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お金じゃ買えない〜ポール・ヴェーヌ『パンと競技場』(25.03.02)

 まいったな。
 日本では「パンとサーカス」と呼ばれる古代のバラマキ(?)政策をテーマにした本文700ページ・脚注300ページの大著パンと競技場 ギリシア・ローマ時代の政治と都市の社会学的歴史』(法政大学出版局/外部リンクが開きます)なんですけど、三週間かけて本文700ページだけ(図書館の返却期限を一回延ばしてもらってるので脚注は諦めました)どうにか読み通したその内容は、著者のヴェーヌが亡くなった年に追悼で書いた文章の短い一節:
 「次の事実が大切である。ただのパンは貧しい奴隷に与えられていたのではなくて、市民だけに与えられていた」ヴェーヌはそこまでは言ってないけれど、だとすればローマ時代の無料のパンは子ども食堂や生活保護よりもGOTO何々や、いっそ電通・パソナ優遇策に近かったのでは
これで大体、言い尽くせちゃってる気がする。
(本サイト22年12月の日記(食えない理想家〜ポール・ヴェーヌ追悼」参照)
※もしかしたら既に忘れられてるかも知れないので念のため説明すれば「GOTO何々」とは新型コロナ発生時に医療施設やエッセンシャル・ワーカーではなく「感染を恐れて人々が旅行を避けることによる損失」を補填すべく旅行会社に公金をつぎこんだキャンペーンをさす。
 …強いて解像度を高くすると、こうだ:ローマ帝国の「無料パン」は奴隷はもちろん、首都以外に住む地方の人々・それどころか(無料配布の対象になる)首都ローマですら食うや食わずの貧民を対象にしたものではなく、むしろ都の裕福な市民=特権階級へのサービスだった。属州まで含めた広大なローマ帝国で、その恩恵に与(あずか)れたのは人口の1%に過ぎないとヴェーヌは書く。
 この「1%」が現存する資料に基づく本当の数字か「99%は○○」みたいな比喩なのかは分からない。ただ後述するようにカエサルの時代に無料のパンにありついたのは15万人という数字があるので、当時のローマ帝国の人口が1500万人なら「1%」は妥当と言える。
 ともあれ(ヴェーヌにとって)確かなのは、この権力者による「パンや競技場(サーカス)」の大盤振る舞い=恵与志向は他の何であろうと、現代的な意味での福祉=「富の再分配」でだけはありえない、ということだ。では何なのか。

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 前提となるのは「政治は万人向けの仕事ではない」という彼の理解だ。
 吾々は「吾々こそ主権者だ」「政治家は主権者の言うことを聞け」「吾々に主権を行使させろ」と言う。間違った主張ではない。だが事実として、政治は面倒くさい。直接民主制を採用し、民主主義の心のふるさとと目されるアテネでは実のところ(参政権を有さない女性や奴隷を除いてなお)民会に出席するのは有権者の一割か二割に過ぎなかった、というヴェーヌの指摘には思わず笑ってしまったし、そりゃそうかもねぇと納得せざるを得なかった。
「代議制の下では、市民の政治参加は市民にとって四、五年に一度、数分間の面倒ですむ。(中略)直接民主制における政治参加は市民の重荷である」
原初には万人が万人と争っていたので、流血を避けるため皆で権力を王なり国家なりに委託した(ホッブズ)―というのは体のいい作り話に過ぎない。現実には「自分の生活で手いっぱいな人々が、余裕のある者に権限を譲った」と、ヴェーヌは考える。まして当時の「政治」は自腹である。道路を開いたり、何処かに植民地を築いたり、さらには何処かと戦争したり―そうした費用を捻出できる・そして勿論そうしたことに割く暇がある富者が政治を「引き受けた」。なぜ彼らがそんなに裕福なのかは一旦措く。これが第一段階;貴族制・寡頭制・ひいては王制の起源だ。

 第二段階。統治する暇も金もない者は、暇も金もある富者に統治を任せる。パンや競技場は、自らを統治する権利を手放した代金なのだろうか。そうではない。すごく面倒なのだけど、そうではないとヴェーヌは考える。
 一番わかりやすい喩えは(まあ僕はまんがでしか見たことないけれど)校内のスポーツ大会でクラスが優勝したら、担任の先生が生徒たち全員にジュースか何か「おごる」感じだろうか。あれはもちろん、勝利の報酬でも頑張りへの対価でもない。祝賀であり、祝賀をとおしてクラスの一体感・生徒たちに対する担任教師の庇護を確認する儀式だ。単なる経済的な交換・ゼロサムの取引ではなく、対価では量れない何かがやりとりされているのだ。
 それを仮に威信とでも呼ぼうか。皆それぞれジュースを買ってお祝いしよう、ではなく先生が「おごる」のは「先生がえらい」からだ。「やっぱり、うちのクラスは先生あってこそだよな」と確認するため、生徒も「おごられてあげる」。
 「恵与者は治めるのに(治めたいから)金を払うのでなく、治めているから金を出す」とヴェーヌは書く。統治者として道路を敷設したいから道路を敷設するための金を出し、統治者として戦争をしたい・避けられない戦争では指揮を取りたいがために軍事費を出し、統治者として市民に「おごる」立場でいたいから神殿を建て、競技会を主催し、無料のパンを配る。

 部族の豊かな首長が積み上げた富を惜しげなく皆に振るまい、最後には火をつけて燃やしてしまうポトラッチの儀式は、(対立する首長同士のポトラッチ合戦に発展するように)威信の誇示であり、もしかしたら財産の集中をリセットする「権力に抗する」システムであり、そして積み上げた財産を燃やすことで神に捧げる宗教的な儀式である。
 古代ギリシャ・ローマの恵与もまた、神への捧げ物であることが前提だったという(競技会も本来、神に捧げるものであった)。
 何の話かというと、第三段階として、根拠より功利性より「そういうものだから」という習慣・悪くいえば惰性によって恵与の内容は固定化される。会社が福利厚生ですと言ってスポーツジムの割引券を呉れるのだけど図書券でいいのになぁという願いは聞き入れられない。スポーツ大会で優勝すると先生がジュースをおごってくれるけど放課後にみんなで球技の練習より読みたい本があるのだがという願いも聞き入れられない
 「マルクス・アウレリウス帝は競技見物がキライだったそうです」というキャプションに「やれー」「いてまえー」と喜ぶ観衆の後ろ・貴賓席でワイン片手に(哲学書、読みてえぇ)と思いながら手を振るマルクス・アウレリウスのイラスト(皇帝が手を振ったぞー(歓声))
 市民だって皆がみな戦車競争が楽しいわけでもないだろうけど、とりあえず戦車競争であり、まして市民ですらない「小作人が町に来て、田舎の恵与者は情け容赦もない大地主だと言ったら、「そんな小作人の話など、聞きたくない。われわれとしては、公衆浴場を暖め、オリーブ油を配給して欲しい」と言われるだろう」とヴェーヌは書いている。余談だけれど、最初に恵与で公衆浴場をつくった皇帝はネロだという。皇帝―市民―元老院の三角関係で市民と仲が良く元老院と折り合いが悪かったネロは今でこそ悪帝と伝えられるが、市民うちでは数百年も人気を保っていたらしい…たぶんキリスト教の公認(313年)や国教化(392年)までの「数百年」なのでしょう…
 「パン」はそもそも首都ローマが食糧不足に陥らぬよう「市民すべてに一定量の小麦を廉価または無料で」提供する護民官グラックス(兄)が定めた制度であった。それがカエサルの頃には「無料の小麦を十五万人にだけ」給付する制度に変貌し、選ばれた者の特権と化した。大事なのはポーズだから、それでも良かったのだ。

 もとよりローマ史きっての善玉グラックス(兄)でさえ「市民」以外の奴隷や貧者は眼中になかった。それがカエサルの「改革」により、十七万人が無料あるいは廉価のパン供給を失なう。同時期にカエサルは帝国全土に植民地を作ったが、それが受け皿になり耕作地等を得たのは、せいぜい数万人だったという。
 パンも土地ももらえない十万人ほどの人はどうなったのか。かれらは栄養失調や悲惨のうちに死んだのであろう。他に打つ手があっただろうか。確かにあったと思われるが、カエサルとしては、そんなとるに足らない人々のために知恵をしぼるはずがなかったというヴェーヌのくだりは、浩瀚な本書の中でも際立って光り輝く一節だが、それが問題だという認識は「パンと競技場」=皇帝と市民の持ちつ持たれつの円環の中にはなかった。円環=パラダイムの外で「貧者を救え」と説いたナザレびとの弟子たちは、ネロの人気が衰えるまでの数百年間、ライオンが待つ競技場に送られつづけた(これは僕による単純化)。

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 もう一度まとめます。
 第一段階:統治という事業に暇と金を使えるのは富者のみであり、ゆえに富者が統治者となった。
 第二段階:統治者は神に捧げる建物や競技会の形で自らの権威を示し、市民もそれを享受することで承認の証とした。
 第三段階:前例は前例であるがゆえに踏襲され、制度は固定化される。富者を富者たらしめている富を市民の「外」に還元しようという発想の転換はなかった。
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 寡頭制も王制もパンと競技場も(なんなら資本主義社会も広大なイスラム帝国も)「こういうものを作ろう」というグランドデザインに沿って構築されたもの「ではない」とヴェーヌは考えているようだ。社会全体をどう構築するかというヴィジョンではなく、目先の関心・目の前にいる自分とほぼほぼ対等な相手への気遣い(自分と対等でない女性や奴隷・非市民の存在は棄却される)が、やがて当初の意図にはなかった大きな絵図を描き出すと捉えるのは、社会学的な発想だと言える。
 もちろん少し前の日記で先んじて書いたように、ヴェーヌは個々の出来事から法則を導き出す社会学者ではなく、社会学などの法則を個別の出来事を知るために使う歴史学者なので、本書が語ることを「法則」と見做して他の出来事や物事一般に(無条件に)適用できるわけではない。

 けれど本書が繰り広げた恵与にまつわる考察は、たとえば今の世界で持ち上がっているベーシック・インカムの是非をめぐる議論を理解するのに(少しは)役に立つのかも知れない。
 また、経済的な取引や対価でなく、権威とか威信とかいう金額化できない価値が決定的だという第二段階(仮)での議論は逆に「お金で買えないものはない」と言わんばかりの資本主義・金(カネ)本位制に、思った以上に圧倒されている自分を再認識させてくれる。
 「お金で買えないものはない」裏を返せば「お金でしか買えないものしかない」「あらゆるものは、お金を出して買わなければいけない(か、長々と広告を見た「対価」として、ようやく「無料」で見せてもらえる)」すべては取引や経済効果として貨幣に換算できるという思考様式・では説明できないものが古代ギリシャやローマ帝国を動かしていた。それは時に現代人には理解が難しいと思えばこそ、ヴェーヌはその説明に700ページも費やす必要があったのだろう。
 だが多くの場合ひとを、社会を動かしているのは、少なくとも経済「だけ」ではない。たとえば大阪では維新という地方政党が他地域には見られない高支持率を集め、万博みたいな馬鹿なことをしている。その高支持率の理由にはメディア支配とかプロパガンダとか色々あるのだろうけど、とある大阪出身者が「自分は維新支持者ではないけれど、長いあいだ見下され続けてきた大阪府民の憤懣を(だから維新はあんなに支持されるのだと)見下し続けてきた関東民は知るべきだ」という主旨のことを仰有っていてビックリしたことがある。
 「ローマの平民は投票を望まなかった。暴動を起こしてまでパンを要求しなかった」とヴェーヌは書く。「平民は愛されたかったのである」
 上と同じ「マルクス・アウレリウス帝は競技見物がキライだったそうです」のイラストに追加キャプションで「でも責務と思って耐える。ストイック(ストア派)だから。」
 それ(お金で買えないもの)は突破口じゃなくて柵(しがらみ)だよ、という反論にも一理はあるのだろう。いろんなことを対価(お金)で解決できるからこそ「都市は(人を)自由にする」のだとも言える。けれどそれ(お金で買える)が進みすぎ(あらゆることは当初の意図以上に進む)お金なしには日々の生存すら脅かされる弊害・桎梏に変じきった社会では、あらためて「にも関わらず、対価では説明できないものが社会を動かしている(側面もある)」と見直す意味はあるだろう。…だんだんヴェーヌの回りくどい文章に似てきたので止めますが
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 追加のまとめ;
 (1)最初から設計された大きな目的に向かって進むのではなく、小さな目前の利益追求が、当初は想定もしなかった大きな結果をもたらす。
 (2)社会を動かす動因はしばしば、経済効果や対価では量れない威信や面子・相互承認といった心情的なものだったりする。
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 あるいは、豊かな者・貨幣を多く持つほど「お金以外の愛や威信や柵(しがらみ)」にも恵まれており、あらゆるものを貨幣で購わなければいけない・貨幣以外の「愛される」手段を剥奪された状態こそ「貧しさ」なのかも知れない。
 「○○はプライスレス」「お金で買えない価値がある」がいずれも、たかだか後払いのシステム=純粋に「お金で買えるものしか売れない」クレジットカードの広告コピーだったくらい、自由は簒奪され、世の中はややこしくなっている。
 話をややこしくするのはヴェーヌの芸風でもあり「「事態は君が想像するより複雑だ」と語るのが小説家の使命だ」と説いた小説家のミラン・クンデラと馬が合ったんじゃないかと思います…と頬杖をつく羊帽の女の子(ひつじちゃん)のカット。
 けれど多くの人たちが対価のため(だけ)でなく絵を描き、動画を自撮りし、山に登り、ターミナル駅の地下に推しの誕生日を祝う広告パネルを出すのは、希望かも知れない。巧妙な搾取にまだ囚われているのかも知れない。吾々は無料のパンを得られない人々を打ち捨てたまま競技場で歌手きどりの皇帝ネロかも知れないし―「お金で買えないものはない」とうそぶく新自由主義のインフルエンサーにFun is a one thing that money can't buy(楽しいという気持ちはお金では買えないけどね)」とうそぶき返すジョン・レノンかも知れない。
 ステージで「安い席の皆さん拍手お願いします―それ以外の皆様は宝石をじゃらじゃら鳴らしてください」のジョークをかますジョン・レノン(後ろ姿)とドッと笑う観客、一人「ぐぬぬ」と不本意そうに宝石を振るマルクス・アウレリウス。
 つまり今回もまた余談として、創作の話に着地する。自分で食材を調理する行為には「そのほうが安上がりだ」「いや、自炊できるまでに鍋とか金かかるべ」みたいな金額で量れる・以上の価値がある、なんてことまで含めた「創作」の話だ。買うのでなく自分で価値をつくりだす行為全般と言ってもいい。
 古代ギリシャの民主制→同僭主制→民主制時代の古代ローマ→帝政ローマまで話が進んだ終盤、突然ヴェーヌは言う(こういう脱線をするから本が長くなる)。ファッションを愛する人は「富を誇示するために粋(いき)な服装をするのではない」「身なりをととのえても部屋から出ないこともあり得る」また「詩人はメッセージを送ったり、他の者たちと交流するために詩を書くのでもない」だから「難解な詩を書いても心配しないこともあり得る」
 これらの言葉には(もちろん人に見てもらいたい側面もあるのだろうけど)僕みたいな人間の心を暖め、にんまりさせる処がある。
「作者は読まれるために書くのではないかと反論されるかも知れない。それは間違っている。つまり作者はむしろその本を存在させるために印刷させてほしいのだ」
邦訳700ページにわたる本をものして300ページもの註(未読)を書いた人の発言としては相当に大胆だけど、そして「残念、ここにメッセージを受け取った者が一人いるんだな」と微笑みたくもなるけれど
「壁の落書き、党細胞の集会の政治報告の作者らは、無定見の者を説得したり、仲間に通知することよりも自分の信念を表現することのほうがはるかに大事である」
という言葉に勇気づけられる者もいるだろう。
 …あらためて言うけれど、コミュニケーションの道具として、承認欲求を満たすために、書いたり描いたり自撮りをしたりすることもあるだろう。それであわよくば対価を得たいこともある。お金というより「自分の創作物が承認されたと確認するために対価を受けたい」こともある。
 けれど私たちには全部が全部お金に換算できると思うなよ、「I don't care too much for money - Money can't buy me love(お金なんてあまり気にしてないんだ - 僕の愛はお金じゃ買えないよ)」とうそぶく権利もある。
 そう歌った者たちはイギリスで一番の大金持ちになったじゃないかとひっくり返す権利も。私はそれでいいとして貧しい人はどうなるんだと、(イエスやマルクスのように)人々の幸福を望む権利も。

The Beatles - She's Leaving Home(YouTube/外部リンクが開きます)
The Beatles - Can't Buy Me Love(同)

いつか目が鍛えられれば〜カトリーヌ・マラブー『泥棒!アナキズムと哲学』(25.03.16)

 学生時代、あまり話した憶えのない先輩に突然舞村くん(仮名)ってアナーキストだったよね?と問いかけられたことがある。
 「違いますっ」と即座に否定して数十余年。ようやく「自分はサヨクだけど、むしろアナキストかも知れない」と言える域に達しつつあるようだ(左翼の定義については23年4月の日記参照)。少なくとも「いま自分が考えてることってアナキズムかも」と感じる割合は増えた気がする。
 人が変わるには時間がかかる(こともある)。あるいは、時間がかかっても人は変わりうる。

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 カトリーヌ・マラブー泥棒! -アナキズムと哲学-』(原著2022年/伊藤潤一郎、吉松覚、横田祐美子 訳・青土社2024年/外部リンクが開きます)について書く前に「そもそもアナキズムって何だ?」から始める必要があると気がついた。マラブー先生(前々回の日記参照)はプロの哲学者なので1・2・3あたりはスッ飛ばして軽く10くらいから話を始めてしまうのだけど、今回は1から足場を固めてみたい。

 まずもってアナキズムは「無政府主義」と訳される。ネット検索で「アナキズム」を引くと
「一切の権威,特に国家の権威を否定して,諸個人の自由を重視し,その自由な諸個人の合意のみを基礎にする社会を目指そうとする政治思想(中略)管理社会化が進展する今日的状況において,支配なきユートピアへの願望の表現であるともいえるが,それを実現する現実的基盤を欠くことが多い」(コトバンク/ブリタニカ国際大百科事典)
これはこれで簡潔にまとまっている。けれど19世紀〜20世紀前半に盛り上がったアナキズム運動(今の制度をぶっ壊せ!後は何とかなる!)がボルシェビズム(共産主義。今の制度をぶっ壊せ!そしてすべての権力をソビエトに!)との角逐に敗れ、「今の制度」国家と資本主義の結託も覆せなかった時点で認識が停まっているのが難だ…と、マラブー先生ならダメ出しする知れない。
 実際にはアナキズムは過去ではない。現実化もしてきた。メキシコのサパティスタ運動、アメリカのオキュパイ・ウォール・ストリート、フランスの黄色いベスト運動、イスラエルのAATW(アナキスト・アゲインスト・ザ・ウォール)他にもギリシャやスペインで色々あったはずだ、冷戦終結後の世界で実践として・思想としてのアナキズムは息を吹き返している。けれどそれらの運動は、経済の動向や国同士の争いが気がかりの中心になる「今の制度」上ではニュースサイトの前面にピン留めされず、すぐ色あせ忘れられてしまう。

 アナキズムは過去でも夢想でもない、現役バリバリの実践的な思想だよ!と説く本に、たとえば主に人類学からアプローチした
松村圭一郎くらしのアナキズム(ミシマ社2021年/外部リンクが開きます)
がある。入門者向けの好著ですが
 などと言うと偉そうですが「入門者=私」ですからね(その程度の「自分がどこにいるか」感覚はある)と己を指さす自画像
アナキズムの現在性を説くために
「いまは国家が公共領域から撤退しつつある。日本でも過去数十年にわたり、国鉄や郵政など国営事業の民営化が進んできた。最近は図書館や児童館ですら民間業者に委託(いたく)されはじめている。
 
(中略)政府の転覆を謀(はか)る必要はない。自助をかかげ、自粛にたよる政府のもとで、僕らは現にアナキストとして生きている
と書き起こす冒頭は、なるほど見事なツカミだけど何かおかしい
 いや、たしかに今、少なくとも日本で起きていることの一部は、言うなら政府主導の無政府状態だ。新型コロナや高額医療費問題、とくに昨年の米価高騰で噴出した物価問題、そして度重なる災害での支援の遅れ・あるいは無策。
 昨年はじめ、能登半島が震災に見舞われたとき政府与党の自民党が何をしたか憶えているだろうか。国内のボランティアを閉め出し、海外からの支援を拒絶し、国家としての役割をアナーキーに放棄した政府与党は、こともあろうに自党の議員が日本赤十字社の募金の窓口になることを「震災対策」としたのだ。有権者が本気(ガチ)で目覚めないかぎり数年後〜十数年後には順当に総理大臣になる小泉進次郎が、募金箱を手に子どもの前に腰を下ろし笑顔で「目線を合わせ」た写真が目に焼きついている。
・参考:「地元で街頭募金を実施した小泉進次郎議員【写真】」(中日スポーツ24.01.08/外部リンク)
政府が何もしないから仕方なく皆が自発的に(アナーキーに)始めた子ども食堂を簒奪し「子どもの皆さん。皆さんには子ども食堂があります。頑張ってください。内閣総理大臣・安倍晋三」と恥ずかしげもなく自分の手柄のように呼びかけた先任者の、さらに愚劣なパロディだ。
 なので「今の日本こそアナーキー・イン・ザ・JPじゃん」と中指たてたくなる気持ちは分かる。けれど政府なんて要らねえ・国家を廃絶せよと叫ぶアナキズムと、政府・国家じたいが「お前らのために働くなんてヤンピ・自分たちで助け合ってね」と責務を放棄する官製アナキズム(?)を一緒くたにしていいのか?
 書影。『暮らしのアナキズム』(左)と『泥棒!』(右)
 いくない、とマラブーは言う。
 要するに、状態としてのアナーキー(無政府状態)と、理念としてのアナキズム(無政府主義)を峻別し、後者を救い出す必要があるのだ…というのは自分の言葉で、マラブーはこれを「事実としてのアナキズム」「目覚めとしてのアナキズム」と呼ぶ。専門家に敬意を表して今後は彼女の語彙で話を進めます。
 そもそも「目覚めとしてのアナキズム」自体、19世紀後半くらいからプルードン、バクーニン、クロポトキンなどによって整備された新しい概念だった。それ以前にも、それこそ古代ギリシャの昔からあった悪しき無政府状態・国家なり行政なりが機能を停止し、ヒャッハーとモヒカンの暴走族が略奪をほしいままにする(いや古代ギリシャでヒャッハーはないと思うが)カオスな状態を指す言葉だった「アナーキー」を、いいやアナーキーでいいんだ、政府がなくても人々は相互扶助でやっていける(ここ重要)、むしろ積極的にアナキストを名乗りたいねと言葉を奪った・意味を書き換えたのが「目覚めとしてのアナキズム」だと言える。
 しかし、いま世界を席捲しているのは「事実としてのアナキズム」」―国家が曲がりなりに持っていた国民生活の保護や人権の確保といった機能を放棄する一方で、資本と結びついた国家権力の支配・統制は強まる「ハイブリッドな組み合わせ」「アナルコ・キャピタリズム」(無政府資本主義)だ。
 「政治ジャーナリストの一部が冗談抜きにドナルド・トランプはアナキストだと主張するとき、ジャーナリストたちは言葉遊びをしているのではなく、世界中が重大な危機と感じているものを明確にしようとしているのだ」
 危機は分かるが、これでは真面目なアナキズムの立つ瀬がない。

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 国家の統制なんて邪魔だと主張する意味では、リバタリアンも新自由主義も、なんなら古典的なレッセ・フェール(自由放任主義)から「表現の自由」に差別の自由まで含めろと主張する者(イーロン・マスクとか)まで含まれてしまう。
 上からの統治や支配=垂直性を温存したまま「上」に居る者が自由放任を求める「事実としてのアナキズム」から、水平であれ・上からの(垂直に下りてくる)統治や支配を廃絶せよと求める「目覚めとしてのアナキズム」を切り離すために―
 ―ここからようやく本題に入る。本書でマラブーが「泥棒!」と糾弾するのはドナルド・トランプやマスクなど「事実上のアナキズム」の先導者(煽動者)たち、ではない。自身の同業者である現代思想のエースたちが「目覚めとしてのアナキズム」の標的である上からの支配=統治や支配、権力に対する分析や批判を通して、実践としてのアナキズムを理論面から側面支援しつつ、敵(統治)の敵ではありながら味方ではなかった、自身がアナキストであるとは決して認めようとしなかった不徹底を「泥棒!」自分たちだってアナキズムから思想的な恩恵を受けながら借りパクかよ!と次々(またしても)血祭りに上げる内容なのだ。
 その俎板に乗るのは(不勉強な僕が初めて名前を知る面々も含め)シュールマン、デリダ、レヴィナス、フーコー、アガンベン、ランシエール…本書の半分は「泥棒!」とは言いながら現代思想のエースである先達が敵の敵=統治や支配・権力に対峙し、分析し、解体に挑んだ半世紀の闘争史であり、と同時に彼らが各々の闘いを詰めきれなかった・あと一歩で「敵」をスルリと逃がしてしまった・そして自身をアナキストに変成しえなかった・後世に残してしまった「宿題」を手際よく(?)整理する。
 たとえば原著を読むたび難解さ・晦渋さに頭をかかえたくなる(けれど何か重要なことを言ってるらしいので力不足でもつい手に取ってしまう)ジョルジョ・アガンベンの思想の力点を知るのに「アガンベン入門」みたいな総論でなく「マラブーの問題意識からだけ切り取った」本書の記述は恥ずかしながら役に立つ。また個人的には「代表制が民主制の人口増大への仕方ない対応というのは虚偽で、その本質は寡頭制に他ならない」と厳しく指摘する一方(←先々週の日記に繋がる話ですにゃー)「奴隷であっても主人の命令を理解するという意味では知的に平等で、上下関係を最終的には破綻させうる」などと書いてるらしいジャック・ランシエール(1940〜)など気になりはじめている。それでもマラブーの手にかかると(それぞれの達成や美点は評価されつつ)全員「泥棒」の落第点をつけられてしまうのだが。
 これは多分に私見が入るのだけれど―そして何度か本サイトで書いてるように、多くのばあい思想や思考は(話がアナキズムでなくても)突き詰めると「これ以上考えると破綻してしまう」限界があるもの・なのではないだろうか。目が見えないまま象に触るのと同じは言いすぎかも知れないが、同じ問題意識を共有し、それぞれの問題意識で肉薄しながら、誰もが合意できる完全解には誰ひとり到達できない、そういうものではないか。
 かつてのアナキズムがテロリズムの同義語であり、公然とそれに与することに誰もが躊躇した点もあるのだろう。
 既存の権力を破壊して打ち立てられた体制が同様以上の抑圧者に変じたボルシェビズムの轍は踏めない一方、多くの蜂起が踏み潰され終わったことを「それでも蜂起は美しい」と肯定するのは敗者のナルシシズムではないかと、両側から切り立った崖に迫られる困難もあるだろう。
 現代思想の先達たちは統治を強く批判しながら、真のアナーキー=統治なき世界は可能だと信じる勇気がなかったとマラブーは強調する。カオスな野放図=事実としてのアナキズムと、統治なき相互扶助=目覚めとしてのアナキズムの峻別が(なんなら世界で一番アタマがいい人たちにあってさえ)不徹底だった・自覚されてなかったとも彼女は言う。

 アナーキーという言葉の語源がアン(非)アルケー(始原)であるように、アナキストは「原初の世界では人々は(万人の万人に対する闘争ではなく)権力がなくても相互扶助で平和を保っていた」という考えすら、そうやって正しい「原初」を説く時点でアルケーの罠にはまっているとさえ考える。
 だからアナキズムは原初を、過去への回帰を求めない、「アナキズムの過去は未来にしか存在しない」「アナキズムとは、いかなるはじまりにも命令にも依拠しないがゆえに(中略)つねにみずからを発明し、形成しなければならないような唯一の政治的形態である」と説くマラブーの結論は、力強い提言だろうか。「夢はきっとかなう」的な耳あたりのいいキャッチコピーに終わる懸念もありはしないか。他の誰も哲学者としてアナキズムを理論づけ得なかった・だから自分がそれをやるという決意は、同時に他の誰も詰めきれなかった敵(統治という難題)を自分こそが…と無闇にハードルを上げることにはならないか、とも思うのだけれど…。

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 今週のまとめ。
1)支配構造を温存したまま支配者(国家や資本)が自助や共助を説く「事実としてのアナキズム」と、支配=統治そのものの廃絶を願う「目覚めとしてのアナキズム」を峻別しなければならない。 2)現代思想のエースたちは敵(統治)の解体という形で貢献しながら敵を詰め切れず、また「味方」となるべき「目覚めとしてのアナキズム」の実現可能性をついには信じ得なかった。
 けれど子ども食堂のように一部は「事実としてのアナキズム」に強いられてとはいえ「目覚めとしてのアナキズム」は実践として世界に遍在しているし、思想としても断片的であれば至るところで表明されてきた。ナオミ・クラインの「災害ユートピア」、クラストルの「国家に抗する社会」や、スコットの「ゾミア」などは(僕じしん未読なものも含め)検討に値する。
 『泥棒!』の終章でマラブーが挙げる、ジョルジュ・スーラグランド・ジャット島の日曜日の午後(Wikipedia/外部リンクが開きます)が点描という技法的にも、公園で憩う群像という主題的にも人間のラディカルな平等性をテーマにしていたという事実は、快い衝撃として読者を驚かせる。同じ新印象派のポール・シニャック「目が鍛えられれば、(中略)つまり他人を食い物にして疲弊させる搾取者から労働者が解放され、思考したり学んだりする時間ができるとき」人々の芸術作品の見かたも変わるだろうと明言していたらしい。
 アーシュラ・K・ル=グウィン「正しいメタファーが見つけられるかどうかが、生きるか死ぬかの境目になるかも知れない」と書いたように(23年2月の日記参照)、ついに先達が見つけられなかった哲学と実践を取りむすぶ「正しい言葉」、目覚めとしてのアナキズムを徒花ではないと正当化する「表現技法」を見つけることに、マラブーは賭けているのかも知れない。誰もがアナキズムを吾がこととして受け止められる「言葉」さえ見つけられれば、実際には起きている運動が記憶に刻まれず、ニュースからすぐ消えてしまう現状も変わるのではないかと。

 以下は個人的な余談。
 ジョン・レノンの『イマジン』は言うまでもなくアナキズムの歌だ。宗教も、国家も、所有すら放棄して皆がみな今日のために生きればいいと謳う。「え?所有までは放棄できない「I wonder if you can(君にそこまで想像できるかな)」ごめんちょっと無理、そこまではイマジンできない」と思った話は前にも書いた。なので僕は、あの歌を賛美する人たちを今ひとつ信用できない。あの歌が何を迫っているか本当に分かって、それを引き受ける覚悟があるの?それともただ、薄ぼんやりと「平和がいいよね」くらいの話だと思ってるの?「君は私を夢想家だと言うかも知れないけれど、私は一人ではない」というフレーズの甘やかさを「私」=自分と勝手に掠め取って、いい気持ちになってるだけじゃないの?と。
 それとも、それでいいのだろうか。
 ビートルズ時代はどちらが書いた曲も連名でクレジットするほどだった(まあどちらが書いた曲かは特に「ヘルプ!」や「イエスタデイ」以降は明白だったけど)かつての盟友、ポール・マッカートニーは近年エコロジー推進のため「一週間に一日ベジタリアンになるだけでもいい、そうした人が七人いれば一人の完全なベジタリアンがいるのと同じだ」と提唱しているという。とてもチャーミングな考えだと思う。
 「イマジン」のイマジン(想像してごらん)という問いかけの、本当に自身が痛いところを突かれるような問いは聞かなかったことにして「平和がいいよね」「殺し合いは馬鹿げてる」「私は一人じゃない」みたいに口当たりのいい箇所だけツマミ食いでも、積み重ねれば世界を変える力を持ち得るのだろうか。数十年かけて、僕の自己認識が「少なくとも時々はアナキストかも知れない」と変わっていったように。

 余談に余談を重ねて今週の日記(週記)を終えるなら、アナーキー(アン・アルケー)のくせに原初に理想状態を求めるのはアナーキーじゃないよと真面目なアナキストたちが考えるように、国家なんていらないよという歌が人々の「アンセム」になるのは矛盾だと思ったのか思わなかったのか「イマジン」の後年、別のアルバムでレノンは改めて何も持たない人たちのためのアンセムを用意している。ユートピアにさらに否定のNをつけた邦題「ヌートピア宣言」。たった四秒だし、イマジンより抜群に憶えやすい。そして何処にでも遍在している。
John Lennon - Nutopian International Anthem (Remastered 2010)(YouTube/外部リンク)
※リマスターとは…

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追記:
「目覚めとしてのアナキズム」の実在例として、小川さやかチョンキンマンションのボスは知っている アングラ経済の人類学』(春秋社2019年/外部リンクが開きます)も挙げていいかも知れない。えらく面白いと同時に「こんな才気と根回しが必要な世界で自分は生きていけないかも」と思わされ、なるほど人類は安定した農耕や国家や既存の体制に頼るわけだと悲しい発見をしたりする好著。

たったひとつの〜レッド・ツェッペリン「天国への階段」(25.03.23)

 「天国への階段」は名曲、「天国への階段」は名曲と皆が言うのに、うんうん名曲だよねと頷きながらフォーク・クルセイダーズの「帰ってきたヨッパライ」を思い浮かべてたという話が大好き。いやたしかに登るけどさ階段!長い階段をさ!

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 たぶん昔は、原盤となる海向こうのレコード自体、歌詞に重きを置いてなかったのだろう。(特に非英語圏の顧客あたりを想定して)英語の歌詞を印刷してつけておこう、なんて慣習自体なかった・少なくとも無くても非難はされなかった・のかも知れない。
 昔の日本版LPに(あの大きなジャケットと同じサイズの紙で)ついてきた歌詞カードには、今では信じられないだろうけど「……の部分は聴き取り不可能」と匙を投げたモノや、特に聴き取りが難しい特定の一曲あるいは全曲まるまる歌詞が抜け、日本人のロック評論家による解説だけになったモノなどあった。
 その一方、輸入して売る側もテキトウで?ミュージシャンやレコード会社が出した正式なアルバムでなく、勝手に編集された「ベスト版」と称するカセットが「本人の歌声で収録」なる謳い文句つきで(たぶん勝手に)廉価で販売されたりしていた。ひょっとしたら今も高速のサービスエリアなんかで売られてるのかも知れない。ちなみに「本人の歌声で収録」は洒落じゃなくて、かつて(洋楽ではない日本の歌手の)勝手編集版カセットだかCDだかで「本人の歌唱じゃない」物件をつかまされた知人がいる。私たちはすでにアナキズムを生きているのだ(笑)
 …レッド・ツェッペリンの「移民の歌」は、最初そういう勝手編集(つまりは海賊盤か)のカセットで聴いた。でんでけでけっ・でんでけでけっ・あああーあっ!というイントロで有名なアレだ。いちおう丁寧に全曲の歌詞(邦訳はなし・英文のみ)が小さく折りたたまれた紙に印刷されていて、北大西洋の厳しい氷雪をわたるヴァイキングはサビのキメ台詞をこう叫ぶのだった:
 I wanna go (俺は行きたい)
 where there are rest and show (休息とショーがある場所へ)
 「I want to go where there are rest and show」のキャプションを添え、スポットライトを浴びて踊る羽飾りなんかつけたショーガールたちを背景に、ヴァイキングの角つきカブトをかぶってビールジョッキを傾けるロバート・プラントの絵。酒は美味いしねーちゃんはキレイだ(誤)
なんだか伊東か熱海の温泉ホテルみたいだが、ショーを見ながらゆったり休息、まあ気持ちは分かる…と思ったら数年後、こちらはレコード会社から公式に発売されたベスト版・知ってるひとは知ってると思うけど一時期UFOの仕業かと騒がれた麦畑のクロップマークをあしらった二枚組・四枚組CDについてきた歌詞は、まったく別の代物だった:
 I only go (俺が行った場所といえば)
 where there are less than shown (外見に劣る場所ばかり)
まあ「ショーと休暇」もまだ「行きたいよぉ(泣)」なので現状「行く先々で失望ばかり」と大して違いはないとも言える(?)
 さらに後年、この二番目の英詞すら間違っている
・本当の歌詞はこうだという風聞を目にしたけれど、さすがにもうどうでもよくなってしまい(もういいじゃんless than shownで)この件は放置している。
Led Zeppelin - Immigrant Song (Live 1972)(YouTube/外部リンクが開きます)
 後述するように、ツェッペリン三枚目のアルバムの開幕を告げる同曲には、そこそこ強烈な矜持とメッセージが込められている(推測)のだけれど…

      *     *     *
 しかし1972年に発表された四枚目のアルバム・A面ラストの収録曲「天国への階段(Stairway to Heaven)」は意気込みが違った。例の大きなLPジャケットの内側に入った、レコードを納める内袋が紙製で、そこに擬古調のフォントで同曲の歌詞だけが直々に印刷されていたのだ。これだけは過たず伝わってほしい…と思ったかどうかは知らないが、少なくとも並々ならぬ自信と自負が感じられた。
 それでいて、何を言ってるのかサッパリ分からない歌詞だった。分からないなりに家にあったタイプライターで歌詞を筆耕して、壁かなんかに磁石で貼って眺めたりして、数日後ふいに意味が分かった(気がした)。あーコレは確かにすごいねと感心させられた。なので、その話をする。
 『レッド・ツェッペリンIV』図解。レコードジャケットの中に「天国への階段」の歌詞(英語)が印刷された内ジャケットがあり、その中にレコード盤が入っている
 もちろん今ではネットの何処かで「この歌詞の意味はこう」と、自分が書くより余程ちゃんとしたレビューがあるのかも知れない。でもまあ、同じ観光地やラーメン屋に行った人たちだって「ここについては他のひとが書いてるから自分はいいや」とは思わずに、独自のレビューを書くじゃないですか。逆に今どき「天国への階段」でもないだろうという気もする。正直、フォーク調で始まり終盤ハードロックをぶちかましつつ最後また抒情的に終わる曲調は、僕が初めて聴いた80年代なかばでも既に古めかしかった。いや、リリース当時だって「名曲っぽいのは分かるけど、ちょっと古くさくね?」と思われていたかも知れない。けどまあ昔はロック史上に残る名曲みたいに言われていた。そして、そう言われるだけの、ふてぶてしいまでの歌詞ではあった。
Led Zeppelin - Stairway To Heaven (Official Audio)(同/外部リンク)

 メランコリックなフォークギターのイントロに続いて、歌が始まる。
There's a lady (一人の貴婦人がいて)
 who's sure (彼女は確信している)
 all that glitter is gold (輝くものはすべて黄金だと)
And she's buying a stairway to heaven (そして彼女は天国への階段を買おうとしている)
 この歌詞が自分に(数日後ふいに)「分かった」気がしたのは「輝くものはすべて黄金だ」というフレーズに憶えがあったからだ。ただし否定形で「輝くものすべて黄金ならず」(All that glitter is not gold)という。シェイクスピア『ヴェニスの商人』に登場する台詞だ。
 第二幕第七場、美しい貴婦人ポーシャは求婚者たちに金・銀・銅いずれかの箱を選ばせる。結婚の証となる指輪が入っているのは銅の箱で、金の箱を選んだ者には上記「輝くものすべてが黄金とは限らない(見た目に惑わされた求婚者さん残念でした)」というメッセージが入っている。元々この「箱選び」はラテン語の元ネタがある話で、それをまた別にあった「血1ポンド」の話とマッシュアップして沙翁は戯曲化したらしいけれど(Wikipedia調べ)その話は措く。輝くものが黄金とは限らないという格言は逆に、沙翁の時代のヨーロッパが急速に「金で買えないものはない」的な貨幣経済のエートスに侵略されつつあった反動かも知れないけれど、その話も措く。
 要は「輝くものが黄金とは限らない」という慎み・抑制に対し「いいや、私は輝くものは全て黄金だと信じる」=金で・力で・あるいは意志によって獲得できないものはないと信じる貴婦人がいて、その信念のもと彼女はまさに天国に至る階段まで「買おう」としているわけだ。
When she gets threre (そこに辿り着いた時)
 she knows (彼女は知っている)
 if the all stores are closed (すべての店が閉まっていも)
 with a word (言葉ひとつで)
 she can get what she came for (彼女が来た目的のものは手に入ると)
…And she's buying a stairway to heaven (そして彼女は天国への階段を買おうとしている)
 怖いものなしだった彼女の旅路に、けれど疑念が挿しはじめる。
There's a sign on the wall (壁には印がある)
But she wants to be sure (でも彼女は確信がほしい)
 'cause you know (なぜなら君も知るとおり)
 sometimes words have two meanings (時に言葉には二つの意味があるから)
In the tree by the brook (小川の傍らの樹に)
 there's a songbird who sings (鳥がいて歌っている)
 sometimes all of our thoughts are misgiven (時には私たちの考え全てが誤って与えられたもの=誤解なのだと)
 最初は「彼女は」天国への階段を買おうとしている、と歌っていたコーラスの主語が
It makes me wonder (それは私を彷徨わせる)
…(It)makes me wonder (私は彷徨う)
と一人称に替わると「彼女」はかき消え、歌はスルッと「私」の物語を歌いはじめる。
There's a feeling I get (ひとつの感覚が私を捉える―)
 when I look to the west (―西のほうを見た時に)
And my sprit is crying for leaving (そして私の魂は出立を求めて泣いている)
この「西のほうを見て何か感じた」というフレーズは(のちに有名な『アメリカン・サイコ』-未読だし映画も未見だけど-を書くことになる)ブレット・イーストン・エリスの小説『レス・ザン・ゼロ』のエピグラフに使われていて、僕には分からない特別な意味があるのかも知れないけれど分かりません。あと自分の解釈として「私」は「移民の歌」のヴァイキング同様に西に行きたくて魂が泣いていたので、一応それには深い意味があるのかも知れないという話は後でします。
In my thoughts I have seen (想像の中で私は見た)
 rings of smoke through the trees (樹々の中にいくつもの煙の輪を)
And the voices of (そして声を聞いた)
 those who stand lookin (そこに立って見下ろす者たち(の声を))
It makes me wonder (それは私を迷わせる)
really makes me wonder (本当に迷わされてしまう)
正直このへんはサッパリ分からない。繰り返されるwonderが「僕はあちこちを彷徨ってしまうのだった」の、ワンダーラストのワンダーなのか、「とっても不思議」ワンダフルのワンダーなのかすら、英語ネイティブでない自分には判別できない。両方の訳を混ぜてみました。まさに「時に言葉には二つの意味がある」のです。上手いこと言ったつもりか。
 けれどこの『指輪物語』みたいな?謎描写も、そう長くは続かない。実は今回あらためて歌詞を見直すまで「私」はもうちょっと長くこの、煙の輪がプカプカ浮かぶ謎の森を彷徨うのかと思っていたのだけれど、せっかちめに歌詞は核心に入る。「立って見下ろす者たちの声」の内容が詳らかにされるのだ。
And it's whispered that soon (その声は囁いた、すぐにでも)
 if we all call the tune (私たちが皆でその音を鳴らせば)
Then the piper will lead us to reason (笛吹きが私たちを理性へと導き)
And a new day will dawn (新しい夜明けが訪れる―)
 for those who stand long (―長く立っていた者たちに)
And the forests will echo in laughter (そして森に笑いがエコーする)
たったひとつの「その音」を鳴らすことが出来れば、笛吹き(ちょっと待て笛吹きって誰だ)が私たちを理性(reason)へと導いてくれる。冒頭の貴婦人のくだりでも(彼女は)言葉ひとつで欲する何でも手に入れられるだろうと示唆されてはいた。しかし言葉には二重の意味があり、時に全ては誤解かも知れない―けれど「音」は言葉より疑う余地がない。ダブルミーニングの言葉がもたらしかねない迷妄は打ち払われ、誰もが待ち望んでいた夜明けが訪れる。
 はっきり銘記されてはいないけれど、歌詞が表明しているメッセージはこうだろう:その「音」を鳴らすのは吾々(レッド・ツェッペリン)。あるいはもっとハッキリ、この曲(天国への階段)がそれだ、と言ってるのかも知れない。
 ここで宿題にしていた「西」の話を回収する。まず「移民の歌」なのだけれど、あれはショーを見ながら休みたい・または行った先でも失望しかない「だけ」の歌ではない(だろう)。イギリスにおいてアルバム『レッド・ツェッペリン』でデビューし、全米ツアー中に大急ぎで制作された『レッド・ツェッペリンII』はアメリカのチャートでビートルズのラストアルバムだった『アビイ・ロード』を一位の座から蹴落としたという伝説がある。We are your overload―吾々がお前たちのオーヴァーロード(支配者)だとうそぶく「移民の歌」は、彼らのアメリカ征服宣言だという解釈はそう間違ってないと思う。「天国への階段」の「西」もまた、改めての全米(ひいては世界)制覇を示唆しているのかも知れない。いや、どちらでもいい話だ。歌詞の企図はすでに小さなアメリカを超えている。

 たったひとつの音さえ見つかれば世界の混迷は打ち払われる(その「音」を鳴らすのは俺たちだ)という結論は早々に出たのだけれど、怒濤の終盤を前にして足踏み・歌詞はしばらく彷徨を続ける。まあ、つきあってもらおう。
If there's a bustle in your headgerow (君の生け垣に騒がしい音がしても)
 don't be alarmed now (警戒することはない)
It's just a spiring clean for the May Queen (それは五月の女王に捧げられたただの春雨だ)
という一節は「そうですか、たいへん結構ですね」と雰囲気でパスするとして
Yes, there are two path (そう、道は二つある)
 you can go by (君の進める道は)
But in the long run, (だけど長い目で見れば)
 there's still a time (時間はまだある)
 to chang the road yout're on (君が進む道を変えるための)
は、国政選挙や知事選挙の前なんかに思い出してほしみが強い(本サイトでも前に引用してるかも知れない)。
 (既に結論は出てるのだけど)歌詞は一気に核心に入る。
Your head is humming, (君の頭がブンブンとうなって)
 and it won't go, (それが消え去らない時)
 in case you don't know (君は知らないだろうけれど)
The piper's calling you (笛吹きが呼んでいるのだ)
 to join him (彼に加わるようにと)
謎の笛吹きに続いて、ついに「彼女」が再登場する。
Dear Lady, (親愛なる貴婦人よ)
 can you hear (聞こえますか)
 the wind brows? (風が鳴るのを)
And did you know (御存知だったのですか)
 your stairway lies on the whispering wind (あなたの階段は囁く風のほうにあると)
 でででーん。でででーん。でででーんでーんでーん。
 ここまで続いたフォーク調から一転、ハードロックの間奏が始まる。激しくドラムが打ち鳴らされ、ギターソロを経て突入するクライマックスの主語は一人称複数の「吾々」だ。
And as we wind on (そして吾らはよろめき)
 down the road (その道を進む)
Our shadows taller (吾らの影はなお高い)
 than our soul (吾らの魂よりも)
このwindはウインド・囁く「風」ではなくビートルズの「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」=長く曲がりくねった道、と同じ動詞のワインド。正しいはずの「道」は曲がりくねって、「私たち」は自分の影に圧倒されそうになる。けれど、見よ:
There walks a lady (あの貴婦人が歩いている)
 we all know (吾々みんなが知っている彼女が)
who shines white light (彼女は白い光を輝かせ)
 and wants to show (示したがっている)
how everything (いかに全てのものが)
 still turns to gold (それでも黄金に変じうるのかを)
 さっきは仄めかしだった「あの貴婦人」が白のガンダルフのように輝く完全体で現れて、迷う「吾々」を先導する。それでも(still)あらゆるものは黄金に変わりうるのだ、不可能はない、手に入らないものはない―そう勝ち誇る彼女から、主語のバトンは「君」に渡される。
And if you listen very hard (そして君が懸命に耳をこらせば)
 the tune will come to you at last (あの音はついに君に訪れるだろう)
When all are one, (全てのものが一つになり)
 and one is all (一つが全てになる時)

 分かった、分かった、すごいよ、エモいよと言わさんばかりに畳みかけたクライマックスの歌詞は、しかし最後の最後になって、恐ろしいどんでん返しをする。
 混迷は打ち払われる、圧倒する影は光に消し飛ばされる、すべてのものを黄金に変えることだってできる、不可能はない、君にも「あの音」が聞こえるはずだ、全ては1で、1は全てだと謳いあげた歌詞がなだれこむのは―以上の内容は初めて知ったよ・あまり深く考えてなかったよという人でも「あ、うん、そっちは知ってる」となるかも知れない有名な結語だ。
To be a rock, (一つの岩になる)
 and not to roll (もう揺らぐことはない)
…もちろん歌は最後に再びフォーク調に戻って
「And she's buying a stairway to heaven…」と余韻を残して終わるのだけど、それにしたってTo be a rock, and not to rollだ。いや、ここまで積み上げられた歌詞からすれば間違ってはいない。揺るぎない一つの岩になる。けれど何でも手に入る・不可能はない・たった一つの音さえあればと謳い上げた歌詞の結語が「ロックンロール(rock and roll)」という言葉の半分しか肯定できない・もう半分を容赦なく切り捨てるものだった皮肉はどうだろう。
 キャプション「まあ今どき天国への階段でもオデッサの階段でもないのは分かってますけどね…」と、大広場の階段に腰かけ頬杖をついた羊帽の女の子(ひつじちゃん)のイラスト。傍らでは『戦艦ポチョムキン』とは逆にロングスカートの女性や水兵が階段を駆け登っている
      *     *     *
 この時「ロール」を切り捨てたことでハードロック・バンドの雄レッド・ツェッペリンは唯一無二の頂点をきわめながら固い岩のように硬直し、やがてロール=転がる初期衝動を体現したようなパンク・ロックの台頭に蹴落とされる…渋谷陽一氏などが唱えていたような気がする「史観」は、少し単純化が過ぎるだろうし話が無駄に広がるので省略する。ツェッペリンの全盛期は(ドラマーの急逝まで)以後も続くし、後半グダった前々回・終始グダグダだった前回の反省も踏まえて今週はロールしない・きっちりスジが通った話を書こうと思って、今となってはアンティーク感すらある「天国への階段」なぞ(失礼)を引っ張り出してきたのだ。
 そのうえで。
 「たったひとつの「音」なり言葉なり、概念なりが足りないがために吾々は混迷を強いられ、魂よりも大きな己の影に圧倒されているのかも知れない・たったひとつの「それ」さえあれば、森は笑いで包まれるのだ―という発想は、前回の日記でル=グウィンの言葉を引いたように、抽象的な思考・思索に慣れたひとは早晩どこかで巡りあうものだろう。もしかしたら自分の場合は、このツェッペリンの歌詞が最初の出会いだったかも知れない。
 反面というか表裏一体というか「天国への階段」の歌詞は、そうして「たったひとつの」音なり言葉なりで混迷の世界をスパッと割り切れた…と思ったら、それはRock and RollのRollのように「スパッと割り切れない半分を切り捨ててしまう」限界まで(書いた当人の意図はともかく)示唆している点で、さらに含蓄が深い。
 
 人は概ね言葉で思考する。えらく抽象的な「たったひとつの鍵さえあれば」とか「割り切ろうとすることの限界」みたいな概念を、最初はロックの歌詞を通して知るなんてことも、それが言葉である以上、あっておかしくはないのでした。

    ***   ***   ***
(追記)その後も長く続いたツェッペリンの全盛期も、昔は「アルバムでいいのは8枚目まで・9枚目はちょっと…」みたいな意見が幅を利かせていて、鵜呑みにして聴くのが遅れてしまったのだけど9枚目のアルバム『In Through the Out Door』も決して駄作ではない。
というか聴くのが遅れたせいで長らく知らなかったのだけど、同9枚目に収録された
Led Zeppelin - Carouselambra(Youtube/外部リンクが開きます)
の「ぱぱぱーぱぱぱーぱぱ」とパンチのあるブラスセクション(に模したキーボードだと思います)、80年代の日本の有名な有名なロック・バラードのイントロの元ネタ、これかー!と…いや、そっちは別に好きな曲でもないのだけど、逆に「よくココから拾ってきたなあ」と感心してしまった。JR仙台駅の発車メロディになってた気がします。

電車の中でムーミンを見たら思い出してほしいこと〜ジョルジョ・アガンベン『目的のない手段』(25.03.29)

 イギリス発祥のRefugee Weekは6/20の世界難民デーに前後する一週間(6/16〜22)、世界中で自発的にアート・イベントやお祝いを開催しましょう、というものらしい。包括する(支配はしない)公式ホームページによれば、昨年は15,000以上の催しが行なわれた由。
About;Refugee Weekって何?(Refugee Week公式/英文/外部リンクが開きます)
 今年は絵本デビュー80周年になるムーミンが催しに協力し、作者トーベ・ヤンソンのオリジナル・イラスト(たぶん児童書の挿し絵)を使用したアートワークが公開されている。
Simple Acts(同上/外部リンク)
と題されたページで「Simple Acts(簡単な行動)は、難民を支持し、私たちのコミュニティに新しい絆を作るためにできる日々のアクションです」というヘッドラインとともに、ムーミン一家のイラストをあしらい提示された「アクション」は: ・MEET YOUR NEIGHBOURS (隣人に会おう)
SHARE A FILM (一緒に映画を観よう)
EXPLORE OUTDOORS (アウトドアを探索しよう)
READ AND LISTEN (読み聞かせ・朗読会をしよう)
SHARE A MEAL (食べ物を分けあおう)
LEARN SOMETHING NEW (新しいことを学ぼう)
GET CREATIVE (クリエイティブになろう)
GET ACTIVE (アクティブになろう)
JOIN THE MOVEMENT (ムーブメントに加わろう)
それぞれのイラストはリンクボタンになっていて、クリックすると詳細な説明(英文)を読むことができる。こちらのページ:Moomin 80 x Refugee Week 2025 (同上)では各々のメッセージつきイラストをXやFacebookで―たとえば #RefugeeWeek #SimpleActs といったハッシュタグとともに―シェアできるようだ。
 XやFacebookが差別や排斥をもシェアする(側面もある)ツールなのは一旦措く。Refugee Weekを主導するイギリスや、英語圏の国々が、国というか社会の単位では、同様に差別や排斥を唱え実行している(側面もある)ことも。評価の天秤に載せられるべきは個々の行動(Act)であってプラットフォームや国籍といった属性まるごとを「これだから○○は」と非難するのは「雑」というものだろう。
 と、断ったうえで。

 そうかそうか、ムーミンかと少し暖かい気持ちで電車に乗ると(車両によっては)目に入るのは、同じムーミンのキャラクタが使われたスマートフォンの広告だ。あくまで個人的な趣味の問題だけれど、一気に体温が下がる思いがした。
Google Pixel 9 Pro ムーミンコラボ特設ページ(外部リンクが開きます)
 上記ウェブサイトによれば「あなたはどの民(ミン)?こんなあなたに」(弊社のスマートフォン)という触れ込みで、車両の半分くらいを埋め尽くした広告の宣伝文句は
充電忘れたまま寝落ち民(ミン)なら…(弊社製品は急速充電)
撮ってばかりで写れない民(ミン)なら…(弊社製品は集合写真アシスト)
今日の献立どうしよう…民(ミン)なら…(弊社AIがレシピ提案)
大事な日ほど天気悪い民(ミン)なら…(弊社AIが写真補正)
写真への(他人の)写り込みが気になる民(ミン)なら…(弊社AIが同)
上に予防線を張ったとおり「これだから日本は」とくさすのは「雑」なのでしない。あくまで焦点は個々のアクター、この場合は広告主(スマートフォンの販売者)に絞られるべきだろう。
 絞ったうえで、同じキャラクターと、それが背負ってる物語の、使い方の落差よ。
 もちろん誰もが幸せになりたいのだ。スマートフォンが手早く充電されてほしい、せっかく撮った写真の写りが悪いとガッカリする、極端な話、それは「難民」と呼ばれる当事者だって変わりはない。
 そう理解したうえで、AI搭載スマートフォンの広告が(ムーミンを起用した今回より以前から)拡散する幸福のかたちには、どうにも薄っぺらい、人間のクリエイティビティを舐めてかかってる、そして誰かの排除や搾取を少なくとも問題にはしていない・むしろ積極的に特権として売り込む冷淡さがある気がしてならない。ムーミンとかけて語呂がよかったから以上の意図が積極的にあったとまでは思わないが「○○民(ミン)」「○○民(ミン)」の連打は「帰宅難民」「ランチ難民」「カフェ難民」「スマホ難民」…世間一般での「○○難民(ナンミン)」の乱発と韻を踏んでいるようで心が沈む。一方で、同じムーミン一家が難民と共存するための行動を促していると思えば、なおさら皮肉だ。

 以上、ひとことで言えば「あなたがたが気が利いてるつもりで出してる広告、僕にはぜんぜん愉快でないし、あなたがたが提示する幸せもぜんぜん幸せに見えないんだけどなあ」で済む話かも知れないけれど(ひとことと言いながら「ふたこと」になってることは措く)
 「○○民(ミン)」ならぬ「○○難民」について多少くどく説明すると、人には(スマホで撮った写真をAI加工で「盛る」ように)「キャベツが無限に食べれるレシピ」とか「300円の洋菓子が270円、神!」とか形容を盛りたがる傾向がある。半世紀くらい前の英語圏では「すごーい」の最上級を「それってダイナマイトだな!」と表現したらしいから、ことは時代や地域を問わないのだろう。
 そして「盛る」ための誇張は、しばしば社会的にきわどい・当事者にとっては笑い事でない事象を取り上げがちだ。障害(とくに精神的あるいは知的な障害)や性的指向・犯罪や人権侵害にかかわる用語や概念が、ちょっと気の利いた誇張表現をするために借用される。自分だって「という妄想」「という幻覚」等ついカジュアルに使ってしまいがちなので、他人事ではない。自分はオタクなので、オタクの人たちがBLだの百合だの性的マイノリティを扱ったコンテンツを好んで取り上げながら、LGBT差別にあたるような語彙やネタを無神経に使いつづける様子をうんざりするほど見てきた。体育会系には体育会系の、パーリーピーポーにはパーリーピーポーの、同様な「ノリ」があるのかも知れないけど。
 使用する・選択するくらいの意味で使った「取り上げる」という表現は、わりかし事実でもある。「唖然とする」「ゲリラ豪雨」「原作(以下略)」といった表現は、それぞれの語や当事者がもつ深刻かも知れない状況を、たかが「やー困った困った」と言いたいがために当事者から「取り上げる」。そうした借用は、本来の語や事態がもっていた深刻さを「そんな深刻なもんでもねーじゃん」とカジュアル化する・中和する「効能」もあるかも知れない。驟雨(にわか雨)を「ゲリラ豪雨」と呼ぶことで、実在のゲリラが有してる当人たちの情や理は切り捨てられ「突発的で迷惑」という意味だけが増幅される。「スマホ難民」「ランチ難民」といった亜種の濫造・濫用は、本来の難民が有する個別の状況を削り取り、軽んじさせる「効果」を発揮してはいないか。そうしたカジュアル化は実在の難民への軽侮を助長し…最終的には「偽装難民」のような差別ワードを社会に響かせはしないか。
 「幸福というのは、精神の高いエネルギーが低いエネルギーによって煩されることのない境地、気楽というのは、低いエネルギーが高いエネルギーによって煩わされることのない境地」これは百年以上前の社会学者・哲学者ジンメルの言葉(ゲオルク・ジンメル『愛の断想・日々の断想』岩波文庫)。いちいち目くじら立てるなよ、お前だって気を抜きたい・気楽に行きたい時はあるだろう―それはそうだ。けれどその「気楽」が差別や排除・搾取や簒奪への積極的な加担や、消極的な容認(問題にしない態度)と表裏一体ならば、話は別だ。

 そんなわけで電車に乗って、急速充電を謳うスマートフォンの広告に「○○民(ミン)」として動員されているムーミン一家を見て「なんか感覚的にヤだな」と思ったら、Simple Actsを推奨するムーミン一家のもうひとつの顔を思い出してほしい。Yes, there are two MOOMIN FAMILIES you can go with. But in the long run, there's still a time to change the road yout're on.

    ***   ***   ***
 以下は完全な余談
 そんなこんなでモヤモヤしていたら、また丁度あらたに読みはじめた本に「難民」をめぐる考察があったので(だからさ「持ってる」んだよ自分(笑))簡単に自メモです。ジョルジョ・アガンベンの初期の時評集で昨年改訳が出たばかりの
目的のない手段(原著1996年/高桑和巳訳・以文社2024年/外部リンクが開きます)
に収録された「人民とは何か?」「収容所とは何か?」は「人民」と「国民」を分けて考えることで、1798年のフランス人権宣言に始まる「権利の諸宣言」は国家権力を制限し、すべての人民に基本的人権を保障するスーパーパワーだ・と・いう建前・が・欺瞞だと告発する。現実には近代の人権とは「すべての人民」ではなく「国民」に与えられるもので(フランス革命は植民地の奴隷たちには「自由・平等・博愛」を適用しなかったという23年10月の日記など参照)
「難民が大衆現象として最初に出現したのは第一次世界大戦の終わりのことである。ロシア、オーストリア-ハンガリー、オスマン各帝国の失墜と、平和条約によって作られた新秩序によって(中略)わずかのうちに、一五〇万の白系ロシア人、七〇万のアルメニア人、五〇万のブルガリア人、一〇〇万のギリシア人、数十万のドイツ人、ハンガリー人、ルーマニア人が自国から移動している」
彼ら彼女らが再編された諸国家に自身を再統合させることを拒否し「祖国に戻るよりもむしろ無国籍者になるほうをはじめから望んだ」一方で、国家も20年代に「自国民の国籍剥奪および帰化国籍剥奪を可能にする法」を次々に導入しはじめる。
 自らも亡命ユダヤ人だったハンナ・アーレントを引用し、難民を(国家に帰属しない)「人民の前衛」と捉える一方で、アガンベンは「出生を書き込むという原則(略)に基礎づけられている」国民国家が市民(人民)を完全な市民権を持つ者と持たない者に二分し(ドイツ・ニュルンベルク法・1935年)前者の純粋化のために後者の絶滅をめざすのは必然であった、近代国家は(国民のみに人権を保障すると決めた時点で)終着点としての絶滅収容所を避けがたく内包していたと厳しく断罪する。アウシュヴィッツに至るドイツの絶滅政策はユダヤ人だけでなくロマや性的マイノリティ・障害者まで排除の対象にしていたのだ。
 絶滅収容所は最初から近代国家の基礎に埋め込まれているという、アガンベンのラディカルな論旨に賛同するかは兎も角。
 「国民」国家が多数併存し、いくども「組替え」が行なわれてきたヨーロッパや他の地域では、不安定さゆえに明らかにもなりやすい「国民」国家のかりそめさ・虚構性が―地理的・歴史的な条件から日本では疑われにくいこと、の、デメリットについて考えてしまう。もちろん西欧諸国にも差別や迫害・排除はあるだろう。けれどこの列島で「国家は自明なものだ」と信じることのハードルの低さは、「フルスペックの人権」を有さない人たちへの「差別じゃないよ区別だよ」と言わんばかりの区別(差別)も、また容易にしてはいないだろうか。いや、「これだから日本は」と言うのは「雑」な把握になりかねないと、繰り返し自省は必要なのだけれど、
 明治維新から80年弱の帰結が(未遂に終わったとはいえ)「一億総玉砕」だったこの国は、近代国家はシステム上「致死機械」に行き着かざるを得ないというアガンベンの仮説の最も雄弁な実例候補かも知れないことを、少しは考えてみても好いのかも知れない。

      *     *     *
 自ら賞を与えた『ノー・アザー・ランド』のパレスチナ人監督がイスラエルの軍隊に拉致され拷問された事件に抗議を表明しなかった米アカデミー協会には「これだからアメリカは・西欧は」と言いたくなるけれど、ユーリズミックス時代の代表曲「スウィート・ドリームズ」の歌詞を最初に手書きしたノートをオークションに出品し、落札価格の10万ドルをガザに寄付したアニー・レノックス(スコットランド人)のような人もいる。ちなみにこのニュースは差別やフェイクニュースの温床でもあるX経由で知った。
 ミャンマーの軍部独裁に対しては容認できない思いが強い(23年8月の日記参照)一方、地震のニュースには落ち着いていられず、まあ自分は馳浩が知事をしている石川県にだって動ければボランティアに行ってしまうタイプなんだけどね、(自国を離れた人こそ「人民の前衛」だというアガンベン≒アーレント説の影響もあって)さしあたり日本でミャンマーの人がやってるミャンマー・レストランの売り上げに貢献という迂回路を試してみた。
 ミャンマー料理のモンヒンガー(説明は下部の文章で・パクチーを散らし冬瓜の揚げ物と味の染みた茹で卵をトッピング)と、アガンベン『目的のない手段』を並べた写真。
韓国料理でチゲや純豆腐が盛りつけられるような黒い厚手の小鍋で供された魚介だし(具体的にはナマズだそうな)のスープを、おそうめんみたいな細麺にたっぷりかけていただくモンヒンガー(モヒンガー)、初めて食べました。んまい。別料金(100円)でトッピングした冬瓜の揚げ物も。ミルクとバターで甘く濃厚なミャンマー式紅茶も。
 しかし今日になって地震の死者は報じられただけでも昨日のニュースの十倍になっており(いや、そっちのほうは「親日」ミャンマーが大好きな人たちや政府がジャラジャラ宝石を鳴らしてくれるだろう、鳴らすよね?)と思っていた気持ちは、改めて乱れるのだった。
 そのありかたを容認できないプラットフォーム(あるいは国家・社会)への反感と、そこに定義上は分類されながら属性でなく生きている人たちへの連帯感を、どうしたら上手く両立させられるのだろう。

小ネタ拾遺・25年3月(25.04.02)

(25.03.02)毎年3/2はルー・リードの誕生日を祝って「一年に一度くらいはね…」とロック史上最大の駄作と言われた『メタルマシーン・ミュージック』を聴くのですが(実は慣れるとそれほど苦痛でもない。むしろ個人的には『警鐘』なんかのが拷(それ以上いけない))。レコードだと二枚組・黒板を引っかくようなギターノイズが1時間延々つづく本作、でもリズム=ビートを入れたら案外もっとふつうに聴けるのでは?と今さら気づいて試してみました。
(1)Lou Reed - Metal Machine Music (Official Audio Excerpt)(1:33の試聴版/YouTube/外部リンク)
(2)Acid - Tech loop samples by Liquid Limbs(1:00の試聴版/外部リンク)
(1)のほうが30秒ほど長いので先に15秒くらい再生して「うげー」と思ってから(最初はそうでしょう、いいんですよ)メインギターみたいな音が入ってきたところで
おもむろに(2)のリンクを開くと、ちょっとオウテカっぽい(適当)インダストリアル・アシッドテクノに変身。それでも(2)が先に終わるので最後また(1)が残響してイイ感じです。ヘッドフォンを使用するなど周囲の迷惑に配慮したうえで、お試しあれ。
※YouTubeのルー・リード公式、上に挙げた試聴版だけでなく『メタルマシーン・ミュージック』全曲聴けるの「本気か?」と思うけど、聴きたい人は聴くがいいよ。
※※ルー先生「反省してます…」とばかりに『メタル…』の次には『コニーアイランド・ベイビー』、『警鐘』の次には『都会育ち』とメロウな名盤をリリースして失地回復を図る処が可愛い。
Lou Reed - Charley's Girl (Official Audio)(YouTube/外部リンクが開きます)
(1)で「俺の一週間はお前らの一年に勝る」と豪語した人が次に出す楽曲じゃないでしょ、これ…

(25.03.03)25年春のJR青春18きっぷは昨年末と同様、大幅に機能を制限された改悪仕様(JR東日本/外部リンク)につき、西への旅をあきらめる前提なら同時期発売の北海道&東日本パス(同)のほうが上位互換で断然有利です。具体的には(使用日を指定する必要だけありますが)・指定日より連続7日間使用可で・18きっぷ(5日12,050円)より安く(11,330円)・しかも盛岡ー八戸間の第三セクター青い森鉄道線・いわて銀河鉄道線にも乗車できる(北越急行ほくほく線も。18きっぷだと別料金)。実は昨年末にこの切符で北海道まで行ったのですが(青森→函館間は別料金で連絡船。札幌から帰路は飛行機)仙台から八戸方面の同じルートを18きっぷで旅してる人を見かけ「この時期は18きっぷ」と決めつけないほうがラクなのに…と思ったので(逆にまあ東海以西から18きっぷで来て旅も終盤だった猛者かも知れなかったけど12/10の使用初日だったので可能性は限りなく低い)老爺心にて。
 青森駅から青森港まで12月に歩く馬鹿がいるとは想定されてなかったので(ドカ雪が膝くらいまで積もりっぱなしの歩道を行くことになって)大変でしたという写真。フェリー自体は快適で楽しかったです

(25.03.04)大船渡には2018年、一度だけ訪れたことがある。気仙沼からBRTで陸前高田を再訪して、さらに奥まで足を延ばした感じ。震災からの復興もかなり進んだ段階で、きれいに完成された商業施設「キャッセン大船渡」をそぞろ歩き。タイミング的に食事などは出来ず書店で本だけ買って戻ったのですが
 大船渡の写真。1)手前に水面を置いた商業施設の遠景。2・3)煉瓦を敷き詰めた舗道とウッディな感じで統一された平屋の建物・随所に配された緑。4・5)雲の多い空に大きくスペースを割いて、緑の山々を写した写真。
風景を撮るときフェルメールの『デルフト』を意識して空に大きくスペース取りがちなのはいいとして(こう並ぶと少し恥ずかしい)当時お金を落とせなかった分、ちょっといい海鮮丼でも食べたつもりで・2025年岩手県大船渡 山火事緊急支援(ピースウィンズ・ジャパン/Yahoo!募金/外部リンクが開きます)ささやかながら寄付しました。理不尽に生活を奪われ、また脅かされた方々に、心の平穏が戻ることを願う。
※上記「キャッセン大船渡」から進んだページにも、地元密着型の募金受付があるので、より細密な支援を望む人は御検討。

(25.03.05)昨年12月の東北〜北海道旅行は例によって車内での読書を楽しむ「読み鉄」旅行だったのですが、長万部で1時間半ほど列車待ちが生じたときに丁度フーコー『監獄の誕生』が終盤の佳境で「これは」と忘れないようiPhoneのカメラに収めた箇所が
 左・『監獄の誕生』で写真メモした箇所(内容は下記)。右:長万部名物の「かにめし」弁当
「監禁網は同化しがたいものを雑然たる地獄のような世界に投げ出しはしない。それは外部の世界を持たないのである。自らが一面では排除するかに見えるものをそれは一面では吸い上げる(中略)この一望監視施設(パノプティコン)的な社会にあっては、非行〔=前科〕者は無法者(アウト・ロー)ではなく、法の中心そのものに、(支配という)機構のまんなかに位置している(第四章/強調は引用者)
権力は逸脱者を「追放」という形で自由にしてはくれない・むしろ逸脱者を罪人として監獄に閉じこめ監視することが(パノプティコン的な)処罰社会にあっては法の・社会機構の中心にあるのだ…という書きぶりは、当時リアルタイムの日記でも書いたとおり「おお、ドゥルーズ=ガタリが書いたレイシズムの定義=レイシズムは差別の対象を他者として追放するのではなく、自分たちの秩序の最底辺として逃がさず押しつぶす(『千のプラトー』)と呼応してる、さすが心友」という感動があった。
※これが最終的には「差別こそ資本主義のエンジンだ」というウォーラーステインの批判と符合する(昨年4月の日記参照)
何度も何度も蒸し返した話だけど、差別は「差別じゃなくて区別だよ」などと言いながら外部を持たない序列化だという気づきは自分にとっては社会の「解像度が上がった」記念すべき契機で、ちょうどその模範的(皮肉)な実例を示してくれた(皮肉)のが「(介護職などに就かせるために)移民を受け入れ、人種別で居住区を分ける」ことを提案した曾野綾子だった。今ごろはクリスチャンに相応しく「すべての希望を捨てよ」の扁額を見てる頃だろうけど、改めて追悼文とか書く気はない。当時の文章にリンクを張るに留める。
差別のメカニズム〜曽野綾子氏の発言をめぐって(2015.2.12)
擁護したい者は擁護すれば良かろう、少しは居ないと可哀想だ。「人を人と思わないことの何が悪いんだ・差別なんてたいした罪じゃないよ」と主張することになるけれど。

(25.03.15)フロイト最晩年の問題作『モーセと一神教自分も昨年読んでるんですけどE.W.サイードの『フロイトと非-ヨーロッパ人』』(原著2003年/長原豊訳・平凡社2003年)は本当に同じ本を読んだの?ってほど解釈の支点も力点も作用点も違って、もしかして自分、自分で思ってる以上に基礎的な読解力がないのではと結構真剣に途方に暮れる。
 書影。『フロイトと非-ヨーロッパ人』(左)と『モーセと一神教』(右)
 19世紀〜20世紀初頭「反ユダヤ主義」という意味で流通していたanti-semitismは直訳すると「反-セム主義」つまりユダヤ人もアラブ人も一緒くたに差別していたはずの言葉で、自身もユダヤ人として迫害されながら、(すでに勃興していた)シオニズムには批判的だったフロイトはモーセ=エジプト起源説に、アラブとユダヤが宥和し非ヨーロッパを共有する「セム人」像の確立を期していたのでは、という読解(いいのかコレも誤読じゃないのか←疑心暗鬼)。無神論者でシオニズムにも批判的・そんなユダヤ人らしからぬ自分こそ(破門されたスピノザ同様)逆にユダヤ人らしさの粋(スイ)ではないかと自負するフロイトの姿には、時にパレスチナ人らしからぬパレスチナ人だった(らしい)サイード自身の姿も重なるようで…
 …にしても、かつてセム人の名で迫害された民が、今やヨーロッパ人よりヨーロッパ人のように「セム人」への迫害を誇っている悲劇…『モーセ』が実質遺作だったフロイトも、実は本書が生前最後の著作となったサイードも、今のパレスチナ問題をどう捌(さば)くのだろう…

(25.03.05)『ノー・アザー・ランド』横浜ではkinoシネマみなとみらい(外部リンク)で…え?金曜まで?アカデミー効果で延びないかな…結果的に駆け込みで観てきました。
パレスチナとイスラエル、二つの国のジャーナリスト=固い友情で結ばれたヒゲ面の若者ふたりが向かいあう『ノー・アザー・ランド』のポスター
観ながらおそらく多くのひとが一度は憤怒を抑えきれず、そしてその何百倍・何千倍もの憤怒とやるせなさを耐える主人公≒当事者たちの姿に打ちのめされ、また少なくない人が沖縄・辺野古のことや、ついこないだ=3/1のことなどを思わずにはいられないだろう95分。主人公たちの片方=同胞からは裏切り者のように揶揄され、パレスチナ人からは時に厳しい言葉を投げかけられながらも、後者に寄り添いつづけるイスラエル人ジャーナリストの郷里はベェルシバ。旧約聖書ではユダヤの民とアラブの民の和解の地だったはずの町。つらい。
(同日追記)や、旧約はキチンと読んだことないんだけど、母校だったM学院大学(プロテスタント)の歓談用酒場「ベルシバ」の由来だったので憶えてるのよ…※下戸&非社交民だったので利用したことはない。

(25.03.12)カトリーヌ・マラブーの『泥棒! アナキズムと哲学』本論と直接は関係しないんだけど脚註の挿話に「!」となる。いわく、19世紀半ばパリの周囲には城壁で囲まれた幅250mの建築禁止「ゾーン」が設置されたという。ところが目論見とは逆に「ゾーン」は無許可のバラックや大型馬車、小さな耕作地に占拠され「これはひどい(c'est la zone)」という慣用表現まで生まれたと。
…英仏海峡を隔ててはいるけれど、これと『ウォーターシップ・ダウンのうさぎたち』に登場する、破滅を意味するウサギ語「ゾーン」は関係したりは、しないのだろうか。ゾーン!ゾーン!絶望的な奸計にはまり、信望厚い闘士ビグウィグ(別名スライリ)に救援を求めるモブウサギたちの悲しい叫びがこだまする。スライリ、ああ、スライリ!
 右:市外→城壁→ゾーン→市街の模式図。左:「ねえスライリ」「スライリ言うな」という自作まんが・寮生女子たちの会話カット。
もちろんタルコフスキーの映画『ストーカー』の「ゾーン」の水音も反響して、アレもつながる・コレもつながる…オタク人生の後半生は怒濤の伏線回収(別に伏線じゃなかったんだけど)で楽しいぞというお話。

(24.03.13)王様を殺せ、王様を倒せと連呼する「王様」、お元気そうで何より。
Kill The King(王様を殺せ)Rainbow 直訳ロッカー王様 CDデビュー29周年ライブ・イン・ロック食堂(YouTube外部リンクが開きます)
レインボーの原曲、自分の中ではTHE ALFEE「ジェネレーション・ダイナマイト」の元ネタって認識だったんだけど久しぶりにアルフィーのほうを聴き直したら、言われなきゃ気づかない(?)くらい換骨奪胎しつつ、同じリッチー・ブラックモアの「BURN」もサビでチャッカリ取り入れてる(?)あたり、いかにも確信犯で好い
THE ALFEE- ジェネレーション・ダイナマイト「46th Birthday 夏の夢-2020.8.25-」(外部リンクが開きます)
先行シングル「メリーアン」でブレイク、ロック路線を打ち出したアルバムのオープニングナンバーだったのじゃよ(古老の語り)

(25.03.14)困憊(コンパイ)ワンツースリー,フォー,ファーイブ 出勤だー♪…太古の昔から同じ替え歌が何度となく歌われてきた気はする。

(25.03.16)JAIHOで配信中・韓国発のホラーコメディ映画オー!マイゴースト(外部リンクが開きます/開いただけでは料金は発生しません)、チョン・セランの小説『保健室のアン・ウニョン先生』(23年5月の日記参照)みたいな人情モノだとイイなという期待はドンピシャ。成績不振のTV局が「ショッピング番組に幽霊が映りこむと売り上げが伸びる」という謎迷信のため霊媒をやとって厭がる幽霊を無理やり召喚・お札で操りタレントとして酷使―という展開に、そういえばゾンビも元々は奴隷として使役するため呪術で甦らされた哀れな死者だったような…と思い出すなど。
 『オー!マイゴースト』の一場面。幽霊のヒロインと「見える」主人公の「いやー死ぬかと思ったわ」「お前はもう死んでるだろ」というやりとり。
アジア映画多いめのJAIHO、今なら『ドラゴン・マッハ!』『おじいちゃんはデブゴン』『暗戦』など活きのいい香港映画も配信中。『姿三四郎』にオマージュを捧げた『柔道龍虎房』ラストというかエンドロールの伏線回収(?「妙に不自然なシーンだと思ったらコレのためか!」)がスゴいので観れるひとは観てアゼンとしてほしい。

(25.03.18)「来るぞ来るぞ衝撃受けなきゃ打ちのめされなきゃ」と身構えず読めるティプトリー、というと語弊がありますがすべてのまぼろしはキンタナ・ローの海に消えた』(原著1986年/浅倉久志訳・ハヤカワ文庫FT)はSFでなくファンタジー。いや、破壊されたマヤ民族と汚される自然を老グリンゴ(合衆国の白人)視点で描く三つの短篇は彼女のSFにも通底する「植民地主義の加害者側」という苦い自覚を基調低音としているのだけれど―何の気なしに手にした同書の舞台=ユカタン半島は、ちょうど(グダグダだった)(すまん)(今週のメイン日記(週記)で名前だけ触れたサパティスタ勃興の地・チアパスの近隣で「持ってるな自分」とゆうか、(ティプトリーが哀惜したマヤ族の夢が蜂起となって回帰したような)(とは言いすぎかも知れないけど)あの地域の近現代史、もう少し突っ込んで勉強したくなった。
 『キンタナ・ロー』書影と、南北アメリカの結節点にあるユカタンとチアパスを示した地図・そして「NOW READING…」のキャプションとともに『台北の夜』の書影。
と言いつつ次に読む本は、また台北に逆戻りなのですが…
(25.03.19)翌日、もう流石に別モードに切り替えたつもりで読みだした台北が舞台の小説で終盤いきなり主人公が香港まで足を延ばし、出向いた先がチョンキンマンション(メイン日記末尾参照)でギャッとなる。「持ってる」とか超えて、怪しい追っ手に待伏せされたか、同じパーツを使い回す夢の中に閉じ込められたようで怖い。
 写真:第三部と書かれた扉→次の次のページ→チョンキンマンションとルビが振られた「重慶大□《がんだれに夏》」の文字のアップ。『台北の夜』と『チョンキンマンションのボスは知っている』を並べた書影。
まあマラブーの『泥棒!』最後の最後に台湾のオードリー・タンを「閣僚になったアナキスト」として取り上げていたので、どのみち逃げられない掌の上ではあったのですが?

(25.03.22)読書の話ばかりしてるのは往復2時間くらい電車に乗ってる―冷静に考えたらまともじゃない近況のせいなのですが(なんで「通勤可能です」って言っちゃったんだろう…)
だいぶ前に反町の月例古本市で買ったティム・スペクター双子の遺伝子 「エピジェネティクス」が2人の運命を分ける』(原著2012年/野中香方子訳・ダイヤモンド社2014年)は、同一のDNA配列をもちながら人生を違えた双子たちの事例(反例)を導きに「(かかる病気や寿命・性的指向や犯罪傾向まで)遺伝子が全てを決定する」という20世紀の行きすぎたドグマを覆す。鍵は副題にもあるエピジェネティクス、すなわち遺伝子があってもソレが発現するかは別の要素で決まるという21世紀の理論。
驚くべきは祖母の妊娠中のたとえば栄養状態が、子宮の中の胎児(娘)だけでなく胎児(娘)の中でもう分化している卵母細胞(孫)にまで影響を及ぼし、孫の代になって影響が顕在化する例もあるという→かつてラマルキズムとして葬られた「獲得形質の遺伝」の予想外の形での再評価。
そして各人の将来かかる病気やら何やらを知るには人体だけでは話半分で、人体の中でヒトの遺伝子の4倍も「情報」量がある腸内細菌群のゲノム解析も必要という気づき。
遺伝子の命令は重要かも知れないけれど、それ単独で生涯が決まるわけではない・生命現象は多様な要素が絡みあうオーケストラなのだと説く一冊でした。

(25.03.23)元々ゲストユーザーというかビジターというかアウェイというか、現世のあらゆる局面で「ホームじゃない」感が強い自分だけど、ついに「お前は世界の敵」認定された気分に陥ってしまった、長らく通っていた地元カレー屋のスタミナカレー950円。昨年900円に値上げしてはいたのだけれど「苦渋の決断で720円→750円」なんて頃も記憶してるので、しみじみ崖っぷち(えらい処まで来てしまった)気持ち。
 とろみの強いカレールウに豚バラの焼き肉を散らし、真ん中に生玉子を載せたスタミナカレー。玉子は「焼き」にも出来る
もう少しマイルドに言い替えると、もはや毎日が「こんなになってしまった世界を訪ねる観光旅行」で外食も観光地価格といった按配か。このスタミナカレーと東京に二ヶ所残ってる冷やし排骨担々麺、それに「なぜ蕎麦にラー油を入れるのか」だけは値上げしても(年に数回は)つきあっていきたいと思っているのですが。
そろそろ人生からコーヒーが消える覚悟もしなきゃいけない(かもだ)し、今年は正念場な気がする。

(25.03.27)今日は支出ゼロデーだったので街頭で案内板を掲げた宣伝のひとを見かけても「ふーん(また機会があれば…)」と通り過ぎた「たぬきは飲み物。」、名前で察せたとおり「カレーは飲み物」「なぜ蕎麦にラー油を入れるのか」の系列店みたい。
【飲み物。新業態】池袋東口に「たぬきは飲み物。」がオープンへ(池袋タイムズ/25.3.17/外部リンクが開きます)
ラー油蕎麦も太麺に揚げ玉かけ放題だから、あまり変わらないのでは…と思ったけれど、あ!もしかして温そば?(冷たいかも知れません。機会があれば確かめます)

(25.03.24)大阪万博に比べると1/5くらいの規模らしい?のだけど?なんだろう、わが横浜市には伊勢神宮の式年遷宮みたく20年周期で、胡乱なイベントに予算を焼尽する儀礼でもあるのかしら(それは式年遷宮じゃなくてポトラッチ)いや、あきれてるんです。国際園芸博の建設費、97億増 横浜市が警戒する「万博から飛び火」(朝日新聞/25.03.11/外部リンクが開きます)
※あまり知られてないかも知れないけれど2009年にもY150開港博という大惨事がありましたのさ…
※かく言う自分もGREEN EXPO27については倍々に増える水草が池の半分を覆うまで(地味すぎて)目を背けてた反省はあるます
(25.03.30)今さらなんだけど大阪万博のポスター、ビジュアルの中心になる真ん真ん中の女性がタコ焼きを食べてて、本当に何がしたいんだ?万博じゃないの?…と悲惨な気持ちになってしまった。350万人は来ると見込まれている国外からの来訪客が「このポスターにある食べ物は何処で食べられるんだ」とパビリオンそっちのけで右往左往したらどうするのか、それとも用意してるのか、目玉なのかタコ焼きパビリオン←でもタコ焼きパビリオン、本当にあったらどうしよう(知りたくない気持ちで一杯)
 色とりどりの花らしきものと青空を背景に「GREEN×EXPO 2027」という文字だけをあしらったポスターの写真
比べると横浜のグリーンエキスポ2027、よくもあしくも如才ないというか言質を取らせない・綺麗な印象だけで何をするのかサッパリ分からないデザインで(実は公式ホームページを見ても具体的に何があるのかよく分からない)大阪とは真逆なんだけど真逆すぎて、これはこれで上手くいく気がしない。肝心のイベント(博覧会)自体に訴求力がないのだけは共通してる気がします。

(25.03.28)ある小説書きさんが小説書きのお師匠さんに「小説書きのいいところは、いつ辞めてもいいし、いつまた始めてもいいところだ」と教わった、という話が(うろ覚えなんだけど)好きで、もしかしたら小説書きじゃなかったかも知れない、創作や表現活動すべてに言えることだと思う。七詩ムメイさんがHOLOLIVE卒業ということで「I Miss You」のカヴァーは好きなんだけど前にも貼ってるし中のひとがいつでも望むままに飛べるよう、今日はこちらを。
Mumei Sings "Defying Gravity" from Wicked | Karaoke(YouTube/外部リンクが開きます)
 


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