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絆とは別のしかたで〜見田宗介『社会学入門〜人間と社会の未来』(2016.07.26)

 まず断っておくけれど、今から書くことは日記のサブタイトルにつけた見田氏の著書とは、ほぼ関係ない。内容にカチンときても、それは見田氏の見解ではないし、誤って氏に腹を立てないでほしい。

  *  *  *
 人には往々にして「他のひとの賛同は得られないだろう、得られるべきではない・自分でもおおっぴらにすることが躊躇われる、偏見に満ちた見解」というものがあるらしい。「鯛なんて詰まらない魚をありがたがる気持ちが分からない」とか「タダで本が読める図書館があるのに、わざわざ本を買うなんてバカだ」とか(※たとえであって、僕の意見ではありません、というか仮に内心でそんなことを考えていたとしても、それをわざわざ表に出さない程度の良識はある)。

 僕がずっと抱いている不穏な見解は「集団は好くない」というものだ。
 電車の中で、レストランや不特定多数が会するような場で、一人ならおとなしく節度をもって振る舞うような人が、二人や三人だと傍若無人になる(ように思えてしまう)。
 それは単純な算数の問題で、一人なら10の注意や配慮を外に向けていたものが、二人になると注意の半分が集団の中に向けられ外への配慮が半減する・「集団の人数が増えるほど内に向けられる気持ちが大きくなり内さえ良ければと外を傷つけるようになる(のではと考えてしまう)。
 ぼっち特有のひがみもあるだろう。
 むろん集団の中にも成員同士の仲違い・いさかいはあり、楽ではないだろう。
 「かくいうお前だって集団に属していて、集団の中で楽しみ、その楽しげな振る舞いは集団の外に不快を振りまいてるんじゃないの」と言われれば、たぶんそうなのだろうと答えざるを得ない。
 あるいは「お前は単独でも周囲に不快を振りまいてる」と言われてもまた、うなだれるしかない。
 そのあたりの身勝手さは踏まえたうえで、やはり思ってしまうのだ。

 さまざまな物語やコンテンツが仲間や絆の素晴らしさを讃える。
 じっさい集団は、個々人では持ち得ない強いパワーを持ちうる。
 その集団の強いパワーは、集団の外部に対する強い敵意で支えられていたりもする。
 たとえば戦争反対を訴えるデモなどで、激しい敵意や怒りをあらわにしたコールやキャッチフレーズに「そういうやりかたでは多くの人の共感は得られない」と言うひともいる。僕が逆に街頭で痛感したのは「こういう(僕などは引くこともある)強い憎しみの表現だからこそ、これだけの人を動員できたのだろうな」ということだった。
 ついでに言うと自分だって、誰かと「私たち」になる一体感の幸福に憧れ、酔いしれることもある。それは恋愛的なものだったり、政治的なものだったり。「世間という大多数に背を向けた、たった二人の恋人同士という、最小限の集団」なんて、たいそうロマンティックではないか。
 そうしたロマンスや、パワーを認めたうえで、なお。
 内への忠誠の強制(あるいは逆に内部での順位争い)や、外に対する攻撃・排除・侮蔑や敵対と引き換えにした仲間意識」「身内の結束」「内輪の絆で得られるパワー・利便利得は、
 「別に結束しない他人同士が互いに礼儀正しく・可能な範囲で親切に振る舞う」システムで、同程度に得られはしないのだろうか。と。

 もう一度言う。内部での結束の強制や・外部への敵対を条件にした「集団」に替えて、結束しない他人同士の礼節や親切を基盤に、社会システムを構築することは出来ないか。
 しょうじき無理だろうな、と思う。たぶんそれは算数的にも無理のある夢にすぎないのだろう。理科的にヒトという生き物の、脳みそか延髄あたりを作り替えないと実現できない夢想なのかも知れない。
 だから、見田宗介社会学入門〜人間と社会の未来』(岩波新書)を読んだときには、暗闇のなかで、ひとすじの光に出会ったような気がした。同書の最終章にあたる補論「公共圏とルール圏」で著者が示唆する、新しい社会の可能性:
個人たちの同質性でなく、反対に個人たちの異質性をこそ、積極的に享受する
他者の他者性こそが相互に享受される関係の領域
という一節で、これまで自分が多少うしろめたく抱いてきた不穏な考えに「そういう考えもアリ」と響きあう言葉を、初めて活字で目にしたような気がしたからだ。
 もちろん、それは、僕などよりずっと真剣に・まともなアプローチで人と社会の成り立ちやその推移に取り組んできた著者の、ずっとまっすぐな著作の、ほんの一部でほのめかされる一部分にすぎない。
 けれど
 (新しく目指される社会では)(さまざまな集団と並んで)単独者というユニットもまた、同等に認定されるべきである
あるいは
「ルール」とは、他者の歓びが自己にとっては歓びでなく、自己の歓びが他者にとっては歓びでない限りにおいて、必要とされる
「連帯」や「結合」や「友愛」ということよりも以前に、個々人の「自由」を(中略)前提し
といった言葉には、僕が「集団は好くない」とか「算数」といった、いじけた幼稚な言葉でしか表現できなかったことが、より開けた形で示唆されているように思えたのだ。

  *  *  *
 実はずっと前から書きたかった内容を、今日どうしても書こうと思い立ったのは、神奈川県相模原市で今朝の未明に起きた大量殺傷事件のためだ。
 「障害者などいなくなればいい」と主張する犯人が、知的障害者の生活する入所施設に侵入し、60名を刺傷・うち19人が命を奪われた。
 ここしばらく、連日のように世界各地で起きている大量殺傷事件と呼応するような犯行だが、(他の国と違い銃の乱射などでなく、ナイフを使った殺傷であることだけでなく)この事件がきわだって異様なのは、銃を持った人間がそれを乱射して人々を殺傷したと聞いて想像される「自分を特別に優越した存在と思いこんだ犯人が、(愚劣な?)一般の人々を大量殺傷した」という像ではなく、「自分は一般のふつうの人間という立場で、一般ふつうより劣っていると見なした相手を殺傷した」思想のグロテスクさによるのだろう。
 大急ぎで言っておくと、外国で報じられている銃を使った乱射事件等でも狙われた人々が性的マイノリティだったりして「差別」の要素は明確でもある。しかし「障害者は死んでもいい」という発想で行使された暴力は、世界的にもきわだって異様で、現代の吾々の人間としての条件を脅威的に揺さぶるものだと思う。「人間としての条件を脅威的に揺さぶられたのは殺傷された障害者ではない。障害者は殺してもいいという考えを認めてしまったら、障害者でない多数の吾々(自分はこちら側に属するので、敢えてこう表現する)人間の条件こそが崩壊しかねない、そう思って言っている。

 実をいうと、僕は事件の起きた施設そのものには御縁がなかったが、同様の施設に仕事で関わったことがある。もう十年以上も昔のことだが。だから施設の雰囲気や、そこで生活する障害者の人たちや家族・それをケアする職員・事務方・出入りの業者(施設を修繕したりとか)・そうした人々の様子を、ある程度それらしく思い描くことができる。そうした施設がいかに厳しい財政でやりくりしているか、職員がどれだけ大変か、入所している障害者の人たちが障害以外の社会的経済的な理由でどれほど制約を受けているかも、ある程度まで思い描ける。犯行の様子や、それが与えた恐怖や絶望も、ある程度は。
 だけれど僕が言いたいのは「僕は多少そうしたことに関わりがあったから、そういうことが分かるのだ・だから今回の事件に強くショックを受けている」的なことでは、ない
 そうしたことに、あまり関わりのない人・縁のない人たちに「身内のことだから恐ろしく、憤ろしい」ではなく、「自分には遠いかも知れない、他所の話かも知れないけれど」大変なことが起きてしまったのだと、なぜこんなことが起きたのかと、できれば考えてほしいのだ。
 仲間や身内の「絆」とは別の、仲間や身内では「ない」人たちの幸や不幸・生死について(それぞれ多忙な日々のなかで)想像力をはたらかせること。それが出来ないと、この社会は立ちゆかないほど大変なことになってしまうかも知れない。
 無理にとは言わない。僕も人さまに何か強いるほど、自分の想像の及ばぬ外に対して配慮できてるわけでもないだろう。
 でも、少なくとも、ひとつだけ知っていてほしい。
 今回事件が起きたような施設で生活しているのは、障害の度合いもそれぞれで、気立てのよい処も、不機嫌でワガママな処も、何かをしたり作ったりする楽しみも、のんきな怠け心も持っているだろう(上手く言えてるか自信はないけれど)施設の外にいるのと「人である」という意味では変わらない人たちだ。
 それが彼らは人として扱われなくてよいというエクスキューズのもとで、一晩に数十人も殺傷された
 それを看過することに、僕は仮に元「関係者」でなかったとしても、違和と疑念を感じる人間であれただろうか。ありたいと、切に願う。
(「障碍者」「障がい者」と表記されることも多いが、使い慣れているという理由で「障害者」と表記した。侮蔑的・差別的な意図はないと汲んでいただけるとありがたいです。問題があれば改めるつもりもあります。)

なんか「とばっちり」のような引用の仕方になってしまったけれど、「社会学」に偏見のあるひとも読んでほしい一冊。時間のない人は、本屋の店頭などで42ページからのコラム「コモリン岬」だけでも。5ページ足らずの小文だけど、短篇小説のような切れ味と余韻。

遅くて早い〜アリ・フォルマン監督『コングレス〜未来学会議』(2016.07.31)

※今回私事のマクラが長いので、早く本題に入りたい人はここからスキップだ。

この作品を描いた人は、こちらの作品をチェックしています
 最初に私事で失礼する(まあこの日記自体、私事以外の何物でもないのだが)。Amazonなどのコンテンツ・ショップで本やCDなどを調べたり買ったりするとこの商品を買った(他の)人は、こちらの商品もチェックしています的に類似(とデータベースが判断した)作品を推薦されたりするのですが、
 「この作品を描いた人は、こちらの作品をチェックしています」
ということが、往々にしてあるらしい。有名な話ではサイバーパンクSFの嚆矢と言われる小説『ニューロマンサー』を執筆中のウィリアム・ギブスンが息抜きに出向いた映画館で『ブレードランナー』(『トロン』ではなかったような…)を観て「やべえ、俺が書いてるのと同じ世界だ」と慌てて飛び出した、などと言う。
 数年前魔法少女のルールという同人まんがの冊子を作っていたとき、映画館で観た『キャビン』という映画が、基本的なモチーフが自作にソックリで「ヤバい、もしくはマズい」と動揺したことがある。
 自分が描こうとしたのは、魔法のパワーを持った少女同士が周囲には知られず互いにバトルしている…と思っているのは当人たちだけで、周囲にはそれを知っている者たちがいて実は彼女たちのバトルに介入・ある程度コントロールしている、というメタ物語で、その背後には「世界全体を壊しかねない負のエネルギーを、代理戦争的に引き受け蕩尽している魔法少女」というストーリーが暗示されていた。
 よくよく考えると、このジャンルの代表作といえる『魔法少女まどか☆マギカ』も同種の(負の)エネルギーの流れ・経済をテーマにしていたのだが、
 『キャビン』は山奥の別荘で若者たちが禁断の呪いに襲われる「ホラー映画」のフォーマットを、やはり負の力の解消装置にしている話で、観ながらにして「(素人の同人まんがで似ているというのもおこがましいが)似ている」「しかし仕方ない、世の中に現在あふれてる物語や雰囲気を、同じように摂取して思いついた話だから、似るのは逆に当然だろう」と嘆息したりしたのである。

ちなみに『キャビン』結末のねじれたカタルシスが、とある日本のファンタジー・ホラーミステリ小説(よく分からん分類だ…)を彷彿とさせ、同作のファンに【熱烈オススメします】なのだが、超ネタバレ・完全ネタバレなので、どう薦めてよいか分からなくて実にもどかしかったりする…

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 たぶん「メタ物語」自体が時代の流行り・もしくは病なのだろう。まだ自作の話で恐縮ですが『ルール』から三年、『どこの馬の骨とも知れないお姫様のブルース』という読み切り冊子の同人まんがを描きました。表紙で思い切りネタバレしているとおり、言うことをきかない登場人物と作者が言い争うメタ物語なのですが
 『コングレス〜未来学会議』を観て(キャビン同様)「向かう先は違うけど、根底にある発想が似てる」やはりみんな同じ世界で、同じような「圧」を感じてるんだなあと嘆息させられたのでした。

 てなわけで、ようやく本題に入る。
 『コングレス〜未来学会議』(2013)は、イスラエル軍兵士としての従軍経験をアニメーションで描いた異色ドキュメンタリー(あるいは異色アニメーション)『戦場でワルツを』(2008)のアリ・フォルマン監督の新作。劇場公開されたとき気にしながら見逃して、今回レンタルDVDでようやく観るに至った。
 面白いです。「どうしてこんなツボをつく作品が、こんなにも評価されない(存在すら見過ごされてるっぽい)のだろう?」と訝しむほどに。
 原作はスタニスワフ・レム(未読)。映画は本人が演じる落ち目の俳優ロビン・ライト」が、自身の容姿をスキャンした画像データを素材として映画会社に提供・本人は小劇場や子供の学校の学芸会でも一切「演技」を許されないという契約を迫られるところから始まります。
 実は僕などは「あっ、ロビン・ライト主演なんだ」というのが「観たい」と思った理由のひとつで、近年いい役・シブい役でチャームを放ってる一人だと思っていた(フィリップ・シーモア・ホフマンやウィレム・デフォーらと渡り合った『誰よりも狙われた男』とか)+実は若い頃の人気を知らなかったので「昔の君は良かった、今はダメダメだ」と作中で下げられまくるのが意外だったのだけど、やはり浮沈はあったのだろうし、そういう役を「今」引き受けるのは当人の「今」の自信ゆえかも知れないと思ったり。いや、作中のロビン同様「あせって際どい企画に飛びついた」のかも…
 まずこの最初の40分だけで非常にツボでした。脚本のテンポがよくて、言葉選びが美しい。物語は聴覚を失ないつつある息子と母ロビンの愛の物語でもあるのだけど、医師がテストする言葉を王座(スローン)」孤独(アローン)」など次々に聞き違え=別の意味をあばきだすさまは、まるで詩のよう。もちろんブラックユーモアも、笑えない指弾も効いていて
データを渡して、私が望みもしない演技をさせられるのはイヤ
今までしてきたことと同じじゃないか。監督に言われるままに泣いたり笑ったりラブシーンを演じたり

あ、ちなみに彼女に契約を迫るマネージャーはハーヴェイ・カイテルなんだけど、素晴らしいです。スキャン撮影で彼女の最高の表情を引き出すため、彼がぶつける言葉の容赦なさ。物語(フィクション)と人の関わり、という物語の物語・メタ物語として、最初の40分だけで完成した魅力があると思う。

 で、そこから先、物語はあれよあれよと意外な方向に展開します。
 個人的には「やはり演技をしたい」と場末の小屋で舞台に立ったのが見つかり、厄介なことになる主人公…的な方向に展開してほしかった気もするけど(それらしいカットはある)、そのへんはアッサリ切り捨て、あれよあれよと展開する。
 これはこれで(前半40分より少し間延び感あるけど?)面白いです。ぶっちゃけてしまうとアリ・フォルマン監督、またアニメーションを多用するのですが、ジャパニメーションともハリウッド3Dとも違う方向性で弾けた(監督は今敏作品などリスペクトしてる模様)なつかしい作風。水槽の中の魚がなにげに男性器・女性器を暗示するところなど爛れ具合が好いし、二人の登場人物が寄り添いカイトを糸でたぐる場面は官能的。
 最後に出現する歪んだユートピアのヴィジョンと、その先。そしてさらにその先で、主人公が選ぶ愛。「吾々はもう、昔のような意味でのフルスペックの人間性を取り戻すことは出来ない。それぞれ選ぶ道はあるが、それぞれ人間性の一部しか取り戻せない。だとしたら、どれを選ぶか」という苦い問い。もう僕が描いた同人まんがとは遠く離れた、ずっと遠くの問いにアリ・フォルマン監督はたどりついてしまった。

 あらためて、これほどツボでもあり、詩的でもグロテスクでもあり、考えさせられもする作品が、どうしてこれほど誰の目にも留まらなかったのだろうと思う。これほど今の吾々・もうじきなるかも知れない未来の吾々を描いた作品はないのに
 遅すぎたのかも知れない。2013年の本作を観て、自作だけでなく、さまざまな作品が連想されたのだが(『バニラ・スカイ』、神林長平やP.K.ディックの諸作品、大原まり子の「高橋家、翔ぶ」…)、それはつまり残念ながら既に何度も語られた、手垢のついたネタだということでもある。
 今の吾々は「はいはい、またですか」とメタ物語的なネタに慣れきってしまっているのだ。そもそも吾々自身、とっくに「物語を享受する吾々」ではなく【「物語を享受する吾々」を享受する吾々】になっている。フォルマン監督が二時間かけて語ろうとしたことを、今の吾々は各自が140字のTwitter「大喜利」で濫造し「それくらい当たり前・とっくに知っている」と飽和状態になっているのかも知れない。
 けれど同時に、本作は「すでにこうなってる・あるいは将来ますますこうなる吾々」の、まだ自分たちでは自覚してない姿を指摘し、予言する「まだ早すぎる」物語であるのかも知れない。

 本作のアニメーションの80年代的に古い部分は、もしかしたら本当の未来では、もっと精巧な「実写」に限りなく近い体験になるのかも知れない(『ウォッチメン』のタイトル・シークエンスでザック・スナイダーがそうしたように)(両方でデヴィッド・ボウイが出てくるのです)…と思う一方「いや、吾々はむしろ二次元の画像になりたいのだという、監督のアニメへのリスペクトかも」と考えるのも一興だろう。
 あるいは「本作ではロビン・ライトに先駆けキアヌ・リーヴスが自身のスキャンに同意した設定になってるけど、脚本は本人の許可を得たのかな?」とか「本作で自身をアニメーション化された部分について、ロビン・ライトの契約はどうなってるんだろう?(ギャラとか、ヌードシーンの許可とか)」などと下世話な想像を巡らすのも。
 アリ・フォルマン監督は、次回作としてアンネ・フランクの映画化を計画中だという。少なくとも、次回作がつつがなく制作されるくらいには、評価されていい作家だと思う。
   
(c)舞村そうじ/RIMLAND ←1608  1606→  記事一覧(+検索)  ホーム