(26.05.16)メイン日記(週記)更新。
「さっきからずっとあなたの後ろにいるのは誰?」恐怖をそそるネットミームの元ネタになった四半世紀前のライトノベルを今さら読みました。画面を下にスクロールするか、直下の画像をクリックorタップ、または
こちらから。
←まんが新作(旅行記)はじめました。左の柱から。
(26.05.21/小ネタ/すぐ消す)近所のスーパーで値引きされていたドイツのビスケット。
LEIBNIZ(ライプニッツ)という名前だけで「なんとなく買わねば」と購入したのですが―別にライプニッツについて何か言えるほどの知識もないのだけど(
24年8月の小ネタや
25年9月の日記参照)―甘いビスケットの上に甘いクリームと小粒のマーブルチョコみたいのがトッピングされたコレ、一つ一つが「モナド(
よく分かってない)」ってことも、まあ、ないでしょう…

調べてみたらLEIBNIZ(菓子メーカーのほう)について言及してる記事を発見。ちょうど10年前の記事ですが「変わらぬ良い味(oldies but goodies)」みたいなイメージらしいので大丈夫でしょう、貼っておきます:
・
LEIBNIZ -ドイツのビスケット-(ドイツ不思議発見!/2016.11.06/外部リンクが開きます)
(26.05.20)署名:
中東情勢によるナフサショック等の建設資材緊急対策を求める請願署名(建設労働組合 川崎市建設労働組合協議会/change.org/外部リンクが開きます)にも賛同しました。署名の提出先は(内閣総理大臣殿とか)集まればそのうちつくでしょう。
(26.05.18)署名:
華やかな-大阪-関西万博-の裏で苦しむ建設業者を救って-370億円の黒字の一部で-未払い10億円の解決を(万博工事未払い 解決を求める会/change.org/外部リンクが開きます)に賛同しました。
【
戦争にも武器輸出にも反対】
*** *** ***
ふだんづかいできる反差別Tシャツがあると自分が便利なので作りました。
【電書新作】『
リトル・キックス e.p.』成長して体格に差がつき疎遠になったテコンドーのライバル同士が、eスポーツで再戦を果たす話です。BOOK☆WALKERでの無料配信と、本サイト内での閲覧(無料)、どちらでもどうぞ。
B☆W版は下の画像か、
こちらから(外部リンクが開きます)

サイト版(cartoons+のページに追加)は下の画像か、
こちらから。
扉絵だけじゃないです。
side-B・本篇7.1話、6頁の小ネタだけど更新しました。

(外部リンクが開きます)
今回ひさしぶりにシズモモの過去エピソードを見直し「やっぱり好きだな、この話とキャラたち」と再認できたのは幸せなことでした。そして色々あったり無かったりしても、ペンを持って物語を紡いでいる時が、自分は一番幸福らしいとも。次に手をつける原稿は(また)シズモモではないのですが、何しろ描くことは沢山あるのです。
ちなみに今話タイトルの元ネタは井上陽水の「
愛されてばかりいると(星になるよ)」。同曲が収録されたアルバム『ライオンとペリカン』のB面(side-B)に入ってる「
お願いはひとつ」は個人的に一番好きなクリスマスソングの最有力候補です。レノンと争う。
RIMLAND、電子書籍オンリーですが20ヶ月ぶりの新刊『
読書子に寄す pt.1』リリースしました。
タイトルどおり読書をテーマにした連作に、フルカラー社畜メガネ召喚百合SF「有楽町で逢いましょう」24ページを併催・大量リライト+未発表原稿30ページ以上を含む全79ページ。頒布価格250円(+税)で、一冊の売り上げごとに作者がコーヒーを一杯飲める感じです。下のリンクか、
こちらから。
書誌情報(発行物ご案内)はおいおい更新していきます。(22.11.03)
【生存報告】少しずつ創作活動を再開しています。2022年に入ってから毎週4ページずつ更新していたネーム実況プロジェクト、7/29をもって終了(完走)しました。
GF×異星人(girlfriends vs aliens)

これまでの下描きは消去。2023年リリース予定の正式版をお楽しみに。(2022.08.08→滞ってます)
愛は理解、理解は死〜秋山瑞人『イリヤの夏、UFOの空』(26.05.16)
昨今あらためて「恐怖」の対象となっている熊について、前にも何度か引用したと思うけど
隆慶一郎未完の時代小説『
死ぬことと見つけたり』は九州・佐賀の山林に江戸時代の火縄鉄砲ひとつで熊と対峙する主人公を描出して書いている。熊狩りは狩る人間と狩られる熊が互いの存在の痕跡を消し、消された痕跡を読んで先回りする相互理解の過程であり、そして理解のまさったほうが勝負=生死をめぐる闘いを制すると。
*** *** ***
先週の週記では要点だけに話をしぼりたかったので(
あれで)省略したのだけど、ジョルジョ・アガンベンの大いに叩かれた新型コロナ論『
私たちはどこにいるのか?』は末尾に付された「
恐怖とは何か?」が興味ぶかかった。いわく
「「事物」は世界との関係をひとたび失うと、それ自体において恐慌をもたらす(中略)
近代においては人間が事物性へと救いなく引き渡されてしまうということが起こっているが、恐怖とはそのように引き渡されるときに人間が陥る次元のことである」
例によって晦渋なフレーズなので自分なりに咀嚼すると、かつては精霊が宿ってたり象徴だったり(森のクマさんが白い貝殻の小さなイヤリングを拾ってくれたり、百年こわれなかった器に魂が宿ったり)「人間的」な意味を持っていた身の回りの事物が近代以降のっぺりした「モノ」になってしまった・それが人を恐怖させる、つまり恐怖とはすぐれて近現代を象徴する現象なのだ―といった処だろうか。そんなモノ化が人間自身にまで及んだ状況こそ、彼が糾弾してやまない「剥き出しの生」と言えるかも知れない。言われてみれば『ハロウィン』のブギーマンや13金のジェイソン、テキサスのチェーンソウ男など現代ホラーのアイコンが無表情な仮面+無言で押してくるのもモノ性=理解(意思疎通)の不可能性をなるほど示していそうだ。

理解あるいは意思疎通・関係構築の不可能性は
「恐怖を定義づける無力感」を生じさせる。もうひとつ興味ぶかいのは、この無力感についてアガンベンが
「恐怖は力への意志とは逆のものとして定義づけることができる。
すなわち、恐怖の本質的性格は無力への意志(中略)
恐怖をもたらす事物に対して「無力でありたいという欲」である」
と指摘している処だ。むろんアガンベンの狙いは「安全を保証するはずのセキュリティが逆にセキュリティ不安を募らせる(それで人々はますます支配の強化を求める)」という管理社会批判なのだけど「無力への意志」「無力でありたいという欲」は、ゾンビが猛スピードで走りだす前の古き良き「向こうはゆっくり迫ってくるのになぜか逃げられない恐怖」

いやそもそも人がホラーを見たがる「怖いもの見たさ」、
イヤだイヤだと思いながらイヤな方に引き寄せられてしまう感じを上手く説明していると思うのですよ。
無力への意志。
* * *
そんなわけで人生の一時期、ネットに流れる「この絵を見たら死ぬ」とか「あのCMが怖い」みたいな小ネタに没入したこともあって―すぐ飽きましたが―大体は「正体見たり枯れ尾花」なんですね―80〜90年代だろうか、出演者が死んだとか観た人も死ぬとか言われたティッシュペーパーのCMは背景で唄われてるのが「死ね〜死ね〜みんな死んでしまえ〜」というドイツ語の呪いの歌だという触れ込みだったのだけど、いざ現物を観ると「今日はいい天気〜今晩もいい晩〜明日も素敵な日〜♪」
英検三級=中学卒業ていどで余裕に聴き取れそうな英語の歌詞で、あれをキャーキャー言ってた中心層はまさに「中二病」リスニングがおぼつかない学習途上の中学生だったかも知れない。あるいは「怖がりたくて」聴き取れる英語にわざと耳を塞いだか。
要は石ばっかりの玉石混淆で、もちろん秀逸な出来のネタ(それでもやっぱり「ネタ」なわけだが)もあった。元は「2ちゃんねる」あたりに投稿された短文だと思うのだけど
「同じ画像なりマークなりを毎日見せることによって、
それがあっても、それが目に付いてもおかしくない、
不自然ではない状態にすることは洗脳の第一歩だよ。(1)
仮に君の部屋の壁紙に
普通では視認できないメッセージが刷り込まれていたらどうする?
連日連夜、気づかれないように少しずつ少しずつメッセージを刷り込んでいくんだ。(2)
時々、突然気分が悪くなったり、めまいがしたことはないか?(3)
金縛りにあったことは?(4)
お昼ごはんを食べたのを忘れたことは?(5)
大きな都市が丸ごと停電する夢を見た経験は?(6)
球形プラズマ、蜃気楼、観測気球、写真に撮るとしたらどれ?(7)
マンテル、チャイルズ・ウィッティド、その次は?(8)
『アルミホイルで包まれた心臓は六角電波の影響を受けない』というフレーズ知ってる?(9)
螺旋アダムスキー脊髄受信体って言葉に聞き覚えはある?(10)
さっきからずっとあなたの後ろにいるのは誰?」(11)
(強調は引用者)
あ、はい、つい強調してしまったけれど、この最後「…
お前だぁー!」みたいな感じで驚かせる構成はかなり巧い。というか恐い。とはいえ
整理のために(1)(2)…と番号を振ってしまった時点で、かなり興が削がれてる=恐怖が薄まってるのは「世界に関係づけられる」ことと恐怖は相反する説の実例かも知れない。
この短文が往年のライトノベルからの引用なのだと仄聞して、また例のアレですよ「生きてるうちに現物を読んでおこう(
まあふつう死んだ後では読めん)」で、読んでみた。実はかなり前から同書が元ネタらしいと知ってはいたのだが、世が世なので重い腰を上げたとゆうか、今年は巻きに入ってる。
・
秋山瑞人『イリヤの空、UFOの夏』(電撃文庫2001年/外部リンクが開きます)
あ、今「ぐはぁぁっ!俺(私)の青春!!」と吐血してる人がいるかも知れない。すまん本サイトなんかが、しかも今頃ノコノコと。

まずはサクサク本題から済ませると、件の「元ネタ」は全四巻の開幕早々で展開される。第一巻で保健室に運び込まれた中学生男子の主人公が
「何かアレルギーはある?」
「気分が悪くなったとき、ひどいめまいがしなかった?」(3)
と問診を受けるうち、次第に話がおかしくなって
「球形プラズマ、蜃気楼、観測気球、あなたが写真に撮るとしたらどれ?」(7)
「マンテル。チャイルズ=ウィッテッド。その次は?」(8)
「さっきからずっとあなたの後ろにいるのは誰?」(11)
「螺旋アダムスキー脊髄受信体、って言葉に聞き憶えがある気はする?」(10)
と畳みかけられる場面だ。(6)と、特に謎めいたフレーズとして印象に残る(9)が出てくるのは終盤の第四巻になってからだ。
「大きな街が丸ごと停電する夢を見た経験は?」(6)
信号機の四つ目の色は何色ですか?
『アルミホイルで包まれた心臓は六角電波の影響を受けない』というフレーズに聞き覚えがある気はしませんか?」(9)
比較すると、ネットに流布したヴァージョンが、より怪談として効果的に練られているのが分かる(逆に言えばネット怪談として効果的に「落とす」より、話を前に前に牽引しつづけることが望ましい小説では「後ろにいるのは誰?」のウェイトは軽いほうがよい)。結局のところ「螺旋アダムスキー脊髄受信体」や「六角電波」が何であるかの説明はなく、作者の創意・思いつきでない限り、元ネタ(小説)にはさらに元ネタがあることになる―それを知るにはUFOやオカルト全般の玉石石石石石石石混淆を掘り返す必要があるだろう。あるいは、そういう方面に明るいひとが「元ネタはラノベなんだって」という聞きかじりで「分かった」ことにせず、元ネタの元ネタまで掘り起こしてくれる(くれてた)ことを期待するか。
怪談ヴァージョンの(1)(2)で示される洗脳のくだりは、小説『イリヤの空』には存在すらせず、また別の小説などを掘り起こす必要があるのだろう。ただ『イリヤ』の四巻には
「放送終了後のテレビのホワイトノイズが何事かを語りかけてくると感じたことはありませんか?」という畳み掛けもあり、隠されたメッセージによる無意識へのはたらきかけ(洗脳)というモチーフが、これくらいの時代までの時代精神(ツァイトガイスト)だったことが見て取れる。
アニメ『
新世紀エヴァンゲリオン』が1995年・
谷川流のライトノベル『
涼宮ハルヒの憂鬱』が2003年で大ヒットしたアニメ版が2006年。2001年〜03年にかけて雑誌連載が文庫化された『イリヤ』を両者の橋渡し的存在と雑に位置づけたくなるのは物語の中心となる謎の転校生「イリヤ」の造形が『エヴァ』の綾波レイや『ハルヒ』の長門有希に対比されそうな、感情に乏しい無表情少女の系譜に連なるからだろう。ただし「イリヤ」は主人公をめぐって恋のライバルとなる勝ち気な少女・晶穂と「食べきれば無料・食べられなかったら四千円の爆盛り中華三本立て」のフードバトルで雌雄を決する斜め上の展開でニヒルな仮面を自ら引き剥がし、引っ込み思案だが感情ゆたかな14歳の少女に成長しおおせる。

今回の日記の流れ的に言えば本作は、互いに疎ましく何なら「恐い」存在だった転入生とクラスメイトが互いの世界にお互いを位置づけ「イリヤ」が主人公のことを「分かった」と告げて、一人の人間としての物語=人間性を取り戻した処で終わる。それが彼女にとってトゥルーエンドではあっても必ずしもハッピーエンドではないことも含め、人間にとって物語とは何かという批評性をもつ作品かも知れない。
本作には「UFOと謎の転校生」というフォーマットの他に―
本当にお前がネタバレとして伏せる基準と伏せない基準よう分からんと自分でも思いますが
★もう一つ仕掛けがあって(クリックで開閉します)
というのも本作、謎の転校生に主人公はじめ在校生たちが幻惑される作中の日本は(ソ連は消滅しているが)どうやら北朝鮮らしい仮想敵国と、米軍の支援をうけ自衛「軍」を保有するに至った日本が戦争前夜くらいに対立し―その対立すら本当なのかという疑惑を最後まで保持しつつ―すでに戦時下のような軍国主義の支配が行き渡ったパラレルワールドになっているのだ。
その緊迫感は発表された2001年当時より、2026年現在のほうが身につまされるものがあり、いま読まれるべき作品かも知れない。
ただし、その緊迫感もメインストーリーの牽引力に引っ張られページを繰るとアレよアレよと霧散してしまう。異様な世界が眼前に
「あっても、それが目に付いてもおかしくない、不自然ではない状態に」馴らされてしまうというわけだ←あ、いや、この一節は『イリヤ』が原典ではないと判明したわけだが。
その反面、本作が反映していた時代精神=「サブリミナルなメッセージで吾々は日々洗脳されている(かも知れない)という物語」は、もう現代(少なくとも2010年代以降)には説得力を無くしているだろう、今はもう陰に隠れた「サブ」リミナルなどなく、すべて開けっ広げに「バズる」顕在的な洗脳・顕在的な虚偽・顕在的な陰謀ばかりだ―とは、すでに本サイトで再三にわたり主張しているところだ(90年代に一世を風靡した「サブリミナル陰謀論」を取り上げた
20年3月の日記参照)。手厳しく言えば、とっくに開けっ広げなフェイク・トゥルース、の、信奉者たちが今だに(共産党の)陰謀!などと居もしない鬼の首をとったように騒いでいるのは、自分がもうマジョリティおじさんであることに気づかず反抗「児」を気取ってるオタク戦士と同様に、愚鈍で厚かましく、総じて恥ずかしい痴態だろう。
* * *
そんなわけで、アダムスキーの頃なら兎も角「政府の隠蔽工作」「政府とエイリアンの共謀」といった地上的な陰謀論に帰着して俄然つまらなくなってしまったUFO界隈、そのなかでも空飛ぶ円盤が墜落しただの異星人の遺体が運び込まれただの・の風説で特権的な聖地の座を保持しているアメリカ本土の基地「エリア51」をめぐる騒ぎには一貫して冷淡だった自分が。
食わず嫌いを克服すべく(?)視聴したナショナル・ジオグラフィックの動画
・
UFOと宇宙人:エリア51機密解除 (声:若本規夫) (YouTube/2021.05.14/外部リンクが開きます)
が「暴いた」同基地の「真相」は
★これも畳みます(クリックで開閉します)
政府がひた隠しにしていたのはユーフォー(UFO)ではなくユーツーだった=同エリアが冷戦下で敵国ソ連を超高空からスパイするU2偵察機や、その後継機種であるA12(のちのSR71)、ステルス機F117など最先端機を極秘開発する拠点だという秘密だった。この秘密を隠蔽するため、逆に米軍はUFOの噂を流れるに任せ、時に利用すらしたという。
というもので、申し訳ないけど政府と異星人の密約をめぐる陰謀論より、
ずっと面白く、わくわくする「真相」だった。
事実は小説より奇なりと言うより両者がめざす方向は最初から別であり、そして事実は陰謀論より面白いし、小説も陰謀論より面白い。オカルトや陰謀論に飛びついてしまうのは(時に自分もそれに引き寄せられることを踏まえて言うのだけど)事実やフィクションの面白さを咀嚼できないくらい「胃」が弱っている時なのかも知れない。
実をいうとこの動画が面白かったため、長年の懸案だった『イリヤの空、UFOの夏』も読んで、この周辺に一つのケリをつけておこうと思っての遅ればせの読書でした。リアルタイムで読んでいたら刺さりっぷりも違ったかも知れない(残念ながら
「本も御縁なのだ」)。今はちょっと「こんなに批評性の高い作品を読んでおきながら今なんとかアノンに染まっちゃってる貴方がたは」とか、それでも皆この『イリヤ』ではなくエヴァやハルヒを選んだんだなぁという、まだ腑分けできてない気持ちがないでもないです。

(追記/かなりネタバレ)『イリヤの空』(2001〜03年)は『エヴァ』と『ハルヒ』の間という捉え方も出来るけど、同時にたとえば新海誠監督が脚光を浴びた自主制作アニメ『ほしのこえ』(2003年)あたりと同列に扱ってもいい作品かも知れない。戦闘美少女とかセカイ系とか。こうして書くと「すまん、そういうのは詳しいひとに任せたい」となるし、オタクを名乗りながら今まで自分は何を読み見聞きしてきたんだと思わないでもない。
斜め下の国〜レベッカ・ソルニット『災害ユートピア』ほか(26.05.10)
「当局は問題を無視し、次にはそれを最小限に見せようとし、最後には犠牲者のほうを責めた」(ソルニット『災害ユートピア』)
*** *** ***
図書館に出向いた目的のひとつは『
21世紀事典』(原著1998年/柏倉康夫ほか訳・産業図書1999年)の「日本」の項目を再確認するためだった。著者は
ジャック・アタリ。ミッテランからマクロン時代に至るまでフランスの政権運営に何度も関わっては何度も追放され、イギリスで欧州復興開発銀行を創設した(追放された)経済学者で、未来学者≒予見者としても知られる人物だ。
タイトルどおり事典を模してアルファベ順に記載された同書でJの項・エルサレム(JERUSALEM/
「宗教,政治,民族,文化,地勢,経済の矛盾は頂点に達している.正当であると同時に矛盾する諸権利を認めた上で,人々を一緒に生活させる方法を見いだす必要がある」)のひとつ手前「JAPON」の項は、次のように始まる。
日本(JAPON ジャポン)
21世紀のはじめの3分の1における完全な敗者である。
初読した当時も、この強烈な「予言」は本サイトで紹介したと思う(何度ものサイト移転で零れ落ちてしまったが)。自分の視点では完全に的中(
アタリだけに―うっさいわ)だったように見える彼の洞察、だが細部はどうだったろう。再確認できた、当時のアタリ氏による日本の「敗因」はこうだ:
「破滅的な人口問題の動向,可動性がないこと,変革がほとんど見られないこと,産業と研究開発に情報工学,生物工学,航空学が欠如していることなどが問題だ」
「破滅的な人口問題」は人口の減少と、それにともなう社会保障費の増大をさす。具体的には
★重くて簡単に結論の出せない話なので、たたみます。(クリックで開閉します)。
あ、その前に
「1975年の動向調査は,日本の1人当たりの所得は,1985年にアメリカを追い抜くと予測した.今日(1998年)
それはその83%に過ぎない.」
…うわあああ。ま、そこは軽く飛ばすとして(飛ばすんか)
「日本は老化し,発育不全にならざるをえない.人口は2025年で1億2500万人以上にならない.出世率が回復しないかぎり,その後人口は減少に向かう.2025年には2人の社会保険加入者に対して,年金受給者1人の割合になる.現在は4人に1人である」
「医療保険の支出は,国民所得の30%を越える.医療保険と年金の現在の水準を維持するためには,保険料の義務的な徴収を,国民所得の37%から50%以上に引き上げなければならない」
「このような極端な事態を避けるためには,女性と外国人の労働市場への大量の参入を認める必要があろう」
2025年1月時点での日本の人口は「1億2500万人以上にならない」という98年当時のアタリの想定を大きく下回り
1億2443万690人・このうち「日本人」は
1億2065万3227人で外国人が
367万7463人となっている。
・参考:
2025年1月1日の日本人人口は1億2065万3227人で前年から0.75%減少、65歳以上人口が29.58%を占める―総務省(Gem Med/2025.08.08/外部リンクが開きます)
「外国人367万7463人」と言うと「ぎゃーそんなに!排斥!排斥!」と悲鳴を上げる人も居るかもしれないが1億2400万人の中では3%だ。アタリが言う「大量の参入」には程遠いだろう。
とまれ、これらの数字をどう読むかは各々の作業。浅学の僕に言えることはあまりない。
たたんでない本文では別の話をします。

女性や外国人の労働市場への参入=平等やダイバーシティ(多様性)の推進が経済の発展にも利する、そのように自身の正義を「実際そのほうが有利でもある」と功利性に結びつけられるアタリ氏は幸福な人だ。しかるにこの国では「少子化!衰退!大変だ!」と叫びながら、ますます性別や出自での格差を広げようとする不幸な人たちが決定権を握りしめている。
「日本の民主主義はまだ成熟したものではなく,大方のところ腐敗した党派によって支配されており」
「没落を避けるためには,他国の思想,文化,産業に開放的になる以外,ほかの道はない」
と書くとき、彼が想定しているのはアメリカからの独立かも知れない。アメリカに依存して危機を切り抜けていくことは、積み上げた大量の黒字をアメリカに献上し、自らは痩せ細っていくことを意味するからだ。その一方で現状(1998年)アジアの「友好国」の中でも孤立している日本は、積年の確執を解消して中国と同盟できれば
「アジアを1つの大陸のように結び付けることもできよう」が、それはアメリカから独立した日本が核兵器を保有し、避けがたく中国と対決するという試練を克服できた後の話だと30年前のアタリ氏は言う…
予言なり予見なり洞察なりには、当たるものもあれば外れるものもある。というのが今回の日記(週記)のモチーフだ。
こう行けば破滅する、こう行けば克服できる、両方のマスに賭けのチップを置く(「パレスチナの民族的な地位の承認を拒み、併合を推し進めればイスラエル自身の破滅は避けられない―しかし隣人と和解できればヨーロッパとアジアの架け橋にもなれるだろう」)慎重なアタリ氏でも読み違えはある。30年後の日本が相変わらず「腐敗した党派によって支配され」民主主義は成熟どころか立ち枯れに向かっていること・対米従属を抜け出せずますます全てをアメリカに献上する勢いであることは積んだチップが倍額になって戻ってきた感があるけれど、一方、仮に今アメリカから離れたとして
自力で核武装できるだけの技術力が日本にあるとは思えない。
(ついでに言えばアメリカから独立した日本が敵に回すのは中国以前にアメリカではないかとも思うが、そのあたりは地政学とやらに詳しい皆様のほうがよく存じ上げているのだろう。これも今の僕に言うことはない)
それとも、日本はまだまだ優れた技術を持っているし金融資産は莫大で、国民もよく教育されている、人口動態の逆転だって不可能ではない―と楽観的なほうに張られたチップは「手をこまねいていれば、このチップも減耗して30年後には逆転の大勝負を賭けることすら出来なくなっている」という冷徹な損切りを言外に含んでいたのだろうか。
* * *
「手をこまねいていれば」今回の原油危機は東日本大震災や、新型コロナ禍に匹敵するダメージを経済や日々の生活に及ぼすだろう(
これが今週の二番目のモチーフ)―そっち側に賭けのチップを積むにあたり「前回」コロナ禍の事情を振り返ってみるのも悪くない。あるいは過去の知見に習い今後の備えに資する最後のチャンスかも知れない―
―煽っておいて申し訳ないが、改めて確認したのはアタリ氏の核武装(への懸念)と同様「
申し訳ないが、これも参考にならん」だった。
ジョルジョ・アガンベンの
『私たちはどこにいるのか? 政治としてのエピデミック』(原著2020年/高桑和巳訳・青土社2021年/外部リンクが開きます)は、重要な概念をいくつも打ち出しながら「軽率すぎる」と叩かれがち・ポジティブにいえば人々の思想を鍛えるうえで恰好の叩き台にもなってきた彼の仕事のなかでも(たぶん)傑出して叩かれたものだ。つまりエピデミックの初期段階で「これはたいした事にならない」という見込みのもとで「にも関わらず権力は大変な厄災さと騒ぎたて民衆の隔離や分断・管理を推し進めようとしている」と猛批判し、「大変な厄災だったじゃないか」と猛批判返しを食らったのだ。
ジャン=ピエール・デュピュイの
『カタストロフか生か コロナ懐疑主義批判』(原著2021年/渡名喜庸哲訳・明石書店/外部リンク)は批判の急先鋒ともいえる渾身の一著で、アガンベンの主要概念である「剥き出しの生」やフーコーまで遡る「生政治」にまで強い否を叩きつける。
どちらの著者にも関心をもってきた、言うたら両方のマスにチップを置いてきた身からすると、相反する両者の著作はともに面白い。
訳者の高桑氏は「本書はアガンベン思想の分かりやすい入門書ではない」と釘を刺しているけれど『私たちは』はアガンベンの生政治や権力批判の「おさらい」としてよくまとまっているし「仮にコロナ禍が大ごとになったとしても、それを奇貨にした管理や分断は変わらず賛成できない」という態度は一貫している。「隔離やリモート化は他者と対面で交流する機会を奪い、人をますます非人間的(ただ生きてるだけの剥き出しの生)にする」という主張・その健全な信念は、ますます社会的に引きこもり書物だなんて間接的な交流に耽溺する自分には受け容れがたい・あるいは
アガンベン先生のほうが僕を受け容れてはくれまいと無念に思うのだけど、
まあそれはいい。
デュピュイの反・反コロナ論も多くの含蓄をふくみ(ルネ・ジラールの後継者という位置づけから若く見積もっていたけれど、この人ももう80代なのだなあ…)アメリカにおけるプラグマティズムとサイバネティックスの誕生とか、「死ぬこと自体はこわくない死に至る病気や苦痛がこわい」なんてウソだよ死ぬのが一番こわいよ(めっちゃ共感できる・ジャンケレヴィッチという哲学者が参考になるそうです)とか興味ぶかいトピックに溢れている。その一方で肝心の「剥き出しの生」「生政治」批判は、やや誤解とゆうかアガンベンの主張の核心よりずっと手前で空パンチを出している印象が強く、なんなら「いやそれこそアガンベンが批判してることなんですけど」と取れる部分すらないではない。
シロかクロか、正解か不正解かで二分できる科学と違い、人文系の本や思索は
互いに矛盾しそうな見解それぞれに各々が正しく適用できる(納得できる・理解に資する)局面があるので、一方が正なら反する一方は不正と切り捨てられないし切り捨てるべきではない、というのが
今週の要点その3だろうか。
ただし「何だってその立場からは正」などとは言えない、議論の土俵にも上げられない根本的な間違いはある。これが要点4だ。
アガンベンは新型コロナ禍が「行きすぎた対策」を呼ぶと批判し、デュピュイは「適切な対策」がむしろ必要な状況で何を言うと反論した。けれど、この国で見られたのは両者の論争のはるか手前で、むしろ「なぜもっと対策しない?」と大声をあげたくなる状況だった。
たしかに自粛はあった。皆がマスクをつけ、ワクチン接種の列に並んだ。映画館・小さなライブハウス・飲食店は営業自粛を余儀なくされ、同人誌即売会も中止になった。でも自粛の多くは自発的に、自腹を切る形で行なわれ、政府や行政による補償は可能なかぎり「ケチられた」。「コロナ禍の休業に対する補償なんて世界的にも例がない」と安倍首相(当時)は虚偽の答弁をし(実際は世界じゅうにあった)小規模店舗が「つぶれるに任せる」一方、満員の通勤電車を停めようはせず

さらには(一年延期したものの)東京にオリンピックまで誘致した。政府の方針は「行きすぎた対策」とは真逆で、映画『ジョーズ』で観光客を変わらず呼び込むため人喰いザメの被害を隠蔽しようとする市長に限りなく近かった。
そもそも政府が最初に打ち出した「対策」は、有力な支持者におもねる「お米券」「牛肉券」の配布だったし、隣国が高機能な不織布マスクの開発を進める一方で配布されたのはカビやダニの温床と懸念される布マスクが二枚で、それすら当時の首相と縁故の企業を潤すためだと言われた。さらにそんな時期に旅行を推奨するGOTOキャンペーンが為され(まあ実際に平常時なら一泊数万円する京都のデザイナーズホテルが3500円で泊まれたりしたので旅行・宿泊業界への補助は必要だったろうが、
それにしてもだ)精度の高いPCR検査がなぜか批判され「あてにならない」と言われながら優先された抗体検査も、治療すら五類移行で補償から外され、今では「そもそもあんなに騒ぐ必要なかった」「行きすぎた自粛だった」と言われているが、
実際は今も年3万人の死者が出つづけている。
・参考:
年3万人超死亡、日本人の死因8位 新型コロナ5類から3年の現在地(朝日新聞/2026.05.08/外部リンクが開きます)
あーもう長くて嫌になっちゃうなあ。もう記事本体は削除されているが
「保育士の感染「保護者に知らせず続けて」横浜市が指示」という当時の見出しさえある(朝日新聞デジタル/20.04.15)
エピデミックに付随する管理の是非を喧々諤々になって論じあうことが
間違っていたと言うつもりはない。ただ、それらは「経済を回す」ことを感染症対策より優先し、人々を生かす代わりに管理する「のではなく」小規模事業者は早々に見捨てて与党と縁故のある一部にだけ恩恵を与える、言うなれば「斜め下」の存在を前提にしていなかった。彼らの議論は重要だが、この国に適用するには高邁すぎた。この場合「根本的に間違っていた」のはどちらだろう?
* * *
「災害で助け出された人の八〇パーセントが、別に特殊な技能などない人により救助されている」
レベッカ・ソルニット』
『定本 災害ユートピア なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか』(原著2009年/高月園子訳・亜紀書房2010年→定本20年/外部リンクが開きます)は、邦訳が出た直後に東日本大震災が起きたため、吾が国でも広く読まれたという。今それを読むのは、またしても完全に出遅れた形になるけれど、やはり今から来る(かも知れない)原油ショックの前では、また違った意義があるだろう。
佳い本だと思います。
1906年のサンフランシスコ大地震から
「核兵器の発明前では、史上最大の人為的な爆発事故」と言われる1917年カナダ・ハリファックスの惨事、1940年の(ドイツによる)ロンドン大空襲、1985年のメキシコシティ大地震を経てニューヨークの9.11そして2005年ハリケーン・カトリーナによるニューオリンズの壊滅的な被害まで取材した同書は、破滅的な災害のあと「パニックに投げ込まれた人々は利己的になり互いに略奪・暴行・殺し合いを始めるだろう」という通念とは真逆に人々が協同し、助け合いのネットワークが自ずと発生し、無私に与えあう喜びから来る多幸感さえ見られたことを論証する。
ちなみにこうした相互扶助の出現・
自分ひとり生き残ろうとするより皆で頼りあって生き延びようとすることこそ生きるモチベーションかも知れないというテーマを僕は
ナオミ・クラインの『
楽園をめぐる戦い』(
23年11月の日記参照)で知って、ソルニットの書はその再確認になったのだけど、本書でソルニットはクラインの主著『ショック・ドクトリン』(
未読)を「災害で人々は自発性を失なうという旧説に従順すぎ」と批判しているのが興味ぶかい。
人は放っておけばエゴで奪いあう―ホッブズの『リバイアサン』やマルサスの人口論など西欧近代の基調になっている思想そのものに異議を申し立て、苦境にあって自発的に立ち上がる相互扶助を称揚するソルニットの著述は、
しかしながら理想どおりにならなかった反証例として
「一九二三年に日本で関東大震災が起きたときの韓国人と社会主義者」に起きたことを想起させる。
冒頭に掲げたソルニットの言葉
「当局は問題を無視し、次にはそれを最小限に見せようとし、最後には犠牲者のほうを責めた」は21世紀のハリケーン・カトリーナにおけるブッシュ政権を批判したものだが、それは東日本大震災の、また新型コロナ禍の日本で、政府とメディア・それに「ふつうの日本人」と呼ばれる特権を享受する人々が一体となって示した態度ではなかったか。
* * *
まとめる。ジャック・アタリの未来予測。感染症対策をめぐるアガンベンとデュピュイの論争。ホッブズやマルサスに抗して自発的な相互扶助の発生を説くソルニットの議論。どれもこれもが適用できない・無効化されてしまうほどレベルが低い、1975年頃には「アメリカを追い越す」とすら言われたという、この国の「完全な敗者」ぶりはどうだろう。
慎ましげに言えば四半世紀前に「敗者だ」という視点を植えつけられてしまった・だからその後の日本のやることなすこと「完全な敗者」に見える、そんな「
予言の自己成就」
の可能性だって、無いとは言いきれない―いや、どうでしょう。これも前に本サイトで書いたかも知れないが、再生紙の再生率○○%というパッケージにも記載されている数字が長年にわたり「採算が取れない」という理由でメーカーにより捏造された虚偽のものだったというニュースで「あ、ダメだ」「課題を技術革新(モノづくりがどうとか)じゃなくて数字の胡麻化しで"解決"しちゃう国なんだ」と思ったとき、「完全な敗者」というフレーズは既に自分に吹き込まれていただろうか。そんな現実と、それを端的に説明してくれる言葉、両者の相乗効果ではなかったか。
僕に見えるのは、仮に核武装に踏み切ったとしても、実際には自前の核兵器など実装できず、ただただ核武装のための予算を(政権与党と癒着した)大手企業に注ぎつづける姿だ。そうやって、この国は3.11も新型コロナも「乗り切って」きたのだから。

日本国憲法の前文が
「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」「諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と謳ったとき、それは非戦という以前に、特に日本は「他国と協調しないと生存もおぼつかない」という現状認識を含んではいなかったか。その「信頼」を放棄して「無視」した中国やイランに、戦争のはるか以前でキャンと言わされている現実を前に、憲法前文を「おめでたい」と虚勢をはる首相に、それに喝采する有権者に、おめでたいのはどちらだと言いたい。
本来なら少なくともジャック・アタリの話とそれ以外は二つに分けて書くべきだった話かも知れない。けれど日本を「21世紀の完全な敗者」たらしめている病巣を摘出することは、可能なうちにしておくべきことなので一気呵成に書かせてもらった。デュピュイは「このままでは滅びるぞ」という預言はしばしば、破滅を回避させるために為されると言う。この国では人々は助けあわないし、社会は富める一部しか救わない―そんな陰鬱な予想が外れればいいと思う。
*** *** ***
(追記1)ジャック・アタリの「エンパシー」をめぐって見つけた文章。
・
インタビュー 人はなぜ攻撃的になるのか(東北大学新型コロナウイルス対応特別プロジェクト/2020.10.30/外部リンクが開きます)
本当に僕はこのあと来る(かも知れない)災厄を心配しているので、こうした直近の教訓を復習しておくことは必要だし意義のあることだと思うのです。
(追記2)今回の日記(週記)の主旨とも、同書の主旨じたいとも離れるけれど、ソルニットの『災害ユートピア』には
「驚きではないが」としたうえで
「北ベトナム人の戦いを続ける意志(中略)
に、(米軍の)
爆撃が及ぼす間接的影響は明白な形では表れていない」という一節がある。本サイト
12年3月の日記でも取り上げた話であり「大規模爆撃や原子爆弾は、それが実際にもたらす効果でなく、そのプロジェクトに注ぎ込まれる経済的資源の大きさゆえに自走し停まらない」というテーゼは、僕がオリンピックや万博、兵器開発に向ける視線の冷ややかさを、かなり根底で規定している。
小ネタ拾遺・26年4月(26.05.02)
(26.04.01)これだけ虚偽にあふれた世の中で、今どきエイプリル・フールでもないのだが、
出立の前日、たぶん今年に入って今いちばん旅行に行きたくない(まさに「馬鹿(フール)
なの?」)マリッジブルーって、こんな感じですかねえ。てゆうか・空港に行く時間(終電で羽田入り)に寝過ごすとか・空港の中(前泊)で飛行機に乗る時間を寝過ごすとか・飛行機のチケット姓と名を逆で申しこんでて乗せてもらえないとか・72時間以内にメールで送られてくるはずのホテル入館(無人エントランス式)のパスワードがまだ来ない(
事実)とか・確定申告がちゃんと税務署に届いてなくて戻ってくるはずのお金が戻ってこないとか(
無関係)(
26.05.02追記:ちゃんと来ました)、
何もトラブルが起きず明日の夕方には無事むこうの宿にチェックインできてる気がすこぶるしない(相当だ)…
よおし、不安要素をあらかた書き出したら少し気が楽になってきたぞ。
×睡眠が不足すると(いま不足している)メンタルは沈みがちである
×メンタルが沈むとイライラして怒りっぽくなる(今たぶん怒りっぽくなってる)
これは日々の生活でも言えること。まだコップに半分以上お水は残ってる。パニクる必要はない。着実に、着実に、水を注ぎ足していきましょう。四月、新年度、新学期。今この憂鬱だって学びになる。人生は死ぬまで(ポジティブな意味で)勉強だ。
(26.04.02)そんなわけで、リアルタイムで逐一ご報告などいたしませんが、色々あって台湾に来ています。

いや、さすがに地上の明かりとかブラシで補正させてもらったわ。
(台湾旅行の話は
4/13の週記と
新作旅行記まんがになりました。なる予定)
(26.04.10)
「来月あたりやってみよう」→有言実行の疑似酢豚(黒酢)。悪くない気がする。とゆうか・片栗粉のコロモ感・豚肉・甘酸っぱいソースで自分の酢豚欲の6割くらいは満たされるのかもと知る(この歳になって)…余った豚肉は小さめに刻んで冷凍・そのうち今度は疑似魯肉飯に挑戦。先月買った『ルー・リード 俺の太極拳』も、台湾で買ってきた小説(二冊)もあるし、

花は盛りで世界は美しい。もう少し社会をまともにしてくださいとは思うけど

この歳と、この世の中にしては悪くない誕生日。←
「明るさは滅びの姿」(大宰)
とか「燃え尽きるロウソクの最後の輝き的なヤツ」みたいな悲観はさておき、今月に入ってからB/Wで電書を購入くださったかた、ありがとう。
(26.04.12)所用あって千葉県の柏へ。たぶん前世紀くらいまでか−大昔はマルイが入っていた駅前ビル(ファミリかしわ)に喫茶店「こんぱる」を発見、、名古屋では知られたお店が関東のこんなところに支店を出してんだと入店。名古屋のほうでは名物のエビカツサンドはないけれど(
この時点で気づけ)さすが「こんぱる」ふつうのホットサンドもうまいな…

…念のためネット検索で確認し、
名古屋の老舗喫茶店はカタカナの「コンパル」・こちらの「こんぱる」は特に関係ない別のお店だと知る。
そのあと出向いた先の近くにカタクリ自生地なる場所があり足を伸ばすも、もう時季が過ぎてしまったのか咲いているのは白く可憐なスズランばかり。いやスズランだよなあ?(
後で調べたらスズランではなくスノーフレークでした。いちおう「鈴蘭」水仙ともいう)でもコレはコレで綺麗なのでと写真を撮っていたら「あ、あのひと写真を撮ってる(あれがカタクリなんだ)」と思ってか思わないでか、四・五人が嬌声をあげながら白い花をバックに互いを撮りはじめて、いや分かんないですよ、分からない。もしかしたら「カタクリを見にきたのにスズランしかなぃ…(T△T)」みたいなSNS投稿のためだったかも知れないし、もとより「流石こんぱる(
別のお店)」「スズラン(
スノーフレーク)」に何か言える筋合いでもないのだった。

勘違いでも気づけば笑い話になるし、気づかなくてもしあわせならいいのよ。主に政治の、人の生活に迷惑をかける勘違い以外は。
(26.04.15)安否が不明で情報提供を募る意味もあった時期ならまだ分からなくもないが、不幸にして死亡が確定した今、11歳の子どもの顔写真を報道の名のもとに晒しまくるの自分的には「やめてさしあげろ」「もう休ませてやれ」としか思えない。
(26.04.16)今度こそ人生最後の覚悟で赴いた台湾旅行から
帰ってきて1週間、早くも「空港行きの電車に乗り遅れて台湾に行けない悪夢」を見てしまう。本当に自分が厭。まあ
「レンジで作る米粉きなこ蒸しパン」(食事処さくらの料理教室/YouTube/外部)が目覚ましく上首尾に出来たので良しとする。ビギナーズラック?知らん知らん。

あと仕上げのラップは(そのために持ってる)シリコンのフタで代用。問題なし。写真の色味が三枚ぜんぶ違うのは補正テク不足だけど写真の色味が三枚ぜんぶ違うのは補正テク不足だけど(自分は現状あまりなくても困らない技能)、大体きなこの色を二倍に濃くしたくらい。
(26.04.17)熱々の焼きマシュマロをチョコレートビスケットでギュッとサンドする「スモア」にも挑戦。ごはん(おまんま)が停まらなくて隣家に借りにいくほど美味しい「ままかり」やストイックな仏教僧が牆(塀)を跳び越えて食べにくるほど美味しい「仏跳牆(未食)」と同系統の、もう一個・もう一個(ワンスモア)と食べたくなることから「スモア」というネーミングに偽りなしか、毎晩すこしずつ食べようと買ってきたチョコビスケットをアッという間に空けてしまう(おえんがー←ままかりの本場・岡山の方言)。まあ絶妙に物足りなくてワンスモアかも知れないけど←急に「あのブドウは酸っぱい」と言い出してますぜ…

てゆかマシュマロ焼くだけで、あんな美味しいとは思わなかった。焼かずにマシュマロを語るなかれ(自戒)。
(26.04.19)そして有言実行の疑似魯肉飯。やはり豚ロース肉では皮つきバラ肉のようなトロトロの柔らかさは出ない気がするが、代わりに冷えると白く層を成すほどの脂も出なくて、改めて豚バラ肉(しかも皮つき)のカロリーその他が思いやられるなど。しかしソレが美味しいんですよなあ…
「にくづき(月)に旨いと書いて脂」とは、よく言ったもの。
(26.04.19)ビギナーズラックにあらず二回目きなこ蒸しパンも大成功・気を良くして挑んだ
ふわふわヨーグルト蒸しパン(食事処さくら/YouTube/外部リンクが開きます)は一番お安いヨーグルト(無加糖プレーン)を使っても余裕のふんわり感で市販のチーズ蒸しパンに遜色なし。違うのは味がヨーグルトの酸味というだけ・今日はこれをおやつに国会前でのんびりしてました。【
戦争反対】

(26.04.22追記)そういえば
国会包囲デモ(朝日新聞/26.04.19/外部リンクが開きます)の帰り、散歩日和だったのと
交通費惜しさに(かわいそう)(誰だサヨクのデモには日当が出るとかデマ流してんの)永田町から品川まで歩くことにしたら、国会からすぐのところで
霞が関ビルに遭遇してました。池袋のサンシャイン60(240m・1978年竣工)が出来るまでは日本で最高層の―と思っていたけど実際には浜松町の世界貿易センタービル(旧)がすぐ追い抜いたらしいが―36階建て156メートル、1968年竣工。

今は都庁(243m)や大阪のあべのハルカス(300m)・横浜のランドマークタワー(273m)など超々高層のビルが林立してるけど、やっぱり善くも悪しくも戦後史を画する記念碑のひとつ(たぶん)。自民サンが身の程も知らんと戦争国家に邁進かましてはるおかげで思わぬ景色を見れまして、ほんま高市サマサマどすわぁ(イヤミ)。
(26.04.20)先月ルー・リードの誕生日(3/2)に買ったまま、今月の自分の誕生日プレゼントにと取っておいた国書刊行会『
ルー・リード 俺の太極拳』。買ってすぐ少しだけ開いたら名プロデューサーの
ボブ・エズリンが「
実は私も武道経験者」サラッと語ってて(
先月の小ネタ拾遺の最初のほう参照)げひゃーって驚いたんですけど、満を持して最初から読みはじめると
トニー・ヴィスコンティ「私も80年頃から太極拳を始めてて」イギー・ポップ「俺は89年から気功を」なんだ、何なんだアンタら。
ワムウ(WHAM!)とかエシディシ(AC/DC)とかミュージシャンの名前を強引に借りたキャラに超人バトルをさせていた『ジョジョの奇妙な冒険』の作者がこのあたり早期に知ってたらチーム編成が変わってたかも…
エズリンのスタンド「ザ・ウォール!」とか
ヴィスコンティのスタンド「エレクトリック・ウォリアー(電気の武者)!
」とか…あ、イギーは居ましたね犬だけどスタンド使いという設定で…

(26.04.21)でも武道経験の有無はさておき、70年代グラム界隈でブイブイ言わしてた勢ではイーノ先生が一番「武闘派」だったオチ(※平和的な運動です)…今や、こういう記事で筆頭に来ちゃう存在だもの:
・
ブライアン・イーノ/マッシヴ・アタック/ポール・ウェラーら千組以上のアーティストがユーロビジョン・ソング・コンテストのボイコットを呼びかけ(amass/26.04.21/反ユダヤ主義ではなく「虐殺を続ける国家イスラエルに対する抗議」であることに注意/外部リンクが開きます)
いやさ、もともと音楽性だけで好きになったミュージシャンが老境に差しかかって、こうも政治的に恃めるひとになろうとは(
逆の残念なケースはよくあるだけに)思わんでしょ。だって若い頃
こうですよ?(ebayのオークション画像/外部リンク)
(26.04.23)映画館に足を運んだのは10ヶ月ぶりくらい?「それで何故そんな映画を」と思われるか「ああ舞村さん(仮名)好きそう」と思われるか分からないけど
誘拐犯の要求が「
お前が異星人なのは分かってるんだ、地球から手を引け」
という以外ほぼ何の予備知識もなく(
どういう予備知識だ)
『ブゴニア』(公式/外部リンクが開きます)観賞。アンドロメダ皇帝の手先がミツバチも人類も滅ぼすつもりだと信じて疑わない犯人から逃れるべく、犯人の家庭の事情を逆手に取り、共犯者の籠絡を試み、ついには「
そうとも私は異星人だ」と乗って見せたりと知略の限りを尽くす(?)巨大企業のCEOエマ・ストーンの出演料に全てをつぎこんだ低予算作品かと思いきや、それにしては冒頭の巨大企業の借りたんだかセットだか社屋のスケールが半端なかったと気づく間もなくストーリーは
二転三転さらに四転(
懐かしいなおい)「そんなところに金を使ってどうする」とあきれるほどのラスト3分・問題ありありの結末に、しかし内心「よくやった!」と喝采してしまった自分の心の闇よ。僕が色々あって特にハリウッド作品から距離をおいてる間に名声を確立していた監督のことはよく知らないが、
制作アリ・アスターの名前に「
お前か!」と納得するなど。公式サイトあるある「各界からコメント」筆頭が東スポのUFO記事担当…そんな映画。そんな映画と知って観たくなる人は(たぶん)観て損なし。
(同日追記)
でも完全おちゃらけバカ映画というわけでもなく、人を生体の生命維持だけの対象として扱い個々の人格や人生をむしろ侵害する生政治がハイテク・バイテク企業と結びつき「生経済」となってる実情や、その中(社会というか企業社会)では最下層や周縁に追いやられた者がネットでは世界とつながってる(陰謀論を通してだけど)とか、そもそも
強い攻撃力をもち自分の意見を曲げる気がないイカれた相手とどう対峙するか(主人公のCEOは朝のルーティーンに護身術のトレーニングを怠りなかったけれど暴力には為すすべもなかった)等々、ミツバチの大量死もふくめ使われてるパーツはどれも絵空事でないこと。あるいは
高度におかしくなった今の世界では悪い冗談と現実の区別はもうつかないのかも知れない、というのが本作の教訓かも。
もう現実が悪い冗談だから。いやな教訓だなあ。
(26.04.24)つい先日「お財布のココに入れてたはずなのに」と二ヶ月くらい紛失を放ったらかしていたキャッシュカードを一念発起して再発行願うかと窓口に申し出る15歩前「お財布のココ」が二層(二段)になってて隠れてた層から出てきたばかりの自分なので、今日は今日とて一本しかないスマートフォンの充電ケーブルが出てこないまま充電15%を切ったが動じない。あした土曜日だし必ず部屋の何処かから出てくる。今日は探す気力もない。動じない。
(26.04.25追記)あわてず騒がす、充電9%になったスマートフォンでポイントカード画面を開き、ヨ○バシカメラで替えのケーブルを購入。大概こうすると紛失したほうも出てくるんだけど、まあいいでしょ。出てきたら災害用スーツケースのほうに移そう。
(26.04.26)スピーチに立ったその女性はコインランドリーで使い方が分からず困ってた若者に話しかけたら『鋼の錬金術師』などのアニメに憧れて日本に来たという中国人で、けれど次に出てきた言葉は「
日本人は中国人が嫌いですか?」でショックを受けたという話をされた。ハタチか25そこそこの若者が、たまさか親切にしてくれた初対面の相手にそんな吐露をしなければならない、この国は何なんだと。
新宿で毎月開催されている入管法改悪反対のスタンディングに参加してきました。
見た目でも全く分からない・語尾が「〜ッス」な完璧な日本語で軽快に話しながら難民の身の上だというかた、あるいはLGBTのひとや性暴力サバイバーのかたが「外国人差別も他人事ではないから」とまだ寒い4月の路上で言葉をつむぐのを傍らで聞きながら「マジョリティである恥辱」で頭が下がるばかり。

あ、いや↑喋るのは大変だぞと脅してるわけじゃなくて、なるべく多くのひとに唇を緩めてほしい。
自分は
1)直前に衆院でスピード採決された外国人在留手数料の法外な値上げも、武器輸出への路線転換も、今まで日本社会が築き上げてきた信頼を(自分のものでもない貯金を勝手に取り崩すように)毀損する行為でどうかしてる
2)そうした信頼(があったとして)は日本人だけでなく中華街の中国系やコリアタウンの韓国系(朝鮮系)・あるいは難民やその他の外国から来た人々が一緒になって培ってきたものだろうに
道ゆく人の関心を引くためと自身の不安もあってナフサや原油の供給危機(自分は悲観的なので3.11や新型コロナくらいの試練を覚悟しているという話をしました)に絡めて
3)もし危機を回避できたなら、それは現場の人たちの血を流すような努力のおかげで、けっして政府の手柄ではない(むしろ政府は供給不足は業者の「目詰まり」のせいと責任を転嫁している)
4)懸念どおり危機を迎えたなら、その時こそパニックで外国人を攻撃したりしないよう冷静を保ってほしい(百年前に一度やらかしてるんだから)
という話をしました、実にたどたどしく。
(26.04.27追記)新宿の入管法反対スタンディングで貰ったお菓子が日本(しかも地元ヨコハマ・金沢区)製造でハラル認証を取得済み。調べてみたら(横浜では結構よく見かける)ガトー・ド・ボワイヤージュの商品でした。
・
ハラール認証取得商品(ガトー・ド・ボワイヤージュ/外部リンクが開きます)
親会社の製造元はこちら↓食品ロス削減・農産物の国内自給率向上などにも取り組んでいる由。
・
株式会社ジャルダン・シュクレ(横浜企業経営支援財団/外部リンクが開きます)

排外主義がトップダウンで広がる一方、世界をつないでいく流れも着実にある。
僕はどんな場所でも「自分はここにいる資格がない」と思ってしまう病気みたいなものを患っているので(それが客観的には取り越し苦労なことも分かっているけど、分かってなお自己否定がやめられないのが病気たる所以)入管法改悪反対のデモでも「場違いな人間がしゃしゃり出ている」という気持ちをどうしても払拭できないのだけれど、こういう外角ギリギリを攻めてアウトみたいなプラカを掲げるのも(その場に相応しくはないかも知れないにせよ)ロングレンジでは間違ってないのかなと安堵が少しあった→
ただ、両者(分断と共存)はせめぎ合っているのであって、放っておけば後者になってくれるわけではない←これは
ショーン・フェイ『トランスジェンダー問題』の怒りをこめた告発で学んだこと(
23年2月の日記参照)。皆コップの水がもう半分しかないとかまだ半分あるとか言うのに夢中だけど
誰かが水を注ぎ足さなきゃ半分ですらなくなるんよ。
(26.04.29)いつも冷たいのばかり作ってるので温蕎麦は久しぶり。トッピングに衣をつけて揚げ焼きにした竹輪とブナシメジ、そして野食ハンター茸本(たけもと)さんによればトップクラスに美味しい山菜(山菜?)だという葛(クズ)の先っちょ。画像にチョイ映ってるとおり剥がした外皮を見るに取れ高はまあアレなのだけど確かにクセのない食べやすさで、しかし今夏以降これを皆が死に物狂いで奪いあう状況にならなければ良いなあと願うばかり。
(26.04.30)駆け込みでプリンスのこと。亡くなったのは2016年の4月。その30年も前に
「時に僕は生命に終わりなんてなければと願うけど/すべて善きものは永続はしないものらしい」と唄う屈指のバラードに「四月」なんて題をつけていたことから、その「四月」に自身が逝ってしまうなんて―という喪失感を、多くのファンが共有したはずだ。
・
Prince - Sometimes It Snows in April(YouTube/外部リンクが開きます)
地元ヨコハマの某所に「
10代限定・中古ギター屋(2階)」という粋な看板を見かけて、まあ自分が10代だったのなんて前世紀だもんで階段は上がらず横を通りすぎたのだけど、その看板と屋号らしきものの他に1枚、なぜか殿下の写真が貼られていて(ギターヒーローでもあったので不思議ではないのですが)、件の歌詞が永遠には生きられないと唄ったあと最後に
「過去になるまで愛は愛じゃない(And love, it isn't love until it's past)」という謎めいた一節で締めくくられていたのを思い出した。取り返せないと知ってようやく本当の愛が始まる、という意味だとしたら、それはなんて残酷で、けれど不思議な慰めに満ちた言葉なのだろう。永遠ではないにしても、その愛はもう少し長く続くのだ、たぶん。Rest In Peace.また来月。
(また来月と言いながら超絶どうでもいい同日追記)
でも良い曲だから聴いてくれ。「
Feel Better, Feel Good, Feel Wonderful」て、もう聴く前からゴキゲンじゃんてマル分かりなナンバーなんだけど、YouTubeの記載も、実はCDを読みこんだ時につけられるタイトルも語順が間違っている:
・
Prince - Feel Good, Feel Better, Feel Wonderful(YouTube/外部リンク)
たぶん殿下は唄ったときのリズムの良さでそうしたんだけど、理屈でとゆうか先入観で「よくなって→もっとよくなって→素晴らしくなる」に決まってると思っちゃったんでしょうね、ちょっと可愛い間違いだなあと思ったのでショモないけど追記。今度こそまた来月。
(05.01の朝6時に追記)
ほーら公式は語順も正しいんだよ。5月です。
・
Prince - Feel Better, Feel Good, Feel Wonderful(同)
『台湾でしたい50のこと』はじめました(26.04.26)
久しぶりに小ネタじゃないほうのメイン日記(週記)でも徒然なことを書きますが、例によって心が千々に乱れておりまして。
神奈川県鎌倉市・大船といえば東京〜さいたま近辺に在住でも京浜東北線(根岸線)の終点として電車や駅掲示板の表示で名前だけは見知ってる人は多いのでは。

その大船で童話の「小さなおうち」のような(まあ左右も大体こぢんまりした建物だったと思いますが)書店を営んでこられた
・
ポルベニールブックストア閉店と新(個人)書店主募集(公式/26.04.24/外部リンクが開きます)
のお知らせが。昨年の暮れに学芸大学そばのSUNNY BOY BOOKSも(一昨年の)閉店を確認、個人書店・独立系書店「も」冬の時代なんかなあと思ったら上記のお知らせによれば「個人書店は増えている」とのことで、うーん、「お前は今までに閉店を見届けた書店の数がいくらあったと思ってるんだ」と言えばソレまでだし(最近も別のところで一軒確認しました)書店に限らず店舗あるいは人が何かする期間は、短いとこれくらいなのかも。
・参考:
ハン・ミファ『
韓国の「街の本屋」の生存探究』にことよせた日本の小さな書店の話(
22年12月の日記)
しかし出版界ぜんたいの前途は厳しかろう上に、ホルムズ海峡封鎖の影響も大波で押しよせて来ている(らしい)。
インクに紙。SNSでは同人誌印刷の価格が5倍に跳ね上がったとか、商業出版でも秋の紙材確保が確約できず注文を受けられないなど厳しい話が散見される。
僕は一足先に新型コロナ禍を機に(口実に)紙の冊子をやりとりするリアルな即売会からは撤退したのだけれど、今度の「大波」はさらに多くの同人作家を「廃業」に追い込むかも知れない。新型コロナのときを振り返るに、現実面での困難以上に各作家の方々が受けた精神的な打撃・モチベーションの枯渇のが深刻だったようで、僕はひとり「こんな時こそ新作を描かねば」と逆にネット上で作品を濫造していたけれど、まさに孤軍奮闘だった気がする。多くの作家が「こんな時だから自宅でまんがを読もう(私の過去作を読んでください)」と承認欲求だけは衰えない様子に「おためごかし」じゃんと正直がっかりもしたのだけど、まあ責められはしない。
今度だって精神的な打撃は大きいだろう。逆に今後も即売会の作家として生き残れるのは原油が停まろうがナフサが停まろうが個人出版を続けられる経済的な余裕のあるひとで、そうしたひとは現行の制度に親和性が高く、つまりは同人誌即売会という場所は(ますます)人権だの環境問題だの考えもしない層の社交場になっていくのかも知れない…
かなり沢山のひとを敵に回す発言をしているような気もしますが。
今回閉店の伝えられたポルベニールはSNSのアカウント名で
「戦争反対(パレスチナ支援)NO HATE」を掲げる反体制(大勢)の確信犯だけど、そうした発言や意思表明をおそれない作家は今後どれくらい同人誌即売会に残るのだろう。
一方で、X(旧Twitter)が投稿の自動翻訳をデフォルトにした(おかげで日本語ならバレやしないと撒き散らされていた差別発言が世界じゅうに知れわたり、ちょっとした騒ぎになってるらしい)のに前後して「note」も英語を手始めにコンテンツの自動翻訳を提供しはじめるらしい。微細なニュアンスが伝わらないことや、異なるかも知れない価値観の相手に伝わることを恐れない書き手には、まず文章のほうから可能性が広がったと言えそうだ。
※ラフ原画のまま滞ってる自分の旧新作(SF)では、ある星の文明が星間連合に加盟する条件に「超光速移動ができること」「異星人と言語的な意思疎通ができること」を仮定したけれど、後者は地球レベルでは実現が近いのかも知れない。
※とすれば+再生エネルギーへの転換さえスムーズに為されれば人類は化石燃料依存を脱せるかも知れない…と思いきや「
風力や地熱・太陽光でプラスチックは作れない」というのが50年前のSF映画『エイリアン』で人類が他の星系まで原油タンカー宇宙船を運航しなければならない理由になっていた(少なくともアラン・ディーン・フォスターが書いた小説版では)。半世紀も経って、あの設定の説得力を痛感させられるのも皮肉だと思う。
※ちなみに哀れなジョン・ハートのアレをアレして逃げ去った後のエイリアン、何を栄養源にあそこまで大きくなったんだよというツッコミがあったけれど、かなり大きな可能性として輸送してる石油タンクに忍びこんでガブガブ飲ってたのかも知れない。だとすれば人間は捕食対象ではなく純粋に再生産のための足がかりで、そのへん嫌なくらいリアルでもあった…
* * *
月に一回8ページ程度・即売会に出ていた頃はペーパーまんが=余技として描いていた程度の作品をアップしていけばサイト日記=文章更新の負担を軽減できるのではないか…そう思って始めたまんがですが、
すでにこんなに文章も書いちまってますね。
序盤そうそう8ページどころか倍ちかくも描いてるし。
いつまで続くか分かりませんがエッセイまんが『
台湾でしたい50のこと』まずは
第1話:準備編を更新しました。

今後海外渡航など夢のまた夢となったら「ギリギリのタイミングでいい思いしやがって」と逆恨みの対象にしかならないとか、逆に今後も海外に遊びに行ける富裕層から見たら「こんな貧乏旅行なんの参考にもならない(小籠包フルコースも食べないなんて!)」と蔑まれるだけだろうとか、
他に描くべきもの沢山あるだろう(
描きますって)とか、
悪いけど気にしない。
香山哲さんの『
ベルリンうわの空』どの巻だかで「行ける時には思いきり旅行を楽しもう・そして老いるなどして旅行に行けなくなったら、その時のことを思い出して楽しもう」という文言があって、昨年の18きっぷ行もそうでしたが、今回の台湾はとくに(場合によっては)最後の思い出づくりの気持ちが強かった。誰よりも自分のために、自分が読み返して楽しめるかたちで「思い出」を形に残しておこうという動機です。
おつきあいいただけるかたは、おつきあいいただければ嬉しい。誰か「そうか自分も○○行こう」と思ってもらえれば(そこが台湾でなくても)嬉しいし、「こんなんでイイなら自分だって描きたい・書きたいことがある」とモチベーションになればもっと嬉しい←とくに文章は自動翻訳されるらしいし。
でもまずは遠くに行くことと、描くことが大好きだった自分のため。
(続けば)次回の告知は、もっと短くするつもりです。
鍵のかかっていない部屋〜山本直樹『エロってなんだろう?』(26.04.19)
知ってるひとには常識かも知れないが、漫画家の
山本直樹氏は別名義のエロ漫画家・森山塔として先行デビューしている。劇画調のドロドロした作品が主だった斯界で少女まんがの華奢な絵柄を取り入れた作風は(吾妻ひでおのような先駆者がいたとはいえ)斬新で、彼の作品を掲載するためだけに創刊された成人漫画誌まであったという…などと言えばもっともらしいが、
このへん全て伝聞で。
馬鹿律義だった僕は自分が未成年だったため森山名義の作品は(当時の規制のユルさなら読みえた気がするが)読もうとせず知る機会を逸した。とゆうか一般向けの山本名義でビッグコミック・スピリッツ誌に初連載されたラブコメ『はっぱ64』だけでも十分にエロチックで、終盤にさしかかっていた高橋留美子『めぞん一刻』めあてで掲載本誌まで読みはじめていた自分は、そのセンス(と色気)に圧倒されたものだ。
とはいえ、その後も熱心に作品をチェックしつづけるわけでもなく、つかず離れず離れ気味な感じで遠くから活躍を怠りがちに見守って、今日に至る。作品集『フラグメンツ』に収録された「夕方のおともだち」は好きというか、いや好きなんだけど凡庸な公務員の主人公がのめりこんでいくマゾヒズムの世界が(他の収録作も含め)エロというよりホラーで、あまりのエグさに買った単行本はすぐ手放してしまい、でも同作が映画化されるといそいそ観に行ったりしたのも良い思い出である(ほのぼのと人間讃歌すらしている良作でした)。
1992年には前年刊行された山本名義の作品集『BLUE』が東京都の不健全図書に指定され絶版。「森山塔と山本直樹を本作で融合できた「自分でも納得いく出来だったので、これが埋もれてしまうことはないと思った」と作者が自負するとおり、別の出版社から再販された同作―を読んだ自分は「高校生が制服のまま学校で性行為する内容が不適切」という都側の主旨にも「そんなに問題かなあ?」と思うていどに倫理観がズレていて(実は別の収録作「激しい王様」のほうが問題だったのではと今でもうっすら思っている)作品としても言われるほど画期的かと首をひねる程度に鈍感だった…まあそれはさておき。
* * *
『夕方のおともだち』以外にも映画・ドラマの原作として引く手あまた。2010年には後述する『レッド』で文化庁の賞も受賞している。作家として押しも押されもせぬ存在なだけでなく、山本氏が一目おくべき存在だったのはTwitter(現X)での発言がきわめて「まとも」だったからだ(僕のほうがXから撤退して氏のポストを見なくなったので「だった」と過去形)。自身が表現規制の矢面筆頭に立った経験もありながら、いわゆる表現の自由戦士=オタク表現の擁護をうたった与党議員などに喝采を送る勢には冷淡で、むしろ政府に批判的な発言も辞さない。
反戦や反差別のデモに参加し先導するわけではないけれど、彼くらい地位の確立されている作家が大勢(体制)迎合でない発言を当然のようにしてくれるのは「皆がこうであってくれればデモなんて必要ないのに」と思わせるだけのものがある(
自身はデモに参加も辞せずな立場からの発言)。
十代などの若者向けに語りおろされた
『エロってなんだろう?』(ちくまプリマー新書/2025年/外部リンクが開きます)は
2月の小ネタでも書いたとおり、池袋の素敵な書店で購入した。2月にも書いたとおり、そのまま電車内では読みにくい本にカバーをありがとうございます。

Twitter(現X)でのポストと同様、至極まともなことを言っている。まともすぎて、どうかしている世の中では憤激を買い「炎上」するのではと思われるくらいに。たとえば(以下引用):
SNSで今「表現の自由」を叫んでいる人たちには僕はだいぶ否定的です。(中略)
勘違いしてるなと思うんですよ。セーラー服やブルマを着ているおっぱいが大きな女の子の絵をバスの側面にバーンと出して「それを守ることが大事」と言ってる気持ちが全然わかりません。(中略)
「往来にこういう広告を貼らないでほしい」というのも言論の自由ですよね。嫌だという自由と、いいよという自由があって、それを広告主が判断して取り下げたり取り下げなかったりする。それは公権力が入ってくる場所ではない。(略)
広告を批判する人の一部は公権力が介入するものじゃないってわかってない気がするし、広告を擁護する人の一部は批判も不買運動も公権力による弾圧じゃないってわかっていないんじゃないかな(以下略)
といったくだりには、かつて石原慎太郎都知事が推し進めた「非実在青少年」=創作物の性表現の規制には激しく反発しつつ、反対運動が公の場に
「おっぱいが大きな女の子の絵」を貼らせろ・あるいは実在相手の性的搾取まで自由と認めろ(というか非難を許さない)という方向に変質したとき「そっちに行っちゃうの?」と追随する気が失せた僕などは、おおいに共感・同意できる。(同時に彼の権力への拒否感には、たとえばデモが個人を超えた大きな力をもち自走すること−ファナティシズム−への根本的な拒絶もあるのかもなと思い、痛いところを衝かれたとゆうか「ざらりとした気持ち」にもなるのだが割愛)
本書にはレーガンやサッチャーの新自由主義への批判も、実在する未成年女性が経済的・社会的貧しさから性にすがり搾取されることへの嘆きも(氏は息子と娘を持つ父親でもある)ある。SNSやショート動画のような断片(フラグメンツ)・「切り抜き」のほうが今のひとには便利なのかも知れないが、一冊の本というまとまった形で氏の「まとも」な見解を読めるのは自分などにはありがたいことだ。
* * *
青のつぎは赤、でもないのだろうが文化庁の賞も受けた『レッド』はエロではなく政治=連合赤軍の内ゲバによる破滅を描いた長篇で、一度は読んでおかなければと一晩まんが喫茶にこもって(「夕方のおともだち」の経験から長く手に持ってはおけない作品だと思った)読むべきだったけど、読みたくなかったと激しく落ち込まされた作品だ。作者が敬愛するカート・ヴォネガットの作品の「作中で死ぬ登場人物は名前に*印がついている」というネタをヒントにしたのだろう、主人公たちのプロフィールで「誰それ。死亡(または逮捕)まで○○日」と各々について何度も念押しされる。彼女や彼はもうじき命を落とす・その時はどんどん迫っているのに停めようがないし、じつは読む側も本当に「その時」が来るまで「その意味」を痛感することができない、そんな鉛を呑まされるような「気づき」があった。
同作が描く連合赤軍の「総括」=仲間うちでの凄惨なリンチ殺人について
「人の命より言葉のほうが大事になってしまった」と端的に言いあらわす著者は、自作の意味や狙いを完全に自覚し言語化している。
実際ここまで言われると「読み負けた」としか言いようがない。同作(あまりにつらくて結末の浅間山荘の直前・一連の「総括」が終わったところで撤退した)で一番おそろしく、おぞましい場面のひとつは、貴様らは自身の思想を言語化できてない・だから貴様らはダメなんだと拷問まがいの「総括」を繰り返すリーダーが、だったらあんたはどうなんだ自身の思想を言語化できるのかと反論されると即座に、圧倒的な言語量で「自身の思想」を開陳する場面だ。

。
作品への感想にせよ、社会への異議申し立てにせよ「言語化できてこそ」というのは本サイトが譲れない立場だ。だから「いいから読め」とか「○○はいいぞ」「語彙力(がない)」「小並感(小学生並みの感想)」「考えるな、感じろ(これは元々ブルース・リーの映画での台詞)」といった言語化する努力の怠りを正当化する「言葉」には冷淡というか「
感じたばかりで済ませないで、少しは考えたらどうか」などと断罪してしまう。
けれど『レッド』は「もっともらしく」言語化できること(
そもそも達意とは正反対の=相手に理解させるのでなく、理解できない相手まで圧倒し屈服させる言葉なのだが)など害悪でしかないことを明快なホラーとして描く。リーダーの理解できないほど饒舌な言葉の奔流は「何か分からないけど自分たちには理解できない高度なことを言っている」「この人には逆らえない」とフォロワーたちを圧倒し、むごい暴力を正当化してしまう。そこまで数巻をかけてキャラを立てられてきた、なにしろ山本直樹なので色気も可愛さもある女性たちの顔が(やがて死に至るほどの)激しい殴打でパンパンにふくれあがる。暴走した言葉に、現実の肉体が負かされてしまう。作者(山本)は分かって描いている。
ちなみに『レッド』の前半には、登場する女性キャラのなかでもとびきり色っぽくて魅力的な、といってもマリリン・モンローや峰不二子(
たとえが著しく旧くてすまない)的お色気ムンムンじゃなく、いかにも山本直樹的な少しノンシャランでふつうな感じで、それが突然「キスしよっか」と誘ってきたりする、たまらなく色っぽいお姉さん(お姉さんといってもハタチそこそこ)が登場するんだけど、彼女が前半で早々に警察に捕まってしまい、結果的に残酷な拷問ゲームに参加せずに済むのは陰鬱な同作の、あるかないかの救いだった(そんなんが「救い」な話って…)のだけど、それはまあ別の話。
そして
「人の命よりも大事なものがあるというのは、全部「原理主義」です。
イスラム教原理主義もキリスト教原理主義もお金原理主義も会社原理主義も国粋主義も、現実とフィクションを混同させるという意味では全部一緒」(改行は引用者)
と述べる著者はさらに
「さらにいえば、フィクションが現実よりも優先することがすなわち「マチズモ」だと思うのです。
筋肉モリモリじゃなくても、マッチョなんですよ。オタクでもマッチョだし、女でもマッチョな人がいる。
そういう人間は頭でっかちなんです。体でっかちじゃなくて、頭でっかち。
マッチョというのは、自分の頭で自分の肉体を完璧にコントロールしたいという欲望だから。つまり、他人も全部コントロールしたいという、それがマチズモです」(改行は同上。強調も)
と(目ウロコなことを)たたみかける。ああ、ああいうのが「マッチョ」と思い浮かぶ顔がある(永田町の天辺のほうに)。
マチズモの二つ名(別名)は「トキシック・マスキュリニティ(有害な男らしさ)」だと思うが、彼らの思想を体現した「言葉」―フェミニズムが打ち出した「MY BODY, MY CHOICE(避妊や中絶など、私の身体のことは私が決める)」を嘲笑った「
YOUR BODY, MY CHOICE(お前の身体のことは俺が決める)」は
「他人も全部コントロールしたい」頭でっかちの最たるものだ。
よくネットで見かける「筋肉はすべてを解決する」「筋トレで鬱が治る」と言う人は、自分の意志(頭)で肉体(筋肉)ばかりか精神までコントロールできる(鬱が治る)と考えているのだろう。逆にいえば鬱とは、無理だなんて甘えだという意志(頭)にたいして、心(精神)も身体の一部である、身体の一部としての心が上げる悲鳴だったかも知れない。
* * *
現実とは
「生きて暮らして死ぬ」それだけと断言し、それ以外はすべて「フィクション」「原理主義」「頭でっかち」だとする氏の批判はきわめて真っ当だが、
「死ぬ」を落とさず言い添えずにいられない感覚ゆえか、彼じしんの作品には『レッド』のみならず(ひたすら明るい『はっぱ64』ですら主人公は葬儀屋の跡取りだった)時に耐えがたい残酷さや虚無感がただよい、臆病な自分にとっては大好きか苦手かと言われたら「惹かれるけど苦手といえば苦手」な作家である。「こわいもの見たさ」で「見たい」より「こわい」がやや優る感じでしょうか。
やっぱり個人的には最初に読んだ『はっぱ64』が好きだし、(森山でない)山本名義での最初の長篇になる『
まかせなさい!』(全一巻)に登場した主人公の元カノ「
烏山千歳・今は結婚して船橋千歳」という小ネタが好きでした。

あと山本名義の商業デビュー短篇「私の青空」(単行本『気まぐれハーベスト・ホーム』所収)のモチーフになった(と思われる)哲学者ヴィトゲンシュタインの言葉に、何十年も遅ればせに読んだヴィトゲンシュタイン当人の著作で再会し「これか!」となったのも近年のいい思い出(
24年10月の小ネタ参照)。
「
本当は部屋の鍵なんてかかってないんだ(ないのに)」というのは自著が規制され、あるいは仮想敵をつくりあげ復讐に燃え上がる「表現の自由戦士」や自称「弱者男性」・言葉に囚われた連合赤軍や原理主義者たちを冷ややかに眺める氏にとって存外、創作活動の当初から根本にあった感覚かも知れない。
余談ついでに言うと、「部屋には鍵がかかってないのに(かかってると思って)出ることが出来ない」というのは
ニコラス・ローグ監督が
デヴィッド・ボウイ主演で撮った映画『
地球に落ちてきた男』の重要なエピソードでもありました。このエピソードの残酷さを語るエッセイで、当時大学生だった僕は
四方田犬彦氏の著作に出逢ったのですが、話が広がりすぎですね。言葉を現実より優先させてはいけないと戒められつつ、なお言葉を通して世界が広がる喜び(に浸ってしまう度しがたさ)。今週はこのあたりで。
これが「別の話」〜ウィーラポーン・ニティプラパー『仏暦の終焉と黒薔薇猫の記憶の記憶(仮)』(26.04.13)
今回5度目の台湾旅行の話は、また別の機会に(つまり「それは別の話」)ねっとり開陳するとして、また向こうでしか入手できなさそうな本を、今度は二冊ほど贖ってきました。
台北駅のすぐ南・学習塾や予備校が集中し(
24年11月の日記参照)それを当てこんだ早餐−朝食を供するお店(近くの銀行・官庁街も見込んでいるのだと思う)が集中、参考書など扱う書店も点在する区画の
執土(一文字で「執」という字の下に「土」)
脚石圖書文具百貨廣場書店。踏み石=Stepping Stone=(読者が)上に登るための足がかり的な意味を持つこの、若者向けの?軽い書物が手に取りやすい本屋で

全3巻で完結の
醉琉璃『我的室友 陳小姐是幽鬼』の一冊目を入手。

我的室友(私のルームメイト)・陳小姐・是(すなわち)・幽鬼(ユーレイ)。「My Ghost Girlfriend」と英題が添えられた本作、限界社畜女子の主人公が家賃安さに飛びついた(台北は世界有数の平均居住空間の狭さを誇る超過密都市でもある)事故物件には幽霊の陳小姐がいたが、
二人とも腐女子(しかも最初は息を潜めていた陳小姐、主人公がでへへへと鑑賞していた赤裸々なBL画像に
「そのカップリングはA×BじゃなくてB×A!」と介入して存在発覚)と意気投合するんだか解釈違いで揉めるんだか分からない冒頭。男同士の恋愛に夢中な女子ふたり(うち一人は幽霊)に百合を期待する自分(外国のおっさん)…

自虐ははさておき、たぶんありふれ過ぎて、わざわざ日本語に訳出され紹介されなそうな題材。逆に言えば、こうしたシチュエーションを台湾はすでに自家薬籠中にしており、もちろん日式ライトノベルの流入も需要も圧倒的なれど、自国内での自給自足が不可能ではない状況になっていた2026年。

スマートフォンのカメラ・文字認識機能で文章を把握→そのまま自動翻訳で「ん?」と思うところだけ重点的に確認。かなりスムーズに読み進められそう。今回の旅行を機にGoogle翻訳の、ネット接続なしのオフラインでも使える辞書ファイルをダウンロードしたんだけど、音声なしの文字ベースで中国語(繁体字)でも100MB足らず。iPhone自体の翻訳機能もあるみたいだし、いつのまにか便利な世の中になっていた。
主人公たちに愛着が出れば、残り二冊は日本からの取り寄せを考えるかも知れません。
ああ本の話は楽しい。
* * *
国立台湾大学の近くにある
聯経書房 上海書店LINKING BOOKHOUSEは今どきだと大谷翔平の関連書などミーハーな取り揃えも手抜かりない一方で、ライトなオタク向けの執土(←本当は一文字)脚石書店とは対照的に、大学生向けの?渋めな選書が光る本屋で、ここで見かけた本が気になる→だいたい台北駅の近くに取りがちな宿に戻ってネットで内容を確認→宿に近い最大手の誠品書店で購入というルートを取ってしまう(申し訳ない…)

今回ここで平積みされていた本の帯文が
「泰國版《百年孤寂》」…20世紀文学の流れを変えたガルシア=マルケスの傑作『
百年の孤独』。それに対抗できると謳うタイの小説(の翻訳)、持って帰れる荷物の重量を試合前のプロボクサー並みに気にしつつ、持ち帰らずにおらりょうか。いやまずは邦訳がないとしての話。しかし宿に戻り落ち着いた環境でネット検索したかぎり、いや大いに穴がありがちな僕の観測範囲でということだけど、著者
ウィーラポーン・ニティプラパーの作品は、世評の高い第一作『迷宮中的盲眼蚯蚓(迷宮の中の盲目のミミズ)』も含め、邦訳での紹介はまだない。
この書名をUnicode使用でない本サイトで記載するのは困難なので間違ってるかも知れない機械翻訳の日本語で紹介させてください―
ウィーラポーン・ニティプラパー『仏暦の終焉と黒薔薇猫の記憶の記憶(仮訳)』(向こうのオンライン書店「博客来」の紹介ページ/外部リンクが開きます)
台北駅と地続き・MRTの路線沿いに細く延びた地下街の、ゆうに200メートルは続く中山地下書街(かつてはそれこそ執土[一文字]脚石やLINKINGのような個人書店がひしめいていたが、十年ほど前から誠品の寡占となっている)の、つまり誠品で購入(
本当に申し訳ないLINKINGさん…)・重量もクリアして無事日本に持ち帰ってきました。
もうこの三つの書店に、とゆうか本サイトを見てる誰かひとりくらい台湾に行かせてやろうという悪い下心(円安と原油高で今はオススメできませんが、この先もっと大変になるかも知れないので行けるうちに、かも…)みなぎる今回の日記(週記)ですが、
※あーちなみに台湾の小説はA4サイズで日本のようなハードカバーはなし・日本に戻って量ったら陳小姐は350g(これは想定内)・黒薔薇猫は500gで帰国楽勝でした。
※そして黒薔薇猫を取り扱ってくれた誠品のレジ係さんの胸元の名札には「陳小姐」の三文字が。(こっちで本の『陳小姐』買えてたほうが面白かったかなー)とも思ったけど、まあラノベ売り場はレジが別でございましたよ+名前ハラスメントいくない。
本サイトに長くおつきあいのかたなら、なんとなくお察しとは思いますが、改めて思ってしまった。(日本、やばいかも…)と。いや円安や原油のことではなく(そっちも心配だけど)。
* * *
本サイトで、あるいは昔やってたTwitter(現X)で、たぶん何度となく言ってきたことだけど、改めて書いておく。
純然たる事実として、人口1/5の台湾で繁体字版の翻訳が手に入る外国書籍が、日本で邦訳がないのは初めてではない。
いちおう言っておくと逆に邦訳があって台湾版がない本だって沢山ある(だろう)。日本ではクラシックに属するJ.P.ホーガン(イギリス)のSF『
星を継ぐ者』(原著1977年)は、自分が書店の店頭で見かけた大々的なポスターが「新訳(とか再販とか)成る!」というものでなければ、台湾で紹介されたのは、ようやく2017年のことだったと思う。たとえばミシェル・フーコーの著作なども、日本に比べると台湾での繁体字訳の出版は相当に遅れているのではないか(断片的な目撃に基づく不確かな推測)。

台湾だけではない。
これは以前(
21年3月の日記で)書いたことだが、七つの性をもつブタや、三種のオスと二種のメスがいるトカゲなど男女二元論・他の生物だってそうという観念をくつがえす
ジョアン・ラフガーデン『進化の虹』が、韓国語訳があるのに二倍の人口を有する日本で邦訳が出ていない(今も)。
ジュディス・バトラーの著作の一部でも、日本は韓国に遅れを取っているらしい。
このときの日記では僕が、日本では『ライラの冒険』以後は翻訳がないファンタジイ作家
フィリップ・プルマンの作品が(それこそ『ライラの冒険』ことHis Dark Materialsの続編も含めて)、日本の1/5の人口しかない台湾で訳出され書店で平積みになってるのを見たときの焦燥とともに
少なくとも「日本は各国の本を翻訳で読める、世界でも稀有な国」みたいな自負は、昔だけのことか・あるいは実は一度も真実でなかった幻想だった可能性がありはしないか…というのは、また別の話。
と書いている。つまり、
今その「別の話」をしている。
韓国に話を戻すと、日本では『
キャリバンと魔女』以外に翻訳がないらしい
シルヴィア・フェデリーチ(何度も何度も言及してるけど
23年10月の日記参照)の他の著作も韓国では翻訳があると最近SNSで仄聞している。
たまたまそういう領域が重なっただけと考えたいが、ラフガーデン・バトラー・フェデリーチ…どれもLGBTQやフェミニズムに縁のある著者の紹介が日本で遅れている可能性がありはしないか。と言ってもLGBTQ(性的マイノリティ)とフェミニズムは必ずしも一枚岩ではなくて、これも仄聞だから
取り扱い注意(
「そうなんだ」という軽信や・安易な拡散は控えてください)な情報だけど、フェデリーチには反トランスに対して脇の甘い言動があるという批判もあって、いやむしろ彼女も与するペイガニズム(魔女的な知の復権)を唱えつつ依怙地な反トランス言動をしているTwitter(当時。現X)のアカウントを日本で見たこともあって−この話も前にしましたっけ−そのへんを確認するためにもフェデリーチの他の著作も確認したいのだけど。
彼女たちの言ってることなら(それを紹介した)他の著作や、(同じような主張をしている)SNS・まとめ動画でも知れるよ…とはならない。(ラフガーデン・バトラー・フェデリーチ)それぞれ己の分野の第一人者的な存在でもあるので、オタク的な言いまわしをするならば「元の著作を読むことでしか得られない栄養がある」。
改めて言うけれど、少なくとも「日本
だけが各国の本を翻訳で読める、世界でも稀有な国」みたいな自負は、昔のことか・あるいは実は一度も真実でなかった幻想だった可能性がある。『となりのトトロ』や『もののけ姫』のジブリ映画を引き合いに出し、日本「だけ」が自然に精霊を見出し・自然と共存する知恵を欧米社会に提供できる、みたいな(
そんな思い上がった言説が、しかもリベラルを自称する論客の口から、実際になされたことがあったのだ)幻想が、思い上がった幻想でしかないように。

繰り返し言うが、日本と韓国と台湾、それぞれ得意分野が違うだけならばいい。けれど何かにつけ悲観的な僕は、日本が(もしかしたら「日本だけが」)海外の著作や創作物・文化に関心をもち、取り入れていくチカラを急速に失ないつつあるのでは、という疑念を新たにしてしまう。
今年はじめ、世界最大手ハンバーガーチェーンの日本法人が打ち出したキャンペーンの、まさに「落ちぶれた」としか言いようのない貧しさは「今さらこんなことで驚かない」とは思うものの、なかなか暗澹たる気分にさせられるものだった。
・
これであなたもニューヨークに行った気分に? マクドナルド新TVCM『行った気になる!N.Y.バーガーズ』篇(YouTube/外部リンクが開きます/
音声ONにすると人によっては吐き気を催すので注意)
分かってワザとインチキぽくしてるんだよ、冗談だって分かれよと言われるかも知れないけど、インチキの真似をして大路を走らばすなわちインチキなり。そのうち「ワザと程度低くしてるんだよ」と言い訳したインチキの「多様性」しか手に入らない国になっちゃうかもよ…とは思わないのだろうか。
「世界中が驚嘆し賛美するニッポン」「世界の中心で輝く日本」などと自賛する声は喧(かまびす)しいが、日本を見てくれ(
リガルデ・モア)・日本は愛されていると認めさせることばかり必死で、他地域を知ろうと認めようとしない文化・社会が世界の中心で輝けるものだろうか。
* * *
国立台湾大学のすぐそばに貼られたポスターは、都合4枚・騎楼の柱たった2本を占有しただけの全く局所的なものだった。けれどそのたった4枚、台湾製品のプライドを意味する近年のキャッチフレーズ「MIT(Made In Taiwan)」の真ん中のIを落下する爆弾の形にしたロゴで「Genocide Made In Taiwan」=台湾が自国のテクノロジーをパレスチナ住民虐殺の道具としてイスラエルに供与することを批判するメッセージを台湾の島のシルエットの上に大書した、そのたった4枚(3枚しか撮れませんでした)の、特に「台湾(Taiwan)」という国名を示していたと思しき箇所が執拗に削り落とされているのを見て、

(覇権国家としての)アメリカに追随することが、おそらく日本以上に国家存続のため切実な問題であろう台湾では、それを批判する言動・への拒絶もまた、日本で同様の意図によるデモや集会への参加・SNSなどでの意見表明が「忠告」という名のもと中傷されることの比ではない・もっと徹底した拒絶かも知れないと慮られた。

(もちろんこのポスター、自分が見たのが・見た時には4枚だけで、もっと大々的に展開されていた可能性はございます)
これも2026年4月現在の台湾・誠品書店が中山地下書街で猛プッシュしていた
『馬里・艾密達的七天七夜 The Seven Moons of Maali Almeida』(誠品書店公式/外部リンクが開きます)はスリランカ発のミステリ小説。ミステリなら早川書房か東京創元社が飛びついてるかな?とも思うが−

たぶん日本以上にアメリカ追随を余儀なくされており

日本の影響や文化流入を、日々の豪雨のように受け続けている台湾。

けれど同時にそこは、日本にいる僕にとっては、タイや(今後の展開によっては)スリランカに向けて開かれた窓でもある。
出羽守?隣の芝生?舶来上等?そうかも知れない。
でも「夜郎自大」よりはいいんじゃないのか。
昔の(戦後)日本だったら、ホルムズ海峡を封鎖したイランとも、もう少し上手く交渉が出来たかも知れないと思うことはある。エビデンスはないけれど「日本を取り戻す」「世界の中心で輝く日本」「世界中に尊敬される日本」と叫ぶ声が大きくなればなるほど、この国は、かつて世界に持っていた交渉のチャンネルを細らせているように見えはしないか。
世界の広さを垣間みることが出来た嬉しさと、それが目の前で閉ざされていると知る失望感。こんな僕を「邦訳を待てばよかった」と悔しがらせるよう、日本の出版社が奮起してくれることを願えるだろうか。黒薔薇猫に迷宮のミミズ、スリランカのミステリ、ラフガーデン、フェデリーチ。それらを日本語で読める日を待ち、希望することは出来るのだろうか。

台湾大学の構内で咲き誇っていた、向こうでは流蘇という名がついたナンジャモンジャ(ヒトツバタゴ)の花。雨上がりのアスファルトに白く散らばった花弁を見下ろして脳裏に浮かんだ
「散ったところもいいね」というフレーズは、ずっと昔、ニューヨークを舞台にした
成田美名子さんのまんがで(マグノリアの花を見下ろして)主人公が言っていたもの。だいたい散った花が美しいとき、このフレーズが頭に浮かぶ。物語や書物で知った言葉・フレーズが、その後の何十年も、物を見るときの感受性にまで残りつづけることがある。あるいは、そういうタイプの人間がいて、僕はそうなのだろう。
そういう人間にとって、より広く言葉の世界が開かれていくことは、このうえない喜びであるし、言葉をとおして享受する世界が狭められ縮められ、それを苦とも思わない人たちが狭さを誇りさえすることには、たまらない寂しさを感じたりもするのです。ご静聴ありがとう。
小ネタ拾遺・3月(26.04.01)
(26.03.01)シェリー・カリー(Vo)の下着姿と
「チチチチチチチ、チェリー・ボム!」という代表曲でイロモノ・キワモノ扱いされてるかも知れない
ザ・ランナウェイズ、
「たぶん舞村さん(仮名)は好きだと思う」と譲ってもらったファースト・アルバムはなるほど極めて真っ当な(早すぎた?)ガールズ・バンドの先駆者だと分かる佳品だった。
5歳にして退屈に絶望しきっていた少女がラジオから流れてきた曲にぶっ飛んだ・たまらず踊りだした彼女はそう、ロックン・ロールに人生を救われたのさ―と歌う
ザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンド「
Rock & Roll」のカヴァーは、原曲がヴェルヴェッツの本拠地だった「NYの」ラジオ局
(New York station)と歌ってるのに対し、自分たちの本拠地である「ロサンゼルスの」ラジオ局
(LA station)と歌い替えているのが「らしくて」泣かせるのでした。
ランナウェイズの解散後、リーダー格だったソングライターの
ジョーン・ジェット(g。ちなみにリードギターのリタ・フォードもソロで成功しています)は自分名義のバンドJoan Jett & the Blackheartsで、これもカバーだけど今度は「
I Love Rock'n'Roll」をヒットさせる。
で、こちらの「(アイラブ)ロックンロール」も歌詞をよく聴くと「
ロックンロールが大好きさ だからジュークボックスに次のコインを入れて一緒に踊ろうよ」またしても、あくまでもリスナーとしてロックを愛する幸せ(救われ)を演奏する側になっても忘れない心意気が好きなんです。
というわけで、明日3/2はLAのロック少女を退屈から救ったのかも知れない
ルー・リード(ヴェルヴェッツ)の誕生日←
そっちかとお思いでしょうが、すまん、ジェット先輩(
誰がジェット先輩だ)の誕生日は存じ上げないのでした+今年は変化球で祝ってみました。ちなみにVUの元祖ロッケンロールはこちら。まあパンキッシュなランナウェイズ版に比べると、こっちのが先と思えないほど洗練されててアーティストって感じがすると思います→
・
The Velvet Underground - Rock & Roll(外部リンクが開きます)
(同日追記)
先週のメイン日記で「キライな歌の話をする時なんだか嬉しそうな自分」と書いたのは戒めのためで、好きな歌の話だと十倍くらい嬉しそうなことも自覚している。尻尾ぶんぶん。
(26.03.02)てひひ、買っちった。嬉しくて本屋の店主さん(?)に「今日この人の誕生日なんです(それで買いに来ました)」と話すと
「高額なんで売れないかなあと思ってました」と笑っておられました。はい、高額です。今月の残りは卯の花とか食べて暮らすぞ!

(26.03.03)【
まだ生きてるひとも褒めよう】
先月の小ネタで「晩年、太極拳に傾倒していたルー・リード」と書いちゃったんだけど、昨日買った
『ルー・リード 俺の太極拳』(国書刊行会/外部リンクが開きます)のサワリだけでもと開いたページで「1980年には太極拳を始めてた。まだ見るからに初心者だったけど」という目撃談を披露してました、「私も武道経験でね」(!)と語る
ボブ・エズリン(!!)が。
もうこれだけで4100円の元は取れた(大袈裟)。
ボブ・エズリン、最初の名声を確立したアリス・クーパーとの仕事には疎いのですが(宿題?)ルー・リードの『ベルリン』やピンク・フロイドの『ザ・ウォール』で知られる伝説のプロデューサー。
・
Lou Reed - Lady Day(YouTube/外部リンク)
・
Pink Floyd - Comfortably Numb(同上)
ルー・リードの『ベルリン』も手がけてるけど
ベルリンの「愛は吐息のように」も手がけてるので「ほら、ベルリンをプロデュースしてる人」っていうと「どっちだ?」てなる。どっちもだ(笑)←貼らないけど。独特のアトモスフィアはデフトーンズのような激しいバンドを手がけても健在なのでした。
・
Deftones - Rats!Rats!Rats!(外部リンクが開きます)
そんなエズリン先生、ちょうどほぼ(どっちだ)一年前に
「米国の激しい政治的分断を理由に米国籍を放棄 母国カナダに帰国」(amass/25.02.28/外部リンクが開)していたそうな。多くは言わないけど、まともな人だってことですよ。そして彼のようには去れない人たちの安寧も願う。
(26.03.04)有言実行の卯の花。でもこういうものチョイチョイっと作れる心のゆとりが先月までなかったと思えば(今月はこじあけていく所存)これはこれで豊かな生活。発色と隠し味にカレー粉ふってます。

(26.03.05追記)シモーヌ・ヴェイユが書いた
「飲食の快楽は、一見そう思われるよりもはるかに社会的である」(
先月の日記参照)は、むろん卯の花にも当てはまるわけで、ましてそれをネットで吹聴すれば完全なパフォーマンス【私は慎ましいが健康にも環境にも配慮し充実した生活を志しているアピール】だと自分でも分かっててやってるわけです。仮に観客がいなくて一人でも、スタバでラテを注文するのも、PADMA(ハラル食材メーカー)の豆を買うのも、それぞれ己の社会的威信を賭ける行為で、今の自分の言葉で言い直せば、きわめてすぐれて政治的。「
それ、政治です」舞村(仮名)のひとりごと。(また読んでない本を元ネタに…)

そう考えたとき、食そのものを拒絶して死に至ったヴェイユ自身の振る舞いは、彼女が心から軽蔑した力や威信からの撤退だったのか、それとも(心から力を軽蔑しながらも)彼女にできた最大の力・威信の行使だったのか、残酷な問いだと思いながらも少し考えてしまう。じっさい同時代の哲学者も偉人も、なんなら彼女が命を賭して精神的な闘いを挑んだ独裁者さえも、彼らが何を好んで食べたかなど、彼女が「食べなかった」ことほど後世に伝わってはいない。
(26.03.07)台湾文学セレクションと銘打たれた
陳又津『霊界通信』(原著2018年/明田川聡士訳・あるむ2023年/外部リンクが開きます)は「持ち主が死んだあとも残りつづけるSNSのアカウント」という現代あるあるに「
えっ待って更新も続いてる」というひねりを加えて(死者にとっては)死後も続く生・(生者にとっては)死者とともに在り続ける生を描く。若者のリアルな生活感と異世界の交錯は韓国作家で個人的に好きな
チョン・セランと通じる感じで、日本にもこういう作風のひとっているのかしら、いるんでしょうね(ゆる募)。

身寄りがいなくなり、自身の記憶すら失なわれる不安と対峙し、肉体が衰え死を迎える前から「忘れられる」という形で社会的な死を先取りする高齢者たちが現実とどう折り合い受け容れるか。また死よりも前にまだ人生の前で立ちすくむ若い世代との交流は可能か。可能なのではという希望が提示できるのは物語ならでは、なのだろうか。自身の性別に違和を感じ「どんなに頑張っても身長170センチの男の肉体では」と苦悶する「男の娘」が、「この歳になると性別とかどうでもよくなるんだよ(
本当かしら)君はかわいいなあ」と己を認めてくれるヤバいお爺さんの喪を通して自身のセクシュアリティを受け容れていく「美少女体験」の章は全編の白眉かも。ただし前章からの設定や登場人物を引き継ぐ連作長篇なので最初から読むこと。
(26.03.11)
小野不由美『十二国記』に登場する聖獣「麒麟」は獰猛な妖怪どもを自在に使役する代償に、己が死んだら(妖怪にとっては)すこぶる美味だという遺骸の肉を貪り喰われる契約を結んでいるという。翻って一般に、現代の日本人が亡くなると遺体は葬儀までドライアイスで腐敗を抑えられ、葬儀の後はすみやかに荼毘に付されるのだが(焼け残った白骨は
それはそれで貴い)どちらかというと「事故物件」になる可能性も低からぬ独居者の自分は、これまで腸内などで仕えてくれた常在菌たちに己を与えるのも悪くない気がしないでもない。でも実際はむしろ、人菌一体で外敵として斥けてきた悪玉菌や虫や
禰豆子ちゃん(婉曲表現)の哀れ餌食という方が正しいのだろう。どう頑張っても生物学的には、死は敗北であるらしい。
…そんな縁起でもないことを考えてしまったのは
「われわれの口のなかには、六百種の嫌気性バクテリアが生息し、すべての植物が敵を追い払うために生成する毒素を無毒化している。腸内には四百種が生息するが、その助けなしには摂取した食物を消化吸収することはできないだろう」という指摘とともに、修行者が悪鬼どもの餌食となる(ように見える)チベットの幻覚儀式を叙述した※
一冊まるまるソレではなく他にも合わせて20の逸話がちりばめられてます(重要)アルフォンソ・リンギス『信頼』(原著2004年/岩本正恵訳2006年青土社→2026ちくま学芸文庫/外部リンクが開きます)のせいらしい。
ここ二・三年で自分の読書歴に猛然と割りこんできた異色の哲学者(1933-2025)の、たぶん初の文庫化。日本での代表作と思しき『
何も共有しない者たちの共同体』(
23年5月の日記参照)
というタイトル(元はバタイユの言葉だそうです)
に痺れるほどの魅惑を感じた人、あと「事故物件」になる可能性が高い人(
縁・起・で・も・な・い!)は心の積ん読棚に。
(26.03.13)最高スペックより「廉価で中くらいの性能」に惹かれるタイプ+最初に持ったMacがメモリ8MB・ハードディスク80MBのPowerBook145Bだった自分、ほぼ同じ値段の
MacBook Neo(Apple公式/外部リンクが開きます)で久しぶりに著しく物欲を刺激されたのだけど
「おまけにコンパクトだし」と思ったのは店頭マジックで帰宅して確認したら今もってるMacBookAirと縦横ほぼ同じ。危ないところでした。
そして灰色の強化プラスチックだったPB145Bすら(入門機の100や上位機種の170・後継機種の150と比べても)「なんだかデザインに可愛げがある」と勝手に思っていた=デザインに可愛げを求めがちな自分、

家でメイン機として使ってるMac miniのモデルチェンジの「何故そっち方向に」感は未だに拭えていない。

今うちにあるbefore2023のデザイン(二代目)は気に入ってるんですけどね。
(26.03.16)二輪のことは全然分かんないけど四半世紀前に仕事で3年ほどスーパーカブに乗ってたことがあって、同じホンダから出た22万円の電動スクーターにまたしても心を揺さぶられております。買わないけどね。
・
ICON e:(HONDA公式/外部リンクが開きます)
三色それぞれの名前が
「パールスノーフレークホワイト」「キャンディラスターレッド」そして
「ポセイドンブラックメタリック」なのは御愛嬌。
1回の充電で81km走れる、ということは理論的には
東京から札幌まで15回くらいの充電で行ける(なんですぐ
世界じゅうを僕らの涙で埋め尽くそうとするのよ)と思うとスゴイ…何処かで充電場所に巡りあえず詰みそうな気もしますが(繰り返し言うとEVも含め、その方面のことは全く分かっておりません。)…自動車を延々と押しながら歩いて進む大昔のCMみたいな姿が浮かばなくもない…
参照→
【昭和のテレビ】Mobilガソリン 「気楽に行こう」【懐かしいCM】(YouTube/外部リンク)
僕も乗ってた50ccのスーパーカブは25万くらいか。PowerBook145Bを買ったのと同じくらい前に読んだ本に「
ガソリン価格によっては、人力で自転車を漕いで人間がカロリー消費して食べ物で補うより、スーパーカブのほうが"燃費"がいい時もある」とあってウヒャーと思ったこともありますが、あれは初期費用(カブと自転車それぞれの代金)は度外視なんでしょうね。
(26.03.14)最近読んだ本によれば、生き物には植物→動物→人間と階層があって「善く生きる能力」は人間にしかないとしたアリストテレスに対し、とりわけ植物を愛していた新プラトン主義の創始者
プロティノス(205?−270年)は
「すべての生き物に幸福への性向がある」そう考えないのは
「善く生きることを生命以外のなにものかのうちに(たとえば理性のうちに)置く」点でおかしい(命を測るのに、いつのまにか命より理性のが基準だと取り違えてんぞ?)と唱えたらしい。(ジョルジョ・アガンベン『身体の使用』)。
たしかに動物で「私はなんで生きてるんだ」などと悩むのは宮澤賢治の「よだか」くらいだと考えるとき、吾々もアリストテレスと同じ陣営にいるのだけれど、それだとたとえば東アジアの(?)
虫やケダモノも徳を積めば人間に輪廻転生できる的な教え(昨年5月の小ネタ参照)も「でも人間以外は徳の積みようがないじゃん」となってしまう。アリストテレス的な生命観を受け容れたとき、吾々は世界の、もしかしたら半分以上を占めていたかもしれない認識の巨大な大陸をごっそり失なったとも言えそうだ。

振り返って頭上の高台を眺めれば、近所の小学校の、これは梅の木?小枝をきれいに切り詰められて、ずいぶん憐れな姿になっていましたが、構わず花は咲くのでした。善き生。
(26.03.15追記/これも一項目たててメイン日記にすべきだったか?)とはいえ。むしろ原始仏教でも草木は有情でない(心を持たない)とされ、植物まで救済の対象に広げるのは中国の華厳宗とか比較的あたらしい(?)着想だったという話から、わりとよく聞く
「山川草木悉皆成仏」に至っては近年も近年、今となっては批判される事のが多い気がする梅原猛氏の造語だったという記事→
・
「山川草木悉皆成仏」の由来(1)(「宮澤賢治の詩の世界」/2020.3.1/外部リンクが開きます)
だいたい植物を仏性から排除した原始仏教すら「新しい」都市的な発想だったとも言えるわけで(上記の記事が依拠している論文
「東アジア的環境思想としての悉有仏性論」岡田真美子2002年/外部PDFが開きます・など参照。とくに肉食戒の浸透と同時に「植物は食べていい
'cause they don't have any feelings(←byニルヴァーナ=
涅槃だけに!←うっせえわ)」で仏性否定に傾いたという指摘が面白い)、、逆に新しいから悪いとも言えないのだが、少なくとも
「何に対して何のがより古層・オリジンだ(から正しい)」的な考えかたは時に判断を誤らせる。剣呑剣呑。
(26.03.17)酷い世の中の口直しに自分的には結構よく出来たと思う茄子の揚げ焼き(甘酢和え)でも見てくれ。

最近いろんな素材で作ってる「片栗粉まぶして大さじ二杯くらいの油で揚げ焼き→同量のお酢とお醤油と砂糖で味つけ」中まで上手く火を通せれば、片栗粉あたりをツナギに重ねて角切り肉ふうにした豚バラ(薄切り)で疑似酢豚が作れそうな気がしてきた。来月あたり試してみよう。
(26.03.22)近頃「肉のハナ○サ」で700グラム800円のボイル豚もつ盛り合わせを買うようになって。下処理で脂を落とすと500gにカサが減るので100グラムあたり160円は生活水準としてどうでしょう皆様。カレーに入れたり麺類に載せたりしてるのですが、串で焼いてもいいかなと思い、フライパンでタレと絡めながら火を通してこんな感じです。函館名物の焼き鳥弁当が「焼き鳥」と言いながら豚肉(鶏より豚肉が安かった時代の名残り)で、ボリュームとか全然ちがうけど、ちょっとそれを思い出すなど。つまり・人生を旅のように楽しんでいる・これはこれでしあわせであるってことです。

上機嫌だから世にたてつく必要ない・ではなく・上機嫌に過ごすという反抗。
(26.03.26/小ネタ/すぐ消す/月末に拾う)またモツを浸かって、老抽王という仕上げの色づけに使われる中国醤油で
言ったもん勝ち「神奈川ブラック」あ…やっぱ怒られるかな…むしろほんのり甘味のある味、ひょっとして牛肉麺なんかもこんな感じ?生姜と五香と七味でアクセントを。
朝食と昼食がカ■リーメイトだったとは思えない(簡単だけど)生活感ある夕餉。うましかて。

この後は明日の昼食用にこんにゃくを炒めます(
あ、さすがに副菜ですから!!)
(26.03.23)卯の花で過ごすと言いながら、けっこう外食にも走ってしまった。
倒産したチェーン「牛丼太郎」のスタッフが看板の一文字を消して、茗荷谷で今も続ける「丼太郎」の話は前にしたけれど(
昨年7月の日記参照)、今度は往年の洋食チェーン「キッチンジロー」の本社撤退後、お店のオーナーが独立して始めた(こういうお店を「
ジロー系」と言うとか言わないとか…)定食屋を大塚で発見、とゆうかこの看板のロゴを路面電車から見て「あれは…キッチンジローの
キッチンの書体!」と数十年ぶりでも余裕で思い出せた自分が怖い。
キッチンのとや(南大塚店)。日曜のみ定休でランチと、夕方は6時頃から。店主おまかせの三種ミックスも気になったけど、キッチンジローと言えば個人的にはホワイトソースのクリームコロッケだったので、間違いなくありつけるようチキン南蛮との盛り合わせを注文。もうスマホどころかデジカメもよう使わない時代以来なので実はよく憶えてないけれど、出てきたメニューは職人的なアウラがあって、今の自分にはオリジナルの「ジロー」より好ましいほど?つけあわせの豚汁も嬉しい1,180円。コンパクトな厨房では出前館やロケットナウの注文チャイムがひっきりなしで、生き延びて、今を生きてるお店なんだなと感じました。
昨年の暮れにも同じようなことを言ってた気がするけど、今度こそ(雇用契約が延びてました)そろそろ池袋近辺とはお別れ。あっという間に消えてお別れを言う間もなかったキッチンジローとも、気持ちよく訣別できたかも。近場に縁のある人は「宇野書店」とハシゴでどうぞ?

ところでずっと「大塚で洋食…大塚で洋食…
グリルオーツカって名前に記憶があるけど、あれは大塚じゃないよな…?」と悩んでたら、思い出した。石川県金沢市にある「ハントンライス」の名店でした。
(26.03.29)
先週の週記では聖書まで持ち出して「仕事はつまらんもの」と力説したものの、仕事を通じてこそ知れた面白もはある。職場のPCがWindowsで(自宅ではマカーです)世界の絶景が次々デスクトップに表示されるのだけど、先日表示された
「アルプスの青い宝石」(Bing画像ギャラリー/外部リンクが開きます)と題されたイタリア・モルヴェーノ湖の写真が、麓の湖が灯火きらめく夜景なのに、背景の山麓は青空=つまり
ルネ・マグリットの絵画
「光の帝国」(美術手帖/外部リンクが開きます)
現実版!?とびっくり。地球が丸いから、こうなるんですかねえ。人生(世界)(宇宙)は発見でいっぱいだ。

(26.03.31追記)今日は今日とて、サハラ砂漠の写真がPCに。アルジェリアはタドラルト・ルージュなる絶景の写真なんだけど、名前のとおり(?)鉄分を含んで赤い砂漠の真ん中に…人が??4WDのタイヤの跡が四方を走り、それに撮影者も存在してるわけだけど、それにしたって写ってる人影??をそこまで運んだ車の影は見当たらないし「黒いスポーツウェアに白いチノパン(に見えてならない)」という格好は、どう考えても砂漠に相応しくない。違うかなあ、でも左を向いてうつむき気味の人影に見えるんだよなあ…と思いつつ、帰宅後に掘り出した解像度が一番高い画像で確かめたら→
・
こちら(外部リンクが開きます)
あ…違う。これは(何だか分からないけど少なくとも)人影ではない、ないね、ないよね…左向きじゃなくて背を向けて歩み去っていく人影では…ないよね??
そんなわけで今日は一日、頭の中で
ZELDAの「
黄金の時間(とき)」がリピートしていました(
懐かしいな、おい)。
「あなたを見失ったのはサハラの砂漠 あれから私はずっと貴方を探し求めている」という歌詞は『星の王子様』がモチーフなのだと思います。また来月。
・
ZELDA - 黄金の時間(外部リンクが開きます)
仕事ぎらいの哲学〜ヤン・パトチカ『歴史哲学についての異端的論考』(26.03.22)
もうすぐ四月。新入社員に贈るにには一般的に不適切とは思うが、数十年前、他ならぬ僕自身が貰った、こんな助言がある。
「どんな仕事も、やってみたら
…つまらないものだよ」
いや普通は逆、面白いものだよとか言うもんじゃないのかと思ったりもしたが、
人を見ての助言だったのかも知れない。その後「まあ原則つまらないものだし」で乗り切れる時もあったし、乗り切れない時もあった。
というわけで今週の日記(週記)

(上の画像かココをクリックで少し大きめの画像が開きます)
「そんなあなたも仕事が楽しくなる哲学」みたいな話はしません。するもんか。
どうしても働くのが楽しいとは思えない、この気持ちを怠け心とかでなく正当化したい、そんな人と一緒に頑張ろう・頑張って仕事をイヤがろうがテーマです。
あと逆に、趣味や娯楽で時々「
自発的に楽しんでるはずなのに、なんでこんなにしんどいんだ(これじゃまるで仕事じゃないか)」みたいな状態に陥る人の、考えるヒントになるかも知れません。なるといいですね。

* * *
○
基本的に仕事は嬉しくない(要素も多分に含む)
と認めること
映画監督の
伊丹万作(1900〜46)は「人生の意義は」と問われ「遊ぶこと」と即答したらしい。
「人生の意義は働くことではないのですか」と問うた取材記者に、さらに万作答えていわく「私はあなたのようには思わないのですが、なんなら炭坑の奥底で働いている人にも訊いてみたら如何ですか」
これを少々厳密に言い直すと、次のようになる:
「十二時間の機織り・紡績・穿孔・廻転・建築・シャベル仕事・石割が、彼の生命の発現だ、彼の生活だといえるであろうか?(中略)
その逆である。(略)
生活は、彼にとっては、この活動が終わったときに、食卓で、飲食店の腰掛けで、寝床で、はじまる」
(カール・マルクス『賃労働と資本』岩波文庫/強調は引用者)(
2014年6月の日記参照)
個人的につけくわえるならば、人生の意義は遊ぶこと・私の生活は趣味がメインで、給料をいただく仕事はあくまで(趣味を含めた)生活費のためと割り切っている人も、
こと正規雇用においては「なに言ってんだ、人生の意義は働くことだ」と全人格的な参与を強要されがちと思う。子どもの頃から将来の夢=就く職業であり、勤務が終わったあとの「食卓で、飲食店の腰掛けで」話すこと考えることは仕事のこと、仕事が趣味で生き甲斐という人は少なくない。伊丹万作に「更問い」した記者もそうだったのかも知れない。
それはそれで、幸福なことだ。
だが、そうではない人に向けた話を今はしている。
○
労働は罰かも知れないということ
ミシェル・フーコー(1926〜84)は歴史の発展が必然的に社会革命に帰結するという信念を拒絶した点で、たしかに非マルクス「主義」的だったけれど、マルクスと同様に、資本主義の成立が社会や人間を大きく変えたと認識して(も)いたようだ。
彼(フーコー)が着目したのは18世紀、工場労働の普及により、労働の価値は(農場で収穫した農産物や、マニュファクチュアで紡いだリンネルの量ではなく)労働者の数×労働時間で量られるようになったという変化だ。
※ちなみに
シルヴィア・フェデリーチは
「資本主義によって発展した最初の機械とは、蒸気機関でも時計でもなく人間の身体だった」その変化はエンクロージャーにより農村の自律が破壊された16世紀には始まっていた・それを18世紀だと捉えていた「フーコーは甘い」と批判している。
23年10月の日記参照。
ともあれフーコーに話を戻すと、労働の価値が(収穫物でなく)労働時間で量られるようになると、刑罰の形態まで変わる。それまで罪人を追放したり、八つ裂きにしたり、あるいは罰金を科したりだった刑罰が、量刑(期間)を確定したうえでの禁固・懲役に変わる。つまり肉体的苦痛(八つ裂き等)や経済的な償い(罰金等)ではなく
自由な時間を奪うことが刑罰になった。
だもんで、これを逆転する。工場で働いて労賃を稼げもしただろう時間を、監獄のなかでむざむざ奪われる刑→転じて、時間給で労賃を稼ぐ仕事も「時間を奪う」罰みたいなものでは。本サイトが提示する、もっとも仕事向けでない人のための労働観(その1)はこうだ:
なるほど、これは人生の時間を奪う刑に違いない。
では何の罪に対する刑罰なのか。
通勤電車で運ばれる人々(吾々)を鎖に繋がれた囚人になぞらえた
ザ・プリテンダーズ「チェイン・ギャング」(考えてみれば正に「労働=刑罰」観の歌だった)は「愛しあうことが罪だった」と歌っている。
ひゃー、ロマンチック!しかし
「私たちを引き裂いたかどで、いつかみんな滅びるだろう(They'll fall to ruin one day for making us apart)」という呪詛はクリッシー・ハインドの歌唱だとなおさら胸を打つ(
16年9月の日記参照)
そこまでロマンチックになれない吾々は「まあ反社会の罪だろうな」と思うのが妥当ではないだろうか。
だって罰を受けてるのに社会に反抗してないんじゃ割にあわないよ…というのは本末転倒な冗談として「仕事は生き甲斐」「労働は楽しい」と思えない時点で、すでに反社会的・反国家的とは言えるだろう。
オー・ヘンリーの短篇「
警官と賛美歌」は厳しい年の暮れ、なんとか刑務所に収監され飢えと寒さをしのごうと目論む無職男が、さまざまな犯罪を試みては失敗→教会の外で漏れ聞いた賛美歌に改心させられ「やっぱり働いてマトモに生きよう」と決意したところで警官に呼び止められ「何をしてるんだね」「見りゃ分かるでしょう何もしてないんでさ」→浮浪罪で収監される皮肉な話だった。これを中学生の頃、英語の授業で読んだ時は意味が今ひとつ理解できなかった。「教会に盗みに入るつもりだな」と誤解されたとかじゃないの?そうではなく、
賃労働に就かずフラフラしていること自体が犯罪という時代があったのだ。フーコーも書いている。監獄に収監されたのは働かない人たちだったと。フェデリーチも書いている。働かないことは反抗であり、群を為して移動し、そして働かなかったと。
○
これはSNS(マストドン)で読んだ受け売りだけど
言われてみるとたしかに
「勤怠」ってなんだよって思いますよね。
なんだよ「怠」って。
○
そもそも労働は罰であるということ
ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論IV』は
ゲオルグ・ジンメルの次のような指摘を引用している:
「(肉体労働にあっても)
その代価が求められているのは結局はむしろ労働の内面や、骨折りを厭う気持ちや、意志力をふりしぼることに対してである」(『貨幣の哲学』1900年/強調は本サイト)。
ベンヤミン自身はジンメルのこの見解を「プチブル的」と斥けているのだけれど(そしてベンヤミン自身は『ボードレール』で
「読者は詩人の汗を愛飲する」と書いていたように思う)、労働の労賃は骨折り自体ではなく
「骨折りを厭う気持ち」への報酬だというのが今回の文脈では興味ぶかい。
ものすごく基本的な、そして仕事向けでない人のための労働観(そのゼロ)として、たとえば
美輪明宏が説く「
仕事の報酬=我慢代」(『あゝ正負の法則』)という、これも仕事生き甲斐説のひとには怒られそうな価値観がある。
先々週の日記(週記)で少しだけ紹介したチェコの哲学者
ヤン・パトチカ。70歳にもなってハヴェルなど若い仲間を助けて当時の共産党政府に刃向かい落命するという、まるでフーコーが(盟友ドゥルーズに絶賛された)エッセイ「汚辱に塗れた人々の生」で書いた
「結局のところ、私たちの社会の根本的な特性の一つは、運命が権力との関係、権力のとの戦い、あるいはそれに抗する戦いという形を取るということではないだろうか」(『フーコー・コレクション6 生政治・統治』ちくま学芸文庫)を体現するような末期を遂げたパトチカは、その著書『
歴史哲学における異端的論考』で、おそるべき事実を告げる。そもそも旧約聖書の創世記が書いているではないか、知恵の木の実を食べた原罪の罰に、人はエデンの園から追放され
「生涯食べ物を得ようと苦しむ」「額に汗を流してパンを得る」(新共同訳)を義務づけられたと。
あらゆる労働讃歌に反して(聖書の)
神が言っているのだ「罰として労働を与えた」と。はい解散。
…いや、まだ解散は出来ないだろう。もう少し引用と思索を続けます。
詳細に見れば原罪とは、神に逆らって「禁じられていたリンゴの実を食べた」ことではなく「神に逆らって」自分の意志を持ったこと自体である(
あくまで聖書の話)。ダメ押しとして、その実の効用は「善悪を知る」善悪を自分で判断する判断力を持つことであった。アリストテレスが言うように、動物は本能として生存や生存のための捕食に従事するが「何のために生きてるんだ」といった自意識はない(とされる)。自意識を有するのは、リンゴの実を食べた人間だけだ。
けれど人間は自意識をもった途端、その自意識で(動物と同じように)
生存や生存のための食糧調達を考えなければならない。せっかく得た自発性=自由を労働にしか使えないのだ。
人はエデンの園の安逸が素晴らしいものだと知るには知恵の実をかじる必要があったが、かじった途端あれは素晴らしいもの「だった」と失なわれた形でしか、それを知ることが許されなかった。まして自由については、そういうものがあると知ったとたん「それは手に入らない」と知ったことになる。知恵のかなしみ。
○
遊びすら労苦かも知れないこと
いちおう言っておくと「罰としての生であり労働」は世界のあくまで一部(ただし西洋的価値観という現代できわめて強力な一部)
の価値観で、それとは別の脱出口を探すことが、社会に逆らい労働は楽しくないと考える者たちの使命となるだろう。えー結局「使命」なのとボヤいてはいけない。
全力で労働を厭うのだ。
人は自発性を知った途端その自発性を生存(労働)に全振りしなければならない、だから労働はつらいというパトチカのテーゼ(
あるいはパトチカへの言いがかり)は「どうして遊びまでしんどくなるのか」という派生的な問いに答える手がかりになるかも知れない。ならないかも知れない。
『台湾文学コレクション1 近未来短篇集』(早川書房2024年/外部リンクが開きます)を読んで、地球がまるごと流浪したり(未読)都市まるごと何層ものレイヤーを物理的に入れ替えたりとスケールが大きな大陸(中華人民共和国)のSFと比べ、台湾のそれがAIやバーチャルリアリティなどの導入で変わる個々人の自意識のような(切実ではあるが)小ぢんまりした物語に収束しがちなのは小さな島国という事情のせいだろうか―
などと一般化するのは危険だが(でも伊格言『
グラウンド・ゼロ 台湾第四原発事故』―
2018年9月の日記参照―も日本の3.11を念頭においた架空の原発事故をテーマにしながらも、事故で記憶を失なった主人公の自分探しが主軸であったように思われます…)
収録作のひとつ・
林新恵の短篇「
ホテル・カリフォルニア」も、そうした傾向が強く出た一作だ。イーグルスの同名曲を思わせる倦怠感と
「チェックアウトしても去ることは出来ない」という有名な歌詞そのままに、ヴァーチャル世界に閉じこめられた主人公(自覚あり)が興味ぶかい。もしかしたら、外の現実世界はこんなだったのだろうとAIが分からぬなりに推定したのかも知れない、主人公が起きてから寝るまで従事する「仕事」があって、それは画面の中のブロックを動かしては積み上げて消す「テトリス」だか「なんとかマッチ」みたいな「作業ゲー(ゲーム)」と判別がつかないのだ。
またも叱られそうな説ではございますが、仕事向けでない人のための労働観(その2)として、特に事務系の反復作業に従事している人は、書類を開く→処理する→しかるべく保管する作業の繰り返しが「これでは作業ゲーと変わらんな」と思うことは多少あるのではなかろうか。
逆に言うと(ものすごく醒めた目で見ると)吾々があんなに夢中でのめりこんでるゲームの数々も「報酬もないのに仕事と同じことをしている」営為に見えなくもない。実際「ノルマ」があり「スキル」を駆使して「ゲージ」を上げていく「作業」は、限りなく「仕事」に近い(かも知れない)。いや、ペースを守って同人誌即売会のための漫画を描きあげるのも、綿密に計画を立てて旅行を「楽しむ」のも、気がつけば作業=仕事と同じメソッドで行使されている・違うのは報酬があるかないかだけ、そう考えて吾に返り「スン…」となることも出来る。
ましてある種の作業ゲーは報酬がある「ポイ活」だったりする(それらの実体はクリア後に表示される動画広告を延々眺めることへの報酬だったりするのだが)。同人誌は儲け度外視の「持ち出し」に終わる人も多いだろうが「稼ぎ」を得ている人も少なくないだろう。今のようなデジタルゲームが普及する前に日本人の娯楽の代表格だったパチンコを「端から見ると終業後にまで機械を操作して、別の仕事をしているようだ」と評したのは、ロラン・バルトの『表徴の帝国』だったろうか、ヴィム・ヴェンダースの映画『東京画』だったろうか。
○
労働と仕事は別かも知れないこと
イタリアの碩学
ジョルジョ・アガンベンはその著作
『身体の使用』(原著2014年/上村忠男訳・みすず書房2016年/外部リンクが開きます)でハンナ・アーレントの議論を踏まえ「そもそも古代ギリシャ・ローマの語彙として
労働とは奴隷の労働をさす言葉だった(市民のすることじゃなかった)」という身もフタもない確認をしている。
諸説あるけれどパトチカと同じチェコ(チェコ・スロバキア)の作家
カレル・チャペックの造語になる「ロボット(robot)」の語源はチェコ語の「強制労働(robota)」およびスロバキア御の「労働者(robotonik)」であるらしい。前者robotaには、さらに古代教会スラブ語で「隷属」という意味もあるらしく(
Wikipedia調べ・外部リンクが開きます)、まあ「robotの語源は"万能"です」と唱える向きもあるようだけど(←これが諸説)、隷属やロボットであることが「労働」と直結しているのは面白い、いや笑えはしないが。こうした語源を踏まえて『機動警察パトレイバー』では同じ「労働」を語源とする「レイバー(labor)」をロボットに替わる呼称にしていた。
ハンナ・アーレントに話を戻すと、アガンベンが要約したとおり彼女(の研究)においても労働(labor)は元々奴隷のそれなのだが、それじゃ人生絶望しかないじゃないかと言えばそうでもなくて、アーレント『
人間の条件』においては労働とは別の「
仕事(work)」というカテゴリがある。同じworkという言葉が「成果物」「作品」をさすように(オタクに親和性の高い例だとイラストレーション・ワークスとか言うでしょ)「仕事(work)」は形に残るアウトプットのあるもので、本来「労働(labor)」は形の残らない家事労働(古代ローマではまさに奴隷の仕事―
2010年5月の日記参照)を言ったらしい。
では奴隷と聞いて吾々が思い浮かべちな(家事奴隷ではなく)綿花プランテーションの黒人奴隷が強制されたような生産に関わる工程は成果品が残るから「仕事(work)」か。そうではないだろう。作るそばから取り上げられる・もっと言えば生産工程も作業内容も自分でコントロールできない綿花奴隷たちの業務は・もっといえば現代アパレルの衣料品の縫製を実作業として担っている零細労働者の業務も・同じくらい薄給と言われる末端アニメーターの業務も、やはりロボットのような隷属という意味で労働(labor)だろう。それを成果・自分の仕事(work)と誇れるのは、綿花を「吾が農園」の製品として出荷できる農園主やファッションショーで「私の仕事(work)です」とお立ち台に立つデザイナー、「作家」として遇されるアニメーションの監督だけだろう。
※いや、アニメーションの制作に至ってはプロデューサーでさえ、スポンサーの意向の「奴隷」に過ぎないこともある―何度も蒸し返している
24年4月の日記参照。
そしてこれまた何度も何度も蒸し返している
ヴェイユ『自由と社会的抑圧』に言わせれば、自分の労働が流れ作業の一部分に過ぎず、「成果」を生みだす全工程に関与しコントロールできない限り、個々人にとって労働は苦役でしかない。
そこで今回の日記(週記)がようやく提示できる前向きな(?)提案は「自分で起業するのが一番じゃない?」である。小商いのすすめ。たしかに自分が立ち上げた醸造所を「
有頂天醸造」と名づけたり、大量生産品の「一生懸命営業中」みたいな看板の代わりに手書きで「
やってます」と書きつけた紙で済ませたりするのは、いかにも自由で楽しそうだ。

ただしコレとて、楽しいのは創業者であるうちだろう。日々の作業が旧約聖書的な労苦でないかという問題は別にしても、事業がひとりで賄いきれなくなり、たとえば帳簿を税理士に委ねるなどはともかく、従業員を雇って使役するようになれば、個々の従業員にとってソレはもう工程の一部のみを命じられたままにこなす「労働(labor)」に他ならない。
創業者になって人を使役し支配するのが楽しいんだよ、みたいな話は
今回もっとも唾棄すべきなので捨象する。
逆に漫画家のような個人事業主ですら、それが商業出版となり編集者や出版社にある程度コントロールを奪われると「仕事(work)」の喜びは希薄になる。酷い(ひどい)編集者のせいで作家としての幸福を断たれたという酷い(むごい)話もネットには散見される。
まして支配される労働者(robotonik)でありながら自分の業務を仕事(work)のように思え・経営者マインドで自発的な創意工夫を成果(work)として献上しろという社員教育・まして零細労働者に強要される個人事業主化などは、成果はよこさず隷従を強化する、大いなる詐術だろう。
喜んで「仕事で自己実現」をめざす人もいるのだろうが、それに限界を感じた人を想定して今回の日記(週記)は書いている。
冒頭のマルクスに話を戻せば、かの『資本論』(
未読)は、自分たちの生活の範囲内で作って使うぶんには使用価値のみ問われていればよかった布や衣料などの成果品は、市場に出されるや商品として買ってもらえるか・もらえないかという「命がけの跳躍」をしなければならないと説いた(
らしい)(
未読)。そこらで自分の労働条件・いくら貰えるかと夢中で話している人たち・そんな人たちを焚きつける転職案内の広告など、あるいは「チャンネル登録・高評価をよろしくね」と売りこむことに余念がない個人動画主(いわゆるYouTuber)を見ると、自分を命がけで商品化しようとする味気なさに時々感じ入ったりしてしまう―だったらどうしろと言うのか、と問われれば現状では答えようがないのだが。
そこで急遽、今回の日記(週記)の結論ではないがオチに入る。
ハンナ・アーレント『人間の条件』の分類は(奴隷としての)労働・(事業主としての)仕事のほかに、もうひとつのカテゴリを設けている―公共・政治と言われる分野での責務(あるいは責務を負う権利)の行使がそれだ。
己のために利権を回すとか、そうゆう日本人が「政治」と考えているものとは別の、自分だけの利益ではないインフラの整備など公共の利益に関わる責務を果たす権利・義務は、古代ギリシャやローマでは市民だけに認められたもので(奴隷や女性には政治に参画する「権利」がない)その権利は兵卒として戦場で自らの命を危険にさらすことと不可分であったというアガンベン的(?)な由来譚は一旦措こう。
多くの人が言っていて・僕は
松岡正剛氏の文章で知ったのだけど、日本だと「カセギ」と「ツトメ」という分類があったらしい。「カセギ」はその名のとおり生活の資を稼ぐこと。それに対して「ツトメ」は、たとえば町火消し(消防団)に加わるとか御隠居として若い衆に助言をするなどの社会的責務を言ったらしい。
こうした「ツトメ」も、
ともすれば国家への奉仕みたいな強要に簒奪されかねない危険があることは踏まえたうえで、
ここまでつきあうくらい暇で物好き(
いつもすみませんねえ)・かつ
「労働がつらい」のみならず・趣味や消費ですら「カセギ」や「成果」を強要されてる気がして息が詰まってる人に、それとは違う「ツトメ」という別のカテゴリもあると。
それは面倒な責務の上積みかも知れないし、なんらかの脱出口かも知れない。脱出口でもあるといいですね。
*** *** ***
【追記】なんで今回いきなり漫画かというと、精神修養のために入手した中国の古典『菜根譚』(岩波文庫)をパラパラめくっていたら
「人心に一部の真文章あれども、都(すべ)てに残編断簡に封錮し了らるる(人間の心には、一冊のりっぱな書物が備わっているのに、古書の散り残りや切れ切れに、全く閉じこめられてしまっている)」という一節が目に入り、うわー図星=他人(ひと)が書いた本の引用や紹介ばかりしてる自分みたいだ、しかし自分の中に(それらを必要としない)一冊の書物なんてあったっけ→立派かは知らんけど借り物でない創作があるやんと久しぶりにペンを入れたくなった次第。あと見てのとおり今回の日記(週記)と内容(レトリック)がかぶるため、いま描いておかないと「前に文章で同じ言い回ししたからボツ」となり勿体ないと思いましたゆえ…
そんなわけで今週は頑張りすぎたため、来週はお休み。月末か月はじめに小ネタのサルベージをします。
【26.03.29追々記】途中うろ憶えでベンヤミンの(ボードレール論にあった)言葉として「読者は詩人の汗を愛飲する」という一節を引いたけれど、
やっぱりうろ憶えでした。大塚の宇野書店に当面行く機会がなさそうなので、お土産で買った『パサージュ論2』(岩波文庫)が一冊ほぼボードレール論のための覚書き集で

その断章のひとつにボードレール自身の言葉として、二流の作品でも作者の「意志」が
「一つの個性を与えるに与えるに足る」「意志とは、よほど立派で、常に実り多い能力であるに違いない」…どうやら皮肉なのだった。作品じたいではなく作者当人への(しばしば下世話な)人間的興味=ヒューマン・インタレストがベストセラーを生むというのは「そういう時代(タレントの書いた小説が売れるとか)」が日本で本格化した1980年代に中島梓氏が指摘(批判)していたように
思う(←本当は確信あるけど今が今なので少し謙虚になっている)。まあボードレールはそこまで踏みこんでるわけじゃないと思うけど、
作者がこんなに・こんなふうに頑張って作品を作り遂げたと勘繰るのは批評・あるいは単にそこまでいかない「観賞」でもかなりの部分を有する要素ではあるまいか。むろん努力が透けて見えるのは浅ましくていけない・天の衣に縫い目がないように「なんにも努力なんてしてませんよー私のはぜんぶ才能ですからー」みたいな顔でシレッとすごいことしなさいよという意見も世の中にはある。
つまりいつもどおり物語の話をしています。自分がうろ憶えていたボードレールの言葉は、正しくはこうでした:
「見る者は努力を味わい、眼は汗を飲む」
地上には居られないほど〜シモーヌ・ヴェイユ『前キリスト教的直観』(26.03.08)
今週の日記(週記)にはb>シモーヌ・ヴェイユ
『前キリスト教的直観 甦るギリシア』(原著1951年/今村純子訳・法政大学出版局2011年/外部リンクが開きます)の核心?に踏み込んだ記述があり、これから読むので先に内容を知りたくないひとは(後半に出てくるヤン・パトチカも)スキップ推奨です。まあ自分ごときの上っ面の理解で原典の汲み尽くせない興趣がそう削がれることもないと思いますが。そしてむしろ「なんだ、この程度の本なのか」と誤解され読まれなくなるほうが心配ですが。
*** *** ***
近年は夏目漱石や澁澤龍彦の漫画化を手がけて評価の高い
近藤ようこ氏。自身も「最も好きな作品」と語る
『水鏡綺譚』(→ちくま文庫2015年/外部リンクが開きます)は狼に育てられ「(良い)人間になること」を目指す少年ワタルと、記憶を失なった少女・鏡子(かがみこ)、二人の「まだ(もう)人間でない者たち」の旅路を描く傑作だ。先取りして結末を言ってしまえば、鏡子の記憶は戻り、ワタルもどうやら人として生きていけそうな見通しを得て終わるがゆえに、もう共に旅をつづける理由はなく袂を分かつのが(えーナイスカップルなのにと)喪失感きわまりない。けれど元々は未完で、人でない状態の鏡子を愛おしく思ってしまい「このままでは自分は当人のためにならない愛(執着)で鏡子をダメにしてしまう」とワタルが歯を食いしばる場面で中断されていた、十年くらい経って加筆され大団円を迎えるとは思わず「なんて悲しい話なんだ…」と読む当方も歯を食いしばっていた作品なので、完結はまことに喜ばしかったのだが。
そんな鏡子の「人間でなくなってしまった」さまを雄弁に活写するエピソードは中盤あたりにある。
あ、言い忘れていましたが物語の舞台は戦国時代の日本です。大河ドラマや網野善彦の世界。寄る辺ない主人公たち二人は行く先々で貧民救済の施しにあずかって旅を続けているのだが、他にも施しを求める人たちが列をなす中、ワタル・鏡子・それに通りすがりの男という三人でひとつの粟団子を施される。受け取った鏡子は団子を二つに割り、ワタルと通りすがりの男に渡すのだが、二つに割ってしまったもので自分の取り分がない。それじゃダメだろうとワタルにたしなめられつつ童女のようにポカンとする鏡子。それは微笑ましくも気高いように見えて、しかし記憶とともに自分が人間であることも忘れてしまった鏡子の悲劇でもあった。
だが実は善意や施しとは、時に・しばしば「自分の取り分まで他人に分け与えてしまう」無私を、人に要求するものではないだろうか。端的に言えば、電車の中で人に座席を譲れば、自分は立つしかない。救世主と讃えられるイエスに、一人の青年が問う。どうすれば神の国に入ることができますか。イエス答えて
「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい(中略)
それから私に従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。(マタイによる福音書19.16・新共同訳)。盗賊に襲われ傷ついた旅人を救けた「善きサマリア人」も、旅人のために全財産を差し出したわけではないだろう。それに比べると苛烈に過ぎるイエスの教えだが、それですら「そのあと私についてきなさい」というからには命まで他人のために捨てろと言っているわけではない。
ただしイエス自身は自分の命まで他人に分け与えてしまった。そしてイエスと同様に、自分の命まで他人に他人に分け与えてしまう人たちがいる。そのこと自体を責めているのではない。極限状況ではかかる事態もありうるだろう。だが(この国であまりに多くの人々が「天皇陛下のために」自ら命を投げ打ったように
間違った対象に命を賭けてしまうのは別としても)人のために座席ばかりか命まで譲るのは、事実として、もう人であることを失なった状態なのだと鏡子は教えてくれる。だからこそ、それは人にとっては「極限状況」=人間である条件すら剥奪された状況なのだ、とも言える。
ナザレのイエスは鏡子とは別の意味で人ではない(いや人でもあるんだけど)神の子であった。だから神としての彼は、己は命を投げ打ちながら(そして人間として「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」と苦悶しながら)、救いを求める人間の命までは奪わず「すべてを捨てて、そのうえで(残った命ひとつで)私に従え」と言ったのではなかったか。
* * *
昨年の読書旅行(
今年1月の日記参照)から続いていたギリシャ悲劇『アンティゴネー』(
しかしタイミングが取れず未読のまま)との縁。
ジャック・デリダが先立つ『コロノスのオイディプス』で父オイディプスが死に場所を明かさない行方知れずとして最期を迎えてしまったため、娘として嘆き弔う喪の権利を奪われてしまったアンティゴネーの悲嘆を語り、
ヴァージニア・ウルフは『アンティゴネー』で今度は造反者として埋葬を禁じられた兄の葬儀を遂行し、みずからも落命するアンティゴネーの悲劇をとおして(兄=自身にとっては甥の弔いを禁じた)テーバイのクレオン王を、女性の意志を抑圧する家父長制の権化として告発した。
この流れで実は
シモーヌ・ヴェイユ『前キリスト教的直観』(
先月の日記参照)にもアンティゴネーが登場していた。自分としては、この順番で良かった。クレオンが国家の法(≒家父長制)を、アンティゴネーが愛や親族の・あるいは大地の法を代表するという、デリダやウルフも踏まえている読解を究めた結果、またもヴェイユは極限まで進んでしまうのだ。
国の法に逆らった者の追悼を禁じる王クレオンに対し、ソフォクレスが描いたアンティゴネーはこう抗弁する。
「わたしは憎しみをわかち合うために生まれて来たのではありません。愛をわかち合うために生まれて来たのです」
「アンチゴネー(中略)
のこの最後の一文はすばらしい」とヴェイユは書く。だが続いて彼女はこうも書くのだ。
「だが、クレオン(略)
の言い返しはさらにいっそうすばらしい。」その台詞とはこうだ:
「それならあの世に行くがよい。愛する必要があるならば、あの世の者どもを愛すればよかろう」(強調は引用者)。
アンティゴネーが、というか人間が愛せるのは死者だけだと
「この世界で愛することは、許されてはいない」とヴェイユは言う。なぜなら真実も真の愛も、この世の外にしかないからだ。神の統べる天上も、死者たちとともに神が住まう地下の冥府も、本質(もうひとつの世界)に変わりはない。だからアンティゴネーは(つまり人間は)死者しか愛せないのみならず、真に愛するためには自らも冥府に去らねばならない。それを冷徹にあばき、かえって姪を導くがゆえに、ヴェイユにとってクレオン王の死刑宣告は
「すばらしい」ということ、なのだろうか。
それはあまりに苛烈が過ぎる。だからこそ彼女の思想は自分(を含めた読者を)惹きつけるとはいえ。
シモーヌ・ヴェイユの「悲劇的なほどの明晰さ」を最初に感じたのは、実際に彼女が女子高等中学(リセ)で講義した記録である
『ヴェーユの哲学講義』(原著1951年/渡辺一民・川村孝則訳・ちくま学芸文庫1996年/外部リンクが開きます)でのことだったと思う。以前まんがにもしている話を(もう忘れられてるか知られてもいない可能性が高いので)再び蒸し返すと

それより以前から「人間は三つの点の間に勝手に線を引いて『三角形』を見る」というゲシュタルト心理学の発見を梃子に「物語とはバラバラの点(事物)のあいだに線を引き、星座をつくる営為ではないか」という観点で僕は自身の物語論をあたためはじめていた。だとすれば現実の世界において「人は平等だ」とか逆に「世界の中心で輝く日本」とか言うのも、自分にとっては物語だ。そして正三角形を上下さかさに(上に点がふたつ・下の真ん中に点をひとつ)すれば、それだけで人の顔に見える→かつて一世を風靡した「恐怖の心霊写真」が大概そうした誤認であったように、
人は間違った線も引きうる等々。だがそれは措く。詳しくはこちらをどうぞ→
電子書籍『物語の話をします』試し読みページ

(外部リンクが開きます)
そこにも書いたとおり、それとほぼ同じことを
「人は二つの点の間に線を見てしまうよう呪われている」と書いたのがヴェイユで、三つでも良かった点を二つという最小単位まで切り詰める徹底ぶりと、それを
「呪われている」と呼ぶ彼女の悲劇的な明晰さに震撼させられた。

邦題では「甦るギリシャ」と副題がついた『前キリスト教的直観』は(不勉強で詳らかではないが、たぶんアリストテレスとキリスト教の融合を図ったのだろう中世ヨーロッパのスコラ哲学、とは別の仕方で)アリストテレスを飛び越え、もっと以前のギリシャ哲学を後に出現したキリスト教の本質を予言する(古代ギリシャはキリストの出現で初めて成就した)ものとして、両者を力業で結びつける試みだ。
具体的にはプラトンのイデア論は「真実はこの世の外にしかない」という上述した『アンティゴネー』読解にも見られる思想を語り

同じ根を「持たない」数字どうしを結びつけ調和させる(
「似ているものや同じ根をもつものに、調和は必要ではない」)幾何学あるいは関数というピタゴラス派の発見を、人と人・人と神・人と「この世界にはない」真実を媒介するイエスの存在に結びつける。
ちなみに、この「媒介者としてのイエス」という着想は、アフリカの神話伝承からアメリカでのブードゥー信仰・ひいては「悪魔に魂を売ったギタリスト」ロバート・ジョンソンの伝説まで連なる十字路(クロスロード)の神話的位置づけにもつながるものだ。そのあたりを
山口昌男『アフリカの神話的世界』に基づき詳らかにした
2009年11月の日記を
サルベージし忘れていたので急遽サルベージしました(ダメな子…)。こうしてアフリカにも遡る・波及できる哲学が古代ギリシャまでしか掘り下げられず、西洋の哲学や現代思想においてまでギリシャがすべての起源のように扱われてしまうことへの不満・歯がゆさについては、別の場所で小出しにしているし、今後も小出しにしていくでしょう。
けれど話の核心はやはり、そうして「媒介者である神の子イエス」を古代ギリシャと(力業的に)結びつけたヴェイユの、人でない半神であるがゆえに成しえた(と僕には思われる)イエスの十字架での死を、人もまたなぞるべきだ・なぞるしかないという結論だ。
細かい論証は端折る。神も真実も愛も、この世の外にあるとするヴェイユの推論は、力が支配する現世では認められない真実や愛のためには(アンティゴネーがしたのと同様)人は命を投げ打つしかないという結論に至る。そして言うのだ、
「犠牲は人間の唯一の目的であり(中略)
人間がその凡庸さと傲慢さにもかかわらずその存在を許されているのは(中略)
神への愛のために、人間がその存在を放棄できるようにするためである」
大昔に大学受験のために紐解いて、結局あまり身につかなかった英文法の例文集に「
二人の恋は地上で成就するには純粋すぎた」という言い回しがあった。
身につかなかった証拠に英文でどう言うのかは全く憶えていないのだけれど、この言い回しが実は、ただ単に「二人の恋は成就しなかった」心変わりだろうがケンカ別れだろうが、恋人どうしが破局に至ったとき周囲が「ああ、地上で成就するには純粋すぎたんだね」と話をボカすためのフレーズだと知り、なんかちょっぴりガッカリした記憶がある(
身についてないので記憶違いかも知れません)。しかしこの「現世には存在できないほど純粋」という言いようは長く自分の脳裏に刻まれ、たとえば今こうしてヴェイユの殉教的な思想を垣間みた反応として自ずと出てしまう。
たしかに理屈として間違ってはいない。他の者が妥協してウヤムヤにしてしまう極限まで突き詰めた論理・倫理は、自分を(人を)強く惹きつける。だがその純粋さは人が現世に生き、現世を・現世で愛することを洞窟に映った影(偽り)として否定せずにはいられない、惹かれて近寄る者をそのままで焼き尽くしてしまう炎のような「正しさ」ではないか。
* * *
デリダ『歓待について』で紹介されていたチェコの哲学者
ヤン・パトチカ(1907〜77)もまた、ヴェイユと同様の慄きを読み手に与える思想家だった。
その主著
『歴史哲学についての異端的論考』(原著1975年/石川達夫訳・みすず書房2007年/外部リンクが開きます)はフッサール・ハイデガーの批判的継承からヨーロッパの哲学史を独自の視点で凝縮した一冊。読むと(こんな形で西洋哲学史を要約できるんだ)と感心しきり。あらためて、カフカがおりチャペックがおり、ムカジョフスキーのチェコ構造美学論(
24年12月の日記参照)があり、美術ではミュシャがおりと…あらためてチェコってヨーロッパ文化の奥の院・裏の首都くらい存在感あるんじゃないか…て24年12月にも似たようなこと書いてますが。少し抜粋すると
「魂の配慮は(中略)
ローマ帝国において(略)
法的な状況(法的な公正さ)
を求める努力という様相を帯びる」
すなわち
「自由はもはや、自分と平等な者たち(他の市民たち)との関係によってではなくて、超越的な〈善〉との関係によって規定される」
そのような形(正義や公正が人間同士ではなく神=超越的な善のための義務として遂行されるという形)で
「魂の配慮は、ヨーロッパを創り出したものなのである」
しかし
「西ヨーロッパの生活における大きな転換期は、十六世紀であるように思われる(中略)
魂の配慮、在ることの配慮ではなくて、持つことの配慮、外的な世界とその支配についての配慮が、優勢になる」
いいでしょお?
「生はもういいかげんに喜んで生きたいのだが(強調は引用者)
、しかし、戦争を生み出すのはまさに生自体なのであり、生は自らの手段によって戦争から身をふりほどくことができない(中略)
我々が〈力〉を支配して〈力〉の助けを借りた安全保障を期待すると思っている所で、我々は実際には(略)
狡猾に形を変えても終わっていない戦争に負けているのである。(略)
このような見通しの終わりは、どこにあるのであろうか?」
という慨嘆には、ヴェイユの「力」への軽蔑に通じるものがある。
しかしながら
「真理を持つこと」より
「真理を探求すること」に重きをおいたことでソクラテスは
「恐らく最大の哲学者ではないにしても最も真の哲学者である」としたパトチカもまた、ヴェイユとは別のかたちで「滅私を通じてのみ到達できる真実」という発想に与しているように取れなくもない。二つの世界大戦に立ち会った彼は、前線でぶつかる兵士たちに敵味方を超えた共感・魂の震えを見出していると読めてしまう―そして僕は、そのような形での戦争の称揚(とも取れかねない主張)に危うさを憶えてしまう。
実際ヤン・パトチカは70歳にもなって、後に民主化チェコの初代大統領となったハヴェル(
ああハヴェルも読まなきゃなあ)に協力し、まだ全体主義まっただなかの状況下で民主化を訴える「憲章77」に協力し、苛酷な訊問がもとで落命してしまう。ヴェイユと同様、それが自身の哲学や善にたいし忠実だった・誠実だった結果なのは分かる。ただまあ、真正直に究めたら本人が命を投げ打たざるを得ない哲学って…「何だ」とか「それでいいのか」とかは言えない。言えないけど、その苛烈さにたじろぐ自分がいる。
ちなみにデリダ『歓待について』の共著者であった
アンヌ・デュフールマンテルも、ちくま学芸文庫の訳者あとがきによれば2017年
「溺れかけた子どもを助けようとしてみずからが溺れ死去」したという。日本でも同様の亡くなりかたをした漫画家のかたがおられましたね…自作のキャラに安倍政権批判を言わせるイラストを投稿し「政治を持ち込むな」と批判されたりもしていたのではなかったか。それはまったく正しい・「溺れかけた人を助けようとするのは危険」といった常識とは別の次元で正しいとしか言いようがない行為だと「は」思うのです。けれど、それだけが哲学か、「善も愛もこの世の外にしかない」以外の善や愛はまやかしなのかと思う心情も(まだ)大事にしたい。
ヴェイユが選んだ衰弱死という末期より、生きて残した思索が後の人々に残した麦(一粒の麦もし死なずば…の麦ですよ)として劣るかと言えばそんなことはないと思うし、亡くなった漫画家さん(ものすごい商業的成功を収められた方だった)もそうでしょう。
こんなあたりで悶々うろうろとしながら、日々電車で座席を譲っております。
* * *
ヤン・パトチカについて、もう少し書きたいことがあるのだけれど(
本サイトあるある=実は今週の日記はその「マクラ」で納まるはずだった)来週は
確定申告の〆切があるので少し先になるかも知れません…
*** *** ***
(追記)おおむね奇想に溢れ、おおむねサッパリ分からない現代宇宙論のなかでも、きわめつけの奇想かつ最強に意味不明なホログラム宇宙論。トマス・ハートッホとの共同論文に、より分量の多い解説を加えた
スティーヴン・ホーキング(およびハートッホ)『ホーキング、最後に語る 多宇宙をめぐる博士のメッセージ』(原著2018年/佐藤勝彦・白水徹也訳と解説・早川書房2018年/外部リンクが開きます)を読むと、相変わらずサッパリ分からないんだけど「ブラックホールが有する情報は(三次元の)内部ではなく(曲がってるけど面としては)二次元の表面にすべて現われている」という話が、漠然と(つまりホログラム宇宙論も同じようなもの?)とイメージを描く手助けになった感じ。
この分野には特別に不案内なので、間違ってる可能性も限りなく無視できないのですが。
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