哲学に向かう勇気〜國分功一郎『暇と退屈の倫理学 増補新版』(2016.05.28)
この手の本にしては、意外に安い(1,200円+税)。そう思って手に取り、レジに向かった。
金曜の夕方、帰り道。電車の中で本を開いて「これはちょっと困ったことになったぞ」と思った。430ページはある本の序章に、こう書かれていたのだ。
「本書は一気に通読されることを目指して書かれており」
ある意味一方的な、著者の勝手な都合ではある。だが真に受ける莫迦はいるもので、途中二度ほど(体力の問題で)寝落ちしつつ、翌日の正午までかけ一気に読み終えた。
國分功一郎『暇と退屈の倫理学 増補新版』(太田出版)
たしかに読ませる内容だった。
ちなみに先ほど引いた「一気読み推奨」の文は、こう続く。
「寄り道となるような議論、込み入った議論、引用文などは、そのほとんどを注のなかに記してある。さしあたって、注は読まなくてよい」
本篇に突入しても
「先駆者の考えを参考にできれば効率がいい」
「本章では「系譜学」というやり方を採用することにしたい。歴史学は時間を遡るが、系譜学は(中略)
とはいえ、そのような手法のことはどうでもいい。早速取り組みを始めよう」
「(以下の数節は)
どうしても必要な作業なのだが、煩わしく思う読者がいたら、読むのを後回しにして先に進んでもらっても構わない」
実際に後回しにできる読者は少ないだろう(何しろ読ませる本だ)。肝心なのは「通読させるよ、巻を置かせないよ、そのためにグイグイ進むよ」という意思表示が、要所要所で標識のように本文を引っ張る点だ。読者は主筋の議論につきあいながら「それを駆動するリーダビリティへの配慮、著者の意気込み」という
メタ的な物語をも満喫できる。
そしてもちろん、主筋も読ませる。
敢えて言うが、80年台のセゾングループ全盛期なら兎も角、今この時季に「暇と退屈」は親身に響くテーマではないはずだ。
「
暇?退屈?いま問題なのは退屈する暇もない貧困だろう、なに長閑なこと言ってんだ」
たぶん多くの人が、そう思うだろう。
だが著者は「
いや暇と退屈こそが問題なんだ」「人類の始原から生物学まで遡り、ハイデガーやドゥルーズまで通じる
根本問題なんだ」と畳み掛ける。
パスカル、ルソー、マルクス、アーレント。ガルブレイスにボードリヤール。サーリンズの石器時代研究や、ユクスキュルのダニの考察まで(
木の枝につかまり場合によっては十年以上も下を通りかかる酪酸の匂いを待ち続けるダニは「退屈」しないのだろうか?)総動員。それら「先駆者」を知ってれば楽しみも増えるだろうけど、知らなくても読める、逆に知るキッカケになる。
これは騙されてるのかも知れないぞ・要検証だぞと思う箇所も出るだろう。けど逆に「このへん誤解してたなー」と蒙を啓かれることも多い。
けれど何より本書が読ませるのは「暇と退屈」という(先述のとおり)今では
誰も重要視しないようなテーマ・余人には理解できないかも知れない「
自分だけの違和感」
を著者が追究し「
これが一番の問題だったんだ」
と一大通史を貫き切る、その意思ゆえではないか。
その意思は読者を触発し、鼓舞する。本書の豊富な引用、問題意識のひらめき、先行研究に一定の敬意を払いつつ切り込むさまと併走しつつ、僕は「ひごろ感じてるが時間がなくて棚上げにしてしまってる、自分自身の(余人には理解されなそうな)違和感」や「以前プロットの途中で頓挫してしまった、人類の発展の臨界に迫るSF」のことを何度も想起させられた。
自分だけの違和感を貫き追究しとおす、それを仮に「哲学」と呼ぶならば「もう一度、哲学に向かおう」と読む者それぞれを鼓舞することこそ、本書の最大の功徳であるように思われる。
いや、「もう一度」というのは、あたかも先行して「哲学に向かう理想の自分」がいた的に過去を捏造することで、そういう「
本来の姿」
を求めるのは危険で無益だというのは、本書で著者が何度も戒めていることなんですけどね。
哲学は今まで到達したことのない知の境地を目指すもの、でもなぜかソレを「立ち返る」ように捉えてしまう、それも不思議な「違和感」のひとつなのだ。
最近は「
日本が誇る古事記、その面白さは今のアニメにも通じる」みたいな宣伝まであって、自分もよく「古典だけど今のファンタジーやライトノベルと変わらない面白さだよ」的なことを言いたくなってしまう、手垢のつき始めた表現なのだけど、ミステリーか冒険小説のように面白く読める哲学。
ハイデガーが提唱した第一の退屈・第二の退屈・そして第三の退屈は…ページをめくると「ばばーん」な箇所など、本当にエンターテインメントの世界だった。大体あれだ、京極夏彦とかの探偵が滔々と衒学的な世界観を披瀝するミステリー小説なんかが平気なひとなら、余裕で読めますよ『暇と退屈の倫理学』。