まんがなど
(19.12.22更新)
今年のペーパまんが総集編を追加。



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(19.12.01更新)
今年の新刊まで追加・整頓しました。
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過去日記一覧(随時リカバリ中)

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Author:舞村そうじ/RIMLAND
 創作同人サークル「RIMLAND」の
 活動報告を兼ねつつ、物語とは何か・
 どんなメカニズムが物語を駆動し心を
 うごかすのか、日々考察する予定。

【最近の動向】
当面は新刊がない予定です。

WebまんがSide-B遅々として更新中。

6年ぶりの本篇更新。(20.05.17)

旧サイトは2014年8月で終了しました(お運びいただき感謝)。再編集して、こちらの新サイトに少しずつ繰り入れますが、正直、時間はかかると思います。

[外部リンク]
comitia
(東京名古屋新潟関西みちのく)
あかつき印刷
POPLS

日本赤十字社

if you have a vote, use it.(save kids)

日記更新。選挙に行きましょう2020年夏。下の画像か、こちらから。(20.07.03)


ひとつ前の日記。ヴァージニア・ウルフ『自分ひとりの部屋』の圧倒的筆力。。こちらから。(20.06.28)


BOOK★WALKERの百合の日キャンペーンつつがなく終了。『カーテンコール e.p.』御購入の御礼絵、ネタバレになるのでワンクッション置きますね。全体図は下の画像か、こちらから(外部サイトが開きます)。(20.07.02)

【予告】4月以降、同人誌即売会が中止や延期になっている間も何かと漫画を描いてて、数えてみたら40ページほどになっていました。未発表の作品(これから描く)や、修正・あまりにラフだった等の理由での描き直しも加え、7/23の創作同人電子書籍「いっせい配信」で電子書籍オンリーの新刊を発行しようと思います。
受取人払いのお手紙ていどのお代をいただく予定です。(20.06.25)
「こんな時でも描いてた漫画」こんな時だからと気負うでもなく 逆に萎縮するでもなく いつもどおりに漫画を描いていた おおよそ百日間の生存報告。

選挙に行きましょう〜2020年夏ヴァージョン(2020.07.03)

 ここ半年、生存報告も兼ねて毎週日曜日には日記らしきものを書いているのですが、今週は前倒しで金曜更新です。なぜか。「選挙に行きましょう」という話が特定の候補の上げ下げになると、都知事選の投票日にあたる日曜では公職選挙法に抵触するおそれがあるから。(追記:後で見返すと特定の候補の「下げ」だけだった+落選運動は当日でも抵触しないので日曜でも良かった)
 はい、隣県の神奈川から、おせっかいにも「投票に行きましょう」という話をします。時間がないので簡潔に。

 結論から言うと、東京都のコロナ対策は全方位的に酷い。建物を赤く光らせるだけの(バットマンを呼ぶんじゃないんだから)「東京アラート」も、行政の責任を個々に丸投げした「自粛から自衛へ」も、ついには感染者数と警戒を連動させない宣言も。それは国政の「緊急事態宣言」が補償や医療拡充などの対策をまともに伴わない気分だけの宣言だったことを、より純化した産物だった。
 ピンポンゲームのように、その無為無策が今度は国政や、他の地方自治体に投げ返される懸念は強い。都の首長を決める有権者が、世間全般に及ぼせる権力・影響力はまことに大きい。
 なので投票に行ってほしい。
 ここまでのまとめ。コロナ関連の都の対応が、国や他道府県に波及すると困る。都の有権者にはしっかりしてほしい。

 このように投票を促すと「権力・影響力といえば聞こえがいいけど、それって『責任』だよね?重たいよ!」と感じる向きもあるだろう。「現状では現職が圧倒的に優位と言われてるのに、勝てない投票をする意味ってあるの?
 チッ、まずいところに気づきやがって…ではなく。
 「勝てない投票に意味はあるか」問題については
選挙では僅差の逆転もあるので諦めてはいけない
投票率があがること自体、為政者に有権者の存在を意識させることなので良いのだ
という反論・提起がなされている。後者については、こちらの記事が(簡潔にと言いつつ既に長くなってる本サイトの日記などより余程)簡潔にまとめている→
ぶっちゃけ、投票ってメリットある?」(春日そら/note)(外部サイト)
 「三分で読める」こちらの説明で、納得できれば良し。投票に行きましょう。
 ただ問題は、投票率が上がろうと、仮に投票者の49%までがノーを突きつけようが51%で勝てば、
 さらに多くの候補で票が割れたり、そもそも投票しない人が増えれば、ハードルはますます下がります。2016年の都知事選で現職の小池百合子氏の得票率は44.49%(過半数でない)・投票率59.73%を掛けると27%の「民意」しか得ていません。
いちど勝ってしまえば「民意を得た」と称し、反対者がどれだけ言おうと好き放題するタイプの政治家がおり、困ったことに現職の都知事はその筆頭に思われることだ。

 だから今回、ホンネを言えば選挙には勝ってほしい。しかしそれは「※無駄に長い比喩なので消しました」みたいな理想論だ。
 都知事の任期は四年ある。勝ってしまえば安泰の四年だ。自分に投票しなかった有権者の、どころか自分に投票した有権者の意向すら馬耳東風と無視しかねない為政者の存在を前に、勝てない投票の意義を(保険として)至急に案出する必要がある。
 僕が考える対案は「投票率が上がっても(直接には)変わらない為政者がいるかも知れない。だが投票することで隣人や自分自身は変わるし、それが政治を動かすことはできる」というものだ。
 逆に言えば、投票率が上がれば自動的に為政者がそれを意識するわけではないだろう。選挙で負けたら諦めてしまい、また粛々と「自衛」に戻ってしまう有権者ならば。為政者をおびやかすのは選挙で反対票を投じ、日常でも政策のおかしなところに声をあげていく市民ではないか。
 そして、そのような市民に隣人や自分自身を変えていくのに、選挙ほど、候補者や人々の声を聞き「なるほど、こういうことが問題なのか」「アレとコレがつながってるんだ」と知ることほど効果的な機会はそうない。
 かつて最低賃金上げろデモで見かけた、ダンボール紙に手書きで「野菜を食べたい」と書かれたプラカが忘れられない。デモと同じで選挙も、すでに固まった自分の主張を持っていくだけでなく、他の人の主張や訴えに耳を傾ける貴重な機会と考える。
 実は、すごく面倒くさいことを言っている。「意見があるなら投票で示せ(他の場所で文句言うな)」という、よくある主張とは真逆に「投票だけじゃダメだ、日々要求を出せるような自分を錬成しろ」と言っているのだから。
 だが吾々には、選挙に拠らず、本来なら和牛券とお魚券(とマスク)が配られて終わるはずだった国のコロナ対策を、一律十万円の給付に変えた実績がある。
 それは言い替えれば、今の吾々には「数ヶ月の自粛なのに一ヶ月分(十万円)の給付しか引き出せず、東京アラートや何やかやを止められない」程度のチカラしかない、ということでもある。でも「最初から何を言ったってムダ」じゃないことは、兎にも角にも給付された十万円が示している。
 

 本当はこういうことを、もっと早く(投票日の前々日などでなく)言えれば良かったのかも知れない。しかし自分も、今回の都知事選でさまざまな声が上がるのを見聞きして、ようやくここまで考えつき、考えがまとまったのだ。
 先の「3分で読める投票に行くべき理由」のnoteを書かれた春日そら氏が別の場所であなたは、ひとりひとりの人間は、もっと丁重に扱われるべき尊い存在なんだよって、うまいこと伝えたいとつぶやかれていた。それは今まで(少なくとも自分には)言語化されていなかった、新しい概念のように思われた。「あなた自身も自分で卑下せず、尊重に値する存在だと確認するために投票に行こう」と言うときに、たとえば選挙権を有さないまま、国や都の決定に従わされている人たちの苦渋を引き合いに出すべきだろうか。このあたりの思考や思索は、どんどん鍛えられていいと思う。
 今回の都知事選に限らず。選挙権のある人は、それを行使しましょう。言うなれば、より自由に手足を動かせるように。

「民主主義というものは(中略)スポーツにおける「フォーム」のようなものなのである。(中略)
 トレーニングしだいで豊かになることもできれば、衰えることもできるのだ」

 (フェリックス・ガタリ『闘走機械』)
 

 おなじかたの記事。こちらも「選挙」という場を通して言語化された思索。参考になるし、目の前の選挙を越えた生活の指針になると思います。
【投票先、どう選ぶ?】 なにも考えられないくらい疲れている時の、投票先の選び方(春日そら/note)(外部サイト)

やがて悲しき牛の尻〜ヴァージニア・ウルフ『自分ひとりの部屋』(2020.06.28)

「文学は蜘蛛の巣のように、たぶんそっと軽くではありますが、
 四隅でしっかり人生につなぎ止められています」
(ヴァージニア・ウルフ)

   *   *   *

 ちょっと持ち上げアピールが煩いかなぁと思いつつ、丸谷先生を「先生」と呼ぶのは、創作や表現の師匠として私淑(勝手に弟子を自称)しているからだ。不肖の弟子である。まあそれはいい。
 ミステリにも造詣が深かったが、食べ物を語ることも大層お好きだった。前にも引いているのだが(2000年3月の日記参照)『007』の原作者イアン・フレミングが説いた小説作法の引用が強い印象に残っている。
「こんなふうに書く方がたしかに読者の感覚を刺激する(中略)
 「彼は”本日の特別料理”−すばらしいコテージ・パイと野菜と、それから自家製トライフル(中略)−であわただしく食事をすませた」と書くかわりに、
 「”本日の特別料理”というやつは一切本能的に信用していなかったので、彼は両側を焼いた目玉焼き四つと、バターをつけた熱いトーストと、それからブラックコーヒーの大きなカップを注文した」」

(『好きな背広』)
 美食を愛し、多くの文章も書いた作家(丸谷氏のことです)が食事描写として、ゴテゴテしたカタログのような羅列ではなく、シンプルで庶民的(だが湯気が出るように熱々)な食い物をガツガツかっこむ姿を良しとしたのが面白い。美辞麗句で飾り立てるより、文章の極意は「達意」(きちんと意味が通じること)だと説いた先生らしいとも言える。
 そんなわけで、御自身の食を語った文章でも、賛辞より悪口のほうが冴え渡り、記憶に焼きつけられている。『男ごころ』(新潮文庫)に収録された、国鉄時代の食堂車の鰻定食が酷かったという文章。白ごはんの上にウナギの蒲焼きが乗り、タレが白飯に染み渡るという食べ物だが、
「御飯が一番大事であることはみなさん御承知の通り」
鰻飯(お重かな?)だけど一番大事なのはウナギじゃなくて御飯、と初手からヒネリつつ「そんなの皆さん知ってますよね?」的に話を進めるレトリックから
「ところが、その炊き方がなつてゐないんですね。グチヤグチヤである。じつにまづい。それは例の国会図書館の食堂の、白い皿の上にあつたものと同系統のまづさであつた」
「例の」と言われても該当する文章がないのだが、「国会図書館の食堂みたいな」という分類だけで(ああ、なんか官僚的で索漠としてるんだな)と、まずさのベクトルが示唆される。「白い皿の上にあったもの」というモノ化。
「京都で行つた料理屋のうちの一つ、河久の若大将にこの話をすると、それはとぎ方のせいぢやないか、手でではなく機械で研ぐので、扱ひが乱暴になつて、米が砕けてしまふため、味が落ちるのぢやないか、とのことであつた。(中略)
 若大将さらにつづけていはく、米はたくさん炊くほうがおいしいと言ひますが、あれにも程度がありましてね。二合よりは一升のほうがおいしいし、一升よりは二升のほうがおいしい。しかし、それ以上は駄目なので、うちは二升までしか炊きません。もちろん手を使つてとぎます。
 言はれて見ればごく当たり前のかふいうことをしないで、機械じかけでとぎ、三升も四升も(あるいはもつとたくさん)一度に炊くから、ああいふ恐しいものが出来上がるのですね。
(中略)
 もちろん御飯だけがいけないわけではなく、蒲焼それ自体も生な感じで、なまぐさくて、気味が悪かつた。これだけひどい鰻飯を食べたことは今まで…一度ありましたね。十年以上前、これも食堂車
(中略)で口にした、鰻定食である。注文するとき、その記憶がよみがへつたため、あわててもう一品、魚フライ定食も頼んだのです」
その御飯がどんなか、なんでそうなるのか、理詰めで攻める。名人の談話を引用し、どうすれば美味しく炊けるかとイメージをふくらましたうえで、それをひっくり返す。「こんなの今まで…」という紋切り型を「いや、一度あった」とヒネり、「やっぱり食堂車だった」国会図書館の食堂と同じ類似による強調・かつダメ押し。あの手この手の技法を駆使し「兎に角まずさを過たず伝えたい」という気迫(しつっこさ)が師匠である。
 しかし、イアン・フレミング流の?技が冴えるのは、保険だったはずの魚フライ定食・海老とワカサギと鱈のフライの描写だ。
「が、これもいけなかつた。
 悪口を書くのがもういやになつたから、これは詳しく言はないで、結論だけにする。まづい。

(強調は引用者)
 
   *   *   *

 「小説とは、ゴシップの領域の拡大であり、演劇とはスキャンダルの領域の拡大である、
 とヴァージニア・ウルフは書いてゐた。
 まるで一突きで急所をゑぐつたやうな、鮮やかな指摘である」
(丸谷才一『遊び時間』)

 ミステリに造詣が深く、食べ物を愛する丸谷先生は、いわゆる女流文学(閨秀文学などとも言いましたなあ)についても「文章を書かせたら女性のほうが上手いのは当然」くらいの態度で臨んでいた。ことさらフェミニストというわけではない。敗戦時に学生で「これで兵隊に取られずに済む」と喜んだという、いわば昔のひとだから、今から見れば男尊女卑的なところもあったろう。聖人化するつもりはない。ただ、日本の平安文学と近代英文学が専門領域なら当然の見識だった。
 さらに自身が小説の師と仰いだのがジェイムズ・ジョイスで、彼と並んで「意識の流れ」の技法で知られたのがヴァージニア・ウルフだったから、そう言及はないにせよ「当然」一目は置いていただろう。
 関心は持ちつつ、なかなか手が出なかった彼女の作品(怖かったわけではないです)を読む機会に恵まれた。
ヴァージニア・ウルフ自分ひとりの部屋』(平凡社ライブラリー)(外部サイト)
 1928年に行なわれた、二つの講演を編集したものらしい。〈女性と小説〉という題で依頼されたはずの講演は、どんどん横滑りして第一章の半ばでもう、こんな描写に行き当たる。
「夕食が始まりました。スープを召し上がれ。肉汁で作った、透き通ったスープでした。空想を掻き立てるものは何もありません。透明なスープの底にお皿の模様も見えそうでしたが、模様はなく、無地のお皿でした」
「次に牛肉と青野菜とジャガイモの付け合わせが来ました。その質素な三位一体は、泥でぬかるんだ市場にたたずむ牛の尻とか、縮れて端が黄色くなった芽キャベツとか、値引き交渉とか、月曜の朝に女たちが手提げを片手に歩いている光景を連想させました」
 自分も腹が立ったら「自分の鼻くそで窒息してしまえばいいのに」とか「カシミアのセーターの背中にびっしりオナモミが引っつけ」程度のことは考えたり言ったりするけど、もう足元にも及ばない。
「次にビスケットとチーズが来て、水差しが何度も回されました。ビスケットというのはパサついているものであり、それは芯までビスケットそのものでした」
 極めつけはプルーン。「無慈悲な野菜(果物ではありません)」「守銭奴の心根のように筋張っている」「八十年間ワインと暖房を倹約してなお貧者に分け与えようとしない、そんな守銭奴の血管を流れる血液のように汁気がない」いちど守銭奴と言ってから、いいや、ただの守銭奴じゃなくて八十年間…とイメージをふくらませる畳み掛けのくどさもさることながら、「プルーンをも喜んでいただく寛容な人もいると思いいたさねばなりません」のイヤミの強烈さ。

 だが、この語彙力の乱打と言うべきメシマズ描写に「量はたっぷりあり、炭鉱夫はきっとこれよりわずかな食事にしかありつけないことを思えば、食事に文句を言う筋合いはありません」という一節が混入すると、もう笑ってはいられない。なぜ語り手は、こんな「泥でぬかるんだ市場にたたずむ牛の尻」のように惨めで「無地のお皿に透明なスープ」回されるのは水差しという貧相な夕食を摂る羽目になっているのか。
 それは、女性が男性と同じように大学に通うための基金自体きわめて貧弱で、作家がゲストとして分け前に預かる女子寮の食事などに、とても予算を割くことができなかったからだ。1860年代から60年かけて、女子の高等教育のために、家事や子育ての間をぬって女性たちが集めることが出来た資金は3万ポンド。 「掻き集めたお金は一ペニーにいたるまでカレッジ建設のために取っておかねばならなかった。
 快適な設備は後回しにする以外なかった」
(脚注より)
 男性の潤沢な寄付によって造られた男子向けの大学の図書館に、女性は立ち入ることが出来ない。芝生すら、横切ろうとすれば制止される。もう笑ってはいられない。

   *   *   *

 実は本書=この講演録の結論は冒頭ですでに先取りされている。
女性が小説を書こうと思うなら、お金と自分ひとりの部屋を持たねばならない
 だが、このシンプルな結論を過たず伝えるため、彼女は自身を取りまく世界をことごとく語り尽くそうとする。夕食がまずいとなれば「どうまずいか」牛の尻や守銭奴の八十年を持ち出して、くどいくらいの説得を試みる。
 それはまるで、あらゆることは「分かりやすく」「伝わりやすく」要約してしまったら「うん、それなら知ってる」「もう分かってるよ」と素通りされてしまうと危惧するかのようだ。実際、そうして彼女が「正しく」伝えようと繰り広げる比喩は(値引き交渉とか)いちいち心に響き、90年前の思惟と思索が一つ一つ、痛々しいくらい「それな」と現代の吾々に突き刺さる。

 世の男性にとって、人類の半分=つまり女性を無条件で自分より劣った存在と考えることは、自分の姿が二倍に大きく見える魔法の鏡を手に入れたに等しいと著者は看破する。根底にあるのは、他人より優越していないと安心できない・自我を保てないという呪いだ。その呪いは、人類の半分を「安くして」自己の優越を確認すれば解けるかといえば、そうではない。富と権力を手にした者が懐中にハゲタカを飼わねばならず、より多くの所有や獲得をという渇望に、自らの内臓をついばまれる様子を彼女は見て取る。
 そして(もしくは「だがしかし」)こうした洞察も、安定した収入がなければ得られないと著者は説く。財布から10シリング出すたび心配しなければならないこと、家賃や食費を確保するため(作家の場合、己の節を曲げて文章書きと雑用とが混在した)薄い稼ぎの労働をしなければならないことが、どれほど己を卑屈にし、思考を妨げるか。弱者は弱者で、生活の窮迫に心を喰われてしまうのだ。
 わたしたちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾られねばならないという(國分功一郎『暇と退屈の倫理学』)。戦中戦後をくぐり抜け、高度成長期まで辿り着けた(ついでに言えば男性の)丸谷先生は、パンに事欠かない境遇を手に入れたうえで、食堂車の定食にバラを求めることが出来た。だが、ヴァージニア・ウルフが描いた90年前の世界と、吾々が暮らす今の世界は、バラを求める者はパンにも事欠き、パンに事欠かない者はバラを求めようとしない(ハゲタカに内臓を喰われ続ける)、そんな二極化の地獄ではないか。
 ここまでのまとめ「搾取の構造が思考まで妨げるという指摘には男女格差の問題を越えた射程がある」ここからのまとめ「とはいえ本書の眼目は男女格差」

 けれど、ことを人類の残り半分まで拡張し、持てる者と持たざる者の対立に帰してしまうことは「いかに女性が不当な地位に置かれてきたか」という本書の訴えを「男だってつらい」と強奪することになりかねない。J.K.ローリング(女性)は『ハリー・ポッター』第一作を生活保護を受けながら書いたが、デビュー作『キャリー』を子供が寝静まった深夜の台所で書いたスティーヴン・キング(男性)だって「自分ひとりの部屋」を持ってなかった?いやいやいや。それで16世紀のロンドンで、女性が詩人や劇作家になることが制度的に不可能だった(後年の研究では異論もあるようです)その不公正まで帳消しには出来ない。
 いかに女性が自分の人生を、思索を、執筆や表現の機会を許されなかったか。プルーンのまずさと対峙した時と同様、著者はもう、馬の魂が冴えるまでと言わんばかりに書き尽くす。すでに見たように、その文章はあまりに「取れ高が良い」。拾えるところが多すぎるので、今こそ言うべきかも知れない。「結論だけにする。(男女格差は)ひどい
 思い切り端折ったけれど、それらは既に克服された、今さら読む必要のない昔話…でもない。たとえば、フローベール(ボヴァリー夫人)やシェイクスピア(ロザリンドクレオパトラハーマイオニー)、古代ギリシャ悲劇(カッサンドラメディアアンティゴネー)まで遡った、文学は堂々たる主人公として女性「キャラ」を称揚するのに現実世界の女性は二級市民か奴隷扱いだという指摘はどうだろう。今この国の漫画やアニメでは、女子高生が南極に行き、バンドを組み、鹿肉やフォアグラを調理し、キャンプに行き、もう少し年上で飲酒ができるヒロインたちは居酒屋めぐりをし、なんなら女子中学生が世界を救う(それも毎年)。
 かく言う自分も、女子高生がバンドやってて人類を救う話を描いてますが(クリックすると電子書籍の販売ページに飛びます)
 それらの作品に決して侮れない名作・佳作があることは否定しない(オタクだから)。
 だがそれをもって「ほら見ろ、この国では女性が尊重されてるんだ」などとは、とても言えまい。2003年に政府が立てた「2020年までに女性管理職の割合を30%にする」という目標は今年3月の時点で外資系企業17%・国内企業8%の達成率で「目標を2030年に先延ばしする」とアナウンスされたという。ここで「それは女性に能力がないからだ」と言うひとは、この文章を「世の男性にとって」のあたりから読み直すべきだろう。

 そんなわけで、『自分ひとりの部屋』は90年前の講演録でありながら、現在にビシビシ突き刺さる。逆にそれは恵まれた体験ではないか。現在がどうなってるかなど想定もせずに書かれた文章を読んで、それを現在に適用するとき、読み手の脳のシナプスは素晴らしく活性化しているに違いないのだから。
女性が小説を書こうと思うなら、お金と自分ひとりの部屋を持たねばならない
 このテーゼを証明するために、著者はあらゆる故事を引き、景色を描写し、比喩に比喩を重ねる。逆にそれは、要は「女性に、自分の人生を持てるだけの収入と時間を与えよ」というテーゼを門にして、扉を開く鍵にして、社会とは何か・表現とは何か・自由とは・人生とは何か、およそ創作者が知っておくべき万象にアクセスできるということだ。とくに創作について得られる知見の多さは強調したい。文筆によって稼ぐとはどういうことか。作家にとっての誠実さとは。詩と小説の違いは。どこまで作者は作品に影を落とすべきか。なんなら百合について(!)。語彙の多さだけでも、大いに刺激され、勉強になるだろう。
 繰り返し言うが、本書の「取れ高」は異様に良い。それにアクセスするためなら、著者の「フェミニスト的」主張くらい飲み込みなさいな。存外、飲み終えたら「なんだ、自分もフェミニストだ」と気がつけるかも知れない。
 
いつまでか分からないけど『自分ひとりの部屋』電子書籍が値引きで大変オトクです!

怪物はどこにいる〜宮部みゆき『火車』(2020.06.21)

 犯罪を犯さなくてすむのは賢い者で、愚かな者は犯す羽目になる、
 あるいはいつそ、運のいい者は犯罪を犯さず、運の悪い者は犯罪者になる、と言ひたいかのやうだ。

  (P.D.ジェイムズ『罪なき血』書評―丸谷才一『ウナギと山芋』中公文庫より。強調は引用者)

   *   *   *

 お店の中で小さな子供が「○○がほしい」と駄々をこね、泣き声をあげる。実際に見ることは少ないが、絶無でもない光景だ。けれど、その子供は一味違った。まだ言葉も覚えたてと思しき幼児が
(その商品を)買いたい、買いたいー!
と泣き喚いていたのだ。おお、すごいな!と感心してしまった。その齢で既に物を「買うこと」自体の快感を知っているのか、末恐ろしい子だ!と思ったのだ。今にして思えば幼さなすぎて「(お母さんが)買って」もしくは(自分は)買ってほしい」の主客を純粋に(文法的に)取り違えただけかも知れないが
 物やサービス=商品を「買うこと」は、それ自体で快楽だ。購入した商品の使用価値や、それを所有することで示せるステータス的な価値以前に、お金を払うこと自体に癒やしや救いとすら言える快楽がある。無理もない話だと思う。財布からお金を出して、商品を買うとは、商品を供給する人や社会とつながることだからだ。
 「人は一人では生きていけない」などと、さも素晴らしいことのように言われるが、「人は愛なしでは生きていけないが、問題は、にも関わらず多くの人たちが愛なしに生きねばならないことだという言葉もある(出典不詳)。部族や村落の共同体が崩壊した近現代、日々お金を払い何かを購入することで、ようやく「一人じゃない」生きかたが出来る者たちもいた(いる)のだ。TwitterやFacebook・InstagramといったSNSがない時代は、尚更そうだったかも知れない。
 貨幣・消費と社会については掘り下げるとキリがないので、ここで止めます(マクラだし…)

 「買いたい」と泣く子供に衝撃を受けたのと、宮部みゆき火車』(新潮文庫)を読んだのは、どちらが先だったろうか。当人の経済状況では本来できない多額の買い物を、後払いのローンでしてしまう「カード破産」をモチーフにした1992年の社会派ミステリ小説だ。
 投票しようにも誰もマトモな候補者がいない、などと言われる東京都知事選で「実はいるマトモな候補者」宇都宮けんじ氏をモデルにした人物が同作に登場していたと知り、数十年ぶりに読み返してみた。多額の買い物で…と言っても、それが本当に地獄行きの車(火車。仏罰で死に瀕した平清盛を迎えにきたやつだ)に変じるのは、金利が金利を生み数百万・数千万にもなる消費者金融のカラクリのせいで、それを是正すべく闘い続けていたのが、作品の助言者として献辞も捧げられている弁護士の宇都宮健児氏であった。のみならず、これまでにも都知事選で百万単位の票を集め次点となっている、知る人の間では有名人なのだ。
 つまり今回の日記「やーマトモな候補者がいない」とか逆に「野党の候補が割れちゃったよー」とか言ってないで、いいから宇都宮氏に入れなさいよと売り込む狙いが見え見えなのですが。売り込みたくもなるでしょう。2016年、アメリカ合衆国・大統領選挙の有権者でない世界中の人々が「トランプだけはやめて」と願ったように、今「頼むよ都の有権者」と歯ぎしりしている他道府県の住民や、都に在住しているのに選挙権を持たない人々は少なくないはずなのだ。※当方・神奈川県在住。
 商品の購入によって社会とつながる…という話で始まった今回の日記ですが、投票は、ロハだから。買い物とは別の仕方で社会と関わり・つながれる重要な機会だから。お願いしますよ、ほんとに。

   *   *   *

 さて、以下は余談である。
 『火車』が発表され、絶賛された頃「しかし…」と苦言を呈する評があった。事件を追いかける刑事の、まだ10歳の息子が実は養子で、そのことを当人に告げていない(しかも「12歳になったら教えような」と約束しあっていた伴侶は事故で先立っている)というエピソードは、謎解きに寄与しない不要なものではないかという主旨の批判だ。
 そうだろうか、と僕は思った。むしろ複数の点で、この小さな秘密こそが『火車』を小説として駆動させるために不可欠な、心臓部の歯車だというのが僕の見立てだ。

 これは再読して見直したことだが、まずひとつ。本篇では養子の事情が、こう語られる。
「智は本間と千鶴子の実子ではない。まだ乳飲み子のときに、養子にもらった子供だ。
 特別養子制度という、子供の産みの親の姓名を戸籍上に記載しない制度が認められる前のことだった」

 (強調は引用者)
制度が認められた後であれば、実子でないことを告げねばと悩む必要もなかったことが示唆される。この小さな「制度の遅れ」エピソードは『火車』という小説全体を凝縮した、いわば雛形なのではないか。
 すでにサラッと見たとおり、本作の主題は(宇都宮弁護士などの尽力により)法が整備され是正される「前の」消費者金融が、人を破滅させるカラクリだ。メインテーマだけではない。
・法的には返済責任がない家族にまで圧をあたえる取り立て業者の脱法的な手口。
・相続放棄によって親の借金を負わずに済むはずの制度、が機能しないケース。
・犬を飼えないはずの団地の子供が犬を飼い、ペット飼育に制限がないはずの戸建て家持ちの子供が犬を飼えないという皮肉から生じる軋轢。
ザルの目を細かくすれば、もっと拾える。刑事とはいえ休職中で手帳を振りかざせない主人公が私的に捜査を進めるための抜け道まで含めて、『火車』はそれ自体「バグが仕様」である社会・システムの穴・法治主義のセキュリティホールが、人々を不幸に・ついには地獄にまで落とす、巨大な歯車装置であるかのようだ。
 制度のバグに翻弄され、逆に制度をハッキングすることで生き延びようとする犯人の行動もまた、既存のミステリとは一線を画していた。『火車』には別の文脈で「脱皮を繰り返すヘビ」という喩えが出てくるが、追う側からは不可解と思えた犯人の行動が、当初の計画Aが失敗してプランBに乗り換え、またプランAに戻るというイレギュラー処理だった(だから把握されにくかった)と明かされる終盤は、まさに身をよじらせながら脱皮するヘビのように壮絶で、読者の背筋を凍らせた。
 一羽の蝶の羽ばたきが、地球の裏側の気候を変えるように、犯人すらコントロールできないカオスとして生成される犯罪。それは犯人が緻密な完全犯罪計画を組み上げ実行し、それを探偵役が現場から遡り逆算・解体(リバース・エンジニアリング)に成功したとき事件が自動的に解決する、(古典的な情報伝達モデルを思わせる)古き良きミステリの終焉を告げていた。大げさかも知れないが。

 「養子の件」はさらに、物語の決定的な局面で主人公の態度を決定する。
 念のため確認しておくが、親子に血の繋がりのないことは、罪でも咎でもない。だが既に見たように、法的には何の問題もないことが社会的・世間的には「傷」になる。それはもう、社会哲学や倫理学の問題だ(5月31日の日記参照)。「痛くもない腹を探られる」と「脛に傷を持つ」の中間で揺らぐ主人公は、社会の「バグ(仕様)」のせいで翻弄される苦しみを、身を持って知っている。
 だから、ついに犯人の所業の全容を知った彼は「許せない」「非道い奴だ」と断罪するのでも「犯人もまた社会の犠牲者なのだ」と免罪してみせるのでもなく、心の中で告げるのだ。
もう、よそうやと。
 血縁でないことを傷として抱える刑事と、血縁ゆえに家族の借財から逃れられない犯人の、皮肉な対比。
 今回の日記、すでに『火車』のいわゆるネタバレをしまくっているのだけど、別に心配してはいない。「ここがこの小説のキモ」と思ってる人は、たぶんそんなに居ないだろうと思うからだ。しかし、こと自分に限っては『火車』の、他の宮部作品を含めても、最も印象に残った言葉はこのもう、よそうやだった。
 
 …初期の宮部作品には、犯罪や悪・怪物的なものを自身とまったく無縁なものと考えない、一方まちがえば自身も悪に取り込まれ、怪物になりかねないという共感や共鳴があったように思われる。それは恐怖でもあり、真っ当な主人公たちが、悪の誘惑から懸命に逃れようとするにしても、だ。
 人情味あふれつつも正義の立場を揺るがせない探偵や刑事が犯人に「同情」してみせるのとは違う、同類意識とは言わないまでも「共鳴」や「共感」の架け橋をつなぐ、「養子の件」は物語に不可欠のパーツだった。

 しかし後年、この「怪物を自身も内包している自覚」は宮部作品から失なわれていく。
 直木賞作品となった『理由』や、大作『模倣犯』では、もはや怪物は理解も共鳴も不可能なものとして、吾々の外部にある。『模倣犯』のラストで、登場人物の一人が「お前たちのような冷酷な者は、私たち真っ当な暮らしを営む人間と同じ地面に立ってはいないのだ」と犯人を断罪する場面は象徴的だった。
 そうして僕は宮部作品から離れた。村上春樹が『ねじまき鳥クロニクル』や『海辺のカフカ』で、なにか邪悪なものを金属バットなどで暴力的に排除することを「必要なこと」として描くのに違和感を憶えたのと、同じ時期だったと思う。(春樹氏とのつきあいは、離れたりまた近寄ったりで続いているが…)

   *   *   *

 【まとめ。『火車』は制度の穴・法治主義のセキュリティホール・社会のバグすら仕様として作動し人々の暮らしを破壊する怪物のようなシステムと、それに呑み込まれ自らも怪物と化した者の「他人事ではない」悲劇であり恐怖譚である。(しかし後年の作品は「まともな吾々」と「怪物」を切り離してしまう)。】

 四半世紀ぶりの再読で『火車』には、後年の「吾々」と「怪物」の切り離しを促す断絶も、内包されているように思われた。その反面、宇都宮弁護士などの奮闘があるにも関わらず、法治主義のバグ・社会のセキュリティホールは極地のオゾンホールのように拡大してもいる。カードローンに苦しむのは自分探しや変身願望に捕らわれた人たちという通念はとうに消え失せ、ふつうに暮らしたい・生き延びたいと思うだけで火車に追い立てられる社会に、この国は変じてしまった。
 「人を怪物として再生産してしまう巨大な『火車』マシーン」と対決するヒントが、宮部氏ほどの優れたストーリーテラーの近作に期待できないとしたら(や、近作は拝読しておらんのですが)それはとても残念なことだ。

 とはいえ。それでもなお。『火車』には恐ろしいほどの迫力と、ページをめくる手を止めさせないリーダビリティがある。人は(とゆうか自分は)なぜ好きこのんで、こんな怖い話を読みたがるのだろうと、ページを閉じて街角で考えこんでしまうほどに。
 なんだって人は、怖い話を見聞きしたがるのだろう。それは世界が、森の中でいつ毒の棘に刺され命を落とすか分からない太古から、気づけば数千万円の負債に巻き込まれかねない現代まで、そして時代がどう変わろうと最終的に老いて病んで世を去らねばならない人生そのものが、無情で恐ろしい巨大機械だから、かも知れない。物語を通して人は、邪悪で巨大なものの姿を垣間見る。そこで自身を悪と切り離し安心するか、自身に内包されている悪や死と向き合うかで、その後はまったく変わってくるのだが…
 『火車』の結末、ついに犯人に手が届いた主人公の刑事は問いかける。教えてほしい、君は何物なのかと。その内心には、どんな恐怖や憤怒が渦巻いているのかと。

 She said "I know what it's like to be dead" (彼女は言う、死ぬってどんな風だか知ってると)
 "I know what it is to be sad" (悲しいってどんな気持ちだか知っていると)
 And she's making me feel like I've never been born
 (そして彼女は僕を、生まれてこなかったような気持ちにさせる)
  ("She said she said" The Beatles)
 
 『火車』なぜかAmazonのリンクが貼れないので、丸谷先生の『ウナギと山芋』貼っておきますね。今回の日記「『罪なき血』に見るイギリス探偵小説の終焉」説に多くを負っています。しかし、こんなしんどい日記になるとは(先週は)思わなかった…

寓話としてのSF〜『ハオ・ジンファン短篇集』(2020.06.14)

 Shift-JISでは「ハオ」に該当する漢字が出ないため片仮名表記とします
 梶尾真治(カジシン)だったと思うが、森下一仁だったかも知れない。たぶん1980年代前半のSFに「ちり紙交換」をモチーフにした短篇があった。「ご家庭でご不要になりました古新聞・古雑誌・その他ボロきれなどございましたら、どうかお気軽にちり紙交換に申しつけください」と録音テープをスピーカーで流しながら、街を(を、だったかも知れない…当時の意識としては)巡回する軽トラックが居たのだ。文言のとおり、古新聞などを出すと引き換えにロール式のトイレットペーパーを一つとか二つとか呉れる。もっと昔は、四角い「落し紙」だったのだろう。
 小説では近未来、社会で用済みとされた高齢者(当時は「老人」と呼ばれた)が自発的に巡回の処理車に身を委ね、遺族は「処理」され一束のちり紙と化した身内の亡骸を受け取る。人間が選別されるディストピアを、身も蓋もなく廃品回収になぞらえたわけだ。小説では「処理」されたての紙は、四角い落し紙だったと思う。暗澹たる設定だが、どこかノスタルジックな抒情を感じさせる作品だった。
 誰が作者かすら詳らかでない(本当にすみません)何十年も前の短篇を思い出したのは、例によってニュースのせいだ。コロナ禍にともなう医療崩壊の可能性を踏まえて、どこだかの医師が高齢者向けの「私が受ける治療の機会を若者に譲ってください」と宣言するカードを提唱したという。そりゃあ思い出しますよね、高齢者が自発的に「処理」される話。

 無論、思い出されるのは「姥捨て山」の民話でもいい。80年代初頭に短篇を書いた作者も、かかる時代の到来を真剣に予測し憂慮したわけではないだろう。それでもSFは、外挿法(エクストラポレーション)と言って、書かれた当時=現代の社会問題を、遠い未来や銀河の他の惑星の状況に落とし込む手法を身上としている。らしい。正直わからない。
 SFに限らず、物語は物語それ自体の完成度に奉仕するものであり、社会に物申してるか否かが評価の基準ではないだろう。
 とはいえ、物語の形をとることで初めて伝わりやすく対象化される思想や問題提起もある。
 もっと下世話な観点で考えると、ストーリー展開の面白さ・描写の巧みさやキャラクターの魅力といった、物語の「良さ」を構成する要素には、当然「社会問題をビビッドに(あるいは象徴的に)反映しており、なんとも考えさせられる」も含まれるはずだ。物語それ自体の完成度を追求した結果、社会性を帯びても不自然ではない。
 しかしやっぱり「今の社会と引き比べ、身につまされる思いをさせる」ことばかりを狙うのが創作でもないだろう。読み手にしても、そうした効能ばかりを求めていると自分が不純に思えてくる。単に同じコード進行(物語から教訓を引き出し、身につまされる)ばかりだと食べ飽きる、ということかも知れないが。

 …なぁんて、うだうだした懐疑を「なに言ってんの?」「逆に政治や社会性を持ち込まない○○(芸術でも、何でも)って何なん?」とねじ伏せるような迫力に満ちた短篇が「北京 折りたたみの都市」だ。
 中国系アメリカ人のテッド・チャンケン・リュウに続き、中国本土からも『三体』の劉慈欣などが現れ進境いちじるしい中国(系)SF。早川書房から出たアンソロジー『折りたたみ北京』の表題作でもある。
 
 著者はハオ・ジンファン(冒頭にしるしたとおり本サイトの形式では漢字が表示できないので、不本意ですが片仮名表記とさせていただきます)。これまた不本意なことにハヤカワのアンソロジーは読みそびれていたが(すみません)その単著を読む機会に恵まれた。
ハオ・ジンファン短篇集(及川茜訳/白水社/2019年)(外部サイト)
 で「北京 折りたたみの都市」。これが凄い。ヒューゴー賞。映画化も予定されているという。たしかに、人口問題を解決するため(?)都市を三つの階層に分け、時間区切りで「休み」の階層を「折りたたみ」交替制で運用するスペクタクルは、巨大スクリーン向きだ。のっけから酸辣粉や山積みのナツメ・胡桃を供する露店が登場し、焼きそばに焼きビーフン・回鍋肉に水煮牛肉といった庶民の食事から、富裕階層の豪華なパーティーまで、いや、食べ物ばかりでなく生活描写も全般にわたって「映える」。
 しかし本作の凄味は、生活感たっぷりに活写される各階層の格差だ。
 これは現実の話(比喩のため話を一旦、現実に戻します)、たとえば旅行。一番速い新幹線からハイヤーに乗り継いで観光スポットを巡り、予約の必要な名店でコース料理に舌鼓を打つのと、一番安い深夜バスで現地入り・コンビニの無料Wi-Fiを頼みに徒歩か地下鉄・食事も何食かは現地スーパーの値引き弁当みたいな旅行は、同じ土地を訪ねても「レイヤーが違う」。実際には両者はしばしば混じり合い、境界も定かではないが…
 
 折りたたみ式の北京は、文字どおりにレイヤーが違う。貨幣の価値も人命の重みも、三つの階層ではドラスティックに異なる。その違いをリアルに描き分けるとともに、まさに物理的なレイヤーとして断絶させることで強調したのは、SFならではの手柄だろう。SFえらい。SFすごい。
 問題は、ここで描出された格差のほうは、とても「SFならでは」の誇張に思えないところだ。エリートが豊かな暮らしを享受する第一階層の富が、実は最底辺の第三階層から・それも時間や人生を収奪することで得られていると示唆するところまで含めて、この物語は(未来どころか)最初にWebに発表された2012年の現実そのものだったし、2020年の今はますます現実そのものだろう。とくに日本では

 SFといえば(ここで話はまた少し逸れる)昔からの定番に「人類が一定の発展段階に達したとき…」というネタがある。
 最もよく知られた例は『2001年宇宙の旅』だろうか。宇宙の彼方からやってきた高度な知的存在が、月に強力な磁力を発する石板を埋めておく。それを人類が掘り出し、太陽の光を受けると信号を発する。地球にいた猿たちが進化し、月面に埋まった石板を掘り出す=宇宙旅行ができるテクノロジーを手に入れたと分かる仕掛けだ。
 『2001年』だと件の知的存在は、人類は次の段階に進化する準備が出来たと判定するが、他の作品ではそうとは限らない。宇宙に進出する能力を手にしてなお好戦的であり続ける人類は、宇宙全体の脅威だとして、遥かに高度な文明をもつ存在に罰せられ、地球から外に出られなくなってしまう。そんなSFも多く書かれている。
 21世紀、正確には2010年を過ぎたあたりから、人類には(宇宙からの外的な攻撃がなくても)内側から自壊するブレーキが備わっているのではないか、そんな疑念や諦念にとらわれるようになった。物体が光速に近づくと重量が増して加速できなくなり、とうとう光速を越えられないように。時代が進むほど社会はより民主的になり、公平性も増していくと思われたものが「これ以上は進めないよう自爆装置が内蔵されてます」と言わんばかりに崩壊するさまを見てきた十年(とくにこの五年)だった。
 「北京 折りたたみの都市」が未来どころか現代・現在に見えるのも、そのせいかも知れない…どんな暗い未来を予想しようと、現実が未来に追いついてしまい、描こうとする未来を現実の救いのなさに引き寄せ、越えられなくしてしまうのだ、なんて(それこそ)SF的なことを考えたくもなる。

 短篇集に収められた七つの作品は、それぞれ方向性も「身につまされ」度も違う。これなら昭和の日本のSFとそう変わらないなという話もある(だからダメというわけではないが)。
 そんな中、時代に追いつかれる形で「北京」に匹敵する痛烈さを獲得しているのが「繁華を慕って」だ。
 「弦の調べ」と二部作をなす作品で、宇宙からの侵略を描いている。鉱物資源が目当てで地球を収奪しに来る異星人もまたSFの定番だろうが、もうひとつ「芸術」も奪いに来たというヒネリが効いている。自分たちより圧倒的に優位に立つ存在として異星人を崇め、自らを貶めて魂を収奪されるジェイムズ・ティプトリー・Jrの傑作「そして目覚めると、私はこの肌寒い丘の上にいた」とも通じるテーマだが、こちらはもっと即物的だ。
 
 というのも鋼鉄の身体をもつ異星人たちはナチスが美術品を略奪するように、貪欲に芸術を求める。劇場やコンサートホールは攻撃されず、特におメガネにかなった芸術家は異星人が造った楽園に隔離され、安全も創作活動も保証される。このため人々はこぞって自らや、自分の子供を芸術家にしたがるのだ。もちろん楽園は檻であり、芸術家として成功するためには異星人の侵略に協力する必要がある。自分の才能が本物であったと信じたい、死んだ後でもいいから正当に評価されたいと苦悶する主人公と、広場に集まる避難者・抗議者たちが対比される場面は、最近われわれが見た光景を思い出させないか。
おまえのためらいは連中のためだろうが、連中とおまえに何の関係があるのだ。
 言っておくが、やつらのために考えたところで、やつらはそれに感謝などしないぞ
 コロナ禍による緊急事態宣言・自粛ムードの中、ネットには「芸術家」たちの声が溢れた。
 劇場などの閉鎖により、直接に仕事を奪われた役者やミュージシャンだけではない。「外出自粛が奨励される今だからこそ、家で楽しめる電子書籍やオンラインコミックを奨励しよう(と言いながら自作をアピールする)」「今までに描いたイラストの代表作4枚をアップロードして、次の人にバトンをつなげよう」中には「人々の心を和ませるため、旧作を再掲示しよう」なんて文言もあった。いやそれ、仮にも表現者を自称するものが、そんな(自己利益のためなのが見え見えなのに人々に恩を着せるような)杜撰な言葉選びでいいの?
 大急ぎで新作を造り披露する者もあれば(僕もその一人だったが)、新作はないけれど旧作を見て私を芸術家だと認めてくださいと乞う人たちもいた。
 未来が脅かされたように感じられた時だからこそ、自分は表現者でいたい、アーティストとしての自己を全うしたい、という気持ちは痛いほど分かる。だが、広場に集まる避難者・抗議者たちとの断絶の可能性に、バトンを廻しあう「芸術家」たちは、どれくらい自覚的だったろう?
 大衆は芸術を理解せずアーティストを憎んでおり、むしろ足を滑らせ失敗するのを心待ちにしているのだ、という口説き文句は、異星人の口を借りた吾々(創作者)自身の内声ではないか。実際に、東京都が都の望む「芸術」作品の作り手を募集して、生活の資を求めるクリエイターたちが殺到する事例もあった。が、そうしたあからさまな事例に限らず、さまざまな局面で(芸術家としての)吾々は、3メートルの高さから人を見下す銀色の異星人に「魂を売れ」と持ちかけられているのではないか。
 あまり普遍性のない「痛烈さ」だし、作者もそこまで考えて書いたことではないかも知れない。だが時に物語は時の因果をねじ曲げ、現実のほうを引き寄せる。先週は、ひょっとしたら「政治的でありたくない」という願いが、もっとも政治的な反抗になるかも知れない状況について考えた。今週は逆に、政治から切り離され純粋に「芸術家」でいたいという願いが、もっとも政治的な奸計の手先に人を変えてしまう物語を前に、考え込んでいる。
 来週は、もう少し(あるいはものすごく)気楽な話をしたいものです。
  
 アーシュラ・K・ル=グウィン(もちろん優れたSF作家だ)の評論集『夜の言葉』に収録された「魂のなかのスターリン」は、検閲からの自由を訴えていたはずの作家が、商業主義には容易く魂を売り渡してしまう危険を説く。のだが、6/14現在のこの古書価格は高すぎますね…

映画館が滅びた世界〜『ようこそ、革命シネマへ』(2020.06.07)

 コロナ禍はまだ続いている。
 第二波の到来が危ぶまれているが、実際には、この国においては第一波が終わってすらいないはずだ。緊急事態宣言という名の自粛の強要は、それに伴う補償をしたくない政府が経済をなんとかしろという突き上げに音を上げ、実際の収束に関係なく終わるだろう…そんな悲観的な予想は(経済どころか)検察人事にともなう批判に耐えかねた首相が、国会から有権者の目を逸らすため前倒し解除に踏み切るという、斜め下の展開で覆された。
 映画で言うと『ジョーズ』の、例年どおり海開きをして観光客を呼びよせるため、専門家の警告を無視して「もうサメは退治した。心配ない」と発表した市長が、どうしても頭に浮かぶ。『ジョーズ』で大成功したスティーブン・スピルバーグは後年、H.G.ウェルズの古典『宇宙戦争』をトム・クルーズ主演で映画化したが、こちらでは火星から襲来し人類を蹂躙しつくしたエイリアンが最後、地球土着のウィルスに感染し、あっけなく全滅する。吾々は悲観と楽観、「このままではジョーズの入れ食いだ」と「アジアは欧米ほどひどくない。夏にはウィルスも下火になるだろう」二本のスピルバーグ作品の間で板挟みになっている。
 この時代を皮肉るマクラって必要なの?と自分でも思ったりしますが「こういう時代だった」という記録として後々むしろ有用かも知れないので続けます
 映画館の営業再開も、純粋に嬉しい・よくこの二ヶ月を持ちこたえてくれたという気持ちと、時期尚早ではないかという不安、歓迎と懸念で板挟みなのは自分だけではないだろう。懸念どおり時期尚早だったとしたら、ダメージの「第二波」は本当に取り返しがつかないかも知れない。この時期、映画を見る・映画館に足を運ぶことは、皮肉なことに自粛直前の四月よりなお強く「これが最後かも知れないから」という焦りを伴っている(気がしないでもない)。
 渋谷のユーロスペースで上映の始まったドキュメンタリー『ようこそ、革命シネマへ』は、そんな歓迎と懸念=まとめて言えば映画を慕う気持ちを再確認するのに相応しい一作だった。もしも地上から、映画館というものが無くなってしまったら…そんなSFか思考実験みたいなことが、実際に起きた国の話である。

 2019年、スハイブ・ガスメルバリ監督。フランス・スーダン・ドイツ・チャド・カタール合作。
 描かれるのは、さらに4年前の2015年。内戦と政変が繰り返され、90年代に軍事政権によって映画産業が潰されたスーダンで、その再興を図る四人の老人が主人公だ。
 いや、このおじいちゃんたちが「かわいい」。突然の停電・復旧がいつか問い合わせても「分からない」と返される冒頭から、監督・証明・撮影・そして主演「女優」グロリア・スワンソンになりきって『サンセット大通り』ごっこをする四人。オンボロ車がエンストし、みんなで押す四人。屋外で雑魚寝し、お互いを散髪してやり、誕生日には「1本が22と1/3年分な」とロウソク三本立てたケーキで祝う四人。君たちは、アレか、『まんがタイムきらら』に出てくる仲良し女子高生か?萌え萌えキュンか?
 
 だがこの仲良し四人組が、40年前には各々将来を嘱望された映画監督だったとなると、話は重層的になってくる。オンボロ車を押し、各地を廻って十人規模の野外上映会を開く四人。ノートパソコンをプロジェクターにつないで、上映するのはチャップリンの『モダン・タイムス』。音響がままならないから、あまり鑑賞に支障の出ないサイレント映画なんだ…と思い当たれば、陰影はさらに深まるだろう。最年長でリーダー格のイブラヒムさんがスマホを手放さず、ラクダと自撮りする場面は観客席の、ほのぼのした笑いを誘う。だが本来、彼も仲間たちも、スマホの自撮りではなく映画を作り、チャップリンの白黒映画でなく自分たちの作品を世に問う半生を送るはず、ではなかったか。
 
それでも映画を愛し、映画に賭けつづける彼らには、学生時代の夢を捨てきれないまま大人になり、ついには老境を迎えた「永遠の高校生」「フォーエバー・ヤング」みたいな、いさぎよいペーソスが漂う。こんな風に人生を棒に振れるなら悪くないと一瞬、錯覚するほど。
 だが彼らの夢を途絶させたのは、軍部のクーデターであり、政治だった。そこを錯覚してはいけない。

 打ち捨てられ、少年たちがサッカーに興じる遊び場となった野外映画館をよみがえらせ、劇映画の上映をしようという大きな企てに、老人たちは着手する。
 どんな映画がいい?アンケート用紙を配ると「まずはアクションだな。人を呼ぶにはアクションだよ」「スターウォーズ」「サルマン・カーン」おおっと、インドのスーパースター・サルマン、スーダンでも人気か。…しかしそこには、かつて映画協会がスーダン独自作品の配給を禁じられ、海賊版のインド映画ばかりを上映しながら衰退していった歴史がある。まったく、どんなエピソードにも政治や社会は影を落としているのだ。
 やがて四人が選んだ映画は何か…これは観てのお楽しみ。感染予防を意識して、声をひそめた観客席からも、音にならないどよめきが走ったとだけ言っておこう。本作のハイライトのひとつだと思う。
 だが四人の意気込みを、ふたたび政治が阻む。2015年。テレビでは得票率95%で再選を決めた大統領が7000年の歴史を持つ国家と「民主主義」は世界のお手本だと自賛し、軍および「選挙の適切な運営に寄与した」警察・そして反乱分子を排除した治安部隊への感謝を表明する。95%の得票率というだけで、どんな「適切な選挙」だったか想像はつくだろう。
 パンフレットによれば、この映画の完成直後・2019年に、30年続いたバシール政権の独裁が平和的デモによって打倒された(ただし反動勢力の台頭による混乱は続いている)という。だがスーダンにとっては克服した(と思いたい)直近の過去を描いた本作は、日本に暮らす吾々にとっては将来、進んでしまうかも知れない道を暗示する不吉な予言に見えてこないだろうか。映画鑑賞に政治を持ち込むな?中立的に観ろ?独裁体制下のスーダンに生まれ育ち、映画の完成時40歳だったスハイブ・ガスメルバリ監督は「本作は政治的な映画なのでしょうか?」と問われ、もちろんです!と答えているのだが。

 映画はことさら政治を前面に出してはいない。四人がことさら政治的な主張をするわけでもない。ただ映画を愛しているだけだ。それはまったく非・政治的な願いとも言える。だが、彼らが国や独裁者でなく映画を愛することを選んだとき、言うなれば「非政治的でありたい」という彼らの願いこそが、もっとも政治的な反抗になった。
 その程度にはフクザツなんだよ、「○○に政治を持ち込むな」とか政治性ど真ん中の戯言を弄んでるボクちゃんたち。
    *    *    *
 久し振りに渋谷に出たついで、Renge no Gotokuに出向いてみた。
 渋谷駅の…東…西…ええと、あのへん(渋谷の地理は分からん)で数十年にわたり親しまれながら、再開発であえなく立ち退きとなった排骨担々麺の名店・亜寿加が同じ渋谷で場所を変え、復活した店だ。東急なんとかタワーの裏手、中目黒駅のほうにワーッと登っていくほうに(だから分からんのだて)スマートフォンの地図を頼りに行ってみると、出ていた看板が
渋谷のワルフードが、ここにある。
わ…ワルフード?いや、たしかに排骨担々麺って、ちょっとワルなイメージあると言えばあるけど…大いに動揺しつつ、よく見たら「渋谷のソウルフード」だった。ソと、ウの天辺の小さな縦棒がコントラストで見えにくくなっており、やー誤解したわ、めんごめんご。

 再確認しておくと、パンチのある排骨には優しい広東スープでなく、ガツンと拮抗できる坦々風味が好いと思っている。熱い麺もいいけど、自分は圧倒的に冷やしを選んでしまう。サービスの白ごはん小も、高菜漬けも健在。新しい趣向として冷やし排骨には胡瓜のほかに水菜も盛られ、お皿もキリッと冷やしてある。ポットの冷水にはミントらしき葉が浮かべられ、なんだか細かいところの解像度が上がった感じ。
 かつて亜寿加の店員だった人が、神保町で開いた排骨担々麺のお店もあって、こちらも健在の様子。どちらも生き延びてほしい。
    *    *    *
 ・映画『ようこそ、革命シネマへ』公式サイト(外部サイト)
 6月上旬現在は、渋谷のユーロスペースで上映中。オンラインのチケット購入ページに入ると「やべ、客席ぜんぶ埋まってる…隣席の人とか気になる…」とビビるけど、実際には一席とばしで接触をさけるようになっていて、ただ元から座れない席も「人が取ったので座れない席」と区別がつかない模様(たぶん)。

哲学と第一哲学〜ジル・ドゥルーズ編『哲学の教科書』(2020.05.31)

 さだまさしという人は、かなり秀でたシンガーソングライターだと思うけれど「天文学者になればよかった」は非道い。失恋した男の嘆きの歌なのだが、俗世間で恋なぞするより「天文学者を目指せばよかったよ バミューダの謎やピラミッドパワーに未確認飛行物体とのコンタクトなどなどどれひとつ、天文学の対象では、ない!
 
 それに比べたら、年末に紅白歌合戦なぞ見ながら家族の団らんで、ふいに哲学って何と訊かれて(どんな家族団らんだ)「…形而上学?」と答えたのは、素人としては結構スジが良かったのではないかと自負している。なんとなく「人生って何だ、うわーっ」と叫んでそうなイメージがあるが(それ天文学者がピラミッドパワーの研究する並に非道い)、その嘆きが「どう生きるべきか(恋愛か友情か)」なら、それに答えるのは人生論。未確認飛行物体とのコンタクトを研究するのはUFO研究。そうでなくガチに「人生って何」「未確認というけど、確認て何」真って何、善って何、美って何、「それは何」って問うってどういうこと?
 数学、経済学、社会学、生物学などなどが、とりあえず「そういうもの(経済や社会)はある」としたうえで、その内実や機能を探るのに対し、それらの探索の前提になる「考えるって何」を問う、メタ学問的なものを哲学と呼んでおけばいいんじゃないか。テキトウだけど。

 …そういう(テキトウな)観点で考えると、ジル・ドゥルーズ編哲学の教科書』(加賀野井秀一訳/河出文庫)は、やや看板に偽りアリな気がする。1988年に単行本で出た際の書名で、現在も副題に残っている『ドゥルーズ初期』のほうが内容としては正しかろう。彼の最初期の論文「キリストからブルジョワジーへ」と、オルレアン高校の哲学教諭だった彼が教科書として編んだ「本能と制度」の二編を収めている。だからまあ「哲学(教諭)の(編んだ)教科書」ではあるものの、シモーヌ・ヴェイユの哲学講義のように「これを読めば哲学とは何か、概ね把握できる」内容ではない。哲学がテーマではなく、タイトルどおり「本能と制度」がテーマなのだもの。
 (もっともらしく言いながら)ほぼ内容を忘れてるので再読したい…
 とはいえ『本能と制度』が哲学的じゃないかといえば、かなり哲学的で面白い。というか、すごくドゥルーズ的で面白い。
 と言うのもこの「教科書」、ドゥルーズ自身の言葉は序文にしか含まれないアンソロジーだからだ。タイトルどおり「本能と制度」について、文化人類学者のマリノフスキーから、おなじみマルクスまで、いろんな学者がそれぞれの立場で述べている部分をひたすら抜粋し、並べたものなのだ。それぞれの抜粋は2〜多くて5ページ×66章。たとえば創作について、誰かが述べている文章のそこだけを抜粋し「プロットの作りかた」「伏線とはどのように張るべきか」みたいなアンソロジーを編めたら面白かろうと思うが、それは措く。
 國分功一郎ドゥルーズの哲学原理』(岩波現代新書/2013年)によれば、ドゥルーズ単独の主著は基本的に哲学者研究(モノグラフ)であるという。ヒュームについて、スピノザについて、ニーチェについてフーコーについて、それぞれ一冊の本を書く。そんなドゥルーズの手法を國分は「対象となる哲学者が述べたことを書き写すだけではなく、自身の思想をその哲学者の名にことよせて語るのでもなく、その哲学者の思想が到達しえたのに当人は書ききれなかった可能性まで敷衍して語り切ること」と述べている。華々しいドゥルーズ=ガタリ名義の仕事もまた、哲学者ドゥルーズが精神分析医でアクティビストだったガタリをいわば憑依させて生まれた共同作業なのかも、とは國分の著書が示唆するところだ。
 (國分によれば)徹底して他者の思考で思考する、そんなドゥルーズの最初期の仕事が他人の言葉の引用集だったのは、けっこう本質的かも知れず興味深い。

 そして、そのテーマもドゥルーズの哲学以前の関心を示しているようで興味深い。

 哲学者エマニュエル・レヴィナスにインタビューした『倫理と無限』(ちくま学芸文庫)でインタビュアーのフィリップ・ネモは、レヴィナスは倫理について第一に思考してきたから哲学者というより倫理学者・モラリストではないかという問いに対し「そうではなくて(彼において)倫理は第一哲学なのだ」と述べている。
「倫理とは第一哲学であり、そこから形而上学における他の枝が分かれて意味をもつようになる(中略)
 その問いなしには、思考によるいかなる問いかけももはやはかなく空しい追求となるほかないような(中略)
 第一の問いとは正義についての問いなのである」
 どうやらフィリップ・ネモも哲学の主務は形而上学だと認識してるようで「しめしめ」と思うのだが、それはさておき。形而上学、机上の空論、何かとは何かとは何かみたいな抽象的なことを考えてそうな哲学者という種族が、実は「何かとは何かとは何か」より前に「正義についての問い」に動機づけられている、これはレヴィナスに限った話なのだろうか。

 「本能と制度」は、ドゥルーズの著作にしては相当に読みやすい。まあ何しろドゥルーズが「書いた」わけじゃないですから。襞(ひだ)とか器官なき身体とか、リゾームとかヴォルプタスとか、訳の分からん用語も出てこない。「一切は機械をなしている。天空諸機械。天の星々や空の虹。アルプス諸機械。これらの機械は、レンツの身体のさまざまの機械と連結している」(『アンチ・オイディプス』)みたく綺羅びやかで意味不明なぶん魅惑的なフレーズもない。
 それでも「本能と制度」は、派手なシンセやオーケストラで知られるミュージシャンが、アコギ一本で録音したデビュー音源のように、ある意味ドゥルーズらしさ・ドゥルーズの関心が横溢している。
 動物は本能によって行動を支配されるが、人は制度がそれに代わる。本能とは何か。どこまで生まれつきで、どこから学習なのか。『幸福論』で知られる哲学者アランはぼやく。なんで吾々は電車に乗るとき(客なのに)まるで一番したっぱの労働者のように鉄道会社の規則に従わなければならないのか。制度とは何か。法とは。規範とは。他人の言葉に乗ったドゥルーズの執拗な追求の先には『アンチ・オイディプス』を動機づけるあの問い、何故、ひとびとは、あたかも自分たちが救われるためでもあるかのように、みずから進んで従属するために戦うのかがある。
「驚くべきことは(中略)むしろ、飢えている人々が必ずしも盗みをしないということであり、搾取されている人々が必ずしもストライキをしないということである」
これがドゥルーズの「第一哲学」なのかも知れない。

 というわけで「本能と制度」ドゥルーズが編んだ66編を紹介します。それぞれ一行に収めるため相当に端折っているし、当然ながら自分の理解も浅い。間違いもあると思うので気になる人は各自で原典にあたり、新たに要約を編み直してみるのも良いでしょう。
 言いかえると、この要約を読めば「本能と制度」読んだ気になれる。なれるかな?
     *     *     *
・動物と違い、人間の性的欲求は文化的な仕組み(祭りなど)によって引き起こされる。そのキイは「感情」である。(マリノフスキー)
・喉が渇くので井戸を掘るような有用な行為と、神殿で履き物を脱ぐような儀礼的な行為がある。(ル・クール)
・欲求の充足は、各々の社会の制度や文化的ルール・求められる行動を遂行するといった形に置き換えられる。(マリノフスキー)
・鉄道やバスを利用する時、私たちは客でありながら一番したっぱの労働者のようにルールを甘受する。(アラン)。
・土地所有者と建物所有者どっちの権利が優先されるとか、有用性を離れた問題への答えは想像に基づいてて恣意的。(ヒューム)
・制度も丸木舟の形も機能的だからでは説明にならない。慣習は恣意的で、しかも移ろう。(レヴィ=ストロース)
・同じ種の鳥はいつどこでも同じ巣を作るが、人の営みは千差万別。(ヒューム)
・本能が命じること(空腹なら食え・火に手を入れるな)を法で強制する必要はない。制度は本能を抑えるものだ。(フレイザー)
・生物的な成熟と、社会的な成熟に10年ほどズレがある。悲惨。(カント)
・本能の遂行をさまたげる社会的な禁止を、人は超自我の命令として内面化する。(フロイト)
・食欲など他の本能は欲する対象が明確だが、性的傾向性は対象が恣意的なぶん教育しにくい。(フロイト)
・食事すら神話を再現する儀礼なのが人間だ。未開の地はカオスであり、開発の前に儀礼で神話化する必要がある。(エリアーデ)
・生産の目的(食物を得る)は生産の手段(方法)を規定しない。手段は社会的な必然性で決まる。(プレハーノフ)
・権力の濫用に侵害されない消極的な自由から、自らの自由が制度の基礎となる積極性へ。それが市民。(グレトゥイゼン)
・動物の本能的行動に知性的判断は関与しない。あれは言うたら夢遊病者じゃよ。(キュヴィエ)
・子を残すため、獲物が死なず麻痺だけする絶妙さで、都度たしかめながら9回も攻撃するジガバチすげー。(ファーブル)
・ジガバチの仲間キスジツチスガリは甘い汁が目当てで獲物を麻酔してるだけ。子孫とか考えてない。(マルシャル)
・血中の栄養欠乏のような身体的条件があって初めて、食物という外部刺激に反応する。性本能も母性本能も。(ティルカン)
・ホルモンは複合作用(単機能のホルモンも、単一のホルモンだけで起きる行動もない)。神経や感覚にも作用する。(ビーチ)
・生殖は大仕事なため酸素が必要で、鮭は酸素溶解度の高い淡水それも源流へと向かう。言うたら鰓が行動させてる。(ルール)
・蝶。量的な増減を問わない低次の感覚(特定の色に惹かれる)が、(輪郭・濃淡など)高次の感覚で補正される。(エルツ)
・自己の利益が目的なら他の餌だってある。なのに子孫繁栄に役立つ行動を取るのだから、マルシャル間違ってる。(トマ)
・種保存のため神経系が与える「これは個人的な欲求だ」という幻想に、客観気取りの脳が騙されてるのよ。(ショーペンハウアー)
・スムーズな行為は意識を要さない。というか意識を行為で打ち消す。自動的な本能で賄えないとき意識が生じる。(ベルクソン)
・蜘蛛が糸を出すことは器官の特質で分かるが、蜘蛛の巣の形状は説明できない。本能は器官と外的環境の共作。(ボイテンディク)
・本能は反射とは違う。刺激への反応は大脳の思考をともなう全体的な生活行動になり、実現されるのも将来。(ゴルトシュタイン)
・相手が怯え暴れれば攻撃になる本能が、リラックスした相手だとじゃれ合いに留まる。習慣を形成するのは状況。(ギョーム)
・専制や共和制など政治制度の違いも、国土の大小や住民の多寡=空間的条件と切り離せない。(アルヴァックス)
・法は人を奴隷にする。制度こそ公共の自由を保証し、共和制の礎になる。制度を増やそう。(サン=ジュスト)
・制度は(行為や試みのため)国家・団体・組合など諸機関を作るが、法は(制限が本質で)機関を作らない。(オーリウ)
・制度vs契約。制度を変えるためのストは個人の契約不履行の集積ではないし、代議士も賛成者だけの代表ではない。(ルナール)
・本能的行動はパーツの集積から成るが、個々の行動のパーツは目的を失念した自動的なものだ。(ファーブル)
・巣を作り樹脂で塗るハチの行為を妨害したら、妨害を攻撃と思い未完成(だから無駄)なのに巣を塗り始めた。(ヒングストン)
・ハチの巣作りは一連の動作の集積だが、一部を妨害すると全体的な観点からの見直しはなく概ねバグる。(ヴェルレーヌ)
・周囲の環境や他の個体からの影響がない人工的な巣で生まれたカナリアは、まともに巣を作ることができない。(ヴェルレーヌ)
・立法によって人々を縛る者は、非凡なほど無私でなければならない。ギリシャでは立法は外国人に委ねたほどだ。(ルソー)
・復讐の三女神エリニュエスは家父長制を支持するアポロンに権威を奪われ、平和と安らぎの精霊にされた。(バッハオーフェン)
・オイディプス譚は、挑戦者による王位簒奪の制度の物語化。のちに二家系が順番に王位を譲りあう形に変化した。(ミロー)
・法や制度は、不測の状況変化を元から織り込んでいることもあるが、どちらかというと状況に応じて自らを変える。(レー)
・人間は自前の肉体に道具や知識などの超=身体を加える。いわゆる人種より金持ちと貧者の差のほうが本質的。(バトラー)
・馬は馬から生まれるが、ヨーロッパのフォークとポリネシアのフォークは別物。一つの種と捉えるのは危険。(レヴィ=ストロース)
・生物は自らの身体を変形させ道具にする。人は外部の材料で自由に道具を作り、使用の巧拙も使用者次第だ。(テトリ)
・本能の大部分は、有機組織(身体)の作用そのものの延長か、あるいはその完成である。知性は身体と無関係。(ベルクソン)
・チンパンジーも梯子を使うが、木の登り棒と区別はついてない。最も単純な機能しか把握してないのだ。(ケーラー)
・狩猟本能が必要になる前に、遊戯で練習していないとトラは餓死するだろう。若年期は遊戯のためにある。(グルース)
・遊戯は怒りや恐怖に満ちた自然から守られた環境で、自ら規則を守り研鑽する制度だ。無用だが有益と言える。(アラン)
・動植物にも個体や種の保存の必要を越えた美やさえずりや遊びがある。しかし自覚してやるのは人間だけ。(ボイテンディク)
・ギリシャは美しい彫刻と、それに刻まれるべき美しい肉体を作った。舞踏や芸術が生活や政治まで律した。(テーヌ)
・身体構造の変化と同様、本能も試行錯誤と自然淘汰を経て少しずつ変化した。突然の飛躍的変化はない。(ダーウィン)
・本能には無自覚だが有益な習慣の自然淘汰による固定と、知的行動の反復による自動化、両者の相互作用がある。(ロマネス)
・ハチは巣の素材を変える発想はできないが、場所の変化に適応する程度の、知性とまでは呼べない識別力がある。(ファーブル)
・知性は二つの点を外から関係づけるが、本能は内側から全体として直観する。本能は知性では図りきれません。(ベルクソン)
・本能と知性・理性は対義語ではない。教えられなくても(=本能)数学が得意(知性・理性)とかあるやん。(コント)
・虫は決まった行動をすると言っても、周囲の諸条件に合わせて融通をきかせながらするのだから知的だよ。(エルツ)
・動物の判断は単に過去の経験の参照で、人間のように現象の理由までは考えない。いわば推論の影に過ぎない。(ライプニッツ)
・生存のための要求(危険を避けるなど)以外の、体面を保つとか神聖さを守るなどの要求があるのが人間性。(ブロンデル)
・動物園の歴史。助手となる動物の育成→猛獣で権力を誇示→珍獣を集め科学研究→家畜改良施設へ。(ラセペード)
・馴致はゾウさえ支配する人の力だが、同時に人もいくぶん動物化する。とはいえ人間が思考能力で優位に立つ。(エスピナス)
 ※人と動物の関係では有用性とは別の、トーテミズムというアプローチも重要。(編者=ドゥルーズ)
・品種改良と称する人為的な淘汰のすさまじさに限界はないのだろうか。動物の都合など考えやしない。(ダーウィン)
・馴致されたのは有用な家畜だけではない。害虫すら畑や溜池などによって繁殖し、人に依存するようになった。(ハワード)
・トラは通常、人は襲わない。怪我や衰弱で、いつもの獲物が倒せない時にかぎり、簡単な人で「我慢」する。(コーベット)
・飼育動物は活動を制限され人の世界に従属させられる。飼う人も動物(の優位な個体)として振る舞う必要がある。(へディガー)
・動物社会では個体は内部から本能で統御されている。人間社会は外部の制度が個体を統御する。(デュルケーム)
・集団でなく孤立を選ぶ動物もいるし、アリの8割は働かない。動物の「社会」って、簡単じゃないぞ。(コンブ)
・人間にも様々な種がある。兵士、僧侶、貧乏人…夫と妻でも生活様式が違うので、記述は二倍だ大変だ。(バルザック)
・人間は共通する特質を社会に委ね、記憶の必要すら文書に担わせることで、個々人の独創の余地を拡大させた。(オーリウ)
・人はまず社会的な存在で、精神は社会的精神、活動は社会的活動。自然すら社会的存在にとっての「自然」。(マルクス)
     *     *     *
 教科書というくらいだから、毎週一章ずつ読ませ、内容についてディスカッションさせる想定だったのかなあ。それで大体一年。
 実際にはこれら66編の断章に「つまり何が言いたいかというとぉー」と哲学者自身の序文がついているし、さらに「ドゥルーズは何が言いたかったかというとぉー」という訳者解題までついているので、実際は本書を手にしてもらうのが一番なのだが(こんな素人の日記なぞ見ずに)

 こんな素人の第一印象としては、
 これ本当に哲学の教科書か、というくらい動物学・生物学の話が多いのは、なんとなし『千のプラトー』を予感させる。エスピナス、へディガーと二人の記述を借りて(人は動物を飼いならし人間のルールに適応させるけど)そのとき人も動物社会に参入し「優位な動物」として振る舞わなければならない、と繰り返していること・また裏方に徹していたドゥルーズ当人がわざわざ顔を出し「家畜としての有用性以外にトーテミズムという(人の)動物化のアプローチがあって」と断りを入れているのも示唆的だ。
 生存の必要を満たすため為される有用な行為と、必要はないのに行なう儀礼的な行為があるのじゃよと説くル・クールに対し(たわけでもないだろうが、そこは編集の妙で)いや人間の場合、生存の必要の最たる食事ですら神々に捧げる儀礼だよとエリアーデが切り返しているのも面白い。どうかすると自分で作った料理を前にしても「いただきます」と手を合わせるものなあ、とか。
 スムーズな行為の場では意識は打ち消される(齟齬が生じたときだけ意識が生じる)というベルクソンの議論に伊藤計劃のSF小説を連想する人もいるだろう。
 
 代議士は自分の競争相手に投票した有権者や棄権した有権者、そもそも選挙権を持たない住民まで代表し、彼ら全体の未来を左右する決定をしなければならないので、自分に投票した者だけの委任を受けた代理人のように振る舞ってはならないというルナールの論説は、2020年現在に対し痛烈な批評性を持っていないか。
 肌の色や髪の色といった生物的な差異よりも、持てる者と持たざる者という「人種」の差異のほうが本質的な問題だというバトラーの指摘は、警察による人種差別への抗議が燃え上がるミネアポリスや渋谷(←慌てて書き足した)を慮るとき、違った側面から考えるヒントになるだろう。
 何より「本能と制度は別」と手を替え品を替え論証し、本能についてさえ生体内部と外部環境の兼ね合いを追求する思索の集積を見ると、セクハラやネットでのいじめについて「男の本能だから仕方ない」とか「差別は人の本能」とまで言って、何か気の利いたことを述べたつもりになってる手合いが、いかに思考を怠ってるか分かったりもする。
 アランは言う。「原理的には少しも実行する必要はないにせよ、やはり有益な行為がある」「政治にとってはおそらく、労働から学ぶことに優るとも劣らず、遊戯から学ぶことがあるだろう」「遊戯は退屈の治療薬というよりもむしろ、怒りの治療薬なのだ」それが実際にはどういうことかは本書をあたって確かめてもらうとして、この「遊戯」の擁護あるいは推奨は、ある程度まで「哲学」にも適用できるものかも知れない。
 何かとは何かとは何か、とスプーンの上の天使を数えるような哲学・形而上学が、アクチュアルな社会問題を思考する助けになるのは、皮肉な気もする。だが、それほど不思議ではないと「本能と制度」を読み通すと思えてくる。なぜか。認識とは何か、何をもって人は真を真とするのかといった哲学的な問いもまた、環境との関わりで為されるもので、ヒトにとって環境とは自然だけでなく、人間同士で形成された社会でもあるからだ。
 
『ドゥルーズの哲学原理』は(それこそリゾームとか戦争機械とか)ドゥルーズ思想の解説はそっちのけで、ドゥルーズがいかにユニークな哲学者だったか・なんで重要なのか説き伏せる一味違った一冊。オススメです。

CIA版『ドリーム』〜ラーラ・プレスコット『あの本は読まれているか』(2020.05.24)

 京都の書店で本を買った。
 と言っても、現実に京都まで出向いたわけではない。コロナ禍は続いている―それ以上に、およそ行政が持つべき責任がすべて投げ出された災いのほうが大きいが。
 話が逸れた。いや、逸れてないかも知れない。まともな休業補償も得られないまま営業自粛を余儀なくされている(ほうら逸れてない)書店は、通信販売で細々と息をつないでいる。息をつないでいるのは読者の側かも知れない。全国のインディペンデント系・ミニ書店の通販ページがポータルにまとめられ
2020年4月以降、全国の通販で買える個人書店一覧(4/28更新)|里山社(note)(外部サイト)
吾々は「本棚を冷やかし、買う予定のなかった本をうかうか手にしてしまう」あの喜びさえ(擬似的に)取り戻している。

 韓国の現代文学を精力的に紹介している出版社クオンが、ドキュメント『新型コロナウイルスを乗り越えた、韓国・大邱市民たちの記録』をPDF版で緊急出版、自社サイトだけでなく全国のミニ書店(通販サイト)からも購入できるようにしたのは今月はじめのことだ。
新型コロナを乗り越えた韓国・大邱市民たちの記録が本に
 ブックカフェ「チェッコリ」運営のCUONが翻訳出版
(読書好日)
(外部サイト)
 書店サイトで買えば、売り上げが加算される。紹介された時点では地元(神奈川県)の書店がなかったので、逆に遠くで購入しようと「遠方に足を伸ばした」(比喩)。結局くだんのドキュメントは(擬似的に)名古屋の書店で購入したのだが、(比喩的に)のぞいた京都の本屋で別の本が気になり、合わせてポチってしまった。

 前置きが長くなりました。ラーラ・プレスコット『あの本は読まれているか』(吉澤康子訳)は「緊急事態」下の4月に出たばかりの新刊だ。版元は、ミステリやSFで山ほど吾々の読書生活を潤してくれた東京創元社。これは支援するしかない。これは支援なのだ。…そんな美名で、また直ぐには読まない本を積むんじゃないだろうな?「その本は読むのか」?いや、読みました。読みましたとも一気呵成に。

 一冊の小説が世界を変える。それを、証明しなければ(帯文より)
 その本の名は『ドクトル・ジバゴ』。著者はボリス・パステルナーク。革命批判として母国では禁書になった同作を、ソ連国外に持ち出して出版・逆にソ連に持ちこみ反体制運動の起爆剤にせんとするCIAの策謀を描くサスペンスが『あの本は…』だ。著者の名前「ラーラ」は本名。オマー・シャリフ主演で映画化された『ジバゴ』のファンだった母親が、ヒロインの名を娘に与えたというプロフィールから、すでにドラマチックだ。
 まずは章ごとに目まぐるしく語り手が替わる一人称小説、という仕掛けに翻弄される。舞台も東と西を往復、個々のエピソードの吸引力で脱落は免れながら全体の構図がなかなかつかめない。把握できた頃にはページを繰る手が止まらなくなっている仕掛け。
 東側の中心人物は妻帯者パステルナークの恋人で「ラーラ」のモデルでもある創作面の支え手。スターリンが一目置く詩人として当局も手を出せない愛人の身代わりに、ラーゲリ(収容所)に送られ辛酸を舐める彼女の生涯が物語の縦糸を成す。一方、西側の物語は設立まもないCIAの女性タイピストたちを語り手に展開する。同時代を舞台にNASAの「隠された功労者」女性計算士たちを描いた映画『ドリーム』(原題 Hidden Figure)(原作未読)を彷彿とさせる、男社会による抑圧。東と西それぞれの欺瞞を対比して描く語り口は、Me Too的な意味で現代的だ。
 登場人物の一人が任務のため訪れるのが『第三の男』で知られるウィーンの大観覧車だったり、別の登場人物が観る映画がフレッド・アステアの『絹の靴下』…これは何の気なしに読みすごした後で「ああ、たしかソ連のスパイとのロマンス映画だ」と思い当たったり、凝った語り口に相応しく、本書にはさまざまな小道具が散りばめられている。もっとも、それを「手がかり」として拾うかどうかは読み手それぞれの趣味や経験しだい、かも知れない。
 個人的にアンテナにかかったのは『ドクトル・ジバゴ』がまずイタリアで出版される、その立役者になったジャンジャコモ・フェルトリネッリだ。本書では脇役だが、富豪にして出版王、そして行動的な左翼だった彼は、70年代初頭に爆死を遂げる。パトロンとして関与していた「赤い旅団」が過激化し、モロ首相暗殺事件を引き起こす前夜の話だ(まあ本書『あの本は…』とは別の話ですが…)
『鉛の時代』 イタリアの知の集積 フェルトリネッリ出版と『赤い旅団』の深い関係(Passione)(外部サイト)
 
 もうひとつ、これも自分だけのアンテナで思い出されたのは、やはり戦後アメリカの欺瞞を描いたヒーロー映画『ウォッチメン』だ。『あの本は…』では東側のパステルナークと愛人のロマンスと対比するように、西側でも「そう来たか」と思わせる不幸な恋が描かれる。『ウォッチメン』の冒頭、ボブ・ディランの「時代は変わる」をBGMに映し出された場面のひとつが、それに重なったのだ。ネタバレなので、これ以上は言わないが。
 そんなわけで『あの本は読まれているか』はロマンス小説でもある。一冊の小説をめぐるポリティカル・サスペンスであり、スパイ小説・近現代歴史物でもあるが、東西ふた組の苦難にみちた恋愛を描く、苦いロマンスだ。
 とっかえひっかえ入れ替わる一人称の語り手たちの中で、ついに判別がつかないCIAのタイピストたちは、名前がないゆえに読み手の「私たち」に最も近い存在だ。その彼女たちが、映画化された『ドクトル・ジバゴ』を観に行き、「鉄のカーテンの向こう側に運びこむべき武器」と呼ばれた同作が「愛の物語」、ただのラブストーリーであったことを再確認して涙を流す場面は、(帯文とは違い、世界を変えられると証明できなかった)この小説自体の要約でもあるだろう。
「《ドクトル・ジバゴ》は戦争の物語であり、愛の物語である。
 とはいえ、長い年月を経て、わたしたちの記憶に強く残るのは愛の物語のほうだ

『あの本は読まれているか』も、そんな物語として記憶に残れば好いと思う。

実は未読の『ドクトル・ジバゴ』、旧訳・新訳とも今は高値の古書ばかりな模様。映画は『アラビアのロレンス』のデヴィッド・リーン監督と、アリーを演じたオマー・シャリフが再タッグを組んだもの。
『新型コロナウイルスを乗り越えた、韓国・大邱市民たちの記録』は少しずつ読んでます。

可視化の次に来るもの〜映画『淪落の人』『パラサイト』(2020.05.10)

 コロナ禍は続いている。
 いちはやく感染抑制に成功し、アジアの優等生と目されていたシンガポールが、ここに来て感染者を急増させているという。
「模範的対策」のシンガポールで第2波、外国人労働者らの感染急増(CNN/2020.4.19)(外部サイト)
「転落」の原因は、見出しにもあるとおり外国人労働者を「いない存在」としてネグレクトし、ケアの対象から外していたことだ。船が浸水し、沈むかも知れない時に「この穴は塞ぎたくない」と選り好みをした。疾病が弱者やマイノリティを直撃し、社会全体の感染となって「しっぺ返し」のように戻ってくる実例が生じてしまったのだ。
 関連情報を気にかけていたら、シンガポールのメイド事情を紹介する昨年の記事がアンテナにかかった。そういえば5月10日はMay+10で「メイドの日」らしいですなあ(すこぶるどうでもいい)。
シンガポールの「メイド」に見る労働者の権利の保護(NHK/2019.6.7)(外部サイト)
記事によればシンガポールの「メイドさん」はフィリピンやインドネシア、ミャンマーなどの近隣国の出身であるらしい。そこで思い出したのが、やはりフィリピンから出稼ぎで来た家政婦の登場する、香港映画『淪落の人』だ。
 
 オリバー・チャン監督、2018年(オリバーという名だが女性)。日本公開は今年の2月、コロナ対策で一席おきの着席となった地元の映画館で観た。
 英題は『Still Human』(それでも、まだ人間なのだ)。労災で半身不随となった失意の老人が、言葉も通じないフィリピン出身の家政婦に心を開かされ、若い彼女に夢を取り戻させようと奔走することで、自らも生きる希望を取り戻していく物語だ。
 主演はアンソニー・ウォン。名優と呼ばれるも2014年・香港の若者たちが民主化を求めた雨傘運動を支持してキャリアを断たれた。まさに淪落(零落)の底で「あなたに演じてほしい」と渡されたのが無名の新人監督の脚本。外国人労働者に光を当てた内容に共感し、ノーギャラで出演を快諾・作品の完成にも寄与したというエピソードが映画に重なる。
 車椅子の彼がクリセル・コンサンジ演じる家政婦と最初うまくいかず香港なまりの英語で「とんだチャーボー(trouble)だ」とぼやくのが『秋天的童話(誰かがあなたを愛してる)』(メイベル・チャン監督/1988年)を思い出させる。夢を求めて渡米・ニューヨークで吹き溜まる男女の淡い恋を詩情ゆたかに描いた佳品だ。よく練られた脚本といい、まだ若々しいチョウ・ユンファが主演したあの作品が、成熟した苦味をもって帰ってきたかのよう…という私的な感慨はさておき。

 フォトグラファーを目指していた家政婦の夢を叶えようと一眼レフカメラをプレゼントする主人公。だが故郷でのしがらみを断ち切れない彼女はやむなく、それを換金してしまう。カメラはどうしたと問うと「なくした。どこかに行ってしまった」と言う彼女に怒り、失望し、それでも信じる彼の「水に流しかた」が絶妙で味わい深い。
 これは余談だけど、主人公の心を支える年下(といってもオッサンだけど。香港の俳優サム・リーがなぜか日本の石丸謙二郎さんにソックリ)の友人が「家政婦が留守の間に一緒に観ようぜ」と差し入れたアダルトDVDを、家政婦と意思疎通するため始めた英会話の教材と間違えて再生してしまい「勉強熱心ですね、日本語も学習するなんて!」と彼女にからかわれる場面が、なんというかそのアダルト=日本というトホホな可笑しさが…(いや、カマトトぶる気はないし、出演者の人権などがキチンと守られているのであればアダルト=日本でも悪くないとは思いますが)
 …話がそれた。主人公も家政婦も、友人も妹も、誰もが有形無形の失意をかかえ、それでも互いの存在に救われながら、前向きに生きようとする。
 主人公の老人は、若い家政婦を夢に巣立たせるため自ら身を引くが、彼女もまた、彼が諦めていたささやかな夢の実現を助ける。「誰かの夢を応援するなら、自分も夢を諦めてはいけない」この映画には、そんな教訓がある。自分が諦めた夢を、他人の夢を叶えることで肩代わりさせてはいけないのだ。
 逆の立場から見るとコレがまた…などと、もっと言いたくなるが、言えばキリがない。いくらでも深く掘り下げられる、素晴らしい映画だった。


 そのうえでなお。
 この作品の「ハッピーエンド」は良かったのか、後から観たら足りないと思える部分もありはしなかったか、気になってきた。
 先程のNHKのシンガポール取材記事でも、アスファルトにシートを敷き、車座になって談笑するメイドさんたちの写真があった。『淪落の人』でも同様に地べたに座り、世間話と情報交換をするフィリピン出身女性たちの姿が描かれる。もちろん喫茶店やファミレス的なところに行くお金も節約するためだろう。互いに励まし合い、たまの祝い事もレンタルのドレスで済ませる姿はたくましく朗らかだ。
 だが、したたかで朗らか、それでいて、いざ故郷に引き揚げるとなると「奥様が心配だ、帰りたくない」と泣く情け深い存在…として彼女たちを描くことは、彼女らを雇用する香港の人たちを「私たちは善い雇い主だ」と満足させる装置として機能する可能性を、内包してはいなかったか。
 アメリカを代表する作家トニ・モリスンは、ストウ夫人の小説『アンクル・トムの小屋』に見られる「野蛮で残酷な現実を覆い隠し、あたかも非人間的なことは何も起っていないかのような安心感を与える」欺瞞を「ロマンス化」と呼んだ。
 流行り言葉を使うなら『淪落の人』の「善意は疑うべくもない」。だがその善意は、実際の出稼ぎ労働者と雇用主の力関係を、ただしく反映しているのだろうか。ヒロインのように新しいキャリアに踏み出せる才能もなく、また主人公のような親切な雇い主にも出会えない出稼ぎ労働者にとって、本作は救いになるだろうか。
 「GratefulForTheHeroes」というプロジェクトの失敗も、これと通底するものではなかったか。漫画家のさいきまこ氏が主導して、コロナ対策に携わる医療関係者や運送業・販売業の人たち=いわゆるエッセンシャル・ワーカーを称えるイラストをネットに投じた。
 僕には好ましく思えた。他の「絵師」たちが鰯の頭も信心のような「アマビエ」のイラストを投稿し、「バトンを回された人は自分の過去の代表作を貼る」内輪の称え合いに終始している中、社会に目を向ける姿勢を勇敢だと思った。夜も開いてるドラッグストアの前で「マスク品切れです」のプラカを掲げる、自らもマスクをしていない店員のイラストに心が痛んだ。お客様は神様とばかりにエッセンシャルワーカーが空気のように扱われ、あるいは「吾々への奉仕が足りない」と蔑まれるのであれば、彼ら彼女らも人間だと可視化することには、意義があるように思われた。
 だが実際には、これらのイラストは、他ならぬ現場の医療従事者から厳しく弾劾された。私たちはヒーローじゃない。必要なのは拍手じゃなく医療用マスクや防護服の支給と、安心して働ける支援だ。私たちを持ち上げ「感謝」してみせることで、善行を為した気になられてはたまらない…

 ひとつの作品が、行為が、問題をすべて解決できるわけではない。これは達成できてるが、これは出来てない、そういうものだろう。
 不当な状況に置かれている存在を可視化することは、第一段階の達成なのだと思う。シンガポールの社会が外国人労働者の存在そのものをネグレクトしてしまったように、まず存在自体が認識されなければならない局面はある。
 だがそれは、あくまで第一段階だ。批判された「ヒーローズ」の限界は、可視化された後の着地点を「美談」にしてしまったこと、なのだろう。それは『淪落の人』も内包する限界だったかも知れない。それぞれの作品が達成したことに感銘を受けるのと、手が届いてない課題を考えることは両立する。両立するが、心に棘は残る。

 逆に断絶をそのまま悲劇として描いたのが、同じく使用人と雇用主を描いた(←この話のつなげかた斬新でしょ)ポン・ジュノ監督の『パラサイト』だ。これまた無類に面白く、絶賛に値する作品だった。とくに金持ちの奥様が庶民的B級グルメ「チャパグリ」に高級牛肉をトッピングさせ「たまに食べたくなるのよねぇ」と言う、絶妙な憎たらしさ(褒めてます)!名優ソン・ガンホ率いる貧乏一家が家庭教師・運転手・家政婦として上流家庭にパラサイト(寄生)するストーリーが「本当のパラサイトは社会的にどっちなの?」と逆転する瞬間だった。
まあ高級牛肉チャパグリが体現した「搾取階級の鼻持ちならなさの象徴」の座は「ソファで犬をなでるソーリ」があっという間に奪い去ったわけですが!
 その一方で、主人公の一家もまた断絶の要因である蹴落とし合いのエートス(思考の様式)に囚われたままだったことに、作品としての限界を見る批評もあった。断絶を乗り越える可能性が描かれなかったと。

 融和を語れば欺瞞に堕する(おそれがあり)、断絶を描けば展望がない(と言われる)。
 身も蓋もないことを言えば、物語(フィクション)にソコまで期待すんなよとも思う。現実が答えを出してない問題に、なんで物語「だけ」が正解を出してやんなきゃいけないんだよ。学問は何してんだよ、何「やー私らはミネルヴァのフクロウですから」とか気取ってんだよ。
 …いや、フィクションも学問も、市井の人々としての吾々の日々の(々が多い)思考や発言・行動も、過去や現在への反応・解釈であると同時に、幾分は未来の先取りを含むのだが。それは狙って出来るものではなく、過去や現在から降りずに対峙すること・限界だなー、届かないなーと思いながら現在と対峙しつづけることで、誰かが宝くじを当てるようにポロッと出るものではないか。
 頑張れ物語。

やがて悲しきアブダクション〜S.A.クランシー『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』(2020.05.03)

Believing the strangest things, loving the alien
(奇妙きわまることを信じてる 異邦人を愛してる)―"Loving the Alien" David Bowie

 空飛ぶ円盤を一度も信じたことがない者は、夢を見たことがない者である。信じ続けてる者は、現実を見ない者である。これは今、テキトウに考えた。
 三つ子の魂百までとは言うけれど、むしろ思春期を迎えてからの耽溺こそが、一生ついて回る気がする。たぶんオカルトと、ミリタリーへの憧れはハシカのように小さい時に済ませておいたほうが良いのだ。大人になって、こじらせると病が重くなる。
 かく言う自分が子供の頃。そりゃあ信じてた。なにしろ五島勉(大予言)と矢追純一(UFO)そして中岡俊哉(ESPと心霊写真)の天下だった。テレパシーで宇宙人と交信できないかと試み、人体発火現象に怯えた。流れが変わる潮目は、そのころ騒がれた「惑星直列」だったかも知れない。太陽系の惑星がまっすぐに並ぶと、地球に天変地異が起きるという主題だけで、一冊の本が書かれた時代だ。1999年には地球を真ん中に惑星が十字架の形に並ぶグランド・クロスなる現象で、やはり天変地異が起こると言われた。「そんな馬鹿な」という反論があった。「陸上選手が9人、トラックを走っていたとする。速いの遅いの周回差がついて、ある時みんな一直線に並んだら、選手たちの身体に異変が起きると思うか?」もっともな話であった。そうして次第に、僕はオカルトから距離を置くようになった。
 というのは事実無根ではないにせよ、やはり記憶の捏造かも知れない。実際は思春期を迎え、漫画とロックに関心が移った。SF小説にも耽溺したが、それはUFOとは全くレイヤーが違う物語だった。むしろその延長線上には、村上龍や村上春樹がいた。そうしたものに僕は押し流された。要は飽きたのだ―呼んでも来ないUFOに。
 
 テーマは記憶。記憶の捏造。
 スーザン・A・クランシーなぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』(林雅代訳/ハヤカワ文庫NF/原著2005年・邦訳2006年)の主題は、空飛ぶ円盤ではない。宇宙人にさらわれ人体実験された(アブダクション)という「記憶の改変」がテーマだ。
 難しい本である。言ってることは難解ではない。ただ本著には、研究者だった著者が最初は「幼児期の性的虐待」が記憶の捏造だったケースを手掛けたが、非難を受け、いわばより誰もが「捏造」と受け入れやすいアブダクション(エイリアンによる誘拐)に乗り換えたという経緯がある。非難というのは、実際にあった虐待まで記憶の捏造だったことに、なりはしないかということだろう。もちろん、虐待の記憶が捏造だったケースもある。著者が見てとったように、カウンセラーが誘導するケースもあったろう。だが、性的虐待のテーマは止めましたと前置きしつつ、より説得しやすいアブダクションで「こんなに記憶って捏造できるんですよ」と説くことは、「つまり性的虐待についても私が正しかったんですよ」と裏口から仄めかす行為ではないだろうか。この著者に心を許しすぎるのは危険な気がする。
 居心地が悪い本でもある。読んで「いやあ、アブダクティー(宇宙人に誘拐されたと称する人)・ビリーバー(そう信じ込んでいる人)って馬鹿だなあ。痛快痛快」と笑える人は多くない気がする。面白うて(そんなに面白いかという疑問も残る)、やがて悲しき本なのだ。

 「信じるのをやめたら、失うものはもっと大きいだろう。べつの説明を探さなくてはならないし、不快で恐ろしい症状や体験を語るための説得力のある理論を捨てなくてはならない」(本文より)
 とはいえ、まずはアブダクションが客観的に見たら馬鹿げた、物的証拠のない、アブダクティーの心の中だけで作られた神話だと了解しておく必要があるだろう。
 「心の中だけで作られた」は正確ではない。銀色の肌・つるつるの頭に(白目のない)黒だけの巨大な吊り目・子供のような体型の異星人に誘拐され、長い針を突き刺されたり、精液を採取されたりするアブダクションの神話は、すでに定番の既製品として候補者の周囲に・心の外にある。
 本書を読んで、ちょっと驚いた(そして「あああー」と嘆息したくなった)のは、1964年に異星人に誘拐され身体検査をされたというヒル夫妻のケースすら、既存の物語の影響下にあったという指摘だ。ヒル夫妻の体験談は、頭髪のない子供型の異星人の描出も含め、アブダクション神話の嚆矢と言える。異星人の故郷を示すという星図を実際の天文図にあてはめ(たとして)レティクル座が、いわば円盤ファンの「聖地」ともなった。次々現れるフォロワーと違い、少なくとも夫妻の体験談は独創的で、つまり真実味のあるものではなかったか。そんな予断は、彼らが語った灰色の宇宙人も、記憶を消されることも、すでに当時のSF映画やTVドラマで十分に描かれていたという指摘で打ち砕かれる。
 ヒル夫妻のケースは、催眠療法の誘導で、もっともらしい「記憶」が植えつけられていく事例の嚆矢でもあるようだ。抑圧された真の「記憶」を取り戻させるという催眠療法が、掛け手の誘導によって「記憶」の植えつけになることに、著者は(性的虐待を扱っていた当初から)警鐘を鳴らしている。…が、アブダクションの信憑性を突き崩す話は、このくらいでいいだろう。
 人々が「アブダクションこそ真実だ」と信じこむ過程も、ここでは細かく立ち入らない。ただ「吾々は思った以上に簡単に己の記憶を改変できる」とだけ理解しておけば良いだろう。


 記憶といっても、改変されるのは過去だけではない。人は脳内に蓄積された記憶を使って認識し、思考する。それが改変されれば、現在に対する認識も歪むことになる。フェイクニュース、フェイクトゥルース。自分が都合のよい情報だけが反響をつづけるエコー・チェンバーの中で、不合理なことでも信じてしまうのはアブダクティーだけではない。
 と来れば、たとえば歴史修正主義者などを槍玉に挙げ、あなたたちもアブダクティーと同じだと糾弾するのは簡単だろう。でもしない。
 …本書が最終的に突きつけるのは、人は幻想なしに生きられるだろうかという問題だ(と、思う)。生きる理由と言ってもいい。アブダクティーは、夜中の強烈な金縛りの、肌いちめんに出来た異様な湿疹の、家族や社会に適応できないこと、言い知れぬ不安や孤独・自己嫌悪の、理由となる「説明」を求め、アブダクションに飛びつく。だが、自分は理由も説明もいらない、ジョン・レノンの「イマジン」のように、あるがままに全てを受け容れていると言える人が、どれほどいるだろう。一つの漢字を眺め続けると、ゲシュタルトが崩壊し意味不明の線の塊に見えてくるように、自分の趣味や嗜好・社会のルールを守ること・生産すること消費すること・誰かを愛したり仲良くすることまで、ひょっとしたら何か「信じたくて信じてる」幻想ではないか…そんな風に思ってしまう瞬間はないか。本書を最後まで読むと、そんな考えに行き着いてしまう(おそれがある)。やはり何か、危険をはらんだ本な気がする。

 極端な話、オカルトや非科学をトンデモと笑い、批判することに血道を上げる人も、当人が無価値だと思うものに取り憑かれていないか。正義もそうだ。外国人を排斥するにせよ、排斥する者を非難するにせよ、人はしばしば自分にとって最も無価値で腹立たしい対象に取り憑かれる。
 (差別の是非を問うてるのではない。問うのであれば「差別にはNO」一択だ)
 (不当な目に遭う人々から目を逸らせない「強迫」がなければ社会は崩壊してしまう、とも言える)
 ただ、むしろ見ないフリしたほうが楽しく過ごせるかも知れない、不快なものから目が逸らせない体験は「アブダクティーもそうかも知れない」と類推させてくれるものがある。本書の著者はアブダクティーたちが不快や齟齬の原因をエイリアンに帰することで「救われる」面を強調する。しかしそれは、やはり「苦しいのに、そこに立ち戻ってしまう」体験なのでは、ないだろうか。
 だとすれば、アブダクションは捏造記憶だとする本書の次に読むべきは、同じようにオカルトや疑似科学の虚偽をあばく本ではなく、強迫的な反復を取り扱う、フロイトやラカンなど精神分析の関連書かも知れない。
 別の罠に落ちそうな気もするけれど。
 
ポール・ヴェーヌギリシア人は神話を信じたか』は、そもそも吾々は実際に見たこともない万里の長城の存在をなぜ信じられるのだろう?といった無茶ぶりで、吾々の「信じる」のアバウトさを論じる厄介な書。ヴェーヌは自伝も「曲者ジジイ」的に面白いです。

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