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思想と無思想のシャツ(22.04.01)


 Tシャツを作りたいなあと前々から思っていた。
 今は図案をネット経由で登録するとオンデマンド=注文が入るたびに一枚ずつ作られる=製作者に在庫などの負担がないサービスがあって、そこに二つほど図案を登録してみました。

 ひとつは日本国憲法99条のTシャツ。
 9条ではなく99条。というか数年前の安保法制以来、9条を守れということで「9」の数字を図案化したシャツやステッカーを見かけるようになった。のだが、そうしたアイテムを身に着けていると「政治的主張は好ましくない」と国会議事堂などに入れない事案が発生しているらしい。
 え?それは99条で現行憲法の尊重と擁護を義務づけられてる公務員(国会の職員など)がしていいこと?という疑問をそのまま図案化して
「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ
という条文をそのままあしらってます。
 自分がデモなどに参加するとき用に作ったシャツですが、いちおう(酔狂なひとは)誰でも購入できるよう販売ページを公開しておきます→
99条Tシャツ」(SUZURI)

 遠目に見ると「9」・よく見ると「99」に見える(かも知れない)ソコソコ反抗的な図案。まあ諍いを好まないひとは採択しなければいいのだけの話ですが。たとえばコレを見よがしに着て国会内での集会や勉強会に参加しようとした時どうなるか保証しようがないし、関係なく街頭で機嫌の悪いひとに難癖をつけられないとも限らない。
 なにより99条で「尊重し擁護する義務」を規定された現行の憲法はいつまで保つのか。たとえば来年の今ごろは憲法そのものが改変され「すべての国民はこの新しい憲法と国家を尊重し擁護する義務を負う」とかなっていたら、この図案の賞味期限はせいぜい一年
 「逆に言えば間に合わなくなる前に作って、少しでも着る機会があってよかった」と、そんな「良かった探し」にならないと好いのだけど、いいタイミング(?)でこんな記事が:
新たな戦いに「反戦デモ」を例示 陸自、不適切と指摘受け修正(共同通信/22.3.30)(外部サイトが開きます)

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 もうひとつ、長年「Tシャツにしたいなー」と思っていた図案があって、こちらも商品化してみました。
新刊ありませんTシャツ」(SUZURI)

 特定の趣味をもつ人向けの、使わなくて済むほうがいい保険的なTシャツです、あはは。
 でもこちらも、コロナ禍が順調におさまって、即売会など自粛しなくて済むようになって初めて意味のあるアイテムなので、99条とは逆に今はまだタイムリーでない・当面タイムリーでない図案かも知れません。どちらも「思いついた時すぐやっといたほうが良かった」という苦い教訓になるのかも。

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 そんなこんなで、ぼちぼち生きてます(いつもの生存報告)。今月は中旬〜下旬に、もうひとつお知らせがある予定です

一箱古本市に出店します(22.04.10) (★04.16追記)

 俺…この戦争が終わったら○○するんだは映画の中の死亡フラグ(言った者はたいがい願い叶わず戦死する)と言われていますが。新型コロナで色々中止になったり閉店になったりして、閉店は悔やんでも取り戻せないけれど「コロナが終わって再開されたら今度こそ」と個人的に思っていたのが一箱古本市。ダンボールひと箱を「店舗」に見立て、参加者が思い思いの選書で古本を売るイベントです。
 2020年・2021年と中止だった「不忍ブックストリートの一箱古本市」が規模を縮小して4/30に開催ということで、応募したら抽選に通り、初参加と相成りました。

・公式:不忍ブックストリートの一箱古本市開催のお知らせ(←外部サイトが開きます)

 詳細な情報はおいおい発表されていくのでしょうが、とりあえず参加者向けのマニュアルと参加者リストが配布され「あっ箱は当日持参なんだ(同人誌の即売会だと宅急便を使った搬入が多い)」「犬とか猫とか山羊とか、動物をあしらった屋号がちらほらあって面白いな…さすが上野に近いだけある!?(ないって)」などフライングで楽しませてもらってます。
 かくいう自分の屋号は「忘羊舎」。『書を読んで羊を失う』(鶴ヶ谷真一・白水社/1999年)という素敵な署名があって、もとは莊子の讀書亡羊という故事に由来するらしい。亡はちょっとイベントにどうかなと思い「忘」れることにしました。

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 残念ながら、コロナは終わっていません。第六波が収束しないうちに第七波が到来した感が強いし、オミクロンより強力な新種(新株?)がイギリスで観測されたという話もあります。
 自分は今年は出来ること・したかったこと惜しまずしようと、Tシャツを作ったり未完成のまんがをネーム実況したりしてて、一箱古本市の初参加もその一環なのですが、皆様は皆様の内で外で鳴る警戒アラートに従って、御身の安全を最優先でお願いいたします。そのうえで、当日現地でお会いできたら嬉しいです。

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 【追記】
 サークルリスト…違う、それは同人誌即売会だ…店主さん一覧が公開されました
 いや、ずっと前から公開されていたのですが、バタバタしてて本サイト更新の余裕がなく。
不忍ブックストリートの一箱古本市・店主一覧(外部サイトが開きます)
 錚々たる面々のなかで、空気の読めない初参加の素人ゆえ、なにかと不調法もあるかも知れませんが平に御容赦。楽しんでいきましょう。(22.04.16)

表現者の自由〜アーシュラ・K・ル=グウィン『夜の言葉』(22.04.20)

 アーシュラ・K・ル=グウィンは言う―作家として、あなたは自由なのですと。名著『夜の言葉』に収録されたエッセイ「書くということ」の一節だ。
 やったー、ル=グウィン御大のお墨付きが出た、表現は自由だバンザーイ、とは行かない。なにしろ同じ本の別のエッセイで、ソ連では政府が作品を検閲し作家をコントロールしようとするが、アメリカには市場が「もっと一般ウケを狙って書け」「もっと煽情的に」「ポルノは売れるぞ」と作家をコントロールする「見えない検閲」があると指摘した彼女である(「魂の中のスターリン」)。「あなたは自由なのです」「あなたほど自由な人間はいないと畳み掛けるとき、それは甘いセールストークではなく「あなたが思ってる"自由"は本当の自由?」「市場や他人の評価におもねった、不徹底な"自由"じゃない?」という脅しにさえ見えてくる。
 実際、この「自由」をめぐる一節は、作家の仕事とは、わたしの考えでは、真実を語ることです。その作家自身の真実をですという一節につながっている。SF作家でありファンタジー作家でもあったル=グウィンがそうしたように、「あなた」も異星人やドラゴンの話を物語っていい。けれど、その異星人やドラゴンに(あなたの中で)嘘や胡麻化しがあってはいけない。
 これは心を揺さぶり、創作を志す者を強く鼓舞する言葉だが、同時に厳しい掟でもある。普段づかいの言葉としては、誰が言ったか失念したが(創作は)花も実もある嘘八百くらいのほうが好い気もする。しかし、突き詰めて考えると、けっきょく両者は同じことを言ってるようにも思われる。

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 「作家の仕事(自由)とはその作家自身の真実を語ること(自由)です」の対極として、「花も実もある嘘八百」(むしろコレは「真ん中」に当たる言葉ではなかろうか)の代わりに思い出したのは別乾坤という言葉だ。昔からある言葉なのだろうけど、自分はこれを石川淳の文章で知った。如何にも「らしい」言葉ではないか。まあ「世界」と同じ意味だけど、乾坤一擲の乾坤。創作とは、えいやっと別の乾坤を創り上げることだという威勢の良さは(少し照れのある)「嘘八百」を最強の自負にまで高めるようで、「花も実もある」を極限まで美化したル=グウィンの言葉と対にするのに相応しい。

 そこまで考えたところで、常々自分が抱いている、もうひとつの対を思い出した。
 創作の師と(勝手に)仰いでいる丸谷才一先生の『文章読本』の末尾を飾る書くに値しないことは書くなという一節(これが『文章読本』の最後の結論てすごくないですか)と、それだけだとしんどいので心が弱ったとき服用する真逆の言葉=アルフレッド・ヒッチコックが演出に異を唱えられ言ったというイングリット、たかが映画じゃないかという一節の、対だ。
 ちなみに書くに値しないことは書くなも石川淳の言葉だ。自分にとっては師匠の師匠(?)の教えということになる。

 そして、二つ対があるならば、それぞれを縦軸と横軸に取って分布図が作れるなと考えた。
 真ん中に「花も実もある嘘八百」を置いて、縦軸は「作家の仕事とは、その作家自身の真実を語ること」と(創作は)「別乾坤」を両端に。横軸は「書くに値しないことは書くな」と「たかが映画じゃないか」を両端にした四角い領域。

 二つの対・四つの極論に囲まれた、この領域が「表現者の自由」だと考えるのは、少し楽しい(個人の感想です)。「表現の自由」については、別の日に考える。

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 追記
 花も実もある嘘八百は誰の言葉か失念したけれど…と書いたけれど、少なくとも自分にとっての出典が判明しました。別件を調べてたら出てきた、小林信彦小説世界のロビンソン』の一節。
 「昔の作家の表現を用いれば〈根も葉もある嘘八百〉である」
 あれ!?「花も実もある」じゃない!!!
 …誰の言葉か失念、ではありません。「花も実もある嘘八百」オリジナルは僕でした(とほほ)。根も葉もなかった(とほほほ)。嘘八百だった(とほほほほ)。

 せっかくなので、前後の文章も引用しておきましょう。
「日本では、フィクションというものが、作家の体験とはちがうなにかから組み立てられる絵空事と考えられているふしがある(中略)
フィクションとは、作家にとってどうしても語らなくてはいられないことを魅力的に語る方法と考えていただきたい。昔の作家の表現を用いれば〈根も葉もある嘘八百〉である。想像力による世界がこちら側にあるとして、鏡の向こうにはフィクショナルな世界に見合う、作家の体験(内面)がある−これが、ぼくの考える〈古典的〉な図式である。
そして、魅力的に語るためには、何をやってもいい、というのが、近年のアメリカ小説から得た教えである」

ちなみに、この「近年」とはジョン・アーヴィングが『ガープの世界』を書いた頃。今の僕ならフィクショナルな世界に見合うのは、作者の体験・内面というよりは、現実世界とその中で生きる作者の思考・思想、だと言い替えたくなるけれど、『小説世界のロビンソン』名著だと思います。少なくとも、僕は強い影響を受けました。
(2022.05.16)

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