(25.11.09)メイン日記(週記)更新。日本の没落を誰かのせいに出来るとしたら、ロクに決定権も持たない下っ端労働者や・まして子どもじゃなくて、
この社会だか経済だかの舵取りをしてきた社長や大臣や経営コンサルタントがまず責められるべきじゃ、ないんですかねえ? という話(?)。画面を下にスクロールするか、直下の画像(公式)をクリックorタップ、または
こちらから。
【私信】24日の件、了解しました。
(25.11.11)36/40。
米価その他もろもろ高騰の折「みんなもやろう」とか適当に言えないし、自分も今年が限界かなと思ってるけど、今年は頑張る。
・
おにぎりアクション2025 (10/7〜11/15・外部リンクが開きます)
(25.11.08/小ネタ/すぐ消す)JR大塚駅そば・ビルの2階にある「宇野書店」は「街の本屋さん」を謳う小さな手書き看板から正直さほどの期待もなく階段を登ったのだけど、登ってびっくり入口で靴を脱いで上がるしくみの店内は緑の人工芝が敷き詰められた中、余裕をもってレイアウトされた木の棚に人文系の書物や岩波文庫・岩波少年文庫・講談社学術文庫などが一揃い。現代日本のいわゆる論客みたいな人たちの著書が並んだ平積みに、途中で「宇野」書店て(読んだことないけど)(すみませんねえ)
宇野常寛さんの個人書店か と突然気づく。
・参考記事:
#今月の本屋さん 宇野書店(東京都・大塚) (PIE International/25.8.05/外部リンクが開きます)
記事に使用された写真は今年8月・オープン前の内覧会のもので招待客でごった返してますが、今はいい具合に落ち着いてます(
落ち着きすぎてちょっと心配 。近くのラーメン屋とかには行列が出来てるのになあ)。キャッシュレスのセルフレジで無人の店内には座れる場所と丸座布団がいくつも配されており、ちょうど良かったので自分が持ってるのとは別の文庫で出ているフロイト『モーセと一神教』(
昨年10月の日記 参照)(
今年3/15の小ネタも お読みいただくと分かるとおり同書に関しては自分の理解にとんと自信がないのよ)の解説だけパラパラと、立ち読みならぬ座り読み。それとは別に未読だった網野善彦氏の文庫をピッして持ち帰りました。
今は
「福島亮太氏が選ぶ100冊 」と銘打ってマクルーハンから人工知能・哲学から脳科学・『
今すぐソーシャルメディアのアカウントを削除すべき10の理由 』なんて挑発的な書名の本まで(
わははは )選書されたフェアを開催中。自由に持ち帰れるリーフレット形式の100冊リスト(すべて選者のコメントつき)だけでも、近場のひとは取りに行く価値あり?ちなみに網野氏からはちくま文庫の『
日本の歴史をよみなおす(全) 』が選ばれていました。
* * *
ふだんづかいできる反差別Tシャツがあると自分が便利なので作りました。
【電書新作】『
リトル・キックス e.p. 』成長して体格に差がつき疎遠になったテコンドーのライバル同士が、eスポーツで再戦を果たす話です。BOOK☆WALKERでの無料配信と、本サイト内での閲覧(無料)、どちらでもどうぞ。
B☆W版は下の画像か、
こちらから (外部リンクが開きます)
サイト版(cartoons+のページに追加)は下の画像か、
こちらから 。
扉絵だけじゃないです。
side-B・本篇7.1話、6頁の小ネタだけど更新しました。
(外部リンクが開きます)
今回ひさしぶりにシズモモの過去エピソードを見直し「やっぱり好きだな、この話とキャラたち」と再認できたのは幸せなことでした。そして色々あったり無かったりしても、ペンを持って物語を紡いでいる時が、自分は一番幸福らしいとも。次に手をつける原稿は(また)シズモモではないのですが、何しろ描くことは沢山あるのです。
ちなみに今話タイトルの元ネタは井上陽水の「
愛されてばかりいると (星になるよ)」。同曲が収録されたアルバム『ライオンとペリカン』のB面(side-B)に入ってる「
お願いはひとつ 」は個人的に一番好きなクリスマスソングの最有力候補です。レノンと争う。
RIMLAND、電子書籍オンリーですが20ヶ月ぶりの新刊『
読書子に寄す pt.1 』リリースしました。
タイトルどおり読書をテーマにした連作に、フルカラー社畜メガネ召喚百合SF「有楽町で逢いましょう」24ページを併催・大量リライト+未発表原稿30ページ以上を含む全79ページ。頒布価格250円(+税)で、一冊の売り上げごとに作者がコーヒーを一杯飲める感じです。下のリンクか、
こちら から。
書誌情報(発行物ご案内)はおいおい更新していきます。(22.11.03)
【生存報告】少しずつ創作活動を再開しています。2022年に入ってから毎週4ページずつ更新していたネーム実況プロジェクト、7/29をもって終了(完走)しました。
GF×異星人(girlfriends vs aliens)
これまでの下描きは消去。2023年リリース予定の正式版をお楽しみに。(2022.08.08→滞ってます)
そんなところに殿はいないぞ(25.11.09)
もう30年以上前の作品なのでネタバレを許していただこう。『
死ぬことと見つけたり 』は時代小説作家・
隆慶一郎 氏の絶筆のひとつ(数本の連載を掛け持ちしたまま亡くなった)で、未完ながら氏の最高傑作と呼ぶに相応しい長篇だ。タイトルのとおり「武士道とは死ぬことを見つけたり」で知られる『葉隠』のふるさと・佐賀鍋島藩を舞台に「いざとなったら切腹すればいいんだから何だって出来る」と藩のため横紙破りな活躍を繰り広げる杢之助と、「殿に諌言して藩を救うと同時に(何しろ殿に逆らうことなので)命じられ切腹するのが武士にとって最高の死に方」と信じるがゆえに「そのためには殿に諌言できるほどの身分すなわち家老まで出世しなければ」と保身(?)のため杢之助の暴走に迷惑顔の求馬が「求馬つきあってくれ」「また馬鹿なことするのか…
いつ切腹してもいいように一寸吐いて胃を空にしてから行くわ 」みたいなノリで無茶苦茶やらかす物語だ。
面白そうでしょお?
デビュー作『吉原御免状』から網野史学を導入し「道々の輩(ともがら)」を大きくフィーチャーした歴史学的な功績については措く。『死ぬことと見つけたり』下巻冒頭の(鉄砲の達人でもある)杢之助と熊の対決で語られる「熊狩りは人と熊の相互理解であり、このばあい
相手をより理解したほうが勝つ 」は色々と応用できそうな金言であるし、昨今の熊出没に改めて考えさせられるフレーズでもあるが、それも措く。
著者自身も恃むところがあったのだろう、絶筆ながら同作は結末までの「あらすじ」が執筆予定として遺されており、これが巻末に収録されている。
じっさい同作を未完のまま大河ドラマにして、最終回は佐賀の海なんぞ映しながらNHKの松平アナ(当時)のナレーションで「あらすじ」を紹介して終わればいいのに くらい読んだ当時は思っていた(
NHK大河なんて観やしないのに )。その「あらすじ」によれば、杢之助と求馬を頼もしく思いながら同じくらい憎んでもいた「殿」勝茂が亡くなり、跡目争いで生じた内紛を求馬が「三方丸く収める」秘策でかっさばくと同時に自らも責任をとり「死ぬことと見つけたり」の本懐を遂げるのだが、これに先んじて杢之助は補陀落渡海をめざすと称して、なんと「泳ぎで」西の海の彼方に消え去ってしまう。
求馬と違い最初から出世など考えもせず、下級武士のまま殿に(憎まれながら)頼られるまでになっていた杢之助は、しかし公的な殉死が許される身分でもなかったため、そのような挙に出たのだろう。西の海に泳ぎ去る親友の背中に「よせ杢之助」もはや停められないと知りながらの求馬の叫びがこだまする。
「
そんなところに殿はいないぞ!! 」
英語には「違う木に向かって吠える(Bark up the wrong tree)」という表現がある。これは子どもの頃に読んだ谷川俊太郎訳の『ピーナッツ』の漫画で知った。本来は狩りの獲物ではなく(なぜか)木に向かって吠えている、という意味らしいのだけれど、まんがではワンワンワンと(例によって二本足で)一本の木に向かって吠えているスヌーピーに、飼い主のチャーリー・ブラウンだか隣人のライナス少年だかが「そっちじゃないよ…こっちの木だよ」と獲物じゃなくて「正しい木」をなぜか教えるという話だった。ともあれ、そういう漫画によって「違う木に向かって吠える」という英語の慣用句を知ったのだった。実地に使ったことはない。とゆうか、
今回の日記(週記)が初めてになる。
関係はないのだけれど、同じくらい子どもの頃『ドラえもん』の漫画で、のび太少年がドラえもんに向かって「どんなもんだ!
グウと言ってみろ !」と勝ち誇り、ドラえもんが素直に「
グウ !」と例の3の字型の口で言うのを読んだ。「
グウの音も出ない 」という慣用表現を知ったのは、かなり後のことである。子どもが(も)読むような漫画でも、忖度しない大人の語彙を使うものであるらしい。なんでこんな話をしたかは最後まで読めば分かる
(最後まで読まないと分からない)(グウのほうは無関係)
*** *** ***
【A面】
何か読むと「呼び水」のように関連する事例・似たような事例が次々あらわれることが少なくない。実はいつでも接しているのだが、関心が向くようになって初めて気づく・気にかかるようになるだけかも知れない。
前回の日記(週記)で
19世紀初頭のエジプトはイギリスに次ぐ世界第二位の生産力の工業国家であった という
マーティン・バナール『ブラック・アテナI』 の指摘を引用したのを、ご記憶でしょうか。
アルゼンチンは19世紀半ばから発展を続け、1929年の大恐慌直前には世界第五位の経済大国だった らしい。
クズネッツ という経済学者はコレを受け「世界には四種類の国がある。先進国、途上国、日本(途上国から先進国になった)、アルゼンチン(先進国から途上国になった)だ」と言ったそうだ。たとえば次の記事:
・
「世界には4つの国しかない」− サイモン・クズネッツ(米) (ITマーケティングNews/外部リンクが開きます)
最後の処を読んで「ん?」と思った以外は 簡潔にまとまっていると思います。もちろんこの「ん?」が「違う木」なのだけど、それは後に取っておくとして。
まあ第一に、今のGAFAMとか植民地主義の時代の列強とか中心にした目線では、意外とゆうか忘れられがちな国が栄えていた(そして凋落した)事例はアルゼンチンだけではない、のではないか。現に既に見たエジプトがある。「ギリシャの奇跡」という語が(先週の週記で主題にした)古代ギリシャで「のみ」科学や哲学・民主主義が生まれたという近代ヨーロッパの神話ではなく、1950年代〜80年の高い成長率を指す(それが2000年代にはEUを揺るがす債務危機に陥った)という話もある。たしか戦後のイタリアも戦後急激に発展し、凋落したのではなかったか(
違ってたらすみません )
つまり世の中には、言いかたは悪いけど「棚からボタ餠」のように経済的な成功に恵まれる国や地域があるらしい。もっと言うと、その後「恵み」を失ない凋落を余儀なくされた国や地域がだ。クズネッツさんは日本が成功した処だけ見て三つめのカテゴリを創設したけれど・本来そこにはエジプトやギリシャ(イタリア?)も入るのではないか・いずれ日本も四番目のカテゴリに入って、二つのカテゴリは「栄えて凋落した国」ひとつでまとまるのではないか。「日本だけが途上国から先進国に成り上がった特別な国」と
思い上がってて大丈夫か日本 。
* * *
成功に恵まれる、あるいは凋落する国「や地域」と書いたのには理由がある。
最近知ったのだが、岐阜県岐阜市の柳ケ瀬(やながせ)は現在「日本一のシャッター街」と言われるくらい凋落した(かつて栄えていた)元・繁華街であるらしい。ビックリした。
というのも昨年二回ほど岐阜市に宿泊して、うち一回はすぐそばに宿を取ってるんですわ。18きっぷで旅行する場合、近隣の名古屋より宿泊費が安いのと(普通列車は乗り放題だから交通費の加算がない)未知の土地への興味、何より
21年2月の日記 で取り上げた
矢部史郎『夢みる名古屋』(めちゃめちゃ面白い本です) でオマケのように「名古屋より岐阜のほうがずっと面白い」と絶賛されていたのが気になって足を運んで、でも中継地点で着くのが夜で朝早く出発だったり、夏は暑くて街を探索どころじゃなかったりで「言うほど素晴らしいかなあ…でもまあ面白いか(土日で閉まってる繊維問屋街でなぜか開いてる古本屋とか素敵でした)」くらいが正直だったのだが、よもやよもや。
・参考:
雑居ビルの銭湯にも…“日本一のシャッター商店街” 復活への切り札は『廃墟ツアー』で逆手に取った町おこし (東海テレビ/24.11.7/外部リンクが開きます)
衰退のトドメとなったデパート高島屋の閉店は2024年ということで『夢みる名古屋』が刊行された2019年にはまだ栄華の残滓が残っていたのかも知れないけれど、ターニングポイントだった路面電車の廃止(岐阜駅からの足が断たれた)は2005年というから、著者の判断の基準は量りがたい。くどいようだけど名古屋に事よせた近代化論じたいは
めちゃめちゃ面白いです (大事なことなので二度言いました。『新幹線大爆破』と『トラック野郎』の比較論とか最の高)。
あと自分は何処か訪ねる時にもう少し予習しような 。
最盛期の柳ケ瀬には映画館は十数軒あったという話で、思い出したのは吾が神奈川県の南端・三浦市のことだ。三浦漁港を擁する街で、まだまだ漁業が盛んだった戦後の一時期には映画館が何軒もあったと伺ったのは、かれこれ30年ちかく前で、でも当時からして隔世の感があった。
特に三崎駅を終点とする京浜急行線の延伸計画が中断となったことで、横須賀や横浜・東京(あまりにも遠いけど)通勤者のベッドタウンとなる可能性が断たれたのは大きいのでしょう。僕が御縁がなくなってから(三年ほど逗子に職場があったのです)作家のいしいしんじ氏が一時期は暮らしてらしたとか、
いま地図を確認したら30年前にはなかった私設図書館があったり(行きたくなったかこの馬鹿) 経済的な繁栄だけが良いことじゃないという観点で考えれば素敵なところであり続けているとは思うのですが話が逸れました(とくに図書館で)。
・参考:
コモハウス併設「三浦文庫」 (外部リンクが開きます)
もちろん小樽は今でも観光地として栄えてる組だけど、かつてはニシン漁の水揚げ地として御殿が建つほどに栄えていたというし、食生活の主菜・タンパク源の中心が魚だった時代には栄える場所も栄える理由も違った、それが当たり前だけど面白いし時代が変わると盲点にもなる。
ちなみにYouTubeで一度こういう関連を閲覧してしまうと「こういうの好きですか?どんどん出しますね」とアルゴリズムだかAIだかに判断されて、あまり見たいでもない寂れた街の紹介動画を次々オススメされて、これも若いころ勤め先のあった茨城県の土浦市・土浦駅前なんかも随分と寂しいことになってるらしい。隣接するつくば市につくばエキスプレスが通うようになったのも、賑わいの中心がシフトする原因だったのかも知れない。
何の話をしているか。現在目線・自分中心視線だと盲点になる理由で栄えた土地は、時代が移って状況が変わると繁栄を失なうこともある、という話だ。
本サイトでは何度か言及してると思うけど、ニコロ・マキァヴェッリは『君主論』で人の運命を決めるのは当人の力量=ヴィルトゥと、外的な条件=フォルトゥナだと説いている。ヴィルトゥは英語のvirtue(徳)、フォルトゥナはfortune(富・運)。印象的だったのは有名なチェーザレ・ボルジアが、強いヴィルトゥを持ちながらローマ教皇だった父の死により後ろ盾を失ない、つまり結局はフォルトゥナの喪失によって破滅したことだ(ったと思います。あんまり昔に読んだので間違ってるかも知れない)。たとえば商店街の衰退にはヴィルトゥの欠落つまり判断ミスもあるだろう、けれど漁業自体の衰退や他路線の開業などは外的条件の変化つまりフォルトゥナの変動が大きすぎたとも言えるのではないか。
むろんフォルトゥナ=外的条件がモノを言うのは衰退・没落の時だけではない。漁業の繁栄が漁港の街に繁栄をもたらし、国際的なパワーバランスが何処かの国に「奇跡」をもたらす。
そこで上に挙げた「世界には4つの国しかない」の、とくに日本の没落を懸念する終盤が気になってしまった。もちろん
「日本の豊かさは、先人の努力と数々の幸運によってもたらされたもの」 と一応「幸運」にも言及がある。けれど結語の
「子供たちだけでなく大人までもがテレビゲーム・スマホゲームに熱中している様を見て、この国の将来を憂うのは私だけではあるまい」 はどうだろう。
いやそれ、違う木に向かって吠えてなくない?(伏線回収)
* * *
【B面】
いま読んでいる
笠井潔 氏の大著
『例外社会 神的暴力と階級/文化/群集』 (朝日新聞出版・2009年/外部リンクが開きます)に、思わずのけぞるような一節があった。
「欧米よりも二十年ほど長く続いた日本経済の繁栄の秘密は、新卒一括採用と終身雇用制、賃金と地位の年功序列制、護送船団方式と中小企業の系列化と企業内労働組合、現場労働者の創意や情熱を企業が動員しうるシステム(QC運動など)、その他もろもろの日本式経営システムではなく
出発点における農村の過剰人口に見いだされなければならない 」
(強調・改行は引用者=舞村)
西欧における資本主義の離陸は蒸気機関などのイノベーションやプロテスタンティズムが生んだ倹約のエートスなど
でなく 、エンクロージャーによって農村を追われた農民や、アフリカから攫われてきた奴隷・のちには移民労働者など安価に搾取できる使い捨て労働者の潤沢な供給にもとづく、という立場を敷衍して、著者はこう続ける。
「言語や文化を共有しない移民労働者は、単純なマニュアル労働にしか向かない。労働者の創意や自発性までを徹底的に収奪する日本式経営の高度な生産性は、低廉な新規労働力を国内で大量に調達しえたという固有の条件に支えられていた」
思い出されるのは社会学者・
見田宗介 の
『まなざしの地獄 尽きなく生きることの社会学』 (河出書房新社・2008年/外部リンク)だ。2009年に刊行された笠井『例外社会』にも2008年の秋葉原殺傷事件の反響が色濃く見られるが、1968年の連続射殺事件に真正面から対峙した『まなざしの地獄』(いま思うに、かなり前に発表されていた小論を2008年に単行本化したのも秋葉原の事件の反響かも知れない)は犯人の少年が憎しみを向けた東北の郷里が、吾々がイメージしがちな「昔からの閉鎖的な農村共同体」ではなく、そうした共同体が資本主義によって解体された後の個人主義の廃墟だったことを指摘している。併録された「新しい望郷の歌」によれば(最近はあまり聞かないが)かつて極めて日本的な現象と思われがちだった一家心中も、子どもを遺しても村内の誰かが世話してくれるような共同体が崩壊した後に(まず北海道の開拓地から・次いで都会から)発生・増加・定着した新しい現象だったと説く。
全米図書賞・翻訳部門を受賞した
柳美里 『JR上野駅公園口 』 (2014年→河出文庫2017年/外部)が描いていたのも、東京オリンピックの建設作業員などで高度経済成長時代を支え、すり切れるように使い捨てられていく東北の出稼ぎ労働者だった。(余計なことかも知れないが能登半島の災害で同書を思い出し、大阪万博のため能登の復旧が遅れること・だけでなく復旧が遅れることで生計手段を失なった層がパビリオン建設に「おあつらえ向きに」吸収されていく可能性を個人的には懸念していた)。
戦後の復興も繁栄も、共同体を破壊された農村の人々を搾取の原資にすることで成り立っていた (言わずもがな、その「仕上げ」として福島に押しつけられた東京のための原発の津波被害があった)
(だとしたら、これらは先人の「努力」などと美化していいものではない) というのは、この国を「三番目のカテゴリ」にした成功にたいする、最も冷たい解釈だ。
そこまで残酷でなくとも、地の利により植民地化を逃れた・戦後の東西対立においてアメリカの前線基地として重要視された・朝鮮戦争の特需によって潤ったなどなど、外的条件(フォルトゥナ)に繁栄の理由を帰する視点はいくらでもある。
逆に、これらの対極にあるのが「先人の努力があったから」「日本人は有能だから」と、内的な卓越性(ヴィルトゥ)で成功を説明しようとする立場だろう。さらには過去の成功だけでなく「
だから今後も成功するはずだ」と未来まで勝ち取ろうとする 声は、安倍政権(とくに第二次安倍政権)の継承者を自認する新内閣のもとで今後ますます大きくなるかも知れない。なので「それは違う」「
そんなところに殿はいないぞ 」と釘をさしておきたい。
考えてもみよう、エジプトやギリシャやイタリアが近代や20世紀になって爆発的な繁栄を見せたとき「エジプト人は最古の文明を誇る民族だから」「ソクラテスやアリストテレスを輩出したギリシャ人ですから」「イタリア人はローマ帝国(以下略)」と自賛した人たちがいただろうか。
いや、いたかも知れないけれど 、それは外からどう見えたか。
そして売り言葉に買い言葉で言いますけれどね、これから日本が没落して三番目から四番目のカテゴリ、アルゼンチンやギリシャの仲間になるとしたら(「これからなる」じゃなくて、もうとっくに片足か両足か突っ込んでる気もするけれど)それを「時の運」以外に誰かの責に出来るとしたら、ロクに決定権も持たない下っ端労働者や・まして子どもじゃなくて、
この社会だか経済だかの舵取りをしてきた社長や大臣や経営コンサルタントがまず責められるべきじゃ、ないんですかねえ?
これが言いたかっただけの今週かも知れません。さらばじゃ。
西洋近代の非西洋的起源について〜マーティン・バナール『ブラック・アテナI』(25.11.03)
***これまでのあらすじ***
文化人類学者で活動家でもあったデヴィッド・グレーバーと考古学者のデヴィッド・ウェングロウの大著『万物の黎明』で主筋とは外れた余談として、18〜19世紀のヨーロッパで(それまでの貴族制からは考えられない)試験で採用された官僚が運営する国家という全く新しい制度が急に発生したのは、(10世紀の宋の時代には同様の制度が確立されていた)中国からの遅ればせの影響ではないかという説が提示されていた。(
25年9月の日記 参照)
***あらすじおわり***
自分にとってはまったく新しい論点だったけれど、さて何処から勉強していこうかと思ったところ、同書のまた別の項で言及されてた別の本に(まるで常識と言わんばかりに)またこんな一節があった:
「中国では、道徳・知識に秀でたものが試験によって選ばれ、さらにきびしい訓練・研修を受けたうえで政務にあたるという、因習を排した合理的方法による統治が行われていた。 (中略)
フランスにおける一八世紀半ばの政治・経済改革、中央集権化や合理化は、そのほとんどとは言わないまでもかなりの部分が、中国に範をとって行われたのである」
そういうことは早く言ってよ! と言いたくても言えないのは、この一節(またしても本筋とは関係ない余談)が記された本が原著1987年・邦訳でも2007年と、とっくに出ていた本だからだ。求めよ、されば与えられん。けれど自分が何を求めてるか知らないうちは、与える側(本の神様?)も与えようがないのであった。
というわけで
マーティン・バナール 『ブラック・アテナI 』 (片岡幸彦監訳・新評論/版元の紹介ページは見つからなかったので代わりに丸善ジュンク堂のページにリンクしてあります)
全四巻の構想だった(2007年の時点では三巻までの刊行で中断)シリーズ全体に付された副題は
「古代ギリシア文明のアフロ・アジア的ルーツ」 ・第I巻の副題が
「古代ギリシアの捏造 1785〜1985」 。大がかりな「ブラック・アテナ論争」を呼んだという同書の主旨:現代の西欧文明が自分たちのアイデンティティの祖と仰ぐ古代ギリシャ文明は、語彙も思想も多くを古代エジプトに負っており、そもそもギリシャ自体エジプトの植民地だった・ギリシャ人そのものがアフリカ系の黒人だった―は(特に後半は)少なくとも
現時点での僕の関心ではない 。ちなみに検索で「ブラック・アテナ」と引くと
「ブラック・アテナ トンデモ」 という検索候補がサジェストされたりもする。近ごろは「トンデモ」という言葉も逆にうさんくさいこともあるし、古代の言語がどうとか正直そういうことには
関わりたくない 。
僕の関心はあーでもないこーでもないという古代ギリシャの「実像」よりも、後世に入ってからのバナール言うところの「捏造」(韻を踏んでいる)にある。古代ギリシャ自身も、17世紀くらいまでの西欧も、古代エジプトの思想や哲学の影響を公言していながら、18世紀以降にわかにエジプトを切り捨て成立した「(白人の)ギリシャだけが科学や哲学・合理主義の起源で、西欧だけが正しくそれを継承し近代化を成し遂げた」という物語への、著者の異議申し立てに、だ。
まずもってプラトンやピタゴラス自身がエジプトから多くを学んでおり、ヘロドトスもギリシャ文化へのエジプトの影響を公言している(という)。キリスト教がローマ・ひいてはヨーロッパの中心となってからもヘルメス主義・新プラトン主義・グノーシス主義として受け継がれたエジプト由来の思想は、ルネッサンス期に開花する。ピコ・デ・ラ・ミランドラをはじめ哲学者たちはエジプトに帰依し、フリーメイソンや薔薇十字団などの結社運動が見ため合理主義的な啓蒙主義を裏から突き動かす。アメリカの1ドル紙幣の裏に(フリーメイソンのシンボルたる)ピラミッドが描かれているのも、ナポレオンがエジプトに遠征しピラミッドの測量を試みたのも
事実そうなのだから 、1)古代ギリシャ自体がエジプトの思想を継いでいる2)ヨーロッパもエジプトの影響を受けてきた―この二点は受け容れていいのではないだろうか。イスラム数学に多くを負ってもいるコペルニクスが地動説に到達したのも、カンパネラが理想郷を描いた物語のタイトルが『太陽の都』(未読)なのも、上述のとおり(デヴィッズやバナールらの説を信じるなら)中国由来の官僚制の導入に熱心だった時代のフランス国王・ルイ14世が「太陽王」を名乗ったのもエジプトの太陽神崇拝の影響だと、こう並べると流石に何処まで信じていいのか分からないけれど…
要はそれまで支配的だったキリスト教ベースの哲学や文化・社会を覆し、超越するため、啓蒙主義者たちはエジプトに賭けた(とバナールは主張する)。先に取り上げたWデイヴィッド『万物の黎明』も援用すれば、
「新」大陸の「発見」でキリスト教中心のヨーロッパ文化が大きく揺らぎ→当の「新」大陸由来の文化はもとより中国由来の官僚制やイスラム経由のギリシャ科学さらにエジプト思想の導入で一新を図った となるだろうか。そのエジプト熱の本質は魔術―(神に定められるのではなく)人が自らの・そして世界の主人として運命をコントロールすることにあった(という)。
それが18世紀に入り「ギリシアの奇蹟」と呼ばれるように急にギリシャばかりが神格化される。言い替えるとギリシャ〜ヨーロッパの白人(この頃コーカソイドという名称も考案されている)だけで理性や科学・合理主義を独占し、非白人=エジプトも中東もアフリカも先住民のアメリカもインドも中国も迷信や陋習に囚われた、遅れた地域として排除・断罪した。言うまでもなく、それは産業革命を成し遂げ世界経済のトップに立った西欧の自負(吾々の素晴らしさが非白人に由来しているはずがない)と自己正当化(遅れた非白人たちを優れた白人が支配するのは当然だ)によるものだろう。小国ギリシャがイスラム圏の大国トルコ・ひいてはそれに与したエジプトの支配を脱せんとしたギリシャ独立戦争(1821〜)も、ギリシャ熱に拍車をかけただろう。
またインド・ヨーロッパ語族の発見が(ギリシャも含むとした)アーリア人至上主義につながり、セム語やハム語(セム族やハム族)が蔑視されるようになる。「ギリシアの奇蹟」はフランスの思想家ルナンの言葉らしいが(
23年5月の日記 参照)、バナールが主犯として責めるのは後にアーリア人優生思想でとんでもないことになった国・ドイツの学界だ。『ブラック・アテナI』の中盤〜後半はこの「科学的」を自称するギリシャ・ヨーロッパ上げと非ヨーロッパ下げの今から見れば醜態がこれでもかと列挙されるので、
正直かなり読み進めにくい 。日本は神国だというオカルト的な思想が戦前の日本軍部をいかに席捲していたかとか、進化の過程でアトランティスがどうとかしながら結論として白人が最も優れた人種・どころか非白人は同じ人類ですらない(こちらはナチスに結実する)だとか、そういう「明らかに間違ってるし、動機として邪悪でもある」それこそトンデモを詳らかにした本を読んでる時と同じ腹立たしさと、それでいて笑い飛ばせない共感性羞恥がまあ読む意欲を削ぐこと。
ちなみに 幸泉哲紀氏が巻末に寄せた解説で引用している当時の英語圏の書評によれば
「本書は組み立ても悪く、気の長くなるほど繰り返しが多く、さらに専門的で詳細な史料に覆われており、一般の読者や素人には勧められる書物ではない」 …
早く言ってよ!(本日二回め)
ともあれ。バナール氏自身のエジプト上げも論争を呼ぶ不確かさではあるらしいが、合理的だの科学的だのと自賛する近代ヨーロッパの世界観も相当なもの(しかも差別的)でゲンナリさせられる。その高慢に西欧人として内側から楯突いた意義は大きいと思う。その楯突く相手が異論を許さないアカデミズム=大学制度で、非難の大きな部分がまさにその「異論を許さない(18世紀以降ギリシャ推し以外を閉め出した)」ことであったのが、また論争を大きくしたのかとも思うけれど…
以後エジプトにたいする関心は継続したり再燃したりはするが、それは西洋の起源ではなく隔絶したエキゾチシズム・オリエンタリズムの対象として、でしかない。
ムハンマド・アリ将軍(1769〜1849)統治下で推進された近代化をロシアのピョートル大帝や日本の明治天皇のそれと並列するバナールは
「ロシアや日本の場合と同様に (中略)
これらの強力な近代化 (中略)
は、軍隊の近代化と武器の自前調達 (が目的で)(略)
さまざまな面で弊害を招いたことは否定できない」 と釘をさしつつ
「しかしこの事業は、短期的に見るならば大成功で (略)
一八三〇年代に達するまでに、エジプトは近代的工業生産能力において、イギリスに次ぐ世界第二位の地位を占めるに至ったことは注目に値する」 と記している。この近代における成功も、西欧列強中心主義で隠蔽・抹消された事象のひとつらしい。
こうした西欧一強史観は「コーカソイド」を吾こそ世界の主人なりと思い上がらせる以上に、
非白人・非西欧の地域や社会・文化や民族に属する人々にまで「吾々は二流だ」「一流にはなれない」という諦めを内面化させてしまった点で罪深い とバナールは告発している。不幸な(不毛な、とまでは言いますまい)論争よりも、こうした正義感の発露こそ本書の白眉であるかも知れない。
* * *
個人的な関心領域から、もうひとつ意外だったのは、ギリシャこそ近代西洋文化の原型というとき(科学や哲学と並んで)ギリシャは民主制のふるさとだからという意味があると僕などは思っていた、それも本書で覆されることだ。
『ブラック・アテナ』が論じるところでは、まずプラトンからしてアテネの民主政を嫌い非民主的なスパルタに肩入れしていたし、哲学者が統治する理想の国家を描いたとされる『国家』(未読)にしても
「プラトンの共和国は、国家の構成原理としての労働分割に関する限り、エジプトのカースト制度のアテネ的理想化にすぎない」 とはマルクスが『資本論』(
未読 )で評するところだ(という)。
前述のカンパネラ『太陽の都』も同様。
前に軽く示唆した「平等という概念は人類の歴史のなかで比較的あたらしい発想なのではないか」という論点にも通じるし、『万物の黎明』でも言及されていたことなのだけど、昔の人々は平等や民主制というものを、21世紀現在の吾々が思うほど評価してはいなかったようなのだ。
バナールもソレが主張したかったのだとは思うけれど、歴史学のような学問でさえ、
しばしば扱っている過去ではなく論者が現代をどう捉えたいかを残酷に映し出してしまうようだ 。言い替えると、Wデヴィッドによるアメリカ先住民の再評価やフェデリーチの中世ヨーロッパ見直し(
23年10月の日記 参照)・バナール氏のエジプト推しは、
過去の捉え直しを提案すると同時に、現代がよしとしている価値観を覆したい欲求のあらわれでもあるだろう 。
前にも書いてるし追い討ちはハシタナイけれど、つい50年前には「アジアの中でどうして日本だけがヨーロッパに比肩する近代化を成し遂げたのか」みたいなことが大真面目に論じられていた。そうして提示された日本の地政学的(?)優位も「ギリシアの奇蹟」も、あるいは日本の侵略は解放だったも世界最古の文明が富士山に栄えていたも、過去をどう解釈するかで現代を正当化する・過去をバトルフィールドにした侵略合戦であるのかも知れない。それは時に侵略された相手を二重にも三重にも踏みつけてしまう(二流民族だというレッテルを内面化してしまった非白人の例)、そういう意味でも残酷な話なのだ。
*** *** ***
(追記)15〜17世紀にエジプトがヨーロッパに与えた最大の影響が「魔術(人間による運命のコントロール)」であるならば、いくらエジプトを「正しく」再評価しても、その思想でもって(15〜17世紀に―アメリカのドル紙幣にピラミッドを刻むほど―そうしたように)「現代」を再び覆すのは悲しいけれど困難だろう。フェデリーチが中世の魔術(ウィッチクラフト)について「今の吾々も星占いをするけれど、そうしながら
定時出勤のために目覚まし時計で目覚めてる時点で(今の星占いには)何の力もない 」と看破しているように。過去を見直すことで現在に異議申し立てをする場合でも、過去を復古させることは(たぶん)できないのだ。歴史を学ぶことに出来るのは、過去に何を失なったか残酷なくらい思い知らされたうえで、過去でも現在でもない新しい未来をつくる手がかりを提供すること(だけ)ではないだろうか。
小ネタ拾遺・25年10月(25.11.01)
(25.09.30)いつかこの人が歴史に裁かれる時には、この一事をもって弁護側の席に就いてもいい。本人Instagramより
首脳会談のため訪れた韓国で、2001年に新大久保駅で線路に転落した人を助けようとして落命されたイ・スヒョンさんの墓前に献花する石破茂首相 (25.09.30/外部リンクが開きます)。
(25.10.01追記)もちろん、あれを一番「うまい」パフォーマンスを選びおってと斜に構えることだって可能なんだけど、彼の後を襲おうという与党の次期総裁候補がそれすら出来そうにない、能登の地震で政治家として何もせず赤十字の募金箱を笑顔で子どもに差し出すだの、子ども食堂に押しかけて自分の誕生日だからと言って自分にケーキを振る舞わせるだの、お前ら社会人ですらないじゃんという連中ばかりで、んー今まで石破首相にも現在の総裁候補にもあまり言及してこなかったけど(言及する気力すらなかった)(正直ああいう与党・こういう世の中を選んできた皆様が今度は
「這いずり回って世界を救ってみせろ」 よとしか思えない)まあともかく月初から荒くれている。
(同日追々記)月初から毒を吐いてしまったので若干マイルドに言い直すと、
「日本人の我慢強さを実感する。1年前とおんなじ茶番劇を、おんなじ政局談議つきで見せられて、ストもデモも起きない」「にわかに脚光を浴びる視察先。スーパー、保育園、学童保育、こども食堂。かえって、ふだん軽んじているものが、浮かび上がる」 自民総裁選をめぐって、そこそこ舌鋒するどい
朝日新聞のコラム「素粒子」 (25.09.29/外部リンクが開きます)
それがどうしてこう…と最後の一行でズコーと滑った のは、滑った僕が特別に偏屈なのか?みんなコレでいいのか?いいならコレでいい皆でこの社会をなんとかしてくれ、出来るんだろ?
(25.10.11)まあ建前上この連休はB☆Wで実質半額のうちの冊子とか読んでねと宣伝すべき処ですが(セールでした)(
僕じしんが僕の作品を味方しなくてどうするよ )現実にはむしろ、石破首相の退任所感を未読するに値する時間かも知れない。
・
戦後80年、歴史認識は「引き継ぐ」石破茂首相の所感全文 (朝日新聞/25.10.10/外部リンクが開きます)
防衛庁長官・防衛大臣を歴任し、党内きってのタカ派として知られた同氏が「戦後50年・60年・70年の首相談話ではあまり触れられてこなかった"なぜあの戦争を避けることができなかったか"」
「国内の政治システムは、なぜ歯止めたりえなかったのか」 論じた所感に(その限界も含め)、元連合軍ヨーロッパ方面最高司令官の肩書きで米大統領となったアイゼンハワーが、いわゆる「産軍複合体」の台頭に警鐘を鳴らした退任演説(1961年)を想起したひとも少なくないでしょう。3.11の後に地元広島から発信していたらしいWebジャーナリストのかたが、詳細な註をほどこした全文も併せてどうぞ:
・
アイゼンハワーの離任(退任)演説 (豊島耕一訳)(哲野イサクの地方見聞録/外部リンクが開きます)
(25.10.12追記)石破首相の退任スピーチ、対外侵略への反省や(戦争の原因として)天皇への言及がないと批判の声もあがってるけど、私見では何より欠けててまずいのは国民(民衆)こそが熱烈に軍拡や戦争を支持したという指摘で、けれど構造的に首相の立場で「お前らのせいだよ」と国民を責めることは出来ないのも分かるので、
それは国民(民衆)が自ら言わなきゃいけないことなんだけど 、件のスピーチにアレが足りないコレが足りないと言い立ててる人たちも(僕の狭い狭い観測の範囲では)「自分たちの責任」は言う人が見られないので、こうしてヒッソリ火中の栗を拾う次第。
(同時追々記)おそろしいことだけど政権なり何なりをひっくり返すには今のマジョリティ、大谷選手の活躍に喝采したりノーベル化学賞を現在アメリカ国籍の人物が取っても「生まれは日本なので日本人の快挙」と快哉を叫ぶことにも疑問を感じない「ふつうの日本人」までもが「今の政権ではダメだ」となるしかないんだけど(現に前の政権交替はそうだった)前回はともかく今度「自民じゃダメだ」と唱える大多数が何に飛びつくか考えると、まあわりと悲観的。
(25.10.02)国産米の価格高騰の思わぬ副作用として、今まで少し贅沢のつもりで買っていたジャスミン米・バスマティ米などが、さほど変わらぬお値段になってしまった。後者(長粒米)の贅沢感が薄れたと言うより、
米を買って食べる生活そのものが贅沢になりつつある以外の何物でもなくて 慄くのだけれど。長粒米はもちろん汁系のカレーやタイカレー、炒めごはんなどにも合うけど、余裕がない時は市販のラーメンスープに挽き肉やキノコ、適当な野菜を加えて煮立ててぶっかけるだけで、手抜き&エスニック(?)な一食に。
もちろん長粒米をオートミールに置き換えてもいい<スープごはんの場合。「そうなってくるとラーメンスープが割高だなぁ」という気持ちになってきたら、それが生活の始まりってもんだ。
ちなみに長粒米は湯取り法(ぐらぐら沸かしたお湯にザッとお米を入れて最初くっつかないよう念入りに掻き回して、10分ゆでたらザルにゴパーッとあけて、火にかけたままの鍋に戻して少し水分を飛ばしたら、火を止めてフタをしてまた10分で出来上がり)生米250gが140g強のごはん四食分になる。パラパラしてるから140gでジャポニカ米150g〜160g分くらい容積があるので、ダイエットに向いてるかも知れません。
(25.10.05)自分で買ってるから知ってるんだけど、コストコみたいな会員制でない・誰でも入れる食料品店でたぶん一番廉価な冷凍ハッシュドポテト(ハッシュブラウン)て「ハラル認証」を取得してるんですよね。でも製造元はベルギーで、ヨーロッパ産のジャガイモを使用したもの。思うにコレは多様性だ何だじゃなくて純粋に、ベルギー国内の市場だけではペイしない、世界的に販路を広げたいという局面でハラル認証を取得しとけばグンと受容者層が拡がるって適応策なんですよね。現に結果こうして日本にまで販路が伸びてるわけだし。こういう形のグローバル化もあることは、少し考えの隅に置いといたほうがいいと思うのだ。ヴィーガン用の味覇があるってことは、それが商品として成立しうるくらい需要が見込めるんだ、とかね。
(25.10.07/小ネタって長さじゃねぇぞ)
ジュディス・バトラー 『欲望の主体 』 (原著1987年/大河内泰樹ほか訳・堀之内出版2019年/外部リンクが開きます)ほぼ読了。19世紀ドイツ思想の巨人
ヘーゲル(未読) が20世紀フランスの哲学者たちによって、いかに「我有化」つまり独自な切り取りや敷衍や読み替えをされてきたか縷々たどった博士論文(加筆)で、
当然サッパリ分からない(堂々と言うことか) 。でも長く生きてれば、どんな本でも切り取れる処はあるもので、
「欲望は満足に対する欲求でも、愛の要求でもなく、愛の要求から満足に対する激しい熱望を抜き取ったことから結果する差異、それらの分裂Spaltungの現象である」 という
ラカン(未読!) からの引用と、それに加えたバトラーの注釈
「欲求は満足よりもむしろ愛の証明を求める」「そして、欲望は (中略)
それが実際には欲していないものを追いかけ、それが最終的には獲得できないものをいつも欲している」 は、そう名指されてはいないけれど、まるでプルースト『失われた時を求めて』を読み解いた言葉のようだと思ってしまった。どこかの本で
ドゥルーズ が、これは名指しで「(この主人公たちは)
愛ゆえに嫉妬するのでなく、嫉妬するために愛する 」と評したプルーストである。『欲望の主体』には
サルトル(未読!!) によるプルースト評もあって、それは僕の読後感とはあまりに違うので略すけど、プルーストを名指してない文章で「人が現実で完全な自己を実現させることは不可能だが、小説はその実現不可能なさまを描くことで世界を完全にわがものにできる」と書いてる(ような)のも、あの長大な小説の要約のようで、他にもジラールとかフーコーとか、様々な思想家が「我有化」したプルーストを、誰か新書なり文芸フリマの新刊なりで網羅してみませんかねえ。
プルーストには関心ないけど、今の世の中どうしてこうなんだとお嘆きの向きには、こんな切り取りはどうでしょう―
「重要なのは、強者と弱者、主人と奴隷は、共通の基盤を持たない ということである。両者は共通の「人間性」や、文化規範の体形の一部として理解されてはならない」 (強調は舞村)―
ミシェル・フーコー『思考集成IV』 を引いての、バトラーによる注釈です。分かりあえると思うな、牙を剥け!(
我有化 )
(25.10.10)近年の韓流・華流ミステリやサスペンスを読んでいて、語り手=一人称の主人公が女性であることに数十ページ気づかなかった体験を一度ならずしている。叙述トリック…ではなくて、もちろん読む側の思い込みのせいだ。探偵なら男だろう、保険の勧誘員は女性でも保険調査員は男性だろう、
取材のため南極に住んでみる物好きなんて男に決まってる (21年3月の日記参照)…
ネタバレになるので当然タイトルは申し上げられないけど 、怪しい借金取りのゴロツキが探偵の「わたし」を同類だと思い込み
「女にもこの稼業のやつがいるとは初耳だな 」 とうそぶくのを読んで、それでもなお「
男の主人公を見て、おいおい女が来たぜと言うのか、すごいトキシックな侮蔑表現だな 」と思い込んで数行を読み進め「あ、違う、本当に女なんだ」とようやく気がつき(すでに40頁目)トキシックなジェンダー偏見にどっぷり浸かってるのは怪しいゴロツキじゃなくて読んでる自分だったと改めて恥じ入るのでした。ミステリを読んでいて犯人が自分だったたぐいの読書体験。
(同日追記)当然そういうのは男に決まってるという読む側の偏見が、つまり「読者自身が犯人だと名指されるミステリ」という概念で(後になって)思い出されたのは、生きるため男だと偽ったことでどんどん追いつめられていく女性を描いたブレヒトの演劇『セツアンの善人』。僕がよく引き合いに出す「世界を滅ぼすかどうか判断するため使わされた天使たち」というモチーフを外枠にした物語でもあった。
(25.10.13)
「ガザは孤独ではない。
爆撃、飢餓、渇き、病気が同居している 」
オマル・ハマド 『オマルの日記 』 (最所篤子 編訳・海と月社2025年/外部リンクが開きます)は読み進めるのが苦しい一冊。誰の遺体か特定すら出来ないバラバラの肉片を75kgずつビニール袋に入れて、各々の家族の亡骸として分配しあう地獄の日々。何もせず傍観する全世界を呪詛しながら、ケイト・ブランシェットの授賞式でのパレスチナ支持のパフォーマンスや、日本の有志の支援には感謝の言葉をあげずにいられない悲しみ。それを安全な場所で読む苦しさ。
そんな苦悶と絶望の言葉の中からでも(失なわれた喜びとして)本に言及した箇所があればチェックし、手にして見聞を広めたくなる己の度しがたさ。トルコの女性作家
エリフ・シャファク の名を本書で知って、引き合いに出されているのとは別の小説だけど、邦訳のある『
レイラの最後の10分38秒 』を次に読む本にセットしたところです。
(25.10.21)
「じゅうぶんに知ることも優位に立つこともできない世界においては、無料で得られるただひとつの喜びが音楽なのだ 」 …『オマルの日記』でも言及されていた「トルコで最も読まれている女性作家」
エリフ・シャファク の代表作
『レイラの最後の10分38秒 』 (原著2019年/北田絵里子訳・早川書房2020年/外部リンクが開きます)読了。ひとりの娼婦の生涯と死を通してセックスワーカー・移民・トランスジェンダーなど男権社会の周縁で虐げられた者たちの「時に血より濃い水の友情」を描く英ブッカー賞・オンダーチェ賞(いつの間にか賞になってたよオンダーチェさん)最終候補作。痛々しい描写も多々あるけれど、それも含めて2020年代の今まちがいなく読むに値する・もしかしたら「読むべき」一冊かも知れません。
エリフ・シャファクは『
この星の忘れられない本屋の話 』という、これも日本語で読めるアンソロジーにも寄稿しているそうで、来週からの読書週間にどうでしょう皆さん。
『オマルの日記』(こちらも読了)ではアフガニスタンの作家
カーレイド・ホッセイニ の『
カイト・ランナー 』という小説も大規模な虐殺が始まる前の愛読書として挙げられており、こちらもそのうち読むつもり。
(25.11.01追記)
エリフ・シャファク『レイラの最後の10分38秒』 10/21に取り上げた時には書き落としていたけれど・トランスジェンダーの登場人物が小さからぬ役割と存在感を示す・その描写が(いわゆるピンクウォッシュに利用される「豊かなゲイ」の表象とは真逆の)トランスジェンダーの置かれる貧困・差別・セックスワークや場末のショービジネスなどの「賎業」に伝統的かつ構造的に押しこめられてきたことを否応なく踏まえていること、において近年のアジア映画『
ジョイランド 私の願い』『
モンキーマン 』(
24年11月の日記 参照)あるいは『
brother/ブラザー 富都のふたり』(
今年2月の日記 参照)と足並みを揃えていることに、まだ上手く言語化できない(なので書きそびれていた)思うところあり。またしても
「アジアはひとつではない・けれどつながっている」 (池澤夏樹)かも知れない。日本はどうか。
(25.10.26/小ネタ/すぐ消す)速報:着る毛布、早くも登板。これはもうTシャツなど売れる時季ではないなあ…と思いつつ掲示は続けますが→
ふだんづかいできる反差別Tシャツがあると自分が便利なので作りました。
(25.11.01追記)決して安い買い物ではないので期待してはいなかったけど、数人は関心を示したり購入してくださったりして心強い。別にこのTシャツでなくても「反差別を思う人たちが、それを表現・表明することがカジュアルになればいい」その裾野になれればと思ってます。
この車両から降りろ!〜□ート製薬「デジアイ」(25.10.19)
天野祐吉 さんというかたがいらした。肩書きは広告批評家。70年代の終わり―糸井重里・林真理子・仲畑貴志といったコピーライターが脚光を浴びだした頃だろうか、その名も『広告批評』という雑誌を立ち上げ、新聞で毎週一回テレビCMを取り上げるコラムを執筆し、そして年末には筑紫哲也氏が司会をつとめていた報道番組にゲスト出演して同年の日本の広告を総括されていた。
その天野さんが、ある年の年末、筑紫氏の番組で例年どおり日本のCM、視聴者=顧客の関心を惹こうとするあの手この手を紹介したあと、最後に「でも僕が今年いちばん印象に残ったCMはコレなんです」「今まで見たこともないようなCMでした」と取り上げたのは、アメリカのファッション・ブランド「GAP」のコマーシャルを、日本でも同型のまま放映したものだった。僕は人生のかなり早い時期にテレビ受像機という装置を手放し、たまに実家に帰る時くらいしか番組もCMも観る機会がなかったので、1999年だという放映時期が少し信じられない。いや、年末には実家に帰っていたので筑紫さんの番組で天野さんが喋るのを観る機会はあったろうけど、それより前に僕も番組のあいだのCMとしてコレを観て「なんかすごい」と思ったのを憶えているのだ。
VIDEO
地味な色のカジュアル・ウェアをまとった若者たちが唄っているのはドノヴァンの「メローイエロー」、1999年という放映時期が事実なら丁度20年前・1969年の時代もののナンバーだ。この後もGAPは若者たちが新旧のヒット曲を合唱するCMシリーズを続けたけれど、この「メローイエロー」の印象を上回ることは到頭なかった―というのは個人の感想だけど、おそらく天野氏も同意されただろう。
このCMがどうして(当時の僕や天野氏の目には)異彩を放って見えたのか、説明することは難しい。広告らしい「この商品が」「買って」的なアピールが、まるで希薄に見えることもあるだろう。ちなみに唄われているドノヴァンの歌詞も60年代の終盤、ドラッグの影響で幻覚や幻想を主題にしたサイケデリック・ロックが流行った時代の産物で、要は「まるで意味不明」と評されている。余談に余談を重ねると、ドノヴァンの別のヒット曲「ハーディ・ガーディ・マン」に至っては、デヴィッド・フィンチャー監督が実在したシリアル・キラーを描いた映画『ゾディアック』のテーマ曲に採用され、それが違和感ないくらい不気味なのだった(映画を知ってしまった後で聴くとコンディションの悪い時は本当に体調が悪くなる級なので動画リンクとか貼らないけど、逆に怖いもの見たさ聴きたさの人にはオススメかも)
しかし改めて、この「メロー・イエロー」CMがもつ、なんなら少々ホラーめいてすらいる異様な魅力を、一目みて「うわ変」と通じないひとに(いや通じるひとにも)説明することは難しい。同作がその後のCMの流れを変えたかどうかも分からない。
なんでこんな話をマクラにしたかと(
はい、例によってマクラです )といえば、
まったくベクトルは違うんだけど 「もしかしてコレは(コレも)(コレはコレで)時代を画するスゴい広告なんじゃないだろうか」と思わされる広告に、昨晩たまさか遭遇したからだ。とうに泉下の人となった(2013年没)、そして生前には「九条の会」の賛同者でもあったという天野さんが、この広告を見ることがあったら、どのような印象を抱かれたことだろう。
* * *
まっすぐ本題に進むと、それは電車の一車両の内側にある広告スペースすべてを一企業の一商品がジャックした・買い切ったキャンペーンで、売り出されていたのは(検索避けに一部を伏せ字にするならば)
□ート製薬 の「液晶ディスプレイの見過ぎで疲れた目に特化した目薬」というコンセプトの新商品だった。
広告形態の特性上、もう二度と遭遇できないかも知れないので、うろ憶えになるが、すでに薄れつつある記憶を可能な限り書き留めておこう。
余白を大きくとった横長の白紙の左上に黒字で「
あなたが幸せを感じる時は? 」みたいな質問文が記されていて、これは車内に貼られたどの広告でも共通している。回答のバリエーションは何種類かあって、白紙の真ん中に大きく黒々と「
一日30分の読書 」「
朝起きて白湯を飲む 」「
自然な陽光をいっぱいに浴びる 」「
自分探しの旅に出る 」みたいな模範回答が書かれている―
が、これが本当の回答ではない のが、その広告の核心だった。
いかにも世間いっぱんの、建前上の「幸せ」の下には、少し小さく、紫の文字で
「
一日30分の読書 じゃなくてカラオケ・アプリで熱唱 」
実際の文面は「じゃなくて」ではなく「の代わりに」「よりも」だったかも知れないけれど、ともあれ
「
朝起きて白湯を飲む じゃなくて夜通しでドラマを一気見 」
「
自然な陽光をいっぱいに浴びる じゃなくて推しのSNSをいっぱいに浴びる 」
「
自分探しの旅に出る じゃなくてひたすらエゴサーチ 」
横長の白紙の下のほうには「41歳・IT関連業務」みたいな肩書きがついて、この「41歳・IT関連業務」の人物が「あなたが幸せを感じる時は?」と問われて「
一日30分の読書 じゃなくてカラオケ・アプリで熱唱 」と答えている体裁になっている。
そして紫の字で書かれた「じっさいの幸せ」「本音の幸せ」は、よくよく見れば(よくよく見るまでもなく)どれも液晶モニタを凝視するたぐいの営みで、そんなデジタル疲れ目には、新商品の目薬をと(間接的に?)サジェストしているわけだ。
なんか「逆に」スゴい広告だと慄いてしまったのは、たまさか僕が車内で読めるよう「本」を持参して、その車両に乗り込んだ―からだけではないだろう。GAPのCMほどではないけれど、この広告も(何がスゴいか)サッパリ分からない人も、おいでかも知れない。簡単に言ってしまうと本広告は
「今どきの幸せって、世間一般で言われてるアナログな喜び(A)より、もっとデジタルな液晶モニタごしの喜び(B)ですよね」というメッセージにすんなり同意できない 層(世代?)にとっては「
ここで一度、デジタル漬けの生きかたを考え直さないか? 」という逆の問いかけとして機能してしまうのだ。読書よりもアプリ、日光浴よりSNS、旅よりもエゴサーチ、
それでいいのか?囲まれちまってるぞ? と。
今まさに自分がしてるのも液晶モニタを前にデジタルな機材で作成した文章をネットに放流する作業そのもの なので(それとこれとは)「ちゃうねん」と、いちおう説明したほうがいいだろう。いや、実は「ちゃわない」弱みも幾分かはあって、特にまだSNSに籍を置いて盛んに発言していた頃しばしば自ら苛まれた「弱み」のひとつは「商品を紹介し消費を煽ること以外に表現の手段はないのか」ということだった。
つまり何かを表現したい、この世界について語ったり伝えたりしたいと思った時。こういう本を読み面白かった、こういう映画を観て感銘を受けた。どこそこに旅行に行って、こんなおいしいものを食べた―
どれもこれも商品の紹介・消費の扇動ではないか と暗い気持ちになることが少なくなかった。先週の日記(週記)では「インターネットは放送という行為を、認可を受けた放送局の独占から解放して、地球に住む60億人それぞれが、60億の放送局を開けるようにした」という言葉を「それは差別の扇動も可能にした」という文脈で取り上げたけれど、もうひとつ「実際フタを開けてみたら、60億の放送局は(自分に直接的な利益があるにせよ、ないにせよ)何か商品を売るための"民放"だったか」とウンザリすることも、しばしばだった。
どのみち人は人と関わらないと生きていけない・酸素を吸って二酸化炭素を吐きだすように何かを受け取って何かを手渡す「やりとり」なしに人生も幸せもありはしない、それはそれで(これほど孤独が好きな僕ですら認めざるを得ない)事実だ。けれどその「やりとり」「人と人の関わり」が大量生産な規格品の購入と消費・とくにプラットフォーム資本主義(
23年9月の日記 参照)と呼ばれるような寡占資本を
必ず仲介しなければならない のはナチュラルではない・少なくとも人の営みとして例外的な、偏った状況ではないか。
いつから吾々はカラオケ屋に行ったり、ダウンロードしてインストールしたカラオケ・アプリを使ったりしなければ歌を歌うことも出来なくなったのだろう。
千葉と茨城の県境の田舎に住む母は、編み物をしては作ったセーターやらマフラーやら、あるいは焼いたクッキーやらフルーツケーキやらを乞われるままに周囲に与え、周囲の人たちも家庭菜園や借りた農場で収穫した野菜やら何やらを惜しげもなく与えてくれる、貨幣もプラットフォームも介さない(そして「等価」でない)交換のネットワークの中に暮らしている。そういう生きかたは人間関係のしがらみでもあって、そうしたしがらみが苦手な僕は「お金がないと買えないものしかない」都会の生活に甘んじているわけだけど、そんな僕ですら一時間も二時間もただ歩くために歩いたり、本を読むのと同じくらいの時間それについて考えて文章を書いたり、広告の白紙の真ん中に黒い太字で書かれるような古いタイプの「幸せ」を享受している。
そうした者から見てしまうと「今どきの幸せは寡占プラットフォームが提供するコンテンツを、お金を買って消費することです」「それで目が疲れたら、さらに疲れ目を癒やす商品を買いなさい」というメッセージで一両が埋め尽くされた電車の車内は、資本主義・貨幣経済という監獄と化した社会の縮図・比喩のように思われた。ジョン・カーペンター監督の映画『
ゼイリブ 』では地球はすでに異星人の支配下にあり、特殊なサングラスをかけて見ると街じゅうにある広告看板はすべて「
OBEY (従え)」という真のメッセージが大書されている(だけ)なのが分かってしまう。その偽装の不徹底ゆえに、僕が昨晩みた車内広告は本来ならば「OBEY」と命じるべきところを「
見なさい、この社会はあなたに"OBEY"と絶えず迫っているんですよ 」と改めて暴露する機能を果たして(しまって)いた。広告の批評(雑誌)ならぬ(社会)批評の広告。なにせ、広告の主旨としては斥けるべき、昔ながらのアナログな幸せのほうを、大きく、黒々と、太字で書き出していたのだ。
なので、件の広告を見た僕のなかでは、このところ頭の中をしばしばよぎっていた「逃散」という言葉が、ますます大きく浮かび上がっている。昔の人々がよくしたような、『ゾミア』で書かれているような、奴隷や農奴としての労働や苦役・重税つまり「生産の強制」からの逃散ではなく、画一的な消費を迫られることからの逃散だ。
先に引いた23年9月の日記に限らず「現代においては(老マルクスが説いたような生産の場だけでなく)バウマンが説いたように消費の場こそ搾取の主戦場らしい」とは本サイトで何度も断片的に示唆してきたことだ。
せっかく広告がテーマなので久しぶりに蒸し返すと―
これ実は (誰にも何も言われんかったけど)
自分がこのサイトで書いてきた中でも「いいこと指摘できた自分」と恃んでる回だったんだけど 、後にサブリミナル広告の妄想?陰謀論?にズブズブはまってしまった
ウィルソン・ブライアン・キイ さん(〜2008)が初期の著作で書かれていた「
現代は (いちど買えば満たされる欲求ではなく)
買っても買っても満たされない渇望を売る時代 」(
2020年3月の日記 参照)だという洞察は、件の目薬の車内広告が「デジタルな幸せ」として売ろうとする推し活・コンテンツ消費・そして何よりエゴサーチの底なし沼に、またもピッタリではないだろうか。
だから、ねえ、そろそろ「OBEY」と広告が一面に貼り出された電車を、途中下車する算段も考えませんか。
もちろん本当に、完全に「物を買うこと」から降りるのは難しいでしょう。だけど「もっと耽溺しろ、争うように愉しめ、目が疲れたら目薬を差してでも、決して充足できないように作られた車輪を回し続けろ」というオーダーに沿わない別ルートを「保険で」「リスク分散で」確保しておくことは、控えめに言っても損ではないと思うのです。編み物をして、ケーキを焼いて。旅に出向いて、白湯を飲んで。陽の光を浴びて。
そして本を読みましょう。来週から読書週間。
この国で最後の「シャン」を見たかもしれない話(25.10.12)
最後の螢を見た僕ら 最初のロケット見た僕ら
さねよしいさ子「子供の十字軍」
今週のメインとなる「シャン」の話はTwitter(現X)で何度か蒸し返したことがあって、まあそのたび特に反響もなかったのだけど、もしかしたら貴重な記録かも知れないのでサイトのほうにも残しておくことにした。その話は聞き飽きた、というかたがいらしたら申し訳ない。あと1983年以降の天然の「シャン」の目撃情報、ゆるく募集しておきます。
*** *** ***
最近とつぜん天啓のように気づいたんだけど、日本人がRADIOのことラジオって呼んでる(読んでる)の、英語の発音はレィディオゥーなのに田舎者だからRADIOをベタにローマ字読みしてんのプププ
とかじゃなくて、さいしょ戦前にドイツ語として入ってきたからではないのか。
いや、確証はないねんけど (エセ関西弁)、カルテにクランケと医学用語はドイツ語が多いしリポビタンDが「ディー」じゃなくて「デー」なのもドイツ語、というのは数十年前に北村薫氏のエッセイで読んでたのに、ラジオのことは思いつかなかった。英語とドイツ語で交互に唄ってるクラフトワーク(ドイツ語読みだとクラフトヴェルク)のドイツ語パートだと、たしかに「ラディオ」と発音してるのに、これも数十年、耳に親しく馴染んでたのに深く考えたことがなかった。無知の知!
・
Kraftwerk - Radioactivity (YouTube/外部リンクが開きます)
あれ?カルテはドイツ語?さらに古くてオランダ語?ターヘル・アナトミア?無知!(確認したところカルテはドイツ語でした)
それで思い出したのが「シャン」のことだ。
昔の俗語・外来語にはドイツ語由来のものが多かったようで、軟派なところでは若い女性のことを「メッチェン(たぶん英語で言うところのメイデン meidenでしょう)」そして美女のことを『シャン」と呼んでいた。
現在は死語だと思う。だいたいデリカシーのない若い男性などが使っていた俗語らしく「バックシャン」などという派生語があり、こちらのほうが長持ちした可能性はある。バック=後ろから見たら美人という、まあ酷い意味だ。
死語だと思うと言うだけあって、僕じしん、この「シャン」を現役の言葉としてリアルに使ってるのを見聞きしたことは一度しかない。1982年、
ジャッキー・チェン が監督・主演したカンフーアクション映画の金字塔『
プロジェクトA 』が日本で劇場公開された時のことだ。
現在のようにアクション映画がインフレのように高度化・複雑化した今では想像しにくいかも知れないけれど『プロジェクトA』は当時は画期的な作品だった。それまで日本で知られていたジャッキー主演作が清朝時代の中国を舞台にカンフーの良い一派と悪い一派、良い一派の放蕩息子ジャッキーが心を入れ替え修業して最後には悪の親玉を倒すという単線的な筋書きだったのに対し、植民地時代の香港を舞台に善玉だけでも海上警察と陸上警察の内輪もめ・それに街の小悪党が三つ巴となり、しかし後半は結束して大悪玉の海賊退治に乗り出す重層的なストーリー。拳で決着をつけるカンフー映画ながら、随所で手榴弾を用いた爆発シーンを見せ場にし、特に最後、ラスボス海賊王の強さを示すために(
あ、注意:今週の日記には映画『プロジェクトA』の重大なネタバレがあります(遅い) )ジャッキー単独では歯が立たず、良いもん三人プラス1の四人がかりで、しかも殴り合いではなく絨毯でグルグル巻きにした中に手榴弾を放りこむ反則技で、どうにか倒す演出が画期的だった。
その『プロジェクトA』前半で仕事道具の艦船を海賊に破壊され、失意のうちにライバルの陸上警察に併合されたジャッキーたち水上警察の面々。
ユン・ピョウ 演じる陸上警察の隊長は、ここぞとばかり配下となった水上警察の面々をいびり倒す。野外訓練中に他所見をして、演習場の横をパラソルなんぞ差して通り過ぎる外国の貴婦人(メッチェンですなあ)たちを品定め、後にテレビ公開された吹替版では
「見ろ、いい女だな 」「お前、どっちを選ぶ? 」 とコソコソおしゃべりしていた水兵ふたりはユン・ピョウ隊長に見とがめられ
「見ろ、いい女だな」「お前、どっちを選ぶ?」 と百回復唱されられる罰を喰らう。夜中に寝言で
「ムニャムニャ…見ろ、いい女だな」 とうなされる処までがワンセットの、コミカルなエピソードだ。
この
「見ろよ、いい女だな」「お前、どっちを選ぶ?」 (吹替版)が、劇場公開時の日本語字幕では
「ハクい 」「シャンだ 」 だった 。
ユン・ピョウ隊長に見とがめられ
「ハクい 」「シャンだ 」 を百回。夜中にうなされ 「ハクい 」「シャンだ 」 。スクリーンに投影できる字幕の字数には限界があり、なるべく簡潔で短い表現が良しとされたためである。ちなみに「ハクい」は「佳人薄命(美人薄命)」から生じた「美人」をさす俗語で(不良っぽい言葉のわりに教養ベースで機知がひらめいてるのが面白い)こちらのほうが使われていた期間の長さは兎も角、後々の時代まで使われた表現ではなかったかと思う。「シャン」はといえば、うわあ「シャン」て現役の言葉として使ってるの初めて見た!と驚いたくらいで、その後この単語を実際の会話として使っている姿を見たことはない。
とゆうか「バックシャン」みたいな派生形をのぞけば、いや「バックシャン」も「昔はこういう言いかたをした」と間接的な用法しか見たことはないのだが、「シャン」という言葉をそれ以前に見たのも一度きり。1970年に
小林信彦 氏が書いたジュブナイル小説『
怪人オヨヨ大統領 』に「シャン」という表現が出てきて、小説内で語り手の小学生・ルミちゃんが(そんな古い言葉を使うなんて、この人たち何歳かしら)と訝しむ扱いだったのだ。ともあれ、それでかろうじて「シャン」(美人のこと)(そして1970年の時点で死語)の存在を知っていたわけで、要するに1982年の『プロジェクトA』は僕が実際に使われてるのを見聞きした、たった二回きりの二回目、
もしかしたら日本で「シャン」という言葉が使われた最後・少なくともかなり最後に近い事例 ではなかったかと(勝手に)思っている。
もちろん僕が見聞き出来る範囲など、ごくごく限られているので根拠にとぼしい憶測でしかないが、この文章を読んでいるあなたが「そもそもシャンなんて言葉、初めて知った」と思っているなら、この憶説は憶説なりに信憑性も増すのではないだろうか。逆に1983年以降「シャン」を見たよ、という目撃情報がありましたら、拍手など通じて御教示いただけたら幸いです。
* * *
これで終わりにしても良かったんだけど、最近のニュースを見て、もうひとつ思い出したことがある。
2004年、アメリカに戦争を仕掛けられていた真最中のイラクで日本人が現地の武装勢力に囚われる事件が発生した。武装勢力は同国のサマワに駐留していた自衛隊の撤退を要求、受け容れられなければ人質を殺害すると発表したが、小泉純一郎首相は「テロには屈しない」として要求を拒否。最終的に人質は無事解放されたが、日本国内では人質にたいする激しいバッシングが起きた。
このいわゆるイラク日本人人質事件のバッシングで(僕が見聞きした範囲でも、市井の人々の「テレビに出ていた人質の家族の態度が悪い」「解放された人質がタバコを吸っているのが気に入らない。しおらしくしろ」など、なかなか人徳に溢れた意見が多くて日本人の「美質」について大いに悟らされた)当時の国会議員が、人質を
「反日分子 」 と呼んでいるのをニュースで見て強烈に記憶に残った。
反日ならまだしも反日「分子」。「シャン」と同様、現役の言葉として僕が見聞きした最初の用例だった気がする。それも同じ日本人を相手に。その語を発したのは、それこそ『プロジェクトA』と同時代に放映されていた夕方のTVバラエティ・漫画家と絵心のあるタレントたちがフリップにポンチ絵を描いて回答する大喜利形式の番組で、タレ目の司会者として人気を博したアナウンサーだった人物で、後に自民党から出馬・当選するも、たしか一期か二期で(二期はなかったと思いたい)政界を去り、中央のテレビ界からも消えたはずだ。別に政治家として小粒だったことを云々するつもりはなくて、むしろ出自は庶民的なアナウンサーが、たまさか手にした国会議員という絶大な立場を(圧倒的な力の不均衡を承知で)国民三人を圧殺するために用いた、それを哀れなこととして憶えている。
改めて、僕の見聞きの範囲など限られているので「シャン」以上に、それなら他の誰それが言ってたよ、使ってたよという用例はいくらでもあるだろう。それでも国会議員が自国民を「反日分子」と名指しするのは前代未聞・いや過去にはあったが死に絶えていたはずの言葉が復活したようで、「シャン」は最後(?)だったけれど、こちらは今後また「良識ある日本人」の皆様がここぞとばかりに使ってゆく「最初の」用例になりはしないかと、剣呑な気持ちにさせられた。
つい先日、ガザに食糧や医療品など必要な物資を届けようと試み、イスラエル軍に拿捕・強制退去させられた「グローバル・スムード船団」(Global Sumud Flotilla)の、世界44ヵ国から参じたメンバーの中に、日本出身オランダ在住の62歳の女性が、ただひとりの日本人として加わっていたと報じられていた。法的にも人道的にも問題のある、この拿捕・収容所への拘留・強制退去について、日本政府は何らの抗議もしていない。この女性に、かつての「反日分子」のようなバッシングが日本国内から起きることを懸念しないでもなかったが、僕の改めて、改めて、狭い、狭い、狭い見聞の範囲では、日本ではなくオランダに戻った彼女について目立った非難の声はあがっていない・そもそも存在すら知られていない感じのように思われる。良いのか悪いのか。良くはないのだろうけど。
* * *
冒頭に音源へのリンクを貼ったクラフトワークの「Radioactivity」は
「Radioactivity is in the air for you and me」 (放射能―それは空気中にある、あなたと私のために)というフレーズで始まるが、近年、とくに3.11以降はその皮肉というかブラックユーモアを素のまま「お出しする」ことが出来なくなり、繰り返す「Radioactivity」の前にいちいち「
Stop 」と挟んで
「Stop radioactivity」 (放射能を停めろ)と唄うことがステージ上の慣例となっている。日本のバンド・BUCK-TICKも、代表曲のひとつ「スピード」の
「これが最後のチャンス 自爆しよう」 というフレーズを2001年9月11日以降は「自爆しよう」を「
愛しあおう 」と置き換えて唄うようになった。尖った歌詞を唄っていた若い頃の彼らを無責任と責める気になれないのと同様「毒気が抜けてツマラナイ」などとパソコンの前でくつろぎながら言えるものでもないだろう。
アルバム『放射能』は、元AKBグループで今は声優として活躍されている女性がアイドル時代にテレビのバラエティで、同期の仲間たちが十代やハタチそこそこの女の子らしい「お気に入り」を披露する中「好きなアルバム」としてプレゼンして周囲を困惑させていた映像を、後になって観たことがある。僕も(彼女よりは一回りも二回りも年嵩だけど)十代やハタチの頃は自分が生まれる前のドアーズだのヴェルヴェット・アンダーグラウンドだの聴いていたので親しみが湧く。てゆうか彼女、当人の年齢としては僕より若くして『放射能』を聴いていたわけで(僕が『放射能』にハマったのは、たぶん25を過ぎてから)、一曲目でタイトル曲の「Radioactivity」も上に貼ったとおりシングル向けの際立ったチューンですが、曲の終わりに被さるようにイントロが聞こえていた二曲目も、また素晴らしいのですよ。
・
Kraftwerk - Radioland (YouTube/外部リンクが開きます)
activityのつかない単なるラジオ(radio)も、そもそもドイツで普及したのはナチスが宣伝放送を国民みんなに聴かせるため開発された廉価タイプによるものだったと思えば「放射能」に劣らず、皮肉で毒のあるテーマと言える。もちろんラジオによる政治的宣伝はナチスの専売特許ではなく、大統領時代のルーズベルトはラジオ談話を積極的に用いたというし、ナチスの脅威に抗するためイギリス国王がラジオ放送で国民を鼓舞したという神話は映画『英国王のスピーチ』で描かれたとおり。何より21世紀の吾々は20世紀後半のルワンダでの虐殺で差別を煽るラジオ局「千の丘ラジオ」の扇動が果たした役割を知っている。
インターネットの黎明期に「これが何を意味するか分かるかい?放送が認可を受けた放送局の特権じゃなくなって、地球に住む60億人それぞれが、60億の放送局を開けるってことなんだ」と語ったひとがいたという(
浜野保樹『イデオロギーとしてのメディア』 )。それは60億人それぞれが「千の丘ラジオ」となって「反日分子」みたいな言葉を撒き散らす力を持ち得た、ということでもあると、どうかわきまえていてね。RadiolandならぬRadio"Rim"landがWi-Fiの電波に乗せて(今週)言いたいことは以上です。御静聴ありがとう。
小ネタ拾遺・25年9月(25.10.05)
(25.09.01)「見るからに怖ければ殺していいなら、私らのほうが殺されても文句言えなかったよね」とジョン・レノンが歌ったのは同じイギリス人の虎狩り(の言い訳)を批判してのことだったらしいが
・
The Beatles - The Continuing Story Of Bungalow Bill (YouTube/外部リンクが開きます)
今この国でアフリカやクルド出身の移民が「怖い」からと排斥の声をあげている人たちは、そうやって人種で人をくくっていいのなら、かつて震災に乗じて自国内の朝鮮人や中国人を官民一体で虐殺した・それを「日本人だって死んだ(それは災害による死者だったけど)のだからガタガタ言うな、ちゃんと一緒に追悼してんだから(死んだ理由がぜんぜん違うんだけど)」と開き直る日本人のほうが「見るからに怖い(かも)」と、少しは考えたことがあるのだろうか。9月1日はそれを再認識する節目の日だ。ましてこの国の人たちは100年前も「だってあいつらは怖いから」という名目で殺したのだ。今「ふつうの日本人」が言うのと同じように。
(25.09.02)かつてtwitter(現X)でヒッソリと滑った小ネタ『
君の一族と私の一族は、もともと一つの王家だったのだ…地上 (横浜)
に降りたとき二つ (戸部と黄金町)
に分かれたがね 』に
11年後の続篇。「
こっさりは滅びぬ、何度でも甦るさ!見た目こってり、食べてあっさりこそ人類の (以下略)」
ネタにした看板等のお店は可能なかぎり撮り逃げに終わらせず実食するという先月から採用した新しいポリシー(11月末まで猶予があるので)もう少し涼しくなるまで履行はMATTE KUDASAI…
(同日追記)甦った「こっさり」の「食べてあっさり」については「特製しょうが醤」=ショウガ特有のサッパリ感と食欲増進効果(んー旨かった、けれどまだ食べたい気がするぞ…なるほど「食べてあっさり」てコレか)に頼むところ大なのではと推測している。
(25.09.04)デフトーンズ今回の新譜で(現時点で)いちばん気に入ってる曲・のビデオが
BUCK-TICKの過去ビデオ(35年くらい前?)とコンセプトほぼ一致でむしょうに並べたくなった。「JUPITER」「ドレス」など手がけた星野さんの楽曲(確認したら詞も書いてた)。
ありがちな環境映像と言われればソコまでだけど、どっちも曲が異様に佳い。こういう映像ちょっと作ってみたい人生だった。
(25.09.06)せっかくデフトーンズの話題が出たので(
いや自分が出したんだけどな /月末に拾う)アメリカでいろんなミュージシャンの音態模写を配信してるマルチプレイヤー
Anthony Vincent さんの「
もしCREEPが (レディオヘッドじゃなくて)
デフトーンズの曲だったら 」
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Anthony Vincent - Creep in the Style of Deftones (YouTube/外部リンクが開きます)
同じくVincentさんの「
MUSEの曲だったら 」(笑)
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Radiohead - Creep (in the style of Muse) (同上)
こういう物真似は元ネタとなるミュージシャンへの解像度が高いほど反比例して「言うほど似てなくね?」となるかも知れないので、デフトーンズよりMUSEより一番よく知らない
リンキン・パーク の模写を自分は「よく出来てるなあ」と感動すら覚えた(そしてしんみりしてしまった)けれど、熱烈なファンの感想は違うかも。違ったらごめんなさい。
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「ワンダーウォール」が (オアシスじゃなくて)リンキン・パークの曲だったら (同上)
ちなみに本邦では河村隆一の模写に特化した芸人さんが居るらしいのも一応しってます。Genesis of mindとか、そんな感じのやつ→
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もしもファミマの入店音がLUNA SEAだったら (たむちゅーぶ/YouTube/外部リンク)
(25.09.07)先月末の予告どおり、伊勢佐木町(横浜)に昨年オープンしていたインドネシア料理店へ。看板には南十字星、インドネシアは国土の半分以上が赤道以南だと再確認させられる。ナシゴレンやミーゴレン、サテや近年「世界一おいしい料理」にも名乗りを上げたルンダンなどある中で
お値段的にも入門者向けらしいオポールアヤムを注文。鶏肉のココナッツミルク煮込みで、タイカレーを彷彿とさせつつ辛味レス。載っていたクルプック(えびせん)の原料はタピオカ=近ごろ何度か話題にしたマンジョッカ粉(キャッサバ)で、うーん地球の反対側からよく来たね。それをまた離れた日本で食べてる不思議。別注文した追いアチャールと、夜は席料300円でお通しが。この晩はスパイシーなモツ煮込みでした。アイスクリームを添えたバナナの天ぷら「ピーサンゴレン」も気になったなあ。
(25.09.09/重陽)
いや別に和食も戴きますから。 「台湾やネパールやインドネシアの料理を食べてたら、今さら和食なんて可笑しくって」
なんて夢にも思ってないから 。てゆか基本まいにち納豆たべてるよ…今晩は基本を外して外食で(おえんがー)大○屋へ。「おっ」と思った焼き秋刀魚ダブル定食は
皆「おっ」と思ったらしい 、早々に売り切れということで鯖の味噌煮。お味噌汁を冷や汁に替えました。
昨年は色々と疲れていて(?)食べそびれた秋刀魚、今年は自分でも買って焼いて食べたい気分。いや気分じゃなくて今年は買って焼いて食べるぞ。You only live once.
(25.09.10)窓の暗さで察するに目覚ましが鳴る何時間も前に半覚醒して「ムニャムニャ…でも大丈夫、今日は土曜日だ」と思った一瞬後「
いや、まだ水曜だし 」と完全覚醒するのも「悪夢」というのだろうか。せめて仮面ライダーになりたい、とまでは言わんが。
(25.09.12)片仮名ではナンジトツ、あるいはナンジートゥなどと表記されるミャンマーの冷たい混ぜうどん(米粉)は底に隠れたタレごとワシャワシャかき混ぜると後を引く辛ウマさ。きな粉がまたええねんな。100円のサイドメニューから今回は「カモ血」を選択、なんとなく血のソーセージみたいのを想像してたら添えられたスープの中に…あ、これか!
中国や日本でも血豆腐と呼ばれ供されるらしい。ぷるんと柔らかくて味は血そのもので「薬喰い」という言葉を思い出し、少し神妙な気持ちになったかな…?
(25.09.13追記)きな粉、たんぱく質を補う知恵なんでしょうね。味をまろやかにする工夫でもある。
(25.09.13追々記)カモ血をいただいて「薬喰い」(獣肉全般を呼んだもので意味合いは少し違う)とともに「なむあみだぶつ」という言葉が浮かんだのだけど、そう頭の中で唱えてしまうのがミャンマーの現状を鑑みて適切かと躊躇もしてしまった。まあ、かの国でメジャーなのは上座部仏教であり阿弥陀仏はあまり関係ないのかも知れないが。
・参考1)
仏教国ミャンマーを揺るがすクーデター 失望と民主化の芽生え 〜藏本龍介准教授インタビュー(東大新聞オンライン/24.2.11/外部リンクが開きます)
・参考2)
上座部仏教と阿弥陀如来 (Wikipedia「阿弥陀如来」/外部リンク/
私は何をしているのだ )
地には平和 (ルカ18−38)というだけのことが、どうしてこんなに難しいのか。
(25.09.14追々々記)自分が暢気にナンジトツをいただいてた同じ日に・
ミャンマー西部で国軍が空爆、高校生ら22人死亡 学生寮で就寝中か (朝日新聞/25.9.12/外部リンクが開きます)こんなことが起きてて「畜生め」と言うのはここまで愚かでも残酷でもない動物の皆様に失礼なのだが、兎に角やりきれない。
(25.09.14)近ごろ世の険悪化を嘆く方向に話を持ってきがちな本サイトの中のひとですが、相変わらず暢気なボンボン気質ではあるので「たぶん日本語ネイティブだけが(現実には無関係な)
アルジェリア と
ナイジェリア をペア扱いしている可笑しさ」みたいな感じでスリランカ名物「でびるちきん」とジャマイカ名物「じゃあくちきん」を並べてフフッとなっている。ん、前者は本当に悪魔のように辛いからデビルチキンで、後者は邪悪なほど辛い
わけではなく でもピリ辛・オールスパイスを中心に用いた味つけを「ジャーク」と呼ぶらしい。ケチュア語で干し肉を意味する「チャルク」が転じた「ジャーキー」はまた別の語源らしい。来週から松屋でジャークチキン定食。
(25.09.15追記)どうせならメニューが被れば食べ比べできて面白いのにと思ったら
本当にかぶったかも 。
・松屋(全国):
外交メニュージャマイカ編!「ジャークチキン」新発売 (9/16〜23?/外部リンクが開きます)
・JICAポートテラスカフェ(横浜):
今週のエスニック・ジャマイカ風ジャークポーク (9/15〜21/外部PDFが開きます)
中華街で中秋節限定の金華ハム入り五目月餅(翠香園)が売り出されるのは入れ違い9/23あたりからなので遠来のかたに買い出しと合わせてとは言えないのがつらいけど、近郊で機会のある(そして日本風にアレンジされたジャマイカ料理の食べ比べに興味ある)人は参考までに。
(25.09.16)
1) プラスチックが経年劣化で突然「もう限界です」みたいに折れたりするのは洗濯バサミなどで体験している人も多いと思う。
2) 音楽プレイヤーならプラグを挿すところ・ノートパソコンなら折られる継ぎ目と、機器は負荷のかかる部分から壊れがちなのも皆様たぶん御存知でしょう。両方を合わせると冷蔵庫で麦茶を冷やすポットが「なるほどーココからかぁ」と妙に感心してしまった。
そしてコレが意外にクリティカルに不便なんですわ。いい機会なので買い替えました。200円くらいだし。
(25.09.17/近況報告)ここ二日ほど38℃くらいの発熱が続いて、ついに新型コロナに捕まったかと検査を受けたらインフルエンザもコロナも陰性(抗原検査だけど)あと、頭痛や身体の節々の痛みもそれほどではなくて「ほな新型コロナとちゃうかー」でも熱だけが下がらない。ひょっとして体温計がおかしいのかと新しいのを買ってみたけど測定結果はほぼ同じ。
もう少し発熱が続くようなら離れて暮らしてる家族にも一報入れとくべきかと思う一方(突然本サイトの更新が停まったら、まあそういうことよ)一昨日の夜にあまりの痛みで体温を測ったら38.5℃だった・今まで熱を測るとかしてこなかったけど慢性的に頭や身体の節々は痛んでた…まさか「まあこんなもんだろう」と思って今までも発熱は続いていたとか…
(同日追記)熱、一時37℃くらいまで下がったけれど晩になって再び38℃に。処方されたカロナール、いつも自分で使ってるイブプロフェンに切り替えたほうがいいのかなと思う一方、これってストレスが原因ではと冗談なかばに思っている。だとしたら当分このままかも。
・
日本政府、パレスチナ国家承認を見送りへ 首相は国際会議欠席見通し (朝日新聞/25.09.17/外部リンクが開きます)
(25.09.18)一晩+二日ほど続いた38℃の発熱も今朝は37℃を切り、労働に復帰。帰宅する頃には平熱復帰しましたが、まあ病み上がりもあって日中の仕事はボロボロでした。9/15発売の
ビッグイシュー511号 (公式/外部リンクが開きます)の表紙+巻頭インタビューはアーノルド・シュワルツェネッガー。かつてカリフォルニア州知事を務めたこと程度は知っていたが、任期中に同州の温室効果ガス排出量25%削減を成し遂げるなどゴリゴリの環境派なのは不勉強で存じ上げなかった。
同じくドイツ系、同じく不動産投資で財を成し、同じく若い男性層から絶大な支持を受ける…米憲法が「米国外生まれの大統領候補」を禁じていなければ、ひとつ年上のドナルド・トランプの代わりにシュワさんが大…大統領「候補」くらいにはなっている世界線もあったのかも知れない。現実にはドナルド・トランプやジョージ・ウォーカー・ブッシュ・ジュニア、シュワ氏と同じく俳優出身のロナルド・レーガンを大統領に押し上げた勢力が黙ってはいなかったかも知れないが。
(まだ病み上がりなので早く寝なきゃなのだけど同日追記)んで、
まあどうでもいいことなんだけどさあ 、ビッグイシュー誌が描き出すシュワ氏に比べて、かつてはライバルだった?シルヴェスター・スタローンの墜落ぶりよと。MAGAに飛びつきドナルド・トランプを礼賛する以前に『ランボー』の完結篇が酷くて酷くて。俳優復帰後のシュワ氏が腕力では解決できない悲哀を表現しようと(首尾はともかく)試行錯誤している(
21年4月の日記 参照)のに対し、隣国人を悪魔化して復讐のカタルシスに酔うために罪もない娘を犠牲に仕立てて男泣きが
ええい気持ち悪い 。いくら殺しても「痛快」で許される悪魔に擬せられた「隣国人」が、シュワ氏(とキャメロン)の『ターミネーター・ニューフェイト』ではアメリカにない救いがある国と目された、同じメキシコなのも不思議な符合。スタローンが尻尾を振るトランプが壁で隔てようとした(してる)国。
(追々記)ほーらすぐ寝ないから『ミルキー☆サブウェイ』の最終回に間に合っちゃって、こんな時間だし熱がまた37.2℃まで上がってる…「ミルキー☆サブウェイって一話3分半でしょ?」最終話は4分半だったの!「それにしたって、たかが4分半…」
それを5回も6回もリピート再生しちゃったの! イブプロフェン飲んで寝ます…
(25.09.20)咳が出そうで出ないという「咳が停まらないゲホゲホ」とは別の苦しさ。たぶん病毒を身体の外に排出するだけの体力がないんでしょうな…処方された補中益気湯の効能から逆算するに。さすがに38℃の域には戻らないけど少しでも油断すると37℃を越える感じ。トローチを買いに薬局に向かうのに金曜夜の繁華街を突っ切ると、飲み騒いでる人たちとは住んでる世界が違う・てゆか最初から乗ってる人生のレールが違ったんだなと改めて(改めてなんだ)実感する。
オーオー・アイム・アン・エイリアン、アイアム・ア・リーガル・エイリアン。
Jon Stewart's Post-Kimmel Primer on Free Speech in the Glorious Trump Era | The Daily Show (YouTube/外部リンクが開きます)
保守論客が殺害され、やれ犯人はサヨクだトランスジェンダーだと騒ぎたてたあげく案の定じっさいは保守の内ゲバだった件で、保守ども大概にしなよと釘をさしたTV司会者が圧力で馘首されたアメリカ。それを受けての別の司会者の全力おべっかと腹芸、20分を越える動画なんだけど(日本語字幕で)見入ってしまった。言いたいことは沢山あるけど、相変わらずの体調なのでココらでドロン。
(25.09.20)
「懐かしの黄色いカレー(辛みマイルド)」 なる惹句と給食っぽい銀色のトレーに盛られた商品写真に、これはもしかして新潟名物・万代バスカレーの代替になってしまうのではと入店。果たして出てきたものは、
よし、違う(なんで嬉しそうなんだよ) 。店頭の広告写真はいわゆる「写真はイメージです」だったらしく、実物はかなり茶色め。なにより味も舌ざわりも違う。逆に、どうかすると自分的「三大カレー」最初の椅子を優先的に与えてしまうほど実は好きかも知れない万代バスカレーへの愛着を再確認してしまった。東急線の駅そばチェーン「しぶそば」の挑戦メニュー。保険で頼んだ「かきちく」(半月型に断ち切ったかき揚げと、長いちくわ天)塩でいただく衣がサクサクでおいしかったです。
これなら自分で作って冷凍してある豆カレーのほうが美味しいや、と言うと何だ自慢かとなりそうだけど、事実だから仕方ない。でも、冷凍カレーを戻して仕上げて炊いた(湯取りした)ごはんと合わせるだけの余力も平日はなかった。公休日の今日は逆に家から一歩出る力も出ず、久しぶりの支出ゼロデーに。咳は少し出るようになりました(※咳きこめないくらい弱ってた←為念)
※いま直感で選ぶ三大カレーは万代バスカレーと地元横浜「バーグ」のスタミナカレー(生)・それに鎌倉「キャラウェイ」のチーズカレー。勝負やランキングでなく、自分の個人史での「これを食べて来れて幸せだったカレー」。でも各々おいしいよ。
(25.09.22/小ネタ/すぐ消す)『ミルキー☆サブウェイ』のせいで多少キャンディーズづいてるせいか、いや・
日本政府、パレスチナ国家承認を見送りへ (朝日/25.09.17/外部リンクが開きます)・
イスラエル外相が日本に謝意 (時事/25.09.19/外部リンク)のコンボには当然のごとく煮えくり返っていたのだけれど、これに対する
・
見送る日本に「今がその時」国家承認呼びかけ 駐日パレスチナ大使 (25.09.22/同)の見出しが「今がその時
♪躊躇わーなーいでー♪ 」とスゲぇ美声で脳内補完されてフフッとなってしまった(
スミマセン )お菓子食って涙が出そう(
本当にスミマセン )
・
キャンディーズ - アン・ドゥ・トロワ (YouTube/外部リンクが開きます)
しかし実際のとこ、あんだけ世界の評判とか、世界で尊敬されることばかり気にしてる…
もとい、和をもって尊しと為す 皆さんなのに・
現在パレスチナ国家を承認している国々 (と、承認していない国々)の地図 (Wikipedia/外部リンクが開きます)に見る吾が国堂々の孤立っぷりを不安に思ったりはしないのかしら(韓国と台湾はまだ仲間で良かったな…?)。わりと本当に
「♪もう戻ーれーない もう戻ーれーない (ハモり)」 瀬戸際だと思うのだけど。
(前にも貼ったかも知れないけど)いちおう貼っておこう署名:
・
世界につづけ-パレスチナ国家承認 (change.org/外部リンクが開きます)
(同日追記/速報)もう面倒なのでリンクは貼らないけど+「何を今さら」「てゆかどの口で」とか思うことは多々あるけどイギリス・フランス・ポルトガルがパレスチナ承認側へ。Wikipediaの世界地図(実は色合い上カナダとオーストラリアの寝返りが大きかった)も早速塗りかえられてて「仕事早っ!」と驚いている。
(25.09.25)たった五文字の地名の中に、行政単位が三つも紛れ込んでいる「市」谷本「村」「町」。靖「国」通りまで入れたら四つだ。こういうの、お前好きだろ?と言われた気がして
「すす、好きなんかじゃない 」 と(
市ヶ谷だけに )思ったけど念のため記録(
ツンデレ )。東京都新宿区。
(25.09.27)数十年つづいた排骨担々麺の草分け的な名店・亜寿加(あすか)を潰して再開発した渋谷の大規模施設が「日本一あたらしい廃墟」などと揶揄される閑散ぶりらしいが、よくよく追跡記事など読んでみるとオフィス部門は賑わっており、商業部門も今後の巻き返しが期待されるので半分成功などとも分析される模様(
ただし世の中の「期待」では海洋水面がどうとかの根拠をもって今夏は酷暑が和らぐと「期待」されてたし、理由は知らないが「そろそろ例年の酷暑も終わるでしょ」と「期待」する声を耳にしたりはしている )まあ当該施設が失敗するなら学生時代から通った老舗を奪われた
僕の呪い だと思うので、人を呪えば穴二つ・そういう呪いは簡単に叶ってはいけないのである(
どうせ叶うなら、もっと大きな呪…いや何でもない←そっちも叶ってる可能性があって怖い )。
ちなみに亜寿加で働いていた人たちが同じく渋谷では元店の近く・さくら坂を登った中ほどに「蓮華の五徳」・神保町に「五ノ井」という継承店をそれぞれ出していて、先日は久しぶりに五ノ井へ。実は7月に訪ねた時は夜8時前に
「排骨完売・本日の営業は終了いたしました 店主」 なる貼り紙にスゴスゴ立ち去っているので、まあ半年に一度くらいしか足を運べない隣県民が余計な心配をしなくてよい程度には繁盛しているのでしょう。亜寿加の代から数十年・一杯目はサービスだった白ごはんが有料になって今が踏んばり時なのかも知れないけれど、おめでとう6周年。
いつもの冷やし排骨担々麺を頬張ってると「○○番ですー」とデリバリーを取りに来た人がちらほら。お店の側からしても(コロナ禍以降は特に)こうしたデリバリーは生命線なのだなと知れば「○○イーツで、いーんじゃなぁーい」みたいな広告は気障りでもデリ産業の隆盛じたいを一概に否定は出来ない気がする。ただし、そうした一人は時間のかかる注文があと五分くらいかかると言われて「その間に一件ほかを廻ってきます」と気忙しく出て行ったので
(頑張って稼ぎなよ)(昼間オレタチ会ったらお互いに「いらっしゃいませ」なんてな) いわゆるギグワーカーの人たちが
「誰にもありがとうと言われない」「機械扱いされる」 ような蔑視を受けない社会であってほしいと思う。もちろん子ども食堂みたく「讃えられてもやりがい搾取」でなく給与面や福利厚生も、制度的に。
(25.09.27)
まだ出てない本を求めて (9/30発売)8000歩も歩いてしまった。いや途中の千歩くらいは菊名の図書館に本を返しに寄ったのだけど。通勤定期があるのをいいことに、久しぶりに綱島の街を冷やかして楽しかった。もう少し涼しくなれば、夜のお散歩に最適な季節。
(25.09.30)「
少しでも地獄の刑期を減らしたくてよ (地獄行き確定なのは仕方ないけど、安○○三や麻○○郎と同んなじ処で息する時間は一秒でも減らしたい)とか「いや自分のばあい傲慢や怠惰で色んな人を傷つけてきた半生を
少しでも罪滅ぼしをしなくちゃだから(これは本当にそう) 」などと嘯きつつ、人に道を訊かれては教え、電車の乗り方を訊かれては教え、狭い道で向こうから自転車が来たら停まって譲り、電車の座席を妊娠してる女性に譲り、妊娠してなさそうだけど見るからに体調限界そうな人にも譲り、外食のあとの食器を下げやすいよう一つに重ね(これはコミティアで仲良くしてくださった飲食業の作家さんに教えていただいた)いつの間にか地上で還元されるポイントが貯まっていたらしい。月の〆日だし明日から節制と言うことでと夕食に定食を頂いてる間にヤバいくらいの大雨に見舞われ、とゆうか支払いのレジで店外を見て初めて気がつき「うわぁ…」と狼狽えていたら、店の傘を「使ってください」と貸してもらった。もちろん日本人にも良い人がいるのは知ってるけど(
たまに見かけて内心で・あるいは遠くから気づかれないよう「グッジョブ」と親指を立てたりしている )、どう見ても聞いても(流暢な日本語を話すけれども)アジア系・外国ルーツの給仕さん。独断でパッと物置の奥から出してきてくれたから店内でも信頼されてるポジションなのだろう。いや本当に助かりました。
来月から節制の誓いは一日保留・明日は傘を返しがてら同じ店でまた何か頂こうと思いつつ、また何かあった時また誰かに助けてもらえるよう、帰りの電車でさっそく座席を妊娠してる女性に譲る。池袋・某キッチンの店員さんにもイイことありますように。また来月。
コロコロ・コミックと朝焼けの仮面ライダー〜デヴィッド・グレーバー/デヴィッド・ウェングロウ『万物の黎明』(25.09.28)
まったくの余談から始めさせてもらうと、現在のグアテマラあたりに栄えたマヤ文明・マヤ文化が今に遺している神話
ポポル・ヴフ (さらに余談なんだけど往年の洋楽ファン・映画ファンにはヴェルナー・ヘルツォーク監督作品の劇伴をよく担当したドイツのバンド名「ポポル・ヴー」として馴染みがあるかも)は
人類代表と神々が球技で争い、最初の代表(人類側)が敗れて死んだり、後を継いだ双子の兄弟が神々を討ち果たしたりする話らしい…
何その『少年ジャンプ』または『コロコロ・コミック』 。僕の知ってるところではボクシング(アマチュア・しかもジュニア)の試合がアトランティスに由来する幻の金属「オリハルコン」を巡って争ったり(車田正美『リングにかけろ』)、よくは知らないけど『コロコロ』に連載された漫画ではベーゴマの選手権が世界征服とか何とかに絡むんじゃなかったっけ(と思って軽く調べたら改造型ベーゴマ=ベイブレードって装着するアタッチメントで攻撃型とか防御型とか体系的なバランス調整が出来たり紐を使わず専用器具でコマを回すことで技巧の平準化ができたり完全に侮れない代物だった)…実際マヤでは球技で貴族が全財産を失なったり、とゆうか
戦争の代わり まで果たしていたらしい。1)人類、スゴいのか逆にスゴくないのか分かんない。2)『ポポル・ヴフ』って誰か漫画にしませんかね?
* * *
と、いうわけで
デヴィッド・グレーバー/デヴィッド・ウェングロウ 『万物の黎明 人類史を根本からくつがえす』 (原著2021年/酒井隆史訳・光文社2023年/外部リンクが開きます)一番か二番目くらいにどうでもよさげな余談から引用してしまったけれど、とにかく「万物」を標榜するだけに話題が広い。拾えばキリがない。先週38℃くらいの熱が続いて大いに時間を失ない、図書館の返却期限までに読み切れるかなと案じられたけど後半ペースをあげて、どうにか読了。出てからしばらくして「なんかすげー」と話題になったグレーバーの単著『負債論』と違い「あのグレーバーの遺著(共著)」と出た時点から注目されたせいもあるのでしょう、横浜の図書館だと各館一冊ずつ行きわたるほど多く配本されてるので、他所の図書館でも存外待たずに読めるかも知れません。オススメです(むろん買えるひとは買えばよいでしょう)。
いや本書の要約じたいはワリと簡単なんです:
人類の歴史って、そう単純に図式化できるもんじゃないよ 。
ホッブズは言った、国家が出来る前の原初の人類はたがいに争う野蛮人だった。ルソーは反論した、いや原初の人びとは平和で幸福な人たちだったけど私的所有が人々を階層化し国家やら何やら不幸の歴史が始まったのだ。いずれにしても原初の人類は、狩猟や採集なんかで日々の糧を得て、そして小規模な集団で物々交換なんかして生きていた。それが農耕が始まり人口が増え、王や国家や官僚制や貨幣経済が始まり、高度な文化・文明と引き換えに人々は自由を失なった…
その見立ては単純すぎる、農耕=人口=豊かさ=国家=文明をワンセットにして、文明「以前」と「以後」で人類は引き返せないラインを渡ってしまったという図式じたい、国民国家が優勢になりデフォルトになったこの五百年から
逆算 されたものにすぎない(※文末参照)・実際には農耕を開始して大規模な都市まで建設しても合議制を保ち国家をつくらない・一度は王制を敷いても「あんまりうまくないなコレ」と合議制に戻して何百年も上手くやってた・等々、歴史の「発展(だか自由の喪失だか)」は一直線でも引き返し不可でもなくて、多くの人々が単一の穀物に特化せず農耕もすれば採集も狩猟も交易までして「ひとつの籠に玉子を盛らない」豊かな生活をしていたように、人類は王制も貴族制も合議制も民主制も色々と試しては引き返し、現在の吾々が(自分たちの不自由を逆照射して)思っているより、ずっとバラエティに、ずっと自由にやっていた…というのが本書の要旨だ。
アナキストを名乗り、自らオキュパイ・ウォール・ストリートなどに参加していたグレーバーは特に「
なので現代の吾々だって自由になれるはず 」という含みを大いにもたせていただろう。急逝したグレーバーの(そして彼を継いだ共著者ウェングロウの)切なる願いと言ってもいい。
AIでも出来そうな要旨の抜き出しは、こんな処で良いでしょうか。
以下は(あまりに多岐に亘る具体例の中から)個人的に「あ、ここ関心領域」と思った二・三を拾います。
・
ライプニッツと官僚制について
最新の発掘成果を含む膨大な例証によって今のような国家「以外」を掘り起こす本書の狙いからは若干外れてしまうけれど、個人的に気にかかったのは第二章で(わりと余談として)サラッと触れられている西欧における官僚制の定着の話だ。
ドイツの哲学者ライプニッツ(1646〜1716)は「モナド」などの概念を提出し、微積分法の発見をニュートンと争ったなどのエピソードで知られる才人だが、中国の『易経』に関心をもち二進法の研究をしたり、中国の思想や制度のヨーロッパへの導入を説いたとも言われている。
二人のデヴィッドが指摘するのは1)ライプニッツの中国への関心は彼ひとりの独創ではなく、彼も時代の子であるからには当時のヨーロッパ知的界隈(二人はこんな言いかたしてないけど)が全般的に持っていた中国への関心の反映ではないか・そして2)この中国への関心は、当時のヨーロッパの政治界隈への官僚制の導入と果たして無関係だったのだろうか、ということだ。
「一八世紀から一九世紀にかけて、ヨーロッパの諸政府はいずれも、ほぼ均一の言語と文化を有する人びとを適切に統率すべきであり、その政府は試験に合格したメンバーで構成される教養ある官僚によって運営されるべき、という考えを徐々に採用するようになった。これはおどろくべき事態であろう。というのも、それまでのヨーロッパ史にあって、このようなシステムは、それにわずかに似たようなものですらまったく存在しなかったからだ。ところが、それとほぼ同一のシステムが、中国にはすでに長年にわたって存在していたのである」
日本における近世を江戸時代(1603?〜)に始まるとすれば、ヨーロッパにおける「近世」も大体同時期にあたるのだけれど、中国では先んじて宋(960〜1279)の時代に官僚制が完成し・いわゆる「近世」の域に達していた、とは東洋史の泰斗・宮崎市定氏もよく指摘するところだ。これは余談なのだけど『万物の黎明』の著者たちは、10世紀中国でも18世紀のドイツでも、官僚の採用試験てのは古語や死語で書かれた古典文学に精通しているかが問われ、採用されて初めて
「練習、見習い、インフォーマルな指導」 で実務を学ぶ・これはもしかしたら後期インカでも同様(会計職に就くために秘教的知が問われた)だったし、現代でも公務員採用試験で実務には無関係な
「合理的選択理論とかデリダの理論」 の問題を出されるのと変わんない(たまんねぇよなあ)と言ってるのが面白い。いや、面白くはないのか。ブルシット・ジョブ。
中国の科挙だと最終段階の殿試では政策に関する小論文もあったはずだけど些事なので措く。17世紀ヨーロッパに話を戻すと、中国の影響で官僚制が導入された仮説はサッと飛ばされ、そもそも平等や自由といった発想じたいが宣教師などを通じて伝わった「新大陸」アメリカ大陸の先住民から到来したものではなかったか、というのは本書の要旨に関わる仮説のひとつだ(
先々週の日記 文末を参照)。
ちなみに官僚制とは、19世紀のマルクスが『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』でフランス共和制の息の根を停めた真犯人として指摘しているものだ。
「とてつもない官僚組織と軍事組織 (中略)
重層的で人工的な国家機構 (中略)
50万人もの大勢の役人のほかに、また別に50万人の軍隊 (中略)
この恐ろしい寄生体が、フランス社会の体に (中略)
巻きついて、その毛穴をすべてふさいでいる」 (
23年1月の日記 参照)。平等という発想が実は裏口から差別を正当化していないか、という先々週の問題意識については後述する。
いずれにしても=官僚制にせよ平等の観念にせよ、ヨーロッパが独自に発明した・あるいは古代ギリシャで一度(「奇跡的に」)発明されたものをヨーロッパ人が再発明したという神話じたい、西欧文明が覇権をとった現代から逆算されたものにすぎない・かも知れない、このことは21世紀以降の常識になっていくべき事のように思われる。今後(露命のある間は)気にかけ追究していきたいテーマのひとつです。
ちなみに現代の官僚制が(ヨーロッパ経由で)中国に起源を持つとして、まあいないとは思うけど「やっぱり中国が諸悪のぉー」などと言い出す馬鹿には『万物の黎明』の、この言葉が相応しいでしょう:
「 (
穀物栽培のおかげで (略)
国家が台頭したというのは )
中世ペルシアでの微積分の発達が原子爆弾の発明につながったというのとかわらない 」(強調は引用者)
・
平等の罠と不平等の起源について
不平等の起源(ルソー)について問うのは無意味だ・人類の歴史は平等→不平等と一直線に不可逆的に進んだものではなく、もっと錯綜してるし逆走(王権から平等へ)も山ほどあった、というのが繰り返し本書の要旨なのだけど、それを踏まえたうえで。
先にも(先々週にも)書いたとおり、ことに新自由主義の現代においては形式的な平等が「平等なのに差がついたのだから自己責任」と差別を正当化する逆効果が生じていないか、という疑念がある。『万物の黎明』ではカリフォルニア州の北西部・オレゴン州のはじまる山脈のすぐ南に住んでいたユロックの人々を、ヴェーバーが説いた(資本主義を生んだ)プロテスタントに通じる「所有的個人主義者」と捉えている。
「人間は生まれながらにして平等であり、自己規律や自己犠牲、厳しい労働によってひとかどの人間になれるかどうかは個人次第である」 とは、その思想を要約した言葉だ。
別のところで著者たちは言う。
「貨幣も行政管理も非人格的 (強調は原典)
な等価性というおなじ原理にもとづいている。ここで強調したいのは、最悪の暴力的な不平等が、初発には、このような法的平等のフィクションから生じる (この強調は引用者)
ことがいかに多いかという点である。おなじ法律、おなじ権利、おなじ責任 (中略)
平等が、人間(そして物)を交換可能なものにし、その結果、支配者やその取り巻きが、非従属者のそれぞれに固有の状況を考慮することなく非人格的要求をつきつけることが可能になったという事実である」
20世紀半ばに悲劇的な生を終えた
フランツ・シュタイナー は集団の中で力ある者=家長だったり首長だったりが孤児や寡婦・難民や逃亡者など困窮した人々を歓待する(それ自体は麗しい)習慣が、やがて見返りを求めない歓待から→受け入れの代償としての奉仕となり、戦時捕虜に対してしか行なわれなかったような人格の剥奪ひいては支配に転じたと「不平等の起源」を説いているようだ。
このあたりと「取替え可能」であることを現代人の宿痾と看破したアルフォンソ・リンギスの議論(
23年5月の日記 参照)を自分の中で接続できないか考えている。
それはそれとして、場合によっては人は敢えて進んで「取替え可能」な存在になることもある、という例証で挙げられているマレーシア半島、主としてマレーシア山地に居住する狩猟採集民=セマン族に言及した箇所は、日本語で本書を読む読者のおそらく誰もが目を疑う箇所だろう。
「外部の観察者たちがたとえばセマン族の狩猟隊のメンバーを、まるで仮面ライダーのショッカーのように、ほとんど交換可能なものと[だれもかれも区別できない]してみなす傾向があるというだけでなく (中略)
むしろセマン自身、じぶんたちは等しくあるべきだと感じているということである(もちろん、すべての面においてというのは、ばかげている。「ここぞ」というような重要な点においてである)」
今「仮面ライダー」って言いました?「ショッカー」って言いました? この箇所、註も何もついてないんだけど、訳者のおふざけなのだろうか、それとも本当に「仮面ライダーのショッカー」と書いてるのだろうか。1970年代、T-REXとして来日したマーク・ボランが日本で観たテレビ番組に感銘を受け『
ズィンク・アロイと朝焼けの仮面ライダー 』(Zinc Alloy & Hidden Riders of Tomorrow)というアルバムを出した故事もある。ポケモンや、それこそベイブレード(世界大会が開かれてるようです)のように仮面ライダー(Hidden Rider)も存外ワールドワイドに知られた存在なのだろうか。ショッカーも。
・
ル=グウィン、サパティスタ、女性の地位について
本書には『風の十二方位』に集録されたアーシュラ・K・ル=グウィンの短篇「
オメラスから去る人々 」に言及している箇所があって、改めて(北米先住民の研究に生涯を捧げた)アルフレッド・クローヴァーならびにシオドラ・クローヴァーの娘としてのル=グウィン(KはクローヴァーのK)という捉え直しが必要かと考えさせられた。『指輪物語』的な西欧ファンタジーならもういいやと思って実は敬遠していた『ゲド戦記』、北米先住民というか非ヨーロッパ的な神話や世界観の継承を意識しつつ読んでみるべきではないかと、これは個人的な宿題です(こんだけル=グウィンに言及しながら今シレッと明かされる
『ゲド戦記』未読! )。
そしてここに挟んでいいのか分からないけど、現代の新自由主義・ハイパー国家資本主義に抗する非西欧の自由や平等・合議制が現代でも無効でない証左として(ポポル・ヴフと同じくマヤ文化の系譜を継ぐ)
サパティスタ民族解放軍 の活動が挙げられる。個人的には「戦国時代にあって加賀の一向一揆は百年以上も自治を続けた」という話を(空振りに終わるかも知れないけれど)自分なりに一度、勉強すべきかも知れないと思っている。
『国家に抗する社会』で斯界に多大なインパクトを与えた先達クラストルについても(未開→国家の不可逆性を脱せてないという批判とともに)女性の扱いが酷いと容赦ないグレーバーらしく、『万物の黎明』とくに終盤では未解読の線文字Aで知られるクレタ島のミケーネ文明が女性上位であったこと、そもそも数学的・幾何学的な知や彫刻などの美は選ばれた男性が思索によってヒョイと創案できたものだろうか・むしろ織物やビーズ細工のように手を使った実践的な営みを通じて女性たちが長い時間をかけて案出したものではなかったかという主張が目を引く。フェミニズムに(揶揄でない)関心をもつ人たちにとって、本書は福音の始まり・反撃の梃子(テコ)になる
「左利き用スパナ」 (ル=グウィン『夜の言葉』)となりうる一冊でもあるだろう。せっかくなので本書が引用しているル=グウィンの言葉を孫引きして、(今回もまた)とっちらかった週記を終えようと思います:
「わたしたちには、学識者や詭弁家にそそのかされた悪い習慣がある。幸福をなにか愚かなものと考える習慣である 」 (強調は引用者)
*** *** ***
※)「国家が優勢になりデフォルトになったのは、ここ五百年」とは(読み間違えがなければ)本書の記述に則ったものだが、それとて五百年かけて優勢にデフォルトになったという意味であり、本書で献辞が捧げられてもいるジェームズ・C・スコットなどは中国南部〜東南アジアに展開した国家に属さない領域「ゾミア」を20世紀・第二次世界大戦後のモータリゼーションの浸透までは優勢を保っていたと捉えている。
道徳どまりを擁護する〜亀山陽平監督『銀河特急 ミルキー☆サブウェイ』(答え合わせ篇)(25.09.21)
アイリス・マリオン・ヤング は
ハンナ・アーレント を敷衍し、次のように書いている。ナチ政権下のドイツには、迫害されるユダヤ人を匿ったり亡命を助けたり、また自身も親衛隊の召集を拒否したりした良心的なドイツ人が沢山いた。善悪を区別する能力を失なわず、己の判断を裏切ることも拒んだ、その行動は称賛に値する―
にも関わらず、彼女ら彼らを聖人とも英雄とも呼ぶことは出来ない (アーレント)。なぜなら
「それらは、公的なものではなかった」「犯罪 (中略)
から距離を置こうとしたり、危機に晒された人びとを積極的に助けようとしたりもした」「しかし、そのことを社会の深刻な問題として告発しようとはせず、個人的に自分一人でそうしたのだった」 (ヤング)。個々人は法律にしたがい悪意なく行動しているのに結果として弱者を困窮へと追いつめる「構造的不正義」を追及したヤングは、こう結論づける。
社会を変えようとしない行動は、政治ではなく道徳的な正しさでしかない と。(
『正義への責任 』 原著2011年/岡野八代訳2014年→岩波現代文庫2022年/外部リンクが開きます)
そうですね、手厳しすぎる。道徳どまりだって十分に立派じゃないか。良心的なドイツ人の拒絶は称賛に値すると、罪からは免れているとアーレントも請け合ってはいるのだ。
でもたとえば昨年の夏に自分が能登に出向いて、ボランティアで瓦礫を拾ったり泥水を掬ったりしたのは(元から道徳的な行動でしかなかったとはいえ)僕から見たら天災に人災を加算したとしか思えない現知事が来年の選挙で再選されるなら、心底から何の政治性も持ちえない道徳的な行動に過ぎなかったと思わずにはいられなくもある。『正義への責任』は18きっぷを利用した一回目のボラ行で携えていた本でもあった。
・参考:
災害公営住宅の整備に遅れ 「建設にめど」15% 能登豪雨1年 (毎日新聞/25.09.21/外部リンクが開きます)
* * *
三年前の自主制作アニメ『
ミルキー☆ハイウェイ 』が評価され全12回・11カ国語で同時配信となった続篇『
銀河特急 ミルキー☆サブウェイ 』も無事完結したので、その話。当然ながら
全面的なネタバレも含みますので注意。
いや、ネタバレはイヤだと言うなら、
見りゃいいんです。『ハイウェイ』も『サブウェイ』も一話3分半なのだから (『サブウェイ』最終話だけ4分44秒)。
・
アニメ『銀河特急 ミルキー☆サブウェイ』公式 (←ここで全話観られます/YouTube公式チャンネル/外部リンク)
それすら惜しい人は第二話だけでも見るといい。観て「これは」と思えば『ハイウェイ』「第一話」と遡って十分に(3分半×2=
7分で十分に! )追いつけるし、「えー何だコレ(もっと観たい)」と思わなかった人には、たぶんあんまりシリーズじたい向いてない。帰るなり、続きの本文だけ読むなりでOKです。
…あらためて、この二話・3分半で物語の基本設定に各キャラの雰囲気ほぼ過不足なく、しかも十二分な間やボケを挟みながら語り尽くしてる脚本力に舌を巻く。まだシリーズ中盤だったけど面白すぎて書かずにいられなかった
先月の日記 で「
テンポの良さと不思議に矛盾しないグダグダ感 」と絶賛したところだ。
リョーコちゃん(警察)の訊問を真似して(?)流れるように話を進めると、この
先月の日記 の時点で提示したのは(まだ未完結で答えは出ていなかった)次のような問いだ:抜群に滑らかな語り口の背後に、社会の「構造的不正義」を仄めかす本作は、最後どう着地するのか。
1)社会悪を告発して視聴者の心の深くに問題意識を刻みつけるのか
2)大きな問題は何も解決しないまま局所的ハッピーエンドで満足するのか
3)救いのない悲惨な結末まで「ウケる」「不憫萌え」と嗤われて終わるのか
作者が作品にどのようなメッセージを盛り込むのか、というよりも(作者は基本的に複合的なメッセージを盛り込むものだ)受け手は何を受け取るのか。
「この世界を覆う死の饗宴の (中略)
中からも、いつかは愛が生れ出てくるであろうか?」 (トーマス・マン『魔の山』/
未読 )
シリーズが完走(
列車は敢えなく爆散したけどな )した今、劇場版でのカット追加や続篇の話もあるけれど、現時点での「答え」は明白ですね。はい、(2)番です。
2)大きな問題は何も解決しないまま局所的ハッピーエンドに終わった
たとえば本作のストーリーを織りなす太い縦糸の一本・列車暴走事件の種明かしもそうだ。
※自分でも気づいちゃったよ、
MILKYにEは要らん …(もう面倒なので直しません)
黒幕AI「オータムちゃん」(『2001年宇宙の旅』で人間抹殺に走ったコンピュータ「HAL」へのオマージュだそうな。そう考えると宇宙にポツンと放り出された列車の細長いシルエットは、頭と尻尾を取ったディスカバリー号のようでもある)の「電車のスムーズな運行ひいては
適正な社会にとって最大の障害である犯罪者=社会不適合者たちを独断で始末する 」という犯行動機は、社会・わけても
資本主義社会が抑圧や搾取のため社会不適合者をわざと生み出している (社会の「適正な運用」のため、むしろ欠かせない燃料であり潤滑油である)という、現実の一枚上手なえげつなさ(※1:文末参照)の前では「そこまで考えが及ばないAIの幼さ・浅知恵」と言わざるを得ない。
もちろん、そこまで要求するのは酷だ。 そこまで透徹した社会観を付与する(される)のは、物語の本分ではない―いや、そうだろうか?世の中には痛快なエンディングを飾りながら「そうは言ってもこの世界(社会)はカス」と啖呵を切る作品だってある。パッと浮かぶのは『ロボコップ』。違うかな。
ともあれ『ミルキー☆サブウェイ』のエンディングでは、大きな問題は何も解決していない。カートとマックスの能力と善良さが正しく評価される新しい仕事は想像できない(※2)し、アカネとカナタは互いの理解を深めたからこそ互いの身の振り方を改めて問われることになるだろう。そしてマキナはヒエラルヒーの頂点に立つ父親を毛嫌いする感性を持ちながら、その父由来の財力か、さもなくば自動販売機から「液弁」をチョロまかすような不正操作で欲しい物を得る生きかたを改める気配はない。
では本作は「面白かった」「メロい」で消費され、場合によっては「こんな作品を創れる日本スゲー」と(作品を作ったわけでもない)自分褒めにスリ替えられて終わる作品なのだろうか。
そうではない 。
再度
先月の日記 を引用すれば、ゲーム「シムシティ」のプレイヤーが「そうか、人を住みよくするには都市を緑化すればいいんだ」と自ずと導かれるように(
今の災害的な酷暑を考えるに、なんて先見の明だったことかと慨嘆せざるを得ない )、『ミルキー☆サブウェイ』には視聴者ひとりひとりが「そうか、こうすればいいんだ」と持ち帰れる、贈り物のような福音があった。
はっきり言う。社会の構造的不正義を背景としてテンコ盛りにした『ミルキー☆サブウェイ』に、その構造を吹き飛ばす手段が提示されなかったこと・むしろ表面的なハッピーエンドで大きな問題がウヤムヤにされたこと・
に文句を言うつもりはない(本当だよ)。そこまで物語に求めるのは酷だ と弁護側の証人席に立つ。
けれど、本作を見た人たち
(あなただ) が自ずと「そうか」
「これからはもっと、人に"ありがとう"って言えばいいんだ」と思えたのでなければ、本作の試みは失敗したことになる。
本作で列車の暴走と並ぶ、もう一本(二・三本)の太い縦糸は言うまでもなく個々のキャラクタの心理的な成長なのだが、その中でも特に重要な折り返し点となるのは、第6話で「カートとマックス」がダルそうな態度の底に隠していた本心を吐露する場面だ。最初は清掃業や飲食業などマトモ(そう)な職業に就いていたサイボーグの若者ふたりが脱法的半グレ組織の使い走りへと転落した理由を強制的に開示させられ
「最後2人が普通の仕事辞めた理由だけ教えてほしいんだけど!?」
「 (声を合わせて)
誰にも感謝されないからです 」
「誰もありがとうとか言ってくれないからです」
「機械扱いされるのが嫌になって辞めました」
(強調は引用者)最後は強制なしに自ら語る場面は痛切をきわめる。二人が就いていた「前の仕事」が「清掃業や飲食業」というのも盛った(削った)話で、実際はもっと過酷な仕事を強いられていたのではという説もあるが、まあ本質ではない。銀河の彼方ではなく今ここに「誰にも感謝されない」「機械扱いされる」職業が存在することを、顧客として・ひょっとしたら当事者として知らない人はいないだろう。
だから本作を観た一人ひとりが、ふだん少しでも余計に「ありがとう」と言えるようになれば、
それは政治的ではないけれど、道徳的な正しさとして、世界を少しは変えられるかも知れない 。実を言うと少し前から個人的に、たとえばコンビニの店員さんが日本語ネイティブでない人だった時には特に、「どうも」や「すみません」ではなく「ありがとう」「ありがとうございます」と言うようにしている。自分がそう気にかけているからには、そういう機運は少しずつ社会の中で盛り上がっているのではないかと思われる。
かくして、サイボーグたちの転落の理由が「感謝されない」だった→それが第7話でマキナの親友チハルに思いがけず
「二人ともありがとうね」 と言われて動揺し→無償の手助けを申し出て→最後には一丸となってオータムちゃんの計画を阻止するというのが、今さらネタバレなど気にしない、観れば小学生でも分かる『ミルキー☆サブウェイ』の大筋だ。幼稚な話だ、百戦錬磨の不良サイボーグが「ありがとう」と言われないからグレただなんてカワイイ、最終話でまた「ありがとう」と言われてキョドってるのチョロすぎると嗤うことは(そうゆうの嗤える人には)簡単だろう。けれど彼らの「感謝されない」は「機械扱いされる=人間扱いされない」と表裏一体なことは忘れてはいけないし、
それに第二話のエンディングに「あの」キャンディーズにこんな楽曲あったんだ?と驚いた(つまり人気絶頂の彼女たちが「普通の女の子に戻りたい」と解散したのをリアルタイムで知っている)くらい年寄りになると分かるけどね、
どれだけ誰かに「ありがとう」と言えるかって (とくにその残り時間が少なくなってくると)
人生の幸福の尺度でもあるんよ 。
本作で今の処あまり注目されていないのは、チハルの「ありがとうね」に誑かされて仲間になったカートが第10話で(誤解から激怒したアカネちゃんに顔面わしづかまれながら)見た目ひよわなカナタくんの活躍を
「めちゃめちゃ頑張ってくれた 」 と形容する場面だ。あれは彼なりの、全力の「ありがとう」ではなかったろうか。蔑まれ、機械扱いされてきた彼が、正当に感謝されることで、自分も素直に「ありがとう」と言えるようになる。「ありがとう」と言えることは、「ありがとう」と言ってもらえることに負けないくらい幸せで、恵まれたことなのだ。そして「ありがとう」と言うことは、「ありがとう」と言ってもらえることよりも、ずっと自分でコントロールできる。
なので再度言う。ひととおり観たあと「そうだ、自分も機械扱いされてる人たちに、ありがとうって言おう」と思えたなら本作は成功だろう。「ありがとうで味方になるカートとマックスちょろい(あるいはメロい)」で終わるなら本作は失敗だ。いや最近は「作品を批判するな」「好きな作品を貶されたら傷つく人もいるんだ」という意見もあるらしいから(知らんけど)厳密にいえば、作品ではなく、それは観た各々あながたがの失敗であり、敗北なのだ。
そして本作のこうした「教訓」が、あくまで一人ひとりでヒッソリ実践できる「道徳どまり」の行動であることは、逆にいいことなのかも知れない。
「人にありがとうと言いましょう」なんて規範が個人の枠を超え、集団や制度が賛美し謳い上げ強制される徳目になれば(しかも集団は構造的不正義を温存したまま)どんな悲惨が待っているか 。それこそアーレントが憎んだファシズムそのものではないか。だから「私は私の自由で人にありがとうと言う」というのは、社会を変える公共のムーブメントにならない意味で「英雄的ではない」かも知れないが、「誰かにありがとうと言うことを社会や国家・資本やプラットフォームに強制されることを拒否する」という意味では、十分に政治的と言えるのかも知れない。
ここまで読まれて「あー分かった分かった」「てゆか分かってるって」「ありがとうって言うくらい、あんたに長々あーでもないコーでもないと言われなくても実践してる」と思われたなら、
それで全然いい 。その道を進んでください。
※1:たとえば失業者の存在は資本主義社会の効率的な運用をさまたげるバグではなく、必要な時には投入できる労働力をプールし、また同時に「有職」を希少化することで労働市場を産業側に有利な「買い手市場」にするため不可欠な「仕様」に他ならない。さらに(にも関わらず)失業は労働者側の恥としてスティグマ化されていることは、80年代イギリスの失業問題をテーマにしたピーター・ゲイブリエル&ケイト・ブッシュの「Don't Give up」の赤裸々な歌詞に見られるとおりだ。監獄が収監者を更生などさせず、むしろ犯罪者を再生産していること(フーコー)、人種による選別の装置と化していること・また産獄複合体として社会のお荷物どころか低賃金搾取の原資になっている(アメリカ)ことは、ほんらい付記するまでもないだろう。
※2:幅広く公開されているらしい設定資料によれば(僕は敢えて目を通してないけど)、カートとマックスは元軍人であるらしい。兵役を終えた人々が一般社会に復帰したとき、培われたスキルや精神性(判断力や忍耐力などなど)で正しく評価され、あるいは個々に負った苦痛を正しく理解され、蔑まれない一方で、「国家」の名のもとにしか尊敬されない・彼ら彼女らを通して(彼ら彼女ら自身ではなく)国家の威光ばかりが強化される社会構造・を阻止することは可能なのだろうか。最近読んだ『ビッグイシュー』でアーノルド・シュワルツェネッガーの父はナチスに与したオーストリアの復員兵としてPSTDに苦しみ家族に暴力を振るったと読んだ。同じ戦争で同じように敗れた日本でも同じようなことは数多あっただろう。ベトナムで破れ大義を失なったアメリカの復員兵も同様だったことは、シュワルツェネッガーの往時のライバル俳優だったシルヴェスター・スタローンが(成功した自らを強いアメリカと一体化させる前に)『ランボー』で演じたとおりだ。これらの悲惨が近未来の日本で(
再び )切実な問題になりはしないかと恐れる。
人間「平等」起源論のアウトライン(25.09.07)(25.09.14追記)
中島らも 氏の文章ではなかったか。なので本当の話か疑わしいのだが、皆がみな高等教育の恩恵に預かれはしなかった時代、とある中学校に数学の天才少年が現われたという。家庭の事情で中退を余儀なくされた彼を担任の教師は「それでも勉強は続けるように」と励まして送り出したという。数十年後、老いた教師の前に、すっかりおじさんになった元教え子が現われたという。色々研鑽した結果、凄い発見をしたかも知れないので見てほしいと言う。細々と数式が書きつけられたノートを見て、老教師はあまりの残酷さに慟哭した。独学で数学を究めた彼が「発見」したのは、そのまま中学に居れば二年か三年で誰もが習う二次方程式を解く公式だったのだ。
改めて書き起こすとどうにも実話性が疑わしいのだけど 個人的には身につまされ、時おり思い出される話だ。
つまり自分は、適切なルートにさえ乗っていれば完成品として直ぐ手に取れるような法則や概念を、なぜか頑なに自力で発見しようと悪戦苦闘・遠回りしがちなのではないか。人の話を聞かない。自分でなんでも解決しようとする。それでずいぶん痛い目を見てきた。人間としては生きにくいタイプだ。
そこまで掘り下げなくていい 。
要するに「また例によって、それはもう皆に概念として共有されてるよという話を、自分でイチから組み立てたので御披露」です。
今回は簡潔に行きます。と言ってる現時点で既に無駄に長いけど 簡潔に行きます。
* * *
先月の日記(
参照 )でイブン・ハルドゥーン『歴史序説』を取り上げた際、末尾につけたしで「本格的に書くかも知れないし、書かないかも知れない」と思った話を書く。後にマルクスが掘り下げる労働価値説、マキァヴェッリの唱えるヴィルトゥとフォルトゥナ、さらにはスピノザの汎神論などなど…科学≒テクノロジーの発展を除けば、おおよそ人類が21世紀の現在までに思いつくような社会的・政治的な思想
「およそ人間に必要な議論」は14世紀の時点で (少なくとも初歩的には)
おおむね出揃っていたようにさえ見える―ただひとつ「平等」というアイディアを除いて 、という話だ。
たとえば一番わかりやすいので男女について。イブン・ハルドゥーンも帰依していたイスラム教は一夫多妻を認めているが、これは当時多かった寡婦の救済が目的で、西欧的価値観から見るほど非道い話ではないとか、
そういう話はしない 。いっけん男性支配のような部族社会でも実権は女性が握っている(とも捉えうる)みたいな「現代」でも著名人男性の性差別的な失言を「妻に叱られました」とか弁明する時に言われる話も
しない 。イブン・ハルドゥーンが中東で思索を深めていた頃、同時代のイギリスでは
「アダムが耕し、イブが紡いでいた時、誰が領主だったのか 」 という言葉で領主にたいする人民の平等が唱えられた。
そうではなくて「なんでアダムが耕し、イブが紡ぐことになってるの?」という意味での「平等」 という観念・概念は意外と新しい、わりと近年(数百年スケール)に出現したものではないか。そういう話をしている。
性差について、人種について、階級について、差異はあるものだけど「差別じゃないよ区別だよ」まさに
アッバース朝の将軍が息子に説いたように 強者が弱者を庇護するよう社会は補正されているよ、
という話ではなく、すべての人間がは本質的に「対等」なのだ・そこから話を始めなければならない という思想を、もっとも雄弁に(←ここで「雄」弁と言われてしまうくらい「差別じゃない区別」とやらは強固に人類を支配している)あらわしているのは、たとえば
アーシュラ・K・ル=グウィン の次のような言葉だろう。
「本を読むことと、本を書くことは、いかなる点においても、それぞれの性に依存する行為ではありません。 」 (『夜の言葉』)
アメリカ人だった、そしてファンタジイ愛好家としておそらくは小馬鹿にされてきた彼女は『指輪物語』を生んだイギリスをたぶん多少は理想化して、こうも書いている。
「十二歳のときによいと思ったものであれば、三六歳になっても全く同様に、いや、それ以上にすばらしいものであることは充分に考えられることだ (と知っている)
イギリスの読者は、自らが大人であることを弁明する必要がないほど成熟した大人なのである。」 (同)
もちろん「男性はこう書くべき」「女性はこう書くはずだ」というバイアスが作者や読者に働かないわけではない 。男性名ジェイムズ・ティプトリー・Jr名義で発表され「こんな話は女には書けないよね」と絶賛された作品が、実は本名アリス・シェルドンの手になると暴露された以後、彼女の作品に「男たちの知らない女」(←彼女の代表作のひとつのタイトルでもある)の凄みを感じずにいることは難しい。漫画『鋼の錬金術師』でデビューした荒川弘(←男性的な筆名)氏も、同様の扱いを受けたのではなかったか。
にも関わらず、原則論として、人は創作に対峙するとき性別も年齢も貧富も国籍も関係ない存在になりうる―というル=グウィンの思想は
「真の作家の勉強とは、ひとりでするものです」「作家としてあなたは自由なのです」 と説いた、小学校の作文の時間に架空の世界のことを書いて「あなたが"知っている"ことを書きなさい」と教師に注意され「でも先生、私はこれを"知っている"んです!」と(いま原典が見つからないので、声に出してか内心だけでかは不詳だけど)抗議した、筋金入りの創作者・物語主義者という彼女の出自に裏づけられている。つまり僕は「人は根源的に平等だ・平等たりうる」という概念を、まずは創作論を通して知ったことになる。
同じ頃か数年後か、やはり創作について考えていたころ知った、別の言葉がこれだ:
「人間の脳はアイデアによって思考するのであり、情報が基本ではない (中略)
と彼は示唆する。彼は、一例として、全人類は平等につくられているというアイデア をあげている。私たちの文化を形成するのに大いに寄与したアイデアであるが、これは、事実とか既存の情報を土台にできたものではない 。」 (強調は引用者)
文中の「彼」とは
セオドア・ローザック のことであるらしい。引用していたのは
リチャード・ワーマン『情報選択の時代』 (たぶん原著1989年/松岡正剛訳1990年)。
原典では「一例として」という形だったけれど「
人間は平等だというアイディアは、既存のエビデンスに基づいてはいないが、実現されるべき理念として現実の社会を大きく変えた 」という指摘もまた、当時の自分に大きく響いた。そしてこの「アイディア」はいつ生まれたのだろう・わりと新しいのではないか、という話をしている。
11世紀シリアの詩人は
「土くれより創られし (中略)
世の人すべて我が同胞なり」 と詠んだけれど、この「同胞」は「平等」をどこまで意識したものだろう。
14世紀にイギリスで謳われた
「アダムが耕し、イブが紡いでいた時、誰が領主だったのか 」 は領主と領民の平等を唱える一方で、性差に基づく男女の分業を自明視もしている。
簡潔に延べるべく(もう相当に苦しいっすよ) 現時点での暫定的な結論(推測)だけ言うと、18世紀末に
フランス革命で人民の平等が謳われる。だが実は貴族制打破としてブルジョア男性しか視界に入ってなかったソレを、女性や植民地の奴隷たちが正しく簒奪・文字どおりに拡大解釈する形で「全人類の平等」が目標設定された 、のではないか。
具体的には
23年10月の日記 で取り上げた
浜忠雄『ハイチ革命の世界史』 が詳らかにしているとおり、1791年のフランス憲法は人民の平等を「植民地には適用されない」ものとして奴隷制を温存。現実に人種差別の禁止を世界で初めて憲法に明記した1804年のハイチ革命は、西欧諸国に叩きつぶされ、以後ハイチは世界最貧国の地位に貶められる。
また1791年にフランスで「
女性および女性市民の権利宣言 」を書き男女平等・人種差別撤廃を訴えた
オランプ・ドゥ・グージュ が反革命の烙印を押されギロチンに送られた経緯は、ヴェイユではなくボーヴォワールのファーストネームを冠したフェミニズム誌
『シモーヌ VOL.3 特集:オランプ・ドゥ・グージュ 』 (現代書館2020年/外部リンクが開きます)に詳しい。
つまり啓蒙思想≒フランス革命がブチあげた「平等」は「その平等には女性や非白人種も入るんだよな」と念押しした非差別者にギロチンや弾圧で応じる、口先だけの紛い物だった。
それを本物の理念に精練しなおしたのは、先達の遺志を継いで継続された奴隷解放運動や反植民地運動・婦人参政権運動だったに相違ない(ストーンウォール暴動など性的マイノリティの闘争がそれらに続く)。民族による遺伝子の差異などないと証明するような科学の発展と、科学主義の根底にある数量への還元が与した処もあるだろう。フーコー言うところの人を労働「量」に換算する生政治も、逆説的なかたちで平等の理念に裏づけを与えたかも知れない。
いずれにしても「全人類の平等」は比較的あたらしく勝ち取られた理念・概念で、14世紀にはなかったアドバンテージで、これを死守すること抜きに21世紀の吾々の生存は考えられない。大学に再入学して勉強をやり直すという(それ自体は称揚されるべき)人生の選択に対して、僕じしんは「わざわざ大学に戻って研究したいこともない」と思ってきたけれど、不平等起源論ならぬ平等起源論(人類の平等を比較的あたらしい理念と捉えての成立史)は四年なり何年なりをかけて取り組むに値するテーマかも知れない。
いや戻る予定はありませんが 。
* * *
こういうことを考えています・考え始めたばかりなので結論も何もありません、というだけの文章なので簡潔に簡潔に…
と思ってたはずなのに、まんまと長くなってしまった (as usual)。
大急ぎで話を巻き取る 。
平等の理念を(ここ数百年という単位での)最近の発明と捉え、その成立史を探りたいと考えるのは「人類よくやった、お手柄お手柄」と自褒めしたいからでは勿論ない。逆に絶えず攻撃口撃を受け、いつ瓦解してもおかしくない砂の壁であるからこそ「平等」史の確立は急務ではないかと考えるからだ。
そしてもうひとつ「平等」を近代の産物と捉えたとき、その分析を急がなければ(いけないのではないか)と考えるのは、その平等が逆説的・逆接的に生み出している差別もありはしないかと考えてのことだ。
「行き過ぎた平等(草)」みたいな世迷い言につきあってやる気はない。そんなのは古くさいバックラッシュのカゴにまとめてポイだ 。そうではなくて。
「すべての人は属性に関係なく平等だ」という、それ自体は素晴らしい理念が「その平等な人間たちが結果として不平等な待遇になっているのは、不利な立場に己を追い込んだ者たちの自己責任だ」という形で、
差別の正当化に再度なっていないか と危ぶむ。
ウォーラーステイン『世界システムとしての資本主義』 (
24年4月の日記 参照)が告発しているように、資本主義者の差別者は女性や貧困国の人々は
「機会を提供されても、イニシアティブを発揮してこなかった」 その貧しさ自体、彼女ら彼らが劣っていることの証左であり結果なのだと見なしてきた。80年代〜90年代のウォーラーステインはそれを(彼女ら彼らは)
「生物学的にも、文化的にも」 劣っていると決めつけられた(せいだ)と書いているが、生物学的には対等なのだとする(本来なら反差別に向かうはずの)認識・理解・前提は
「その平等を活かせないお前らが悪い」「対等な吾々がどうして救ってやらなきゃいけないんだ」と逆に差別の強化 になってはいないかと危ぶむのだ。
現に「親ガチャ」「国ガチャ」といった言いようは、平等な人類が対等な条件下で引いたガチャの結果は、どんなに理不尽でも受け容れてしかるべきだという(有利な「ガチャ」を引いた強者による)不公正の正当化をもたらしているように見えて仕方がない。人は平等だなど夢にも思わなかった14世紀のイスラーム社会では・なんならレヴィ=ストロースを絶望させるほど完成されたインドのカースト社会ですら(不平等の反面?不平等だからこそ?)
空気のように当たり前だと思われていた「弱者への庇護」が、万人が平等とされる現代では大手を振って無視される 奇観(奇観・奇景というと辞書では「素晴らしい景色の意味もある」とされるが、むろん素晴らしくなどない)。人に「生きよ」と命ずる生政治が裏口から死政治を通してしまったように、多くの血が流され血まみれで勝ち取られたはずの平等が、逆に差別を正当化している現状が、あるのではないか。
そしてここまで考えたところで、実は同様の議論を二年前すでに自分は目にしていたのではないかと気づかされる。
23年3月の日記 で取り上げた
佐藤嘉幸・廣瀬純 『三つの革命 ドゥルーズ=ガタリの政治哲学』 (講談社選書メチエ/2017年/外部リンクが開きます)で著者たちが述べている
「我々はみな平等だ、と唱える市民運動に対して、プレカリアート運動は、そのような「平等」の下でこそ富者によって貧者の富が収奪されている、と返す 」
という一節だ。D&Gの『
哲学とは何か 』が提示した
「マジョリティであることの恥辱 」 という概念をゼロ年代〜2010年代の日本に敷衍しての言葉だけれど、読んだ当時は重要な指摘らしいとは思ったものの(だからこそ当時の日記=週記に残したのだろう)「ふーん、そんなものかね」というくらいで今回じぶんで考えを進めて同じ?結論に至るまではD&Gや佐藤&廣瀬が書いた意味を心底から体感できてはいなかった気がする。
誰もが「それなら知ってるよ」と言う二次方程式の解の公式に、ようやく自力でたどりついたら案の定、先に辿り着いていた人がいたという話である。先達が辿り着いていたのは「ここ」だったのかと、習ったはずの公式を本当に体感できるのは、自分でも解いて辿り着いてだという話でもある。
余人はさておき自分の理解はこうも遅いと、誰もが「なんでも正解を知ってるぜ」と言わんばかりのSNSのTLを横目に思うが、たぶんこれからも自分で解決しようとし続ける。
ものすごく暇ができたら「どうして二次方程式の公式はx=2a分の-b±√b^2-4acなのか」も考えてみたい気もするけれど、たぶんそんな暇は出来ない。そんな暇が出来たら、たぶん新しい料理にでも挑戦したりする。
(25.09.14追記)
なんて話をした翌週、あらたに読みはじめた
デヴィッド・グレーバー/デヴィッド・ウェングロウ の共著
『万物の黎明 人類史を根本からくつがえす』 (原著2021年/酒井隆史訳・光文社2023年/外部リンクが開きます)が冒頭から、ヨーロッパでは
「社会的不平等の問題への関心は、一七〇〇年代にあって (中略)
新規なものであった」「身分やヒエラルキーは世界の発端からあるものと考えられていた」「なぜ一八世紀 (中略)
ヨーロッパの知識人たちは (中略)
平等という考えに注目するようになったのだろうか?それ以前にはほとんどの人間が、社会的平等が可能であるとさえ考えていなかったことを考えるなら、これはとくに奇妙にみえる」 (第二章)と書いていて、まあ「
ほらな !」とガッツポーズだったわけです。「
みんなココが論点だと考え (はじめ?)
てるんだよ !」
ただし『万物の黎明』著者たちの問題意識は「平等」より「自由」に傾注しているようだと(まだぜんぜん読みはじめですが/読了後に改めて語ることになるでしょうが)断ってはおきます。そのうえで二人のデヴィッド(デヴィッズ?)は、カーニバルによる秩序逆転みたいな例外はあったものの基本的にはむしろ不平等こそ世界の秩序で本質と考えてきた西欧世界に「平等」の概念をもたらしたのは宣教師などがもたらしたアメリカ先住民たちの世界観・社会観だったと提示しています。西部劇のいわゆる「インディアン、ウソツカナイ」的な侮ったイメージとは対照的に実際の彼らは社会のもめごとの多くを議論で解決することから弁舌豊かで、その知的で説得力に満ちた平等観こそが西欧に輸入され近代ヨーロッパの平等観の「元ネタ」になったというのが、つまりデヴィッズの主張。
先週は主にバック=モースなどの議論から
1)フランス革命などに結実しつつ観念的な理想論(現実にはブルジョア男性だけの独占物だった)「平等」概念をハイチの黒人奴隷が現実化した…ことを後に世界を席捲する平等化運動の起点(のひとつ)としたわけですが、ここに
2)そもそもそのフランス革命などに至った観念的な「平等」思想も北米先住民が「現実」として生きていた平等の輸入という形で始まった…というデヴィッズの説が付け加わったわけです。そしてデヴィッズが『黎明』で註記している
3)中世ヨーロッパにも民衆のあいだに祝祭(カーニヴァル)や叛乱という非日常の形での「平等」観念は存在した…という論点については「それは言うほど非日常でもなかった(けど大勢=体制に破壊された)はずだ」とも取れるシルヴィア・フェデリーチなどの主張を読み直してゆく必要があるでしょう。
いずれにしても、少なくとも現代の吾々が当然のように(まあ建前であるにはせよ)もっている平等の理念は比較的あたらしい、あらためて「人間平等起源論」をこそ一度だれかがキチンと確立してほしい(その形式的な平等が結果的な不平等の口実になってないかという逆説も含めて)と、先週の錯綜した記述をまとめなおす次第です。
と同時に、僕じしんはこの「平等」を(クォーター制などの社会・政治制度も大事ですが)むしろ表現の分野での男女や民族・年齢等々の対等性という入口から知った・という話も先週のキモではありました。そして「表現においては(本質的に)性も年齢も民族も関係ない」という理念は先週書いたように創作を通しても得られるけれど、
ネット社会 の到来も大きかったんじゃないかなあと先週は書き落としたので、あらためて強調したい。
たぶん皆様いちどは目にしたことがあるんじゃないでしょうか「
こうしてパソコンのキーボードを介して通信していたら、私(たち)が犬だなんて誰も気づかないね 」みたいなジョーク。言葉や記号・表現といったクッションを間に挟むと、性別だ年齢だ人種だ犬種だ(笑)といったことは、どんどん打ち消されて人は(犬も?)対等になりうる。
実際のネット社会は差別や分断を助長する側面も否定しがたくあるけれど 、それらを打ち消す効果もある。
…そこまで考えて、あ、
自分が昨年描いたまんが(リトル・キックス)てソレじゃん、て今さら気づいたと (笑)。そもそも見てない・
見ても「読んでない」記憶に残ってない 人も多いんだろうなーと冷めた気持ちになってはいるけど、ヴァーチャル空間のアバターを介した格闘スポーツでは選手の体格差を一旦リセットできるという実話に、ふだんスポーツに関心のない自分が漫画にしたいと思うほど惹かれたの、そこに(問題もあるのだろうけど)希望もあるんだろうなと「考えるより先に感じてた」のかもなーと少し面白く思っているのです。
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