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横たわったか嘘なのか(22.06.01)


今回の日記(月記)は既に多くの方々が言及しているテーマを蒸し返しています。でもいいじゃないすか「バナナの栄養」とか同じようなウェブページ沢山あるべ?

 ちょっと出典をすぐに取り出せないのだけれど、丸谷才一先生のエッセイに、先生が先生だったころ(ややこしいなあ。つまり大学教員)近所だか同じ下宿だかに住んでる大学生が訪ねてきては「先生、なにか面白い小説ありませんかねえ」と訊いてくる話があった。先生が「アントニー・ホープゼンダ城の虜』」「ジョージ・オーウェル一九八四年』」などと書名を告げると「わかりました!」と内容の説明も求めず書店だか古書店だか図書館だかにスッ飛んでいく。実に好い青年だった、斯くあってほしいものだ、みたいな内容だったと思う。
 『ゼンダ城の虜』実は未読なのでよく分からないのだけれど『一九八四年』は一緒に薦めていい話なんですかねえ。という疑問もさりながら、この会話に出てくる『一九八四年』は何処から出ていた、誰の訳だったのだろう。
 なんとなくハヤカワ文庫の独占物みたいに思っていたオーウェルの近未来ディストピア小説だが、別に翻訳権独占ではなかった。電子書籍サービスBOOK☆WALKERで、つまり親本は角川書店版の『一九八四年』があることを知ってしまった。タイトルはアラビア数字で『1984』。訳は田内志文氏。とりあえず入手してみた。
 えっ舞村さん(仮名)、翻訳別に揃えるくらい『一九八四年』が好きなの?そんなことはない。大体ハヤカワ文庫版だって1984年に洛陽の紙価を高めた新庄哲夫版のみ所有で、高橋和久氏による新訳(2009年)は店頭の立ち読みで必要なところを確認しただけ・持ってはいないのだ。
 今回の角川版の入手も同じ箇所を確認したいだけ。その箇所とは何か。作中に登場する流行歌「憎しみの歌」の歌詞である。厳密にいえば、その中のたった一単語。

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 『一九八四年』の舞台は独裁者「偉大なる兄弟(ビッグブラザー)」と党が支配する近未来のイギリス。権力に逆らった下級役人ウィンストン・スミスは逮捕され、拷問と洗脳の果てに唯一の同志だった恋人を裏切り、仮釈放の日々を過ごしている。喫茶店で「丁字で香りづけしたジンを垂らした紅茶」をすするウィンストンの耳に、作中で流行している歌謡曲「憎しみの歌」が流れてくる。流行歌でその曲名はどうかと思うが中身もエグい。こんな歌詞:
生い茂る栗の木の下で 俺はお前を売り お前は俺を売った
 奴らはあそこに横たわり、俺たちはここに横たわる 生い茂る栗の木の下で
(新庄訳)
これが大変な問題だった。英語の原文だと
Under the spreading chestnut tree
 I sold you and you sold me:
 There lie they, and here lie we
 Under the spreading chestnut tree

なるほど、コンマのある無しも邦訳に反映させてるんだね、忠実だね、ではない。三行目。動詞「lie」には「横たわる」と「嘘をつく」の二種類がある。この場合どっちだ?

 lie=横たわるを採用した新庄訳は、ウィンストンのような密告者・転向者・裏切り者の末路を暗示している。実際にこの直後、ウィンストンも収監施設に引き戻され(というより仮釈放じたい彼の幻想だったのかも知れない)後ろから撃たれて「横たわる」ことになる。
 だがこの解釈は唯一無二だろうか。lieが「嘘をつく」なら前の行の「売る=裏切る」と対応する。お互いを売り、それぞれの場所で嘘を言いふらす裏切り者どうし。

 問題の年を十年後に控えた1974年、『一九八四年』のミュージカル化を構想したのがデヴィッド・ボウイだ。出世作『ジギー・スターダスト』で「五年後に滅びる世界」を歌ったボウイの「十年後」ミュージカルは頓挫するが、半人半獣のミュータントが跋扈する未来世界を描いたといわれるアルバム『ダイヤモンドの犬』の後半には「We Are the Dead」「1984」「Big Brother」とオーウェルからの引用が散りばめられている。
 前置きが長くなったが、そんなボウイが『ジギー』(1972年)の本当の「五年後」1977年にリリースしたヒット曲「"Heroes"(英雄夢語り)」の終盤の歌詞は、こんなふうだ:
 We are nothing. And no one will help us
 Maybe we are lying. Then you'd better not stay
 But we could be safer just for one day

 東西冷戦の時代、ベルリンの壁のそばで監視兵に見せつけるようにキスをする恋人たちがWe can be heroes just for one day(たった一日だけなら僕たちは英雄になれる)と謳う歌詞は終盤「僕たちは何物でもない 誰も僕らを助けてはくれない」と悲観に落ち込んでいく。
 この「Maybe we are lying」のlying(lieの現在進行形)が偽るほうのlieなのは明白だろう。「僕たちが(きっとうまく行くわなんて夢みたいなことを)言ってるのは嘘かも知れない だとしたら君はここにもう居ないほうがいい」「でも僕たちはまだ安全だろう さしあたり今日一日は」。このlyingを「僕らは横たわっているのかも知れない=僕らは死んだも同然だ(本当にそうなる前に君は立ち去れ)」と解釈するのは、かなり強引で言うなれば「詩的すぎる」と思う。
 

 先述したとおり『一九八四年』には思い入れが深いボウイ先生だ。彼のlyingが「嘘をつく」なら、オーウェルのlieも「嘘」ではないか。「嘘」に1ポイント加算。
 そんなわけで、同じハヤカワからの2009年・高橋和久氏による新訳版は衝撃だった。
おおきな栗の木の下でー
 あーなーたーとーわーたーしー
 なーかーよーくー裏切ったー
 おおきな栗の木の下でー

これは有名な童謡のパロディではないか、新機軸を打ち出したいにしても悪ふざけが過ぎやしないか…と思ったら、そうではなかった。実際に「憎しみの歌」は、日本でも知られる「大きな栗の木の下で」の元になったイギリスの童謡のパロディだったのだ。
そのことを詳しく解説されてるブログがありましたが、今ちょっと発掘できません…他にもアメリカのジャズソングか何かが元ネタになっていたとか
 そうなってしまうと新庄訳のほうが、たとえば「どんぐりころころ」を「生い茂る団栗の木の下から 転落した団栗は 池の底に横たわる…」と過剰に文学的に訳してしまった可能性が高い。という戯れ言はさておき。I sold you and you sold melieも一緒くたに裏切ったにまとめた高橋訳が「lie=嘘」派寄りなのは濃厚だと思う。
 これはやっぱりlie=嘘なのかなあと諦めかけたとき(もうお気づきと思われますが、僕は新庄訳が好きなのだ)(アヒルの子は生まれて最初に目にした一九八四年訳を本物だと思う)、思わぬ弁護側の証人?が現れた。

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 1984年に『一九八四年』で盛り上がったのは、新庄訳がにわかにベストセラーになった日本だけではない。オーウェルの母国イギリスでは映画化がなされた。
 主演はジョン・ハート。劇伴音楽はシンセポップ・ユニットのユーリズミックスが全面的に担当するはずだったが、ハイテクすぎる楽曲群は実際には採用されずバラード曲の「ジューリア」だけがエンドロールに流れたのではなかったか。しかし幻の劇伴は『1984 オリジナル・サウンドトラック』としてアルバム化されている。音楽的にもすごく好いし、冒頭「I did it just the same(にも関わらず、僕はそれをしてのけたのだ!)」から「Double plus good」「Ministry of Love(愛情省)」ラス曲「Room 101」まで原作のキーフレーズが忠実に散りばめられた再現度の高い名盤だと思う。
 また前置きが長くなりました。再現度が高い、と言いながら実はキチンと確認していなかった「ジューリア」の歌詞を読む機会があり、あっと思った。ちなみにジューリアは主人公ウィンストンが愛し、そして「売る」ことになる恋人・反政府の同志だ。
 Julia
 When the leaves turn from green to brown
 And autumn shades come tumbling down
 To leave a carpet on the ground
 Where we have laid

(ジューリア
 木の葉が緑から茶に色を変え
 秋の覆いは崩れ去って
 地面に絨毯を残す
 そこは僕たちが横たわったところ)
今、横たわるって言いました!?
 色づいた木の葉が落ちてカーペットになるって、そこで横たわるって、どう考えても「生い茂る栗の木」を意識してますよね?してませんか?英語の自動詞とか他動詞とか過去分詞とか、面倒な手続きは多少スキップしているのだけど(すみません)この楽曲は「lie=横たわる」説に寄ってる気がしてならない。
 

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 そんなわけで、満を持しての角川版・田内志文訳『1984』。まずは結論を申しましょう。申していいですよね?
大きな栗の木の下で
 あたしとあなたは裏切り合った
 あいつらはあっちでごろり、あたしたちはこっちでごろり
 大きな栗の木の下で

おおおおお横たわった派だ!まあこれが決定的な確定条件でもないし勝利……人類史上最大の勝利…勝利、勝利、勝利!(←せっかくなので田内訳を拝借)と駆け出したりもしませんが、「うーん、また分からなくなった」と思う自分の口元は今、たぶん緩んでいる気がします。あと主語が男性→女性に替わっているところに新しい挑戦がある。

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 田内志文氏の訳による角川版『1984』の刊行は2021年。新しい。あとがきにもあるとおり、これまで「憎悪週間」「二分間憎悪」と訳されてきたものを「ヘイト」と訳出している。2020年代現在、ヘイトという言葉が「憎悪」とは微妙に異なり「性別や人種など当人が変えがたい属性を攻撃の対象にする行為」という意味をもって使われていることを考えると、微妙な訳かも?と思ったりもする。つまり「ヘイトスピーチを許さない」という言葉や姿勢・メッセージが「批判=ヘイト」「政治家へのヘイト」みたいに誤用・意図的に簒奪されている(むしろニュースピーク的な)現状を思うと…という感じ。

 そして最後も私事ですが、新庄訳で十代の頃さんざ頭を悩ませた「丁字」(当時はインターネット検索などなかったし、まずもって「ちょうじ」という読み方すら分からなかった)が、田内訳では「クローブ」と訳されており、いい時代になったなあと思いました。
田内志文訳『1984(BOOK☆WALKER)(外部サイトが開きます)

見えない悪役〜早川千絵監督『PLAN75』(22.06.30)(7/3追記)


 倍賞千恵子さん主演の映画を観るのは二回目だな…前のも好かった、『ハウルの動く城』だったけど。
 なんてクスグリは大概にしておいて。
 早川千絵監督の映画『PLAN75』予想以上でした。毎月ついたち更新のサイト日記(だからそれは「月記」だと)を一日前倒しするのは、映画が安くなるファーストデイに間に合ってほしいから。まあ、最近は水曜もサービスデイな映画館も多いですけど、上映が縮小される前に。
映画『PLAN75』公式サイト(外部サイトが開きます)

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 本作の存在を知ったのはホームレス支援誌『ビッグイシュー』の6/1号(432号)での倍賞・早川両氏のインタビューで。白の上下に柔らかなネルの生地・キャメルカラーの上着で、小さな椅子に腰掛け微笑む倍賞千恵子さんを、トランクに座った兄(寅さん)と空目して…まあそれはいいです。
ビッグイシュー6/1号(432号)※通販もあります(外部サイトが開きます)
 高齢化問題の「解決」案として、75歳を越えた高齢者は自分の「死」を「選ぶ」「権利」が与えられる。そんな攻めた設定の映画を監督した早川氏は、制作のための取材をとおして「生きて家族や社会の迷惑になるなら死にたい」と考える高齢者が多いことに衝撃を受けたという。
 将来のことを考えて不安になる。人生100年時代と言われるけれど、老いや疾患でなく経済的に、そんなに長く生きられる気がしない・死にたくはないけれど生きることが同じくらい厳しい(気がする)やるせなさは、自分も無縁ではない。これは自分は(も)観なければいけない映画だ。そんな思いがあり、健康や生命を優先してくれと言われる酷暑のなか、映画館に出向いた。

 で、映画ですが。予想以上でした。
 自分でココは伏せたいなと思う箇所は伏せますが、「もう観ると決めてるし」「余計な予備知識なしで観たい」という人は、ここで引き返して劇場へ。後で答え合わせしましょう。
 
 繰り返しになるけれど、75歳になったら死を「選べますよ」とアナウンスされる社会。SFじゃないか、という驚きが最初にあった。SFじゃないですかコレ。すごくないですか。吾こそはSF好きというひと、スルーしていいのコレ。
 映画は最初「入るシアター間違えたかな」と思うような、ソリッドな導入部で始まる。『サウルの息子』を彷彿とさせるピンぼけの・それだけに凄惨さを想像させる画面。個人的に、すごく好みの不穏な音楽。
本サイト内『サウルの息子』感想「生を奪われた者は、死をも奪われる」
 ※自分の知ってる映画などをポンポン引き合いに出しますが、気にしなくていいです。何を自己参照するかは人それぞれ。
 ホテル清掃員で老後のつましい生活を支える倍賞千恵子さん。言わずもがな、なんだけれど当該の職務に従事する人たちの待遇の悪さはニュースなどの別ルートで伝わっており、設定の(社会問題への)目配りが伝わってくる。その職も失ない、アパートに居られなくなり、不動産屋でも、次の職探しでも、生活保護でも扉が開かない彼女は、とうとう「PLAN75」を「選ぶ」ことを余儀なくされる。

 一方、制度としての「PLAN75」を支える側の人間として登場するのは三人。磯村勇斗さん演じるPLAN75推進担当の公務員。死を「選んだ」高齢者の最後の期間を相談相手・聞き役として支えるコールセンター係(河合由美さん)。ステファニー・アリアンさんが演じるのはフィリピンから出稼ぎで来た介護労働者で、離れて暮らす娘の治療費のため「PLAN75」の遺品整理係に転職する。
 時間がないし、観るひとの興趣を削ぐので話をしぼると、とくに磯村さんの表現するキャラクターの複雑さが心に響く。
 若い公務員。窓口で呼ばれたのに椅子から立ち上がれない高齢者には、飛んで車椅子を取りに行き、笑顔で手を貸す。職にあぶれた主人公が、炊き出しの列にならぶのを躊躇っているのを見かねて「良かったら」と湯気の立つ熱い丼を持ってくる。笑顔を絶やさず、仕事熱心。20年ぶりに再会した叔父にも心から尽くす好青年だ。
 だが彼が手を貸し案内するのは、その高齢者に死を「選ばせる」PLAN75の窓口だ。夜に凍える倍賞さんが座っているのは、昼間、彼が業者と打ち合わせ「これだと(不法占拠するホームレスなどが)横になれなくていいですね」と設置する「排除アート」を笑顔で選定していたベンチなのだ。高齢者に死を選ばせるのも、ホームレスを排除するのも、彼にとっては善意なのだ。
 大急ぎで言うが、サイト日記(月記)の表題にした「悪役」とは彼ではない。それは後で話す。彼は優しく、共感力もある好青年だ。20年も音信不通だった叔父を彼は受け容れる。叔父が溜めこんだ献血手帳。橋や道路の建設で全国を渡り歩いた叔父は、九州・四国・北海道…行く先ごとに血を人々に分け与えた。家族としては難ありの人だったことが暗示されるが、人としてまっとうだった。若い公務員は、それを正しく汲む。だが、彼がしていることは高齢者の排除であり、ホームレスの排除だ。しかし最後に彼は、PLAN75を選んだ叔父の、そして彼自身の尊厳を取り戻そうとする。
 彼が、叔父が、そしてもちろん倍賞千恵子さんがどうなるか。どうなってしまうのか。それは当然だけど、ここでは伏せる。登場する、どのキャラクターも、尊厳をもった個人として描かれる。それがどれほど大事なことか、この映画は教えてくれる。
 献血手帳に見られるように、細部も練りこまれている。なんとも不穏なサントラ(個人的にすごく好み)と、まったくBGMのない場面とのあいだに、ただひとつだけ聞こえる唄声が、倍賞千恵子さんの「りんごの木の下で」なのもチャーミングで愛らしく、そして人の尊厳に満ちている。

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 大急ぎで結論に移ろう。
 良い映画・好い映画です。登場する人物は誰もが(間違っていてすら)誠実で、たぶん心やさしくさえある。
 それでも、この映画には見えない悪役がいる。
 監督はそれを十二分に意識したうえで、敢えて伏せたのだと思う。映画を、映画として成立させるため。
 だが観た者は、登場人物たちの誠実さに感動し、やるせなくなる、だけでなく、伏せられた悪役を暴かなければいけない。
 この映画の悪役。それはPLAN75を策定した者たちだ。
 本作で描かれるのは、尊厳を目的とした安楽死ではない(それについての議論は措く)。尊厳死めかした、高齢者の排除だ。PLAN75を「選択」させられるのは、職を失ない、家を失ない、家族や社会のお荷物あつかいされた人たちばかりだ。
 彼ら彼女らを死に追いやり、自分たちは決して死を「選択」せず、豊かな生をまっとうする、いや、それ自体が悪いことではないが、その豊かな100年人生を、あーはっきり言おう貧しい階層を食い物にすることで得ている者たちがいる。
 労働基準法が定める最低賃金をはるかに下回る薄給で高齢者にトイレ掃除をさせ、彼女ら彼らが受け取るべきだった社会保障をオリンピックや布マスク・何十兆円の使途不明金で融かした者たち(万博やカジノや原発でも)。シルバー民主主義だの、高齢者は余命を基準に参政権を削れだの言う「論客」たち。
 忘れないうち言うと、磯村くん演ずる公務員以外は、コールセンター係も介護労働者も、もちろんホテル清掃員も、みんな非正規雇用者だ。そのことも見逃してはいけない。ちゃんと描かれているのだから。

 本作は、人の尊厳を描いたパセティックで、美しい映画だ。
 だが、この映画には敢えて伏せられた悪役がいる。思い悩む倍賞千恵子さんの背景で流れるラジオが、政府はPLAN75の成功を受けて死を「選択」できる年齢を65歳まで引き下げると、しれっと語っている場面から、監督の意図は明白だ。
 (言い落としてたので追記7/3)まあ今の社会への批判なスタンスは肝心のPLAN75が「次は65歳」などと調子いいこと言いつつ火葬の手配が間に合わ等早くも末端は崩壊ぎみなところでも明らかなのですが
 なので、この映画を観て、僕が言うべきことはこうだ:
 選挙権のあるひとは、選挙に行きましょう。
 現実の世界の悪役に、いいようにされないために。

(c)舞村そうじ/RIMLAND ←2208  2205→  記事一覧(+検索)  ホーム