外の世界に出る〜張國立『炒飯狙撃手』(25.02.02)
a.
良い本は他の本を連れてくる(ことが時々ある)。
せんじつ読了したミシェル・フーコー『性の歴史IV』の脚注で取り上げられていたのに興味をもって「後期フーコー」と親交があった(
22年12月の日記参照)歴史家
ポール・ヴェーヌの『
パンと競技場』を図書館で借りてきた。深く考えず閉架書庫に入ってる本を取り出してもらったら本文だけで700ページ・註も加えると千ページ位ある本でビビり散らかしたけど、それは別の話。

まず冒頭だけでもとパラパラめくったら、歴史学(者)と社会学(者)の違いについてサラリと触れる箇所が。いわく、社会学は概論(概念、類型、法則性、原理)を抽出するために出来事を利用するが、歴史学は出来事を説明するために(科学や経済学やそれこそ社会学の)概念を利用する。社会学者にとって歴史は実例(あるいはモルモット)に過ぎず、たとえば王制という概念を二・三の実例―たとえば古代ローマと近世フランスで説明できるなら、わざわざエチオピアにふれる必要はない。けれど歴史学にとって歴史とは個々の出来事なので「動物学者が全ての動物を、天文学者が星雲のひとつだって」取りこぼせないように、歴史家はエチオピアの王制も無視しえない。
「つまりエチオピアの歴史に関する歴史家がいるはずである」
学問を生業とはしなくても、人には社会学タイプと歴史学(動物学・天文学)タイプの別があるのかも知れない。つまり個々の出来事に関心が向くタイプと、そこから概念や法則を抽出しないと気が済まないタイプだ。他ならぬ自分が、たぶん後者だろう・近年ますます後者の傾向が強くなってないか、という話をしています。
先週の日記とか特にそうでしょ、この小説おもしろかったですで済んでもいいものを、何がこの小説を面白くしているか・そもそも小説にとって面白さとは何か・いま小説に求められている面白味とは…みたいに概念を、ちょうど本サイトのプロフィール欄にあるように「
どんなメカニズムが物語を駆動し心を動かすのか」エンジンを抽出したがる。よくないですよコレは。第一に、ただ楽しめばいい物語に、過剰な意味や意義を「盛って」しまう懸念がある。第二に、個別に存在するだけで味わい深い(けれど「意味」を抽出しにくい)事物の面白味を、上手に味わえない。自分がたとえば名勝や神社仏閣・なんなら美術や演劇なども上手に楽しめないのは、そこから意味やまして概念・法則を抽出しようとしすぎる(仏像やフィギュアスケートに法則を求めてどうすんのよ自分)・事物それ自体を味わえない鈍感さも一因なのではないか。

最近ようやく、世間から12周くらい遅れて、高校生女子がユルくキャンプする人気漫画を少しずつ読み始めているのですが(縦線スクリーントーンの多用と影のつけかたがスゴく大胆で目に映えますね)主人公たちが「この位置からだと神社の赤い鳥居と背景の青空・富士山のコントラストがとてもいい」とか「急な坂だけど階段がついてるから登りやすい」といったことを一つ一つ面白がってるのを見ると(
少しずつって、もう7巻まで読み進めてんじゃねえか)こういう楽しみを自分は鍛えてない・なおざりにしがちだよなと思ったりもするのでした←その反省もまた意味の抽出ではと考えてはいけない。
つまり、事物を説明するのに意味や意義・概念や原理を抽出しようとすると抜け落ちてしまう要素は存外に多い。「言語化」は時に、多くの要素を取りこぼす。
b.
ものごとを「それってどう面白いの」「どういう意義があるの」とメカニズムや概念・一般法則に還元したがる人は、還元主義者と呼んでもいいのかも知れない。ちょっと面白いのは社会学者(そう、まさに社会学者)のジンメルが、さらにそれを突き詰めた結果
「私たちは、自分が理解もせず理解も出来ぬもの−因果律、公理、神、性格など−に物を還元した時、初めて物を本当に理解したと感じる」
と書いていることだ(『愛の断想・日々の断想』岩波文庫)。分からないと・意味を抽出しないと安心できない心理は、「分からない」に行きついて最後ようやく安心する。何この逆転劇。
でも、そういうものかも知れない。物語を、あるいは世の中どうしてこうなんだと社会や歴史を分析して、分析して、因数分解のように割れる全てを割り尽くして、最後に残る「余り」は結局、この「外」に出なきゃダメだ・「外」の世界につながることが希望だ、となりがちではあるのだ、たぶん。その「外」を昔は神とか神秘(つまり世界の外)と呼んだし、今は他者(つまり外の世界)と呼ぶのかも知れません。
* * *
実は今週の週記では『性の歴史IV』の読書ノートをつけようと思ったのですが、
すでにマクラだけで長くなりすぎたので来週以降とします。
* * *
c.
良い本は時に、別の本の代わりに、美味しそうな飲みもの食べ物を連れて来る。
先週とりあげた『雨の島』では
甘蔗青茶(ガンジョーチンチャー)なる台湾の飲料の名前が目に灼きついた。甘蔗はサトウキビ。日本ではひとしなみに烏龍茶と呼ばれがちな半発酵の中国茶(青茶)を、サトウキビのジュースで割るんだそうです。
これは人さまにオススメいただいた(
そして良き人は、良き本をもたらす…ありがとうございます)
・
張國立『炒飯狙撃手』(原著2019年/玉田誠訳・ハーパーコリンズBOOKS・2024年/外部リンク)
は、えー、ストーリーの概要は後回し(こちらの紹介など参考になるでしょう→)
・
小説_華文ミステリ〔日本版刊行〕張國立『炒飯狙撃手』(太台本屋/外部リンクが開きます)
まずは読みながら、登場する食べ物を備忘にメモする手が止まらない一冊(笑)。北京ダックならぬ
南京板鴨(なんきんダック)、
栄養三明治(サンドイッチ)、
揚州炒飯、
赤豆鬆□(あずきケーキ、□は米偏に下棒が突き抜けない羊・「然」の下部と同様の点四つ)、
刈包、
豆干(干し豆腐)
のように折りたたまれた掛け布団、
キャベツを使わない韮餃子、
麺線は横浜中華街で買えるだろうか(自メモ)、
餡餠(中華おやき)。
たまらんなあ←こういうのでいいんだよ本の感想。

食べ物以外でメモを取ったのは水源市場・東南亞電影院(映画館)・寶藏巖・虎空山などの地名と「65式歩槍」これはアメリカのM16ライフルを模した台湾軍の小銃だそうです。要するに(最後の小銃を除けば)旅情をそそる。
最後の小銃にまつわる(そして懲りずに「意味」を抽出しようとする)話を少し。
ミステリと言うよりエスピオナージュ・スパイ小説に近いのかも知れない。台湾出身でイタリアに潜伏する凄腕のスナイパーが、炒飯の達人でもあって周囲の人たちから好かれてるという設定、そういえば昨年観た台湾ラブコメ映画の秀作『
狼が羊に恋をする時』(
昨年11月の日記参照)でも、去った恋人への未練を抱きしめながら生活のために始めた炒飯屋で人気者になってしまう青年が登場したけど、最初は何度も失敗するうち達人になっていく様子は『炒飯狙撃手』が語る「
炒飯はとにかく慣れだ」に通じるところがあるようだ。あ、いや、そこじゃなくて。チャーシューが手に入らないイタリアでは角切りにしたサラミを代わりに使うと、滲み出る脂で独特の旨味がつくのだとか。いや、そこでもなくて。
突然イタリアで自身が狙撃の標的にされたスナイパーの全欧を股にかけた逃避行と、定年退職を間近に控えた刑事が台湾で遭遇した未解決事件が、やがて台湾軍の(海外からの)武器購入にまつわる巨大な陰謀劇に絡めとられていく。少しネタバレしてしまうと、鄭成功とか明朝の時代に起源が遡る秘密結社・影の同盟が重要な役割を担う。
…そんな構図に改めて、日本の物語の幸福な不幸を考えてしまった。
台湾の作家が書いた本作でも、大陸・「本土」・中華人民共和国で書かれた警察ミステリ『死亡通知 暗黒者』(
昨年12月の日記参照)でも、もっと言えば韓流のサスペンス映画でも、ハリウッドのアクション映画でも、警察と軍隊そして反社会組織(いわゆるマフィアあるいは他国のスパイ組織的なもの)が反発しあい浸透しあい三つ巴の陰謀劇を成しがちだ。その癒着に立ち向かうのも、往々にして軍で特殊な訓練を受けたスーパーヒーローだったりする。
1945年の敗戦以来、正式な軍隊を有さない・また警察力も市民を護る以上の権力行使を(
建前上は)許されない日本では、そうしたスーパー元軍人・スーパー警察官のヒーローは制度上、存在できないことになっている。○○組のような暴力組織が警察や政財界に影響力を行使するさまを描いたとしても、それはハリウッド映画のマフィアの表象とはニュアンスが異るだろう。ましてそうした影の組織が江戸時代や戦国・室町時代まで遡ると言われたら、ギャグか清涼院流水・あるいは清涼院流水のギャグ小説にしかならない。
つまり日本において江戸以前と明治以後の歴史は改めて(名目上)(封建的な心性とかの継続は別問題とする)断絶が著しく、さらに戦前・戦後の断絶が加わった結果、軍や警察・反社会組織をエンターテインメントとして描く可能性は著しく損なわれている。んにゃ、サングラスの危ない刑事と広域YAKUZA○○会が自動拳銃でバンバン撃ちあうドラマは(観たことないけど何しろ本サイトの中のひとが住んでる横浜でも)ふつうにあるのだけれど、そうではなくて。『ボーン・アイデンティティ』のマット・デイモンや『イコライザー』のデンゼル・ワシントン、『アジョシ』のウォンビンや『戦狼』のウー・ジン、『暗黒者』『炒飯狙撃手』のような(元)スーパー軍人・(元)スーパー警察官のヒーローやアンチヒーローの活躍や暗躍を、この国の物語作家たちは指をくわえて見ているしかない。
大急ぎで言うならば、それは幸福な欠落なのだ。軍隊で特殊訓練を受けたヒーローの痛快な活躍(という物語・往々にしてフィクション)など、現実に徴兵や従軍で損なわれた人生の(大小さまざまな)悲劇とは比べ物にならないだろう。それが幸福であることを、譲ってはならない。
現在の日本では(まだ一応)警察官も自衛隊員も、たまさか役割として武器を貸与された一般人であって、階級としては一般市民と同等なことになっている。だから警察官・阿久瀬錠(あくせ・じょう)は異星から襲来した「ハシリヤン」が繰り出す怪人に一警官としては歯が立たず、荒唐無稽な「爆上戦隊ブンブンジャー」の一員・ブンブラックに変身し荒唐無稽な巨大ロボを操縦する(前にも言ったけど
何しろ四肢のある人型ロボを「自動車のハンドル」で操縦するのだ)ことで、ようやく初めてスーパーヒーローたりうる。現実に存在した「自衛隊で特殊な技能を身につけた元自衛官」が、現実の世界では何をしたか、蒸し返す必要があるだろうか。
もちろん現実の警官や自衛官は「着てる服が違うだけの一般人」ではない。警棒や拳銃・自動小銃や戦車がなくても、おそらく素手でも、警察官や自衛官と戦えば(特に非力な僕などは)瞬殺だろう。制度が公式に・その組織が自ら非公式に許した権力・強制力もまた、建前以上にえげつないものではあるに違いない。この建前と実力の乖離は、いずれは問われるべき問題なのかも知れない。この国が「平和」であることと、政治的な異議申し立てが「意識高い」と揶揄され(
意識が高くて何が悪いのだろう)忌避される現状は、もしかしたら関係があって、いずれ吾々はそことも向き合わなければいけないのかも知れない。
だが、そうした「問題」と「諸々の問題を解決するには日本も正式に軍備が持てるよう憲法を改定したほうがいい」とか、まして「徴兵制を復活させたほうがいい」みたいな短絡は、混ぜるな危険だろうと冷静に考えもする。「人々が真に市民・民主主義社会の主権者となるためには軍隊の存在・従軍の経験が必要なのだ」と説く者が現れたとしたら、そうした主張が(人々が主権者より従属者であるほうが好ましいと考える)国家をどう利するのか、先に考えたほうがいい。
他の国では元軍人や、特殊訓練を受けた公安警察官がスーパーヒーローとして活躍する映画やドラマがあって羨ましいから、日本でもそういう物語が生まれてほしい、というのも見ないほうがいい夢だろう。というか少なくとも「その夢には現実の責任が伴うよ」と思う。
世の中に、語られるべき物語は、他にも沢山ある。元軍人のスーパー格闘家がいなくても、政財界まで影響を及ぼす五百年の盟約がなくとも、環境が破壊され人とAIの区別がなくなり・いや人がふつうにただ生きるだけで絶え間ない暴力と被傷性があるのだとは、先週『雨の島』で確認したとおりだ。エスピオナージュを器にタップリ盛りつけられた台湾美食を堪能したり、静岡に原付バイクを走らせ山梨にテントを立て御当地グルメや熱々のおまんじゅうに舌鼓を打つのが、謀略や暗殺やまして戦争よりは語るに足らない無価値なものだと、誰に言えるだろう。

これは人気の某キャンプまんがに登場した富士宮名物・しぐれ焼き(
お好み焼きと富士宮焼きそばを合わせたご当地グルメ 鰯の削り節とウスターソースでさっぱりした味つけ 肉カスとモチモチした太麺のおかげで非常に食べごたえがあります)に触発されて作った、でも「焼きそばが太麺」以外は
似ても似つかない創作お好み焼き。いいのいいの。大事なのは美味しいこと、充実してること、
そして読書が本の外で何かしらの実践につながること…これは今週取り上げるはずだったフーコーの本を読んで受け取ったこと。その話は文案がまとまれば後日。
*** *** ***
(追記)麺線じたいは中華街といわず中国(本土・大陸)系の食材店でもソレらしい細麺が廉価で手に入るし、なんなら安めのおそうめんでも好いのではと(煮込むからおそうめんほど質にこだわらないはず)。むしろ魚粉だしとモツの味わいが出たスープを現地風に作れるか。あれは豚モツがふつうに(お安く)流通する食文化圏での庶民食な気がします。牡蛎が安く手に入ったら贅沢に牡蛎麺線とか美味しそう。
二人と5人(6人)〜ジン・オング監督『ブラザー 富都のふたり』(25.02.08)
監督は本作を通して
「日本の観客に、マレーシアで起きている現実を理解し…
てもらえることを願っています」とメッセージを寄せている。けれど本作が描くのは日本を含め、おそらく世界中で「起きている現実」だ。
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Center of the Earth is the end of the worldとは、アメリカを代表するパンクロック・バンド:グリーン・デイの一節だ。
Green Day - Jesus Of Suburbia [Official Live](YouTube/外部リンク/11分くらいあるので注意)
いや、Earth=地球でもあるので、地球という丸い球の中心≒芯のほうかも知れないけれど

Earth=大地と取れば大地=地上=人の世界の中心はこの世の果て。2010年代、一度は下野した保守政権が
「世界の中心で輝く日本」をキャッチフレーズにあからさまな反動として再び与党の座に躍り出たとき、ずっと(
お前らの言う世界の中心はこの世の果てだろうけどな)と脳内で異議を唱えていた。
逆に言えば、この世の果てこそが世界の中心なのかも知れない。それは同時に、人が作り出した地獄の最下層なのかも知れない。つづめて言えば
「もはや辺境にしかコアはない」。グリーン・デイの歌よりもっと前、『本の雑誌』の連載で評論家の
鏡明氏が、とある回の結語にした言葉だ。当時ほかならぬアメリカを題材にした著作を長く書きあぐねていた氏の言葉と思うと余計に含蓄が深い。地政学と名のつくものは大概インチキだと疑ってかかっている自分が、それでも(わりと地政学用語として知られている)「リムランド」を創作同人誌の個人サークル名にしたのは、この鏡氏の言葉が動機だった。それはさておき。
吾こそは世界の中心なりとドナルド・トランプが吠えるNYだかDCだかと、ガザ・パレスチナはどちらが世界の中心だろうか。あるいはかつて
「哀しい男が吠える街」(違ったかも)と詠われたTOKIOと、そのTOKIOをきらびやかにするために宮下公園を追われた人たち、世界の中心で日本を輝かせるため踏み台にされた福島、維新の会と吉本興業が合作(捏造)した「予想以上の万博」と能登半島、どちらが世界の中心か。
* * *
世界に冠たる大日本さまに比べたら、マレーシアなんざ辺境…
などと言うつもりは、さらさらない。十年近く前に一度だけ訪ねた首都クアラルンプール(以下面倒なのでKL)の尖端ぶりや公共交通機関の先進ぶり、多民族の共生(もしかして角逐)、皮肉な言いかたをすればグローバル資本主義に圧倒された同じドングリとして、かの国の栄華を誇る部分は、日本のそれと少なくとも遜色はないのだろう。

その一方で(有機LEDが夜も輝かせる)光にたいする影もまた際立つ場所でもあった。通りの左右にびっしり軒を並べたレストラン、店の前に張り出したテーブルが街路を埋めて夜をにぎわす食堂街で、行き交う人々の間を縫うように、身体障害者らしい上半身裸の少年が、地べたについた両手を足がわりに駆け抜けた。家族旅行の一行で、いちばん年齢が近かった甥っ子2号が「え?」という顔でショックを受けていたのも印象に残っているけれど、子どもの記憶は曖昧なものだから、いま大学生の彼はもう憶えてないかも知れない。

そんなわけで「また台湾かよ!」とは自分でも思うのですが(
またフーコーと、どっちが好かった?)ただの台湾でなくマレーシア・台湾合作、クアラルンプールを舞台にした・しかも必ずしも光に満ちた内容ではない作品らしいと来たら、何か自分の中の負債を確認するように、足を運ばずにはいられなかった。
『ブラザー 富都[ブトゥ]のふたり』(リアリーライクフィルムズ公式/外部リンク)
その皮肉でしかない名前が岩井俊二監督の映画『スワロウテイル』が描いた架空の日本の街・イェンタウン(YEN TOWN)を思い出させる、けれど富都はクアラルンプールに実在する貧民街だという。いや、たまさか僕はイェンタウンを(そして自身が見たKLを)想起させられたけれど、それだけではない。
多民族国家の一員である華人として社会派映画を手がけてきた
ジン・オング監督はパンフレット冒頭で
「日本の観客に、マレーシアで起きている現実を理解し…
てもらえることを願っています」とメッセージを寄せている。けれど本作が描くのは日本を含め、おそらく世界中で「起きている現実」だ。
ID(身分証)がないため居住もままならず、足元を見られては搾取され、ブローカーに騙され、銀行口座も持てず、反撃する選挙権もないまま入管の摘発に怯える非正規の貧民たち。健常者向けに作られ障害者を存在ごとネグレクトするシステム。ミャンマーからの政治難民。トランスジェンダー。善意の奔走が空回りするNGOの屈辱的な無力。
センシティブな観客なら冒頭、市場で食肉用の鶏が絞められるシーンに食肉の問題・食肉の加工が社会の最下層に託され事実上「賎業」と化している構造まで見てしまうかも知れない。急転直下・怒濤の展開となる後半に提示される法制度上の問題は(伏せるけど)日本もまた他人事ではない。
いや、本作で監督が「知ってほしいマレーシアの現実」として列挙した問題は、どれも日本国内でも見られる「構造的不正義」ばかりだ。強いて違うとしたら、多くの「ふつうの日本人」は入管で収容者が死に追いやられてもネグレクトする側・むしろ積極的に不正義に加担する側だということだろうか。でもマレーシア社会全体でも事情は変わらないかも。

明確に違うので観る前に知っておくといいのは本作の場合、主人公の兄弟は外国からの移民ではなく、複雑な戸籍(?)制度によって生じさせられた、マレーシアで生まれたけれど両親の死亡や親の不認知によってIDが取得できなかった、いわば自国内難民のような存在だということだ。日本で生まれた日本人であることが、そうでないあらゆる者を「差別じゃなくて区別だ」と言いながら差別できる理由になると信じている人たちは、それが通用しない社会もある事実に多少たじろげばいいのにと思う(まあそういう人たちが本作を観る機会はないのかも知れないけれど)。
そして映画を観る前はあるのかなと思っていた、貧しい富都との対比として描かれる光々しいグローバル都市KLの描写が、ほぼほぼ皆無だったことも逆に気になっている。欧米ブランドのショーケースとしてのKL・多民族多宗教(かつて植民した西欧の手による建築等も含め)多文化が栄える観光地としてのKLの姿は、富都に生きる人々を捉えるカメラには「眼中にない」かのように映らない。逆をいえばNIKEのシューズやNIKONのカメラ・資本主義や新自由主義の繁栄を所与として受け容れている層にはKLの裏手にある富都も、各々の国に・当然のように日本にもある「それぞれの富都」もまた、ともすれば見えていない、ということではないだろうか。
そこで冒頭の問い再び:「世界の中心」は、本当はどちらだ。
またはどちらを「世界の中心」とする視点にこれから立つか。
一時的なものかも知れない。けれどこの数年で、特にハリウッドが作る映画への関心が自分のなかで急速に薄れつつある。数年前まではトム・クルーズ(主演)やクリストファー・ノーラン(監督)の新作を劇場で観るかスルーするか大層悩んでいた気がする自分ですらだ。『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』でアカデミー賞を総なめにした中国系(アジア系)俳優たちが「昨年の受賞者=今年のプレゼンテイター」として登壇した翌年の授賞式で、傲慢な白人の俳優たちに公然とネグレクトされたという評判が「冷める」キッカケだったかも知れない。イスラエルによるパレスチナでの虐殺にアメリカが同調したこと・それに異を唱えるような人々が偽善者のセレブとして嘲られ、シルヴェスター・スタローンやジェームズ・ウッズらトランプ的なアメリカの賛美者が大きな顔をする界隈に、いよいよ失望がきわまったのかも知れない。
何も、暗く貧しく「可哀想な」人たちの救われない悲劇を観てションボリしろ、それが現在に生きる者の責務だ―
などと言うつもりはない。さらさらない。ただ、観るならば世界のコアを観たいのだ。それは台北の受験生たちが夢みる狭苦しい寝床かも知れないし、女人禁制の禁が破られ大騒ぎになる北マケドニアの田舎の村かも知れない。新作映画を作ることすら許されなくなったスーダンの野外自主上映会かも知れない。少なくとも、ドナルド・トランプやイーロン・マスクに唯々諾々と従うスーパースターたちがスーパーヒーローに扮して実写だかCGだか分からない大爆発とともに勧善懲悪を自称する場所・ここが世界の中心だと勝ち誇る場所に、いま世界のコアはない(30年以上前から、ずっとなかったのかも知れない)。
『ブラザー 富都のふたり』に監督を含め多くの人々が「これは愛の映画だ」そこに救いがあるのだと評価(自己評価)している。そう言いたい気持ちも分かる。でも僕的には、救いがあろうと無かろうと「ここが世界の中心だ」これが「私の」世界のコアだという体感だけで、本作はドニー・イェンの跳び蹴りのように、トニー・ジャーの肘打ちのように痛快に思える。
本作が描く「世界の果て」は「世界の中心」であり、また地球の中心≒地獄の最下層なのかも知れない。だとすれば「私の」この世界の本質は地獄なのだ。けれど絶対零度のはずの真空にも理論上エネルギーが潜在するように(←
このへんは未消化なので軽くスルーしてください)人間的な生をすべて剥奪されたと言われるような剥き出しの極北にも、勝ち負けや救いのあるなしに関係なく生が、人生が横溢している。『ガザ日記』がそのようなルポルタージュであったし、『富都のふたり』もまた、そのような映画だった。つらかったりアンハッピー・エンドだったりするものは観たくないという気持ちは分かるけど、観る価値のある映画だと思います。
世界の中心は世界の果てで、地獄の底でもある。この逆説は『富都のふたり』のように社会から排除される者たちの、排除される場こそが(問題の在り処としての・またそれに抗する生が横溢する場所としての)世界の中心・社会のコアなのだという理解にもつながる。しかし同時に、吾こそは世界の中心なりと勝ち誇るNYやDCやTOKIO・夢洲もまた地獄めいた排除の中心なのだろうと教えてくれる。
マレーシア固有の問題を指し出そうとした監督の(少なくとも表向きの)意図を超え、世界のどの国にも本質的に存在しそうな排除を描き出した『富都のふたり』は、言い替えれば吾々ひとり一人が感じている社会の歪みや現世のままならなさを恣意的に投影できる鏡にも似ている。
* * *
おそらく他の誰も連想しなかったと思うけれど、マレーシアの貧民街で身を寄せあう血の繋がらない二人の兄弟、それぞれハンサムと呼べるだろう青年俳優たちが額を寄せあうさまを観ながら、たぶん観客の中でただひとり、僕は考えていた。日本の(きらびやかなほうの)中心に長いことスターとして君臨し、君臨しつづけたからこそ性加害者に成り果て転落した、かつての青年のことを。
グリーン・デイが「郊外のジーザス」を歌うより、ずっと前にテレビ受像機を持たないようになっていた(それでかつて同人仲間に「私の知ってる一番の変人」の栄誉を頂いたことがある)僕は、彼が血の繋がらない五人の兄弟(いや最初は六人だった)の長男のように、おずおずとアイドルとしての、俳優としての評価を確立していった初期の頃しか見知ってはいない。だから、いけ好かない言動がイヤでも耳目に入り、とうに愛想が尽き果てていた(テレビ的なものに戻りたくない積極的な理由のひとつにさえなっていた)吉本芸人のボスとは違い、アイドルの彼がどのようなパーソナリティをテレビの中で構築していたか・あんな事件を起こすような人には…だったのか、さもありなんだったか知る由もないし、今さら知りたいとも思わない。同情とも擁護とも、かといって非難や罵倒とも僕は遠いところにいる。何しろ知らないのだから。
ただ、マレーシアの貧民街でIDを持たないがゆえに最貧の生活すら奪われ破滅していく青年と、語弊はあるが地獄であることには変わりない破滅、一人の青年がテレビ界という「世界の中心」で数十年の時間をかけて破滅していくさまを多くの人が視聴者として見守っていたことは、この「世界の中心」もまた地獄・この世の果てだった証左にはならないだろうか。彼が(「兄弟」たちとともに)キャリアの最初期に受けていたろう虐待については言うまでもない。
だからこそ。あるいは「それでも」。吾々・私たちという一人称が「大きすぎる主語」なら、「あなたたち」と言い替えてもいい。きらびやかな地獄にエネルギーを供給しつづけた、あなたたち視聴者それぞれ固有の地獄にもまた(変人の僕が、僕固有の地獄で希うのと同様)救いや、生の証がありますように。かなうものなら他の誰かをなるたけ踏みつけにしない形で。それがまた構造的に難しいのだけれど。

途中から想定外の展開をした映画に負けじと(?)斜め方向の終わりかたをしちまった今回の週記ですが『富都のふたり』ヨコハマだといつもの
シネマ・ジャックアンドベティ(外部リンク)でしばらく続くみたいなので、近隣のかたは是非に是非にー。
【電書新作】スポーツ漫画を描いてみませんか?と遠い昔に誘われたことがあって、ハハハ無理ですと丁重にお断りしたけれど「20年後なら描けるかも」と答えていれば良かったか。人は変わるし世界も変わる。『
リトル・キックス e.p.』成長して体格に差がつき疎遠になったテコンドーのライバル同士が、eスポーツで再戦を果たす話です。BOOK☆WALKERでの無料配信と、本サイト内での閲覧(無料)、どちらでもどうぞ。
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