まんがなど
(24.07.17更新)
『リトル・キックス e.p.』を追加。



発行物ご案内
(19.12.01更新)
今年の新刊まで追加・整頓しました。
電書化、始めました。
電書へのリンク
こちらから
、著者ページが開きます。

過去日記一覧(随時リカバリ中)

過去日記キーワード検索
終了しました(22.11.19)
Author:舞村そうじ/RIMLAND
 創作同人サークル「RIMLAND」の
 活動報告を兼ねつつ、物語とは何か・
 どんなメカニズムが物語を駆動し心を
 うごかすのか、日々考察する予定。

【最近の動向】
当面は新刊がない予定です。

WebまんがSide-B遅々として更新中。

小ネタですが本篇更新。三年ぶり。(23.12.24)

旧サイトは2014年8月で終了しました(お運びいただき感謝)。再編集して、こちらの新サイトに少しずつ繰り入れますが、正直、時間はかかると思います。

[外部リンク]
comitia
(東京名古屋新潟関西みちのく)
あかつき印刷
POPLS

日本赤十字社

愛と劣情の馬たち(Instagram)

if you have a vote, use it.(save kids)


港の上に広がる空の写真を背景にロゴ「MY税金 MY CHOICE 防衛所得税 導入反対」
ロゴは勿論「MY BODY MY CHOICE」が元ネタなので、流用すな・簒奪やめいという場合は修正します。(24.12.13)

(25.06.15)三週間ぶりのメイン日記(週記)は『百年の孤独』に挫折したひとのラテンアメリカ再挑戦にもオススメ?来月文庫化されるバルガス=リョサ『世界終末戦争』をご紹介。画面を下にスクロールするか、直下の画像をクリックorタップ、またはこちらから。


(25.06.17/小ネタ/すぐ消す)あれ?コンロの火つけっぱなし??(怖)…いや「素」で台所が暑いだけかハハハ…という時季が早くも到来しました。早くもって、もう6月下旬ですけどねハハハハ…
。.** Happy pride month **.。シスへテロのオタク(作家)にアライとして何か出来ることはないかなと思い、今月いっぱい電子書籍『二人は恋人同士になれるかも知れない』6/30まで通常価格200円+税を半額の100円+税で頒布してみます。まあ無料の試し読みで大半の50ページくらい読めるんですけどね。下の画像か、こちらから(外部リンクが開きます)
電書へのリンク

 過去日記(週記)の中からLGBT関連の書評2本にもリンクを張っておきます→
ショーン・フェイ『トランスジェンダー問題』書評(23.02.25)
坂口菊恵『進化が同性愛を用意した ジェンダーの生物学』書評(23.07.22)
自分はこの6月中に(スマートフォンの中で積んだままになってる)コミックエッセイ=マラン、シャイエン僕は、私は、トランスジェンダーです(原著2020年/吉良佳奈江訳・サウザンブックス2025年/外部リンクが開きます)を読んでしまうつもり。絵がすごく可愛いのですよ。
当面存置。署名:国保料が高すぎる!国の責任で払える保険料にしてください!(中央社保協/24.6.19/Change.org/外部)
【電書新作】『リトル・キックス e.p.』成長して体格に差がつき疎遠になったテコンドーのライバル同士が、eスポーツで再戦を果たす話です。BOOK☆WALKERでの無料配信と、本サイト内での閲覧(無料)、どちらでもどうぞ。
B☆W版は下の画像か、こちらから(外部リンクが開きます)
電書へのリンク

サイト版(cartoons+のページに追加)は下の画像か、こちらから
サイト内ページへのリンク

扉絵だけじゃないです。side-B・本篇7.1話、6頁の小ネタだけど更新しました。

(外部リンクが開きます)
今回ひさしぶりにシズモモの過去エピソードを見直し「やっぱり好きだな、この話とキャラたち」と再認できたのは幸せなことでした。そして色々あったり無かったりしても、ペンを持って物語を紡いでいる時が、自分は一番幸福らしいとも。次に手をつける原稿は(また)シズモモではないのですが、何しろ描くことは沢山あるのです。
ちなみに今話タイトルの元ネタは井上陽水の「愛されてばかりいると(星になるよ)」。同曲が収録されたアルバム『ライオンとペリカン』のB面(side-B)に入ってる「お願いはひとつ」は個人的に一番好きなクリスマスソングの最有力候補です。レノンと争う。
RIMLAND、電子書籍オンリーですが20ヶ月ぶりの新刊『読書子に寄す pt.1』リリースしました。
タイトルどおり読書をテーマにした連作に、フルカラー社畜メガネ召喚百合SF「有楽町で逢いましょう」24ページを併催・大量リライト+未発表原稿30ページ以上を含む全79ページ。頒布価格250円(+税)で、一冊の売り上げごとに作者がコーヒーを一杯飲める感じです。下のリンクか、こちらから。『読書子に寄す pt.1』電書販売ページへのリンク画像
書誌情報(発行物ご案内)はおいおい更新していきます。(22.11.03)
【生存報告】少しずつ創作活動を再開しています。2022年に入ってから毎週4ページずつ更新していたネーム実況プロジェクト、7/29をもって終了(完走)しました。
GF×異星人(girlfriends vs aliens)

これまでの下描きは消去。2023年リリース予定の正式版をお楽しみに。(2022.08.08→滞ってます)

ポン・デ・リングとゲリラ戦〜マリオ・バルガス=リョサ『世界終末戦争』(25.06.15)

 まったくの余談だし私事なのだけど、タピオカなる単語に初めて遭遇したのは谷川俊太郎氏が訳した漫画『ピーナッツ』の中でのことだった。チャーリー・ブラウンの新しい友達として登場したのが、ゆくゆくは娘を子役のCMモデルからショウビズ界にデビューさせようと目論んだ親によって「タピオカ・プディングちゃん」と名づけられた女の子だったのだ。
 それはともかく、ずっと後に初めてタピオカの現物に遭遇したのはココナツ・ミルクに浸かったタイ料理のデザートとして、その後も台湾発?のタピオカ・ミルクティーのブームが続いて、なんとなく東南〜南アジア原産だと思いこんでいた。実際の原産地は中南米だと知ったのは、だいぶ後のことだった。

    ***   ***   ***
 いちおう『葉隠』も読んだことはあるのだけれど、憶えてる箇所はひとつしかない。ただし、武士はああすべし、こうすべしと心得を説いた同書の中でも、その内容は際立って強烈だ。
 憶えてないので仮にA藩とするが、A藩の殿様が江戸城に上がって例の「殿中でござる、殿中でござる」みたいな袴の長い裾を引きずり廊下を進んでいたら、後ろを進んでいたB藩の殿様がウッカリ前方の殿Aの裾を踏んづけてしまい、殿Aがビターンとコケる絵面が生じてしまったという。居合わせたA藩の家老は、すかさず殿Bの袴の裾を踏んづけ殿Bをスッ転ばした。これこそ武士の心得である(この項おわり)
 もちろん初見ではギャハハと笑って、それからゾッとした。ここで家老Aが即座に復讐を果たしていなければ、A藩とB藩の間には遺恨が残り、それこそ殿中でござる殿中でござるとか、果ては討入りのような事態が生じない保証はなかった。そしてかかる惨事を回避させた家老Aは、しかし他藩の殿をスッ転ばしたカドにより、おそらく切腹であろう。それを承知で、家老Aは江戸城内での蛮行に及んだ。そこまで含めて「武士かくあるべし」と「葉隠」は説いているのだ…
 …という過激な解釈は、もちろん隆慶一郎の小説『死ぬことと見つけたり』を読んだせいで生まれたものだ。世間的には『北斗の拳』の原哲夫が漫画化した『影武者・徳川家康』が最も有名なのだろうか。実はこの『…徳川家康』も含め、急逝した作家が掛け持ちで執筆を進めており未完のまま絶筆となった数作のひとつが、『葉隠』の名高い(悪名高い?)フレーズ「武士道とは死ぬことと見つけたり」をタイトルに引いた同作である。
 その「心得」を「死ぬと思えば何も怖くない」と血肉化した(葉隠の生まれた)佐賀・鍋島藩士たちの活躍は、痛快にして鬼気迫る。主人公たちの一人が「武士にとって最高の栄誉は、殿を諌めて道を正すかわりに切腹を命じられることだ」と信じて、殿に諌言できるくらい側近の地位(それこそ家老とか)を求めてガムシャラに出世をめざす(そして遺された執筆プランによれば首尾よく家老まで昇りつめ藩の未来と引き換えに思惑どおり腹を切る予定だった)と紹介すれば、その目の据わりようは伝わるだろうか。
 日本地図で図解。行ったことある都道府県と、ない県。だいたい東京湾周辺(千葉・茨城・神奈川)住みで生きてきた自分の場合、未踏県は「島根・鳥取・佐賀・長崎・熊本・沖縄」と西になる。高知県は家族旅行でなら行ってるかも知れない…
旅行なり何なりで自分が今まで一応は行ったことがある都道府県と、未踏の県をリストアップしてみると、島原の乱が起きた長崎県と、隣の佐賀県には行ったことがないと分かる。小説『死ぬことと見つけたり』は遠く江戸からの命により、佐賀鍋島藩の若い藩士たちが島原の乱の鎮圧に駆り出されるエピソードから始まる。
 「殿に諌言して切腹する」ため出世をめざすエリート・中野求馬と並ぶ、もう一人の主人公(むしろこちらがメイン)で天性のハンター・斎藤杢之助が、対峙するのは「どうして武士でもない農民の集団が、こんなに強いのか」という謎、そして糸で吊るした針をも遠方から打ち抜けるという異名を持つ鉄砲名人・下針金作だ。杢之助が最終的に悟る島原・天草の民たちの強さの理由は、また別の話なのだが(そして謎ときの「謎」の答として戦慄に値するのだが)何も持たない無力な民衆が信仰の力だけで驚くほどの長期にわたり籠城し、何度も正規軍を跳ねのけた・のではなく、もちろん天草四郎のカリスマましてオカルト的な魔力でもなく、原城に籠城した反乱勢の中には武士だった者たちも、金作のような狙撃手も、つまりは戦闘のプロも沢山いただろうとは想像できる。

    ***   ***   ***
 島原の乱については(ぼんやりとした関心を持ちながら)なかなか本気で文献を読んでみる機会に恵まれず今日に至るのですが、自身は戦闘的な力は有さない宗教的カリスマを旗印に結集した貧しい反乱民が、近代的な正規軍を何度も潰走させつつ最終的には圧倒的な戦力差で殲滅される…驚くほど似通った事例が南米・ブラジルにもあって、そちらを題材にした小説を読みました。
マリオ・バルガス=リョサ世界終末戦争(原著1981年/旦敬介訳1988年→岩波文庫2025年/外部リンクが開きます)
 もうじき(7/15)岩波で文庫になるタイミングとも、著者のバルガス=リョサが今年4月に逝去していたことも(岩波文庫化はそのためかも知れませんが)あまり関係なく、例の「通勤の都合上まいにち2時間は読書ができる=この機会に読みそびれてた本ぜんぶ読んどこう」祭りの一環で、数十年前に読みそびれていた大作に手を出したと思し召せ。まあちょうど文庫化なので、オススメはしやすい。数十年前に躊躇った自分は何なのだ、というくらいグイグイ読まされる。
 (もしかしたら同じラテンアメリカ文学で『百年の孤独』に挫折したひとの、再チャレンジの足がかりにも良いかも知れません…)
 ブラジル地図。北から海岸にサンパウロ・リオデジャネイロ・コスタリカと並ぶブラジルで、セルタンゥは内陸に位置する。同じく内陸につくられたブラジリアの北東。
 ああそうだ、生まれたばかりの政府(江戸幕府・ブラジル共和国)統治下での反乱という点でも共通していた。島原の乱から250年後、ブラジル内陸部のセルタンゥで宗教指導者アントニオ・コンセリィエロを慕ってコミューンを形成した貧民たちが同地を占拠、立ち退きを拒否、送り込まれた政府軍を次々と返り討ちにする。
 新興の共和主義者と保守的な地主層、王政復古と伝説の帝王(救世主)復活願望が混同された民の信仰、そして社会の底辺や辺境に追いやられた人々の憎しみや愛…諸々が錯綜して読み解きかた・興趣の重点も読む人によって変わるだろう重層的な物語だ。ヨーロッパのように無神論と結びつくのでなく逆に信仰や迷信に支えられたアナキズム、あるいはヨーロッパから来た活動家が新聞のフェイクニュースによってイギリスのスパイに仕立て上げられ反乱がイギリス政府の陰謀と結びつけられるなど、21世紀の今日になって脚光を浴びて(浴び直している)トピックの先取りもある。とてもすべては紹介しきれない。
 そこで話を絞る。個人的に・それも今回においてはという条件つきで関心を惹かれたのは、幾度にもわたる政府軍の撃退の鍵となった「戦闘のプロ」たちの存在だ。
 「指導者」コンセリィエロの名は英語のカウンセラーと同義の(つまり「相談者」「悩みを聞いてくれる人」くらいの意味なのだろう)通称で、祈ってばかり・あるいは祝福を与えるだけの彼に軍事的な才覚はない。徒手空拳の民衆が、信念や数の力だけで銃や大砲を装備した近代軍に勝てるはずもない。
 セルタンゥの反乱において「戦闘のプロ」の役割を担ったのはジャグンソと呼ばれる盗賊たちだ。帝政→共和制と上物は替わっても引き続き地方に君臨していた大地主層の、支配の網の目をすり抜ける盗賊・略奪者たち。銃や山刀を片手にの襲撃を生業とし、暴力も殺人も辞さない悪党たちが、コンセリィエロの「赦し」に涙して膝を折り、有象無象の貧民たちを組織しなおした。ある者たちは弾丸の精練に従事し、ある者たちは待伏せのための穴を要所要所に掘り巡らし…
 どうもまだ言語化が難しい。革命は大衆と・大衆を指導する前衛に分かれるべきだとして最終的には前衛=指導者層の独裁に至った20世紀ソ連やカンボジアの無惨な失敗と混同しかねない。いや、そうした社会主義国家の、民衆をマスゲームのように扱う民=素朴で平板という捉えかたと真逆にある、個々の局面で狡知も戦略もある自己組織化・各々が「頭数」でなく自在な「戦闘とプロ」と化す「民衆蜂起」の捉えかたがあっていいのではと。

 ちょっと(また)思い出したのは21年2月の日記で取り上げた矢部史郎『夢みる名古屋』で紹介されていた逸話だ。あまりに面白く話題豊富な本で、当時の日記では「匂わせ」しか出来なかったけれど昭和の映画『新幹線大爆破』(リメイクされてるみたいですね)と『トラック野郎』の比較がまた、無類に面白かった。いわく鉄道が計画・規格という近代的な力を大地に敷いてのけたのに対し、自動車は大地を縦横無尽に駆け巡っての制圧を可能にした(まして航空機においておや)。両者の違いは映画にも現れていて『新幹線大爆破』は定時どおりに運行する「規格」の力を死守せんとする話だった。ところが『トラック野郎』はクライマックスの「どっちが先に着けるか競走」で規格化された大幹線=高速道路ではなく山中の道なき道を走ったほうが「勝てる」という理念(物語・幻想・妄想・思いこみ)に基づいていた、というのだ。
 セルタンゥの反乱における叛徒たちの意外な善戦は、政府軍の鉄道・新幹線的な規格(での制圧)に対する、地の利を活かしたトラック野郎(主演は『仁義なき』菅原文太)的な縦横無尽さにあった、それは素朴でも平板でもないと言えば、言いたいことは朧げにでも伝わるだろうか(余計に分かりにくくなったんじゃないかな)
 つまり数で押してくる多数派に対抗するには同じ数押しじゃなく、飛び道具も必要ではと愚考するんですけど、飛び道具のほうもNHK党とか暇なんとかに先に使われちゃっている現状…(と腕組みして唸る羊帽の女の子「ひつじちゃん」)
 もちろん、それが内ゲバや「総括」と称した相互リンチと化す地獄も、あるいは宗教的カリスマに引っ張られて地下鉄にサリンを撒いたり逆に与党と癒着して集票マシーンと化す地獄もある。天国に至る道は「まるちり(殉教)」を目指していてすら、ラクダが針の穴を通るより狭いのだ。

      *     *     *
 なんか途中から難しい話になってしまい「お願い!引かないで!」と引き止めたくなるくらいには『世界終末戦争』他の読みかたも断然できる、ふつうに面白い小説ですから(性暴力が当たり前な世界の話なので注意は必要)。
 まったく逆方向からの絡め手をかけると、昨年1月の日記でさんざんボヤいた、レヴィ=ストロース『悲しき南回帰線』に頻出するけど検索しても正体不明な食べ物「マンジョー」、同じブラジルを舞台にした『世界終末戦争』では「マンジオカ」として出てきて、こっち(マンジオカ、マンジョッカ)で調べれば、いくらでも出てくるじゃないの!
 あ、いや、マンジョーではなくマンジョッカ、原材料はキャッサバと昨年7月には判明してたんですけどね。横浜・みなとみらいにあるJICAの食堂でマンジョッカのフリットなるメニューがカフェタイムに提供されていたが、中東のファラフェルを優先してる間に(こちらは街角にあるケバブ屋などでもふつうに商ってる模様)メニューから消えてしまっていた。
 このマンジョッカ(マンジオカ)『世界終末戦争』では、フリッターもあるけど炒めてソボロ状にしたフリカケ「ファリーニャ」(タマネギやニンニク・バター等も合わせて炒めると「ファロッファ」)を肉料理にかける食べかたが前面に押し出されていた。
 そのほかネット検索ではトロトロのスープにしたり、意外なところではポン・デ・ケージョもマンジョッカ(つまりタピオカというかキャッサバ粉)が原料らしい
 そしてミスタードーナッツのポン・デ・リングもタピオカでモチモチ感を出している由。今までにない食感で、停滞していたミスドの業績を回復させた復活の立役者だったとか(ぜんぜん知らなかった…)。
 横浜の鶴見区には日系ブラジル移民の人たちが多く身を寄せた経緯があり、今もあるブラジル食料品店で探せばマンジョッカ粉を入手できるかも・なんならイートインの食堂でファロッファをまぶしたステーキでも食べられるかも…と思いはしたけど今の自分に鶴見まで出向く余力はなく。近場のミスドで妥協してみました。
 ミスドのポン・デ・リング、黒糖ポン・デ・リングとアイスコーヒー
こんな接点からも、日常と世界・世界文学はつながっているのだ。本当かな?


(追記)網野史学の視点を大いに取り入れた隆慶一郎氏の時代小説が吉原の遊廓を被差別者のアジールとして描いたのは小説だから許されるロマン化だったと釘をさせる一方、その自由な感じが数十年後、ビジネス至上の自由主義史観に巧みにすり替えられてしまった印象を(なにせキチンと観てないから憶断にすぎないけれど)吉原を舞台にした今年のNHK大河には感じなくもない。
そもそも年頭の番組紹介で、池波正太郎が『剣客商売』の裏テーマとして?打ち出していた・あくまで異論(オルタナティブ)だから面白かった「田沼時代じつは良かった史観」が、大河のようなメジャーコンテンツで屈託なく正史あつかい?されてることに危惧というか「なんだかなあ」と思ったのですが、どうなんでしょう。

小ネタ拾遺・25年5月(25.06.01)

(25.05.01)大岡川という漢字をカナに開いただけなのにハハハ妙な迫力。見てのとおりのコンクリート・リバーだけど桜の時期には花筏が見られ、時々カヌーイストも行き来する、僕にとっては学生時代からの「吾が街の川」。今は鯉のぼり。五月です。
 奥行きをつけて「おおおかがわ」と開いたタイポグラフィの観光?ポスターと、当の大岡川の写真。今は鯉のぼりが張り渡されている

(25.05.02)映画ファーストデイで公約どおり観てきましたよ爆上戦隊ブンブンジャーVSキングオージャー(公式/外部リンクが開きます)まあ御祝儀的な内容でしたけど最後、ブンブンジャーの昭和ダンスを一緒に踊る王様戦隊だけで1300円の元は取れた気がします
コツコツ-PON-PON(「爆上戦隊ブンブンジャー」ノンクレジットエンディングTVサイズver.)(公式/Youtube/外部)
「もっとワガママになっていーんじゃない?」とヒメノ様にそそのかされたブンブンジャーの未来(ミラ)さんが華やかなドレス姿を披露するも、むしろ私にとってのワガママはこっちだ!と言わんばかりに普段着に戻る場面も良かったねえ。思えば本篇で二回・第一話と最終一話前でウェディングドレスをかなぐり捨てたバクアゲ女…

(25.05.04)久しぶりに東京都現代美術館(外部リンクが開きます)に。中にあるレストランのパフェまでアートみたいなデザインで、予定外の出費になってしまいました。クリーム大福をトッピング・あんこや抹茶を中心にした和風スイーツにマンゴーピューレの甘酸っぱさがアクセントになって、(パフェでは)今まで食べたことがない複雑な美味しさ。期間限定なのが惜しい。
 左:アイスコーヒーと「新緑の木漏れ日抹茶パフェ(ミニ)」・右:同パフェのメニュー写真
向かいにある南インド・レストランも気になりつつランチの機会を逃し続けている。

(25.05.08/小ネタ/すぐ消す)別に分断を煽るつもりはないけれど、連休が「ゴールデン」だったのは休んでた間も給与が発生していた人たちだけだろう

(25.05.07/こんなこともありました)連休は終わりかも。インド国防省 パキスタン支配地域攻撃 過激派組織拠点を標的(NHKニュース/25.05.07/外部リンクが開きます)
(25.05.10)よーし、よしよし(パニクっていた仔犬か何かが少し落ち着いたのをなだめる気分)インドもパキスタンとの軍事行動停止表明インドもパキスタンとの軍事行動停止表明(共同通信/外部リンクが開きます)

(25.05.10/小ネタ/すぐ消す)マキシム・クロンブゾンビの小哲学 ホラーを通していかに思考するか』(原著2012年/武田宙也、福田安佐子訳・人文書院2019年/外部リンクが開きます)は思った以上に哲学の本だった。フーコーやドゥルーズ、カトリーヌ・マラブーまで援用し、フロイトの「死の欲動」やクリステヴァの「アブジェクシオン」アガンベンの「ホモ・サケル」とゾンビを突き合わせる内容は、いっぷう変わった視点からの近現代哲学史・美学史の趣さえあって、純粋にゾンビ史を楽しみたいひとは「いいよ、そういうのは」と辟易するかも知れないけれど…
 廃墟のような色合いに加工された観覧車の写真をあしらった『ゾンビの小哲学』書影。伸びてしまった人参の葉と茎を添えて。
「いっぷう変わった視点」とはゾンビが徘徊しゴーストタウンと化したニューヨークやトーキョーを見下ろす視点。人格を失ない平気でヒトを喰らうゾンビと、もはやヒトでないゾンビを(時に躊躇して返り討ちに遭いつつ)平気で殺戮する人間―合わせ鏡のような両者の姿は、建前など剥ぎ取ったヒトの本質は「弱肉強食」「万人の万人にたいする闘争」暴力的な「ケダモノ」なのだという近代の・もしかしたら新自由主義で加速された(それ以外の道があったかも知れない)露悪的な人間観を映し出している。そして建物やインフラはわりと都合よく保持されたままヒトだけが消えた廃墟は、そんな救いのない近現代が・吾々自身が滅びた世界を見たいという終末願望の側面が消しがたく。

(25.05.17)論理的に考えて「呪いで女の子に変えられた男子が接客するお店」で給仕してくれるのは女子の店員さんであるべきだと思うのだが、求人募集されてるのは男性らしいので、現実にはそうゆうコンセプトの女装カフェであるようだ。「僕は本当は男子だったんだ」と言い張る女子が給仕してくれてもいいのに。ただまあ、求人に応じた男子が本当に呪いで女の子に変えられて出てくる可能性はワンチャンないでもなく(若者言葉に疎いのですが「ワンチャン」の使いかたコレで合ってます?)
てゆうか元々バングラデシュ料理のお店があるかと訪ねた番地にそうゆうお店があったのも、バングラ料理店が魔法でコンカフェにされてしまった可能性が微レ存。「コンカフェ」と「微レ存」の使いかたコレで合ってます?
(同日追記)こういう話を・異性装を楽しみたいor異性装した人と楽しみたい欲求を昔の言葉でいう「倒錯」と嗤ったり嘲ったり・まして現実に性別の移行を望む人たちへの差別につなげたりすることなく、単なる女装カフェにもっともらしい(?)理由をつける可笑しさ(そういうクッションを置くことで安心して楽しめる側面もあるのでしょうね…)や、コンセプトを真に受けて「論理的には」とか言い出す・そしてどうにか女子に接待してほしいらしい語り手(シスへテロ男性)の涙ぐましい滑稽さだけに読み手を導く文章に仕上げるのは難しい。精進するか話題を選びましょう。
(25.05.18追記)「どうにか女子に接待してほしいシスへテロ男性」を自称しつつ、このひとネット検索で「doda CM BL」を検索(二週間くらい我慢したけど我慢できなかった)、検索結果ゼロに「同意してくれるひとはいないのか」とションボリしてるそうですよ…(怒られろ)

(25.05.19/すぐ消す/後で拾う)どうせ「すごく良かった」なんでしょ、と思われるかも知れないけれど逆に期待は裏切れねぇな(?)すごく良かった赤い糸 輪廻のひみつ』(シネマ・ジャックアンドベティ/外部リンクが開きます)半年ぶり二回目の『狼が羊に恋をするとき』(昨年11月の日記参照)もハシゴして、帰りに近所のガチ中華(民国)でワンタンと魯肉飯セット、しあわせな台湾の夕べでした。
 『狼羊』ポストカードと『赤い糸』パンフ、そして肉たっぷりのワンタンに程良い小ぶりさ(これが台湾風)の魯肉飯、胡麻ドレのかかった刻みキャベツはまあ普通です。
ほぼ予備知識なしで観た『赤い糸』(『返校』の幸薄げなヒロインだった俳優さんがピンク髪ではっちゃけてて超かわいかった)語るとほぼネタバレになってしまうので控えますが予想外のスケールだったのも無理はない=韓国のメガヒット地獄映画『神と共に』へのアンサーも意識していたようで、死を超えた愛とか時を超えた因縁とか比べるのも一興。監督が亡き愛犬と同じ名前の犬を登場させ「思い出を刻んだ」というだけあって犬好きは涙なしでは観られない展開(さほど犬に思い入れない僕でもクライマックスは流石に少しウルっときた)。けれどむしろ観たほうがいいのは猫好きかも。なにしろネタバレにつきたたみます。(クリックで開閉)。 納得しかない格付けでしょう(たぶん)。『狼羊』ともども5/23まで。
(追記)やっぱり言いたくなっちゃったので追記。『神と共に』が大ヒットしつつ(とくに第一部で賛美された母親像)が物議を呼んだように、台湾で大ヒットした『赤い糸』も作品として面白い・面白くないは別にして「この落とし所は面白くないな」と異論が出そうな部分もないではなくて、でもたたみます。(クリックで開閉します)。 持って行きかた・説得力の構築が完璧だったと思います。あれに(物語として)対抗するのは困難な(逆に志す人にはやりがいある?)チャレンジになるでしょう。
 それとラストたたみます(こちらは『返校』のネタバレもあり)。(クリックで開閉します) 前世(返校)でも今生(赤い糸)でも変わんないのね…カルマだから?

(25.05.21)なぜこうも的確に人の心を折ることばかり思いつけるのだろう。石破首相「農相後任に小泉進次郎氏起用」(外部リンクが開きます)

(25.05.21)代替たんぱく源として今夏は(もう夏と見做す)お麩わけても車麩の登板が増えそう。冷やしぶっかけ蕎麦。きのこと戻した車麩に火を通したかけ汁と、色合いを保つため別で青菜のおひたしとカニカマを冷やして(仕込んで)おいて、お蕎麦を茹でて冷水でシメてぶっかける。揚げ玉とラー油は外せない。かつお節をトッピングしても映えるでしょうね。
 冷やしぶっかけ蕎麦画像。中身は上に書いたとおりです

(25.05.25)一説では世界一おいしい麺料理とも呼ばれる「ラグメン」もちろんレシピは様々なんだろうけど市ヶ谷で食べたのはキクラゲを使ってたんですね。すっかり忘れて作った「インスパイア系」和えうどんの、まあ似ても似つかないこと。でも「もう似なくていい」と開き直って投入したサバ、悪くない。
 左:市ヶ谷「TANDOOR MASTER」の過油肉ラグメン。右;自分が作ったトマトとピーマン・ネギにダイス切りしたサバを和えた細めうどん(業スー)。
てゆうかラグメン、トマトから出たスープたっぷり・油たっぷり(メニューに「過油肉」て書いてあった)の炒め具材を麺にビャッとかけ回した状態で供して「混ぜるのは自分でね」てスタイルなんですね。なぜ作る(鍋の中で混ぜちゃった)前に写真で確かめない…トマトあと半個残ってるから、また明日にでも試してみようかな。
 正統なラグメンは市ヶ谷のウイグル料理店で食べられますよ。
(25.05.27追記)再チャレンジ。もはやラグメンでも何でもない、ただの和えうどんですが、キクラゲの黒を茄子で置き換えてみた努力を買ってほしい。ピーマンの青々とした色は出ないなあ。
 トマト、ピーマン、茄子、大豆ミートなどで和えた業スー細うどん。
廉価で売ってたお店が昨年閉店してしまい、ストックを惜しみ惜しみ使っていた大豆ミート、そろそろ尽きそう。

(25.05.28)映画の影響もあって数年ぶりに台湾に行きたい熱が再燃しているのですが…2015年とか19年に行ったときの(飛行機代に現地泊や食事に観光・おみやげのカラスミまで含めた)総額と、いま向こうに行って帰ってくる飛行機代が(だけで)同額くらいで笑っちゃってる。どうせそうなら台北以外にも行ってみよう、十分に準備して味わい尽くしてやろうと二ヶ年計画(決行は来年以降)くらいで考えてます。
(25.05.29追記)新刊まだだけど北海道には行ったくせに…
 あ、いや新刊のが先だけどな?新刊まだなんだけど台湾とかないからな?というキャプションと、全力疾走する梯アスミを描いた新刊(GF×異星人)表紙案。
iPS細胞のことを盛り直した修正プロットが最近ようやく貫通したので、いよいよ頑張るのです。こっちは鬼を笑わせない。
(追々記)どうせ今すぐとは思ってなかったけど台湾、新型コロナの新型株(NB1.8.1)が急増中らしい…まあ日本でも川崎か何処かで学校閉鎖とか相変わらずなのですが。台北の老舗の魯肉飯屋の健在を祈るようにネットで確認する日々。
 夜も人が集まる「三代魚翅肉□(火偏に庚)・魯肉飯」外観と、看板メニューの魚翅(フカヒレ)肉団子スープに魯肉飯の写真。

マニアの受難〜ルカ・グァダニーノ監督『クィア/QUEER』(25.05.25)

 先に小ネタとして軽く放った話を広げてメイン日記(週記)に昇格させるケース、最近ちょっと多いかもですね…今回は先行の小ネタで流石に言葉が足りないかなと思ったので加筆です。ルカ・グァダニーノ監督『クィア』および前作『サスペリア』の内容に踏み込んでいます。

    ***   ***   ***
 chapter 1.美しすぎて不安になった
 言葉が足りなかったのは「傑作なのか・ものすごく傑作ぽい紛い物なのか判断に迷うのが歯がゆい」という部分。貶してるのか?違うんです。ちょっと説明させてください。
 ルカ・グァダニーノ監督の最新作『クィア/QUEER』こんな美しい映画は初めて、とは言わないまでも久しぶりに観た気がした。や、ふだん娯楽作品ばかりでアート系の映画とか敬遠してるせいかも知れないけれど(有名な『去年マリエンバードで』とかも観てない)、よく映画の中で「この1シーン、この1カットは構図から何から絵画のように美しい(キマってる)」みたいのがあるとするじゃないですか。それが始まって1時間くらい毎秒毎秒つづく。こんなことってある?逆に何かふざけてない?と不審になってくるほど、あらゆるカットが絵になる。
 舞台はメキシコ。フィレンツェやヴェネチア、ニューヨークみたく「いかにも」な観光名所でもない。けれどレンガでもスレートでもない、のっぺりした(ペンキを塗ったコンクリか何か?)色とりどりの壁の平屋か二階建てが延々並ぶ街並みが、しばしば現れるシンメトリーの強調もあって不思議に美しい。電線や電柱がなく街路樹もまばらでゴミも散らかってない感じと、50年代の不自然に明るい色彩のせいだろうか。模型のように整った道路を滑るように規則正しく自動車が流れてゆく場面は流石にウソだろと可笑しくなったけれど。インテリアも調度品も隙がない。
 もちろん刺さるひと・刺さらないひとはいるだろうけど、三部構成の二部まで、この異様に美しい映像が続く。そう言われて気になるひとには(それだけで)オススメです。

 chapter.2.『サスペリア』の延長線
 三部構成の第一部からずっと続く異様な美しさ(観る人によるとは思います)。なぜか自分は観ながらアレハンドロ・ホドロフスキー監督の怪作『ホーリー・マウンテン』を思い出して、あの作品の一番美しい場面だけがずっと続いてるような映画だコレ(『クィア』)は…と感嘆していたのだけど、いや冷静に考えるに『ホーリー・マウンテン』にそんな美しい場面が一瞬でもあったろうか?ひたすら異様だっただけなのでは?(ひどい)
 たぶんホドロフスキーを思い出してしまったのは『クィア』の絵面のいちいちの美しさ・ではなく、その中に最初から潜んでいた異様なものへの熱情のせいだろう。ダニエル・クレイグ演じる中年男が美青年に恋する話、という体(てい)で始まった本作は途中から、すでにヘロイン・コカインに耽溺していた主人公(クレイグ)が南米の部族に伝わるという究極のドラッグ「ヤへ」を求めて―美青年も誘って二人で旅立つアダルト版インディ・ジョーンズみたいな密林冒険譚に変調していくのだ。
 
 異様さを潜伏させながら表向きはのっぺりとした均整美が「三部構成の二部まで」は続くと書いたのは、このためだ。第三部はそれまで伏在していた不穏が覆いをひっくり返すように前面に出てくる、獰猛さのオンパレード(それでもやっぱり、ショットの一つ一つが異様に美しいのだけれど)。とはいえ侵食はクレイグ演じる主人公がヘロインの禁断症状で「寒い寒い」と終始ガタガタ震える第二部から始まっていただろうか。予告篇では上手に伏せられていたけれど本作の後半「ダメ、ゼッタイ」なドラッグ・ムービーですから。
 インディ・ジョーンズかホーリー・マウンテンか、はたまた地獄の黙示録かという異境の聖杯探究譚は、鞭を振るう考古学者や究極の智を求める求道者、あるいは密林に王国を築いたグリーンベレー大佐の暗殺を命じられた中尉それぞれが各々そうだったように(どのような「聖杯」に辿り着くかは作品によって違う)、本作だけの聖杯に到達する。『クィア』が到達した「聖杯」を観て、ルカ・グァダニーノ監督は前作のリメイク版『サスペリア』の時から「これ」を撮りたかったのかもと得心してしまった。
 簡単にいえば、人が人でなくなること。『サスペリア』ではウィッチクラフト(魔女の秘儀)やオカルト的な超能力で目指された境地が『クィア』ではドラッグによる知覚変容でもたらされる。
 実はリメイク版『サスペリア』で少し不満だった、主人公スージー・バニヨンの超能力を示唆する怪光の出現(ホラーは個人的にホラーであっても『シャイニング』や『エクソシスト』、ダリオ・アルジェントのオリジナル版『サスペリア』のようにオカルト的な事件もあくまで現実的な描写で描かれてほしい・霊力がピカピカとかはやめてほしいというワガママな趣味がありまして、『シャイニング』の続篇として作られた『ドクター・スリープ』も実は冒頭から悪役レベッカ・ファーガソンの目がピカピカ光った時点で「ちょっと…やめて…」だった)ええと挿入が長くなってしまった、怪光です。『サスペリア』の随所で現れた怪光が、『クィア』でもクライマックスの超現実体験を予告するように現れ、両作の類縁関係を証だてる。こっちはもう許すしかなかったし、色々あってのラストではもう完全に許すしかなかった。
 それで思い当たったのは『クィア』で主人公が恋する美青年の、ツッコみたくなるほどの付きあいの良さだ。元々「僕はクィア(ゲイ)じゃないよ」と言いながら主人公の中年男と関係をもつ時点で相当ノリがいいのだけれど、一緒に南米に旅立つわ途中で禁断症状に苦しむ主人公をかいがいしく介抱する(というほどじゃないけど捨てずに同行を続ける)わ、密林探索で泥だらけになり蛇に腰を抜かし、最後には人が人でなくなるような究極体験まで「まあ暇だし面白そうだから」くらいの軽さで付き合ってしまう。物語はあくまで主人公=演じるダニエル・クレイグ=モデルである原作者ウィリアム・バロウズの視点で描かれるから知る由もない、この美青年視点では、これは一体どういうことなのだろう―
 『クィア』ピッタリ完璧なオールバックが後半ハラリと崩れるの好き好きクラブの皆さんにもオススメです…と(図解つきで)やにさがる羊帽の女の子「ひつじちゃん」。『ドラゴン×マッハ』もよろしくね。
 そう考えて(これは自分でも半分も信じてない、暇だから考えた解釈ですが)若いのにドイツで対ソ連の諜報活動に従事していたという経歴を、まあ本当かどうか分からないくらい軽々しく語るこの美青年は、その後フリーの写真家でフラフラ暮らしてると言いながら実は諜報活動をつづけていて、南米までつきあったのも「米ソそれぞれが関心を示している』という触れ込みの究極ドラッグの研究データ目当てだったのでは…みたいな「彼側の事情」もありえないではない(かなり無理があるけれど)と思うに至ったのだ。
 前作『サスペリア』が現代オカルト・ホラーの古典をベースにしながら、オリジナルにはなかったドイツ現代史を作品に持ちこんだように。東西冷戦で引き裂かれた夫婦の悲劇を振り出しに→70年代ヨーロッパで・ドイツでは「バーダー・マインホフ事件」として吹き荒れた主に若い層の極左テロ活動と→そんな左翼に共鳴しがちな少女たちを生贄にした儀式で魔術的な力を得ようとする伝統・保守層(彼女たちが表の顔として主催した現代舞踏の演目が「VOLK(民族・国民)」というナチスを彷彿とさせるタイトルだったのもエグかった)の角逐を→西から来た善き魔女(?)(アメリカの清教徒的な文化を・あるいはそれが禁欲的に抑圧してきた結果あれ狂うエネルギーを背負う)スージー・バニヨンが調停する…そのようなストーリーとして「取ることもできる」ように。
 『クィア』もまた、表立ってはいない形で、東西冷戦や諜報活動的な要素を隠し持った=その意味でも前作『サスペリア』の延長線上・『サスペリア』でやりたかったことを今度こそ完成させた作品だったのかも知れない。
 …こうした要素を深く突きつめて考えるためには、自分は(アートな映画だけでなく)オカルトや、国策に取り入れられたオカルト≒つまりは陰謀論の分野にも疎くて(お前は何なら「疎くない」んだ)、まあヘンなものに深入りせず一応この歳まで健全に生きてくるためには疎くて正解だったとは思ってますけれど、そして、こうしたこと(オカルト的・あるいはドラッグによる知覚の変容的な「世界の真実」や、政局的な「真相」)が物語の「正解」ではないことも強調しておきたいのですけれど
 この作品は実は○○について描いている、だからその○○という認識に到達すること「のみ」が正しい観賞…そんなわきゃないですよ。政治的背景やイデオロギー、あるいは愛だとか人生訓・「子供のことを思わない親はいない」とか「世の中の人々はまっとうに生きていて一人ひとりが素晴らしいんです」とか、そういうメッセージを作品は貪欲に取り込むことはあっても、それを見出すことが作品を享受することの「正解」ではない。もちろん受け手はそうしたメッセージを作品から汲み取っても、そこから生きる勇気を得ても全然いい。でも正論をぶちたければ架空の場所に架空の人物を設定して…なんて回りくどいことせんと直接に正論をぶてばいい、という教え(吉田健一)を忘れてはいけない。
 映画単品から創作全般の話になってしまったけれど半ば意図的だ、このまま続けさせてもらう。
 
 chapter.3.すべての土地はもう人が辿り着いてる
 20世紀後半の日本を代表するシンガー・ソングライター中島みゆき氏は細野晴臣氏との対談で、細野氏が結成したYMO=イエロー・マジック・オーケストラの音楽を最初「頭脳作戦」みたいな感じだったらイヤだなと敬遠していたが、実際に聴いてみたらリズム面に「天然(実際は別の言葉を使っているけれど21世紀前半の現在では障りがありそうなので置き換えてます)」を感じたので安心して聴くようになったという主旨のことを話していたことがある。
 chapter.1.で、そして先行した小ネタ(もう消しました)で「傑作なのか・ものすごく傑作ぽい紛い物なのか判断に迷うのが歯がゆい」と書いたことを、もう少し掘り下げて説明します。させてください。
 要は、あんまり見事な「作りもの」過ぎて、この異様な美しさは監督の熱意が生んだ「天然」なのか、まあいっちょ先鋭的と驚嘆されるようなものを作ってやりましょうという「頭脳作戦」なのか、観てる側が自信なくなるくらいだな…と思ってしまったのだ。
 「頭脳作戦」は「マーケティング」と言ってもいいのかも知れない。あまりに美しすぎて…では分かりにくいかも知れないので置き換えると、たとえば「真心がすべて!」みたいな強いメッセージをクライマックスで訴えかける作品があったとして、それが作り手の信念に基づくのか、それとも「そう言っておけばウケるだろう」というマーケティングに基づくのか、どちらと取るかは作品の受け取りかたを大きく左右する。
 これは難しい問題だ。作品は天然(信念)と頭脳作戦(マーケティング)どちらかに必ず二分されるものではなくて、大体は双方の要素を併せ持ってるものかも知れない。受け取る側が決める要素も強い。前にも書いたと思うけど(書いてなかったかしら)お揃いの制服を着た少女たちが和音どころかユニゾンで「不協和音を僕は恐れない」と唄うアイドル歌謡は、僕は邪悪な(なんなら実際には救いを求める若者たちへの悪意すらある)マーケティングの産物としか受け取れなかったけれど、それを「真に受けて」異国で弾圧に耐えた若者も居る。
 逆に、誰かが心血注いだ作品を叩きのめすのに「あーはいはい、いかにもって感じだよね、狙ったんでしょ?」と冷笑するほど効果的なハンマーもないだろう。あくまで受け手のコンディションの問題かも知れないが、僕には『クィア』が出来がよすぎて逆に、そういう揚げ足取り「はいはい、お見事お見事」に対して隙がありすぎる難しい作品に見えてしまった。
 たとえば最近の映画だと香港・九龍城砦を再現してのけた『トワイライト・ウォリアーズ』を「紛い物」と思う人は(あまり)いないだろう。あまりにも雑然として、それでもその中を縦横無尽に駆け回るアクションを繰り広げつつ怪我やつまづきが残らない映像に、スタッフからキャストから大変な数の人々の実在する努力の積み上げは疑う余地がないからだ。『クィア/QUEER』は、あまりに整然として「そつがない」(そつがない、なんてものじゃないのだけど)。もちろん『トワイライト・ウォリアーズ』が努力と汗の結晶で、汗ひとつかいてないような『クィア』がそうでない、なんてわけはない。同じくらい人手がかかってるに決まってる。けれどその均整美は、AIでどんな画像でも作れてしまうと謳われる時代に、(人力でありながら)あまりに親和性が高い。
 映像美だけではない。
 先にホドロフスキーの名を挙げたけれど、本作は(僕にとっては)ホドロフスキーやクローネンバーグが描こうとしてきた人間変容の夢を彷彿とさせすぎる。同じ聖杯を求めてるのだから彷彿とさせるのは当然なのだけど、終盤に至って「生きてたのかデヴィッド・リンチ(〜2025)」と思うような場面や、ついにはスタンリー・キューブリックすら彷彿とさせる場面(個人の感想です)に曝されて「すごいけど、不幸な作品でもあるのかも知れない」(個人の感想です)と思ってもしまったのだ。
 オタクと呼ばれる情報複製時代の寵児たちの黎明期に「おおすべてのことは一度もう行なわれてる すべての土地はもう人が辿り着いてる」と高らかな絶望が唄われて以来、既に40年近く経っている。
ムーンライダーズ - マニアの受難(YouTube/外部リンクが開きます)
 『クィア/QUEER』はホドロフスキーが、クローネンバーグが、リンチが、キューブリックが、もしかしたら原作者のバロウズが、吾々みんなが夢見てきた「人間をやめたい」という夢(そういえばドラッグ濫用に警鐘を鳴らす80年代の有名な広報コピーは「人間やめますか」だった)を、これまでにない完成度で映像化した傑作だと言える。こんな作品を信念なしに、マーケティングや「頭脳作戦」だけで作れると思うのは、あまりに創作てものを馬鹿にしすぎだろう。その完成度は、これから人類が体験する・半ば体験しつつある「AIで何でも作れる時代」の最良の部分を、人力で先取りしているかのようですらある。
 けれど『クィア』に、ホドロフスキーやクローネンバーグ・リンチやキューブリックが持つ「そこに最初に辿り着いた」という栄誉を認めることは、観てない観てないと言いながら観てない範囲内で色々と観てきてしまった自分には、悲しいけれど難しい。少なくとも今は。先達たちが(彼らには彼らなりの参照する先行作品があったのかも知れませんが)それまで描かれてないものを描いて博したカルト的な人気・評価を得ることは「これまで描かれてきたものを今までで最高に完璧に描いてのけた」だけでは、難しいのかも知れない。
 そんなことない、人生が変わるほどのショックを受けたよ、こんな体験は想像したこともなかった、という(若い)受け手もいるだろう。その人たちが羨ましいし、本来そうした評価に足るポテンシャルを有した作品だと思う。
 ダニエル・クレイグも「この映画のためにボンドを辞めた」と言われても信じちゃうくらい(違いますよ)素晴らしかったです。映画館の大スクリーンで是非。

      *     *     *
(25.05.26追記)まだ何か大切なことを言い落としてるよなと思いながら昨晩日記(週記)をアップロードして、寝床に入ってから言語化できたので加筆です。折角なので映画と同じ(3章+1)の構成で↓

 epilogue.
 聖杯に色々あるのと同様「人間をやめたい」にも色々ありまして。キューブリックみたく人類の上を目指すこともあれば、クローネンバーグのようにハエと合体でもいいやと割り切ることもある。(そういえば『クィア』の原作者バロウズの声をサンプリングしたYMOの楽曲のタイトルが「BE A SUPERMAN」だったような…)
 『クィア/QUEER』を観ながら連想していた他作品がもう一つあった。作品とゆうか、とあるBL漫画の「交わりを重ねて互いを理解すればするほど−私たちはそれぞれが如何に孤独かを知る」という主旨のモノローグだ。身体を重ねても、お互いを分かりあっても―いや、それでこそ余計に募る孤独。
 『クィア』の主人公が究極のドラッグ「ヤヘ」を試すのにわざわざ相方を連れていく、求めていたのが「一人で超人になりたい」ではなく、予告編でも引用されていたように「言葉を使わずに君と話したい」だったことは特筆に値する。寿司屋だと思って入ったらラーメンが出てきたみたいに(←最近の回転寿司では「あるある」ですが)、ゲイロマンスを求めた観客にバケツ一杯のドラッグ体験を浴びせる本作は、その動機(一人はイヤだ)と「ヤヘ」で合一化してもなお癒せない孤独を際立たせた一点で、寿司としての面目を保っていた・逆にすごい濃い口のBLとして着地しおおせた、とも言えるのではないでしょうか。
 究極のドラッグ体験を経て主人公たちの目尻から流れる涙は、結局孤独だという諦念の涙かも知れなかったし(美青年のほうが何を考えていたかは相変わらず知る由もない)同じく男が涙を流す、クローネンバーグの現時点での最新作『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』(2022年)のラストシーンと重なりもした。それぞれのやりかたで人間という限界の外に出ようとする者たちが、それぞれに流す涙。かつてクローネンバーグがバロウズの『裸のランチ』を映画化していたことも念のため付記しておきたい。

      *     *     *
 あとアレだ、オールバックの髪は「幾筋かだけ」ほつれたように崩れるからいいんだ『クィア』みたくバッサバサに崩れるのは認めんという厳格派の異議は甘んじて受けます…

国家を持たない人々(仮)〜『ゾミア』『シャドウ・ワーク』『宮本常一『忘れられた日本人』を読む』(25.05.18)

 そんなわけで、いやー読んだよジェームズ・C・スコットゾミア 脱国家の世界史』(原著2009年/佐藤仁ほか訳・みすず書房2012年/外部リンクが開きます)。神保町の東京堂書店で「これもうスゴい本ですから」とばかりのオーラを放つ平積みを見て、まあ今生は読むチャンスないかもだけど…と遠く憧れたのは何年前だったか。意外と読めるもんだ。そして滅法おもしろかった。
 同じスコットの「普及版・ゾミア入門」とも言うべき『反穀物の人類史』について先月たっぷり書いてるので、またくどくどと多くは述べない。著者自身による冒頭の要約だけで十分だろう;
「東南アジア大陸部の五カ国(ベトナム、カンボジア、ラオス、タイ、ビルマ)と中国の四省()を含む広大な丘陵地帯(略)ゾミアは、(略)約一億の少数民族の人々が住み、(略)国民国家に完全に統合されていない人々がいまだ残存する、世界で最も大きな地域である(強調は引用者)
 この短い文言に異様なまでのときめきを憶えない人は、まあ知るのが早すぎたのだ、何年か何十年か経って気づいてから同書を手に取ればいい。
 残念ながらゾミアが「国家に抗する」世界最大のアジールであった時期は鉄道や自動車・飛行機の発達によって過去となり、その消滅は時間の問題だろうとスコットは言う。
 けれど同時に彼は「しかし一昔前まで人類の大多数は、ゾミアの人々のように国家を持たず、政治的に独立して自治をしていた」とも述べている。この「一昔前」は、どれくらい前のこと、なのだろうか?

      *     *     *
 『ゾミア』を読んで数十年ぶりに思い出したのはイヴァン・イリイチシャドウ・ワーク(原著1981年/玉野井芳郎・栗原彬訳・2023年岩波文庫/外部リンクが開きます)で紹介されている1エピソードだった。
 僕が読んだのは学生時代、岩波書店1982年→岩波現代文庫2003年の間のどこかで出ていた同じ岩波の同時代ライブラリ版で、数十年ぶりに開いて確認したそれは「シャドウ・ワーク」という今なら誰もが知っている(ものとして話を進めます)概念を説いた同書の本題とは、もしかしたらあまり関係がない。今ではカギカッコつきの「アメリカ大陸の発見者」クリストファー・コロンブスの話だ。
 その評価について(彼を偉人のように取り上げて炎上した日本の軽率なミュージシャンについても)今回語ることはない(古代ギリシャで最初に地球の大きさを算出した)エラストテネス以来コロンブスほど、地球の大きさをおそろしく過小に見積もったものは誰ひとりとしていなかった」(だから無謀な遠征を提案できた)という皮肉たっぷりの一節だけで十分だろう。今回読み返しても笑ってしまったし、数十年前に読んだ時もたぶん笑ったと思う。けれどかつて強烈な印象を残したのは、そこではなかった。十分に前置きしてしまったが、簡潔に述べよう。
 イリイチは言う。現在でいうイタリア、ジェノバ出身のコロンブスが最初に身につけ話していた言語はジェノバ語だった。商人として彼はブロークンなラテン語を書き、ポルトガルで結婚した後はおそらくポルトガル語を話すようになる。そしてポルトガル語混じりのブロークンなスペイン語が、彼の二番目の書記言語となった。
 「彼のスペイン語は(略)半島のいたるところで習いおぼえた簡潔なことばに富んでいた。構文は多少奇異ではあったけれども、彼はこの言語を生き生きと、表現力に富み、しかも正確に、あやつった。こうしてコロンブスは、話すことのない二つの言語(ラテン語とスペイン語)で書き、数カ国語を話したのである。」
 コロンブスに接した人たちも、その言語がブロークンなブリコラージュだったことに当惑したり困ったりすることはなかっただろう。むしろ彼のように、いくつもの「国語」や方言を操り、文法は怪しいけれど兎に角は伝わり、なんなら表現力に富んだ文章をものする人々のほうが、15世紀の地中海世界ではデフォルトだったのではないか―そんな思いも当然のように湧いてくる。
 イリイチの文章の主眼は、コロンブスの同時代人ネブリハが、カスティリヤ語を厳密な文法規則をもつ言語として精製してスペインの唯一の「国語」とすることを提唱し、コロンブスが生きていたような多言語世界を破壊したことにある。が、それは関心をもった各自が同書で確認すればいいことだ。いや、よい機会なので僕もあらためてイリイチの主張を再読したいけれど―
 僕の今の関心の焦点はこうだ:地球の大きさをかつてないほど小さく見積もった怪しい航海計画に認可を与えたイザベラはスペインの女王だった。けれど航海への援助を乞うたコロンブスは何人だったのだろうか。彼にとっても、彼のブロークンな多言語を受け容れた地中海世界の人々にとっても、国家や国籍は少なくとも、現在ほどにはギチギチの強固なものではなかったのではないか。

      *     *     *
 東南アジアに世界最大の無国籍地域がある(あった)のは分かった。15世紀のヨーロッパも(ある意味)似たようなものだった(かも知れない)ことも分かった。
 でも日本は。稲作で国家の存在感が強く移民にも他民族にも不寛容な日本は、まさにゾミアの対極だよなあと、取りつく島がないように思っていた頃が私にもありました
 その思いは『ゾミア』巻末の訳者あとがきで早々に覆される(早いな)。
 まず挙げられていた柳田國男については、彼が「遠野物語」や「山の人生」で山に拠る非農耕民に思いを寄せたのは民俗学者としてのキャリアのごく初期で、すぐさま彼自身が「常民」と名づけた「ふつうの日本人」に関心をシフトさせたように(僕には)思われる。
 しかし同じく挙げられた宮本常一や網野善彦は、とくに後者の網野氏は「万世一系の単一民族」的な日本観の解体に尽力した印象が、なるほど強い。というかイリイチの『シャドウ・ワーク』を読んだのと同じころ、(もちろん自分の乏しい読書力の範囲で)『無縁・公界・楽』をはじめとする網野史学には自分もそこそこ入れこみ、影響を受けたつもりだったけれど、そんな自分でも「違うんだけどなあ」と思いつつ「世の中一般は単一稲作民族日本(おにぎりのおいしい国)主義」とバックラッシュに押し流されてはいたのだろう。
 網野善彦宮本常一『忘れられた日本人』を読む(岩波書店2003年→岩波現代文庫2013年/外部リンクが開きます)という格好のテキストがあったので、復習のつもりで早速読み、ひっくり返った。

 ここで余談を挿しはさむと『ゾミア』を読んでいて「日本の事例」として強烈に思い出されたのは、宮崎駿氏の諸作品だ。
 氏の最初のメガヒットである映画『もののけ姫』の、大和朝廷にまつろわぬ(そして排斥され滅びゆく)列島内の異民族である主人公アシタカや、山の中に遊女や被差別者のアジールを築かんとするエボシ御前の描出には、網野史学の影響がありありと見て取れた。
 そして氏の初期の絵物語作品『シュナの旅』は、舞台こそ日本ではないが、主人公たちを脅かすのが「人買い」実質的には強奪者たる奴隷商人だった設定が、国家=穀物生産社会は奴隷制によって成り立ったというスコット『反穀物の世界史』の主張と、いやおうなく響きあっていたのだ。
 けれど先を急ごう。
 百姓=文字どおり百の姓(かばね=生業)でありイコール稲作民というのは後世の誤解だと説き、稲作農耕民の秩序からはみ出した海民や山民・「道々の輩(やから)」に思いを馳せ、そして「日本」の歴史「日本」の歴史というが縄文や弥生の頃には「日本」という「国」はなかったのだから「日本列島」の歴史と呼ぶべきだと異議を申し立てた網野史観。もちろんそう理解はしていた(つもりだ)。「日本」は単一民族国家だという暴論も、アイヌや琉球人・フィクションだけどアシタカの一族のように滅ぼされた列島内の異民族によって容易く反証できると認識もしていた。
 けれど『忘れられた日本人を読む』で網野氏が挙げていた事例は、そんなものではなかった。
 まず引用されるのは宮本ではなく、日本語学者の大家だった大野晋氏の説だ。1957年に刊行されベストセラーになったという『日本語の起源』(岩波新書)で
「大野さんは(中略)非常にはっきり、列島の東と西では人種、あるいは「民族」の差異といってよいほどの言語の違いがあることを強調しておられるのです」
と網野氏は取り上げるのだ。
 民族ですよ?
 でも先ほどの事例を思い出してほしい。大野氏→網野氏が例示する
 見ろ・みい、しなければ・せねば、なんとかだ・なんとかじゃ、ひろく・ひろう(広く・広う)、かった・こうた(買った・買うた)
といった一連の語彙の違いは、コロンブスが操ったポルトガル語とスペイン語の語彙の差と、どれほど違うのだろうか。あーつまり、たぶん基礎的な文法は同じくするジェノバ語やポルトガル語にスペイン語そしてラテン語が多言語・異なる民族の用いる多言語であるならば、アイヌ(現在の北海道)や琉球(同沖縄県)どころか本州じたい東(しなければ)と西(せねば)で言語圏ひいては「民族」とやらは真っ二つに分かれていたと捉えることだって不可能ではない。
 そんな馬鹿な、いや(網野氏が引用しているように西のひとに「あれを借って(かって)こい」と言われた東のひとが「買って」きてしまうようなコミュニケーションの齟齬があったにせよ)東日本と西日本の人たちは意思の疎通も商取引も出来ただろうと言うのであれば、コロンブスの時代におけるジェノバとスペインも、そしてゾミアに生きる複雑に入り混じった多民族社会も、同様だったと言えるはずだ。
 たたみかけるように網野氏は、東と西では「王権」すら別だったと言う。
 いや、もちろん東日本で幕府を打ち立てたのは西の天皇に仕える征夷大将軍であり、東に別の王権が立てられたわけではないと反論は可能だろう。だが、他国・他民族間でも臣従のかたちを取りうるのは、たとえば中国と(日本を含む)他国の間に確立された朝貢外交の事例などで明らかだ…とは僕の私見による追加。
 網野氏が挙げるのは、たとえば自ら作った手工芸品などを商う非農耕民が、通行の許可を与える権威として頼ったのは、西日本では天皇・東日本では将軍と明確に分かれていたという事例だ。
 結論として、20世紀中盤までの(そして現在も)ゾミアがそうであるように、15世紀の地中海世界も、鎌倉時代の日本列島も、少なくとも「国家」「国語」の縛りは今の吾々が考えるよりずっと緩く、融通の利くものだった「と考えることが出来る」。
 それは単純だけど少しの目の位置で何にでも見えるってこと

 電車の中で『「忘れられた日本人」を読む』というタイトルの本の表紙を晒しながら(図書館で借りた本にカバーをかける余裕がなかった)自分が「今の日本人は誇り高いサムライ魂を忘れている」みたいな本を読んでる「保守」の中高年男性だと思われたらイヤだなあと気恥ずかしかったのは自意識過剰すぎるとして。いやまあ通勤通学退勤その他の人たちは他人が読んでる本なんか気にしちゃいないよと分かってはいるのですが。
 本来「日本が」「日本が」「日本は素晴らしい」「世界中から尊敬される日本」とか言ってる人たちのほうが、他のことに(も)関心が多すぎて気もそぞろな僕などより、よほど熱心に網野氏や宮本氏・あるいは鶴見善行氏などが説いた(そして数多くの研究者が続いているだろう)単一民族史観・島国史観に取って代わる日本列島の歴史に取り組んでよい、はずなのだけど、どうなのだろう。
 それとも彼ら彼女ら(もしかしたら「あなた」たち)は「すごい日本」だけ好きでいたい・「日本が好き」と言うより「日本を好きにしたい」だけの人たちなのだろうか。

      *     *     *
 今回は特に貼れる写真も絵もないので、東新宿の韓流スーパーで買ったジョン(餠)と、学芸大学駅で買った和菓子(胡麻まんじゅうと季節限定うぐいすまんじゅう・ミニおかきセット)など。色とりどり。
 と、言うわけで、今回の日記(週記)のテーマは明確だ。
1.東南アジアには世界最大の「国家に属さぬ人々」の社会がある(スコット)
2.だが15世紀の地中海も似たようなものだったのではないか(イリイチ)
3.そして近世以前の日本列島も(網野善彦)
 最後に4.として付記したいのは、少し次元の違うことだ。なるほど東南アジアのゾミアは「国家に属さぬ人々」の地域としての存在を、急速に失ないつつあるらしい。ピエール・クラストルが中米に見出した「国家に抗する社会」が西欧に始まった近代的な国家によって急激に駆逐され、滅びたとされるように。誰のものとしても登記されていない土地が、もはや地上にはない(たぶん)ように、もはや国家に属さない土地も存在せず、すべての人々はいずれかの国家に登録され、いずれかの「国語」を「母語」として割り当てられているのが現在かも知れない…
 …本当にそうだろうか?
 なるほど、国家の統制や徴税から逃れた「無縁」・アジールとしてのゾミアのような地域は消滅する(した?)かも知れない。だが、かつてゾミアに生息したのと同じくらい沢山の「国家に属さぬ人々」が、今は移民・難民・サンパピエ(san-papiers=書類を持たない人々)・非正規滞在者として世界中の「国家」の中に、数えられぬまま存在しているのではないか。
 「数えられぬ」というのは、国家を形成されるマジョリティ=国民によって存在を透明化されたまま、という意味だ。
 鎖につながれたように通勤電車に押しこめられる(2016年9月の日記参照)マジョリティとしての自分が、国家の庇護を受け得ず積極的に迫害されさえする人々に、自由の幻想ばかりを投影して過度にロマンチック化する愚は厳に回避されなければならない。
 けれど、そのうえで、事実として、「ゾミア」とは違った形で存在する「国家に属さぬ人々」をどう認識するのか。メネ・テケル・バルシン(先月の日記参照)とは言わないけれど、「いなくていい」「いても邪魔」扱いされながら実はしっかり搾取の構造には組み込まれてもいる非正規滞在の人々を、これからどんどん数を増してゆくだろう人々を、どう社会の中に「数え」位置づけるか。かつてのコロンブスのように一つの国家や一つの言語で定義できない人々を「数え」られるよう、旧来の「国民」国家という枠組をいちど分解して、再構築する必要があるのではないか。
 「ナチズム時代のヨーロッパの中心から旧ユーゴスラビアまで、中東からルワンダまで、ザイールやカリフォルニアまで(中略)あらゆる種類の難民たち、移民たち(市民権の有無は問いません)、亡命や強制移住させられた人々(身分証明書の有無は問いません)、カンボジア人、アルメニア人、パレスチナ人、アルジェリア人、その他もろもろの人々が、社会および地球規模の政治空間に対して、ある変容を―すなわち、法的−政治的な変容であると同時に、なによりもまず倫理的な転換を(こうした区別がなおも妥当性を維持できればですが)―要請している」
…最近読んだ別の本からの引用なのだけれど、わざわざ書名を挙げる必要はないだろう。すごめの著者名で箔をつけるように見えるのもシャクだし、およそまともな感性をもった人なら誰でも言える・言えるべきことだからだ。国家が国民だけを保護する(最近は保護すらしつづける意志があるのか怪しいけれど)体制から、こぼれ落ちる人たちの生存や人権は誰が保障するのか。
 4.「ゾミア」が消えても「国家に属さぬ人々」は移民・難民という形で世界に存在しつづける。
 4.1 難民や移民・それに性的マイノリティや障害者などを「ふつうの人々」が「いないこと」にしつつ搾取のサイクルにはしっかり組み入れている社会(今年2月の日記など参照)を、いかに解体し「国家や国語に属さぬ人々」まで包摂した社会として再構成するか。
 4.1.1 その再構築(ディコンストラクション?)に『ゾミア』や『国家に抗する社会』『無縁・公界・楽』の知見をコネクトする作業は、比較的まだ手つかずの課題なのではないか。

 90年代に書かれた文章で列挙された「もろもろの人々」に、今なら(そして以前から)クルド人やビルマ≒ミャンマーを追われた人々が含まれ特記されるべきなのは、言うまでもない。

希望に抗する物語〜レオナルド・パドゥーラ『犬を愛した男』(25.05.11)

『犬を愛した男』の感興の核心に触れています。まあ何に感じ入るかは人それぞれなので気にしない人はいいけれど、まっさらな状態で臨みたい未読者は注意。

 まず最初に謝っておかないといけない。先月の小ネタで「たしかトロツキーは暗殺されたとき反撃して襲撃者の耳を喰いちぎった気が(違ったっけ)」と書いたけど、違いました。なんでそんな風に記憶がねじ曲がったんだろう。その意味でも読んで良かった
レオナルド・パドゥーラ犬を愛した男(原著2009年/寺尾隆吉訳・水声社2019年/外部リンクが開きます)
 もうひとつ分かったのは「たしか吉野朔実さんが本の雑誌で取り上げてたよね」という記憶も自分の捏造だったことだ。吉野氏、本書の邦訳が出る三年前に急逝されているのだ。プリンスの一日前に。2016年、改めて非道い年だった。ドナルド・トランプが最初にアメリカ大統領に選ばれた年でもある。改めて酷い。

 後半は核心に触れるので早めに結論を言ってしまうと、すごく面白かった。分厚さに躊躇してる人も、恐れず読んだほうがいい。予備知識ゼロでも、たぶん大丈夫。
1.1917年に起きたロシア革命は以後80年にわたり、世界を西=自由主義・資本主義陣営と東=共産主義・社会主義陣営に二分した。
2.ロシア帝国を打倒しソ連を築いた国父レーニンの死後、後継者の座をスターリンと争って敗れたトロツキーは1940年、亡命先のメキシコで暗殺された。
3.1930年代にスペインでは自由主義・社会主義諸国が支援する人民政府と、ドイツなどファシズム陣営が支援するフランコ将軍との間で内戦が起きたが、後者が勝って長く独裁制を保った。
4.キューバは1959年の革命以降、今日に至るまで共産党の一党独裁が続いている。
これくらい知ってれば十分。いや、これすら不要かも知れない。
 「これさえ知らなくても大丈夫(知ってるか) ×トロッキー ○トロツキー」というキャプションに「キユーピー」マヨネーズを前に「キヤノン」のカメラを構える羊帽の女の子(ひつじちゃん)の挿し絵を添えて。
(にゃ、キユーピーやキヤノンは発音は「キューピー」「キャノン」だけど、トロツキーは発音もトロツキー)(昔は「トロッキー」だった)
 ただし『犬を愛した男』というタイトルは多少間違っている。
 『一九八四年』の二分間憎悪どころか宿敵スターリンによって二十年にわたり、内憂外患・全ての悪や不都合の黒幕(ヒトラーやヒロヒトとすら共謀してることにされた)=全ソ連国民の憎悪の対象=スケープゴート役を負わされ続けたトロツキーも犬が好き。そのトロツキーを亡命先のメキシコで暗殺したラモン・メルカデールも犬が好き。ラモンの旧友を名乗りキューバに現れた謎の男も、彼からトロツキー暗殺のおぞましい真相を聞かされる語り手も犬が好き。ついでに内戦下のスペインにちょっとだけ登場する『一九八四年』の作者ジョージ・オーウェルも犬が好き。単数じゃない、犬を愛した「男たち」じゃん!
 こうなると巻頭で「三十年経っても、まだ ル シ ア の た め に」と献辞を捧げられてるのも(人間の連れ合いや家族じゃなくて)犬なんじゃね?と思えてならない。記憶捏造の一因かも知れないけれど、吉野朔実さんも愛犬家だった。よね?
 ともあれ物語は30年代〜40年のトロツキー・メルカデール、時代を経て70年代の語り手、三者の視点を交互に配して進む。トロツキーの「裏切られた革命」と、表裏一体で描かれるスターリンの恐怖政治。スペイン内戦で共和国側として戦い、敗北に打ちのめされたメルカデールがソ連(スターリン)の手先として暗殺者に己を錬成してゆく過程。そして海を隔てた社会主義国キューバの言論統制と貧困で削られゆく語り手の生涯。
 元々は警察ミステリで名声を博した作者の筆致はエンターテインメントとしてのツボを知り尽くしているかのように読者を飽きさせない。結局メルカデールは首尾よくトロツキーを仕留めると分かっていながら、決行の瞬間はサスペンスたっぷりに引き伸ばされ、しかも政治的には不倶戴天のトロツキーとメルカデール・どちらにも均等に共鳴共感(そして嫌悪反発)できるよう物語は進む…
 …ここまでなら上質の「リーダブルな小説」だ。だが暗殺者の凶器がターゲットの頭上に降り下ろされた瞬間から
 ※ここまでなら、まだ引き返せます。以下は未読者注意。

 物語の空気は一変する。いや、ページを繰る手が止まらぬ筆致は変わらない。
 「途中で四日もページを繰る手を止めたくせに…ウソつき(※GW帰省中の荷物を軽くしたくて一旦中断しました)」というキャプションと、4.5センチの厚みを持つ同書の写真・真ん中あたりで開いたところも。
 けれど、その場で捕縛され20年の収監を経て、名目上は英雄としてモスクワに移り住んだメルカデールの後半生を執拗に描く終盤は、それまで盛り上がったサスペンスも政治的な高揚感も、すべて欺瞞だったことを残酷にさらけ出す。
 いや、元々すべては欺瞞に満ちていた。オーウェルほか各国からジャーナリストや義勇兵が馳せ参じたスペイン内戦は、自由主義を掲げる政府が政権内部と支援を謳う各国・各勢力の主導権争いで自滅したようなものだった。任務のため名前も経歴も偽るメルカデールは自身のアイデンティティも失なった操り人形と化し、誰からも醜いと憐れまれる女性を色仕掛けで攻略してのける。反動勢力の手に落ちた祖国に二度と戻れない彼はソ連政府に下賜された勲章をデパートの行列に割り込むために見せびらかし、体重100kgに肥満する。
 トロツキーとて例外ではない。絶えず癇癪を起こし、粛正の危険を冒して尽くす息子を働きが足りないと罵り、妻を裏切って不貞に走る。何より赤軍の初代指導者としての反対者の圧殺、クロンシュタットの水兵蜂起の容赦ない弾圧、後にスターリンがはたらく恐怖政治の悪業の雛形を作ったのは自分自身だったという自責と、その自責を自ら封じこめる怯懦が、悲劇の主人公・一方的な犠牲者という仮面を無慈悲に剥ぎ取ってはいた。
 スターリンの傀儡だったメルカデールが標的に最接近した時も、両者の邂逅は心の交流や和解をもたらさない。事ここに及んで暗殺者の心に生じた迷いもトロツキーの人格にふれ感化されたものではなく、いつの間にか自分は正義や理念のためでなく味方から何重にも仕掛けられた罠と恐怖で逃げられなくなっているだけだという自覚からのものだ。そして無防備な頭蓋に凶器を振り下ろされる直前、トロツキーがメルカデールにかけた最後の言葉は「頼まれたから読んでやってるが、君の文章はクズだな」、その場で警察に殺されてもおかしくなかった暗殺者の命を救った瀕死のトロツキーの言葉も、彼を赦せなどではなく「活かしておいて尋問しろ」だった。

 それでも。裏切られた革命にも、欺瞞に満ちた生にも、何らかの救いが、それでも人が生きていける・人生や世界を肯定できる根拠となる輝きがあるのではないか。そんな思いは最後の最後、念入りに叩きつぶされる。どうやってか。
 どんな悲惨な運命でも、どんな無情な悪行でも、小説は、物語は、そのおぞましさを保ったまま芸術という美に昇華できる。小説は、映画は、物語は、人の言葉は、創作という営為は、恐怖政治によって消し去られた人々の存在を復活させ、すべてを忘却させる時の流れに抗う―だから小説は、物語は素晴らしいのだという創作や表現に携わる者の自負は、れまでトロツキーの、メルカデールの、そしてキューバに生きた自身の苦難に満ちた生涯を総括して語ってきた「語り手」があっさり退場し、彼の友人だった別の作家の視点に切り替わることで「語り手」への感情移入ともども封じられてしまうのだ。
 掴もうとした手がスルッと宙に泳いで後は落下するしかない、この離れ業のために、まるで600ページにわたる物語は積み上げられてきたかのように、得られるはずだったカタルシスは霧消する。この物語に―スターリンの暴虐に、スペインの敗北に、ソ連で・ソ連領だったウクライナで・大躍進を謳った中国で・ポルポト支配下のカンボジアで強いられた何千万の餓死に、そしてキューバの言論弾圧や貧困に「よかった探し」をしてはいけない、物語の喜びを封じてでも「よかった」ことにはさせない―本書のエピローグをドライブするのは、そんな作者の決然たる意志だ。
 困窮下で毎日10km自転車を漕ぎ、貧乏医者として人々と助け合う語り手の「人間の真の偉大さとは、無条件に慈悲心を発揮すること、何も持たぬ者に分け与えること、それも、余りものではなく少ない持ち物を分け与えることにある」と述懐する場面は、欺瞞と悲惨に満ちた本作で異彩を放つ(もしかしたら)最も美しい箇所だ。「そして、それを政治や名声獲得の手段に使わないのはもちろん、そこから怪しげな哲学を引き出して、自分の善悪の価値基準を唯一絶対として他人に押しつけるような真似、頼まれもしないものを与えて感謝を要求するような真似はしないこと」
 けれど、そんな語り手の思い、「人間としての私の義務は、それ(消し去られた記憶)を書き残し、忘却の津波から救い出すことなのだ」という自恃は、「我々の世代は誰もがお人好しのロマン主義者であり」「私の世代の大半が、安全ネットのないこの危険な空中ブランコを無傷で乗り切ることはできない」だろうという敗北感に一瞬で押し流される。それこそが本作の作者が読者に持ち帰らせたいものだ。

 要は、剥奪された人間性を戻せという真っ当な要求が、剥奪の罪の軽減にすり替わってはいけない。とくに当事者でない(けれど傍観によって罪に加担してるかも知れない)第三者においては。
 物語は、哲学者が「剥き出しの生」「動物としての生」と呼ぶまでに人間の条件を剥奪された生でも、最後に残るのは(自己保存のエゴイズムではなく)生の尊厳だと示すことが出来る。だがそれで人の生を無意味だとする剥奪をなかったことにはさせない。物語の喜びが酷薄な剥奪を減免させるようにはたらくならば、そんな喜びは(少なくとも本作では)許さない。本作を読み、サスペンスに興奮し、歴史や事物・人物を語る物語の喜びに浸るがいい、だが人間が廃棄物あつかいされた時代の物語から「人間も捨てたもんじゃない」的な希望を持ち帰ることだけは許さない。人間は、人間が作った社会や制度は、物語の喜びでも帳消しに出来ないくらい非道いことをした、それだけキッチリ持ち帰ってもらう。
 小説技巧の限りを尽くして、小説の救いを否定する。恐ろしいまでに読み手の感情をコントロールしながら、恐怖が人をコントロールした時代の悪を糾弾する。物語には、こんなことも出来るのだ。

小ネタ拾遺・25年4月(25.04.30)

(25.04.14)この時季に華やか、だから花だとは限らない。柔らかそうな若葉。何という樹でしょうね。
 左画像:遠目には緑の樹が白い花をつけてるように見えるけれど 右画像:近くで見ると白い葉裏に紅色がかった葉脈の若葉。
(25.04.15追記)何という樹なのか植物検索サイトなどで探してみるも、不慣れゆえ特定できず。
 全長10cmくらいの成葉(?)のアップ。光沢があり縁はギザギザ、細い枝の先から四枚くらいの葉が放射状に生えているほか、枝の中ほどでも随所から一枚ずつ葉が出ている。
そして半開きの本のように二つ折りで葉裏が表に出た、その葉裏が白くて葉脈沿いに紅色がつく特徴的な若葉は、本当に生まれたての仔鹿だけがプルプル立てないのと同じくらい生まれたてのレアな姿だったらしく、翌々日には元気に駆ける仔鹿のようにシッカリ開いた黄緑の若葉になっていて、なんなら花より刹那なものを目撃できたようです。
 この樹を特定できるかた、気が向いたら拍手経由などで御教示いただけると幸いです。

(25.04.01〜)とは言うものの、毎年見ている近所のこれに「桜…桜…だよね?」と改めて狼狽えてしまったのは吾ながら情けないが過ぎる。
住宅地の一角に植えられた桜によく似た樹木がいっぱいに花をつけている。ソメイヨシノよりはしっかりした花弁は、花単位で白とピンクのグラデーションになっている。
(〜04.21)三週間後、どうやら「サトザクラ」と呼べばいいらしいと知る。つうてもヤマザクラに対して人里で(交配とか)人の手が入った桜の総称なので、ボルゾイとかボーダーコリーとか知りたい時に「ああアレね、犬」くらいの粗さなのだけど。まあ無知であるほど、毎日が発見。
 しかしソメイヨシノ人気を見ると定住した今のヒト類、やはり画一的で時季も特定できるモノを一斉に享受するのが好きなように馴致されてしまったとは言えるのかも。皆と同じが嬉しいように、人間同士が好きであるようにと。ソメイヨシノで徴税まではされないが。

(25.04.05)中目黒は桜の名所で今時分は高架の線路と直交する川沿いを花見の人々が埋め尽くすのだけれど、そばにある日本画のギャラリーがコレクションを動画で公開してるので「今は行楽どころではない」「人が沢山おしよせる場に立ち会うからこそ価値がある・とは思わない」そして「一面並んだ画一的なソメイヨシノ(ごめんね)もいいけど、人がそれぞれの筆を経由して各々が思う美しさを抽出した様々な桜が観たい」根っからオタク気質なかた向けに。
おうちで郷さくら | Online Viewing Room(中目黒・郷さくら美術館/外部リンクが開きます)
 
※根っからオタク気質…この場合、人や事物と直に接するより、いちど人の手を経由して作品化されたものを通して世界に接するのが好き、程度の意味。

(25.04.04)「ワークビールバランスってご存知ですか?#働くあなたに○○ビールゼロ」というネット広告の文面を見て、もうじき読み終える本によれば古代メソポタミアでも奴隷の「日給」は大麦かビールで、配給用の小さな(土器の)お椀が何千と発掘されてるんだってねと半畳を入れる程度には、自分は底意地が悪い。まあ飲みたい人は飲めばですけど、お花見と歓迎会のシーズン、アルコールの過剰摂取には気をつけてね…(←ちょっとだけ優しい)(でも案じるまでもなく○○ビールゼロも、ゼロカロリーじゃなくてノンアルコールなのかも)
ユンソギョル罷免を祝して…というわけでもないんだけど今日の夕食は久しぶりにチャパグリでした。おめでとうございます。

(25.04.07)「どうやら、白い貝殻の小さなイヤリングを届けに来てくれたわけじゃなさそうだ」というフレーズとともに(どういう状況なのかは各自で想像してください)目が醒める。寝床でうつらうつらしながら思ったのだけど、あの童謡(まさか純国産でもないでしょう)英語だかノルウェー語だかの原詞では何て歌ってるんだろう。仮に元歌でもイヤリングを届けに来てくれてるのだとしたら、ワールドワイドで人が(熊が)いい熊だ。お熊好し。

 (25.04.08)フラワーズ・オブ・ロマンス(仮)。
 片手で自分の髪をくしゃっとして笑うショート髪メガネ女子・國谷先生のラフ絵。桜の花びらが散っている。

 (25.04.09)桜×メガネ・その2。
 つい、と風に乗ってきた桜の花びらが一枚、メガネ成人女性(静香)のレンズにぴとっと貼りつく。横で恋人の女の子(桃花)が笑ってる。キャプション「花ある君と。」

(25.04.10)今日はキュアフローラさん・美竹蘭さん・桜小路きな子さん、あと舞村そうじさん(仮名)の誕生日ということで、セルフ祝いに丁度出たばかりで気になっていた古怒田望人/いりや『クィア・レヴィナス』(青土社/外部リンクが開きます)を、
 左から『アデュー』『クィア・レヴィナス』そして茶寮翠泉の抹茶ケーキパフェと、ほうじ茶のセット。
それとレヴィナス没後30年のフェアらしく本屋で一緒に並んでたジャック・デリダアデュー エマニュエル・レヴィナスへ』(原著1997/藤本一勇訳・岩波書店2004→岩波文庫2024/外部リンクが開きます)も併せて購入。そして甘味処でちょっと奮発。
 デリダ…抹茶パフェだよ…(オタク構文)(この大馬鹿者)
 『アデュー』表紙のデリダの写真と、抹茶パフェを並べた画像。
 クラウドファンディングで予約していたマラン/シャイエン僕は、私は、トランスジェンダーです(原著2020年/吉良佳奈江訳・サウザンブックス2025年/外部リンクが開きます)も電書でダウンロード、並行して読み進めてます(予約した時点で分かってたけど絵柄が可愛くて中身もすごく親しみやすい)。一冊はスマートフォンの中だけど、三冊を並べると「より世界が広がり、より自分も自由になり、より人の自由も認められるようになる」そんな一年への希望が高まりますね(まだ地獄の釜が開いたような暑さが来てないから…)。創作を再開したいなあ。
(同日追記)だいぶ前に読んだレヴィナス自身の著作『存在の彼方へ』を久しぶりにパラパラめくっていたら意識は第三者の現前として生起するという一節に、昔の自分が線を引いていました。意識はたいがい「何か」への意識であって、何もなければ呼吸も歩行も人は自動的に行ない意識することがない、ということなのでしょう。それがこう続く。第三者の現前から発する限りで、意識は内存在性の我執からの超脱でありつづけるおそろしくて、同時に祝福でもある言葉ですね。おやすみなさい。

(25.04.12)もうしばらくセルフ誕生祝いは続く。地元ミニシアターの会員更新の手続きも兼ねて観てきましたよトワイライト・ウォリアーズ 決戦!九龍城砦』(外部リンクが開きます)。僕は予備知識ナシで観ても大変よろしかったのであえて伏せますが(クリックで開閉します) 実質マリみて(何でもマリみてに喩えればいいと思ってやがる)あるいはまきりんぱなとか最近だと蓮ノ空の小三角とか好きな人はキュンキュンしてほしい←この薦めかたはダメだと思います…
 紅色を基調にした香港風の紙飾りでディスプレイされた『トワイライト・ウォリアーズ』ポスターと、各キャラクターのピンナップ。
あと「香港映画史上歴代NO.1大ヒット」を謳う(そして滅法おもしろい)本作のスタッフに谷垣健治・川井憲次の揃い踏みを見て嬉しくなってしまった自分は、世の大谷ブームをあまり厳しく言えないかもなあと思ったりしたけど、それくらいは許してほしい。
(同日追記)「約10億円を投じて精密に再現された九龍城砦のセット」も話題の本作だけど、冒頭あたりの場面で昔なつかしい(本作の時代設定は80年代)サンキストのミカン?のロゴマークがプリントされた段ボール箱が山積みされてて「リアルだなあ」と感心してたら、最後、エンドロールのおしまいにスペシャルサンクス:SUNKISTとありフフッてなりました←そこを推すのもどうかと…
(同日追々記)在留資格を持たない主人公が活気はあるボロボロの高層に身を寄せながら、そんなところまで時おり踏み込んでくる警官の影におびえる…という意味では2月に観たBrotherブラザー 富都のふたり』も思い出されたのですよね…

(25.04.13)街散歩には好い季節。新宿三丁目から神保町に向かう靖国通りを歩いて30分、市ヶ谷・防衛省の向かいあたりにネパールならぬチベット料理のお店があり気になっていた。関東でも唯一らしい。
チベットレストラン&カフェ タシデレ(公式/外部リンクが開きます)
テントゥク(すいとん)のランチを食べてみました。チベット料理は具だくさんのスープ料理が多いみたい、スパイシーな感じはなく優しい味で、根菜がいっぱい取れる。選べるドリンクもしくはデザートから、白く泡立ったバター茶を。
 左画像:前菜のサラダ・大きな器に盛られたテントゥク・小さな壺に入ったタマネギベースの辛い薬味と小皿に載ったモモ。中画像:根菜と豚肉・すいとんに小ネギが散らされたテントゥク。右画像;真っ白いバター茶
セモリナ粉をベースにしたデザート「ハルワ」(中東を中心にした「ハルヴァ」とは違うのかしら)も気になるので再訪を期したい一方、目と鼻の先にあるウイグル料理のお店で「ラグメン」も食べてみたいのだった。

(25.04.18)胡桃もレーズンも単体ではバクバク食べられる食品でもなかろうと思うのだけれど(胡桃のほうは「バクバク食べられちゃいます」と自称してはいるが)一緒にすると摘む手が止まらなくなるという発見。塩味のピーナツなんか合わせると、さらに止まらなくなりそう。実際ミックスナッツ+レーズンという小分け商品があるくらいで。
 「文化堂の毎日食べられる生クルミ」と業務スーパーの「グリーンレーズン」画像。

(25.04.19)ネットミームそのままで申し訳ないけど
難読タイトル三銃士を連れてきたよ」「難読タイトル三銃士?」
「極道まんが家(当初は少女まんが家だった)立原あゆみ。」「本気(マジ)。地球儀(ほし)。弱虫(チンピラ)。
「MyGo!!!!!ボーカル高松燈。」「焚音打(たねび)。砂寸奏(さすらい)。詩超絆(うたことば)。
「期待の新鋭・名探偵コナン劇場版。」「沈黙の15分(クォーター)。100万ドルの五稜星(みちしるべ)。隻眼の残像(フラッシュバック)。」
コナン君は追跡者(チェイサー)・狙撃手(スナイパー)など分かりやすいルビが多かったけど、五稜星(みちしるべ)で一気にともりん度が上がったので今後の健闘に期待する。作品自体は多すぎて今さら追える気がしない(すみません)。

(25.04.19)「トランプ氏の机の上には、赤沢氏がプレゼントした大阪・関西万博の公式キャラクター、ミャクミャクの貯金箱も置かれていた」(最初「最低、最低、最低、最低、最低、最低」と声に出してて、ひと呼吸おいた後さらに「馬鹿じゃないの?」と言った後で→)ああ、彼らを大目に見てやってください…自分らが何をしているか、てんで分かってやがらないのです…(と思ったのですが)
赤沢経財相、トランプ氏前に「MAGA」帽子 写真公開(日経ドットコム/25.04.18/外部リンクが開きます)
 元ネタ(ルカによる福音書)「父よ、彼らをお赦しください、自分が何をしているか知らないのです」は自分たちがしてる(神の子を十字架につけている)のが愚行だと理解していないのです、という意味なのだけど、こと現状においては違う意味もある気がしてきた。というのも、いま読んでる社会学者バウマンの主著『リキッド・モダニティ』(液状化する近代/1999年)によれば、諸問題を社会の変革によって解決する道が断たれ(「社会による救済はもはや存在しない」byドラッカー、いや「社会などというものは存在しない」byサッチャー)個人の勇気とスタミナ・才能と手腕による自己救済しかなくなってしまった・ことこそ現代の問題なのだけど
「そして、倫理的・政治的言説の中心が「公正な社会」建設から、個人的差異の尊重、幸福と生活様式の自由選択を保障した「人権」へと移行したことに、この宿命的変化は反映されている」(森田典正訳・大月書店2001年)
MAGAの赤キャップとミャクミャクの置き物を交換する高官の姿を見て、本来なら権力を行使して社会を(よかれあしかれ)操作する立場にあった階層=政治のトップまで悪政に走るというより政治自体から逃走して「自分が何を【すればいいのか】知らないのです」自己救済に汲々としてるように思えてきた。今さらだけど、あれらは(悪徳)政治家ですらないのと違うか。後漢の末期あたりも同様だったかも知れないけれど。※ただの罵詈ですが少し言葉を補いました。

(25.04.20)昨日も罵詈、今日も罵詈、今日は今日とて地元ヨコハマの百貨店でやってはる販売も兼ねた金製品の展示会の広告を見て、またしても「最低…」と溜め息が出てしまった。なにしろ一番の目玉が「昭和百年」と大書された純金20kgの大判。そして二番目の目玉が金箔900枚を使用した等身大「CAPTAIN TSHUBASA」金箔像。たしかに2025年は昭和100年だけど、キャプ翼(つば)好きな人には悪いけど、この国で一番お金(カネ)を持ってそうな人たちに訴える純金(ゴールド)の使い方がコレでは、もう滅びてるも同じだよ。
大黄金展(4/16〜21)横浜高島屋(外部PDFが開きます)
いや「キャプ翼好きには悪いけど」と書いたけど「キャプ翼が好きだけにガッカリする・逆に腹が立つ」とならず、自分が好きなコンテンツが使われてるから悪く言われるほうが許せない・『ハリー・ポッター』が好きだから原作者の性的マイノリティ差別には目をつぶる、みたいなのが「オタク仕草」なら、それは確かに世界をここまでダメダメにした一因で、あなたがたには責任があるよと思うのでした。

(25.04.25)アムネスティの署名米国:イスラエルへの抗議デモに参加して強制送還の危機にある学生を救って!(4.23〜5月末予定/外部リンクが開きます)僕は同様の署名でネタニヤフにもメアド伝えた恐れ知らずなので+頼まれたってアメリカの土を踏む予定はないのでイイんですけど、渡米の予定や現在そちらに居る人は今のあの国の国土安全保障省の長官にメアドつきで楯突いたらどんな無法な扱いを受けるか分からないのでオススメはしません。
送るべき文面は英文のテンプレが用意されてて、あとは同意して送るだけ。ネタニヤフの時には最初のDearと最後のSincerelyが耐えられなくて削除したけど、今回はまあ投げつけるにも絹の手袋と言いますか、むしろ勢いにかられて「History will judge you, but I can't wait(いずれ歴史があなたがたを裁くでしょうが、私は待ってられません)」とか「Would you be satisfied with MAKING AMERICA GREAT AGAIN, like it was before 1865?(アメリカを奴隷解放前のように「再び偉大に」できて満足ですか?)」とか書き加えてしまう前にと原文のまま拝啓も敬具もつけて送付しました。

(25.04.22)とある専門用語をネット検索→ヒットした解説ページの冒頭に「「このテキストは、ChatGPT(OpenAIのAIアシスタント)による回答をもとにしています」と但し書きがあるのを見て、うーんとページを閉じてしまった。但し書きは「内容の正確性については可能な限り注意を払っていますが、参考文献や原著者の思想をご自身で確認することをお勧めします」と続いているので、この文章を世に放流した人はまだ誠実なのだと思うけど。とりあえず「原著者の思想をご自身で確認」できる特権(相当な蔵書数の市立図書館の使用権や、それをいつまでにとか読んだ結果を出せという制約なしに読める時間と暢気さ等々)を持つ自分はゆるゆると特権を行使するとして、特権を持たない=すぐ知ることを強いられる人たちは大変だと思わなくもない。いや、それを大変だと思わない・むしろ恩恵だと思う声のが大きい現状かも知れないが。今さらかも知れないけど「AIによる要約、アリですかナシですか」web拍手のアンケートで訊いてみたい気もしています。

(25.04.23)自分が今ひとつAIを信用というより理解できないのって、iPhoneのカメラ機能が「これを壁紙にしませんか」と提案してきた写真、そりゃあたしかに気になったから撮ったんだけどHTB(北海道テレビ放送)のマスコットonちゃん、待ち受けにしたいほど熱愛はしてないぜ?
 「壁紙の提案」としてビルの切り抜き写真を提案してきたiPhoneのスクリーンショット。元写真はビル街の中の一建物を撮ったもの。拡大すると中ほどの階の窓にHTB(北海道テレビ放送)のロゴとともに、黄色くて丸い「onちゃん」の巨大な像が挟まっている。
いや、こうして見ると本当にAIの気持ちが分からない…
 壁紙の提案5件、左から「onちゃんが入った札幌のビル」「カレー屋と看板がついた黄色いコンクリート二階建ての建物」「歩道橋の上から俯瞰で捉えた信号待ちの車」「画面の上半分が紺色の青空になってるビル上部の写真」「ナイス(nice)と書かれたビルボードが天辺にあるビルの写真」
(同日追記)で現行のiPhoneの壁紙、ここ数年ずっと銀閣寺の苔の庭なんだけど、こんな緑を見てなぜAIはコンクリやアスファルトばかり薦めてくるのかね…
 苔の庭に生えた二本の枝と生い茂る緑の葉を映したマイiPhoneの壁紙画像。

(25.04.26)たばこの煙は、あなただけでなく、周りの人が肺がん、心筋梗塞など虚血性心疾患、脳卒中になる危険性も高めます。
クリックorタップで全体図を表示。
タバコの煙をくゆらせてる女性。クリックして全体図を出すと、画面外の男?のタバコから貰い火をしている。タバコとコートの裾だけ見える男はパリに、無造作な髪にチョーカー、コートに手荷物を提げた女はマルセイユに向かうらしい。

(別画面が開きます)

(25.04.24)早くもドラッグストアの店頭に、昨年お世話になった例の冷える輪っかがズラリと…(; ゚д゚)
クーラー入れるとまでは言わないけれど、エアコンを送風モードにして夏っぽい曲がもう似合っちゃう。Desmond & The Tutusという洒落なのか何なのか分からない名前の、20年くらい前の南アフリカのバンドの曲とか。
Desmond & The Tutus - Kiss You on the Cheek (King of Town Remix)(外部リンクが開きます)

(25.04.27)I miss her already.(先月の日記参照)…元歌は坂本真綾さんの、このタイトルと同じ題名の短篇漫画を描こうと思いつきました。
 

(25.04.28)既視感があって確認したら昨年5月の日記で紹介した「勉強はきっとウチらに平等だ!」と同じ蚊帳りく氏の新作だった。あの一作で終わる人でなくて良かったと(失礼な)喜ぶ気持ちと、こういう話を描く作家が青年誌に一人でなくてもいいのにと思う気持ちと。
蚊帳りく[特別読切] 店内ご利用ですか?(となりのヤングジャンプ/25.04.25/外部リンクが開きます)
痴漢など性暴力に関わる話なので閲覧にはご注意ください。これはマストドンで別の人も言及されてたけど、途中に出てくる(作中では珍しい)善意の男性キャラも、彼が善意の人物だったのは「たまたま賭けに勝てた」に過ぎないのが悲しく、いきどおろしい。そうゆうのが罠で、命まで奪われた事件とか、長く生きてると避けがたく知ってしまうし、数十年経っても未だに忘れられない。私が知ってる世の中はもっと安全だと反発する人もいるだろうけど、たぶんその安全には濃淡があるのだ。女子生徒がスカートの下に履いたジャージを男性教師が殴って怪我させて無理やり引きずり下ろしたという事件が報じられたばかり。わしら大人は粛々と、賭けの勝率を上げていくしかない。

(25.04.29)昭和の日で思い出したけど、動画広告でやたら煩い(そして品がない)「あの明治薬品」とやら、明治どころか創業は昭和・それも戦後らしい。それでも十分に老舗かも知れないが、河童などの妖怪伝承はたいがい江戸期に形成されたが「室町時代から伝わってる」として流布されたため「妖怪の起源は室町」と思われてるという京極夏彦氏の指摘(前にも紹介してるけど大事めな話なので何度も蒸し返す)を思い出すなど。
(同日追記)戦争が終わって直ぐ・戦前の日本的なものが全否定されてそうな時期に明治を名乗る社名は、結局半世紀かけてバックラッシュに呑まれた未来を見通す先見の明があったのか、それとも全否定なんてなくて(まあ濃淡あったのでしょう)戦前はぜんぜん滅びてなかったのか。そもそも公募してる時点で…て気もするけれど1968年に公募された「明治百年を祝う歌」当選作の作者は先の戦争で公募軍歌の当選常連者だったという大江健三郎『核時代の想像力』でのツッコミも思い出すなど。

(25.04.30)わりと躊躇してた大著『ゾミア』を都合5日で読み切れてしまった快挙(?)に味をしめ、ずぅーっと前から気になっていた『犬を愛した男』をついに。来月はコレから読んでいきます。しかし約700ページ・ハードカバーの表紙ふくめて厚さ4.5p、重さ800グラム弱、これをまた毎日担いで歩くのか…質量は質への自信の証と信じているけれど、ロラン・バルト(一緒に借りた)の軽さをちょっと見習ってほしい…『新米姉妹のふたりごはん』はもう少し厚くてもいいけど、いや、作者さんが健やかであれば…(最近いろんな分野で若い才能が力尽きたり病気などでままならない様を見過ぎている)
 書影。左から『犬を愛した男』・バルト『零度のエクリチュール』・柊ゆたか『新米姉妹のひとりごはん(11)』←厚さ比較用。
 スターリンの命を受け、メキシコ亡命中のトロツキーを暗殺した男の話(のはず)。たしか襲われたトロツキーは反撃して暗殺者の耳を噛みちぎり、暗殺者がわんわん泣いたんですよね。違ったっけ。真相は来月!
(25.05.11追記)違いました、すみません…

わりとニャばいめの話(25.04.27)

 何をもってニャばいめの話とするのか、そもそも「ニャばい」って何だよ何歳(何十歳)だお前とかは深く考えない。あまり他のひとがしてる気がしない(ただし自分の観測範囲はニャンコの額よりも狭い)かつ極めて政治的な話をする。要点は三つ。
・「こう生活が苦しいのだから政府は○○の購入や導入に金銭的な支援を」と叫ぶ声は小さくないが、実は○○は支援されて(は)いる
・それが「支援を」と叫ぶ人たちに届いてないのには、伝えかたの拙なさなどがある
・なぜ伝えかたが拙ないのだろうと考えると、システム的な問題がありそうに思える

      *     *     *
 1)「政府は○○に支援を」と叫ぶ声は小さくないが、実は支援されて(は)いる
 例年のおにぎりアクション(秋頃の期間中におにぎり写真をSNSにアップするとアフリカなどの児童の給食代になる)でInstagramに投稿する以外、SNSにアクティブに関与することはなくなった。Twitter(現X)は投稿停止宣言をして久しいし、代替SNSと呼ばれるスレッズやブルースカイ・マストドンなどにも新たにアカウントを作ってはいない。
 それでもパッシブな、つまり読み専としてSNSを、現Xは主に二次元世界へのオタク的な関心、その他の現世に関する関心はマストドンで満たしているのだけれど、後者で時々しばしば挙がるのが「人々の生活が苦しいのだから、政府は○○に支援すべき」という声だ。
 事実として「その○○は、ここ数年、毎年のように補助金が出されて(焼け石に水かも知れんけど)少しは楽になってるんだけどね」と思うことが多少ある。でもソレを言うためだけにSNSのアカウントを取って、知らないひとに直リプで「あなたの言ってる○○、既にありますよ」と御注進に及ぶのは僕ができること・すべきことの規(のり)を超えているし「そういう問題じゃないんだよ」と逆恨みされる可能性だって、ないとは言えない。たとえば当時とうに騒がれたり騒がれなかったりして撤回された法案を報じた何年も前の初報を今になって取り上げ、日付を見ればすぐ過去と分かるのに「これは放っておいたら大変なことになる!」と炎上させようとする人もいる。僕がSNSから(おにぎり以外)撤退した理由でもある。
 その一方、実際「そういう問題じゃない」側面もある。
 僕の視点から見える、ニャンコの…ニャンコはもういいか、視界の狭い話ではある。むしろバズったりしない環境(個人サイト)にひっそり上げて、読んだ人が咀嚼しきって、それぞれが考える一助になればいいと思う。

 2)それが「支援を」と叫ぶ人たちに届いてないのには、伝えかたの拙なさなどがある
 実在する補助を挙げると色々と障りがあるので、架空の補助金をでっち上げる。間違っても「こんな補助があるんだ!」と思わないように―そうですね「令和7年度・紙価格の高騰にともなう書籍価格の減免措置」とかどうでしょう(笑)
 近頃は本が高い。文庫でも一冊千円はザラだ。さらに消費税もかかる。たまんないね!政府は本の価格を国費で下げるべきだ!…それが実は既に国費で下がってるのだとしたら(架空の話です。たぶん下がってません)なぜ、それが伝わっていないのか。
 答えは簡単、国費が支給されるのは出版社(架空)であって、書店で本を買って読む一人一人に対してではないからだ。
 つまり最初に本の価格の3%なり7%なりが「これこれの単価で本を出します」という出版社に支給され、本の表4・あの悪名高いけど慣れてしまえば(街の空を遮る電線同様)風情に思えるバーコードやら何やらがプリントされる箇所に小さく「令和7年度・紙価格の高騰にともなう書籍価格の減免措置で3%値引きされています」と印刷されている(架空)。
 本の裏・バーコードや価格があるあたりに小さく減免措置のことが書いてある(架空)を実際に画像化したもの。「亡き丸谷才一先生(私淑)は街の電線も本の裏のバーコードも厭ってらしたよね…」と思い出してる自画像(散髪しました)を添えて。
※実はこれに似たものは実在しており、たとえば海外のマイナーめの小説や文芸研究・社会批評などの本の奥付に小さく「本書の翻訳(あるいは出版とか)は国の国際交流助成事業(とか何とか)の支援を受けています」みたいな表示があったりはする。でもあまり知られてはいない(かも知れない)
 同様にSNSで「これは政府が支援して減免措置を取るべき」「そうだそうだ」と言われている生活に関わるような出費が実は既に減免されている、領収書に小さく書いてある(でも大々的にアナウンスはされていない「らしい」)ということはある。「らしい」と書いたのは、なにせ僕自身が新聞も取らないテレビも観ない、おおよそ現代日本では可能なかぎり社会の話題から逃走中の状態であるからなのだけど、そういうもの沢山みてるであろう人たちが「支援がない」と騒ぐからには、「ありますよ」という周知は不徹底なのだろう。
 あるいは「令和7年度・地方アイドル助成事業」としてコンサートチケット半額補助とか推し活が国費で支援されるとする(されません)(架空です)。
 ところが実はこの助成金、東京を地盤に活動する人気アイドルの地方遠征でも30%はチケット代が補助され、こちらの利用のほうが圧倒的に多いとしたらどうだろう。
 イラスト。アニメ『ラブライブ!スーパースター』からワンカットだけ登場した地元アイドル「ゆるゆるアスファルト」の二人(何あの子…と若干引き気味)に「土建アイドル可愛いすぎりゅぅ」と泣きながらペンライトを掲げてる東京アイドル兼アイドルおたくの米女メイ(Liella!)を「あんたもライブに出るったら出るのよっ」とステージに引きずっていく平安名すみれパイセン。
 大都市からの追っかけ勢が地方に遠征すれば、宿泊代なり食費なり現地に落ちるお金もあるだろう、何より地方のライブハウスやコンサートホールが潤う。ならば、より本質に近い「地方ライブハウス・コンサートホール助成事業」と看板だけでも変えればいいのにと思うけど(架空ですよ)(架空ですからね)なぜか「地方アイドル助成事業」として話を進めるとしたらコレはやはり、伝えかたが拙ないということにならないだろうか。アイドル助成は架空だけれど、この助成金はターゲットと看板が違う…と思う案件も、現実にないではないのだ。

3)なぜ伝えかたが拙ないのだろうと考えると、システム的な問題がありそうに思える
 以上(架空の話になぞらえながら)現実にある「もっと周知されていい事業が、なぜ知られないのだろう」という案件には一応エビデンスも実例もあるのだけど、以下の「なぜ」はあくまで個人的な憶測にすぎない。
 手っ取り早く「地元アイドル助成(架空)」の件から片づけると、国としては「地元アイドル」を推進したい意向が強いため、現実には「ライブハウス・コンサートホール支援策(架空)」であっても看板は「地元アイドル」にこだわる、なんて話はありそうだ。地元アイドルでは想像しにくいかも知れないが、たとえばそれが愛国心とか家父長制とかイデオロギー的なものなら、どうだろう。食糧の確保や農家を支えるより「日本の」米を守れとか。
 そう考えると「書籍価格の減免措置(架空)」が(自分の狭い観測範囲では)積極的に周知されてないように見えるのも「敢えて」のように思えなくもない。
 半世紀前にダラスで暗殺されたアメリカの大統領の「国が何をしてくれるかより、一人一人が国のために何ができるか問うてほしい」みたいな発言を、今の日本の総理大臣は就任演説で引用したという。JFKの発言の主旨は皆が自由や人権を守るため努力してほしい、みたいな意味だったらしいけれど、この日記の主題ではないので省く。省くけど今、この国・この社会の中心で政策を、国や社会の方向を決定したい人たちは「国があなたたちの生活を補助します」というアナウンスを、あまりしたくないのではないか。実際には最低限のことは、している(場合もある)にも関わらず。かわりに目に入るのは、子ども食堂を推進しましょうとかNISAとか「あなたがたは自助してください」ひいては「あなたがたが(自腹を切って)社会に、国に尽くしてください」というメッセージばかりに思える。
 もちろん、これはこれでイデオロギーだ。考えすぎかと自分でも思う。
 あるいは、こっちの方が具体的かも知れないが。助成金は恒常的なものではない。今年もあったから来年もあるとは限らないし、助成額も地味に変わる。大声で触れ回れば、それだけ「今年はやらないのか」「なんで昨年より減るのか」という声も上がるだろう。「そもそも適正な補助か」「今ほんとうに必要な補助か」みたいな声も。たぶん「足りない」という声も、「国民を甘やかすな」という声もステレオで(左から右から)出るのだろう。
 雉も鳴かずば。本当はむしろ声が上がって百家争鳴・議論が尽くされたほうが望ましいにも関わらず、異論はノイズでデザインする側が全て決めたほうがいい、異論に対応する余力はない的な事情が「知らしむべからず」な周知キャンセルを「敢えて」させているのではと勘ぐる気持ちもないではない。
 そもそも論で言えば、助成金とは逆に費用の半分を助成しても、残り半分は自腹なのだ。たとえば農業を機械化するとか過去にあったことでも、国が相当な助成をしたとしても個々の農家は(それで収益が上がって元が取れるという前提のうえで)自腹を切って国が進めたい政策に乗った・乗っからされた側面は、ないではない。だからこそ、むしろ周知を徹底して「それでは足りない」も「逆に負担だ」も「こっちはどうなる」も騒がれたほうが、個人的には良いと思う。
 他にも色々あるんだけど『監獄の誕生』ばりに「ここで中断する」で、よろしいでしょうか。みんな今夏も生き延びてほしい、それが建前ってものではないか。

税・病原菌・奴隷制〜ジェームズ・C・スコット『反穀物の人類史』(後)(25.04.20)

 人類の営みを狩猟・採集・遊牧・農耕に分けるのは農耕で天下を取った者の視点であって、「国家」の外にいる人々にとって四者に区別はない・必要に応じて全部するものだったとスコットは言う。工芸や交易を加えてもいいのかも知れない。

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 とりあえず、クラストルは(一応)知ってる前提で話を進めよう。彼が中米の先住民を(文明度が低くて)国家を形成するに至れなかった「遅れた存在」ではなく、権力が集中する恐ろしさを知るがゆえに敢えてそれを回避するよう共同体を小さくした「国家に抗する社会」と位置づけたのは、もう半世紀も前のことなのだ。
 しかし国家を形成したことも、それが出来るほど権力を集中させたこともないうちから「権力は恐ろしい」「国家を作ってはならない」と分かるものだろうか。侵略・支配・強制収容…国家や権力の負の側面を、イヤというほど知ってる現代人の吾々ならともかく。
 「いや現代人でも国家やら何やらの負の側面には無頓着な人のが多いか…」MAGAの赤帽子をかぶってミャクミャクとダンスしてる人を遠目に見て呆れてる羊帽の女の子(ひつじちゃん)の挿し絵。
 ここ半世紀の哲学者はアナキズムから多くの富を得ている(そしてアナキズムにも多くを与えている)くせに色々と言い訳して自身をアナキストと名乗りゃしないと哲学畑のカトリーヌ・マラブーは盛大に嘆いているが(先月の日記参照)、国家を持たない社会を研究しがちな文化人類学者はまた別なのだろう。
 それにアナーキーの語源はアン(=非)アルケー(=起源)。原初の人類が国家の危険性をアプリオリに(=経験する前から)本能で察知し回避できたと理想化するのも主義=イズムに反するのかも知れない。堂々とアナキストを名乗り、オキュパイ・ウォール・ストリートを主導したりもした(そして『負債論』や『ブルシット・ジョブ』で知られる―未読なのですが)デヴィッド・グレーバーは大先輩のクラストルを手厳しく批判しているようだ。
 ・片岡大右「コロナ下に死んだ人類学者が残したもの デヴィッド・グレーバーの死後の生(下)」(「コロナの時代の想像力」岩波書店・note/22.10.28/外部リンクが開きます)
いわく、クラストルが研究した中米先住民は「国家に抗する」狩猟採集を中心とした生活と、国家に近い農耕・集団社会を季節によって行き来していた。ならば権力の集中や国家の危険性は知ってて当然ということになる。
 反国家と国家を行き来するサイクルは、ある種の粘菌がバラバラになって生きる時期から集合し一体となって移動・新たな芽を出し胞子となってふたたび放散していくサイクルを彷彿とさせる。その一方だけを切り取り、かつ滅びゆく過去の知恵とロマン化することで、クラストルは別の選択肢=反国家を回復不能な過去に押しこめ、現在の体制をかえって強化したというのがグレーバーの批判の骨子だ。

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 やはり未読だけど(これから読む準備は出来てます)『実践・日々のアナキズム』なんて著書もある、そして東南アジアで「国家を逃れた」人々に取材した大著『ゾミア』が地味に話題のジェームズ・C・スコットもまた「国家に抗する社会」は国家のデメリットを熟知するがゆえの、ポステリオリな(経験に基づく)選択と考えているようだ。
 古典的なアニメのエンディングのように「えーん、もう国家はコリゴリだよぉ」と泣いてる「ひつじちゃん」が丸で囲まれてるイラスト。
反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』(原著2017年/立木勝訳・みすず書房2019年/外部リンクが開きます)が説くのは、古代メソポタミアなどに生まれた初期国家の、形成されては滅亡する、短命で脆弱という意外な姿だ。
 とゆうか、初期の国家は支配する者にしかメリットがない。そのメリットとは、ずばり「税」だ。
 貨幣も文字も徴税のために発明された―という話は前々回にした。メソポタミアで楔形文字が(簿記のために)発明されてから、それらが神を讚えたり詩文を表したりするまでに五百年のタイムラグがあったとして左記の説を裏づけるスコットが、ダメ押しで指摘するのは穀物自体、徴税に適していたから採択されたということだ。
 なぜ麦や米の国家はあっても、タロイモ国家やキャッサバ国家・バナナ国家や大豆国家はなかったのか(「バナナ共和国」はあったけど意味が違う←反植民地主義ジョーク)。それは(地中に埋まった不定形なタロイモやキャッサバと違い)同じ大きさの小さな粒を地上で収穫でき(年中いつでも収穫できるバナナや豆類と違い)収穫の時期が定まっている穀類は数え(メネ)、量り(テケル)、その一部だか大半だかを取り上げる=分ける(バルシン)、つまり徴税に適していたからだとスコットは暫定的に結論する。(※粒で収穫でき成熟期も決まっているヒヨコ豆やレンズ豆で国家は発生しなかったこと・逆に成熟期が決まっていないトウモロコシでも新世界にはマヤやインカなどの国家が生じたことが「まだよくわからない」例外として挙げられる)。

 話は逸れるが+もう10年以上も前なんだけど『銃・病原菌・鉄』のジャレド・ダイアモンドの顔が好きすぎてモデルにした学者先生を自作のまんがに登場させたことがあって
・本サイト内RIMpack'13 ペーパーまんが総集編2013」所収「サイン」
モデル同様に壮大な文明史を探究してそうな著作の題名を『麦の世界史』として
 まんがからの切り抜き1:ダイアモンド氏をモデルにした学者先生に「あの特徴的な風貌…」の台詞。切り抜き2:サインをもらおうにも図書館で借りた本しか持ってなくて「すす、すみませんっ文庫になった『麦の世界史』はちゃんと買っているんですが(て、それも失礼か)」と恐縮しまくる大学生と「あ…いや分かりますよ僕も学生の頃は苦しかったしネ」とフォローする先生。切り抜き3:見切れてるんだけど、なにげに別の著作のタイトルが『金・銀・銅』だったらしく、そんな自分の安易さが好き。
あ?いや?『塩の世界史』のほうがグローバルで良かったかなぁと描いた当時から実は気にかけていた(そんなん誰も気にしないって)のが、まあ『麦の世界史』でも良かったかなと思い直すことが出来た。『反穀物の人類史』とは、逆にいえば今まで支配的だったのは「穀物の世界史」だったということだから。
 話が逸れるついでに大急ぎで言うと、現状、穀物は美味しい。水洗トイレが整備され、こんなにも本を読め、映画もアニメもインターネットもある現在の世界のメリットと同様、炭水化物の美味しさは認めざるを得ない。米価の高騰を消費者と生産者・双方が助かるように政府が何とかしろと訴えるデモなどを「でも穀物を選んだことが人類の間違いじゃん」と否定するつもりも全くない。
 『反穀物の人類史』にスパゲティ・オートミール・センレック(タイビーフン)を並べた写真に「てゆか穀物、大好きじゃん自分…」とキャプション。
そうしたデモの一部参加者が日の丸を掲げ外国人排斥を謳ったり、あるいは渡米して好成績をあげている野球選手が「僕は、おむすびが美味しい国に生まれた」と広告でおにぎりを頬張ったりしてるのを見ると、やはり穀物はナショナリズムと親和性が高いのではと思わないでもないが、こじつけな気もする。穀物に関係なく、国家をアプリオリ=当たり前として育った人たちは生活が安定しているかぎり国家を支持する、その安定が脅かされると余計にナショナリズムや排外主義が煽られるもの、なのだろう。
 話を戻すと、ナショナリズムや排外主義より前に、国家=穀物そして徴税である以上、やはり弊害の第一は税なのだった。「王がいてもかまわない。領主がいてもかまわない。けれど怖いのは徴税官だ(強調は引用者)という格言は古代シュメールの昔からあったという。本書で最もインパクトがあるのは、万里の長城は外敵を斥ける以上に、国民を逃がさず閉じ込めるためだったという説だろう。専門家=20世紀の中国学者オーウェン・ラティモアがそう唱えているという。

 そのうえで。
 スコットによれば初期の国家には、とゆうか集住と穀物の栽培・牧畜には、もうひとつ致命的なデメリットがあった。疫病と、全般的な不健康だ。
 「現状、穀物は美味しい」と先に書いた。けれどそれは、スナック菓子やジャンクフードの美味しさと同じで、身体には必ずしも良くはないものかも知れない…とは、スコットではなく僕の見解だけれど、脚気や壊血病の例もある。単一の穀物栽培に特化した農耕よりも狩猟・採集(それと焼畑など専門化しすぎない耕作)のほうがコスパ良く、バランスのよい食生活が出来そうでもある。徴税分を取られることでの栄養不足もあっただろう。
 かてて加えて、家畜や穀物めあてに寄ってきた害獣がもたらす感染症がある。集住は感染の温床でもある。なぜか人々がバタバタ倒れはじめる「国家」の悲惨は、周囲の非定住民に国家を忌避させるに十分だったはずだ。
 そして画一的な耕作地に縛りつけられ、集住を強制された「国家」の臣民たちは、周囲の非農耕民より小柄でもあった。これは化石で証明されている。ブタも犬も、人に飼い馴らされた動物は、祖先の猪やオオカミより小型化する。「万里の長城は逃散の防止用だった」と並ぶ、本書のパワーワードは「家畜より前に国家は人間を飼い馴らした」というものだ。第二の生産革命=近代の資本主義は「蒸気機関よりも前に人間を機械化した」というシルヴィア・フェデリーチの台詞(23年10月の日記参照)を彷彿とさせる。
 ちなみに(これが今回さいごの余談になるといいなあ)フェデリーチの話。近代的理性とイノベーションが資本主義を生んだという神話に激怒する彼女は、人々が入会地を共有していた14〜15世紀のほうが、エンクロージャーで共有地を奪われた(そして資本主義が萌芽期にあった)16〜17世紀より明白に庶民の食生活が豊かだったと『キャリバンと魔女』で書いているけど、この主張には多少の留保が必要らしい。というのもフェデリーチが「近代のせいで食生活が貧しくなった!」と主張する時期は世界が寒冷化した小氷期(14世紀半ば〜19世紀半ば)にもあたるからだ。
 ただし「ミニ氷河期」とも呼ばれる小氷期が収穫の低減をもたらしたことは、30年戦争からナポレオン戦争に至る同時期の(世相を荒廃させた)戦乱や、ひょっとしたらルターなどの異議申し立て=宗教改革、さらにはエンクロージャー=収奪の強化によるヨーロッパの資本主義化の近因遠因であり、結局は天災に対し人類が破壊や収奪で臨んだことが食糧危機につながった、と言えるのかも知れない(これは僕の臆見)。
 なんでこんな余談をしてるかと言うとスコットは、その小氷期じたいヨーロッパ人の「新大陸」侵略(とくに病原菌がもたらした災禍だろう)によって先住民が死に絶え、彼ら彼女らの焼畑農業が途絶えたためCO2の排出量が減り温室効果が緩和されたせいで起きたと「少なからぬ気象学者」が唱えている、と紹介しているからだ。まわりまわって人災。フェデリーチやスコットが現在進行形で要約している、人類や歴史に関する見直し=新しい所見は、かくも恐ろしく、恐ろしいがゆえに面白い。

 話を『反穀物の人類史』に戻すと、飼い馴らされて小型化し、狩猟や採集に比べると創意工夫に乏しい単調な集団労働を強いられた初期国家の「国民」たちは、言うまでもなく奴隷だった。いや、「農耕と定住で人々の生活は安定して豊かになり、やがて富が蓄積され貨幣や文字などの文化・ひいては国家が誕生した」という国家に都合のいい神話に飼い馴らされた吾々は、古代ギリシャの民主制やローマ帝国の時代まで、穀物を作っていたのは奴隷だったという指摘に驚かなければならない。アリストテレスは奴隷を人間よりも動物のほうに分類していた。本気でそうしていたのだ。
 だもんで、古代の戦争は捕虜=奴隷の確保が主目的だったとスコットは言う。万里の長城は蛮族の侵入より奴隷の逃亡防止だったと言う。近代においてすら「19世紀半ばの衛生革命(上下水道の敷設)まで、およびワクチンと抗生物質の登場まで、一般に都市の死亡率はきわめて高く、都市の成長は田園部からの大規模な人口流入によってのみ可能だった」と彼は説く。
 飼い馴らされ、無力になったことは支配には便利だったかも知れない。途中からは規模の利益が生じて、現在のように国家なしの生活は考えられない段階に至っただろう(いや現在も多くの人々が難民や移民という形で国家の軛を離れた生活をしているのだが)。問題は「最初」だ。現に最初期の国家は短命で、何度も滅びてもいる。逆になぜ、感染症のリスクもありコスパも悪く人々を小柄にする定住と農耕が、狩猟や採集に優越し、国家を孵化させるまでに成長しえたのか
 その答え(仮説)も本書では明確に用意されている(これが2017年だ)。あまりに意表をつく「犯人」なので流石に伏せるけど、そこだけ気になるひとは77〜78ページ・そして107〜108ページだけ読んでみるといい。びっくりするし、納得もさせられる、そして恐ろしい気持ちにもなる。現代の人類学・考古学・歴史学は科学であり、残酷な数学でもあるのだ。

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 そんなわけで今週の結論:『反穀物の人類史』は、半世紀にわたり積み上げられてきた反国家・反農耕・反定住の学説を手際よくまとめたうえで、自身の新説も加えて構築された2017年の最新成果なので、この問題に関心があるひとは本書から手に取るのが一番手っ取り早くてオススメです(でないと僕みたいに長年かけて遠回りすることになる)。
 すぐれてエキサイティングな本なのですが、初期の農耕国家において畑の穀物が・飼い馴らされた家畜が・そして飼い馴らされた人間が、いかに害獣や害虫・病原菌に対して脆弱で食い荒らされてばかりいたかをコレでもかと語る第三章は、話の流れ上「反穀物・反国家」モードに洗脳されかかっていてもなお「ざまあ」を通り越し「なんて哀れな…」という気持ちになり胸が塞ぐ。
 そして1000年代(千年紀)の半ばまで定住国家を苦しめつづけた外部からの略奪=「蛮族」戦闘的な遊牧民族との交渉を描く最終章は、最後になって関心の重心がズレて別のテーマに移行しつつある「出口」のような感じもして少し統一感が薄れるのと、やはり内容が暗くてカタルシスに乏しい…というのは個人の感想。税から逃れれば虎に遭う、みたいに、やはり世界に残酷でない「外」はないのかも知れないと悲しい気分になってしまうのだ。
 さんざっぱら初期の国家はダメだった・無理があった・そっちを選ぶべきではなかったという説を紹介してきたけれど、けっきょく集住は・農耕は・国家は初期の不利を克服し(または先進国の住民には見えないところに押しこめ…というのはウォーラーステインの説)今の吾々は「米が高い」「税金が、保険料が高い」と文句は言いながら、ウォシュレットやスマートフォンを手放した生活すら想像するのが難しい。相当な完成度で出来上がってしまった監獄を「そのうち滅びろ」と呪詛する以外の出口・突破口はあるのだろうか。とりあえず、そのへんはスコットの別の著作に期待してみるしか(それも勝ち目は薄いけど)なさそうだ。『ゾミア』と『実践 日々のアナキズム』も読んでみることにしました。
 図書館で借りてきた『ゾミア』『実践 日々のアナキズム』書影。「対国家闘争…」の文言があるクラストルからの引用。
ちなみに『ゾミア』は邦題で、英語の原題はThe Art of Not Being Governed(統治されない技術)というようです。巻頭の引用文(エピグラフ)は、がっつりクラストル。

サスペンスとレヴィナス〜デレク・B・ミラー『白夜の爺(じじい)スナイパー』(25.04.13)

昔プライベートでもやらかして痛い目に遭ったのを忘れてた、今の職場で左右に並べたデュアルモニターでの仕事を余儀なくされていたら肩〜首に激痛が走るようになり(参考記事;姿勢に気をつけよう - デュアルディスプレイで首に激痛がodaryo/noto/24.1.8/外部リンクが開きます)
あわててストレッチなど始めているのですが、んー職場のモニタを縦並びのように調整できるか考えどころ。自宅で通常モニタと液晶タブレット(兼サブモニタ)を縦方向に並べてるぶんには、それほど苦しくないのですよね…
 上記の図解。奥にメインモニタを立て、間に15°くらい傾けて平らに置いた液晶タブレット、さらに手前にキーボードという縦構図だとかなり楽。ノートPCと別モニタが横に並ぶのは無理。
 いわゆるストレートネックというやつで、さらに通勤時間が長くなり、うつむいて本を読む・またはスマートフォンを操作する時間が増えたのもよくないのでしょう。
 というわけで(?)予定していたジェームズ・C・スコット『反穀物の人類史』の話(後篇)は先延ばし。今週は少し軽めの?話をします。

    ***   ***   ***
 軽めといえば日曜朝の戦隊ヒーロー番組。軽めといえども一昨年度の王様戦隊キングオージャー・昨年度の爆上(バクアゲ)戦隊ブンブンジャー、二期つづけて相当クォリティが高かったんだなぁと(まあブンブンジャーは「みんな大真面目に演ってるのに妙な笑いが止まらない」とも思っていたけどな)今季の新番組ナンバーワン戦隊ゴジュウジャー(公式/外部リンクが開きます)を観て、あらためて納得している。
 10話くらい続いて(でももう二ヶ月以上つきあってるんだ…)ようやく世界観もキャラも整ってきたというか、伸び代がある(婉曲表現)のも大部こなれてきて、もうしばらくは視聴を続けるかと思ってるところ。そんな『ゴジュウジャー』スタートダッシュ時の個人的目玉だったのはグリーン属性のゴジュウイーグル。チーム最年少の高校生という触れこみで登場した彼が、実は最年少どころか『ゴレンジャー』以来50年にわたるスーパー戦隊の歴史でも最年長かと思われる87歳のジ…後期高齢者が若返った姿で「二度目の青春をパーリーピーポーとして謳歌する」と言いながら具体的には若い役者さんが中身は87歳という設定を嬉々として演じていらっしゃる(今季のノリ、お察しいただけたでしょうか)。ちなみに87歳、来月米寿を祝ううちの父と同い年ですよ…
 「(カセットテープ)本物、初めて見た…」と現代っ子のブラック(角乃ちゃん)に呆れられ「レコードよりずっと新しいのに!?」と目を丸くする見た目パーリー高校生の禽次郎(中身は譲二さん87歳)のイラスト
 そんな矢先に図書館で目にした小説のタイトルが「爺」。じじい、とルビまで振られて、そんなの読まないわけにいかないでしょ(?)
デレク・B・ミラー白夜の爺(じじい)スナイパー(原著2012年/加藤洋子訳・集英社文庫K2016年/外部リンクが開きます)
 図書館の書棚を背景にした『白夜の爺(じじい)スナイパー』書影。「爺」にしっかり「じじい」とルビが振られている
 ジャンルとしてはサスペンス。ノルウェーで暮らす孫娘夫婦のもとに身を寄せた元米軍の狙撃兵が、悪党どもに狙われる少年を逃がすべくボートを盗み、川を下り、反撃の拠点になる国境のキャビンをひたすら目指す―
 主人公シェルドン82歳。「舐めてたジジイが海兵隊の殺人マシーンだった」みたいなノリではなく、ニューヨークのダイナーでコーヒーとブルーベリー・マフィンを楽しみに生きてきた時計職人が、言葉も通じない異国で、さらに言葉も通じない少年を連れ、時には不法侵入した別荘で持ち主の人生の機微に触れたりしながらの道行き・ロードムービーのような趣きで北欧の旅情も楽しめる小説(ただしバイオレンスあり)でした。
 最初ちょっと意表をつくのは、朝鮮戦争でスナイパーとして鳴らしたがゆえに、今もピョンヤンからの報復の刺客を警戒しつづける彼の経歴が、家族には長年「いや俺は後方で事務をしてたんだ」と偽っていたため「本当は狙撃兵だった」と後から明かした真実のほうを信じてもらえず、アルツハイマーが出たと思われているところ。小説の読者には早々に事実だった(らしい)と明らかになるのだけど「信用できない語り手」をもう少し引っ張りつづけたら、それはそれで面白かったかも知れない。いや最近ではありふれてるか。
 本人はヒーローのつもりで少年を連れて逃げていた主人公が、終盤になって自室から本当にただの事務方だった経歴証明書と「舐めてたジジイが殺人マシーン」系のペーパーバックがどっさり出てきて「やばい…本当は虫も殺せぬ一般人なのに悪党に立ち向かう気だ」という展開や、あるいは逆に従軍時の戦功をしめす勲章なんかが出てきて「やばい…本当に殺人マシーンなんだ」みたいな場面があっても良かった気はするけど、まあそういうのが本当に見たい人は自分で創作すればいいんです

 もうひとつ、ちょっと意外かも知れない見どころは主人公ホロヴィッツの信仰、というか信仰への疑い。
 ユダヤ人の彼は…まあアウシュヴィッツなどは動機でもないんだけど…正義を信じて従軍し、お前もかくあれと教育した結果、息子をベトナムで死なせてしまう。現在のノルウェーでの新生活と降って沸いた逃避行・過去の従軍経験・除隊してからのニューヨーク暮らし・そして少年を追う悪党どもと彼らを追うノルウェー警察、頑固な祖父を案じる孫娘夫婦―時間も視点も自在に行き来する(読みにくくはないです。現在の主人公を「シェルドン」、過去の彼を愛称の「ドン」と書き分けることで自制が分かりやすくなってるのも「盗めそうな」工夫)物語の中で。
 ユダヤ教の贖いの日(ヨーム・キップール)について孫娘と語り合う場面は、サスペンスのクライマックスとは別に展開するシェルドンの人生の核心に迫る、もうひとつのハイライトだ。彼いわく、ヨーム・キップールに人は「二種類の赦しを乞う」
「神に対して犯した罪の赦しを神に乞うことがひとつ。
 それに、人びとに対して犯した罪の赦しを人びとに乞うことがひとつ。
(中略)
 われわれの教義によれば、神にもできないことがひとつだけある
(中略)
 人がほかの人に対して行ったことを、神は赦すことができない。罪を犯した相手に直接赦しを求めねばならない
殺人が赦されない理由がそれなのね
(略)死者に赦しを乞うことはできないもの
(強調は引用者)
 そののち彼は、孫娘にとっては「おまえの父親」・彼自身の息子をベトナムで戦死させたことについて謝ってほしいとシナゴーグで神に問いかけ、神の謝罪を得られなかったがために信仰を捨てたと語るが、それは今回の本題ではない。
 「人が人に対して犯した罪を、神は赦すことができない。罪を犯した当の相手(=人間)に赦しを乞うしかない」という主人公の「思想」には、同じくユダヤ人の哲学者エマニュエル・レヴィナスが説く「倫理」の(僕が考える)エッセンスが詰まっているように思える。
 アウシュヴィッツのような暴虐を、なぜ神は直接に罰しないのかという問いに対して、そんなことが出来てしまうなら神が人を創造し、自由を与えた意味がないという主旨のことをレヴィナスは語った(はずである)。その葬儀でジャック・デリダが読み上げた弔辞(岩波文庫『アデュー』所収)によれば、生前のレヴィナスは「人格」こそ「聖なるものより聖なるもの」で「侮辱された人格を脇においたままでは(中略)聖なる約束された地―も裸の荒れ地にすぎず、木と石の山にすぎない」と語ったという。旧約聖書の最初の殺人者カインは「死を無と考えたはずである」という別の引用は、「殺人が赦されない理由」を裏側から提示したものだろう。
 ユダヤ教から派生したキリスト教を信仰する人たちが時に「いや、そこは人に謝れよ」という場所で神の赦しを乞うこと、なんなら「ここで神を恐れる俺のほうが信仰のないお前らより余程おのれの罪を感じているのだ」と誇る傲慢を目の当たりにして釈然としなかったことが「僕が」ついには「あの神」を信仰は出来ない理由のひとつかも知れない。まあ、それはそれとしてだ。
 新旧つうじて聖書には「人を裁くな。罰は神が与える(復讐するは我にあり)」という真逆の思想があることも踏まえて。人に対する人の罪を神に裁いたり赦したりしてもらえると思うな、と取れる点で、レヴィナスと小説の主人公ホロヴィッツ、二人の思想が一致しているように見えるのは、彼らがともにユダヤ人でありながら、唯一神への絶対の帰依からは逸脱した異端者の立ち位置にいるせいかも知れない(いやレヴィナスの立ち位置はよく分からんのですが)と思ってしまった。
 つい先月の日記で書いた、やはりユダヤ人だった・けれど無神論者で進化論者だったフロイトが「でもそんなユダヤ人の伝統に逆らう自分みたいのが、むしろユダヤ人の粋なのだ」と語っていたという話を(前回はスピノザなど引き合いに出したけれど)また思い出したりしたわけです。

 結局ホロヴィッツは自身が北朝鮮の兵士たちに対して犯した罪とどう折り合いをつけたのか、少年を救うためとはいえ再び殺人という「赦しを乞えない」罪を犯そうとしていることをどう考えているのか、今かの国で赦されえない罪を重ねに重ねているホロヴィッツの同胞たちは、またムーミンの国らしいペーソスをたたえたノルウェー警察(違う違う、ムーミンはフィンランド…後日補記)の視点を通して著者が描く移民=犯罪者という概念は、などなど留保をつけたいところは多々あれど、総じて楽しく読める小説でした。

 それにしても、訳者は映像化されるならトミー・リー・ジョーンズをキャスティングしたいと書いてて、僕は晩年のクリストファー・プラマーを脳内で当ててた(お察しください)主人公ホロヴィッツ、少年の手を引いて逃げる不屈の元スナイパーを、もうじき米寿の父で(ついでに少年を幼い頃の甥っ子で)想像しようとはどうにも思えなかった自分が親不孝なのか孝行息子なのかは、ちょっと迷わされるところでした。おしまい。

数える・量る・分配する〜ジェームズ・C・スコット『反穀物の人類史』(前)(25.04.06)

 旧約聖書・ダニエル書によれば栄華に驕るバビロニアの滅亡は、虚空から現れた手が王宮の壁に書きつけた三つの単語で告げられたという。誰も読めない未知の言語を読み解いた智者ダニエルいわく、三つの単語はメネ・テケル・バルシン―すなわち数える・量を計る・分ける。(数えてみたら)この国の覇権は長すぎた・(量ってみたら)今の王には治めるだけの徳がない、だからこの国を分けるという神の思し召しだと。その晩、王は殺されメディアとペルシアが王国を二分する。
 2025年現在この三語に最も相応しいのは、むしろ他ならぬ…という呪詛は別の夜にとっておこう。30年以上も前にギー・ドゥボールはエルサレムどころか(←言っちゃった)広告プロパガンダに支配された現存の都市「すべて」に終焉を告げる三語が既に刻まれている(はずだ)と断罪し、「分ける」の一語に支配層から「分けられた」持たざる者たちの蜂起を切望した(『スペクタクルの社会についての注解』(原著1989年/木下誠訳・現代思潮新社2000年/外部リンクが開きます))。けれど、それも今回の主題ではない。
 賢者ダニエルの、そしてドゥボールの「分ける」の解釈とは別の意味でも、この三語が「バルス」ばりの滅びの呪いであるのは妙というか、言い得て妙ではないか―という話をする。「数える、量る、分配する」こそ人類に多大な災いをもたらしたと唱える声は、近年ますます大きくなるばかりなのだ。
      *     *     *

 こんなジョークがある。
「わぁ、すごい御馳走!なんのお祝い?」
「坊や、今日から弥生時代なのよ」

 かつて原始人と呼ばれる人々がいた。棍棒か、せいぜい尖った石をヒョロ長い木の棒の先に結びつけた貧弱な槍を片手に(それだって立派なものだ、道具を使っているのだから)獲物を求めておろおろ歩く狩猟・採集民族。迷信ぶかく、文字も持たず、落雷やサーベルタイガーに怯えて暮らす。ちゃっぷいちゃっぷい、カイロがポチイい(古い)。
 しかし人類は農耕を始める。牧畜も始める。もう逃げまどったり、乏しい食物を求めてさすらったりする必要はない。to be a rock, and not to roll。安定した、豊かな食糧を確保して、人は豊かになる。富が生じる。文化が、国家が、文明が生じる。古代の生産革命は後に、産業革命として再演されるだろう。蒸気機関が、紡績機が、人類の豊かさをさらに飛躍させる。迷信を打ち払ったデカルト的理性は海を越え新大陸も眠れるアジアも席捲して、政治・経済・法律・文化…西欧で生まれた近代文明は世界の共通プロトコルになる。
 冷戦の終結による「歴史の終わり」・インターネット以後のグローバル化を三度目の革命に数える必要はあるのだろうか。科学者たちの共有財産とされた南極大陸を除けば、もはや地上にどこかの国の領土でない土地は存在しない(たぶん)し、そのうちWi-Fiの電波が届かない場所も、スマートフォンのタッチ決済が使えない土地もなくなる。まとめて言うと数千年の歴史を通して人類は文明化の度合いを進めつづけてきた。農耕文化に適応できなかった狩猟民・文明の外にいる蛮族・バルバロイは徐々に同化され、あるいは滅び、今となっては各々の国家という大きな枠組の中に設けられた居留地で細々と存在を「保護」されているに過ぎない…
 …本当だろうか?

 たとえば昔のSFや未来予想図では、未来(ひょっとしたら今くらいかも)の人類は世界政府を樹立しているものだった。村落から国家へ・国家から国連やEUのような国際共同体へ・そしていずれは地球がひとつの国家にという進歩史観は、経済やインターネットのグローバル化によって一面的には達成されてると言えなくもない反面「世界がひとつに」というイマジン的な(あるいはオルテガ的な)夢は、一向になくならない国家間の戦争・それどころか国内での分断や内戦という現実によって、いわば未来から「そうはいくものか」とNOを突きつけられている。
 一方それと歩調を合わせるように・あるいは未来からの問い直しに先んじて、過去だってどうなんだ:人類が豊かに・文明的に進歩してきたという「正史」も体制に都合がいい作り話ではなかったかという異議申し立ても続発している。
 本サイトでも折りにふれ…といえば聞こえはいいけれど、要は散発的に取り上げてきた話だ。
 いわく、原初の「万人の万人に対する闘争」は国家の出現で初めて抑止されたって本当かぁ?(これについては「原初の社会は万人の万人に対する闘争じゃなかった」「国家が出来てからも逆に支配者と被支配者の闘争が常態ではないか」と両面からダメ出しが出ている)
 新大陸を発見したと言うけれど、その土地にはずっと前から先住民がいて帝国すら築いていたではないか。
 万人の平等を真に法として整備したのは植民地支配を棚に上げたヨーロッパではなく、制圧されていた側=植民地の独立勢力だったはずだ。(『ブラック・ジャコバン』『ヘーゲルとハイチ』『ハイチ革命の世界史』)
 資本主義は産業革命やイノベーションではなく、村落共同体の破壊や先住民の虐殺・奴隷制など搾取と収奪の賜物ではなかったか。(『キャリバンと魔女』)(『史的システムとしての資本主義』)
 現代的な経営マネジメントはイギリスやアメリカ北部の工業地帯ではなく、奴隷のコスパな「運用」を求めるアメリカ南部やカリブ海のプランテーションで生まれたらしい。
 ↑これは今日まさに読み始めたケイトリン・ローゼンタール『奴隷会計』(原著2018年/川添節子訳・みすず書房2022年)より。同時期、日本の著者も近しいテーマの本を出してたような気もするけど思い出せない…(『奴隷会計』書影と、画面上のほうを両手で指さしてる羊帽の女の子「ひつじちゃん」のイラストを添えて)
 異議申し立ての多くは近代の「正史」に差し向けられている。いま行き詰まっている世界システムが近代の産物なのだから当然とも言える。
 だが、さらに遡って産業革命ではなく農業革命・文明の曙まで差し戻し請求する声もある。
 全然関係ないけど、うっかり自キャラに私認定・今どき人間が取れる最も卑しいポーズ(「ここをクリック」という表示を指さした両手を「見て見て」とばかりに上下させる広告モデルの絵)に酷似の姿勢を取らせてしまい、申し訳ない気持ちでいっぱいです。(屈辱…!屈辱!!と四つん這いで悔しさに地面をドンドン叩く「ひつじちゃん」のイラストを添えて)
 やはり自分の場合、大きかったのは「ただの交易なら貨幣は必要なかった・貨幣が発明されたのは徴税のためだった」というドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』の発言だった。(今まで挙げた諸説もそうだけど)今は個々の真偽を問う場ではない。
 『千のプラトー』経由で知ったピエール・クラストル(1934〜77)は、農耕せず定住せず小集団で生きる狩猟民たちは国家形成に至れなかったのではなく、むしろ権力の集中が危険と知るがゆえに意図的に「進歩」を忌避した「国家に抗する社会」だったと説いた。
 真っ赤な帶に白抜きで君は国家が幻想だと気づいているか?と大書された角川文庫版の吉本隆明『共同幻想論』は自分には正直サッパリ理解できない難書だったけれど、古事記が詳らかにする神話時代の日本の法は天孫降臨を受け容れる側だった社会の「国つ罪」がレヴィ=ストロース的なインセストタブー(近親婚の禁止)なのに対し、天孫降臨でもたらされた「天つ罪」が水田の畔を壊すな等の稲作を守るための禁令だったという話だけは憶えている。
 そのレヴィ=ストロースは構造主義人類学の古典『悲しき南回帰線』「文字による伝達の第一の役目は、隷属を容易にすることである」という仮説を提出している。
 現存する解読可能な最古の文字=メソポタミアの楔形文字は神や王を讚えるためでも、もちろん個人の心情を綴るためでもなく、徴税の帳簿をつけるために発明されたという話は何処で知ったんだったろう。
 桃源郷という言葉の語源と思しき「桃花源記」は学校の教科書で習ったけれど、その別バージョンとも言うべき、虎の出る山奥に隠れて暮らす人々を訪ねた語り手が何故こんな危険なところにと尋ねたところ「虎よりも税吏が恐ろしい」と答えたという逸話を知ったのは、いつだっただろう。
 桃源郷か虎の竹林か、国家に属さぬ人々が東南アジアに形成した一大生存圏に取材した大著『ゾミア』(未読)の原題は、クラストルの系譜を継いでるとしか思えない「The Art of Not Being Governed」(統治されない技術)であるらしい。
 中国の細民が虎よりも税吏を恐れる話は教科書に載らなくても、(税を取り立てる)「里長が声は寝屋戸まで来立ち呼ばひぬ」という山上憶良の長歌は載っていた。それでも、貨幣も文字も(人々の自由な交易や表現のためでなく)国家が税を取り立てるため発明されたのだとしても、それで全体の生活が底上げあれ、皆が豊かになったなら何の問題もないではないか―
 ―という反論は、『千のプラトー』が用意した、もう一枚の切り札=マーシャル・サーリンズ『石器時代の経済学』(未読)で覆される。サーリンズの名を挙げなくても、定住した農耕民より非定住の狩猟採集民のほうが労働時間は少ないという説は、今なら誰もが何処かで耳に目にしているのではないか(してなかったら「今」したんですよ)

      *     *     *
 ちょっとだけメタな話をさせてもらうと、ここまで羅列してきた「異論」が書いてる自分以外の人たちにとって、どこまで目新しいか見当もつかない。
 文字の話も貨幣の話も、ハイチの話も魔女狩りの話も、僕自身は知ったとき目からウロコだった(もしかしたら目にウロコが貼りついたのかも知れないがと危ぶむ程度には公正を期したい気持ちはある)。けれど新説は、特につるべ打ちで食らっていると、まるで最初から常識だった・ずっと昔からそう思っていたように思えるものだ。
 だからここまで書いてきた、僕の場合は時に他の目的で手にした本から偶然に拾うような形も含めて、あっちへフラフラ・こっちにフラフラしながら少しずつ形成されたきたことも、他の人にはSNSで浴びる大量の情報や引用・オピニオンを通じて・つまり別ルートを通してではあるけれど、やはり「そんなの常識じゃん」という話ばかりだったかも知れない。
 それはもちろん危険なことでもある。アメリカでも日本でも、大量のフェイク情報を浴びてフェイクが「常識」になってしまった人たちが沢山いる。その一方でクラストルが、サーリンズが(未読ですが)、レヴィ=ストロースやドゥルーズ=ガタリが説いてきた異説・新説が、「何処で知ったか分からないけど」という形で「常識」になることも、あるのではないか。それで本当にいいのかと思わなくもないけれど、それはそれで救いかも知れない。
 実際、羅列してきた異説・新説には出版年が2010年代と本当に「新しい」ものも少なくない。当然、それらを基にした言説もネットに流れ、増幅されている最中だろう。世界は本当に変わるかも知れない。

 ジェームズ・C・スコットの反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』(原著2017年/立木勝訳・みすず書房2019年/外部リンクが開きます)も、そうした「新しい」オピニオンの一つだ。ここまで述べてきた異説・異議申し立てを総合し、さらに新たな目ウロコを付け足す、「この問題」に関するスタンダードになりうる一冊だと思う。なんなら(僕みたいに遠回りせず)最初に読めばいい一冊
 来週は、この本の話をします。(出来ませんでした)

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