君よ知るや〜安田浩一・金井真紀『戦争とバスタオル』(23.03.04)
先々週の日記で取り上げた『トランスジェンダー問題』・先週のColaboの本、どちらも「必読」と評されている本だった。それは「これを非当事者(マジョリティ)が知らないままだと、知らず知らず加害に加担することになりかねない」という評者たちの危機感のあらわれでもあったと思う。
安田浩一・金井真紀『戦争とバスタオル』(亜紀書房/2021年/外部リンクが開きます)も、そんな「必読」の一冊だと思う。先の戦争で、日本は欧米と戦争して空襲や原子爆弾の惨禍をこうむった被害者・という以前にアジアを侵略し惨禍をあたえた加害の側の当事者でもあったのだと、改めて知ることを迫る一冊だ。

本書が出色なのは、重い加害の過去と、なぜか温泉・銭湯めぐりをつなげてしまったことだ。米英の捕虜や周囲の一般人を酷使し、虐待して敷設された「死の鉄道」に揺られ、下車した先で温泉に浸かる。沖縄最後の銭湯で出会った老人が戦争の苦難を語りだす。韓国の沐浴場で「日本人には名前を教えたくない」と口を閉ざした女性…タイに実在する川と隣接した温泉が、のぼせたら川に飛び込んで冷ます(冷めたらまた温泉に戻る)仕組みなように、戦争と入浴、加害の痛みや後ろめたさと和みが交互にやってくる。
しかし同書で個人的にアッと思ったのは「みき」だった。
四半世紀前、沖縄に移り住んだ作家の
池澤夏樹氏が同地に惚れこんだ。週刊誌の連載で自然や習俗をレポートし、魅力を伝える本を何冊も出版した。その一冊が
『神々の食』(親本2003年→文春文庫2006年/外部リンク)だ。
垂見健吾氏の鮮やかな写真に彩られた、この美しい本で(豆腐ようなどと一緒に)目を引いたのが
「君よ知るや「みき」の味」という一章だった。
真っ白な液体。お米を発酵させた沖縄の伝統的な飲料で「お神酒」を思わせる名称だがアルコールは含まず、ほんのり甘いという。いちど駅前の物産展だか何だかで見かけたが、500mlくらいの瓶が500円で手を出しそびれた。余裕がある時に買おう、また見かけるだろうしと思ったのが大間違いで、面白いくらい二度目が来ない。アンテナショップにもない。物産展でも見ない。
悶々と十余年。話がニワカに進展したのは2021年のことだ。さつまいもをテーマにした
「イモヅル」(外部)というZINEのvol.6に「
イモヅル式DIY 奄美のミキを作ってみた」なる体験記が掲載されていた。記事によれば米だけでなくサツマイモも加わっているらしい。気温°C以上で発酵ということなので、初夏にワンチャンあるかも?と思ったけれど、ふかしたサツマイモをすりおろすのが死ぬほど面倒ともあり、手をこまねいていた半年後。
ようやく話が『戦争とバスタオル』に戻る。なにせ銭湯といえば湯上がりの一本。牛乳だったり、フルーツ牛乳だったり。韓国の沐浴場を訪ねた著者ふたりが「シッケ」と呼ばれる現地の発酵お米飲料に舌鼓を打っていて、これって「みき」に近いの?どうなの?と思ったりしたのだが
・参考:
シッケって何?韓国の伝統的な発酵飲料みたいだけど味はオイシイ?(鶴橋メモ/2019.3.30/外部リンクが開きます)
巻末の対談。著者ふたりがシレッと「今回、本には収録できなかったけど鶴見の銭湯も取材したねー」「鶴見にある沖縄県人会の建物の外の自販機で売ってるミキって缶飲料がおいしかったねー」と、いや著者たちにとってはシレッとも何もないのだが、話しているではないですか!
ああ、灯台もと暗し。当方、人生の半分以上ヨコハマ在住。横浜市鶴見区に沖縄の人たちが多く移り住んだ一角がある、とNHKの朝ドラで取り上げられたのは、ようやく昨年のこと。いや、住んでる地域のこと何にも知らない自分が悪いのですが―

2021年11月。さっそく鶴見に行きましたよね。京急鶴見駅から海のほうに徒歩20分、業務スーパー目当てにわりと歩いた近くに、ありました「おきなわ物産センター」。そして自販機には「
飲む極上ライス ミキ」と書かれた250ml缶。

よく見ると販売元は沖縄のマルマサという会社だが、製造は和歌山県。原材料も米とサツマイモではなく、砂糖・うるち米・大麦・もち麦/乳酸。Wikipediaで調べたところ、米+サツマイモではなく、米に麦芽を加え低発酵段階で火入れした糸満式(?)らしい。味わいは極上ライスというか「うん、飲むお餅」甘みはほのかで、とろんと舌ざわりがよい。
・参考:
Wikipedia「みき(飲料水)」(外部リンクが開きます)

同じ21年の暮れに「シッケ」のほうも確保。こちらは上野〜アメ横の国道を隔てた東側にある韓国食材店が並んだ一角にて。サラサラした透明の液体で、クセのない甘さの清涼飲料水でした。簡易版でない、白米とサツマイモを発酵させた本格「みき」も諦めてはいないけど、まずは満足といったところで―
―話を戻すと『戦争とバスタオル』最大の山場は(鶴見のミキではなく)こちらも広い意味で自分にとっては地元にあたる神奈川県・寒川町に始まり、瀬戸内の大久野島、そして中国河北省の北担村に至る大掛かりな取材だ。ここでは伏せるが(
各自で読むか調べるかしてください)(
出来れば読んで)恥ずかしながら自分なども半世紀を生きながら知らなかった、凄惨な戦争犯罪と加害が明らかになる。
隣り合った川と温泉のように戦争と平和はつながっている…どころではない。日本が仕掛けた戦争は終わっていないし、まだ加害は続いている。学徒として召集され「
私は鬼にされた」と憤る日本の老人がいた。謝罪のため個人で中国を訪れもした彼、藤本安馬さんは昨年の暮れ、96歳で亡くなっている。君は知るや。著者たちの取材はギリギリで間に合ったが、それを知ろうとしなければ、あなたはそれを知らないままだ。一応
リンクは張っておくけれど、中国での被害が戦後も続いていること(発掘されて被害とか)は、ここではキチンと触れられていない。
おそろしいのは、何も片づいていないまま、同じ悲惨にまた足を踏み入れようとしていることだ。福島の事故を助け合った絆の美談で「なかったこと」にしながら非常識な原発再稼働に走るのとも似ている。先の戦争で自分たちが仕掛けた加害を忘れ、台湾有事だとまた沖縄を踏み台にするのか。鶴見の沖縄ゆかりの界隈では「お弁当」と掲げたノボリと、辺野古基地反対を訴えるノボリが、今も並んで風になびいている。
豆食う日々(23.03.05)
ようやく豆カレーに開眼した気がする。自炊の話。前に挑戦した時は肉を豆に置き換える気持ちで、白いんげんやヒヨコ豆を使って挫折した。そうじゃない、ムング豆でベースを作るんだと悟りを得た。ムング豆とは緑豆のこと。モヤシや春雨にする他、台湾では緑の皮つき豆を柔らかく煮込み甘味をつけてゼンザイにする。カレーには皮のないムング豆を使う。玉ねぎ・塩・あればクミンシードを加え、水から煮込む。
同じく皮なしのレンズ豆(鮮やかなオレンジ色は、火を通すと消える)を時間差で投入するのは、ムング豆は煮崩してペースト状に、レンズ豆は粒感を残すためだ。ぐずぐずに煮崩したら、市販のカレールーをひとかけ。好みで刻んだ生姜など。冷凍ご飯をレンチンする2分間、並行してカレーに火を通して出来上がり。簡単。安上がり。栄養たっぷり。

時短とガス代の節約で圧力鍋を使っているけど、酷使を避けるため何回分かをいっぺんに・煮崩すところまで作って小分け冷蔵→一食ごとにルウその他を足して仕上げる程度の知恵もついた。
皮を剥いた豆は東京・山手線の東側だと御徒町のハラールショップやアメ横で(西側なら大久保で確保できそう)、横浜も伊勢佐木町のシネマ・ジャックアンドベティの近くに夜遅くまで開いてるアジアン食材店がある。名古屋だと大須。
ムング豆メイン起用のヒントは、ダルバートだった。ネパールの家庭料理。ダル=豆、バート=ごはんなので(ムング豆はムングダルの名で売られてたりする)大阪豆ゴハンならぬネパール豆ごはんだ。インドカレー同様の銀のお皿に銀の小器。小さな器にムングダルをベースにした豆スープがなみなみと入っている。これをお皿の白米にかけまわす。他の器には各々カレー・アチャール(漬け物)などがあるので、それらも全部ダルとバートにかけ、混ぜて食べる。

付け合わせで肉や野菜のカレーがつくけれど、ダル自体はカレー味でもない。ので、カレーを期待して食べると最初は戸惑う。けれど(こういうものなのだ)と脳が受け容れると、どんどん美味しくなる。このタイムラグが、(スパイシーなカレーピラフと思えば馴染みやすい)ビリヤニより少し大きいためか、普及はワンテンポ出遅れ感があるけれど、いずれ劣らず流行るポテンシャルがあると思うし、流行りの兆しがある気がするし、個人的に流行ってほしい。

日本のいわゆる「インドカレー」屋は、実際にはネパールの人が大半だというから、自分たちの地元料理で勝負できると思って(気づいて)くれれば、一気呵成な気もするんですよねー。
* * *
みたいな話を、中南米に留学経験のあるひとに話したら
「ダルバートっていうのは豆のスープをごはんにかけて、カレーやら漬け物やらを載せて混ぜて…」
「ああ、フェイジョアーダみたいなものだね」
フェイジョアーダとは何ぞや?いやまあ、豆のスープをごはんにかけて、さらに具材を載せて食べるのだろう。横浜近辺で検索すると、ヒットしたのが鶴見。昨日の日記で書いた沖縄コミュニティのそばに、ブラジル・コミュニティもあるらしい。食料品や雑貨を商うお店に食堂も併設され、そこで食べられるようだ。
かくして再び鶴見へ(このサイトでの話。僕じしんは何度も行ったり来たりしてます)。せっかくなので豆の前に
奥歯も見てもらおうか(意味不明)。

かたや歯医者いらんだろと言いたくなる完全武装の奥歯。かたや少しゆがめた奥歯を花弁に見立てたデザイン、これまで見た歯医者の奥歯で一番の洗練度かも知れない。あと歯医者じゃないんだけど胃腸科がイチョウの葉をシンボルにしていて(だ、駄洒落…)奥歯みたいに流行るといいですね。
というわけでブラジルの豆。このお店では
フェイジョンと呼ばれているのだけど、見てのとおりメインではサラサラない。メインは肉。注文を間違えて、細切れ肉のつもりがステーキを頼んでしまった。ビフテキなんて、自分のお金で食べるの何年ぶりだ。来月の誕生日なら良かったのに…などと思いつつ、ああ、たまに食べるとイイねビフテキって。贅沢贅沢。いや豆。

フェイジョンの「豆」は金時豆みたい。ダルバートと同じ流儀でライスにかけると、スープが下に抜け豆が上に残る。ビフテキ美味い(ビフテキとしては庶民価格でした)。しかし念には念を入れ、日を改めて桜木町へ。そう、
先月の日記で書いたJICAのレストラン(一般客も入れる社食)にフェイジョアーダもあるのです。

こちらJICAのフェイジョアーダ。見るからにスープだった鶴見のフェイジョンに比べ、シチューな見た目だけど、やっぱり金時豆。ソーセージも煮込みに煮込まれ、肉らしさも味も抜けて、渾然一体の味わい。
…たぶんココまで読んだひとの頭の中で(お味噌汁)(つまりお味噌汁)(汁かけごはん)て言葉が渦巻いてると思うのですが、発酵食品のお味噌に比べ、ダルもフェイジョンもさらにシンプルな味わいです。なので「こういうおいしさ」と慣れるまで時間がかかるかも知れないけれど(自分はかかった)ダルバート、流行ってほしいというのが繰り返しの本日の結論。
と思ったら、最近おくればせで(なんでも遅ればせ)ハマった
香山哲『
ベルリンうわの空』というまんがで、中南米出身のキャラが好きな食べ物は「
バンデハパイサ」だと話す場面があって

という説明に他の国出身の仲間たちが「想像できない」と悶絶するんだけど(『ベルリンうわの空 ウンターグルンド』)、これたぶん、フェイジョアーダに近いですよね?
確認すると同じ中南米でもコロンビアの料理で、全部乗せのゴチソウみたいな感じ。横浜の徒歩圏内に供するお店があるらしいのだけど、どうやらこれがバー。夜にお酒などを出すのがベースのお店で、ちょっと二の足を踏んでいる。
「肉の代替ならコオロギより豆のほうが手軽じゃない?」とか時事ネタに絡めてもいいのだろうけど、今回は食べ物の話だけで。あ、勿論これだけ各地の食べ物を食べたい食べたい言って「でも人は来ないでほしい」とか、ありえませんので。レイシズム反対。
マジョリティであることの恥辱〜佐藤嘉幸・廣瀬純『三つの革命』(23.03.12)
「我々はすべての原発を大都市圏住民に返還するが、しかし同時に我々は、この地球上のいかなる場所にも、新たな「福島」の創出を決して許さない」
3/13のマスク緩和の前にと東北をフラフラしてきましたが、その話は来週以降。

こういう本を待っていた―と、5年以上も前に出た本に言うのも申し訳なく恥ずかしい話なんですけど。
佐藤嘉幸・廣瀬純『三つの革命 ドゥルーズ=ガタリの政治哲学』(講談社選書メチエ/2017年/
外部リンクが開きます)は書名に恥じない、
二重の意味で革命的な一冊でした。
「あ…こいつまた何か駄洒落を言おうとしてるな」と勘づいたひとは正しい。革命的、の一番目の意味は「言われてみれば今までなかった(かも)」画期的ということだ。書き出し早々、著者たちは言う。
「本書が提示する(中略)
読解は、日本語のみならず、私たちの理解する英仏独伊西葡の各言語環境においても、いまだどの論者も行っていない」
「ドゥルーズ=ガタリの時代は、既に終わったどころか、むしろ反対に、(図々しさを顧みずに敢えて言えば、本書とともに)今こそ本格的に始まる」
すごい自信というか、めっちゃ気負ってる。それもそのはず著者たちは、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリ、二人の哲学者が連名で著した『アンチ・オイディプス』(1972)・『千のプラトー』(1980)そして最後の共作になった『哲学とは何か』(1991)、
三冊の書物が三冊とも「資本主義の打倒という明確な目標設定の下で」書かれたというのだ。
「すなわち革命のために」。マジ革命。

かつて、初読時にはサッパリ分からなかった『アンチ・オイディプス』を十年を経て再読したとき、相変わらずサッパリ分からなかったけど「
哲学の根本問題は(スピノザも言ってるように)
なぜ人は率先して支配を求め、すすんで隷属したがるのかということだ」という一節を発見(再発見)して、分からないは分からないなりに、こういう問題意識「も」あっての難解な思索なんだと感銘を受けたことがあった(参考:
2017年8月の日記とか)。ウォール街を占拠せよとか、世界中で巻き起こった反体制・反資本主義の蜂起のなかでドゥルーズ=ガタリを引用しての激が飛んだらしいことも知っている。
けれど改めて、とくに『哲学とは何か』まで含めて一貫して
「いかに資本主義を打倒するか、いかに資本主義をその下部から掘り崩すかが執拗に問われて」
いるという「読解」は、たしかにありそうでなかった(気がする)。
逆にいえば、革命=権力および資本主義打倒、以外の要素はみごとに捨象されてるので、読む人を選ぶというか読む人に選ばれる・人によっては選ばれない書物だと思います。けどまあ「選ぶ人」に向けた気迫がすごい。
コレは講談社選書メチエ自体の仕様なんでしょうけど、表紙をめくるとカバーの袖に第一部(二部・三部…)・第一章(二章・三章…)という大見出し・中見出しだけの目次が。そして本体の目次は章の下に「1・2・3…」と小見出しが入る。さらに本文では重要なところが太字になっている。
すごく大づかみに内容を把握したければカバー袖・もう少し詳しく概観したければ本文目次・さらに本文を通しで読む余裕がなければ太字部分だけ飛ばし読みしなさいねという親切設計なのだ。もちろん太字部分だけだと分からない(
まあ本文ぜんぶ読んだって分からないんですけど)ところはあるし、太字だけ追うつもりが「これどゆこと?」と周囲の地の文に脱線していくことになるのですが…

もうひとつ、本書で目を引いたのは(とくにドゥルーズと)親交があったミシェル・フーコーとの関係。
周知のとおり(ということにしておきましょう)『狂気の誕生』『言葉と物』など年一冊ペースで続いたフーコーの著作は権力と個人の関係を問うた『監獄の誕生』『性の歴史I』のあと8年ほど途絶え(コレージュ・ド・フランスでの講義は続いてました)急逝の直前に再開された『性の歴史II・III』では当初の近代ヨーロッパ研究から大きく路線変更し、古代ギリシャ・ローマが題材となった。
『三つの革命』の著者たちが示唆するのは、
→ドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』の権力にまつわる問いを受けて
←フーコーが『監獄の誕生』『性の歴史I(知への意志)』を著し
→DGはアンサーとして『千のプラトー』で応え
←それが晩年フーコーの『性の歴史II(快楽の活用)・III(自己への配慮)』につながった…
というキャッチボールだ。
欲望を思索の起点においたドゥルーズ=ガタリに対し、権力を起点としたフーコーの発想では
「『監獄の誕生』に描かれたように権力が完璧に作用するなら、権力に対する抵抗の可能性は最初から閉ざされてしまう」。それでは袋小路だよというドゥルーズの指摘(助言)を受け、フーコーは古代ギリシャ・ローマ人の「自由」を彼なりの逃走線として見出したという。
両者の比較はあっても、双方の仕事をここまで密接な「応答」と捉えた考察も自分は初めてで、うーむと唸ってしまった。
そのうえでフーコーの「自由」は(ソクラテスがそうしたように?
2017年8月の日記参照)いざとなったら権力に抗して自死する自由だったのに対し、ドゥルーズは「生きてこその自由」と捉えていたという著者たちの見解は、それぞれ真逆ともいえる(?)末期を思うと余計に考えさせられ…
『三つの革命』…異色のフーコー論として読むことも出来ると思います。
「我々はみな平等だ、と唱える市民運動に対して、プレカリアート運動は、そのような「平等」の下でこそ富者によって貧者の富が収奪されている、と返す」
ドゥルーズ=ガタリの目的は打倒・資本主義で一貫していたが、その戦術は三冊それぞれ異なるというのが『三つの革命』の要点でもある。
『アンチ・オイディプス』では東西対立・(革命後のソ連では途絶された)プロレタリアートの生成変化に、
『千のプラトー』では南北問題(
マイノリティとは南のことだ)・LGBTも含めたマイノリティに、
そして『哲学とは何か』では人間扱いされないマイノリティを前にしてマジョリティ側が直面せざるを得ない恥辱に、革命の可能性が託されたと著者たちは言う。
まあ何度も言うように難渋ではあるので、どこまで自分がついて行けてるのか判然としませんが
「迫害されるマイノリティを前にマジョリティが感じる恥辱」って、まさに今のColabo叩きやトランス差別、入管問題その他その他で感じる「いたたまれなさ」そのものっぽくね?
『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』に比べ『哲学とは何か』には絶望感がある、それは(ファシズムとか言わんと)吾々が民主主義と呼んでる制度の時点でもう
「自らの外部にありとあらゆる危機を押しつけ」「収奪し、抑圧している」という認識のためらしい。「市民」の平等も等価交換も、マイノリティの抑圧や収奪と表裏一体なのではないか―そう問われたとき、ハラスメントから寿司屋での狼藉まで、いま世間をにぎわせている多くの問題が「市民の権利」=自由や平等・セキュリティを口実にしているのは本当にただの「口実」なのだろうか、もっと本質的なバグが―「恥辱」があるのではと疑ってしまう。

かつて「これ大事なのでは?」と思った「人はなぜ進んで隷属するのか」の一節が今になってにわかに注目されてるように、まだあまり話題になってない「マジョリティであることの恥辱」という本書の問いかけも、いずれ(より拡散力のあるひとが見つけて)多くのひとが共有するイシューになるかも知れません。
本書の最後は、そんなドゥルーズ=ガタリの問題提起を今の日本にどう適用するか、ということで沖縄の基地と福島の原発が問われている。かなりスリリングなことも述べられている一方で、自分なりに示唆されるところもあり…しかし「
ちょっと待て、ちょっと今の自分、過激になりすぎてる」と心にブレーキがかかったりする、それくらい際どい読書でもありました。そこまで思わせるって意味でも、ちょっとない本かも知れません。
【今日のまとめ『三つの革命』】
・ドゥルーズ=ガタリの三冊すべてを「打倒・資本主義」で読み直すスリリングな本でした
・『性の歴史』の路線変更をD&Gとの応答として捉えたフーコー論でもある
・マジョリティであることの恥辱という「概念」は「今」を打開する鍵かも
「資本主義の本質は資本家による「飽くなき利潤追求」(中略)
ではなく、その条件をなす無限債務の内面化にこそ」あるという(たしかに「貨幣の起源は交換ではなく貸付」と『アンチ・オイディプス』で言ってた気がする)指摘も掘り下げたい。これは自分用メモです。
東北に本を読みに行く(前編)(23.03.19)
ソラましが(別の世界線の)せつあゆに見えて仕方ない←何この暗号みたいなつぶやき…
* * *
3/13からのコロナ対策緩和→公共の場でのマスク着用の緩みの前にと思いまして。大規模な電車利用の(当面の)乗り納めも兼ねて、東北に行ってきました。
行けるかぎりの本屋に立ち寄り、可能なかぎり何か買う、そして読む。それだけの旅行でした。(まあ盛岡冷麺もカキフライも食べましたが…)
メインは東北ですが、まずは仙台に着くまでに車内で二冊。
横浜随一のアーケード通り・横浜橋通商店街の脇に新しくできた独立系ミニ書店
「象の旅」(外部リンクが開きます)。ちょっと変わった店名の由来はポルトガルのノーベル賞作家
ジョゼ・サラマーゴの小説(書肆侃侃房/外部リンク/ル=グウィンの書評あり)から。当然ながら店にあったので、次に出向いたら手に取りたいところ。
でも今回の買い物は昨年から気になっていた
ジュディス・バトラー『非暴力の歴史』(青土社/外部リンク)…は長旅で荷物を軽くしたい+財布が軽くなりすぎるのは困る→で、隣に配架されていた
★
酒井隆史『暴力の哲学』(河出文庫/外部)
先週の『三つの革命』で少し自分が過激な方向に踏み込みすぎではと危惧した・その同じ領域にある「現代思想vs現代社会」な本で、キング牧師〜カール・シュミットまで連想ゲームのように語り継ぐ。読みやすいです。非暴力・不服従は妥協ではなくむしろ敵対に軸足を置いた抵抗であること・むしろそれゆえに同調をよしとするマジョリティに「敵対はいけません」と非難されること・その非難もまた抗議者への敵対なのに権力側の敵対は空気のように看過されること。同書で紹介されている
ヘンリー・D・ソローの
『市民の反抗 他五篇』(岩波文庫/外部)は、そのうち読む本リストに入れとこうと思いました。
あと横浜橋通商店街に缶入りじゃないシッケ(
3/4の日記参照)があって、自分が訪れた日は品切れだったため、いずれ再訪しましょうね(
自メモ)。

昨年の晩秋に船橋から幕張まで歩いたとき(
22年11月の日記参照)幕張の
本屋lighthouse(外部リンクが開きます)で購っていた
★
諸橋憲一郎『オスとは何で、メスとは何か? 「性スペクトラム」という最前線』(NHK新書/外部リンク)
積んだままになっていたのも今回ようやく読了。男女(オスとメス)はY染色体とX染色体でキッパリと二分されてるものではなく、性ホルモンの濃淡で・外性器以外ほとんど差がない幼少期→肉体的に性差が極大化する青壮年期を経て→再び性差が減衰していく老年期、と虹のようなスペクトラムを行き来するという。

ちなみに男女がキッパリと分かれていてほしい人たちの対抗運動もネットで確認できる。自分はこっちは違うなーと閉じたけど、いろいろ考えることあり。
この分野では
サラ・S・リチャードソン『性そのもの ヒトゲノムの中の男性と女性の探求』(法政大学出版局/外部)も気になる。昨年まさに性染色体をテーマにしたSFまんがのネームを切って今年ペン入れ予定なのだけど「最新の知見で覆された内容を含みます」みたいな注記が必要になるかも知れなくて(でも描くんだ…)作家としては困るけど、社会に生きる一個人としては関心大。
そうこうするうち仙台に到着。駅前のファッションビルで11月くらいに古本市が一ヶ月つづく夢のような街です。あまり時間が取れず、三軒だけ駆け足で。

仙台古本シーン(?)の牽引者で版元でもある
あらえみし(外部リンクが開きます)。ミステリと東北出身の作家の本がギッシリ並んだ店内で、とっさに買う本が選べない。ミステリからの派生かオカルト関連の本も少しあって、東州に改名する前の深見青山の著書や、『テレパシー入門』『恐怖の心霊写真集』の中岡俊哉氏が1980〜1999年くらいの人類滅亡の予言を一冊にまとめた新書(警察の犯罪捜査にも協力する透視者のクロワゼットも何か予言してるらしかった)などあったけど「いや待て買うことはない(
ことごとく外れた予言の総集編を買ってどうするの)」とブレーキがかかる。危なかったです。大急ぎで手にしたのは東北出身でもミステリでもない
★
坪内祐三さんの『
考える人』(新潮文庫)
小林秀雄に福田恆存・植草甚一に吉行淳之介・色川武大・幸田文・吉田健一・須賀敦子…戦後の日本で「考えた」文筆家たちを硬軟とりまぜ語る一冊。先日の『三つの革命』や往路の『暴力の哲学』などで少し尖鋭化しすぎた思考を、いや尖ることも必要なのだけど、世の中もうちょっと懐が広くて、もうちょっと焦らない対峙の仕方もありだと少し自分を「戻す」ニーズにピッタリの本でした。宿についてからもページをめくる手が止まらず、一気に読了。
いわき市に本店があるらしい
阿武隈書房(外部リンク)の仙台店では、困ったときは
宮崎市定センセを買っときゃ間違いないやと
★『
隋の煬帝』(中公文庫)を。
分裂・混乱の続いた南北朝時代vs天下統一された隋・唐時代という区分けでなく、
「古いやり方で権力を握り、古いやり方で権力を弄び、最後に古いやり方で殺された」内輪の権力争いに明け暮れた南北朝時代の締めくくりとして隋・わけても煬帝という人物が捉えられる。彼を史上最悪の皇帝たらしめている父・文帝の殺害は後世の創作ではないかと疑義を呈したうえで、むしろ殺伐とした時流にフィットしてしまった凡庸な悪人として活写。これも一気呵成に読みました。
阿武隈書房とは目と鼻の先にある
book cafe 火星の庭(外部リンク)は名前どおりカフェ併設。本屋としては古本屋かしら。
昨年11月の日記で「小さな本屋がコーヒーも売ってたら、なるべく買うか飲むかしよう」と書いてたのも忘れ、いや時間がなくて、
★
クロード・レヴィ=ストロース『みる きく よむ』(みすず書房/外部リンクが開きます)
と、コーヒーではないけど「三毛猫クッキー」を購入。宿に着くまでに可哀相に割れてしまったけれど…

『みる きく よむ』は文化人類学を離れ、18世紀の音楽や美術・20世紀の文学などを語る晩年のエッセイ。日本の浮世絵も。冒頭いきなりプルースト『失われた時を求めて』評から始まっていて、はい、まさにまた読み進めをサボっていたのでギクリ。キュルティスという人の評の引用なのですが
「『失われた時を求めて』という作品には、失われた時もなければ、見いだされた時(※最終巻のタイトル)
もない。(中略)
過去もなく未来もないひとつの時、ほかならぬ芸術的創造の時があるだけだ」だそうです。
素晴らしいですね←よく分かってない
知らない音楽家・画家・著述家ばかりの本ですが、すいすい楽しく読めました。
余談ですが同書に登場する18世紀の音楽家ラモーのオペラに『
カストールとポリュクス(Castor et Pollux)』てのがあって、当方クラシックは(も)全然なんですけど90年代アンビエント・テクノの名曲
サン・エレクトリックの「
Castor & Pollux(外部リンクが開きます)」って、ここからメロディとか引用してたりするのかな?と思って聴いてみましたが、何しろクラシックは全然なので聴いても確認できませんでした…サン・エレクトリックは他の曲でブルックナーの交響曲をサンプリングしてるらしい(自分には聴き取れない)ので、可能性はゼロでない気が。
「火星の庭」は社会活動も積極的なところで、店の入口には(公財)せんだい男女共同参画財団が作成したジェンダー平等についての大きなリーフレットが。こちらも貰ってきました(阿武隈書房にも置いてあった)。気になったのが
「アンコンシャス・バイアス…「男らしさ」「女らしさ」の役割について「無意識の思い込みがある」と答えた人 76.3%」という調査結果。無意識だから「自分は偏見なんかない」と思いがちなところを(皮肉でなく)よく自覚できてるなと思う。
「いつかは死語辞典」なる項目に寿退社・女子力・内助の功と一緒に
「イクメン」が挙げられていたのも面白くて。イクメン、当初は(イクメンでさえない男性に比べ)望ましいこととして登場した語彙だと思うんですね。でも、もう弊害のほうが目立つようになっている。

ちょっと違うけど、欧米のサブカルチャー作品でアジア系キャラの黒髪にメッシュが入るのが流行ったことがあって(『パシフィック・リム』の森マコさんとか)当初はアジアン=黒髪へのアンチテーゼだったかも知れないのが、あっという間に陳腐化して『シャンチー』の頃には製作者が娘に「ないわー」と言われシャーリンのメッシュをやめた…みたいな話を思い出しました。なんというか、そういうものなんですよ。
仙台には駅前から少し離れたメディアテークとかある方にも
マゼラン(外部リンクが開きます)という素敵な古書店+カフェがあるのだけれど今回は出向く余裕がなく、次なる目的地の岩手県・水沢に向かいます。
パーソナル・ジューダス〜山名沢湖『まほうのつえ』
本サイトを見てるひとに、いわゆる同人誌・それも一次創作(つまり既存の作品やキャラなどを取り上げた二次創作ではない)に作者または読者として関わってるひとがイカ程いらっしゃるかは分からないのだけど。
電子書籍での一次創作同人(自主出版)を盛り上げようということで年四回かな?実施されてる「いっせい配信」今日3/21がその
第21回(外部リンクが開きます)で、まずは紙のリアルな冊子=いわゆる「薄い本」ベースでは昨年末に頒布されていた
★
山名沢湖(突撃蝶々←サークル名)
まほうのつえ(BOOK☆WALKER/外部リンクが開きます)
を落手・拝読しました。
作者の山名沢湖さんは自分のイメージだと「まんが」「ストーリー」として読むより「詩」「文学」として読む筋肉が必要になるシュールなメルヘンの語り部の顔と、アイドルや同人誌そのものなど「オタ活」への愛または愛憎が炸裂する「読み物」作家の顔をもつヤヌスみたいな作家なのですが(いや、もうちょっと「両極に振れる」とかさ…)
・アイドル愛と地元静岡へのローカル愛が暴走する商業作品
『つぶらら』(BOOK☆WALKER/外部)がオススメ
今回の新作はオタ活への愛憎とメルヘン志向が合わさった、いわば短いながら(現在の)基準点みたいな作品。として読めました。
社会人になって同僚の誘いでアイドル応援に目覚め「こんなに楽しかったんだ」と有頂天になる主人公の前に、アイドル全般を軽蔑しトガってた高校生の自分が「うそつき」と現れ…という展開。コンパクトな中に推し活の楽しさ・オタクの楽しさ(
田中クンかわいいな!)・高校生の屈託・アイドル産業への疑念・同調圧力・過去の自分への反発・過去の自分を裏切ってる現在への罪悪感などなど丁寧に詰めこまれつつ(パーソナル・ストーリーとして)ほろ苦く昇華される最後の1ページ。
本作が紙ベースで発表されてから、今日の電書配信までの間に、英BBCが故ジャニー喜多川の性加害を報じた件があって。もちろん日本の吾々は余程の世捨て人でもないかぎり、ずっとそれを知っていた。けれど知らないふりをしていた。何度も言うように、そうやって知らないふりをしている/していたことが吾々には致命的に沢山あって―本作はそれに正面から応えるものではないけれど、アイドルを推すことって何だろうと、別の視点を得られる気がしました。

同人誌、とくに一次創作は
「これでも鳥だと胸を張るペンギン」みたいな冷徹な評価もあって、まあそれもそうだとは思うんですけど、あと本作は元々商業誌用につくられた話らしいけれど、商業作品がよかれあしかれ消費者に合わせたプロダクトであるのに対して、同人誌には作家性、というより「たとえば電車の中で乗り合わせた見知らぬ平凡そうなひとが、その内側ではすごい宇宙をもってるひとかも知れない」(それは物語に限らず登山とかスポーツとか、それこそアイドルの推し活だったり)その宇宙を垣間みせてくれるところがあって、その意味でも本作は商業より同人・自主出版にふさわしい作品かも知れません。

(まあジャニーズの件は、知らないふりしてた吾々の欺瞞、もちょっと真剣に考えたほうがいいと思うけど)
(23.03.18→22後も継続)署名
「東京都と新宿区は10代女性を支援するバスカフェを妨害から守って下さい!」(Change.org/外部リンクが開きます)要点はリンク先の4以降に詳らかですが・バスカフェに攻撃的な嫌がらせが頻発→3/14に東京地裁が妨害者への接近禁止命令を出す→しかし入れ違いで東京都はバスカフェのほうに3/22の開催中止を申し入れ=ボタンの掛け違いと思いたかったけど→3/20に署名提出後も都は中止を要求「間違い認めないモード」に入ってしまったようなので、粛々と署名の掲示を続けます。本サイト
23年2月の記事も参考までに。
【電書新刊(無料)とセールのお知らせ】3/21の創作同人電子書籍・新作
いっせい配信(外部リンク)に合わせて、2016・18・19年のペーパーまんがを一冊にまとめました。Web上では公開済の小ネタ集ですが、再編集で読みやすくなってます。『
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(23.03.07)一つ前(1/27)の書名が2万筆を目前に頭打ちになったので、新しい書名にリンクしなおし。
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難民を虐げ、在留資格のない人の命を危うくする、 入管法改悪に反対します!
(Open the Gate for All/Change.org/外部リンクが開きます)
わりと本気で怒ってますよ。閣議決定にも。
入管問題について書いた本サイトの過去記事にもリンクを張っておきます。

「無法と分断〜入管について(前篇/20.01.26)」(23.01.19)