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夢と同じもので出来ている(14.01.05)

 あらためて、あけましておめでとうございます。年明け早々「シラノ・ド・ベルジュラックが、性格はよいけど頭カラッポな美青年・ではなく・育ちの悪い美貌の姫君を、これでもかという少女趣味の代筆で陰から支える外見無骨で隠れオトメンの騎士だったら」という思いつきから妄想が炸裂したので、こちらにもリンク張っておきます。
【新春妄想ショー「私のシラノ(仮)」】

 文字にするのに2時間半くらい要していますが(ライブ感をお楽しみください)たぶん最初の10分くらいで頭の中では伏線もオチも出来上がっています。
 ただ、それを開いていくのは別物で、まんがなどだと同じ開くでも数ヶ月を要したりする。今回はこうした「語り」の形式のほうが効果的なので用いましたが、これは絵にしたい、というときは数ヶ月かけて絵にするわけです。
 そして、こうした箇条書きにも似たかたちでまとめると一応「自分が思いついた」一次創作・オリジナルという名目の話でも、いろんな過去の他人の作品がパッチワークで入っている・いわば二次創作なのが分かったりもしますね。眠ってる間に見る夢が、起きてる間の出来事を脳内で再整理する過程だという説に従えば、こうした創作は、やはり起きて見る夢に近いのだと(寝て見る夢よりは幾分コントロールでき、整合性があるにせよ)思います。そんなわけで今年もよろしく。(またしばらく、こちらの更新は滞りそうですが…)

浜野保樹さんを追悼する(14.01.05')

【1】私事
 表題とは関係ない、私的な思い出から始める。昭和40年代に生まれた自分は、広く取ればおそらく「物心ついた時まだビデオデッキがなかった」最後の世代で、言い換えると10代になりたての頃、吾が家に初めてソニー製のベータマックスが到来した。その初めてのビデオデッキを使って、早速じぶんが試そうとしたのはテレビ放送の映像を録画したうえで、音声だけ別のモノに差し替える「アテレコ」という機能だった。…残念ながらうちに来たデッキにそのような機能はなく(というか、そういう機能があるデッキとは、その後も巡り合うことはなかった。新聞記事で「そのような機能がある」と読んだのだが、おそらく例外で普及しなかったのだろう)それでも番組を録画しながら音声入力だけ別で入れようとテレビとデッキの前で試行錯誤して「何をふざけているのだ」と叱られたことを憶えている。
 何の話かと言えば、その頃の自分にとってビデオデッキとは最初から「編集して何かを作る」道具だったということだ。その頃=1980年代は、アテレコ機能のあるビデオデッキこそなかったものの、一台でカセットテープをダビング・編集してオリジナルのテープを作成できるWラジカセが一世を風靡し、本屋などに置いてあるコピー機が一枚あたり10円まで安価なものになり、日本語ワープロ専用機なるものが普及を始めた時代だった。音声の編集・最終的には冊子等の作成につながるだろう紙のコピー・文章の作成や打ち出しといった複製技術が個人レベルで所有できるようになった時代。
 そして、それらの複製技術はまだ単独でアナログで(ワープロはデジタル機器だが、そのデータの使い回しは出来なかった)、それらがコンピュータという万能の複製編集機器で統合されるには十年以上を要する「前夜」、けれどそういう時代がコンピュータ技術の発達によりいずれ到来する・その助走期間としての「前夜」だった…
 以上のようなことは全て、90年代に浜野保樹氏の著作にふれ、さらに2000年代になり本格的にコンピュータで何でも編集できるよう時代になって、ようやく後追いで考えたことだ。
 62歳という若さでの訃報が伝えられ、記事を見ると「コンテンツ産業の育成に尽力し…」といった功績が称えられている。
・「文化庁メディア芸術祭立ち上げの際には、これまで国がほとんど関与することのなかったアニメーションとマンガを対象分野とすることに尽力」アニメ!アニメ!ビズ http://www.animeanime.biz/archives/19205
もちろんそれも間違いではない。けれど90年代初頭、自分が同人まんが描きを始めた頃、浜野氏の著作に受けた影響は、もっと直近で身に迫るものだった。

【2】余談
 氏の著作『イデオロギーとしてのメディア〜ハイパーメディア・ギャラクシーIII』(福武書店)は1992年=約20年前の著作だが、いま久しぶりに読み返して少し微笑んでしまったのは、It was 20 years ago today…というフレーズで始まるビートルズのアルバム『サージェント・ペパーズ』に関する考察から始まっているところだ。ちなみに『サージェント…』が発表されたのも、同書が書かれる約20年前で(実際には25年前・1967年)。「あれは20年前…」と唄うビートルズの名盤を約20年後に振り返る文章を、さらに約20年後に今こうして読み返しているわけだが:
 マルクスからエドガー・アラン・ポー、数年前のデビュー当時の自分たち(の蝋人形)まで並べた『サージェント・ペパーズ』の有名なジャケットには
こちらです(参考)→ http://www.amazon.co.jp/dp/B0025KVLTM/
 日本由来のモノが二つある、と浜野氏は指摘している。何だか知ってますか?…それはビートルズの蝋人形の下に置かれた福助人形、そして(左右対称のように)右側の黄色いドレスを着た少女人形の後ろに置かれたソニー製の持ち運びテレビ受像機だった。
ビートルズでさえ、そのレコードジャケットが持つ意味を理解していなかった
と浜野氏は記す。20年後の今、思うのは著者の浜野氏もまた、90年代の執筆当時は、日本製テレビ(に代表されるコンテンツ関連ハードウェア)が世界に与えたインパクトは理解しても、もう一方の福助が象徴する日本製キャラクターの世界席巻までは予知していなかったろうということだ。21世紀に入り、日本発コンテンツの世界進出を見守り、自ら後押しもした浜野氏が自身の若き日の著作を読み返し、自身の思惑さえ超えた予言の的確さに苦笑いすることはあったのだろうか。

【3】せつなる願い
ともあれ『イデオロギーとしてのメディア』には、当時ようやく同人まんがの個人サークルを立ち上げ、けれど自分がそれを20年以上も続けることになるとは知らなかった自分を、強く鼓舞し勇気づける、言い替えれば人生を狂わせる(笑)ものがあった。
 『サージェント・ペパーズ』は、それまで主流だった「生演奏をただ録音した」ものではなく
「重ね取り、テープ接合、効果音、逆回転、エコー・チェンバー」
「録音技術で考えられるすべてのことを試み」
「レコードという複製技術を使わないと再現不可能な」
「複製技術そのものを表現のスタイルにし」
「レコードを一つの表現形式に高めるものであった」
そう同書で浜野氏は考察している。『イデオロギーとしてのメディア』は編集技術が新しい表現形式を生む、そしてその技術が個人で所有されコントロールされるレベルまで低価格・簡便化すれば、個人が表現者となれることを高らかに宣言する書物だった。
 『サージェント・ペパーズ』の一年後、ビートルズは自らの会社アップル・レコードを設立する。(その夢は最終的には、ある意味ついえたのだが)「成功した音楽家ならば大抵は自身のレーベルを持てるのも、製作のためのテクノロジーが比較的単純であるからだ」と浜野氏は指摘する。
 同じ視点から、同書で浜野氏は出版を、アートを、映画を語る。
「ウォーホルがこともなげに複製芸術を作り続けられたのは、複製技術を所有できたからであった。なぜ彼が所有できたかというと、
 シルクスクリーンや一六ミリの撮影機のような小規模の技術であったからだ」(同書)
 DTPなどの技術は「省力化ではなく、作家が制作の全過程に関与できる可能性を開いたと浜野氏は述べる。そうした技術のない時代、思い通りに発表するため自費出版を試みた島崎藤村は貧窮に陥り家族を次々と栄養失調で失なった。また映画は、出版以上に多くの人が関与し多くの観客と収入を前提としなければ制作できないものだが、ハリウッドを追放されたオーソン・ウェルズが、晩年は自らの家族や愛人まで出演させて制作費を節約しつつ資金を集めては撮り集めては撮りで何年もかけて映画を完成させていった姿に、氏は深い共感を寄せている。
 これは今、手元にない(すみません…)別の著作で書かれていて感銘を受けたことだが、やはり90年代、アメリカに留学していた日本人学生がハロウィンで「トリック・オア・トリート」と訪ねた家で警戒した住人に射殺される事件があった。「フリーズ(停まれ)」という英語の警告を理解できなかったためで、その文脈から当時は問題視され話題になったものだが
 浜野氏は射殺された学生が映画制作を志して留学したことに着目して、述べていた。もし彼が日本で思い通りに映画を作ることが出来たら、そもそもこのような目に遭わずに済んだのではないか。もちろん、極論ではあるだろう。日本の映画界とハリウッド、どちらが硬直で、才能や可能性を発揮しづらいか自分には分からないし、異文化理解の難しさと必要性は、また別の問題だ。けれど「もし個人が思い通りに表現できたなら、そうできるだけの技術があれば」という、せつなる願いが、90年代前半の浜野氏をつねに突き動かしていたのだと思う。
 『イデオロギーとしてのメディア』に話を戻すと、1992年、まだインターネットも普及せず「パソコン通信」だった時代、浜野氏はあるアメリカ人の言葉に思いを託している:
「画像をパソコンで編集し、送受信するということは、五〇億の放送局ができることなんだ

【4】提示された課題
 再び私的な思い出に話を戻すと『イデオロギーとしてのメディア』を読んだ一年後、吾が家は最初のマッキントッシュ(LC520という入門機)をお迎えした。初めてのビデオデッキを前に「アテレコ」が出来ないか四苦八苦したように、今度は「これでまんがを描けないか?」と試行錯誤するようになった。たぶん当時から少数のプロフェッショナルがまんが作成のデジタル化に取り組んでいたが、それはハイエンドな機種と出力機器・それに10万円くらいするソフトを駆使してのことで、パソコンに対してほぼ素人である自分などが入門機のiMacと1万円の廉価版Photoshopを使って、スキャナで取り込んだ原稿の仕上げをデジタルに出来るようになったのは2001年になってからだった。今では最初の線を引くのもタブレット=パソコン上で「紙で描いたことがない」若い創作者も少なくないだろう。
 デジタル写真や動画・音声の編集、さらにはネットを通じた発表や交流も同様で、それらが立ち上がる時期から、あれよあれよと現在の追いつけないほどの普及と発展までを目撃・体験できたのは、やはり貴重で恵まれたことだったろう。浜野氏が予見し期待した、あるいはそれ以上の、あらゆる制作・編集工程の個人化がもたらされたのだ。
 けれど結果として、それをどう配布するか?は今でも未解決の問題として積み残しされている。
 たとえば自分は創作から編集・それを発表配布する手段まで、ほぼ自分でコントロールできる形で手に入れたと思う。けれどそれは、ほぼ無料や持ち出しで「ペイしない」という事実を含んでいる。まんがや小説のみならず映像の分野でも、おどろくほど美麗でよく出来たデジタル動画がアマチュアの手で作られ発表されているが、それは同時に作成者たちに何の経済的見返りも(たぶん)なく、ただ彼らの無償でも表現したいという欲求によって支えられている。一方でプロとなった作家たちは今までと同様に出版社の意向に発表の機会を左右され、ネット上で「買ってください」「アンケートで投票してくれないと続きを連載できません」「古本屋で買わないでください。収入になりません」「文化を潰してもいいのですか」と乞うことを余儀なくされている。
 こうした問題に答えることは浜野氏の責務ではないし(何らかの見解を示しているのかも知れないが勉強不足で押さえていない)そうしたこと=流通まで含めた表現の難しさは、島崎藤村やオーソン・ウェルズと吾々が共有しつづける課題なのかも知れない。
 また少し余談になるが、たとえば映画史の専門家などから、浜野氏の考察や資料の使いかた等について「甘い」という批判がないではなかったことも、公正を期すため記しておこうと思う。事の当否は専門家でない自分には分からないが、おそらく浜野氏には、精緻な研究者としてより、ヴィジョンを示す先導者としての役割が強かったのだろう。
 実際、人々は彼が90年代に予想や希望として示したことを越えて、さらに進んだテクノロジーを手に入れた。さながら中学校の恩師に送られ学舎を後にするように、自分も自分にとっての高校や大学に位置する著者やモデルに出会い、指標と仰ぐ対象を乗り換えてきた。けれどやはり、自分が同人誌を始めたときに、その後押しをしてくれたのが他の誰でもなく浜野氏だったことの影響は大きく、そして恵まれたことだったと思っている。
 浜野氏は、個人が制作・表現し発表する手段を所有できるテクノロジーの到来を待ち望み、それが可能にすることの大きさを、あるいは多少なり楽観的・なヴィジョンとして提示した。けれど、仮に制作の工程を個人が私有できるようになったとして、そこから何が始まるか、についても無頓着ではなかった。
すべての人々に表現の機会が与えられてはじめて、本当のプロの資質が問われる
と説き、アレクサンダー・グラハム・ベルが電話の発明を賞賛されるたび
「そうかもしれないが、いかにこの機械が立派でも、
 人間の言葉をシェークスピアやホーマーのようにあんな遠くまで伝えることはできなかった
と答えた逸話を氏は紹介し、メディアとコンテンツの関係について問い続けた。
 氏の示唆は一冊の本だけでも多岐に渡り、とても今ここに押さえきれるものではないが、最後にひとつだけ加えるならば、先に希望的観測として取り上げられた「五〇億の放送局」は実は過去に少なくとも二度、すでに試みられ、挫折したことも氏は指摘している。一度目は件のベルの電話の発明時であり、それは互いに一対他として表現する放送のような手段として確立することもありえたが、最終的には一対一の通話手段になったという。二度目の機会は電波放送の普及であるが、この時は逆に大規模な放送局がコンテンツの送信を寡占し・残りの大多数はただ受け手として享受する仕組みが定着した。
 五〇億の放送局ができるという仮定は、五〇億人それぞれが、それに値するコンテンツを表現できるか・あるいは逆に受け手が相手の表現に耳を傾け、ハリウッド映画のようにドラマチックでもアニメ動画のように萌えでもないコンテンツからも感動を汲み出せるか、を問うことでもある。電話とも電波放送とも違い、五〇億の放送局に最も近づいたと言える今のネット環境も、表現と発表の場ではなく、誰かの発言に文句をつけ言い争う・文句をつけ批判するひとがヒーロー然として振る舞う何か別の場になっている。改めて振り返ると、氏の90年代の仕事は未来の希望を語るだけでなく、技術が発達してもなお残る多くの課題を提示し、それを先達の苦悩や挫折と結びつけることだったと改めて思う。

【5】知的自転車
 コンピュータが巨大な「与える側からの恩恵」だった頃に、アップルの有名なCM「1984」は個人が自分のものとして使えるコンピュータの姿を予言的に提示した。巨大なトレーラーや、大量の人々を一方向に動かす列車ではない「知的な自転車」という表現も、その頃されたという。90年代の浜野氏の著作は「1984」が時代に先行しすぎていたり、当のマッキントッシュが高価すぎたりして少なくとも日本では伝わりにくかった「テクノロジーを個人に」というメッセージを、十年後に「複製手段を個人に」という形で説き直したもの、であるような気が、今している。

そうした氏の側面は、今となっては当たり前すぎて、あるいは逆に遠い理想と忘れ去られて、顧みられることが少ない古びた話題かも知れない。けれど「コンテンツ産業」や「クール・ジャパン」といった「大きなテーマ」とは別に(そういう分野で氏が果たされた役割の評価は他のふさわしい人たちに譲る)、個人が創作のテクノロジーや配布のルートを持つこと、そこに自由を見い出し思うままの表現を追求することへの憧れや希望を氏の著作から与えられた、それは自分しか記せないことかも知れないので、乱筆ながら語らせてもらった。何より氏の著作はホメロスやシェークスピア、あるいはホーソーンやルイス・キャロルから60年代のカウンター・カルチャーやヒッピー・ムーブメントを経て80年代90年代のハイテク革命、そして現在までをもつなぐ多彩な話の広がりがあり、読んでいてとても楽しかった。あらためて受けた影響と恩恵の大きさに驚きつつ感謝し、早すぎる逝去を惜しむ。残念です。

↑書影が上下逆になっている_| ̄|○

阿弥陀如来でもよかった〜内田樹『邪悪なものの鎮め方』(14.01.10)

 文庫になったので。今や超有名な内田樹センセイですが、個人的には入門には最適な一冊がコレだと思います。というか、自分はココから入った。
 もっと正確に言うと、これ以前の別の本を読んだときには正直ピンと来なかった。だったら疎遠で離れてよかったようなものが、この本は表紙から強烈に訴えるものがあって、今度はいちいちツボに入った。それから以前の本を遡って読んで(今度はわりと分かるようになった)、以後の本もそれなりに読んで、やはり自分の中では以前の本はこの本に至る道・以後の本はここからの展開、というように砂時計のくびれ・焦点になっている一冊です。
 実際、遡りで初期のエッセイなど読んでいると内田センセイ、わりと喧嘩腰でギスギスしている。それがおおらかにイヤミったらしい(笑)現在の芸風を確立したのは、この本ではないにせよ、どこかに転回点があって、この本は転回以降の読みやすさがある。笑ったのは、かなり冒頭の村上春樹『1Q84』を扱った試論で「まだ1/4ほど残っているが、私はこの後このように展開するに違いないと思う。読み終えた後で、ほうら思っていたとおりだと言うのはイヤだから、今のうちに予言しておくのだ」と書いたあとに「違ってたらごめんなさい」と結んで、さらに末尾に(違ってました)と追記してるところ。今にして思えばあざといとも言えるけれど、これで(なんだ、わりと間違ったことも言うと自分で分かってる人だぞ)と読む側のガードが下がったとも言える。
 収録のエッセイは大体がブログに先に掲載されたもので、その気になれば、そのほとんどをネット上で試し読みできる。ので紹介しやすいのだが:
 同書の親本発行は2010年。収録のエッセイが書かれたのは当然それ以前の数年間となる。東日本大震災も第二次安倍内閣も予想されていなかった時期なので、逆に第一次安倍内閣や95年の阪神淡路大震災を語る文章が興味深い。たとえば文庫化を機に今回再読して膝を打った(比喩)のは、日本がどこまでもどこまでもアメリカに尽くすのは「こんなに尽くしたのに認めてくれない」と恨みごとを言いたいがためではないか、という仮説で
アメリカの呪い(2006年7月) ←全文読めます
相手を憎めば憎むほど相手に尽くし譲歩して「こんなにしてやってるのに」と逆恨みしたくなる気質は自分個人にも痛いほど憶えがあるし、今の靖国参拝をめぐる言論にはアメリカへの恨み憎しみがいよいよ表面化した趣きを感じたりもする。が、それはそれとして−

 約三年前、この本が自分をわしづかみしたのは、そうした国際政治や社会批評ではなく「自分自身にも憶えがある」と、たったいま言ったように、もっと自分に身近な「邪悪」もっと言えば自分自身がもつ「邪悪」の「鎮め方」を同書が教えてくれそうに思えたから、かも知れない。
 念のために言うと、同書で著者がいう「邪悪」は必ずしもそういうものではない。今回の文庫化で加筆されたあとがきによれば、むしろ東日本大震災の津波や原発事故のような、個人が太刀打ちできないほど強大で、不意にかつ理不尽に人を襲う災難が「邪悪」に近いようなのだ(被害者の側から見た、突然の路上の無差別殺人者とか)。
 この本が個人に説得力をもったのは、むしろ自分自身の中にある邪悪−自分自身を損ない、破滅させる恨みや憎しみ・復讐心から自分自身を守り、逃れさせる手立てについて示唆する面が大きかったからだと思う。
 同書で明快に述べられているわけではないし、ぼく自身もまだ上手に言葉にできていないのだけれど、自身も含め(というか自分自身を見てるとよく分かるように)人には「どんどん想像でイヤな奴・憎たらしい奴を作り上げて、具体的なこいつ・もしくは存在すらしない誰かが、こんな憎たらしいことをしてくれたら、こんなふうに激しく非難して、やっつけてやろう」と妄想をふくらませる悪癖がある。…もしかしたら自分だけかも知れなくて、だとしたらとんだ自爆なのだが…
 それと関連して、そうした憎悪や嫌悪は「人を呪わば穴二つ」じゃないけれど、吐けば相手に届く前に(これも経験上いえば、届かないことが多い)まず自分をイヤな気分にさせ、痛めつけることが多い。これも、もしかしたら自分ばかりが、そうした嫌悪にたいして「下戸」で自らの嫌悪を肝臓で分解できないだけで、ふつうのひとは「あれがキライ」「ああいうのは愚劣」「あんなのに喜ぶ奴の気が知れない」と呼吸するように文句を言って、自身は爽快になれるのかも知れないが。

 そうした憎悪や嫌悪、誰かを非難したい先回りした復讐心について。
 『邪悪なものの鎮め方』で強く心をつかまれた文章のひとつに「被害者の呪い」というエッセイがある。これもネットで全文読めます。
被害者の呪い」(2008年5月)
 この文章の意味(少なくとも僕が受け取った意味)は、もしかしたら伝わりにくいかも知れない。実際こういう文章があるんですよ、と人に紹介して、上手く伝わらなかったことがある。ので少し丁寧に述べる。
 この文章が説いているのは「いつでも自分を無謬の(誤りのない)被害者の側に置いて他人を責めるひとがいる、困ったものですね」ということでは、ない。←そのように文意を捉えてしまうと、この文章そのものが無謬な被害者の立場から「そういう人たちのおかげで迷惑してますと」相手を非難する、ただのループになってしまう。この文章が、説いて、いるのは、「そういうことをすると周りに迷惑だからやめなさい」ではなく「そういうことをすると、まず自分を損なうからやめなさい。そういう発想からは全力で逃げなさい」ということだ。文末を引用すると:
私は(中略)深い傷を負っている」という宣言は、たしかにまわりの人々を絶句させる(中略。=勝つことができる、ように見える)。
 けれども、その相対的「優位性」は「私は永遠に苦しむであろう」という自己呪縛の代償として獲得されたものなのである。
 「自分自身にかけた呪い」の強さを人々はあまりに軽んじている。(引用おわり)
 「呪い」という用語は、このあと別の書物でも使われた著者の独特の用語で、先の「アメリカの呪い」やこの「被害者の呪い」とは別に、「(自分が向上したり何かを得るのでなく)誰かが落ちたり失なったりすることで、相対的に自分が幸福になったと捉える考えかた」という意味で使われたりもする。
 もう一度いうと、こうした用語や考えかたを「自身がそれから逃れないと、自身が大変なことになる(破滅する)」と捉えず、他人を非難し、審判者や被害者として他人を裁くための道具に使おうという誘惑は強い。らしい。現にこうして内田センセイが「呪い」という用語を使い始めて間もなく、氏とわりと親しい別の著者にネットで何か意見して、それは違うよとやんわり叱られた人物が、たぶん内田センセの読者でもあったのだろう、すごい剣幕で(比喩。ネットの文章だから分からないといえば分からないけど、なんとなく文章だけで表情が見えることもありますよね)
僕に『呪い』をかけるつもりですか!
と叫んだ(比喩)のを目にしたことがあって、だからそうじゃないんだってば!と、なんだろう、人をやっつけられそうな道具に飛びつく(そのようにすべてを曲解する)ひとのセンサーの鋭さと間違った使いかた、両方に頭を抱えたのでした。
(この項おわり。だと後味がいくぶん悪いので「じゃあどっち方向に逃げればいいの」という前向きな?示唆にもリンクを張っておきます。
窮乏シフト」(2008年12月)
あと、やっぱり捨てがたいコレ:
そのうち役に立つかも」(2008年7月)
この文章の阿弥陀如来でもよかったが、先の1Q84論の「違ってました」にも通じるボケ味で趣き深い。 両者とも『邪悪なものの鎮め方』に収録。)

(c)舞村そうじ/RIMLAND ←1402  1312→  記事一覧(+検索)  ホーム