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哲学とは何かとは何か〜ロドルフ・ガシェ『地理哲学』(22.08.01)


 ※今回の日記、書き手の手にあまる話をしています。

 その昔、吉本隆明の『言語にとって美とは何か』という本を読んだとき痛烈に思ったのは「何処かに『言語にとって美とは何かとは何か」って本がないかなあ」ということだった。
 ジル・ドゥルーズ=フェリックス・ガタリの『哲学とは何か』(河出文庫)には「『哲学とは何かとは何か」と呼ぶべき本が、ちゃんとある。ロドルフ・ガシェ地理哲学〜ドゥルーズ&ガタリ『哲学とは何かについて』』(原著2014年・大久保歩訳/月曜社2021年)がそうだ。ただし、これもまた「地理哲学(哲学とは何かとは何か)とは何か」と、もう一冊別の本が必要そうな代物でしたが。
 …それ(哲学とは何かとは何かとは何か)がこの日記?いやいや無理無理、と先に白旗を揚げたところで…
 書影:『哲学とは何か』と『地理哲学』
 『哲学とは何か』はそれまで『アンチ・オイディプス』(とても難しい)や『千のプラトー』(とても、とても難しい)を世に問うてきたドゥルーズ=ガタリの最後の共著(1991年)で、今まで向こう見ずに突っ走ってきた自分たちだけど、そろそろ「じゃあ哲学って何だ」と問い直していいんじゃないか、という締めくくり感のある書物だ。
 先立つこと七年、ドゥルーズの盟友だったミシェル・フーコーが半年後の死をおそらく自覚して教壇に立ったコレージュ・ド・フランス最後の講義でソクラテスの死を語り、これで哲学者の面目を果たせましたと言い残したエピソードを連想させなくもない。
 ・本サイトの日記「大人の夏期講習〜ミシェル・フーコー講義集成」(2017年8月)
 そんな『哲学とは何か』だが、これが分からない。世界というカオスに人類が立ち向かう方法は哲学・科学・芸術で、三者はそれぞれ使う道具が異なり、互いに還元できないそうだ。大変けっこうなことである。創作者としては芸術を(哲学や科学に匹敵するものとして)立ててくれてるのが嬉しい。哲学と科学は世界に対する別アプローチなのだというのは、近年話題になったマルクス・ガブリエルの『世界は存在しない』に通じる発想に思える。とは言うものの、よく分からない。最後は「つまり肝心なのは(肝でも心でもなくて)脳」どゆこと?
 ただし『哲学とは何か』の芸術論じたいは要約が難しいのだけど、ドゥルーズが絶賛してるマルセル・プルースト『失われた時を求めて』の一節「画家は描くことで、神様がそれぞれの事物に与えたとは別の名前を新たにつけ直す」(花咲く乙女たちのかげに)は、これ源泉かも…と感じるものがありました…
 ガシェは『地理哲学』を書くにあたり『哲学とは何か』の註で挙げられた参考文献・引用元は全て目を通したという。そのうえで上記の三要素のうち、専ら哲学ばかりを取り扱う。もっと言うと問いはひとつに絞られる。なぜ哲学は古代ギリシャのみで発生したのか。それを近代の西欧のみが継承した(と自称する)とは、どういうことなのか。二つだ
 これは同時に答えでもある。哲学とは、古代ギリシャでのみ発明され、西欧のみが継承した営みだと。非西欧からすれば、ずいぶん傲慢そうな話でもある。これを論証するためにガシェはアテナイの所有権を巡る女神アテナと海神ポセイドンの争いや、ペルシアの王クセルクセスに対するギリシャ水軍の戦略などを語るが、自分の手には余るので割愛します。
 ガシェにならって彼が典拠にしているヘロドドスの『歴史』を読んだりして、大変に面白かったのですが、ガシェの主張とのつながりはよく分からず…
 というか『地理哲学』の(自分の手には余る)ほとんどを割愛して残るのは、古代ギリシャで生まれた哲学だけが、世界の真理を、対等な友人同士で分かち合う・人の思考の営みで解こうとした、というガシェの要約だ。
 非西欧圏の真理は、神様や何かに根拠を持つもので、その伝達も師から弟子へという形をもつ。異論もあるだろうけど、ガシェの(彼が説くドゥルーズ=ガタリの)定義では、それらは哲学の条件を満たさない。

 適切か分からないけど、思い出したのは19世紀末〜20世紀初頭を生きた社会学者・哲学者ジンメルの警句だ。マックス・ヴェーバーやエミール・デュルケームとともに近代社会学の祖として知られる(という自分の理解)ゲオルグ・ジンメル。岩波文庫『愛の断想・日々の断想』としてまとめられている彼の警句集は自分が日めくり教訓カレンダーのように愛用している本なのだけど(その喩えはどうか)その警句のひとつが、こうだ:
 私たちは、自分が理解もせず理解も出来ぬもの−因果律、公理、神、性格など−に物を還元した時、初めて物を本当に理解したと感じる。
 逆に言えば、神や公理といった不可知に最終的に頼るのでなく、世界の真理を人の営みだけで解き尽くそうとするのがガシェの言う哲学で、
 古代ギリシャでも貫徹されたことのない、この境地に、最も肉薄した(現時点で)最高の哲学者がスピノザだったと、ドゥルーズ=ガタリ(とガシェ)は讃える。

 その当否は、自分には分からない。ただプラトンやらカントやらハイデガーやら、それぞれ最後に詰めきれない不可知があって、むしろそれをこそ思索の源泉にしていたかも知れないなあとボンヤリ思ったり。デカルトの吾思うゆえに吾ありはどうなんだろうと思ったり。
 いかにも全てを人の営みで説明してそうなヴィトゲンシュタインは、しかし最後の最後で語り得ぬもの(については沈黙しなければならない)」だから(ドゥルーズ=ガタリ的には)あかんかったのかなーと思ったり。そして『アンチ・オイディプス』も、エディプス・コンプレックスって最終的な解明を放棄するためのブラックボックスじゃんという異議申し立てだったのかも知れないと思ったり。

      *     *     *

 ちなみに僕自身は創作において、最終的に詰めきれないブラックボックス=創作の神様がいる(ある)と信じるポーズを積極的に取ることで、色々なことを棚上げにしている。一般人として生きるにあたって、それではいかんのか(いいじゃありませんか)という気持ちすらある。
 ジンメルだって、そんなヒトの「逃げ」をチクリと刺しながら、否定しきってはいない・それを否定しきることの難しさを知悉しているように見えなくもない。
 だからこそ(ガシェが要約した)ドゥルーズ=ガタリの・そして彼らが讃えるスピノザの試みの孤独は、際立つのかも知れない。すべてが神だという汎神論で現在は説明されるスピノザだけど、存命中〜死後も長い間、彼に付されたレッテルは「無神論者」だったという、そんなことも思い出しました。
 こんなことをああでもないこうでもないと考えながら、残された時間を生きてます。

(ブックリスト↓外部リンクが開きます)
ドゥルーズ=ガタリ『哲学とは何か』(河出文庫)
ガシェ『地理哲学』(月曜社)
ヘロドトス『歴史』(岩波文庫)
ジンメル『愛の断想・日々の断想』(岩波文庫)
モロー『スピノザ入門[改定新版]』(文庫クセジュ)

拳で人が救えるか〜ウィルソン・イップ監督『ドラゴン×マッハ!』(2)(22.08.27)

 『ドラゴン×マッハ!』については日本公開当時に暑苦しく、まとまりのない記録を既に残しているのですが(サイト日記2017年6月)ネットでの無料配信を機に
ドラゴン×マッハ!(GYAO/無料配信8/30まで)(外部サイトが開きます)
ここ五年間の研究の成果を踏まえ(←笑うとこ)、すいません、また語らせてください。※今回もまとまりませんでした。

 a)活人拳は可能か
 活人拳―そんな言葉はない。時代小説・剣豪小説などに活人剣という語彙がある(らしい)ことから勝手に思いついた造語だ。また「活人剣」は人を殺める殺人剣に対し、悪人を斬ることで周囲の善人たちを活かす、くらいの意味のようだ。
 そうではなく拳が、剣でもいいのだけどほんたうに人を救うことができるのか。ありえない空論を弄んでいる気もする。だが殴ったり斬ったりという暴力の技術に武道という「道」として人格向上の効果が期待されることを欺瞞・建前と(あるいは「効率的な暴力の運用につとめることがビジネスパーソンとしての能力を高めます」と功利的・自己啓発的に)割り切るのでなければ「拳で人が救えるか」は問う価値がある。
 剣の場合は「斬るけど殺さない」不殺の剣という提案も可能だが、拳法の場合はそうも行かない。
 それで思い出したけどテレビの2時間サスペンスで、同情すべき犯人の刑を軽くするため(毎回)自首を促して手柄を逃してしまう探偵を近藤正臣さんが演じていたような…
 まあ拳法にも「寸止め」はあるし、それが効果を発揮することはあるけれど(後述)、大半は殴る蹴るをフルコンタクトでするうえで「活人拳」は可能か。そんな益体もない可能性を幻視してしまった、活人拳の可能性にもっとも肉薄した作品として2017年の『ドラゴン×マッハ!』そして同じウィルソン・イップ監督の『イップ・マン 継承』があった。

 b)勧善懲悪と言い切れない善
 『ドラゴン×マッハ』の原題は『SPL2(殺破狼2)』。ドニー・イェン演ずる武闘派刑事とサモハン演じる悪の親分が壮絶な死闘を繰り広げた『SPL 狼よ静かに死ね(殺破狼)』の続編だが、ストーリー的につながりはない。
 ぱぱっと説明する。『ド×マ』は臓器売買組織の親玉(演ルイス・クー。病弱)・側近のナイフ男(同チャン・チー。強い)・手下の刑務所長(同マックス・チャン。強い)と、陥れられ刑務所に送られた刑事(ウー・ジン。強い)・彼を奪回しようとするベテラン刑事(サイモン・ヤム。弱い)・二人を助ける刑務所の看守(トニー・ジャー。他の映画ではめっぽう強い)の死闘を描く物語だ。勧善懲悪。いや、そうだろうか。
 逆説的だが『ド×マ』の見どころは「悪人を斬ることで善人を救う」単純な勧善懲悪を微妙に(絶妙)に外している処にある。なるほど悪人は全滅する。しかし善良な刑事たちもナイフ男のモンスターめいた活躍(活躍言うな)で全滅する。
 いや善良だろうか。警察は判断を誤るし、組織に内通している裏切り者までいる。もっと言えば、悪人もまた、悪人と言い切れるか(いや悪人なんだけど)。酷薄な刑務所長はルイクーの臓器ビジネスで命を救われたことが仄めかされるし、ナイフ男は聴覚障害者、ルイクー自身が心臓に爆弾を抱える弱者なのだ。
 悪玉ばかりではない。主人公のウー・ジンは潜入捜査中に麻薬に溺れた敗残者として登場し、看守トニー・ジャーも難病の娘という「人質」を抱えている(ついでに言えば後半「覚醒」するまでは何とも言えず優柔不断だ)。前作『SPL』から設定を変えて続投のサイモン・ヤムは真っ直ぐな正義漢だが、まあ弱い。
 要は善玉も悪玉も肉体的・精神的な弱さを持ち、100%正義とは言えない。しかも悪玉のルイクーも、絶望的なほど強いマックス・チャンも、正義のパンチで倒されると言うよりは事故のように自滅する。言い替えると善玉のウー・ジンもトニー・ジャーも、悪人とはいえ拳で命を奪ってしまったという罪責を絶妙に免ぜられる(まあトニー・ジャー、マックス・チャンが「詰む」手前の蹴りを入れてますけど)。

 全員が何かしら弱く、また罪を抱えているという設定・人間観は前作『SPL』・そして次作『SPL 狼たちの処刑台』(後述)でもブレることがない。ほとんどの場合、人はその罪の負債を払わなければならないという倫理観もだ。逆に「善は根っからの善で、根っからの悪をやっつける。痛快!」という世界観でないからこそ「活人拳は可能なのではないか」などと幻視してしまうのが『ドラゴン×マッハ!』なのではないか。
 残る一人、凶悪きわまる・しかし肉体的な障害だけでなく悪玉ルイクーに尽くす孝子のような細やかさすら匂わせる(モブ刑事たちを惨殺する孝子…)ナイフ男を、主人公ウー・ジンが悪人としてブチ倒すのでなく戦闘能力を(かなりえげつなく)奪うだけで済ませることは、いっそ悪い宿命・間違った忠誠からの解放にすら見えなくもない。まあこれまでの罪状から警察に引き渡されても死刑でしょうが。いやまた二・三人ぶっ殺して脱走するかも知れませんが…
 ナイフ男・アージェン(仮。漢字がshiftJIS対象外)。冷酷無比の殺人マシーンなんだけど、なぜか観かえすたびに情が移ってしまう…

 c)イップ・マンとブルース・リー
 日本公開が『ド×マ』と重なった『イップ・マン 継承』も活人拳の可能性について考えされる作品だった。ブルース・リーの師匠として名高い詠春拳マスター(実在)を主人公に据えた、ウィルソン・イップ監督の代表作(四部作)の三作目だ。
 同じ監督でも、人間観・その力点の置きかたは『SPL』シリーズとは異なる形で一貫していて、大したものだと思う。あくまで個人的な印象なのだが本シリーズでドニー・イェンが演じるイップ・マンこそ、カンフーが「暴力でしかない」を克服した「道」になりうるかという苦悩を体現した人物ではなかろうか。
 ドニー版イップ・マンにとって詠春拳は「趣味と実益」というと言葉が軽いが、本人にとって究めることが喜びとなる生き甲斐であり、だからこそ布教していきたい生活の糧でもある。が、世の中には拳を悪しく使う者がおり、その思い上がりを打ち砕くことを否応なく求められ、不本意に戦って(でも詠春拳は強いので)否応なく勝つ。映画的にも、力こそパワーと信じて疑わない軍国日本の空手家・宗主国イギリスのボクサー・新天地アメリカの白人武道家を、行きがかり上しかたなく・しかしえげつなくブチ倒すさまが、皮肉なことにクライマックスの見せ場となる、この矛盾はかなり興味深い。
 『継承』をシリーズ屈指の・そして異色の名作にしているのは、アクションに優先する勢いで夫婦愛を描いたことだ。それだけでなく、中盤の見せ場であるマイク・タイソンとの勝負を「寸止め」で収めたことが逆説的に、そして詠春拳の同門として挑んできたマックス・チャン(ド×マの所長)を斥けるクライマックスの闘いが、同門ゆえに兄弟子としての・また「家族を大切にしなさい」という教え諭しのように映ることが、本作がまた「活人拳」の可能性を幻視させる理由になっていると思う。

      *     *     *

 中まとめ。
・武術はしょせん暴力・チカラで敵を制圧する道具だと割り切れば話は簡単である。
・だが(トロッコ問題的に悪人ひとりを倒せば善人100人が救える的な単純な活人「剣」的な発想でなく)そんな武術が人を救えるかと考えたとき「活人拳は可能か」という問いが生まれる
・『ド×マ』は善が悪を滅ぼさない(悪は自滅する)ことで逆説的に「ぎりぎり踏みとどまる善」を描いた
・自身のカンフー探究と弟子の教育に専念したい主人公が不本意に活人「剣」的な活躍を強いられる『イップ・マン』シリーズでは、ラストバトルが相手の導きになることで活人「拳」の可能性を垣間みせた

 『イップ・マン』シリーズの主人公には詠春拳を広めることで、抑圧・迫害された人々の自衛や自己肯定を促すミッションがある。武道が広く「道」とされる理由だ。
 イップ・マンの弟子とされるブルース・リーが主演した映画『ドラゴンへの道』が、先取りのように同じテーマを描いていることを最近になって初めて知った。小学生の頃に従兄のマサシ君(別に名前は言わなくてもいい)にホームビデオで観せられて以来、数十年ぶりの観劇でのことだ。イタリアに出店したものの同郷のヤクザな連中に因縁をつけられ苦しんでいるレストランを救うため中国から来た主人公が、ヤクザな連中を撃退するとともに、同胞の店員たちにカンフーを手ほどきするのだ。だが弟子たちが本格的に育つ前に、主人公はアメリカから呼び寄せられた空手の達人チャック・ノリスと「不本意なクライマックスの死闘」を演ずることになる…
 
 森累珠(もり・るいす)という女優さんがブルース・リー好きがこうじて彼の主演作品を再現する動画をYouTubeに上げている。ブルース・リー以外を「お母さん」が演じて敵がお母さん・審判もお母さん・モブも猫もお母さん、状況によっては倒しても倒してもお母さんというのが笑わせどころの一つなのだが、そんな母娘が演じたチャック・ノリス戦で改めて感じたのは「悲しみ」だった。

 実力差を見せつけ、なんど土を舐めさせても戦いをやめようとしないノリスを主人公は最後は「絞めて」葬るのだが、森さんの再現だと「もうよせ」という悲しみが際立って見える。
 彼女の才能を初めて知った『燃えよドラゴン』オハラ戦の再現でも(ちなみに言うと、たぶん笑い転げながら観るのが正解です)

妹の仇を踏み殺す主人公の表情が、どうかすると本家ブルース・リーからは読みきれないほどの悲哀をたたえて、カンフー・武道・なんなら物語における暴力一般の本質的な悲しみを感じてしまった。
 子供のころはイタリアに渡った主人公のカルチャーギャップぶりを描くユーモラスな面しか記憶に残っていなかった・ノリス戦も「最後は絞めか、えげつないなー」と思い込んでいた『ドラゴンへの道』は、大人になって観なおすと印象がかなり違った。とってつけたような惨劇とも言えるがレストランの「弟子」たちは卑劣な手段で全滅、悪党は警察に引き渡され、急転直下の苦い後味で映画は終わるのだ。
 「活人拳は可能か」は「そんなもの無理(予感させるのが精一杯)」という答えしか出ない問いかも知れない。だがその問いは逆に「そんなもの無理」な暴力の限界・虚しさや悲しさを際立たせる。拳や剣・マシンガンやグレネードランチャー・戦車・ミサイル・宇宙兵器と圧倒的な暴力による勝利をカタルシスとして描く物語がもちろん多い中「それだけだろうか」と問う視点が導入されることは、物語を鑑賞し、また自ら作家として描くうえで「解像度を上げる」ことにつながるはずだ。

 d)the narrowest path is always the holiest
 ちな『死亡遊戯』でもブルース・リーはカリームを絞めで屠ってるんだけど、おそらく一人だと敵の「すごい強さ」を示すのに「もう絞めるしかない」が表現の限界だったのかと…『プロジェクトA』では「強すぎるから四人がかり(+爆弾)で倒す」となる
 弱さが呼ぶ悪や暴力が生んだ罪を、自滅という形で報いられる『SPL』。道を究めようと願いながら「不本意な」勝利を重ねる『イップ・マン』。それぞれのシリーズで活人拳=拳が人を救う可能性を幻視させる『ド×マ』『継承』を提出したウィルソン・イップ監督。だがそれぞれの続編=現時点で考えられる完結編『SPL 狼たちの処刑台』『イップ・マン 完結』は、その可能性のさらなる追求となってはいない。
 なんなら後退と言えるかも知れない。前二作とはまた設定を変えた第三作『狼たちの処刑台』は悪の負債を負った者は主人公でも救われず無辜の善人はとばっちりで命を落とす当初のテーマを徹底させ、観る者(僕だけど)を唖然とさせた。『完結編』のイップ・マン最後の「不本意な戦い」も、許しがたい傲慢な敵を回復不能に圧倒するものの、あるいはそれゆえに後味はひたすら苦い。
 せっかく前二作でつかんだかに見えた可能性を、なぜ手放してしまったのか。それぞれいそいそと映画館に足を運び、首をかしげなかったとは言わない。あー、いちおう言っておくと、あくまで個人的な関心領域(活人拳は可能か)からの感想で、アクションとしてとか視点によって評価はおのおの異なると思います。ただ、
 今となって思うのは「狙って出来るモノでもないのかも知れないなあ」ということがひとつ。言うならば後味のよいハッピーエンドに敢えて進まない監督には、自分が思うとは別の目指すものがあるのだろう、それはそれで尊いというのがひとつ。そして自分が『ド×マ』や『継承』に幻視した善は、無理めな中に可能性として仄めかされる(だけの)善だからこそ貴く見える(のかも)という厄介さだ。

 元から勧善懲悪が約束された世界での約束された勝利エンドではなく、善が困難な世界観のなかで振りしぼられるように得られた善だからこそ貴い。それは『ド×マ』の、100%善な強者でなく、時には悪に屈する弱い者がギリギリで勝ち取った善だからこそ貴い、という印象に似ている。最も険しい道だけが神意にかなうという言いぐさ・物語の勝利は(ほぼ)常に逆転勝利である、という思考パターンに近しいものも感じる。これはまた別の話として、自分自身に問うていくべき問題であろう。
 そうしたことを関心領域にしていない人は、まあ「ドラゴン×マッハはいいぞ(イップマン継承も)」ということさえ持ち帰っていただければ

(c)舞村そうじ/RIMLAND ←2209  2206→  記事一覧(+検索)  ホーム