記事:2014年10月 ←1411  1409→  記事一覧(+検索)  ホーム 

パンと日向の間で〜おざわゆき『あとかたの街(1)』(14.10.08)

 あらかじめ謝っておくと『あとかたの街』の話は最後にチョロっとしかしない。まずレヴィナスの話をする。でもこれも最初にチョロっとしかしない。いつもと同様、自分の考えたことばかりを話す。

 1)
 はい、2ヵ月ほどかかって、件のレヴィナス『存在の彼方へ』(合田正人訳・講談社学術文庫)読了しました。肝心の内容については「これから時間をかけて自分の血肉になっていくと好いですね」としか言いようないのが悲しいが(ダメじゃん!)。自己と他者の抜き差しならぬ関係について、何度も何度も言葉を変え、説き重ねる叙述が終盤になって突然「ところで自己に対して他者がただ一者なら(まだ)話は簡単だが、他者が複数の場合があって」とポアンカレの三体問題(※1)みたいなことを言い出した時には「助けてー!」と思いましたが。
 中身は兎も角、冒頭にエピグラフとして引用されたパスカル『パンセ』の一節が強烈で、読んでいる間ずっと頭の片隅にあった。いわく
【「そこはおれが日向ぼっこする場所だ。」
 この言葉のうちに全地上における簒奪の始まりと縮図がある。】
簒奪とか言うと、またぞろ難解になるので、乱暴だけど「不幸」と言い換えてみようか。
「そこはおれが日向ぼっこする場所だ」という言葉が、全ての不幸の始まりである。
 なんとなく、分かる気がする。
 たとえば電車の中で。自分が座りたいのに席が埋まっていた。
 あるいは、席は確保できたが自分が一番座りたい端の席ではなかった。
 あるいはあるいは、端の席に座れたが、自分は一人ぼっちで、向かいに座った二人組は楽しそうだ。
 そんな一々にイラッとする。不愉快になる。自分が何かを侵害されたような、被害者意識が芽生える。こうして列挙すると、みみっちいなあ自分!
 絶妙なのは「日向ぼっこする場所」という表現で、(パスカルが生きた17世紀フランスで、日光浴できる場所の確保が生死にかかわる大問題だった可能性は低いと考える)、当人の心の広さに反比例して、つまり心が狭いほど「俺のものであるべき日向」は逆に拡大する。
 こういう「ほしがり」は欲張って日向を得れば得るほど増大し、最終的には破滅に至るとはトルストイもルネ・ジラールも、表現は違えど説くところだ。
 自身も周囲も破滅させる、そのような渇望から逃れるには、どうしたらいいのか?ホロコーストを生き延びたレヴィナス先生は「自分の口にくわえているパンすら、もぎとって他人に与える」逆にそれが人間性だと説く。
 …敢えて言いたくもなる。あのぅ先生、「他人が息をつき休む場所まで自分の日向ぼっこのためにほしがる」と「自分の口にくわえてるパンまで他人に与える」、どっちの極端でもなく丁度いい中間ってないもんでしょうか?

 2)
 自分の口に加えたパンをもぎ取らなくとも、他人に与えられる余分なパンがあれば。皆が日向ぼっこできる十分な空間があれば。
 あるいは、今は全員に十分な日向が行き渡らなくても、これから日向が(パンも)増える見通しがあれば。
 言い方を変えよう。
 逆に、日向もパンも限られた乏しい状態が続いたらどうなるか。
 今の社会、この日本(や、もしかしたらもっと広く世界全体)の不幸の多くは「パンや日向が増える見込みがない」窮乏感に起因しているのではないだろうか。
 つまりは景気回復の見込みがないということなのだが、今この日本で誇りだ維新だ美しい国だと勇ましいスローガンで拳を振り上げる人たちが、では具体的に何を訴えているかといえば「在日の外国人から権利を取り上げろ」「俺たちのパンを甘えた生活保護者に与えるな」「民間バスの運転手より市営バスの運転手が給料が高いのはけしからん、民間なみに落とせ」「文楽も市民楽団も補助金をカットする」「あの小さな島の領有を力づくでも確保しないと隣国に全部とられてしまう」「カジノを作って最初は外国人の客しか入れず外貨を稼ぐ」「これからは文系の大学は止め、国益に直結した理系の大学ばかりにする」「日本男子がベビーカーなどに場所を譲れるか」←NEW「消費税を10%に上げないと、社会保障が減るけどいいのか」←NEW
 潤沢にパンと日向があれば、やがて潤沢に手に入るという見通しさえせめてあれば、こうではないだろう。素晴らしい国・世界中から感嘆される日本と自称しながら、実際に吾々の言っていることは、財政が逼迫し、何処の支出を削ろうか汲々としている不幸な一団のそれだ。(※2)
 当然に、サークルの内部もギスギスする。外国人を排斥しろとか、若い母親は甘えているとかいう意見は、実は愛国だセクシズムだといったイデオロギー以前に、少なくともイデオロギー云々と同程度には「貧すれば鈍する」「貧すればいがみ合う」日向が、パンが足りなくなる・与えられるべきでない者から取り上げるしかないといった経済的な余裕のなさに基づくのではないか。
 2の最初に戻ると、この百年だか二百年だか、世界はパンが増える・日向も増える=経済は成長するものだという物語に支えられ(いがみ合いもあれど)和やかにやってこれた部分もあった。のではないかと思う。だが、その物語は(そろそろ・あるいはすでに)有効期限切れなのではないか(※3)。もしそうだとしたら、生活保護者層もベビーカーも押しのけて自分の日向は確保しちゃると息巻く日本男子は例外として、どうしたら人の口からパンを奪わず皆でやっていけるか、真剣に考えなければいけないのかも知れない。

 3)
 パンや日向の欠乏・窮乏から「受け取る資格のない者から取り上げろ」という方向に進んでしまい、文化や自由・あるいは助け合いといった心の余裕も窮乏状態に陥る不幸を、この国は一度経験している。
 現在連載中の、おざわゆきさんの漫画『あとかたの街で』単行本第一巻に(講談社KCデラックス)こんなエピソードがある。太平洋戦争末期の名古屋である。ヒロインの少女あいに学校で厳しくあたり、容赦なく彼女を叱責する女教師が、ついに少女たちが軍需工場での労働に駆り出され、学業中断を余儀なくされた時「どんなところに行っても、学びの契機はある。学ぶことをやめてはいけない」と意外な言葉をかけるのだ。
 偏狭で冷酷と思われた人物が、実は学びの情熱をもつ善人だった、という美談と解釈することも出来るだろう。だが僕には、そのような志をもつ教師が戦争する国に尽くせと説く以外できない、教えの自由や可能性を切り詰められた心の窮乏が恐ろしかった。
 個人のレベルでは、まだ貧窮をやりくりして楽しむ余地もあるかも知れない。だが、三体問題や複数の他者ではないが、家族を抱えていたり、共同体の一員として責任を問われれば、心の余裕が削られ、自由や可能性の窮乏状態に陥るのは簡単だろう(というか、そういう道から逃れることは、まさに自分の口からパンをもぎ取るような困難を伴うだろう)。
 他の読者が、著者ご自身が、この女教師のエピソードをどう捉えるかは分からない。作品を読むひとの中には、たとえば著者一流の生活描写やヒロインの淡い恋愛、幼い妹の子供らしい振る舞いをもって、悲惨な戦時下でも愛すべきものはあったと「よかった探し」をするひともあるだろう。同じ著者の、シベリア抑留を描いた前作『凍りの掌』では、僕もそのように過酷な状況下でも生き抜くひとの命のうつくしさや愛おしさを感じずにはいられなかった。
 けれど、そうした「せめてよかった」で、物語が示す、物資から心へ波及する窮乏のおそろしさ・「こういうことはいかんのだ」という告発を帳消しにしてはいけないとも、思うのだ。
 実は同作は単行本の2巻が今週末にも刊行される。いよいよヒロインの暮らす名古屋が空襲に見舞われるという。おそらく怒涛の展開となるだろう中で、1巻で自分が感じた不幸は消し飛んでしまうかも知れない。そうなる前に念のため、記録として残したかった今回の日記でした。(偏った読みではあると思うので一応あやまっておこう、すみません…)
 
※1)ポアンカレの三体問題:二つの天体(地球と月とか)の間に働く引力の作用等について計算するのは簡単だが、天体が三つになると複雑すぎて容易に解けないという話。
※3)ルネ・ジラールの思想を発展的に受け継ぐジャン=ピエール・デュピュイが近年のNYの市場崩壊などに際し、資本主義が世界を(まだ)平和に保つ力・を失ないつつあるのではと指摘している話が個人的には興味ぶかいのだけれど、今の自分は説明できるほどの理解がないので後日の宿題。
※2)逆に景気のいい話といえば道頓堀プールくらいだが、アレはアレであんまりである…
(c)舞村そうじ/RIMLAND ←1411  1409→  記事一覧(+検索)  ホーム