記事:2025年05月 ←2506  2504→  記事一覧  ホーム 

希望に抗する物語〜レオナルド・パドゥーラ『犬を愛した男』(25.05.11)

『犬を愛した男』の感興の核心に触れています。まあ何に感じ入るかは人それぞれなので気にしない人はいいけれど、まっさらな状態で臨みたい未読者は注意。

 まず最初に謝っておかないといけない。先月の小ネタで「たしかトロツキーは暗殺されたとき反撃して襲撃者の耳を喰いちぎった気が(違ったっけ)」と書いたけど、違いました。なんでそんな風に記憶がねじ曲がったんだろう。その意味でも読んで良かった
レオナルド・パドゥーラ犬を愛した男(原著2009年/寺尾隆吉訳・水声社2019年/外部リンクが開きます)
 もうひとつ分かったのは「たしか吉野朔実さんが本の雑誌で取り上げてたよね」という記憶も自分の捏造だったことだ。吉野氏、本書の邦訳が出る三年前に急逝されているのだ。プリンスの一日前に。2016年、改めて非道い年だった。ドナルド・トランプが最初にアメリカ大統領に選ばれた年でもある。改めて酷い。

 後半は核心に触れるので早めに結論を言ってしまうと、すごく面白かった。分厚さに躊躇してる人も、恐れず読んだほうがいい。予備知識ゼロでも、たぶん大丈夫。
1.1917年に起きたロシア革命は以後80年にわたり、世界を西=自由主義・資本主義陣営と東=共産主義・社会主義陣営に二分した。
2.ロシア帝国を打倒しソ連を築いた国父レーニンの死後、後継者の座をスターリンと争って敗れたトロツキーは1940年、亡命先のメキシコで暗殺された。
3.1930年代にスペインでは自由主義・社会主義諸国が支援する人民政府と、ドイツなどファシズム陣営が支援するフランコ将軍との間で内戦が起きたが、後者が勝って長く独裁制を保った。
4.キューバは1959年の革命以降、今日に至るまで共産党の一党独裁が続いている。
これくらい知ってれば十分。いや、これすら不要かも知れない。
 「これさえ知らなくても大丈夫(知ってるか) ×トロッキー ○トロツキー」というキャプションに「キユーピー」マヨネーズを前に「キヤノン」のカメラを構える羊帽の女の子(ひつじちゃん)の挿し絵を添えて。
(にゃ、キユーピーやキヤノンは発音は「キューピー」「キャノン」だけど、トロツキーは発音もトロツキー)(昔は「トロッキー」だった)
 ただし『犬を愛した男』というタイトルは多少間違っている。
 『一九八四年』の二分間憎悪どころか宿敵スターリンによって二十年にわたり、内憂外患・全ての悪や不都合の黒幕(ヒトラーやヒロヒトとすら共謀してることにされた)=全ソ連国民の憎悪の対象=スケープゴート役を負わされ続けたトロツキーも犬が好き。そのトロツキーを亡命先のメキシコで暗殺したラモン・メルカデールも犬が好き。ラモンの旧友を名乗りキューバに現れた謎の男も、彼からトロツキー暗殺のおぞましい真相を聞かされる語り手も犬が好き。ついでに内戦下のスペインにちょっとだけ登場する『一九八四年』の作者ジョージ・オーウェルも犬が好き。単数じゃない、犬を愛した「男たち」じゃん!
 こうなると巻頭で「三十年経っても、まだ ル シ ア の た め に」と献辞を捧げられてるのも(人間の連れ合いや家族じゃなくて)犬なんじゃね?と思えてならない。記憶捏造の一因かも知れないけれど、吉野朔実さんも愛犬家だった。よね?
 ともあれ物語は30年代〜40年のトロツキー・メルカデール、時代を経て70年代の語り手、三者の視点を交互に配して進む。トロツキーの「裏切られた革命」と、表裏一体で描かれるスターリンの恐怖政治。スペイン内戦で共和国側として戦い、敗北に打ちのめされたメルカデールがソ連(スターリン)の手先として暗殺者に己を錬成してゆく過程。そして海を隔てた社会主義国キューバの言論統制と貧困で削られゆく語り手の生涯。
 元々は警察ミステリで名声を博した作者の筆致はエンターテインメントとしてのツボを知り尽くしているかのように読者を飽きさせない。結局メルカデールは首尾よくトロツキーを仕留めると分かっていながら、決行の瞬間はサスペンスたっぷりに引き伸ばされ、しかも政治的には不倶戴天のトロツキーとメルカデール・どちらにも均等に共鳴共感(そして嫌悪反発)できるよう物語は進む…
 …ここまでなら上質の「リーダブルな小説」だ。だが暗殺者の凶器がターゲットの頭上に降り下ろされた瞬間から
 ※ここまでなら、まだ引き返せます。以下は未読者注意。

 物語の空気は一変する。いや、ページを繰る手が止まらぬ筆致は変わらない。
 「途中で四日もページを繰る手を止めたくせに…ウソつき(※GW帰省中の荷物を軽くしたくて一旦中断しました)」というキャプションと、4.5センチの厚みを持つ同書の写真・真ん中あたりで開いたところも。
 けれど、その場で捕縛され20年の収監を経て、名目上は英雄としてモスクワに移り住んだメルカデールの後半生を執拗に描く終盤は、それまで盛り上がったサスペンスも政治的な高揚感も、すべて欺瞞だったことを残酷にさらけ出す。
 いや、元々すべては欺瞞に満ちていた。オーウェルほか各国からジャーナリストや義勇兵が馳せ参じたスペイン内戦は、自由主義を掲げる政府が政権内部と支援を謳う各国・各勢力の主導権争いで自滅したようなものだった。任務のため名前も経歴も偽るメルカデールは自身のアイデンティティも失なった操り人形と化し、誰からも醜いと憐れまれる女性を色仕掛けで攻略してのける。反動勢力の手に落ちた祖国に二度と戻れない彼はソ連政府に下賜された勲章をデパートの行列に割り込むために見せびらかし、体重100kgに肥満する。
 トロツキーとて例外ではない。絶えず癇癪を起こし、粛正の危険を冒して尽くす息子を働きが足りないと罵り、妻を裏切って不貞に走る。何より赤軍の初代指導者としての反対者の圧殺、クロンシュタットの水兵蜂起の容赦ない弾圧、後にスターリンがはたらく恐怖政治の悪業の雛形を作ったのは自分自身だったという自責と、その自責を自ら封じこめる怯懦が、悲劇の主人公・一方的な犠牲者という仮面を無慈悲に剥ぎ取ってはいた。
 スターリンの傀儡だったメルカデールが標的に最接近した時も、両者の邂逅は心の交流や和解をもたらさない。事ここに及んで暗殺者の心に生じた迷いもトロツキーの人格にふれ感化されたものではなく、いつの間にか自分は正義や理念のためでなく味方から何重にも仕掛けられた罠と恐怖で逃げられなくなっているだけだという自覚からのものだ。そして無防備な頭蓋に凶器を振り下ろされる直前、トロツキーがメルカデールにかけた最後の言葉は「頼まれたから読んでやってるが、君の文章はクズだな」、その場で警察に殺されてもおかしくなかった暗殺者の命を救った瀕死のトロツキーの言葉も、彼を赦せなどではなく「活かしておいて尋問しろ」だった。

 それでも。裏切られた革命にも、欺瞞に満ちた生にも、何らかの救いが、それでも人が生きていける・人生や世界を肯定できる根拠となる輝きがあるのではないか。そんな思いは最後の最後、念入りに叩きつぶされる。どうやってか。
 どんな悲惨な運命でも、どんな無情な悪行でも、小説は、物語は、そのおぞましさを保ったまま芸術という美に昇華できる。小説は、映画は、物語は、人の言葉は、創作という営為は、恐怖政治によって消し去られた人々の存在を復活させ、すべてを忘却させる時の流れに抗う―だから小説は、物語は素晴らしいのだという創作や表現に携わる者の自負は、それまでトロツキーの、メルカデールの、そしてキューバに生きた自身の苦難に満ちた生涯を総括して語ってきた「語り手」があっさり退場し、彼の友人だった別の作家の視点に切り替わることで「語り手」への感情移入ともども封じられてしまうのだ。
 掴もうとした手がスルッと宙に泳いで後は落下するしかない、この離れ業のために、まるで600ページにわたる物語は積み上げられてきたかのように、得られるはずだったカタルシスは霧消する。この物語に―スターリンの暴虐に、スペインの敗北に、ソ連で・ソ連領だったウクライナで・大躍進を謳った中国で・ポルポト支配下のカンボジアで強いられた何千万の餓死に、そしてキューバの言論弾圧や貧困に「よかった探し」をしてはいけない、物語の喜びを封じてでも「よかった」ことにはさせない―本書のエピローグをドライブするのは、そんな作者の決然たる意志だ。
 困窮下で毎日10km自転車を漕ぎ、貧乏医者として人々と助け合う語り手の「人間の真の偉大さとは、無条件に慈悲心を発揮すること、何も持たぬ者に分け与えること、それも、余りものではなく少ない持ち物を分け与えることにある」と述懐する場面は、欺瞞と悲惨に満ちた本作で異彩を放つ(もしかしたら)最も美しい箇所だ。「そして、それを政治や名声獲得の手段に使わないのはもちろん、そこから怪しげな哲学を引き出して、自分の善悪の価値基準を唯一絶対として他人に押しつけるような真似、頼まれもしないものを与えて感謝を要求するような真似はしないこと」
 けれど、そんな語り手の思い、「人間としての私の義務は、それ(消し去られた記憶)を書き残し、忘却の津波から救い出すことなのだ」という自恃は、「我々の世代は誰もがお人好しのロマン主義者であり」「私の世代の大半が、安全ネットのないこの危険な空中ブランコを無傷で乗り切ることはできない」だろうという敗北感に一瞬で押し流される。それこそが本作の作者が読者に持ち帰らせたいものだ。

 要は、剥奪された人間性を戻せという真っ当な要求が、剥奪の罪の軽減にすり替わってはいけない。とくに当事者でない(けれど傍観によって罪に加担してるかも知れない)第三者においては。
 物語は、哲学者が「剥き出しの生」「動物としての生」と呼ぶまでに人間の条件を剥奪された生でも、最後に残るのは(自己保存のエゴイズムではなく)生の尊厳だと示すことが出来る。だがそれで人の生を無意味だとする剥奪をなかったことにはさせない。物語の喜びが酷薄な剥奪を減免させるようにはたらくならば、そんな喜びは(少なくとも本作では)許さない。本作を読み、サスペンスに興奮し、歴史や事物・人物を語る物語の喜びに浸るがいい、だが人間が廃棄物あつかいされた時代の物語から「人間も捨てたもんじゃない」的な希望を持ち帰ることだけは許さない。人間は、人間が作った社会や制度は、物語の喜びでも帳消しに出来ないくらい非道いことをした、それだけキッチリ持ち帰ってもらう。
 小説技巧の限りを尽くして、小説の救いを否定する。恐ろしいまでに読み手の感情をコントロールしながら、恐怖が人をコントロールした時代の悪を糾弾する。物語には、こんなことも出来るのだ。

国家を持たない人々(仮)〜『ゾミア』『シャドウ・ワーク』『宮本常一『忘れられた日本人』を読む』(25.05.18)

 そんなわけで、いやー読んだよジェームズ・C・スコットゾミア 脱国家の世界史』(原著2009年/佐藤仁ほか訳・みすず書房2012年/外部リンクが開きます)。神保町の東京堂書店で「これもうスゴい本ですから」とばかりのオーラを放つ平積みを見て、まあ今生は読むチャンスないかもだけど…と遠く憧れたのは何年前だったか。意外と読めるもんだ。そして滅法おもしろかった。
 同じスコットの「普及版・ゾミア入門」とも言うべき『反穀物の人類史』について先月たっぷり書いてるので、またくどくどと多くは述べない。著者自身による冒頭の要約だけで十分だろう;
「東南アジア大陸部の五カ国(ベトナム、カンボジア、ラオス、タイ、ビルマ)と中国の四省()を含む広大な丘陵地帯(略)ゾミアは、(略)約一億の少数民族の人々が住み、(略)国民国家に完全に統合されていない人々がいまだ残存する、世界で最も大きな地域である(強調は引用者)
 この短い文言に異様なまでのときめきを憶えない人は、まあ知るのが早すぎたのだ、何年か何十年か経って気づいてから同書を手に取ればいい。
 残念ながらゾミアが「国家に抗する」世界最大のアジールであった時期は鉄道や自動車・飛行機の発達によって過去となり、その消滅は時間の問題だろうとスコットは言う。
 けれど同時に彼は「しかし一昔前まで人類の大多数は、ゾミアの人々のように国家を持たず、政治的に独立して自治をしていた」とも述べている。この「一昔前」は、どれくらい前のこと、なのだろうか?

      *     *     *
 『ゾミア』を読んで数十年ぶりに思い出したのはイヴァン・イリイチシャドウ・ワーク(原著1981年/玉野井芳郎・栗原彬訳・2023年岩波文庫/外部リンクが開きます)で紹介されている1エピソードだった。
 僕が読んだのは学生時代、岩波書店1982年→岩波現代文庫2003年の間のどこかで出ていた同じ岩波の同時代ライブラリ版で、数十年ぶりに開いて確認したそれは「シャドウ・ワーク」という今なら誰もが知っている(ものとして話を進めます)概念を説いた同書の本題とは、もしかしたらあまり関係がない。今ではカギカッコつきの「アメリカ大陸の発見者」クリストファー・コロンブスの話だ。
 その評価について(彼を偉人のように取り上げて炎上した日本の軽率なミュージシャンについても)今回語ることはない(古代ギリシャで最初に地球の大きさを算出した)エラストテネス以来コロンブスほど、地球の大きさをおそろしく過小に見積もったものは誰ひとりとしていなかった」(だから無謀な遠征を提案できた)という皮肉たっぷりの一節だけで十分だろう。今回読み返しても笑ってしまったし、数十年前に読んだ時もたぶん笑ったと思う。けれどかつて強烈な印象を残したのは、そこではなかった。十分に前置きしてしまったが、簡潔に述べよう。
 イリイチは言う。現在でいうイタリア、ジェノバ出身のコロンブスが最初に身につけ話していた言語はジェノバ語だった。商人として彼はブロークンなラテン語を書き、ポルトガルで結婚した後はおそらくポルトガル語を話すようになる。そしてポルトガル語混じりのブロークンなスペイン語が、彼の二番目の書記言語となった。
 「彼のスペイン語は(略)半島のいたるところで習いおぼえた簡潔なことばに富んでいた。構文は多少奇異ではあったけれども、彼はこの言語を生き生きと、表現力に富み、しかも正確に、あやつった。こうしてコロンブスは、話すことのない二つの言語(ラテン語とスペイン語)で書き、数カ国語を話したのである。」
 コロンブスに接した人たちも、その言語がブロークンなブリコラージュだったことに当惑したり困ったりすることはなかっただろう。むしろ彼のように、いくつもの「国語」や方言を操り、文法は怪しいけれど兎に角は伝わり、なんなら表現力に富んだ文章をものする人々のほうが、15世紀の地中海世界ではデフォルトだったのではないか―そんな思いも当然のように湧いてくる。
 イリイチの文章の主眼は、コロンブスの同時代人ネブリハが、カスティリヤ語を厳密な文法規則をもつ言語として精製してスペインの唯一の「国語」とすることを提唱し、コロンブスが生きていたような多言語世界を破壊したことにある。が、それは関心をもった各自が同書で確認すればいいことだ。いや、よい機会なので僕もあらためてイリイチの主張を再読したいけれど―
 僕の今の関心の焦点はこうだ:地球の大きさをかつてないほど小さく見積もった怪しい航海計画に認可を与えたイザベラはスペインの女王だった。けれど航海への援助を乞うたコロンブスは何人だったのだろうか。彼にとっても、彼のブロークンな多言語を受け容れた地中海世界の人々にとっても、国家や国籍は少なくとも、現在ほどにはギチギチの強固なものではなかったのではないか。

      *     *     *
 東南アジアに世界最大の無国籍地域がある(あった)のは分かった。15世紀のヨーロッパも(ある意味)似たようなものだった(かも知れない)ことも分かった。
 でも日本は。稲作で国家の存在感が強く移民にも他民族にも不寛容な日本は、まさにゾミアの対極だよなあと、取りつく島がないように思っていた頃が私にもありました
 その思いは『ゾミア』巻末の訳者あとがきで早々に覆される(早いな)。
 まず挙げられていた柳田國男については、彼が「遠野物語」や「山の人生」で山に拠る非農耕民に思いを寄せたのは民俗学者としてのキャリアのごく初期で、すぐさま彼自身が「常民」と名づけた「ふつうの日本人」に関心をシフトさせたように(僕には)思われる。
 しかし同じく挙げられた宮本常一や網野善彦は、とくに後者の網野氏は「万世一系の単一民族」的な日本観の解体に尽力した印象が、なるほど強い。というかイリイチの『シャドウ・ワーク』を読んだのと同じころ、(もちろん自分の乏しい読書力の範囲で)『無縁・公界・楽』をはじめとする網野史学には自分もそこそこ入れこみ、影響を受けたつもりだったけれど、そんな自分でも「違うんだけどなあ」と思いつつ「世の中一般は単一稲作民族日本(おにぎりのおいしい国)主義」とバックラッシュに押し流されてはいたのだろう。
 網野善彦宮本常一『忘れられた日本人』を読む(岩波書店2003年→岩波現代文庫2013年/外部リンクが開きます)という格好のテキストがあったので、復習のつもりで早速読み、ひっくり返った。

 ここで余談を挿しはさむと『ゾミア』を読んでいて「日本の事例」として強烈に思い出されたのは、宮崎駿氏の諸作品だ。
 氏の最初のメガヒットである映画『もののけ姫』の、大和朝廷にまつろわぬ(そして排斥され滅びゆく)列島内の異民族である主人公アシタカや、山の中に遊女や被差別者のアジールを築かんとするエボシ御前の描出には、網野史学の影響がありありと見て取れた。
 そして氏の初期の絵物語作品『シュナの旅』は、舞台こそ日本ではないが、主人公たちを脅かすのが「人買い」実質的には強奪者たる奴隷商人だった設定が、国家=穀物生産社会は奴隷制によって成り立ったというスコット『反穀物の世界史』の主張と、いやおうなく響きあっていたのだ。
 けれど先を急ごう。
 百姓=文字どおり百の姓(かばね=生業)でありイコール稲作民というのは後世の誤解だと説き、稲作農耕民の秩序からはみ出した海民や山民・「道々の輩(やから)」に思いを馳せ、そして「日本」の歴史「日本」の歴史というが縄文や弥生の頃には「日本」という「国」はなかったのだから「日本列島」の歴史と呼ぶべきだと異議を申し立てた網野史観。もちろんそう理解はしていた(つもりだ)。「日本」は単一民族国家だという暴論も、アイヌや琉球人・フィクションだけどアシタカの一族のように滅ぼされた列島内の異民族によって容易く反証できると認識もしていた。
 けれど『忘れられた日本人を読む』で網野氏が挙げていた事例は、そんなものではなかった。
 まず引用されるのは宮本ではなく、日本語学者の大家だった大野晋氏の説だ。1957年に刊行されベストセラーになったという『日本語の起源』(岩波新書)で
「大野さんは(中略)非常にはっきり、列島の東と西では人種、あるいは「民族」の差異といってよいほどの言語の違いがあることを強調しておられるのです」
と網野氏は取り上げるのだ。
 民族ですよ?
 でも先ほどの事例を思い出してほしい。大野氏→網野氏が例示する
 見ろ・みい、しなければ・せねば、なんとかだ・なんとかじゃ、ひろく・ひろう(広く・広う)、かった・こうた(買った・買うた)
といった一連の語彙の違いは、コロンブスが操ったポルトガル語とスペイン語の語彙の差と、どれほど違うのだろうか。あーつまり、たぶん基礎的な文法は同じくするジェノバ語やポルトガル語にスペイン語そしてラテン語が多言語・異なる民族の用いる多言語であるならば、アイヌ(現在の北海道)や琉球(同沖縄県)どころか本州じたい東(しなければ)と西(せねば)で言語圏ひいては「民族」とやらは真っ二つに分かれていたと捉えることだって不可能ではない。
 そんな馬鹿な、いや(網野氏が引用しているように西のひとに「あれを借って(かって)こい」と言われた東のひとが「買って」きてしまうようなコミュニケーションの齟齬があったにせよ)東日本と西日本の人たちは意思の疎通も商取引も出来ただろうと言うのであれば、コロンブスの時代におけるジェノバとスペインも、そしてゾミアに生きる複雑に入り混じった多民族社会も、同様だったと言えるはずだ。
 たたみかけるように網野氏は、東と西では「王権」すら別だったと言う。
 いや、もちろん東日本で幕府を打ち立てたのは西の天皇に仕える征夷大将軍であり、東に別の王権が立てられたわけではないと反論は可能だろう。だが、他国・他民族間でも臣従のかたちを取りうるのは、たとえば中国と(日本を含む)他国の間に確立された朝貢外交の事例などで明らかだ…とは僕の私見による追加。
 網野氏が挙げるのは、たとえば自ら作った手工芸品などを商う非農耕民が、通行の許可を与える権威として頼ったのは、西日本では天皇・東日本では将軍と明確に分かれていたという事例だ。
 結論として、20世紀中盤までの(そして現在も)ゾミアがそうであるように、15世紀の地中海世界も、鎌倉時代の日本列島も、少なくとも「国家」「国語」の縛りは今の吾々が考えるよりずっと緩く、融通の利くものだった「と考えることが出来る」。
 それは単純だけど少しの目の位置で何にでも見えるってこと

 電車の中で『「忘れられた日本人」を読む』というタイトルの本の表紙を晒しながら(図書館で借りた本にカバーをかける余裕がなかった)自分が「今の日本人は誇り高いサムライ魂を忘れている」みたいな本を読んでる「保守」の中高年男性だと思われたらイヤだなあと気恥ずかしかったのは自意識過剰すぎるとして。いやまあ通勤通学退勤その他の人たちは他人が読んでる本なんか気にしちゃいないよと分かってはいるのですが。
 本来「日本が」「日本が」「日本は素晴らしい」「世界中から尊敬される日本」とか言ってる人たちのほうが、他のことに(も)関心が多すぎて気もそぞろな僕などより、よほど熱心に網野氏や宮本氏・あるいは鶴見善行氏などが説いた(そして数多くの研究者が続いているだろう)単一民族史観・島国史観に取って代わる日本列島の歴史に取り組んでよい、はずなのだけど、どうなのだろう。
 それとも彼ら彼女ら(もしかしたら「あなた」たち)は「すごい日本」だけ好きでいたい・「日本が好き」と言うより「日本を好きにしたい」だけの人たちなのだろうか。

      *     *     *
 今回は特に貼れる写真も絵もないので、東新宿の韓流スーパーで買ったジョン(餠)と、学芸大学駅で買った和菓子(胡麻まんじゅうと季節限定うぐいすまんじゅう・ミニおかきセット)など。色とりどり。
 と、言うわけで、今回の日記(週記)のテーマは明確だ。
1.東南アジアには世界最大の「国家に属さぬ人々」の社会がある(スコット)
2.だが15世紀の地中海も似たようなものだったのではないか(イリイチ)
3.そして近世以前の日本列島も(網野善彦)
 最後に4.として付記したいのは、少し次元の違うことだ。なるほど東南アジアのゾミアは「国家に属さぬ人々」の地域としての存在を、急速に失ないつつあるらしい。ピエール・クラストルが中米に見出した「国家に抗する社会」が西欧に始まった近代的な国家によって急激に駆逐され、滅びたとされるように。誰のものとしても登記されていない土地が、もはや地上にはない(たぶん)ように、もはや国家に属さない土地も存在せず、すべての人々はいずれかの国家に登録され、いずれかの「国語」を「母語」として割り当てられているのが現在かも知れない…
 …本当にそうだろうか?
 なるほど、国家の統制や徴税から逃れた「無縁」・アジールとしてのゾミアのような地域は消滅する(した?)かも知れない。だが、かつてゾミアに生息したのと同じくらい沢山の「国家に属さぬ人々」が、今は移民・難民・サンパピエ(san-papiers=書類を持たない人々)・非正規滞在者として世界中の「国家」の中に、数えられぬまま存在しているのではないか。
 「数えられぬ」というのは、国家を形成されるマジョリティ=国民によって存在を透明化されたまま、という意味だ。
 鎖につながれたように通勤電車に押しこめられる(2016年9月の日記参照)マジョリティとしての自分が、国家の庇護を受け得ず積極的に迫害されさえする人々に、自由の幻想ばかりを投影して過度にロマンチック化する愚は厳に回避されなければならない。
 けれど、そのうえで、事実として、「ゾミア」とは違った形で存在する「国家に属さぬ人々」をどう認識するのか。メネ・テケル・バルシン(先月の日記参照)とは言わないけれど、「いなくていい」「いても邪魔」扱いされながら実はしっかり搾取の構造には組み込まれてもいる非正規滞在の人々を、これからどんどん数を増してゆくだろう人々を、どう社会の中に「数え」位置づけるか。かつてのコロンブスのように一つの国家や一つの言語で定義できない人々を「数え」られるよう、旧来の「国民」国家という枠組をいちど分解して、再構築する必要があるのではないか。
 「ナチズム時代のヨーロッパの中心から旧ユーゴスラビアまで、中東からルワンダまで、ザイールやカリフォルニアまで(中略)あらゆる種類の難民たち、移民たち(市民権の有無は問いません)、亡命や強制移住させられた人々(身分証明書の有無は問いません)、カンボジア人、アルメニア人、パレスチナ人、アルジェリア人、その他もろもろの人々が、社会および地球規模の政治空間に対して、ある変容を―すなわち、法的−政治的な変容であると同時に、なによりもまず倫理的な転換を(こうした区別がなおも妥当性を維持できればですが)―要請している」
…最近読んだ別の本からの引用なのだけれど、わざわざ書名を挙げる必要はないだろう。すごめの著者名で箔をつけるように見えるのもシャクだし、およそまともな感性をもった人なら誰でも言える・言えるべきことだからだ。国家が国民だけを保護する(最近は保護すらしつづける意志があるのか怪しいけれど)体制から、こぼれ落ちる人たちの生存や人権は誰が保障するのか。
 4.「ゾミア」が消えても「国家に属さぬ人々」は移民・難民という形で世界に存在しつづける。
 4.1 難民や移民・それに性的マイノリティや障害者などを「ふつうの人々」が「いないこと」にしつつ搾取のサイクルにはしっかり組み入れている社会(今年2月の日記など参照)を、いかに解体し「国家や国語に属さぬ人々」まで包摂した社会として再構成するか。
 4.1.1 その再構築(ディコンストラクション?)に『ゾミア』や『国家に抗する社会』『無縁・公界・楽』の知見をコネクトする作業は、比較的まだ手つかずの課題なのではないか。

 90年代に書かれた文章で列挙された「もろもろの人々」に、今なら(そして以前から)クルド人やビルマ≒ミャンマーを追われた人々が含まれ特記されるべきなのは、言うまでもない。

マニアの受難〜ルカ・グァダニーノ監督『クィア/QUEER』(25.05.25)

 先に小ネタとして軽く放った話を広げてメイン日記(週記)に昇格させるケース、最近ちょっと多いかもですね…今回は先行の小ネタで流石に言葉が足りないかなと思ったので加筆です。ルカ・グァダニーノ監督『クィア』および前作『サスペリア』の内容に踏み込んでいます。

    ***   ***   ***
 chapter 1.美しすぎて不安になった
 言葉が足りなかったのは「傑作なのか・ものすごく傑作ぽい紛い物なのか判断に迷うのが歯がゆい」という部分。貶してるのか?違うんです。ちょっと説明させてください。
 ルカ・グァダニーノ監督の最新作『クィア/QUEER』こんな美しい映画は初めて、とは言わないまでも久しぶりに観た気がした。や、ふだん娯楽作品ばかりでアート系の映画とか敬遠してるせいかも知れないけれど(有名な『去年マリエンバードで』とかも観てない)、よく映画の中で「この1シーン、この1カットは構図から何から絵画のように美しい(キマってる)」みたいのがあるとするじゃないですか。それが始まって1時間くらい毎秒毎秒つづく。こんなことってある?逆に何かふざけてない?と不審になってくるほど、あらゆるカットが絵になる。
 舞台はメキシコ。フィレンツェやヴェネチア、ニューヨークみたく「いかにも」な観光名所でもない。けれどレンガでもスレートでもない、のっぺりした(ペンキを塗ったコンクリか何か?)色とりどりの壁の平屋か二階建てが延々並ぶ街並みが、しばしば現れるシンメトリーの強調もあって不思議に美しい。電線や電柱がなく街路樹もまばらでゴミも散らかってない感じと、50年代の不自然に明るい色彩のせいだろうか。模型のように整った道路を滑るように規則正しく自動車が流れてゆく場面は流石にウソだろと可笑しくなったけれど。インテリアも調度品も隙がない。
 もちろん刺さるひと・刺さらないひとはいるだろうけど、三部構成の二部まで、この異様に美しい映像が続く。そう言われて気になるひとには(それだけで)オススメです。

 chapter.2.『サスペリア』の延長線
 三部構成の第一部からずっと続く異様な美しさ(観る人によるとは思います)。なぜか自分は観ながらアレハンドロ・ホドロフスキー監督の怪作『ホーリー・マウンテン』を思い出して、あの作品の一番美しい場面だけがずっと続いてるような映画だコレ(『クィア』)は…と感嘆していたのだけど、いや冷静に考えるに『ホーリー・マウンテン』にそんな美しい場面が一瞬でもあったろうか?ひたすら異様だっただけなのでは?(ひどい)
 たぶんホドロフスキーを思い出してしまったのは『クィア』の絵面のいちいちの美しさ・ではなく、その中に最初から潜んでいた異様なものへの熱情のせいだろう。ダニエル・クレイグ演じる中年男が美青年に恋する話、という体(てい)で始まった本作は途中から、すでにヘロイン・コカインに耽溺していた主人公(クレイグ)が南米の部族に伝わるという究極のドラッグ「ヤへ」を求めて―美青年も誘って二人で旅立つアダルト版インディ・ジョーンズみたいな密林冒険譚に変調していくのだ。
 
 異様さを潜伏させながら表向きはのっぺりとした均整美が「三部構成の二部まで」は続くと書いたのは、このためだ。第三部はそれまで伏在していた不穏が覆いをひっくり返すように前面に出てくる、獰猛さのオンパレード(それでもやっぱり、ショットの一つ一つが異様に美しいのだけれど)。とはいえ侵食はクレイグ演じる主人公がヘロインの禁断症状で「寒い寒い」と終始ガタガタ震える第二部から始まっていただろうか。予告篇では上手に伏せられていたけれど本作の後半「ダメ、ゼッタイ」なドラッグ・ムービーですから。
 インディ・ジョーンズかホーリー・マウンテンか、はたまた地獄の黙示録かという異境の聖杯探究譚は、鞭を振るう考古学者や究極の智を求める求道者、あるいは密林に王国を築いたグリーンベレー大佐の暗殺を命じられた中尉それぞれが各々そうだったように(どのような「聖杯」に辿り着くかは作品によって違う)、本作だけの聖杯に到達する。『クィア』が到達した「聖杯」を観て、ルカ・グァダニーノ監督は前作のリメイク版『サスペリア』の時から「これ」を撮りたかったのかもと得心してしまった。
 簡単にいえば、人が人でなくなること。『サスペリア』ではウィッチクラフト(魔女の秘儀)やオカルト的な超能力で目指された境地が『クィア』ではドラッグによる知覚変容でもたらされる。
 実はリメイク版『サスペリア』で少し不満だった、主人公スージー・バニヨンの超能力を示唆する怪光の出現(ホラーは個人的にホラーであっても『シャイニング』や『エクソシスト』、ダリオ・アルジェントのオリジナル版『サスペリア』のようにオカルト的な事件もあくまで現実的な描写で描かれてほしい・霊力がピカピカとかはやめてほしいというワガママな趣味がありまして、『シャイニング』の続篇として作られた『ドクター・スリープ』も実は冒頭から悪役レベッカ・ファーガソンの目がピカピカ光った時点で「ちょっと…やめて…」だった)ええと挿入が長くなってしまった、怪光です。『サスペリア』の随所で現れた怪光が、『クィア』でもクライマックスの超現実体験を予告するように現れ、両作の類縁関係を証だてる。こっちはもう許すしかなかったし、色々あってのラストではもう完全に許すしかなかった。
 それで思い当たったのは『クィア』で主人公が恋する美青年の、ツッコみたくなるほどの付きあいの良さだ。元々「僕はクィア(ゲイ)じゃないよ」と言いながら主人公の中年男と関係をもつ時点で相当ノリがいいのだけれど、一緒に南米に旅立つわ途中で禁断症状に苦しむ主人公をかいがいしく介抱する(というほどじゃないけど捨てずに同行を続ける)わ、密林探索で泥だらけになり蛇に腰を抜かし、最後には人が人でなくなるような究極体験まで「まあ暇だし面白そうだから」くらいの軽さで付き合ってしまう。物語はあくまで主人公=演じるダニエル・クレイグ=モデルである原作者ウィリアム・バロウズの視点で描かれるから知る由もない、この美青年視点では、これは一体どういうことなのだろう―
 『クィア』ピッタリ完璧なオールバックが後半ハラリと崩れるの好き好きクラブの皆さんにもオススメです…と(図解つきで)やにさがる羊帽の女の子「ひつじちゃん」。『ドラゴン×マッハ』もよろしくね。
 そう考えて(これは自分でも半分も信じてない、暇だから考えた解釈ですが)若いのにドイツで対ソ連の諜報活動に従事していたという経歴を、まあ本当かどうか分からないくらい軽々しく語るこの美青年は、その後フリーの写真家でフラフラ暮らしてると言いながら実は諜報活動をつづけていて、南米までつきあったのも「米ソそれぞれが関心を示している』という触れ込みの究極ドラッグの研究データ目当てだったのでは…みたいな「彼側の事情」もありえないではない(かなり無理があるけれど)と思うに至ったのだ。
 前作『サスペリア』が現代オカルト・ホラーの古典をベースにしながら、オリジナルにはなかったドイツ現代史を作品に持ちこんだように。東西冷戦で引き裂かれた夫婦の悲劇を振り出しに→70年代ヨーロッパで・ドイツでは「バーダー・マインホフ事件」として吹き荒れた主に若い層の極左テロ活動と→そんな左翼に共鳴しがちな少女たちを生贄にした儀式で魔術的な力を得ようとする伝統・保守層(彼女たちが表の顔として主催した現代舞踏の演目が「VOLK(民族・国民)」というナチスを彷彿とさせるタイトルだったのもエグかった)の角逐を→西から来た善き魔女(?)(アメリカの清教徒的な文化を・あるいはそれが禁欲的に抑圧してきた結果あれ狂うエネルギーを背負う)スージー・バニヨンが調停する…そのようなストーリーとして「取ることもできる」ように。
 『クィア』もまた、表立ってはいない形で、東西冷戦や諜報活動的な要素を隠し持った=その意味でも前作『サスペリア』の延長線上・『サスペリア』でやりたかったことを今度こそ完成させた作品だったのかも知れない。
 …こうした要素を深く突きつめて考えるためには、自分は(アートな映画だけでなく)オカルトや、国策に取り入れられたオカルト≒つまりは陰謀論の分野にも疎くて(お前は何なら「疎くない」んだ)、まあヘンなものに深入りせず一応この歳まで健全に生きてくるためには疎くて正解だったとは思ってますけれど、そして、こうしたこと(オカルト的・あるいはドラッグによる知覚の変容的な「世界の真実」や、政局的な「真相」)が物語の「正解」ではないことも強調しておきたいのですけれど
 この作品は実は○○について描いている、だからその○○という認識に到達すること「のみ」が正しい観賞…そんなわきゃないですよ。政治的背景やイデオロギー、あるいは愛だとか人生訓・「子供のことを思わない親はいない」とか「世の中の人々はまっとうに生きていて一人ひとりが素晴らしいんです」とか、そういうメッセージを作品は貪欲に取り込むことはあっても、それを見出すことが作品を享受することの「正解」ではない。もちろん受け手はそうしたメッセージを作品から汲み取っても、そこから生きる勇気を得ても全然いい。でも正論をぶちたければ架空の場所に架空の人物を設定して…なんて回りくどいことせんと直接に正論をぶてばいい、という教え(吉田健一)を忘れてはいけない。
 映画単品から創作全般の話になってしまったけれど半ば意図的だ、このまま続けさせてもらう。
 
 chapter.3.すべての土地はもう人が辿り着いてる
 20世紀後半の日本を代表するシンガー・ソングライター中島みゆき氏は細野晴臣氏との対談で、細野氏が結成したYMO=イエロー・マジック・オーケストラの音楽を最初「頭脳作戦」みたいな感じだったらイヤだなと敬遠していたが、実際に聴いてみたらリズム面に「天然(実際は別の言葉を使っているけれど21世紀前半の現在では障りがありそうなので置き換えてます)」を感じたので安心して聴くようになったという主旨のことを話していたことがある。
 chapter.1.で、そして先行した小ネタ(もう消しました)で「傑作なのか・ものすごく傑作ぽい紛い物なのか判断に迷うのが歯がゆい」と書いたことを、もう少し掘り下げて説明します。させてください。
 要は、あんまり見事な「作りもの」過ぎて、この異様な美しさは監督の熱意が生んだ「天然」なのか、まあいっちょ先鋭的と驚嘆されるようなものを作ってやりましょうという「頭脳作戦」なのか、観てる側が自信なくなるくらいだな…と思ってしまったのだ。
 「頭脳作戦」は「マーケティング」と言ってもいいのかも知れない。あまりに美しすぎて…では分かりにくいかも知れないので置き換えると、たとえば「真心がすべて!」みたいな強いメッセージをクライマックスで訴えかける作品があったとして、それが作り手の信念に基づくのか、それとも「そう言っておけばウケるだろう」というマーケティングに基づくのか、どちらと取るかは作品の受け取りかたを大きく左右する。
 これは難しい問題だ。作品は天然(信念)と頭脳作戦(マーケティング)どちらかに必ず二分されるものではなくて、大体は双方の要素を併せ持ってるものかも知れない。受け取る側が決める要素も強い。前にも書いたと思うけど(書いてなかったかしら)お揃いの制服を着た少女たちが和音どころかユニゾンで「不協和音を僕は恐れない」と唄うアイドル歌謡は、僕は邪悪な(なんなら実際には救いを求める若者たちへの悪意すらある)マーケティングの産物としか受け取れなかったけれど、それを「真に受けて」異国で弾圧に耐えた若者も居る。
 逆に、誰かが心血注いだ作品を叩きのめすのに「あーはいはい、いかにもって感じだよね、狙ったんでしょ?」と冷笑するほど効果的なハンマーもないだろう。あくまで受け手のコンディションの問題かも知れないが、僕には『クィア』が出来がよすぎて逆に、そういう揚げ足取り「はいはい、お見事お見事」に対して隙がありすぎる難しい作品に見えてしまった。
 たとえば最近の映画だと香港・九龍城砦を再現してのけた『トワイライト・ウォリアーズ』を「紛い物」と思う人は(あまり)いないだろう。あまりにも雑然として、それでもその中を縦横無尽に駆け回るアクションを繰り広げつつ怪我やつまづきが残らない映像に、スタッフからキャストから大変な数の人々の実在する努力の積み上げは疑う余地がないからだ。『クィア/QUEER』は、あまりに整然として「そつがない」(そつがない、なんてものじゃないのだけど)。もちろん『トワイライト・ウォリアーズ』が努力と汗の結晶で、汗ひとつかいてないような『クィア』がそうでない、なんてわけはない。同じくらい人手がかかってるに決まってる。けれどその均整美は、AIでどんな画像でも作れてしまうと謳われる時代に、(人力でありながら)あまりに親和性が高い。
 映像美だけではない。
 先にホドロフスキーの名を挙げたけれど、本作は(僕にとっては)ホドロフスキーやクローネンバーグが描こうとしてきた人間変容の夢を彷彿とさせすぎる。同じ聖杯を求めてるのだから彷彿とさせるのは当然なのだけど、終盤に至って「生きてたのかデヴィッド・リンチ(〜2025)」と思うような場面や、ついにはスタンリー・キューブリックすら彷彿とさせる場面(個人の感想です)に曝されて「すごいけど、不幸な作品でもあるのかも知れない」(個人の感想です)と思ってもしまったのだ。
 オタクと呼ばれる情報複製時代の寵児たちの黎明期に「おおすべてのことは一度もう行なわれてる すべての土地はもう人が辿り着いてる」と高らかな絶望が唄われて以来、既に40年近く経っている。
ムーンライダーズ - マニアの受難(YouTube/外部リンクが開きます)
 『クィア/QUEER』はホドロフスキーが、クローネンバーグが、リンチが、キューブリックが、もしかしたら原作者のバロウズが、吾々みんなが夢見てきた「人間をやめたい」という夢(そういえばドラッグ濫用に警鐘を鳴らす80年代の有名な広報コピーは「人間やめますか」だった)を、これまでにない完成度で映像化した傑作だと言える。こんな作品を信念なしに、マーケティングや「頭脳作戦」だけで作れると思うのは、あまりに創作てものを馬鹿にしすぎだろう。その完成度は、これから人類が体験する・半ば体験しつつある「AIで何でも作れる時代」の最良の部分を、人力で先取りしているかのようですらある。
 けれど『クィア』に、ホドロフスキーやクローネンバーグ・リンチやキューブリックが持つ「そこに最初に辿り着いた」という栄誉を認めることは、観てない観てないと言いながら観てない範囲内で色々と観てきてしまった自分には、悲しいけれど難しい。少なくとも今は。先達たちが(彼らには彼らなりの参照する先行作品があったのかも知れませんが)それまで描かれてないものを描いて博したカルト的な人気・評価を得ることは「これまで描かれてきたものを今までで最高に完璧に描いてのけた」だけでは、難しいのかも知れない。
 そんなことない、人生が変わるほどのショックを受けたよ、こんな体験は想像したこともなかった、という(若い)受け手もいるだろう。その人たちが羨ましいし、本来そうした評価に足るポテンシャルを有した作品だと思う。
 ダニエル・クレイグも「この映画のためにボンドを辞めた」と言われても信じちゃうくらい(違いますよ)素晴らしかったです。映画館の大スクリーンで是非。

      *     *     *
(25.05.26追記)まだ何か大切なことを言い落としてるよなと思いながら昨晩日記(週記)をアップロードして、寝床に入ってから言語化できたので加筆です。折角なので映画と同じ(3章+1)の構成で↓

 epilogue.
 聖杯に色々あるのと同様「人間をやめたい」にも色々ありまして。キューブリックみたく人類の上を目指すこともあれば、クローネンバーグのようにハエと合体でもいいやと割り切ることもある。(そういえば『クィア』の原作者バロウズの声をサンプリングしたYMOの楽曲のタイトルが「BE A SUPERMAN」だったような…)
 『クィア/QUEER』を観ながら連想していた他作品がもう一つあった。作品とゆうか、とあるBL漫画の「交わりを重ねて互いを理解すればするほど−私たちはそれぞれが如何に孤独かを知る」という主旨のモノローグだ。身体を重ねても、お互いを分かりあっても―いや、それでこそ余計に募る孤独。
 『クィア』の主人公が究極のドラッグ「ヤヘ」を試すのにわざわざ相方を連れていく、求めていたのが「一人で超人になりたい」ではなく、予告編でも引用されていたように「言葉を使わずに君と話したい」だったことは特筆に値する。寿司屋だと思って入ったらラーメンが出てきたみたいに(←最近の回転寿司では「あるある」ですが)、ゲイロマンスを求めた観客にバケツ一杯のドラッグ体験を浴びせる本作は、その動機(一人はイヤだ)と「ヤヘ」で合一化してもなお癒せない孤独を際立たせた一点で、寿司としての面目を保っていた・逆にすごい濃い口のBLとして着地しおおせた、とも言えるのではないでしょうか。
 究極のドラッグ体験を経て主人公たちの目尻から流れる涙は、結局孤独だという諦念の涙かも知れなかったし(美青年のほうが何を考えていたかは相変わらず知る由もない)同じく男が涙を流す、クローネンバーグの現時点での最新作『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』(2022年)のラストシーンと重なりもした。それぞれのやりかたで人間という限界の外に出ようとする者たちが、それぞれに流す涙。かつてクローネンバーグがバロウズの『裸のランチ』を映画化していたことも念のため付記しておきたい。

      *     *     *
 あとアレだ、オールバックの髪は「幾筋かだけ」ほつれたように崩れるからいいんだ『クィア』みたくバッサバサに崩れるのは認めんという厳格派の異議は甘んじて受けます…

小ネタ拾遺・25年5月(25.06.01)

(25.05.01)大岡川という漢字をカナに開いただけなのにハハハ妙な迫力。見てのとおりのコンクリート・リバーだけど桜の時期には花筏が見られ、時々カヌーイストも行き来する、僕にとっては学生時代からの「吾が街の川」。今は鯉のぼり。五月です。
 奥行きをつけて「おおおかがわ」と開いたタイポグラフィの観光?ポスターと、当の大岡川の写真。今は鯉のぼりが張り渡されている

(25.05.02)映画ファーストデイで公約どおり観てきましたよ爆上戦隊ブンブンジャーVSキングオージャー(公式/外部リンクが開きます)まあ御祝儀的な内容でしたけど最後、ブンブンジャーの昭和ダンスを一緒に踊る王様戦隊だけで1300円の元は取れた気がします
コツコツ-PON-PON(「爆上戦隊ブンブンジャー」ノンクレジットエンディングTVサイズver.)(公式/Youtube/外部)
「もっとワガママになっていーんじゃない?」とヒメノ様にそそのかされたブンブンジャーの未来(ミラ)さんが華やかなドレス姿を披露するも、むしろ私にとってのワガママはこっちだ!と言わんばかりに普段着に戻る場面も良かったねえ。思えば本篇で二回・第一話と最終一話前でウェディングドレスをかなぐり捨てたバクアゲ女…

(25.05.04)久しぶりに東京都現代美術館(外部リンクが開きます)に。中にあるレストランのパフェまでアートみたいなデザインで、予定外の出費になってしまいました。クリーム大福をトッピング・あんこや抹茶を中心にした和風スイーツにマンゴーピューレの甘酸っぱさがアクセントになって、(パフェでは)今まで食べたことがない複雑な美味しさ。期間限定なのが惜しい。
 左:アイスコーヒーと「新緑の木漏れ日抹茶パフェ(ミニ)」・右:同パフェのメニュー写真
向かいにある南インド・レストランも気になりつつランチの機会を逃し続けている。

(25.05.08/小ネタ/すぐ消す)別に分断を煽るつもりはないけれど、連休が「ゴールデン」だったのは休んでた間も給与が発生していた人たちだけだろう

(25.05.07/こんなこともありました)連休は終わりかも。インド国防省 パキスタン支配地域攻撃 過激派組織拠点を標的(NHKニュース/25.05.07/外部リンクが開きます)
(25.05.10)よーし、よしよし(パニクっていた仔犬か何かが少し落ち着いたのをなだめる気分)インドもパキスタンとの軍事行動停止表明インドもパキスタンとの軍事行動停止表明(共同通信/外部リンクが開きます)

(25.05.10/小ネタ/すぐ消す)マキシム・クロンブゾンビの小哲学 ホラーを通していかに思考するか』(原著2012年/武田宙也、福田安佐子訳・人文書院2019年/外部リンクが開きます)は思った以上に哲学の本だった。フーコーやドゥルーズ、カトリーヌ・マラブーまで援用し、フロイトの「死の欲動」やクリステヴァの「アブジェクシオン」アガンベンの「ホモ・サケル」とゾンビを突き合わせる内容は、いっぷう変わった視点からの近現代哲学史・美学史の趣さえあって、純粋にゾンビ史を楽しみたいひとは「いいよ、そういうのは」と辟易するかも知れないけれど…
 廃墟のような色合いに加工された観覧車の写真をあしらった『ゾンビの小哲学』書影。伸びてしまった人参の葉と茎を添えて。
「いっぷう変わった視点」とはゾンビが徘徊しゴーストタウンと化したニューヨークやトーキョーを見下ろす視点。人格を失ない平気でヒトを喰らうゾンビと、もはやヒトでないゾンビを(時に躊躇して返り討ちに遭いつつ)平気で殺戮する人間―合わせ鏡のような両者の姿は、建前など剥ぎ取ったヒトの本質は「弱肉強食」「万人の万人にたいする闘争」暴力的な「ケダモノ」なのだという近代の・もしかしたら新自由主義で加速された(それ以外の道があったかも知れない)露悪的な人間観を映し出している。そして建物やインフラはわりと都合よく保持されたままヒトだけが消えた廃墟は、そんな救いのない近現代が・吾々自身が滅びた世界を見たいという終末願望の側面が消しがたく。

(25.05.17)論理的に考えて「呪いで女の子に変えられた男子が接客するお店」で給仕してくれるのは女子の店員さんであるべきだと思うのだが、求人募集されてるのは男性らしいので、現実にはそうゆうコンセプトの女装カフェであるようだ。「僕は本当は男子だったんだ」と言い張る女子が給仕してくれてもいいのに。ただまあ、求人に応じた男子が本当に呪いで女の子に変えられて出てくる可能性はワンチャンないでもなく(若者言葉に疎いのですが「ワンチャン」の使いかたコレで合ってます?)
てゆうか元々バングラデシュ料理のお店があるかと訪ねた番地にそうゆうお店があったのも、バングラ料理店が魔法でコンカフェにされてしまった可能性が微レ存。「コンカフェ」と「微レ存」の使いかたコレで合ってます?
(同日追記)こういう話を・異性装を楽しみたいor異性装した人と楽しみたい欲求を昔の言葉でいう「倒錯」と嗤ったり嘲ったり・まして現実に性別の移行を望む人たちへの差別につなげたりすることなく、単なる女装カフェにもっともらしい(?)理由をつける可笑しさ(そういうクッションを置くことで安心して楽しめる側面もあるのでしょうね…)や、コンセプトを真に受けて「論理的には」とか言い出す・そしてどうにか女子に接待してほしいらしい語り手(シスへテロ男性)の涙ぐましい滑稽さだけに読み手を導く文章に仕上げるのは難しい。精進するか話題を選びましょう。
(25.05.18追記)「どうにか女子に接待してほしいシスへテロ男性」を自称しつつ、このひとネット検索で「doda CM BL」を検索(二週間くらい我慢したけど我慢できなかった)、検索結果ゼロに「同意してくれるひとはいないのか」とションボリしてるそうですよ…(怒られろ)

(25.05.19/すぐ消す/後で拾う)どうせ「すごく良かった」なんでしょ、と思われるかも知れないけれど逆に期待は裏切れねぇな(?)すごく良かった赤い糸 輪廻のひみつ』(シネマ・ジャックアンドベティ/外部リンクが開きます)半年ぶり二回目の『狼が羊に恋をするとき』(昨年11月の日記参照)もハシゴして、帰りに近所のガチ中華(民国)でワンタンと魯肉飯セット、しあわせな台湾の夕べでした。
 『狼羊』ポストカードと『赤い糸』パンフ、そして肉たっぷりのワンタンに程良い小ぶりさ(これが台湾風)の魯肉飯、胡麻ドレのかかった刻みキャベツはまあ普通です。
ほぼ予備知識なしで観た『赤い糸』(『返校』の幸薄げなヒロインだった俳優さんがピンク髪ではっちゃけてて超かわいかった)語るとほぼネタバレになってしまうので控えますが予想外のスケールだったのも無理はない=韓国のメガヒット地獄映画『神と共に』へのアンサーも意識していたようで、死を超えた愛とか時を超えた因縁とか比べるのも一興。監督が亡き愛犬と同じ名前の犬を登場させ「思い出を刻んだ」というだけあって犬好きは涙なしでは観られない展開(さほど犬に思い入れない僕でもクライマックスは流石に少しウルっときた)。けれどむしろ観たほうがいいのは猫好きかも。なにしろネタバレにつきたたみます。(クリックで開閉)。 納得しかない格付けでしょう(たぶん)。『狼羊』ともども5/23まで。
(追記)やっぱり言いたくなっちゃったので追記。『神と共に』が大ヒットしつつ(とくに第一部で賛美された母親像)が物議を呼んだように、台湾で大ヒットした『赤い糸』も作品として面白い・面白くないは別にして「この落とし所は面白くないな」と異論が出そうな部分もないではなくて、でもたたみます。(クリックで開閉します)。 持って行きかた・説得力の構築が完璧だったと思います。あれに(物語として)対抗するのは困難な(逆に志す人にはやりがいある?)チャレンジになるでしょう。
 それとラストたたみます(こちらは『返校』のネタバレもあり)。(クリックで開閉します) 前世(返校)でも今生(赤い糸)でも変わんないのね…カルマだから?

(25.05.21)なぜこうも的確に人の心を折ることばかり思いつけるのだろう。石破首相「農相後任に小泉進次郎氏起用」(外部リンクが開きます)

(25.05.21)代替たんぱく源として今夏は(もう夏と見做す)お麩わけても車麩の登板が増えそう。冷やしぶっかけ蕎麦。きのこと戻した車麩に火を通したかけ汁と、色合いを保つため別で青菜のおひたしとカニカマを冷やして(仕込んで)おいて、お蕎麦を茹でて冷水でシメてぶっかける。揚げ玉とラー油は外せない。かつお節をトッピングしても映えるでしょうね。
 冷やしぶっかけ蕎麦画像。中身は上に書いたとおりです

(25.05.25)一説では世界一おいしい麺料理とも呼ばれる「ラグメン」もちろんレシピは様々なんだろうけど市ヶ谷で食べたのはキクラゲを使ってたんですね。すっかり忘れて作った「インスパイア系」和えうどんの、まあ似ても似つかないこと。でも「もう似なくていい」と開き直って投入したサバ、悪くない。
 左:市ヶ谷「TANDOOR MASTER」の過油肉ラグメン。右;自分が作ったトマトとピーマン・ネギにダイス切りしたサバを和えた細めうどん(業スー)。
てゆうかラグメン、トマトから出たスープたっぷり・油たっぷり(メニューに「過油肉」て書いてあった)の炒め具材を麺にビャッとかけ回した状態で供して「混ぜるのは自分でね」てスタイルなんですね。なぜ作る(鍋の中で混ぜちゃった)前に写真で確かめない…トマトあと半個残ってるから、また明日にでも試してみようかな。
 正統なラグメンは市ヶ谷のウイグル料理店で食べられますよ。
(25.05.27追記)再チャレンジ。もはやラグメンでも何でもない、ただの和えうどんですが、キクラゲの黒を茄子で置き換えてみた努力を買ってほしい。ピーマンの青々とした色は出ないなあ。
 トマト、ピーマン、茄子、大豆ミートなどで和えた業スー細うどん。
廉価で売ってたお店が昨年閉店してしまい、ストックを惜しみ惜しみ使っていた大豆ミート、そろそろ尽きそう。

(25.05.28)映画の影響もあって数年ぶりに台湾に行きたい熱が再燃しているのですが…2015年とか19年に行ったときの(飛行機代に現地泊や食事に観光・おみやげのカラスミまで含めた)総額と、いま向こうに行って帰ってくる飛行機代が(だけで)同額くらいで笑っちゃってる。どうせそうなら台北以外にも行ってみよう、十分に準備して味わい尽くしてやろうと二ヶ年計画(決行は来年以降)くらいで考えてます。
(25.05.29追記)新刊まだだけど北海道には行ったくせに…
 あ、いや新刊のが先だけどな?新刊まだなんだけど台湾とかないからな?というキャプションと、全力疾走する梯アスミを描いた新刊(GF×異星人)表紙案。
iPS細胞のことを盛り直した修正プロットが最近ようやく貫通したので、いよいよ頑張るのです。こっちは鬼を笑わせない。
(追々記)どうせ今すぐとは思ってなかったけど台湾、新型コロナの新型株(NB1.8.1)が急増中らしい…まあ日本でも川崎か何処かで学校閉鎖とか相変わらずなのですが。台北の老舗の魯肉飯屋の健在を祈るようにネットで確認する日々。
 夜も人が集まる「三代魚翅肉□(火偏に庚)・魯肉飯」外観と、看板メニューの魚翅(フカヒレ)肉団子スープに魯肉飯の写真。

(c)舞村そうじ/RIMLAND ←2506  2504→  記事一覧  ホーム