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夢で逢(遭?)いましょう〜デルモア・シュワルツ「夢で責任が始まる」(2010.11.01)

 デルモア・シュワルツ(シュワーツ)という名前にピンと来る人は、かなりマニア志向の強い洋楽ファンかも知れない。ルー・リードが詩作の師と仰ぐシラキュース大学時代の恩師で、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの最初のアルバムのラス曲「Europian Son」は彼に捧げられている。
 ルーのドキュメンタリー映画でも取り上げられていた、そのシュワルツの作家時代の代表作「In Dreams Begin Responsibilities」が、実は村上春樹・柴田元幸らがこぞって編纂した『and Other Stories〜とっておきのアメリカ小説12篇』(1988年・文藝春秋)の中で「夢で責任が始まる」として邦訳されている。ことに最近ようやく気づいた。あいかわらず速報性・時代性皆無のサイトで済まない。
 訳出した畑中佳樹氏いわく
「たった一発の狙いすました弾丸でたった一つの的を射抜き、あとは一切余計なことをせずに死んでいった作家(中略)
 その一発の弾丸とは、一つの短編小説である。
 そのタイトルが、まるで伝説のように、アメリカ小説愛好家の間でひそかに囁かれつづけてきた」
「余計な解説はいっさい付けたくない。とにかく読んで下さい。是が非でも人に読ませたくなる小説なのだ」
…すごい誉めっぷりでしょ?ええ読みました。遅ればせながら。土曜の午後、歯医者の待合で。なにしろ読む前から伝説の作品だの、ルー・リードの師匠だの箔がつきまくってるので、公正な評価はしにくいけれど、たしかに傑作。やられたと思う。ひりひりする。そして末尾の一文まで読んだあとの、目に焼きつく白さ。それはそれとして。
 実は今ではデルモア・シュワルツについては、ルーとの関係も含め、いい資料が日本語でネット上に十分出回っていて(これですとか)本サイトでつけくわえられることは、何もない。
 「In Dreams Begin Responsibilities」という題名自体、もとはイエーツの詩の一節であったと何処かで読んだような気もする−くらいか。いま出てる村上春樹のインタビュー集の中の記事のひとつも「夢の中から責任が始まる」という標題になっていて、まあそれでシュワルツのことを思い出したのだけれど、
 この題名に何となく憶えのある人には、村上ファンでも柴田ファンでも英米文学ファンでもなく、ましてや洋楽マニアでもない人たちがいるだろう。というのが本サイトが提供できる新奇なネタ。

 そう、それは80年代終盤〜90年代初頭、ビデオレンタル屋で香港B級映画を借りまくった人たち。『恋する惑星』で香港映画が一気にオシャレ化する前夜。『霊幻道士』や『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』のような中国伝統をモダン化(?)したホラー、『男たちの挽歌』に代表される香港ノワールやアクション・バイオレンスがノシていた時期。
 お客様の中で『サイキック・アクション 復讐は夢から始まる』というタイトルを憶えている人はいませんか?
 あの不思議に印象に残る題名(というか当時のビデオについてた予告編がいい意味で酷かった)は、今なら分かる、まさに「夢で責任が始まる」から取られたものだったのだ。
 前に、デヴィッド・ボウイの「Letter to Hermione」を(ハーマイオニーでなく)「ヘルミオーネへの手紙」と訳した日本のレコード会社担当は独文専攻だったのかもと書いて、とくに反響もなかったけれど、こうした個人としては名の残らない仕事に、その人の学識や経歴・読んだ本の影響などが痕跡として残ってる、そんな瞬間に出くわすと、ちょっと不思議で悲しい感動を憶えます。分かってもらえなくてもいい。

 畑中さんには「あれ一作でいい」と言われてしまったデルモア・シュワルツですが、実はもう一冊、奇跡的に(?)翻訳されている作品があります。これもネットで十分に行き渡ってる情報なんだけど…それはなんと絵本
 バーバラ・クーニー絵・白石かずこ訳の『ちいちゃな女の子のうた“わたしは生きてるさくらんぼ”』(ほるぷ出版・対象年齢5歳〜)。
 「まいあさ わたしは あたらしいものになるのよ.
  わたしは 木 わたしは 猫 わたしは 花になって ひらいたりもするの」
と始まる詩のような絵本・絵本のような詩は、ルーのファンにとっては「Sunday Morning」や「Jesus」「I'll Be Your Mirror」といったヴェルヴェッツ時代の最も繊細なナンバーに通じる愛らしさが感じられるのではないかと。
 
追記:7年後の今、ルー・リードもデヴィッド・ボウイも星の向こうの住人となってしまった。それでまさか『復讐は夢から始まる』がAmazonビデオで観られる世の中になるとはなあ…(17.07.31)

レッド・ヘリング特大〜ルイ・マル監督『死刑台のエレベーター』(2010.11.01)

 月に一度の映画の日、今月は『死刑台のエレベーター』を観てきました。ことし日本で作られたリメイク版ではなく、実は未見だった1957年フランスのオリジナル版の、リバイバル上映のほうを。これがまあ、眠気の吹き飛ぶ面白さで……
 いつもいつもソレじゃん!お前の「不勉強で手を出してなかった古典的名作が読んで(観て)みたらスッゲー良かった」話は聞き飽きたぜ!という人は以下、読み飛ばしていいです。いやむしろ、実物の『死刑台』1957年版を観たことない人は以下の白抜き部分、ネタバレにつき間違っても読まないように。読んだら絶対に後悔します。本サイトの文章は当面(最低3年は)消えないと思うので、レンタルDVDなり何なりで観て、それから(まだ憶えてたら)答え合わせで読むといい。うん、絶対に実物を観て、驚いてほしい。普通まさか、スタイリッシュな都会のスリルとサスペンスを想定・期待して観た映画で「感動」するとは思わないから。
 いや本当にビックリするから。そして感動するから。(以下、白抜き開始)
 まさか死刑台のエレベーター』というタイトルも、タイトルが示す「完全犯罪を目論んだ男が逃走途中に電源の切れたエレベーターに閉じこめられて一晩…」という未見者でも誰もが知るストーリーの骨子も、ミステリ用語で言うところのレッド・ヘリング(囮)だったとは。
 そうして観客を欺いて最後の最後。頬をよせあい微笑む二人の顔が現像液から浮かび上がる瞬間、うわーっと来ました。
 見せたかったのは、こっちか!と。「フーダニット(誰が殺した)」でも「ハウダニット(どうやって殺した)」でもなく、「ホワイダニット(なぜ殺した)」が映像でしか出来ない速度と説得力で浮かび上がる。
ああもう、あんな美しく寄り添われちゃ殺さないわけに行かないよ、とか。逆に言えば二人の絆の強さが「そのために殺人まで犯した」という今までのストーリーで逆に裏打ちされるしたたかさとか。その前に新聞に印刷された主人公の写真で「あ、写真」と伏線を引いてる演出の巧みさとか。その写真が軍人時代のものであることから再認識させられる「戦場から帰ってきた男と、その戦争で儲けた死の商人」という構図とか。主人公の口から語られたインドシナに、アルジェリア。どちらもフランス軍が植民地の圧政者(の手先)として軽蔑されながら追われた、おそらく戦士として何の甲斐もない戦場であったろうこと、その憤怒とか。
 あるいは自分たちを破滅に突き落とす証拠である写真にもかかわらず、それを未練たっぷりに撫でるヒロインの両の手とか。そうした様々な思いが個別に言語化されず、整理もされないまま、津波のようにわーっと押しよせる。その前に提示された若いカップルの犯行の証拠が、あまりに浅ましく即物的だったぶん、息をのむように美しい一葉の肖像として
 (白抜き終わり)
 自分の乏しいミステリ関連の知識のなかで、一番すぐに連想されたのは北村薫。といってもハートウォーミングな部分じゃなくて、むしろ真逆=『秋の花』や「覆面作家のクリスマス」「冬のオペラ」のような無念と、そこに導く残酷なまでのプロットの完璧さ
 伏線の張りかた・罠のしかけかただけでなく、映画という表現形式でしか出来ないこと、時代設定やテクノロジーの発達(あるいは未発達)度合い、社会背景=たとえば格好いい車が若者に対して持つ意味など、すべてがジャストに決まっていて、まあリメイクのほうに興味はないのですが、どれ一つ、そのままで現代2010年の物語として使えるパーツはなくて、逆にどうリメイクするのか。
 1957年版の映画は主人公たちもサブの無軌道な若者たちもギリシャ神話の英雄のように単純化されていて、それだけでも緻密さリアルさを要求される現代にそのまま持ってはこれない気がするのですが。

 そんな神話化の最後の一塗りとして、1957年版の映画は、罪人たちを追いつめる刑事役が名優リノ・ヴァンチュラ。なんかもう抜群の安心感で、これだけでも観てよかったです。これからレンタ屋で借りる貴方が『冒険者たち』も未見で、そっちも店に置いてあったら、そちらも是非。

長く埋もれていた日記を、ジャンヌ・モロー追悼のために発掘しました。(17.07.31)

近世日本・小ネタ100連発〜綱淵謙錠『聞いて極楽〜史談百話』(2010.11.05)

 せっかく読書週間なので本の話。
 綱淵謙錠という作家について、例によって申し訳ない!メインの仕事であらせられる歴史小説は未読なのですが(万が一、作家の名前で検索してきたファンの人がいらしたら、どう詫びたものだか…逆に初心者におすすめの作品を教えてほしくもありますけれど)
 『聞いて極楽〜史談百話』という書名に不思議とピンと来るものがあって、図書館で借りてみたら面白かった。楽しい本だなあと思いつつ返却して数ヶ月、今度はブックオフの100円コーナーで発見。もちろん身請けしてきました。自分が入手できたのもだけど、存外簡単に図書館でも古本屋でも(そして新刊書店でも)見つけられそう=本サイトで心おきなく紹介できるのが嬉しいじゃないか。親本は昭和63年ですが文庫は1991年(文春文庫)、ちょっと大きな図書館なら置いてそう。
 随筆というか、コラム集です。安土桃山から明治までの、それこそ本業である小説の資料収集からこぼれたような逸話や小話が惜し気もなく、副題のとおり年代順に百話。見開き2ページで1エピソードのデザインも秀逸。たとえば長篇小説などに取り組む気持ちの余裕はない・けど少しずつでも異なる時代に心を遊ばせたい、そんなTPOにピッタリの一冊かと。わりと真剣におすすめ。

 この時代の逸話と言えば、この本に収録されてるわけじゃないんだけど(ひどい紹介だなおい!)むかし読んでひどく印象に残ったのが、武士道とは死ぬことと見つけたりでおなじみ『葉隠』にあったエピソード。いわく
佐賀鍋島藩の藩士なにがしは、
 他藩の殿様が誤って自藩の殿様の着物の裾
(殿中でござる!と引きずるアレですね)を踏んでしまい、
 自藩の殿様がつんのめって前のめりにビターンと倒れたのを見るや、
 その他藩の殿様の裾をすかさず踏みつけビターンとコケさせた。
 まことにもって武士の鑑である
(記憶に基づき要約)
最初ビジュアルに想像して大笑いしたのだけれど、それってつまり「それで両家の殿様の遺恨をチャラにしつつ、責任とって藩士なにがしは腹かっさばく(でもってソレが武士の鑑)」ってことだよなと思い当たって、ゾーッとしたのである。
 『聞いて極楽』に収録されてる逸話は、もっとマイルドで、多くはほんわか・しみじみ系。串団子の団子の数はいつから五つから四つになったとか、実に暢気でよろしい(名古屋大須の新雀本店の団子なんかは今でも一串に五つですわな)
 徳川十一代将軍の家斉が近頃は諸葛孔明のような賢臣はいないなあと嘆いたあとまあしょうがないわな、まず劉備玄徳みたいな名君がいないんだからとセルフつっこみ・のほほんと笑ってたという太平楽な小話が個人的にはフェイバリットです。
 
(c)舞村そうじ/RIMLAND ←1106  1005→  記事一覧(+検索)  ホーム