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数える・量る・分配する〜ジェームズ・C・スコット『反穀物の人類史』(前)(25.04.06)

 旧約聖書・ダニエル書によれば栄華に驕るバビロニアの滅亡は、虚空から現れた手が王宮の壁に書きつけた三つの単語で告げられたという。誰も読めない未知の言語を読み解いた智者ダニエルいわく、三つの単語はメネ・テケル・バルシン―すなわち数える・量を計る・分ける。(数えてみたら)この国の覇権は長すぎた・(量ってみたら)今の王には治めるだけの徳がない、だからこの国を分けるという神の思し召しだと。その晩、王は殺されメディアとペルシアが王国を二分する。
 2025年現在この三語に最も相応しいのは、むしろ他ならぬ…という呪詛は別の夜にとっておこう。30年以上も前にギー・ドゥボールはエルサレムどころか(←言っちゃった)広告プロパガンダに支配された現存の都市「すべて」に終焉を告げる三語が既に刻まれている(はずだ)と断罪し、「分ける」の一語に支配層から「分けられた」持たざる者たちの蜂起を切望した(『スペクタクルの社会についての注解』(原著1989年/木下誠訳・現代思潮新社2000年/外部リンクが開きます))。けれど、それも今回の主題ではない。
 賢者ダニエルの、そしてドゥボールの「分ける」の解釈とは別の意味でも、この三語が「バルス」ばりの滅びの呪いであるのは妙というか、言い得て妙ではないか―という話をする。「数える、量る、分配する」こそ人類に多大な災いをもたらしたと唱える声は、近年ますます大きくなるばかりなのだ。
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 こんなジョークがある。
「わぁ、すごい御馳走!なんのお祝い?」
「坊や、今日から弥生時代なのよ」

 かつて原始人と呼ばれる人々がいた。棍棒か、せいぜい尖った石をヒョロ長い木の棒の先に結びつけた貧弱な槍を片手に(それだって立派なものだ、道具を使っているのだから)獲物を求めておろおろ歩く狩猟・採集民族。迷信ぶかく、文字も持たず、落雷やサーベルタイガーに怯えて暮らす。ちゃっぷいちゃっぷい、カイロがポチイい(古い)。
 しかし人類は農耕を始める。牧畜も始める。もう逃げまどったり、乏しい食物を求めてさすらったりする必要はない。to be a rock, and not to roll。安定した、豊かな食糧を確保して、人は豊かになる。富が生じる。文化が、国家が、文明が生じる。古代の生産革命は後に、産業革命として再演されるだろう。蒸気機関が、紡績機が、人類の豊かさをさらに飛躍させる。迷信を打ち払ったデカルト的理性は海を越え新大陸も眠れるアジアも席捲して、政治・経済・法律・文化…西欧で生まれた近代文明は世界の共通プロトコルになる。
 冷戦の終結による「歴史の終わり」・インターネット以後のグローバル化を三度目の革命に数える必要はあるのだろうか。科学者たちの共有財産とされた南極大陸を除けば、もはや地上にどこかの国の領土でない土地は存在しない(たぶん)し、そのうちWi-Fiの電波が届かない場所も、スマートフォンのタッチ決済が使えない土地もなくなる。まとめて言うと数千年の歴史を通して人類は文明化の度合いを進めつづけてきた。農耕文化に適応できなかった狩猟民・文明の外にいる蛮族・バルバロイは徐々に同化され、あるいは滅び、今となっては各々の国家という大きな枠組の中に設けられた居留地で細々と存在を「保護」されているに過ぎない…
 …本当だろうか?

 たとえば昔のSFや未来予想図では、未来(ひょっとしたら今くらいかも)の人類は世界政府を樹立しているものだった。村落から国家へ・国家から国連やEUのような国際共同体へ・そしていずれは地球がひとつの国家にという進歩史観は、経済やインターネットのグローバル化によって一面的には達成されてると言えなくもない反面「世界がひとつに」というイマジン的な(あるいはオルテガ的な)夢は、一向になくならない国家間の戦争・それどころか国内での分断や内戦という現実によって、いわば未来から「そうはいくものか」とNOを突きつけられている。
 一方それと歩調を合わせるように・あるいは未来からの問い直しに先んじて、過去だってどうなんだ:人類が豊かに・文明的に進歩してきたという「正史」も体制に都合がいい作り話ではなかったかという異議申し立ても続発している。
 本サイトでも折りにふれ…といえば聞こえはいいけれど、要は散発的に取り上げてきた話だ。
 いわく、原初の「万人の万人に対する闘争」は国家の出現で初めて抑止されたって本当かぁ?(これについては「原初の社会は万人の万人に対する闘争じゃなかった」「国家が出来てからも逆に支配者と被支配者の闘争が常態ではないか」と両面からダメ出しが出ている)
 新大陸を発見したと言うけれど、その土地にはずっと前から先住民がいて帝国すら築いていたではないか。
 万人の平等を真に法として整備したのは植民地支配を棚に上げたヨーロッパではなく、制圧されていた側=植民地の独立勢力だったはずだ。(『ブラック・ジャコバン』『ヘーゲルとハイチ』『ハイチ革命の世界史』)
 資本主義は産業革命やイノベーションではなく、村落共同体の破壊や先住民の虐殺・奴隷制など搾取と収奪の賜物ではなかったか。(『キャリバンと魔女』)(『史的システムとしての資本主義』)
 現代的な経営マネジメントはイギリスやアメリカ北部の工業地帯ではなく、奴隷のコスパな「運用」を求めるアメリカ南部やカリブ海のプランテーションで生まれたらしい。
 ↑これは今日まさに読み始めたケイトリン・ローゼンタール『奴隷会計』(原著2018年/川添節子訳・みすず書房2022年)より。同時期、日本の著者も近しいテーマの本を出してたような気もするけど思い出せない…(『奴隷会計』書影と、画面上のほうを両手で指さしてる羊帽の女の子「ひつじちゃん」のイラストを添えて)
 異議申し立ての多くは近代の「正史」に差し向けられている。いま行き詰まっている世界システムが近代の産物なのだから当然とも言える。
 だが、さらに遡って産業革命ではなく農業革命・文明の曙まで差し戻し請求する声もある。
 全然関係ないけど、うっかり自キャラに私認定・今どき人間が取れる最も卑しいポーズ(「ここをクリック」という表示を指さした両手を「見て見て」とばかりに上下させる広告モデルの絵)に酷似の姿勢を取らせてしまい、申し訳ない気持ちでいっぱいです。(屈辱…!屈辱!!と四つん這いで悔しさに地面をドンドン叩く「ひつじちゃん」のイラストを添えて)
 やはり自分の場合、大きかったのは「ただの交易なら貨幣は必要なかった・貨幣が発明されたのは徴税のためだった」というドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』の発言だった。(今まで挙げた諸説もそうだけど)今は個々の真偽を問う場ではない。
 『千のプラトー』経由で知ったピエール・クラストル(1934〜77)は、農耕せず定住せず小集団で生きる狩猟民たちは国家形成に至れなかったのではなく、むしろ権力の集中が危険と知るがゆえに意図的に「進歩」を忌避した「国家に抗する社会」だったと説いた。
 真っ赤な帶に白抜きで君は国家が幻想だと気づいているか?と大書された角川文庫版の吉本隆明『共同幻想論』は自分には正直サッパリ理解できない難書だったけれど、古事記が詳らかにする神話時代の日本の法は天孫降臨を受け容れる側だった社会の「国つ罪」がレヴィ=ストロース的なインセストタブー(近親婚の禁止)なのに対し、天孫降臨でもたらされた「天つ罪」が水田の畔を壊すな等の稲作を守るための禁令だったという話だけは憶えている。
 そのレヴィ=ストロースは構造主義人類学の古典『悲しき南回帰線』「文字による伝達の第一の役目は、隷属を容易にすることである」という仮説を提出している。
 現存する解読可能な最古の文字=メソポタミアの楔形文字は神や王を讚えるためでも、もちろん個人の心情を綴るためでもなく、徴税の帳簿をつけるために発明されたという話は何処で知ったんだったろう。
 桃源郷という言葉の語源と思しき「桃花源記」は学校の教科書で習ったけれど、その別バージョンとも言うべき、虎の出る山奥に隠れて暮らす人々を訪ねた語り手が何故こんな危険なところにと尋ねたところ「虎よりも税吏が恐ろしい」と答えたという逸話を知ったのは、いつだっただろう。
 桃源郷か虎の竹林か、国家に属さぬ人々が東南アジアに形成した一大生存圏に取材した大著『ゾミア』(未読)の原題は、クラストルの系譜を継いでるとしか思えない「The Art of Not Being Governed」(統治されない技術)であるらしい。
 中国の細民が虎よりも税吏を恐れる話は教科書に載らなくても、(税を取り立てる)「里長が声は寝屋戸まで来立ち呼ばひぬ」という山上憶良の長歌は載っていた。それでも、貨幣も文字も(人々の自由な交易や表現のためでなく)国家が税を取り立てるため発明されたのだとしても、それで全体の生活が底上げあれ、皆が豊かになったなら何の問題もないではないか―
 ―という反論は、『千のプラトー』が用意した、もう一枚の切り札=マーシャル・サーリンズ『石器時代の経済学』(未読)で覆される。サーリンズの名を挙げなくても、定住した農耕民より非定住の狩猟採集民のほうが労働時間は少ないという説は、今なら誰もが何処かで耳に目にしているのではないか(してなかったら「今」したんですよ)

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 ちょっとだけメタな話をさせてもらうと、ここまで羅列してきた「異論」が書いてる自分以外の人たちにとって、どこまで目新しいか見当もつかない。
 文字の話も貨幣の話も、ハイチの話も魔女狩りの話も、僕自身は知ったとき目からウロコだった(もしかしたら目にウロコが貼りついたのかも知れないがと危ぶむ程度には公正を期したい気持ちはある)。けれど新説は、特につるべ打ちで食らっていると、まるで最初から常識だった・ずっと昔からそう思っていたように思えるものだ。
 だからここまで書いてきた、僕の場合は時に他の目的で手にした本から偶然に拾うような形も含めて、あっちへフラフラ・こっちにフラフラしながら少しずつ形成されたきたことも、他の人にはSNSで浴びる大量の情報や引用・オピニオンを通じて・つまり別ルートを通してではあるけれど、やはり「そんなの常識じゃん」という話ばかりだったかも知れない。
 それはもちろん危険なことでもある。アメリカでも日本でも、大量のフェイク情報を浴びてフェイクが「常識」になってしまった人たちが沢山いる。その一方でクラストルが、サーリンズが(未読ですが)、レヴィ=ストロースやドゥルーズ=ガタリが説いてきた異説・新説が、「何処で知ったか分からないけど」という形で「常識」になることも、あるのではないか。それで本当にいいのかと思わなくもないけれど、それはそれで救いかも知れない。
 実際、羅列してきた異説・新説には出版年が2010年代と本当に「新しい」ものも少なくない。当然、それらを基にした言説もネットに流れ、増幅されている最中だろう。世界は本当に変わるかも知れない。

 ジェームズ・C・スコットの反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』(原著2017年/立木勝訳・みすず書房2019年/外部リンクが開きます)も、そうした「新しい」オピニオンの一つだ。ここまで述べてきた異説・異議申し立てを総合し、さらに新たな目ウロコを付け足す、「この問題」に関するスタンダードになりうる一冊だと思う。なんなら(僕みたいに遠回りせず)最初に読めばいい一冊
 来週は、この本の話をします。(出来ませんでした)

サスペンスとレヴィナス〜デレク・B・ミラー『白夜の爺(じじい)スナイパー』(25.04.13)

昔プライベートでもやらかして痛い目に遭ったのを忘れてた、今の職場で左右に並べたデュアルモニターでの仕事を余儀なくされていたら肩〜首に激痛が走るようになり(参考記事;姿勢に気をつけよう - デュアルディスプレイで首に激痛がodaryo/noto/24.1.8/外部リンクが開きます)
あわててストレッチなど始めているのですが、んー職場のモニタを縦並びのように調整できるか考えどころ。自宅で通常モニタと液晶タブレット(兼サブモニタ)を縦方向に並べてるぶんには、それほど苦しくないのですよね…
 上記の図解。奥にメインモニタを立て、間に15°くらい傾けて平らに置いた液晶タブレット、さらに手前にキーボードという縦構図だとかなり楽。ノートPCと別モニタが横に並ぶのは無理。
 いわゆるストレートネックというやつで、さらに通勤時間が長くなり、うつむいて本を読む・またはスマートフォンを操作する時間が増えたのもよくないのでしょう。
 というわけで(?)予定していたジェームズ・C・スコット『反穀物の人類史』の話(後篇)は先延ばし。今週は少し軽めの?話をします。

    ***   ***   ***
 軽めといえば日曜朝の戦隊ヒーロー番組。軽めといえども一昨年度の王様戦隊キングオージャー・昨年度の爆上(バクアゲ)戦隊ブンブンジャー、二期つづけて相当クォリティが高かったんだなぁと(まあブンブンジャーは「みんな大真面目に演ってるのに妙な笑いが止まらない」とも思っていたけどな)今季の新番組ナンバーワン戦隊ゴジュウジャー(公式/外部リンクが開きます)を観て、あらためて納得している。
 10話くらい続いて(でももう二ヶ月以上つきあってるんだ…)ようやく世界観もキャラも整ってきたというか、伸び代がある(婉曲表現)のも大部こなれてきて、もうしばらくは視聴を続けるかと思ってるところ。そんな『ゴジュウジャー』スタートダッシュ時の個人的目玉だったのはグリーン属性のゴジュウイーグル。チーム最年少の高校生という触れこみで登場した彼が、実は最年少どころか『ゴレンジャー』以来50年にわたるスーパー戦隊の歴史でも最年長かと思われる87歳のジ…後期高齢者が若返った姿で「二度目の青春をパーリーピーポーとして謳歌する」と言いながら具体的には若い役者さんが中身は87歳という設定を嬉々として演じていらっしゃる(今季のノリ、お察しいただけたでしょうか)。ちなみに87歳、来月米寿を祝ううちの父と同い年ですよ…
 「(カセットテープ)本物、初めて見た…」と現代っ子のブラック(角乃ちゃん)に呆れられ「レコードよりずっと新しいのに!?」と目を丸くする見た目パーリー高校生の禽次郎(中身は譲二さん87歳)のイラスト
 そんな矢先に図書館で目にした小説のタイトルが「爺」。じじい、とルビまで振られて、そんなの読まないわけにいかないでしょ(?)
デレク・B・ミラー白夜の爺(じじい)スナイパー(原著2012年/加藤洋子訳・集英社文庫K2016年/外部リンクが開きます)
 図書館の書棚を背景にした『白夜の爺(じじい)スナイパー』書影。「爺」にしっかり「じじい」とルビが振られている
 ジャンルとしてはサスペンス。ノルウェーで暮らす孫娘夫婦のもとに身を寄せた元米軍の狙撃兵が、悪党どもに狙われる少年を逃がすべくボートを盗み、川を下り、反撃の拠点になる国境のキャビンをひたすら目指す―
 主人公シェルドン82歳。「舐めてたジジイが海兵隊の殺人マシーンだった」みたいなノリではなく、ニューヨークのダイナーでコーヒーとブルーベリー・マフィンを楽しみに生きてきた時計職人が、言葉も通じない異国で、さらに言葉も通じない少年を連れ、時には不法侵入した別荘で持ち主の人生の機微に触れたりしながらの道行き・ロードムービーのような趣きで北欧の旅情も楽しめる小説(ただしバイオレンスあり)でした。
 最初ちょっと意表をつくのは、朝鮮戦争でスナイパーとして鳴らしたがゆえに、今もピョンヤンからの報復の刺客を警戒しつづける彼の経歴が、家族には長年「いや俺は後方で事務をしてたんだ」と偽っていたため「本当は狙撃兵だった」と後から明かした真実のほうを信じてもらえず、アルツハイマーが出たと思われているところ。小説の読者には早々に事実だった(らしい)と明らかになるのだけど「信用できない語り手」をもう少し引っ張りつづけたら、それはそれで面白かったかも知れない。いや最近ではありふれてるか。
 本人はヒーローのつもりで少年を連れて逃げていた主人公が、終盤になって自室から本当にただの事務方だった経歴証明書と「舐めてたジジイが殺人マシーン」系のペーパーバックがどっさり出てきて「やばい…本当は虫も殺せぬ一般人なのに悪党に立ち向かう気だ」という展開や、あるいは逆に従軍時の戦功をしめす勲章なんかが出てきて「やばい…本当に殺人マシーンなんだ」みたいな場面があっても良かった気はするけど、まあそういうのが本当に見たい人は自分で創作すればいいんです

 もうひとつ、ちょっと意外かも知れない見どころは主人公ホロヴィッツの信仰、というか信仰への疑い。
 ユダヤ人の彼は…まあアウシュヴィッツなどは動機でもないんだけど…正義を信じて従軍し、お前もかくあれと教育した結果、息子をベトナムで死なせてしまう。現在のノルウェーでの新生活と降って沸いた逃避行・過去の従軍経験・除隊してからのニューヨーク暮らし・そして少年を追う悪党どもと彼らを追うノルウェー警察、頑固な祖父を案じる孫娘夫婦―時間も視点も自在に行き来する(読みにくくはないです。現在の主人公を「シェルドン」、過去の彼を愛称の「ドン」と書き分けることで自制が分かりやすくなってるのも「盗めそうな」工夫)物語の中で。
 ユダヤ教の贖いの日(ヨーム・キップール)について孫娘と語り合う場面は、サスペンスのクライマックスとは別に展開するシェルドンの人生の核心に迫る、もうひとつのハイライトだ。彼いわく、ヨーム・キップールに人は「二種類の赦しを乞う」
「神に対して犯した罪の赦しを神に乞うことがひとつ。
 それに、人びとに対して犯した罪の赦しを人びとに乞うことがひとつ。
(中略)
 われわれの教義によれば、神にもできないことがひとつだけある
(中略)
 人がほかの人に対して行ったことを、神は赦すことができない。罪を犯した相手に直接赦しを求めねばならない
殺人が赦されない理由がそれなのね
(略)死者に赦しを乞うことはできないもの
(強調は引用者)
 そののち彼は、孫娘にとっては「おまえの父親」・彼自身の息子をベトナムで戦死させたことについて謝ってほしいとシナゴーグで神に問いかけ、神の謝罪を得られなかったがために信仰を捨てたと語るが、それは今回の本題ではない。
 「人が人に対して犯した罪を、神は赦すことができない。罪を犯した当の相手(=人間)に赦しを乞うしかない」という主人公の「思想」には、同じくユダヤ人の哲学者エマニュエル・レヴィナスが説く「倫理」の(僕が考える)エッセンスが詰まっているように思える。
 アウシュヴィッツのような暴虐を、なぜ神は直接に罰しないのかという問いに対して、そんなことが出来てしまうなら神が人を創造し、自由を与えた意味がないという主旨のことをレヴィナスは語った(はずである)。その葬儀でジャック・デリダが読み上げた弔辞(岩波文庫『アデュー』所収)によれば、生前のレヴィナスは「人格」こそ「聖なるものより聖なるもの」で「侮辱された人格を脇においたままでは(中略)聖なる約束された地―も裸の荒れ地にすぎず、木と石の山にすぎない」と語ったという。旧約聖書の最初の殺人者カインは「死を無と考えたはずである」という別の引用は、「殺人が赦されない理由」を裏側から提示したものだろう。
 ユダヤ教から派生したキリスト教を信仰する人たちが時に「いや、そこは人に謝れよ」という場所で神の赦しを乞うこと、なんなら「ここで神を恐れる俺のほうが信仰のないお前らより余程おのれの罪を感じているのだ」と誇る傲慢を目の当たりにして釈然としなかったことが「僕が」ついには「あの神」を信仰は出来ない理由のひとつかも知れない。まあ、それはそれとしてだ。
 新旧つうじて聖書には「人を裁くな。罰は神が与える(復讐するは我にあり)」という真逆の思想があることも踏まえて。人に対する人の罪を神に裁いたり赦したりしてもらえると思うな、と取れる点で、レヴィナスと小説の主人公ホロヴィッツ、二人の思想が一致しているように見えるのは、彼らがともにユダヤ人でありながら、唯一神への絶対の帰依からは逸脱した異端者の立ち位置にいるせいかも知れない(いやレヴィナスの立ち位置はよく分からんのですが)と思ってしまった。
 つい先月の日記で書いた、やはりユダヤ人だった・けれど無神論者で進化論者だったフロイトが「でもそんなユダヤ人の伝統に逆らう自分みたいのが、むしろユダヤ人の粋なのだ」と語っていたという話を(前回はスピノザなど引き合いに出したけれど)また思い出したりしたわけです。

 結局ホロヴィッツは自身が北朝鮮の兵士たちに対して犯した罪とどう折り合いをつけたのか、少年を救うためとはいえ再び殺人という「赦しを乞えない」罪を犯そうとしていることをどう考えているのか、今かの国で赦されえない罪を重ねに重ねているホロヴィッツの同胞たちは、またムーミンの国らしいペーソスをたたえたノルウェー警察(違う違う、ムーミンはフィンランド…後日補記)の視点を通して著者が描く移民=犯罪者という概念は、などなど留保をつけたいところは多々あれど、総じて楽しく読める小説でした。

 それにしても、訳者は映像化されるならトミー・リー・ジョーンズをキャスティングしたいと書いてて、僕は晩年のクリストファー・プラマーを脳内で当ててた(お察しください)主人公ホロヴィッツ、少年の手を引いて逃げる不屈の元スナイパーを、もうじき米寿の父で(ついでに少年を幼い頃の甥っ子で)想像しようとはどうにも思えなかった自分が親不孝なのか孝行息子なのかは、ちょっと迷わされるところでした。おしまい。

税・病原菌・奴隷〜ジェームズ・C・スコット『反穀物の人類史』(後)(25.04.20)

 人類の営みを狩猟・採集・遊牧・農耕に分けるのは農耕で天下を取った者の視点であって、「国家」の外にいる人々にとって四者に区別はない・必要に応じて全部するものだったとスコットは言う。工芸や交易を加えてもいいのかも知れない。

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 とりあえず、クラストルは(一応)知ってる前提で話を進めよう。彼が中米の先住民を(文明度が低くて)国家を形成するに至れなかった「遅れた存在」ではなく、権力が集中する恐ろしさを知るがゆえに敢えてそれを回避するよう共同体を小さくした「国家に抗する社会」と位置づけたのは、もう半世紀も前のことなのだ。
 しかし国家を形成したことも、それが出来るほど権力を集中させたこともないうちから「権力は恐ろしい」「国家を作ってはならない」と分かるものだろうか。侵略・支配・強制収容…国家や権力の負の側面を、イヤというほど知ってる現代人の吾々ならともかく。
 「いや現代人でも国家やら何やらの負の側面には無頓着な人のが多いか…」MAGAの赤帽子をかぶってミャクミャクとダンスしてる人を遠目に見て呆れてる羊帽の女の子(ひつじちゃん)の挿し絵。
 ここ半世紀の哲学者はアナキズムから多くの富を得ている(そしてアナキズムにも多くを与えている)くせに色々と言い訳して自身をアナキストと名乗りゃしないと哲学畑のカトリーヌ・マラブーは盛大に嘆いているが(先月の日記参照)、国家を持たない社会を研究しがちな文化人類学者はまた別なのだろう。
 それにアナーキーの語源はアン(=非)アルケー(=起源)。原初の人類が国家の危険性をアプリオリに(=経験する前から)本能で察知し回避できたと理想化するのも主義=イズムに反するのかも知れない。堂々とアナキストを名乗り、オキュパイ・ウォール・ストリートを主導したりもした(そして『負債論』や『ブルシット・ジョブ』で知られる―未読なのですが)デヴィッド・グレーバーは大先輩のクラストルを手厳しく批判しているようだ。
 ・片岡大右「コロナ下に死んだ人類学者が残したもの デヴィッド・グレーバーの死後の生(下)」(「コロナの時代の想像力」岩波書店・note/22.10.28/外部リンクが開きます)
いわく、クラストルが研究した中米先住民は「国家に抗する」狩猟採集を中心とした生活と、国家に近い農耕・集団社会を季節によって行き来していた。ならば権力の集中や国家の危険性は知ってて当然ということになる。
 反国家と国家を行き来するサイクルは、ある種の粘菌がバラバラになって生きる時期から集合し一体となって移動・新たな芽を出し胞子となってふたたび放散していくサイクルを彷彿とさせる。その一方だけを切り取り、かつ滅びゆく過去の知恵とロマン化することで、クラストルは別の選択肢=反国家を回復不能な過去に押しこめ、現在の体制をかえって強化したというのがグレーバーの批判の骨子だ。

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 やはり未読だけど(これから読む準備は出来てます)『実践・日々のアナキズム』なんて著書もある、そして東南アジアで「国家を逃れた」人々に取材した大著『ゾミア』が地味に話題のジェームズ・C・スコットもまた「国家に抗する社会」は国家のデメリットを熟知するがゆえの、ポステリオリな(経験に基づく)選択と考えているようだ。
 古典的なアニメのエンディングのように「えーん、もう国家はコリゴリだよぉ」と泣いてる「ひつじちゃん」が丸で囲まれてるイラスト。
反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』(原著2017年/立木勝訳・みすず書房2019年/外部リンクが開きます)が説くのは、古代メソポタミアなどに生まれた初期国家の、形成されては滅亡する、短命で脆弱という意外な姿だ。
 とゆうか、初期の国家は支配する者にしかメリットがない。そのメリットとは、ずばり「税」だ。
 貨幣も文字も徴税のために発明された―という話は前々回にした。メソポタミアで楔形文字が(簿記のために)発明されてから、それらが神を讚えたり詩文を表したりするまでに五百年のタイムラグがあったとして左記の説を裏づけるスコットが、ダメ押しで指摘するのは穀物自体、徴税に適していたから採択されたということだ。
 なぜ麦や米の国家はあっても、タロイモ国家やキャッサバ国家・バナナ国家や大豆国家はなかったのか(「バナナ共和国」はあったけど意味が違う←反植民地主義ジョーク)。それは(地中に埋まった不定形なタロイモやキャッサバと違い)同じ大きさの小さな粒を地上で収穫でき(年中いつでも収穫できるバナナや豆類と違い)収穫の時期が定まっている穀類は数え(メネ)、量り(テケル)、その一部だか大半だかを取り上げる=分ける(バルシン)、つまり徴税に適していたからだとスコットは暫定的に結論する。(※粒で収穫でき成熟期も決まっているヒヨコ豆やレンズ豆で国家は発生しなかったこと・逆に成熟期が決まっていないトウモロコシでも新世界にはマヤやインカなどの国家が生じたことが「まだよくわからない」例外として挙げられる)。

 話は逸れるが+もう10年以上も前なんだけど『銃・病原菌・鉄』のジャレド・ダイアモンドの顔が好きすぎてモデルにした学者先生を自作のまんがに登場させたことがあって
・本サイト内RIMpack'13 ペーパーまんが総集編2013」所収「サイン」
モデル同様に壮大な文明史を探究してそうな著作の題名を『麦の世界史』として
 まんがからの切り抜き1:ダイアモンド氏をモデルにした学者先生に「あの特徴的な風貌…」の台詞。切り抜き2:サインをもらおうにも図書館で借りた本しか持ってなくて「すす、すみませんっ文庫になった『麦の世界史』はちゃんと買っているんですが(て、それも失礼か)」と恐縮しまくる大学生と「あ…いや分かりますよ僕も学生の頃は苦しかったしネ」とフォローする先生。切り抜き3:見切れてるんだけど、なにげに別の著作のタイトルが『金・銀・銅』だったらしく、そんな自分の安易さが好き。
あ?いや?『塩の世界史』のほうがグローバルで良かったかなぁと描いた当時から実は気にかけていた(そんなん誰も気にしないって)のが、まあ『麦の世界史』でも良かったかなと思い直すことが出来た。『反穀物の人類史』とは、逆にいえば今まで支配的だったのは「穀物の世界史」だったということだから。
 話が逸れるついでに大急ぎで言うと、現状、穀物は美味しい。水洗トイレが整備され、こんなにも本を読め、映画もアニメもインターネットもある現在の世界のメリットと同様、炭水化物の美味しさは認めざるを得ない。米価の高騰を消費者と生産者・双方が助かるように政府が何とかしろと訴えるデモなどを「でも穀物を選んだことが人類の間違いじゃん」と否定するつもりも全くない。
 『反穀物の人類史』にスパゲティ・オートミール・センレック(タイビーフン)を並べた写真に「てゆか穀物、大好きじゃん自分…」とキャプション。
そうしたデモの一部参加者が日の丸を掲げ外国人排斥を謳ったり、あるいは渡米して好成績をあげている野球選手が「僕は、おむすびが美味しい国に生まれた」と広告でおにぎりを頬張ったりしてるのを見ると、やはり穀物はナショナリズムと親和性が高いのではと思わないでもないが、こじつけな気もする。穀物に関係なく、国家をアプリオリ=当たり前として育った人たちは生活が安定しているかぎり国家を支持する、その安定が脅かされると余計にナショナリズムや排外主義が煽られるもの、なのだろう。
 話を戻すと、ナショナリズムや排外主義より前に、国家=穀物そして徴税である以上、やはり弊害の第一は税なのだった。「王がいてもかまわない。領主がいてもかまわない。けれど怖いのは徴税官だ(強調は引用者)という格言は古代シュメールの昔からあったという。本書で最もインパクトがあるのは、万里の長城は外敵を斥ける以上に、国民を逃がさず閉じ込めるためだったという説だろう。専門家=20世紀の中国学者オーウェン・ラティモアがそう唱えているという。

 そのうえで。
 スコットによれば初期の国家には、とゆうか集住と穀物の栽培・牧畜には、もうひとつ致命的なデメリットがあった。疫病と、全般的な不健康だ。
 「現状、穀物は美味しい」と先に書いた。けれどそれは、スナック菓子やジャンクフードの美味しさと同じで、身体には必ずしも良くはないものかも知れない…とは、スコットではなく僕の見解だけれど、脚気や壊血病の例もある。単一の穀物栽培に特化した農耕よりも狩猟・採集(それと焼畑など専門化しすぎない耕作)のほうがコスパ良く、バランスのよい食生活が出来そうでもある。徴税分を取られることでの栄養不足もあっただろう。
 かてて加えて、家畜や穀物めあてに寄ってきた害獣がもたらす感染症がある。集住は感染の温床でもある。なぜか人々がバタバタ倒れはじめる「国家」の悲惨は、周囲の非定住民に国家を忌避させるに十分だったはずだ。
 そして画一的な耕作地に縛りつけられ、集住を強制された「国家」の臣民たちは、周囲の非農耕民より小柄でもあった。これは化石で証明されている。ブタも犬も、人に飼い馴らされた動物は、祖先の猪やオオカミより小型化する。「万里の長城は逃散の防止用だった」と並ぶ、本書のパワーワードは「家畜より前に国家は人間を飼い馴らした」というものだ。第二の生産革命=近代の資本主義は「蒸気機関よりも前に人間を機械化した」というシルヴィア・フェデリーチの台詞(23年10月の日記参照)を彷彿とさせる。
 ちなみに(これが今回さいごの余談になるといいなあ)フェデリーチの話。近代的理性とイノベーションが資本主義を生んだという神話に激怒する彼女は、人々が入会地を共有していた14〜15世紀のほうが、エンクロージャーで共有地を奪われた(そして資本主義が萌芽期にあった)16〜17世紀より明白に庶民の食生活が豊かだったと『キャリバンと魔女』で書いているけど、この主張には多少の留保が必要らしい。というのもフェデリーチが「近代のせいで食生活が貧しくなった!」と主張する時期は世界が寒冷化した小氷期(14世紀半ば〜19世紀半ば)にもあたるからだ。
 ただし「ミニ氷河期」とも呼ばれる小氷期が収穫の低減をもたらしたことは、30年戦争からナポレオン戦争に至る同時期の(世相を荒廃させた)戦乱や、ひょっとしたらルターなどの異議申し立て=宗教改革、さらにはエンクロージャー=収奪の強化によるヨーロッパの資本主義化の近因遠因であり、結局は天災に対し人類が破壊や収奪で臨んだことが食糧危機につながった、と言えるのかも知れない(これは僕の臆見)。
 なんでこんな余談をしてるかと言うとスコットは、その小氷期じたいヨーロッパ人の「新大陸」侵略(とくに病原菌がもたらした災禍だろう)によって先住民が死に絶え、彼ら彼女らの焼畑農業が途絶えたためCO2の排出量が減り温室効果が緩和されたせいで起きたと「少なからぬ気象学者」が唱えている、と紹介しているからだ。まわりまわって人災。フェデリーチやスコットが現在進行形で要約している、人類や歴史に関する見直し=新しい所見は、かくも恐ろしく、恐ろしいがゆえに面白い。

 話を『反穀物の人類史』に戻すと、飼い馴らされて小型化し、狩猟や採集に比べると創意工夫に乏しい単調な集団労働を強いられた初期国家の「国民」たちは、言うまでもなく奴隷だった。いや、「農耕と定住で人々の生活は安定して豊かになり、やがて富が蓄積され貨幣や文字などの文化・ひいては国家が誕生した」という国家に都合のいい神話に飼い馴らされた吾々は、古代ギリシャの民主制やローマ帝国の時代まで、穀物を作っていたのは奴隷だったという指摘に驚かなければならない。アリストテレスは奴隷を人間よりも動物のほうに分類していた。本気でそうしていたのだ。
 だもんで、古代の戦争は捕虜=奴隷の確保が主目的だったとスコットは言う。万里の長城は蛮族の侵入より奴隷の逃亡防止だったと言う。近代においてすら「19世紀半ばの衛生革命(上下水道の敷設)まで、およびワクチンと抗生物質の登場まで、一般に都市の死亡率はきわめて高く、都市の成長は田園部からの大規模な人口流入によってのみ可能だった」と彼は説く。
 飼い馴らされ、無力になったことは支配には便利だったかも知れない。途中からは規模の利益が生じて、現在のように国家なしの生活は考えられない段階に至っただろう(いや現在も多くの人々が難民や移民という形で国家の軛を離れた生活をしているのだが)。問題は「最初」だ。現に最初期の国家は短命で、何度も滅びてもいる。逆になぜ、感染症のリスクもありコスパも悪く人々を小柄にする定住と農耕が、狩猟や採集に優越し、国家を孵化させるまでに成長しえたのか
 その答え(仮説)も本書では明確に用意されている(これが2017年だ)。あまりに意表をつく「犯人」なので流石に伏せるけど、そこだけ気になるひとは77〜78ページ・そして107〜108ページだけ読んでみるといい。びっくりするし、納得もさせられる、そして恐ろしい気持ちにもなる。現代の人類学・考古学・歴史学は科学であり、残酷な数学でもあるのだ。

      *     *     *
 そんなわけで今週の結論:『反穀物の人類史』は、半世紀にわたり積み上げられてきた反国家・反農耕・反定住の学説を手際よくまとめたうえで、自身の新説も加えて構築された2017年の最新成果なので、この問題に関心があるひとは本書から手に取るのが一番手っ取り早くてオススメです(でないと僕みたいに長年かけて遠回りすることになる)。
 すぐれてエキサイティングな本なのですが、初期の農耕国家において畑の穀物が・飼い馴らされた家畜が・そして飼い馴らされた人間が、いかに害獣や害虫・病原菌に対して脆弱で食い荒らされてばかりいたかをコレでもかと語る第三章は、話の流れ上「反穀物・反国家」モードに洗脳されかかっていてもなお「ざまあ」を通り越し「なんて哀れな…」という気持ちになり胸が塞ぐ。
 そして1000年代(千年紀)の半ばまで定住国家を苦しめつづけた外部からの略奪=「蛮族」戦闘的な遊牧民族との交渉を描く最終章は、最後になって関心の重心がズレて別のテーマに移行しつつある「出口」のような感じもして少し統一感が薄れるのと、やはり内容が暗くてカタルシスに乏しい…というのは個人の感想。税から逃れれば虎に遭う、みたいに、やはり世界に残酷でない「外」はないのかも知れないと悲しい気分になってしまうのだ。
 さんざっぱら初期の国家はダメだった・無理があった・そっちを選ぶべきではなかったという説を紹介してきたけれど、けっきょく集住は・農耕は・国家は初期の不利を克服し(または先進国の住民には見えないところに押しこめ…というのはウォーラーステインの説)今の吾々は「米が高い」「税金が、保険料が高い」と文句は言いながら、ウォシュレットやスマートフォンを手放した生活すら想像するのが難しい。相当な完成度で出来上がってしまった監獄を「そのうち滅びろ」と呪詛する以外の出口・突破口はあるのだろうか。とりあえず、そのへんはスコットの別の著作に期待してみるしか(それも勝ち目は薄いけど)なさそうだ。『ゾミア』と『実践 日々のアナキズム』も読んでみることにしました。
 図書館で借りてきた『ゾミア』『実践 日々のアナキズム』書影。「対国家闘争…」の文言があるクラストルからの引用。
ちなみに『ゾミア』は邦題で、英語の原題はThe Art of Not Being Governed(統治されない技術)というようです。巻頭の引用文(エピグラフ)は、がっつりクラストル。

わりとニャばいめの話(25.04.27)

 何をもってニャばいめの話とするのか、そもそも「ニャばい」って何だよ何歳(何十歳)だお前とかは深く考えない。あまり他のひとがしてる気がしない(ただし自分の観測範囲はニャンコの額よりも狭い)かつ極めて政治的な話をする。要点は三つ。
・「こう生活が苦しいのだから政府は○○の購入や導入に金銭的な支援を」と叫ぶ声は小さくないが、実は○○は支援されて(は)いる
・それが「支援を」と叫ぶ人たちに届いてないのには、伝えかたの拙なさなどがある
・なぜ伝えかたが拙ないのだろうと考えると、システム的な問題がありそうに思える

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 1)「政府は○○に支援を」と叫ぶ声は小さくないが、実は支援されて(は)いる
 例年のおにぎりアクション(秋頃の期間中におにぎり写真をSNSにアップするとアフリカなどの児童の給食代になる)でInstagramに投稿する以外、SNSにアクティブに関与することはなくなった。Twitter(現X)は投稿停止宣言をして久しいし、代替SNSと呼ばれるスレッズやブルースカイ・マストドンなどにも新たにアカウントを作ってはいない。
 それでもパッシブな、つまり読み専としてSNSを、現Xは主に二次元世界へのオタク的な関心、その他の現世に関する関心はマストドンで満たしているのだけれど、後者で時々しばしば挙がるのが「人々の生活が苦しいのだから、政府は○○に支援すべき」という声だ。
 事実として「その○○は、ここ数年、毎年のように補助金が出されて(焼け石に水かも知れんけど)少しは楽になってるんだけどね」と思うことが多少ある。でもソレを言うためだけにSNSのアカウントを取って、知らないひとに直リプで「あなたの言ってる○○、既にありますよ」と御注進に及ぶのは僕ができること・すべきことの規(のり)を超えているし「そういう問題じゃないんだよ」と逆恨みされる可能性だって、ないとは言えない。たとえば当時とうに騒がれたり騒がれなかったりして撤回された法案を報じた何年も前の初報を今になって取り上げ、日付を見ればすぐ過去と分かるのに「これは放っておいたら大変なことになる!」と炎上させようとする人もいる。僕がSNSから(おにぎり以外)撤退した理由でもある。
 その一方、実際「そういう問題じゃない」側面もある。
 僕の視点から見える、ニャンコの…ニャンコはもういいか、視界の狭い話ではある。むしろバズったりしない環境(個人サイト)にひっそり上げて、読んだ人が咀嚼しきって、それぞれが考える一助になればいいと思う。

 2)それが「支援を」と叫ぶ人たちに届いてないのには、伝えかたの拙なさなどがある
 実在する補助を挙げると色々と障りがあるので、架空の補助金をでっち上げる。間違っても「こんな補助があるんだ!」と思わないように―そうですね「令和7年度・紙価格の高騰にともなう書籍価格の減免措置」とかどうでしょう(笑)
 近頃は本が高い。文庫でも一冊千円はザラだ。さらに消費税もかかる。たまんないね!政府は本の価格を国費で下げるべきだ!…それが実は既に国費で下がってるのだとしたら(架空の話です。たぶん下がってません)なぜ、それが伝わっていないのか。
 答えは簡単、国費が支給されるのは出版社(架空)であって、書店で本を買って読む一人一人に対してではないからだ。
 つまり最初に本の価格の3%なり7%なりが「これこれの単価で本を出します」という出版社に支給され、本の表4・あの悪名高いけど慣れてしまえば(街の空を遮る電線同様)風情に思えるバーコードやら何やらがプリントされる箇所に小さく「令和7年度・紙価格の高騰にともなう書籍価格の減免措置で3%値引きされています」と印刷されている(架空)。
 本の裏・バーコードや価格があるあたりに小さく減免措置のことが書いてある(架空)を実際に画像化したもの。「亡き丸谷才一先生(私淑)は街の電線も本の裏のバーコードも厭ってらしたよね…」と思い出してる自画像(散髪しました)を添えて。
※実はこれに似たものは実在しており、たとえば海外のマイナーめの小説や文芸研究・社会批評などの本の奥付に小さく「本書の翻訳(あるいは出版とか)は国の国際交流助成事業(とか何とか)の支援を受けています」みたいな表示があったりはする。でもあまり知られてはいない(かも知れない)
 同様にSNSで「これは政府が支援して減免措置を取るべき」「そうだそうだ」と言われている生活に関わるような出費が実は既に減免されている、領収書に小さく書いてある(でも大々的にアナウンスはされていない「らしい」)ということはある。「らしい」と書いたのは、なにせ僕自身が新聞も取らないテレビも観ない、おおよそ現代日本では可能なかぎり社会の話題から逃走中の状態であるからなのだけど、そういうもの沢山みてるであろう人たちが「支援がない」と騒ぐからには、「ありますよ」という周知は不徹底なのだろう。
 あるいは「令和7年度・地方アイドル助成事業」としてコンサートチケット半額補助とか推し活が国費で支援されるとする(されません)(架空です)。
 ところが実はこの助成金、東京を地盤に活動する人気アイドルの地方遠征でも30%はチケット代が補助され、こちらの利用のほうが圧倒的に多いとしたらどうだろう。
 イラスト。アニメ『ラブライブ!スーパースター』からワンカットだけ登場した地元アイドル「ゆるゆるアスファルト」の二人(何あの子…と若干引き気味)に「土建アイドル可愛いすぎりゅぅ」と泣きながらペンライトを掲げてる東京アイドル兼アイドルおたくの米女メイ(Liella!)を「あんたもライブに出るったら出るのよっ」とステージに引きずっていく平安名すみれパイセン。
 大都市からの追っかけ勢が地方に遠征すれば、宿泊代なり食費なり現地に落ちるお金もあるだろう、何より地方のライブハウスやコンサートホールが潤う。ならば、より本質に近い「地方ライブハウス・コンサートホール助成事業」と看板だけでも変えればいいのにと思うけど(架空ですよ)(架空ですからね)なぜか「地方アイドル助成事業」として話を進めるとしたらコレはやはり、伝えかたが拙ないということにならないだろうか。アイドル助成は架空だけれど、この助成金はターゲットと看板が違う…と思う案件も、現実にないではないのだ。

3)なぜ伝えかたが拙ないのだろうと考えると、システム的な問題がありそうに思える
 以上(架空の話になぞらえながら)現実にある「もっと周知されていい事業が、なぜ知られないのだろう」という案件には一応エビデンスも実例もあるのだけど、以下の「なぜ」はあくまで個人的な憶測にすぎない。
 手っ取り早く「地元アイドル助成(架空)」の件から片づけると、国としては「地元アイドル」を推進したい意向が強いため、現実には「ライブハウス・コンサートホール支援策(架空)」であっても看板は「地元アイドル」にこだわる、なんて話はありそうだ。地元アイドルでは想像しにくいかも知れないが、たとえばそれが愛国心とか家父長制とかイデオロギー的なものなら、どうだろう。食糧の確保や農家を支えるより「日本の」米を守れとか。
 そう考えると「書籍価格の減免措置(架空)」が(自分の狭い観測範囲では)積極的に周知されてないように見えるのも「敢えて」のように思えなくもない。
 半世紀前にダラスで暗殺されたアメリカの大統領の「国が何をしてくれるかより、一人一人が国のために何ができるか問うてほしい」みたいな発言を、今の日本の総理大臣は就任演説で引用したという。JFKの発言の主旨は皆が自由や人権を守るため努力してほしい、みたいな意味だったらしいけれど、この日記の主題ではないので省く。省くけど今、この国・この社会の中心で政策を、国や社会の方向を決定したい人たちは「国があなたたちの生活を補助します」というアナウンスを、あまりしたくないのではないか。実際には最低限のことは、している(場合もある)にも関わらず。かわりに目に入るのは、子ども食堂を推進しましょうとかNISAとか「あなたがたは自助してください」ひいては「あなたがたが(自腹を切って)社会に、国に尽くしてください」というメッセージばかりに思える。
 もちろん、これはこれでイデオロギーだ。考えすぎかと自分でも思う。
 あるいは、こっちの方が具体的かも知れないが。助成金は恒常的なものではない。今年もあったから来年もあるとは限らないし、助成額も地味に変わる。大声で触れ回れば、それだけ「今年はやらないのか」「なんで昨年より減るのか」という声も上がるだろう。「そもそも適正な補助か」「今ほんとうに必要な補助か」みたいな声も。たぶん「足りない」という声も、「国民を甘やかすな」という声もステレオで(左から右から)出るのだろう。
 雉も鳴かずば。本当はむしろ声が上がって百家争鳴・議論が尽くされたほうが望ましいにも関わらず、異論はノイズでデザインする側が全て決めたほうがいい、異論に対応する余力はない的な事情が「知らしむべからず」な周知キャンセルを「敢えて」させているのではと勘ぐる気持ちもないではない。
 そもそも論で言えば、助成金とは逆に費用の半分を助成しても、残り半分は自腹なのだ。たとえば農業を機械化するとか過去にあったことでも、国が相当な助成をしたとしても個々の農家は(それで収益が上がって元が取れるという前提のうえで)自腹を切って国が進めたい政策に乗った・乗っからされた側面は、ないではない。だからこそ、むしろ周知を徹底して「それでは足りない」も「逆に負担だ」も「こっちはどうなる」も騒がれたほうが、個人的には良いと思う。
 他にも色々あるんだけど『監獄の誕生』ばりに「ここで中断する」で、よろしいでしょうか。みんな今夏も生き延びてほしい、それが建前ってものではないか。

小ネタ拾遺・25年4月(25.04.30)

(25.04.14)この時季に華やか、だから花だとは限らない。柔らかそうな若葉。何という樹でしょうね。
 左画像:遠目には緑の樹が白い花をつけてるように見えるけれど 右画像:近くで見ると白い葉裏に紅色がかった葉脈の若葉。
(25.04.15追記)何という樹なのか植物検索サイトなどで探してみるも、不慣れゆえ特定できず。
 全長10cmくらいの成葉(?)のアップ。光沢があり縁はギザギザ、細い枝の先から四枚くらいの葉が放射状に生えているほか、枝の中ほどでも随所から一枚ずつ葉が出ている。
そして半開きの本のように二つ折りで葉裏が表に出た、その葉裏が白くて葉脈沿いに紅色がつく特徴的な若葉は、本当に生まれたての仔鹿だけがプルプル立てないのと同じくらい生まれたてのレアな姿だったらしく、翌々日には元気に駆ける仔鹿のようにシッカリ開いた黄緑の若葉になっていて、なんなら花より刹那なものを目撃できたようです。
 この樹を特定できるかた、気が向いたら拍手経由などで御教示いただけると幸いです。

(25.04.01〜)とは言うものの、毎年見ている近所のこれに「桜…桜…だよね?」と改めて狼狽えてしまったのは吾ながら情けないが過ぎる。
住宅地の一角に植えられた桜によく似た樹木がいっぱいに花をつけている。ソメイヨシノよりはしっかりした花弁は、花単位で白とピンクのグラデーションになっている。
(〜04.21)三週間後、どうやら「サトザクラ」と呼べばいいらしいと知る。つうてもヤマザクラに対して人里で(交配とか)人の手が入った桜の総称なので、ボルゾイとかボーダーコリーとか知りたい時に「ああアレね、犬」くらいの粗さなのだけど。まあ無知であるほど、毎日が発見。
 しかしソメイヨシノ人気を見ると定住した今のヒト類、やはり画一的で時季も特定できるモノを一斉に享受するのが好きなように馴致されてしまったとは言えるのかも。皆と同じが嬉しいように、人間同士が好きであるようにと。ソメイヨシノで徴税まではされないが。

(25.04.05)中目黒は桜の名所で今時分は高架の線路と直交する川沿いを花見の人々が埋め尽くすのだけれど、そばにある日本画のギャラリーがコレクションを動画で公開してるので「今は行楽どころではない」「人が沢山おしよせる場に立ち会うからこそ価値がある・とは思わない」そして「一面並んだ画一的なソメイヨシノ(ごめんね)もいいけど、人がそれぞれの筆を経由して各々が思う美しさを抽出した様々な桜が観たい」根っからオタク気質なかた向けに。
おうちで郷さくら | Online Viewing Room(中目黒・郷さくら美術館/外部リンクが開きます)
 
※根っからオタク気質…この場合、人や事物と直に接するより、いちど人の手を経由して作品化されたものを通して世界に接するのが好き、程度の意味。

(25.04.04)「ワークビールバランスってご存知ですか?#働くあなたに○○ビールゼロ」というネット広告の文面を見て、もうじき読み終える本によれば古代メソポタミアでも奴隷の「日給」は大麦かビールで、配給用の小さな(土器の)お椀が何千と発掘されてるんだってねと半畳を入れる程度には、自分は底意地が悪い。まあ飲みたい人は飲めばですけど、お花見と歓迎会のシーズン、アルコールの過剰摂取には気をつけてね…(←ちょっとだけ優しい)(でも案じるまでもなく○○ビールゼロも、ゼロカロリーじゃなくてノンアルコールなのかも)
ユンソギョル罷免を祝して…というわけでもないんだけど今日の夕食は久しぶりにチャパグリでした。おめでとうございます。

(25.04.07)「どうやら、白い貝殻の小さなイヤリングを届けに来てくれたわけじゃなさそうだ」というフレーズとともに(どういう状況なのかは各自で想像してください)目が醒める。寝床でうつらうつらしながら思ったのだけど、あの童謡(まさか純国産でもないでしょう)英語だかノルウェー語だかの原詞では何て歌ってるんだろう。仮に元歌でもイヤリングを届けに来てくれてるのだとしたら、ワールドワイドで人が(熊が)いい熊だ。お熊好し。

 (25.04.08)フラワーズ・オブ・ロマンス(仮)。
 片手で自分の髪をくしゃっとして笑うショート髪メガネ女子・國谷先生のラフ絵。桜の花びらが散っている。

 (25.04.09)桜×メガネ・その2。
 つい、と風に乗ってきた桜の花びらが一枚、メガネ成人女性(静香)のレンズにぴとっと貼りつく。横で恋人の女の子(桃花)が笑ってる。キャプション「花ある君と。」

(25.04.10)今日はキュアフローラさん・美竹蘭さん・桜小路きな子さん、あと舞村そうじさん(仮名)の誕生日ということで、セルフ祝いに丁度出たばかりで気になっていた古怒田望人/いりや『クィア・レヴィナス』(青土社/外部リンクが開きます)を、
 左から『アデュー』『クィア・レヴィナス』そして茶寮翠泉の抹茶ケーキパフェと、ほうじ茶のセット。
それとレヴィナス没後30年のフェアらしく本屋で一緒に並んでたジャック・デリダアデュー エマニュエル・レヴィナスへ』(原著1997/藤本一勇訳・岩波書店2004→岩波文庫2024/外部リンクが開きます)も併せて購入。そして甘味処でちょっと奮発。
 デリダ…抹茶パフェだよ…(オタク構文)(この大馬鹿者)
 『アデュー』表紙のデリダの写真と、抹茶パフェを並べた画像。
 クラウドファンディングで予約していたマラン/シャイエン僕は、私は、トランスジェンダーです(原著2020年/吉良佳奈江訳・サウザンブックス2025年/外部リンクが開きます)も電書でダウンロード、並行して読み進めてます(予約した時点で分かってたけど絵柄が可愛くて中身もすごく親しみやすい)。一冊はスマートフォンの中だけど、三冊を並べると「より世界が広がり、より自分も自由になり、より人の自由も認められるようになる」そんな一年への希望が高まりますね(まだ地獄の釜が開いたような暑さが来てないから…)。創作を再開したいなあ。
(同日追記)だいぶ前に読んだレヴィナス自身の著作『存在の彼方へ』を久しぶりにパラパラめくっていたら意識は第三者の現前として生起するという一節に、昔の自分が線を引いていました。意識はたいがい「何か」への意識であって、何もなければ呼吸も歩行も人は自動的に行ない意識することがない、ということなのでしょう。それがこう続く。第三者の現前から発する限りで、意識は内存在性の我執からの超脱でありつづけるおそろしくて、同時に祝福でもある言葉ですね。おやすみなさい。

(25.04.12)もうしばらくセルフ誕生祝いは続く。地元ミニシアターの会員更新の手続きも兼ねて観てきましたよトワイライト・ウォリアーズ 決戦!九龍城砦』(外部リンクが開きます)。僕は予備知識ナシで観ても大変よろしかったのであえて伏せますが(クリックで開閉します) 実質マリみて(何でもマリみてに喩えればいいと思ってやがる)あるいはまきりんぱなとか最近だと蓮ノ空の小三角とか好きな人はキュンキュンしてほしい←この薦めかたはダメだと思います…
 紅色を基調にした香港風の紙飾りでディスプレイされた『トワイライト・ウォリアーズ』ポスターと、各キャラクターのピンナップ。
あと「香港映画史上歴代NO.1大ヒット」を謳う(そして滅法おもしろい)本作のスタッフに谷垣健治・川井憲次の揃い踏みを見て嬉しくなってしまった自分は、世の大谷ブームをあまり厳しく言えないかもなあと思ったりしたけど、それくらいは許してほしい。
(同日追記)「約10億円を投じて精密に再現された九龍城砦のセット」も話題の本作だけど、冒頭あたりの場面で昔なつかしい(本作の時代設定は80年代)サンキストのミカン?のロゴマークがプリントされた段ボール箱が山積みされてて「リアルだなあ」と感心してたら、最後、エンドロールのおしまいにスペシャルサンクス:SUNKISTとありフフッてなりました←そこを推すのもどうかと…
(同日追々記)在留資格を持たない主人公が活気はあるボロボロの高層に身を寄せながら、そんなところまで時おり踏み込んでくる警官の影におびえる…という意味では2月に観たBrotherブラザー 富都のふたり』も思い出されたのですよね…

(25.04.13)街散歩には好い季節。新宿三丁目から神保町に向かう靖国通りを歩いて30分、市ヶ谷・防衛省の向かいあたりにネパールならぬチベット料理のお店があり気になっていた。関東でも唯一らしい。
チベットレストラン&カフェ タシデレ(公式/外部リンクが開きます)
テントゥク(すいとん)のランチを食べてみました。チベット料理は具だくさんのスープ料理が多いみたい、スパイシーな感じはなく優しい味で、根菜がいっぱい取れる。選べるドリンクもしくはデザートから、白く泡立ったバター茶を。
 左画像:前菜のサラダ・大きな器に盛られたテントゥク・小さな壺に入ったタマネギベースの辛い薬味と小皿に載ったモモ。中画像:根菜と豚肉・すいとんに小ネギが散らされたテントゥク。右画像;真っ白いバター茶
セモリナ粉をベースにしたデザート「ハルワ」(中東を中心にした「ハルヴァ」とは違うのかしら)も気になるので再訪を期したい一方、目と鼻の先にあるウイグル料理のお店で「ラグメン」も食べてみたいのだった。

(25.04.18)胡桃もレーズンも単体ではバクバク食べられる食品でもなかろうと思うのだけれど(胡桃のほうは「バクバク食べられちゃいます」と自称してはいるが)一緒にすると摘む手が止まらなくなるという発見。塩味のピーナツなんか合わせると、さらに止まらなくなりそう。実際ミックスナッツ+レーズンという小分け商品があるくらいで。
 「文化堂の毎日食べられる生クルミ」と業務スーパーの「グリーンレーズン」画像。

(25.04.19)ネットミームそのままで申し訳ないけど
難読タイトル三銃士を連れてきたよ」「難読タイトル三銃士?」
「極道まんが家(当初は少女まんが家だった)立原あゆみ。」「本気(マジ)。地球儀(ほし)。弱虫(チンピラ)。
「MyGo!!!!!ボーカル高松燈。」「焚音打(たねび)。砂寸奏(さすらい)。詩超絆(うたことば)。
「期待の新鋭・名探偵コナン劇場版。」「沈黙の15分(クォーター)。100万ドルの五稜星(みちしるべ)。隻眼の残像(フラッシュバック)。」
コナン君は追跡者(チェイサー)・狙撃手(スナイパー)など分かりやすいルビが多かったけど、五稜星(みちしるべ)で一気にともりん度が上がったので今後の健闘に期待する。作品自体は多すぎて今さら追える気がしない(すみません)。

(25.04.19)「トランプ氏の机の上には、赤沢氏がプレゼントした大阪・関西万博の公式キャラクター、ミャクミャクの貯金箱も置かれていた」(最初「最低、最低、最低、最低、最低、最低」と声に出してて、ひと呼吸おいた後さらに「馬鹿じゃないの?」と言った後で→)ああ、彼らを大目に見てやってください…自分らが何をしているか、てんで分かってやがらないのです…(と思ったのですが)
赤沢経財相、トランプ氏前に「MAGA」帽子 写真公開(日経ドットコム/25.04.18/外部リンクが開きます)
 元ネタ(ルカによる福音書)「父よ、彼らをお赦しください、自分が何をしているか知らないのです」は自分たちがしてる(神の子を十字架につけている)のが愚行だと理解していないのです、という意味なのだけど、こと現状においては違う意味もある気がしてきた。というのも、いま読んでる社会学者バウマンの主著『リキッド・モダニティ』(液状化する近代/1999年)によれば、諸問題を社会の変革によって解決する道が断たれ(「社会による救済はもはや存在しない」byドラッカー、いや「社会などというものは存在しない」byサッチャー)個人の勇気とスタミナ・才能と手腕による自己救済しかなくなってしまった・ことこそ現代の問題なのだけど
「そして、倫理的・政治的言説の中心が「公正な社会」建設から、個人的差異の尊重、幸福と生活様式の自由選択を保障した「人権」へと移行したことに、この宿命的変化は反映されている」(森田典正訳・大月書店2001年)
MAGAの赤キャップとミャクミャクの置き物を交換する高官の姿を見て、本来なら権力を行使して社会を(よかれあしかれ)操作する立場にあった階層=政治のトップまで悪政に走るというより政治自体から逃走して「自分が何を【すればいいのか】知らないのです」自己救済に汲々としてるように思えてきた。今さらだけど、あれらは(悪徳)政治家ですらないのと違うか。後漢の末期あたりも同様だったかも知れないけれど。※ただの罵詈ですが少し言葉を補いました。

(25.04.20)昨日も罵詈、今日も罵詈、今日は今日とて地元ヨコハマの百貨店でやってはる販売も兼ねた金製品の展示会の広告を見て、またしても「最低…」と溜め息が出てしまった。なにしろ一番の目玉が「昭和百年」と大書された純金20kgの大判。そして二番目の目玉が金箔900枚を使用した等身大「CAPTAIN TSHUBASA」金箔像。たしかに2025年は昭和100年だけど、キャプ翼(つば)好きな人には悪いけど、この国で一番お金(カネ)を持ってそうな人たちに訴える純金(ゴールド)の使い方がコレでは、もう滅びてるも同じだよ。
大黄金展(4/16〜21)横浜高島屋(外部PDFが開きます)
いや「キャプ翼好きには悪いけど」と書いたけど「キャプ翼が好きだけにガッカリする・逆に腹が立つ」とならず、自分が好きなコンテンツが使われてるから悪く言われるほうが許せない・『ハリー・ポッター』が好きだから原作者の性的マイノリティ差別には目をつぶる、みたいなのが「オタク仕草」なら、それは確かに世界をここまでダメダメにした一因で、あなたがたには責任があるよと思うのでした。

(25.04.25)アムネスティの署名米国:イスラエルへの抗議デモに参加して強制送還の危機にある学生を救って!(4.23〜5月末予定/外部リンクが開きます)僕は同様の署名でネタニヤフにもメアド伝えた恐れ知らずなので+頼まれたってアメリカの土を踏む予定はないのでイイんですけど、渡米の予定や現在そちらに居る人は今のあの国の国土安全保障省の長官にメアドつきで楯突いたらどんな無法な扱いを受けるか分からないのでオススメはしません。
送るべき文面は英文のテンプレが用意されてて、あとは同意して送るだけ。ネタニヤフの時には最初のDearと最後のSincerelyが耐えられなくて削除したけど、今回はまあ投げつけるにも絹の手袋と言いますか、むしろ勢いにかられて「History will judge you, but I can't wait(いずれ歴史があなたがたを裁くでしょうが、私は待ってられません)」とか「Would you be satisfied with MAKING AMERICA GREAT AGAIN, like it was before 1865?(アメリカを奴隷解放前のように「再び偉大に」できて満足ですか?)」とか書き加えてしまう前にと原文のまま拝啓も敬具もつけて送付しました。

(25.04.22)とある専門用語をネット検索→ヒットした解説ページの冒頭に「「このテキストは、ChatGPT(OpenAIのAIアシスタント)による回答をもとにしています」と但し書きがあるのを見て、うーんとページを閉じてしまった。但し書きは「内容の正確性については可能な限り注意を払っていますが、参考文献や原著者の思想をご自身で確認することをお勧めします」と続いているので、この文章を世に放流した人はまだ誠実なのだと思うけど。とりあえず「原著者の思想をご自身で確認」できる特権(相当な蔵書数の市立図書館の使用権や、それをいつまでにとか読んだ結果を出せという制約なしに読める時間と暢気さ等々)を持つ自分はゆるゆると特権を行使するとして、特権を持たない=すぐ知ることを強いられる人たちは大変だと思わなくもない。いや、それを大変だと思わない・むしろ恩恵だと思う声のが大きい現状かも知れないが。今さらかも知れないけど「AIによる要約、アリですかナシですか」web拍手のアンケートで訊いてみたい気もしています。

(25.04.23)自分が今ひとつAIを信用というより理解できないのって、iPhoneのカメラ機能が「これを壁紙にしませんか」と提案してきた写真、そりゃあたしかに気になったから撮ったんだけどHTB(北海道テレビ放送)のマスコットonちゃん、待ち受けにしたいほど熱愛はしてないぜ?
 「壁紙の提案」としてビルの切り抜き写真を提案してきたiPhoneのスクリーンショット。元写真はビル街の中の一建物を撮ったもの。拡大すると中ほどの階の窓にHTB(北海道テレビ放送)のロゴとともに、黄色くて丸い「onちゃん」の巨大な像が挟まっている。
いや、こうして見ると本当にAIの気持ちが分からない…
 壁紙の提案5件、左から「onちゃんが入った札幌のビル」「カレー屋と看板がついた黄色いコンクリート二階建ての建物」「歩道橋の上から俯瞰で捉えた信号待ちの車」「画面の上半分が紺色の青空になってるビル上部の写真」「ナイス(nice)と書かれたビルボードが天辺にあるビルの写真」
(同日追記)で現行のiPhoneの壁紙、ここ数年ずっと銀閣寺の苔の庭なんだけど、こんな緑を見てなぜAIはコンクリやアスファルトばかり薦めてくるのかね…
 苔の庭に生えた二本の枝と生い茂る緑の葉を映したマイiPhoneの壁紙画像。

(25.04.26)たばこの煙は、あなただけでなく、周りの人が肺がん、心筋梗塞など虚血性心疾患、脳卒中になる危険性も高めます。
クリックorタップで全体図を表示。
タバコの煙をくゆらせてる女性。クリックして全体図を出すと、画面外の男?のタバコから貰い火をしている。タバコとコートの裾だけ見える男はパリに、無造作な髪にチョーカー、コートに手荷物を提げた女はマルセイユに向かうらしい。

(別画面が開きます)

(25.04.24)早くもドラッグストアの店頭に、昨年お世話になった例の冷える輪っかがズラリと…(; ゚д゚)
クーラー入れるとまでは言わないけれど、エアコンを送風モードにして夏っぽい曲がもう似合っちゃう。Desmond & The Tutusという洒落なのか何なのか分からない名前の、20年くらい前の南アフリカのバンドの曲とか。
Desmond & The Tutus - Kiss You on the Cheek (King of Town Remix)(外部リンクが開きます)

(25.04.27)I miss her already.(先月の日記参照)…元歌は坂本真綾さんの、このタイトルと同じ題名の短篇漫画を描こうと思いつきました。
 

(25.04.28)既視感があって確認したら昨年5月の日記で紹介した「勉強はきっとウチらに平等だ!」と同じ蚊帳りく氏の新作だった。あの一作で終わる人でなくて良かったと(失礼な)喜ぶ気持ちと、こういう話を描く作家が青年誌に一人でなくてもいいのにと思う気持ちと。
蚊帳りく[特別読切] 店内ご利用ですか?(となりのヤングジャンプ/25.04.25/外部リンクが開きます)
痴漢など性暴力に関わる話なので閲覧にはご注意ください。これはマストドンで別の人も言及されてたけど、途中に出てくる(作中では珍しい)善意の男性キャラも、彼が善意の人物だったのは「たまたま賭けに勝てた」に過ぎないのが悲しく、いきどおろしい。そうゆうのが罠で、命まで奪われた事件とか、長く生きてると避けがたく知ってしまうし、数十年経っても未だに忘れられない。私が知ってる世の中はもっと安全だと反発する人もいるだろうけど、たぶんその安全には濃淡があるのだ。女子生徒がスカートの下に履いたジャージを男性教師が殴って怪我させて無理やり引きずり下ろしたという事件が報じられたばかり。わしら大人は粛々と、賭けの勝率を上げていくしかない。

(25.04.29)昭和の日で思い出したけど、動画広告でやたら煩い(そして品がない)「あの明治薬品」とやら、明治どころか創業は昭和・それも戦後らしい。それでも十分に老舗かも知れないが、河童などの妖怪伝承はたいがい江戸期に形成されたが「室町時代から伝わってる」として流布されたため「妖怪の起源は室町」と思われてるという京極夏彦氏の指摘(前にも紹介してるけど大事めな話なので何度も蒸し返す)を思い出すなど。
(同日追記)戦争が終わって直ぐ・戦前の日本的なものが全否定されてそうな時期に明治を名乗る社名は、結局半世紀かけてバックラッシュに呑まれた未来を見通す先見の明があったのか、それとも全否定なんてなくて(まあ濃淡あったのでしょう)戦前はぜんぜん滅びてなかったのか。そもそも公募してる時点で…て気もするけれど1968年に公募された「明治百年を祝う歌」当選作の作者は先の戦争で公募軍歌の当選常連者だったという大江健三郎『核時代の想像力』でのツッコミも思い出すなど。

(25.04.30)わりと躊躇してた大著『ゾミア』を都合5日で読み切れてしまった快挙(?)に味をしめ、ずぅーっと前から気になっていた『犬を愛した男』をついに。来月はコレから読んでいきます。しかし約700ページ・ハードカバーの表紙ふくめて厚さ4.5p、重さ800グラム弱、これをまた毎日担いで歩くのか…質量は質への自信の証と信じているけれど、ロラン・バルト(一緒に借りた)の軽さをちょっと見習ってほしい…『新米姉妹のふたりごはん』はもう少し厚くてもいいけど、いや、作者さんが健やかであれば…(最近いろんな分野で若い才能が力尽きたり病気などでままならない様を見過ぎている)
 書影。左から『犬を愛した男』・バルト『零度のエクリチュール』・柊ゆたか『新米姉妹のひとりごはん(11)』←厚さ比較用。
 スターリンの命を受け、メキシコ亡命中のトロツキーを暗殺した男の話(のはず)。たしか襲われたトロツキーは反撃して暗殺者の耳を噛みちぎり、暗殺者がわんわん泣いたんですよね。違ったっけ。真相は来月!
(25.05.11追記)違いました
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