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猫だつて夢を見る【前篇】〜キム・オンス『設計者』(2015.10.03)

 【0.まくら
 外国の小説に「日本」関連の話題や小物が登場すると、やっぱり「おっ」と注目してしまう。
 韓国の小説『野良猫姫』では物語の終盤、米原万里氏(がエッセイで取り上げているロシアの詩人の猫にまつわる詩)が話題に登る。
 一方『設計者』では『優雅で感傷的な日本野球』の書名が出るほか、主人公が対峙する高級コールガールについて「女が裸で棒立ちになるまで五秒もかからなかった(中略)。痩せているのにとびきり大きな胸が、日本のポルノ漫画に出てくる美少女みたいに奇妙な印象を与えた」という描写があり、これはもう吾らがHENTAI文化の浸透を喜んでいいのか嘆いていいのか…
 ※英語圏で日本のエッチなアニメのことを「HENTAI」と呼び、とてもいたたまれないのですが、これ実は日本人の理解する「変態」「変態性欲」ではなく、そもそも「エッチ」の語源がHentaiの頭文字であることから「エッチなアニメ→HENTAI」という誤訳が生じたのではと、つねづね思っているけれど何ら根拠はありません

 【1.設計者
 亡き丸谷才一先生のエッセイに「理想的な読者」の逸話がある。
 音楽学校で英語を教えていた若き日の先生と、同じ下宿(今でいう「シェアハウス」のやうなもの)に住んでる大学生で先生、何か面白い小説ないですかねとやって来る。丸谷先生が『一九八四年』…とか『ゼンダ城の虜』…などと答えると
分かった、分かりました!それ以上はどうか何も言わないでください

と耳を塞ぐように叫ぶや、本屋に駆けて行ったという。
 この稀有な大学生氏のように、面白い小説を読みたいが、タイトルより先の余計な予備知識は一切ほしくないという清廉の士がいたら、あなたが読むべきはキム・オンス著の『設計者である。クオンという出版社が出している「新しい韓国の文学」というシリーズの一冊だ。さあ本屋もしくは図書館に走れ。

 …一応これで人払いが済んだことにして、『設計者』の話をする。あくまで個人の感想なのだが、
 ヘンな小説である
 最初の印象は、細部までリアルに、冷徹に書き込まれたエンターテインメント・現代史を裏で操ってきた暗殺集団の非情な物語だ。
 だが韓国の新しい「文学」という二文字に惑わされ「これはひょっとして、ハードボイルドの毛皮をかぶった『文学』ではないのか?」と疑い始めたとたん、この小説は、ポール・オースターの初期作品がミステリや探偵小説の体裁をとった変てこな何物かであった、その同類としか思えなくなってくる。

 主人公レセンは暗殺者である。物語も後半、その彼が残酷な意図をもって、とある家屋に侵入する。「ミサの編み物部屋」と名づけられた、手芸小物店と教室を兼ねた店内には、キルトで作られた売り物の作品が並ぶ。「動物」と分類札のついた棚には、アニメのクマ(プーさんである)やチータと一緒に「テレタビーズ」の面々が。主人公は内心でツッコミを入れる。
 テレタビーズ、動物でいいのかよ?
 ツッコミを入れたいのはコチラだ。標的の棲家に侵入した暗殺者が考えることか、それ?
 あくまで個人の感想なのですが、振り返れば、この主人公、ここまで計画どおりに暗殺任務を遂行したことが一度もない。
 「今日は暗殺向けの日じゃない」と決行日を無断で延ばす。保存を命じられた標的の遺体を勝手に火葬し、しこたま怒られる。標的の家に招かれ夜食をゴチになる。苦しいのはイヤと標的に懇願され、苦しくない殺し方に変更する(それが上にはバレバレである)。
 暗殺者と標的・本来ありえない間柄で生じる心の交流。と言えばもっともらしいが、本来ありえない事態が任務のたびに生じすぎだろう。
 きわめつけは任務失敗のほとぼりが冷めるまでと潜伏を命じられた田舎町で、のこのこ外出・適当にでっちあげた履歴で面接を受け、なぜか工場で働き出す。危険なメッキ加工に従事し、そこそこ熟練する始末。同僚の女工と同棲を始め、家庭のようなモノまで作り始めるが、そうした逸脱を一切とがめない(それもそれで、なあ…)たった一言の帰還命令で全てを捨て、古巣に戻ってしまう。

 これは何だろう。人生の比喩か。
 思えば主人公が負う任務のひとつは、超ベテランの同僚が標的を目の前にして突然やる気を(殺る気を)なくし失踪した、その後始末であった。歴史の裏でうごめく暗殺組織は、言いつけ守らん子の集団か。いや、「どんな綿密で非情な計画も、むしろそれが緻密であればあるほど、人間性という綻びによって瓦解する」という寓話か。
 すべてが崩壊しエントロピー(無秩序)に帰すことは世の理(ことわり)であり、それに抗うのがヒトや生命の栄光なわけだが、すべてを掌握し支配しチェスの駒のように操ろうとする社会においては、すべてを御破算にし無駄にする任務不履行こそが人間性の証になるという逆説。
 …なんだかもっともらしい説明になってしまったが、実際には『設計者』は、持続する緊張感と予想を裏切る展開・そして時々「これは何かの寓話かオトギバナシではないのか」と疑念を抱かせる登場人物の奇行や妙なギミックで飽きさせない、上質の読み物だ。

 ギミックのひとつに、孤児だった主人公が育ち、入り浸る暗殺組織の事務所が表向き「図書館」ということがある。
 もちろん本作では主人公もボスも、体裁のように雇われた司書も、本や読書を素朴に愛しているように描かれたりは、しない。「主人公、読書家だってよ」と聞いてトキメく人が喜びそうな「孤独と暴力の半生で本だけが救いだった…」みたいな告白など、間違ってもしない。
 主人公のレセンからして「他に時間のつぶしかたを知らないから」本を読むとうそぶく青年。それでいて、件の潜伏してない潜伏先の小さな本屋でカミュの『ペスト』カルヴィーノの『木のぼり男爵』、僕など知らないようなヨーロッパの著者の本を買い漁る、そういう男だ。図書館の主たるボスは定期的に蔵書すべてを処分して、まるごと他の本に入れ替える。そして、そんなボスのお眼鏡に唯一かなった司書は勤務中も編み物しかしない。
 そういうのに、むしろ惹かれる、いや惹かれるって程じゃないけどね!という面倒くさいヒトにオススメかも知れません。

 娯楽作品として読ませてくれることは最低条件、でもそれ以上の「なんとも言えない感じ」を求めるヒトにもオススメです。

(後篇に続く/後篇では同シリーズの別の小説『野良猫姫』を取り上げます)

猫だつて夢を見る【後篇】〜ファン・インスク『野良猫姫』(2015.10.08)

 『設計者』の主人公・殺し屋レセンは読書家でありながら本への思い入れを不思議と語らない男だが、猫を二匹ほど養っていて、そちらは素直に可愛がっているようだ。いや、読書という行為にも愛着はあるのか…飼い猫の名は片方が「書見台」だという。(もう一匹は「スタンド」。)
 状況に追い詰められ、決死の反撃を決めた彼は、行きつけの猫カフェ(「LIKE CATS」という店名は「猫のように」?それとも「猫を好きになれ」?)に二匹を託す。彼は言う。
こら、お前たち。野良猫のお姉さん方がどんなに大変な生活をしているか、知ってるかい?
 外に追い出されたら、お前たちみたいな弱虫は一週間も持たないだろうよ。
 外はとても怖いところなんだよ
 …いや、どうだろう。捨てる神あれば拾う神あり。街路に捨てられた野良猫にも守護者はいる。ブルーナの絵本で水鳥にパンくずを運ぶ少女のように、キャットフードを携えた娘が角を曲がってくる。

 【2.野良猫姫
 クオンという出版社が出している「新しい韓国の文学」というシリーズで、もう一冊とりあえず手に取ったのがファン・インスク著の『野良猫姫』。
 前に日記で紹介したとおり、世界各国の文学・文化に向き合う研究者や関係者が、それぞれの国の、日本未訳のオススメ本を紹介する親切だか意地悪だか分からない書評集『いま、世界で読まれている105冊2013』で取り上げられた一冊。紹介者の生田美保氏が自身で訳してしまったのだが、あとがきによれば同書での紹介後、賛同者を募るクラウド・ファンディングで資金を集め、日本での出版にこぎつけたらしい。ある意味とても、この本らしい経緯と言えよう。

 要約するのは、いちおう簡単だ。「冷え冷えとした街で野良猫たちに餌を与え、世話をしに通う『野良猫姫』こと少女ファヨルの物語」。別にロリコン趣味はないけれど(あ、少女ちゅうてもハタチです)前半、野良猫の世話に通う話なにそれ読みたいという「LIKE CATS」な人は、まず読んで間違いなし。たぶん(現実の猫とはあまり縁のない)僕よりも、この本をリアルに読める人が沢山いるだろう。
 活写される、
 美形猫から威張りん坊、いじめられっ子の仔猫まで、ファヨルが気にかける野良猫たち。
 野良猫をあるいは疎んじ、あるいは慈しむ街路の人々。土砂降りの夜、スーツがずぶ濡れになるのも気にせず(ファヨルが特に気にかけてる太っちょ「ベティ」の)発泡スチロールの猫ハウスを直してくれたオッちゃんは、感極まったファヨルが「ああベティよかったね!ありがとうってお礼を言わなきゃ!」と言うと
こいつの名前、ベティっていうの?俺はデブりんって呼んでたんだけど
しかもこのオッちゃん、ベティにいつも猫缶まるごと与えてたことが判明。デブらせてたの、あんたか!!

 そして、自身も捨て猫のように生きるファヨルを慈しむ周囲の人々。
 両親に去られ、自らも(家族として遇してくれる)親戚の元を去り、高校をドロップアウトしてコンビニ店員として暮らすファヨル。子ども時代の暗い記憶がよぎったりして、最初は猫のように(LIKE CATS)よるべなく悲しく描かれた彼女の日常は、ネットで知り合った愛猫家サークルでの交流や、周囲の大人たちの気遣いや庇護によって、だんだんと和らいでいく。
 恋も芽生える。読書家のファヨルに対して「本なんか読んだことねー」みたいな感じのピルヨンは年下の男の子。はにかみ屋でオートバイに夢中な彼と、次第に惹かれ合っていくのだが、ファヨルの一人称の語りでは「この坊や、私のこと好きなんじゃねーの?かわいいやつめ」いや、まんざらでもなさげな顔してる君も十分「かわいいやつ」だから!

 …こんな話をするはずではなかった。
 『野良猫姫』の魅力は、わざわざ面白げに誇張する必要のない、淡々とした筆致であるように思う。淡々とした視点、淡々とした描写。言うなれば主人公ファヨルに憑依した作者の立ち位置そのものが、なんというか「野良猫姫」的なのだ。
 実はこのことは、巻末の訳者あとがきに引用された著者自身の言葉によって裏づけられてしまっている。詩人として文筆のキャリアを歩みだした著書は言う。
「私の詩には哲学がない。(中略)
 私の詩には「なぜ」がない。したがって、「だから」もない。
 せいぜい「どうである」という、もの憂く、弱々しい、“猫が持つくらいの存在感”が関の山である。
 (中略)が、“猫が持つくらいの存在感”を「たかが」と私は言えない
このように作者自身に本質を射抜かれてしまうと、感想を書く側は非常に困るのだが
 ゴシップめいた話題も案外多い内容でありながら、それが生々しく読者をえぐりこんで来ない絶妙な距離感・隔絶感が『野良猫姫』の筆致や視点にはあるような気がする。たとえば物語の前半、愛猫家サークルで主役のように振舞っていたプレイボーイ氏は後半いつのまにか姿を消しており、その経緯は語られない。下世話と言えそうな話題もかまわず語っているようで、著者はファヨルに「語らせない」話題を注意ぶかく、あるいは直感的に選り分けている…ようにも見える。
 だとすれば作者はいずれ、この選り分け語らないことにした生々しい内臓をさらけ出すような小説を物するのかも知れない。もちろん「猫の存在感」にとどまることを選び続けるのかも知れない。それこそ下世話な、興味本位の話ではあるけれど…

 そしてこの「猫が持つくらいの存在感」で語られる距離感・隔絶感は、物語自体の色合いは正反対でありながら『設計者』にも何となく感じたものであった。
 それは案外、「自国以外の場所で、言葉で語られた」小説だからという単純な理由かも知れない。もっと単純に、自分が小説なるもの自体しばらく読んでおらず、他人行儀に接してしまっているのかも知れない。
 けれど、その隔絶感・押しつけがましくなさは「猫らしさ」のイデアのように(実際の猫のことは分からない)心地のよいもので、『野良猫姫』が御伽めいているなら『設計者』も御伽めいている、『設計者』がハードボイルドなら『野良猫姫』もそう、やはり両者には似た資質がある気がする。
 読む者をはげしく揺さぶり突き刺すのではない、かといって冷たいわけでもなく、じんわり浸透してくるような感情。悲しみや慈しみ、そしてボンヤリ感。
 (もちろんこの二冊がグッサリ「刺さる」人もいるだろうけど)
 そういう「猫感」を好しとするひとには一度(できれば二冊とも)手にして、その心地よさが僕だけの思い込みなのか、確認してみてもらいたいと思う。

 街路に捨てられた野良猫に心を寄せ、自らも野良猫と位置づける少女は、己が野良猫にキャットフードや居場所を与えるように周囲の人々から少しずつ慈愛を受け取り、やがて心のうちに育てていた夢を語り始める。先に述べたとおり、この邦訳の出版自体も、世話好きな人たちがよってたかって猫缶を持ちよるようにして実現された。そういう経緯で作られた本と、物語があり、それを手にして読めるのは仕合わせなことだと思う。

 というわけで、これは全く別の話だけれど『いま、世界で読まれている105冊2013』でも紹介され、今年のヒューゴー賞を受賞した中国のSF小説『三体』の邦訳は、その後どうなっているのだろう。
 さらに関係ないけれど、先月台北で本屋に入ったら日本未訳のフィリップ・プルマンの長篇(グリム童話を大人向けにリライトしたもの)の中国語版が出ていて軽くショックだった。
 『三体』日本語版を出すのにクラウド・ファンディングとかあったら、協力するにやぶさかではないのだが…。

世界に言葉を〜たなかのか『すみっこの空さん(8)』(2015.10.12)

 この数年間、もっとも楽しみだった漫画のひとつが完結してしまった。
 『すみっこの空さん(過去日記参照)』は尾道を舞台にした迷宮ファンタジー『タビと道づれ』で注目された(?)たなかのか氏の新作。登場人物たちが自らの思いに閉じこめられ繰り返す一日と町から出られなくなる『タビ』は胃が痛くなるような心理サスペンスだったが、『空さん』は田舎の平和な日常を祝福するようなコージーな作品だった。
 と、思ったのは最初だけである
 連れてこられた広島の田舎を「ギリシャ」だと、そこで知り合った幼女「空さん(くらて そら)」を「ソクラテス先生」だと思いこんだギリシャリクガメの「プラトン」。
 一方、プラトンの飼い主をなぜか「神さま」と思いこんだ空さん。
 古今東西の哲学の断章を織り交ぜながら、十分に発達した思いこみが魔法と区別つかなくなり、凡庸な毎日を驚きと発見の連続に変える。そんな平和な日常ファンタジイは、
 しかし思えば最初から、いつかは割れて中に閉じこめられた者たちを開放すべき卵(とゆうかカプセル)の要素・暗い情念と葛藤を併せ持っていた。

 と言っても、それは随分と淡く柔らかく、優しく描かれるようになっていたのだけれど。

 プラトンの飼い主である「神さま」は東京で挫折して故郷に逃げ帰ってきた絵本作家。一方、空さんの従姉「夕ちゃん」は故郷を飛び出し都会に出たいと望みながらも、頼りにすべき取り柄がない。
 空さんとプラトンの可愛くて深い「哲学」が、やがて少年「青ちゃん」や男まさりの「ありすさん」、周囲の大人たちまで巻き込むように。
 神さまと夕ちゃんの夢と挫折・その苦悶も、学校で孤立していた夕ちゃんに友を与え、画家志望のその友人がやはり持つ「カプセルから出なければ」という思いが神さまにフィードバックし…と、特に後半の物語を動かしていく。登場人物たちの境遇に大きな変化が訪れる最終巻、とくに最終話の怒涛の展開は予想以上のもので、この数年間、50話以上に及ぶ本作を見守り続けてきた読者は「この作者を信じてついてきて良かった」「でも、ここまですごいとは思わなかった」と満足したのではないだろうか。
 
 特筆すべきなのは、(哲学サイドの空さんやプラトンに対し)悩むサイドの主要人物であった神さま・夕ちゃん・夕ちゃんの親友ハルちゃんといった面々がともに絵や言葉で「表現する」「物語る」ことでカプセルを割ろう・外の世界に出ようとする人物だったことで、
 その思いが開花し、自らも小さな救済を得、世界に対しても小さな寄与と祝福をする大団円の結末が、
 「表現すること」「物語ること」の賛歌になっていたことだ。

 フレッド・アステアやジーン・ケリーといった往年のスターが歌い踊るミュージカルを見ていると、面白いことに気がつく。それはライオンの王様がどうとかニューヨークの不良少年たちの抗争がどうのといった事を(なぜか)歌い踊るのではなく、ショービジネスの世界そのものを舞台にし「ミュージカル最高」「ステージこそ人生」と言祝ぐ物語がけっこう多いということだ。バンド・ワゴン、雨に歌えば、コーラスライン…
 同じようなことはロックンロールにも言えて「ロックンロール最高」「ロック愛してる」みたいなことを歌う楽曲は、二つや三つではきかない。
 『すみっこの空さん』も、夕ちゃん・神さま・それぞれの結末で(まさに『すみっこの空さん』のような)物語こそが世界を祝福し、人々をリボンのように結び、作者自身をも開放し救済する、そのことを高らかに・あるいは慎みぶかく言祝ぐ最終巻になっている。

 だから、そうでない人には申し訳ないけれど『すみっこの空さん』は、特に作家をめざす若い人には響くものがあると思う。
 とくに最終巻・夕ちゃんのエピソードは鮮烈だ。
 あるいは作家をめざしてない人にも。
 思えば空さんとプラトンの「哲学する」とは、世界に言葉を与えることだった。哲学する・理解するとは、世界を適切に「語る」こと。そう考えれば、空さんとプラトンの軸・神さまと夕ちゃんの軸は、同じ広島の田舎で交わっていたのだ。
 「哲学する」を(世界を)読むと言いかえれば、「読むように書き、書くように読む(べきだ)」という、昔からある箴言になるだろう。
 私たちは、作家であろうとなかろうと、接する世界・触れる外界に名前や形容・定義や説明といった言葉を与えなければいけない。「言祝ぐ」とは本来、そういう営みではなかっただろうか。
 私たちは世界に向かって開かれる。私たちは世界に言葉を与える。物語る。言祝ぐ。世界を祝福する。空さんとプラトンがそうしてきたように。神さまと夕ちゃんが、これからそうするように。
 そのような促しを持つ、予想以上に深い物語であり、物語論であった。

 もちろん、ごくふつうに「ものすごく面白いまんが」と言ってもいい(あと、なんというか「広島愛(含むカープ)」にあふれた作品でもあった)。これ以上、この世界の続きを読めないことを惜しみつつ、完結を祝する。

(面倒がらずに一巻から読むのだ。もちろん向いてない人もいるだろうから、三巻くらいまで読んでダメなら諦めてよい)

厄介な啓蒙書〜ベルクソン『笑い』(2015.10.28)

 笑いとは「こわばり」であり、人が物化したとき生じる齟齬が笑いの源泉である−という著者ベルクソンの主張が、「笑いとは何か」という問いへの的確な解答なのかは、正直よく分からない。
 むしろ本書は「笑い」よりも、彼にとって「人間」とは何か・「命」とは何で、どうあってほしかったかを、雄弁に示している。

 (シリーズ・古典を読む)
 岩波文庫には何冊か「専門家が少し専門外の・いっけん学問的でなさそうなテーマを取り上げ、学術的に説き明かすことで、学問的思考へと読者を誘なう薄めの啓蒙書」みたいな位置づけの古典がある。ファラデー『ロウソクの科学』や九鬼周造『いきの構造』(いずれも未読だが)。岡倉天心『茶の本』や、これは他出版社だし文学だけどチャペックの『園芸家12か月』なども、この「初心者向け変化球の古典」に数えてよいかも知れない。
 見かけは取っつきやすそうでも西田幾多郎『善の研究』のように、素人には字面を追って読み終えた体裁をつくろうだけで精一杯な難書もある。
 ベルクソン笑い』は、薄くて取っつきやすいし、中身もまあ分かるけれど、厄介な一冊だった。

 人が物化したときに生じる齟齬・「こわばり」が笑いの源泉だと著者は言う。
 すなわち、著者にとって「こわばりとは逆のもの=自由や創発性・しなやかさこそが「命」であり、人のあるべき本義だった。
 その本義が裏切られ、人が物化・機械化するとき笑いが生じる(と、著者は説く)。
 たとえば「健康のためなら死んでもいい」というシステムの硬直化。
 わざと早口にまくし立てる・あーるーいーはー逆にぃースゥーロォォムゥォォォにぃぃ話ぁぁぁぁぁぁすぅぅぅぅぅ(もういい)、あるいは単純に舞台の上で滑ってコケるといった、肉体が精神を裏切る形での齟齬。
 動物がヒトのように振る舞い、ヒトが動物のように振る舞うことへの笑い。
 繰り返しも笑いを呼ぶ。なぜなら、本当の命とは反復とは真逆のものだから

 こうしたベルクソンの「笑い」論には、すでに多くの批評や批判・反論も寄せられているのだろう。反対意見の大半を「見当違いであり、私の論を超えるものではない」と斥ける自信も、著者は有しているようだ。
 僕は先に記したように、彼の論が「笑い」を説明するものとして妥当であるか否かは分からない。
 ただ二つほど、この百年以上前の(原著の発行は1900年)古典に対して、肯んじえない気がかりが残った。

 そのひとつは、すでにふれたように、著者は「笑い」を表題にしながら、人間や命・精神の自由をより高いものと見なし、そちらに憧れているように見えることだ。
 彼によればヒトは世界や自分自身にさえ、ありのまま接することは出来ない。世界や己自身はあまりに深く豊かすぎて直視したら呑まれてしまい、日常生活や社会の維持に支障をきたす。そのため、ヒトは自らの感性にフィルターをかけているのだ。詩や悲劇といった芸術は、そのフィルターを一瞬めくり、真の世界や人間自身の姿をヒトに垣間見させる
 …という高らかな芸術論に比べ、彼が笑いに与える意義は、そのパッとしない日常が(物化・機械化によって)こわばった時すかさずソレを解消し、ヒトを日常に戻す程度のモノでしかない。
 たとえばミステリとは何かを精緻に分析し、なるほどと納得させる本でも「でも本当に素晴らしいのは純文学であり、それに比べたらミステリなんぞは気晴らしにすぎない」と書かれていたらガッカリだろう。
 ベルクソンの「笑い」論は興味ぶかいし、人間論・芸術論も心を動かすが、できればその心を動かす賛美が「笑い」に対して向けられてほしかったと思うのが人情ではなかろうか。著者の分析する笑いとは、人間の精神が物化や機械化によって「こわばり」停滞している・それを正常に戻すためのアラーム、つまり「これはダメ」という否定でしかない。
 その論が正しいとすれば、人が完全に自由で精神的でのびやかになったとき(そんな時は来ないだろうが)その理想の人間には、笑いは必要ないことになってしまう!
 もっと笑いが何か肯定的なもの・人や世界の豊かさを祝福するものであってほしいと考える者は、本書にいちいちうなづきながらも、若干落胆するのではないかと思う。

 もうひとつ感じた気がかりは、いわば私的な言いがかりかも知れない。
 1900年のフランスの哲学者は、人は(たとえフィルタをかけられた日常であっても)活動的な精神であるべきで、物化・機械化・動物化は居心地の悪い「こわばり」で、「笑い」によって素早く解消されなければならないと、当然のように考えた。
 だが怒涛の百年が過ぎ、たとえば今のこの社会の笑いはどうだろう。むしろ制度やシステムをよしとする者が、それに追随できない者を嗤う・物が人間を嗤う笑いになってはいないだろうか。あるいは日々顧客のクレームという人間的な声に悩まされ、空いた時間にはスマートフォンのパズルゲームでルーチンワークの「反復」に癒やされる吾々は、ベルクソンの時代とは逆に、早く人間をやめて機械や物に化したいと願ってはいないだろうか。
 ただし、21世紀の笑いはシステムが人間を笑っていると考えたとき、ベルクソンが「笑い」を(世界の肯定や喜びの発露ではなく)こわばりへの違和感・不快を解消したいクシャミのようなものと捉えたことは参考になる。テレビのバラエティ番組の司会者だか誰だかが、客席で笑う人たちのことを、こう形容しているのを見聞きしたことがある。彼らはおかしいのではなくて、怖くて笑っているのだと
 
 基本、褒めたおす方針の本サイトにしては珍しく辛口?の感想になってしまったが、なんだかだ言って面白く、刺激される一冊。引用されている洒落や冗談は古めかしいけど油断するとツボに入るもので、個人的には一八七四年以来、再三取り更えられたにも拘らず、いつもかわらぬ厚意を我々にかけて下すった知事閣下が一番ツボった。
 また、ひと晩ナベで寝かせた茹で鶏のように冷淡とはいえ「笑い」・喜劇についての考察も考えさせられるのは確か。ことに終盤・人の性格で何が最も喜劇に向いているかの考察で
「喜劇に尽きせぬ材料を供給するためには、その性向は根の深いものでなければならず、(中略)
 かといって喜劇の調子を失わずにいるためには、表面的でなければならず、(中略)
 その性向を所有している者にはそれは見えてはならず、
 それが普遍的の笑いを惹き起こすためには、他のすべての人びとには見えるものでなければならず、
 傍迷惑至極なものであって(中略)早速矯正できるものでなければならず
 社会にとっては遣り切れないものであるが(中略)社会生活とは離れられない」…
そんな都合のいい悪徳があるか→それがあるのだ、それは…と示される「それ」は、自分にとっては60年後のルネ・ジラールの登場を予告するようで興味ぶかかった。
(c)舞村そうじ/RIMLAND ←1511  1509→  記事一覧(+検索)  ホーム