(25.05.18)メイン日記(週記)更新。それは単純だけど小さな目の位置で何にでも見えるってこと。数回にわたったジェームズ・C・『ゾミア』スコット話たぶん完結篇。画面を下にスクロールするか、直下の画像をクリックorタップ、または
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まったく関係ないけど今このサイトのトップ、韓→日→中(台)と映える食い物写真が並んでて吾ながら気持ちいいぞ。今だけだぞ。
(25.05.21/小ネタ/すぐ消す)代替たんぱく源として今夏は(もう夏と見做す)お麩わけても車麩の登板が増えそう。冷やしぶっかけ蕎麦。きのこと戻した車麩に火を通したかけ汁と、色合いを保つため別で青菜のおひたしとカニカマを冷やして(仕込んで)おいて、お蕎麦を茹でて冷水でシメてぶっかける。揚げ玉とラー油は外せない。かつお節をトッピングしても映えるでしょうね。
(25.05.19〜終映23日まで存置)どうせ「すごく良かった」なんでしょ、と思われるかも知れないけれど逆に期待は裏切れねぇな(?)
すごく良かった『赤い糸 輪廻のひみつ』(シネマ・ジャックアンドベティ/外部リンクが開きます)半年ぶり二回目の『狼が羊に恋をするとき』(
昨年11月の日記参照)もハシゴして、帰りに近所のガチ中華(民国)でワンタンと魯肉飯セット、しあわせな台湾の夕べでした。

ほぼ予備知識なしで観た『赤い糸』(『返校』の幸薄げなヒロインだった俳優さんがピンク髪ではっちゃけてて超かわいかった)語ると
ほぼネタバレになってしまうので控えますが予想外のスケールだったのも無理はない=韓国のメガヒット地獄映画『神と共に』へのアンサーも意識していたようで、死を超えた愛とか時を超えた因縁とか比べるのも一興。監督が亡き愛犬と同じ名前の犬を登場させ「思い出を刻んだ」というだけあって犬好きは涙なしでは観られない展開(さほど犬に思い入れない僕でもクライマックスは流石に少しウルっときた)。けれど
むしろ観たほうがいいのは猫好きかも。なにしろ
★ネタバレにつきたたみます。(クリックで開閉)。
本作の世界観(死生観)では生きてる間に徳を積むことでカタツムリ→昆虫→(中略)→ペンギン→(中略)→猿→犬とランクアップし、ついには人間に転生できるのだけど、人間としての生涯のうちにさらに徳を積むと来世では猫に成れるのだ。
納得しかない格付けでしょう(たぶん)。『狼羊』ともども5/23まで。
当面存置。署名:
「国保料が高すぎる!国の責任で払える保険料にしてください!」(中央社保協/24.6.19/Change.org/外部)
【電書新作】『
リトル・キックス e.p.』成長して体格に差がつき疎遠になったテコンドーのライバル同士が、eスポーツで再戦を果たす話です。BOOK☆WALKERでの無料配信と、本サイト内での閲覧(無料)、どちらでもどうぞ。
B☆W版は下の画像か、
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サイト版(cartoons+のページに追加)は下の画像か、
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扉絵だけじゃないです。
side-B・本篇7.1話、6頁の小ネタだけど更新しました。

(外部リンクが開きます)
今回ひさしぶりにシズモモの過去エピソードを見直し「やっぱり好きだな、この話とキャラたち」と再認できたのは幸せなことでした。そして色々あったり無かったりしても、ペンを持って物語を紡いでいる時が、自分は一番幸福らしいとも。次に手をつける原稿は(また)シズモモではないのですが、何しろ描くことは沢山あるのです。
ちなみに今話タイトルの元ネタは井上陽水の「
愛されてばかりいると(星になるよ)」。同曲が収録されたアルバム『ライオンとペリカン』のB面(side-B)に入ってる「
お願いはひとつ」は個人的に一番好きなクリスマスソングの最有力候補です。レノンと争う。
RIMLAND、電子書籍オンリーですが20ヶ月ぶりの新刊『
読書子に寄す pt.1』リリースしました。
タイトルどおり読書をテーマにした連作に、フルカラー社畜メガネ召喚百合SF「有楽町で逢いましょう」24ページを併催・大量リライト+未発表原稿30ページ以上を含む全79ページ。頒布価格250円(+税)で、一冊の売り上げごとに作者がコーヒーを一杯飲める感じです。下のリンクか、
こちらから。
書誌情報(発行物ご案内)はおいおい更新していきます。(22.11.03)
【生存報告】少しずつ創作活動を再開しています。2022年に入ってから毎週4ページずつ更新していたネーム実況プロジェクト、7/29をもって終了(完走)しました。
GF×異星人(girlfriends vs aliens)

これまでの下描きは消去。2023年リリース予定の正式版をお楽しみに。(2022.08.08→滞ってます)
国家を持たない人々(仮)〜『ゾミア』『シャドウ・ワーク』『宮本常一『忘れられた日本人』を読む』(25.05.18)
そんなわけで、いやー読んだよ
ジェームズ・C・スコット『ゾミア 脱国家の世界史』(原著2009年/佐藤仁ほか訳・みすず書房2012年/外部リンクが開きます)。神保町の東京堂書店で「これもうスゴい本ですから」とばかりのオーラを放つ平積みを見て、まあ今生は読むチャンスないかもだけど…と遠く憧れたのは何年前だったか。意外と読めるもんだ。そして滅法おもしろかった。
同じスコットの「普及版・ゾミア入門」とも言うべき『反穀物の人類史』について
先月たっぷり書いてるので、またくどくどと多くは述べない。著者自身による冒頭の要約だけで十分だろう;
「東南アジア大陸部の五カ国(ベトナム、カンボジア、ラオス、タイ、ビルマ)と中国の四省(略
)を含む広大な丘陵地帯(略)
ゾミアは、(略)
約一億の少数民族の人々が住み、(略)
国民国家に完全に統合されていない人々がいまだ残存する、世界で最も大きな地域である」(強調は引用者)
この短い文言に異様なまでのときめきを憶えない人は、まあ知るのが早すぎたのだ、何年か何十年か経って気づいてから同書を手に取ればいい。
残念ながらゾミアが「国家に抗する」世界最大のアジールであった時期は鉄道や自動車・飛行機の発達によって過去となり、その消滅は時間の問題だろうとスコットは言う。
けれど同時に彼は
「しかし一昔前まで人類の大多数は、ゾミアの人々のように国家を持たず、政治的に独立して自治をしていた」とも述べている。この「一昔前」は、どれくらい前のこと、なのだろうか?
* * *
『ゾミア』を読んで数十年ぶりに思い出したのは
イヴァン・イリイチ『シャドウ・ワーク』(原著1981年/玉野井芳郎・栗原彬訳・2023年岩波文庫/外部リンクが開きます)で紹介されている1エピソードだった。
僕が読んだのは学生時代、岩波書店1982年→岩波現代文庫2003年の間のどこかで出ていた同じ岩波の同時代ライブラリ版で、数十年ぶりに開いて確認したそれは「シャドウ・ワーク」という今なら誰もが知っている(ものとして話を進めます)概念を説いた同書の本題とは、もしかしたらあまり関係がない。今ではカギカッコつきの「アメリカ大陸の発見者」クリストファー・コロンブスの話だ。
その評価について(彼を偉人のように取り上げて炎上した日本の軽率なミュージシャンについても)今回語ることはない。
「(古代ギリシャで最初に地球の大きさを算出した)
エラストテネス以来コロンブスほど、地球の大きさをおそろしく過小に見積もったものは誰ひとりとしていなかった」(だから無謀な遠征を提案できた)という皮肉たっぷりの一節だけで十分だろう。今回読み返しても笑ってしまったし、数十年前に読んだ時もたぶん笑ったと思う。けれどかつて強烈な印象を残したのは、そこではなかった。十分に前置きしてしまったが、簡潔に述べよう。
イリイチは言う。現在でいうイタリア、ジェノバ出身のコロンブスが最初に身につけ話していた言語はジェノバ語だった。商人として彼はブロークンなラテン語を書き、ポルトガルで結婚した後はおそらくポルトガル語を話すようになる。そしてポルトガル語混じりのブロークンなスペイン語が、彼の二番目の書記言語となった。
「彼のスペイン語は(略)
半島のいたるところで習いおぼえた簡潔なことばに富んでいた。構文は多少奇異ではあったけれども、彼はこの言語を生き生きと、表現力に富み、しかも正確に、あやつった。こうしてコロンブスは、話すことのない二つの言語(ラテン語とスペイン語)
で書き、数カ国語を話したのである。」
コロンブスに接した人たちも、その言語がブロークンなブリコラージュだったことに当惑したり困ったりすることはなかっただろう。むしろ彼のように、いくつもの「国語」や方言を操り、文法は怪しいけれど兎に角は伝わり、なんなら表現力に富んだ文章をものする人々のほうが、15世紀の地中海世界ではデフォルトだったのではないか―そんな思いも当然のように湧いてくる。
イリイチの文章の主眼は、コロンブスの同時代人ネブリハが、カスティリヤ語を厳密な文法規則をもつ言語として精製してスペインの唯一の「国語」とすることを提唱し、コロンブスが生きていたような多言語世界を破壊したことにある。が、それは関心をもった各自が同書で確認すればいいことだ。いや、よい機会なので僕もあらためてイリイチの主張を再読したいけれど―
僕の今の関心の焦点はこうだ:地球の大きさをかつてないほど小さく見積もった怪しい航海計画に認可を与えたイザベラはスペインの女王だった。けれど航海への援助を乞うたコロンブスは何人だったのだろうか。彼にとっても、彼のブロークンな多言語を受け容れた地中海世界の人々にとっても、国家や国籍は少なくとも、現在ほどにはギチギチの強固なものではなかったのではないか。
* * *
東南アジアに世界最大の無国籍地域がある(あった)のは分かった。15世紀のヨーロッパも(ある意味)似たようなものだった(かも知れない)ことも分かった。
でも日本は。稲作で国家の存在感が強く移民にも他民族にも不寛容な日本は、まさにゾミアの対極だよなあと、取りつく島がないように
思っていた頃が私にもありました。
その思いは『ゾミア』巻末の訳者あとがきで早々に覆される(早いな)。
まず挙げられていた柳田國男については、彼が「遠野物語」や「山の人生」で山に拠る非農耕民に思いを寄せたのは民俗学者としてのキャリアのごく初期で、すぐさま彼自身が「常民」と名づけた「ふつうの日本人」に関心をシフトさせたように(僕には)思われる。
しかし同じく挙げられた宮本常一や網野善彦は、とくに後者の網野氏は「万世一系の単一民族」的な日本観の解体に尽力した印象が、なるほど強い。というかイリイチの『シャドウ・ワーク』を読んだのと同じころ、(もちろん自分の乏しい読書力の範囲で)『無縁・公界・楽』をはじめとする網野史学には自分もそこそこ入れこみ、影響を受けたつもりだったけれど、そんな自分でも「違うんだけどなあ」と思いつつ「世の中一般は単一稲作民族日本(おにぎりのおいしい国)主義」とバックラッシュに押し流されてはいたのだろう。
網野善彦『宮本常一『忘れられた日本人』を読む』(岩波書店2003年→岩波現代文庫2013年/外部リンクが開きます)という格好のテキストがあったので、復習のつもりで早速読み、ひっくり返った。
ここで余談を挿しはさむと『ゾミア』を読んでいて「日本の事例」として強烈に思い出されたのは、宮崎駿氏の諸作品だ。
氏の最初のメガヒットである映画『もののけ姫』の、大和朝廷にまつろわぬ(そして排斥され滅びゆく)列島内の異民族である主人公アシタカや、山の中に遊女や被差別者のアジールを築かんとするエボシ御前の描出には、網野史学の影響がありありと見て取れた。
そして氏の初期の絵物語作品『
シュナの旅』は、舞台こそ日本ではないが、主人公たちを脅かすのが「人買い」実質的には強奪者たる奴隷商人だった設定が、国家=穀物生産社会は奴隷制によって成り立ったというスコット『反穀物の世界史』の主張と、いやおうなく響きあっていたのだ。
けれど先を急ごう。
百姓=文字どおり百の姓(かばね=生業)でありイコール稲作民というのは後世の誤解だと説き、稲作農耕民の秩序からはみ出した海民や山民・「道々の輩(やから)」に思いを馳せ、そして「日本」の歴史「日本」の歴史というが縄文や弥生の頃には「日本」という「国」はなかったのだから「日本列島」の歴史と呼ぶべきだと異議を申し立てた網野史観。もちろんそう理解はしていた(つもりだ)。「日本」は単一民族国家だという暴論も、アイヌや琉球人・フィクションだけどアシタカの一族のように滅ぼされた列島内の異民族によって容易く反証できると認識もしていた。
けれど『忘れられた日本人を読む』で網野氏が挙げていた事例は、そんなものではなかった。
まず引用されるのは宮本ではなく、日本語学者の大家だった
大野晋氏の説だ。1957年に刊行されベストセラーになったという『日本語の起源』(岩波新書)で
「大野さんは(中略)
非常にはっきり、列島の東と西では人種、あるいは「民族」の差異といってよいほどの言語の違いがあることを強調しておられるのです」
と網野氏は取り上げるのだ。
民族ですよ?
でも先ほどの事例を思い出してほしい。大野氏→網野氏が例示する
見ろ・みい、しなければ・せねば、なんとかだ・なんとかじゃ、ひろく・ひろう(広く・広う)
、かった・こうた(買った・買うた)
といった一連の語彙の違いは、コロンブスが操ったポルトガル語とスペイン語の語彙の差と、どれほど違うのだろうか。あーつまり、たぶん基礎的な文法は同じくするジェノバ語やポルトガル語にスペイン語そしてラテン語が多言語・異なる民族の用いる多言語であるならば、アイヌ(現在の北海道)や琉球(同沖縄県)どころか本州じたい東(しなければ)と西(せねば)で言語圏ひいては「民族」とやらは真っ二つに分かれていたと捉えることだって不可能ではない。
そんな馬鹿な、いや(網野氏が引用しているように西のひとに「あれを借って(かって)こい」と言われた東のひとが「買って」きてしまうようなコミュニケーションの齟齬があったにせよ)東日本と西日本の人たちは意思の疎通も商取引も出来ただろうと言うのであれば、コロンブスの時代におけるジェノバとスペインも、そしてゾミアに生きる複雑に入り混じった多民族社会も、同様だったと言えるはずだ。
たたみかけるように網野氏は、東と西では「王権」すら別だったと言う。
いや、もちろん東日本で幕府を打ち立てたのは西の天皇に仕える征夷大将軍であり、東に別の王権が立てられたわけではないと反論は可能だろう。だが、他国・他民族間でも臣従のかたちを取りうるのは、たとえば中国と(日本を含む)他国の間に確立された朝貢外交の事例などで明らかだ…とは僕の私見による追加。
網野氏が挙げるのは、たとえば自ら作った手工芸品などを商う非農耕民が、通行の許可を与える権威として頼ったのは、西日本では天皇・東日本では将軍と明確に分かれていたという事例だ。
結論として、20世紀中盤までの(そして現在も)ゾミアがそうであるように、15世紀の地中海世界も、鎌倉時代の日本列島も、少なくとも「国家」「国語」の縛りは今の吾々が考えるよりずっと緩く、融通の利くものだった「と考えることが出来る」。
それは単純だけど少しの目の位置で何にでも見えるってこと。
電車の中で『「忘れられた日本人」を読む』というタイトルの本の表紙を晒しながら(図書館で借りた本にカバーをかける余裕がなかった)自分が「今の日本人は誇り高いサムライ魂を忘れている」みたいな本を読んでる「保守」の中高年男性だと思われたらイヤだなあと気恥ずかしかったのは自意識過剰すぎるとして。いやまあ通勤通学退勤その他の人たちは他人が読んでる本なんか気にしちゃいないよと分かってはいるのですが。
本来「日本が」「日本が」「日本は素晴らしい」「世界中から尊敬される日本」とか言ってる人たちのほうが、他のことに(も)関心が多すぎて気もそぞろな僕などより、よほど熱心に網野氏や宮本氏・あるいは鶴見善行氏などが説いた(そして数多くの研究者が続いているだろう)単一民族史観・島国史観に取って代わる日本列島の歴史に取り組んでよい、はずなのだけど、どうなのだろう。
それとも彼ら彼女ら(もしかしたら「あなた」たち)は「すごい日本」だけ好きでいたい・「日本が好き」と言うより「日本を好きにしたい」だけの人たちなのだろうか。
* * *

と、言うわけで、今回の日記(週記)のテーマは明確だ。
1.東南アジアには世界最大の「国家に属さぬ人々」の社会がある(スコット)
2.だが15世紀の地中海も似たようなものだったのではないか(イリイチ)
3.そして近世以前の日本列島も(網野善彦)
最後に4.として付記したいのは、少し次元の違うことだ。なるほど東南アジアのゾミアは「国家に属さぬ人々」の地域としての存在を、急速に失ないつつあるらしい。ピエール・クラストルが中米に見出した「国家に抗する社会」が西欧に始まった近代的な国家によって急激に駆逐され、滅びたとされるように。誰のものとしても登記されていない土地が、もはや地上にはない(たぶん)ように、もはや国家に属さない土地も存在せず、すべての人々はいずれかの国家に登録され、いずれかの「国語」を「母語」として割り当てられているのが現在かも知れない…
…
本当にそうだろうか?
なるほど、国家の統制や徴税から逃れた「無縁」・アジールとしてのゾミアのような地域は消滅する(した?)かも知れない。だが、かつてゾミアに生息したのと同じくらい沢山の「国家に属さぬ人々」が、今は移民・難民・サンパピエ(san-papiers=書類を持たない人々)・非正規滞在者として世界中の「国家」の中に、数えられぬまま存在しているのではないか。
「数えられぬ」というのは、国家を形成されるマジョリティ=国民によって存在を透明化されたまま、という意味だ。
鎖につながれたように通勤電車に押しこめられる(
2016年9月の日記参照)マジョリティとしての自分が、国家の庇護を受け得ず積極的に迫害されさえする人々に、自由の幻想ばかりを投影して過度にロマンチック化する愚は厳に回避されなければならない。
けれど、そのうえで、事実として、「ゾミア」とは違った形で存在する「国家に属さぬ人々」をどう認識するのか。メネ・テケル・バルシン(
先月の日記参照)とは言わないけれど、「いなくていい」「いても邪魔」扱いされながら実はしっかり搾取の構造には組み込まれてもいる非正規滞在の人々を、これからどんどん数を増してゆくだろう人々を、どう社会の中に「数え」位置づけるか。かつてのコロンブスのように一つの国家や一つの言語で定義できない人々を「数え」られるよう、旧来の「国民」国家という枠組をいちど分解して、再構築する必要があるのではないか。
「ナチズム時代のヨーロッパの中心から旧ユーゴスラビアまで、中東からルワンダまで、ザイールやカリフォルニアまで(中略)
あらゆる種類の難民たち、移民たち(市民権の有無は問いません)、亡命や強制移住させられた人々(身分証明書の有無は問いません)、カンボジア人、アルメニア人、パレスチナ人、アルジェリア人、その他もろもろの人々が、社会および地球規模の政治空間に対して、ある変容を―すなわち、法的−政治的な変容であると同時に、なによりもまず倫理的な転換を(こうした区別がなおも妥当性を維持できればですが)―要請している」
…最近読んだ別の本からの引用なのだけれど、わざわざ書名を挙げる必要はないだろう。すごめの著者名で箔をつけるように見えるのもシャクだし、およそまともな感性をもった人なら誰でも言える・言えるべきことだからだ。国家が国民だけを保護する(最近は保護すらしつづける意志があるのか怪しいけれど)体制から、こぼれ落ちる人たちの生存や人権は誰が保障するのか。
4.「ゾミア」が消えても「国家に属さぬ人々」は移民・難民という形で世界に存在しつづける。
4.1 難民や移民・それに性的マイノリティや障害者などを「ふつうの人々」が「いないこと」にしつつ搾取のサイクルにはしっかり組み入れている社会(
今年2月の日記など参照)を、いかに解体し「国家や国語に属さぬ人々」まで包摂した社会として再構成するか。
4.1.1 その再構築(ディコンストラクション?)に『ゾミア』や『国家に抗する社会』『無縁・公界・楽』の知見をコネクトする作業は、比較的まだ手つかずの課題なのではないか。
90年代に書かれた文章で列挙された
「もろもろの人々」に、今なら(そして以前から)クルド人やビルマ≒ミャンマーを追われた人々が含まれ特記されるべきなのは、言うまでもない。
希望に抗する物語〜レオナルド・パドゥーラ『犬を愛した男』(25.05.11)
※
『犬を愛した男』の感興の核心に触れています。まあ何に感じ入るかは人それぞれなので気にしない人はいいけれど、まっさらな状態で臨みたい未読者は注意。
まず最初に謝っておかないといけない。
先月の小ネタで「たしかトロツキーは暗殺されたとき反撃して襲撃者の耳を喰いちぎった気が(違ったっけ)」と書いたけど、
違いました。なんでそんな風に記憶がねじ曲がったんだろう。その意味でも読んで良かった
レオナルド・パドゥーラ『犬を愛した男』(原著2009年/寺尾隆吉訳・水声社2019年/外部リンクが開きます)
もうひとつ分かったのは「たしか吉野朔実さんが本の雑誌で取り上げてたよね」という記憶も自分の捏造だったことだ。吉野氏、本書の邦訳が出る三年前に急逝されているのだ。プリンスの一日前に。2016年、改めて非道い年だった。ドナルド・トランプが最初にアメリカ大統領に選ばれた年でもある。改めて酷い。
後半は核心に触れるので早めに結論を言ってしまうと、
すごく面白かった。分厚さに躊躇してる人も、恐れず読んだほうがいい。予備知識ゼロでも、たぶん大丈夫。
1.1917年に起きたロシア革命は以後80年にわたり、世界を西=自由主義・資本主義陣営と東=共産主義・社会主義陣営に二分した。
2.ロシア帝国を打倒しソ連を築いた国父レーニンの死後、後継者の座をスターリンと争って敗れたトロツキーは1940年、亡命先のメキシコで暗殺された。
3.1930年代にスペインでは自由主義・社会主義諸国が支援する人民政府と、ドイツなどファシズム陣営が支援するフランコ将軍との間で内戦が起きたが、後者が勝って長く独裁制を保った。
4.キューバは1959年の革命以降、今日に至るまで共産党の一党独裁が続いている。
これくらい知ってれば十分。いや、これすら不要かも知れない。

(にゃ、キユーピーやキヤノンは発音は「キューピー」「キャノン」だけど、トロツキーは発音もトロツキー)(昔は「トロッキー」だった)
ただし『犬を愛した男』というタイトルは多少間違っている。
『一九八四年』の二分間憎悪どころか宿敵スターリンによって二十年にわたり、内憂外患・全ての悪や不都合の黒幕(ヒトラーやヒロヒトとすら共謀してることにされた)=全ソ連国民の憎悪の対象=スケープゴート役を負わされ続けたトロツキーも犬が好き。そのトロツキーを亡命先のメキシコで暗殺したラモン・メルカデールも犬が好き。ラモンの旧友を名乗りキューバに現れた謎の男も、彼からトロツキー暗殺のおぞましい真相を聞かされる語り手も犬が好き。ついでに内戦下のスペインにちょっとだけ登場する『一九八四年』の作者ジョージ・オーウェルも犬が好き。単数じゃない、犬を愛した「男たち」じゃん!
こうなると巻頭で
「三十年経っても、まだ ル シ ア の た め に」と献辞を捧げられてるのも(人間の連れ合いや家族じゃなくて)犬なんじゃね?と思えてならない。記憶捏造の一因かも知れないけれど、吉野朔実さんも愛犬家だった。よね?
ともあれ物語は30年代〜40年のトロツキー・メルカデール、時代を経て70年代の語り手、三者の視点を交互に配して進む。トロツキーの「裏切られた革命」と、表裏一体で描かれるスターリンの恐怖政治。スペイン内戦で共和国側として戦い、敗北に打ちのめされたメルカデールがソ連(スターリン)の手先として暗殺者に己を錬成してゆく過程。そして海を隔てた社会主義国キューバの言論統制と貧困で削られゆく語り手の生涯。
元々は警察ミステリで名声を博した作者の筆致はエンターテインメントとしてのツボを知り尽くしているかのように読者を飽きさせない。結局メルカデールは首尾よくトロツキーを仕留めると分かっていながら、決行の瞬間はサスペンスたっぷりに引き伸ばされ、しかも政治的には不倶戴天のトロツキーとメルカデール・どちらにも均等に共鳴共感(そして嫌悪反発)できるよう物語は進む…
…ここまでなら上質の「リーダブルな小説」だ。だが暗殺者の凶器がターゲットの頭上に降り下ろされた瞬間から
※
ここまでなら、まだ引き返せます。以下は未読者注意。
物語の空気は一変する。いや、ページを繰る手が止まらぬ筆致は変わらない。

けれど、その場で捕縛され20年の収監を経て、名目上は英雄としてモスクワに移り住んだメルカデールの後半生を執拗に描く終盤は、それまで盛り上がったサスペンスも政治的な高揚感も、すべて欺瞞だったことを残酷にさらけ出す。
いや、元々すべては欺瞞に満ちていた。オーウェルほか各国からジャーナリストや義勇兵が馳せ参じたスペイン内戦は、自由主義を掲げる政府が政権内部と支援を謳う各国・各勢力の主導権争いで自滅したようなものだった。任務のため名前も経歴も偽るメルカデールは自身のアイデンティティも失なった操り人形と化し、誰からも醜いと憐れまれる女性を色仕掛けで攻略してのける。反動勢力の手に落ちた祖国に二度と戻れない彼はソ連政府に下賜された勲章をデパートの行列に割り込むために見せびらかし、体重100kgに肥満する。
トロツキーとて例外ではない。絶えず癇癪を起こし、粛正の危険を冒して尽くす息子を働きが足りないと罵り、妻を裏切って不貞に走る。何より赤軍の初代指導者としての反対者の圧殺、クロンシュタットの水兵蜂起の容赦ない弾圧、後にスターリンがはたらく恐怖政治の悪業の雛形を作ったのは自分自身だったという自責と、その自責を自ら封じこめる怯懦が、悲劇の主人公・一方的な犠牲者という仮面を無慈悲に剥ぎ取ってはいた。
スターリンの傀儡だったメルカデールが標的に最接近した時も、両者の邂逅は心の交流や和解をもたらさない。事ここに及んで暗殺者の心に生じた迷いもトロツキーの人格にふれ感化されたものではなく、いつの間にか自分は正義や理念のためでなく味方から何重にも仕掛けられた罠と恐怖で逃げられなくなっているだけだという自覚からのものだ。そして無防備な頭蓋に凶器を振り下ろされる直前、トロツキーがメルカデールにかけた最後の言葉は「頼まれたから読んでやってるが、君の文章はクズだな」、その場で警察に殺されてもおかしくなかった暗殺者の命を救った瀕死のトロツキーの言葉も、彼を赦せなどではなく「活かしておいて尋問しろ」だった。
それでも。裏切られた革命にも、欺瞞に満ちた生にも、何らかの救いが、それでも人が生きていける・人生や世界を肯定できる根拠となる輝きがあるのではないか。そんな思いは最後の最後、念入りに叩きつぶされる。どうやってか。
どんな悲惨な運命でも、どんな無情な悪行でも、小説は、物語は、そのおぞましさを保ったまま芸術という美に昇華できる。小説は、映画は、物語は、人の言葉は、創作という営為は、恐怖政治によって消し去られた人々の存在を復活させ、すべてを忘却させる時の流れに抗う―だから小説は、物語は素晴らしいのだという創作や表現に携わる者の自負は、れまでトロツキーの、メルカデールの、そしてキューバに生きた自身の苦難に満ちた生涯を総括して語ってきた「語り手」があっさり退場し、彼の友人だった別の作家の視点に切り替わることで「語り手」への感情移入ともども封じられてしまうのだ。
掴もうとした手がスルッと宙に泳いで後は落下するしかない、この離れ業のために、まるで600ページにわたる物語は積み上げられてきたかのように、得られるはずだったカタルシスは霧消する。この物語に―スターリンの暴虐に、スペインの敗北に、ソ連で・ソ連領だったウクライナで・大躍進を謳った中国で・ポルポト支配下のカンボジアで強いられた何千万の餓死に、そしてキューバの言論弾圧や貧困に「よかった探し」をしてはいけない、物語の喜びを封じてでも「よかった」ことにはさせない―本書のエピローグをドライブするのは、そんな作者の決然たる意志だ。
困窮下で毎日10km自転車を漕ぎ、貧乏医者として人々と助け合う語り手の
「人間の真の偉大さとは、無条件に慈悲心を発揮すること、何も持たぬ者に分け与えること、それも、余りものではなく少ない持ち物を分け与えることにある」と述懐する場面は、欺瞞と悲惨に満ちた本作で異彩を放つ(もしかしたら)最も美しい箇所だ。
「そして、それを政治や名声獲得の手段に使わないのはもちろん、そこから怪しげな哲学を引き出して、自分の善悪の価値基準を唯一絶対として他人に押しつけるような真似、頼まれもしないものを与えて感謝を要求するような真似はしないこと」…
けれど、そんな語り手の思い、
「人間としての私の義務は、それ(
消し去られた記憶)
を書き残し、忘却の津波から救い出すことなのだ」という自恃は、
「我々の世代は誰もがお人好しのロマン主義者であり」「私の世代の大半が、安全ネットのないこの危険な空中ブランコを無傷で乗り切ることはできない」だろうという敗北感に一瞬で押し流される。それこそが本作の作者が読者に持ち帰らせたいものだ。
要は、剥奪された人間性を戻せという真っ当な要求が、剥奪の罪の軽減にすり替わってはいけない。とくに当事者でない(けれど傍観によって罪に加担してるかも知れない)第三者においては。
物語は、哲学者が「剥き出しの生」「動物としての生」と呼ぶまでに人間の条件を剥奪された生でも、最後に残るのは(自己保存のエゴイズムではなく)生の尊厳だと示すことが出来る。だがそれで人の生を無意味だとする
剥奪をなかったことにはさせない。物語の喜びが酷薄な剥奪を減免させるようにはたらくならば、そんな喜びは(少なくとも本作では)許さない。本作を読み、サスペンスに興奮し、歴史や事物・人物を語る物語の喜びに浸るがいい、だが人間が廃棄物あつかいされた時代の物語から「人間も捨てたもんじゃない」的な希望を持ち帰ることだけは許さない。人間は、人間が作った社会や制度は、物語の喜びでも帳消しに出来ないくらい非道いことをした、それだけキッチリ持ち帰ってもらう。
小説技巧の限りを尽くして、小説の救いを否定する。恐ろしいまでに読み手の感情をコントロールしながら、恐怖が人をコントロールした時代の悪を糾弾する。物語には、こんなことも出来るのだ。
小ネタ拾遺・25年4月(25.04.30)
(25.04.14)この時季に華やか、だから花だとは限らない。柔らかそうな若葉。何という樹でしょうね。

(25.04.15追記)何という樹なのか植物検索サイトなどで探してみるも、不慣れゆえ特定できず。

そして半開きの本のように二つ折りで葉裏が表に出た、その葉裏が白くて葉脈沿いに紅色がつく特徴的な若葉は、本当に生まれたての仔鹿だけがプルプル立てないのと同じくらい生まれたてのレアな姿だったらしく、翌々日には元気に駆ける仔鹿のようにシッカリ開いた黄緑の若葉になっていて、なんなら花より刹那なものを目撃できたようです。
この樹を特定できるかた、気が向いたら拍手経由などで御教示いただけると幸いです。
(25.04.01〜)とは言うものの、毎年見ている近所のこれに「桜…桜…だよね?」と改めて狼狽えてしまったのは吾ながら情けないが過ぎる。

(〜04.21)三週間後、どうやら「サトザクラ」と呼べばいいらしいと知る。つうてもヤマザクラに対して人里で(交配とか)人の手が入った桜の総称なので、ボルゾイとかボーダーコリーとか知りたい時に「ああアレね、犬」くらいの粗さなのだけど。まあ無知であるほど、毎日が発見。
しかしソメイヨシノ人気を見ると定住した今のヒト類、やはり画一的で時季も特定できるモノを一斉に享受するのが好きなように馴致されてしまったとは言えるのかも。皆と同じが嬉しいように、人間同士が好きであるようにと。ソメイヨシノで徴税まではされないが。
(25.04.05)中目黒は桜の名所で今時分は高架の線路と直交する川沿いを花見の人々が埋め尽くすのだけれど、そばにある日本画のギャラリーがコレクションを動画で公開してるので「今は行楽どころではない」「人が沢山おしよせる場に立ち会うからこそ価値がある・とは思わない」そして「一面並んだ画一的なソメイヨシノ(ごめんね)もいいけど、人がそれぞれの筆を経由して各々が思う美しさを抽出した様々な桜が観たい」根っからオタク気質なかた向けに。
おうちで郷さくら | Online Viewing Room(中目黒・郷さくら美術館/外部リンクが開きます)
※根っからオタク気質…この場合、人や事物と直に接するより、いちど人の手を経由して作品化されたものを通して世界に接するのが好き、程度の意味。
(25.04.04)
「ワークビールバランスってご存知ですか?#働くあなたに○○ビールゼロ」というネット広告の文面を見て、もうじき読み終える本によれば
古代メソポタミアでも奴隷の「日給」は大麦か
ビールで、配給用の小さな(土器の)お椀が何千と発掘されてるんだってねと半畳を入れる程度には、自分は底意地が悪い。まあ飲みたい人は飲めばですけど、お花見と歓迎会のシーズン、アルコールの過剰摂取には気をつけてね…(←ちょっとだけ優しい)(でも案じるまでもなく○○ビールゼロも、ゼロカロリーじゃなくてノンアルコールなのかも)
ユンソギョル罷免を祝して…というわけでもないんだけど今日の夕食は久しぶりにチャパグリでした。おめでとうございます。
(25.04.07)「
どうやら、白い貝殻の小さなイヤリングを届けに来てくれたわけじゃなさそうだ」というフレーズとともに(どういう状況なのかは各自で想像してください)目が醒める。寝床でうつらうつらしながら思ったのだけど、あの童謡(まさか純国産でもないでしょう)英語だかノルウェー語だかの原詞では何て歌ってるんだろう。仮に元歌でもイヤリングを届けに来てくれてるのだとしたら、ワールドワイドで人が(熊が)いい熊だ。お熊好し。
(25.04.08)フラワーズ・オブ・ロマンス(仮)。
(25.04.09)桜×メガネ・その2。
(25.04.10)今日は
キュアフローラさん・
美竹蘭さん・
桜小路きな子さん、あと舞村そうじさん(仮名)の誕生日ということで、セルフ祝いに丁度出たばかりで気になっていた
古怒田望人/いりや著
『クィア・レヴィナス』(青土社/外部リンクが開きます)を、

それとレヴィナス没後30年のフェアらしく本屋で一緒に並んでた
ジャック・デリダ『アデュー エマニュエル・レヴィナスへ』(原著1997/藤本一勇訳・岩波書店2004→岩波文庫2024/外部リンクが開きます)も併せて購入。そして甘味処でちょっと奮発。
デリダ…抹茶パフェだよ…(オタク構文)(この大馬鹿者)

クラウドファンディングで予約していた
マラン/シャイエン『僕は、私は、トランスジェンダーです』(原著2020年/吉良佳奈江訳・サウザンブックス2025年/外部リンクが開きます)も電書でダウンロード、並行して読み進めてます(予約した時点で分かってたけど絵柄が可愛くて中身もすごく親しみやすい)。一冊はスマートフォンの中だけど、三冊を並べると「より世界が広がり、より自分も自由になり、より人の自由も認められるようになる」そんな一年への希望が高まりますね(まだ地獄の釜が開いたような暑さが来てないから…)。創作を再開したいなあ。
(同日追記)だいぶ前に読んだレヴィナス自身の著作『存在の彼方へ』を久しぶりにパラパラめくっていたら
「意識は第三者の現前として生起する」という一節に、昔の自分が線を引いていました。意識はたいがい「何か」への意識であって、何もなければ呼吸も歩行も人は自動的に行ない意識することがない、ということなのでしょう。それがこう続く。
「第三者の現前から発する限りで、意識は内存在性の我執からの超脱でありつづける」おそろしくて、同時に祝福でもある言葉ですね。おやすみなさい。
(25.04.12)もうしばらくセルフ誕生祝いは続く。地元ミニシアターの会員更新の手続きも兼ねて観てきましたよ
『トワイライト・ウォリアーズ 決戦!九龍城砦』(外部リンクが開きます)。僕は予備知識ナシで観ても大変よろしかったので
★あえて伏せますが(クリックで開閉します)
ルイス・クー、サモハンらが演じる香港の大立者・レジェンド世代の血よりも濃ゆい愛憎(まあ友情出演のサモハンは例によって憎ばかりの敵なのですが)を前提に、そんなパイセンたちを仰ぎ見る若い世代の四人が彼らは彼らで次第に固い友情で結ばれて一体感あるチームになっていくさまが
実質マリみて(何でもマリみてに喩えればいいと思ってやがる)あるいは
まきりんぱなとか最近だと蓮ノ空の
小三角とか好きな人はキュンキュンしてほしい←この薦めかたはダメだと思います…

あと
「香港映画史上歴代NO.1大ヒット」を謳う(そして滅法おもしろい)本作のスタッフに谷垣健治・川井憲次の揃い踏みを見て嬉しくなってしまった自分は、世の大谷ブームをあまり厳しく言えないかもなあと思ったりしたけど、それくらいは許してほしい。
(同日追記)
「約10億円を投じて精密に再現された九龍城砦のセット」も話題の本作だけど、冒頭あたりの場面で昔なつかしい(本作の時代設定は80年代)サンキストのミカン?のロゴマークがプリントされた段ボール箱が山積みされてて「リアルだなあ」と感心してたら、最後、エンドロールのおしまいにスペシャルサンクス:SUNKISTとありフフッてなりました←そこを推すのもどうかと…
(同日追々記)在留資格を持たない主人公が活気はあるボロボロの高層に身を寄せながら、そんなところまで時おり踏み込んでくる警官の影におびえる…という意味では
2月に観た『
Brotherブラザー 富都のふたり』も思い出されたのですよね…
(25.04.13)街散歩には好い季節。新宿三丁目から神保町に向かう靖国通りを歩いて30分、市ヶ谷・防衛省の向かいあたりにネパールならぬ
チベット料理のお店があり気になっていた。関東でも唯一らしい。
・
チベットレストラン&カフェ タシデレ(公式/外部リンクが開きます)
テントゥク(すいとん)のランチを食べてみました。チベット料理は具だくさんのスープ料理が多いみたい、スパイシーな感じはなく優しい味で、根菜がいっぱい取れる。選べるドリンクもしくはデザートから、白く泡立ったバター茶を。

セモリナ粉をベースにしたデザート「ハルワ」(中東を中心にした「ハルヴァ」とは違うのかしら)も気になるので再訪を期したい一方、目と鼻の先にあるウイグル料理のお店で「ラグメン」も食べてみたいのだった。
(25.04.18)胡桃もレーズンも単体ではバクバク食べられる食品でもなかろうと思うのだけれど(胡桃のほうは
「バクバク食べられちゃいます」と自称してはいるが)
一緒にすると摘む手が止まらなくなるという発見。塩味のピーナツなんか合わせると、さらに止まらなくなりそう。実際ミックスナッツ+レーズンという小分け商品があるくらいで。
(25.04.19)ネットミームそのままで申し訳ないけど
「
難読タイトル三銃士を連れてきたよ」「難読タイトル三銃士?」
「極道まんが家(当初は少女まんが家だった)
立原あゆみ。」「
本気(マジ)。地球儀(ほし)。弱虫(チンピラ)。」
「MyGo!!!!!ボーカル
高松燈。」「
焚音打(たねび)。砂寸奏(さすらい)。詩超絆(うたことば)。」
「期待の新鋭・
名探偵コナン劇場版。」「沈黙の
15分(クォーター)。100万ドルの
五稜星(みちしるべ)。隻眼の
残像(フラッシュバック)。」
コナン君は追跡者(チェイサー)・狙撃手(スナイパー)など分かりやすいルビが多かったけど、五稜星(みちしるべ)で一気にともりん度が上がったので今後の健闘に期待する。作品自体は多すぎて今さら追える気がしない(すみません)。
(25.04.19)
「トランプ氏の机の上には、赤沢氏がプレゼントした大阪・関西万博の公式キャラクター、ミャクミャクの貯金箱も置かれていた」(最初「最低、最低、最低、最低、最低、最低」と声に出してて、ひと呼吸おいた後さらに「馬鹿じゃないの?」と言った後で→)
ああ、彼らを大目に見てやってください…自分らが何をしているか、てんで分かってやがらないのです…(と思ったのですが)
赤沢経財相、トランプ氏前に「MAGA」帽子 写真公開(日経ドットコム/25.04.18/外部リンクが開きます)
元ネタ(ルカによる福音書)
「父よ、彼らをお赦しください、自分が何をしているか知らないのです」は自分たちがしてる(神の子を十字架につけている)のが愚行だと理解していないのです、という意味なのだけど、こと現状においては違う意味もある気がしてきた。というのも、いま読んでる社会学者
バウマンの主著『
リキッド・モダニティ』(液状化する近代/1999年)によれば、諸問題を社会の変革によって解決する道が断たれ(「社会による救済はもはや存在しない」byドラッカー、いや「社会などというものは存在しない」byサッチャー)個人の勇気とスタミナ・才能と手腕による自己救済しかなくなってしまった・ことこそ現代の問題なのだけど
「そして、倫理的・政治的言説の中心が「公正な社会」建設から、個人的差異の尊重、幸福と生活様式の自由選択を保障した「人権」へと移行したことに、この宿命的変化は反映されている」(森田典正訳・大月書店2001年)
MAGAの赤キャップとミャクミャクの置き物を交換する高官の姿を見て、本来なら権力を行使して社会を(よかれあしかれ)操作する立場にあった階層=政治のトップまで悪政に走るというより
政治自体から逃走して「自分が何を【すればいいのか】知らないのです」自己救済に汲々としてるように思えてきた。今さらだけど、あれらは(悪徳)
政治家ですらないのと違うか。後漢の末期あたりも同様だったかも知れないけれど。※ただの罵詈ですが少し言葉を補いました。
(25.04.20)昨日も罵詈、今日も罵詈、今日は今日とて地元ヨコハマの百貨店でやってはる販売も兼ねた金製品の展示会の広告を見て、またしても「最低…」と溜め息が出てしまった。なにしろ一番の目玉が「
昭和百年」と大書された純金20kgの大判。そして二番目の目玉が金箔900枚を使用した等身大「
CAPTAIN TSHUBASA」金箔像。たしかに2025年は昭和100年だけど、キャプ翼(つば)好きな人には悪いけど、この国で一番お金(カネ)を持ってそうな人たちに訴える純金(ゴールド)の使い方がコレでは、もう滅びてるも同じだよ。
・
大黄金展(4/16〜21)横浜高島屋(外部PDFが開きます)
いや「キャプ翼好きには悪いけど」と書いたけど「キャプ翼が好きだけにガッカリする・逆に腹が立つ」とならず、自分が好きなコンテンツが使われてるから悪く言われるほうが許せない・『ハリー・ポッター』が好きだから原作者の性的マイノリティ差別には目をつぶる、みたいなのが「オタク仕草」なら、それは確かに世界をここまでダメダメにした一因で、あなたがたには責任があるよと思うのでした。
(25.04.25)アムネスティの署名
「米国:イスラエルへの抗議デモに参加して強制送還の危機にある学生を救って!」(4.23〜5月末予定/外部リンクが開きます)僕は同様の署名でネタニヤフにもメアド伝えた恐れ知らずなので+頼まれたってアメリカの土を踏む予定はないのでイイんですけど、渡米の予定や現在そちらに居る人は今のあの国の国土安全保障省の長官にメアドつきで楯突いたらどんな無法な扱いを受けるか分からないのでオススメはしません。
送るべき文面は英文のテンプレが用意されてて、あとは同意して送るだけ。ネタニヤフの時には最初のDearと最後のSincerelyが耐えられなくて削除したけど、今回はまあ投げつけるにも絹の手袋と言いますか、むしろ勢いにかられて「
History will judge you, but I can't wait(いずれ歴史があなたがたを裁くでしょうが、私は待ってられません)」とか「
Would you be satisfied with MAKING AMERICA GREAT AGAIN, like it was before 1865?(アメリカを奴隷解放前のように「再び偉大に」できて満足ですか?)」とか書き加えてしまう前にと原文のまま拝啓も敬具もつけて送付しました。
(25.04.22)とある専門用語をネット検索→ヒットした解説ページの冒頭に
「「このテキストは、ChatGPT(OpenAIのAIアシスタント)による回答をもとにしています」と但し書きがあるのを見て、うーんとページを閉じてしまった。但し書きは
「内容の正確性については可能な限り注意を払っていますが、参考文献や原著者の思想をご自身で確認することをお勧めします」と続いているので、この文章を世に放流した人はまだ誠実なのだと思うけど。とりあえず「原著者の思想をご自身で確認」できる特権(相当な蔵書数の市立図書館の使用権や、それをいつまでにとか読んだ結果を出せという制約なしに読める時間と暢気さ等々)を持つ自分はゆるゆると特権を行使するとして、特権を持たない=すぐ知ることを強いられる人たちは大変だと思わなくもない。いや、それを大変だと思わない・むしろ恩恵だと思う声のが大きい現状かも知れないが。今さらかも知れないけど「AIによる要約、アリですかナシですか」web拍手のアンケートで訊いてみたい気もしています。
(25.04.23)自分が今ひとつAIを信用というより理解できないのって、iPhoneのカメラ機能が「これを壁紙にしませんか」と提案してきた写真、そりゃあたしかに気になったから撮ったんだけどHTB(北海道テレビ放送)のマスコット
onちゃん、待ち受けにしたいほど熱愛はしてないぜ?

いや、こうして見ると本当にAIの気持ちが分からない…

(同日追記)で現行のiPhoneの壁紙、ここ数年ずっと銀閣寺の苔の庭なんだけど、こんな緑を見てなぜAIはコンクリやアスファルトばかり薦めてくるのかね…
(25.04.26)たばこの煙は、あなただけでなく、周りの人が肺がん、心筋梗塞など虚血性心疾患、脳卒中になる危険性も高めます。
クリックorタップで全体図を表示。

(別画面が開きます)
(25.04.24)早くもドラッグストアの店頭に、昨年お世話になった例の冷える輪っかがズラリと…(; ゚д゚)
クーラー入れるとまでは言わないけれど、エアコンを送風モードにして夏っぽい曲がもう似合っちゃう。Desmond & The Tutusという洒落なのか何なのか分からない名前の、20年くらい前の南アフリカのバンドの曲とか。
・
Desmond & The Tutus - Kiss You on the Cheek (King of Town Remix)(外部リンクが開きます)
(25.04.27)I miss her already.(
先月の日記参照)…元歌は坂本真綾さんの、このタイトルと同じ題名の短篇漫画を描こうと思いつきました。
(25.04.28)既視感があって確認したら
昨年5月の日記で紹介した「
勉強はきっとウチらに平等だ!」と同じ
蚊帳りく氏の新作だった。あの一作で終わる人でなくて良かったと(失礼な)喜ぶ気持ちと、こういう話を描く作家が青年誌に一人でなくてもいいのにと思う気持ちと。
・
蚊帳りく[特別読切] 店内ご利用ですか?(となりのヤングジャンプ/25.04.25/外部リンクが開きます)
痴漢など性暴力に関わる話なので閲覧にはご注意ください。これはマストドンで別の人も言及されてたけど、途中に出てくる(作中では珍しい)善意の男性キャラも、彼が善意の人物だったのは「たまたま賭けに勝てた」に過ぎないのが悲しく、いきどおろしい。そうゆうのが罠で、命まで奪われた事件とか、長く生きてると避けがたく知ってしまうし、数十年経っても未だに忘れられない。私が知ってる世の中はもっと安全だと反発する人もいるだろうけど、たぶんその安全には濃淡があるのだ。女子生徒がスカートの下に履いたジャージを男性教師が殴って怪我させて無理やり引きずり下ろしたという事件が報じられたばかり。わしら大人は粛々と、賭けの勝率を上げていくしかない。
(25.04.29)昭和の日で思い出したけど、動画広告でやたら煩い(そして品がない)「あの明治薬品」とやら、明治どころか創業は昭和・それも戦後らしい。それでも十分に老舗かも知れないが、河童などの妖怪伝承はたいがい江戸期に形成されたが「室町時代から伝わってる」として流布されたため「妖怪の起源は室町」と思われてるという京極夏彦氏の指摘(前にも紹介してるけど大事めな話なので何度も蒸し返す)を思い出すなど。
(同日追記)戦争が終わって直ぐ・戦前の日本的なものが全否定されてそうな時期に明治を名乗る社名は、結局半世紀かけてバックラッシュに呑まれた未来を見通す先見の明があったのか、それとも全否定なんてなくて(まあ濃淡あったのでしょう)戦前はぜんぜん滅びてなかったのか。そもそも公募してる時点で…て気もするけれど1968年に公募された「明治百年を祝う歌」当選作の作者は先の戦争で公募軍歌の当選常連者だったという大江健三郎『核時代の想像力』でのツッコミも思い出すなど。
(25.04.30)わりと躊躇してた大著『ゾミア』を都合5日で読み切れてしまった快挙(?)に味をしめ、ずぅーっと前から気になっていた『
犬を愛した男』をついに。来月はコレから読んでいきます。しかし約700ページ・ハードカバーの表紙ふくめて厚さ4.5p、重さ800グラム弱、これをまた毎日担いで歩くのか…質量は質への自信の証と信じているけれど、ロラン・バルト(一緒に借りた)の軽さをちょっと見習ってほしい…『新米姉妹のふたりごはん』はもう少し厚くてもいいけど、いや、作者さんが健やかであれば…(最近いろんな分野で若い才能が力尽きたり病気などでままならない様を見過ぎている)

スターリンの命を受け、メキシコ亡命中のトロツキーを暗殺した男の話(のはず)。たしか襲われたトロツキーは反撃して暗殺者の耳を噛みちぎり、暗殺者がわんわん泣いたんですよね。違ったっけ。真相は来月!
(25.05.11追記)
違いました、すみません…
わりとニャばいめの話(25.04.27)
何をもってニャばいめの話とするのか、そもそも「ニャばい」って何だよ何歳(何十歳)だお前とかは深く考えない。あまり他のひとがしてる気がしない(ただし自分の観測範囲はニャンコの額よりも狭い)かつ極めて政治的な話をする。要点は三つ。
・「こう生活が苦しいのだから政府は○○の購入や導入に金銭的な支援を」と叫ぶ声は小さくないが、実は○○は支援されて(は)いる
・それが「支援を」と叫ぶ人たちに届いてないのには、伝えかたの拙なさなどがある
・なぜ伝えかたが拙ないのだろうと考えると、システム的な問題がありそうに思える
* * *
1)
「政府は○○に支援を」と叫ぶ声は小さくないが、実は支援されて(は)いる
例年のおにぎりアクション(秋頃の期間中におにぎり写真をSNSにアップするとアフリカなどの児童の給食代になる)でInstagramに投稿する以外、SNSにアクティブに関与することはなくなった。Twitter(現X)は投稿停止宣言をして久しいし、代替SNSと呼ばれるスレッズやブルースカイ・マストドンなどにも新たにアカウントを作ってはいない。
それでもパッシブな、つまり読み専としてSNSを、現Xは主に二次元世界へのオタク的な関心、その他の現世に関する関心はマストドンで満たしているのだけれど、後者で時々しばしば挙がるのが「人々の生活が苦しいのだから、政府は○○に支援すべき」という声だ。
事実として「その○○は、ここ数年、毎年のように補助金が出されて(
焼け石に水かも知れんけど)少しは楽になってるんだけどね」と思うことが多少ある。でもソレを言うためだけにSNSのアカウントを取って、知らないひとに直リプで「あなたの言ってる○○、既にありますよ」と御注進に及ぶのは僕ができること・すべきことの規(のり)を超えているし「そういう問題じゃないんだよ」と逆恨みされる可能性だって、ないとは言えない。たとえば当時とうに騒がれたり騒がれなかったりして撤回された法案を報じた何年も前の初報を今になって取り上げ、日付を見ればすぐ過去と分かるのに「これは放っておいたら大変なことになる!」と炎上させようとする人もいる。僕がSNSから(おにぎり以外)撤退した理由でもある。
その一方、実際「そういう問題じゃない」側面もある。
僕の視点から見える、ニャンコの…ニャンコはもういいか、視界の狭い話ではある。むしろバズったりしない環境(個人サイト)にひっそり上げて、読んだ人が咀嚼しきって、それぞれが考える一助になればいいと思う。
2)
それが「支援を」と叫ぶ人たちに届いてないのには、伝えかたの拙なさなどがある
実在する補助を挙げると色々と障りがあるので、
架空の補助金をでっち上げる。間違っても「こんな補助があるんだ!」と思わないように―そうですね「令和7年度・紙価格の高騰にともなう書籍価格の減免措置」とかどうでしょう(笑)
近頃は本が高い。文庫でも一冊千円はザラだ。さらに消費税もかかる。たまんないね!政府は本の価格を国費で下げるべきだ!…それが実は既に国費で下がってるのだとしたら(
架空の話です。たぶん下がってません)なぜ、それが伝わっていないのか。
答えは簡単、国費が支給されるのは出版社(
架空)であって、書店で本を買って読む一人一人に対してではないからだ。
つまり最初に本の価格の3%なり7%なりが「これこれの単価で本を出します」という出版社に支給され、本の表4・あの悪名高いけど慣れてしまえば(街の空を遮る電線同様)風情に思えるバーコードやら何やらがプリントされる箇所に小さく「令和7年度・紙価格の高騰にともなう書籍価格の減免措置で3%値引きされています」と印刷されている(
架空)。

※実はこれに似たものは実在しており、たとえば海外のマイナーめの小説や文芸研究・社会批評などの本の奥付に小さく「本書の翻訳(あるいは出版とか)は国の国際交流助成事業(とか何とか)の支援を受けています」みたいな表示があったりはする。
でもあまり知られてはいない(かも知れない)。
同様にSNSで「これは政府が支援して減免措置を取るべき」「そうだそうだ」と言われている生活に関わるような出費が実は既に減免されている、領収書に小さく書いてある(
でも大々的にアナウンスはされていない「らしい」)ということはある。「らしい」と書いたのは、なにせ僕自身が新聞も取らないテレビも観ない、おおよそ現代日本では可能なかぎり社会の話題から逃走中の状態であるからなのだけど、そういうもの沢山みてるであろう人たちが「支援がない」と騒ぐからには、「ありますよ」という周知は不徹底なのだろう。
あるいは「令和7年度・地方アイドル助成事業」としてコンサートチケット半額補助とか推し活が国費で支援されるとする(
されません)(
架空です)。
ところが実はこの助成金、東京を地盤に活動する人気アイドルの地方遠征でも30%はチケット代が補助され、こちらの利用のほうが圧倒的に多いとしたらどうだろう。

大都市からの追っかけ勢が地方に遠征すれば、宿泊代なり食費なり現地に落ちるお金もあるだろう、何より地方のライブハウスやコンサートホールが潤う。ならば、より本質に近い「地方ライブハウス・コンサートホール助成事業」と看板だけでも変えればいいのにと思うけど(
架空ですよ)(
架空ですからね)なぜか「地方アイドル助成事業」として話を進めるとしたらコレはやはり、伝えかたが拙ないということにならないだろうか。アイドル助成は架空だけれど、この助成金はターゲットと看板が違う…と思う案件も、現実にないではないのだ。
3)
なぜ伝えかたが拙ないのだろうと考えると、システム的な問題がありそうに思える
以上(架空の話になぞらえながら)現実にある「もっと周知されていい事業が、なぜ知られないのだろう」という案件には一応エビデンスも実例もあるのだけど、以下の「なぜ」はあくまで個人的な憶測にすぎない。
手っ取り早く「地元アイドル助成(架空)」の件から片づけると、国としては「地元アイドル」を推進したい意向が強いため、現実には「ライブハウス・コンサートホール支援策(架空)」であっても看板は「地元アイドル」にこだわる、なんて話はありそうだ。地元アイドルでは想像しにくいかも知れないが、たとえばそれが愛国心とか家父長制とかイデオロギー的なものなら、どうだろう。食糧の確保や農家を支えるより「日本の」米を守れとか。
そう考えると「書籍価格の減免措置(架空)」が(自分の狭い観測範囲では)積極的に周知されてないように見えるのも「敢えて」のように思えなくもない。
半世紀前にダラスで暗殺されたアメリカの大統領の
「国が何をしてくれるかより、一人一人が国のために何ができるか問うてほしい」みたいな発言を、今の日本の総理大臣は就任演説で引用したという。JFKの発言の主旨は皆が自由や人権を守るため努力してほしい、みたいな意味だったらしいけれど、この日記の主題ではないので省く。省くけど今、この国・この社会の中心で政策を、国や社会の方向を決定したい人たちは「国があなたたちの生活を補助します」というアナウンスを、あまりしたくないのではないか。実際には最低限のことは、している(場合もある)にも関わらず。かわりに目に入るのは、子ども食堂を推進しましょうとかNISAとか「あなたがたは自助してください」ひいては「あなたがたが(自腹を切って)社会に、国に尽くしてください」というメッセージばかりに思える。
もちろん、これはこれでイデオロギーだ。考えすぎかと自分でも思う。
あるいは、こっちの方が具体的かも知れないが。助成金は恒常的なものではない。今年もあったから来年もあるとは限らないし、助成額も地味に変わる。大声で触れ回れば、それだけ「今年はやらないのか」「なんで昨年より減るのか」という声も上がるだろう。「そもそも適正な補助か」「今ほんとうに必要な補助か」みたいな声も。たぶん「足りない」という声も、「国民を甘やかすな」という声もステレオで(
左から右から)出るのだろう。
雉も鳴かずば。本当はむしろ声が上がって百家争鳴・議論が尽くされたほうが望ましいにも関わらず、異論はノイズでデザインする側が全て決めたほうがいい、異論に対応する余力はない的な事情が
「知らしむべからず」な周知キャンセルを「敢えて」させているのではと勘ぐる気持ちもないではない。
そもそも論で言えば、助成金とは逆に費用の半分を助成しても、残り半分は自腹なのだ。たとえば農業を機械化するとか過去にあったことでも、国が相当な助成をしたとしても個々の農家は(それで収益が上がって元が取れるという前提のうえで)自腹を切って国が進めたい政策に乗った・乗っからされた側面は、ないではない。だからこそ、むしろ周知を徹底して「それでは足りない」も「逆に負担だ」も「こっちはどうなる」も騒がれたほうが、個人的には良いと思う。
他にも色々あるんだけど『監獄の誕生』ばりに
「ここで中断する」で、よろしいでしょうか。みんな今夏も生き延びてほしい、それが建前ってものではないか。
税・病原菌・奴隷制〜ジェームズ・C・スコット『反穀物の人類史』(後)(25.04.20)
人類の営みを狩猟・採集・遊牧・農耕に分けるのは農耕で天下を取った者の視点であって、「国家」の外にいる人々にとって四者に区別はない・必要に応じて全部するものだったとスコットは言う。工芸や交易を加えてもいいのかも知れない。
* * *
とりあえず、
クラストルは(一応)知ってる前提で話を進めよう。彼が中米の先住民を(文明度が低くて)国家を形成するに至れなかった「遅れた存在」ではなく、権力が集中する恐ろしさを知るがゆえに敢えてそれを回避するよう共同体を小さくした「
国家に抗する社会」と位置づけたのは、もう半世紀も前のことなのだ。
しかし国家を形成したことも、それが出来るほど権力を集中させたこともないうちから「権力は恐ろしい」「国家を作ってはならない」と分かるものだろうか。侵略・支配・強制収容…国家や権力の負の側面を、イヤというほど知ってる現代人の吾々ならともかく。

ここ半世紀の哲学者はアナキズムから多くの富を得ている(そしてアナキズムにも多くを与えている)くせに色々と言い訳して自身をアナキストと名乗りゃしないと哲学畑の
カトリーヌ・マラブーは盛大に嘆いているが(
先月の日記参照)、国家を持たない社会を研究しがちな文化人類学者はまた別なのだろう。
それにアナーキーの語源はアン(=非)アルケー(=起源)。原初の人類が国家の危険性をアプリオリに(=経験する前から)本能で察知し回避できたと理想化するのも主義=イズムに反するのかも知れない。堂々とアナキストを名乗り、オキュパイ・ウォール・ストリートを主導したりもした(そして『負債論』や『ブルシット・ジョブ』で知られる―未読なのですが)
デヴィッド・グレーバーは大先輩のクラストルを手厳しく批判しているようだ。
・
片岡大右「コロナ下に死んだ人類学者が残したもの デヴィッド・グレーバーの死後の生(下)」(「コロナの時代の想像力」岩波書店・note/22.10.28/外部リンクが開きます)
いわく、クラストルが研究した中米先住民は「国家に抗する」狩猟採集を中心とした生活と、国家に近い農耕・集団社会を季節によって行き来していた。ならば権力の集中や国家の危険性は知ってて当然ということになる。
反国家と国家を行き来するサイクルは、ある種の粘菌がバラバラになって生きる時期から集合し一体となって移動・新たな芽を出し胞子となってふたたび放散していくサイクルを彷彿とさせる。その一方だけを切り取り、かつ滅びゆく過去の知恵とロマン化することで、クラストルは別の選択肢=反国家を回復不能な過去に押しこめ、現在の体制をかえって強化したというのがグレーバーの批判の骨子だ。
* * *
やはり未読だけど(これから読む準備は出来てます)『実践・日々のアナキズム』なんて著書もある、そして東南アジアで「国家を逃れた」人々に取材した大著『ゾミア』が地味に話題の
ジェームズ・C・スコットもまた「国家に抗する社会」は国家のデメリットを熟知するがゆえの、ポステリオリな(経験に基づく)選択と考えているようだ。
『反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』(原著2017年/立木勝訳・みすず書房2019年/外部リンクが開きます)が説くのは、
古代メソポタミアなどに生まれた初期国家の、形成されては滅亡する、短命で脆弱という意外な姿だ。
とゆうか、初期の国家は支配する者にしかメリットがない。そのメリットとは、ずばり「税」だ。
貨幣も文字も徴税のために発明された―という話は
前々回にした。メソポタミアで楔形文字が(簿記のために)発明されてから、それらが神を讚えたり詩文を表したりするまでに五百年のタイムラグがあったとして左記の説を裏づけるスコットが、ダメ押しで指摘するのは穀物自体、徴税に適していたから採択されたということだ。
なぜ麦や米の国家はあっても、タロイモ国家やキャッサバ国家・バナナ国家や大豆国家はなかったのか(
「バナナ共和国」はあったけど意味が違う←反植民地主義ジョーク)。それは(地中に埋まった不定形なタロイモやキャッサバと違い)同じ大きさの小さな粒を地上で収穫でき(年中いつでも収穫できるバナナや豆類と違い)収穫の時期が定まっている
穀類は数え(メネ)、量り(テケル)、その一部だか大半だかを取り上げる=分ける(バルシン)、つまり徴税に適していたからだとスコットは暫定的に結論する。(※粒で収穫でき成熟期も決まっているヒヨコ豆やレンズ豆で国家は発生しなかったこと・逆に成熟期が決まっていないトウモロコシでも新世界にはマヤやインカなどの国家が生じたことが
「まだよくわからない」例外として挙げられる)。
話は逸れるが+もう10年以上も前なんだけど『銃・病原菌・鉄』のジャレド・ダイアモンドの
顔が好きすぎてモデルにした学者先生を自作のまんがに登場させたことがあって
・本サイト内
「RIMpack'13 ペーパーまんが総集編2013」所収「サイン」
モデル同様に壮大な文明史を探究してそうな著作の題名を『
麦の世界史』として

あ?いや?『
塩の世界史』のほうがグローバルで良かったかなぁと描いた当時から実は気にかけていた(
そんなん誰も気にしないって)のが、まあ『麦の世界史』でも良かったかなと思い直すことが出来た。『反穀物の人類史』とは、逆にいえば今まで支配的だったのは「穀物の世界史」だったということだから。
話が逸れるついでに大急ぎで言うと、現状、
穀物は美味しい。水洗トイレが整備され、こんなにも本を読め、映画もアニメもインターネットもある現在の世界のメリットと同様、炭水化物の美味しさは認めざるを得ない。米価の高騰を消費者と生産者・双方が助かるように政府が何とかしろと訴えるデモなどを「でも穀物を選んだことが人類の間違いじゃん」と否定するつもりも全くない。

そうしたデモの一部参加者が日の丸を掲げ外国人排斥を謳ったり、あるいは渡米して好成績をあげている野球選手が
「僕は、おむすびが美味しい国に生まれた」と広告でおにぎりを頬張ったりしてるのを見ると、やはり穀物はナショナリズムと親和性が高いのではと思わないでもないが、
こじつけな気もする。穀物に関係なく、国家をアプリオリ=当たり前として育った人たちは生活が安定しているかぎり国家を支持する、その安定が脅かされると余計にナショナリズムや排外主義が煽られるもの、なのだろう。
話を戻すと、ナショナリズムや排外主義より前に、国家=穀物そして徴税である以上、やはり弊害の第一は税なのだった。
「王がいてもかまわない。領主がいてもかまわない。けれど怖いのは徴税官だ」(強調は引用者)という格言は古代シュメールの昔からあったという。本書で最もインパクトがあるのは、
万里の長城は外敵を斥ける以上に、国民を逃がさず閉じ込めるためだったという説だろう。専門家=20世紀の中国学者
オーウェン・ラティモアがそう唱えているという。
そのうえで。
スコットによれば初期の国家には、とゆうか集住と穀物の栽培・牧畜には、もうひとつ致命的なデメリットがあった。疫病と、全般的な不健康だ。
「現状、穀物は美味しい」と先に書いた。けれどそれは、スナック菓子やジャンクフードの美味しさと同じで、身体には必ずしも良くはないものかも知れない…とは、スコットではなく僕の見解だけれど、脚気や壊血病の例もある。単一の穀物栽培に特化した農耕よりも狩猟・採集(それと焼畑など専門化しすぎない耕作)のほうがコスパ良く、バランスのよい食生活が出来そうでもある。徴税分を取られることでの栄養不足もあっただろう。
かてて加えて、家畜や穀物めあてに寄ってきた害獣がもたらす感染症がある。集住は感染の温床でもある。なぜか人々がバタバタ倒れはじめる「国家」の悲惨は、周囲の非定住民に国家を忌避させるに十分だったはずだ。
そして画一的な耕作地に縛りつけられ、集住を強制された「国家」の臣民たちは、周囲の非農耕民より小柄でもあった。これは化石で証明されている。ブタも犬も、人に飼い馴らされた動物は、祖先の猪やオオカミより小型化する。「万里の長城は逃散の防止用だった」と並ぶ、本書のパワーワードは「
家畜より前に国家は人間を飼い馴らした」というものだ。第二の生産革命=
近代の資本主義は「蒸気機関よりも前に人間を機械化した」という
シルヴィア・フェデリーチの台詞(
23年10月の日記参照)を彷彿とさせる。
ちなみに(
これが今回さいごの余談になるといいなあ)フェデリーチの話。近代的理性とイノベーションが資本主義を生んだという神話に激怒する彼女は、人々が入会地を共有していた14〜15世紀のほうが、エンクロージャーで共有地を奪われた(そして資本主義が萌芽期にあった)16〜17世紀より明白に庶民の食生活が豊かだったと『
キャリバンと魔女』で書いているけど、この主張には多少の留保が必要らしい。というのもフェデリーチが「近代のせいで食生活が貧しくなった!」と主張する時期は世界が寒冷化した小氷期(14世紀半ば〜19世紀半ば)にもあたるからだ。
ただし「ミニ氷河期」とも呼ばれる小氷期が収穫の低減をもたらしたことは、30年戦争からナポレオン戦争に至る同時期の(世相を荒廃させた)戦乱や、ひょっとしたらルターなどの異議申し立て=宗教改革、さらにはエンクロージャー=収奪の強化によるヨーロッパの資本主義化の近因遠因であり、結局は天災に対し人類が破壊や収奪で臨んだことが食糧危機につながった、と言えるのかも知れない(これは僕の臆見)。
なんでこんな余談をしてるかと言うとスコットは、その小氷期じたいヨーロッパ人の「新大陸」侵略(とくに病原菌がもたらした災禍だろう)によって先住民が死に絶え、彼ら彼女らの焼畑農業が途絶えたためCO2の排出量が減り温室効果が緩和されたせいで起きたと「少なからぬ気象学者」が唱えている、と紹介しているからだ。まわりまわって人災。フェデリーチやスコットが現在進行形で要約している、人類や歴史に関する見直し=新しい所見は、かくも恐ろしく、恐ろしいがゆえに面白い。
話を『反穀物の人類史』に戻すと、飼い馴らされて小型化し、狩猟や採集に比べると創意工夫に乏しい単調な集団労働を強いられた初期国家の「国民」たちは、言うまでもなく奴隷だった。いや、「農耕と定住で人々の生活は安定して豊かになり、やがて富が蓄積され貨幣や文字などの文化・ひいては国家が誕生した」という国家に都合のいい神話に飼い馴らされた吾々は、古代ギリシャの民主制やローマ帝国の時代まで、穀物を作っていたのは奴隷だったという指摘に驚かなければならない。
アリストテレスは奴隷を人間よりも動物のほうに分類していた。本気でそうしていたのだ。
だもんで、古代の戦争は捕虜=奴隷の確保が主目的だったとスコットは言う。万里の長城は蛮族の侵入より奴隷の逃亡防止だったと言う。近代においてすら
「19世紀半ばの衛生革命(上下水道の敷設)まで、およびワクチンと抗生物質の登場まで、一般に都市の死亡率はきわめて高く、都市の成長は田園部からの大規模な人口流入によってのみ可能だった」と彼は説く。
飼い馴らされ、無力になったことは支配には便利だったかも知れない。途中からは規模の利益が生じて、現在のように国家なしの生活は考えられない段階に至っただろう(
いや現在も多くの人々が難民や移民という形で国家の軛を離れた生活をしているのだが)。問題は「最初」だ。現に最初期の国家は短命で、何度も滅びてもいる。
逆になぜ、感染症のリスクもありコスパも悪く人々を小柄にする定住と農耕が、狩猟や採集に優越し、国家を孵化させるまでに成長しえたのか。
その答え(仮説)も本書では
明確に用意されている(これが2017年だ)。あまりに意表をつく「犯人」なので流石に伏せるけど、そこだけ気になるひとは
77〜78ページ・そして107〜108ページだけ読んでみるといい。びっくりするし、納得もさせられる、そして恐ろしい気持ちにもなる。現代の人類学・考古学・歴史学は科学であり、残酷な数学でもあるのだ。
* * *
そんなわけで今週の結論:『反穀物の人類史』は、半世紀にわたり積み上げられてきた反国家・反農耕・反定住の学説を手際よくまとめたうえで、自身の新説も加えて構築された2017年の最新成果なので、この問題に関心があるひとは本書から手に取るのが一番手っ取り早くてオススメです(でないと僕みたいに
長年かけて遠回りすることになる)。
すぐれてエキサイティングな本なのですが、初期の農耕国家において畑の穀物が・飼い馴らされた家畜が・そして飼い馴らされた人間が、いかに害獣や害虫・病原菌に対して脆弱で食い荒らされてばかりいたかをコレでもかと語る第三章は、話の流れ上「反穀物・反国家」モードに洗脳されかかっていてもなお「ざまあ」を通り越し「なんて哀れな…」という気持ちになり胸が塞ぐ。
そして1000年代(千年紀)の半ばまで定住国家を苦しめつづけた外部からの略奪=「蛮族」戦闘的な遊牧民族との交渉を描く最終章は、最後になって関心の重心がズレて別のテーマに移行しつつある「出口」のような感じもして少し統一感が薄れるのと、やはり内容が暗くてカタルシスに乏しい…というのは個人の感想。税から逃れれば虎に遭う、みたいに、やはり世界に残酷でない「外」はないのかも知れないと悲しい気分になってしまうのだ。
さんざっぱら初期の国家はダメだった・無理があった・そっちを選ぶべきではなかったという説を紹介してきたけれど、けっきょく集住は・農耕は・国家は初期の不利を克服し(または先進国の住民には見えないところに押しこめ…というのはウォーラーステインの説)今の吾々は「米が高い」「税金が、保険料が高い」と文句は言いながら、ウォシュレットやスマートフォンを手放した生活すら想像するのが難しい。相当な完成度で出来上がってしまった監獄を「そのうち滅びろ」と呪詛する以外の出口・突破口はあるのだろうか。とりあえず、そのへんはスコットの別の著作に期待してみるしか(それも勝ち目は薄いけど)なさそうだ。『ゾミア』と『実践 日々のアナキズム』も読んでみることにしました。

ちなみに『ゾミア』は邦題で、英語の原題は
『The Art of Not Being Governed』(統治されない技術)というようです。巻頭の引用文(エピグラフ)は、がっつりクラストル。
サスペンスとレヴィナス〜デレク・B・ミラー『白夜の爺(じじい)スナイパー』(25.04.13)
昔プライベートでもやらかして痛い目に遭ったのを忘れてた、今の職場で左右に並べたデュアルモニターでの仕事を余儀なくされていたら肩〜首に激痛が走るようになり(参考記事;
「姿勢に気をつけよう - デュアルディスプレイで首に激痛が」odaryo/noto/24.1.8/外部リンクが開きます)
あわててストレッチなど始めているのですが、んー職場のモニタを縦並びのように調整できるか考えどころ。自宅で通常モニタと液晶タブレット(兼サブモニタ)を縦方向に並べてるぶんには、それほど苦しくないのですよね…

いわゆるストレートネックというやつで、さらに通勤時間が長くなり、うつむいて本を読む・またはスマートフォンを操作する時間が増えたのもよくないのでしょう。
というわけで(?)予定していたジェームズ・C・スコット『反穀物の人類史』の話(後篇)は先延ばし。今週は少し軽めの?話をします。
*** *** ***
軽めといえば日曜朝の戦隊ヒーロー番組。軽めといえども一昨年度の王様戦隊キングオージャー・昨年度の爆上(バクアゲ)戦隊ブンブンジャー、二期つづけて相当クォリティが高かったんだなぁと(まあブンブンジャーは
「みんな大真面目に演ってるのに妙な笑いが止まらない」とも思っていたけどな)今季の新番組
『ナンバーワン戦隊ゴジュウジャー』(公式/外部リンクが開きます)を観て、あらためて納得している。
10話くらい続いて(
でももう二ヶ月以上つきあってるんだ…)ようやく世界観もキャラも整ってきたというか、伸び代がある(婉曲表現)のも大部こなれてきて、もうしばらくは視聴を続けるかと思ってるところ。そんな『ゴジュウジャー』スタートダッシュ時の個人的目玉だったのはグリーン属性の
ゴジュウイーグル。チーム最年少の高校生という触れこみで登場した彼が、実は最年少どころか『ゴレンジャー』以来50年にわたるスーパー戦隊の歴史でも最年長かと思われる
87歳のジ…後期高齢者が若返った姿で「二度目の青春をパーリーピーポーとして謳歌する」と言いながら
具体的には若い役者さんが中身は87歳という設定を嬉々として演じていらっしゃる(今季のノリ、お察しいただけたでしょうか)。ちなみに87歳、来月米寿を祝う
うちの父と同い年ですよ…

そんな矢先に図書館で目にした小説のタイトルが「爺」。じじい、とルビまで振られて、そんなの読まないわけにいかないでしょ(?)
デレク・B・ミラー『白夜の爺(じじい)スナイパー』(原著2012年/加藤洋子訳・集英社文庫K2016年/外部リンクが開きます)

ジャンルとしてはサスペンス。ノルウェーで暮らす孫娘夫婦のもとに身を寄せた元米軍の狙撃兵が、悪党どもに狙われる少年を逃がすべくボートを盗み、川を下り、反撃の拠点になる国境のキャビンをひたすら目指す―
主人公シェルドン82歳。「舐めてたジジイが海兵隊の殺人マシーンだった」みたいなノリではなく、ニューヨークのダイナーでコーヒーとブルーベリー・マフィンを楽しみに生きてきた時計職人が、言葉も通じない異国で、さらに言葉も通じない少年を連れ、時には不法侵入した別荘で持ち主の人生の機微に触れたりしながらの道行き・ロードムービーのような趣きで北欧の旅情も楽しめる小説(ただしバイオレンスあり)でした。
最初ちょっと意表をつくのは、朝鮮戦争でスナイパーとして鳴らしたがゆえに、今もピョンヤンからの報復の刺客を警戒しつづける彼の経歴が、家族には長年「いや俺は後方で事務をしてたんだ」と偽っていたため「本当は狙撃兵だった」と後から明かした真実のほうを信じてもらえず、アルツハイマーが出たと思われているところ。小説の読者には早々に事実だった(らしい)と明らかになるのだけど
「信用できない語り手」をもう少し引っ張りつづけたら、それはそれで面白かったかも知れない。いや最近ではありふれてるか。
本人はヒーローのつもりで少年を連れて逃げていた主人公が、終盤になって自室から本当にただの事務方だった経歴証明書と「舐めてたジジイが殺人マシーン」系のペーパーバックがどっさり出てきて「やばい…本当は虫も殺せぬ一般人なのに悪党に立ち向かう気だ」という展開や、あるいは逆に従軍時の戦功をしめす勲章なんかが出てきて「やばい…本当に殺人マシーンなんだ」みたいな場面があっても良かった気はするけど、
まあそういうのが本当に見たい人は自分で創作すればいいんです。
もうひとつ、ちょっと意外かも知れない見どころは主人公ホロヴィッツの信仰、というか信仰への疑い。
ユダヤ人の彼は…まあアウシュヴィッツなどは動機でもないんだけど…正義を信じて従軍し、お前もかくあれと教育した結果、息子をベトナムで死なせてしまう。現在のノルウェーでの新生活と降って沸いた逃避行・過去の従軍経験・除隊してからのニューヨーク暮らし・そして少年を追う悪党どもと彼らを追うノルウェー警察、頑固な祖父を案じる孫娘夫婦―時間も視点も自在に行き来する(読みにくくはないです。現在の主人公を「シェルドン」、過去の彼を愛称の「ドン」と書き分けることで自制が分かりやすくなってるのも「盗めそうな」工夫)物語の中で。
ユダヤ教の贖いの日(ヨーム・キップール)について孫娘と語り合う場面は、サスペンスのクライマックスとは別に展開するシェルドンの人生の核心に迫る、もうひとつのハイライトだ。彼いわく、ヨーム・キップールに人は
「二種類の赦しを乞う」。
「神に対して犯した罪の赦しを神に乞うことがひとつ。
それに、人びとに対して犯した罪の赦しを人びとに乞うことがひとつ。(中略)
われわれの教義によれば、神にもできないことがひとつだけある(中略)
人がほかの人に対して行ったことを、神は赦すことができない。罪を犯した相手に直接赦しを求めねばならない」
「殺人が赦されない理由がそれなのね(略)
死者に赦しを乞うことはできないもの」
(強調は引用者)
そののち彼は、孫娘にとっては
「おまえの父親」・彼自身の息子をベトナムで戦死させたことについて謝ってほしいとシナゴーグで神に問いかけ、神の謝罪を得られなかったがために信仰を捨てたと語るが、それは今回の本題ではない。
「人が人に対して犯した罪を、神は赦すことができない。罪を犯した当の相手(=人間)に赦しを乞うしかない」という主人公の「思想」には、同じくユダヤ人の哲学者
エマニュエル・レヴィナスが説く「倫理」の(僕が考える)エッセンスが詰まっているように思える。
アウシュヴィッツのような暴虐を、なぜ神は直接に罰しないのかという問いに対して、そんなことが出来てしまうなら神が人を創造し、自由を与えた意味がないという主旨のことをレヴィナスは語った(はずである)。その葬儀で
ジャック・デリダが読み上げた弔辞(岩波文庫『アデュー』所収)によれば、生前のレヴィナスは「人格」こそ「聖なるものより聖なるもの」で
「侮辱された人格を脇においたままでは(中略)
聖なる約束された地―も裸の荒れ地にすぎず、木と石の山にすぎない」と語ったという。旧約聖書の最初の殺人者カインは
「死を無と考えたはずである」という別の引用は、「殺人が赦されない理由」を裏側から提示したものだろう。
ユダヤ教から派生したキリスト教を信仰する人たちが時に「いや、そこは人に謝れよ」という場所で神の赦しを乞うこと、なんなら「
ここで神を恐れる俺のほうが信仰のないお前らより余程おのれの罪を感じているのだ」と誇る傲慢を目の当たりにして釈然としなかったことが「僕が」ついには「あの神」を信仰は出来ない理由のひとつかも知れない。まあ、それはそれとしてだ。
新旧つうじて聖書には「人を裁くな。罰は神が与える(復讐するは我にあり)」という真逆の思想があることも踏まえて。人に対する人の罪を神に裁いたり赦したりしてもらえると思うな、と取れる点で、レヴィナスと小説の主人公ホロヴィッツ、二人の思想が一致しているように見えるのは、彼らがともにユダヤ人でありながら、唯一神への絶対の帰依からは逸脱した異端者の立ち位置にいるせいかも知れない(いやレヴィナスの立ち位置はよく分からんのですが)と思ってしまった。
つい先月の日記で書いた、やはりユダヤ人だった・けれど無神論者で進化論者だったフロイトが「でもそんなユダヤ人の伝統に逆らう自分みたいのが、むしろユダヤ人の粋なのだ」と語っていたという話を(前回はスピノザなど引き合いに出したけれど)また思い出したりしたわけです。
結局ホロヴィッツは自身が北朝鮮の兵士たちに対して犯した罪とどう折り合いをつけたのか、少年を救うためとはいえ再び殺人という「赦しを乞えない」罪を犯そうとしていることをどう考えているのか、今かの国で赦されえない罪を重ねに重ねているホロヴィッツの同胞たちは、またムーミンの国らしいペーソスをたたえたノルウェー警察(
違う違う、ムーミンはフィンランド…後日補記)の視点を通して著者が描く移民=犯罪者という概念は、などなど留保をつけたいところは多々あれど、総じて楽しく読める小説でした。
それにしても、訳者は映像化されるならトミー・リー・ジョーンズをキャスティングしたいと書いてて、僕は晩年のクリストファー・プラマーを脳内で当ててた(
お察しください)主人公ホロヴィッツ、少年の手を引いて逃げる不屈の元スナイパーを、
もうじき米寿の父で(ついでに少年を幼い頃の甥っ子で)想像しようとはどうにも思えなかった自分が親不孝なのか孝行息子なのかは、ちょっと迷わされるところでした。おしまい。
数える・量る・分配する〜ジェームズ・C・スコット『反穀物の人類史』(前)(25.04.06)
旧約聖書・ダニエル書によれば栄華に驕るバビロニアの滅亡は、虚空から現れた手が王宮の壁に書きつけた三つの単語で告げられたという。誰も読めない未知の言語を読み解いた智者ダニエルいわく、三つの単語は
メネ・テケル・バルシン―すなわち
数える・量を計る・分ける。(数えてみたら)この国の覇権は長すぎた・(量ってみたら)今の王には治めるだけの徳がない、だからこの国を分けるという神の思し召しだと。その晩、王は殺されメディアとペルシアが王国を二分する。
2025年現在この三語に最も相応しいのは、むしろ他ならぬ…という呪詛は別の夜にとっておこう。30年以上も前に
ギー・ドゥボールはエルサレムどころか(←
言っちゃった)広告プロパガンダに支配された
現存の都市「すべて」に終焉を告げる三語が既に刻まれている(はずだ)と断罪し、「分ける」の一語に支配層から「分けられた」持たざる者たちの蜂起を切望した(
『スペクタクルの社会についての注解』(原著1989年/木下誠訳・現代思潮新社2000年/外部リンクが開きます))。けれど、それも今回の主題ではない。
賢者ダニエルの、そしてドゥボールの「分ける」の解釈とは別の意味でも、この三語が「バルス」ばりの滅びの呪いであるのは妙というか、言い得て妙ではないか―という話をする。「数える、量る、分配する」こそ人類に多大な災いをもたらしたと唱える声は、近年ますます大きくなるばかりなのだ。
* * *
こんなジョークがある。
「わぁ、すごい御馳走!なんのお祝い?」
「坊や、今日から弥生時代なのよ」
かつて原始人と呼ばれる人々がいた。棍棒か、せいぜい尖った石をヒョロ長い木の棒の先に結びつけた貧弱な槍を片手に(それだって立派なものだ、道具を使っているのだから)獲物を求めておろおろ歩く狩猟・採集民族。迷信ぶかく、文字も持たず、落雷やサーベルタイガーに怯えて暮らす。ちゃっぷいちゃっぷい、カイロがポチイい(古い)。
しかし人類は農耕を始める。牧畜も始める。もう逃げまどったり、乏しい食物を求めてさすらったりする必要はない。
to be a rock, and not to roll。安定した、豊かな食糧を確保して、人は豊かになる。富が生じる。文化が、国家が、文明が生じる。古代の生産革命は後に、産業革命として再演されるだろう。蒸気機関が、紡績機が、人類の豊かさをさらに飛躍させる。迷信を打ち払ったデカルト的理性は海を越え新大陸も眠れるアジアも席捲して、政治・経済・法律・文化…西欧で生まれた近代文明は世界の共通プロトコルになる。
冷戦の終結による「歴史の終わり」・インターネット以後のグローバル化を三度目の革命に数える必要はあるのだろうか。科学者たちの共有財産とされた南極大陸を除けば、
もはや地上にどこかの国の領土でない土地は存在しない(たぶん)し、そのうちWi-Fiの電波が届かない場所も、スマートフォンのタッチ決済が使えない土地もなくなる。
まとめて言うと数千年の歴史を通して人類は文明化の度合いを進めつづけてきた。農耕文化に適応できなかった狩猟民・文明の外にいる蛮族・バルバロイは徐々に同化され、あるいは滅び、今となっては各々の国家という大きな枠組の中に設けられた居留地で細々と存在を「保護」されているに過ぎない…
…
本当だろうか?
たとえば昔のSFや未来予想図では、未来(ひょっとしたら今くらいかも)の人類は世界政府を樹立しているものだった。村落から国家へ・国家から国連やEUのような国際共同体へ・そしていずれは地球がひとつの国家にという進歩史観は、経済やインターネットのグローバル化によって一面的には達成されてると言えなくもない反面「世界がひとつに」というイマジン的な(
あるいはオルテガ的な)夢は、一向になくならない国家間の戦争・それどころか国内での分断や内戦という現実によって、いわば未来から「そうはいくものか」とNOを突きつけられている。
一方それと歩調を合わせるように・あるいは未来からの問い直しに先んじて、過去だってどうなんだ:人類が豊かに・文明的に進歩してきたという「正史」も体制に都合がいい作り話ではなかったかという異議申し立ても続発している。
本サイトでも折りにふれ…といえば聞こえはいいけれど、要は散発的に取り上げてきた話だ。
いわく、原初の「万人の万人に対する闘争」は国家の出現で初めて抑止された
って本当かぁ?(これについては「原初の社会は万人の万人に対する闘争じゃなかった」「国家が出来てからも逆に支配者と被支配者の闘争が常態ではないか」と両面からダメ出しが出ている)
新大陸を発見したと言うけれど、その土地にはずっと前から先住民がいて帝国すら築いていたではないか。
万人の平等を真に法として整備したのは植民地支配を棚に上げたヨーロッパではなく、制圧されていた側=植民地の独立勢力だったはずだ。(
『ブラック・ジャコバン』『ヘーゲルとハイチ』『ハイチ革命の世界史』)
資本主義は産業革命やイノベーションではなく、村落共同体の破壊や先住民の虐殺・奴隷制など搾取と収奪の賜物ではなかったか。(
『キャリバンと魔女』)(
『史的システムとしての資本主義』)
現代的な経営マネジメントはイギリスやアメリカ北部の工業地帯ではなく、奴隷のコスパな「運用」を求めるアメリカ南部やカリブ海のプランテーションで生まれたらしい。

異議申し立ての多くは近代の「正史」に差し向けられている。いま行き詰まっている世界システムが近代の産物なのだから当然とも言える。
だが、さらに遡って産業革命ではなく農業革命・文明の曙まで差し戻し請求する声もある。

やはり自分の場合、大きかったのは「ただの交易なら貨幣は必要なかった・
貨幣が発明されたのは徴税のためだった」という
ドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』の発言だった。(今まで挙げた諸説もそうだけど)
今は個々の真偽を問う場ではない。
『千のプラトー』経由で知ったピエール・クラストル(1934〜77)は、農耕せず定住せず小集団で生きる狩猟民たちは国家形成に至れなかったの
ではなく、むしろ権力の集中が危険と知るがゆえに意図的に「進歩」を忌避した「
国家に抗する社会」だったと説いた。
真っ赤な帶に白抜きで
「君は国家が幻想だと気づいているか?」と大書された角川文庫版の吉本隆明『共同幻想論』は自分には正直サッパリ理解できない難書だったけれど、古事記が詳らかにする神話時代の日本の法は天孫降臨を受け容れる側だった社会の「国つ罪」がレヴィ=ストロース的なインセストタブー(近親婚の禁止)なのに対し、天孫降臨でもたらされた「天つ罪」が水田の畔を壊すな等の稲作を守るための禁令だったという話だけは憶えている。
そのレヴィ=ストロースは構造主義人類学の古典
『悲しき南回帰線』で
「文字による伝達の第一の役目は、隷属を容易にすることである」という仮説を提出している。
現存する解読可能な最古の文字=メソポタミアの楔形文字は神や王を讚えるためでも、もちろん個人の心情を綴るためでもなく、徴税の帳簿をつけるために発明されたという話は何処で知ったんだったろう。
桃源郷という言葉の語源と思しき「桃花源記」は学校の教科書で習ったけれど、その別バージョンとも言うべき、虎の出る山奥に隠れて暮らす人々を訪ねた語り手が何故こんな危険なところにと尋ねたところ「
虎よりも税吏が恐ろしい」と答えたという逸話を知ったのは、いつだっただろう。
桃源郷か虎の竹林か、国家に属さぬ人々が東南アジアに形成した一大生存圏に取材した大著『ゾミア』(
未読)の原題は、クラストルの系譜を継いでるとしか思えない
「The Art of Not Being Governed」(統治されない技術)であるらしい。
中国の細民が虎よりも税吏を恐れる話は教科書に載らなくても、(税を取り立てる)
「里長が声は寝屋戸まで来立ち呼ばひぬ」という山上憶良の長歌は載っていた。それでも、貨幣も文字も(人々の自由な交易や表現のためでなく)国家が税を取り立てるため発明されたのだとしても、それで全体の生活が底上げあれ、皆が豊かになったなら何の問題もないではないか―
―という反論は、『千のプラトー』が用意した、もう一枚の切り札=マーシャル・サーリンズ『石器時代の経済学』(
未読)で覆される。サーリンズの名を挙げなくても、
定住した農耕民より非定住の狩猟採集民のほうが労働時間は少ないという説は、今なら誰もが何処かで耳に目にしているのではないか(
してなかったら「今」したんですよ)
* * *
ちょっとだけメタな話をさせてもらうと、ここまで羅列してきた「異論」が書いてる自分以外の人たちにとって、どこまで目新しいか見当もつかない。
文字の話も貨幣の話も、ハイチの話も魔女狩りの話も、僕自身は知ったとき目からウロコだった(
もしかしたら目にウロコが貼りついたのかも知れないがと危ぶむ程度には公正を期したい気持ちはある)。けれど新説は、特につるべ打ちで食らっていると、まるで最初から常識だった・ずっと昔からそう思っていたように思えるものだ。
だからここまで書いてきた、僕の場合は時に他の目的で手にした本から偶然に拾うような形も含めて、あっちへフラフラ・こっちにフラフラしながら少しずつ形成されたきたことも、他の人にはSNSで浴びる大量の情報や引用・オピニオンを通じて・つまり別ルートを通してではあるけれど、やはり「そんなの常識じゃん」という話ばかりだったかも知れない。
それはもちろん危険なことでもある。アメリカでも日本でも、大量のフェイク情報を浴びてフェイクが「常識」になってしまった人たちが沢山いる。その一方でクラストルが、サーリンズが(未読ですが)、レヴィ=ストロースやドゥルーズ=ガタリが説いてきた異説・新説が、「何処で知ったか分からないけど」という形で「常識」になることも、あるのではないか。
それで本当にいいのかと思わなくもないけれど、それはそれで救いかも知れない。
実際、羅列してきた異説・新説には出版年が2010年代と本当に「新しい」ものも少なくない。当然、それらを基にした言説もネットに流れ、増幅されている最中だろう。世界は本当に変わるかも知れない。
ジェームズ・C・スコットの『反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』(原著2017年/立木勝訳・みすず書房2019年/外部リンクが開きます)も、そうした「新しい」オピニオンの一つだ。ここまで述べてきた異説・異議申し立てを総合し、さらに新たな目ウロコを付け足す、「この問題」に関するスタンダードになりうる一冊だと思う。なんなら(僕みたいに遠回りせず)
最初に読めばいい一冊。
来週は、この本の話をします。(
出来ませんでした)
小ネタ拾遺・25年3月(25.04.02)
(25.03.02)毎年3/2は
ルー・リードの誕生日を祝って「一年に一度くらいはね…」とロック史上最大の駄作と言われた『メタルマシーン・ミュージック』を聴くのですが(実は慣れるとそれほど苦痛でもない。むしろ個人的には『警鐘』なんかのが拷(
それ以上いけない))。レコードだと二枚組・黒板を引っかくようなギターノイズが1時間延々つづく本作、でも
リズム=ビートを入れたら案外もっとふつうに聴けるのでは?と今さら気づいて試してみました。
(1)
Lou Reed - Metal Machine Music (Official Audio Excerpt)(1:33の試聴版/YouTube/外部リンク)
(2)
Acid - Tech loop samples by Liquid Limbs(1:00の試聴版/外部リンク)
(1)のほうが30秒ほど長いので先に15秒くらい再生して「うげー」と思ってから(最初はそうでしょう、いいんですよ)メインギターみたいな音が入ってきたところで
おもむろに(2)のリンクを開くと、
ちょっとオウテカっぽい(適当)インダストリアル・アシッドテクノに変身。それでも(2)が先に終わるので最後また(1)が残響してイイ感じです。ヘッドフォンを使用するなど
周囲の迷惑に配慮したうえで、お試しあれ。
※YouTubeのルー・リード公式、上に挙げた試聴版だけでなく『メタルマシーン・ミュージック』全曲聴けるの
「本気か?」と思うけど、聴きたい人は聴くがいいよ。
※※ルー先生「反省してます…」とばかりに『メタル…』の次には『コニーアイランド・ベイビー』、『警鐘』の次には『都会育ち』とメロウな名盤をリリースして失地回復を図る処が可愛い。
Lou Reed - Charley's Girl (Official Audio)(YouTube/外部リンクが開きます)
(1)で
「俺の一週間はお前らの一年に勝る」と豪語した人が次に出す楽曲じゃないでしょ、これ…
(25.03.03)25年春のJR青春18きっぷは昨年末と同様、
大幅に機能を制限された改悪仕様(JR東日本/外部リンク)につき、
西への旅をあきらめる前提なら同時期発売の北海道&東日本パス(同)
のほうが上位互換で断然有利です。具体的には(使用日を指定する必要だけありますが)・指定日より連続7日間使用可で・18きっぷ(5日12,050円)より安く(11,330円)・しかも盛岡ー八戸間の第三セクター青い森鉄道線・いわて銀河鉄道線にも乗車できる(北越急行ほくほく線も。18きっぷだと別料金)。実は昨年末にこの切符で北海道まで行ったのですが(青森→函館間は別料金で連絡船。札幌から帰路は飛行機)仙台から八戸方面の同じルートを18きっぷで旅してる人を見かけ「この時期は18きっぷ」と決めつけないほうがラクなのに…と思ったので(逆にまあ東海以西から18きっぷで来て旅も終盤だった猛者かも知れなかったけど12/10の使用初日だったので可能性は限りなく低い)老爺心にて。
(25.03.04)大船渡には2018年、一度だけ訪れたことがある。気仙沼からBRTで陸前高田を再訪して、さらに奥まで足を延ばした感じ。震災からの復興もかなり進んだ段階で、きれいに完成された商業施設
「キャッセン大船渡」をそぞろ歩き。タイミング的に食事などは出来ず書店で本だけ買って戻ったのですが

風景を撮るときフェルメールの『デルフト』を意識して空に大きくスペース取りがちなのはいいとして(こう並ぶと少し恥ずかしい)当時お金を落とせなかった分、ちょっといい海鮮丼でも食べたつもりで・
2025年岩手県大船渡 山火事緊急支援(ピースウィンズ・ジャパン/Yahoo!募金/外部リンクが開きます)ささやかながら寄付しました。理不尽に生活を奪われ、また脅かされた方々に、心の平穏が戻ることを願う。
※上記「キャッセン大船渡」から進んだページにも、地元密着型の募金受付があるので、より細密な支援を望む人は御検討。
(25.03.05)昨年12月の東北〜北海道旅行は例によって車内での読書を楽しむ「読み鉄」旅行だったのですが、長万部で1時間半ほど列車待ちが生じたときに丁度
フーコー『監獄の誕生』が終盤の佳境で「これは」と忘れないようiPhoneのカメラに収めた箇所が
「監禁網は同化しがたいものを雑然たる地獄のような世界に投げ出しはしない。それは外部の世界を持たないのである。自らが一面では排除するかに見えるものをそれは一面では吸い上げる(中略)
この一望監視施設(パノプティコン)的な社会にあっては、非行〔=前科〕者は無法者(アウト・ロー)ではなく、法の中心そのものに、(支配という)
機構のまんなかに位置している」(第四章/強調は引用者)
権力は逸脱者を「追放」という形で自由にしてはくれない・むしろ逸脱者を罪人として監獄に閉じこめ監視することが(パノプティコン的な)処罰社会にあっては法の・社会機構の中心にあるのだ…という書きぶりは、
当時リアルタイムの日記でも書いたとおり「おお、ドゥルーズ=ガタリが書いたレイシズムの定義=
レイシズムは差別の対象を他者として追放するのではなく、自分たちの秩序の最底辺として逃がさず押しつぶす(『千のプラトー』)と呼応してる、さすが心友」という感動があった。
※これが最終的には「差別こそ資本主義のエンジンだ」というウォーラーステインの批判と符合する(
昨年4月の日記参照)
何度も何度も蒸し返した話だけど、差別は「差別じゃなくて区別だよ」などと言いながら
「外部を持たない」序列化だという気づきは自分にとっては社会の「解像度が上がった」記念すべき契機で、ちょうどその模範的(皮肉)な実例を示してくれた(皮肉)のが
「(介護職などに就かせるために)移民を受け入れ、人種別で居住区を分ける」ことを提案した曾野綾子だった。今ごろはクリスチャンに相応しく
「すべての希望を捨てよ」の扁額を見てる頃だろうけど、改めて追悼文とか書く気はない。当時の文章にリンクを張るに留める。
・
差別のメカニズム〜曽野綾子氏の発言をめぐって(2015.2.12)
擁護したい者は擁護すれば良かろう、少しは居ないと可哀想だ。「人を人と思わないことの何が悪いんだ・差別なんてたいした罪じゃないよ」と主張することになるけれど。
(25.03.15)フロイト最晩年の問題作『
モーセと一神教』
自分も昨年読んでるんですけど、
E.W.サイードの『
フロイトと非-ヨーロッパ人』』(原著2003年/長原豊訳・平凡社2003年)は
本当に同じ本を読んだの?ってほど解釈の支点も力点も作用点も違って、
もしかして自分、自分で思ってる以上に基礎的な読解力がないのではと結構真剣に途方に暮れる。

19世紀〜20世紀初頭「反ユダヤ主義」という意味で流通していたanti-semitismは直訳すると「反-セム主義」つまりユダヤ人もアラブ人も一緒くたに差別していたはずの言葉で、自身もユダヤ人として迫害されながら、(すでに勃興していた)シオニズムには批判的だったフロイトはモーセ=エジプト起源説に、アラブとユダヤが宥和し非ヨーロッパを共有する「セム人」像の確立を期していたのでは、という読解(
いいのかコレも誤読じゃないのか←疑心暗鬼)。無神論者でシオニズムにも批判的・そんなユダヤ人らしからぬ自分こそ(破門されたスピノザ同様)逆にユダヤ人らしさの粋(スイ)ではないかと自負するフロイトの姿には、時にパレスチナ人らしからぬパレスチナ人だった(らしい)サイード自身の姿も重なるようで…
…にしても、かつてセム人の名で迫害された民が、今やヨーロッパ人よりヨーロッパ人のように「セム人」への迫害を誇っている悲劇…『モーセ』が実質遺作だったフロイトも、実は本書が生前最後の著作となったサイードも、今のパレスチナ問題をどう捌(さば)くのだろう…
(25.03.05)『
ノー・アザー・ランド』横浜では
kinoシネマみなとみらい(外部リンク)で…え?金曜まで?アカデミー効果で延びないかな…結果的に駆け込みで観てきました。

観ながらおそらく多くのひとが一度は憤怒を抑えきれず、そしてその何百倍・何千倍もの憤怒とやるせなさを耐える主人公≒当事者たちの姿に打ちのめされ、また少なくない人が沖縄・辺野古のことや、ついこないだ=3/1のことなどを思わずにはいられないだろう95分。主人公たちの片方=同胞からは裏切り者のように揶揄され、パレスチナ人からは時に厳しい言葉を投げかけられながらも、後者に寄り添いつづけるイスラエル人ジャーナリストの郷里はベェルシバ。旧約聖書ではユダヤの民とアラブの民の和解の地だったはずの町。つらい。
(同日追記)や、旧約はキチンと読んだことないんだけど、母校だったM学院大学(プロテスタント)の歓談用酒場「ベルシバ」の由来だったので憶えてるのよ…※下戸&非社交民だったので利用したことはない。
(25.03.12)
カトリーヌ・マラブーの『
泥棒! アナキズムと哲学』本論と直接は関係しないんだけど脚註の挿話に「!」となる。いわく、19世紀半ばパリの周囲には城壁で囲まれた幅250mの建築禁止「ゾーン」が設置されたという。ところが目論見とは逆に「ゾーン」は無許可のバラックや大型馬車、小さな耕作地に占拠され「
これはひどい(c'est la
zone)」という慣用表現まで生まれたと。
…英仏海峡を隔ててはいるけれど、これと『
ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』に登場する、破滅を意味するウサギ語「ゾーン」は関係したりは、しないのだろうか。
「ゾーン!ゾーン!」絶望的な奸計にはまり、信望厚い闘士ビグウィグ(別名スライリ)に救援を求めるモブウサギたちの悲しい叫びがこだまする。
「スライリ、ああ、スライリ!」

もちろんタルコフスキーの映画『ストーカー』の「ゾーン」の水音も反響して、アレもつながる・コレもつながる…オタク人生の後半生は怒濤の伏線回収(
別に伏線じゃなかったんだけど)で楽しいぞというお話。
(24.03.13)王様を殺せ、王様を倒せと連呼する「王様」、お元気そうで何より。
・
Kill The King(王様を殺せ)Rainbow 直訳ロッカー王様 CDデビュー29周年ライブ・イン・ロック食堂(YouTube外部リンクが開きます)
レインボーの原曲、自分の中ではTHE ALFEE「ジェネレーション・ダイナマイト」の元ネタって認識だったんだけど久しぶりにアルフィーのほうを聴き直したら、言われなきゃ気づかない(?)くらい換骨奪胎しつつ、同じリッチー・ブラックモアの「BURN」もサビでチャッカリ取り入れてる(?)あたり、いかにも確信犯で好い
・
THE ALFEE- ジェネレーション・ダイナマイト「46th Birthday 夏の夢-2020.8.25-」(外部リンクが開きます)
先行シングル「メリーアン」でブレイク、ロック路線を打ち出したアルバムのオープニングナンバーだったのじゃよ(古老の語り)
(25.03.14)困憊(コンパイ)ワンツースリー,フォー,ファーイブ 出勤だー♪…太古の昔から同じ替え歌が何度となく歌われてきた気はする。
(25.03.16)JAIHOで配信中・韓国発のホラーコメディ映画
『オー!マイゴースト』(外部リンクが開きます/開いただけでは料金は発生しません)、
チョン・セランの小説『
保健室のアン・ウニョン先生』(
23年5月の日記参照)みたいな人情モノだとイイなという期待はドンピシャ。成績不振のTV局が「ショッピング番組に幽霊が映りこむと売り上げが伸びる」という謎迷信のため霊媒をやとって厭がる幽霊を無理やり召喚・お札で操りタレントとして酷使―という展開に、そういえばゾンビも元々は奴隷として使役するため呪術で甦らされた哀れな死者だったような…と思い出すなど。

アジア映画多いめのJAIHO、今なら『ドラゴン・マッハ!』『おじいちゃんはデブゴン』『暗戦』など活きのいい香港映画も配信中。『姿三四郎』にオマージュを捧げた『
柔道龍虎房』ラストというかエンドロールの伏線回収(?「
妙に不自然なシーンだと思ったらコレのためか!」)がスゴいので観れるひとは観てアゼンとしてほしい。
(25.03.18)「来るぞ来るぞ衝撃受けなきゃ打ちのめされなきゃ」と身構えず読めるティプトリー、
というと語弊がありますが『
すべてのまぼろしはキンタナ・ローの海に消えた』(原著1986年/浅倉久志訳・ハヤカワ文庫FT)はSFでなくファンタジー。いや、破壊されたマヤ民族と汚される自然を老グリンゴ(合衆国の白人)視点で描く三つの短篇は彼女のSFにも通底する「植民地主義の加害者側」という苦い自覚を基調低音としているのだけれど―何の気なしに手にした同書の舞台=ユカタン半島は、ちょうど(グダグダだった)(すまん)(
今週のメイン日記(週記)で名前だけ触れたサパティスタ勃興の地・チアパスの近隣で「持ってるな自分」とゆうか、(ティプトリーが哀惜したマヤ族の夢が蜂起となって回帰したような)(とは言いすぎかも知れないけど)あの地域の近現代史、もう少し突っ込んで勉強したくなった。

と言いつつ次に読む本は、また台北に逆戻りなのですが…
(25.03.19)翌日、もう流石に別モードに切り替えたつもりで読みだした台北が舞台の小説で終盤いきなり主人公が香港まで足を延ばし、出向いた先が
チョンキンマンション(
メイン日記末尾参照)でギャッとなる。「持ってる」とか超えて、怪しい追っ手に待伏せされたか、同じパーツを使い回す夢の中に閉じ込められたようで怖い。

まあマラブーの『泥棒!』最後の最後に台湾のオードリー・タンを「閣僚になったアナキスト」として取り上げていたので、どのみち逃げられない掌の上ではあったのですが?
(25.03.22)読書の話ばかりしてるのは往復2時間くらい電車に乗ってる―冷静に考えたらまともじゃない近況のせいなのですが(なんで「通勤可能です」って言っちゃったんだろう…)
だいぶ前に反町の月例古本市で買った
ティム・スペクター『
双子の遺伝子 「エピジェネティクス」が2人の運命を分ける』(原著2012年/野中香方子訳・ダイヤモンド社2014年)は、同一のDNA配列をもちながら人生を違えた双子たちの事例(反例)を導きに「(かかる病気や寿命・性的指向や犯罪傾向まで)遺伝子が全てを決定する」という20世紀の行きすぎたドグマを覆す。鍵は副題にもあるエピジェネティクス、すなわち遺伝子があってもソレが発現するかは別の要素で決まるという21世紀の理論。
驚くべきは祖母の妊娠中のたとえば栄養状態が、子宮の中の胎児(娘)だけでなく胎児(娘)の中でもう分化している卵母細胞(孫)にまで影響を及ぼし、孫の代になって影響が顕在化する例もあるという→かつてラマルキズムとして葬られた「獲得形質の遺伝」の予想外の形での再評価。
そして各人の将来かかる病気やら何やらを知るには人体だけでは話半分で、人体の中でヒトの遺伝子の4倍も「情報」量がある腸内細菌群のゲノム解析も必要という気づき。
遺伝子の命令は重要かも知れないけれど、それ単独で生涯が決まるわけではない・生命現象は多様な要素が絡みあうオーケストラなのだと説く一冊でした。
(25.03.23)元々ゲストユーザーというかビジターというかアウェイというか、現世のあらゆる局面で「ホームじゃない」感が強い自分だけど、ついに「お前は世界の敵」認定された気分に陥ってしまった、長らく通っていた地元カレー屋のスタミナカレー950円。昨年900円に値上げしてはいたのだけれど「苦渋の決断で720円→750円」なんて頃も記憶してるので、しみじみ崖っぷち(えらい処まで来てしまった)気持ち。

もう少しマイルドに言い替えると、もはや毎日が「こんなになってしまった世界を訪ねる観光旅行」で外食も観光地価格といった按配か。このスタミナカレーと東京に二ヶ所残ってる冷やし排骨担々麺、それに「なぜ蕎麦にラー油を入れるのか」だけは値上げしても(年に数回は)つきあっていきたいと思っているのですが。
そろそろ人生からコーヒーが消える覚悟もしなきゃいけない(かもだ)し、今年は正念場な気がする。
(25.03.27)今日は支出ゼロデーだったので街頭で案内板を掲げた宣伝のひとを見かけても「ふーん(また機会があれば…)」と通り過ぎた「
たぬきは飲み物。」、名前で察せたとおり「カレーは飲み物」「なぜ蕎麦にラー油を入れるのか」の系列店みたい。
・
【飲み物。新業態】池袋東口に「たぬきは飲み物。」がオープンへ(池袋タイムズ/25.3.17/外部リンクが開きます)
ラー油蕎麦も太麺に揚げ玉かけ放題だから、あまり変わらないのでは…と思ったけれど、あ!もしかして温そば?(冷たいかも知れません。機会があれば確かめます)
(25.03.24)大阪万博に比べると1/5くらいの規模らしい?のだけど?なんだろう、わが横浜市には伊勢神宮の式年遷宮みたく20年周期で、胡乱なイベントに予算を焼尽する儀礼でもあるのかしら(それは式年遷宮じゃなくてポトラッチ)いや、あきれてるんです。
国際園芸博の建設費、97億増 横浜市が警戒する「万博から飛び火」(朝日新聞/25.03.11/外部リンクが開きます)
※あまり知られてないかも知れないけれど2009年にもY150開港博という大惨事がありましたのさ…
※かく言う自分もGREEN EXPO27については倍々に増える水草が池の半分を覆うまで(地味すぎて)目を背けてた反省はあるます
(25.03.30)今さらなんだけど大阪万博のポスター、ビジュアルの中心になる真ん真ん中の女性がタコ焼きを食べてて、本当に何がしたいんだ?万博じゃないの?…と悲惨な気持ちになってしまった。350万人は来ると見込まれている国外からの来訪客が「このポスターにある食べ物は何処で食べられるんだ」とパビリオンそっちのけで右往左往したらどうするのか、それとも用意してるのか、目玉なのかタコ焼きパビリオン←でも
タコ焼きパビリオン、本当にあったらどうしよう(知りたくない気持ちで一杯)

比べると横浜のグリーンエキスポ2027、よくもあしくも如才ないというか
言質を取らせない・綺麗な印象だけで何をするのかサッパリ分からないデザインで(実は公式ホームページを見ても具体的に何があるのかよく分からない)大阪とは真逆なんだけど真逆すぎて、これはこれで上手くいく気がしない。肝心のイベント(博覧会)自体に訴求力がないのだけは共通してる気がします。
(25.03.28)ある小説書きさんが小説書きのお師匠さんに「小説書きのいいところは、いつ辞めてもいいし、いつまた始めてもいいところだ」と教わった、という話が(うろ覚えなんだけど)好きで、もしかしたら小説書きじゃなかったかも知れない、創作や表現活動すべてに言えることだと思う。
七詩ムメイさんがHOLOLIVE卒業ということで「I Miss You」のカヴァーは好きなんだけど
前にも貼ってるし中のひとがいつでも望むままに飛べるよう、今日はこちらを。
・
Mumei Sings "Defying Gravity" from Wicked | Karaoke(YouTube/外部リンクが開きます)
電車の中でムーミンを見たら思い出してほしいこと〜ジョルジョ・アガンベン『目的のない手段』(25.03.29)
イギリス発祥の
Refugee Weekは6/20の世界難民デーに前後する一週間(6/16〜22)、世界中で自発的にアート・イベントやお祝いを開催しましょう、というものらしい。包括する(支配はしない)公式ホームページによれば、昨年は15,000以上の催しが行なわれた由。
・
About;Refugee Weekって何?(Refugee Week公式/英文/外部リンクが開きます)
今年は絵本デビュー80周年になるムーミンが催しに協力し、作者トーベ・ヤンソンのオリジナル・イラスト(たぶん児童書の挿し絵)を使用したアートワークが公開されている。
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Simple Acts(同上/外部リンク)
と題されたページで
「Simple Acts(簡単な行動)は、難民を支持し、私たちのコミュニティに新しい絆を作るためにできる日々のアクションです」というヘッドラインとともに、ムーミン一家のイラストをあしらい提示された「アクション」は:
・
MEET YOUR NEIGHBOURS (隣人に会おう)
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SHARE A FILM (一緒に映画を観よう)
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EXPLORE OUTDOORS (アウトドアを探索しよう)
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READ AND LISTEN (読み聞かせ・朗読会をしよう)
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SHARE A MEAL (食べ物を分けあおう)
・
LEARN SOMETHING NEW (新しいことを学ぼう)
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GET CREATIVE (クリエイティブになろう)
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GET ACTIVE (アクティブになろう)
・
JOIN THE MOVEMENT (ムーブメントに加わろう)
それぞれのイラストはリンクボタンになっていて、クリックすると詳細な説明(英文)を読むことができる。こちらのページ:
Moomin 80 x Refugee Week 2025 (同上)では各々のメッセージつきイラストをXやFacebookで―たとえば
#RefugeeWeek #SimpleActs といったハッシュタグとともに―シェアできるようだ。
XやFacebookが差別や排斥をもシェアする(側面もある)ツールなのは一旦措く。Refugee Weekを主導するイギリスや、英語圏の国々が、国というか社会の単位では、同様に差別や排斥を唱え実行している(側面もある)ことも。評価の天秤に載せられるべきは個々の行動(Act)であってプラットフォームや国籍といった属性まるごとを「これだから○○は」と非難するのは「雑」というものだろう。
と、断ったうえで。
そうかそうか、ムーミンかと少し暖かい気持ちで電車に乗ると(車両によっては)目に入るのは、同じムーミンのキャラクタが使われたスマートフォンの広告だ。あくまで個人的な趣味の問題だけれど、一気に体温が下がる思いがした。
・
Google Pixel 9 Pro ムーミンコラボ特設ページ(外部リンクが開きます)
上記ウェブサイトによれば
「あなたはどの民(ミン)?こんなあなたに」(弊社のスマートフォン)という触れ込みで、車両の半分くらいを埋め尽くした広告の宣伝文句は
・
充電忘れたまま寝落ち民(ミン)なら…(弊社製品は急速充電)
・
撮ってばかりで写れない民(ミン)なら…(弊社製品は集合写真アシスト)
・
今日の献立どうしよう…民(ミン)なら…(弊社AIがレシピ提案)
・
大事な日ほど天気悪い民(ミン)なら…(弊社AIが写真補正)
・
写真への(他人の)
写り込みが気になる民(ミン)なら…(弊社AIが同)
上に予防線を張ったとおり「これだから日本は」とくさすのは
「雑」なのでしない。あくまで焦点は個々のアクター、この場合は広告主(スマートフォンの販売者)に絞られるべきだろう。
絞ったうえで、同じキャラクターと、それが背負ってる物語の、使い方の落差よ。
もちろん誰もが幸せになりたいのだ。スマートフォンが手早く充電されてほしい、せっかく撮った写真の写りが悪いとガッカリする、極端な話、それは「難民」と呼ばれる当事者だって変わりはない。
そう理解したうえで、AI搭載スマートフォンの広告が(ムーミンを起用した今回より以前から)拡散する幸福のかたちには、どうにも薄っぺらい、人間のクリエイティビティを舐めてかかってる、そして誰かの排除や搾取を少なくとも問題にはしていない・むしろ積極的に特権として売り込む冷淡さがある気がしてならない。
ムーミンとかけて語呂がよかったから以上の意図が積極的にあったとまでは思わないが「○○民(ミン)」「○○民(ミン)」の連打は「帰宅難民」「ランチ難民」「カフェ難民」「スマホ難民」…世間一般での「○○難民(ナンミン)」の乱発と韻を踏んでいるようで心が沈む。
一方で、同じムーミン一家が難民と共存するための行動を促していると思えば、なおさら皮肉だ。
以上、ひとことで言えば「
あなたがたが気が利いてるつもりで出してる広告、僕にはぜんぜん愉快でないし、あなたがたが提示する幸せもぜんぜん幸せに見えないんだけどなあ」で済む話かも知れないけれど(ひとことと言いながら「ふたこと」になってることは措く)
「○○民(ミン)」ならぬ「○○難民」について多少くどく説明すると、人には(スマホで撮った写真をAI加工で「盛る」ように)「キャベツが無限に食べれるレシピ」とか「300円の洋菓子が270円、神!」とか形容を盛りたがる傾向がある。半世紀くらい前の英語圏では「すごーい」の最上級を「それって
ダイナマイトだな!」と表現したらしいから、ことは時代や地域を問わないのだろう。
そして「盛る」ための誇張は、しばしば社会的にきわどい・当事者にとっては笑い事でない事象を取り上げがちだ。障害(とくに精神的あるいは知的な障害)や性的指向・犯罪や人権侵害にかかわる用語や概念が、ちょっと気の利いた誇張表現をするために借用される。自分だって「という妄想」「という幻覚」等ついカジュアルに使ってしまいがちなので、他人事ではない。自分はオタクなので、オタクの人たちがBLだの百合だの性的マイノリティを扱ったコンテンツを好んで取り上げながら、LGBT差別にあたるような語彙やネタを無神経に使いつづける様子をうんざりするほど見てきた。体育会系には体育会系の、パーリーピーポーにはパーリーピーポーの、同様な「ノリ」があるのかも知れないけど。
使用する・選択するくらいの意味で使った「取り上げる」という表現は、わりかし事実でもある。「唖然とする」「ゲリラ豪雨」「原作(以下略)」といった表現は、それぞれの語や当事者がもつ深刻かも知れない状況を、たかが「やー困った困った」と言いたいがために当事者から「取り上げる」。そうした借用は、本来の語や事態がもっていた深刻さを「そんな深刻なもんでもねーじゃん」とカジュアル化する・中和する「効能」もあるかも知れない。驟雨(にわか雨)を「ゲリラ豪雨」と呼ぶことで、実在のゲリラが有してる当人たちの情や理は切り捨てられ「突発的で迷惑」という意味だけが増幅される。「スマホ難民」「ランチ難民」といった亜種の濫造・濫用は、本来の難民が有する個別の状況を削り取り、軽んじさせる「効果」を発揮してはいないか。そうしたカジュアル化は実在の難民への軽侮を助長し…最終的には「偽装難民」のような差別ワードを社会に響かせはしないか。
「幸福というのは、精神の高いエネルギーが低いエネルギーによって煩されることのない境地、気楽というのは、低いエネルギーが高いエネルギーによって煩わされることのない境地」これは百年以上前の社会学者・哲学者ジンメルの言葉(ゲオルク・ジンメル『愛の断想・日々の断想』岩波文庫)。
いちいち目くじら立てるなよ、お前だって気を抜きたい・気楽に行きたい時はあるだろう―それはそうだ。けれどその「気楽」が差別や排除・搾取や簒奪への積極的な加担や、消極的な容認(問題にしない態度)と表裏一体ならば、話は別だ。
そんなわけで電車に乗って、急速充電を謳うスマートフォンの広告に「○○民(ミン)」として動員されているムーミン一家を見て「なんか感覚的にヤだな」と思ったら、Simple Actsを推奨するムーミン一家のもうひとつの顔を思い出してほしい。
Yes, there are two MOOMIN FAMILIES
you can go with
. But in the long run, there's still a time to change the road yout're on.
*** *** ***
以下は完全な余談。
そんなこんなでモヤモヤしていたら、また丁度あらたに読みはじめた本に「難民」をめぐる考察があったので(
だからさ「持ってる」んだよ自分(笑))簡単に自メモです。
ジョルジョ・アガンベンの初期の時評集で昨年改訳が出たばかりの
・
『目的のない手段』(原著1996年/高桑和巳訳・以文社2024年/外部リンクが開きます)
に収録された「人民とは何か?」「収容所とは何か?」は「人民」と「国民」を分けて考えることで、1798年のフランス人権宣言に始まる
「権利の諸宣言」は国家権力を制限し、すべての人民に基本的人権を保障するスーパーパワーだ・と・いう建前・が・欺瞞だと告発する。現実には近代の人権とは「すべての人民」ではなく「国民」に与えられるもので(フランス革命は植民地の奴隷たちには「自由・平等・博愛」を適用しなかったという
23年10月の日記など参照)
「難民が大衆現象として最初に出現したのは第一次世界大戦の終わりのことである。ロシア、オーストリア-ハンガリー、オスマン各帝国の失墜と、平和条約によって作られた新秩序によって(中略)
わずかのうちに、一五〇万の白系ロシア人、七〇万のアルメニア人、五〇万のブルガリア人、一〇〇万のギリシア人、数十万のドイツ人、ハンガリー人、ルーマニア人が自国から移動している」
彼ら彼女らが再編された諸国家に自身を再統合させることを拒否し
「祖国に戻るよりもむしろ無国籍者になるほうをはじめから望んだ」一方で、国家も20年代に
「自国民の国籍剥奪および帰化国籍剥奪を可能にする法」を次々に導入しはじめる。
自らも亡命ユダヤ人だった
ハンナ・アーレントを引用し、難民を(国家に帰属しない)
「人民の前衛」と捉える一方で、アガンベンは
「出生を書き込むという原則(略)
に基礎づけられている」国民国家が市民(人民)を完全な市民権を持つ者と持たない者に二分し(ドイツ・ニュルンベルク法・1935年)前者の純粋化のために後者の絶滅をめざすのは必然であった、近代国家は(国民のみに人権を保障すると決めた時点で)終着点としての絶滅収容所を避けがたく内包していたと厳しく断罪する。アウシュヴィッツに至るドイツの絶滅政策はユダヤ人だけでなくロマや性的マイノリティ・障害者まで排除の対象にしていたのだ。
絶滅収容所は最初から近代国家の基礎に埋め込まれているという、アガンベンのラディカルな論旨に賛同するかは兎も角。
「国民」国家が多数併存し、いくども「組替え」が行なわれてきたヨーロッパや他の地域では、不安定さゆえに明らかにもなりやすい「国民」国家のかりそめさ・虚構性が―地理的・歴史的な条件から日本では疑われにくいこと、の、デメリットについて考えてしまう。もちろん西欧諸国にも差別や迫害・排除はあるだろう。けれどこの列島で「国家は自明なものだ」と信じることのハードルの低さは、「フルスペックの人権」を有さない人たちへの「差別じゃないよ区別だよ」と言わんばかりの区別(差別)も、また容易にしてはいないだろうか。いや、「これだから日本は」と言うのは「雑」な把握になりかねないと、繰り返し自省は必要なのだけれど、
明治維新から80年弱の帰結が(未遂に終わったとはいえ)「一億総玉砕」だったこの国は、近代国家はシステム上「致死機械」に行き着かざるを得ないというアガンベンの仮説の最も雄弁な実例候補かも知れないことを、少しは考えてみても好いのかも知れない。
* * *
自ら賞を与えた『ノー・アザー・ランド』のパレスチナ人監督がイスラエルの軍隊に拉致され拷問された事件に抗議を表明しなかった米アカデミー協会には「これだからアメリカは・西欧は」と言いたくなるけれど、
ユーリズミックス時代の代表曲「スウィート・ドリームズ」の歌詞を最初に手書きしたノートをオークションに出品し、落札価格の10万ドルをガザに寄付した
アニー・レノックス(スコットランド人)のような人もいる。ちなみにこのニュースは差別やフェイクニュースの温床でもあるX経由で知った。
ミャンマーの軍部独裁に対しては容認できない思いが強い(
23年8月の日記参照)一方、地震のニュースには落ち着いていられず、
まあ自分は馳浩が知事をしている石川県にだって動ければボランティアに行ってしまうタイプなんだけどね、(自国を離れた人こそ「人民の前衛」だというアガンベン≒アーレント説の影響もあって)さしあたり日本でミャンマーの人がやってるミャンマー・レストランの売り上げに貢献という迂回路を試してみた。

韓国料理でチゲや純豆腐が盛りつけられるような黒い厚手の小鍋で供された魚介だし(具体的にはナマズだそうな)のスープを、おそうめんみたいな細麺にたっぷりかけていただく
モンヒンガー(モヒンガー)、初めて食べました。
んまい。別料金(100円)でトッピングした冬瓜の揚げ物も。ミルクとバターで甘く濃厚なミャンマー式紅茶も。
しかし今日になって地震の死者は報じられただけでも昨日のニュースの十倍になっており(いや、そっちのほうは「親日」ミャンマーが大好きな人たちや政府がジャラジャラ宝石を鳴らしてくれるだろう、
鳴らすよね?)と思っていた気持ちは、改めて乱れるのだった。
そのありかたを容認できないプラットフォーム(あるいは国家・社会)への反感と、そこに定義上は分類されながら属性でなく生きている人たちへの連帯感を、どうしたら上手く両立させられるのだろう。
たったひとつの〜レッド・ツェッペリン「天国への階段」(25.03.23)
「天国への階段」は名曲、「天国への階段」は名曲と皆が言うのに、うんうん名曲だよねと頷きながら
フォーク・クルセイダーズの「帰ってきたヨッパライ」を思い浮かべてたという話が大好き。
いやたしかに登るけどさ階段!長い階段をさ!
*** *** ***
たぶん昔は、原盤となる海向こうのレコード自体、歌詞に重きを置いてなかったのだろう。(特に非英語圏の顧客あたりを想定して)英語の歌詞を印刷してつけておこう、なんて慣習自体なかった・少なくとも無くても非難はされなかった・のかも知れない。
昔の日本版LPに(あの大きなジャケットと同じサイズの紙で)ついてきた歌詞カードには、今では信じられないだろうけど
「……の部分は聴き取り不可能」と匙を投げたモノや、特に聴き取りが難しい特定の一曲あるいは全曲まるまる歌詞が抜け、日本人のロック評論家による解説だけになったモノなどあった。
その一方、輸入して売る側もテキトウで?ミュージシャンやレコード会社が出した正式なアルバムでなく、勝手に編集された「ベスト版」と称するカセットが
「本人の歌声で収録」なる謳い文句つきで(たぶん勝手に)廉価で販売されたりしていた。ひょっとしたら今も高速のサービスエリアなんかで売られてるのかも知れない。ちなみに「本人の歌声で収録」は洒落じゃなくて、かつて(洋楽ではない日本の歌手の)勝手編集版カセットだかCDだかで「本人の歌唱じゃない」物件をつかまされた知人がいる。私たちはすでにアナキズムを生きているのだ(笑)
…
レッド・ツェッペリンの「
移民の歌」は、最初そういう勝手編集(
つまりは海賊盤か)のカセットで聴いた。でんでけでけっ・でんでけでけっ・あああーあっ!というイントロで有名なアレだ。いちおう丁寧に全曲の歌詞(邦訳はなし・英文のみ)が小さく折りたたまれた紙に印刷されていて、北大西洋の厳しい氷雪をわたるヴァイキングはサビのキメ台詞をこう叫ぶのだった:
I wanna go (俺は行きたい)
where there are rest and show (休息とショーがある場所へ)

なんだか伊東か熱海の温泉ホテルみたいだが、ショーを見ながらゆったり休息、まあ気持ちは分かる…と思ったら数年後、こちらはレコード会社から公式に発売されたベスト版・知ってるひとは知ってると思うけど一時期UFOの仕業かと騒がれた麦畑のクロップマークをあしらった二枚組・四枚組CDについてきた歌詞は、まったく別の代物だった:
I only go (俺が行った場所といえば)
where there are less than shown (外見に劣る場所ばかり)
まあ「ショーと休暇」もまだ「行きたいよぉ(泣)」なので現状「行く先々で失望ばかり」と大して違いはないとも言える(?)
さらに後年、この二番目の英詞すら間違っている・本当の歌詞はこうだという風聞を目にしたけれど、さすがにもうどうでもよくなってしまい(
もういいじゃんless than shownで)この件は放置している。
・
Led Zeppelin - Immigrant Song (Live 1972)(YouTube/外部リンクが開きます)
後述するように、ツェッペリン三枚目のアルバムの開幕を告げる同曲には、そこそこ強烈な矜持とメッセージが込められている(推測)のだけれど…
* * *
しかし1972年に発表された四枚目のアルバム・A面ラストの収録曲「
天国への階段(Stairway to Heaven)」は意気込みが違った。例の大きなLPジャケットの内側に入った、レコードを納める内袋が紙製で、そこに擬古調のフォントで同曲の歌詞だけが直々に印刷されていたのだ。これだけは過たず伝わってほしい…と思ったかどうかは知らないが、少なくとも並々ならぬ自信と自負が感じられた。
それでいて、何を言ってるのかサッパリ分からない歌詞だった。分からないなりに家にあったタイプライターで歌詞を筆耕して、壁かなんかに磁石で貼って眺めたりして、数日後
ふいに意味が分かった(気がした)。あーコレは確かにすごいねと感心させられた。なので、その話をする。

もちろん今ではネットの何処かで「この歌詞の意味はこう」と、自分が書くより余程ちゃんとしたレビューがあるのかも知れない。でもまあ、同じ観光地やラーメン屋に行った人たちだって「ここについては他のひとが書いてるから自分はいいや」とは思わずに、独自のレビューを書くじゃないですか。逆に今どき「天国への階段」でもないだろうという気もする。正直、フォーク調で始まり終盤ハードロックをぶちかましつつ最後また抒情的に終わる曲調は、僕が初めて聴いた80年代なかばでも既に古めかしかった。いや、リリース当時だって「名曲っぽいのは分かるけど、ちょっと古くさくね?」と思われていたかも知れない。けどまあ昔はロック史上に残る名曲みたいに言われていた。そして、そう言われるだけの、ふてぶてしいまでの歌詞ではあった。
・
Led Zeppelin - Stairway To Heaven (Official Audio)(同/外部リンク)
メランコリックなフォークギターのイントロに続いて、歌が始まる。
There's a lady (一人の貴婦人がいて)
who's sure (彼女は確信している)
all that glitter is gold (輝くものはすべて黄金だと)
And she's buying a stairway to heaven (そして彼女は天国への階段を買おうとしている)
この歌詞が自分に(数日後ふいに)「分かった」気がしたのは「輝くものはすべて黄金だ」というフレーズに憶えがあったからだ。ただし否定形で「輝くものすべて黄金
ならず」(All that glitter is
not gold)という。
シェイクスピア『ヴェニスの商人』に登場する台詞だ。
第二幕第七場、美しい貴婦人ポーシャは求婚者たちに金・銀・銅いずれかの箱を選ばせる。結婚の証となる指輪が入っているのは銅の箱で、金の箱を選んだ者には上記「輝くものすべてが黄金とは限らない(見た目に惑わされた求婚者さん残念でした)」というメッセージが入っている。元々この「箱選び」はラテン語の元ネタがある話で、それをまた別にあった「血1ポンド」の話とマッシュアップして沙翁は戯曲化したらしいけれど(Wikipedia調べ)その話は措く。輝くものが黄金とは限らないという格言は逆に、沙翁の時代のヨーロッパが急速に「金で買えないものはない」的な貨幣経済のエートスに侵略されつつあった反動かも知れないけれど、その話も措く。
要は「輝くものが黄金とは限らない」という慎み・抑制に対し「いいや、私は輝くものは全て黄金だと信じる」=金で・力で・あるいは意志によって獲得できないものはないと信じる貴婦人がいて、その信念のもと彼女はまさに天国に至る階段まで「買おう」としているわけだ。
When she gets threre (そこに辿り着いた時)
she knows (彼女は知っている)
if the all stores are closed (すべての店が閉まっていも)
with a word (言葉ひとつで)
she can get what she came for (彼女が来た目的のものは手に入ると)
…And she's buying a stairway to heaven (そして彼女は天国への階段を買おうとしている)
怖いものなしだった彼女の旅路に、けれど疑念が挿しはじめる。
There's a sign on the wall (壁には印がある)
But she wants to be sure (でも彼女は確信がほしい)
'cause you know (なぜなら君も知るとおり)
sometimes words have two meanings (時に言葉には二つの意味があるから)
In the tree by the brook (小川の傍らの樹に)
there's a songbird who sings (鳥がいて歌っている)
sometimes all of our thoughts are misgiven (時には私たちの考え全てが誤って与えられたもの=誤解なのだと)
最初は「彼女は」天国への階段を買おうとしている、と歌っていたコーラスの主語が
…It makes me wonder (それは私を彷徨わせる)
…(It)makes me wonder (私は彷徨う)
と一人称に替わると「彼女」はかき消え、歌はスルッと「私」の物語を歌いはじめる。
There's a feeling I get (ひとつの感覚が私を捉える―)
when I look to the west (―西のほうを見た時に)
And my sprit is crying for leaving (そして私の魂は出立を求めて泣いている)
この「西のほうを見て何か感じた」というフレーズは(のちに有名な『アメリカン・サイコ』-未読だし映画も未見だけど-を書くことになる)
ブレット・イーストン・エリスの小説『
レス・ザン・ゼロ』のエピグラフに使われていて、僕には分からない特別な意味があるのかも知れないけれど分かりません。あと自分の解釈として「私」は「移民の歌」のヴァイキング同様に西に行きたくて魂が泣いていたので、一応それには深い意味があるのかも知れないという話は後でします。
In my thoughts I have seen (想像の中で私は見た)
rings of smoke through the trees (樹々の中にいくつもの煙の輪を)
And the voices of (そして声を聞いた)
those who stand lookin (そこに立って見下ろす者たち(の声を))
…It makes me wonder (それは私を迷わせる)
…really makes me wonder (本当に迷わされてしまう)
正直このへんはサッパリ分からない。繰り返されるwonderが「僕はあちこちを彷徨ってしまうのだった」の、ワンダーラストのワンダーなのか、「とっても不思議」ワンダフルのワンダーなのかすら、英語ネイティブでない自分には判別できない。両方の訳を混ぜてみました。まさに「時に言葉には二つの意味がある」のです。上手いこと言ったつもりか。
けれどこの『指輪物語』みたいな?謎描写も、そう長くは続かない。実は今回あらためて歌詞を見直すまで「私」はもうちょっと長くこの、煙の輪がプカプカ浮かぶ謎の森を彷徨うのかと思っていたのだけれど、
せっかちめに歌詞は核心に入る。「立って見下ろす者たちの声」の内容が詳らかにされるのだ。
And it's whispered that soon (その声は囁いた、すぐにでも)
if we all call the tune (私たちが皆でその音を鳴らせば)
Then the piper will lead us to reason (笛吹きが私たちを理性へと導き)
And a new day will dawn (新しい夜明けが訪れる―)
for those who stand long (―長く立っていた者たちに)
And the forests will echo in laughter (そして森に笑いがエコーする)
たったひとつの「その音」を鳴らすことが出来れば、笛吹き(
ちょっと待て笛吹きって誰だ)が私たちを理性(reason)へと導いてくれる。冒頭の貴婦人のくだりでも(彼女は)言葉ひとつで欲する何でも手に入れられるだろうと示唆されてはいた。しかし言葉には二重の意味があり、時に全ては誤解かも知れない―けれど「音」は言葉より疑う余地がない。ダブルミーニングの言葉がもたらしかねない迷妄は打ち払われ、誰もが待ち望んでいた夜明けが訪れる。
はっきり銘記されてはいないけれど、歌詞が表明しているメッセージはこうだろう:
その「音」を鳴らすのは吾々(レッド・ツェッペリン)
だ。あるいはもっとハッキリ、この曲(天国への階段)がそれだ、と言ってるのかも知れない。
ここで宿題にしていた「西」の話を回収する。まず「移民の歌」なのだけれど、あれはショーを見ながら休みたい・または行った先でも失望しかない「だけ」の歌ではない(だろう)。イギリスにおいてアルバム『レッド・ツェッペリン』でデビューし、全米ツアー中に大急ぎで制作された『レッド・ツェッペリンII』はアメリカのチャートでビートルズのラストアルバムだった『アビイ・ロード』を一位の座から蹴落としたという伝説がある。
We are your overload―吾々がお前たちのオーヴァーロード(支配者)だとうそぶく「移民の歌」は、彼らのアメリカ征服宣言だという解釈はそう間違ってないと思う。「天国への階段」の「西」もまた、改めての全米(ひいては世界)制覇を示唆しているのかも知れない。いや、どちらでもいい話だ。歌詞の企図はすでに小さなアメリカを超えている。
たったひとつの音さえ見つかれば世界の混迷は打ち払われる(その「音」を鳴らすのは俺たちだ)という結論は早々に出たのだけれど、怒濤の終盤を前にして足踏み・歌詞はしばらく彷徨を続ける。まあ、つきあってもらおう。
If there's a bustle in your headgerow (君の生け垣に騒がしい音がしても)
don't be alarmed now (警戒することはない)
It's just a spiring clean for the May Queen (それは五月の女王に捧げられたただの春雨だ)
という一節は「そうですか、たいへん結構ですね」と雰囲気でパスするとして
Yes, there are two path (そう、道は二つある)
you can go by (君の進める道は)
But in the long run, (だけど長い目で見れば)
there's still a time (時間はまだある)
to chang the road yout're on (君が進む道を変えるための)
は、
国政選挙や知事選挙の前なんかに思い出してほしみが強い(本サイトでも前に引用してるかも知れない)。
(既に結論は出てるのだけど)歌詞は一気に核心に入る。
Your head is humming, (君の頭がブンブンとうなって)
and it won't go, (それが消え去らない時)
in case you don't know (君は知らないだろうけれど)
The piper's calling you (笛吹きが呼んでいるのだ)
to join him (彼に加わるようにと)
謎の笛吹きに続いて、ついに「彼女」が再登場する。
Dear Lady, (親愛なる貴婦人よ)
can you hear (聞こえますか)
the wind brows? (風が鳴るのを)
And did you know (御存知だったのですか)
your stairway lies on the whispering wind (あなたの階段は囁く風のほうにあると)
でででーん。でででーん。でででーんでーんでーん。
ここまで続いたフォーク調から一転、ハードロックの間奏が始まる。激しくドラムが打ち鳴らされ、ギターソロを経て突入するクライマックスの主語は一人称複数の「吾々」だ。
And as we wind on (そして吾らはよろめき)
down the road (その道を進む)
Our shadows taller (吾らの影はなお高い)
than our soul (吾らの魂よりも)
このwindはウインド・囁く「風」ではなくビートルズの「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」=長く曲がりくねった道、と同じ動詞のワインド。正しいはずの「道」は曲がりくねって、「私たち」は自分の影に圧倒されそうになる。けれど、見よ:
There walks a lady (あの貴婦人が歩いている)
we all know (吾々みんなが知っている彼女が)
who shines white light (彼女は白い光を輝かせ)
and wants to show (示したがっている)
how everything (いかに全てのものが)
still turns to gold (それでも黄金に変じうるのかを)
さっきは仄めかしだった「あの貴婦人」が白のガンダルフのように輝く完全体で現れて、迷う「吾々」を先導する。それでも(still)あらゆるものは黄金に変わりうるのだ、不可能はない、手に入らないものはない―そう勝ち誇る彼女から、主語のバトンは「君」に渡される。
And if you listen very hard (そして君が懸命に耳をこらせば)
the tune will come to you at last (あの音はついに君に訪れるだろう)
When all are one, (全てのものが一つになり)
and one is all (一つが全てになる時)
分かった、分かった、すごいよ、エモいよと言わさんばかりに畳みかけたクライマックスの歌詞は、しかし最後の最後になって、
恐ろしいどんでん返しをする。
混迷は打ち払われる、圧倒する影は光に消し飛ばされる、すべてのものを黄金に変えることだってできる、不可能はない、君にも「あの音」が聞こえるはずだ、全ては1で、1は全てだと謳いあげた歌詞がなだれこむのは―以上の内容は初めて知ったよ・あまり深く考えてなかったよという人でも「あ、うん、そっちは知ってる」となるかも知れない有名な結語だ。
To be a rock, (一つの岩になる)
and not to roll (もう揺らぐことはない)
…もちろん歌は最後に再びフォーク調に戻って
「And she's buying a stairway to heaven…」と余韻を残して終わるのだけど、それにしたって
To be a rock, and not to rollだ。いや、ここまで積み上げられた歌詞からすれば間違ってはいない。揺るぎない一つの岩になる。けれど何でも手に入る・不可能はない・たった一つの音さえあればと謳い上げた歌詞の結語が
「ロックンロール(rock and roll)」という言葉の半分しか肯定できない・もう半分を容赦なく切り捨てるものだった皮肉はどうだろう。

* * *
この時「ロール」を切り捨てたことでハードロック・バンドの雄レッド・ツェッペリンは唯一無二の頂点をきわめながら固い岩のように硬直し、やがてロール=転がる初期衝動を体現したようなパンク・ロックの台頭に蹴落とされる…渋谷陽一氏などが唱えていたような気がする「史観」は、少し単純化が過ぎるだろうし話が無駄に広がるので省略する。ツェッペリンの全盛期は(ドラマーの急逝まで)以後も続くし、後半グダった前々回・終始グダグダだった前回の反省も踏まえて今週はロールしない・きっちりスジが通った話を書こうと思って、今となってはアンティーク感すらある「天国への階段」なぞ(失礼)を引っ張り出してきたのだ。
そのうえで。
「たったひとつの「音」なり言葉なり、概念なりが足りないがために吾々は混迷を強いられ、魂よりも大きな己の影に圧倒されているのかも知れない・たったひとつの「それ」さえあれば、森は笑いで包まれるのだ―という発想は、前回の日記でル=グウィンの言葉を引いたように、抽象的な思考・思索に慣れたひとは早晩どこかで巡りあうものだろう。もしかしたら自分の場合は、このツェッペリンの歌詞が最初の出会いだったかも知れない。
反面というか表裏一体というか「天国への階段」の歌詞は、そうして「たったひとつの」音なり言葉なりで混迷の世界をスパッと割り切れた…と思ったら、それはRock and RollのRollのように「スパッと割り切れない半分を切り捨ててしまう」限界まで(書いた当人の意図はともかく)示唆している点で、さらに含蓄が深い。
人は概ね言葉で思考する。えらく抽象的な「たったひとつの鍵さえあれば」とか「割り切ろうとすることの限界」みたいな概念を、最初はロックの歌詞を通して知るなんてことも、それが言葉である以上、あっておかしくはないのでした。
*** *** ***
(追記)その後も長く続いたツェッペリンの全盛期も、昔は「アルバムでいいのは8枚目まで・9枚目はちょっと…」みたいな意見が幅を利かせていて、鵜呑みにして聴くのが遅れてしまったのだけど9枚目のアルバム『
In Through the Out Door』も決して駄作ではない。
というか聴くのが遅れたせいで長らく知らなかったのだけど、同9枚目に収録された
・
Led Zeppelin - Carouselambra(Youtube/外部リンクが開きます)
の「ぱぱぱーぱぱぱーぱぱ」とパンチのあるブラスセクション(に模したキーボードだと思います)、80年代の日本の有名な有名なロック・バラードのイントロの元ネタ、これかー!と…いや、そっちは別に好きな曲でもないのだけど、逆に「よくココから拾ってきたなあ」と感心してしまった。JR仙台駅の発車メロディになってた気がします。
いつか目が鍛えられれば〜カトリーヌ・マラブー『泥棒!アナキズムと哲学』(25.03.16)
学生時代、あまり話した憶えのない先輩に突然
「舞村くん(仮名)ってアナーキストだったよね?」と問いかけられたことがある。
「
違いますっ」と即座に否定して数十余年。ようやく「自分はサヨクだけど、むしろアナキストかも知れない」と言える域に達しつつあるようだ(左翼の定義については
23年4月の日記参照)。少なくとも「いま自分が考えてることってアナキズムかも」と感じる割合は増えた気がする。
人が変わるには時間がかかる(こともある)。あるいは、時間がかかっても人は変わりうる。
* * *
カトリーヌ・マラブー『泥棒! -アナキズムと哲学-』(原著2022年/伊藤潤一郎、吉松覚、横田祐美子 訳・青土社2024年/外部リンクが開きます)について書く前に「そもそもアナキズムって何だ?」から始める必要があると気がついた。マラブー先生(
前々回の日記参照)はプロの哲学者なので1・2・3あたりはスッ飛ばして軽く10くらいから話を始めてしまうのだけど、今回は1から足場を固めてみたい。
まずもってアナキズムは「無政府主義」と訳される。ネット検索で「アナキズム」を引くと
「一切の権威,特に国家の権威を否定して,諸個人の自由を重視し,その自由な諸個人の合意のみを基礎にする社会を目指そうとする政治思想(中略)
管理社会化が進展する今日的状況において,支配なきユートピアへの願望の表現であるともいえるが,それを実現する現実的基盤を欠くことが多い」(コトバンク/ブリタニカ国際大百科事典)
これはこれで簡潔にまとまっている。けれど19世紀〜20世紀前半に盛り上がったアナキズム運動(今の制度をぶっ壊せ!後は何とかなる!)がボルシェビズム(共産主義。今の制度をぶっ壊せ!そしてすべての権力をソビエトに!)との角逐に敗れ、「今の制度」国家と資本主義の結託も覆せなかった時点で認識が停まっているのが難だ…と、マラブー先生ならダメ出しする知れない。
実際にはアナキズムは過去ではない。現実化もしてきた。メキシコのサパティスタ運動、アメリカのオキュパイ・ウォール・ストリート、フランスの黄色いベスト運動、イスラエルのAATW(アナキスト・アゲインスト・ザ・ウォール)他にもギリシャやスペインで色々あったはずだ、冷戦終結後の世界で実践として・思想としてのアナキズムは息を吹き返している。けれどそれらの運動は、経済の動向や国同士の争いが気がかりの中心になる「今の制度」上ではニュースサイトの前面にピン留めされず、すぐ色あせ忘れられてしまう。
アナキズムは過去でも夢想でもない、現役バリバリの実践的な思想だよ!と説く本に、たとえば主に人類学からアプローチした
・
松村圭一郎『くらしのアナキズム』(ミシマ社2021年/外部リンクが開きます)
がある。入門者向けの好著ですが

アナキズムの現在性を説くために
「いまは国家が公共領域から撤退しつつある。日本でも過去数十年にわたり、国鉄や郵政など国営事業の民営化が進んできた。最近は図書館や児童館ですら民間業者に委託(いたく)されはじめている。
(中略)
政府の転覆を謀(はか)る必要はない。自助をかかげ、自粛にたよる政府のもとで、僕らは現にアナキストとして生きている」
と書き起こす冒頭は、なるほど見事なツカミだけど
何かおかしい。
いや、たしかに今、少なくとも日本で起きていることの一部は、言うなら政府主導の無政府状態だ。新型コロナや高額医療費問題、とくに昨年の米価高騰で噴出した物価問題、そして度重なる災害での支援の遅れ・あるいは無策。
昨年はじめ、能登半島が震災に見舞われたとき政府与党の自民党が何をしたか憶えているだろうか。国内のボランティアを閉め出し、海外からの支援を拒絶し、国家としての役割をアナーキーに放棄した政府与党は、こともあろうに自党の議員が日本赤十字社の募金の窓口になることを「震災対策」としたのだ。
有権者が本気(ガチ)で目覚めないかぎり数年後〜十数年後には順当に総理大臣になる小泉進次郎が、募金箱を手に子どもの前に腰を下ろし笑顔で「目線を合わせ」た写真が目に焼きついている。
・参考:
「地元で街頭募金を実施した小泉進次郎議員【写真】」(中日スポーツ24.01.08/外部リンク)
政府が何もしないから仕方なく皆が自発的に(アナーキーに)始めた子ども食堂を簒奪し「子どもの皆さん。皆さんには子ども食堂があります。頑張ってください。内閣総理大臣・安倍晋三」と恥ずかしげもなく自分の手柄のように呼びかけた先任者の、さらに愚劣なパロディだ。
なので「今の日本こそ
アナーキー・イン・ザ・JPじゃん」と中指たてたくなる気持ちは分かる。けれど政府なんて要らねえ・国家を廃絶せよと叫ぶアナキズムと、政府・国家じたいが「お前らのために働くなんてヤンピ・自分たちで助け合ってね」と責務を放棄する官製アナキズム(?)を一緒くたにしていいのか?

いくない、とマラブーは言う。
要するに、状態としてのアナーキー(無政府状態)と、理念としてのアナキズム(無政府主義)を峻別し、後者を救い出す必要があるのだ…というのは自分の言葉で、マラブーはこれを「
事実としてのアナキズム」「
目覚めとしてのアナキズム」と呼ぶ。専門家に敬意を表して今後は彼女の語彙で話を進めます。
そもそも「目覚めとしてのアナキズム」自体、19世紀後半くらいからプルードン、バクーニン、クロポトキンなどによって整備された新しい概念だった。それ以前にも、それこそ古代ギリシャの昔からあった悪しき無政府状態・国家なり行政なりが機能を停止し、ヒャッハーとモヒカンの暴走族が略奪をほしいままにする(
いや古代ギリシャでヒャッハーはないと思うが)カオスな状態を指す言葉だった「アナーキー」を、いいやアナーキーでいいんだ、政府がなくても
人々は相互扶助でやっていける(ここ重要)、むしろ積極的にアナキストを名乗りたいねと言葉を奪った・意味を書き換えたのが「目覚めとしてのアナキズム」だと言える。
しかし、いま世界を席捲しているのは「事実としてのアナキズム」」―国家が曲がりなりに持っていた国民生活の保護や人権の確保といった機能を放棄する一方で、資本と結びついた国家権力の支配・統制は強まる
「ハイブリッドな組み合わせ」「アナルコ・キャピタリズム」(無政府資本主義)だ。
「政治ジャーナリストの一部が冗談抜きにドナルド・トランプはアナキストだと主張するとき、ジャーナリストたちは言葉遊びをしているのではなく、世界中が重大な危機と感じているものを明確にしようとしているのだ」
危機は分かるが、これでは真面目なアナキズムの立つ瀬がない。
* * *
国家の統制なんて邪魔だと主張する意味では、リバタリアンも新自由主義も、なんなら古典的なレッセ・フェール(自由放任主義)から「表現の自由」に差別の自由まで含めろと主張する者(イーロン・マスクとか)まで含まれてしまう。
上からの統治や支配=垂直性を温存したまま「上」に居る者が自由放任を求める「事実としてのアナキズム」から、水平であれ・上からの(垂直に下りてくる)統治や支配を廃絶せよと求める「目覚めとしてのアナキズム」を切り離すために―
―
ここからようやく本題に入る。本書でマラブーが「泥棒!」と糾弾するのはドナルド・トランプやマスクなど「事実上のアナキズム」の先導者(煽動者)たち、
ではない。自身の同業者である現代思想のエースたちが「目覚めとしてのアナキズム」の標的である上からの支配=統治や支配、権力に対する分析や批判を通して、実践としてのアナキズムを理論面から側面支援しつつ、敵(統治)の敵ではありながら味方ではなかった、自身がアナキストであるとは決して認めようとしなかった不徹底を「泥棒!」自分たちだってアナキズムから思想的な恩恵を受けながら借りパクかよ!と次々(またしても)血祭りに上げる内容なのだ。
その俎板に乗るのは(不勉強な僕が初めて名前を知る面々も含め)シュールマン、デリダ、レヴィナス、フーコー、アガンベン、ランシエール…本書の半分は「泥棒!」とは言いながら現代思想のエースである先達が敵の敵=統治や支配・権力に対峙し、分析し、解体に挑んだ半世紀の闘争史であり、と同時に彼らが各々の闘いを詰めきれなかった・あと一歩で「敵」をスルリと逃がしてしまった・そして自身をアナキストに変成しえなかった・後世に残してしまった「宿題」を手際よく(?)整理する。
たとえば原著を読むたび難解さ・晦渋さに頭をかかえたくなる(けれど何か重要なことを言ってるらしいので力不足でもつい手に取ってしまう)ジョルジョ・アガンベンの思想の力点を知るのに「アガンベン入門」みたいな総論でなく「マラブーの問題意識からだけ切り取った」本書の記述は恥ずかしながら役に立つ。また個人的には「代表制が民主制の人口増大への仕方ない対応というのは虚偽で、その本質は寡頭制に他ならない」と厳しく指摘する一方(←
先々週の日記に繋がる話ですにゃー)「奴隷であっても主人の命令を理解するという意味では知的に平等で、上下関係を最終的には破綻させうる」などと書いてるらしいジャック・ランシエール(1940〜)など気になりはじめている。それでもマラブーの手にかかると(それぞれの達成や美点は評価されつつ)全員「泥棒」の落第点をつけられてしまうのだが。
これは多分に私見が入るのだけれど―そして何度か本サイトで書いてるように、多くのばあい思想や思考は(話がアナキズムでなくても)突き詰めると「これ以上考えると破綻してしまう」限界があるもの・なのではないだろうか。目が見えないまま象に触るのと同じは言いすぎかも知れないが、同じ問題意識を共有し、それぞれの問題意識で肉薄しながら、誰もが合意できる完全解には誰ひとり到達できない、そういうものではないか。
かつてのアナキズムがテロリズムの同義語であり、公然とそれに与することに誰もが躊躇した点もあるのだろう。
既存の権力を破壊して打ち立てられた体制が同様以上の抑圧者に変じたボルシェビズムの轍は踏めない一方、多くの蜂起が踏み潰され終わったことを「それでも蜂起は美しい」と肯定するのは敗者のナルシシズムではないかと、両側から切り立った崖に迫られる困難もあるだろう。
現代思想の先達たちは統治を強く批判しながら、真のアナーキー=統治なき世界は可能だと信じる勇気がなかったとマラブーは強調する。カオスな野放図=事実としてのアナキズムと、統治なき相互扶助=目覚めとしてのアナキズムの峻別が(なんなら世界で一番アタマがいい人たちにあってさえ)不徹底だった・自覚されてなかったとも彼女は言う。
アナーキーという言葉の語源がアン(非)アルケー(始原)であるように、アナキストは「原初の世界では人々は(万人の万人に対する闘争ではなく)権力がなくても相互扶助で平和を保っていた」という考えすら、そうやって正しい「原初」を説く時点でアルケーの罠にはまっているとさえ考える。
だからアナキズムは原初を、過去への回帰を求めない、
「アナキズムの過去は未来にしか存在しない」「アナキズムとは、いかなるはじまりにも命令にも依拠しないがゆえに(中略)
つねにみずからを発明し、形成しなければならないような唯一の政治的形態である」と説くマラブーの結論は、力強い提言だろうか。「夢はきっとかなう」的な耳あたりのいいキャッチコピーに終わる懸念もありはしないか。他の誰も哲学者としてアナキズムを理論づけ得なかった・だから自分がそれをやるという決意は、同時に他の誰も詰めきれなかった敵(統治という難題)を自分こそが…と
無闇にハードルを上げることにはならないか、とも思うのだけれど…。
* * *
今週のまとめ。
1)支配構造を温存したまま支配者(国家や資本)が自助や共助を説く「事実としてのアナキズム」と、支配=統治そのものの廃絶を願う「目覚めとしてのアナキズム」を峻別しなければならない。
2)現代思想のエースたちは敵(統治)の解体という形で貢献しながら敵を詰め切れず、また「味方」となるべき「目覚めとしてのアナキズム」の実現可能性をついには信じ得なかった。
けれど子ども食堂のように一部は「事実としてのアナキズム」に強いられてとはいえ「目覚めとしてのアナキズム」は実践として世界に遍在しているし、思想としても断片的であれば至るところで表明されてきた。ナオミ・クラインの「災害ユートピア」、クラストルの「国家に抗する社会」や、スコットの「ゾミア」などは(僕じしん未読なものも含め)検討に値する。
『泥棒!』の終章でマラブーが挙げる、
ジョルジュ・スーラの
「グランド・ジャット島の日曜日の午後」(Wikipedia/外部リンクが開きます)が点描という技法的にも、公園で憩う群像という主題的にも
「人間のラディカルな平等性」をテーマにしていたという事実は、快い衝撃として読者を驚かせる。同じ新印象派の
ポール・シニャックは
「目が鍛えられれば、(中略)
つまり他人を食い物にして疲弊させる搾取者から労働者が解放され、思考したり学んだりする時間ができるとき」人々の芸術作品の見かたも変わるだろうと明言していたらしい。
アーシュラ・K・ル=グウィンが
「「正しいメタファーが見つけられるかどうかが、生きるか死ぬかの境目になるかも知れない」」と書いたように(
23年2月の日記参照)、ついに先達が見つけられなかった哲学と実践を取りむすぶ「正しい言葉」、目覚めとしてのアナキズムを徒花ではないと正当化する「表現技法」を見つけることに、マラブーは賭けているのかも知れない。誰もがアナキズムを吾がこととして受け止められる「言葉」さえ見つけられれば、実際には起きている運動が記憶に刻まれず、ニュースからすぐ消えてしまう現状も変わるのではないかと。
以下は個人的な余談。
ジョン・レノンの『イマジン』は言うまでもなくアナキズムの歌だ。宗教も、国家も、所有すら放棄して皆がみな今日のために生きればいいと謳う。「え?所有までは放棄できない
「I wonder if you can(君にそこまで想像できるかな)」ごめんちょっと無理、そこまではイマジンできない」と思った話は前にも書いた。なので僕は、あの歌を賛美する人たちを今ひとつ信用できない。あの歌が何を迫っているか本当に分かって、それを引き受ける覚悟があるの?それともただ、薄ぼんやりと「平和がいいよね」くらいの話だと思ってるの?
「君は私を夢想家だと言うかも知れないけれど、私は一人ではない」というフレーズの甘やかさを「私」=自分と勝手に掠め取って、いい気持ちになってるだけじゃないの?と。
それとも、それでいいのだろうか。
ビートルズ時代はどちらが書いた曲も連名でクレジットするほどだった(まあどちらが書いた曲かは特に「ヘルプ!」や「イエスタデイ」以降は明白だったけど)かつての盟友、ポール・マッカートニーは近年エコロジー推進のため「
一週間に一日ベジタリアンになるだけでもいい、そうした人が七人いれば一人の完全なベジタリアンがいるのと同じだ」と提唱しているという。とてもチャーミングな考えだと思う。
「イマジン」のイマジン(想像してごらん)という問いかけの、本当に自身が痛いところを突かれるような問いは聞かなかったことにして「平和がいいよね」「殺し合いは馬鹿げてる」「私は一人じゃない」みたいに口当たりのいい箇所だけツマミ食いでも、積み重ねれば世界を変える力を持ち得るのだろうか。数十年かけて、僕の自己認識が「少なくとも時々はアナキストかも知れない」と変わっていったように。
余談に余談を重ねて今週の日記(週記)を終えるなら、アナーキー(アン・アルケー)のくせに原初に理想状態を求めるのはアナーキーじゃないよと真面目なアナキストたちが考えるように、国家なんていらないよという歌が人々の「アンセム」になるのは矛盾だと思ったのか思わなかったのか「イマジン」の後年、別のアルバムでレノンは改めて何も持たない人たちのためのアンセムを用意している。ユートピアにさらに否定のNをつけた邦題「ヌートピア宣言」。たった四秒だし、イマジンより抜群に憶えやすい。そして何処にでも遍在している。
John Lennon - Nutopian International Anthem (Remastered 2010)(YouTube/外部リンク)
※リマスターとは…
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追記:
「目覚めとしてのアナキズム」の実在例として、
小川さやか『チョンキンマンションのボスは知っている アングラ経済の人類学』(春秋社2019年/外部リンクが開きます)も挙げていいかも知れない。えらく面白いと同時に「こんな才気と根回しが必要な世界で自分は生きていけないかも」と思わされ、なるほど人類は安定した農耕や国家や既存の体制に頼るわけだと悲しい発見をしたりする好著。
お金じゃ買えない〜ポール・ヴェーヌ『パンと競技場』(25.03.02)
まいったな。
日本では「パンとサーカス」と呼ばれる古代のバラマキ(?)政策をテーマにした本文700ページ・脚注300ページの大著
『パンと競技場 ギリシア・ローマ時代の政治と都市の社会学的歴史』(法政大学出版局/外部リンクが開きます)なんですけど、三週間かけて本文700ページだけ(図書館の返却期限を一回延ばしてもらってるので脚注は諦めました)どうにか読み通したその内容は、著者のヴェーヌが亡くなった年に追悼で書いた文章の短い一節:
これで大体、言い尽くせちゃってる気がする。
(本サイト22年12月の日記(
「食えない理想家〜ポール・ヴェーヌ追悼」参照)
※もしかしたら既に忘れられてるかも知れないので念のため説明すれば「GOTO何々」とは新型コロナ発生時に医療施設やエッセンシャル・ワーカーではなく「感染を恐れて人々が旅行を避けることによる損失」を補填すべく旅行会社に公金をつぎこんだキャンペーンをさす。
…強いて解像度を高くすると、こうだ:ローマ帝国の「無料パン」は奴隷はもちろん、首都以外に住む地方の人々・それどころか(無料配布の対象になる)首都ローマですら食うや食わずの貧民を対象にしたものではなく、むしろ都の裕福な市民=特権階級へのサービスだった。属州まで含めた広大なローマ帝国で、その恩恵に与(あずか)れたのは人口の1%に過ぎないとヴェーヌは書く。
この「1%」が現存する資料に基づく本当の数字か「99%は○○」みたいな比喩なのかは分からない。ただ後述するようにカエサルの時代に無料のパンにありついたのは15万人という数字があるので、当時のローマ帝国の人口が1500万人なら「1%」は妥当と言える。
ともあれ(ヴェーヌにとって)確かなのは、この権力者による「パンや競技場(サーカス)」の大盤振る舞い=
恵与志向は他の何であろうと、現代的な意味での福祉=
「富の再分配」でだけはありえない、ということだ。では何なのか。
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前提となるのは「政治は万人向けの仕事ではない」という彼の理解だ。
吾々は「吾々こそ主権者だ」「政治家は主権者の言うことを聞け」「吾々に主権を行使させろ」と言う。間違った主張ではない。
だが事実として、政治は面倒くさい。直接民主制を採用し、民主主義の心のふるさとと目されるアテネでは実のところ(参政権を有さない女性や奴隷を除いてなお)
民会に出席するのは有権者の一割か二割に過ぎなかった、というヴェーヌの指摘には思わず笑ってしまったし、そりゃそうかもねぇと納得せざるを得なかった。
「代議制の下では、市民の政治参加は市民にとって四、五年に一度、数分間の面倒ですむ。(中略)
直接民主制における政治参加は市民の重荷である」
原初には万人が万人と争っていたので、流血を避けるため皆で権力を王なり国家なりに委託した(ホッブズ)―というのは体のいい作り話に過ぎない。現実には「自分の生活で手いっぱいな人々が、余裕のある者に権限を譲った」と、ヴェーヌは考える。まして当時の「政治」は自腹である。道路を開いたり、何処かに植民地を築いたり、さらには何処かと戦争したり―そうした費用を捻出できる・そして勿論そうしたことに割く暇がある富者が政治を「引き受けた」。
なぜ彼らがそんなに裕福なのかは一旦措く。これが第一段階;貴族制・寡頭制・ひいては王制の起源だ。
第二段階。統治する暇も金もない者は、暇も金もある富者に統治を任せる。パンや競技場は、自らを統治する権利を手放した代金なのだろうか。
そうではない。すごく面倒なのだけど、そうではないとヴェーヌは考える。
一番わかりやすい喩えは(まあ僕はまんがでしか見たことないけれど)校内のスポーツ大会でクラスが優勝したら、担任の先生が生徒たち全員にジュースか何か「おごる」感じだろうか。あれはもちろん、勝利の報酬でも頑張りへの対価でもない。祝賀であり、祝賀をとおしてクラスの一体感・生徒たちに対する担任教師の庇護を確認する儀式だ。単なる経済的な交換・ゼロサムの取引ではなく、対価では量れない何かがやりとりされているのだ。
それを仮に威信とでも呼ぼうか。皆それぞれジュースを買ってお祝いしよう、ではなく先生が「おごる」のは「先生がえらい」からだ。「やっぱり、うちのクラスは先生あってこそだよな」と確認するため、生徒も「おごられてあげる」。
「恵与者は治めるのに(治めたいから)
金を払うのでなく、治めているから金を出す」とヴェーヌは書く。統治者として道路を敷設したいから道路を敷設するための金を出し、統治者として戦争をしたい・避けられない戦争では指揮を取りたいがために軍事費を出し、統治者として市民に「おごる」立場でいたいから神殿を建て、競技会を主催し、無料のパンを配る。
部族の豊かな首長が積み上げた富を惜しげなく皆に振るまい、最後には火をつけて燃やしてしまうポトラッチの儀式は、(対立する首長同士のポトラッチ合戦に発展するように)威信の誇示であり、もしかしたら財産の集中をリセットする「権力に抗する」システムであり、そして積み上げた財産を燃やすことで神に捧げる宗教的な儀式である。
古代ギリシャ・ローマの恵与もまた、神への捧げ物であることが前提だったという(競技会も本来、神に捧げるものであった)。
何の話かというと、第三段階として、根拠より功利性より「そういうものだから」という習慣・悪くいえば惰性によって恵与の内容は固定化される。会社が福利厚生ですと言ってスポーツジムの割引券を呉れるのだけど
図書券でいいのになぁという願いは聞き入れられない。スポーツ大会で優勝すると先生がジュースをおごってくれるけど
放課後にみんなで球技の練習より読みたい本があるのだがという願いも聞き入れられない。

市民だって皆がみな戦車競争が楽しいわけでもないだろうけど、とりあえず戦車競争であり、まして市民ですらない
「小作人が町に来て、田舎の恵与者は情け容赦もない大地主だと言ったら、「そんな小作人の話など、聞きたくない。われわれとしては、公衆浴場を暖め、オリーブ油を配給して欲しい」と言われるだろう」とヴェーヌは書いている。余談だけれど、最初に恵与で公衆浴場をつくった皇帝はネロだという。皇帝―市民―元老院の三角関係で市民と仲が良く元老院と折り合いが悪かったネロは今でこそ悪帝と伝えられるが、市民うちでは数百年も人気を保っていたらしい…たぶんキリスト教の公認(313年)や国教化(392年)までの「数百年」なのでしょう…
「パン」はそもそも首都ローマが食糧不足に陥らぬよう「市民すべてに一定量の小麦を廉価または無料で」提供する護民官グラックス(兄)が定めた制度であった。それがカエサルの頃には「無料の小麦を十五万人にだけ」給付する制度に変貌し、選ばれた者の特権と化した。
大事なのはポーズだから、それでも良かったのだ。
もとよりローマ史きっての善玉グラックス(兄)でさえ「市民」以外の奴隷や貧者は眼中になかった。それがカエサルの「改革」により、十七万人が無料あるいは廉価のパン供給を失なう。同時期にカエサルは帝国全土に植民地を作ったが、それが受け皿になり耕作地等を得たのは、せいぜい数万人だったという。
「パンも土地ももらえない十万人ほどの人はどうなったのか。かれらは栄養失調や悲惨のうちに死んだのであろう。他に打つ手があっただろうか。確かにあったと思われるが、カエサルとしては、そんなとるに足らない人々のために知恵をしぼるはずがなかった」というヴェーヌのくだりは、浩瀚な本書の中でも際立って光り輝く一節だが、それが問題だという認識は「パンと競技場」=皇帝と市民の持ちつ持たれつの円環の中にはなかった。円環=パラダイムの外で「貧者を救え」と説いたナザレびとの弟子たちは、ネロの人気が衰えるまでの数百年間、ライオンが待つ競技場に送られつづけた(これは僕による単純化)。
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もう一度まとめます。
第一段階:統治という事業に暇と金を使えるのは富者のみであり、ゆえに富者が統治者となった。
第二段階:統治者は神に捧げる建物や競技会の形で自らの権威を示し、市民もそれを享受することで承認の証とした。
第三段階:前例は前例であるがゆえに踏襲され、制度は固定化される。富者を富者たらしめている富を市民の「外」に還元しようという発想の転換はなかった。
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寡頭制も王制もパンと競技場も(なんなら資本主義社会も広大なイスラム帝国も)「こういうものを作ろう」というグランドデザインに沿って構築されたもの「ではない」とヴェーヌは考えているようだ。社会全体をどう構築するかというヴィジョンではなく、目先の関心・目の前にいる自分とほぼほぼ対等な相手への気遣い(自分と対等でない女性や奴隷・非市民の存在は棄却される)が、やがて当初の意図にはなかった大きな絵図を描き出すと捉えるのは、社会学的な発想だと言える。
もちろん
少し前の日記で先んじて書いたように、ヴェーヌは個々の出来事から法則を導き出す社会学者ではなく、社会学などの法則を個別の出来事を知るために使う歴史学者なので、本書が語ることを「法則」と見做して他の出来事や物事一般に(無条件に)適用できるわけではない。
けれど本書が繰り広げた恵与にまつわる考察は、たとえば今の世界で持ち上がっているベーシック・インカムの是非をめぐる議論を理解するのに(少しは)役に立つのかも知れない。
また、経済的な取引や対価でなく、権威とか威信とかいう金額化できない価値が決定的だという第二段階(仮)での議論は逆に「お金で買えないものはない」と言わんばかりの資本主義・金(カネ)本位制に、思った以上に圧倒されている自分を再認識させてくれる。
「お金で買えないものはない」裏を返せば「お金でしか買えないものしかない」「あらゆるものは、お金を出して買わなければいけない(か、長々と広告を見た「対価」として、ようやく「無料」で見せてもらえる)」すべては取引や経済効果として貨幣に換算できるという思考様式・
では説明できないものが古代ギリシャやローマ帝国を動かしていた。それは時に現代人には理解が難しいと思えばこそ、ヴェーヌはその説明に700ページも費やす必要があったのだろう。
だが多くの場合ひとを、社会を動かしているのは、少なくとも経済「だけ」ではない。たとえば大阪では維新という地方政党が他地域には見られない高支持率を集め、万博みたいな馬鹿なことをしている。その高支持率の理由にはメディア支配とかプロパガンダとか色々あるのだろうけど、とある大阪出身者が「自分は維新支持者ではないけれど、長いあいだ見下され続けてきた大阪府民の憤懣を(だから維新はあんなに支持されるのだと)見下し続けてきた関東民は知るべきだ」という主旨のことを仰有っていてビックリしたことがある。
「ローマの平民は投票を望まなかった。暴動を起こしてまでパンを要求しなかった」とヴェーヌは書く。
「平民は愛されたかったのである」

それ(お金で買えないもの)は突破口じゃなくて柵(しがらみ)だよ、という反論にも一理はあるのだろう。いろんなことを対価(お金)で解決できるからこそ「都市は(人を)自由にする」のだとも言える。けれどそれ(お金で買える)が進みすぎ(
あらゆることは当初の意図以上に進む)お金なしには日々の生存すら脅かされる弊害・桎梏に変じきった社会では、あらためて「にも関わらず、対価では説明できないものが社会を動かしている(側面もある)」と見直す意味はあるだろう。…
だんだんヴェーヌの回りくどい文章に似てきたので止めますが
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追加のまとめ;
(1)最初から設計された大きな目的に向かって進むのではなく、小さな目前の利益追求が、当初は想定もしなかった大きな結果をもたらす。
(2)社会を動かす動因はしばしば、経済効果や対価では量れない威信や面子・相互承認といった心情的なものだったりする。
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あるいは、豊かな者・貨幣を多く持つほど「お金以外の愛や威信や柵(しがらみ)」にも恵まれており、あらゆるものを貨幣で購わなければいけない・貨幣以外の「愛される」手段を剥奪された状態こそ「貧しさ」なのかも知れない。
「○○はプライスレス」「お金で買えない価値がある」がいずれも、たかだか後払いのシステム=純粋に「お金で買えるものしか売れない」クレジットカードの広告コピーだったくらい、自由は簒奪され、世の中はややこしくなっている。

けれど多くの人たちが対価のため(だけ)でなく絵を描き、動画を自撮りし、山に登り、ターミナル駅の地下に推しの誕生日を祝う広告パネルを出すのは、希望かも知れない。巧妙な搾取にまだ囚われているのかも知れない。吾々は無料のパンを得られない人々を打ち捨てたまま競技場で歌手きどりの皇帝ネロかも知れないし―「お金で買えないものはない」とうそぶく新自由主義のインフルエンサーに
「Fun is a one thing that money can't buy(楽しいという気持ちはお金では買えないけどね)」とうそぶき返すジョン・レノンかも知れない。
つまり今回もまた余談として、創作の話に着地する。自分で食材を調理する行為には「そのほうが安上がりだ」「いや、自炊できるまでに鍋とか金かかるべ」みたいな金額で量れる・以上の価値がある、なんてことまで含めた「創作」の話だ。買うのでなく自分で価値をつくりだす行為全般と言ってもいい。
古代ギリシャの民主制→同僭主制→民主制時代の古代ローマ→帝政ローマまで話が進んだ終盤、突然ヴェーヌは言う(こういう脱線をするから本が長くなる)。ファッションを愛する人は
「富を誇示するために粋(いき)
な服装をするのではない」「身なりをととのえても部屋から出ないこともあり得る」また
「詩人はメッセージを送ったり、他の者たちと交流するために詩を書くのでもない」だから
「難解な詩を書いても心配しないこともあり得る」
これらの言葉には(もちろん人に見てもらいたい側面もあるのだろうけど)僕みたいな人間の心を暖め、にんまりさせる処がある。
「作者は読まれるために書くのではないかと反論されるかも知れない。それは間違っている。つまり作者はむしろその本を存在させるために印刷させてほしいのだ」
邦訳700ページにわたる本をものして300ページもの註(未読)を書いた人の発言としては相当に大胆だけど、そして「
残念、ここにメッセージを受け取った者が一人いるんだな」と微笑みたくもなるけれど
「壁の落書き、党細胞の集会の政治報告の作者らは、無定見の者を説得したり、仲間に通知することよりも自分の信念を表現することのほうがはるかに大事である」
という言葉に勇気づけられる者もいるだろう。
…あらためて言うけれど、コミュニケーションの道具として、承認欲求を満たすために、書いたり描いたり自撮りをしたりすることもあるだろう。それであわよくば対価を得たいこともある。お金というより「自分の創作物が承認されたと確認するために対価を受けたい」こともある。
けれど私たちには全部が全部お金に換算できると思うなよ、
「I don't care too much for money - Money can't buy me love(お金なんてあまり気にしてないんだ - 僕の愛はお金じゃ買えないよ)」とうそぶく権利もある。
そう歌った者たちはイギリスで一番の大金持ちになったじゃないかとひっくり返す権利も。私はそれでいいとして貧しい人はどうなるんだと、(イエスやマルクスのように)人々の幸福を望む権利も。
・
The Beatles - She's Leaving Home(YouTube/外部リンクが開きます)
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The Beatles - Can't Buy Me Love(同)

…それとも宝石を鳴らす?(笑)
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