まんがなど
(19.12.22更新)
今年のペーパまんが総集編を追加。



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(19.12.01更新)
今年の新刊まで追加・整頓しました。
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過去日記一覧(随時リカバリ中)

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Author:舞村そうじ/RIMLAND
 創作同人サークル「RIMLAND」の
 活動報告を兼ねつつ、物語とは何か・
 どんなメカニズムが物語を駆動し心を
 うごかすのか、日々考察する予定。

【最近の動向】
半年は新刊がない予定です。
2月東京コミティアは欠席。
4月名古屋は考え中。

WebまんがSide-B遅々として更新中。

note絵更新。(16.05.26)

旧サイトは2014年8月で終了しました(お運びいただき感謝)。再編集して、こちらの新サイトに少しずつ繰り入れますが、正直、時間はかかると思います。

[外部リンク]
comitia
(東京名古屋新潟関西みちのく)
あかつき印刷
POPLS

日本赤十字社

if you have a vote, use it.(save kids)

日記更新。ネットを飛び交う虚言でファン・メーヘレンを思い出した話。
『掠奪美術館』四半世紀ぶりに読みましたが、古びませんね…下の画像かこちらから。(20.01.12)


ひとつ前。昨年の三冊。こちらから。(20.01.05)


BOOK☆WALKER新春コイン還元終了〜また何かあったら告知しますんで…別に定価で買ってもらっても構わんのですが、まあ一応。

この二人はどっちの家でも保護者公認の仲なので、頻繁に互いの家に泊まりに行ってほしい。(20.01.07)
突発Happy Holidaysまんが「アスセカ特設」のほうにしまいました。(19.12.26)

『ペーパーまんが総集編2019』アップしました。色々あって60ページ超。どうかしてましたね…下の画像か、こちらから。

11/24の東京コミティア130(おつかれさまでした)で今年のRIMの即売会参加は終了。腰を据えて次作に取り組むため、次回・来年2月の東京ティアは参加を見送る予定です。正直5月も考え中。4月の名古屋は初売りがあるため前向きに検討中ですが…(19.12.01)
追記:新潟コミティア、6月開催で動いてるようです!(19.12.29)


ウソは射程距離が短い〜佐藤亜紀『掠奪美術館』(2020.01.12)

 2020年初春。ネット上に「ソクラテスの箴言」を称する流言が広まった。おおよそ、こんな内容だ。
「ソクラテスの『無知は罪なり』という言葉はよく知られていますが、その続きはあまり知られていません。『知は空虚なり』『英知あるもの英雄なり』と続くのです」
 「Aはよく知られていますが、実はB・Cなのです」と称しつつ最初のAもウソッパチというのは騙しのテクニックとして興味深いので、元の流言の口調をなるべく再現したけれど、要は「無知は罪なり・知は空虚なり・英知あるもの英雄なり」…この文言を「ソクラテスはこんなこと言いそうにない」あるいは「言葉の古さ新しさがチグハグで何か不自然」と直感できないのは、ちょっと危うい気がする。教育や教養・一般常識・良識といったものの敗北ではないか。
 これはソクラテス当人ではなく、悪名高い新興宗教の教祖が「ソクラテスの霊言」として言ったものだ、という話も、どうやらデマであるらしい(英知あるもの…あたり、いかにも言いそうですよね)。またソクラテスが「無知は罪」だと言ったと、キェルケゴールが書いてるそうなとか、いろいろ尾ヒレはつくのだけど省略。
 返す返すもフェイク・トゥルース、デマと捏造の現代である。自分だって時おり引っかかる。いちばん最近だと「スーパーの野菜売り場が柚子に『冬至のゆず湯にどうぞ』と札をつけたら、食料品でなくなり軽減税率が適用されないので、消費税8%で売ったら即しょっぴいてやろうと国税局が網を張っている」という流言に、コロッと騙されました。実際には8%でお咎めはなかったらしい。もっと単純に「シーズーは鳩」とか、なんでそんなの一瞬でも信じちゃうかなあ!?というネタがあるのですが、それも後回し。

 封建社会だったころ「妻は夫の三歩後ろを歩け」と言われたのは、男尊女卑ではなく、サムライはいつ敵襲を受けるか分からないので妻を守るため後ろにかばったのだ、なる風説を見かけたことがある。後世(つまり21世紀の現在)になって作られたウソの解釈と評されていたように思う。数年前「黒猫が目の前を横切ると不吉」なのは、福をもたらす黒猫が自分を素通りしてしまうので不幸なのだ、という風説が急に現れたこともあった。生まれて数十年、聞いたこともなかった説が突然に広まりだしたので、あれも近年の捏造ではないかと疑っている。
 江戸しぐさだの、宴会での作法だの。これに「ソクラテスの箴言」を加えてもいいだろう。こうした歴史捏造系のデマ・虚言には、なんとなく「あ、ウソっぽい」と感じられる特性がある。理に落ち「すぎる」のだ。妙に功利的。現在の価値観に不自然にフィットしており、現在の誰かに都合がいい…
 「昔からの言い伝え・昔の人が言ってることだから、現在の吾々から見たら少し世界が違う」感じ、が、しない。むしろ現代的な価値観から逆算したことが透けて見える。なんというか、今に媚びている。

 そんな風に思うのは、フェン・メーヘレンの逸話のせいだろう。
 ファン・メーヘレンは20世紀オランダの贋作画家である。フェルメール風の絵を自分で描いて「未発表作品が見つかりました」と称し、ナチスの高官に売っていた。これが戦後、売国的な所業として告発され「いいや、むしろ贋作でナチを騙してやったのだ」と無罪を主張するため、裁判の場で「フェルメールの新作」を描いてみせ、周囲はびっくり仰天という、なんとも言えない話が残っている。
 この「世紀の贋作」はインターネットでも、たとえば
ナチスをだました男、メーヘレンが描いた"フェルメールの贋作"全11点【画像集】(ハフィントン・ポスト)
あたりで閲覧できるのだが、皮肉なことに「これはナチも裁判所も騙されて仕方ない」という感慨は湧きにくい。むしろ、何でこれで騙せたのだろうと不思議になるのだ。ソクラテスはこんなこと言いそうにない。これではどうにもフェルメールらしくない。
 その謎を解くカギとなるのが、佐藤亜紀掠奪美術館』(1995)の指摘だ。美を解さぬ公衆にはもったいない・掠奪して秘蔵したいくらいだと、偏愛する絵画への思い入れを語り尽くしたエッセイ集で、著者はメーヘレンの限界をこう刳り出す。
「彼ら(贋作者)が知っているのは(中略)彼らの時代におけるフェルメールであり、レンブラントであり、レオナルドだ。(中略)
 贋作は、時間の経過につれて次第に、真作に対して人々が抱くイメージからずれていく。(中略)
 概ねの真作はこのイメージの変化を受けとめるだけの柔軟さを備えている。(中略)
 我々の見るフェルメールは、僅か半世紀で、それだけ変わったのだ
20世紀中盤には20世紀中盤のフェルメール像があり、同じ時代の子だったメーヘレンの贋作は、そのフェルメール像に忠実だったからこそ、玄人までも騙し得た。けれど時間の経過で日の差す角度が変わるように、吾々が同じフェルメールに求める「らしさ」も変わる。真作は真作のままだが、贋作はなぜこれが信じられたのかと思うほど「らしくなさ」を晒してしまう。
 そう分析したうえで、佐藤氏は「そもそも真贋なぞどうでもいい」と笑い飛ばす。だがソクラテスの言葉や宴会の作法の真贋が笑い事でないと思う向きには、この逸話はウソを見分ける多少の手がかりになるだろう。
 贋物は本物よりも射程距離が短く、(繰り返しになるが)「今」に媚びている。
 虚言は、実在の人物や風習を「今」の人々が飲み込みやすいよう、たわめて丸める。本来なら批判されたり、見かたが変わることで乗り越えられたりするべきものを、丸めこんで飲み込ませる。
 フェイクの「真実」は、現実とウソなしに向き合った時より、吾々が進める距離を短くし、誰かにとって都合のよい「今」に吾々を閉じ込める。贋作の絵画は、それ自体が古びるが、過去の捏造は吾々のほうを固陋にし、未来を奪う。
UFOなんかも不思議ねーで終わらせときゃイイものを政府による隠蔽工作とか良い異星人vs悪い異星人とか「今」ウケを狙いだすと俄然つまらなくなるのは、当人たちは「してやったり」なつもりでも(あるいはそれゆえに)想像力の範囲がちんまりしてしまうからではないかと…
 昨年末、NHKの紅白歌合戦で、往年の名歌手の特徴をAIとCGで再現したものが、番組の目玉として「登場」していた。「新曲」を披露し、なんだか「令和の皆も頑張って生きてね」みたいなメッセージを最後に発したのを観た。それは故人のイメージを「今」に都合よく加工した創作で、悪くいえば捏造・デマや虚言と同類に思えた。むろん、スターの、まして舞台上の発言など、当人も含めてるとはいえ多数の人間が関わって練り上げた「作品」だろう。それでも、当人が不在の「作品」まで受け容れ、感動すらしてしまうのは、これもまた「ちょっと危うく」ないだろうか。

 …などと述べたところで、かく言う自分がどれだけ当てにならないか示すため、話を蒸し返す。十年以上前だと思う。エイプリルフールに「吾々がイヌと思って接している動物は、イヌという一つの種ではない」という記事を読んだ。哺乳動物であるイルカが、海での生活に適応した結果、魚のようなシルエットになる。これを「収斂進化」と呼ぶ。イヌと呼ばれる一群も、この収斂進化で似た容姿となった多様な種の集合体であって、と記事は書いていた。いわく、吾々がチャウチャウ犬と思っている動物は、実際には齧歯類の一種である。シーズーに至っては、鳩の仲間であると。
 信じられないことだが、一瞬は信じた。これは、時代性がどうとか無関係な、また別の「思考の空隙を突かれた」みたいな話だと思うのですが…まあふつうは一瞬でも信じませんよね。どうかしていましたと言いたいところだけれど、わりとオールウェイズどうかしてるんだよなあ。


「何か変なんじゃないの、とでも尋ねようものなら、即座に、甘い、という返事が帰ってくる。
 彼らにとっては今現在のやり方、今現在の世界観以外は全て、甘い、のである。
(略)
 それがリアリズムというものなのだろう。(略)
 だが時々、私は本気で心配になることがある―
 ―例えば二十年先がどうなるのかを、彼らはまるで考えてないのではないか」

『掠奪美術館』この日記のため四半世紀ぶりに読み返したけど、やー、改めて面白かった。とくにダヴィッドが描いたナポレオンの「男であることの病」を論じた一章は、かつて身も蓋もなさにゲラゲラ笑ったものが、四半世紀後の今となっては現実が追いつきすぎて笑えないという…

2019年の三冊(2020.01.05)

 と言いつつ、2019年に出た本は一冊しかない。すでに紹介した本の蒸し返しもあります。まんがも一冊。互いに関連しないし、方向性も濃度も違う。三冊の内どれか気に入れば他も…は逆に保証しかねますけど、どれか気になるのがあれば。


 1)温又柔台湾生まれ、日本語育ち』(白水社Uブックス) すまん、親本は2015年です…
 文筆家としても鳴らした漫画家の吉野朔実さんが、かつてこんなことを書かれていた。
 夜中のTVでやっていた政府広報。こんなコピーでした。
「外国人だから、身体障害者だから、差別地区出身者だから、女だから、子供だからといって差別をするのはやめましょう」
 私は、自分が差別されているなんて、それまで知りませんでした。
 これによると、差別されていないのは、
「日本国籍のある差別地区出身者ではない健常な成年男子のみ」
 ということになります。
 自ずと、差別をしているのはこの人達なのだと解ります。

(『眠れない夜には星を数えて』大和書房)
 日本国籍を有すること。一応まあ健康であること。ヤマトンチュであり、シャモであり、もしかしたら東洋鬼や日本鬼子でもありうること。選挙権を有する大人であること。そして男性であること。多くの局面で己が強者・マジョリティであり、寝返りを打てばネズミをつぶしてしまう象になりうること、その加害性に無頓着ではいられない。
 タイトルどおり「台湾生まれ、日本語育ち」という経歴をもつ著者の思いを、簡単に「国籍や育ちなど関係なく、誰でも感情移入できる普遍的なものだ」とマジョリティが言うことは、場合によっては詐取や簒奪・強奪になりうる。

 と前置きしたうえでなお、このエッセイが放つメッセージは感動的だ。マジョリティかマイノリティかに関係なく(と、ああ、簒奪したくなってしまう)人は自分になる・自分であるためには、自分だけの言葉を発見し、獲得し、確立しなければならない。レッド・ツェッペリンの「天国への階段」が、たった一つの「その音」を見つけられれば、すべての迷いが晴れ、吾々はあの「階段」にたどり着けるだろう(でもって、その音を奏でるのは俺たちだ)と謳ったように(そういう歌詞なんですよ)、「その言葉」を見つけた喜びを著者は歌う。
書き終えた瞬間、読まれたいという欲望が、書きたいという衝動を、はっきり上回った
(強調は原文の傍点に基づく)
日本人以外の出自を持ちながら日本語での表現を追究しつづけた先達・李良枝を卒論のテーマに選んだ著者は「あなたは李良枝をとおして自分自身を語ろうとしているに過ぎない」と注意される。それを踏まえて、著者は言う。
ひょっとしたら、いつかだれかが、わたしの小説をとおして、彼自身について、彼女自身について、語らずにはいられなくなるかもしれない?
 それを夢想するとき、わたしは狂おしいほど、すがすがしい。
(こちらの強調は引用者)
 ところがページを繰ると、この著者が「台湾生まれ、日本育ち」であり続けるために、自ら発することを望まぬ言葉を求められる。要は行政上の申請書類というやつだ。制度ともシステムとも、国家とも「日本」とも呼ばれるものに強いられた「言葉」を著者は呑み込めず、タオルを投げるように他者に委ねる。先のページで歌われた喜びが高らかなだけ、この落差は強烈だ。
 著者の感受性と、著者の立場だから気づき得た、この「自分のものでない言葉の強制」は、けれど著者だけのものではないだろう。「自身をこのように語れ」と望まぬ言葉を強要されるとき、人は誰でも「マジョリティかマイノリティかに関係なく」と自称しうる、被抑圧者の立場になる。被抑圧者であり抵抗者・「狂おしいほど」に自分でありたいと望む、一個の個人に。
 

2)シモーヌ・ヴェイユギリシアの泉』(みすず書房) こちらに至っては70年前の文章だ…
 こちらについては、すでに昨年3月の日記(こちら)で書いてるので割愛いたしますが…
 まあ三冊選ぶなら、この本も(だろう)と昨年のうちにボンヤリと決めていて、年が明け、1月3日。トランプ大統領の命令下、イランの有力者ソレイマニ司令官が爆撃で殺害され、イギリスほか世界中のTwitterのトレンドには「第三次世界大戦」という言葉が並んだ。

(バグダッドは殺害の場。「コーチェラ」だけは無関係な、ロック・フェスティバルの会場だ)
「いつでも人間というものは不在の敵よりはるかに強い 出発のときは、かれらの心は軽やかである」
戦場に向かう男たちの、古代ギリシャから第二次世界大戦まで変わらない軽率さと死を前にした無力。そして、そんな軽率さすら許されず奴隷として踏み台にされる、さらに弱い女性たち。ヴェイユが透徹した目で見透かしたこと・白くなめらかな石に鉄筆で刻むように書いた言葉は、戦場へと駆り立てられる者たち・送り込む者たちに届くことがあるのだろうか。
 世界じゅうのTwitterが「World War III」のハッシュタグで埋め尽くされているころ、日本のトレンドだけは、テレビの正月特番の話題で埋め尽くされていた。昨年末のうちに国会をとおさず、政府が閣議だけで決めた海上自衛隊の中東派遣は「盟友」トランプの、この暴挙のあとでも強行されるのだろうか。

 いつまで、こんなことを許し続けるつもりなのか。取り返しがつかなくなるまでか。


3)こめり月にむら雲、花にあらし』(Jパブリッシング)
 これはどうにか昨年の本。最近ますます漫画を読まないようになった+BLには、それこそ傑作や力作が山ほどあるのかも知れないけれど、たまたま(縁あってと言え)手にしたコレが好かったので。
 第一話に相当する部分が著者のTwitterで公開されていて(→こちら。「十年来の親友にまた告られた話)読んだら好ましく、即座に単行本を購入。
 京都の若き日本画家という(関東の庶民には)夢物語に近い設定、でも美大生が就職は出来そうになくて才能を頼みにどうにか絵画で食っていきたい的な生活感の取り合わせが面白い。登場人物みんな京言葉で、んー、やはり憧れの気持ちが勝るか。
 BLに登場する女性キャラの、言うたら「待遇が良い」と何か嬉しくなるみたいで、本作は「ばあちゃん」「画廊の尚子さん」とも良キャラでした。なんか酸いも甘いも嚼み分けた女性たちが、いちばん年若の男子カップルを「よしよし」と雑にかわいがってる感は、BLを愛でる女性(あるいは男性でも)をメタ的に表してるのかも。
 もっと激しく読む者の気持ちを上下させ、かきむしり、打ちのめす作品もフィクションならあるのだろうけど。もっと難しい世界の深奥を考えさせたり、社会の不均等をこれと指差し義憤をうながす書もあるのだろうけど。そうでなく枕元に置いておける本もほしい。そしてそういう逃避ともいえる本も、できれば誰かを踏みつけないもの、そしてやっぱり少し上の感性が行き来してる世界を垣間見させてくれるものがいい。2019年の自分には、これが「いい塩梅」の一冊でした。

 2020年は積ん読から片づけていく、そして年の後半はブローデルの大著『地中海』が解禁となる(条件を課していた)予定。

あけましておめでとうございます。(2020.01.01)

Web書道.comで作成した画像を編集・加工しました…
 ポーランドで生まれ、イギリスで亡くなったジグムント・バウマン(1925〜2016)という社会学者が『リキッド・モダニティを読み解く』(ちくま文庫)というコラム集で書いています。「新年に祝うものは希望である」と。
 これがほしい、あれを叶えたいではなく。
「今度こそ(中略)希望が挫折したり、砕かれたりしませんように、
 決意が希望を見捨てず、途中で萎えたり、停滞したり、活力を失ったり、過去の希望や決意と同じ道をたどりませんように……。
 毎年新年に祝うのは希望の再生なのである

 イギリスでは願いというより、決意をあらたにするらしい。悪い習慣を断ち、良い習慣を身につける。大事にすべき人を大事にする。具体的な方策は人それぞれでも、要は心を入れ替え、真人間になる。今年こそ、今年こそ…そうした異郷の風習を、たぶんバウマン先生は少し皮肉に、けれど慈しんでいたのだろう。
 …新年に神社で手を合わせ、思いつくことがない時は、岡倉天心の『茶の本』に出てきた慈悲と節倹と謙遜というフレーズ(順番は違ったかも知れません)を唱えるのですが、またソレで行くにせよ、もう少し気の利いたことを思いつくにせよ、今年は「この新年の願いが、くじけませんように」と付け加えてみるのも良いかもと思った次第。皆様の願いもまた、叶いますよう。
 

「狭さ」の外に出る〜レヴィ=ストロース『われらみな食人種』(2019.12.29)

 中学生や高校生の頃は、クリスマスの自分用プレゼントはレコードだった。まだ音楽の媒体が、配信やダウンロード・CDですらなかった時代。少し昔の音楽を掘り始めた頃で、ベルリン時代のデヴィッド・ボウイや、ピンク・フロイドの『ザ・ウォール』とか買ったりしたものですよ(壁つながり?)
 …消費社会となった現代において、サンタクロースの風習には子供にプレゼントをあげる時期を限定する教育的効果も見込まれると、文化人類学の泰斗レヴィ=ストロースは説いている。
 もう好きな時に何でも買える・欲望に歯止めがない大人となって「クリスマスだから」という理由で買い物をする重みはなくなったけれど、随想集『われらみな食人種』(創元社)は久しぶりに、この日だから手にしたい一冊になった。なにせ上にも引いた、巻頭エッセイが「火あぶりにされたサンタクロース」。いいね、いいね、いや別に「クリスマス粉砕」とか思わないけど。

 1952年のクリスマス・イブ前日にフランス・ディジョンの教会が、異教的なサンタを公的機関まで一緒になって称揚するのはけしからんと、実際にサンタクロースの像を火あぶりにした椿事は、翌日のイブに市役所前でサンタがキリストばりに「復活」する皮肉な顛末となったらしい。『悲しき熱帯』(1955年)に先立つこと3年・まだ何物でもなかったレヴィ=ストロースは、この騒動に古代の習俗から戦後アメリカ文化の物量にあかせた流入まで、盛り込めるだけの知見と四方山話を盛り込んでいる(たとえば「フランスのGDPが戦前の最高水準に追いついたのは、ようやく1949年だった」とか←いや、これは邦訳につけられた註釈ですが)。その論旨と結末は、関心のある人が各自で確認するとして…

 この随想集じたい「盛り込めるだけの知見と四方山話」のオンパレードと言える。冒頭の火あぶりサンタ(略すな)を除けば、ベルリンの壁が崩壊した直後の1989年〜9.11テロの前年である2000年まで、イタリアの日刊紙に寄稿した文章を集めた、いわばシングル集・裏ベスト。「本格的な著作と向き合う際に必要とされる詳細な用語」なしの「理想的な“レヴィ=ストロース入門”」とは訳者の言である。社会学の祖とされるオーギュスト・コントが晩年イタリア崇拝にのめりこんだ話(1994年)などは、もちろん内容も充実してるけど、寄稿先へのサービスかも知れない。そんな感じに肩肘張らない本だとも言えます。
 ひとつのトピックを取り上げたエッセイでも、それこそ古代から現代まで様々な話題が「リンク」のように散りばめられているので(ただしインターネットの記事と違い、実際にリンクは張られていない)読書や人生の経験を重ねたひとは「あ、これ知ってる」「こう来たか」という楽しみがあり、逆に若い人は後々「これ知ってる、レヴィ=ストロースの本で読んだ」と思い当たる楽しみが待っている。そんな感じに、密度の高い一冊だと思います。

 性格上、時事性も高い。その中には読む側を当惑させ、反発すら憶えさせるものもある。1989年の「社会の諸問題―女陰切除と補助生殖」は、その最たるものだろう。エッセイ前半のトピックとなっている(アフリカを中心とした)女子の割礼・女陰切除を、おぞましい人権侵害と考えないことは、しょうじき自分には難しい。だが著者は文化人類学者として、その習俗には(それが行なわれる)社会内部での必然性があると指摘して、別の社会の住人による一方的な断罪に異を唱えるのだ。
 こうした葛藤に関して、フランスは特に悩みぶかい国かも知れない。冒頭にあげたサンタクロースの火刑だって、端から見れば椿事だが、背景にはフランス社会の徹底した政教分離(ライシテ)がある。イスラム教徒の女子が学校でヒジャブを着用することを禁じ、紛糾しているのと同じ原則だ。シャルリー・エブドの襲撃事件だって、同じ葛藤の、やりきれない産物であったろう。

 新大陸発見の衝撃を初めて正しく受け止めた人物としてレヴィ=ストロースは(同じフランスの)モンテーニュを挙げ、彼が直面したジレンマを次のように要約する。「一方の側には、歴史上の全社会を批判対象にして合理的社会というユートピアの夢をあたためる啓蒙哲学がある。そして、もう一方の側には、ある文化が異文化を評価する拠り所となるどんな絶対的基準も受けつけない相対主義がある」
 アフリカ系移民の「野蛮な習俗」を批判するにあたり、アフリカは野蛮で遅れていて、一本の進化の線のうえで西欧のほうが先を行っているという世界観は許されない。そのことを著者は繰り返し主張する。割礼にも、カニバリズムにも、サンタクロースにも各々の文化的必然性があると。
「視点を変えると、農耕は退化の表現でもあった。(中略)
 カロリーが豊富でも主要栄養素の含有量は少ない数種類に作物が限られ、栄養摂取状態は悪化した。
 およそ数千は知られた食用資源となる植物、あるいはかつてそうだった植物のうち、
 農耕の対象となったのはわずか二〇種ほどにすぎない」

と指摘する、1990年のエッセイのタイトルは「社会には一種類の発展しかありえないのだろうか」だ。農耕と畜産は感染症の拡大・定着の原因ともなった。90年代に前景化した狂牛病の問題なども、それにリンクしている。
 もちろん、農耕を選んで人口が爆発した現在の状態で、すぐさま「数千の植物」を採取する社会に戻れはしない。逆に「野蛮」が一本の線上で過去にあって、現代が失なった素晴らしさを有する黄金時代なのだ、という誤解を斥けるため、非農耕社会でも「すべての個人が(中略)同等の恩恵を受けていたわけではない」と留保もする。

 *** *** ***

 エッセイ「社会の諸問題―女陰切除と補助生殖」の後半は、生殖≒親子の定義をめぐる現代科学と社会通念とのコンフリクトがテーマだ。人工授精、卵子提供(精子提供もあるだろう―2011年6月の日記参照)、代理出産。すなわち「父と母」以外の第三者が受精→出産までのプロセスにかかわる「補助生殖」。だが「第三者」とは誰なのか。遺伝子上の親である男女から受精卵の提供を受けた代理母が「産んだのは私だ」と親権を主張する例は、実際、ニュースになっていたはずだ。
 レヴィ=ストロース先生が提示するのは―解決ではないが―そういうのは遺伝子工学がない世界でも実例があったよ、というオルタナティヴだ。具体的には、嫁が夫に輿入れする前に愛人を持つことが公とされ、子連れで嫁ぐ(子は愛人ではなく夫の子とされる)ブルキナファソの事例。富裕層の女性が妻を持ち、その妻に男をめあわせ「吾が子」を作らせるナイジェリアの事例。男が独身で亡くなると、遺産の家畜で親戚の男が妻を買い、生まれた子は(独身で亡くなった)死者の子とされるスーダンの事例。
 (前に日記で書いたとおり―2016年4月の日記参照)SF作家のアーシュラ・K・ル=グウィンが「男女2人ずつ・計4人で初めて成立する異星の婚姻」を生物学的に特殊な設定を用いず、社会の制度だけで組み上げてみせたように。
 文化の線は自分たちの一本きりだと思った西欧人が「こんな複雑な事態は、医学の進歩があって初めて起こった。前例がなくて大変だ」と騒ぐ補助生殖のかたちは「別の文化の線ではあったよ」とレヴィ=ストロースは挙げているのだ。それは解決ではないが、問題を相対化する(と、彼は考える)。「原因に遡ろうと望む限り(略)問題は解決不能なままにとどまる」。だが、別の世界に同じ構造があることで、問題はある意味、問題ではなくなるのだと(「「コルシ・エ・リコルシ」―ヴィーコを追いかけて」2000年)。

 『われらみな食人種』は、さまざまな形で「これ一本きりだ」と思っていた世界観に穴を空ける。それは民博(大阪の国立民族学博物館)などで展示を見たとき「あーダメだー自分はもうダメだー」と痛感させられる、その書物版だ。
 「もうダメだー」は自分が創作(まんが)に手を染めてる特殊な事情による。民博(など)で、同じ地球上ですら人間の生活の形態がこれほど多様で、意外性に富んでいることを目の当たりにすると、自分(たち)が異世界だファンタジーだ、SFだ異星人だといって描いているイメージの「狭さ」を再確認させられるのだ。

 その「狭さ」は、もちろん現在コンテンツとして流通している「ファンタジー」や「SF」の先例に準拠してるから、という側面もある。だが、それより先に、現在の西欧覇権の線から逆算した過去や未来を「異」世界や「異」星人の文化に投影した結果ではないか。ギリシャ風の円柱が立ち並ぶ神殿と、人々が小麦粉のパンを食べワインで乾杯する「異世界」。その異世界で洗練されたエルフたちがそうであるのと同様に、なぜか白人として描かれる(人類より進んだ)異星人たち…

 父シオドア・クローバーが文化人類学者だったル=グウィンは、自らのSF小説に登場する地球人型の人類を、アフリカ由来のような黒人として設定した。食物ひとつ取っても、南アメリカでは塊茎が、南アフリカでは堅果が「メインディッシュ」として利用されていたとレヴィ=ストロースは挙げている。
 服装だって、武器の形態だって、今「異世界」としてデフォルトで描かれているものとは、かけ離れた世界を探求することだって出来たろう。それをしないのは経済や効率かも知れないが、少なくとも「狭い」。そのことを痛感するたび、恥ずかしく、いたたまれない気持ちになるのだ。

 吾々自身が近代的で、迷信から解放されてると自尊している文化や社会制度の根底にも「未開」や「野蛮」な構造がある、と気づかせるのも文化人類学の効用のひとつだろう。『われらみな食人種』という書名からは、そちらをこそ汲むべきだったかも知れないが、今回の日記では略した。世界を一本線だと思いこむ「狭さ」を指摘し、社会の別のありかたに心を開かせる効能ばかりを話題にしました。
 著者も再三、述べているように、別の文化は解決(特効薬)ではない。人工授精による代理母の問題には、どこかの地域の婚姻形態を適用すればいい…みたいには行かない。ただ「問題には少なくともそれぞれ別々の相当な数の解決策があって、そのどれかが自然で自明だとみなされるべきではない」と、十年前(2009年)に世を去った文化人類学の泰斗は諭す。それだけでも変わってくるものは、あるのだと。
 【ここからは、本に基づかない結論
 …あらためて要約すると、多文化のコンフリクトを前に吾々は「すべての社会・文化を批判対象として普遍の正義(未来)をめざす」「あらゆる社会・文化(過去)を等しく尊重する」ふたつの選択肢の間で揺れ動く。慎重なレヴィ=ストロース御大は踏み込んでいないが、この言うたら水平な二項対立には「権力」という垂直方向からの干渉もあるのだと思う。
 つまり権力や多数派(マジョリティ)が、一文化でしかない自身を普遍の正義だと偽装して、他の文化を普遍の名のもとに裁く。あるいは、あらゆる文化は尊重されるべきと主張しながら、自文化だけを擁護し他の文化を圧し潰す。
 さらに言えば「すべての文化は尊重されるべき」と言っても、それぞれの文化・社会には、そのままであったほうが有利な者と、抑圧される者がいる。抑圧や不公平の温存は「文化だから」で片づけていいものだろうか。
 現代には、圧倒的な資本による消費のコントロールという問題まである。「普遍」や「あらゆる」あるいは「文化」「伝統」だと思われているものに、実は権力・力の有無による勾配や不均衡があることを、無視してはいけないと思う。吾々は、自分たちを閉じ込める、うぬぼれた「狭さ」の外に出なければならない。これは(読んだから辿り着けたとは言え)ここまで読んできた本を、裏切る結論だろうか?

レヴィ=ストロース随想集『われらみな食人種(カニバル)』創元社(公式)

「マブリー」に託されたもの〜映画『守護教師』『無双の鉄拳』(2019.12.22)

 腕が直径50cmなのだそうだ。
 人気急上昇中の俳優マ・ドンソク。主演映画『守護教師』『無双の鉄拳』の二本立てを、キネカ大森の名画座興業で観てきました。

 単純化すると「強面マッチョ」。韓国全土でゾンビ・パニックが発生する社会派ホラー『新感染ファイナル・エクスプレス』で怯懦な主人公をどやしつけ、豪腕でゾンビをなぎ倒す助演でブレイク。『神と共に』でも第二部のキーパーソンとなった。これはネタバレのため作名は伏せるが、とある映画では最後に悪事が露見し「てめえら、どけどけ!」と人々を押しのけ逃げる犯人の前に「たまたま行き合った通行人A」でゲスト出演。「どけだと?あぁん?」と、一睨みで犯人の足を止めてしまう。

 一方で彼ほど、出演作を観る前と観た後で、印象の変わる俳優も珍しいかも知れない。
 「ラブリー」をもじって「マブリー」と言うらしい。やはり「強面マッチョ」枠でブレイクしたアーノルド・シュワルツェネッガーも、ステータス確立後「シュワちゃん」と呼ばれる愛され路線に転じたものだが、既にドンソクもその域に居る。
 もちろん怒らせると怖そうだ。が、シュワルツェネッガーのレンガを縦にしたような風貌と違い、マ・ドンソクはアンパンマンやドラえもんのような丸顔。本国で放映された女性向けコスメの広告での、ピンクのエプロン姿など「萌えキャラ」と呼ぶに相応しいほどだ。

 今回の二本立てを組んだキネカ大森さんの、やたら力の入ったコラージュ・ポスターでも「武器は腕っぷし」「殴って解決!」といったキャッチフレーズと「チャーミングな漢」「愛されマッチョ」といった文言が併記されるカオス状態。大きな体にやさしい心このあたりが今、位置づけの中央値なのかも知れない。
 映画自体も、愛する者を奪われた屈強な主人公が怒りの拳で悪を粉砕…そういうのは、まあ(観るけど)満腹気味だなあという、失礼な先入観を良い意味で裏切るものでした。

 鑑賞中の満足度では『無双の鉄拳』に軍配が上がる。公式のキャッチコピーは死にたい奴から、かかってこい。むしろ「だけど妻にはとっても弱いんだってさ」と付け加えたい。
 かつては牛殺しと恐れられた男が愛を知り、今は奥さんが介護関連・夫は魚市場で働く慎ましい暮らし。この愛しい妻が誘拐され、かかってきた脅迫電話は身代金の要求ではなく、逆に「金をやるから女房のことは諦めろ」。わけがわからない。もちろん妻を取り返したいドンソクに、ちょっとスティーブ・ブシェミ入ってる相棒、それに相棒が連れてきた怪しい探偵の言うたら三馬鹿トリオが、なんだか同じくらい迂闊な警察、そして残忍な割にこちらも詰めが甘い犯罪組織と、三つ巴の死闘を繰り広げる。残忍な割に(大事なことなので二度言いました)お笑い率が高い。『神と共に2』を知ってる人は可笑しさ二倍だと思うけど、今度はカニの先物取引に手を出して大変ですドンソクさん
 観た後にじわじわ来るのが『守護教師』。正義感が嵩じてボクシング協会で乱闘を起こし失職したコーチが、どうにかありついた職が地方の女子高の体育教師。キャピキャピ(古語)の女子高生に囲まれたマ・ドンソクという絵面は笑いを誘うけど、こちらの語り口は甘くない。名作『アジョシ』のキム・セロンが物語を牽引するヒロインとして登場。失踪した同級生を探し求める彼女に振り回されるうち、新任のドンソク先生は閉鎖的な町の暗部に踏みこんでいく…
 どちらも「何が起きているのか」の全容を、巧みに伏せて読ませない。事態がおおむね明らかになった後も「勝てるのか?ドンソク」と、また読めない。これで人生や映画観が変わった!級の名作ではないけれど、いずれも娯楽作品として十分に及第点だ。だが、それだけではない。
 両作品に共通する「悪」の造型・属性が興味深く、心を惹きつけた。

 そもそも今どき、映画における「悪」とは何か。近年の韓国映画の悪役といえば、犯罪組織だったり犯罪組織だったり国家だったり悪徳政治家だったり、金持ちだったり犯罪組織だったり連続誘拐殺人犯だったり、連続誘拐殺人犯だったり連続誘拐殺人犯だったり(わりと気が滅入るラインナップですなぁ)「アンダーグラウンド賭け囲碁の顔役」なんて変わり種もあったけど、話がわやくちゃになるので深入りはしない。
 ワールドワイドに話を広げても、犯罪組織だったり国際謀略組織だったり、国家だったり政府だったり、国際謀略組織に乗っ取られた政府だったり、古代文明の亡霊に未来からのターミネーター、怪人・ギャング・宇宙人…
 …『守護教師』『無双の鉄拳』の「悪」の社会的な肩書きはネタバレになるので伏せる。共通していたのはその属性だ。どちらの映画も「女性をモノ扱いし、暴力で支配しようとする男の邪悪さ」を、倒すべきターゲットにしていたのだ。

 *** *** ***

 アメリカの辞書『ウェブスター』が選んだ「今年の新語」が、単数形のtheyだった。heやsheに包含しきれない性的属性をもつ・あるいは性的属性に束縛されない人たちを指す代名詞だ。今回の本題には関係ない「呼び水」なので先に進む。
 同じ選定者によるものか、別の似たような企画かは思い出せない。数年前に英語圏で「今年の言葉」に選ばれたのがfake truthだった。悪い意味で、すごい時代になっちゃったなぁと思ったが、たちまち現代の根底にある現象として定着してしまった。fakeを流す側が、truthのことを「フェイクだ」と言いふらすほどに普及した感すらある。日本の胡散くさい流行語大賞や、ふぬけた「今年の漢字」とは射程距離も深刻度も違った。
 ここからが本題・そして個人的な話。ウェブスターは今年の単語を「they」にしたが、この一年、何かと自分の脳内に浮かんだ概念は「男性の有害性を解毒する必要がある」だった。
 たぶん様々な人が、様々な形で指摘・指弾してきたはずだ。もっと身も蓋もなく「中高年男性の有害性」と言ってもいいかも知れない。
 なんだそれは、男性差別だ!という反論に「そういう反射的な反発も含めてのことです」と再反論して、話をもつれさせる気はない。「あー確かに」「なるほどそういえば」と同意した人だけ、この後も読むと想定して話を進める。
 横柄、粗暴、マウンティング、ホモソーシャル。男なら勝て、相手を打ち負かせという価値観。嘲笑、露悪、開き直り。強要。支配。俺も若い頃はヤンチャしたと言うときの「ヤンチャ」の内容が洒落にならないことと、それを得々と語る「今」の無反省。
 野球の試合、ここ一番の打席で見事ホームランを打った選手が「男になった」と讃えられる。思い込んだら試練の道を征くが「男の」ど根性…今までは男性的な美徳として挙げられがちだった「タフネス」「マッチョネス」「男らしさ」「漢らしさ」といった属性が、カードをひっくり返したようにセクハラ・パワハラとして負の側面を剥き出しにした。20年くらい前に「フラジリティ(繊細さ)」「ヴァルネラビリティ(傷つきやすさ)」といった概念が多く言及され、何か世界を変えそうな気がした、それと正反対の要素が社会を押しつぶそうとしているようにも見える。
 あんな事件や、こんな騒動のたび(中高年)男性の暴力性や支配欲、男らしさの呪縛みたいなものを解毒できないものか、と思うことが増えた。もしかしたら、その慨嘆の一番の崖っぷちには「Make America great again」を訴える、あのアメリカ大統領が居て、メキシコ国境の壁の上で「男らしさ」を振り回しているのかも知れない。

 『守護教師』『無双の鉄拳』ふたつの作品を並べると、悪人たちの外面的な「正体」以上に、悪事の根底にある「女性をモノ扱いする悪しき男らしさ」が際立つ。
 それに怒り、拳を振るうマ・ドンソクに期待される「解毒者」としての役割もだ。
 マ・ドンソクが演じるキャラは、聖人君子ではない。ケチケチと面倒くさそうに振る舞うさまも、いじけてスネるさまも似合う。何より、怒らせると怖い。不機嫌そうに睨まれるだけで怖い。だが、そんな彼が劇中では、己の凶暴さを自覚して「お嬢さんお逃げなさい」と村娘を促す、森の熊のようなジェントルさを見せる。
 顕著なのは『守護教師』だろう。同作のドンソクは、キム・セロンに恋愛感情や下心を抱かない。あくまで生徒として遇し、脅かさない。その安心感。『アジョシ』が最後、小学生キム・セロンに不完全ながらも「まともな子供時代」を贈ってやろうとするように、『守護教師』のマ先生も高校生キム・セロンに「歳相応に戻れ。まだ君は子供じゃないか」と願うような贈り物をする。映画に登場する学校関係者は生徒たちを「女」か「学費滞納者」としか見ていない。着任したばかり、しかもどうやら滞納の取り立て業務にしか期待されてない「なんちゃって教師」の彼だけがマトモな大人なのだ。
 これも話が逸れるのでサッと飛ばすが、こうした「もはや有害になった男らしさに、自身も毒されて苦しむ人物」を二作連続で体現したのが『マン・オブ・スティール』『シェイプ・オブ・ウォーター』のマイケル・シャノンだと思う。後者を観たのが2018年初頭なので、その頃から「有害な男らしさ」は自分の意識の片隅にあったようだ。彼はたぶん非常に表現力のある役者で、マッチョさを剥き出しにすればするほど、なんとも「受け受けしい」(すみません)フラジリティを発散していた。

 ならば当然「有害でない男らしさ」を体現するヒーローも求められる。なんとか2.0とか5.0とか命名された事物は大抵うさんくさいので使いたくないのだが、バージョンアップした「新しい男らしさ」が求められている。それも火急に。
  映画の世界でその需要に応え、あるいは自ら作り出しているのは、たとえば自分の赤ん坊を抱っこ紐にゆわえつけ、ヨレヨレのジャージ姿でパパラッチされたダニエル・クレイグかも知れない。ダンディが身上のボンド俳優がなんて情けない、と揶揄される一方で、これが今の男らしさだよと称賛もされた。映画の中でも、あんな俳優や、こんなヒーローが、そうしたロールモデルと目されてもいるようだ。
 そうした(男らしさの弊害を解毒するような)新しいロールモデルの大本命に、なりうるのではないか。「マブリー」なマ・ドンソクは。それはもちろん、今後の彼がどんな役柄を演じていくか次第なのだけど、今回の二作は、そうなれるだけのポテンシャルを感じさせるものだった。
 おそらく(少なくとも現時点で)作中で彼が見せる暴力は、向かう先が慎重にコントロールされている。それは『新感染』や『神と共に』からも見て取れることだ。「マブリー」に託された期待は、僕が思っていた以上に大きく、そして重いのではないか。

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 【今日の要旨:かつては社会を牽引する原理だった「男らしさ」の負の側面が表になり、様々な弊害を呼ぶようになった今、それを解毒する「新しい男らしさ」のロールモデルとして一番期待されているのは、ひょっとしたらマ・ドンソクかも知れない】
 …『守護教師』でも『無双の鉄拳』でも「そうは言っても、いざとなれば腕っぷしで事態を打開できる力を持っていること」が気になってはいる。殴ろうと思えば殴れるし、まあ実際に最後は殴っちゃう男。
 それ以上に気になるのは「暴力を過ちとして封印した男」という設定だ。元から暴力を手段にするなど考えないジェントルな人間ではなく、かつては怒りにまかせて暴力を振るい、改心や挫折を経て、その暴力を封印した男。
 それは「なんだかだ言って最終的には力でしか解決できない局面もあるので、力を保有しているべきだ」ということなのか。それとも「元からジェントルな男?いるわけないよ。まずは男であることの有害性を自覚しろ。そのうえで解毒なり封印なりに努めるんだ」ということなのか。正直まだ分からない。どちらにも転びうる。
 それでも、とくに『守護教師』のラストは、結果的とはいえ「怒りに任せた暴力」の封印を意識していたと思う。それを抑えきれなかった映画の冒頭から比べると、彼も(救うだけでなく)感化され、成長したキャラクターなのではないか。『無双の鉄拳』でも、本篇が始まる手前で同様の感化があったはずだ。
 『守護教師』のキム・セロンも『無双の鉄拳』の誘拐された奥さんも、自分たちを取り巻く有害な男らしさに、全力で抵抗する女性たちだった。そうしたヒロインや弱き者に感化され、ドンソク演じる主人公も己の力を制御する道へ進み出したのだとしたら、それは悪党をぶっ飛ばす以上の勝利かも知れない。

青春しゃくまんルーブル〜映画『ロング・ウェイ・ノース』(2019.12.15)

 『ロング・ウェイ・ノース 地球のてっぺん』は夏に日本公開されて評判を呼び、各地のミニシアターを転々としながら上映を続けているフランス発のアニメーション映画だ。自分も11月に、ようやく鑑賞にこぎつけました。

何よりまず、美しい。輪郭線を極力排した、少し前の「マルチメディア」作品のような画面。これで楽しめるの?スカスカだなぁと思わない?そんな懸念は観たら吹き飛び、逆に自分が絵本の世界に入ったような臨場感を体験できた。帝政ロシア時代の、サンクト・ペテルブルクの貴族社会。走る汽車から流れ去る、荒涼とした景色。茶色と灰色で出来た、シケてるけど温もりのある港町。大海原と帆船の狭苦しいキャビン。そして、ひたすらに白い氷原。
 目を奪われながら、だが同時に思わずにいられなかった。(似てる…)
 (『よりもい』に、似すぎている…)

 北極点を目指す探検行で消息を絶った祖父。流れるようなクリーム色の髪をもつ孫娘のサーシャは(100万ルーブルの賞金を釣り餌に)荒くれの船員たちを動かし、祖父の名誉を取り戻すべく極地に挑む。
 いや、そっくりなのだ。一昨年テレビ放映され高く評価された『宇宙よりも遠い場所』通称「よりもい」に。こちらの舞台は現代。日本初の民間による南極観測で行方不明になった母を追い、流れるような黒髪の少女・報瀬(しらせ)がバイトで貯めた100万円を握りしめ、同年代の少女や大人たちまで巻き込んで、ひたすら南極を目指す話だった(似てるでしょ?)。
 これがまた面白かった。全13話のうち、南極に着くのはようやく9話か10話くらいなのだが、群馬←→新宿間で右往左往してる第2話の時点でもう、転げるほど可笑しかった。なにせ、こちらの報瀬ちゃんは志の高さや思い込みの激しさとは裏腹に、計画性も実行力もない「ポンコツ」と判明し、仲間になった少女たちからリーダーを解任されてしまうのだ。クーデターを起こした仲間たちは、呆然とする報瀬を前に拳を突き上げる。
南極いくぞーっ」「おーっ!
あ、すごい、と思った。報瀬のダメなところには容赦ないけど、彼女の夢は否定しないんだ。この時点で、すでに南極は彼女「たち」の夢になっている。そのテンポの良さ。
 そして夜の新宿の繁華街・ネオンの中を逃げ回る彼女たちにオーバーラップする劇中歌を思わず二度聴き・三度聴きした。
両手いっぱい ありったけの人に 意味なんかないって言われ続けたとしても
さあ前を向いて 間違いなかったんだって言ってやるんだ

こんな身を切るような、ルサンチマンに満ちたアニメ劇中歌、ありか。いや、あった。「レリゴー」だ。しかし「レリゴー」こと「Let It Go(ありのままで)」のエルサ(アナと雪の女王)には、また後で出てきてもらおう。『よりもい』劇中歌の、見返してやる、という思いは『ロング・ウェイ・ノース』サーシャの、常軌を逸した執念そのままでもあった。

 13話かけてポンコツを克服した(とゆうか、まあ見れる程度に均していった)報瀬ちゃんと違い、サーシャの成長は目覚ましい。
 諦めようとするのは港で船に置いてけぼりにされた一度だけだ。料理屋で最初は仕方なく始めた下働きで、彼女はジャガイモ剥きや薪割りを、というより「何かを身体で習得することというメソッド自体をメタ的に習得する。念願かなって船に乗り込んだとたん、キャビンにあった本を頼りにロープの巻き方を自習し始める姿は、まばゆいの一語に尽きる。
 だがその、まばゆい一途さは、妄執を研ぎ澄ますことでもある。
 祖父の轍を踏むように航海は頓挫する。困難な旅路が続き、ついに船員たちは乏しい食料を前にエゴを剥き出しにし、氷の上に落ちた料理の一切れまで奪い合う。たぶん最も信頼していた、淡い好意すら抱いていたかも知れない少年にまで罵られ、サーシャは泣きながら吹雪の中に飛び込んでいく。
 だが、浅ましい姿を見せ、いがみあう男たちの中でも文句ひとつ言わず、毅然と前を向き続けるサーシャこそが、最も「どうかしている」存在ではなかったか。

 報瀬の場合、その妄執は南極に行くため一人で貯めた100万円(心優しき同伴者・キマリちゃんが思わず噛んで言うところの「しゃ…しゃくまんえん…」)として実体化されている。
 激情、と言ってもいいかも知れない。
 理解ある大人や友人に支えられ、初めて氷原を踏みしめた時の叫びがざまあみろ!な彼女である。
 友情ですら「私の友達を傷つけたな!」という怒りの言葉でしか表現できない彼女である。
 物語の最後に彼女が、お宝の100万円をあっさり南極に置いてゆくのには、さまざまな深い意味があるのだろう。再び戻ってくる約束のためトレビの泉に捧げた(法外な)掛け金でもあろう。だが逆に、あらゆるものを破壊する激情を持ったままでは、祖母の待つ日本に・新しく出来た友達とつかず離れずで送る日常に帰っていけない、ためでもあるはずだ。

 それは人界から隔絶された氷の宮殿を断念した、『アナと雪の女王』のエルサの姿にも重なる。

 自分の認識では(2014年4月の日記参照)「Let It Go(ありのままで)」は、そこで終わってはいけない悲しい歌だ。強い想像力を持つ者は、一度はそれを思い切り解放しなければ先に進めないが、また地上に戻ってくる手立ても見つけなければ生きていけない。そんなことを書いたように思う。
 『アナ雪』のラストで皆に受け容れられ、街の広場の氷の彫刻という「公共アート」程度に力の行使を抑制してしまうエルサに、失望する声もあったのは知っている。気持ちは分かる。うーんと思う。だが、あのまま氷の女王として突っ走ればどうなっていたか。それは北極点を求め続けた、サーシャの祖父の末路が示している。その危険を軽んじたまま、エルサにもっと大暴れしてほしかったと願うのは「公共アート」の結末を「なにせディズニーがこれで良しとしたのだから」と「ありのままで」受け容れ称賛するのと、同じ程度には後のことを考えてない(ように思われる)。
 エルサ、サーシャ、ついでに報瀬。三人が示しているのは、人の持つ想像力・夢や情熱は、一線を越えれば妄執であり、しかも困ったことに妄執と化してこそ大きな力を発揮して、人々を動かし、ときに偉業をも達成してしまうこと、ではないか。
 …一瞬だけ話を飛ばすと、自分の念頭には『大脱走』でリチャード・アッテンボローが演じたビッグXの姿がある。物語の上では、あまりに沢山の仲間に自分と同じ夢を見させた者、あまりに沢山の仲間を自分の夢に巻きこんでしまった者は、自らの破滅でそれを贖わなければならない(ことが多い)。
 乗船後に独習したロープワークで嵐のさなか救命艇を救い、氷壁で船長の足を引きちぎりそうになった綱を素早く手斧で断ち切るサーシャは、たしかに超人だ。最終的に彼女の判断はすべて正しく、周囲が最初から素直に従っていれば、もっとトントン拍子に探検は進んでいたかのように見える。だが、本当にそうだろうか。
 事あるごとに現実の身体を重石にして彼女の足を引っ張り、ヒトとしての醜さを曝け出し続けた船員たちは、むしろ結果として全力で、サーシャを現世につなぎとめていたのではないか。帰る家があるはずだ、その妄執を暴走させてはいけない、祖父のようにはなるなと。

 さんざんネタバレしておいて、今さら伏せるのもどうかとは思うが『ロング・ウェイ・ノース』には、何もかも正しかったサーシャが一度だけ、偶然というか不可解な・御都合主義ともいえる奇跡に導かれ、欠けていた最後のピースを埋める場面がある。観ているほうも(これは何?幻覚?)と訝しむ場面だ。正直あんまり上手くない。ちょっとズルい。しかしアレも、そうした物語上の「ズル」なしに全て理詰めでサーシャが目的を達してはいけないと、逆にわざと残された、安全装置としての瑕瑾ではなかったか。
 もう一度まとめると、大きな夢や想像力は、破壊的な妄執でもある。それは人を救いもするし、危険に陥れもする。
 『よりもい』の報瀬が怒りと復讐心を爆発させるとき、そこには確かにカタルシスがある。世の中には、人生には、許さなくてもいいことがあるのだと教えてくれる。だが同じくらい、許すことも尊いと、報瀬に寄り添うキマリちゃんは背中で語る。それはギリギリ土壇場で、サーシェンカを救う側に回る船員たちに託された思いでもあるだろう。
 物語は、ひとつの正解を出すものではないのかも知れない。そして物語は、それ単体で観るものではないのかも知れない。自分の中ではサーシャと報瀬、そしてエルサは、同じテーマを三つの異なる視点から見た、それぞれの幻像だった。あるいは、雪と氷の三姉妹。

 【追記】
 的なことを考えた後で、観ました『アナと雪の女王2』。んー、まあ、そうなるかぁという着地点。話も世界観も「エルサの宙づり状態を解消する」という目的から逆算されたように見えてしまったのは、作品の揚力不足か、自分の先入観のせいか。
 最後に除幕される像で、『ロミオとジュリエット』で和解したモンタギューとカピュレットが「二人の像を作ろう」と言い交わすエンディングを連想したのは、少し強引かも知れない。でも、そちら世代のエピソードに思い切って重点を置くことで、今度は(これも海外の傑作アニメーションだった)『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』あたりと響き合うストーリーにも出来たのではないか。具体的には
一応たたみます。読むひとは自己責任でどうぞ。(クリックで開閉します)。
そんな風にも、出来た気がする。ちょっと残念。
 (追記の追記:かように自分の評価は辛めなのだが『アナ雪2』韓国では一千万人を動員する大ヒットだという。「不和で分断され、片方は霧に閉ざされてしまった二国を、思いやりに溢れた子供世代が和解させ解放する」というテーマに対して、受け止める側の切実さが違う…というのは雑すぎる見かたかも知れない。でも物語の意味は受け手がつくる、と改めて考えさせられる)

センセイの鞄(違)〜張■瑜『班雅明先生的神祕行李箱』(2019.12.08)

※■は草かんむりに倍。

 中国語は、まあ出来ないの部類に入る。学生時代に短期集中講義で四声(発音)などの基礎をやり、最終日には皆で水餃子を作った。どちらかというと「手作りの水餃子は美味い」ほうが身になって残っている。近年になって何度か行った台湾(台北)でも「にーはお」「謝謝」と「請給我一個(ひとつください)」みっつで乗り切った(まあ筆談や、英語が使えるので)。ひどい奴なのだ。
 …絵本なら読めるのではないか、字数も少ないし。という気持ちは、ちょっとあったと思う(ただしそれは、小説などの単行本も何冊か買ってしまってることを説明できない気もする)。2017年に台北を訪れたさい、書店街で『班雅明先生的神祕行李箱』なる絵本のポスターを目にした。山高帽をかぶって「神祕行李箱(ミステリアスなスーツケース)」を抱えた班雅明なる先生は、最初ハリー・ポッターや「かいけつゾロリ」の仲間なのかと思った。

 一度は宿に戻ったのだったか、Wi-Fi接続できる場所で書名を検索したあたりで気がついた。班雅明はBan yaming(ばんやーみん)。実在の哲学者ヴァルター・ベンヤミン(1892-1940)を主人公にした絵本だったのだ。
 ふたたび書店に取って返して、買い求め、しかし結局は積んだままになり二年。そのあいだに名著の文庫化と評判の高かった『中国語はじめの一歩』などを読み、まあ身についたわけでもないのですが「頑張ろう、頑張れば出来る」という機運が徐々に高まり
 
 今年の秋に岩波新書で、今度はベンヤミンのほうの入門書と思しき柿木伸之ヴァルター・ベンヤミン 闇を歩く批評』が出たのに合わせ、1日に見開き2ページずつ、ウェブ翻訳の助けを借りながら、班雅明先生の旅路に取り組みはじめた…


 「そう遠くない昔、とある大都市にベンヤミン先生という、differentな人が住んでいました。
  頭脳のうちに沢山の素晴らしいアイディアを宿した哲学者でした」

 絵本の結語までベンヤミン先生の形容として使われる、このdifferentは日本語に訳しがたい(該当する中国語も、ちょっと日本の漢字に置き換えられない)。異なる?並外れた?世に合わない?
 
 だいぶ前…いや「そう遠くない昔」か…スティーブ・ジョブスが居た頃のAppleがキャンペーンで打ち出していた「Think different」がニュアンスを把握する助けになった。アインシュタインやガンジー、イサドラ・ダンカンなどの「differentな考え」で世界を変えた人々をフィーチャーした広告だった。だがまさに、このdifferentな人々を逮捕せんとする政府によって、班雅明先生は逃亡を余儀なくされる。
 すでに道路は封鎖され、街は監視下にあった。逃げる方法は山越えだけだ。

 他の逃亡者たちが夜明け前に集まって気を揉む中、ギリギリ遅れてやってきた班雅明先生は、運ぶだけで汗だくになる重たい行李箱(スーツケース)を携えていた。
「對我来説、這個箱子是世界上(私に言わせれば、このスーツケースは世界で
 最最重要的東西、比我自己的生命還重要」最も重要なもので、私の命よりなお重要なのです)
 岩をよじ登り、丸石に足を取られ、黒苺灌木叢和橄欖樹林(ブラックベリーの草むらとオリーブの林←こういうの読むと「中国語って楽しそう」と思うでしょ?)を抜け、後は国境管理所ひとつ越えるだけとなる。無事に通過して喜びあう人々。しかし、班雅明先生ただひとりが拒絶され、本国への送還を告知される。
「人々が最後にベンヤミン先生を見たのは、山にある小さな旅館でのことでした」
 え、うそ、班雅明先生…!

 もちろん「ベンヤミンの絵本か、読もう」と思うくらいだから、彼に何が起きたかは知っている。ユダヤ人の彼は亡命に失敗し、山中で自ら命を断つのだ。1945年までにナチスが命を奪った人々の列に、彼も連なる一人だった。しかし迂闊なことに、この期に及んでまだ、「私の行李箱の中身は…うふふ、ヒ・ミ・ツ」とばかりにウィンクする表紙に釣られて、それはまだ先のこと、この絵本の班雅明先生は無事に逃げ延び、数年の最後の日々があると思っていたのだ。
 だが並行して読み進めていた岩波新書のほうで、絵本に登場する「亡命する人々を助ける、親切な費特可太太(フェトカ夫人)」が、彼の途絶した山越えの同行者リーザ・フィトコだったと確認できてしまった。
 もう駄目だ…班雅明先生…
 「出口のない状況に置かれ、けりをつけるほかなくなってしまった。
  私が生を終えようとしているのは、誰ひとり私を知る者がいない、ピレネー山脈の小さな村だ」

  (柿木伸之『ヴァルター・ベンヤミン』より、アドルノに宛てた最後の手紙)
 「このあと、彼は消えてしまいました。
  彼が何より大切だと言っていたスーツケースも、一緒に消えてしまったのです」

  (『班雅明先生的神祕行李箱』)
 岩波新書の評伝は、スーツケースの中身は、彼の原稿だった(ろう)と述べている。だが絵本の後半は、それは何だと推測する人々を、戯画化して描く。私は写真家なのだが、彼の大事な行李箱の中身も、写真に関する論文だよ。いやいや、私の思想へのアンサーとなる論文だ。我が国を脅かす、折りたたみ式ミニ戦車だ!あー、なんて馬鹿げてる!ピレネーの酔客たちは言う。一番だいじな物なんて、逃げた先で恋しくなるだろう、郷里の美味しい食べ物に決まってるよ!特産のソーセージとか、お祖母ちゃんが作ったジャムとか!

 中身が何であるにせよ、それはきっとdifferentな物だったに違いありません、と絵本は結ばれる。巻末の「保護者の皆様へ」みたいな解説ページでは、ヴァルター・ベンヤミンと同じだけの分量が、亡命ルートを組織して約8万人を救ったというリーザ・フィトコ(1909-2005)に割かれている。そしてまた、本文のペースをつかむためには…と後回しにした著者の巻頭言は「家から追われた人々に捧げる」という献辞に始まっていた。
 元はドイツ語で出版され、逆輸入の形で中国語に戻された絵本らしい。改めて思うのは、国際社会では現在、国とすら認められていない、台湾という「家」のシビアな状況だが、それはひとまず措く。

 …行李箱の中身を「ソーセージとかジャムだよ!ハイおしまい!」と決めつける酔客たちの結論は、ひどいように見えて、実はある意味で、班雅明先生への心づくしの手向けとも言えないか。そんなことを思ったのは、たしか柴田元幸さんが『生半可な學者』の中で紹介していた、スチュワート・ダイベックの小説のためだ。短篇集『シカゴ育ち』の、ロシアから亡命してきた老教授が、研究室の壁に「自分が育った街の、美味いパン屋を記した地図」を貼り、二度と帰れない故郷を思い出す「よすが」にしていたという話だ。
 ベルリンで過ごした自らの幼年時代を回顧し、小さき事物それぞれの由来を慈しんだ(というイメージのある)ベンヤミン先生が、最期を共にしたのが郷里のソーセージや「お祖母ちゃんのジャム」だった…自らの名が、次の世紀まで語り伝えられる第二の生を得ると知らず、それと真逆の絶望のなかで死んでいった彼に、そんな慰めも、あっていいのではないか。
 

 【追記】
 …ここで終わってもいいのだが、岩波新書の『ヴァルター・ベンヤミン 闇を歩く批評』も良かったので、駆け足で紹介する。
 アウラやパサージュ、複製芸術、神話的暴力と神的暴力、そしてパウル・クレーの天使など、際立った(differentな)概念をいくつも提示しているベンヤミンだけれど、その文章自体は、けっこう晦渋でとっつきにくい…というのが、若い頃に著作に挑んでの印象だった。同書はそれを、理解しやすく解きほぐしていると思う。ハンナ・アーレントやアドルノ、ブレヒトなどとの交流が明らかになったことで、積んでいる本の今後の消化計画も決まっていったのだが…

 新書『ベンヤミン』によれば、ベンヤミンは人間の言語活動の中でも、各々の事物(被造物)に最初に名前に与える瞬間を、(神が創造によって存在を肯定した)事物を、人が改めて肯定すること・「事物の言語」と呼んで尊重した。その対極にあるのが
 ベンヤミンによると、「人々を特定の行為へ動かす」ための手段としてのみ言葉が用いられるとき、その行為は、計算された効果でしかない。
 言語が「たんなる手段」と化すところには、みずから何かを始めるという意味での行為―アーレントが語った世界に「始まり」をもたらす行為―はもはや存在しない。
 そのとき、空虚な言葉が自動的に連なって、「蔓延(はびこ)って」いく。
(中略)
 常套句と化してさらに増殖するのだ(柿木『ヴァルター・ベンヤミン』)
と糾弾されるものだ。これをベンヤミンは否定的な意味で「神話」と呼び、神話的な暴力を批判した。実際の歴史から切り離された、常套句の組み合わせから成る架空の国粋「神話」で人々を「動かす」ファシズムは、その意味でも彼の敵であった。

 ドゥルーズ=ガタリや、アルトーの翻訳で馴染みのある宇野邦一氏の『アメリカ、ヘテロトピア』は、ハンナ・アーレントの思想を「はじまり」の政治学と呼ぶ。アーレントが讃えるアメリカの(ふつうは独立と言われる)「革命」は
 ひとつの政体、憲法、公共性、法的空間を構成する「はじまり」の過程は、
 別の制度や法や権力によって決定することができない。
 決定されるとすれば、それは「はじまり」ではない。
 「はじまり」における構成の力は、はじまりそれ自体から生成されるほかない。

として理想化される。アーレントを評価したアントニオ・ネグリ言うところの「構成的権力」、既存の権威や権力を根拠とせず、みずから生成し構成される権力。それは、アーレントの「ベンジおじさん」だったベンヤミンが理想化した、被造物に名前が与えられる瞬間・事物の言語と、通い合うものではなかったか。
 しかし…

 ** ここからは自分の中で未消化 **
 少し横道に逸れたつもりで読んだ別の岩波新書・木田元ハイデガーの思想』(1993年)。これも分かりやすい本だったが、読んで著しく困惑させられた。ハイデガーを実存主義に位置づけてきた大著『存在と時間』が、実は後半の本論が執筆されなかった序論に過ぎなかったことを理路づける同書もまた、彼の思想を
「存在を生成として捉え、生きた根源的自然の復権を企てる哲学」
と位置づけているからだ。
 細かい説明は省くが、プラトンの「イデア」のような「事物(存在)に先立つ本質」の希求を西欧哲学が陥ってきた罠と捉え、「存在が生成する瞬間」の把握を目指す…それ自体は珍しいことでは、ないかも知れない。
 木田も述べるように、古事記も最初の神々を「おのずから成る」存在としてきた。ドゥルーズ=ガタリが、現在の病を過去のトラウマに帰する精神分析を批判したのだって、同じ主題の変奏と言えよう。聖書の「ヤハウェ」という神の名ですら「ありつつあるもの」=常に生成しつつある存在と捉える学説に接したのは(中国語の短期集中より前の話)良い思い出だ。
 以前、自作の個人誌でも引用した「人は二つの点の間に線をみてしまうよう呪われている」というシモーヌ・ヴェイユの言葉も、ベンヤミンが「神話」として批判したのと同じものを捉えているような気さえする。

自分はむしろ、星の間に線を引いて星座を作るのが物語(創作)と思ってきたので、それが呪いだという指弾は耳が痛い。と同時に、ひとつひとつの星が生まれる瞬間を見据える、という発想には、思考(と創作)の幅を広げてくれる可能性があると思う。
 しかし、互いに交流があったとも考えられない二人だが、ベンヤミンの三年後、ヴェイユもまたナチスとの闘争に疲弊して落命したことを思うと…
 …この一群に(あまりよく知らんものの)ハイデガーを加えるのはなあ!と思わずにはいられない。

 若き日のアーレントはハイデガーの弟子であり、のちに訣別したが恋仲でもあったという。アーレントの「はじまり」の政治学。「それぞれの言葉がそれ自身に相応しいかたちで何かを語り出す息遣い」を追求したベンヤミン。形而上学を批判して生成の哲学を企てたハイデガー。アーレントの思想形成に、死別あるいは生別した二人の先達は影響しているのか。しているとしたら、それぞれの影響の度合いは。
 似通った点を抽出し、それぞれにフィードバックすることで認識が深まる。それは尊いことだ。しかし「どれもこれも結局は同じことを言ってるんだよねー」で括ってしまい、物事が有耶無耶になる、危険な領域に足を踏み入れかけている気もする。むしろ「同じような発想が、なぜかくも違う道に分かれたか」その弁別こそが懸案なのかも知れない。なにしろ(あまりよく知らんものの)ナチスへの協力を終生批判されつづけたハイデガーである。「似たような考え」とまとめられてしまうのは、自らの哲学を賭けてファシズムを批判し、死を選ばざるを得なかった「ベンジおじさん」にとって、あんまりな話ではないか。
   
未読のアーレント『暗い時代の人々』の一章はベンヤミンに割かれ、そこでハイデガーの名前がチラと出てくるのを書店でのチラ見で確認したのだが、キチンと読めば三者の関係が、少しは見えてくるのだろうか。

死と和解せよ、生と和解せよ〜S.ソロモン他『なぜ保守化し、感情的な選択をしてしまうのか』(2019.12.01)

 ***答えが正しいかはともかく、その答えが問いを明るみに出すこと自体が有益なこともある***

 松本の古書店めぐりで入手した本の一冊が、南和子暮らしの老いじたく』(ちくま文庫)だった。実家の両親はまだまだ健在だが、家の中での転倒など、いつ何が起こるか分からない。かく言う僕自身だって他人事ではなかろう。著者は転倒しての骨折がもとで、一気に身体が弱り、生活や外出の困難を痛感させられたという。
 親本の出版は2004年。杖や車椅子などの選びかた・家の中のバリアフリー化から介護制度の利用法・エンディングノートまで、この分野の古典といった感がある。言いかえると、この15年で過去のものになった事柄も多い。何より、想定されているのが老いに対峙するだけの十分な貯えのある層、なことに隔世の感がある。「坂道を転げ落ちるように老いはやってくる」と説いた同書から現在までに、それこそ転げ落ちるような貧困の拡大があったのだ。先日のニュースでは、70代のアルバイトの男性が、建設だか何だかの現場で転落して亡くなったと報じていた。
 それでも書物から学ぶことは多い。(老いたら)寝ているときでも常夜灯などで床まわりは明るくしなさい、と著者は説く。深夜に目が醒め、お手洗いに立つときなど、足元が覚束なくて危険だと。ふーん、そんなもんかぁと思いながら帰宅した晩、明かりを灯さずに踏み入った自室で、床に転がっていたプラスチックのケースを踏み抜きコケそうになった。ケースは壊れた。そんなもの床に置いてるのが間違ってるわけだが、いやいや、本から学ぶことは多い。(まずその「本」とやらを床に積むのやめようなという話でもあるが)

 世相が暗いせいだろうか、老いを通り越して「死」について考えることが増えた。死にたいと願うわけではない。逆に、死にたくはないのだが、いずれ死ぬのだなあと、しみじみ悲しくなってしまうのだ。思えば十代の頃も、夜中に眠れず悲鳴をあげるほど、いつか自分が消滅してしまうことが怖かった。今はそんなギラギラ(?)した思いではないが、どうそれを、かなうものなら心安らかに受容できるかは、残された人生で最大の難題かも知れない。
 こんな風にクヨクヨしてるのは自分だけかと思いきや、人類の歴史をドライブし、文化も戦乱も生んできたのは、まさに死の恐怖なのだと名指しする本に出会った。

 私たち人間は自分がいつまでも弱くて死の運命を避けられないと認識し、そのせいで身のすくむような恐怖を感じる。文化的世界観と自尊心は、この恐怖を管理するのに役立つ。(中略)
 しかし、異なる信念をもつ人々に遭遇すると、自分たちの文化的価値観と自尊心への信頼を保つのが難しくなる。そのあとほぼ必然的に、悪意のあるいざこざが
 シェルドン・ソロモン、ジェフ・グリーンバーグ、トム・ピジンスキー共著『なぜ保守化し、感情的な選択をしてしまうのか 人間の心の芯に巣くう虫』(インターシフト/合同出版・邦訳2017年)。長いなあ!しかも偏った邦題と言える。感情的なのが保守だけとは限らない。これに関しては、政治的な意味合いを付与しないほうが好かったのではないか。帯に書かれた(今注目だという)「恐怖管理理論」を前面に出すほうが、内容に即していたようにも思われる。
 添えられた副題「人間の心の芯に巣くう虫」のほうが、ほぼ原題「THE WORM AT THE CORE」に沿っている。むろん、この「虫 WORM」が、死の恐怖である。著者たちの論旨は明快だ。人は死を恐れる。その恐怖を和らげ、忘れるためにあらゆることをする。自分の子孫を残したいと望む。不朽の名声を象徴的な不死と看做す。帰属集団との一体化に、精神の安寧を求める。そして気晴らしによって、やがて来る死という現実から目を逸らそうとする。
 本書の特色は、この人類普遍ともいえる問いと答えを徹底していることだろう。著者たちによれば、人類が文化や文明を築いたのも、それをぶち壊すような虐殺や大量破壊に走るのも、死を恐れるがゆえだ。それらを証明するため、被験者たちに死を想起させる映像や文章を見せ(一方で見せない組と比較して)消費行動について、裁判の判決について、など、などの質問をして有意な影響を導き出す。

 だが、どこまで真に受けて良い話なのだろう。
 ただでさえ、人と人が言葉をたたかわす際「死」というカードは強い。「そんなこと言って、もし人が死んだらどうするんですか」といった無理やりな恫喝を何度も目にした(直に聞いたこともある)。馬鹿げてると思うような理屈でも、逆にだからなのか「人が死ぬ」と掛け金を釣り上げることで相手を圧倒しようとする、それくらいに「死」は強力な呪いだ…むしろ用いる側にとって。(聞かされる側はドン引きすることがある。思ったほど効果を上げられず、用いる側は余計かたくなになる)
 本書で説かれる「死の恐怖」の効果は、ワンクッション置かれることが多い。たとえば飛行機が乱気流に翻弄されたとき「この飛行機にはジョージ・クルーニーも乗ってるんだって」と聞くと、そんな有名人が一緒なら落ちないだろうと安心する例が挙げられる。また、二つ並んだ同じような絵画でもジョニー・デップが描いたと言われたほうに人は価値を見出すという。ここにあるのは名声を持つセレブリティに感情移入し一体化する現象であって、その原因が死を恐れるからだ、と断言するのは少し飛躍がないか。
 強い指導者や集団に傾倒する理由は、死への恐怖でなく、孤独への恐怖や決定する責任の回避でも説明できるはずだ。皮肉なことに、生きることはしばしば、死ぬことに劣らず面倒で悲しく、そして恐ろしい。

 それでも本書が身につまされるのは、○○は死の恐怖を回避するためではないか、という仮の答え(著者たちにとっては正解だが)を設定することで、人の愚かな○○の大半を総ざらいできるからだ。ナルシシズム、狂信、ナショナリズム、自発的隷従、レイシズム…答え(本書の場合は死への恐怖)の是非はさておき、それによって明るみに出る問い(なんでそんなことをするのか、それは愚行ではないのか)が有益なことはある。これっておかしくない?と指摘されるまで、盲信の内側にいる人はおかしいとすら気づけない時が多いのだ。
 個人的に説得力あるなーと思ったのは、テネシー・ウィリアムズの戯曲『やけたトタン屋根の上の猫』から引用された警句だった。
「人間はいつか死ぬ動物で、お金が手に入れば買って買って買いまくり、買えるものをなんでも買うのは、買ったものに永遠の命がまぎれているというばかげた望みが心の奥にあるからだと思う」
 独裁者への心酔や、大量虐殺に比べたら、ささやかな罪かも知れないが、積ん読という悪徳は、これかも知れないなと思ったのだ。すぐに読むあてもない本を買っては積み上げる時、人はそれを読む時間が自分にないかも知れないことを想定しない(か、少なくとも見てみぬフリをする)。それは、いつ来るか分からない「読む時」を負債として所有することで、死を先延ばししようとする(自分は死なない、だってまだこんなに未読の本を積んでいる)むしろ積極的な逃走の営みではないのか。積ん読を後ろめたい悪徳ではなく、むしろ自慢のようにひけらかす行為は、そんな心理の所産なのでは…とは、意地が悪すぎるだろうか。
 
 (買って、読んで、読み返さない本を蔵書として持ち続けることはどうなのか)
 (大体お前さんが人生の大半を削ってやってる創作とか、こうした文章こそって話でもある)

 少し前に読んだ山内志朗過去と和解するための哲学』(大和書房)という一冊を思い出した。読みながら、いやむしろ自分は未来と和解したいのだがと思ったことを。未来、つまり身も蓋もなく言えば避けられない死・および死に至る惨めな道行きと和解したいのだと。
 死と和解するとは、それに至る生と和解することと、しまいには区別がつかなくなるのかも知れない。死を恐れずに済むようにと願う前に、生きることを恐れない・恐れずに生きることこそ肝要なのだとしたら…ああ、それは困ったことに、死と和解するのと同じくらい難しい。難しいことじゃありませんか、ねぇ旦那!あっしら凡俗って奴には、逃避せず日々の暮らしと向き合うってぇことが、おっ死ぬのと同んなじくらい難しいんでさぁ!(急にロシア文学の卑屈な男みたいな口調になって終わる。部屋は片づかない…)
 

マツモト買い付け紀行(2019.11.24)

 松本には前から行きたいと思っていたのだ。
 十年ほど前、メンタルの不調で休養を取ることになった冬。18切符を使い、長旅に出た。金沢に向かう途上、長野を最初の宿泊地にした。善光寺に詣でて(隣接の東山魁夷の美術館が素晴らしかった)、境内にある洞のような穴に入った。暗闇を手探りで進み、岩肌に掛けられた鍵に触れれば幸福とか幸運とかいうアトラクションだったが、まだ精神が不安定だった。視界を失なったとたん動転してしまい、鍵にはさわれず口惜しい思いをした記憶がある。
 しかし本題は松本だ。昨年の初夏、上諏訪で開かれていた、街のあちこちの酒蔵を使った古本市というイベントに足を運んだ。そのときのことは漫画の題材にしたのだが(ペーパー漫画の総集編2018所収「彼女と彼女と酒と古本と彼女と」)、今年の本題は松本。

 先の豪雨で多くの地域が被害を受けた。松本も例外ではなく「友人のやってるビジネスホテルが宿泊客の大量キャンセルで泣いている」という嘆きの声がツイッターで拡散された。いわく、観光シーズンだが繁忙期料金にすら出来ない。紅葉の松本城を見に来てほしい。
 ツイートは数千か1万くらいリツイート(拡散)されていただろうか。だが、この善意の拡散者たちは大半が「誰か行ってあげて」と促しているだけで、本当に松本に泊まりに行く、素直というか、馬鹿はおるまいと思われた。いや、思い当たる馬鹿が一人いた

 結論から言うと、松本、素晴らしいところでした。
 街はおおむね平坦で歩きやすい。駅前や繁華街は賑わっているし、和レトロ・洋レトロの入り混じった街並みは見飽きない。

 駅から城までの間を東西に一本、川が通っている。街のあちこちには用水路、そして和風に昔を模した水飲み場が設けられており、至るところを水が巡っている快い印象を受けた。かつては城下町で木造建築が多く、防火が喫緊の課題だったのかも知れない。

 今のところ、街の推しは松本城・同市出身のアーティスト草間彌生・マスコットキャラクターのアルプちゃんらしい。プレミアム商品券を周知し、特殊詐欺への警戒をうながすアルプちゃん、かわいい。

 もちろん松本城への愛着は一番で、繁華街のなかに松本城の巨大なパネルを掲げた建物があったり、松本城を模した古本屋があったり。

 街なかに設置された灯籠ふうの電燈には、松本の主の入れ替わりを家紋で示した図が入っているなど。
 しょうもない見どころ(いや、それを見どころと思ってしまう自分がしょうもないのですが)として、ドラッグストアのマツモトキヨシ松本にあってフフッとなったりしたのですが ※マツキヨは千葉県松戸市が発祥の地だったはず。

それ以上に目を引いたのが駅前の「アメリカンドラッグ」。長野〜新潟にチェーン展開してるらしく、まあ中身はふつうのドラッグストアなのですが、この手のお店にありがちな童謡風のメロディと歌声で店舗名を連呼するジングル…ではなくおー♪おおー♪アメーリカァーン・ドラァァッグ♪ウエストコースト風?のサウンドで凛々しい男声ヴォーカルが響き渡る、味わいぶかい店内でした。
 (画像右の、含蓄が深いようで意味不明な布団屋の看板は別のところで撮影)
 しかし、ユルめの面白写真を撮りに松本まで出向いたわけではない
 風情のある街並みも良かったが、松本の特色として古本屋めぐりがけっこう捗ることを挙げておきたい。

 足を運べたのは5軒くらいだったけれど、さらに数店が徒歩範囲内にあるのでオススメです。面白いもので、最初に入った古本屋で(とりあえず何か一冊は…)とP.K.ディックの未読の文庫を買ったところ、次に入った古本屋に雑誌『銀星倶楽部』のP.K.ディック特集が。自分には思い入れの深いティプトリー・Jrも寄稿しており、これは御縁だなあと。松本の古本屋は、見えない糸でつながっている。
 そして三軒目に入ったお店で横浜から来たと話すとじゃあ次は○○と○○に行きなさい松本の古本屋は、見える協力態勢でもつながっている(笑)。
 御教示いただいた二つのうち、一軒はセレクトされた新刊が中心(?古本はなかったかも?)の独立系書店だったのだけど、先に教わってないと絶対に本屋だとは分からない。とゆうか一度は通り過ぎた

 文芸や詩歌、そして本にまつわる本が充実した小さな店内(靴を脱いで、絨毯敷にあがる)で目を引いたのが正木香子文字と楽園 精興社書体であじわう現代文学』(本の雑誌社)。今まで考えたこともなかったが、三島由紀夫の『金閣寺』と堀田善衛の『インドで考えた』・村上春樹『ノルウェイの森』など多くの書籍が同じ書体で刷られているらしい。少し中身を見て、川上弘美センセイの鞄』が単行本と最初の文庫化と二度目の文庫化でそれぞれ書体が違う、そのことによって小説の印象まで変わることを検証するくだりで、たまらずレジへ。こんなアプローチの批評があっただろうか?

 駅ビルに入ってる書店は改造社。コンパクトながら地元の旗艦店らしい矜持にあふれた品揃えで、具体的には人文や社会問題コーナーの充実と、郷土関連。山岳にまつわる本の特集がクマれて…もとい、組まれていた(三毛別羆事件の本なども複数あったのでつい)のも信州の土地柄かも。
 泊りがけの夕食は駅前で蕎麦。ツイッターで悲鳴を上げていた場所かは知る由もないけど市内のビジネスホテルに宿泊して、翌朝の朝食バイキングも満喫。東京方面に戻る前の昼食は、たぶん「松本 牛めし」で検索すると出てくる小さな料理屋で。とろとろに煮込まれた分厚い牛すじが最高でした。
 神社の前に昔ながらのお店が軒を連ねる「縄手通り商店街」も風情があって好いところでした。これから18きっぷのシーズンに、松本、いかがでしょう。自分は今回、過去のことを思い出して、善光寺の洞に再挑戦したくなったけど…

追記。
草間彌生氏の出身地ということで、バスも赤い水玉模様にラッピングされたりしていた松本から帰ってきて半月。ビッグイシューの最新号の表紙とカバーストーリーが草間氏で、ありゃまあ、これも御縁かと。幼少期からの幻覚や長じての差別(女性差別に、渡米してからの東洋人差別)に苦しみながら、もがくように制作を続けてきたことが分かる良記事でした。

他の記事も読み応え十分(地図の読み方など。新潟や金沢など、昔からの繁華街と駅が離れているのは・蒸気機関車だった頃は煤煙を避ける必要があった・切り返しなどに場所が要るというのも言われなければ思い当たらないことで興味ぶかかったです)。一冊350円の売上のうち180円が、販売するホームレスの人の収入になります。

世界の関節が外れるとき〜劉慈欣『三体』×ミチコ・カクタニ『真実の終わり』(2019.09.08)

塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味がつけられよう
『マタイによる福音書』5章13節(新共同訳)

 すごい人気じゃないか。劉慈欣の『三体』(早川書房)。
 近所のK書店では、話題の新刊を置く平積み棚すら超えて、東野圭吾の新刊と一緒に店の入口に積まれている。別のK書店(ありゃ、こっちもKだ)では1メートルの立て看板に当店の店長絶賛!の手書き。
 個人的には熱望していた。2015年に「グレッグ・イーガンや伊藤計劃も真っ青・中国SFの会心作(日本でも翻訳が進行中)」と読んで以来、ずぅーっと待ってた。でも、こんな評判になるとは。
 もちろん、出てすぐ読んだ。ワクワクもんであった。でも、世間的に、これ、面白いの?
 読書家で知られるバラク・オバマ元大統領も、Facebookのマーク・ザッカーバーグも絶賛している。たぶんトランプは読んでない。でも本当に面白がられてるの?今やアメリカと肩を並べる二大国となりつつある中国発のベストセラー、だから飛びつかなきゃダメだ、そんな感じで飛びついてない?評をいくつか拾ってみたけど「中国。ベストセラー。ヒューゴー賞」といった現象だけ紹介して「その内容についてはネタバレになるので明かせないが、評者は驚嘆した」いやそれ、心から驚嘆してます?

 別にSFの良い読者ではなかった。過去の名作も取りこぼしの方が多いし、最近の動向にも全然ついていけてない。
 その乏しい観測範囲内で言うと『三体』、実に好ましい。宇宙スケールの壮大な物語と地上のサスペンスが噛み合ったり、主人公がいきなり中国古代の英傑と冒険する羽目になったり、そのケレン味とダイナミックさが、十代のころ夢中で読んだ山田正紀の作品を彷彿とさせる。ロシア革命当時のシベリア鉄道で怪僧ラスプーチンと対決して最後はプテラノドンが出てきたり、終戦まもない日本で弥勒菩薩の降臨をめぐってエスパーたちが『スキャナーズ』ばりの死闘を繰り広げる、あの世界。
 劉慈欣『三体』、山田正紀が好きな人には保証つきです。(完)
 いや、(完)じゃない。
 逆に言うと『三体』、凄い凄いと皆が言うけど、山田正紀ほど凄いか。現代(1980年代)の日本で鬱々とした思いを抱えて夜の街をさまよう主人公が、ふと見上げたビルの電光掲示板に「西暦2×××年、もう延命の手立てがなくなったので、人類は自分たちが到達できた最も遠い場所=木星の衛星軌道上に人類滅亡の記念碑を建造することにしました」と電光ニュースが流れるのを見て「そうだ!俺は2×××年の人間だけど、人類滅亡をめぐる争いに敗れて、この80年代に流刑されたんだ!」と思い出す『最後の敵』(日本SF大賞受賞作)ほど凄いのか。いや、そもそも凄いって、そういう飛び道具的な凄さだけでいいのか。
 
 修正。劉慈欣『三体』、山田正紀が好きな人には保証つきだけど、もう少し地に足がついた感じです
 でもやっぱり似てる。「馬鹿なんじゃないか?」と思うほどの奇想と、SF的なアイディアを現実世界に無理やり適合させる強引さ、そしてラストの「なんか分からんけど、やったるぜ!」という破れかぶれのカタルシス。
 僕がたまたま山田正紀に夢中だった十代を過ごしただけで、同じような(壮大バカ大真面目)SFは、過去いろいろあったのかも知れない。
 では逆に『三体』が「あの○○が帰ってきましたよ」以外に、独自のものとして提示しているものは何か。ヴァーチャル・リアリティ?ナノマテリアル?そういう小道具は比較的どうでもいい。「現代」「中国」「SF」として『三体』が提示したものは、二つある。

 一つは、多くの読者が賛同してくれるのではないかと思う。『三体』が現代的な理由のひとつは、今まで(とくにSFの形では)知られて来なかった中国社会の姿を、ベールを上げて見せていることだ。ちょうど、ソ連を舞台にしたミステリ『チャイルド44』が、看板としては「ソ連で起きた連続少年殺人事件!サイコパス!?怖い!」だったのが、中身は「事件を捜査する主人公の、家庭生活にまで入りこんでくるソ連の監視社会!怖い!」だったように
 
(トム・ハーディ、ノオミ・ラパス、ゲイリー・オールドマンと個人的に好きな役者が揃った映画も好かった)
 『三体』が晒すのは、知識人が迫害された文化大革命の傷の深さと、その傷を癒やさぬままに敷かれた現代中国のハイテク監視体制の閉塞感だ。それを味わうだけでも、『三体』には小説としての楽しみがある。
 では『三体』が(たとえば1980年代の諸作にはない)現代SFとして提示している、もうひとつの独自性とは何か。
 それは同作が、はからずも、2010年代の世界を席巻している「反知性」「反理性」の暴風を暗示していることだ。

 「はからずも」と書いたのは、それが作者・劉慈欣の属する中国を苦悶させているようには、(少なくとも日本からは)あまり見えないからだ。
 『三体』は、無学な少年兵たちによって知識階級が弾圧され、死に追いやられた、文化大革命の無残な描写から始まる。数十年後の「現在」その呪いは変奏され「もし科学者が、科学法則を信じられなくなったら、どうなると思う?死ぬかな?」という突飛な疑問が、疑問でなくなり、最先端の研究に従事する学者や研究員たちが、次々と死に始める。最終的に宇宙の彼方から(!)人類に届けられる「たった十文字のメッセージ」は、社会問題に意識的な読者には痛撃だろう。それは「はからずも」今の吾々そのものを指しているからだ。

 山田正紀は妥当だろう。『チャイルド44』も、まあ分かる。
 しかし劉慈欣の『三体』に、ミチコ・カクタニの『真実の終わり』(集英社)をぶつけるのはどうか。異種格闘技というか、手術台の上のミシンとコウモリ傘が過ぎやしないか(この比喩も、20世紀で賞味期限は切れたかも知れないが…)
 だが両者は、今年の前半に邦訳が出た話題の書、という以外にも共通点を持っている。『三体』は科学面で、『真実の終わり』は文化面で「何が正しいのかの基準・正しさへの信頼が失なわれたら、吾々はどうなってしまうのか(破滅するしか、ないのではないか)」と問う書物だからだ。
 ニューヨーク・タイムズの書評欄で30年以上も健筆をふるい、いわばアメリカ文学の一面を牽引した(という)ミチコ・カクタニが、初めて著した単著は文芸批評ではなかった。ドナルド・トランプを第一走者とするフェイクニュース・フェイクトゥルース時代の到来に警鐘を鳴らし、なぜこうなってしまったかを分析した論考だった。
 同書が話題をまいた理由のひとつは、現在のフェイクトゥルースが跋扈する状況を準備したのは、20世紀後半のポストモダン思想だと指摘・糾弾したことだろう。ラカンやデリダ、フーコーなどが槍玉に挙げられているのだ。その是非については、ここでは深追いしない。だが、話をもう少し平らにならして「近代では科学革命をいちはやく成し遂げ、世界の牽引役となった西欧の思想・思考が唯一の理性的なものとして君臨した」→「だが帝国主義・植民地支配の没落とともに、思想面での西欧中心主義は批判され、非西欧など別の立場からの異議申し立てが起きる(これ自体は悪いことではない)」→「ところが、その論理を逆に支配層・保守層が盗み取り、真実は言う者の数だけあるのだとして、理性や知性を破壊しはじめた」と言い替えたらどうか。
 それまで圧倒的な強者の立場に居た者が、弱者の異議申し立ての道具と、被害者としての立場を簒奪し「男性差別」「日本へのヘイト」などと言う状況と似ているのかも知れない。でもまあ、これも今は措く。

 『三体』と『真実の終わり』を続けざまに読んだのは、まあ偶然なのだけど、かように両者には共通点がある。言うまでもなく、そう思ったのは、同じ危機感をずっと自分が共有しているからだ。
 2019年9月の一例を挙げよう。安倍首相との会談を終えたドナルド・トランプ米大統領に、日本の記者が、わが国の首相はどうしたと問うと、トランプがJust leftと答えた。これを「ただの左翼」「よう、左翼」と解釈し、問うたのが朝日新聞の記者で、アメリカの大統領にも日本のサヨクは見下されていると嗤う言説がネットに飛び交った。
 当然、それは違うと指摘された。このleftは左ではなく去るという動詞leaveの分詞形で、Just leftとは「去ったところだ」「もう行ったよ」という意味でしかない。こういう間違い・勘違いは珍しくない。(泊原発を「柏原発」と言ったり、珍しくないほうが問題じゃないか?と思いはするが)
 問題は「よう左翼」勢が単に無知というだけでなく「去ったところだ」だという指摘に対しても「ただの左翼という解釈もありえる」と頑なに譲らない論陣(論でも何でもないのだが)を張り続けたことだ。「そもそも」という言葉を首相が「基本的に」という意味で誤用し、誤用を指摘されるとそもそもには基本的にという意味もあると国語辞典を書き変えるような閣議決定を政府がしたこともあった。
 嘘が嘘と判明しても、嘘ではない、嘘でもいいのだと言いはる。南京大虐殺から日本酒の注ぎかたまで、まるで現実を憎むかのようにデマが日々量産される。これは何なのか。

 塩がもし、塩としての力(食品に塩味をつける・腐敗を防ぐ)を失くしてしまったら、お前はどうやってお前自身に塩をするのかと福音書は言う。
 シェイクスピアの戯曲で、信じていた秩序の崩壊をまのあたりにした王子ハムレットは「世界の関節が外れてしまった」と叫ぶ。
 すごく間抜けなたとえで恐縮なのだが、ずっと頭にあるのは(やはり80年代の)ゆうきまさみの漫画『究極超人あ〜る』で悪の博士が開発した「まぬけ時空発生装置」のことだ。そのまんま名称のとおり、周囲の人間を間抜けにしてしまう装置なのだが、これが永田町の国会議事堂か、首相官邸の地下に設置され、2012年このかた、ひそかに作動を続けているのではないか。あるいは都庁の地下かも知れない。でなくてどうして、オリンピックの暑さ対策にアサガオの鉢植えを並べ、涼しさを演出するなんて馬鹿げたことが言えるのか。
 …という嘆き(ぼやき)を、少しSF的に言い替えると、ある程度まで人類が文化や文明を発達させると、何かトリガーが作動して、それ以上は発展せず文明が崩壊するようなメカニズムが、あるのではないかという疑惑になる。
 むろん冗談だ。今年はアポロ11号が月に着陸して50年。人類が月に到達したことが、その発展の一つの指標となり、宇宙の彼方の別の知性の行動をうながすとは、SFの定石ではないか…というのは、さらに冗談だ。
 けれど「より理知的に・より公正に」と進められたはずの世界把握の改革が、逆に文明の崩壊につながったというミチコ・カクタニの論考を読んでいると、少なくとも、このサーモスタットのような(アイロンなどが熱を持ちすぎると電源が自動的に切れる)回路を迂回しないと、人類に先はない(かも知れない)という気にもなってくる。文明が発展すると必ず、そういうサーモスタットが発動する仕様ではないにしても、現に今この世界では、バグ(プログラムのミス)としてでも、そんなメカニズムが発動している。
 「塩が効力をもたない」時代、事実や理性が、人や社会の行動を律する塩にならない時代の到来そのものは、冗談ではない。

 ああ、また狂人か、オオカミ少年が出たと思われるのだろうなあ。だが言わせてもらいたい。
 これはたぶん、吾々が、言語の運用法を間違ったために、追い込まれた隘路だ。
 小説や映画のように、ここではない世界をフィクションとして幻出させるのでなく。批評や社会運動のように、今とは違う世界を現実に打ち立てようと訴えるのでもなく。事実を偽ることで、この世界を歪んだ欲望のままに書き換える、そうした言語の運用法は、間違っている。
 嘘を嘘と、デマをデマと、デタラメをデタラメと正せないことで、社会は崩壊しうる。
 二冊のかけ離れた本は、それぞれの距離感で、同じ危機を描いているのだと思う。


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