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ゼノフィリア?〜『ザ・レイド』『ペトルーニャに祝福を』『死亡通知書 暗黒者』(24.12.02)

 ショービニズム(排外主義)・レイシズムなどとは別にゼノフォービア(外国人ぎらい・外国人恐怖症)という言いかたがある。もしかしたら自分は逆に、言うなれば「ゼノフィリア」の気があるのかも知れない。
 と言うよりゼノフォビアと表裏一体であるような愛国心・愛郷心・身内フィリアみたいな心情、に、対する嫌悪や忌避感・苦手意識。思えば何度も(とくに近ごろ)本サイトで頻繁に取り上げているサマリア人の教え・他人どうしの連帯・「何も共有しない者たちの共同体」といった概念もそうだ。そもそも「オタク」「オタク」と言うけれど、自分にとって吾が意にかなったオタクの定義は中島梓氏が『コミュニケーション不全症候群』で描写した「人間よりも非人間を仲間だと思う」だったりする。…現実の「オタク」は非人間を媒介にして結局は人間どうし・仲間同士での共感や盛り上がりを重視する社交的な人たちで…という話は兎も角、異国好き・異国人好きと訳せそうなゼノフィリアには「赤の他人にしか性的な関心を持てない」意味もあるという話は含蓄に富む。いや、これも別の話。
 日本人による、日本を舞台にした映画やドラマが近年ますます苦手になっている。質の問題に帰そうとは思わない。昔から得も言われず苦手で、その理由も上手く説明できない。「生々しい感情を見たくないのかも」と話したら「韓流のドラマのほうがずっと生々しいよ」と返されたこともある(たぶんそうなのでしょう)。要は目の前の現実を見たくないのだろうか。まんがやアニメ・あるいはSFみたいなクッションを置けば、つきあいやすい。実写でも子ども向きの特撮ヒーロー物なら観れるというのは重症かも知れない。
 思考を内向きにスパイラルさせていくと、まあ元々そんなに多くの物語を必要としない(それでいて自作は読まれてほしいってダメですよねえ)傾向もあるかもなぁと思わないでもない。映画館に行くのは年に10回ないくらいだし、昔はそれなりに観ていたハリウッド発の大作なども「どうせ強大な力を手に入れた主人公が中途イイ按配の苦境に凹みつつ人間的に成長して最後は巨大ビル群が崩壊するスペクタクルで敵を倒して、エンドロールの後に続篇の匂わせがあるんでしょ」みたいに思ってしまう(マーベル物のどれかに抜擢された監督が自ら同じようなことを言うてはりましたね)、もっと疲れてるときは「どうせまたハラハラドキドキして最後は感動させられるんでしょ」くらいに思ってしまう。もしかしたら身内フォビアでもゼノフィリアでもなく「ネオフィリア(新しもの好き)」なのかも知れない
 昔から皆がとうぜん押さえてるメジャーどころを外して、妙にマイナーなものに手を出すところがある。世界一の興業成績を誇るメガヒット作より、あまり観る機会のない国や地域の映画に、わりと心を惹かれる近年らしい。マーベルの『アベンジャーズ』が日本よ、これが映画だという宣伝文句で公開されてきた時も「よく言うよ」と思ったし、アイルランドやスーダン(20年6月の日記参照)・ミャンマーの作品(昨年8月の日記参照)にこそ「むしろコレが映画だろ」と思うことが少なくない。

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 たぶん「インドネシア発」というだけで観に行ったギャレス・エヴァンズ監督『ザ・レイド』が「味をしめる」キッカケだった。2011年か12年。
 いや、インドネシア発「というだけで」は嘘で、実際には多少の予備情報があった。舞台はジャカルタ…それは意識してた記憶ないけれど、麻薬王のアジトである建物に警察の特殊部隊が急襲をかける。だがそのアジトは、公団住宅みたいな建物の各部屋が子分たちの住居になってる職住一体(!)の暴力マンションで、突入したとたん入口を閉められた警察部隊は「住人たち」の反撃で絶対絶命…これに主人公の警官は「世界最強の格闘技シラットで立ち向かう、というものだ。そして新宿の単館で二週間限定くらいの上映。観なきゃ、と思うでしょ?
 『ザ・レイド』を最初に観たとき一番おどろいたこと(2コマまんが)。「ぎゃー」「おりゃー」と暴力的な声が響き渡る映画館内で他の観客と一緒にドキドキハラハラしている舞村さん(仮名)→「警察だ!助けてくれ」「分かった…あんたを匿うよ」え…このYAKUZAアパート、一般市民も住んでるの?と(両隣の観客がハラハラドキドキしてる間で)ポカンとする。
 ちなみにタイのムエタイも世界最強の格闘技だった気がするし、マット・デイモンがCIAエージェントを演じた『ボーン』シリーズで駆使していたカリも世界最強の格闘技だった気がするけど、細かいことはいいんだよ。ああいうノリで「世界最強の格闘技・スモウ」がブロンクスあたりで暴れ回るまんがを描いてみたい…というのは冗談半分として。
 この『ザ・レイド』が世界のバイオレンス・アクション映画史に爪痕を刻む傑作だったわけです。サミュエル・L・ジャクソンも好きな映画5本に選んでいたと思います(他の4本まるで憶えてない…)。
 インドネシアで作られ、インドネシアのアクション俳優イコ・ウワイスやヤヤン・ルヒアンを世に出した同作、監督はアイルランド人で音楽は日系アメリカ人のマイク・シノダが担当と、ローカル映画でありながらグローバルだったのも現代的な現象なのだと思います。

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 世界各地の映画を(語れるほど観てはいないけど)観て気づかされるのは、昭和に育ち平成で人格を形成した自分が捨てがたく身に染みつかせてしまってる「日本は進んでる」という感覚だ。
 もちろん今でもこの国には経済力も文化的な影響力もあるだろう。でも、それ以前に(一位は物量でアメリカだったり、社会面で北欧だったり観点によって評価は変わるにせよ)欧米が一番すすんでいて、日本はそれに追随する二番手・その他のG7だか20だかに含まれないような国々は遅れていて、トップ欧米の先進文明が二番手の日本を経由して三番手の「途上」諸国にトリクルダウンしていく、そんな無意識の誤解・偏見に気づかされるのだ。
 なんなら(かつて第三世界と呼ばれたような)世界の各国は「日本のようには」文明化していない、あるのは昔ながらの前近代的な生活か・さもなくばスラム街みたいな、大仰に言ってしまうとそんなイメージが自分の中にありはしないか。
 実際には世界じゅうの国々が日本など通らず、じかに欧米の物質文明とつながっている。それをすごく表わしてるなと思ったのが2014年のインド映画『銃弾の饗宴 ラムとリーラ』(14年9月の日記参照)のオープニングだ。いかにもボリウッドらしい民族衣裳と大量のモブを従えた歌にダンスは、日本でも(たぶん欧米でも)エスニックな・何なら遅れた文化をエキゾチックに楽しむ的な文脈で捉えられてるけれど、そのクライマックスはサリーに身を包んだ=つまり伝統的な装いそのものの女性たちが群がってハンサムな主人公をスマホで撮るというものだ(4:00くらい〜)
 
 日本のゼノフォーブ(外国人排斥論者)もしくは単に人権ギライな人間が「難民がスマホなんて持ってるのは変だ」と見当違いなイチャモンをつけたことが思い出される。相当に政治的位置の高い人物が「飛行機に乗ってこれる難民などニセモノだ」みたいな発言をしたこともなかったか。それまでいた国では大卒でITを駆使する仕事をしていたような層でも政変が起きれば亡命を余儀なくされるのが難民というものだし、現代においてスマートフォンは贅沢どころか最低限度の生活を守るための必需品だったりする。

 そんなわけで欧米や日本以外の国々の映画を観ることは、地理的な辺境に残った手つかずの前近代・ではなく21世紀グローバリズムの現在を「グローバルとローカル」という視点で見ることだし(今週のまとめ1)
 先月の小ネタで取り上げた(参照)パキスタン映画『ジョイランド』のように、むしろ作品の中で描かれる「前近代性」が、まさに2024年現在の日本にも共通する桎梏だと見て取れたりもする。(今週のまとめ2)

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 2021年に観た北マケドニア映画『ペトルーニャに祝福を』も面白かった。主人公ペトルーニャは32歳・大卒・ゆえにまともな職に就けず(そういう社会なのだ)非正規の独身女性。またしてもハラスメントまがいの屈辱的な面接で落とされ憤懣やるかたない彼女は帰路、河に浮かべた十字架を手にした者に一年の幸運が恵まれる伝統行事に出くわす。問題は行事が男子限定・女人禁制だったことだ。衝動的に河に飛びこんだペトルーニャは男たちより先に、幸運の十字架をゲットしてしまう。
 たちまち村は大騒動。過干渉な母・娘の味方だが病弱で無力な父・社会問題にしようと食いつくジャーナリスト・実は(十字架争奪が女人禁制って変だよなー)と心の底では理解してそうな司祭・十字架は男のものだ返せ盗人めアバ○レめと詰め寄る男たち・そして叩かれるたび何かを目覚めさせてゆくペトルーニャ。
 
 ついには警察に拘留され一夜を過ごす。十字架を譲ろうとしない彼女を、むしろ暴力から保護するためもあったのだろうか←ちょっと記憶が曖昧ですけど、警察の外にまで押し寄せ、フーリガンよろしく汚い言葉を連呼する男たちが次第に、これが聖十字架にふさわしい?という腹立たしさを通り越し、滑稽で哀れな存在に見えてくる。そんな中、警察署のなかで珍しく彼女を理解してくれそうなハンサムな警官とイイ雰囲気になったりして、言うなればペトルーニャは惨めさの外に出られない男たちを置き去りに、(まだ内面的にだけど)ずんずん先に進み出す。警察署に面会に来た司祭にペトルーニャがまあ見当つくかもだけど、ネタバレなので一応たたみます(クリックで開閉します) と告げる結末は皮肉が利いている。本当に十字架の救いが必要なのは誰なのか?本当に十字架が救いになるのか(十字架の救いが男たちを愚かで哀れなままに留めているのではないか?)。いやそれでも、十字架はやっぱりペトルーニャには(にも?)救いをもたらしたのではないか。
・参考:『ペトルーニャに祝福を』(シネマ・ジャックアンドベティ/外部リンクが開きます/日本版公式サイトは消失済)

 今週のまとめ3として、興業収入1位の「バズった」作品に皆が押しよせ共通体験でひとつになるよりも、こうして世界じゅうのリムランド(辺境)の物語を、地続きの「自分の世界の物語」として享受できるほうが豊かなのではないか…という話は先月もした(参照)ばかりだ。それは正論かも知れないし、何度も言ってるように自分の趣味・性癖・嗜好なんならコミュニケーション不全「症候群」の「症例」かも知れないと思う程度には慎み深い自分ですが、でも「バズり」やメガヒットにばかり関心を狭められて好き嫌い・「萌え」すら単一化されていくこともまた「症例」ではないだろうか?

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 この国(日本)に住んでいて今、最も意識的に「遠い」国は中華人民共和国かも知れない。大都市では日本をゆうに凌駕するハイテク文明が栄え、超管理社会と思われる一方、(日本もそれを言えた義理ではないはずだが)人々の人権や少数民族にたいしては抑圧的で「前近代的な」独裁国家のイメージ。いや、分からない。平均的な日本人がもつ中国像が正直わからない。
 分からないけど『三体』のメガヒットで注目された中国SFも一方で「やっと日本に追いついた」みたいに思われている部分がありはしないか。実際、かの国のSFは近年になって進境いちじるしいにしても、小説ジャンルの隆盛の早い遅いに関係なく、作品じたいは「今」の世界を描き、そこに「古さ」「遅れ」はないように思われる。
 周浩暉死亡通知書 暗黒者(原著2008年/稲村文吾訳・早川書房2020年/外部リンクが開きます)
「華文ミステリ最高峰」は、まあ翻訳出版元が言ってることですけど(あまり考えず手に取った)たしかに圧倒的な読みごたえ。  石川県立図書館・併設カフェのアイスコーヒーとキッシュの奥に置いた『死亡通知書』。実は10月の能登ボランティア翌日、金沢に一日居残って歩きながら+石川県立図書館で読みふけった本がコレでした。
 法が裁かぬ悪人を裁き、処刑する連続殺人犯。ネット上での犯行予告が匿名性の高いネットカフェのパソコンから行なわれたという冒頭から「あ、そうか…中国にもネットカフェがあるんだ…そりゃそうだよね…」と思ったひとは自分の中の先入観を補正するためにも読んだほうがいいかも知れない。たとえば警察側の登場人物ひとつ取っても、FBI流の犯人プロファイルを専門とする心理分析官や、ハリウッド映画などではお馴染みのギークなハッカー捜査官など、リアルタイムでグローバル水準な面々が肩を並べる一方で、警察内の組織統制は日本などの(ミステリで描かれる)それよりはるかに統制的だ。と思う。いや自分、鮫も相棒もコナンもようよう存じ上げないのですが。
 匿名の犯人は、そんな警察を出し抜くように次々と、衆人環視の真っ只中で常識なら不可能な「処刑」成功を重ねていく。その恐ろしいほど鮮やかな手口・ハウダニットが最後まで本作の見せ場だ。これは余談だしネタバレなので例によってたたむけど「これが二番目の犯行現場です」と示された、誰もいない廃工場が写った何枚もの写真に「どれがその写真だ?被害者が写ってないじゃないか」伏せます(クリックで開閉します) という場面の恐ろしいこと。
 そして名も知れぬ犯人の狙いが体制的な警察機構そのものの不正を暴くことで、通常の捜査系統から外されていながら本事件の専従として招聘された主人公こそが真犯人なのでは?という疑念をはらみつづける、フーダニット(犯人は誰か?)のみならず「誰が探偵か?」誰を謎の解き手・正義の執行者として信頼すればいいのか最後まで分からないサスペンス。その謎解き・フーダニットとホワイダニット(犯人の真の動機)はまあ、上に書いた「どうせ感動するんでしょ」風にいえば「どうせ驚かされるんでしょ」の範囲内なんだけど(厳しいお客さんだなあ)ハウ・いかにしての部分の練り上げが半端ない。ミステリというよりサスペンスとして読む手が止まらない内容でした。
 映像化もされてるんじゃなかったかしら。世界がグローバルであることを、否応なく実感させられる力作でした。

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 ちなみに小説では、前にも紹介したと思うネットSF誌Kaguya Planet(外部リンクが開きます)が少し前に掲載したギリシャの短篇「ボーンスープ」がSFというか現代に残るローカル呪術的な物語で面白かったです。「ふうん…こういうのが面白いのね舞村さん(仮名)」と少し冷たく思ってもらえれば幸い。
 またパレスチナ作品特集で掲載の「ムニーラと月」は、語弊あるかもですが「…百合ファンタジイじゃん」な内容で、これと昨年観た映画『ミャンマー・ダイアリーズ』(昨年8月の日記参照)のタピオカミルクティーのエピソードが、どちらも非道な弾圧の行なわれている場所だけど「物語の語り手が考えてることはロマンチックで、少女まんがが好きな日本の自分とあまり変わらない(かも)」というのが、今夏のまんが新作『リトル・キックス』で異国を舞台にしながら日本が舞台と変わらないラブコメを描いて問題なしと自分を納得させる根拠にはなっていました。

 実際、欧米→日本経由で→他地域というトリクルダウンこそないにしても、対等なコンテンツのソースとして日本が今でもそれなりの存在なのは事実で、現在ニチアサで放映中・自動車モチーフな戦隊物『爆上戦隊ブンブンジャー』の中華圏での漢字タイトルが
 爆上戦隊「奔奔者」。発音もほぼ同じ(ブン回せ!と爆上げるブンレッドのカットを添えて)
なの(意味は「走る人」だそうです)、宇宙をモチーフにしたアニメ『スター☆トゥインクル・プリキュア』で主人公の「キラやば〜っ☆」という決め台詞が英語圏で「TwinCOOL」と訳されていた(らしい)のを彷彿とさせ、趣味は国境を越える=最高にバクアゲだな!と思った次第。
 このさき日本が没落しても滅びても、萌えとかオタク文化の良いところは(ルッキズムやミソジニーなど人を幸せにしない部分は削ぎ落とされつつ)世界に散布され根づいて残るといいなあと願っています。

希望のある社会と、その敵(24.12.15)

※映画『ペパーミント・キャンディ』『タクシー運転手』のネタバレがあります。
※語感が良いので使ってしまいましたが『○○な社会と、その敵』シリーズ(シリーズではない)未読です…

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 それまで機会を伺うように何度も周回していた軽自動車が、路面を占拠して座りこみ・ダイインのように横にまでなった人たちに加勢するように停まる。運転していた女性は即席のバリケードになった車を降りて、もう動かせないようスタスタと何処かに行ってしまった―インチキな意見聴取会の結果を携えた政府の車を阻むために。
 韓国ではない。ほんの十年前の、日本で僕が見た光景だ。

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 視点の取りかたによっては、2024年は『少年が来る』(2014)で光州事件を描いたハン・ガンがノーベル賞を獲り、同じ韓国で「もう二度と」と深夜に結集した人たちが大統領の白色クーデタを阻止した年だった―そんな「まとめ」も出来るかも知れない。

 線の引きかたは人によって違う。世界のすべてを親日・反日で二分する人たちに見える景色はまた違うだろう。
尹氏は関係正常化の立役者 対韓戦略見直し必至 弾劾訴追案可決(毎日新聞/24.12.14/外部リンクが開きます)
毎日の今日(12/15)の社説は「韓国大統領を弾劾訴追 法治に反した当然の報い」という見出しだが、一方で保守政権ベッタリで今回も単に日本の保守層に都合がいいことを「正常化」と呼べちゃうタイプの書き手も(けっこう常駐して)いるのだけど、そういう人たちが今週の主題ではない。線の引きかたの話を続ける。

 いま起きたことを二番目の点だとすれば、一番目の起点になるのは各々の中にある過去の記憶だろう。体験が、あるいは言葉や物語が与えた記憶。たとえば国会前で軍人が差し向ける銃身を両手で掴んだ女性の写真に、架空のアメリカ戦後史を描いたアメコミ原作映画『ウォッチメン』の冒頭シーンを思い出した人もいたはずだ(とゆうか僕は思い出した)(原作は未読です)。
 映画『ウォッチメン』で
 今回のクーデタ騒ぎと光州事件を線分の二点とした時、僕のばあい起点にあるのは(『少年が来る』より)映画『ペパーミント・キャンディ』(イ・チャンドン監督/1999年)の方かも知れない。初恋に破れ、結婚相手を裏切り、自暴自棄の果てで列車に身を投げた男の生涯を曲げてしまったのは徴兵での不適応と、にも関わらず動員された光州で弾圧者側として無辜の市民を射殺してしまった罪責感だった。
 同作を踏まえて、いや踏まえなくても同じ事件をテーマにした『タクシー運転手』(チャン・フン監督/2017年)を観ると震えるほど心を打たれるのは、国軍による自国民虐殺を世界に知らしめようとしたドイツ人記者と韓国人のタクシー運転手が検問で遮られるシーンだ。軍によって封鎖されてるはずの光州から脱出するため偽装工作で入れ替えたナンバープレート、車体後部のトランクに入れたままだったナンバープレートを、検問の若い兵士が見つけてしまうのだ。だが19かハタチくらいの、つまり疑いなく大義に従って(あるいは強制に逆らえず)非情に振る舞っておかしくない年頃の、鋭い目のこの兵士は主人公たちの偽装工作を黙って見逃す。実話を基に多くの脚色を施した同作にあって、この見逃しは史実そのままだったという。
 かたや命令に逆らえなかった無念。かたや逆らった無名の、決死の勇気。翻って今回のクーデタ未遂。議会を占拠した兵士たち・指揮した将官たちは本気だったのだろうか。命令なので占拠はしたが、戒厳停止を議決する議員たちを本当に実力で・暴力で排除することは躊躇したのではないか−いや、躊躇していたので「あってほしい」・だから掴まれた銃口は火を噴かず、クーデタは失敗したので「あってほしい」気持ちが、特に二つの映画を知るひとの中には生じたのではないだろうか。

 実際には同二作の前の時代を描いた作品として(両方とも未見なのですが)『KCIA 南山の男たち』『ソウルの春』があり、後を描いたものとしては自分が観ただけでも『HUNT』『黒金星』『1987 ある闘いの真実』『JSA』などが続く。「映画で観る韓国現代史」でオールナイト興行が打ててしまうほどの、充実の(?)のラインナップで、否応なく実感させられることがある。
 この国(日本)には、歴史がない。

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 いやもちろん、日本には歴史がある。ありすぎて困るくらいだ(2600年前からあったと主張する人たちがいる。きっと国交「正常化」と躊躇なく呼べる人たちと重なるか、少なくとも仲がいい)。NHKは毎週日曜に大河と呼ばれる歴史ドラマを放送し、また「朝の連続テレビ小説」も新聞小説が国民意識を醸成したというベネディクト・アンダーソンの説を気持ち悪いほど見事に現代化している…とは(たぶん)前にも話したとおりだ。もし話してなかったら、そうなんです。
 だが大河の「歴史」とは、400年前の戦国武将の誰が最強みたいな(戦国好き・大河好きな人には悪いが)スコブルどうでもいい話(たまに平安時代だったり幕末〜明治初期だったりするにせよ)で、朝の連続テレビ小説もそう、むしろ「この国は今どうしてこうなのか」問うことを回避させる逃避の装置ではないかと疑われるほどだ。
 というか戦国武将の国取り合戦が「歴史」だという認識は、現在の各政党・場合によっては党内部の政局とやらが「政治」だという認識と同根なのかも知れない。
 歴史がない、は「この国(日本)には、政治がない」と言い換えることも出来るのだろう。
 もちろん日本には(政局でない)政治もある。けれど、それを語る言葉・あるいは発想がない。

 思い出すのは上にあげた、二つの映画にたいする日本での評だ。僕が『ペパーミント・キャンディ』という映画の存在を知ったのは、今はなき吉野朔実さんのコラム集『こんな映画が、』でだった。これ自体はすごく良い本で、「本の雑誌」連載で見せた本の目利きと同様、紹介する映画のチョイスでも見識を示した彼女が、しかし驚くことに『ペパーミント・キャンディ』を語るにあたって光州事件に一切ふれず、淡い初恋にばかり焦点を当てていた。読み巧者・観巧者の吉野氏にして「そう」なのかという驚きがあった。
 時代意識の制約があったのかも知れない。けれど約20年後の『タクシー運転手』でも僕の目に映る事態は変わらなかった。少なくとも日本で、少なくとも声の大きな人たちが喝采した「一番の見せ場」は若い兵士の見逃しではなく、その後に展開する(現実にはなかった)主人公たちを助ける陽動のため、同業者たちのオンボロタクシー群が軍用車を翻弄する「痛快な」カーチェイスだった。
 何の話をしているか。この国に歴史がなく、政治もないのは、アーシュラ・K・ル=グウィンなら「現実逃避のファンタジイ」と呼びそうな「歴史」「政治(政局)」にかまけて、現実にはある歴史や政治を「語る言葉」がないため、も、あるのではないか。現実には、この国にだって歴史も政治もあるのに、だ。
 
 今回のクーデタ騒ぎについて、市民の側に立たない人たちの存在や発言は「歯牙にも掛からない」で流して話す。気にかかったのは韓国の人々の行動力や勇気・闘いのなかにもユーモアを忘れない姿勢を褒めたたえる(日本の)人たち、の、発言だ。
 たとえば今回、市民側の抗議行動では「貧乏でクレイジーな芸術家連合」とか「ふくよかな猫が好きな会」なんて旗が、「来週試験なのに」「旗を用意できなかったので段ボールに書く私」みたいのまで含めて乱舞したらしい。それが単なる茶化しではなく自分たちが何か党的なものに動員されてるのではない・自発的に来ているアピールであり、また猫が好きとか食事がおいしいとか、そういう生活と政治への怒りは別じゃない・直結してる証だったと説明されるに及び、僕が観測するSNSでは「自分だったらこんな文言の旗を掲げる」と自称する人たちがワラワラと現れた。まるでネット大喜利や、「見た人もやる(答える)」ハッシュタグで好きなお寿司や天ぷらの具材を挙げるように。
 ちょっと待ってくれ。僕が好きな天ぷらの具材は「チーズちくわ」一択です。そうじゃない。あたかも「自分が日本じゃなく韓国に居さえすれば、面白い旗を用意して国会前に駆けつけたのに」と言わんばかりの人は、なんでこの日本で面白い旗を持って立ち上がってないのか。機密法で、安保法制で、共謀罪で、入管法で、杉田水脈の生産性発言で、百田尚樹の子宮摘出発言で、あなたがた自慢の面白フラッグを振るチャンスは、いくらでもあったじゃないか。いやそもそも、なんであなたがたは「家で寝ていたいのに」(これも韓国の国会前であった旗のフレーズ)のボヤきを携え能登のボランティアに出向いてないんだよ。
 もちろん、実際に街頭に立ってる人、内閣や関係省庁に抗議メールを送ってる人がいるのは分かってる。どこかで水害が起きるたびボランティアに駆けつける猛者も、実際にお会いした(7月の日記参照)。
 でもSNSで、正月の地震発生当時に行政が率先してボランティアを拒否したことや、ボラを受け容れる社協の組織的限界を批判しながら「そんなわけで我慢できないから自分がボラに行ってやる」とは決してならない人たちがいて、そういう人たちと、韓国の市民の気概にタダ乗りして「私が振りたい旗」大喜利をしてる人たちは、多少重なっている。
 もうひとつ、事例を挙げてもいいだろうか。韓国の国会前に馳せ参じた人たちには「民主主義が心配で家でゲームしてらんない」とゲームパソコンを持ってきて路上でゲームしたり「〆切直前のウェブトゥーン作家なめんな」とタブレットを持参して原稿作業を進めてみせる猛者も現れ、日本のSNSでは面白がられ、また賛嘆されていたようだ。思い出したけど、読書が好きなのでヘイトスピーチに抗議するカウンターの最前列で本を読んでたことなら、あるよ自分。何を読んでたかは忘れたけれど、見たくもない相手の顔を遮るように開いた本を大きく掲げて、ずっと本を読んでいた。当然ヘイトスピーチの主には罵倒されたけど(そうやってこっちに注意を逸らしてる分、お前が差別発言をする時間は減るんだよ馬鹿め)と思えば耐えられた。
 カウンターがこぞって中指を立てるので差別者側が「中指を立てないでください」というプラカードを掲げてるのを見て、それじゃあと素直に親指を下げて、やっぱり罵倒され時間を稼げたこともありました。という画像。
僕ごときでも体験があるのだから、そういう行動をしてる人は(日本にも)もっと沢山いる。タブレットでまんがを描いてる人までは居るか分からないけど、国会前やヘイトスピーチのある場所で本を読みながらスタンディング・ヘイト警戒を兼ねた街頭読書会ならザラにある。変わった旗にしたって、日本でも猫の生活が第一を掲げた「肉球新党」が安保法制の頃からずっと存在感を放ちまくりじゃないか。僕は一線を置いて参加してないけど(薦められたことはある)韓国の国会前の旗にあった「本当は家で寝ていたい」も、ずっと前から同党のキャッチフレーズでもある。
 たしかに数は少ない。けれど声を上げるひと・プラカを掲げる人たちはいる。凝ったプレゼンテーションが出来る人も、そんなの無しに段ボールにマジックで書かれた野菜が食べたいの切実さで強烈な印象を残した人も。
 もちろんそんなの全然ムシ無視カタツムリな人たちも居て、たぶん圧倒的多数だろう。でも、それとは別に、日本はどうなってしまうんだと憂い顔をしてみせながら、自分は行動しないし、行動している人たちのユニークさを積極的に評価もしない、むしろ問題点をあげつらって「だから日本では上手く行かないんだ」と水を差し、「自分も韓国に居たらこんな面白フラッグを作るのに」と、さらには韓国の勇敢な若者のスピーチに「日本の若者も見習ってほしい」などと言う人が居る。そう言うからには自分は若者じゃないんだろうけど、若者じゃない自分が率先して韓国の人たちを見習う態度は示さない人たちが。
 一人の人間の存在・行動すべてが「そう」ではないのかも知れない。一人の人間の中で行動する部分と、ポーズだけ取って何もしない・してる人たちに寄与もしない部分が混ざり合ってることもあるだろう。他ならぬ自分だってそうだ。だから言う。社会を憂いているようで、実は社会を変える力を削ぐ、厳しい言葉でいえば「敵」のような発言がある。そちらのほうに凝り固まってしまってる発言者・アカウントがいるかも知れない。そういう人たち・そういう発言は読むひとを気持ちよく反抗者の気分にさせるが、人を行動させる発言ではないかも知れない。
 何回か前の日記(週記)で書いた、今の社会の間違いは言語運用の失敗かも知れないという話をしている。

 とくに、勝てなかった運動は速やかに「なかったこと」にされ、忘れられるのかも知れない。韓国は白色クーデタを目論んだ大統領の弾劾が決まったから皆、安心して褒め称える。トランプに負けた民主党に与したセレブたちの発言は「アメリカを憂いる」人たちにも冷笑された。
 原則的にそうなのだと悟ったうえで、なお。たとえば10年前に安保法制に反対した人たちの「功績」が面白いくらい記憶されてない社会(この国)の言語運用には躓きがある、何ならそれも「敗因」の一つではないかと思ったりする。韓国がうらやましい、日本には真の民主主義は根づいてないと嘆きながら、実際に芽吹いた芽は摘み取るような言語運用。社会や世の中を変える行動よりも、自分が正しく、誰かを批判できる立場にいることを優先するような言語運用がありはしないか。
 皮肉なことに尹錫悦も朴槿恵(パク・クネ)も、そしてドナルド・トランプも国民の直接選挙で大統領に選ばれている。フランス革命の歴史を見るまでもなく、国民が主権者となって自らの首長を選ぶとは「まるでそれが救いであるかのように(略)隷属するために戦う」(スピノザ―ライヒ―ドゥルーズ=ガタリ)自発的反動・自発的隷従との絶えまないシーソーゲームなのだろう。けれど「私たちは間接選挙制だから」「天皇制があるから」を今しない・ずっと変えられない理由にして何もしないことを巧みに唆す言語運用があるなら、それは「今のままでいい」と嘯(うそぶ)く大多数と変わらないだけでなく「自分は反対だった」と保険だけは掛けてる点で、見方によっては、より悪質ではないのか。
 いや、そもそも「今のままでいい」は本当に多数派なのだろうか。
 SNSといえば「今のままでいい」派の人たちの温床のように言われてるXで、二次創作の美少女の絵ばかり投稿しているアカウント主が、絵とは無関係な日常のつぶやきで「住民税が高い。泣く泣く支払ったあと、国会議員の豪華な食事を見てさらに泣けた」みたいなポストをして、それに「投票やデモにきちんと行かなきゃですよねー主権者なんだから」「そうなんですよねー行ってるんですけどねー」というレスが続いて、とても驚かされたのも最近のことだ。
 もちろんその「絵師」さんは「選挙には行ってる」だけで、デモまでは参加してないかも知れない。けれど政治について語らないのが暗黙のルールみたいになってるオタク界隈でも「デモで社会を動かす」ことが揶揄でなく素直に認識されてる・そういう認識が少なくともゼロではないことに驚いてしまったのだ。
 だとしたら足りないのは、そういうことをもっと言っていい、タブレットで絵を描きながら街頭に出ていいという言葉なのではないか。隣国が羨ましい、日本はいつまで経っても変わらない・次の世代の若者には変わってほしい、ではなくだ。
 いろんな事情で街頭には出られない人もいるだろう。夏場は暑くて無理とか、そんな事情でも甘えとは思わない。けれど署名するとかメールを送るとか(さっきも書いたけど)手段もまた様々あるはずだのに。なぜ人は、たとえばネット署名を呼びかけるのに、自分自身のアカウントで、自分自身の名において「私も署名しました」とリンクを張るのでなく、誰かが「私は賛同しました」というポストをコピペして、他の誰かの名で拡散するのだろう。そういう言語運用で「この社会の人たちに自主性がない」と嘆いてみせるのは、まず鏡を見ろという話ではないか。ましてその嘆きも誰かの名前ごとのコピペだった日には。

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 そんなわけで久しぶりに街頭へ。衝動的に「そうだ、北海道行こう」と無理をして美しい景色を堪能したあと
 雪の積もった電車ホーム・夜の修道院・雪で真っ白の街路・旧函館区公会堂・赤い実をつけた枝・凍った路面が白く光る夜景・雪に埋もれたレトロな消火栓・旧北海道庁・雲と青空・雪景色の向こうに見える海・ライトアップされた夜の小樽運河・凍った水路
たまさか自分が札幌に居た晩にMY BODY MY CHOICEを訴える「私のからだデモ」に連動したスタンディングをやっていたので、まあシスヘテロおじさんの自分は「THEIR BODY THEIR CHOICE」なのだけどねと思いつつアライとして加わってきました。
「私のからだは私のもの」 女性への差別的な言動に全国で抗議デモ(毎日新聞/24.12.13/外部リンクが開きます)
 スタンディングは平穏なものでしたが、某ドーナツ店の前を10人くらいがズラリと占拠したので解散後ひとり店に入ってドーナツテイクアウトして夕食に(笑)。…(笑)と書いたけど、とくに品川入管の前で建物の中に届くくらい大声で・拡声器も使ってコールを上げる(中からも呼応がある)スタンディングに参加したときも、直近のコンビニでおにぎりとか意識的に買うようにしていた。
 韓国のデモで開催場所の近くになるコンビニや食堂に「私のお金でデモ参加者に差し入れしてやってくれ」と寄付が寄せられたりしてるらしい。自分は参加できないので代わりに、という意味合いの他に、デモで迷惑を被るだろうお店への配慮もある(だろう)という。そうゆうのも個人レベルで出来るし、余裕があればすべき・そういう余裕をもつべきとは、当事者よりアライで参加が多い立場・視点だから言えるかも知れないので言っておくのだ。
 画像三点。左から・突き上げる拳に「MY BODY MY CHOICE」のロゴがあしらわれたプラカ・スタンディングとは無関係だけど今回の北海道で一番おいしかった地元コンビニ「セイコーマート」のフライドポテト。じゃがいもが甘い。・某ドーナツ店のフレンチクルーラーとゴールデンチョコレート。
(あ、はい、生ノースマンも美味しかったっです…)
 各地でスタンディングに参加した人たちがSNSで楽しそうに、嬉しそうに報告しているのを見て心が温まる。韓国での市民の集まりを見て、自分たちだってと刺激されたところもあるのだろうう。この社会に希望があるとしたら、それは金曜の夜に日本じゅうで街頭に立った、あの人たちのものだろう。「私だって向こうにいれば」「それに引きかえ日本は」と嘆いて終わる・終わらない(「何もしないけど正しい」位置に居座りつづける)側にではなく。
 
 この国にも政治はある。民衆の歴史も、路上の希望も。言語運用のせいで残らながちの、さまざまなデモやスタンディングで目にしたそれらを、自分も一度まとめて言語化・あるいはエッセイまんが的な形でまとめたいなと思いはじめてる。安保法制で、形ばかりの意見交換会を終えて永田町に向かう関係者の車を停めるために横浜の路上に座りこんだ人たち。道をふさぐ形で軽自動車を乗り捨て、スタスタと歩き去った人までいて目を疑ったこととか。日本でもそうゆうこと、平気であるんだと。

ビリヤニ始めました?〜『メタ・バラッツのスパイスカレーユニバース』(24.12.22)

 先週札幌で泊まった宿は、店頭でビッグイシューを売ってるような+「夜のパン屋」もやってるような本屋も併設されたゲストハウスで(気になってたのが都合よく泊まれた)、共有スペースに置いてあったティーバッグもよく見るとフェアトレード。しかもよく見るとトップバリュ。やるなあ、トップバリュ!
 トップバリュのフェアトレード紅茶(アールグレイ)画像。
 横浜に戻って確認したら結構お安めだったので今後当面、紅茶はコレで行こうと思います。まあ札幌東京間でジェット機なんか使っちゃってる時点で焼け航空燃料に水ならぬフェアトレード紅茶なのですが、出来る範囲での抵抗はしたいところ…ちなみにコーヒーは好みとお財布の問題でエコやフェアトレードは二の次でMJBのグリーンラベルを選んでます…
      *     *     *
 本サイトで何度か「流行れー流行れー」ビリヤニも流行ったんだし流行るポテンシャルはあるはずと呪文のように唱えてきた(今年5月の日記とか)ネパールの郷土料理ダルバートですが、じわじわ普及しつつある模様。逆にダルバートか入ってみよ、とやってたら自分のお財布では足りない段階になってきました。
 店頭メニュー。お馴染みの「チーズナンセット」「お子様セット」の下に「ダルバート」「コセリスペシャルカナセット」
これは東神奈川で開いたばかりのお店。「カナ」はネパールで(軽食ではない)しっかりした食事なのだとか。

 でも今回は、今や大流行なビリヤニの話。
 先月「匂わせ」だけしたのですが、Web拍手を経由してオススメいただいた本格インドカレーのレシピ集。ようやく一応、御紹介の準備が整いました。電子書籍です。
日本生まれのインド人、メタ・バラッツのスパイスカレーユニバース (インターネットオブスパイス)Kindle版(Amazon/24.10.11/外部リンクが開きます)
副菜を含めて400以上のレシピを無料で収録。何処かのレビューでどなたかが「これだけのものを無料で読むのは申し訳ないという人は、著者のやってる通販スパイスを買えばいいと思う」と提案されてて、もっともだと思い
Internet of SPICE(日本語/外部リンクが開きます)※無料レシピ追加されてる…
で「炊飯器で作るチキンビリヤニブック」を注文。上記の電子書籍には同じスパイスセットを使ったジャガイモ・人参・ピーマンのベジタブルビリヤニのレシピもあるし、いっそ何処かでマトンが手に入ればとも思ったのですが、最初は素直にチキンビリヤニを作ってみました。
 左:三つに分けられたスパイス。右:タイ米のパッケージ。
普通郵便の封筒に入るサイズのスパイスセット、ABCと小分けにされた袋のミックスAはローレルの葉に黒い胡椒の粒、ヒマワリの種くらいの大きさの緑の実がどうやらカルダモン。茶色の筒は材料名には(なぜか)書かれてないけどシナモンじゃないのかなあ。最初に肉にまぶすミックスCは茶色の強い粉末にフェンネルの実が混じってました。Aと一緒に炊く直前に混ぜるミックスCはターメリック(うこん)の黄色が強い。他には生姜やニンニク、八角やミント、クローブなど香りの高いハーブがブレンドされてるようです。
 ごはんはジャポニカでもOKということでしたがアジアン食材店で買ってあるタイのジャスミン米があるので使いました。1kg700円くらい…皮肉なことに日本産米が高騰して同等の価格になってしまいましたが。
 左画像:皮のついたタマネギと10%引きの鶏もも肉・舞茸。右:タマネギ炒め中
 素直にと言ったな…あれは嘘だ、実際は鶏もも肉(10%引)が少し少なかったので舞茸でレシピどおりの重量を合わせました。でも積極的にキノコビリヤニもアリだと思う。タマネギは炒めるとき少し塩を振ると水分が出やすくなる+はねないよう注意しながら大さじ一杯くらい水を足すと褐色化(メイラード反応)が促進されるそうです←これは別ソースのTips。
 左:炊く直前・材料すべて混ざった状態。右:炊き上がり。
炊飯器で炊けるビリヤニ、自分は逆に炊飯器を持っておらず圧力鍋を使用。ふつうのごはんと同じ時間でキレイに炊き上がりました。炊き上がりは約980グラム(こういうのが大事な情報だと思うタイプ)。コレを食べるひとは四分割や三分割でもいいと思いますが、今回の自分は他にいろいろ足すことを考え190g×5回に分けました。
 いろいろとは具体的には・蕪のアチャール・人参とピーマンのオイル蒸し・ライタ。
 左:別器に盛ったライタと白い細長楕円プレートに人参とピーマンのオイル蒸し・蕪のアチャール・ビリヤニ。右:ビリヤニにライタをかけたところ
 アチャール、上記レシピ電書にもあるのですが、今回はこちらのレシピを使いました→
かぶのアチャール(akkey-y/cookpad/外部リンクが開きます)
ライタは適当です。胡瓜・セロリ・タマネギ・にんにく・パプリカを刻んでヨーグルトで和えて塩・チリパウダーで味を整える。様々なレシピがネット上にあるので試したらいいと思います。味変で途中からビリヤニにかけるも良し、最初からかけちゃうも良し、サラダ感覚で先に食べたり後に食べたりしても良し。

 今回は間に合わなかったけど、長粒米の香りや粒離れの良さとジャポニカ米のモチモチ感を併せ持つ鳥取生まれの新種米「プリンセスかおり」も一度は試してみたいところ。その時は…マトンや牡蛎ビリヤニとか挑戦かしら?
プリンセスかおり〜長粒でモチモチとした食感を持つ香り米〜とは?(田中農場/外部リンクが開きます)
 正統派のビリヤニはお米と具材を層にして重ねるとか聞いた憶えがありますが、今回のレシピは炊込み感覚で混ぜてOKだったので夢はふくらみます。前に大阪でイカ墨ビリヤニとか食べたことがあったなあ…

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 近年は豆カレーばかり作ってます。肉を使わずタンパク質を摂取できるのが良いし、少なくとも現時点では安上がりなので物価高騰の折、個人商店のスパイス屋やフェアトレードの紅茶など利用しつつ締めるところは締めたい人向けに、改めてレシピを。
 左:レンズ豆とその拡大画像。右:緑豆(ムングダル)とその拡大画像(皮のないムングダルと皮つきの緑豆)
基本的には・豆90g・タマネギ260g・水450ccで4食分の豆カレーが作れます。ベースになるのはムングダルと呼ばれる皮を剥いた状態で売ってる緑豆。これとレンズ豆をブレンド、さらに最近は大きいのや小さいのが混じったミックス豆も使ってますが、究極はムングダルだけでも食べれると思う。何なら皮つきの緑の緑豆でも作れなくはない。豆はアジア食材店で1kg500円しないくらいなので、かなり経済的なはず。
 あと最低限あるといいのは・油・クミン(パウダーでなくホール)・ニンニク・生姜・塩・コンソメでもダシでも何か・粉唐辛子・カレー粉。クミンは他の料理でも支えるし、香りが塩の代わりになるので塩を減らせる利点もあります。
 まずは油でクミンと刻んだニンニク(1〜2片)を炒めます。ここで塩を振ると油の温度が抑えられるとか(不詳)。自分はこの時なぜか持ってるフェネグリークやヒング(阿魏)も足してます。香りが立ったところで、まずはムングダル45gと水450ccを投入。ミックス豆も併用する場合は粒の大きな豆は火の通りも時間がかかるので(合計が45gになるようにして)一緒に投入します。
 圧力鍋の場合は強火にかけ、錘が廻り始めたら弱火にして6分くらい加圧。火を停め、圧が抜けたら蓋を開けレンズ豆45gを追加、また蓋を閉めてまた強火・また錘が廻ったら弱火にして5分くらい加圧。先に入れたムングダルはグズグズに煮崩して、レンズ豆は少し形を残そうという算段です。再び火を停め、圧が抜けたら出来上がり。オレンジ色だったレンズ豆は、すっかり色が抜けて黄色くなってます(その時の写真があるはずだけど出てきません)
 90g+260g+450g+800グラムですが、圧力鍋でも780gくらいに減ってるので190g×4に分けます。たまたま自分は圧力鍋があって(一人暮らしを始める時お祝いで貰った)使ってますが、普通の鍋を使う場合は実験して良い加熱時間を見定め+出来上がったカレー(まだ辛くない)は四回分と考えてください。圧力鍋で作った190gは一回分を食べるごとに火にかけて水分を飛ばすのですが、逆に普通の鍋で作った場合は水分を加えて「伸ばす」ことになると思います。レトルトカレーが一食分180gとか200gでしょうから、それに近づければいいわけです。
 さて、四食分に分けた(まだ辛くない)火の通った豆を、一食分ずつ、あるいは食べる人の分だけフライパンや小鍋にかけます。なんならココで市販のカレールウひとかけ加えて混ぜても十分おいしく食べられます。とはいえ煮崩れたムングダルが「とろみ」を出してるため、小麦粉などは加えずカレー粉その他だけで「シャバシャバなカレー」にするのが何か本格っぽいし楽しいと思います。・カレー粉(小さじ1)・粉唐辛子(いわゆる「一味」でOK・小さじ1/2)・ダシ的なもの(ブイヨンでも鶏ガラスープでも和風だしでも。僕はヴィーガン味覇とか平気で使ってます)の基本セットに、さわやかな辛味を出すには針状に刻んだ生姜が良いです。後は隠し味にソースでもココアでもナンプラーでも、あるいはトマトペーストやバターを加えても。「うまみ」が足りないな?と思ったらダシよりも塩を少し足してみる。
 もちろん野菜や茸を加えて火を通してもいいです。一切合切を火にかけて冷凍ごはん一食分をレンチンする2分間で丁度いいくらいに煮詰まります。
 左:ミックス豆。右:出来上がり。ジャスミン米に豆カレー・赤い福神漬けを添えて
 ごはんはジャポニカの白米でもタイやインドの長粒米でも。長粒米は湯取り式で炊いて?煮てます(鍋たっぷりのお湯を沸騰させて二合くらいの長粒米を10分間ほど茹でて、ザパーとザルにあけてお湯を捨てて、空の鍋にすぐ戻して少し火にかけ気持ち水分を飛ばしたら蓋して蒸らし10分)。栄養分が幾分か流れてしまうのは勿体ないけど逆にダイエットには良いのかも知れないし、しっとりしたジャポニカ米よりパラパラの長粒米は少し少なめの量で同じくらいの「かさ」になるので、さらにダイエット向きなのかも知れません。
 30年くらい前に日本米が不足してタイ米が緊急輸入された時には、自分も含め多くの日本人がタイ米の適切な調理法を知らなくて誤解したまま「タイ米はまずい」と身勝手な評判が独り歩きして残念だったし申し訳なかったので、未知の食材の扱い方や料理法が比較的すぐ手に入るネット時代の到来は、とても良いと思うので、まあ調べれば分かることだろうけど、自分の経験もネットの海に放流しておく次第。

 フェアトレードや肉食を減らすやガソリンを使わない・マイクロプラスチックを出さない…そうしたことをいつでも完全になんて出来っこない自分を責めすぎない。だからといって「どうせ無理じゃーん」と開き直って偽悪・露悪にも走らない。「親切は驚くほど健康にいい」みたいな題名の本があったと思うけど、自分を不幸にするために環境や人権に配慮するのではなく、社会や世界に親切にできれば自分も幸福で気分がいいと考えること。それは僥倖なのだと知ること。可能なかぎり健やかに、来年も生き抜きましょう、息抜きも入れつつ。

私たちは夢と同じもので出来ている・夢は夢の素材で出来ている〜『最後のライオニ』『ガザ日記』(24.12.29)

 と、いうわけで(23年7月の日記参照)ヤン・ムカジョフスキー『チェコ構造美学論集』(平井正+千野栄一訳・せりか書房1975年)を読んでいる。20世紀前半・ナチスに占領される前のチェコスロバキアはカフカやチャペックを輩出するなど、それはそれで文化はひとつの精髄を究めていたのだろう。なんなら90年近く前・インターネットもテレビもない時代の論文集とはいえ「逆にテレビやインターネットの出現で吾々の思考は進歩したのだろうか」と刺さる部分が一応あって面白い。んにゃ、90年前の著作でも現代(2024年)に通じる教訓や洞察を得られること自体、文章や芸術の意味や価値は著者の独占物ではなく、読者や観客もある程度つくっていくものだ(でも読者や観客側が一方的に作るものでもなく、むしろ両者の・あるいは作家と社会とか様々な対立項のせめぎあいこそが芸術の意味を形づくる)というムカジョフスキーの見解そのもので、要はいいように掌の上で踊らされている。
 吉本隆明『言語にとって美とは何か』(書影あり)は人間の言語活動を指示表出←→自己表出 の対立として捉えたけれどムカジョフスキーは(数ある対立のひとつとして)(指示表出に近しい)伝達のための表現と←→(自己ではなく)芸術が芸術みずからを目的とした表現を提示してて興味ぶかい。
 1940年の論文「美学および文芸学における構造主義」が言う「もちろん、芸術が社会との相互のアクチブな接触から閉め出されている時代も、あるいは芸術が自らを閉め出す(中略)時代もある。しかしその時でもその運命的な結びつきは終ってはいず、相互に分離を願う努力ですら、芸術と社会の状態の重要な徴候となっている(強調は引用者)もまた、とりわけ2024年に刺さる指摘ではないだろうか。「ミュージシャンは政治的な発言をするな」「まんがは」「アニメは」「このSNSでは」社会に関わるな、という受け手側・送り手側、双方の拒絶もまた「今の現実を拒絶したいという現実との関わりかた」の何より雄弁な表現だと言える。
 書影;『チェコ構造美学論集』(左)と『最後のライオニ』(右)
 本国では2020年に出版された最後のライオニ 韓国パンデミックSF小説集』(斎藤真理子+清水博之+古川綾子訳・河出書房新社2021年/外部リンクが開きます)は、もちろん読みでのある力作ぞろいのアンソロジーだった。けれど2020年の新型コロナ流行を受けて制作され、当然ながら「もし世界がこのまま様々なパンデミックに晒され、パンデミックが社会や人間の定義まで変えていったら」と構想された作品群が2024年現在に与える印象には正直、外れ馬券のような微妙さがある。
 はっきり言ってしまおう。このアンソロジーだけではない。2020年当時に描かれたどんなSFも未来予測も、みんなコロナ禍に「飽きた」から怯えることをやめた・高らかな勝利宣言もなく何だかウヤムヤのうちにパンデミック自体「なかったこと」にしてしまった現実の、なんならSF以上にSF的な展開には勝てなかった(のではないか)。
 どういう文脈でか詳らかではないが「想像力は人類に残された最後の資源だ」という言葉を残したと言われるJ.G.バラード。彼の短篇「第三次世界大戦秘史」は秘史も何も、冷戦末期の米ソで互いを警戒しながら牽制しあうミサイル管制室の間で、どっちかの下っ端が間違って相手に宣戦布告してしまい手続き上は第三次世界大戦が勃発していた(そして「あ、ごめん今のナシナシ」と一瞬で終結した)という間抜けな話なのだけど、ちょっとそんな感じでCOVID-19の流行は「なかったこと」にされてしまった。この点、パンデミックの真っ最中で東京オリンピックを敢行した日本の功績(皮肉)は大きかったかも知れないし、その成功体験(皮肉)の後には五類移行が続いた。
 この「なし崩しの、カタルシスのない勝利」に、物語のほうから与えた影響は小さくなかったのではないか―いちおうまだ作家でいるつもりで少しずつ作品をモノしてる自分にとって、これは少なからず気になる命題だ。社会がパンデミックに「飽きて」スシ詰めの通勤電車でもノーマスクの人々が多数を占めるようになった現実より以前に、創作物―まんがやアニメやドラマの世界は最初からマスク着用を拒否していた。「マスクなんかさせたら、登場人物の顔半分が見えないじゃないか」と送り手側・受け手側の利害が一致した結果、パンデミックのただなかでさえ物語の登場人物たちはノーマスクで通した。それがマジョリティだった。律義に主人公たちにマスクをさせていた作品や制作者の方々を馬鹿にする意図はないけれど、結果的には正直者が馬鹿を見た。
  僕の念頭には『カラマーゾフの兄弟』の百姓どもが意地を張った(原卓也訳)という台詞が、なんなら『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』とセットで)あるのだけど、自メモとして残しておきたいだけなので気にしなくていいです。それよりも。現実(マスク)の拒絶という形での、物語側からの異議申し立ては、やがて現実の社会みずからがパンデミックという現実を拒絶していく・否認が現実を塗りかえていった流れに多少なり貢献(皮肉)してはいなかっただろうか。
 拙作『リトル・キックス』も進学してからの主人公たちをマスクありにしとけば良かったかもと今は思うけど、描いてた当時は「これは別の世界線」という意識のが強くてノーマスクにしたんですよね…たぶん。(実在のイベントをモデルにしているため余計に「これは別の時間軸」と強調したかった模様)
※作者ひとりの物ではない相互作用として作品を捉えるムカジョフスキーによれば、作家には「未来の(スタンダール)」であれ「想像上の(象徴主義者)」にせよ読者が必要らしく、今年も(半ば想像上の存在であるにせよ)拙作の読者になってくれてありがとうございました。
 話を戻す。
 マスクの着用だけではない。ミュージシャンからSNSユーザーまで発信者の「政治的な」意思表明が忌避され、30年も40年も50年も前のアニメのリメイクが次々と発表されては何だかんだで若いファンまで喜ばせ、そして過酷な労働環境にあえぐ主人公たちは異世界に転生して都合よく付与された高スキルで伸び伸びと欲望充足を謳歌する。狭義にも広義にも、つまり創作色の強いコンテンツでも日常的な発信行為でも「物語」が現実を拒絶するモードが続いている。繰り返しになるが、それは「現実を拒絶する」という形での現実との関わりかた・何なら現実への関与だというのが90年前にチェコで書かれた文章にヒントを得ての、今回の日記(週記)での気づき・言語化だ。
 いちおう(まだ)送り手側としては、リメイク流行りや転生流行り=レミングかレギオンのような一斉の現実拒否を、新型コロナ禍と正面から向き合えなかった敗北感が加速してなかったか気になるところではあるけれど…

 現実を拒絶せず、むしろ積極的に作品世界に取り込もうとした『最後のライオニ』は(今後、気候変動の進展によってCOVID-19以外のパンデミックが頻発し、やはり現実拒絶は現実に勝てなかったとなる可能性もあるものの)短期的には「外れ馬券」だった…そう書いてしまったが、実は例外もある。たとえば本題のパンデミックとは別に、同性の結婚やパートナーシップを積極的に描く作品が散見されたことも付記しておきたいが、そこではなくて。
 今年5月の日記でも取り上げた『タワー』の著者ペ・ミョンフンは2020年のアンソロジーでも気を吐いている。収録の「チャカタパの熱望で」は新型コロナ以降、口から唾を飛ばすような「激音」が駆逐された言語環境を描く短篇でそれはそれでメチャメチャ面白いのだけど―2020年以前のヒャッポ、ユズッテ、ご賢察のほどをぉおおおおお!」(強調は原文のまま。パンデミック以後は「ヒャホ、ユズテ」となる)という叫びに「この世でいちばん悔しそうに聞こえる」「内面の悔しさが噴出するような発音」「文字を通して伝達される意味以上の何か」を読み取り「これが話には聞いていた、恨(ハン)というやつなのかな?」と2113年の語り手が首をひねるくだりはムカジョフスキー的にも(?)超おもしろい。だが、そこでもなくて。
 2020年のパンデミックは「文明史の真の転換点ではない」「第一次世界大戦を基準に十九世紀と二十世紀を区別する人は多いが、同時期に流行したスヘイン風邪が二十世紀の幕開けだたと主張する歴史学者はほとんどいない」という主人公の見解、(COVID-19の後も)「人生は回復され、人々はだいたいにおいて、以前と変わらなかた」という見解は、わりとこっちは「当たった」未来予測かも知れない(そのじつ語り手はスペインを「スヘイン」決定的を「ケテイ的」と呼ぶくらいの変動をパンデミックに強いられているのだが)。
 その社会学的な洞察は「もちろん私も、二〇二〇年を起点として世の中が変わたという事実そのものを否定はしない」「近代人にとて二〇二〇年とは、ヘイト再発見の時代だた(強調は引用者)で冴えわたる。「感染症が全世界に広がると、人々は、自分とは違う人々を積極的に憎みだした。もともと嫌いだたが、もはやそれを隠しもしなかた」という説明まで、つけくわえる必要があるだろうか。

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 久しぶりに歩いた渋谷。ダイバーシティを謳いながら路上生活者を叩き出して建てた巨大ビルにはプラダやバレンシアガのショップが人を圧するスケールで居並び、その前を体入ショコラ(バーニラバニラで高収入ー♪の同業)の広告トラックがゆっくり横切っていく光景が出来すぎで、言語化するのに言葉がもつれた。
 まだ脳内でもつれてる言葉を可能なかぎり整理すると「この社会が見たかった夢の、最上の具現化がコレか」という落胆を通りこした納得。
 同じ渋谷で目にした(いや自分が住んでる横浜にも普通にあるんだろうけど)K-POPアイドルをアイコンにした転職サイトの広告も、夜のお仕事で高収入♪の広告トラックも、労働(収入・高待遇)すら消費者目線で「買える」かのように謳っている。NISAもリスキリングも同類だろう。お金で買えないものはない・お金(高収入)じたい「買える」という金(カネ)本位制は、逆に手にふれるもの全てが金(ゴールド)に変わってしまう寓話の王様の呪いのようだ。
 夢を見るにも資源が要る。バラード言うところの想像力という資源だ。かなわない夢なんてないと勝ち誇る王様たちの夢は「緑の砂漠」のように資源たる想像力の貧しさを見せつける。まるで「AIがあれば全てはあなたの想像力しだい」と謳うレタッチソフトやサービスの「作例」が異様に貧しく、つまらないように、
 本サイト運営者は基本的に底意地が悪いのでハイハイ「AI機能を使えば誰だって ×ミケランジェロ ×カンディンスキー ×ピカソ …クリ○チャン・○ッセンに(は)なれる」って感じですね…と思うことはある。ラッ○ンさん・およびファンの人すみません…というキャプションに「いやラッセンもそれなりセンスは必要でしょ」と苦笑ぎみにフォローを入れる羊帽の女の子(ひつじちゃん)
そしてその「誰でも王様」のきらびやかさは、実際には広告トラックに引き寄せられるような若い人たちを搾取の対象として分断している。いや、若い子たちにも「あなたは王様」という幻想を海外ブランドで与えながら実際には「王様ゲーム」をさせている。そういう現実を直視したくないという願望を「政治」を語らない物語の送り手と受け手が、こぞってブーストしている。

 2020年のパンデミック初期に飛び交った多くの憶測・未来予測のなかには「中世のペスト禍がもたらした禁欲的な時代の後に肉体の解放を謳歌するルネサンスの時代が来たように」新型コロナによる隔離やロックダウン・会食や接触の忌避の後には、再び身体的な接触が肯定&積極的に謳歌され、開放的な環境で文化の発展が加速される(俗に言えば「イケイケな」)時代が到来するだろう、という楽観的な予言もあった。いや、それは本当に楽観的だったのだろうか。現に2023年の新型コロナ五類移行以降、この国ではノンアルコールでも会食は積極的に肯定する「スマドリ」が喧伝され、快の享受が(再び)持て囃されてはいる。けれど新型コロナ以降のそれは「(実は今までもそうだった)そうして快を享受できるのは特権的な一部だけ」という欺瞞を顕わにするものでもあった。ルネサンスだって似たようなもの、だったのかも知れない。大手芸能事務所の創設者や、上方お笑い芸人のボス的存在、その他もろもろ(検察の大物まで)の性的加害が暴露され「パンデミック後の開放」は万人の解放ではない、むしろ社会の上澄みにだけ都合がいい格差の温存・いっそ強化らしいと受け止められつつある。
 街の広告を見て、もうひとつ気になっているのは「ズルい」という言葉の流行だ。あいつはズルい、裏金議員は許せない、外国人観光客は店に入るな、公金をチューチュー吸っている、様々な罵倒の一方で「ズルい○○(を消費者としてあなたも享受しませんか)」という宣伝も目につく。主人公が「チート」能力を授かるライトノベル(最近は「なろう小説」と呼ぶらしいが)やまんが・アニメは、この新しい社会的規範の原因だろうか結果だろうか。
 職業自体に貴賤はないと考えたいけどあと見たことない地域の人もいましょうが街を行きかう夜の求人広告トラックでは男性向け求人の広告イラストの絵柄が売り手よし買い手よし社会にも貢献とか
まったく考えてなさそうな、弊社の求人に応募して悪どく儲けてやろうぜみたいな顔つき(堂々)(うろ憶えの記憶に基づく模写つき)なのも気になっている…
 「人々は、自分とは違う人々を積極的に憎みだした。もともと嫌いだたが、もはやそれを隠しもしなかた」かえって分断は加速した。公的には終わったはずのパンデミックが、社会の澱みは一向に一掃させていないのは、本当にキチンと感染流行を終結させたわけではない・なし崩しの「移行」だったせいなのか。

 そこで今回の日記(週記)の、今年を締めくくる最後のメイン日記(週記)の結論はこうだ。
 好きにしなさいよ。
 どんなに社会に背を向け現実を拒絶しようと、どのみちソレ自体、現実の社会への働きかけになる。
 「あなたが政治から逃げても、政治はあなたを逃がさない」などと言うが、それは徴税や徴兵があなたを追いかけてくるという意味ではなかった。私は社会に関わらない・政治に物申さないという拒絶じたい、世の不正や不均衡をそのままにしておきたい勢力への加勢であり、強力な(そして誰かにとって強烈に抑圧的・搾取的な)権力の行使なのだ。つまり正しくは、あなたが政治から逃げたつもりでも、逃げることも選択であり、そう選択したことの責任からは逃れられない。
 だから好きにしなさい。
 好きに物語を紡ぎ、発信しなさい。わざわざ意図的に盛り込まなくても、あなたが社会をどう捉えているか・どのような規範に従っているか・差別も悪意も欺瞞も―そして希望も善意も、自ずと映し出される。
 私は夢を見ていたいだけなんです、大いに結構。夢だけ見ていなさい。だが20世紀の半ばから言われているように、夢から始まる責任もある(In dreams begin the responsibilities)
 ガンジーだか誰だか知らないが「世界を変えるためではなく、私が世界に変えられないために」抵抗して云々、という言葉を深くは考えず振りかざす人たちも、振りかざしていなさい。自分を変えるためでなく変わらずにいられるために、世界の不正に自分が加担しているかも知れない自覚を持たず「変わらない私」でいる特権を行使しつづけ、己の無垢と引き換えに世界を変えつづけなさい。
 私は夢を見たいだけです、私はこんなにしんどいのに、ささやかな夢も見ちゃいけないんですかと言いながら、低賃金と過重勤務のアニメーターを酷使して作られるコンテンツに課金し、ライブコンサートのチケットや握手の機会を求めて同じ円盤を何十枚も買ってプラスチックを無駄に積み上げ、そして払った金額を己の力の証として誇っていなさい。推しに課金して、ハラスメントやルッキズムが駆動するアイドル業界の「経済を回し」続けなさい。
 
※日本の転職サービスの広告に起用されたK-POPアイドルの「私は人形じゃない」と訴えるソロ曲。画面下部の字幕字幕ボタンのスクリーンショットをクリック・赤い下線を出した状態で日本語字幕を生成できます。
 心が痛むなら、心を痛めなさい。痛むなりに何か考えるなり行動を変えるなりしなさい。そんなのは厭だ、私は変えられたくない・心を痛めず「ありのまま」で皆に褒められ認知されたいというのであれば、今までどおりの夢を見つづけ、不都合なことは「なかったこと」にして、「なかったことにする」という権力を行使しつづけなさい。「ズルい」のは他の奴らだ・他の奴らは「ズルい」・他の奴らだって「ズルい」のだからと、「ズルい」ふるさと納税で美味しい肉に舌鼓を打つ自分を正当化しなさい。

 物語には現実を変え、動かす力がある。古くは『動物のお医者さん』のまんがが現実の若者の獣医学部への志願を劇的に増やしたという話がある。ロックに関わる女子がバンギャ・グルーピーなどと言われた「バンドをやってる男に追随する女子」から「自ら楽器を持ちバンド活動をする女子」に大きくシフトしたのは、やはり漫画やアニメの影響が大きかったのではないか。
 だから夢を見なさい。あなたの夢や願望は、世界を変える力がある。その力を信じなさい。邪悪で卑劣で不当に優遇されているのは自分以外の誰かで、トラックに轢かれて異世界に転生でもすれば、自分に真の属性が付与されて無双でもスローライフでも思うがままだという物語を支持し続ければ、多かれ少なかれ現実も同じように変成される。実際、お金を払えば「真の属性」が買えますよという美容整形や語学スクールの広告で電車の中は一杯だ。
 人は手持ちの素材に応じた夢しか見れない。違う夢を見たいなら、夢の素材を変える必要がある。

      *     *     *
 今年も例年どおり60〜70冊くらい本を読んで(読めて)、たぶん私的なベストは(4月の日記で取り上げたウォーラーステイン『史的システムとしての資本主義』(岩波。これほどの本が文庫で読めるって本当にすごいことよ)なんだけど、公的な私的ベストとして(なんだそりゃ)刻みたいのはアーティフ・アブー・サイフガザ日記 ジェノサイドの記録』(中野真紀子訳・地平社/外部リンクが開きます)だ。
 まずは筆力に圧倒される。それはパレスチナで文化行政にも関わっていた著者の力量でもあるし、ムカジョフスキー的には各々の読者が持つ危機感の反映でもあるのだろう。大粒の水滴がトタン屋根を連打する真夏の驟雨のように、絶え間ない死と破壊が降り注ぐ状況で、けれど文章だけは一文一文すべてが全力の「生」「命」「生命」を放っている。それが(自分がバラバラの遺体になっても誰だか判別してもらえるよう子どもたちが己の手足に油性ペンで名前を書いておくような)極限状態の「効果」「賜物(なんてひどい言葉)」なのかと考えてしまうと、たまらなくやりきれなくなるが。
 そこにあるのはジョルジョ・アガンベン言うところの(動物的・物質的な生存以外はすべて剥奪された)「剥き出しの生」などではない。いや、アガンベンが告発したように「殺す側」は殺す前にまず「剥き出しの生」以外すべてを剥奪しようとする。けれど殺してもいいとされる側には社会が、家族や隣人が、生存のためのインフラが、渇ききったスカスカの実から絞り出した水のように乏しく貴重な食物が、喜びが、喜びを叩きつぶす悲痛が、そして言葉がある。
 「ニュース(中略)を聞いているのは堪えがたい苦痛だ。彼らは私たちについて語り、私たちを引き合いに出し、私たちを代弁し、私たちのために決断しながら、一度も私たちの口から話をさせようとしない」と著者は言う。この本には生きた言葉がある。「まだ死んでない」「死んでも行きてなかったことにはならない」この虐殺を「なかったことにはできない」と訴える言葉が。

 ムカジョフスキーは言う(引用はこれが最後です)。ドストエフスキーの『罪と罰』の読者には、主人公ラスコーリニコフのように殺人を犯した者も、彼が殺人を正当化した思想に賛同する者すら、ほとんどいないだろう。にも関わらず「一人一人の読者の受ける印象は「それはお前のことだ」(tua res agitur)である」と(「詩的な意味表現と言語の美的機能」)。
 真偽のほどは詳らかでないが、人間の脳は自己と他者を区別できないという説があったはずだ。だから脳内で「クズ」とか「ダメな奴」「○んでしまえ」などと他人を呪詛することは、主客の判別が出来ない脳内では自身への呪詛となって自身にダメージを与えると言うのだ。そんなことも含め。
 ミラン・クンデラなら「そんな単純じゃないよ」と言うかも知れないけれど(再度参照)、代わりに彼は自身の登場人物に言わせている―「権力にたいする人間の闘いは忘却にたいする記憶の闘いにほかならない」(『笑いと忘却の書』西永良成訳・集英社文庫)。
 自身の生活にとっては渋谷のミヤシタパークより遠い、ガザで記された言葉でも「お前のことだ」と信じさせる、文章の力を信じること。毒をくるんだ糖衣錠のような「もう終わったことだ」「何もなかった」という言葉、差別や搾取・虐殺の肯定を「お前のものだ」と飲み込まそうとする言葉を、どうにかして拒絶すること。
 良い来年と、それ以降を。
 写真1:ウッドテーブルの上、「FREE PALESTINE」のトートバッグ、『ガザ日記』とファラフェルサラダのプレート(500円玉くらいの小さなファラフェルが乗ったレタス主体のサラダ・柔らかそうな平焼きのフォカッチャ・紫キャベツのピクルス・スープ・水)。写真2;ファラフェルのアップ。写真3;半分かじって断面が見えたファラフェル。
※『ガザ日記』で著者や家族・ガザの人々が必死の食事としてありつく「ファラフェル」は横浜だとみなとみらい・JICAの食堂で「ファラフェル・サラダ」として食べられる。
 『ガザ日記』の収益は諸経費を除く全額が、パレスチナで現地支援に取り組む団体に寄付されるそうです。

小ネタ拾遺・24年12月(25.01.02)

(24.12.01)今日は新潟コミティアなんですね…参加の皆様は楽しまれますよう。
(追記)今もまだガタティアに出ていたら、現在20時半なんですけど即売会のあとワークショップを聴講して新潟駅前で打ち上げの飲み会にノンアル枠でおつきあいして、23時頃発の夜行バスで翌朝の東京に向かうんですよね…そんなん普通だよと言う人もいるかも知れないけど、自分にしては20年近く随分と頑張ったなあと。当時は無理と思わないから出来たことが、新型コロナを期に即売会から足を洗って5年になると(一度くらいのサプライズ参加とかは兎も角)再開は難しいなと思う。まだ続けてる方々・新たに参加を始めた方々に遠くでエールを送りつつ、たぶん自分はいわゆる林住期なのでしょう。ガタティア(と東京では文フリ)があった今日も昼間は買い出し・洗濯を済ませて夜は冷凍が必要な食材の下処理に帳簿つけ。これはこれで穏やかな日々です。
(24.12.02追記)昨日「新潟コミティア参加の人たちは今ごろ打ち上げかなあ」と書いたのですが、今は新型コロナを鑑みワークショップ終了で解散だそうです…大変ね…

(24.12.02)…他の本も挟みつつ楽しく読み進めてる『監獄の誕生』ですが、フーコーが盛んに引用している18世紀ヨーロッパ法制の権威マブリー(Gabriel Bonnet de Mably,1709-85)の名前が出るたび、頭の中に韓国のコワモテ俳優マ・ドンソクの姿が浮かんで困る。
 18世紀風?の法服に羊のカツラ、「無罪」と両手でハートマークを作りつつ笑顔が怒りに引きつって震えるマブリー(ラブリーなマ・ドンソクの略称で愛称)のイラスト。
(24.12.03)本を読んでて雑念が混じると言えば、今年の始めに読んでいたJ.ゴンダ『インド思想史』(原著1948年・鎧淳訳1981→中公文庫1990年)ではインド哲学の最重要概念として(ブラフマン)という単語が頻出するのですが
 『インド思想史』書影(今年の正月に金沢の古本屋で買いました)と「…それは梵なり…実在たる梵」という本文スクリーンショット
梵の字が出てくるたび脳内で「そよぎ」とルビを振ってしまう自分がいました…いや「そう読むんだぁ」で憶えてただけで野球のことは全然なのでスミマセン

(24.12.04)先月の日記でダイアン・アーバスの双子の写真について書いたとき載せたかったけど直ぐに掘り出せなかった写真が出てきました。昔iPhoneの待ち受けにしていたのです。
 ダイアン・アーバスあるいは『シャイニング』の双子のように並んだ、小さな子どもくらいある対のミッフィー人形。「16:45 5月30日土曜日」の表示つき。

(24.12.05)音楽情報サイトamassの記事2024年に亡くなった著名人たちが登場するビートルズ『サージェント・ペパーズ』風トリビュートアート公開(24.12.4/外部リンクが開きます)。『シャイニング』のシェリー・デュバルや『ロッキー』でアポロを演じたカール・ウェザーズ、個人的に自作まんがのキャラ名で借りがあるフランソワーズ・アルディなどの他に、セッション・ミュージシャンとして自分が思う以上に知られた存在だったのだろう、ハービー・フラワーズの名前が挙がっていた。
彼の一番有名な仕事は、おそらくルー・リードの大ヒット曲「ワイルド・サイドを歩け」のベースだけど
Lou Reed - Walk on the Wild Side(YouTube/公式/外部リンクが開きます)
低音のウッド・ベースと中低音のエレキベース、二つの音色を重ね合わせるアイディアをこうするとギャラが二倍になるんだよと茶目っ気たっぷりに語ってたのが大好きでさ。訃報に際してデヴィッド・ボウイの遺産管理団体とキーボード奏者のリック・ウェイクマンがそれぞれ異口同音に「とても面白い人でした」とコメントしてるのも、なんだか面白い(出典・外部リンクが開きます)
ルー・リードの同じアルバムから、もう一曲。チューバから音楽キャリアをスタートさせた彼が「うん、ぱ、うん、ぱ」とユーモラスに鳴らす
Lou Reed - Goodnight Ladies(同/外部)
若い頃は(アルバム全体のイメージに引っ張られて)この一見あかるい曲にも表裏一体の虚無を感じてしまい勝手に\苦手だったのだけど、歳を経た今はそれも含めて穏やかに聴ける。ルー、ボウイ、ミック・ロンソンにミック・ロック、それにもちろんアルバムの影の主役と呼ぶべきアンディ・ウォーホル、みんな彼の岸に渡って(実際には関わってないウォーホルを除けば)最年長だったハービー翁が「やっと行くよ」と歩み去っていく感じ。悪くないです。

(24.12.06)これは完全にプロ野球に関心がない部外者のイチャモン(しかも昭和ネタ)なのだけど、今になって振りかえるに「大洋」「ホエールズ」がパシフィック・リーグではなく、王冠と百獣の王の名をもつ「クラウン(ライター)」「ライオンズ」がセントラル・リーグでもなかったの、ちょっと微妙に納得がいかない。池袋駅の西口が東武で東口が西武みたいなものか。
(24.12.07)そんなこと言うたら、ポール・ニューマンよりゲイリー・オールドマンのほうが新しい(若い)。

(24.12.06)東京電力による柏崎刈羽原発の再稼動に反対する署名(cahnge.org/再稼働阻止全国ネットワーク事務局/24.11.30/外部リンクが開きます)に賛同しました。

(24.12.08)ついに今期は仮面ライダーガヴ(TV朝日公式/外部リンクが開きます)も観てるのですが、パステルカラーに彩られた平和な日常が日本のはずなのに、それを侵略する異形の敵が家父長制というかイエ系(そんな言葉はない)・ファミリー経営の悪徳企業で使役される下っ端怪人が「バイト」(闇菓子に耽溺するバイト≒闇バイト?)と「ある意味こっちのがリアル日本」な設定がエグい。自身も決して幸福とは言えなかった強大な父の専横を長男が継いでるあたり、先月熱心に語ったパキスタン映画『ジョイランド』(参照)とシンクロしすぎで慄く。

(24.12.10)かつての王権は王(権力)が存在を誇示したけれど、近現代は見えない権力が権力を持たざる民草に「お前の存在をすべて可視化して晒せ」と強いる…フーコー監獄の誕生』いよいよ佳境(?)。イーライ・ロスのスプラッタ映画もかくやと思われる冒頭・絶対王政時代の残虐刑には「えげつなー」と引く程度で(まだ)済んでいたのが、表面的にはずっと大人しいはずの後半・近代以降の学校や職場での監視と規制と絶えざる考課(試験)による人間の規格化がかえって、読書を投げ出したくなるほど他人事でなくてツラい(「もう指図を受けるのはイヤだあああ」と叫んで逃げる辻強盗のまんがを描くひとの感想)…耐えて読んでるけど。
実はフーコー、同書の脚注で本書がドゥルーズ=ガタリの著作わけても『アンチ・オイディプス』に「測りがたい」ほどの「おかげをこうむっている」と謝辞を捧げていて、まあそれとは違うかもだけどD&Gが現代のずっと前・無文字社会の習俗である文身(いれずみ)を身体の表面に刻まれた社会コードと捉えていたの、を、現代人は学校や職場での規律という別の形で(内面的に)身体に刻まれているのかも。内面化された文身・内面化された監獄。また『アンチ・オイディプス』の精細な注釈書が出てるみたいなので、そのうち読みたいところです→なんて軽い気持ちで言うから12・18のザマを参照。
(24.12.12)『監獄の誕生』読了。いやー面白かった。フーコーの最高傑作とも言われてる一方、本人が最後ここでこの書物を中断すると言って擱筆したため「未完なのかぁ」みたいな評価?風説?もあって、でも一応ちゃんと終わってる。小ネタの枠を超えちゃうので月末に加筆しますが、むしろ最終章の追い込みがすごい。
そしてその最終章「監禁網は外部の世界をもたない」罪人・逸脱者も無法者(アウト・ロー)として排除されるのでなく逆に「法の中心」規律社会の「機構のまんなかに位置している」(逃げられない)とする言いようが、本サイトで何度も言及してるドゥルーズ=ガタリの「人種差別の観点には外部というものはなく、外部の人々は存在しない」(参照)とやっぱり呼応してるなと考えたとき。本書の訳者解説が1977年だから日本の事例として引き合いに出してる「監獄」は網走刑務所や巣鴨プリズンだけど、2020年代の今だったら想起されるべきは(監獄であり人種差別の場でもある)入国管理局ではないかと…品川の東京入国管理局の十字形の建物がパノプティコンに見えたのを改めて思い出したのです。

(24.12.18)積ん読を擁護した「買った本は読まなくても並べて背表紙のタイトルを見ているだけで発想が浮かびクリエイティビティが生まれるのです」なんて甘言をありがたがる人に、実際に読まないと味わえない「本書は(中略)わかりやすさに重点を置いた」と「はじめに」で宣言してる本の「わかりやすさ」が
 右にブックサンタお礼のカラフルな絵葉書・右に同じくステッカーを載せた森田裕之『ドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプスを読む』』
「それは、〈頭脳労働のための労働力の流れ〉と〈貨幣の流れと(土地を含む)生産手段〉という接続的総合の離接的総合(=〈[頭脳労働のための労働力の流れ]か、[貨幣の流れと生産手段]か〉→〈賃金の流れ〉と〈頭脳労働のための労働力の流れと生産手段〉という接続的総合の離接的総合→〈賃金の流れ〉と〈知識資本の流れと(土地を含む)生産手段〉」という接続的総合の離接的総合→〈労働力の流れと(最新の)技術機械〉という接続的総合と〈貨幣の流れと生産手段〉という接続的総合の離接的総合という運動だ」だった絶望感を教えてやりたいぜ(正しく書写できてるかすら分からん)…『監獄の誕生』が思いのほか読みやすく分かりやすかったので油断しました。
(24.12.14)てなわけで大人にも歯が立たなかった(個人の実力です)左の本はともかく、子どもたちに本を贈るブックサンタ2024(外部リンクが開きます)今年は書店で絵本を棚からレジに→「これ、ブックサンタでお願いします」と申し入れてお支払い。夏ごろから決めてたヨシタケシンスケさんのりんごかもしれない(ブロンズ新社/外部リンクが開きます)。ブックサンタは小学生向けの本が選ばれにくい(から選んでほしい)という話があり迷いもあったのですが、実物を手にしてみたら帯に「小学生に大人気」とあり(もうちょっと低年齢向けかと思っていた)結果どストライクで良かったです?店頭でお礼の絵葉書とステッカーを貰いました.

(24.12.11)しょうもない話もする。来夢来人(らいむらいと)とか多恋人(たれんと)とか当て字の店名や看板を見かけるたび趣味で記録しているのですが
 「スナック茶恋路(ちゃれんじ)」「地下道(ちかみち)」「油食来(オイルショック)」と来て「呑み処 花紋」
右端の「呑み処 花紋」…これって「come on!」の駄洒落だと思います?あとアレだ、
 「寿司 久(きゅう)」
この「寿司 久(きゅう)」は間違いなく「スージーQ」の駄洒落では、ないぞ。

(24.12.16)元々英語で書かれた岡倉天心の『茶の本』。個人的には一番モダンで読みやすく思っていた講談社文庫の宮川寅雄訳、同じ講談社の学術文庫で英日併録版が別のひとの訳で出たため絶版になっていたのが他の小出版社から再発されてるのを確認しました。
岡倉天心著・宮川寅雄訳『茶の本』(土曜社2017年・外部リンクが開きます)
「茶には酒のもつ尊大さはなく、コーヒーのような自意識もなければ、また、ココアのような気取った無邪気さもない」といったユーモラスな自賛や「世人は絵を耳で批評する」「われわれは(略)虚栄心があるにもかかわらず、自尊心さえともすれば単調になりがちである」といった百余年後の今もなお塩気を失なわない文明批評。なにより全編の白眉と呼ぶべき琴の名人の逸話や、近松とシェイクスピアを並べての演劇論など創作活動のヒントがちりばめられた、作家にとっては護符になりうる一冊かと。他の訳でしっくり来なかった人もワンチャンで。

(24.12.13)文庫クセジュの『ルネ・ジラール』彼の思想に初めて接するひとにも読みやすいかは不明ですが、既読者には良いまとめかと。
 『ルネ・ジラール』書影。カフェっぽい小洒落たテーブルの上、横にブラックのコーヒー。
で、その思想の要点として引用されてるジラール自身の言葉自発的な欲望というものはもはや存在しな…」(p61)に、(知ってたけど)これ知ってる自発的な欲望なんてなぁーい♪愛は誰かの感情のコピー鈴木祥子さんが歌ってたやつだ!と改めて(メロディつきで)思い出すなど。祥子さんが「読んで”待って!?ああああ”と目を疑った」本がジラール自身の著作か、それを引用した誰かの本かは詳らかでないけれど、でも『欲望の現象学』とかタイトル的にも似合いそう。
鈴木祥子 - 本当は哀しい関係(歌詞)(うたネット/外部リンクが開きます)
(24.12.14追記)鈴木祥子さん「君の赤いシャツが」で取り出した本の表紙はおんなじスーザン・マイノットと歌われてた、そのスーザン・マイノットの本のタイトルも『欲望』だったっけ…んにゃ、歌の当時出ていた邦訳の中では一冊目だった『モンキーズ』のほうが歌われてる初々しい(?)カップルには相応しいかもだけど、祥子さんご自身は『欲望』推しだったと何処かで読んだ記憶が。ひりつくような孤独の話。
歌の後だと2000年代に『いつか眠りにつく前に』が映画化もされて、新しい代表作になってるようです>マイノット。図書館で探してみようかな。

(24.12.18)相変わらず歯科医の奥歯ディスプレイを収集しているのですが
 左から・アラビア書道のような太線で奥歯を包むような水鳥のフォルムをかたどったディスプレイ・波打つリボンの重なりで奥歯の形を表現したもの・奥歯にスマイルの口があり虹がかかってる図案・透明なガラスに白い太線で描かれた笑顔でVサインする奥歯・白い奥歯に頭部が大きい乳児みたいなバランスの目と笑顔の口を描き「歯は大丈夫?」とキャプションをつけた図案・奥歯のシルエットの中に同心円の幾何学模様を重ねたデザイン。
下図は同じ奥歯でも、おお!新機軸と驚いてしまった一件。実は奥歯=歯医者って、わりと新しめの表象だと思うけど(昔は大口を開いたカバさんなんかがデザインされていた)短い歴史の中で、どんどんイメージが進化している面白さがある→
 まめ歯科という名前で、熟して裂けたサヤエンドウの中に四つ並んだ豆に各々十字が刻まれ、上から見た奥歯の並びのようになっている
 ※鎌倉大仏駅から徒歩2分の処にあるというコレも、収集家としては一度現物を拝みたいような、そこまでしなくてもいいような→sskmさんのポスト(マストドン/24.10.24/外部リンクが開きます)

(24.12.19/ひとこと)今朝がた横浜の自宅を出るとき降ってるか降ってないかの雨まじりに「あれ…雪?みぞれ?」となったのですが公式にも初雪だったようですね。絶対三度の虚空に浮かぶ惑星という巨大な球体の上にいる不思議。二言だ。
 朝6時と9時の終わった天気が「雪」になってる気象サイトのスクリーンショット。
(24.12.20追記)種明かしすると今年はじめシモーヌ・ヴェイユに叱られて以来(2月の日記参照)折りにふれ空を見ては「…宇宙!」と思うことにしているのでした。

(24.12.21)今年はタイミングを逸してシュトレンも買いそびれましたが、冬至の南瓜はこのとおり。乱切りにした南瓜1/4と分量どおり(二倍濃縮なら二倍・三倍濃縮なら三倍)薄めためんつゆ(+水)100ccに蜂蜜または砂糖大さじ1でレンチン納得できるまで。一番ラクで外れがない。
 南瓜の煮物写真。「寿」の文字にウサギの絵をあしらった器で。

(24.12.23)1990年のコンピレーション・アルバムのみ収録らしく最近まで知らなかった、たぶんレア曲。しかしクリスマスまで(しかも金色と言いながら)こんな不穏にしてしまう彼女たちの才能よ…I miss them all the time.
ナーヴ・カッツェ - 金色のクリスマス(YouTube/外部リンクが開きます)

(24.12.24)今年のクリスマスは久しぶりに『忠臣蔵とは何か』でも読み返そうかなと思った矢先、そういえば先月鎌倉の古本屋で丸谷先生の未読エッセイ集を買ってたじゃんと思い出す。丸谷才一『無地のネクタイ』(岩波書店)。開くなり最初の短文が電柱・電線の悪口で笑う。んー、オタ友にはむしろ電柱大好き・電線はロマンて人のが居た気がするし同じオタクゆえ気持ちも分からなくもないけれど、うちの師匠(私淑)の「眺めがスッキリしてていい。江戸もかうだつたらう(要約)」そして「十九世紀に東西文化の大がかりな出会ひがあつたとき、西側は美的感受性の領域で大きな収穫を得たのに、東側では科学技術による便利さと引換へに、貴重なものを失つた」まで広げちゃう風呂敷の大きさには勝てる気がしない…それに比べて自分の「電柱があると本を読みながら歩きにくい」のスケールの小ささよ…
 『無地のネクタイ』書影と、横にコンビニの小さなショートケーキ。
『忠臣蔵とは何か』は雪の中の討ち入り劇に、君臨する冬の王を打ち払い花咲く春の復活を祈念する冬至祭の伝統+民を虐げる暗君追放の願いまで幻視する大きな風呂敷。むしろケーキもチキンもパーティーもない、あるいはケーキでもチキンでもパーティーでも晴らせない鬱怒(参照)に震える人たちにこそ、春の王よ来たれ。have happy holidays.

(24.12.27)ビッグイシューの本年最終号を購入。仕事も納めブックサンタもイラクの子どもへの絵本の寄付も済ませて、今年分のおつとめは大体完遂かなと思ったところに、イーロン・マスクがWikipediaを「Woke」pediaとくさして(これが悪口に成り得る・言うほうが恥さらしと思わずに言えちゃう社会の底抜け感がスゴい2024)寄付しないようXの信者たちに呼びかけてると風の噂に聞き及び、久しぶりにWikipediaにコーヒー1杯分ていど寄付しました(思い出すたび時々してはいる)
 イルミネーションを施された緑の植え込みと、赤レンガ風ブロックの上に置いたビッグイシュー12/15号。
ちなみにパレスチナへの1クリック募金は毎日のように続けてますよ。

(24.12.28)テレ東の正月時代劇だって12時間だったぞ…大晦日の夜9時から元日の夜9時まで上映会《24時間モーターヘッド》(外部リンクが開きます)を開催するシネマート新宿、ワケ分からん…
と言いながら正直うらやましいノリ。ボブ・ディランの来日公演すら「自分には資格がないと思うので…」と御遠慮もうしあげた自分が、まして家族と過ごす年越しをモーターヘッドでぶっちぎるわけにも行かないけれど、もっと大ファンで迷ってみたかった気はする…いちおう『No Sleep 'Til Hammersmith』は持ってますという算盤なら10級か9級レベルです。

(24.12.30)Q:大掃除はしましたか? A:明日の昼前に千葉の実家に着くよう横浜の自宅を出立したいのだけど、持ち帰りたい分厚い本の前に例のムカジョフスキーがまだ50ページ残ってて、今日(30日)は既に眠いんですけど明日(31日)早起きして出立前にムカさんを「片づけられたら」今年は可能なかぎり「片づけたよ」と思うことにします。明日の自分、ファイッ!!※こういう大人になってはいけません。
(追記)ムカジョフスキー、どうにか年内に読了。芸術に限らず発せられたメッセージの意味は(送り手が一義的に決定は出来ず)受け手が決める部分がゼロには出来ない。ということはメッセージの、ひいては世界の意味は「各個人で異る、比べることのできない事柄なのであろうか?」という問いを論文「社会的事実としての美的機能、規範および価値」(1948年)は「んなわきゃあ、ない」と斥ける。「個人が現実に対して取る態度も、もっとも個性の強い人のところでも、もっぱら個人に属するものなのではなく、かなりの程度まで―あまり個性の強くない人びとの場合にはほとんど全くと言ってよい程度まで―個人がその中に拘束されている社会的諸関係によって先に与えられている(強調は引用者)。
先に取り上げた岡倉天心の「吾々は虚栄心すら単調だ」と並ぶ、「真実はひとつじゃなくて、人の数だけあるよね」とか「世界が創造されたのは5秒前で全ては私の想像、ではないという証拠はないよね」とかドヤる人に「そんな風に考える人も、考えかたの大半は社会からの借り物。むしろ、そんな風に考える人に限って(その唯我独尊も含めて)マルマル誰かの借り物なんじゃないの?」と食らわす、80年前の痛烈なカウンター。これだから読書はやめられない。2025年も沢山読めますように。

 

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