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アキレスの教訓〜リー・カーペンター『11日間』(2016.04.05)

 彼らは機関銃を「狙いを定めるために身を低く屈め」「肩の高さでまっすぐに構え」なければいけない「三キロを超える複雑な機械と呼ぶ。
 彼らは何も知らぬまま募兵に応じ、砲弾の降る塹壕で、ゲリラが潜む密林で、対人殺傷地雷があちこちに仕掛けられたバグダッドで、右往左往する「平均的な若者」ではない。
 戦争や紛争の流れを変える決定的な局面で、敵対勢力の主導者の邸宅をピンポイントで制圧する。そのために数百回に渡るシミュレーションを繰り返す。重装備のまま水中で何時間も活動可能な、最高度に鍛え上げられた兵士。
 米海軍特殊部隊〈SEAL(シール)〉。
 何が起きるか分からない戦場で主体的に判断を下し、状況を支配できる稀有なスキルを持つ、彼らは選ばれた存在・エリート中のエリートだ。
 その一人が作戦行動から帰還しえず敵中で消息を絶った時(極秘任務ゆえ何処で何をしていたかは伏せられたまま)ロストの事実だけが知れ渡り、マスコミや同情する人々が、一人で暮らす母親の元に押し寄せるほどに。

 リー・カーペンター11日間』(高山真由美訳・早川書房)は、今までにない戦争小説かも知れない。
 いや、あったのかも知れないが、とても新鮮だ。その印象の半分はSEALという特殊部隊のためだが、もう半分は思索的な語り口にある。物語の中心となる母と息子、それを取り巻く人たち。彼らの世界が非常に知的に構築されている、そんな印象を受けるのだ。
 内省的と言ってもいいかも知れない。だがその思索は現実から遊離して逃避の別世界を形づくるのでなく、常に現実にフィードバックされる。
 たとえばこんなふうに。
 徽章は四つの要素からできていた。錨、トライデント、拳銃、鷲。(中略)
 鷲は頭を低く保つ、謙虚さは本物の兵士のしるしだ
 地上(と水中)で最も精密正確な戦闘マシーンでありながら、彼らはアリストテレスから行動を学び、キップリングの詩を肩に刻む。歴史や神話もさかんに作中で引用される。

 本作が「新しい」だけでなく「新しい古典」の誕生を思わせるのは、引用にとどまらずストーリー自体、中心となる母と子が神話を連想させるよう仕組まれているからかも知れない。本作が明確にモチーフにしているのは、ギリシア神話の英雄アキレスだ。
 (国際政治の裏で駆け回る父親は、若い母親に子種を残して去った。そして自分より保護者に向いていそうな後見人をつけた。気紛れなゼウスが地上の女を孕ませ、生まれた子供に神々の「えこ贔屓」を与えるように)
 テルモピュライの戦いでペルシア百万の軍勢に三百人で立ち向かったスパルタ王レオニダスは、スパルタを代表する三百の男たちを、その母親の強さで選抜した。そう語る人物が作中に登場する。
 同じ文脈で語られるのが、英雄アキレスの逸話だ。母テティスは父なし子アキレスの足首をつかみ黄泉の川ステュクスに浸すことで、赤子に不死身の属性を与えた。この話の教訓は「偉大な兵士の背後には必ず偉大な母がいるってことだ」と息子の父となる人物は語る。いや、それは「母親はいずれ吾が子を手放さなければならないが、旅立つ子の安全のためならどんなことでもする」と教える逸話だと母親は思う。私は息子を川に浸すことも出来なかったと彼女は嘆く。
 「母親は吾が子のために可能なあらゆる手を打つが、必ず取りこぼしがあり、いずれ矢はそこに刺さり、母から息子を奪うだろう」という第三の教訓は、読者が自分で見出せるよう、取っておいてある。

 もちろん、21世紀の神話然とした本作にも決定的な瑕疵がある。それはこの現代に甦ったアキレスと母親のような英雄に対し、彼らを使役した9.11以降のアメリカの戦争が、負の価値ばかりを世界にもたらした、まったくの愚行だったということだ。
 本作の主人公は、戦争物語が描いた最も理性的なヒーローの一人だろう。その明晰な思索が「行動に移さない思索に何の魅力も感じない」と言うとき、僕は強い同意を感じる。その一方で、彼が従事した9.11以後のアメリカの「テロとの戦い」を肯定も出来ないと思う。
 だが思えばアキレスが、あるいは(本作の主人公と同じ名を持つ)イアソンが、命じられ従事した任務に、後世の吾々を納得させる大義があっただろうか?
 だとすれば、これは本作の瑕疵ではなく、神話の時代から連綿と続く世界そのものの瑕疵なのだろう。英雄の個としての達成や、チームとしての結束・同志愛の気高さに対して、それを収奪する「正義の戦争」の、なんと浅薄なこと。
 『11日間』の登場人物たちとて、その虚しさに(おそらく)無自覚ではない。一つの「配備」は数十〜百回にわたる出撃を内包している。四つの配備を無傷で生き延びた息子は、そこで敵手に落ちなければ、五回目の「配備」を最後の任務にするはずだった。

 しかし作品が描く世界の当否や是非について、空論をもてあそぶのはやめにしよう。
 最後になって思い出した(思い当たった)が、本作が暗示する母と息子は、アキレスとその母テティスだけではない。
 もう一人、世界史のうえで誰もが知る「父親を持たず母に育てられた息子」の面影を『11日間』の主人公に付与するのは「もう一人の女性」から贈られた、樹脂の小さな塊だ。南アフリカに自生するミルラという木から採られた、香料として、また傷薬として重用されたそれを吾々は「没薬」という名で知っている。
 そのギフトをお守りにして、息子であり恋人である若者は、最後の戦いに足を踏み入れる。
 「没薬をたずさえたアキレス」
 それがこの小説の要約になるかも知れない。美しい物語だ。

ブラック企業としての戦場〜安田純平『ルポ 戦場出稼ぎ労働者』(2016.04.06)

 昨晩は、今までの戦争物語のイメージを書き換える(かも知れない)特殊部隊の兵士・選びに選ばれた英雄の誕生を見た。量がぶつかる戦場で右往左往する「平均的」な兵士でなく、突出して秀でているがゆえに(平均とは別の形で)時代を体現しうる現代のアキレス。
 だが『ルポ 戦場出稼ぎ労働者』(集英社新書・2010年)で著者・安田純平氏は言う。(そうでなくとも)戦争では、兵士一人を百人が支えるものだと。
 今夜は英雄の叙事詩には計上されない、残り百人の運命を考える。21世紀の戦争のイメージは、昨夜とは正反対の方向から、またアップデートされるだろう。
 なお、この日記は同書に沿った話をするが、展開される論は必ずしも著者の見解どおりではないかも知れない。あらかじめ断っておくし、可能ならば原典にあたってほしい。

 戦争産業の止まらない利益追求と、世界的な軍自体の縮小化。二つの流れは兵站・基地建設・警備など、非戦闘部門のアウトソーシング=民営化という一点で交わった。
 サダム政権崩壊後のイラク。
 道路を敷設し、宿舎を建て、日に三度の食事を調理するのは特殊な技工を要することではない。そうした事業をイラク国内の企業に委ねれば、あるいは産業が生まれ復興を後押しし得ただろう。だがアメリカを筆頭とする多国籍軍は、自分たちの息のかかった民間軍事企業に予算を投げ与えた(いや逆か?ハリバートンなどの私企業が政府と軍に侵攻をけしかけたのではないか?)
 合衆国の私企業がイラクに乗り込み、その下で実務にあたる労働者は中東を挟んで反対側のインドやネパールから、かき集められた。
 もちろん生まれた国では望めない大きな報酬を得るチャンスもある。だが、海を隔てた異国の戦場・「従業員」が殺害されても「戦死者」に計上されない(だからこそ自国の兵士を簡単に戦死させられない現代の戦争で、民間の「従業員」が重宝されるのだ!)ような「職場」が、ブラック職場化しない事など有り得るだろうか?

 アジアからの出稼ぎ労働者によって支えられる「テロとの戦い」。その実情を取材するため、著者は料理人としてイラクの激戦地ディワニヤに入る。
 そこで見るのは、まず(どこか既視感のある)入国までにビザや仲介手数料をめぐって起きる「話が違う」「嫌なら帰れ」の応酬。入国後は迫撃砲弾の標的となる日々。疑心暗鬼のためインドから(!)取り寄せられ消費期限切れで腐っていく鶏卵。「派遣会社」の系統違いで生じるトラブル。現地から雇用に応じ「裏切り者」と脅迫されるイラク人労働者の不安と不満。
 そして給与は一向に支払われない。企業はまず自らが雇用した従業員から金を搾り取るものだと、マルクスなら言うだろう。いっけん民族間・宗教間で生じているように見える騒乱や反目も、多くは給与の未払い・経費の横流しなど貧しく生ぐさい要因に根を持つことが、本書では示唆される。

 本書には、もともと職業としての調理など未経験の著者が、いきなり現場に飛び込んでの見よう見まねから修行を重ね、料理長も作ったことのない「エビフライ」で評判を取り、ついには後任の料理長に就任してしまう冒険譚もあり(それも「一介の料理人では経費の流れが分からないから徐々に実績を積んで、最終的には現場のボスに」と狙っての所業である)、そこまでしてようやく見えてくるイラク社会とサダム・フセインの共依存(←これは僕の表現で著者に責はない)に関する考察もあり、新書の薄さが意外なくらい読み応えがある。
 だが結論を急ごう。
 年越し派遣村などが話題となった2010年の執筆時点で、著者はグローバル戦争企業への就業は、こんご労働環境が厳しくなる日本人にとって有り得ない選択肢ではないと考える。日本人に期待されるのは高度な技術で、それを持たない者は他国の志願者より「役に立たない」と門前払いされがちであるが、計画性と勤勉さで料理長にまで出世した著者の経験は、海外の戦場で日本人が稼ぐ可能性を示唆していないでもない。
 ただ、それよりも気になるのは(そして、著者はここまでは言ってないが)今後は日本人向けに戦場での仕事を仲介する国内の業者や、あるいは自衛隊の海外派遣をサポートする非戦闘部門といった国産の需要そのものさえ、出現しかねないのではないかということだ。
 徴兵制や経済的徴兵制といったことが危機として語られ、論議を呼んでいる。だが自衛隊という一人の兵士になるのでなく、それを支える残り百人となる形で、日本人が海外の戦場に国策として派遣される。そしてそこでは国内のブラック企業と同様の搾取やパワハラが横行する。そんな未来図は有り得ないだろうか。

 現代の戦争は格差と切り離せない、戦争に関心がない者は格差も受け入れているのと同様ではないか、本書の最後で著者は厳しく指摘する。このまま進めば、銃を持たずとも戦地で働くことは、現実的な選択肢に入らざるを得ない。自分は取材のため戦場にも入る、だが読者のあなたはどうなのだと、著者は問いかける。もしも、戦場に行きたくないという気持ちが少しでもあるならば、戦争をさせないということを真剣に考えるべき状況になっているのではないだろうか
 
 周知のとおり現在、著者の安田純平氏は取材中のシリアで武装勢力に拘束されている(という見方が強まっている)。有益な人物だから日本政府や国民は彼を支援すべき、と言うのではないが、氏を悪く言いたいがためにそのジャーナリストとしての仕事を軽んじる人は少しでも減ってほしい。

全人類必読〜デイヴィッド・ボダニス『E=mc^2』(2016.04.10)

 一冊の本を紹介するのに、その冒頭を丸写しするのは、本来は感心できたやりかたではない。だが本書の冒頭は素晴らしすぎた。概要はこうだ。
 ある映画雑誌に掲載されたキャメロン・ディアスのインタビュー記事。
 最後に「何か知りたいことは」と問われた彼女が答えていわく
 E=mc^2ってどういう意味なの?」「本気で知りたいんだけど
 愉快な話のつもりで記事を読み上げた著者が見回すと、
 部屋にいた数名−建築家数名、プログラマー二名、歴史家一名(著者の妻)は笑ってなかった。
 こうしてデイヴィッド・ボダニスE=mc^2〜世界一有名な方程式の伝記』(伊東文英・高橋知子・吉田三知世訳/ハヤカワ文庫ノンフィクション)は生まれた。ありがとう、キャメロン・ディアス。はっきり言おう。かくいう自分も「死ぬまでに理解できればいいなあ…」と、諦め半分に思っていたクチだ。シュレディンガーの猫を知り、超ひも理論もだいたい分かり、宇宙が十二次元(十三次元だっけ?)と言われても「おおむね理解した」と答えられる程度に関連書籍(ああそうとも「数式なしで理解できる」系のをだとも!)を読んできてなお、実は肝心のE=mc^2の意味が分からなかった。

 同じように実は理解できてなかった、全人類におすすめしたい。本書を読めば理解できる。
 あのうんざりするような列車なしで。「エーテル」という四文字が一度も出ずにだ。

 本書はまったく異なるアプローチを取る。方程式を構成する「E」「m」「c」そして「^2」。
 肝心なのは「E」だ。現代の吾々は高いところから落ちた水(位置エネルギー)が水車を回し(運動エネルギー)発電機を通して電気となり(電気エネルギー)部屋を暖めたり(熱エネルギー)LED電球を光らせたりする(光エネルギー)ことを、全ては同じ「エネルギー」が形を変えただけだと知っている。それまでバラバラに認識されていた「エネルギー」がすべて同一のものかも知れないという糸口をつかんだ、「電気が磁力を生み、磁力が電力を生む」というマイケル・ファラデーの発見から本書は始まる。
 「物が燃えると重量は減るのでなく、むしろ増える」というラヴォアジエの発見。あの最もとっつきにくい「二乗」の謎を解いてくれるのは、ニュートンの『プリンキピア』を仏語訳した才女エミリー・デュ・シャトレだ。もちろんキャメロン・ディアスもたやすく理解するだろう。時速120kmオーバーで車を暴走させトム・クルーズと無理心中を図った彼女なら(映画の中の話ですが)「^2」の意味は十二分に分かっているはずだから。

 「E=mc^2」の意味を理解させるという当初の目的は、本書の最初の3分の1でたやすく完了する。だが残り3分の2もページを繰る手が止まらない興味深さだ。
 中盤の3分の1で語られるのは「E=mc^2」が現実の力として発見され世界初の原子爆弾投下に至るまでの経緯だ。核分裂の発見。かのハイゼンベルク指揮下で成功直前まで漕ぎ着けていたナチスの原爆計画。それが『ナバロンの要塞』ばりの決死行で阻止されたいきさつ。そして1945年8月6日、広島の上空で起きたこと。数百万度を超える温度の火球がふくれあがり人々を焼き尽くし、超高速の衝撃波によって生じた真空状態が人体を破裂させるさまを、読者は克明な物理的現象として知るだろう(E=mc^2を抜きにしても、本書が人類にとって無視できない所以だ)。
 さらに最後の3分の1では火災報知機や医療分野などでの「E=mc^2」の平和利用を経て、すべての恒星が燃え尽き質量とエネルギーの交換がもはや起きない静寂の終末が示唆される。

 本書はファラデー、ラヴォアジェ、デュ・シャトレにヴォルテール、カッシーニやマクスウェル、忘れちゃいけないアインシュタイン、ラザフォードにオッペンハイマー、フレッド・ホイルにチャンドラセカール、あるいはマラーからハインリヒ・ヒムラーまで、キラ星のような登場人物に彩られた「別視点での科学史」でもある。
 一読して実感されるのは、いかに多くの聡明な発見が、それまでの権威や旧説にこだわる頑迷な大家・それに女性の活躍を認めない男たちによって無視され芽をつぶされ、あるいは逆に業績を横取りされたかという、この業界の生ぐささだ。人々はエゴイスティックで、科学的な知識も社会的な賢明さは保証しない。よしんば若い才能が旧弊をはねのけ成功しても、名声を得たあとは老いて自ら迫害者の側に成り果てる、その燃え尽きる速さは星の一生のようだ。
 著者は核分裂の発見者リーゼ・マイトナーや太陽の主成分が水素であることを見ぬいたセシリア・ペインが、同僚や上役の男性研究者によっていかに冷遇され裏切られたかを、おそらくは怒りをこめて描写している。同じ怒りが1920年代、まだ「コンピュータ」が電子計算機でなく人力の計算者だった時代=天文台で膨大な単純計算に従事することを命じられ才能をすり減らしていった女性たちを走り書きした一節にひらめくのを、読者は自身の怒りのように感じるに違いない。
 
エミリー・デュ・シャトレの評伝では右がおすすめ。辻由美『翻訳史のプロムナード』にも言及あり。

社会という魔法〜アーシュラ・K・ル=グウィン『コンパス・ローズ』『世界の誕生日』(2016.04.11)

 アーサー・C・クラークは言った、高度に発達したテクノロジーは魔法と区別がつかないと。アーシュラ・K・ル=グウィンなら言うかも知れない。十分に吾々の想像からかけ離れた社会制度は、SFと区別がつかないと。

 惑星O(オー)では、結婚とは男二人・女二人の四人一組でするものだ。結婚した男(女)は、残り三人のうち男一人・女一人とは性的関係を取り結ぶ(同性愛には何の禁忌もない)が、残る一人の女(男)とだけは性交することがない。
 これはSFだろうか?何か地球の雌雄とは生物学的に異なる、ユニークな性の形態があるのだろうか?人々が恋の季節にだけ有性となり男にも女にも成り得る『闇の左手』の惑星「冬」のように?あるいは最近はやりの「オメガバース」のように?
 そうではない。惑星Oには雌雄ふたつの性別しかない。ただ男女とも人口の半分は〈朝〉半分は〈宵〉の氏族に属しており、婚姻は朝の男女と宵の男女の四人で取り結ばれるのだ。
 そして朝(宵)に属する者は宵(朝)の相手なら男とも女とも性的関係を取り結ぶが、同属の異性には手を出さない。
 「佐藤さん兄妹」とグループ交際を経て四人同居した「鈴木さん姉弟」と置き換え、「佐藤となら兄貴とも妹ともオッケーだけど、実の妹とは…ねーな」という状態を想像すれば、分かりやすいだろうか。血を分けた兄妹や、一つ屋根の下で育った姉弟でなくとも、同じ姓の相手とは同族なのでインセストタブーが生じる社会は地球上にもある。
 特殊な生物学的属性や超能力・タイムマシンやシュレディンガーの猫の手も借りずに、社会制度だけでSFが成立しうるというのは、ひとつの発明だろう(ジョージ・オーウェルの『一九八四年』を実現するのに未来のテクノロジーは何ひとつ必要なかったはずだ−あれがSFかどうかは議論の余地もあろうが)。
 だが同時に、結婚は四人でするもの・別姓の二人および同姓の一人と家庭を築いて初めて一人前扱いされる(ねぇ貴方いつまで一人でいるつもり?何処かに、いい三人いないの?)想像のゲームを離陸させるためには、場所を別の惑星に設定し、全人口を二つだけの部族で二分する必要があった。その「SF的ガジェットは必要ないけどSFでなければいけなかった」按配には、なかなか味わい深いものがある。

 『コンパス・ローズ』(越智道雄訳・ちくま文庫)は80年代に幻のサンリオ文庫から出ていた短篇集の再文庫化。
 著者の関心がメインストリーム寄りになっていた時季の産物か。蟻が草の実に咬み跡で残した言語の解読に成功した!というノリノリのバカSF「アカシヤの種子に残された文章の書き手」や、謎めいた話が謎めいたまま終わる高踏な作品など、正直アウトテイク集・B面コレクション・小粒な印象は残る(面白いけど)。
 興き深いのは、現代のたぶんアメリカを舞台にした短篇「マルフア郡」だ。娘を事故で亡くした老母が、その後も家族として何かと気にかけてくれる娘婿と孫を新しい人生に送り出す。きわめて地上的な営みが、SFやファンタジイ・不可解系の作品群の中に並べられることで、図らずも宇宙規模の感慨がほのめかされる。
 逆に「グイランのハープ」はファンタジイ的な異世界で少しばかりユニークな女性と、まったく没個性的な男が出会い生涯をともにする物語だ。惑星Oの四人婚姻制よりさらに異世界でなければいけない必然性は薄い。が、それを敢えてファンタジイで描いたことから来る感慨(ファンタジイっぽい世界だからといって、皆が世界を救ったり世界の深奥に触れるわけではないし、勇者や姫以外の人生もあるのだ)もあり「マルフア郡」と好一対を成している。

 惑星Oを舞台にした「求めぬ愛」「山のしきたり」が収録された『世界の誕生日』(小尾芙佐訳・ハヤカワ文庫SF)は、シングルA面級の力作が居並ぶフル・アルバムだ。例えが古くてすまない。
 作者得意の文化人類学系SFの中でも、特に「孤独」は鮮烈な印象を残す。
 かつて宇宙でも類を見ない巨大文明を築きながら壊滅、以後数千年、家庭さえ作らず原始的な生活を続けるソロ星系第11惑星の住民たち。星間連合が提案する再文明化を「それは魔法だ」「魔法は要らない」と拒む彼らは「あなたたちが魔法と呼んで忌避しているテクノロジーは、使い方を誤らなければ決して危険なものではない」というクラーク流の説得をも「わかってないのは貴方たちだ」と斥ける。
 この星が「魔法」と呼んで忌避してきたのは、テクノロジーではなく「社会」だと。環境破壊も戦争も、ヒト同士の結束や排斥・階層化や国家といった社会が原因で起きたのだと。
 兵器より汚染物質より「人の絆」こそが忌まわしい魔法なのだ、という告発を許しがたく思う人もいるだろう。僕は「ぼっち」なので強い共感を覚えた。そして、若い小説家志望者に向けて真の作家の勉強とは、ひとりでするものです」「良いですか、作家としてあなたは自由なのです(中略)その自由は孤独で、寂しさで、かちとったものなのです(『夜の言葉』)と書いたル=グウィンが、このような物語を提出したのは、スジの通った話だとも思う。

 ル=グウィンの「別のアプローチでのSF」の話ばかりをしたが、『コンパス・ローズ』所収の「目の変質」、『世界の誕生日』所収の「失われた楽園」は昔ながらの意味での「SF」として、何処に出しても渡り合える内容となっている。
 ま、それを言ったら件のバカ短篇「アカシヤの種子に残された…」も、くだらなさの底に「いや、あながち有り得ないことでもないのでは」という常識の揺らぎや(有り得ねえよ!)それ以上に、吾々ヒトが文化だ文明だと自賛しているモノも、小さな草の実に刻まれた咬み跡に過ぎないのでは的な(「マルフア郡」にも通じる?)はかなさを感じさせる意味で、なかなか立派はSFと思われるのだが。
   
北米の先住民族に、実際に「社会」の形成を拒絶し個々に独居して生きる部族がある(あった?)と読んだ気がするが、にわかに原典が見つからず。
(c)舞村そうじ/RIMLAND ←1605  1603→  記事一覧(+検索)  ホーム