まんがなど
(24.07.17更新)
『リトル・キックス e.p.』を追加。



発行物ご案内
(19.12.01更新)
今年の新刊まで追加・整頓しました。
電書化、始めました。
電書へのリンク
こちらから
、著者ページが開きます。

過去日記一覧(随時リカバリ中)

過去日記キーワード検索
終了しました(22.11.19)
Author:舞村そうじ/RIMLAND
 創作同人サークル「RIMLAND」の
 活動報告を兼ねつつ、物語とは何か・
 どんなメカニズムが物語を駆動し心を
 うごかすのか、日々考察する予定。

【最近の動向】
当面は新刊がない予定です。

WebまんがSide-B遅々として更新中。

小ネタですが本篇更新。三年ぶり。(23.12.24)

旧サイトは2014年8月で終了しました(お運びいただき感謝)。再編集して、こちらの新サイトに少しずつ繰り入れますが、正直、時間はかかると思います。

[外部リンク]
comitia
(東京名古屋新潟関西みちのく)
あかつき印刷
POPLS

日本赤十字社

愛と劣情の馬たち(Instagram)

if you have a vote, use it.(save kids)


港の上に広がる空の写真を背景にロゴ「MY税金 MY CHOICE 防衛所得税 導入反対」
ロゴは勿論「MY BODY MY CHOICE」が元ネタなので、流用すな・簒奪やめいという場合は修正します。(24.12.13)

(25.12.14)メイン日記(週記)更新。日頃の自分は世界に手加減していると、手加減ない小石川植物園で痛感させられた話。画面を下にスクロールするか、直下の画像(公式)をクリックorタップ、またはこちらから。


(25.12.14追記)△著者が標的にしているのは現在なのは疑いようがない→○著者が標的にしているの「が」現在なの「も」疑いようがない。Twitter(現X)を離れた主な理由は別だったけど、一度した投稿の細部を直せないのも軽くストレスだった気はする。自サイトなら際限なく手直しできる。

(25.12.13/例によって小ネタにしちゃ長いが/すぐ消す)
「子供の頃からお仕え申し上げてきましたが(中略)今やめてくださいと申し上げるほどの/ご奉公はないと思います」
 古代ローマの無神論者ルクレティウスの再発見が「死後の復活」を基盤にしていたキリスト教社会を根底から崩壊させ(かつ虚無への恐怖に裏打ちされた現世利益の追求=近代の悪夢に導い)たと説く『一四一七年、その一冊が世界を変えた』の著者グリーンブラット。その彼が本分であるシェイクスピア研究のキャリアを叩きこんだ暴君(原著2018年/河合祥一郎訳・岩波新書2020年/外部リンクが開きます)は「一五九〇年代初頭に劇作をはじめてからそのキャリアを終えるまで、シェイクスピアは、どうにも納得のいかない問題に繰り返し取り組んできた。−なぜ国全体が暴君の手に落ちてしまうなどということがありえるのか?(強調は引用者)という冒頭から、民もまた当てにならないとしながらも、拷問を命じる侯爵を諌めて秒で刺殺される『リア王』の名もなき端役に希望を託す末尾まで、コンパクトながら渾身の一冊。
 『暴君』書影。横には牛丼(いいもん食ってんじゃねーか)
 シェイクスピアが生きたエリザベス朝は「治世者を暴君と呼ぶ者は謀反人なり」と法に定められた時代で、同時代の劇作家たちの投獄や暗殺を目の当たりにした彼は薔薇戦争や古代ローマ=過去に舞台を移して「今」の政治を描き続けた(と著者は説く)−同様の理由で江戸の歌舞伎が鎌倉時代や室町時代を舞台にしたように。その意味で(本当はこの日記も赤穂浪士討ち入り当日に合わせたかったけど前日にフライング)この時季に相応しい読書だったし、何より「過去の」シェイクスピアを語ることで著者グリーンブラットが標的にしているのが「選挙が最悪の結果になってしまっ」た(さて、どの選挙でしょう?※)現代・現在なのも疑いようがない。※ちなみに本書では『ヘンリー六世 第二部」で識字者を吊るせとポルポトばりに主張する暴徒の首魁が「make Britain great again」扱いされてます…
 「暴君は、法に無関心なだけではなく、法を憎んでおり、法を破ることに喜びを感じる」「ポピュリズムは、持たざる者の味方をするように見えるが、実は巧みに民意を利用するものでしかない」「普通なら、公的人物が嘘をついたと露されたり、真実がわかっていないと赤恥をさらしたりすれば、政治家としておしまいだ。ところが、その常識が通用しない」そして「どんなに狡猾に頭角を現そうと、一旦権力の座に就くと、暴君は驚くほど無能」だと看破し、そんな「暴君の手に落ちてしまった社会を襲う恐ろしい結果」を語る言葉は、著者自身が意図した2018年の「現在」すら超えて、シェイクスピアが生まれた島とユーラシア大陸を挟んで反対側にある、2025年の極東の島国で今こそ読まれるべきなのかも知れません。

      *     *     *
ふだんづかいできる反差別Tシャツがあると自分が便利なので作りました。

【電書新作】『リトル・キックス e.p.』成長して体格に差がつき疎遠になったテコンドーのライバル同士が、eスポーツで再戦を果たす話です。BOOK☆WALKERでの無料配信と、本サイト内での閲覧(無料)、どちらでもどうぞ。
B☆W版は下の画像か、こちらから(外部リンクが開きます)
電書へのリンク

サイト版(cartoons+のページに追加)は下の画像か、こちらから
サイト内ページへのリンク

扉絵だけじゃないです。side-B・本篇7.1話、6頁の小ネタだけど更新しました。

(外部リンクが開きます)
今回ひさしぶりにシズモモの過去エピソードを見直し「やっぱり好きだな、この話とキャラたち」と再認できたのは幸せなことでした。そして色々あったり無かったりしても、ペンを持って物語を紡いでいる時が、自分は一番幸福らしいとも。次に手をつける原稿は(また)シズモモではないのですが、何しろ描くことは沢山あるのです。
ちなみに今話タイトルの元ネタは井上陽水の「愛されてばかりいると(星になるよ)」。同曲が収録されたアルバム『ライオンとペリカン』のB面(side-B)に入ってる「お願いはひとつ」は個人的に一番好きなクリスマスソングの最有力候補です。レノンと争う。
RIMLAND、電子書籍オンリーですが20ヶ月ぶりの新刊『読書子に寄す pt.1』リリースしました。
タイトルどおり読書をテーマにした連作に、フルカラー社畜メガネ召喚百合SF「有楽町で逢いましょう」24ページを併催・大量リライト+未発表原稿30ページ以上を含む全79ページ。頒布価格250円(+税)で、一冊の売り上げごとに作者がコーヒーを一杯飲める感じです。下のリンクか、こちらから。『読書子に寄す pt.1』電書販売ページへのリンク画像
書誌情報(発行物ご案内)はおいおい更新していきます。(22.11.03)
【生存報告】少しずつ創作活動を再開しています。2022年に入ってから毎週4ページずつ更新していたネーム実況プロジェクト、7/29をもって終了(完走)しました。
GF×異星人(girlfriends vs aliens)

これまでの下描きは消去。2023年リリース予定の正式版をお楽しみに。(2022.08.08→滞ってます)

森を見て木を見ない〜小石川植物園(25.12.14)

 まだボウイでなくジョーンズだった頃かも知れない、駆け出しアーティストのデヴィッド・ボウイ(ジョーンズ)にドラッグの手ほどきをしたのはレッド・ツェッペリンのジョン・ポール・ジョーンズだった…と読んだ気がする。例によって記憶違いの可能性もあるので注意(うかつに吹聴しないように)。でももし本当なら、他に教えることは色々あったろう教えたほうのジョーンズ。
 教わったほうのジョーンズ(後のボウイ)が最初に試したのは大麻かLSDつまりはダウナーな幻覚系のドラッグだったのだろう、「(頭が働かなくなって)そのへんの舗道の何でもないひび割れに、ひたすら魅了されていたね」と述懐していた…と記憶している。これもまあ大昔なので確証はない。でも、こちらも本当だとしたら…この若年ボウイの初ドラッグ体験と、15年くらい後にリリースされたデュラン・デュランの「僕は舗道のひび割れを探してる」という唄は何か関係があるのだろうか?いや、ないとは思うけど(サイモン・ル・ボンが書いた歌詞は他のメンバーにすら理解不能らしい)あるにしても、たぶん解けない生涯の謎なのだった。
 Duran Duran - [I'm Looking For] Cracks in the Pavement(YouTube/外部リンクが開きます)
【今回の要旨・1】舞村さん(仮名)はデヴィッド・ボウイが好き。デュラン・デュランも。あとジョン・ポール・ジョーンズも。

      *     *     *

 通勤定期があるうちにと、東京・山手線の西のほう(渋谷・新宿・池袋)から東のほう(上野・神田・永田町)へ歩いて横断するルートの開拓につとめた半年だった。正確にはJRでなく東急東横線の延長で東京メトロ副都心線を使っているので、新宿は正確には少し東寄りで有利な新宿三丁目が起点(そして戻ってきたときの終点)になるのだが
 模式図。内容は下記のとおり。
 まず最初に開拓したのは国会議事堂のある永田町に、スタンディングやら何やらで渋谷から足を運ぶため使っていた(5)のルート。細かくは(5)渋谷−六本木−永田町と、六本木のかわりに(より北の)青山墓地を経由するルートがあって、こちらもよく使っていました。
 永田町には(4)新宿三丁目から四谷を抜けて向かうルートも近ごろ開拓したのだけど、六本木と比べてもなお望月の欠けたる事なんてないんじゃねと驕れる花金ビジネスパーソンの通りな感じで、自分の趣味とは真逆な感じでした(ま、よりによって当方は高市総理の存立危機発言への抗議に参加する道すがらだったので尚更)…
 新宿三丁目からは(3)靖国通りをひたすら歩いて神保町に向かう・神保町から帰ってくるルートを多用。とちゅう市ヶ谷の防衛庁・そして通りの名の由来でもある靖国神社の前を通るのがシャクと言えばシャクですが、風情があって楽しいルートです。
 んで今年、池袋まで通勤の足が伸びて開拓したのが(1)の池袋サンシャインから茗荷谷を経て東京ドームを目印に・直進すれば上野や御徒町・南に折れれば秋葉原や神保町に至るルート。また帰路には東京ドームの南を通って、神楽坂を経由して西早稲田の駅に戻るのも悪くないルートで、(1)〜(5)それぞれ片道1時間半くらい。
 左から茗荷谷「丼太郎」の牛丼・秋葉原「サンボ」の牛丼・神田「六九」のチーズとんかつ写真。
【今回の要旨・2】山手線は縦長の楕円なので横切るのは比較的難易度が低い。楽しいよ。東京なので起伏はソコソコある。

 (1)の茗荷谷ルートを使うのは金曜の仕事が終わったあと・一週間のストレス解消に歩くかぁ!となった時なので、そもそも開いてる時間ではなく素通りしていた「小石川植物園」。11月の連休を利用して「昼に」訪ねてきました。
 てゆかまず茗荷谷から北折して植物園に向かうまでの道からして眺めがよい。500メートルくらい、ゆるやかに下る播磨坂桜並木。桜=春じゃなくて残念でしたね?いやいや、ピンク一色の春とは違った良さが、黄色・オレンジ・紅色まで多彩な色を見せる秋の桜にはあって、そこまで愛でられてのココまでの普及ではないかと思ったり思わなかったりするのだが。
 播磨坂桜並木の紅葉写真(2枚)。
 で「国指定名勝及び史跡・東京大学小石川植物園」。おにぎりアクション用に添えたおにぎりは気にしないで良い。いい感じに古びた建物も開いてはいなかったので気にしない。
 左:「国指定名勝及び史跡・東京大学小石川植物園」の表札に持参のおにぎり。中・さっそく樹々が出迎えるエントランス。右:研究施設らしい古い建物。
 で【今回の要旨・3】なんだけど小石川植物園、すごく良かった…
 温室の珍しい植物(小物)あれこれ。
 植物に関して何の知識もない自分が楽しめるかと行く前は懸念したけど、行ってみたら楽しい楽しい。もちろん、珍しい植物はある。アリ植物とか。ニュートンが万有引力を発見したのと同じ種類のリンゴとか。
 低木らしい細い幹の根元をジャガイモのように膨らませたヒドノフィツム・モセレヤヌム(アカネ科・マレーシア)の写真。このコブにアリを住まわせる由。
 でもそういうアトラクティブ(あ、ニュートンの「引力」とかけてやがる)なブツでなくても、てゆか無知だから各々の植物の真価なぞ分からないままでも、そこそこ楽しめてしまう。
 左:落葉しきったゆえ逆に見事に広がった枝ぶりが際立つヘラの木の群れ。中:真っ赤に染まったカエデの葉。右:名称は失念したけれどツバキ科っぽい花を咲かせる常緑低木。
 ベンチや広場のような場所もあり、完全にピクニック感覚でくつろいでる人・イーゼルを立てて樹木をスケッチしてる人などもいて、もう少し過ごしやすい気温の時季なら、本など持ちこんで半日過ごしても良さそう…あ、いや、もちろんそういう使いかたも良いんだけど。
 
 こういう性格だから(そこそこ堪能して園を出たあと)改めて考えてしまった。
 さほど植物への知識がなくても、目に楽しいだけで十分に楽しい。それはたとえば水族館や美術館に行っても同じだろう。魚の種類や美術史にてんで疎くても、日ごろ接する機会のない(そして美しい)ものを人の目は愛でる。
 けれど、こと植物にかぎっては、吾々はわざわざ専門の植物園に行かずとも日々毎日、自分の身の回りでしぜんと目の当たりにしているのだ。ふだんそれらをスルーしている・なんなら実家に帰っても植木や鉢植えの世話を手伝いもしない自分が、専門の植物園なら「やー、いくら見ても飽きない」となるのは大した欺瞞ではないか←事前にもそう思ったのも行く前に「そう楽しいかなあ小石川植物園」と少し構えた理由のひとつ。
 でも行ってみると「ひたすら魅了され」たのは、なぜか。たしかに珍しい植物もある(さっきも言いました)。
 もふもふの多肉植物。
小石川植物園というネームバリューもあるだろう。入場料500円の元を取りたかったのかも知れない(とことんケチくさい奴だなお前は)
 けれど基本的に違うのは、そもそも植物園という場所が「日頃はありふれたものとしてスルーしている植物が、各々個性的で美しく、魅力的であることを知らしめる」ことを目的とした施設だということだ。いや本来は研究のための施設かも知れないが、一般に開放されている時点で必然的にそうなっている。
 たとえば名札だ。美術館に麗々しく飾られた作品の横に作者や年代・素材や時に細かい解釈まで記された小さなプレートがあるように、小石川植物園に展示された植物は、ほぼそのすべての名前を名札で確認できる。
 小石川植物園の植物に各々つけられた名札。シマサルスベリ・ハリグワ・モミジバスズカケノキ・ツワブキ・シチヘンゲ・ヘラノキ。
美術館のプレート同様、ひとつひとつ読み込むことも出来るし、スルーもできる。だが各々に付された名札は(美術館のそれと同様)そこにあるのが名札と解説を付されるに足る、いわば価値ある事物だと示している。その意味で、小石川植物園という施設の機能を集約しているのは、園の中心に設置された「分類標本園」だろう。「植物の分類体系を生きた植物によって理解できるように、主要な科を代表する約500種の維管束植物をほぼエングラーの分類体系に従って配列した「生きた植物図鑑」」を標榜するその庭は、季節外れなこともあってか、その機能を十全に発揮はしていなかったけれど「生きた植物図鑑」という呼称は、大きな樹木まで含めた小石川植物園ぜんたいの別名でもあるのだった。
 あまりにキレイに整理・分類されてしまうことの(あるかも知れない)弊害については一旦措こう。
 小石川植物園に行ってよかった・行ったほうがいいよと思った大きな理由は「わざわざ専門の植物園に行かなくたって身の回りに植物はいくらでもあるじゃん」と思う・その「身の回りにいくらでもある植物」本来のポテンシャルまで「見過ごしていたかも」と気づかされることだ。いや実際に見過ごしていたのだろう。
 面白いことに、小石川植物園を訪れてから「身の回りにいくらでもある植物」の美しさや個性にも、改めて注意が向くようになった。というより考えさせられた。
 近所の樹木写真×3。
冷静に考えれば、公園や学校・私邸の庭でも街路樹でも、都会で吾々の身の回りに(意外と豊富に)ある植物は、そのほとんどが本来、美観になるよう配慮して植えられているのだ。美しくないはずがない。けれど同時に、そこで配慮されているのは全体としてのバランスの良さ・美観でもあるだろう。もちろん公的な場所には名札の添えられた花や草木もあるけれど、小石川植物園のようには徹底されていない。街の植物が求められているのは全体としての美観で、むしろそれらは吾々が注意を惹かれすぎないよう・いわば「森を見て木を見ないよう」作られているのだ。ドラッグで酩酊した若者が舗道の割れ目に「ひたすら魅了」されてしまったように、ひとつひとつの草木にのめりこんでしまっては、生産なり消費なりといった(この社会で)人が生きていくための活動が成り立たないから
 逆に言うと、狩猟採集に生きていた(いる)人々の「労働」時間は、現代の産業社会に生きる吾々よりずっと短いという話の、その空いた時間で森や平野に生きる人々は何をしてるのかという問いの答えも、存外このへんにあるのかも知れない。「何ってもっと草木なり何なりを注意を払って見てるんだよ。あんたらがなるべく端折ろう端折ろうとしてる世界ってやつに、耽溺してると言ってもいいかも知れないな(仮)(憶測)(妄想)」

 小石川植物園という施設は(僕にとっては)ドラッグの助けを借りなくても、吾々が日ごろ周囲を見るのにしている「手加減」を少なくとも一旦は解除する機能を持っていた。それは「働いて働いて働いて…」と強いる社会への対抗手段、生産性がなくても・他人に「買った物」を誇示しなくても(楽しく)生きていける逃亡の経路につながる機能かも知れない。
 最近YouTubeで見かけた動画では、自分が住んでる近所の駅前を訪ねて「ここに突出した高台がありますよ…いいですね、さっそく登ってみましょう」という配信者がいらして、そういうのが楽しめるなら際限なく楽しめちゃうなあと感心させられた。
 話を戻すと、小石川植物園を訪ねた「効果」で面白かったのは、そのあとハシゴして出向いた上野の科学博物館で、しょうじき今までになく(実は今までそれほど関心・感心があったとは言えない)恐竜の化石に「魅了」されてしまったことだ。写真には撮らなかったけど、トリケラトプスの背中のアレ、ぜんぶ骨が入ってるって相当じゃない(何を今さら)?ティラノサウルスの肋骨じゃなくて・その下・胃腸のあたりを覆ってる骨のカバーなんて初めて気づきましたけど?
 科博のティラノサウルス。腹部を覆うカゴみたいな骨is何。

      *     *     *
 【今回の要旨・その4】効果的に整理・分類された施設が(時にドラッグがそうするように)日頃は日常の経済活動に支障がないよう「手加減」している・「森を見て木を見ない」ようにしている細部への関心を、賦活し解放することもある。
 小石川植物園で特に心を惹かれた樹木のひとつがプラタナス(スズカケ)だ。街路樹として、いくらでも見かける可憐な樹木が、手加減しなければココまで大きく育つものだと迂闊にも今まで知らずにいた。
 
一度そのポテンシャルを知った後、あらためて街路樹としてのプラタナスを見れば(植物園で制限なしに育った姿ほどではないにしても)ふつうでも意外と背の高い木だと再認識させられたりもしたのだけど、それはまあいい。
 日頃みなれた草木を改めて個々のものとして見直す・注意力を賦活する方法として「本来の大きさ」が効果的だった、そのことで思い出されたのは、たぶん前にも何処かで引用しているだろう伊丹万作の言葉だ。少し長いが再度引用する:
「そこらにいくらでもいる甲氏や乙君や丙さんを拉しきたつて、その中の甲と乙の相違や、乙と丙の差を克明に描き分けているのがいわゆる性格描写というものだとすれば、ユロのごとき、何万人に一人というような桁はずれの存在を扱いながら、しかも「人間というやつはね、みな要するにこいつによく似たしろものさ」といって神様がひよいとつまみ上げて見せそうな人物を描くことは、まさしく偉大なる典型描写というべきであろう。(中略)小説の最高の境地は決して個々の性格を描き分けて見せたりするところにはなく、むしろ人間の典型を描くところにあるように思われる」(『全集』)
 平均的な一本ではなく「桁はずれ」に突出したプラタナスの木が、なんなら樹木というもの全体への注意力を賦活するように。
 四六時中がラッシュアワーのような街で、おそらくは互いを疎ましく思い合い(いや狷介な自分ひとりの感覚で、皆様はいつも「みんな素晴らしい!人間大好き!」と思ってらっしゃるのかも知れないが!!!)目の前の他人など居ないようにスマホの画面に没入している群衆(モブ)としての吾々を、個々の人間の集まりとして再認識させるプラタナスの巨木のような効果を(身の回りの樹木ではなく)人に、取替え可能な人の「森」に対して発揮できる力が、芸術とか物語というものにあるのだと、吾々はまだ信じられるだろうか。

 そんなプラタナスの木を提示してみせるための時間が(まだ)自分にあればいいのだけれど。

 
【追記】
多くの人は自分ちの庭(だけ)を丹精するように「森」は放っておいて自分の身の回りの親しい人だけを人間らしく遇することで心の平和を保てるのでしょうし、それ以上を人に求めるのが勝手な無理難題なのも分かってるつもりです。
 あと「舗道の割れ目にひたすら耽溺する」ドラッグの効果が、逆に社会よりさらに狭い小さな世界への耽溺でありかねない反作用(基本ドラッグはこちらのほうが主)であることも理解してはいます。
 あと今回の最初の模式図を作成した後で(1)ルートのさらに北=池袋から大塚・巣鴨・駒込まで山手線沿いに歩いたあと東折して(田端とかパスして)西日暮里いわゆる谷中まで同様に1時間半で歩くルートも開拓したんですけど、このルートは住宅地が多くて寂しくなっていけない。
 金網の向こう・線路を隔てて向こうに見える集合住宅、窓はすべて背を向けてて見えない中、下のほうのホールみたいな小さなところにクリスマスツリーが光ってるのだけ視認できる画像。
うわーやめろ、こういう日もとっぷり落ちた後だと余計に寂しくなる光景やめろー。

小ネタ拾遺・25年11月(25.11.30)

(25.11.02)少し前の記事だけど「7月の参院選の結果、消費税減税を公約した議員が衆参両院で多数になりました。1989年に消費税が実施されてから、36年の歴史の中で初めてのことです。(中略)消費税減税を公約した政党・議員には公約を守る責任があります」(赤旗10/19号)消費税を下げろという主題もだけど「いや公約を守れし」という真っ当すぎるのに世間では「守るわけないよ」と諦められがちな主張を押し通すことから始めるべきではないかとも思う。
(同時刻追記)実家のテレビで高市新政権の防衛予算増大を取り上げ、まあ論調は批判的なんだけど、識者が「仮にこれが消費税の負担になった場合XX%の負担に…」いやなんで防衛費増額を消費税で賄うような喩えで話を進めてるんだよ。その気はないと思うんだけど外堀を埋められてるみたいでヤだ。
(追々記)翌朝のニュースはOTC類似薬が保険適用外になるかもという話題。3千億円くらいの医療費削減になるというのだけど、こういう時にこそ「米国の言い値で買うステルス戦闘機X機分と同じ値段です」と言い添えてみたらどうか。
・参考:日本配備開始のF35B戦闘機 運用・維持に1機856億円(赤旗2025.8.26)

(25.11.03)実家で貰ってきたスキヤキの残りにルウを割り入れた変則カレー(または残ったスキヤキの変則処理)。ゆるくキャンプする漫画でそんな話ばかりしてるのを読んで一度してみたかったのです。人生で大切なことの結構かなりな部分は漫画が教えてくれる。
 牛肉とクタクタになった白菜・糸こんにゃくがソレらしいスキヤキカレー(コロッケ添え)。楕円形のカレー皿の外に元ネタになった『ゆるキャン』の書影がチラ見え。

(25.11.04)「私はみんなに、どんどん書きなさいというアドバイスを送りたい。なぜなら、書くという行為は、人生という家に部屋をひとつ付け足すようなものだからだ」ヘンリー・ヒッチングこの星の忘れられない本屋の話(原著2016年/浅尾敦則訳・ポプラ社2017年/外部リンクが開きます)は世界の作家15人を語り部にした、本屋をめぐるエッセイ集。北京の本屋で「外国人お断り」とされたカーテンの奥に積まれたホチキス留めのコピー紙の山は…というイーユン・リーの話、少女だった彼女がむさぼるように読んだ「それ」を、だいたい同世代の僕も父が一時期(日本語版を)購読してたこともあって読んでいた(個人的)面白さ。そして反体制を訴える著書のサイン会でデモへの参加を呼びかけたエジプトの作家アラー・アル・アスワーニー「私を憶えていますか?あなたの呼びかけを聞いて、このデモにみんなで参加することを決めたんです」という若者たちに逆に鼓舞され、ついにはムバラク政権打倒の一員となる「蛇を退治するときは……」は全編の白眉だろう(個人の意見です)。
 木のベンチの上に置かれた『この星の忘れられない本屋の話』書影
ちなみに一風かわったタイトルは警察に蹴散らされ「今回はこれだけで十分な成果だろう」と立ち去りかけた著者たちの前に現われて、風のように消え去った清掃車の主の言葉蛇を退治するときはよ、完全に息の根を止めなきゃだめだぜ。あんたが殺(や)られる前に蛇を殺っちまうこったに由来している。その言葉にハッとなった人々は、一度は追い払われた広場へと引き返す。未読の本をこれから愉しみたいひとには興ざめなネタバレかも知れないけれど、いつかこの知恵がこの国でも役に立つかも知れないので備忘のために記しておく次第です。

(25.11.06)社会学者のバウマンによれば、人々を無作為に看守「役」と囚人「役」に分けた「だけ」で前者が後者に拷問や虐待を始めたという、いわゆるスタンフォード監獄実験を近年ポーランドの芸術家が再実験したところ、正反対に両者は相互理解につとめ円満な関係が打ち立てられたらしい。20年代にテイラー主義を生んだ労働者への規律の強制も、後に別の実験で服従的要素を取り除いたほうが効率が高まる結果を示したとか。実はこれには仕掛けがあって(もっともスタンフォードの実験にも「仕込み」や「ヤラセ」があったとも言うが)
 『社会学の使い方』書影。
それぞれの「再」実験では「これは看守役と囚人役がヤバい関係になってしまう実験の再テストなんです」「これはテイラー主義を…」と最初から知らせていたというのだ。それで被験者たちは「そうはなるものか」と寛容や自発性を発揮したと。なぁんだ、と思うかも知れないが、言いかえれば「それは差別です」「公正ではありませんから、続けてるとヤバいことになりますよ」等々アナウンスしていくことは無意味ではない(それで人の行動を変えうる)と感じたのですが如何か。二人の弟子(?)を相手にした2014年のインタビュー『社会学の使い方』(伊藤茂訳・青土社2016年)にあった話から敷衍。

(25.11.08)JR大塚駅そば・ビルの2階にある「宇野書店」は「街の本屋さん」を謳う小さな手書き看板から正直さほどの期待もなく階段を登ったのだけど、登ってびっくり入口で靴を脱いで上がるしくみの店内は緑の人工芝が敷き詰められた中、余裕をもってレイアウトされた木の棚に人文系の書物や岩波文庫・岩波少年文庫・講談社学術文庫などが一揃い。現代日本のいわゆる論客みたいな人たちの著書が並んだ平積みに、途中で「宇野」書店て(読んだことないけど)(すみませんねえ)宇野常寛さんの個人書店かと突然気づく。
・参考記事:#今月の本屋さん 宇野書店(東京都・大塚)(PIE International/25.8.05/外部リンクが開きます)
記事に使用された写真は今年8月・オープン前の内覧会のもので招待客でごった返してますが、今はいい具合に落ち着いてます(落ち着きすぎてちょっと心配。近くのラーメン屋とかには行列が出来てるのになあ)。キャッシュレスのセルフレジで無人の店内には座れる場所と丸座布団がいくつも配されており、ちょうど良かったので自分が持ってるのとは別の文庫で出ているフロイト『モーセと一神教』(昨年10月の日記参照)(今年3/15の小ネタもお読みいただくと分かるとおり同書に関しては自分の理解にとんと自信がないのよ)の解説だけパラパラと、立ち読みならぬ座り読み。それとは別に未読だった網野善彦氏の文庫をピッして持ち帰りました。
 福島亮太氏選書フェアのリーフレットと、網野善彦『歴史を考えるヒント』書影。網野氏の「この」本は福島氏のリスト外(つまり宇野店主のセレクトかと…)
今は「福島亮太氏が選ぶ100冊」と銘打ってマクルーハンから人工知能・哲学から脳科学・『今すぐソーシャルメディアのアカウントを削除すべき10の理由』なんて挑発的な書名の本まで(わははは)選書されたフェアを開催中。自由に持ち帰れるリーフレット形式の100冊リスト(すべて選者のコメントつき)だけでも、近場のひとは取りに行く価値あり?ちなみに網野氏からはちくま文庫の『日本の歴史をよみなおす(全)』が選ばれていました。

(25.11.14)特に今週は最悪の落ち込みで(理由はお察しください)ここ数日はこのリリックビデオでかろうじて正気を保っていた…いや、もしかして
 
かろうじて保っていたのは、つねひごろ必死で死守しているのは「いかん、このままでは正気に戻ってしまう」というアレだったかも知れない。こんな世の中が正気なら、むしろ正気でいられるほうがおかしかないかい?←正気を逸しかけてる人の発想

(25.11.15)池袋に通う日々も終わりが見えてきたので、気になる食べ物を可能なかぎり食べとこうと思った矢先、前々から気にしつつ後回しにしていた西早稲田の「熱干麺」が売りの中華居酒屋(?)の閉店を知る。だから看板に「見た目はシンプルですが」とか書いちゃダメなんだよう!餃子も大ぶりだったらしい。無念。
 置き去りにされた「熱干麺」の看板。紹介文にいわく:本場・武漢名物「熱干麺(ねかんめん)」とは?中国・湖北省武漢市のソウルフード、「熱干麺」は、中国でも非常に人気のあるご当地麺料理です。ゆでた中華麺を冷ましてから、ごま風味豊かな特製タレとよく混ぜて食べる、汁なし和え麺スタイルの一品です。香ばしい芝麻醤(ごまダレ)に、少量の辣油やにんにく、刻みネギなどを合わせた奥深い味わいが特徴で、一度食べたらやみつきになる美味しさ。見た目はシンプルですが、コクと香りが広がる「やみつき系麺料理」です。「ラーメンでも担々麺でもない」新感覚の中華麺を、ぜひ一度お試しください!
今年5/25の小ネタで紹介した市ヶ谷のラグメン(ウイグル料理)のお店も今月のはじめ閉店(ワンチャン改装…ではなさそうだった)を確認。外食は(も?)難しいのかも、とくにニッチなのは。

(25.11.16)400年の時を経て今なお、この果物を食べようとすると「柿は痰の毒」という言葉と逸話が脳裏をよぎるので、残るものと残らず儚く消え去るもの、人の営みってなんだろうなと思ったりする。まあ食べちゃうんだけど。三成もこんな形で記憶されるとは予想しなかったに違いない。
 スーパーのクシャクシャ感のあるポリ袋の上に、無造作に置いた感じな柿の写真。
滝田栄がタイトルロールを演じた往年のNHK大河『徳川家康』では鹿賀丈史氏が石田三成を演じていて、短い出番ながら野心家のギラギラした眼光が印象的だった。同ドラマの前半では、これも短い出番だったと思うが織田信長に抜擢された役所広司が絶賛され、翌年(大河ではないが)一年通しのNHK時代劇『宮本武蔵』の主演に。武蔵に役所・又八が奥田瑛二・おつう古手川祐子・朱美に池上季実子というパーフェクトな配役だった。400年前と、40年前の話。

(25.11.17)近所のあちこちにビラが貼られていた朝鮮学校(中・高)の交流イベントに、ちょっとだけお邪魔。出遅れて校内に準備された「YOUは知ってる?在日コリアンのこと」「見て、聞いて、感じよう!朝鮮の文化と歴史」などの展示には間に合わなかった(ダメダメじゃん)分かも知れない、折りたたみ式の長机とパイプ椅子で軽食(トッポッキとウィンナーを交互に串にさしてコチュジャンソースをかけた「ソトッ」とカルビスープ)に舌鼓しながら生徒たち自ら司会・出演しての「大声コンテスト」「腕立て伏せ(以下同文)」などの余興に手を叩いて笑っていたら、もちろんアイデンティティの違いは重要で尊重しなければいけないのだけど、それと同じくらい「同じだな」あー「ふつうの十代の子たちだと感じずにおれなかった。
 なんか十年前に家族で旅行したマレーシアで、現地のひとに「あなたたちはコリアンか」と訊かれたのを思い出す。そりゃそうだよ、アジアの反対側(?)から見たら区別なんてつかないし、まして中高生。隣り合った同じ土地に住んで、同じようなコンビニやら何やらに出入りして、同じようなコンテンツを見て日々笑ったりしてるんだもん。サービス精神たっぷりにおどけてみせる陽気さも、たぶんその陽気なしぐさの一枚下には夢も憧れも屈託もある「ふつうの」子たち。違いを尊重するのと同時に、同じさも尊重する、そういうふうには出来ないものだろうか。
 左・街に貼られた「神奈川朝鮮中高級学校・文化交流祭」のビラ。中・カルビスープと「ソトッ」。右・「日本人ファースト」を謳う政党のポスター
だもんでそんな「ふつう」の子たちが路地を入って高台の上の学校に通うには、必ず通らなければいけないだろう道の塀に、威風堂々てな感じに胸を張る党首(男)の写真と並んで「日本人ファースト」とゴチック体で大書された政党のポスターが毎朝毎夕いやでも目に入るよう貼られているのには「なるほどコレが“大和魂“ね」「“サムライ”の流儀か」「ずいぶんと“男らしい”もんだな」と嫌悪感をぬぐえなかった。てゆか愚かなくせに(愚かだからか)傲慢な同胞が本当にすまない。

(25.11.18)年の後半に入って気が緩んだか、もう不用意に増やさないはずの本を何度も買い増してしまっている。昨年の今ごろに買ったアンソロジー鬱の本(点滅社/外部リンクが開きます)を久しぶりに読み返していたら(お察しください)、寄稿者の一人が「心身の低迷期には『菜根譚』が効くぜぇ…」と書いていて、推奨されてたのとは違う訳だけど入手しやすい岩波文庫版を落手。元は中国・明代末の書物。漢方薬のように、じんわり効いてくれますようにと本に手を合わせる。
 書影:『鬱の本』と『菜根譚』そして『われら』。
実は恥ずかしながら未読だったザミャーチンわれら』も一緒に購入。こちらはアーシュラ・K・ル=グウィン『夜の言葉』で推奨の一冊=つまり数十年は後回しにしていた(ごめんなさい)、1920年代・旧ソ連のディストピアSF。積年の不義理をあと一ヶ月半ほど延ばし、年末はこれら文庫を供にして軽い(けど濃ゆい)荷物の電車旅に出る予定。

(25.11.22)有言実行。9月の小ネタで「涼しくなったら食べるよ」と宣言した期間限定「見た目こってり・食べてあっさり こっさり」塩ラーメン、期間ギリギリで食べてきました。
 左:こっさり(見た目こってり、食べてあっさり)を謳う「塩壱郎ラーメン」店頭ポスター写真。右:実物。チャーシュー1枚・おろし生姜と謎の白い物体(脂じゃなきゃいいけど)がトッピングされ野菜たっぷり・白いスープの塩壱郎ラーメン。最後の追いめしつき。
器は予想よりコンパクトだったんだけど実食すると「で、どうでした?こってり?あっさり?」「…がっつりでした」というボリューム。でもガッカリではなかったよ!とはいえ大目の野菜とお店オリジナル・トッピングし放題の生姜(幅5ミリ・長さ3センチくらいに刻まれてる)がありがたいお年頃。腹ごなしに二万歩あるく金曜の夜でした。

(25.11.23)なぜかオススメされた「逆再生芸人」とでも呼ぶべき動画を見て
逆再生で1500m走ったら、笑っちゃうぐらいキモい動画ができました!!(和泉朝陽のわくわくぱ〜く/YouTube/外部リンクが開きます)
数十年来の謎が解けたというか(最近こんな話ばかりしてますね?)ただただ異様さに圧倒されてたドラマ『ツイン・ピークス(パイロット版)』のラストシーン=小人とローラ・パーマー(似の従妹)の異世界から来たような不自然な発話も、なんのことはない逆再生だったのか
Twin Peaks - Red Room Full Scene HD(YouTube/外部リンクが開きます)
んにゃ「私たちは音楽が大気を満たし鳥たちが素敵な歌を唄う場所から来た」「ときどき腕が後ろに反り返ってしまうの」のインパクトは薄れそうにないけれど、ともあれ真相に気づけてよかったですね、舞村さん(仮名)?

(25.11.26)「6匹の猫を全部見つけられますか?」ってゆうゲームアプリのネット広告なんですけど
 「6匹の猫を全部見つけられますか?」というゲームアプリの広告。白地に白い×(うっすら灰色で影がついている)の視認性が極端に低い。
猫よりこの広告を消す×印を見つけるのの難易度が高すぎやしませんかねえ!?

(25.11.27)どうせ開業たって10年以上先だしJR蒲田と京急蒲田を結ぶ通称「蒲蒲線」には、どちらかの駅の発車ジングルをカルチャー・クラブにしてほしい以外とくに要望はない。強いて言えば車体の色もレッド・ゴールド&グリーン、レッド・ゴールド&グリィーィィーン♪に、してほしいかな。
Culture Club - Karma Chameleon (Official Music Video)(YouTube/外部リンクが開きます)

(25.11.30)よほど疲れていたのだろう、明晰夢を立て続けに10回くらい見る。いや、明晰夢とゆうか「目が醒めると自分の寝室を知らないおじさんが黒い仔犬(かわいい)を散歩させながら通り過ぎるところで、部屋を出ようとするおじさんの背中に分かった!あなた幻覚(夢)ですね?と問いかけて(本当に)目が醒める」みたいなのを10回くらい。帰宅したけど冷蔵庫の配置が違う、これも幻覚(夢)だとか。らせん階段に女の子がびっしり横たわってて上に行きたいんだけど登ったらロリータ服の子とかスカートの中まる見えになっちゃうな、まずいなやめとこうと別の道を歩いてたら「11月23日は『いい兄さんの日』」と看板が出てて、あ、なんか今すごく街にあふれてる「女の子」たち全員「男の娘」だな、そしてこれも夢だな(笑)だって今日はもう11月25日だもんと夢の中で思ったり…23日でも25日でもなく30日でした。また来月。

マイノリティに変成する〜『黒人理性批判』『サハマンション』『荒潮』(25.11.24)

 「アフリカ・アメリカ人のキリスト教を苛[さいな]む問いは、キリストは本当に黒人の代わりに死んでくれるのか、という問いである」(『黒人理性批判』)
 今回また例によって前半、キチンと筋道たてて説明を試みたら晦渋になっちゃった(お前ほんとカイジュウ好きだな!円谷プロか!←そのカイジュウではない)ので、いいからサッサと本題に入れというかたはココを踏んでみな、跳ぶぜ…

      *     *     *
 フランスの「現代」思想コンビ(現代といっても半世紀前なのですが)ドゥルーズ=ガタリは、と言うより難解をもって鳴らす彼らの著作を他の何物でもなく「資本主義廃絶のプログラム」として読み解いた佐藤嘉幸・廣瀬純『三つの革命』(講談社選書メチエ/2017年/外部リンクが開きます)の主張が本当ならば、20世紀前半の共産主義革命を再構築した『アンチ・オイディプス』・世紀後半の第三世界の独立運動やマイノリティの権利運動を評価した『千のプラトー』に続く最後の共著『哲学とは何か』はマイノリティへの自らの搾取を「マジョリティであることの恥辱」として受け止めること、さらにマジョリティが「動物に変成」すなわち自らをマイノリティとして再構築することを説いた、らしい。
 23年3月の日記ではこの「マイノリティへの自己変成」を吾がこととしては実感できず「マジョリティの恥辱」(こちらなら分かる)にのみ言及していたのだけれど、このドゥルーズ=ガタリ(佐藤=廣瀬)すなわちマジョリティ側の問題提起への、当のマイノリティ側からの応答アシル・ムベンベ黒人理性批判(原著2013年→宇野邦一訳・講談社現代選書メチエ2024年/外部リンクが開きます)だ。
 いや、本当に応答なのだ。仏領だったカメルーンに生まれた著者はフーコーやドゥルーズ=ガタリ、ラカンにバタイユとフランス思想を縦横に駆使しながら、たとえば今月はじめの日記参照で紹介した(やはりマジョリティであるイギリス白人の)マーティン・バナールが軽くふれるに留めていた「近代ヨーロッパ人の白人至上主義(←こちらの「内部」告発がバナールの本命だった)が、いかに非白人の自己認識まで『自分たちは二流だ』と歪めてきたか」を、貶められた「黒人」の側から精緻に論証する。
 ムベンベ氏(1957〜)がフーコー(1926〜84)の肩を抱いて二人おなじアングルでニカッと笑ってるイラストにキャプション「いや似てない別に似てない、メガネと坊主頭が同じだけだから(互いに面識あったかも知らんて)」
 言い替えるとドゥルーズ=ガタリの訳者でもある宇野邦一氏が邦訳を買って出るまで日本で手つかずだっただけあって、前半かなり難渋でもある。けれど後半ぐいぐい加速がかかる。とくに、時間や主客まで入り乱れ幻想的な叙述を繰り広げるエイモス・チュツオーラなどアフリカ小説が描く世界を、近代ヨーロッパの合理的価値観に席捲される「前の」人類の自由な発想・いわば魂の起源(ふるさと)ではなく、そのヨーロッパの苛酷な植民地支配によって粉々にされてしまった自我の表出(そう読むしかなかったのだけど誤読だったらすみません)として捉え直すくだりは、現代思想とか知ったこっちゃないがチュツオーラの作品は好きなひとにも、今まで慣れ親しんだ幻想文学の読み直しを余儀なくさせるだろう。
 「チュツオーラ、個人的にはブライアン・イーノとデヴィッド・バーンが同名のアルバムを出してた影響で『ブッシュ・オブ・ゴースツ』は読んでるけど三倍すごいと言われてる『やし酒飲み』は未読なんですよね…これは読めという啓示?」と『ブッシュ・オブ・ゴースツ』のアルバムジャケットっぽい抽象模様を背景に考えてる自画像。
 そして「近代と人種主義は同時に発生した」と看破する著者が、だからこそ抑圧され自我を粉々にされてきた黒人の側にこそ、今の歪んだ社会をくつがえす契機があると訴える終盤は圧倒的だ。「私たちが想像しなければならないのは人間的なものの政治であり、それは根本として相似するもの(※同じ人間どうし)の政治であるが、これはまさに私たちがそのとき共有するものが諸々の差異である、という文脈においてのことである」(※部と強調は引用者)という反グローバリズムともいえる鼓舞が、まさに多数の文化に細分可能なのに「黒人」と一絡げにされてきたアフリカを梃子の支点にしていることは真摯に受け止める必要がある。なんとなれば著者ムベンベは、近代このかたアフリカが・あるいは「新」大陸に強制移送させられた「黒人」たちが嘗めてきた暴力や抑圧は、けれど黒人だけのものではないと説いているのだ。
 フランス領アフリカ出身の現代思想家の先達=フランツ・ファノンが宗主国に虐げられた自国チュニジアを表現した著作のタイトルを引いてムベンベは言う。「新たな「地に呪われたる者」とは、権利をもつ権利を拒まれた者たち、動いてはならないと決めつけられた者たち、収容所、臨時滞在センター(中略)留置場所など、あらゆる種類の監禁施設で生きる羽目になる者たちである。それは弾圧された者、移送された者、追放された者、不法滞在者、その他あらゆる「身分証明のない」(者である)そもそも序章で彼は、本著が導き出すテーマ、テーゼとして「人間存在の(略)モノへの変換、デジタルデータとコードへの変換」「さまざまな秩序の毀損、自己決定のあらゆる能力の剥奪、そしてとりわけ可能性の二つの母体である未来と時間の剥奪」21世紀・誰もが代替可能になった新自由主義・グローバル資本主義の席捲を「世界の黒人化」と呼ぶのである。アフリカ黒人が被ってきた人権の剥奪・自由の逸失は、もはや1%の富裕層「以外の」すべての人々が直面する「吾がこと」であると。ドゥルーズ=ガタリ(佐藤=廣瀬)が言挙げしてきた「マイノリティへの変成」を、こうしてムベンベは抑圧を受けてきた「先輩」の側から裏づける。

      *     *     *
【ここまでのまとめ】
1)フーコーやドゥルーズ=ガタリなどが白人マジョリティの側から「オレたち西洋近代ってロクでもないな!」と内部告発してきたものを、ムベンベは虐待されてきたアフリカの側から「うんうん、本当にロクでもなかったよ」と裏づける。
2)そしてD=G(佐藤=廣瀬)が訴えた「マイノリティへの変成」を、ムベンベは「むしろ望まなくてもそうなるね(全人類的な自由や人権の剥奪=世界の黒人化)」と請け合う。

 『千のプラトー』期のDGが第三世界やフェミニストなどの権利「獲得」「拡大」に着目していたとすれば、『哲学とは何か』は21世紀には同じマイノリティの人権「剥奪」こそが哲学(この世界をどう捉えるか)の焦点になるという予言の書だったのかも知れない。だとすれば、その極限は、たとえばガザで繰り広げられている光景だろうか。「黒人化する世界」の極限にあるのが「ガザ化する世界」でないと、誰に言えるだろう。

 『82年生まれ、キム・ジヨン』(スマンしんどそうなので未読)が大ヒットしたチョ・ナムジュサハマンション(原著2019年/斎藤真理子訳・筑摩書房2021年/外部リンクが開きます)は私企業が囲い込んで独立国家となった『タウン』、いわば正社員にあたるL層と(待遇的に)非正規雇用に相当しそうなL2層・そしてL2ですらない最下層からなる格差社会にして管理社会を、最下層たちが吹きだまる「サハマンション」を軸に描く物語だ。
 つまり生真面目に分類すれば「近未来SF」に位置づけることが出来る。同じ韓国の、こちらは一棟つうても674階あるマンションが単体で国家(的なもの)と化したペ・ミョンフン『タワー』(24年5月の日記参照)と同じ箱に入れられそうだ。サハマンション、SFでいいのかよ?同時に頭に浮かんだのは、こちらは中国のSF=ハオ・ジンファンの「北京 折りたたみの都市」(20年6月の日記参照)であり、そしてこれはSFではないがマレーシア映画『brother ブラザー 富都のふたり』(今年2月の日記参照)だった。
 SFでないものまで含めてしまった、これらの作品の共通点は何か。過密都市・またはその過密を集約したような一棟の高層建築が物語の主舞台になること。その建物は『サハマンション』や『富都のふたり』に顕著なように、国籍を喪失した者・市民権を剥奪された非正規滞在者たちが摘発をおそれながら雨粒をしのぐ最後の逃げ場所であること(ここでムベンベが「世界の黒人化」として国籍喪失者に力点を置いていたことが思い出されたい)。非正規滞在者への弾圧と蔑視は、もちろん吾が国でも現実の問題だ。つまり上記にあげた作品群の、もうひとつの共通点として、SFとも取れる設定を用いながら、現在の社会の問題(格差社会・管理社会・企業支配・なにより人権剥奪)と地続きのテーマを直に扱っていることが挙げられる。
 書影。『黒人理性批判』(左)と『サハマンション』(右)
【再度ここまでのまとめ】
3)ムベンベが説く「いやでも黒人化する世界」を、韓国や中国やマレーシア(台湾合作)=アジアの作家たちは敏感に作品に反映させている・ようにも見える。
4)それらの作品は近未来(でもある現代)を社会学的な「構造的不正義」として捉え、排除され遺棄されるマイノリティの視点から描いている。
 こうした作品が、僕の知らないところで、この国(日本)でも生まれているのだろうか。いちおう言っておくと、こうしたテーマを作品に昇華させることは、作者としての僕の手には余る。自分以外の誰かに期待する。いや別に日本の作家がものしなくても、現にこうして他の国の作家がものして呉れているのだから、それを享受すればいいのだけど。国籍じゃなくて、同じ階層(同じ問題意識の持ち主)で結託すれば。

      *     *     *
 興味ぶかいのは「黒人化」「マイノリティへの生成」というムベンベやDGの社会哲学的な主題を逆転写することで、上に挙げた作品=『サハマンション』や「折りたたみ北京」・『富都のふたり』を読み解く文芸的・文学部的な試みが「そうか、これらの作品を特に切実にしているのは、自分たちをマイノリティに寄せていく作り手や受け手の意識(または意識の変化)なんだ」と気づけることだ。
 現在のテクノロジーや社会問題を十年か百年か進んだ形で描くことで社会批評的なSFを描くことはできる。けれど『サハマンション』を『サハマンション』に(そして「折りたたみ北京」や『富都のふたり』の姉妹に)しているのは、そこではない。
 たとえば故・伊藤計劃氏が残した近未来SF―『虐殺器官』や『ハーモニー』が現代=すでにあるヤバい未来を鋭く作中に盛りこんだ、すぐれて社会批評的な作品であることは疑うべくもない。けれど、その主人公たちは(たとえば最後に現代から爪弾きされた例外的な存在であることが明かされるとしても←ややネタバレ)基本的に女性であっても「タフガイ」で、そこに読み手じしんのマイノリティ性・フラジリティ(フラジャイルさ)を見出すには、かなりな想像力の跳躍を必要とする。
 『三体』の劉慈欣が激賞し、『あなたの人生の物語』のテッド・チャンが英訳したという陳楸帆荒潮(原著2013年/中原尚哉訳・早川書房2020年/外部リンクが開きます)も・現代世界への社会学的な批評を含んだSF・超管理社会と超格差社会を独立国家のような閉域に集約という意味で『サハマンション』〜『富都』と同じ箱に入れても良さそうな作品、に見えなくもない。(いみじくも台湾の呉明益が『複眼人』で着目したのと同じ)廃棄物問題をモチーフにした点でも、環境アセスメントの名目で第三世界を食い物にするグローバル企業の手管も、鋭い社会への警鐘たりえている。その着想の豊かさ・解像度の高さ・スケールの大きさに「おいおい、これはサハマンションなどを軽く凌駕するのでは」と最初は思ってしまう。
 上の書影(黒人理性批判・サハマンション)のさらに右に『荒潮』が並んでいたことが明かされる引きの書影。
 なので『荒潮』が、そのスケールの大きさゆえに、一面では『サハマンション』を軽く凌駕しながら、一面では『サハマンション』の「刺さりよう」には匹敵し得ない(個人の感想です)ことは、創作論として興味ぶかいことだった。皮肉なことに、解像度を高め、スケールを大きくすることで、物語は「よくある壮大なエンターテインメント」に「終わってしまう」こともあるらしい。いちばん辛辣かも知れない言いかたをすると「なんかマーベル映画みたい」。主人公の米米は脱法のゴミ収集で労働基準法ナニそれで酷使される非正規移民の少女―というスタート時点では「マイノリティへの生成」の鑑のような設定だが、彼女がやがて世界の命運すら左右する存在に変じていくさまは(マーベル映画のブラック・ウィドウこと)スカーレット・ヨハンソンが超能力ヒロインを演じた『LUCY』と変わらない。あれはあれで面白い映画だったけれど「ただの」面白い映画だったなあというのは、次々供給されるゴチソウに口が驕った発言だろうか。
 皮肉なことに「よし社会問題か、盛りこんでやろうじゃないの」と腕まくりしてモリモリ盛りこみすぎた作品は、情報量やエンターテインメント性では(こう言うと下げてるみたいだけどエンターテインメント性って、とっても大事かつ得がたいものですよ?)勝っても「刺さる」切実さでは、ずっと素朴で駆使できる「技」もささやかな・けれど抑圧される無念・排除される憤りに寄り添った小規模なディストピアに勝てないことも、あるらしいのだ。
 過ぎたるは及ばざるがごとし。もちろん「過ぎたる」を目指すならば、それでもよい。けれど社会と物語を上手く、切実につなげるには、その饒舌さが逆に妨げとなることも、あるのだろう。せっかく引き合いに出したドゥルーズの言葉を最後のオチにするならば動きすぎてはいけないことが、創作においても、あるのかも知れない。なんか下げちゃってごめんね、荒潮。面白いは面白かったんだよ…

そんなところに殿はいないぞ(25.11.09)

 もう30年以上前の作品なのでネタバレを許していただこう。『死ぬことと見つけたり』は時代小説作家・隆慶一郎氏の絶筆のひとつ(数本の連載を掛け持ちしたまま亡くなった)で、未完ながら氏の最高傑作と呼ぶに相応しい長篇だ。タイトルのとおり「武士道とは死ぬことを見つけたり」で知られる『葉隠』のふるさと・佐賀鍋島藩を舞台に「いざとなったら切腹すればいいんだから何だって出来る」と藩のため横紙破りな活躍を繰り広げる杢之助と、「殿に諌言して藩を救うと同時に(何しろ殿に逆らうことなので)命じられ切腹するのが武士にとって最高の死に方」と信じるがゆえに「そのためには殿に諌言できるほどの身分すなわち家老まで出世しなければ」と保身(?)のため杢之助の暴走に迷惑顔の求馬が「求馬つきあってくれ」「また馬鹿なことするのか…いつ切腹してもいいように一寸吐いて胃を空にしてから行くわ」みたいなノリで無茶苦茶やらかす物語だ。面白そうでしょお?
 デビュー作『吉原御免状』から網野史学を導入し「道々の輩(ともがら)」を大きくフィーチャーした歴史学的な功績については措く。『死ぬことと見つけたり』下巻冒頭の(鉄砲の達人でもある)杢之助と熊の対決で語られる「熊狩りは人と熊の相互理解であり、このばあい相手をより理解したほうが勝つ」は色々と応用できそうな金言であるし、昨今の熊出没に改めて考えさせられるフレーズでもあるが、それも措く。
 著者自身も恃むところがあったのだろう、絶筆ながら同作は結末までの「あらすじ」が執筆予定として遺されており、これが巻末に収録されている。じっさい同作を未完のまま大河ドラマにして、最終回は佐賀の海なんぞ映しながらNHKの松平アナ(当時)のナレーションで「あらすじ」を紹介して終わればいいのにくらい読んだ当時は思っていた(NHK大河なんて観やしないのに)。その「あらすじ」によれば、杢之助と求馬を頼もしく思いながら同じくらい憎んでもいた「殿」勝茂が亡くなり、跡目争いで生じた内紛を求馬が「三方丸く収める」秘策でかっさばくと同時に自らも責任をとり「死ぬことと見つけたり」の本懐を遂げるのだが、これに先んじて杢之助は補陀落渡海をめざすと称して、なんと「泳ぎで」西の海の彼方に消え去ってしまう。
 求馬と違い最初から出世など考えもせず、下級武士のまま殿に(憎まれながら)頼られるまでになっていた杢之助は、しかし公的な殉死が許される身分でもなかったため、そのような挙に出たのだろう。西の海に泳ぎ去る親友の背中に「よせ杢之助」もはや停められないと知りながらの求馬の叫びがこだまする。
そんなところに殿はいないぞ!!

 英語には「違う木に向かって吠える(Bark up the wrong tree)」という表現がある。これは子どもの頃に読んだ谷川俊太郎訳の『ピーナッツ』の漫画で知った。本来は狩りの獲物ではなく(なぜか)木に向かって吠えている、という意味らしいのだけれど、まんがではワンワンワンと(例によって二本足で)一本の木に向かって吠えているスヌーピーに、飼い主のチャーリー・ブラウンだか隣人のライナス少年だかが「そっちじゃないよ…こっちの木だよ」と獲物じゃなくて「正しい木」をなぜか教えるという話だった。ともあれ、そういう漫画によって「違う木に向かって吠える」という英語の慣用句を知ったのだった。実地に使ったことはない。とゆうか、今回の日記(週記)が初めてになる。
 関係はないのだけれど、同じくらい子どもの頃『ドラえもん』の漫画で、のび太少年がドラえもんに向かって「どんなもんだ!グウと言ってみろ!」と勝ち誇り、ドラえもんが素直に「グウ!」と例の3の字型の口で言うのを読んだ。「グウの音も出ない」という慣用表現を知ったのは、かなり後のことである。子どもが(も)読むような漫画でも、忖度しない大人の語彙を使うものであるらしい。なんでこんな話をしたかは最後まで読めば分かる(最後まで読まないと分からない)(グウのほうは無関係)
 わざとクレヨン風で子どもっぽく描いたのび太とドラえもん「ぐうと言ってみろ」「ぐう!!」
    ***   ***   ***
【A面】
 何か読むと「呼び水」のように関連する事例・似たような事例が次々あらわれることが少なくない。実はいつでも接しているのだが、関心が向くようになって初めて気づく・気にかかるようになるだけかも知れない。
 前回の日記(週記)で19世紀初頭のエジプトはイギリスに次ぐ世界第二位の生産力の工業国家であったというマーティン・バナール『ブラック・アテナI』の指摘を引用したのを、ご記憶でしょうか。アルゼンチンは19世紀半ばから発展を続け、1929年の大恐慌直前には世界第五位の経済大国だったらしい。
 今週のまとめ(1)。1:自分の住んでるとこ中心目線だと見逃しがちな意外な場所が繁栄していた事例は多々ある。というキャプションに流れ星を指さしてる羊帽の女の子(ひつじちゃん)のイラスト。
 クズネッツという経済学者はコレを受け「世界には四種類の国がある。先進国、途上国、日本(途上国から先進国になった)、アルゼンチン(先進国から途上国になった)だ」と言ったそうだ。たとえば次の記事:
「世界には4つの国しかない」− サイモン・クズネッツ(米)(ITマーケティングNews/外部リンクが開きます)
最後の処を読んで「ん?」と思った以外は簡潔にまとまっていると思います。もちろんこの「ん?」が「違う木」なのだけど、それは後に取っておくとして。
 まあ第一に、今のGAFAMとか植民地主義の時代の列強とか中心にした目線では、意外とゆうか忘れられがちな国が栄えていた(そして凋落した)事例はアルゼンチンだけではない、のではないか。現に既に見たエジプトがある。「ギリシャの奇跡」という語が(先週の週記で主題にした)古代ギリシャで「のみ」科学や哲学・民主主義が生まれたという近代ヨーロッパの神話ではなく、1950年代〜80年の高い成長率を指す(それが2000年代にはEUを揺るがす債務危機に陥った)という話もある。たしか戦後のイタリアも戦後急激に発展し、凋落したのではなかったか(違ってたらすみません)
 つまり世の中には、言いかたは悪いけど「棚からボタ餠」のように経済的な成功に恵まれる国や地域があるらしい。もっと言うと、その後「恵み」を失ない凋落を余儀なくされた国や地域がだ。クズネッツさんは日本が成功した処だけ見て三つめのカテゴリを創設したけれど・本来そこにはエジプトやギリシャ(イタリア?)も入るのではないか・いずれ日本も四番目のカテゴリに入って、二つのカテゴリは「栄えて凋落した国」ひとつでまとまるのではないか。「日本だけが途上国から先進国に成り上がった特別な国」と思い上がってて大丈夫か日本

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 成功に恵まれる、あるいは凋落する国「や地域」と書いたのには理由がある。
 最近知ったのだが、岐阜県岐阜市の柳ケ瀬(やながせ)は現在「日本一のシャッター街」と言われるくらい凋落した(かつて栄えていた)元・繁華街であるらしい。ビックリした。
 というのも昨年二回ほど岐阜市に宿泊して、うち一回はすぐそばに宿を取ってるんですわ。18きっぷで旅行する場合、近隣の名古屋より宿泊費が安いのと(普通列車は乗り放題だから交通費の加算がない)未知の土地への興味、何より21年2月の日記で取り上げた矢部史郎『夢みる名古屋』(めちゃめちゃ面白い本です)でオマケのように「名古屋より岐阜のほうがずっと面白い」と絶賛されていたのが気になって足を運んで、でも中継地点で着くのが夜で朝早く出発だったり、夏は暑くて街を探索どころじゃなかったりで「言うほど素晴らしいかなあ…でもまあ面白いか(土日で閉まってる繊維問屋街でなぜか開いてる古本屋とか素敵でした)」くらいが正直だったのだが、よもやよもや。
 岐阜駅周辺図。駅から1km弱の柳ケ瀬商店街、道一本へだてた反対側の区域に宿を取ってたのに奇跡的に立ち寄る機会がなかった…
・参考:雑居ビルの銭湯にも…“日本一のシャッター商店街” 復活への切り札は『廃墟ツアー』で逆手に取った町おこし(東海テレビ/24.11.7/外部リンクが開きます)
 衰退のトドメとなったデパート高島屋の閉店は2024年ということで『夢みる名古屋』が刊行された2019年にはまだ栄華の残滓が残っていたのかも知れないけれど、ターニングポイントだった路面電車の廃止(岐阜駅からの足が断たれた)は2005年というから、著者の判断の基準は量りがたい。くどいようだけど名古屋に事よせた近代化論じたいはめちゃめちゃ面白いです(大事なことなので二度言いました。『新幹線大爆破』と『トラック野郎』の比較論とか最の高)。あと自分は何処か訪ねる時にもう少し予習しような

 最盛期の柳ケ瀬には映画館は十数軒あったという話で、思い出したのは吾が神奈川県の南端・三浦市のことだ。三浦漁港を擁する街で、まだまだ漁業が盛んだった戦後の一時期には映画館が何軒もあったと伺ったのは、かれこれ30年ちかく前で、でも当時からして隔世の感があった。
 三浦半島の地図。半島の手前で鉄道が終わってるのが痛い。何軒も映画館があった漁港のある南端まで延伸の計画はあったのだが
特に三崎駅を終点とする京浜急行線の延伸計画が中断となったことで、横須賀や横浜・東京(あまりにも遠いけど)通勤者のベッドタウンとなる可能性が断たれたのは大きいのでしょう。僕が御縁がなくなってから(三年ほど逗子に職場があったのです)作家のいしいしんじ氏が一時期は暮らしてらしたとか、いま地図を確認したら30年前にはなかった私設図書館があったり(行きたくなったかこの馬鹿)経済的な繁栄だけが良いことじゃないという観点で考えれば素敵なところであり続けているとは思うのですが話が逸れました(とくに図書館で)。
・参考:コモハウス併設「三浦文庫」(外部リンクが開きます)
 もちろん小樽は今でも観光地として栄えてる組だけど、かつてはニシン漁の水揚げ地として御殿が建つほどに栄えていたというし、食生活の主菜・タンパク源の中心が魚だった時代には栄える場所も栄える理由も違った、それが当たり前だけど面白いし時代が変わると盲点にもなる。
 ちなみにYouTubeで一度こういう関連を閲覧してしまうと「こういうの好きですか?どんどん出しますね」とアルゴリズムだかAIだかに判断されて、あまり見たいでもない寂れた街の紹介動画を次々オススメされて、これも若いころ勤め先のあった茨城県の土浦市・土浦駅前なんかも随分と寂しいことになってるらしい。隣接するつくば市につくばエキスプレスが通うようになったのも、賑わいの中心がシフトする原因だったのかも知れない。

 何の話をしているか。現在目線・自分中心視線だと盲点になる理由で栄えた土地は、時代が移って状況が変わると繁栄を失なうこともある、という話だ。
 今週のまとめ(2)。1:自分の住んでるとこ中心目線だと見逃しがちな意外な場所が繁栄していた事例は多々ある(二回目)。2:けれど繁栄していた場所が衰退することも珍しくない。3:繁栄も衰退も時の運。ひつじちゃんのイラストは(1)の使い回し。
 本サイトでは何度か言及してると思うけど、ニコロ・マキァヴェッリは『君主論』で人の運命を決めるのは当人の力量=ヴィルトゥと、外的な条件=フォルトゥナだと説いている。ヴィルトゥは英語のvirtue(徳)、フォルトゥナはfortune(富・運)。印象的だったのは有名なチェーザレ・ボルジアが、強いヴィルトゥを持ちながらローマ教皇だった父の死により後ろ盾を失ない、つまり結局はフォルトゥナの喪失によって破滅したことだ(ったと思います。あんまり昔に読んだので間違ってるかも知れない)。たとえば商店街の衰退にはヴィルトゥの欠落つまり判断ミスもあるだろう、けれど漁業自体の衰退や他路線の開業などは外的条件の変化つまりフォルトゥナの変動が大きすぎたとも言えるのではないか。
 むろんフォルトゥナ=外的条件がモノを言うのは衰退・没落の時だけではない。漁業の繁栄が漁港の街に繁栄をもたらし、国際的なパワーバランスが何処かの国に「奇跡」をもたらす。
 そこで上に挙げた「世界には4つの国しかない」の、とくに日本の没落を懸念する終盤が気になってしまった。もちろん「日本の豊かさは、先人の努力と数々の幸運によってもたらされたもの」と一応「幸運」にも言及がある。けれど結語の「子供たちだけでなく大人までもがテレビゲーム・スマホゲームに熱中している様を見て、この国の将来を憂うのは私だけではあるまい」はどうだろう。いやそれ、違う木に向かって吠えてなくない?(伏線回収)

      *     *     *
【B面】
 いま読んでいる笠井潔氏の大著例外社会 神的暴力と階級/文化/群集』(朝日新聞出版・2009年/外部リンクが開きます)に、思わずのけぞるような一節があった。
「欧米よりも二十年ほど長く続いた日本経済の繁栄の秘密は、新卒一括採用と終身雇用制、賃金と地位の年功序列制、護送船団方式と中小企業の系列化と企業内労働組合、現場労働者の創意や情熱を企業が動員しうるシステム(QC運動など)、その他もろもろの日本式経営システムではなく
出発点における農村の過剰人口に見いだされなければならない

(強調・改行は引用者=舞村)
西欧における資本主義の離陸は蒸気機関などのイノベーションやプロテスタンティズムが生んだ倹約のエートスなどでなく、エンクロージャーによって農村を追われた農民や、アフリカから攫われてきた奴隷・のちには移民労働者など安価に搾取できる使い捨て労働者の潤沢な供給にもとづく、という立場を敷衍して、著者はこう続ける。
「言語や文化を共有しない移民労働者は、単純なマニュアル労働にしか向かない。労働者の創意や自発性までを徹底的に収奪する日本式経営の高度な生産性は、低廉な新規労働力を国内で大量に調達しえたという固有の条件に支えられていた」
 思い出されるのは社会学者・見田宗介まなざしの地獄 尽きなく生きることの社会学』(河出書房新社・2008年/外部リンク)だ。2009年に刊行された笠井『例外社会』にも2008年の秋葉原殺傷事件の反響が色濃く見られるが、1968年の連続射殺事件に真正面から対峙した『まなざしの地獄』(いま思うに、かなり前に発表されていた小論を2008年に単行本化したのも秋葉原の事件の反響かも知れない)は犯人の少年が憎しみを向けた東北の郷里が、吾々がイメージしがちな「昔からの閉鎖的な農村共同体」ではなく、そうした共同体が資本主義によって解体された後の個人主義の廃墟だったことを指摘している。併録された「新しい望郷の歌」によれば(最近はあまり聞かないが)かつて極めて日本的な現象と思われがちだった一家心中も、子どもを遺しても村内の誰かが世話してくれるような共同体が崩壊した後に(まず北海道の開拓地から・次いで都会から)発生・増加・定着した新しい現象だったと説く。
 全米図書賞・翻訳部門を受賞した柳美里JR上野駅公園口(2014年→河出文庫2017年/外部)が描いていたのも、東京オリンピックの建設作業員などで高度経済成長時代を支え、すり切れるように使い捨てられていく東北の出稼ぎ労働者だった。(余計なことかも知れないが能登半島の災害で同書を思い出し、大阪万博のため能登の復旧が遅れること・だけでなく復旧が遅れることで生計手段を失なった層がパビリオン建設に「おあつらえ向きに」吸収されていく可能性を個人的には懸念していた)。
 『例外社会』書影。秋葉原殺傷事件の影響もあるけれど同じ前年
レージュ・ド・フランス講義録の邦訳刊行が(83年の急逝により「性の歴史V」までで固定されてた)ミシェル・フーコー像を大きく進展・上書きした(生政治の解像度が上がった)のものも本書執筆の大きな動機だったのかも…
 戦後の復興も繁栄も、共同体を破壊された農村の人々を搾取の原資にすることで成り立っていた(言わずもがな、その「仕上げ」として福島に押しつけられた東京のための原発の津波被害があった)(だとしたら、これらは先人の「努力」などと美化していいものではない)というのは、この国を「三番目のカテゴリ」にした成功にたいする、最も冷たい解釈だ。
 そこまで残酷でなくとも、地の利により植民地化を逃れた・戦後の東西対立においてアメリカの前線基地として重要視された・朝鮮戦争の特需によって潤ったなどなど、外的条件(フォルトゥナ)に繁栄の理由を帰する視点はいくらでもある。
 逆に、これらの対極にあるのが「先人の努力があったから」「日本人は有能だから」と、内的な卓越性(ヴィルトゥ)で成功を説明しようとする立場だろう。さらには過去の成功だけでなく「だから今後も成功するはずだ」と未来まで勝ち取ろうとする声は、安倍政権(とくに第二次安倍政権)の継承者を自認する新内閣のもとで今後ますます大きくなるかも知れない。なので「それは違う」「そんなところに殿はいないぞ」と釘をさしておきたい。
 考えてもみよう、エジプトやギリシャやイタリアが近代や20世紀になって爆発的な繁栄を見せたとき「エジプト人は最古の文明を誇る民族だから」「ソクラテスやアリストテレスを輩出したギリシャ人ですから」「イタリア人はローマ帝国(以下略)」と自賛した人たちがいただろうか。いや、いたかも知れないけれど、それは外からどう見えたか。

 そして売り言葉に買い言葉で言いますけれどね、これから日本が没落して三番目から四番目のカテゴリ、アルゼンチンやギリシャの仲間になるとしたら(「これからなる」じゃなくて、もうとっくに片足か両足か突っ込んでる気もするけれど)それを「時の運」以外に誰かの責に出来るとしたら、ロクに決定権も持たない下っ端労働者や・まして子どもじゃなくて、この社会だか経済だかの舵取りをしてきた社長や大臣や経営コンサルタントがまず責められるべきじゃ、ないんですかねえ?
 これが言いたかっただけの今週かも知れません。さらばじゃ。

西洋近代の非西洋的起源について〜マーティン・バナール『ブラック・アテナI』(25.11.03)

***これまでのあらすじ***
 文化人類学者で活動家でもあったデヴィッド・グレーバーと考古学者のデヴィッド・ウェングロウの大著『万物の黎明』で主筋とは外れた余談として、18〜19世紀のヨーロッパで(それまでの貴族制からは考えられない)試験で採用された官僚が運営する国家という全く新しい制度が急に発生したのは、(10世紀の宋の時代には同様の制度が確立されていた)中国からの遅ればせの影響ではないかという説が提示されていた。(25年9月の日記参照)
***あらすじおわり***

 自分にとってはまったく新しい論点だったけれど、さて何処から勉強していこうかと思ったところ、同書のまた別の項で言及されてた別の本に(まるで常識と言わんばかりに)またこんな一節があった:
「中国では、道徳・知識に秀でたものが試験によって選ばれ、さらにきびしい訓練・研修を受けたうえで政務にあたるという、因習を排した合理的方法による統治が行われていた。(中略)フランスにおける一八世紀半ばの政治・経済改革、中央集権化や合理化は、そのほとんどとは言わないまでもかなりの部分が、中国に範をとって行われたのである」
そういうことは早く言ってよ!と言いたくても言えないのは、この一節(またしても本筋とは関係ない余談)が記された本が原著1987年・邦訳でも2007年と、とっくに出ていた本だからだ。求めよ、されば与えられん。けれど自分が何を求めてるか知らないうちは、与える側(本の神様?)も与えようがないのであった。
 書影『ブラック・アテナI』。今回のサイト日記の標題の元ネタであるグレーバー『民主主義の非西洋的起源について』と並べて。
というわけでマーティン・バナールブラック・アテナI(片岡幸彦監訳・新評論/版元の紹介ページは見つからなかったので代わりに丸善ジュンク堂のページにリンクしてあります)
全四巻の構想だった(2007年の時点では三巻までの刊行で中断)シリーズ全体に付された副題は「古代ギリシア文明のアフロ・アジア的ルーツ」・第I巻の副題が「古代ギリシアの捏造 1785〜1985」。大がかりな「ブラック・アテナ論争」を呼んだという同書の主旨:現代の西欧文明が自分たちのアイデンティティの祖と仰ぐ古代ギリシャ文明は、語彙も思想も多くを古代エジプトに負っており、そもそもギリシャ自体エジプトの植民地だった・ギリシャ人そのものがアフリカ系の黒人だった―は(特に後半は)少なくとも現時点での僕の関心ではない。ちなみに検索で「ブラック・アテナ」と引くと「ブラック・アテナ トンデモ」という検索候補がサジェストされたりもする。近ごろは「トンデモ」という言葉も逆にうさんくさいこともあるし、古代の言語がどうとか正直そういうことには関わりたくない

 僕の関心はあーでもないこーでもないという古代ギリシャの「実像」よりも、後世に入ってからのバナール言うところの「捏造」(韻を踏んでいる)にある。古代ギリシャ自身も、17世紀くらいまでの西欧も、古代エジプトの思想や哲学の影響を公言していながら、18世紀以降にわかにエジプトを切り捨て成立した「(白人の)ギリシャだけが科学や哲学・合理主義の起源で、西欧だけが正しくそれを継承し近代化を成し遂げた」という物語への、著者の異議申し立てに、だ。
 まずもってプラトンやピタゴラス自身がエジプトから多くを学んでおり、ヘロドトスもギリシャ文化へのエジプトの影響を公言している(という)。キリスト教がローマ・ひいてはヨーロッパの中心となってからもヘルメス主義・新プラトン主義・グノーシス主義として受け継がれたエジプト由来の思想は、ルネッサンス期に開花する。ピコ・デ・ラ・ミランドラをはじめ哲学者たちはエジプトに帰依し、フリーメイソンや薔薇十字団などの結社運動が見ため合理主義的な啓蒙主義を裏から突き動かす。アメリカの1ドル紙幣の裏に(フリーメイソンのシンボルたる)ピラミッドが描かれているのも、ナポレオンがエジプトに遠征しピラミッドの測量を試みたのも事実そうなのだから、1)古代ギリシャ自体がエジプトの思想を継いでいる2)ヨーロッパもエジプトの影響を受けてきた―この二点は受け容れていいのではないだろうか。イスラム数学に多くを負ってもいるコペルニクスが地動説に到達したのも、カンパネラが理想郷を描いた物語のタイトルが『太陽の都』(未読)なのも、上述のとおり(デヴィッズやバナールらの説を信じるなら)中国由来の官僚制の導入に熱心だった時代のフランス国王・ルイ14世が「太陽王」を名乗ったのもエジプトの太陽神崇拝の影響だと、こう並べると流石に何処まで信じていいのか分からないけれど…
 要はそれまで支配的だったキリスト教ベースの哲学や文化・社会を覆し、超越するため、啓蒙主義者たちはエジプトに賭けた(とバナールは主張する)。先に取り上げたWデイヴィッド『万物の黎明』も援用すれば、「新」大陸の「発見」でキリスト教中心のヨーロッパ文化が大きく揺らぎ→当の「新」大陸由来の文化はもとより中国由来の官僚制やイスラム経由のギリシャ科学さらにエジプト思想の導入で一新を図ったとなるだろうか。そのエジプト熱の本質は魔術―(神に定められるのではなく)人が自らの・そして世界の主人として運命をコントロールすることにあった(という)。
 キャプション「今週のまとめ。15〜17世紀:「新」大陸・中国・中東経由ギリシャ・エジプトなどの影響を受け容れ西欧世界の一新を図る。18世紀〜現代:白人のギリシャとそれを継承した西欧だけが合理的・理性的な近代の源流と自賛」に、目のついたフリーメイソンのピラミッド(光ってる)を包むように手で覆い「??」と困惑している羊帽の女の子「ひつじちゃん」のイラスト。
 それが18世紀に入り「ギリシアの奇蹟」と呼ばれるように急にギリシャばかりが神格化される。言い替えるとギリシャ〜ヨーロッパの白人(この頃コーカソイドという名称も考案されている)だけで理性や科学・合理主義を独占し、非白人=エジプトも中東もアフリカも先住民のアメリカもインドも中国も迷信や陋習に囚われた、遅れた地域として排除・断罪した。言うまでもなく、それは産業革命を成し遂げ世界経済のトップに立った西欧の自負(吾々の素晴らしさが非白人に由来しているはずがない)と自己正当化(遅れた非白人たちを優れた白人が支配するのは当然だ)によるものだろう。小国ギリシャがイスラム圏の大国トルコ・ひいてはそれに与したエジプトの支配を脱せんとしたギリシャ独立戦争(1821〜)も、ギリシャ熱に拍車をかけただろう。
 またインド・ヨーロッパ語族の発見が(ギリシャも含むとした)アーリア人至上主義につながり、セム語やハム語(セム族やハム族)が蔑視されるようになる。「ギリシアの奇蹟」はフランスの思想家ルナンの言葉らしいが(23年5月の日記参照)、バナールが主犯として責めるのは後にアーリア人優生思想でとんでもないことになった国・ドイツの学界だ。『ブラック・アテナI』の中盤〜後半はこの「科学的」を自称するギリシャ・ヨーロッパ上げと非ヨーロッパ下げの今から見れば醜態がこれでもかと列挙されるので、正直かなり読み進めにくい。日本は神国だというオカルト的な思想が戦前の日本軍部をいかに席捲していたかとか、進化の過程でアトランティスがどうとかしながら結論として白人が最も優れた人種・どころか非白人は同じ人類ですらない(こちらはナチスに結実する)だとか、そういう「明らかに間違ってるし、動機として邪悪でもある」それこそトンデモを詳らかにした本を読んでる時と同じ腹立たしさと、それでいて笑い飛ばせない共感性羞恥がまあ読む意欲を削ぐこと。
 ちなみに 幸泉哲紀氏が巻末に寄せた解説で引用している当時の英語圏の書評によれば「本書は組み立ても悪く、気の長くなるほど繰り返しが多く、さらに専門的で詳細な史料に覆われており、一般の読者や素人には勧められる書物ではない」早く言ってよ!(本日二回め)

 ともあれ。バナール氏自身のエジプト上げも論争を呼ぶ不確かさではあるらしいが、合理的だの科学的だのと自賛する近代ヨーロッパの世界観も相当なもの(しかも差別的)でゲンナリさせられる。その高慢に西欧人として内側から楯突いた意義は大きいと思う。その楯突く相手が異論を許さないアカデミズム=大学制度で、非難の大きな部分がまさにその「異論を許さない(18世紀以降ギリシャ推し以外を閉め出した)」ことであったのが、また論争を大きくしたのかとも思うけれど…
 以後エジプトにたいする関心は継続したり再燃したりはするが、それは西洋の起源ではなく隔絶したエキゾチシズム・オリエンタリズムの対象として、でしかない。
 キャプション「日本でも『王家の紋章』からジョジョや遊戯王・謎のメジェド様ブームまで(僕にはよく分からない)エジプトへの熱い関心は続いていますが…」に「やはりエジプトか私も同行しよう」とキメ顔をする花京院のすごぉく適当なイラスト(ズキュウウウン)を添えて
 ムハンマド・アリ将軍(1769〜1849)統治下で推進された近代化をロシアのピョートル大帝や日本の明治天皇のそれと並列するバナールは「ロシアや日本の場合と同様に(中略)これらの強力な近代化(中略)は、軍隊の近代化と武器の自前調達(が目的で)(略)さまざまな面で弊害を招いたことは否定できない」と釘をさしつつ「しかしこの事業は、短期的に見るならば大成功で(略)一八三〇年代に達するまでに、エジプトは近代的工業生産能力において、イギリスに次ぐ世界第二位の地位を占めるに至ったことは注目に値する」と記している。この近代における成功も、西欧列強中心主義で隠蔽・抹消された事象のひとつらしい。
 こうした西欧一強史観は「コーカソイド」を吾こそ世界の主人なりと思い上がらせる以上に、非白人・非西欧の地域や社会・文化や民族に属する人々にまで「吾々は二流だ」「一流にはなれない」という諦めを内面化させてしまった点で罪深いとバナールは告発している。不幸な(不毛な、とまでは言いますまい)論争よりも、こうした正義感の発露こそ本書の白眉であるかも知れない。

      *     *     *
 個人的な関心領域から、もうひとつ意外だったのは、ギリシャこそ近代西洋文化の原型というとき(科学や哲学と並んで)ギリシャは民主制のふるさとだからという意味があると僕などは思っていた、それも本書で覆されることだ。
 『ブラック・アテナ』が論じるところでは、まずプラトンからしてアテネの民主政を嫌い非民主的なスパルタに肩入れしていたし、哲学者が統治する理想の国家を描いたとされる『国家』(未読)にしても「プラトンの共和国は、国家の構成原理としての労働分割に関する限り、エジプトのカースト制度のアテネ的理想化にすぎない」とはマルクスが『資本論』(未読)で評するところだ(という)。
 逆に何なら読んでんだ、というキャプションに冷や汗を垂らしながら「えと…『要塞都市LA』とか?」とボケる自画像←適当に思いついて書いたけど、あれはあれで名著よ。
前述のカンパネラ『太陽の都』も同様。
 前に軽く示唆した「平等という概念は人類の歴史のなかで比較的あたらしい発想なのではないか」という論点にも通じるし、『万物の黎明』でも言及されていたことなのだけど、昔の人々は平等や民主制というものを、21世紀現在の吾々が思うほど評価してはいなかったようなのだ。

 バナールもソレが主張したかったのだとは思うけれど、歴史学のような学問でさえ、しばしば扱っている過去ではなく論者が現代をどう捉えたいかを残酷に映し出してしまうようだ。言い替えると、Wデヴィッドによるアメリカ先住民の再評価やフェデリーチの中世ヨーロッパ見直し(23年10月の日記参照)・バナール氏のエジプト推しは、過去の捉え直しを提案すると同時に、現代がよしとしている価値観を覆したい欲求のあらわれでもあるだろう
 前にも書いてるし追い討ちはハシタナイけれど、つい50年前には「アジアの中でどうして日本だけがヨーロッパに比肩する近代化を成し遂げたのか」みたいなことが大真面目に論じられていた。そうして提示された日本の地政学的(?)優位も「ギリシアの奇蹟」も、あるいは日本の侵略は解放だったも世界最古の文明が富士山に栄えていたも、過去をどう解釈するかで現代を正当化する・過去をバトルフィールドにした侵略合戦であるのかも知れない。それは時に侵略された相手を二重にも三重にも踏みつけてしまう(二流民族だというレッテルを内面化してしまった非白人の例)、そういう意味でも残酷な話なのだ。


    ***   ***   ***
(追記)15〜17世紀にエジプトがヨーロッパに与えた最大の影響が「魔術(人間による運命のコントロール)」であるならば、いくらエジプトを「正しく」再評価しても、その思想でもって(15〜17世紀に―アメリカのドル紙幣にピラミッドを刻むほど―そうしたように)「現代」を再び覆すのは悲しいけれど困難だろう。フェデリーチが中世の魔術(ウィッチクラフト)について「今の吾々も星占いをするけれど、そうしながら定時出勤のために目覚まし時計で目覚めてる時点で(今の星占いには)何の力もない」と看破しているように。過去を見直すことで現在に異議申し立てをする場合でも、過去を復古させることは(たぶん)できないのだ。歴史を学ぶことに出来るのは、過去に何を失なったか残酷なくらい思い知らされたうえで、過去でも現在でもない新しい未来をつくる手がかりを提供すること(だけ)ではないだろうか。

小ネタ拾遺・25年10月(25.11.01)

(25.09.30)いつかこの人が歴史に裁かれる時には、この一事をもって弁護側の席に就いてもいい。本人Instagramより首脳会談のため訪れた韓国で、2001年に新大久保駅で線路に転落した人を助けようとして落命されたイ・スヒョンさんの墓前に献花する石破茂首相(25.09.30/外部リンクが開きます)。
(25.10.01追記)もちろん、あれを一番「うまい」パフォーマンスを選びおってと斜に構えることだって可能なんだけど、彼の後を襲おうという与党の次期総裁候補がそれすら出来そうにない、能登の地震で政治家として何もせず赤十字の募金箱を笑顔で子どもに差し出すだの、子ども食堂に押しかけて自分の誕生日だからと言って自分にケーキを振る舞わせるだの、お前ら社会人ですらないじゃんという連中ばかりで、んー今まで石破首相にも現在の総裁候補にもあまり言及してこなかったけど(言及する気力すらなかった)(正直ああいう与党・こういう世の中を選んできた皆様が今度は「這いずり回って世界を救ってみせろ」よとしか思えない)まあともかく月初から荒くれている。
(同日追々記)月初から毒を吐いてしまったので若干マイルドに言い直すと、「日本人の我慢強さを実感する。1年前とおんなじ茶番劇を、おんなじ政局談議つきで見せられて、ストもデモも起きない」「にわかに脚光を浴びる視察先。スーパー、保育園、学童保育、こども食堂。かえって、ふだん軽んじているものが、浮かび上がる」自民総裁選をめぐって、そこそこ舌鋒するどい朝日新聞のコラム「素粒子」(25.09.29/外部リンクが開きます)それがどうしてこう…と最後の一行でズコーと滑ったのは、滑った僕が特別に偏屈なのか?みんなコレでいいのか?いいならコレでいい皆でこの社会をなんとかしてくれ、出来るんだろ?

(25.10.11)まあ建前上この連休はB☆Wで実質半額のうちの冊子とか読んでねと宣伝すべき処ですが(セールでした)(僕じしんが僕の作品を味方しなくてどうするよ)現実にはむしろ、石破首相の退任所感を未読するに値する時間かも知れない。
戦後80年、歴史認識は「引き継ぐ」石破茂首相の所感全文(朝日新聞/25.10.10/外部リンクが開きます)
防衛庁長官・防衛大臣を歴任し、党内きってのタカ派として知られた同氏が「戦後50年・60年・70年の首相談話ではあまり触れられてこなかった"なぜあの戦争を避けることができなかったか"」「国内の政治システムは、なぜ歯止めたりえなかったのか」論じた所感に(その限界も含め)、元連合軍ヨーロッパ方面最高司令官の肩書きで米大統領となったアイゼンハワーが、いわゆる「産軍複合体」の台頭に警鐘を鳴らした退任演説(1961年)を想起したひとも少なくないでしょう。3.11の後に地元広島から発信していたらしいWebジャーナリストのかたが、詳細な註をほどこした全文も併せてどうぞ:
アイゼンハワーの離任(退任)演説(豊島耕一訳)(哲野イサクの地方見聞録/外部リンクが開きます)
(25.10.12追記)石破首相の退任スピーチ、対外侵略への反省や(戦争の原因として)天皇への言及がないと批判の声もあがってるけど、私見では何より欠けててまずいのは国民(民衆)こそが熱烈に軍拡や戦争を支持したという指摘で、けれど構造的に首相の立場で「お前らのせいだよ」と国民を責めることは出来ないのも分かるので、それは国民(民衆)が自ら言わなきゃいけないことなんだけど、件のスピーチにアレが足りないコレが足りないと言い立ててる人たちも(僕の狭い狭い観測の範囲では)「自分たちの責任」は言う人が見られないので、こうしてヒッソリ火中の栗を拾う次第。
(同時追々記)おそろしいことだけど政権なり何なりをひっくり返すには今のマジョリティ、大谷選手の活躍に喝采したりノーベル化学賞を現在アメリカ国籍の人物が取っても「生まれは日本なので日本人の快挙」と快哉を叫ぶことにも疑問を感じない「ふつうの日本人」までもが「今の政権ではダメだ」となるしかないんだけど(現に前の政権交替はそうだった)前回はともかく今度「自民じゃダメだ」と唱える大多数が何に飛びつくか考えると、まあわりと悲観的。

(25.10.02)国産米の価格高騰の思わぬ副作用として、今まで少し贅沢のつもりで買っていたジャスミン米・バスマティ米などが、さほど変わらぬお値段になってしまった。後者(長粒米)の贅沢感が薄れたと言うより、米を買って食べる生活そのものが贅沢になりつつある以外の何物でもなくて慄くのだけれど。長粒米はもちろん汁系のカレーやタイカレー、炒めごはんなどにも合うけど、余裕がない時は市販のラーメンスープに挽き肉やキノコ、適当な野菜を加えて煮立ててぶっかけるだけで、手抜き&エスニック(?)な一食に。
左:担々スープごはん・右:醤油とんこつスープごはん。
もちろん長粒米をオートミールに置き換えてもいい<スープごはんの場合。「そうなってくるとラーメンスープが割高だなぁ」という気持ちになってきたら、それが生活の始まりってもんだ。
ちなみに長粒米は湯取り法(ぐらぐら沸かしたお湯にザッとお米を入れて最初くっつかないよう念入りに掻き回して、10分ゆでたらザルにゴパーッとあけて、火にかけたままの鍋に戻して少し水分を飛ばしたら、火を止めてフタをしてまた10分で出来上がり)生米250gが140g強のごはん四食分になる。パラパラしてるから140gでジャポニカ米150g〜160g分くらい容積があるので、ダイエットに向いてるかも知れません。

(25.10.05)自分で買ってるから知ってるんだけど、コストコみたいな会員制でない・誰でも入れる食料品店でたぶん一番廉価な冷凍ハッシュドポテト(ハッシュブラウン)て「ハラル認証」を取得してるんですよね。でも製造元はベルギーで、ヨーロッパ産のジャガイモを使用したもの。思うにコレは多様性だ何だじゃなくて純粋に、ベルギー国内の市場だけではペイしない、世界的に販路を広げたいという局面でハラル認証を取得しとけばグンと受容者層が拡がるって適応策なんですよね。現に結果こうして日本にまで販路が伸びてるわけだし。こういう形のグローバル化もあることは、少し考えの隅に置いといたほうがいいと思うのだ。ヴィーガン用の味覇があるってことは、それが商品として成立しうるくらい需要が見込めるんだ、とかね。
 ベルギー直輸入・ヨーロッパ産ポテト使用の冷凍ハッシュブラウンのパッケージ表画像。隣に裏面に示されたHARAL FOOD COUNCIL OF EUROPEの文字があるハラル認証マーク画像。

(25.10.07/小ネタって長さじゃねぇぞ)ジュディス・バトラー欲望の主体(原著1987年/大河内泰樹ほか訳・堀之内出版2019年/外部リンクが開きます)ほぼ読了。19世紀ドイツ思想の巨人ヘーゲル(未読)が20世紀フランスの哲学者たちによって、いかに「我有化」つまり独自な切り取りや敷衍や読み替えをされてきたか縷々たどった博士論文(加筆)で、当然サッパリ分からない(堂々と言うことか)。でも長く生きてれば、どんな本でも切り取れる処はあるもので、「欲望は満足に対する欲求でも、愛の要求でもなく、愛の要求から満足に対する激しい熱望を抜き取ったことから結果する差異、それらの分裂Spaltungの現象である」というラカン(未読!)からの引用と、それに加えたバトラーの注釈「欲求は満足よりもむしろ愛の証明を求める」「そして、欲望は(中略)それが実際には欲していないものを追いかけ、それが最終的には獲得できないものをいつも欲している」は、そう名指されてはいないけれど、まるでプルースト『失われた時を求めて』を読み解いた言葉のようだと思ってしまった。どこかの本でドゥルーズが、これは名指しで「(この主人公たちは)愛ゆえに嫉妬するのでなく、嫉妬するために愛する」と評したプルーストである。『欲望の主体』にはサルトル(未読!!)によるプルースト評もあって、それは僕の読後感とはあまりに違うので略すけど、プルーストを名指してない文章で「人が現実で完全な自己を実現させることは不可能だが、小説はその実現不可能なさまを描くことで世界を完全にわがものにできる」と書いてる(ような)のも、あの長大な小説の要約のようで、他にもジラールとかフーコーとか、様々な思想家が「我有化」したプルーストを、誰か新書なり文芸フリマの新刊なりで網羅してみませんかねえ。
 『欲望の主体』タイトル部分。電車の中で読むには絶妙に恥ずかしい標題…
プルーストには関心ないけど、今の世の中どうしてこうなんだとお嘆きの向きには、こんな切り取りはどうでしょう―重要なのは、強者と弱者、主人と奴隷は、共通の基盤を持たないということである。両者は共通の「人間性」や、文化規範の体形の一部として理解されてはならない」(強調は舞村)―ミシェル・フーコー『思考集成IV』を引いての、バトラーによる注釈です。分かりあえると思うな、牙を剥け!(我有化)

(25.10.10)近年の韓流・華流ミステリやサスペンスを読んでいて、語り手=一人称の主人公が女性であることに数十ページ気づかなかった体験を一度ならずしている。叙述トリック…ではなくて、もちろん読む側の思い込みのせいだ。探偵なら男だろう、保険の勧誘員は女性でも保険調査員は男性だろう、取材のため南極に住んでみる物好きなんて男に決まってる(21年3月の日記参照)…ネタバレになるので当然タイトルは申し上げられないけど、怪しい借金取りのゴロツキが探偵の「わたし」を同類だと思い込み女にもこの稼業のやつがいるとは初耳だなとうそぶくのを読んで、それでもなお「男の主人公を見て、おいおい女が来たぜと言うのか、すごいトキシックな侮蔑表現だな」と思い込んで数行を読み進め「あ、違う、本当に女なんだ」とようやく気がつき(すでに40頁目)トキシックなジェンダー偏見にどっぷり浸かってるのは怪しいゴロツキじゃなくて読んでる自分だったと改めて恥じ入るのでした。ミステリを読んでいて犯人が自分だったたぐいの読書体験。
(同日追記)当然そういうのは男に決まってるという読む側の偏見が、つまり「読者自身が犯人だと名指されるミステリ」という概念で(後になって)思い出されたのは、生きるため男だと偽ったことでどんどん追いつめられていく女性を描いたブレヒトの演劇『セツアンの善人』。僕がよく引き合いに出す「世界を滅ぼすかどうか判断するため使わされた天使たち」というモチーフを外枠にした物語でもあった。

(25.10.13)
ガザは孤独ではない。

 爆撃、飢餓、渇き、病気が同居している

オマル・ハマドオマルの日記(最所篤子 編訳・海と月社2025年/外部リンクが開きます)は読み進めるのが苦しい一冊。誰の遺体か特定すら出来ないバラバラの肉片を75kgずつビニール袋に入れて、各々の家族の亡骸として分配しあう地獄の日々。何もせず傍観する全世界を呪詛しながら、ケイト・ブランシェットの授賞式でのパレスチナ支持のパフォーマンスや、日本の有志の支援には感謝の言葉をあげずにいられない悲しみ。それを安全な場所で読む苦しさ。
 書影。左『オマルの日記』・右『レイラの最後の10分18秒』
そんな苦悶と絶望の言葉の中からでも(失なわれた喜びとして)本に言及した箇所があればチェックし、手にして見聞を広めたくなる己の度しがたさ。トルコの女性作家エリフ・シャファクの名を本書で知って、引き合いに出されているのとは別の小説だけど、邦訳のある『レイラの最後の10分38秒』を次に読む本にセットしたところです。
(25.10.21)じゅうぶんに知ることも優位に立つこともできない世界においては、無料で得られるただひとつの喜びが音楽なのだ…『オマルの日記』でも言及されていた「トルコで最も読まれている女性作家」エリフ・シャファクの代表作レイラの最後の10分38秒(原著2019年/北田絵里子訳・早川書房2020年/外部リンクが開きます)読了。ひとりの娼婦の生涯と死を通してセックスワーカー・移民・トランスジェンダーなど男権社会の周縁で虐げられた者たちの「時に血より濃い水の友情」を描く英ブッカー賞・オンダーチェ賞(いつの間にか賞になってたよオンダーチェさん)最終候補作。痛々しい描写も多々あるけれど、それも含めて2020年代の今まちがいなく読むに値する・もしかしたら「読むべき」一冊かも知れません。
 エリフ・シャファクは『この星の忘れられない本屋の話』という、これも日本語で読めるアンソロジーにも寄稿しているそうで、来週からの読書週間にどうでしょう皆さん。
『オマルの日記』(こちらも読了)ではアフガニスタンの作家カーレイド・ホッセイニの『カイト・ランナー』という小説も大規模な虐殺が始まる前の愛読書として挙げられており、こちらもそのうち読むつもり。
(25.11.01追記)エリフ・シャファク『レイラの最後の10分38秒』10/21に取り上げた時には書き落としていたけれど・トランスジェンダーの登場人物が小さからぬ役割と存在感を示す・その描写が(いわゆるピンクウォッシュに利用される「豊かなゲイ」の表象とは真逆の)トランスジェンダーの置かれる貧困・差別・セックスワークや場末のショービジネスなどの「賎業」に伝統的かつ構造的に押しこめられてきたことを否応なく踏まえていること、において近年のアジア映画『ジョイランド 私の願い』『モンキーマン』(24年11月の日記参照)あるいは『brother/ブラザー 富都のふたり』(今年2月の日記参照)と足並みを揃えていることに、まだ上手く言語化できない(なので書きそびれていた)思うところあり。またしても「アジアはひとつではない・けれどつながっている」(池澤夏樹)かも知れない。日本はどうか。

(25.10.26/小ネタ/すぐ消す)速報:着る毛布、早くも登板。これはもうTシャツなど売れる時季ではないなあ…と思いつつ掲示は続けますが→
ふだんづかいできる反差別Tシャツがあると自分が便利なので作りました。

(25.11.01追記)決して安い買い物ではないので期待してはいなかったけど、数人は関心を示したり購入してくださったりして心強い。別にこのTシャツでなくても「反差別を思う人たちが、それを表現・表明することがカジュアルになればいい」その裾野になれればと思ってます。

この車両から降りろ!〜□ート製薬「デジアイ」(25.10.19)

 天野祐吉さんというかたがいらした。肩書きは広告批評家。70年代の終わり―糸井重里・林真理子・仲畑貴志といったコピーライターが脚光を浴びだした頃だろうか、その名も『広告批評』という雑誌を立ち上げ、新聞で毎週一回テレビCMを取り上げるコラムを執筆し、そして年末には筑紫哲也氏が司会をつとめていた報道番組にゲスト出演して同年の日本の広告を総括されていた。
 その天野さんが、ある年の年末、筑紫氏の番組で例年どおり日本のCM、視聴者=顧客の関心を惹こうとするあの手この手を紹介したあと、最後に「でも僕が今年いちばん印象に残ったCMはコレなんです」「今まで見たこともないようなCMでした」と取り上げたのは、アメリカのファッション・ブランド「GAP」のコマーシャルを、日本でも同型のまま放映したものだった。僕は人生のかなり早い時期にテレビ受像機という装置を手放し、たまに実家に帰る時くらいしか番組もCMも観る機会がなかったので、1999年だという放映時期が少し信じられない。いや、年末には実家に帰っていたので筑紫さんの番組で天野さんが喋るのを観る機会はあったろうけど、それより前に僕も番組のあいだのCMとしてコレを観て「なんかすごい」と思ったのを憶えているのだ。
 
 地味な色のカジュアル・ウェアをまとった若者たちが唄っているのはドノヴァンの「メローイエロー」、1999年という放映時期が事実なら丁度20年前・1969年の時代もののナンバーだ。この後もGAPは若者たちが新旧のヒット曲を合唱するCMシリーズを続けたけれど、この「メローイエロー」の印象を上回ることは到頭なかった―というのは個人の感想だけど、おそらく天野氏も同意されただろう。
 このCMがどうして(当時の僕や天野氏の目には)異彩を放って見えたのか、説明することは難しい。広告らしい「この商品が」「買って」的なアピールが、まるで希薄に見えることもあるだろう。ちなみに唄われているドノヴァンの歌詞も60年代の終盤、ドラッグの影響で幻覚や幻想を主題にしたサイケデリック・ロックが流行った時代の産物で、要は「まるで意味不明」と評されている。余談に余談を重ねると、ドノヴァンの別のヒット曲「ハーディ・ガーディ・マン」に至っては、デヴィッド・フィンチャー監督が実在したシリアル・キラーを描いた映画『ゾディアック』のテーマ曲に採用され、それが違和感ないくらい不気味なのだった(映画を知ってしまった後で聴くとコンディションの悪い時は本当に体調が悪くなる級なので動画リンクとか貼らないけど、逆に怖いもの見たさ聴きたさの人にはオススメかも)
 しかし改めて、この「メロー・イエロー」CMがもつ、なんなら少々ホラーめいてすらいる異様な魅力を、一目みて「うわ変」と通じないひとに(いや通じるひとにも)説明することは難しい。同作がその後のCMの流れを変えたかどうかも分からない。

 なんでこんな話をマクラにしたかと(はい、例によってマクラです)といえば、まったくベクトルは違うんだけど「もしかしてコレは(コレも)(コレはコレで)時代を画するスゴい広告なんじゃないだろうか」と思わされる広告に、昨晩たまさか遭遇したからだ。とうに泉下の人となった(2013年没)、そして生前には「九条の会」の賛同者でもあったという天野さんが、この広告を見ることがあったら、どのような印象を抱かれたことだろう。
      *     *     *
 まっすぐ本題に進むと、それは電車の一車両の内側にある広告スペースすべてを一企業の一商品がジャックした・買い切ったキャンペーンで、売り出されていたのは(検索避けに一部を伏せ字にするならば)□ート製薬の「液晶ディスプレイの見過ぎで疲れた目に特化した目薬」というコンセプトの新商品だった。
 広告形態の特性上、もう二度と遭遇できないかも知れないので、うろ憶えになるが、すでに薄れつつある記憶を可能な限り書き留めておこう。
 余白を大きくとった横長の白紙の左上に黒字で「あなたが幸せを感じる時は?」みたいな質問文が記されていて、これは車内に貼られたどの広告でも共通している。回答のバリエーションは何種類かあって、白紙の真ん中に大きく黒々と「一日30分の読書」「朝起きて白湯を飲む」「自然な陽光をいっぱいに浴びる」「自分探しの旅に出る」みたいな模範回答が書かれている―が、これが本当の回答ではないのが、その広告の核心だった。
 いかにも世間いっぱんの、建前上の「幸せ」の下には、少し小さく、紫の文字で
一日30分の読書 じゃなくてカラオケ・アプリで熱唱
実際の文面は「じゃなくて」ではなく「の代わりに」「よりも」だったかも知れないけれど、ともあれ
朝起きて白湯を飲む じゃなくて夜通しでドラマを一気見
自然な陽光をいっぱいに浴びる じゃなくて推しのSNSをいっぱいに浴びる
自分探しの旅に出る じゃなくてひたすらエゴサーチ
横長の白紙の下のほうには「41歳・IT関連業務」みたいな肩書きがついて、この「41歳・IT関連業務」の人物が「あなたが幸せを感じる時は?」と問われて「一日30分の読書 じゃなくてカラオケ・アプリで熱唱」と答えている体裁になっている。
 そして紫の字で書かれた「じっさいの幸せ」「本音の幸せ」は、よくよく見れば(よくよく見るまでもなく)どれも液晶モニタを凝視するたぐいの営みで、そんなデジタル疲れ目には、新商品の目薬をと(間接的に?)サジェストしているわけだ。
 上に説明した広告の「30分の読書よりカラオケアプリ」バージョンを再現した手づくり画像。
 なんか「逆に」スゴい広告だと慄いてしまったのは、たまさか僕が車内で読めるよう「本」を持参して、その車両に乗り込んだ―からだけではないだろう。GAPのCMほどではないけれど、この広告も(何がスゴいか)サッパリ分からない人も、おいでかも知れない。簡単に言ってしまうと本広告は「今どきの幸せって、世間一般で言われてるアナログな喜び(A)より、もっとデジタルな液晶モニタごしの喜び(B)ですよね」というメッセージにすんなり同意できない層(世代?)にとっては「ここで一度、デジタル漬けの生きかたを考え直さないか?」という逆の問いかけとして機能してしまうのだ。読書よりもアプリ、日光浴よりSNS、旅よりもエゴサーチ、それでいいのか?囲まれちまってるぞ?と。

 今まさに自分がしてるのも液晶モニタを前にデジタルな機材で作成した文章をネットに放流する作業そのものなので(それとこれとは)「ちゃうねん」と、いちおう説明したほうがいいだろう。いや、実は「ちゃわない」弱みも幾分かはあって、特にまだSNSに籍を置いて盛んに発言していた頃しばしば自ら苛まれた「弱み」のひとつは「商品を紹介し消費を煽ること以外に表現の手段はないのか」ということだった。
 つまり何かを表現したい、この世界について語ったり伝えたりしたいと思った時。こういう本を読み面白かった、こういう映画を観て感銘を受けた。どこそこに旅行に行って、こんなおいしいものを食べた―どれもこれも商品の紹介・消費の扇動ではないかと暗い気持ちになることが少なくなかった。先週の日記(週記)では「インターネットは放送という行為を、認可を受けた放送局の独占から解放して、地球に住む60億人それぞれが、60億の放送局を開けるようにした」という言葉を「それは差別の扇動も可能にした」という文脈で取り上げたけれど、もうひとつ「実際フタを開けてみたら、60億の放送局は(自分に直接的な利益があるにせよ、ないにせよ)何か商品を売るための"民放"だったか」とウンザリすることも、しばしばだった。
 どのみち人は人と関わらないと生きていけない・酸素を吸って二酸化炭素を吐きだすように何かを受け取って何かを手渡す「やりとり」なしに人生も幸せもありはしない、それはそれで(これほど孤独が好きな僕ですら認めざるを得ない)事実だ。けれどその「やりとり」「人と人の関わり」が大量生産な規格品の購入と消費・とくにプラットフォーム資本主義(23年9月の日記参照)と呼ばれるような寡占資本を必ず仲介しなければならないのはナチュラルではない・少なくとも人の営みとして例外的な、偏った状況ではないか。
 いつから吾々はカラオケ屋に行ったり、ダウンロードしてインストールしたカラオケ・アプリを使ったりしなければ歌を歌うことも出来なくなったのだろう。
 千葉と茨城の県境の田舎に住む母は、編み物をしては作ったセーターやらマフラーやら、あるいは焼いたクッキーやらフルーツケーキやらを乞われるままに周囲に与え、周囲の人たちも家庭菜園や借りた農場で収穫した野菜やら何やらを惜しげもなく与えてくれる、貨幣もプラットフォームも介さない(そして「等価」でない)交換のネットワークの中に暮らしている。そういう生きかたは人間関係のしがらみでもあって、そうしたしがらみが苦手な僕は「お金がないと買えないものしかない」都会の生活に甘んじているわけだけど、そんな僕ですら一時間も二時間もただ歩くために歩いたり、本を読むのと同じくらいの時間それについて考えて文章を書いたり、広告の白紙の真ん中に黒い太字で書かれるような古いタイプの「幸せ」を享受している。
 そうした者から見てしまうと「今どきの幸せは寡占プラットフォームが提供するコンテンツを、お金を買って消費することです」「それで目が疲れたら、さらに疲れ目を癒やす商品を買いなさい」というメッセージで一両が埋め尽くされた電車の車内は、資本主義・貨幣経済という監獄と化した社会の縮図・比喩のように思われた。ジョン・カーペンター監督の映画『ゼイリブ』では地球はすでに異星人の支配下にあり、特殊なサングラスをかけて見ると街じゅうにある広告看板はすべて「OBEY(従え)」という真のメッセージが大書されている(だけ)なのが分かってしまう。その偽装の不徹底ゆえに、僕が昨晩みた車内広告は本来ならば「OBEY」と命じるべきところを「見なさい、この社会はあなたに"OBEY"と絶えず迫っているんですよ」と改めて暴露する機能を果たして(しまって)いた。広告の批評(雑誌)ならぬ(社会)批評の広告。なにせ、広告の主旨としては斥けるべき、昔ながらのアナログな幸せのほうを、大きく、黒々と、太字で書き出していたのだ。
 車内じゅうに「OBEY」と広告が貼られた電車の中でサングラスごしに振り返る羊帽の女の子「ひつじちゃん」のイラストだが、適当に描いた電車内のパースが変なのが遺憾。
 なので、件の広告を見た僕のなかでは、このところ頭の中をしばしばよぎっていた「逃散」という言葉が、ますます大きく浮かび上がっている。昔の人々がよくしたような、『ゾミア』で書かれているような、奴隷や農奴としての労働や苦役・重税つまり「生産の強制」からの逃散ではなく、画一的な消費を迫られることからの逃散だ。

 先に引いた23年9月の日記に限らず「現代においては(老マルクスが説いたような生産の場だけでなく)バウマンが説いたように消費の場こそ搾取の主戦場らしい」とは本サイトで何度も断片的に示唆してきたことだ。
 せっかく広告がテーマなので久しぶりに蒸し返すと―これ実は(誰にも何も言われんかったけど)自分がこのサイトで書いてきた中でも「いいこと指摘できた自分」と恃んでる回だったんだけど、後にサブリミナル広告の妄想?陰謀論?にズブズブはまってしまったウィルソン・ブライアン・キイさん(〜2008)が初期の著作で書かれていた「現代は(いちど買えば満たされる欲求ではなく)買っても買っても満たされない渇望を売る時代」(2020年3月の日記参照)だという洞察は、件の目薬の車内広告が「デジタルな幸せ」として売ろうとする推し活・コンテンツ消費・そして何よりエゴサーチの底なし沼に、またもピッタリではないだろうか。
 キャプション:今週はコレを憶えて帰ってね(俳句)(違う)(季語がない)「現代は買えば満たされるパンみたいな欲求ではなく、買っても買っても満たされない渇望を売る時代」W.B.Key(1921-2008)似顔絵を添えたけど、黒い背広と黄色いシャツの襟が、なんだか袈裟を羽織ったお坊さんみたいになっちゃった。
 だから、ねえ、そろそろ「OBEY」と広告が一面に貼り出された電車を、途中下車する算段も考えませんか。
 もちろん本当に、完全に「物を買うこと」から降りるのは難しいでしょう。だけど「もっと耽溺しろ、争うように愉しめ、目が疲れたら目薬を差してでも、決して充足できないように作られた車輪を回し続けろ」というオーダーに沿わない別ルートを「保険で」「リスク分散で」確保しておくことは、控えめに言っても損ではないと思うのです。編み物をして、ケーキを焼いて。旅に出向いて、白湯を飲んで。陽の光を浴びて。
 そして本を読みましょう。来週から読書週間。

この国で最後の「シャン」を見たかもしれない話(25.10.12)

最後の螢を見た僕ら 最初のロケット見た僕ら
さねよしいさ子「子供の十字軍」

 今週のメインとなる「シャン」の話はTwitter(現X)で何度か蒸し返したことがあって、まあそのたび特に反響もなかったのだけど、もしかしたら貴重な記録かも知れないのでサイトのほうにも残しておくことにした。その話は聞き飽きた、というかたがいらしたら申し訳ない。あと1983年以降の天然の「シャン」の目撃情報、ゆるく募集しておきます。

    ***   ***   ***
 最近とつぜん天啓のように気づいたんだけど、日本人がRADIOのことラジオって呼んでる(読んでる)の、英語の発音はレィディオゥーなのに田舎者だからRADIOをベタにローマ字読みしてんのプププとかじゃなくて、さいしょ戦前にドイツ語として入ってきたからではないのか。
 いや、確証はないねんけど
(エセ関西弁)、カルテにクランケと医学用語はドイツ語が多いしリポビタンDが「ディー」じゃなくて「デー」なのもドイツ語、というのは数十年前に北村薫氏のエッセイで読んでたのに、ラジオのことは思いつかなかった。英語とドイツ語で交互に唄ってるクラフトワーク(ドイツ語読みだとクラフトヴェルク)のドイツ語パートだと、たしかに「ラディオ」と発音してるのに、これも数十年、耳に親しく馴染んでたのに深く考えたことがなかった。無知の知!
Kraftwerk - Radioactivity(YouTube/外部リンクが開きます)
あれ?カルテはドイツ語?さらに古くてオランダ語?ターヘル・アナトミア?無知!(確認したところカルテはドイツ語でした)
 キャプション「向こうでは同じ物をさす単語が日本に入ってきた時期によってカルタ(葡)・カルテ(独)カード(英)と違う意味になるのも面白いですよね」に「スペードのA(エース)」のトランプ(カード)を手にした舞村さん(仮名の)イラストを添えて。

 それで思い出したのが「シャン」のことだ。
 昔の俗語・外来語にはドイツ語由来のものが多かったようで、軟派なところでは若い女性のことを「メッチェン(たぶん英語で言うところのメイデン meidenでしょう)」そして美女のことを『シャン」と呼んでいた。
 現在は死語だと思う。だいたいデリカシーのない若い男性などが使っていた俗語らしく「バックシャン」などという派生語があり、こちらのほうが長持ちした可能性はある。バック=後ろから見たら美人という、まあ酷い意味だ。
 死語だと思うと言うだけあって、僕じしん、この「シャン」を現役の言葉としてリアルに使ってるのを見聞きしたことは一度しかない。1982年、ジャッキー・チェンが監督・主演したカンフーアクション映画の金字塔『プロジェクトA』が日本で劇場公開された時のことだ。
 現在のようにアクション映画がインフレのように高度化・複雑化した今では想像しにくいかも知れないけれど『プロジェクトA』は当時は画期的な作品だった。それまで日本で知られていたジャッキー主演作が清朝時代の中国を舞台にカンフーの良い一派と悪い一派、良い一派の放蕩息子ジャッキーが心を入れ替え修業して最後には悪の親玉を倒すという単線的な筋書きだったのに対し、植民地時代の香港を舞台に善玉だけでも海上警察と陸上警察の内輪もめ・それに街の小悪党が三つ巴となり、しかし後半は結束して大悪玉の海賊退治に乗り出す重層的なストーリー。拳で決着をつけるカンフー映画ながら、随所で手榴弾を用いた爆発シーンを見せ場にし、特に最後、ラスボス海賊王の強さを示すために(あ、注意:今週の日記には映画『プロジェクトA』の重大なネタバレがあります(遅い))ジャッキー単独では歯が立たず、良いもん三人プラス1の四人がかりで、しかも殴り合いではなく絨毯でグルグル巻きにした中に手榴弾を放りこむ反則技で、どうにか倒す演出が画期的だった。
 その『プロジェクトA』前半で仕事道具の艦船を海賊に破壊され、失意のうちにライバルの陸上警察に併合されたジャッキーたち水上警察の面々。ユン・ピョウ演じる陸上警察の隊長は、ここぞとばかり配下となった水上警察の面々をいびり倒す。野外訓練中に他所見をして、演習場の横をパラソルなんぞ差して通り過ぎる外国の貴婦人(メッチェンですなあ)たちを品定め、後にテレビ公開された吹替版では見ろ、いい女だな」「お前、どっちを選ぶ?とコソコソおしゃべりしていた水兵ふたりはユン・ピョウ隊長に見とがめられ「見ろ、いい女だな」「お前、どっちを選ぶ?」と百回復唱されられる罰を喰らう。夜中に寝言で「ムニャムニャ…見ろ、いい女だな」とうなされる処までがワンセットの、コミカルなエピソードだ。
 この「見ろよ、いい女だな」「お前、どっちを選ぶ?」(吹替版)が、劇場公開時の日本語字幕ではハクい」「シャンだだった
 ユン・ピョウ隊長に見とがめられハクい」「シャンだを百回。夜中にうなされハクい」「シャンだ。スクリーンに投影できる字幕の字数には限界があり、なるべく簡潔で短い表現が良しとされたためである。ちなみに「ハクい」は「佳人薄命(美人薄命)」から生じた「美人」をさす俗語で(不良っぽい言葉のわりに教養ベースで機知がひらめいてるのが面白い)こちらのほうが使われていた期間の長さは兎も角、後々の時代まで使われた表現ではなかったかと思う。「シャン」はといえば、うわあ「シャン」て現役の言葉として使ってるの初めて見た!と驚いたくらいで、その後この単語を実際の会話として使っている姿を見たことはない。
 とゆうか「バックシャン」みたいな派生形をのぞけば、いや「バックシャン」も「昔はこういう言いかたをした」と間接的な用法しか見たことはないのだが、「シャン」という言葉をそれ以前に見たのも一度きり。1970年に小林信彦氏が書いたジュブナイル小説『怪人オヨヨ大統領』に「シャン」という表現が出てきて、小説内で語り手の小学生・ルミちゃんが(そんな古い言葉を使うなんて、この人たち何歳かしら)と訝しむ扱いだったのだ。ともあれ、それでかろうじて「シャン」(美人のこと)(そして1970年の時点で死語)の存在を知っていたわけで、要するに1982年の『プロジェクトA』は僕が実際に使われてるのを見聞きした、たった二回きりの二回目、もしかしたら日本で「シャン」という言葉が使われた最後・少なくともかなり最後に近い事例ではなかったかと(勝手に)思っている。
 もちろん僕が見聞き出来る範囲など、ごくごく限られているので根拠にとぼしい憶測でしかないが、この文章を読んでいるあなたが「そもそもシャンなんて言葉、初めて知った」と思っているなら、この憶説は憶説なりに信憑性も増すのではないだろうか。逆に1983年以降「シャン」を見たよ、という目撃情報がありましたら、拍手など通じて御教示いただけたら幸いです。

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 これで終わりにしても良かったんだけど、最近のニュースを見て、もうひとつ思い出したことがある。
 2004年、アメリカに戦争を仕掛けられていた真最中のイラクで日本人が現地の武装勢力に囚われる事件が発生した。武装勢力は同国のサマワに駐留していた自衛隊の撤退を要求、受け容れられなければ人質を殺害すると発表したが、小泉純一郎首相は「テロには屈しない」として要求を拒否。最終的に人質は無事解放されたが、日本国内では人質にたいする激しいバッシングが起きた。
 このいわゆるイラク日本人人質事件のバッシングで(僕が見聞きした範囲でも、市井の人々の「テレビに出ていた人質の家族の態度が悪い」「解放された人質がタバコを吸っているのが気に入らない。しおらしくしろ」など、なかなか人徳に溢れた意見が多くて日本人の「美質」について大いに悟らされた)当時の国会議員が、人質を反日分子と呼んでいるのをニュースで見て強烈に記憶に残った。
 反日ならまだしも反日「分子」。「シャン」と同様、現役の言葉として僕が見聞きした最初の用例だった気がする。それも同じ日本人を相手に。その語を発したのは、それこそ『プロジェクトA』と同時代に放映されていた夕方のTVバラエティ・漫画家と絵心のあるタレントたちがフリップにポンチ絵を描いて回答する大喜利形式の番組で、タレ目の司会者として人気を博したアナウンサーだった人物で、後に自民党から出馬・当選するも、たしか一期か二期で(二期はなかったと思いたい)政界を去り、中央のテレビ界からも消えたはずだ。別に政治家として小粒だったことを云々するつもりはなくて、むしろ出自は庶民的なアナウンサーが、たまさか手にした国会議員という絶大な立場を(圧倒的な力の不均衡を承知で)国民三人を圧殺するために用いた、それを哀れなこととして憶えている。
 改めて、僕の見聞きの範囲など限られているので「シャン」以上に、それなら他の誰それが言ってたよ、使ってたよという用例はいくらでもあるだろう。それでも国会議員が自国民を「反日分子」と名指しするのは前代未聞・いや過去にはあったが死に絶えていたはずの言葉が復活したようで、「シャン」は最後(?)だったけれど、こちらは今後また「良識ある日本人」の皆様がここぞとばかりに使ってゆく「最初の」用例になりはしないかと、剣呑な気持ちにさせられた。
 紙のメモ帳に描いた羊帽の女の子(ひつじちゃん・着色)に添えてキャプション:いやすんません、今おにぎりに全振りでこっちの文意に沿った絵や画像を用意する余裕がないんですわ…これでご勘弁
 つい先日、ガザに食糧や医療品など必要な物資を届けようと試み、イスラエル軍に拿捕・強制退去させられた「グローバル・スムード船団」(Global Sumud Flotilla)の、世界44ヵ国から参じたメンバーの中に、日本出身オランダ在住の62歳の女性が、ただひとりの日本人として加わっていたと報じられていた。法的にも人道的にも問題のある、この拿捕・収容所への拘留・強制退去について、日本政府は何らの抗議もしていない。この女性に、かつての「反日分子」のようなバッシングが日本国内から起きることを懸念しないでもなかったが、僕の改めて、改めて、狭い、狭い、狭い見聞の範囲では、日本ではなくオランダに戻った彼女について目立った非難の声はあがっていない・そもそも存在すら知られていない感じのように思われる。良いのか悪いのか。良くはないのだろうけど。

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 冒頭に音源へのリンクを貼ったクラフトワークの「Radioactivity」は「Radioactivity is in the air for you and me」(放射能―それは空気中にある、あなたと私のために)というフレーズで始まるが、近年、とくに3.11以降はその皮肉というかブラックユーモアを素のまま「お出しする」ことが出来なくなり、繰り返す「Radioactivity」の前にいちいち「Stop」と挟んで「Stop radioactivity」(放射能を停めろ)と唄うことがステージ上の慣例となっている。日本のバンド・BUCK-TICKも、代表曲のひとつ「スピード」の「これが最後のチャンス 自爆しよう」というフレーズを2001年9月11日以降は「自爆しよう」を「愛しあおう」と置き換えて唄うようになった。尖った歌詞を唄っていた若い頃の彼らを無責任と責める気になれないのと同様「毒気が抜けてツマラナイ」などとパソコンの前でくつろぎながら言えるものでもないだろう。
 アルバム『放射能』は、元AKBグループで今は声優として活躍されている女性がアイドル時代にテレビのバラエティで、同期の仲間たちが十代やハタチそこそこの女の子らしい「お気に入り」を披露する中「好きなアルバム」としてプレゼンして周囲を困惑させていた映像を、後になって観たことがある。僕も(彼女よりは一回りも二回りも年嵩だけど)十代やハタチの頃は自分が生まれる前のドアーズだのヴェルヴェット・アンダーグラウンドだの聴いていたので親しみが湧く。てゆうか彼女、当人の年齢としては僕より若くして『放射能』を聴いていたわけで(僕が『放射能』にハマったのは、たぶん25を過ぎてから)、一曲目でタイトル曲の「Radioactivity」も上に貼ったとおりシングル向けの際立ったチューンですが、曲の終わりに被さるようにイントロが聞こえていた二曲目も、また素晴らしいのですよ。
Kraftwerk - Radioland(YouTube/外部リンクが開きます)
activityのつかない単なるラジオ(radio)も、そもそもドイツで普及したのはナチスが宣伝放送を国民みんなに聴かせるため開発された廉価タイプによるものだったと思えば「放射能」に劣らず、皮肉で毒のあるテーマと言える。もちろんラジオによる政治的宣伝はナチスの専売特許ではなく、大統領時代のルーズベルトはラジオ談話を積極的に用いたというし、ナチスの脅威に抗するためイギリス国王がラジオ放送で国民を鼓舞したという神話は映画『英国王のスピーチ』で描かれたとおり。何より21世紀の吾々は20世紀後半のルワンダでの虐殺で差別を煽るラジオ局「千の丘ラジオ」の扇動が果たした役割を知っている。
 インターネットの黎明期に「これが何を意味するか分かるかい?放送が認可を受けた放送局の特権じゃなくなって、地球に住む60億人それぞれが、60億の放送局を開けるってことなんだ」と語ったひとがいたという(浜野保樹『イデオロギーとしてのメディア』)。それは60億人それぞれが「千の丘ラジオ」となって「反日分子」みたいな言葉を撒き散らす力を持ち得た、ということでもあると、どうかわきまえていてね。RadiolandならぬRadio"Rim"landがWi-Fiの電波に乗せて(今週)言いたいことは以上です。御静聴ありがとう。

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