まんがなど
(24.07.17更新)
『リトル・キックス e.p.』を追加。



発行物ご案内
(19.12.01更新)
今年の新刊まで追加・整頓しました。
電書化、始めました。
電書へのリンク
こちらから
、著者ページが開きます。

過去日記一覧(随時リカバリ中)

過去日記キーワード検索
終了しました(22.11.19)
Author:舞村そうじ/RIMLAND
 創作同人サークル「RIMLAND」の
 活動報告を兼ねつつ、物語とは何か・
 どんなメカニズムが物語を駆動し心を
 うごかすのか、日々考察する予定。

【最近の動向】
当面は新刊がない予定です。

WebまんがSide-B遅々として更新中。

小ネタですが本篇更新。三年ぶり。(23.12.24)

旧サイトは2014年8月で終了しました(お運びいただき感謝)。再編集して、こちらの新サイトに少しずつ繰り入れますが、正直、時間はかかると思います。

[外部リンク]
comitia
(東京名古屋新潟関西みちのく)
あかつき印刷
POPLS

日本赤十字社

愛と劣情の馬たち(Instagram)

if you have a vote, use it.(save kids)


港の上に広がる空の写真を背景にロゴ「MY税金 MY CHOICE 防衛所得税 導入反対」
ロゴは勿論「MY BODY MY CHOICE」が元ネタなので、流用すな・簒奪やめいという場合は修正します。(24.12.13)

(25.03.23)メイン日記(週記)更新。数十年来寝かしてたネタなので、今回は(長いけど)スッキリまとまってると思う。レッド・ツェッペリン「天国への階段」について。画面を下にスクロールするか、直下の画像をクリックorタップ、またはこちらから。


(25.03.24/すぐ消す/月末に拾う)大阪万博に比べると1/5くらいの規模らしい?のだけど?なんだろう、わが横浜市には伊勢神宮の式年遷宮みたく20年周期で、胡乱なイベントに予算を焼尽する儀礼でもあるのかしら(それは式年遷宮じゃなくてポトラッチ)いや、あきれてるんです。国際園芸博の建設費、97億増 横浜市が警戒する「万博から飛び火」(朝日新聞/25.03.11/外部リンクが開きます)
※あまり知られてないかも知れないけれど2009年にもY150開港博という大惨事がありましたのさ…
※かく言う自分もGREEN EXPO27については倍々に増える水草が池の半分を覆うまで(地味すぎて)目を背けてた反省はあるます
(25.03.04/すぐ消す)大規模な山林火災に見舞われている大船渡、地元の「キャッセン大船渡」が地元密着型の支援を募っています。カード決済可:
【拡散・周知のお願い】大船渡山林火災の支援活動を行う市内3団体への支援について(25.03.03/外部リンクが開きます)
 2018年に一度だけ訪れた時の大船渡。雲の多い空に大きくスペースを割いて、緑の山々を写した写真。
自分は取り急ぎ2025年岩手県大船渡 山火事緊急支援(ピースウィンズ・ジャパン/Yahoo!募金/外部リンクが開きます)に小額寄付したのですが、より細密な支援を望む人はキャッセンのほうも御検討を。
当面存置。署名:国保料が高すぎる!国の責任で払える保険料にしてください!(中央社保協/24.6.19/Change.org/外部)
【電書新作】『リトル・キックス e.p.』成長して体格に差がつき疎遠になったテコンドーのライバル同士が、eスポーツで再戦を果たす話です。BOOK☆WALKERでの無料配信と、本サイト内での閲覧(無料)、どちらでもどうぞ。
B☆W版は下の画像か、こちらから(外部リンクが開きます)
電書へのリンク

サイト版(cartoons+のページに追加)は下の画像か、こちらから
サイト内ページへのリンク

扉絵だけじゃないです。side-B・本篇7.1話、6頁の小ネタだけど更新しました。

(外部リンクが開きます)
今回ひさしぶりにシズモモの過去エピソードを見直し「やっぱり好きだな、この話とキャラたち」と再認できたのは幸せなことでした。そして色々あったり無かったりしても、ペンを持って物語を紡いでいる時が、自分は一番幸福らしいとも。次に手をつける原稿は(また)シズモモではないのですが、何しろ描くことは沢山あるのです。
ちなみに今話タイトルの元ネタは井上陽水の「愛されてばかりいると(星になるよ)」。同曲が収録されたアルバム『ライオンとペリカン』のB面(side-B)に入ってる「お願いはひとつ」は個人的に一番好きなクリスマスソングの最有力候補です。レノンと争う。
RIMLAND、電子書籍オンリーですが20ヶ月ぶりの新刊『読書子に寄す pt.1』リリースしました。
タイトルどおり読書をテーマにした連作に、フルカラー社畜メガネ召喚百合SF「有楽町で逢いましょう」24ページを併催・大量リライト+未発表原稿30ページ以上を含む全79ページ。頒布価格250円(+税)で、一冊の売り上げごとに作者がコーヒーを一杯飲める感じです。下のリンクか、こちらから。『読書子に寄す pt.1』電書販売ページへのリンク画像
書誌情報(発行物ご案内)はおいおい更新していきます。(22.11.03)
【生存報告】少しずつ創作活動を再開しています。2022年に入ってから毎週4ページずつ更新していたネーム実況プロジェクト、7/29をもって終了(完走)しました。
GF×異星人(girlfriends vs aliens)

これまでの下描きは消去。2023年リリース予定の正式版をお楽しみに。(2022.08.08→滞ってます)

たったひとつの〜レッド・ツェッペリン「天国への階段」(25.03.23)

 「天国への階段」は名曲、「天国への階段」は名曲と皆が言うのに、うんうん名曲だよねと頷きながらフォーク・クルセイダーズの「帰ってきたヨッパライ」を思い浮かべてたという話が大好き。いやたしかに登るけどさ階段!長い階段をさ!

    ***   ***   ***
 たぶん昔は、原盤となる海向こうのレコード自体、歌詞に重きを置いてなかったのだろう。(特に非英語圏の顧客あたりを想定して)英語の歌詞を印刷してつけておこう、なんて慣習自体なかった・少なくとも無くても非難はされなかった・のかも知れない。
 昔の日本版LPに(あの大きなジャケットと同じサイズの紙で)ついてきた歌詞カードには、今では信じられないだろうけど「……の部分は聴き取り不可能」と匙を投げたモノや、特に聴き取りが難しい特定の一曲あるいは全曲まるまる歌詞が抜け、日本人のロック評論家による解説だけになったモノなどあった。
 その一方、輸入して売る側もテキトウで?ミュージシャンやレコード会社が出した正式なアルバムでなく、勝手に編集された「ベスト版」と称するカセットが「本人の歌声で収録」なる謳い文句つきで(たぶん勝手に)廉価で販売されたりしていた。ひょっとしたら今も高速のサービスエリアなんかで売られてるのかも知れない。ちなみに「本人の歌声で収録」は洒落じゃなくて、かつて(洋楽ではない日本の歌手の)勝手編集版カセットだかCDだかで「本人の歌唱じゃない」物件をつかまされた知人がいる。私たちはすでにアナキズムを生きているのだ(笑)
 …レッド・ツェッペリンの「移民の歌」は、最初そういう勝手編集(つまりは海賊盤か)のカセットで聴いた。でんでけでけっ・でんでけでけっ・あああーあっ!というイントロで有名なアレだ。いちおう丁寧に全曲の歌詞(邦訳はなし・英文のみ)が小さく折りたたまれた紙に印刷されていて、北大西洋の厳しい氷雪をわたるヴァイキングはサビのキメ台詞をこう叫ぶのだった:
 I wanna go (俺は行きたい)
 where there are rest and show (休息とショーがある場所へ)
 「I want to go where there are rest and show」のキャプションを添え、スポットライトを浴びて踊る羽飾りなんかつけたショーガールたちを背景に、ヴァイキングの角つきカブトをかぶってビールジョッキを傾けるロバート・プラントの絵。酒は美味いしねーちゃんはキレイだ(誤)
なんだか伊東か熱海の温泉ホテルみたいだが、ショーを見ながらゆったり休息、まあ気持ちは分かる…と思ったら数年後、こちらはレコード会社から公式に発売されたベスト版・知ってるひとは知ってると思うけど一時期UFOの仕業かと騒がれた麦畑のクロップマークをあしらった二枚組・四枚組CDについてきた歌詞は、まったく別の代物だった:
 I only go (俺が行った場所といえば)
 where there are less than shown (外見に劣る場所ばかり)
まあ「ショーと休暇」もまだ「行きたいよぉ(泣)」なので現状「行く先々で失望ばかり」と大して違いはないとも言える(?)
 さらに後年、この二番目の英詞すら間違っている
・本当の歌詞はこうだという風聞を目にしたけれど、さすがにもうどうでもよくなってしまい(もういいじゃんless than shownで)この件は放置している。
Led Zeppelin - Immigrant Song (Live 1972)(YouTube/外部リンクが開きます)
 後述するように、ツェッペリン三枚目のアルバムの開幕を告げる同曲には、そこそこ強烈な矜持とメッセージが込められている(推測)のだけれど…

      *     *     *
 しかし1972年に発表された四枚目のアルバム・A面ラストの収録曲「天国への階段(Stairway to Heaven)」は意気込みが違った。例の大きなLPジャケットの内側に入った、レコードを納める内袋が紙製で、そこに擬古調のフォントで同曲の歌詞だけが直々に印刷されていたのだ。これだけは過たず伝わってほしい…と思ったかどうかは知らないが、少なくとも並々ならぬ自信と自負が感じられた。
 それでいて、何を言ってるのかサッパリ分からない歌詞だった。分からないなりに家にあったタイプライターで歌詞を筆耕して、壁かなんかに磁石で貼って眺めたりして、数日後ふいに意味が分かった(気がした)。あーコレは確かにすごいねと感心させられた。なので、その話をする。
 『レッド・ツェッペリンIV』図解。レコードジャケットの中に「天国への階段」の歌詞(英語)が印刷された内ジャケットがあり、その中にレコード盤が入っている
 もちろん今ではネットの何処かで「この歌詞の意味はこう」と、自分が書くより余程ちゃんとしたレビューがあるのかも知れない。でもまあ、同じ観光地やラーメン屋に行った人たちだって「ここについては他のひとが書いてるから自分はいいや」とは思わずに、独自のレビューを書くじゃないですか。逆に今どき「天国への階段」でもないだろうという気もする。正直、フォーク調で始まり終盤ハードロックをぶちかましつつ最後また抒情的に終わる曲調は、僕が初めて聴いた80年代なかばでも既に古めかしかった。いや、リリース当時だって「名曲っぽいのは分かるけど、ちょっと古くさくね?」と思われていたかも知れない。けどまあ昔はロック史上に残る名曲みたいに言われていた。そして、そう言われるだけの、ふてぶてしいまでの歌詞ではあった。
Led Zeppelin - Stairway To Heaven (Official Audio)(同/外部リンク)

 メランコリックなフォークギターのイントロに続いて、歌が始まる。
There's a lady (一人の貴婦人がいて)
 who's sure (彼女は確信している)
 all that glitter is gold (輝くものはすべて黄金だと)
And she's buying a stairway to heaven (そして彼女は天国への階段を買おうとしている)
 この歌詞が自分に(数日後ふいに)「分かった」気がしたのは「輝くものはすべて黄金だ」というフレーズに憶えがあったからだ。ただし否定形で「輝くものすべて黄金ならず」(All that glitter is not gold)という。シェイクスピア『ヴェニスの商人』に登場する台詞だ。
 第二幕第七場、美しい貴婦人ポーシャは求婚者たちに金・銀・銅いずれかの箱を選ばせる。結婚の証となる指輪が入っているのは銅の箱で、金の箱を選んだ者には上記「輝くものすべてが黄金とは限らない(見た目に惑わされた求婚者さん残念でした)」というメッセージが入っている。元々この「箱選び」はラテン語の元ネタがある話で、それをまた別にあった「血1ポンド」の話とマッシュアップして沙翁は戯曲化したらしいけれど(Wikipedia調べ)その話は措く。輝くものが黄金とは限らないという格言は逆に、沙翁の時代のヨーロッパが急速に「金で買えないものはない」的な貨幣経済のエートスに侵略されつつあった反動かも知れないけれど、その話も措く。
 要は「輝くものが黄金とは限らない」という慎み・抑制に対し「いいや、私は輝くものは全て黄金だと信じる」=金で・力で・あるいは意志によって獲得できないものはないと信じる貴婦人がいて、その信念のもと彼女はまさに天国に至る階段まで「買おう」としているわけだ。
When she gets threre (そこに辿り着いた時)
 she knows (彼女は知っている)
 if the all stores are closed (すべての店が閉まっていも)
 with a word (言葉ひとつで)
 she can get what she came for (彼女が来た目的のものは手に入ると)
…And she's buying a stairway to heaven (そして彼女は天国への階段を買おうとしている)
 怖いものなしだった彼女の旅路に、けれど疑念が挿しはじめる。
There's a sign on the wall (壁には印がある)
But she wants to be sure (でも彼女は確信がほしい)
 'cause you know (なぜなら君も知るとおり)
 sometimes words have two meanings (時に言葉には二つの意味があるから)
In the tree by the brook (小川の傍らの樹に)
 there's a songbird who sings (鳥がいて歌っている)
 sometimes all of our thoughts are misgiven (時には私たちの考え全てが誤って与えられたもの=誤解なのだと)
 最初は「彼女は」天国への階段を買おうとしている、と歌っていたコーラスの主語が
It makes me wonder (それは私を彷徨わせる)
…(It)makes me wonder (私は彷徨う)
と一人称に替わると「彼女」はかき消え、歌はスルッと「私」の物語を歌いはじめる。
There's a feeling I get (ひとつの感覚が私を捉える―)
 when I look to the west (―西のほうを見た時に)
And my sprit is crying for leaving (そして私の魂は出立を求めて泣いている)
この「西のほうを見て何か感じた」というフレーズは(のちに有名な『アメリカン・サイコ』-未読だし映画も未見だけど-を書くことになる)ブレット・イーストン・エリスの小説『レス・ザン・ゼロ』のエピグラフに使われていて、僕には分からない特別な意味があるのかも知れないけれど分かりません。あと自分の解釈として「私」は「移民の歌」のヴァイキング同様に西に行きたくて魂が泣いていたので、一応それには深い意味があるのかも知れないという話は後でします。
In my thoughts I have seen (想像の中で私は見た)
 rings of smoke through the trees (樹々の中にいくつもの煙の輪を)
And the voices of (そして声を聞いた)
 those who stand lookin (そこに立って見下ろす者たち(の声を))
It makes me wonder (それは私を迷わせる)
really makes me wonder (本当に迷わされてしまう)
正直このへんはサッパリ分からない。繰り返されるwonderが「僕はあちこちを彷徨ってしまうのだった」の、ワンダーラストのワンダーなのか、「とっても不思議」ワンダフルのワンダーなのかすら、英語ネイティブでない自分には判別できない。両方の訳を混ぜてみました。まさに「時に言葉には二つの意味がある」のです。上手いこと言ったつもりか。
 けれどこの『指輪物語』みたいな?謎描写も、そう長くは続かない。実は今回あらためて歌詞を見直すまで「私」はもうちょっと長くこの、煙の輪がプカプカ浮かぶ謎の森を彷徨うのかと思っていたのだけれど、せっかちめに歌詞は核心に入る。「立って見下ろす者たちの声」の内容が詳らかにされるのだ。
And it's whispered that soon (その声は囁いた、すぐにでも)
 if we all call the tune (私たちが皆でその音を鳴らせば)
Then the piper will lead us to reason (笛吹きが私たちを理性へと導き)
And a new day will dawn (新しい夜明けが訪れる―)
 for those who stand long (―長く立っていた者たちに)
And the forests will echo in laughter (そして森に笑いがエコーする)
たったひとつの「その音」を鳴らすことが出来れば、笛吹き(ちょっと待て笛吹きって誰だ)が私たちを理性(reason)へと導いてくれる。冒頭の貴婦人のくだりでも(彼女は)言葉ひとつで欲する何でも手に入れられるだろうと示唆されてはいた。しかし言葉には二重の意味があり、時に全ては誤解かも知れない―けれど「音」は言葉より疑う余地がない。ダブルミーニングの言葉がもたらしかねない迷妄は打ち払われ、誰もが待ち望んでいた夜明けが訪れる。
 はっきり銘記されてはいないけれど、歌詞が表明しているメッセージはこうだろう:その「音」を鳴らすのは吾々(レッド・ツェッペリン)。あるいはもっとハッキリ、この曲(天国への階段)がそれだ、と言ってるのかも知れない。
 ここで宿題にしていた「西」の話を回収する。まず「移民の歌」なのだけれど、あれはショーを見ながら休みたい・または行った先でも失望しかない「だけ」の歌ではない(だろう)。イギリスにおいてアルバム『レッド・ツェッペリン』でデビューし、全米ツアー中に大急ぎで制作された『レッド・ツェッペリンII』はアメリカのチャートでビートルズのラストアルバムだった『アビイ・ロード』を一位の座から蹴落としたという伝説がある。We are your overload―吾々がお前たちのオーヴァーロード(支配者)だとうそぶく「移民の歌」は、彼らのアメリカ征服宣言だという解釈はそう間違ってないと思う。「天国への階段」の「西」もまた、改めての全米(ひいては世界)制覇を示唆しているのかも知れない。いや、どちらでもいい話だ。歌詞の企図はすでに小さなアメリカを超えている。

 たったひとつの音さえ見つかれば世界の混迷は打ち払われる(その「音」を鳴らすのは俺たちだ)という結論は早々に出たのだけれど、怒濤の終盤を前にして足踏み・歌詞はしばらく彷徨を続ける。まあ、つきあってもらおう。
If there's a bustle in your headgerow (君の生け垣に騒がしい音がしても)
 don't be alarmed now (警戒することはない)
It's just a spiring clean for the May Queen (それは五月の女王に捧げられたただの春雨だ)
という一節は「そうですか、たいへん結構ですね」と雰囲気でパスするとして
Yes, there are two path (そう、道は二つある)
 you can go by (君の進める道は)
But in the long run, (だけど長い目で見れば)
 there's still a time (時間はまだある)
 to chang the road yout're on (君が進む道を変えるための)
は、国政選挙や知事選挙の前なんかに思い出してほしみが強い(本サイトでも前に引用してるかも知れない)。
 (既に結論は出てるのだけど)歌詞は一気に核心に入る。
Your head is humming, (君の頭がブンブンとうなって)
 and it won't go, (それが消え去らない時)
 in case you don't know (君は知らないだろうけれど)
The piper's calling you (笛吹きが呼んでいるのだ)
 to join him (彼に加わるようにと)
謎の笛吹きに続いて、ついに「彼女」が再登場する。
Dear Lady, (親愛なる貴婦人よ)
 can you hear (聞こえますか)
 the wind brows? (風が鳴るのを)
And did you know (御存知だったのですか)
 your stairway lies on the whispering wind (あなたの階段は囁く風のほうにあると)
 でででーん。でででーん。でででーんでーんでーん。
 ここまで続いたフォーク調から一転、ハードロックの間奏が始まる。激しくドラムが打ち鳴らされ、ギターソロを経て突入するクライマックスの主語は一人称複数の「吾々」だ。
And as we wind on (そして吾らはよろめき)
 down the road (その道を進む)
Our shadows taller (吾らの影はなお高い)
 than our soul (吾らの魂よりも)
このwindはウインド・囁く「風」ではなくビートルズの「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」=長く曲がりくねった道、と同じ動詞のワインド。正しいはずの「道」は曲がりくねって、「私たち」は自分の影に圧倒されそうになる。けれど、見よ:
There walks a lady (あの貴婦人が歩いている)
 we all know (吾々みんなが知っている彼女が)
who shines white light (彼女は白い光を輝かせ)
 and wants to show (示したがっている)
how everything (いかに全てのものが)
 still turns to gold (それでも黄金に変じうるのかを)
 さっきは仄めかしだった「あの貴婦人」が白のガンダルフのように輝く完全体で現れて、迷う「吾々」を先導する。それでも(still)あらゆるものは黄金に変わりうるのだ、不可能はない、手に入らないものはない―そう勝ち誇る彼女から、主語のバトンは「君」に渡される。
And if you listen very hard (そして君が懸命に耳をこらせば)
 the tune will come to you at last (あの音はついに君に訪れるだろう)
When all are one, (全てのものが一つになり)
 and one is all (一つが全てになる時)

 分かった、分かった、すごいよ、エモいよと言わさんばかりに畳みかけたクライマックスの歌詞は、しかし最後の最後になって、恐ろしいどんでん返しをする。
 混迷は打ち払われる、圧倒する影は光に消し飛ばされる、すべてのものを黄金に変えることだってできる、不可能はない、君にも「あの音」が聞こえるはずだ、全ては1で、1は全てだと謳いあげた歌詞がなだれこむのは―以上の内容は初めて知ったよ・あまり深く考えてなかったよという人でも「あ、うん、そっちは知ってる」となるかも知れない有名な結語だ。
To be a rock, (一つの岩になる)
 and not to roll (もう揺らぐことはない)
…もちろん歌は最後に再びフォーク調に戻って
「And she's buying a stairway to heaven…」と余韻を残して終わるのだけど、それにしたってTo be a rock, and not to rollだ。いや、ここまで積み上げられた歌詞からすれば間違ってはいない。揺るぎない一つの岩になる。けれど何でも手に入る・不可能はない・たった一つの音さえあればと謳い上げた歌詞の結語が「ロックンロール(rock and roll)」という言葉の半分しか肯定できない・もう半分を容赦なく切り捨てるものだった皮肉はどうだろう。
 キャプション「まあ今どき天国への階段でもオデッサの階段でもないのは分かってますけどね…」と、大広場の階段に腰かけ頬杖をついた羊帽の女の子(ひつじちゃん)のイラスト。傍らでは『戦艦ポチョムキン』とは逆にロングスカートの女性や水兵が階段を駆け登っている
      *     *     *
 この時「ロール」を切り捨てたことでハードロック・バンドの雄レッド・ツェッペリンは唯一無二の頂点をきわめながら固い岩のように硬直し、やがてロール=転がる初期衝動を体現したようなパンク・ロックの台頭に蹴落とされる…渋谷陽一氏などが唱えていたような気がする「史観」は、少し単純化が過ぎるだろうし話が無駄に広がるので省略する。ツェッペリンの全盛期は(ドラマーの急逝まで)以後も続くし、後半グダった前々回・終始グダグダだった前回の反省も踏まえて今週はロールしない・きっちりスジが通った話を書こうと思って、今となってはアンティーク感すらある「天国への階段」なぞ(失礼)を引っ張り出してきたのだ。
 そのうえで。
 「たったひとつの「音」なり言葉なり、概念なりが足りないがために吾々は混迷を強いられ、魂よりも大きな己の影に圧倒されているのかも知れない・たったひとつの「それ」さえあれば、森は笑いで包まれるのだ―という発想は、前回の日記でル=グウィンの言葉を引いたように、抽象的な思考・思索に慣れたひとは早晩どこかで巡りあうものだろう。もしかしたら自分の場合は、このツェッペリンの歌詞が最初の出会いだったかも知れない。
 反面というか表裏一体というか「天国への階段」の歌詞は、そうして「たったひとつの」音なり言葉なりで混迷の世界をスパッと割り切れた…と思ったら、それはRock and RollのRollのように「スパッと割り切れない半分を切り捨ててしまう」限界まで(書いた当人の意図はともかく)示唆している点で、さらに含蓄が深い。
 
 人は概ね言葉で思考する。えらく抽象的な「たったひとつの鍵さえあれば」とか「割り切ろうとすることの限界」みたいな概念を、最初はロックの歌詞を通して知るなんてことも、それが言葉である以上、あっておかしくはないのでした。


(追記)その後も長く続いたツェッペリンの全盛期も、昔は「アルバムでいいのは8枚目まで・9枚目はちょっと…」みたいな意見が幅を利かせていて、鵜呑みにして聴くのが遅れてしまったのだけど9枚目のアルバム『In Through the Out Door』も決して駄作ではない。
というか聴くのが遅れたせいで長らく知らなかったのだけど、同9枚目に収録された
Led Zeppelin - Carouselambra(Youtube/外部リンクが開きます)
の「ぱぱぱーぱぱぱーぱぱ」とパンチのあるブラスセクション(に模したキーボードだと思います)、80年代の日本の有名な有名なロック・バラードのイントロの元ネタ、これかー!と…いや、そっちは別に好きな曲でもないのだけど、逆に「よくココから拾ってきたなあ」と感心してしまった。JR仙台駅の発車メロディになってた気がします。

いつか目が鍛えられれば〜カトリーヌ・マラブー『泥棒!アナキズムと哲学』(25.03.16)

 学生時代、あまり話した憶えのない先輩に突然舞村くん(仮名)ってアナーキストだったよね?と問いかけられたことがある。
 「違いますっ」と即座に否定して数十余年。ようやく「自分はサヨクだけど、むしろアナキストかも知れない」と言える域に達しつつあるようだ(左翼の定義については23年4月の日記参照)。少なくとも「いま自分が考えてることってアナキズムかも」と感じる割合は増えた気がする。
 人が変わるには時間がかかる(こともある)。あるいは、時間がかかっても人は変わりうる。

      *     *     *
 カトリーヌ・マラブー泥棒! -アナキズムと哲学-』(原著2022年/伊藤潤一郎、吉松覚、横田祐美子 訳・青土社2024年/外部リンクが開きます)について書く前に「そもそもアナキズムって何だ?」から始める必要があると気がついた。マラブー先生(前々回の日記参照)はプロの哲学者なので1・2・3あたりはスッ飛ばして軽く10くらいから話を始めてしまうのだけど、今回は1から足場を固めてみたい。

 まずもってアナキズムは「無政府主義」と訳される。ネット検索で「アナキズム」を引くと
「一切の権威,特に国家の権威を否定して,諸個人の自由を重視し,その自由な諸個人の合意のみを基礎にする社会を目指そうとする政治思想(中略)管理社会化が進展する今日的状況において,支配なきユートピアへの願望の表現であるともいえるが,それを実現する現実的基盤を欠くことが多い」(コトバンク/ブリタニカ国際大百科事典)
これはこれで簡潔にまとまっている。けれど19世紀〜20世紀前半に盛り上がったアナキズム運動(今の制度をぶっ壊せ!後は何とかなる!)がボルシェビズム(共産主義。今の制度をぶっ壊せ!そしてすべての権力をソビエトに!)との角逐に敗れ、「今の制度」国家と資本主義の結託も覆せなかった時点で認識が停まっているのが難だ…と、マラブー先生ならダメ出しする知れない。
 実際にはアナキズムは過去ではない。現実化もしてきた。メキシコのサパティスタ運動、アメリカのオキュパイ・ウォール・ストリート、フランスの黄色いベスト運動、イスラエルのAATW(アナキスト・アゲインスト・ザ・ウォール)他にもギリシャやスペインで色々あったはずだ、冷戦終結後の世界で実践として・思想としてのアナキズムは息を吹き返している。けれどそれらの運動は、経済の動向や国同士の争いが気がかりの中心になる「今の制度」上ではニュースサイトの前面にピン留めされず、すぐ色あせ忘れられてしまう。

 アナキズムは過去でも夢想でもない、現役バリバリの実践的な思想だよ!と説く本に、たとえば主に人類学からアプローチした
松村圭一郎くらしのアナキズム(ミシマ社2021年/外部リンクが開きます)
がある。入門者向けの好著ですが
 などと言うと偉そうですが「入門者=私」ですからね(その程度の「自分がどこにいるか」感覚はある)と己を指さす自画像
アナキズムの現在性を説くために
「いまは国家が公共領域から撤退しつつある。日本でも過去数十年にわたり、国鉄や郵政など国営事業の民営化が進んできた。最近は図書館や児童館ですら民間業者に委託(いたく)されはじめている。
 
(中略)政府の転覆を謀(はか)る必要はない。自助をかかげ、自粛にたよる政府のもとで、僕らは現にアナキストとして生きている
と書き起こす冒頭は、なるほど見事なツカミだけど何かおかしい
 いや、たしかに今、少なくとも日本で起きていることの一部は、言うなら政府主導の無政府状態だ。新型コロナや高額医療費問題、とくに昨年の米価高騰で噴出した物価問題、そして度重なる災害での支援の遅れ・あるいは無策。
 昨年はじめ、能登半島が震災に見舞われたとき政府与党の自民党が何をしたか憶えているだろうか。国内のボランティアを閉め出し、海外からの支援を拒絶し、国家としての役割をアナーキーに放棄した政府与党は、こともあろうに自党の議員が日本赤十字社の募金の窓口になることを「震災対策」としたのだ。有権者が本気(ガチ)で目覚めないかぎり数年後〜十数年後には順当に総理大臣になる小泉進次郎が、募金箱を手に子どもの前に腰を下ろし笑顔で「目線を合わせ」た写真が目に焼きついている。
・参考:「地元で街頭募金を実施した小泉進次郎議員【写真】」(中日スポーツ24.01.08/外部リンク)
政府が何もしないから仕方なく皆が自発的に(アナーキーに)始めた子ども食堂を簒奪し「子どもの皆さん。皆さんには子ども食堂があります。頑張ってください。内閣総理大臣・安倍晋三」と恥ずかしげもなく自分の手柄のように呼びかけた先任者の、さらに愚劣なパロディだ。
 なので「今の日本こそアナーキー・イン・ザ・JPじゃん」と中指たてたくなる気持ちは分かる。けれど政府なんて要らねえ・国家を廃絶せよと叫ぶアナキズムと、政府・国家じたいが「お前らのために働くなんてヤンピ・自分たちで助け合ってね」と責務を放棄する官製アナキズム(?)を一緒くたにしていいのか?
 書影。『暮らしのアナキズム』(左)と『泥棒!』(右)
 いくない、とマラブーは言う。
 要するに、状態としてのアナーキー(無政府状態)と、理念としてのアナキズム(無政府主義)を峻別し、後者を救い出す必要があるのだ…というのは自分の言葉で、マラブーはこれを「事実としてのアナキズム」「目覚めとしてのアナキズム」と呼ぶ。専門家に敬意を表して今後は彼女の語彙で話を進めます。
 そもそも「目覚めとしてのアナキズム」自体、19世紀後半くらいからプルードン、バクーニン、クロポトキンなどによって整備された新しい概念だった。それ以前にも、それこそ古代ギリシャの昔からあった悪しき無政府状態・国家なり行政なりが機能を停止し、ヒャッハーとモヒカンの暴走族が略奪をほしいままにする(いや古代ギリシャでヒャッハーはないと思うが)カオスな状態を指す言葉だった「アナーキー」を、いいやアナーキーでいいんだ、政府がなくても人々は相互扶助でやっていける(ここ重要)、むしろ積極的にアナキストを名乗りたいねと言葉を奪った・意味を書き換えたのが「目覚めとしてのアナキズム」だと言える。
 しかし、いま世界を席捲しているのは「事実としてのアナキズム」」―国家が曲がりなりに持っていた国民生活の保護や人権の確保といった機能を放棄する一方で、資本と結びついた国家権力の支配・統制は強まる「ハイブリッドな組み合わせ」「アナルコ・キャピタリズム」(無政府資本主義)だ。
 「政治ジャーナリストの一部が冗談抜きにドナルド・トランプはアナキストだと主張するとき、ジャーナリストたちは言葉遊びをしているのではなく、世界中が重大な危機と感じているものを明確にしようとしているのだ」
 危機は分かるが、これでは真面目なアナキズムの立つ瀬がない。

      *     *     *
 国家の統制なんて邪魔だと主張する意味では、リバタリアンも新自由主義も、なんなら古典的なレッセ・フェール(自由放任主義)から「表現の自由」に差別の自由まで含めろと主張する者(イーロン・マスクとか)まで含まれてしまう。
 上からの統治や支配=垂直性を温存したまま「上」に居る者が自由放任を求める「事実としてのアナキズム」から、水平であれ・上からの(垂直に下りてくる)統治や支配を廃絶せよと求める「目覚めとしてのアナキズム」を切り離すために―
 ―ここからようやく本題に入る。本書でマラブーが「泥棒!」と糾弾するのはドナルド・トランプやマスクなど「事実上のアナキズム」の先導者(煽動者)たち、ではない。自身の同業者である現代思想のエースたちが「目覚めとしてのアナキズム」の標的である上からの支配=統治や支配、権力に対する分析や批判を通して、実践としてのアナキズムを理論面から側面支援しつつ、敵(統治)の敵ではありながら味方ではなかった、自身がアナキストであるとは決して認めようとしなかった不徹底を「泥棒!」自分たちだってアナキズムから思想的な恩恵を受けながら借りパクかよ!と次々(またしても)血祭りに上げる内容なのだ。
 その俎板に乗るのは(不勉強な僕が初めて名前を知る面々も含め)シュールマン、デリダ、レヴィナス、フーコー、アガンベン、ランシエール…本書の半分は「泥棒!」とは言いながら現代思想のエースである先達が敵の敵=統治や支配・権力に対峙し、分析し、解体に挑んだ半世紀の闘争史であり、と同時に彼らが各々の闘いを詰めきれなかった・あと一歩で「敵」をスルリと逃がしてしまった・そして自身をアナキストに変成しえなかった・後世に残してしまった「宿題」を手際よく(?)整理する。
 たとえば原著を読むたび難解さ・晦渋さに頭をかかえたくなる(けれど何か重要なことを言ってるらしいので力不足でもつい手に取ってしまう)ジョルジョ・アガンベンの思想の力点を知るのに「アガンベン入門」みたいな総論でなく「マラブーの問題意識からだけ切り取った」本書の記述は恥ずかしながら役に立つ。また個人的には「代表制が民主制の人口増大への仕方ない対応というのは虚偽で、その本質は寡頭制に他ならない」と厳しく指摘する一方(←先々週の日記に繋がる話ですにゃー)「奴隷であっても主人の命令を理解するという意味では知的に平等で、上下関係を最終的には破綻させうる」などと書いてるらしいジャック・ランシエール(1940〜)など気になりはじめている。それでもマラブーの手にかかると(それぞれの達成や美点は評価されつつ)全員「泥棒」の落第点をつけられてしまうのだが。
 これは多分に私見が入るのだけれど―そして何度か本サイトで書いてるように、多くのばあい思想や思考は(話がアナキズムでなくても)突き詰めると「これ以上考えると破綻してしまう」限界があるもの・なのではないだろうか。目が見えないまま象に触るのと同じは言いすぎかも知れないが、同じ問題意識を共有し、それぞれの問題意識で肉薄しながら、誰もが合意できる完全解には誰ひとり到達できない、そういうものではないか。
 かつてのアナキズムがテロリズムの同義語であり、公然とそれに与することに誰もが躊躇した点もあるのだろう。
 既存の権力を破壊して打ち立てられた体制が同様以上の抑圧者に変じたボルシェビズムの轍は踏めない一方、多くの蜂起が踏み潰され終わったことを「それでも蜂起は美しい」と肯定するのは敗者のナルシシズムではないかと、両側から切り立った崖に迫られる困難もあるだろう。
 現代思想の先達たちは統治を強く批判しながら、真のアナーキー=統治なき世界は可能だと信じる勇気がなかったとマラブーは強調する。カオスな野放図=事実としてのアナキズムと、統治なき相互扶助=目覚めとしてのアナキズムの峻別が(なんなら世界で一番アタマがいい人たちにあってさえ)不徹底だった・自覚されてなかったとも彼女は言う。

 アナーキーという言葉の語源がアン(非)アルケー(始原)であるように、アナキストは「原初の世界では人々は(万人の万人に対する闘争ではなく)権力がなくても相互扶助で平和を保っていた」という考えすら、そうやって正しい「原初」を説く時点でアルケーの罠にはまっているとさえ考える。
 だからアナキズムは原初を、過去への回帰を求めない、「アナキズムの過去は未来にしか存在しない」「アナキズムとは、いかなるはじまりにも命令にも依拠しないがゆえに(中略)つねにみずからを発明し、形成しなければならないような唯一の政治的形態である」と説くマラブーの結論は、力強い提言だろうか。「夢はきっとかなう」的な耳あたりのいいキャッチコピーに終わる懸念もありはしないか。他の誰も哲学者としてアナキズムを理論づけ得なかった・だから自分がそれをやるという決意は、同時に他の誰も詰めきれなかった敵(統治という難題)を自分こそが…と無闇にハードルを上げることにはならないか、とも思うのだけれど…。

      *     *     *
 今週のまとめ。
1)支配構造を温存したまま支配者(国家や資本)が自助や共助を説く「事実としてのアナキズム」と、支配=統治そのものの廃絶を願う「目覚めとしてのアナキズム」を峻別しなければならない。 2)現代思想のエースたちは敵(統治)の解体という形で貢献しながら敵を詰め切れず、また「味方」となるべき「目覚めとしてのアナキズム」の実現可能性をついには信じ得なかった。
 けれど子ども食堂のように一部は「事実としてのアナキズム」に強いられてとはいえ「目覚めとしてのアナキズム」は実践として世界に遍在しているし、思想としても断片的であれば至るところで表明されてきた。ナオミ・クラインの「災害ユートピア」、クラストルの「国家に抗する社会」や、スコットの「ゾミア」などは(僕じしん未読なものも含め)検討に値する。
 『泥棒!』の終章でマラブーが挙げる、ジョルジュ・スーラグランド・ジャット島の日曜日の午後(Wikipedia/外部リンクが開きます)が点描という技法的にも、公園で憩う群像という主題的にも人間のラディカルな平等性をテーマにしていたという事実は、快い衝撃として読者を驚かせる。同じ新印象派のポール・シニャック「目が鍛えられれば、(中略)つまり他人を食い物にして疲弊させる搾取者から労働者が解放され、思考したり学んだりする時間ができるとき」人々の芸術作品の見かたも変わるだろうと明言していたらしい。
 アーシュラ・K・ル=グウィン「正しいメタファーが見つけられるかどうかが、生きるか死ぬかの境目になるかも知れない」と書いたように(23年2月の日記参照)、ついに先達が見つけられなかった哲学と実践を取りむすぶ「正しい言葉」、目覚めとしてのアナキズムを徒花ではないと正当化する「表現技法」を見つけることに、マラブーは賭けているのかも知れない。誰もがアナキズムを吾がこととして受け止められる「言葉」さえ見つけられれば、実際には起きている運動が記憶に刻まれず、ニュースからすぐ消えてしまう現状も変わるのではないかと。

 以下は個人的な余談。
 ジョン・レノンの『イマジン』は言うまでもなくアナキズムの歌だ。宗教も、国家も、所有すら放棄して皆がみな今日のために生きればいいと謳う。「え?所有までは放棄できない「I wonder if you can(君にそこまで想像できるかな)」ごめんちょっと無理、そこまではイマジンできない」と思った話は前にも書いた。なので僕は、あの歌を賛美する人たちを今ひとつ信用できない。あの歌が何を迫っているか本当に分かって、それを引き受ける覚悟があるの?それともただ、薄ぼんやりと「平和がいいよね」くらいの話だと思ってるの?「君は私を夢想家だと言うかも知れないけれど、私は一人ではない」というフレーズの甘やかさを「私」=自分と勝手に掠め取って、いい気持ちになってるだけじゃないの?と。
 それとも、それでいいのだろうか。
 ビートルズ時代はどちらが書いた曲も連名でクレジットするほどだった(まあどちらが書いた曲かは特に「ヘルプ!」や「イエスタデイ」以降は明白だったけど)かつての盟友、ポール・マッカートニーは近年エコロジー推進のため「一週間に一日ベジタリアンになるだけでもいい、そうした人が七人いれば一人の完全なベジタリアンがいるのと同じだ」と提唱しているという。とてもチャーミングな考えだと思う。
 「イマジン」のイマジン(想像してごらん)という問いかけの、本当に自身が痛いところを突かれるような問いは聞かなかったことにして「平和がいいよね」「殺し合いは馬鹿げてる」「私は一人じゃない」みたいに口当たりのいい箇所だけツマミ食いでも、積み重ねれば世界を変える力を持ち得るのだろうか。数十年かけて、僕の自己認識が「少なくとも時々はアナキストかも知れない」と変わっていったように。

 余談に余談を重ねて今週の日記(週記)を終えるなら、アナーキー(アン・アルケー)のくせに原初に理想状態を求めるのはアナーキーじゃないよと真面目なアナキストたちが考えるように、国家なんていらないよという歌が人々の「アンセム」になるのは矛盾だと思ったのか思わなかったのか「イマジン」の後年、別のアルバムでレノンは改めて何も持たない人たちのためのアンセムを用意している。ユートピアにさらに否定のNをつけた邦題「ヌートピア宣言」。たった四秒だし、イマジンより抜群に憶えやすい。そして何処にでも遍在している。
John Lennon - Nutopian International Anthem (Remastered 2010)(YouTube/外部リンク)
※リマスターとは…

    ***   ***   ***
追記:
「目覚めとしてのアナキズム」の実在例として、小川さやかチョンキンマンションのボスは知っている アングラ経済の人類学』(春秋社2019年/外部リンクが開きます)も挙げていいかも知れない。えらく面白いと同時に「こんな才気と根回しが必要な世界で自分は生きていけないかも」と思わされ、なるほど人類は安定した農耕や国家や既存の体制に頼るわけだと悲しい発見をしたりする好著。

お金じゃ買えない〜ポール・ヴェーヌ『パンと競技場』(25.03.02)

 まいったな。
 日本では「パンとサーカス」と呼ばれる古代のバラマキ(?)政策をテーマにした本文700ページ・脚注300ページの大著パンと競技場 ギリシア・ローマ時代の政治と都市の社会学的歴史』(法政大学出版局/外部リンクが開きます)なんですけど、三週間かけて本文700ページだけ(図書館の返却期限を一回延ばしてもらってるので脚注は諦めました)どうにか読み通したその内容は、著者のヴェーヌが亡くなった年に追悼で書いた文章の短い一節:
 「次の事実が大切である。ただのパンは貧しい奴隷に与えられていたのではなくて、市民だけに与えられていた」ヴェーヌはそこまでは言ってないけれど、だとすればローマ時代の無料のパンは子ども食堂や生活保護よりもGOTO何々や、いっそ電通・パソナ優遇策に近かったのでは
これで大体、言い尽くせちゃってる気がする。
(本サイト22年12月の日記(食えない理想家〜ポール・ヴェーヌ追悼」参照)
※もしかしたら既に忘れられてるかも知れないので念のため説明すれば「GOTO何々」とは新型コロナ発生時に医療施設やエッセンシャル・ワーカーではなく「感染を恐れて人々が旅行を避けることによる損失」を補填すべく旅行会社に公金をつぎこんだキャンペーンをさす。
 …強いて解像度を高くすると、こうだ:ローマ帝国の「無料パン」は奴隷はもちろん、首都以外に住む地方の人々・それどころか(無料配布の対象になる)首都ローマですら食うや食わずの貧民を対象にしたものではなく、むしろ都の裕福な市民=特権階級へのサービスだった。属州まで含めた広大なローマ帝国で、その恩恵に与(あずか)れたのは人口の1%に過ぎないとヴェーヌは書く。
 この「1%」が現存する資料に基づく本当の数字か「99%は○○」みたいな比喩なのかは分からない。ただ後述するようにカエサルの時代に無料のパンにありついたのは15万人という数字があるので、当時のローマ帝国の人口が1500万人なら「1%」は妥当と言える。
 ともあれ(ヴェーヌにとって)確かなのは、この権力者による「パンや競技場(サーカス)」の大盤振る舞い=恵与志向は他の何であろうと、現代的な意味での福祉=「富の再分配」でだけはありえない、ということだ。では何なのか。

      *     *     *
 前提となるのは「政治は万人向けの仕事ではない」という彼の理解だ。
 吾々は「吾々こそ主権者だ」「政治家は主権者の言うことを聞け」「吾々に主権を行使させろ」と言う。間違った主張ではない。だが事実として、政治は面倒くさい。直接民主制を採用し、民主主義の心のふるさとと目されるアテネでは実のところ(参政権を有さない女性や奴隷を除いてなお)民会に出席するのは有権者の一割か二割に過ぎなかった、というヴェーヌの指摘には思わず笑ってしまったし、そりゃそうかもねぇと納得せざるを得なかった。
「代議制の下では、市民の政治参加は市民にとって四、五年に一度、数分間の面倒ですむ。(中略)直接民主制における政治参加は市民の重荷である」
原初には万人が万人と争っていたので、流血を避けるため皆で権力を王なり国家なりに委託した(ホッブズ)―というのは体のいい作り話に過ぎない。現実には「自分の生活で手いっぱいな人々が、余裕のある者に権限を譲った」と、ヴェーヌは考える。まして当時の「政治」は自腹である。道路を開いたり、何処かに植民地を築いたり、さらには何処かと戦争したり―そうした費用を捻出できる・そして勿論そうしたことに割く暇がある富者が政治を「引き受けた」。なぜ彼らがそんなに裕福なのかは一旦措く。これが第一段階;貴族制・寡頭制・ひいては王制の起源だ。

 第二段階。統治する暇も金もない者は、暇も金もある富者に統治を任せる。パンや競技場は、自らを統治する権利を手放した代金なのだろうか。そうではない。すごく面倒なのだけど、そうではないとヴェーヌは考える。
 一番わかりやすい喩えは(まあ僕はまんがでしか見たことないけれど)校内のスポーツ大会でクラスが優勝したら、担任の先生が生徒たち全員にジュースか何か「おごる」感じだろうか。あれはもちろん、勝利の報酬でも頑張りへの対価でもない。祝賀であり、祝賀をとおしてクラスの一体感・生徒たちに対する担任教師の庇護を確認する儀式だ。単なる経済的な交換・ゼロサムの取引ではなく、対価では量れない何かがやりとりされているのだ。
 それを仮に威信とでも呼ぼうか。皆それぞれジュースを買ってお祝いしよう、ではなく先生が「おごる」のは「先生がえらい」からだ。「やっぱり、うちのクラスは先生あってこそだよな」と確認するため、生徒も「おごられてあげる」。
 「恵与者は治めるのに(治めたいから)金を払うのでなく、治めているから金を出す」とヴェーヌは書く。統治者として道路を敷設したいから道路を敷設するための金を出し、統治者として戦争をしたい・避けられない戦争では指揮を取りたいがために軍事費を出し、統治者として市民に「おごる」立場でいたいから神殿を建て、競技会を主催し、無料のパンを配る。

 部族の豊かな首長が積み上げた富を惜しげなく皆に振るまい、最後には火をつけて燃やしてしまうポトラッチの儀式は、(対立する首長同士のポトラッチ合戦に発展するように)威信の誇示であり、もしかしたら財産の集中をリセットする「権力に抗する」システムであり、そして積み上げた財産を燃やすことで神に捧げる宗教的な儀式である。
 古代ギリシャ・ローマの恵与もまた、神への捧げ物であることが前提だったという(競技会も本来、神に捧げるものであった)。
 何の話かというと、第三段階として、根拠より功利性より「そういうものだから」という習慣・悪くいえば惰性によって恵与の内容は固定化される。会社が福利厚生ですと言ってスポーツジムの割引券を呉れるのだけど図書券でいいのになぁという願いは聞き入れられない。スポーツ大会で優勝すると先生がジュースをおごってくれるけど放課後にみんなで球技の練習より読みたい本があるのだがという願いも聞き入れられない
 「マルクス・アウレリウス帝は競技見物がキライだったそうです」というキャプションに「やれー」「いてまえー」と喜ぶ観衆の後ろ・貴賓席でワイン片手に(哲学書、読みてえぇ)と思いながら手を振るマルクス・アウレリウスのイラスト(皇帝が手を振ったぞー(歓声))
 市民だって皆がみな戦車競争が楽しいわけでもないだろうけど、とりあえず戦車競争であり、まして市民ですらない「小作人が町に来て、田舎の恵与者は情け容赦もない大地主だと言ったら、「そんな小作人の話など、聞きたくない。われわれとしては、公衆浴場を暖め、オリーブ油を配給して欲しい」と言われるだろう」とヴェーヌは書いている。余談だけれど、最初に恵与で公衆浴場をつくった皇帝はネロだという。皇帝―市民―元老院の三角関係で市民と仲が良く元老院と折り合いが悪かったネロは今でこそ悪帝と伝えられるが、市民うちでは数百年も人気を保っていたらしい…たぶんキリスト教の公認(313年)や国教化(392年)までの「数百年」なのでしょう…
 「パン」はそもそも首都ローマが食糧不足に陥らぬよう「市民すべてに一定量の小麦を廉価または無料で」提供する護民官グラックス(兄)が定めた制度であった。それがカエサルの頃には「無料の小麦を十五万人にだけ」給付する制度に変貌し、選ばれた者の特権と化した。大事なのはポーズだから、それでも良かったのだ。

 もとよりローマ史きっての善玉グラックス(兄)でさえ「市民」以外の奴隷や貧者は眼中になかった。それがカエサルの「改革」により、十七万人が無料あるいは廉価のパン供給を失なう。同時期にカエサルは帝国全土に植民地を作ったが、それが受け皿になり耕作地等を得たのは、せいぜい数万人だったという。
 パンも土地ももらえない十万人ほどの人はどうなったのか。かれらは栄養失調や悲惨のうちに死んだのであろう。他に打つ手があっただろうか。確かにあったと思われるが、カエサルとしては、そんなとるに足らない人々のために知恵をしぼるはずがなかったというヴェーヌのくだりは、浩瀚な本書の中でも際立って光り輝く一節だが、それが問題だという認識は「パンと競技場」=皇帝と市民の持ちつ持たれつの円環の中にはなかった。円環=パラダイムの外で「貧者を救え」と説いたナザレびとの弟子たちは、ネロの人気が衰えるまでの数百年間、ライオンが待つ競技場に送られつづけた(これは僕による単純化)。

      *     *     *
 もう一度まとめます。
 第一段階:統治という事業に暇と金を使えるのは富者のみであり、ゆえに富者が統治者となった。
 第二段階:統治者は神に捧げる建物や競技会の形で自らの権威を示し、市民もそれを享受することで承認の証とした。
 第三段階:前例は前例であるがゆえに踏襲され、制度は固定化される。富者を富者たらしめている富を市民の「外」に還元しようという発想の転換はなかった。
      *     *     *
 寡頭制も王制もパンと競技場も(なんなら資本主義社会も広大なイスラム帝国も)「こういうものを作ろう」というグランドデザインに沿って構築されたもの「ではない」とヴェーヌは考えているようだ。社会全体をどう構築するかというヴィジョンではなく、目先の関心・目の前にいる自分とほぼほぼ対等な相手への気遣い(自分と対等でない女性や奴隷・非市民の存在は棄却される)が、やがて当初の意図にはなかった大きな絵図を描き出すと捉えるのは、社会学的な発想だと言える。
 もちろん少し前の日記で先んじて書いたように、ヴェーヌは個々の出来事から法則を導き出す社会学者ではなく、社会学などの法則を個別の出来事を知るために使う歴史学者なので、本書が語ることを「法則」と見做して他の出来事や物事一般に(無条件に)適用できるわけではない。

 けれど本書が繰り広げた恵与にまつわる考察は、たとえば今の世界で持ち上がっているベーシック・インカムの是非をめぐる議論を理解するのに(少しは)役に立つのかも知れない。
 また、経済的な取引や対価でなく、権威とか威信とかいう金額化できない価値が決定的だという第二段階(仮)での議論は逆に「お金で買えないものはない」と言わんばかりの資本主義・金(カネ)本位制に、思った以上に圧倒されている自分を再認識させてくれる。
 「お金で買えないものはない」裏を返せば「お金でしか買えないものしかない」「あらゆるものは、お金を出して買わなければいけない(か、長々と広告を見た「対価」として、ようやく「無料」で見せてもらえる)」すべては取引や経済効果として貨幣に換算できるという思考様式・では説明できないものが古代ギリシャやローマ帝国を動かしていた。それは時に現代人には理解が難しいと思えばこそ、ヴェーヌはその説明に700ページも費やす必要があったのだろう。
 だが多くの場合ひとを、社会を動かしているのは、少なくとも経済「だけ」ではない。たとえば大阪では維新という地方政党が他地域には見られない高支持率を集め、万博みたいな馬鹿なことをしている。その高支持率の理由にはメディア支配とかプロパガンダとか色々あるのだろうけど、とある大阪出身者が「自分は維新支持者ではないけれど、長いあいだ見下され続けてきた大阪府民の憤懣を(だから維新はあんなに支持されるのだと)見下し続けてきた関東民は知るべきだ」という主旨のことを仰有っていてビックリしたことがある。
 「ローマの平民は投票を望まなかった。暴動を起こしてまでパンを要求しなかった」とヴェーヌは書く。「平民は愛されたかったのである」
 上と同じ「マルクス・アウレリウス帝は競技見物がキライだったそうです」のイラストに追加キャプションで「でも責務と思って耐える。ストイック(ストア派)だから。」
 それ(お金で買えないもの)は突破口じゃなくて柵(しがらみ)だよ、という反論にも一理はあるのだろう。いろんなことを対価(お金)で解決できるからこそ「都市は(人を)自由にする」のだとも言える。けれどそれ(お金で買える)が進みすぎ(あらゆることは当初の意図以上に進む)お金なしには日々の生存すら脅かされる弊害・桎梏に変じきった社会では、あらためて「にも関わらず、対価では説明できないものが社会を動かしている(側面もある)」と見直す意味はあるだろう。…だんだんヴェーヌの回りくどい文章に似てきたので止めますが
      *     *     *
 追加のまとめ;
 (1)最初から設計された大きな目的に向かって進むのではなく、小さな目前の利益追求が、当初は想定もしなかった大きな結果をもたらす。
 (2)社会を動かす動因はしばしば、経済効果や対価では量れない威信や面子・相互承認といった心情的なものだったりする。
      *     *     *
 あるいは、豊かな者・貨幣を多く持つほど「お金以外の愛や威信や柵(しがらみ)」にも恵まれており、あらゆるものを貨幣で購わなければいけない・貨幣以外の「愛される」手段を剥奪された状態こそ「貧しさ」なのかも知れない。
 「○○はプライスレス」「お金で買えない価値がある」がいずれも、たかだか後払いのシステム=純粋に「お金で買えるものしか売れない」クレジットカードの広告コピーだったくらい、自由は簒奪され、世の中はややこしくなっている。
 話をややこしくするのはヴェーヌの芸風でもあり「「事態は君が想像するより複雑だ」と語るのが小説家の使命だ」と説いた小説家のミラン・クンデラと馬が合ったんじゃないかと思います…と頬杖をつく羊帽の女の子(ひつじちゃん)のカット。
 けれど多くの人たちが対価のため(だけ)でなく絵を描き、動画を自撮りし、山に登り、ターミナル駅の地下に推しの誕生日を祝う広告パネルを出すのは、希望かも知れない。巧妙な搾取にまだ囚われているのかも知れない。吾々は無料のパンを得られない人々を打ち捨てたまま競技場で歌手きどりの皇帝ネロかも知れないし―「お金で買えないものはない」とうそぶく新自由主義のインフルエンサーにFun is a one thing that money can't buy(楽しいという気持ちはお金では買えないけどね)」とうそぶき返すジョン・レノンかも知れない。
 ステージで「安い席の皆さん拍手お願いします―それ以外の皆様は宝石をじゃらじゃら鳴らしてください」のジョークをかますジョン・レノン(後ろ姿)とドッと笑う観客、一人「ぐぬぬ」と不本意そうに宝石を振るマルクス・アウレリウス。
 つまり今回もまた余談として、創作の話に着地する。自分で食材を調理する行為には「そのほうが安上がりだ」「いや、自炊できるまでに鍋とか金かかるべ」みたいな金額で量れる・以上の価値がある、なんてことまで含めた「創作」の話だ。買うのでなく自分で価値をつくりだす行為全般と言ってもいい。
 古代ギリシャの民主制→同僭主制→民主制時代の古代ローマ→帝政ローマまで話が進んだ終盤、突然ヴェーヌは言う(こういう脱線をするから本が長くなる)。ファッションを愛する人は「富を誇示するために粋(いき)な服装をするのではない」「身なりをととのえても部屋から出ないこともあり得る」また「詩人はメッセージを送ったり、他の者たちと交流するために詩を書くのでもない」だから「難解な詩を書いても心配しないこともあり得る」
 これらの言葉には(もちろん人に見てもらいたい側面もあるのだろうけど)僕みたいな人間の心を暖め、にんまりさせる処がある。
「作者は読まれるために書くのではないかと反論されるかも知れない。それは間違っている。つまり作者はむしろその本を存在させるために印刷させてほしいのだ」
邦訳700ページにわたる本をものして300ページもの註(未読)を書いた人の発言としては相当に大胆だけど、そして「残念、ここにメッセージを受け取った者が一人いるんだな」と微笑みたくもなるけれど
「壁の落書き、党細胞の集会の政治報告の作者らは、無定見の者を説得したり、仲間に通知することよりも自分の信念を表現することのほうがはるかに大事である」
という言葉に勇気づけられる者もいるだろう。
 …あらためて言うけれど、コミュニケーションの道具として、承認欲求を満たすために、書いたり描いたり自撮りをしたりすることもあるだろう。それであわよくば対価を得たいこともある。お金というより「自分の創作物が承認されたと確認するために対価を受けたい」こともある。
 けれど私たちには全部が全部お金に換算できると思うなよ、「I don't care too much for money - Money can't buy me love(お金なんてあまり気にしてないんだ - 僕の愛はお金じゃ買えないよ)」とうそぶく権利もある。
 そう歌った者たちはイギリスで一番の大金持ちになったじゃないかとひっくり返す権利も。私はそれでいいとして貧しい人はどうなるんだと、(イエスやマルクスのように)人々の幸福を望む権利も。

The Beatles - She's Leaving Home(YouTube/外部リンクが開きます)
The Beatles - Can't Buy Me Love(同)

 …それとも宝石を鳴らす?(笑)

小ネタ拾遺・25年2月(25.03.31)

(25.02.01)先月の冷蔵庫に続き、今月はネット回線の切替でバタバタ。今までの回線を1月末で解約したものの、新しい回線の開通が半月後で「それまで代用に」とハンディなWi-Fi接続機器が届いたのですが、よく見ると液晶画面にxxMB/7GBの表示。あ、もしかして7GBまでしか使えない感じ?
 スマートフォンより少し小さめのハンディWi-Fi接続装置。大きく現在時刻が表示された液晶画面の下のほうに「163MB/7GB」の表示。別表示だと「データ通信量:163MB 最大通信量:7GB 最終リセット日:2025-02-01 自動リセット日(毎月);31日」
果たして別画面を開くと「最大通信量:7GB」の表示。まあ超過してもいいのかも知れないけど何が起きるか分からないし、半月くらいネット依存を直せとの天啓かも。無聊な時間は本を読み、絵を描いて過ごすことにします(あと部屋の片づけ)。

(25.02.03)最近は逆に一目では奥歯と分からないよう、できるだけイメージを離すのが流行りなんだろうか―真ん中の横棒のせいもあって隣に「歯科」の文字がなければ見過ごすところだった看板。でもよく見ると黎明期(それこそ8bit時代)のパソコン文字みたいなドット絵で描かれた奥歯の
 左は遠景。○○歯科という文字の隣に9×9のドット絵で描かれた奥歯。なぜか真ん中に横棒が走ってるせいでパッとみ奥歯には見えにくい。右はその拡大図。よく見るとドットの一つ一つが奥歯。
白いドットひとつひとつが小さな奥歯(ぎゃー)。歯科医たち・もしくは看板制作の依頼を受けたデザイナーたちをココまでマニアックにさせる、奥歯にどんな魅力があるというのか…←延々その奥歯絵を収集してる閑人に言われたくはなかろうて。

(25.02.04)またしても悲しい値上げの話。昨年末に札幌で泊まったドミトリーでエシカルなのに値段もお手頃!と感動したトップ○リュのフェアトレード紅茶(ティーバッグ)、25包で税込200円が20袋で税込320円・あっという間に価格が倍になってました。さりげにシュリンクフレーションも込みなので、ちょっと悲しくなっている。今後どうするかは考え中。
(25.02.05追記)いや、気が緩んでペットボトル飲料の一本も買っちゃえば吹き飛ぶ程度の差額で迷うこたないだろう。値段は実質2倍になりましたが(まだ気にしてる器の小ささ)やっぱり当面フェアトレードで行きます<紅茶。個包装でもなくなったの、コストカットもあるんだろうけど出すゴミの少なさを考えると(風情はなくなるけど)良いことなんでしょう。
 トップバリュのフェアトレード紅茶(アールグレイ)新パッケージ画像
しかしイ○ン、昨冬は売ってたオリジナルブランド(つまりトップ○リュ)のシンプルなコートを今年はもう取り扱ってなくて、○オンやSEI○U(鶴見店は服飾フロアがゴッソリ家電量販店に変わってしまった)・○ーカドー(綱島店、昨秋閉店しててショックだった)などが廉価な自社衣料品を供給する時代がドラスティックに終わりつつあるのかもなあ。それがフェアトレードの紅茶同様、世界の何処かで衣料品を作ってる人たちの待遇改善になってるなら受け容れたいものだけど、あまりトップ○リュと変わらない素材に馬やらワニやらのマークがつくことで馬やらワニのブランド代を吸い上げてる人たちだけの得になってるならヤダにゃーんと思うのでした。
(25.02.06追々記)○オン・SEI○U・○ーカドー(後は○イエーなどか)を古き良きモノのように書いてしまったけど、あれらの大型ショッピングセンターが台頭時には地元の小さな商店を根絶やしにしていった(一方で消費者の利便とか夢もあった)二面性も踏まえておきたい、大店法とか、よくは知らないのだけど。ただあれらの大型店の隆盛時に物心ついて、その衰退・もしかして退場まで並走した世代として感慨と少しの不便感があるということ。今は同じハコに自前売り場の代わりにファーストファッションや大型靴チェーンなどが入るようになり・さらにそれらの店舗(や消えゆくリアル書店やCD・DVD店)を押しのけて「クリニックモール」が新しい大型店舗の1フロア2フロアを占める時代が到来しつつある(←後者を見ると、僕と同世代かそれ以上の世代のライフステージに合わせて「老化」してる・世代交替を停めてしまった懸念がなくもない)(←しかしそれは「吾とともに世界よ滅べ」というエスカトロジーでないとも言い切れない)。ともあれ、御一新や戦前戦後ほど派手ではないかも知れないけれど、これはこれですごい社会の変化に立ち会っちゃったなと思っている。

(25.02.07)コンビニエンス・ストアが初めて「コンビニ」と略された時のことも憶えている。80年代の半ば、これも新しい事物だった若者向け男性化粧品(ブランドは忘れたけれど「資生堂UN○」とか、そのあたり)のテレビCM、まだフレッシュな若者のイメージで売っていた柳葉敏郎氏の決め台詞が(お買い求めは)スーパーか、コンビニでで「あ、そう略すんだ」明らかに新しい流行語にしていこうと狙った感じだった。※もちろん僕の知らないところで先例はあったかも知れないけれど。
 これはまだ「コンビニ」でも「ファミマ」でもなかった頃のファミリーマートのCM。たぶん実物は一度しか観たことがなかったけれど、大貫妙子さんの歌が鮮烈に印象に残って、そんでこうしてネットに上げてる人がいるんですね。初めて観る、当時まだ生まれてない人ですら懐かしさと喪失感で狼狽してしまいそうな逸品をどうぞ:
ファミリーマート「ジオラマ 冬」篇 ♪大貫妙子「ひとり暮らしの妖精たち」(YouTube/外部リンク)

(25.02.08)JR蒲田駅のホームとゆうか停車した電車の中からも看板が見えて気になっていた「臭豆腐麺」昨年末で閉店していました…しかも閉店理由がどうやら(「臭」豆腐を名乗るだけある)独特の臭気が周囲に隣接する飲食店やら何やらの理解をついに得られなかったと(泣)
 蒲田駅ホームからの眺め(全景)と「臭豆腐麺」看板のアップ
 しかし自分で撮ってあった写真↑再確認したら昨年6月撮影で、これは「余裕が出来たら」と先延ばしにしていた自分が悪い(なんで能登や北海道に行く余裕があって蒲田に行く余裕がないんだよ自分)圧倒的に速度が足りなかった。臭豆腐のお店自体は逆に十年ほど早すぎたのかも知れません。セカンドチャンス、待ってます。

(25.02.11)横浜あん○んまんミュージアムの前を横切って小一時間も経ってないとはいえ、別の街角でコレを見て「こんなところにも?」と空目する己の誤解力を、逆にポジティブな才能かも知れないと誤解を重ねることで生きてこれたとも言える。
 左:横浜あんぱんまんミュージアムの外装。右:ピンクの楕円形の中心に丸い白色のロゴマーク・左右対称に上が黒く細長いキャップで下が濃いピンクの本体な口紅?化粧品?の看板。黒いキャップが目に、ピンクの本体がほっぺたに、全体が無理矢理あんぱんまんに見えなくもない看板。
並べると似ても似つかないけど、概念とゆうかニュアンスで一瞬そう見えたんじゃよ。

(25.02.15)理想に燃える主人公のメンターだった後方腕組み見守り役が、実は宇宙からの侵略者とグルだったと判明「お互い辛いからもう逢うのはよそう」と刑務所の面会室でうなだれる(たぶん)前代未聞の最終回(いや戦隊物の歴史も半世紀くらいあるから分かんないけど)を迎えた『爆上戦隊ブンブンジャー』。でも歴代戦隊を見守る長官やら司令官やらを演じた俳優の現実世界での性的加害が相次いで判明した現状を鑑みるに、逆にこういう要素を盛り込むことナシでは子どもにウソをつくことになると考えたのかも知れませんなあ(だとしたら生ぬるいという批判は措く)。
とはいえ最後まで朗らかに笑わせる楽しいニチアサ。シリーズ中盤「復讐のため憎しみで戦う私には、人々の笑顔のため戦う君たちの仲間でいる資格はない」と離脱したメンバーが
 前の人の両肩に手をおき数珠つなぎになる「地獄の電車ごっこ(悲鳴)」図解と、自分の肩に手を置いた背後を振り返り「帰ってきてくれたんスね!」と喜ぶ錠(ブラック)・「ち、ちが…」と必死で顔を伏せる振騎(オレンジ)のイラスト。
敵怪人の放った謎攻撃・一般人も敵も味方も強制的に数珠つなぎされてしまう「地獄の電車ごっこ」に巻き込まれて離脱中なのに元仲間たちの最後尾につけてしまい、おまけにいつもの口癖で後ろにいるとバレて必死に顔を伏せるも「戻ってきてくれたんですね!」「い、いや、これは違うんだ…」というグダグダな仲直り(翌週正式に和解復帰)が特に爆上げでした。新作映画ブンブンジャーVSキングオージャー(外部リンクが開きます)期間限定上映、お子様たちに紛れて(必死で顔を伏せながら)映画館に運んでしまうかも知れません。

(25.02.16)花が咲くより前から目を楽しませてくれる、時には桜より強烈に春の喜びを感じさせる者たち。(個人の好みです)
ビルと空を背景にしたマグノリアの枝と、ビロードに包まれたような枝先の蕾たちのアップ。
即売会に出てたころ三月の名古屋で開花のピークにあたった多幸感ゆえ、バラならぬ「木蓮のつぼみ」は名古屋につながる記憶のトリガーでもあり。(個人の感傷です)

(25.02.18)オタク用語といえば「○○でしか摂取できない栄養がある」みたいなフレーズは今まで信用したことなかったけれど、堤なつめ君(先週までレッドだった俳優さんが別キャラに扮してのゲスト出演)の爆上げのカケラもない「ひっ」(悲鳴。1:42〜)もう24回くらいリピートしてる…
新番組『ナンバーワン戦隊ゴジュウジャー』第1話見逃し配信(外部リンクが開きます)
新レッドの吠(ほえる)君、赤貧描写の豆苗栽培がリアルで泣ける。二つ用意して時間差で育ててるところが。

(25.02.19)いかなる意図での発言か詳らかではないが、吾輩に不可能はどうとかでなく「今の俺、エルバ島から帰ってきたあたり」という意味だとしたら、思いのほか冷静な自己認識ではないかと。
トランプ氏のSNS投稿が物議 自身をナポレオンになぞらえる(共同通信/25.02.17/外部リンクが開きます)
(同日追記)ナポレオンがエルバ島を脱出→いわゆる百日天下に返り咲いた時、最初は「(ケダモノ)が流刑地より逃走」と報じていた新聞が、彼氏がフランスに近づくにつれ「ボナパルト氏、ヨーロッパに上陸」→「ナポレオン将軍、国境入り」→「皇帝陛下パリに御帰還」と徐々に掌を返していった逸話、本で読んだのかネットミームだったか思い出せないなあ。いかにも丸谷先生あたりが好きそうな話ではあるのだけれど、そしてたしかに今回の自称ナポレオン男の復活劇(と周囲の追従ぶり)を連想させはするのだけれど。
(2/20追記)というわけでお聴きください。ABBAで「恋のウォータールー」です(YouTube/外部リンクが開きます)。ウォータールー=ワーテルローという、相変わらず回りくどい皮肉。

(25.02.22)にゃんにゃん・にゃーん♪…いや、それはいいとして
ずっと前から「なに言ってんだ、オタクはもう多数派じゃないか、いつまで日陰者のフリしてんだよ」と主張してるのですが(昨年4月の日記とか参照)今は「自分はマイナーだ・異端だ・異議を申し立てる側だ・カウンターだ」と思う気持ちよさが、あまねく吾々全般に行き渡ってる時代なのは仕方ないとして―何しろ40年前すでに栗本薫が喝破していた―現代において凡庸さは『ちょっと他から突出している個性』という形で現れる(手元に原典がないので要約/『ゲルニカ一九八四年』)―いやいやいや、あなたたちまでカウンター気取りは図々しいよという多数派・主流派・ドミナント・ド権力ど真ん中の側まで「反体制」のつもりでいる逆転現象が、ついに極まったのがトランプ大統領であり、それに先駆けて日本の維新やら何やらであり、遡れば小泉純一郎の自民党をぶっ壊すあたりを一つの起点・少なくともメルクマールと思ってもいいのかも知れない。都知事としての石原慎太郎も、現職の小池百合子も、反体制・異議申し立ての自意識をかぶった体制派だった気がする。気がするにゃんにゃんにゃーん(猫の日なので自分はネコをかぶる)。

(25.02.23)前回の「先週まで爆上げだった前作主人公、別人(メガネ)役でゲスト出演」に引き続き先月まで丸いちねんプリキュア(8:30〜)だった声優さんを契約終了後、すかさず別枠(9:30〜)の敵幹部で再雇用するニチアサ、福利厚生がバッチリなのか容赦ないのか判断に迷う。
 片手を胸に、もう片手を差し伸べてハートを振りまきながら「結んで紡いで広がる世界」と名乗りをあげるキュアリリアンさん(左)と、一心同体だけど夫婦別姓(?)Mrs.スイートケークさん(右。横に見切れで一心同体の夫)のイラスト。キャプション「シリーズ屈指の縁結び大好きっ娘が、結婚をモチーフにした敵軍団の幹部に転生するの、ギリギリ整合性が取れてはいる」
ナンバーワン戦隊ゴジュウジャー(公式/外部リンクが開きます)二年続けて戦隊畑から養分を搾れるだけ搾り取ったので今年は土を休めようかとも思ってるのですが、もうしばらくは視聴を続けてみます。

(25.02.26)東急東横線・東白楽駅を出て直ぐの処にあるラーメン屋(兼居酒屋?)。2月中は毎日提供の限定メニュー「牡蛎ラーメン」を2月のうちにと思い食べてきたのですが…あー良かった。ここ数年は食べそびれてたけど、改めて自分、牡蛎という食材(そして生命。ありがとうございます。申し訳ない)が大好きだったなぁと思い出させられる美味しさ。きれいに焼き目がついて、しっかり味つけされながら大粒感を保ったイイとこ取りの牡蛎がごろんごろん。岩海苔たっぷり。磯の旨味が浸みわたったスープ。大変おいしうございました。地縁があって牡蛎が大好きな人はぜひ。
 画像。左に牡蛎ラーメン全体像(岩海苔もたっぷり)・右に焼き目がついてホンノリ醤油色な牡蛎のアップ。
1380円。こうなると800円のふつうのラーメン(鶏)も気になるので、ほとぼりが冷めたころ(?謎の遠慮)再訪してみよう。

(25.02.27)渋谷といえども普通にオフィスなどありオフィスで働く人たちがおり、オフィスで働く人たち向けのお弁当屋があったりするんですね。それも諸事情で職場に持って帰って職場のレンジでチンして食べるとか出来ない人向けに電子レンジつきイートインがあるお弁当屋さんなんかが、渋谷にも。もちろん昼食も自分で用意できるのがベストなのですが、ちょっと無理という日には重宝でした(気温5℃ですが風が強いので体感0℃みたいな日とか)。遅い時間に行くと少し値引きもあったりする。
 左:白菜と肉の中華炒め+揚げ者をメインにしたお弁当。筑前ぽいのや青菜おひたしぽいの、マカロニサラダなど盛られて五穀米ごはんつき。右;焼き肉ぽいのと、ケチャップスパゲティの上に塊の豚肉がゴロゴロ乗った、ちょっといいお弁当。
神田なんかだと魚のフライや煮着けの一品ランチがワンコインなんて食堂もあって、需要と供給の厚みがまた一段上なのかも。学食や社食というのもロマンだし、それすら横目にお弁当を持参するのもいい。なんというか、この台詞はパクリなんだけど(元ネタ)みんなしあわせで居てほしい。また来月。


真ん中の○○・または抹消された○○〜カトリーヌ・マラブーとロラン・バルト(2021→25.02.26)

 TwitterがXになるずっと前から、あのプラットフォームでの発信は停止・かつて自分がフォローしていた方々のタイムラインも見なくなって久しいのだけど、アカウントは削除せず残している。専らオタク的な趣味の情報収集のためなのですが、時折ずっと昔に自分が発した「つぶやき」を誰かがリポストしたり「いいね」をつけたりして「こんなこと言ってたっけ」と発信元の自分も(すっかり忘れてたので)面白かったりする。
 カトリーヌ・マラブー(1959〜)はフランス出身(今はイギリスに居るらしいです)現役バリバリの哲学者。彼女に関する「つぶやき」を二つほど(多少手を加えて)採録します。2021年、ちょうど僕が本サイトでの日記更新じたい休止していた時期でした。
      *     *     *
a.
 【コテンパン】今日、電車の中に「日本人の心を一番熱くした自己啓発書」みたいな広告があったけど、自分の心を熱くした(?)読書はこちらでした。読了とかじゃない「褒めてくれ、15ラウンド終わっても立っていた」みたいな感じでした。エイドリアーン!でも読んでよかった。分からないって楽しい(錯乱)
 その本の名は真ん中の部屋 ヘーゲルから脳科学まで』(原著2009/西山雄二・星野太・吉松覚訳 月曜社2021年/外部リンクが開きます)。著者はカトリーヌ・マラブー。デリダの元に学んだ、と言いながら師匠デリダにも平気で刃向かう彼女が振りかざすのは、博士時代の研究テーマだったヘーゲル。いや本当に、カーンて鐘が鳴るたびにヘビー級の相手が「はい、ヘーゲルとマクルーハンです」カーン「ヘーゲルとデリダです」カーン「ヘーゲルとハイデガーです」って感じに相方を替えつつ二人がかりでボコボコに殴ってくるのよ…
 コテンパンにされるのは読者だけではない。18〜19世紀の哲学界の巨人ヘーゲルを批判の対象とすることで20世紀の思想を作り上げてきた(それを「父親殺し」と呼んではいけないのだろうが)デリダ、ドゥルーズといった面々が今度はマラブーの俎上に載せられる。ヘーゲルを否定し、ヘーゲル否定の上に自らの哲学を築き上げたドゥルーズを「いやあなたの言ってること、ヘーゲルが先に言ってません?」…流行りの小説ふうに言うと「現代思想パーティーを追放されたヘーゲルが21世紀のマラブーに転生してチートで無双な件」みたいな…すみません言ってみたかっただけです…それが「ヘーゲルから」の前半。
 『真ん中の部屋』書影
 専門家でもないミーハーの徒にとっつきやすい(かも知れない)のはジュディス・バトラーを語るあたりから始まる後半「脳科学まで」のパート。神経生理学やIPS細胞などの話題と哲学をたたかわせる著者が興味深いのは科学観の(新鮮な)柔軟性。
 科学vs哲学というと、科学を融通の効かない機械仕掛けと位置づけ、対して哲学は心の自由をアピールするイメージだけど(著者は挙げてないけど「利己的な遺伝子」論とか如何にもプログラム至上主義っぽい印象なのでは)、著者が着目する先端の「科学」はむしろ生まれてから外界と互いに影響を与えつつダイナミックに創発していく神経系の言うなれば自由・自発性を解明の課題にしているという。
(チェスや将棋を指すAIが「所詮は機械」というイメージを覆すような、想像性ゆたかな?と思わせるような飛躍した発想を示して「人間らしさ」に冷や汗をかかせている状況にも通じるものがあるかも知れない。違うかも知れない)
 科学やデカルト的合理主義は機械仕掛けで非人間的なんだ、それに対して哲学は人間らしい自由の拠り所なんだ―みたいな図式はもう古く、いまや科学が自由や自発性・創発性をより進んだ形で捉えつつある。それに哲学は追いつき、そして批判しなければならないと著者は檄を飛ばす。なぜなら哲学にあるのはポジティブで無邪気な科学が忘れがちな、粘り強く批判する力だから(と自分は受け止めた)(受け止めたというかボクシンググローブでグワーッと殴られ「あ、今のはそういうこと?」みたいな感じですが。頭のまわりをチョウチョみたいのがクルクル回ってますが)
 以上、自由とか自発性・創発性と僕が言い替えてきたことを著者は「可塑性」と呼んでいて、ヘーゲルの読み直しにもつながる著者の重要なキーワード・概念なのだけど、その著者が「私にとって(私自身が依拠する)可塑性の批判は必要なことであった」と言い放つ場面は哲学者の哲学者らしさが炸裂しているように思えた。
「私にとって、可塑性の批判は必要なことであった(中略)というのも、ひとはみずからが扱っている概念に対する警戒を怠ってはならないからだ。明らかなのは、あらゆる概念がそうであるように、可塑性がある時代を支配する精神に利用されうること(略)真の危険がイデオロギー的なものだということである」
 現にマラブーは著者は同郷の社会学者アランベールを引用する。「企業において、人材を管理する(テイラーそしてフォード的な)規律訓練は後退している(略)労働力の統制と支配の様式は、機械的な服従ではなくむしろ自発性―責任感、改善能力、企画立案能力、モチベーション、柔軟性などに支えられている。労働者に課せられる強制は、もはや反復労働を行う機械としての人間になることではなく、むしろ柔軟な労働の請負人となることなのだ冷たい機械的な科学というイメージから、自由と創発性を追究する科学へ、というそれ自体は望ましくエキサイティングであるようなことが、早くも社会的な支配や搾取の様式に利用されている。ギグ・エコノミーもそう。「日本人の心を一番熱くさせる」自己啓発もそう(どうだ、つながったぞ)。
 IPS細胞やクローニングをめぐる最終章も、著者の見解(進みたい方向)に同意するかはともかく、常日ごろ自分がああでもないこうでもないと考えているテーマの参考になり面白かったです。読書は楽しい。たとえサッパリ分からなくても(笑。いや泣)
      *     *     *
b.
 今回Xで「いいね」されたのは、こちらの中の一節でした。どちらかというと現役マラブーではなく、50年前の「現代」思想家ロラン・バルト(1915-1980)の話。
 日本では『真ん中の部屋』と同じ年に邦訳が出た抹消された快楽 クリトリスと思考(原著2020年/西山雄二・横田祐美子訳、法政大学出版局2021年/外部リンクが開きます)。こちらの本の終盤で(やっぱり批判的にだけど(泣笑))言及されているのを読んだのと、JR大森駅前の本屋で「あ、バルトかぁ…」と中公文庫の評伝を手にしたの、どっちが先だったか。しばらく寝かしていたのだけれど
石川美子ロラン・バルト 言語を愛し恐れつづけた批評家』(中公新書2015年/外部リンク)すいすい読める好著でした。
 書影。『抹消された快楽』(左)と、『ロラン・バルト』(右)
 ちなみに『バルト』を購った大森の書店は、西友やキネカ大森(同じ建物だけど)のある開けた東口とは対照的に、昔ながらの住宅地に向かう感じの西口にある小さな本屋なのだけど、特に青版まで含めた岩波新書の充実ぶりがすごくて(児童書もソコソコあったと思う)実は隅に置けないお店なのではと当時Twitterでつぶやいたら「あそこは知る人ぞ知る名店なんです。(官能小説の)フランス書院文庫も揃ってたでしょとレスポンスを頂いて、あ、そ、そうでしたか…
 話を戻す。
 バルトは日本をテーマにした『記号の国(L'empire des signes)』が『表徴の帝国』という邦題で流通していた頃…つまり20世紀か…に読んだきり、なんとなく難解そうで敬遠してたけど、東京が(皇居という立ち入り不可能なゾーンを中心にした)空虚な中心をもつ都市だという有名な(?)見立ては、バルト本人がかくありたかった姿=強い物語を拒否して散逸していく自己という理想に(自分などが思っていたより決定的に)かなっていたらしいと評伝『バルト』で知ったのだ。
 マラブー自身はバルトを批判的に語っているけれど、両者の姿勢は似通ってもいたのではないかしら。つまり「かそけきものが支配的なものに反抗し対立し・対決に勝とうとすることで(敵対していたはずの)支配的なものと同じ権力の身振りに陥ってしまうこと」の拒否=別の道の模索。今の支配者が採用しているゲームのルールに乗ったまま支配者を打ち倒し・成り代わりたいのではない、そういうゲームを無効化する別の物語への希求という意味で。いや、素人の第一印象ですが。

 それにしても東京の皇居を「空虚な中心」と捉えることは、60年代に訪日した異邦人だからできた芸当かも知れない。平均的な「普通の日本人」にとって、あれは強烈な磁場をもった・意味の横溢した中心だろう。しかしフランス人のバルトが自らの首都パリを民衆が集まり凝集する中心と捉えたろうことに対し、日本人が皇居を東京の・日本の中心だと、そこには日本らしさの意味が横溢していると考えながら、同時に「そこに一般の日本人は入れない」それが日本らしさだと受け容れているとしたら、それはバルトが見たのとは別の奇特な事態ではないだろうか。
 皇居だけではない。日本の公的な政治の中心である永田町の国会議事堂は、民主制を敷く他の多くの国々の議会と違い、その前面に広場がない・人々がその前に参集して声を上げることが公的には許されていない点で特殊な空間だと言われている。2015年の安保法制などで国会前に駆けつけ反対の声を上げた人なら、目の前の車道はカマボコと呼ばれる警察車両の並びに占拠され、人々は狭い歩道のしかも(歩行者の通路を確保する名目で)半分の幅に押しこめられた光景を憶えているだろう。人々が車道にまで溢れ「決壊」と呼ばれたのは、あの熱い夏でも、ほんの数回の僥倖ではなかったか。
 議事堂前の「歩道」を埋め尽くす人々と、車道を塞ぐ警察車両。2015年。
 公的には君主でなく公民権すら有さない一族が首都の中心に広大な居住地を有し、主権者たる国民はそこ(皇居)からも、公的には民主制の中心である国会前からも排除されている。「空虚な中心」は空虚というより二重にも三重にも主権というものが排除された空間なのかも知れない…
 …そろそろ分かんなくなってきたのでやめますが
 バルトの死後、弟子が捧げた言葉を孫引き→「言葉のなかに真実を見出すには、愛と信頼をもって言葉のほうに身をかがめさえすればよいのであり、言葉を正しく用いることによってこそ真実にいたることができる」。バルトは実は小説家になりたかったひとであり、しかも言葉や物語の支配的な力を忌避して絶えず迂回を試みながら(でも迂回しながら小説家になれるのだろうか?)と悩み続けたひとだったらしい、と石川氏の評伝が描きだす肖像は、創作を志すひとの、直に役には立たずとも土壌を豊かにする効能があるやも知れません。美しい書物でした。

    ***   ***   ***
【追記】で、2021年の自分のツイートを読み返していたら「マラブーの次回作はバクーニンやプルードン・クロポトキンなどの視座からデリダやフーコー・アガンベンを俎上に載せる「アナーキズムなきアナーキー」(予定)だとか。楽しみですね」という一節が。確認したら、出てました。
カトリーヌ・マラブー泥棒! -アナキズムと哲学-』(原著2022年/伊藤潤一郎、吉松覚、横田祐美子訳/青土社2024年/外部リンクが開きます)
また、今回パラパラと拾い読みで読み返してみた『真ん中の部屋』には、本サイトでも昨年10月の日記で取り上げたフロイトの『モーセと一神教』に割いた一章があり(逆に言うと、そういう伏線があって昨年えいやっと自分でも読んでみたわけです)それによれば、なんとあのE.W.サイードも同書について『フロイトと非-ヨーロッパ人』という著作をものしているらしい。一緒に図書館で借りてきました。
書影。サイード『フロイトと非-ヨーロッパ人』(左)と黒い表紙のマラブー『泥棒!』(右)
まずは『泥棒』から。黒はアナキストの色。読むのが楽しみです。
      *     *     *
【追記の追記/25.03.01】前回の日記、センシティブな話題なので少しボカしてしまったのと、急ごしらえで(あの部分は21年でなく今回の加筆でした)自分の文章が下手すぎて、言うべきことがキチンと伝わらなかった気がするので今いちどパラフレーズします:
(1)東京の中心(≒日本の中心)には、かつての絶対的な君主が主権を抹消されたまま、今も絶対的な権威として存在しつづけている
(2)形式的には主権者である国民は、実質的には東京の中心に(2)が有する広大な空白を絶対的な権威として仰ぎつづけている(つまり実質的な主権を抹消されている+(2)の空間に立ち入ることも出来ないという、これだけで二重の抹消)
(3)主権者であるはずの国民は、(2)に隣りあい形式的な国政の中心である国会議事堂前からも・広場を持たず(鬱蒼とした樹々に蓋された公園?はある)車道に立てず・歩道も半分しか占拠を許されず、形式的な主権すら抹消されている
 つまり天皇→国民への主権の委譲が不徹底だったがために(?)この国には東京という首都の「真ん中」のさらに真ん中で皇居・国会議事堂という二つの中心があり(わぁお、バロックだ)、そのどちらからも(現在)主権者であるはずの国民は(地理的・物理的にも、政治的・実質的にも)排除されている。
 すなわち「真ん中の○○・抹消された○○」とボカして書いた○○には、それぞれ「真ん中の空白・抹消された主権」が入るのが回答例。他の国でも君主制・立憲君主制を敷いていれば事情は同様なのかも知れないけれど、それでコレが「考えてみたら不思議」「かなり奇妙」でなくなる訳でもなく。
 僕は与しないけど「現人神であらせられる天皇陛下に改めて、剥奪された主権を返せ」という立場だって理論的にはありえる。
 また主権の剥奪は責任を取る者の不在でもあり、この何重もの抹消・剥奪は(かつて主権者だった天皇からも)現在形式上は主権者である国民からも、諸々の政治的責任を「免責」するmaneuver(マヌーヴァ。巧妙な手段)になっていないか…という話は前にもしてるし、今回は広げすぎなので省く。「日本の真の主権者はアメリカなんじゃないの」みたいな半畳も。
 丸谷才一『無地のネクタイ』書影とミニサイズのクリスマスケーキ。昨年の画像の再掲。
と言いつつダメ押しで話を広げると、亡き師匠(私淑)丸谷才一先生は12年ほど前の最晩年の著作にて(昨年12月の日記参照)東京23区で他の区・たとえば目黒区なら「駒場東大・駒場野公園」「恵比寿ガーデンプレイス」など具体的に指名されている災害時の緊急避難場所が、千代田区のみ設定されていないことに着目し「なぜ(災害時に)皇居を開放しないのか」とクリティカルな疑義を呈しておられた。日比谷公園さえ挙げられていないのはおかしい・話が皇居に飛び火することへの牽制かと。
 この「災害時の閉め出し」は、昨年の能登の天災が人災と化した・どうして支援しない・させてくれないという国民(および国籍を有さない市民)の声が「閉め出され」食べて応援・観光で応援という「象徴」にすり替えられたことと微妙にシンクロしてはいないか。
 考えるヒントは、あらゆる本に散りばめられている。

エフェメラとジョブチェンジ(25.02.16)

※ちょっとした都市怪談なのかも知れません。あまり不穏を演出しないよう注意しますが、メンタルが不安定なかたは閲覧に一応ご注意ください。

    ***   ***   ***
 と言いつつ最初は無毒な近況から。
 どうも今年は「そういう年」らしい。先月は冷蔵庫が壊れて新しいのが届くまで10日ほど難儀したけど、今月はネット回線の切替(これは自発的な乗換)で新回線の工事まで半月かかり「つなぎ」にと渡されたハンディWi-Fi装置は通信量7GBまでしか使えず、これまた難儀しました(毎週配信で観てたドラマの最終2回は動画がどれだけ「食う」か分からないためネットカフェで観た(笑))。あとSNSって軽く眺めただけで500MBとか飛んでくんですね、ビックリした。ともあれ今日開通。
 左:天板が削れたテーブルの縁・右;回転して無傷の縁がこちらに向いた状態。
 パソコンまわりを片づけるついで、いい機会と思い10年くらい使ううち天板の縁が削れ?めくれ?合板の中身が剥き出しになっていたテーブルを180度回転、これが(も)結構手間で、やれやれと思ったら今度は(何の拍子か)自宅の鍵が曲がってしまう。
 「一応トンカチで叩いて直して、まあコレでも開くんだけど、まだ曲がってるっしょ」というキャプションどおり、少し曲がった鍵のアップ。
借家の通例どおり?入居時に鍵は2本貰っているから差し迫った問題はないのだけれど、早め早めに対策と専門店で合鍵を作ってもらいました。
 世の中もっと大変な人はいるわけで不平不満はないのですが、疲れたといえば疲れた、少なくとも週記と称して長文の考察など練る余力はない。今週は前から気になりつつ公開に踏み切れなかった「ネタ」を出してみます。と言いつつまた長くなったのは気にしなくていい

      *     *     *
 少なくとも関東の都市圏に居住する人なら、一度は目にしたことがあるのではないか。「集団ストーカー犯罪」被害は私たちに御相談をと謳う街頭ポスターだ。
 街の壁に貼られたポスター。「安心安全なまちづくり」「防犯」「STOP」「集団ストーカー犯罪」というロゴ(小さな文言はモザイクをかけて隠してある)赤い吊り目を光らせる黒い影絵の人々を背景に、首をかしげるボブカットの女性のイラスト。下に小さく描かれたヘッドライトを光らせる黒い車の影絵も「ストーカー」なのか対ストーカーの正義なのかは判別不能。
 まず大急ぎで書いておくけれど、アレは真に受けていいものではない・誘導されないでくださいというのが本サイトの基本的な立場です。弁護士ドットコムという、これ以上確実なところもなかろうという専門家のサイトが「あれは悪質」と明言しているのを参考に貼っておきますが
「「集団ストーカーは実在します」統合失調症の患者の不安につけ込む、探偵会社のセールストーク」(片岡健/弁護士ドットコムニュース/23.09.18/外部リンクが開きます)
+いわゆる「集団ストーカー」は怪しい・うさんくさいというのは前々からある話なのですが、今はソレが真だという主張のほうが検索でも上位に並んでしまう危うい状況なので、初めて知ったひとは「アレ自体うさんくさいものだ」と承知しておいてください。
※ポスターを貼ってる店なども「断ると厄介かも」で仕方なく容認しているのでは…という観測もネット上にはあり、その当否は僕が判断できることではないけれど一応。
      *     *     *
 …などと予防線を張ったうえで、どうやら誰もしていない話をする。くだんのポスターで(集団ストーカーって実在するのかしら?とでも言うように)首をかしげてるイラストの女性、それより何年か前、オタク向け婚活サービスのネット広告で「趣味の合う人と結婚できないかしら」と思案していたのと同じ絵ですよね?
      *     *     *
 なんでそんなこと憶えてるかと言えば、オタク用語で言うところの好みの絵だったんで保存した、さらばじゃだったからだ。2021〜22年頃だったと思う。ところが前のMacが壊れて(どうも今週は壊れる話ばっかりだね)データの移行やらバックアップやらするうちに、当該の画像を紛失してしまったのだ。だから証拠はない。
 証拠はないけれど「集団…」ポスターのほうを初めて見たのは自分に限っては2023年9月。18きっぷ一回分だけ使って日帰りで新潟県三条市まで出向き、好きなアニメ(24年2月の日記参照)に出てきたカレーを食べる「聖地巡礼」をキメた帰り、群馬県の高崎市で途中下車、こちらは個人経営のミニ書店が目当てだったのだけど臨時休業で空振り、すごすご帰る高崎駅の構内で「なんだコレ?」と目が行った。言うまでもなく「貴女、同じ思案顔で婚活してたよね?」の「なんだ?」である。
 ちなみにこの時は駅構内で人目もあり写真には撮れなかった。怪しい案件だと察してはいたので「見なかったこと」にしたかったのかも知れない。その後こんなに街なかに溢れかえるとは思っていなかった。
 よく最初に見た場所まで憶えてるなと言われるかも知れないけれど、憶えてるモノなんだってば。人目がなければ写真に撮ってたの?撮るんだってば。実際、高崎では中学生が書いた火災予防のポスターのほうはキッチリ撮ってある。まさか歯医者の看板しか撮らない人だと思ってないよね?
 左:『9/5(水)店主体調不良のためお休み」という手書きの貼り紙。中:中学生が書いた「家族で点検・守れる未来」という火災予防のポスター。右:同ポスターのアップ。セーラー服の女の子(たぶん中学生)を中心に両親・祖父母・わんこニャンコが揃っている。
中学生が描いたので童顔なのだろう、最初お友達かなと思った(真ん中のセーラー服の女の子の)左右ふたりは両親で、後ろにいるのは祖父母らしい。いやまあ、それはいい。なんだか集団ストーカーより自分のほうがヤバい案件に思えてきたが「毒をもって毒を制す」誰が毒だ
 ついでだから載せておく昨年末・札幌で見かけた狸小路のパチンコ店のイメージキャラ・たぬ耳の「狸塚二コ」ちゃん(左)と、BOOKOFF南二条店のイメージキャラ・狐耳の「狐二条ミナミ」ちゃん。
だからこういうの、マメに撮るし、ダウンロードしておく人なの。オタクなの。

 そのオタクの自分にして迂闊にも消してしまった(集団ストーカーの広告塔にジョブチェンジする前の)首かしげ子さん婚活広告。自分が持ってなくても広大なネットの海に残ってないかと探してはみました。
 結論から言うと見つからない。暇なひとは試してください、いや、試す必要はないです。「オタク 婚活」で画像検索。さらに「オタク 婚活 広告」「オタク 婚活 広告 イラスト」さらには「趣味の合う人と出会いたい」など、それらしい文言で検索しても出てこない。
 そもそもオタク同士の出会い・婚活の仲介がビジネスとして注目されだしたのは、この十年くらいのようだ。同人誌販売の大手「とらのあな」が「とら婚」と銘打った仲介サービスを始めた他、縁談仲介業のほうでも楽天オーネットが「オタク同士で結婚したいなあ…」と溜め息をつく巫女装束の女の子(本職の巫女さんなのか、趣味の巫女コスプレイヤーかは不詳)の萌えイラスト広告をネットに出すようになり、その後AIイラストに取って替わられたらしいけれど、そんな経緯も含め「オタク 婚活 イラスト」関連では彼女ばかりがヒットする。
 唯一「これは」と思ったのは、例の首かしげ子さんが元は婚活キャラだったとして、そのポーズに類似した実写広告が一件ヒットしたこと。
 髪形も頬杖に首をかしげ斜め上を流し見するポーズも酷似した実写の女性が「婚活ってどんな感じ?」「どんな人と出会えるの?」「ツ○ァイは他と何が違うの?」と思案している「業界最大級 結婚相談所・婚活するならツ○ァイ」という広告画像。
 ちなみにこの画像は当然「このページに含まれる画像です」と元サイトへのリンクが張られていたのだけれど、それを踏んで飛んだ当該の(つまり業界最大手・結婚相談所の)トップページには現在、この画像じたいはない。そういうものなのだろう。さらに言うと、この女性の画像で再度検索をかけると、背景をさしかえ無関係なニュースまとめサイトのアイコンに使われてますよとサジェストされる・が・当のニュースサイトは現在この画像は含んでいない。そういうものなのだろう。「どういうものなの?」ネット検索は存外アテにならない+ネット上の情報は存外エフェメラ(かげろうのように一時的)だということです。
 それにしたって、随分キレイさっぱり消えるものだという感慨ぶかく思う一方、意図的に消したのかもと思いあたる節もないではない。いや「消された』とか不穏な話をしているわけではない。よーく考えて気がついたのだけど、今「集団…」のポスターとして使われている首かしげ女性のイラストが、かつてオタク向け婚活のネット広告に使われていたのと同一の「絵」だったとして、それは同じ「画像」を(もしかしたら無断で)使い回している・とは限らないのだ。
 「絵」「画像」と言われて、すぐにピンと来る人ばかりでもないだろう、説明します。つまり「絵」は同じでも、それをネットに載せた「画像」は紙のポスターに印刷された「図像」より、ずっと解像度が低い。ネット用の小さな画像を拡大してポスターに使えば、絵はもっとボヤけてしまうはずなのだ。だからネットからポスターへの無断転用は、実は考えにくい。
 もともと解像度の高い原画があって、それを縮小して婚活ネット広告に使った・そののち元原画から今度は「集団…」ポスターを作った可能性はないか。もしかしたら原画の著作権者が、首かしげ子さんの「転職」に同意したのかも知れない。でも、いちど別の広告に採用されたイラストの版権を、そう簡単に移せるものだろうか。そのあたりは正直、僕の手に余る。残るのは「でも彼女は元は婚活の広告キャラでしたよね」という自分の記憶だけだ。
 ここまで来れば皆様、当然もう一つの可能性もお考えだろう。「そもそも本当に同じ絵だったの?」「その画像を一度は保存したけど紛失してしまった、ということ自体あなたの妄想ではないか…とまでは言わないけど(怖すぎる)単に似てるだけのイラストを同一だと思いこんだのでは?」あなたそういう勘違い、ありがちでしょと言われてしまうとグゥの音も出ない…と言いたいところだけど「でもやっぱり同じ絵だったよなあ」と思うに足る、間接的な状況証拠が実はある。
 好みの絵だったんで保存したと書いたのを思い出してほしい。実は当該の画像そのものは紛失してしまったけれど、そのイラストを元に自分の絵柄でキャラ起こしした絵は残っているのだ
 自分が描いた「首かしげ子さん」にインスパイアされたキャラ。髪を留めるヘアピンこそ元絵にないけれど、髪の細かいハネかたが酷似している。
特に左側の頬にかかる小さな髪のハネは「このキャラ」のチャームポイントとして別のカットでも拘って描いているよゆだ。2022年5月、実は一度、Twitterに上げている。期間限定で今は削除してネット上にはない。だから言ったでしょ、ネット上のデータはエフェメラだって
 もちろん元モデルがここまで、それも自分の好みではない形で「バズって」しまった今、同じキャラ絵のまま再び世に出すつもりはない。彼女を使った掌篇まんがは機会があれば容姿を変えて出し直すことになるだろう。それでも一応この話について僕は「信用ならない語り手」のレッテルは貼られない資格があると思っている。

      *     *     *
 性は雌雄でキッパリと二分されるものではない、現実には性は100%オスと100%メスという両端の間に広がるスペクトラム(グラデーション)で、たとえば小さな子どもは性器をのぞけば身体的にほとんど差がないように、性差の度合は変わりうるし一つの個体の中でさえ性差や性の濃淡はあるのだ、という最新の学説を解説した諸橋憲一郎オスとは何で、メスとは何か? 「性スペクトラム」という最前線』(NHK新書/外部リンク)を読んだとき「男女がキッパリと分かれていてほしい人たちの対抗運動もネットで確認できる。自分はこっちは違うなーと閉じたけど」とだけ書いた(23年3月の日記参照)。
 実はこのとき「違うなー」と思った理由の一つに、性スペクトラムは妄説だと主張するサイトに、画像の無断(?)転用があった。性スペクトラムのような考えかたのせいで心を傷つけられる子どもがいる、子どもたちを守らなければならないと主張するそのサイトは、メディアを通した妄説の脅威を訴える意図だろう、古いブラウン管式のテレビの画面が膨らみ、銃を突きつける手になって伸びている画像を「イメージ」として掲載していた。デヴィッド・クローネンバーグ監督のカルトホラー『ビデオドローム』の一場面だ。無論、クレジットなどない。
 もちろん先に諸橋氏の本を読み、またその他の性的マイノリティなどについての文献や意見も読み知ったうえで、反・性スペクトラムは「違うな」という予断はあったのだけど「映画の1シーンを無断で流用するような主張は信用を損ねるのでは?」と思ったりしたのだ。『ビデオドローム』の主演俳優だったジェームズ・ウッズは、今やゴリゴリのMAGA(Make America Great Againの信奉者)で、おそらく「男は男、女は女、LGBTQや、まして性スペクトラムなんて認めない」という立場にも大賛成だろうから「オレの出た映画、使っていいよ」と「許可」したかもね…というのは、まあ冗談として。
 何かを主張する時には、手段はフェアであってほしいという話。サヨクでもね。

 もちろん『集団…』の件はイラストの来歴はルル述べたように「流用」まして「無断転用」ではないけれどよく分からない不思議な「ジョブチェンジ」だった可能性が捨て切れない。でもそれ以前に、内容自体どうにも怪しい。街であまりに頻繁にポスターを見かけるので、予備知識のない人に注意喚起はしておきたい。
 そして、くだんの画像が婚活広告で使われてるの見たよ、なんなら保存して持ってるという人がいたら、そっと教えてほしいなあと思う。いや、真相を確かにしたいと言うよりは「趣味の合う人(こんなことになっちゃったけど、あのイラストいいよね)と出会いたい」だけかも知れません。
 結婚を迫ったりはしないから大丈夫。たぶん。

二人と5人(6人)〜ジン・オング監督『ブラザー 富都のふたり』(25.02.08)

 監督は本作を通して「日本の観客に、マレーシアで起きている現実を理解してもらえることを願っています」とメッセージを寄せている。けれど本作が描くのは日本を含め、おそらく世界中で「起きている現実」だ。
    ***   ***   ***

 Center of the Earth is the end of the worldとは、アメリカを代表するパンクロック・バンド:グリーン・デイの一節だ。
Green Day - Jesus Of Suburbia [Official Live](YouTube/外部リンク/11分くらいあるので注意)
いや、Earth=地球でもあるので、地球という丸い球の中心≒芯のほうかも知れないけれど
 実際ダンテの『神曲』では地獄の最下層イコール地球の中心だったはず。つまりダンテにとって地球は丸い。1/8輪切りで地殻・マントル・外核内核が半見えになった地球に、すり鉢状になったダンテの地獄を重ねた図解つきで。
Earth=大地と取れば大地=地上=人の世界の中心はこの世の果て。2010年代、一度は下野した保守政権が世界の中心で輝く日本をキャッチフレーズにあからさまな反動として再び与党の座に躍り出たとき、ずっと(お前らの言う世界の中心はこの世の果てだろうけどな)と脳内で異議を唱えていた。
 逆に言えば、この世の果てこそが世界の中心なのかも知れない。それは同時に、人が作り出した地獄の最下層なのかも知れない。つづめて言えばもはや辺境にしかコアはない。グリーン・デイの歌よりもっと前、『本の雑誌』の連載で評論家の鏡明氏が、とある回の結語にした言葉だ。当時ほかならぬアメリカを題材にした著作を長く書きあぐねていた氏の言葉と思うと余計に含蓄が深い。地政学と名のつくものは大概インチキだと疑ってかかっている自分が、それでも(わりと地政学用語として知られている)「リムランド」を創作同人誌の個人サークル名にしたのは、この鏡氏の言葉が動機だった。それはさておき。
 吾こそは世界の中心なりとドナルド・トランプが吠えるNYだかDCだかと、ガザ・パレスチナはどちらが世界の中心だろうか。あるいはかつて「哀しい男が吠える街」(違ったかも)と詠われたTOKIOと、そのTOKIOをきらびやかにするために宮下公園を追われた人たち、世界の中心で日本を輝かせるため踏み台にされた福島、維新の会と吉本興業が合作(捏造)した「予想以上の万博」と能登半島、どちらが世界の中心か。

      *     *     *
 世界に冠たる大日本さまに比べたら、マレーシアなんざ辺境…などと言うつもりは、さらさらない。十年近く前に一度だけ訪ねた首都クアラルンプール(以下面倒なのでKL)の尖端ぶりや公共交通機関の先進ぶり、多民族の共生(もしかして角逐)、皮肉な言いかたをすればグローバル資本主義に圧倒された同じドングリとして、かの国の栄華を誇る部分は、日本のそれと少なくとも遜色はないのだろう。
 写真三つ。1)ストレートヘアのピンクのウィッグをつけたミニスカート少女のマネキンが並ぶファッション・ディスプレイ。2)クアラルンプール(KL)のカラフルな地上交通車両がホームに入ってきたところ。3)車内の人がつかまりやすいよう三叉に分かれたつかまり棒、こういうタイプはKLで見たのが初めてでした。
 その一方で(有機LEDが夜も輝かせる)光にたいする影もまた際立つ場所でもあった。通りの左右にびっしり軒を並べたレストラン、店の前に張り出したテーブルが街路を埋めて夜をにぎわす食堂街で、行き交う人々の間を縫うように、身体障害者らしい上半身裸の少年が、地べたについた両手を足がわりに駆け抜けた。家族旅行の一行で、いちばん年齢が近かった甥っ子2号が「え?」という顔でショックを受けていたのも印象に残っているけれど、子どもの記憶は曖昧なものだから、いま大学生の彼はもう憶えてないかも知れない。
 左)数階建てくらいの建物が並ぶ裏を流れる緑色の川(水路)・川べりの壁には万国共通のグラフィティ文字。右)少し地味めな写真だけど店の前をテーブルとプラスチックの椅子が占拠した夜の食堂通り。
 そんなわけで「また台湾かよ!」とは自分でも思うのですが(またフーコーと、どっちが好かった?)ただの台湾でなくマレーシア・台湾合作、クアラルンプールを舞台にした・しかも必ずしも光に満ちた内容ではない作品らしいと来たら、何か自分の中の負債を確認するように、足を運ばずにはいられなかった。
 『ブラザー 富都[ブトゥ]のふたり』(リアリーライクフィルムズ公式/外部リンク)
 
 その皮肉でしかない名前が岩井俊二監督の映画『スワロウテイル』が描いた架空の日本の街・イェンタウン(YEN TOWN)を思い出させる、けれど富都はクアラルンプールに実在する貧民街だという。いや、たまさか僕はイェンタウンを(そして自身が見たKLを)想起させられたけれど、それだけではない。
 多民族国家の一員である華人として社会派映画を手がけてきたジン・オング監督はパンフレット冒頭で「日本の観客に、マレーシアで起きている現実を理解してもらえることを願っています」とメッセージを寄せている。けれど本作が描くのは日本を含め、おそらく世界中で「起きている現実」だ。
 ID(身分証)がないため居住もままならず、足元を見られては搾取され、ブローカーに騙され、銀行口座も持てず、反撃する選挙権もないまま入管の摘発に怯える非正規の貧民たち。健常者向けに作られ障害者を存在ごとネグレクトするシステム。ミャンマーからの政治難民。トランスジェンダー。善意の奔走が空回りするNGOの屈辱的な無力。
 センシティブな観客なら冒頭、市場で食肉用の鶏が絞められるシーンに食肉の問題・食肉の加工が社会の最下層に託され事実上「賎業」と化している構造まで見てしまうかも知れない。急転直下・怒濤の展開となる後半に提示される法制度上の問題は(伏せるけど)日本もまた他人事ではない。
 いや、本作で監督が「知ってほしいマレーシアの現実」として列挙した問題は、どれも日本国内でも見られる「構造的不正義」ばかりだ。強いて違うとしたら、多くの「ふつうの日本人」は入管で収容者が死に追いやられてもネグレクトする側・むしろ積極的に不正義に加担する側だということだろうか。でもマレーシア社会全体でも事情は変わらないかも。
 『ブラザー 富都のふたり』パンフ。社会的背景から主要キャスト・監督インタビュー、BL大国の隣国タイとの比較まで深く掘り下げた内容で、観賞と理解の手引きにオススメでした。
 明確に違うので観る前に知っておくといいのは本作の場合、主人公の兄弟は外国からの移民ではなく、複雑な戸籍(?)制度によって生じさせられた、マレーシアで生まれたけれど両親の死亡や親の不認知によってIDが取得できなかった、いわば自国内難民のような存在だということだ。日本で生まれた日本人であることが、そうでないあらゆる者を「差別じゃなくて区別だ」と言いながら差別できる理由になると信じている人たちは、それが通用しない社会もある事実に多少たじろげばいいのにと思う(まあそういう人たちが本作を観る機会はないのかも知れないけれど)。
 そして映画を観る前はあるのかなと思っていた、貧しい富都との対比として描かれる光々しいグローバル都市KLの描写が、ほぼほぼ皆無だったことも逆に気になっている。欧米ブランドのショーケースとしてのKL・多民族多宗教(かつて植民した西欧の手による建築等も含め)多文化が栄える観光地としてのKLの姿は、富都に生きる人々を捉えるカメラには「眼中にない」かのように映らない。逆をいえばNIKEのシューズやNIKONのカメラ・資本主義や新自由主義の繁栄を所与として受け容れている層にはKLの裏手にある富都も、各々の国に・当然のように日本にもある「それぞれの富都」もまた、ともすれば見えていない、ということではないだろうか。

 そこで冒頭の問い再び:「世界の中心」は、本当はどちらだ。
 またはどちらを「世界の中心」とする視点にこれから立つか。
 一時的なものかも知れない。けれどこの数年で、特にハリウッドが作る映画への関心が自分のなかで急速に薄れつつある。数年前まではトム・クルーズ(主演)やクリストファー・ノーラン(監督)の新作を劇場で観るかスルーするか大層悩んでいた気がする自分ですらだ。『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』でアカデミー賞を総なめにした中国系(アジア系)俳優たちが「昨年の受賞者=今年のプレゼンテイター」として登壇した翌年の授賞式で、傲慢な白人の俳優たちに公然とネグレクトされたという評判が「冷める」キッカケだったかも知れない。イスラエルによるパレスチナでの虐殺にアメリカが同調したこと・それに異を唱えるような人々が偽善者のセレブとして嘲られ、シルヴェスター・スタローンやジェームズ・ウッズらトランプ的なアメリカの賛美者が大きな顔をする界隈に、いよいよ失望がきわまったのかも知れない。
 何も、暗く貧しく「可哀想な」人たちの救われない悲劇を観てションボリしろ、それが現在に生きる者の責務だ―などと言うつもりはない。さらさらない。ただ、観るならば世界のコアを観たいのだ。それは台北の受験生たちが夢みる狭苦しい寝床かも知れないし、女人禁制の禁が破られ大騒ぎになる北マケドニアの田舎の村かも知れない。新作映画を作ることすら許されなくなったスーダンの野外自主上映会かも知れない。少なくとも、ドナルド・トランプやイーロン・マスクに唯々諾々と従うスーパースターたちがスーパーヒーローに扮して実写だかCGだか分からない大爆発とともに勧善懲悪を自称する場所・ここが世界の中心だと勝ち誇る場所に、いま世界のコアはない(30年以上前から、ずっとなかったのかも知れない)。
 『ブラザー 富都のふたり』に監督を含め多くの人々が「これは愛の映画だ」そこに救いがあるのだと評価(自己評価)している。そう言いたい気持ちも分かる。でも僕的には、救いがあろうと無かろうと「ここが世界の中心だ」これが「私の」世界のコアだという体感だけで、本作はドニー・イェンの跳び蹴りのように、トニー・ジャーの肘打ちのように痛快に思える。
 本作が描く「世界の果て」は「世界の中心」であり、また地球の中心≒地獄の最下層なのかも知れない。だとすれば「私の」この世界の本質は地獄なのだ。けれど絶対零度のはずの真空にも理論上エネルギーが潜在するように(←このへんは未消化なので軽くスルーしてください)人間的な生をすべて剥奪されたと言われるような剥き出しの極北にも、勝ち負けや救いのあるなしに関係なく生が、人生が横溢している。『ガザ日記』がそのようなルポルタージュであったし、『富都のふたり』もまた、そのような映画だった。つらかったりアンハッピー・エンドだったりするものは観たくないという気持ちは分かるけど、観る価値のある映画だと思います。

 世界の中心は世界の果てで、地獄の底でもある。この逆説は『富都のふたり』のように社会から排除される者たちの、排除される場こそが(問題の在り処としての・またそれに抗する生が横溢する場所としての)世界の中心・社会のコアなのだという理解にもつながる。しかし同時に、吾こそは世界の中心なりと勝ち誇るNYやDCやTOKIO・夢洲もまた地獄めいた排除の中心なのだろうと教えてくれる。
 マレーシア固有の問題を指し出そうとした監督の(少なくとも表向きの)意図を超え、世界のどの国にも本質的に存在しそうな排除を描き出した『富都のふたり』は、言い替えれば吾々ひとり一人が感じている社会の歪みや現世のままならなさを恣意的に投影できる鏡にも似ている。
      *     *     *
 おそらく他の誰も連想しなかったと思うけれど、マレーシアの貧民街で身を寄せあう血の繋がらない二人の兄弟、それぞれハンサムと呼べるだろう青年俳優たちが額を寄せあうさまを観ながら、たぶん観客の中でただひとり、僕は考えていた。日本の(きらびやかなほうの)中心に長いことスターとして君臨し、君臨しつづけたからこそ性加害者に成り果て転落した、かつての青年のことを。
 グリーン・デイが「郊外のジーザス」を歌うより、ずっと前にテレビ受像機を持たないようになっていた(それでかつて同人仲間に「私の知ってる一番の変人」の栄誉を頂いたことがある)僕は、彼が血の繋がらない五人の兄弟(いや最初は六人だった)の長男のように、おずおずとアイドルとしての、俳優としての評価を確立していった初期の頃しか見知ってはいない。だから、いけ好かない言動がイヤでも耳目に入り、とうに愛想が尽き果てていた(テレビ的なものに戻りたくない積極的な理由のひとつにさえなっていた)吉本芸人のボスとは違い、アイドルの彼がどのようなパーソナリティをテレビの中で構築していたか・あんな事件を起こすような人には…だったのか、さもありなんだったか知る由もないし、今さら知りたいとも思わない。同情とも擁護とも、かといって非難や罵倒とも僕は遠いところにいる。何しろ知らないのだから。
 ただ、マレーシアの貧民街でIDを持たないがゆえに最貧の生活すら奪われ破滅していく青年と、語弊はあるが地獄であることには変わりない破滅、一人の青年がテレビ界という「世界の中心」で数十年の時間をかけて破滅していくさまを多くの人が視聴者として見守っていたことは、この「世界の中心」もまた地獄・この世の果てだった証左にはならないだろうか。彼が(「兄弟」たちとともに)キャリアの最初期に受けていたろう虐待については言うまでもない。
 だからこそ。あるいは「それでも」。吾々・私たちという一人称が「大きすぎる主語」なら、「あなたたち」と言い替えてもいい。きらびやかな地獄にエネルギーを供給しつづけた、あなたたち視聴者それぞれ固有の地獄にもまた(変人の僕が、僕固有の地獄で希うのと同様)救いや、生の証がありますように。かなうものなら他の誰かをなるたけ踏みつけにしない形で。それがまた構造的に難しいのだけれど。

    ***   ***   ***
 途中から想定外の展開をした映画に負けじと(?)斜め方向の終わりかたをしちまった今回の週記ですが『富都のふたり』ヨコハマだといつものシネマ・ジャックアンドベティ(外部リンク)でしばらく続くみたいなので、近隣のかたは是非に是非にー。

外の世界に出る〜張國立『炒飯狙撃手』(25.02.02)

 a.
 良い本は他の本を連れてくる(ことが時々ある)。
 せんじつ読了したミシェル・フーコー『性の歴史IV』の脚注で取り上げられていたのに興味をもって「後期フーコー」と親交があった(22年12月の日記参照)歴史家ポール・ヴェーヌの『パンと競技場』を図書館で借りてきた。深く考えず閉架書庫に入ってる本を取り出してもらったら本文だけで700ページ・註も加えると千ページ位ある本でビビり散らかしたけど、それは別の話。
 「え、コレ読むの自分?と思った…」とキャプションつきで、厚さ5センチはある『パンと競技場』厚みが分かるよう上から見下ろした書影。比較用として100ページのマックス・ウェーバー『職業としての学問』岩波文庫を添えて。
 まず冒頭だけでもとパラパラめくったら、歴史学(者)と社会学(者)の違いについてサラリと触れる箇所が。いわく、社会学は概論(概念、類型、法則性、原理)を抽出するために出来事を利用するが、歴史学は出来事を説明するために(科学や経済学やそれこそ社会学の)概念を利用する。社会学者にとって歴史は実例(あるいはモルモット)に過ぎず、たとえば王制という概念を二・三の実例―たとえば古代ローマと近世フランスで説明できるなら、わざわざエチオピアにふれる必要はない。けれど歴史学にとって歴史とは個々の出来事なので「動物学者が全ての動物を、天文学者が星雲のひとつだって」取りこぼせないように、歴史家はエチオピアの王制も無視しえない。「つまりエチオピアの歴史に関する歴史家がいるはずである」
 学問を生業とはしなくても、人には社会学タイプと歴史学(動物学・天文学)タイプの別があるのかも知れない。つまり個々の出来事に関心が向くタイプと、そこから概念や法則を抽出しないと気が済まないタイプだ。他ならぬ自分が、たぶん後者だろう・近年ますます後者の傾向が強くなってないか、という話をしています。先週の日記とか特にそうでしょ、この小説おもしろかったですで済んでもいいものを、何がこの小説を面白くしているか・そもそも小説にとって面白さとは何か・いま小説に求められている面白味とは…みたいに概念を、ちょうど本サイトのプロフィール欄にあるように「どんなメカニズムが物語を駆動し心を動かすのか」エンジンを抽出したがる。よくないですよコレは。第一に、ただ楽しめばいい物語に、過剰な意味や意義を「盛って」しまう懸念がある。第二に、個別に存在するだけで味わい深い(けれど「意味」を抽出しにくい)事物の面白味を、上手に味わえない。自分がたとえば名勝や神社仏閣・なんなら美術や演劇なども上手に楽しめないのは、そこから意味やまして概念・法則を抽出しようとしすぎる(仏像やフィギュアスケートに法則を求めてどうすんのよ自分)・事物それ自体を味わえない鈍感さも一因なのではないか。
 そしてすごく疲れてしまうと、たとえば映画なんかでも「えーどうせハラハラドキドキして最後は感動するんでしょ(分かってンだよ)」となってしまう←抽出しすぎ。暗い映画館のシートに身体を沈めて、不機嫌そうに腕組みしてる自画像つきで。
 最近ようやく、世間から12周くらい遅れて、高校生女子がユルくキャンプする人気漫画を少しずつ読み始めているのですが(縦線スクリーントーンの多用と影のつけかたがスゴく大胆で目に映えますね)主人公たちが「この位置からだと神社の赤い鳥居と背景の青空・富士山のコントラストがとてもいい」とか「急な坂だけど階段がついてるから登りやすい」といったことを一つ一つ面白がってるのを見ると(少しずつって、もう7巻まで読み進めてんじゃねえか)こういう楽しみを自分は鍛えてない・なおざりにしがちだよなと思ったりもするのでした←その反省もまた意味の抽出ではと考えてはいけない。
 つまり、事物を説明するのに意味や意義・概念や原理を抽出しようとすると抜け落ちてしまう要素は存外に多い。「言語化」は時に、多くの要素を取りこぼす。

 b.
 ものごとを「それってどう面白いの」「どういう意義があるの」とメカニズムや概念・一般法則に還元したがる人は、還元主義者と呼んでもいいのかも知れない。ちょっと面白いのは社会学者(そう、まさに社会学者)のジンメルが、さらにそれを突き詰めた結果
私たちは、自分が理解もせず理解も出来ぬもの−因果律、公理、神、性格など−に物を還元した時、初めて物を本当に理解したと感じる
と書いていることだ(『愛の断想・日々の断想』岩波文庫)。分からないと・意味を抽出しないと安心できない心理は、「分からない」に行きついて最後ようやく安心する。何この逆転劇。
 でも、そういうものかも知れない。物語を、あるいは世の中どうしてこうなんだと社会や歴史を分析して、分析して、因数分解のように割れる全てを割り尽くして、最後に残る「余り」は結局、この「外」に出なきゃダメだ・「外」の世界につながることが希望だ、となりがちではあるのだ、たぶん。その「外」を昔は神とか神秘(つまり世界の外)と呼んだし、今は他者(つまり外の世界)と呼ぶのかも知れません。
      *     *     *
 実は今週の週記では『性の歴史IV』の読書ノートをつけようと思ったのですが、すでにマクラだけで長くなりすぎたので来週以降とします。
      *     *     *
 c.
 良い本は時に、別の本の代わりに、美味しそうな飲みもの食べ物を連れて来る。
 先週とりあげた『雨の島』では甘蔗青茶(ガンジョーチンチャー)なる台湾の飲料の名前が目に灼きついた。甘蔗はサトウキビ。日本ではひとしなみに烏龍茶と呼ばれがちな半発酵の中国茶(青茶)を、サトウキビのジュースで割るんだそうです。
 これは人さまにオススメいただいた(そして良き人は、良き本をもたらす…ありがとうございます)
張國立炒飯狙撃手(原著2019年/玉田誠訳・ハーパーコリンズBOOKS・2024年/外部リンク)
は、えー、ストーリーの概要は後回し(こちらの紹介など参考になるでしょう→)
小説_華文ミステリ〔日本版刊行〕張國立『炒飯狙撃手』(太台本屋/外部リンクが開きます)
まずは読みながら、登場する食べ物を備忘にメモする手が止まらない一冊(笑)。北京ダックならぬ南京板鴨(なんきんダック)、栄養三明治(サンドイッチ)、揚州炒飯赤豆鬆□(あずきケーキ、□は米偏に下棒が突き抜けない羊・「然」の下部と同様の点四つ)、刈包豆干(干し豆腐)のように折りたたまれた掛け布団キャベツを使わない韮餃子麺線は横浜中華街で買えるだろうか(自メモ)、餡餠(中華おやき)。たまらんなあ←こういうのでいいんだよ本の感想
 『炒飯狙撃手』書影。皿に盛った炒飯を隣に添えて。
 食べ物以外でメモを取ったのは水源市場・東南亞電影院(映画館)・寶藏巖・虎空山などの地名と「65式歩槍」これはアメリカのM16ライフルを模した台湾軍の小銃だそうです。要するに(最後の小銃を除けば)旅情をそそる。
 最後の小銃にまつわる(そして懲りずに「意味」を抽出しようとする)話を少し。
 ミステリと言うよりエスピオナージュ・スパイ小説に近いのかも知れない。台湾出身でイタリアに潜伏する凄腕のスナイパーが、炒飯の達人でもあって周囲の人たちから好かれてるという設定、そういえば昨年観た台湾ラブコメ映画の秀作『狼が羊に恋をする時』(昨年11月の日記参照)でも、去った恋人への未練を抱きしめながら生活のために始めた炒飯屋で人気者になってしまう青年が登場したけど、最初は何度も失敗するうち達人になっていく様子は『炒飯狙撃手』が語る「炒飯はとにかく慣れだ」に通じるところがあるようだ。あ、いや、そこじゃなくて。チャーシューが手に入らないイタリアでは角切りにしたサラミを代わりに使うと、滲み出る脂で独特の旨味がつくのだとか。いや、そこでもなくて。
 突然イタリアで自身が狙撃の標的にされたスナイパーの全欧を股にかけた逃避行と、定年退職を間近に控えた刑事が台湾で遭遇した未解決事件が、やがて台湾軍の(海外からの)武器購入にまつわる巨大な陰謀劇に絡めとられていく。少しネタバレしてしまうと、鄭成功とか明朝の時代に起源が遡る秘密結社・影の同盟が重要な役割を担う。
 …そんな構図に改めて、日本の物語の幸福な不幸を考えてしまった。
 台湾の作家が書いた本作でも、大陸・「本土」・中華人民共和国で書かれた警察ミステリ『死亡通知 暗黒者』(昨年12月の日記参照)でも、もっと言えば韓流のサスペンス映画でも、ハリウッドのアクション映画でも、警察と軍隊そして反社会組織(いわゆるマフィアあるいは他国のスパイ組織的なもの)が反発しあい浸透しあい三つ巴の陰謀劇を成しがちだ。その癒着に立ち向かうのも、往々にして軍で特殊な訓練を受けたスーパーヒーローだったりする。
 1945年の敗戦以来、正式な軍隊を有さない・また警察力も市民を護る以上の権力行使を(建前上は)許されない日本では、そうしたスーパー元軍人・スーパー警察官のヒーローは制度上、存在できないことになっている。○○組のような暴力組織が警察や政財界に影響力を行使するさまを描いたとしても、それはハリウッド映画のマフィアの表象とはニュアンスが異るだろう。ましてそうした影の組織が江戸時代や戦国・室町時代まで遡ると言われたら、ギャグか清涼院流水・あるいは清涼院流水のギャグ小説にしかならない。
 つまり日本において江戸以前と明治以後の歴史は改めて(名目上)(封建的な心性とかの継続は別問題とする)断絶が著しく、さらに戦前・戦後の断絶が加わった結果、軍や警察・反社会組織をエンターテインメントとして描く可能性は著しく損なわれている。んにゃ、サングラスの危ない刑事と広域YAKUZA○○会が自動拳銃でバンバン撃ちあうドラマは(観たことないけど何しろ本サイトの中のひとが住んでる横浜でも)ふつうにあるのだけれど、そうではなくて。『ボーン・アイデンティティ』のマット・デイモンや『イコライザー』のデンゼル・ワシントン、『アジョシ』のウォンビンや『戦狼』のウー・ジン、『暗黒者』『炒飯狙撃手』のような(元)スーパー軍人・(元)スーパー警察官のヒーローやアンチヒーローの活躍や暗躍を、この国の物語作家たちは指をくわえて見ているしかない。
 大急ぎで言うならば、それは幸福な欠落なのだ。軍隊で特殊訓練を受けたヒーローの痛快な活躍(という物語・往々にしてフィクション)など、現実に徴兵や従軍で損なわれた人生の(大小さまざまな)悲劇とは比べ物にならないだろう。それが幸福であることを、譲ってはならない。
 現在の日本では(まだ一応)警察官も自衛隊員も、たまさか役割として武器を貸与された一般人であって、階級としては一般市民と同等なことになっている。だから警察官・阿久瀬錠(あくせ・じょう)は異星から襲来した「ハシリヤン」が繰り出す怪人に一警官としては歯が立たず、荒唐無稽な「爆上戦隊ブンブンジャー」の一員・ブンブラックに変身し荒唐無稽な巨大ロボを操縦する(前にも言ったけど何しろ四肢のある人型ロボを「自動車のハンドル」で操縦するのだ)ことで、ようやく初めてスーパーヒーローたりうる。現実に存在した「自衛隊で特殊な技能を身につけた元自衛官」が、現実の世界では何をしたか、蒸し返す必要があるだろうか。
 もちろん現実の警官や自衛官は「着てる服が違うだけの一般人」ではない。警棒や拳銃・自動小銃や戦車がなくても、おそらく素手でも、警察官や自衛官と戦えば(特に非力な僕などは)瞬殺だろう。制度が公式に・その組織が自ら非公式に許した権力・強制力もまた、建前以上にえげつないものではあるに違いない。この建前と実力の乖離は、いずれは問われるべき問題なのかも知れない。この国が「平和」であることと、政治的な異議申し立てが「意識高い」と揶揄され(意識が高くて何が悪いのだろう)忌避される現状は、もしかしたら関係があって、いずれ吾々はそことも向き合わなければいけないのかも知れない。
 だが、そうした「問題」と「諸々の問題を解決するには日本も正式に軍備が持てるよう憲法を改定したほうがいい」とか、まして「徴兵制を復活させたほうがいい」みたいな短絡は、混ぜるな危険だろうと冷静に考えもする。「人々が真に市民・民主主義社会の主権者となるためには軍隊の存在・従軍の経験が必要なのだ」と説く者が現れたとしたら、そうした主張が(人々が主権者より従属者であるほうが好ましいと考える)国家をどう利するのか、先に考えたほうがいい。
 他の国では元軍人や、特殊訓練を受けた公安警察官がスーパーヒーローとして活躍する映画やドラマがあって羨ましいから、日本でもそういう物語が生まれてほしい、というのも見ないほうがいい夢だろう。というか少なくとも「その夢には現実の責任が伴うよ」と思う。
 世の中に、語られるべき物語は、他にも沢山ある。元軍人のスーパー格闘家がいなくても、政財界まで影響を及ぼす五百年の盟約がなくとも、環境が破壊され人とAIの区別がなくなり・いや人がふつうにただ生きるだけで絶え間ない暴力と被傷性があるのだとは、先週『雨の島』で確認したとおりだ。エスピオナージュを器にタップリ盛りつけられた台湾美食を堪能したり、静岡に原付バイクを走らせ山梨にテントを立て御当地グルメや熱々のおまんじゅうに舌鼓を打つのが、謀略や暗殺やまして戦争よりは語るに足らない無価値なものだと、誰に言えるだろう。
 今さらボカしても仕方ないんだけど少しボカした漫画『ゆるキャン△』(第一巻)書影と、太麺焼きそばのお好み生地サンド焼き。
 これは人気の某キャンプまんがに登場した富士宮名物・しぐれ焼き(お好み焼きと富士宮焼きそばを合わせたご当地グルメ 鰯の削り節とウスターソースでさっぱりした味つけ 肉カスとモチモチした太麺のおかげで非常に食べごたえがあります)に触発されて作った、でも「焼きそばが太麺」以外は似ても似つかない創作お好み焼き。いいのいいの。大事なのは美味しいこと、充実してること、
 そして読書が本の外で何かしらの実践につながること…これは今週取り上げるはずだったフーコーの本を読んで受け取ったこと。その話は文案がまとまれば後日。

    ***   ***   ***
(追記)麺線じたいは中華街といわず中国(本土・大陸)系の食材店でもソレらしい細麺が廉価で手に入るし、なんなら安めのおそうめんでも好いのではと(煮込むからおそうめんほど質にこだわらないはず)。むしろ魚粉だしとモツの味わいが出たスープを現地風に作れるか。あれは豚モツがふつうに(お安く)流通する食文化圏での庶民食な気がします。牡蛎が安く手に入ったら贅沢に牡蛎麺線とか美味しそう。

小ネタ拾遺・25年1月(25.1.31)

(25.01.01)謹賀新年。拍手の御礼にも書いたけど(みんな意外と御存知ないんだなあ…世代差?)今年は映画『戦艦ポチョムキン』百周年。とうぜん著作権はとっくに切れているのでYouTubeなどで全編無料で閲覧できますが、とくに名高いオデッサの階段だけ貼っておきます。11分20秒。
 
圧制に抗する水兵たちが占拠した戦艦ポチョムキン、しかし港で彼らを歓迎する市民たちに圧制側の政府軍が襲いかかる。前近代の・秩序の外から襲来する・いわゆる野蛮ではなく、機械のように整然とした秩序として文明の中心から到来する暴力がTHE・近現代!と最初に観た時は思ったかなあ。いま見返すと(顔の見えない無機的な射撃隊にたいし)憎しみの表情を剥き出しにしたコサック兵≒外部の「野蛮」に悪をアウトソーシングしている部分もあるようだけど。そして撃たれて倒れた子どもを皆がそれでも最初はまたいで逃げてるのが、パニックが増すにつれて最初は男が、しまいにはスカートの女性まで平気で踏みつけてしまうようになる演出(モンタージュ)が悲しくも丹念でえげつない。
 そして今年はスクリッティ・ポリッティの名盤『キューピッド&サイケ85』40周年…マジか…だって本作がリリースされた当時の40年前は1945年じゃないの。早すぎるぞ時間の流れ、まさにヒプノタイズ(催眠術)。んーベビッ♪
Scritti Politti - Hypnotize(YouTube/外部リンクが開きます)

(25.01.02)まさか演ってくれると思ってなかったLOVE PHANTOMに大興奮・家族の前で「この何とかかんとかで何とかだよぉ〜(がっ!がっ!)何とかかんとかだから〜(てろれろれろれろれろ)って人(ヴォーカル)の話聞いてない感じの野放図なギターがいいでしょ」とファンのひとには怒られそうな讃えかたをして、一昨年よりはだいぶ満足度の高い昨年の紅白でした。あけましておめでとうございます。
(25.01.31追記)そして昨年の紅白、グループとして出場していたTXTにもテヒョン君が居ると知らず、例のけん玉タイムにテヒョン参加!というテロップを見て「(もちろん紅白には出ていない)BTSの主要メンバーが、けん玉のためだけに単独来日したの!?(けん玉どんだけ好きなの!?)」と一緒に観てた家族の誰にも通じない勘違いで一人悶えてた話も、ここに供養しておこう…

(25.01.07)ジャケ(鮭)・パスタリアス。無論シラスを買ってきて「じゃこ・パスタリアス」のほうが再現度が高いわけだが(何の再現度だ)あるもので楽しく暮らす。
 上に豆苗を散らした鮭とキノコの和風スパゲティ。
※ジャコ・パストリアス、よく分かりませんスミマセン。手持ちではジョニ・ミッチェルのアルバムに何作か参加してるみたいなんだけど…

(25.01.08)当日は「残さない」と書いたんだけど、知られざる名曲は誰かが語り継がなきゃいけないので残す。本人は穏やかなアンビエント・ミュージックなど醸しながらブライアン・イーノがプロデュースした爆音ロックの伝説的コンピ『NO NEW YORK』、その中でも圧倒的なキャラ立ちを見せる(僕などは正直この一曲だけで十分な気もしている)のが
Mars - Helen Fordsale(YouTube/外部リンクが開きます)なのですが、
 この曲はデヴィッド・ボウイのお気に入りでもあったと知って「答え合わせ」が出来た、と思ったのは、80年・ベルリンからNYに乗り込んで制作されたアルバム『スケアリー・モンスターズ』の随所で掻きむしられる(その形容はどうか)ギターは盟友イーノの当地での仕事に触発されたのかもと憶測していたから。もちろんボウイらしく他の要素もふんだんに取り入れポップに洗練させているけれど。
David Bowie - Scary Monsters(And Super Creeps) (YouTube/外部リンク)
 今日はボウイの誕生日(喜寿)。没後十年近く経っても、その貪欲な音楽性には飽きられる気がしない。それでいてどの曲もボウイ。最近は何十周かして、またダイアモンドの犬が好き(スケアリー・モンスターズじゃねえのかよ)

(24.01.09)ボウイの誕生日とどっちが大切だと思ってんだ、て後回しにしましたが一昨日は冷蔵庫の命日でした…享年20歳(くらい)まあ冷蔵庫としては十分に頑張ってくれました。最初「庫内灯が切れただけかな?」と儚い希望を持ったけど、摂氏9度は動いてる冷蔵庫内の温度ではない…
 左:温度計が9℃を示す冷蔵庫内。右:天井に圧さ2mm近い霜が張った冷凍庫内。
冷凍庫のほうは分厚い霜が氷室の役割を果たしてくれてるけど、ニラやモヤシはたちまち柔らかくなり、慌てて火を通す。次の冷蔵庫が届くのは十日先なので、その間に部屋を片づけねばならず(設置に人が入るため)今週・来週のメイン日記はメイン日記はお休みします。月刊RIMLANDも今月はパス。まんがどころじゃない。
(追記)冷凍庫の氷室は48時間で融解開始。地球温暖化の縮小版を見るようで悲しくなったり、その名も「エントロピー」というピンチョンの短篇(うろ憶え)を思い出したり。
(追々記)冷蔵室の温度、ほぼ室温と同じになったので、お味噌やら温度計やらを融解中の氷室(冷凍室)に移す。こちらは摂氏1度。。(25.1.12再追記)冷凍庫も速やかに熱死。まあ残ってるのは味噌と梅干と調味料(お酢など)なので大丈夫でしょう(to be continued...)

(25.01.11)個人レベルでは冷蔵庫が壊れた程度だけど、ものすごい勢いで世界が壊れてるみたい。カナダのトルドー首相、辞任を表明(クーリエ・ジャポン/後半会員限定/25.1.8/外部リンクが開きます)はインフレによる支持率低下に「あなたではトランプに対処できない」と身内からの批判がトドメになった由。短い記事では「対処」が「対抗」なのか「(迎合も含めた)対応」なのか詳らかではなく、もっと良い記事を探したほうがいいのかも。

(25.01.13)不安で眠れず、眠れないこと自体よけいに不安な時は、横になって目を閉じてるだけで身体は休まるのだと思い出してください。「泣きたい夜に一人はいけないよ」という唄は著作権の関係で貼れない感じなので、代わりに「明日もまた一緒に」という唄を貼っておきます。明日もまた一緒に。おやすみなさい。
新居昭乃 - 星の木馬(YouTube/外部リンク)
※過ぎてしまうと何事か分からなくなってしまうけど、九州の地震で南海トラフの可能性が話題となった晩でした。ネットに飛びかう言葉がみんな浮き足立ってて・かつ「私を誰が助けてくれるんだ」みたいな言葉ばかりだったので、誰か「私には誰かを助けるため何が出来るだろう」という言葉を投げる必要があると思ったのでした。

(25.1.12)繁忙期につき最大23時までの残業と休日・祝日出勤を募る声をものともせず定時退社をキメながら「バラのようなスピード退勤」という(分かる人には分かる)フレーズが脳裏を横切り、腹立たしいような、鬱陶しい動画広告につきあわされた分を(ネタとして)多少は取り返せて嬉しいような。しかし冷蔵庫代の足しにするため、明日は祝日出勤。

(25.01.18)だいぶ片づいてきました。なにしろ昨日まで、このカーペットが見えなかったのです(ダメすぎる…)
 本の詰まった棚二棹の写真にキャプション「前にも書いた気がしますが、この本棚の裏にあるコンセントを使えるようにしたいけど今回もまた無理な相談なのでした…」

(25.01.19)新しい冷蔵庫、無事搬入。前より大きいため背筋を伸ばさないと台所に入れず、ふだんの自分の姿勢を悪さを再認識するなど。まあ耐えがたければ奥の食器棚と位置を入れ替える。
 左から:新しい冷蔵庫を通しやすいよう入口のガラス戸を取り外して手前(居間)に立てかけた台所・新しい冷蔵庫が台所に設置された様子・ガラス戸を再度とりつけると冷蔵庫との間が25cmしかない・まだ何も入れてない冷蔵室。
※入れ替えました。月末に続く。

(25.01.20)そんなわけで新しい冷蔵庫を迎え入れ、久しぶりにアイスでも常備しようかと(先代の冷蔵庫は壊れる十年も前から冷凍庫がアイスを固体に保てなかった)スーパーで手にした雪見だ○ふくが、知らない間に雪○小福になっていた衝撃。子どもの頃に遊んでた公園が大人になって再訪したら驚くほど小さく見えるのと同じ原理ではない(たぶん)。そのうちピノと区別つかなくなりそう、いやピノはピノでチ□ルチョコ(いちおう伏せ字)くらいになってなければの話だけれど…代わりにふつうのヨーグルトを買って帰りました。シュリンクフレーション、おそるべし。

(25.01.21)そして「キャベツひと玉500円に驚愕・お好み焼きの予定を急遽お安いニラでチヂミに変更」から二ヶ月足らず、今度はニラひと束250円で白目を剥いている。安いところの特売で160円くらいよ…↓これは在りし日のチヂミ。
 ありし日のチヂミ画像
 白目といえば二期目の任期を開始早々ドナルド・トランプがWHO脱退を宣言のニュース。トランプより前からアメリカ・ファーストと言われた某国あたりが大慌てで追随しないか、とてもとても心配。なんか本当に、激動の一年になりそうです。

(25.01.22これはTwitter(現X)で何度か、もしかしたら本サイトでも取り上げた話かも知れないけれど、井上陽水が「最後のニュース」で「眠りかけた男たちの夢の外で目覚めかけた女たちは何を夢見るの」と歌ったのが36年も前なことに改めて考えこんでしまう。1989年、もうダウンタウンやSMAPは最新版の「若者たちの神々」としてTVに躍り出ていただろうか。
井上陽水 - 最後のニュース LIVE 50周年記念ライブツアー 2019/10/20 [期間限定](Youtube/外部)
 ドナルド・トランプのWHO脱退宣言は流石にこたえた。眠りつづけようとする男(たち)。
(同日追記)『若者たちの神々』はNEWS23のエンディング曲を陽水に依頼した筑紫哲也氏が、それに先立つ80年代半ば「若者たちのカリスマ」たちに取材したインタビュー集のタイトル。
(追々記)使い勝手がよいので安易に使っちゃったけど現実の80年代半ばに「若者たちのカリスマ」みたいな言い回しは、まだ無かったかも知れない。カリスマという言葉が本来の用法を超えて、一気にカジュアル化したのは90年代末だったと記憶している。なんか突然すごい流行語になったんですよ←僕の言うことだから話半分に聞いとけよー
(25.01.31再追記)井上陽水「最後のニュース」については、その世界の病理をあばく目線の透徹にも関わらず、だからどうしろでなくただあなたにグッドナイトで終わってしまうところが「傘がないと変わらないという評(批判)もあって、まあそれもそうだとは思う。イエモンの「JAM」や宇多田ヒカルの「あなた」などにも通じる話。

(25.01.23)実は昨年末にはプレスリリースが出ていたのですが(←外部リンクが開きます)原材料の高騰により味の素の冷凍食品、3月から値上げだそうです。同ブランドの「しょうがギョーザ」台湾の餃子がこうゆう味という話もあり好んで食べてるので、若干広くなった冷凍庫に少しずつストックを作っておこうかと検討中。
 冷凍しょうがギョーザ(にんにく不使用)のパッケージ画像
これに台湾産のトロリと甘口の醤油膏(横浜中華街で買えます。たぶんアメ横でも)をつけて食べるのが美味いのよ…

(25.01.25)これを見て「あ、歯医者」と即座に見抜けるのは本サイトで慣れてる人くらいだろう。気取ってるというか、むしろ何処まで奥歯から引き離せるか、挑んでる感すらある神宮外苑。
 中世ヨーロッパの盾か紋章のように、しかも真ん中で縦に二分し左右色違いで中に紋章っぽい図案を書き込んだ、しかしフォルムとしては奥歯型・「神宮外苑」と横に添えられた○○歯科の看板。気取っても下は○るまる饂飩(好き)なんだけどな…
確認したら同じ場所で大阪発祥の庶民派つるまる饂飩は「千駄ケ谷店」。実は代々木とも接してて三地域の端境にあたる交差点に、一時は同人誌も扱う印刷屋さんの事務所があった気がする。

(25.01.26アンディ・ウォーホルのミューズだったイーディス・セジウィックの伝記『イーディ 60年代のヒロイン』(ジーン・スタイン/ジョージ・プリンプトン1982年→筑摩書房1989年)は、落ち込んでる時に読む本ではなかったかも。150余人の断片的な証言の(青山南さんはじめ四人の訳者が訳し分けている)コラージュで構成された二段組500ページの大著が描き出すのは、サージェントに肖像画を描かれるような名家の没落と破滅の物語。とゆうか上流社会の花形でも、ファクトリーのスーパースターでも「ひとかどの者」になれなかった・自分は敗残者だと自己規定してしまった人生は、どれだけ豊かでも虚しい―なんて本、過去の「しくじり」ばかり思い返して煩悶してしまうタイプの読者・まして他人の失敗をエンタメとして嗤えない人間には向いてませんて。これは長く関わってる本ではないと、大急ぎで読了というのが、皮肉な賞賛と思ってもらえれば好いのですが(年来の宿題を読めて良かったのは事実なのですよ)。
 銀色のアイロン台の上に載せた銀色の『イーディ』と、白いアイロン。
ちょっと驚きだったのはブロンド・オン・ブロンドと呼ばれた(彼女と一時つきあいのあったボブ・ディランのアルバム名にもなってますね)トレードマークの銀髪すら地毛ではなく、黒髪を染めたものだったということ。こちらは見事「ひとかどの者」に成りおおせた気がする80年代(以降)のヒロイン・マドンナもイタリア系なので本来は金髪でないことを思い出したり。
 そして考えてしまうのはもう一人、これは生まれついての金髪だろうけど年齢的に本当は色素が抜けきって白髪であるだろう、今アメリカの顔となってる男のこと(染めずに白髪で登壇する場面もあるようだが←ひょっとして今は白髪がデフォルトで、染めた金髪は自分の中の勝手なイメージ?)(そもそも地毛でない説もある)。世界最強国の大統領にまで昇りつめた彼は、しかし「ひとかどの者」だろうか。あれもまた空っぽの、まがい物の虚飾の金ではないのかと。なんかトランプの悪口ばかりでしたね今月。

(25.01.27)僕は夕刊フジの、2015年にISが後藤健二氏を予告殺害した前日に「米軍の特殊部隊が後藤氏を救出する」と夢みたいな与太を飛ばし、実際に殺害されてしまった翌日には一転「次はISは日本国内でテロを行なう」とこれまた誇大妄想な恐怖(と差別)を煽った所業を決して忘れることはないので、廃刊ていどで許されると思うなと明言しておきたい。そして多くの人が目にする駅やコンビニで毎日のようにショービニズムに溢れたヘッドラインを見せつけ続けたことで、この国の平均的な人々の心をどれだけ悪辣に歪めたか、計量できるならしてみたいくらいだ。
(01/28追記)でも夕刊フジが退場するのは、その毒素をこの社会の人々に十分に行き渡らせ、夕刊フジがなくても皆が夕刊フジを内面化した後・いわば役割を十全に果たした後での退場なので、嬉しいことは何にもない。

(25.01.28ちょまま、デヴィッド・リンチ監督…(しかも11日も前…)当人も失敗だったと語る彼版『DUNE 砂の惑星』ですが、僕は好きでした…
TOTO - The Floating Fat Man (The Baron)(YouTube/外部リンク)
↑たった84秒なので聴いとき。リンチ版DUNE、ロックバンドのTOTOが手がけたサントラも素晴らしかった(アルバム持ってます)。

(25.01.30)今までより少し大きな冷蔵庫を新調したところ、台所の出入りが困難になった件。他に動かしようがない洗濯機の上に(洗剤だの置けということなのでしょう)壁に直付けの棚板があって、洗濯機←食器棚・冷蔵庫という並びだと棚板が邪魔して食器棚を洗濯機のほうに寄せられなかったのを、一念発起して洗濯機←冷蔵庫・食器棚と場所を入れ替えることで(冷蔵庫はまだ背が低いので棚板をくぐるように洗濯機に寄せられる)通路用の空間を確保できた次第です。なんで最初からこう配置してなかったかと問われると困るんですけどね。
 上記の説明の図解。
かれこれ十年ぶりくらいの配置替えなので、しばらくは食器棚の前で冷蔵庫を開けようとする仕草をしてしまいそうです。
 冷蔵庫が壊れた時(というか新しい冷蔵庫が来た時だったかな)拍手経由で優しい言葉をくれた人ありがとう。また来月。

自然と暴力〜呉明益『雨の島』(25.1.26)

 時間の使いかたが下手なのだろう、馬齢だけ重ねながら驚くほど沢山のものを見たことがない。
 その多くは億劫や怯懦に基づくけれど、そもそも見るべきものにアプローチする手順じたい知らない、無知によるケースも少なくないようだ。たとえばの話、天の川を肉眼で見るには(日本だと)人里離れた山奥にでも出向く必要があると思いこんでいた。
 まだ大学生くらいの若い乗り鉄氏が、好きこのんで様々な路線の終電に挑むYoutubeチャンネルがある。終電なので下車したあと帰ることも出来ず現地泊・それも多くの路線では終着地が宿すらない僻地や住宅地で「ベンチホテル」と称して駅前のベンチで一夜を過ごす処までセットで芸風にしていると思し召せ。その中に東京発の東海道線・国府津行き終電を扱ったものがあり
【野宿確定】深夜1時、目の前は海… 東海道線最恐終電を乗り通してみた!|終電で終点に行ってみた#20(ナオヤ鉄道ch/Youtube2/4.5.14/外部リンクが開きます)
駅から徒歩5分・海岸に出ればアッサリ天の川が見れてしまうと知った。海に沿って道路はあるのだけど、高架の高速道路(西湘バイパス)のため星空を堪能するには十分な暗さを確保できるらしい。
 国府津駅はヨコハマと同じ神奈川県。徒歩30分の距離に仮泊可能なスーパー銭湯がある由。また二駅先の小田原駅まで6.5kmなので、そこまで歩いてネットカフェに入るのも好いかも知れません。天の川のシーズンは夏らしいから、半年後の自分に期待。
 地図。東海道線で東京ー横浜間の120%くらいの距離で国府津。
 台湾・淡水は台北から電車で日帰り圏の、風光明媚な港町(らしい)。邦訳は昨年出たばかりの紀 蔚然DV8 台北プライベートアイ2(原著2021/松山むつみ訳・文藝春秋社/外部リンク)によれば、この淡水には駅から歩いて行けるマングローブの研究林と遊歩道・資料館があるらしい。こちらは国府津ほど簡単に再訪は出来ないけれど。
 マングローブではないけど榕樹(ガジュマル)なんかは台北でも街路樹として普通に見られたりしました
淡水河紅樹樹林自然保留区(外部リンクが開きます)

      *     *     *
 でも今日は同じ台湾の作家でも呉明益の話。最初に読んだブッカー賞候補作
自転車泥棒』(原著2015年/天野健太郎訳・文藝春秋社2018→文春文庫/外部リンクが開きます)
で印象に残ったのは、象にまつわるエピソードを語るにあたり「人間にとって象とは何か」みたいな思弁が置かれるところだ。
かつてゾウはこのジャングルと山脈の魂であった。魁梧(かいご)にして、他の生命を殺(あや)めることのない肉体は、慈悲の化身とされた。叡知をきらめかせる小さな目も、感情と霊性の象徴であった。
 人びとはゾウを崇拝した。ゾウは人間の運命を知っていると考えた。そのころ、人間は自分たちが動物のなかでも神と通じる能力が備わらない、取るに足らない種族だと考えていた。
 でも、そんな時代はもう終わった。

あるいは鉄に関するくだり。
古代ローマの詩人・オウィディウス(中略)は人類の歴史を「黄金の時代」「銀の時代」「銅の時代」「鉄の時代」に区分した。人類は鉄の時代に航海と資源を知り、戦争に夢中になり、いっぽうで信仰を失くした
 逆にむしろ、こうした思索のほうが著者の本領であるらしい。環境活動家でもあり、フィクションの要素を持たない自然誌の著作やアンソロジーの編纂・絵画など台湾で第一人者との評価を確立しているようなのだ。

 一台の自転車をめぐって(←それで鉄の話になる)主人公自身の半生と、日本軍も大いに絡む先の台湾の20世紀史(←それで象も出てくる)が掘り起こされる=ミクロとマクロの「人間の」歴史がモチーフだった『自転車泥棒』に対し、最新作 雨の島(原著2019年/及川茜訳・河出書房新社2021年外部リンクが開きます)
では自然と人間・自然の中の人間界というスケール感が強く打ち出されている(2011年の『複眼人』も、そっちサイドの小説らしい)。ざっと抜き出しただけでも登場人物ならぬ登場「生物」はオヨギミミズ、ウェッデルアザラシ、シリアゲアリ、ウンピョウ、ゴマフイカ、キハダマグロにクロマグロ、サシバ、そしてトラなど、など多岐にわたる。
 木の床の上に置いた『雨の島』書影。キャプション「複眼人はこれから読みます」
物語の舞台も、ホームである台湾の近過去を描いた『自転車泥棒』とは大きく異る。『雨の島』を構成する連作は、ドイツの田舎に住まう少女ソフィーが最初の主人公だ。このソフィーが実は遠く台湾から貰われてきた養子であることが明かされ、著者の生地との絆はかろうじて保たれる(地に足がつく)が、逆にいえばホームとの紐帯は持ちながら世界のどこへでも行きうる・どことでも繋がりうるグローバルな人間社会が、著者が描こうとする「現代」だ。いや、正確には「現代」ですらない。本作はヴァーチャル・リアリティによるトラウマ治療や、疑似森林・疑似○○(いちおう伏せる)が製品化・商品化され、架空のコンピュータ・ウィルスが人々の人生との向き合いかたまで変えてしまった近未来なのだ。
 つまり本作はSFと分類されてもいい。けれどその用法はSFとして(もしかしたら来ないかも知れない)未来という別世界・異世界を描くのではなく、まるで「現代の本質を隅々まで描き切るためには、少し未来を描く必要がある」と言わんばかりだ。
 作家を志す人なら、一度は「世界のすべてを一作で語り尽くす物語」を夢みたことがないだろうか。それはSFとか、エコロジー文学・あるいは「台湾小説」といった狭いジャンルにとらわれない物語でもある。著者の意図はどうあれ『雨の島』は、そんな夢を久しぶりに思い出させる・そんな夢に(今時としては)最も肉薄してるかもと感じさせられる小説集だった。だからこそ、それが六つの断片からなり、断片の多くが「これからどうなるのか」という処で尻切れトンボに放棄されているのも興味ぶかい。人間も自然も含めた世界すべてを包括する物語は、しかし広げた大風呂敷を「これで完全だ」と閉じることは出来ない―なんだか量子力学の不確定性原理のようではないですか。

 『雨の島』が(形式的には近未来を描きながら)限りなく「今」を描出した小説に感じられるのは、人よりも大きな自然界の中に改めて人間社会を位置づける・古くて新しい世界観のリバイバル(「人間は動物たちの中でも取るに足らない種族にすぎない」)のため、だけではない。
 というのも本作にあるのは「ナチュラルな自然(←同語反復じゃん)の癒し」などではない。むしろ全編に横溢するのは、物静かだけれど、暴力としか呼びようのない傷や痛みだ。不慮の事故や、文字どおりの暴力による親しい人の死。あるいは身体に残る障害。心の傷。もっとシンプルに、愛しあっていた者たちの別れですら、取り残される側・取り残されたと思う側にとっては理不尽な暴力であったりするのだと、そういう意味で人間の世界・人間の社会は理不尽な暴力で傷だらけなのだと、本作は描き出しているかのようだ…読み手たる自分の個人的な感想・もしかしたら偏った抽出かも知れませんが。世の中には本作に自然の癒しや、セラピー効果を感じる人だっているかも知れない。いいんですのよ。
 だけども(僕の読みに基づけば)「人間より大きな自然界と、暴力に満ちた人間界」という対比もまた、現代の暴力の前では癒しの力ごと色あせる。本作で描かれる自然は、自然もまた、人間による環境破壊で回復があやういほどに傷ついている。今「世界のすべてを語り尽くす物語」をやろうとすれば(だからそれが著者の意図とは限らないと何度言えば)、その世界がいわゆる人新世の=自然が無尽蔵ではない・人間の産業活動によって生物多様性や気候まで大きく変動を余儀なくされる世界なのは、むしろ当然のことだろう。
 ついでに言えば、暴力もまた、人間だけのものではない。もとより(人間以外の)自然界と人間の関わりだって、理不尽といえば理不尽・暴力といえば暴力だ。有機水銀や放射性廃棄物・マイクロプラスチックや化石燃料が排出するCO2が圧倒的な規模で自然環境に影響しだす前から、人は他の生物を糧とし、というか動物は皆ほかの命を糧とし、命をもたない気象すら天災として常に「暴力」を振るってきた。そこまで含めて「人は自然の中で生きている」のであって、そのように時に残酷であってもなお『雨の島』はなお、人の世界が人だけの社会にとどまらない・より大きな自然に包摂されていることが(人だけの社会に窒息しそうな現代人にとって)救いであること・その救いとなる自然を今度は人類が救えるのかと訴え、問いかけているのかも知れない。
 五年前に訪ねた国立台湾博物館の展示。ガラスの標本箱に収められた植物や蝶・骨格などの標本の収集には、多くの日本人科学者が関わっていたようです
 最近は韓国か中国(本土だったり台湾だったり)の小説を読む機会が増えて、これは韓国の他の小説家による問いかけなのだけどこの世のおぞましさの中に閉じ込められてしまった人間に、外というもの、あるいは別の世界というものが存在しえるのか?という言葉があった。
 ★唐突だけど今週のまとめ
1:いま人類は人間だけの社会より広い動植物や非生物の世界を「外」として切実に必要としている(のかも知れない)
2:物語にもまた(逃避ではない)切実な「外」への通路を開く役割が求められている(のかも知れない)

 転生したら異世界でした、みたいな逃避としての「外」ではない、世界はお前が自分で閉じ込められてると思ってる檻より、ずっと大きくて広いんだよ・それは残酷で暴力的かも知れないけれど、とにかく広いんだよと出口を示すことが、わりと今、急務として物語には(物語にも)求められているのかも知れない。
 もちろん「すべての小説が大志を語るようになった時、小説は滅びるだろう」という北村薫の警句を忘れてはいけない(たとえそれが「だがすべての小説が大志を語らなくなった時もまた、小説は滅びるだろう」と続くとしても)。まして物語は問い以上の「答え」を出すものではないし、物語る中で自然に立ち上がってきたのでない出来合いの「答え」を先に用意していて、ストーリーを無理矢理そこに導くものでは、ましてサラサラない。
 それでもなお、ネイチャー・ライティングに片足を置く(もしかしたら、そっちが利き足かも知れない)呉明益のような人が「ノンフィクションでは出来ない表現が出来るから」というのを小説・フィクション・物語を書く動機にしていることには希望を感じる。前にも書いた、哲学者のドゥルーズ=ガタリが世界のカオスに抗する方法は科学と哲学・それに芸術の三つだ(それぞれには別の術には出来ないことが出来る)と語ってるのを読んだときの「あ、芸術にそこまで期待してくれてんだ」というのと同様の嬉しさ・心強さだ。
 呉明益の作品をはじめ、今アジアで生まれてる物語の多くが近未来やSFの形を取って・けれど他ならぬ今を描こうとしていることも、たぶんヒントになるだろう。もう自分で自作に使ってしまったフレーズで恐縮だけど、ある意味「今が未来」なのだ。

      *     *     *
 などと知ったげに長々と書き連ねてきたけれど、当の僕じしんは人間以外の自然界には悲しいほど疎いし(何しろ天の川すら見たことがない)人間界についてだって何も分かっちゃいない。
 とくに小説を読む咀嚼力みたいのは、昔もひよわだったけど近年とみに衰えまくっていて『雨の島』を読んでも「自然科学への感性は池澤夏樹のデビューを彷彿とさせるなあ」「日常にひそむ暴力性は村上春樹をアップデートさせた感がある」それどころか「村上龍のコインロッカー・ベイビーズあたりには世界のすべてを語り尽くす(ついでにブチ壊す)野心があったかも」くらい、古い思い出に生きてしまってる。
 そこで「ゆる募」なのですが、今回の回りくどい日記(週記)を読んで「お前さんが呉明益に見出そうとしてる感覚、今の日本にも全然いるじゃん」「誰それの何それとか」とオススメがあったら拍手などで御教示ください。読めるとは限らないけど。

    ***   ***   ***
(25.01.29追記)すこぶるどうでもよいのですが今回マクラで紹介した終電マニアの乗り鉄YouTuber氏、自身の需要を熟知しまくった「終電ゆえ帰るに帰れず終点駅で野宿」シーンだけ抜粋した動画があったので:
【野宿確定】ナオヤ鉄道chルームツアー2024年総集編28連発【作業用】(外部リンクが開きます)
むちゃむちゃ楽しそうですが、当のYouTuber氏は寝てる間の盗難を避けるため、決済機能を備えたスマートウォッチ以外カードも現金も持たずに取材を敢行してるらしいので念のため…

NUTSとVIRUS〜「複製技術時代の芸術作品」を読む・歎異抄を読む・『性の歴史IV』を読む(25.01.05)

 ウィルソン・ブライアン・キイ(1921-2008)は消費者たちがサブリミナル広告に洗脳されているという陰謀論を大々的に展開した人だけど、その一環として彼が噛みついたのが、若者が夢中になるロック・ミュージックだった。大ヒットしたザ・フーの『トミー』はストーリー仕立ての歌詞が虐待やドラッグ使用・スターのステージで突き飛ばされた観客の少女が顔に何針も縫う大怪我を負った話など、暴力的なイメージ満載なのに、リスナーは歌詞のことなど全く考えず、ただただカッコいい音楽として受け容れていた(それでいて無意識に刺激されていた)という彼の告発に「??」と首をひねったのは、後年のロックファンには『トミー』がそういう内容なのは周知の事実だったからだ(20年3月の日記参照)。
 でも「みんな意味とかキチンと考えずに聴いてない?」「それでいて過激な内容をサブリミナルで受け容れてない?」という彼の主張に同調したくなる時もある。
 昨年めちゃめちゃ売れて小学生まで喜んで(ブリンバンバンというサビで)唄い踊ってたというラップ曲。「俺様は偉い」とひたすら威張り散らすリリックだけ見知っていた僕は「アレがそんなに売れたのか」と昨年の紅白でゲンナリしたのだけど、あのトキシック・マスキュリニティ(有害な男らしさ)の模範文例みたいな歌詞までキチンと理解したうえで、皆はアレを良いとしているのだろうか。ましてcreepy(キモい)なnuts(キ○○イ。俗語。バーブラ・ストライザンドが精神鑑定にかけられる法廷サスペンス映画が『ナッツ』でした←古い)というユニット名の、形としては自身に向けられてるにしても悪意に満ちた言葉選びは。
 
      *     *     *
 年末年始の帰省で久しぶりに顔を合わせた甥っ子1号にオススメの本を訊いて教えてもらったのが
ダニエル・カーネマンファスト&スロー あなたの意思はどのように決まるか?』(村井章子訳・ハヤカワ文庫/外部リンクが開きます)
さわりだけパラパラと読んだところ、人は先入観で判断を誤る・理性的に考えれば同じ内容であるはずの「90%成功します」と「失敗の可能性が10%あります」を違う重みに捉えてしまう、的な本みたいでした。
 先入観で描いたイメージが、現物の本質を見誤らせてしまう、今週の日記(週記)はそんな話をします。自分を題材に(笑)。悲しいなあ。
 それぞれデザインが異る帆船のアイコンを配した『「複製技術時代の芸術作品」精読』と『古典を読む 歎異抄』の書影。いい並びやね…
多木浩二ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読(岩波現代文庫2000年/外部リンクが開きます)
は20世紀を代表する思想家(の一人)の、実は晦渋で取っつきにくい代表作を読み解く試み。
 いや本当に難しいんですわベンヤミン。パサージュや幼年時代の思い出、パウル・クレーの天使とか、親しみやすげな先入観を振りまきながら、おそろしく理解できない。「複製技術時代の…」も若いころ読むには読んで、正直サッパリ分からなかった。
 新書の都市論や戦争論で親しんできた多木浩二氏のナビゲートで再チャレンジ、今度こそ分かった!と自信を持って言える気はまだしないのだけど(おえんがー)歳月を経て、ひとつ分かったことがある。
 絵画や彫刻など旧来の芸術・その本物にのみ備わる手ざわりのような経歴=アウラは、活字本やレコード・写真や映画など複製(コピー)され流通される新しい芸術には備わっていない…というのが同論の要旨なのだけど、ベンヤミンは別にアウラを崇めてるわけでも、アウラのない写真や映画はダメだと言ってるわけでも、どうにかしてアウラを奪回しようと呼びかけてるわけでも「ない」のだ。
 これが分かるだけで同論は相当に取り組みやすくなる。言い替えれば初手からダメダメだった自分てだけの話かも知れませんが、でもだってさ「アウラ」とかさ、いかにも素晴らしくて価値ある・失なっちゃいけないモノみたいじゃありません?
 ・FAIRCHILD - アウラ(GIMIX)(Youtube/外部リンクが開きます)
 近未来ディストピアSFの傑作・栗本薫『レダ』に登場する慈愛あふれるマケイン(負けヒロイン)も「アウラ」さんでした…栗本氏も、文庫版の表紙を美麗なイラストで飾ったいのまたむつみさんも今は亡い…と『レダ』2巻を掲げて涙ぐむ羊帽の女の子「ひつじちゃん」のイラスト。
 アウラは取り返せなくてもいい、アウラのないコピー前提の芸術作品には、また別の天命がある。そう割り切って読むと(正しく読めてるかは兎も角)色々と見えてくる。毎日劇場で一つの役を通して演じ、しかも毎日観客の反応によってキャラクターを掘り下げ深めていく舞台俳優と違い、カメラを前に順不同で細切れのカットを演じる映画俳優は(舞台俳優のように)一貫した一人のキャラクターであるよりも、一貫した「自分自身」(つまりハムレットやスカーレット・オハラであるよりローレンス・オリヴィエやヴィヴィアン・リー)であることを求められる―なんてくだりは、それをヒントに中篇まんがのひとつも描けてしまいそうだ。
 CDを経て音楽のネット配信が地平線の向こうに見えてきた90年代、元トーキング・ヘッズのデヴィッド・バーンが「むしろこれからはライブの時代だと思う」と語っていたことなども思い出される。バーンの真意は兎も角、特に日本では(いくらでも複製できる)CDやDVDがライブや握手会で「推し」と直に接せるチケットとなり、崇高さとか関係ない純粋な技術論としての「アウラ」が復権したとも言えるのではないか…などなど妄想は広がるのであった。

 多木浩二氏の『精読』は末尾にベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」の70ページほどの原文が、
杉浦明平『古典を読む 歎異抄(1983年→岩波現代文庫2003年/外部リンクが開きます)
も各章の冒頭に小分けの形で原文がすべて収録されており「詳細な解説つき原文」として読めるのが良かった。すごく面白かったのは歎異抄、鎌倉時代の文章が(一緒についてる現代語訳の助けがなくても)かなりふつうに読めるのね。たとえば
「親鸞は、父母の孝養のためとて、一返(いっぺん)にても念仏まふしたることいまださふらはず。そのゆへは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」
なんて「まふし=申し」「いまだ=未だ」「さふらはず=候わず」と分かれば「念仏申したること未だ候わず」この世に生きる者はみな家族なのだから(実の)父母の孝養のために念仏を唱えることなど一度もなかった…と全然読めちゃうでしょ?
 僕が『歎異抄』そのものに先入観で誤解していたことは特にない(と思いたい)のだけど、まあ歎異抄じたいが「異を歎く」親鸞の悪人正機説があっという間に後継者たちの間で誤解曲解されたことへの嘆きだし、同じ時期に読んで面白かったので並べる次第。

 昨年の終わりに図書館で借りてきて、そのまま今年最初の読書になっている
ミシェル・フーコー性の歴史IV 肉の告白(フレデリック・グロ編2018年/慎改康之訳・新潮社2020年/外部リンク)
は「性の歴史IVを読んでみた」解説書ではなく本体をそのまま読んでいるのだけど、これもまた今まで先入観で持っていた誤解が解ける一冊のようだ。
 周知のとおりフーコー自身は1984年に亡くなっている。先月の日記で紹介した『監獄の誕生』(原著1975年)に続いて彼は、人が自ら権力の囚人になるメカニズムを今度は「性」を通して追及しようと全六巻からなる『性の歴史』の執筆計画を立ち上げた。だが第一巻『知への意志』で計画は頓挫、研究対象を近代ヨーロッパから古代ギリシャ・ローマを移した第二巻『快楽の活用』・第三巻『自己への配慮』が急逝により遺著となった。
 誤解していたのは晩年の彼が『監獄の誕生』や『知への意志』で見るように人間を囚人化する近代ヨーロッパに絶望して、自由や別の突破口を探すため古代ギリシャ・ローマ哲学に傾倒していた(17年8月の日記など参照)と思いこんでいたことだ。
 だから正直、初期キリスト教をテーマにした『肉の告白』の出版を知った時、あまり関心が湧かなかったのを憶えている。せっかくギリシャ・ローマに自由を見出したのに、なんでまた人から自由を奪うヨーロッパに戻っちゃうの?と思ったのだ。
 誤解の多くは(アウラを「いいもの」と思いこんでしまったように)実はニュートラルな事物を「いいことを言ってる」「人々に勇気を与えようとする善意に基づいてる」と勘違いすることに発している。勘違い「したがる」と言うべきか。あのひと、私のこと好きなんじゃねぇの?
 いずれか片方しか選べないなら、私は善より真を取るとスーザン・ソンタグも言っている。古代研究でフーコーを助けた歴史家ポール・ヴェーヌ(22年12月の日記参照)の証言や『監獄の誕生』、『肉の告白』自体を読むうち、ようやく見えてきたのは古代ギリシャやローマはフーコーにとって「自由を保証してくれる別世界への突破口」ではなく「(最終的には)不自由なヨーロッパに至るワンステップ」だった、彼が求めていたのは別世界での自由ではなく、あくまで彼自身も苦しめつづけた「この社会」の不自由さの解明だった・らしいということだ。
 そうと気づかず『性の歴史II・III』を一応ちゃんと読んでるのに「なかなか自由への突破口が開けないなあ」と思っていた自分が間抜けだった、と書いてしまうと情けないけど。
 『自己への配慮』『肉の告白』書影。関係ないが『肉の告白』わずか5年で千円以上値上がりしていて、出版業界全般不況にしても、そういうとこだぞ○潮社と思わないでもない…
 まだ100ページも読んでない『肉の告白』だけど、中絶の禁止・婚外交渉や同性愛の禁止といった現代ではキリスト教がよって立つ基盤のように思われている性規範は、実はキリスト教の布教前から古代ローマでストア派などによって十分に広まっていた教えだと指摘されている。酒池肉林みたいに奔放なローマの性を批判して禁欲を説いたキリスト教が、最初は迫害されたが最後には勝利した…みたいな物語は、物語にすぎない。実際には、少数派だったキリスト教が「ほら私たちもマトモですよ、過激思想じゃないですよ」とローマ社会に受け容れられるため、既に受容されていたストア派などの禁欲を取り入れ・また影響を受けたのだとフーコー(や、彼が依拠する先行研究者たち)は捉える。
 ギリシャ人やローマ人にとっては適切な「快楽の活用」「自己への配慮」だった性は、それを受け容れたキリスト教によって「人間の男女が子どもを作ることは、神によって創造された奇蹟をヒト自らが再演することだ」と新たな意味を与えられ、ヨーロッパひいては現代社会の規範を形づくっていく。それはまた別の話。いや、これから読むんですけど。

 AIに要約してもらえば(AIが「正しく」要約してくれるとして)ベンヤミンやフーコーに対する、こんな誤解もナシで済んでいたのかも知れない。けれど山道を実際に登攀するように実物の本を読むことなしに、いきなり連れて行かれた山頂からの眺めは、人に驚きや喜びを与えるものだろうか。
 まあAIに興じて電力を使う人は使えばいい、僕は今年も道を間違えながら、足でよたよた山を登っていきますよ。あまり無理せず、山頂を急がずにというのが年頭の所感。

      *     *     *
 最後も紅白の話。まあ一昨年に比べたら「そして輝くウルトラソゥッ」はいっ!!!」と「バルス」みたくTVの前で唱和したり結構エンジョイした昨年の紅白ですが。creepyなnutsというユニット名とリリックにゲンナリして思い出したのが、人当たりが好さそうなパーソナリティと僕にはよく分からない才能で数年前から紅白の常連になっている人気歌手の、何年か前のステージだ。
 細かくは忘れたけれど、大スターになった自分にも不満はあるんだ的な歌詞だったかも知れない。screw youと決め台詞のように唄うサビに驚いてしまった。「スクリューする」は俗語だと「fxxkする」と同じ意味で、つまり彼はNHKホールの観衆と大晦日に紅白を観てる全視聴者の面前で「fxxk you」と同じ意味の言葉を言い放ったわけだ。
 何かあると貼ってる
PULP - Common People(YouTube/外部)
の、他にすることがないからdanceしてdrinkしてscrewする「普通の人たち」の気持ちが分かるかと唄うMV。2:30あたり「screw」はイギリスでは放送できないと判断されて音声がミュートされてる(仕草で分かるけど)。ちなみに6分近いフルバージョンでは聴ける「みんな外国人観光客をヘイトしてる/引き裂いてやりたいくらいさ」という箇所もMVではカットされている。この曲や映画『キングスマン』の冒頭・『トレインスポッティング』みたいな感じに、これからの日本はなっていくんだろうなと数年前(十年以上前?)に予想したけど、予想どおり着実に…
 ともあれ。冒頭に挙げたW.B.キイは(陰謀論者だけど)見識もある人でfxxkはじめ性行為を意味する英語が攻撃的で残酷な動詞ばかりだと嘆いているけれど、たしかに「スクリューする」コルク栓を抜くスクリューのようにねじ込むは、その最たるものだろう。イギリスでは放映すら不適切とされるソレを彼は紅白で投げつけた。
 creepyなnutsが「キモいキ○○イ」という意味だと、聴衆がどれくらい理解している前提で当人たちが構えているかは知らない。けれど紅白を観てる人たちにscrew youの意味が分かるひとは、ほとんど居ないと「彼」には分かっていたはずだ。それを承知で「どうせお前たちには分からないだろう」という気持ちで観衆に侮蔑の言葉を投げつけたのだとしたら、それも含めて不貞腐れた当てこすりだったとしたら、
 柔和そうな印象に反して、彼にはずいぶん幼稚でワガママな一面もあるのではないか。前後して(?)リリースされたアルバムが「ポップな(大衆向けの、とも取れる)ウイルス」というタイトルで、やっぱりちょっと分かんないセンスだなあと思ったことも憶えている。彼にとってポップスは、意味や意図が正しく理解されなくても、いつのまにか相手に感染しているVIRUSなのだろうか。「僕は理解が遅いから(プリンスなんかもアルバム単位で好きになるまで20年くらいかかった)十年くらい経って急に彼の良さが分かるかも知れない」と冗談めかして家族には話してるけど、彼にかぎっては良いと思える日は来ない気が、個人的にはしている。

    ***   ***   ***
(同日追記)これも何度も言及してて恥ずかしいMitskiYour Best American Girl(YouTube/外部リンクが開きます)も「(東洋人の私には無理だと分かっていても白人のあなたの)Best American Girlになりたいと願ってしまう」という歌詞を「恋を諦めないステキな唄」とポジティブに捉える紹介があって、違うから!なんで(一部の?)日本人はそう安直に「イイ話」にしたがるの!と思ったことなど。「あなたのお母様は私の母が私を育てたやりかたを認めないでしょう でも私は受け容れる 最終的に受け容れる」なんて歌詞、他のどんなラブソングでも聴いたことがなかった衝撃を返してほしい。すごい唄なんよコレは。

前の記事へ 記事一覧 ページトップへ