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Author:舞村そうじ/RIMLAND
 創作同人サークル「RIMLAND」の
 活動報告を兼ねつつ、物語とは何か・
 どんなメカニズムが物語を駆動し心を
 うごかすのか、日々考察する予定。

【最近の動向】
当面は新刊がない予定です。

WebまんがSide-B遅々として更新中。

6年ぶりの本篇更新。(20.05.17)

旧サイトは2014年8月で終了しました(お運びいただき感謝)。再編集して、こちらの新サイトに少しずつ繰り入れますが、正直、時間はかかると思います。

[外部リンク]
comitia
(東京名古屋新潟関西みちのく)
あかつき印刷
POPLS

日本赤十字社

if you have a vote, use it.(save kids)

日記更新。ドゥルーズ初期、読んだ気になれます(?)。下の画像か、こちらから。(20.05.31)


ひとつ前の日記。ラーラ・プレスコット『あの本は読まれているか』感想。こちらから。(20.05.24)


エアコミティア」終了しました。
またいろいろ描いたので、跡地を残しておきます。下の画像か、こちらから。(20.05.17)

個らぼフェス卯月」終了しました。
また即興まんが描いたりしたので、特設ページ跡地も見てってください。下の画像か、こちらから
(20.05.01)
ネットイベント「エア名古屋コミティア56企画」終了しました。
無料ペーパーや、エアスケブなど特設ページの跡地に置いておきますね。下の画像か、こちらから
(20.04.13)

哲学と第一哲学〜ジル・ドゥルーズ編『哲学の教科書』(2020.05.31)

 さだまさしという人は、かなり秀でたシンガーソングライターだと思うけれど「天文学者になればよかった」は非道い。失恋した男の嘆きの歌なのだが、俗世間で恋なぞするより「天文学者を目指せばよかったよ バミューダの謎やピラミッドパワーに未確認飛行物体とのコンタクトなどなどどれひとつ、天文学の対象では、ない!
 
 それに比べたら、年末に紅白歌合戦なぞ見ながら家族の団らんで、ふいに哲学って何と訊かれて(どんな家族団らんだ)「…形而上学?」と答えたのは、素人としては結構スジが良かったのではないかと自負している。なんとなく「人生って何だ、うわーっ」と叫んでそうなイメージがあるが(それ天文学者がピラミッドパワーの研究する並に非道い)、その嘆きが「どう生きるべきか(恋愛か友情か)」なら、それに答えるのは人生論。未確認飛行物体とのコンタクトを研究するのはUFO研究。そうでなくガチに「人生って何」「未確認というけど、確認て何」真って何、善って何、美って何、「それは何」って問うってどういうこと?
 数学、経済学、社会学、生物学などなどが、とりあえず「そういうもの(経済や社会)はある」としたうえで、その内実や機能を探るのに対し、それらの探索の前提になる「考えるって何」を問う、メタ学問的なものを哲学と呼んでおけばいいんじゃないか。テキトウだけど。

 …そういう(テキトウな)観点で考えると、ジル・ドゥルーズ編哲学の教科書』(加賀野井秀一訳/河出文庫)は、やや看板に偽りアリな気がする。1988年に単行本で出た際の書名で、現在も副題に残っている『ドゥルーズ初期』のほうが内容としては正しかろう。彼の最初期の論文「キリストからブルジョワジーへ」と、オルレアン高校の哲学教諭だった彼が教科書として編んだ「本能と制度」の二編を収めている。だからまあ「哲学(教諭)の(編んだ)教科書」ではあるものの、シモーヌ・ヴェイユの哲学講義のように「これを読めば哲学とは何か、概ね把握できる」内容ではない。哲学がテーマではなく、タイトルどおり「本能と制度」がテーマなのだもの。
 (もっともらしく言いながら)ほぼ内容を忘れてるので再読したい…
 とはいえ『本能と制度』が哲学的じゃないかといえば、かなり哲学的で面白い。というか、すごくドゥルーズ的で面白い。
 と言うのもこの「教科書」、ドゥルーズ自身の言葉は序文にしか含まれないアンソロジーだからだ。タイトルどおり「本能と制度」について、文化人類学者のマリノフスキーから、おなじみマルクスまで、いろんな学者がそれぞれの立場で述べている部分をひたすら抜粋し、並べたものなのだ。それぞれの抜粋は2〜多くて5ページ×66章。たとえば創作について、誰かが述べている文章のそこだけを抜粋し「プロットの作りかた」「伏線とはどのように張るべきか」みたいなアンソロジーを編めたら面白かろうと思うが、それは措く。
 國分功一郎ドゥルーズの哲学原理』(岩波現代新書/2013年)によれば、ドゥルーズ単独の主著は基本的に哲学者研究(モノグラフ)であるという。ヒュームについて、スピノザについて、ニーチェについてフーコーについて、それぞれ一冊の本を書く。そんなドゥルーズの手法を國分は「対象となる哲学者が述べたことを書き写すだけではなく、自身の思想をその哲学者の名にことよせて語るのでもなく、その哲学者の思想が到達しえたのに当人は書ききれなかった可能性まで敷衍して語り切ること」と述べている。華々しいドゥルーズ=ガタリ名義の仕事もまた、哲学者ドゥルーズが精神分析医でアクティビストだったガタリをいわば憑依させて生まれた共同作業なのかも、とは國分の著書が示唆するところだ。
 (國分によれば)徹底して他者の思考で思考する、そんなドゥルーズの最初期の仕事が他人の言葉の引用集だったのは、けっこう本質的かも知れず興味深い。

 そして、そのテーマもドゥルーズの哲学以前の関心を示しているようで興味深い。

 哲学者エマニュエル・レヴィナスにインタビューした『倫理と無限』(ちくま学芸文庫)でインタビュアーのフィリップ・ネモは、レヴィナスは倫理について第一に思考してきたから哲学者というより倫理学者・モラリストではないかという問いに対し「そうではなくて(彼において)倫理は第一哲学なのだ」と述べている。
「倫理とは第一哲学であり、そこから形而上学における他の枝が分かれて意味をもつようになる(中略)
 その問いなしには、思考によるいかなる問いかけももはやはかなく空しい追求となるほかないような(中略)
 第一の問いとは正義についての問いなのである」
 どうやらフィリップ・ネモも哲学の主務は形而上学だと認識してるようで「しめしめ」と思うのだが、それはさておき。形而上学、机上の空論、何かとは何かとは何かみたいな抽象的なことを考えてそうな哲学者という種族が、実は「何かとは何かとは何か」より前に「正義についての問い」に動機づけられている、これはレヴィナスに限った話なのだろうか。

 「本能と制度」は、ドゥルーズの著作にしては相当に読みやすい。まあ何しろドゥルーズが「書いた」わけじゃないですから。襞(ひだ)とか器官なき身体とか、リゾームとかヴォルプタスとか、訳の分からん用語も出てこない。「一切は機械をなしている。天空諸機械。天の星々や空の虹。アルプス諸機械。これらの機械は、レンツの身体のさまざまの機械と連結している」(『アンチ・オイディプス』)みたく綺羅びやかで意味不明なぶん魅惑的なフレーズもない。
 それでも「本能と制度」は、派手なシンセやオーケストラで知られるミュージシャンが、アコギ一本で録音したデビュー音源のように、ある意味ドゥルーズらしさ・ドゥルーズの関心が横溢している。
 動物は本能によって行動を支配されるが、人は制度がそれに代わる。本能とは何か。どこまで生まれつきで、どこから学習なのか。『幸福論』で知られる哲学者アランはぼやく。なんで吾々は電車に乗るとき(客なのに)まるで一番したっぱの労働者のように鉄道会社の規則に従わなければならないのか。制度とは何か。法とは。規範とは。他人の言葉に乗ったドゥルーズの執拗な追求の先には『アンチ・オイディプス』を動機づけるあの問い、何故、ひとびとは、あたかも自分たちが救われるためでもあるかのように、みずから進んで従属するために戦うのかがある。
「驚くべきことは(中略)むしろ、飢えている人々が必ずしも盗みをしないということであり、搾取されている人々が必ずしもストライキをしないということである」
これがドゥルーズの「第一哲学」なのかも知れない。

 というわけで「本能と制度」ドゥルーズが編んだ66編を紹介します。それぞれ一行に収めるため相当に端折っているし、当然ながら自分の理解も浅い。間違いもあると思うので気になる人は各自で原典にあたり、新たに要約を編み直してみるのも良いでしょう。
 言いかえると、この要約を読めば「本能と制度」読んだ気になれる。なれるかな?
     *     *     *
・動物と違い、人間の性的欲求は文化的な仕組み(祭りなど)によって引き起こされる。そのキイは「感情」である。(マリノフスキー)
・喉が渇くので井戸を掘るような有用な行為と、神殿で履き物を脱ぐような儀礼的な行為がある。(ル・クール)
・欲求の充足は、各々の社会の制度や文化的ルール・求められる行動を遂行するといった形に置き換えられる。(マリノフスキー)
・鉄道やバスを利用する時、私たちは客でありながら一番したっぱの労働者のようにルールを甘受する。(アラン)。
・土地所有者と建物所有者どっちの権利が優先されるとか、有用性を離れた問題への答えは想像に基づいてて恣意的。(ヒューム)
・制度も丸木舟の形も機能的だからでは説明にならない。慣習は恣意的で、しかも移ろう。(レヴィ=ストロース)
・同じ種の鳥はいつどこでも同じ巣を作るが、人の営みは千差万別。(ヒューム)
・本能が命じること(空腹なら食え・火に手を入れるな)を法で強制する必要はない。制度は本能を抑えるものだ。(フレイザー)
・生物的な成熟と、社会的な成熟に10年ほどズレがある。悲惨。(カント)
・本能の遂行をさまたげる社会的な禁止を、人は超自我の命令として内面化する。(フロイト)
・食欲など他の本能は欲する対象が明確だが、性的傾向性は対象が恣意的なぶん教育しにくい。(フロイト)
・食事すら神話を再現する儀礼なのが人間だ。未開の地はカオスであり、開発の前に儀礼で神話化する必要がある。(エリアーデ)
・生産の目的(食物を得る)は生産の手段(方法)を規定しない。手段は社会的な必然性で決まる。(プレハーノフ)
・権力の濫用に侵害されない消極的な自由から、自らの自由が制度の基礎となる積極性へ。それが市民。(グレトゥイゼン)
・動物の本能的行動に知性的判断は関与しない。あれは言うたら夢遊病者じゃよ。(キュヴィエ)
・子を残すため、獲物が死なず麻痺だけする絶妙さで、都度たしかめながら9回も攻撃するジガバチすげー。(ファーブル)
・ジガバチの仲間キスジツチスガリは甘い汁が目当てで獲物を麻酔してるだけ。子孫とか考えてない。(マルシャル)
・血中の栄養欠乏のような身体的条件があって初めて、食物という外部刺激に反応する。性本能も母性本能も。(ティルカン)
・ホルモンは複合作用(単機能のホルモンも、単一のホルモンだけで起きる行動もない)。神経や感覚にも作用する。(ビーチ)
・生殖は大仕事なため酸素が必要で、鮭は酸素溶解度の高い淡水それも源流へと向かう。言うたら鰓が行動させてる。(ルール)
・蝶。量的な増減を問わない低次の感覚(特定の色に惹かれる)が、(輪郭・濃淡など)高次の感覚で補正される。(エルツ)
・自己の利益が目的なら他の餌だってある。なのに子孫繁栄に役立つ行動を取るのだから、マルシャル間違ってる。(トマ)
・種保存のため神経系が与える「これは個人的な欲求だ」という幻想に、客観気取りの脳が騙されてるのよ。(ショーペンハウアー)
・スムーズな行為は意識を要さない。というか意識を行為で打ち消す。自動的な本能で賄えないとき意識が生じる。(ベルクソン)
・蜘蛛が糸を出すことは器官の特質で分かるが、蜘蛛の巣の形状は説明できない。本能は器官と外的環境の共作。(ボイテンディク)
・本能は反射とは違う。刺激への反応は大脳の思考をともなう全体的な生活行動になり、実現されるのも将来。(ゴルトシュタイン)
・相手が怯え暴れれば攻撃になる本能が、リラックスした相手だとじゃれ合いに留まる。習慣を形成するのは状況。(ギョーム)
・専制や共和制など政治制度の違いも、国土の大小や住民の多寡=空間的条件と切り離せない。(アルヴァックス)
・法は人を奴隷にする。制度こそ公共の自由を保証し、共和制の礎になる。制度を増やそう。(サン=ジュスト)
・制度は(行為や試みのため)国家・団体・組合など諸機関を作るが、法は(制限が本質で)機関を作らない。(オーリウ)
・制度vs契約。制度を変えるためのストは個人の契約不履行の集積ではないし、代議士も賛成者だけの代表ではない。(ルナール)
・本能的行動はパーツの集積から成るが、個々の行動のパーツは目的を失念した自動的なものだ。(ファーブル)
・巣を作り樹脂で塗るハチの行為を妨害したら、妨害を攻撃と思い未完成(だから無駄)なのに巣を塗り始めた。(ヒングストン)
・ハチの巣作りは一連の動作の集積だが、一部を妨害すると全体的な観点からの見直しはなく概ねバグる。(ヴェルレーヌ)
・周囲の環境や他の個体からの影響がない人工的な巣で生まれたカナリアは、まともに巣を作ることができない。(ヴェルレーヌ)
・立法によって人々を縛る者は、非凡なほど無私でなければならない。ギリシャでは立法は外国人に委ねたほどだ。(ルソー)
・復讐の三女神エリニュエスは家父長制を支持するアポロンに権威を奪われ、平和と安らぎの精霊にされた。(バッハオーフェン)
・オイディプス譚は、挑戦者による王位簒奪の制度の物語化。のちに二家系が順番に王位を譲りあう形に変化した。(ミロー)
・法や制度は、不測の状況変化を元から織り込んでいることもあるが、どちらかというと状況に応じて自らを変える。(レー)
・人間は自前の肉体に道具や知識などの超=身体を加える。いわゆる人種より金持ちと貧者の差のほうが本質的。(バトラー)
・馬は馬から生まれるが、ヨーロッパのフォークとポリネシアのフォークは別物。一つの種と捉えるのは危険。(レヴィ=ストロース)
・生物は自らの身体を変形させ道具にする。人は外部の材料で自由に道具を作り、使用の巧拙も使用者次第だ。(テトリ)
・本能の大部分は、有機組織(身体)の作用そのものの延長か、あるいはその完成である。知性は身体と無関係。(ベルクソン)
・チンパンジーも梯子を使うが、木の登り棒と区別はついてない。最も単純な機能しか把握してないのだ。(ケーラー)
・狩猟本能が必要になる前に、遊戯で練習していないとトラは餓死するだろう。若年期は遊戯のためにある。(グルース)
・遊戯は怒りや恐怖に満ちた自然から守られた環境で、自ら規則を守り研鑽する制度だ。無用だが有益と言える。(アラン)
・動植物にも個体や種の保存の必要を越えた美やさえずりや遊びがある。しかし自覚してやるのは人間だけ。(ボイテンディク)
・ギリシャは美しい彫刻と、それに刻まれるべき美しい肉体を作った。舞踏や芸術が生活や政治まで律した。(テーヌ)
・身体構造の変化と同様、本能も試行錯誤と自然淘汰を経て少しずつ変化した。突然の飛躍的変化はない。(ダーウィン)
・本能には無自覚だが有益な習慣の自然淘汰による固定と、知的行動の反復による自動化、両者の相互作用がある。(ロマネス)
・ハチは巣の素材を変える発想はできないが、場所の変化に適応する程度の、知性とまでは呼べない識別力がある。(ファーブル)
・知性は二つの点を外から関係づけるが、本能は内側から全体として直観する。本能は知性では図りきれません。(ベルクソン)
・本能と知性・理性は対義語ではない。教えられなくても(=本能)数学が得意(知性・理性)とかあるやん。(コント)
・虫は決まった行動をすると言っても、周囲の諸条件に合わせて融通をきかせながらするのだから知的だよ。(エルツ)
・動物の判断は単に過去の経験の参照で、人間のように現象の理由までは考えない。いわば推論の影に過ぎない。(ライプニッツ)
・生存のための要求(危険を避けるなど)以外の、体面を保つとか神聖さを守るなどの要求があるのが人間性。(ブロンデル)
・動物園の歴史。助手となる動物の育成→猛獣で権力を誇示→珍獣を集め科学研究→家畜改良施設へ。(ラセペード)
・馴致はゾウさえ支配する人の力だが、同時に人もいくぶん動物化する。とはいえ人間が思考能力で優位に立つ。(エスピナス)
 ※人と動物の関係では有用性とは別の、トーテミズムというアプローチも重要。(編者=ドゥルーズ)
・品種改良と称する人為的な淘汰のすさまじさに限界はないのだろうか。動物の都合など考えやしない。(ダーウィン)
・馴致されたのは有用な家畜だけではない。害虫すら畑や溜池などによって繁殖し、人に依存するようになった。(ハワード)
・トラは通常、人は襲わない。怪我や衰弱で、いつもの獲物が倒せない時にかぎり、簡単な人で「我慢」する。(コーベット)
・飼育動物は活動を制限され人の世界に従属させられる。飼う人も動物(の優位な個体)として振る舞う必要がある。(へディガー)
・動物社会では個体は内部から本能で統御されている。人間社会は外部の制度が個体を統御する。(デュルケーム)
・集団でなく孤立を選ぶ動物もいるし、アリの8割は働かない。動物の「社会」って、簡単じゃないぞ。(コンブ)
・人間にも様々な種がある。兵士、僧侶、貧乏人…夫と妻でも生活様式が違うので、記述は二倍だ大変だ。(バルザック)
・人間は共通する特質を社会に委ね、記憶の必要すら文書に担わせることで、個々人の独創の余地を拡大させた。(オーリウ)
・人はまず社会的な存在で、精神は社会的精神、活動は社会的活動。自然すら社会的存在にとっての「自然」。(マルクス)
     *     *     *
 教科書というくらいだから、毎週一章ずつ読ませ、内容についてディスカッションさせる想定だったのかなあ。それで大体一年。
 実際にはこれら66編の断章に「つまり何が言いたいかというとぉー」と哲学者自身の序文がついているし、さらに「ドゥルーズは何が言いたかったかというとぉー」という訳者解題までついているので、実際は本書を手にしてもらうのが一番なのだが(こんな素人の日記なぞ見ずに)

 こんな素人の第一印象としては、
 これ本当に哲学の教科書か、というくらい動物学・生物学の話が多いのは、なんとなし『千のプラトー』を予感させる。エスピナス、へディガーと二人の記述を借りて(人は動物を飼いならし人間のルールに適応させるけど)そのとき人も動物社会に参入し「優位な動物」として振る舞わなければならない、と繰り返していること・また裏方に徹していたドゥルーズ当人がわざわざ顔を出し「家畜としての有用性以外にトーテミズムという(人の)動物化のアプローチがあって」と断りを入れているのも示唆的だ。
 生存の必要を満たすため為される有用な行為と、必要はないのに行なう儀礼的な行為があるのじゃよと説くル・クールに対し(たわけでもないだろうが、そこは編集の妙で)いや人間の場合、生存の必要の最たる食事ですら神々に捧げる儀礼だよとエリアーデが切り返しているのも面白い。どうかすると自分で作った料理を前にしても「いただきます」と手を合わせるものなあ、とか。
 スムーズな行為の場では意識は打ち消される(齟齬が生じたときだけ意識が生じる)というベルクソンの議論に伊藤計劃のSF小説を連想する人もいるだろう。
 
 代議士は自分の競争相手に投票した有権者や棄権した有権者、そもそも選挙権を持たない住民まで代表し、彼ら全体の未来を左右する決定をしなければならないので、自分に投票した者だけの委任を受けた代理人のように振る舞ってはならないというルナールの論説は、2020年現在に対し痛烈な批評性を持っていないか。
 肌の色や髪の色といった生物的な差異よりも、持てる者と持たざる者という「人種」の差異のほうが本質的な問題だというバトラーの指摘は、警察による人種差別への抗議が燃え上がるミネアポリスや渋谷(←慌てて書き足した)を慮るとき、違った側面から考えるヒントになるだろう。
 何より「本能と制度は別」と手を替え品を替え論証し、本能についてさえ生体内部と外部環境の兼ね合いを追求する思索の集積を見ると、セクハラやネットでのいじめについて「男の本能だから仕方ない」とか「差別は人の本能」とまで言って、何か気の利いたことを述べたつもりになってる手合いが、いかに思考を怠ってるか分かったりもする。
 アランは言う。「原理的には少しも実行する必要はないにせよ、やはり有益な行為がある」「政治にとってはおそらく、労働から学ぶことに優るとも劣らず、遊戯から学ぶことがあるだろう」「遊戯は退屈の治療薬というよりもむしろ、怒りの治療薬なのだ」それが実際にはどういうことかは本書をあたって確かめてもらうとして、この「遊戯」の擁護あるいは推奨は、ある程度まで「哲学」にも適用できるものかも知れない。
 何かとは何かとは何か、とスプーンの上の天使を数えるような哲学・形而上学が、アクチュアルな社会問題を思考する助けになるのは、皮肉な気もする。だが、それほど不思議ではないと「本能と制度」を読み通すと思えてくる。なぜか。認識とは何か、何をもって人は真を真とするのかといった哲学的な問いもまた、環境との関わりで為されるもので、ヒトにとって環境とは自然だけでなく、人間同士で形成された社会でもあるからだ。
 
『ドゥルーズの哲学原理』は(それこそリゾームとか戦争機械とか)ドゥルーズ思想の解説はそっちのけで、ドゥルーズがいかにユニークな哲学者だったか・なんで重要なのか説き伏せる一味違った一冊。オススメです。

CIA版『ドリーム』〜ラーラ・プレスコット『あの本は読まれているか』(2020.05.24)

 京都の書店で本を買った。
 と言っても、現実に京都まで出向いたわけではない。コロナ禍は続いている―それ以上に、およそ行政が持つべき責任がすべて投げ出された災いのほうが大きいが。
 話が逸れた。いや、逸れてないかも知れない。まともな休業補償も得られないまま営業自粛を余儀なくされている(ほうら逸れてない)書店は、通信販売で細々と息をつないでいる。息をつないでいるのは読者の側かも知れない。全国のインディペンデント系・ミニ書店の通販ページがポータルにまとめられ
2020年4月以降、全国の通販で買える個人書店一覧(4/28更新)|里山社(note)(外部サイト)
吾々は「本棚を冷やかし、買う予定のなかった本をうかうか手にしてしまう」あの喜びさえ(擬似的に)取り戻している。

 韓国の現代文学を精力的に紹介している出版社クオンが、ドキュメント『新型コロナウイルスを乗り越えた、韓国・大邱市民たちの記録』をPDF版で緊急出版、自社サイトだけでなく全国のミニ書店(通販サイト)からも購入できるようにしたのは今月はじめのことだ。
新型コロナを乗り越えた韓国・大邱市民たちの記録が本に
 ブックカフェ「チェッコリ」運営のCUONが翻訳出版
(読書好日)
(外部サイト)
 書店サイトで買えば、売り上げが加算される。紹介された時点では地元(神奈川県)の書店がなかったので、逆に遠くで購入しようと「遠方に足を伸ばした」(比喩)。結局くだんのドキュメントは(擬似的に)名古屋の書店で購入したのだが、(比喩的に)のぞいた京都の本屋で別の本が気になり、合わせてポチってしまった。

 前置きが長くなりました。ラーラ・プレスコット『あの本は読まれているか』(吉澤康子訳)は「緊急事態」下の4月に出たばかりの新刊だ。版元は、ミステリやSFで山ほど吾々の読書生活を潤してくれた東京創元社。これは支援するしかない。これは支援なのだ。…そんな美名で、また直ぐには読まない本を積むんじゃないだろうな?「その本は読むのか」?いや、読みました。読みましたとも一気呵成に。

 一冊の小説が世界を変える。それを、証明しなければ(帯文より)
 その本の名は『ドクトル・ジバゴ』。著者はボリス・パステルナーク。革命批判として母国では禁書になった同作を、ソ連国外に持ち出して出版・逆にソ連に持ちこみ反体制運動の起爆剤にせんとするCIAの策謀を描くサスペンスが『あの本は…』だ。著者の名前「ラーラ」は本名。オマー・シャリフ主演で映画化された『ジバゴ』のファンだった母親が、ヒロインの名を娘に与えたというプロフィールから、すでにドラマチックだ。
 まずは章ごとに目まぐるしく語り手が替わる一人称小説、という仕掛けに翻弄される。舞台も東と西を往復、個々のエピソードの吸引力で脱落は免れながら全体の構図がなかなかつかめない。把握できた頃にはページを繰る手が止まらなくなっている仕掛け。
 東側の中心人物は妻帯者パステルナークの恋人で「ラーラ」のモデルでもある創作面の支え手。スターリンが一目置く詩人として当局も手を出せない愛人の身代わりに、ラーゲリ(収容所)に送られ辛酸を舐める彼女の生涯が物語の縦糸を成す。一方、西側の物語は設立まもないCIAの女性タイピストたちを語り手に展開する。同時代を舞台にNASAの「隠された功労者」女性計算士たちを描いた映画『ドリーム』(原題 Hidden Figure)(原作未読)を彷彿とさせる、男社会による抑圧。東と西それぞれの欺瞞を対比して描く語り口は、Me Too的な意味で現代的だ。
 登場人物の一人が任務のため訪れるのが『第三の男』で知られるウィーンの大観覧車だったり、別の登場人物が観る映画がフレッド・アステアの『絹の靴下』…これは何の気なしに読みすごした後で「ああ、たしかソ連のスパイとのロマンス映画だ」と思い当たったり、凝った語り口に相応しく、本書にはさまざまな小道具が散りばめられている。もっとも、それを「手がかり」として拾うかどうかは読み手それぞれの趣味や経験しだい、かも知れない。
 個人的にアンテナにかかったのは『ドクトル・ジバゴ』がまずイタリアで出版される、その立役者になったジャンジャコモ・フェルトリネッリだ。本書では脇役だが、富豪にして出版王、そして行動的な左翼だった彼は、70年代初頭に爆死を遂げる。パトロンとして関与していた「赤い旅団」が過激化し、モロ首相暗殺事件を引き起こす前夜の話だ(まあ本書『あの本は…』とは別の話ですが…)
『鉛の時代』 イタリアの知の集積 フェルトリネッリ出版と『赤い旅団』の深い関係(Passione)(外部サイト)
 
 もうひとつ、これも自分だけのアンテナで思い出されたのは、やはり戦後アメリカの欺瞞を描いたヒーロー映画『ウォッチメン』だ。『あの本は…』では東側のパステルナークと愛人のロマンスと対比するように、西側でも「そう来たか」と思わせる不幸な恋が描かれる。『ウォッチメン』の冒頭、ボブ・ディランの「時代は変わる」をBGMに映し出された場面のひとつが、それに重なったのだ。ネタバレなので、これ以上は言わないが。
 そんなわけで『あの本は読まれているか』はロマンス小説でもある。一冊の小説をめぐるポリティカル・サスペンスであり、スパイ小説・近現代歴史物でもあるが、東西ふた組の苦難にみちた恋愛を描く、苦いロマンスだ。
 とっかえひっかえ入れ替わる一人称の語り手たちの中で、ついに判別がつかないCIAのタイピストたちは、名前がないゆえに読み手の「私たち」に最も近い存在だ。その彼女たちが、映画化された『ドクトル・ジバゴ』を観に行き、「鉄のカーテンの向こう側に運びこむべき武器」と呼ばれた同作が「愛の物語」、ただのラブストーリーであったことを再確認して涙を流す場面は、(帯文とは違い、世界を変えられると証明できなかった)この小説自体の要約でもあるだろう。
「《ドクトル・ジバゴ》は戦争の物語であり、愛の物語である。
 とはいえ、長い年月を経て、わたしたちの記憶に強く残るのは愛の物語のほうだ

『あの本は読まれているか』も、そんな物語として記憶に残れば好いと思う。

実は未読の『ドクトル・ジバゴ』、旧訳・新訳とも今は高値の古書ばかりな模様。映画は『アラビアのロレンス』のデヴィッド・リーン監督と、アリーを演じたオマー・シャリフが再タッグを組んだもの。
『新型コロナウイルスを乗り越えた、韓国・大邱市民たちの記録』は少しずつ読んでます。

可視化の次に来るもの〜映画『淪落の人』『パラサイト』(2020.05.10)

 コロナ禍は続いている。
 いちはやく感染抑制に成功し、アジアの優等生と目されていたシンガポールが、ここに来て感染者を急増させているという。
「模範的対策」のシンガポールで第2波、外国人労働者らの感染急増(CNN/2020.4.19)(外部サイト)
「転落」の原因は、見出しにもあるとおり外国人労働者を「いない存在」としてネグレクトし、ケアの対象から外していたことだ。船が浸水し、沈むかも知れない時に「この穴は塞ぎたくない」と選り好みをした。疾病が弱者やマイノリティを直撃し、社会全体の感染となって「しっぺ返し」のように戻ってくる実例が生じてしまったのだ。
 関連情報を気にかけていたら、シンガポールのメイド事情を紹介する昨年の記事がアンテナにかかった。そういえば5月10日はMay+10で「メイドの日」らしいですなあ(すこぶるどうでもいい)。
シンガポールの「メイド」に見る労働者の権利の保護(NHK/2019.6.7)(外部サイト)
記事によればシンガポールの「メイドさん」はフィリピンやインドネシア、ミャンマーなどの近隣国の出身であるらしい。そこで思い出したのが、やはりフィリピンから出稼ぎで来た家政婦の登場する、香港映画『淪落の人』だ。
 
 オリバー・チャン監督、2018年(オリバーという名だが女性)。日本公開は今年の2月、コロナ対策で一席おきの着席となった地元の映画館で観た。
 英題は『Still Human』(それでも、まだ人間なのだ)。労災で半身不随となった失意の老人が、言葉も通じないフィリピン出身の家政婦に心を開かされ、若い彼女に夢を取り戻させようと奔走することで、自らも生きる希望を取り戻していく物語だ。
 主演はアンソニー・ウォン。名優と呼ばれるも2014年・香港の若者たちが民主化を求めた雨傘運動を支持してキャリアを断たれた。まさに淪落(零落)の底で「あなたに演じてほしい」と渡されたのが無名の新人監督の脚本。外国人労働者に光を当てた内容に共感し、ノーギャラで出演を快諾・作品の完成にも寄与したというエピソードが映画に重なる。
 車椅子の彼がクリセル・コンサンジ演じる家政婦と最初うまくいかず香港なまりの英語で「とんだチャーボー(trouble)だ」とぼやくのが『秋天的童話(誰かがあなたを愛してる)』(メイベル・チャン監督/1988年)を思い出させる。夢を求めて渡米・ニューヨークで吹き溜まる男女の淡い恋を詩情ゆたかに描いた佳品だ。よく練られた脚本といい、まだ若々しいチョウ・ユンファが主演したあの作品が、成熟した苦味をもって帰ってきたかのよう…という私的な感慨はさておき。

 フォトグラファーを目指していた家政婦の夢を叶えようと一眼レフカメラをプレゼントする主人公。だが故郷でのしがらみを断ち切れない彼女はやむなく、それを換金してしまう。カメラはどうしたと問うと「なくした。どこかに行ってしまった」と言う彼女に怒り、失望し、それでも信じる彼の「水に流しかた」が絶妙で味わい深い。
 これは余談だけど、主人公の心を支える年下(といってもオッサンだけど。香港の俳優サム・リーがなぜか日本の石丸謙二郎さんにソックリ)の友人が「家政婦が留守の間に一緒に観ようぜ」と差し入れたアダルトDVDを、家政婦と意思疎通するため始めた英会話の教材と間違えて再生してしまい「勉強熱心ですね、日本語も学習するなんて!」と彼女にからかわれる場面が、なんというかそのアダルト=日本というトホホな可笑しさが…(いや、カマトトぶる気はないし、出演者の人権などがキチンと守られているのであればアダルト=日本でも悪くないとは思いますが)
 …話がそれた。主人公も家政婦も、友人も妹も、誰もが有形無形の失意をかかえ、それでも互いの存在に救われながら、前向きに生きようとする。
 主人公の老人は、若い家政婦を夢に巣立たせるため自ら身を引くが、彼女もまた、彼が諦めていたささやかな夢の実現を助ける。「誰かの夢を応援するなら、自分も夢を諦めてはいけない」この映画には、そんな教訓がある。自分が諦めた夢を、他人の夢を叶えることで肩代わりさせてはいけないのだ。
 逆の立場から見るとコレがまた…などと、もっと言いたくなるが、言えばキリがない。いくらでも深く掘り下げられる、素晴らしい映画だった。


 そのうえでなお。
 この作品の「ハッピーエンド」は良かったのか、後から観たら足りないと思える部分もありはしなかったか、気になってきた。
 先程のNHKのシンガポール取材記事でも、アスファルトにシートを敷き、車座になって談笑するメイドさんたちの写真があった。『淪落の人』でも同様に地べたに座り、世間話と情報交換をするフィリピン出身女性たちの姿が描かれる。もちろん喫茶店やファミレス的なところに行くお金も節約するためだろう。互いに励まし合い、たまの祝い事もレンタルのドレスで済ませる姿はたくましく朗らかだ。
 だが、したたかで朗らか、それでいて、いざ故郷に引き揚げるとなると「奥様が心配だ、帰りたくない」と泣く情け深い存在…として彼女たちを描くことは、彼女らを雇用する香港の人たちを「私たちは善い雇い主だ」と満足させる装置として機能する可能性を、内包してはいなかったか。
 アメリカを代表する作家トニ・モリスンは、ストウ夫人の小説『アンクル・トムの小屋』に見られる「野蛮で残酷な現実を覆い隠し、あたかも非人間的なことは何も起っていないかのような安心感を与える」欺瞞を「ロマンス化」と呼んだ。
 流行り言葉を使うなら『淪落の人』の「善意は疑うべくもない」。だがその善意は、実際の出稼ぎ労働者と雇用主の力関係を、ただしく反映しているのだろうか。ヒロインのように新しいキャリアに踏み出せる才能もなく、また主人公のような親切な雇い主にも出会えない出稼ぎ労働者にとって、本作は救いになるだろうか。
 「GratefulForTheHeroes」というプロジェクトの失敗も、これと通底するものではなかったか。漫画家のさいきまこ氏が主導して、コロナ対策に携わる医療関係者や運送業・販売業の人たち=いわゆるエッセンシャル・ワーカーを称えるイラストをネットに投じた。
 僕には好ましく思えた。他の「絵師」たちが鰯の頭も信心のような「アマビエ」のイラストを投稿し、「バトンを回された人は自分の過去の代表作を貼る」内輪の称え合いに終始している中、社会に目を向ける姿勢を勇敢だと思った。夜も開いてるドラッグストアの前で「マスク品切れです」のプラカを掲げる、自らもマスクをしていない店員のイラストに心が痛んだ。お客様は神様とばかりにエッセンシャルワーカーが空気のように扱われ、あるいは「吾々への奉仕が足りない」と蔑まれるのであれば、彼ら彼女らも人間だと可視化することには、意義があるように思われた。
 だが実際には、これらのイラストは、他ならぬ現場の医療従事者から厳しく弾劾された。私たちはヒーローじゃない。必要なのは拍手じゃなく医療用マスクや防護服の支給と、安心して働ける支援だ。私たちを持ち上げ「感謝」してみせることで、善行を為した気になられてはたまらない…

 ひとつの作品が、行為が、問題をすべて解決できるわけではない。これは達成できてるが、これは出来てない、そういうものだろう。
 不当な状況に置かれている存在を可視化することは、第一段階の達成なのだと思う。シンガポールの社会が外国人労働者の存在そのものをネグレクトしてしまったように、まず存在自体が認識されなければならない局面はある。
 だがそれは、あくまで第一段階だ。批判された「ヒーローズ」の限界は、可視化された後の着地点を「美談」にしてしまったこと、なのだろう。それは『淪落の人』も内包する限界だったかも知れない。それぞれの作品が達成したことに感銘を受けるのと、手が届いてない課題を考えることは両立する。両立するが、心に棘は残る。

 逆に断絶をそのまま悲劇として描いたのが、同じく使用人と雇用主を描いた(←この話のつなげかた斬新でしょ)ポン・ジュノ監督の『パラサイト』だ。これまた無類に面白く、絶賛に値する作品だった。とくに金持ちの奥様が庶民的B級グルメ「チャパグリ」に高級牛肉をトッピングさせ「たまに食べたくなるのよねぇ」と言う、絶妙な憎たらしさ(褒めてます)!名優ソン・ガンホ率いる貧乏一家が家庭教師・運転手・家政婦として上流家庭にパラサイト(寄生)するストーリーが「本当のパラサイトは社会的にどっちなの?」と逆転する瞬間だった。
まあ高級牛肉チャパグリが体現した「搾取階級の鼻持ちならなさの象徴」の座は「ソファで犬をなでるソーリ」があっという間に奪い去ったわけですが!
 その一方で、主人公の一家もまた断絶の要因である蹴落とし合いのエートス(思考の様式)に囚われたままだったことに、作品としての限界を見る批評もあった。断絶を乗り越える可能性が描かれなかったと。

 融和を語れば欺瞞に堕する(おそれがあり)、断絶を描けば展望がない(と言われる)。
 身も蓋もないことを言えば、物語(フィクション)にソコまで期待すんなよとも思う。現実が答えを出してない問題に、なんで物語「だけ」が正解を出してやんなきゃいけないんだよ。学問は何してんだよ、何「やー私らはミネルヴァのフクロウですから」とか気取ってんだよ。
 …いや、フィクションも学問も、市井の人々としての吾々の日々の(々が多い)思考や発言・行動も、過去や現在への反応・解釈であると同時に、幾分は未来の先取りを含むのだが。それは狙って出来るものではなく、過去や現在から降りずに対峙すること・限界だなー、届かないなーと思いながら現在と対峙しつづけることで、誰かが宝くじを当てるようにポロッと出るものではないか。
 頑張れ物語。

やがて悲しきアブダクション〜S.A.クランシー『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』(2020.05.03)

Believing the strangest things, loving the alien
(奇妙きわまることを信じてる 異邦人を愛してる)―"Loving the Alien" David Bowie

 空飛ぶ円盤を一度も信じたことがない者は、夢を見たことがない者である。信じ続けてる者は、現実を見ない者である。これは今、テキトウに考えた。
 三つ子の魂百までとは言うけれど、むしろ思春期を迎えてからの耽溺こそが、一生ついて回る気がする。たぶんオカルトと、ミリタリーへの憧れはハシカのように小さい時に済ませておいたほうが良いのだ。大人になって、こじらせると病が重くなる。
 かく言う自分が子供の頃。そりゃあ信じてた。なにしろ五島勉(大予言)と矢追純一(UFO)そして中岡俊哉(ESPと心霊写真)の天下だった。テレパシーで宇宙人と交信できないかと試み、人体発火現象に怯えた。流れが変わる潮目は、そのころ騒がれた「惑星直列」だったかも知れない。太陽系の惑星がまっすぐに並ぶと、地球に天変地異が起きるという主題だけで、一冊の本が書かれた時代だ。1999年には地球を真ん中に惑星が十字架の形に並ぶグランド・クロスなる現象で、やはり天変地異が起こると言われた。「そんな馬鹿な」という反論があった。「陸上選手が9人、トラックを走っていたとする。速いの遅いの周回差がついて、ある時みんな一直線に並んだら、選手たちの身体に異変が起きると思うか?」もっともな話であった。そうして次第に、僕はオカルトから距離を置くようになった。
 というのは事実無根ではないにせよ、やはり記憶の捏造かも知れない。実際は思春期を迎え、漫画とロックに関心が移った。SF小説にも耽溺したが、それはUFOとは全くレイヤーが違う物語だった。むしろその延長線上には、村上龍や村上春樹がいた。そうしたものに僕は押し流された。要は飽きたのだ―呼んでも来ないUFOに。
 
 テーマは記憶。記憶の捏造。
 スーザン・A・クランシーなぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』(林雅代訳/ハヤカワ文庫NF/原著2005年・邦訳2006年)の主題は、空飛ぶ円盤ではない。宇宙人にさらわれ人体実験された(アブダクション)という「記憶の改変」がテーマだ。
 難しい本である。言ってることは難解ではない。ただ本著には、研究者だった著者が最初は「幼児期の性的虐待」が記憶の捏造だったケースを手掛けたが、非難を受け、いわばより誰もが「捏造」と受け入れやすいアブダクション(エイリアンによる誘拐)に乗り換えたという経緯がある。非難というのは、実際にあった虐待まで記憶の捏造だったことに、なりはしないかということだろう。もちろん、虐待の記憶が捏造だったケースもある。著者が見てとったように、カウンセラーが誘導するケースもあったろう。だが、性的虐待のテーマは止めましたと前置きしつつ、より説得しやすいアブダクションで「こんなに記憶って捏造できるんですよ」と説くことは、「つまり性的虐待についても私が正しかったんですよ」と裏口から仄めかす行為ではないだろうか。この著者に心を許しすぎるのは危険な気がする。
 居心地が悪い本でもある。読んで「いやあ、アブダクティー(宇宙人に誘拐されたと称する人)・ビリーバー(そう信じ込んでいる人)って馬鹿だなあ。痛快痛快」と笑える人は多くない気がする。面白うて(そんなに面白いかという疑問も残る)、やがて悲しき本なのだ。

 「信じるのをやめたら、失うものはもっと大きいだろう。べつの説明を探さなくてはならないし、不快で恐ろしい症状や体験を語るための説得力のある理論を捨てなくてはならない」(本文より)
 とはいえ、まずはアブダクションが客観的に見たら馬鹿げた、物的証拠のない、アブダクティーの心の中だけで作られた神話だと了解しておく必要があるだろう。
 「心の中だけで作られた」は正確ではない。銀色の肌・つるつるの頭に(白目のない)黒だけの巨大な吊り目・子供のような体型の異星人に誘拐され、長い針を突き刺されたり、精液を採取されたりするアブダクションの神話は、すでに定番の既製品として候補者の周囲に・心の外にある。
 本書を読んで、ちょっと驚いた(そして「あああー」と嘆息したくなった)のは、1964年に異星人に誘拐され身体検査をされたというヒル夫妻のケースすら、既存の物語の影響下にあったという指摘だ。ヒル夫妻の体験談は、頭髪のない子供型の異星人の描出も含め、アブダクション神話の嚆矢と言える。異星人の故郷を示すという星図を実際の天文図にあてはめ(たとして)レティクル座が、いわば円盤ファンの「聖地」ともなった。次々現れるフォロワーと違い、少なくとも夫妻の体験談は独創的で、つまり真実味のあるものではなかったか。そんな予断は、彼らが語った灰色の宇宙人も、記憶を消されることも、すでに当時のSF映画やTVドラマで十分に描かれていたという指摘で打ち砕かれる。
 ヒル夫妻のケースは、催眠療法の誘導で、もっともらしい「記憶」が植えつけられていく事例の嚆矢でもあるようだ。抑圧された真の「記憶」を取り戻させるという催眠療法が、掛け手の誘導によって「記憶」の植えつけになることに、著者は(性的虐待を扱っていた当初から)警鐘を鳴らしている。…が、アブダクションの信憑性を突き崩す話は、このくらいでいいだろう。
 人々が「アブダクションこそ真実だ」と信じこむ過程も、ここでは細かく立ち入らない。ただ「吾々は思った以上に簡単に己の記憶を改変できる」とだけ理解しておけば良いだろう。


 記憶といっても、改変されるのは過去だけではない。人は脳内に蓄積された記憶を使って認識し、思考する。それが改変されれば、現在に対する認識も歪むことになる。フェイクニュース、フェイクトゥルース。自分が都合のよい情報だけが反響をつづけるエコー・チェンバーの中で、不合理なことでも信じてしまうのはアブダクティーだけではない。
 と来れば、たとえば歴史修正主義者などを槍玉に挙げ、あなたたちもアブダクティーと同じだと糾弾するのは簡単だろう。でもしない。
 …本書が最終的に突きつけるのは、人は幻想なしに生きられるだろうかという問題だ(と、思う)。生きる理由と言ってもいい。アブダクティーは、夜中の強烈な金縛りの、肌いちめんに出来た異様な湿疹の、家族や社会に適応できないこと、言い知れぬ不安や孤独・自己嫌悪の、理由となる「説明」を求め、アブダクションに飛びつく。だが、自分は理由も説明もいらない、ジョン・レノンの「イマジン」のように、あるがままに全てを受け容れていると言える人が、どれほどいるだろう。一つの漢字を眺め続けると、ゲシュタルトが崩壊し意味不明の線の塊に見えてくるように、自分の趣味や嗜好・社会のルールを守ること・生産すること消費すること・誰かを愛したり仲良くすることまで、ひょっとしたら何か「信じたくて信じてる」幻想ではないか…そんな風に思ってしまう瞬間はないか。本書を最後まで読むと、そんな考えに行き着いてしまう(おそれがある)。やはり何か、危険をはらんだ本な気がする。

 極端な話、オカルトや非科学をトンデモと笑い、批判することに血道を上げる人も、当人が無価値だと思うものに取り憑かれていないか。正義もそうだ。外国人を排斥するにせよ、排斥する者を非難するにせよ、人はしばしば自分にとって最も無価値で腹立たしい対象に取り憑かれる。
 (差別の是非を問うてるのではない。問うのであれば「差別にはNO」一択だ)
 (不当な目に遭う人々から目を逸らせない「強迫」がなければ社会は崩壊してしまう、とも言える)
 ただ、むしろ見ないフリしたほうが楽しく過ごせるかも知れない、不快なものから目が逸らせない体験は「アブダクティーもそうかも知れない」と類推させてくれるものがある。本書の著者はアブダクティーたちが不快や齟齬の原因をエイリアンに帰することで「救われる」面を強調する。しかしそれは、やはり「苦しいのに、そこに立ち戻ってしまう」体験なのでは、ないだろうか。
 だとすれば、アブダクションは捏造記憶だとする本書の次に読むべきは、同じようにオカルトや疑似科学の虚偽をあばく本ではなく、強迫的な反復を取り扱う、フロイトやラカンなど精神分析の関連書かも知れない。
 別の罠に落ちそうな気もするけれど。
 
ポール・ヴェーヌギリシア人は神話を信じたか』は、そもそも吾々は実際に見たこともない万里の長城の存在をなぜ信じられるのだろう?といった無茶ぶりで、吾々の「信じる」のアバウトさを論じる厄介な書。ヴェーヌは自伝も「曲者ジジイ」的に面白いです。

極楽の箸は長い〜ひろさちや『世間も他人も気にしない』(2020.04.26)

天国へ行くのさ ここよりはまだマシだろう(「LION」BUCK-TICK)

 当然ながらコロナ禍はまだ続いている。
 医療現場は「崩壊寸前だ」「まだ崩壊していない」と言い続けることで、かろうじてまだ崩壊してないことになっている。会社が休みにならないのだから自粛要請などあって、ないようなものだ。それでいて小売店などは次々と廃業を余儀なくされている。ウイルスによる感染症と、経済の崩壊に社会が挟み撃ちされている。

 数年前にも日記で書いた「宗教の説く未来や来世を、現在の現実として考える」ことを思い出すのも、無理からぬことと思っていただきたい。
 福音書に造詣の深いルネ・ジラールが黙示録の破滅は現代(つうても40年前ですが)社会で実現しているではないかと指摘し、仏教からはひろさちや氏が地獄も修羅道も餓鬼道も現世で吾々の陥った状態だと説いていた。
 このところ頭に浮かぶのは、別の何処かで読んだ「極楽の箸は長い」という話だ。極楽で食べ物に困ることはない(血が滴るレアステーキなんてものは、ないかも知れないが)。ただし箸がやたらに長い。たぶん菜箸よりも、腕をいっぱいに伸ばしたよりも長い。目の前に御馳走が積まれても、自分の口に運ぶことが出来ない。
 だから互いの長い箸で、誰かの口に御馳走を運ぶ。自分も誰かに食べさせてもらう。それが極楽だ。
 たぶんコロナ下で、そしてコロナ以後にも社会を存続させるには、長い箸で互いを支援しあう必要がある。感染症の発生した地域に、他の各地から医療機器や物資・資金が提供される。周囲の協力で感染を抑え込んだ地域は、今度は周囲に物資や新たに得たノウハウを送り返す。…そうした相互扶助のループから、一国だけ切り離された国がある。他国で感染が始まるや、いち早く「外国人お断り」と貼り出した国。わが国は特別なので感染者は少ないのだと言い張り続けた国。そうして世界から孤立すると、内輪で互いを排除しはじめる社会。
 地獄や極楽が来世でなく、現世の状態の喩えだとすれば(ちょっとヤバい言いかたになるけど)吾々は暫定的でも社会を極楽の、長い箸の原理で動かす必要がある。そうでなければ地獄や餓鬼道・修羅道を現世で体験することになる。(今日の日記・前半終り)

 さて、ここからは別の話。
 いい機会なので当該の書、ひろさちや世間も他人も気にしない』(文春文庫)を読み返して、正直また困惑に陥ってしまった。
金儲けができますよ。病気が治ります。人間関係のトラブルが解消されます。
 そんな宣伝文句を謳っているのはすべてインチキ宗教。騙されてはいけません

受験に合格したいと願うのが信仰ではない、不合格でも受け容れるのが人間らしい生きかただと仏は、著者は説く。正義はいけない、自分が正義と信じる善人は他人に善が足りないと責めるからいけないとも言う。義憤に燃え上がり、仏教の教えに社会の処方箋を求める自分が「インチキ」に思えてくる。悩んで仏にすがったつもりが、逆に悩みは増えるばかりだ。
 …ニーチェの『ツァラトゥストラ』を所有していながら(たしか笹塚の古本屋で買ったのだ。懐かしい)読まずに積んでいることを思い出した。読まない理由は「社会に対して腹を立てるなんてルサンチマン。偽りの正義感や怒りなど捨てて超人になろうぜ!」という内容だと困るなー、もうちょっと社会に対して怒らなきゃいけないから、まだ超人にはなれない…という予断に基づくものだった。そういう内容じゃなかったら申し訳ない。

 ガチの信仰は、簡単に人を救ってはくれない(ことが多々ある)らしい。私も救われたいのですとイエスを訪ねた裕福な男は「全財産を手放して、貧しい人に全て与えてから来なさい」と言われ、泣きながら立ち去った(ルカによる福音書18.18)。まあインチキ宗教でも壺とか買わせて全財産を巻き上げることがあるのでアレなんですけど。話が逸れた。
 『世間も他人も気にしない』で劇薬だけどスゴいと思ったのは、一億円(か五千万か)で救いを買う話だ。私は救われたいのです、という人が一億円(か五千万か)払えば救ってあげるよと仏に言われても、そんなお金ないですと言うだろう。でも人生には、払えないはずの一億円(略)を払える、払って救いを買える局面がある。このまま今の会社で働き続けていたら魂が死ぬ、心身や生命を損なうという時。家族と過ごしたい大事なときに単身赴任を命じられたら。断ればクビになる、辞めれば元の賃金水準には戻れないかも知れない。生涯ベースで一億や五千万円くらい失なうかも知れない。でも命や健康・人間らしさを選んだとき、人は一億円(五千万)で救いを買ったことになる。簡単には使えないが、過ぎるほどに強力なカードだ。自分がメンタルを患って職を失なったとき…自分は五千万も稼げるアレではなかったけど(これで命を買ったんだ)と思ったのを憶えている。
 これを著者は、仏は「一億円出さないと救ってあげないよ」と言ってるのではないと言う。「あなたが一億円出さないと、阿弥陀仏はあなたを救えないのです」。同じことを言って、あなたにサリンを撒かせる教祖もいるだろう。だからこの考えは劇薬だ。けれど信仰は、救いは、時に劇薬なのだ。今までの自分を変えることなく、持ち物も全て持ったまま救われたい…そうは問屋が卸さない。

 仏教の本来の教えは執着から逃れ、六道輪廻から解脱することを説く。社会は極楽を目指せという論は、ここで仏教のお墨付きを貰えないことになる。仏教の視点では極楽だって別に羨ましがるものではないからだ。だがこれは、逆に思考のヒントになるだろう。
 念のため言うと『世間も他人も〜に箸の話は出てこない。同書で示唆される極楽のつらさは主にその最期にまつわるもので(極楽での死は人間のそれの26倍も苦しいのだそうだ)後は長寿ゆえの孤独くらいだ。だが「長い箸」もまた、気づかいの地獄といえば地獄ではないか(いや、極楽なのですが)。何が言いたいか。
 暫定的にでも長い箸に持ち替えて、社会を極楽にしなければならない…という主張は、そうすれば皆ハッピーで豊かでGo to eat・Go to travelですよという話ではないということだ。幸福を安請け合いするのは止そう。極楽だって、そう願ったり叶ったりなものではない…それを踏まえてなお、吾々はそろそろ極楽に移り住むことを考えなければならない、という話だ。まだマシだから。そうしないと買えない「救い」や命があるから。少なくとも戦争は防げるだろうし、現世を地獄や餓鬼道・修羅道にするよりは、まだマシだと思うから。

『心がやすらぐ仏教の教え』のほうも「かわいそうだから援助してやる―という考え方は、絶対に仏教の布施の思想ではない」とか、心やすらがない人には圧倒的に心やすらがない、己の不自由さを痛感させられる本ですよ…

物語の未来〜『ヒーリングっどプリキュア』(2020.04.19)

 生存報告も兼ねて、毎週日曜には何か書くことにしているのですが、今週は題材がない。
 前々から語りたいと思っていた映画はDVDを借りれなくなってしまったし(配信はない)、新しく読みだした本は100ページも進んでいない。かれこれについて誰それが興味深いことを指摘していた気がするが、肝心の文章が見つからない。そして政治の話は状況が目まぐるしく変転するので(その迷走ぶりへの批判も含め)現時点でのまとめは断念した。

 とりあえず即興で、とりとめのない話をします。

 プリキュアのことを心配している。
 先週はニチアサ=日曜日朝の特撮ヒーローだったが、今週は同じ時間帯のアニメの話だ。伝説の戦士「プリキュア」に選ばれた思春期の女子たちが、友情や将来のことで悩みながら、男児向けヒーロー顔向けに暴れまわって世界を守る。女児向けコンテンツとはいえ、大のオトナのファン・いわゆる「大きいお友だち」も多い。10年以上つづいてる人気シリーズで、毎年数人ずつ誕生するプリキュアが、毎年交替して新シリーズが始まるため、今では「歴代プリキュア大集合」すると赤穂浪士47人より多い。
 今年3月に始まった新シリーズは『ヒーリングっどプリキュア』。ヒーリングとグッドをかけている。この小っ恥ずかしさに耐えるところから大人のプリキュア鑑賞は始まる
 タイトルどおり、テーマは「癒やし」。数年前「明るい未来を抱きしめて」がテーマだった『HUGっと!プリキュア』(耐えるのだ)では、敵が未来から来たブラック企業「クライアス社」で、クライシスとかクライアントみたいな語感だけど、あ!「暗い明日」かぁ!と気づいて大爆笑したのだけど、今作の敵の一人は「グアイワル」。なぁにフランス語っぽくしてるんだと片腹を痛くしていたら、良いほうの司令官的な存在がサルーキみたいに優美な妖精「テアティーヌ様」。手当て+イヌか!!

 滑り出しの現時点で、プリキュアを務める仲良し三人組がいわゆる普通人なのも久しぶりで面白い。子供の憧れの存在だけあって、そして話に幅を持たせるために、中学生とはいえアイドルだったりジュニアモデルだったり、大金持ちだったり世界的アスリートだったり、妖精だったり王族だったり宇宙人だったり魔法使いだったりアンドロイドだったりするメンバーが入り混じりがちなシリーズで、今年は良い意味で凡庸さがポイントになっている。特に毎年リーダーになるピンク枠が「病気あがりで体が弱い」設定は、地味ながら挑戦的で興味ぶかく見守っている、のだが。
 ここまで来て、けっこう心配になっている。何しろテーマが「世界征服をたくらむビョーゲンズを斥けて、傷ついた地球さんをお手当てする」だ。あまりにタイミングが良すぎて、荷が重すぎないだろうか。
 そして、もうひとつ。このまま5月・6月を迎えたら、頑是ないお子様たちの中には「どうしてプリキュアたちは学校に通って、毎日たのしそうにおしゃべり出来るの?」と疑念や不信の声があがってこないか。

 漫画家の中からも、困惑の声が上がりだしている。
 生活的な悲鳴は(申し訳ないが)いったん措く。外出自粛が求められ、人と人の濃厚接触が忌避される現状で、今までどおりの物語を描いててオーケーか?ちょっと居酒屋に立ち寄って、見知らぬおっさんと隣り合って意気投合みたいな漫画を描きあげて「…なんかパラレルワールド感がすごい」と眉をハの字にしているのだ。
 ファンタジーやSF・歴史ものはいいだろう。プロ・アマ問わず現代もので新作を描きたいひと・まして続き物が継続中の人はどうすればいいのか。あらかじめ言っておくと、今週は即興なので結論や、まして処方箋はないです
 先の震災の時はどうだったろう。ニチアサならぬ月9などのトレンディーなドラマが、東京の洒落たオフィスやイケてる業界を舞台に美男美女の恋を描いていたとき(観てないので適当です)その世界と地続きに、瓦礫になった海辺の街や、放射能はあったのか。
 自分自身は恵まれた状態にある。あ、同人作家をしているのですが。ふたつ抱えてる続き物の片方はファンタジーで、片方は舞台が十年前だ(まだたどり着いてないが、それこそ先の震災を織り込んだ展開になる予定だった)。そのほかについては元々「しばらく即売会も休んで充電する」と宣言していた。それに自作では三年くらい前に大学の用地をめぐる不正が追及され首相が更迭済なので、そっちの世界線に沿った作品なら、コロナ禍はあっても、ここまで悲惨な事態になってはいない。
 (てゆうか皆、どうしてこんなことになるまでアレを放っておいたの?)
神ギフ電書へのリンク
 それでも、なんだかだで現代物のネタは浮かぶ。やはり自分も、どう描いたもんかなぁと悩む一人だ。

 さっそく営業休止や自主隔離、接触厳禁をテーマにした一コマ漫画・スケッチ風の小品は生まれているようだ。
 特に苦境にある人の存在を可視化する作品は重要だろう。だけど皆が皆、コロナや社会状況にフォーカスしたコンテンツを提供しなければ「生産的」でない、というのも違う気がする。「こういう作品を描こう」と設計・計算できる人ばかりでなく、「とにかく話のほうから降ってきた」でないと描けない、自分みたいな作家もいる。逆に社会的なトピックにすぐ飛びつき、ただ面白おかしく洒落のめす「大喜利」と化すことで、問題意識がウヤムヤにされ「やってる感」だけに終わる危険もある。

 結局はいつもの綱渡り、「社会のことなんか知らねぇ楽しければいいんだ…で、いいのか?」と「社会に有効で有意義でなきゃダメだ…は罠じゃないのか?」の間で各自、右往左往するしかないのだろう。

 それでも、やがて作家たちは適応するのかも知れない。コロナ後の世界に。
 携帯電話にまだインターネット機能すらついてなかった頃でも「こんなものが出来たから、もう連絡が取れずスレ違うエピソードが作れない。風情のない時代になってしまった」みたいな意見はあったと思う。たしかに駅の伝言板みたいに失なわれたモチーフはある。けれど今はどうか。逆にメッセージの既読未読で恋する少女たちは悶々と枕を抱きしめ(百合)、スマホの動画投稿が投獄されたバジュランギおじさんや占拠されたホワイトハウスを救ったりする。もともと駅の伝言板だって、鉄道路線と一緒に現れた情報テクノロジーだった。
 隔離をテーマにした物語も、どうやら隔離の必要はなくなったけど大きな傷を負った世界を舞台にした物語も生まれるだろう。もちろん、それらを巧みに見えないところに追いやって、相変わらずを繰り広げる物語も。手紙くらいしか伝達の手段がなかった時代の物語を楽しむように「この頃は不特定多数の人たちが現実の店舗でぐうぜん隣り合わせて意気投合したり、してたんだなあ」と懐かしむことも出来るだろう。
 そもそも作家と読者、それぞれが創作を楽しむ生活の余裕とプラットフォームが残っているか…と案じるのは、また別の話だ。「何、いざとなればコピー用紙にボールペンで描いて、スマホで撮ってSNSに上げるだけでも漫画は続けられるんだぜ」という話を近日中に描く予定です。

   ***         ***         ***
 ご意見募集(首相官邸に対するご意見・ご感想)←「公金投入を惜しまず医療従事者にマスクや防護服の供給と危険手当を!」みたいなことを書くと良いと思います。
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 追記1:『ヒーリングっどプリキュア』休止しちゃいましたね…もちろんストーリー的に世界を背負いきれなくなったのではなく、制作環境の維持困難のためでしょう。これを機にアニメーターの労働環境や賃金なども改善されると良いですね…
 追記2:「いざとなればコピー用紙にボールペンで描いて、スマホで撮ってSNSに上げるだけでも漫画は続けられる」話、描きました。やるんだよ私は。(20.04.26)

声の名前〜『ルパンレンジャーVSパトレンジャー』(2020.04.12)

「青春是個巨大的謎團」(青春は巨大なミステリー)

 昨年、絵本を一冊どうにか読み終えてから中断していた、中国語の勉強を再開しました。
 少し違う。語学の習得を目指しているわけではない。台湾で(読めもしないのに)と思いながら心惹かれて買ってしまった中国語の本を、やっぱり読みたい、何が書かれてるか知らずに置いとくのは口惜しいという気持ちが溢れてしまった。なので四声も文法も勉強しない。Google翻訳の助けを借りつつ逐語訳する、いわば現代版ターヘル・アナトミア。

 二冊目の課題図書は、張嘉真の青春小説『玻璃弾珠都是猫的眼晴』(日本語にない漢字を少し置き換えてます)。猫の眼はガラス玉(玻璃弾珠)、くらいの意味だろうか。これを毎日、少しずつ読んでいる。いや、本当に少しずつ。日に1/3ページしか進まない。五つ収録された連作の、最初の一つでも読了できたら、自分に褒美をやってもいいと思っているところです。
 そんなカタツムリのような歩みでも、やっぱり語学は面白い。中国語(繁体字)の原文を1センテンスごと、Google翻訳に叩きこむ。そのままでは意味の取れないものを、英訳と日本語訳を使い分け(中国語は語順的に日本語より英語に近いので、そちらのほうが把握しやすい)特にニュアンスの難しいフレーズは切り分けて別に検索し、理解していく。それらがいちいち面白い。

 それに、同じような日本語なら読み流してしまう文章も、時間をかけて読むので連想や妄念がかきたてられる。「大人になる目前の境界線上で足踏みし」「世界が期待する道に順応できなくなる」なんて山程ありそうなフレーズさえ日本語で享受してきた幾多の物語を想起させ、夜食の(台湾式)おでんが湯気をあげてる「塑膠袋」(ポリ袋?)というだけで心ときめいてしまう。

「そのじつ」が中国語でも「其實」(というか、たぶん中国語のが先)という気づき。
同時にホルモンが身体の中で蠢動する
ホルモンは中国語でも荷爾蒙(He er meng)か。

 なつかしい単語に再会した。

 日本の漢字にはない文字で、金へんに堅・金へんに將。Google翻訳の英語だとsonorous、日本語訳に切り替えても「ソノラス」。「嘉真の筆致はソノラスだ」。英単語の検索で調べ直すと「朗々と、鳴り響く」くらいの意味。
 過去に一度だけ、この単語に遭遇したことがあった。吉行淳之介がホストの『恐怖対談』シリーズだったと思う。この緊急時から考えると、なんとも長閑な話だが文壇三大声みたいな、今でいう「いじり」があった。その一人に数えられた開高健(だったと思う)が博識を駆使して、私もたしかに声が大きいが一緒にしないでほしい、誰それさんはこんな声、誰それさんはこんな声(破れ鐘を叩くようとか、そんな感じ)だが、私の大声は「ソノラス」音楽的に美しいのです。
 四半世紀か、それ以上ぶりに見たよ「ソノラス」。懐かしいなあ。まさか中国語の勉強をしていて再会するとは。

 声に関する表現で、もうひとつ。あっと思うことがあった。
 日曜朝の子供向け特撮ヒーロー番組、いわゆるニチアサ。数年前に放映された『ルパンレンジャーVSパトレンジャー』が、レンタルDVDの旧作=月額会員には借り放題枠に入ったので、いそいそ観始めたと思し召せ。
 通称ルパパト。正式名称『快盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー』タイトルどおり、言うたら義賊みたいな戦隊トリオと、警察の戦隊トリオ、それに世界征服を企む怪人「ギャングラー」三つ巴の戦い。これ絶対に自分の好みだ!との期待にたがわぬ面白さ。まあそれはいい。
 警察側のレッドすなわちリーダー格、直情径行なパトレン1号くんがおのれ快盗ー!」「国際警察の権限において実力を行使する!と叫ぶたび、頭に浮かぶ単語が「胴間声」。

 胴間声…調子はずれの濁った太い声。 胴声。(ネット調べ)
 いや正直、正しい用法か自信がない。知ってても、使うの初めてだから。生まれてこのかた「胴間声」という単語を実際に使ってみようと思う機会がなかったのだ。よもやニチアサの熱血主人公(いや、直情的なようで懐の深い好青年なのですが)で思い当たるとは。面白いよねえ人生。

     *     *     *
 不要不急だけど、ちょっと感慨ぶかかった声の名称の話、ふたつでした。
 観始めたばかりの『ルパパト』だが、こんな折だし初老の自分が借り出し中では、今この作品を切に観たいだろう子供たちに迷惑かと中断してるうち、レンタルショップに出向くこと自体、差し控えたほうが良い状況になった。我慢できなくなったら配信など別の手段を模索するとして、このコロナ禍が通り過ぎた後の世界を憂い9割で慮っています。

蜘蛛の糸(2020.04.05)

 メメントはとうにモラれていたのだ。(正しくないラテン語の活用法)
 2020年は、どうしたって厳しい年になると思っていた。ただその要因は多大な犠牲を要求するオリンピックであり、昨年だけが特例とは思えない夏の酷暑と晩秋にまで及ぶ台風害であり、国庫をつぎこんだ株価維持の限界であり、悪い場合にはさらに憲法改悪だろうと構えていた。昨年末から毎週サイト日記を更新していたのも、備えの一つだった。や、何かの助けになるとも思えないけど、揮発性の高いツイートや、まして誰かの言葉のリツイートでなく、毎週きちんと頭を使って言葉を練る拠点を確保しておきたかった。
 実際にはコロナが来た。
 今わりと重要な漫画作品を手掛けており(近日公開。ご期待ください)あまり時間は取れないので、手短かに、最低限のことだけ書いておきたいと思う。

 まず自分は、医学の専門家でないので、マスクは効果あるのないの、クラスターがどうのは分からない。
 ただ、ここ数ヶ月の行政府の対応は無為、無策、放置。首をすくめていれば頭上を通り過ぎるとでも言わんばかりの無為ぶりだったことは確かだ。
 韓国で修学旅行生たちの命を奪ったセウォル号事件が、韓国社会全体の病弊の象徴とされたように(2018年12月の日記参照)、横浜港に停泊したまま放置された客船ダイヤモンド・パール号は、この国の無為という病弊のミニチュア版だったかも知れない。「外国籍の船だから制度的に立ち入った介入は出来なかったのだ」という訳知り顔の擁護も、何週間も感染の危機に晒された乗客を、ようやくの下船後は公共の交通機関で帰らせる無責任な措置まで含めてだ。
 木曜日に首相がとつぜん言い出し、翌週から強行された学校の閉鎖。とりあえず二週間。その二週間で何をしたか?何もしなかった。マスクが増産され、十分に行き渡るはずだったが、まだ全然行き渡ってない。とつぜん学校がなくなり、給食用の牛乳などが消費されず悲鳴があがった。他国では実施されている検査を、また理由をつけ避けまくって「なぜか日本は感染者数が少ない。特別な風土のせいだろうか」などと寝言を抜かしていた(偵察を極力減らした結果、敵の発見率が非常に低いので安全です?)。
 そして学校は閉鎖し、ライブハウスは感染の発生源だと名指ししながら、同じくらい人が密集する通勤電車はそのまま。パチンコもなぜかお咎めなし。議員や首相夫人が率先してタレントや力士をはべらす宴を開いて範を垂れれば、東京マラソンやオリンピック聖火を観るために数千・数万の人々が押し寄せる。
 自粛を求めておきながら、休業補償はしない。ようやくするかと思ったら「畜産の振興もかねて和牛の商品券を配る」非難されたら「偏りはいけないと批判を受けました。お魚券も検討します」そして「なんと!一世帯あたりマスクを二枚郵便で送ります」。最新の思いつきは30万円の補助金だが、収入が半減したことを証明する書類を役所の窓口に提出する必要があるという。接触を避けねばならない時に、人々が押しよせ身を寄せ合ったまま長時間待たされ、提出された書類は(おそらく最低賃金ていどの)非正規労働者が、これまた閉鎖した環境で精査することになる。これが最新の報せだ。もっともっと挙げられるけど、余裕がない。
 それにここまでは「今までのあらすじ」なので、知ってる人も多いだろう。実のところ読み飛ばしてもらってもよかった
 こうした現状を踏まえ、記録しておきたいことが二つある。これもまた双方とも、わざわざ言わなくても十分に理解されていることかも知れない。ので可能なかぎり簡潔に述べる。

 ひとつ。これは包摂と独占(排除)どちらを取るかという決断の問題だ。
 埼玉という県があるらしいのだが、学校にマスクを配るというとき朝鮮学校だけ対象から外した(抗議を受け改めたらしいが)。逆にコンビニエンスストアのローソンは、おにぎりを学童に配布したとき朝鮮学校も対象にして「当然のこと」と見解を示した。
 ペルーから日本への帰国者を乗せるチャーター機は、日本国籍でない日系人学生の搭乗を拒否した(西日本新聞という地方の勇気ある新聞が報じ、これも改められた)。その一方で同じくペルーから飛び立った台湾のチャーター機は現地で足止めされていた日本人観光客も受け容れた。
 自粛を余儀なくされた人々を救済するための補償の対象は日本人に限るべきと、与党の国会議員が主張している。外国籍の住民も税金を払っているのだが?という当然の問いに対しても「それは関係ない。保護されるのは日本人だけであるべき」という。まるで外国籍の住民が参政権など多くの権利をもたないことを、因果を逆転させ「権利をもたないということは二流の人間なのだ」と思い込んでいるかのようだ。
 何が言いたいか。こういう思考の延長線上に、同じ日本人が相手でも「劇場やライブハウスは娯楽だから補助する必要がない」「風俗業は休業補償の対象から外す」といった排除があり、終局的には「マスク2枚でありがたく思え」がある。ぜんぶ一直線なのだ。マスク2枚に怒っている人たちは、自分以外の人々が排除の対象となった時、同じように怒ったか。
 自分が蜘蛛の糸の切られるより上にいる前提で「下にいる奴らは邪魔だから早く糸を切れ」と叫ぶような思考は、やめなければいけない。そういうルールのゲーム自体を、やめなければならない。なぜなら自分だけ良かれと思って弱者を切り捨てれば、その弱者が突き落とされる感染や経済破綻が、社会全体を崩壊させかねないからだ。
 人を人として扱うという人道的な公正さが、社会を保持するためにも必要な局面が、今だ。この期に及んで、まだ「価値のない連中にパイを切り分けるのは嫌だ」という発想で事に臨んでいる者は、どうしようもなく愚かだ。それが政府なら、なおのことだ。

 もうひとつは、政府の対応の遅れや不作為を「仕方なかった」と擁護することの欺瞞についてだ。
 ダイヤモンド・パール号についてと同様、現在の国レベルでの遅滞や不作為についても「制度上の限界だ、仕方ないのだ」という弁護があるのだろう。馬鹿げた言い訳だと思う。
 ただでさえ問題の多かった従来の範囲すら大いに逸脱する新任務での、自衛隊の中東派遣を、国会の審議を経ず閣議だけで決められる政府だ。首相みずからが刑事告発を避けるため、検事の人事に介入し定年を勝手に延長する政府、それを「法の解釈を変えたからいいのだ」と強弁し決裁は「口頭でとった」と主張する政府だ。木曜に首相が「来週から学校は休んで」と言い出し(会議に同席していた与党議員すら事前に聞いていなかったという)何の法的根拠もないのに月曜から全国で休校が実施され、関係者の悲鳴に対しては「要請を受けた側が自己解決する側で、私に責任はない」と涼しい顔ができる政府だ。
 はっきり言って、今の政府に出来ないことはない。外国籍の船に「法の解釈を変えた」と介入することだって出来たろう。これほどオールマイティで、しかも「要請」だから責任を取らなくてもいい、こんな強い権限をもった政府を「制度上できないからだ、責めても仕方ない」と擁護するのは欺瞞もいいところだ。出来なかったのではない。検査の拡大も、人々の救済も、したくないから、しないだけだ

 …今の政府に、ただ一つ出来ないことがあるとしたら「他人の意見を聞く」ことだ。
 場当たりで、有効性に乏しく、デタラメで、それでいて人々の役には決して立たない。そのように政府の取る行動が劣化してしまったのは、この「他人の意見を聞く」プロセスを徹底的にネグレクトした結果ではないのか。自ら招いた憲法学者が異を唱えても、野党の議員が数時間におよぶ反対演説をしても、最後には圧倒的多数で押し切ってしまう。「検討して直すというプロセスを経ない政策が、上手く行くはずがない。これほど単純なことが、どうして分からないのか。
 「検討して直す」ことをしない政府が、どんどん頭を使わなくなり、出される政策はどんどん劣化する。「初めからダメダメだった」ではない。劣化は進行性で、独断を重ねれば重ねるほど専横もひどくなり、より組織として無能になっていく。
 言い替えれば、誰もが多かれ少なかれ、欠点や偏りは持っているものだ。平時なら「あの人はアレさえなければイイひと(まだつきあえるひと)」ということはあるものだ。他人から見た僕だってそうだろう。だが、諌められ(あるいは自分で恥ずかしいと思い)たえず補正を試みなければ、欠点や偏りは増大する。増大して、最後には他の美点も呑み尽くしてしまう。

 こうして最初の論点(排除でなく包摂)と、二番目の論点がつながる。個人も組織も、たえず自身を補正するため、参照するためにも「外部」が必要なのだ。それが政府なら、なおのことだった
 それを吾々は、見ないフリしてきた。現実の利益や、精神的な満足(日本スゲー)という「おこぼれ」ほしさに、そっち側に乗る人間もいた。選挙で投票さえすれば免罪符が貰えると思ってなかったか。諌めてきた者だって、もっと方法を探るべきではなかったか。これから課される代償は、吾々では支払いきれないほど重いかも知れない。
 今週は、とても素敵なことを書ける気分ではなかった。文章もこなれていない。これはどうかと思うひとは、あなたが文章を組み立ててほしい。誰かのコピーで済ませるのでなく。本当は、そこから始まるはずなのだ。

時間論の前フリ(2020.03.29)

Why should it feel like a crime?
If I want to be with you all the time, why is it measured in hours?
You should make your own time, you're welcome in mine

どうして悪いことのように思わなければいけないんだ?
君とずっと一緒にいたいだけなのに、それを時計で測る必要があるかい?
君だけの「時間」を作るべきだよ 僕の「時間」に君なら歓迎だよ
("Polar Bear" Ride)

 聖アウグスティヌスは「時間とは何か、私は知っている。だが人に尋ねられると分からなくなる」と述べたらしい。…なるほど、頓智ですねで済めばいいのだが、実際には色々もっと難しいことを論述しているようだ。たとえば、これ:
〈論文〉アウグスティヌス『告白』における時間の概念(田之頭一知/大阪芸術大学)(外部サイト)
いや、僕も読んでない(そのうち読みます)。今は読んだことのあるもので、話を進めよう。

 少し前に読んでいた本の読書ノートをまとめていたら、興味深い考察が見つかった。ミハイル・バフチーンの大著『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』(川端香男里訳・せりか書房)の一節だ。バフチーンによれば、初期ルネッサンスを代表するダンテの『神曲』の時代には、時間というか、時間に沿った進歩の概念がないというのだ。いわく「彼(ダンテ)はただ《上に》と《下に》しか知らず、《前に》を知らない」。地球の中心まですり鉢状になった地獄から、星々と一体になった天国まで、ダンテの世界観は垂直の階層として、綿密に練り上げられている。だがそこに、時間に沿って進む発想はない。魂は「水差しの水がこぼれる間もないほどの瞬時に」最高の世界位に生まれ変わることができる。
 もし、そのようなものであるならば初期キリスト教の「神の国はすぐに来る」の「すぐ」っていつだ、という問いはあまり意味をなさないだろう。裁きの「時」は直線的な時間軸の先に用意されているのでなく、天国から垂直に落ちてくるか地獄へ人を垂直に落とすのであれば(インスタント・カーマ!)。
 ダンテの『神曲』(1472年)から60年後・ラブレーの『パンタグリュエル物語』(1532年)・『ガルガンチュア物語』(1534〜5年)では様相が違ってくる。バフチーンは言う。ラブレーにおいては「子は単に父の若さを繰り返すのではない。(中略)新しい世代の青春はいつでも、まったく新しい、より高い青春となる」
 博識な父も、次の世代から見たら学童以下だ。文化は発展する。人類は進歩する。天国に至る垂直軸を昇るのでなく、歴史的過程を前に進むことで人々は完成に近づく。地域性の違いか、それとも半世紀のそれこそ「進歩」か。いずれにしてもラブレーの時間観は、現代の吾々のそれと真っ直ぐつながるものだろう。

 この時間観に異議を唱えるのがクィア・テンポラリティ論、クィアな時間論というものであるらしい。雑誌『福音と世界』2019年2月号(新教出版社)に掲載された安田真由子応答 時間をクィアするということ」は、現代の時間観は「次世代」「子ども」をシンボルとする未来志向だという論者の見解を引用する。そうした時間観は生殖や家族主義・異性愛の称揚と、同性愛者などクィアな人々の抑圧や排除を内包している。先に引いたように、ラブレーが時間上を「前に」進む人類の発展を、親から子への世代交代にシンボル化したことが、おのずと思い出されるだろう。
 当該の文章はいわば「さわり」導入部だけなので、この「クィアな時間論」について知ることは(僕自身の)今後の課題になるでしょう。軽くはない話になる可能性も高い。
 でも、それらしい探究が必要になるのは、そう先ではないのかも知れない。

『福音と世界』2019年2月号(外部サイト)
 Amazonに出てる古本は貼るのをためらうほど高かった…別のところで探したほうが良さそう…
 
 時間は存在しない。そんなタイトルの本が目に入ったのは昨年、衝動的に訪れた松本の駅ビル書店でだった(2019年11月の日記)。ちなみに面陳で、隣に置かれていた本は近ごろ話題の思想家マルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』。面白いなあ、キミたち!
 その時は何しろ他に買いつけた本が多すぎてスルーしたのだが、最近18きっぷで松本を再訪する機会があり今度は…と同じ書店を訪ねたら、なんと二冊に増えている。
 カルロ・ロヴェッリ時間は存在しない』(NHK出版)
 ジュリアン・ハーバーなぜ時間は存在しないのか』(青土社)
 どちらを読んだものだか(そもそも、どちらにせよ読んだものだか)また逡巡。乗りたい電車まで時間がない、いや、これは哲学的な意味でなく。結局また諦めて「おやき」だけ買ってホームに駆け込んだ。後で調べたら、物理学と、それこそアウグスティヌスのような思弁を組み合わせたような本であるらしい。クィア時間論との関連は分からない。
 ただ。
 ちょうどミュージシャン・坂本龍一氏が「『時間というものは存在しない』っていうことに基づいた音楽」を作りたいと話しているインタビュー記事を読んで「おっ」と思った。
坂本龍一に清志郎が警告していた コロナ危機「その後」(朝日新聞デジタル)
 (外部サイト/無料での閲覧は途中まで)
いま吾々が常識で考えてる「時間」は、都市や楽器のように人間が勝手に作り上げたものではないか、などと語っている。カルロ・ロヴェッリの本は世界で話題になったようだから、その影響があるのかも知れない。また別のところから来た発想かも知れない。
 地動説にせよ進化論にせよ、相対性理論にせよ不確定性原理にせよ、科学的なアイディアが時には誤解もされながら、人文や社会の思想・芸術や物語に影響を与えるのは、よくあることだ。
 ダンテの時間なき時間観から、ラブレーの前に進む時間観まで、転換には(長く見ても)60年しか要さなかった。今までとは違う時間観も、ある日とつぜん垂直に墜ちてくるのかも知れない。
 来てくれたら、ちょっと嬉しい。僕はわりと歓迎。

コロナ退散祈願。松本「翁堂」のプチどうぶつケーキ(あひる・ブタ)と、マスクが外れかけ「チャントシテヨ」と言ってるタヌキのプチケーキ。あひるのクチバシはピーナッツ。可愛かろう!

「生命の算術」に抗うために〜柿本昭人『アウシュヴィッツの〈回教徒〉』(2020.03.22)

 「誰かの「やめてくれ!」という訴えに最初は揺れた心が、やがて馴れてしまい、その者たちがどこかへと消えていくことが当たり前になります。そうして、私たちはおそらく、考えるということが加速度的に少なくなっていくのです」

 アウシュヴィッツの〈回教徒〉という存在を知ったのは、恥ずかしながら本当に最近のことだ。行政権力が法を無視する(つまり今この国で行なわれているような)例外状態について調べるうち、イタリアの思想家アガンベンに行き着いた。難解すぎる本人の著作から一旦撤退して、入門書・関連書などの外堀からアプローチするうち、彼が思索を傾ける当該の存在を認知することになった。
 〈回教徒〉と言っても、実際のムスリムではない。柿本昭人アウシュヴィッツの〈回教徒〉』(春秋社/2005年)によれば「飢えと憔悴と絶望によって、骸骨のように痩せ細り、目は表情を欠き、立っているのもままならなかった」「死にかけの抑留者の姿が、祈りの際に地面にひれ伏すムスリムの姿に似ているから」そう呼ばれたのだという。ナチによって迫害され、強制収容所に入れられたユダヤ人の中でも、さらに最底辺の、同胞にも見捨てられた存在。
 強制収容所にはゾンダーコマンドと呼ばれる、抑留者の中から選別され(わずか数ヶ月の延命と引き換えに)同胞をガス室に送る作業と死体処理に従事する者たちがいたというが、彼らとはまた別の意味で人間性の最底辺に置かれたのが〈回教徒〉たちだった。
 ・(参考)ゾンダーコマンドを描いた映画『サウルの息子』について書いた2016年8月の日記

 柿本が告発するのは「ユダヤ人には生きる資格がない」というナチスの思想によって収容所に入れられた者たちの間で(すら)、さらに「生きる条件」を喪失した者として〈回教徒〉が排除される地獄だ。いわばそれは収容者みずからがゾンダーコマンド化することであり、ナチズムを内面することではなかったか。それはいわゆる「ストックホルム症候群(監禁された人質が犯人の心情に同一化し、進んで協力する現象)」で済む話だろうか。もっと忌まわしい、人間性の自己放棄なのだろうか。
 著者は後者として〈回教徒〉をめぐる言説を掘り下げる。そもそもなぜ〈回教徒〉なのか。そこにはムスリムは「目は表情を欠き」人間性を放棄した異教徒だという侮蔑や差別がありはしなかったか。その同じ差別が「ナチスの手法」を踏襲したような先住ムスリムを排除してのイスラエル建国や、ブッシュJr・チェイニー副大統領・ラムズフェルド国防長官らによる中東攻撃や捕虜虐待の容認を基礎づけてはいなかったか。著者はジェノサイド的な排除だけでなく、それまで「ユダヤ教徒」でしかなかったものが反ユダヤ主義によって「ユダヤ人」として民族化された、それを逆手にとったシオニズム・イスラエルの建国を、ナチズムの負の相続として批判する。〈回教徒〉に最底辺での人間性の発露を見ようとすることで、剥奪を取りこぼしてしまうアガンベンの思弁の不徹底も容赦はされない。
 そして強制収容所からの生還者たちの山ほどの証言に〈回教徒〉への差別・排除・選別することの正当化があった事実が、嫌というほど浩瀚に積み上げられる。「個々の〈回教徒〉を識別することは出来ない」「病人棟に入れられた私は自分以外が皆、精神を喪失した〈回教徒〉であることに恐怖した」「瀕死となり私もあやうく〈回教徒〉になるところだった」「彼ら彼女らを動物に喩えることは、かえって動物に対して失礼だ…」
 あるいは骸骨のような者たちがパンを与えられた時だけ争って飛びつくと言われ、あるいは逆に折角パンを与えても受け取る気力すら示さないと匙を投げられ、その双方ともが〈回教徒〉という名で蔑まれる。生存者たちは、むしろ嫌悪や差別を得々として語るのだ。エリ・ヴィーゼル、プリモ・レーヴィ、V.E.フランクルといった人々も例外ではない。ある意味、愕然とさせられる偶像破壊だ。
 強制収容所の中では、何か(物語とか)に希望を託しつづけたり、配給される乏しい食料を一日三回に分けて食べるなど、ギリギリ最低限の人間性を保った者が生き延びた、という「神話」がある。自分なども感銘を受けることがあった、その「神話」もまた、裏を返せば「人間性を保つ気概のない者は死んでも仕方なかった」という、おぞましい選別に裏打ちされてはいなかっただろうか。「私より高潔で生きるに値する者たちが死んだ」ことに良心の呵責を憶えても、その呵責は〈回教徒〉には向けられない。ここには恐ろしい陥穽がある。

 …ナチス・ドイツが、真正な国民と見なした者にはスポーツを奨励し、禁煙を勧め、健康増進を目指した「生権力」の国家であったことは知られている。その健全さの肯定は、健全でない者の排除と表裏一体だった。半死者である〈回教徒〉には生きる資格がないという認識は、強制収容所の抑留者にまで内面化されていた。
 柿本は絶滅収容所の入り口に掲げられた労働が〔あなたを〕自由にするという悪名高い標語が、嘲弄のための虚偽ではなく、人々が労働可能性によって等級化され最下層の者から殺されていくシステムの、的確な表現であることを指摘する。十九世紀後半から確立された有用であることを生殺与奪のスケールにした生命の算術の完成形としてのナチズム。そして、それが「最終形」ではないと言わんばかりに続いている現状。著者はピエール・ルジャンドルを引用し「ナチズムは武力によって打倒されただけで、論証や説得・言葉によって乗り越えられたわけではない」と告発する。何より帯文真に勝利したのは、ナチズムではなかったか?が重い楔となって、本書を手にした者に突き刺さる。
 もちろん日本も例外ではない。かつては首相も務め、現在も副総理の座にある与党政治家が(民主主義を骨抜きにするという文脈でだが)「ナチスの手法に学ぶ」ことを奨励する日本。「労働可能性」の平易な別名ともいえる「生産性」が欠ける者として、同性愛者の排除が(これもまた与党の議員によって)謳われる日本。
 そしてアウシュヴィッツでのユダヤ人虐殺に先んじて「T4作戦」として身体障害者・知的障害者の安楽死政策が行なわれたナチスの、ナチズムの、日本は最も「優秀な弟子 Apt Pupil」ではなかったか。ああいう人ってのは人格あるのかねとは1999年、障害者施設を視察した石原慎太郎都知事(当時)の発言である。2016年には神奈川県・相模原市の障害者施設で、元職員が利用者を次々に刺し、45名の死傷者(うち死者19名)を出した。つい先日、横浜地裁はこの被告に死刑の判決を言い渡した。事件以来、被告は一貫して「反省するつもりはない」と明言しているという。


 ここからは、いわば「第二部」で、『アウシュヴィッツの〈回教徒〉』とは関係のない話になる。
 相模原の大量殺傷については、事件が起きた当時にも自分なりの見解を書いている(2016年7月の日記)。海外でも起きていた銃乱射事件などと違い「自分を優越していると思い込んだ犯人が、劣った普通の人々を殺傷した」のでなく「普通の人間として、普通より劣ると見なした人々を殺傷した」社会的な救いのなさに慄いた。「「人間としての条件を脅威的に揺さぶられた」のは殺傷された障害者ではない。「障害者は殺してもいい」という考えを認めてしまったら、障害者でない多数の吾々の「人間の条件」こそが崩壊しかねない」と書いたことに、とくに変更はない。
 そのうえで、改めて考える。被告への死刑判決は妥当だったのか。
 犯人に温情や、悔悛の機会を与えようというのではない。むしろ自分の中には、死刑「なんかで」いいのかという深い憎悪があり、その復讐心にこそ困惑し、苦しんでいる。
 死刑判決が言い渡された被告は「最後に一言」と発言しようとし、裁判長はそれを認めなかったという。この判断に正直、安堵している自分がいる。2001年に大阪の小学校に刃物を持った男が乱入し教師2名を含む23名が殺傷(死亡8人)される事件があった。この時も死刑判決を受けた犯人は法廷で「ひとこと最後に言わせろ」と発言したらしい。当時の僕は怒り狂った。自らの年齢に達するまでの数十年分の、物を言う権利を子供たちから根こそぎ奪った人間が、なんで「最後だから」と発言が許されるというのか。
 だからたぶん、死刑より的確な罰として自分が望んでいるのは、長い肉体的苦痛をともなう拷問刑などではなく、犯人の存在自体の抹消なのだ(そうだろうか?)。むしろ悔悛など、してほしくない。悔悛して、改心して、人の命の大切さに目覚めたところで、奪われた命は戻ってこないのだ。今さら善人になど、なられてたまるか。そう思う自分の憎悪の暴走にたじろぐとともに「だから人を殺しちゃダメなんだってば」と嘆息を新たにする。死刑になろうと、存在を抹消されようと、あるいは改心して己の罪を思い知っても、そんなことは死者にとって何の回復にもならない。
 実のところ、自転車ドロボウでもラーメン食い逃げでも同じなのかも知れない。自転車やラーメンは現物を取り返したり代金を取り立てたりして原状回復ができる。だが奪われた屈辱はなかったことに出来ない。いや、与えた苦痛も賠償金や刑事罰で相殺・回復されることになっているが「いくら金をもらっても、あのラーメン食い逃げされた怒りや屈辱は消えやしないよ」というのも本当だろう。だがそう考えると「たとえラーメン食い逃げでも取り返しがつかない(ので許されない)」あるいは逆に「ラーメン食い逃げでも大量殺傷でも取り返しがつかないことに変わりはない(から最終的には全て仕方がない)」ことになりはしないか。
 小学低学年の児童や、知的障害者に刃物をふるう大量殺傷者は、そんなふうに吾々を難題に直面させる。それも、取り返しのつかない人々の命を奪ってだ。「本当に、なんて愚かで、しょうもないことをしてくれたんだよ」という気持ちになる。
 「たとえ犯人を死刑にしても、奪われたものは取り返しがつかない」このことが、僕に死刑制度の存続を疑問視させる。課された難題への解決策としては、釣り合わないほど思惟が軽く(その中には「無期懲役よりコストが安い」といった発想すらないだろうか?)、それでいて付随する暴力性が高すぎる。
 だが同時に、死刑反対を唱える声が、先んじて命を奪われた人々の「取り返しのつかなさ」を二の次にしてしまうことをも僕は恐れる。

 加えて言えば、僕は(2008年の秋葉原無差別殺傷事件あたりを機に顕在化したように思われる)「なんで人を殺したらいけないんですかぁ?」という発言にも、軽蔑以外の感覚を持ち得ない。
 難しく、しかし端的に言ってしまうと「なんで人を殺してはいけないのかという設問の前では、吾々は「それはなぜか」と答える側にしか立つことが許されていないのだ。「なんで自分が尋ねる側に立てると思ってるの?」
 もう少し噛み砕いて言うと「なんで人を殺してはいけないのか」という問いが無価値なのは「人を殺してはいけない社会などというものが、ぜんぜん到来しておらず、この先も来るかどうか分からないからだ。さかしらぶった者が「なんでですかぁ?」と笑っている瞬間にも、保護者たるべき大人に子供がいじめ殺されている。女性は通り魔などでなく配偶者や恋人に殺される確率が最も高い。世界中で人々がミサイルや機関銃で虐殺されている。パワハラや無給の残業で労働者が死に追いやられ、政治家の嘘を押しつけられた官吏が自ら命を断っている。そうした現状をネグレクトしたまま「人を殺してはいけないというルールは抑圧だから、それに異を唱えることが自由だ」と気取る者には、耳を傾ける価値もない。
 実際は真逆だ。人の命が軽々しく奪われる現状こそが抑圧で、「人を殺してはいけない」こそが抑圧からの解放を求める、自由の声なのだ。自由とは「なぜ人を殺してはいけないか」説明する困難を、難題を(たとえばこういうとき「耳を傾ける価値もない」とか言うのはいいのか?と自問して悶えるとか)自分の頭と言葉で引き受けることだ。「なんで人を殺してはいけないんですか」と問う側に己を擬する者は、自分で答えを考えることはない。答えられないことを他人に押しつけ、自らは考えない。そのさかしらな問い自体も、自分の頭で考え出したことではなく、ネットか何処かで拾った誰かの受け売りだろう。どんなに気取ろうが、うそぶこうが、それは自由から最も遠いものだ。
 ついでに言うと、こういう文脈で「人を撃っていいのは、自分も撃たれる覚悟のある者だけだ」みたいな漫画の台詞を引用するのも、イイこと言ったつもりで根本的に履き違えていると思う。戒めてるように見えて、人を撃つことを結局(条件つきで)認めてる。逆に覚悟があって(と称して)人を撃つことを持ち上げてる。そういうのが罠なのだ。「撃っちゃダメ」からスタートしないとダメなの。(と思いきりカジュアルな口調で放り投げて終わる)

 ・参考:石原都知事「人格」発言 - 資料集([外部サイト]arok/2016年9月)

 『アウシュヴィッツの〈回教徒〉』は、さらに実在のムスリムも「人間性を持たず、命令のままに破壊を遂行する」戦闘機械と見なされ、それが現在に至る中東への迫害を根拠づけていることを指摘する。だがこの大きなテーマについては、他の書物とも突き合わせる「宿題」としたい。

ミクロな権力〜エドガール・モラン他『オルレアンのうわさ 第2版』(2020.03.15)

 1969年5月。フランスの地方都市オルレアンで、ひとつのうわさが広まる。ユダヤ人の経営する新興ブティックが、試着室に入った女性客を薬物で眠らせ、外国に売り飛ばしていたというものだ。実際には被害者のいない、根も葉もないデマだったが、憤激した民衆は洋品店を包囲し、パニックは30日ほど続く。
 社会学者のエドガール・モランと同僚たちが6名からなる調査団を決定し、7月に現地を訪れる。表立った騒動は終息していたが、調査団は「何が起きたか」を再現するための聞き取りの中で、不信と猜疑はきれいに鎮火されたわけではなく、熾き火のように灰の中でくすぶっていることを知る…。

 社会学の古典、ということになるのだろう。学生時代ちゃんと勉強してないと、こうして逆にいつまでも自発的な補習が続くんだという事例として(?)今さらですが『オルレアンのうわさ 第2版』(邦訳1980年)を読みました。第2版というのは翌1970年に別の地方都市アミアンで発生した同種のうわさのレポートが加わっているため。クロード・フィシュレによるレポート「アミアンのうわさ」は、組曲の終りの再演部(リプライズ)のように、オルレアンでも展開された出来事を、手際よく要約し直している。構成が上手いのだ。
 オルレアン側のモランによる総括・調査チームによるレポートも、ミステリ小説のように読ませる。ミステリならネタバレは厳禁だけど、遠慮はしない。言うなればアンチ・ミステリ、犯人のいないミステリが『オルレアンのうわさ』だったからだ。
 犯人がいないだけではない。それは犯人がいないにも関わらず、次から次に犯人が名指されるアンチ・ミステリだった。まず第一に【】ありもしない女性誘拐事件が捏造される。犯人と目されたユダヤ人の洋品店主たちは、次第にふくれあがる噂の中で6店が連携し、オルレアンに古代からある地下水路で女性たちを運び出していたことになる。
 問題はこのような神話を【】デマだ、差別に基づく捏造だと批判する人々も「噂はユダヤ人を排斥しようとするファシストや反シオニストが流したものだ」という対抗神話に拠ったことだ。【】これに対し「いいや、むしろ噂は騒がれることで被害者として耳目を集めようとした洋品店主たちが流したのだ」という反・対抗神話が現れ、そもそも被害者が実在しないことから騒動が終息したあとも「火のないところに煙は立たない」という捨て台詞が残る。「「陰謀のテーマはうわさの発展のすべての段階において、現れていると「アミアンのうわさ」は総括する。いないはずの犯人・黒幕探しが、事態のすべてを歪めてしまったことになる。
 では実際には、何が起きていたのか。浮かび上がってくるのは、神話→対抗神話→反・対抗神話と推移した陰謀論とは、まるで様相の異なる経緯だ。
 まず【】噂が広まるための社会的な下地がある。地方都市の、かつてのような親密さは失われたが中央からは取り残されているという宙ぶらりんな空虚感。地下通路の伝説。洋品店のような最新流行への憧れと反発。ユダヤ人や他所者への偏見。世代に関わらずある性的誘拐などへの恐怖。
 ここで【】女性誘拐を書き立てる煽情記事(5月上旬)が発火点となる。以前からあった下地となる要素は燃料となり、他所者のユダヤ人が経営するブティックが、陰謀の主として名指される。
 【】女性誘拐の風聞を持ち込まれた警察は、該当する実在の事件がないことから話に取りあわず、もうひとつの「中傷という事件性」を看過してしまう。警察が取り合わないのは誘拐組織とグルだからだというデマが、噂を爆発的に広めることになる。間に選挙があったことで、騒動を起こしたくない警察が動きを手控えたことも、デマの拡大につながる。
 私はこのうわさは、始りをもっていないと思う。
 うわさを広めていくにあたり、その起源となる人はだれもいない

そして、まさしく広めていく上で起源になる人はだれもいないことと対応して、
 人は起源を際限なく探り求める

(「アミアンのうわさ」)
 半世紀前の『オルレアンのうわさ』から今、得られる教訓のひとつは「黒幕はいないかも知れない」ということだろう。ネット上で繰り広げられる論争の多くが、自分たちと敵を二分化し(右vs左、オタク対フェミなど)相手を一枚岩として扱い、さらに背後に組織的な悪意や陰謀を汲み取ろうとする。だが悪意や敵意が存在するとしても、それは背後の黒幕に指示されているとは限らず、それらは様々な下地や偏見の積み上がりに火がついたものかも知れない。
 あるいは、自分には黒幕がいないから自身の判断は健全で、敵は悪意ある黒幕に操られていると思い込むことはないだろうか。お雑煮の餅は四角か丸かで、丸派の最も極端で少しおかしな人の「四角派は一生モチ食うな」という罵倒を丸派の総意と捉えて敵意を燃やしつつ、四角派の最も(以下同文)は都合よく見なかったことにすることは。
 実際には、人々を操る巨大組織など、ないのかも知れない。問題は「だから悪い人なんていないとはならず、あたかも黒幕に操られているかのような行動を(下地となる偏見などの積み上げによって)自発的に吾々は取りうることではないか。
(明らかに黒幕がいるTwitter大量投稿もあるけどね!)
 ミシェル・フーコーが18世紀に提唱されたパノプティコンを近代のモデルとして取り上げたことは有名だ。個々の独房が(内側に窓があるよう)円形に配置され、全ての囚人は円の中心の看守塔から常に監視される理想的な監獄。このパノプティコン(一望監視施設)を学校や軍隊、工場や病院の雛形としつつ、フーコーが注意を促したのは、実際にその一点(監視塔)が機能しているかではなく「そういうものに監視されている」と個々人が思うことで、監視が内面化され、自発的に服従するということだった。
 さらに後、フーコーは権力じたい人々の対極にあるマクロなものではなく、もっとミクロな日常から立ち上がってくるものだと説いた。権力というものを政府や大企業などマクロなものとして捉えがちな自分には、正直ピンと来にくかった「ミクロな権力」。それが『オルレアンのうわさ』を読んで、少し分かった気がする。
 それは、ハンナ・アーレント単体を読んでも実感できなかった彼女の言う「公共」や「政治」が、セウォル号事故という具体例にふれて初めて体感できたことと似ている(2018年12月の日記参照)。体系的に何かを学ぶことが苦手な自分は、そのようにして突き合わせで、後から分かることが多い。

   ***  ***  ***

 ここでキレイに日記を終わらせてもいいのだが、少し個別のトピックをまとめておく。起源となる人はだれもいないと説く『オルレアンのうわさ』だが、「なぜブティックなのか」「なぜユダヤ人なのか」「なぜパリではなくオルレアンや、アミアンなのか」という謎は残るからだ。
 まず「なぜユダヤ人なのか」という問いは、同様に嫌疑をかけられた者の条件として「そもそも商人一般」「女店主=実業家の女性(男性的な特性を持っている歪んだ者)(あるいは男の手先として女性を誘拐する裏切り者)(という偏見)」転じて「同性愛を連想させる女店主」…すなわちコミュニティの外側にいることが析出される。女性誘拐を行うのは、他者=かれらなのである(「アミアンのうわさ」)。ルネ・ジラールにも通じる考えだ(2012年2月の日記参照)
 なぜオルレアンやアミアンなのか、という問いは地方都市・現代都市の分析を導き出す。工業化やベッドタウン化などで発展し、それでも中央からは取り残されている地方の状況については先にふれた。それだけでなく著者たちは、都市が市民生活や文化の中心であることをやめ、経済的な活動だけの空虚な場と化したことを指摘する。市民と呼ばれながらも、政治は空の上の出来事で手が届かない。そんな空虚さ・自身の存在感の希薄さが、地下に張り巡らされた古代通路という神話を加速させる。
 ブティックについては、もういいだろう。昔ながらの価値観の者には「不安さえ引き起こす贅沢の場所、すなわち淫乱で不品行な場所」。また社会学者たちは、試着室という装置が持つ(鏡の前で脱衣する)性的なイメージ、若者間でのドラッグ文化の流行による「薬物で眠らされる」ことへの興奮まじりの恐怖、同様に性そのものに対する興奮と恐れなどを指摘する。
 けれどモランたちが興奮(と、もしかしたら恐れ)を隠しきれない本書のナンバーワンは、他にある。

 女性誘拐を煽情的に語る雑誌記事が、自分たちの暮らす街での出来事という「うわさ」として孵化するにあたり、リセ(学校)・あるいは工場といった、少女や若い女性ばかりを集めた閉鎖環境が、いわば噂を培養するシャーレとなったことに社会学者たちは注目する。
 「オルレアンの出来ごとが、私たちに理解させたことは、私たちが思春期の女性たち(の抱く空想=妄想)について全く無知ということだった。興奮ぎみに著者たちは言う。調査のリーダーとなったモランが「一切の災禍の入った箱を手にしているのは美しいパンドラ、つまり、若い少女なのである」と芝居がかって書きつけるのは、正直ちょっと引く。犯人がいないアンチ・ミステリのはずだった『オルレアンのうわさ』は、噂の発生に「美しいパンドラ」たちが果たした役割を強調する。日本語版の表紙がフィーチャーするのは「うわさ」を伝達するため額を寄せ合う少女たちだ。

 キーワードは「イエイエ」。
 フランスで60年代に流行したミニスカートなどのファッションや音楽など若い女性向け文化の総称なのだが、同書はそれを周知の概念のように連呼する。イエイエの有害な本性」「母親たちがイエイエに反発」「イエイエをめぐる論争」「イエイエが隠し持っていた危険」こちらの頭の中では「レーナウーン・レナウン・レナウン・レナウン娘が お洒落でシックなレナウン娘が わんさか・わんさか・わんさか・わんさか イエーイエーイエイエー♪」が鳴りっぱなしなわけですが(わざわざ書かなくてもいい)著者が圧倒されてる感じが伝わってくる。
 英語圏ではアースクエイク(地震)とユース(若者)をかけてユースクエイクという言葉が生まれたという。米『タイム』誌の1966年の「パーソン・オブ・ザ・イヤー」に選ばれたのは「Twenty-Five and Under(25歳以下のすべての人々)」いわゆるベビーブーマーだった。そして1968年の5月はフランスで5月革命と呼ばれる学生運動が吹き荒れた時期でもあった。
 『オルレアンのうわさ』は社会学者が研究対象としての、あるいは社会現象としての「少女たち」を発見した瞬間の記録としても興味深い。その当否や、その後の展開については、今は考えない。ただただ興味深いです。

 試着室からの誘拐という都市伝説は80年代に日本でも流行した。誘拐の舞台となるのはヨーロッパで、若い女性の海外渡航ブームに対する敵意が下地にあったと推測される。その他にも当時の日本が持っていた偏見や迷信が伺えるが、追及する余力は今はない。まあ、うんざりしますよ。

伊丹万作の言葉〜映画『ジョジョ・ラビット』(2020.03.08)

 よほど形容に困ったのだろうか。「愛は最強」という、ほぼ何も言ってないに等しい宣伝コピーだけなら、映画館に足を運ぶことはなかっただろう。もう上映は終わってしまったが『ジョジョ・ラビット』は、軽く流されるには惜しい作品だった(さいわい日本でも「大ヒット」したらしい。でも大抵そう言われるので真実は定かではない)。
 自分ならどう惹句をつけるか。「さよならヒトラー、僕の親友(イマジナリー・フレンド)」といったところだろうか。親友というよりは、戦場から帰ってこない実父の代理かも知れない。演じるのは監督のタイカ・ワイティティ本人。第二次世界大戦末期のドイツ・ベルリン。ナチに心酔する10歳の少年ジョジョが、悪魔のように思っていたユダヤ人の少女に出会い、世界観を覆されていく物語だ。

 もうロードショー期間も終わったのでネタバレしてしまうが、冒頭の5分だけで傑作だった。時は下って1960年代、メジャーデビュー前はハンブルクで下積みしていたこともあるザ・ビートルズはイギリスに戻っての大ブレイク後、初期のヒット曲「抱きしめたい」と「シー・ラブズ・ユー」のドイツ語版をリリースしている。そのドイツ語版抱きしめたい」をナチス台頭時の大がかりなパレードやヒトラーの演説、それを熱狂的に迎える民衆の姿とマッシュアップしたのだ。アイドルに歓声をあげるように、独裁に、戦争に、ユダヤ人排斥に陶酔した人々。痛烈な皮肉だ。皮肉というより、カリカチュアだろうか。
 空想のヒトラーで分かるとおり、映画は敗戦が間近に迫るベルリンの姿を、徹底的に戯画化する。徹底した戯画化は、場面の一つ一つに意図があるということだ。
 劣勢の戦時中でも美しく着飾り、ダンスを愛するジョジョの母は、ナチスが台頭する前・世界で最も民主的と言われたワイマール時代の(今も)熱烈なシンパであることを表現していたという。「顔が良くてもいいことなんてないわよぉ、私なんて美人すぎて迷惑ばっかり」とうそぶく台詞は、演じるスカーレット・ヨハンソンが俳優としての実力にも関わらず「いわゆる美人女優」として軽んじられてきたことを踏まえた「当て書き」ではなかったかと、これは僕の感想。
「スカーレット・ヨハンソン、男社会の中で“めんどくさくない女”を演じていた「もう媚びない」」
 (FRONT ROW)
 …だいぶ字数を使ってしまった。話を先に進めよう。
 本篇を通して考えずにいられなかったのは、ある意味『ジョジョ・ラビット』は『この世界の片隅に』の対偶・対極のような映画(でもある)ということ。そして映画監督でありエッセイストとしても知られる伊丹万作(1900-1946)の言葉
リアリズムトハ、本当ラシキウソデアル。
 シンボリズムトハ、ウソラシキ本当デアル。

という言葉のことだった。

 ひとつの作品を褒めるのに、ひとつの作品を対比的にくさすのは徳が低い。得策でもない。同じく敗戦直前の、こちらは日本・広島の生活を一人の女性の視点から丹念に描いたアニメーション映画『この世界の片隅に』(片渕須直監督)はもちろん、優れた作品だ。あの時代を描くのに、今までにない視点や距離感・細やかさを提示した、画期的な作品だと思う。ただ、その受容のされかた・賞賛のされかたが「当時の街並みが完璧に再現されている」「実在した事物の細部が汲まれて」と描写のリアルさ・実在性に寄りがちなことに、言うなれば危惧を憶えるのだ。
 これは同作だけではない。いつからか日本の漫画やアニメーションは、事物の忠実な再現を高く評価し、称揚するようになった。作品の舞台に実在の地方や街が選ばれ、それらを綿密に描くことで「聖地巡礼」のブームが起こり「作品による地元起こし」は元から当然の狙いとして企画に組み込まれるに至った。登場人物たちが使う道具やコーヒーを飲むカップは、即座にファンによって具体的な製品が「特定」される。作中に登場するオートバイのエンジン音を「リアル」にするため、同じ型番のレアなオートバイを探し出してきて録音したことが、こだわりとしてアピールされる。
 悪いことではない。だが行き過ぎるとどうか。細部の再現度の高さを「リアル」と称賛し、それをもって作品も素晴らしいのだと結論づける受容のしかたは、リアリズムが持つ本当らしき「嘘」に対して、あまりに無防備になってはいないだろうか。たとえば街並が事実どおりに再現され、ガジェットの型番まで照合できる「本当」の一方で、画面に現れるのは美少女ばかりで、その髪色も説明もなくピンクや青だったりする「嘘」は意図的に(あるいは無意識に)見落とされる。

 本当は『この世界の片隅に』も、極度にシンボライズされた話「でもある」はずなのだ。原作者・こうの史代氏の「漫画」としか呼びようのない絵柄からしてそうだ。
 実際には「本当」と「嘘」は、幻惑のように絶えず入れ替わるものだ。細部の描写のリアルさは、物語としてのメッセージの現実性とイコールではない。むしろ、リアリズムを志向すればするほど語られるメッセージが何処か夢物語めいて、逆に非現実的なファンタジイの様相を帯びたものが裏返しに(そして残酷に)現実の虚妄を暴き出すこともある。
 『ジョジョ・ラビット』が採用しているのは、シンボリズムに満ちた「嘘」の語りだ。子供ふたりがパンツァーシュレック(バズーカ砲)を運んでいて、後ろを持ってた子が「やあ」と友達に手を振り筒を落としてしまい、暴発した砲弾が建物を爆砕するなんて映画がリアリズムなはずがない。シンボルを読み解くには若干の広い知識が要ることもある(ビートルマニアの熱狂ぶりを「史実」として知らないと、冒頭の皮肉は得心しづらいだろう)が、もっと必要なのは想像力だ。いや、その言い方も正確ではない。『ジョジョ・ラビット』では、ある出来事を一足の靴だけで悟らせる場面がある。何が賭けられ、何が奪われたのか、靴だけで分かってしまう。優れたシンボリズムは、読み解くのに想像力が要るのではない。シンボルそのものが、観客の想像力を開かせる。
 造形が「リアル」であること、ディテールの正確な模写を評価軸として絶対視することは、想像力を働かせて読み解く能力の衰えを意味してはいないか。「聖地巡礼」に代表される「リアリズム」の台頭に合わせて、「○○はいいぞ」あるいは「(語彙力)」といった定型句が流行りだした。もちろん、SNSに代表する感想を言う場の字数制限もあるだろう。だが、いずれも(作品の良さを語り尽くせないので)〇〇はいいぞ(としか言いようがない)、語彙力(が足りなくて良さを適格に表現できません)」という説明放棄の表現なのは偶然だろうか。

 ことは作品鑑賞に留まらない。生活に困窮する者に国が割ける財源はない、それが「リアル」だと言う者がある。だがその「リアル」は使うかどうかも分からない戦闘機の財源はどうなのだ、ということを意図的に見落としている。医学部の入試での男女差別も、北方領土をずるずる手放すことも「それがリアリズムってものだ」としたり顔で言われるたび、伊丹万作の言葉は思い出すに足るものがあるだろう。理想論を説く者と同様、リアリズムを説く者も(リアルとして扱うものを取捨することで)何らかの夢を見ている。ただそれが夢なことを隠し「リアルなのだから正しい」と言い募る。
 リアリズムを標榜する者は、スペックにこだわり「リアル」を肯定し、変革を嫌うのかも知れない。『ジョジョ・ラビット』はヒトラーに心酔していた少年が、過去の自身を否定し、愛に目覚める物語だ。『この世界の片隅に』の「すずさん」も、体制を受け容れていた己の欺瞞を最後に悟って涙を流す。だが、観衆の大方はそこではなく、全体のそこはかとない優しさ・「戦争中でも私たちは一生懸命に生きていた」という甘い自己肯定を好ましい「リアル」として受容したのではなかったか。
 すべてが時の流れに奪い去られ、忘れられていく「この世界」では、語り描くことはそれだけで救いだ。「私たちは忘れても見過ごしてもいない。ちゃんと憶えているし、こうして絵や言葉にしている」そう互いに言い合うことで、吾々はどうにか生きていける。その意味で『この世界の片隅に』は大きな仕事を成し遂げたし、たぶん多くの魂を救った。しかし、その一方で、多くのシーンを追加して公開された新版では、上映される映画館の売店で、すずさんの絵をあしらった戦艦大和のプラモデルが、グッズとして並んだという。それがあの映画に吾々が「夢みた」ものだったとしたら、敗戦の日のすずさんの涙は何だったのか。

 こうの史代氏には原爆後の広島を描いた「夕凪の街」という先行作品がある(『夕凪の街 桜の国』所収)。これは編集者・作家の竹熊健太郎氏が書いていたのだが、被爆し、やがて原爆症で死んでいくヒロインが自宅の屋根を直しているシーンがある。そこに意中の青年が現れ、はしたない格好を見られて大いに慌てる場面なのだが、竹熊氏はヒロインがまくっていた袖を直す一コマに注目する。それは彼女が恋人に醜いケロイドの傷を見られたくないという恥じらいだった、不覚にも初読では見落としていた、ヒロインの心の輝きがそこにはあった、というのだ。それこそが想像力によって描き出された、シンボルが真実を語る瞬間ではなかったか。
 伊丹万作はこのようにも書いている。
 「そこらにいくらでもいる甲氏や乙君や丙さんを拉しきたつて、その中の甲と乙の相違や、乙と丙の差を克明に描き分けているのがいわゆる性格描写というものだとすれば(中略)
 何万人に一人というような桁はずれの存在を扱いながら、しかも「人間というやつはね、みな要するにこいつによく似たしろものさ」といって神様がひよいとつまみ上げて見せそうな人物を描くことは、まさしく偉大なる典型描写というべきであろう」

 まとめ。
 1)一部のディテールを「リアルだ」と言うことで、別の部分や全体がもつ「夢」や「嘘」まで「リアルだ」と丸め込まれることを危惧する。
 2)正確な模写ばかりを評価の基準とすることが、想像力や表現力の衰退につながっていないか危惧する。
 3)「リアリズム」が性質上、現状の不公正の肯定や、無責任な過去の美化に益することを危惧する。

 映画を観て取ったメモの中には、こんな「危惧」もあった。
 4)そして吾々は「ユーモアやお笑いは、中身も空っぽでいい」と思い込んではいないだろうか。
ただまあ、これについては今回の日記で展開する余裕はない。なんだか『ジョジョ・ラビット』の話をするはずだったのに、別の話に終始してしまった。最後にもう一つ、映画の中で読み解くのに若干のヒントが必要だった箇所を上げておきたい。ビートルズのドイツ語版で物語が始まったとき、実は結末で何が起きるか、分かる人には分かるという話だ。
  ★終盤までの展開を含んだネタバレなので一応たたみます。読むひとは自己責任でどうぞ。(クリックで開閉します)。
それがシンボリズムというものだ。あるいは、ああ、なんてロマンチシズム。

現代は遠くなりにけり(後編)〜W.B.キイ『メディア・セックス』(2020.03.01)

 1960年代前半から大流行した「ツイスト」が画期的だったのは、踊る男女が触れ合わなくていいことだった(マイムマイムすら手を繋ぐのに!)と何処かで読んだことがある。キイが知ったら喜んだだろう。

 前回に引き続き『メディア・セックス』ほかウィルソン・ブライアン・キイの著作の話です。ちなみにキイ、故人です。1925年〜2008年。
 前回は「サブリミナルに書き込まれた無数の文字」で終わってしまったけれど、著者の言及はより広範囲で多岐にわたる。困ったことに、的を得ていると思えるものも少なくない。
 困ったことに、というのは(何でもそうかも知れないが)著者の主張が(a)それは納得どころか当然 (b)それは驚きだが納得 (c)それは信じられない―三つのレベルが入り混じるモザイクになっているからだ。たとえば『メディア・セックス』(1976)では1973年の映画『エクソシスト』に一章を割いている。監督のフリードキンが、一瞬の影やライティングなどの視覚効果や、サウンドトラックに混ぜた蜂の羽音や豚の悲鳴といった音響効果で観客にショックを与えたという話は、十分に納得できる(b)だし現在では(a)に近い。ただ「豚は古来より象徴として…」「蜂は…」と自説を補強しようとするから、また怪しくなる(c)。
 音楽でもザ・フーのアルバム『トミー』が歌詞を検証してみたら性的虐待やドラッグなどに溢れた大変な内容でしたと言うのは、わりとロック好きには周知の(a)な一方、ビートルズの「ヘイ・ジュード」やサイモン&ガーファンクル「明日に架ける橋」が悩める若者にドラッグ使用を薦める唄だとまで言われると、いやいや、それは(c)でしょう!という気にもなる。間をとった(a)寄りの(b)、ビートルズのアルバム『サージェント・ペパーズ』を取り上げた部分は手際のいい要約で興味深い。
「レコードのA面は、人々が自分自身に対して真実を覆い隠す方法とかイリュージョンを主題にして」
「B面は(中略)生活を皮肉り(略)人生の虚しさ、陳腐さを描いて(略)最後の曲「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」は、人は幻想なしに生きていくことができるだろうか、と問いかける」(『メディア・セックス』)
これはキイの問題提起そのものの要約かも知れない。

 キイにとって最重要だったのはサブリミナル操作への警鐘かも知れないが、そこから敢えて視点をずらすと読みとれる見解も興味深い。
 1)広告業界は様々な誘惑の技術を駆使して、人の心を操作しようとする巨大産業である。
 陰謀論として捉えた場合、政府や世界征服を目論む組織といった政治的黒幕でなく、個別の広告主がそれぞれに、あくまで商業利益のため意識操作を行なうというのも「現代」的だ。ベトナム戦争を報じる写真に書き込まれるのも政治的スローガンではなく「Sex」で、プロパガンダではなく新聞そのものを売るためだと著者は考える。サブリミナル手法に政治的メッセージを読み取るようになるのは、TIME誌の表紙になったリビアの独裁者カダフィ大佐の写真に「KILL」「FUCK」と加筆されてると主張する89年の『メディア・レイプ』になってからだ。そして
 2)誘惑の手法としては、圧倒的に性的要素で釣る。
これはすでに見たとおり。ただし動物などの象徴を用いる(広告業界が?著者が?)場合もあるし、不吉な死のモチーフで釣ることも多い。
 それでは、潜在意識の誘惑技法を駆使して、広告産業が売ろうとしている(と著者が考える)ものは何か。(僕が考える)結論から先に書いてしまおう。
 3)現代の商業資本は「渇望」を売る。

 強烈すぎる(Sex!Sex!)手法のことは、いったん忘れよう。『潜在意識の誘惑』『メディア・セックス』でキイが取り上げる「商品」は何か。クラッカーは例外として、それらは主食になるパンや牛乳・自転車や普段着ではない。氷を入れたグラスに注がれる、酒。性と死のイメージをもてあそぶ煙草。映画。ポピュラー音楽。そしてドラッグ。これらに共通するのは嗜好品・耽溺させるもの・もっと言えば依存性の中毒を引き起こす商品であることだ。『潜在意識の誘惑』で著者は、アルコールや煙草の収益が数%のヘビーユーザーによることを再三指摘する。誘惑広告はモノを売るだけではなく、ヘビーユーザー=耽溺者・中毒者を生み出すことを目的としているのだ。
 いったん忘れることにした性的誘惑の意味が、ここで明らかになる(意外と早かったですね)。なぜアルコールを売るのに「Drink me」ではなく「Sex」がメッセージなのか。「Drink me」は飲酒してしまえば満たされるが「Sex」は満たされないからだ。
 『潜在意識の誘惑』は、人を耽溺させる商品として男性向け・女性向けの雑誌に、それぞれ一章を割いている。キイの分析が面白いのは、ヌード写真を数多く掲載し男性読者の性欲を満たしているように見える『プレイボーイ』のような雑誌が、実はさまざまな形で欲望の充足を妨げていると説いていることだ。有名なウサギのロゴマークが、去勢を象徴するハサミというのは眉唾の(c)だとしても、現実には簡単に巡り会えない抜群のプロポーションの美女のヌードは、高級腕時計やスポーツカーの紹介記事とともに、手に入らないものとして読者を渇望させる。だから次号にも手が伸びる。同様に、ファッションを中心とした女性向けライフスタイル誌も、読者が微妙に手の届かない贅沢を提示し、さらに物品の贅沢でも満たされない孤独や不安を煽る(と、著者は言う)。
 広告産業に支えられた商品社会が、商品の使用価値による満足を売るのでなく、商品を手にし使用しても満たされない渇望を富の源泉にしているとしたら。
 酒・煙草・ドラッグ・サブカルチャーという著者の「お気に入り」リストにスキンケア・わけてもデオドラント商品が入っているのも、この文脈で理解できる。アメリカ人は商業広告にマインドコントロールされ、自身の体臭を必死で消すようになった、他の文化圏では体臭は肉体的コミュニケーションの重要な触媒なのに、というのが著者の主張だ。彼が危惧するのは肉体を嗅ぎ合い、現実にふれあう性的コミュニケーションが排除され、印刷された模造品に取って代わられることだ。

 …もちろん、自らの体臭を強迫観念のように忌避するのは(キイの独断とは違い)アメリカだけではない。広告の性的な釣り餌は、手に入らないことでこそ渇望を生み効果を発揮するという仮説は、この日本でしばしば問われる「なぜ」の、げんなりするような答えになるだろう。なぜ日本では、広告やアイキャッチで「なぜこんなところにまで」というほど女子高生や未成年の少女というアイコンが多用されるのか。

 ましてや(法的だけでなく物理的にも吾がものに出来ない)二次元の少女、それも非現実的にセクシャリティを強調された画像ほど、渇望を煽る理想的な釣り餌はない。そう考えることも出来はしないか。
 …取り上げた題材の新奇さに反して、たぶんキイ自身は性に対して保守的な価値観の主だったのだろう。たとえば分析の背後には、同性愛を「不自然」と即断し眉をひそめる感性があるように思われる。若者文化への反発も。その主張が「昔はよかった。性欲も本物だった」というものであるなら、それには少し留保をつけたい。どんな時代や文化でも、性は多かれ少なかれ、動物的な本能から外れた虚構といえば虚構ではないか。そして「人は幻想なしに生きていくことができるだろうか」
 だが、あまり遠くまで行くのは止そう。彼が鳴らした警鐘には、聴くべきところもある。それは、吾々が「自然な」「本能的」と思っている欲望が、人工的なプロダクトではないかと疑う感性だ。今まで紹介してきた文脈とは違うが、キイはこんなことも書いている。
「アメリカにおいて、性的コミュニケーション(中略)に用いられる言葉は、たいてい男性の攻撃的で残酷な動詞−fuck, knock, up, screw, lay, make, etc.−なのである。
 それらは、愛すべき関係を互いに分ち持つ相手に向けられるよりも、征服され奴隷にされた敵に向けられる言葉だといってもよいくらいだ」
(『メディア・セックス』)
 もう一度言う。吾々が「自然な本能」と思っている「性」への欲望は、吾々が思うのとは全く別の「取り替え子」かも知れない。キイ本人が、その追及を二の次にしたのは、いささか残念なことだ。

  ***   ***   ***

 ここで終わればキリもいいのだが、もうひとつ言わなければいけないことがある。
 身体の接触を前提とした親密さから、満たされることのない渇望へ。潜在意識への性的誘惑が、その転換をうながすエンジンだというキイの告発は、結局のところ本当だったのだろうか。
 正直、結論は出せない。しかし確かなことがある。多くの事物にとってそうであるように、時の流れは彼の主張にもまた、不利に働いた。
 もともと彼が主張する「Sex」の書き込みは、英語圏の中でのみ通用するものだ。世界中で同じように広告が印刷され、クラッカーが生産されるなか、アメリカでだけサブリミナルな書き込みがあると考えることは、まあその、妙だろう。
 それに加え、キイの主著はインターネット時代の到来を前提にしていなかった。
 たとえば映画ひとつとっても、『エクソシスト』が周到に仕込んだ潜在的なショックは、スプラッター映画が顕在的な残虐描写で押し流してしまった。それはまだ80年代の話だが、90年代から21世紀に吾々が体験したのは、ちまちましたサブリミナル効果そのものを押し流してしまうほどの、情報の洪水だった。
 1秒24コマのフィルムに1コマだけ、慎ましく挿入されたメッセージではない。今の吾々は1秒24コマすべてが「買え」「求めろ」と明滅する、ストロボ効果そのものに眩惑されている。それは、サブリミナルに埋め込まれた性などではなく、もっと剥き出しの欲望ではないか。そしてその内容も、もはや「性」に偽装する必要さえかなぐり捨てた、多数派のチカラ・支配や権力への渇望そのものではないか。
 
 現代の奇書。今回の日記の冒頭でキイの著作をそう呼んだ時、実は感じたのは「現代」という時代がすでに過去なことだった。古代・中世・近代…間に近世が入ったり、まあよく分からないのだが「現代」という時代はたしかにあった。大量生産の工業に裏打ちされた、資本主義と商業主義の時代。多重録音が現実には演奏不可能と言われた『サージェント・ペパーズ』のレコードの中だけの音楽世界を作り上げ、テレビとグラビア印刷が日常に代わる幻想を売った時代。人間性の喪失を、キイが危惧した時代。
 インターネット以後の、いま吾々が生きている時代は、超現代とかポスト現代とでも呼ぶべき「次の」時代なのではないだろうか。それは「今」を買いかぶりすぎだろうか。だが改めてキイの著作を紐解くとき、頭をよぎるのは「古き良き「現代」…」という、それはそれで地獄絵だが、いささか牧歌的な地獄絵なのだった。

少女に向ける男性の欲望を「自身の肉体への嫌悪」から解明する視点は、キイが指摘したデオドラントへの強迫などと通じるところがある。内容に賛否はあるのだが、(少なくともシスヘテロの男性にとっては)思考への強烈なキックになる一冊。

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