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Author:舞村そうじ/RIMLAND
 創作同人サークル「RIMLAND」の
 活動報告を兼ねつつ、物語とは何か・
 どんなメカニズムが物語を駆動し心を
 うごかすのか、日々考察する予定。

【最近の動向】
当面は新刊がない予定です。

WebまんがSide-B遅々として更新中。

6年ぶりの本篇更新。(20.05.17)

旧サイトは2014年8月で終了しました(お運びいただき感謝)。再編集して、こちらの新サイトに少しずつ繰り入れますが、正直、時間はかかると思います。

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あかつき印刷
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日本赤十字社

if you have a vote, use it.(save kids)

サイト日記更新。遅ればせながら多和田葉子に翻弄される。下の画像か、こちらから。(20.10.18)


ひとつ前の日記。天皇を必要としないファシズムの台頭を憂慮する。こちらから。(20.10.11)



7/23の創作同人電子書籍「いっせい配信」で『フューチャーデイズvol.5(5+6)』と、電書オリジナルの新刊『こんな時でも描いてた漫画』をリリースしました。下の画像か、こちらから
 
書誌のアップデートは、少しお待ちください(HTML書類を50ページくらい、手作業で書き換えにゃならんのよ…)(2020.7.26)


信頼できない私たち〜多和田葉子『雪の練習生』『献灯使』(2020.10.18)

 君は月の上を歩いてみたことがあるかい。(『雪の練習生』)

 例によって自分が不勉強で疎かっただけかと思ったら「信頼できない語り手」は、意外と新しい用語・概念らしかった。廣野由美子批評理論入門〜『フランケンシュタイン』解剖講義』(中公新書・2005年)によれば1983年、ウェイン・ブースが『小説の修辞学』で初めて提唱したという。デヴィット・ロッジカズオ・イシグロ日の名残り』の主人公をその典型として、語り手の欺瞞がしだいに暴かれる=読者が欺瞞を見破る体験を提供することが、作者の狙いだと説明している。
 
 個人的には、作者が意図したかは兎も角フィッツジェラルド『偉大なるギャッツビー』はギャッツビー以前に語り手が信用ならない男だと感じた記憶がある。有名なミステリの「語り手が犯人」とか、世界最古の「信頼できない語り手」はいわゆる「嘘つきのクレタ人」かもなあと思ったり、はい、ここまで全てマクラです。

 文庫解説では興を削ぐからと伏せられているが、帯とカバー裏のあらすじ紹介で大体わかってしまうから気にせず明かしてしまおう。多和田葉子雪の練習生』(新潮社/2011年→新潮文庫/2013年)の語り手は、なんとまあホッキョクグマである。しかも親子三代。
 まさに信頼できなさの極北と構えるべきか。極北、ホッキョクグマだけに!(誰が上手いことを言えと)それとも動物ならではのウソ偽りない語りを期待するか。
 
 結論だけ言うと、信頼できないどころではない。書かれてる何もかもが信用できない。そもそも語り手自身が、己の語りを信用していないのだ。その覚束なさは、読み手たる当方の足場をもグラつかせる。語っているのは誰なのか。ホッキョクグマは本当にホッキョクグマなのか、それとも何かの比喩なのか。終盤に登場する黒髪に紅い唇のスーパースターは、語り手がドイツ語圏にいて文章が日本語だからミヒャエルと表記されているけど、作者が在住しているドイツや英語圏で翻訳・出版された時には、綴りは同じMichaelではないのか。
 語り手はホッキョクグマだが、キツネにつままれた心地(誰が上手いことを言えと!)。幾層にも塗り重ねられた仕掛けに、どこまで翻弄されればいいのか。それとも何もかも受け止め「とにかく面白い話」として受容すべきなのか。
 難しく考えるな、今の自分や政治的信条に有利な「教訓」を引き出そうとするな。ただ可哀想ねステキねステキねと戯れよ、が正解なのかも知れない。だが、逆方向に天秤を傾ければ、信頼できないのは語り手でも作者でもなく、もはや読んでいる自分自身だという酩酊感を味わえる。

 …お酒を飲めない・というか「飲むことを積極的に拒否する」生き方を選択した反動かも知れない。酩酊する・認識が歪む・自分が自分でなくなる状況に、今も不当な憧れがある。もちろんアルコールが脳に及ぼす効果なんて、憧れるほど面白いもんじゃないよと理解してはいる。薬物による幻覚も、宗教による陶酔も、まずは理論的に信用も信頼もできない。それでもなお、自分の認識の縁を超えた向こうに素晴らしくストレンジでピュアな世界があるのでは―なんて、夢と知りつつ思ってしまう。UFOやビッグフットを信じてないけど好ましく思うように。逆に「いやアメリカ政府が墜落した円盤の情報を秘匿していて…」などと、それらを躍起になって「認識のこちら側」に持ってこようとする向きには共感できないように。認識できないものを認識できないままに認識したいのだ。神様、お電話ください。
 自分を自分でなくさせる―文学は、意外な裏口かも知れない。思えば20年近く前に初めて読んだ『容疑者の夜行列車』(青土社)からして、多和田葉子は読むこちら側を「信頼できない」の境涯に引きずり込もうとしていた。ようだ。なにしろ同書の主人公は二人称の「あなた」だった。
 
 残念ながら当時はまだ、作者の手管に乗っかる準備がこちらに出来てなくて、心から「連れ去られる」感覚は味わえなかったと記憶している。いま再読すれば変わるかも知れない。先週の日記でも書いたとおり、同じ本の文字をなぞっても、求める準備が出来てないうちは与えられないものだ。

 『雪の練習生』で楽しく酩酊できた余勢を駆って、しかし過去に読んだ本の再挑戦ではなく『献灯使』を新たに読む。講談社/2013年→講談社文庫/2017年。2018年、全米図書賞翻訳部門。『雪』のMichaelにも増して、どう翻訳したのかと不思議になる強烈な言葉遊びも相まって、期待どおりに(?)幻惑される。
 こちらは3.11=東日本大震災と、それにともなう原発事故に呼応して書き綴られた連作だ。放射能の影響を連想させる環境汚染で、生物として変容しつつある曾孫世代と、狼狽しながら生き抜こうとする曾おじいちゃん・曾おばあちゃん世代…SF作家アーサー・C・クラークの警句「高度に発達した科学は、魔法と区別がつかない」をもじって「高度に発達した文学・あるいは社会批評は、SFと区別がつかない」そんなフレーズが思い浮かぶ。
 分量も一番多い表題作は、いま読むとコロナ禍による社会・文化の分断をこそ連想させるかも知れない。だとすれば、本作が日本を含めた世界に与えるインパクトはより深く、多層的なものになるだろう。日本に暮らしてきた立場で見ると、3.11で吾々の政治や社会がとっさにとった防御の姿勢=うずくまり頭ごと両耳を抱えこんで不都合は聞こうとせず、それでいて経済の活性化や成長を謳う姿勢は、このたびのコロナ禍で繰り返されたのだなと実感する。一度目は何とやら、二度目は何とやら。そして、あれほどショックだった「一度目」を、いつのまにか前世くらい過去に追いやってしまってる、己の記憶のいいかげんさ…
 しかし「本作はコロナ禍の今こそ、改めて真価をあらわす」的な読みは、即応性・即効性に傾きすぎだろう。深追いはしない。『雪』と同様、こう読めば「解けた!」と納得できる「謎解き」は求めず、謎は謎のまま翻弄されるべき作品なのかも知れない。
 クラークのSFと違い、『献灯使』の新世代は、旧人類を超えた存在ではない。そうした「新人類」観が無意識に依拠していた、経済発展や社会の高度化と生物としての「進化」を混同した「進歩」のイメージを批判するかのように:「献灯使」で描かれるのは、独力では食事も歩行もままならない新世代に、それでも人間性の継承や、ひょっとしたら人間観の更新を期待するしかない旧世代の姿だ。その結末を前に、もしかしたら旧世代の、さらに親世代にあたるかも知れない吾々は、吾々自身が変容するような酩酊感を味わうことになる。
 そして知るのだ。アルコールや薬物・宗教や神秘体験に憧れ、多和田作品で出会えた気がした酩酊感・自己喪失・認識の変容は、今までと違う「信頼できない自分」に新しく出会うことではなかった。凡庸だが正常に生きてきた・つもりだった「今の自分」「今までの自分」がガラガラと崩れ、信頼できなくなる体験だったのだと。それは脳みそを後ろからつかまれ、闇の中に落ちていくような体験だったのだと。

 まこと、ロマンチックな狂気など存在しない。それはとても素敵なこと。これから進む目の前に廃墟があるのでなく、今まで歩んできた道が廃墟だったと知らされて。瓦礫の中に立ちすくむ吾々は、さあ、これからどこに行こうか。
  来週は日記(週記やん)お休みします。

「国体」の憂鬱な正体〜白井聡『永続敗戦論』(2020.10.11)

 0.「天皇」という媒介なしに
 こんなに上手く行くとはと、当の本人たちも拍子抜けしているのではないか。先月の日記で最後のカードとして提示した、首相や元首相・現在の内閣を牛耳る与党が「崇拝の対象」に成りおおせた件だ。
 
 専横と「愛されたがり」は前首相の個人的な資質に起因するのではなく、社会構造的なシステムの産物だったのかも知れない。パンケーキ好きで庶民性をアピールしながら、学術会議の人事に介入し記者を隔離して己の優位を誇示する新首相は、前任者の路線を忠実に継承している。
 問題は、その前首相や新首相の専横が「総理様に逆らう奴らは売国奴、非国民」と言わんばかりの追従に支えられていることだ。かつて「逆らう者は非国民」と指弾されるほどの権威を持つ者は天皇だけだった。
 万世一系の天皇を現人神(あらひとがみ)として頂点に仰ぐ権威主義・国粋思想の体系を「国体」と言った。1945年の敗戦とともに天皇は人間ということになり「国体」は消滅したはずだが、その後も日本の権威の中心は天皇であるという暗黙の了解が(つまり「消滅してなかった国体」が)この国の右翼・保守的な人々の行動原理であり続けた…そう、自分などは理解していた。
 だが現状はどうか。もはや「虎の威を借る狐」ではない。靖国参拝やオリンピックのような国威発揚・あるいは「国益」や排外主義といった「愛国者」たちのキーワードと、与党の閣僚たちは天皇という媒介を必要とせずに直結している
 吾々を戦争の泥沼に引きずりこんだ日本のファシズムは、天皇制という日本独自の現象の理解なしには解明できないものではなかったのか。国体と呼ばれるモンスターは天皇という御神体=現人神の求心力と不可分ではなかったのか。
 そこで「そうではない、国体の本質は天皇制の護持とは別のところにあるのだ」という指摘に巡り会った。求めよ、さらば与えられん。いや違う。かつて同じ本を読んでいながら、求めていない時には見過ごしていた箇所が、求めたとたん目に飛び込んできたのだ。

 1.「国体」の憂鬱な正体
 白井聡永続敗戦論』(2013年/太田出版→2016年/講談社+α文庫)。該当の、国体に関する部分は同書のほぼ最終章に登場する。書物が思索を積み重ね、最後にもっとも大事な結論に逢着すると考えれば、それを見過ごしていたのは「すみません、きちんと読めていませんでした」と告白するに等しい。恥ずかしいことです。
 
 たいそう話題になった本だと記憶している。内容としては戦後の「平和な日本」「民主的な日本」の、戦勝国であるアメリカへの圧倒的な屈従と、アジアに対する敗戦の否認という二重の欺瞞を告発するもの…という要約でよいのだろうか。同書の大半を占める、このテーマについて今回は触れない。収拾がつかなくなる。
 3.11や領土問題・核兵器など具体的な項目について加えられた、詳細な考察も同様にスキップする。その物量に圧倒され(再武装や憲法改正に積極的な者だけでなく非核や憲法護持を唱えてきた者も戦後の欺瞞を支えた共犯者なのだという糾弾が耳に痛く、読み進める障害になったことは公正を期すために言っておく必要があるかも知れない)正直かつての自分にはたどり着けなかった最終章に話を進めよう。

 1945年、どうして日本は本土決戦を断念し、無条件降伏を選んだか。二発の原子爆弾投下が日本を降伏に踏み切らせたという「物語」は、かなり早い段階で棄却してよいだろう。決定的だったのはソ連の対日宣戦だったという説もある。それを自分は「ソ連にまで参戦されたら、いよいよ勝ち目がない。降伏しよう」程度の意味に(つまりは薄ぼんやりと)考えていたのだが、同書は当時の史料を元に、思いがけない結論を導き出す。
 著者が取り上げるのは1945年2月に近衛文麿が敗戦不可避と訴えた、昭和天皇への上奏文だ。
最も憂うべきは、敗戦よりも、敗戦に伴うて起ることあるべき共産革命に候
治安維持法・特高警察によって徹底的に叩き潰されたはずの「左翼分子」が国内で潜在的な勢力を増し、軍部や皇族にまで浸透して「我国内外の情勢は、今や共産革命に向かって急速に進行しつつあり」とする近衛の主張を、著者は「一見して異様」とする。たしかにそれは、産業も報道機関も○○人によって支配されている、という陰謀論と同質のパラノイアだ。だが(近衛以外も共有していた)そのパラノイアが、護持しなければならない「国体」の正体を裏側から浮き彫りにする。
 次いで白井が援用するのは思想家・河原宏(1928-2012)の論考だ。もし日本が本土決戦に突入したら指揮系統は崩壊し、分断された各部隊は「独自の判断で」戦闘行動を決定せざるを得ない状況が現出しえた。実際には本土決戦が選ばれず、無条件降伏となったことで―河原は言う。
「日本人が国民的に体験しそこなったのは、
 各人が自らの命をかけても護るべきものを見いだし、そのために戦うと自主的に決めること、
 同様に個人が自己の命をかけても戦わないと自主的に決意することの意味を体験することだった

 ソ連参戦が1945年8月の日本に与えた衝撃は、必ずしも物理的なものではなかったのかも知れない。大急ぎで言えば、ソ連や中国・カンボジアなどで示されたように、共産主義・社会主義もまた、人々の自主性を奪い抑圧し死に至らしめる、巨大なシステムに成りかねない。しかし現実ではなく、幻想の共産主義と、幻想の本土決戦がもたらす国民の自主・自由に「国体」の護持者たちは恐怖した。
 それは「国体」の本質が「天皇」とは別だったからだ。ページ的には遡って、そして何重にも引用を重ねて著者は看破する。端的に言えば犠牲を強いるシステムとしての国体と。
 国家を存続させるため、自らの利益を捨てても国家・社会を護ろうとする国民―を産出するシステム。そのため国民の自由・自主性をパラノイア的に恐れ、敵視するシステム。その依代としての天皇と、逆に敵意の依代としての「サヨク」・(幻想としての)共産主義。そう考えたとき、さまざまなことが―本当にさまざまなことが腑に落ちる。
 が、これ以上この文脈で追究すると、白井氏の著書から離れてしまう。離れるのであれば、いっそ白井氏の著書の引用と注釈は一旦ここで打ち切ろう。

 2.ネオ・ファッショ
 国体の本質は天皇制ではなく「端的に言えば犠牲を強いるシステム」であると白井聡『永続敗戦論』は結論する。
 大いに納得できる話だ。だが犠牲を強いられる吾々は、本当に純粋な被害者なのだろうか。
 …アメリカのトランプ大統領の(今に始まったわけではない)狼藉ぶりを嘆いていたら「日本はまだマシだよな。天皇には悪事を為す権限がない」と言われたことがある。いや、そもそも今の日本の主権者は天皇じゃなくて国民ですし。それに今の天皇は自ら率先して悪事は為さないかも知れないけれど、内閣の悪事を制止することも(でき)ないよ?と思ったのだが、のちのち考えたのだ。
 日本国憲法下の天皇は(口出し出来ないという形で)首相や内閣・国家が為す悪事について免責されている。天皇は日本国民の統合の象徴であって、その地位は主権者たる日本国民の総意に基づく。悪政に口出しできず・したがって免責されている天皇を象徴と仰ぐことで、吾々は何かしら、自分たち自身の政治的不作為を免責しているのではないか。
 天皇制を、まさに「犠牲を強いるシステム」の中心として批判する論説は少なくないだろう。逆に皇室の構成員に個人としての人権が認められていないがゆえに、天皇制を批判する声もある。だけれど今、自分が気にかけているのは、天皇をイノセント(無罪)な存在とすることで―それは明治憲法の「神聖ニシテ侵スベカラズ」の「カジュアル版」ではないのか―自分たちの道義的責任も、なんとなく有耶無耶にしてしまう国民の側の狡知だ。
 むろんその「利用」は1945年の敗戦まで遡る。一億総ざんげ、なる言葉はあったらしい。だが実際には、昭和天皇が戦争責任を免れたことで、彼を現人神として・「国民の統合の象徴」として仰ぐ日本国民は、自分たちも免罪されたとみなしたのではないか。

 同時に浮かぶのは昨年、あいちトリエンナーレの「表現の不自由展」を巡って発せられた言葉だ。天皇の写真が燃やされるというアート作品について(いろいろ経緯はあるのだが省略する)このように非難する声が上がった―国民の統合の象徴である天皇の御真影を傷つけるとは何ごとか
 その文言を目にした当時は、天皇擁護もそこまでアクロバティックになるものかと頭を抱えた。だが実際に起きていたことは逆ではなかったか。あるいは文字どおりではなかったか。天皇が神聖なのは「日本国民」の御神体だから。国体が人々の自発性を奪い、権威に従わせるシステムだとしたら、そこに祀られる御神体を「天皇」から「日本国民そのもの」に取り替えて何の不都合もなかった。
 そして、その神聖さを保証するのが「多数派だから」「選挙で勝ったから」「民意を得たから」だとしたら、これまた多くのことに筋が通る。「文句があるなら選挙で勝ってみせろ」と「文句があるならこの国から出ていけ」は表裏一体だ。実際に両者は「選挙で決まった政府の方針に反対なら、この国から出ていけ」という形で融合している。
 皮肉なことに、戦後70余年にわたり吾々が仰いだ民主主義そのものが(「民主主義=多数派の支配」と曲解された形で)「国体」=抑圧のシステムの御神体に収まりえるなら…天皇制という装置を介することなく、吾々が吾々自身を御神体として「犠牲を強いるシステム」を稼働させることに「成功」するなら…
 それは明治維新から始まった「国体」プロジェクトの、最も純粋で、もっとも憂鬱な成就たりえる。
 
 …白井氏の緻密な論考とは全く別の、ロープウェイで登るような手抜きのルートではあるが、同じ山頂にたどり着いてしまったのかも知れない。吾々の「平和な戦後」「民主的な戦後」は何か根本的なところで欺瞞のある、紛い物ではなかったのか。
 

愛と恐怖と公正と〜『瞳の奥の秘密』『シークレット・アイズ』(2020.10.04)

 ジュリア・ロバーツが『瞳の奥の秘密』のハリウッド版リメイクに出演する…と、ホームレスの自立支援雑誌『ビッグイシュー』のインタビューで知ったのは、ついこないだ(昨年くらい?)と思っていた。実際には記事は2016年のもので、すでに4年が経過していたのだった。恐ろしきかな、人生!
 

 『瞳の奥の秘密』で経過するのは、25年という歳月だ。ファン・ホセ・カンパネラ監督。2009年のアルゼンチン映画。
 物語は1974年にブエノスアイレスで起きたレイプ殺人事件の顛末と、それに関わった人々の25年後を描く。むごたらしい事件を前に(実はゆったり落ち着いた全体の雰囲気とは対照的に、冒頭の犯行シーンがあまりに生々しく注意が必要)義憤にかられる主人公ベンハミン(リカルド・ダリン)。彼は裁判所の下級官吏だ。警察ではなく彼や同僚が事件にのめりこんでいくのが見慣れない設定で、これも様々な国の映画を観て得られる愉しみかも知れない。
 忖度を知らず同僚も判事も敵にまわすベンの、味方となるのは二人。エリートとして赴任してきた女性上司のイレーネ(ソレダ・ビジャミル)。酒に溺れる年上の部下パブロ(ギレルモ・フランチェラ)と、気を揉むベンのコンビネーションは先月の日記で取り上げた『追龍』のロックとピギーを思わせる。というか、よくは知らないが「十津川警部と亀さん」もこんな感じなのだろうか。
 移民労働者を適当に犯人にでっちあげようとした同僚を左遷させたベンだが、事件は暗礁に乗り上げ一年。妻を殺した男を探し続ける夫モラレス(パブロ・ラゴ)の姿に打たれたベンは再び奮起、パブロやイレーネの協力で犯人確保にこぎつける。しかしなんと左遷させた同僚が報復のためコネを利用、大統領の後ろ盾を与え犯人を釈放してしまう。逆にならず者に命を狙われるようになったベンハミンは、ブエノスアイレスを追い立てられ…
 
 25年後、失意を抱えたまま定年退職となったベンハミンは心残りだった事件の足跡をたどるうち、衝撃の結末に至る。そしてもう一つの心残りだった、自ら身の程知らずと諦めていたイレーネへの慕情。キーワードとなるのは冒頭と結末で彼がノートに書きつける、二つの言葉。興を削ぐのでアルゼンチンの公用語であるスペイン語から、英語に移し替えていうとfear(恐怖)とdear(親愛)。それは25年前すでに若いイレーネには似合わない中年男だったベンが内心に抱いていた劣等感・愛への恐れだったのか。
 …それとも彼が垣間みた、権力の恐ろしさか。作中の事件と前後して勢力を拡大した軍部が1976年にクーデターを起こし、アルゼンチンは「汚い戦争」と呼ばれる国家テロの時代に突入する。

 ビリー・レイ監督によるリメイク『シークレット・アイズ』(2015年)の歳月は、25年から13年間に圧縮されている。原作がアルゼンチンの暗い時代を暗示したように、ハリウッド版の翻案は9.11テロ直後をいわば「アメリカが最も暗かった時代」として選んだ。
 大きな変更点がいくつもある。まず、ジュリア・ロバーツは主人公が憧れるエリート検事ではない。そのポジションにいるのはニコール・キッドマン演じるクレア。ロバーツが演じるのは主人公レイ(キウェテル・イジョフォー)の同僚の捜査官ジェスで、殺害されるのは彼女の17歳の娘なのだ。ベン・イレーネ・パブロの三人が正義感と職業倫理で、いわば外部から関わった事件に、母であるジェスも親しい間柄だったレイも当事者として呑み込まれる。二人をそれぞれ突き動かすのは、犯人への憎しみと、「あのとき自分が…していれば」という悔恨だ。
 テーマは「内在化」「内面化」かも知れない。犯人が「アンタッチャブル」になる経緯も単純ではない。原作の犯人は捕まってから「逆転ゲーム」で権力の後ろ盾を得たが、『シークレット・アイズ』の犯人は当初から対テロの情報提供者として手が出せない立場にある。テロとの戦いは、当時のアメリカにとって絶対の大義だった。それが偽りだったのではないかと自問されている今でも、9.11で失なわれた人命や傷まで否定されることは許されないのだろう。
 
 善vs悪・法vs無法・正義vs権力との癒着、シンプルな二元論で描くことが許された20世紀のアルゼンチンと違い、21世紀のアメリカは善と悪の単純な腑分けを許さない。悪は自らに内在するもので、正義の行使も悪を含まざるを得ない。言い替えれば『シークレット・アイズ』はアメリカ=権力=国家=正義がその行使の段階で悪を内在させる・正義が暴走したり正義が独善的に振る舞うことは認め、それを糾弾するが、アメリカそのものの善性の否定・自国そのものが悪に乗っ取られ腐敗の帝国と化したと認めることは許さない、のかも知れない。
 権力が振りかざすfear(恐怖)に対して、dear(愛)がなす報復の容赦なさは『瞳の奥の秘密』の「見せ場」の一つだったが、そうシンプルに「愛」が勝つことも『シークレット・アイズ』では許されない。まるでfearとdearの相克に、fair(公正さ)が介入するように「それはダメだ」「気持ちは分かるが、それを物語の解決にしてはいけない」と原作を覆す。むしろ、原作において(アルゼンチンの物語として)最も大事だったかも知れないその一点を、(アメリカの物語として)否定するために作られたリメイクとすら思えてくる。確信犯の仕事なのだ。
 実際『シークレット・アイズ』の「添削」ぶりは凄まじい。主人公たちを事件の外部から内部の当事者に移し替えたのもそう。権力の後ろ盾を初期設定に移し替えたのもそう。現代パートのドラマを増やし、バランスを取っている。原作で主人公たちが犯人を追い詰めるため利用する、いくつかのアンフェアな行為も削られることなく再現されながら「ほら、アンフェアだから上手くいかなかったんだ」という側面が際立つよう、巧みに翻案されている。主人公が婚約者(のちには夫)のいる女性に寄せる恋心も、原作とは異なる場所に着地して「あーそっちかー」となる。
 総じて言うと『シークレット・アイズ』は作家にとってリメイク・翻案・換骨奪胎のお手本となる、模範的な作品だ。原作の緩いところはキビキビと締まり、勢いで押し切った箇所には丁寧な必然性のパッチが当てられている。そのうえで、9.11と言うより、それ以後の自らの行動でアメリカが負った傷や負債を、苦い結末に反映させた一作でもある。結末の変更は議論を呼ぶかも知れないが、原作の容赦ない結末が暗い一つのカタルシスを与えたように、それが(理屈としては内在させながら)表立っては切り捨てたかに見える反面に、キチンと言葉を与えていた。

 そして、丁寧に添削された『シークレット・アイズ』を並べることで、『瞳の奥の秘密』の刈りこまれない「情」も際立って見える。これはリメイクの徳と言うべきだろう。
 特に際立つのはパブロという敗残者のもつ哀しみと、敗残者だから犯人に肉薄できる哀しい智慧、敗残者なりの正義と主人公への哀しい献身だ。それに『シークレット・アイズ』が現代アメリカの言うなれば恥部=つつけば痛い腹を敢えて掴むように、『瞳の奥の秘密』は自国が最も腐敗していた時代の「恐れ」=恐怖による支配・その恥辱を無情にあばきたてる。その、リメイクに比べると素朴な善悪の二元論は、アルゼンチン(に生きる制作者)が負った恐怖と恥辱の深さをこそ、物語るのかも知れない。
 
 最後にやはり、問わなければならないだろう。『瞳の奥の秘密』と『シークレット・アイズ』、今の日本はどちらに近いだろうかと。前者が「汚い戦争」に前後する時代・後者が9.11後の自国が最も好戦的だった時期を自らの暗部としたように、吾が国にとって最も暗く、恥辱に満ちた腐敗の時代があるとしたら、それは2012年〜2020年・もっと続くかも知れない「今」を置いて他にないだろうと。幸いにも殺人事件ではなかったが、時の権力者=総理大臣と昵懇の間柄だという理由でレイプ犯が不起訴となりおおせたのは(アメリカでもアルゼンチンでもなく)他ならぬこの日本なのだ。
 ・伊藤詩織さん、TIME誌「世界で最も影響力のある100人」に選ばれる 大坂なおみ選手も(ハフィントン・ポスト)(外部サイトが開きます)


狼のトライアングル〜イ・ウォンテ監督『悪人伝』(2020.09.27)

 もし先生が宰相に取り立てられたら、どのように国政を改めますか。弟子に問われ、孔子は「必ずや名を正さんか」と答えたという。
 名とは名詞、という理解で良いのだろうか。政治の話なのに、なんだってそんな迂遠なことを…と訝しむ弟子に、孔子は言う―いや子曰くですかね―
「名が正からざれば、則(すなわ)ち言は順ならず。言の順ならざれば、則ち事は成らず。事が成らざれば、則ち礼楽も興らず。礼楽が興らざれば、則ち刑罰は中(あた)らず。刑罰が中らざれば、則ち民は手足を措くところなし」
 
孔子の教え=儒教すべてを肯定するつもりはない。しかし「物事に与えられた名が正しくなければ(中略)司法も正当に行なわれず、民草は手足の置き場もなくなる」と(礼楽などは端折って)まとめると、昔も今も機能不全に陥った国家への嘆きは変わらないのだなあと、2500年前の孔子先生に妙な親しみが湧いてくる。
 政府による脱法行為が通例化した第二次安倍政権・8年間の罪状として「言語の破壊」を筆頭にあげる人は少なくない。国税を使って自身の支持者だけを「桜を見る会」に募集したのではないかという国会での追求に対する答弁は幅広く募ったが、募集はしていない

 「レイシズム」「ヘイト」のように政治的に重要な言葉の意味を、差別する側が勝手に捻じ曲げ、議論不能にしてしまう―Linguistic Hijacking(言語的ハイジャック)という術語が提唱されているらしい。日本語圏でも言葉を「簒奪」すると近頃よく言われる(僕もよく使っている)のと、同じ現象だろう。「表現の自由」は元々、国家権力による検閲や言論弾圧からの自由をさす言葉だったが、今は発言や作品を批判されたときに振りかざす言葉として便利に「ハイジャック」されてしまっている。
Linguistic Hijacking(Derek Anderson/ボストン大/Feminist Philosophy Quarterly)
 (英文)(未読)(外部サイトが開きます)
 「憲法改正」「歴史修正主義」も、「正」という字を入れてくれるなと思う。これまで物証や傍証・研究を積み重ねて確定してきた史実を「虐殺はなかった」と感情で攻撃する行為が、あたかも議論に足る主張であるかのように粉飾される。まず「名」を正すべきなのではないか。

 …無差別殺人も、「誰でもよかった」という弁明とともに、正されるべき「名」かも知れない。実際に行なわれるのは、往々にして「差別殺人」だ。誰でもよかったと言いながら、自分より体力で劣る女性や子供をターゲットにする。
 本当に「誰でもいい」なら、自衛隊の駐屯地かヤクザの事務所にでも刃物を持って乗りこんでみやがれ―そんな怨嗟の声もしばしば上がる。自衛隊とて民間人に銃は向けられないし、ヤクザにも人権はあるから、実際にはそれでも良くはないのだが―
 韓国でも同様の「言語的ハイジャック」があるのかは不勉強で存じ上げない。だが「誰でもよかった」連続殺人犯が、本当に「誰でもよくて」ヤクザの親分マ・ドンソクを襲撃する映画『悪人伝』が、その設定だけで日本で喝采されたのも無理はない。

 もう一度いいます。「誰でもよかった」とうそぶく(まあ劇中でうそぶいたりはしないけど)無差別殺人犯が、本当に誰でもよくてヤクザの親分マ・ドンソクを襲撃する
 設定勝ちである。出落ち感もある。だが出落ちではない。『悪人伝』の面白さが引き出されるのは、ここからだ。
 誰でもよかった標的の一人として、たまたまヤクザの親分を襲った快楽殺人犯。刺されるわメンツを潰されるわで激怒するヤクザの親分。そこに、各地の事件を同一犯の連続殺人と見抜き、犯人確保に血道を上げるヒラ刑事が絡むことで、ガゼン話が立体的になる。
 
 予告編では(ただの「刑事」だと他の二人とバランスが悪いので)「暴力刑事」と謳われてるが―実際に乱暴な言動の男だが―ドンソク親分が率いる反社会的組織(違法ゲームで稼いでいる)を目の敵にして抜き打ち摘発を仕掛けるし…ということは警察とヤクザの間で「抜き打ち摘発はよそう」的な手打ちが打たれてるわけで、それにも批判的な「はみ出し刑事」「正義のためには手段を選ばない」むしろ悪を憎むという点では模範的なデカ。つまり刑事にとっては連続殺人犯もドンソク親分も、裁かれるべきホシ。ドンソク親分にとっては刑事も殺人鬼も敵。殺人鬼は…まあ二人のことなど知ったこっちゃないが話が進むにつれ逆襲に出る。互いが互いに相容れない「料理の三角形」のような関係なのだ。
 この、互いに相容れないはずの狼のうち、刑事とマ親分が、まずは最凶の狼を倒そうと手を組む。
 
 警察内部での対立関係と、ヤクザ組織の内部抗争をそれぞれ抱えながら共同戦線を張る二人。一方、淡々と殺人を重ねる犯人。悪には妥協しないはずの刑事が、マ親分に捜査情報を横流しし、ともに対立組織に襲われ一緒に殴られるうち、だんだんヤクザと同類になっていく。もともと似たような軍隊的・体育会系・ホモソーシャルな組織なのだろうとは語弊があるか。ついには親分と刑事、二人がギャング映画ふうに並んでスローモーションで闊歩し(両脇にはズラリと並んで頭を下げるヤクザの子分たち)、警察とヤクザが「よーし頑張ってホシを捕まえようぜ!」と宴会で盛り上がってしまうさまは笑いを誘う。刑事ときたら、宴席の乾杯でうっかり親分に対し「目上の人を前にしたときのビジネスマナー」をやらかしてしまうのだ。

 しかし、この「似た者同士」かも知れない二人は結局、相容れることはない。単純な追いかけっこでなく狡猾な頭脳戦・最後には法廷バトルまでサービスされる殺人鬼との闘い=「この殺人鬼を野放しにして逃してしまうのか」というサスペンスは、同時に「犯人として法で裁きたい刑事」「私的に殴り殺したい親分」どちらが先にホシを確保できるのか・観ている自分はどちらに肩入れするのかというハラハラに乗っ取られてゆく。映画は終盤に二転三転。具体的には述べないが、最後は法と正義をつらぬく刑事と、暴力に生きるしかない親分の訣別に終わる。栄えある場で表彰される刑事とのコントラストで、「悪人」の道を破滅にひた走る親分の姿は、雄々しくも悲劇的に見えてしまう…

 …と思ったら、わりとそうでもない。7月の初映を観て、この9月に地元のミニシアターで再上映があったので、自分の印象の細部を検証すべく再び観に運んだのですが、ヤクザ道=暴力しか生きる道のないマ・ドンソク親分、イキイキしてて楽しそうじゃないですか。
 たぶん観る側のスタンスや、なんならコンディションによるのかも知れない。「お前だって俺と同類だ、人を殺すのが楽しいんだろう」と愚弄する殺人鬼を「ふざけるな」と拒絶するドンソク親分は虚勢を張っているのか、本当に二人の暴力は(言うなれば)「筋のとおった暴力」と「理不尽で無差別な暴力」に二分できるのか。ドンソクの「家族を殺されて黙ってられるのか」という台詞がヒントにはなるだろう。だが、その内心は外からは確定しがたい。
 しかしそこを深く考えて眉根をよせることが、本作の味わいかたではない気がする。基本的に「面白かれと考え抜かれた娯楽作」として、伏線の回収や展開の妙味を満喫していい作品ではないでしょうか。
 そう観ているわけでもないが、韓国映画の連続殺人鬼ものは、観ていて本当にしんどい。ハリウッドのサイコ・サスペンスとはわけが違う。「お前ら、人が殺されるなんて酷いことを娯楽として消費して、いい気分で帰れると思うなよ」そんな倫理観の発露ではないかと思われるほど、観たあと後悔する。秀逸なストーリーや、よく出来たサスペンスをもってしても、その陰惨さは変わらない。『チェイサー』『殺人の追憶』『悪魔を見た』『殺人の告白』…いや、もう無理だ、どんなに高潔なメッセージがあろうと、逆にどれほど面白い作品でも、韓国映画で無辜の市民が無残に命を奪われる映画はいいです…そんなふうに思う人は、自分だけではない気がする。
 『悪人伝』は、無差別の連続殺人を描きながら(韓国映画では)奇跡的に見やすい作品になっている(それがいいことなのか悪いことなのか分かりませんが)。実際には無力な人々の命も無慈悲に、残酷に奪われているはずなのだが「よりによって親分(しかもマ・ドンソク)を」のインパクトと、並行して描かれるヤクザの内部抗争で「無差別殺人」そのものの残虐性に手心が加えられ、観る者を削らないのかもしれない(いいことなのか悪いことなのか分かりませんが)。

 登場人物たちが皆、見てて気持ちのいい連中だということもある(半分は反社会的な組織の人間なので、これも良し悪しですが)。ドンソク親分の腹心・対立する親分の腹心・はみ出し刑事の部下くらいまではキャラ立ちもキッパリしていて、かつ基本的に性格がいい。いや、対立する親分の腹心の部下あたりは狡猾そうで性格も悪そうっちゃ悪そうなんだけど、己の本分を忠実に守ってる感があって不思議と憎めない(そうした忠誠心は儒教と同じで全肯定していいのか疑問だけど)。
 その憎めなさの要が、マ・ドンソク親分なのは言うまでもないだろう。かつて彼の演じる役柄を「己の凶暴さを自覚して「お嬢さんお逃げなさい」と村娘を促す、森の熊」と評したのは自分ですが。
 「誰でもよかった」で老若男女を無差別に刺す殺人鬼とは対照的に、ドンソク親分はカタギに暴力を振るわない。敵と決めたら半殺しにし、腕力で相手の歯を(えーと、後は言えません)する暴力の鬼だが、雨に降られた女子高生に「たくさん勉強しなさい」と中年男の説教をかましながら傘を貸す。殺人鬼との対決シーンで、巻き込まれた女性たちを救う場面はヒーローそのもの。それどころか、自分を襲おうと車を追突させてきた殺人鬼まで「弁償とかいいから」許そうとしてしまうのだ。
 もちろんそのジェントルさは、無辜のカタギの人々を「はなから相手にしてない」冷たさかも知れない。たとえばそのカタギ衆が、自分の運営する違法ゲームにのめりこんだら、親分は容赦なく「自分たちの同類」として食い物にするだろう。その意味で彼は、やはり救われがたい悪人・暴力の世界に生きる男だ。それでも、その善行ゆえ、そして暴力を振るうときの「チェッ、仕方ねぇな」という表情ゆえ、本作でも彼は暴力の世界にどっぷり浸かりながら、それを批評的に体現した存在として「有害な男らしさの称揚」を奇跡的に免れているような気がした。
 (マ・ドンソクが体現する「有害な男らしさの解毒」と、その限界?について、こちらで詳述してます→2019年12月の日記参照)。

 まあ分かりません。先述した警察とヤクザの宴会シーンで、下っぱのチンピラのひとりが「俺、アイドル研究生だったんス!盛り上げるために歌います!」とダンスを始めるのには笑ったし、その後しっかり反社会勢力としてお縄になってるのを見て(ヤクザにも人生があるんだなあ…)と、いやソコは何か「人の業の肯定」みたく暖かい目で見ちゃっていいのかと悩みはすると思います。けれどまあ、それも含めて上質な娯楽作。
 地元ヨコハマのミニシアターでの再上映に合わせ、内容とぼしいわりに水増しして字数の多い日記ですが、取り急ぎまとめてみました。長雨の季節、湿っぽく肌寒い伊勢佐木町に、なんだか似合う佳作ですので是非。
悪人伝(10/2まで・シネマ・ジャック&ベティ)(外部サイトが開きます)

香港がワルだった頃〜バリー・ウォン監督『追龍』(2020.09.20)

 冒頭、こんな主旨の字幕がスクリーンに現れる。「かつて香港は腐敗した悪徳の都だった。ヤクザと警察が裏で結託し、麻薬で街を支配していた」…これから始まるのは、それに敢然と立ち向かったヒーローの物語、そう期待しても無理はない。だが違う。本作品はけっして暴力を賛美し、犯罪を助長するものではありません的な形式上の「おことわり」だったのかも知れない。『追龍』は、腐敗時代の香港でヤクザ(いわゆる黒社会)と警察それぞれを牛耳った、二人のワルをこそ描く映画だった。
 2017年・香港、バリー・ウォン監督。ちょうど同年秋、旅行で訪れた台湾・台北でも劇場公開中で…時間を作れず見逃した。ひょっとしたら日本には来ないのではないか。どうやら来ないらしい。諦め半ばに想いは募り2020年3月、ついに6月下旬の日本公開がアナウンスされる。だがその直後からコロナ禍で映画館が軒並み自粛を余儀なくされ、業界自体の存続が危ぶまれ…この時期が一番つらかったかも知れない。最終的に「7月に延期」だけで済んだのは御の字でしょう。
 
 そう御の字。逆に期待しすぎず行こう、多少出来が残念でも観られただけで御の字くらいの気持ちで行こう…そんな覚悟で公開初日の映画館に向かい、映画館に入り、上映が終わり、映画館を出て、主演のドニー・イェンとアンディ・ラウが立ち並ぶサイン入り特設ポスターを観ながらボンヤリ思った。…現時点で本作、今年のベストなのでは?

 ドニー・イェン。ジャッキー・チェン、ジェット・リーの後に続き(もっと言えばその前にはブルース・リーがいたわけですが)香港アクション界を牽引するスーパースター。二つ名は「宇宙最強」。ハリウッドに進出しての『ローグ・ワン〜スターウォーズ・ストーリー』では、ライトセイバーも銃も使わず長い棒一本で帝国軍をバッタバッタと薙ぎ倒す武僧を演じた。ブルース・リーの師匠にあたる詠春拳マスターを演じた『葉問(イップ・マン)』シリーズの完結編も、同じ7月に日本公開されたばかり。
 「幅の広い演技者」と言われたいタイプなのだと思う―近作は坊主に近い短髪がデフォルトだったが『追龍』ではまさかのパーマ。出落ちか、ネタかと思いきや、得意のアクションも封印・義理がたいが直情的なマフィアのボス・シーホウで新境地を開いた。
 

 一方、どの作品でも安定のアンディ・ラウ。こちらも香港を代表する俳優にしてミュージシャン。タフでクールで、イヤミなくらい格好よく、悪役も映える「心にやましいところがありそうな」ハンサム。警察がマフィアに送りこんだ潜入捜査官と入れ違いで、マフィアのほうが送りこんだスパイとして警察内部でまんまと昇進していく『インファナル・アフェア』でブレイク。自らの出世作にもなった同作に立ち返るように、『追龍』では上司の娘との婚約を足がかりに栄達の道を邁進する・逆に言えば己の魅力と才覚以外に後ろ盾のない、野心家の警察官ロックを演じている。
 
 シーホウとロック。お互い何物でもなかった二人が出会い、手を結び、ここから義理あり人情あり恩義あり裏切りあり、意地と卑屈と忍従と怒りのちゃぶ台返し、暴力、暴力、暴力の物語が展開していく。
 そう、香港なら香港という器に「盛れるだけ盛った」、描けるすべてを描きつくしてやろうという、こういう作品に自分は弱い。ここがイイ、ここが刺さるとピンポイントで突いてくるのでなく「面」で、これでもかと全面で面白さを押しつけてくる。観ているうちに「ありがとう、あの頃の香港の姿をこんな形でそっくり描き残してくれて」と、知りもしない「あの頃の香港」をこよなく愛していた錯覚に陥る。

 圧巻は成り行きで悪の道に踏みこんだシーホウと仲間たちが逃げこみ、根城にしていく九龍城砦だ。その、せせこましい存在感。登場早々はチンピラのケンカ・後半は杖をつく身となったドニー・イェンゆえ華麗なカンフー・アクションなど見せられないかわりに、人ひとり通る幅しかない・そのかわりドアあり隠し扉あり段差あり上下からの攻撃ありと、ダンジョンばりな城砦内での乱闘は泥くさくもトリッキーで(その風物が今は失なわれたことを思うと)文化遺産のよう。
 
 九龍城は映画の描く「あの頃の香港」を凝縮させた中心だが、物語の香港は遠心的にも広がっている。シーホウ率いる一党は、食い詰めて密航してきた大陸出身者で、香港で一旗あげてさらに家族を呼び寄せるのが夢だ。のし上がった彼が郎党とともに乗りこむのは、タイの麻薬地帯。一方、ロックが属する権力組織の頂点には「本国」イギリスから赴任してきたラスボスがいる。
 「本国」イギリスから来たワルに、それと癒着した黒社会の旧支配層。共通する敵を相手に結託した、若い二人は出世するにつれ、しだいに反目も深めてゆく。互いにスパイを送りあい、猜疑心で罠を仕掛けあい…
 それでも裏切りや疑心暗鬼より、圧倒的に「信頼」が幅をきかすのが『追龍』だ。同郷の絆でむすばれたシーホウの手下たちは命を落としかねない異郷の銃撃戦のなかでも「俺たち最期まで仲間でいれてよかったな」と言わんばかりの兄弟愛を見せつける。シーホウの実の弟・ヘロインで身を持ち崩していくインテリ少年が見せる意気地。終盤にサプライズで明かされる、思わぬ人物の献身。後ろ盾のない…と書いたロックの傍らにも、食えない部下(演ケント・チェン)がひとり付き従い、彼に忠誠を尽くしていく。片足の自由を失なったシーホウを看たことがキッカケで二度目の妻となる看護士も、悪行の果てに香港脱出を画策するロックの(元は出世目当てで結婚した)妻も、愛情というより「ワルの同志」のように見えてくる。
 
 まとめます。香港なら香港という器で出来ることをすべて盛りこんだ作品。アクションあり策謀あり「人の業を肯定する」と言わんばかりにあらゆる負の感情を憐れみながら描きつくしてなお、それらを(共犯意識とも言える)信頼と献身が圧倒する物語。いや、まだ足りない。
 そうやって怒涛の「面」で押してくる物語が、あらゆる局面で火花を散らしながら、しかも最終的には(手を結びつつ別々の道を歩み続けた)主人公ふたりの訣別に収斂していく。世界に二人だけが残され、その二人が袂を分かつとき、暴れまわったドラゴンの目に、点睛が刻まれる。
 「語り尽くせない見どころと、それらを貫く、ただ一本の線
 …こういう時とかく使ってしまいがちな「とにかくすごい」を、どうにか別の一文に置き換えることが出来ただろうか。

 クライマックスシーン。それまで疑いあい反目しあい、なんなら命を狙いあったシーホウの名を、悲痛な声でロックが呼ぶ。たぶん通り名の「跛豪」と呼んだのだろう。それがまるで「阿豪!」(「阿○」で○○さん、○○ちゃんという愛称になる)と叫んだように聞こえた。ロードショー期間は終わり、次に観られるのは配信かDVDかだけれど。そのころ、本作でかくも愛された香港がどうなっているか、どうか香港らしい香港のままでと祈るほかないけれど。別に「跛豪」と呼んでいてもいいのだ―アンディ・ラウの悲しい叫びを再確認したい。
 ・映画『追龍』公式サイト(外部サイトが開きます)
 
 (すみません、もう上映終わったかのように書いちゃったけど、鹿児島市・刈谷市では9/24まで・そのほか9月下旬以降に公開の映画館たくさんあります。公式サイトをご参照…)

失なわれる受難(2020.09.13)

 ●8.6と9.1の注目点が慰霊から「ヘイト」に移ったこと
 9月1日と8月6日は、かたや関東大震災・かたや広島への原爆投下で10万人単位の命が奪われた日だ(以下9.1、8.6と略する)。前者(1923年)の二年後に治安維持法が制定され、原子爆弾投下をもって降伏(1945年)が決定づけられたと考えると、日本がファシズムに傾倒した時代を二つの災禍が標識のように挟んでいるとも取れる。

(むろんそれ以前に台湾併合や韓国併合があり、また治安維持法の1925年は男性のみとはいえ普通選挙法の年でもあるのですが)
 8.6には広島で平和記念式典が開かれ、9.1は防災の日。ともに人々の受苦に思いを馳せ、死者を追悼する節目だった二つの日付。だが今年はどちらも、まったく異なる意味合いで語られることになった。

 まず8.6について。今年はNHK広島がキャンペーン「ひろしまタイムライン」を実施した。1945年にSNSがあったらという設定で成人男性・成人女性・少年=三人の「アカウント」を作成し8.6の数ヶ月前から人々の生活や見聞をTwitterで発信、現代の人々が原爆禍を追体験する主旨のコンテンツだ。啓発的な試みと評価される一方、一面的な切り取りになることへの懸念もあり、賛否両論だった同イベントは、しかし予想外の形で大炎上することになった。
 最年少の男子という設定のアカウントが、8.6を経て8.15→敗戦後の混乱の日々に、吾々は戦勝国の人間だと驕る朝鮮人たちに暴力を振るわれ嘲弄された…と憤る「発言」を発信。遡って6月の時点から彼らが蛇を食べていただの「もうじきお前たちは敗けるヨ」と片言の日本語で言われた等、当時の広島にも多く居た朝鮮人たちへの侮蔑や憎悪を煽る発言を繰り返していたと判明したのだ。
 実際の広島では朝鮮半島出身の住民もまた、原子爆弾の惨禍に見舞われた被害者であった。当時の人々が置かれた状況を思えば、日本人より過酷なこともあったろう。「普通の日本人」三人のみに集約された「当時の再現」は、そうしたマイノリティの存在を拾いそこねてしまうのではないか。そんな懸念は皮肉にも、斜め上(だか下だか)の形で的中してしまった。少年のモデルとなった人物の当時の日記にない発言が別の資料から盛り込まれたり、アカウントの文言を作成する現代の中学生たちが「当時の感覚になるため」教育勅語の書き取りをさせられたり、「ひろしまタイムライン」は多くの問題を抱えたコンテンツだったことが明らかになる。
 その後も新たな問題点の掘り起こしが跡を絶たないのだが、とりあえず暫定のまとめ→
(1)"炎上"は何故起きた?5分で理解る「ひろしまタイムライン」の抱える大きな課題。
 (Acceso./NOTE)
(外部サイトが開きます)

 順番が逆になってしまったが、9.1にまつわるヘイトの問題は「ひろしまタイムライン」に先行していた。2017年に就任した小池百合子都知事が、それまで歴代の都知事が9.1に発していた朝鮮人虐殺に対する追悼文を出さないと決めたためだ。
 さらに横網町公園の朝鮮人犠牲者追悼碑の前で行なわれていた慰霊祭に、虐殺を否認する右翼団体が押しかけ、同じ場所でヘイト街宣をする問題が生じていた。これに対し今年、都が慰霊側とヘイト側の双方に「騒ぎを起こさない」とする誓約書の提出を要求。慰霊祭をヘイトスピーチで挑発し、カウンターや反発が起きようものなら「騒ぎが起きた」として諸共にイベントを中止に出来る。ヘイト側を利する要求は、多くの反対が寄せられ取り下げられたが、今年の9.1でコロナ禍を鑑み朝鮮人犠牲者追悼式典がオンライン開催となる一方、ヘイト団体は構わず公園で「真実の慰霊祭」を実行したようだ。
 このヘイト団体で、かつて(都知事になる前の)小池氏は講演を行なっている。朝鮮人の犠牲者も「関東大震災の犠牲者」として一緒に追悼しているから良いのだという都知事になってからの見解が、こうしたヘイト団体の主張に適うことは言うまでもない。地震や火災などの災害で命を落とすことと、「井戸に毒を入れている」などのデマを信じた日本人によって虐殺されるのは「一緒」でないことも、説明するまでもないだろう。
 このあたりで釘をさしておくと、問題なのは1923年や1945年のこと(ばかり)ではない。過去に朝鮮人に対する憎悪を日記につづった人が、後に当時の自分を省みて考えかたを変えることもある。逆に過去のあやまちを「あやまちではない」と否認することも。そして、過去にことよせてヘイトや差別を訴えるものが、現在のマイノリティに対して、どのような態度で臨むか。
 ●過去をどう扱うかは、現在の吾々自身をどう扱うかの問題であること
 ここまでは、すでに知られていることの再確認である。
 ここから、あまりされていない(と思われる)話をする。

 ●朝鮮人を除外することで日本人の「慰霊の取り分」が増えたわけではないこと
 当時、あるいは自発的に、あるいは半ば強制的に、あるいは強制的に日本に住まっていた朝鮮半島出身の人々。8.6と9.1、二つの惨事で被害を受けた彼らから「被害者」という属性を剥奪することで、同じ惨禍に遭った日本人は「被害者」としてより多くの取り分を得ることが出来るのだろうか。
 そうではないように思われる。
 
 ●むしろ日本人の慰霊まで一部「ヘイト」に置き換えられてしまったこと
 ひろしまタイムラインや、(草の根から都知事まで一体となった)関東大震災における朝鮮人虐殺の否認が示しているのは、8.6や9.1という本来は「被害を受けた人々を追悼する機会」だったものが「レイシストのヘイト祭り」として簒奪されてしまった現状だ。その簒奪された分には、当然、日本人の被害者に向けられるべきだった慰霊も含まれている。
 「サヨクがあれもヘイトだこれもヘイトだと騒ぐから、本来は慰霊の機会だったものが台なしにされたのだ」という反論は(どちらが先に「仕掛けた」か考えれば)盗人たけだけしい見当違いだと分かる。「ひろしまタイムライン」の少年アカウントは進駐軍の兵士ではなく、自分たちが抑圧し差別してきた朝鮮人に憎悪と被害者感情を向けた。それは戦争に対する抗議ですらない。8.6や9.1に対する意識が、災禍を被った人々の追悼や痛みの共有から、差別感情の肯定・再生産へとシフトしつつあるのではと懸念する所以だ。

 ●「被害者の追悼」が「日常を生きた人々の顕彰」に変質しつつあること
 ヘイトによる簒奪だけではない。ひろしまタイムラインと並行して今夏、マスメディアが主導するかたちで行なわれた1945年を振り返る企画が「あちこちのすずさん」だ。
 すずさんは(これまた)言うまでもないかも知れないが、こうの史代氏の漫画と片渕須直監督による映画化作品『この世界の片隅に』の主人公だ。戦時中の窮乏や原子爆弾の投下・敗戦までを一人の主人公の体験に集約した物語が、逆に沢山の「すずさん」が居たのだと普遍化されたことになる。
 問題は「すずさん」が「戦争の中にも日常はあった」「泣くこと笑うこと、愛したり悲しんだりすることは、戦時中でも平和な時代でも変わらない」というメッセージの担い手として認知されたことだ。社会現象としての「すずさん」は、異様に水増しされた代用ごはんに四苦八苦したり、呉の軍港で暢気にスケッチをしていて憲兵に嫌疑をかけられ「こんなに抜けてるスパイがいるものか」と嫁ぎ先で笑い話になるユーモラスな存在だ。
 原作の漫画や映画は、すずさんと彼女を取り巻く世界を多面的に描く。だが、本人の意思なく結婚を決められ、嫁ぐや家政すべてを(それも戦争末期の窮乏下で)背負わされる、あるいは銃撃で義理の姪と自らの片手を失なうといった受苦・被害の側面は、すずさんが「すずさん」的なもの・「あちこちのすずさん」として普遍化されるにあたり、脱色され漂白されはしていないか。あるいは、憲兵に見咎められても笑い話では済まず、それこそ治安維持法や何やかやで拷問され、落命した多くの人たちがいた事実は。
 ロングランの大ヒット作となった映画が再上映された劇場の物販コーナーでは、パンフレットなどと並んで「すずさん」のイラストを箱にあしらった帝国海軍の戦艦のプラモデルまで販売されていたという。
 
 原作や映画には、すずさんが自らの加害性に気づき号泣する(と取れる)場面がある。だが、そうした他者への加害性も、被害=吾々自身に対する加害性も「戦争中でなくても、とかく人生はままならないものだ」という形で中和する危険性が「すずさん」受容のストーリーにはある。「そうした苦労をユーモアや丁寧な暮らしで乗り切るのが良いのだ」あるいは「戦争だろうと窮乏下だろうと、あるいは結婚も自分の意思で決められない家父長制社会でも、泣いて笑って愛した人生は輝かしいのだ」という「話のずらし」がある。
 もちろん、どんな暗い時代でも抑圧下でも人生は輝かしいし、その尊厳を他にはない形で照らし出したからこそ『この世界の片隅に』は傑作たりえた。けれど、すずさんの「すずさん」化には、戦争という特別に加害性を持った人や社会の営為をあたかも自然災害と同様のように漂白し、そのシステムに押しつぶされた人々を「健気に生きていた」「輝かしかった」「いっそ勝ったと言ってもいい」「勝者」に仕立て直す、詐術がありはしないか。
 もういちど言う。過去をどう扱うかは、現在の吾々自身をどう扱うかの問題だ。1945年のすずさんを「健気に生きてたから素晴らしい」「すずさん」に変形するのと同じメカニズムで、吾々は3.11(東日本大震災)の被災者や、日付のないコロナ禍に見舞われた現在の吾々に「ポジティブに立ち向かう」ことを強いてはいないか。助けてくれと泣き言をいうな・自ら助け「絆」で共に助け合え、そして何なら己を犠牲にして公を助けろ。
 そのような物語を公によって押しつけられる人々の類型を、カギカッコつきで仮に呼ぶ「すずさん」とは別に、もっとモデル化された存在として、吾々はすでに知っている。戦争に駆り出され、戦地で落命しながら「彼らの犠牲のおかげで現在の繁栄がある」と呼ばれる存在―「英霊」だ。吾々はすでに8.15を知っている。閣僚や、軍服のコスプレをした人々が靖国神社で(当事者たちの意思を無視して)「英霊」を称える日。そうした参拝が、旧日本軍の侵略を受けた近隣諸国の感情を害し、傷つけると分かったうえで行なわれるヘイト祭り。すずさんの「すずさん」化が、8.6や9.1のヘイト化が、あるいは自助や共助を押しつける政策が行きつく先は、災害や疫病・あるいは困窮による「被害者性」を奪われた「英霊」化ではないだろうか。

     *      *      *

 ここまでモタモタ言ってきたことを簡潔にまとめると、こうだ。「被害者性を剥奪される日本人」。
 8.6や9.1といった追悼の機会を「ヘイト祭り」に乗っ取られ、また「戦禍や災害に負けない私たち」であることの称揚(強制)によって、吾々は他ならぬ吾々自身の被害者性を削り取ってきたのではないか。そして
 ●被害者性の剥奪は「ヘイト」の帰結であること
 どちらが卵で、どちらがニワトリか、今は断定できない。けれど現在のヘイトをめぐる問題として、いま自分の中には二つの言葉というかイメージがある。
 ひとつは新約聖書にある「迷いでた羊」のたとえ話だ。イエスが弟子たちに言う。「羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷いでた一匹を探しに行かないだろうか」「もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹よりも、その一匹のことを喜ぶだろう」(マタイによる福音書)。
 もうひとつは、今回のコロナ禍に関連して、古田肇・岐阜県知事が述べたという「私たちは在住外国人のことを外国籍の岐阜県民と言っている」という言葉だ。
外国人にコロナ予防周知 自治体、多言語チラシやSNS活用(岐阜新聞)(外部サイトが開きます)
 
 実を言うと、羊のたとえが若い頃にはピンと来なかった。はぐれた一匹の羊を探してる間に、残り99匹の羊が迷子になったり、狼に襲われたりはしないのだろうか。だが時を経て、今では違う視点から考えられるようになった。社会が災禍に見舞われたときに、在住外国人を「外国籍の吾々」として助けることは、はぐれた一匹の羊をまず助けることだ。はぐれた羊は外国人とは限らない。病気の者、困窮する者、障害のある人、シングルマザー、高齢者…はぐれた一匹を助けない羊飼いは、残り99匹の羊も見捨てることになる。
 もちろん吾々は羊の側でもある。自らが羊飼いを兼ねる百匹の羊だ。「天災や戦禍に乗じて、マイノリティを呪い排除したとき、吾々は吾々自身を被害者として遇する資格をも失なってしまう」という言いかたは少し乱暴で、ここまでの話の一面しか集約できていない。だが一匹の羊を見捨てることにした99匹の羊は、他のどの羊が「次の一匹」になっても、もうそれを助ける道理を持っていない、弱い者から次々に見捨てられていくという理解はどうだろうか。
 イエスは宗教家だから、その発言を社会に直に当てはめるのは、ときに危険かも知れない。だが福音書のこの言葉には(善きサマリア人のたとえなどと併せ)天国のことだけでなく、地上で人がどう社会を営んでいくべきか、示唆するものがあると思う。

●「慰霊」そのものの機能が社会から失なわれつつあること
 戦争や災害による被害者性を奪う者には、どうしても避けられない「風化」「時の経過」もある。
被爆資料2万点がほぼ死蔵 長崎原爆資料館 学芸員不足、調査分析追いつかず(石川陽一/共同通信)
(外部サイトが開きます)
先の戦争のことを、原子爆弾の被害を、受難を忘れてはいけない。忘れてほしくない。そう考える人たちがまだ沢山いらして、資料の供出を続けている。だが「対応にあたる学芸員はたった2人」「とてもじゃないが一つ一つの資料の精査まで手が回らない」。ここにあるのは単に(それはそれで大問題なのだが)文化全般にたいする軽視なのかも知れない。だが、この軽視にはまた行政の「いつまで被害の話をしているんだ」という意識もはたらいてはいないか。
人知れず消えた慰霊碑(NHKニュース)(外部サイトが開きます)

 ●「愛国」は「弱者としての国民を愛する」ことではなく「ヘイト」と「英霊の称揚」で出来ている
 ヘイトを振りまき、歴史を否認し、軍備や戦争への寛容を煽る者は「愛国」と口にする。だがそれは、国を構成する国民たる吾々自身を「愛する」ことではない。私は戦争や災害や疫病や困窮で被害を受けています、国を愛すると言うなら国民であり受難している私を救ってくださいと訴える者が「愛国」の対象として受け容れられることはない。「愛国者」に許されているのは、吾が国はすごいと称えること・それと表裏一体のヘイトと、自己を犠牲にして公に尽くすことだけだ。
 弱者や被害者を「社会の一員」として迎え入れず、他所者や足手まといとして排除し放逐し「吾々を憎んでくる敵」としてヘイト祭りの生贄に祭り上げるような社会は、自分たち自身からも弱者・被害者といった属性を剥奪し「英霊」の群れとなる。
 
 ヘイトはいけない、ということを「マイノリティへの攻撃だから」たとえば女性という不利な立場にいる者として、民族差別などで不利を被る人たちに共感できる・老いなどで弱者の局面に陥ることもあるのだから…という視点から考えることは、むろん大事だ。だが、ヘイトはマジョリティの側をも損なうのだ、あるいは数的にはマジョリティでありながら弱者になることだってあるのだ(収奪される国民=英霊にさせられるように)といった側面で考えられる機会は少ないように思う。今回の日記は、今まで使ってなかった筋肉を使うように疲れた。あるいは、間違った・無理な筋肉の使いかたをしているかも知れない。
 などと留保しつつ、最後につけくわえたいことは、こうだ。
 マイノリティや弱者の迫害と、社会の中心層(マジョリティ・いわゆる「普通の日本人」)からの被害者性の剥奪が連動しているだけではない。もうひとつ。日本人が日本人自身を保護されるべき被害者として・つまり「人として」敬意をもって遇さなくなったことと―先月末、病気を理由に辞任を表明した首相にたいして「まず感謝の言葉を述べるべき」「退任"される"と敬語を使え」といった崇拝が求められることも、おそらく無縁ではない。崇拝の強要は、すでに現首相の後継者と目される官房長官にたいしても「失礼なことを言うな」という形で現れている。それもまた、一方から削った分を、もう一方に盛ったに等しい、算数の問題なのだと思う。たぶん。
 ●ヘイトと被害者性の剥奪が、支配者への敬意の強要とも連動していること
 

 私たちは、ひと握りの支配者が独占しようとしている同情や敬意を、私たち自身の手元へと取り返さなければならない。そしてそのとき、同情や敬意に値する「私たち」には、真っ先に排除される対象であった弱者やマイノリティが、当然のように含まれていなければならない。
 最初にはぐれた羊のように。外国籍の岐阜県民のように。

圧倒的なオリジナリティ(への意志)〜藤のよう『せんせいのお人形』(2020.08.30)


 親戚をたらい回しにされた天涯孤独の少女・スミカを引き取ったのは独身男性の昭明だった。彼はスミカに言い渡す。「俺は教育するよ。君を」
 …という説明から想像・懸念・あるいは下世話に期待されるような全ての醜悪なことと、まるで真逆の展開をするのが藤のようせんせいのお人形』だ。言い落していたが昭明さんは「ショウメイ」と読む。そして彼はカトリック系お嬢様学校の、倫理教師。「君を教育する」は、文字どおりの意味なのだ。
 まずは立ちかたから指導する。頭のてっぺんに糸がついてて、垂直に上に引っ張られるのを意識して、背筋をまっすぐに。だがタイトルに相違して、昭明はスミカを思いどおりの操り人形にしたいのではない。どうせ自分はこんなものだと卑下せず、周囲からも「こんなものだろう」と見下されない、魂の入ったひとりの人間としての尊厳を、彼はスミカに与えようとする。言うまでもなく、それは誰かが「教える」のではなく、当人が自ら「発見」しなければ、最終的には得られないものだ。
 もちろんスミカは、昭明の期待に応える。学校でも「いたの?」と言われるネグレクトされた存在だった彼女は友人を得て、周囲を動かし、実は心にわだかまりを抱える昭明が(俺なんかより、よほどマトモな人間なのでは)と一目おく存在に、草花が伸びるように成長していく…

 「天涯孤独な少女が年上の男性に引き取られる」は、ひとつの定番・ジャンルと言ってもいいだろう。数多くの作品が生み出されている。下世話な欲望にまみれた、見たこともない醜悪なものもあるのだろう。傑作・名作もある。傑作・名作ではあったが、現在においては不適切だったり誰かに都合のいいファンタジイな側面だったりを、悲しく厳しく見直さなければいけない作品もあるだろう。
 『せんせいのお人形』は、そうした過去の類作につらなる最新の成果だ。過去の美しいところ・こころ動かすところを継承し、現代にふさわしくない点を改め、そして今までなかった新たなエピソードや美しい場面を付け加えている。伝統とは本来、そういうものであるべきだった。「過去に何度も語られたことだけれど、こんな描かれかたは考えもしなかった」先行作品の滋養を受けて、しかし先行作品になかった要素を加える。オリジナリティとは本来、そういうものではなかったか。
 …話が先走りすぎた。いったん手綱を緩めよう。
 

 ファンタジイではないので(あるいは本作のファンタジイは別のところにあるので)スミカは親戚をたらい回しにされたけど天才児…なんてことはなく、ふつうに、致命的に勉強が出来ない。高校に入れたのが謎だと言われるほど最初の段階でつまづいている彼女が、まともな保護者を得て初めて、勉強することの必要と意味に直面を余儀なくされる。家庭教師たちはサジを投げる。数式の解きかたではなく、数式を解くということ自体が理解できないのだ。
 昭明も、こればかりは助けることが出来ない。彼に出来るのは屋根裏にある膨大な積ん読の山を、彼女に開放することだけだ。現文が得意な学友に秘訣を尋ね、日本史が得意な学友に理由を尋ね(ゲームが入口の歴女だった)(刀剣が人の形になって主君とロマンスするらしかった)(まあそれは措くとして)、自分は自分に向いた勉強法を、自分で見つけるしかないとスミカは悟る。昭明が開放してくれた書物の山と、乏しいながら蓄えてきた感受性を頼りに「何のために勉強するのか」「学問とは何なのか」を彼女はひとりで探究する。
 僕はいわゆる「積ん読」は言い訳できない悪徳だと思ってるけど「前途有望な若者に好きに読みなさいと蔵書を開放できる」のは数少ない美徳かも知れない

 単行本で言うと、二巻の半ば。スミカが自分だけの「勉強とは何か」を導き出すエピソードは、本作がもっとも高い到達点をマークする瞬間だ。
 そこで案出された「答え」には参考文献もあるようで、どこまでが作者のオリジナルかは詳らかでない(本当は確かめてから日記を書くべきなのですが…すみません)。だが問題は、物語の外の楽屋話ではない。
 吾々は皆、学校で学問を身につける。1+1は2である。7×9は63である。聖武天皇は大仏を建立し、メサビ鉱山は鉄を算出する。プラトンのイデア・スピノザの汎神論といっても、吾々は誰かが要領よくまとめた内容を「そういうものなのだ」と渡されては呑みこみ、呑みこめなかったものは「身につかなかった」と諦める。三角関数を駆使し、シュレディンガーの猫をジョークの種にしながら、吾々は二次方程式もツルカメ算も、自分で案出することはない。
 子供の発想は柔軟?物心つく前からアンパンマンやミッキーマウスに囲まれ、既存の物語を大量に浴びた子供たちに、愉快な思い違い以上の「柔軟な発想」があるだろうか。自分の思いをストレートに赤裸々に描いた・語ったと誇らしげな若者の作品や言葉が「ありきたりな赤裸々」のパターンにはまりきった陳腐な作品なのを見るにつけ「オリジナリティ」という言葉が十分に咀嚼されないまま礼賛されていることの弊害を思う。オリジナルであることは、そう簡単ではない。
 …ネグレクトされ「注ぎこむ」教育を丸ごと呑みこめずに来た来歴が、逆にスミカというキャラクターを通して「誰かに答えを教えられるのでなく、自分で問い自分で答えを導き出した」奇跡的な瞬間を顕現させる。吾々の多くが学校では、ついに出会うことのない奇跡だ。それがどんなに得がたく貴重なものか、昭明には分かる。その観念的すぎる賞賛の言葉は、完全にはスミカに届いていないかも知れない。だが彼の祝福は伝わる。だからスミカは、会心の笑みを浮かべる。

 まんがの絵で表現される笑顔もまた、吾々が「笑顔はこう描くものだ」と教えられ呑みこんできた、コンベンショナルなものだ。端的な話、両目を逆U字型に閉じたものが「笑顔」だというのは日本のまんがにだけ伝統的な「あたりまえ」で、たとえば先週の日記で紹介したアメコミ『サンストーン』の登場人物たちは(目を細めはしても)目を閉じて笑うことはない。
 スヌーピーなどが目を閉じて笑うのは「嗤い」や「ご満悦」で、歓喜の笑みで目を閉じることはないという。
 学問とは何かを発見した(自ら「発明した」と言ってもいい)瞬間、スミカが浮かべる笑みは、既存の日本まんがの「笑顔」の域を大きく逸脱している。既存のまんがに慣れきった目には、ぶざまにすら見える。
 そうでなければならない。他の誰にも教えられず、自分だけの思惟で問いと答えを導き出した瞬間は、人生における奇跡だということ。(恋愛でも復讐でもなく)それこそが本作が提出できる最も高きもの・提出することで物語の歴史に加えることのできる貢献だと、作者は十全に知悉している。ならば、そこに至ったスミカの笑顔もまた「みんなこうしてるから」という定型的の描きかたで飾られてはならない、そのことを作者は知悉しきっている。

 もちろん『せんせいのお人形』は、これだけの話ではない。スミカと昭明、周囲の人物が織りなす物語はときに可笑しく、ときに美しく(天文に関するエピソードが多いのも魅力だ)、苦い試練や葛藤に満ち、赦しと慈愛に溢れ、そしてやっぱり大層ロマンチックでもある。けれど何より、本作の最大のギフトは、スミカの会心の笑みに集約された、圧倒的なオリジナリティ(への意志)だ。その理想の高さゆえに本作は、子供のころに展望台でもらった(あるいはもらいそこねた)文字の打刻されたメダルのように、読者の宝物になるだろう。
 
(今のところ)単行本は第一部・完を銘打った三巻まで。配信版では既に全エピソード完結しているんだけど、好きすぎて読み終えてしまうのが怖い…(とゆうか、最後まで見届けずに日記にしてしまい、本当にすみません)

仰向けに倒れても〜ステファン・セジク『サンストーン』(2020.08.24)

 「ポリティカリー・コレクトネス(政治的ただしさ・ポリコレ・PC)のせいでアメコミは多様性を失なって、つまらなくなり、北米でも(多様で面白い)日本発のコミックスに販売のシェアを奪われている」そんな言説をネットで目にした。売り上げのことは分からない。ポリコレと呼ばれるものを攻撃したいがために、都合よく統計を切り取ったとの批判もある。分からない。
 ただ確かなのは(1930年代〜60年代なかばまでハリウッドを支配したヘイズ・コードとは違い)ポリティカリー・コレクトネスは作品の多様性を奪うものではないだろう、ということだ。それまで白人男性が独占していた変身ヒーローの役に、黒人やアジア系・女性がつくことが「多様性の喪失」になるとは思えない。話の幅という意味でも、たとえば第二次大戦中の米国内での日系人差別を描いた『They Called Us Enemy』(彼らは私たちを敵と呼んだ/未読)もあれば、ネットで知り合った女性のカップルがBDSM(ボンデージ・ディシプリン=拘束・調教SM?)にのめりこむ『サンストーン』のような作品もある。しかも『サンストーン、たぶんポリティカリーにコレクトな話なんですけど
 …ここで『They Called Us Enemy』ではなく『サンストーン』を手にしてしまうのが、自分の残念なところかも知れない。すみません…
トランプのアメリカに警鐘を鳴らすジョージ・タケイのグラフィックノベル
 They Called Us Enemy
(渡辺由佳里/洋書ファンクラブ)
(外部サイトが開きます)

 敢えて煽れば「ポリコレ・ポルノ」。えーっ、ポリコレでポルノなんて、ましてSMなんてありえるの?そんな疑念は、読めば否応なく叩き壊される。全裸も陰毛も、数々の緊縛プレイも隠さず描かれる本作で何より強調されるのは(支配でも恐怖でもなく、屈辱や恥辱でもなく、ひょっとしたら性的な快楽ですらなく)「信頼」をどう構築するか、だからだ。

 鍵になるのは「セーフワード」という概念だ。
 SMに限らないのだが性行為中の「いや」「やめて」「苦しい」といった言葉は、拒絶なのに媚態と誤解され(あるいは誤解したという口実で)無視されて痛ましい事態や、おぞましい事態になることがある。それを防ぐため前もって決めておく「本当に拒絶」の言葉がセーフワードだ。「植木鉢」とか「スパゲッティ」とか、行為中に口走りそうもない言葉を選んで、誤読の余地をなくす。そう目新しいアイディアではないかも知れない。日本のとある二次創作まんが(百合)で「本当にダメなときは私の鼻をつまんでください」という可愛らしいものもあった。
※具体的に言うとコレです→
Flavor:orange chocolat』(アストラッテ/メロンブックス通販)(外部サイトが開きます)
オリジナルなら卓抜だし、元ネタがあるとしても、そういう設定を持ち込むことが歓迎されているのは(そうでなかった頃より)ずっと進んでて好ましいことだ。
 「サンストーン」はアリーリサの間で結ばれるセーフワードだ。それぞれ女王サマ願望とドレイ願望を抱え、悶々と思春期をすごした二人。プログラマーとして若き成功者となったアリーには同好の士アランがいたが、互いにSだったため「実験」は失敗・親友関係はつづくも性的なパートナーは得られていない。一方のリサは自分の被拘束願望を家族や友人・恋人にも明かすことができず婚約破棄・ウェイトレスをしながらネット小説の投稿で憂さを晴らしている。コミックス第1巻はそんな二人がネットで出会い、おそるおそるオフラインでも出会い、意気投合して有頂天になるさまを描く。どれだけ有頂天て、一回目のセッションが大成功で舞い上がったリサ、二回目のセッションでアリーを訪ねたとき冬のコートの下がパンツ一丁(艶っぽくトップレスとか言いなさいよ)。愉快だな君たち!

 グラフィックの美麗さは特筆する必要がある。誠文堂新光社から出ている紙の翻訳版はB5版フルカラー、画集やデザイン図案集としての価値さえある。

 しかし第1巻で満足したあと、全5巻を最後まで手にしたくなったのは、画集としての価値のせいではない。ストーリーが気になったからだ。
 2巻以降、何が起こりうるのか?想像(心配)したのは、こんなことだ。
・SM趣味を活かしアーティストとして成功したアランは、アリーとリサの良き理解者として好意的に描かれているが、やはりSである彼がリサを横取りしようとして陰鬱な展開にならないだろうか?
・同僚のヴァレリーが、リサの同性愛やSM趣味に気がつきアウティングのような形で厄介事をもたらさないか?
・そして、悠々自適の成功者であるアリーと、アマチュア作家で貧乏暮らしのリサ、境遇や人生にたいする満足度の差は二人の関係に影を落とすのではないか?
 結論から言っておくと、こうした自分の予想はことごとく外れる
 まずアラン。すごくいいひと。や、第1巻の時点で最強に好い人なんだけど。自身の嗜癖を仕事に活かし、SMクラブの調度や拘束具・衣装などのデザインで満足な地位を得ている彼は、学生時代には「男らしくない」といじめられたほどの気配りの主で、その思いやりとユーモアは物語を支え続ける。
 リサの天敵のように描かれていたヴァレリーも実はむしろ理解力のある善人で、1巻での意地悪そうな相貌は、リサ自身が抱いていた反発や恐れを勝手に投影していたものだと2巻以降で明かされる。アウティングどころか、無関係な第三者ならではのリリーフポイントもバッチリ用意され…(以下ネタバレにつき省略)
 …わりと大事なことを述べていると、おわかりいただけるだろうか。『サンストーン』では主人公ふたりの関係を脅かすのは、外部の妨害者ではない。多くのロマンスで主人公たちを脅かすのは、周囲の無理解、二人の仲を妨害する「お邪魔虫」、あるいは事故や不治の病といった「外部からの試練」ビルの壁から外れたレンガが、主人公の頭上に落ちてくるような「アクシデント」にすぎない。『サンストーン』でアリーとリサを苦しめ試練を与えるのは、あくまで互いの怯懦や不信・互いの嫉妬・互いの関係性だけだ。多くのロマンスがもつ「イヤな気分」なしに読み進められる所以である。
 もうひとつ、読み手を「イヤな気分」にさせないのは、登場人物たちが繰り広げる性愛が、徹底して合意をベースにしていることだ。
 リサを「支配したがる男性」はいくらでもいるだろう。だが彼女が求めるのはそういうものではない。小説を呼んで誤解したネット上の読者に、リサ自身が答えているように奴隷願望は「レイプされたい願望」ではないのだ。作中に登場する拘束プレイは全て、合意と安全の確保を絶対的な条件にしている。なんらかの落ち度でその確保に失敗した事例は「失敗した事例」としてキチンと断罪される。
 だから作中で描かれる性的な行為には、屈辱や恥辱・不本意といったものがない。合意なしに下着姿や裸体に出くわすことは「ラッキー」ではなく、ひたすら「気まずい」ことだし、性は何かのご褒美でもない。脅しや取引で性行為を強要されることも、酒や薬物・催眠などによる酩酊でなし崩しに性行為が行なわれることもない。SMの快楽はたえず上昇をめざす「カーブ」として常に危惧されコントロールが求められるが、快楽に「堕ちる」といった描かれかたはしない。
 列挙してみると、現在の日本の物語市場での「性」の位置づけが偏っている・少なくとも唯一無二の普遍的なものでは「ない」ことが浮かび上がってくる。この国では「性」は淫らな悪徳・屈辱や恥辱をともなう「堕ちる」もので、しかも「だからこそ劣情を刺激する」ものと捉えられる局面が多すぎはしないか。ゲームで負けると美少女のキャラクターが服を剥ぎ取られるとか。少年マンガ誌で人気投票のランキングが落ちると女性キャラのヌードや下着姿を描くペナルティが課せられていたとか。映画やTVドラマが興業的に失敗するたび、仕事に窮した主演女優が「脱ぐ」のではという憶測が週刊誌を賑わせるとか。

 だが、話を『サンストーン』と「サンストーン」に戻そう。セーフワードの話だ。
 SM行為は下手をすると命に関わるので、信頼と安全の確保は絶対条件になる。そのため「これを言ったら本当にストップ」というセーフワードが設定される。アレ?と思うひとがいるかも知れない。SMには奴隷の口に嵌めこみ、発話能力を奪うギャグボールというアイテムがある。アレを噛まされたら、セーフワードはどうなるの?

 『サンストーン』2巻の冒頭で、それは鮮やかな逆転として説明される。ギャグボールを使用すると、奴隷はセーフワードを言葉として発することができない。だからこそ発せられない「ノー」を仕草や反応で察知する感覚が、相互理解が、言葉を使っていたとき以上の信頼関係が絶対に必要になる。それは両手をしばられ目隠しをされた状態で仰向けに倒れるようなもので、パートナーは支えてくれるという絶対的な信頼がなければならない。
 こうして言葉を介した信頼→言葉すら介さない信頼に早くも2巻で到達してしまった物語に、これ以上なにがあるのか。
 もちろん決まっている。理想の「プレイ」相手に巡り会ったリサは、プレイの枠を超えて、アリーに恋してしまうのだ。自信に満ちた「女王様」アリーにではなく、セーターのセンスが超ダサで、眠ればイビキがひどく、破滅的なネトゲ中毒、そして過去の失敗を悔いつづけ今も不安に怯えている「アリーキャット」に。もちろん「アリーキャット」の不安の大半は、彼女もまたリサに恋してしまい、それを言い出せずにいることで、プレイは過激化の「カーブ」を描きながら「友達同士から踏み出せない」悶々が繰り広げられる。
 陳腐と言えば、陳腐かも知れない。だが、古代ギリシャから現代のラブコメまで、主人公カップルが出会い恋をして交際を重ね、いわば最後の「秘儀」として互いの身体をゆだねる「性」があるパターンに対し、「性」から始まり信頼が深まったうえで互いの生まるごとを引き受ける「恋愛」が最後の「秘儀」になる、この対比はちょっと面白い。

 アリーとリサの「性」を可能にしたのはストップするためのセーフワードだったが、二人が「恋」するのに必要なのは鍵を外すための「別の言葉」なはず…やっぱり「あれ」か?アイで始まってユーで終わる「あれ」ですよね?と待ち望みつつ読み進めるのは楽しい体験になるでしょう。陳腐だっていいじゃないか。

 先に「性」があって、徐々に信頼が深まり「恋」に至る関係も、世の中を見渡せば、そう珍しいものでもない気もする。「性」を描きながら、セーフワード設定のように相手の合意や意思を尊重する関係もまた。だから『サンストーン』は唯一無二の珍しい作品ではないのかも知れない。だがそれは、本作の不名誉にはならないだろう。むしろ、こうした価値観を良しとする作品や現実の事例が多いことは、この国で「性」として流通しているものが本当に普遍で絶対なのか、問い直す契機になるだろう。
 もちろん、唯一無二でなくても『サンストーン』はそうしたテーマを見事に浮き彫りにした作品であり、グラフィックは美麗で、ストーリーも最後まで飽きさせない。
 ひとつ言い落していた件を最後に書いておこう。
 第1巻を読んだ時点では、成功者であるアリーと、しがないウェイトレスのリサの「格差」を作者はどうするつもりだろうと気になった。しかし物語が展開するにつれ、リサが創作者であることの「強み」は増し、時には二人の仲を脅かすほどの力を振るいつつ、最後にはストーリーを完全に支配する。どうやら(嗜癖を仕事になしおおせたアランの後を追って?)作家リサには商業的な成功も約束されているみたいなのだが、そうでなくても薄給のウェイトレス稼業で口に糊しながらネット界では創作で一目おかれる彼女の姿は、日本でコツコツ執筆にいそしむ同人作家たちを嫉妬させ、勇気づけもするだろう。
 お安くはないけれど、第1巻を読んで「これだ」と思ったひとの期待は裏切らない作品だと思います。自分は大満足でした。

自分は2巻以降、セールにつられて電書版で購入したのですが美麗なグラフィック…以前に細かい文字を読むので難儀しました。紙版をオススメします。

エアみちのく旅行(2020.08.16)

 いつもの日記(週記ですけど)をお休みして作成したエアみちのく旅行記、日記ページに組み入れることにしました。自キャラの絵を写真に組み入れる遊び、クセになりますね。下の画像か、こちらから。

時間を我らに〜中井紀夫「死んだ恋人からの手紙」(2020.08.09)

(今回の日記にはテッド・チャン「あなたの人生の物語」ジェイムズ・ティプトリー・Jr「そして目覚めると、わたしはこの肌寒い丘の上にいた」のネタバレがあります)

 3月の日記で、時間の話を少しした。ミハイル・バフチーンの考察によれば、たとえばダンテの時代(14世紀)には天国と地獄は上と下=垂直軸の問題で、時間は…少なくとも重要ではなかった。それが16世紀、ラブレーの時代になると、過去から未来へ進む時間・より進歩していく人類という観念が意識される。近代になれば時間はさらに等速度に進むものとして生産や賃金体系とつながっていくだろう(これは3月の時点ではなかった考察です)。一方、こうした時間観にクィア・テンポラリィ論や『時間は存在しない』といった形で異議申し立てが始まっている。もしかしたら、吾々が当然と思ってる「時間」感覚も今後うつろうのかも知れない…
 こっそり直したけどダンテの時代を誤認しててラブレーとの間を60年程度と勘違いしてました。60年ならすぐでも200年だと結構かかりますね。でも近代成立からそろそろ200年…
   *   *   *

 読む者をひたすら鼓舞する創作の指南書『自家製文章読本』で井上ひさしは書いている。
ヒトは言葉を書きつけることで、この宇宙での最大の王「時間」と対抗してきた
 過去から未来へ、たゆみなく流れる時間の先にあるものは個人の死や人類・宇宙そのものの終焉であり、そして流れが奪っていくのは吾々にとってかけがえない事物の記憶であろう。直接に「死」や「忘却」と言わないための婉曲表現だったかも知れないが、それらをひっくるめて「敵は時間」と仮にでも名指したのは興味ぶかいことだ。
 ルキアノスの月旅行記や『かぐや姫』すらSFだと強弁するのでないかぎり、つまり(時間がより過酷に人々を支配するようになった)近代以降に成立した、いわゆるSFの最初の作品が『タイムマシン』だったことは、なかなかに味わい深い事実だ。しかし、あまり深い意味はないのかも知れない―少なくとも、この時点では。『タイムマシン』が成し遂げたのは、ただでさえ過ぎ去る時間をむしろ加速し、数百万年先の生物の滅亡まで先取りすること・いわばマッドサイエンティストを描くことで科学の暴走に警鐘を鳴らすように「時間はヤバいぞ、恐ろしいぞ」と訴えることに留まる。過去に戻って時間を書き換えよう・タイムパラドックスで時間そのものを無化してしまおうという企図はまだ、この作者の念頭にはなかった。
 一方で現代=21世紀に入ってからの流行は、なんといっても「ループ」だろう。同じ時間を何度も繰り返すことで、失敗を取り消し、人生をやり直し、言うなれば時が用意した破滅を出し抜く。だがこれなら、近代の時間観への果敢な挑戦だろうか。そもそもループ自体が望ましいことではなく「正常」な時間へ復帰することが脱出であり救いである場合が多い。ループを利用して、自己に有利なよう世界を書き換える「チート」(ズル)も、逆に近代や現代のシステムに異議は申し立てず、むしろその範囲内で搾取する勝者の側に回ろうという意図が強いように思われる。

 過去から未来へ不可逆的に流れる時間に、SF的な枠組みで対抗する。そんなヴィジョンを持つ作品がないものか。意外かも知れないが、ウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』が自分にとって、それにあたる。1984年に書かれ、一作でサイバーパンクという新しいジャンルを打ち立てた、これまた古典だ。電脳空間(サイバースペース)での冒険を描き、きらびやかな新語が散りばめられた同作は、なかなか難解で、筋が読み取りがたい。だがそんな中、物語の黒幕ともいえる存在が、主人公に語りかける場面がある。
「いいか、あんたですら活字のパラダイムに毒されてる。読むのがやっとのあんたですら、な」
「誰でも、記憶は良いんだ」「ただ、その記憶に出入り(アクセス)できる人間は多くない」「多少なりとまともな芸術家は、やれるもんさ」
あんたがたは、いつも模型(モデル)を造ってる。環状列石(ストーン・サークル)大伽藍、パイプ・オルガン、加算機械」「でも今夜の仕掛け(ラン)がうまくいけば、ついに本物があんたの手にはいる
記憶がホログラフィ的なんだ、あんたがた
(ハヤカワ文庫SF/280〜282頁より抜粋。強調は引用者。括弧内は読みがな。)
 ホログラフィの部分が、よく分からない。ここで言ってることは何だろう。「あんたがた」人類が、ストーン・サークルや大伽藍、パイプ・オルガンでたえず模型(モデル)を造りながら、ずっと手に入れられずに来た「本物」とは何か。「活字」のたとえが推測の鍵になる。活字とは、文章とは、時の流れのように一直線に読まざるを得ないものだ。だがそうでない、順々に読んでいく一直線・でない形で「記憶」にアクセスできるとしたら。そして「誰でも、記憶は良い」のだとしたら。
 人類が電脳空間に自我を解き放つことで、得られるものは何だろう。空を飛ぶような流れと化して、氷の防壁に守られたサーバを攻略するスリル?自身を変容させ、ファンタジー世界の戦士や、美少女バーチャル・アイドルになった自分を体感できること?…時間への、自由なアクセスなのではないか、それは。
 一語一語を順々に追って文章を読むようにではなく、チェス盤を上から見下ろし、どの駒を動かしてもいいように、自在に記憶に、世界に、時間にアクセスする。もちろん、動かせる駒は一度にひとつですらない。『ニューロマンサー』の終盤で主人公は、痩せこけたハッカーである自分の姿を、自我の外から見る。そして電脳空間で彼が目撃する「データの巨大な段のひとつの端」に佇む「三人の人影」のうち、一人は彼自身だ。
 またまたSFの古典。アーサー・C・クラーク幼年期の終わり』(1953年)は、宇宙からやってきた優れた種族「オーヴァーロード」の仲介によって、人類が新人類・超人類へと進化を遂げる物語だ。キューブリックが映画化した『2001年宇宙の旅』の雛形でもある。だがこの「どう新人類なのか」よく分からない、それは旧人類の吾々には知り得ないことだとばかりボヤかされていた像が、『ニューロマンサー』でクッキリと、ひとつの像を結んだように思えた。2020年の今あらためて読み返すと、これはこれで解像度が低いのだが。
 ホメロスが『イリアス』や『オデュッセイア』を、稗田阿礼が『古事記』を口承していたころ、その膨大な文章は「流れ」の形で記憶されていたのではないかと言われている。たとえば琵琶法師に『平家物語』の、巴御前が敵の首ねじきって落ち延びていくところ演ってと「ランダムなアクセス」を求めても、にわかには応じられない。冒頭「祇園精舎の鐘の声…」とは言わないまでも、「義仲最後」の冒頭あたりから順を追っていかないと「思い出せない」形になっていたという説だ。文章を石板やパピルス・木簡や紙に書き残す技術の登場で、かように膨大な記憶を持つ必要はなくなり、同時に暗誦の能力も衰えていく。だが手書きが活版印刷に、タイプライターがワープロに、パソコンに置き換えられてもなお、一直線の文章という「パラダイム」は揺らがなかった。近代以降、時間が労働や生産と結びつけられ、その支配力を強化させたのは先に述べたとおりだ。
 だがその一方で、人類は常に「別のアクセス法」を幻視してきた。ストーン・サークルに、パイプオルガンに、「それ」をモデル化していた…という物語はどうだろうか。並列処理が身上のAIがいざなう新しい知覚の次元で、人類は死や宇宙の終焉すら、チェス盤の隅に追いやれるのかも知れない。


 SFが時間を無化する「手法」が、もうひとつある。人が空間を自由に移動できるように、時間も自由にできるという設定を創出し、その制約下(というか、制約からの開放下)で物語を綴る技法だ。
 そう言うと分かりにくいかも知れませんが、要は順番をむちゃくちゃにして語っていく手法です。いきなり、主人公が死んでいるところから始まる。なんだと思ってページをめくると、次の章では若者の主人公が戦場を右往左往している。かと思ったら次の章では、主人公は中年・主人公は子供・いっそ主人公が死んだ後の世界…なんならSFでなくても使われる技法かも知れない。
 はい、やっぱり古典でした。カート・ヴォネガット・ジュニアスローターハウス5』(1969年)。通常爆弾で広島や長崎の原子爆弾よりも(その場では)多くの市民を殺害した、連合軍によるドレスデン爆撃を描出し再反省をうながした作品でもある。主人公は時間をランダムに行き来しながら、人生の虚しさに翻弄される。名作なのです。
 もう一本の作品も、現代の古典と遇される。現代といっても、もう20年以上経っているのでネタバレしてもかまわないと思いますがテッド・チャンあなたの人生の物語」(1998年)。やはりランダムな時間に呑まれた主人公を描きながら、こちらの作品は愛を語る。僕の評価がやや口ごもる感じなのには理由があるのですが、やはり名作と言われています。
 『スローターハウス5』も『あなたの人生の物語』も、地球人とは時間の把握が異なる異星人との遭遇によって、かれらの認識体系に巻き込まれるかたちで主人公たちは線形の時間からの離脱を果たす(それを望む望まないは関係なく)。『幼年期の終わり』で人類が新人類に進化するのにオーヴァーロードの力を借りたように。

 中井紀夫の短篇「死んだ恋人からの手紙」は、同様の語りの技法を導入するにあたり、異星人の助けを必要としない。2020年の現代において、あるいは20歳を過ぎたくらいの年齢でもって、SFを読むような人なら誰でも知ってそうな科学的知識を応用することで「時間にたいしてランダムな語り」を成立させてしまったのだ。
 1993年の作品だったように思う。テッド・チャンの短篇が絶賛されたとき、そう手放しで評価できなかったのは、この(より出来のいい)先行作品を知っていたせいだ。たぶん早川書房のSFマガジン誌に発表され、同年ハヤカワ文庫JA(国産のSF作品を収めるレーベル)がまとめた年間ベスト選集に収録された。短篇集の形で、中井の単著として世に出ることはなかったと思う。なぜか。日本SFに全球凍結のような冬の時代が到来したからだ(たぶん)。たぶん、としか言いようがないのだが、もともと不定期だったSFマガジンの年間ベスト選集も翌1994年で発行が停まった。日本SFが息を吹き返すのは2000年代後半、伊藤計劃や冲方丁が現れた頃ではなかったか。ともあれ「死んだ恋人からの手紙」が古典的名作と呼ばれることはなかった。
 しかし世の中には、再評価・セカンドチャンスがある。
 吾が世の春を再び迎えている(ことを願う)日本SFの、新しい旗手という位置づけで良いのだろうか。昨年『なめらかな世界と、その敵』で絶賛された(すみません未読です)伴名練氏が編者となった、ハヤカワ文庫JAのアンソロジー「日本SFの臨界点」恋愛篇の表題作が、まさかの「死んだ恋人からの手紙」なのだった。
日本SFの臨界点[恋愛篇]──死んだ恋人からの手紙(Hayakawa Online/外部リンク)
 『なめらかな世界と、その敵』は「SF愛に溢れている」との評価が高すぎて、それってSF中退組の自分などには敷居が高いのでは?と手を出しそびれていたのですが、いいひとだなあ編者(そして著者)。著作、読んでみようかなあ。皆様は「死んだ恋人からの手紙」を読んでください。(今日の日記ひとまず終わり)

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 今日の日記、ここで終わってよいのだけど少し追記。
 中井紀夫がすごい作家だなあと思ったのは、リリカルな「死んだ恋人からの手紙」の翌年「銀河性豪伝説」なる短篇で再びSFマガジンの年間選集を席巻しているからだ(両者の発表年度、逆だったかも知れない)。
 いや、話は最後まで聞きなさい。「銀河性豪伝説」すげーと思ったのは、同作がはからずもジェイムズ・ティプトリー・Jrの傑作「そして目覚めると、わたしはこの肌寒い丘の上にいた」へのアンサーになっていたからだ。これも古典コテンなので、どんどんネタバレしてしまうが―「地球人類は、異星人と性交できない」という話だ。
 いや、話は最後まで聞くのだ。銀河社会にようやく限定的な参加を許された地球人たちにとって、多種多様な異星人たちは皆、性交渉など不可能な化け物たちだ。にもかかわらず、人類はその怪物たちに魅了されてしまう。交わることの不可能な渇望に一方的に突き動かされ、宇宙ターミナルで人類はひたすら異星人に屈従する。CIA職員の前歴をもつティプトリーは、アメリカの物質文明(コカ・コーラなど)が途上国の文化を根こぎにする様子を、異星人による精神的な収奪に投影したのかも知れない。解釈や要約では伝えきれない、異様な迫力をもった作品だ。
 「銀河性豪伝説」は一人の物好きな地球人が、異星人の男性器を自らに移植する(次々に取り替える)という馬鹿げた方法で、ティプトリーが案出した極限状況を、あっさり覆してしまう。両者を突き合わせた馬鹿も、おそらく自分くらいだろうけれど、中井紀夫という作家の特異性の説明にはなっているのではないか。
 もっともいいタマはわるいタマにもっとも近いタマである
エマーソン・レイク&パーマーの楽曲をヒントに文庫5巻にわたる大作を書き上げた(これもまた途方もない発想の)長篇『タルカス伝』の、何巻目かの「あとがき」で中井は書いている。
エースをとれるような打球というのは、コートのいちばん端っこ、ラインに乗るような打球なのだ。
 選手はみなあと一歩でアウトになってしまうようなタマを打とうと必死になる

これが小説のたとえなのは、言うまでもないだろう。たやすく打ち返されてしまう、コートど真ん中の球を打っても相手からエースを取ることは出来ない。
 別の巻では、こう書いている。いまだどこにも存在したことのないような物語を語りたい
「SFを書きたいとか、ヒロイック・ファンタジーを書きたいとか、そのようなことをめざして書きはじめられた小説(中略)(中略)SFになるか、ヒロイック・ファンタジーになるか、(中略)それだけのことでおしまい(中略)そんなのは、つまらない
こうした氏の大見得に、たぶん自分は大いに影響を受けたし、もしかしたら「SFを愛しSFに愛されるSF界の旗手」みたいに評価される作品に手が伸びなかったのも、すべてをSFの手柄に囲いこんでしまうような雰囲気が気に障ったせいかも知れない。

 そこまで評価したうえで、さて、中井紀夫の作品は「もっともいいタマ」なのだろうか。分からない。「いまだどこにも存在したことのない」着想で「コートのいちばん端っこ」を突く作品群だったことは、疑うべくもない。
 彼の作品を、誰もが認める「エース」にするのに足りなかったのは、たとえばティプトリーの持つ異様な迫力、球威や球速だったのだろうか。「死んだ恋人からの手紙」は、恋人からのメッセージすらバラバラにされる世界で、それでも異星人との相互理解の可能性をも示唆して終わる。「銀河性豪伝説」も、ふざけた設定と語り口ながら、やはり同様の希望を提示していた。そうした希望や楽観は、絶望や断念・手に入らないものを語る物語より、ひと味の塩気が足りない・そんな理由で中井作品は日本SF冬の時代に呑まれてしまったのではないか…
 もちろんそれは、結果を原因と混同した、過小評価かも知れない。あれは外部からの避けられない災害で、著者の特性に帰せられるものではない、「死んだ恋人からの手紙」こそ不当にも評価されずにいたエースだった、欠けるところのない名作だ…そんなふうに評価してくれる人が現れてくれると嬉しい。(今日の日記・今度こそ終わり)
 ミシェル・フーコー1975-1976年度コレージュ・ド・フランス講義『社会は防衛しなければならない』(筑摩書房)について蒸し返す。
 この講義に関しては、すでに2017年8月の日記で取り上げている。ただ、その時の記述はフーコーの講義シリーズ全体を紹介する体裁だった。今回は、その時も一応ハイライトではあった「生政治とレイシズム」の箇所だけを、いわばズームするように取り上げ直したいのだ。
 
 周知のとおり、コロナ禍は続いている。
 しかし日本では、感染爆発がもう来るぞ、今に来るぞと言われながら中途半端な宙づり期間が続く一方、先んじて社会のほうが軋み(きしみ)の音をあげている。医療機関に一向に予算が回らず、内閣も地方自治体も明後日の方向でエゴを追求する姿をもう隠そうとすらしない。倒産や雇い止め、貧困への転落、格差の拡大。
 ウィルスそのものより速い社会崩壊を、端的に示していそうで怖いのが「安楽死」「尊厳死」「優生思想」など口あたりのいい字面で「命の選別」を持ち上げる思潮が盛り上がっていることだ。(優生思想・優生主義にまったく良いところはないのだが「優」の一文字で何だか良さげに響くことが忌まわしい。歴史修「正」主義にも通じる言葉のトリックだ)。テキトウにHINOMARUを持ち上げ批判されたミュージシャンが今度は「才能のある者には優良な子孫を残すため国家がふさわしい配偶者をあてがうべき」と発言。政府与党も「親しみやすい絵柄」でダーウィンの誤った解釈をばらまく。
 7月には京都で医師が、嘱託を受けたという形で難病患者を殺害。石原慎太郎・元東京都知事が(さっそく)(また)嬉々としてしゃしゃりでて「命の選別」を礼賛、当然のように非難されゴニョゴニョと謝罪。
 さらに確信犯的なのが維新だ。「人工透析患者は税金食いだから治療させず殺せ」と主張する男を候補に立てたように、本質がそうなのだろう。京都の事件を受け「尊厳死を政治的課題として検討すべき時だ」と公言。それどころか、自身が難病患者である、れいわの舩後議員が尊厳死の前に「生の尊厳」の確保をと訴えると「議論の旗振り役になるべき舩後議員なのに残念」と揶揄。さらに松井一郎・大阪市長は「舩後氏は難病でも生きる価値を見つけられたが、生きる価値を見つけられない難病患者もいる」と発言。
 神奈川県・相模原市で、知的障害者施設の利用者が元職員によって数十名、殺傷された事件から4年。よりによって事件のあった7月に、(死刑判決を受けても改心の意を示していないという)犯人に与するような声が、地方自治や国政を担う者・人気のミュージシャンから上がっている、おぞましさ。この国では、自身の犯罪が安倍首相に賞賛してもらえると信じていた犯人が「結局は正しかった」ことになってしまうのか。

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 1976年3月17日。この年、全26回の講義でヨーロッパにおける戦争観の推移を分析してきたフーコーは、近代における生権力の誕生について語りだす。
 生権力は、国家や権力が臣民の「健康」に介入し、より衛生的で、より健やかであるようコントロールする19世紀の発明だった(と、フーコーは主張する)。その発明は資本主義の成立とシンクロするもので、それまで「生きるに任されていた」人々は生産の単位として統計に組み込まれていく(生経済20年7月の日記も参照)。レディオヘッドの曲にあるように"Fitter Happier More Productive"(より適応して、より幸福に、より生産的に)というわけだ。
 それでは「本質的に生命を最大化し、その持続期間を延ばし、そのチャンスを増大させ、偶発事を回避したり、欠損を補ったりすることがめざされている」権力が、どうしてその同じ口で「殺し、死を要求し、死を求め、殺させ、殺せと命令を与え、敵だけでなくみずからの市民をも死に曝すことができるのか?」とフーコーは問い、自ら答える。
「そこに、人種主義が介入してくるのだと思うのです」
 人種主義、直訳すれば(あれ、逆か?ともかくだ)レイシズム差別。もちろん差別・レイシズムといったものは以前からあったと、フーコーは急ぎ注釈をつける。だが昔の人種主義は国家とは「別の場所で機能していたと思うのです」としたうえで、彼は言う。
「人種主義を国家のメカニズムに組み込むことになったのは、生権力の出現なのです」
「その時、人種主義は(中略)権力の根本的メカニズムとして定着したのであり、
 その結果、なんらかの時期に、なんらかの範囲内で、そしてなんらかの条件下で、
 人種主義を経由しない国家の近代的機能などほとんど存在しないのです」

 ここで言われているのは、恐ろしい話だ。先月の日記で紹介したとおり、イタリアの思想家カヴァレーロは近代国家はテロルの延長上にあると主張している。アガンベンは法律を無視した行政の専横(例外状態)は例外でなく国家の本質だと説く。同じようにフーコーは、レイシズムこそが近代国家を駆動する「根本的メカニズム」なのだと言う。
 それこそ「近代的精神」と呼ばれるような理性や博愛や平等意識が近代社会を生んだ…という幻想はくつがえされ、三者三様に国家の原罪があばき立てられる。世界の経済を裏であやつる委員会があるとか、人類の文明は異星人がもたらしたとかいうオカルトも色あせる「怪物は…お前だぁーっ!」ガチのヤバい話。だが先を急ごう。

 生権力・生政治は臣民を、生産力を有する「人口」として扱い、その生産力が最大になるよう健康を管理する。しかし人種主義・レイシズム・差別は
「権力が引き受けた生命の領域に切れ目を入れ」
「権力が引き受けた
(人類全般という)種を、(中略)人種という下位区分に分割できるように」
する機能を持つ。なぜそんな機能が必要か。それはおそらく、生権力の目的が「最大多数の最大幸福」などではなく「効率的な生産」にあるからだ。
 医療や衛生にはコストがかかる。まして、それが経済のマターであるなら、健康の保障にも「損益分岐点」がある。生権力・生政治を「生経済」と置き換えることで、そのような理解が可能になる。人口の再生産に寄与しない者・より高い生産力を持たない者は「コストカット」の対象になる。「吾々の」社会にいながら「別の」社会に属し、スムーズな生産には望ましい社会の同質性を低める者…外国人の排斥は、そのような「計算」の結果なのだろうか。
 だが、ここでボールをフーコーに、生経済から生権力に戻そう。
 
 彼は言う。いったん引き受けた全人口を(必要に応じて)再分割するのがレイシズムの第一の機能。そして第二に
「「殺せば殺すほど(略)より多くを死ぬに任せれば、
 その事実自体によっておまえはより生きることになるだろう」といったタイプの、
 ポジティブな関係を確立する役割を、人種主義は持つことになるのです」

 これは以前からある「戦争型の関係―「おまえが生きたければ、他者が死ななければならない」」と同等だが、その現れが全く別質なのだとフーコーは説く。生政治と結びついた人種主義=レイシズムが提示するのは、軍事や戦争ではなく「生物学的」な関係で、つまり
「劣等種が消滅すればするほど、異常な個人が抹殺されればされるほど、(略)
 個人としてではなく種としての私―はより生きることになるし、より強く、より活力に溢れ、より繁殖力を持つことができる」

 不健全な者が排除されれば「私たち」は全体として、より健やかになる。人々の生を増進するはずの生権力が、全体の生を向上させないものを排除する死の権力に転換される―人種主義=レイシズム=差別を蝶番に。1976年3月17日、ミシェル・フーコーはこのように語った。生産性の側面から見れば尚更…と、もう一度ボールを生経済に戻す必要があるだろうか?

   *   *   *

 生命力や生産力において劣る者を排除すればするほど、残った者たちは「より生きる」ことになる。
 大阪の「維新」が体現しているのは、このようなレイシズムに裏打ちされた生権力ではないだろうか。彼らが公務員や公営バスの運転手の給与が高すぎると引き下げを要求したとき、逆に民間の給与を合わせて上げるべきだという異論は聞き入れられなかった。自身の生産力を上げるのでなく、他者を削ることで相対的に自身の生命の価値が高くなったと計算する。そのようにして図書館を削り、文楽を削り、朝鮮学校を、そして保健所を、医療機関を削ってきた。
 その行き着く先が二つ―ひとつには、難病の当事者に「尊厳死の議論を進める旗振り役になれ」と要求する死の論理の噴出であり、もうひとつは東京ですら青ざめる急速な感染拡大だ。劣った者・異質なもの不要な者は排除せよという維新の論理は「にもかかわらず」ではなく「そんなだから」という順接で、感染拡大に結びついていると、なぜ維新に拍手する人々は思わないのか。

 もちろん、フーコーだ生権力だを持ち出さなくても、現在の大阪の破滅的な凋落(遠い関東からだと、そのように見える)は「ドケチ」のひとことで説明できるのかも知れない。
 「ドケチ」と、大阪人は(愚鈍な他地域の連中と違って)何にでもオチをつけなければ気が済まないし「おもんない」と言われるのが何より屈辱なのだという「お笑い体質」は、実際には体質ではないのだと思う。一方で大阪には「知らない人にも飴ちゃんをあげるおばはん」というドケチとは真逆の行動様式がある。朴訥な大阪人もいるだろうし、『細雪』のような細やかさもあったはずだ(そうでなくて、どうして文楽が生まれ得ただろう)。(とゆうか、それを「体質」と言ってしまったら、それこそレイシズムだ)
 だが「ドケチ」と「お笑い体質」が大阪なのだと主張する者の声が大きく、人々の思考を水路づければ、それがもたらす弊害は現実のものとなる。今の大阪が「お笑い」だと思っているものは序列の押しつけであり、内輪でのくすぐりあいであり、ツッコミという罵倒であり、「いじり」という「いじめ」であり、強者への媚であり、劣位の者を小馬鹿にする「嗤い」だ。他者を下げれば下げるほどおもろくて自分らの生命力は増す…その思考様式はやはり生権力の負の側面や、レイシズムと親和性が高いものではないか。
 今回の日記、維新を生んだ大阪ということで罵り倒してますけど、北新地の「すんどぅーふ」屋など心からつぶれないでほしい…
 ナチスの「生権力」や「優生思想」は、国民の健康増進を謳いながら大量の他国民のみならず大量の自国民まで死に追いやった。それは「にもかかわらず」ではなく、「生権力」にビルトインされた排除の論理がもたらした「だからこそ」の帰結ではなかったろうか。レイシズムの度合いと、感染拡大が比例してるように見える自治体は、大阪だけではない。それは「外」を排しているように見えるレイシズムが、実は同じ排斥の原理を共同体の内にも振るっていることで、説明できるのではないか。
 今回の日記に、これといった「オチ」はない。「おもんなく」て、結構。

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