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伊達や酔狂で、こんなことをしてるんだぞ。(14.02.04)

あらためて、コミティア107th参加・運営の皆様おつかれさまでした+RIMにお運びくださったかた、ありがとうございました。
 前回の100号でペーパーでのまんがは一旦終了ということで、イベント前日の土曜日にまるまる時間ができました(いつもだと下手したら当日の明け方までペーパーまんがにかかっていた)。ありがたいもので、ようやく年来の懸案に手がかりをつけられると。
 そう、既刊展示の改善です。
 ロングテールで既刊を置き続ける+現時点で15冊を越える(アホかいな)長篇を継続中のRIMLANDでは、とうに与えられた机のキャパを冊数が越えており、平置きで広げられない冊子はブックエンドに挟んで立てていたのですが、正直これは見ていただくのに望ましい形ではない。
イベント参加の合間ごと、なにかシュッと多数の冊子をディスプレイできる棚はないか、あるいは自作できないかと、それらしい店を見て廻るのですが、パンフやメニューを一種類だけ立てて飾るようなディスプレイはあるものの、多数を重ねて立てられる既存の製品はなかなか見つからない。自作するにも材料の見当がつかない。
 それが今回、ようやくアテに出来そうな素材を発見しました。横幅20cm弱・奥行き12cmの底面を持つトレイと、しっかりした硬さのポリスチレンのボード・5mm厚と1cm厚の二種類です。

 これを足がかりに作ってみたのが、縦に重ねていく形のディスプレイ棚。間仕切りに5mmのボードを使い、その間に1cm厚のボードを(段を作りつつ)挟んでいくことで、多段式の棚を作る。これを透明トレイにすっぽり嵌めこむ寸法です。

 ポリスチレンは接着が難しい素材で(専用の接着剤はあるが高い感じ)木工用ボンドで一応貼り付けできるが強度は心もとない。何しろ見切り発車で、どの程度の強度が要求されるか見当もつかないので、とりあえず釘で補強します。

 夕方に作業を開始して、作成に要した時間は(最初の考えてる時間を除いても)一台につき90分〜2時間くらい。
 即売会前日・というか当日の午前3時に、シンと寝静まった世界でこんなことをしていると、だんだん自分が発狂している気分になってきます。

「容量的には、各々もう一段ずつ増やしたい…」と思ったあたりで、すでに眠気と正気が尽きかけており、これで一応の完成としました。

 明けてイベント当日の朝。一切合切を袋に入れ、キャリーカートで会場まで運びます。素材が発泡性のため非常に軽く+地面をガタゴト動かすと、あまり釘を入れてない初号機が壊れそうで不安なため、キャリーカートなのにバッグのように手に提げて運ぶ不思議な事案が発生。
 会場につくと、先行して宅配便で搬入していた段ボール箱から、スペーサーを兼ねた水のペットボトルが。…箱詰めの際も正気を失なっていた可能性を疑いつつ、2月のビッグサイトで室温まで冷えた水は正直ありがたく自分グッジョブ。

実際の展示はこんな感じです。反省点はいくつかありますが
・見栄えあまり格好よくはない。が「同人ぽくて好い」という意見もあり、そこはそれぞれ。
・覚悟していたことだけど、段の高さが2.5cmと低めなため(それ以上あけるとタワーがすごいことになる)二段目以降の冊子のディスプレイ効果は薄め。本のタイトルや価格、可能ならサムネイル的な絵も加えたラベルを用意できれば好かった。
・これは覚悟していたことだけれど、厚みが1cmを越える冊子が複数あり、当然それは棚に入らず難儀しました。
・これにかまけて本来ならもっとガッツリやるべきだった新刊のインフォメがショボく、気づかれにくかった。
そして何より力ない笑いを漏らしてしまったのは
こんだけやっても、まだ入りきらない既刊がある

 やはり、もう一段増やすべきであったか…。←物理的には可能な域だけれど、それをまたいでの、内側と外側の冊子やペーパー・お金のやりとりは多少しんどくなるので工夫が必要でしょう。

 背面はこんな感じ。これも現場で試行錯誤した結果、たぶん左側のように机にも引っかかりを作れるほうが固定の意味で好い。筆記具やお釣り銭・画像では飲料など置けるスペースが確保できたのは好効果でしたが、正面に置く冊子のスペースを考えると、この幅はなるべく狭くもしたく按配が必要。
 あと問題を述べると
・こんだけ(発狂しそうになりながら)した棚づくりですが、劇的に新規読者を獲得できるわけではない(笑)
まあこれは「機会はないかも知れないが、ありえた機会は逃したくない」「打てる手は打ったから好い」程度に考えてます。いつか一人か二人、新規に見てみようという方がいる。そのとき役に立てばよいのです。FDの既刊を何処まで買ったか確認したい、みたいなかたの敷居は少し低くなったのではと思います。がんがん本を出し入れする方々がなかったので、強度などは確認できなかったのが残念ちゃあ残念。
 また
・こんだけ冊子が多すぎると、逆に引かれる=手に取りにくいおそれがあるので
・可能ならば「軽いコメディ/シリアスな話」とか「一冊=一作の本/短い掌篇をいくつも集めた本/FD」など、
 棚ごとに分類するなどで、手に取るひとをガイドしたい。「ぱっと明るい本が好みのかたはコチラ」みたいに。
・FDはとにかく量が多いので、別のディスプレイ法も検討すべき
など踏まえつつ、しばらくは試行錯誤してみようと思います。

 ちなみに材料はすべて100円ショップ「DAISO」で購入、底に使うトレイ×3・ボード2種×各2(4)・1.9mm釘×1で計840円でした(既に持っていた、背面のブックエンドは除く)。「あ、それいいな」という同人の方々の参考の踏み台になれば幸い。

秘密の琴線〜『アポロ18』(14.02.23)

 どんな奴でもひとつくらいは「あーこれはしょうもない、しょうもない話(物・ヒト)だぁ」と思いながら琴線つかまれてしまう、余人には分からない「つかまれどころ」を持っているのさー。And it makes me down!
 渋谷の交差点角にある映画館でひっそり上映していた頃から気になっていた『アポロ18』。今は某大手レンタルチェーン限定商品として2泊100円で借りられるのですが、告白いたします。
「17号で終わったとされているアポロ計画だが、実は18号も月に行っていた。しかしその事実は公表されず、アポロ計画自体も終了した。月の裏側で、いったい何が起こったのか…その極秘映像を入手した!という設定のフェイク・ドキュメンタリー」
このあらすじだけで、ドラ何枚かつけちゃう不思議な琴線を持っているのだ自分は。話じたいは、たぶん「哭きタン」だと思う、いや、それも贔屓目な評価で、観る人が観たらチョンボかも知れない…。
 たぶん、ギリシャとくに現代ギリシャが大好きで、ゾンビも憎からず思ってるひとが『ギリシャ・ゾンビ』(未見)に肩入れせずにはいられないように(そんなことなかったらすみません)
 どうやら自分の中には、自分が宇宙に行けなかったことを真剣に悔しがる気持ちが、半分くらいはあるらしい。
 若いひとには分からないだろうけど、自分が小学生の頃には、自分がとは言わずとも人類の誰かが2014年の今頃には余裕で火星くらい行けてる予定だったのだ。
 『ドゥーム』という戦闘ゲームがある。ゲームじたい好きなのだが「どうも舞台がフォボスらしいので、ときどき窓の外に広がる空や岩はフォボスなんだなーと思うだけでグッと来る」という理由でドラ1枚追加してるのは、世界中で自分だけかも知れない。本物のアポロ計画のドキュメンタリーも、映画館まで観に行った。実を言うと、昔の『サザエさん』の、宇宙服を着たサザエさん一家(タマまで!)が土星の輪っかに着陸するという、まるで荒唐無稽なOPにさえ、ひそかに嫉妬した。(それでいて、いま大人気の国産宇宙飛行士まんがには手が伸びない不思議…)。「アポロ計画は造り物で、人類は月になんか行っていない」説をまことしやかに唱える輩が目の前にいたら「君、決闘だ!」と絹の手袋を投げつけるかも知れない。
「私が子供の頃には、逆にNASAとソ連は共同でコッソリすでに火星まで有人飛行を実現してるという怪説が幅を利かせていたのだぞ!同じ妄想でも、最近の若造の、その覇気のなさは何だ!」

 …閑話休題、と言いたい処だが、今回の日記すべてがヒマ話ではある…
 ともあれ『アポロ18』。とくに前半の、古びさせた映像が素晴らしいです。醒めてる、醒めてるのよ。もちろん頭の半分では「しょうもない映画だなあ」と理解してはいる。でもたぶん本物のアポロ計画の映像の流用などもあって、擬似・月体験として自分は非常に満足しました。ほんらい大学生あたりが映研なんかで作るべきアイディアを、それなりに人生の酸いも甘いも噛み分けた大人が8割くらいの力を出して作った感じ。着陸船内で雑魚寝する飛行士たちの下ネタの雑談や、絶望的な状況に陥ってテープ録音の家族の声を半泣きでリピート再生する部分など、まずまず自然に作れています。
 展開も決して悪くない。肝心の「なぜアポロ18計画は極秘だったのか?何が起きて頓挫したのか?」はどうだったか。今回の日記は暴走してばかりなので、さらに暴走して言うと米ソの宇宙競争がたけなわだった頃のソ連(現ロシア)の小咄に、こんなのがある。
  人類初の月着陸を目指し、米ソはロケット開発競争に邁進した。
  それぞれのロケットが同じころ打ち上げられ、同じころ月軌道に乗ったところで
  「これ以上争うのは無益だ、同じ人類、ここは仲良くしようじゃないか」
  それぞれの着陸船で同時に月面に降り立つことにした。
  着陸船から出てきて、月面で宇宙服ごしの握手を交わす米ソの飛行士たち。
  と、そこにはクレーターに腰掛け、キセルをふかす中国人の姿がある。
  一体どうやって、中国にはまともなロケット技術すらないはず!
  驚愕する米ソ飛行士たちに、中国人はのんびり言う。
  「毛主席は言われた。中国の国力は人民であると。お分かりかな、
  一人の肩の上に一人が立ち、その上にまた一人立ち、その上にまた一人…
 はっきり言いましょう。もとより最低ラインこのレベルの話でも許すつもりで臨んだので、映画『アポロ18』余裕で合格点でした。
 検索して出てくる映画評ブログには「これは揚げ足とる」という姿勢でツッコミを入れてるモノもあったけれど、「肩の上に一人立って、またその上に…」レベルで満足できる自分は「もとよりしょうもない話なんだから、真剣に批判しても仕方ないし、逆に大げさに(文字デカくしたりして)面白がらなくてもよいのでは」と、ごくふつうに楽しめる映画でした。いろんな期待に、よく応えてくれたとすら言える。
 それでも、ひとつだけツッコミさせてもらうならば
★さすがにネタバレなので畳みます(クリックで開閉します)。 (ネタバレ終わる)
 まあ「これはフェイク・ドキュメンタリーですよ。真に受けないでね」と理解させるための、敢えての穴かも知れません。こうしてアポロ計画は終了封印された。しかし…というオチの「上手いこと言ってやった感」もなかなか好ましい。こういう題材に偏愛のないひとの評価は分からないけど、実に愛すべき映画でした。少なくとも下手っぴすぎて眠くなる的なことはないと思います…?

リンク貼っといてなんですが、買うほどのモノじゃあない。あと「重力1/6なのにピョンピョン飛ばず普通に走ってる」のもツッコミどころではあるかと。

象の消滅〜『コロンバイン・ハイスクール・ダイアリー』(14.02.24)

1)
 1999年4月20日。コロラド州・コロンバイン高校の生徒ブルックス・ブラウンは3時間目の哲学の授業で級友エリック・ハリスの欠席に気がついた。4時間目の作文の授業にはエリックの親友ディラン・クレボルドの姿もなかった。自分も残りの授業はサボることにしたブルックスは、そんな時間になって登校してきたエリックを駐車場で見かけた。「いったいどうしたんだよ?テストを逃しちゃったぜ」そう声をかけたブルックスに「そんなの、もうどうでもいいことさ」車からバッグを取り出しながらエリックは告げた。お前のことは嫌いじゃない。ここから離れろ。家に帰るんだ
 「オーケー。何だかよくわかんないけど、まあいいよ」そう返して立ち去ったブルックスの耳に、数分後、ピシッという音が響いた。最初はネイルガン(自動クギ打ち機)の音かと思ったけれど、そうではなかった。生徒・教師11名を殺害し、犯人二人も自殺。全米を蒼白にさせた、銃撃事件の始まりだった。
 ブルックス・ブラウン、ロブ・メリット著『コロンバイン・ハイスクール・ダイアリー』(太田出版・2004年、原著は2002年)は刊行当時から気になりつつ読みそびれていた本だ。たぶん事件に衝撃を受け、関心を持ち、もっと早く読んでいた人も多いと思う。どんな読後感を持たれたでしょう。強烈な題材の本なので、また読まれた時期によっても、受けた印象は異なると思う。以下は僕個人の、それも事件から15年も経っての感想なので、その印象を大事に持ってる人には「それは違う」となる内容かも知れない。と断ったうえで−
 今回いろいろ縁あって手に取る機会ができ、(ようやく読める)と思うと同時に(読まなきゃいけないのかあ)と重苦しい気持ちにもなった。犯人の少年二人がスクールカーストの下位として、(アメリカの高校ではエリートである)スポーツ優等生たちにイジメを受けていたこと・それに対抗するように「トレンチコート・マフィア」を名乗るようになった二人が未成年でありながら大量の銃器を入手し犯行に及んだこと・彼らがナチに傾倒していると言われたこと・そして世間が非難の矛先として暴力的なゲームソフトやマリリン・マンソンなどのロックミュージシャンを攻撃したこと、などなど予備知識はあった。本の概要によれば著者のブルックスは自らもエリックにホームページで「殺す」と標的にされ、また事件後は犯人と親しかったため、あらぬ嫌疑をかけられバッシングされたという。これだけの内容を予告されて、本を開くには、ひどくつらい読書になるという覚悟がいる。
 けれど、実際に思い切って開いた『コロンバイン・ハイスクール・ダイアリー』は、読み手を痛めつけ、苦しめるような本ではなかった。少なくとも2014年の僕はそう感じた。もちろん事件そのものが遠くなったこともあるだろう。だがそれ以上に、著者であり当事者でもあったブルックスの、丹念で冷静な筆致に救われたのだと思う。
 語り手のブルックスはディランのほうと、小学生の頃からの親友であったという。ともに学校に通い、ともに教師や学校という大人の理不尽に苦しみ、暴力的な格闘・戦闘ビデオゲームに逃避と楽しみを見出した。その後、転校などを経て再会したディランはエリックと親友になっており、友達づきあいはするものの、事件の一年前・些細なことで仲違いしたブルックスはエリックのホームページで名指しで殺害予告され、いやがらせを受ける。
 ブルックスとエリックは互いに避けあい、板挟みになったディランも苦しんだことが示唆される。だが最終学年にエリックと同じ授業を取ったブルックスは和解を持ちかけ、エリックもそれを受け容れた。エリックは変わった−彼の脅迫に苦しめられた両親は信じなかったが、ブルックスはそう信じた。しかしその時すでに、エリックとディランは爆弾と銃による高校での大量殺害計画を着々と進めていた…。
 同じようにイジメの脅威に晒された身としてブルックスは、エリックとディランがイジメ(というかそれを許す学校制度)の被害者であったことを証言する。しかし同時にエリックの狡猾さ・邪悪さに脅かされた体験もまた彼のものだ。
 読むとさまざまな「なぜ」や「たられば」が胸にせりあがってくる。
 ディランと別の小学校に転校したブルックスは両親の指導で文学に親しみ、高校ではディベート部と演劇部に居所を見出した。だが同じ演劇部に加わり音響の手際を見せたディランは銃撃と自殺を選んだ。彼らの道を分けたものは何だったのか。どこかで犯行への道から引き返させる手立てはなかったのか。エリックの脅迫を訴えるブルックスや家族の声に、警察がもう少し真剣に耳を貸していれば凶行は防げたのではないか。そして、一時は殺すとまで憎んだブルックスを「お前のことは嫌いじゃない」と見逃したエリックの内心には何があったのか。
 それらに対する最終的な答えは『コロンバイン・ハイスクール・ダイアリー』の中にはない。だが当事者のブルックスがそうして問いを列挙し、吟味する過程には、読む者の痛みを和らげる静かな意志の力があるように思えた。暴力的なゲームや映像・音楽は人の逃避先かも知れないが、だとすれば問題は何から逃げたいかであって、暴力を生む原因は(逃避先のエンターテインメントではなく)エンターテインメントに人を逃避させる「何か」のほうではないかと冷静に指摘したうえで、彼は言う。
「現実世界では、物事は納得のいかないことだらけだ。
 ぼくらは、クラスメイトが、愛し育ててくれるはずの両親から殴られるのを見た。
 友達が、自分の母さんがどんなに父さんを嫌っているかについて話すのを聞いた」
「テレビやインターネット上だけじゃなく、毎日の生活の中で人種差別や性差別、文化的抑圧を見てきた。
 こういうことが、ぼくらが尊敬する大人たちによって行なわれた」
「キッズは、学校でも政治でも、力を持つ大人たちに日常的にウソをつかれている。
 ぼくらの世代は、当たり前のこととして“不正”を受け止めるようになった。
 キッズは、日々落ちこぼれ、そしてあきらめていく。
 どこにも決まった基準なんてないし、希望を持てる理由もないと信じるようになる」
「でも、テレビゲームは違う。
 テレビゲームの中では、わかっていることだけを得ることができる。何も変わらない。
 だからテレビゲームは、2つのこと−正義が行なわれるということ、
 自分の行動によって正当なものを得ることができるということ−が約束されている」
「エリックとディランはこの魅力的な幻想へと吸いこまれていった。
 家だろうと、学校だろうと、バーだろうと、麻薬の取引場所だろうと、テレビゲームだろうと、
 物事が完璧に思える場所があるとき、人はできるだけそこに行こうとする。
 そこではすべての筋が通っていて幸福が存在している。
  “幻想”という名のドラッグだ」

2)
 個人的には、コロンバインといって思い出されるのは(マイケル・ムーア監督の『ボウリング・フォー・コロンバイン』ではなく−アメリカの銃社会を告発するこの映画にはブルックスも協力・出演している)事件をモデルにしたガス・ヴァン・サント監督の映画『エレファント』だ。
映画『エレファント』予告篇(YouTube)
 『エレファント』は、恐ろしい、観る者を打ちのめし、心に傷を与える映画だった(少なくとも僕にはそうだった)。先に記した『〜ダイアリー』を読む前の逡巡は、またあの映画のような苦痛を追体験しなければならないのか、という予断のためでもあった。
 題名の『エレファント』とは・すごく巨大なものが傍に居るのに皆が気づかないふりをしているもの・皆が触れ「こういうものだ」と語るのに各々の証言が違い実体がつかめないもの(群盲象を撫でる)、などの意味あいでつけられた、らしい。銃社会に容認的な共和党のシンボルを示唆しているとの解釈もあるという。
 上手く説明できるか分からないが、『エレファント』は「ここに象がいるぞ」と警告し脅かすような映画だった。犯人となった二人も、彼らをいじめていた優等生も、彼らの犠牲となった生徒たちも、小さな教室で不安や恐怖・不快や侮蔑・憎悪・圧力が混然一体となった巨大な象に押しつぶされそうになっていたのだ。当てずっぽうにナチがとかゲームが、ヘヴィメタルがと原因らしきものを名指して安全を標榜する者に胡麻化されてはいけない、象がここにいる、象に気づけ!象に押しつぶされていた生徒たちの恐怖や苦しみに気づけ!
 一方で、『コロンバイン・ハイスクール・ダイアリー』は当事者として事件の最も近くにいた元生徒が、丹念にその象を解体する「物語」であるように、僕には思えた。
フィクションという意味では、もちろんない。事実の解釈としての「物語」だ。
 僕は自分の得たものを基本的にはなるべく「得てよかったもの」として正当化するので、『エレファント』で得た心痛と恐怖を、間違ったものだとは思わない。おそらく(都合のいいものに原因を帰して、勝手に解決したと決めつけないために)どちらもが必要なのだ。「ここに象がいる、見ないふりをするな」と警鐘を鳴らす『エレファント』と。「ここに象はいない。いたのは、二人の(そして大勢の)人間だ」と示そうとする『〜ダイアリー』と。

3)
 最初の主題に戻るけど、もっと早く、出版当時に同書を読んだひとの得た感想は、これとは違うかも知れない。2008年に日本の秋葉原で無差別殺傷事件が起きた時に同書を読んだひとが得た印象も、また違うものだろう。僕自身は自分がこんなに遅くなって同書をようやく読んだことを「それはそれで、いま読むことに意義があった」という前提で活かしていくしかないので、「逆に今こそ読むべき本」として同書を読み終えた。そう考えたとき、残念ながら、今この本が教えてくれる・同書の考察や告発が当てはまりそうなことは、とても多い。
 そんなわけで『コロンバイン・ハイスクール・ダイアリー』。超いまさらな一冊ですが、(もしかしたら自分と同じように)未読で・かつあの事件に強い恐怖と忌避感を憶えたひとには、それと和解し克服する助けになるかも知れません。そして、今この小世界で「象」の脅威に押しつぶされそうになっているひとには、何かの手がかりになるかも知れないと。
(↑と、何の気なしに書いた後で意外に直接な教唆になってると気がついたけど、そこまで直接そう意図したわけではありません。そう思われても別にかまわないけど。それに今はもう象じゃないんですね)

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