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恋愛的友情・共闘的恋愛〜『リプリーをまねた少年』『キャロル』(2016.03.22)

 リプリーをまねた少年、といっても「少年、パワーローダーで大暴れ」ではない。
 このリプリーはトム・リプリーシガニー・ウィーバー演じるエイリアンと戦うスーパーヒロインではなくアラン・ドロンの出世役となった『太陽がいっぱい』の主人公=友人である「富豪の息子」を殺害し筆跡をまねて財産を詐取した青年のことだ。
 もっとも、ルネ・クレマンの映画版『太陽がいっぱい』と違い、原作のリプリーは悪事も露見せず、まんまと逃げおおせる。マット・デイモン主演の『リプリー』が、より原作に忠実な再映画化となっていた。
 原作者パトリシア・ハイスミスは悪事を隠しおおせたものの後ろ暗い業から足抜けできず、罪を重ねる主人公を続篇で書き続けたようだ。『リプリーをまねた少年』(河出文庫)は、その一話にあたる。フランスで美術取引(実は贋作の)に携わるリプリーと、彼の怪しさに惹かれアメリカから訪ねてきた16歳の少年(また別の富豪の跡継ぎ)を交流を描く。今度のリプリーは少年を案じ、その身に迫る危難から庇護しようと奔走するのだが…
 作品の舞台は1980年。著者ハイスミスは1995年まで存命だった。作中のリプリーはルー・リードの名盤『トランスフォーマー』をターンテーブルに載せ、手すさびにクリストファー・イシャウッドの小説を読んでいる。これはハイスミス自身の趣味だろうか。
 イシャウッドはワイマール共和国末期・ナチズムの足音が聞こえるベルリンを舞台に、男と男・男と女の愛憎が入り乱れる『さらばベルリン』の作者だ。一方のルーも、そのプロットをなぞるように男と女・男と男の愛憎が入り乱れる(いや「女と女」もあった−名高いアルバムなので憶えてる人も多いだろう「ナンバー・ワンはパリから来た女ともだち」だった)『ベルリン』を、『トランスフォーマー』の次に発表している。そしてこの二作に導かれるようにリプリーと少年は西ベルリンに向かい、トラブルに巻きこまれた少年を救出するため、色々あってリプリーは女装で街の闇を駆け抜けることになる。

 30年代のベルリンが享楽の陰でナチスの軍靴を響かせていたように、1980年の西ベルリンに飛ぶリプリーは自身が住むフランスでの「ファシスト」ジャック・シラクの台頭に眉をひそめている。という具合に作者ハイスミスは、本作が一種の二重映し=投影であることをほのめかす。
 だが気になるのは、もうひとつの「ほのめかし」のほうだ。
 作中で繰り返し引用される『トランスフォーマー』の一曲「メイク・アップ」は内気な少女に「化粧して美しいレディになれよ」と薦めている…と取れなくもないが、むしろ男性に「クローゼットから出て」「カミングアウトしよう」とささやく楽曲…と解釈されるのがふつうだ。もっともリプリーは、自宅で奥さんが(妻帯している)この曲をかけるのを聴いて、少年が「美しいレディに変身した少女」=ニューヨークに残してきた彼のガールフレンド(少年を捨て年上の男に乗り替えた)を思い出し、失恋の痛手に塩をすりこんでいないかと気をもんでいる。どちらとも取れる歌詞を、逆手に取っているのだ
 けっきょく少年はこの少女への片想いに囚われ続けるが、二番目か同じくらいの、執着と言ってもよい熱意でリプリーを慕う。なつかれたリプリーも突き放せず、ひたすら少年を思いやる。リプリーが少年を心配するのは同じように失意に終わった、彼自身の(自ら手にかけた)親友への崇拝と同じ苦いものを、少年の破れた初恋に見ているからだろうか。16歳の少年が同い年の少女に想いを寄せるように、かつてのリプリーは富豪の息子との永遠の友情を夢みたのだろうか。
 彼らを動かす、これは同性愛なのだろうか。それとも、ただの友情か。

 『リプリーをまねた少年』で「ほのめかされる」のは、どちらも取れる、男同士の微妙な連帯だ。
 アラン・ドロン版『太陽がいっぱい』で、主人公と富豪の息子は、横並びでヨットを下りてくる。故・淀川長治氏の解説によれば、こういう場合、まして演出技法としては使い走りの主人公を一歩うしろに歩かせ上下関係・主従関係を示すものだという。それが同列に並んで歩いているのは、二人の友情というよりカップル=同性愛の関係を示唆しているのだと。
 『リプリーをまねた少年』でのリプリーは、少年と…まあ「ジェダイとパダワン」とも取れる微笑ましい関係とも言えるが…なんとも微妙な関係だし、「本業」でのクセのある同業者たちとの協力関係も「キャッキャウフフ」と言えなくもない怪しさをみなぎらせている。
 だが先ほどの問いに自ら答えてしまえば、(僕の見立てでは)それらは恋愛ではない
 むしろ男同士の友情や師弟関係が内に持つ崇拝や依存・身勝手な憧れの投影やそれが裏切られての失望・あるいは無条件の親切や信愛といったものは、恋愛とさほど変わらん・悶々とした感情も無償の厚意も恋愛の特権ではない、そんなことを再確認させられる『リプリーをまねた少年』であった。
 もちろんイシャウッドとルー・リードを投影した勢いに任せて、主人公リプリーを女装させてしまったハイスミス女史、(腐女子的に)ノリノリだなあ!と思ったし、リプリー当人も「こ、これが…私?」とは言わないものの存外に楽しそうだったし、リブート版の『リプリー』がもっと商業的成功を収めジェイソン・ボーンのようにシリーズ化されていれば、マット・デイモンの女装が観れたかと思うと残念でならないのですが…(そこか!)
イシャウッドは未読。すみません。
 そんなわけで、想定しないほど腐女子テイストをみなぎらせた『リプリーをまねた少年』だったが、考えてみたらハイスミスは50年代アメリカを舞台に女性同士の恋を描いた映画『キャロル』(現在ロードショー中、のはず)の原作者でもあった。というか映画『キャロル』がすごく好かったので原作者の他の小説を読んでみたくなったのだろう自分。物事の順序はキチンとしましょう。
 いや、皆さん観ましたか『キャロル』。好かったですねえ。
 映画『キャロル』公式(外部リンク)
 ケイト・ブランシェットルーニー・マーラ、美女二人を揃えながら、まるでおかまいなしに作中で大きなウエイトを占める自動車旅行の場面を車外から撮影し、ガラスに映りこう外の景色で中のヒロインふたりの顔が見えなくても全く問題ない!と言わんばかりの、絵作りの自信。(まわりくどいが、褒めてます)
 そして、ストーリー。
 先に「恋愛でない友情や師弟関係も、その内実の感情は恋愛のそれとさほど変わらん」と書いたのと逆に。心に茨をもつ有閑夫人キャロルとデパートの売り子テレーズの恋は互いの一目惚れ・ラズベリーのジャムが煮詰められるようにフツフツと甘く香りたつ、恋そのものだけれど、
 同時に二人は女みがきの師弟であり(おぼこいテレーズに「香水は脈の通うところ(=手首の内側と、首すじ)にだけつけるものよ」と実地に指導し、成果確認とばかり首筋に顔をうずめ嗅ぐ場面、レッスンがそのまま愛撫に移行するさまが技巧的)、無神経な男権社会と戦う同志であり、互いにもたれあい庇護しあい、もちろん駆け引きや、もしかしたら策略や出し抜き合いさえある、そんな何重映しにもなった関係として描かれる。
 二人は一丸となって世界と戦いあるいは世界に受け容れられようと挑み、互いに争うように与えあい互いを受け容れる。が同時に二人それぞれ一人の個として世界に抗いあるいは挑み、そして自分自身の思いと対決する。終盤、
ここから先、ネタバレにつき記事をたたみます。(クリックで開閉します)。
 映画『キャロル』は可能なかぎり前情報を入れずに観たので、中盤のサスペンス展開は「なるほど、太陽がいっぱいやヒッチコック映画の原作者だ」と得した気持ちになりました。原作も読みたくなったし、作者ハイスミスの他の作品への興味も出てきたのは、すでに述べたとおり。
 そしてこちらの項も(リプリーをまねた少年と同様)しょうもない感想で落とすと、テレーズを演じたルーニー・マーラさん。人づきあいも苦手で奥手な娘という佇まいながら冒頭、四歳の娘へのクリスマスプレゼントでお人形を買いにきた初対面のキャロルに「お求めの人形は現在品切れです。私が四歳のときには列車模型がほしかったですよ」と売り場がプッシュしてるジオラマつきの列車模型セットをお買い上げさせてしまう悪辣さには、かの『ドラゴン・タトゥーの女』の面影が少しあったような?さすがリスベット、やることエグい!(そこか!)
『キャロル』原作は、これから読みます。
(c)舞村そうじ/RIMLAND ←1604  1602→  記事一覧(+検索)  ホーム