まんがなど
(19.04.05更新)
昨年のペーパまんがと二次創作を追加。



発行物ご案内
(19.04.05更新)
『二人は恋人同士になれるかも知れない』追加。冊子単位では初の百合?
電書化、始めました。
電書へのリンク
こちらから
、著者ページが開きます。

過去日記一覧(随時リカバリ中)

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Author:舞村そうじ/RIMLAND
 創作同人サークル「RIMLAND」の
 活動報告を兼ねつつ、物語とは何か・
 どんなメカニズムが物語を駆動し心を
 うごかすのか、日々考察する予定。

【最近の動向】
5/12開催のコミティア128、参加させていただくことになりました。生き残った者の務めを果たさねばなりますまい。

WebまんがSide-B遅々として更新中。

note絵更新。(16.05.26)

旧サイトは2014年8月で終了しました(お運びいただき感謝)。再編集して、こちらの新サイトに少しずつ繰り入れますが、正直、時間はかかると思います。

[外部リンク]
comitia
(東京名古屋新潟関西みちのく)
あかつき印刷
POPLS

日本赤十字社

if you have a vote, use it.(save kids)

三月のシモーヌ・ヴェイユと古代ギリシャ話に続き、四月も日記更新。
東北の「震災後」が新章に入った話と、傘の骨が折れた話。下の画像か、こちらから。

(19.04.05)


まとめてお知らせ
昨年〜先月にかけて発表した無料まんがを再録しました。恒例のペーパーまんが総集編・アニメ『ラブライブ!サンシャイン!!』の二次創作・映画準拠『スパイダーマン:スパイダーバース』の二次創作です。
左の柱の「cartoons+」か、このリンク・または下の画像から。

2019年1月に紙の冊子・電書で発行した現時点での最新刊=
百合まんが『二人は恋人同士になれるかも知れない』を、
ようやく発行物ご案内のページに収めました。その他の作品についても、電書(BOOK☆WALKER)対応などの記載が抜けていたものを改めました。
3/21開催の創作同人書籍・電書いっせい配信にて既刊『フューチャーデイズ4(1+2)』『同4(3+4)』『同elements』そして『コボルタe.p.(無料)』を電書化しました。下の画像か、 こちらから。


電書へのリンクBOOKWALKERで頒布中の電書「収容所の小さな貴婦人」一冊売上ごとに、著者の取り分にあたる50円を、2018年7月の豪雨災害にともなう被災者支援の義援金として寄付します。
年末で一旦とりまとめの予定でしたが、日本赤十字社の義援金の〆が2019年6月まで延びたので、こちらも合わせて延長します。簡単ながら報告まんが、右上の画像かこちらから。(19.04.05)

「震災後」の新章〜2019年春の東北(2019.04.05)

 3.11その日に東北に滞在するのは、震災以来、初めてのことだった。
 別に気負いがあったわけではない。逆に、この日は避けようという遠慮も、もういいのではないかと吹っ切れるものがあったのかも知れない。18きっぷを三日ぶん使っての鈍行列車の旅。
 二泊の宿は仙台にとり、初日は仙台まで・翌日、気仙沼を訪ね・三日目また仙台から横浜に戻る。無理はしないこと前提の、ゆるめの日程だ。
 まずJR東北本線で仙台のひとつ手前(東京寄り)・長町の駅で下車する。少し遅めの、昼食の時刻。ここでの目的は、仙台駅構内にも出店しているチーズ菓子専門店「ME&CHEESE」の劇的においしいチーズタルト、そして料亭「浜や」だった。

グラタン皿のようにシッカリと硬いタルト生地に、グラタンのように柔らかいクリームチーズ。美味しいけど硬い生地をフォークで刻むとチーズのほうが脆く崩れて、食べにくいなあと思っていたら、隣に座ったワイルドな地元おじさん客がグラタンを食べるように、まず中のチーズクリームだけ食べ始め「そ、そうかー」と学んだのはいいとして
 「浜や」季節限定の芹牡蠣丼、牡蠣でかっ!!
 震災のあとでは初めて、2012年の年明けに東北を訪れたとき(アクアマリンふくしまを経由して)宿をとった長町で初めて入ったのが、この「浜や」だった。元は隣接する名取市・閖上(ゆりあげ)に店があったものが、本店は被災・仙台で再起を期して営業しているようだった。
 それがきっかけで名取市・閖上という土地のあることを知り、一度だけボランティアにも出向いた。名取市のほうにプレハブの復興商店街があり、そちらにも店舗があって何度か食事をした。
 …そのプレハブの仮設店舗に店じまいを挨拶する貼り紙が貼られていたのが昨年秋のことで、果たして今回再訪した長町の店舗には、閖上での新店舗開店の案内が貼られていたのだった。
かわまちテラス閖上4/25グランドオープン(名取市観光物産協会)

 黒を基調に、浅い角度の斜め屋根が特徴的な、瀟洒な平屋の店舗が並ぶ。首都圏の郊外の、アウトレットモールと言われても違和感がない。
 こういうタイプの商店街が震災後の東北で新しく設けられたのを見たのは、一昨年の女川が初めてだった(個人の体験です)。石巻からの鉄路が再開された翌年のことで、それまで石巻や気仙沼・陸前高田などで見てきたプレハブの仮設商店街とは一線を画する、完成された景観に驚かされた。実際に女川では若い世代に口出しせず、任せるという形で新しい商店街づくりが進められたと読んだ憶えがある。


 それが中央の政府や電力会社の不作為や切り捨てを正当化するとは欠片ほども思わないけど、時間は経過し、生活は積み重なって、進むところでは確かに前に進んでいる
 …実は昨年の夏も似たようなこと(消えゆく仮設店舗・生まれ来る新興商店街)書いてたわけですが、この三月の旅行では閖上の「浜や」、そして気仙沼の「エスポワール」が仮設店舗からの離陸を果たしたことで、自分の中で「震災後」が一つの里程標を通過した・次のフェーズに入ったことを実感した。

 …そう。移転してたんですわ、エスポワールが(なんで事前に調べておかないの)。
 津波で甚大な被害を受けた気仙沼市だが、細い川を一本隔てた内陸部では大規模な損壊もなく街の機能もすみやかに復旧したものと思われる。海側に設けられた、いくつかの仮設店舗群から離れ、この内陸部にあったのがプレハブの復幸小町・そこで仮営業していたのが喫茶エスポワールだった。

 首都圏に暮らしながら、お洒落なカフェめしも、そもそも喫茶店での食事というものにも縁を結んでこなかった自分が、自宅から500km離れた気仙沼に初めて「食事ができる贔屓の喫茶店」が出来たのも間抜けな話だけれど、12コ貯めるとコーヒーが一杯飲めるスタンプ券をもらい、これが埋まるか、この店が仮設のプレハブを卒業するまでは東北に通えるだろうか、(無尽蔵にお金が出てくる魔法の財布があるでなし…)などと思っていたのが

 BRT南気仙沼駅に降り立つと、復幸小町が更地になっている(なんで事前に調べておかないの)。
 あわててWi-Fiが無料でつながるコンビニ前まで足を運び(魔法の財布があるでなし)検索したら、新設なった気仙沼市の図書館の中の店舗として新たなスタートをきったらしい(なんで事前に調べておかないの)。
 実は3月11日の宮城県は、沿岸部では警報が出るほどの激しい風雨であった。そして当日は月曜日。図書館の閉館に合わせて、新生エスポワールも店を閉じていることが分かった(なんで事前に調べておかないの)。それでも伊達に何度も通ってはいない、南気仙沼にはインド・ネパール料理店があるのだったと向かうと月曜定休。激しい雨と風。折り畳み傘の骨が一本、折れる。天気がよければ沿岸部にも、俳優の渡辺謙さんが開いたカフェにも、などと考えていたが、無理無理。
 交差点の先に気仙沼ホルモンという地場料理を食べさせる焼肉屋があった。ここも開いてない。ここまで来て吉野家はイヤだ。まして回転寿司、これ以上つめたい思いをしたくない。せめて同じ内陸部に震災後は移転してきた書店(これは仮設でない店舗)で何かお金を落としていこうと無理押しで歩いていったら(大事なことなので再確認しておきますが、折り畳み傘の骨が一本、折れてます)そこも移転

 うん、気仙沼の震災後も、新たなフェーズに入ったな!などと言ってる場合ではない。寒い。つらい。
 BRT駅(南気仙沼のは実質バスの停留所みたいなものです)の前にあった、前から気になってた廉価なお弁当屋で税込216円の海苔弁当を贖い、開いてるレストランや定食屋・駅蕎麦のひとつだにない気仙沼駅に、そして仙台に逃げ帰ったのでした。ひどい結末だ!

 そのぶん今回は仙台でゆっくりでき、素敵な古本屋に出会ったり、新たな地元名物の座を虎視眈々とうかがう「マーボー焼きそば」に舌鼓を打ったりしたのだけど、それはまた別の話。

 翌日、東京に戻って夕ごはんを食べた後、同じ東京・品川の入国管理局でクルド人の収容者が身体の変調を訴え、外に住む家族が救急に連絡・何が起きるか分からなので来られる支援者は来てほしいという呼びかけがあり、現場に駆けつけたら、入り口前に救急車が停まっているのに入管の扉は固く閉ざされ、隊員も追い返される、胃の腑が凍るような事態に立ち会ってしまったのだけど、これもまた、別の話

仙台の新刊書店で購入した、素敵な本たち。郡山にもいけてる書店があって、それは次の日記あたりで。

ソクラテスの師匠たち〜シモーヌ・ヴェイユ『ギリシアの泉』(後)(2019.03.28)

 1980年代に生国フランスのガリマール社が全集の編纂に着手するまで、シモーヌ・ヴェイユの著作は専ら、アルベール・カミュが編集する選書から刊行されていたらしい。エスポワール(希望)選書というそうだ。色々と感慨深いものがある。

 『ギリシアの泉』をアルバムに例えると、シングルカットされるのは冒頭の『イリアス』論と、後半の山場となる「プラトンにおける神」の二篇だろう。

 プラトンといえば、哲学の始祖である。というか無知の知を提唱し、産婆術で人々を啓発したソクラテスの言行を、プラトンが書き残した。それまで、万物の根源は水であるとか、数であるとか、原子であるとか唱えていた自然哲学者・あるいはソフィストと呼ばれる言い回しの専門家たちと一線を画し、ソクラテス(プラトン)は美とは何か・真とは何か・善とは何かといった人間の生きかたの学としての哲学を創始した。知を愛する(フィロソフィー)。汝自身を知れ。形而上学。イデア。…中学生や高校生が、学校その他で学ぶプラトン(ソクラテス)のイメージは、こんな感じだろうか。それまでの、迷信のようだった(ピタゴラスは教団の主だった)プレ哲学と隔絶した、理性の学としての哲学の確立。

 ヴェイユの「プラトンにおける神」は、この常識をくつがえす。
 わたしの解釈では、プラトンは真正の神秘家であり、あまつさえ西洋神秘主義の父である
 ヴェイユはプラトンを、迷信を断ち切った哲学の創始者ではなく、師ソクラテスはもとより、オルフェウス教・エレウシスの秘儀・ピュタゴラス主義・さらにはエジプトやオリエント諸国に伝わっていた、今は失なわれた神秘思想の最後の継承者・記録者と捉える。おそらく、ピュタゴラスやかれの弟子たちはさらにすばらしかったであろうだが、それを証拠だてる、プラトン以外の文献が残存していないと言うのだ。
 ヴェイユはプラトンのイデア論や、真理へのアプローチが、むしろ理性を超えた神秘主義への道であったことを例証してゆく。その詳細は本篇に譲るとして、たとえばプラトン「ファイドロス(パイドロス)」から彼女が引き出してくる一節は、たしかに理性的な哲学のための比喩というより、文字どおりに読めば神秘の様相を帯びる。
「ほんとうに実在する実在は、色もなく、かたちもなく、触れることができるようなものもない。
 実在は、魂の主である精神によるのでなければ観照することができない」

「魂は身体をもつもののうちでは神的なものにもっとも近いのだ」
「完全で有翼の魂は空中をめぐり、全世界を統べる。
 翼を喪失したものは、固い物体にぶつかるまで落ち続け、そのなかに棲みつく」

「翼の本質的な特性は、重いものを高みに運ぶことである」
これらのフレーズを引いたうえで翼とは恩寵であることを、これ以上はっきりと言うことはできないとヴェイユが評するとき、彼女の主著のひとつが『重力と恩寵』という題だったことが、今さらながらに思い出される。人は生まれる前の、神とともにいた記憶を失なってしまう…的な意味ではなく、もう単純に読んだ当時の無理解と忘却のせいなのですが(すみません)『重力と恩寵』とプラトンの関わりなど、とうに脳内から揮発しており、再読が必要だなあと思った次第です。はい、すみません。

 代わりに思い出したのは、そういえば(プラトンの書いた)ソクラテスは、自らの師について、たびたび言及していた、ということだ。
 「ソクラテス以上に賢い者はいない」デルフォイの神託で告げられたソクラテスが、そんなはずはない、自分などより賢い者がいるはずだとアテナイの街で問答を始めたところ、誰も彼の問いに答えられず、神託どおりの智者として名声と非難を集めていく…この「公式設定」はゼロからのスタート・既存の知識の蓄積や伝達とは違う「自分で考えること」を創始したソクラテス、というイメージを帯びている。
 しかし、そんな先入観でプラトンの著作を読み始めると、時々引っかかることがあった。人々の目を醒まさせる彼の弁舌には「元ネタ」があったと、ソクラテス自らが語っているのだ。
これは、ぼくが以前、マンティネイアの婦人ディオティマから聞いたところのものだ。
 この女(ひと)は、恋のこと、そのほかのことなども多方面にわたる知者であって
(中略)
 ぼくに恋愛の道を教えてくれたのも、ほかならぬこの婦人である。
 そこで、この女(ひと)が聞かせてくれた話を、諸君にも、できるだけ逐一お聞かせしてみたい」

(「饗宴」)
ぼくが弁論術を習った女の先生は、けっして凡庸の人ではなく…
  (メネクセノス「その女の先生とは、だれのことですか。
  いや、むろん、アスパシアのことをおっしゃっているのでしょうね?」
)
 そう、その人のことだ
(「メネクセノス」)
 プラトンは哲学の創始者ではなく、それ以前の神秘思想の継承者だった…そうヴェイユが断言するのを読んで、この、ソクラテスに教えた者たちのことが甦った。もっと言えば、ソクラテスに教えた女賢者たち。ウィキペディアによれば、ディオティマは哲学者であり巫女。(ソクラテスのみならず、ペリクレスの弁論の師でもあったという)アスパシアには、遊女という肩書きもある。
 これはもう、ヴェイユの著作から切れた、自分の妄想の話なのですが、ソクラテスの師匠であった、巫女であり遊女・妓女でもある女哲学者「たち」が存在した、その起源はアテナイよりもさらに昔…みたいな小説や物語が書けないだろうか(自分が、ではなく「誰かが」だけど)という思いつきが、ヴェイユのプラトン論で少し息を吹き返し、さらに深みを帯びたのでした。

 そして少しだけ妄想は古代ギリシャを離れ、20世紀のヨーロッパにつながる。ディオティマ、アスパシア、さらに沢山の名前が残存しない人びと。哲学者であり、巫女であり、遊女であり、プラトンより前、ソクラテスより前の、世界の秘密を知る女たちが、遠い遠い末裔・削り尽くした命を終えようとしている哲学の闘士を、その死の床に迎えに来る、蒼い蒼い海の彼方へと誘ないに来る、そんな1943年に…
 
自分が再読を期したい本。ヴェイユ『重力と恩寵』『ヴェーユの哲学講義』そして名著の誉れ高いコーンフォードソクラテス以前以後』。きれいに内容を忘れていることも、どれも自宅の本棚にあるはずなのに、探さないと出てこないのも情けない。
 あと自分の「ソクラテスの師匠たち」構想に(読んでもない)のに影響を与えていそうな、中国の孔子一門がサイキック呪術集団だった(?)という小説にも、挑んでみようと思ってます。

パトロクロスの戦争論〜シモーヌ・ヴェイユ『ギリシアの泉』(前)(2019.03.27)

 古代ギリシャ・トロイア戦争の英雄たちを語りながら、彼女は現代の戦場を見ている。
 プラトンを語りながら、彼女はプラトンより昔の、失なわれた神秘の残響に耳を傾けている。

 大阪・梅田は日本でも有数の乗降客を誇るだろうターミナル駅でありながら、同じ施設内に歩いていける古書店横丁「阪急古書のまち」を擁する稀有な場所だ。その名も梁山泊という一店で、今年の一月に入手したのが「シモーヌ・ヴェーユ」の『ギリシアの泉』(みすず書房)だった。
 題名のとおり、ヴェイユが著した古代ギリシャ関連のテキストを集めたもので、冒頭の「『イリアスあるいは力の詩篇」が、一行目から関心を引きつけた。いわく
「『イリアス』の真の英雄、真の主題、その中枢は、である」
 少し離れて、こう続く。
力はそれに屈する者をだれであれ「もの」にしてしまう
 一見して、何かすごいことが書かれている気にさせられる。だが何のことやら見当もつかない。どうして、あのイーリアスから、そんなテーマを引き出せるのか。それは、読み進めると明らかになる。

 『イーリアス』はトロイア戦争を歌った、ホメロスの叙事詩である(重い腰をあげて読んだのは昨年だか一昨年だかですが)。ブラッド・ピット主演で映画になった、そちらのほうを先に観ています。攻め手となるアカイアがたの面子に、英雄アキレスとその親友パトロクロス・強欲なアガメムノン・知恵者オデュッセウスなどなど。一方のトロイアは孤軍奮闘の勇者ヘクトールに、そもそも戦の原因となった軟派男パリス。ホメロスの詩じたいはヘクトールの死で終わり、アキレスのかかともトロイの木馬も、ましてアガメムノンの無残な死も、十年にわたるオデュッセウスのオデッセイも描かれないのだが…
 この現存する最古の物語(のひとつ)を、もう少しクローズアップして現れるのは、引き際を知らない追撃者が逆襲を受けるシーソーゲームの繰り返しである、とヴェイユは指摘する。
 獅子奮迅の活躍でトロイアがたを圧倒したパトロクロスは、そこで止まればいいものを、敵を深追いしてヘクトールの餌食となる。ヘクトールはそこで手打ちにすればいいものを、パトロクロスの遺体を辱めてアキレスの恨みを買う。そしてヘクトールを討ち取ったアキレスもまた、パトロクロスの遺体を辱め…
「このように暴力はこれに触れる者をおし潰す。
 ついには、これを操る者にとってもこれを蒙る者にとっても外的なものとしてたち現れる

 『イリアス』の世界を厳密に貫く、この原理は神格化され、復讐の女神ネメシスと呼ばれる。なぜ誰も彼もが、敵が尻尾を巻いて逃げ帰る・終戦には絶好のチャンスを逃し、敵の全滅まで目論んで追撃しては返り討ちに遭うのか。それは、より戦利品が欲しいなどといった打算ではなく、より力を、力そのものを行使したい「過剰への誘惑」のためだと、ヴェイユは説いているかのようだ。
「出発のときは、かれらの心は軽やかである。(中略)
 武器は自分の手の中にあるし、敵はその場に不在である。(中略)
 いつでも人間というものは不在の敵よりはるかに強い
 こうした過信と、その過信で自ら泥沼にはまっての絶望は、(彼女にとって)現代の、西部戦線でも変わらない。さりげないヴェイユの指摘にギクリとする。
 1909年に生まれ、43年に亡くなったヴェイユは、20世紀のヨーロッパで戦われた二つの世界大戦を両方とも、吾が事として体験している。古代ギリシャの探究は、彼女にとって現在から離れるための避難所ではなかった。ヘクトールやアキレスの運命を通しても、彼女の思索は結局、彼女じしんの現代と対峙していたのだろう。

 ヴェイユは言う。たしかに人はみな死ぬが、死は未来を制限するものであって、未来そのものではない。だが戦場に駆り出された者にとっては死こそが、死だけが未来となる。
 これは(人間の)本性に反しているという、ヴェイユの言葉は力強く美しい。人は死を運命づけられてはいるが、生の本性は生きることにある。だが戦争は、その本性を人から剥ぎ取る。そして未来という、人間的な生の本性を剥奪された者の前で、敵の命乞いが何になるだろう?
 「計算し工夫を凝らし決心をしてからその決心を実行に移す人間たちのあいだでは、戦闘というものは決着をみない。戦闘が決着するのは、こうした能力を剥奪され(中略)受動性にすぎない惰性的な物質(中略)にまで堕ちた人びとの間においてである」
 これが力の本性である。別の著作で、戦争は、他国を攻撃し他国民を殺す以前に、殺し殺されることを自国民に強いる時点で悪なのだ、と説いたヴェイユである。力は人を「もの」に変える、という冒頭の言葉の意味が、ここに至って解き尽くされる。

 己の力に駆り立てられては裏切られ、最後は命乞いもむなしく刃にかかる男たち。まして、奴隷と同等の、つまりゼロの自己決定権しか持たない女たちの悲惨。これらの悲惨を、たとえば大いなる目的のための犠牲などとして正当化しない点で、際立つものとして『イリアス』はヴェイユの心を捉えた。
 死を強いる「力」に屈従する人の悲惨と無力を、同等に哀惜こめて活写しえたのは福音書だけだとヴェイユは言う。(キリスト)ですら、処刑を前に絶望する。死を恐れない殉教者たちは、神よりも偉大になったつもりなのかと。古代ギリシャとキリスト教、そして眼前の世界大戦が、彼女の眼中で収斂する。その先には、吾々じしんの「現代」がある。
 
 亡命中のレーニンと論戦し、哲学者アランに師事した学生時代はボーヴォワールを蒼白たらしめたと言われる秀才シモーヌ・ヴェイユ。人を「もの」化する現代の欺瞞を冷徹にあばきながら、それを打ち砕く腕力は持ちえず、徒手空拳で産業社会に挑んでは消耗し疲弊し、追い打ちのように始まった二度目の世界大戦に打ちのめされ、衰弱死した。
 彼女の著作にふれるたび「明晰すぎる悲劇」というイメージが頭をよぎる。
 後編は、もう少し軽めの話になる予定です。

誰が境界を越えたのか〜『バジュランギおじさんと、小さな迷子』(2019.01.24)

 花やかなファンファーレとともに街の中心に現れ、人々を従えて歌い踊るインド映画のスーパースター。だが、群衆の中心となり、皆とハイタッチし、肩を叩かれ、歌いながら一緒に「セルフィー」まで撮ったりする彼らは、そう少なくとも「映画の中の」彼らは、そのヒーロー然とした登場にも関わらず、冒頭の時点では真のヒーローではない。『バジュランギおじさんと、小さな迷子』の主人公も、そうだった。
 インド映画史上、歴代3位の売上を誇る大ヒット映画が、現地公開(2015年)から三年を経て、日本で待望のロードショー上映。ハヌマーン神への信仰が篤く、ウソをつけないため度々窮地に陥る超お人好しの好青年(青年?)が、口の利けないパキスタンの少女を故郷に返すため、国境を越え珍道中を繰り広げるロード・ムービーだ。

 だいたい、このあたりまでは予告や事前の宣伝であきらかになっている内容として、ここから先は作品の中身に踏み込むので、ネタバレなどなしに本篇に臨みたいひとは、観てから読んでください。

 さて、唄って踊るスーパースター、インド映画の主人公の話。往来で繰り広げられる群衆ダンスの中心として登場し、腕っぷしの強いタフガイか、無類の好人物として、一目おかれる様子から誤解しがちなのだが、彼らは映画の冒頭では未完成な人格として登場する。就職できてなかったり、悪い仲間とつきあっていたり、そして何より独身で、意中の女性との結婚を「お前みたいな半人前に娘は任せられん」と頑固な親父さんに拒否されたりしている。
 強面のタフガイでも、ひょうきんな人気者でも、はたまたハンサムな優男でも、彼らはその属性で万事を解決して、当人は変わらぬまま正義や愛を勝ち取るフラット・キャラクター=平板なヒーローではない。毎週おなじように変身して敵を倒す帯番組のスーパーマンやウルトラマンではなく、自分がヒーローであることに悩み葛藤し、試練を通して受け入れていく「劇場版」のスーパーマンやアントマンに近い(最近のテレビ特撮は帯番組でもヒーローは平板でなく成長を重視してるとは思うので、まあ例えです)。
 だがハリウッドの変身するヒーローと違うのは、大冒険や大きな試練を経て、インド映画の主人公は超能力を持ったヒーローとしてではなく、ふつうに家庭を持てる「一人前のオトナ」になるということだ。どんなに銃をぶっぱなし大車輪のアクションを見せても、はたまた国境を越えヒマラヤの山岳の果てまで旅しても、インド映画の娯楽大作のベースには、だから常に(常にでもないか)、こじんまりとしたホームドラマがある。

 ハヌマーン神を信仰し、ウソがつけない『バジュランギおじさん』もまた、例外ではない。無類のお人好しで、ちょっとバカ?…愚直な彼は、その真正直な気質と「ハヌマーン神に恥ずかしいことは出来ない」という責任感から、ビザもなしに隣国に入り、口の利けない・就学前なので読み書きも出来ない少女を故郷まで送り届ける。が、そのミッションは彼の、持ち前の信心と正直さだけでクリアできるわけではない。
 国境を越えた瞬間から、彼は異教の人々(簡単にいうとパキスタンはムスリムの国である)に匿われ、救われることになる。ハヌマーンを神聖視するがゆえに、同じようにイスラムの人々は自分たちの神を神聖視しているはずだと、モスクに隠れることを遠慮しようとする主人公を、当のモスクの長老が「ここは誰にでも開かれている」と招き入れる。自身は愚直に正直を通す主人公は、不法入国者を追う警察から彼をかばう、善意の人々のウソに救われる。
 そして何より、主人公が知らずすれ違う、少女の還りを必死に願い続ける母親。その鮮やかな色のヒジャブが翻ったとき、スクリーンの前の吾々は、家族を思い悲しみに暮れる人たちに、宗教の違いはないと知る。

 ここから先は(一応ぼかすけど)本当に話の中心に踏み込むので注意です

 今はなき吉野朔実さんのエッセイに、愛とは何かを知るためには、自分が愛しているものが何かを知るためには、自分にとって一番大事なものを捨てなければいけない、という主旨の言葉がある。
 これは人生訓、というより創作や神話の原理かも知れない。最も分かりやすい例は『天空の城ラピュタ』だろうか。物語の終盤、少年パズーは靴を脱ぎ捨て、父さんとの絆の象徴であるゴーグルを撃ち飛ばされ、ドーラたちとの友情の証であるハンドキャノンを決然と投げ捨てる。そして物語の目的地だったはずのラピュタさえ諦めて、少女シータと生きる道を選ぶのだ。
 『バジュランギおじさん』では、眠る少女を抱きかかえたまま、主人公が白いタイル張りの「ある一線」を越える。その、たった一歩で、観ているこちらの目から、涙が、つーっと落ちた。

 いや、映画や何やかやの感想を「泣いた」「泣けた」で回収してしまうの、あんまり良くないのですが、正直そこから最後までは泣きっぱなし(笑)。
 正直と信心だけで、言うなれば自分自身だけで幾多の困難を乗り越えてきた主人公は、ついに「自分が少女を家に帰す」という当初の目標すら捨てて、異郷の地で得た信頼できる友に、少女を託す。少女を託し、自分は警察の囮となって走る。どこか見覚えのある断崖絶壁に追い詰められる。そして銃声−

 たしかにこれは、バカ正直なひとりの男が、信心と真心で国境を、人々の心の境界を踏み越える物語だ。
 けれど同時に、彼自身が内にもつ境界を乗り越え、異質な世界と心を通わせる物語でもある。

 いま現在、対立するふたつの国家=インドとパキスタンが、どのくらいの緊張関係あるいは雪融けの状態にあるのかは不勉強のため詳らかでない。だがこの真正直と義理堅さ・相互に赦しあうことが道を切り開く物語には、理想とか希望とかより、もっとヒリヒリする願いがこめられているのかも知れない。
 ちなみに、冒頭から「セルフィー」が登場する本作は、最近の多くの映画がそうであるように、インターネットが重要な役割を果たしたりする。携帯電話が普及しはじめた頃には「昔のような行き違いやすれ違いが描けなくなって、物語がつまらなくなる」という意見もあったが、逆に最近の映画や物語はその特性を活かした、むしろ夢中になってる様子がうかがえて面白い。
(SF映画っぽいスローモーションやストップモーションを駆使したアクションシーンは、ちょっと笑っちゃったんだけど、それも最後の伏線になるという…)
 そのハイテクと対照的な、作品後半で繰り広げられるパキスタンの風景・山岳地帯の広々とした美しさも特筆に値する。要はとても、良い映画です。観たいかなーと思ってるひと・観られるひとは観ましょう。

 あと、これはまったく映画と関係ないのだけど、観ている最中に「なんか無性にカレーが食べたくなってきた」と思ったら、映画館が入ってる建物の同じフロア・すぐ出た真正面にインド料理店がある「キネカ大森」、至れり尽くせりとしか言いようがなかったです。

言葉を与える〜キム・エラン他『目の眩んだ者たちの国家』(2018.12.10)

 2018年11月、同性婚の是非をめぐり台湾で実施された5つの国民投票は、5つ全てで同性婚に反対する勢力が勝利した。アジアで初の同性婚合法化を掲げた蔡英文総統の政策は大きく躓いたと言えるだろう。
 自分の周囲では家族も友人も、賛成が当然と思われていた…そんな主旨のことを、現地の市民がツイートしているのが目に入った。しかし実際の結果は、その真逆だった。私の中では聞くまでも無い、当然と思っていた権利や見識が、国民の多数決では尽く否定された。想像以上に世界は広く、壁は厚い

 その悲痛な総括を見て、自分の脳裏に浮かんだのは泣くな、うつくしい人たちよ、泣くなというフレーズだった。たしか北村薫『空飛ぶ馬』シリーズの何処かで引用されていた台詞で、元は泉鏡花の作中にあった言葉だったと思う。
 吾々は言葉で思考するだけでなく、言葉で認識し、言葉で感じさえする。感情さえ言葉で出来ているとしたら、美しい言葉のストックが多いのは、好いことなのだろう。

 『目の眩んだ者たちの国家』。
 そんな、たじろぐほどインパクトのある書名を目にしたのは夏、郡山の書店でだった。
 2014年、韓国。フェリー「セウォル号」が仁川港と済州島の間で沈没、修学旅行の高校生ほか一般乗客、数百名が水死する事故があった。そもそもスクラップ同然の船体に増設を重ねた老朽船であったこと、乗客には「動かないでください」と指示したまま船長を筆頭に船員が逃げたこと、海上警察などの救援が出ず乗客を見殺しにしたことなど、惨事は複合的な不正と不備によるもので、ひとつの事故を超えた衝撃を、隣国の人たちに与えた。
 なぜこんな不正義が看過されてしまった。
 これは社会の構造的な失陥の顕れではないのか。
 なぜ吾々の社会は、ここまで腐敗してしまったのか。
 吾々は、もう落ちるところまで落ちてしまったのではないか。
 小説家、詩人、学識者など12人の著者が、それぞれの視点・それぞれの距離感から事故について書いたのが本書だ。
 言葉で感じ、言葉で物語り、言葉で思考する人たちが深い悲痛や絶望から析出した言葉・社会への不信や憤り、しかし自分たちもその一員だという自責や悲しみに与えた言葉が、本書には横溢している。それらは国や、もしかしたら時代を超えて、社会の劣化や腐敗に傷つく人々にとって、絶望の蓋をこじ開けるツールとなる言葉の数々だ。

 「国家暴力は大衆の虐殺を生む」チョン・ギュチャンは言う。しかしセウォル号の、新自由主義時代のそれは国家の積極的な暴力ではなく、不作為によるもの=国家がその権力を公益のために行使しない空白状態がもたらした致命的暴力であると。
 警察力は強化するのに、人命救助にあたる公権力の機能は解体してしまった」「外部からの危険に対抗するために秩序を要求してきた国家が、ほかでもない体制内部で生じる脅威については徹底して無力であるために、災難にさらされる危険な秩序」

 キム・エランは言う。政府は、必要な措置を次々と命じて民心を安心させる「口」だと自任していたが(中略)国民が本当に望んだのは、権力の「耳」だった
 安保法制、高度プロフェッショナル制度、辺野古の基地建設…採決や工事の強行を繰り返しながら「十分に説明して国民の理解を得られるよう努める」と連呼する、吾が国の政府に対し、誰かが指摘していた。「十分に説明して、理解を得るとは結局は己の意見を押し通すことであり、国民の声を聞いて政策を修正する意思は皆無なのだと。ふたつの言葉は、海を隔てて響き合っている。

 そして社会学者オム・ギホを引用してホン・チョルギは言う。吾々は互いにぶつぶつ言っているだけだと。
 それは自分の私的な経験を、自分だけの苦痛として話すのみで、他人も聞いてくれるような、「公的なイシューを扱う言語」に転換することができないからだと。そしてそれは私たちは他人の話を公的な話として聞くことを知らない」「私的なことを公的な話として翻訳する能力がないことなのだと。
 個人的に興味ぶかかったのは、一年前にハンナ・アーレント人間の条件』を読んで、恥ずかしながらサッパリ理解できなかった「公共」「政治」といったものが、ホン・チョルギの文章を読んで、ようやく(手袋に手を差し込み、指を動かすように)体得できた気がしたことだ。それを今ここで言うのは恥ずかしいのでしないが
 ・初読では理解できないことも時間が経つと分かることがある・それは抽象的すぎて分からなかった観念が(この場合はセウォル号事件という)具体例に即することで理解できたのかも知れない、という教訓は記しておいて好いだろう。

 不正義に満ちた世界では、その不正を名指すのに言葉が要る。
 吾々は言葉で考え、言葉で感じる。ならば、どんな言葉で憤り、どんな言葉で失望すればいいのか。どんな言葉で絶望し、どんな言葉で不屈を誓えばいいのか。本書は、そのヒントになる文例の結晶だ。
 公共の、政治の言葉は、(語彙力)などと「クラスタ」に丸投げして済むものではない。
 矢島暁子訳・新泉社。

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立ちのぼる素馨の芳香〜高田大介『図書館の魔女』(2018.10.17)

 「すごく面白い小説」の決定版。ぜひ読むといい。

 さて、満を持して高田大介図書館の魔女』である。かねてより、伝道と呼びたくなる熱心な高評価を聞いていた長篇、よい機会と思い先月の東北18きっぷ行を利用して、文庫四巻を通読したのですが…
 すでに評判が気になってる人は、すぐ読んでいい。
 「図書館の」「魔女」というタイトルだけで「んんっ?」と猫耳がピンと立ってしまう人も、読んで間違いない。さらに「暗躍」「権謀術数」みたいな言葉に心が動くなら最適だ。世界の書物すべてを収めた図書館とか、選ばれた少女とか、大国の陰謀とか、武力のみならず知恵で渡り合うとか、この国で多く書かれ描かれてきた(自分もその末席を汚している)「そういう感じ」の物語の、いわば決定版が出たという印象を受けた。
 東洋風ファンタジイの、あるいは国産ファンタジイの、と言ってもいい。もっと言えば「すごく面白い小説」の決定版。いろんな小説や物語を読み、愉しみ、しかし、それらを「本当に読みたい理想の物語」の近似値として享受してきた誰もが「探していたのは、これだったかも知れない」と、少なくとも読んでいる間は思える。そんな小説が、今なら本屋でふつうに手に入るのだ。読むといい。ぜひ、読むといい。

 物語の舞台は東西の大陸の境界となる多島海、その要所に位置する都「一ノ谷」。
 王宮の外れに古色蒼然とそびえる高い塔、世の万巻の書物をあまねく収集し、うず高く積み上げるアーカイヴがある。
 統べるのは博覧強記と辛辣な毒舌をもって鳴る少女マツリカ。議会と軍部からそれぞれ派遣され、侍る司書は色白で物腰やわらかなハルカゼと、対照的に快活で男勝り・日焼けの似合いそうなキリン。そこに、書物とは縁の遠そうな山奥の邑から、マツリカ様の新たな従者となるべく選ばれた少年キリヒトが参じる…

 …大事なことを書き落としていた。自分の悪いクセなのだが、面白かった本や漫画・映画などを紹介するとき、(魚に例えるなら)その中心に一本・左右にうねって物語を駆動する背骨をつかむことに気が行ってしまい、その鱗の色彩やシルエット・魚体としての美しさを語ることを、二の次として忘れてしまいがちなのだ。『図書館の魔女』は、まずもって文章が美しい
 「決定版」かも、と思いたくなる由縁のひとつである。すばらしく文章の完成度が高い。情報が緻密に詰め込まれ、しかし饒舌ではない。話の運びもキビキビしていて、中だるみということがない。花やかで、滋味もシズル感もあり、場所によっては芳しささえ立ちのぼる。
 そう、柳田國男あたりを彷彿とさせる少年キリヒトの山暮らしの描写から始まり、そのキリヒトが山を離れ、高い塔に参内する冒頭。彼は植え込みの素馨をからませた門をくぐり、石段を進む。
花々はいずれももう枯れかかって緑が褐色に乾いていたけれども、まだかすかに爽やかな香りを漂わせていた。(中略)香りが頬に触れるようだ。
後になって今日のこの日を思いかえすとき、キリヒトがいっとう最初に思い出すのはいつでもこの香りだった。その生涯を通じて、キリヒトはこの香りを忘れることはなかった。どこで素馨の茂みとすれちがっても必ずそれと判った。どこで素馨の茂みとすれちがってもきっと彼女に初めて出会った日のことを思い出した
 香りは記憶を喚起するという。短い文章の中で、(どんな間柄であれ)彼が生涯を捧げる運命の相手と出逢うこと・それでいて二人が歩む旅路には別離の日もあることまでが、未来の記憶としてキリヒトの、肩越しにキリヒトを見守る読者の脳裏に刻みつけられる。
 そして素馨には「ジャスミン」と振り仮名が振られている。言うまでもなく、ジャスミンの別名は茉莉花(マツリカ)だ。数ページをめくれば、彼女はその名をキリヒトに明かすだろう。そしてマツリカもキリヒトの名を呼ぶ。読めば分かるが、キリヒトという「名」を、新たに与えなおす。マツリカの両腕として仕えてきたハルカゼとキリン、二人の側近が一瞬、少年に嫉妬を覚えるほど鮮やかに。
 「こういう感じの物語」においては、名前を明かす・名前を与えるということは、その相手の運命を支配する呪力をもつ。タイトルに敬意を表して「魔力」と言い直そうか。『図書館の魔女』では、この「名前の魔力」が幾度も力を発揮する背骨となる。
 高い塔、ロウソクの灯りの下で少年と少女が出会い、秘蹟のように名前が明かされ、名前が与えられる。指が触れ合う。ひそやかに素馨が香りたつ。官能と呼ぶにはプラトニックな、澄んでいるのに濃密な芳香が、ページという閉じた四角に立ちこめるよう。

 いやそれが、またたく間に、口の悪い少女と負けん気の強い少年、人のいい司書たちに言うたらドジっ子メイドさん(まあ「家刀自」と呼ばれてますが実質はドジっ子メイドさん)まで巻き込んだ、どつき漫才になろうとは
 くどいようだが、この小説には「そういう感じの物語」に求められる、おおよそ全てがある。バランスがよく、レベルも高い。
 「高い塔」のマツリカは万巻の書物の管理者というだけでなく、その博識と底意地の悪い策略で、隣国の脅威に対抗する官位なき外交官でもある。その全権を委任されたキリンが戦争回避を賭け、帝国との論戦に臨む場面では、電車の中で読んでるのに涙が出そうになり困った。そんなキリンの一本気さが笑いを誘う場面では、今度は電車の中で噴くのを胡麻化すので難儀した。
 「高い塔」の中心メンバーに馴染んだころ、マツリカ様の警護ということで兵士たちが数人加わり「やばいなー、これ個体識別できるのか」と不安になったのが、話の展開につれ次第に個性があきらかになっていくのが、キリヒトやマツリカたちの心情を追体験するようで面白い。そして狙われる身となったマツリカを標的に繰り広げられるアクションも、意外や本格的。兵士たちも加わっての終盤・黒幕の館での追撃戦は、ちょっとデジタルゲームの一人称視点シューティングを思い出すほどの緊迫感だった。
 本格ミステリに与えられるメフィスト賞の(ファンタジイなのに、なぜか)受賞作だけあって、最後にはミステリ的な種明かしもあり、それがさらに「名前の魔力」のモチーフに回収もされる。

 おそらくは、陰謀うずまく城内で秘剣がひらめく時代小説が好きな向きでも。麻薬王と潜入捜査官が丁々発止の駆け引きと銃弾の嵐をかいくぐるノワールが好きな向きでも。あるいはアニメやゲームに親しんだ向きでも(なんたって毒舌ヒロインと、ドジっ子メイドさんである)。どんなジャンルでもいい、「面白い話」が好きなんだという人には、自信をもって推奨できるマスターピースの誕生と言えるだろう。
 もちろん、「面白い話」ってのは感動したり、人生や世界について考えさせられたりもする、それでいてお説教と思わず夢中になって楽しめる、そんな話のことだぜという人にも。たぶん後悔はさせない。

マツリカ様・ハルカゼ・キリンの絵とか描きたかったけれど、熱烈なファンのおメガネに叶う気がしないので止めておくよ…個人的に金髪色白というかアルビノ・吸血鬼とすら異称されるハルカゼは(二十代後半なんだけど)ティルダ・スウィントンを脳内で配役してました。何があっても穏やかに微笑んでるハルカゼさんが「○って○○が○○○ないほうが良くないですか」と迂闊に口を滑らせたキリヒトに激怒の場面、分かる気がする!けど「さっぱり分からない」というキリヒトの気持ちも分かる気がする!でツボでした。

中国が二次元への愛を知った頃〜ワン・ラン監督『閃光少女』(2018.10.10)

 すみません、今日のタイトルの元ネタになった小説、未読です
 それと、これも謝っておこう、今日の日記、ほとんど絵日記です。あと相当ネタバレ
 1950年代頃までは映画館だった横浜中華街のレストラン「同發新館」を毎年10月、映画館に「戻して」開かれる横浜中華街映画祭2018。ラインナップの中で気になったのが中国・香港合作の青春ラブコメ映画『閃光少女』(ワン・ラン監督/2017年)。
 いや、「中国で新人賞総ナメ」「青春ラブコメ」「伝統音楽」「メガネ女子」「メガネ男子」のキーワードだけで「観たい」と思った自分の慧眼を褒めたいね。

 タイトル『閃光少女』には「Our Shining Days(私たちの輝ける日々)」と英題が添えられていて、それだけでホロリと来てしまう。
 舞台は西洋音楽科と伝統音楽科、ふたつに隔てられた学科が互いにいがみあう音楽学校。端正な横顔で流麗にピアノを奏でる西洋音楽科の先輩に一目惚れした伝統音楽科のヒロインは早速アタック。しかし彼は彼女の楊琴を「音楽じゃない」と嘲り「君に好かれても迷惑だ」と拒絶する。練習室の給湯器でシャブシャブを調理するバイタリティ溢れる彼女は「伝統音楽で先輩を振り向かせてやる!」と宣言。しかしジリ貧の伝統音楽科では楽団も解散・バンドを組もうにも仲間もいない。悪友のメガネ男子が「ひとつだけ手段がある」と提案したのは…
 ということで、ここまでは(一応)普通の青春ラブコメなのだが、ここから話は斜め上に展開する。
 実は事前情報で見落としていたのだ。メガネ女子×メガネ男子×伝統音楽「×コスプレ」と紹介されていたことに。

 救いの神は二次元愛好家=オタクの四人組だった。女子寮の扉にキョンシー避けのお札のデザインで「人間立入禁止」と貼りつけた彼女たちはゲームと漫画を愛するコスプレ女子で、しかし伝統音楽への造詣も深い超絶技巧の演奏家ぞろい。特にリーダー格の男装少女はネット動画で「千指様」と崇拝されるアイドルで、とゆうかメガネ男子くんも「実はファンでした!本当は俺もオタクなんです!」
 そんな具合なのでバンド参加の報酬は高価なフィギュア(黒執事とかありましたよ)。初舞台はホログラムの美少女が乱舞するコミコン。途中、実写が漫画やアニメに切り替わりまでして、制作陣の「今の若者の心を捉えるオタク文化を最大限、作品に取り込もう!」という気迫が暴走する。
 「実は俺もオタクで」とカミングアウトしたメガネ君も、コスプレの経験値は乏しかったらしく、コミコンに臨んだ扮装は「なんだなんだ、五四運動か?」(そんなツッコミ初めて聞いた)と言われる始末。このままでは客に逃げられる、崇拝する千指様のステージを失敗させるわけにはいかないとメガネ君が上着を脱ぎ、メガネを外すと

 まさかの「メガネを外したらイケメン」発動。ただのTシャツもイケメンが着てれば「ノームコア」ということか。
 その後も「君たちの楽器なんて数年後には博物館でしか見られなくなるさ」などと挑発する西洋音楽科と伝統音楽科が演奏バトルで決着・さらには廃科の危機と、古くは『フットルース』最近では『ラブライブ!』とか、音楽+学園モノの王道展開。最初は憎まれ役だった西洋音楽科が互いの実力を認めあって助力したり、野放図に見えたコスプレ四人組も家族や友達にはオタク趣味を理解されず苦しんでいたり…と言えば、連想される映画や漫画は、もっと多いだろう。
 そして個人的に一番グッと来たのが、演奏を終えて帰るバスの中、疲れ果ててうとうとしては窓ガラスに頭をぶつけるヒロインを見かねて

 (元)メガネ君が後ろの座席から手をのばし、彼女の側頭部が窓に当たらないよう、そっと支える場面。このせつない愛情が報われるかは…さすがに、それくらいは伏せておきましょうか。
 ほとんど完全にネタバレになってしまったけれど、敢えてそうしたのは、この映画、今回のようなフェス以外で劇場にかかる可能性は低そうだし、DVDや配信でリリースされる保証もないためだ。
 インド版ロミオとジュリエットの『銃弾の饗宴〜ラムとリーラ』、台湾の同性愛をめぐるコメディ『ウィル・ユー・スティル・ラブ・ミー・トゥモロー?』など、映画祭以外の形では劇場公開されてない映画・DVD化や配信もされてない映画。自分はそれほど熱心(マニアック)な映画ファンではないから数も少ないが、こんなふうに面白かった作品を他のひとと分かち合う可能性が(ほぼ)ないのは、やはり悲しく淋しいことだ。
 あと、今回の上映には年齢層も比較的高めの、言うなれば上品な、もっと言うなれば作中でコスプレして演奏動画を撮影する娘を「理解できない」という親たちに近いかも知れない人たちが多かったため(そういう人たちも本作を観れば「分かる」側に近くなったと期待しますが)オタクのひとは機会あったら是非観てと言える誰かが言うべき→それって自分なのでは?と思った次第。
 こんな紹介では全然スポイル出来ないくらい、魅力にあふれた映画でした。機会があったら逃さないで。

爆心地の下〜伊格言『グラウンド・ゼロ〜台湾第四原発事故』(2018.9.28)

 嬉しいこともある。
出版不況にめげない!台湾の活力あふれる「独立書店」をまとめた
 『書店本事 個性的な台湾書店主43のストーリー』を翻訳出版したい!
(THOUSAND BOOKS)
というクラウド・ファンディングが目標額を達成し、来年の春に邦訳刊行の運びとなった。日本でも個人経営の書店や出版社の動向が(自分の錆びかけた)アンテナに入ってきたのと呼応して、気になる一冊でもあった。向こうで発行された原書と突き合わせれば、中国語の勉強になるのではという野望もある。あわよくば現地の書店のいくつかを訪ねてみたい。
 そしてもちろん、書店や出版をキイとして、かの国の現代史・社会史や生活・文化を知れるのではという関心がある。日本人が台湾を訪れ、取材した「台湾の本」や雑誌特集は多い。むろん優れた物もだ。けれど、現地の人々が自ら発信している情報は、その気にならないと、なかなか掴めない。

 伊格言グラウンド・ゼロ〜台湾第四原発事故』(倉本知名訳/白水社)は原著2013年・邦訳2017年刊。台湾発の近未来ポリティカル・サスペンス≒同時代のエンターテインメント小説をほぼリアルタイムで読めるのは、かなり貴重な機会ではないか。知って、すぐさま飛びついた。
 副題のとおり、実在の原子力発電所が事故を起こし、台湾の北半分が居住不能になるという内容。作家業のかたわら反原発運動にも積極的に関わっていた著者が、事故の時期に設定したのは2015年、原著刊行のわずか二年後だ。近未来どころか超近未来、近すぎて既に過去になっている
 あるいは「ありえた未来」と呼ぶべきか。現実と同様、作中でも2011年の福島原発事故は起きている。2017年に台湾政府は脱原発を宣言したが、発表当時は(事故はともかく)福島事故を踏まえてなお、台湾が原発推進に舵を切る展開も十二分に現実的だった。
 物語は2015年10月19日を事故=グラウンド・ゼロと設定し、その一年前=刻々と事故に近づいていく日々と、二年後=事故から次第に遠ざかっていく日々を交互に描いてゆく。
 ちょっと面白かったのは事故前の、恋人たちの会話に日本の漫画『名探偵コナン』が登場すること。自分が少年に戻った夢を見た、という主人公に
「つまりあなたはコナンってわけ?それとも工藤新一?」小蓉はアニメの声優を真似て言った。
「犯人はこの中にいる!」
 「笑えないよ」。林雄浩は声を落として言った。
「まるで笑えない。もしも僕がコナンなら、君は毛利蘭なんだぜ。工藤新一と毛利蘭の関係はこの世界で最も残酷な愛情物語なんだ。君はどうやって子どもになった恋人を愛するんだ?」
やっぱり台湾でも日本の漫画は人気だなあとか、「コナン=新一」はネタバレ=公然の秘密だけど大丈夫か?外国で盛大にバラされちゃってるよ、とか思ったりしたのだが、この何気ない会話も後々の伏線に、なると言えばなっている。
 先に「エンターテインメント小説」とは書いたが、SF的なガジェットやサスペンスを十分に盛り込みながら、本作はメインストリームの文学作品に近い思想や文明観・人間観を盛り込んでいる。読了感はスリルやカタルシスと言うより、深く沈むような「悲しみ」に近い。

 読み進める途中で、事故前の日々を描く章がABOVE GROUND ZERO、事故後の章がUNDER GROUND ZEROと題名づけられていることに気づかされる。念のため確認してみたがaboveもunderも時制での前・後を示すことは普通なく、位置感覚的な上・下の意味でよいようだ。
 最初はどちらも茫洋と、ゆったりしたテンポで始まる二つの物語。それが事故後の章で「あのとき何が起きたのか」知ろうとする主人公の探索が核心に近づくのと相まって、事故前の章のカウントダウンが加速し、まるで上(above)から落下する・手足を振り回しても何も掴めず落下するようにグラウンド・ゼロ=爆心地に至るサスペンスが頂点に達する。
 そして抑制されながらも壊滅的な打撃を示唆する事故後の描写を経て、あらためて「爆心地の下」の意味が胸に迫ってくる。事故は遠ざかるのではなかった。いつまでも続く入院患者の列。監視と隠蔽。生き延び台南に新政府を構えた人々もまた、グラウンド・ゼロの「下」に封じ込められ、深い底に向けて沈む一方なのだ。

 こうした物語を、実際に事故が起きてしまった日本で書くことは難しいだろう。それは現実に避難を余儀なくされた人々へのデリカシーの問題でもある。けれど同時に、僕たちの国では事故のショックがあまりに大きかったため、逆に被害をなるべく小さく見積もり、目を逸らそうという否認が働いているのでは、という懸念も捨てきれない。実際、この本を読んでいる最中に、伊方原発(愛媛県)の再始動を容認する高裁の決定が報じられた。対岸の事故を見て、紆余曲折を経ながらも脱原発を選んだ台湾とは、対照的と言えはしないか。
 己の姿を直視することは難しい。深いダメージで自尊心が傷つき、弱っている時はなおさらだ。だからこそ「隣国(台湾)で隣国(日本)の受けたダメージを自国(台湾)に投影して描かれた近未来」という間接的な形で、世界の中で日本がどう見えているか、これからの日本がどう見えるかの似姿を垣間見れるのもまた、貴重なことだと思う。

 また、本作の舞台は台湾で、台湾独自の事情を綿密に描いてはいるけれど、それは「たまたま台湾」で、制御できない技術的な怪物を抱えてしまった世界全体の、普遍的な物語だとも言える。「制御できない怪物」は原子力や放射能ばかりでなく、経済や株式市場も含むだろう(本作の終盤の一章が、投機家の描写に割かれているのも印象的だ)。作中の第四原発が不可避的な事故に向けて「落下」していく描写には、ブラック企業的な現場の実態も示唆されている。
 生真面目で、もしかしたら生硬な作品なのかも知れないけれど、読むに足る一冊でした。呉濁流文学賞長篇小説賞・華文SF星雲賞長編小説賞。

 些事なのですが、本作には若い女性がカラオケで「広島の恋人(ヒロシマ・モナムール)」なる歌を唄う場面があって気になっている。ヒロシマ・モナムールというのは往年の日仏合作のタイトルで(邦題『24時間の情事』)同名の曲が二つほどあるらしいのだけど、一曲はウルトラヴォックスのエレクトロ・ポップ、もう一曲はイングヴェイ・マルムスティーンが在籍していたヘヴィメタル・バンドの曲で、ともに80年代初頭、2017年に歌われる曲とも思えない。
 第三の(あー、やはり80年代のムーンライダーズ「24時間の情事」も入れれば第四のか)ヒロシマ・モナムールについて御存知のかたが居らしたら、御教示ください。緩く待ってます。


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