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二冊の薄い本〜『暗鴉抄』『フェミサイドは、ある』(22.12.03/追記あり)

 一冊は電書。Google playで電子書籍を購入しました。
Gilbert Brissen(作)+Natalia Rerekina(画)暗鴉抄 〜疫病と記憶の彼方〜』(外部リンクが開きます)
ウクライナの作家ふたりによる、ペスト禍をモチーフにしたグラフィック・ノベル。一冊297円ですが、売り上げの10%が著者たちに、税金・手数料などを除いた41%が赤十字を通したウクライナ支援に寄付される由。
 単に慈善というだけでなく、2021年に日本国際漫画大賞で入賞した実力派。試し読みの冒頭数ページでも見て取れる重厚な画風と世界観は、全66ページとは思えない濃ゆさ…いや、話の骨格というか前提を理解するのに何度か読み直しが要るな?←悪口でなく、現代の日本で暮らす自分の文脈にはない世界を知りたいという欲求に応え、新しい扉を開いてくれる佳品でした(ファンタジー慣れしてる人には親しみある内容かも知れません…)
個人的には、よくイラストなどで見られる烏のような、それ自体が異形のマスクの下に、ちゃんと生身の人間がいるのだなと気づけたのも好かったです

 もう一冊は紙のZINE。岸田内閣で政務次官に「抜擢」された杉田水脈議員が「日本に女性差別はない」という過去の発言について「命に関わるような差別はない、という意味だった」と主張したのが(後出しで自分の発言の意味を書き換えるなよ、というツッコミもさることながら)ひっかかっていたのだろう、創作用の資料を求めて入った書店で
皆本夏樹フェミサイドは、ある(タバブックス/外部リンクが開きます)
という書名が目に入り、発作的にレジに運んでいた。2021年8月、小田急線で起きた「幸せそうな女性を殺したい」という動機の刺殺事件をめぐる冊子だ。あるじゃないか、フェミサイド=命に関わる女性差別(←これは著者ではなく僕のつぶやき)。
『フェミサイドは、ある』書影
著者は事件と、事件のフェミサイドという側面が「無差別」殺人・「女性を殺したい」が「誰でもよかった」と漂白されていくことに衝撃を受けた大学生。ZINEは事件のあった小田急駅の掲示板へのポストイットを使った抗議→Twitterアカウントの立ち上げ→Change.orgでの署名開始→国への提出という展開をコンパクトにまとめている。ふだんデモや署名にも「頭数」としての参加ばかりだと見えにくい、運動を主催していく側の様子が分かりやすい。
 「そんな言い方ではダメですよ」といったポーントリシングや「男の命は大切じゃないのか」といったWhataboutism、「卵巣詰めんぞ」みたいな直接的な加害リプまで、抗議を削ろうとケチをつける動きも逐一(冷静な反駁つきとはいえ)紹介されていて傍から見てても削られる。
 一方でトランス差別への気づきをきっかけにトランス女性もフェミサイド被害者になると明記しなかった私の最初の選択は、トランス差別に明確に反対しない態度だ」「自分こそ、他者に見えている世界が見えていなかっただとして「トランス女性に対する殺人」「日本国内で起こった外国人女性に対する殺人」に言及の対象が広げられていくさまには、教えられるものがある。
私は立川のホテルでセックスワーカーの女性が殺されたとき、「#ラブホで死にたくない」と行動した女性たちに加わらなかった。
 バス停でホームレスの女性が殺されたとき、「殺害されたホームレス女性を追悼し、暴力と排除に抗議するデモ」に行かなかった

という著者の自省は、このフェミサイドへの国の応答を求める署名に(どうやら)参加していなかった自分にも突き刺さる。(事件を受けて#StopFemicideのハッシュタグやツイートは共有していたのだけれど…)。と同時に「まだ動いてない」「あのとき動かなかった」ことは、いま動くことへの足かせ(あのとき黙ってたくせに、なんで今ごろ)にはならないし、いま動かないことへの言い訳(今まで動かなかったのに、今ごろ参加するのも)にもならないと示唆する。
 上にリンクを貼った版元サイトの(8月現在の)リストには入ってないけれど、横浜だと東急東横線・妙蓮寺駅から徒歩2分の
生活綴方(外部リンクが開きます)
という変わった名前のミニ書店で扱ってるのを12/3に確認しました。

 以下、せっかくなので社会方面おまけ。
 1)ブックサンタ2022(外部リンクが開きます)
今年も参加しました。いせひでこルリユールおじさん』という美しい絵本がリストにあったので、それを一冊。
小学生向きの候補で『絵がふつうに上手くなる本』てゆうのも気になったけど、それを贈るべき相手は、むしろ自分じゃないか?本屋で見てみよう…
 2)難民・仮放免者を「ホームレス」にさせない「りんじんハウス」をつくりたい| つくろい東京ファンド(外部リンクが)
現在の仮放免者は就業できない=詰むという制度に抗うクラウドファンディング。こちらはクリスマスくらいまでに一口入れたいと…節制せねば…
(23/1/8追記:年明けにようやく一口入れました)
 3)最低賃金1500円をすぐに実現してください(外部…)
これは安保法制の直後から同スローガンで活動してきたAEQUITAS(エキタス)の署名。関係ないようであるけれど、上述の杉田議員が「LGBTには生産性がない」と発言して永田町の自民党本部前に抗議者が集結したとき、アライとして駆けつけた僕が大きなレインボーの段幕を一方で支える棒を流れで託され持ってたとき、反対側の棒を支えていたのがAEQUITASの人でした。ちなみにこの署名が奏功すると、僕も助かります。
 4)(12/14追記)PEACE CELL PRODUCTS(外部リンクが開きます)
 イラクの子どもに絵本を贈るブックドネーション、今年も参加しました。新作絵本は子ねこが絵本に入りこむストーリー…支援したくなる内容!(笑)というのは冗談として、主催の高遠菜穂子さんは小泉政権時代にイラクで人質になってバッシングされた三人のひとり。今でも中東で人道支援を続けてる。他の二人も、安田純平さんはジャーナリストとして、今井紀明さんは若者支援で活動中。
 5)(23/1/8追記)渋谷の野宿者を支援するのじれん(外部リンク)にも小額ですが。本当は地元ヨコハマの支援が出来たら良いのでしょうが、こちらに御縁があるので…
 昨年末〜新春のまとめ寄付、ひとまず完結。しばらくは鳴りを潜めます。

アジアは一つじゃないけれど〜映画『七人樂隊』(22.12.04)

 ○○難民とか○○テロみたいな言葉は使わないと決めて久しいのだけど「○○革命」だけは使いたい時がある。遂に!きくらげ革命!
 2022年の夏ごろ「生きくらげ意外と安い!これなら使いやすいかも」→秋「生きくらげ、行きつけのスーパーが(んん?うちだけ不当に安いな?)と気がついてしまった…乾燥きくらげ買ってみよう→これも意外と使える」→そして冬。ひと袋20gといった小分けのパックよりオトク感のある大袋を導入。乾燥重量110g+戻すと十倍の大きさになります=大きさと重量は別かも知れないけど、きくらげ1キログラム確保ってことでよろしいか?木須肉(ムースーロー)作り放題か?
乾燥きくらげ(裏白)。大きさの比較用にサバ缶も添えて

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 …中華つながりしかないのですが、久しぶりに映画館で映画。『七人樂隊』を観てきました。
映画『七人樂隊』公式(外部リンクが開きます)
2020年。香港映画界を牽引してきた監督7人が「久しぶりにフィルムで(これが最後かなという監督もいる)映画を撮ってみよう」という口実で結集、1950年代・60年代…と一人1ディケイドの「割り当て」を描く短編オムニバス。もっと観るに相応しい観客、香港にも香港映画にも造詣も愛着も深い人がいると思うのだけど、とりあえず身体の空いた自分が偵察で行ってまいりました。実に好かったです(あ、「そんなこと言われたら自分も資格が…」という人、遠慮は不要なのでどんどん観ていただいて…)
シネマ・ジャック&ベティ外観と『七人樂隊』ポスター
 第一話「稽古」はサモ・ハン監督の自伝的小品。小さな建物の小さな屋上で体操服の子どもたちが「壁に背をあて足を伸ばしたL字型」を90°倒した=仰向けに寝そべり足を垂直に立てた体勢で横たわってる。成田美名子さんの漫画に出てくる若手能楽師の憲ちゃん(ケント)がよく取ってるポーズなので、伝統芸能にそういうのがあるのかな?と思ったら、
上下の文章で説明している場面の図解
見張りの子の師匠が来るよー!の一声で、みな逆立ちを始めるという。サモ・ハンを筆頭にジャッキー・チェンやユン・ピョウなどを輩出した「七小福」の、今では虐待とも捉えられるだろう厳しく苦しい修行を、けれどノスタルジーをもって今の監督が振り返る。自分はつい欲張って(もう一捻り)と考えてしまいそうだけど、スッと終わる。これでいいんだよなあ。

 諸監督の年代とオムニバスのコンセプトから、年長者の回想という視点は多い。
 第二話「校長先生」老いてなお、かつての生徒たちに慕われる元校長先生が追憶するのは、同じように生徒たちに慕われながら若くして亡くなった優しい英語教師…アン・ホイ監督が人々が恋愛に対してどれだけ控えめであったかを表現したかったと語っているように、淡い淡い、むしろ恋愛と呼ぶべきではないかも知れないほど淡い思慕が描かれる。そして街路で食べ物や玩具が売られ(子どもたちも売り子になっている)児童が二人一組の横長の木の机で授業を受けている光景は、違いはあれ日本を含めアジアの各国で共有されていたものだろうと感じられました。

 パトリック・タム監督の第三話「別れの夜」は80年代。高校生の女の子の部屋にサージェントの絵画(外部リンクが開きます)が貼られていたり、ボーイフレンドが初めてプレゼントしたCDが日本のシティ・ポップだと面白いなと期待したら的中?歌詞は完全に差し替えられラブソングと化した「秋桜(コスモス)(原曲さだまさし)。長江の映画で莫大な借金を抱えたさださん←別に中国にふんだくられたわけじゃないけど少しは印税が返済の足しになったのかしらと全く余計なことを考えてしまった。最後に鳴り渡るサイレンが気にかかるのは深読みしすぎか。
90年代初頭の自分もサージェントの同じ絵を部屋に貼ってた気が…

 第四話「回帰」はイギリスの植民地だった香港が中国に返還された1997年。中国側からラブコールのように歌われたヒット曲「私の1997年」が脳裏に浮かぶが、これを機に香港を離れる一家もあった。というか第三話や六話も同様に、香港を離れ・あるいは再び帰ってくる人々を描いていた。
 孫娘が買ってきたハンバーガーを「こんなジャンクフード食うな、捨てる」とゴミ箱に持っていきかけ「捨てるのはもったいないか」と一口パクリ、「案外うまい」と相好を崩したところを見られてしまうツンデレおじいちゃんに、客席から笑いがこぼれだす。世代を越えた家族愛をコミカルに描くのはユエン・ウーピン。『マトリックス』などで武術指導のイメージが強いけど、そもそもジャッキーの初期作『蛇拳』『酔拳』など現在も長いキャリアを持つ大ベテラン監督でもあった。

 世代間コメディで温まった雰囲気で、なだれこむのはジョニー・トー監督の第五話『ぼろ儲け』。投機で一山あてようとする三人の若者が食堂のテーブルで携帯電話〜スマートフォン片手に逡巡する間にSARSやサブプライム崩壊など、ゼロ年代の怒涛が活写される。リーダー格のオタクっぽいメガネが友人で、ハンサムな男女はカップルかなと思ったら最後に三人三様に歩きだして「あ、本当に別々の友達だったの」と思ったり。殺伐とした内容でもあるはずなのに、どこか憎めない。本オムニバス、どれもいいけど敢えて推したい作品のひとつです。

 急逝したリンゴ・ラム監督の遺作となった第六話「道に迷う」は少し時制で混乱するけど、主演のサイモン・ヤムが現在の香港に過去の街並みを重ね合わせるノスタルジックな佳品。「息子がなかなか職に就かなくて…」「その分こうして一緒にいられるじゃないか」なんて台詞、なかなか出てこない気もするよ(ちょっと救われた)。フィルムカメラが懐かしがられ、オムニバス全体をキュッとしめあげる「まとめ」になっている…

 …と来たら「まとめ」が終わったあとの第七話「深い会話」はアンコール・ボーナストラック・やりたい放題。ええーっ?と思わせるロケーションからトボけた不条理劇?を展開するのは、いい意味で「悪ノリ」という言葉が誰より似合うツイ・ハーク監督。「私はアン・ホイ」と名乗る「患者」(男。ちなみにアン・ホイ監督は女性)と医者・それを見守る医者たちにアン・ホイ監督本人まで登場し、ノリノリの大団円。
 たいへん面白かったし、これでも抑えて紹介してるので、観られるひとは劇場でどうぞ。横浜だとシネマ・ジャック&ベティで12/9まで(外部リンクが開きます)。

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 アジアは一つではない。だがつながっている(池澤夏樹)
 先ごろの台湾の統一地方選挙で現与党の民進党が大敗というニュース。
台湾 統一地方選 与党敗北で蔡英文総統 党主席の辞任を表明(NHKニュース/2022.11.27/外部リンクが開きます)
蒋介石の曾孫にあたる蒋万安氏(国民党)が台北市長に当選という報が少し気になっている。
「(今に始まったことではないかも知れないけど)マックス・ヴェーバー『職業としての政治』をもじって「家業としての政治家」と言いたくなる状況ではある…」というコメントを添えられ「そんな駄洒落のために私を召喚するな」とご立腹のマックス・ヴェーバー。
 台湾が、蒋氏が今後どうなるかは(今の自分には)分からないが、かつての独裁者マルコス大統領の子息があらたに大統領となったフィリピンでは、父マルコスの美化・歴史否定が学校の教科書レベルで進んでいるという。
SNSに押されるフィリピンの歴史教育 コロナ禍が助長(毎日新聞/2022.11.29/外部リンクが開きます)
いわゆるリベラルと言われる政権下で、たとえば台湾ではオードリー・タンのような人物が抜擢されたり、韓国で『タクシー運転手』のような映画やKF94マスクの大量生産といった「成果」が見られた、というのは一面的どころか針小棒大な評価なのかも知れない。けれど各国の巻き返しとも反動とも取れる動きに、アジアの中ではその先陣を切っているようにも見える日本が現在おちいっている袋小路を合わせると、暗くオブスキュアな見通しを幻覚してしまう。

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 さて、乾燥きくらげ。戻してみると、なるほど見事な戻りかただが
乾燥きくらげ・戻した前と十倍も大げさではなさそうな戻した後。
「ありゃ…硬い
 後から調べて分かったのだが、表も裏も真っ黒なきくらげと裏白きくらげ、そもそもキノコの種類も違うらしいのだ。裏白きくらげ、どちらかというとラーメンの上に細く麺のように刻まれてトッピングされてる「きくらげ」のほうみたい。
 まあ慣れれば「これはこれで」な食感だし、これで豚肉や玉子と合わせムースーロー的なものを日々調理していますが、こういうものだと納得して乾燥重量100グラムの裏白きくらげを使い切り、再び真っ黒な乾燥きくらげ・生きくらげを入手して調理したとき「あ…柔らかい…そういえばそうだった」と二度目のキクラゲ革命が訪れるのか、それは反動ではないのか、よく分からないけど楽しみではあるかな…?

順位の差別・手癖の差別 +レノンのカヴァー(反差別)(22.12.10+12.11追記)

 差別については何度か本サイトで書いたことがあるけれど
ルネ・ジラールが語る差別(2012年9月の日記)
ドゥルーズ=ガタリが語る差別(2015年2月の日記)
ミシェル・フーコーが語る差別(2017年8月の日記)
以下のふたつは自分オリジナルの、つうても思いつきレベルの断想というやつ。

 1)順位の差別
 上記リンクのとおりフーコーが、ジラールが、ドゥルーズ=ガタリが難しく難しく(←そうでもないと伝わらないこともあるのだから仕方ないけど)語っている差別という現象だけど、また差別する側も民族がどうだDNAがどうだ差別じゃなくて区別です等々もっともらしいことを言うけれど。ものすごくシンプルな説明を思いついてしまった。つまり
人が沢山いるところで自分が最下位だと困る。だから自分より下の存在を捏造してでも作る。差別の本質なんてそんなものではないのか
講師ふうに指示棒でさす「ひつじちゃん」。「これ(閻魔大王さまの前での?)試験に出ます:教室や職場で自分が最下位だと困る。だから自分より下の存在を作る。民族がとか、あーだーこーだ理屈づけしても、差別の本質なんてそんなものではないか」
 教室で、部活動で、職場で、職場のボウリング大会で。同人誌即売会で、SNSで、ネットゲームの「協力プレイ」で。家父長制の中で、競争社会で、あるいはジラールが説いたような無秩序状態で。誰かが自分よりは下でいてほしい。そんなものが差別感情の正体だとしたら…ずいぶん情けない生き物なのだなあと悲しくもなる。でも多くの場合、身も蓋もなく情けないものが事実だったりする。
 自我の健康を保つためには、複数の帰属集団を持つと良いと言われる(エリクソンだったかなあ)。教室での生きづらさをフィクションの世界で緩和したり、職場の価値観に身も心も捧げてしまわないよう趣味の領域を確保しておく。…それだけでは足りないのかも知れない。
 複数のアイデンティティを持っていても、そのどれもで最下位はいやだ・自分より下がいてほしいと思ってしまうなら元も子もない。どこかで「最下位でもいい」「勝たなくてもいい」「承認されなくてもいい」競争を降りられる契機が必要なのではないか。
 どこかで競争を「降りる」ことが出来たら、他の局面でも「差別なんてくだらないな」と引いた気持ちになれるかも知れない。これはナンバーワンになれなくてもいい・「差別をなくすため優しい気持ちを持ちましょう」みたいな話とは真逆だ。まず自分の最下位になりたくない「優しくなさ」を知らなければいけない。

 2)手癖の差別
 これは自分が創作をしていての気づき。
 創作や物語が、作者本人も意識していなかった差別や偏見・ステレオタイプなどを描き出してしまうことは多々ある。別に創作にかぎらないか。日常の言動や振る舞いもまた表現と考えれば、同様のことは起きて不思議はない。
 意識せずに、むしろ意識するのを忘れれば忘れるほど「手癖」(これは創作表現の用語…かな?)として現れてしまうものがある。それを「無意識」(潜在意識)と考えると、無意識を「自分の内側や深奥に抑圧された、より自分の根源に近い、本物の自分」―「身体」や「魂」に近いものとする若干ロマンチックなイメージではなく、差別や偏見も含む世間の常識やメディア・既存の創作物などによって成形された「手癖の塊」と捉えるミもフタもない考え方もあるのではないか。
 ちなみにそのあたり、心理学や精神分析など「無意識」を専門的に扱ってる分野でどう考えられているのかは知らない。知らないが。
 つまり何か問題のある発言なり表現なりをした人が釈明のつもりで「差別するつもりはなかったと言うのは釈明になっていない。むしろ「つもりはない」くらい意識もせず、疑いもしないくらい差別や偏見を内面化していました(他人や世間・メディアの影響で)という自己の暴露でしかない。そのように考えることが出来る。
「差別するつもりはなかった」は釈明にならない。むしろ「つもりはない」ほど意識せず、疑いもしないくらい差別や偏見を内面化していましたという自己の暴露でしかない:と説明する「ひつじちゃん」。このメガネも(講師ふうという)「手癖」よね…というセルフつっこみ有。
 別のまとめかたをすると
無意識は自己の根源などではなく、外から刷り込まれた偏見のカタマリ。かもよ。(もしかしたら「リビドー」だって…)

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 おまけ。
 今年の12月8日(ジョン・レノンの命日)は、こんな邦訳カヴァーを聴いてました。邦訳というか、2020年代現在の日本に合わせて咀嚼しきった「現代語訳」の風格さえある。
【4K】志万田さをり /「女は世界の奴隷か(Woman Is The Nigger Of The World)」「IMAGINE〜Violence Is Over〜」2021.10.24 @国会正門前(YouTube)

 「あなたは」所有のない世界を想像できるかな、「あなたは」所有を手放せるかなって問われてるように捉えがちな"Imagine no possessions"を「あなたを」所有する人はいないってひっくり返したの、すごいと思うんよ。「あなたを」所有する人はいないから「あなたも」誰かを所有しない。イメージできる。
 ついでに言うと、二曲とも性暴力の被害者に寄り添うカヴァー・歌い直しである。その意味では差別(反差別)につながっている。

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 1)の追記
 今回の日記タイトルは当初「犬の差別・手癖の差別」とするつもりだった。犬は家族の中で自分を下から二番目の順位と思っている、という話(迷信だそうです)があったため。どうやら迷信らしいと判明して改題。
 この迷信も、集団の中で自分がせめて下から二番目でありたい・最下位は免れたいというヒトが、さもしい根性をイヌに投影したのかも知れない。だとしたら、やっぱり傍迷惑な動物ですなあホモ・サピエンス。

 2)の追記
 2-1.
 内奥や根源でなく、むしろ外部からの刷り込みとしての無意識、という非ロマンティック化。
 実写ドラマ版が絶賛放映中らしい(未見)『作りたい女と食べたい女』の考証を担当した合田文さんのインタビュー記事が無意識の偏見や差別可視化への取り組みを明かしていて興味ぶかい。創作の「手癖」解消の手引きにもなりそうな良記事。
ドラマ『つくたベ』“見えにくい女性たち”を伝えたい 考証・合田文さんインタビュー(NHK・2022.12.2/外部リンクが開きます)

 2-2.
 等々つらつら考えていた矢先「刷り込み可能な可塑物としての無意識」ど真ん中のニュースが飛び込んできた。
防衛省、世論工作の研究に着手 AI活用、SNSで誘導(共同通信・2022.12.9/外部リンクが開きます)
「インターネットで影響力がある「インフルエンサー」が、無意識のうちに同省に有利な情報を発信するように仕向け、防衛政策への支持を広げたり、有事で特定国への敵対心を醸成、国民の反戦・厭戦の機運を払拭したりするネット空間でのトレンドづくりを目標としている」
AI活用が逆に意味不明ゆえ「またヘッポコに終わるのでは」と期待させもするが、沖縄の基地問題に対する「インフルエンサー」の介入など、すでに金が動いているところはあるだろう。
 私たちの無意識は誰かの所有かも知れないと、肝に銘じるべき。

 2-2-1(22.12.11追記)
 すこぶるどうでもいいことかも知れんが、2-1で引いた記事の文章が難渋すぎる。【「インフルエンサーが A)人々が無意識のうちに同省に有利な情報を発信する(発信するのは人々)ように仕向け、 B)人々の防衛政策への支持を広げたり、 C)有事を利用して特定国への敵対心を醸成&国民の反戦・厭戦の機運を払拭したりする」…そんなネット空間でのトレンドづくり、を、防衛省が目標としている】こういう理解でええのん?
「インフルエンサーがAを仕向け、Bを広げたり、Cを醸成・アンチCを払拭したりする」「そんなネット空間でのトレンドづくりを」「防衛省が目標としている」ああややこしい。
 2-2-2(22.12.11追記)
 と思ったら記事では「インフルエンサーが人々を仕向ける」んじゃなくて防衛省がインフルエンサーへ仕向けることになっている…訳わからなすぎる…

小ネタ「あんたの魂いただくよ」(22.12.14)

秘密「兵器」という形容も近頃は使用をためらうのですが、重宝してるのが牛乳と混ぜる粉末のカスタードクリーム。口さみしい時クリームだけ作って舐める(かわいそう言うな)(どのみちオーブン持ってないから本格的なお菓子は作れないんですよ〜)一袋85グラムの粉と200ccの牛乳(豆乳で代用してます)を
混ぜる仕様ですが、いっぺんにそんな大量に食べないので四回に分けて使う。牛乳50ccに対して粉は85÷4=21g…(魂の重さは21gという俗説があるので)たかがクリームで毎回なんだか悪魔な気分。
※今年いっぱいは休稿期と決めたので更新が密ですが、来月からは控えめになる予定です。
※※12/3の日記に、イラクの子どもへ絵本を贈るブックドネーションの項を加筆しました。

読者をつくる〜ハン・ミファ『韓国の「街の本屋」の生存探求』(22.12.18)

ほんとうの園芸家は花をつくるのではなくって、土をつくっている(カレル・チャペック『園芸家12ヵ月』)

 (ヘイトなど芳しくない本も含め)なんでもあるメガ書店でも、メガ書店ほどではないが雑誌やまんが・文庫を中心にたいがいの本はある中小の書店でもなく、小さい店舗に売りたいものだけを置く・店のありよう自体が表現であるような小さな本屋。独立系のミニ書店、に関心を持つようになったのはいつ頃だったろう。たぶん実際のムーブメントよりも(なにせ自分は疎いので)だいぶ遅れてだったように思う。
 2018年に18きっぷで五日間たっぷり東北地方を周遊した時かも知れない。青森で「店頭に玉石混淆の100円均一棚がない」古本屋に出会い、盛岡では一週間のうち三日くらいそれも夕方の数時間しか開かないブックカフェで(開いてない時間だったので)すごすご引き返し、南相馬に柳美里さんが開いた本屋も臨時休業ですごすご引き返し…
 「選挙割」もキッカケだった気がする。残念な結果に終わった国政選挙で「投票したらサービス」を謳った様々な店のなかに古本や新刊を扱うミニ書店があった。先の段落でメガ書店を「ヘイトも含め」なんでもあると書いてしまったが、既存書店のそうしたありかたへの(自分の中での)反発があるのも否めない。
 「いろはにほへと」なんでもある大書店・基本的な構成は大書店と同じだが「いろはにほへ(とまで置くのは限界が…)」という小書店・「はにと(いやろ、ほりえ○んや、へいと本は置かないよ!)」とこだわりのあるミニ書店
こういう図式で、ミニ書店に(自分ごのみの政治的姿勢であれと)過度の勝手な期待を寄せるのも禁物だとは分かってはいますが…

 日本と同じく読書離れや出版不況の続く台湾では、なぜか今、独立書店と呼ばれる個人経営の町の本屋が元気だ…そんな惹句で始まる郭怡青・欣帯小姐『書店本事 台湾書店主43のストーリー』(サウザンブックス/原書2014年・邦訳2019年/外部リンクが開きます)が、自分の周囲を見渡して(日本もけっこうあるじゃないか、独立書店)と見直すきっかけにもなった。やはりアジアはひとつではないけど、つながっているのだろう。
書影。左:書店本事・右:韓国の「街の本屋」の生存探究
 神保町のチェッコリ(CHEKCCORI)(外部リンクが開きます)は韓国の書籍を翻訳・紹介する出版社クオン(外部リンクが)が運営するミニ書店だ。同社のものだけでなく、韓国関連の書籍が並ぶ。『菜食主義者』『少年が来る』などの著者ハン・ガンの詩集とともにレジに運んだのはハン・ミファ韓国の「街の本屋」の生存探究(クオン/原書2020年・邦訳2022年/外部リンクが…)。
 街の本屋を蔵書量で評価するのは、もはや無意味だ そんな威勢のいい言葉で始まる本書によれば、韓国の「街の本屋」ブームは2008年・09年ごろを嚆矢として2010年代に花開く。むしろスカスカの店内を誇るように厳選された本を並べる本屋。カフェを兼ねたり、ビールを供したりする本屋。ビールが飲める本屋は日本は下北沢の本屋「B&B(外部→)」(Book&Beerかしら…2012年開業)を参考にしたという。本書の執筆じたい日本で出版された石橋毅史「本屋」は死なない(新潮社/2013年/外部→)のような本を作りたかったとあり、やはりアジアはつながっている。

 …だが本書は「独立書店は希望がいっぱい!」と読者を夢見させる本ではない。理想を掲げて開業しても、現実の売り上げはついてこない。客がくつろげる空間を作ろうと併設したカフェに経営リソースを取られてしまう。有名人も含めた新規参入と過当競争。元々ある出版・取次業界の桎梏。そこにコロナ禍が追い打ちをかける…なにより2019年、執筆に着手した当初は『街の本屋の全盛期探究(仮)』だった書名が半年後には『生存探究』に変わっていたというエピソードが、理想と現実の落差・厳しさを示している。これは日本も同じだろうし、また独立書店という業種に限ったことでもないだろう。商売はいつだって命がけの跳躍(マルクス)なのだから。
 …いや、それらも含めて非常に面白く読み応えのある本なんですよ?
 個人的に「まあそうだろう」と思ったし、改めて「自分には無理だ…」と認識したのは、本屋は客商売だということだ。
 大寒波に襲われたオハイオ州で、行き場のないホームレスの人々が図書館を占拠→立てこもりに協力する側に回った図書館員の奮闘を描く2020年の映画『パブリック 図書館の奇跡』(エミリオ・エステベス監督・主演)の冒頭に流れる古い映像も言っていた。本が好きで、人も好きなら、あなたは司書に向いてるかも知れませんああ!人も好きじゃなきゃいかんのか!!
 
 司書も本屋も「本が好き」だけでは仕事にならない。本を貸したり、売ったりする相手がいる(居るし、要る)。要は感情労働。
 逆に言えば街の本屋の「生存探究」は本を売る相手の「人間」をどう掘り起こし、発見するかという一点にかかっている。それは先にも書いたカフェの併設だったり、あるいは読書会やワークショップの開催だったり。
 示唆的なのは、また日本の事例だ。かもめブックス(外部→)の出店場所は東京・神楽坂。
もし「かもめブックス」が会社員の多い飯田橋付近にあったら、ビジネス書が並ぶ小綺麗な店になっただろう。
 早稲田駅の近くなら、大学生が大学生や教授が出入りするような古本屋のほうが馴染むだろうし、
 盛り場の高田馬場駅付近なら多種多様な客層に対応する
(中略)大型書店(中略)
 しかし、住宅の多い神楽坂駅付近に店を出すことになった「かもめブックス」は、生活と食をメインテーマにキュレーションし、主なターゲットを三十〜四十代の女性に絞った

時おり入る「神楽坂店の雰囲気をそのままに」というデパートなどからの出店依頼は丁重に断るという
 もちろん逆に「あの街にはあの独立書店があるから」と街のほうのイメージが変わることもある(大船・幕張・妙蓮寺…)。相互作用で、街の雰囲気に合わせる一方、街の雰囲気を伸ばしたり変えたりしていく、そう考えれば自発性もある。

 本が好きで始めた本屋なのに、気がつけば経営の維持で頭がいっぱい。そんな独立書店主の懊悩に、著者の身も蓋もない助言のひとつは「生計のための職は別に持って、書店は趣味と割り切ってみては」というものだ。冒頭に盛岡で週に数日・午後の数時間しか開いてないブックカフェに振られた話を書いたけど、あれも「生存探究」と思えば、受け容れるしかない。むしろ、そうした商いのやりかたが、逆に(本屋だけでなく)街や生活のたたずまいを変えていくのかも知れない。とつぜん思い出したけどインボイス制度とやら、やっぱりやめませんか
 こないだ(12/3)紹介した妙蓮寺の「生活綴方」は普通に中小書店な本店と歩道を隔てて向かいに併設というスタイルでまた興味ぶかい「探究」と思いましたよ。
今日のまとめ本を売るというより「読者」を発見し育てる。それが小さな書店の生存探究(かも)
 なんだか「人よりも、本が大事と思いたい」ミザントロープな自分…らしからぬ結論になってしまいましたが、本を通して人や社会と出会うと思えば自分らしいのかも。小さな本屋がコーヒーも売ってたら、なるべく買うか飲んでくことにしましょう…

【同日追記】
 そうこう言ってるうちに、これは独立系ではなくチェーンの一支店が(支店の裁量で?)個性的だった例だけど、三洋堂書店 上前津支店(外部リンクが開きます)が2023年1月15日に閉店するという知らせが。
 名古屋の浅草・ちょっと秋葉原も入ってるみたいな門前町「大須」の外縁部、というか自分の感覚だと味噌かつ「矢場とん」の本店でお馴染みの矢場町から、金町駅に向かっていく大通りのスタート地点にある書店。三階建ての比較的コンパクトなフロアに電気関係とアニメ・ライトノベルなどオタク向け書籍がぎっしり詰まっていて、夜も比較的遅くまで営業している名古屋の特異点(のひとつ)でした。寂しいなあ…
大須(三洋堂)→上前津(古本屋が集中している十字路)→東別院(ここのブックオフも数年前閉店)→金山駅まで2km強の一本道です

Have Happy Holidays!〜『月刊ムー書評大全』(22.12.24)

 医療従事者の皆様(離脱された方々も含め)今年も一年、本当におつかれさまでした。
 今の時期とくに忙しい物流関係、宅配便やフードデリバリーに関わる方々にも幸あれ。首都圏の電車のトラブルによる遅延が増えてる気がするのは気のせいかしら?鉄道関係の皆様も。スーパーやコンビニで働く皆様も。飲食店の皆様!(←書き落としてたので急ぎ追記)そのほか社会や家庭を支えた皆様・生活のためブルシット・ジョブに耐えた皆様、学生の皆様、そして今年思うように動けず歯噛みする思いだったり、ただただ生きるので精一杯だった皆様に幸あれ。(人の涙を吸い上げて甘露甘露と嗤っていた奴らは除く)
 図書館で借りた本。マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』・P.ヴェーヌ『フーコー』
 忘れちゃいけない図書館を支えた皆様も今年一年ほんとうにお世話になりました。←ブルシット・ジョブじゃないよ!
 しかし横浜市立中央図書館、星野太朗月刊ムー書評大全(青土社/2022年/外部リンクが開きます)なんて本を堂々と面陳していてのけぞる。タロット占いからディープステートまで、今の世の中がどんな迷信に踊らされてるかが一覧できそうな一冊で、今はメンタルが本調子ではないので(この十年、本調子だったことがあるのか?)読んだら倒れるなと思ってスルーしたけど、そのうち読ませていただきます。

【当日追記】Twitterのほうで紹介した「某洋菓子カフェに従業員のクリスマス手当廃止を撤回してほしい」署名、従業員の方々のストも辞さない要求が容れられ手当復活・ストも回避された模様。・クリスマス手当廃止を撤回させました!!!(飲食店ユニオン/外部リンクが開きます)。弊ツイートで関心を持ち応援に動いてくださったかた、僕からもありがとうございました。Twitterでの新規発信は当面停止のため、こちらで御礼まで。

これは文学ではない(?)〜『フーコーの文学講義』(22.12.25)

 女子高生がDIYに挑戦する『Do It Yourself!』という(そのまんま…なのは自分の紹介の仕方が悪い)アニメの舞台が新潟県の三条市と知って
アニメ『Do It Yourself!(どぅー・いっと・ゆあせるふ!!)』公式(外部リンクが開きます)
 妙な納得感があったのは同市で「コメリ書房」なる本屋を目撃したことがあるせいだ。ホームセンター(コメリ)が書店を擁するくらいなら、それはDIYも盛んでしょうと。
コメリ書房(三条店)(外部リンクが開きます)
 コメリ書房、確認したら新潟県すら越えて10店舗以上を展開してるし、まあDIYの関連書籍に特化した書店でもなさそうなんですが、新潟コミティアのため高速バスで新宿から新潟に向かう途中、三条で実際の店舗に遭遇し「えっなにコメリの本屋」と思う間もなく「ああああー」と乗ってるバスごと走り去ったのは好い思い出でした?
キャプション「三条スパイス研究所ってカレーのお店もあるらしくて(ミールスとかあるっぽい)(アニメでもDIY部の子たちがカレー食べてた)新潟再訪の機会があれば立ち寄ってみたい三条…」カレーを食べて「んまーい」とご満悦のせるふとGood Job☆と親指を立てるじょぶ子のイラスト

      *     *     *

 先週は独立系ミニ書店の話をしたけれど、制約の中で奮闘しているチェーンの中小店も佳いものです。郡山の駅ビルに入ってるくまざわ書店や松本駅ビルの改造社書店を思い出す。
 宇都宮駅を出て、向かいのビルに入ってる本屋はどちらかというとサブカル系の書籍が目立っていたけれど、ちくま学芸文庫の新刊がちゃんと入ってるし文庫のカバーをお選びいただけますそんなんオレンジの一択じゃないですか!
宇都宮・落合書店のカバー。開いた本に隠れて、シッポと猫手と猫耳だけ見えているネコのイラスト。手前にはネコじゃらし。
宇都宮・落合書店のカバー。開いた本に隠れて、クマ耳とクマ手だけ見えているクマのイラスト。傍らにコーヒー。そんなカバーに包まれているのは『フーコーの文学講義』
コーヒーを傍らに読書してるほう、にっこり笑ったカエルじゃなくてクマですよ…(ふつう分かる)(最初分からなかった)
図解。カエルではなくクマ
 夏の18きっぷ旅行。本を買って、餃子を食べて(宇都宮ですからね)、さらに北へ、東北へ。終電近い夜の列車のお供になったのは日本独自編集のミシェル・フーコーフーコー文学講義 ―大いなる異邦のもの』(ちくま学芸文庫/棚瀬宏平訳/2021年/外部リンクが開きます)。

 「…と考えた人は、これまで誰もいなかったと思います。誰もいなかったと言っても、一人だけ例外がいます。私はその人のことがあまり好きではないのですが、とはいえ、そのことは認めざるを得ません。その人物とは、ベルクソンです←語り口に、ちょっとウフフとなった箇所。嫌いなんだ、ベルクソン…

 ベルクソンは(ほぼ未読だし)よくわからないけど、新訳+講義が中心のためか、総じて読みやすいです。とはいえ、ルネ・マグリットの「これはパイプではない(と付記されたパイプの絵)」という子どもの屁理屈みたいな作品(と僕には思えてしまう)に深い哲学的意味を見出すフーコーらしく、文学というより「文学が不可能になる臨界点」を探る話が多い印象。
「これはパイプではない」と付記されたパイプ型のチョコレート菓子を美術館は土産物として売り出せばいいと思ういます、という挿絵
 たとえば、現代の文学は文学じゃなく「文学のシミュラークル」で、それを最も端的に表現しているのが、延々と小説ではないシミュラークルを連ねて最後に「よし、このことを小説にしよう」で終わる『失われた時を求めて』なのだとか。(まさに『失われた時を求めて』を中断して手を出したフーコーだったので、サボりが見つかった高校生のようにギクリとするなど…)
 あるいはマルキ・ド・サド作中のリベルタン(遊蕩者)が滔々と開陳する無神論や無道徳論。神はいない・魂も存在しないという彼ら彼女らの主張は、主張=説得でありながら犠牲者に「いいえ神はいます」と拒絶されるための・そうですね神はいませんねと「説得が成功したら困る言葉」として現れる。また神も道徳も存在しないなら、神や道徳を踏みにじる快楽じたいも存在しなくなるという指摘や、「くくく、犠牲者は生前だけでなく死後の魂まで未来永劫に苦しむがいい」と嗤ったら「いや魂なんて存在せんし」と仲間に否定されちゃう挿話も興味ぶかい。
 これはフーコーではなく「僕」の考えなのだけど、理屈なり論理なりを中庸とか妥協とかでなしに極限まで追求すると、どこかで話がおかしくなる・破綻するのは他の局面でも多々あること・いっそ世の常ではないか。量子力学が示すように、少なくとも人間は(人間のままでは)世界を矛盾なく捉えきることは出来ない。そんな不可能性を端的に体現しているのが空転するサドの饒舌だとしたら、それゆえサドが重要なのだとしたら…ちょっとイヤだなあと思う。私はその人のことがあまり好きではない個人的には読まずギライで逃げ切りたい相手なんです。無理なのよ、嗜虐趣味。

 一方でフーコーが紹介するサド、空転どころか(できれば読まずギライで逃げ切りたい)僕でも知ってる悪女ジュリエットがライバルをベスビオス火山の火口に投げ込んで殺したり、別の悪党は病院爆破+大火災で数万人を虐殺したり、シチリアで火山を爆発させたり(SFか?)、なんか陰湿に城館にでも閉じこもってるのかなーという自分の想像を超えて無駄にスケールがでかい。いや読みませんが。
 それに比べてマゾッホ毛皮を着たヴィーナス』(こっちは読みました)の私はこの列車の一等寝台に乗るわ、お前は最下等の客車(貨車だったかも)で夜どおし凍えて過ごすのよ!」「あんまりです女王様(歓喜)の、なんと慎ましいことよ…
 …フーコーがサドに肩入れし、ドゥルーズがマゾッホに肩入れしてるの面白いなと思ったり(僕がサドを毛嫌いしてマゾッホは読んでることを深く考える必要はないです)その他いろいろあったり無かったりするけれど、勉強不足なので棚上げ。以上つらつら連ねた内容も正直ちゃんと読めてるか自信はないけれど(クマとカエルも見間違える奴だからな)、文学を語ってもフーコーはフーコーなんだねということで、ここが入り口になる人も居るかも知れません。
ちなみに盛岡駅の構内「さわや書店」のブックカバーは宮沢賢治の詩「岩手山」。

      *     *     *

 サドつながりで話を戻すわけでもないけれど(そのしょうもない駄洒落で佐渡の人たちがどれほど傷ついてきたと思ってんだ)新潟といえばカレーラーメンという名物もあって、カレー仕立てのスープではなく、醤油ラーメンにカレーのルウをトッピングしたもの。これもアニメで主人公が食べていて
新潟のカレーラーメン。2013年
いちど自分で作ってみるかと思っていた矢先、横浜でカレーラーメンを商っている立ち食いに行き合った。立ち食いサイズの小ぶりな器で…おお!実は新潟でカレーラーメンを食べた時、同じお店の「とんかつラーメン」も気になりつつ逃したのだけど、横浜のカレーラーメン、とんかつも載っている!
横浜・桜木町「雷神」のカレーラーメン。小皿のおまけつき
店内では客の男女が、心やさしき雷神みたいな風貌の店主も交え横浜以外ならどこに住みたいか」「やっぱり東京はいい」「私は渋谷生まれで」「川崎」「鎌倉もいい」「あ!いいよねーみたいな雑談をしていて、内心(浅草!東京でも浅草と上野の間あたり!)と思いつつ耳を傾けていたのだけど、松本や宇都宮もいいけれど、横浜でいいじゃないですか。ほら、新潟名物だって食べられる。

食えない理想家〜ポール・ヴェーヌ追悼(22.12.31)

 ポール・ヴェーヌ(1930-2022)。
 歴史学者。ミシェル・フーコーが近代を主題にした『性の歴史I』から同『II・III』で古代ギリシャ〜ローマ時代の考察に大きく路線変更した際、史料の読み解きなどで協力したという。
 でも個人的に彼の存在を知るキッカケになったのは、ギリシア人は神話を信じたか(法政大学出版局/外部リンクが開きます)だった。どう考えても面白そうな書名でしょう?だって思いません?正月に神社仏閣で手を合わせ、なんなら破魔矢やお守りまで買ってしまう日本人、天の岩戸や弥勒菩薩を信じてます?
「こういう題名の本を手に取る人は健全な知的好奇心の持ち主だろうと示す小道具で使ったことがあります<ギリシア人は神話を信じたか」ということで『総集編 神様のギフト』電書版へのリンク
 そんな(言われてみれば謎なのに誰も正面から向き合おうとしない)ことが思索のテーマになる人なので、それは食えない人なのだった。
 歴史と日常 ポール・ヴェーヌ自伝』(法政大学出版局/外部リンクが開きます)は阿部謹也先生が「ああはなれない」と苦笑ぎみに取り上げていた本で、読むとたしかに
「私は醜男だが、恋愛に関することはほぼ全て知っている」とか
「ナポリで若い姉妹と同棲したが一週間でお金がなくなり逃げ出した」とか
「そうした自堕落は報いを受けました。最初の妻が去っていったのです」とか(それはそうだろう…)
まあ本当に困った人なのだけど、自身の学問でも同じように身も蓋もなくて
「ローマが帝国に成長したのは、自分たちより小さな周囲を次々併合したから。で、いちど帝国になれば、あのくらいは普通に保つ。ローマが帝国として栄えた理由を政治制度などに求めるのは筋違い」とか平気で言う。

 その根底にあるのは「吾々は個人である以上に大衆だと思い知ったほうがいい。理性で考える以上に、皆が言ってるからという理由で相対性理論や、行ったこともない北京の存在を信じる」という冷徹な人間観だ。理念・理性より強力な、周囲の同調圧力・現状是認の力が社会を規定する。現代のフランスですらそうなのだ、といういう著者の糾弾を、(西欧の個人主義と対比する形で)日本の「世間」について考察していた阿部氏はどう読んだのだろう。
 ふだんは引用箇所に<em>タグをつけ、#800000(Maroonという色)で表示してますが、今回は過去に取ったヴェーヌに関する覚え書きが正確な引用ではなく自分の要約だったので色は変えずに黒一色でお送りします。

 盟友の没後に書かれた評伝フーコー その人その思想(筑摩書房/外部リンクが開きます)は、伝記的な要素は希薄・個々の仕事(狂気とか監獄とか)の解説もなく、ヴェーヌが考えるフーコーの思想的な立ち位置の核心をひたすら掘り下げる。
 そうやって描き出されるフーコーの肖像もまた、徹底した懐疑主義者のそれだ。近代の哲学や社会学が「吾々は社会的な傾向や不完全な知識によって、誤った世界認識しかできず、真実から遠ざけられている」「吾々は社会の中で身分や立場によって役割を演じざるを得ない」と批判するとき、まだ「誤謬でない真理」「役割でない自我」を想定している。そうじゃなくて自我(主体)も(その時々の)真理も、諸々の社会的条件の内側・産物でしかないんだよとフーコーは説いた(とヴェーヌは説く)。未開社会に「文明に毒される前の人間の本性」があったわけではないし、理性の外に真実の世界もないと。
 しかし、一世代前の哲学者が夢みたような「誤謬をしりぞけ迷妄を排したら辿り着ける、真理や人倫の完成」などない、真理もまた各々の時代の産物だというなら、どうしてフーコー自身は虚無主義に陥らず、果敢に政治活動に参加することができたのか。これが本書の第二の主題だ。
 ヴェーヌが提示する答えは、真理と行動(実践)を切り離すというものだ。人は自分の行動に「こうするのが正しいから」「真理だから」と保証をつけたがるが、それは元々の動機ではない。だからといって気まぐれということでもなく、個人的な経験や知識が基礎となって、目の前にある耐えがたいものと闘う。フーコーには排除された者・圧政に苦しむ者・抗う者への共感があり、それで十分に闘うことができた…そんなにドラマチックな「答え」ではないけれど、永久不滅の真理など得られそうにない世の中で、それでも正義を為そうとした人物を、ヴェーヌは「ああはなれない」というポーズは保ちながら友情をもって描出している。
 彼は、自分の政治的意見が私の意見と必ずしも同じではないということを知らないわけではなかったが、私に対して説き勧めたり私を非難したりすることはなかった

 フーコーのように運動を組織したり街頭に立つことはなかったけれど、ヴェーヌもまた、身も蓋もない懐疑だけの人ではなかった(と思う)。
 科学は真実への愛よりも未知に対する征服欲であり、芸術家が評価されるのは競争相手より上手く作ったとき。そんなふうに政治も宗教も、学問も人智も引いた視点で眺める冷徹さは「それでいいとは思わない」という痛烈な批判を伴っていた。
 教育を与えられない貧しい階層に「わざわざ自分たちが不幸だと教えてどうする。知らなければ幸福なままだ」「寝てる猫を起こすな」という意見に対し、貧しい階層は自分たちが教育の機会や平等を奪われてることを知っている・もしくは必ず知る、「寝てる猫を起こすな」と言う者は、もう目覚めた猫を抑えつけようとしているだけだとする彼の言葉は、この国(日本ですよ)の今の状態に響くものがある。
 次の事実が大切である。ただのパンは貧しい奴隷に与えられていたのではなくて、市民だけに与えられていたこれは差異の目録(法政大学出版局/外部リンク)の一節。ヴェーヌはそこまでは言ってないけれど、だとすればローマ時代の無料のパンは子ども食堂や生活保護よりもGOTO何々や、いっそ電通・パソナ優遇策に近かったのではないか、なんて気づきもあった。
 何より「マルクス主義やキリスト教に、あれほど強烈な魅力があったのは、来たるべき至福の千年を約束したからではありません。イエスズやマルクスが、庶民の幸福を望んでいたからです」なんて言葉は、街頭に立つ友人を「何やってんだか」と心から冷笑できる人間からは出てこないと思う。
 上記「マルクス主義やキリスト教に…」の文言を添えた、ポール・ヴェーヌの似顔絵
 他人志向や同調圧力の容赦ない暴き立ても、にもかかわらず情に厚く、人を生み出した自然にヒトを超えた知の可能性を夢みたりする肯定性も、2022年現在まだ効力を失なってないと思う。2023年も。まだ世界にはポール・ヴェーヌの言葉が必要だ。本人は(あるとは言い切れないが)向こうでゆっくり休まれるといい。

 しかしヴェーヌ、僕などはかなり苦労して読んだ記憶がある『ギリシア人は神話を信じたか』について「細部はいいけど全体的に間違いでしたね」とか平気で書いてて、本当に食えないお人よ…

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