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三月から四月にかけての馬鹿とウソ(23.04.02)

 エイプリルフールに間に合わなかったんだけど、ホラというか思いついたアネクドートで「大手食品メーカーが玉子サンドと称して販売していた惣菜パンのフィリングが卵を不使用=片栗粉と鶏エキス・食用色素その他で作った模造品と判明。消費者から殺到したのは非難ではなく"レシピを教えて" "栄養価は" "どれくらい節約できるの"等々の問い合わせ」うん、笑えないジョークはいかんな。

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 4月1日なんて言わんと、3月のうちに馬鹿を済ませておこうと思い、渋谷から横浜まで歩いてみました
渋谷〜横浜の地図と、歩数計スクショ。3/31:29,276歩・20,488m。4/1:10,106歩・7,074m。
 前に鎌倉まで片道だけど歩けてるので、だいたい同距離だから体調が良ければ行ける(戻って来れる)はずだと理屈では分かっていたけど、やっぱり一度は実際に踏破してみたいと思っていたところに3月31日。渋谷に行くチャンスが出来ました(往路は電車)。
 先月の日記で予告したとおり、入管法改悪反対の集まりとトランスジェンダー可視化のリレートークを見学。どちらも良かったです。ちなみに両者は(マジョリティとして恥ずかしいことに)重なってもいるんですよね。入管で差別・虐待を受けたトランス女性のメッセージが日本語と英語で読み上げられて、改めて思ったのは、日本語ネイティブでない人たちの言葉が片言である・流暢でないだけでネイティブの吾々は彼ら彼女ら(they)を劣った存在として侮ってしまう陥穽がありはしないかということ。排除はイカンだろうという立場で参加したはずの自分の中にも、どうかすると「いじめられてる弱者」というステレオタイプ・色眼鏡があると反省させられる、毅然としたスピーチでした。
 気候変動が難民を(さらに)増やしているという話も勉強になりました。入管・トランス1時間ずつ、後者もぜんぶ聞きたかったんだけど背中が痛くなってきて中盤で断念、そろそろ身体を動かしたいと19:30にハチ公前を離脱。

 いや、後はもう歩いたってだけだし、自分以外に渋谷から横浜まで歩こうって人もいないと思うけど(中目黒までだって歩かないよ)、いちおう参考までに述べますと東横線沿いに
・渋谷駅を出発→中目黒駅(0:30)→学芸大学駅(1:00)→都立大学駅(1:30)→自由が丘駅(1:50)→田園調布駅(2:05)→多摩川駅(2:20)→武蔵小杉駅(3:00)→元住吉駅(3:30)→日吉駅(3:45)→綱島駅(4:15)→菊名駅(5:00)→反町駅(6:00)→横浜駅(6:20←理論値)
 時間はだいたいの目安だと思ってください。
 渋谷→中目黒は坂も多いし最初は迷う。地図アプリを頼りに。中目黒〜多摩川はだいたい線路にいちばん近い道(おおむね一車線の狭い道)をたどれば問題なし。
 多摩川を渡る大橋のあたりからは線路沿いでなく、綱島街道と呼ばれる大通りをひたすら直進・車歩分離で歩きやすいです。8km〜10km・2時間〜2時間半。だんだん車線が減るも、菊名までは一直線。
 菊名からは線路沿いとも言いがたい・説明のむずかしい(自分は憶えてるので簡単)道を歩いて1時間強で横浜駅の少し手前の自宅に到着。地図アプリだと「最短5時間半」と謳ってますが、実際は6時間ほどでした。ちなみに電車だと310円・30分です。まさに三月+四月バカ(綱島と菊名の間・鶴見川を渡ったあたりで日付もまたぎました)。

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 春風江上の路じゃないけれど(まあ川も二つ三つは渡ったよね)至るところで夜桜を横目に歩き、花の下をくぐり、夢見ごこちの道行き。まあ後半眠かったのもある。気を失ないかけてた気もする(笑)。
夜桜
 武蔵小杉と元住吉の間にある平和公園のあたり。何年か前にここでヘイトデモを停めたよなあと思い出す。もちろん横浜から出向いた自分も含め、他所から駆けつけたカウンターも沢山いたのだろうけど「この街で差別パレードすんな」と集まった地元の人たちも多かったんじゃないか。車道でヘイトデモを取り囲んで、先に進ませず中止させたんです。汚い罵り言葉を叫んだりしなくても、人が多ければ「やめろ」「帰れ」の声だけで圧倒できる。一人ひとりの負担も少なくて済むと実感したからこそ、そういう方向には進まなかった=何かを動かしたり停めたりするだけの頭数がなかなか集まらない・ますます目減りしてる(ようにも見える)現状を、僕などは悲観してしまう。

 4月1日の他に364日(もしくは365日)ある世界では、むしろ恒常化したウソの弊害が深刻で、やがて『2001年宇宙の旅』ディスカバリー号の乗組員たちのように吾々は眠ってる間に殺されてしまうのではないかと心配になるが、どうなんだろう。船を司るコンピュータのHAL9000が正気を失なったのは、そもそも木星探査の真の目的を隠すよう命令されていた=思考活動の一番底に「デイジー・デイジー」の唄ではなく「ウソ」があったから、というのは、わりと教訓的な比喩ではないだろうか。
 「あと捏造した画像やエピソードを駆使して歴史的や政治的な主張をするひとたち、ウソをつかないと説得できないあなたがたの正しさってどうよ?と思わなくもない…」とつぶやく「ひつじちゃん」
 帰宅して、フローリングの床の上を歩くと、何やらペタペタした感触が足の裏に残る。もしやと確認すると、右の靴下だけ底に大きく穴を開けていた。自分の利き足を知る方法を知っていますか?そんな冗談が頭に浮かんだ。渋谷から横浜まで6時間歩いて、片方の靴下だけ底に穴が開く、そちらがあなたの利き足ですあまり面白くはないけれど、今年は年じゅう馬鹿でいようと思う。ウソはお断り。

アナーキー・イン・ザ・USA〜H.D.ソロー『市民の反抗 他五篇』(23.04.09)

 3月の日記酒井隆史暴力の哲学』を駆け足に紹介した際「同書で紹介されてて"そのうち読む本"リストに入れた」と書いた
ヘンリー・D・ソロー市民の反抗 他五篇(飯田実訳/1997/岩波文庫/外部リンクが開きます)
さっそく(?)読みました。
 ソローと言えば『森の生活』が有名。まだ右も左も分からない若いころに読んだときは、書名などから(C.W.ニコルさんみたいな)ナチュラリストの本なのかな?と勘違いして、まあその要素もあったと思うけど「??」な感じで挫折したように思う。その後、津野海太郎氏のエッセイあたりで、ソローは森に引きこもった隠者ではなく町とも頻繁に行き来して買い物してるとか知って「????」

 今回、改めて『市民の〜』を読んでみて分かった。むしろこのひと、アナーキストなのだ。いやそれも違うかも知れないけど。少なくとも、国家を至上とも離脱不可能とも思っていない。
 実際、表題作は1846年・つまり南北戦争の十年前に、アメリカの奴隷制と対メキシコ戦争に抗議して人頭税の支払いを拒否→投獄された顛末の記録でした。
「私は、公道税の支払いを拒んだことは一度もない(中略)今後もなるべく州を利用し、そこから利益を得るようにしたい」ただし「私の支払ったドルが、人間を買ったり、人間を撃つためのマスケット銃を買ったりするところまでは」容認できない・「忠誠を拒否し、きっぱりと州から身を引いて、超然としていたい」「私はわが州に対し、自己の流儀に従って静かに宣戦を布告する」
 ちなみにソロー氏、親切な誰かが税金を立て替えてくれて早々に出獄・「余計なことをしてくれた」とプンスカしている。こう書くと舞村さん(仮名)、茶化しているようだけど、いやまあ『動物のお医者さん』に出てくる「雨の日も寒い夜も犬小屋に入らない哲学犬(名犬さぶ)」のように偏屈だとは思うけど、もちろん感銘も受けている。同じように感銘を受けた人たちによって「市民の反抗」は20世紀に再発見→ガンジーや反ナチのレジスタンス・キング牧師などなどに読みつがれ「今日では、アメリカ人の書いたもっとも社会的影響力の強い論文のひとつとされている」(文庫解説)という。
雨の日も寒い夜も小屋の外で思索にふける(?)「名犬さぶ」 もちろん求道家でも「ただのヘンな犬」(by二階堂)ですらなく、なんかの理由で犬小屋がイヤなのではという疑いが捨てきれない(匂いとか…)
 言い替えると彼のメッセージは、その後100年をかけ適用され、敷衍され、実践されてきた。だから「市民の反抗」は、いま読むと少し間延びしたものに感じられるかも知れない。それでも強い力を持ったオリジナルであり…たとえば必要とする誰もがすぐ読めるよう青空文庫に登録されればいいのにと思ったりする。
 その意味でも、1997年の岩波文庫版が現在品切れなのが惜しい。実は「市民の反抗」は単体で数年前に新たに訳され出版されているのだけど、「他五篇」がまた読ませるのだ。

 とくに「ジョン・ブラウン大尉を弁護して」や「トマス・カーライルとその作品」あたりの雄弁。闊達。訳も良いのだろう、「偏屈な隠遁者」のイメージを覆す名調子なのだ。もともと街頭での演説用に練られた文章というのも頷ける、大仰に振り回される両腕が目に浮かぶような文章のフルスイングは、『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』(23年1月の日記参照)を読むと頭の回転がよくなるという話を思い出すほど。ソローといい、マルクスといい、もしかして18世紀の語り自体が、平明な散文より少し熱に浮かされたような、煽りの「型」を持っていたのではと疑ってしまう。
 ちなみに前者は(やはり南北戦争前に)一族郎党を率いて奴隷制を攻撃し、処刑された反抗者を讃えたもの。後者のトマス・カーライルは調べてみたら、今では邦訳もほぼ絶えた「忘れられた歴史家」らしいのだけど、往時は内村鑑三や新渡戸稲造などに多大な影響を与えたという。沈黙は金、雄弁は銀」「国民は、自分たちと同程度の政府しか持てないなども、彼が広めた言葉なのだとか(Wikipedia調べ)。ソローのカーライル評は絶賛また絶賛の名調子なのだけど、いつの間にか「あれ?なにげにディスってない?」みたいなところもあって、でも批判も込みで熱狂的。勢いがあって面白い。

 ナチュラリストとしての側面が際立つ「歩く(ウォーキング)」「森林樹の遷移」も好い。とはいえ造られた道じゃなく森を歩け、本じゃなく森を読めがソローの信条で、整った街路を本を読みながら歩くのがベストな自分は(なんなら当該の一節も歩きながら読んでた)「すみません文明にドップリで」とシオシオだったのですが…
 文明あるいは資本主義、賃労働全般への敵意に満ちた「原則のない生活」も読ませる。というか、せっかく読みやすい岩波文庫版。インターネットで世界をつなげること・などが(まだ)未来の希望だった1997年よりも、そうした夢もフェイクやディープ・フェイクで潰えたように見える四半世紀後の今のほうが、彼の呼びかけは切実さを増しているのではないか。

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 われわれは、自己の投票権のすべてを行使すべきである。単なる一片の投票用紙ではなく、自己の影響力のすべてを投じるべきである
これは納税拒否という「投票用紙以外の投票権」行使を謳った「市民の反抗」の一節。今日の統一地方選(前半)そして明後日以降、この国で投票権や、ソローが言う「広義の投票権」を持つ吾々は、どんなふうにそれを行使していくのだろう。まあ「ノー・フューチャー」や「民主主義・イズ・デッド」のほうが近いかも知れないけれど、そうなったらそうなったで、ソローの拒否や拒絶は指針のひとつになる気がします。

 「ノー・フューチャー」「民主主義・イズ・デッド」それに日記タイトルはセックス・ピストルズの「ゴッド・セイブ・ザ・クイーン(外部リンク)」や「ロックは死んだ」発言・「アナーキー・イン・ザ・UK」のもじりなんですよと説明するのも蛇足なんですが、あの一応、そうした元ネタを知らないひとも想定して書いてますので…

スティーヴン・ジェイ・グールドの三つのエッセイ(23.04.15)

 という表題とは関係ないのですが(つまりマクラ)図書館で借りた本を街なかで紛失する失態を犯しました。図書館から「警察に届いてるので取りに行ってください」と連絡が。届けてくださった見知らぬどなたかに感謝しつつ警察へ。ケラリーノ・サンドロヴィッチの戯曲集だったのですが、タイトルが『消失』なのは出来すぎでしょう、いや消失はしなかったので、出来すぎじゃなくて良かった。
書影:ハヤカワ文庫の戯曲集『ケラリーノ・サンドロヴィッチ1・消失/神様とその変種』
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 えー世の中、いろんな物事が消失するものでございます。あのクッキーが小さくなった・この缶詰が小さくなった…いわゆる「シュリンクフレーション」も、ある意味「消失」の変種かも知れません。最近、あー気づきたくなかったと思ったのは
まんがの単行本の厚み、7巻目から(7巻と9巻)急に減ってません?
家の中で旅に出ている8巻(まだ「消失」ではない)と、完結の10巻(名残り惜しいのでまだ買ってない(笑))の厚さを比較するまでは「これもシュリンク」と断定はできませんが。

 古生物学者でダーウィン進化論の強力な擁護者・そして魅力あふれる科学エッセイストだったスティーヴン・ジェイ・グールド(1941〜2002)。彼がアメリカを代表するチョコレート菓子「マーズ・バー」のシュリンクを批判するエッセイが…はい、探しても探しても出てこないのですが(消失ばっかりだな!)
 まあ値上げした、あるいは小さくなったと嘆くだけなら一山いくら。グールドの着眼点が卓抜だったのは、マーズ・バーが20世紀の数十年、何度も値上げしつつ「値上げしたけどサイズも大きくなりました!」その比率を分析して、一度たりともサイズアップの比率が値上げ率を超えたことがないと憤慨してみせたこと。「お値段そのまま」に比べると手のこんだ(そしてセコい)ことをしてるけど、それを見抜くほうも見抜くほう。
 …もちろんこれは、チョコバーのセコい手口をダシにして、生物や科学で重要な数量比較の効用を説いているわけです。

 グールドのエッセイには、このように科学的な視点を(彼の本業である)古生物学や科学史ではなく、日常に当てはめたものが時折あって。個人的に印象に残っているのはこの「チョコバーの欺瞞を暴く」と「アニメキャラの幼児化」そして「大リーグから四番打者が消えた理由」だ。
 アニメキャラ、具体的にはミッキーマウスの容姿が初登場から時代を下るにつれ、頭身が小さくなり、目から上=頭蓋の比率が大きくなり、目も大きくなりと、まるで実在の動物のようにネオテニー化した過程を分析したのは『パンダの親指』所収のエッセイ「ミッキーマウスに生物学的敬意を」。少し古いけど日本で思い浮かぶのは『Drスランプ』の則巻アラレちゃんが、巻を重ねるごと見事に幼児化していったし、『こち亀』の両さんも次第に顔の造形がネオテニーしていったのではないか。

 大リーグ四番打者の「消失」はまず、他のグールドのエッセイ同様『ナチュラル・ヒストリー』誌の連載で取り上げられ(『フラミンゴの微笑』に収録)、のちに『フルハウス 生命の全容〜四割打者の絶滅と進化の逆説』の表題作に発展した。いわく、アメリカン・リーグで1901年〜1930年には9回も輩出された四割打者はその後11年間あらわれず、1941年の四割六厘を最後に二度と現れなくなってしまった。他の競技―たとえばマラソンでも体操でも―新記録や技術の向上が更新されつづけるのに、なぜ野球の打率だけは下がったのか。
 バッターが小粒になったからだ―ハングリー精神を失なった・遠征が増えた負担のせい・考えすぎるようになった・いや守備を破る緻密な思考ができなくなったからだ・昔は良かった、本物の名打者がいたものだ…という説をグールドは退ける。ピッチングや守備の技術が向上したためだ・グローブが大きくなった・ボールの大きさやルールが守備側に有利になった…こちらの説も退ける。グールドが出した答えは―まあ隠すほどではないけれど、せっかくなので
たたみます。(クリックで開閉します)。
 これもチョコバーやアニメキャラ同様、生物学で数字や統計を用いるやりかたを「ことよせて」説明したものだ。けれど、それはそれとして、世の中でよく言われる「今どきの若い奴は」を考え直す契機にもなるだろう。
 一次創作の同人まんがというニッチかつ個人的な話になるけれど「偉大な手塚治虫」を引き合いに出すまでもなく、たとえば僕が即売会に参加しだした頃も、ちょうど即売会を離れプロデビューしていった作家たちはイノベーティブで独創性に溢れていた・それに比べると今の作家たちは小さくまとまって気概がない、みたいに「ぶつ」人がいた。たぶんいつの時代でも、そんなことを言う人はいるのだろう。カチンと来たとき、グールドの「四番打者の消失」を思ったりしたものだ。
 そんなわけで僕は少し、グールドに気持ち的な借りがあるのかも知れない。例によって決して良い読者だったとは言えない気もするけれど、なんとなく身びいきしてしまう理由のひとつだと思います。
グールドの本。左からフラミンゴの微笑(上)・パンダの親指・フラミンゴの微笑(下)・ダーウィン以来・フルハウス。
(この項つづく)

グールドとアメリカ〜『ぼくは上陸している』(23.04.16)

 半年前の記事だけど
万博パビリオン入札不成立続出 プロデューサー5人のテーマ館も(産経新聞/2022.12.12/外部リンク)
河瀬直美・落合陽一らが名を連ねるパビリオンのプロデューサーに福岡伸一ハカセも。著作には学ぶところが多かったけれど、うーん、そっち方面に(また一人)絡め取られてしまいましたか感もあり。改めて、誰かを無条件に信頼・支持するのは難しい―それはむしろ健全なことかも知れないけれど。

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 オカルトとミリタリー趣味は麻疹と同じで子どものうちに済ませておいたほうがいい、大人になってから罹患すると重症になるというのが持論だ。まあ子どものうちでも大人になって思い出すと恥ずかしかったりするのですが、ビッグフットも空飛ぶ円盤も恐怖の大王も信じていた自分の場合、魔法が解けるきっかけになったのは「198X年に太陽系の惑星が一直線に並ぶと地球に天変地異が起きる」いわゆる惑星直列の予言への反論だった。いわく「陸上競技でトラックを何周も回ってて、周回差のついたランナーたちが偶然一直線で横並びになった途端に、身体に変調をきたして倒れたりすると思うか?」定性的にたいする定量的思考とでも言うのだろうか、つづめて言えば科学的思考を知った瞬間でもあった。

 惑星直列と一緒にしたら失礼かも知れないけれど、今西錦司が唱えた「種は一斉に進化する」ある形質が自然淘汰で大変な時間をかけて行き渡るんじゃなくて、言うたらサルは一斉に立ち上がって人間になったのだという説は、科学と言うよりロマンだったように思う。進化は進歩であり、高度化するように方向づけられているというロマンだ。
 その「ちょっとイイ夢」から醒めたのは、ガチ自然淘汰論者=グールドの著作に触れたためだったと思う。無味乾燥な現実がロマンに勝ったわけではない。グールドが説く自然淘汰や定量的手法は、今西説に劣らず面白く、ロマンチックだったのだ。いわば逆洗脳?その語り口の豊かさは、グールドが数々の論敵と闘っていくうえで、強力な武器だったと思います。
今西の棲み分け理論は種進化論とは別に評価が必要かもだけど生存競争や淘汰より平和的に見える「棲み分け」が、逆に戦時中に書かれた『生物の世界』では「食う者と食われる者の分化も棲み分け」とされていて、これはこれで植民地支配や侵略の正当化に悪用されかねない危うさを持ってるなと若干「引いた」のを憶えてます。科学を「使う」側の問題ですが。
 敵や武器、闘いという語は少し強すぎる気はするのだけど、ユーモラスで人間味あふれる語り口とは別にグールドの一連のエッセイは、実は論争的な含みが多かったように思う。啓蒙=蒙を啓くとは、やはり蒙昧に抗うことなのだと。
 今西の種進化論を直接に相手取ったことはなかったと思う。けれど『パンダの親指』で20世紀初頭のイギリスで起きた化石捏造事件=いわゆるピルトダウン人の黒幕にテイヤール・ド・シャルダンを擬しているのは、彼が進化に「より高みを目指す」神意を求めた(23年2月の日記参照)、グールドにとっては否定すべき論敵だったことと無関係ではない気がする。
 グールドが生涯をかけて主張し、蒙を啓こうとしたのは「進化とは進歩ではない」ということだ。創造論者の「サルが人間に進化したと言うなら、なんでまだサルはいるの?」という論難を逆手にとって、グールドは進化とは分化であり、進歩のハシゴを登ることではない、高度な知性をもつ人類を生むことが進化の目的だったのではなく、量や種類の多さでいえば細菌や昆虫こそ地球で最も繁栄しているではないかと力説した。

 彼が対峙したのは、進化に目的や神意を見ようとする人びとや、進化そのものを否定する創造論者だけではない。(これも進化=進歩である・優劣があるという発想の帰結なのだけど)優生学や人種差別とも果敢に悲壮に闘いつづけた。平等の理念や合理主義と、差別や反知性主義は、アメリカというコインの裏表だ。先週の日記で取り上げたソローが市民権を盾にして奴隷制や侵略主義に抗したのと同様に、グールドもまた、望ましい理念としてのアメリカのために、望ましくない現実のアメリカと闘っていたのかも知れない。
 今年の春の18きっぷ旅行では立ち寄りそびれたけれど、仙台・メディアテークの近くにマゼラン(外部リンクが開きます)という古本カフェがあって、酷暑の盛りにテイクアウトのアイスコーヒーと一緒に買い求めたのが
ぼくは上陸している(上・下)』(早川書房/外部リンクが開きます)
『ぼくは上陸している』書影・マゼランの看板・「せんだい生活スタイル」のポスター「だ:大事な人を守るために て:手洗い30秒 ま:マスクをしよう さ:3密避けて む:向かい合わない ね:ネットも活用(だ・て・ま・さ・む・ね)」神奈川県のMASKもたいがいだけど、仙台市のコレもなかなか…
 最後のエッセイ集にあたる本書も、ナボコフやフロイト・マルクスや創世記まで俎上に載せた話題の豊富さは変わらない。ニューヨークの同じ自然史博物館に通い詰めながら背が高いカール・セーガンは天文学に・背が低い自分は化石掘りに進んだと自虐したり、物理学者のラザフォードが「化石の分類など切手の分類なみに頭を使わない作業だ」と揶揄したのに「オレ、古生物学者でしかも切手集めが趣味だったんですけど!?」とプンスカしたり(形のうえでは憤慨してるけどエッセイストとして「いいネタが見つかった」とニコニコだったのではないか)ユーモラスな語り口も堅調、好い本です。
 ちなみに上陸したのは陸生脊椎動物の祖先になったハイギョではなく、100年前に合衆国の土を踏んだ著者の祖先。百周年を祝って終わるはずだったエッセイ集は、2001年9月11日のテロによって大きく揺るがされる。いや、無残な廃墟と化したグラウンド・ゼロで救助活動に従事するレスキュー隊に、人びとがなけなしの電池や焼き立てのアップルパイなどを持って寄付に駆けつけた心温まるエピソードで、かつて祖父がこの国に「上陸」したことは間違ってなかったとアメリカへの愛を謳って終わる。
 
 グールドのエッセイで感心や感銘だけでなく、わずかなトゲを心に残したのは『フラミンゴの微笑』に収録された一篇=吾々ホモ・サピエンスの祖先だったホモ・ハビリスと同時期に同じ祖先から分化したアウストラロピテクス・ロプストスという種を紹介するものだ。百万年にわたって吾々の祖先と併存していたロプストスが「なぜ絶滅したかは不明だが」もし現代まで生きながらえていたら、吾々は「深刻な倫理的問題に直面していただろう」とグールドは言う。ロプストスの脳は吾々の1/3しかないからだ。
 つまり吾々が人種と呼んで優劣をこしらえたり差別したりするのは生物学的には馬鹿げている、本当に「別な種」と比べれば吾々ホモ・サピエンスが肌や髪の色に関係なく「同じ種」なのは一目瞭然ではないか、というのが本篇の主旨なのだけど―
 人類という種をよく知っている者なら「なぜ絶滅したかは不明」とはカマトトな、吾々が滅ぼしたに決まってるという考えが頭をよぎるのではないか。
 百万年の併存=共存が、ロプストスを絶滅させたのは吾々ではない証拠だとグールドは考えたのかも知れない。もちろん、それは正しいのかも知れない(マンモスと人類が併存していた期間て何十〜何百万年くらいだろう?)。いずれにしても、グールドには人類はそこまで愚かでも残酷でもない(と思いたい)という希望や信念があったのだと思う。
 あるいは「手心」が。
 9.11の翌年、2002年に逝去したグールドは、さらに翌年=2003年からの捏造した証拠にもとづくアメリカのイラク戦争も、さらに十数年後のトランプ政権も見ることはなかった。祖先が憧れ、自らも愛しつつけたアメリカがどんどん理念や理想から乖離していく姿は、もし生きていたら彼に「深刻な倫理的問題」を与えたのではないか。「私は(中略)(あえて言わせてもらうなら)筋金入りのリベラルである(『ぼくは上陸している』)と自称した彼が、愛国心に足を取られて、祖国の愚行に「手心を加える」ことはなかったと信じたいけど…
 ソローやグールドが「良きアメリカの理念」をもって「悪しきアメリカの現実」に対抗しえたの、「真の日本らしさ」を平等や公正に結びつけられない本邦の不幸を思ったりしますね…多くの可能性をもった日本再発見論が、結局それで座礁してしまったという…とボヤく「ひつじちゃん」
 科学史の現代史的にはスティーヴン・ジェイ・グールドは「利己的遺伝子」のリチャード・ドーキンスと角逐し、敗れたことになっている。両者の「論争」の決着はシロウトには判定しがたいところもあるけれど、創造論者の曲解を糺しつづけたグールドも信仰じたいには手心を加えたところがあって、妥協ない無神論者のドーキンスに遅れをとった要素はあったらしい。来週、そのあたり(に始まって、あまり関係ない)話をします。

リベラルって何だろう〜垂水雄二『進化論の何が問題か』(23.4.23)

 いちおうスティーヴン・ジェイ・グールドのファンだった身としては、彼が敗れたというリチャード・”利己的な遺伝子”・ドーキンスとの論争についても知るべきだろうと思いつつ、いきなりドーキンス本人の著書に入るのは敷居が高かったので
キム・ステルレルニードーキンス vs グールド ―適応へのサバイバルゲーム』(ちくま学芸文庫/外部)
垂水雄二進化論の何が問題か ―ドーキンスとグールドの論争』(八坂書房/外部リンク)
書影:ドーキンスvsグールド(左)・進化論の何が問題か(右)どちらも図書館で。
 面白いのは双方の著者とも「私自身はドーキンス派で」「ドーキンスのほうが専門で」と断りつつ、グールドのいいところを拾おうとしているところ。
 そもそも「論争」も周囲が過剰に騒いだもので、当人たちは互いの理論を磨き上げるため逆に相手の反論を期待する「良きライバル」で、進化論そのものを否定する創造論者などに対しては連帯し互いを認めあっていたという。
 そのうえでグールドがドーキンスに「遅れをとった」のは、ドーキンスの徹底した還元主義と無神論(小さな子どもを泣かしても神の実在を認めなかったそうな…)に対し、グールドが進化にこそ神は介在させないものの科学と信仰の両立を唱えたツメの甘さにあったらしい。逆にその科学以外の領域も確保しようというパーツの「あそび」に、「論争」を紐解いた著者たちは共感したのではないか。
 またグールドの極端な分化論(進歩ではなく分化)や、彼の名を高めたバージェス生物群の解釈に勇み足があったことなどが「失点」であるらしい。グールド本人のエッセイを読むと、利己的遺伝子論については「生物の淘汰を決める要因には環境への後天的な適応もある」的な反論もしていたようで、これは自分の宿題とします。
 クジャクの羽根やシカの巨大な角など「性淘汰」についても、グールドの把握は学ぶところもある反面少し不徹底かなと(軽く再見して)思いもしたけれどまあ四半世紀前の見解ですからね…「近年の『タコの心身問題』では生物の死=寿命すら(性)淘汰と結びつく壮絶な仮説が読めますよ」とのキャプションとともにヒツジ着ぐるみ帽のかわりにタコをかぶった「ひつじちゃん」(なに被せとんじゃ)
 先週の日記で紹介した大リーグから四番打者が消えた話に、イギリス人のドーキンスは「その野球とかいうスポーツの話が世界じゅうで通じると思ってるアメリカ人の尊大さがイヤ」とばかりに、クリケット用語を駆使した反論を書いたらしい。ははは。もしかしたらコレも「いいネタを見つけた」と内心ホクホクだったのかも知れませんが…

 『進化論の何が問題か』によれば、ドーキンスとグールドが共同戦線を張ったのは進化論の擁護だけではなかった。グールド(若い頃はベトナム反戦派)がダーウィニズムの曲解である優生学を強く批判したように、ドーキンスも自身の利己的遺伝子論を曲解した(まあドーキンス本人は歯牙にもかけてない・存在すら知らないだろうけど竹内久美子など)俗流の弱肉強食論とは一線を引き、同性愛者の権利擁護や大型類人猿の保護活動に賛同・労働党支持を明言しているという。
 そして、かように二人ともリベラルなのだと説くうえで著者の垂水氏が
「共産主義国家の崩壊した現代において、なにをもって政治的な左派ないしリベラル派と呼ぶのか(中略)私の定義は単純で、人間社会における社会的・経済的格差の縮小をプラスの価値とみなす態度の持ち主のことである(強調は引用者)
と定義しているのは、なかなか好いなと思った。
 まあ「リベラル」というより「左翼」の定義と言ってもいいかも知れないけど―というくらい「リベラル」という言葉は今のところ曖昧だし、もしかしたら「左翼・サヨク」と比べてすらイメージが悪い。右からは甘っちょろいと叩かれ、左からも甘っちょろいと叩かれ―あれ、同じか?…えー、言い直します。右からは「弱肉強食」や「利己的な遺伝子」の「現実」を知らない世間知らずと叩かれ、左からはそうした右の(曲解した)「現実」主義にたいする批判の不徹底が叩かれる。僕なども(まあ僕は左なので)リベラルと聞くと、古い因習的なコネや利権はキライだけど、しがらみのない「ふるさと納税」や投機で自分が得するのはむしろ積極的に容認したいひとたち…くらいの悪いイメージを時に持ってしまわないでもない。
 自由という語源のほうから(いやそっちも大事なんですけど)アプローチすると、今どきは「新」自由主義・搾取する自由や差別する自由みたいなことになって収拾がつかなくなる。「進歩的」もよく分からない。「格差の縮小を良しとするのがリベラル(そして左翼)」という対立軸は悪くないし、逆に右とか「右でも左でもない」とか言うひとたちの属性もあきらかになると思う。
 個人的には浦沢直樹『MONSTER』冒頭・ワイン片手に「だって人の命は平等じゃないもの」と笑顔で言い放つお嬢様が思いだされる…そしてそのご数十巻に渡って風呂敷を広げまくる物語の基盤に、出世に目が眩みかけてた主人公の「いや命は平等なはずだ!」という改心があるの、エモーショナルで好きなんですわ…という述懐と「お前らの貧しさにかんぱーい♪(違)」とグラスを掲げるエヴァ・ハイネマンのイラスト
 
 垂水氏によれば、その誤解・曲解・悪用されがちな名称に反して、ドーキンスは「利己的な遺伝子」で生物の利他的な行動をも理にかなったこととして説明することを意図していた。
 僕は長谷川眞理子氏の著作で知ったのだけれど、考案された1950年代には互いの出し抜きを恐れて双方に不本意な結果に帰着してしまうとされた「囚人のジレンマ」は、繰り返しの要素を導入すると、裏切られたら報復する・協力には協力で返す「しっぺ返し戦略」によって(競争ではなく)相互扶助が最適解になるという。ドーキンスの理論もこのあたりを踏まえているようだ。
長谷川眞理子生き物をめぐる4つの「なぜ」(集英社新書/2002年/外部リンクが開きます)
 上のほうでは僕も結構ひどい悪口を言ってますけど、集英社新書は「リベラル」だよね、と反射的に思ったりするので、リベラルって言葉もまだ完全に脈が上がった死語ではないのかも
 しかしこの利他主義・助け合い精神には重大な落とし穴があると垂水氏は指摘する。こと人間においては、相互扶助の範囲が小さな集団に限定され、他集団を打ち負かすことが成功とみなされた結果、けっきょく集団間では競争が戦略となり、敵を憎み排斥する排外主義やレイシズムに帰結したのではないかというのだ。

 帰属メンバーを超えた普遍的な利他主義・全人類を自らの帰属集団とみなす究極のリベラリズムは可能なのだろうか。現実には逆に、国というスケールの集団すら支えられず(口では愛国を唱えつつ)もっと小さな集団が内輪の「相互扶助」をしているように見える。
 こうして展開していくと、進化論や科学に基づいた思索が、路線的に「帰属集団が大きいほどいい」他人を考慮に入れなければ入れないほど、非文明的で野蛮であるオルテガ・イ・ガセットの主張と重なってしまうのが面白い(2016年11月の日記参照)。まあ読んだ僕の水路づけかも知れませんが。

      *     *     *
 進化論や科学的思考が、いわゆる「現実」主義を覆す例として東日本大震災の年、匿名の誰かによって書かれた(ネットで評判になったので皆さま既読かも知れませんが)この文章を。
よくある勘違いなんですが、自然界は「弱肉強食」ではありません(Yahoo!知恵袋/外部リンク)
 逆に「にも関わらず人間社会で弱肉強食が横行するのはなぜか」が問われるべきなのかも。

ワンダーラスト〜チャトウィン『パタゴニア』リンギス『暴力と輝き』(23.4.28)

 5時間17分・22km・31,812歩あるきましたまた歩いたのか君は
 いや電車代を節約したいのもあったけど(節約してなお今月あと2日240円くらいで凌がなければいけません)入管法。実は安保法も共謀罪も強行採決の瞬間・国会裏に(抗議しながら)居合わせたんだけど、今日の茶番みたいな議事→採決が一番「ひしゃげた」かも知れない、気持ち的に。
 もちろん今日の委員会採決で決定じゃなくて衆院本会議→参院とあるし、参院では野党がよりまともと言われる対案(前にも出した)を再度提出すると言われてますが
 
 ずっと昔から、凹むようなことがあると深夜だろうと構わず(むしろ深夜にこそ)歩きに出ていた。ヤケ食い・ヤケ酒ならぬヤケ歩き。いがらしみきおぼのぼの』が言うところの悲しみのあまり ぼくはそのあたりをさまよってしまうのだったそのものなんだけど(笑)
 もう少し文学的に言うと、紀行作家ブルース・チャトウィンの『どうして僕はこんなところに』(←このタイトル最高じゃありません?)という本に、中世ヨーロッパの巡礼たちは内なる憤怒を鎮めるために歩いた―という主旨の一節があって、なんだろう「ほんそれ(本当それ)」「よくぞ言ってくださった」裏づけというか、自分が鬱屈をかかえて延々と歩くときの気持ちが掬い上げられた・救われた感があって、同書を個人的に特別なものにしている。

 なので今日、国会議事堂の裏で座り込みしながら・そして行き帰りに延々と歩きながら読んだのが、彼の(代表作なのに読みそびれていた)『パタゴニア』(河出文庫)なのは、ちょっと好かった。
 英語にワンダーラストという単語がある。日本語訳で放浪癖と言ってしまうと身も蓋もないけれど、wander(さまよう)+lust(欲望・切望…なんと訳そうか…七つの大罪のひとつでもある)だと思うと、ぐっと共感度が高まる。デヴィッド・シルヴィアンとビョークにそれぞれ同名の楽曲があって、どちらも好きだったりする。『パタゴニア』は南米の南端を彷徨した、どちらかというと生きるのが下手だった先達の物語と、その足跡を追うチャトウィンの旅が輻輳する、不思議な本だった。

 人は本来、移動する生き物だったというのがチャトウィンの持論だ。それを証するために彼は中世ヨーロッパの巡礼や、人生そのものが旅というアボリジニの生きかたを取り上げるだけでなく、むずかる赤ん坊が落ち着くのは抱かれて歩いてる時のリズムで、これは人類の祖先が歩きながら=たえず移動しながら赤子を抱いて育てたためだ、などと理屈をつける。
 書影。左:リンギス『暴力と輝き』右・チャトウィン『パタゴニア』
親指は人類にとって特殊な部分で、類人猿だけがもつ新しい身体の部位である。親指のおかげで、わたしたちは直立姿勢をとることができる
そして人間の二本の足は長く、平行に並んでおり、前進するようにつくられている
人類学者アルフォンソ・リンギスの『暴力と輝き』(水声社)はチャトウィンを援用した、こんな宣言から始まる。今年90歳になる彼もまた、世界各地を彷徨した移動の人で、その旅路の一部は(パタゴニアなど)チャトウィンと重なっているようだ。上記の「人の両足は前進するようにできている」が、定住を良しとするハイデガーの批判につながっているように、チャトウィンが感覚的に描いたことを学者らしく?理論的に・形而上学的に敷衍していく感覚がある。
 リンギスには『何も共有していない者たちの共同体』という、これまた書名だけでも勝ちみたいな著作もあって、まだ咀嚼しきれてない彼の思索については、いずれ改めて考えようと思っています。

 ぜんぜん関係ないけど、Macの調子がよろしくない…いちどセーフモードで起動してみたけど、何かソフト的に枷(かせ)があるみたい。ソフト的な障害で済めば良いのだけど。

小ネタ拾遺・四月(23.04.30)

(23.04.04)最終的に君主制を称揚してることは気にかかるが(←めんどくさいひと)何なら未就学のお子さまに「法の支配」や「罪刑法定主義」もしかしたら「革命権(悪い王は覆していい)」まで刷り込もうとするテレ朝のニチアサ、もしかしたら同局の大人向け情報バラエティや報道バラエティより見識が高いのではないか。
「法とは王を穿つ矛・法とは民を護る盾」と言い放つリタ様と、シラタマ(雪だるま)に封印された未決囚(主人公)。そして「転売ヤー死刑にしたいけどマイナス10℃の牢獄で半年」は罪刑法定主義
極寒と監獄をかけた国名「ゴッカン」のネーミングも秀逸。
王様戦隊キングオージャー(テレビ朝日/外部リンクが開きます)
いや実際↑ニチアサ公式を開いたら見えちゃった大人向け番組「外国人がガチで投票!日本の駅総選挙」って本当の外国人参政権は認めないくせにソレはないわー

(23.4.9)今年の誕生祝い第一弾は三大奇書コンプリートを自分に贈る。最後の砦だった小栗虫太郎黒死館殺人事件』正直サッパリ分からんかったし「探偵、無能なのでは?」疑惑がないでもないが…
小栗虫太郎全集と、統一地方選の投票済証
そもそも「ABC(殺人事件)からXYZ(の悲劇)まで」ミステリの本道・王道をまるまる未履修な(Xだけは読んでます)くせにアンチ・ミステリの三大奇書はコンプする生きかた…『虚無への供物』はだいぶ前、『ドグラ・マグラ』は一昨年末に読み切ったのだけど後者を読んで嬉しかったのは「これで出た当時は元ネタを知らないからと見送っていた梶尾真治ドグマ・マ・グロ』を読める」…はい、薄々かんづいてはいたけど元ネタ読まなくても全然だいじょぶでした。「美亜に贈る真珠」などで叙情的な短編の旗手と思われていたカジシンが壮絶スペクタクルで読者の度肝を抜いた『サラマンダー殲滅』の余勢をかった・そしてその後につながる?ホラーSF。新刊では版が絶えてると思うので古本や図書館でどうぞ。

(23.4.10)特別公開:坂本龍一さん3万字インタビュー前編(じんぶん堂/外部リンク)早く引退して読書に専念したい、それも柳田国男・折口信夫・ギリシャ悲劇や夏目漱石を読み切りたいというのが「そういう人だったの?」と軽く衝撃だったけど、そういえば御父君が坂本一亀氏だったと今さらながら思い当たる。堅めの本でも集中すれば一時間に4,50ページは読める、SNSだと同じ時間がすぐ融けてヤバい(大意)も気持ち分かりすぎる…とはいえこの記事自体、SNSで知ったので完全な足抜けも難しいのですが…僕はとりあえず『失われた時を求めて』と『地中海』、読めないのに買った台湾の小説二冊を読み切りたいです。

(23.4.11)今年の誕生日は本を三冊。★ジョゼ・サラマーゴ象の旅(書肆侃侃房/外部リンクが開きます)を横浜橋通の同名の本屋で購入(23年3月の日記参照)。★ジョン・ウィリアムズストーナー(作品社/外部リンク)は東江一紀さんが口述筆記で仕上げた最後の訳業ということで、冬に稼いだ節電ポイントで購入。これで当面、本は買わない(図書館で借りる+積ん読を崩す)と思ったら
書影:左から象の旅・ストーナー・ウィッピングガール
前にクラウドファンディングで申し込んでいた★ジュリア・セラーノウィッピング・ガール トランスの女性はなぜ叩かれるのか』(サウザンブックス/外部)電書版も到着。頑張って読みますよ。

(23.4.14)スプリングバレーがピアノマン、オールフリーがアップタウンガール…なんでKIRINは急にビリー・ジョエル推しなの?せっかくなのでリンクを張るとアップタウン・ガールのMV(YouTube…KIRINのCMに張るんじゃないんだ)素敵なダウンタウン・ボーイ(?)に扮してノリノリのビリー・ジョエルが萌えなのと、0:47のスパナ受け渡し←まだCG合成とかない時代に大健闘。その直前にガレージの柱を横切ってるの、スパナ受け渡しを何度もリトライできるよう二回撮りをつなげてるのか・関係なく一発撮りなのか、どっちだと思います?

(23.4.15)現役首相へのテロ未遂の報を受けて、ずっと頭の中でChildish GambinoThis is America(YouTube/外部リンク/暴力描写注意/もう4年前なんやね…)がグルグル回っている。もちろん元首相はあんなことになったし、議員事務所への攻撃とか、政策に反対して焼身自殺とか少しずつあったわけです。でもそれが入管の人権侵害や性差別、なんなら寿司屋への嫌がらせや渋谷のハロウィンで面白半分に自動車がひっくり返されたとか、ぜんぶと地続きになって、カジュアル化して、皆も「こういうものだ」と無関心になっていく。「暴力は許されない」という言葉も炭酸が抜けたみたいになって、その建前すら言われなくなっていく。その一里塚と言いますか…んー、多少とっぴょうしもない話なんだけど、とりあえず「飯テロ」とか呼ぶの、やめてみませんか。

(23.04.16)キュアスカイ、斜め前髪も名前も先輩のキュアエール(応援じゃなくてフランス語の空=air)リスペクトなんだなと第11回にしてようやく気づく。
キュアエール(野乃はなchan)の前髪はセルフカット失敗なんだけど:めちょっく(めちゃめちゃショック)と鏡を見て落ち込むエールを「めちょっくではありません!」と励ますスカイ(ポジ子)。

(23.4.22)三週間ぶりの東京、せっかくなので自分へのねぎらいに神田達磨の苺わらび餅なる季節商品も購入。帰宅して袋から出すと「あ、保冷剤を入れてもらってた…フフフすぐに食べられる」と思いきや
左から夜の国会議事堂・「入管法の改悪に反対する大集会」のプラカード・神田達磨の苺わらび餅と、付属のきなこ
きなこでした。苺味にきなこか、新しい世界が開けそう…冷蔵庫で冷やして明日(もう今日だけど)食べます。
※追記。ふつうに美味しかったです。
※国会前の集会、二千人あつまった由。参じた人たちの中には法案が通ると余計に生きづらくなる当事者もいるわけで、その人たちに「当事者でないマジョリティもこんなに反対している」って姿を見せることは、法案がどうなろうと(ひょっとしたら通ってしまった時のほうが特に)必要なことなので、足を運べて良かったと思う。

(23.4.25)ハイパー医療まんがK2(5月末まで無料/外部リンクが開きます)、一部で「謎の効果音」として?話題になっているギュッって「眉間に力をこめて(まなじり)を決する音」かと思ったんですけど…
「食べすぎだ!」とギュッとする一人先生。見えない下のほうで拳を握ってる音じゃないと思うんです…
※でも100〜150話に一度くらいの頻度で、固く手を握り合う「ギュッ」もあるので油断ならない。

(23.4.30)最近のスーパー戦隊はCGや美術も凝ってるし、殺陣も見応えあって十分オトナの鑑賞に耐えますのな…さすがに不格好な巨大ロボも、コクピットのアクションと連動したりして見せるっちゃ見せる←いやむしろコレは大型ロボ実写を「鑑賞に耐える」ものに格上げした『パシフィック・リム』の功績が大きいのかも。
そして巨大メカに恋バナを持ちこもうとする今季ニチアサ。しかも「巨大カブトメカのこと好きなんじゃないのー?と女王ヒメノ・ランに煽られて恥ずかしがる巨大スコーピオン」という戯れ絵を描いた直後に三角関係が判明。空いた口が塞がらない
今日は上野で一箱古本市。昨年、はじめて売る側で参加してみて面白いは面白かったのですが、今年は生活が安定してないのと、心から売りたい(人に押しつけたい)本は自分も手放したくない=並べる本はどうしても「手放してもいいや」な本になってしまう性質上、実は必ずしも自分には向いてなかったな?と気づいて見送り。いろいろ落ち着いたら、今度はまた一般参加(違う)(ヲタク用語)で足を運んでみたくはありますね。

「オトナの子どもの日」こと5月の東京コミティアも見送り。いま元気なひとは、今を惜しまず謳歌するがいいよ。かつて自分もそうしたし、今は今で(ペースを落として)楽しくやってます。来月も。

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