(24.01.05)メイン日記(週記)更新。好意的な解釈という誤解について。J-POPの人気者の悪口をわりと書いてるので注意。画面を下にスクロールするか、直下の画像をクリックorタップ、または
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1/12・19の週記は休みます。理由は下記↓
(25.1.12/小ネタ/すぐ消す)繁忙期につき最大23時までの残業と休日・祝日出勤を募る声をものともせず定時退社をキメながら「
バラのようなスピード退勤」という(分かる人には分かる)フレーズが脳裏を横切り、腹立たしいような、鬱陶しい動画広告につきあわされた分を(ネタとして)多少は取り返せて嬉しいような。しかし冷蔵庫代の足しにするため、明日は祝日出勤。
(24.01.09/小ネタとお知らせ )ボウイの誕生日とどっちが大切だと思ってんだ、て後回しにしましたが一昨日は冷蔵庫の命日でした…享年20歳(くらい)まあ冷蔵庫としては十分に頑張ってくれました。最初「庫内灯が切れただけかな?」と儚い希望を持ったけど、摂氏9度は動いてる冷蔵庫内の温度ではない…
冷凍庫のほうは分厚い霜が氷室の役割を果たしてくれてるけど、ニラやモヤシはたちまち柔らかくなり、慌てて火を通す。次の冷蔵庫が届くのは十日先なので、その間に部屋を片づけねばならず(設置に人が入るため)今週・来週のメイン日記はメイン日記はお休みします。月刊RIMLANDも今月はパス。まんがどころじゃない。
(追記)冷凍庫の氷室は48時間で融解。地球温暖化の縮小版を見るようで悲しくなったり、その名も「エントロピー」というピンチョンの短篇(うろ憶え)を思い出したり。
(追々記)冷蔵室の温度、ほぼ室温と同じになったので、お味噌やら温度計やらを融解中の氷室(冷凍室)に移す。こちらは摂氏1度。(25.1.12再追記)冷凍庫も速やかに熱死。まあ残ってるのは味噌と梅干と調味料(お酢など)なので大丈夫でしょう。
当面存置。署名:
「国保料が高すぎる!国の責任で払える保険料にしてください!」(中央社保協/24.6.19/Change.org/外部)
【電書新作】『
リトル・キックス e.p.』成長して体格に差がつき疎遠になったテコンドーのライバル同士が、eスポーツで再戦を果たす話です。BOOK☆WALKERでの無料配信と、本サイト内での閲覧(無料)、どちらでもどうぞ。
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扉絵だけじゃないです。
side-B・本篇7.1話、6頁の小ネタだけど更新しました。
(外部リンクが開きます)
今回ひさしぶりにシズモモの過去エピソードを見直し「やっぱり好きだな、この話とキャラたち」と再認できたのは幸せなことでした。そして色々あったり無かったりしても、ペンを持って物語を紡いでいる時が、自分は一番幸福らしいとも。次に手をつける原稿は(また)シズモモではないのですが、何しろ描くことは沢山あるのです。
ちなみに今話タイトルの元ネタは井上陽水の「
愛されてばかりいると(星になるよ)」。同曲が収録されたアルバム『ライオンとペリカン』のB面(side-B)に入ってる「
お願いはひとつ」は個人的に一番好きなクリスマスソングの最有力候補です。レノンと争う。
RIMLAND、電子書籍オンリーですが20ヶ月ぶりの新刊『
読書子に寄す pt.1』リリースしました。
タイトルどおり読書をテーマにした連作に、フルカラー社畜メガネ召喚百合SF「有楽町で逢いましょう」24ページを併催・大量リライト+未発表原稿30ページ以上を含む全79ページ。頒布価格250円(+税)で、一冊の売り上げごとに作者がコーヒーを一杯飲める感じです。下のリンクか、
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書誌情報(発行物ご案内)はおいおい更新していきます。(22.11.03)
【生存報告】少しずつ創作活動を再開しています。2022年に入ってから毎週4ページずつ更新していたネーム実況プロジェクト、7/29をもって終了(完走)しました。
GF×異星人(girlfriends vs aliens)
これまでの下描きは消去。2023年リリース予定の正式版をお楽しみに。(2022.08.08→滞ってます)
NUTSとVIRUS〜「複製技術時代の芸術作品」を読む・歎異抄を読む・『性の歴史IV』を読む(25.01.05)
ウィルソン・ブライアン・キイ(1921-2008)は消費者たちがサブリミナル広告に洗脳されているという陰謀論を大々的に展開した人だけど、その一環として彼が噛みついたのが、若者が夢中になるロック・ミュージックだった。大ヒットした
ザ・フーの『
トミー』はストーリー仕立ての歌詞が虐待やドラッグ使用・スターのステージで突き飛ばされた観客の少女が顔に何針も縫う大怪我を負った話など、暴力的なイメージ満載なのに、リスナーは歌詞のことなど全く考えず、ただただカッコいい音楽として受け容れていた(それでいて無意識に刺激されていた)という彼の告発に「??」と首をひねったのは、後年のロックファンには『トミー』がそういう内容なのは周知の事実だったからだ(
20年3月の日記参照)。
でも「みんな意味とかキチンと考えずに聴いてない?」「それでいて過激な内容をサブリミナルで受け容れてない?」という彼の主張に同調したくなる時もある。
昨年めちゃめちゃ売れて小学生まで喜んで(ブリンバンバンというサビで)唄い踊ってたというラップ曲。「
俺様は偉い」とひたすら威張り散らすリリックだけ見知っていた僕は「アレがそんなに売れたのか」と昨年の紅白でゲンナリしたのだけど、あのトキシック・マスキュリニティ(有害な男らしさ)の模範文例みたいな歌詞までキチンと理解したうえで、皆はアレを良いとしているのだろうか。ましてcreepy(キモい)なnuts(キ○○イ。俗語。バーブラ・ストライザンドが精神鑑定にかけられる法廷サスペンス映画が『ナッツ』でした←古い)というユニット名の、形としては自身に向けられてるにしても悪意に満ちた言葉選びは。
* * *
年末年始の帰省で久しぶりに顔を合わせた甥っ子1号にオススメの本を訊いて教えてもらったのが
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ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー あなたの意思はどのように決まるか?』(村井章子訳・ハヤカワ文庫/外部リンクが開きます)
さわりだけパラパラと読んだところ、人は先入観で判断を誤る・理性的に考えれば同じ内容であるはずの「90%成功します」と「失敗の可能性が10%あります」を違う重みに捉えてしまう、的な本みたいでした。
先入観で描いたイメージが、現物の本質を見誤らせてしまう、今週の日記(週記)はそんな話をします。
自分を題材に(笑)。悲しいなあ。
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多木浩二『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』(岩波現代文庫2000年/外部リンクが開きます)
は20世紀を代表する思想家(の一人)の、実は晦渋で取っつきにくい代表作を読み解く試み。
いや本当に難しいんですわベンヤミン。パサージュや幼年時代の思い出、パウル・クレーの天使とか、親しみやすげな先入観を振りまきながら、おそろしく理解できない。「複製技術時代の…」も若いころ読むには読んで、正直サッパリ分からなかった。
新書の都市論や戦争論で親しんできた多木浩二氏のナビゲートで再チャレンジ、今度こそ分かった!
と自信を持って言える気はまだしないのだけど(おえんがー)歳月を経て、ひとつ分かったことがある。
絵画や彫刻など旧来の芸術・その本物にのみ備わる手ざわりのような経歴=
アウラは、活字本やレコード・写真や映画など複製(コピー)され流通される新しい芸術には備わっていない…というのが同論の要旨なのだけど、
ベンヤミンは別にアウラを崇めてるわけでも、アウラのない写真や映画はダメだと言ってるわけでも、どうにかしてアウラを奪回しようと呼びかけてるわけでも「ない」のだ。
これが分かるだけで同論は相当に取り組みやすくなる。
言い替えれば初手からダメダメだった自分てだけの話かも知れませんが、でもだってさ「アウラ」とかさ、いかにも素晴らしくて価値ある・失なっちゃいけないモノみたいじゃありません?
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FAIRCHILD - アウラ(GIMIX)(Youtube/外部リンクが開きます)
アウラは取り返せなくてもいい、アウラのないコピー前提の芸術作品には、また別の天命がある。そう割り切って読むと(正しく読めてるかは兎も角)色々と見えてくる。毎日劇場で一つの役を通して演じ、しかも毎日観客の反応によってキャラクターを掘り下げ深めていく舞台俳優と違い、カメラを前に順不同で細切れのカットを演じる映画俳優は(舞台俳優のように)一貫した一人のキャラクターであるよりも、一貫した「自分自身」(つまりハムレットやスカーレット・オハラであるよりローレンス・オリヴィエやヴィヴィアン・リー)であることを求められる―なんてくだりは、それをヒントに中篇まんがのひとつも描けてしまいそうだ。
CDを経て音楽のネット配信が地平線の向こうに見えてきた90年代、元トーキング・ヘッズのデヴィッド・バーンが「むしろこれからはライブの時代だと思う」と語っていたことなども思い出される。バーンの真意は兎も角、特に日本では(いくらでも複製できる)CDやDVDがライブや握手会で「推し」と直に接せるチケットとなり、崇高さとか関係ない純粋な技術論としての「アウラ」が復権したとも言えるのではないか…などなど妄想は広がるのであった。
多木浩二氏の『精読』は末尾にベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」の70ページほどの原文が、
・
杉浦明平『古典を読む 歎異抄』(1983年→岩波現代文庫2003年/外部リンクが開きます)
も各章の冒頭に小分けの形で原文がすべて収録されており「詳細な解説つき原文」として読めるのが良かった。すごく面白かったのは歎異抄、鎌倉時代の文章が(一緒についてる現代語訳の助けがなくても)かなりふつうに読めるのね。たとえば
「親鸞は、父母の孝養のためとて、一返(いっぺん)
にても念仏まふしたることいまださふらはず。そのゆへは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」
なんて「まふし=申し」「いまだ=未だ」「さふらはず=候わず」と分かれば「念仏申したること未だ候わず」この世に生きる者はみな家族なのだから(実の)父母の孝養のために念仏を唱えることなど一度もなかった…と全然読めちゃうでしょ?
僕が『歎異抄』そのものに先入観で誤解していたことは特にない(
と思いたい)のだけど、まあ歎異抄じたいが「異を歎く」親鸞の悪人正機説があっという間に後継者たちの間で誤解曲解されたことへの嘆きだし、同じ時期に読んで面白かったので並べる次第。
昨年の終わりに図書館で借りてきて、そのまま今年最初の読書になっている
・
ミシェル・フーコー『性の歴史IV 肉の告白』(フレデリック・グロ編2018年/慎改康之訳・新潮社2020年/外部リンク)
は「性の歴史IVを読んでみた」解説書ではなく本体をそのまま読んでいるのだけど、これもまた今まで先入観で持っていた誤解が解ける一冊のようだ。
周知のとおりフーコー自身は1984年に亡くなっている。
先月の日記で紹介した『監獄の誕生』(原著1975年)に続いて彼は、人が自ら権力の囚人になるメカニズムを今度は「性」を通して追及しようと全六巻からなる『性の歴史』の執筆計画を立ち上げた。だが第一巻『知への意志』で計画は頓挫、研究対象を近代ヨーロッパから古代ギリシャ・ローマを移した第二巻『快楽の活用』・第三巻『自己への配慮』が急逝により遺著となった。
誤解していたのは晩年の彼が『監獄の誕生』や『知への意志』で見るように人間を囚人化する近代ヨーロッパに絶望して、自由や別の突破口を探すため古代ギリシャ・ローマ哲学に傾倒していた(
17年8月の日記など参照)と思いこんでいたことだ。
だから正直、初期キリスト教をテーマにした『肉の告白』の出版を知った時、あまり関心が湧かなかったのを憶えている。せっかくギリシャ・ローマに自由を見出したのに、なんでまた人から自由を奪うヨーロッパに戻っちゃうの?と思ったのだ。
誤解の多くは(アウラを「いいもの」と思いこんでしまったように)
実はニュートラルな事物を「いいことを言ってる」「人々に勇気を与えようとする善意に基づいてる」と勘違いすることに発している。勘違い「したがる」と言うべきか。あのひと、私のこと好きなんじゃねぇの?
いずれか片方しか選べないなら、私は善より真を取ると
スーザン・ソンタグも言っている。古代研究でフーコーを助けた歴史家ポール・ヴェーヌ(
22年12月の日記参照)の証言や『監獄の誕生』、『肉の告白』自体を読むうち、ようやく見えてきたのは古代ギリシャやローマはフーコーにとって「自由を保証してくれる別世界への突破口」ではなく「(最終的には)不自由なヨーロッパに至るワンステップ」だった、彼が求めていたのは別世界での自由ではなく、あくまで彼自身も苦しめつづけた「この社会」の不自由さの解明だった・らしいということだ。
そうと気づかず『性の歴史II・III』を一応ちゃんと読んでるのに「なかなか自由への突破口が開けないなあ」と思っていた自分が間抜けだった、と書いてしまうと情けないけど。
まだ100ページも読んでない『肉の告白』だけど、中絶の禁止・婚外交渉や同性愛の禁止といった現代ではキリスト教がよって立つ基盤のように思われている性規範は、実はキリスト教の布教前から古代ローマでストア派などによって十分に広まっていた教えだと指摘されている。酒池肉林みたいに奔放なローマの性を批判して禁欲を説いたキリスト教が、最初は迫害されたが最後には勝利した…みたいな物語は、物語にすぎない。実際には、少数派だったキリスト教が「ほら私たちもマトモですよ、過激思想じゃないですよ」とローマ社会に受け容れられるため、既に受容されていたストア派などの禁欲を取り入れ・また影響を受けたのだとフーコー(や、彼が依拠する先行研究者たち)は捉える。
ギリシャ人やローマ人にとっては適切な「快楽の活用」「自己への配慮」だった性は、それを受け容れたキリスト教によって「人間の男女が子どもを作ることは、神によって創造された奇蹟をヒト自らが再演することだ」と新たな意味を与えられ、ヨーロッパひいては現代社会の規範を形づくっていく。それはまた別の話。いや、これから読むんですけど。
AIに要約してもらえば(AIが「正しく」要約してくれるとして)ベンヤミンやフーコーに対する、こんな誤解もナシで済んでいたのかも知れない。けれど山道を実際に登攀するように実物の本を読むことなしに、いきなり連れて行かれた山頂からの眺めは、人に驚きや喜びを与えるものだろうか。
まあAIに興じて電力を使う人は使えばいい、僕は今年も道を間違えながら、足でよたよた山を登っていきますよ。あまり無理せず、山頂を急がずにというのが年頭の所感。
* * *
最後も紅白の話。まあ一昨年に比べたら
「そして輝くウルトラソゥッ」「
はいっ!!!」と「バルス」みたくTVの前で唱和したり結構エンジョイした昨年の紅白ですが。creepyなnutsというユニット名とリリックにゲンナリして思い出したのが、人当たりが好さそうなパーソナリティと僕にはよく分からない才能で数年前から紅白の常連になっている人気歌手の、何年か前のステージだ。
細かくは忘れたけれど、大スターになった自分にも不満はあるんだ的な歌詞だったかも知れない。
screw youと決め台詞のように唄うサビに驚いてしまった。「スクリューする」は俗語だと「fxxkする」と同じ意味で、つまり彼はNHKホールの観衆と大晦日に紅白を観てる全視聴者の面前で「fxxk you」と同じ意味の言葉を言い放ったわけだ。
何かあると貼ってる
・
PULP - Common People(YouTube/外部)
の、他にすることがないからdanceしてdrinkしてscrewする「普通の人たち」の気持ちが分かるかと唄うMV。2:30あたり「screw」はイギリスでは放送できないと判断されて音声がミュートされてる(仕草で分かるけど)。ちなみに6分近いフルバージョンでは聴ける「みんな外国人観光客をヘイトしてる/引き裂いてやりたいくらいさ」という箇所もMVではカットされている。この曲や映画『キングスマン』の冒頭・『トレインスポッティング』みたいな感じに、これからの日本はなっていくんだろうなと数年前(十年以上前?)に予想したけど、予想どおり着実に…
ともあれ。冒頭に挙げたW.B.キイは(陰謀論者だけど)見識もある人でfxxkはじめ性行為を意味する英語が攻撃的で残酷な動詞ばかりだと嘆いているけれど、たしかに「スクリューする」コルク栓を抜くスクリューのようにねじ込むは、その最たるものだろう。イギリスでは放映すら不適切とされるソレを彼は紅白で投げつけた。
creepyなnutsが「キモいキ○○イ」という意味だと、聴衆がどれくらい理解している前提で当人たちが構えているかは知らない。けれど紅白を観てる人たちにscrew youの意味が分かるひとは、ほとんど居ないと「彼」には分かっていたはずだ。それを承知で「どうせお前たちには分からないだろう」という気持ちで観衆に侮蔑の言葉を投げつけたのだとしたら、それも含めて不貞腐れた当てこすりだったとしたら、
柔和そうな印象に反して、彼にはずいぶん幼稚でワガママな一面もあるのではないか。前後して(?)リリースされたアルバムが「ポップな(大衆向けの、とも取れる)ウイルス」というタイトルで、やっぱりちょっと分かんないセンスだなあと思ったことも憶えている。彼にとってポップスは、意味や意図が正しく理解されなくても、いつのまにか相手に感染しているVIRUSなのだろうか。「僕は理解が遅いから(プリンスなんかもアルバム単位で好きになるまで20年くらいかかった)十年くらい経って急に彼の良さが分かるかも知れない」と冗談めかして家族には話してるけど、彼にかぎっては良いと思える日は来ない気が、個人的にはしている。
(同日追記)これも何度も言及してて恥ずかしい
Mitskiの
Your Best American Girl(YouTube/外部リンクが開きます)も「(東洋人の私には無理だと分かっていても白人のあなたの)Best American Girlになりたいと願ってしまう」という歌詞を「恋を諦めないステキな唄」とポジティブに捉える紹介があって、違うから!なんで(一部の?)日本人はそう安直に「イイ話」にしたがるの!と思ったことなど。「あなたのお母様は私の母が私を育てたやりかたを認めないでしょう でも私は受け容れる 最終的に受け容れる」なんて歌詞、他のどんなラブソングでも聴いたことがなかった衝撃を返してほしい。すごい唄なんよコレは。
小ネタ拾遺・24年12月(25.01.02)
(24.12.01)今日は新潟コミティアなんですね…参加の皆様は楽しまれますよう。
(追記)今もまだガタティアに出ていたら、現在20時半なんですけど即売会のあとワークショップを聴講して新潟駅前で打ち上げの飲み会にノンアル枠でおつきあいして、23時頃発の夜行バスで翌朝の東京に向かうんですよね…そんなん普通だよと言う人もいるかも知れないけど、自分にしては20年近く随分と頑張ったなあと。当時は無理と思わないから出来たことが、新型コロナを期に即売会から足を洗って5年になると(一度くらいのサプライズ参加とかは兎も角)再開は難しいなと思う。まだ続けてる方々・新たに参加を始めた方々に遠くでエールを送りつつ、たぶん自分はいわゆる林住期なのでしょう。ガタティア(と東京では文フリ)があった今日も昼間は買い出し・洗濯を済ませて夜は冷凍が必要な食材の下処理に帳簿つけ。これはこれで穏やかな日々です。
(24.12.02追記)昨日「新潟コミティア参加の人たちは今ごろ打ち上げかなあ」と書いたのですが、今は新型コロナを鑑みワークショップ終了で解散だそうです…大変ね…
(24.12.02)…他の本も挟みつつ楽しく読み進めてる『
監獄の誕生』ですが、フーコーが盛んに引用している18世紀ヨーロッパ法制の権威
マブリー(Gabriel Bonnet de Mably,1709-85)の名前が出るたび、頭の中に韓国のコワモテ俳優マ・ドンソクの姿が浮かんで困る。
(24.12.03)本を読んでて雑念が混じると言えば、今年の始めに読んでいた
J.ゴンダ『インド思想史』(原著1948年・鎧淳訳1981→中公文庫1990年)ではインド哲学の最重要概念として
梵(ブラフマン)という単語が頻出するのですが
梵の字が出てくるたび脳内で「そよぎ」とルビを振ってしまう自分がいました…いや「そう読むんだぁ」で憶えてただけで
野球のことは全然なのでスミマセン。
(24.12.04)
先月の日記でダイアン・アーバスの双子の写真について書いたとき載せたかったけど直ぐに掘り出せなかった写真が出てきました。昔iPhoneの待ち受けにしていたのです。
(24.12.05)音楽情報サイト
amassの記事
「2024年に亡くなった著名人たちが登場するビートルズ『サージェント・ペパーズ』風トリビュートアート公開」(24.12.4/外部リンクが開きます)。『シャイニング』のシェリー・デュバルや『ロッキー』でアポロを演じたカール・ウェザーズ、個人的に自作まんがのキャラ名で借りがあるフランソワーズ・アルディなどの他に、セッション・ミュージシャンとして自分が思う以上に知られた存在だったのだろう、
ハービー・フラワーズの名前が挙がっていた。
彼の一番有名な仕事は、おそらくルー・リードの大ヒット曲「ワイルド・サイドを歩け」のベースだけど
・
Lou Reed - Walk on the Wild Side(YouTube/公式/外部リンクが開きます)
低音のウッド・ベースと中低音のエレキベース、二つの音色を重ね合わせるアイディアを
「こうするとギャラが二倍になるんだよ」と茶目っ気たっぷりに語ってたのが大好きでさ。訃報に際してデヴィッド・ボウイの遺産管理団体とキーボード奏者のリック・ウェイクマンがそれぞれ異口同音に
「とても面白い人でした」とコメントしてるのも、なんだか面白い(
出典・外部リンクが開きます)
ルー・リードの同じアルバムから、もう一曲。チューバから音楽キャリアをスタートさせた彼が「うん、ぱ、うん、ぱ」とユーモラスに鳴らす
・
Lou Reed - Goodnight Ladies(同/外部)
若い頃は(アルバム全体のイメージに引っ張られて)この一見あかるい曲にも表裏一体の虚無を感じてしまい勝手に\苦手だったのだけど、歳を経た今はそれも含めて穏やかに聴ける。ルー、ボウイ、ミック・ロンソンにミック・ロック、それにもちろんアルバムの影の主役と呼ぶべきアンディ・ウォーホル、みんな彼の岸に渡って(実際には関わってないウォーホルを除けば)最年長だったハービー翁が「やっと行くよ」と歩み去っていく感じ。悪くないです。
(24.12.06)これは完全にプロ野球に関心がない部外者のイチャモン(しかも昭和ネタ)なのだけど、今になって振りかえるに「大洋」「ホエールズ」がパシフィック・リーグ
ではなく、王冠と百獣の王の名をもつ「クラウン(ライター)」「ライオンズ」がセントラル・リーグ
でもなかったの、ちょっと微妙に納得がいかない。池袋駅の西口が東武で東口が西武みたいなものか。
(24.12.07)そんなこと言うたら、ポール・ニューマンよりゲイリー・オールドマンのほうが新しい(若い)。
(24.12.06)
東京電力による柏崎刈羽原発の再稼動に反対する署名(cahnge.org/再稼働阻止全国ネットワーク事務局/24.11.30/外部リンクが開きます)に賛同しました。
(24.12.08)ついに今期は
『仮面ライダーガヴ』(TV朝日公式/外部リンクが開きます)も観てるのですが、パステルカラーに彩られた平和な日常が日本のはずなのに、それを侵略する異形の敵が家父長制というかイエ系(
そんな言葉はない)・ファミリー経営の悪徳企業で使役される下っ端怪人が「バイト」(闇菓子に耽溺するバイト≒闇バイト?)と「
ある意味こっちのがリアル日本」な設定がエグい。自身も決して幸福とは言えなかった強大な父の専横を長男が継いでるあたり、先月熱心に語ったパキスタン映画『
ジョイランド』(
参照)とシンクロしすぎで慄く。
(24.12.10)かつての王権は王(権力)が存在を誇示したけれど、近現代は見えない権力が権力を持たざる民草に「お前の存在をすべて可視化して晒せ」と強いる…
フーコー『
監獄の誕生』いよいよ佳境(?)。イーライ・ロスのスプラッタ映画もかくやと思われる冒頭・絶対王政時代の残虐刑には「えげつなー」と引く程度で(まだ)済んでいたのが、表面的にはずっと大人しいはずの後半・近代以降の学校や職場での監視と規制と絶えざる考課(試験)による人間の規格化がかえって、読書を投げ出したくなるほど他人事でなくてツラい(「もう指図を受けるのはイヤだあああ」と叫んで逃げる辻強盗のまんがを描くひとの感想)…耐えて読んでるけど。
実はフーコー、同書の脚注で本書がドゥルーズ=ガタリの著作わけても『アンチ・オイディプス』に
「測りがたい」ほどの
「おかげをこうむっている」と謝辞を捧げていて、まあそれとは違うかもだけどD&Gが現代のずっと前・無文字社会の習俗である文身(いれずみ)を身体の表面に刻まれた社会コードと捉えていたの、を、現代人は学校や職場での規律という別の形で(内面的に)身体に刻まれているのかも。内面化された文身・内面化された監獄。また『アンチ・オイディプス』の精細な注釈書が出てるみたいなので、そのうち読みたいところです→
なんて軽い気持ちで言うから12・18のザマを参照。
(24.12.12)『
監獄の誕生』読了。いやー面白かった。フーコーの最高傑作とも言われてる一方、本人が最後
「ここでこの書物を中断する」と言って擱筆したため「未完なのかぁ」みたいな評価?風説?もあって、でも一応ちゃんと終わってる。小ネタの枠を超えちゃうので月末に加筆しますが、むしろ最終章の追い込みがすごい。
そしてその最終章
「監禁網は外部の世界をもたない」罪人・逸脱者も無法者(アウト・ロー)として排除されるのでなく逆に
「法の中心」規律社会の
「機構のまんなかに位置している」(逃げられない)とする言いようが、本サイトで何度も言及してるドゥルーズ=ガタリの
「人種差別の観点には外部というものはなく、外部の人々は存在しない」(
参照)とやっぱり呼応してるなと考えたとき。本書の訳者解説が1977年だから日本の事例として引き合いに出してる「監獄」は網走刑務所や巣鴨プリズンだけど、2020年代の今だったら想起されるべきは(監獄であり人種差別の場でもある)入国管理局ではないかと…品川の東京入国管理局の十字形の建物がパノプティコンに見えたのを改めて思い出したのです。
(24.12.18)積ん読を擁護した「買った本は読まなくても並べて背表紙のタイトルを見ているだけで発想が浮かびクリエイティビティが生まれるのです」なんて甘言をありがたがる人に、実際に読まないと味わえない
「本書は(中略)
わかりやすさに重点を置いた」と「はじめに」で宣言してる本の「わかりやすさ」が
「それは、〈頭脳労働のための労働力の流れ〉と〈貨幣の流れと(土地を含む)生産手段〉という接続的総合の離接的総合(=〈[頭脳労働のための労働力の流れ]か、[貨幣の流れと生産手段]か〉→〈賃金の流れ〉と〈頭脳労働のための労働力の流れと生産手段〉という接続的総合の離接的総合→〈賃金の流れ〉と〈知識資本の流れと(土地を含む)生産手段〉」という接続的総合の離接的総合→〈労働力の流れと(最新の)技術機械〉という接続的総合と〈貨幣の流れと生産手段〉という接続的総合の離接的総合という運動だ」だった絶望感を教えてやりたいぜ(正しく書写できてるかすら分からん)…『監獄の誕生』が思いのほか読みやすく分かりやすかったので油断しました。
(24.12.14)てなわけで大人にも歯が立たなかった(個人の実力です)左の本はともかく、子どもたちに本を贈る
ブックサンタ2024(外部リンクが開きます)今年は書店で絵本を棚からレジに→「これ、ブックサンタでお願いします」と申し入れてお支払い。夏ごろから決めてた
ヨシタケシンスケさんの
『りんごかもしれない』(ブロンズ新社/外部リンクが開きます)。ブックサンタは小学生向けの本が選ばれにくい(から選んでほしい)という話があり迷いもあったのですが、実物を手にしてみたら帯に「小学生に大人気」とあり(もうちょっと低年齢向けかと思っていた)結果どストライクで良かったです?店頭でお礼の絵葉書とステッカーを貰いました.
(24.12.11)しょうもない話もする。来夢来人(らいむらいと)とか多恋人(たれんと)とか当て字の店名や看板を見かけるたび趣味で記録しているのですが
右端の「呑み処 花紋」…これって「come on!」の駄洒落だと思います?あとアレだ、
この「寿司 久(きゅう)」は間違いなく
「スージーQ」の駄洒落では、ないぞ。
(24.12.16)元々英語で書かれた
岡倉天心の『
茶の本』。個人的には一番モダンで読みやすく思っていた講談社文庫の
宮川寅雄訳、同じ講談社の学術文庫で英日併録版が別のひとの訳で出たため絶版になっていたのが他の小出版社から再発されてるのを確認しました。
・
岡倉天心著・宮川寅雄訳『茶の本』(土曜社2017年・外部リンクが開きます)
「茶には酒のもつ尊大さはなく、コーヒーのような自意識もなければ、また、ココアのような気取った無邪気さもない」といったユーモラスな自賛や
「世人は絵を耳で批評する」「われわれは(略)
虚栄心があるにもかかわらず、自尊心さえともすれば単調になりがちである」といった百余年後の今もなお塩気を失なわない文明批評。なにより全編の白眉と呼ぶべき琴の名人の逸話や、近松とシェイクスピアを並べての演劇論など創作活動のヒントがちりばめられた、作家にとっては護符になりうる一冊かと。他の訳でしっくり来なかった人もワンチャンで。
(24.12.13)文庫クセジュの『
ルネ・ジラール』彼の思想に初めて接するひとにも読みやすいかは不明ですが、既読者には良いまとめかと。
で、その思想の要点として引用されてるジラール自身の言葉
「自発的な欲望というものはもはや存在しな…」(p61)に、(知ってたけど)これ知ってる
「自発的な欲望なんてなぁーい♪愛は誰かの感情のコピー」て
鈴木祥子さんが歌ってたやつだ!と改めて(メロディつきで)思い出すなど。祥子さんが「
読んで”待って!?ああああ”と目を疑った」本がジラール自身の著作か、それを引用した誰かの本かは詳らかでないけれど、でも『欲望の現象学』とかタイトル的にも似合いそう。
・
鈴木祥子 - 本当は哀しい関係(歌詞)(うたネット/外部リンクが開きます)
(24.12.14追記)鈴木祥子さん「
君の赤いシャツが」で
「取り出した本の表紙はおんなじスーザン・マイノット」と歌われてた、そのスーザン・マイノットの本のタイトルも『
欲望』だったっけ…んにゃ、歌の当時出ていた邦訳の中では一冊目だった『モンキーズ』のほうが歌われてる初々しい(?)カップルには相応しいかもだけど、祥子さんご自身は『欲望』推しだったと何処かで読んだ記憶が。ひりつくような孤独の話。
歌の後だと2000年代に『いつか眠りにつく前に』が映画化もされて、新しい代表作になってるようです>マイノット。図書館で探してみようかな。
(24.12.18)相変わらず歯科医の奥歯ディスプレイを収集しているのですが
下図は同じ奥歯でも、おお!新機軸と驚いてしまった一件。実は奥歯=歯医者って、わりと新しめの表象だと思うけど(昔は大口を開いたカバさんなんかがデザインされていた)短い歴史の中で、どんどんイメージが進化している面白さがある→
※鎌倉大仏駅から徒歩2分の処にあるというコレも、収集家としては一度現物を拝みたいような、そこまでしなくてもいいような→
sskmさんのポスト(マストドン/24.10.24/外部リンクが開きます)
(24.12.19/ひとこと)今朝がた横浜の自宅を出るとき降ってるか降ってないかの雨まじりに「あれ…雪?みぞれ?」となったのですが公式にも初雪だったようですね。絶対三度の虚空に浮かぶ惑星という巨大な球体の上にいる不思議。二言だ。
(24.12.20追記)種明かしすると今年はじめシモーヌ・ヴェイユに叱られて以来(
2月の日記参照)折りにふれ空を見ては「…宇宙!」と思うことにしているのでした。
(24.12.21)今年はタイミングを逸してシュトレンも買いそびれましたが、冬至の南瓜はこのとおり。乱切りにした南瓜1/4と分量どおり(二倍濃縮なら二倍・三倍濃縮なら三倍)薄めためんつゆ(+水)100ccに蜂蜜または砂糖大さじ1でレンチン納得できるまで。一番ラクで外れがない。
(24.12.23)1990年のコンピレーション・アルバムのみ収録らしく最近まで知らなかった、たぶんレア曲。しかしクリスマスまで(しかも金色と言いながら)こんな不穏にしてしまう彼女たちの才能よ…I miss them all the time.
・
ナーヴ・カッツェ - 金色のクリスマス(YouTube/外部リンクが開きます)
(24.12.24)今年のクリスマスは久しぶりに『忠臣蔵とは何か』でも読み返そうかなと思った矢先、そういえば
先月鎌倉の古本屋で丸谷先生の未読エッセイ集を買ってたじゃんと思い出す。
丸谷才一『無地のネクタイ』(岩波書店)。開くなり最初の短文が電柱・電線の悪口で笑う。んー、オタ友にはむしろ電柱大好き・電線はロマンて人のが居た気がするし同じオタクゆえ気持ちも分からなくもないけれど、うちの師匠(私淑)の「眺めがスッキリしてていい。
江戸もかうだつたらう(要約)」そして
「十九世紀に東西文化の大がかりな出会ひがあつたとき、西側は美的感受性の領域で大きな収穫を得たのに、東側では科学技術による便利さと引換へに、貴重なものを失つた」まで広げちゃう風呂敷の大きさには勝てる気がしない…それに比べて自分の「電柱があると本を読みながら歩きにくい」のスケールの小ささよ…
『忠臣蔵とは何か』は雪の中の討ち入り劇に、君臨する冬の王を打ち払い花咲く春の復活を祈念する冬至祭の伝統+民を虐げる暗君追放の願いまで幻視する大きな風呂敷。むしろケーキもチキンもパーティーもない、あるいはケーキでもチキンでもパーティーでも晴らせない鬱怒(
参照)に震える人たちにこそ、春の王よ来たれ。have happy holidays.
(24.12.27)ビッグイシューの本年最終号を購入。仕事も納めブックサンタもイラクの子どもへの絵本の寄付も済ませて、今年分のおつとめは大体完遂かなと思ったところに、イーロン・マスクがWikipediaを「Woke」pediaとくさして(これが悪口に成り得る・言うほうが恥さらしと思わずに言えちゃう社会の底抜け感がスゴい2024)寄付しないようXの信者たちに呼びかけてると風の噂に聞き及び、久しぶりにWikipediaにコーヒー1杯分ていど寄付しました(思い出すたび時々してはいる)
ちなみにパレスチナへの1クリック募金は毎日のように続けてますよ。
(24.12.28)テレ東の正月時代劇だって12時間だったぞ…大晦日の夜9時から元日の夜9時まで上映会
《24時間モーターヘッド》(外部リンクが開きます)を開催するシネマート新宿、ワケ分からん…
と言いながら正直うらやましいノリ。ボブ・ディランの来日公演すら「自分には資格がないと思うので…」と御遠慮もうしあげた自分が、まして家族と過ごす年越しをモーターヘッドでぶっちぎるわけにも行かないけれど、もっと大ファンで迷ってみたかった気はする…いちおう『No Sleep 'Til Hammersmith』は持ってますという算盤なら10級か9級レベルです。
(24.12.30)
Q:大掃除はしましたか? A:明日の昼前に千葉の実家に着くよう横浜の自宅を出立したいのだけど、持ち帰りたい分厚い本の前に例のムカジョフスキーがまだ50ページ残ってて、今日(30日)は既に眠いんですけど明日(31日)早起きして出立前にムカさんを「片づけられたら」今年は
可能なかぎり「片づけたよ」と思うことにします。明日の自分、ファイッ!!※こういう大人になってはいけません。
(追記)ムカジョフスキー、どうにか年内に読了。芸術に限らず発せられたメッセージの意味は(送り手が一義的に決定は出来ず)受け手が決める部分がゼロには出来ない。ということはメッセージの、ひいては世界の意味は
「各個人で異る、比べることのできない事柄なのであろうか?」という問いを論文「社会的事実としての美的機能、規範および価値」(1948年)は「んなわきゃあ、ない」と斥ける。
「個人が現実に対して取る態度も、もっとも個性の強い人のところでも、もっぱら個人に属するものなのではなく、かなりの程度まで―あまり個性の強くない人びとの場合にはほとんど全くと言ってよい程度まで―個人がその中に拘束されている社会的諸関係によって先に与えられている」(強調は引用者)。
先に取り上げた岡倉天心の「吾々は虚栄心すら単調だ」と並ぶ、「真実はひとつじゃなくて、人の数だけあるよね」とか「世界が創造されたのは5秒前で全ては私の想像、ではないという証拠はないよね」とかドヤる人に「そんな風に考える人も、考えかたの大半は社会からの借り物。むしろ、そんな風に考える人に限って(その唯我独尊も含めて)マルマル誰かの借り物なんじゃないの?」と食らわす、80年前の痛烈なカウンター。これだから読書はやめられない。2025年も沢山読めますように。
私たちは夢と同じもので出来ている・夢は夢の素材で出来ている〜『最後のライオニ』『ガザ日記』(24.12.29)
と、いうわけで(
23年7月の日記参照)
ヤン・ムカジョフスキー『チェコ構造美学論集』(平井正+千野栄一訳・せりか書房1975年)を読んでいる。20世紀前半・ナチスに占領される前のチェコスロバキアはカフカやチャペックを輩出するなど、それはそれで文化はひとつの精髄を究めていたのだろう。なんなら90年近く前・インターネットもテレビもない時代の論文集とはいえ「逆にテレビやインターネットの出現で吾々の思考は進歩したのだろうか」と刺さる部分が一応あって面白い。んにゃ、90年前の著作でも現代(2024年)に通じる教訓や洞察を得られること自体、文章や芸術の意味や価値は著者の独占物ではなく、読者や観客もある程度つくっていくものだ(でも読者や観客側が一方的に作るものでもなく、むしろ両者の・あるいは作家と社会とか様々な対立項のせめぎあいこそが芸術の意味を形づくる)というムカジョフスキーの見解そのもので、要はいいように掌の上で踊らされている。
1940年の論文「美学および文芸学における構造主義」が言う
「もちろん、芸術が社会との相互のアクチブな接触から閉め出されている時代も、あるいは芸術が自らを閉め出す(中略)
時代もある。しかしその時でもその運命的な結びつきは終ってはいず、相互に分離を願う努力ですら、芸術と社会の状態の重要な徴候となっている」(強調は引用者)もまた、とりわけ2024年に刺さる指摘ではないだろうか。「ミュージシャンは政治的な発言をするな」「まんがは」「アニメは」「このSNSでは」社会に関わるな、という受け手側・送り手側、双方の拒絶もまた「今の現実を拒絶したいという現実との関わりかた」の何より雄弁な表現だと言える。
本国では2020年に出版された
『最後のライオニ 韓国パンデミックSF小説集』(斎藤真理子+清水博之+古川綾子訳・河出書房新社2021年/外部リンクが開きます)は、もちろん読みでのある力作ぞろいのアンソロジーだった。けれど2020年の新型コロナ流行を受けて制作され、当然ながら「もし世界がこのまま様々なパンデミックに晒され、パンデミックが社会や人間の定義まで変えていったら」と構想された作品群が2024年現在に与える印象には正直、外れ馬券のような微妙さがある。
はっきり言ってしまおう。このアンソロジーだけではない。2020年当時に描かれたどんなSFも未来予測も、みんなコロナ禍に「飽きた」から怯えることをやめた・高らかな勝利宣言もなく何だかウヤムヤのうちにパンデミック自体「なかったこと」にしてしまった
現実の、なんならSF以上にSF的な展開には勝てなかった(のではないか)。
どういう文脈でか詳らかではないが
「想像力は人類に残された最後の資源だ」という言葉を残したと言われる
J.G.バラード。彼の短篇「
第三次世界大戦秘史」は秘史も何も、冷戦末期の米ソで互いを警戒しながら牽制しあうミサイル管制室の間で、どっちかの下っ端が間違って相手に宣戦布告してしまい手続き上は第三次世界大戦が勃発していた(そして「あ、ごめん今のナシナシ」と一瞬で終結した)という間抜けな話なのだけど、ちょっとそんな感じでCOVID-19の流行は「なかったこと」にされてしまった。この点、パンデミックの真っ最中で東京オリンピックを敢行した日本の功績(皮肉)は大きかったかも知れないし、その成功体験(皮肉)の後には五類移行が続いた。
この「なし崩しの、カタルシスのない勝利」に、物語のほうから与えた影響は小さくなかったのではないか―いちおうまだ作家でいるつもりで少しずつ作品をモノしてる自分にとって、これは少なからず気になる命題だ。社会がパンデミックに「飽きて」スシ詰めの通勤電車でもノーマスクの人々が多数を占めるようになった現実より以前に、創作物―まんがやアニメやドラマの世界は最初からマスク着用を拒否していた。「マスクなんかさせたら、登場人物の顔半分が見えないじゃないか」と送り手側・受け手側の利害が一致した結果、パンデミックのただなかでさえ物語の登場人物たちはノーマスクで通した。それがマジョリティだった。律義に主人公たちにマスクをさせていた作品や制作者の方々を馬鹿にする意図はないけれど、結果的には正直者が馬鹿を見た。
僕の念頭には『カラマーゾフの兄弟』の
「百姓どもが意地を張った」(原卓也訳)という台詞が、なんなら
『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』とセットで)あるのだけど、
自メモとして残しておきたいだけなので気にしなくていいです。それよりも。現実(マスク)の拒絶という形での、物語側からの異議申し立ては、やがて現実の社会みずからがパンデミックという現実を拒絶していく・否認が現実を塗りかえていった流れに多少なり貢献(皮肉)してはいなかっただろうか。
※作者ひとりの物ではない相互作用として作品を捉えるムカジョフスキーによれば、作家には「未来の(スタンダール)」であれ「想像上の(象徴主義者)」にせよ読者が必要らしく、今年も(半ば想像上の存在であるにせよ)拙作の読者になってくれてありがとうございました。
話を戻す。
マスクの着用だけではない。ミュージシャンからSNSユーザーまで発信者の「政治的な」意思表明が忌避され、30年も40年も50年も前のアニメのリメイクが次々と発表されては何だかんだで若いファンまで喜ばせ、そして過酷な労働環境にあえぐ主人公たちは異世界に転生して都合よく付与された高スキルで伸び伸びと欲望充足を謳歌する。狭義にも広義にも、つまり創作色の強いコンテンツでも日常的な発信行為でも「物語」が現実を拒絶するモードが続いている。繰り返しになるが、それは「現実を拒絶する」という形での現実との関わりかた・何なら現実への関与だというのが90年前にチェコで書かれた文章にヒントを得ての、今回の日記(週記)での気づき・言語化だ。
いちおう(まだ)送り手側としては、リメイク流行りや転生流行り=レミングかレギオンのような一斉の現実拒否を、新型コロナ禍と正面から向き合えなかった敗北感が加速してなかったか気になるところではあるけれど…
現実を拒絶せず、むしろ積極的に作品世界に取り込もうとした『最後のライオニ』は(今後、気候変動の進展によってCOVID-19以外のパンデミックが頻発し、やはり現実拒絶は現実に勝てなかったとなる可能性もあるものの)短期的には「外れ馬券」だった…そう書いてしまったが、実は例外もある。たとえば本題のパンデミックとは別に、同性の結婚やパートナーシップを積極的に描く作品が散見されたことも付記しておきたいが、そこではなくて。
今年5月の日記でも取り上げた『
タワー』の著者
ペ・ミョンフンは2020年のアンソロジーでも気を吐いている。収録の「チャカタパの熱望で」は新型コロナ以降、口から唾を飛ばすような「激音」が駆逐された言語環境を描く短篇でそれはそれでメチャメチャ面白いのだけど―2020年以前の
「ヒャッポ、ユズッテ、ご賢察のほどをぉおおおおお!」(強調は原文のまま。パンデミック以後は「ヒャホ、ユズテ」となる)という叫びに
「この世でいちばん悔しそうに聞こえる」「内面の悔しさが噴出するような発音」「文字を通して伝達される意味以上の何か」を読み取り
「これが話には聞いていた、恨(ハン)というやつなのかな?」と2113年の語り手が首をひねるくだりはムカジョフスキー的にも(?)超おもしろい。だが、そこでもなくて。
2020年のパンデミックは
「文明史の真の転換点ではない」「第一次世界大戦を基準に十九世紀と二十世紀を区別する人は多いが、同時期に流行したスヘイン風邪が二十世紀の幕開けだたと主張する歴史学者はほとんどいない」という主人公の見解、(COVID-19の後も)
「人生は回復され、人々はだいたいにおいて、以前と変わらなかた」という見解は、わりとこっちは「当たった」未来予測かも知れない(そのじつ語り手はスペインを「スヘイン」決定的を「ケテイ的」と呼ぶくらいの変動をパンデミックに強いられているのだが)。
その社会学的な洞察は
「もちろん私も、二〇二〇年を起点として世の中が変わたという事実そのものを否定はしない」「近代人にとて二〇二〇年とは、ヘイト再発見の時代だた」(強調は引用者)で冴えわたる。
「感染症が全世界に広がると、人々は、自分とは違う人々を積極的に憎みだした。もともと嫌いだたが、もはやそれを隠しもしなかた」という説明まで、つけくわえる必要があるだろうか。
* * *
久しぶりに歩いた渋谷。ダイバーシティを謳いながら路上生活者を叩き出して建てた巨大ビルにはプラダやバレンシアガのショップが人を圧するスケールで居並び、その前を体入ショコラ(バーニラバニラで高収入ー♪の同業)の広告トラックがゆっくり横切っていく光景が出来すぎで、言語化するのに言葉がもつれた。
まだ脳内でもつれてる言葉を可能なかぎり整理すると「この社会が見たかった夢の、最上の具現化がコレか」という落胆を通りこした納得。
同じ渋谷で目にした(いや自分が住んでる横浜にも普通にあるんだろうけど)K-POPアイドルをアイコンにした転職サイトの広告も、夜のお仕事で高収入♪の広告トラックも、労働(収入・高待遇)すら消費者目線で「買える」かのように謳っている。NISAもリスキリングも同類だろう。お金で買えないものはない・お金(高収入)じたい「買える」という金(カネ)本位制は、逆に手にふれるもの全てが金(ゴールド)に変わってしまう寓話の王様の呪いのようだ。
夢を見るにも資源が要る。バラード言うところの想像力という資源だ。かなわない夢なんてないと勝ち誇る王様たちの夢は「緑の砂漠」のように資源たる想像力の貧しさを見せつける。まるで「AIがあれば全てはあなたの想像力しだい」と謳うレタッチソフトやサービスの「作例」が異様に貧しく、つまらないように、
そしてその「誰でも王様」のきらびやかさは、実際には広告トラックに引き寄せられるような若い人たちを搾取の対象として分断している。いや、若い子たちにも「あなたは王様」という幻想を海外ブランドで与えながら実際には「王様ゲーム」をさせている。そういう現実を直視したくないという願望を「政治」を語らない物語の送り手と受け手が、こぞってブーストしている。
2020年のパンデミック初期に飛び交った多くの憶測・未来予測のなかには「中世のペスト禍がもたらした禁欲的な時代の後に肉体の解放を謳歌するルネサンスの時代が来たように」新型コロナによる隔離やロックダウン・会食や接触の忌避の後には、再び身体的な接触が肯定&積極的に謳歌され、開放的な環境で文化の発展が加速される(俗に言えば「イケイケな」)時代が到来するだろう、という楽観的な予言もあった。いや、それは本当に楽観的だったのだろうか。現に2023年の新型コロナ五類移行以降、この国ではノンアルコールでも会食は積極的に肯定する「スマドリ」が喧伝され、快の享受が(再び)持て囃されてはいる。けれど新型コロナ以降のそれは「(実は今までもそうだった)そうして快を享受できるのは特権的な一部だけ」という欺瞞を顕わにするものでもあった。ルネサンスだって似たようなもの、だったのかも知れない。大手芸能事務所の創設者や、上方お笑い芸人のボス的存在、その他もろもろ(検察の大物まで)の性的加害が暴露され「パンデミック後の開放」は万人の解放ではない、むしろ社会の上澄みにだけ都合がいい格差の温存・いっそ強化らしいと受け止められつつある。
街の広告を見て、もうひとつ気になっているのは「
ズルい」という言葉の流行だ。あいつはズルい、裏金議員は許せない、外国人観光客は店に入るな、公金をチューチュー吸っている、様々な罵倒の一方で「ズルい○○(を消費者としてあなたも享受しませんか)」という宣伝も目につく。主人公が「チート」能力を授かるライトノベル(最近は「なろう小説」と呼ぶらしいが)やまんが・アニメは、この新しい社会的規範の原因だろうか結果だろうか。
「人々は、自分とは違う人々を積極的に憎みだした。もともと嫌いだたが、もはやそれを隠しもしなかた」かえって分断は加速した。公的には終わったはずのパンデミックが、社会の澱みは一向に一掃させていないのは、本当にキチンと感染流行を終結させたわけではない・なし崩しの「移行」だったせいなのか。
そこで今回の日記(週記)の、今年を締めくくる最後のメイン日記(週記)の結論はこうだ。
好きにしなさいよ。
どんなに社会に背を向け現実を拒絶しようと、どのみちソレ自体、現実の社会への働きかけになる。
「あなたが政治から逃げても、政治はあなたを逃がさない」などと言うが、それは徴税や徴兵があなたを追いかけてくるという意味ではなかった。私は社会に関わらない・政治に物申さないという拒絶じたい、世の不正や不均衡をそのままにしておきたい勢力への加勢であり、強力な(そして誰かにとって強烈に抑圧的・搾取的な)権力の行使なのだ。つまり正しくは、あなたが政治から逃げたつもりでも、逃げることも選択であり、そう選択したことの責任からは逃れられない。
だから好きにしなさい。
好きに物語を紡ぎ、発信しなさい。わざわざ意図的に盛り込まなくても、あなたが社会をどう捉えているか・どのような規範に従っているか・差別も悪意も欺瞞も―そして希望も善意も、自ずと映し出される。
私は夢を見ていたいだけなんです、大いに結構。夢だけ見ていなさい。だが20世紀の半ばから言われているように、
夢から始まる責任もある(In dreams begin the responsibilities)。
ガンジーだか誰だか知らないが「世界を変えるためではなく、私が世界に変えられないために」抵抗して云々、という言葉を深くは考えず振りかざす人たちも、振りかざしていなさい。自分を変えるためでなく変わらずにいられるために、世界の不正に自分が加担しているかも知れない自覚を持たず「変わらない私」でいる特権を行使しつづけ、己の無垢と引き換えに世界を変えつづけなさい。
私は夢を見たいだけです、私はこんなにしんどいのに、ささやかな夢も見ちゃいけないんですかと言いながら、低賃金と過重勤務のアニメーターを酷使して作られるコンテンツに課金し、ライブコンサートのチケットや握手の機会を求めて同じ円盤を何十枚も買ってプラスチックを無駄に積み上げ、そして払った金額を己の力の証として誇っていなさい。推しに課金して、ハラスメントやルッキズムが駆動するアイドル業界の「経済を回し」続けなさい。
※日本の転職サービスの広告に起用されたK-POPアイドルの「私は人形じゃない」と訴えるソロ曲。画面下部の字幕
をクリック・赤い下線を出した状態で日本語字幕を生成できます。
心が痛むなら、心を痛めなさい。痛むなりに何か考えるなり行動を変えるなりしなさい。そんなのは厭だ、私は変えられたくない・心を痛めず「ありのまま」で皆に褒められ認知されたいというのであれば、今までどおりの夢を見つづけ、不都合なことは「なかったこと」にして、「なかったことにする」という権力を行使しつづけなさい。「ズルい」のは他の奴らだ・他の奴らは「ズルい」・他の奴らだって「ズルい」のだからと、「ズルい」ふるさと納税で美味しい肉に舌鼓を打つ自分を正当化しなさい。
物語には現実を変え、動かす力がある。古くは『動物のお医者さん』のまんがが現実の若者の獣医学部への志願を劇的に増やしたという話がある。ロックに関わる女子がバンギャ・グルーピーなどと言われた「バンドをやってる男に追随する女子」から「自ら楽器を持ちバンド活動をする女子」に大きくシフトしたのは、やはり漫画やアニメの影響が大きかったのではないか。
だから夢を見なさい。あなたの夢や願望は、世界を変える力がある。その力を信じなさい。邪悪で卑劣で不当に優遇されているのは自分以外の誰かで、トラックに轢かれて異世界に転生でもすれば、自分に真の属性が付与されて無双でもスローライフでも思うがままだという物語を支持し続ければ、多かれ少なかれ現実も同じように変成される。実際、お金を払えば「真の属性」が買えますよという美容整形や語学スクールの広告で電車の中は一杯だ。
人は手持ちの素材に応じた夢しか見れない。違う夢を見たいなら、夢の素材を変える必要がある。
* * *
今年も例年どおり60〜70冊くらい本を読んで(読めて)、たぶん私的なベストは(
4月の日記で取り上げた
ウォーラーステイン『史的システムとしての資本主義』(岩波。これほどの本が文庫で読めるって本当にすごいことよ)なんだけど、公的な私的ベストとして(なんだそりゃ)刻みたいのは
アーティフ・アブー・サイフ『ガザ日記 ジェノサイドの記録』(中野真紀子訳・地平社/外部リンクが開きます)だ。
まずは筆力に圧倒される。それはパレスチナで文化行政にも関わっていた著者の力量でもあるし、ムカジョフスキー的には各々の読者が持つ危機感の反映でもあるのだろう。大粒の水滴がトタン屋根を連打する真夏の驟雨のように、絶え間ない死と破壊が降り注ぐ状況で、けれど文章だけは一文一文すべてが全力の「生」「命」「生命」を放っている。それが(自分がバラバラの遺体になっても誰だか判別してもらえるよう子どもたちが己の手足に油性ペンで名前を書いておくような)極限状態の「効果」「賜物(なんてひどい言葉)」なのかと考えてしまうと、たまらなくやりきれなくなるが。
そこにあるのはジョルジョ・アガンベン言うところの(動物的・物質的な生存以外はすべて剥奪された)「剥き出しの生」などではない。いや、アガンベンが告発したように「殺す側」は殺す前にまず「剥き出しの生」以外すべてを剥奪しようとする。けれど殺してもいいとされる側には社会が、家族や隣人が、生存のためのインフラが、渇ききったスカスカの実から絞り出した水のように乏しく貴重な食物が、喜びが、喜びを叩きつぶす悲痛が、そして言葉がある。
「ニュース(中略)
を聞いているのは堪えがたい苦痛だ。彼らは私たちについて語り、私たちを引き合いに出し、私たちを代弁し、私たちのために決断しながら、一度も私たちの口から話をさせようとしない」と著者は言う。この本には生きた言葉がある。「まだ死んでない」「死んでも行きてなかったことにはならない」この虐殺を「なかったことにはできない」と訴える言葉が。
ムカジョフスキーは言う(引用はこれが最後です)。ドストエフスキーの『罪と罰』の読者には、主人公ラスコーリニコフのように殺人を犯した者も、彼が殺人を正当化した思想に賛同する者すら、ほとんどいないだろう。にも関わらず
「一人一人の読者の受ける印象は「それはお前のことだ」(tua res agitur)である」と(「詩的な意味表現と言語の美的機能」)。
真偽のほどは詳らかでないが、人間の脳は自己と他者を区別できないという説があったはずだ。だから脳内で「クズ」とか「ダメな奴」「○んでしまえ」などと他人を呪詛することは、主客の判別が出来ない脳内では自身への呪詛となって自身にダメージを与えると言うのだ。そんなことも含め。
ミラン・クンデラなら「そんな単純じゃないよ」と言うかも知れないけれど(
再度参照)、代わりに彼は自身の登場人物に言わせている―
「権力にたいする人間の闘いは忘却にたいする記憶の闘いにほかならない」(『笑いと忘却の書』西永良成訳・集英社文庫)。
自身の生活にとっては渋谷のミヤシタパークより遠い、ガザで記された言葉でも
「お前のことだ」と信じさせる、文章の力を信じること。毒をくるんだ糖衣錠のような「もう終わったことだ」「何もなかった」という言葉、差別や搾取・虐殺の肯定を「お前のものだ」と飲み込まそうとする言葉を、どうにかして拒絶すること。
良い来年と、それ以降を。
※『ガザ日記』で著者や家族・ガザの人々が必死の食事としてありつく「ファラフェル」は横浜だとみなとみらい・JICAの食堂で「ファラフェル・サラダ」として食べられる。
『ガザ日記』の収益は諸経費を除く全額が、パレスチナで現地支援に取り組む団体に寄付されるそうです。
ビリヤニ始めました?〜『メタ・バラッツのスパイスカレーユニバース』(24.12.22)
先週札幌で泊まった宿は、店頭でビッグイシューを売ってるような+「夜のパン屋」もやってるような本屋も併設されたゲストハウスで(気になってたのが都合よく泊まれた)、共有スペースに置いてあったティーバッグもよく見るとフェアトレード。しかもよく見るとトップバリュ。やるなあ、トップバリュ!
横浜に戻って確認したら結構お安めだったので今後当面、紅茶はコレで行こうと思います。
まあ札幌東京間でジェット機なんか使っちゃってる時点で焼け航空燃料に水ならぬフェアトレード紅茶なのですが、出来る範囲での抵抗はしたいところ…ちなみにコーヒーは好みとお財布の問題でエコやフェアトレードは二の次でMJBのグリーンラベルを選んでます…
* * *
本サイトで何度か「流行れー流行れー」ビリヤニも流行ったんだし流行るポテンシャルはあるはずと呪文のように唱えてきた(
今年5月の日記とか)ネパールの郷土料理ダルバートですが、じわじわ普及しつつある模様。逆にダルバートか入ってみよ、とやってたら自分のお財布では足りない段階になってきました。
これは東神奈川で開いたばかりのお店。「カナ」はネパールで(軽食ではない)しっかりした食事なのだとか。
でも今回は、今や大流行なビリヤニの話。
先月「匂わせ」だけしたのですが、Web拍手を経由してオススメいただいた本格インドカレーのレシピ集。ようやく一応、御紹介の準備が整いました。電子書籍です。
・
日本生まれのインド人、メタ・バラッツのスパイスカレーユニバース (インターネットオブスパイス)Kindle版(Amazon/24.10.11/外部リンクが開きます)
副菜を含めて400以上のレシピを無料で収録。何処かのレビューでどなたかが「これだけのものを無料で読むのは申し訳ないという人は、著者のやってる通販スパイスを買えばいいと思う」と提案されてて、もっともだと思い
・
Internet of SPICE(日本語/外部リンクが開きます)※無料レシピ追加されてる…
で「
炊飯器で作るチキンビリヤニブック」を注文。上記の電子書籍には同じスパイスセットを使ったジャガイモ・人参・ピーマンのベジタブルビリヤニのレシピもあるし、いっそ何処かでマトンが手に入ればとも思ったのですが、最初は素直にチキンビリヤニを作ってみました。
普通郵便の封筒に入るサイズのスパイスセット、ABCと小分けにされた袋のミックスAはローレルの葉に黒い胡椒の粒、ヒマワリの種くらいの大きさの緑の実がどうやらカルダモン。茶色の筒は材料名には(なぜか)書かれてないけどシナモンじゃないのかなあ。最初に肉にまぶすミックスCは茶色の強い粉末にフェンネルの実が混じってました。Aと一緒に炊く直前に混ぜるミックスCはターメリック(うこん)の黄色が強い。他には生姜やニンニク、八角やミント、クローブなど香りの高いハーブがブレンドされてるようです。
ごはんはジャポニカでもOKということでしたがアジアン食材店で買ってあるタイのジャスミン米があるので使いました。1kg700円くらい…皮肉なことに日本産米が高騰して同等の価格になってしまいましたが。
素直にと言ったな…あれは嘘だ、実際は鶏もも肉(10%引)が少し少なかったので舞茸でレシピどおりの重量を合わせました。でも積極的にキノコビリヤニもアリだと思う。タマネギは炒めるとき少し塩を振ると水分が出やすくなる+はねないよう注意しながら大さじ一杯くらい水を足すと褐色化(メイラード反応)が促進されるそうです←これは別ソースのTips。
炊飯器で炊けるビリヤニ、自分は逆に炊飯器を持っておらず圧力鍋を使用。ふつうのごはんと同じ時間でキレイに炊き上がりました。炊き上がりは約980グラム(
こういうのが大事な情報だと思うタイプ)。コレを食べるひとは四分割や三分割でもいいと思いますが、今回の自分は他にいろいろ足すことを考え190g×5回に分けました。
いろいろとは具体的には・蕪のアチャール・人参とピーマンのオイル蒸し・ライタ。
アチャール、上記レシピ電書にもあるのですが、今回はこちらのレシピを使いました→
・
かぶのアチャール(akkey-y/cookpad/外部リンクが開きます)
ライタは適当です。胡瓜・セロリ・タマネギ・にんにく・パプリカを刻んでヨーグルトで和えて塩・チリパウダーで味を整える。様々なレシピがネット上にあるので試したらいいと思います。味変で途中からビリヤニにかけるも良し、最初からかけちゃうも良し、サラダ感覚で先に食べたり後に食べたりしても良し。
今回は間に合わなかったけど、長粒米の香りや粒離れの良さとジャポニカ米のモチモチ感を併せ持つ鳥取生まれの新種米「プリンセスかおり」も一度は試してみたいところ。その時は…マトンや牡蛎ビリヤニとか挑戦かしら?
・
プリンセスかおり〜長粒でモチモチとした食感を持つ香り米〜とは?(田中農場/外部リンクが開きます)
正統派のビリヤニはお米と具材を層にして重ねるとか聞いた憶えがありますが、今回のレシピは炊込み感覚で混ぜてOKだったので夢はふくらみます。前に大阪でイカ墨ビリヤニとか食べたことがあったなあ…
* * *
近年は豆カレーばかり作ってます。肉を使わずタンパク質を摂取できるのが良いし、少なくとも現時点では安上がりなので物価高騰の折、個人商店のスパイス屋やフェアトレードの紅茶など利用しつつ締めるところは締めたい人向けに、改めてレシピを。
基本的には・豆90g・タマネギ260g・水450ccで4食分の豆カレーが作れます。ベースになるのはムングダルと呼ばれる皮を剥いた状態で売ってる緑豆。これとレンズ豆をブレンド、さらに最近は大きいのや小さいのが混じったミックス豆も使ってますが、究極はムングダルだけでも食べれると思う。何なら皮つきの緑の緑豆でも作れなくはない。豆はアジア食材店で1kg500円しないくらいなので、かなり経済的なはず。
あと最低限あるといいのは・油・クミン(パウダーでなくホール)・ニンニク・生姜・塩・コンソメでもダシでも何か・粉唐辛子・カレー粉。クミンは他の料理でも支えるし、香りが塩の代わりになるので塩を減らせる利点もあります。
まずは油でクミンと刻んだニンニク(1〜2片)を炒めます。ここで塩を振ると油の温度が抑えられるとか(不詳)。自分はこの時なぜか持ってるフェネグリークやヒング(阿魏)も足してます。香りが立ったところで、まずはムングダル45gと水450ccを投入。ミックス豆も併用する場合は粒の大きな豆は火の通りも時間がかかるので(合計が45gになるようにして)一緒に投入します。
圧力鍋の場合は強火にかけ、錘が廻り始めたら弱火にして6分くらい加圧。火を停め、圧が抜けたら蓋を開けレンズ豆45gを追加、また蓋を閉めてまた強火・また錘が廻ったら弱火にして5分くらい加圧。先に入れたムングダルはグズグズに煮崩して、レンズ豆は少し形を残そうという算段です。再び火を停め、圧が抜けたら出来上がり。オレンジ色だったレンズ豆は、すっかり色が抜けて黄色くなってます(その時の写真があるはずだけど出てきません)
90g+260g+450g+800グラムですが、圧力鍋でも780gくらいに減ってるので190g×4に分けます。たまたま自分は圧力鍋があって(一人暮らしを始める時お祝いで貰った)使ってますが、
普通の鍋を使う場合は実験して良い加熱時間を見定め+出来上がったカレー(まだ辛くない)
は四回分と考えてください。圧力鍋で作った190gは一回分を食べるごとに火にかけて水分を飛ばすのですが、逆に普通の鍋で作った場合は水分を加えて「伸ばす」ことになると思います。レトルトカレーが一食分180gとか200gでしょうから、それに近づければいいわけです。
さて、四食分に分けた(まだ辛くない)火の通った豆を、一食分ずつ、あるいは食べる人の分だけフライパンや小鍋にかけます。
なんならココで市販のカレールウひとかけ加えて混ぜても十分おいしく食べられます。とはいえ煮崩れたムングダルが「とろみ」を出してるため、小麦粉などは加えずカレー粉その他だけで「シャバシャバなカレー」にするのが何か本格っぽいし楽しいと思います。・カレー粉(小さじ1)・粉唐辛子(いわゆる「一味」でOK・小さじ1/2)・ダシ的なもの(ブイヨンでも鶏ガラスープでも和風だしでも。僕はヴィーガン味覇とか平気で使ってます)の基本セットに、さわやかな辛味を出すには針状に刻んだ生姜が良いです。後は隠し味にソースでもココアでもナンプラーでも、あるいはトマトペーストやバターを加えても。「うまみ」が足りないな?と思ったらダシよりも塩を少し足してみる。
もちろん野菜や茸を加えて火を通してもいいです。一切合切を火にかけて冷凍ごはん一食分をレンチンする2分間で丁度いいくらいに煮詰まります。
ごはんはジャポニカの白米でもタイやインドの長粒米でも。長粒米は湯取り式で炊いて?煮てます(鍋たっぷりのお湯を沸騰させて二合くらいの長粒米を10分間ほど茹でて、ザパーとザルにあけてお湯を捨てて、空の鍋にすぐ戻して少し火にかけ気持ち水分を飛ばしたら蓋して蒸らし10分)。栄養分が幾分か流れてしまうのは勿体ないけど逆にダイエットには良いのかも知れないし、しっとりしたジャポニカ米よりパラパラの長粒米は少し少なめの量で同じくらいの「かさ」になるので、さらにダイエット向きなのかも知れません。
30年くらい前に日本米が不足してタイ米が緊急輸入された時には、自分も含め多くの日本人がタイ米の適切な調理法を知らなくて誤解したまま「タイ米はまずい」と身勝手な評判が独り歩きして残念だったし申し訳なかったので、未知の食材の扱い方や料理法が比較的すぐ手に入るネット時代の到来は、とても良いと思うので、まあ調べれば分かることだろうけど、自分の経験もネットの海に放流しておく次第。
フェアトレードや肉食を減らすやガソリンを使わない・マイクロプラスチックを出さない…そうしたことをいつでも完全になんて出来っこない自分を責めすぎない。だからといって「どうせ無理じゃーん」と開き直って偽悪・露悪にも走らない。「親切は驚くほど健康にいい」みたいな題名の本があったと思うけど、自分を不幸にするために環境や人権に配慮するのではなく、社会や世界に親切にできれば自分も幸福で気分がいいと考えること。それは僥倖なのだと知ること。可能なかぎり健やかに、来年も生き抜きましょう、息抜きも入れつつ。
希望のある社会と、その敵(24.12.15)
※映画『ペパーミント・キャンディ』『タクシー運転手』のネタバレがあります。
※語感が良いので使ってしまいましたが『○○な社会と、その敵』シリーズ(
シリーズではない)未読です…
*** *** ***
それまで機会を伺うように何度も周回していた軽自動車が、路面を占拠して座りこみ・ダイインのように横にまでなった人たちに加勢するように停まる。運転していた女性は即席のバリケードになった車を降りて、もう動かせないようスタスタと何処かに行ってしまった―インチキな意見聴取会の結果を携えた政府の車を阻むために。
韓国ではない。ほんの十年前の、日本で僕が見た光景だ。
* * *
視点の取りかたによっては、2024年は『少年が来る』(2014)で光州事件を描いたハン・ガンがノーベル賞を獲り、同じ韓国で「もう二度と」と深夜に結集した人たちが大統領の白色クーデタを阻止した年だった―そんな「まとめ」も出来るかも知れない。
線の引きかたは人によって違う。世界のすべてを親日・反日で二分する人たちに見える景色はまた違うだろう。
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尹氏は関係正常化の立役者 対韓戦略見直し必至 弾劾訴追案可決(毎日新聞/24.12.14/外部リンクが開きます)
毎日の今日(12/15)の社説は
「韓国大統領を弾劾訴追 法治に反した当然の報い」という見出しだが、一方で保守政権ベッタリで今回も単に日本の保守層に都合がいいことを「正常化」と呼べちゃうタイプの書き手も(けっこう常駐して)いるのだけど、そういう人たちが今週の主題ではない。線の引きかたの話を続ける。
いま起きたことを二番目の点だとすれば、一番目の起点になるのは各々の中にある過去の記憶だろう。体験が、あるいは言葉や物語が与えた記憶。たとえば国会前で軍人が差し向ける銃身を両手で掴んだ女性の写真に、架空のアメリカ戦後史を描いたアメコミ原作映画『
ウォッチメン』の冒頭シーンを思い出した人もいたはずだ(とゆうか僕は思い出した)(原作は未読です)。
今回のクーデタ騒ぎと光州事件を線分の二点とした時、僕のばあい起点にあるのは(『少年が来る』より)映画『
ペパーミント・キャンディ』(イ・チャンドン監督/1999年)の方かも知れない。初恋に破れ、結婚相手を裏切り、自暴自棄の果てで列車に身を投げた男の生涯を曲げてしまったのは徴兵での不適応と、にも関わらず動員された光州で弾圧者側として無辜の市民を射殺してしまった罪責感だった。
同作を踏まえて、いや踏まえなくても同じ事件をテーマにした『
タクシー運転手』(チャン・フン監督/2017年)を観ると震えるほど心を打たれるのは、国軍による自国民虐殺を世界に知らしめようとしたドイツ人記者と韓国人のタクシー運転手が検問で遮られるシーンだ。軍によって封鎖されてるはずの光州から脱出するため偽装工作で入れ替えたナンバープレート、車体後部のトランクに入れたままだったナンバープレートを、検問の若い兵士が見つけてしまうのだ。だが19かハタチくらいの、つまり疑いなく大義に従って(あるいは強制に逆らえず)非情に振る舞っておかしくない年頃の、鋭い目のこの兵士は主人公たちの偽装工作を黙って見逃す。実話を基に多くの脚色を施した同作にあって、この見逃しは史実そのままだったという。
かたや命令に逆らえなかった無念。かたや逆らった無名の、決死の勇気。翻って今回のクーデタ未遂。議会を占拠した兵士たち・指揮した将官たちは本気だったのだろうか。命令なので占拠はしたが、戒厳停止を議決する議員たちを本当に実力で・暴力で排除することは躊躇したのではないか−いや、躊躇していたので「あってほしい」・だから掴まれた銃口は火を噴かず、クーデタは失敗したので「あってほしい」気持ちが、特に二つの映画を知るひとの中には生じたのではないだろうか。
実際には同二作の前の時代を描いた作品として(両方とも未見なのですが)『KCIA 南山の男たち』『ソウルの春』があり、後を描いたものとしては自分が観ただけでも『HUNT』『黒金星』『1987 ある闘いの真実』『JSA』などが続く。「映画で観る韓国現代史」でオールナイト興行が打ててしまうほどの、充実の(?)のラインナップで、否応なく実感させられることがある。
この国(日本)には、歴史がない。
* * *
いやもちろん、日本には歴史がある。ありすぎて困るくらいだ(2600年前からあったと主張する人たちがいる。きっと国交「正常化」と躊躇なく呼べる人たちと重なるか、少なくとも仲がいい)。NHKは毎週日曜に大河と呼ばれる歴史ドラマを放送し、また「朝の連続テレビ小説」も新聞小説が国民意識を醸成したというベネディクト・アンダーソンの説を気持ち悪いほど見事に現代化している…とは(たぶん)前にも話したとおりだ。もし話してなかったら、そうなんです。
だが大河の「歴史」とは、400年前の戦国武将の誰が最強みたいな(
戦国好き・大河好きな人には悪いが)スコブルどうでもいい話(たまに平安時代だったり幕末〜明治初期だったりするにせよ)で、朝の連続テレビ小説もそう、むしろ「この国は今どうしてこうなのか」問うことを回避させる逃避の装置ではないかと疑われるほどだ。
というか戦国武将の国取り合戦が「歴史」だという認識は、現在の各政党・場合によっては党内部の政局とやらが「政治」だという認識と同根なのかも知れない。
歴史がない、は「この国(日本)には、政治がない」と言い換えることも出来るのだろう。
もちろん日本には(政局でない)政治もある。けれど、それを語る言葉・あるいは発想がない。
思い出すのは上にあげた、二つの映画にたいする日本での評だ。僕が『ペパーミント・キャンディ』という映画の存在を知ったのは、今はなき吉野朔実さんのコラム集『
こんな映画が、』でだった。これ自体はすごく良い本で、「本の雑誌」連載で見せた本の目利きと同様、紹介する映画のチョイスでも見識を示した彼女が、しかし驚くことに『ペパーミント・キャンディ』を語るにあたって光州事件に一切ふれず、淡い初恋にばかり焦点を当てていた。読み巧者・観巧者の吉野氏にして「そう」なのかという驚きがあった。
時代意識の制約があったのかも知れない。けれど約20年後の『タクシー運転手』でも僕の目に映る事態は変わらなかった。少なくとも日本で、少なくとも声の大きな人たちが喝采した「一番の見せ場」は若い兵士の見逃しではなく、その後に展開する(現実にはなかった)主人公たちを助ける陽動のため、同業者たちのオンボロタクシー群が軍用車を翻弄する「痛快な」カーチェイスだった。
何の話をしているか。この国に歴史がなく、政治もないのは、アーシュラ・K・ル=グウィンなら「現実逃避のファンタジイ」と呼びそうな「歴史」「政治(政局)」にかまけて、現実にはある歴史や政治を「語る言葉」がないため、も、あるのではないか。
現実には、この国にだって歴史も政治もあるのに、だ。
今回のクーデタ騒ぎについて、市民の側に立たない人たちの存在や発言は「歯牙にも掛からない」で流して話す。気にかかったのは韓国の人々の行動力や勇気・闘いのなかにもユーモアを忘れない姿勢を褒めたたえる(日本の)人たち、の、発言だ。
たとえば今回、市民側の抗議行動では「貧乏でクレイジーな芸術家連合」とか「ふくよかな猫が好きな会」なんて旗が、「来週試験なのに」「旗を用意できなかったので段ボールに書く私」みたいのまで含めて乱舞したらしい。それが単なる茶化しではなく自分たちが何か党的なものに動員されてるのではない・自発的に来ているアピールであり、また猫が好きとか食事がおいしいとか、そういう生活と政治への怒りは別じゃない・直結してる証だったと説明されるに及び、僕が観測するSNSでは「自分だったらこんな文言の旗を掲げる」と自称する人たちがワラワラと現れた。まるでネット大喜利や、「見た人もやる(答える)」ハッシュタグで好きなお寿司や天ぷらの具材を挙げるように。
ちょっと待ってくれ。僕が好きな天ぷらの具材は「チーズちくわ」一択です。
そうじゃない。あたかも「自分が日本じゃなく韓国に居さえすれば、面白い旗を用意して国会前に駆けつけたのに」と言わんばかりの人は、
なんでこの日本で面白い旗を持って立ち上がってないのか。機密法で、安保法制で、共謀罪で、入管法で、杉田水脈の生産性発言で、百田尚樹の子宮摘出発言で、あなたがた自慢の面白フラッグを振るチャンスは、いくらでもあったじゃないか。いやそもそも、なんであなたがたは「家で寝ていたいのに」(これも韓国の国会前であった旗のフレーズ)のボヤきを携え能登のボランティアに出向いてないんだよ。
もちろん、実際に街頭に立ってる人、内閣や関係省庁に抗議メールを送ってる人がいるのは分かってる。どこかで水害が起きるたびボランティアに駆けつける猛者も、実際にお会いした(
7月の日記参照)。
でもSNSで、正月の地震発生当時に行政が率先してボランティアを拒否したことや、ボラを受け容れる社協の組織的限界を批判しながら「そんなわけで我慢できないから自分がボラに行ってやる」とは
決してならない人たちがいて、そういう人たちと、韓国の市民の気概にタダ乗りして「私が振りたい旗」大喜利をしてる人たちは、多少重なっている。
もうひとつ、事例を挙げてもいいだろうか。韓国の国会前に馳せ参じた人たちには「民主主義が心配で家でゲームしてらんない」とゲームパソコンを持ってきて路上でゲームしたり「〆切直前のウェブトゥーン作家なめんな」とタブレットを持参して原稿作業を進めてみせる猛者も現れ、日本のSNSでは面白がられ、また賛嘆されていたようだ。思い出したけど、
読書が好きなのでヘイトスピーチに抗議するカウンターの最前列で本を読んでたことなら、あるよ自分。何を読んでたかは忘れたけれど、見たくもない相手の顔を遮るように開いた本を大きく掲げて、ずっと本を読んでいた。当然ヘイトスピーチの主には罵倒されたけど(
そうやってこっちに注意を逸らしてる分、お前が差別発言をする時間は減るんだよ馬鹿め)と思えば耐えられた。
僕ごときでも体験があるのだから、そういう行動をしてる人は(日本にも)もっと沢山いる。タブレットでまんがを描いてる人までは居るか分からないけど、国会前やヘイトスピーチのある場所で本を読みながらスタンディング・ヘイト警戒を兼ねた街頭読書会ならザラにある。変わった旗にしたって、日本でも
「猫の生活が第一」を掲げた「
肉球新党」が安保法制の頃からずっと存在感を放ちまくりじゃないか。僕は一線を置いて参加してないけど(薦められたことはある)韓国の国会前の旗にあった「本当は家で寝ていたい」も、ずっと前から同党のキャッチフレーズでもある。
たしかに数は少ない。けれど声を上げるひと・プラカを掲げる人たちはいる。凝ったプレゼンテーションが出来る人も、そんなの無しに段ボールにマジックで書かれた
「野菜が食べたい」の切実さで強烈な印象を残した人も。
もちろんそんなの全然ムシ無視カタツムリな人たちも居て、たぶん圧倒的多数だろう。でも、それとは別に、日本はどうなってしまうんだと憂い顔をしてみせながら、自分は行動しないし、行動している人たちのユニークさを積極的に評価もしない、むしろ問題点をあげつらって「だから日本では上手く行かないんだ」と水を差し、「自分も韓国に居たらこんな面白フラッグを作るのに」と、さらには韓国の勇敢な若者のスピーチに「日本の若者も見習ってほしい」などと言う人が居る。そう言うからには自分は若者じゃないんだろうけど、若者じゃない自分が率先して韓国の人たちを見習う態度は示さない人たちが。
一人の人間の存在・行動すべてが「そう」ではないのかも知れない。一人の人間の中で行動する部分と、ポーズだけ取って何もしない・してる人たちに寄与もしない部分が混ざり合ってることもあるだろう。他ならぬ自分だってそうだ。だから言う。社会を憂いているようで、実は社会を変える力を削ぐ、厳しい言葉でいえば「敵」のような発言がある。そちらのほうに凝り固まってしまってる発言者・アカウントがいるかも知れない。そういう人たち・そういう発言は読むひとを気持ちよく反抗者の気分にさせるが、人を行動させる発言ではないかも知れない。
何回か前の日記(週記)で書いた、今の社会の間違いは言語運用の失敗かも知れないという話をしている。
とくに、勝てなかった運動は速やかに「なかったこと」にされ、忘れられるのかも知れない。韓国は白色クーデタを目論んだ大統領の弾劾が決まったから皆、安心して褒め称える。トランプに負けた民主党に与したセレブたちの発言は「アメリカを憂いる」人たちにも冷笑された。
原則的にそうなのだと悟ったうえで、なお。たとえば10年前に安保法制に反対した人たちの「功績」が面白いくらい記憶されてない社会(この国)の言語運用には躓きがある、何ならそれも「敗因」の一つではないかと思ったりする。韓国がうらやましい、
日本には真の民主主義は根づいてないと嘆きながら、実際に芽吹いた芽は摘み取るような言語運用。社会や世の中を変える行動よりも、自分が正しく、誰かを批判できる立場にいることを優先するような言語運用がありはしないか。
皮肉なことに尹錫悦も朴槿恵(パク・クネ)も、そしてドナルド・トランプも国民の直接選挙で大統領に選ばれている。フランス革命の歴史を見るまでもなく、国民が主権者となって自らの首長を選ぶとは
「まるでそれが救いであるかのように(略)
隷属するために戦う」(スピノザ―ライヒ―ドゥルーズ=ガタリ)自発的反動・自発的隷従との絶えまないシーソーゲームなのだろう。けれど「私たちは間接選挙制だから」「天皇制があるから」を今しない・ずっと変えられない理由にして何もしないことを巧みに唆す言語運用があるなら、それは「今のままでいい」と嘯(うそぶ)く大多数と変わらないだけでなく「自分は反対だった」と保険だけは掛けてる点で、見方によっては、より悪質ではないのか。
いや、そもそも「今のままでいい」は本当に多数派なのだろうか。
SNSといえば「今のままでいい」派の人たちの温床のように言われてるXで、二次創作の美少女の絵ばかり投稿しているアカウント主が、絵とは無関係な日常のつぶやきで「住民税が高い。泣く泣く支払ったあと、国会議員の豪華な食事を見てさらに泣けた」みたいなポストをして、それに「投票やデモにきちんと行かなきゃですよねー主権者なんだから」「そうなんですよねー行ってるんですけどねー」というレスが続いて、とても驚かされたのも最近のことだ。
もちろんその「絵師」さんは「選挙には行ってる」だけで、デモまでは参加してないかも知れない。けれど政治について語らないのが暗黙のルールみたいになってるオタク界隈でも「デモで社会を動かす」ことが揶揄でなく素直に認識されてる・そういう認識が少なくともゼロではないことに驚いてしまったのだ。
だとしたら足りないのは、そういうことをもっと言っていい、タブレットで絵を描きながら街頭に出ていいという言葉なのではないか。隣国が羨ましい、日本はいつまで経っても変わらない・次の世代の若者には変わってほしい、ではなくだ。
いろんな事情で街頭には出られない人もいるだろう。夏場は暑くて無理とか、そんな事情でも甘えとは思わない。けれど署名するとかメールを送るとか(さっきも書いたけど)手段もまた様々あるはずだのに。なぜ人は、たとえばネット署名を呼びかけるのに、自分自身のアカウントで、自分自身の名において「私も署名しました」とリンクを張るのでなく、誰かが「私は賛同しました」というポストをコピペして、他の誰かの名で拡散するのだろう。そういう言語運用で「この社会の人たちに自主性がない」と嘆いてみせるのは、まず鏡を見ろという話ではないか。ましてその嘆きも誰かの名前ごとのコピペだった日には。
* * *
そんなわけで久しぶりに街頭へ。衝動的に「そうだ、北海道行こう」と無理をして美しい景色を堪能したあと
たまさか自分が札幌に居た晩にMY BODY MY CHOICEを訴える「私のからだデモ」に連動したスタンディングをやっていたので、まあシスヘテロおじさんの自分は「THEIR BODY THEIR CHOICE」なのだけどねと思いつつアライとして加わってきました。
・
「私のからだは私のもの」 女性への差別的な言動に全国で抗議デモ(毎日新聞/24.12.13/外部リンクが開きます)
スタンディングは平穏なものでしたが、某ドーナツ店の前を10人くらいがズラリと占拠したので解散後ひとり店に入ってドーナツテイクアウトして夕食に(笑)。…(笑)と書いたけど、とくに品川入管の前で建物の中に届くくらい大声で・拡声器も使ってコールを上げる(中からも呼応がある)スタンディングに参加したときも、直近のコンビニでおにぎりとか意識的に買うようにしていた。
韓国のデモで開催場所の近くになるコンビニや食堂に「私のお金でデモ参加者に差し入れしてやってくれ」と寄付が寄せられたりしてるらしい。自分は参加できないので代わりに、という意味合いの他に、デモで迷惑を被るだろうお店への配慮もある(だろう)という。そうゆうのも個人レベルで出来るし、余裕があればすべき・そういう余裕をもつべきとは、当事者よりアライで参加が多い立場・視点だから言えるかも知れないので言っておくのだ。
(あ、はい、生ノースマンも美味しかったっです…)
各地でスタンディングに参加した人たちがSNSで楽しそうに、嬉しそうに報告しているのを見て心が温まる。韓国での市民の集まりを見て、自分たちだってと刺激されたところもあるのだろうう。この社会に希望があるとしたら、それは金曜の夜に日本じゅうで街頭に立った、あの人たちのものだろう。「私だって向こうにいれば」「それに引きかえ日本は」と嘆いて終わる・終わらない(「何もしないけど正しい」位置に居座りつづける)側にではなく。
この国にも政治はある。民衆の歴史も、路上の希望も。言語運用のせいで残らながちの、さまざまなデモやスタンディングで目にしたそれらを、自分も一度まとめて言語化・あるいはエッセイまんが的な形でまとめたいなと思いはじめてる。安保法制で、形ばかりの意見交換会を終えて永田町に向かう関係者の車を停めるために横浜の路上に座りこんだ人たち。道をふさぐ形で軽自動車を乗り捨て、スタスタと歩き去った人までいて目を疑ったこととか。日本でもそうゆうこと、平気であるんだと。
ゼノフィリア?〜『ザ・レイド』『ペトルーニャに祝福を』『死亡通知書 暗黒者』(24.12.02)
ショービニズム(排外主義)・レイシズムなどとは別に
ゼノフォービア(外国人ぎらい・外国人恐怖症)という言いかたがある。もしかしたら自分は逆に、言うなれば「ゼノフィリア」の気があるのかも知れない。
と言うよりゼノフォビアと表裏一体であるような愛国心・愛郷心・身内フィリアみたいな心情、に、対する嫌悪や忌避感・苦手意識。思えば何度も(とくに近ごろ)本サイトで頻繁に取り上げているサマリア人の教え・他人どうしの連帯・「何も共有しない者たちの共同体」といった概念もそうだ。そもそも「オタク」「オタク」と言うけれど、自分にとって吾が意にかなったオタクの定義は
中島梓氏が『コミュニケーション不全症候群』で描写した「人間よりも非人間を仲間だと思う」だったりする。…現実の「オタク」は非人間を媒介にして結局は人間どうし・仲間同士での共感や盛り上がりを重視する社交的な人たちで…という話は兎も角、異国好き・異国人好きと訳せそうなゼノフィリアには「赤の他人にしか性的な関心を持てない」意味もあるという話は含蓄に富む。いや、これも別の話。
日本人による、日本を舞台にした映画やドラマが近年ますます苦手になっている。質の問題に帰そうとは思わない。昔から得も言われず苦手で、その理由も上手く説明できない。「生々しい感情を見たくないのかも」と話したら「韓流のドラマのほうがずっと生々しいよ」と返されたこともある(たぶんそうなのでしょう)。要は目の前の現実を見たくないのだろうか。まんがやアニメ・あるいはSFみたいなクッションを置けば、つきあいやすい。実写でも子ども向きの特撮ヒーロー物なら観れるというのは重症かも知れない。
思考を内向きにスパイラルさせていくと、
まあ元々そんなに多くの物語を必要としない(
それでいて自作は読まれてほしいってダメですよねえ)傾向もあるかもなぁと思わないでもない。映画館に行くのは年に10回ないくらいだし、昔はそれなりに観ていたハリウッド発の大作なども「どうせ強大な力を手に入れた主人公が中途イイ按配の苦境に凹みつつ人間的に成長して最後は巨大ビル群が崩壊するスペクタクルで敵を倒して、エンドロールの後に続篇の匂わせがあるんでしょ」みたいに思ってしまう(マーベル物のどれかに抜擢された監督が自ら同じようなことを言うてはりましたね)、もっと疲れてるときは「
どうせまたハラハラドキドキして最後は感動させられるんでしょ」くらいに思ってしまう。
もしかしたら身内フォビアでもゼノフィリアでもなく「ネオフィリア(新しもの好き)」なのかも知れない。
昔から皆がとうぜん押さえてるメジャーどころを外して、妙にマイナーなものに手を出すところがある。世界一の興業成績を誇るメガヒット作より、あまり観る機会のない国や地域の映画に、わりと心を惹かれる近年らしい。マーベルの『アベンジャーズ』が
「日本よ、これが映画だ」という宣伝文句で公開されてきた時も「
よく言うよ」と思ったし、アイルランドやスーダン(
20年6月の日記参照)・ミャンマーの作品(
昨年8月の日記参照)にこそ「
むしろコレが映画だろ」と思うことが少なくない。
* * *
たぶん「インドネシア発」というだけで観に行った
ギャレス・エヴァンズ監督『
ザ・レイド』が「味をしめる」キッカケだった。2011年か12年。
いや、インドネシア発「というだけで」は嘘で、実際には多少の予備情報があった。舞台はジャカルタ…それは意識してた記憶ないけれど、麻薬王のアジトである建物に警察の特殊部隊が急襲をかける。だがそのアジトは、公団住宅みたいな建物の
各部屋が子分たちの住居になってる職住一体(!)の暴力マンションで、突入したとたん入口を閉められた警察部隊は「住人たち」の反撃で絶対絶命…これに主人公の警官は「
世界最強の格闘技」
シラットで立ち向かう、というものだ。
そして新宿の単館で二週間限定くらいの上映。観なきゃ、と思うでしょ?
ちなみにタイのムエタイも世界最強の格闘技だった気がするし、マット・デイモンがCIAエージェントを演じた『ボーン』シリーズで駆使していたカリも世界最強の格闘技だった気がするけど、細かいことはいいんだよ。ああいうノリで「世界最強の格闘技・スモウ」がブロンクスあたりで暴れ回るまんがを描いてみたい…というのは冗談半分として。
この『ザ・レイド』が世界のバイオレンス・アクション映画史に爪痕を刻む傑作だったわけです。サミュエル・L・ジャクソンも好きな映画5本に選んでいたと思います(他の4本まるで憶えてない…)。
インドネシアで作られ、インドネシアのアクション俳優イコ・ウワイスやヤヤン・ルヒアンを世に出した同作、監督はアイルランド人で音楽は日系アメリカ人のマイク・シノダが担当と、ローカル映画でありながらグローバルだったのも現代的な現象なのだと思います。
* * *
世界各地の映画を(語れるほど観てはいないけど)観て気づかされるのは、昭和に育ち平成で人格を形成した自分が捨てがたく身に染みつかせてしまってる「日本は進んでる」という感覚だ。
もちろん今でもこの国には経済力も文化的な影響力もあるだろう。でも、それ以前に(一位は物量でアメリカだったり、社会面で北欧だったり観点によって評価は変わるにせよ)欧米が一番すすんでいて、日本はそれに追随する二番手・その他のG7だか20だかに含まれないような国々は遅れていて、トップ欧米の先進文明が二番手の日本を経由して三番手の「途上」諸国にトリクルダウンしていく、そんな無意識の誤解・偏見に気づかされるのだ。
なんなら(かつて第三世界と呼ばれたような)世界の各国は「日本のようには」文明化していない、あるのは昔ながらの前近代的な生活か・さもなくばスラム街みたいな、大仰に言ってしまうとそんなイメージが自分の中にありはしないか。
実際には世界じゅうの国々が日本など通らず、じかに欧米の物質文明とつながっている。それをすごく表わしてるなと思ったのが2014年のインド映画『
銃弾の饗宴 ラムとリーラ』(
14年9月の日記参照)のオープニングだ。いかにもボリウッドらしい民族衣裳と大量のモブを従えた歌にダンスは、日本でも(たぶん欧米でも)エスニックな・何なら遅れた文化をエキゾチックに楽しむ的な文脈で捉えられてるけれど、そのクライマックスはサリーに身を包んだ=つまり伝統的な装いそのものの女性たちが群がってハンサムな主人公をスマホで撮るというものだ(4:00くらい〜)
日本のゼノフォーブ(外国人排斥論者)もしくは単に人権ギライな人間が「難民がスマホなんて持ってるのは変だ」と見当違いなイチャモンをつけたことが思い出される。相当に政治的位置の高い人物が「飛行機に乗ってこれる難民などニセモノだ」みたいな発言をしたこともなかったか。それまでいた国では大卒でITを駆使する仕事をしていたような層でも政変が起きれば亡命を余儀なくされるのが難民というものだし、現代においてスマートフォンは贅沢どころか最低限度の生活を守るための必需品だったりする。
そんなわけで欧米や日本以外の国々の映画を観ることは、地理的な辺境に残った手つかずの前近代・
ではなく21世紀グローバリズムの現在を「グローバルとローカル」という視点で見ることだし(
今週のまとめ1)
先月の小ネタで取り上げた(
参照)パキスタン映画『ジョイランド』のように、むしろ作品の中で描かれる「前近代性」が、まさに2024年現在の日本にも共通する桎梏だと見て取れたりもする。(
今週のまとめ2)
* * *
2021年に観た北マケドニア映画『
ペトルーニャに祝福を』も面白かった。主人公ペトルーニャは32歳・大卒・ゆえにまともな職に就けず(そういう社会なのだ)非正規の独身女性。またしてもハラスメントまがいの屈辱的な面接で落とされ憤懣やるかたない彼女は帰路、河に浮かべた十字架を手にした者に一年の幸運が恵まれる伝統行事に出くわす。問題は行事が男子限定・女人禁制だったことだ。衝動的に河に飛びこんだペトルーニャは男たちより先に、幸運の十字架をゲットしてしまう。
たちまち村は大騒動。過干渉な母・娘の味方だが病弱で無力な父・社会問題にしようと食いつくジャーナリスト・実は(十字架争奪が女人禁制って変だよなー)と心の底では理解してそうな司祭・十字架は男のものだ返せ盗人めアバ○レめと詰め寄る男たち・そして叩かれるたび何かを目覚めさせてゆくペトルーニャ。
ついには警察に拘留され一夜を過ごす。十字架を譲ろうとしない彼女を、むしろ暴力から保護するためもあったのだろうか←ちょっと記憶が曖昧ですけど、警察の外にまで押し寄せ、フーリガンよろしく汚い言葉を連呼する男たちが次第に、これが聖十字架にふさわしい?という腹立たしさを通り越し、滑稽で哀れな存在に見えてくる。そんな中、警察署のなかで珍しく彼女を理解してくれそうなハンサムな警官とイイ雰囲気になったりして、言うなればペトルーニャは惨めさの外に出られない男たちを置き去りに、(まだ内面的にだけど)ずんずん先に進み出す。警察署に面会に来た司祭にペトルーニャが
★まあ見当つくかもだけど、ネタバレなので一応たたみます(クリックで開閉します)
「幸運の十字架の権利は放棄します。私より、あの人たちに必要そうだから」
と告げる結末は皮肉が利いている。本当に十字架の救いが必要なのは誰なのか?本当に十字架が救いになるのか(十字架の救いが男たちを愚かで哀れなままに留めているのではないか?)。いやそれでも、十字架はやっぱりペトルーニャには(にも?)救いをもたらしたのではないか。
・参考:
『ペトルーニャに祝福を』(シネマ・ジャックアンドベティ/外部リンクが開きます/日本版公式サイトは消失済)
今週のまとめ3として、興業収入1位の「バズった」作品に皆が押しよせ共通体験でひとつになるよりも、こうして世界じゅうのリムランド(辺境)の物語を、地続きの「自分の世界の物語」として享受できるほうが豊かなのではないか…という話は先月もした(
参照)ばかりだ。それは正論かも知れないし、何度も言ってるように自分の趣味・性癖・嗜好なんならコミュニケーション不全「症候群」の「症例」かも知れないと思う程度には慎み深い自分ですが、でも「バズり」やメガヒットにばかり関心を狭められて好き嫌い・「萌え」すら単一化されていくこともまた「症例」ではないだろうか?
* * *
この国(日本)に住んでいて今、最も意識的に「遠い」国は中華人民共和国かも知れない。大都市では日本をゆうに凌駕するハイテク文明が栄え、超管理社会と思われる一方、(日本もそれを言えた義理ではないはずだが)人々の人権や少数民族にたいしては抑圧的で「前近代的な」独裁国家のイメージ。いや、分からない。平均的な日本人がもつ中国像が正直わからない。
分からないけど『三体』のメガヒットで注目された中国SFも一方で「やっと日本に追いついた」みたいに思われている部分がありはしないか。実際、かの国のSFは近年になって進境いちじるしいにしても、小説ジャンルの隆盛の早い遅いに関係なく、作品じたいは「今」の世界を描き、そこに「古さ」「遅れ」はないように思われる。
周浩暉『死亡通知書 暗黒者』(原著2008年/稲村文吾訳・早川書房2020年/外部リンクが開きます)
「華文ミステリ最高峰」は、まあ翻訳出版元が言ってることですけど(あまり考えず手に取った)たしかに圧倒的な読みごたえ。
法が裁かぬ悪人を裁き、処刑する連続殺人犯。ネット上での犯行予告が匿名性の高いネットカフェのパソコンから行なわれたという冒頭から「あ、そうか…中国にもネットカフェがあるんだ…そりゃそうだよね…」と思ったひとは
自分の中の先入観を補正するためにも読んだほうがいいかも知れない。たとえば警察側の登場人物ひとつ取っても、FBI流の犯人プロファイルを専門とする心理分析官や、ハリウッド映画などではお馴染みのギークなハッカー捜査官など、リアルタイムでグローバル水準な面々が肩を並べる一方で、警察内の組織統制は日本などの(ミステリで描かれる)それよりはるかに統制的だ。と思う。いや自分、鮫も相棒もコナンもようよう存じ上げないのですが。
匿名の犯人は、そんな警察を出し抜くように次々と、衆人環視の真っ只中で常識なら不可能な「処刑」成功を重ねていく。その恐ろしいほど鮮やかな手口・ハウダニットが最後まで本作の見せ場だ。これは余談だしネタバレなので例によってたたむけど「これが二番目の犯行現場です」と示された、誰もいない廃工場が写った何枚もの写真に「どれがその写真だ?被害者が写ってないじゃないか」
★伏せます(クリックで開閉します)
「写真ぜんぶです。爆殺された被害者が肉片になって飛び散ってるんです」
という場面の恐ろしいこと。
そして名も知れぬ犯人の狙いが体制的な警察機構そのものの不正を暴くことで、通常の捜査系統から外されていながら本事件の専従として招聘された主人公こそが真犯人なのでは?という疑念をはらみつづける、フーダニット(犯人は誰か?)のみならず「誰が探偵か?」誰を謎の解き手・正義の執行者として信頼すればいいのか最後まで分からないサスペンス。その謎解き・フーダニットとホワイダニット(犯人の真の動機)はまあ、上に書いた「どうせ感動するんでしょ」風にいえば「どうせ驚かされるんでしょ」の範囲内なんだけど(
厳しいお客さんだなあ)ハウ・いかにしての部分の練り上げが半端ない。ミステリというよりサスペンスとして読む手が止まらない内容でした。
映像化もされてるんじゃなかったかしら。世界がグローバルであることを、否応なく実感させられる力作でした。
* * *
ちなみに小説では、前にも紹介したと思うネットSF誌
『Kaguya Planet』(外部リンクが開きます)が少し前に掲載したギリシャの短篇「
ボーンスープ」がSFというか現代に残るローカル呪術的な物語で面白かったです。「ふうん…こういうのが面白いのね舞村さん(仮名)」と少し冷たく思ってもらえれば幸い。
またパレスチナ作品特集で掲載の「
ムニーラと月」は、語弊あるかもですが「
…百合ファンタジイじゃん」な内容で、これと昨年観た映画『ミャンマー・ダイアリーズ』(
昨年8月の日記参照)のタピオカミルクティーのエピソードが、
どちらも非道な弾圧の行なわれている場所だけど「物語の語り手が考えてることはロマンチックで、少女まんがが好きな日本の自分とあまり変わらない(かも)」というのが、今夏のまんが新作『リトル・キックス』で異国を舞台にしながら日本が舞台と変わらないラブコメを描いて問題なしと自分を納得させる根拠にはなっていました。
実際、欧米→日本経由で→他地域というトリクルダウンこそないにしても、対等なコンテンツのソースとして日本が今でもそれなりの存在なのは事実で、現在ニチアサで放映中・自動車モチーフな戦隊物『
爆上戦隊ブンブンジャー』の中華圏での漢字タイトルが
なの(意味は「走る人」だそうです)、宇宙をモチーフにしたアニメ『スター☆トゥインクル・プリキュア』で主人公の「
キラやば〜っ☆」という決め台詞が英語圏で「
TwinCOOL」と訳されていた(らしい)のを彷彿とさせ、趣味は国境を越える=最高にバクアゲだな!と思った次第。
このさき日本が没落しても滅びても、萌えとかオタク文化の良いところは(ルッキズムやミソジニーなど人を幸せにしない部分は削ぎ落とされつつ)世界に散布され根づいて残るといいなあと願っています.
小ネタ拾遺・24年11月(24.11.30)
(24.11.01)夢の中でホワイトボードに描いていた楽描きを起きて20分で。「
札ビラのビラって何」
11月。深夜3時。また寝ます。
(24.11.02)「迷星叫(まよいうた)」「壱雫空(ひとしずく)」「無路矢(のろし)」「影色舞(シルエットダンス)」などなどトリッキーな難読を究めてきた(
それでいて「栞」は「しおり」なの本当にトリッキー)
MyGO!!!!!の楽曲タイトルですが、新曲「
霧周途」を布施明に引っ張られて「
ましゅうこ」と誤答した人はたぶん昭和世代。(正解は「ミスト」だそうです)
(24.11.03→07)前回2020年・トランプが下野した時の選挙で「(これで)アメリカという制度は最終的には秩序を取り戻す」の後いちおう「
失敗すればアメリカは崩壊する。それだけのことだ」と一文だけ保険を掛けておいたのが(
21年1月の日記参照)掛け捨てにならなかった悲しみ。それだけ同国の分断は深いということか。
選挙の終盤、民主党の応援に起用され今めっちゃ叩かれてるハリソン・フォードがスピーチで
「カマラ・ハリスとティム・ウォルツ(中略)
の政策すべてに賛成なわけじゃない。二人が完璧だとも思わない(中略)
でも二人は法の支配を信じている。科学を信じている」と語った「法の支配」と「科学」とくに後者をトランプ政権と支持者たちがどう遇するか。アメリカで最も脱炭素に積極的な州知事と呼ばれたウォルツが敗れたの、20世紀から21世紀への節目で気候変動対策を訴えたアル・ゴアがブッシュJrに敗れた再現のようで、んー、ゴアやウォルツの環境対策が「完璧だとも思わない」けど、今夏(10月第三週くらいまで「今夏」だった気が)の酷暑を思うと…
…今はハリス陣営のまずかった点ばかりが(トランプに批判的な層でも)強調されてるけれど、トランプ2024で得られなかった「たられば」(当初は期待されたのにハリス陣営が選挙途中で手放してしまったものも含め)を惜しむ気持ちが強い。その「たられば」(人権とか環境とか)を求めるコンフリクトは続くのだから。あと、どうやら向こうでも起きている「オールドメディア」を蔑視しながらSNSやショート動画には容易く煽動されてしまう傾向も。で、その「新しい」ネットメディアはAI多用で原発再稼働を要求…
(24.11.04)
まあ選挙権もない海の向こうのことで思い悩む義理もないんだけど、アメリカが今後こうなると危惧されることの一部(もしかしたら根本的な部分)が、海のこちらのこの国では政府与党と多くの国民・そして何なら最大の労組までもが支持するマジョリティの政策・生き方として実装済みかも知れないことは、さらに深い憂慮に足る。
ケイト・ブッシュが自身の過去曲にどう見てもガザを想定した反戦アニメを載せた新作ビデオを公開してて、それをYouTubeで眺めた後すかさず入るのが、かつて日本で有数の花形だった気がする女優が往年カンフー映画の手垢のつきまくったパロディで消費者ローンを宣伝する広告動画で、目的が違うのだから比べるものではないとはいえ、彼我の落差がしみじみ哀しい。
(24.11.30追記)件の宣伝広告、最新作は来日観光客を小馬鹿にする感じで当の消費者ローンのキャッチフレーズをリピートアフターミーさせる内容で、なんかますます頭が痛い。
(24.11.08)
【署名】「帰る国」のない若者の永住許可を取り消さないで!(永住許可 有志の会/change.org/24.10.9/外部リンク)
これは参考に:
日本育ち外国籍の20歳女性、8日にも強制送還 うつ病で在留資格喪失し収容、入管の対応に「人道配慮欠く」の声(東京新聞/24.11.6/外部リンク)
「こうしたケースでは、国連の関連機関である国際移住機関(IOM)から、帰国後の住居探しや家賃の援助、職業訓練などの支援を受けられる。しかし、女性は「入管に、IOMの支援を受けると二度と日本に入国できなくなると言われた」といい、支援を断ったという。IOM駐日事務所の担当者は「支援を得たから再入国が不利になることはない」と説明。支援者らは、入管が女性を早く帰国させようと虚偽の説明をしたとみて問題視している」(記事本文より/強調は引用者による)
あなたは次のどちらが「自分だ」「自分の仲間だ」と思いますか?と訊いてみたい気はしますね。1)強制送還される女性 2)入管の担当者。…3)大リーグで活躍する日本人選手?
(24.11.09)読書週間も今日で終わり、ということで本にまつわる本を一冊。
点滅社という小さな出版社が編んだ
『鬱の本』(2024年/外部リンクが開きます)は84人が寄稿した「鬱にまつわる本」をテーマにしたアンソロジー。多くは当事者で、鬱の時に自身をつなぎとめた本について述べてます。未病のひとも、眠れない夜などに。
ちなみに自分は、寄稿者のひとり谷川俊太郎さんが言うところの
「気が滅入ることはあるが、それが鬱まで行かない」に「あ、自分」と思った現状なので、まあ大丈夫といえば大丈夫です。ただし詩人が
「ので、我が晩年は呑気に明るいと続けてるのに対して、自分は6:4か7:3で「ぼんやり暗い」し、時々は大きな黒い犬が首元までやってきて息を吹きかける感じに陥ったりしますが、それは今日ではない。大丈夫。(※強烈な鬱や念慮に飛びこむ元気すらない、という気もしますが…)(黒い仔犬が絶えずまとわりついてる・または
「小さな緑の車輪がついてまわる」感じかなあ)
(追記)谷川俊太郎さん、亡くなっちゃいましたね…
(24.11.16)それはそれとして今年も(初日出遅れたけど)おにぎりアクション完走。
(24.11.17)おにぎりアクションの精進明けでもないんだけど(別に44日、毎食おにぎりだったわけじゃない)翌日は横浜中華街で肉圓と豆花を食べてきました。どちらもモノホンの台湾名物で、口にした途端、本場の肉圓や油飯・小豆が乗ったかき氷や潤餠・夜市やら街頭やら地下街・車窓・四回ほど訪れた台北周辺の記憶がワーッと甦って「
マドレーヌかよ!!!」と内心でツッコミを入れていましたとさ。食べ物が記憶のトリガーって本当にあるんですね。
(24.11.20)おにぎりアクションが終わったら次はカレー三昧よね!という心境を見透かされたかのように−下の画像は今夜つくった普通の豆カレー(市販のルウ使用)なんですけど−
Web拍手経由で400以上のレシピが掲載された本格スパイスカレーの電子書籍(無料)を御紹介いただき「すげー」とパラパラめくっている処。具体的な書名などは実際に何か作ってみて、成果が出た時点で共有しようかと思います。今月末をメドにした宿題です(
追記:翌月以降になります)。まずは御教示の御礼まで。
(24.11.13)BTSのファンはARMY、ピチカート・ファイヴのファンはピチカートマニア。人間椅子のファンは檀家、Ave Mujicaのファンは共犯者。
トマカノーテ(スパスタ三期)のファンは(嘘注意)
(24.11.22)「頑張って生き延びましょうね」というのは、実は必ずしも果たしえない(というか長期的には誰も果たしえない)約束なのだけど、逆に「生き抜く」は仮に途中で倒れても不履行にはならない誓いなのかも…などと考えてしまうのは、昨年まさに「生き抜いた」櫻井氏のためかも知れない。※国語的には異論もありそうな考えなのは認めます。
新メンバーを迎えることなく、ギタリストふたりのツインボーカルで制作されたBUCK-TICKの新曲。欠落は欠落のまま残った四人で生き抜く(それって実質、五人で生き切ると同義じゃないか)選択に名状しがたく打たれている。
BOYS & GIRLSを煽りたてるサビが、「女の子男の子」と唄った「スピード」へのセルフアンサーのよう。
(24.11.14)「パキスタン映画」「トランスジェンダー」というキーワードふたつに惹かれて観た
『ジョイランド 私の願い』(公式/外部リンクが開きます)一分の隙もなく丹念に描かれた力作でした。観賞中なんども「
家父長制 IS UNKO」という感想が脳内をよぎったのは、人類学の学士号も持つ監督の狙いそのものだったようで(いや監督は「UNKO」とまでは言っていませんが、公式サイトの監督ステートメントなど参照)。家父長制が誰も幸福にしない・なんなら家「父」と呼ばれる者すら幸せにしない、けれどまず劣位に置かれた女性たちを・そして男社会を降りたい男性を「幸せにするものか」と苛むさま・を・コレでもかと描きながら、叶わずとも求めずにいられない自由や希望を目映(まばゆ)く提示していました。
射落とさんとした的は違うけど、たとえば『
PLAN75』(
22年6月の日記参照)
に射ぬかれたひとには、こちら(ジョイランド)もオススメです。
横浜での上映は11/22まで(シネマ・ジャックアンドベティ/外部リンク)ですが、これから上映の劇場も(首都圏ふくめ)まだまだあるので是非。「マララ・ユスフザイ」「リズ・アーメッド」が上映を後押し、というキーワードで惹かれた人も。
(24.11.23)『モンキーマン』は『ジョイランド』と同様に(インド文化圏で「第三の性」と呼ばれる)ヒジュラーが展開の大きなカギとなる映画だった。(とくに白々しくも現代的・先進的を自称する社会で)急速に進むトランス差別へのカウンターの意味合いもあるのだろうと思う一方、多数派が少数者に自由や反逆の夢をロマンティックに投影しすぎることへの懸念もあり…しかしどちらも敵(悪)の社会的な造形に仮借がなく果敢でした。
個人的には『ジョイランド』のが好み。急速に薄れつつある記憶頼りで間違ってたらゴメンナサイだけど、主人公夫婦が映画前半・それぞれ別の場で「停電の危機をスマートフォンの光で切り抜ける」機転を見せるのが(やがては固陋な社会に叩きつぶされてしまう)二人の絆を示してるようで愛おしかった。(というかモンキーマン、日本だと評者として起用されてるのが格闘家や芸人・叩きつぶす側な差別ラッパーとかで中々ガッカリ…届くべき人にはもう届いてる映画だと思うので、公式サイトとかは貼りません…未見で関心ある人は本サイトなどに惑わされず観て各々で見定めてね…)
『モンキーマン』のラスボス、言行不一致ぶりが怪物めいてて凄かったですね…最後、主人公が丸め込まれちゃうんじゃない?くらいの怖さがありました。
(24.11.24)『ジョイランド』ネタバレなので
★たたむけど(クリックで開閉します)
親に「あの娘と結婚しろ」と命じられた主人公が夜中に単身で彼女を訪ねて「厭ならそう言ってくれ。男のほうから断ったほうが破断にしやすいから僕が断る」と持ちかけ、その思いやりを見て彼女は結婚を承諾する
というエピソード、ああいう制度(かつて日本にもあった)では実は結構あることかも知れないと思ったのでした。そうした互いへの敬意に基づく絆が、あの映画でのように圧殺されてしまうことも。逆に旧ソ連を舞台にした映画で、男性は自由恋愛で互いに惹かれあったつもりで結婚したのに妻のほうは「あなたのように強い立場の人間を断れるわけなかった」と怒りを募らせていた事例もあり、板子一枚下は奈落かもですよ(モンキーマンの感想と合わせて、こちらを今週のメイン日記にしたほうが良かったのでは…)
(24.11.29)兵庫県知事選がらみでPR会社という語が連呼されてて思い出したけど無関係な話。ハリウッドなど外国映画のエンドロールでスタッフに日本ルーツらしき人名を探しては「よしよし、異なる土地に根づいてるね」と満足するのが自分の数少ない愛郷心の発露なのですが(?)、基本インド映画らしくて(撮影はインドネシア)流石に無いかなと思っていた『モンキーマン』で最後の最後に配給関連で
DENTSUの文字を見て複雑な気分に。
インドネシア発のアクション映画で度肝を抜いたイコ・ウワイス主演の『ザ・レイド』(もう13年も前なのか…)も監督はウェールズ出身で劇伴の音楽はリンキン・パークのマイク・シノダが担当とか、コンテンツの魅力一本で世界がグローバルにつながる自体は、それがプラットフォーム資本主義に回収される危うさも含めて興味ぶかいなと思ってます。
ちなみに『モンキーマン』(DENTSU以外にも)VFX担当でサトウ・スミスさんが居ましたね…後で確認したらオーストラリア在住のクリエイターで『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』の映画なんかにも関わってるみたい。
(24.11.26)『監獄の誕生』有名なパノプティコンとかで囚人を「管理」するより前の、前フリの段階で既にめっぽう面白い。18世紀の拷問をともなう死刑=「身体刑」がスプラッタ映画ばりに残虐を極めたのは、法に逆らう犯罪で王の権威も挑戦を受けたという観点から→罪人を完膚なきまでに粉砕できる王の力を改めて誇示する必要があった・直接の被害者より王の復讐だったと説明される(
雑な理解注意)のを読んで、いちおう分かったつもりでいたフーコーの権力概念:かつての王権は民草の「死を司るが、生のほうは勝手に生きるに任せた」のに対し近代の生権力は労働力としての国民の「生を管理するが、死ぬほうは勝手に死ぬに任せる」だという定義の前半=「王権は民の死を司る」が改めて体感(?)できた気がします。
(24.11.27)日曜価格とはいえ
小ぶりのキャベツひと玉500円はビビるて。安い日・安い処でも400円。こちらは特価だった小麦粉で、久しぶりにお好み焼きでも…と思っていた予定を変更、手元にあったニラとタマネギで急遽チヂミに。これはこれで幸せだけど、うーむ。
(同日追記)逆にしばらく高値だったパプリカが近頃お安くなってるので喜んで使ってます。
生き延びれるかは分からないけど、生き抜きましょうね。
息抜きも挟みつつ。また来月。
『知恵の樹』と燃える船〜選挙の後に(24.11.24)
さいきん読み終えた
鶴見俊輔『戦時期日本の精神史 1931〜1945年』(親本1982年→岩波現代文庫2001年/外部リンクが開きます)に「ぐぬぬ」と唸ってしまう箇所があった。イギリスでは第一次世界大戦の時には130%上がった食料の値段が、二倍ほど長い期間にわたった第二次世界大戦では20%の上昇に抑えられたというのだ。
「政府からの補助金がなかったとしても、その増加率は五〇%にすぎませんでした」(「戦時下の日常生活」)…たった一年で日本の白米って倍・つまり100%ほど値上がってません?戦時並み・戦時以上の主食高騰が平時に起きる国って何?
※永井荷風の戦中記録に基づけば、1943年の日本では一年で米価が250〜400%高騰したそうですが…
*** *** ***
アメリカ大統領選の逆転劇を見て、これは兵庫県の出直し知事選も…と危ぶんだ人も少なくなかったのではないか。かくて懸念どおりとなった今、思うところを少し整理しておきたい。
世の中すごい勢いで変転してるので(この文章をアップした日の晩には名古屋市長選が開票され「はい次はこっちー」と市井の関心は移るかも知れないし、移らないかも知れない)備忘のために書いておくと、海の向こうとこちらで「好ましくないと名指されていた候補がSNSやショート動画の力で逆転勝利した」という構図だ。アメリカの場合は民主党への失望が回復されなかったことも大きいけれど、同時にイーロン・マスクがX(旧Twitter)を私物化してのプロパガンダも本来は無視できない要素だったはずだ。
とはいえ、分析から感想まで
既に十分すぎるほどの言葉が発せられてるようだし、本サイト的にも
前々から言ってきたことの答え合わせ・いよいよ来るところまで来たかという伏線回収の段階なので、新たに書き起こすことは実は少ない。
・フェイク・トゥルースについて書いた
2019年9月の日記と、
あと今の自分のやるせない気持ちの表明として
・引き返せないポイントはずっと前に通過しているものだという
16年6月の日記へのリンクを貼っておけば十分だろう。
十分だろうと言いつつ話を広げるのですが、前者(19年の)の末尾で少しだけふれた「この惨状はたぶん
言語の運用法を間違ったために生じた」の話をしたい。
2016年にイギリスの新聞だかが選定した「今年の新語」が、フェイク・トゥルースと同義のpost truthだった。ドナルド・トランプが一度目の勝利をキメた年だ。
言語運用のレベルでおかしい、というのは国会答弁でデタラメを連発し、しかもそれを閣議決定で正しいことにしてしまう第二次安倍政権への憤りが主燃料だったのだろう。けれど、そもそもの元ネタは、少なくとも自分の場合は別にあった。
ウンベルト・マトゥラーナと
フランシスコ・バレーラの共著
『知恵の樹 生きている世界はどのようにして生まれるのか』(原著1984年/管啓次郎訳1987年→ちくま学芸文庫1997年/外部リンクが開きます)は、オートポイエーシスという生物学の新理論を提示した画期的な書物…という触れ込みなのだけど。
強く印象に残ったのは難解な本文ではなく、訳者あとがきに記された同書の成立経緯だった。
「一九七三年、アジェンデ社会主義政権にたいする軍部のクー・デタによって、チリは凄惨な混乱に陥った」自らも亡命を余儀なくされた二人の著者たちは、代わって祖国の支配者となった独裁者ピノチェトの
「恐怖政治の原因がまちがった認識論にあると考えるようになった」というのだ。
別のところでは、二人の発想はむしろアジェンデ時代の自由な空気から生まれたとする紹介もあるようだ。それは正鵠を射ているのかも知れないし「フェイク」なのかも知れない。いずれにしても生物学の新理論が社会への異議申し立てから生まれた・それも社会の不正が「まちがった認識論」に起因するとした…という物語が自分に与えた影響は大きかったのだと思う。
『知恵の樹』自体は難解な書物で、とくに外界から切り離され内部でループを描く生命が、どう他者とつながり社会を形成していくか説いた後半の飛躍が咀嚼しきれないまま今日に至るのですが(かわいそう)
自分が最終的にSNS(Twitterや代替)から距離をおくようになったのも、認識というか言語活動の「運用まちがい」への違和感が強くなったからとは言える。何度も何度も何度も言ってる「記憶を紙で・暗算を計算機で外部化したように、(自分で)考える脳のはたらきをリツイート・リポストで外部化してしまった」にとどまらず、色々と考えている。今回の二選挙の結果は、まさにSNSの「まちがった」機能が遺憾なく発揮された結果でもあったとか。
とくに兵庫で、二大政党とか大統領とか(あるいはイーロン・マスクとか)巨大なプロパガンダ装置ではなく、見た目「草の根みたい」な中心の見えにくいムーブメントがこぞって選挙結果を覆したの、
この分野ではまだまだ世界のトップランナーかも知れない日本という厭な感慨を新たにしましたな…
* * *
別に『知恵の樹』を読みなさいねという話をしているのではなく(自分だって読み切れてないものを安易に推奨できませんて)
・
社会へのアプローチには迂回した道もある(ピノチェトのせいで生物学の新説とか)
・
なにげない一言や一節が心に残りつづけ、思考の方向性を決定づけることもある
という話をしている。人は言葉で思考するのだから、善かれあしかれ言葉の影響は決定的だ。
他ならぬ彼女が言ったので、という「箔」がつかない人にとっては凡庸に響くかも知れないが、写真家
ダイアン・アーバス(1923〜71)がメモに残した「燃える船」のイメージも鮮烈だった。
「船が火事でゆっくり沈んでゆくのを、わたしは知っていました。みんなもそれを知っているのに、明るく踊り、唄い、キッスして浮かれ騒いでいます」
今やすっかりミームとなった映画『シャイニング』の双子(厳密には双子ではないのだけど)の元ネタになった、モノクロのポートレートを撮った(参考:
【作品解説】ダイアン・アーバス「一卵性双生児」Artpedia/2019/外部リンクが開きます)アーバスは、実はキューブリックが映画に転身する前にカメラマンとして勤めていた雑誌社で彼を指導した先輩で、『シャイニング』の双子(双子ではない)は後輩が捧げたオマージュでもあった。
フリークスと呼ばれるような人々や性的マイノリティといった社会のアウトサイダーを撮りつづけたアーバスは、自身も鬱と困窮に悩まされ、件のメモの数ヶ月後には自らの船を燃やしてしまう(比喩)。
そのメモに続きがあると知り、驚かされたのは数年前のことだ。船は燃えているのに、みんな浮かれている…そんな絶望的な記述は、こう続いていた:
「希望はありませんでした。でもわたしは恐ろしいほど興奮していました。撮りたいものがなんでも撮れるのです」
彼女の捨て鉢のような「興奮」が、今は分かるような気がする。
厳密に、そして身もフタもなく言ってしまえば「燃えた」のは彼女ひとりで、世界はその後も50年以上つづいている。それでも今は、今だからこそダイアン・アーバスの捨て鉢な「興奮」が分かる。
船は燃えてるのに皆は浮かれている。希望はない。けれど自分も、やりたいことは何でも出来る。もちろん実際に何でも出来るわけではないけれど、描きたいものは何だって描けるし、読みたい本は何だって読める。たしかに今「恐ろしいほど」自由なのだ。
横浜の自宅から鎌倉駅まで徒歩だと約6時間、帰りは電車に乗るとして、往路は歩けない距離ではない。
と言いつつ最初に挑んだ時は手前の大船で引き返し、二度目に鎌倉駅に到達した時は日没後でカレーを食べてすぐ帰るしかなかった。三度目の正直で今回は16時前に現地到着、前回は寄れなかった古本屋も二軒ほどは回り、最後は由比ヶ浜に出て江ノ電沿いを長谷駅まで歩くことまで出来た。
新刊書店のたらば書房では文庫クセジュから出ていたルネ・ジラールの解説書、古書くんぷう堂では未読だった丸谷先生のコラム集、そして公文堂ではミシェル・フーコー『監獄の誕生』の状態のいい古本を入手←レジで現金が足りなくて「すみません今日は見送ります」って返したあと近くに信金を見つけて三千円だけ下ろして買いに戻ったりした(笑)
さっそく『監獄の誕生』を読み始めてます。強い関心を持ちながら、今生では読む機会はないかもと諦めかけていた本だったので、まさに「
読みたい本がなんでも読めるのです」という喜びがある。
少なくとも僕が生きてきた期間では、こんなにも人の世が限界を露呈した時はない。兵庫の選挙は公職選挙法違反などが言われて今後まだ二転三転するかも知れないけれど、同じようなことが国内の別のどこかで起きて、次はみんな慎重に立ち回るとは到底思えない。底が抜けちゃったんだもの。改憲発議でもされたら「ふつうの日本人」は当面ひとたまりもなかろう。
だからこそ、これから起きる全てをカメラ代わりの目に収められる。なんで世の中はこんなことになってしまったのか、迂遠なアプローチでも読みたいもの全て読み尽くせる。ヤケッパチかも知れないけれど、今以上に自由であるべき時もまた、そうそうない―ネガティブだかポジティブだか分からないけど、ストレートな現在の所感です。(
そう思うならますます鋭意まんがを描けって話ですよねえ)
*** *** ***
望みはない!だから自由だ!で終われば統一感ある日記(週記)なのに、公正を期すために反対側の天秤にも錘を載せてしまうのが本サイトの惰弱なところで、「こうなったら何でも出来る」に「
あきらめ悪く社会に関与しつづける」が含まれることも否定しないのです。レベッカ・ソルニットなら「まだ家に帰る時間じゃない」と言うところ(
先月の日記参照)。
宮城県の県立医療センターを名取市から移転しないでという署名は賛同したことも忘れていたのだけど、たぶん隣接する仙台市の、社会運動にも積極的な古本屋さんの拡散で知ったのだろう。名取市の閖上には東日本大震災のあとボランティアに行った縁もあって、署名のことも気にかけたのだと思う。
その活動が実を結び、移転が白紙になったという報告をメールで(もちろん一斉配信だけど)いただいた。
・
篤く御礼申し上げます(青木もらん/change.org/24.11.23/外部リンクが開きます)
あらためて確認するとネット署名じたいは千筆に満たないもので、当然、他の地道な働きかけが大きかったはずだけど、すごく小さな一助になれていたのかと思うと、ささやかでも手を動かして良かったと思う。自分が何かすること・したことを無意味だと性急に決めてしまうのも、また、傲慢なことなのかも知れない。主催者のかたの
「ときには嫌になってさぼったり、ぶらぶらしたりしながら(中略)
自分たちのペースでしつこくねちこくやってきた(中略)
小さな声でも、動かないとされたものを動かすことが出来るという、一つの証明になれたら嬉しいです」という言葉(
出典/外部リンク)に敬意を表したい。
誰のための生産性〜山本義隆『リニア中央新幹線をめぐって』/フレッド・ピアス『ダムはムダ』(24.11.17)
あの犬は他でもない俺に吠えたんだろう
幽霊でも見たように
人間は誰も気づかないほど
一瞬なスパークが 見えたんじゃないかな
「なあ あんた スローダウンしろよ 速度を落とせ
馬鹿が スローダウンしろ 速度を落とせって」
"The tourist" Radiohead
(イスラエル国家の非人道的政策に「寛容な」トム・ヨークの現状を支持はしませんが、25年前の詞は今だに使い勝手が良いので引用。あまりにも目まぐるしく移動するのでスパークしか、それも犬にしか見えないという旅行者の歌です)
*** *** ***
今年6月の日記にも書いた、しらばっくれたまま廃止ではと騒がれた夏季の販売アナウンス遅延も前兆だったのだろう。JRは青春18きっぷを廃止に追いこみたいようだ。
新たに発表された今冬からの仕様変更は、従来「5回」普通列車が乗り放題で「4日間の長旅と1日の日帰りに分けて使う」「一枚の18きっぷを5人が共同で使い一緒に日帰り旅行する」といった応用が利いたものを「5日または3日」「一人だけ」の日を空けない連続使用に限ると改変するものだ。
自動改札機を通すようになれば、毎回わざわざスタンプを押し・スタンプを確認する駅員の負担が減る。「みどりの窓口」漸減も影響しているのだろう、いつも改札口横の窓口に行列が出来ている現状を思えば(18きっぷも自動改札を通したいのは)理解できる。自動改札だと日を空けての使用や、まして一枚の18きっぷで複数人を通すことは技術的に難しかろうというのも分かる。
ただし「だとすれば、18きっぷ自体を普通列車一日乗り放題の切符5枚セットとして売り出せばいい」だけの話だ。いや、そう考えると逆に従来の18きっぷが如何にベラボウな大盤振る舞いだったかも分かる。
カギは「経営者目線」という言葉・観念・概念だ。
机上の空論だし今回の主題からも逸れるので畳むけれど、
18きっぷ存続によるJRの損失は売上の0.5〜1%未満。(クリックで開閉します)。
18きっぷの販売枚数は推定で年70万枚(参考:
青春18きっぷの販売枚数と売上高/青春18きっぷ研究所/外部リンクが開きます)。18きっぷの使用1回でJRの「損」は7000円と仮定する。東京から京都まで(ちなみに9時間かかる)普通料金8300円から18きっぷ自体の一日あたり代金2300円を引いたものだ。70万枚×5回×7000円=245億円の損失で…計算は合ってるだろうか?5兆円といわれるJRグループ全体の売上(参考;
合計売上高5兆円超…「JR東日本」「JR東海」「JR西日本」鉄道3社、”格差”の目立つ平均給与額/THE GOLD ONLINE/23.7.18/外部リンク)に対しては0.5%、これを些細と見るか許せないと捉えるかも目線によって変わるだろう。
なお、18きっぷがなければ普通列車ではなく顧客は新幹線を使ったはずだ…と考えると東京・京都間の特急料金は14000円、損失は0.85%と算定できる。
いずれにしても「18きっぷがなければ」旅行回数じたい減るだろう、あるいはJRではなく高速バス等の使用に走るだろうなど都合の悪いことは考えない皮算用だ。とにかく今回は深く追及しない。
むしろ気にかかるのは「18きっぷは、それほど安いか?」という逆説だ。
運賃だけで見ると一日乗り放題で2300円は安い。だが移動に時間がかかり、それが複数日に及べば、行った先で宿泊費が発生する。食事もいきおい外食がちになり、それらは旅先の各地に落ちる。もっと言うと、新幹線なら日帰り一日で済む旅行を二日や三日かけてすることは、
その時間で働いていれば得られた賃金を棒に振るということだ。
「経営者目線」で言い直す。18きっぷなんかを思う存分に利用された日には、社会全体の生産性が下がる。交通費が変わらなければ多少時間がかかっても、大都市から少し離れた小さな街の宿を選好する旅行者は少なくないだろう(エビデンスは僕)。途中下車が自由なら「せっかくだから」と食事や観光・買い物の機会が広く薄く分散され(東京から名古屋に行く間に静岡で地元ローカルの「さわやか」でハンバーグを食べるとか)非効率的だ。そして日数をかけた旅行じたい「国民」の生産性を下げる。よく言われる「時間がある時はお金がない、お金がある時は時間がない」の前半は、経営者目線では許されないこと、なのだろう。まるでミヒャエル・エンデの寓話に登場する灰色の男たちではないか。
fitter, happier, more productive(より適応し、より幸福に、より生産的に)―これもトム・ヨーク(レディオヘッド)の一節だけど。
資本主義の利潤はすべて生産者からの・生産工程における搾取だとカール・マルクスは説いた。それで計算が合うならそうなのだろう。けれどポスト資本主義・プラットフォーム資本主義(
23年9月の日記参照)の現代は、消費の現場からの搾取・収奪が目立って見える。左記の日記にも書いたことは改めて蒸し返しはしないが「より生産的で・効率的であれ―消費においても」という圧力は強まる一方だ。
18きっぷの利用が、使用者にとっては非効率的で無為な時間の浪費であり(
そこがいいんだよというのが本サイトの立場ですが)食事や宿泊・各種サービスの提供者にとっては広く薄い利益の分散であるとするならば。対極にあるのは高速・超高速の移動手段をフル活用した「タイパ」のいい消費、特急・超特急が停車する大都市に集中した効率のいい(そしてハイコストで画一的な)消費だろう。
ハイコストでハイパワーな都市への集中と、都市をつなぐハイスピードな交通手段。吾々(おっ久しぶりに「吾々」が出たね)が強いられ・あるいは自発的に参与する「強い経済」は20世紀に推し進められ、一度は反省されたはずの資源浪費や環境破壊を、再度「それでも構わない」と推し進めるバックラッシュでもある。
長くかかってしまったが、これが今回の日記(週記)の主題だ。
『磁力と重力の発見』(
2011年11月の日記参照…この頃の日記は短くて良かったなあ…)などで知られる
山本義隆氏。近年は原発批判などの発信も際立つ彼が近著
『リニア中央新幹線をめぐって 原発事故とコロナ・パンデミックから見直す』(みすず書房/2021年/外部リンクが開きます)で挙げるのは、物体の移動に必要なエネルギーは
速度の二乗に比例するという基礎的で覆せない事実だ。
速度が倍になると衝突した時の衝撃は(二倍ではなく)四倍になる。交通安全の指導などでも言われることだ。時速60kmの自動車がぶつかると30kmでぶつかる四倍の衝撃がある。単純に考えて、時速600kmを公言するリニア中央新幹線は、時速300km弱な従来線の四倍以上のエネルギーを浪費する。
もちろん事はそう単純ではない。モーターを回してレールの上を走るのと、超電導の磁力で走るのでは摩擦など異なる要因もあるだろう。だが超電導の路線は全体を常に帯電させておく必要があり…細かいことは端折るが、結局「倍ではなく四倍」という浪費の規模はそう変わらない。非現実的で環境に多大な負荷を強いる地下トンネル敷設を措いても、リニア中央新幹線は高コスト・高エネルギー消費の怪物で、その電力供給が原発再稼働と直結する可能性は極めて高い。
「それでいいのだ、高いエネルギーコストを消費して高い生産性をあげる路線で今後もますます行くのだ」という路線が、人類的に許されるとは思えない。ここ数年、18きっぷで旅行するたび「もう夏の旅行は無理だ」と痛感させられた、その体感からも思う。これ以上のエネルギー消費は、社会の存続そのものを不可能にする。
* * *
ここから『V』(
2020年12月の日記参照)の
トマス・ピンチョンが1984年という意味深長な年に書いたエッセイ「
ラッダイトをやってもいいのか?」に繋げるのは、さすがに話を広げすぎだろうから控えたい。
世界最初のハッカーは19世紀アメリカの
ハッカー・べリーフィンという少年で、彼が筏で自身と奴隷ジムを逃がす行為がテクノロジーの脱法的利用=ハッキングと呼ばれた…という(ちょっと苦しい)ジョークも話だけにしておこう。
「すべてのエネルギーは多少なりとも政府の補助金を受けている。(中略)
発電にからむ環境保護上の負担をすべて需要家が支払うことになれば、省エネルギーがいままでよりもはるかに、あらゆる種類の発電所新設にまさる魅力的な代替策になることだろう」
「いずれにしろ、われわれは電気がほしいのではない。電気がもたらすサービスがほしい。灌漑システムにしても、水がほしいわけではない。生産される食物がほしいのだ。」
フレッド・ピアスのルポルタージュ
『ダムはムダ 水と人の歴史』(原著1992年/平沢正夫訳・共同通信社1995年/絶版―紀伊國屋書店の外部リンクが開きます)は一見ふざけた邦題だけど、実は原著の題名も「
THE DAMMED」…the damned(忌々しい・神に呪われた…ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画のタイトルでは『地獄に堕ちた勇者ども』と邦訳されてました)とダム(dam)を引っかけた駄々洒落で、方向性としては忠実な訳。そして軽い表題に相反して、ちょっと人類に絶望したくなる厳しい内容の書物でもあった。
オススメです(こらっ)
本書の主張はシンプルで・太古のほうが人類は水を上手に活用していた・その知恵を無視した近代西欧の技術至上主義が生活も環境もダメにした、となる。
たとえば地中海沿岸の段々畑は山腹に仕方なく、ではなく、むしろ
「大雨の水が急斜面を流れ落ちて、豊かな土壌をさらっていくことのないように」「山腹に小さなダムのような段をいくつも」作る積極的な選択であったという。「エジプトはナイルの賜物」で知られるように、エジプトに限らず多くの地で、河川の定期的な氾濫に合わせ耕作地の位置すら変えながら、流れてくる豊かな土を利用した農耕が行なわれてきた。
年によって耕作地が変わっても人は生き、収穫できるが、資本は毎年の収量を算定・計画できる平野の画一的な耕作地を求めるだろう。もちろん、より多くの収量・より多くの売上もだ。さらに水力を利用した発電という収益が求められる。そして巨大な水利設備は、その建設自体が国家の威信となり、巨益を生む事業となり、時宜に適わぬお荷物となっても事業として自走を続ける。本サイトで何度も何度も引用している
ドナルド・『誰のためのデザイン?』・ノーマンの警句「原発が危険なのは(放射能のせいではなく)大きすぎる規模のせいだ」は、原発に比べればエコと思われる発電ダムにも残念ながら当てはまる。
自然に合わせた農耕がもたらす富は必ずしも潤沢ではなかったろう。近代の豊かさと利便に慣れきった先進国の住民に、ダイレクトに昔に戻れると説くのは欺瞞でもある。これも本サイトで何度も引用しているはずだが「灰色の男」を批判したエンデですら「私たちはもう水洗トイレのなかった世界には戻れない」と言っているのだ。
それでも「
われわれはサービスや食物を停めたいわけではない。過剰なエネルギー消費や、さらにその絶えざる拡大を求める経済を停めたいのだ」と言うことは出来るだろう。
先々週の日記になぞらえて言えば、観客動員数ナンバーワンを更新するのでなく、良作であれば12年前の台湾の映画が、あるいはインドネシアやパキスタンの映画が(もちろん日本で作られる小規模な映画も)観られる・選択肢の幅という形の豊かさもあっていいはずだ。
* * *
これは極端な例かも知れないが、自分が18きっぷを使う楽しさを知ったのは、メンタルを損ねて「絶えざる拡大と成長」の経済からドロップアウトしてからだ。それまで旅行の楽しみ自体、ほとんど知らずにいたと言ってもいい。何処に行っても・何処まで行っても基本料金は変わらないと思えばこそ、駅ビルもない東北の村をてくてく歩いて仏像を拝んだりした。大分の別府を深夜に出たフェリーの中、始発電車が出るまで松山港で二等船室にゴロ寝して朝を待ったこともある。
上の畳んでる中でも引用している
青春18きっぷ研究所(外部リンク)では
「国民170人に1人が年に1度は利用している」計算になると概算で算定している(算の字が多すぎますね)。同じ人が春夏冬フルで利用していれば170×3=500人に一人と「密度」は一気に下がるが、いずれにしても。
170人に一人だか、500人に一人だかは、18きっぷという扉で「消費すら効率的・生産的(そして画一的)であれ」という要求を一旦降りている。あるいはより積極的に、日頃ない形で世界(まあ日本国内ですが)と「接合」しなおしている。
・接合について参考:
私の「生」・ゾウリムシの「性」―樋渡 宏一(JT生命誌研究館/2019年/外部リンクが開きます)
別の170人だか500人だかに一人にとって、扉は登山かも知れない。編み物かも知れない。ボードゲーム、スパイスから作るカレー、数学や語学かも知れない。人には「まだ居たんだ」と言われるようなバンドを追いかけること・まんがを描いてコミティアに出ること・あるいはスマホを脇に置いて本を読むことかも知れない。
もちろん一人が複数の扉を持つこともある。むしろ多いのではないか。5時間も10時間も続く旅程の中で、これはと思った本を読みふけるのは18きっぷ旅行の楽しみのひとつだ。
エネルギー問題にまで風呂敷を広げてしまったけれど、要は扉の一つを閉じてほしくない。それらの扉は多くの場合、社会の中で「つらたん」「もうダメだ」と思ったとき・「お前など要らん」「消えてなくなれ」と大きな声に言われたときに、人を現世につなぎとめてくれるものだから。
18きっぷの半分を使って到達した先で腰を落ち着け、二泊や三泊くらい過ごしてから帰路につくのも佳いものですよ。連続使用しか出来ない改訂版では、それも出来なくなる。
・署名:
JR旅客6社に対し、「青春18きっぷ」を従来の制度に戻すよう要望します。
(鉄道が好き!/change.org/24.10.24/外部リンクが開きます)
に賛同しました。
* * *
(同日追記)
「企業収益が高水準にあり、個人消費や設備投資は上向くなど持ち直しの動きが続いている(ので)
我が国経済はスタグフレーションと呼ばれる状況にはない」と結論づける
内閣府のレポート(2022年/外部リンクが開きます)を目にして、そっと溜め息をついている。先の総選挙でも各党が「強い経済」を訴えたけれど、その「経済」が企業収益や株価であるかぎり、それはもう個々人の生活とは乖離した観念…強い言葉でいえばファンタジイであり、そこを立脚点に不況ではないだの経済が強いだの言われても、そうかいこっちは別の扉を開けるぜとしか言えないんじゃないかな。
哲学の実践〜米山さんの部屋『アランの言葉から』(24.11.06)
YouTubeで毎日更新されている『
アランの言葉から』を少し駆け足で追いかけて、最新回にようやく追いついた。
・
米山さんの部屋(YouTube/外部リンクが開きます)
20世紀前半=後半に実存主義や構造主義・現代思想の嵐が吹き荒れる前の(古き良き?)フランスの哲学者・アランの思想を毎回7〜8分くらいに分けて紐解く動画シリーズ。大仰な字幕もケレン味もなく、学校の授業や講義・あるいは授業や講義が終わった後の研究室での茶飲み話のように穏やかな、淡々と進む話はこびが心地いい。いや現実には、試されているような緊張感から逃れられず、実在の「先生」と打ち解けることなど(少なくとも学生時代には)ついぞなかった自分には、遅れてやってきた第二の学生時代のようで得がたい体験。落ち着いた年齢になってから放送大学に挑戦する人の感覚に近いのかも。
おそらく自分のアンテナの張りかたが拙くて、こうしたタイプの音声コンテンツに中々アクセスできないので(世に流通するものは文芸かビジネス・自己啓発書の朗読といった感が強い)現状では貴重な体験でもある。NHK教育のラジオとか、もっと聴けばいいのだろうけど…
↑上のカットで文字を青くしてた時に思い出したけど、そういえば夜の灯を青白くすることで駅のホームからの飛び込みを少なくできたという話もある。一般向け著作として名高い『幸福論』を実は読めてないのだけど、身体のほうから精神を制御していく話はアランの真骨頂という印象がありますね。
* * *
たとえば27日目の講義。人間嫌いは他人の反応を気にしすぎ傷つくことを極度に恐れることから生じる(すごく大雑把な理解)としたうえで、ではどうしたらいいのか。
「ひとつの可能性ですが」「難しいですけど」と断ったうえで米山先生は言う。
「見返りを求めれば裏切られます。見返りを求めれば、敵を愛することなどできません。見返りを求めれば隣人愛などおそらく存在しないでしょう。だからこそアランはですね、彼自身はカトリックの信仰をほとんで捨てているにも関わらず、博愛(フランス語のシャリテ)は人間嫌いに陥るまいとする一種の誓いであると述べているんですね」(27:人間嫌い)
90年代に人気を博した漫画『
MASTERキートン』(勝鹿北星/浦沢直樹)の、ナチスの空襲を受け壊滅したロンドンの学校で「屈せず学問を続けよう」と老教授が人々を鼓舞するエピソードは、ネットミームのように好まれ引用される。けれどそれを吾が事として引き受け、自身が学問を実践しつづけることは難しいのかも知れない。まして学問で得た知見を天上や別世界におかず、日々の行動に取り入れていくことは。
いわゆる人気動画とは程遠い再生回数も気にかけないかのように、「米山先生」が講義を進めるさまは、まさに「見返りを求めない」で、解説する哲学と自身の実践が乖離していない。すごいなあと(大学などでの講義の人数を思えば、これが普通の感覚なのかもですが)いや、自分もかくありたいと素直に敬意を抱くのですが、以下は動画から離れた話。
調べるとフランスの三色旗でも知られる革命のスローガン「自由・平等・博愛」の博愛はフラテルニテで、シャリテはcharite(最後のeにはアクサンテギュがつきます注意)たぶん英語のチャリティと同じ意味でしょう。慈愛などという訳語で、アランはシャリテのほうを重んじているようだ。
※ちなみに
先月の日記で紹介したデリダ『友愛のポリティックス』の友愛はamitie。めんどくさい。
人と関わるのが煩わしい(amitieに馴染めない?)・自分と異なる人の意見にクヨクヨ思い悩み、人を恐れ人を憎む人間嫌いが、それでも人類全般を嫌いにはなるまいとチャリティに走るのは、実はよくあることではないか。他ならぬ自分が実例なので分かりみが強い(可哀想)。
狭義の人間嫌い(対人恐怖)とチャリティは両立しうる・後者は前者の克服には必ずしもなりえない。そう考えたとき頭に浮かぶのは、いつの間にか覚えた遠人愛というタームだ。近しい隣人への愛ではなく、もっとも遠い者を愛するのが超人への道だというニーチェ『ツァラトゥストラ』の用語らしい。何度も引き合いに出しているサマリア人の喩え(新約聖書・ルカによる福音書10章25節)は、つまりニーチェが言う遠人愛・もしかしたらアランが言うシャリテにも近いのではと思われるのだけど、ちょっと話を走らせすぎか。
* * *
創作や芸術に関わる話も多くて、個人誌や同人誌など作ってるひとにも(まだ皆コミティアで頑張ってるのかなあ)オススメできると思いたい。
「芸術家は、どう見ても一つの目的を追求しているかのようだが、その目的を実現し、自分で自分の作品の観客となり、最初に驚く者となった後でなければ、当の目的を認識できないのだ。いわゆる表現の幸福とは、このことに他ならない」(37:アランと実存主義)
創作まんがも(少なくとも一次創作においては)描いてみて初めて「こういう話だったのか」と分かる部分はある・とゆうかソレがないと描いても達成感に欠ける。『野火』などで知られる大岡昇平の
「僕は別に文学を書きたかったわけではなく、ただ知りたいと思っていただけでした。しかし文学は一体書かれずに知れるものだろうか」(孫引き)という言葉にも、アガンベンが回りくどい彼にしては割とストレートに述べている「芸術家の幸福」(
今年2月の日記参照)にも通じる話ではないでしょうか。
短めの日記ですが、小ネタに収まる短さでもなかったので、こうして一項目を立てました。おーしまいっ←口調が移ってしまった…
*** *** ***
(24.11.08追記)40回目の講義で思い出したのだけど、フランスの大学で哲学を教えていたアランが出した「女性が橋の上から飛び降りて死のうとしているのを説得して停めなさい」という試験問題に、「僕と結婚してください(と言う)」と書いて合格した若造が後に作家・フランスの文科相になったアンドレ・マルローだったという逸話がありましたね…すっかり忘れてたし、そういうのが「気の利いた話」だったのは吉行淳之介(さんあたりのエッセイなんかを面白がって読んでた世代)くらいまでで・今時なら「キモっ」と一刀両断かもなともいう気もして、どっちの世代の感覚も理解できる自分は「一身にして二生を経る」思いなのでした。
(追記の追記)「米山さん」の講義だとアランの設問は「停めろ」ではなく「橋から身投げしようとする女性と哲学者の対話(を想定して書け)」というものだったようなので、マルローも「結婚してくれで説得しようとする哲学者の小説」を書いた、が逸話の真相だったのかも…などと妄想したりもしましたが、今「アラン/試験/橋/マルロー/結婚」あたりで検索をかけても、それらしいエピソードの一つもかすらず。ネットは万能のように思われるけど、手に入らないものは手に入らない。
南陽街の優しい夜明け前〜ホウ・チーラン監督『狼が羊に恋をするとき』(24.11.03)
大陸と台湾とを問わず、中国には格言というか箴言・あるいは端的に「ポエム」と呼ばれるような短文を好む文化があるのだろうか。
それとも最近の流行なのかしら。思い出されるのは江小白だ。昔から伝わる白酒(パイチュウ)の古びたイメージを一新した重慶発のヒット商品。スッキリしたミニボトルと(なぜか)幾種類かの詩的な短文がプリントされたラベルというデザインも、人気というか少なくとも話題になった一因なのだろう。
少し調べてみたら中国語で
「すべての旅を一生として扱う 一度しか見られない景色」「本当に大事なものは それを持ってる人よりも持ってない人のほうが知っている」そんな感じ。
日本の焼酎「いいちこ」の、
「風で眠り、波で起きる」「億年の海、百年の人」「倒れた木が若い木を育てます」みたいな広告コピーを自然志向から人間寄りに・ポスターから商品そのものに移した感じとでも言いましょうか。
・参考:
江小白 100ml(輸入販売元・日和商事株式会社/外部リンクが開きます)
・ついでに参考:
いいちこポスター集(三和酒類株式会社/外部)
2019年に台湾で見かけた色つき牛乳のパッケージも(記録のために全部買った。同行の家族はつきあってくれず一人で飲んだ)そんな感じだった。日本のジブリアニメを思わせるパッケージに添えられた短文を、それっぽく和訳すると
・バナナ牛乳
「歩くのがゆっくりでもいい、でも後戻りはしないで」
・ココア牛乳
「つらくても、微笑みを忘れずに」
・イチゴ牛乳
「低く膝を折ってこそ、高く跳躍できるんだ」
ちなみにバナナ牛乳の裏は
「世の中に難しいことなんてないワン、諦めさえすればね」ココアの裏はなかったから撮ってないんだと思うけどイチゴ牛乳の裏は
「失敗を恐れることはないニャー、もう失敗するって決まってるんだから」と皮肉な内容。いかにもナイーヴな表側への照れかも知れない。
重慶の白酒と台北の牛乳、どっちが元ネタとか、あるのかも知れないし、ないのかも知れない。東京神田・神保町で見かけた中国語教室のポスターも
「あなたは“美”しか語れないか?」などと謎めいた問いを中日併記で発していて、(背中がキレイなお姉さんも含め)ちょっと好きになってしまうタイプです。
(後日追記)謎めいたと書いたけど、美女を前に「き、キレイ…」以外の語彙力が欲しくないですか?みたいな意味かも知れない。
* * *
そんな短文がスパイスになった(?)映画を観た。
台湾・台北・台北駅の南、予備校がひしめく南陽街。付箋に書かれたメモ一枚で去った元カノを追い、トランクひとつでやってきた青年タン(阿東)は癖の強い印刷店主に拾われる。いつか再会できるかもと淡い期待を抱きつつ、各校の試験用紙をひたすらコピー・箱を抱えてひたすら配達の毎日。そんな中、とある予備校の試験用紙に毎回、手描きの小羊のイラストがあるのに気がつく。
受験生たちを励ますような、独り言のような短文が添えられた小羊のイラストを描いているのは、ややこしいんだけど小羊(シャオヤン)と呼ばれるイラストレーター志望の女の子。やはり恋人に去られた小羊(人)の、淋しいとショゲる小羊(羊)のイラストつきコピー原稿に「淋しいのは僕も一緒だよ」と狼の絵を描き加えてタンが遊んでいたら、修正液で消すつもりだった狼も一緒に大量コピーされてしまう。「何だコレ」「返事がついた」「羊と狼で仲良く出来んのかよ」「ホッキョクグマとペンギンは?」「誰にも食べられないゾウのほうが孤独よね」と意図せずバズって、ついには贋物の「オオカミ魯肉飯店」まで現れる始末…
『狼が羊に恋をするとき』(公式/外部リンクが開きます)
2012年の台湾映画。事情は後で詳述するけれど、12年後の今になって日本公開された作品が、個人的にはmy cup of (Chinese)teaと呼びたくなるような←そんな言い方あるのか?「めっけもん」でした。
ベージュのコートを見かけると指にルビーのリングを探してしまう寺尾聰のように(
古いなあ)街を行く女性がみんな元カノに見えてしまうタン。100数えたら待つのをやめると言いながら、元カレを待ち続ける小羊。彼らだけではない。コピー仕事の合間にタンが引き受ける(店主に引き受けさせられる)人助けは、行方不明の愛犬探しだったり、1314(中国語だと「一生愛す」と読める)のメッセージが残ったポケベルの持ち主探しだったり。
予備校を満杯にした受験生さながら、愛を失ない、次の一歩を踏み出せず宙ぶらりんな人たちの吹きだまりとして、映画は台北の街を優しく描き出す。それでも受験生の予備校通いが必ずどこかで終わるように、宙ぶらりんの日々にも次のステップへの出口があると、ある者は自覚し、ある者は気づけないまま(元カノが心残りなつもりで実は小羊を愛しはじめているタンとか)…
…
いかん、紹介がまとまってしまった。
忘れてしまう前に語りたい人物や場面が沢山あるのだ。女の子たちに大人気の、実はワケありイケメン炒飯売り。殺到する注文に「私が勤める塾と契約すれば顧客が○○倍に」と割り込んでくる銭ゲバ娘。一見ワンマンだけどテストに無関係な小羊のイラストを許しつづけてるあたり人がいいかも知れないカリスマ塾長。いかにもギーク(機械オタク)然とした短髪メガネの携帯ショップ店員(たち)。なぜか屋台で乾麺(汁なし麺)を商っている牧師(いや「なぜか牧師をしている乾麺屋台のおじさん」なのか?)。犬猫への愛情が深い女性たち。世界有数の人口過密都市らしい狭苦しい室内。ズラリと並んだスクーター。深夜のコンビニ。夢遊病のようにさすらう、眠れない人々。まだシャッターも開かないビルの前、地べたに座り込んだ新聞売りたちが居並ぶ夜明け前。
箴言めいた短文に話を戻すと、個性的な人々の中、とりわけ濃ゆい印刷店主が格言好きらしく…あるいは彼に限らず年配者全般なのだろうか、狭苦しい(←二度目)店内のあちこちには諺や仏典由来らしき標語が貼られ、物語の最後までアクセントをつけ続ける。古式ゆかしいフォーマルな格言と、小羊の即興のつぶやき、新旧の箴言が交叉する交点に、狼のヌイグルミ帽をかぶった主人公が立ち尽くしているようだ。
あとは小羊と狼のアニメーションを始め、コミカルなファンタジーが生活感あふれる現実描写と融合した作風が、吾ながら「ああ、いかにも自分の好みだ」と思ったことを付記すべきだろうか。(この項目は来月になったら消す→)人に勧める要素としては逆効果っぽいので言いにくいけど、今ちょうど自分が公開してる短篇まんがが「この作品を描いた人は、この映画を気に入ってます」ドンピシャなのでした。
* * *
配給元は
台湾映画同好会。自分にとっては思いがけない良作だったとはいえ、2012年の映画がどうして今…と思ったら、そもそも
「日本未公開・権利切れ映画の自主上映を行う」団体らしい。
自己紹介 小島/台湾映画同好会(外部リンクが開きます)
代表の小島あつ子さんは
『書店本事 台湾書店主43のストーリー』(サウザンブックス/外部リンクが開きます)邦訳クラウドファンディングの発起人でもあり、細い糸ながら前々から自分は知っていたことになる。
映画配給の公式サイトがnoteなのも異色だし、映画館でパンフレットとして売られていたのが440円の実質リーフレットだったのも「同好会」感が満載で、いや、軽んじたり馬鹿にしているの
ではない。良作であれば12年前の作品でも日本初上映にこぎつける・大がかりなプロモーションなどなくても成し遂げられるのは、興行収入や観客動員数・まして経済効果≒要は「いくら儲かった」とGDPだか株価だかで量れる経営学や経済学の物差しとは別の「豊かさ」だろう。
来週(この映画のために来週に延びました)18きっぷの話題でも蒸し返すと思うけど「
GDPや平均株価で量れるのとは別の豊かさがある」…白酒のラベルやイチゴ牛乳・答案用紙に添えるには、ちょっとポエジーが足りないか。
『狼が羊に恋をするとき』東京(下北沢)・横浜では終映したけれど、名古屋・京都ではコレからなので
行けるひとは是非(公式サイトを参照)。
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