NUTSとVIRUS〜「複製技術時代の芸術作品」を読む・歎異抄を読む・『性の歴史IV』を読む(25.01.05)
ウィルソン・ブライアン・キイ(1921-2008)は消費者たちがサブリミナル広告に洗脳されているという陰謀論を大々的に展開した人だけど、その一環として彼が噛みついたのが、若者が夢中になるロック・ミュージックだった。大ヒットした
ザ・フーの『
トミー』はストーリー仕立ての歌詞が虐待やドラッグ使用・スターのステージで突き飛ばされた観客の少女が顔に何針も縫う大怪我を負った話など、暴力的なイメージ満載なのに、リスナーは歌詞のことなど全く考えず、ただただカッコいい音楽として受け容れていた(それでいて無意識に刺激されていた)という彼の告発に「??」と首をひねったのは、後年のロックファンには『トミー』がそういう内容なのは周知の事実だったからだ(
20年3月の日記参照)。
でも「みんな意味とかキチンと考えずに聴いてない?」「それでいて過激な内容をサブリミナルで受け容れてない?」という彼の主張に同調したくなる時もある。
昨年めちゃめちゃ売れて小学生まで喜んで(ブリンバンバンというサビで)唄い踊ってたというラップ曲。「
俺様は偉い」とひたすら威張り散らすリリックだけ見知っていた僕は「アレがそんなに売れたのか」と昨年の紅白でゲンナリしたのだけど、あのトキシック・マスキュリニティ(有害な男らしさ)の模範文例みたいな歌詞までキチンと理解したうえで、皆はアレを良いとしているのだろうか。ましてcreepy(キモい)なnuts(キ○○イ。俗語。バーブラ・ストライザンドが精神鑑定にかけられる法廷サスペンス映画が『ナッツ』でした←古い)というユニット名の、形としては自身に向けられてるにしても悪意に満ちた言葉選びは。
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年末年始の帰省で久しぶりに顔を合わせた甥っ子1号にオススメの本を訊いて教えてもらったのが
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ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー あなたの意思はどのように決まるか?』(村井章子訳・ハヤカワ文庫/外部リンクが開きます)
さわりだけパラパラと読んだところ、人は先入観で判断を誤る・理性的に考えれば同じ内容であるはずの「90%成功します」と「失敗の可能性が10%あります」を違う重みに捉えてしまう、的な本みたいでした。
先入観で描いたイメージが、現物の本質を見誤らせてしまう、今週の日記(週記)はそんな話をします。
自分を題材に(笑)。悲しいなあ。

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多木浩二『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』(岩波現代文庫2000年/外部リンクが開きます)
は20世紀を代表する思想家(の一人)の、実は晦渋で取っつきにくい代表作を読み解く試み。
いや本当に難しいんですわベンヤミン。パサージュや幼年時代の思い出、パウル・クレーの天使とか、親しみやすげな先入観を振りまきながら、おそろしく理解できない。「複製技術時代の…」も若いころ読むには読んで、正直サッパリ分からなかった。
新書の都市論や戦争論で親しんできた多木浩二氏のナビゲートで再チャレンジ、今度こそ分かった!
と自信を持って言える気はまだしないのだけど(おえんがー)歳月を経て、ひとつ分かったことがある。
絵画や彫刻など旧来の芸術・その本物にのみ備わる手ざわりのような経歴=
アウラは、活字本やレコード・写真や映画など複製(コピー)され流通される新しい芸術には備わっていない…というのが同論の要旨なのだけど、
ベンヤミンは別にアウラを崇めてるわけでも、アウラのない写真や映画はダメだと言ってるわけでも、どうにかしてアウラを奪回しようと呼びかけてるわけでも「ない」のだ。
これが分かるだけで同論は相当に取り組みやすくなる。
言い替えれば初手からダメダメだった自分てだけの話かも知れませんが、でもだってさ「アウラ」とかさ、いかにも素晴らしくて価値ある・失なっちゃいけないモノみたいじゃありません?
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FAIRCHILD - アウラ(GIMIX)(Youtube/外部リンクが開きます)

アウラは取り返せなくてもいい、アウラのないコピー前提の芸術作品には、また別の天命がある。そう割り切って読むと(正しく読めてるかは兎も角)色々と見えてくる。毎日劇場で一つの役を通して演じ、しかも毎日観客の反応によってキャラクターを掘り下げ深めていく舞台俳優と違い、カメラを前に順不同で細切れのカットを演じる映画俳優は(舞台俳優のように)一貫した一人のキャラクターであるよりも、一貫した「自分自身」(つまりハムレットやスカーレット・オハラであるよりローレンス・オリヴィエやヴィヴィアン・リー)であることを求められる―なんてくだりは、それをヒントに中篇まんがのひとつも描けてしまいそうだ。
CDを経て音楽のネット配信が地平線の向こうに見えてきた90年代、元トーキング・ヘッズのデヴィッド・バーンが「むしろこれからはライブの時代だと思う」と語っていたことなども思い出される。バーンの真意は兎も角、特に日本では(いくらでも複製できる)CDやDVDがライブや握手会で「推し」と直に接せるチケットとなり、崇高さとか関係ない純粋な技術論としての「アウラ」が復権したとも言えるのではないか…などなど妄想は広がるのであった。
多木浩二氏の『精読』は末尾にベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」の70ページほどの原文が、
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杉浦明平『古典を読む 歎異抄』(1983年→岩波現代文庫2003年/外部リンクが開きます)
も各章の冒頭に小分けの形で原文がすべて収録されており「詳細な解説つき原文」として読めるのが良かった。すごく面白かったのは歎異抄、鎌倉時代の文章が(一緒についてる現代語訳の助けがなくても)かなりふつうに読めるのね。たとえば
「親鸞は、父母の孝養のためとて、一返(いっぺん)
にても念仏まふしたることいまださふらはず。そのゆへは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」
なんて「まふし=申し」「いまだ=未だ」「さふらはず=候わず」と分かれば「念仏申したること未だ候わず」この世に生きる者はみな家族なのだから(実の)父母の孝養のために念仏を唱えることなど一度もなかった…と全然読めちゃうでしょ?
僕が『歎異抄』そのものに先入観で誤解していたことは特にない(
と思いたい)のだけど、まあ歎異抄じたいが「異を歎く」親鸞の悪人正機説があっという間に後継者たちの間で誤解曲解されたことへの嘆きだし、同じ時期に読んで面白かったので並べる次第。
昨年の終わりに図書館で借りてきて、そのまま今年最初の読書になっている
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ミシェル・フーコー『性の歴史IV 肉の告白』(フレデリック・グロ編2018年/慎改康之訳・新潮社2020年/外部リンク)
は「性の歴史IVを読んでみた」解説書ではなく本体をそのまま読んでいるのだけど、これもまた今まで先入観で持っていた誤解が解ける一冊のようだ。
周知のとおりフーコー自身は1984年に亡くなっている。
先月の日記で紹介した『監獄の誕生』(原著1975年)に続いて彼は、人が自ら権力の囚人になるメカニズムを今度は「性」を通して追及しようと全六巻からなる『性の歴史』の執筆計画を立ち上げた。だが第一巻『知への意志』で計画は頓挫、研究対象を近代ヨーロッパから古代ギリシャ・ローマを移した第二巻『快楽の活用』・第三巻『自己への配慮』が急逝により遺著となった。
誤解していたのは晩年の彼が『監獄の誕生』や『知への意志』で見るように人間を囚人化する近代ヨーロッパに絶望して、自由や別の突破口を探すため古代ギリシャ・ローマ哲学に傾倒していた(
17年8月の日記など参照)と思いこんでいたことだ。
だから正直、初期キリスト教をテーマにした『肉の告白』の出版を知った時、あまり関心が湧かなかったのを憶えている。せっかくギリシャ・ローマに自由を見出したのに、なんでまた人から自由を奪うヨーロッパに戻っちゃうの?と思ったのだ。
誤解の多くは(アウラを「いいもの」と思いこんでしまったように)
実はニュートラルな事物を「いいことを言ってる」「人々に勇気を与えようとする善意に基づいてる」と勘違いすることに発している。勘違い「したがる」と言うべきか。あのひと、私のこと好きなんじゃねぇの?
いずれか片方しか選べないなら、私は善より真を取ると
スーザン・ソンタグも言っている。古代研究でフーコーを助けた歴史家ポール・ヴェーヌ(
22年12月の日記参照)の証言や『監獄の誕生』、『肉の告白』自体を読むうち、ようやく見えてきたのは古代ギリシャやローマはフーコーにとって「自由を保証してくれる別世界への突破口」ではなく「(最終的には)不自由なヨーロッパに至るワンステップ」だった、彼が求めていたのは別世界での自由ではなく、あくまで彼自身も苦しめつづけた「この社会」の不自由さの解明だった・らしいということだ。
そうと気づかず『性の歴史II・III』を一応ちゃんと読んでるのに「なかなか自由への突破口が開けないなあ」と思っていた自分が間抜けだった、と書いてしまうと情けないけど。

まだ100ページも読んでない『肉の告白』だけど、中絶の禁止・婚外交渉や同性愛の禁止といった現代ではキリスト教がよって立つ基盤のように思われている性規範は、実はキリスト教の布教前から古代ローマでストア派などによって十分に広まっていた教えだと指摘されている。酒池肉林みたいに奔放なローマの性を批判して禁欲を説いたキリスト教が、最初は迫害されたが最後には勝利した…みたいな物語は、物語にすぎない。実際には、少数派だったキリスト教が「ほら私たちもマトモですよ、過激思想じゃないですよ」とローマ社会に受け容れられるため、既に受容されていたストア派などの禁欲を取り入れ・また影響を受けたのだとフーコー(や、彼が依拠する先行研究者たち)は捉える。
ギリシャ人やローマ人にとっては適切な「快楽の活用」「自己への配慮」だった性は、それを受け容れたキリスト教によって「人間の男女が子どもを作ることは、神によって創造された奇蹟をヒト自らが再演することだ」と新たな意味を与えられ、ヨーロッパひいては現代社会の規範を形づくっていく。それはまた別の話。いや、これから読むんですけど。
AIに要約してもらえば(AIが「正しく」要約してくれるとして)ベンヤミンやフーコーに対する、こんな誤解もナシで済んでいたのかも知れない。けれど山道を実際に登攀するように実物の本を読むことなしに、いきなり連れて行かれた山頂からの眺めは、人に驚きや喜びを与えるものだろうか。
まあAIに興じて電力を使う人は使えばいい、僕は今年も道を間違えながら、足でよたよた山を登っていきますよ。あまり無理せず、山頂を急がずにというのが年頭の所感。
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最後も紅白の話。まあ一昨年に比べたら
「そして輝くウルトラソゥッ」「
はいっ!!!」と「バルス」みたくTVの前で唱和したり結構エンジョイした昨年の紅白ですが。creepyなnutsというユニット名とリリックにゲンナリして思い出したのが、人当たりが好さそうなパーソナリティと僕にはよく分からない才能で数年前から紅白の常連になっている人気歌手の、何年か前のステージだ。
細かくは忘れたけれど、大スターになった自分にも不満はあるんだ的な歌詞だったかも知れない。
screw youと決め台詞のように唄うサビに驚いてしまった。「スクリューする」は俗語だと「fxxkする」と同じ意味で、つまり彼はNHKホールの観衆と大晦日に紅白を観てる全視聴者の面前で「fxxk you」と同じ意味の言葉を言い放ったわけだ。
何かあると貼ってる
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PULP - Common People(YouTube/外部)
の、他にすることがないからdanceしてdrinkしてscrewする「普通の人たち」の気持ちが分かるかと唄うMV。2:30あたり「screw」はイギリスでは放送できないと判断されて音声がミュートされてる(仕草で分かるけど)。ちなみに6分近いフルバージョンでは聴ける「みんな外国人観光客をヘイトしてる/引き裂いてやりたいくらいさ」という箇所もMVではカットされている。この曲や映画『キングスマン』の冒頭・『トレインスポッティング』みたいな感じに、これからの日本はなっていくんだろうなと数年前(十年以上前?)に予想したけど、予想どおり着実に…
ともあれ。冒頭に挙げたW.B.キイは(陰謀論者だけど)見識もある人でfxxkはじめ性行為を意味する英語が攻撃的で残酷な動詞ばかりだと嘆いているけれど、たしかに「スクリューする」コルク栓を抜くスクリューのようにねじ込むは、その最たるものだろう。イギリスでは放映すら不適切とされるソレを彼は紅白で投げつけた。
creepyなnutsが「キモいキ○○イ」という意味だと、聴衆がどれくらい理解している前提で当人たちが構えているかは知らない。けれど紅白を観てる人たちにscrew youの意味が分かるひとは、ほとんど居ないと「彼」には分かっていたはずだ。それを承知で「どうせお前たちには分からないだろう」という気持ちで観衆に侮蔑の言葉を投げつけたのだとしたら、それも含めて不貞腐れた当てこすりだったとしたら、
柔和そうな印象に反して、彼にはずいぶん幼稚でワガママな一面もあるのではないか。前後して(?)リリースされたアルバムが「ポップな(大衆向けの、とも取れる)ウイルス」というタイトルで、やっぱりちょっと分かんないセンスだなあと思ったことも憶えている。彼にとってポップスは、意味や意図が正しく理解されなくても、いつのまにか相手に感染しているVIRUSなのだろうか。「僕は理解が遅いから(プリンスなんかもアルバム単位で好きになるまで20年くらいかかった)十年くらい経って急に彼の良さが分かるかも知れない」と冗談めかして家族には話してるけど、彼にかぎっては良いと思える日は来ない気が、個人的にはしている。
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(同日追記)これも何度も言及してて恥ずかしい
Mitskiの
Your Best American Girl(YouTube/外部リンクが開きます)も「(東洋人の私には無理だと分かっていても白人のあなたの)Best American Girlになりたいと願ってしまう」という歌詞を「恋を諦めないステキな唄」とポジティブに捉える紹介があって、違うから!なんで(一部の?)日本人はそう安直に「イイ話」にしたがるの!と思ったことなど。「あなたのお母様は私の母が私を育てたやりかたを認めないでしょう でも私は受け容れる 最終的に受け容れる」なんて歌詞、他のどんなラブソングでも聴いたことがなかった衝撃を返してほしい。すごい唄なんよコレは。
自然と暴力〜呉明益『雨の島』(25.1.26)
時間の使いかたが下手なのだろう、馬齢だけ重ねながら驚くほど沢山のものを見たことがない。
その多くは億劫や怯懦に基づくけれど、そもそも見るべきものにアプローチする手順じたい知らない、無知によるケースも少なくないようだ。たとえばの話、天の川を肉眼で見るには(日本だと)人里離れた山奥にでも出向く必要があると思いこんでいた。
まだ大学生くらいの若い乗り鉄氏が、好きこのんで様々な路線の終電に挑むYoutubeチャンネルがある。終電なので下車したあと帰ることも出来ず現地泊・それも多くの路線では終着地が宿すらない僻地や住宅地で「ベンチホテル」と称して駅前のベンチで一夜を過ごす処までセットで芸風にしていると思し召せ。その中に東京発の東海道線・国府津行き終電を扱ったものがあり
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【野宿確定】深夜1時、目の前は海… 東海道線最恐終電を乗り通してみた!|終電で終点に行ってみた#20(ナオヤ鉄道ch/Youtube2/4.5.14/外部リンクが開きます)
駅から徒歩5分・海岸に出ればアッサリ天の川が見れてしまうと知った。海に沿って道路はあるのだけど、高架の高速道路(西湘バイパス)のため星空を堪能するには十分な暗さを確保できるらしい。
国府津駅はヨコハマと同じ神奈川県。徒歩30分の距離に仮泊可能なスーパー銭湯がある由。また二駅先の小田原駅まで6.5kmなので、そこまで歩いてネットカフェに入るのも好いかも知れません。天の川のシーズンは夏らしいから、半年後の自分に期待。

台湾・淡水は台北から電車で日帰り圏の、風光明媚な港町(らしい)。邦訳は昨年出たばかりの
紀 蔚然『DV8 台北プライベートアイ2』(原著2021/松山むつみ訳・文藝春秋社/外部リンク)によれば、この淡水には駅から歩いて行けるマングローブの研究林と遊歩道・資料館があるらしい。こちらは国府津ほど簡単に再訪は出来ないけれど。

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淡水河紅樹樹林自然保留区(外部リンクが開きます)
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でも今日は同じ台湾の作家でも
呉明益の話。最初に読んだブッカー賞候補作
『
自転車泥棒』(原著2015年/天野健太郎訳・文藝春秋社2018→文春文庫/外部リンクが開きます)
で印象に残ったのは、象にまつわるエピソードを語るにあたり「人間にとって象とは何か」みたいな思弁が置かれるところだ。
「かつてゾウはこのジャングルと山脈の魂であった。魁梧(かいご)にして、他の生命を殺(あや)めることのない肉体は、慈悲の化身とされた。叡知をきらめかせる小さな目も、感情と霊性の象徴であった。
人びとはゾウを崇拝した。ゾウは人間の運命を知っていると考えた。そのころ、人間は自分たちが動物のなかでも神と通じる能力が備わらない、取るに足らない種族だと考えていた。
でも、そんな時代はもう終わった。」
あるいは鉄に関するくだり。
「古代ローマの詩人・オウィディウス(中略)
は人類の歴史を「黄金の時代」「銀の時代」「銅の時代」「鉄の時代」に区分した。人類は鉄の時代に航海と資源を知り、戦争に夢中になり、いっぽうで信仰を失くした」
逆にむしろ、こうした思索のほうが著者の本領であるらしい。環境活動家でもあり、フィクションの要素を持たない自然誌の著作やアンソロジーの編纂・絵画など台湾で第一人者との評価を確立しているようなのだ。
一台の自転車をめぐって(←それで鉄の話になる)主人公自身の半生と、日本軍も大いに絡む先の台湾の20世紀史(←それで象も出てくる)が掘り起こされる=ミクロとマクロの「人間の」歴史がモチーフだった『自転車泥棒』に対し、最新作
『雨の島』(原著2019年/及川茜訳・河出書房新社2021年外部リンクが開きます)
では自然と人間・自然の中の人間界というスケール感が強く打ち出されている(2011年の『複眼人』も、そっちサイドの小説らしい)。ざっと抜き出しただけでも登場人物ならぬ登場「生物」はオヨギミミズ、ウェッデルアザラシ、シリアゲアリ、ウンピョウ、ゴマフイカ、キハダマグロにクロマグロ、サシバ、そしてトラなど、など多岐にわたる。

物語の舞台も、ホームである台湾の近過去を描いた『自転車泥棒』とは大きく異る。『雨の島』を構成する連作は、ドイツの田舎に住まう少女ソフィーが最初の主人公だ。このソフィーが実は遠く台湾から貰われてきた養子であることが明かされ、著者の生地との絆はかろうじて保たれる(地に足がつく)が、逆にいえばホームとの紐帯は持ちながら世界のどこへでも行きうる・どことでも繋がりうるグローバルな人間社会が、著者が描こうとする「現代」だ。いや、正確には「現代」ですらない。本作はヴァーチャル・リアリティによるトラウマ治療や、疑似森林・疑似○○(いちおう伏せる)が製品化・商品化され、架空のコンピュータ・ウィルスが人々の人生との向き合いかたまで変えてしまった近未来なのだ。
つまり本作はSFと分類されてもいい。けれどその用法はSFとして(もしかしたら来ないかも知れない)未来という別世界・異世界を描くのではなく、まるで「
現代の本質を隅々まで描き切るためには、少し未来を描く必要がある」と言わんばかりだ。
作家を志す人なら、一度は「世界のすべてを一作で語り尽くす物語」を夢みたことがないだろうか。それはSFとか、エコロジー文学・あるいは「台湾小説」といった狭いジャンルにとらわれない物語でもある。
著者の意図はどうあれ『雨の島』は、そんな夢を久しぶりに思い出させる・そんな夢に(今時としては)最も肉薄してるかもと感じさせられる小説集だった。だからこそ、それが六つの断片からなり、断片の多くが「これからどうなるのか」という処で尻切れトンボに放棄されているのも興味ぶかい。人間も自然も含めた世界すべてを包括する物語は、しかし広げた大風呂敷を「これで完全だ」と閉じることは出来ない―なんだか量子力学の不確定性原理のようではないですか。
『雨の島』が(形式的には近未来を描きながら)限りなく「今」を描出した小説に感じられるのは、人よりも大きな自然界の中に改めて人間社会を位置づける・古くて新しい世界観のリバイバル(「人間は動物たちの中でも取るに足らない種族にすぎない」)のため、だけではない。
というのも本作にあるのは「ナチュラルな自然(←同語反復じゃん)の癒し」などではない。むしろ全編に横溢するのは、物静かだけれど、暴力としか呼びようのない傷や痛みだ。不慮の事故や、文字どおりの暴力による親しい人の死。あるいは身体に残る障害。心の傷。もっとシンプルに、愛しあっていた者たちの別れですら、取り残される側・取り残されたと思う側にとっては理不尽な暴力であったりするのだと、そういう意味で人間の世界・人間の社会は理不尽な暴力で傷だらけなのだと、本作は描き出しているかのようだ…
読み手たる自分の個人的な感想・もしかしたら偏った抽出かも知れませんが。世の中には本作に自然の癒しや、セラピー効果を感じる人だっているかも知れない。
いいんですのよ。
だけども(僕の読みに基づけば)「人間より大きな自然界と、暴力に満ちた人間界」という対比もまた、現代の暴力の前では癒しの力ごと色あせる。本作で描かれる自然は、自然もまた、人間による環境破壊で回復があやういほどに傷ついている。今「世界のすべてを語り尽くす物語」をやろうとすれば(
だからそれが著者の意図とは限らないと何度言えば)、その世界がいわゆる人新世の=自然が無尽蔵ではない・人間の産業活動によって生物多様性や気候まで大きく変動を余儀なくされる世界なのは、むしろ当然のことだろう。
ついでに言えば、暴力もまた、人間だけのものではない。もとより(人間以外の)自然界と人間の関わりだって、理不尽といえば理不尽・暴力といえば暴力だ。有機水銀や放射性廃棄物・マイクロプラスチックや化石燃料が排出するCO2が圧倒的な規模で自然環境に影響しだす前から、人は他の生物を糧とし、というか動物は皆ほかの命を糧とし、命をもたない気象すら天災として常に「暴力」を振るってきた。そこまで含めて「人は自然の中で生きている」のであって、そのように時に残酷であってもなお『雨の島』はなお、人の世界が人だけの社会にとどまらない・より大きな自然に包摂されていることが(人だけの社会に窒息しそうな現代人にとって)救いであること・その救いとなる自然を今度は人類が救えるのかと訴え、問いかけているのかも知れない。

最近は韓国か中国(本土だったり台湾だったり)の小説を読む機会が増えて、これは韓国の他の小説家による問いかけなのだけど
「この世のおぞましさの中に閉じ込められてしまった人間に、外というもの、あるいは別の世界というものが存在しえるのか?」という言葉があった。
★
唐突だけど今週のまとめ★
1:
いま人類は人間だけの社会より広い動植物や非生物の世界を「外」として切実に必要としている(のかも知れない)
2:
物語にもまた(逃避ではない)切実な「外」への通路を開く役割が求められている(のかも知れない)
転生したら異世界でした、みたいな逃避としての「外」ではない、世界はお前が自分で閉じ込められてると思ってる檻より、ずっと大きくて広いんだよ・それは残酷で暴力的かも知れないけれど、とにかく広いんだよと出口を示すことが、わりと今、急務として物語には(物語にも)求められているのかも知れない。
もちろん
「すべての小説が大志を語るようになった時、小説は滅びるだろう」という北村薫の警句を忘れてはいけない(たとえそれが
「だがすべての小説が大志を語らなくなった時もまた、小説は滅びるだろう」と続くとしても)。まして物語は問い以上の「答え」を出すものではないし、物語る中で自然に立ち上がってきたのでない出来合いの「答え」を先に用意していて、ストーリーを無理矢理そこに導くものでは、ましてサラサラない。
それでもなお、ネイチャー・ライティングに片足を置く(もしかしたら、そっちが利き足かも知れない)呉明益のような人が「ノンフィクションでは出来ない表現が出来るから」というのを小説・フィクション・物語を書く動機にしていることには希望を感じる。前にも書いた、哲学者のドゥルーズ=ガタリが世界のカオスに抗する方法は科学と哲学・それに芸術の三つだ(それぞれには別の術には出来ないことが出来る)と語ってるのを読んだときの「あ、芸術にそこまで期待してくれてんだ」というのと同様の嬉しさ・心強さだ。
呉明益の作品をはじめ、今アジアで生まれてる物語の多くが近未来やSFの形を取って・
けれど他ならぬ今を描こうとしていることも、たぶんヒントになるだろう。もう自分で自作に使ってしまったフレーズで恐縮だけど、ある意味「今が未来」なのだ。
* * *
などと知ったげに長々と書き連ねてきたけれど、当の僕じしんは人間以外の自然界には悲しいほど疎いし(何しろ天の川すら見たことがない)人間界についてだって何も分かっちゃいない。
とくに小説を読む咀嚼力みたいのは、昔もひよわだったけど近年とみに衰えまくっていて『雨の島』を読んでも「自然科学への感性は池澤夏樹のデビューを彷彿とさせるなあ」「日常にひそむ暴力性は村上春樹をアップデートさせた感がある」それどころか「村上龍のコインロッカー・ベイビーズあたりには世界のすべてを語り尽くす(ついでにブチ壊す)野心があったかも」くらい、古い思い出に生きてしまってる。
そこで「ゆる募」なのですが、今回の回りくどい日記(週記)を読んで「お前さんが呉明益に見出そうとしてる感覚、今の日本にも全然いるじゃん」「誰それの何それとか」とオススメがあったら拍手などで御教示ください。読めるとは限らないけど。
*** *** ***
(25.01.29追記)
すこぶるどうでもよいのですが今回マクラで紹介した終電マニアの乗り鉄YouTuber氏、自身の需要を熟知しまくった「終電ゆえ帰るに帰れず終点駅で野宿」シーンだけ抜粋した動画があったので:
【野宿確定】ナオヤ鉄道chルームツアー2024年総集編28連発【作業用】(外部リンクが開きます)
むちゃむちゃ楽しそうですが、当のYouTuber氏は寝てる間の盗難を避けるため、決済機能を備えたスマートウォッチ以外カードも現金も持たずに取材を敢行してるらしいので念のため…
小ネタ拾遺・25年1月(25.1.31)
(25.01.01)謹賀新年。拍手の御礼にも書いたけど(みんな意外と御存知ないんだなあ…世代差?)今年は映画『
戦艦ポチョムキン』百周年。とうぜん著作権はとっくに切れているのでYouTubeなどで全編無料で閲覧できますが、とくに名高いオデッサの階段だけ貼っておきます。11分20秒。
圧制に抗する水兵たちが占拠した戦艦ポチョムキン、しかし港で彼らを歓迎する市民たちに圧制側の政府軍が襲いかかる。前近代の・秩序の外から襲来する・いわゆる野蛮ではなく、機械のように整然とした秩序として文明の中心から到来する暴力がTHE・近現代!と最初に観た時は思ったかなあ。いま見返すと(顔の見えない無機的な射撃隊にたいし)憎しみの表情を剥き出しにしたコサック兵≒外部の「野蛮」に悪をアウトソーシングしている部分もあるようだけど。そして撃たれて倒れた子どもを皆がそれでも最初はまたいで逃げてるのが、パニックが増すにつれて最初は男が、しまいにはスカートの女性まで平気で踏みつけてしまうようになる演出(モンタージュ)が悲しくも丹念でえげつない。
そして今年は
スクリッティ・ポリッティの名盤『
キューピッド&サイケ85』40周年…マジか…だって本作がリリースされた当時の40年前は1945年じゃないの。早すぎるぞ時間の流れ、まさにヒプノタイズ(催眠術)。んーベビッ♪
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Scritti Politti - Hypnotize(YouTube/外部リンクが開きます)
(25.01.02)まさか演ってくれると思ってなかったLOVE PHANTOMに大興奮・家族の前で「この
何とかかんとかで何とかだよぉ〜(
がっ!がっ!)
何とかかんとかだから〜(
てろれろれろれろれろ)って人(ヴォーカル)の
話聞いてない感じの野放図なギターがいいでしょ」とファンのひとには怒られそうな讃えかたをして、一昨年よりはだいぶ満足度の高い昨年の紅白でした。あけましておめでとうございます。
(25.01.31追記)そして昨年の紅白、グループとして出場していたTXTにもテヒョン君が居ると知らず、例のけん玉タイムにテヒョン参加!というテロップを見て「(もちろん紅白には出ていない)
BTSの主要メンバーが、けん玉のためだけに単独来日したの!?(けん玉どんだけ好きなの!?)」と一緒に観てた家族の誰にも通じない勘違いで一人悶えてた話も、ここに供養しておこう…
(25.01.07)ジャケ(鮭)・パスタリアス。無論シラスを買ってきて「じゃこ・パスタリアス」のほうが再現度が高いわけだが(
何の再現度だ)あるもので楽しく暮らす。

※ジャコ・パストリアス、よく分かりませんスミマセン。手持ちではジョニ・ミッチェルのアルバムに何作か参加してるみたいなんだけど…
(25.01.08)当日は「残さない」と書いたんだけど、知られざる名曲は誰かが語り継がなきゃいけないので残す。本人は穏やかなアンビエント・ミュージックなど醸しながらブライアン・イーノがプロデュースした爆音ロックの伝説的コンピ『
NO NEW YORK』、その中でも圧倒的なキャラ立ちを見せる(僕などは正直この一曲だけで十分な気もしている)のが
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Mars - Helen Fordsale(YouTube/外部リンクが開きます)なのですが、
この曲はデヴィッド・ボウイのお気に入りでもあったと知って「答え合わせ」が出来た、と思ったのは、80年・ベルリンからNYに乗り込んで制作されたアルバム『
スケアリー・モンスターズ』の随所で掻きむしられる(その形容はどうか)ギターは盟友イーノの当地での仕事に触発されたのかもと憶測していたから。もちろんボウイらしく他の要素もふんだんに取り入れポップに洗練させているけれど。
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David Bowie - Scary Monsters(And Super Creeps) (YouTube/外部リンク)
今日はボウイの誕生日(喜寿)。没後十年近く経っても、その貪欲な音楽性には飽きられる気がしない。それでいてどの曲もボウイ。最近は何十周かして、またダイアモンドの犬が好き(スケアリー・モンスターズじゃねえのかよ)
(24.01.09)ボウイの誕生日とどっちが大切だと思ってんだ、て後回しにしましたが一昨日は冷蔵庫の命日でした…享年20歳(くらい)まあ冷蔵庫としては十分に頑張ってくれました。最初「庫内灯が切れただけかな?」と儚い希望を持ったけど、摂氏9度は動いてる冷蔵庫内の温度ではない…

冷凍庫のほうは分厚い霜が氷室の役割を果たしてくれてるけど、ニラやモヤシはたちまち柔らかくなり、慌てて火を通す。次の冷蔵庫が届くのは十日先なので、その間に部屋を片づけねばならず(設置に人が入るため)今週・来週のメイン日記はメイン日記はお休みします。月刊RIMLANDも今月はパス。まんがどころじゃない。
(追記)冷凍庫の氷室は48時間で融解開始。地球温暖化の縮小版を見るようで悲しくなったり、その名も「エントロピー」というピンチョンの短篇(うろ憶え)を思い出したり。
(追々記)冷蔵室の温度、ほぼ室温と同じになったので、お味噌やら温度計やらを融解中の氷室(冷凍室)に移す。こちらは摂氏1度。。(25.1.12再追記)冷凍庫も速やかに熱死。まあ残ってるのは味噌と梅干と調味料(お酢など)なので大丈夫でしょう(to be continued...)
(25.01.11)個人レベルでは冷蔵庫が壊れた程度だけど、ものすごい勢いで世界が壊れてるみたい。
カナダのトルドー首相、辞任を表明(クーリエ・ジャポン/後半会員限定/25.1.8/外部リンクが開きます)はインフレによる支持率低下に「あなたではトランプに対処できない」と身内からの批判がトドメになった由。短い記事では「対処」が「対抗」なのか「(迎合も含めた)対応」なのか詳らかではなく、もっと良い記事を探したほうがいいのかも。
(25.01.13)不安で眠れず、眠れないこと自体よけいに不安な時は、横になって目を閉じてるだけで身体は休まるのだと思い出してください。
「泣きたい夜に一人はいけないよ」という唄は著作権の関係で貼れない感じなので、代わりに
「明日もまた一緒に」という唄を貼っておきます。明日もまた一緒に。おやすみなさい。
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新居昭乃 - 星の木馬(YouTube/外部リンク)
※過ぎてしまうと何事か分からなくなってしまうけど、九州の地震で南海トラフの可能性が話題となった晩でした。ネットに飛びかう言葉がみんな浮き足立ってて・かつ「私を誰が助けてくれるんだ」みたいな言葉ばかりだったので、誰か「私には誰かを助けるため何が出来るだろう」という言葉を投げる必要があると思ったのでした。
(25.1.12)繁忙期につき最大23時までの残業と休日・祝日出勤を募る声をものともせず定時退社をキメながら「
バラのようなスピード退勤」という(分かる人には分かる)フレーズが脳裏を横切り、腹立たしいような、鬱陶しい動画広告につきあわされた分を(ネタとして)多少は取り返せて嬉しいような。しかし冷蔵庫代の足しにするため、明日は祝日出勤。
(25.01.18)だいぶ片づいてきました。なにしろ昨日まで、このカーペットが見えなかったのです(ダメすぎる…)
(25.01.19)新しい冷蔵庫、無事搬入。前より大きいため背筋を伸ばさないと台所に入れず、ふだんの自分の姿勢を悪さを再認識するなど。まあ耐えがたければ奥の食器棚と位置を入れ替える。

※入れ替えました。月末に続く。
(25.01.20)そんなわけで新しい冷蔵庫を迎え入れ、久しぶりにアイスでも常備しようかと(先代の冷蔵庫は壊れる十年も前から冷凍庫がアイスを固体に保てなかった)スーパーで手にした
雪見だ○ふくが、知らない間に雪○小福になっていた衝撃。子どもの頃に遊んでた公園が大人になって再訪したら驚くほど小さく見えるのと同じ原理
ではない(たぶん)。
そのうちピノと区別つかなくなりそう、いやピノはピノでチ□ルチョコ(いちおう伏せ字)くらいになってなければの話だけれど…代わりにふつうのヨーグルトを買って帰りました。シュリンクフレーション、おそるべし。
(25.01.21)そして
「キャベツひと玉500円に驚愕・お好み焼きの予定を急遽お安いニラでチヂミに変更」から二ヶ月足らず、
今度はニラひと束250円で白目を剥いている。安いところの特売で160円くらいよ…↓これは在りし日のチヂミ。

白目といえば二期目の任期を開始早々ドナルド・トランプがWHO脱退を宣言のニュース。
「トランプより前からアメリカ・ファースト」と言われた某国あたりが大慌てで追随しないか、とてもとても心配。なんか本当に、激動の一年になりそうです。
(25.01.22これはTwitter(現X)で何度か、もしかしたら本サイトでも取り上げた話かも知れないけれど、井上陽水が「最後のニュース」で
「眠りかけた男たちの夢の外で目覚めかけた女たちは何を夢見るの」と歌ったのが36年も前なことに改めて考えこんでしまう。1989年、もうダウンタウンやSMAPは最新版の「若者たちの神々」としてTVに躍り出ていただろうか。
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井上陽水 - 最後のニュース LIVE 50周年記念ライブツアー 2019/10/20 [期間限定](Youtube/外部)
ドナルド・トランプのWHO脱退宣言は流石にこたえた。眠りつづけようとする男(たち)。
(同日追記)『若者たちの神々』はNEWS23のエンディング曲を陽水に依頼した筑紫哲也氏が、それに先立つ80年代半ば「若者たちのカリスマ」たちに取材したインタビュー集のタイトル。
(追々記)使い勝手がよいので安易に使っちゃったけど現実の80年代半ばに「若者たちのカリスマ」みたいな言い回しは、まだ無かったかも知れない。カリスマという言葉が本来の用法を超えて、一気にカジュアル化したのは90年代末だったと記憶している。なんか突然すごい流行語になったんですよ←僕の言うことだから話半分に聞いとけよー
(25.01.31再追記)井上陽水「最後のニュース」については、その世界の病理をあばく目線の透徹にも関わらず、だからどうしろでなく
「ただあなたにグッドナイト」で終わってしまうところが「
傘がない」
と変わらないという評(批判)もあって、まあそれもそうだとは思う。イエモンの「JAM」や宇多田ヒカルの「あなた」などにも通じる話。
(25.01.23)実は
昨年末にはプレスリリースが出ていたのですが(←外部リンクが開きます)原材料の高騰により味の素の冷凍食品、3月から値上げだそうです。同ブランドの「しょうがギョーザ」台湾の餃子がこうゆう味という話もあり好んで食べてるので、若干広くなった冷凍庫に少しずつストックを作っておこうかと検討中。

これに台湾産のトロリと甘口の醤油膏(横浜中華街で買えます。たぶんアメ横でも)をつけて食べるのが美味いのよ…
(25.01.25)これを見て「あ、歯医者」と即座に見抜けるのは本サイトで慣れてる人くらいだろう。気取ってるというか、むしろ何処まで奥歯から引き離せるか、挑んでる感すらある神宮外苑。

確認したら同じ場所で大阪発祥の庶民派つるまる饂飩は「千駄ケ谷店」。実は代々木とも接してて三地域の端境にあたる交差点に、一時は同人誌も扱う印刷屋さんの事務所があった気がする。
(25.01.26アンディ・ウォーホルのミューズだったイーディス・セジウィックの伝記『
イーディ 60年代のヒロイン』(ジーン・スタイン/ジョージ・プリンプトン1982年→筑摩書房1989年)は、落ち込んでる時に読む本ではなかったかも。150余人の断片的な証言の(青山南さんはじめ四人の訳者が訳し分けている)コラージュで構成された二段組500ページの大著が描き出すのは、サージェントに肖像画を描かれるような名家の没落と破滅の物語。とゆうか上流社会の花形でも、ファクトリーのスーパースターでも「ひとかどの者」になれなかった・自分は敗残者だと自己規定してしまった人生は、どれだけ豊かでも虚しい―なんて本、過去の「しくじり」ばかり思い返して煩悶してしまうタイプの読者・まして他人の失敗をエンタメとして嗤えない人間には向いてませんて。これは長く関わってる本ではないと、大急ぎで読了というのが、皮肉な賞賛と思ってもらえれば好いのですが(年来の宿題を読めて良かったのは事実なのですよ)。

ちょっと驚きだったのはブロンド・オン・ブロンドと呼ばれた(彼女と一時つきあいのあったボブ・ディランのアルバム名にもなってますね)トレードマークの銀髪すら地毛ではなく、黒髪を染めたものだったということ。こちらは見事「ひとかどの者」に成りおおせた気がする80年代(以降)のヒロイン・マドンナもイタリア系なので本来は金髪でないことを思い出したり。
そして考えてしまうのはもう一人、これは生まれついての金髪だろうけど年齢的に本当は色素が抜けきって白髪であるだろう、今アメリカの顔となってる男のこと(
染めずに白髪で登壇する場面もあるようだが←ひょっとして今は白髪がデフォルトで、染めた金髪は自分の中の勝手なイメージ?)(そもそも地毛でない説もある)。世界最強国の大統領にまで昇りつめた彼は、しかし「ひとかどの者」だろうか。あれもまた空っぽの、まがい物の虚飾の金ではないのかと。なんかトランプの悪口ばかりでしたね今月。
(25.01.27)僕は夕刊フジの、2015年にISが後藤健二氏を予告殺害した前日に「米軍の特殊部隊が後藤氏を救出する」と夢みたいな与太を飛ばし、実際に殺害されてしまった翌日には一転「次はISは日本国内でテロを行なう」とこれまた誇大妄想な恐怖(と差別)を煽った所業を決して忘れることはないので、廃刊ていどで許されると思うなと明言しておきたい。そして多くの人が目にする駅やコンビニで毎日のようにショービニズムに溢れたヘッドラインを見せつけ続けたことで、この国の平均的な人々の心をどれだけ悪辣に歪めたか、計量できるならしてみたいくらいだ。
(01/28追記)でも夕刊フジが退場するのは、その毒素をこの社会の人々に十分に行き渡らせ、夕刊フジがなくても皆が夕刊フジを内面化した後・いわば役割を十全に果たした後での退場なので、嬉しいことは何にもない。
(25.01.28ちょまま、デヴィッド・リンチ監督…(しかも11日も前…)当人も失敗だったと語る彼版『DUNE 砂の惑星』ですが、僕は好きでした…
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TOTO - The Floating Fat Man (The Baron)(YouTube/外部リンク)
↑たった84秒なので聴いとき。リンチ版DUNE、ロックバンドのTOTOが手がけたサントラも素晴らしかった(アルバム持ってます)。
(25.01.30)今までより少し大きな冷蔵庫を新調したところ、台所の出入りが困難になった件。他に動かしようがない洗濯機の上に(洗剤だの置けということなのでしょう)壁に直付けの棚板があって、洗濯機←食器棚・冷蔵庫という並びだと棚板が邪魔して食器棚を洗濯機のほうに寄せられなかったのを、一念発起して洗濯機←冷蔵庫・食器棚と場所を入れ替えることで(冷蔵庫はまだ背が低いので棚板をくぐるように洗濯機に寄せられる)通路用の空間を確保できた次第です。なんで最初からこう配置してなかったかと問われると困るんですけどね。

かれこれ十年ぶりくらいの配置替えなので、しばらくは食器棚の前で冷蔵庫を開けようとする仕草をしてしまいそうです。
冷蔵庫が壊れた時(というか新しい冷蔵庫が来た時だったかな)拍手経由で優しい言葉をくれた人ありがとう。また来月。