(25.07.13)サイト日記(週記)更新。中沢厚『つぶて』の話、二回に分けます。今週は前篇。画面を下にスクロールするか、直下の画像をクリックorタップ、または
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(25.07.13/小ネタ/すぐ消す)反差別ねこTシャツ、自分の分が届いたので最初の着用は参院選の期日前投票に。投票証明書がVTuber「にじさんじ」とのタイアップに変わっていて、ん、んーまあ従前のレザック66で喜んでいたのは同人誌の印刷料金を郵便小為替で送ってた時代を知る古(いにしえ)のオタクくらいか…

投票の義務を果たしたら自分にケーキを許していいルールに則り、投票場所から徒歩15分の東白楽まで歩いて焼き菓子店のキャロットケーキを買ってきました。帰りは電車に乗って。
* * *
ふだんづかいできる反差別Tシャツがあると自分が便利なので作りました。売れても儲けにはなりません(取り分ゼロで設定したので)。
署名しました:
生活保護基準引下げは違法 厚生労働大臣は最高裁判決を受け入れて謝罪し 一刻も早く違法状態を是正してください(稲葉剛/change.org/25.07.09〜/外部リンクが開きます)
こちらは当面存置。署名:
「国保料が高すぎる!国の責任で払える保険料にしてください!」(中央社保協/24.6.19/Change.org/外部)
【電書新作】『
リトル・キックス e.p.』成長して体格に差がつき疎遠になったテコンドーのライバル同士が、eスポーツで再戦を果たす話です。BOOK☆WALKERでの無料配信と、本サイト内での閲覧(無料)、どちらでもどうぞ。
B☆W版は下の画像か、
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サイト版(cartoons+のページに追加)は下の画像か、
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扉絵だけじゃないです。
side-B・本篇7.1話、6頁の小ネタだけど更新しました。

(外部リンクが開きます)
今回ひさしぶりにシズモモの過去エピソードを見直し「やっぱり好きだな、この話とキャラたち」と再認できたのは幸せなことでした。そして色々あったり無かったりしても、ペンを持って物語を紡いでいる時が、自分は一番幸福らしいとも。次に手をつける原稿は(また)シズモモではないのですが、何しろ描くことは沢山あるのです。
ちなみに今話タイトルの元ネタは井上陽水の「
愛されてばかりいると(星になるよ)」。同曲が収録されたアルバム『ライオンとペリカン』のB面(side-B)に入ってる「
お願いはひとつ」は個人的に一番好きなクリスマスソングの最有力候補です。レノンと争う。
RIMLAND、電子書籍オンリーですが20ヶ月ぶりの新刊『
読書子に寄す pt.1』リリースしました。
タイトルどおり読書をテーマにした連作に、フルカラー社畜メガネ召喚百合SF「有楽町で逢いましょう」24ページを併催・大量リライト+未発表原稿30ページ以上を含む全79ページ。頒布価格250円(+税)で、一冊の売り上げごとに作者がコーヒーを一杯飲める感じです。下のリンクか、
こちらから。
書誌情報(発行物ご案内)はおいおい更新していきます。(22.11.03)
【生存報告】少しずつ創作活動を再開しています。2022年に入ってから毎週4ページずつ更新していたネーム実況プロジェクト、7/29をもって終了(完走)しました。
GF×異星人(girlfriends vs aliens)

これまでの下描きは消去。2023年リリース予定の正式版をお楽しみに。(2022.08.08→滞ってます)
祥瓊は石を投げ〜中沢厚『つぶて』(前)(25.07.13)
祥瓊はとっさに足元の石を掴んでいた。考えるより先に手が動いて、それを人垣の間から投げつけていた。しん、と人垣の声が途絶えた。
小野不由美『風の万里 黎明の空(十二国記)』
*** *** ***
当時人気だった
シュビドゥバとか
シャバドゥビダみたいなスキャットを大胆に戯画化した
「ズビズバー」という奇声に子どもたちのコーラスが
「パパパヤー」と呼応して始まる怪曲、それが
左卜全(ひだり・ぼくぜん)
とひまわりキティーズの「
老人と子どものポルカ」だ。

一番の歌詞を書き起こすと
ズビズバー パパパヤー
やめてけれ やめてけれ やめてけーれ ゲバゲバ
やめてけれ やめてけれ ゲバゲバ パパーヤー
ららら
ランランらんららんらゲバゲバー(2回くりかえし)
どうしてーどうしてーゲバゲバ パパーヤー
おお神様 神様 助けてパパーヤー
たぶん「パパヤ」に引っ張られたのだろう、この歌詞を長らく「ゲパゲパ」パは半濁音だと勘違いしていた。実際は濁音のバで「ゲバゲバ」、老人がやめてほしいのは「ゲバゲバ」なのだった。

ちなみに(他の部分は全部おなじで)二番では「ゲバゲバ」が「やめてけれジコジコ」に、三番では「ストスト」に変わる。ジコジコは事故事故、すなわち交通戦争による自動車事故の被害か、もしくは電車の遅延などであろう。同様にゲバゲバはゲバつまりゲバルト≒主に反政府的な暴力活動、そしてストストはストすなわちストライキを指すものと思われる。
要するに、このお爺さんはストライキもゲバルトも交通事故と同じように迷惑でしかないと嘆いているのだ。ゲバルトは兎も角、正当な労働争議たるストライキは「隙あらば」とばかり応援している僕は困ったことに、このナンセンスなコミックソングを心からは楽しめなくなってしまった。と同時に、この同情や共感のなさが、デモ隊が機動隊と押しあったり、ストで電車が止まったりしていた時代の、世間の(少なくとも一部の)正直な反応でもあったのだろう―と思いもしたのである。
ただし、こうした冷たい反応だけが全てではない。もしかしたら、それはそれで「断絶」というやつかも知れないが。
中沢厚『つぶて』(1981年/法政大学出版局/外部リンクが開きます)は冒頭から、その執筆の動機を昭和42年(1967年)9月・佐藤栄作首相の訪台および訪米に反対した学生デモ隊の投石に受けた衝撃だったと書き起こしている。
「私を釘付けにした投石の光景は、私を単純に驚かせ、恐れさせたのではなかった(中略)
共感にも似た心の作動があり(以下略)
」
種を明かせば(中略)の間には
「かつて少年時代に自分たちもこれをやったという懐旧の情おさえがたく」とあり、山梨・愛媛・加賀・鹿児島などでは明治維新後も続いたという子ども同士の(もっぱら川を挟んでの)石投げ合戦の記憶が本書の真の起点であり「共感」もゲバルト自体への無条件の支持と直結はできないのだけれど
終盤「一揆・打ちこわしと礫」と題された第五章で一向一揆や島原の乱から米騒動などを経て昭和戦後の羽田での「石投げ」を説き起こし
「年甲斐もなく血のたぎる思いであった」と心情を吐露、さらにその後もパリでソウルで、
「およそ反体制デモなら必ず投石があるのを見せられ」
「民衆のつぶてが、時代とともに進歩改良される武器で武装した軍隊や警察機動隊に勝てるはずはない。だが、性こりもなくつぶては飛ぶ。こうしたつぶて打ちは権力に対する抵抗の石の強烈な表現というべきであろう」
と結論づける著者は、やめてけれゲバゲバ(ストスト)と嫌悪をあらわにする老人よりは、民衆の反抗にたいして寛容で鷹揚で共感的ではあるだろう。
少なくとも、先週の喩えを蒸し返すなら、事故やゲバルトやストライキから「迷惑」という本質を抽出し神(もしくは公権力)の介入・調停を一心に求める「老人と子どものポルカ」は微分的・求心的な思惟にドライブされており、逆に投石(石投げ・印地打ち)という起点から遠心的・積分的に叙述を広げてゆく『つぶて』は同じ暴力を語っても、その導く先は清濁をあわせ呑み陰翳が深い。(この件も文末に送ります)

先週の『欲望の植物誌』と同様『つぶて』も遠心的で要約はむずかしい。
とはいえ論旨の展開は分かりやすい、もしくは「こう展開するのか」と腑分けする楽しみが本書にはある。
終章で著者が提示したロードマップとは別に、本サイトでは
A.著者自身の少年時代の石投げ体験を起点に置き、かたや実用的な武器としてのラインとして
B.戦争での投石→
C.民衆反乱での投石、かたや象徴的な側面から
D.神事としての物投げ一般→(
E.私刑としての石打ち)という二手に分岐するものと考えてみたい。
Dの象徴的な投石・投物については次週に送ります(Eは今週の文末で軽くふれる)。かつて投石が戦争の主力兵器だった時代(B)を経て、いわば零落して庶民の反抗手段になった(C)という理解です。

本書でまず驚かされるのはB.つまり弓矢や剣から火薬を用いた銃砲へという図式で閑却されがちな投石が、世界の戦史において占めていたウェイトの大きさだ。
後にダビデ王となる羊飼いの少年が石投げで正規兵の巨人ゴリアテを倒したように、投石は非戦闘員によるゲリラ的な・イレギュラーな事態だと考えられがちではないだろうか。だが実際の古代世界ではギリシア・ペルシア・カルタゴなど各国はそれぞれ個性のある投石隊を有し(
「ロードス島出身の投石手は、ペルシアの軽装舞台の投石手よりも小さい石を使って、二倍の距離を飛ばせた」など)場当たり的にそのへんの石を拾って投げるイメージとは真逆に、石や粘土・鋳型を用いた鉛の弾丸を製作するなど整然とした運用を見せている。また宋末を舞台にした『水滸伝』には官軍側に石投げの名手が登場し、そのひとり瓊英は夢中で授かった投石の術で軍中きっての女将軍と謳われたという(つまり投石だけでなく女将軍も存在したらしい)。
さらに弩(石弓。後に矢を射るようになっても、この名前を持ち続けているのでややこしい)や投石機など戦争の主役級として投石が重んじられた時代があったのだろう。ここでは深追いしないけれど、石を一人前の武器・兵器とみなすことで古代〜中世あたりまでの戦争・戦闘のイメージはだいぶ変わってくるはずだ。
一方で、無名の羊飼いダビデにも暗示されるように、投石には矢や剣・鉄砲まして近現代のミサイルや
「重さ3kgを超える精密機械としての機関銃」(2016年の日記参照)など持つに持てない庶民たちの、手っ取り早い抵抗の道具というイメージも抗いがたく付随し、それは民草の蜂起に共感・共鳴する者の「血をたぎらせる」。
小野不由美の異世界ファンタジイ小説『十二国記』に登場する祥瓊(しょうけい)は酷吏が支配する郷に流れつき、かの地で重税を滞納した者が見せしめで木製の刑具に手のひらを釘打ちされる刑罰を目撃する。思わず足元の石を拾い、処刑場を守る兵士に投げつける祥瓊。かつての公主でお嬢さま育ちの手が投げた石は力なく飛び、兵のひとりの背に当たっても倒すなどなく落ちて転がるだけだが「いま石を投げた不埒者は誰だ」と追われて逃げる中、そんな酷政を覆そうと反撃の機会をうかがう一団に救けられ、同志に迎え入れられる(『風の万里 黎明の空』)。
羽田の投石に『つぶて』の著者が血をたぎらせたように、僕にとっては『十二国記』で五指に入る名場面・
「年甲斐もなく血のたぎる」シーンだが、よく注意して読むと、祥瓊のけなげな投石は「いいぞいいぞ酷吏め、いいかげんにしろ」と呼応した民衆蜂起・には・つながらない。人垣を割って逃げる彼女に手を差し延べ、地方の反乱に立ち上がるのは(そもそも貴族の祥瓊自身も含め)つぶてではなく剣や矢で武装し、正規軍の兵や将軍として戦った経験もあるプロフェッショナルたちの「前衛」であり、民が手に手に石を取り投じる(パリコミューンでも光州でも羽田でも見られたはずの)光景が異世界・景国で繰り広げられることは到頭なく、事態は神託によって選ばれた王の強制介入で調停される。
それが『十二国記』という物語の(近作は追いきれていないが)「史観」であり民衆観なのだろう。今の僕はそのことを多少残念に思うけど、それを同作の限界とか欠点とかあげつらう気はない。20世紀の独裁政治の悪夢を描いた
ジョージ・オーウェルの『
一九八四年』でも、パーソナルな反乱に走って破滅する主人公はインテリ層の官僚で、支配に従順なプロレ(ニュースピークによる「プロレタリア」の省略表現)に蜂起を期待しても無駄だと分析されている。何より、祥瓊の投石でも「だからこそ今後は民の一人ひとりに独立不羈の王になってほしい」という陽子の初勅でもなければ
「責務だと思ったから」王になる試練に挑んだ珠晶の無謀(『図南の翼』)でもなく、物語の端々で主人公たちを苦難から救ってくれる「ネズミさん(楽俊)」に帰依し「私もネズミさんに癒やされた〜い」と嘆いてみせるのが同作の感想の「型」になっていた(
個人の観測の範囲です)(ので『図南の翼』を真に受け「責務だと思ったから」の台詞を胸に安保法制反対や共謀罪反対・ソ連のウクライナ侵攻やイスラエルのガザ虐殺に抗議するデモに参加していた馬鹿正直が「自分以外に」居たのなら逆に知りたいくらいです)ことが、少なくとも90年代に同作を受け容れた空気の中では、人々は祥瓊のように石を投げはしない・民草に蜂起は期待できないという同作の醒めた認識を裏づけていた(とも言える)と考えるばかりだ。

『十二国記』の初期エピソードには、60年代の学生運動の現場から異世界にテレポートしてきた人物が登場する。渡ってきた当時はたしか学生で、異世界では学のある客人として遇されている彼は、日本のことを
「わたしが革命に失敗して逃げ出してきた国です」と語る。
国会前に60万人が押しよせ岸政権を退陣に追い込み、羽田の投石で『つぶて』執筆のきっかけを作った(戦後の日本にもあった)民衆の反乱は、内ゲバや総括という名のリンチ・「あさま山荘」事件で敢えなく自滅する。『十二国記』作者の小野不由美氏は、もしかしたらその自壊の光景ばかりをリアルタイムに体感した世代かも知れない。
それが「敢えない自滅」だった・そこで日本の反体制運動は未来を失なったという物語じたい、80年代レーガノミクスやサッチャリズム・新自由主義の「勝利」とソ連の「敗北」・天安門事件などを通して後づけで作られた「神話」な疑いも個人的にはあるのだけど(とまた話を散らして今週は終わる)。
来週はぜんぜん違う・そしてひたすらしょうもない話をします。

【余談1】
左卜全氏の「ズビズバー」が「シュビドゥバ」のパロディなのだと気づいたのは(例によって)ようやく最近のことだ。当時をリアルタイムには知らないので、ぼんやり知ってる範囲で並べてみると
・テレビ番組『11PM』
(シャバダバ シャバダバー)の放映開始が1965年、
・青江三奈「伊勢佐木町ブルース」
(ドゥドゥビ ドゥドゥビ ドゥビドゥバー)が68年
・加藤茶(たぶん)が間奏で
「シャバダバダッ シャバダバダッ シャバダッ シャバダッ」と歌い上げる「ドリフのズンドコ節」が69年で
「老人と子どものポルカ」が70年。
「シャバダバダ シャバダバダ…分かるかな?分かんねえだろうなぁ〜」のスキャット漫談(松鶴家ちとせ。知ってるかな?知らねえだろうなぁ〜)が流行った74年には、濁音のシャバダバではなく
「シャランラ シャランラ ヘイヘヘーイ シャランラッ」と歌う『魔女っ子メグちゃん』が現れ、80年サザンオールスターズ「シャ・ラ・ラ」で濁音のシャバダバは完全に息の根を停められる。一方で荒井由実が松任谷由実となり、フォークが「ニューミュージック」へと移行していった時期と不思議に重なる…
というのは、もちろん冗談。もともとシャバダバダ、シャバドゥビといったスキャットは欧米のジャズやポップス由来だろうし(アイアン・バタフライの「
ガダダヴィダー」はシャバドゥビ系のスキャットと関係あるのだろうか?←
限りなくどうでもいい)昭和ポップス史にしても全然知らないからね。
ただまあシュビドゥバ系のスキャットが当時一世を風靡していたこと+「ズビズバー」がその流行へのコミックソングらしい敏感かつ・お手軽なアンサーだったのは間違いないでしょう。
・参考〜令和に蘇ったシュビドゥバ:
フランシュシュ6号 - リトルパラッポ(アニメ『ゾンビランド サガ リベンジ』挿入歌/YouTube/外部リンク)
【余談2】
神事・儀式としての投石については来週(しょうもない形で)述べる予定ですが、そこから派生したとも、また民が投じる礫の負の側面とも言えるのが、権威への反抗ではなく民みずからが権威となって投げつける刑罰・リンチの石だ。
「石もて故郷を追われる」という言い回しがあるように、また新約聖書の「罪のない者だけが彼女に石を投げなさい」の説話どおり、満場一致によるスケープゴートの放逐・殺害の手段となるのが投石であり(なので『つぶて』もまた無条件な投石礼賛の本ではない)創作の分野でこの経緯をもっとも端的に(残酷に)示しているのは
シャーリー・ジャクソンの短篇「
くじ」であろう。『つぶて』の考察は創作物には及んでいないので、記しておく次第である。
積分の楽しみ〜マイケル・ポーラン『欲望の植物誌』(25.07.06)
人が本を読んだり物語を享受したり、あるいは作り手として書いたり描いたりする時の「頭脳」というか思惟のはたらきには微分と積分、相反するふたつのベクトルがあるのだと考えている―
―などと言うからには自分は微分派なのだろう。つまり「この車は何処そこまで行けるぞ」という物語から「つまり時速○○ですね」と速度を抽出(微分)し、さらには「停まってる状態から走り出して、アクセル全開で○分で時速○○km/h(←さっきは微分・抽出の答えだったものを→)に達するということは(→さらに微分・抽出して)毎秒○○ずつ加速してるんですね」と加速度まで求める。それはどういう意味かと、そこからどういう法則なり真実なり・アルケー(起源)なり未来なりが導き出せるのかと問わずにいられない。
こうした傾向を「微分」型と、仮に呼ぶものとする。

点が三つあれば三角形を・点が二つあれば両者を結ぶ線分を求めずにいられない。本を読んで何かしら「発見」がないと読んだ気になれない…とは言わないまでも
少なくともサイト日記(週記)に書ける気がしない(笑)。創作ですら最初に思いついたプロットが「こういう意味だったのか」と自分の中で「化け」ないと描いた気になれない(こういうタイプの描き手はどうしても自分の計算の外に「天啓」なり「物語の神様」なり「キャラが勝手に動いた」を想定しがちなのは別の話)。
「私たちは、自分が理解もせず理解も出来ぬもの−因果律、公理、神、性格など−に物を還元した時、初めて物を本当に理解したと感じる」と皮肉たっぷりに看破したのはお馴染み社会学者の
ジンメル(『愛の断想・日々の断想』岩波文庫)だが、走る車から速度を・さらに加速度を微分・抽出しようとする思考のベクトルは「○○とは何か」「○○とは何かとは何かとは何か」「この世の混迷をすべて解消し人々を導く『たったひとつの音』があるんでないの(レッド・ツェッペリン
「天国への階段」)」と究極の・最後の答えを求めがちで、したがって多くは不完全な人間の営みであるがゆえに破綻し、または(それこそ神とか)外部に突破口を求めようとし、そしてあるいは語り論評し物語る「対象」の破滅を求めるようになる。

昨年の冬、雪に埋もれた北海道の駅舎で(とても楽しい旅行でした)ミシェル・フーコーが、僕などにしてみればあんなに(対象=刑罰に関して)可能なかぎりを語り尽くしたように思えた、世間的にも彼の最高傑作と呼び声no
高い『監獄の誕生』を
「ここで本書を中断する」という結語で終わらせたのを読んで「頭のいい人は、これでも満足できないのか(もっと遠くに行けないと気が済まないのか)」と半ばあきれたものだし(
個人の感想です)、逆に有名な「人間の消滅」で終わる『言葉と物』には己の思索で世界を終わらせる昏い喜びが漲(みなぎ)ってはいなかっただろうか(
個人の感想です)。
けれど(こんだけまくしたてておきながら)今回のテーマは微分ではない。
微分型の思考があり読書や創作があるならば、積分型のそれもあるはずだ。「この車の加速度はこれこれで、時速はこうこうです」→「
それなら、いろんな処に行けますねえ!」
今年はじめの日記(週記)で歴史家のポール・ヴェーヌが「社会学は概論を抽出するために出来事を利用するが、歴史学は出来事を説明するために概念を利用する」と書いてるのを引用したとおり(
今年2月の日記)―というか今回いままで書いてきた微分云々は、この2月にマクラで書いた話の焼き直しで、
なんなら先般のジンメルの警句もソックリ同じ形で引用してるのですが(たぶん五千回くらい引用してるのではなかろうか。好きなフレーズなのだ)思えば折角いただき物の
ブローデル『地中海』全五巻をなんだかんだで読みあぐねているのも、まさにヴェーヌ言うところの歴史、積分の最たる著作という理由が大きいのかも知れない。
微分しにくい・ただその道程を楽しめよという書物は、手一本でつかめるハンドルがないため、落ちないよう全体を両腕で抱きしめるしかなくて、扱いかねるきらいがある。特に読んだ後その感想を「まとめる」のは難しくて

捉えきれないか、全体でなく足の一本だけ切り取って話を広げる、みたいなことになりがちだ。ずっと昔だけど
石田幹之助『長安の春』(これもまさに歴史の本)でマスゲームの起源だけ切り取って日記の体裁を整えたように(
12年3月の日記参照)。『
命がけで南極に住んでみた』(
21年3月の日記参照)も「この本(と描かれてる南極)全体を愛せ」という本で、すこぶる面白かったけど抽出には正直困ったし、(もう何年だったか忘れたけど)読んだ年のベストと何度か言及したはずの『
タコの心身問題』も絶賛しながらキチンとした日記・週記の形では書きようがないまま今日に至っている。
マイケル・ポーラン『欲望の植物誌 人をあやつる4つの植物』(原著2001年/西田佐知子訳・八坂書房2003年→新装版2012年/外部リンクが開きます)は無類に面白い本だけど「4つ」の副題からも分かるとおり「たった一つの答え」を抽出する気はハナからない。
こういう本が一番厄介なんですよ(嬉しそう)。

いや、正確には抽象・還元できる「結論」は無いではない。人を惹きつける四つの要素=「甘さ」を代表するリンゴ・「美しさ」の具現化であるチューリップ・「陶酔」をもたらすマリファナそして「管理」欲によって整形されつづけるジャガイモ…人の手によって一方的に改造を加えられた・と・考えられがちな植物だけれど、それは花がハチを利用し・時に互いに最適化させるように、人と植物も相互に影響しあい「共進化」してきた、というのが本書の一貫したメッセージだ。
けれど本書は概念を事例から抽出するのではなく、概念を敷衍して事例のほう=人と植物の関わりを説き広げていく積分のミッションだ。
ジョニー・アップルシードの伝説やオランダのチューリップ・バブル、アメリカ人の著者自身がマリファナ栽培で危機一髪だった話(笑)にアイルランドのジャガイモ飢饉…積分的なエピソードが山盛りで退屈しない本書は、なるほど一方でハッとさせられる微分的なひらめきにも事欠かない。個人的に一番ビックリしたのは「人間はどうして花に美を感じ、惹かれるのかしら?」という「空はどうして青いの?」みたいに頑是ないかに思われる問いに「
花が食べられる果実や種の存在を、しかも実際に果実や種が姿を現すよりも早く(だから上手くすれば競争者に先んじて)察知できる指標だったからではないか」という仮説で応えているところだ。花が多くもつ対称形の美も、それが健康の証であるがゆえに(病気や何かがあると対称性は崩れがち)好ましいもの=美と認識されるようになったのだ、と付け加える必要があるだろうか。
しかし重ねて言うが、こうした抽象度の高い思惟も「人と植物の関わりの面白さ」という積分の楽しみに奉仕する一要素でしかない。
マクドナルドの規格的なフライドポテトに心から魅惑され、それに適したジャガイモを確保するため遺伝子操作にまで手を出すアメリカ人の度しがたさは、抽象的・還元的・微分的な語り手の手にかかれば「こんな間違った世界は終わるべき」という終末待望論やメシアニズムの格好の素材かも知れない。だけれど著者はあくまでプラグマティックに別の種類のジャガイモを植え、積分的に世界を祝福しつづける。
原著の出版から四半世紀が経過して、もうカエルの池は煮立っているんだが?と焦る立場からは何とも歯がゆくもあるけれど、自身(好奇心でマリファナ栽培に手を出したこともある(笑))園芸家で、日々庭で土をいじっている著者の「人と植物は共進化」「まとめて世界を抱きしめよう」という積分には、液晶ディスプレイを前に恐怖や焦り・憎しみに熱暴走しがちな頭脳を涼しくさせる効能もあると、認めざるを得ないだろう。
スマートフォンにのめりこんで目の前の隣人には目もくれないまま、画面が訴える「吾々ファースト」に「いいね」するヴァーチャル国粋主義・観念的レイシズムの解毒剤に。
*** *** ***
(25.07.12追記)取り上げたくなる四方山話が多すぎて逆に収拾がつかない『欲望の植物誌』ですが、このまま忘れてしまうには惜しい小ネタをひとつだけ自身の備忘も兼ねて記録しておくと、当初アメリカでリンゴ栽培が広まったのは自家製サイダー(シードル/発泡酒)の原料としての需要が圧倒的で、それが後には法制化までされた禁酒運動のあおりで窮地に陥り、健康志向の新路線で売り出すため考案されたのが「
一日一個のリンゴは医者いらず」という「
伝承」だったらしい。カリウムや食物繊維やポリフェノールでリンゴが身体にいいこと自体は事実だし、リンゴがウナギみたいにフードロス上等の乱獲で絶滅の危機に瀕することは当面なさそうだけれど、自分(たち)が自然発生のように思ってる伝承やら「常識」やらが、ある時期に創作考案された(それも往々にして広告のためだったりする)可能性は、たえず注意しておいたほうがいいのかも知れない。
小ネタ拾遺・25年6月(25.07.02)
(25.06.01)ネット広告で
「耳を揃えて返しやがれ!」と凄んでる漫画の一コマを見て『
和尚の逆襲・平家の亡霊を追え』みたいな内容を想像するなど。6月。※よりストレートに『芳一の逆襲』でも良かったんだけど逆襲は芳一のキャラじゃないなーと思い(
和尚だってキャラじゃないだろう)
(25.06.04)結局6月も原稿どころじゃなかったのですが、ちゃんとペン入れしてドアの外に出す。
「銀河パトロールが、いつも、銀河中のありとあらゆる知的生命体を守っているのです」
(25.06.06)諸説はあるみたいだけど英語圏ではシェイクスピアが『ヴェニスの商人』で「起用」するまで
ジェシカという女性名はポピュラーでなかったらしい。それが今ではジェシカ・ラングにジェシカ・ハーパー、ジェシカ・チャステイン…ぜんぜん珍しくないのを思うに
十年前(9年前)初登場したときには「いくらフィクションでも日本語圏でそんな名前を子どもにつける親がいるとは思えん」とツッコミしきりだった黒澤さんちの「
ルビィちゃん」も、ここまでバズると十年後くらいにはありふれた名前になってるかも知れない。幸あれと今のうちに祈っておこう。四季ちゃんと歩夢ちゃんも。
(25.06.08)御大ブライアン・イーノ、好きなんだけど時に困惑させられることも皆無ではなくて(Underworldとの共作とか)、Beatie Wolfeというひとと共演した新曲のMVが美とかポジティブな明るさを感じる一方で
率直に怖い、というか慣れたら忘れてしまうかも知れない初見で感じた違和・不穏・不気味さも今は大事にしよう…
・
Brian Eno, Beatie Wolfe - Play On(YouTube/外部リンクが開きます)
2017年頃?にTwitter(現X)でバズったネタ動画・
TUBEの映像にブライアンイーノの曲を合わせる遊びをしていたらめちゃくちゃ不安になってきた。(これはYouTubeにサルベージされたもの/外部)を思い出してしまった(
本当にすみません)。
あと言うほどには怖くないけど「怖いCM」に分類されてた(制作者側も狙ってたと思われる)
協和発酵 ザ・オリエンタルカクテル 美食酒家YUM(外部)も少し思い出しました(
すみません)
(25.06.10).**
Happy pride month **.…ということで久しぶりに
クリスティーナ・アギレラ『ビューティフル』のMVを見返す。LGBTQのアンセムというだけでなく
「あなたは(私たちは)美しい―誰がとやかく言おうと」と歌うことで逆説的に「美しくない」「キモい」と嘲られ忌避される(あるいはそういう規範を内面化して自ら傷つく)人たちに光を当ててきた、この歌とMVがリリースから20余年を経て
20年前にはシンパシーを感じたり・感じなかったりしながら、けれど他人ごとだと捉えていたマジョリティが「加齢」という事態を経て、改めてこの曲とMVを切実だと感じる可能性について考えてしまった。えー、つまり、いかに社会で多数派の民族に属し、性的にもマジョリティでも「老い」によって自身がスタンダードから滑り落ちることが、他の要因によってマイノリティな人たちを理解し尊重する契機になりはしないかと―
そうでなくして老いや衰えに何の意味があるのか、とは言いすぎなのだろうけれど。せんじつ実家で久しぶりに観たテレビで痛感した「いつまでも若々しく」と謳う健康食品やサプリメントのCMの多さを思うと「とやかく言う側」にしがみついていたい願望は強固で動かしがたく思えるけれど、あれもまあプロパガンダですからね。書き直したけど結局よく説明できませんでした。撤収撤収!
(25.06.11追記)実はアギレラの「ビューティフル」にはリリース20周年の別バージョンMVがある。だいぶ図式的で初代MVのインパクトとは比べ物にならないとも言えるけど
Christina Aguilera - Beautiful (2022 Version)(YouTube/外部リンクが開きます)
「美」を梃子(てこ)に尊厳を救おうとする同曲のアプローチは劇薬でもあって「スタンダードでない美」の称揚が「美というスタンダード」への屈従=ルッキズムに容易く乗っ取られてしまう危うさに、警鐘を鳴らさずにおれなかったのでしょう。
(同日追記)しかし大体みんな一人で悩んだり一人で頑張ったりしてる中「愛する人の存在」に救われてるのが新旧どちらのMVでも男子カップルなところにアギレラ先生の意外なこだわりが(???…台無しだ…)
(25.06.12)先月くらいだったか
「○○クレジットカードより、お支払い金額確定のお知らせです。30,000円 お心当たりのない方は次のリンクから御連絡ください…」みたいな詐欺メール(内容も内容だし「○○カードです」と言いながら発信元はyhnj?Xae$@何何ドットコムみたいなインチキ丸分かりのメアドなんだもん)が毎日毎日届いた時期があって、毎日毎日30,000円、毎日毎日迷惑メールとして通報してたら功を奏したのかパタリと来なくなって…それが半月だか一ヶ月ぶりだかに再び到来。
「お支払い金額確定のお知らせです。18,000円」
条 件 下 げ て く る な よ。別に値切る駆け引きで通報してたわけじゃないから。
(後日追記)その後ななんと「99,000円」に値をつり上げてくる。理不尽な!
(25.06.13)今でこそネタとして積極的に広めてこうって感じだけど数十年前
「ダブルチーズバーガーですね」と笑顔で承ったマクドの店員さんが奥の厨房に向かって
「オーダー『ダブチ』ワン」と呼ばわるのを初めて聞いた時は衝撃だった。ちなみに同じ頃モスバーガーの店員さんがスパイシーモスチーズバーガーを「
スパモッチ」と呼ぶのも聞いたことがある。
そうした従業員サイドの内輪の隠語・略語・符牒で久しぶりに遭遇したのは「ご注意ください!当店のごはん普通盛りは他のお店の大盛りくらいです」と謳う伝説的な肉丼屋。なんかむしょうに荒々しいものが食べたくなって温玉スタミナカレー・だけど加齢から来る己が胃の弱りを鑑みて「
ごはん少なめ」を選んだら店員さんが
「温玉カレー『シャリスク』入りまーす」
これまで伝説の某店を食べ支えてきた世代もそろそろ胃袋的に厳しくなってくるお年頃かもだし、このまま米の高値が続けば別のよんどころない事情もあるしで、流行るかもね、シャリスク。
(25.06.14)ホロライブENの
オーロ・クロニーさんによる「
好き好き大好き」のコピー・「完コピ」と呼びたくなる再現度のカヴァー。もちろん昔から愛されてた楽曲だけど(扉に
「愛してるって言わなきゃ殺す」の歌詞をエピグラフであしらった同人誌を「コミティア」で見たことは一度ならず…笑)動画コメントにどなたか書いてらっしゃるように、
【Cover MV】好き好き大好き - オーロ・クロニー(YouTube/外部リンクが開きます)
戸川純氏のオリジナルの頃には(まだ)この特異な世界をどう売り出していいか掴みかねていたのが「ヤンデレ」と言語化されネタ化された現在はじめて「適切に」描ききることが出来た観は確かにあるかも(もちろんそれで零れ落ちてしまったものはあるかも知れない。拾い上げるのは「零れた」と思った表現者の役割であろう)
オーロ・クロニーさんでは仲が良かったらしい七詩ムメイさん(卒業しちゃいましたね…T_T)に捧げた
ワン・ダイレクションの替え歌が好き。英語が分からなくても「あー何かすごくくだらないことしてる」と分かる可笑しさ、それでいて原曲とアレ?言ってること同じだ?となる愛らしさ。
Kronii Sing "What Makes You Insecure" for Mumei(YouTube/外部リンクが開きます)
連呼される
insecureが歌い手にまで伝染して
「キミの髪が翻るのを見るとボクまで不安になる」ところ、たまんない。
(25.06.16追記)ちなみにクロニーさん、
半年ほど前の日記(24.10.12)で紹介した「baby goat or matter baby」のジョークに引っかかって悶絶してる人です…と言いつつ逆に彼女の仕事?作品?workはこの三つくらいしか知らないので、世にいわゆる「強火のファン」とは正反対の弱火も弱火、よく存じ上げないが楽しそうでいてほしいと願うていどの「とろ火ファン」という概念を提唱したいところです。
(25.06.17)あれ?コンロの火つけっぱなし??(怖)…いや「素」で台所が暑いだけかハハハ…という時季が早くも到来しました。早くもって、もう6月下旬ですけどねハハハハ…
(25.06.18)イスラエルの蛮行や気候変動や(この国内での)排外主義のことなど山積してるのに巫山戯た話ばかりなのも遺憾なのだけど、道に迷って右往左往の果て「あ、この看板は見覚えがある(こっち方向で間違いなかった)」と見つけた・憶えてたのが
「ベル○イユの豚」なるレストランで、まあ忘れにくい店名だし方角は間違ってなかったけど、何か間違ってる気がする。

道に迷ってる間に
「とんかつ ○に、揚げる。」なる別のお店も見かけて、この街(池袋)の人たちは豚を何だと思ってるのか。

まあ豚だけど、どちらとも別の、ジュンク堂書店そばの洋食屋でオリエンタルライスなるものを食べました。何枚かある看板メニューの別メニュー「元祖ポークたれ焼き肉」、
金沢(石川県)宇宙軒食堂の名物・とんバラ定食と同じオーラを感じるので、近いうち再訪して、遠い古都を思い出すヨスガにしたい。気候配慮した肉以外のタンパク源は自炊で追求するとして…(いちおう気にしてはいるのです)
(同日追記)んでジュンク堂から雑司が谷方面に少し歩いたところにあるタイ焼き屋の数量限定・チーズあんこタイ焼きを、やはり遠い豊橋の銘菓チーズあん巻きを思い出すヨスガにしたい。どこもかしこも遠いなあ。
(25.06.19)店頭スピーカーで小田和正がエンドレスに流れ看板の売り文句
「ジンギスカンしよ(ハート)」が
分かる世代にはじわじわ来る横浜・伊勢佐木町の「
東京ラムストーリー」は別の店に替わられたのを先日確認。いや2022年には開店を確認してるので、逆に健闘した部類でしょう。美味しかったのかも知れない(
未踏。
ヒツジだけに。うっさいわ。)

そして新店は羊からタヌキへ…ひょっとして化けた?あまり憶えのない「
町焼肉」
なる新概念をシレッと標榜してるあたり、もしかして中の人は同じかも知れない。キライではないよ(下戸なのでコチラがお呼びじゃないけど)。
(25.06.21)トルコ料理って食べる機会あんまりないんだよね、気軽に行けそうなお店も(ダンスショーとか敷居が高すぎる)近場で思い当たらないし…などとテキトウなことを話していたら

※横浜だと神奈川県庁の近くに昔からの小ぢんまりした食堂がある。
※そういや
昨夏に金沢でバクラヴァとトルココーヒーのお店に行ったわ…
「ケバブサンド、手軽なんじゃない?」
ああそうか、ケバブサンド、トルコなの?まあトルコですよね?

近所のスタンドでSサイズを持ち帰り。真ん中を割いて袋状にした薄切りのピタパンに千切りキャベツをワッと入れケチャップ・マスタード・オレンジ色のソース(オーロラソース?)をかけ回す。ケバブ肉を盛りつけてまたケチャップ・マスタード・ソース。最後にフライドポテトをワシャと載せて500円。高年齢にはけっこうな食べごたえ。これでS?
ドSなのでは?これのMを頼むひと、
ドMなんじゃない?
そこそこ野菜(キャベツ)が取れるのも好いところ。塩味のヨーグルトドリンク「アイラン」を自宅で作って冷やしておけば、ちょっとした旅行気分を味わえるかも知れない。というより、もうとっくに「向こう」が「こっち」に来てるんですよね。
(25.06.22)

(25.06.24追記)言葉が足りなかったので補う。
「どっちもどっち」とか言いたいんじゃない。「アメリカは」理不尽な爆撃をやめろ。あと日本、便乗して軍備増強モードに入ろうとするなよ。
(25.06.24)
Just because you're paranoid doesn't mean they aren't after you.(たとえお前がパラノイアでも、本当は監視されてないって理由にはならないぜ)というニルヴァーナの歌詞が、有名な小説『キャッチ22』からの引用だったと(別の本経由で)知る。
・1:25あたりから→
Nirvana - Territorial Pissings(YouTube/外部リンクが開きます)
別の本経由で今ごろ知るということは、当然原典は未読なわけで、なのに「
あのキャッチ22」とか「
まさにキャッチ22な状況」とか言い出しかねない自分、ニルヴァーナ(とかジョイ・ディヴィジョンとか)ロクに聴いたこともないのにニルヴァーナやジョイ・ディヴィジョンのTシャツ着てる連中をとやかく言えませんな…(いや、ああいうTシャツ着てる人たちは皆ファン、もしくはTシャツがキッカケで聴いてみたくらいの義理はキチンと果たしてる人たちなの?ヴェルヴェット・アンダーグラウンドは?『エクソシスト』みんな観ててTシャツ着てていいくらいに好きなの?)←パラノイア的な詮索
(25.06.25)おいしいものに貴賤なし。これはこれで贅沢な夕餉。
(25.06.26/
もしかしてスゴく初歩的な話してる)今夏、肉がほしい場面での代用として期待の大きかった車麩。食味・食感は申し分ないのだけれど(親子丼の替わりにすると優しくて好いお味)栄養面では重量の25%がタンパク質。おお、いいじゃないのと思ったのは一瞬で、おつゆを吸う前の車麩は一枚が約8gつまり2g…鶏卵が含むタンパク質は一個あたり6g・麦ごはん一膳(150g)約4.5g、
ごはんにすら負けてる…

えっと…調べると鶏もも肉50g(タンパク質は4倍)の、カロリーは1/3ですので、ダイエットにはいいかも…
(25.06.28)防衛省がヨーロッパと共同開発しているらしい次期戦闘機に、前の戦争で零戦の後継機種に使われるはずだった「烈風」という名称を復活させたがってると知り、悪いが本当にゲンナリしている。
育毛剤くらいにしときなさいよ…いや、育毛剤に戦闘機の名前(紫電改)とかつけちゃうセンスもどうかとは思うが…
(同日追記)烈風が実用化されていれば戦況だって…みたいなロマン(ファンタジイ)については・アメリカも性能面で優る後継機種を投入したろう的なこと以前に・どのみち勝てる戦争ではなかったし・
勝っていい戦争ではなかったとしか言いようがない。実はこの最後の大前提(あれはやっていい戦争ではなかった)が防衛省に+この国の有権者の大半に、大前提として共有されてないことに静かな危惧を憶える。
(25.06.29追記)とはいえ、若い人は御存知ないと思うけど少なくとも昭和50年代の子どもたちはジャンケンのグーチョキパーをグー=軍艦・チョキ=朝鮮(もしくは沈没)・パー=ハワイと呼び変える遊びをしていたし、追いかけっこに水雷・駆逐(艦)・艦長とランクをつける遊びは小学校のレクリエーションで先生がおおっぴらに指導してもいた。ある意味で戦争はおおっぴらに「ネタ化」されていたし「あれはやっていい戦争ではなかった」も何もなかったというレイヤーは日本人の生活にずっと一枚あったのだと思う。ただまあ「そうはいっても現実として戦争はまずい」というレイヤーが建前としては上位にもあったはずで、その建前上の上位が通じなくなりつつあることを危惧してるのかも知れない。
同じく昭和50年代に中島みゆき氏は
「ガラスの靴を女は隠して持っています 紙飛行機を男は隠して持っています」と歌ったけれど(「誘惑」)今となっては随分ティピカルな喩えだと揶揄するのは簡単だけれど、少なくとも「隠して持つ」ことが「たしなみ」だった紙飛行機をおおっぴらに振り回すことが恥ずかしくなくなった・それは(昭和50年代の次に来た)オタクの時代の勝利の、僕視点では「負の側面」になるのかも知れない―とくにオタク的なコンテンツを通してガラスの靴を「男も」隠し持ってると気づかされた僕の視点では。多分に「いい歳してやめろよ、子どもか」的な気持ちが「烈風」復活へのゲンナリ感の根っこにあるのかも知れない。中島違いで中島梓氏の、何度も引用したけれど「今後オタクがマジョリティになれば、子どもの柔軟さと大人の良識を兼ね備えた理想の人格が生まれるかも知れない。けれど
子どものワガママと大人のズルさを兼ね備えた最悪の存在になるかも知れない」(
大意)という予言/戒めは、僕の物事を判定するレイヤーのかなり上位にありつづけている。
(追々記)念のため、レイヤーって
こういうもの(画像に移動します)過去の日記で(
こちらよ)同じ場所に居てさえ人によって体験するものは違う=それはレイヤーが違うから的な話をしたけれど、レイヤーは一人ひとりの中にもあるのだろう。SNSでパレスチナやウクライナに連帯するアイコンを自分のアカウントに貼りつけながら、自国の排外主義には賛同ということも(腹立たしいけど)多々あって、たぶんこれも僕がSNSから撤退した理由の(別の)ひとつ。
(25.06.30)今年の半夏生は7/1ということで、先んじて冷凍だけどタコ焼きを確保。といっても地域によってネギを食べたり鯖を食べたり芋汁を食べたり様々みたいで、本来タコを食べるのは主に近畿一部の習慣だとか(さもありなん)。讃岐ではうどんを食べるそうな(さもありなん)。

てゆか今日6月末日は京都では「水無月」を食べる日なんですね。あれも風情があって素敵なお菓子。あらゆる場所のネギやうどんやタコや芋汁そのた諸々に、それらを愛でるひとたち・それを供するひとたちに、国籍とか性別とか関係なく幸あれ。また来月。
楽園の瑕〜ヤニス・バルキファス『クソッタレ資本主義が倒れたあとの、もう一つの世界』(25.06.29)

ジュール・ヴェルヌの昔から、SFは未来予測(の側面を多く含む表現形式)だった。
ちくまプリマーブックスから『
百年前の二十世紀 明治・大正の未来予測』(1994年)なんて本も出しておられた
横田順彌さん。その初期の代表作は研究と言うより、明治・大正期の国産SF(古典SF)というジャンル自体を独力で立ち上げてしまった『
日本SF古典こてん』(早川書房1980〜81→集英社文庫1985年)。今にして思えばジャンル創成期・確立期の労でもあるのだろう、三大奇書の一角としてミステリ(アンチ・ミステリ)に分類されている夢野久作の『ドグラ・マグラ』なんかも同書は「これはSF」と勝手に?分捕り、僕は『ドグラ・マグラ』を最初はSFとして知ったのだった(笑→実際に読んだのはようやく数年前)。でもヨコジュン氏とも交友のあった梶尾真治さんが同作にオマージュを捧げた『ドグマ・マ・グロ』はアッと驚くSFだったし、いいのかSFで。
今週は時間もないし←そういうメタ的な丸投げは止しなさい。
その『日本SF古典こてん』で忘れられない話が、いつごろ書かれたのだろう、男女の地位や立場が逆転したパラレルワールドに行きて帰りし男の体験記(という体裁のSF)だ。男女逆転ということは服装もで、向こうの世界では男がスカートを履く。すっかり向こうに適応してスカートにも慣れ、向こうで女性の伴侶も得た主人公は、しかし最終的にはこちら側の世界に戻ってくることを余儀なくされる。たしかに自分は向こう側で暮らした、伴侶だっていたのだ…という寂しい想いに時折とらわれる主人公は、そんな時は自宅でこっそりスカートを履いて溜め息をつくのだった…
読んだ当時は考えつきもしなかったけれど(そもそも知らなかった・そして今でもよく知らないのだが)『暮らしの手帖』の
花森安治さんがスカートを履いて話題になったのはいつ頃だったのだろう。もしかしたら男女逆転の古典SF・そのペーソス溢れる結末は、現実世界のアクションへの、フィクション側からの反応だったのかも知れない。
* * *
作家が大臣になることもあれば、元大臣が作家になることもある。
ヤニス・バルキファス『クソッタレ資本主義が倒れたあとの、もう一つの世界』(原著2020年/江口泰子訳・講談社2021年/外部リンクが開きます)は経済学者として各国の大学で教えた経歴を持ち、2015年には出身地のギリシャで大臣もつとめた著者が、もし2008年の世界金融危機で「資本主義が倒れ」たパラレルワールドと、(各国政府が全てをかなぐり捨てて資本主義を固持した)こちら側の世界がワームホールでつながったら、という設定で書いた、ゴリゴリのSF小説だ。
ワームホールが出現するに至った経緯も(それでそうなるかぁ?とツッコミたくはなるものの)別の技術話として読ませるし、つながった二つの世界で交流する主要な三人=コスタ・アイリス・イヴァは「向こうの世界」でも同じ名前なので区別のため向こうは便宜上「コスティ・サイリス・イヴ」呼びするというくだり、
今ちょっと頭が回らなくて具体に思い出せないけど(大丈夫かぁ?)量子とか反粒子とかの呼びかたみたいでニヤリとさせられる。
もちろん本丸=向こう側の世界の話も存分に面白い。要は2008年のピンチをチャンスに変えて活かし尽くしていれば世界は、経済は、生活はここまで変わり得た、という話ではある。けれど本サイトでも何度も何度も書いているように、
何かサイエンス的な発明や未知の物質・異星人の介入がなくても、社会制度を変えるだけで世界はガラッと変わってしまいうることを示すのも、またSFの醍醐味であり、本書は(なんならオーウェルやル=グウィンの系譜に連なる)社会SFの名に恥じないだろう。
隠棲した反体制の闘士(反体制すぎて反体制の体制さ加減までイヤになった)アイリス、新自由主義の信奉者だったが2008年の危機で裏切られ意気消沈しているイヴァ、そして両者を仲介しつつ本人は「技術は人を幸福にしうる―だがそれをドアの外に出す企業はどうだ?」と葛藤しているコスタ。こっちの世界ですでに見解を異にしている三体?ならぬ三人が、さらにそれぞれの意見を向こう側のサイリス・イヴ・コスティとぶつけていくさまは、手練れの小説として楽しく読めるし、
もちろん何より「あの日、赤いピルを選ばなかった」こちら側の世界の吾々=読者が垣間みる「もう一つの世界」は何にも増しての本書の魅力だ。
なので今回は端折る。簡単にいえば著者が考える理想の社会、そしてそれを通して語り尽くされる「それに引き換え、なんでこちら側の世界はこうなっちゃったのか」。
ひとつだけ挙げるなら、今の「経済」とやらは生産も生産者も消費も消費者もとっくに離れた金融ゲーム(先物買いのために前借りして、先物買いの結果で得られる利益で前借りの借りを返すけど、そもそもその先物買いの利益も別の何処かから前借りして得られる見込みの利益…みたく停まったら倒れてしまうナポレオン三世的な自転車操業)で、その架空のゲームで巨大なカネの動きを作るためなら(作らないと倒れちゃう)戦争も歓迎される強欲さで現実の社会や生活がコテンパンにされる…みたいな事情を、本書はあらためてゲンナリ感とともに再確認させてくれる。これでも多く喋りすぎた。
あとは本書をどうぞ。
と、大幅に同書の内容を端折ったうえで、余談だけしておきたい(
書き終わって振り返ると、この余談が例によって長いんだけどな)
本書はワームホールに事よせて、それなりに行政経験のある経済学者が提示した「理想の社会像」だ。経済学者として経済学の話だけ書くのなら、理想の提示だけでもいいだろう。
でも、小説となれば話は別だ。
資本主義が滅んで富の独占がなくなり、不条理なほどの格差も(個人間でも国家間でも)なくなったはずの世界で、それでも2020年に金融危機が発生した―という物語を終盤、作者バルキファスは提示する。えー、理想の社会じゃなかったのという気持ちと、よしよし理想のまま終わられてたまるかという気持ちが半々になるけれど、あっさりネタを割ってしまえば(
ネタバレ注意)この危機は世界的な協調によって素早く回避され、すみやかに防止策も整備される。
やはり向こう側の世界はすべてが願ったりかなったりなのか。皆が自由でしあわせな社会は、こんな手が届くところにありえたのか―そう思わせたところで、この危機はどうやら読者の注意をそらすためのミステリで言うところのレッド・ヘリング=偽の容疑者だったと分かる。向こう側の世界も、けっしてユートピアではなかった―ある一点の問題が結局は解決されておらず、にも関わらず社会がなんだか上手く行ってしまってるので解決はより遠くなった―こちら側の主人公のひとり・怒れるアイリスは見ため楽園な「もう一つの世界」への徹底的な拒絶を示すのだ。
はい、ここには書きません(楽しいなあ―最後にヒントだけ提示しときます)。やっぱりソコになるよなあ・それが2020年のマナーだよなあと、一応おなじ創作者として納得しきりだったことは申し述べておくとして―
僕が僕で「この世界は理想かも知れないが―これはこれで僕にはキツいかも知れない」と思ってしまった理由は別にある。アイリスのまっとうな怒りよりは、ずっと卑小だが、それはそれで深刻な理由だ。
コスタならぬコスティが暮らす「もう一つの世界」では、たった一人のCEOが巨大な資産をほしいままにして末端の零細労働者を搾取したり、まして株だけ持ってる大株主が株価のためだけに戦争に加担したり環境を汚したりすることは原則上ありえない。話せば長いが企業に属した個人は、まずもって全員が一律の俸給を得て、そこに働きに応じたボーナスが加わる。「働きに応じた」というのは少し端折りすぎで、各社員が投票権をもっており自身以外の誰かに「私はこの人がボーナスに値すると思う」と一票を投じることができ、それぞれの得票に応じてボーナス用の資金が分配されるというのだ。これなら地位による報酬の階層化はなくなり、皆が納得・皆がしあわせになるとバルキファスは提案する。
これもまた要約しすぎで上手く伝わってないかも知れないが、
要はこれが僕にはつらい。もちろん「私の一票は、いつもトイレをきれいに清掃してくれる清掃員さんに」みたいな再配分のしかたもできる。できるけど、いや出来ればこそ、それは
「あなたの『存在』はどれだけ同僚や社会に貢献していますか」と社長も平社員もたえず評定される究極の成果主義・自分も他人をたえず評定しなければならない究極の相互監視社会・「まなざしの地獄」なのではないだろうか。
んー、著者バルキファスは不公正とされる現実の現代社会でも教壇に立ち議員になり、己の実力が(まあ当人には「まだまだ」という気持ちはあるかも知れないが)評価され、また評価されるに値する実力を自身は有していると誇れる人間なのだろう。主人公のコスタ・アイリス・イヴァたちも、それぞれの形で挫折したとはいえ社会で一定の評価を得て…あーめんどくさい、要は先週の日記(週記)で紹介した『スーパーノヴァ』の主人公たちと同様の成功者たち。だから分からないのかも知れない。この文章を読んでいる「あなた」にも分からないかも知れない。
世の中には「真に公正に自身の実力や存在が評価されたなら」
自分なんて消しゴムのカスだろうと悲観せずにはいられない、めちゃめちゃ自己評価の低い人間もいるのだ。現にここにいて、今キーボードを叩いている。
けっこう重要なことなのに誰の言葉か忘れてしまったが(少子化を解決できるのはお前らだと言われながら実際に出産すると誰も助けてくれないシングルマザーとか
本当に深刻な格差は解決が必要として)あるていど不公平で、実力や「真のポテンシャル」
ではなく運やコネ・家柄などで差がついてしまう世の中は、それが完全に自分の実力・自己責任・自分の器・自分のせいとされるより「仕方ない、運もなかった」と思えるだけフェイルセーフ(落下防止装置)がついている、とも言えるのだ。
「赤いピルを選んだ」という慣用句を先に使ったので(スクロールして上のほうを見直してね)出典である映画『マトリックス』を引用させてもらうと、あの映画=続篇の『マトリックス・リローデッド』が告げていた「人は完全な支配には反抗するが、ある程度の選択肢を与えてやれば自分が選んだという理由で隷属を受け容れることだってできる」(選択の自由が人を安心させる)もまた一面の真実なのだろうけれど、逆に「選択の余地がない領域」の存在もまた、人を安心させる。
これは一方でとても有害な発想でもあり、たとえば国民みずから歓迎して起きた米不足や戦争すら「あれは仕方なかった」「私たちにはどうしようもなかった」と天災のように扱うことも出来る。
それがバルキファスは許せないのだろう。2008年の世界金融危機で人類が「青いピル」を選んだ・あそこで格差と搾取と間違った資産運用の社会を根本的に変えられたのに変えなかった・それを「選べなかった」「仕方なかった」と言うのは許せないと。僕もまあそう思う。結果としては許せないことばかり残ってしまったと。でもそこで具体に何が出来ただろうと考えると、そのころ大学で経済政策を説き、後には選挙に打って出て大臣としてEUに対抗しようとした著者のように行動できる人は限られてもいた。2008年の僕は向いてない(そして同僚たちは毎日のように仕事あとの飲みニュケーション=相互評価が必須の)仕事で暗礁に乗り上げ、鬱病の発症直前だったのではないだろうか。
とっちらかった話を要約する。
バルキファスは「世襲やコネに関係なく、各々の資質(実力・成果)が正しく報酬として報われる社会」をユートピア候補として提示する。
僕は人より抜きんでた資質や実力がなく成果を出せない人間でも、安心して生きられる社会にこそ到来してほしい。ついでに言うと、他人の資質やなんかを「一人一票」で評定させられるのも、たまらなく厭だ。
もちろん「向こう側の世界」は実際そうなってると仮定しての話だ。何の役にも立たなくてボーナス査定ゼロの人でも、いっそ読書とか散歩とか非生産的なことにひたすらかまけていても、安心して生きていけるだけのベーシックなインカムは保証されているのだろう。それで安心という(現時点での)僕のような人間と、そのうえで(そのうえで、なの?)真の実力に見合った報酬をと説くバルキファス氏とは、強調したい点が違うということなのだろう。
余計に余計を重ねると、バブルが弾けて低成長といわれて数十年このかた「自民(自公)はダメだ」「別の与党を」とあがる声の大半が、自公のような不公平をやめて「私の実力を正しく評価しろ」という勢に占められてるような気がして、
みんなよくそんなに自分を高評価できるなあと思う自分もいる。かつて民主に・そののち維新や国民民主に・最新モードでは参政党に排外主義こみで期待をよせる人たちの…ああもういいや以下同文だ。とくに昨今の「私=真の日本人はもっと高く査定されるべきなのだから、その果実を横取りしてる外国人を排斥しろ」という言いがかりは「それ自体が老い・衰えなんじゃないのか」と問いかけたくなる。だとすればますます、弱って、老いて、衰えた者でも安心して生きられる社会のほうを模索すべきではないのか。バルキファスの説く一人一票の公正な評価には、そうした者にも存在意義を認める別の評価軸があるのだろうか。
さんざ(しかもまとまってないことを)言いましたが、これだけ語りたくなるほど面白い本だったとはお伝えいたしたく。先週の日記(週記)もそうですが、なんだ舞村さん(仮名)が作品に異論を唱えてるってことは読まなくていいんだな、読む気がなくなっちゃったと思われでもしたら心外なので一応(
まあ僕がどうこう言って何か読んだり読まなかったり変わるとも思っちゃいないけど←自・己・評・価・の・低・さ!)(※ここでよく知らないまま読書メーターに言及したのですが
恥ずかしい思い違いをしていたようなので御指摘いただき削除しました)
「人の実力が正しく評価される社会を」「その社会では実力ない人でも生きていけるの?」という僕みたく自己評価低い人間の小股すくいとは別に、作中でバルキファスが真正面からぶつけてくる「異論」はまた面白い。いっけん平等で公正に見えるユートピアには、実は不公平な罠が仕掛けられているのではないか、それは…という問題意識のありかたが、ああ、あの時代(この時代)に同じ世界の空気を吸っていれば、そこに行き着くよねとなるもので興味ぶかかったのです。というかバルキファスが「それ」を世に問うた時期、まだコロナ禍が社会的にも鎮静していない頃に(言い忘れていたけれど『クソッタレ資本主義が倒れたあとの、もう一つの世界』には新型コロナのパンデミックが世界に、とくに欧州の政治や経済に与えた影響もコンパクトにまとめられている)たまさか自分も創作者として、似たようなことを考え、似たような結論に至っていたのです。

今回の主題でないので写真にボカシを入れましたが、そして今回の主題と直接に関係はないのだけれど、これは日記(週記)なのでいいでしょう、次に読んだ本はジュリア・クリステヴァがシモーヌ・ド・ボーヴォワールを語った本で、直接ではないけれど、ゆるやかにつながってる感じでまた好かったです。クリステヴァが引用しているボーヴォワールの「私はしあわせよりも、まず自由を問題にしたい」という主旨の言葉には、マジョリティの最たる男性(しかも異性愛者のシスジェンダー)でも頷けるなあと。
アイリスたちの(と大雑把に括ってしまっていいのかは知らないが)語る「異論」を、もっと読みたい。
25年前のメシアニズム〜ディー・レスタリ『スーパーノヴァ エピソード1』(25.06.22)
メサイア(救世主)は僕のシスター キングじゃないんだよ、彼女は僕のクイーン
The Stone Roses - Love Spreads(YouTube/外部リンクが開きます)
*** *** ***
01.出てました
インドネシアの作家
ディー・レスタリの短篇集
『珈琲の哲学』(原著2006年/福武慎太郎監訳・西野恵子、加藤ひろあき訳・上智大学出版、ぎょうせい2019年/外部リンクが開きます)を紹介した本サイトの日記(週記)を憶えておいででしょうか。
・
ローカルとグローバル(2021年3月)
その時こう書いた:「元ミュージシャンの彼女は長篇『スーパーノバ:騎士と王女と流星』でデビュー、同作は英訳もされ六部作をなす大ヒットとなった。こっちも出来れば読んでみたいですねえ」
先に書いておくと短篇「珈琲の哲学」もインドネシアで映画化され、スピンオフ的にどんどん続篇が制作されているらしい。「の」を抜いた『珈琲哲学』で検索すると日本でも有料配信のプラットフォームで観ることが出来るようです。
余談ですが検索といえば、検索するたび植樹される代替検索エンジン「Ecosia」
昨年の日記で紹介したときにはスマートフォンや、デスクトップMacだとFireFoxでしかデフォルトの検索エンジンに出来なかったんだけど「気づいたら」Mac版Safariでも設定できるようになってました。特にGoogleのトップにAI要約を載せる機能で愛想が尽きたひとは検討あれ。

※AIの使用がまた膨大な電力消費(浪費)→環境危機につながることを考えると「AI要約を出さない」だけでも代替エンジンは検討の価値ありかと。
※その一方でPCやブラウザによってはデフォルトの検索エンジンをChatGPIに設定できるらしい地獄。
※まあ自分はGoogle傘下のYouTubeから離れられないんだけど、離れられるとこから。
…
話が完全に逸れたところを「気づいたら」でつなげると(苦しいなあ)
気づいたら『スーパーノバ』のほうも邦訳が出てました、それも「出ないかなあ」と言った半年後に。
ディー・レスタリ『スーパーノヴァ エピソード1 騎士と姫と流星』(原著2001年/福武慎太郎監訳・西野恵子訳・上智大学出版、ぎょうせい2021年/外部リンクが開きます)
まず驚いたのは、副題から想像していた近世ヨーロッパふうの異世界なり、インドネシアの神話・民俗世界なりが投影されたファンタジー、では
全然なかったことだ。中心となるのは(それこそ僕が誤解したような)おとぎ話の騎士と姫と流星・をそれぞれ現代に転生させた大企業CEOとジャーナリストとトップモデル兼高級娼婦。タイトルロールの「スーパーノヴァ」はインターネットの掲示板で悩める人々の相談に助言や託宣をあたえる正体不明のアカウント名、さらにすべては十年前にアメリカ留学(バークレーとか)で出会った十年越しのゲイ・カップルによる創作で、しかも彼らが創作に援用するのはカオス理論やフラクタル幾何学…
請け合ってもいい。古めかしいファンタジーどころか、
25年前に世界で一番「進んだ」小説を書いていたのはインドネシアで元アイドルの肩書きをもつ25歳の新人作家(そりゃあ売れるわ)だった。その流星のような煌めきと墜落-Rise and fall-について、余すとこなく(とは言わないが、かなり突っ込んで)今から話す。興が削がれるという人は、ここで中断して(ネット書店を含む)書店か図書館へ。
02.春樹2.0
改めて断っておくと、インドネシア特有の民俗や文化「今の日本が忘れてしまった自然や人情の温かさ」郷愁などを求めて本作を手に取っても、ほぼほぼ報いられることはない。本作(少なくとも六部作の第一部)を貫く基本方針は、物語の「著者たち」先に紹介したゲイの二人によって開幕早々に宣言される。
「登場人物はみんな若いのがいい。生産年齢で、都会的で、大都市に住んでいて、情報技術にアクセスすることができる人物だ。
路上生活者や、地方文化を飾る村の設定なんかは不要だ」(強調は引用者)
いや、ここでカチンと来て読むのをやめるには惜しい小説です。とはいえ、本作にインドネシア特有のローカル文化を求めることに、あまり意味はない。むしろ世界じゅうの、グローバリズムに曝されている国や都市なら世界のどこの読者でも一定の共感が可能な物語≒言うなれば世界文学が、たまさか今度はインドネシアで生まれた、そう捉えて(好む好まないに関係なく避けがたくなってしまった)グローバル社会の一員として読むのがいい。
実は同じことを
『珈琲の哲学』の時にも書いていて、おおむね間違ってなかった、むしろ(刊行年度は先だけど)『スーパーノヴァ』ではその「世界文学」としての傾向がますます深化し花開いているように思われた。説明します。
21年の日記では『珈琲の哲学』の脱ローカル→世界で共感されうるグローバル性を挙げて、村上春樹が世界的に受容されたのも同様の理由だと仮定した。その時は必要なかったので触れなかったけれど、村上春樹の作品が世界中で「受けた」理由は「それ」だけではなかったと思う。都会生活の花やかさ・カタログ的な魅力だけなら、他に描いた作家は沢山いただろう。春樹作品が世界で受容されたのは、都市文化≒物質文明では説明できない「もう一つの世界」の存在を執拗に示唆し続けていることも重要な理由ではなかったろうか。
実はこちらもずっと昔、『1Q84』が出た頃に書いているので端折りますが(
2010年5月の日記参照)「村の文化」的に伝統保守な信仰習俗には今さら戻れないけれど、物質がすべて・お金がすべて・理性がすべてな現代文明では割り切れない、割り切れなくてスパンと切り落とされてしまう残余がある気がするし、それらが人生に多大な影響を(時に)与えるようであってほしい。そうした(けれど伝統的でない)残余が春樹作品では心の病やドッペルゲンガーのような幻覚・夢をつうじた別世界として形を与えられていた。
「グローバル化された現代の都市生活を描く」+「物質文化が否定する非理性的なものに居場所を与えている(それでいて伝統回帰はしない)」=村上春樹作品の「勝ちパターン」だとしたら、この公式を継承し、さらに「非理性的なもの」にカオスやストレンジ・アトラクター、オート・ポイエーシスに代入し公式をアップデートした『スーパーノヴァ』は春樹2.0・春樹200%とも呼ぶべき荒技で(
念のため言うと多少皮肉や茶化しが入った表現で、こういうのを真顔で言っちゃう勢のと一緒にされると困る)誰かが当時やっておくべきだった偉業(異形)で、インドネシアの新人作家はそのタスクを完璧に成し遂げたと言える。
誰かがやっておくべきだった、というのは
当時、創作に携わっててカオス理論やフラクタル理論を知ってる人なら、両者の融合を夢みるのは「あるある」だったと思うからだ。別に驚くことはない。ロレンス・ダレルは『アレクサンドリア四重奏』(
2020年12月の日記参照)のアイディアをアインシュタインの相対性理論から得たと語っているし(個人的には「観測によって結果が変わる」不確定性理論のほうが相応しい気もしますが)、トマス・ピンチョンはその名も「エントロピー」という小説で熱力学の第二法則そのものの小説化を試みた。マルチバースという発想が(
元になった理論を完全に履き違えつつ)どれだけ世の創作作品に多大な影響を与えているかは、語るまでもないだろう。
かくして、「カオス理論て物語の基本法則なんじゃね?」「キャラクタが勝手に動き出すのってオートポイエーシスじゃね?」といった創作者たちの夢が、最良の語り手を得て騎士と姫が転生した不倫の恋の物語に昇華される。
あるいは理論をダシに繰り広げられるトレンディな恋愛模様の息を呑む展開。しょうじき理論は別になぁ…と思う人も、貧困や社会問題を鼻にもかけない連中の情事にどうして付き合わなければ…と腹を立てる人も、いつのまにかストーリーの重力から引き返せない一線をまたぎ、許されない恋人たちと一緒に錐もみで墜ちてゆくしかない自分を発見するでしょう。
「なんで小説を読むかって?続きを知りたいからに決まってるでしょう」(ジョン・アーヴィング『ガープの世界』)というタイプの読み手を満足させる、小説の愉悦を保証します。
そのうえで。
03.裏切られた革命
ここ五百年、西欧を中心にした世界はメシアニズムに引っ張り回され、痛い目に遭ってきたという主旨の本を読んだ。なるほど、頷けなくもない。
メシアニズムの根底にあるのは「この世界は間違っている」「だから終わらないはずがない」という終末論(エスカトロジー)だろう。ただし、ただ滅びるのではなく、根底から間違ってる世界に救世主(メシア/メサイア)が現れ、虐げられた人々を正しい世界=至福の千年王国へと導くはずだという願望。前回の日記(週記)を思い出してもらってもいい。
中世ヨーロッパでは文字どおり信じられていた救世主=キリスト崇拝が、近代合理主義によって否定され葬り去られた…わけではないと、その本の著者は言う。むしろ近代合理主義=理性の崇拝や人権・平等といった啓蒙思想は、それによって世界の誤りを正して千年王国を地上にもたらす新たな救世主として己を任じた(フランス革命)。20世紀初頭には共産主義が新たなメシアとなりロシアから世界中に革命を波及させる。
メシアニズムは自らの正しさを過信するあまり、福音を世界じゅうに広めよう・押しつけようとして侵略戦争や植民地化の弊害を生んでは、自ら悪と成り果て自壊してきた…というのが著者の見解で、その最新版は冷戦終結後「世界の警察官」(メシアニズムというよりメサイア・コンプレックスと言ったほうが好いかも知れない)として資本主義を世界じゅうに押しつける21世紀のアメリカ合衆国…ということになるのだけれど、その話は「一旦」措く(後で回収する)。
ツヴェタン・トドロフ『民主主義の内なる敵』(原著2012年/大谷尚文訳・みすず書房2016年/外部リンクが開きます)
トドロフが主張する「メシアニズムの現代の継承者はアメリカ」という把握には若干の疑問があって(間違った世界を正せ、ではなく「今の世界(新自由主義)が正しい」と勝ち誇ってるようにしか見えないのだけど…要は「解釈違い」?)むしろ中世のキリスト教的メシアニズムが潰え、フランス革命が自滅し、ソ連が崩壊し―もちろん間にヒトラーとか色々おりました―もう資本主義が勝利した「終わりなき日常」を生きるしかないのか?と思われた20世紀と21世紀の狭間で、別の種類のメシアニズムがあったのだ。
それ以前から「ニュー・サイエンス」として盛り上がっていた、カオス理論やオートポイエーシス・あるいはシュレディンガーの猫などといった(ニュートン的・デカルト的合理主義では説明しきれない感を醸し出す)新しい科学と、たとえば風水・あるいは「引き寄せの法則」といったオカルト的なスピリチュアリズムとの融合。それがインターネットの爆発的な普及とさらに融合して「
科学にも裏づけられたスピリチュアリズムが、あなた(人類)を次のステージに導く」みたいな幻想が、たしかに存在しえた。
カオスやフラクタル理論が創作やストーリー展開を導いていいのなら、どうしてそれらが人生や社会に適用されていけない理由があるだろう?エグゼクティブな男女の不倫の物語から始まった『スーパーノヴァ』は終盤、科学を通してワンランク上の千年王国に人々を、なんなら世界あるごとを導き入れる救世主の姿を幻出させる。

※五年ほど前の台湾旅行(しかも家族旅行で何撮ってんねん)スピリチュアルならぬ「SPA」RITUALという駄洒落が目に焼きついて写真に収めたネイルケア・ブランド、本社はアメリカらしい
スピリチュアルならぬ(けど間違いなく意識している)SPARITUALが「ヴィーガニズム」と「ラグジュアリー」を難なく両立させているように、科学とスピリチュアル・テクノロジーと自然保護は矛盾なく融合可能だと信じる(自然保護のことはあまり言ってないけど、たぶん信じているだろう)預言者スーパーノヴァは、同時に、天国への階段をお金で買えることを微塵も疑っていない。
(
今年三月にふと思いついてレッド・ツェッペリン「天国への階段」はそういう歌だと説明しといて好かったですね…)
あらためて言っておくと、まず小説として滅法おもしろい。
そのうえで貨幣と資本主義を「すべての人が共有できる言語」として称え、大企業のCEOのようなエグゼクティブこそが財力で(社会変革など)本当に意義あることを出来ると期待する『スーパーノヴァ』には、科学・オカルト(スピリチュアル)・インターネットと新自由主義が人類を(裕福な者から先に)千年王国に導きうるという徒花のようなメシアニズムがあった。
※いちおう言っておくとゲイの狂言回しも含め、保守的・宗教的・家父長制的な当時のインドネシア社会への異議申し立てがあったことも確かです。
20世紀が終わり21世紀が始まる時期、占星術的にはキリスト以来の魚座の時代が終わりアクエリアス(水瓶座)の二千年期が到来すると言われた時期に、そういう機運はきっと実在したのだろう。その光をキルリアン写真のように紙へ定着させた『スーパーノヴァ』には記録的な価値がある。
もちろん、その夢は徒花として潰えた。日本では先行するように95年、科学とオカルトとテクノロジーの融合をめざした宗教団体が(彼らが活動の一環として自社製造パソコンを売っていたのは有名な話だ)地下鉄にサリンを撒いた。量子力学とオカルトの融合は詐欺めいた勧誘の定番に堕した。そして何より「裕福な人間には率先して世界を楽園にする能力も資質もある(べきだ)」という期待じたい、いかに無邪気な幻想だったか。持てる者が財産を売り払って貧しき者に施すことで針の穴より狭い天国への道を進もうとはせず、むしろ今の己が豊かな現在こそ天国なのだと言い張って、
しまいにはイラクの核施設にバンカーバスターを落として平然としている(むちゃむちゃ怒ってます)、それが吾々が実際に見せつけられてきた25年だった。
25年後の今、この誤った世界を根底から否定し、人々を至福の王国に導く救世主(として仰ぐべき存在)が仮に居るとしたら、それがストーン・ローゼズの歌のように王ではなく女性だったとしたら、それは新自由主義の福音を説くスーパーノヴァではなく、環境アクティビストのグレタ・トゥーンベリだろう。彼女に何かしてくれと言うのでなく、彼女に追随する小羊がどれだけ居るかという話なので、それも
もう手遅れかも知れないが。
無邪気な富とテクノロジーの肯定から始まった六部作が、その後に起きた多くの破滅的な出来事を経て、どのようなゴールに至ったのか知りたいとは思う。上智大学には頑張ってほしいけど、もしどうしても読みたくなったら続篇は英語かなあ。あと台湾でなら最後まで(繁体字で)出版されてそうな気がする。
ポン・デ・リングとゲリラ戦〜マリオ・バルガス=リョサ『世界終末戦争』(25.06.15)
まったくの余談だし私事なのだけど、タピオカなる単語に初めて遭遇したのは谷川俊太郎氏が訳した漫画『ピーナッツ』の中でのことだった。チャーリー・ブラウンの新しい友達として登場したのが、ゆくゆくは娘を子役のCMモデルからショウビズ界にデビューさせようと目論んだ親によって「
タピオカ・プディングちゃん」と名づけられた女の子だったのだ。
それはともかく、ずっと後に初めてタピオカの現物に遭遇したのはココナツ・ミルクに浸かったタイ料理のデザートとして、その後も台湾発?のタピオカ・ミルクティーのブームが続いて、なんとなく東南〜南アジア原産だと思いこんでいた。実際の原産地は中南米だと知ったのは、だいぶ後のことだった。
*** *** ***
いちおう『
葉隠』も読んだことはあるのだけれど、憶えてる箇所はひとつしかない。ただし、武士はああすべし、こうすべしと心得を説いた同書の中でも、その内容は際立って強烈だ。
憶えてないので仮にA藩とするが、A藩の殿様が江戸城に上がって例の「殿中でござる、殿中でござる」みたいな袴の長い裾を引きずり廊下を進んでいたら、後ろを進んでいたB藩の殿様がウッカリ前方の殿Aの裾を踏んづけてしまい、殿Aがビターンとコケる絵面が生じてしまったという。居合わせたA藩の家老は、
すかさず殿Bの袴の裾を踏んづけ殿Bをスッ転ばした。これこそ武士の心得である(この項おわり)。
もちろん初見ではギャハハと笑って、それからゾッとした。ここで家老Aが即座に復讐を果たしていなければ、A藩とB藩の間には遺恨が残り、それこそ殿中でござる殿中でござるとか、果ては討入りのような事態が生じない保証はなかった。そしてかかる惨事を回避させた家老Aは、しかし他藩の殿をスッ転ばしたカドにより、おそらく切腹であろう。それを承知で、家老Aは江戸城内での蛮行に及んだ。そこまで含めて「武士かくあるべし」と「葉隠」は説いているのだ…
…
という過激な解釈は、もちろん隆慶一郎の小説『死ぬことと見つけたり』を読んだせいで生まれたものだ。世間的には『北斗の拳』の原哲夫が漫画化した『影武者・徳川家康』が最も有名なのだろうか。実はこの『…徳川家康』も含め、急逝した作家が掛け持ちで執筆を進めており未完のまま絶筆となった数作のひとつが、『葉隠』の名高い(悪名高い?)フレーズ
「武士道とは死ぬことと見つけたり」をタイトルに引いた同作である。
その「心得」を「死ぬと思えば何も怖くない」と血肉化した(葉隠の生まれた)佐賀・鍋島藩士たちの活躍は、痛快にして鬼気迫る。主人公たちの一人が「武士にとって最高の栄誉は、殿を諌めて道を正すかわりに切腹を命じられることだ」と信じて、殿に諌言できるくらい側近の地位(それこそ家老とか)を求めてガムシャラに出世をめざす(そして遺された執筆プランによれば首尾よく家老まで昇りつめ藩の未来と引き換えに思惑どおり腹を切る予定だった)と紹介すれば、その目の据わりようは伝わるだろうか。

旅行なり何なりで自分が今まで一応は行ったことがある都道府県と、未踏の県をリストアップしてみると、島原の乱が起きた長崎県と、隣の佐賀県には行ったことがないと分かる。小説『死ぬことと見つけたり』は遠く江戸からの命により、佐賀鍋島藩の若い藩士たちが島原の乱の鎮圧に駆り出されるエピソードから始まる。
「殿に諌言して切腹する」ため出世をめざすエリート・中野求馬と並ぶ、もう一人の主人公(むしろこちらがメイン)で天性のハンター・斎藤杢之助が、対峙するのは「どうして武士でもない農民の集団が、こんなに強いのか」という謎、そして糸で吊るした針をも遠方から打ち抜けるという異名を持つ鉄砲名人・下針金作だ。杢之助が最終的に悟る島原・天草の民たちの強さの理由は、また別の話なのだが(
そして謎ときの「謎」の答として戦慄に値するのだが)何も持たない無力な民衆が信仰の力だけで驚くほどの長期にわたり籠城し、何度も正規軍を跳ねのけた・
のではなく、もちろん天草四郎のカリスマましてオカルト的な魔力でもなく、原城に籠城した反乱勢の中には武士だった者たちも、金作のような狙撃手も、つまりは戦闘のプロも沢山いただろうとは想像できる。
*** *** ***
島原の乱については(ぼんやりとした関心を持ちながら)なかなか本気で文献を読んでみる機会に恵まれず今日に至るのですが、自身は戦闘的な力は有さない宗教的カリスマを旗印に結集した貧しい反乱民が、近代的な正規軍を何度も潰走させつつ最終的には圧倒的な戦力差で殲滅される…驚くほど似通った事例が南米・ブラジルにもあって、そちらを題材にした小説を読みました。
マリオ・バルガス=リョサ『世界終末戦争』(原著1981年/旦敬介訳1988年→岩波文庫2025年/外部リンクが開きます)
もうじき(7/15)岩波で文庫になるタイミングとも、著者のバルガス=リョサが今年4月に逝去していたことも(岩波文庫化はそのためかも知れませんが)あまり関係なく、例の「通勤の都合上まいにち2時間は読書ができる=この機会に読みそびれてた本ぜんぶ読んどこう」祭りの一環で、数十年前に読みそびれていた大作に手を出したと思し召せ。まあちょうど文庫化なので、オススメはしやすい。
数十年前に躊躇った自分は何なのだ、というくらいグイグイ読まされる。
(もしかしたら同じラテンアメリカ文学で『百年の孤独』に挫折したひとの、再チャレンジの足がかりにも良いかも知れません…)

ああそうだ、生まれたばかりの政府(江戸幕府・ブラジル共和国)統治下での反乱という点でも共通していた。島原の乱から250年後、ブラジル内陸部のセルタンゥで宗教指導者アントニオ・コンセリィエロを慕ってコミューンを形成した貧民たちが同地を占拠、立ち退きを拒否、送り込まれた政府軍を次々と返り討ちにする。
新興の共和主義者と保守的な地主層、王政復古と伝説の帝王(救世主)復活願望が混同された民の信仰、そして社会の底辺や辺境に追いやられた人々の憎しみや愛…諸々が錯綜して読み解きかた・興趣の重点も読む人によって変わるだろう重層的な物語だ。ヨーロッパのように無神論と結びつくのでなく逆に信仰や迷信に支えられたアナキズム、あるいはヨーロッパから来た活動家が新聞のフェイクニュースによってイギリスのスパイに仕立て上げられ反乱がイギリス政府の陰謀と結びつけられるなど、21世紀の今日になって脚光を浴びて(浴び直している)トピックの先取りもある。とてもすべては紹介しきれない。
そこで話を絞る。個人的に・それも今回においてはという条件つきで関心を惹かれたのは、幾度にもわたる政府軍の撃退の鍵となった「戦闘のプロ」たちの存在だ。
「指導者」コンセリィエロの名は英語のカウンセラーと同義の(つまり「相談者」「悩みを聞いてくれる人」くらいの意味なのだろう)通称で、祈ってばかり・あるいは祝福を与えるだけの彼に軍事的な才覚はない。徒手空拳の民衆が、信念や数の力だけで銃や大砲を装備した近代軍に勝てるはずもない。
セルタンゥの反乱において「戦闘のプロ」の役割を担ったのはジャグンソと呼ばれる盗賊たちだ。帝政→共和制と上物は替わっても引き続き地方に君臨していた大地主層の、支配の網の目をすり抜ける盗賊・略奪者たち。銃や山刀を片手にの襲撃を生業とし、暴力も殺人も辞さない悪党たちが、コンセリィエロの「赦し」に涙して膝を折り、有象無象の貧民たちを組織しなおした。ある者たちは弾丸の精練に従事し、ある者たちは待伏せのための穴を要所要所に掘り巡らし…
どうもまだ言語化が難しい。革命は大衆と・大衆を指導する前衛に分かれるべきだとして最終的には前衛=指導者層の独裁に至った20世紀ソ連やカンボジアの無惨な失敗と混同しかねない。いや、そうした社会主義国家の、民衆をマスゲームのように扱う民=素朴で平板という捉えかたと真逆にある、個々の局面で狡知も戦略もある自己組織化・各々が「頭数」でなく自在な「戦闘とプロ」と化す「民衆蜂起」の捉えかたがあっていいのではと。
ちょっと(また)思い出したのは
21年2月の日記で取り上げた
矢部史郎『夢みる名古屋』で紹介されていた逸話だ。あまりに面白く話題豊富な本で、当時の日記では「匂わせ」しか出来なかったけれど昭和の映画『新幹線大爆破』(リメイクされてるみたいですね)と『トラック野郎』の比較がまた、無類に面白かった。いわく鉄道が計画・規格という近代的な力を大地に敷いてのけたのに対し、自動車は大地を縦横無尽に駆け巡っての制圧を可能にした(まして航空機においておや)。両者の違いは映画にも現れていて『新幹線大爆破』は定時どおりに運行する「規格」の力を死守せんとする話だった。ところが『トラック野郎』はクライマックスの「どっちが先に着けるか競走」で規格化された大幹線=高速道路ではなく山中の道なき道を走ったほうが「勝てる」という理念(物語・幻想・妄想・思いこみ)に基づいていた、というのだ。
セルタンゥの反乱における叛徒たちの意外な善戦は、政府軍の鉄道・新幹線的な規格(での制圧)に対する、地の利を活かしたトラック野郎(主演は『仁義なき』菅原文太)的な縦横無尽さにあった、それは素朴でも平板でもないと言えば、言いたいことは朧げにでも伝わるだろうか(
余計に分かりにくくなったんじゃないかな)

もちろん、それが内ゲバや「総括」と称した相互リンチと化す地獄も、あるいは宗教的カリスマに引っ張られて地下鉄にサリンを撒いたり逆に与党と癒着して集票マシーンと化す地獄もある。天国に至る道は「まるちり(殉教)」を目指していてすら、ラクダが針の穴を通るより狭いのだ。
* * *
なんか途中から難しい話になってしまい「お願い!引かないで!」と引き止めたくなるくらいには『世界終末戦争』他の読みかたも断然できる、ふつうに面白い小説ですから(
性暴力が当たり前な世界の話なので注意は必要)。
まったく逆方向からの絡め手をかけると、
昨年1月の日記でさんざんボヤいた、レヴィ=ストロース『悲しき南回帰線』に頻出するけど検索しても正体不明な食べ物「
マンジョー」、同じブラジルを舞台にした『世界終末戦争』では「
マンジオカ」として出てきて、
こっち(マンジオカ、マンジョッカ)で調べれば、いくらでも出てくるじゃないの!
あ、いや、マンジョーではなくマンジョッカ、原材料はキャッサバと
昨年7月には判明してたんですけどね。横浜・みなとみらいにあるJICAの食堂でマンジョッカのフリットなるメニューがカフェタイムに提供されていたが、中東のファラフェルを優先してる間に(こちらは街角にあるケバブ屋などでもふつうに商ってる模様)メニューから消えてしまっていた。
このマンジョッカ(マンジオカ)『世界終末戦争』では、フリッターもあるけど炒めてソボロ状にしたフリカケ「ファリーニャ」(タマネギやニンニク・バター等も合わせて炒めると「ファロッファ」)を肉料理にかける食べかたが前面に押し出されていた。
そのほかネット検索ではトロトロのスープにしたり、意外なところでは
ポン・デ・ケージョもマンジョッカ(つまりタピオカというかキャッサバ粉)が原料らしい。
そしてミスタードーナッツの
ポン・デ・リングもタピオカでモチモチ感を出している由。今までにない食感で、停滞していたミスドの業績を回復させた復活の立役者だったとか(ぜんぜん知らなかった…)。
横浜の鶴見区には日系ブラジル移民の人たちが多く身を寄せた経緯があり、今もあるブラジル食料品店で探せばマンジョッカ粉を入手できるかも・なんならイートインの食堂でファロッファをまぶしたステーキでも食べられるかも…と思いはしたけど今の自分に鶴見まで出向く余力はなく。近場のミスドで妥協してみました。

こんな接点からも、日常と世界・世界文学はつながっているのだ。本当かな?
*** *** ***
(追記)網野史学の視点を大いに取り入れた隆慶一郎氏の時代小説が吉原の遊廓を被差別者のアジールとして描いたのは小説だから許されるロマン化だったと釘をさせる一方、その自由な感じが数十年後、ビジネス至上の自由主義史観に巧みにすり替えられてしまった印象を(なにせキチンと観てないから憶断にすぎないけれど)吉原を舞台にした今年のNHK大河には感じなくもない。
そもそも年頭の番組紹介で、池波正太郎が『剣客商売』の裏テーマとして?打ち出していた・あくまで異論(オルタナティブ)だから面白かった「田沼時代じつは良かった史観」が、大河のようなメジャーコンテンツで屈託なく正史あつかい?されてることに危惧というか「なんだかなあ」と思ったのですが、どうなんでしょう。
小ネタ拾遺・25年5月(25.06.01)
(25.05.01)大岡川という漢字をカナに開いただけなのにハハハ妙な迫力。見てのとおりのコンクリート・リバーだけど桜の時期には花筏が見られ、時々カヌーイストも行き来する、僕にとっては学生時代からの「吾が街の川」。今は鯉のぼり。五月です。
(25.05.02)映画ファーストデイで公約どおり観てきましたよ
『爆上戦隊ブンブンジャーVSキングオージャー』(公式/外部リンクが開きます)まあ御祝儀的な内容でしたけど最後、
ブンブンジャーの昭和ダンスを一緒に踊る王様戦隊だけで1300円の元は取れた気がします。
・
コツコツ-PON-PON(「爆上戦隊ブンブンジャー」ノンクレジットエンディングTVサイズver.)(公式/Youtube/外部)
「もっとワガママになっていーんじゃない?」とヒメノ様にそそのかされたブンブンジャーの未来(ミラ)さんが華やかなドレス姿を披露するも、むしろ私にとってのワガママはこっちだ!と言わんばかりに普段着に戻る場面も良かったねえ。思えば本篇で二回・第一話と最終一話前でウェディングドレスをかなぐり捨てたバクアゲ女…
(25.05.04)久しぶりに
東京都現代美術館(外部リンクが開きます)に。中にあるレストランのパフェまでアートみたいなデザインで、予定外の出費になってしまいました。クリーム大福をトッピング・あんこや抹茶を中心にした和風スイーツにマンゴーピューレの甘酸っぱさがアクセントになって、(パフェでは)今まで食べたことがない複雑な美味しさ。期間限定なのが惜しい。

向かいにある南インド・レストランも気になりつつランチの機会を逃し続けている。
(25.05.08/小ネタ/すぐ消す)別に分断を煽るつもりはないけれど、
連休が「ゴールデン」だったのは休んでた間も給与が発生していた人たちだけだろう…
(25.05.07/こんなこともありました)連休は終わりかも。
インド国防省 パキスタン支配地域攻撃 過激派組織拠点を標的(NHKニュース/25.05.07/外部リンクが開きます)
(25.05.10)よーし、よしよし(パニクっていた仔犬か何かが少し落ち着いたのをなだめる気分)
インドもパキスタンとの軍事行動停止表明インドもパキスタンとの軍事行動停止表明(共同通信/外部リンクが開きます)
(25.05.10/小ネタ/すぐ消す)
マキシム・クロンブ『ゾンビの小哲学 ホラーを通していかに思考するか』(原著2012年/武田宙也、福田安佐子訳・人文書院2019年/外部リンクが開きます)は思った以上に哲学の本だった。フーコーやドゥルーズ、カトリーヌ・マラブーまで援用し、フロイトの「死の欲動」やクリステヴァの「アブジェクシオン」アガンベンの「ホモ・サケル」とゾンビを突き合わせる内容は、いっぷう変わった視点からの近現代哲学史・美学史の趣さえあって、純粋にゾンビ史を楽しみたいひとは「いいよ、そういうのは」と辟易するかも知れないけれど…

「いっぷう変わった視点」とはゾンビが徘徊しゴーストタウンと化したニューヨークやトーキョーを見下ろす視点。人格を失ない平気でヒトを喰らうゾンビと、もはやヒトでないゾンビを(時に躊躇して返り討ちに遭いつつ)平気で殺戮する人間―合わせ鏡のような両者の姿は、建前など剥ぎ取ったヒトの本質は「弱肉強食」「万人の万人にたいする闘争」暴力的な「ケダモノ」なのだという近代の・もしかしたら新自由主義で加速された(それ以外の道があったかも知れない)露悪的な人間観を映し出している。そして建物やインフラはわりと都合よく保持されたままヒトだけが消えた廃墟は、そんな救いのない近現代が・吾々自身が滅びた世界を見たいという終末願望の側面が消しがたく。
(25.05.17)
論理的に考えて「呪いで女の子に変えられた男子が接客するお店」で給仕してくれるのは女子の店員さんであるべきだと思うのだが、求人募集されてるのは男性らしいので、現実にはそうゆうコンセプトの女装カフェであるようだ。
「僕は本当は男子だったんだ」と言い張る女子が給仕してくれてもいいのに。ただまあ、求人に応じた男子が本当に呪いで女の子に変えられて出てくる可能性はワンチャンないでもなく(若者言葉に疎いのですが「ワンチャン」の使いかたコレで合ってます?)
てゆうか元々バングラデシュ料理のお店があるかと訪ねた番地にそうゆうお店があったのも、バングラ料理店が魔法でコンカフェにされてしまった可能性が微レ存。「コンカフェ」と「微レ存」の使いかたコレで合ってます?
(同日追記)こういう話を・異性装を楽しみたいor異性装した人と楽しみたい欲求を昔の言葉でいう「倒錯」と嗤ったり嘲ったり・まして現実に性別の移行を望む人たちへの差別につなげたり
することなく、単なる女装カフェにもっともらしい(?)理由をつける可笑しさ(そういうクッションを置くことで安心して楽しめる側面もあるのでしょうね…)や、コンセプトを真に受けて「論理的には」とか言い出す・そして
どうにか女子に接待してほしいらしい語り手(シスへテロ男性)の涙ぐましい滑稽さ
だけに読み手を導く文章に仕上げるのは難しい。精進するか話題を選びましょう。
(25.05.18追記)「どうにか女子に接待してほしいシスへテロ男性」を自称しつつ、このひとネット検索で「
doda CM BL」を検索(二週間くらい我慢したけど我慢できなかった)、検索結果ゼロに「同意してくれるひとはいないのか」とションボリしてるそうですよ…(
怒られろ)
(25.05.19/すぐ消す/後で拾う)どうせ「すごく良かった」なんでしょ、と思われるかも知れないけれど逆に期待は裏切れねぇな(?)
すごく良かった『赤い糸 輪廻のひみつ』(シネマ・ジャックアンドベティ/外部リンクが開きます)半年ぶり二回目の『狼が羊に恋をするとき』(
昨年11月の日記参照)もハシゴして、帰りに近所のガチ中華(民国)でワンタンと魯肉飯セット、しあわせな台湾の夕べでした。

ほぼ予備知識なしで観た『赤い糸』(『返校』の幸薄げなヒロインだった俳優さんがピンク髪ではっちゃけてて超かわいかった)語ると
ほぼネタバレになってしまうので控えますが予想外のスケールだったのも無理はない=韓国のメガヒット地獄映画『神と共に』へのアンサーも意識していたようで、死を超えた愛とか時を超えた因縁とか比べるのも一興。監督が亡き愛犬と同じ名前の犬を登場させ「思い出を刻んだ」というだけあって犬好きは涙なしでは観られない展開(さほど犬に思い入れない僕でもクライマックスは流石に少しウルっときた)。けれど
むしろ観たほうがいいのは猫好きかも。なにしろ
★ネタバレにつきたたみます。(クリックで開閉)。
本作の世界観(死生観)では生きてる間に徳を積むことでカタツムリ→昆虫→(中略)→ペンギン→(中略)→猿→犬とランクアップし、ついには人間に転生できるのだけど、人間としての生涯のうちにさらに徳を積むと来世では猫に成れるのだ。
納得しかない格付けでしょう(たぶん)。『狼羊』ともども5/23まで。
(追記)やっぱり言いたくなっちゃったので追記。『神と共に』が大ヒットしつつ(とくに第一部で賛美された母親像)が物議を呼んだように、台湾で大ヒットした『赤い糸』も作品として面白い・面白くないは別にして「この落とし所は面白くないな」と異論が出そうな部分もないではなくて、でも
★たたみます。(クリックで開閉します)。
(僕の中にもある)是非はともかく「死をも超えて成就した恋愛を、一度は成就させたうえで諦めさせる」手管がすごくて舌を巻いた。まずは冥界の皆も祝福するなか死者(主人公)と生者(幼なじみ)の恋が成就→いちゃこらする二人がちょっと鼻につきはじめる(笑)は軽いフックとして、ええと、たたんでるとは言え全部書いても仕方ないので端折って言うと、本作でメインにあたる死をも超えた恋すら、たかが「一」生、永劫に繰り返す「多」生の中では1エピソードに過ぎないんだよ、別の生でもそれぞれ「一生」スケールの想いが別の相手とあったんだよと捩じ伏せる力業と、では恋や愛は虚しいかといえばそんなことはなくて・むしろ儚い一度きりの愛憎が五百年の執着を生んだり、たかが数日の虫の命の「幸せ」が鬼神の五百年の執着を浄化させたりする、だから恋して愛して幸福になりなさい、新しい恋もしなさい、それが繰り返す輪廻を輝かせるのだからという落とし所への
持って行きかた・説得力の構築が完璧だったと思います。あれに(物語として)対抗するのは困難な(逆に志す人にはやりがいある?)チャレンジになるでしょう。
それとラスト
★たたみます(こちらは『返校』のネタバレもあり)。(クリックで開閉します)
次の人生で私と主人公をくっつけるの忘れないでよね!と来世に旅立ったピンキーが転生後、もう子どもの頃から主人公(転生)と赤い糸で結ばれてるの、仕事が早いぞ同僚どもと後から気づいてニマニマしてしまった。愛されてたんだなあ。
しかしピンキーちゃん、キャラは随分と変わったけれど嫉妬でやらかすのは
前世(返校)でも今生(赤い糸)でも変わんないのね…カルマだから?
(25.05.21)なぜこうも的確に人の心を折ることばかり思いつけるのだろう。
石破首相「農相後任に小泉進次郎氏起用」(外部リンクが開きます)
(25.05.21)代替たんぱく源として今夏は(もう夏と見做す)お麩わけても車麩の登板が増えそう。冷やしぶっかけ蕎麦。きのこと戻した車麩に火を通したかけ汁と、色合いを保つため別で青菜のおひたしとカニカマを冷やして(仕込んで)おいて、お蕎麦を茹でて冷水でシメてぶっかける。揚げ玉とラー油は外せない。かつお節をトッピングしても映えるでしょうね。
(25.05.25)一説では世界一おいしい麺料理とも呼ばれる「ラグメン」もちろんレシピは様々なんだろうけど市ヶ谷で食べたのはキクラゲを使ってたんですね。すっかり忘れて作った「インスパイア系」和えうどんの、まあ似ても似つかないこと。でも「もう似なくていい」と開き直って投入したサバ、悪くない。

てゆうかラグメン、トマトから出たスープたっぷり・油たっぷり(メニューに「過油肉」て書いてあった)の炒め具材を麺にビャッとかけ回した状態で供して「混ぜるのは自分でね」てスタイルなんですね。なぜ作る(鍋の中で混ぜちゃった)前に写真で確かめない…トマトあと半個残ってるから、また明日にでも試してみようかな。
正統なラグメンは市ヶ谷のウイグル料理店で食べられますよ。
(25.05.27追記)再チャレンジ。もはやラグメンでも何でもない、ただの和えうどんですが、キクラゲの黒を茄子で置き換えてみた努力を買ってほしい。ピーマンの青々とした色は出ないなあ。

廉価で売ってたお店が昨年閉店してしまい、ストックを惜しみ惜しみ使っていた大豆ミート、そろそろ尽きそう。
(25.05.28)映画の影響もあって数年ぶりに台湾に行きたい熱が再燃しているのですが…2015年とか19年に行ったときの(飛行機代に現地泊や食事に観光・おみやげのカラスミまで含めた)総額と、いま向こうに行って帰ってくる飛行機代が(だけで)同額くらいで笑っちゃってる。どうせそうなら台北以外にも行ってみよう、十分に準備して味わい尽くしてやろうと二ヶ年計画(決行は来年以降)くらいで考えてます。
(25.05.29追記)新刊まだだけど北海道には行ったくせに…

iPS細胞のことを盛り直した修正プロットが最近ようやく貫通したので、いよいよ頑張るのです。こっちは鬼を笑わせない。
(追々記)どうせ今すぐとは思ってなかったけど台湾、新型コロナの新型株(NB1.8.1)が急増中らしい…まあ日本でも川崎か何処かで学校閉鎖とか相変わらずなのですが。台北の老舗の魯肉飯屋の健在を祈るようにネットで確認する日々。
マニアの受難〜ルカ・グァダニーノ監督『クィア/QUEER』(25.05.25)
先に小ネタとして軽く放った話を広げてメイン日記(週記)に昇格させるケース、最近ちょっと多いかもですね…今回は先行の小ネタで流石に言葉が足りないかなと思ったので加筆です。ルカ・グァダニーノ監督『クィア』および前作『サスペリア』の内容に踏み込んでいます。
*** *** ***
chapter 1.美しすぎて不安になった
言葉が足りなかったのは「傑作なのか・ものすごく傑作ぽい紛い物なのか判断に迷うのが歯がゆい」という部分。貶してるのか?違うんです。ちょっと説明させてください。
ルカ・グァダニーノ監督の最新作『
クィア/QUEER』こんな美しい映画は初めて、とは言わないまでも久しぶりに観た気がした。や、ふだん娯楽作品ばかりでアート系の映画とか敬遠してるせいかも知れないけれど(有名な『去年マリエンバードで』とかも観てない)、よく映画の中で「この1シーン、この1カットは構図から何から絵画のように美しい(キマってる)」みたいのがあるとするじゃないですか。
それが始まって1時間くらい毎秒毎秒つづく。こんなことってある?逆に何かふざけてない?と不審になってくるほど、あらゆるカットが絵になる。
舞台はメキシコ。フィレンツェやヴェネチア、ニューヨークみたく「いかにも」な観光名所でもない。けれどレンガでもスレートでもない、のっぺりした(ペンキを塗ったコンクリか何か?)色とりどりの壁の平屋か二階建てが延々並ぶ街並みが、しばしば現れるシンメトリーの強調もあって不思議に美しい。電線や電柱がなく街路樹もまばらでゴミも散らかってない感じと、50年代の不自然に明るい色彩のせいだろうか。模型のように整った道路を滑るように規則正しく自動車が流れてゆく場面は流石にウソだろと可笑しくなったけれど。インテリアも調度品も隙がない。
もちろん刺さるひと・刺さらないひとはいるだろうけど、三部構成の二部まで、この異様に美しい映像が続く。そう言われて気になるひとには(それだけで)オススメです。
chapter.2.『サスペリア』の延長線
三部構成の第一部からずっと続く異様な美しさ(
観る人によるとは思います)。なぜか自分は観ながら
アレハンドロ・ホドロフスキー監督の怪作『
ホーリー・マウンテン』を思い出して、あの作品の一番美しい場面だけがずっと続いてるような映画だコレ(『クィア』)は…と感嘆していたのだけど、
いや冷静に考えるに『ホーリー・マウンテン』にそんな美しい場面が一瞬でもあったろうか?ひたすら異様だっただけなのでは?(ひどい)
たぶんホドロフスキーを思い出してしまったのは『クィア』の絵面のいちいちの美しさ・ではなく、その中に最初から潜んでいた異様なものへの熱情のせいだろう。ダニエル・クレイグ演じる中年男が美青年に恋する話、という体(てい)で始まった本作は途中から、すでにヘロイン・コカインに耽溺していた主人公(クレイグ)が南米の部族に伝わるという究極のドラッグ「ヤへ」を求めて―美青年も誘って二人で旅立つアダルト版インディ・ジョーンズみたいな密林冒険譚に変調していくのだ。
異様さを潜伏させながら表向きはのっぺりとした均整美が「三部構成の二部まで」は続くと書いたのは、このためだ。第三部はそれまで伏在していた不穏が覆いをひっくり返すように前面に出てくる、獰猛さのオンパレード(それでもやっぱり、ショットの一つ一つが異様に美しいのだけれど)。とはいえ侵食はクレイグ演じる主人公がヘロインの禁断症状で「寒い寒い」と終始ガタガタ震える第二部から始まっていただろうか。予告篇では上手に伏せられていたけれど本作の後半「ダメ、ゼッタイ」なドラッグ・ムービーですから。
インディ・ジョーンズかホーリー・マウンテンか、はたまた地獄の黙示録かという異境の聖杯探究譚は、鞭を振るう考古学者や究極の智を求める求道者、あるいは密林に王国を築いたグリーンベレー大佐の暗殺を命じられた中尉それぞれが各々そうだったように(どのような「聖杯」に辿り着くかは作品によって違う)、本作だけの聖杯に到達する。『クィア』が到達した「聖杯」を観て、ルカ・グァダニーノ監督は前作のリメイク版『サスペリア』の時から「これ」を撮りたかったのかもと得心してしまった。
簡単にいえば、人が人でなくなること。『サスペリア』ではウィッチクラフト(魔女の秘儀)やオカルト的な超能力で目指された境地が『クィア』ではドラッグによる知覚変容でもたらされる。
実はリメイク版『サスペリア』で少し不満だった、主人公スージー・バニヨンの超能力を示唆する怪光の出現(ホラーは個人的にホラーであっても『シャイニング』や『エクソシスト』、ダリオ・アルジェントのオリジナル版『サスペリア』のようにオカルト的な事件もあくまで現実的な描写で描かれてほしい・霊力がピカピカとかはやめてほしいというワガママな趣味がありまして、『シャイニング』の続篇として作られた『ドクター・スリープ』も実は冒頭から悪役レベッカ・ファーガソンの目がピカピカ光った時点で「ちょっと…やめて…」だった)
ええと挿入が長くなってしまった、怪光です。『サスペリア』の随所で現れた怪光が、『クィア』でもクライマックスの超現実体験を予告するように現れ、両作の類縁関係を証だてる。こっちはもう許すしかなかったし、色々あってのラストではもう完全に許すしかなかった。
それで思い当たったのは『クィア』で主人公が恋する美青年の、ツッコみたくなるほどの付きあいの良さだ。元々「僕はクィア(ゲイ)じゃないよ」と言いながら主人公の中年男と関係をもつ時点で相当ノリがいいのだけれど、一緒に南米に旅立つわ途中で禁断症状に苦しむ主人公をかいがいしく介抱する(というほどじゃないけど捨てずに同行を続ける)わ、密林探索で泥だらけになり蛇に腰を抜かし、最後には人が人でなくなるような究極体験まで「まあ暇だし面白そうだから」くらいの軽さで付き合ってしまう。物語はあくまで主人公=演じるダニエル・クレイグ=モデルである原作者ウィリアム・バロウズの視点で描かれるから知る由もない、この美青年視点では、これは一体どういうことなのだろう―

そう考えて(
これは自分でも半分も信じてない、暇だから考えた解釈ですが)若いのにドイツで対ソ連の諜報活動に従事していたという経歴を、まあ本当かどうか分からないくらい軽々しく語るこの美青年は、その後フリーの写真家でフラフラ暮らしてると言いながら実は諜報活動をつづけていて、南米までつきあったのも「米ソそれぞれが関心を示している』という触れ込みの究極ドラッグの研究データ目当てだったのでは…みたいな「彼側の事情」もありえないではない(かなり無理があるけれど)と思うに至ったのだ。
前作『サスペリア』が現代オカルト・ホラーの古典をベースにしながら、オリジナルにはなかったドイツ現代史を作品に持ちこんだように。東西冷戦で引き裂かれた夫婦の悲劇を振り出しに→70年代ヨーロッパで・ドイツでは「バーダー・マインホフ事件」として吹き荒れた主に若い層の極左テロ活動と→そんな左翼に共鳴しがちな少女たちを生贄にした儀式で魔術的な力を得ようとする伝統・保守層(彼女たちが表の顔として主催した現代舞踏の演目が「VOLK(民族・国民)」というナチスを彷彿とさせるタイトルだったのもエグかった)の角逐を→西から来た善き魔女(?)(アメリカの清教徒的な文化を・あるいはそれが禁欲的に抑圧してきた結果あれ狂うエネルギーを背負う)スージー・バニヨンが調停する…そのようなストーリーとして「取ることもできる」ように。
『クィア』もまた、表立ってはいない形で、東西冷戦や諜報活動的な要素を隠し持った=その意味でも前作『サスペリア』の延長線上・『サスペリア』でやりたかったことを今度こそ完成させた作品だったのかも知れない。
…こうした要素を深く突きつめて考えるためには、自分は(アートな映画だけでなく)オカルトや、国策に取り入れられたオカルト≒つまりは陰謀論の分野にも疎くて(
お前は何なら「疎くない」んだ)、まあヘンなものに深入りせず一応この歳まで健全に生きてくるためには疎くて正解だったとは思ってますけれど、そして、
こうしたこと(オカルト的・あるいはドラッグによる知覚の変容的な「世界の真実」や、政局的な「真相」)が物語の「正解」ではないことも強調しておきたいのですけれど。
この作品は実は○○について描いている、だからその○○という認識に到達すること「のみ」が正しい観賞…
そんなわきゃないですよ。政治的背景やイデオロギー、あるいは愛だとか人生訓・「子供のことを思わない親はいない」とか「世の中の人々はまっとうに生きていて一人ひとりが素晴らしいんです」とか、そういうメッセージを作品は貪欲に取り込むことはあっても、それを見出すことが作品を享受することの「正解」ではない。もちろん受け手はそうしたメッセージを作品から汲み取っても、そこから生きる勇気を得ても全然いい。でも正論をぶちたければ架空の場所に架空の人物を設定して…なんて回りくどいことせんと直接に正論をぶてばいい、という教え(
吉田健一)を忘れてはいけない。
映画単品から創作全般の話になってしまったけれど
半ば意図的だ、このまま続けさせてもらう。
chapter.3.すべての土地はもう人が辿り着いてる
20世紀後半の日本を代表するシンガー・ソングライター中島みゆき氏は細野晴臣氏との対談で、細野氏が結成したYMO=イエロー・マジック・オーケストラの音楽を最初「頭脳作戦」みたいな感じだったらイヤだなと敬遠していたが、実際に聴いてみたらリズム面に「天然(実際は別の言葉を使っているけれど21世紀前半の現在では障りがありそうなので置き換えてます)」を感じたので安心して聴くようになったという主旨のことを話していたことがある。
chapter.1.で、そして先行した小ネタ(もう消しました)で「傑作なのか・ものすごく傑作ぽい紛い物なのか判断に迷うのが歯がゆい」と書いたことを、もう少し掘り下げて説明します。させてください。
要は、あんまり見事な「作りもの」過ぎて、この異様な美しさは監督の熱意が生んだ「天然」なのか、まあいっちょ先鋭的と驚嘆されるようなものを作ってやりましょうという「頭脳作戦」なのか、観てる側が自信なくなるくらいだな…と思ってしまったのだ。
「頭脳作戦」は「マーケティング」と言ってもいいのかも知れない。あまりに美しすぎて…では分かりにくいかも知れないので置き換えると、たとえば「真心がすべて!」みたいな強いメッセージをクライマックスで訴えかける作品があったとして、それが作り手の信念に基づくのか、それとも「そう言っておけばウケるだろう」というマーケティングに基づくのか、どちらと取るかは作品の受け取りかたを大きく左右する。
これは難しい問題だ。作品は天然(信念)と頭脳作戦(マーケティング)どちらかに必ず二分されるものではなくて、大体は双方の要素を併せ持ってるものかも知れない。受け取る側が決める要素も強い。前にも書いたと思うけど(書いてなかったかしら)お揃いの制服を着た少女たちが和音どころかユニゾンで「不協和音を僕は恐れない」と唄うアイドル歌謡は、僕は邪悪な(なんなら実際には救いを求める若者たちへの悪意すらある)マーケティングの産物としか受け取れなかったけれど、それを「真に受けて」異国で弾圧に耐えた若者も居る。
逆に、誰かが心血注いだ作品を叩きのめすのに「あーはいはい、いかにもって感じだよね、狙ったんでしょ?」と冷笑するほど効果的なハンマーもないだろう。あくまで受け手のコンディションの問題かも知れないが、僕には『クィア』が出来がよすぎて逆に、そういう揚げ足取り「はいはい、お見事お見事」に対して隙がありすぎる難しい作品に見えてしまった。
たとえば最近の映画だと香港・九龍城砦を再現してのけた『トワイライト・ウォリアーズ』を「紛い物」と思う人は(あまり)いないだろう。あまりにも雑然として、それでもその中を縦横無尽に駆け回るアクションを繰り広げつつ怪我やつまづきが残らない映像に、スタッフからキャストから大変な数の人々の実在する努力の積み上げは疑う余地がないからだ。『クィア/QUEER』は、あまりに整然として「そつがない」(そつがない、なんてものじゃないのだけど)。もちろん『トワイライト・ウォリアーズ』が努力と汗の結晶で、汗ひとつかいてないような『クィア』がそうでない、なんてわけはない。同じくらい人手がかかってるに決まってる。けれどその均整美は、AIでどんな画像でも作れてしまうと謳われる時代に、(人力でありながら)あまりに親和性が高い。
映像美だけではない。
先にホドロフスキーの名を挙げたけれど、本作は(僕にとっては)ホドロフスキーやクローネンバーグが描こうとしてきた人間変容の夢を彷彿とさせすぎる。同じ聖杯を求めてるのだから彷彿とさせるのは当然なのだけど、終盤に至って「
生きてたのかデヴィッド・リンチ(〜2025)」と思うような場面や、ついにはスタンリー・キューブリックすら彷彿とさせる場面(
個人の感想です)に曝されて「すごいけど、不幸な作品でもあるのかも知れない」(
個人の感想です)と思ってもしまったのだ。
オタクと呼ばれる情報複製時代の寵児たちの黎明期に
「おおすべてのことは一度もう行なわれてる すべての土地はもう人が辿り着いてる」と高らかな絶望が唄われて以来、既に40年近く経っている。
・
ムーンライダーズ - マニアの受難(YouTube/外部リンクが開きます)
『クィア/QUEER』はホドロフスキーが、クローネンバーグが、リンチが、キューブリックが、もしかしたら原作者のバロウズが、吾々みんなが夢見てきた「人間をやめたい」という夢(そういえばドラッグ濫用に警鐘を鳴らす80年代の有名な広報コピーは「人間やめますか」だった)を、これまでにない完成度で映像化した傑作だと言える。こんな作品を信念なしに、マーケティングや「頭脳作戦」だけで作れると思うのは、あまりに創作てものを馬鹿にしすぎだろう。その完成度は、これから人類が体験する・半ば体験しつつある「AIで何でも作れる時代」の最良の部分を、人力で先取りしているかのようですらある。
けれど『クィア』に、ホドロフスキーやクローネンバーグ・リンチやキューブリックが持つ「そこに最初に辿り着いた」という栄誉を認めることは、観てない観てないと言いながら観てない範囲内で色々と観てきてしまった自分には、悲しいけれど難しい。少なくとも今は。先達たちが(彼らには彼らなりの参照する先行作品があったのかも知れませんが)それまで描かれてないものを描いて博したカルト的な人気・評価を得ることは「これまで描かれてきたものを今までで最高に完璧に描いてのけた」だけでは、難しいのかも知れない。
そんなことない、人生が変わるほどのショックを受けたよ、こんな体験は想像したこともなかった、という(若い)受け手もいるだろう。その人たちが羨ましいし、本来そうした評価に足るポテンシャルを有した作品だと思う。
ダニエル・クレイグも「この映画のためにボンドを辞めた」と言われても信じちゃうくらい(
違いますよ)素晴らしかったです。映画館の大スクリーンで是非。
* * *
(25.05.26追記)まだ何か大切なことを言い落としてるよなと思いながら昨晩日記(週記)をアップロードして、寝床に入ってから言語化できたので加筆です。折角なので映画と同じ(3章+1)の構成で↓
epilogue.
聖杯に色々あるのと同様「人間をやめたい」にも色々ありまして。キューブリックみたく人類の上を目指すこともあれば、クローネンバーグのようにハエと合体でもいいやと割り切ることもある。(そういえば『クィア』の原作者バロウズの声をサンプリングしたYMOの楽曲のタイトルが「BE A SUPERMAN」だったような…)
『クィア/QUEER』を観ながら連想していた他作品がもう一つあった。作品とゆうか、とあるBL漫画の「交わりを重ねて互いを理解すればするほど−私たちはそれぞれが如何に孤独かを知る」という主旨のモノローグだ。身体を重ねても、お互いを分かりあっても―いや、それでこそ余計に募る孤独。
『クィア』の主人公が究極のドラッグ「ヤヘ」を試すのにわざわざ相方を連れていく、求めていたのが「一人で超人になりたい」ではなく、予告編でも引用されていたように「言葉を使わずに君と話したい」だったことは特筆に値する。寿司屋だと思って入ったらラーメンが出てきたみたいに(←最近の回転寿司では「あるある」ですが)、ゲイロマンスを求めた観客にバケツ一杯のドラッグ体験を浴びせる本作は、その動機(一人はイヤだ)と「ヤヘ」で合一化してもなお癒せない孤独を際立たせた一点で、寿司としての面目を保っていた・逆にすごい濃い口のBLとして着地しおおせた、とも言えるのではないでしょうか。
究極のドラッグ体験を経て主人公たちの目尻から流れる涙は、結局孤独だという諦念の涙かも知れなかったし(美青年のほうが何を考えていたかは相変わらず知る由もない)同じく男が涙を流す、クローネンバーグの現時点での最新作『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』(2022年)のラストシーンと重なりもした。それぞれのやりかたで人間という限界の外に出ようとする者たちが、それぞれに流す涙。かつてクローネンバーグがバロウズの『裸のランチ』を映画化していたことも念のため付記しておきたい。
* * *
あとアレだ、オールバックの髪は「幾筋かだけ」ほつれたように崩れるからいいんだ『クィア』みたくバッサバサに崩れるのは認めんという厳格派の異議は甘んじて受けます…
国家を持たない人々(仮)〜『ゾミア』『シャドウ・ワーク』『宮本常一『忘れられた日本人』を読む』(25.05.18)
そんなわけで、いやー読んだよ
ジェームズ・C・スコット『ゾミア 脱国家の世界史』(原著2009年/佐藤仁ほか訳・みすず書房2012年/外部リンクが開きます)。神保町の東京堂書店で「これもうスゴい本ですから」とばかりのオーラを放つ平積みを見て、まあ今生は読むチャンスないかもだけど…と遠く憧れたのは何年前だったか。意外と読めるもんだ。そして滅法おもしろかった。
同じスコットの「普及版・ゾミア入門」とも言うべき『反穀物の人類史』について
先月たっぷり書いてるので、またくどくどと多くは述べない。著者自身による冒頭の要約だけで十分だろう;
「東南アジア大陸部の五カ国(ベトナム、カンボジア、ラオス、タイ、ビルマ)と中国の四省(略
)を含む広大な丘陵地帯(略)
ゾミアは、(略)
約一億の少数民族の人々が住み、(略)
国民国家に完全に統合されていない人々がいまだ残存する、世界で最も大きな地域である」(強調は引用者)
この短い文言に異様なまでのときめきを憶えない人は、まあ知るのが早すぎたのだ、何年か何十年か経って気づいてから同書を手に取ればいい。
残念ながらゾミアが「国家に抗する」世界最大のアジールであった時期は鉄道や自動車・飛行機の発達によって過去となり、その消滅は時間の問題だろうとスコットは言う。
けれど同時に彼は
「しかし一昔前まで人類の大多数は、ゾミアの人々のように国家を持たず、政治的に独立して自治をしていた」とも述べている。この「一昔前」は、どれくらい前のこと、なのだろうか?
* * *
『ゾミア』を読んで数十年ぶりに思い出したのは
イヴァン・イリイチ『シャドウ・ワーク』(原著1981年/玉野井芳郎・栗原彬訳・2023年岩波文庫/外部リンクが開きます)で紹介されている1エピソードだった。
僕が読んだのは学生時代、岩波書店1982年→岩波現代文庫2003年の間のどこかで出ていた同じ岩波の同時代ライブラリ版で、数十年ぶりに開いて確認したそれは「シャドウ・ワーク」という今なら誰もが知っている(ものとして話を進めます)概念を説いた同書の本題とは、もしかしたらあまり関係がない。今ではカギカッコつきの「アメリカ大陸の発見者」クリストファー・コロンブスの話だ。
その評価について(彼を偉人のように取り上げて炎上した日本の軽率なミュージシャンについても)今回語ることはない。
「(古代ギリシャで最初に地球の大きさを算出した)
エラストテネス以来コロンブスほど、地球の大きさをおそろしく過小に見積もったものは誰ひとりとしていなかった」(だから無謀な遠征を提案できた)という皮肉たっぷりの一節だけで十分だろう。今回読み返しても笑ってしまったし、数十年前に読んだ時もたぶん笑ったと思う。けれどかつて強烈な印象を残したのは、そこではなかった。十分に前置きしてしまったが、簡潔に述べよう。
イリイチは言う。現在でいうイタリア、ジェノバ出身のコロンブスが最初に身につけ話していた言語はジェノバ語だった。商人として彼はブロークンなラテン語を書き、ポルトガルで結婚した後はおそらくポルトガル語を話すようになる。そしてポルトガル語混じりのブロークンなスペイン語が、彼の二番目の書記言語となった。
「彼のスペイン語は(略)
半島のいたるところで習いおぼえた簡潔なことばに富んでいた。構文は多少奇異ではあったけれども、彼はこの言語を生き生きと、表現力に富み、しかも正確に、あやつった。こうしてコロンブスは、話すことのない二つの言語(ラテン語とスペイン語)
で書き、数カ国語を話したのである。」
コロンブスに接した人たちも、その言語がブロークンなブリコラージュだったことに当惑したり困ったりすることはなかっただろう。むしろ彼のように、いくつもの「国語」や方言を操り、文法は怪しいけれど兎に角は伝わり、なんなら表現力に富んだ文章をものする人々のほうが、15世紀の地中海世界ではデフォルトだったのではないか―そんな思いも当然のように湧いてくる。
イリイチの文章の主眼は、コロンブスの同時代人ネブリハが、カスティリヤ語を厳密な文法規則をもつ言語として精製してスペインの唯一の「国語」とすることを提唱し、コロンブスが生きていたような多言語世界を破壊したことにある。が、それは関心をもった各自が同書で確認すればいいことだ。いや、よい機会なので僕もあらためてイリイチの主張を再読したいけれど―
僕の今の関心の焦点はこうだ:地球の大きさをかつてないほど小さく見積もった怪しい航海計画に認可を与えたイザベラはスペインの女王だった。けれど航海への援助を乞うたコロンブスは何人だったのだろうか。彼にとっても、彼のブロークンな多言語を受け容れた地中海世界の人々にとっても、国家や国籍は少なくとも、現在ほどにはギチギチの強固なものではなかったのではないか。
* * *
東南アジアに世界最大の無国籍地域がある(あった)のは分かった。15世紀のヨーロッパも(ある意味)似たようなものだった(かも知れない)ことも分かった。
でも日本は。稲作で国家の存在感が強く移民にも他民族にも不寛容な日本は、まさにゾミアの対極だよなあと、取りつく島がないように
思っていた頃が私にもありました。
その思いは『ゾミア』巻末の訳者あとがきで早々に覆される(早いな)。
まず挙げられていた柳田國男については、彼が「遠野物語」や「山の人生」で山に拠る非農耕民に思いを寄せたのは民俗学者としてのキャリアのごく初期で、すぐさま彼自身が「常民」と名づけた「ふつうの日本人」に関心をシフトさせたように(僕には)思われる。
しかし同じく挙げられた宮本常一や網野善彦は、とくに後者の網野氏は「万世一系の単一民族」的な日本観の解体に尽力した印象が、なるほど強い。というかイリイチの『シャドウ・ワーク』を読んだのと同じころ、(もちろん自分の乏しい読書力の範囲で)『無縁・公界・楽』をはじめとする網野史学には自分もそこそこ入れこみ、影響を受けたつもりだったけれど、そんな自分でも「違うんだけどなあ」と思いつつ「世の中一般は単一稲作民族日本(おにぎりのおいしい国)主義」とバックラッシュに押し流されてはいたのだろう。
網野善彦『宮本常一『忘れられた日本人』を読む』(岩波書店2003年→岩波現代文庫2013年/外部リンクが開きます)という格好のテキストがあったので、復習のつもりで早速読み、ひっくり返った。
ここで余談を挿しはさむと『ゾミア』を読んでいて「日本の事例」として強烈に思い出されたのは、宮崎駿氏の諸作品だ。
氏の最初のメガヒットである映画『もののけ姫』の、大和朝廷にまつろわぬ(そして排斥され滅びゆく)列島内の異民族である主人公アシタカや、山の中に遊女や被差別者のアジールを築かんとするエボシ御前の描出には、網野史学の影響がありありと見て取れた。
そして氏の初期の絵物語作品『
シュナの旅』は、舞台こそ日本ではないが、主人公たちを脅かすのが「人買い」実質的には強奪者たる奴隷商人だった設定が、国家=穀物生産社会は奴隷制によって成り立ったというスコット『反穀物の世界史』の主張と、いやおうなく響きあっていたのだ。
けれど先を急ごう。
百姓=文字どおり百の姓(かばね=生業)でありイコール稲作民というのは後世の誤解だと説き、稲作農耕民の秩序からはみ出した海民や山民・「道々の輩(やから)」に思いを馳せ、そして「日本」の歴史「日本」の歴史というが縄文や弥生の頃には「日本」という「国」はなかったのだから「日本列島」の歴史と呼ぶべきだと異議を申し立てた網野史観。もちろんそう理解はしていた(つもりだ)。「日本」は単一民族国家だという暴論も、アイヌや琉球人・フィクションだけどアシタカの一族のように滅ぼされた列島内の異民族によって容易く反証できると認識もしていた。
けれど『忘れられた日本人を読む』で網野氏が挙げていた事例は、そんなものではなかった。
まず引用されるのは宮本ではなく、日本語学者の大家だった
大野晋氏の説だ。1957年に刊行されベストセラーになったという『日本語の起源』(岩波新書)で
「大野さんは(中略)
非常にはっきり、列島の東と西では人種、あるいは「民族」の差異といってよいほどの言語の違いがあることを強調しておられるのです」
と網野氏は取り上げるのだ。
民族ですよ?
でも先ほどの事例を思い出してほしい。大野氏→網野氏が例示する
見ろ・みい、しなければ・せねば、なんとかだ・なんとかじゃ、ひろく・ひろう(広く・広う)
、かった・こうた(買った・買うた)
といった一連の語彙の違いは、コロンブスが操ったポルトガル語とスペイン語の語彙の差と、どれほど違うのだろうか。あーつまり、たぶん基礎的な文法は同じくするジェノバ語やポルトガル語にスペイン語そしてラテン語が多言語・異なる民族の用いる多言語であるならば、アイヌ(現在の北海道)や琉球(同沖縄県)どころか本州じたい東(しなければ)と西(せねば)で言語圏ひいては「民族」とやらは真っ二つに分かれていたと捉えることだって不可能ではない。
そんな馬鹿な、いや(網野氏が引用しているように西のひとに「あれを借って(かって)こい」と言われた東のひとが「買って」きてしまうようなコミュニケーションの齟齬があったにせよ)東日本と西日本の人たちは意思の疎通も商取引も出来ただろうと言うのであれば、コロンブスの時代におけるジェノバとスペインも、そしてゾミアに生きる複雑に入り混じった多民族社会も、同様だったと言えるはずだ。
たたみかけるように網野氏は、東と西では「王権」すら別だったと言う。
いや、もちろん東日本で幕府を打ち立てたのは西の天皇に仕える征夷大将軍であり、東に別の王権が立てられたわけではないと反論は可能だろう。だが、他国・他民族間でも臣従のかたちを取りうるのは、たとえば中国と(日本を含む)他国の間に確立された朝貢外交の事例などで明らかだ…とは僕の私見による追加。
網野氏が挙げるのは、たとえば自ら作った手工芸品などを商う非農耕民が、通行の許可を与える権威として頼ったのは、西日本では天皇・東日本では将軍と明確に分かれていたという事例だ。
結論として、20世紀中盤までの(そして現在も)ゾミアがそうであるように、15世紀の地中海世界も、鎌倉時代の日本列島も、少なくとも「国家」「国語」の縛りは今の吾々が考えるよりずっと緩く、融通の利くものだった「と考えることが出来る」。
それは単純だけど少しの目の位置で何にでも見えるってこと。
電車の中で『「忘れられた日本人」を読む』というタイトルの本の表紙を晒しながら(図書館で借りた本にカバーをかける余裕がなかった)自分が「今の日本人は誇り高いサムライ魂を忘れている」みたいな本を読んでる「保守」の中高年男性だと思われたらイヤだなあと気恥ずかしかったのは自意識過剰すぎるとして。いやまあ通勤通学退勤その他の人たちは他人が読んでる本なんか気にしちゃいないよと分かってはいるのですが。
本来「日本が」「日本が」「日本は素晴らしい」「世界中から尊敬される日本」とか言ってる人たちのほうが、他のことに(も)関心が多すぎて気もそぞろな僕などより、よほど熱心に網野氏や宮本氏・あるいは鶴見善行氏などが説いた(そして数多くの研究者が続いているだろう)単一民族史観・島国史観に取って代わる日本列島の歴史に取り組んでよい、はずなのだけど、どうなのだろう。
それとも彼ら彼女ら(もしかしたら「あなた」たち)は「すごい日本」だけ好きでいたい・「日本が好き」と言うより「日本を好きにしたい」だけの人たちなのだろうか。
* * *

と、言うわけで、今回の日記(週記)のテーマは明確だ。
1.東南アジアには世界最大の「国家に属さぬ人々」の社会がある(スコット)
2.だが15世紀の地中海も似たようなものだったのではないか(イリイチ)
3.そして近世以前の日本列島も(網野善彦)
最後に4.として付記したいのは、少し次元の違うことだ。なるほど東南アジアのゾミアは「国家に属さぬ人々」の地域としての存在を、急速に失ないつつあるらしい。ピエール・クラストルが中米に見出した「国家に抗する社会」が西欧に始まった近代的な国家によって急激に駆逐され、滅びたとされるように。誰のものとしても登記されていない土地が、もはや地上にはない(たぶん)ように、もはや国家に属さない土地も存在せず、すべての人々はいずれかの国家に登録され、いずれかの「国語」を「母語」として割り当てられているのが現在かも知れない…
…
本当にそうだろうか?
なるほど、国家の統制や徴税から逃れた「無縁」・アジールとしてのゾミアのような地域は消滅する(した?)かも知れない。だが、かつてゾミアに生息したのと同じくらい沢山の「国家に属さぬ人々」が、今は移民・難民・サンパピエ(san-papiers=書類を持たない人々)・非正規滞在者として世界中の「国家」の中に、数えられぬまま存在しているのではないか。
「数えられぬ」というのは、国家を形成されるマジョリティ=国民によって存在を透明化されたまま、という意味だ。
鎖につながれたように通勤電車に押しこめられる(
2016年9月の日記参照)マジョリティとしての自分が、国家の庇護を受け得ず積極的に迫害されさえする人々に、自由の幻想ばかりを投影して過度にロマンチック化する愚は厳に回避されなければならない。
けれど、そのうえで、事実として、「ゾミア」とは違った形で存在する「国家に属さぬ人々」をどう認識するのか。メネ・テケル・バルシン(
先月の日記参照)とは言わないけれど、「いなくていい」「いても邪魔」扱いされながら実はしっかり搾取の構造には組み込まれてもいる非正規滞在の人々を、これからどんどん数を増してゆくだろう人々を、どう社会の中に「数え」位置づけるか。かつてのコロンブスのように一つの国家や一つの言語で定義できない人々を「数え」られるよう、旧来の「国民」国家という枠組をいちど分解して、再構築する必要があるのではないか。
「ナチズム時代のヨーロッパの中心から旧ユーゴスラビアまで、中東からルワンダまで、ザイールやカリフォルニアまで(中略)
あらゆる種類の難民たち、移民たち(市民権の有無は問いません)、亡命や強制移住させられた人々(身分証明書の有無は問いません)、カンボジア人、アルメニア人、パレスチナ人、アルジェリア人、その他もろもろの人々が、社会および地球規模の政治空間に対して、ある変容を―すなわち、法的−政治的な変容であると同時に、なによりもまず倫理的な転換を(こうした区別がなおも妥当性を維持できればですが)―要請している」
…最近読んだ別の本からの引用なのだけれど、わざわざ書名を挙げる必要はないだろう。すごめの著者名で箔をつけるように見えるのもシャクだし、およそまともな感性をもった人なら誰でも言える・言えるべきことだからだ。国家が国民だけを保護する(最近は保護すらしつづける意志があるのか怪しいけれど)体制から、こぼれ落ちる人たちの生存や人権は誰が保障するのか。
4.「ゾミア」が消えても「国家に属さぬ人々」は移民・難民という形で世界に存在しつづける。
4.1 難民や移民・それに性的マイノリティや障害者などを「ふつうの人々」が「いないこと」にしつつ搾取のサイクルにはしっかり組み入れている社会(
今年2月の日記など参照)を、いかに解体し「国家や国語に属さぬ人々」まで包摂した社会として再構成するか。
4.1.1 その再構築(ディコンストラクション?)に『ゾミア』や『国家に抗する社会』『無縁・公界・楽』の知見をコネクトする作業は、比較的まだ手つかずの課題なのではないか。
90年代に書かれた文章で列挙された
「もろもろの人々」に、今なら(そして以前から)クルド人やビルマ≒ミャンマーを追われた人々が含まれ特記されるべきなのは、言うまでもない。
希望に抗する物語〜レオナルド・パドゥーラ『犬を愛した男』(25.05.11)
※
『犬を愛した男』の感興の核心に触れています。まあ何に感じ入るかは人それぞれなので気にしない人はいいけれど、まっさらな状態で臨みたい未読者は注意。
まず最初に謝っておかないといけない。
先月の小ネタで「たしかトロツキーは暗殺されたとき反撃して襲撃者の耳を喰いちぎった気が(違ったっけ)」と書いたけど、
違いました。なんでそんな風に記憶がねじ曲がったんだろう。その意味でも読んで良かった
レオナルド・パドゥーラ『犬を愛した男』(原著2009年/寺尾隆吉訳・水声社2019年/外部リンクが開きます)
もうひとつ分かったのは「たしか吉野朔実さんが本の雑誌で取り上げてたよね」という記憶も自分の捏造だったことだ。吉野氏、本書の邦訳が出る三年前に急逝されているのだ。プリンスの一日前に。2016年、改めて非道い年だった。ドナルド・トランプが最初にアメリカ大統領に選ばれた年でもある。改めて酷い。
後半は核心に触れるので早めに結論を言ってしまうと、
すごく面白かった。分厚さに躊躇してる人も、恐れず読んだほうがいい。予備知識ゼロでも、たぶん大丈夫。
1.1917年に起きたロシア革命は以後80年にわたり、世界を西=自由主義・資本主義陣営と東=共産主義・社会主義陣営に二分した。
2.ロシア帝国を打倒しソ連を築いた国父レーニンの死後、後継者の座をスターリンと争って敗れたトロツキーは1940年、亡命先のメキシコで暗殺された。
3.1930年代にスペインでは自由主義・社会主義諸国が支援する人民政府と、ドイツなどファシズム陣営が支援するフランコ将軍との間で内戦が起きたが、後者が勝って長く独裁制を保った。
4.キューバは1959年の革命以降、今日に至るまで共産党の一党独裁が続いている。
これくらい知ってれば十分。いや、これすら不要かも知れない。

(にゃ、キユーピーやキヤノンは発音は「キューピー」「キャノン」だけど、トロツキーは発音もトロツキー)(昔は「トロッキー」だった)
ただし『犬を愛した男』というタイトルは多少間違っている。
『一九八四年』の二分間憎悪どころか宿敵スターリンによって二十年にわたり、内憂外患・全ての悪や不都合の黒幕(ヒトラーやヒロヒトとすら共謀してることにされた)=全ソ連国民の憎悪の対象=スケープゴート役を負わされ続けたトロツキーも犬が好き。そのトロツキーを亡命先のメキシコで暗殺したラモン・メルカデールも犬が好き。ラモンの旧友を名乗りキューバに現れた謎の男も、彼からトロツキー暗殺のおぞましい真相を聞かされる語り手も犬が好き。ついでに内戦下のスペインにちょっとだけ登場する『一九八四年』の作者ジョージ・オーウェルも犬が好き。単数じゃない、犬を愛した「男たち」じゃん!
こうなると巻頭で
「三十年経っても、まだ ル シ ア の た め に」と献辞を捧げられてるのも(人間の連れ合いや家族じゃなくて)犬なんじゃね?と思えてならない。記憶捏造の一因かも知れないけれど、吉野朔実さんも愛犬家だった。よね?
ともあれ物語は30年代〜40年のトロツキー・メルカデール、時代を経て70年代の語り手、三者の視点を交互に配して進む。トロツキーの「裏切られた革命」と、表裏一体で描かれるスターリンの恐怖政治。スペイン内戦で共和国側として戦い、敗北に打ちのめされたメルカデールがソ連(スターリン)の手先として暗殺者に己を錬成してゆく過程。そして海を隔てた社会主義国キューバの言論統制と貧困で削られゆく語り手の生涯。
元々は警察ミステリで名声を博した作者の筆致はエンターテインメントとしてのツボを知り尽くしているかのように読者を飽きさせない。結局メルカデールは首尾よくトロツキーを仕留めると分かっていながら、決行の瞬間はサスペンスたっぷりに引き伸ばされ、しかも政治的には不倶戴天のトロツキーとメルカデール・どちらにも均等に共鳴共感(そして嫌悪反発)できるよう物語は進む…
…ここまでなら上質の「リーダブルな小説」だ。だが暗殺者の凶器がターゲットの頭上に降り下ろされた瞬間から
※
ここまでなら、まだ引き返せます。以下は未読者注意。
物語の空気は一変する。いや、ページを繰る手が止まらぬ筆致は変わらない。

けれど、その場で捕縛され20年の収監を経て、名目上は英雄としてモスクワに移り住んだメルカデールの後半生を執拗に描く終盤は、それまで盛り上がったサスペンスも政治的な高揚感も、すべて欺瞞だったことを残酷にさらけ出す。
いや、元々すべては欺瞞に満ちていた。オーウェルほか各国からジャーナリストや義勇兵が馳せ参じたスペイン内戦は、自由主義を掲げる政府が政権内部と支援を謳う各国・各勢力の主導権争いで自滅したようなものだった。任務のため名前も経歴も偽るメルカデールは自身のアイデンティティも失なった操り人形と化し、誰からも醜いと憐れまれる女性を色仕掛けで攻略してのける。反動勢力の手に落ちた祖国に二度と戻れない彼はソ連政府に下賜された勲章をデパートの行列に割り込むために見せびらかし、体重100kgに肥満する。
トロツキーとて例外ではない。絶えず癇癪を起こし、粛正の危険を冒して尽くす息子を働きが足りないと罵り、妻を裏切って不貞に走る。何より赤軍の初代指導者としての反対者の圧殺、クロンシュタットの水兵蜂起の容赦ない弾圧、後にスターリンがはたらく恐怖政治の悪業の雛形を作ったのは自分自身だったという自責と、その自責を自ら封じこめる怯懦が、悲劇の主人公・一方的な犠牲者という仮面を無慈悲に剥ぎ取ってはいた。
スターリンの傀儡だったメルカデールが標的に最接近した時も、両者の邂逅は心の交流や和解をもたらさない。事ここに及んで暗殺者の心に生じた迷いもトロツキーの人格にふれ感化されたものではなく、いつの間にか自分は正義や理念のためでなく味方から何重にも仕掛けられた罠と恐怖で逃げられなくなっているだけだという自覚からのものだ。そして無防備な頭蓋に凶器を振り下ろされる直前、トロツキーがメルカデールにかけた最後の言葉は「頼まれたから読んでやってるが、君の文章はクズだな」、その場で警察に殺されてもおかしくなかった暗殺者の命を救った瀕死のトロツキーの言葉も、彼を赦せなどではなく「活かしておいて尋問しろ」だった。
それでも。裏切られた革命にも、欺瞞に満ちた生にも、何らかの救いが、それでも人が生きていける・人生や世界を肯定できる根拠となる輝きがあるのではないか。そんな思いは最後の最後、念入りに叩きつぶされる。どうやってか。
どんな悲惨な運命でも、どんな無情な悪行でも、小説は、物語は、そのおぞましさを保ったまま芸術という美に昇華できる。小説は、映画は、物語は、人の言葉は、創作という営為は、恐怖政治によって消し去られた人々の存在を復活させ、すべてを忘却させる時の流れに抗う―だから小説は、物語は素晴らしいのだという創作や表現に携わる者の自負は、れまでトロツキーの、メルカデールの、そしてキューバに生きた自身の苦難に満ちた生涯を総括して語ってきた「語り手」があっさり退場し、彼の友人だった別の作家の視点に切り替わることで「語り手」への感情移入ともども封じられてしまうのだ。
掴もうとした手がスルッと宙に泳いで後は落下するしかない、この離れ業のために、まるで600ページにわたる物語は積み上げられてきたかのように、得られるはずだったカタルシスは霧消する。この物語に―スターリンの暴虐に、スペインの敗北に、ソ連で・ソ連領だったウクライナで・大躍進を謳った中国で・ポルポト支配下のカンボジアで強いられた何千万の餓死に、そしてキューバの言論弾圧や貧困に「よかった探し」をしてはいけない、物語の喜びを封じてでも「よかった」ことにはさせない―本書のエピローグをドライブするのは、そんな作者の決然たる意志だ。
困窮下で毎日10km自転車を漕ぎ、貧乏医者として人々と助け合う語り手の
「人間の真の偉大さとは、無条件に慈悲心を発揮すること、何も持たぬ者に分け与えること、それも、余りものではなく少ない持ち物を分け与えることにある」と述懐する場面は、欺瞞と悲惨に満ちた本作で異彩を放つ(もしかしたら)最も美しい箇所だ。
「そして、それを政治や名声獲得の手段に使わないのはもちろん、そこから怪しげな哲学を引き出して、自分の善悪の価値基準を唯一絶対として他人に押しつけるような真似、頼まれもしないものを与えて感謝を要求するような真似はしないこと」…
けれど、そんな語り手の思い、
「人間としての私の義務は、それ(
消し去られた記憶)
を書き残し、忘却の津波から救い出すことなのだ」という自恃は、
「我々の世代は誰もがお人好しのロマン主義者であり」「私の世代の大半が、安全ネットのないこの危険な空中ブランコを無傷で乗り切ることはできない」だろうという敗北感に一瞬で押し流される。それこそが本作の作者が読者に持ち帰らせたいものだ。
要は、剥奪された人間性を戻せという真っ当な要求が、剥奪の罪の軽減にすり替わってはいけない。とくに当事者でない(けれど傍観によって罪に加担してるかも知れない)第三者においては。
物語は、哲学者が「剥き出しの生」「動物としての生」と呼ぶまでに人間の条件を剥奪された生でも、最後に残るのは(自己保存のエゴイズムではなく)生の尊厳だと示すことが出来る。だがそれで人の生を無意味だとする
剥奪をなかったことにはさせない。物語の喜びが酷薄な剥奪を減免させるようにはたらくならば、そんな喜びは(少なくとも本作では)許さない。本作を読み、サスペンスに興奮し、歴史や事物・人物を語る物語の喜びに浸るがいい、だが人間が廃棄物あつかいされた時代の物語から「人間も捨てたもんじゃない」的な希望を持ち帰ることだけは許さない。人間は、人間が作った社会や制度は、物語の喜びでも帳消しに出来ないくらい非道いことをした、それだけキッチリ持ち帰ってもらう。
小説技巧の限りを尽くして、小説の救いを否定する。恐ろしいまでに読み手の感情をコントロールしながら、恐怖が人をコントロールした時代の悪を糾弾する。物語には、こんなことも出来るのだ。
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