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現代は遠くなりにけり(後編)〜W.B.キイ『メディア・セックス』(2020.03.01)

 1960年代前半から大流行した「ツイスト」が画期的だったのは、踊る男女が触れ合わなくていいことだった(マイムマイムすら手を繋ぐのに!)と何処かで読んだことがある。キイが知ったら喜んだだろう。

 前回に引き続き『メディア・セックス』ほかウィルソン・ブライアン・キイの著作の話です。ちなみにキイ、故人です。1925年〜2008年。
 前回は「サブリミナルに書き込まれた無数の文字」で終わってしまったけれど、著者の言及はより広範囲で多岐にわたる。困ったことに、的を得ていると思えるものも少なくない。
 困ったことに、というのは(何でもそうかも知れないが)著者の主張が(a)それは納得どころか当然 (b)それは驚きだが納得 (c)それは信じられない―三つのレベルが入り混じるモザイクになっているからだ。たとえば『メディア・セックス』(1976)では1973年の映画『エクソシスト』に一章を割いている。監督のフリードキンが、一瞬の影やライティングなどの視覚効果や、サウンドトラックに混ぜた蜂の羽音や豚の悲鳴といった音響効果で観客にショックを与えたという話は、十分に納得できる(b)だし現在では(a)に近い。ただ「豚は古来より象徴として…」「蜂は…」と自説を補強しようとするから、また怪しくなる(c)。
 音楽でもザ・フーのアルバム『トミー』が歌詞を検証してみたら性的虐待やドラッグなどに溢れた大変な内容でしたと言うのは、わりとロック好きには周知の(a)な一方、ビートルズの「ヘイ・ジュード」やサイモン&ガーファンクル「明日に架ける橋」が悩める若者にドラッグ使用を薦める唄だとまで言われると、いやいや、それは(c)でしょう!という気にもなる。間をとった(a)寄りの(b)、ビートルズのアルバム『サージェント・ペパーズ』を取り上げた部分は手際のいい要約で興味深い。
「レコードのA面は、人々が自分自身に対して真実を覆い隠す方法とかイリュージョンを主題にして」
「B面は(中略)生活を皮肉り(略)人生の虚しさ、陳腐さを描いて(略)
 最後の曲「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」は、人は幻想なしに生きていくことができるだろうか、と問いかける」
(『メディア・セックス』)
これはキイの問題提起そのものの要約かも知れない。

 キイにとって最重要だったのはサブリミナル操作への警鐘かも知れないが、そこから敢えて視点をずらすと読みとれる見解も興味深い。
 1)広告業界は様々な誘惑の技術を駆使して、人の心を操作しようとする巨大産業である。
 陰謀論として捉えた場合、政府や世界征服を目論む組織といった政治的黒幕でなく、個別の広告主がそれぞれに、あくまで商業利益のため意識操作を行なうというのも「現代」的だ。ベトナム戦争を報じる写真に書き込まれるのも政治的スローガンではなく「Sex」で、プロパガンダではなく新聞そのものを売るためだと著者は考える。サブリミナル手法に政治的メッセージを読み取るようになるのは、TIME誌の表紙になったリビアの独裁者カダフィ大佐の写真に「KILL」「FUCK」と加筆されてると主張する89年の『メディア・レイプ』になってからだ。そして
 2)誘惑の手法としては、圧倒的に性的要素で釣る。
これはすでに見たとおり。ただし動物などの象徴を用いる(広告業界が?著者が?)場合もあるし、不吉な死のモチーフで釣ることも多い。
 それでは、潜在意識の誘惑技法を駆使して、広告産業が売ろうとしている(と著者が考える)ものは何か。(僕が考える)結論から先に書いてしまおう。
 3)現代の商業資本は「渇望」を売る。

 強烈すぎる(Sex!Sex!)手法のことは、いったん忘れよう。『潜在意識の誘惑』『メディア・セックス』でキイが取り上げる「商品」は何か。クラッカーは例外として、それらは主食になるパンや牛乳・自転車や普段着ではない。氷を入れたグラスに注がれる、酒。性と死のイメージをもてあそぶ煙草。映画。ポピュラー音楽。そしてドラッグ。これらに共通するのは嗜好品・耽溺させるもの・もっと言えば依存性の中毒を引き起こす商品であることだ。『潜在意識の誘惑』で著者は、アルコールや煙草の収益が数%のヘビーユーザーによることを再三指摘する。誘惑広告はモノを売るだけではなく、ヘビーユーザー=耽溺者・中毒者を生み出すことを目的としているのだ。
 いったん忘れることにした性的誘惑の意味が、ここで明らかになる(意外と早かったですね)。なぜアルコールを売るのに「Drink me」ではなく「Sex」がメッセージなのか。「Drink me」は飲酒してしまえば満たされるが「Sex」は満たされないからだ。
 『潜在意識の誘惑』は、人を耽溺させる商品として男性向け・女性向けの雑誌に、それぞれ一章を割いている。キイの分析が面白いのは、ヌード写真を数多く掲載し男性読者の性欲を満たしているように見える『プレイボーイ』のような雑誌が、実はさまざまな形で欲望の充足を妨げていると説いていることだ。有名なウサギのロゴマークが、去勢を象徴するハサミというのは眉唾の(c)だとしても、現実には簡単に巡り会えない抜群のプロポーションの美女のヌードは、高級腕時計やスポーツカーの紹介記事とともに、手に入らないものとして読者を渇望させる。だから次号にも手が伸びる。同様に、ファッションを中心とした女性向けライフスタイル誌も、読者が微妙に手の届かない贅沢を提示し、さらに物品の贅沢でも満たされない孤独や不安を煽る(と、著者は言う)。
 広告産業に支えられた商品社会が、商品の使用価値による満足を売るのでなく、商品を手にし使用しても満たされない渇望を富の源泉にしているとしたら。
 酒・煙草・ドラッグ・サブカルチャーという著者の「お気に入り」リストにスキンケア・わけてもデオドラント商品が入っているのも、この文脈で理解できる。アメリカ人は商業広告にマインドコントロールされ、自身の体臭を必死で消すようになった、他の文化圏では体臭は肉体的コミュニケーションの重要な触媒なのに、というのが著者の主張だ。彼が危惧するのは肉体を嗅ぎ合い、現実にふれあう性的コミュニケーションが排除され、印刷された模造品に取って代わられることだ。

 …もちろん、自らの体臭を強迫観念のように忌避するのは(キイの独断とは違い)アメリカだけではない。広告の性的な釣り餌は、手に入らないことでこそ渇望を生み効果を発揮するという仮説は、この日本でしばしば問われる「なぜ」の、げんなりするような答えになるだろう。なぜ日本では、広告やアイキャッチで「なぜこんなところにまで」というほど女子高生や未成年の少女というアイコンが多用されるのか。

 ましてや(法的だけでなく物理的にも吾がものに出来ない)二次元の少女、それも非現実的にセクシャリティを強調された画像ほど、渇望を煽る理想的な釣り餌はない。そう考えることも出来はしないか。
 …取り上げた題材の新奇さに反して、たぶんキイ自身は性に対して保守的な価値観の主だったのだろう。たとえば分析の背後には、同性愛を「不自然」と即断し眉をひそめる感性があるように思われる。若者文化への反発も。その主張が「昔はよかった。性欲も本物だった」というものであるなら、それには少し留保をつけたい。どんな時代や文化でも、性は多かれ少なかれ、動物的な本能から外れた虚構といえば虚構ではないか。そして「人は幻想なしに生きていくことができるだろうか」
 だが、あまり遠くまで行くのは止そう。彼が鳴らした警鐘には、聴くべきところもある。それは、吾々が「自然な」「本能的」と思っている欲望が、人工的なプロダクトではないかと疑う感性だ。今まで紹介してきた文脈とは違うが、キイはこんなことも書いている。
「アメリカにおいて、性的コミュニケーション(中略)に用いられる言葉は、
 たいてい男性の攻撃的で残酷な動詞−fuck, knock, up, screw, lay, make, etc.−なのである。
 それらは、愛すべき関係を互いに分ち持つ相手に向けられるよりも、征服され奴隷にされた敵に向けられる言葉だといってもよいくらいだ」

(『メディア・セックス』)
 もう一度言う。吾々が「自然な本能」と思っている「性」への欲望は、吾々が思うのとは全く別の「取り替え子」かも知れない。キイ本人が、その追及を二の次にしたのは、いささか残念なことだ。

  ***   ***   ***

 ここで終わればキリもいいのだが、もうひとつ言わなければいけないことがある。
 身体の接触を前提とした親密さから、満たされることのない渇望へ。潜在意識への性的誘惑が、その転換をうながすエンジンだというキイの告発は、結局のところ本当だったのだろうか。
 正直、結論は出せない。しかし確かなことがある。多くの事物にとってそうであるように、時の流れは彼の主張にもまた、不利に働いた。
 もともと彼が主張する「Sex」の書き込みは、英語圏の中でのみ通用するものだ。世界中で同じように広告が印刷され、クラッカーが生産されるなか、アメリカでだけサブリミナルな書き込みがあると考えることは、まあその、妙だろう。
 それに加え、キイの主著はインターネット時代の到来を前提にしていなかった。
 たとえば映画ひとつとっても、『エクソシスト』が周到に仕込んだ潜在的なショックは、スプラッター映画が顕在的な残虐描写で押し流してしまった。それはまだ80年代の話だが、90年代から21世紀に吾々が体験したのは、ちまちましたサブリミナル効果そのものを押し流してしまうほどの、情報の洪水だった。
 1秒24コマのフィルムに1コマだけ、慎ましく挿入されたメッセージではない。今の吾々は1秒24コマすべてが「買え」「求めろ」と明滅する、ストロボ効果そのものに眩惑されている。それは、サブリミナルに埋め込まれた性などではなく、もっと剥き出しの欲望ではないか。そしてその内容も、もはや「性」に偽装する必要さえかなぐり捨てた、多数派のチカラ・支配や権力への渇望そのものではないか。
 
 現代の奇書。今回の日記の冒頭でキイの著作をそう呼んだ時、実は感じたのは「現代」という時代がすでに過去なことだった。古代・中世・近代…間に近世が入ったり、まあよく分からないのだが「現代」という時代はたしかにあった。大量生産の工業に裏打ちされた、資本主義と商業主義の時代。多重録音が現実には演奏不可能と言われた『サージェント・ペパーズ』のレコードの中だけの音楽世界を作り上げ、テレビとグラビア印刷が日常に代わる幻想を売った時代。人間性の喪失を、キイが危惧した時代。
 インターネット以後の、いま吾々が生きている時代は、超現代とかポスト現代とでも呼ぶべき「次の」時代なのではないだろうか。それは「今」を買いかぶりすぎだろうか。だが改めてキイの著作を紐解くとき、頭をよぎるのは「古き良き「現代」…」という、それはそれで地獄絵だが、いささか牧歌的な地獄絵なのだった。

少女に向ける男性の欲望を「自身の肉体への嫌悪」から解明する視点は、キイが指摘したデオドラントへの強迫などと通じるところがある。内容に賛否はあるのだが、(少なくともシスヘテロの男性にとっては)思考への強烈なキックになる一冊。

伊丹万作の言葉〜映画『ジョジョ・ラビット』(2020.03.08)

  よほど形容に困ったのだろうか。「愛は最強」という、ほぼ何も言ってないに等しい宣伝コピーだけなら、映画館に足を運ぶことはなかっただろう。もう上映は終わってしまったが『ジョジョ・ラビット』は、軽く流されるには惜しい作品だった(さいわい日本でも「大ヒット」したらしい。でも大抵そう言われるので真実は定かではない)。
 自分ならどう惹句をつけるか。「さよならヒトラー、僕の親友(イマジナリー・フレンド)」といったところだろうか。親友というよりは、戦場から帰ってこない実父の代理かも知れない。演じるのは監督のタイカ・ワイティティ本人。第二次世界大戦末期のドイツ・ベルリン。ナチに心酔する10歳の少年ジョジョが、悪魔のように思っていたユダヤ人の少女に出会い、世界観を覆されていく物語だ。

 もうロードショー期間も終わったのでネタバレしてしまうが、冒頭の5分だけで傑作だった。時は下って1960年代、メジャーデビュー前はハンブルクで下積みしていたこともあるザ・ビートルズはイギリスに戻っての大ブレイク後、初期のヒット曲「抱きしめたい」と「シー・ラブズ・ユー」のドイツ語版をリリースしている。そのドイツ語版抱きしめたい」をナチス台頭時の大がかりなパレードやヒトラーの演説、それを熱狂的に迎える民衆の姿とマッシュアップしたのだ。アイドルに歓声をあげるように、独裁に、戦争に、ユダヤ人排斥に陶酔した人々。痛烈な皮肉だ。皮肉というより、カリカチュアだろうか。
 空想のヒトラーで分かるとおり、映画は敗戦が間近に迫るベルリンの姿を、徹底的に戯画化する。徹底した戯画化は、場面の一つ一つに意図があるということだ。
 劣勢の戦時中でも美しく着飾り、ダンスを愛するジョジョの母は、ナチスが台頭する前・世界で最も民主的と言われたワイマール時代の(今も)熱烈なシンパであることを表現していたという。「顔が良くてもいいことなんてないわよぉ、私なんて美人すぎて迷惑ばっかり」とうそぶく台詞は、演じるスカーレット・ヨハンソンが俳優としての実力にも関わらず「いわゆる美人女優」として軽んじられてきたことを踏まえた「当て書き」ではなかったかと、これは僕の感想。
「スカーレット・ヨハンソン、男社会の中で“めんどくさくない女”を演じていた「もう媚びない」」(FRONT ROW)
 …だいぶ字数を使ってしまった。話を先に進めよう。
 本篇を通して考えずにいられなかったのは、ある意味『ジョジョ・ラビット』は『この世界の片隅に』の対偶・対極のような映画(でもある)ということ。そして映画監督でありエッセイストとしても知られる伊丹万作(1900-1946)の言葉
リアリズムトハ、本当ラシキウソデアル。
 シンボリズムトハ、ウソラシキ本当デアル。

という言葉のことだった。

 ひとつの作品を褒めるのに、ひとつの作品を対比的にくさすのは徳が低い。得策でもない。同じく敗戦直前の、こちらは日本・広島の生活を一人の女性の視点から丹念に描いたアニメーション映画『この世界の片隅に』(片渕須直監督)はもちろん、優れた作品だ。あの時代を描くのに、今までにない視点や距離感・細やかさを提示した、画期的な作品だと思う。ただ、その受容のされかた・賞賛のされかたが「当時の街並みが完璧に再現されている」「実在した事物の細部が汲まれて」と描写のリアルさ・実在性に寄りがちなことに、言うなれば危惧を憶えるのだ。
 これは同作だけではない。いつからか日本の漫画やアニメーションは、事物の忠実な再現を高く評価し、称揚するようになった。作品の舞台に実在の地方や街が選ばれ、それらを綿密に描くことで「聖地巡礼」のブームが起こり「作品による地元起こし」は元から当然の狙いとして企画に組み込まれるに至った。登場人物たちが使う道具やコーヒーを飲むカップは、即座にファンによって具体的な製品が「特定」される。作中に登場するオートバイのエンジン音を「リアル」にするため、同じ型番のレアなオートバイを探し出してきて録音したことが、こだわりとしてアピールされる。
 悪いことではない。だが行き過ぎるとどうか。細部の再現度の高さを「リアル」と称賛し、それをもって作品も素晴らしいのだと結論づける受容のしかたは、リアリズムが持つ本当らしき「嘘」に対して、あまりに無防備になってはいないだろうか。たとえば街並が事実どおりに再現され、ガジェットの型番まで照合できる「本当」の一方で、画面に現れるのは美少女ばかりで、その髪色も説明もなくピンクや青だったりする「嘘」は意図的に(あるいは無意識に)見落とされる。

 本当は『この世界の片隅に』も、極度にシンボライズされた話「でもある」はずなのだ。原作者・こうの史代氏の「漫画」としか呼びようのない絵柄からしてそうだ。
 実際には「本当」と「嘘」は、幻惑のように絶えず入れ替わるものだ。細部の描写のリアルさは、物語としてのメッセージの現実性とイコールではない。むしろ、リアリズムを志向すればするほど語られるメッセージが何処か夢物語めいて、逆に非現実的なファンタジイの様相を帯びたものが裏返しに(そして残酷に)現実の虚妄を暴き出すこともある。
 『ジョジョ・ラビット』が採用しているのは、シンボリズムに満ちた「嘘」の語りだ。子供ふたりがパンツァーシュレック(バズーカ砲)を運んでいて、後ろを持ってた子が「やあ」と友達に手を振り筒を落としてしまい、暴発した砲弾が建物を爆砕するなんて映画がリアリズムなはずがない。シンボルを読み解くには若干の広い知識が要ることもある(ビートルマニアの熱狂ぶりを「史実」として知らないと、冒頭の皮肉は得心しづらいだろう)が、もっと必要なのは想像力だ。いや、その言い方も正確ではない。『ジョジョ・ラビット』では、ある出来事を一足の靴だけで悟らせる場面がある。何が賭けられ、何が奪われたのか、靴だけで分かってしまう。優れたシンボリズムは、読み解くのに想像力が要るのではない。シンボルそのものが、観客の想像力を開かせる。
 造形が「リアル」であること、ディテールの正確な模写を評価軸として絶対視することは、想像力を働かせて読み解く能力の衰えを意味してはいないか。「聖地巡礼」に代表される「リアリズム」の台頭に合わせて、「○○はいいぞ」あるいは「(語彙力)」といった定型句が流行りだした。もちろん、SNSに代表する感想を言う場の字数制限もあるだろう。だが、いずれも(作品の良さを語り尽くせないので)〇〇はいいぞ(としか言いようがない)、語彙力(が足りなくて良さを適格に表現できません)」という説明放棄の表現なのは偶然だろうか。

 ことは作品鑑賞に留まらない。生活に困窮する者に国が割ける財源はない、それが「リアル」だと言う者がある。だがその「リアル」は使うかどうかも分からない戦闘機の財源はどうなのだ、ということを意図的に見落としている。医学部の入試での男女差別も、北方領土をずるずる手放すことも「それがリアリズムってものだ」としたり顔で言われるたび、伊丹万作の言葉は思い出すに足るものがあるだろう。理想論を説く者と同様、リアリズムを説く者も(リアルとして扱うものを取捨することで)何らかの夢を見ている。ただそれが夢なことを隠し「リアルなのだから正しい」と言い募る。
 リアリズムを標榜する者は、スペックにこだわり「リアル」を肯定し、変革を嫌うのかも知れない。『ジョジョ・ラビット』はヒトラーに心酔していた少年が、過去の自身を否定し、愛に目覚める物語だ。『この世界の片隅に』の「すずさん」も、体制を受け容れていた己の欺瞞を最後に悟って涙を流す。だが、観衆の大方はそこではなく、全体のそこはかとない優しさ・「戦争中でも私たちは一生懸命に生きていた」という甘い自己肯定を好ましい「リアル」として受容したのではなかったか。
 すべてが時の流れに奪い去られ、忘れられていく「この世界」では、語り描くことはそれだけで救いだ。「私たちは忘れても見過ごしてもいない。ちゃんと憶えているし、こうして絵や言葉にしている」そう互いに言い合うことで、吾々はどうにか生きていける。その意味で『この世界の片隅に』は大きな仕事を成し遂げたし、たぶん多くの魂を救った。しかし、その一方で、多くのシーンを追加して公開された新版では、上映される映画館の売店で、すずさんの絵をあしらった戦艦大和のプラモデルが、グッズとして並んだという。それがあの映画に吾々が「夢みた」ものだったとしたら、敗戦の日のすずさんの涙は何だったのか。

 こうの史代氏には原爆後の広島を描いた「夕凪の街」という先行作品がある(『夕凪の街 桜の国』所収)。これは編集者・作家の竹熊健太郎氏が書いていたのだが、被爆し、やがて原爆症で死んでいくヒロインが自宅の屋根を直しているシーンがある。そこに意中の青年が現れ、はしたない格好を見られて大いに慌てる場面なのだが、竹熊氏はヒロインがまくっていた袖を直す一コマに注目する。それは彼女が恋人に醜いケロイドの傷を見られたくないという恥じらいだった、不覚にも初読では見落としていた、ヒロインの心の輝きがそこにはあった、というのだ。それこそが想像力によって描き出された、シンボルが真実を語る瞬間ではなかったか。
 伊丹万作はこのようにも書いている。
 「そこらにいくらでもいる甲氏や乙君や丙さんを拉しきたつて、その中の甲と乙の相違や、乙と丙の差を克明に描き分けているのが
 いわゆる性格描写というものだとすれば
(中略)
 何万人に一人というような桁はずれの存在を扱いながら、しかも「人間というやつはね、みな要するにこいつによく似たしろものさ」といって
 神様がひよいとつまみ上げて見せそうな人物を描くことは、まさしく偉大なる典型描写というべきであろう」


 まとめ。
 1)一部のディテールを「リアルだ」と言うことで、別の部分や全体がもつ「夢」や「嘘」まで「リアルだ」と丸め込まれることを危惧する。
 2)正確な模写ばかりを評価の基準とすることが、想像力や表現力の衰退につながっていないか危惧する。
 3)「リアリズム」が性質上、現状の不公正の肯定や、無責任な過去の美化に益することを危惧する。

 映画を観て取ったメモの中には、こんな「危惧」もあった。
 4)そして吾々は「ユーモアやお笑いは、中身も空っぽでいい」と思い込んではいないだろうか。
ただまあ、これについては今回の日記で展開する余裕はない。なんだか『ジョジョ・ラビット』の話をするはずだったのに、別の話に終始してしまった。最後にもう一つ、映画の中で読み解くのに若干のヒントが必要だった箇所を上げておきたい。ビートルズのドイツ語版で物語が始まったとき、実は結末で何が起きるか、分かる人には分かるという話だ。
  ★終盤までの展開を含んだネタバレなので一応たたみます。読むひとは自己責任でどうぞ。(クリックで開閉します)。
それがシンボリズムというものだ。あるいは、ああ、なんてロマンチシズム。

ミクロな権力〜エドガール・モラン他『オルレアンのうわさ 第2版』(2020.03.15)

 1969年5月。フランスの地方都市オルレアンで、ひとつのうわさが広まる。ユダヤ人の経営する新興ブティックが、試着室に入った女性客を薬物で眠らせ、外国に売り飛ばしていたというものだ。実際には被害者のいない、根も葉もないデマだったが、憤激した民衆は洋品店を包囲し、パニックは30日ほど続く。
 社会学者のエドガール・モランと同僚たちが6名からなる調査団を決定し、7月に現地を訪れる。表立った騒動は終息していたが、調査団は「何が起きたか」を再現するための聞き取りの中で、不信と猜疑はきれいに鎮火されたわけではなく、熾き火のように灰の中でくすぶっていることを知る…。

 社会学の古典、ということになるのだろう。学生時代ちゃんと勉強してないと、こうして逆にいつまでも自発的な補習が続くんだという事例として(?)今さらですが『オルレアンのうわさ 第2版』(邦訳1980年)を読みました。第2版というのは翌1970年に別の地方都市アミアンで発生した同種のうわさのレポートが加わっているため。クロード・フィシュレによるレポート「アミアンのうわさ」は、組曲の終りの再演部(リプライズ)のように、オルレアンでも展開された出来事を、手際よく要約し直している。構成が上手いのだ。
 オルレアン側のモランによる総括・調査チームによるレポートも、ミステリ小説のように読ませる。ミステリならネタバレは厳禁だけど、遠慮はしない。言うなればアンチ・ミステリ、犯人のいないミステリが『オルレアンのうわさ』だったからだ。
 犯人がいないだけではない。それは犯人がいないにも関わらず、次から次に犯人が名指されるアンチ・ミステリだった。まず第一に【】ありもしない女性誘拐事件が捏造される。犯人と目されたユダヤ人の洋品店主たちは、次第にふくれあがる噂の中で6店が連携し、オルレアンに古代からある地下水路で女性たちを運び出していたことになる。
 問題はこのような神話を【】デマだ、差別に基づく捏造だと批判する人々も「噂はユダヤ人を排斥しようとするファシストや反シオニストが流したものだ」という対抗神話に拠ったことだ。【】これに対し「いいや、むしろ噂は騒がれることで被害者として耳目を集めようとした洋品店主たちが流したのだ」という反・対抗神話が現れ、そもそも被害者が実在しないことから騒動が終息したあとも「火のないところに煙は立たない」という捨て台詞が残る。「「陰謀のテーマはうわさの発展のすべての段階において、現れていると「アミアンのうわさ」は総括する。いないはずの犯人・黒幕探しが、事態のすべてを歪めてしまったことになる。
 では実際には、何が起きていたのか。浮かび上がってくるのは、神話→対抗神話→反・対抗神話と推移した陰謀論とは、まるで様相の異なる経緯だ。
 まず【】噂が広まるための社会的な下地がある。地方都市の、かつてのような親密さは失われたが中央からは取り残されているという宙ぶらりんな空虚感。地下通路の伝説。洋品店のような最新流行への憧れと反発。ユダヤ人や他所者への偏見。世代に関わらずある性的誘拐などへの恐怖。
 ここで【】女性誘拐を書き立てる煽情記事(5月上旬)が発火点となる。以前からあった下地となる要素は燃料となり、他所者のユダヤ人が経営するブティックが、陰謀の主として名指される。
 【】女性誘拐の風聞を持ち込まれた警察は、該当する実在の事件がないことから話に取りあわず、もうひとつの「中傷という事件性」を看過してしまう。警察が取り合わないのは誘拐組織とグルだからだというデマが、噂を爆発的に広めることになる。間に選挙があったことで、騒動を起こしたくない警察が動きを手控えたことも、デマの拡大につながる。
 私はこのうわさは、始りをもっていないと思う。うわさを広めていくにあたり、その起源となる人はだれもいない
そして、まさしく広めていく上で起源になる人はだれもいないことと対応して、人は起源を際限なく探り求める
(「アミアンのうわさ」)
 半世紀前の『オルレアンのうわさ』から今、得られる教訓のひとつは「黒幕はいないかも知れない」ということだろう。ネット上で繰り広げられる論争の多くが、自分たちと敵を二分化し(右vs左、オタク対フェミなど)相手を一枚岩として扱い、さらに背後に組織的な悪意や陰謀を汲み取ろうとする。だが悪意や敵意が存在するとしても、それは背後の黒幕に指示されているとは限らず、それらは様々な下地や偏見の積み上がりに火がついたものかも知れない。
 あるいは、自分には黒幕がいないから自身の判断は健全で、敵は悪意ある黒幕に操られていると思い込むことはないだろうか。お雑煮の餅は四角か丸かで、丸派の最も極端で少しおかしな人の「四角派は一生モチ食うな」という罵倒を丸派の総意と捉えて敵意を燃やしつつ、四角派の最も(以下同文)は都合よく見なかったことにすることは。
 実際には、人々を操る巨大組織など、ないのかも知れない。問題は「だから悪い人なんていないとはならず、あたかも黒幕に操られているかのような行動を(下地となる偏見などの積み上げによって)自発的に吾々は取りうることではないか。
(明らかに黒幕がいるTwitter大量投稿もあるけどね!)
 ミシェル・フーコーが18世紀に提唱されたパノプティコンを近代のモデルとして取り上げたことは有名だ。個々の独房が(内側に窓があるよう)円形に配置され、全ての囚人は円の中心の看守塔から常に監視される理想的な監獄。このパノプティコン(一望監視施設)を学校や軍隊、工場や病院の雛形としつつ、フーコーが注意を促したのは、実際にその一点(監視塔)が機能しているかではなく「そういうものに監視されている」と個々人が思うことで、監視が内面化され、自発的に服従するということだった。
 さらに後、フーコーは権力じたい人々の対極にあるマクロなものではなく、もっとミクロな日常から立ち上がってくるものだと説いた。権力というものを政府や大企業などマクロなものとして捉えがちな自分には、正直ピンと来にくかった「ミクロな権力」。それが『オルレアンのうわさ』を読んで、少し分かった気がする。
 それは、ハンナ・アーレント単体を読んでも実感できなかった彼女の言う「公共」や「政治」が、セウォル号事故という具体例にふれて初めて体感できたことと似ている(2018年12月の日記参照)。体系的に何かを学ぶことが苦手な自分は、そのようにして突き合わせで、後から分かることが多い。

   ***  ***  ***

 ここでキレイに日記を終わらせてもいいのだが、少し個別のトピックをまとめておく。起源となる人はだれもいないと説く『オルレアンのうわさ』だが、「なぜブティックなのか」「なぜユダヤ人なのか」「なぜパリではなくオルレアンや、アミアンなのか」という謎は残るからだ。
 まず「なぜユダヤ人なのか」という問いは、同様に嫌疑をかけられた者の条件として「そもそも商人一般」「女店主=実業家の女性(男性的な特性を持っている歪んだ者)(あるいは男の手先として女性を誘拐する裏切り者)(という偏見)」転じて「同性愛を連想させる女店主」…すなわちコミュニティの外側にいることが析出される。女性誘拐を行うのは、他者=かれらなのである(「アミアンのうわさ」)。ルネ・ジラールにも通じる考えだ(2012年2月の日記参照)
 なぜオルレアンやアミアンなのか、という問いは地方都市・現代都市の分析を導き出す。工業化やベッドタウン化などで発展し、それでも中央からは取り残されている地方の状況については先にふれた。それだけでなく著者たちは、都市が市民生活や文化の中心であることをやめ、経済的な活動だけの空虚な場と化したことを指摘する。市民と呼ばれながらも、政治は空の上の出来事で手が届かない。そんな空虚さ・自身の存在感の希薄さが、地下に張り巡らされた古代通路という神話を加速させる。
 ブティックについては、もういいだろう。昔ながらの価値観の者には「不安さえ引き起こす贅沢の場所、すなわち淫乱で不品行な場所」。また社会学者たちは、試着室という装置が持つ(鏡の前で脱衣する)性的なイメージ、若者間でのドラッグ文化の流行による「薬物で眠らされる」ことへの興奮まじりの恐怖、同様に性そのものに対する興奮と恐れなどを指摘する。
 けれどモランたちが興奮(と、もしかしたら恐れ)を隠しきれない本書のナンバーワンは、他にある。

 女性誘拐を煽情的に語る雑誌記事が、自分たちの暮らす街での出来事という「うわさ」として孵化するにあたり、リセ(学校)・あるいは工場といった、少女や若い女性ばかりを集めた閉鎖環境が、いわば噂を培養するシャーレとなったことに社会学者たちは注目する。
 「オルレアンの出来ごとが、私たちに理解させたことは、私たちが思春期の女性たち(の抱く空想=妄想)について全く無知ということだった。興奮ぎみに著者たちは言う。調査のリーダーとなったモランが「一切の災禍の入った箱を手にしているのは美しいパンドラ、つまり、若い少女なのである」と芝居がかって書きつけるのは、正直ちょっと引く。犯人がいないアンチ・ミステリのはずだった『オルレアンのうわさ』は、噂の発生に「美しいパンドラ」たちが果たした役割を強調する。日本語版の表紙がフィーチャーするのは「うわさ」を伝達するため額を寄せ合う少女たちだ。

 キーワードは「イエイエ」。
 フランスで60年代に流行したミニスカートなどのファッションや音楽など若い女性向け文化の総称なのだが、同書はそれを周知の概念のように連呼する。イエイエの有害な本性」「母親たちがイエイエに反発」「イエイエをめぐる論争」「イエイエが隠し持っていた危険」こちらの頭の中では「レーナウーン・レナウン・レナウン・レナウン娘が お洒落でシックなレナウン娘が わんさか・わんさか・わんさか・わんさか イエーイエーイエイエー♪」が鳴りっぱなしなわけですが(わざわざ書かなくてもいい)著者が圧倒されてる感じが伝わってくる。
 英語圏ではアースクエイク(地震)とユース(若者)をかけてユースクエイクという言葉が生まれたという。米『タイム』誌の1966年の「パーソン・オブ・ザ・イヤー」に選ばれたのは「Twenty-Five and Under(25歳以下のすべての人々)」いわゆるベビーブーマーだった。そして1968年の5月はフランスで5月革命と呼ばれる学生運動が吹き荒れた時期でもあった。
 『オルレアンのうわさ』は社会学者が研究対象としての、あるいは社会現象としての「少女たち」を発見した瞬間の記録としても興味深い。その当否や、その後の展開については、今は考えない。ただただ興味深いです。

 試着室からの誘拐という都市伝説は80年代に日本でも流行した。誘拐の舞台となるのはヨーロッパで、若い女性の海外渡航ブームに対する敵意が下地にあったと推測される。その他にも当時の日本が持っていた偏見や迷信が伺えるが、追及する余力は今はない。まあ、うんざりしますよ。

「生命の算術」に抗うために〜柿本昭人『アウシュヴィッツの〈回教徒〉』(2020.03.22)

 「誰かの「やめてくれ!」という訴えに最初は揺れた心が、やがて馴れてしまい、その者たちがどこかへと消えていくことが当たり前になります。
 そうして、私たちはおそらく、考えるということが加速度的に少なくなっていくのです」


 アウシュヴィッツの〈回教徒〉という存在を知ったのは、恥ずかしながら本当に最近のことだ。行政権力が法を無視する(つまり今この国で行なわれているような)例外状態について調べるうち、イタリアの思想家アガンベンに行き着いた。難解すぎる本人の著作から一旦撤退して、入門書・関連書などの外堀からアプローチするうち、彼が思索を傾ける当該の存在を認知することになった。
 〈回教徒〉と言っても、実際のムスリムではない。柿本昭人アウシュヴィッツの〈回教徒〉』(春秋社/2005年)によれば「飢えと憔悴と絶望によって、骸骨のように痩せ細り、目は表情を欠き、立っているのもままならなかった」「死にかけの抑留者の姿が、祈りの際に地面にひれ伏すムスリムの姿に似ているから」そう呼ばれたのだという。ナチによって迫害され、強制収容所に入れられたユダヤ人の中でも、さらに最底辺の、同胞にも見捨てられた存在。
 強制収容所にはゾンダーコマンドと呼ばれる、抑留者の中から選別され(わずか数ヶ月の延命と引き換えに)同胞をガス室に送る作業と死体処理に従事する者たちがいたというが、彼らとはまた別の意味で人間性の最底辺に置かれたのが〈回教徒〉たちだった。
 ・(参考)ゾンダーコマンドを描いた映画『サウルの息子』について書いた2016年8月の日記

 柿本が告発するのは「ユダヤ人には生きる資格がない」というナチスの思想によって収容所に入れられた者たちの間で(すら)、さらに「生きる条件」を喪失した者として〈回教徒〉が排除される地獄だ。いわばそれは収容者みずからがゾンダーコマンド化することであり、ナチズムを内面することではなかったか。それはいわゆる「ストックホルム症候群(監禁された人質が犯人の心情に同一化し、進んで協力する現象)」で済む話だろうか。もっと忌まわしい、人間性の自己放棄なのだろうか。
 著者は後者として〈回教徒〉をめぐる言説を掘り下げる。そもそもなぜ〈回教徒〉なのか。そこにはムスリムは「目は表情を欠き」人間性を放棄した異教徒だという侮蔑や差別がありはしなかったか。その同じ差別が「ナチスの手法」を踏襲したような先住ムスリムを排除してのイスラエル建国や、ブッシュJr・チェイニー副大統領・ラムズフェルド国防長官らによる中東攻撃や捕虜虐待の容認を基礎づけてはいなかったか。著者はジェノサイド的な排除だけでなく、それまで「ユダヤ教徒」でしかなかったものが反ユダヤ主義によって「ユダヤ人」として民族化された、それを逆手にとったシオニズム・イスラエルの建国を、ナチズムの負の相続として批判する。〈回教徒〉に最底辺での人間性の発露を見ようとすることで、剥奪を取りこぼしてしまうアガンベンの思弁の不徹底も容赦はされない。
 そして強制収容所からの生還者たちの山ほどの証言に〈回教徒〉への差別・排除・選別することの正当化があった事実が、嫌というほど浩瀚に積み上げられる。「個々の〈回教徒〉を識別することは出来ない」「病人棟に入れられた私は自分以外が皆、精神を喪失した〈回教徒〉であることに恐怖した」「瀕死となり私もあやうく〈回教徒〉になるところだった」「彼ら彼女らを動物に喩えることは、かえって動物に対して失礼だ…」
 あるいは骸骨のような者たちがパンを与えられた時だけ争って飛びつくと言われ、あるいは逆に折角パンを与えても受け取る気力すら示さないと匙を投げられ、その双方ともが〈回教徒〉という名で蔑まれる。生存者たちは、むしろ嫌悪や差別を得々として語るのだ。エリ・ヴィーゼル、プリモ・レーヴィ、V.E.フランクルといった人々も例外ではない。ある意味、愕然とさせられる偶像破壊だ。
 強制収容所の中では、何か(物語とか)に希望を託しつづけたり、配給される乏しい食料を一日三回に分けて食べるなど、ギリギリ最低限の人間性を保った者が生き延びた、という「神話」がある。自分なども感銘を受けることがあった、その「神話」もまた、裏を返せば「人間性を保つ気概のない者は死んでも仕方なかった」という、おぞましい選別に裏打ちされてはいなかっただろうか。「私より高潔で生きるに値する者たちが死んだ」ことに良心の呵責を憶えても、その呵責は〈回教徒〉には向けられない。ここには恐ろしい陥穽がある。

 …ナチス・ドイツが、真正な国民と見なした者にはスポーツを奨励し、禁煙を勧め、健康増進を目指した「生権力」の国家であったことは知られている。その健全さの肯定は、健全でない者の排除と表裏一体だった。半死者である〈回教徒〉には生きる資格がないという認識は、強制収容所の抑留者にまで内面化されていた。
 柿本は絶滅収容所の入り口に掲げられた労働が〔あなたを〕自由にするという悪名高い標語が、嘲弄のための虚偽ではなく、人々が労働可能性によって等級化され最下層の者から殺されていくシステムの、的確な表現であることを指摘する。十九世紀後半から確立された有用であることを生殺与奪のスケールにした生命の算術の完成形としてのナチズム。そして、それが「最終形」ではないと言わんばかりに続いている現状。著者はピエール・ルジャンドルを引用し「ナチズムは武力によって打倒されただけで、論証や説得・言葉によって乗り越えられたわけではない」と告発する。何より帯文真に勝利したのは、ナチズムではなかったか?が重い楔となって、本書を手にした者に突き刺さる。
 もちろん日本も例外ではない。かつては首相も務め、現在も副総理の座にある与党政治家が(民主主義を骨抜きにするという文脈でだが)「ナチスの手法に学ぶ」ことを奨励する日本。「労働可能性」の平易な別名ともいえる「生産性」が欠ける者として、同性愛者の排除が(これもまた与党の議員によって)謳われる日本。
 そしてアウシュヴィッツでのユダヤ人虐殺に先んじて「T4作戦」として身体障害者・知的障害者の安楽死政策が行なわれたナチスの、ナチズムの、日本は最も「優秀な弟子 Apt Pupil」ではなかったか。ああいう人ってのは人格あるのかねとは1999年、障害者施設を視察した石原慎太郎都知事(当時)の発言である。2016年には神奈川県・相模原市の障害者施設で、元職員が利用者を次々に刺し、45名の死傷者(うち死者19名)を出した。つい先日、横浜地裁はこの被告に死刑の判決を言い渡した。事件以来、被告は一貫して「反省するつもりはない」と明言しているという。


 ここからは、いわば「第二部」で、『アウシュヴィッツの〈回教徒〉』とは関係のない話になる。
 相模原の大量殺傷については、事件が起きた当時にも自分なりの見解を書いている(2016年7月の日記)。海外でも起きていた銃乱射事件などと違い「自分を優越していると思い込んだ犯人が、劣った普通の人々を殺傷した」のでなく「普通の人間として、普通より劣ると見なした人々を殺傷した」社会的な救いのなさに慄いた。「「人間としての条件を脅威的に揺さぶられた」のは殺傷された障害者ではない。「障害者は殺してもいい」という考えを認めてしまったら、障害者でない多数の吾々の「人間の条件」こそが崩壊しかねない」と書いたことに、とくに変更はない。
 そのうえで、改めて考える。被告への死刑判決は妥当だったのか。
 犯人に温情や、悔悛の機会を与えようというのではない。むしろ自分の中には、死刑「なんかで」いいのかという深い憎悪があり、その復讐心にこそ困惑し、苦しんでいる。
 死刑判決が言い渡された被告は「最後に一言」と発言しようとし、裁判長はそれを認めなかったという。この判断に正直、安堵している自分がいる。2001年に大阪の小学校に刃物を持った男が乱入し教師2名を含む23名が殺傷(死亡8人)される事件があった。この時も死刑判決を受けた犯人は法廷で「ひとこと最後に言わせろ」と発言したらしい。当時の僕は怒り狂った。自らの年齢に達するまでの数十年分の、物を言う権利を子供たちから根こそぎ奪った人間が、なんで「最後だから」と発言が許されるというのか。
 だからたぶん、死刑より的確な罰として自分が望んでいるのは、長い肉体的苦痛をともなう拷問刑などではなく、犯人の存在自体の抹消なのだ(そうだろうか?)。むしろ悔悛など、してほしくない。悔悛して、改心して、人の命の大切さに目覚めたところで、奪われた命は戻ってこないのだ。今さら善人になど、なられてたまるか。そう思う自分の憎悪の暴走にたじろぐとともに「だから人を殺しちゃダメなんだってば」と嘆息を新たにする。死刑になろうと、存在を抹消されようと、あるいは改心して己の罪を思い知っても、そんなことは死者にとって何の回復にもならない。
 実のところ、自転車ドロボウでもラーメン食い逃げでも同じなのかも知れない。自転車やラーメンは現物を取り返したり代金を取り立てたりして原状回復ができる。だが奪われた屈辱はなかったことに出来ない。いや、与えた苦痛も賠償金や刑事罰で相殺・回復されることになっているが「いくら金をもらっても、あのラーメン食い逃げされた怒りや屈辱は消えやしないよ」というのも本当だろう。だがそう考えると「たとえラーメン食い逃げでも取り返しがつかない(ので許されない)」あるいは逆に「ラーメン食い逃げでも大量殺傷でも取り返しがつかないことに変わりはない(から最終的には全て仕方がない)」ことになりはしないか。
 小学低学年の児童や、知的障害者に刃物をふるう大量殺傷者は、そんなふうに吾々を難題に直面させる。それも、取り返しのつかない人々の命を奪ってだ。「本当に、なんて愚かで、しょうもないことをしてくれたんだよ」という気持ちになる。
 「たとえ犯人を死刑にしても、奪われたものは取り返しがつかない」このことが、僕に死刑制度の存続を疑問視させる。課された難題への解決策としては、釣り合わないほど思惟が軽く(その中には「無期懲役よりコストが安い」といった発想すらないだろうか?)、それでいて付随する暴力性が高すぎる。
 だが同時に、死刑反対を唱える声が、先んじて命を奪われた人々の「取り返しのつかなさ」を二の次にしてしまうことをも僕は恐れる。

 加えて言えば、僕は(2008年の秋葉原無差別殺傷事件あたりを機に顕在化したように思われる)「なんで人を殺したらいけないんですかぁ?」という発言にも、軽蔑以外の感覚を持ち得ない。
 難しく、しかし端的に言ってしまうと「なんで人を殺してはいけないのかという設問の前では、吾々は「それはなぜか」と答える側にしか立つことが許されていないのだ。「なんで自分が尋ねる側に立てると思ってるの?」
 もう少し噛み砕いて言うと「なんで人を殺してはいけないのか」という問いが無価値なのは「人を殺してはいけない社会などというものが、ぜんぜん到来しておらず、この先も来るかどうか分からないからだ。さかしらぶった者が「なんでですかぁ?」と笑っている瞬間にも、保護者たるべき大人に子供がいじめ殺されている。女性は通り魔などでなく配偶者や恋人に殺される確率が最も高い。世界中で人々がミサイルや機関銃で虐殺されている。パワハラや無給の残業で労働者が死に追いやられ、政治家の嘘を押しつけられた官吏が自ら命を断っている。そうした現状をネグレクトしたまま「人を殺してはいけないというルールは抑圧だから、それに異を唱えることが自由だ」と気取る者には、耳を傾ける価値もない。
 実際は真逆だ。人の命が軽々しく奪われる現状こそが抑圧で、「人を殺してはいけない」こそが抑圧からの解放を求める、自由の声なのだ。自由とは「なぜ人を殺してはいけないか」説明する困難を、難題を(たとえばこういうとき「耳を傾ける価値もない」とか言うのはいいのか?と自問して悶えるとか)自分の頭と言葉で引き受けることだ。「なんで人を殺してはいけないんですか」と問う側に己を擬する者は、自分で答えを考えることはない。答えられないことを他人に押しつけ、自らは考えない。そのさかしらな問い自体も、自分の頭で考え出したことではなく、ネットか何処かで拾った誰かの受け売りだろう。どんなに気取ろうが、うそぶこうが、それは自由から最も遠いものだ。
 ついでに言うと、こういう文脈で「人を撃っていいのは、自分も撃たれる覚悟のある者だけだ」みたいな漫画の台詞を引用するのも、イイこと言ったつもりで根本的に履き違えていると思う。戒めてるように見えて、人を撃つことを結局(条件つきで)認めてる。逆に覚悟があって(と称して)人を撃つことを持ち上げてる。そういうのが罠なのだ。「撃っちゃダメ」からスタートしないとダメなの。(と思いきりカジュアルな口調で放り投げて終わる)

・参考:石原都知事「人格」発言 - 資料集([外部サイト]arok/2016年9月)
 『アウシュヴィッツの〈回教徒〉』は、さらに実在のムスリムも「人間性を持たず、命令のままに破壊を遂行する」戦闘機械と見なされ、それが現在に至る中東への迫害を根拠づけていることを指摘する。だがこの大きなテーマについては、他の書物とも突き合わせる「宿題」としたい。

時間論の前フリ(2020.03.29)

Why should it feel like a crime?
If I want to be with you all the time, why is it measured in hours?
You should make your own time, you're welcome in mine

どうして悪いことのように思わなければいけないんだ?
君とずっと一緒にいたいだけなのに、それを時計で測る必要があるかい?
君だけの「時間」を作るべきだよ 僕の「時間」に君なら歓迎だよ
("Polar Bear" Ride)

 聖アウグスティヌスは「時間とは何か、私は知っている。だが人に尋ねられると分からなくなる」と述べたらしい。…なるほど、頓智ですねで済めばいいのだが、実際には色々もっと難しいことを論述しているようだ。たとえば、これ:
〈論文〉アウグスティヌス『告白』における時間の概念(田之頭一知/大阪芸術大学)(外部サイト)
いや、僕も読んでない(そのうち読みます)。今は読んだことのあるもので、話を進めよう。

 少し前に読んでいた本の読書ノートをまとめていたら、興味深い考察が見つかった。ミハイル・バフチーンの大著『フランソワ・ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』(川端香男里訳・せりか書房)の一節だ。バフチーンによれば、初期ルネッサンスを代表するダンテの『神曲』の時代には、時間というか、時間に沿った進歩の概念がないというのだ。いわく「彼(ダンテ)はただ《上に》と《下に》しか知らず、《前に》を知らない」。地球の中心まですり鉢状になった地獄から、星々と一体になった天国まで、ダンテの世界観は垂直の階層として、綿密に練り上げられている。だがそこに、時間に沿って進む発想はない。魂は「水差しの水がこぼれる間もないほどの瞬時に」最高の世界位に生まれ変わることができる。
 もし、そのようなものであるならば初期キリスト教の「神の国はすぐに来る」の「すぐ」っていつだ、という問いはあまり意味をなさないだろう。裁きの「時」は直線的な時間軸の先に用意されているのでなく、天国から垂直に落ちてくるか地獄へ人を垂直に落とすのであれば(インスタント・カーマ!)。
 ダンテの『神曲』(1472年)から60年後・ラブレーの『パンタグリュエル物語』(1532年)・『ガルガンチュア物語』(1534〜5年)では様相が違ってくる。バフチーンは言う。ラブレーにおいては「子は単に父の若さを繰り返すのではない。(中略)新しい世代の青春はいつでも、まったく新しい、より高い青春となる」
 博識な父も、次の世代から見たら学童以下だ。文化は発展する。人類は進歩する。天国に至る垂直軸を昇るのでなく、歴史的過程を前に進むことで人々は完成に近づく。地域性の違いか、それとも半世紀のそれこそ「進歩」か。いずれにしてもラブレーの時間観は、現代の吾々のそれと真っ直ぐつながるものだろう。

 この時間観に異議を唱えるのがクィア・テンポラリティ論、クィアな時間論というものであるらしい。雑誌『福音と世界』2019年2月号(新教出版社)に掲載された安田真由子応答 時間をクィアするということ」は、現代の時間観は「次世代」「子ども」をシンボルとする未来志向だという論者の見解を引用する。そうした時間観は生殖や家族主義・異性愛の称揚と、同性愛者などクィアな人々の抑圧や排除を内包している。先に引いたように、ラブレーが時間上を「前に」進む人類の発展を、親から子への世代交代にシンボル化したことが、おのずと思い出されるだろう。
 当該の文章はいわば「さわり」導入部だけなので、この「クィアな時間論」について知ることは(僕自身の)今後の課題になるでしょう。軽くはない話になる可能性も高い。
 でも、それらしい探究が必要になるのは、そう先ではないのかも知れない。

『福音と世界』2019年2月号(外部サイト)
 Amazonに出てる古本は貼るのをためらうほど高かった…別のところで探したほうが良さそう…
 
 時間は存在しない。そんなタイトルの本が目に入ったのは昨年、衝動的に訪れた松本の駅ビル書店でだった(2019年11月の日記)。ちなみに面陳で、隣に置かれていた本は近ごろ話題の思想家マルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』。面白いなあ、キミたち!
 その時は何しろ他に買いつけた本が多すぎてスルーしたのだが、最近18きっぷで松本を再訪する機会があり今度は…と同じ書店を訪ねたら、なんと二冊に増えている。
 カルロ・ロヴェッリ時間は存在しない』(NHK出版)
 ジュリアン・ハーバーなぜ時間は存在しないのか』(青土社)
 どちらを読んだものだか(そもそも、どちらにせよ読んだものだか)また逡巡。乗りたい電車まで時間がない、いや、これは哲学的な意味でなく。結局また諦めて「おやき」だけ買ってホームに駆け込んだ。後で調べたら、物理学と、それこそアウグスティヌスのような思弁を組み合わせたような本であるらしい。クィア時間論との関連は分からない。
 ただ。
 ちょうどミュージシャン・坂本龍一氏が「『時間というものは存在しない』っていうことに基づいた音楽」を作りたいと話しているインタビュー記事を読んで「おっ」と思った。
坂本龍一に清志郎が警告していた コロナ危機「その後」(朝日新聞デジタル)(外部サイト/無料での閲覧は途中まで)
いま吾々が常識で考えてる「時間」は、都市や楽器のように人間が勝手に作り上げたものではないか、などと語っている。カルロ・ロヴェッリの本は世界で話題になったようだから、その影響があるのかも知れない。また別のところから来た発想かも知れない。
 地動説にせよ進化論にせよ、相対性理論にせよ不確定性原理にせよ、科学的なアイディアが時には誤解もされながら、人文や社会の思想・芸術や物語に影響を与えるのは、よくあることだ。
 ダンテの時間なき時間観から、ラブレーの前に進む時間観まで、転換には(長く見ても)60年しか要さなかった。今までとは違う時間観も、ある日とつぜん垂直に墜ちてくるのかも知れない。
 来てくれたら、ちょっと嬉しい。僕はわりと歓迎。

コロナ退散祈願。松本「翁堂」のプチどうぶつケーキ(あひる・ブタ)と、マスクが外れかけ「チャントシテヨ」と言ってるタヌキのプチケーキ。あひるのクチバシはピーナッツ。可愛かろう!

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