではない。

 ああ、また狂人か、オオカミ少年が出たと思われるのだろうなあ。だが言わせてもらいたい。
 これはたぶん、吾々が、言語の運用法を間違ったために、追い込まれた隘路だ。
 小説や映画のように、ここではない世界をフィクションとして幻出させるのでなく。批評や社会運動のように、今とは違う世界を現実に打ち立てようと訴えるのでもなく。事実を偽ることで、この世界を歪んだ欲望のままに書き換える、そうした言語の運用法は、間違っている。
 嘘を嘘と、デマをデマと、デタラメをデタラメと正せないことで、社会は崩壊しうる。
 二冊のかけ離れた本は、それぞれの距離感で、同じ危機を描いているのだと思う。

手紙は待ってくれる〜映画『ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝』(2019.09.07)

友達から来た手紙のように読めないなら、本を読む意味はない吉田健一

 『涼宮ハルヒの消失』『映画けいおん!』『たまこラブストーリー』そして『ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝』。京都アニメーションが手掛けてきた劇場映画の多くは、「外伝」が端なくも示しているように、先立つTVシリーズの続篇・完結篇・番外篇という位置づけで作られている。このことが同社の映画作品を、単体で評価しにくくしている憾みはあるだろう。
 同様のことは『ラブライブ!』の劇場映画などにも言える。現在は、元々がTVアニメや、もっと媒体を別にするメディアミックスのプロジェクトとして始まったコンテンツの、いわば「あがり」「通過点」「ごほうび」として劇場作品が作られることが少なくない。さて、皆さん御存知の、この世界・このキャラクターたちですが…と始まる映画を、単体で評価するのは難しい。
 (一から説き起こされる単体の作品として、京都アニメーション…略して「京アニ」には『聲の形』という近作があり、また評価も高いが、ヘヴィな内容でまだ観る勇気を持てずにいます)

 『ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝 -永遠と自動手記人形-』は、そうした一連の「続篇映画」としては、かなり一見(いちげん)さんに親切な映画だ。「正伝」にあたるのは、国際展開するアメリカのネット放送局Netflixのアニメシリーズとして世界に配信されたもので、Netflixを観る環境にない自分は(ないない尽くしだなあ)、暁佳奈氏による「原作」だけ大急ぎで読んで映画『外伝』に臨んだのだが、

 「正伝」を知らなくても、かなりスムーズに作品の世界に入っていける内容と判断しました。
 それは同作(外伝)が主人公「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」に初めて出会う少女「イザベラ」の視点から始まるためだ。彼女の目をとおして観客は「さて、みなさまNetflix版でお馴染み…ではない」ヴァイオレット・エヴァーガーデンと「初めて知り合う」ことができる。「イザベラ」と同じ速度で、ヴァイオレットの人形のような美しさに驚き、感情の希薄さに戸惑い、その礼儀正しさと気配りの細やかさを知り、けれど当人が「自分には優しさということが理解できない」と嘆く姿にまた戸惑い、両腕を鋼鉄の義手に替えた代書屋の少女に、先の戦争で負った大きな喪失があることを薄々、察していくことができる…
 後半は「みなさま御存知」の脇役もちょいちょい出てくるが、本作から入る観客も、そのあたりは軽くスルーできるようピントはボケていて、メインとなる主人公たちにピタリと合ったフォーカスを追いかけていける。
 何を言ってるのか。要するに(単体としても)優れた作品だ、と言いたいようだ、自分は。
 「京アニ」作品の特長として知られる、繊細な映像美や、キャラクターの「演技」の細やかさ、などについては語るまでもない。嘘である。正確には、それらを文章に置き換えるのは、とくに美的感覚の欠如している自分には難しい。
 どういうわけか、それが実際の景色でも、絵に描かれた景色でも「ただ美しい」ものを「ただ美しい」以上の語彙で、光がどうの色彩がどうの分析して語るセンスが自分には大きく欠落してるらしいんだなあ。描かれた事物が、単に描かれることから離陸して、何らかのストーリーを指し示して初めて、その離陸し指し示すベクトルを「こう向かってる、このベクトルが美しい」と言える。
 たとえば、貴族の子女ばかりが集う全寮制の学園で、ダンスの男役を仰せつかったヴァイオレットとともに、くるくる輪を描きながら踊る「イザベラ」の目に映る、空を模した天井に描かれた白い鳥の姿が、高価で贅沢な鳥籠に囚われた「イザベラ」の境遇を指し示す、そのベクトルが美しいと。映画の冒頭は、港町の、現実の空を自由に翔ぶ海鳥の描写で始まるので、「イザベラ」の救いのなさが余計に際立つのだと。

 『ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝』は、吾々の世界に似ているが別の、架空の世界を描いたファンタジイだ。文明の発展度は、大都市に電灯がともりだし、集合住宅に手で蛇腹の扉を開閉する式のエレベーターが設置されはじめた段階。戦争の後ということもあって、下には容赦のない貧困があり、上には貴族同士の政略結婚の道具とみなされ自由を奪われた少女たちの抑圧がある。その抑圧と拘束は、少女たちが嫁ぎ、大人になってからも続く。
 現実の吾々の世界の、ヴェルサイユとかヴィクトリア朝といった時代には「貴族の婦女が真の友人を得るのは、良い夫を得るよりずっと難しい」といった表現があったという。映画では、ある少女が「イザベラ」に向けて心を通わせようと、必死で手を差し伸べる場面が描かれる。それがかない、二人が鳥籠のなかで「同盟」を結び得たかは、数年後を描く映画の後半ではついに語られない。まるで世界の鳥籠の強固さを暗示するかのように。
 危ういことを言ってるかも知れない。「この作品が訴えたいことはー」と称して作品そのものから遊離した「教訓」や、美辞麗句を連ねることは、作品をダシにして(それでいて、いくらでも取り替えのきく、誰かの受け売りでしかない)自己アピールになる危険と常に隣り合わせだ。
 けれど、美しい映像・細やかなモーション、泣ける・号泣・リリシズムといった、京アニ作品にかぎらず最近のアニメーション映画を語り直すときの定型句とは別に、ここではない世界と時代に託した、社会派のレイヤーが、本作にはひそかに挟まっている。ファンタジイ舐めんな。
 同じ学舎の貴族の少女が、イザベラとの間に空けられたかは分からない、体制の壁を壊す風穴。
 物語の中で、その風穴を開けるのは、代書人ヴァイオレットや同僚の配達夫ベネディクトが体現する、郵便という(当時の)ニューメディアだ。字もようよう書けない、書けても美しい手紙に仕上げられない市井の人々の想いをすくいあげ、タイプライターで清書する代書人と、階級や貧富の差まで乗り越えて、その手紙を届ける配達人。どんな職業にも、それぞれ『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』のような神話が必要なのかも知れない。自分たちが従事している仕事こそが、冷たい世界を打ち壊し、人々が通い合う未来の通路を切り拓いているのだという神話が。

 当然ながら『ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝』の郵便というそれは、退屈で凡庸といわれる人々の悩みや喜びを掬いあげ、美しい映像と描写に「清書」する、アニメーション製作者たち自身の、理想化された自画像でもあったろう。京アニ作品は、とくに、何物でもないような平凡な境遇にある少女たちの、たあいのない日常を、細やかに美しく描くことで定評がある。
 劇中でヴァイオレットも巧みに操るタイプライターという道具は、吾々の現実の世界では、タイピストという職業を生み出し、女性の社会進出の枠を広げた魔法の杖でもあったという。タイプの打ち間違いで恋が成就するオー・ヘンリーの短篇「献立表の春」は、現代でいえばメールやスマホや(少し古いが)ポケベルが鍵になるラブコメディのような、当時としては最先端の話ではなかったか、という話はずっと前にしたと思う。

 むろん、それはせいぜいゲームの最初で与えられる「こんぼう(棍棒)」や「ぬののふく(布の服)」程度のパワーしか持たない杖だったかも知れない。この世は牡蠣なり。吾、剣をもて其れをこじ開けんというシェイクスピアの台詞に背中を押され、社会に飛び出た「献立表の春」の主人公はタイピストの資格だけでは、ようよう世間という牡蠣の殻をこじ開けられず、つまり職を得られず右往左往する。
 …現代のアニメーターは、往時のタイピスト以上に、若者の夢の職業であり、同時に過酷な底辺の業務なはずだ。とくに女性にはそうだろう。
 京都アニメーションが女性中心に設立され、大手スタジオの下請けから始まり原作まで含む自社製作ができる会社に成長したこと。正社員の採用に積極的で、労働環境の改善という意味でも、日本のアニメ業界の未来を示すロールモデルたりえたこと。それらは、その作品の世界的な評価とともに、アニメなどに関心のない人たちにまで知られることになった。今年の7月に起きた、日本の戦後の犯罪史上で最多といわれる被害者を出した、放火殺人事件のためだ。

 『ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝』は、ひとたび手紙という形に変換された「想い」や「愛」が、差出人の顔も思い出せなくなってしまった時間の経過のあとでも、受取人に幸福を伝え続けるさまを描いている。
 映画は、事件の直前に完成していたという。一度たしかな形で「清書」された想いは、時間に打ち勝って受け手に届くのだという主題が、はからずもこうして「遅れて届いた手紙」の形で証明されたことが、つらい。
 「音楽は待ってくれる」と思うことが、自分の場合、たびたびある。最初に聴いてピンと来なかった曲やアルバム、ミュージシャンが、半年後や一年後、時には十年以上を経て突然「こんなに好い音楽だったのか」と分かることが多いのだ。流行りの楽曲や、逆に古い楽曲が、すぐ分からなくてもいい。音楽は待ってくれる。
 だが、音楽の作り手である、人は待ってくれない。ジョージ・マイケルもプリンスも、デヴィッド・ボウイもルー・リードも、レナード・コーエンも。吉良知彦も、森岡賢も。いつまででも聴き続けられる、手紙のような音楽を作った当人たちは、次々と居なくなってしまった。
 『ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝』は、人々を抑圧し傷つける残酷な世界のシステムによって、命を奪われた人たちがしたためた、「それでも想いは届く」としたためられた、死者たちからの手紙だ。

 手紙は待ってくれる。人は待ってくれない。つらい。

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