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Author:舞村そうじ/RIMLAND
 創作同人サークル「RIMLAND」の
 活動報告を兼ねつつ、物語とは何か・
 どんなメカニズムが物語を駆動し心を
 うごかすのか、日々考察する予定。

【最近の動向】
当面は新刊がない予定です。

WebまんがSide-B遅々として更新中。

6年ぶりの本篇更新。(20.05.17)

旧サイトは2014年8月で終了しました(お運びいただき感謝)。再編集して、こちらの新サイトに少しずつ繰り入れますが、正直、時間はかかると思います。

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一年半ちかく続いた日記の毎週更新(週記)いったん終了します。
最終回は『ターミネーター:ニュー・フェイト』感想。下の画像か、こちらから。(21.04.25)


ひとつ前の日記。ジョーダン・ピール監督の二作目『アス』すごく好みでした。。こちらから。(21.04.18)



久しぶりに二次創作のページを更新。昨年暮れ〜新年にかけて描いてた『虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』関連・あいりな両片想い12ページ+小ネタ集です。箱推しです。下の画像か、こちらから。(21.04.25)

第15回いっせい配信「2021年3月」にて電子書籍版百年の眠りを公開しました。無料です。

2018年に公開したのと(ほぼ)同内容ですが、絵を少し整えました。(21.03.20)

さよなら救世主〜ティム・ミラー監督『ターミネーター:ニュー・フェイト』(2021.04.25)

 『ターミネーター』『ターミネーター2』の発案者にして監督だったジェームズ・キャメロンが製作総指揮に返り咲いたシリーズ通算6作目・『ターミネーター:ニュー・フェイト』(ティム・ミラー監督/2019年)も、映画館で見逃して、今さらながらDVDで観た一本。
 今さらながらの感想ですが、すごい百合でした
 またまたぁ、と言われそうだがフカシじゃない。実際、最後の最後まで「百合のようで百合じゃない、ちょっと百合」食べるラー油の按配で展開するが、終わるのかと思ったラスト1分で全てをひっくり返すような熱烈な百合に成り上がる。わー!わー!ばんざーい!という、まさかの大逆転。

 だが興奮が静まるにつれ、考えがまとまってきた。最後に大逆転であらわれたのは百合要素だけか。百合を軽んじるわけではないが、もっと大変なことが起きていたのではないか。

 そんなわけで今回の日記、『ターミネーター』シリーズの大規模なネタバレがあります。
 『ニュー・フェイト』を観ないまま読んだら、絶対に後悔します。


    *    *    *

 まず今さら、今さらだけどシリーズ全体を振り返っておこう。
 『ターミネーター』(1984年)の舞台は現代=1984年のアメリカ。近未来にスカイネットと呼ばれるAIが反乱を起こし核ミサイルで人類を殲滅、世界の支配者となる。しかし生き残った人類の中から、今度は機械の覇権を脅かすレジスタンスのリーダーが登場。この人類の救世主=ジョン・コナーの誕生そのものを阻止するため、スカイネットは頑健な金属骨格に分厚い筋肉をコーティングした最強のロボット兵士=ターミネーターT-800をタイムマシンで現代に送りこみ、ジョンの母親となる予定のサラ・コナー抹殺を試みる。
 未来の人類もサラを守るため、人間の兵士カイル・リースを送りこむ。手に手をとってT-800から逃れるうち、恋に落ちる二人。カイルはT-800と相討ちになり敢えなく落命するが、生き残ったサラが宿した子が、後の救世主となることを暗示して物語は終わる。ジェームズ・キャメロン監督ならびに、強面の悪役T-800を演じたアーノルド・シュワルツェネッガーの出世作となった。

 『ターミネーター2』(1991年)では、母サラの庇護のもと流浪生活を送る少年ジョン・コナーを直接ターミネートするべく、液体金属で自在に姿を変えられる新型のターミネーター・T-1000が未来から送り込まれてくる。対抗して未来の人類が送ってきたのは電子頭脳をハッキングしてジョンを守るようプログラムしなおした「良いターミネーター」T-800だった。
 サラとジョン・T-800はT-1000から逃れつつ、スカイネットが人類を滅ぼす「審判の日(ジャッジメント・デイ)」自体の阻止を図り、成功する。死闘の果てにT-1000をも倒した三人だが、未来の危険な兵器である自身の存在が再びAIの支配を招くことを回避するため、T-800は自ら溶鉱炉に姿を消すのだった。

 ジェームズ・キャメロンが製作から外れた『ターミネーター3』(2003年)の監督はジョン・モストウ。『2』で滅びたはずだったスカイネットは生存しており「審判の日」も遅延のみで阻止には至っていなかったという設定で、今度は女性型ターミネーターT-Xと、良いターミネーター(シュワちゃん)T-850が到来。青年となったジョンの命と、ふたたび審判の日の阻止をめぐってドラマが展開する。
 『ターミネーター4(T4)』(マックG監督/2009年)では、シュワルツェネッガーも姿を消す。もっぱら年齢によるもので、最後にちらりと、現役ボディビルダーにシュワちゃんの顔だけを合成したT-800が現れるのだが…
 タイムスリップもなし。『4』の舞台は「審判の日」後のレジスタンス世界だ。若手の新リーダーとして頭角を現しつつあるジョン・コナーは散り散りになった逃亡民の中に、後に自分の父となる、まだ少年のカイル・リースを発見。仲間をつかわし保護しようとするが、まだ肉をまとわない旧式ターミネーター・T-600の群れが逃亡民を襲う。助けに入るのは、今度は「過去から来た男」・マーカス。スカイネットの開発プロジェクトの一環として、「審判の日」以前に検体に応じ冷凍睡眠されていた元死刑囚だ。人間でありながらターミネーターのように金属骨格で内部強化された彼の設定は、『ニュー・フェイト』にアイディアとして引き継がれる。

 シリーズ5作目にあたる『ターミネーター 新起動(ジェニシス)』(アラン・テイラー監督/2015年)のことは、申し訳ないがよく憶えていない。新型ターミネーターとしてイ・ビョンホンが抜擢されたものの、作品によっては登場して1分で全裸になる肉体美を見せることもなく、扱いが少なかったことも一因かも知れない。タイムスリップによる出し抜き合いがインフレ気味で把握しにくかったこともあるのだろう。ただ「T-800は機械だが、そのまま時間軸に留まり続けると人間と同様に外皮は老化する」というアイディアで『4』のような合成(シュワちゃん)でなく、今のシュワルツェネッガー(シュワさん)を出演させるアイディアは、これもまた『ニュー・フェイト』に引き継がれた。
 『4』と同時期に製作されたTVシリーズ『サラ・コナー・クロニクルズ』は未見で今回の日記には間に合いませんでした…

 ここまで踏まえて、と言いながら『ターミネーター:ニュー・フェイト』ではキャメロンが離れた『3』以降の設定がバッサリ切り落とされる。
 つまりサラ・コナーによる「審判の日」阻止は成功。転じてジョン・コナーが救世主になる未来もなし。だがAIの支配とターミネーター的なロボット兵士の襲撃は続く。過去に戻ってナポレオンなりヒトラーなりの出現を「阻止」しても、歴史の流れ自体は変えられないというタイプの理屈なのだろう。スカイネットは滅びたが、とって替わるAI「リージョン」がTシリーズとは異なる独自のターミネーター・Rev-9を送り込んでくる。
 舞台は2020年のメキシコ(つまり「審判の日」の阻止によって機械が支配する歴史は変えられなかったものの数十年は遅延されたことになる)。新たなターゲットとなった娘ダニーをめぐり、未来から来たRev-9、同様に未来から彼女を守るため到来したサイボーグ戦士グレースが争い、ターミネーター・ハンターとして歳月を重ねたサラ・コナーと、かつて送られてきたものの「審判の日」阻止で自身の属する未来も存在目的も失ない、人として隠棲してきたT-800が加わる。
 

 結論を急ぐと、「ターミネーターが狙ってるのはあんたじゃなくて、あんたの子宮だよ」という老サラ・コナーの台詞や、カールという名で家庭をもったT-800の、義理の息子(年頃)の登場で(この子が未来の救世主の父親かな?)と深読みさせたりのミスディレクションがあるが、新しいバージョンの未来で救世主=人類の司令官となるのはダニーの息子ではなく、ダニー自身であることがクライマックスで明かされる。骨格を金属に変え、命がけで闘うグレースの献身は「司令官の母親を守る」ではなく、新バージョンのポスト・アポカリプス世界で逃げ惑っていた少女時代の自分を救ってくれた「司令官」ダニー本人を守りたいという動機に支えられていたのだ。ぐんぐん上がる百合メーター(まだこの設定、生きてたのか…)ここから完全なネタバレになります
 しかし、まるで個体サイズに凝縮された戦争のように2020年の世界を破壊しまくるRev-9を倒すため、結局、やはりグレースは自らを犠牲にしてしまう。いや、そういうのはいい、そういうのはもういいんだよ。こんな結末で「すごい百合でした!」と絶賛なんかしない。ところが最後の大逆転が、ラスト1分で訪れる。老サラを後見人に、未来の救世主となるべく歩みだしたダニー。訪ねるのは、未来の自分が救い、また現在の自分を救うために命を落としたグレースの、まだ何も知らない少女時代。家族と笑う幼いグレースをフェンス越しに見守るダニーは、遠くから囁く。今度こそ、私があなたを死なせない。(完)。

 …後悔したでしょ?実物を観ないで日記を読んじゃった人、後悔したでしょ?

 大急ぎで回収しておくと、Rev-9の造形、かなり好い。寡黙で無機質・無感情だったスカイネット製のTシリーズに対し、ずばり「如才がない」。上手いんだか上手くないんだか分からない軽口を連発し円滑にゲートをくぐる。言うならばスマート家電型。それでいて、ゲートをくぐったらバッサバッサと斬りまくる。殺陣と呼ぶに相応しい、21世紀型のアクションだ。他にも強烈なキャラ立ちになっている新機能や、対して強化兵士グレースが最終決戦で繰り出すエモノの格好よさなど、語り草はいくらでもあるが、ネタバレ自体が目的ではないので伏せます。すごかったですよねえ。
 そして関東から消えたと思った「カールおじさん」こんなところに居たのか…という冗談はさておき。シュワさんも良かった。俳優業に本格復帰して以降、スタローンと組んでの強面+余裕綽々路線での仕事も続ける一方、近年の彼は力だけではどうにもならない運命に対峙する者の悲哀を表現することに、試行錯誤で挑んできた印象が強い。武装グループのリーダーが配下を次々と殺される『サボタージュ』。最愛の娘がゾンビになってしまった父親の苦悶を描く『マギー』。悲惨な航空事故の遺族として、何も生み出さない復讐にすがるしかない『アフターマス』…志は分かるものの、まだこの分野で真芯を捉えた作品はないと思っていたが、どうにかして人間になりたい・なりきれない元ターミネーターの役柄は、彼が挑む新しい(最後の?)テーマの完遂とは言わないまでも、重要な手がかりに成りおおせていたと思う。その「当たり」をもたらしたのが、かつて彼をスターダムに押し上げたキャメロンなのも考えさせられるところだ。

 …話を戻します。
 『ニュー・フェイト』の結末が驚きだったのは(ものすごい百合であるにとどまらず)、これまでシリーズの根幹にあった自己犠牲のドラマを製作者みずから覆し、否定してみせたからだ。
 それはそもそも、未来の救世主の父親になることと引き換えにカイル・リースが命を落とした『ターミネーター』第一作から続く呪縛だった。『ターミネーター2』の「良いT-800」はスカイネットが支配する未来を阻止するため、自ら溶鉱炉に姿を消す。『ターミネーター3』は、これもひどいネタバレになるけど、救世主であるジョン・コナーを温存するために「審判の日」は阻止できなかったけど仕方ないという倒錯した結末となる。『ターミネーター4』は、実はけっこう好きな映画なのだけど、サイボーグ戦士マーカスが身を賭して守るカイル・リースも結局は「未来の救世主の父親となって死ぬために今はまだ死んではいけない」駒であること、そしてマーカス自身ジョン・コナーを救うため心臓ドナーとなって落命する結末と「そうは言いながら皆、駒でないかけがえのない生を生きたのだ」というメッセージはあるにせよ、犠牲の称揚を免れなかったとも言える。
 『ニュー・フェイト』での、ダニーの最後の台詞は、この「救世主を守るため皆が犠牲的献身をするシステム」自体に中指を立てる。なにしろ、未来は変えられるとサラ・コナーが証明してみせて以降の世界線なのだ。つまり、スカイネットが倒れてもリージョンが…とAIの支配が変わらず現れるなら、救世主だってジョン・コナーでなくても、ダニーでなくてもいい。自分が倒れても、人類を率いる指導者は別に現れてくれる。だから自分のためにグレースを犠牲にはしない。自分だって、救世主をまっとうするためではなく、自分が守りたいものを守るために生きる。
 これはものすごい思想なのではないだろうか。あなたはあなたの人生の主人公だが、皆に犠牲を強いてでも生き延びるべき呪われた(祝福された)救世主ではない。ターミネーターが襲ってきても、優先的に守られる特権などない。あなたの命には、周りにいる名も知らない人々ひとり一人と同じだけの、一人分の重みしかない。だからこそ、あなたは自由で、あなたが守りたいものを守るために生きることができる。
 
 
 映画がメキシコを舞台に始まったとき、予算の都合なのかな?と思ったが、そうではなかった。たぶんシリーズを通して描かれてきた「救世主のため皆が犠牲になることを厭わない」価値観は、どこか合衆国の理念と通じるもので、その負の側面を解毒するためにはダニーを合衆国の外に置く必要があったのだろう。半生をターミネーター狩りに捧げてきたサラ・コナーもまた、合衆国そのものに立入禁止という設定で描かれていた。これらについて深く追究するだけの手札が、残念ながら今の自分にはない。宿題にさせてください。
 …まとめて言えば、キャメロンの手を離れた3〜5作目+(ドラマを未見)も含め、シリーズをしめくくるに相応しい、挑戦的な完結編だと思います。いい最終回だった。まあスカイネットが滅びてもリージョンが現れるように、商業的な目論見でまた、シリーズも甦るかも知れませんが…

 
    *    *    *

 2019年12月以来なので、わずか一年半たらずとは言え、続けてきたサイト日記の毎週更新。以前も取り上げた中谷宇吉郎のエッセイの
I駅の一夜(青空文庫)(外部サイトが開きます)
先の戦争中に東北の田舎で、岩波文庫を棚に揃えつづけることで何かに抵抗していた女性の話が念頭にあったのだと思う。2020年のオリンピック強行開催+それに続く憲法改正という想定された暗い未来にたいし、なにがしか残る言葉と思考を積み上げておこう的な意図がありましたが、予想外に運命も変わった。状況は改善していませんが、このあたりで「負けた」「力尽きた」ということで終了したいと思います。
 Web拍手というのは、実は二回目のメッセージつき拍手が送られないと、どのページが評価されたか分からない困ったシステムで、何が反応されているのか、自分の書いたことは誰かに多少でも届いているのか、正直まったく手応えのない一年半でした(今頃しれっと大変なことを言う)。でもそれは別に苦ではなかった。自分ひとりの関心のために毎週、一定の時間を使って文章を組み上げることは孤独で、自分に向いた楽しみでした。
 しばらくは充電か、時間のかかることの下ごしらえに専念しようと思います。次のサイト更新は、創作の、新作のお知らせになればよいのですが。

いま求められるホラー〜ジョーダン・ピール監督『アス』(2021.04.18)

 劇場公開当時は見逃していたジョーダン・ピール監督の『アス』(2019年)は、ドッペルゲンガーをモチーフにしたホラー(超現実スリラー)だった。黒人の青年が恋人の白人一家に招かれ異様な恐怖を体験するデビュー作『ゲット・アウト』が絶賛された新鋭の、第二作にあたる。今度はルピタ・ニョンゴを中心とする黒人一家(妻と夫・娘と息子)の前に、自分たちと瓜二つの不気味な一家があらわれ、取って代わろうという話だ。同時期に話題をまいたポン・ジュノ監督の『パラサイト』との(類似ではないが)テーマ的な近しさを論じた評もあったと思う。それも納得の、思考を刺激する巧妙な寓話だった。おそらく、シンプルな『ゲット・アウト』のほうが評価は高いのだろうけれど、この第二作も個人的に非常に気に入りました。

 けれど『アス』がどう気に入ったか、説明するには回り道が必要だ。

 まず、多くの他のジャンルと同様、ホラーもまた、道徳的な教訓や価値に関する葛藤を描けるテーマだということを再確認したい。無差別なはずの殺人鬼が、たいてい性的に「ふしだら」な男女から餌食にするというのは、パロディの題材にもなっている「お約束」のひとつだ。もちろん理不尽に怪異や暴力に襲われる話も多いが、強欲や傲慢・過去の悪業が報いを受ける話も少なくない。
 イーライ・ロス監督の『ホステル』(2005年)は東欧を舞台にしたホラー映画だ。冷戦後、遅ればせで資本主義社会に参入した東欧。その時間差による格差を利用して「いい思い」をしようと、つまり本国では庶民レベルでも東欧では「リッチなアメリカ人」として美女にモテモテだと舐めてかかった若者たちが体験する、想像を絶する苦痛と恐怖を描く。
 しかし話はさらに遡る。『ホステル』を観て―ちなみに非常にゴア、つまり漢字四文字だとインパクトが強すぎるので間に平仮名を挟むと、いわゆる人の体を切って断つような描写がエゲツなさすぎて相当に後悔もしたしオススメも出来ないのですが―思い出したのは、さらに十年前のヒットソングだ。

 オアシス・ブラーなどがブレイクした90年代イギリス。ブリット・ポップと呼ばれたムーブメントを代表するバンドのひとつが、十年以上の下積みを経てついに正当に評価されたパルプだ。彼らの「コモン・ピープル」は語り手の平凡なイギリス青年が、ギリシャから来た裕福なガールフレンドに「あなたみたいな普通の人たち(コモン・ピープル)みたいに暮らしてみたい」と口説かれる顛末を歌って大ヒットした。長く続く不況と、格差の拡大で「普通の人たち」の鬱屈は頂点に達していただろう。
 とりあえずスーパーマーケットに行って、お金なんてないって顔してみせなよ。何それ面白ーいと君は笑うけど、ごらん?他の誰も笑ってないよ?

部屋にゴキ○リが出てもパパに電話すればどうにかしてもらえる君が「普通の人たち」みたいに暮らすなんて無理だよ。「他に何にもすることがないから」踊って、飲んで、性交する僕らの気持ちなんて分からないよ。「貧乏ってクール」と思ってる君のこと、みんな嘲笑ってるんだよ?
 3分半に切り詰められたMVで伏せられてるのは「性交」を意味する俗語のscrew(※ほぼfxxkと同義語)だけではない。あ、ちなみにゴ○ブリはMVでも音は消されてません。6分近いフルバージョンでは「僕たちみたいなのが存在するだけで驚きだろう?君がなんで?ねえなんでって思ってる間にまばゆく燃えつきていく僕らみたいなのがさ」(あ、このへん全部意訳だし端折ってます)という鮮烈なフレーズとともに、テレビでは流しがたい呪詛の言葉が歌われている―
 奴らは警告なしで君に噛みつくよ 君を引き裂いて裏返しにするよ
 みんな観光客(ツーリスト)がキライだからね

「コモン・ピープル」はスラム・ツーリズムと呼ばれる現象を痛烈に皮肉った歌である。その名のとおり、貧しい人々の、貧しい暮らしを娯楽として鑑賞し、消費する観光。日本でも最近、大阪の新今宮=西成のあいりん地区を「貧しいけれど人情のある街」として消費しようとした電通がらみのコンテンツが炎上した。
ホームレスとデートの記事の残酷さ〜貧困消費と感動ポルノ〜(ヒオカ/note)(外部サイトが開きます)

 

 そしてこの「君に噛みつき、引き裂いて裏返しにする」逆襲を実際に描いたのが『ホステル』だった。
 30前後だろうか、家庭をもつ者もいるヤンチャ者たちが青春を卒業する(←ただし信じられない理不尽な暴力によってだが)なんともいえない風情もある作品だ。ちなみに東欧のホステルには、美女にモテたいアメリカ青年だけでなく、ヨーロッパ人とのアバンチュールを夢みる日本人の少女たちもいる。彼女たちも含め、無邪気な観光客たちが次々と誘拐され、拷問と殺人を愉しむ秘密クラブの獲物にされる。「ディープ東欧にある、あとくされない恋と乱交のホステル」は餌を釣るための罠だったのだ。
 自分たちの尺で測って「開発度が低い」地域や階層を劣った・愚鈍なものと見くびり、いわば格差を利用して利得を得ようとする都会人が、その思い上がりを暴力的に戒められる。…そこまで誇張されてないにせよ、(自称)文明人が非文明的なもの・野生の、野蛮なものたちに襲われるホラーを「赤頭巾型のホラー」と仮に呼ぶとする。むろん『ジョーズ』のような実際にモンスターが野生動物な作品も想定されるし、テキサスの田舎でエンストした自動車乗りがチェーンソー男をはじめとする殺戮一家に襲われる『悪魔のいけにえ』なども赤頭巾型=オオカミ怖い型のホラーに数えることができるだろう。『ホステル』で高く評価されたイーライ・ロス監督はその後も、南米に文明を持ち込もうとした欧米人が先住民族に逆襲されたり、ガイアナの人民寺院をモチーフにした、つまり文明を脅かす非文明をテーマにした映画を撮り続けているようだ(怖くて観ていない)。
 反面、階層や文化度・文明度が高い者が「趣味」のシリアル・キラーとして、下民と蔑んだ相手を獲物にコレクションしていく作品は「青髭型のホラー」だとも言える。前回の日記で紹介した、あんな作品やこんな作品は、こちらに分類できそうだ。『ホステル』は見るからに赤頭巾タイプのホラーだが、思い上がった観光客を餌食にする秘密クラブ自体は、どうやら大金をはたいても人の体を切ったり断ったりしてみたい富裕層が顧客らしく、青髭ホラーの要素もあるのだけれど、まあ話をすすめるための仮の、ゆるい概念なので深くは追求しない。

 …問題は、東欧に行けばオイシイ目に逢えるというアメリカ人の思い上がりを戒める要素を持っていたはずのホラー映画が結果的に「ほら見ろ、東欧の、文明化されてない奴らは恐ろしいんだぞ」と、余計に蔑視を煽る副作用も有していることだ。「気をつけな、奴らは君を引き裂くぞ」という台詞は「奴ら=僕ら」と捉えれば貧しいコモン・ピープルのやるせない遠吠えだが、「奴ら」を本当に「奴ら」と対象化できる者が発すればゼノフォビア・マイノリティへの差別・迫害の犬笛になる。それはまさに元祖「赤頭巾」で悪役にされたオオカミがヨーロッパで害獣として迫害・駆除されていった歴史が示している。

    *    *    *

 ようやく『アス』に話が戻る。
 前作『ゲット・アウト』は裕福な白人が黒人を捕獲する青髭ホラーだった。同時に、都会っ子の主人公が田舎の閉鎖的な白人コミュニティで捕獲されそうになる赤頭巾ホラーでもあったのだが、いちおう主人公は善良で、モンスターは邪悪。マイノリティとして迫害を受けてきた黒人を主人公に、あらたな迫害を描く作品だった。
 
 『アス』の主人公もまた(監督自身の出自でもある)黒人の一家だが、彼女ら/彼らは別荘地で白人一家とも親しくつきあい「黒人だから」という属性からは一応、切り離されている。ではどのような属性に属しているのか。それは一家の前に突然あらわれたドッペルゲンガーの不気味な一家が問わず語りに示している。私たちはアメリカ人よと。
 「アス」は英語ではUS。「私たち」でもあり、文字どおり「アメリカ人」=US(United States)でもある「ゼム(THEM)」。このUSを名乗るTHEMに、監督が仮託したのは主人公たち=「私たち」アメリカ人が、些細な不平はあるけれど豊かで満足な暮らしを送ることで、踏みつけにしている「私たち」になれない存在全般だ。いや、実際に監督がそう言っているのだ。
 それは「私たち」の豊かな暮らしを、薄給で支えている国内の外国人労働者かも知れない。あるいは「私たち」が入手できる安価な衣料品を、薄給で提供する国外の労働者かも知れない。「私たち」の満足な暮らしは「ゼム(THEM)」の搾取のうえに成り立っており、「私たち」には報われるべき罪過が、借財がある。
 だが、それを直に脅威・モンスターとして描けば「ほら、やっぱり奴らはオオカミなんだ」と偏見を煽ることになる。この隘路をジョーダン・ピール監督は「私たちにそっくりな、しかしいびつな、けれどそのいびつさは吾々に責任がある、地下に封じ込められたドッペルゲンガーたち」という架空の存在・荒唐無稽ともいえるSF的なアイディアで奇跡的に切り抜けた。
 
 主人公がドッペルゲンガーに遭遇し、また、地下に恐るべき真相が隠されているという意味で、個人的にはダンカン・ジョーンズ監督のSFスリラー『月に囚われた男』(2009年)を思い出さずにはいられなかった。
 あるいはクライマックスで回想される、地上で踊られるバレエにシンクロして地下で繰り広げられる痛々しくグロテスクな模倣は、2018年のルカ・グァダニーノ監督によるリメイク版サスペリア』を彷彿とさせる。
 監督なら当然なのだが各国の映画に造詣が深いと思われる作者なので、これらは意図的なものかも知れない。けれど、映画でなくても、それこそ先日の西成をめぐる炎上さわぎでも、ファストファッションの衣料品が弾圧されているウイグル産の(つまり搾取や奴隷労働が疑われる)綿を使っていた件でも、吾々のまわりにある多くの事象を投影できる、精緻さと懐の深さをもった作品が『アス』だと思う。
 多くの他のジャンルと同様、ホラーもまた、道徳的な教訓や価値に関する葛藤を描けるテーマだと再確認できた一本でした。
 おそらく、シンプルな『ゲット・アウト』のほうが評価は高いのだろうけれど、この第二作も個人的にオススメです。(ゴアじゃないよ)
 
 いや…さすがに『ホステル』をココに貼るのは…

ハルキ殺し〜イ・チャンドン監督『バーニング 劇場版』(2021.04.11)

 ※今週の日記には『バーニング 劇場版』および村上春樹の小説(直接の原作とされる「納屋を焼く女」だけでなく)に関する遠慮のないネタバレがあります。御注意ください。

    *    *    *

 主人公は中年男。自らの技能を活かし、会社組織の歯車ではない自由な立場で生計を立てている。妻とは離婚しているが、同年代の愛人(夫がいる)がいて性的にも満足な境遇だ。そんな彼が不可解な事件に巻き込まれる。謎めいた少女が彼の探索をアシストし、主人公を性的に導きもする。やがて主人公は、先の戦争の時代から続く、とある裕福な一族の呪わしい過去を暴くことになる…
 …ミスディレクションで申し訳ないが、村上春樹の小説ではない。『ねじまき鳥クロニクル』でも『海辺のカフカ』でもない。スウェーデン発のベストセラーで本国でドラマ化・ハリウッドで映画化もされたスティーグ・ラーソンミレニアム ドラゴン・タトゥーの女』のストーリーの要約だ。スウェーデン版のドラマで主人公ブルムクヴィストを演じたミカエル・ニクヴィストが(自分の考える)「ハルキ顔」だったから思いついた類似かも知れない。あるいは原作で「いや都合よすぎだろ」というほど主人公がモテる(映像版では控えめになっている)ので連想に至ったか。もちろん、意図的な類似だったかは定かでもないし、そこに関心もない。都会的なトレンディ小説…という安易なイメージとは別に、「こういうのがハルキ的」と呼べそうな要素があり、そっち方面で似通った作品があるのを興味ぶかく思ったのだ。
 逆に春樹作品のほうがミステリから多くの養分を得ているって話でもありますね

 ※というわけで今週の日記には『ドラゴン・タトゥーの女』のネタバレもあります。御注意ください。

 もう三年も前の映画だからネタバレ全開でもいいだろう。イ・チャンドン監督の『バーニング 劇場版』は村上春樹の短篇「納屋を焼く」の映像化だが、大胆な翻案でもある。公開当時、先行して入ってきた評として(原作者が描かながちな)格差や貧困の問題を正面から描いている、というものがあった。なるほど、上にも書いたように春樹作品の小説の主人公は「食べていくのに困らない」印象が強い。原作「納屋を焼く」でもそうだ。語り手となる主人公は、作者を想像させる31歳(既婚)の作家。性的な関係はないらしいが月に2回くらいデートしているガールフレンド20歳。彼女が外国から連れ帰ってきた恋人の青年(年齢不明)。いずれも仕事の内容は多く語られない。「年齢とか家庭とか収入とかいったものは(中略)要するに考えてどうにかなるという種類のものではないのだ」とは冒頭の言である。Skip a life completely, stuff it in a cup。
 やがて(主人公の奥さんは放ったらかしで)三人の奇妙な交遊が始まり、やがて語り手の関心は彼女のボーイフレンドのほうに移っていく。彼は(彼女が寝てる間に、主人公だけに)好さげな納屋をいくつも見繕っていて、二ヶ月にひとつくらいガソリンをかけて焼くという変わった趣味の話をする。他人の、というか誰のものかも知らない納屋だ。ふつうに犯罪である。火をつけた後は遠めの場所から望遠鏡でのんびり眺める。「外車に乗った身なりの良い若い男がまさか納屋を焼いてまわってるなんて誰も思わない」。原作には原作の語り口でのみ立ちのぼるペーソスや詩情があるのだろう。こうして抜き出してみると、ずいぶん不穏で剣呑な話だ。
 その剣呑さを(原作をも振り切る勢いで)最大限に引き出したのが、映画『バーニング』だとも言える。まず、登場人物たちのコンポジション・力関係が違う。主人公は彼女と同年代・というか元同級生で、卒業後そうそうに職を失ない実家の農業を継ぐような継がないような、どっちつかずの場所で呻吟している若者。スーパーの前でキャンペーンの景品を配っていた彼女と再会して、恋愛のような状態になるが、生活が重荷となり関係は長続きしない。次に再会したとき、彼女は外国帰りで裕福でハンサムな新しい恋人を連れている。三人の奇妙な交際が始まり、やがて彼女が寝ている横で、納屋を焼く打ち明け話が始まる…
 ユ・アインが演じる主人公の若者を、若い頃の作者=村上春樹を彷彿させる・させないと吟味する評もあった。だがむしろ「ハルキ顔」をしているのは裕福な新しい恋人のほうに思われた。スウェーデン版『ドラゴン・タトゥーの女』のミカエル・ニクヴィスト。映画化された『ノルウェイの森』(未見)で主人公を演じた松山ケンイチ。それに村上春樹に似てるといわれるポール・サイモンや羽田孜(第80代内閣総理大臣)。

 スティーヴ・ユァン演じる新しい恋人は30代。裕福で生活に困らず趣味がよく、そしていつでも含み笑いをしている。隠し事があるように。それを見抜けない周囲の人々を面白がるように。要するに、この『バーニング』のハルキ似の彼は、人々が「こんな感じ」といって村上春樹(作品)を批判したり揶揄したりするときの「軽薄な村上春樹(作品)」像の具現化みたいなキャラなのだ。しかし監督による「大胆な翻案」の本領はここからだ。観れば分かることなので、勿体ぶる必要はないだろう。
 ※ここから、本当に踏みこんだネタバレになります
 映画『バーニング』の裕福な男は、納屋を焼く放火犯ではなく連続殺人犯であることが示唆されるのだ。

 原作でも映画でも、ガールフレンドの新しい恋人に「納屋を焼くのが趣味なんです。実はこのへんにも好い物件がありましてね。今日はその下見も兼ねて来たんです」と言われた主人公は、地図で近所のいくつかの納屋に目星をつけ、焼かれてないか・もう焼かれたか確認するためジョギングを始める。そのうちガールフレンドとは音信不通になってしまい、恋人のほうと二人だけで会うことになる。裕福な恋人は、目星をつけていた納屋はもう焼いたと言う。だが主人公は近所で焼けた納屋を確認できていない。見逃したんでしょうと微笑まれる…
 『バーニング 劇場版』では、この新しい恋人がシリアルキラーで、主人公の想い人でもあった彼女を愉しみのために殺害したことが示唆される。「納屋を焼くんです」「新しい物件にも目星をつけてます」「このへん(あなたの近く)ですよ」という台詞が、急に禍々しい色合いを帯びる。
「十五分もあれば綺麗に燃えつきちゃうんです。まるでそもそもの最初から存在もしなかったみたいにね。誰も悲しみゃしません。ただ―消えちゃうんです。ぷつんってね」(原作「納屋を焼く」より。太字部分は原典では傍点つき)
彼の含み笑いは、『ドラゴン・タトゥーの女』で連続殺人の真犯人が探偵役のブルムクヴィストに「この前、君を招いてディナーを楽しんだ、まさにその時(食卓の足元の)地下室には、次に私に殺される被害者が監禁されていたのだよ」と嬉しげに告げた時みたいな、深みのない邪悪さを漂わすかのようだ。
 そうした意味で、本作は単なる「納屋を焼く」の映像化というより「納屋」と、シリアル・キラーを描いた『ダンス・ダンス・ダンス』のマッシュアップと言ってもよいだろう。
 そもそも、村上春樹の作品には主人公の分身・オルターエゴのような人物がよく現れる。最初の三部作の「鼠」。『ノルウェイの森』のキズキ。そして『ダンス・ダンス・ダンス』の五反田くん。『スプートニクの恋人』もドッペルゲンガーがモチーフだった。…物語において、ドッペルゲンガーは妄想の第一レッスンのよう描かれがちな現象だ。僕がよく、村上春樹作品が世界中に読者を得たのは、描かれる幻想が高度消費社会の成立にともない発生した心の病にフィットしたからではないかと書いてることにも関連する。
 オリジナルの作者ラーソンの急逝後、別の作家によって書き継がれた『ミレニアム』のシリーズが「ドラゴン・タトゥーの女」リスベットと、双子の妹カミラとの殺し合いを描いていることを、ここで述べるべきだろうか。三部作の「鼠」、『ノルウェイ』のキズキ、『ダンス』の五反田はそれぞれ「親しい友人の死を乗り越えて」主人公を成長させるためのように、主人公も持っていたかも知れない負の属性を引き受けて処分するように、破滅的な生を生き急いで死の世界の住人となっていく。

 …とはいえ『バーニング』の彼女をめぐる二人の男は、双子のようなドッペルゲンガーではない。ハルキらしさを体現しているのは裕福な含み笑いのハンサムで、若く貧しい主人公は、経済的なハードルゆえハルキ的な世界に参入できない「その他おおぜい」の具現化なのかも知れない。ハルキ=「やれやれ」といった安易な揶揄でなく、ファンですら完全には否定できない春樹作品の鼻持ちならなさを、一人のハンサムに集約して断罪する、『バーニング』はそんな「父親殺し」・ハルキ殺しの所業として興味ぶかかった。
 案外その(有名なミステリ小説に出てくる、一人ではナイフを振るう残酷さをもてない者たちが十人がかりで悪党を断罪するような)殺害者の中には、学生結婚して喫茶店の経営に追われ「ホールのチーズケーキから切り出した・フォークで支えないと倒れてしまうくらい薄い切片のような」貧乏暮らしだったという、小説家として成功した後の作品には反映されない・ハルキ的世界には参入できない、作家になる前のハルキ氏自身も含まれているのかも知れない。いや、これはちょっと話を盛りすぎですか。

 原作を翻案する・何かをベースに新しい作品をつくる場合、原作や元ネタの良さを忠実に写し取る・さらに発展させる、の他に「むしろ原作を倒す」「葬る」方向で乗り越えていく。嫌いではありません。(批評もそういうとこあるし)。
 

ドラゴンの名をもつ女〜パク・ソリョン『滞空女』(2021.04.04)


 パク・ソリョン滞空女 屋根の上のモダンガール』(萩原恵美訳/三一書房/原著2018年・邦訳2020年)について、語れることは多くない。実物で味わってほしさが強すぎて、1センテンス書けば1センテンス分、一行書けば一行分「これをまっさらな状態で読む」愉しみが奪われてしまうからだ。
 そして思うに、この強烈な磁力を放つ、本体のアートワークだけで十分ではないのか。群青の表紙に白く大きく滞空女という謎めいたタイトルとあそこに人がいる。そして怖くはないんですか。という帯文。
「誰か死にはしまいかと怖いです。それが自分だったら怖いし、他の誰かでも怖いです。
 人が死ぬことを何とも思ってないやつらが怖いです。」

これで読みたくならないほうが、どうかしている。と思いつつ数ヶ月。ようやく手にして読んだ。期待は裏切られなかった。以上。

三一書房『滞空女 屋根の上のモダンガール』公式(外部リンクが開きます)

 …で終わってしまったら日記(週記)にならないので、なるべく興を削がないよう話を進める。帯裏の紹介によれば「滞空女」の本名は姜周龍(カン・ジュリョン)。1931年の平壌で「朝鮮の労働運動史上はじめて「高空籠城」と呼ばれる高所での占拠闘争を繰り広げた」とある。
 物語はそんな周龍が数え二十歳で嫁いだ五つ年下の夫・全斌(ジョンビン)を熱愛、

彼の願いをかなえるべく、ともに婚家を出奔し独立軍に身を投じる前半で始まる。負けん気の強い彼女は、女は炊事洗濯係かと上層部に食ってかかり、武器の輸送などでメキメキ頭角を現していく。ちなみに周龍も夫も実在の人物。帯裏の説明では、その生涯が「1901〜1932」の短さであったと、あらかじめ提示されている。冒頭の時点で、彼女にはもう十年余の時間しか残されていない。つらい。焦る。だがそんな読む側の心配など蹴散らして主人公は突っ走る。
 波瀾万丈の展開と、彼女の行動力に引っ張られ、ページを繰る手が止まらない。本当に余計なことを言いたくないので説明を可能なかぎり端折ると、後半はストーリーが一転。読者は平壌のゴム工場で働く龍ねえさんに再会する。貧しいながらも自由を謳歌する彼女はしかし、今度は労働争議に巻き込まれ、というより自ら渦中に踏み込んでいく。ストライキの計画。共産党のオルグ。ひょっとしてこれは、プロレタリア文学というやつか?社会主義リアリズム?
 しかし小説の主人公は人間で、イデオロギーではない。相変わらずの負けん気で工場に楯突く、インテリの共産党員にも噛みつく。
「あたしに近づいたのも最初から看板が必要だったんじゃありませんか。
 無学な女工はエリート男の言うことを素直に聞かず拒否しそうだから、
 それらしい操り人形にお先棒を担がせる戦術だったんでしょ」
「そのとおりです。私は周龍さんを利用しています。最初から利用するつもりで近づきました
(中略)
 いくらそうしたくても私は周龍さんのようにはできません。女性のゴム職工の当事者性を真似ることも奪うこともできないのです(中略)
 周龍さんも利用すればいいんです。私を、私の組織をいくらでも利用してください」
言うだけのことはキッチリ果たし、持ち出しの献身まで上乗せするドラゴンの女。義侠心に篤く、直情的で、手足を思うまま振り回すように自由でありたいと心はいつも燃えている。そんな主人公に、傑物と一目置かれる男たちも惚れこむ。周龍自身が「惚れて」いたのは夫の全斌ただ一人だけれど、前半では独立運動のリーダー白狂雲・後半では共産党のエリート鄭達憲が、彼女の潜在的な力を見抜き、なにかと目をかける。
 とくに後半の達憲が(たえず口喧嘩しながら)周龍に寄せる厚意は「男女バディ」のように優しくも熱く、そして自分のコントロール下に置けないほどの奔馬だからこそ彼女に思い入れずにいられなかった悲しみに満ちている。映画のフィルムの巻き戻しのようなラストシーンの語り口は今時それほど珍しくもないかも知れない。けれど実際には手の届かないところにいる周龍に達憲が呼びかける場面は、半ばクリシェになりはじめた技法が、まだまだ心を打つ表現になりうると示している。

 小林多喜二の『蟹工船』が1929年。哲学教師だったシモーヌ・ヴェイユが病弱な自身を投げ打つように工場労働に身を挺したのが1934年。姜周龍の高空籠城は、海を隔てた日本に現れた煙突男(労働争議のため工場の煙突に登る)と、互いの存在も知らずにシンクロしていたという。
 歴史学研究所のパク・チュンソンが本書に寄せた解説によれば、労働運動が長いあいだ弾圧・抑圧されてきた韓国で1990年・高さ82メートルのクレーンを70人が占拠し「高空籠城」が復活した。そして両者の橋渡し的な存在として、1970年に焼身自殺した全泰壱「烈士」の名が挙がっていた。先月の日記で取り上げた李珍景『不穏なるものたちの存在論』で、著者が「幽霊が存在することを信じる。強い力を持って実存することを確信する」と書いた「若者」の名前だった。
 もちろん同じ国で書かれた本だから、同じ名前に巡りあうのは、そこまで珍しい話ではない。それでも、かたや小説・かたや思想書と装いの異なる二冊の本が、自分にだけ見える磁力で引き合っていたようで感慨ぶかかった。本も御縁なのだという、いつもの話です。
 
 『無謀なるものたちの共同体』も読了。資本主義を代替するコミューン=共同体は、資本主義の廃絶後にしか到来しないユートピアではないと著者は説く。たとえば賃労働の現場でも業務を動かしてるのは無償の助け合いであり「冷徹な資本の論理」はそのたび穴を開けられているのだという指摘は「マルクスが言うように労働者が生産工程の支配権を奪取したところで、各々バラバラに寸断された業務を強いられる以上、疎外は解消しないじゃないか(大意)」と厳しく指摘しながら、その疎外された工場労働に自ら挑んだヴェイユの「無謀なる」思想を補完するもののようにも思われました。

ローカルとグローバル〜ディー・レスタリ短編集『珈琲の哲学』(2021.03.28)

 2019年に台湾で大ヒットした映画『返校 -detention-』の日本公開が決まったらしい。喜ばしいと同時に、少し驚いた。旅行中に現地(台北)の映画館で観て、圧倒されると同時に、でも日本への配給は難しいかもと勝手に思ってもいたからだ。
 原作は同名のホラーゲーム。不気味な学校に閉じ込められた少年少女が、異形のモンスターに脅かされながら脱出を試みる話だ。もちろんホラーなのは配給の障壁にはならない。実は同作、舞台は軍事政権が白色テロと呼ばれる民衆弾圧を行なっていた1960年代。形式はホラーでありながら、恐怖政治や密告社会での裏切り・罪と罰を描いた、当事者たる台湾の人たちにとっては胸をえぐるようなテーマに挑んだ作品なのだ。
 
 もちろんホラーは、作りかた次第でいくらでも社会的・倫理的メッセージを盛り込めるジャンルだ(これについてはいずれ、項を改めて語ることになるでしょう)。しかし本作は、ホラーを求める他国の観客に提供するには、背景となる社会的要素があまりにローカルで、ドメスティックということで忌避されないかと懸念したのだ。
 なので日本での公開が決まり、邦題が『返校 言葉が消えた日』だと知ってオセロがひっくり返されたような気がした。そうか、「ホラーとしてはローカルすぎて配給しにくいのでは」という先入観は自分だけのもので、むしろローカルでドメスティックな社会的テーマの作品であることを前面に出して(実はホラーですと)売っていく形は当然ありえたと。7月公開予定とのことで、自分も観直すのが楽しみ(あまり楽しみって感じの話じゃないですけど)な一本です。

    *    *    *

 でも今日の本題は小説の話。『珈琲の哲学 ディー・レスタリ短編集1995-2005』(福武慎太郎・西野恵子・加藤ひろあき訳/上智大学出版・ぎょうせい/2019年)。帯にいわく「あなたとインドネシアを繋ぐ、人生と愛のテーマを18篇収録」。めったに読む機会のない国の小説と知り、これも縁だと手に取った。非常に好かったです。おわり。いや終わらない。
 イントロダクションによれば著者は1976年生。ちなみに女性。ミュージシャン活動を経て『スーパーノバ:騎士と王女と流星』という長篇で作家デビュー。発売35日で1万2千部を売り上げ、英訳もされ、最終的には六部作として完結した同作も(先週のぼやきに続き)未邦訳なのですが、こっちも出来れば読んでみたいのですが、まあそれは措く。『珈琲の哲学』のほうはデビュー前から書いていた習作などをまとめた短編集。タイトルからしてSFともファンタジーとも取れる長篇と違い、日常的な世界での恋愛や心理の綾を描く短編小説や、メッセージ性の高い歌詞を思わせる散文詩から成る。
「あなたは恐れている。なぜなら、誠実でありたいと願っているから」
「ラナと仲良くするということは、涼しい水の中に放流されるような感じなのだが、その涼しさは暫くすると恐ろしい寒さとなり襲ってくる」
「何かに引きずられると我々の疲れは倍増し、何かに挟まれればその時間は重くのしかかる。そして、大切なものを取り除かれると、心の声が聞こえなくなる」
「私の手を取って、でも強く握りすぎないでください。なぜなら、私は引っ張られたいのではなく、共に歩きたいからです」
どれが小説の一節で、どれが詩の一部か、分からないでしょう?こういう独自な文章世界を有する作品集なのだ。普遍的で、ジェンダーに関係なく響いてくる言葉。
 
 言い替えると、いかにもインドネシアですね、という要素は稀薄に思われる。表題作はインドネシアがアジアで有数のコーヒー生産国であることを知れば、より味わい深くなるかも知れないし、フィルターで濾さずに挽き豆がカップの底に沈んだ上澄みを飲むトゥブルックという淹れ方は独自かも知れない。けれど究極のコーヒーを求めて店を開いた若者の聖杯探求譚と、彼を見守る語り手=共同経営者の青年の友情は、舞台がマンハッタンでもアムステルダムでも、なんなら日本の何処かでも成立しうる。
 

 もっと良い例がある。「あなたが眠るその前に」という短篇の一節だ。
「ピクニックに行きましょう。ミルク・バスに入る。ポトン・トゥンペン(訳注:サフランで色をつけた黄色いごはんを…(以下略))もする。それから砂遊びして、コオロギを戦わせて、袋飛び競争をして(中略)
でも、何かを一つだけ選べというなら、あなたに寄り添って眠って、夢を見たい。私の手が枕の下にあって、あなたがそれを握ってくれる」

 これが『珈琲の哲学』という作品集だ。ポトン・トゥンペンやコオロギの戦いで「インドネシアと繋がり」たい人には不満かも知れない。けれど「あなたに寄り添って眠りたい」という感情はモスクワでも台北でも、なんなら日本の何処かでも普遍的にあるもので、インドネシアでもそうなんだなと思う、そういう形で日本の読者は「インドネシアと繋がる」ことができる。
 それは村上春樹が世界中で読まれている、その受容のされかたと似ているのではないだろうか。おそらく世界中で春樹を読むひとたちは、その小説に日本らしさを求めてはいない。あるていど近代化し消費社会化した国や地域なら、同じように感じる不安や欠落感・あるいは「小さな確実な幸福」に共感するからこそ、世界中で人々は春樹を読むのだと思う。

 人生ではたまに、こういう贈り物みたいな本が降ってくることがある。また作中の卓抜な比喩を借りて言うなら、砂漠の真ん中に現れた真白い雪のような贈り物が。静かに、おすすめです。
 

n個の性〜ジョアン・ラフガーデン『進化の虹』(2021.03.21)

 いや、李珍景不穏なるものたちの存在論』の話の続きなんですけど。
 前回の日記で「ハイデガーやレヴィナス、フーコーやドゥルーズ=ガタリ、ニーチェやマルクスを縦横に引用し…」などと書いたから、そのあたりを予備知識として先に読んでないとダメなのかと思われたかも知れない。そんなことないです。「ハイデガー?当然もう知ってるものとして話を進めるよ?」ではなく「ハイデガーという人がこういうことを言ってるんだけど…」と逐一丁寧な説明が入る。逆に「ふーん原典を読んだことないけどハイデガーってそんな感じなんだ」と分かるし、いちおう読んだつもりの著者についても「あれはそういうことだったんだ」と再発見がある。

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 「n個の性」はドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』の終盤に出てきて、印象に残った概念だった。
 いわくひとつの性でも、二つの性でもなくて、n個の性。二つの性はむしろ簡単だろう。男と女。ひとつの性とはフロイトに始まる精神分析が、男性のトラウマは父親の巨大なペニスに対する畏怖と去勢されるのではないかという恐怖に基づき、一方で女性のトラウマは父親のようなペニスを持たない劣等感に基づく、つまり男の性も女の性も(象徴的な父親の)ペニス(の欠如)に還元できるとした一元論をさす。これに対してドゥルーズ=ガタリは冗談よせよ、むしろn…個の性が、ひとりの主体の中にすらn…個の性があるんだと説いて言うのだ。
「女性の中には男性と同じほどに多くの男たちが存在し、男性の中にも同様に女性と同じほどに多くの女たちが存在する」
「愛をかわすことは、一体となることでもなければ、二人になることでさえもない。そうではなくて、何千何万となることなのだ」

 LGBTに関する話題が持ち上がらない日はない2021年の現在。半世紀前も前に書かれた言葉は、いま差別と反差別が形成している対立構造とは少しズレるかも知れない。何しろ彼らが言う「性」「欲望」は性別を問わないどころか、モノやコトにまで及ぶ。それは多様な性を、無条件で肯定するものですらない。「軍旗、国家、軍隊、銀行は、多くの人々を勃起させるヒットラーは、ファシストたちを勃起させたのだ」
 性は二つじゃないし、まして一つなんかじゃない、むしろ何千何万…n個なんだぞ。この言い切りに魅了されつつ、今まで引用や言及をしてこなかった理由はもうひとつある。それは実態に即さない空想的なアイディア、地に足のつかない空論ではないかという懸念だ。ただ威勢よく、人を驚かせることだけを狙った、逆張りの、空っぽなレトリック・言語遊戯なら要らない。
 実際には、ドゥルーズがそのキャリアの出発点から昆虫や動物と人間の境界に「哲学者」らしからぬ深い関心を寄せていたことを今の吾々は知っている(20年5月の日記参照)。ドゥルーズとコンビを組む前のフェリックス・ガタリのいわゆる『アンチ・オイディプス草稿』も(未読なのですが)パラッとめくったら蜜蜂の生態のことを語っていて「うわー」と思ったことがある。一方で、彼ら二人を含むポストモダン・現代思想の思想家たちが、いかに科学的な知見をテキトウにつまみ食いし曲解しているかというテーマの本もある。「n個の性」というアイディアは、自分の中では宙ぶらりんの懸案だった。


 そんなわけで李珍景『不穏なるものたちの存在論』が「n個の性」というアイディアを、科学的な裏づけを添えて再提示してきたのには驚いた。なにしろ、そもそも人間以外の生物の世界にオス・メスに還元しきれない「n個の性」が溢れているというのだ。

 ここで再確認しておくのもよいでしょう。そもそも、なぜ性というものが存在し、それは男女・雄と雌・精子と卵子なのか。
 この分野の入門書=長谷川真理子(長谷川真理子)『オスとメス=性の不思議』(講談社現代新書)は言う。まず、性が存在するのは遺伝子をシャッフルするため。アメーバのように同じ遺伝情報を持った分身を増やしていく方法だと、何か災厄があったとき(マット・リドレー赤の女王』はウイルスのような乗っ取り・寄生者の存在が最大の要因だとしている)同じ遺伝子であるために一網打尽になってしまう恐れがある。そのため、別の遺伝情報を持つ他の個体と遺伝子をシャッフルすることで、誰かは死んでも誰かは生き残る、多様性を確保したという説だ。
 そして、別々の二つの個体が効率よく出会うためには A.栄養を豊富に持つぶん動きの少ない個体とB.栄養は持たないぶん身軽な個体、A同士でもなくB同士でもなくAとBの組み合わせが数学的に一番よかった、それでA=卵子・B=精子、すなわち雌と雄・女性と男性になった、という。
 
 これ自体は、まあ間違ってないと思う。明快だし、それよりもっと箸にも棒にもかからない説に比べたら、はるかに筋が通っている。
 しかし、この考えが「人間的」に悪用されるきらいがあることも確かだ。典型的なのは「男の浮気は本能だから仕方ない」「女は家を守るべき」…

 『不穏なるものたちの共同体』で著者の李氏は、生物学的なオスとメスの「本能」から人間の男女かくあるべきを説くのは、実は逆に、人間の男女かくあるべきという観念を生物界に投影しているのではないかと指摘する。
 いや「人間以外の性は雄と雌で固定されてるけど、人間は自由意志があるから・あるいは逆に「本能の壊れた動物」だから、その固定に従う必要はない」という反論すら、人間は特別という驕りではないのかと。人間以外の生き物の性って、そんなに固定されたものなの?
 李氏が取り上げるのはジョアン・ラフガーデンの2004年の著作『進化の虹』だ。それはもう、ドゥルーズ=ガタリが知っていたら大喜びしていただろう「n個の性」の饗宴だ。いわく
「ワキモンユキトカゲには大きさと色、行動パターンを別にする三種のオスと二種のメスの五つの種がある」
「南太平洋のニューヘブリディーズ諸島には「七つの性」を持つブタがいる」
「ブチハイエナのメスは陰茎を持っていて、この陰茎を通して子を産む(だからたくさん死ぬ!)」
「植物はトウモロコシのように雌雄すべての生殖構造を持つものと、ギンナンやナツメヤシのように雌雄が別になっているものがある」

性転換する魚、女王が大量の同性と少しだけの雄を産むアリや蜜蜂の話までするべきだろうか。ラフガーデンは雌雄の区別など結局は(上で述べたとおりの)生殖細胞の大小でしかないと結論づける。だがその「大小」すら二つでなくn個だったりする。「ショウジョウバエの一種(中略)は、精子の大きさが三種類であり、四種の大きさの生殖細胞をつくる」
 ラフガーデンは、こうした雌雄・男女に収まりきらない多様な性を「ジェンダー」と呼んでいるが、李はそれが不満ですべて「性」と呼んでいる。サルやイルカには同性同士の性的なスキンシップが確認されているという話もある。人間以外の生き物においてすら、性は二つでも一つでもない。それは今の、権力と絡み合った「男女」観を側面から突き崩す強烈な膝カックンになりえないだろうか。

    *    *    *

 …残念なことに、ラフガーデンの『進化の虹』に日本語版はない。
 同様に、フェミニストの論客として著者が引用しているジュディス・バトラーの著作にも脚注を見ると韓国語版はあっても「本邦未訳」のものがある。もちろん、それぞれの国で訳される本は違う。けれどたとえば『ライラの冒険』として映画化もされたフィリップ・プルマンの長篇ファンタジー『His Dark Materials』の続編が、日本では邦訳のホの字も聞かれないのに人口が1/5の台湾で繁体字版が書店に平積みされているのを見て感じた焦燥と絶望がある。少なくとも「日本は各国の本を翻訳で読める、世界でも稀有な国」みたいな自負は、昔だけのことか・あるいは実は一度も真実でなかった幻想だった可能性がありはしないか…というのは、また別の話
 もっと直截に思うのは、この『進化の虹』の邦訳が出てくれませんかねえ、ということだ。あるいは同様の、生物界の性の多様性を開陳する著作が、すでに邦訳で、あるいは日本の著者の手で出版されているかも知れませんが…
 そう言って自分の念頭にあるのは「学習まんが」の枕詞つきで(笑)早川書房から刊行されているマンガ版『ダーウィンの覗き穴』(日高トモキチ/原作メノ・スヒルトハウゼン/2019年)。いや、傑作なんですよ、これが。まさに性=オスとメス・「雄はすべての精子を受精させるべくがんばるし 雌は多くない卵を大事に受精させるために慎重になる」という性淘汰説に(賛否はあるものの、としたうえで)準拠した著作だけど、これはこれで面白いのなんの。全編が性と交尾の話なんだけど、生殖器がばんばん出てきますけど、なにしろイカや昆虫やもっと小さな虫なんかの生殖器なんで、エロいようでエロくない・ちょっとエロい(案内役の猫耳の女の子が…すみません)不思議な書物。
 ちょっと模写するために今てきとうなページを開いたら「アメリカ南部の湖沼に生息するグッピーの仲間ガンブジアの雄は雌に見せつけるため体長の1/3にも及ぶ巨大な生殖器をもつが巨大すぎると捕食者から逃げられないので、交尾をとるか安全をとるかシビアなトレードオフが存在する」みたいなエピソードがあって、もう全編こんな内容。強くオススメしたい(笑)。
 

 そして(これほど可笑しくはならない気もするけど)こんな感じで『進化の虹』。あるいは同様に生物界の「n個の性」を活写する書物。マンガ化してくれませんかねえ。きっと売れますよ?
 
著者の日高トモキチさん、本当に虫とか好きなかたで、かわいい女の子(と不思議な世界観)のまんがを買いにコミティアの売り場に伺ったら「これもいかがですか」とオススメいただいた虫の絵葉書が「ぎゃああああっ」と叫びそうになるくらいリアルで「すみません無理です…」(わりと虫は苦手)とゴメンナサイしてしまったの、申し訳なかった…

自分なくしの哲学〜李珍景『不穏なるものたちの存在論』(2021.03.14)

 李珍景(イジンギョン)は、前から気になる著者だった。独裁政権下で地下運動の組織を試み、投獄された経験も持つ気骨の思想家と知ったのは後のことでしたが…
 横浜駅西口ダイエーの2フロアを占めていたブックファーストで二冊並んだ著書を見て「…高っ」一冊三千円の本が、しかも二冊。んーこれは、と逡巡するうち当の本屋がダイエーごと消滅してしまった。一階のフードコートの、1パック200円で買える小粒の揚げタコ焼きを勝手に「ジェネリック銀だこ」と呼んで愛好してもいたのだが…まあそれは別の話。
 2021年、つまり今年の4月から書籍の裏に刷られる価格が本体+税ではなく、税込の総額表示に変わるらしい。表紙を作り直すのかシールでも貼るのか、いずれにしても大変な手間と費用で、小さな出版社などは存亡の危機だという。笑いごとではない。
「総額表示義務」反対の署名(change.org)(外部サイトが開きます)
手にしそびれていた著書二冊を確保せねばと思った。Amazonで確認すると二冊のうち一冊は古本がある。安い。ここでまたケチくさい根性が出た。古本を注文。到着。開くなり「やられた」と思った。
 

    *    *    *

 「人間ですらないもの、卑しいもの、取るに足らないものたちの価値と意味」という長い副題がつく不穏なるものたちの存在論(影本剛訳/インパクト出版会・2015年、原著2011年)。
 本書が言う「不穏なるもの」とは、吾々が不快に思い、遠ざけたがる他者だ…という説明では十分ではない。吾々に「迷惑をかける」障害者。健康をおびやかし、何より不潔なバクテリア。その存在だけで居心地を悪くさせる実験動物たち。昔なら「性的倒錯」という蔑称で呼ばれたろうフェティシズム。そしてプレカリアートと呼ばれる非正規労働者たち―著者がさすのは吾々が、吾々より「低い」存在として蔑むもの、関わると引き込まれ「落ちる」恐怖によって吾々が忌避するものたちだ。
 それらと吾々は同一線上にある、むしろ吾々こそ障害者でありサイボーグであり実験動物なのだと認めてしまおう。神や真理あるいは国家といった高みに向かうことでヒトという不自由な境遇から離脱するのではなく、下から自己を脅かすノイズを全て受け容れ、圧倒されるように自分を失くしてしまえ―そもそも相互作用から隔絶された自己など存在しないのだから―そう著者は説く。至高の「わたし」唯一無二の・不可侵で不変の「わたし」という信仰を、手を変え品を変え、外部から突き崩そうとする。
 「はいはい」「あるある」と俗化しやすい思想かも知れない。他者を受け容れましょう、感謝が大事―頭で理解し口でそう言いながら、結局は「許せるものだけ許し、そんな自分の寛容さに感激する」((c)ブラウン神父)のではなく。本書を味読できるか・友達になれるかは、その「不穏さ」不快さ・自分が無になる恐怖をどれだけリアルに想起できるかによるだろう。

 たとえば細胞。吾々は細胞レベルからして、核とは異なる遺伝子をもつミトコンドリアなどとの共生の産物だ。人体レベルで見ても、体表に、口腔内に腸内に、大量のバクテリアを住まわせ共生している。共生といえば聞こえがよいが、それは一種の事故であり、食い合いの失敗であり、またバランスが崩れれば別の「事故」に転ぶフラジャイルな安定状態であることを忘れてはいけない。健康ならば無害な常住バクテリアが、体調が損なわれることで病毒となり攻撃者に転じることを、日和見感染という。連想されたのは近年のレイシズムの顕在化だ。震災の復興は道半ばで経済は停滞し、さらにコロナが追い打ちをかける、解決すべき問題は他に沢山あるときに、どうして外国人差別や女性差別・トランス差別に血道を上げるのか。社会が弱体化してるこんな時になぜ、ではなかった。弱体化しているからこそコンフリクトが生じているのではないか。
 たとえば進化論。ダーウィンの進化論は、人間だけが神から選ばれた存在だという信仰をブチ壊し人々を動揺させた。だが、たちまち「進化の階梯の頂点にいる人間」という(ダーウィン自体は言ってない)俗説がふたたび人間を至高の座につけた。著者は慎重に「ヒトがサルと同類扱いされたショック」とのみ記しているが、ひょっとしたらそこには新大陸の発見により「自分たちと同じヒトだと思いたくない」未開で野蛮な(と西欧人には見えた)まさに不穏な人々との出会いがありはしなかったか。俗流進化論はトカゲやサルと比べてヒトを至高の地位につけるだけでなく、同じ人間でも位階があると差別を正当化するための道具ではなかったか。
 マクルーハンやベンヤミンを援用し、最初に伝わるメッセージは形式だ(形式そのものがメッセージだ)と著者が説くとき、思い浮かんだのは140字のTwitterのことだ。
 12月の日記先月の日記で、世界の支配者が「もの」になることへの嫌悪を僕は語ったが、むしろ問題は「もの」の価値が「価格」でしか量れなくなっていることだ・「もの」自体にはどんどん融合させられてしまえという著者の言は、ここ半年くらいの自分の考えの軌道修正を求めるもので無視できない。

 ハイデガーやレヴィナス、フーコーやドゥルーズ=ガタリ、ニーチェやマルクスを縦横に引用し、また批判し乗り越えを図りながら、著者はそれらを常に、今の社会とつなげようとする。現実から遊離した抽象論ではない。山から下りて、悪と戦え―そんな言葉が思い出される。
 たぶんその社会への関わりの疎密が、(話はすべるが)同じように現在の科学至上主義への批判でありながら話題の書、マルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』が個人的に最後までピンと来なかった理由のひとつかも知れない。
 (面白く、納得もするし興味ぶかい本ではありました)
 科学が測定できるものだけを実在とみなすことを批判して『不穏なるものたちの存在論』のほうは言う。神やUFOが誰かの行動に影響を及ぼすなら、その誰かにとって神やUFOは存在するのではないか。
「わたしは幽霊が存在することを信じる。強い力を持って実存することを確信する」
そんな突飛な発言の根拠となるのは1970年に抗議の焼身自殺を遂げた若者や、80年の光州で虐殺された数千人の市民の存在だ。
「その幽霊によってわたしは、またわたしの友人たちは、思いもよらぬ生へと巻き込まれていった(中略)
 ペンを持たねばならない手にはいつのまにか石礫が、あるいは火炎瓶が掴まれていた。
 幽霊たちでなければ
(中略)一体だれがそんなことをしえただろうか?
 わたしたちが叫ぶとき、実際はかれらが叫んでおり、
 わたしたちが駆けるとき、かれらがわたしたちとともに駆けていた。
 誰がこの幽霊たちの存在を否定できるだろうか?」

本書でもっとも熾烈な、光を放つ箇所だと言える。
 吾々個々人にとりつき、その生を変えてしまうものとして、著者は「愛」を語る。愛は「愛そう」と意図的に決断できるものではないし、愛すまいと意志で抑制できるものでもない。愛は自分こそ大事・自分こそ至高・自分を失ないたくないという自我の鎧を叩き割り、膝を折らせる。魅惑者に巻き込まれ、己を失なうことを嬉々として受け容れさせる。愛の強度は「自分をどれだけ低められるかによって決定される」
 己を変容させる他者として『攻殻機動隊』で草薙素子を魅惑した人形使いや、アシタカを一目で魅了した『もののけ姫』サンが例示される。本書のサイボーグ論は一章の大半を割いて草薙素子の変容を分析した『攻殻機動隊』論でもある。『ブレードランナー』などと並び、著者がジャパニメーションを好んで取り上げるのは、韓国で思索し活動する著者にとって隣国のアニメもまた他者だからかも知れない。だとすれば、その理論・「自分なくし」の哲学を、(流血の照り返しで)きらびやかな韓国映画に探すのは、それらを他者として持つ隣国の吾々の仕事になるだろう。

    *    *    *

 と、真面目に締めくくったところで冒頭の「やられた」の話。え?さまざまな発見と自己認識のあらためを迫る本だから「やられた」じゃないの?
 そうではなかった。千円ばかりの値引きにつられ、古本で取り寄せた本は冒頭から蛍光ピンクのマーカーで、びっしり線が引かれていたのだ。
 
 不穏なるものの例として「とんでもない場所からいきなり押し入ってくる者、あるいは」とあって「押し入ってきて訳の分からない笑みを見せる者」と書かれた箇所にも線が引かれ、さらにピンクのペンで矢印が引かれアイツだ…と書いてあるんだけど、ドイツだよ。僕からしてみたら不穏なのはアンタだよ
 …図書館の本に引かれた線でもそうだけど、最初からもう全センテンス重要で発見とばかりに線を引きまくり、冒頭だけで挫折というパターンはあまりに多い。この古本も20ページ目からはバッタリ線が途絶えているので、残り290ページを快く読めたのだけど、んー、特にこういう思索的な書物って最初は枠組みを把握するローギアの段階で、読み進めるほど発見が増えてテンションがあがっていく、そういう読み方でないと仲良くできないんじゃないかなあ(まあ仲良く出来なかったからこそ19ページで線引きを放り出し、売り飛ばしてしまったんだろうけど)。
 そんなわけで本書の冒頭19ページ、実はまともに読めてない。どピンクの主張が強すぎて、地の文が目に入ってこないのですよ。まさに不穏で、己を不快にさせるものだけど、どうにも受け容れがたい。その意味でも、やっぱり理論と現実は違うと、己の心の狭さ・自我への執着を痛感させられる一冊でした。やられた。まいった。
 
著者のもう一冊『無謀なるものたちの共同体』は定価で+Amazonやhontoでは一時的品切れなので版元に直接注文しましたよ…単独で生きることが大好きで、人と協調することが大の苦手な自分にとっては、コミューンという思想自体がまさに己を脅かす「不穏なもの」かも知れないと恐れつつ、期待しつつ。

宇宙に一番近い場所〜ゲイブリエル・ウォーカー『命がけで南極に住んでみた』(2021.03.07)

 南極の「越冬」は二月〜十月まで続く。十月〜二月ではない(南半球だから)。アニメ『宇宙(そら)よりも近い場所』(傑作。2019年12月の日記参照)ではTVの企画で日本の民間調査隊に随行した主人公の女子高生たちが、南極でクリスマスを過ごし、最終回で「越冬前に離脱する組」として日本に帰っていくが、ここで離脱しない者たちは半年以上・一年のうち10ヶ月近くを世界と隔絶された基地で過ごさなければならない。
 その越冬組が、最後の離脱組を送り出した初日に行なう儀式があるという。のたくる触手が腹を突き破り内臓と一体化して暴れるエイリアンによって、南極基地が崩壊するSFホラー映画『遊星からの物体X』の上映会だ。アホか!と大笑いしたが(実際ちょっと意図的に馬鹿っぽさを自演してる部分もあるのだと思う)、逆に「10ヶ月は飛行機も通わない」隔絶環境だという前提を意識すると、物体Xの襲撃によって隊員たちが互いに疑心暗鬼に陥る同作の恐怖や焦燥感も、より味わいが深くなる(?)。
 他にも『エイリアンvsプレデター』アレは容易に南極に出入りできるクリスマス・シーズンの話だったのかな、とか。神林長平『戦闘妖精雪風』で南極に開いた異空間の入り口からやってくる侵略者「ジャム」たちは、はて地球軍の迎撃をかいくぐっても冬の間は他の大陸まで魔の手を伸ばせないのかしら、とか。ナチスの残党が南米経由で南極に移り住み、秘密基地からUFOを飛ばしてるという陰謀論(というか妄想)も、あーそうか空飛ぶ円盤なら「冬」の間も南極から出入りできそうだと、新たな発見があったり(?)
 ←真面目な本だと思ってたら、最終章の南極UFO基地でひっくり返ったよね…

    *    *    *

 すでに何だか恥ずかしい今回の日記ですが、恥の上塗りになる告白を(それも国際女性デーに)しなければならない。
 『命がけで南極に住んでみた』(仙名紀/訳・原著2012年・邦訳2013年/柏書房)の著者ゲイブリエル・ウォーカーが女性だと、数十ページ気づかない(というか想像もしない)まま読み進めていたことだ。
 ゲイブリエルといえば「ピーター(男性)」という先入観もあった。だが、それだけではあるまい。サイエンス系ノンフィクション作家として南極を訪れ、越冬までつきあう物好きは男しか考えられない―そんな偏見が自分の中にあったに違いないのだ。
 実は邦訳41ページ目、すでに(基地には)女性もたくさんいて、私はバーやコーヒーショップにいても、町をぶらついていても、(自分が)女性という違和感も緊張感もなかった」という一節があったのだが(自分が)という行間を見落とし、読み飛ばしていたらしい。61ページ目(トウゾクカモメはペンギンの卵を)どうして、すぐに攻撃しないのかしら?」という著者の台詞も「まあ、〜かしらって使う男性いるよね」でスルーしてしまった。
 とゆうか、そうまでして「取材のため南極に住んでみる物好きは男に決まってる」を譲らない、思い込みって怖いし、この先入観が世の不公正に資していないかと恐れる。なにしろ自分、いわゆる全球凍結をテーマにした同じ著者の『スノーボール・アース』(早川書房)を読み通してるのだ。著者が女性とは考えることもなく。

 はい、そんなわけで間違っても本書『命がけで南極に住んでみた』を「女性ならではの視点」や「女性らしい細やかさ」で説明する気はないです、はい。ただもう、人が書いた、無類に面白い本。もちろん、この「人」=無条件で「男」と思い込む(英語で人間を意味する"man"がそのまま「男」を意味するような)偏見が怖いと言ってるわけですが。それは置いて!置いて!
 …南極に引き寄せられるのは、物体Xやエイリアンやプレデター、ジャムやナチスの残党(もとい、ナチスの残党がUFOの黒幕だと言う陰謀論者)だけではない。
 ペンギンや、極地にのみ生息する稀少な生き物を研究する生物学者だけでもない。
 地球上で最も空気がきれいなため大気調査の研究所がある。地球上で最も静謐な場所のため地震(南極の、ではない)の計測施設がある。「地上で最も寒く、最もドライで、最も裸の岩だらけ」な環境が初期の火星に近いため、火星の研究のためにやってくる天文学者すらいる。宇宙(空間)だけではない。南極という隔絶された土地は時間すら超える。その氷の気泡には数万年前の大気が封じ込められているのだ。『スノーボール・アース』で分かるとおり著者の専門分野にドンピシャなだけあって、この気泡の中の太古の空気をテーマにした箇所で、本書の語りが「オタク特有の早口」的にちょっと暴走するのが面白い。「女性は感情的で抑制が効かない」なんて言わない、言わない、これはオタクというか人類共通の現象。

 図書館で一度借りて、読んだら返して満足できるタイプの本ではない。手元において何度も読み返したくなる、多様なエピソードが詰め込まれた(言うたら)雑多な本だ。
 エピソードの半分は科学的な観察・研究対象としての南極の魅力。もう半分は研究のために・あるいは隔絶された孤独な環境そのものが気に入ってしまい南極に引き寄せられた人々のドラマだ。一日の半分は日が昇らず、通貨が意味をなさない南極での生活を、人間らしさが削り取られる極限状況と捉えるか、むしろ産業や人々の喧騒が削ぎ落とされ豊かな人間性が発露するヘテロトピアと見るか。
 南極の主(ぬし)のように活写される施設管理人・ジェイクの肖像は印象的だ。世界中を放浪し、やっと見つけた「自分が居心地よく暮らせる場所」は一年のうち10ヶ月しか居られない場所だった(二ヶ月は離れなければならない)と嘆く彼。基地のなかで最もマッチョなタフガイ風に見える彼が、むしろ「有害な男らしさ」の対極を行くような繊細で思索的な人物で、しかし過酷な環境にどこか魅惑されてもいる―その矛盾がヒトの度しがたさであり、本書のハイライトのひとつだと思う。
 そして本書の半分である、この人間ドラマを根底で支えているのは、その過酷さだ。
 「命がけ」の邦題は伊達ではない。ペンギンの種名で知られるアデリーランドは南極でも屈指の荒天の地で、1912年に同地を訪れた地質学者ダグラス・モーソンの行路は悲惨をきわめた。犬ぞりごと遭難した彼と仲間は、ついには痩せ衰えた犬を食料として生き延びを図るが、犬の肝臓のビタミンAは致死量を超える。まだビタミンという概念自体が知られていなかった時代だ。手足の皮膚が剥がれ落ち、鼻と爪の間から青白い血液を流しながら同僚は息を引き取る。単身となったモーソンはクレバスに落ち、なんとか脱出する。ようやく巡り合った五人の救援隊は、正確には救援隊ではなく彼の遺体を捜索に来た仲間で、すでに南極圏は出入りできない越冬の時期に入っている…
 …極地に対する知見も深まり、技術も装備も発達した現代なら「闘うつもり」で南極に赴く必要はない、と著者は言う。けれど「(人が?南極が?)その気になれば」簡単に死んでしまえる危険な環境でありつづけていることも、つけ加える。タフで思慮深いジェイクですら、その危険に勝ち続けることは出来なかったと後日譚の形で語るエピローグは読む者を粛然とさせるだろう―恐怖ではなく、人という存在に貼りついた矛盾・他人ごとでない陰影ゆえに。
 緑と動物がざわめき、人々がひしめく地球の残りの部分と比べたら、何もないに等しい南極。けれど、何もないわけではなく「何にもない、がある」わけでもない。豊かすぎる(その他の)世界というフィルターを外して広がる冷たくドライな白い土地は、じっと目を凝らせば科学的な発見と夾雑物を取り除いた人々の姿が浮かび上がってくる、さざめく白紙だ。味わい深い一冊です。
 

ヘテロトピアの突破口〜矢部史郎『夢みる名古屋』(2021.02.21)

 個人的には、名古屋は嫌いな街じゃない。むしろ好きと言っていい。同地で開催される同人誌の即売会のため、ほぼ年一回・多いときには二回。だいたい現地に宿を取り、前日は街を散策。台湾ラーメンや味噌カツを食べ、大須のアーケード街や古本屋をめぐる。名古屋港水族館やリトルワールド、抹茶スパゲティなど妙なメニューで有名な喫茶店に足を延ばしたこともあった。
 だもので、名古屋が魅力のない街ナンバーワンとして絶大な不人気を誇っていることは、しょうじき理解の埒外だった。あれは酷い街だよと住んでた人が実感を語っても、年に一度の観光客には分からないものかなあと思っていた。あるいは自分には、絵画や文章のよしあしが(よく)分からないように「都市」を見るセンスもないのかと。
 

 矢部史郎夢みる名古屋 ユートピア空間の成立史』(現代書館/2019年)は、そんな自分でも納得の説得力で「どうして名古屋に魅力がないのか」を語り尽くす。
 どういうことだ、ユートピアじゃないのか、夢みる名古屋じゃないのか―いや、タイトルに偽りはない。夢は良い夢とは限らないのだ。産業資本と国家が手を取り合い、生活の細部まで浸透していった近現代、吾々は、もしかしたら見ないほうが好かった夢を見てしまった。実現すべきでない「ユートピア」を実現してしまった。利便と引き換えに、吾々の生活から何かを搾取し奪っていった近現代の「夢」の極限を、先週の日記で取り上げた『ナチスのキッチン』はナチス・ドイツに見た。同様に本書は、半ば悪夢といえる近現代の「夢」がもっとも効果的に結晶した「ユートピア」として名古屋を名指しする。もっと言えば「世界の名古屋化」に警鐘を鳴らす。
 …少し先走りすぎた。具体論に戻ろう。
 三章構成の第一章で著者が指摘するのは、名古屋の繁華街を分断する二本の巨大な道路の存在だ。街の南側を東西に突っ切り、栄の繁華街から南の大須や矢場町を切り離す若宮大通。そして南北に延び栄の繁華街そのものを東西に分断する久屋大通。この二本の大通りが、百メートルという人間のスケールを超えた幅員で、街の一体感を損なう構造的な欠陥となっているのだ。
「栄という街を観察して気がつくのは、デパートや歓楽街が集積する街であるにもかかわらず、ハイヒールを履いている女性がほとんど見られないということである。(中略)おしゃれな靴を履いていたのでは、この街の横断歩道を渡りきることはできないからである」
「一〇〇メートル道路の横断は、信号を二回待って渡るように設計されている。だが(中略)中央の待機させられる空間は、なんの工夫もないがらんとした場所で、夏は暑く、冬は寒く、ただ自動車の排気ガスを浴びせられるだけの空間だ」
 言われてみれば、そのとおりなのだった。名古屋、そんなに魅力ない街かなーと思っていたはずの自分も、たしかに大須や矢場町と栄町のあいだに「切り離し」分断を感じ、両者を横断して遊歩することは少ない。まして栄の繁華街から久屋大通を「渡って」オアシス21などのフォトジェニックなスポットまで足を延ばしてみることは、毎年名古屋に通いながら20年間ついぞなかった。
 
 本書はこの、人間のスケールを超えた無駄な横幅の起源をナチスに求める。さらに遡ればオスマンのパリ改造計画。その「近代の夢」の延長線上にヒトラーが構想したゲルマニア計画は、世界の首都となった(予定)ベルリンに幅120メートルの桁外れな道路を敷設するものだった。国家の威信や権力のモニュメントとしての巨大道路。久屋大通・若宮大通は着工こそ戦後だが、その都市計画はドイツと同盟国であった戦前・戦中の価値観を継承していたのだと著者は説く。東京や大阪、各地の戦後復興計画が予算を削減されるなか、名古屋だけが腹案どおりの巨大道路建設を成し遂げた。それは国家的な夢のために、名古屋から人間的な魅力を奪うものだった。
 
 このように『夢みる名古屋』は歴史と人文地理を縦横に駆使し、名古屋の「夢」を露わにしていく。米騒動。空襲。ベトナム戦争の北爆とゲリラ戦。映画『トラック野郎』とイヴァン・イリイチ。口裂け女。ピノチェト軍政と民社党。繊維史と服飾史。イケアの家具。INAXの洗面所。コンビニの床に敷き詰められた樹脂素材。排除アート(ホームレスの人々が横になれないよう間に敷居を入れたベンチや、路面を突起で埋めるオブジェなど、排除アートの起源が名古屋だというのは悲しい驚きだ)…「なぜ名古屋は魅力的でないのか」という謎の手がかりになる事例ならジャンルを問わず注ぎこみ、それらを結ぶ糸として近現代という時代が見ようとした「夢」の非人間性が抽出される。
 街が魅力的でない具体的な理由として、また著者があげているのは、あらゆる道路が幅員的に自動車の侵入を可能にし、歩行者の心が休まらないという制度的・構造的な問題だ。トヨタ自動車の本拠地として、また日本初の高速道路である名神高速道路のターミナルとして、名古屋は歴史的にも地理的にもモータリゼーションが骨の髄まで浸透した街なのだ。
 著者は本書が名古屋の人を悲しませることを心配してるけど、同じくらいモータリゼーションが好きな人たちにもイヤな本かも知れん…たぶんオタクの人たちってモータリゼーションを貶されると自分が傷つけられたように思う人、少なくないのじゃないかな…
 最終的にたどりつく結論は、東京や大阪が商人資本や情報が次々と流入し内に内にと膨らんでいく"内破"の都市であるのに対し、名古屋は産業資本=工場が外に外にと移転し拡張していく"外破"の都市だというものだ。それが事実なら、人が暮らしよいはずがない。三大都市と呼ばれながら、名古屋だけは成り立ちが違う。東京や大阪が都市ならば、そもそも名古屋は都市ではないのだと著者は断言する。
 街でありながら産業や自動車が人より優先され、秩序のために人が排除される、それは「ナチスのキッチン」で見たのと同様の、人のためでない・何か別のモノのための近現代の「夢」だ。そして、そうした街づくりは、もはや名古屋の専売特許ではない。誰かが言っていた。近代は人のためのタイプライターを作らず、タイプライターのための人間を作った。タイプライターではなく自動車だったろうか?

    *    *    *

 再度まとめよう。名古屋が日本で最も魅力のない街と称されるのは、名古屋こそ近現代の「夢」がもっとも効果的に具現化された場所だから(と、著者は説く)。
 どうして自分たちの居心地が悪いか、知ることは一定の快感をもたらす。だが二週間にわたって(もっと前からか)近代というシステムが究極的にはロクでもないモノだと納得させられ、そろそろ希望のなさが重たいのも事実。街が産業や自動車のために設計・運営され、人々の場所は排除アートによって奪われていく路線に、修正や覆しの機会はないのか。…『夢みる名古屋』の魅力は、その突破口らしきものも暗示していることだ。
 モータリゼーションが支配する世界を象徴したSF作品として、著者はソ連の映画作家アンドレイ・タルコフスキーの『惑星ソラリス』を取り上げる。未来都市の景観として、60年代日本の高速道路の映像がそのまま借用されていることでも有名な映画だ。もちろん肯定的な描写ではない。人の姿がなく、延々と自動車が走り続ける都市にたいし、タルコフスキーが愛着をもって描くのは、池があり草花が生いしげる田園の風景だ。
 先月とりあげたトリュフォーの『華氏451度』もまた、最後は湖に面した雑木林に憩いの場を求めていた。近現代の悪夢にたいするオルタナティブ(他の選択肢)は、田園にしかないのか。都市には別の可能性はないのか。
 そこで著者が示すのは、やはりSF映画の『ブレードランナー』だ。自動車は空を行き交い、地上は人々でごった返す近未来のロサンゼルス。移民都市の特質が強調されたネオンと喧騒の怪しげな街で、著者が着目するのは(日本語台詞「二つで十分ですよ」でおなじみの)屋台だ。
「リドリー・スコットが作品の冒頭に屋台を登場させているのはすばらしいとおもう。
 屋台のある空間こそが都市である
(強調は引用者)
屋台は道路と建物の境界である街路線を侵食する、と著者は言う。
「買い物客でにぎわう人気のある商店街を歩いてみるといい。誰も街路線を遵守していない。
 店の前の通路には大きなワゴンやハンガースタンドがおかれ、カフェの前にはテーブルと椅子が並べられ
 
(中略)スーパーの前には買い物客の自転車がずらり(中略)
 そうして街路線が侵食されていくことが、街が賑わうということなのである」

 さっと頭に浮かんだのは台湾―桃園や台北、瑞芳などの街並みだった。線路のすぐ横に食べ物屋が店をつらね、電車が来ないときは線路を歩行者が埋め尽くす十分。銀行やオフィスが並ぶ通りでも麺線や唐揚げなどの屋台が舗道を占有する台北駅の周辺部。アスファルトにパイプ椅子を並べ、通りと一体化した大衆演劇の舞台。もちろん、屋台がひしめく夜市…
 あれが突破口だったのか―自分があの街・あの都市に惹かれ焦がれる理由の一端が分かった気がした。


 そして、もうひとつ。台湾だけでなく、自分がビッグイシューという雑誌に惹かれる理由も「屋台」で説明がつく部分がありはしないか。
 周知のとおり、ビッグイシューとはホームレスの人々が販売員として街頭に立ち、一冊の売り上げの半分がその収入となる自立支援雑誌だ。折りをみては声をかけ、購入しているのは、もちろん寄付やチャリティの意味もある。読み物として面白い記事が多いのも事実だ。だが、それだけではなく。商業的でありながら慈善を求める人々でもある=簡単に割り切れない存在の販売者が、人々が通路として行き交う・建物と人々の街路線が明確に引かれた街を屋台のように侵食している・ユートピアならぬヘテロトピア(異なる場所)を現出させていることが、自分があの雑誌と販売者に肩入れする理由のひとつなのかも知れない。
 
 強烈に面白い一冊。本書を読んで、僕は逆に名古屋を再訪して「そこまで魅力ない街か」あらためて検証したくなった。名古屋在住の著者が「それにひきかえ」と褒めちぎる岐阜県岐阜市にも俄然、興味が湧いた。そしてもちろん、台湾が恋しい(泣)。半分以上は人災として、コロナが憎い。

誰がために鐘は鳴る〜藤原辰史『決定版 ナチスのキッチン』(2021.02.14)

 未読の小説を取り上げ、わざわざあげつらうのはどうかと自分でも思う。だがトルストイ『アンナ・カレーニナ』の有名な冒頭「幸福な家庭はどれも似通っているが、不幸な家庭はそれぞれ異なる理由で不幸である」は本当なのだろうか。負けに不思議の負けなしという言葉もある(野村克也)。幸福の形が似たりよったりならば、不幸も「またこのパターンで不幸なのか」と見るものを嘆かせる似通った要因がありはしないものだろうか。
 

 藤原辰史[決定版]ナチスのキッチン 「食べること」の環境史』(共和国/2016年)。第一回(2013年度)河合隼雄学芸賞を受賞した研究の増補版だという。とくに説明はいらないだろう、表紙の惹句「台所に立つと、ナチスは遠い過去ではない」がすべてを物語る。ただ「それってどういうこと?」って内実はあるわけで、やはり説明は要るわけで―
 第一章に、ちょっと心をつかまれるフレーズがあった。
「もしもこのように(明快に)ナチスの台所史を描けるのだとしたら、
 これまで多くの歴史家たちがナチズム研究に一回限りの人生を費やすことはなかっただろう」

今しがた「台所に立つと、ナチスは遠い過去ではない」なるほど説明は不要だなと書いてしまった身としては耳が痛い。世の中には明快な通説・そこだけ切り取って何なら140字でツイートできる「この世の真実」があって、吾々はその結論だけ受け取っては「あーなるほどなるほど、まあそうだろうね」と思ってしまう。プロテスタンティズムが資本主義を生んだ、生政治にはそれなしには動かない心臓部の歯車のようにレイシズムが組み込まれている(2020年8月の日記参照)、幸福な家庭はどれも似通っているが不幸な家庭はそれぞれ異なる理由で不幸である、なるほどなるほど。
 だが学問は本当に通説どおりか?と疑い、通説・通念に合わないものも含めて事例を積み上げる営みだ。いや、それでいて事例を積み上げただけでも学問にはならない。積み上げた事例から新たな通説・通念になるもの=説明を抽象しなければならない。事例を虚心に積み上げる面倒な営みと、その堆積をスパッと分割する対角線なり補助線なりを引いてみせる飛躍―両者のせめぎあいが学問なのだろう。実際『プロ倫』を読むと「そうではない事例」に費やされたページの厚さに戸惑うものだ。

 『ナチスのキッチン』の「事例の堆積」は、それまで家の中心にあり光源や暖房の熱源も兼ねていたカマド(石で囲われているが日本の囲炉裏から類推できるだろう)が切り離され台所として独立した19世紀に始まる。19世紀なかば、レシピや家事マニュアルの出版で名を成したヘンリエッテ・ダヴィディス。20世紀初頭、集合住宅で共用キッチンによる給食の提供を試みたリリー・ブラウン。ヴァイマル時代に現在のシステムキッチンの原型といえる小型キッチンをデザインしたエルナ・マイヤーならびにマルガレーテ・リホツキー。同じくヴァイマル時代に消費者相談所を開設し、家庭用電気製品の普及に貢献したヒルデガルド・マルキス…
 これでは「ヴァイマルのキッチン」もしくは「近代ドイツのキッチン」ではないか。『ナチスのキッチン』は、タイトルロールが本編にほぼ全く登場しない『酸素男爵』のような勇み足か。あるいは耳目を惹きつけるための悪質な釣りか。そうではなく、本書が正しく『ナチスのキッチン』を語った著作である方法はひとつしかない。「ヴァイマルのキッチン」や「近代のキッチン」を動かした思想が、最終的に「ナチスのキッチン」に帰結したと結論づけることだ。
 料理や家事のノウハウが口伝ではなく文字情報の複製で共有されるマニュアル化。家事を労働と捉え、動線を最小限に抑えるキッチンを設計する合理化。ガスや電気・家庭用電化製品あるいは工場で生産されたブイヨンなどの活用による、家事と産業の接続。さらにいえば爆発的なビタミン崇拝に代表される、科学に基づく健康のための食事という発想。アメリカで確立された、人を部品のようにみなし労働を機械のように最適化するテイラー主義。一言につづめれば合理化・効率化・あるいは「近代化」と呼びうる一連のベクトル。
 ナチスが公に掲げたのは伝統の復活だった。ヴァイマル時代を牽引したバウハウスのような機能主義を斥け、民族性を強調した家屋や生活の復権を彼らは謳った。しかしその一方、裏取引のようにナチスはテイラー主義的な効率化・合理化や「科学的な」健康増進策をも取り入れていく。だが、それだけではやはり本書が「ヴァイマルのキッチン」でなく「ナチスのキッチン」となるには不十分だろう。
 本書が他ならぬ『ナチスのキッチン』である根拠は、最後の最後「あとがきにかえて」と付された短文で開示される。ミステリで言うとトリックをバラすようなものだが、遠慮なく引用する。ダッハウやアウシュヴィッツなど悪名高い強制収容所が、クルップやジーメンスなどの工場でもあったことを踏まえて著者は言うのだ。これらの工場=収容所は囚人たちを「人権思想が人口に膾炙して以来おそらくもっとも安価な労働力」として搾取し利潤を得ていた。その「コストの安さ」の秘密は、酷使され疲弊し落命していくまでの間、囚人=労働者たちが(ロクな食事を与えられない代わりに)自らを「刃物もレシピも必要としない、究極的な台所」に変え「自分自身を食べる」、脂質も筋肉もその場しのぎの栄養として消費したことにあった。
 これこそが「ナチスのキッチン」であった。家事を余計な労力を節約する効率化の対象とし、食事を味わいでなく得られる栄養で「科学的」に測り、そして家計を産業の末端として資本主義のサイクルに組み入れる―「近代化」と呼ばれるベクトルは、最終的には工場が個々人の肉まで搾取していく強制収容所の「究極的な台所」につながっていると、本書は告発しているのだ。

 マイヤー、リホツキー、ブラウン…家事に携わる者を労苦から解放し、また人々を食事で健康にすることを目指したはずの女性たちには、ナチスそのものには抗い亡命したり拷問の末に落命した人も少なくない。彼女たちの目指したものが、最終的には彼女たちが忌避したはずのナチス化のドイツでひとつの「完成」を見たことで、いわばこの先駆者たちが二重に呪われているのを見るのは哀しいことだ。…本書自体は何しろ調理と食事の「事例」が山積みのため読んで楽しく味わい深いのだけれど。。

    *    *    *

 ネットでは、ナチスは良いこともした・アウトバーンを造ったり健康増進策を取ったりしたと(なぜか日本人が)擁護する言説がしばしば噴き上がる。最近も噴き上がったようだ。
 この擁護に対する反論としては、1)アウトバーンも健康増進策も戦場に頑強な肉体の兵士を送り結局は殺したり殺されたりするためのものだった、という意見が考えられる。そもそも、0)よしんば良いこともしたとしても数々の悪行を免責できるかというツッコミもある。しごくまっとうな反論だと思う。
 加えて『ナチスのキッチン』は、2)戦争に直結しなくても、アウトバーンや健康増進策は人を産業の末端の部品のように扱い最終的にはアウシュヴィッツにつながる邪悪な要素を含んでいないかと「擁護」の前提をぐらつかせる問いを提示する。
 1に比べると、近現代の産業社会や利便な生活そのものを敵に回しかねない問いであるため、議論には向いてない劇薬かも知れない(あのミヒャエル・エンデですら「私たちは今さら水洗トイレのない暮らしには戻れないでしょう」と言っており、それはおおむね正しい=それを出来ると強弁する主張は少し疑ってかかるべきだろう)。ただ、その劇薬の危険さに比べれば、ナチ擁護ていどで「常識にたてついた」と気取る人々はあまりにナイーヴとも言える。また、ナチスをアウトバーンや健康増進策で「擁護」する人たちには、2のような邪悪=人々を部品のようにコントロールすることへの賛意・嗜好が伏在しているのではと穿って見ることも出来るだろう。
 

 『ナチスのキッチン』はもうひとつ、反論の手がかりとなる議論を提供している。3)アウトバーンや健康増進策は、言うほど優れていたのかという問題だ。
 「台所のナチ化」と第された第5章では、ナチが進めた主婦のヒエラルキー化が描かれる。ヴァイマル時代から萌芽のあった「マイスター主婦」認定制度をナチは本格採用し、また主婦養成機関「母親学校」を企画する。一方で「非社会的」な家族の「再教育施設」が設置され、また占領した地域のドイツ系住民を劣位な存在と蔑み「家事アドヴァイザー」が「教化」していく…
 著者が指摘するのは、ある意味「いい気な」こうしたヒエラルキーが実際には東ヨーロッパからの強制家事労働者に支えられていた事実だ。「一九四〇年以降、約五十万人の少女や成人女性がドイツ本国の家事労働に従事したという」。十二歳の少女がいきなり拉致されドイツ人家庭で働かされ、皮つきのジャガイモを煮出したスープを「体にいいから」と与えられる一方で、その家の子どもたちは毎朝パンにバターをつけて食べていたという事例を引く必要はあるだろうか。著者は結論づける。
「「アーリア人種」のヒエラルキーは、ほかのすべての戦時中の産業がそうであったように、結局のところ、東欧の強制労働者に支えてもらわないと足場が崩れそうな、貧弱なシステムだったといわざるをえない」
 ここで冒頭のトルストイが回収される。幸福な家庭が似通っているのと同程度に、不幸な家庭も似通っているのではないか。そして不幸な社会もまた。
 アーリア人種の優位を誇り、家事労働を序列化したナチスの「成功」は、実際には奴隷のようにこき使われる外国人労働者の存在に支えられていた。それはナチスを「擁護」する人々が遠回しに肯定したい(かつて同盟国だった)日本の過去のありようとそっくりだし、ナショナリズムや外国人蔑視に己惚れながら自分たちだけでは食物をつくること(農業)も流通させること(コンビニなど)も出来ない現在の日本と、あまりに「似通って」はいないか。
 ウラジーミル・ナボコフは名高いロシア文学講義で『アンナ・カレーニナ』冒頭の「家」という単語の繰り返しは、ロシア語の「ドム」という発音を何度も響かせることで「ドム、ドム、ドム…」と弔鐘のように鳴り渡り、不幸な主人公たちの破滅を暗示していると(たしか)説いていた。
 躍起になってナチスを「擁護」しようとする人たちは、ドム、ドムという鐘が70年前のドイツ人のためだけに鳴っているわけではないと内心では悟っているのかも知れない。あるいは気づいてないのだろうか。鐘が自分たちのためにも鳴っていることを。他ならぬ自分たちが自ら破滅の鐘を叩いていることを。
 ←4千いくらは古書価格だな…品切れか?

ポキープシのSF〜ジョン・スコルジー『アンドロイドの夢の羊』(2021.02.07)

 SFは題だねえ、というお話。先週の『酸素男爵』に続き、これまたタイトルだけで中身も確認せず手にしたのがジョン・スコルジーアンドロイドの夢の羊』(ハヤカワ文庫SF)。原題もAndroid's Dream、これが(架空とはいえ)羊の品種名なので、けっして「釣り」の邦題ではない。もちろん、有名な過去作を踏まえた題名にして品種名。
 
 …立て続けに読んで改めて、逆算で思い知ったのは「なるほど『酸素男爵』は読むのに時間かかるわけだ」。同じSFでも粘度がちがう。『酸素男爵』の場合、舞台となる世界が吾々の日常とかけ離れすぎていて、一歩進むにも生命維持機能をそなえた特殊スーツが必要な感じに(かわりに重力の都合上、一歩で地球の六倍進めるわけだが)(←そういうことも含めて)一行たりとも読み飛ばせなかったのだ。
 20世紀前半のソ連で興った文学理論=ロシア・フォルマリズムは、文学は読む者のスピードを鈍らせなければならないと説く。つるつると読み飛ばされ(自動化)てはいけない、文章のいちいちが異物として(異化)噛み砕くように咀嚼され、読むのに時間がかかるほど文学性が高いと。もちろん、遅く読ませる目的だけが暴走すれば文字どおり「形式主義(フォルマリズム)」になるわけで、なべて物事は按配次第なのだが―
 SF・ファンタジー界の大御所だったアーシュラ・K・ル=グウィンは、この思想と親和性が高かったかも知れない。名著『夜の言葉』(岩波現代文庫)で彼女は、ファンタジー小説の会話が「王と魔術師」を「大統領と補佐官」に・ケルトの城をポキープシ(IBM本社があるニューヨーク州の地名)に置き換えても違和感なく読めてしまってはダメなのだ、と強く戒めている。

 なんでこんな話をしてるのか。それは『アンドロイドの夢の羊』がむしろ確信犯的に、大統領と補佐官の、ホワイトハウスやポキープシでの密談の文体・価値観・世界観で書かれたSFだからだ。『酸素男爵』に比べて圧倒的に読みやすいのも納得。『羊』はたしかに数百種の異星人がひしめく銀河文明を前提にしているし数種の異星人は実際に登場もするが、今の吾々の現実と地続き。政府に雇われたハッカーは不眠不休の作業のためドクターペッパー4リットル飲んで、カフェインで気持ち悪いですと言うし、自販機にはm&m'sのマーブルチョコ、「おお中古のIBM360だネット接続できるかな」そんな世界。仕立てはSFでも文体の基本になるのは役人や官僚の根回し・皮肉・恫喝や慇懃無礼。代表的な会話はこうだ:
「失礼ながら長官、あなたはとんでもないドジをふんだのです。運がよければ辞職するだけですむでしょう」
「運がよくなかったらどうなる?」
「運がよくなかったら、わたしたち全員が刑務所の運動場でタバコを通貨のかわりに使うことになるでしょう」

 銀河文明に参入したばかりの地球人は、近隣の爬虫類型エイリアン・ニドゥ族に頭が上がらない。傍若無人な彼らに貢ぎ物として進呈したのが青い毛並の特殊な羊「アンドロイドの夢」である。遠来の貢ぎ物が儀式に必須のアイテムになるのは文化人類学的にありそうな話。強固なカースト制と部族社会で成るニドゥ族は新王の即位の儀に「アンドロイドの夢」を生贄として使うようになるが、族内の反対勢力が儀礼をぶち壊し王に成り代わるため、地球各地の牧場で飼われていたこの特殊な羊を炭疽菌で皆殺しにしてしまう。一匹でもいいから生贄を連れてこい、さもなくば戦争だ―爬虫類の大使に凄まれ、地球政府は元海兵隊員の凄腕ハッカーに「Wild Sheep Chase」(←村上春樹『羊をめぐる冒険』の英題を気取ってみました)の任務を託す―
 思いつく形容は「怖いものなし」「不謹慎」いっそ「涜神的」。実際、本作には三流作家がインチキで書いた予言詩を、インチキと知りながら信奉する宗教結社まで登場する。特殊スニーカーで6mの高さまでピョンピョン跳びはね銃弾を避けながら戦うショッピング・モールの大騒動や、退役軍人を載せたクルーズ船と二ドゥ族の古戦場での遺恨をかけた再戦など、派手なアクションもあるけれど、一番の武器はへらず口。
 『酸素男爵』同様、品種改造による未来の食肉獣が登場するが、こちらは「豚を改造したものだが蹄がないためユダヤ教の戒律で食べていいのか悪いのかラビたちの論議になる」という使われかた。『ヴェニスの商人』の肉1ポンドの判決や「ゴルディアスの結び目」などが「勝てるなら手段は選ばない」的なスタンスの象徴となる世界。
 多少なりキャラの立った女性は二人しか登場しないし、その扱いも推して知るべし。2006年の作品だがコンプライアンス的にはかなり厳しいものがある。
 倫理観の下支えがないロバート・J・ソウヤーと言いますか…いやソウヤー倫理観の下支えあったっけという気もしますが…
 そんな厳しめの世界観を体現するのは、上に挙げた「タバコが通貨」の会話と、物語の重要な鍵となる一人の若者だ。10歳にしてイタズラ心で兄貴のクラシックカーを爆破し、18歳で悪友とともに国立海洋気象庁のコンピュータ乗っ取り・刑事罰を避けるため異星人との戦争への従軍を選んだ悪ガキ。いわば彼はこの小説のメートル原器のようなもので、言い替えると本作の精神年齢は18歳。おそろしく頭が回るが18歳から成長しない、ホモソーシャルで無神経が自慢の悪ガキみたいなSFなのだ。
 だから本書の終盤、この永遠に18歳の悪ガキが、とある試練を経て「オトナになる」ことを学ぶ場面は、少しだけ感動的だ。それは流れ星のような一瞬のひらめきで、物語はたちまち、際限のない皮肉の応酬とブラックユーモアに再び呑み込まれてしまうのだが。

 異星人だろうと何だろうと皆、ポキープシとホワイトハウスを往復する官僚か、もしくはミカジメ料を取り立てるギャング同様の思考様式なため「本質はそういう話」「羊の皮をかぶった狼ならぬキツネとタヌキ」と考えて構わないと思うが、いちおうSFならではのアイディアとゆうか思考法の片鱗もある。それは「人間の定義」が揺るがされること。主人公が関わる二人の重要人物は、二人とも「人間の定義」を再考させられる属性持ちだ。あるいは、生まれた時は数千匹のイナゴさながら、周囲の全てもろとも数千の兄弟姉妹をも食い尽くすことで淘汰され、残った数体がサナギとなり羽化した時点で初めて知性を獲得するたぐいの異星人を、どこから異星「人」として遇したらいいのか。そういう哲学的な可能性も暗示しながら、実際は「州ひとつ壊滅しそうになり異星人の幼虫数千匹を焼き殺したが、知的生命を大量虐殺したなと銀河的に責められ、知的生命の定義って何だよ!とキレたくなる」という方向ですべては笑い飛ばされる。
 だもんで、んー、薦めていいものかは判断しがたい。面白いですよ?面白いけど「面白いだけでは面白くない」が中年以降の読書なれば(つまり読む側の問題)…あらゆる伏線はぬかりなく回収され、そして退屈とは無縁の、よく出来たエンターテインメントではあると思います。こんな日記(週記)もアリと言うことで。
  夜の言葉、また品切れなのか…

息もできない〜グレゴリー・フィーリィ『酸素男爵』(2021.01.31)

 まだ可能性の段階だと思いたいが、おそろしいニュースを読んだ。植物の光合成=二酸化炭素(CO2)を吸収し酸素を排出するはたらきは、ふつう温度が上昇すると活発化する。だが、ある温度で酸素排出量の「増加」は止まり、それより高温になると「低下」に転ずるというのだ。
 一方、植物にも当然ある生物としての呼吸=CO2排出の気温上昇による「増加」には限界がない。このまま地球温暖化が続けば、呼吸によるCO2放出が光合成による吸収を上回り、熱帯雨林や北方林など地上の植物群は(動物としてのヒトや、人の産業活動と同様)CO2を吐き出す側になる…アメリカの科学誌に発表された研究である。
温暖化で2050年には森林がCO2放出源に、研究(AFPBB NEWS/2021.1.15)(外部サイトが開きます)
 繰り返し言うが、あくまで研究の段階(と、思いたい)。自分個人に限って言えば、そうでなくても2050年まで生きてる気がしない。だが「吾なき後なら洪水が来たってかまわない」というエゴを捨てれば、温暖化の果てに森林火災や海面上昇ばかりでない「全人類窒息」が待っている(かも)というのは、あまりに哀しく、おそろしい未来図ではないか。

    *    *    *

 そこまで考えて、地球の未来ではなく(そういえば『酸素男爵』というSFがあった…窒息する前に読んでおきたい)と思いが横すべりするのが本サイト運営者の残念なところです。

 今はなき吉野朔実さんが『本の雑誌』に連載していた読書エッセイまんがで取り上げていた本。いや「酸素男爵!?なにそれ!」と書名に惹かれた吉野氏だったが在庫切れで手に入らず、あれこれ自分で想像したあげく「読みたーい!読んでがっかりしたーい!と叫んで終わる回なのですが。
←右は総集編。
  グレゴリー・フィーリィ酸素男爵』(ハヤカワ文庫SF)。原著1990年・邦訳1993年(冬川亘)。舞台は月。ははーん、月といえば酸素がない。酸素の供給権を独占する酸素男爵が君臨しているんだな?と思ったら、そうではない。
 思いきりネタバレしてしまうと、物語を支えるSF技術のひとつ孤立波隧道(ソリトン・トンネル)によって人類は金星の大気を「かっぱぎ」レーザービームみたいに月に転送し、今や(未来だけど)月は大気を持ち酸素に困らない、外惑星の衛星群の住人から「こっちに酸素よこせよ、ソリトン転送でこっちがかっぱぎたいよ」と思われているテラ化した世界なのだ。
 さらにぶっちゃけて言えば酸素男爵は物語にほぼ登場しない。原題ではTHE OXGEN BARONSと複数形な彼ら彼女ら。訳者によればBARONSは「新聞王」「石油王」みたいな使われ方もする語だが「語感のおもしろさをとり」男爵と訳した由。要は月のみならず太陽系の酸素にまつわる権益をあやつり享受する大立者どものことらしい。が、彼ら彼女らが物語の全面に出てくることはない。なかなか純度の高い「がっかり」ではないか。
 とはいえ物語自体は「がっかり」とは縁遠い。主人公は爵位とも権益とも(少なくとも当初は)無縁なガルヴァーニッホ。フロンティアにおいて組織や企業に隷属せずフリーランスで生きていこうと思えば、しぜんと零細実業家にして自営業者・発明家も兼ね山師っぽい役回りになるだろう。そんな彼が冒険に巻き込まれ、言うなれば「息もできないほど」ひどい目に遭いまくる。具体的には乗ってた航宙機を仕事仲間もろとも爆破され、爆発で浴びた放射線で内臓をボロボロにされながら月の裏側に不時着し、敵に追われ、味方にこづかれ、泥に呑まれ、氷水をかきわけ、奴隷のような下級労働者たちに紛れて労役しながら逃走のチャンスをうかがい…「他の作品でいうと何に近い?」「うーん、『イワン・デニーソヴィチの一日かなあ
 ?(よく憶えてないけど)。
 テラ化したとはいえ過酷な環境。そして作者はその過酷な環境を、特殊スーツの機能からハッチの開閉まで丁寧に描写することで、一行も読み飛ばせない濃密な世界を体験させる。『天空の城ラピュタ』で、着ているシャツを筋肉でもってズタズタに破りポーズを取る親方に後ろからおカミさんが「誰がそのシャツを縫うんだい?」が言い放つ場面があるが、言うなれば「破れたシャツを誰が縫うか」ばかり考えてるような語り口。SFだから何か不思議なペーストを固めたような謎のハイテク食料が自動販売機の出口みたいにテーブルに転がり出てくると思ったか?地衣類でも食いやがれ!
 …いや、実際には食事描写はほとんどないのだが、後半に伝聞で登場する「涙目でヒレ肉が切り取られるのをがまんし、また新たに肉を生長させるべくヨタヨタ歩き去っていくステーキ用幼獣」は悪い想像力を刺激する。脂身を適度に含んだ「ハギス」のような肉瘤が育っては本体との付け根がどんどん細くなり、ついには果実みたいに自然に落ちる肉用獣はどうかとか…話が逸れました。
 

 外面からズタズタ、内面(内臓)からもズタズタにされ、低重力のため山脈のようにそそりたつ上げ潮(月の裏側・地球に引っ張られたその頂点で「海」は凍りつく)でシャーベットになりかけた主人公は、艱難辛苦のあげく亡命者としてスペースコロニーに受け容れられるが、そこでかけられる言葉はあんたはここで仕事口を捜そうと思ったことはないのかね?うわーつらい。冷たい方程式なみに厳格な世界。SFだったらそのへん、少なくともしばらくは何とかならないの?

 この「仕事口を捜さないの?」が「きわめつけ」と思ったら最後の二章=第四部でガルヴァーニッホはさらに酷い目に遭い、第五部でようやく自由らしきものを手に入れる。
 この最後の酷い目は今までの物理的な仕打ちとは次元が違う。まあ物理的な仕打ちでもあるのだけど心にズキズキ響く。実はSFでは頻用されるアイディア(次に読んだSFでも出てきた)なのだけど、使われかたが独創的で息を呑んだ。
 そしてその分、第五部の開放感が際立つ。ストーリー的に主人公が制約から逃れるだけではない。これまでパッキンひとつ緩ませず、意識的な動作なしには歩く一歩も呼吸ひとつも出来ない感じで(異世界を体感させるために)続いていた描写が、格段に楽になる。これもSF的な作品でよく使われてきたトリックだが、少なくとも非常に効果的。
 訳者はあとがきで本作を「惜しいことに(中略)意あまって力足らず(というより後半で息切れして力尽きた感がある)」と評し、第四部・五部での書き込み不足を指摘している。たしかに「そのへんはどうなん?」と不完全燃焼な部分もあるけれど、個人的には第四部のアイディア・第五部の転調のあざやかさこそ捨てがたいとも思うので「訳者あとがき」から先に読んで、先回りで「がっかり」する人のないよう、逆にかばいだてする次第です。思わぬ拾い物でした。やっぱり本は、読むに限る。

    *    *    *

 しかし2021年1月現在に意識を戻すと、数十年先の酸素不足どころか、目の前のたかがウイルスひとつにも苦慮する現実の人類は、月をテラ化したりスペースコロニーや外惑星にまで居住地を広げる技術力は「がっかり」するほど不足してるのだなあ、と改めて実感させられる。
 いや、それは技術自体が不足してると言うより、技術を開発し普及させる経済力や生産力・あるいは政治力などの圧倒的な不足、なのかもしれない。どんなに可哀想なロボットを操っても(思弁を弄しても)、土(誰かがシャツを縫わなければいけないという現実)を離れては生きられない。「誰がそのシャツを縫うのか」的なディテールに異様なほどこだわった『酸素男爵』を読むことで、得られた知見ではあります。
 
 デーハーな表紙から物理法則など平然と足蹴にするワイドスクリーン・バロック的な作風(※実はちょっと苦手)を想像してたら、真逆のとことん実直SFでした。実は自分は映画だけで原作未読なんだけど、火星でジャガイモ作るSFとか好きなひとに向いてるかも…

明るいディストピア〜フランソワ・トリュフォーと星新一(2021.01.24)

「リルケがアポロンの像を眺めたとき、アポロンは詩人に語りかけました。
 「お前は生き方を変えねばならない」」
(アーシュラ・K・ル・グウィン『夜の言葉』)

    *    *    *

 ディストピアという言葉で、思い浮かぶのはどんな光景だろうか。灰色に暗くよどんだ空。巨大スクリーンに映し出される独裁者。絶望に打ちひしがれた人々の顔、顔…
 書物が禁じられた世界、という設定で「ディストピアっぽいイメージ」の典型のひとつとして愛されているのがレイ・ブラッドベリの小説『華氏451度』だ。もちろん、そこには言論統制や焚書・文化破壊への憤りや、異議申し立てがあるのだろう。だがフランソワ・トリュフォーが1966年に映画化した作品は、吾々が(実は心地よい悲劇として)愛好している「ディストピアのイメージ」を「えっ」と脱臼させるものだ。言いかえると、らしくない。失敗作だという声もある。だが逆に「本当のディストピアとは、こういうものではないか」と思って観ると、意外な発見がある。
 
 映画のスタッフや出演者が長いエンドロールではなく、冒頭のタイトル・シークエンスで表示されていた時代。電波の送受信をイメージさせるアンテナが次々と映し出され、文字のかわりにアナウンスがクレジットを読み上げる。映画は全編にわたり、数字以外の文字が追放された社会を描く。ついでに言うと、この社会では若い男性の長髪も禁じられている(笑)。自由が抑圧された管理社会。だが冒頭、禁じられた書物を隠していたモブキャラが「逃げて」という電話の密告を受け、泡を食って逃げ出すシーンから違和感がある。自宅で煙草を喫い、リンゴを頬張っていた男は慌てて上着を着込むが、青々としたリンゴの続きをかじりながら逃走の途に就くのだ。
 なんだろう、この場違いに牧歌的な感じは。そんな違和感が積み重なり、頂点に達したのは主人公の家のバスタブの蛇口を観たときだった。
 
黄金色のお魚がゴパーとお湯を吐き出す蛇口。こんな「ディストピア」があるか!その瞬間、違和感が弾けて理解に変わる。これは自分が思いこんでいた「抑圧された人々の陰鬱なディストピア」じゃない。少なくとも、チョコレートの配給量が日々減らされ、しかし情報操作で逆に増えてるように改変されている『一九八四年』モデルの窮乏ディストピアとは違う。人々は豊かで、満悦して、まあ主人公の妻は向精神薬を過剰摂取している傾向はあるが、それも含めて現実の吾々と変わらない、なんなら幸福感にあふれた社会・「明るいディストピア」なのだ。

 【窮乏なき、明るいディストピアでも、あなたは本を読むか】(仮)
 たかだか蛇口ひとつで映画の内容を決めるのはどうよ、と思うひとがいるかも知れない。では次のエピソードはどうだろう。主人公の妻が「無害な薬」と同様に手放せないのはテレビだ。番組の中に「家族」という視聴者参加型の特別プログラムがあって、彼女はそれへの「出演」を心待ちにしている。内容は双方向型を模した、しかし悲しいほど陳腐なものだ。二人の出演者が人々をパーティーに招く相談をしていて、時々「こちら」を向いては画面に問いかける。「リンダ、君はどう思う?」
 国内に20万人はいる「リンダ」全員にTV局が電話をかけ、あなたが出演者ですよと告げてるのだろうという主人公の邪推はおそらく正しい。それに気づかないリンダ(妻)が、どうとでも答えられる質問にしどろもどろに答えると、画面の向こう側の俳優は口々に「そうだ」「まったく彼女の言うとおり」と同意し、最後に呼びかける。
リンダ、君は本当に素晴らしい
 Linda, you are absolutely fantastic!!
 なにしろ昔の映画なので「双方向のコミュニケーション」はかくも稚拙で、わざとらしい。だが寓意は正鵠を射ている。たあいもないトリックに喜ぶリンダを嗤う吾々も、切望し、そして手に入れてしまったのは同じメッセージではないか。半世紀後の吾々がキュレーションと称してインターネットで築き上げたのは、自分に心地よい情報ばかりが増幅されるエコーチェンバー、まさに「君は素晴らしい」というメッセージに(ばかり)あふれた世界ではないか。
 窮乏なき、明るいディストピアでも、あなたは本を読むか(仮)→(改訂版)【自分自身が明るいディストピアの住人であることに、あなたは自覚的か】

    *    *    *

 前回の日記のために『ジュリアス・シーザー』を読み返して、懐かしいフレーズに再会した。シーザーを暗殺の現場に誘い出そうと謀議をめぐらす一味のひとりが言うのだ。
「象なら落とし穴、ライオンなら罠、人間なら追従を使えばいい(中略)
 あなたは追従がきらいですねと言ってやれば、そうだと答える、
 それがいちばんの追従だと気づかずにな」
(小田島雄志訳)
 シェイクスピアの戯曲は未読でも、おおよそ日本語圏で本が好きと自称するなら、別の形でこの言い草を知ってる人は少なくないはずだ。つまり
「ほとんどの人が
 「あなたのようにおせじのきらいなかたは、めったにございません。
  なんという高い見識でしょう」という文句で陥落した。
 これはシェークスピアの「ジュリアス・シーザー」の中にもある文句だそうだが、
 ことほめ言葉に関してだけなら、妖精も文豪に匹敵する天才といえた」

星新一のショートショート「妖精配給会社」の一節だ。同名の作品集(新潮文庫)の表題作で、個人的には星新一の最高傑作だと思っている。
 説明の必要があるだろうか。妖精とは、宇宙から飛来した生命とも何ともつかない・しかし実体のある存在で、人の肩にちょこんと乗る大きさのそれらは実際に人の肩に乗り、持ち主の耳に甘いほめ言葉をささやく。それを一人ひとつ持てるよう公社のような会社が設立され、やがて誰もが肩に妖精を乗せるようになり、そして…という物語だ。
 「宇宙から飛来したデバイスが地球人に心理的な安定?をもたらし社会を根底から変える」というアイディアは初期作「セクストラ」と似通ってて、より洗練させたのが「妖精」と言えるかも知れません
 戦慄の結末については、ここでは述べない。真鍋博による新潮文庫の表紙に描かれた、うつむく「妖精」の容姿が天使や妖精より、むしろ地球の反対側で書かれた(やはり)SFの名作『幼年期の終わり』の「あれ」を思わせることも。いま述べておきたいのは、妖精を肩に乗せるかわりに吾々はスマートフォンを手に持ち、いわば自分とネットの共同作業で作り上げた「自分仕様の妖精」に日々「あなたは素晴らしい」と追従を囁かせている、ということだ。同作が星新一の(個人的に選ぶ)最高傑作という思いはずっと昔からのものだが、ネット時代・SNS時代になって、その辛辣さはますます際立っている。

    *    *    *

 トリュフォー版『華氏451』は寒々とした森に隠れ、これと選んだ書物の暗誦につとめる・自ら一冊の本となることを己に課した人々の姿を描いて終わる。このラストシーンを美しくしている要素は二点。トリュフォー自らの述懐によれば想定外に降ってきた雪と、主人公が選んだ書物の一節をめぐるエピソードだ。
 台詞すべて英語で収録された同作の最後で主人公が暗誦するのはアメリカの作家エドガー・アラン・ポーの一節。だが撮影する段になって、ポーの原典には該当するフレーズがないことが判明する。実はフランス人のトリュフォーが使おうと思った「ポーの一節」は、同作をフランス語に訳したボードレールの勝手な加筆だったのだ。そこでトリュフォーはどうしたか。ボードレールが創作したフランス語の「ポー」を逆に英訳しなおして、主人公に朗読させてしまう。
 公式な世界ではなく、個人の親密な記憶に重きを置いた、トリュフォーらしいエピソードだ。翻訳もひとつの創作という意味での佳話でもある。だが吾々はあらためて、そうまでしてトリュフォーが主人公に読ませたかった一節に注意を払わねばならない。それはこうだ。
 I'm going to relate a tale full of horror (私がこれから語るのは、恐怖に満ちた物語だ)」

 お前は生き方を変えねばならないと、アポロンの像は詩人に告げた。ある意味で、それは多くの詩・多くの物語や書物・世界を行き交う言葉が発しているメッセージだ。生き方を改めろ。今までの自分でいるな。今まで知らなかった世界の住人となれ。
 テレスクリーンや肩に乗った妖精がささやきかけるのは、それと真逆のメッセージだ。あなたは今のままでいい。手持ちの世界を反芻しなさい。何も変えず、何も新たに知ろうとせず、閉じた自己満悦に浸っていても、今のままであなたは素晴らしい。この国に限った現象ではないのかも知れない。だが、本来は「ありのまま」で「なかった」自分を変えようと謳うエルサの決意すら、「あなたは今までどおりでいい」という意味に曲解されるのを見て、とりわけこの社会では皆、自分を許したがりすぎると思ったのも確かだ。
 トリュフォーのラストが告げるメッセージは、本好きな(気分でいる)だけであなたは不屈のレジスタンス・世界のヒーローなのですという欺瞞を打ち砕くものとして捉え直されるべきだろう。書物を愛するものは黄金の蛇口がお湯を吐き出す心地いいバスルームから追放され、凍えた森に身をしりぞける覚悟を持たねばならない。そこで開かれる物語は未知の、それまでの自分を壊してしまうような、恐怖に満ちた物語でなければならない。
 本を愛するとは、そういうことだ。悪く言えば、次こそは足が生えてくるかも知れないと脱皮を繰り返す蛇のように。読むことで違う自分になる・違う世界の住人になることを望んで未知の扉を開く、そのような読書こそが読書なのだと、アポロンはあなたに告げる。

 もちろん、そうでない慰撫を書物に、物語に求めることもあるだろう。僕だってある。しかし「あなたは素晴らしい」とメディアに甘やかされる愉悦と、「本を読む自分は管理社会に抗するレジスタンスだ」という慢心は両立しえない。いや、本来なら両立しえないからこそ、人は両者を両立させ、甘やかされながらレジスタンスを気取る欺瞞に落ちこみうるのではないか。だとすれば、それこそが吾々の心の中から始まるディストピア・心地いい管理社会ではないのか。
 たえず甘言をささやく妖精が宇宙から飛来するのを待ちきれず、結局は自力で作り出してしまったのが吾々だ。ディストピアは、ひとり一人の心の中にある。
 
久しぶりに観直したトリュフォー版『華氏451』、「明るい」ディストピア映画なのだと承知して臨めば個々の描写も面白く、最後まで退屈しない良作でした。読書にのめりこみ、どんどん家庭を破壊してゆく主人公を観ると「本は人を不幸にする」という焚書官の隊長の台詞のほうが本当にも思えてくる、複雑な味わいを楽しみましょう。

満場一致が示すこと〜ルネ・ジラールで読むアメリカ大統領選挙(2021.01.17)

 われわれは、ケーアス、生贄を捧げるものでありたい、屠殺者ではなく。
(『ジュリアス・シーザー』第二場第二幕・小田島雄志訳)

 供犠の時を四年間、待ち焦がれていた。人々の心が憎悪で沸き返り、偽物の王を処刑台に追い上げる日を。そのような日を待ち望んではならないと、強く戒められていたにも関わらずだ。

    *    *    *

 その論評を、個々人の欲望・羨望にまつわる考察から始めたルネ・ジラールは、しだいに思索の対象を社会的・文化人類学的な分野にまで広げていった。『暴力と聖なるもの』『世の初めから隠されていること』『身代わりの山羊』…中期の著作群でジラールが大きな関心を示すのは供犠=スケープゴートの問題だ。
 ジラールによれば・羨望=互いの模倣による競争がエスカレートし極限に達するか・疫病などの社会不安で共同体は危機に瀕する。
「同一性、画一性のなかにいつでも一切を落ちこませるものは、逆説的ながら、他と異なろうとする欲望です」(『世の初めから隠されていること』)
親子や兄弟姉妹さえ互いに競争しあう、ただの「敵」になる。誰をも等しく襲う疫病が、個性や肩書きを無力化する。そのようにして共同体は無秩序な、いわば「モブ」の集団になる。沸騰寸前まで熱せられた分子のように、水の一滴も投げ込んでやれば暴力の応酬=社会の崩壊につながる危機だ。
 この危機を解消する魔法が、スケープゴートの追放だとジラールは言う。社会不安・互いの憎悪の理由を誰か一者に押しつけ、満場一致で追い出すことで、無秩序だった顔のない群衆が共同体としての秩序を一気に回復する。
 重要なのは、この放逐が「満場一致」でなければならないことだ。そうでなく中途半端な、総員の同意を得られない「あいつを追い出せ」は、すぐに「お前こそ出ていけ」と模倣され、暴力の応酬に拍車をかけるだけだろう。
マイルドに「追放」と書いてるけど、ジラールは身もフタもなく「殺害」と言う。
 初期のソネットから晩年のロマンス劇まで、シェイクスピアの諸作をジラール流に解釈した『羨望の炎 シェイクスピアと欲望の劇場』(小林昌夫/田口孝夫訳・法政大学出版局)によれば、戯曲『ジュリアス・シーザー』は、まさにスケープゴート劇=供犠のメカニズムを体現しているという。
 平日に仕事着も着ず、職務を放り出してシーザーの凱旋を見物に行く大工たちを描いた冒頭は(ジラールに言わせれば)秩序が崩壊し人々がモブと化した社会の危機を描いている。細かいことを端折ると、憂国の士ブルータスは共和制ローマを崩壊から救うため、シーザーをスケープゴートに仕立て、彼を粛清することで秩序の回復をはかろうとする。
 だが続くのは暗殺が「満場一致」の賛同を得られなかったため、人々が陥るさらなる混乱だ。シーザー暗殺の義を説くブルータスの演説が、シーザーの腹心であったアントニーの弁舌によって覆され、聖なる生贄を捧げる供犠だったはずの暗殺は、ただの屠殺として人々の激昂を呼ぶ(ブルータスの仲間と同じ名前だっただけで、無関係の詩人が虐殺される)。この混迷に蹴りをつけるのは、皮肉なことにブルータス自身となる。アントニーと、シーザーの養子オクテーヴィアスの連合軍に破れ、自害した彼を勝者たちは
「彼こそ一味のなかでもっとも高潔なローマ人だった」(アントニー)
「その徳にふさわしい遇しかたをしよう、できるかぎり礼をつくして葬儀をおこなうのだ」(オクテーヴィアス)
と聖別する。言うまでもなく英語表記のオクテーヴィアスが、後にアントニー=マルクス・アントニウスをアクティウムの海戦で破り、初代ローマ皇帝アウグストゥスとなるその人だ。
 まとめて言う。シェイクスピアの戯曲は・共和制ローマ崩壊の危機を・シーザーをスケープゴートにすることで救おうとしたブルータスが(満場一致の同意を得られず)供犠に失敗し・さらなる暴力を呼んだあげく・ブルータス自身が理想のスケープゴートとされ・彼が望んだ共和制の再生でなく逆に危惧した帝政の誕生により秩序が回復される…そんな皮肉に満ちたドラマとして読み解くことができる。
 
 問題は、この供犠=スケープゴートの追放や処刑による秩序の回復を、ジラールが賛美も推奨もしていないことだ。
 おおよその理解では、ジラールは次の二点で供犠の無効化を説く。ひとつは法の支配が広まることで(供犠を必要とするような)際限のない報復の連鎖に歯止めがかかること。
 もうひとつは、相互模倣が対立や暴力に帰結せず、むしろ競争の激化が経済を駆動する稀有なシステム=資本主義が世界に定着したことだ。もっとも資本主義は、引き換えにその成員たち(互いのマウンティングに終始し、誇示的消費をやめられない吾々のことだ)に絶え間ない神経症をもたらす。だが古い供犠のシステムを復活させて、この新しいメカニズムを停めることは不可能だし、望んではいけないことだとジラールは説く。彼は言う。
「人間は供犠を介することなしに永遠に和解しあわなければならない(中略)
 さもなくば、人類の近い将来における絶滅を甘受しなければならないのです」
…『世の初めから隠されていること』(原著1978)年の発言には、競争社会が生んだ環境破壊や、当時は東西対立のため今よりずっと切迫していた核戦争への懸念が反映されているだろう。しかしなお「和解」はスケープゴートを伴うもので、あってはならない。
 なぜか。もちろん排除されるのがシーザーひとりでも暴力は暴力なのだが、現実の「供犠」はずっと多くの、それも王ではなく貧者や弱者・女性や子ども(ジラール言うところの「すべての犠牲にされやすいもの」)の、そして放逐では済まず殺害によって成る。戯曲の中のアントニーとオクテーヴィアスすらブルータスを討伐する前に、手付金のようにローマの元老院議員100人を粛清した。中世のペストに怯えた人々のユダヤ人排除、フランス革命にともなう恐怖政治、関東大震災後の朝鮮人虐殺、ナチスによる人道的犯罪…
 このあたりの経緯は『身代わりの山羊』を取り上げた2012年2月の日記を参照してください

    *    *    *

 かようにジラール自身によって戒められているにも関わらず、自分は四年間、スケープゴート放逐の儀式を待ち望んでいた。2020年、アメリカ大統領選挙によってドナルド・トランプが追放される日を。
 かの人物が選挙で勝利した2016年は、絶望の年だった。もちろん、煮えくり返っていたのは2012年からだ。太平洋の向こうではない自分の足元のことで八年間、絶望しっぱなしだった。国会前に60万人の群衆が押しよせ岸内閣を退陣に追い込んだような、隣国の韓国で百万人のデモが朴槿恵政権を倒したような「満場一致による追放」は、今の日本には期待できない。それが制度によって合法的に可能である・人々がまともならば四年後には陶片追放のチャンスがやってくるアメリカが羨ましかった。
 いや、わりと冗談ではないのだ。今回の選挙で、開票にまつわる云々に人々が一喜一憂していた頃、ずっと考えていた。アメリカの大統領選挙とは、流血をともなわない形で洗練された、合法的な供犠=スケープゴートの放逐による共同体の秩序回復の儀式ではないかと。
 もちろん眉に唾をつけていい。大いにつけなさい。望ましいのは他人の言ったことの鵜呑みや・まして呑み込みもしないコピペの同調ではなく、誰もが自身で考えること。だから自分も考える。ヒントになるのはアメリカの大統領選挙を(日本から見て)分かりにくくしていると言われた、州ごとの選挙人総取り制度だ。
 たとえばペンシルバニア州に50人の選挙人がいるとして、州の選挙で共和なり民主なりの候補が競り勝つと、たとえそれが一票差の半々でも「じゃあ26対24にしましょう」ではなく勝ったほうが50人総取りになる。それは「アメリカ」と吾々が呼ぶ国家がUnited States(州の集合体)であり、州の自主性・自律性が重んじられていることを考えると、不思議と腑に落ちることでもあった。それぞれの州がひとつのState(国)であり、その決定は満場一致でなければならない。スケープゴートの追放の他に、こうした満場一致が求められた場を、吾々は知っている。現代の民主主義が(今では現実的でない)理想と仰ぐ、古代の民会だ。
 大統領選における州ごとの選挙人総取り制度・の根幹にあるのは、古代の民主主義の理想である満場一致を、後からこじつける形でも、擬似的でも再び顕現させようという儀礼的な意図ではないか…というのが自分の仮説だが如何か。
 そして改めて、この満場一致はスケープゴート追放(による秩序回復)の満場一致と同じものだ。血なまぐさい生贄の儀式と違う(けれど本質的には同じな)のは、昨日まで選挙を争っていた対立候補が、自ら最も重要な「満場一致」の先導者となることだろう。通例、選挙の結果が決すると敗者は真っ先に「勝者と一丸となって今後四年間のアメリカを作ろう」と自らの支持者に訴える。勝者もまた敗者の支持者たちに「あなたたちと一緒に今後四年間のアメリカを作ります」と呼びかける。かの国の大統領選挙を、国が真っ二つに割れる「合法化された内戦」とも称するらしい。自分が付け加えたいのは「流血をともなわない、洗練された供犠の儀式」でもある、ということだ。
 もちろん再任もあれば、同じ政党で大統領職が継承されることもある。だが原理的には四年ごとに、前任者の完全降伏と放逐によってアメリカは、歴代の大統領が(つまりアメリカ自身が)為したあらゆる悪政も失政も「チャラ」に出来る。道を誤り、失敗した大統領はいるが、彼(将来的には「または彼女」)は満場一致の儀式によって正しく追放され、アメリカという理想・アメリカという理念は傷つかない。これはたいへんな巧緻にして狡知ではないか。

 だいたい、そんなことを考えていた。だからトランプや支持者たちが実際には吾々が勝った・不正によって負けたと称しても、いちいち呼応して一喜一憂しようとは思わなかった。アメリカはバイデンを、と言うよりトランプ追放を選んだ。これは満場一致の選択だったと、歴史は後づけで認識するだろう。どれだけトランプやQアノン(敵対者の陰謀を信じるトランプ支持者)やJアノン(なぜか日本でトランプを応援する人たち)が悪あがきしようと、アメリカという制度は最終的には秩序を取り戻す。あるいは、それに失敗すればアメリカは崩壊する。それだけのことだと言えるし、自分には「アメリカ滅びろ」と思う積極的な理由はないので、秩序の回復が「まずは」望ましいと考える。
 ではなぜ「まずは」と留保をつけるか。四年ごとに供犠を行ない秩序を取り戻すアメリカという国の、供犠を必要とする無秩序ではなく秩序もまた、信用できないと思うからだ。
 ジラール自身は語らなかったが(そんなこと言ったら大統領選のことだって語ってない)「供犠を介した和解」ではいけないと彼が強く否定したのは「そうした和解が結局は破局を回避しえない」事例もまた多かったからではないか…そんな風に邪推したくなる。アウグストゥスが治めたローマは知らない。だがマリー・アントワネットからロベスピエールまで数多の首をギロチンで落とし、血まみれでようやく勝ち取ったナポレオンの下の秩序はフランスに、国民一丸となっての対外戦争・行かなくてもいいロシア遠征まで含めた殺戮と消耗を強いた。スケープゴートとしてユダヤ人を絶滅収容所に送ったナチス・ドイツ、朝鮮人を虐殺した日本が「満場一致」で邁進した自滅への道については言うまでもない。
 アメリカが大統領選によって「満場一致」で・だが平和裡にスケープゴートを追放し秩序を取り戻す、それは大いにけっこうだ。だが秩序を取り戻したアメリカはベトナムで中東で、「満場一致」のアメリカは世界中で何をしてきたか。常に己の過ちを修正し、マイノリティに門戸を開き、より民主的・より多様な人々から成る社会として自らをアップデートしつづけるアメリカは同時に、常に外部に討伐すべき「ならず者国家」を設定し、満場一致の愛国心で焼夷弾を、ミサイルをドローン爆弾を、生命ある人々の上に落とし続ける、世界で最も好戦的な国家でもある。
 その好戦性は、制度化された=社会の運営の根幹にまでビルトインされた供犠の儀礼の(洗練され押し隠された)残虐性・ジラールが批判しつづけた「満場一致」の暴力性と本当に無縁なのだろうか。
 アメリカが今回の試練も乗り越え、トランプの放逐に成功し、秩序を取り戻すことを(四年間その存在に煮えくり返っていた身として)心から願っている。だが個人的には、アメリカという国家自体に、まだ気を許すことはできない。

 Jアノンが奇論・こじつけを弄して他国の大統領(それも敗けた)を信奉するのが滑稽なように、世界に暴力をアウトソーシングしている「アメリカの正義」を、民主主義を求める非アメリカ人は過大評価=無条件で賛美し、己の手柄のように誤認してはいけないと思う。それが自分の頭で考える者の矜持であり、自力で(国内の)民主主義と秩序回復を勝ち取るだろうアメリカの人々への敬意でもあると。
 ←この日記を書いてる時点で悪魔のように高い。図書館で読みましょう!

読み比べ『神曲』3×3〜ルネ・ジラール『地下室の批評家』(2021.01.10)

 1)翻訳×3
 自分には審美眼やセンスがない・日本語すら覚束ないと、前回の日記で言いはしたが、もちろん多少の判別はつくのです。同じ文章の翻訳なら
a.一切は機械をなしている。天空諸機械。天の星々や空の虹。アルプス諸機械。これらの機械は、レンツの身体のさまざまの機械と連結している。ここにあるのは機械のたえまなく唸る音。

b.すべては機械をなしている。天上の機械、星々または虹、山岳の機械。これらが、レンツの身体のもろもろの機械と連結する。諸機械のたえまないざわめき。
は、ちょっと違うな程度は分かる(ジル・ドゥルーズ=フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス』a…市倉 宏祐訳、b…宇野邦一訳)。
a.生い茂る栗の木の下で
 俺はお前を売り、お前は俺を売った
 奴らはあそこに横たわり、俺たちはここに横たわる
 生い茂る栗の木の下で


b.おおきな栗の木の下でー
 あーなーたーとーわーたーしー
 なーかーよーくー裏切ったー
 おおきな栗の木の下でー

だったら、なおさら分かるというものだ(ジョージ・オーウェル『一九八四年』a…新庄哲夫訳、b…高橋和久訳)。
 とはいえ正直、どう違い、どちらが良いのか言語化するレベルには至っていない。初めて見た訳文を親だと思ってしまうこともあるだろう。平易で明快な訳を欲することもあれば、凝った美文に酔いたい気持ちもある。明晰さと詩的な美しさはバーターなのだろうか。
 
 前回の予告どおり、かねてから懸案だったダンテ神曲』三つの訳の読み比べに、いよいよ着手しようと訳本を揃え始めた。
 そもそも『神曲』を読んでみようか、読書のレパートリーに『神曲』がある人生を送ってみようか、そう思ったのは須賀敦子氏の影響だろうか。四方田犬彦氏の影響だろうか。日本の文庫のように持ち運び容易なコンパクトな版でイタリア語の『神曲』を持ち歩く老婦人のエピソードを読んだのは、さてどちらの著書でだったか。地獄篇第五歌・愛ゆえに罪人とされたフランチェスカ・ダ・リミニの逸話が好きだという老婦人と、エッセイの語り手は飛行機で隣り合ったのではなかったか。
 本年も「資料になる本が直ぐ出てこないので、あてずっぽうな記憶で書く」スタイルでやっていく所存みたいです…
 最初に読んだのは集英社文庫・ヘリテージシリーズの寿岳文章(1900-1990)訳だった。その特色は独特な語り口だ。
ひとの世の旅路のなかば、ふと気がつくと、私はますぐな道を見失い、暗い森に迷いこんでいた。
ああ、その森のすごさ、こごしさ、荒涼ぶりを、語ることはげに難い。思いかえすだけでも、その時の恐ろしさがもどってくる!
その経験の苦しさは、死にもおさおさ劣らぬが、そこで巡りあったよきことを語るために、私は述べよう。そこで見たほかのことどもをも。
後述するが、個人的には一番好きな訳だと思う。けれどただちに買い求めなかったのは「ますぐ」「こごしさ」と既に片鱗を見せている独特な語彙や、その語彙の中に(キリスト教文学の金字塔なのに)仏教用語を多用したと批判されていたため、ばかりではない。明晰さと詩的な美しさはバーターではないか。美しいがこの訳文だけで済ませて「寿岳文章の」でなくダンテの『神曲』を把握したと思うのは危険ではないか。

 そんな思いで、実際に買い求め書棚に収めたのは河出文庫の平川祐弘(1931-)訳だった。
人生の道の半ばで正道を踏みはずした私が目をさました時は暗い森の中にいた。
その苛烈で荒涼とした峻厳な森がいかなるものであったか、口にするのも辛い。思い返しただけでもぞっとする。
その苦しさにもう死なんばかりであった。しかしそこでめぐりあった幸せを語るためには、そこで目撃した二、三のことをまず話そうと思う。
こうして見ると、寿岳訳だけだと若干ヤバいな、危ういなと思うでしょ?平易で読みやすい訳だと思います。
 問題は、平易なぶん寿岳訳よりは感動が薄めなこと、そしてこれは全く訳文に影を落としてはいないのだけど、訳者の平川氏が自分とは相容れない=若干ヤバいな、危ういなと思う思想の主であること。簡単にいうと日本スゴイのひと。ダンテをここまで丁寧に訳し、その政治的背景まで解説できる人が、どうして私人としてはこうも固陋なのと失望させられた一方、国粋主義や表裏一体の他国蔑視に走るのは無教養なよるべない人々ばかりでない・知性も教養も人が固陋に陥らない保証にはならないのだ…という苦い教訓を与えてくれた訳者。最近では、菅首相による日本学術振興会への弾圧(というにもレベルの低いイチャモン・言いがかり)を支持しますという、櫻井よしこ氏が筆頭の宣言に名を連ねてしまってます。でもこの訳文は憎めない。逆に日本スゴイの人は訳よし訳者よしで万々歳…とは思いたくないけれど。

 寿岳訳は1974-1976年。平川訳は1966年に初訳したものの改訂を重ね、全面的に見直したのが2008年の河出文庫版。
 これら先達を凌駕する正しい訳と鳴り物入りで登場したのが2014年・講談社学術文庫の原基晶(1967-)訳。
我らの人生を半ばまで歩んだ時 目が覚めると暗い森の中をさまよっている自分に気づいた。まっすぐに続く道はどこにも見えなくなっていた。
ああ、その有様を伝えるのはあまりに難しい。深く鬱蒼として引き返すこともできぬ、思い起こすだけで恐怖が再び戻ってくるこの森は。
死にまるで変わらぬほど苦しいのだ、しかしその中で見つけた善を伝えるために、目の当たりにしたすべてを語ろう。
冒頭の一節はイザヤ書の「人生の半ばで私は地獄の門に赴いた」を踏まえたものだと訳注にある。「まっすぐに進む道」とはヨハネによる福音書の「私は道であり、真理であり、命である」の引用であると。そういう文脈があるので「まっすぐな道を見失った」だけで人生のことだと分かれよ―原文への忠実度が高い訳だとそうなるようだ。わざわざ「人生の道の半ばで正道を踏みはずした」と意訳してくれた平川氏の親切が改めて知れるし、訳としての精確さとニュアンスの伝わり加減も時にバーターなのかもと考えさせられたりする。
 パッと見「エモさ」では平川訳にもまして感動の薄い生硬な訳にも見えるが(とゆうか寿岳訳がエモすぎるのだ)、まだキチンと読んでないので未知数。文芸的・詩的な喜びでは寿岳訳、平易さでは平川訳、考証の精確さでは原訳らしい…というのが暫定的な結論でよろしいか←いま流行りのブログ風に「いかがでしたか?」と書くのもアリかな、いやナシだろと思ったら、かわりに仕事の起案文みたいになってしまった…
 ちなみに寿岳訳・平川訳では各章の前に簡単な要約がついてて親切です。

 2)地獄・煉獄・天国
 そんなわけで、読み物としては寿岳文章訳の『神曲』が抜群に「エモい」です。くだけた言い方を重ねてしまえば「キャラ立ち」が違う。人生の正道を踏みはずしたダンテが生きながらに地獄・煉獄・天国を踏破する。キリスト生誕以前に死んだので天国には行けないが地獄・煉獄に属することも出来ず「辺獄(リンボ)」に居る古代ローマの詩人ウェルギリウスがダンテの道行きを案内するのですが、このウェルギリウス(寿岳訳だとヴィルジリオ)が『千と千尋』のハク様なみに優しく頼れて萌える。天国には入れない彼が煉獄篇の最後で姿を消したあとのロスときたら。
 一方、バトンタッチして天国の案内をするベアトリーチェ。ダンテ永遠の片想い相手・理想の女性として知られるべ樣ですが、終始優しかったヴィルジリオに比べ、そのドSなこと。「節穴だらけのおことの眼にも、はきと意味が見てとれるように」分かりやすく話しましょうとか、私を永遠の恋人と言いながら別の婦人に心を移しましたねと罵るさま、蔑みの冷たさが映えるのは寿岳訳ならでは。そもそも迷えるダンテが地獄煉獄天国を訪問できるよう取りなしたのは彼女らしいのですが、すでに魂が天界に属しているせいか、意外なくらい人間味が乏しい。
 なので読んでいて楽しいのは煉獄篇。地獄篇はすごいぞ、スペクタクルだぞSFだぞという意見もあるのは知っている。個々人の好みでしょう。自分の場合は咎人に救いの余地のない地獄より、苦役は負うものの救われる希望がある煉獄のほうが読んでいて清々しく心に沁みる。そしてまだ人間の身に、天国篇はちょっと難解。地獄=スペクタクル、煉獄=癒やし、天国=お勉強、これが二つ目の×3。よろしいでしょうか。
 

3)フランチェスカ・ダ・リミニをめぐる解釈×3(2?)
 ダンテの『神曲』。三人の訳者によって味わいが三様だし、地獄・煉獄・天国の趣もまた三様という話でした。
 以下は余談で、読む人によって解釈がこうも変わるかという話。
 先述のとおり地獄篇第五歌は愛欲で身を滅ぼした者が墜とされた第二圏を活写する。クレオパトラやトロイのヘレネー、トリスタンなど居並ぶこの地獄にありながら、なおも寄り添い続ける二人がダンテの注意を引きつける。フランチェスカ・ダ・リミニとパオロ・マラテスタ。フランチェスカはパオロの兄ジャンチオットの妻であったが、夫の不在中に情を通じ、戻ってきた夫に殺された。
 寿岳の訳注によれば結婚は政略結婚でジャンチオットは醜男、断られないよう眉目秀麗なパオロを代理に立て求婚させたという。ボッカチオが記した同説をやはり是とする平川の注では、このエピソードがダヌンツィオや与謝野晶子などに愛されたと解説されている。
 対して原の脚注は冷静だ。「パオロがジャンチョットとしてリミニに送り込まれ、フランチェスカが欺かれて結婚したという逸話は正しくない(中略)彼女が彼と恋に落ちるのは結婚後のことである」
 原氏の立場はニュートラルと言えるが、「熾の火燃ゆフランチェスカのこの中にありとも見えて美しきかな」(与謝野晶子)のように賛美されたこのエピソードを「騙されてはいけない」と厳しく弾劾するのが、誰あろうルネ・ジラールだ。よくよく考えてみなさい、二人がいるのは終わりある償いの業に励む煉獄ではなく、救いの余地がない地獄ではないかと。
 短めの文章を集めた『地下室の批評家』(白水社)の中でも、とくに短い一文「『神曲』から小説の社会学へ」は、『欲望の現象学』に連なる初期ジラールのエッセンスが10ページ足らずに凝縮されたエッセイだ。そのさらに前半部のみの『神曲』にふれたパートで、ジラールは言う。「今はわが身から取り去られた美しい容姿」とフランチェスカが語るように、二人はすでに肉体を失なった分身で、寄り添ってはいても真の結合は不可能であると。
 さらに彼が指摘するのは、二人が不倫の恋に落ちたきっかけだ。「ある日、つれづれに、私たちはランチロットが恋のとりことなった物語を読みました(中略)読みもてゆくうちに、いくたびかふたりの眼は合い、顔は色変え(中略)こがれてやまぬほほえみが、思うひとの口づけを受けたくだりを読んだとき、永久に私と離れないあのひとは うちふるえ、私の口を吸いました」地獄でも引き離せない、真の愛で結ばれた二人?これが?とジラールは問う。ここにいるのはランスロットと王妃ギネヴィアの不倫の恋を本で読むうち、不倫の恋に落ち、物語の二人が接吻する場面で口づけを交わす男女だ。
 『欲望の現象学』で描かれた、騎士物語を模倣して愚行を繰り返すドン・キホーテや、恋愛小説に憧れて破滅するボヴァリー夫人と同様、『神曲』の二人も物語に影響されコピーした欲望で身を滅ぼした男女でしかないとジラールは裁定する。フランチェスカはこう語る。「その物語の書(ふみ)と、物語の作者は、げにガレオット」ガレオットはランスロットをそそのかし、主君アーサーの王妃ギネヴィアとの不倫の恋を取り持った不忠の騎士だとジラールは解説する。これは自分たちをそそのかした書物を糾弾する、フランチェスカの呪詛として読まなければいけない。
 己の欲望は、本当に自発的なものか。初期ジラールが説いたのはそれを疑うことだった。すでに皆様お気づきのとおり、自分が『神曲』を手にしたきっかけは、このイタリアの古典をこよなく愛する人たちのエピソードを「読んで」その「欲望を模倣」したからに他ならない。三種類の訳をすべて手中にし、比較しようという今回の日記のネタも、前回の日記で記したとおり、『センセイの鞄』三書体の読み比べという楽しげな遊びを見て「真似したくなったから」。
 面映い話である。
 

 追記
 オーウェル『一九八四年』の「憎しみの歌」については、以下のブログに詳しい。自分のテキトウな日記などより、よほどキチンとした文章です。
テレスクリーンと黄色い調べ『一九八四年』既訳のまちがいについて(野菜生活)(外部サイトが開きます)
 高橋訳では「大きな栗の木のしたで」が元ネタとして、新庄訳ではそうした元ネタなしで直訳された「憎しみの歌」が、実は別の元ネタをもっていたという説得力のある話。自分は原詩There lie they, and here lie weのlieが新庄訳では「横たわる」になってて、それはそれで詩的で美しいのだけど、この場合「嘘をつく」のほうのlieなんじゃないかなーと思っていた節があって。高橋訳は「嘘」を採用してると思われる一方、件のブログに紹介されてる元ネタにはThere we sit both you and me座る、という単語がほの見えることから「横たわる」にもまた1ポイント入ったか、難しいなあと思っているところ。
 ちなみに新庄訳の「横たわる」って本当なの?と思ったキッカケは、デヴィッド・ボウイの「ヒーローズ」終盤の一節がWe may be lying, then you'd better not stayのlieが「嘘をつく」だったから。愛を貫こう、一日だけでも英雄になれる、そう言ってる自分たちの言葉だって「嘘 lying」かも知れない、だったら君はもう僕と一緒にいないほうがいい…
 ちょっとルネ・ジラールの「己の欲望は、本当に自発的なものか」と響き合ってるな、と感じてもらえたなら幸いです。本当はボウイの話まですると追記が長くなりすぎるとも思ったけれど、本日1/10は『一九八四年』とも縁のある彼氏が天に戻った日なので、まあ偲ぶキッカケになればと。
 来週は、後期ジラールとアメリカ大統領選挙の話をする予定です。

サード・アイ・ブラインド〜正木香子『文字と楽園』(2020.12.27)

 思えば今年の1月は「恥ずかしながら自分には"美"が分からん」という話で始まったのだった。
2020年1月19日の日記(秋田麻早子『絵を見る技術 名画の構造を読み解く』の紹介)
絵や映画を見て「いいな」「美しいな」と思っても、その美しさを言語化できないし、自分が「ちゃんと鑑賞できてる」のか自信がない。「えっ、この俳優って世間的には"大根"なの?」ということもあるし「やっぱり本は紙でなきゃ」というコダワリに全面的な同意を示せないのは一応まんがの作者としては致命的な無神経さかも知れない。翻訳小説の文体が苦手でさーえっ、どうゆうこと?」そう、審美眼やセンスの問題になると文章の読解すら覚束ないのだ、実は。
 じっさい本サイトの文章も、これだけ沢山あの小説はどうだ、この映画はこう素晴らしい言うても「こう組み立てられた部品から、こういうストーリーやテーマが抽出・抽象されるので、それが面白い」って話ばかりでしょ?たぶん前にも書いてるとおり、走ってるスポーツカーの速度や加速度を割り出す「微分」が自分の本分で、その車体の美しさやステアリングの好さといったものは、とても扱えない。
 そういう自分だからこそ、文章で大事なのは(三島的な綺羅びやかさではなく)まず第一に達意(意味が通じること)だよと説いた丸谷先生を師と仰ぐようになったのだと思う…
 だから美術館でずっと時間をかけて鑑賞できる人が羨ましいし、アクション俳優の殺陣の優劣や、音楽のコード進行の妙を語れる人にも「かなわんなあ」と思う。

 正木香子文字と楽園 精興社書体であじわう現代文学』(本の雑誌社)も、そんな感慨を抱かせる一冊だった。つまり、面白いがサッパリ分からん。サッパリ分からんというのは、著者が思い入れる精興社書体という活字セットの良さがだ。
 岩波書店の創設者・岩波茂雄と肩を並べる盟友だった印刷業者・白井赫太郎が創設した精興社。その書体で刷られた書物には、言うなれば独特のアウラがあると著者は説く。ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』に十歳で出会い、書物が語りかける内容だけでなく、それを印字する特定の書体に魅せられた著者。人が自ら語る半生の記録は珍しくない。読んできた本を通して己を語る自伝も少なくないだろう。ただそれが、特定の書体と分かちがたく結びついた事例は珍しいのではないか。
 …失礼ながら「奇書」という単語も頭に浮かぶ。みすず書房の創設者・小尾俊人氏も精興社の書体にあこがれて出版業を志したというから、分かるひとには分かるのだろう。しかし、あの書物は素晴らしい・この小説に感じ入った…という語りが「第三の目」でも有するかのように「その感動は精興社の書体そのものの感動と不可分であった」となるとき、これは本当なのか・著者の幻覚ではないのかと。疑うわけではない。ただ、たとえば本書では取り上げられていない別の本が精興社の書体だったとして、その書体ならではの良さが自分に分かる気がしない。いや、取り上げられている本ですら「そう言われて手にしてみたら(かつて読んだ本すらある)なるほど、この得も言われぬエモさは精興社だったからですね!」と納得はできないだろうと確信できる。
 そこまで踏まえたうえで、本書は異様に面白い。取り上げられた「精興社の本」はエンデの他に三島由紀夫『金閣寺』、堀江敏幸にジュンパ・ラヒリ、遠藤周作の絶筆…おそらく本書のクライマックスは村上春樹『ノルウェイの森』なのだろうが「奇書(失礼)」としての白眉は、やはり川上弘美センセイの鞄』評だろう。
 前章で堀田善衛『インドで考えたこと』(精興社書体)と椎名誠『インドでわしも考えた』(凸版明朝体)を比べ論じる宙返りを決めたあと、繰り広げられるのは同じ川上弘美のベストセラー小説を、三つの判型・三つの書体で読み比べるウルトラCだ。
「一冊目は、二〇〇一年刊行の平凡社の単行本。
 二冊目は、二〇〇四年刊行の文春文庫。
 そしてもう一冊は、二〇〇七年刊行の新潮文庫」

 最初の単行本の活字は「石井明朝オールドスタイル」。広告やポスター、あるいは『太陽』のような雑誌で使われていた書体で、90年代から小説の本文に使われだしたらしい。著者は言う。「文庫版の解説によれば、人生も終わりにさしかかろうとしている老年男性が三十歳以上も年下の女性とむすばれるストーリーは、当時、「しばらく小説から離れていた、多くの中高年男性を舞い上がらせた」という。ひょっとすると、そういうターゲットを想定して選ばれた書体だったのかもしれない(強調は引用者)
 三年後の文春文庫版で使われた活字は「凸版明朝」。一冊目が「センセイ」目線に思えたのに対し、こちらは語り手たる「ツキコさん」の呼吸に近く「恋愛にちょっと不器用で、サバサバした性格の女性」が自然に浮かんで感情移入できたという。
 そして三冊目、二度目の文庫化と相成った新潮文庫版は。言うまでもなく、著者がこよなく愛する精興社書体で印刷された同作は、その目にどう訴えかけたか。…もちろん、それをここで明かすことはできない(本書を読みましょうね)。しかし「そんな馬鹿な!(そんな上手い話が)」と思わずツッコミを入れつつ、川上作品の読者には納得度も高いムーンサルトが決まる。圧倒的に「オチ」の精興社バージョンに肩入れしつつ、三冊を「きっとそれぞれが、出会うべきひとと縁をむすぶために、別々の「本」として生まれたのだろう」と結ぶ着地もキレイ。
 
 結局のところ「この書体がスゴい」で終わらず、著者のなかに「こうあってほしい」本や文章のスタイルがあって、それが精興社という特定の印刷会社の活字と結びついている。だからスポーツカーの速度や加速度にばかり目が行く自分のような読み手にも、同書は面白いのだと思う(奇書ではないかと思う所以でもあるが)。
 …昨秋の、松本への一泊旅行で手に入れた一冊である。書物で真っ先に問われるべきは(手ざわりや佇まいではなく)意味だろう、意味がアルファでオメガだろうと思う審美眼に欠けた人間にとっては、まさに本は「読んでナンボ」なので、一年遅れとはいえ、無事に読めて良かったと思う。
 それで自分も精興社書体の本を意識的に読んでみよう…とは行かなかったが、同書の感慨に押されて、年来の懸案?野望?夢?を実行に移すことにした。…ダンテ神曲』日本語訳の読み比べである。とりあえず地獄篇だけでもと思い、三種類を揃えた。来年さいしょのサイト日記は、この話になります。それでは皆さま、よいお年を。
 

つかずはなれず〜映画『彼女は夢で踊る』(2020.12.20)

 こっ恥ずかしい歌詞といって最初に思い浮かぶのは何ですか。そういうこと、そもそも考えませんか。自分のばあいロキシー・ミュージックの「プジャマラマ」の一節なのだけど
The world may keep us far apart, but up in heaven angel, you can have my heart
(世界が二人を遠く隔てても 雲の上の天国では、エンジェル、僕のハートは君のものさ)

 レディオヘッドの「クリープ」の日本版CDの歌詞カードもYou're just like an angel(あ、またエンジェルですね)はいいとして、続く一節が
Your skin makes me cry 「その柔肌 涙が出るぜ
その柔肌と来たか。涙が出るぜと来たか。すごい邦訳だな、おい!と感心したものですが。

 時川英之監督の映画『彼女は夢で踊る』のラストで同曲がかかった時には「天使」も「柔肌」もすっとばし途中から邦訳の字幕が出た。
 それでいいのだと思う。柔肌を見せて踊る天使のようなヒロインのテーマとして、逆に相応しすぎて映画が歌の説明のようになってしまう。
 曲名の「クリープ」、But I'm a creep「だけど、僕はイヤな奴だから」と訳したのも「おっ」と思った。広島で何十年も続いた老舗ストリップ劇場。その名物支配人には、若い頃ひとりの踊り子に恋した秘めたる思い出があった…という物語で、犬飼貴丈が演じる青年時代の主人公を「イヤな奴」と思うひとは居ないだろう。ならば「クリープ」はどう訳せばいいか。ダメ男とか、虫ケラとか、そんな自虐的なニュアンスの言葉だ。「ストリップの観客とは恋仲になれない」とヒロインがはねつけると「友達でいいです」と食い下がり「怖っ」と引かれる主人公だから「キモい奴」はどうだろう。それとも「弱虫」か。あえて「イヤな奴」という「それだけはハズレ」な誤答を示しておいて、正解は観客に委ねる。ああでもない、こうでもないと反芻させる。主題歌には、こういう「つかずはなれず」な使いかたもあるのだなあと感心した。

 弱虫というか、馬鹿正直というか。大阪から来て広島で恋に落ちた主人公は、ヒロインのそばにいたくて、そのままストリップ劇場に転職を決めてしまう。スタッフになればステージは観放題、逆に観てなきゃいけない(トラブル対応係として)ようなものだが、彼は彼女のステージだけは観ようとしない。「友達でいい」という自分の言葉を守るためか、「観客とは恋仲にならない」という彼女の言葉を真に受けて「だったら観なければ…」と一縷の望みを守るためか。いずれにしても融通のきかない生真面目さで、しまいには「どうして私のステージは観てくれないの」と言われてしまう…
 
 主人公は過去と現在の二人一役。黒い瞳が印象的な青年と、パーマにヒゲの現在は正直、似ても似つかない。現在の主人公を演じる加藤雅也も、若い頃はその美貌で吉永小百合を死に至らしめたほどのハンサムなのだが(映画の話。泉鏡花原作・坂東玉三郎監督『外科室』)骨格からして違うのだ。なのに、ふてぶてしい現在のストリップ劇場支配人が、かつての馬鹿がつくほど正直で気弱な若者のままだ、同じ中身だと感じさせられる瞬間が幾度かある。似てないからこそ、その瞬間が映える。これも「つかずはなれず」の巧みかも知れない。
 主人公の二人一役に対し、若い頃の想い人を演じる岡村いずみは「現在」の主人公を翻弄する若い踊り子の一人二役。このシンメトリーも面白い。シンメトリーといえば、さらに現在の主人公と心を通わせ合うベテランの踊り子は、実際にストリッパーとして人気ナンバーワンの矢沢ようこ。女優が演じるストリッパーと、女優を演じるストリッパー。前者のテーマが「クリープ」で、後者のステージ曲は松山千春の「恋」、この対比も佳い。
 
  そして矢沢氏が女優として見せるのが、口紅を落とした「すっぴん」なのも味わい深い。岡村演じるヒロインは「ステージで裸になると別の自分になれる」と言う。脱ぐことで踊り子は「裸という衣裳」をまとうのかも知れない。一方で、きらびやかな踊り子は口紅を落とすことで「素の自分」になる、あるいは素の自分という「役」になる。同様に観客は、気弱で押しの弱い青年が、呼び込みの青い法被をまとうことで「口の悪い名物支配人」のペルソナを憑依させていた・彼もまた演者だったことを知る。
 「クリープ」はI don't belong here、僕の居場所はここじゃないという歌詞を繰り返す。(裸やすっぴんも含め)何かを纏うことで、人は何かを演じる。素顔でさえ「素顔という役」かも知れない反面、演じた「別の自分」が自分に変じること・演じた自分を「僕の居場所はここじゃない」と思いながら全うせざるを得ないこともあるだろう。…ひょっとしたら「クリープ」に相応しい訳語は「負け犬」かも知れない。この映画には各々の人生で各々の役を演じる吾々、とくに「損な役回り」になった人々・上手くいかなかった負け犬への慈しみがあると思う。何が損かなんて分からない、人生に勝ち負けなんてないだろ、というメッセージも含めて。

 邦画はなぜか苦手なのですが、時々観ると好いものですね。12/18(金)からは東京のキネカ大森で上映中です。
 映画『彼女は夢で踊る』公式(外部サイトが開きます)
 

何が種を蒔かせたのか〜加藤幹郎『ヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学』(2020.12.13)

 アルキメデスは言った。適切な支点さえ与えてくれれば、私は地球をも動かしてみせよう。
 たった一つのクリティカルな問いが、誰もが知り、内容も熟知していると思いこんでいた物語の、意味も解釈も根底から覆してしまう。
 加藤幹郎が『「ブレードランナー」論序説』(2004年)で放ったのは、まさにそんな魔弾のような問いだった。映画の冒頭、夜の高層ビル群から噴き上がる炎を映し、画面いっぱいに広がる「あの青い瞳の持ち主は誰?



 同氏の2005年『ヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学』(みすず書房)もまた、たった一つの銀の弾丸をめぐる…思わずそれ自体「物語」と呼んでしまいたくなるスリリングな考察だ。著者は言う。
「初めてヒッチコックの後期代表作と呼ばれる一〇本ほどの映画(中略)をまとめて見たとき、正直なところ
 どこがそれほどおもしろいのかいまひとつよくわかりませんでした」

たしかに「他のサスペンス映画とはまったく違う」気がする。皆も「ヒッチコックはすこぶるおもしろくて、たいそう独創的で偉大な映画作家だ」と言う。でも、誰の評論や解釈を呼んでも「何が違うのか」「どう独創的なのか」心から納得できる答えが得られない。彼を「映画史上もっとも偉大な監督のひとり」たらしめる、しかしまだ誰も、ヒッチコック自身すら口にしたことがない秘密があるのではないか…
 …むろんこれは、本書の「たった一つのクリティカルな問い」では、ない。重要だし最終的にはそれを明かすのが目標だが、なんとも大づかみな問い=「ヒッチコックのどこが偉大なのか」を攻略するために、著者が放つ銀の弾丸はこうだ:
「『裏窓で、本当に殺人はあったのか(なかったんじゃないの)

 すごいでしょ。もうこれだけで『裏窓』を知ってる人なら「ピタゴラスイッチ」のように全てが動き出すでしょ。
 再確認すると『裏窓』は1953年のハリウッド映画。自動車レースの取材中クラッシュに巻き込まれ足を折ったカメラマンが主人公。アパートの自室で無聊をかこつ彼は、退屈しのぎに向かいのアパートの人間模様を観察するうち、住人のひとりが奥方を殺害・肉切り包丁でバラバラにしスーツケースで運び出す「様子」を「目撃」してしまう。状況証拠だけでは取り合えないと友人の警部に言われた彼を、恋人が助け向かいのアパートに潜入するが、彼女に、そして動けない彼自身にも「犯人」の手が迫る…
 もうすでに「本当に殺人があったの?」という問いを知ってるがゆえに、どうしても「様子」「目撃」そして「犯人」とカギカッコつきで書かざるを得ないが、気づかないうちは誰もが、誰もが、すべて「あったこと」と信じて同作を楽しんでいた。ヒッチコック本人の前で「模範解答」の解釈を披露するフランソワ・トリュフォー監督はじめ、誰もが。
 
 気がついてしまった後では、満足そうに眠りについた主人公の横で、恋人がそれまで読んでいた『ヒマラヤ探検記』をファッション雑誌に取り替えるラストシーンも、まったく違った味わいになるだろう。細かくは書かない(いちど書いて消した)。観れば分かる。むしろ吾々はもう二度と(トリュフォーのように)無邪気に『裏窓』を観ることは出来ない…

 では『裏窓』で何が変わったのか。何がヒッチコックを「最も偉大な映画作家の一人」たらしめたのか。
 著者の答えは、ヒッチコックは外見と内実の乖離を映画に持ちこんだ、ということだ。

 哲学者のジル・ドゥルーズはヒッチコックを「蝶番(ちょうつがい)」として映画史は二分されている、と語っているらしい。著者(加藤)自身は110年の映画史をより細かく5つに分類しているのだが、ここでは粗雑に「ヒッチコック以前・以後」という二分法で話を進めよう(すみません)。
 …19世紀に発明され、20世紀に急速に発展した映画。日本出身の早川雪洲が歌舞伎の「睨み」を応用して、悪役の凄みある表情を見せる。それを画面に大写しにするクローズアップの発明によって、映画は演劇からの離陸を果たしたという説がある。
 対して著者は20世紀前半、つまりヒッチコック以前の映画のキイとなったのは「切り返し」の手法だったと指摘する。有名なクレショフの「モンタージュ技法」の実験を思い出せば良いのだろうか。一人の男の顔が「クローズアップ」で大写しになる。次にスープの入った皿を画面に映すと、男の「表情」は「うまそう」と語っていたことになる。子供の笑顔を映せば、慈愛に満ちた男の「笑顔」が現れる…
 本書で紹介される1891年のエピソードは印象的だ。この年、フランスのジョルジュ・ドゥメニが自分の顔のクローズアップを撮影し、円盤状のフェナキスティスコープで再生した。まだスクリーンへの上映ではなく、覗き窓式の、もちろん音声などついていない機械で、しかし聾唖者はドゥメニの唇を読むことが出来た。その唇はわたしはあなたを愛していますとつぶやいていた…雪州の活躍は1910年代以降なので、それより以前。トーキー以前に初めて映画に記録された「音声」は、日本人悪役の「睨み」よりも前にクローズアップの歴史を開いたのは愛の言葉だった―なんとも美しい話ではないか。
 そうして映画史の前半、言うなればスクリーンは観客に愛を語りつづける。主人公の正面からのクローズアップを観て、観客は自分たちが見つめられている・愛されていると感じ、同時に前後のショットで映し出されるスープや子供を(主人公と一緒に)(主人公に同一化して)見つめ、それらを愛する。
 
 この切り返し編集の欺瞞を最初に告発し、
  映画にまったく別のヴィジョンの可能性をあたえたのがヒッチコックなのです

 「信用できない語り手」という文芸用語・概念について、10月の日記で少しふれた。『裏窓』で、『サイコ』で、ヒッチコックは観客が信用できない・愛せない・一体化できない新しい映画の語りを提示した…というのが著者の導き出した「答え」だった。
 そしてこの「別のヴィジョン」「外見と内実の乖離」が結実した映像を、21世紀の吾々はよく知っているはずだ。(雪州の前にドゥメニがいたように)前例があるのかも知れないが、僕を含め多くのひとが「それ」を知ったのは1999年のハリウッド映画。ネタバレを避けるため作品名は伏せるが、『ブレードランナー』を思わなくもない夜の高層ビル街。しかし屋上から天に炎を噴き上げるのではなく真ん中から爆発し崩れ落ちていくビル群をラストに描いたその映画で。吾々が観たのは謎の男に引きずり回された主人公のそれまで二時間が、謎の男など居ない彼の自作自演だったという、その後なんども模倣され定番の技法と化した映像だった。
 
 ※これは今年(2020年)のMV。

       *   *   *

 興味ぶかいのは、同じような現象が小説の世界でも同時期に起きていたことだ。「物語の語り直し」である。
 またしても「自分の知る限りでは」なのだが、そしてこちらはいいかげんネタバレしても構わないだろう―1957年〜60年に発表されたロレンス・ダレルの『アレクサンドリア四重奏』もまた、21世紀を予言するような作品だった。『ジュスティーヌ』『バルタザール』『マウントオリーブ』『クレア』…語り手(主人公)とは別の登場人物たちを題名に据えた四部作。作家志望の主人公と謎多き人妻ジュスティーヌの恋を描いた第一作のあと、両者の共通の友人だったバルタザールが現れて告げる。「君が『ジュスティーヌ』で書いたこと、あれは全くの間違いだよ」腰が抜けるほど驚いた。マジか、と思った。そうして第二作『バルタザール』では主人公が知らなかった新事実をもとに同じ物語が一から書き直され、さらに第三作・第四作…
 こちらの技法も1999年前後には、広く一般化していたはずだ。1998年に開始された上遠野浩平のライトノベル『ブギーポップ』シリーズがそうだったように記憶しているし、今野緒雪マリア様がみてる』でも一つのエピソードが別キャラの視点で語り直される手法が多用されている。
 
 なるほど終盤の種明かしで、それまでの語りすべてが虚構としてひっくり返される「叙述トリック」は(それこそ「語り手が犯人」なミステリ小説の昔から)あった。けれど現在のように、同じ話をまるまる(別視点で)語り直す手法は新しいのではないか。あるいはマルチシナリオのゲームやループもの、二次創作の隆盛と影響しあってるのかも知れない。そして映画でも、この「まるまる語り直し」技法を採用した作品が日本で異例の大ヒットを記録したのは(なんなら邦画が苦手な僕ですら観た)記憶に新しいところだ。

       *   *   *

 映画界でヒッチコックが、小説でダレルが1950年代に仕掛けたメカニズムが、20世紀の終わりになって一気に蠢動し、21世紀も20年を過ぎた今ではクリシェ・もしくは「世界とはそういうものだ」という了解として一般化している…そう考えると面白い。
 いや、面白いでは済まないのかも知れない。
 昨年9月の日記で紹介したミチコ・カクタニ真実の終わり』は、いま猖獗を極める「フェイク・トゥルース」に警鐘を鳴らす本だった。本来は弱者やマイノリティ・収奪されてきた者たちの権利回復だった「文化の価値は相対的なものだ」という主張が、収奪する側に簒奪され「真実はいくらでもある→だからホロコーストや南京大虐殺はなかったと主張してよい」と悪用されたのではないか―大雑把にまとめると、こうなるだろうか。
 カクタニはラカンやデリダ、フーコーといったポストモダンの思想家たちには、現在の「世界の関節が外れてしまった」状況を準備した責任があると批判する。だが、フーコーよりもデリダよりも前に「真実はひとつではない」という装置を社会思想の分野でセットしたのは、サルトルを打ち負かしたクロード・レヴィ=ストロースではなかったか。彼が『悲しき熱帯』出版で華々しく世に出たのも1955年だった。

 実のところ映画でも小説でも、それらがなぜ半世紀後の21世紀に「花開いたか」と問えば、冷戦の終結で東西対立という単純な世界観が崩壊し、より複雑な多文化の衝突が生じたのでは―と答えることも可能だろう(なんで最後になって、そういう面倒な混ぜっ返しをするのか)。では50年代に「種を蒔かせた」のは何だったのか―それはまた、別の問いだ。誰か頑張って(そして丸投げで終わる)。
 
 追記:信じがたいことに加藤幹郎氏、今年の9月に63歳で逝去されていました。この日記をあらかた書き終え、最終確認で検索して知り、ちょっと今、ガチでショックです。そう多くを拝読してないのですが、創作について強い学びを受け取ったと思います。謹んで弔意を表します。

ここには人間なんていない〜トマス・ピンチョン『V.』(2020.12.06)

 たとえば街路を歩いていて。ふと周囲を見渡して。およそ自分の目に入る範囲内の地表という地表が、すべてアスファルトかコンクリートで窒息せんばかりに覆われていることに気がついて、愕然とすることはないだろうか。なんてすごい世界に自分は来てしまったのか。どうして僕はこんなところに?

  *   *   *

 自作の話なので、分かるひとにしか分からないと思うが図書館妃(としょかんひめ)』に名前だけ登場する「フス・インバネス」のモデルが、トマス・ピンチョンなのだった。(ただし、そのインバネスが最初の小説で数十の出版社にボツを食らったエピソードのモデルは『ジム・ボタン』を断られつづけたミヒャエル・エンデ)
 その晦渋な内容と重層的な構成・凝りに凝った大作に影響され、前途有望な新人作家が「ピンチョンもどき」になってしまい担当編集者を嘆かせる…そんな逸話を読んだのは『本の雑誌』連載の青山南氏のエッセイだったと思う。例によって恥ずかしながら、今パッと原文を取り出せないのですが。
 図書館妃で飾られてるのは全てレメディオス・バロの絵画で、その存在を知ったキッカケは『競売ナンバー49の叫び』でした
 当人も人前に姿を現さず、謎多き作家として知られるピンチョン。熱力学の第二法則そのものを小説化した短篇「エントロピー」や、万国郵便制度の背後に隠された秘密結社の存在だか不在だかに主人公が翻弄される中篇「競売ナンバー49の叫び」は(よく分からんなりに)どうにか読んでいたものの、途方もないという風聞ばかり伝わってくる『V.』や、さらに途方もなさそうな『重力の虹』(アメリカで最も多く論文などで参照された小説らしい)・数十年ぶりの新作と話題をまいた『ヴァインランド』などの長篇には尻込みして手が出せず、今生では無理かなーと思っていたピンチョン。
 それが縁あって最初の長篇『V.』を手に取り、読む機会に恵まれた。嬉しかったなあ。原著は1963年・邦訳1979年(三宅卓雄ほか訳・国書刊行会)。
 んー難しかったです、終わり、で済むならサイト日記に書くことはない。それに「難しかった」では同書の難しさを説明できない気がする。文章の一行ごとに意味不明で、読み進めることもできないタイプの難しさではない。個々の場面やエピソードに(それほど)難解なところはなく、ふつうに物語として・時には描写に引き込まれるように読み進められる。
 ただ、それが何を意味しているかが分からない。「個々の」と書いたように物語は19世紀末から20世紀中葉・第二次大戦後の(小説にとっての)「現代」まで雑多なエピソードが入り乱れ、重なり合い、ヨーヨーのように時空を往復するのだけど、それらを結ぶ一本の「糸」が見えるようで見えない。ついでながら、ややこしく舞台を出入りし、ときに時代を超えて再会したり親子だったりする登場人物たちが(自分目線だと)「キャラ立ちが弱くて」これ誰だったっけ?と混乱してくる。皆、地味で埋没するタイプでもなく、むしろ強烈な性格や境遇のキャラが多いのに「強烈だけど…誰だっけ?」となる。
 ひょっとしなくても、自分は小説を読むのが下手なのではないか。あんな作家・こんな作品も読んでないし、自分には荷が勝ちすぎる相手だったのではと思いつつ、それでも「それらを結ぶ糸」の一本か二本かは手繰れた気がする。本当はもっと沢山の「糸」があるのだろう、ただ自分が読みきれてないだけ…と思わされるのが謎めいた作家・謎めいた作品たる所以かも知れない。

 『V.』の主たるプロットも二本。一本は第二次大戦後の「現代」を舞台に、ニューヨークで無為徒食の生活を送る「ダメ人間」プロフェインの冴えない日々が描かれる。もう一本は19世紀末〜現代をスイッチバックする複雑なエピソード群で、プロフェインの知人でもあるステンシルが、動乱の歴史の影で暗躍した謎の女「V.」の足跡を追い求める聖杯探求譚らしい。
 
 が、後者について語れることは、今の自分にはない気がする。歴史の背後に存在する謎の…という設定は後に書かれた「競売ナンバー49の叫び」の秘密組織トライテロを彷彿とさせるが、陰謀論やオカルト(あるいはファンタジー)めいた設定のわりに「V.」はそれだけで雑多なエピソードと物語を牽引しうる強靭なワイヤーではない。
 自分の気にかかり続けたのは、二つのプロットを共通して貫く「世界観」のような一本の糸だ。こちらの糸もまた単体では物語すべてを牽引しえないのだが…わざわざサイト日記で一項目たてたくなるだけの「引っかかり」がこの世界観にはあった。この小説の主人公は、たしかにプロフェインやステンシルもしくは「V.」その他おおぜいの強烈な人々だ。しかし本作に横溢するのは「もはや世界の主人公は人間ではない」という認識・世界観ではなかったろうか。

 他の小説や物語と同様『V.』には大勢の人々が織りなすドラマがある。けれどそのドラマには絶えず「人でないもの」が侵入し、世界の主導権を奪おうとしている。
 「もの」と言っても津波や白鯨のような自然物ではない。たとえば鼻の大きさに悩む若い娘の軟骨を切り裂き、理想の顔を造り上げようとする美容整形。たとえば百貨店でクリスマス・プレゼントとして幼獣が売り出され、成長して飼えなくなった家庭がトイレで流し、下水道で人々を脅かすようになったワニ。軍艦の強力なレーダーの前に立つと電磁波で精子が死ぬので避妊具が要らないとそそのかされた水兵が、他の水兵がうっかりレーダー前に置いたハンバーガーがじゅうじゅう音を立てて「焼き上がる」のを見て(要は電子レンジと同じ原理だ)あやうく命拾いする逸話…『V.』のエピソード群を貫いているのは、自然物ではなく、まして「人間ドラマ」でもなく、人が造った製品や機械・システムといった人工物が人々を振り回すことこそ現代の本質だ、という認識かも知れない。
 現代パートのプロフェインは、そんなカラクリに多少なり意識的な男だ。「彼とものとは仲良く生きてゆけない」「生き物でもない金をかせいで、それでもってまたぞろ生き物ではない物を買おうと働くやつなんてどうかしている…が、そんな彼でさえ軍艦でハンバーガーを焼き(結果的にだ、意図してじゃない)、下水道でワニと対峙し、ものの世界から抜け出せない。下水道でのバイトの次に彼がありつくのは警備員の仕事だが、そこで彼が出会うのは自動車事故や放射線障害の仮想テストのため、内臓がわりの袋に水溶液を満たしたビニール人形たちだ。
「十八世紀には、人間をぜんまい仕掛けの自動人形とみなすと都合のよいことが多かった。
 十九世紀になると、ニュートン物理学がかなり消化され、又、熱力学の研究が盛んになったから、
  人間はむしろ効率四十パーセントの熱機関とみなされた。
 二十世紀の現代では、核および原子以下を対象とする物理学が隆盛で、
  人間とはX線、ガンマ線、および中性子を吸収するもの、ということになった」

 ピンチョンに言わせれば、世界のもの化は19世紀にはもう始まっていたのだろう。世紀初頭のグランド・ツアー流行を経て、1830年代にはドイツのベデカー社が近代的な旅行ガイドブックの発行を開始する。ピンチョンは書く。
「その世界は(中略)「観光客」と呼ばれる種族以外に住む者はいない。
 その風景は生命なきものたる記念碑や建築物、
 それと概ねものに近いバーテン、タクシー運転手、ベルボーイ、ガイドによって構成される
(中略)
 不況と繁栄は為替相場にのみ反映される(中略)観光とは超国家的なものと見なすこともできるのだ」
20世紀の終わりを憂鬱に飾ったレディオヘッド『OK、コンピュータ』の最後の曲が「ツーリスト」を歌ったことを連想させられる一節ではないか。
 連想させられる事物は芋づる式にいくらも出てくる。「僕は機械になりたい(I Want to be a machine)」と歌ったジョン・フォックス。「ウィー・アー・ザ・ロボッツ(テンテケテン、ピュン!)」と歌ったクラフトワーク。ミック・ジャガーは「ラジオが要らないインフォメーションばかり押しつけてくる」と不満(ゲット・ノー・サティスファクション)をかこち、佐野元春は「そこにあるのはシステム」と歌い出す。東京湾の真ん中でパトレイバー操縦士の少女は叫ぶだろう―「ここには、人間なんていない」
 1982年、映画監督のゴッドフリー・レッジョは北米先住民ホピ族の語彙から、それを「コヤニスカッティ(バランスを失なった生)」と呼ぶことになる。70年代に『潜在意識の誘惑』『メディア・セックス』などを著したウィルソン・ブライアン・キイが幻視(それはまさに幻視としか言いようがなかった―20年2月の日記参照)したのも、同じ「それ」だったかも知れない。歴史のターニング・ポイントで何度も出没する「V.」のように、何度も会ったことのある「それ」を一言で要約できる言葉は…あ、ひょっとして「疎外」?
 ※疎外といえば名著『自由と社会的抑圧』。

 『V.』が描く「もの」の支配は、たとえば先端の流行やブランドが散りばめられたポップな作品群(その系譜には「聖地巡礼」を呼ぶ今どきのアニメも連なるのだろう)とも一線を画する。誇示的消費と言われるように、ブランドや流行り「もの」は持つ者に個性やキラメキ・ときめきといった幻想を(いっときでも)与えるだろう。『V.』が描くのは真逆の、のっぺり無個性なマス・プロダクションの世界であり、自らもそんな大量生産品と化したかのような人間の姿…だと思う。先に書いた、この小説の(強烈な性格にも関わらず)これ誰だっけ?と絶えず見失なうブラー(ぼんやり)効果は、案外そんなマスプロ化の効果ではないのか。
 
 ヨーヨーのように現代と過去の往復運動をつづけた物語は、1919年のエピローグで幕を閉じる。この小説を引っ張る複数の糸の、今のところ僕が把握できる二本のうちの一本=謎の女「V.」をめぐる冒険も、ここで一応のカタがつく。
 けれど、もう一本の糸=「もの」化する世界というテーマの白眉は、その一章前で語られるキルロイの逸話だろう。キルロイとは第二次世界大戦中に生まれ、戦場の至るところに「キルロイ参上(Kilroy was here)」なる文句とともに描かれた、壁の向こうから鼻を突き出し(垂らし)ているキャラクタの落書きだ。このミームに対し、もっとも「人間らしい」解釈=だらりと垂れた鼻は男性の性的能力喪失への不安を象徴している…といった説を「便所心理学」と一蹴したピンチョンが唱える「キルロイの正体」は、そこまで(ステンシルが「V.」を追うように)「ものもの化する人間…」と見えない糸をたぐってきた読者を「ピンチョンさん、あんたここまで」と、ちょっと感動させるものだ。
 (気になるひとは図書館などで当該のページだけめくってみればいいし―実際に挿し絵つきなので見つけるのは簡単だ、なんならWikipediaの「キルロイ参上」の項にも図つきで解説されてます)
 そして『重力の虹』や『ヴァインランド』は詳らかでないけれど、少なくとも『V.』や前後する短篇中篇で、ピンチョンがこうした「もの化した世界」を肯定しているわけではない、ことだけは明らかだ。情熱をこめて、執拗に描くからといって肯定しているとは限らない。逆に不快なものから目を逸らすことが出来ない・不快だからこそ20世紀の病巣として、それを告発せずには居られない、そんな関わりかたもあるのだろう。寡作で寡黙な覆面作家が、めずらしく発表したエッセイということで、日本では雑誌『夜想25 ユートピア特集』に翻訳が掲載されたエッセイが「ラッダイトをやってもいいのか?(Is it OK to be a Luddite?/1984)」…すなわち「機械」をブチ壊せ!という檄だったことを、懐かしく思い出している。
   
 ピンチョンが20世紀(半ば)の「もの」化を描くにあたり19世紀から話を説き起こさなければならなかったように、彼が描いた20世紀はもちろん21世紀の今まで継続している(そう思えばこそ取り上げたのだ)。
 だが同時に、20世紀と21世紀には断絶もある。次回は20世紀のうちに準備されていた、21世紀への断絶の話をする予定です(またもや他人様のフンドシでだけどな)。

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