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色のついたお金〜マイケル・タウシグ『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』(上)(24.06.02)

 「悪魔と契約を結んだ者は、うなるほどの金を手にするが、その金は贅沢品にしか使えない。バター、サングラス、上等なシャツ、酒…」
 南米コロンビアの言い伝えに「最初バターなんだ?」と首をかしげて見せつつ、文化人類学者タウシグは自ら種明かしする。
「黄金色でなめらかで、固体とも液体ともつかないこの物体には、欠かせないものがいくつかある。冷却設備、健康な乳牛、酪農家、そして温暖な気候」…国土が赤道を横切る暑い土地、ましてプランテーションの支配下に置かれ「まともな飲み水はおろか、下水設備もないような」細民たちの世界では、なるほどバターは贅沢の象徴に相応しいのだ。

 ま、バターの話は措こう。おおおと思ったのは「うなるほどの金は、贅沢品にしか使えない」という部分だ。
 悪魔との契約も一旦は措こう。五月の連休で実家に帰ったとき、大谷選手が出ている大リーグの試合をテレビで観ながら、ふと「自分が大谷翔平やレディー・ガガだったら、宝石もリムジンも要らないから最初の一年・なんなら半年くらいでサッサと引退して、後はアパート暮らし+つましく自炊+図書館で本を借りて残りの一生『遊んで』暮らすのになあ」と思いついて「でも、そういう発想の人間はたぶん最初からレディー・ガガみたいにはなれないんだよね」とセルフつっこみを入れるまでワンセットだったのを思い出した。※ちなみに大谷選手はわりと「こっち」に近い性格らしく、練習とゲームくらいしかしないので「セレブに相応しくない」と少しずつ贅沢をするよう矯正されている的な話を実家で聞いた。
 より小規模に言うと、時給の高い仕事に転職すれば差額でどんどん貯金できそうなものだけど、気忙しくて外食が増えたり、ストレスで胃薬や頭痛薬の摂取が増えたり、ちょっといい職場にはちょっといい洋服で出勤しなきゃいけなくなったりで「収入の増加と連動するかのような支出の増加」に気づかされたりする。
 「お金に色はついてない」と言うけれど、「悪銭、身につかず」とも言う。実はお金にはわりと色がついていて、荒稼ぎしたお金は豪遊に、プチセレブな収入はプチセレブな贅沢品に、収入のランクに応じて支出のランクやレイヤーもなんだか決められてしまいがちなのでは、ないだろうか。
 もちろん、収入が増えれば、それに見合った支出が「したくなる」こともあるだろう。それも含め。
 そもそも大谷翔平やレディー・ガガに天文学的なギャラが支払われるためには、彼や彼女ひとりではない多数のスタッフが巨大なメカニズムとして動いている。そこで得られた巨額のマネーは高級ブランドやセレブリティな誇示的消費に「正しく」使われなければいけない―そうやって狭い階層の「経済を回す」―そのためにお金を渡してるのだから。そう考えると、ポストモダンだの新自由主義だの鼻を高くしている吾々の経済活動も、南太平洋のクラ交換と存外あんまり変わってないのかも知れない。
 キャプション「何度も言いますが南太平洋のクラ交換では貰った宝物(貝の飾り)は、貰ったら次の相手にあげなきゃいけないし、そうして回覧板みたいに回せば回すほど宝物としての価値が高まる」と、貝飾りを手にした「ひつじちゃん」が「持ってちゃダメ早く手放して!」と言われ「宝物なのに?」と問い返し「宝物だから!」と言われてるイラスト。
 大企業からの不適切な献金で得た裏金も、選挙区での不適切なバラマキにしか使えないとしたら、与党の代議士たちが(実際には億単位の私財も掠め取り、高級料亭で酒を呑んでいる結構な御身分は忘れて)俺たちだって裏金を自分のためになんか使えてやしない・政治には金がかかるんだと不平顔でいても不思議はない…だんだん話が、一旦は措いた「悪魔との契約」に戻ってきた(笑)

 コロンビアの農村で「悪魔との契約」という伝説が生まれたのはサトウキビやトマトなど商品作物のプランテーションを経営する大資本の参入によって、それまで樹木から得られる果物などで食べるには困らなかった自作農が破壊された1970年代だという。貧しい者たちの中に、悪魔と契約して、とつぜん他の畑の何倍ものサトウキビを一年で収穫する成り上がり者(という説話)が出現するようになった。だがその畑は涸れ果て、翌年から作物が育たなくなる―そして得られた悪銭は貯蓄にも投資にも回せず(「家畜を買ったところで、痩せて死ぬ」)、贅沢品の浪費に蕩尽されてしまう。
 もちろん一方で、えげつない稼ぎを一代限りで終わらせず、贅沢や浪費の世襲化に成功した階層もいる。コロンビアの例で言えば元から大農場の主として君臨しに来た富裕層がそうだろう。成り上がりが固定化すれば財閥・貴族・王族になる。でも、悪魔の裏をかいたつもりの人々の中には、国まるごとを「二度と作物が育たない」涸れた土地に変えてしまう最悪クラスの愚者もいる。いや、今のままでは、とくに地球環境のこと(ああ、バターよ…)を考えると、悪魔が貸し付けた「ぼろもうけ」の取り立てから逃れられる者はいないのかも知れない。

 セレブリティに支払われる巨額のギャランティは、巨額をやりとりするセレブ業界のシステムが与えるものだから、すみやかに高級ブランドやグローバル投資などに循環されなければいけない―いっけん動かしがたい世界の法則のように思えるけれど、それらのお金が元々は、たとえば高級ブランドの服を縫う下請けの下請け・最下層の労働者からの吸い上げ(搾取)の積算だと思えば、もっと循環の枠を大きく取って、セレブリティは世界で最も貧しい人々に直接ギャラを還元しても良い気がする。実際に(もちろん豪邸や高級ブランドは維持しながらとはいえ)寄付や福祉に自身の富を還元させる篤志家もいる。
 「こういうメカニズムで社会は動きがちだ」は「それはもうメカニズムなので動かせない」と必ずしも全一致ではない。逆手に取って、風穴を開ける余地はあると思う(昨年11月の日記など参照)。
 キャプション「今週のまとめ:(1)お金には実際に色がついていて上層のお金は上層だけで循環しがち(2)でもそれは下から吸い上げたものだから本来は下まで循環すべきだったのでは?(3)それが出来ないから悪魔に捕まるのでは?」そして「(4)自分は文章をまとめるのが下手だなあ…」と液タブペンを片手にぼやく舞村さん(仮名)。

 マイケル・タウシグヴァルター・ベンヤミンの墓標(原著2006年/金子遊+井上里+水野友美子訳・水声社2016年/外部リンクが開きます)は「未開」と呼ばれる社会に見出せる呪術的な思考が、実は(彼らを未開とさげすみ合理的と自賛する)資本主義・新自由主義の現代社会をもドライブしていることを示唆する巻き返しの書。後篇に続きます。

爬虫類の脳〜マイケル・タウシグ『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』(下)(24.06.09)

 【これまでのあらすじ・または今回のまとめ】
 20世紀の人類学は、近代社会から見下されてきた非西欧の部族社会が「遅れている」のではなく「別方向に進化」したのだと証することに賭けてきた。無文字社会が神話や社会構造そのものにコンピュータに劣らぬ精緻な構造を実装してきたとするレヴィ=ストロース。かれらは国家文明に「至れなかった」のではなく、その弊害を避けるため意図的に「国家となることに抗した」のだと論じたクラストル。
 21世紀の(?)タウシグは逆に部族社会を駆動する呪術的な原理が、合理的・理性的を自称する現代社会をも支配していると話を巻き返す。
 キャプション「(1)細菌や恐竜は人類に進化できなかった奴ら(笑) (2)いや、それぞれ別個に進化した種で優劣ないよ?からの(3)てゆか人類、脳の中枢に爬虫類が残ってんじゃん という展開に似ているかも知れません…」に、簡略な線画の舞村さん(仮名)の脳の真ん中・大脳辺縁系(爬虫類の脳)を示すイラスト。
 ヴァルター・ベンヤミンの墓標(原著2006年/金子遊+井上里+水野友美子訳・水声社2016年/外部リンクが開きます)は「叢書:人類学の転回」の一冊。どこか特定の地域や集団の習俗や生活を丹念に調査したモノグラフではなく、そこから導き出される理論や観念を、書物やアート・時にはファッションやそれこそセレブリティなど広く(悪くいえば節操なく)題材に加えて総合的に思索するタイプの書物で、はっきり言って自分はそういうの大好物なので危険!危険!と警戒しつつ愉しく読了。
 先週の日記で取り上げた悪魔との契約の話も興味ぶかかったけれど、本書のメインは「嘘はどこまで嘘か」「秘密とは公然の秘密ではないのか」という「欺瞞」をめぐる思索でした。

 彼が取り上げるのは南米、アフリカ、それにアジア…世界中で見られる、神がかりの特殊技能者=シャーマンによる病気の「治療」。具体的には治療者が患者の腹部に手を突っ込んで、血だらけの石やら何やらの「病巣」を取り出してみせる。昭和終盤のオカルトブームでも超能力者の透視やスプーン曲げと同じカテゴリで「心霊療法」などと呼ばれていた、このパフォーマンスを、真摯な人類学者たちはトリック・ペテンだと看破してきた。
 だが同時に、人類学者たちが報告するのは「シャーマンの手法の大部分が見せかけであることは、それに関わる者たち全員がよく承知している。それにもかかわらず、シャーマン本人、その患者や友人も、シャーマニズムを信じている(フランツ・ボアズ/強調は舞村)という矛盾した事実だ。多くの証言と自身の調査をもとに、タウシグは言う。トリックではないかという疑念は、むしろ呪術に必須の要素ではないかと。

 「未開の」愚かな人々がトリックに過ぎない呪術を素朴に信じていて、その虚偽を合理的な近代人が暴くのではなく、呪術を信じる人々も、それがどうにも疑わしいことは半ば承知しているのだ―そう考えたとき「未開」の人々と、「合理的な」現代人との境界線は消える。
 非運の思想家ヴァルター・ベンヤミン(19年2月の日記参照)。ユダヤ人として迫害された彼が山越えに失敗し死を遂げたピレネー山脈の中腹に設置された墓標の下に、その遺骨はないという(共同墓地に移されてしまったのだ)。だがその「まやかし」は、聖地としての価値を減ずるものだろうかとタウシグは問う。あるいは(無文字社会で)成人男子のみが参加を許され、女性や子どもは何をしているか知ろうとすることすら死をもって厳しく罰せられる「とされる」儀式が、実際には何をしているか女性たちも概ね知っているものだという話はどうか。同じような「公然の秘密」を、タウシグは現代のNYPD(ニューヨーク市警察)に見出してみせる。
 キャプション「また師匠(私淑)自慢になっちゃうけど、戦争中に岩波文庫のフレイザーを読んで「ここで書かれてゐる呪術的な王つて、今(戦争中)の天皇と同じぢやないか」と思っていた(徴兵におびえる)学生時代の丸谷才一先生、「未開」を扱う人類学を独力で「現代の自社会」に適用してたんだなあと…ま、天皇が現人神だった「現代」ですけど。」+本棚を背景に岩波文庫をひもとく「ひつじちゃん」のイラスト。
 「わたしは(中略)ミシェル・フーコーの侵犯と告解をめぐる議論に必要不可欠な対比をくつがえしたいという誘惑にかられる」とタウシグは語る。本当は本当・嘘は嘘・秘密は秘密と素朴だった「昔」に対し、教会での告白=「秘密であることを保つために公言される必要のある秘密」を基盤にした「近代西洋のセクシュアリテ」は近代西洋の「人間」を生み出した、近代西洋に固有のものだとフーコーは説いたが、その「公然の秘密」という様式は「クワキワトルのシャーマニズムと完全に一致している!」
 もとよりキリスト教世界でも(イエスの受肉と復活という最大級の「疑わしいこと」を前に)「不合理ゆえにわれ信ず」などと言う。
 フーコーの晩年の盟友だったポール・ヴェーヌ(22年12月の日記参照)が『ギリシア人は神話を信じたか』という題名だけで頭がぐるぐるしそうな書物で、現代人だって実際に見たことのない北京の存在を「信じてる」じゃないかと指摘しているように。タウシグは「未開」と呼ばれる人々の「非合理的」とされる「トリック」が、合理的とされる現代人の行動様式でもあると看破することで、人類学という学問を前近代という軛から解き放つ。

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 そして「秘密とは、公然の秘密である」「嘘ではないかという疑念は、むしろ呪術を強化する必須要素である」と説く彼は、そうした必須の欺瞞が「本当は本当、嘘は嘘でなければならない」世界秩序への侵犯であることを重視しているようだ。そのことで彼が(インドのカースト制やアフリカの女性器切除まで)すべてを秩序の枠に納めようとするレヴィ=ストロースにも対立し、また(侵犯の重視という観点から)ニーチェやバタイユに親近感を表明している(らしい)ことも、不勉強な自分が今後より解像度を高めていくべきトピックとして心に留めておきたい。
 幽霊が消えるように透きとおりながら涙を流す自画像にキャプション:「ようだ」とか「らしい」とかどうにも煮え切らないのはひとえに不勉強だからよ…
 コロンビアの農村からジャネット・ジャクソンのステージまで縦横無尽に思索を撒き散らかす本書には、不勉強な自分が「そういう風に考えればいいのか」と改めて思い知る、定義のような断章がしばしば現れる。
 たとえば「ものごとの外観の背後にはさらに奥行きのある不思議な現実が横たわるという感覚(中略)その現実を、ここでは宗教と呼ぶことはしないが、聖なるものと呼びたい」という一節は、(当人は呼ばないと言ってるけど)なるほど「結局のとこ、宗教って何?」と問われた時の回答にピッタリだ。※多くの自称「聖なるもの」が示してみせる「背後の不思議」がいっこう奥行きがなく薄ぺらなことは措く。
 あるいは「わたしが“経済”という言葉を使うときには(中略)商品、価格、生産、流通、そして交換のみを表わすのではなく、合理的な思考法の総体を表わしている」「経済とは(略)限りある手段を合理的に配分する科学だ」(強調は舞村)という一節は、デカルトやニュートンによる科学革命が社会に投影されて資本主義を生んだのではなく、逆に効率性という経済的な発想が科学革命を促した可能性、を考えるヒントになる(産業革命は蒸気機関などの道具よりまず人間を機械化したというフェデリーチの指摘―昨年10月の日記など参照)。そして何をするにも―なんなら眠ることでさえ「これだけ回復するにはこれだけ眠らなければ」等々コスト感覚=「合理的な配分」で考えてしまうこともまた、吾々が「経済」に全身を浸されてる証左なのだと、改めて思い知らせてくれる。
 この経済的な思考の外に出ることは、とても難しい。
 それでいて、吾々は非合理的で前近代的な蕩尽や侵犯・贈与の論理にドライブされてもいる。

 僕の見るところタウシグは、人々が経済に浸されてることも、逆に公然の嘘に侵犯されていることも、世界はそうなのだからと全面的に受容しているわけではないと思う。
 本書が書かれた時点で彼はどうやらアメリカに住んでいるようだが、9.11後の世界でなお、「テロとの戦いにおいて経験している恐怖」として彼がベンヤミンの受けた迫害になぞらえて想起をうながすのは(テロの標的を自認するアメリカや、それを模倣した日本ではなく)自国内に要するグアンタナモ湾で直に、そしてエジプトやシリアに「外注」する形で、アメリカのほうが拷問を加えている服役者たちのことだ。
 そして文身や性器切除など「未開」的な身体への執着・を理性が克服したはずの現代で「妊娠中絶、同性婚、ES細胞研究、安楽死、コンドーム、(略)経口避妊薬(略)の販売への盲目的なまでの反対(しかしバイアグラに関してはこの限りではない)(略)が、アメリカの選挙で多くの票をかせぎ、全世界のゆくすえを決めていること」(強調は同上)を「悲痛」と呼ぶ彼は、身体に関する人類学の知見を現代に適用する必要を訴える。
 現代文明に抗するオルターナティブとして相互扶助や反権力・自然との調和といった善なる資質を非西欧社会に求めて理想化するのではなく(トキシックな現代を解毒するために、そうした操作も必要だとは思うのだけど)、呪術やトリック・身体的な強制や妄想的な恐怖といった無文字社会のダークな資質が現代文明にいわば裏口から持ち込まれ、人々を支配する道具になっている様態を暴く―タウシグの思索には、そうした新しい?役割を人類学に担わせていこうという気概が感じられる。
 思い出したのはシオドラ・クローヴァーの『イシ』(今年3月の日記参照)で語られていた、金鉱目当てにカリフォルニアを侵略した白人の側が(平地先住民の慣習を模倣して)殺害した先住民の頭皮を剥いで記念品にしていたという逸話だ。経済的合理性や効率主義を自称しながら、人はいくらでも呪術的に(あるいは「野蛮に」)なれる。ナチスのオカルティズムにアメリカの福音主義・日本の政治家のカルトとの癒着など、再考すべきなのかも知れない。
 『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』書影にキャプション:「お金がすべてなはずの資本主義やネオリベが、不合理な国粋主義やカルト・オカルトと親和性が高いのなぜなんだぜ」の謎に食らいつく手がかりがまたひとつ…
 …本当はベンヤミンの墓標に、呪医たちの心霊療法に、嘘=悪とも言い切れない・憎みきれない魅惑も感じているらしい、タウシグの(あるいは人間存在そのものの)複雑さは上手く拾えなかった。あまり良い要約ではなかった気もする。関心のある人は各自で探究を。

 
 「お前ココでソレ言う?」な余計ごとだけど人間が「半信半疑で信じてる」ことには初詣の御利益や心霊療法だけでなく「人間は平等だ」みたいな信念も含まれる可能性がある。「人間は平等だというアイディアには何のエビデンスもないが、世界を変える力を持っていた」(セオドア・ローザック/要約)。それくらい今回の話題は是非を安易には決められないということ。

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