まんがなど
(19.12.22更新)
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Author:舞村そうじ/RIMLAND
 創作同人サークル「RIMLAND」の
 活動報告を兼ねつつ、物語とは何か・
 どんなメカニズムが物語を駆動し心を
 うごかすのか、日々考察する予定。

【最近の動向】
当面は新刊がない予定です。

WebまんがSide-B遅々として更新中。

note絵更新。(16.05.26)

旧サイトは2014年8月で終了しました(お運びいただき感謝)。再編集して、こちらの新サイトに少しずつ繰り入れますが、正直、時間はかかると思います。

[外部リンク]
comitia
(東京名古屋新潟関西みちのく)
あかつき印刷
POPLS

日本赤十字社

if you have a vote, use it.(save kids)

日記更新。時間について(前フリ)。こちらから。(20.03.29)


ひとつ前の日記。柿本昭人『アウシュヴィッツの〈回教徒〉』と、
相模原の障害者大量殺傷事件について。こちらから。(20.03.15)


4月12日の名古屋コミティア、中止になりました。残念です。

加えてオリンピックが延期になるので東京のイベントは(ウイルス禍が収束しても)不安定。6月の新潟・8月みちのくも不確定要素が大きいと思います。それだけでなく、生活環境が激変して今までのようにイベントに参加すること自体、難しくなるひとは増えるかも知れない。…そんな様々な要因を考えつつ、RIMの創作活動について可能なことを煮詰めているところです。人が望む結論ではないかも知れないけど。もうしばらくお待ちください。(20.03.29)
3/20(金)の創作同人電子書籍・第12回いっせい配信企画にて、昨年11月の新刊『カーテンコール e.p.』と、シリーズ『フューチャーデイズ5(3+4)』をリリースしました。ウィルスやら不況やらで今は我慢の時期かも知れませんが、うちの電書は年中ありますので、余裕のあるときにどうぞ。(20.03.20)



時間論の前フリ(2020.03.29)

Why should it feel like a crime?
If I want to be with you all the time, why is it measured in hours?
You should make your own time, you're welcome in mine

どうして悪いことのように思わなければいけないんだ?
君とずっと一緒にいたいだけなのに、それを時計で測る必要があるかい?
君だけの「時間」を作るべきだよ 僕の「時間」に君なら歓迎だよ
("Polar Bear" Ride)

 聖アウグスティヌスは「時間とは何か、私は知っている。だが人に尋ねられると分からなくなる」と述べたらしい。…なるほど、頓智ですねで済めばいいのだが、実際には色々もっと難しいことを論述しているようだ。たとえば、これ:
〈論文〉アウグスティヌス『告白』における時間の概念(田之頭一知/大阪芸術大学)(外部サイト)
いや、僕も読んでない(そのうち読みます)。今は読んだことのあるもので、話を進めよう。

 少し前に読んでいた本の読書ノートをまとめていたら、興味深い考察が見つかった。ミハイル・バフチーンの大著『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』(川端香男里訳・せりか書房)の一節だ。バフチーンによれば、初期ルネッサンスを代表するダンテの『神曲』の時代には、時間というか、時間に沿った進歩の概念がないというのだ。いわく「彼(ダンテ)はただ《上に》と《下に》しか知らず、《前に》を知らない」。地球の中心まですり鉢状になった地獄から、星々と一体になった天国まで、ダンテの世界観は垂直の階層として、綿密に練り上げられている。だがそこに、時間に沿って進む発想はない。魂は「水差しの水がこぼれる間もないほどの瞬時に」最高の世界位に生まれ変わることができる。
 もし、そのようなものであるならば初期キリスト教の「神の国はすぐに来る」の「すぐ」っていつだ、という問いはあまり意味をなさないだろう。裁きの「時」は直線的な時間軸の先に用意されているのでなく、天国から垂直に落ちてくるか地獄へ人を垂直に落とすのであれば(インスタント・カーマ!)。
 ダンテの『神曲』(1472年)から60年後・ラブレーの『パンタグリュエル物語』(1532年)・『ガルガンチュア物語』(1534〜5年)では様相が違ってくる。バフチーンは言う。ラブレーにおいては「子は単に父の若さを繰り返すのではない。(中略)新しい世代の青春はいつでも、まったく新しい、より高い青春となる」
 博識な父も、次の世代から見たら学童以下だ。文化は発展する。人類は進歩する。天国に至る垂直軸を昇るのでなく、歴史的過程を前に進むことで人々は完成に近づく。地域性の違いか、それとも半世紀のそれこそ「進歩」か。いずれにしてもラブレーの時間観は、現代の吾々のそれと真っ直ぐつながるものだろう。

 この時間観に異議を唱えるのがクィア・テンポラリティ論、クィアな時間論というものであるらしい。雑誌『福音と世界』2019年2月号(新教出版社)に掲載された安田真由子応答 時間をクィアするということ」は、現代の時間観は「次世代」「子ども」をシンボルとする未来志向だという論者の見解を引用する。そうした時間観は生殖や家族主義・異性愛の称揚と、同性愛者などクィアな人々の抑圧や排除を内包している。先に引いたように、ラブレーが時間上を「前に」進む人類の発展を、親から子への世代交代にシンボル化したことが、おのずと思い出されるだろう。
 当該の文章はいわば「さわり」導入部だけなので、この「クィアな時間論」について知ることは(僕自身の)今後の課題になるでしょう。軽くはない話になる可能性も高い。
 でも、それらしい探究が必要になるのは、そう先ではないのかも知れない。

『福音と世界』2019年2月号(外部サイト)
 Amazonに出てる古本は貼るのをためらうほど高かった…別のところで探したほうが良さそう…
 
 時間は存在しない。そんなタイトルの本が目に入ったのは昨年、衝動的に訪れた松本の駅ビル書店でだった(2019年11月の日記)。ちなみに面陳で、隣に置かれていた本は近ごろ話題の思想家マルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』。面白いなあ、キミたち!
 その時は何しろ他に買いつけた本が多すぎてスルーしたのだが、最近18きっぷで松本を再訪する機会があり今度は…と同じ書店を訪ねたら、なんと二冊に増えている。
 カルロ・ロヴェッリ時間は存在しない』(NHK出版)
 ジュリアン・ハーバーなぜ時間は存在しないのか』(青土社)
 どちらを読んだものだか(そもそも、どちらにせよ読んだものだか)また逡巡。乗りたい電車まで時間がない、いや、これは哲学的な意味でなく。結局また諦めて「おやき」だけ買ってホームに駆け込んだ。後で調べたら、物理学と、それこそアウグスティヌスのような思弁を組み合わせたような本であるらしい。クィア時間論との関連は分からない。
 ただ。
 ちょうどミュージシャン・坂本龍一氏が「『時間というものは存在しない』っていうことに基づいた音楽」を作りたいと話しているインタビュー記事を読んで「おっ」と思った。
坂本龍一に清志郎が警告していた コロナ危機「その後」(朝日新聞デジタル)
 (外部サイト/無料での閲覧は途中まで)
いま吾々が常識で考えてる「時間」は、都市や楽器のように人間が勝手に作り上げたものではないか、などと語っている。カルロ・ロヴェッリの本は世界で話題になったようだから、その影響があるのかも知れない。また別のところから来た発想かも知れない。
 地動説にせよ進化論にせよ、相対性理論にせよ不確定性原理にせよ、科学的なアイディアが時には誤解もされながら、人文や社会の思想・芸術や物語に影響を与えるのは、よくあることだ。
 ダンテの時間なき時間観から、ラブレーの前に進む時間観まで、転換には(長く見ても)60年しか要さなかった。今までとは違う時間観も、ある日とつぜん垂直に墜ちてくるのかも知れない。
 来てくれたら、ちょっと嬉しい。僕はわりと歓迎。

コロナ退散祈願。松本「翁堂」のプチどうぶつケーキ(あひる・ブタ)と、マスクが外れかけ「チャントシテヨ」と言ってるタヌキのプチケーキ。あひるのクチバシはピーナッツ。可愛かろう!

「生命の算術」に抗うために〜柿本昭人『アウシュヴィッツの〈回教徒〉』(2020.03.22)

 「誰かの「やめてくれ!」という訴えに最初は揺れた心が、やがて馴れてしまい、その者たちがどこかへと消えていくことが当たり前になります。そうして、私たちはおそらく、考えるということが加速度的に少なくなっていくのです」

 アウシュヴィッツの〈回教徒〉という存在を知ったのは、恥ずかしながら本当に最近のことだ。行政権力が法を無視する(つまり今この国で行なわれているような)例外状態について調べるうち、イタリアの思想家アガンベンに行き着いた。難解すぎる本人の著作から一旦撤退して、入門書・関連書などの外堀からアプローチするうち、彼が思索を傾ける当該の存在を認知することになった。
 〈回教徒〉と言っても、実際のムスリムではない。柿本昭人アウシュヴィッツの〈回教徒〉』(春秋社/2005年)によれば「飢えと憔悴と絶望によって、骸骨のように痩せ細り、目は表情を欠き、立っているのもままならなかった」「死にかけの抑留者の姿が、祈りの際に地面にひれ伏すムスリムの姿に似ているから」そう呼ばれたのだという。ナチによって迫害され、強制収容所に入れられたユダヤ人の中でも、さらに最底辺の、同胞にも見捨てられた存在。
 強制収容所にはゾンダーコマンドと呼ばれる、抑留者の中から選別され(わずか数ヶ月の延命と引き換えに)同胞をガス室に送る作業と死体処理に従事する者たちがいたというが、彼らとはまた別の意味で人間性の最底辺に置かれたのが〈回教徒〉たちだった。
 ・(参考)ゾンダーコマンドを描いた映画『サウルの息子』について書いた2016年8月の日記

 柿本が告発するのは「ユダヤ人には生きる資格がない」というナチスの思想によって収容所に入れられた者たちの間で(すら)、さらに「生きる条件」を喪失した者として〈回教徒〉が排除される地獄だ。いわばそれは収容者みずからがゾンダーコマンド化することであり、ナチズムを内面することではなかったか。それはいわゆる「ストックホルム症候群(監禁された人質が犯人の心情に同一化し、進んで協力する現象)」で済む話だろうか。もっと忌まわしい、人間性の自己放棄なのだろうか。
 著者は後者として〈回教徒〉をめぐる言説を掘り下げる。そもそもなぜ〈回教徒〉なのか。そこにはムスリムは「目は表情を欠き」人間性を放棄した異教徒だという侮蔑や差別がありはしなかったか。その同じ差別が「ナチスの手法」を踏襲したような先住ムスリムを排除してのイスラエル建国や、ブッシュJr・チェイニー副大統領・ラムズフェルド国防長官らによる中東攻撃や捕虜虐待の容認を基礎づけてはいなかったか。著者はジェノサイド的な排除だけでなく、それまで「ユダヤ教徒」でしかなかったものが反ユダヤ主義によって「ユダヤ人」として民族化された、それを逆手にとったシオニズム・イスラエルの建国を、ナチズムの負の相続として批判する。〈回教徒〉に最底辺での人間性の発露を見ようとすることで、剥奪を取りこぼしてしまうアガンベンの思弁の不徹底も容赦はされない。
 そして強制収容所からの生還者たちの山ほどの証言に〈回教徒〉への差別・排除・選別することの正当化があった事実が、嫌というほど浩瀚に積み上げられる。「個々の〈回教徒〉を識別することは出来ない」「病人棟に入れられた私は自分以外が皆、精神を喪失した〈回教徒〉であることに恐怖した」「瀕死となり私もあやうく〈回教徒〉になるところだった」「彼ら彼女らを動物に喩えることは、かえって動物に対して失礼だ…」
 あるいは骸骨のような者たちがパンを与えられた時だけ争って飛びつくと言われ、あるいは逆に折角パンを与えても受け取る気力すら示さないと匙を投げられ、その双方ともが〈回教徒〉という名で蔑まれる。生存者たちは、むしろ嫌悪や差別を得々として語るのだ。エリ・ヴィーゼル、プリモ・レーヴィ、V.E.フランクルといった人々も例外ではない。ある意味、愕然とさせられる偶像破壊だ。
 強制収容所の中では、何か(物語とか)に希望を託しつづけたり、配給される乏しい食料を一日三回に分けて食べるなど、ギリギリ最低限の人間性を保った者が生き延びた、という「神話」がある。自分なども感銘を受けることがあった、その「神話」もまた、裏を返せば「人間性を保つ気概のない者は死んでも仕方なかった」という、おぞましい選別に裏打ちされてはいなかっただろうか。「私より高潔で生きるに値する者たちが死んだ」ことに良心の呵責を憶えても、その呵責は〈回教徒〉には向けられない。ここには恐ろしい陥穽がある。

 …ナチス・ドイツが、真正な国民と見なした者にはスポーツを奨励し、禁煙を勧め、健康増進を目指した「生権力」の国家であったことは知られている。その健全さの肯定は、健全でない者の排除と表裏一体だった。半死者である〈回教徒〉には生きる資格がないという認識は、強制収容所の抑留者にまで内面化されていた。
 柿本は絶滅収容所の入り口に掲げられた労働が〔あなたを〕自由にするという悪名高い標語が、嘲弄のための虚偽ではなく、人々が労働可能性によって等級化され最下層の者から殺されていくシステムの、的確な表現であることを指摘する。十九世紀後半から確立された有用であることを生殺与奪のスケールにした生命の算術の完成形としてのナチズム。そして、それが「最終形」ではないと言わんばかりに続いている現状。著者はピエール・ルジャンドルを引用し「ナチズムは武力によって打倒されただけで、論証や説得・言葉によって乗り越えられたわけではない」と告発する。何より帯文真に勝利したのは、ナチズムではなかったか?が重い楔となって、本書を手にした者に突き刺さる。
 もちろん日本も例外ではない。かつては首相も務め、現在も副総理の座にある与党政治家が(民主主義を骨抜きにするという文脈でだが)「ナチスの手法に学ぶ」ことを奨励する日本。「労働可能性」の平易な別名ともいえる「生産性」が欠ける者として、同性愛者の排除が(これもまた与党の議員によって)謳われる日本。
 そしてアウシュヴィッツでのユダヤ人虐殺に先んじて「T4作戦」として身体障害者・知的障害者の安楽死政策が行なわれたナチスの、ナチズムの、日本は最も「優秀な弟子 Apt Pupil」ではなかったか。ああいう人ってのは人格あるのかねとは1999年、障害者施設を視察した石原慎太郎都知事(当時)の発言である。2016年には神奈川県・相模原市の障害者施設で、元職員が利用者を次々に刺し、45名の死傷者(うち死者19名)を出した。つい先日、横浜地裁はこの被告に死刑の判決を言い渡した。事件以来、被告は一貫して「反省するつもりはない」と明言しているという。


 ここからは、いわば「第二部」で、『アウシュヴィッツの〈回教徒〉』とは関係のない話になる。
 相模原の大量殺傷については、事件が起きた当時にも自分なりの見解を書いている(2016年7月の日記)。海外でも起きていた銃乱射事件などと違い「自分を優越していると思い込んだ犯人が、劣った普通の人々を殺傷した」のでなく「普通の人間として、普通より劣ると見なした人々を殺傷した」社会的な救いのなさに慄いた。「「人間としての条件を脅威的に揺さぶられた」のは殺傷された障害者ではない。「障害者は殺してもいい」という考えを認めてしまったら、障害者でない多数の吾々の「人間の条件」こそが崩壊しかねない」と書いたことに、とくに変更はない。
 そのうえで、改めて考える。被告への死刑判決は妥当だったのか。
 犯人に温情や、悔悛の機会を与えようというのではない。むしろ自分の中には、死刑「なんかで」いいのかという深い憎悪があり、その復讐心にこそ困惑し、苦しんでいる。
 死刑判決が言い渡された被告は「最後に一言」と発言しようとし、裁判長はそれを認めなかったという。この判断に正直、安堵している自分がいる。2001年に大阪の小学校に刃物を持った男が乱入し教師2名を含む23名が殺傷(死亡8人)される事件があった。この時も死刑判決を受けた犯人は法廷で「ひとこと最後に言わせろ」と発言したらしい。当時の僕は怒り狂った。自らの年齢に達するまでの数十年分の、物を言う権利を子供たちから根こそぎ奪った人間が、なんで「最後だから」と発言が許されるというのか。
 だからたぶん、死刑より的確な罰として自分が望んでいるのは、長い肉体的苦痛をともなう拷問刑などではなく、犯人の存在自体の抹消なのだ(そうだろうか?)。むしろ悔悛など、してほしくない。悔悛して、改心して、人の命の大切さに目覚めたところで、奪われた命は戻ってこないのだ。今さら善人になど、なられてたまるか。そう思う自分の憎悪の暴走にたじろぐとともに「だから人を殺しちゃダメなんだってば」と嘆息を新たにする。死刑になろうと、存在を抹消されようと、あるいは改心して己の罪を思い知っても、そんなことは死者にとって何の回復にもならない。
 実のところ、自転車ドロボウでもラーメン食い逃げでも同じなのかも知れない。自転車やラーメンは現物を取り返したり代金を取り立てたりして原状回復ができる。だが奪われた屈辱はなかったことに出来ない。いや、与えた苦痛も賠償金や刑事罰で相殺・回復されることになっているが「いくら金をもらっても、あのラーメン食い逃げされた怒りや屈辱は消えやしないよ」というのも本当だろう。だがそう考えると「たとえラーメン食い逃げでも取り返しがつかない(ので許されない)」あるいは逆に「ラーメン食い逃げでも大量殺傷でも取り返しがつかないことに変わりはない(から最終的には全て仕方がない)」ことになりはしないか。
 小学低学年の児童や、知的障害者に刃物をふるう大量殺傷者は、そんなふうに吾々を難題に直面させる。それも、取り返しのつかない人々の命を奪ってだ。「本当に、なんて愚かで、しょうもないことをしてくれたんだよ」という気持ちになる。
 「たとえ犯人を死刑にしても、奪われたものは取り返しがつかない」このことが、僕に死刑制度の存続を疑問視させる。課された難題への解決策としては、釣り合わないほど思惟が軽く(その中には「無期懲役よりコストが安い」といった発想すらないだろうか?)、それでいて付随する暴力性が高すぎる。
 だが同時に、死刑反対を唱える声が、先んじて命を奪われた人々の「取り返しのつかなさ」を二の次にしてしまうことをも僕は恐れる。

 加えて言えば、僕は(2008年の秋葉原無差別殺傷事件あたりを機に顕在化したように思われる)「なんで人を殺したらいけないんですかぁ?」という発言にも、軽蔑以外の感覚を持ち得ない。
 難しく、しかし端的に言ってしまうと「なんで人を殺してはいけないのかという設問の前では、吾々は「それはなぜか」と答える側にしか立つことが許されていないのだ。「なんで自分が尋ねる側に立てると思ってるの?」
 もう少し噛み砕いて言うと「なんで人を殺してはいけないのか」という問いが無価値なのは「人を殺してはいけない社会などというものが、ぜんぜん到来しておらず、この先も来るかどうか分からないからだ。さかしらぶった者が「なんでですかぁ?」と笑っている瞬間にも、保護者たるべき大人に子供がいじめ殺されている。女性は通り魔などでなく配偶者や恋人に殺される確率が最も高い。世界中で人々がミサイルや機関銃で虐殺されている。パワハラや無給の残業で労働者が死に追いやられ、政治家の嘘を押しつけられた官吏が自ら命を断っている。そうした現状をネグレクトしたまま「人を殺してはいけないというルールは抑圧だから、それに異を唱えることが自由だ」と気取る者には、耳を傾ける価値もない。
 実際は真逆だ。人の命が軽々しく奪われる現状こそが抑圧で、「人を殺してはいけない」こそが抑圧からの解放を求める、自由の声なのだ。自由とは「なぜ人を殺してはいけないか」説明する困難を、難題を(たとえばこういうとき「耳を傾ける価値もない」とか言うのはいいのか?と自問して悶えるとか)自分の頭と言葉で引き受けることだ。「なんで人を殺してはいけないんですか」と問う側に己を擬する者は、自分で答えを考えることはない。答えられないことを他人に押しつけ、自らは考えない。そのさかしらな問い自体も、自分の頭で考え出したことではなく、ネットか何処かで拾った誰かの受け売りだろう。どんなに気取ろうが、うそぶこうが、それは自由から最も遠いものだ。
 ついでに言うと、こういう文脈で「人を撃っていいのは、自分も撃たれる覚悟のある者だけだ」みたいな漫画の台詞を引用するのも、イイこと言ったつもりで根本的に履き違えていると思う。戒めてるように見えて、人を撃つことを結局(条件つきで)認めてる。逆に覚悟があって(と称して)人を撃つことを持ち上げてる。そういうのが罠なのだ。「撃っちゃダメ」からスタートしないとダメなの。(と思いきりカジュアルな口調で放り投げて終わる)

 ・参考:石原都知事「人格」発言 - 資料集([外部サイト]arok/2016年9月)

 『アウシュヴィッツの〈回教徒〉』は、さらに実在のムスリムも「人間性を持たず、命令のままに破壊を遂行する」戦闘機械と見なされ、それが現在に至る中東への迫害を根拠づけていることを指摘する。だがこの大きなテーマについては、他の書物とも突き合わせる「宿題」としたい。

ミクロな権力〜エドガール・モラン他『オルレアンのうわさ 第2版』(2020.03.15)

 1969年5月。フランスの地方都市オルレアンで、ひとつのうわさが広まる。ユダヤ人の経営する新興ブティックが、試着室に入った女性客を薬物で眠らせ、外国に売り飛ばしていたというものだ。実際には被害者のいない、根も葉もないデマだったが、憤激した民衆は洋品店を包囲し、パニックは30日ほど続く。
 社会学者のエドガール・モランと同僚たちが6名からなる調査団を決定し、7月に現地を訪れる。表立った騒動は終息していたが、調査団は「何が起きたか」を再現するための聞き取りの中で、不信と猜疑はきれいに鎮火されたわけではなく、熾き火のように灰の中でくすぶっていることを知る…。

 社会学の古典、ということになるのだろう。学生時代ちゃんと勉強してないと、こうして逆にいつまでも自発的な補習が続くんだという事例として(?)今さらですが『オルレアンのうわさ 第2版』(邦訳1980年)を読みました。第2版というのは翌1970年に別の地方都市アミアンで発生した同種のうわさのレポートが加わっているため。クロード・フィシュレによるレポート「アミアンのうわさ」は、組曲の終りの再演部(リプライズ)のように、オルレアンでも展開された出来事を、手際よく要約し直している。構成が上手いのだ。
 オルレアン側のモランによる総括・調査チームによるレポートも、ミステリ小説のように読ませる。ミステリならネタバレは厳禁だけど、遠慮はしない。言うなればアンチ・ミステリ、犯人のいないミステリが『オルレアンのうわさ』だったからだ。
 犯人がいないだけではない。それは犯人がいないにも関わらず、次から次に犯人が名指されるアンチ・ミステリだった。まず第一に【】ありもしない女性誘拐事件が捏造される。犯人と目されたユダヤ人の洋品店主たちは、次第にふくれあがる噂の中で6店が連携し、オルレアンに古代からある地下水路で女性たちを運び出していたことになる。
 問題はこのような神話を【】デマだ、差別に基づく捏造だと批判する人々も「噂はユダヤ人を排斥しようとするファシストや反シオニストが流したものだ」という対抗神話に拠ったことだ。【】これに対し「いいや、むしろ噂は騒がれることで被害者として耳目を集めようとした洋品店主たちが流したのだ」という反・対抗神話が現れ、そもそも被害者が実在しないことから騒動が終息したあとも「火のないところに煙は立たない」という捨て台詞が残る。「「陰謀のテーマはうわさの発展のすべての段階において、現れていると「アミアンのうわさ」は総括する。いないはずの犯人・黒幕探しが、事態のすべてを歪めてしまったことになる。
 では実際には、何が起きていたのか。浮かび上がってくるのは、神話→対抗神話→反・対抗神話と推移した陰謀論とは、まるで様相の異なる経緯だ。
 まず【】噂が広まるための社会的な下地がある。地方都市の、かつてのような親密さは失われたが中央からは取り残されているという宙ぶらりんな空虚感。地下通路の伝説。洋品店のような最新流行への憧れと反発。ユダヤ人や他所者への偏見。世代に関わらずある性的誘拐などへの恐怖。
 ここで【】女性誘拐を書き立てる煽情記事(5月上旬)が発火点となる。以前からあった下地となる要素は燃料となり、他所者のユダヤ人が経営するブティックが、陰謀の主として名指される。
 【】女性誘拐の風聞を持ち込まれた警察は、該当する実在の事件がないことから話に取りあわず、もうひとつの「中傷という事件性」を看過してしまう。警察が取り合わないのは誘拐組織とグルだからだというデマが、噂を爆発的に広めることになる。間に選挙があったことで、騒動を起こしたくない警察が動きを手控えたことも、デマの拡大につながる。
 私はこのうわさは、始りをもっていないと思う。
 うわさを広めていくにあたり、その起源となる人はだれもいない

そして、まさしく広めていく上で起源になる人はだれもいないことと対応して、
 人は起源を際限なく探り求める

(「アミアンのうわさ」)
 半世紀前の『オルレアンのうわさ』から今、得られる教訓のひとつは「黒幕はいないかも知れない」ということだろう。ネット上で繰り広げられる論争の多くが、自分たちと敵を二分化し(右vs左、オタク対フェミなど)相手を一枚岩として扱い、さらに背後に組織的な悪意や陰謀を汲み取ろうとする。だが悪意や敵意が存在するとしても、それは背後の黒幕に指示されているとは限らず、それらは様々な下地や偏見の積み上がりに火がついたものかも知れない。
 あるいは、自分には黒幕がいないから自身の判断は健全で、敵は悪意ある黒幕に操られていると思い込むことはないだろうか。お雑煮の餅は四角か丸かで、丸派の最も極端で少しおかしな人の「四角派は一生モチ食うな」という罵倒を丸派の総意と捉えて敵意を燃やしつつ、四角派の最も(以下同文)は都合よく見なかったことにすることは。
 実際には、人々を操る巨大組織など、ないのかも知れない。問題は「だから悪い人なんていないとはならず、あたかも黒幕に操られているかのような行動を(下地となる偏見などの積み上げによって)自発的に吾々は取りうることではないか。
(明らかに黒幕がいるTwitter大量投稿もあるけどね!)
 ミシェル・フーコーが18世紀に提唱されたパノプティコンを近代のモデルとして取り上げたことは有名だ。個々の独房が(内側に窓があるよう)円形に配置され、全ての囚人は円の中心の看守塔から常に監視される理想的な監獄。このパノプティコン(一望監視施設)を学校や軍隊、工場や病院の雛形としつつ、フーコーが注意を促したのは、実際にその一点(監視塔)が機能しているかではなく「そういうものに監視されている」と個々人が思うことで、監視が内面化され、自発的に服従するということだった。
 さらに後、フーコーは権力じたい人々の対極にあるマクロなものではなく、もっとミクロな日常から立ち上がってくるものだと説いた。権力というものを政府や大企業などマクロなものとして捉えがちな自分には、正直ピンと来にくかった「ミクロな権力」。それが『オルレアンのうわさ』を読んで、少し分かった気がする。
 それは、ハンナ・アーレント単体を読んでも実感できなかった彼女の言う「公共」や「政治」が、セウォル号事故という具体例にふれて初めて体感できたことと似ている(2018年12月の日記参照)。体系的に何かを学ぶことが苦手な自分は、そのようにして突き合わせで、後から分かることが多い。

   ***  ***  ***

 ここでキレイに日記を終わらせてもいいのだが、少し個別のトピックをまとめておく。起源となる人はだれもいないと説く『オルレアンのうわさ』だが、「なぜブティックなのか」「なぜユダヤ人なのか」「なぜパリではなくオルレアンや、アミアンなのか」という謎は残るからだ。
 まず「なぜユダヤ人なのか」という問いは、同様に嫌疑をかけられた者の条件として「そもそも商人一般」「女店主=実業家の女性(男性的な特性を持っている歪んだ者)(あるいは男の手先として女性を誘拐する裏切り者)(という偏見)」転じて「同性愛を連想させる女店主」…すなわちコミュニティの外側にいることが析出される。女性誘拐を行うのは、他者=かれらなのである(「アミアンのうわさ」)。ルネ・ジラールにも通じる考えだ(2012年2月の日記参照)
 なぜオルレアンやアミアンなのか、という問いは地方都市・現代都市の分析を導き出す。工業化やベッドタウン化などで発展し、それでも中央からは取り残されている地方の状況については先にふれた。それだけでなく著者たちは、都市が市民生活や文化の中心であることをやめ、経済的な活動だけの空虚な場と化したことを指摘する。市民と呼ばれながらも、政治は空の上の出来事で手が届かない。そんな空虚さ・自身の存在感の希薄さが、地下に張り巡らされた古代通路という神話を加速させる。
 ブティックについては、もういいだろう。昔ながらの価値観の者には「不安さえ引き起こす贅沢の場所、すなわち淫乱で不品行な場所」。また社会学者たちは、試着室という装置が持つ(鏡の前で脱衣する)性的なイメージ、若者間でのドラッグ文化の流行による「薬物で眠らされる」ことへの興奮まじりの恐怖、同様に性そのものに対する興奮と恐れなどを指摘する。
 けれどモランたちが興奮(と、もしかしたら恐れ)を隠しきれない本書のナンバーワンは、他にある。

 女性誘拐を煽情的に語る雑誌記事が、自分たちの暮らす街での出来事という「うわさ」として孵化するにあたり、リセ(学校)・あるいは工場といった、少女や若い女性ばかりを集めた閉鎖環境が、いわば噂を培養するシャーレとなったことに社会学者たちは注目する。
 「オルレアンの出来ごとが、私たちに理解させたことは、私たちが思春期の女性たち(の抱く空想=妄想)について全く無知ということだった。興奮ぎみに著者たちは言う。調査のリーダーとなったモランが「一切の災禍の入った箱を手にしているのは美しいパンドラ、つまり、若い少女なのである」と芝居がかって書きつけるのは、正直ちょっと引く。犯人がいないアンチ・ミステリのはずだった『オルレアンのうわさ』は、噂の発生に「美しいパンドラ」たちが果たした役割を強調する。日本語版の表紙がフィーチャーするのは「うわさ」を伝達するため額を寄せ合う少女たちだ。

 キーワードは「イエイエ」。
 フランスで60年代に流行したミニスカートなどのファッションや音楽など若い女性向け文化の総称なのだが、同書はそれを周知の概念のように連呼する。イエイエの有害な本性」「母親たちがイエイエに反発」「イエイエをめぐる論争」「イエイエが隠し持っていた危険」こちらの頭の中では「レーナウーン・レナウン・レナウン・レナウン娘が お洒落でシックなレナウン娘が わんさか・わんさか・わんさか・わんさか イエーイエーイエイエー♪」が鳴りっぱなしなわけですが(わざわざ書かなくてもいい)著者が圧倒されてる感じが伝わってくる。
 英語圏ではアースクエイク(地震)とユース(若者)をかけてユースクエイクという言葉が生まれたという。米『タイム』誌の1966年の「パーソン・オブ・ザ・イヤー」に選ばれたのは「Twenty-Five and Under(25歳以下のすべての人々)」いわゆるベビーブーマーだった。そして1968年の5月はフランスで5月革命と呼ばれる学生運動が吹き荒れた時期でもあった。
 『オルレアンのうわさ』は社会学者が研究対象としての、あるいは社会現象としての「少女たち」を発見した瞬間の記録としても興味深い。その当否や、その後の展開については、今は考えない。ただただ興味深いです。

 試着室からの誘拐という都市伝説は80年代に日本でも流行した。誘拐の舞台となるのはヨーロッパで、若い女性の海外渡航ブームに対する敵意が下地にあったと推測される。その他にも当時の日本が持っていた偏見や迷信が伺えるが、追及する余力は今はない。まあ、うんざりしますよ。

伊丹万作の言葉〜映画『ジョジョ・ラビット』(2020.03.08)

 よほど形容に困ったのだろうか。「愛は最強」という、ほぼ何も言ってないに等しい宣伝コピーだけなら、映画館に足を運ぶことはなかっただろう。もう上映は終わってしまったが『ジョジョ・ラビット』は、軽く流されるには惜しい作品だった(さいわい日本でも「大ヒット」したらしい。でも大抵そう言われるので真実は定かではない)。
 自分ならどう惹句をつけるか。「さよならヒトラー、僕の親友(イマジナリー・フレンド)」といったところだろうか。親友というよりは、戦場から帰ってこない実父の代理かも知れない。演じるのは監督のタイカ・ワイティティ本人。第二次世界大戦末期のドイツ・ベルリン。ナチに心酔する10歳の少年ジョジョが、悪魔のように思っていたユダヤ人の少女に出会い、世界観を覆されていく物語だ。

 もうロードショー期間も終わったのでネタバレしてしまうが、冒頭の5分だけで傑作だった。時は下って1960年代、メジャーデビュー前はハンブルクで下積みしていたこともあるザ・ビートルズはイギリスに戻っての大ブレイク後、初期のヒット曲「抱きしめたい」と「シー・ラブズ・ユー」のドイツ語版をリリースしている。そのドイツ語版抱きしめたい」をナチス台頭時の大がかりなパレードやヒトラーの演説、それを熱狂的に迎える民衆の姿とマッシュアップしたのだ。アイドルに歓声をあげるように、独裁に、戦争に、ユダヤ人排斥に陶酔した人々。痛烈な皮肉だ。皮肉というより、カリカチュアだろうか。
 空想のヒトラーで分かるとおり、映画は敗戦が間近に迫るベルリンの姿を、徹底的に戯画化する。徹底した戯画化は、場面の一つ一つに意図があるということだ。
 劣勢の戦時中でも美しく着飾り、ダンスを愛するジョジョの母は、ナチスが台頭する前・世界で最も民主的と言われたワイマール時代の(今も)熱烈なシンパであることを表現していたという。「顔が良くてもいいことなんてないわよぉ、私なんて美人すぎて迷惑ばっかり」とうそぶく台詞は、演じるスカーレット・ヨハンソンが俳優としての実力にも関わらず「いわゆる美人女優」として軽んじられてきたことを踏まえた「当て書き」ではなかったかと、これは僕の感想。
「スカーレット・ヨハンソン、男社会の中で“めんどくさくない女”を演じていた「もう媚びない」」
 (FRONT ROW)
 …だいぶ字数を使ってしまった。話を先に進めよう。
 本篇を通して考えずにいられなかったのは、ある意味『ジョジョ・ラビット』は『この世界の片隅に』の対偶・対極のような映画(でもある)ということ。そして映画監督でありエッセイストとしても知られる伊丹万作(1900-1946)の言葉
リアリズムトハ、本当ラシキウソデアル。
 シンボリズムトハ、ウソラシキ本当デアル。

という言葉のことだった。

 ひとつの作品を褒めるのに、ひとつの作品を対比的にくさすのは徳が低い。得策でもない。同じく敗戦直前の、こちらは日本・広島の生活を一人の女性の視点から丹念に描いたアニメーション映画『この世界の片隅に』(片渕須直監督)はもちろん、優れた作品だ。あの時代を描くのに、今までにない視点や距離感・細やかさを提示した、画期的な作品だと思う。ただ、その受容のされかた・賞賛のされかたが「当時の街並みが完璧に再現されている」「実在した事物の細部が汲まれて」と描写のリアルさ・実在性に寄りがちなことに、言うなれば危惧を憶えるのだ。
 これは同作だけではない。いつからか日本の漫画やアニメーションは、事物の忠実な再現を高く評価し、称揚するようになった。作品の舞台に実在の地方や街が選ばれ、それらを綿密に描くことで「聖地巡礼」のブームが起こり「作品による地元起こし」は元から当然の狙いとして企画に組み込まれるに至った。登場人物たちが使う道具やコーヒーを飲むカップは、即座にファンによって具体的な製品が「特定」される。作中に登場するオートバイのエンジン音を「リアル」にするため、同じ型番のレアなオートバイを探し出してきて録音したことが、こだわりとしてアピールされる。
 悪いことではない。だが行き過ぎるとどうか。細部の再現度の高さを「リアル」と称賛し、それをもって作品も素晴らしいのだと結論づける受容のしかたは、リアリズムが持つ本当らしき「嘘」に対して、あまりに無防備になってはいないだろうか。たとえば街並が事実どおりに再現され、ガジェットの型番まで照合できる「本当」の一方で、画面に現れるのは美少女ばかりで、その髪色も説明もなくピンクや青だったりする「嘘」は意図的に(あるいは無意識に)見落とされる。

 本当は『この世界の片隅に』も、極度にシンボライズされた話「でもある」はずなのだ。原作者・こうの史代氏の「漫画」としか呼びようのない絵柄からしてそうだ。
 実際には「本当」と「嘘」は、幻惑のように絶えず入れ替わるものだ。細部の描写のリアルさは、物語としてのメッセージの現実性とイコールではない。むしろ、リアリズムを志向すればするほど語られるメッセージが何処か夢物語めいて、逆に非現実的なファンタジイの様相を帯びたものが裏返しに(そして残酷に)現実の虚妄を暴き出すこともある。
 『ジョジョ・ラビット』が採用しているのは、シンボリズムに満ちた「嘘」の語りだ。子供ふたりがパンツァーシュレック(バズーカ砲)を運んでいて、後ろを持ってた子が「やあ」と友達に手を振り筒を落としてしまい、暴発した砲弾が建物を爆砕するなんて映画がリアリズムなはずがない。シンボルを読み解くには若干の広い知識が要ることもある(ビートルマニアの熱狂ぶりを「史実」として知らないと、冒頭の皮肉は得心しづらいだろう)が、もっと必要なのは想像力だ。いや、その言い方も正確ではない。『ジョジョ・ラビット』では、ある出来事を一足の靴だけで悟らせる場面がある。何が賭けられ、何が奪われたのか、靴だけで分かってしまう。優れたシンボリズムは、読み解くのに想像力が要るのではない。シンボルそのものが、観客の想像力を開かせる。
 造形が「リアル」であること、ディテールの正確な模写を評価軸として絶対視することは、想像力を働かせて読み解く能力の衰えを意味してはいないか。「聖地巡礼」に代表される「リアリズム」の台頭に合わせて、「○○はいいぞ」あるいは「(語彙力)」といった定型句が流行りだした。もちろん、SNSに代表する感想を言う場の字数制限もあるだろう。だが、いずれも(作品の良さを語り尽くせないので)〇〇はいいぞ(としか言いようがない)、語彙力(が足りなくて良さを適格に表現できません)」という説明放棄の表現なのは偶然だろうか。

 ことは作品鑑賞に留まらない。生活に困窮する者に国が割ける財源はない、それが「リアル」だと言う者がある。だがその「リアル」は使うかどうかも分からない戦闘機の財源はどうなのだ、ということを意図的に見落としている。医学部の入試での男女差別も、北方領土をずるずる手放すことも「それがリアリズムってものだ」としたり顔で言われるたび、伊丹万作の言葉は思い出すに足るものがあるだろう。理想論を説く者と同様、リアリズムを説く者も(リアルとして扱うものを取捨することで)何らかの夢を見ている。ただそれが夢なことを隠し「リアルなのだから正しい」と言い募る。
 リアリズムを標榜する者は、スペックにこだわり「リアル」を肯定し、変革を嫌うのかも知れない。『ジョジョ・ラビット』はヒトラーに心酔していた少年が、過去の自身を否定し、愛に目覚める物語だ。『この世界の片隅に』の「すずさん」も、体制を受け容れていた己の欺瞞を最後に悟って涙を流す。だが、観衆の大方はそこではなく、全体のそこはかとない優しさ・「戦争中でも私たちは一生懸命に生きていた」という甘い自己肯定を好ましい「リアル」として受容したのではなかったか。
 すべてが時の流れに奪い去られ、忘れられていく「この世界」では、語り描くことはそれだけで救いだ。「私たちは忘れても見過ごしてもいない。ちゃんと憶えているし、こうして絵や言葉にしている」そう互いに言い合うことで、吾々はどうにか生きていける。その意味で『この世界の片隅に』は大きな仕事を成し遂げたし、たぶん多くの魂を救った。しかし、その一方で、多くのシーンを追加して公開された新版では、上映される映画館の売店で、すずさんの絵をあしらった戦艦大和のプラモデルが、グッズとして並んだという。それがあの映画に吾々が「夢みた」ものだったとしたら、敗戦の日のすずさんの涙は何だったのか。

 こうの史代氏には原爆後の広島を描いた「夕凪の街」という先行作品がある(『夕凪の街 桜の国』所収)。これは編集者・作家の竹熊健太郎氏が書いていたのだが、被爆し、やがて原爆症で死んでいくヒロインが自宅の屋根を直しているシーンがある。そこに意中の青年が現れ、はしたない格好を見られて大いに慌てる場面なのだが、竹熊氏はヒロインがまくっていた袖を直す一コマに注目する。それは彼女が恋人に醜いケロイドの傷を見られたくないという恥じらいだった、不覚にも初読では見落としていた、ヒロインの心の輝きがそこにはあった、というのだ。それこそが想像力によって描き出された、シンボルが真実を語る瞬間ではなかったか。
 伊丹万作はこのようにも書いている。
 「そこらにいくらでもいる甲氏や乙君や丙さんを拉しきたつて、その中の甲と乙の相違や、乙と丙の差を克明に描き分けているのがいわゆる性格描写というものだとすれば(中略)
 何万人に一人というような桁はずれの存在を扱いながら、しかも「人間というやつはね、みな要するにこいつによく似たしろものさ」といって神様がひよいとつまみ上げて見せそうな人物を描くことは、まさしく偉大なる典型描写というべきであろう」

 まとめ。
 1)一部のディテールを「リアルだ」と言うことで、別の部分や全体がもつ「夢」や「嘘」まで「リアルだ」と丸め込まれることを危惧する。
 2)正確な模写ばかりを評価の基準とすることが、想像力や表現力の衰退につながっていないか危惧する。
 3)「リアリズム」が性質上、現状の不公正の肯定や、無責任な過去の美化に益することを危惧する。

 映画を観て取ったメモの中には、こんな「危惧」もあった。
 4)そして吾々は「ユーモアやお笑いは、中身も空っぽでいい」と思い込んではいないだろうか。
ただまあ、これについては今回の日記で展開する余裕はない。なんだか『ジョジョ・ラビット』の話をするはずだったのに、別の話に終始してしまった。最後にもう一つ、映画の中で読み解くのに若干のヒントが必要だった箇所を上げておきたい。ビートルズのドイツ語版で物語が始まったとき、実は結末で何が起きるか、分かる人には分かるという話だ。
  ★終盤までの展開を含んだネタバレなので一応たたみます。読むひとは自己責任でどうぞ。(クリックで開閉します)。
それがシンボリズムというものだ。あるいは、ああ、なんてロマンチシズム。

現代は遠くなりにけり(後編)〜W.B.キイ『メディア・セックス』(2020.03.01)

 1960年代前半から大流行した「ツイスト」が画期的だったのは、踊る男女が触れ合わなくていいことだった(マイムマイムすら手を繋ぐのに!)と何処かで読んだことがある。キイが知ったら喜んだだろう。

 前回に引き続き『メディア・セックス』ほかウィルソン・ブライアン・キイの著作の話です。ちなみにキイ、故人です。1925年〜2008年。
 前回は「サブリミナルに書き込まれた無数の文字」で終わってしまったけれど、著者の言及はより広範囲で多岐にわたる。困ったことに、的を得ていると思えるものも少なくない。
 困ったことに、というのは(何でもそうかも知れないが)著者の主張が(a)それは納得どころか当然 (b)それは驚きだが納得 (c)それは信じられない―三つのレベルが入り混じるモザイクになっているからだ。たとえば『メディア・セックス』(1976)では1973年の映画『エクソシスト』に一章を割いている。監督のフリードキンが、一瞬の影やライティングなどの視覚効果や、サウンドトラックに混ぜた蜂の羽音や豚の悲鳴といった音響効果で観客にショックを与えたという話は、十分に納得できる(b)だし現在では(a)に近い。ただ「豚は古来より象徴として…」「蜂は…」と自説を補強しようとするから、また怪しくなる(c)。
 音楽でもザ・フーのアルバム『トミー』が歌詞を検証してみたら性的虐待やドラッグなどに溢れた大変な内容でしたと言うのは、わりとロック好きには周知の(a)な一方、ビートルズの「ヘイ・ジュード」やサイモン&ガーファンクル「明日に架ける橋」が悩める若者にドラッグ使用を薦める唄だとまで言われると、いやいや、それは(c)でしょう!という気にもなる。間をとった(a)寄りの(b)、ビートルズのアルバム『サージェント・ペパーズ』を取り上げた部分は手際のいい要約で興味深い。
「レコードのA面は、人々が自分自身に対して真実を覆い隠す方法とかイリュージョンを主題にして」
「B面は(中略)生活を皮肉り(略)人生の虚しさ、陳腐さを描いて(略)最後の曲「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」は、人は幻想なしに生きていくことができるだろうか、と問いかける」(『メディア・セックス』)
これはキイの問題提起そのものの要約かも知れない。

 キイにとって最重要だったのはサブリミナル操作への警鐘かも知れないが、そこから敢えて視点をずらすと読みとれる見解も興味深い。
 1)広告業界は様々な誘惑の技術を駆使して、人の心を操作しようとする巨大産業である。
 陰謀論として捉えた場合、政府や世界征服を目論む組織といった政治的黒幕でなく、個別の広告主がそれぞれに、あくまで商業利益のため意識操作を行なうというのも「現代」的だ。ベトナム戦争を報じる写真に書き込まれるのも政治的スローガンではなく「Sex」で、プロパガンダではなく新聞そのものを売るためだと著者は考える。サブリミナル手法に政治的メッセージを読み取るようになるのは、TIME誌の表紙になったリビアの独裁者カダフィ大佐の写真に「KILL」「FUCK」と加筆されてると主張する89年の『メディア・レイプ』になってからだ。そして
 2)誘惑の手法としては、圧倒的に性的要素で釣る。
これはすでに見たとおり。ただし動物などの象徴を用いる(広告業界が?著者が?)場合もあるし、不吉な死のモチーフで釣ることも多い。
 それでは、潜在意識の誘惑技法を駆使して、広告産業が売ろうとしている(と著者が考える)ものは何か。(僕が考える)結論から先に書いてしまおう。
 3)現代の商業資本は「渇望」を売る。

 強烈すぎる(Sex!Sex!)手法のことは、いったん忘れよう。『潜在意識の誘惑』『メディア・セックス』でキイが取り上げる「商品」は何か。クラッカーは例外として、それらは主食になるパンや牛乳・自転車や普段着ではない。氷を入れたグラスに注がれる、酒。性と死のイメージをもてあそぶ煙草。映画。ポピュラー音楽。そしてドラッグ。これらに共通するのは嗜好品・耽溺させるもの・もっと言えば依存性の中毒を引き起こす商品であることだ。『潜在意識の誘惑』で著者は、アルコールや煙草の収益が数%のヘビーユーザーによることを再三指摘する。誘惑広告はモノを売るだけではなく、ヘビーユーザー=耽溺者・中毒者を生み出すことを目的としているのだ。
 いったん忘れることにした性的誘惑の意味が、ここで明らかになる(意外と早かったですね)。なぜアルコールを売るのに「Drink me」ではなく「Sex」がメッセージなのか。「Drink me」は飲酒してしまえば満たされるが「Sex」は満たされないからだ。
 『潜在意識の誘惑』は、人を耽溺させる商品として男性向け・女性向けの雑誌に、それぞれ一章を割いている。キイの分析が面白いのは、ヌード写真を数多く掲載し男性読者の性欲を満たしているように見える『プレイボーイ』のような雑誌が、実はさまざまな形で欲望の充足を妨げていると説いていることだ。有名なウサギのロゴマークが、去勢を象徴するハサミというのは眉唾の(c)だとしても、現実には簡単に巡り会えない抜群のプロポーションの美女のヌードは、高級腕時計やスポーツカーの紹介記事とともに、手に入らないものとして読者を渇望させる。だから次号にも手が伸びる。同様に、ファッションを中心とした女性向けライフスタイル誌も、読者が微妙に手の届かない贅沢を提示し、さらに物品の贅沢でも満たされない孤独や不安を煽る(と、著者は言う)。
 広告産業に支えられた商品社会が、商品の使用価値による満足を売るのでなく、商品を手にし使用しても満たされない渇望を富の源泉にしているとしたら。
 酒・煙草・ドラッグ・サブカルチャーという著者の「お気に入り」リストにスキンケア・わけてもデオドラント商品が入っているのも、この文脈で理解できる。アメリカ人は商業広告にマインドコントロールされ、自身の体臭を必死で消すようになった、他の文化圏では体臭は肉体的コミュニケーションの重要な触媒なのに、というのが著者の主張だ。彼が危惧するのは肉体を嗅ぎ合い、現実にふれあう性的コミュニケーションが排除され、印刷された模造品に取って代わられることだ。

 …もちろん、自らの体臭を強迫観念のように忌避するのは(キイの独断とは違い)アメリカだけではない。広告の性的な釣り餌は、手に入らないことでこそ渇望を生み効果を発揮するという仮説は、この日本でしばしば問われる「なぜ」の、げんなりするような答えになるだろう。なぜ日本では、広告やアイキャッチで「なぜこんなところにまで」というほど女子高生や未成年の少女というアイコンが多用されるのか。

 ましてや(法的だけでなく物理的にも吾がものに出来ない)二次元の少女、それも非現実的にセクシャリティを強調された画像ほど、渇望を煽る理想的な釣り餌はない。そう考えることも出来はしないか。
 …取り上げた題材の新奇さに反して、たぶんキイ自身は性に対して保守的な価値観の主だったのだろう。たとえば分析の背後には、同性愛を「不自然」と即断し眉をひそめる感性があるように思われる。若者文化への反発も。その主張が「昔はよかった。性欲も本物だった」というものであるなら、それには少し留保をつけたい。どんな時代や文化でも、性は多かれ少なかれ、動物的な本能から外れた虚構といえば虚構ではないか。そして「人は幻想なしに生きていくことができるだろうか」
 だが、あまり遠くまで行くのは止そう。彼が鳴らした警鐘には、聴くべきところもある。それは、吾々が「自然な」「本能的」と思っている欲望が、人工的なプロダクトではないかと疑う感性だ。今まで紹介してきた文脈とは違うが、キイはこんなことも書いている。
「アメリカにおいて、性的コミュニケーション(中略)に用いられる言葉は、たいてい男性の攻撃的で残酷な動詞−fuck, knock, up, screw, lay, make, etc.−なのである。
 それらは、愛すべき関係を互いに分ち持つ相手に向けられるよりも、征服され奴隷にされた敵に向けられる言葉だといってもよいくらいだ」
(『メディア・セックス』)
 もう一度言う。吾々が「自然な本能」と思っている「性」への欲望は、吾々が思うのとは全く別の「取り替え子」かも知れない。キイ本人が、その追及を二の次にしたのは、いささか残念なことだ。

  ***   ***   ***

 ここで終わればキリもいいのだが、もうひとつ言わなければいけないことがある。
 身体の接触を前提とした親密さから、満たされることのない渇望へ。潜在意識への性的誘惑が、その転換をうながすエンジンだというキイの告発は、結局のところ本当だったのだろうか。
 正直、結論は出せない。しかし確かなことがある。多くの事物にとってそうであるように、時の流れは彼の主張にもまた、不利に働いた。
 もともと彼が主張する「Sex」の書き込みは、英語圏の中でのみ通用するものだ。世界中で同じように広告が印刷され、クラッカーが生産されるなか、アメリカでだけサブリミナルな書き込みがあると考えることは、まあその、妙だろう。
 それに加え、キイの主著はインターネット時代の到来を前提にしていなかった。
 たとえば映画ひとつとっても、『エクソシスト』が周到に仕込んだ潜在的なショックは、スプラッター映画が顕在的な残虐描写で押し流してしまった。それはまだ80年代の話だが、90年代から21世紀に吾々が体験したのは、ちまちましたサブリミナル効果そのものを押し流してしまうほどの、情報の洪水だった。
 1秒24コマのフィルムに1コマだけ、慎ましく挿入されたメッセージではない。今の吾々は1秒24コマすべてが「買え」「求めろ」と明滅する、ストロボ効果そのものに眩惑されている。それは、サブリミナルに埋め込まれた性などではなく、もっと剥き出しの欲望ではないか。そしてその内容も、もはや「性」に偽装する必要さえかなぐり捨てた、多数派のチカラ・支配や権力への渇望そのものではないか。
 
 現代の奇書。今回の日記の冒頭でキイの著作をそう呼んだ時、実は感じたのは「現代」という時代がすでに過去なことだった。古代・中世・近代…間に近世が入ったり、まあよく分からないのだが「現代」という時代はたしかにあった。大量生産の工業に裏打ちされた、資本主義と商業主義の時代。多重録音が現実には演奏不可能と言われた『サージェント・ペパーズ』のレコードの中だけの音楽世界を作り上げ、テレビとグラビア印刷が日常に代わる幻想を売った時代。人間性の喪失を、キイが危惧した時代。
 インターネット以後の、いま吾々が生きている時代は、超現代とかポスト現代とでも呼ぶべき「次の」時代なのではないだろうか。それは「今」を買いかぶりすぎだろうか。だが改めてキイの著作を紐解くとき、頭をよぎるのは「古き良き「現代」…」という、それはそれで地獄絵だが、いささか牧歌的な地獄絵なのだった。

少女に向ける男性の欲望を「自身の肉体への嫌悪」から解明する視点は、キイが指摘したデオドラントへの強迫などと通じるところがある。内容に賛否はあるのだが、(少なくともシスヘテロの男性にとっては)思考への強烈なキックになる一冊。

現代は遠くなりにけり(前編)〜W.B.キイ『メディア・セックス』(2020.02.23)


 現代の奇書、という形容がスッと頭に浮かんだ。いや「誰かがそう言ってた」ではなく形容したの自分ですが。ウィルソン・ブライアン・キイの『メディア・セックス』(原著1976年・邦訳1989年/植島啓司訳/リブロポート)。
 かつて一世を風靡した(?)同書を見かけたのは昨年末、東京某所の古本屋。UFOやオカルト・陰謀論の書籍ばかり取り揃えた、これも奇なるお店だったが、レジスターでなく店主みずから小さなガマグチ財布を開いてお釣りをくれたのが、また異界のようで慄いた。趣味でやってて、もう採算は度外視なんだろうなあ。数日後、同じ東京の別の某所、本郷・東大そばの古本屋ではキャッシュカードで支払いができ5%還元まであったので、逆の意味で驚いたのですが。東京いろいろ。商売いろいろ。まあ、この話は余談なので早々に切り上げるとして―

 『メディア・セックス』の主題を大づかみに言うと「広告は自己利益のため、サブリミナル効果で消費者を煽っている」だろうか。
 まずは前史として1950年代。アメリカの映画館で、通常は知覚できない一瞬だけの「ポップコーンを買おう」「コーラを飲もう」というメッセージを挿入したフィルムを上映したら、ポップコーンとコーラの売り上げが激増したというのがサブリミナル伝説の嚆矢と言われる。これ自体、作り話とも言われている。日本では1990年前後、邦画の広告や本編にサブリミナルなメッセージが挿入される騒動があり注目を集めた。冗談とか、それ自体が話題作りのためという形で処理されたようだ。繰り返しになるが本書の邦訳は1989年。与えた影響は無視できないように思う。
 ただし。
 それまでの言説と一線を画し、キイの著作が大きなインパクトを持っていたのは、このメッセージが直接的な「買え」などではなく、性的な誘惑だったことだ。それも映像の1コマにメッセージを差し挟むのではなく、二次元の画像=広告写真や商品に、意識はできないが潜在意識では知覚できる微妙な濃度や曖昧さで「Sex」と書かれている(リッツ・クラッカーの表面にまで!)それもビッシリと、と主張したのだ。

 奇書と呼ばざるを得ない所以である。
 十分にリラックスして眺めれば、容易に「Sex」の文字を判別できるようになると著者は言う。著者が受け持つ学生たちは、次々とサブリミナルなメッセージが読めるようになったと言う。キイの別の著作『メディア・レイプ』巻末に寄せられた伊藤俊二氏の文章によれば(彼自身でなく)知人の編集者が、メッセージ判別能力を会得したという。それは心霊写真ブームのような、背景の滝壺や森林の中に顔(霊)が見えるのと同様の思い込みではないのか。肝心の本の口絵写真は縮小や複写のせいで鮮明度が低く、サブリミナルな文字を読み取ることは著しく困難で「ここに実は、こうメッセージが書かれている」という絵解きを並べられても、なんら確証にならない。僕が作った上の図像のように、画質をリアルタイムに調整できるパソコンのフォトレタッチ・ソフトがあれば、まだ検証できたかも知れないが…

 また著者は「大手の広告代理店なら、こうした技法はデザイナーの常識だ」と説くが、彼の著書以外でそれらが暴露・内部告発された話は伝わってこない。しかし著者は「メッセージはあるし、読みとれるし、業界では常識だ」と言う。
 思いあぐねた取材班は(つうても僕ひとりですが)横浜市A区に飛んだ(実際は歩いた)。市立図書館の分館の書庫にある、キイの他の著作を借り出すためだ。乗りかかった船だが、しかし大変な船に乗ってしまった。

 とりあえず日本語で容易にアクセスできるキイの主著は三冊。
 『潜在意識の誘惑』(原題 Subliminal Seduction 1973年/邦訳1992年)
 『メディア・セックス』(原題 Media Sexploitation 1976年/邦訳1989年)
 『メディア・レイプ』(原題 The Age of Manipulation 1989年/邦訳1991年)
 あまり内容の変わらない三冊目は斜め読み、とりあえず『潜在意識の誘惑』を通読。うーん、分からん。それはそうだろう。当人の主張だけを掘り下げて、その真偽を判定することは難しい。
 ただ強いて言うならば、一冊目から二冊目までに、著者の主張は深化・過激化・過剰化しているように見える。例示される図像における「Sex」の書き込みの密度が違うのだ。

 いや、一冊目『潜在意識の誘惑』でも「もっと小さな書き込みが無数にある」と文章では言っているのだが、それを実際に図で提示したのは『メディア・セックス』が初めてで、よりスキャンダラスな方向を打ち出したことは間違いない。性的な誘惑で消費を煽ると広告業界を批判した著者が、同じ集客法(サブリミナルではないが)に走っているのは少し皮肉だ。
 『潜在意識の誘惑』では広告写真に埋め込まれた犬やサソリ・白鳥などのシルエットを読み取り「犬は人類最古の友で、これをウイスキーの広告に忍ばせるのは…」「サソリが象徴するのは…」「白鳥は…」と図像学やユング的(?)な意味づけを施している。正直ちょっと無理があると思うのだが、逆にキイの思索がテーマ的にも性的な誘惑に絞り込まれる過程を、一冊目と二冊目のあいだに読みとれるかも知れない。

 思索を(状況証拠だけで)妄想・妄執と言いかえるのは著者に対して酷で非礼だろうが、広告産業の誘導によってアメリカ人は性に取り憑かれているという著者の主張は、それ自体が性的な強迫観念に取り憑かれた「現代」アメリカを体現しているようにも思えてくる。
 ここまで、よくも悪しくもインパクト絶大だった「クラッカーの表面にビッシリと文字」の説明に終始してしまったが、キイの主張はそれだけではない。盛り込みすぎてもいけないので、以下は次回に続きます。またしても、月またがりで申し訳ない。

『メディア・セックス』のほうは文庫化もされたようです。いやほんとに、一世を風靡したのよ。

エア即売会にまんがを描きました(2020.02.16)

 今回の日記は、日記というかお知らせです。
 「第2回 一次創作限定エア即売会」(今回が最終回だそうです)に参加しています。
 コンビニのマルチコピー機に誰かが登録した画像・文書を、その登録番号を公開し、第三者が自由にプリントできるネットプリント機能。デモのプラカードにも使われている同機能を利用し、創作者がいっせいに自作を公開する催しのようです。
#第2回一次創作エア同人誌即売会_お題枠(twitter/お題「プレゼント」)
#第2回一次創作エア同人誌即売会_フリー枠(twitter)
 面白い企画で、ちょうど描きたい話もあったので、フリー枠で参加することにしました。
 新作の7ページまんが(表紙を入れると8ページ)。セブンイレブンのマルチコピー機…要はどの店舗にもたいてい置いてある今「ふつう」のコピー機ですが、そのネットプリントボタンから入って→
 ・免責事項(お札などをコピーしない等)を確認・OKしたら→
 ・8ケタの予約番号終了しましたを入力→
 ・紙のサイズ(A4)・カラーの有無(白黒)など確認する画面で「両面」を選択→
 ・両面コピーのモード長辺とじ」を選択(「2枚を1枚に」は触らなくていいです)→
 A4白黒・両面コピー1枚(40円します)をプリントしたら、表紙にあたるページの指示に従い、紙を2回折って底辺をカットすると、文庫サイズ8ページのまんがになる寸法です。

 どれだけ刷られても作者の懐は温まらないし、読む人もお金を払う、LOSE-LOSEの企画(?)ですが、まあいいでしょう。本来の「同人誌」って、そういうものだったはずです。
 まんがは描き下ろし。「2月2日(ツインテールの日だそうです)にツインテールで登校してきた幼馴染の機嫌を損ねてしまう」話です。二次創作ではないのですが、アイディア的に元ネタがあって
幼なじみがツインテールにしてきた話(新居さとし)←こちらは無料で読めます
にインスパイアされた話になってます。だからタイトルが「Answer」。まあ正直、元ネタのほうが面白いのは世の常ですが、同じ題材でもそれぞれの作者らしさが出るあたりを味わっていただけたらと思います。  ※企画終了しました。プリントアウトしてくださったかたに感謝。ちょっと幸せな気持ちになってもらえてれば嬉しいです。(20.03.08追記)

伽藍とパサージュ〜栗原康×白石嘉治『文明の恐怖に直面したら読む本』(2020.02.09)

「バリケードが三日しかもたないのは、蜂起した群衆が我身可愛さで秩序に逃げ戻るからではない。(略)
 バリケードの経験は、燃えあがる真実であるからこそ三日しかもちこたえられない。(略)
 叛乱は敗北する。秩序は回復される。
 しかし、叛乱は常にある。秩序は叛乱によっていつかふたたび瓦解するのだ。
 永続する敗北それ自体が勝利だ」

(笠井潔『バイバイ、エンジェル』)

 前回の日記で予告した、栗原康×白石嘉治文明の恐怖に直面したら読む本』(Pヴァイン、2018年)。
 今どき珍しい、無類に面白い本でした。人に薦めたくなる。難解じゃないかなーと心配したりせず、安心して薦められる。対談形式の話し言葉は読みやすく、内容もディープなのに分かりやすい。魔界転生から長渕剛まで、芸術から政治経済まで多彩(雑多ともいう)なテーマを取り上げながら統一性があり、血みどろの歴史を語りながら、どこかユーモラス・そして詩情に溢れている。
 分かりやすさの理由は、明瞭に示された対立軸だろう。順を追って説明します。
 著者たちは、吾々の社会の歴史を、えらく大づかみに要約する。
「組織の中心にいるのが、古代ではカミだった。それがそのあとヒトに変わります(中略)
 産業革命以後(略)はモノが中心になっている」(白石)
図式化すれば
カミの支配(古代:平安時代くらいまで)
ヒトの支配(近世・近代:鎌倉〜江戸くらい)
モノの支配(産業革命以後・人新世(アントロポセン))
 たとえば、平安時代に死刑がなかったことは、この区分によって説明される。カミが畏れられていた頃は、ヒトがヒトを死なせるのは越権行為だった。だが、武士の世になりヒトが文明の基底になると、同じヒト同士だから殺せるようになる。あるいは今どき、江戸の世が理想化され時代小説が好まれたりするのは、モノの支配に疲れた現代人の「ヒトが一番だった時代」へのノスタルジーと捉えられる。
 「江戸には人情があった」「平安時代は人の命を大切にした」みたいな美化とは違う(まして「そうした人情や人命尊重が日本の心だった」などとはならない)過去を測るモノサシが、こうして吾々のものになる。

 著者たちが提示する対立軸は「ココロが大切にされた過去vsモノが支配する現代」みたいなものではない。むしろ、上に立つものが替わっただけで、支配の構図に変わりはない。
 その象徴として挙げられるのが、巨大建築だ。
「文明であるかぎりやっていることはおなじで、とりあえず大きな建物をつくる(略)
 ピラミッドにしろ、古墳にしろ、ヴェルサイユ宮殿にしろ、江戸城にしろ」(白石)
 現代美術家の会田誠が2018年の個展で「セカンド・フロアリズム宣言」として二階建てより高い建物は破壊しろと主張した事例には、ちょっとビックリした。最近、自分も創作SFのアイディアで似たようなことを考えていたからだ。まあSFの話はさておき「三階建て以上の建物には邪悪な意志がやどっている」と白石は言う。「「おまえ、死んでもいいから、これつくれというのが巨大建築です。巨額をつぎこんだオリンピックの競技場設営で起きている、劣悪な環境下での労災・事故死などがおのずと想起される。著者たちは核施設こそ現代のピラミッドであり、伽藍なのだと直言する。
 会田の展示では床に六法全書が打ち捨てられていたという。法は巨大建築(的なもの)をつくるために整備されたといえるからだ。文明の目的が巨大建築(的なもの)ならば、それを達成する手段は法であり、表象だと著者たちは言う。表象とは、読みかたが一義的に決まっている記号だ。今日の稲や麦の状態は、未来の収穫を予測させるための表象であり、その予測は過去の収穫との突き合わせで得られる。稲や麦はこうあるべきという一義的な像が、今日の穂に表象される。法や国旗は、一義的な読みかたを人々に強いる。

 これに対して(お待たせしました)提示されるのは非農耕的な人々が生きていた徴候の世界だ。徴候は、一義的には決められない。山を歩いているときに、草むらが揺れる。それは獲物となるウサギかも知れないし、脅威となるクマかも知れない、あるいは単に風かも知れない。狩猟民はそれを瞬時に判断し、行動するが、世界はつねに一義的でない多様性に揺らいでいる。
 一義的な表象に対する、多義的な徴候。徴候から多義的な世界を読み取る力能。巨大な建物(伽藍)に対する散逸、逃散、裂開。それが著者たちの提示する対立軸だ。

 典型として挙げられるのは念仏。伽藍的なものに組み上がった平安仏教の体制にたいし、法然が念仏ひとつで打ち立てた対立軸は、親鸞、空也、一遍へと深化し(ここまでニコニコ合いの手ばかり入れていた栗原氏が大いに語るところによれば)悪人を取りこみ、獣と一体化し、歌や踊りでアナーキーな揮発性の楽土を「今ここ」に現出させる。
「鎌倉仏教も「でかい建物はいらない」という運動として捉え直すことができますね。(略)
 街で空也が念仏をとなえていたら、民衆が勝手に屋根を作ってくれたりするんですよ。(略)
 あとは全国放浪すればいいとか」(栗原)
 カミからヒトへ、ヒトからモノへ。支配のモードの端境期・文明の(表象の、巨大建築の)統治が弱まったときに出現する多義的な徴候の世界を、著者たちは「中世」と呼ぶ。「中世的なものは、時代を問わずに出現する。ダンテの神曲。プルーストの小説。ベンヤミンのパサージュ。レヴィ=ストロースや、ロラン・バルト。ほろびゆく中米の先住民族に取材し『国家に抗する社会』を記したピエール・クラストル。ギロチン社。女相撲。本書がどこか詩情に溢れていると冒頭に書いたが、それも不思議ではなかった。詩情もまた、一義的な表象・伽藍を建てる支配的なものに逆らうものの属性だからだ。

 伽藍とパサージュ。巨大建築vs踊り念仏。文明vs中世。あるいは弥生vs縄文。
 「中世」は時代区分に関係ない「状態」のことだと著者たちが言うように、それは時間軸でなく空間・特定の地域にも出現する。本書は(カミに対するヒトの支配が決定的となった)島原の乱から説き起こされるのだが、その対岸には石牟礼道子が描いた水俣があり、石牟礼には島原の乱を描いた小説もあるという。この地域=九州西岸は入江が入り組み、農耕が発生しにくいという話から、同地は大正時代のアナキスト伊藤野枝が住んでいた場所であり、さらにブレイディみかこの出身地でもあり…と縄文的・アンチ表象的な「土地柄」が現出されていく過程はスリリングだ。それが妥当かどうかは分からないが。
 妥当かどうかは分からない読みで、一義的な表象を都度くつがえしていくことは、徴候的であり力能的であり、中世的な自由を都度うちたてることでもあるだろう。本書は文明がいかに吾々を支配しているか、いかにそれに逆らうか、という明解な視座で、歴史や文化・過去から現在までを見直すガイドブックであり、有用なモノサシと言える。
「民衆に民意なんてない(略)
 たしかに民衆はいる
(略)。それは人民とよんでもいいかもしれない。
 民衆、人民、つまりピープルはいる、と。でもそのピープルに民意などというものはない。
 国家の権力は、そのないはずの民意をあたかもあるかのようにみせかけて、
 その民意をくみとるというかたちで発生する」

ピープルが不在のところに造られる「民意」、それがポピュリズムだと著者たちは喝破する。
 なんで世の中こんななんだろ、と嘆きに押しつぶされそうになったとき、その嘆きに別の方向から光を当ててくれる、オススメの一冊です。

念のために言うと、著者たちが提示する「中世」的というオルタナティヴは、残念ながら、今のモノなり政府なり経団連なりが支配する状況を完全にくつがえし、別の理想社会を打ち立てるものではない、と思う。それらは別の巨大建築であり、人を自由にしない体制にすぎない(と著者たちは考える)からだ。革命ではなく蜂起。ヨーロッパの不可視委員会や、日本の「素人の乱」にも通じる思想だと思う。それでいいのか、未来のよりよい社会を考えなくていいのかとは僕も思う。けれど同時に、自らアナーキストを名乗る著者たちが引用する、マルクスと同時代の思想家ランダウアーの啖呵もひとつ、懐に忍ばせておいて良いと思う。ここが新天地じゃなかったら、どこにも新天地なんてねえんだよ!

無法と分断〜入管について(後編)(2020.02.02)

【入管=入国管理局が不法滞在者として収容している多くの外国人にたいして、虐待といえる非人道的な扱いを続けている問題について、自分自身が第三者として見聞きしたことと、政治思想の本などで読んだことを、わりとチグハグに往復させる、ちょっと特異なアプローチを試みています。きちんと基礎から把握するには、それに相応しい記事や文章を参照してください】

 5.
 茨城県牛久市、東京都品川区、そして大阪市などでは、入管の外からの抗議の呼びかけが実施されている。外からの呼びかけに応じて、中から「ありがとう」「つらいよ」などの声があがる。
 2019年1月、大阪入管前での抗議の日にタイミングが合い、旅行中の自分も参加した。大阪入管 仮放免だせ」「大阪入管 今すぐ出せと、入管の中のほうがリードして、コール&レスポンスされる一幕があり(大阪は進んでる…)と驚かされた。


 6.
 テッサ・モーリス-スズキは、法が恣意的に運用され無効化される場をワイルドゾーンと呼んでいる。トランプでいうワイルドカードのワイルド、何でもありの無法状態と捉えていいだろう。
 学問的な関心から、このワイルドゾーンという語を追ってみたのだが、今のところ芳しい成果は得られていない。この概念のネタ元としてモーリス-スズキが言及しているのは、歴史学者のスーザン・バック-モースや社会学者のジグムント・バウマン。それぞれの著書を拾い読みして、それぞれ興味や関心をかきたてられることは多かったのだけど、ことワイルドゾーンについては、あまり突っ込んだ議論を、まだ読めずにいる。
個人と国家が接触するところ:個人が主権者として国家の政策に関与する投票所・対・国家が主権を有さない者として個人を遇する入国管理局(再掲)
 モーリス-スズキは個人=市民を軸に「個人が主権者として国家に接する投票所」の対極として「国家が主権を有さない者として個人を遇する入国管理局」を位置づけた。
 だが「法が無効化され恣意的に運用される場所」という現象を軸にすると「国家の主権がおよぶギリギリの端であり(相手が国民でないのだから)、個人の権利が剥奪される入国管理局」の対極にあるのは「国家というシステムの中心・最上部で行政府が法を無視し、恣意的に統治をなす事態」だろう。公職選挙法違反に該当する事態の追及から首相をはじめとする与党の政治家が逃げ回り、国会を通さない閣議決定で自衛隊を中東に派遣する、この国の状態そのものだ。

 こうした国の中心で政府が法を無視する状態を、どうやら「例外状態」と呼ぶらしい。カール・シュミットはナチス・ドイツによる政権運営を、この例外状態であるとし、政治のひとつのありかたとして称揚しているようだ。これに対しジョルジョ・アガンベンは9.11後のアメリカの振る舞いを、例外状態として批判しているという。正直、このあたりは勉強が追いついていない(哲学者であるアガンベンの著作は、ちょっと歯が立たないくらい難しい)。
 仏文学者の白石嘉治は栗原康との対談『文明の恐怖に直面したら読む本』(2018)で、契約が法に優先する現代の状況を新封建主義と呼ぶ動きがあると述べている。ブラック企業のような社会対個人のレベルだけでなく、TPPのような国家間の協定でも、法の支配にヒトの契約が優先される。入国管理局で行なわれていることも、その一環であり、また今後の社会の雛型となる先端でもあると、今の自分は考えている。
この本は、そのうち日を改めて取り上げます。

 7.
 入管問題を「なんか社会の隅っこで非道いことが行なわれている」でなく、その非道さは(法の失効という意味で)今の社会全体が抱える問題に根本から関わるかも知れないんだよ、という話をまとめることが出来たと思う。
 もうひとつ、この件について今まで上手く言語化できてなかった話をしたい。
 2019年3月。品川の東京入国管理局が、体調の急変を訴えた収容者や家族の要請を無視し、救急車を追い返した事件のことを書いた。
 現場には(たまたま体が空いていたので駆けつけた)僕や日頃から収容者の支援をしている人たち、つまり日本人と、当事者の家族や友人であるクルドの人たちが半々で集まっていた。救急車での搬出が拒否され、入管の職員と押し問答になるクルドの人たち。僕が恐怖したのは、もしここに日本人の支援者がいなかったら、ということだった。

 実際には日本人の支援者がいた。駆けつけた中には在日朝鮮人で、みずからが被る差別と日々たたかっているひともいた。けれど、そうしたいわば加勢なしに、クルドの人たちだけが集まり、日本人の入管職員と押し問答する、そんな構図も理屈としてはありえた。この国が、相容れない二つの社会を内包し、分断される事態。
 吾々が「ひとつの吾々」でいられるのは、日本の側から加勢する者があり、また外国籍の人たちが、まだ日本の個々人を見限らないでくれているからだ。
 「彼ら」は「彼ら」なんだよ、「吾々」じゃないと冷淡な態度を示す人たちは、本当に「彼ら」と「吾々」が分断されてしまうことが、怖くはないのだろうか。
 もちろん「分断はある」とも言える。国籍だけでなく、貧富や、あるいは政治的な信条などで吾々はすでに分断されているのかも知れない。でも、それを乗り越えて「吾々」をひとつに、つなぎとめる者が何人かはいなければ、吾々は本当にバラバラになってしまう。
 こういう視点、「自分はマジョリティなんだけど分断が怖い」という視点での意見は、あまりない気がするので、上手く伝わらないかも知れない。もちろん捉え方しだいで、自分もマイノリティに属することはあるだろう。けれど、マイノリティに己を擬して、代弁者として述べるのでなく、マジョリティの側からみてもコレはまずいと言う者が一人はいていいだろうと思い、書いている。
 異物など不要だという人たちは、生身の人間を異物として排除しつづけることが、怖くはないのだろうか。

自分は入管問題に理論面からアプローチした変わり種(異端)と書いたけれど、もちろん直接のきっかけは実際に入所者が受けた迫害を告発し、救援を訴える人たちのアクションがあったことでした。面会や支援の第一人者によるレポート。本で入るなら、まずここから。

アムネスティが3月末までをメドに署名を募っていますが、驚くくらい反応が薄いです。難民の収容・送還に関して基本的なことがまとまった声明文を一読のうえ、可能なひとは賛同を。
外国人の長期収容に終止符を!

無法と分断〜入管について(前編)(2020.01.26)

【入管=入国管理局が不法滞在者として収容している多くの外国人にたいして、虐待といえる非人道的な扱いを続けている問題について、自分自身が第三者として見聞きしたことと、政治思想の本などで読んだことを、わりとチグハグに往復させる、ちょっと特異なアプローチを試みています。きちんと基礎から把握するには、それに相応しい記事や文章を参照してください】

 1.
 もう一年近く前になる。2019年3月。18きっぷで東北をめぐる小旅行の最終日。仙台から普通列車で6時間かけ東京に戻り、巣鴨の台湾料理屋で夕食を済ませた頃だった。「品川の東京入国管理局に収容されているクルド人男性の体調が急変し、病院への搬送を求めているが入管側が拒否している、可能な人は救援アピールのため入管前に来てほしい」という呼びかけがTwitterで発せられたのをスマホで読んだ。

 後述するが入管問題に前から関心があり、中の人が外の友人や家族と連絡をとるためのテレホンカードを支援したり、街頭や入管前でのスタンディングなどに参加していた経緯があった。「それに、せっかく乗り放題の切符があるのだし」という小物っぽい理由で品川へ。19時半。倉庫街の周囲にビルの明かりもなく、真っ暗な東京入管前に到着。外の家族が呼んだ救急車が真ん前の車道に横づけになりスタンバっているのに、入管のガラス扉は閉じられたまま。寒気がした。

 自分のような日本人(在日朝鮮人のかたもいらした)と、当事者の家族や友人と思しきクルド人が半々だろうか、数十人。家族が救急隊員に事情を説明し、警察官とともに中に入るが、押し問答のすえ救急車は誰も乗せないまま帰されてしまう。独特なアクセントの日本語で入管職員に詰めよるクルドの人たち。体力が限界で、自分は21時に現場を離れ横浜に戻ったが、その後もういちど救急車が来て、ふたたび門前払いされたという。当日の経緯は、次の記事などに詳しい。当夜、収容者の容態の急変に対応できる医療関係者は、入管の中にはいなかった。
東京入管、救急搬送必要な収容者を迎えに来た救急車を追い返す異常事態(選挙ウォッチャーちだい/ハーパー・ビジネス・オンライン)

 2.
 フーコーやドゥルーズと(大体)同時代人だが、今では忘れられた感の強いフランスの哲学者アンドレ・グリュックスマンが、その著書で、こんなことを書いている。
「近代工業は階段の下(略)最も脱知性化された労働のなかに(略)最も知力ある労働者を置く(略)
 その労働者はだいたいは複数の国語を話し、いくつもの国のことを知り、
 いくつもの歴史的時代の経験者であり
(略)
 彼を取り巻いている者たちが知らない共同体や連帯への感覚を持ち合わせている。
 つまり移民のことである」
(『思想の首領たち』原著1977年)
 「移民」「外国人労働者」という言葉で個人的に連想するのは、2011年3月12日つまり東日本大震災の翌日の晩に、節電で暗くなった横浜駅の構内コンビニで、レジに立っていた片仮名の名前が名札に書かれた男性店員のことだ。トイレットペーパーの買い占めだの、それを冷笑する人だの、首都圏で多くの人々がエゴを剥き出しにする中(むろん立派な人々もいただろうが、自身はのうのうと贅沢な暮らしを享受しつつ地震や津波を「天罰」とうそぶいた当時の都知事など、今でも許しがたい)遠い異国まで来て天災に見舞われ、すぐさま帰国することも覚束ない人たちは、どんな気持ちで働いていたのだろう。
 入管に収容された人たちの中には、数ヶ国語を自由にしながら宗教的な理由で帰国もできず、理不尽な拘束に耐えるしかない人もいる。思わずニヤリとさせられる、ユーモラスな絵心の主もいる(後述の記事を参照)。むろん、教養や才能のある人たちだから不当に扱うな、というのではない。自国を離れ、別の国に生活を移すだけでも、吾々の多くが自身に起こると想像すらできない体験を彼ら彼女らはしてきたとも言えるが、それだから、というのではない。ただ移民や外国人労働者・入管の収容者たちには(吾々ひとりひとりがそうであるように)各々の経歴も人格もあり、にもかかわらず吾々はその人格性を剥奪し「最も脱知性化された」者たちとして遇していないか、という問題がある。

 3.
 平成30年(2018年)、吾が国での難民認定申請者数は10,493人(前年に比べ9,136人(約47%)減少)。
 難民認定手続の結果、在留が認められた外国人は82人。
 (「平成30年における難民認定者数等について」法務省・入国管理局)

 4.
 移民から人格や個性を剥奪し、異物として遇する吾が国の「受容」(受容してないわけだが)のありかたを、最も極端な形で示しているのが、不法滞在者を収容している入管=入国管理局だ。
 全国の入管が収容する外国人は1200名余り。劣悪な環境下で病死や自殺が相次ぎ、抗議のためのハンストが100名単位で行なわれている。
 とくに非人道性が指摘されているのは仮放免の制度だ。申請しても許可されるかの判定が通達される時期が不明で、却下されれば三ヶ月間は再申請も出来ない。仮放免中は就労が許されず、多額の保証金とともに経済的な負担となる。最近ではハンストで生命の危機に瀕した収容者を仮放免し、二週間後に期間の延長申請に来た者を認めず、そのまま再収容する、罰か見せしめのような対応が常態化している。
 入管行政の諸問題は、たとえば次の記事などに詳しい。先にふれた「思わずニヤリとさせられる、ユーモラスな絵心」のイラストを見れば「不法滞在者」のイメージもだいぶ変わるのではないか。
長期収容、自殺未遂、餓死...問題続出の背景に何がある? 18年勤めた元職員が語る「入管」の闇(樫田秀樹/週プレNEWS)
 注目すべきは、記事中の次の指摘だ。
「入管の問題は3つ。
 一つは基準がないこと。これをやれば収容、これをクリアすれば仮放免といった基準がない。
 二つ目が、許可・不許可の判断プロセスが不透明。
 三つ目が、収容に裁判所など外部が関わらないこと。
 だから、入管は自らの裁量だけで長期収容ができる」

 入管行政のこうした恣意性は、実はずっと前から学術的に裏づけられ、いわば予言されていた。本サイトで前にも取り上げた著作『自由を耐え忍ぶ』(2004年)でテッサ・モーリス-スズキは次のように述べている。
「一般に国民国家は、越境できる者とできない者を分類するある程度の指針となる法規を持っている。
 しかし、個々にどのように法規が適用されるかを決定するのは出入国管理所の現場の係官である。
 最も民主的と呼ばれる社会においても、出入国管理官の権力は恣意的であり、絶対的だ」

モーリス-スズキは個人と国家が遭遇する、二つの両極端な場所を挙げる。一方に市民が主権者として国家の方策に関与する「民主主義の聖地」としての投票所。その対極にあるのが「国家が非市民に対処する」出入国管理所だ。後者は権力が恣意的に行使されるワイルドゾーンであり、そこでは「移民が法を破壊しているのではなく、法が移民を破壊している」(ヘルナンド・デ・ソト)。

 法が恣意的な運用で有名無実化されている現場は、他にもあるじゃないか。そう思われるかも知れない。労基法を無視したブラック企業や、生活保護を求める困窮者の「水際作戦」での拒絶、それから……そのとおりなのだ。というか、だからこそ。入管は、吾々の国や社会が国民・市民でない者をどう遇するか、国民・市民としての属性が剥奪されたとき吾々がどう遇されるかのモデル・雛型ではないか。
 そういう、いわば理論からのアプローチで、僕の場合は入管問題に関心をもつようになった。変わり種で、少し異端かも知れないという居心地の悪さを感じながら。(後編につづく)

本サイト・2017年1月の日記で取り上げています。

方法論へのいざない〜秋田麻早子『絵を見る技術 名画の構造を読み解く』(2020.01.19)

 ★美術的なものに関心も憧れもあるが、今ひとつ鑑賞の仕方が分からない
 ★自分が好きな絵の「好き」に自信がない
 ★美術館や展覧会を心から楽しめてる気がしない
 ★他人のがじっくり展示を観てる気がする。自分も滞在時間を伸ばしたい
 …こんな悩みを、ひそかに抱えている人はいませんか?だとしたら、あなたに必要なのは「自分自身がほしいものを真っ直ぐに欲するのではなく、他人がほしがってるものを真似して欲しがる」近代人・現代人の病を見据えたルネ・ジラールの著作かも知れません。他人をモノサシにして「滞在時間の長さで負けた…」などとクヨクヨするのは止めましょう…というのは、まあ冗談なのですが
冗談だからな…本当に買われても困る値段だぞ…
 ぶっちゃけ、上にあげた「症状」は全て僕自身のもので、上記のとおり「虚栄心が強すぎ」と診断する方法もあるけれど★より深く絵画を楽しみたい作品からもっと学び、感得できることがありそうな気がする、という方向で打開を計ることも出来るだろう。
 別の言いかたをすると★今まで「多くの作品に接することで、おのずと見かたが熟成されていく」自己流に頼ってきたので、キチンとした見かたを体系的に学んでいない―という自信のなさがある。アマチュアリズムというのだろうか。創作のしかた、本の読みかた、映画の見かた、料理に掃除、およそ人生の万事において「とにかく触ってみれば分かる」で済ませてきたので、逆に自分のやりかたに常に自信がない。四角い部屋を丸く掃いてるような不全感が、つねにつきまとう。
 書店や図書館に足を運べば「絵画の見かた」「西洋絵画が分かる」みたいな本は少なくない。それら全てに目を通したわけではないが、本当に分かるの?と不信の目で見てしまう。この絵はココが見どころ・この絵は実はこう見るべきで…と説かれても、それは「回答」なので、自分が別の絵を「解く」ことは出来なそうに思えてしまう。

 秋田麻早子絵を見る技術 名画の構造を読み解く』は問題の「解きかた」に重点を置いた、かなり良い感じの本でした。読むと自分の視覚に「絵画アイ」が搭載されたような錯覚を味わえる。実際、読みながら時々目線を上げると、絵画じゃなくて周りの風景に線が引かれて見えて困った(笑)
 本書が駆使するのは、まさに絵の中に(脳内で)線を引くなどして、構図の巧みさを読み取る方法論。まず絵には鑑賞者の視線を一番に引きつけたい「フォーカルポイント」があるという。中世ならイエスや聖人。近代なら、まあそれなりに。絵の中心は目を引く。大きな対象も。暗い中の明るい箇所や、明るい中の暗い箇所。人の顔も目を引く。
 この基礎から著者は、絵画の技術と技術史を詳らかにする。それまで絵の中心に置かれていたフォーカルポイント(聖者)を絵の片側に振り、反対側の群衆とバランスを取る手法を確立したティツィアーノ。さらに画面の脇・しかも奥に小さく描かれた聖者でも、闇の中の光という明暗差で視線を誘導する技法はティントレット。逆にコントラストを下げることで、人々の中のイエスを親しみやすい存在として描いたレンブラント
 バランスを取るにはシーソーと同じ力学的原理がとか。二つのフォーカルポイントが同等のバランスで釣り合う絵画では(天地創造の神とアダムや、向き合ってトランプをする二人とか)では両者をつなげる結び目(神とアダムの触れる指、トランプの札)が重要とか。さまざまな技法を紹介しつつ、著者は「絵画の歴史はフォーカルポイントの集中と分散の繰り返し(でもある)」と結論づける。こう考えると絵画を前に「フォーカルポイントはどこだ?見つからない!」ではなく「んーこの絵は分散型か」と思えるだろう。一点を刺すピンではなく、度合いを測るモノサシが手に入るのだ。
 同様に、絵の輪郭やコントラストも「シャープ」と「ぼかし」の反復運動として捉えられる。陰影にメリハリをつけるのはテネブリズム(代表的な作家はカラヴァッジォ)→グラデーションをつけてぼかすスフマート(ダ・ヴィンチ)が主導権を握るが→ゴーギャンの時代に日本の影響で復活・クロワゾニスムと呼ばれたという。その日本では輪郭を描く絵画を鉤勒(こうろく)・描かないものを没骨(もっこつ)と呼び、明治時代に没骨で描いた横山大観などは「朦朧派」と揶揄されたとか。
 色彩派(カラリスト)の代表は、モップで描いたと揶揄されたドラクロワ。対するデゼーニョ派(素描派)のアングルは画面を「舐めて」描いたと言われる。両者を組み合わせると、周囲は荒く描き、重要な部分を丁寧に描いて「フォーカルポイント」を強調する技法になる。本書ではサージェントが挙げられているが、個人的に思い出したのはフェルメール。といった具合に応用が効く。色彩=絵の具の歴史なども面白いのだが、ぜんぶ紹介しても仕方ないので先を急ぐと―

 本書の魅力は、この絵の魅力はこうなんですよという「回答」でなく、それを導く「解きかた」に主眼を置いてる点、というのは先にも書いた。その「解きかた」も、個々の要素がバラバラな「点」ではなく、二項対立の往復運動という「スケール」として把握できること。これは今、述べたばかり。
 そして、絵画はこのように技法や構造を理詰めで観て(も)良いのだ、という著者の確信が、本書の強みだと思う。
「解剖学的正確さより構成の見事さのほうが優先される」
「大抵の人は構図が立派なら多少の歪みには気づかないものです」
「ルネサンスの巨匠は、画面に一定の秩序を保ったままで、なおかつ自然な表現をする、二つの目標を同時に叶えた」

アートは爆発や衝動かも知れないが、それを鑑賞者に見せるための構図や秩序・技法は存外まじめに踏襲されているものなのだ―そう考えることで、少なくとも、美術館での滞在時間は伸びるだろう。
「重箱の隅をつつくのは褒められた行為ではありませんが、絵の場合つついてもかまいません。
 巨匠はぬかりがないので、つつかれても
(中略)困らないのです」

 …読めば実践したくなるもの。展覧会に出向くのは年に数回あるかないか、なのですが、東京都現代美術館でダムタイプ展を観てきました。機材がガチャガチャ言う現代アートで西洋絵画を観る技術が役に立つわけない、と思いきや
ダムタイプ|アクション+リフレクション(東京都現代美術館・2/16まで)

テクノロジーと、人間の性や身体性の対立や軋みを主題にしたと思われる作品群も「ここで冷たいシステムで割り切れない人間らしさを滲出させるためにも、システムの側のリズムや反復はキッチリ作り込まれて、しょうじき快感だな」と感じさせられたりして、応用が効く(という錯覚?)を愉しみました。技法はカッチリ、いっそ技法だと感じさせないレベルまで作り込んで、そのうえに人間性を滲み出させる。創作にも応用できそうです。

ちなみに本書を読んで最初に思ったのは「これの神社仏閣や、城郭編がほしい」でした。仏像なども、かなあ。そうゆう意味では哲学なんかも○○論と△△論の往復運動で捉えられそうな気がするし…つくづく自分は体系的な思考を知らない、よく今まで生きてこれたものだと、逆に面白かったりもするのですが。

ウソは射程距離が短い〜佐藤亜紀『掠奪美術館』(2020.01.12)

 2020年初春。ネット上に「ソクラテスの箴言」を称する流言が広まった。おおよそ、こんな内容だ。
「ソクラテスの『無知は罪なり』という言葉はよく知られていますが、その続きはあまり知られていません。『知は空虚なり』『英知あるもの英雄なり』と続くのです」
 「Aはよく知られていますが、実はB・Cなのです」と称しつつ最初のAもウソッパチというのは騙しのテクニックとして興味深いので、元の流言の口調をなるべく再現したけれど、要は「無知は罪なり・知は空虚なり・英知あるもの英雄なり」…この文言を「ソクラテスはこんなこと言いそうにない」あるいは「言葉の古さ新しさがチグハグで何か不自然」と直感できないのは、ちょっと危うい気がする。教育や教養・一般常識・良識といったものの敗北ではないか。
 これはソクラテス当人ではなく、悪名高い新興宗教の教祖が「ソクラテスの霊言」として言ったものだ、という話も、どうやらデマであるらしい(英知あるもの…あたり、いかにも言いそうですよね)。またソクラテスが「無知は罪」だと言ったと、キェルケゴールが書いてるそうなとか、いろいろ尾ヒレはつくのだけど省略。
 返す返すもフェイク・トゥルース、デマと捏造の現代である。自分だって時おり引っかかる。いちばん最近だと「スーパーの野菜売り場が柚子に『冬至のゆず湯にどうぞ』と札をつけたら、食料品でなくなり軽減税率が適用されないので、消費税8%で売ったら即しょっぴいてやろうと国税局が網を張っている」という流言に、コロッと騙されました。実際には8%でお咎めはなかったらしい。もっと単純に「シーズーは鳩」とか、なんでそんなの一瞬でも信じちゃうかなあ!?というネタがあるのですが、それも後回し。

 封建社会だったころ「妻は夫の三歩後ろを歩け」と言われたのは、男尊女卑ではなく、サムライはいつ敵襲を受けるか分からないので妻を守るため後ろにかばったのだ、なる風説を見かけたことがある。後世(つまり21世紀の現在)になって作られたウソの解釈と評されていたように思う。数年前「黒猫が目の前を横切ると不吉」なのは、福をもたらす黒猫が自分を素通りしてしまうので不幸なのだ、という風説が急に現れたこともあった。生まれて数十年、聞いたこともなかった説が突然に広まりだしたので、あれも近年の捏造ではないかと疑っている。
 江戸しぐさだの、宴会での作法だの。これに「ソクラテスの箴言」を加えてもいいだろう。こうした歴史捏造系のデマ・虚言には、なんとなく「あ、ウソっぽい」と感じられる特性がある。理に落ち「すぎる」のだ。妙に功利的。現在の価値観に不自然にフィットしており、現在の誰かに都合がいい…
 「昔からの言い伝え・昔の人が言ってることだから、現在の吾々から見たら少し世界が違う」感じ、が、しない。むしろ現代的な価値観から逆算したことが透けて見える。なんというか、今に媚びている。

 そんな風に思うのは、フェン・メーヘレンの逸話のせいだろう。
 ファン・メーヘレンは20世紀オランダの贋作画家である。フェルメール風の絵を自分で描いて「未発表作品が見つかりました」と称し、ナチスの高官に売っていた。これが戦後、売国的な所業として告発され「いいや、むしろ贋作でナチを騙してやったのだ」と無罪を主張するため、裁判の場で「フェルメールの新作」を描いてみせ、周囲はびっくり仰天という、なんとも言えない話が残っている。
 この「世紀の贋作」はインターネットでも、たとえば
ナチスをだました男、メーヘレンが描いた"フェルメールの贋作"全11点【画像集】(ハフィントン・ポスト)
あたりで閲覧できるのだが、皮肉なことに「これはナチも裁判所も騙されて仕方ない」という感慨は湧きにくい。むしろ、何でこれで騙せたのだろうと不思議になるのだ。ソクラテスはこんなこと言いそうにない。これではどうにもフェルメールらしくない。
 その謎を解くカギとなるのが、佐藤亜紀掠奪美術館』(1995)の指摘だ。美を解さぬ公衆にはもったいない・掠奪して秘蔵したいくらいだと、偏愛する絵画への思い入れを語り尽くしたエッセイ集で、著者はメーヘレンの限界をこう刳り出す。
「彼ら(贋作者)が知っているのは(中略)彼らの時代におけるフェルメールであり、レンブラントであり、レオナルドだ。(中略)
 贋作は、時間の経過につれて次第に、真作に対して人々が抱くイメージからずれていく。(中略)
 概ねの真作はこのイメージの変化を受けとめるだけの柔軟さを備えている。(中略)
 我々の見るフェルメールは、僅か半世紀で、それだけ変わったのだ
20世紀中盤には20世紀中盤のフェルメール像があり、同じ時代の子だったメーヘレンの贋作は、そのフェルメール像に忠実だったからこそ、玄人までも騙し得た。けれど時間の経過で日の差す角度が変わるように、吾々が同じフェルメールに求める「らしさ」も変わる。真作は真作のままだが、贋作はなぜこれが信じられたのかと思うほど「らしくなさ」を晒してしまう。
 そう分析したうえで、佐藤氏は「そもそも真贋なぞどうでもいい」と笑い飛ばす。だがソクラテスの言葉や宴会の作法の真贋が笑い事でないと思う向きには、この逸話はウソを見分ける多少の手がかりになるだろう。
 贋物は本物よりも射程距離が短く、(繰り返しになるが)「今」に媚びている。
 虚言は、実在の人物や風習を「今」の人々が飲み込みやすいよう、たわめて丸める。本来なら批判されたり、見かたが変わることで乗り越えられたりするべきものを、丸めこんで飲み込ませる。
 フェイクの「真実」は、現実とウソなしに向き合った時より、吾々が進める距離を短くし、誰かにとって都合のよい「今」に吾々を閉じ込める。贋作の絵画は、それ自体が古びるが、過去の捏造は吾々のほうを固陋にし、未来を奪う。
UFOなんかも不思議ねーで終わらせときゃイイものを政府による隠蔽工作とか良い異星人vs悪い異星人とか「今」ウケを狙いだすと俄然つまらなくなるのは、当人たちは「してやったり」なつもりでも(あるいはそれゆえに)想像力の範囲がちんまりしてしまうからではないかと…
 昨年末、NHKの紅白歌合戦で、往年の名歌手の特徴をAIとCGで再現したものが、番組の目玉として「登場」していた。「新曲」を披露し、なんだか「令和の皆も頑張って生きてね」みたいなメッセージを最後に発したのを観た。それは故人のイメージを「今」に都合よく加工した創作で、悪くいえば捏造・デマや虚言と同類に思えた。むろん、スターの、まして舞台上の発言など、当人も含めてるとはいえ多数の人間が関わって練り上げた「作品」だろう。それでも、当人が不在の「作品」まで受け容れ、感動すらしてしまうのは、これもまた「ちょっと危うく」ないだろうか。

 …などと述べたところで、かく言う自分がどれだけ当てにならないか示すため、話を蒸し返す。十年以上前だと思う。エイプリルフールに「吾々がイヌと思って接している動物は、イヌという一つの種ではない」という記事を読んだ。哺乳動物であるイルカが、海での生活に適応した結果、魚のようなシルエットになる。これを「収斂進化」と呼ぶ。イヌと呼ばれる一群も、この収斂進化で似た容姿となった多様な種の集合体であって、と記事は書いていた。いわく、吾々がチャウチャウ犬と思っている動物は、実際には齧歯類の一種である。シーズーに至っては、鳩の仲間であると。
 信じられないことだが、一瞬は信じた。これは、時代性がどうとか無関係な、また別の「思考の空隙を突かれた」みたいな話だと思うのですが…まあふつうは一瞬でも信じませんよね。どうかしていましたと言いたいところだけれど、わりとオールウェイズどうかしてるんだよなあ。


「何か変なんじゃないの、とでも尋ねようものなら、即座に、甘い、という返事が帰ってくる。
 彼らにとっては今現在のやり方、今現在の世界観以外は全て、甘い、のである。
(略)
 それがリアリズムというものなのだろう。(略)
 だが時々、私は本気で心配になることがある―
 ―例えば二十年先がどうなるのかを、彼らはまるで考えてないのではないか」

『掠奪美術館』この日記のため四半世紀ぶりに読み返したけど、やー、改めて面白かった。とくにダヴィッドが描いたナポレオンの「男であることの病」を論じた一章は、かつて身も蓋もなさにゲラゲラ笑ったものが、四半世紀後の今となっては現実が追いつきすぎて笑えないという…

2019年の三冊(2020.01.05)

 と言いつつ、2019年に出た本は一冊しかない。すでに紹介した本の蒸し返しもあります。まんがも一冊。互いに関連しないし、方向性も濃度も違う。三冊の内どれか気に入れば他も…は逆に保証しかねますけど、どれか気になるのがあれば。


 1)温又柔台湾生まれ、日本語育ち』(白水社Uブックス) すまん、親本は2015年です…
 文筆家としても鳴らした漫画家の吉野朔実さんが、かつてこんなことを書かれていた。
 夜中のTVでやっていた政府広報。こんなコピーでした。
「外国人だから、身体障害者だから、差別地区出身者だから、女だから、子供だからといって差別をするのはやめましょう」
 私は、自分が差別されているなんて、それまで知りませんでした。
 これによると、差別されていないのは、
「日本国籍のある差別地区出身者ではない健常な成年男子のみ」
 ということになります。
 自ずと、差別をしているのはこの人達なのだと解ります。

(『眠れない夜には星を数えて』大和書房)
 日本国籍を有すること。一応まあ健康であること。ヤマトンチュであり、シャモであり、もしかしたら東洋鬼や日本鬼子でもありうること。選挙権を有する大人であること。そして男性であること。多くの局面で己が強者・マジョリティであり、寝返りを打てばネズミをつぶしてしまう象になりうること、その加害性に無頓着ではいられない。
 タイトルどおり「台湾生まれ、日本語育ち」という経歴をもつ著者の思いを、簡単に「国籍や育ちなど関係なく、誰でも感情移入できる普遍的なものだ」とマジョリティが言うことは、場合によっては詐取や簒奪・強奪になりうる。

 と前置きしたうえでなお、このエッセイが放つメッセージは感動的だ。マジョリティかマイノリティかに関係なく(と、ああ、簒奪したくなってしまう)人は自分になる・自分であるためには、自分だけの言葉を発見し、獲得し、確立しなければならない。レッド・ツェッペリンの「天国への階段」が、たった一つの「その音」を見つけられれば、すべての迷いが晴れ、吾々はあの「階段」にたどり着けるだろう(でもって、その音を奏でるのは俺たちだ)と謳ったように(そういう歌詞なんですよ)、「その言葉」を見つけた喜びを著者は歌う。
書き終えた瞬間、読まれたいという欲望が、書きたいという衝動を、はっきり上回った
(強調は原文の傍点に基づく)
日本人以外の出自を持ちながら日本語での表現を追究しつづけた先達・李良枝を卒論のテーマに選んだ著者は「あなたは李良枝をとおして自分自身を語ろうとしているに過ぎない」と注意される。それを踏まえて、著者は言う。
ひょっとしたら、いつかだれかが、わたしの小説をとおして、彼自身について、彼女自身について、語らずにはいられなくなるかもしれない?
 それを夢想するとき、わたしは狂おしいほど、すがすがしい。
(こちらの強調は引用者)
 ところがページを繰ると、この著者が「台湾生まれ、日本育ち」であり続けるために、自ら発することを望まぬ言葉を求められる。要は行政上の申請書類というやつだ。制度ともシステムとも、国家とも「日本」とも呼ばれるものに強いられた「言葉」を著者は呑み込めず、タオルを投げるように他者に委ねる。先のページで歌われた喜びが高らかなだけ、この落差は強烈だ。
 著者の感受性と、著者の立場だから気づき得た、この「自分のものでない言葉の強制」は、けれど著者だけのものではないだろう。「自身をこのように語れ」と望まぬ言葉を強要されるとき、人は誰でも「マジョリティかマイノリティかに関係なく」と自称しうる、被抑圧者の立場になる。被抑圧者であり抵抗者・「狂おしいほど」に自分でありたいと望む、一個の個人に。
 

2)シモーヌ・ヴェイユギリシアの泉』(みすず書房) こちらに至っては70年前の文章だ…
 こちらについては、すでに昨年3月の日記(こちら)で書いてるので割愛いたしますが…
 まあ三冊選ぶなら、この本も(だろう)と昨年のうちにボンヤリと決めていて、年が明け、1月3日。トランプ大統領の命令下、イランの有力者ソレイマニ司令官が爆撃で殺害され、イギリスほか世界中のTwitterのトレンドには「第三次世界大戦」という言葉が並んだ。

(バグダッドは殺害の場。「コーチェラ」だけは無関係な、ロック・フェスティバルの会場だ)
「いつでも人間というものは不在の敵よりはるかに強い 出発のときは、かれらの心は軽やかである」
戦場に向かう男たちの、古代ギリシャから第二次世界大戦まで変わらない軽率さと死を前にした無力。そして、そんな軽率さすら許されず奴隷として踏み台にされる、さらに弱い女性たち。ヴェイユが透徹した目で見透かしたこと・白くなめらかな石に鉄筆で刻むように書いた言葉は、戦場へと駆り立てられる者たち・送り込む者たちに届くことがあるのだろうか。
 世界じゅうのTwitterが「World War III」のハッシュタグで埋め尽くされているころ、日本のトレンドだけは、テレビの正月特番の話題で埋め尽くされていた。昨年末のうちに国会をとおさず、政府が閣議だけで決めた海上自衛隊の中東派遣は「盟友」トランプの、この暴挙のあとでも強行されるのだろうか。

 いつまで、こんなことを許し続けるつもりなのか。取り返しがつかなくなるまでか。


3)こめり月にむら雲、花にあらし』(Jパブリッシング)
 これはどうにか昨年の本。最近ますます漫画を読まないようになった+BLには、それこそ傑作や力作が山ほどあるのかも知れないけれど、たまたま(縁あってと言え)手にしたコレが好かったので。
 第一話に相当する部分が著者のTwitterで公開されていて(→こちら。「十年来の親友にまた告られた話)読んだら好ましく、即座に単行本を購入。
 京都の若き日本画家という(関東の庶民には)夢物語に近い設定、でも美大生が就職は出来そうになくて才能を頼みにどうにか絵画で食っていきたい的な生活感の取り合わせが面白い。登場人物みんな京言葉で、んー、やはり憧れの気持ちが勝るか。
 BLに登場する女性キャラの、言うたら「待遇が良い」と何か嬉しくなるみたいで、本作は「ばあちゃん」「画廊の尚子さん」とも良キャラでした。なんか酸いも甘いも嚼み分けた女性たちが、いちばん年若の男子カップルを「よしよし」と雑にかわいがってる感は、BLを愛でる女性(あるいは男性でも)をメタ的に表してるのかも。
 もっと激しく読む者の気持ちを上下させ、かきむしり、打ちのめす作品もフィクションならあるのだろうけど。もっと難しい世界の深奥を考えさせたり、社会の不均等をこれと指差し義憤をうながす書もあるのだろうけど。そうでなく枕元に置いておける本もほしい。そしてそういう逃避ともいえる本も、できれば誰かを踏みつけないもの、そしてやっぱり少し上の感性が行き来してる世界を垣間見させてくれるものがいい。2019年の自分には、これが「いい塩梅」の一冊でした。

 2020年は積ん読から片づけていく、そして年の後半はブローデルの大著『地中海』が解禁となる(条件を課していた)予定。

あけましておめでとうございます。(2020.01.01)

Web書道.comで作成した画像を編集・加工しました…
 ポーランドで生まれ、イギリスで亡くなったジグムント・バウマン(1925〜2016)という社会学者が『リキッド・モダニティを読み解く』(ちくま文庫)というコラム集で書いています。「新年に祝うものは希望である」と。
 これがほしい、あれを叶えたいではなく。
「今度こそ(中略)希望が挫折したり、砕かれたりしませんように、
 決意が希望を見捨てず、途中で萎えたり、停滞したり、活力を失ったり、過去の希望や決意と同じ道をたどりませんように……。
 毎年新年に祝うのは希望の再生なのである

 イギリスでは願いというより、決意をあらたにするらしい。悪い習慣を断ち、良い習慣を身につける。大事にすべき人を大事にする。具体的な方策は人それぞれでも、要は心を入れ替え、真人間になる。今年こそ、今年こそ…そうした異郷の風習を、たぶんバウマン先生は少し皮肉に、けれど慈しんでいたのだろう。
 …新年に神社で手を合わせ、思いつくことがない時は、岡倉天心の『茶の本』に出てきた慈悲と節倹と謙遜というフレーズ(順番は違ったかも知れません)を唱えるのですが、またソレで行くにせよ、もう少し気の利いたことを思いつくにせよ、今年は「この新年の願いが、くじけませんように」と付け加えてみるのも良いかもと思った次第。皆様の願いもまた、叶いますよう。
 

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