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(19.04.05更新)
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(19.04.05更新)
『二人は恋人同士になれるかも知れない』追加。冊子単位では初の百合?
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過去日記一覧(随時リカバリ中)

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Author:舞村そうじ/RIMLAND
 創作同人サークル「RIMLAND」の
 活動報告を兼ねつつ、物語とは何か・
 どんなメカニズムが物語を駆動し心を
 うごかすのか、日々考察する予定。

【最近の動向】
11月東京ティアにサークル参加決定。新刊!

WebまんがSide-B遅々として更新中。

note絵更新。(16.05.26)

旧サイトは2014年8月で終了しました(お運びいただき感謝)。再編集して、こちらの新サイトに少しずつ繰り入れますが、正直、時間はかかると思います。

[外部リンク]
comitia
(東京名古屋新潟関西みちのく)
あかつき印刷
POPLS

日本赤十字社

if you have a vote, use it.(save kids)

日記また更新。劉慈欣『三体』×ミチコ・カクタニ『真実の終わり』という、
たぶん他に誰も書かない組み合わせで書きました。こちらから。
(2019.09.08)

4ヶ月ぶりに日記更新。
映画『ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝』について書きました。こちらから。
(19.09.07)


【お知らせ】
11/24(日)開催のコミティア130に、RIMLAND名義でサークル参加いたします。売り場C38a。今回の新刊『カーテンコール e.p. 』を文字どおりのカーテンコールに、RIMLANDは、しばし潜伏モードに入ります。具体的にはFDの新刊が出来るまで東京ティアはお休み。なので来年2月は確実にお休みです。

活動休止ではなく、むしろ執筆はバリバリ進めます。サイト日記も、逆に活性化できたらと思ってます。ま、とりあえずは今週末のビッグサイトでお会いしましょう。(2019.11.20)


電書『収容所の小さな貴婦人』の会計を一旦とりまとめ。6/30までに27名分ご購入いただいた売り上げから作者の取り分にあたる1,350円に予備分・自腹分を足して3,000円を日本赤十字社の平成30年7月豪雨災害義援金に寄付いたしました。今後も電書の販売は続けます。

とりあえず、諸々お知らせまで!少し落ち着いたら、いろいろ更新します。(19.07.11)

世界の関節が外れるとき〜劉慈欣『三体』×ミチコ・カクタニ『真実の終わり』(2019.09.08)

塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味がつけられよう
『マタイによる福音書』5章13節(新共同訳)

 すごい人気じゃないか。劉慈欣の『三体』(早川書房)。
 近所のK書店では、話題の新刊を置く平積み棚すら超えて、東野圭吾の新刊と一緒に店の入口に積まれている。別のK書店(ありゃ、こっちもKだ)では1メートルの立て看板に当店の店長絶賛!の手書き。
 個人的には熱望していた。2015年に「グレッグ・イーガンや伊藤計劃も真っ青・中国SFの会心作(日本でも翻訳が進行中)」と読んで以来、ずぅーっと待ってた。でも、こんな評判になるとは。
 もちろん、出てすぐ読んだ。ワクワクもんであった。でも、世間的に、これ、面白いの?
 読書家で知られるバラク・オバマ元大統領も、Facebookのマーク・ザッカーバーグも絶賛している。たぶんトランプは読んでない。でも本当に面白がられてるの?今やアメリカと肩を並べる二大国となりつつある中国発のベストセラー、だから飛びつかなきゃダメだ、そんな感じで飛びついてない?評をいくつか拾ってみたけど「中国。ベストセラー。ヒューゴー賞」といった現象だけ紹介して「その内容についてはネタバレになるので明かせないが、評者は驚嘆した」いやそれ、心から驚嘆してます?

 別にSFの良い読者ではなかった。過去の名作も取りこぼしの方が多いし、最近の動向にも全然ついていけてない。
 その乏しい観測範囲内で言うと『三体』、実に好ましい。宇宙スケールの壮大な物語と地上のサスペンスが噛み合ったり、主人公がいきなり中国古代の英傑と冒険する羽目になったり、そのケレン味とダイナミックさが、十代のころ夢中で読んだ山田正紀の作品を彷彿とさせる。ロシア革命当時のシベリア鉄道で怪僧ラスプーチンと対決して最後はプテラノドンが出てきたり、終戦まもない日本で弥勒菩薩の降臨をめぐってエスパーたちが『スキャナーズ』ばりの死闘を繰り広げる、あの世界。
 劉慈欣『三体』、山田正紀が好きな人には保証つきです。(完)
 いや、(完)じゃない。
 逆に言うと『三体』、凄い凄いと皆が言うけど、山田正紀ほど凄いか。現代(1980年代)の日本で鬱々とした思いを抱えて夜の街をさまよう主人公が、ふと見上げたビルの電光掲示板に「西暦2×××年、もう延命の手立てがなくなったので、人類は自分たちが到達できた最も遠い場所=木星の衛星軌道上に人類滅亡の記念碑を建造することにしました」と電光ニュースが流れるのを見て「そうだ!俺は2×××年の人間だけど、人類滅亡をめぐる争いに敗れて、この80年代に流刑されたんだ!」と思い出す『最後の敵』(日本SF大賞受賞作)ほど凄いのか。いや、そもそも凄いって、そういう飛び道具的な凄さだけでいいのか。
 
 修正。劉慈欣『三体』、山田正紀が好きな人には保証つきだけど、もう少し地に足がついた感じです
 でもやっぱり似てる。「馬鹿なんじゃないか?」と思うほどの奇想と、SF的なアイディアを現実世界に無理やり適合させる強引さ、そしてラストの「なんか分からんけど、やったるぜ!」という破れかぶれのカタルシス。
 僕がたまたま山田正紀に夢中だった十代を過ごしただけで、同じような(壮大バカ大真面目)SFは、過去いろいろあったのかも知れない。
 では逆に『三体』が「あの○○が帰ってきましたよ」以外に、独自のものとして提示しているものは何か。ヴァーチャル・リアリティ?ナノマテリアル?そういう小道具は比較的どうでもいい。「現代」「中国」「SF」として『三体』が提示したものは、二つある。

 一つは、多くの読者が賛同してくれるのではないかと思う。『三体』が現代的な理由のひとつは、今まで(とくにSFの形では)知られて来なかった中国社会の姿を、ベールを上げて見せていることだ。ちょうど、ソ連を舞台にしたミステリ『チャイルド44』が、看板としては「ソ連で起きた連続少年殺人事件!サイコパス!?怖い!」だったのが、中身は「事件を捜査する主人公の、家庭生活にまで入りこんでくるソ連の監視社会!怖い!」だったように
 
(トム・ハーディ、ノオミ・ラパス、ゲイリー・オールドマンと個人的に好きな役者が揃った映画も好かった)
 『三体』が晒すのは、知識人が迫害された文化大革命の傷の深さと、その傷を癒やさぬままに敷かれた現代中国のハイテク監視体制の閉塞感だ。それを味わうだけでも、『三体』には小説としての楽しみがある。
 では『三体』が(たとえば1980年代の諸作にはない)現代SFとして提示している、もうひとつの独自性とは何か。
 それは同作が、はからずも、2010年代の世界を席巻している「反知性」「反理性」の暴風を暗示していることだ。

 「はからずも」と書いたのは、それが作者・劉慈欣の属する中国を苦悶させているようには、(少なくとも日本からは)あまり見えないからだ。
 『三体』は、無学な少年兵たちによって知識階級が弾圧され、死に追いやられた、文化大革命の無残な描写から始まる。数十年後の「現在」その呪いは変奏され「もし科学者が、科学法則を信じられなくなったら、どうなると思う?死ぬかな?」という突飛な疑問が、疑問でなくなり、最先端の研究に従事する学者や研究員たちが、次々と死に始める。最終的に宇宙の彼方から(!)人類に届けられる「たった十文字のメッセージ」は、社会問題に意識的な読者には痛撃だろう。それは「はからずも」今の吾々そのものを指しているからだ。

 山田正紀は妥当だろう。『チャイルド44』も、まあ分かる。
 しかし劉慈欣の『三体』に、ミチコ・カクタニの『真実の終わり』(集英社)をぶつけるのはどうか。異種格闘技というか、手術台の上のミシンとコウモリ傘が過ぎやしないか(この比喩も、20世紀で賞味期限は切れたかも知れないが…)
 だが両者は、今年の前半に邦訳が出た話題の書、という以外にも共通点を持っている。『三体』は科学面で、『真実の終わり』は文化面で「何が正しいのかの基準・正しさへの信頼が失なわれたら、吾々はどうなってしまうのか(破滅するしか、ないのではないか)」と問う書物だからだ。
 ニューヨーク・タイムズの書評欄で30年以上も健筆をふるい、いわばアメリカ文学の一面を牽引した(という)ミチコ・カクタニが、初めて著した単著は文芸批評ではなかった。ドナルド・トランプを第一走者とするフェイクニュース・フェイクトゥルース時代の到来に警鐘を鳴らし、なぜこうなってしまったかを分析した論考だった。
 同書が話題をまいた理由のひとつは、現在のフェイクトゥルースが跋扈する状況を準備したのは、20世紀後半のポストモダン思想だと指摘・糾弾したことだろう。ラカンやデリダ、フーコーなどが槍玉に挙げられているのだ。その是非については、ここでは深追いしない。だが、話をもう少し平らにならして「近代では科学革命をいちはやく成し遂げ、世界の牽引役となった西欧の思想・思考が唯一の理性的なものとして君臨した」→「だが帝国主義・植民地支配の没落とともに、思想面での西欧中心主義は批判され、非西欧など別の立場からの異議申し立てが起きる(これ自体は悪いことではない)」→「ところが、その論理を逆に支配層・保守層が盗み取り、真実は言う者の数だけあるのだとして、理性や知性を破壊しはじめた」と言い替えたらどうか。
 それまで圧倒的な強者の立場に居た者が、弱者の異議申し立ての道具と、被害者としての立場を簒奪し「男性差別」「日本へのヘイト」などと言う状況と似ているのかも知れない。でもまあ、これも今は措く。

 『三体』と『真実の終わり』を続けざまに読んだのは、まあ偶然なのだけど、かように両者には共通点がある。言うまでもなく、そう思ったのは、同じ危機感をずっと自分が共有しているからだ。
 2019年9月の一例を挙げよう。安倍首相との会談を終えたドナルド・トランプ米大統領に、日本の記者が、わが国の首相はどうしたと問うと、トランプがJust leftと答えた。これを「ただの左翼」「よう、左翼」と解釈し、問うたのが朝日新聞の記者で、アメリカの大統領にも日本のサヨクは見下されていると嗤う言説がネットに飛び交った。
 当然、それは違うと指摘された。このleftは左ではなく去るという動詞leaveの分詞形で、Just leftとは「去ったところだ」「もう行ったよ」という意味でしかない。こういう間違い・勘違いは珍しくない。(泊原発を「柏原発」と言ったり、珍しくないほうが問題じゃないか?と思いはするが)
 問題は「よう左翼」勢が単に無知というだけでなく「去ったところだ」だという指摘に対しても「ただの左翼という解釈もありえる」と頑なに譲らない論陣(論でも何でもないのだが)を張り続けたことだ。「そもそも」という言葉を首相が「基本的に」という意味で誤用し、誤用を指摘されるとそもそもには基本的にという意味もあると国語辞典を書き変えるような閣議決定を政府がしたこともあった。
 嘘が嘘と判明しても、嘘ではない、嘘でもいいのだと言いはる。南京大虐殺から日本酒の注ぎかたまで、まるで現実を憎むかのようにデマが日々量産される。これは何なのか。

 塩がもし、塩としての力(食品に塩味をつける・腐敗を防ぐ)を失くしてしまったら、お前はどうやってお前自身に塩をするのかと福音書は言う。
 シェイクスピアの戯曲で、信じていた秩序の崩壊をまのあたりにした王子ハムレットは「世界の関節が外れてしまった」と叫ぶ。
 すごく間抜けなたとえで恐縮なのだが、ずっと頭にあるのは(やはり80年代の)ゆうきまさみの漫画『究極超人あ〜る』で悪の博士が開発した「まぬけ時空発生装置」のことだ。そのまんま名称のとおり、周囲の人間を間抜けにしてしまう装置なのだが、これが永田町の国会議事堂か、首相官邸の地下に設置され、2012年このかた、ひそかに作動を続けているのではないか。あるいは都庁の地下かも知れない。でなくてどうして、オリンピックの暑さ対策にアサガオの鉢植えを並べ、涼しさを演出するなんて馬鹿げたことが言えるのか。
 …という嘆き(ぼやき)を、少しSF的に言い替えると、ある程度まで人類が文化や文明を発達させると、何かトリガーが作動して、それ以上は発展せず文明が崩壊するようなメカニズムが、あるのではないかという疑惑になる。
 むろん冗談だ。今年はアポロ11号が月に着陸して50年。人類が月に到達したことが、その発展の一つの指標となり、宇宙の彼方の別の知性の行動をうながすとは、SFの定石ではないか…というのは、さらに冗談だ。
 けれど「より理知的に・より公正に」と進められたはずの世界把握の改革が、逆に文明の崩壊につながったというミチコ・カクタニの論考を読んでいると、少なくとも、このサーモスタットのような(アイロンなどが熱を持ちすぎると電源が自動的に切れる)回路を迂回しないと、人類に先はない(かも知れない)という気にもなってくる。文明が発展すると必ず、そういうサーモスタットが発動する仕様ではないにしても、現に今この世界では、バグ(プログラムのミス)としてでも、そんなメカニズムが発動している。
 「塩が効力をもたない」時代、事実や理性が、人や社会の行動を律する塩にならない時代の到来そのものは、冗談ではない。

 ああ、また狂人か、オオカミ少年が出たと思われるのだろうなあ。だが言わせてもらいたい。
 これはたぶん、吾々が、言語の運用法を間違ったために、追い込まれた隘路だ。
 小説や映画のように、ここではない世界をフィクションとして幻出させるのでなく。批評や社会運動のように、今とは違う世界を現実に打ち立てようと訴えるのでもなく。事実を偽ることで、この世界を歪んだ欲望のままに書き換える、そうした言語の運用法は、間違っている。
 嘘を嘘と、デマをデマと、デタラメをデタラメと正せないことで、社会は崩壊しうる。
 二冊のかけ離れた本は、それぞれの距離感で、同じ危機を描いているのだと思う。

手紙は待ってくれる〜映画『ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝』(2019.09.07)

友達から来た手紙のように読めないなら、本を読む意味はない吉田健一

 『涼宮ハルヒの消失』『映画けいおん!』『たまこラブストーリー』そして『ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝』。京都アニメーションが手掛けてきた劇場映画の多くは、「外伝」が端なくも示しているように、先立つTVシリーズの続篇・完結篇・番外篇という位置づけで作られている。このことが同社の映画作品を、単体で評価しにくくしている憾みはあるだろう。
 同様のことは『ラブライブ!』の劇場映画などにも言える。現在は、元々がTVアニメや、もっと媒体を別にするメディアミックスのプロジェクトとして始まったコンテンツの、いわば「あがり」「通過点」「ごほうび」として劇場作品が作られることが少なくない。さて、皆さん御存知の、この世界・このキャラクターたちですが…と始まる映画を、単体で評価するのは難しい。
 (一から説き起こされる単体の作品として、京都アニメーション…略して「京アニ」には『聲の形』という近作があり、また評価も高いが、ヘヴィな内容でまだ観る勇気を持てずにいます)

 『ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝 -永遠と自動手記人形-』は、そうした一連の「続篇映画」としては、かなり一見(いちげん)さんに親切な映画だ。「正伝」にあたるのは、国際展開するアメリカのネット放送局Netflixのアニメシリーズとして世界に配信されたもので、Netflixを観る環境にない自分は(ないない尽くしだなあ)、暁佳奈氏による「原作」だけ大急ぎで読んで映画『外伝』に臨んだのだが、

 「正伝」を知らなくても、かなりスムーズに作品の世界に入っていける内容と判断しました。
 それは同作(外伝)が主人公「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」に初めて出会う少女「イザベラ」の視点から始まるためだ。彼女の目をとおして観客は「さて、みなさまNetflix版でお馴染み…ではない」ヴァイオレット・エヴァーガーデンと「初めて知り合う」ことができる。「イザベラ」と同じ速度で、ヴァイオレットの人形のような美しさに驚き、感情の希薄さに戸惑い、その礼儀正しさと気配りの細やかさを知り、けれど当人が「自分には優しさということが理解できない」と嘆く姿にまた戸惑い、両腕を鋼鉄の義手に替えた代書屋の少女に、先の戦争で負った大きな喪失があることを薄々、察していくことができる…
 後半は「みなさま御存知」の脇役もちょいちょい出てくるが、本作から入る観客も、そのあたりは軽くスルーできるようピントはボケていて、メインとなる主人公たちにピタリと合ったフォーカスを追いかけていける。
 何を言ってるのか。要するに(単体としても)優れた作品だ、と言いたいようだ、自分は。
 「京アニ」作品の特長として知られる、繊細な映像美や、キャラクターの「演技」の細やかさ、などについては語るまでもない。嘘である。正確には、それらを文章に置き換えるのは、とくに美的感覚の欠如している自分には難しい。
 どういうわけか、それが実際の景色でも、絵に描かれた景色でも「ただ美しい」ものを「ただ美しい」以上の語彙で、光がどうの色彩がどうの分析して語るセンスが自分には大きく欠落してるらしいんだなあ。描かれた事物が、単に描かれることから離陸して、何らかのストーリーを指し示して初めて、その離陸し指し示すベクトルを「こう向かってる、このベクトルが美しい」と言える。
 たとえば、貴族の子女ばかりが集う全寮制の学園で、ダンスの男役を仰せつかったヴァイオレットとともに、くるくる輪を描きながら踊る「イザベラ」の目に映る、空を模した天井に描かれた白い鳥の姿が、高価で贅沢な鳥籠に囚われた「イザベラ」の境遇を指し示す、そのベクトルが美しいと。映画の冒頭は、港町の、現実の空を自由に翔ぶ海鳥の描写で始まるので、「イザベラ」の救いのなさが余計に際立つのだと。

 『ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝』は、吾々の世界に似ているが別の、架空の世界を描いたファンタジイだ。文明の発展度は、大都市に電灯がともりだし、集合住宅に手で蛇腹の扉を開閉する式のエレベーターが設置されはじめた段階。戦争の後ということもあって、下には容赦のない貧困があり、上には貴族同士の政略結婚の道具とみなされ自由を奪われた少女たちの抑圧がある。その抑圧と拘束は、少女たちが嫁ぎ、大人になってからも続く。
 現実の吾々の世界の、ヴェルサイユとかヴィクトリア朝といった時代には「貴族の婦女が真の友人を得るのは、良い夫を得るよりずっと難しい」といった表現があったという。映画では、ある少女が「イザベラ」に向けて心を通わせようと、必死で手を差し伸べる場面が描かれる。それがかない、二人が鳥籠のなかで「同盟」を結び得たかは、数年後を描く映画の後半ではついに語られない。まるで世界の鳥籠の強固さを暗示するかのように。
 危ういことを言ってるかも知れない。「この作品が訴えたいことはー」と称して作品そのものから遊離した「教訓」や、美辞麗句を連ねることは、作品をダシにして(それでいて、いくらでも取り替えのきく、誰かの受け売りでしかない)自己アピールになる危険と常に隣り合わせだ。
 けれど、美しい映像・細やかなモーション、泣ける・号泣・リリシズムといった、京アニ作品にかぎらず最近のアニメーション映画を語り直すときの定型句とは別に、ここではない世界と時代に託した、社会派のレイヤーが、本作にはひそかに挟まっている。ファンタジイ舐めんな。
 同じ学舎の貴族の少女が、イザベラとの間に空けられたかは分からない、体制の壁を壊す風穴。
 物語の中で、その風穴を開けるのは、代書人ヴァイオレットや同僚の配達夫ベネディクトが体現する、郵便という(当時の)ニューメディアだ。字もようよう書けない、書けても美しい手紙に仕上げられない市井の人々の想いをすくいあげ、タイプライターで清書する代書人と、階級や貧富の差まで乗り越えて、その手紙を届ける配達人。どんな職業にも、それぞれ『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』のような神話が必要なのかも知れない。自分たちが従事している仕事こそが、冷たい世界を打ち壊し、人々が通い合う未来の通路を切り拓いているのだという神話が。

 当然ながら『ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝』の郵便というそれは、退屈で凡庸といわれる人々の悩みや喜びを掬いあげ、美しい映像と描写に「清書」する、アニメーション製作者たち自身の、理想化された自画像でもあったろう。京アニ作品は、とくに、何物でもないような平凡な境遇にある少女たちの、たあいのない日常を、細やかに美しく描くことで定評がある。
 劇中でヴァイオレットも巧みに操るタイプライターという道具は、吾々の現実の世界では、タイピストという職業を生み出し、女性の社会進出の枠を広げた魔法の杖でもあったという。タイプの打ち間違いで恋が成就するオー・ヘンリーの短篇「献立表の春」は、現代でいえばメールやスマホや(少し古いが)ポケベルが鍵になるラブコメディのような、当時としては最先端の話ではなかったか、という話はずっと前にしたと思う。

 むろん、それはせいぜいゲームの最初で与えられる「こんぼう(棍棒)」や「ぬののふく(布の服)」程度のパワーしか持たない杖だったかも知れない。この世は牡蠣なり。吾、剣をもて其れをこじ開けんというシェイクスピアの台詞に背中を押され、社会に飛び出た「献立表の春」の主人公はタイピストの資格だけでは、ようよう世間という牡蠣の殻をこじ開けられず、つまり職を得られず右往左往する。
 …現代のアニメーターは、往時のタイピスト以上に、若者の夢の職業であり、同時に過酷な底辺の業務なはずだ。とくに女性にはそうだろう。
 京都アニメーションが女性中心に設立され、大手スタジオの下請けから始まり原作まで含む自社製作ができる会社に成長したこと。正社員の採用に積極的で、労働環境の改善という意味でも、日本のアニメ業界の未来を示すロールモデルたりえたこと。それらは、その作品の世界的な評価とともに、アニメなどに関心のない人たちにまで知られることになった。今年の7月に起きた、日本の戦後の犯罪史上で最多といわれる被害者を出した、放火殺人事件のためだ。

 『ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝』は、ひとたび手紙という形に変換された「想い」や「愛」が、差出人の顔も思い出せなくなってしまった時間の経過のあとでも、受取人に幸福を伝え続けるさまを描いている。
 映画は、事件の直前に完成していたという。一度たしかな形で「清書」された想いは、時間に打ち勝って受け手に届くのだという主題が、はからずもこうして「遅れて届いた手紙」の形で証明されたことが、つらい。
 「音楽は待ってくれる」と思うことが、自分の場合、たびたびある。最初に聴いてピンと来なかった曲やアルバム、ミュージシャンが、半年後や一年後、時には十年以上を経て突然「こんなに好い音楽だったのか」と分かることが多いのだ。流行りの楽曲や、逆に古い楽曲が、すぐ分からなくてもいい。音楽は待ってくれる。
 だが、音楽の作り手である、人は待ってくれない。ジョージ・マイケルもプリンスも、デヴィッド・ボウイもルー・リードも、レナード・コーエンも。吉良知彦も、森岡賢も。いつまででも聴き続けられる、手紙のような音楽を作った当人たちは、次々と居なくなってしまった。
 『ヴァイオレット・エヴァーガーデン外伝』は、人々を抑圧し傷つける残酷な世界のシステムによって、命を奪われた人たちがしたためた、「それでも想いは届く」としたためられた、死者たちからの手紙だ。

 手紙は待ってくれる。人は待ってくれない。つらい。

オーヴァーロードが求める奇蹟〜大澤真幸『社会学史』(2019.05.21)

 1.王の杖
 まずもって、分厚い。この厚さのわりには、お安い(1500円+α)。そして読みやすい。

 大澤真幸社会学史』(講談社現代新書)。社会学ってよく聞くけど、どんな学問?(うさんくさいよなぁ?)という人にこそ、オススメかも知れない。
 大学の学部で学ぶ社会学は大体、19世紀フランスのオーギュスト・コントという学者から始まるのだけれど、本書はアリストテレスに始まり、ホッブズ、ルソーなどを離陸前のいわばプレ社会学として取り上げる。彼らの思想を「社会学」と呼ぶには何がまだ欠けていたのか、19世紀にそれを「社会学」として離陸させた、社会学特有の設問とは何か。そして20世紀を通じて、その問いはいかに答えられてきたか。
 たとえるなら王位を与える杖をめぐり、何世代も群雄が割拠して角逐する大河ドラマのように、デュルケーム・ジンメル・ヴェーバー、シカゴ学派にパーソンズ、ルーマンまで、学部生にとってはおなじみのスター(?)の事績が網羅される。それが個々の散発的な記述でなく、王位の杖にあたる「社会学特有の問い」をめぐるドラマとして描かれることで、話に一本スジが通り、読みやすい。
 また、その「特有の問い」に応える者であれば、マルクスやフロイト、レヴィ=ストロースやフーコーまで「社会学史」に含め、政治学のアーレントや生物学のマトゥラーナにさえ言及しているため、『社会学史』と言いながら近代思想史として読むことすらできる。
 いや、社会学を「近代の自意識」と捉える著者の手にかかれば、社会学こそ近代人文科学の急所であり、諸学の王だと宣言されているようなものだ。「吾々にとって、もっとも重要な学問は社会学」という、強烈な自負。学問の概説たるもの、こうでなくてはいけない。
 そんなわけで、てっとり早く社会学を知りたい・鳥瞰図がほしいというひとにオススメ(もちろん、鵜呑みにするのは危険かも知れないが)。学校で四苦八苦しながらAGIL図式とか学んだひとも「あれはこういうことだったのか」と悔しい思いができる。ドラマチックな物語として、小説を読むあいだに一冊、挟んでいいかも知れない。良書です。

 2.囚人と白い円板
 以上で、今回の日記の使命はひとまず終わっている。本の紹介。要約と、おすすめポイントの提示。あとは皆さん書店にGO。
 ここからは、少し突っこんだ話をする。
 …先にふれたとおり、本書が描く社会学の歴史においては「社会学を社会学たらしめる問い」が、王の杖のように継承される。つまりパーソンズはヴェーバーの問題を引き継ぎ、ゴフマンはルソーと比較され…という具合に、問いと答えの流れがあり、それが本書を(小説のように)読みやすくしている。
 本書を読んで気づかされるのは、著者がひもとく個々の学究・それぞれの時点で出された「答え」へのダメ出しの多さだ。ホッブズの理論では、リヴァイアサンが登場する理由が説明できない。20世紀アメリカ社会学の巨人といわれたパーソンズの理論には、穴がないか。マルクス、ヴェーバー、それにフーコー。王の杖を継承したどころか、代々魔物と戦って、とどめを刺せず次の代に解決を託すように、論者たちの刺し切れなさ・精緻に組み上げられた理論に「裏口」のあることが指摘される。
 これは多分に、著者の性格の問題であるように思われる。論理的に突き詰めて、突き詰めすぎて「おかしい、理屈に合わない」と暗礁に乗り上げるのが好きなのだ。
 僕が著者の存在を知ったのは、松岡正剛氏が監修した『情報文化の学校』(NTT出版)というアンソロジーでのことだ。そこで彼が取り上げたラカンの寓話が非常に印象的だったので、要約してみたい。面倒なひとは飛ばしてください。
三人の囚人がいる。刑務所長が白と黒の円板を用意して言う。
「円板は五枚で、三枚が白で、二枚が黒だ。
 他人の背中を見ることは出来るが、自分の背中を見ることはできず、互いに話し合うこともできない。
 自分の背中の円板の色を、最も早く見抜けた者だけ逃してやろう」
こう言いながら、所長は三人全員の背中に白い円板を貼る。囚人Aは考える。
i)自分が見ている円板が二つとも黒ならば、残りは白しかない。自分の円板は白だ。
ii)自分が見ている円板が白と黒ならば…自分の背中の円板が黒なら、白の円板を背負ってる奴には黒が二枚見えてるはずだから、i)の理屈ですぐ走り出すはず。だけど白の囚人は走らない。つまり自分の背にある円板は白だ。走ろう。
iii)ところが実際には、自分に見えてる円板は両方とも白だ。もし自分の背の円板が黒なら、ii)の理屈で自分以外の囚人どちらかが走り出すはずだ。だが走り出さない。つまり自分の背中の円板は白だ!走れ!

 ここまでで、すでにかなり面倒くさい。しかし、この話の真髄は先にある。自分の背中の円板は白だ!と推論し走り出した囚人は、次の瞬間、金縛りにあったように動けなくなるのだ。
i)からiii)までを目まぐるしく推察した囚人Aは走り出す。
だが同様の知力が備わっていた場合、囚人BとCも同じ結論に到達し、走り出すはずだ。
かくして三人の囚人は同時に走り出し、驚愕し、動けなくなる。なぜ他の囚人が走っている。俺の推論は間違っていたのか。
だが次の瞬間、三人の囚人は、自分たちが立ち止まったのは、三人とも同じく正しい解に到達し、同時に走り出し、同様に驚愕して動けなくなったせいだと悟る。
彼らは再び走り出し、今度はもう二度と止まらない

 この寓話について、著者は「第三者の審級」という概念を使って説明を加えるのだが、それは彼の著作に繰り返し現れる重要なキイ概念なのだが、それは措く。
 大澤真幸という人は、この「硬直して動けなくなるような状況」を好んで提示する。あるいは、そういう暗礁を探り当てずにはいられない学究なのだと思う。その名も『恋愛の不可能性について』なる研究もあった。漢字を眺めてるとゲシュタルト崩壊を起こすように、理屈を突き詰め、ついには対象の不可能性をあばいてしまう。
 しかし、そういう著者なのだ、と言っただけではアンフェアになる。彼の論考の特徴は、そうした論理的な暗礁に乗り上げたうえで、だからこその突破口を提示しようとすることだ。仏教やイスラム教に比べ、キリスト教は理屈に合わない。なんだ三位一体って。だが、その理不尽さがあったからこそ、キリスト教だけが近代的な思弁への道を開き、キリスト教圏でのみ近代思想が花開いた。そんなことを大真面目に述べる。
 「鵜呑みにするのは危険かも知れない」と書いたのは、そういうことだ。『社会学史』は行き届いた、そして統一した視点に貫かれた通史だが、あまりにも大澤真幸そのひとである
 なんとなれば、彼が提示する「社会学特有の設問」もまた、ありえないものの出現・ホッブズやルソーは人々の総意が社会秩序を生むと考えたが、そうではなく、人々の総意を裏切って生成される社会秩序はどこから来るのか、という問いであった。プロテスタントたちに「よっしゃ資本主義を生み出そう」という総意などなかった。だが彼らの思想が資本主義を孵化させた。著者はそこに、社会学の真髄を見る。

 3.オーヴァーロード
 ふだん吾々が「まあそういうものなんだろう」と、なあなあで受容している事物を、理詰めで突き詰めることで暗礁に乗り上げさせ、かつ、そこにこそ立脚した突破口を希求する。
 著者の方法論は、実は物語を愛好する者と相性がいい。多くの場合、物語もまた、奇蹟を希求するものだからだ。

これは既に、同人誌の形で述べたことだが、物語においては、少数者が大多数を、不利な者が強者を打ち倒す。ヒーローが圧倒的な物量で、しょぼい敵を倒すことは、たぶんほぼないだろう。同様に、巨悪は暴かれ、無理めの恋が実り、鬱々とした毎日を送る者に救いの可能性が示唆される。
こちらで書いてます。『物語の話をします』(電子書籍)
 ありえないことが起きることを、奇蹟と呼ぶ。それは圧倒的な現実の「無理」「できっこない」に対する抵抗であり、自由やら、人間性やらの凱歌である。
 『社会学史』を通して、著者が最終的に、社会学という学問に求めているのもまた「無理」からの突破口なのだろう。著者は最終章で「総意を超えて独自に立ち上がる社会秩序」を解明した論者の最先端として、ルーマンとフーコー、二人を挙げる。このうちシステム論として徹底しているのはルーマンで、フーコーは自身の論理を突き詰めれば不可能とされる人の自由を求め、「裏口」を使って不徹底に終わった者とされる。だが著者が肩入れするのは、フーコーが敢えなく失敗した、人間性の回復のほうなのだ。
 先に挙げた囚人の逸話を語った小論、三人の囚人が自由に向け全力で駆けていく小論で、いみじくも著者はこう述べている。「コミュニケーションがまさに奇蹟であるということ」「つまりそれが本来は不可能なことであるということ」」
 ただし、著者の厳密さは、その奇蹟に「裏口」を許さない。
 ホッブズが「万人に対する万人の争い」からリヴァイアサンを浮上させたとき、その手続きに飛躍があることを著者は指摘する。だが、同時代のロックのように、その飛躍を「神」に保証させることを、著者は認めない。神や「不合理ゆえに吾信ず」的な世界の外ではなく、世界の内のものを足し合わせた理屈で、人の自由という奇蹟を勝ち取ろうとする。そのような厳密さで導き出された、ルーマンの社会システムが、人の自由を暗礁に乗り上げさせる結果に終わった、にも関わらずだ。
 著者のかたくなな希望は、アーサー・C・クラークのSF小説『幼年期の終わり』に登場するオーヴァーロードを彷彿とさせる。
 圧倒的な科学力をもつ異星人として、地球人類の前に現れたオーヴァーロード族は、人類を導き、神のような存在へと昇華させる。彼らは産婆に過ぎず、自身は「神のような存在」になれない。だがクラークの描くオーヴァーロードは、神に見放されながら、自身の科学力のみで神に比肩する存在となることを諦めきれない。
 『社会学史』を通読すると、これほど論理性に厳しい著者が、所与の現実に屈せず、人の自由と社会の変革を志向していることが、(自由を求める読者には)強い励ましとなるだろう。だが、著者が繰り返し、さまざまな形で述べる「奇蹟」を、神の御業と取り違えてはいけない。
 

「震災後」の新章〜2019年春の東北(2019.04.05)

 3.11その日に東北に滞在するのは、震災以来、初めてのことだった。
 別に気負いがあったわけではない。逆に、この日は避けようという遠慮も、もういいのではないかと吹っ切れるものがあったのかも知れない。18きっぷを三日ぶん使っての鈍行列車の旅。
 二泊の宿は仙台にとり、初日は仙台まで・翌日、気仙沼を訪ね・三日目また仙台から横浜に戻る。無理はしないこと前提の、ゆるめの日程だ。
 まずJR東北本線で仙台のひとつ手前(東京寄り)・長町の駅で下車する。少し遅めの、昼食の時刻。ここでの目的は、仙台駅構内にも出店しているチーズ菓子専門店「ME&CHEESE」の劇的においしいチーズタルト、そして料亭「浜や」だった。

グラタン皿のようにシッカリと硬いタルト生地に、グラタンのように柔らかいクリームチーズ。美味しいけど硬い生地をフォークで刻むとチーズのほうが脆く崩れて、食べにくいなあと思っていたら、隣に座ったワイルドな地元おじさん客がグラタンを食べるように、まず中のチーズクリームだけ食べ始め「そ、そうかー」と学んだのはいいとして
 「浜や」季節限定の芹牡蠣丼、牡蠣でかっ!!
 震災のあとでは初めて、2012年の年明けに東北を訪れたとき(アクアマリンふくしまを経由して)宿をとった長町で初めて入ったのが、この「浜や」だった。元は隣接する名取市・閖上(ゆりあげ)に店があったものが、本店は被災・仙台で再起を期して営業しているようだった。
 それがきっかけで名取市・閖上という土地のあることを知り、一度だけボランティアにも出向いた。名取市のほうにプレハブの復興商店街があり、そちらにも店舗があって何度か食事をした。
 …そのプレハブの仮設店舗に店じまいを挨拶する貼り紙が貼られていたのが昨年秋のことで、果たして今回再訪した長町の店舗には、閖上での新店舗開店の案内が貼られていたのだった。
かわまちテラス閖上4/25グランドオープン(名取市観光物産協会)

 黒を基調に、浅い角度の斜め屋根が特徴的な、瀟洒な平屋の店舗が並ぶ。首都圏の郊外の、アウトレットモールと言われても違和感がない。
 こういうタイプの商店街が震災後の東北で新しく設けられたのを見たのは、一昨年の女川が初めてだった(個人の体験です)。石巻からの鉄路が再開された翌年のことで、それまで石巻や気仙沼・陸前高田などで見てきたプレハブの仮設商店街とは一線を画する、完成された景観に驚かされた。実際に女川では若い世代に口出しせず、任せるという形で新しい商店街づくりが進められたと読んだ憶えがある。


 それが中央の政府や電力会社の不作為や切り捨てを正当化するとは欠片ほども思わないけど、時間は経過し、生活は積み重なって、進むところでは確かに前に進んでいる
 …実は昨年の夏も似たようなこと(消えゆく仮設店舗・生まれ来る新興商店街)書いてたわけですが、この三月の旅行では閖上の「浜や」、そして気仙沼の「エスポワール」が仮設店舗からの離陸を果たしたことで、自分の中で「震災後」が一つの里程標を通過した・次のフェーズに入ったことを実感した。

 …そう。移転してたんですわ、エスポワールが(なんで事前に調べておかないの)。
 津波で甚大な被害を受けた気仙沼市だが、細い川を一本隔てた内陸部では大規模な損壊もなく街の機能もすみやかに復旧したものと思われる。海側に設けられた、いくつかの仮設店舗群から離れ、この内陸部にあったのがプレハブの復幸小町・そこで仮営業していたのが喫茶エスポワールだった。

 首都圏に暮らしながら、お洒落なカフェめしも、そもそも喫茶店での食事というものにも縁を結んでこなかった自分が、自宅から500km離れた気仙沼に初めて「食事ができる贔屓の喫茶店」が出来たのも間抜けな話だけれど、12コ貯めるとコーヒーが一杯飲めるスタンプ券をもらい、これが埋まるか、この店が仮設のプレハブを卒業するまでは東北に通えるだろうか、(無尽蔵にお金が出てくる魔法の財布があるでなし…)などと思っていたのが

 BRT南気仙沼駅に降り立つと、復幸小町が更地になっている(なんで事前に調べておかないの)。
 あわててWi-Fiが無料でつながるコンビニ前まで足を運び(魔法の財布があるでなし)検索したら、新設なった気仙沼市の図書館の中の店舗として新たなスタートをきったらしい(なんで事前に調べておかないの)。
 実は3月11日の宮城県は、沿岸部では警報が出るほどの激しい風雨であった。そして当日は月曜日。図書館の閉館に合わせて、新生エスポワールも店を閉じていることが分かった(なんで事前に調べておかないの)。それでも伊達に何度も通ってはいない、南気仙沼にはインド・ネパール料理店があるのだったと向かうと月曜定休。激しい雨と風。折り畳み傘の骨が一本、折れる。天気がよければ沿岸部にも、俳優の渡辺謙さんが開いたカフェにも、などと考えていたが、無理無理。
 交差点の先に気仙沼ホルモンという地場料理を食べさせる焼肉屋があった。ここも開いてない。ここまで来て吉野家はイヤだ。まして回転寿司、これ以上つめたい思いをしたくない。せめて同じ内陸部に震災後は移転してきた書店(これは仮設でない店舗)で何かお金を落としていこうと無理押しで歩いていったら(大事なことなので再確認しておきますが、折り畳み傘の骨が一本、折れてます)そこも移転

 うん、気仙沼の震災後も、新たなフェーズに入ったな!などと言ってる場合ではない。寒い。つらい。
 BRT駅(南気仙沼のは実質バスの停留所みたいなものです)の前にあった、前から気になってた廉価なお弁当屋で税込216円の海苔弁当を贖い、開いてるレストランや定食屋・駅蕎麦のひとつだにない気仙沼駅に、そして仙台に逃げ帰ったのでした。ひどい結末だ!

 そのぶん今回は仙台でゆっくりでき、素敵な古本屋に出会ったり、新たな地元名物の座を虎視眈々とうかがう「マーボー焼きそば」に舌鼓を打ったりしたのだけど、それはまた別の話。

 翌日、東京に戻って夕ごはんを食べた後、同じ東京・品川の入国管理局でクルド人の収容者が身体の変調を訴え、外に住む家族が救急に連絡・何が起きるか分からなので来られる支援者は来てほしいという呼びかけがあり、現場に駆けつけたら、入り口前に救急車が停まっているのに入管の扉は固く閉ざされ、隊員も追い返される、胃の腑が凍るような事態に立ち会ってしまったのだけど、これもまた、別の話

仙台の新刊書店で購入した、素敵な本たち。郡山にもいけてる書店があって、それは次の日記あたりで。

ソクラテスの師匠たち〜シモーヌ・ヴェイユ『ギリシアの泉』(後)(2019.03.28)

 1980年代に生国フランスのガリマール社が全集の編纂に着手するまで、シモーヌ・ヴェイユの著作は専ら、アルベール・カミュが編集する選書から刊行されていたらしい。エスポワール(希望)選書というそうだ。色々と感慨深いものがある。

 『ギリシアの泉』をアルバムに例えると、シングルカットされるのは冒頭の『イリアス』論と、後半の山場となる「プラトンにおける神」の二篇だろう。

 プラトンといえば、哲学の始祖である。というか無知の知を提唱し、産婆術で人々を啓発したソクラテスの言行を、プラトンが書き残した。それまで、万物の根源は水であるとか、数であるとか、原子であるとか唱えていた自然哲学者・あるいはソフィストと呼ばれる言い回しの専門家たちと一線を画し、ソクラテス(プラトン)は美とは何か・真とは何か・善とは何かといった人間の生きかたの学としての哲学を創始した。知を愛する(フィロソフィー)。汝自身を知れ。形而上学。イデア。…中学生や高校生が、学校その他で学ぶプラトン(ソクラテス)のイメージは、こんな感じだろうか。それまでの、迷信のようだった(ピタゴラスは教団の主だった)プレ哲学と隔絶した、理性の学としての哲学の確立。

 ヴェイユの「プラトンにおける神」は、この常識をくつがえす。
 わたしの解釈では、プラトンは真正の神秘家であり、あまつさえ西洋神秘主義の父である
 ヴェイユはプラトンを、迷信を断ち切った哲学の創始者ではなく、師ソクラテスはもとより、オルフェウス教・エレウシスの秘儀・ピュタゴラス主義・さらにはエジプトやオリエント諸国に伝わっていた、今は失なわれた神秘思想の最後の継承者・記録者と捉える。おそらく、ピュタゴラスやかれの弟子たちはさらにすばらしかったであろうだが、それを証拠だてる、プラトン以外の文献が残存していないと言うのだ。
 ヴェイユはプラトンのイデア論や、真理へのアプローチが、むしろ理性を超えた神秘主義への道であったことを例証してゆく。その詳細は本篇に譲るとして、たとえばプラトン「ファイドロス(パイドロス)」から彼女が引き出してくる一節は、たしかに理性的な哲学のための比喩というより、文字どおりに読めば神秘の様相を帯びる。
「ほんとうに実在する実在は、色もなく、かたちもなく、触れることができるようなものもない。
 実在は、魂の主である精神によるのでなければ観照することができない」

「魂は身体をもつもののうちでは神的なものにもっとも近いのだ」
「完全で有翼の魂は空中をめぐり、全世界を統べる。
 翼を喪失したものは、固い物体にぶつかるまで落ち続け、そのなかに棲みつく」

「翼の本質的な特性は、重いものを高みに運ぶことである」
これらのフレーズを引いたうえで翼とは恩寵であることを、これ以上はっきりと言うことはできないとヴェイユが評するとき、彼女の主著のひとつが『重力と恩寵』という題だったことが、今さらながらに思い出される。人は生まれる前の、神とともにいた記憶を失なってしまう…的な意味ではなく、もう単純に読んだ当時の無理解と忘却のせいなのですが(すみません)『重力と恩寵』とプラトンの関わりなど、とうに脳内から揮発しており、再読が必要だなあと思った次第です。はい、すみません。

 代わりに思い出したのは、そういえば(プラトンの書いた)ソクラテスは、自らの師について、たびたび言及していた、ということだ。
 「ソクラテス以上に賢い者はいない」デルフォイの神託で告げられたソクラテスが、そんなはずはない、自分などより賢い者がいるはずだとアテナイの街で問答を始めたところ、誰も彼の問いに答えられず、神託どおりの智者として名声と非難を集めていく…この「公式設定」はゼロからのスタート・既存の知識の蓄積や伝達とは違う「自分で考えること」を創始したソクラテス、というイメージを帯びている。
 しかし、そんな先入観でプラトンの著作を読み始めると、時々引っかかることがあった。人々の目を醒まさせる彼の弁舌には「元ネタ」があったと、ソクラテス自らが語っているのだ。
これは、ぼくが以前、マンティネイアの婦人ディオティマから聞いたところのものだ。
 この女(ひと)は、恋のこと、そのほかのことなども多方面にわたる知者であって
(中略)
 ぼくに恋愛の道を教えてくれたのも、ほかならぬこの婦人である。
 そこで、この女(ひと)が聞かせてくれた話を、諸君にも、できるだけ逐一お聞かせしてみたい」

(「饗宴」)
ぼくが弁論術を習った女の先生は、けっして凡庸の人ではなく…
  (メネクセノス「その女の先生とは、だれのことですか。
  いや、むろん、アスパシアのことをおっしゃっているのでしょうね?」
)
 そう、その人のことだ
(「メネクセノス」)
 プラトンは哲学の創始者ではなく、それ以前の神秘思想の継承者だった…そうヴェイユが断言するのを読んで、この、ソクラテスに教えた者たちのことが甦った。もっと言えば、ソクラテスに教えた女賢者たち。ウィキペディアによれば、ディオティマは哲学者であり巫女。(ソクラテスのみならず、ペリクレスの弁論の師でもあったという)アスパシアには、遊女という肩書きもある。
 これはもう、ヴェイユの著作から切れた、自分の妄想の話なのですが、ソクラテスの師匠であった、巫女であり遊女・妓女でもある女哲学者「たち」が存在した、その起源はアテナイよりもさらに昔…みたいな小説や物語が書けないだろうか(自分が、ではなく「誰かが」だけど)という思いつきが、ヴェイユのプラトン論で少し息を吹き返し、さらに深みを帯びたのでした。

 そして少しだけ妄想は古代ギリシャを離れ、20世紀のヨーロッパにつながる。ディオティマ、アスパシア、さらに沢山の名前が残存しない人びと。哲学者であり、巫女であり、遊女であり、プラトンより前、ソクラテスより前の、世界の秘密を知る女たちが、遠い遠い末裔・削り尽くした命を終えようとしている哲学の闘士を、その死の床に迎えに来る、蒼い蒼い海の彼方へと誘ないに来る、そんな1943年に…
 
自分が再読を期したい本。ヴェイユ『重力と恩寵』『ヴェーユの哲学講義』そして名著の誉れ高いコーンフォードソクラテス以前以後』。きれいに内容を忘れていることも、どれも自宅の本棚にあるはずなのに、探さないと出てこないのも情けない。
 あと自分の「ソクラテスの師匠たち」構想に(読んでもない)のに影響を与えていそうな、中国の孔子一門がサイキック呪術集団だった(?)という小説にも、挑んでみようと思ってます。

パトロクロスの戦争論〜シモーヌ・ヴェイユ『ギリシアの泉』(前)(2019.03.27)

 古代ギリシャ・トロイア戦争の英雄たちを語りながら、彼女は現代の戦場を見ている。
 プラトンを語りながら、彼女はプラトンより昔の、失なわれた神秘の残響に耳を傾けている。

 大阪・梅田は日本でも有数の乗降客を誇るだろうターミナル駅でありながら、同じ施設内に歩いていける古書店横丁「阪急古書のまち」を擁する稀有な場所だ。その名も梁山泊という一店で、今年の一月に入手したのが「シモーヌ・ヴェーユ」の『ギリシアの泉』(みすず書房)だった。
 題名のとおり、ヴェイユが著した古代ギリシャ関連のテキストを集めたもので、冒頭の「『イリアスあるいは力の詩篇」が、一行目から関心を引きつけた。いわく
「『イリアス』の真の英雄、真の主題、その中枢は、である」
 少し離れて、こう続く。
力はそれに屈する者をだれであれ「もの」にしてしまう
 一見して、何かすごいことが書かれている気にさせられる。だが何のことやら見当もつかない。どうして、あのイーリアスから、そんなテーマを引き出せるのか。それは、読み進めると明らかになる。

 『イーリアス』はトロイア戦争を歌った、ホメロスの叙事詩である(重い腰をあげて読んだのは昨年だか一昨年だかですが)。ブラッド・ピット主演で映画になった、そちらのほうを先に観ています。攻め手となるアカイアがたの面子に、英雄アキレスとその親友パトロクロス・強欲なアガメムノン・知恵者オデュッセウスなどなど。一方のトロイアは孤軍奮闘の勇者ヘクトールに、そもそも戦の原因となった軟派男パリス。ホメロスの詩じたいはヘクトールの死で終わり、アキレスのかかともトロイの木馬も、ましてアガメムノンの無残な死も、十年にわたるオデュッセウスのオデッセイも描かれないのだが…
 この現存する最古の物語(のひとつ)を、もう少しクローズアップして現れるのは、引き際を知らない追撃者が逆襲を受けるシーソーゲームの繰り返しである、とヴェイユは指摘する。
 獅子奮迅の活躍でトロイアがたを圧倒したパトロクロスは、そこで止まればいいものを、敵を深追いしてヘクトールの餌食となる。ヘクトールはそこで手打ちにすればいいものを、パトロクロスの遺体を辱めてアキレスの恨みを買う。そしてヘクトールを討ち取ったアキレスもまた、パトロクロスの遺体を辱め…
「このように暴力はこれに触れる者をおし潰す。
 ついには、これを操る者にとってもこれを蒙る者にとっても外的なものとしてたち現れる

 『イリアス』の世界を厳密に貫く、この原理は神格化され、復讐の女神ネメシスと呼ばれる。なぜ誰も彼もが、敵が尻尾を巻いて逃げ帰る・終戦には絶好のチャンスを逃し、敵の全滅まで目論んで追撃しては返り討ちに遭うのか。それは、より戦利品が欲しいなどといった打算ではなく、より力を、力そのものを行使したい「過剰への誘惑」のためだと、ヴェイユは説いているかのようだ。
「出発のときは、かれらの心は軽やかである。(中略)
 武器は自分の手の中にあるし、敵はその場に不在である。(中略)
 いつでも人間というものは不在の敵よりはるかに強い
 こうした過信と、その過信で自ら泥沼にはまっての絶望は、(彼女にとって)現代の、西部戦線でも変わらない。さりげないヴェイユの指摘にギクリとする。
 1909年に生まれ、43年に亡くなったヴェイユは、20世紀のヨーロッパで戦われた二つの世界大戦を両方とも、吾が事として体験している。古代ギリシャの探究は、彼女にとって現在から離れるための避難所ではなかった。ヘクトールやアキレスの運命を通しても、彼女の思索は結局、彼女じしんの現代と対峙していたのだろう。

 ヴェイユは言う。たしかに人はみな死ぬが、死は未来を制限するものであって、未来そのものではない。だが戦場に駆り出された者にとっては死こそが、死だけが未来となる。
 これは(人間の)本性に反しているという、ヴェイユの言葉は力強く美しい。人は死を運命づけられてはいるが、生の本性は生きることにある。だが戦争は、その本性を人から剥ぎ取る。そして未来という、人間的な生の本性を剥奪された者の前で、敵の命乞いが何になるだろう?
 「計算し工夫を凝らし決心をしてからその決心を実行に移す人間たちのあいだでは、戦闘というものは決着をみない。戦闘が決着するのは、こうした能力を剥奪され(中略)受動性にすぎない惰性的な物質(中略)にまで堕ちた人びとの間においてである」
 これが力の本性である。別の著作で、戦争は、他国を攻撃し他国民を殺す以前に、殺し殺されることを自国民に強いる時点で悪なのだ、と説いたヴェイユである。力は人を「もの」に変える、という冒頭の言葉の意味が、ここに至って解き尽くされる。

 己の力に駆り立てられては裏切られ、最後は命乞いもむなしく刃にかかる男たち。まして、奴隷と同等の、つまりゼロの自己決定権しか持たない女たちの悲惨。これらの悲惨を、たとえば大いなる目的のための犠牲などとして正当化しない点で、際立つものとして『イリアス』はヴェイユの心を捉えた。
 死を強いる「力」に屈従する人の悲惨と無力を、同等に哀惜こめて活写しえたのは福音書だけだとヴェイユは言う。(キリスト)ですら、処刑を前に絶望する。死を恐れない殉教者たちは、神よりも偉大になったつもりなのかと。古代ギリシャとキリスト教、そして眼前の世界大戦が、彼女の眼中で収斂する。その先には、吾々じしんの「現代」がある。
 
 亡命中のレーニンと論戦し、哲学者アランに師事した学生時代はボーヴォワールを蒼白たらしめたと言われる秀才シモーヌ・ヴェイユ。人を「もの」化する現代の欺瞞を冷徹にあばきながら、それを打ち砕く腕力は持ちえず、徒手空拳で産業社会に挑んでは消耗し疲弊し、追い打ちのように始まった二度目の世界大戦に打ちのめされ、衰弱死した。
 彼女の著作にふれるたび「明晰すぎる悲劇」というイメージが頭をよぎる。
 後編は、もう少し軽めの話になる予定です。

誰が境界を越えたのか〜『バジュランギおじさんと、小さな迷子』(2019.01.24)

 花やかなファンファーレとともに街の中心に現れ、人々を従えて歌い踊るインド映画のスーパースター。だが、群衆の中心となり、皆とハイタッチし、肩を叩かれ、歌いながら一緒に「セルフィー」まで撮ったりする彼らは、そう少なくとも「映画の中の」彼らは、そのヒーロー然とした登場にも関わらず、冒頭の時点では真のヒーローではない。『バジュランギおじさんと、小さな迷子』の主人公も、そうだった。
 インド映画史上、歴代3位の売上を誇る大ヒット映画が、現地公開(2015年)から三年を経て、日本で待望のロードショー上映。ハヌマーン神への信仰が篤く、ウソをつけないため度々窮地に陥る超お人好しの好青年(青年?)が、口の利けないパキスタンの少女を故郷に返すため、国境を越え珍道中を繰り広げるロード・ムービーだ。

 だいたい、このあたりまでは予告や事前の宣伝であきらかになっている内容として、ここから先は作品の中身に踏み込むので、ネタバレなどなしに本篇に臨みたいひとは、観てから読んでください。

 さて、唄って踊るスーパースター、インド映画の主人公の話。往来で繰り広げられる群衆ダンスの中心として登場し、腕っぷしの強いタフガイか、無類の好人物として、一目おかれる様子から誤解しがちなのだが、彼らは映画の冒頭では未完成な人格として登場する。就職できてなかったり、悪い仲間とつきあっていたり、そして何より独身で、意中の女性との結婚を「お前みたいな半人前に娘は任せられん」と頑固な親父さんに拒否されたりしている。
 強面のタフガイでも、ひょうきんな人気者でも、はたまたハンサムな優男でも、彼らはその属性で万事を解決して、当人は変わらぬまま正義や愛を勝ち取るフラット・キャラクター=平板なヒーローではない。毎週おなじように変身して敵を倒す帯番組のスーパーマンやウルトラマンではなく、自分がヒーローであることに悩み葛藤し、試練を通して受け入れていく「劇場版」のスーパーマンやアントマンに近い(最近のテレビ特撮は帯番組でもヒーローは平板でなく成長を重視してるとは思うので、まあ例えです)。
 だがハリウッドの変身するヒーローと違うのは、大冒険や大きな試練を経て、インド映画の主人公は超能力を持ったヒーローとしてではなく、ふつうに家庭を持てる「一人前のオトナ」になるということだ。どんなに銃をぶっぱなし大車輪のアクションを見せても、はたまた国境を越えヒマラヤの山岳の果てまで旅しても、インド映画の娯楽大作のベースには、だから常に(常にでもないか)、こじんまりとしたホームドラマがある。

 ハヌマーン神を信仰し、ウソがつけない『バジュランギおじさん』もまた、例外ではない。無類のお人好しで、ちょっとバカ?…愚直な彼は、その真正直な気質と「ハヌマーン神に恥ずかしいことは出来ない」という責任感から、ビザもなしに隣国に入り、口の利けない・就学前なので読み書きも出来ない少女を故郷まで送り届ける。が、そのミッションは彼の、持ち前の信心と正直さだけでクリアできるわけではない。
 国境を越えた瞬間から、彼は異教の人々(簡単にいうとパキスタンはムスリムの国である)に匿われ、救われることになる。ハヌマーンを神聖視するがゆえに、同じようにイスラムの人々は自分たちの神を神聖視しているはずだと、モスクに隠れることを遠慮しようとする主人公を、当のモスクの長老が「ここは誰にでも開かれている」と招き入れる。自身は愚直に正直を通す主人公は、不法入国者を追う警察から彼をかばう、善意の人々のウソに救われる。
 そして何より、主人公が知らずすれ違う、少女の還りを必死に願い続ける母親。その鮮やかな色のヒジャブが翻ったとき、スクリーンの前の吾々は、家族を思い悲しみに暮れる人たちに、宗教の違いはないと知る。

 ここから先は(一応ぼかすけど)本当に話の中心に踏み込むので注意です

 今はなき吉野朔実さんのエッセイに、愛とは何かを知るためには、自分が愛しているものが何かを知るためには、自分にとって一番大事なものを捨てなければいけない、という主旨の言葉がある。
 これは人生訓、というより創作や神話の原理かも知れない。最も分かりやすい例は『天空の城ラピュタ』だろうか。物語の終盤、少年パズーは靴を脱ぎ捨て、父さんとの絆の象徴であるゴーグルを撃ち飛ばされ、ドーラたちとの友情の証であるハンドキャノンを決然と投げ捨てる。そして物語の目的地だったはずのラピュタさえ諦めて、少女シータと生きる道を選ぶのだ。
 『バジュランギおじさん』では、眠る少女を抱きかかえたまま、主人公が白いタイル張りの「ある一線」を越える。その、たった一歩で、観ているこちらの目から、涙が、つーっと落ちた。

 いや、映画や何やかやの感想を「泣いた」「泣けた」で回収してしまうの、あんまり良くないのですが、正直そこから最後までは泣きっぱなし(笑)。
 正直と信心だけで、言うなれば自分自身だけで幾多の困難を乗り越えてきた主人公は、ついに「自分が少女を家に帰す」という当初の目標すら捨てて、異郷の地で得た信頼できる友に、少女を託す。少女を託し、自分は警察の囮となって走る。どこか見覚えのある断崖絶壁に追い詰められる。そして銃声−

 たしかにこれは、バカ正直なひとりの男が、信心と真心で国境を、人々の心の境界を踏み越える物語だ。
 けれど同時に、彼自身が内にもつ境界を乗り越え、異質な世界と心を通わせる物語でもある。

 いま現在、対立するふたつの国家=インドとパキスタンが、どのくらいの緊張関係あるいは雪融けの状態にあるのかは不勉強のため詳らかでない。だがこの真正直と義理堅さ・相互に赦しあうことが道を切り開く物語には、理想とか希望とかより、もっとヒリヒリする願いがこめられているのかも知れない。
 ちなみに、冒頭から「セルフィー」が登場する本作は、最近の多くの映画がそうであるように、インターネットが重要な役割を果たしたりする。携帯電話が普及しはじめた頃には「昔のような行き違いやすれ違いが描けなくなって、物語がつまらなくなる」という意見もあったが、逆に最近の映画や物語はその特性を活かした、むしろ夢中になってる様子がうかがえて面白い。
(SF映画っぽいスローモーションやストップモーションを駆使したアクションシーンは、ちょっと笑っちゃったんだけど、それも最後の伏線になるという…)
 そのハイテクと対照的な、作品後半で繰り広げられるパキスタンの風景・山岳地帯の広々とした美しさも特筆に値する。要はとても、良い映画です。観たいかなーと思ってるひと・観られるひとは観ましょう。

 あと、これはまったく映画と関係ないのだけど、観ている最中に「なんか無性にカレーが食べたくなってきた」と思ったら、映画館が入ってる建物の同じフロア・すぐ出た真正面にインド料理店がある「キネカ大森」、至れり尽くせりとしか言いようがなかったです。


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