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NUTSとVIRUS〜「複製技術時代の芸術作品」を読む・歎異抄を読む・『性の歴史IV』を読む(25.01.05)

 ウィルソン・ブライアン・キイ(1921-2008)は消費者たちがサブリミナル広告に洗脳されているという陰謀論を大々的に展開した人だけど、その一環として彼が噛みついたのが、若者が夢中になるロック・ミュージックだった。大ヒットしたザ・フーの『トミー』はストーリー仕立ての歌詞が虐待やドラッグ使用・スターのステージで突き飛ばされた観客の少女が顔に何針も縫う大怪我を負った話など、暴力的なイメージ満載なのに、リスナーは歌詞のことなど全く考えず、ただただカッコいい音楽として受け容れていた(それでいて無意識に刺激されていた)という彼の告発に「??」と首をひねったのは、後年のロックファンには『トミー』がそういう内容なのは周知の事実だったからだ(20年3月の日記参照)。
 でも「みんな意味とかキチンと考えずに聴いてない?」「それでいて過激な内容をサブリミナルで受け容れてない?」という彼の主張に同調したくなる時もある。
 昨年めちゃめちゃ売れて小学生まで喜んで(ブリンバンバンというサビで)唄い踊ってたというラップ曲。「俺様は偉い」とひたすら威張り散らすリリックだけ見知っていた僕は「アレがそんなに売れたのか」と昨年の紅白でゲンナリしたのだけど、あのトキシック・マスキュリニティ(有害な男らしさ)の模範文例みたいな歌詞までキチンと理解したうえで、皆はアレを良いとしているのだろうか。ましてcreepy(キモい)なnuts(キ○○イ。俗語。バーブラ・ストライザンドが精神鑑定にかけられる法廷サスペンス映画が『ナッツ』でした←古い)というユニット名の、形としては自身に向けられてるにしても悪意に満ちた言葉選びは。
 
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 年末年始の帰省で久しぶりに顔を合わせた甥っ子1号にオススメの本を訊いて教えてもらったのが
ダニエル・カーネマンファスト&スロー あなたの意思はどのように決まるか?』(村井章子訳・ハヤカワ文庫/外部リンクが開きます)
さわりだけパラパラと読んだところ、人は先入観で判断を誤る・理性的に考えれば同じ内容であるはずの「90%成功します」と「失敗の可能性が10%あります」を違う重みに捉えてしまう、的な本みたいでした。
 先入観で描いたイメージが、現物の本質を見誤らせてしまう、今週の日記(週記)はそんな話をします。自分を題材に(笑)。悲しいなあ。
 それぞれデザインが異る帆船のアイコンを配した『「複製技術時代の芸術作品」精読』と『古典を読む 歎異抄』の書影。いい並びやね…
多木浩二ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読(岩波現代文庫2000年/外部リンクが開きます)
は20世紀を代表する思想家(の一人)の、実は晦渋で取っつきにくい代表作を読み解く試み。
 いや本当に難しいんですわベンヤミン。パサージュや幼年時代の思い出、パウル・クレーの天使とか、親しみやすげな先入観を振りまきながら、おそろしく理解できない。「複製技術時代の…」も若いころ読むには読んで、正直サッパリ分からなかった。
 新書の都市論や戦争論で親しんできた多木浩二氏のナビゲートで再チャレンジ、今度こそ分かった!と自信を持って言える気はまだしないのだけど(おえんがー)歳月を経て、ひとつ分かったことがある。
 絵画や彫刻など旧来の芸術・その本物にのみ備わる手ざわりのような経歴=アウラは、活字本やレコード・写真や映画など複製(コピー)され流通される新しい芸術には備わっていない…というのが同論の要旨なのだけど、ベンヤミンは別にアウラを崇めてるわけでも、アウラのない写真や映画はダメだと言ってるわけでも、どうにかしてアウラを奪回しようと呼びかけてるわけでも「ない」のだ。
 これが分かるだけで同論は相当に取り組みやすくなる。言い替えれば初手からダメダメだった自分てだけの話かも知れませんが、でもだってさ「アウラ」とかさ、いかにも素晴らしくて価値ある・失なっちゃいけないモノみたいじゃありません?
 ・FAIRCHILD - アウラ(GIMIX)(Youtube/外部リンクが開きます)
 近未来ディストピアSFの傑作・栗本薫『レダ』に登場する慈愛あふれるマケイン(負けヒロイン)も「アウラ」さんでした…栗本氏も、文庫版の表紙を美麗なイラストで飾ったいのまたむつみさんも今は亡い…と『レダ』2巻を掲げて涙ぐむ羊帽の女の子「ひつじちゃん」のイラスト。
 アウラは取り返せなくてもいい、アウラのないコピー前提の芸術作品には、また別の天命がある。そう割り切って読むと(正しく読めてるかは兎も角)色々と見えてくる。毎日劇場で一つの役を通して演じ、しかも毎日観客の反応によってキャラクターを掘り下げ深めていく舞台俳優と違い、カメラを前に順不同で細切れのカットを演じる映画俳優は(舞台俳優のように)一貫した一人のキャラクターであるよりも、一貫した「自分自身」(つまりハムレットやスカーレット・オハラであるよりローレンス・オリヴィエやヴィヴィアン・リー)であることを求められる―なんてくだりは、それをヒントに中篇まんがのひとつも描けてしまいそうだ。
 CDを経て音楽のネット配信が地平線の向こうに見えてきた90年代、元トーキング・ヘッズのデヴィッド・バーンが「むしろこれからはライブの時代だと思う」と語っていたことなども思い出される。バーンの真意は兎も角、特に日本では(いくらでも複製できる)CDやDVDがライブや握手会で「推し」と直に接せるチケットとなり、崇高さとか関係ない純粋な技術論としての「アウラ」が復権したとも言えるのではないか…などなど妄想は広がるのであった。

 多木浩二氏の『精読』は末尾にベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」の70ページほどの原文が、
杉浦明平『古典を読む 歎異抄(1983年→岩波現代文庫2003年/外部リンクが開きます)
も各章の冒頭に小分けの形で原文がすべて収録されており「詳細な解説つき原文」として読めるのが良かった。すごく面白かったのは歎異抄、鎌倉時代の文章が(一緒についてる現代語訳の助けがなくても)かなりふつうに読めるのね。たとえば
「親鸞は、父母の孝養のためとて、一返(いっぺん)にても念仏まふしたることいまださふらはず。そのゆへは、一切の有情はみなもて世々生々の父母兄弟なり」
なんて「まふし=申し」「いまだ=未だ」「さふらはず=候わず」と分かれば「念仏申したること未だ候わず」この世に生きる者はみな家族なのだから(実の)父母の孝養のために念仏を唱えることなど一度もなかった…と全然読めちゃうでしょ?
 僕が『歎異抄』そのものに先入観で誤解していたことは特にない(と思いたい)のだけど、まあ歎異抄じたいが「異を歎く」親鸞の悪人正機説があっという間に後継者たちの間で誤解曲解されたことへの嘆きだし、同じ時期に読んで面白かったので並べる次第。

 昨年の終わりに図書館で借りてきて、そのまま今年最初の読書になっている
ミシェル・フーコー性の歴史IV 肉の告白(フレデリック・グロ編2018年/慎改康之訳・新潮社2020年/外部リンク)
は「性の歴史IVを読んでみた」解説書ではなく本体をそのまま読んでいるのだけど、これもまた今まで先入観で持っていた誤解が解ける一冊のようだ。
 周知のとおりフーコー自身は1984年に亡くなっている。先月の日記で紹介した『監獄の誕生』(原著1975年)に続いて彼は、人が自ら権力の囚人になるメカニズムを今度は「性」を通して追及しようと全六巻からなる『性の歴史』の執筆計画を立ち上げた。だが第一巻『知への意志』で計画は頓挫、研究対象を近代ヨーロッパから古代ギリシャ・ローマを移した第二巻『快楽の活用』・第三巻『自己への配慮』が急逝により遺著となった。
 誤解していたのは晩年の彼が『監獄の誕生』や『知への意志』で見るように人間を囚人化する近代ヨーロッパに絶望して、自由や別の突破口を探すため古代ギリシャ・ローマ哲学に傾倒していた(17年8月の日記など参照)と思いこんでいたことだ。
 だから正直、初期キリスト教をテーマにした『肉の告白』の出版を知った時、あまり関心が湧かなかったのを憶えている。せっかくギリシャ・ローマに自由を見出したのに、なんでまた人から自由を奪うヨーロッパに戻っちゃうの?と思ったのだ。
 誤解の多くは(アウラを「いいもの」と思いこんでしまったように)実はニュートラルな事物を「いいことを言ってる」「人々に勇気を与えようとする善意に基づいてる」と勘違いすることに発している。勘違い「したがる」と言うべきか。あのひと、私のこと好きなんじゃねぇの?
 いずれか片方しか選べないなら、私は善より真を取るとスーザン・ソンタグも言っている。古代研究でフーコーを助けた歴史家ポール・ヴェーヌ(22年12月の日記参照)の証言や『監獄の誕生』、『肉の告白』自体を読むうち、ようやく見えてきたのは古代ギリシャやローマはフーコーにとって「自由を保証してくれる別世界への突破口」ではなく「(最終的には)不自由なヨーロッパに至るワンステップ」だった、彼が求めていたのは別世界での自由ではなく、あくまで彼自身も苦しめつづけた「この社会」の不自由さの解明だった・らしいということだ。
 そうと気づかず『性の歴史II・III』を一応ちゃんと読んでるのに「なかなか自由への突破口が開けないなあ」と思っていた自分が間抜けだった、と書いてしまうと情けないけど。
 『自己への配慮』『肉の告白』書影。関係ないが『肉の告白』わずか5年で千円以上値上がりしていて、出版業界全般不況にしても、そういうとこだぞ○潮社と思わないでもない…
 まだ100ページも読んでない『肉の告白』だけど、中絶の禁止・婚外交渉や同性愛の禁止といった現代ではキリスト教がよって立つ基盤のように思われている性規範は、実はキリスト教の布教前から古代ローマでストア派などによって十分に広まっていた教えだと指摘されている。酒池肉林みたいに奔放なローマの性を批判して禁欲を説いたキリスト教が、最初は迫害されたが最後には勝利した…みたいな物語は、物語にすぎない。実際には、少数派だったキリスト教が「ほら私たちもマトモですよ、過激思想じゃないですよ」とローマ社会に受け容れられるため、既に受容されていたストア派などの禁欲を取り入れ・また影響を受けたのだとフーコー(や、彼が依拠する先行研究者たち)は捉える。
 ギリシャ人やローマ人にとっては適切な「快楽の活用」「自己への配慮」だった性は、それを受け容れたキリスト教によって「人間の男女が子どもを作ることは、神によって創造された奇蹟をヒト自らが再演することだ」と新たな意味を与えられ、ヨーロッパひいては現代社会の規範を形づくっていく。それはまた別の話。いや、これから読むんですけど。

 AIに要約してもらえば(AIが「正しく」要約してくれるとして)ベンヤミンやフーコーに対する、こんな誤解もナシで済んでいたのかも知れない。けれど山道を実際に登攀するように実物の本を読むことなしに、いきなり連れて行かれた山頂からの眺めは、人に驚きや喜びを与えるものだろうか。
 まあAIに興じて電力を使う人は使えばいい、僕は今年も道を間違えながら、足でよたよた山を登っていきますよ。あまり無理せず、山頂を急がずにというのが年頭の所感。

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 最後も紅白の話。まあ一昨年に比べたら「そして輝くウルトラソゥッ」はいっ!!!」と「バルス」みたくTVの前で唱和したり結構エンジョイした昨年の紅白ですが。creepyなnutsというユニット名とリリックにゲンナリして思い出したのが、人当たりが好さそうなパーソナリティと僕にはよく分からない才能で数年前から紅白の常連になっている人気歌手の、何年か前のステージだ。
 細かくは忘れたけれど、大スターになった自分にも不満はあるんだ的な歌詞だったかも知れない。screw youと決め台詞のように唄うサビに驚いてしまった。「スクリューする」は俗語だと「fxxkする」と同じ意味で、つまり彼はNHKホールの観衆と大晦日に紅白を観てる全視聴者の面前で「fxxk you」と同じ意味の言葉を言い放ったわけだ。
 何かあると貼ってる
PULP - Common People(YouTube/外部)
の、他にすることがないからdanceしてdrinkしてscrewする「普通の人たち」の気持ちが分かるかと唄うMV。2:30あたり「screw」はイギリスでは放送できないと判断されて音声がミュートされてる(仕草で分かるけど)。ちなみに6分近いフルバージョンでは聴ける「みんな外国人観光客をヘイトしてる/引き裂いてやりたいくらいさ」という箇所もMVではカットされている。この曲や映画『キングスマン』の冒頭・『トレインスポッティング』みたいな感じに、これからの日本はなっていくんだろうなと数年前(十年以上前?)に予想したけど、予想どおり着実に…
 ともあれ。冒頭に挙げたW.B.キイは(陰謀論者だけど)見識もある人でfxxkはじめ性行為を意味する英語が攻撃的で残酷な動詞ばかりだと嘆いているけれど、たしかに「スクリューする」コルク栓を抜くスクリューのようにねじ込むは、その最たるものだろう。イギリスでは放映すら不適切とされるソレを彼は紅白で投げつけた。
 creepyなnutsが「キモいキ○○イ」という意味だと、聴衆がどれくらい理解している前提で当人たちが構えているかは知らない。けれど紅白を観てる人たちにscrew youの意味が分かるひとは、ほとんど居ないと「彼」には分かっていたはずだ。それを承知で「どうせお前たちには分からないだろう」という気持ちで観衆に侮蔑の言葉を投げつけたのだとしたら、それも含めて不貞腐れた当てこすりだったとしたら、
 柔和そうな印象に反して、彼にはずいぶん幼稚でワガママな一面もあるのではないか。前後して(?)リリースされたアルバムが「ポップな(大衆向けの、とも取れる)ウイルス」というタイトルで、やっぱりちょっと分かんないセンスだなあと思ったことも憶えている。彼にとってポップスは、意味や意図が正しく理解されなくても、いつのまにか相手に感染しているVIRUSなのだろうか。「僕は理解が遅いから(プリンスなんかもアルバム単位で好きになるまで20年くらいかかった)十年くらい経って急に彼の良さが分かるかも知れない」と冗談めかして家族には話してるけど、彼にかぎっては良いと思える日は来ない気が、個人的にはしている。

 
(同日追記)これも何度も言及してて恥ずかしいMitskiYour Best American Girl(YouTube/外部リンクが開きます)も「(東洋人の私には無理だと分かっていても白人のあなたの)Best American Girlになりたいと願ってしまう」という歌詞を「恋を諦めないステキな唄」とポジティブに捉える紹介があって、違うから!なんで(一部の?)日本人はそう安直に「イイ話」にしたがるの!と思ったことなど。「あなたのお母様は私の母が私を育てたやりかたを認めないでしょう でも私は受け容れる 最終的に受け容れる」なんて歌詞、他のどんなラブソングでも聴いたことがなかった衝撃を返してほしい。すごい唄なんよコレは。

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