記事:2025年06月 ←2507  2505→  記事一覧  ホーム 

ポン・デ・リングとゲリラ戦〜マリオ・バルガス=リョサ『世界終末戦争』(25.06.15)

 まったくの余談だし私事なのだけど、タピオカなる単語に初めて遭遇したのは谷川俊太郎氏が訳した漫画『ピーナッツ』の中でのことだった。チャーリー・ブラウンの新しい友達として登場したのが、ゆくゆくは娘を子役のCMモデルからショウビズ界にデビューさせようと目論んだ親によって「タピオカ・プディングちゃん」と名づけられた女の子だったのだ。
 それはともかく、ずっと後に初めてタピオカの現物に遭遇したのはココナツ・ミルクに浸かったタイ料理のデザートとして、その後も台湾発?のタピオカ・ミルクティーのブームが続いて、なんとなく東南〜南アジア原産だと思いこんでいた。実際の原産地は中南米だと知ったのは、だいぶ後のことだった。

    ***   ***   ***
 いちおう『葉隠』も読んだことはあるのだけれど、憶えてる箇所はひとつしかない。ただし、武士はああすべし、こうすべしと心得を説いた同書の中でも、その内容は際立って強烈だ。
 憶えてないので仮にA藩とするが、A藩の殿様が江戸城に上がって例の「殿中でござる、殿中でござる」みたいな袴の長い裾を引きずり廊下を進んでいたら、後ろを進んでいたB藩の殿様がウッカリ前方の殿Aの裾を踏んづけてしまい、殿Aがビターンとコケる絵面が生じてしまったという。居合わせたA藩の家老は、すかさず殿Bの袴の裾を踏んづけ殿Bをスッ転ばした。これこそ武士の心得である(この項おわり)
 もちろん初見ではギャハハと笑って、それからゾッとした。ここで家老Aが即座に復讐を果たしていなければ、A藩とB藩の間には遺恨が残り、それこそ殿中でござる殿中でござるとか、果ては討入りのような事態が生じない保証はなかった。そしてかかる惨事を回避させた家老Aは、しかし他藩の殿をスッ転ばしたカドにより、おそらく切腹であろう。それを承知で、家老Aは江戸城内での蛮行に及んだ。そこまで含めて「武士かくあるべし」と「葉隠」は説いているのだ…
 …という過激な解釈は、もちろん隆慶一郎の小説『死ぬことと見つけたり』を読んだせいで生まれたものだ。世間的には『北斗の拳』の原哲夫が漫画化した『影武者・徳川家康』が最も有名なのだろうか。実はこの『…徳川家康』も含め、急逝した作家が掛け持ちで執筆を進めており未完のまま絶筆となった数作のひとつが、『葉隠』の名高い(悪名高い?)フレーズ「武士道とは死ぬことと見つけたり」をタイトルに引いた同作である。
 その「心得」を「死ぬと思えば何も怖くない」と血肉化した(葉隠の生まれた)佐賀・鍋島藩士たちの活躍は、痛快にして鬼気迫る。主人公たちの一人が「武士にとって最高の栄誉は、殿を諌めて道を正すかわりに切腹を命じられることだ」と信じて、殿に諌言できるくらい側近の地位(それこそ家老とか)を求めてガムシャラに出世をめざす(そして遺された執筆プランによれば首尾よく家老まで昇りつめ藩の未来と引き換えに思惑どおり腹を切る予定だった)と紹介すれば、その目の据わりようは伝わるだろうか。
 日本地図で図解。行ったことある都道府県と、ない県。だいたい東京湾周辺(千葉・茨城・神奈川)住みで生きてきた自分の場合、未踏県は「島根・鳥取・佐賀・長崎・熊本・沖縄」と西になる。高知県は家族旅行でなら行ってるかも知れない…
旅行なり何なりで自分が今まで一応は行ったことがある都道府県と、未踏の県をリストアップしてみると、島原の乱が起きた長崎県と、隣の佐賀県には行ったことがないと分かる。小説『死ぬことと見つけたり』は遠く江戸からの命により、佐賀鍋島藩の若い藩士たちが島原の乱の鎮圧に駆り出されるエピソードから始まる。
 「殿に諌言して切腹する」ため出世をめざすエリート・中野求馬と並ぶ、もう一人の主人公(むしろこちらがメイン)で天性のハンター・斎藤杢之助が、対峙するのは「どうして武士でもない農民の集団が、こんなに強いのか」という謎、そして糸で吊るした針をも遠方から打ち抜けるという異名を持つ鉄砲名人・下針金作だ。杢之助が最終的に悟る島原・天草の民たちの強さの理由は、また別の話なのだが(そして謎ときの「謎」の答として戦慄に値するのだが)何も持たない無力な民衆が信仰の力だけで驚くほどの長期にわたり籠城し、何度も正規軍を跳ねのけた・のではなく、もちろん天草四郎のカリスマましてオカルト的な魔力でもなく、原城に籠城した反乱勢の中には武士だった者たちも、金作のような狙撃手も、つまりは戦闘のプロも沢山いただろうとは想像できる。

    ***   ***   ***
 島原の乱については(ぼんやりとした関心を持ちながら)なかなか本気で文献を読んでみる機会に恵まれず今日に至るのですが、自身は戦闘的な力は有さない宗教的カリスマを旗印に結集した貧しい反乱民が、近代的な正規軍を何度も潰走させつつ最終的には圧倒的な戦力差で殲滅される…驚くほど似通った事例が南米・ブラジルにもあって、そちらを題材にした小説を読みました。
マリオ・バルガス=リョサ世界終末戦争(原著1981年/旦敬介訳1988年→岩波文庫2025年/外部リンクが開きます)
 もうじき(7/15)岩波で文庫になるタイミングとも、著者のバルガス=リョサが今年4月に逝去していたことも(岩波文庫化はそのためかも知れませんが)あまり関係なく、例の「通勤の都合上まいにち2時間は読書ができる=この機会に読みそびれてた本ぜんぶ読んどこう」祭りの一環で、数十年前に読みそびれていた大作に手を出したと思し召せ。まあちょうど文庫化なので、オススメはしやすい。数十年前に躊躇った自分は何なのだ、というくらいグイグイ読まされる。
 (もしかしたら同じラテンアメリカ文学で『百年の孤独』に挫折したひとの、再チャレンジの足がかりにも良いかも知れません…)
 ブラジル地図。北から海岸にサンパウロ・リオデジャネイロ・コスタリカと並ぶブラジルで、セルタンゥは内陸に位置する。同じく内陸につくられたブラジリアの北東。
 ああそうだ、生まれたばかりの政府(江戸幕府・ブラジル共和国)統治下での反乱という点でも共通していた。島原の乱から250年後、ブラジル内陸部のセルタンゥで宗教指導者アントニオ・コンセリィエロを慕ってコミューンを形成した貧民たちが同地を占拠、立ち退きを拒否、送り込まれた政府軍を次々と返り討ちにする。
 新興の共和主義者と保守的な地主層、王政復古と伝説の帝王(救世主)復活願望が混同された民の信仰、そして社会の底辺や辺境に追いやられた人々の憎しみや愛…諸々が錯綜して読み解きかた・興趣の重点も読む人によって変わるだろう重層的な物語だ。ヨーロッパのように無神論と結びつくのでなく逆に信仰や迷信に支えられたアナキズム、あるいはヨーロッパから来た活動家が新聞のフェイクニュースによってイギリスのスパイに仕立て上げられ反乱がイギリス政府の陰謀と結びつけられるなど、21世紀の今日になって脚光を浴びて(浴び直している)トピックの先取りもある。とてもすべては紹介しきれない。
 そこで話を絞る。個人的に・それも今回においてはという条件つきで関心を惹かれたのは、幾度にもわたる政府軍の撃退の鍵となった「戦闘のプロ」たちの存在だ。
 「指導者」コンセリィエロの名は英語のカウンセラーと同義の(つまり「相談者」「悩みを聞いてくれる人」くらいの意味なのだろう)通称で、祈ってばかり・あるいは祝福を与えるだけの彼に軍事的な才覚はない。徒手空拳の民衆が、信念や数の力だけで銃や大砲を装備した近代軍に勝てるはずもない。
 セルタンゥの反乱において「戦闘のプロ」の役割を担ったのはジャグンソと呼ばれる盗賊たちだ。帝政→共和制と上物は替わっても引き続き地方に君臨していた大地主層の、支配の網の目をすり抜ける盗賊・略奪者たち。銃や山刀を片手にの襲撃を生業とし、暴力も殺人も辞さない悪党たちが、コンセリィエロの「赦し」に涙して膝を折り、有象無象の貧民たちを組織しなおした。ある者たちは弾丸の精練に従事し、ある者たちは待伏せのための穴を要所要所に掘り巡らし…
 どうもまだ言語化が難しい。革命は大衆と・大衆を指導する前衛に分かれるべきだとして最終的には前衛=指導者層の独裁に至った20世紀ソ連やカンボジアの無惨な失敗と混同しかねない。いや、そうした社会主義国家の、民衆をマスゲームのように扱う民=素朴で平板という捉えかたと真逆にある、個々の局面で狡知も戦略もある自己組織化・各々が「頭数」でなく自在な「戦闘とプロ」と化す「民衆蜂起」の捉えかたがあっていいのではと。

 ちょっと(また)思い出したのは21年2月の日記で取り上げた矢部史郎『夢みる名古屋』で紹介されていた逸話だ。あまりに面白く話題豊富な本で、当時の日記では「匂わせ」しか出来なかったけれど昭和の映画『新幹線大爆破』(リメイクされてるみたいですね)と『トラック野郎』の比較がまた、無類に面白かった。いわく鉄道が計画・規格という近代的な力を大地に敷いてのけたのに対し、自動車は大地を縦横無尽に駆け巡っての制圧を可能にした(まして航空機においておや)。両者の違いは映画にも現れていて『新幹線大爆破』は定時どおりに運行する「規格」の力を死守せんとする話だった。ところが『トラック野郎』はクライマックスの「どっちが先に着けるか競走」で規格化された大幹線=高速道路ではなく山中の道なき道を走ったほうが「勝てる」という理念(物語・幻想・妄想・思いこみ)に基づいていた、というのだ。
 セルタンゥの反乱における叛徒たちの意外な善戦は、政府軍の鉄道・新幹線的な規格(での制圧)に対する、地の利を活かしたトラック野郎(主演は『仁義なき』菅原文太)的な縦横無尽さにあった、それは素朴でも平板でもないと言えば、言いたいことは朧げにでも伝わるだろうか(余計に分かりにくくなったんじゃないかな)
 つまり数で押してくる多数派に対抗するには同じ数押しじゃなく、飛び道具も必要ではと愚考するんですけど、飛び道具のほうもNHK党とか暇なんとかに先に使われちゃっている現状…(と腕組みして唸る羊帽の女の子「ひつじちゃん」)
 もちろん、それが内ゲバや「総括」と称した相互リンチと化す地獄も、あるいは宗教的カリスマに引っ張られて地下鉄にサリンを撒いたり逆に与党と癒着して集票マシーンと化す地獄もある。天国に至る道は「まるちり(殉教)」を目指していてすら、ラクダが針の穴を通るより狭いのだ。

      *     *     *
 なんか途中から難しい話になってしまい「お願い!引かないで!」と引き止めたくなるくらいには『世界終末戦争』他の読みかたも断然できる、ふつうに面白い小説ですから(性暴力が当たり前な世界の話なので注意は必要)。
 まったく逆方向からの絡め手をかけると、昨年1月の日記でさんざんボヤいた、レヴィ=ストロース『悲しき南回帰線』に頻出するけど検索しても正体不明な食べ物「マンジョー」、同じブラジルを舞台にした『世界終末戦争』では「マンジオカ」として出てきて、こっち(マンジオカ、マンジョッカ)で調べれば、いくらでも出てくるじゃないの!
 あ、いや、マンジョーではなくマンジョッカ、原材料はキャッサバと昨年7月には判明してたんですけどね。横浜・みなとみらいにあるJICAの食堂でマンジョッカのフリットなるメニューがカフェタイムに提供されていたが、中東のファラフェルを優先してる間に(こちらは街角にあるケバブ屋などでもふつうに商ってる模様)メニューから消えてしまっていた。
 このマンジョッカ(マンジオカ)『世界終末戦争』では、フリッターもあるけど炒めてソボロ状にしたフリカケ「ファリーニャ」(タマネギやニンニク・バター等も合わせて炒めると「ファロッファ」)を肉料理にかける食べかたが前面に押し出されていた。
 そのほかネット検索ではトロトロのスープにしたり、意外なところではポン・デ・ケージョもマンジョッカ(つまりタピオカというかキャッサバ粉)が原料らしい
 そしてミスタードーナッツのポン・デ・リングもタピオカでモチモチ感を出している由。今までにない食感で、停滞していたミスドの業績を回復させた復活の立役者だったとか(ぜんぜん知らなかった…)。
 横浜の鶴見区には日系ブラジル移民の人たちが多く身を寄せた経緯があり、今もあるブラジル食料品店で探せばマンジョッカ粉を入手できるかも・なんならイートインの食堂でファロッファをまぶしたステーキでも食べられるかも…と思いはしたけど今の自分に鶴見まで出向く余力はなく。近場のミスドで妥協してみました。
 ミスドのポン・デ・リング、黒糖ポン・デ・リングとアイスコーヒー
こんな接点からも、日常と世界・世界文学はつながっているのだ。本当かな?

    ***   ***   ***
(追記)網野史学の視点を大いに取り入れた隆慶一郎氏の時代小説が吉原の遊廓を被差別者のアジールとして描いたのは小説だから許されるロマン化だったと釘をさせる一方、その自由な感じが数十年後、ビジネス至上の自由主義史観に巧みにすり替えられてしまった印象を(なにせキチンと観てないから憶断にすぎないけれど)吉原を舞台にした今年のNHK大河には感じなくもない。
そもそも年頭の番組紹介で、池波正太郎が『剣客商売』の裏テーマとして?打ち出していた・あくまで異論(オルタナティブ)だから面白かった「田沼時代じつは良かった史観」が、大河のようなメジャーコンテンツで屈託なく正史あつかい?されてることに危惧というか「なんだかなあ」と思ったのですが、どうなんでしょう。

25年前のメシアニズム〜ディー・レスタリ『スーパーノヴァ エピソード1』(25.06.22)

メサイア(救世主)は僕のシスター キングじゃないんだよ、彼女は僕のクイーン
The Stone Roses - Love Spreads(YouTube/外部リンクが開きます)

    ***   ***   ***

 01.出てました
 インドネシアの作家ディー・レスタリの短篇集珈琲の哲学(原著2006年/福武慎太郎監訳・西野恵子、加藤ひろあき訳・上智大学出版、ぎょうせい2019年/外部リンクが開きます)を紹介した本サイトの日記(週記)を憶えておいででしょうか。
ローカルとグローバル(2021年3月)
その時こう書いた:「元ミュージシャンの彼女は長篇『スーパーノバ:騎士と王女と流星』でデビュー、同作は英訳もされ六部作をなす大ヒットとなった。こっちも出来れば読んでみたいですねえ」
 先に書いておくと短篇「珈琲の哲学」もインドネシアで映画化され、スピンオフ的にどんどん続篇が制作されているらしい。「の」を抜いた『珈琲哲学』で検索すると日本でも有料配信のプラットフォームで観ることが出来るようです。
 余談ですが検索といえば、検索するたび植樹される代替検索エンジン「Ecosia」昨年の日記で紹介したときにはスマートフォンや、デスクトップMacだとFireFoxでしかデフォルトの検索エンジンに出来なかったんだけど「気づいたら」Mac版Safariでも設定できるようになってました。特にGoogleのトップにAI要約を載せる機能で愛想が尽きたひとは検討あれ。
 図解:Safari(Mac版)の場合左上の「Safari」メニューを開いて「検索」→検索エンジンを「Ecosia」で設定完了。
※AIの使用がまた膨大な電力消費(浪費)→環境危機につながることを考えると「AI要約を出さない」だけでも代替エンジンは検討の価値ありかと。
※その一方でPCやブラウザによってはデフォルトの検索エンジンをChatGPIに設定できるらしい地獄。
※まあ自分はGoogle傘下のYouTubeから離れられないんだけど、離れられるとこから。
 …話が完全に逸れたところを「気づいたら」でつなげると(苦しいなあ)
 気づいたら『スーパーノバ』のほうも邦訳が出てました、それも「出ないかなあ」と言った半年後に。
 ディー・レスタリスーパーノヴァ エピソード1 騎士と姫と流星』(原著2001年/福武慎太郎監訳・西野恵子訳・上智大学出版、ぎょうせい2021年/外部リンクが開きます)
 まず驚いたのは、副題から想像していた近世ヨーロッパふうの異世界なり、インドネシアの神話・民俗世界なりが投影されたファンタジー、では全然なかったことだ。中心となるのは(それこそ僕が誤解したような)おとぎ話の騎士と姫と流星・をそれぞれ現代に転生させた大企業CEOとジャーナリストとトップモデル兼高級娼婦。タイトルロールの「スーパーノヴァ」はインターネットの掲示板で悩める人々の相談に助言や託宣をあたえる正体不明のアカウント名、さらにすべては十年前にアメリカ留学(バークレーとか)で出会った十年越しのゲイ・カップルによる創作で、しかも彼らが創作に援用するのはカオス理論やフラクタル幾何学…
 請け合ってもいい。古めかしいファンタジーどころか、25年前に世界で一番「進んだ」小説を書いていたのはインドネシアで元アイドルの肩書きをもつ25歳の新人作家(そりゃあ売れるわ)だった。その流星のような煌めきと墜落-Rise and fall-について、余すとこなく(とは言わないが、かなり突っ込んで)今から話す。興が削がれるという人は、ここで中断して(ネット書店を含む)書店か図書館へ。
 書影。『スーパーノヴァ1』と『珈琲の哲学』。『珈琲の哲学』表紙に描かれた二人の男性、実は映画版の主人公たちに準拠したビジュアルでした。

 02.春樹2.0
 改めて断っておくと、インドネシア特有の民俗や文化「今の日本が忘れてしまった自然や人情の温かさ」郷愁などを求めて本作を手に取っても、ほぼほぼ報いられることはない。本作(少なくとも六部作の第一部)を貫く基本方針は、物語の「著者たち」先に紹介したゲイの二人によって開幕早々に宣言される。
「登場人物はみんな若いのがいい。生産年齢で、都会的で、大都市に住んでいて、情報技術にアクセスすることができる人物だ。
 路上生活者や、地方文化を飾る村の設定なんかは不要だ
(強調は引用者)
いや、ここでカチンと来て読むのをやめるには惜しい小説です。とはいえ、本作にインドネシア特有のローカル文化を求めることに、あまり意味はない。むしろ世界じゅうの、グローバリズムに曝されている国や都市なら世界のどこの読者でも一定の共感が可能な物語≒言うなれば世界文学が、たまさか今度はインドネシアで生まれた、そう捉えて(好む好まないに関係なく避けがたくなってしまった)グローバル社会の一員として読むのがいい。
 実は同じことを『珈琲の哲学』の時にも書いていて、おおむね間違ってなかった、むしろ(刊行年度は先だけど)『スーパーノヴァ』ではその「世界文学」としての傾向がますます深化し花開いているように思われた。説明します。
 21年の日記では『珈琲の哲学』の脱ローカル→世界で共感されうるグローバル性を挙げて、村上春樹が世界的に受容されたのも同様の理由だと仮定した。その時は必要なかったので触れなかったけれど、村上春樹の作品が世界中で「受けた」理由は「それ」だけではなかったと思う。都会生活の花やかさ・カタログ的な魅力だけなら、他に描いた作家は沢山いただろう。春樹作品が世界で受容されたのは、都市文化≒物質文明では説明できない「もう一つの世界」の存在を執拗に示唆し続けていることも重要な理由ではなかったろうか。
 実はこちらもずっと昔、『1Q84』が出た頃に書いているので端折りますが(2010年5月の日記参照)「村の文化」的に伝統保守な信仰習俗には今さら戻れないけれど、物質がすべて・お金がすべて・理性がすべてな現代文明では割り切れない、割り切れなくてスパンと切り落とされてしまう残余がある気がするし、それらが人生に多大な影響を(時に)与えるようであってほしい。そうした(けれど伝統的でない)残余が春樹作品では心の病やドッペルゲンガーのような幻覚・夢をつうじた別世界として形を与えられていた。
 「グローバル化された現代の都市生活を描く」+「物質文化が否定する非理性的なものに居場所を与えている(それでいて伝統回帰はしない)」=村上春樹作品の「勝ちパターン」だとしたら、この公式を継承し、さらに「非理性的なもの」にカオスやストレンジ・アトラクター、オート・ポイエーシスに代入し公式をアップデートした『スーパーノヴァ』は春樹2.0・春樹200%とも呼ぶべき荒技で(念のため言うと多少皮肉や茶化しが入った表現で、こういうのを真顔で言っちゃう勢のと一緒にされると困る)誰かが当時やっておくべきだった偉業(異形)で、インドネシアの新人作家はそのタスクを完璧に成し遂げたと言える。
 誰かがやっておくべきだった、というのは当時、創作に携わっててカオス理論やフラクタル理論を知ってる人なら、両者の融合を夢みるのは「あるある」だったと思うからだ。別に驚くことはない。ロレンス・ダレルは『アレクサンドリア四重奏』(2020年12月の日記参照)のアイディアをアインシュタインの相対性理論から得たと語っているし(個人的には「観測によって結果が変わる」不確定性理論のほうが相応しい気もしますが)、トマス・ピンチョンはその名も「エントロピー」という小説で熱力学の第二法則そのものの小説化を試みた。マルチバースという発想が(元になった理論を完全に履き違えつつ)どれだけ世の創作作品に多大な影響を与えているかは、語るまでもないだろう。
 かくして、「カオス理論て物語の基本法則なんじゃね?」「キャラクタが勝手に動き出すのってオートポイエーシスじゃね?」といった創作者たちの夢が、最良の語り手を得て騎士と姫が転生した不倫の恋の物語に昇華される。
 あるいは理論をダシに繰り広げられるトレンディな恋愛模様の息を呑む展開。しょうじき理論は別になぁ…と思う人も、貧困や社会問題を鼻にもかけない連中の情事にどうして付き合わなければ…と腹を立てる人も、いつのまにかストーリーの重力から引き返せない一線をまたぎ、許されない恋人たちと一緒に錐もみで墜ちてゆくしかない自分を発見するでしょう。「なんで小説を読むかって?続きを知りたいからに決まってるでしょう」(ジョン・アーヴィング『ガープの世界』)というタイプの読み手を満足させる、小説の愉悦を保証します。
 そのうえで。

 03.裏切られた革命
 ここ五百年、西欧を中心にした世界はメシアニズムに引っ張り回され、痛い目に遭ってきたという主旨の本を読んだ。なるほど、頷けなくもない。
 メシアニズムの根底にあるのは「この世界は間違っている」「だから終わらないはずがない」という終末論(エスカトロジー)だろう。ただし、ただ滅びるのではなく、根底から間違ってる世界に救世主(メシア/メサイア)が現れ、虐げられた人々を正しい世界=至福の千年王国へと導くはずだという願望。前回の日記(週記)を思い出してもらってもいい。
 中世ヨーロッパでは文字どおり信じられていた救世主=キリスト崇拝が、近代合理主義によって否定され葬り去られた…わけではないと、その本の著者は言う。むしろ近代合理主義=理性の崇拝や人権・平等といった啓蒙思想は、それによって世界の誤りを正して千年王国を地上にもたらす新たな救世主として己を任じた(フランス革命)。20世紀初頭には共産主義が新たなメシアとなりロシアから世界中に革命を波及させる。
 メシアニズムは自らの正しさを過信するあまり、福音を世界じゅうに広めよう・押しつけようとして侵略戦争や植民地化の弊害を生んでは、自ら悪と成り果て自壊してきた…というのが著者の見解で、その最新版は冷戦終結後「世界の警察官」(メシアニズムというよりメサイア・コンプレックスと言ったほうが好いかも知れない)として資本主義を世界じゅうに押しつける21世紀のアメリカ合衆国…ということになるのだけれど、その話は「一旦」措く(後で回収する)。
 書影:『スーパーノヴァ1』と『民主主義の内なる敵』。実は前回読んだ『世界終末戦争』の解説に参考文献として(別の著書が)紹介されてて関心をもったトドロフ。
 ツヴェタン・トドロフ民主主義の内なる敵(原著2012年/大谷尚文訳・みすず書房2016年/外部リンクが開きます)
トドロフが主張する「メシアニズムの現代の継承者はアメリカ」という把握には若干の疑問があって(間違った世界を正せ、ではなく「今の世界(新自由主義)が正しい」と勝ち誇ってるようにしか見えないのだけど…要は「解釈違い」?)むしろ中世のキリスト教的メシアニズムが潰え、フランス革命が自滅し、ソ連が崩壊し―もちろん間にヒトラーとか色々おりました―もう資本主義が勝利した「終わりなき日常」を生きるしかないのか?と思われた20世紀と21世紀の狭間で、別の種類のメシアニズムがあったのだ。
 それ以前から「ニュー・サイエンス」として盛り上がっていた、カオス理論やオートポイエーシス・あるいはシュレディンガーの猫などといった(ニュートン的・デカルト的合理主義では説明しきれない感を醸し出す)新しい科学と、たとえば風水・あるいは「引き寄せの法則」といったオカルト的なスピリチュアリズムとの融合。それがインターネットの爆発的な普及とさらに融合して「科学にも裏づけられたスピリチュアリズムが、あなた(人類)を次のステージに導く」みたいな幻想が、たしかに存在しえた。
 カオスやフラクタル理論が創作やストーリー展開を導いていいのなら、どうしてそれらが人生や社会に適用されていけない理由があるだろう?エグゼクティブな男女の不倫の物語から始まった『スーパーノヴァ』は終盤、科学を通してワンランク上の千年王国に人々を、なんなら世界あるごとを導き入れる救世主の姿を幻出させる。
 台北で見かけた「SPARITUAL」の看板。
※五年ほど前の台湾旅行(しかも家族旅行で何撮ってんねん)スピリチュアルならぬ「SPA」RITUALという駄洒落が目に焼きついて写真に収めたネイルケア・ブランド、本社はアメリカらしい
 スピリチュアルならぬ(けど間違いなく意識している)SPARITUALが「ヴィーガニズム」と「ラグジュアリー」を難なく両立させているように、科学とスピリチュアル・テクノロジーと自然保護は矛盾なく融合可能だと信じる(自然保護のことはあまり言ってないけど、たぶん信じているだろう)預言者スーパーノヴァは、同時に、天国への階段をお金で買えることを微塵も疑っていない。
(今年三月にふと思いついてレッド・ツェッペリン「天国への階段」はそういう歌だと説明しといて好かったですね…)
 あらためて言っておくと、まず小説として滅法おもしろい。
 そのうえで貨幣と資本主義を「すべての人が共有できる言語」として称え、大企業のCEOのようなエグゼクティブこそが財力で(社会変革など)本当に意義あることを出来ると期待する『スーパーノヴァ』には、科学・オカルト(スピリチュアル)・インターネットと新自由主義が人類を(裕福な者から先に)千年王国に導きうるという徒花のようなメシアニズムがあった。
※いちおう言っておくとゲイの狂言回しも含め、保守的・宗教的・家父長制的な当時のインドネシア社会への異議申し立てがあったことも確かです。
 20世紀が終わり21世紀が始まる時期、占星術的にはキリスト以来の魚座の時代が終わりアクエリアス(水瓶座)の二千年期が到来すると言われた時期に、そういう機運はきっと実在したのだろう。その光をキルリアン写真のように紙へ定着させた『スーパーノヴァ』には記録的な価値がある。
 もちろん、その夢は徒花として潰えた。日本では先行するように95年、科学とオカルトとテクノロジーの融合をめざした宗教団体が(彼らが活動の一環として自社製造パソコンを売っていたのは有名な話だ)地下鉄にサリンを撒いた。量子力学とオカルトの融合は詐欺めいた勧誘の定番に堕した。そして何より「裕福な人間には率先して世界を楽園にする能力も資質もある(べきだ)」という期待じたい、いかに無邪気な幻想だったか。持てる者が財産を売り払って貧しき者に施すことで針の穴より狭い天国への道を進もうとはせず、むしろ今の己が豊かな現在こそ天国なのだと言い張って、しまいにはイラクの核施設にバンカーバスターを落として平然としている(むちゃむちゃ怒ってます)、それが吾々が実際に見せつけられてきた25年だった。

 25年後の今、この誤った世界を根底から否定し、人々を至福の王国に導く救世主(として仰ぐべき存在)が仮に居るとしたら、それがストーン・ローゼズの歌のように王ではなく女性だったとしたら、それは新自由主義の福音を説くスーパーノヴァではなく、環境アクティビストのグレタ・トゥーンベリだろう。彼女に何かしてくれと言うのでなく、彼女に追随する小羊がどれだけ居るかという話なので、それももう手遅れかも知れないが

 無邪気な富とテクノロジーの肯定から始まった六部作が、その後に起きた多くの破滅的な出来事を経て、どのようなゴールに至ったのか知りたいとは思う。上智大学には頑張ってほしいけど、もしどうしても読みたくなったら続篇は英語かなあ。あと台湾でなら最後まで(繁体字で)出版されてそうな気がする。

楽園の瑕〜ヤニス・バルキファス『クソッタレ資本主義が倒れたあとの、もう一つの世界』(25.06.29)

 お詫び;使い勝手がよすぎるタイトルというか概念でまた使ってしまいましたが、元ネタであるウォン・カーウァイの映画『楽園の瑕』(邦題)未だ観賞できておりません…と汗かき手を合わせる羊帽の女の子「ひつじちゃん」。
 ジュール・ヴェルヌの昔から、SFは未来予測(の側面を多く含む表現形式)だった。
 ちくまプリマーブックスから『百年前の二十世紀 明治・大正の未来予測』(1994年)なんて本も出しておられた横田順彌さん。その初期の代表作は研究と言うより、明治・大正期の国産SF(古典SF)というジャンル自体を独力で立ち上げてしまった『日本SF古典こてん』(早川書房1980〜81→集英社文庫1985年)。今にして思えばジャンル創成期・確立期の労でもあるのだろう、三大奇書の一角としてミステリ(アンチ・ミステリ)に分類されている夢野久作の『ドグラ・マグラ』なんかも同書は「これはSF」と勝手に?分捕り、僕は『ドグラ・マグラ』を最初はSFとして知ったのだった(笑→実際に読んだのはようやく数年前)。でもヨコジュン氏とも交友のあった梶尾真治さんが同作にオマージュを捧げた『ドグマ・マ・グロ』はアッと驚くSFだったし、いいのかSFで。今週は時間もないし←そういうメタ的な丸投げは止しなさい。
 その『日本SF古典こてん』で忘れられない話が、いつごろ書かれたのだろう、男女の地位や立場が逆転したパラレルワールドに行きて帰りし男の体験記(という体裁のSF)だ。男女逆転ということは服装もで、向こうの世界では男がスカートを履く。すっかり向こうに適応してスカートにも慣れ、向こうで女性の伴侶も得た主人公は、しかし最終的にはこちら側の世界に戻ってくることを余儀なくされる。たしかに自分は向こう側で暮らした、伴侶だっていたのだ…という寂しい想いに時折とらわれる主人公は、そんな時は自宅でこっそりスカートを履いて溜め息をつくのだった…
 読んだ当時は考えつきもしなかったけれど(そもそも知らなかった・そして今でもよく知らないのだが)『暮らしの手帖』の花森安治さんがスカートを履いて話題になったのはいつ頃だったのだろう。もしかしたら男女逆転の古典SF・そのペーソス溢れる結末は、現実世界のアクションへの、フィクション側からの反応だったのかも知れない。

      *     *     *
 作家が大臣になることもあれば、元大臣が作家になることもある。
 ヤニス・バルキファス『クソッタレ資本主義が倒れたあとの、もう一つの世界(原著2020年/江口泰子訳・講談社2021年/外部リンクが開きます)は経済学者として各国の大学で教えた経歴を持ち、2015年には出身地のギリシャで大臣もつとめた著者が、もし2008年の世界金融危機で「資本主義が倒れ」たパラレルワールドと、(各国政府が全てをかなぐり捨てて資本主義を固持した)こちら側の世界がワームホールでつながったら、という設定で書いた、ゴリゴリのSF小説だ。
 ワームホールが出現するに至った経緯も(それでそうなるかぁ?とツッコミたくはなるものの)別の技術話として読ませるし、つながった二つの世界で交流する主要な三人=コスタ・アイリス・イヴァは「向こうの世界」でも同じ名前なので区別のため向こうは便宜上「コスティ・サイリス・イヴ」呼びするというくだり、今ちょっと頭が回らなくて具体に思い出せないけど(大丈夫かぁ?)量子とか反粒子とかの呼びかたみたいでニヤリとさせられる。
 もちろん本丸=向こう側の世界の話も存分に面白い。要は2008年のピンチをチャンスに変えて活かし尽くしていれば世界は、経済は、生活はここまで変わり得た、という話ではある。けれど本サイトでも何度も何度も書いているように、何かサイエンス的な発明や未知の物質・異星人の介入がなくても、社会制度を変えるだけで世界はガラッと変わってしまいうることを示すのも、またSFの醍醐味であり、本書は(なんならオーウェルやル=グウィンの系譜に連なる)社会SFの名に恥じないだろう。
 隠棲した反体制の闘士(反体制すぎて反体制の体制さ加減までイヤになった)アイリス、新自由主義の信奉者だったが2008年の危機で裏切られ意気消沈しているイヴァ、そして両者を仲介しつつ本人は「技術は人を幸福にしうる―だがそれをドアの外に出す企業はどうだ?」と葛藤しているコスタ。こっちの世界ですでに見解を異にしている三体?ならぬ三人が、さらにそれぞれの意見を向こう側のサイリス・イヴ・コスティとぶつけていくさまは、手練れの小説として楽しく読めるし、
 もちろん何より「あの日、赤いピルを選ばなかった」こちら側の世界の吾々=読者が垣間みる「もう一つの世界」は何にも増しての本書の魅力だ。なので今回は端折る。簡単にいえば著者が考える理想の社会、そしてそれを通して語り尽くされる「それに引き換え、なんでこちら側の世界はこうなっちゃったのか」。
 ひとつだけ挙げるなら、今の「経済」とやらは生産も生産者も消費も消費者もとっくに離れた金融ゲーム(先物買いのために前借りして、先物買いの結果で得られる利益で前借りの借りを返すけど、そもそもその先物買いの利益も別の何処かから前借りして得られる見込みの利益…みたく停まったら倒れてしまうナポレオン三世的な自転車操業)で、その架空のゲームで巨大なカネの動きを作るためなら(作らないと倒れちゃう)戦争も歓迎される強欲さで現実の社会や生活がコテンパンにされる…みたいな事情を、本書はあらためてゲンナリ感とともに再確認させてくれる。これでも多く喋りすぎた。あとは本書をどうぞ。

 と、大幅に同書の内容を端折ったうえで、余談だけしておきたい(書き終わって振り返ると、この余談が例によって長いんだけどな)
 本書はワームホールに事よせて、それなりに行政経験のある経済学者が提示した「理想の社会像」だ。経済学者として経済学の話だけ書くのなら、理想の提示だけでもいいだろう。でも、小説となれば話は別だ
 資本主義が滅んで富の独占がなくなり、不条理なほどの格差も(個人間でも国家間でも)なくなったはずの世界で、それでも2020年に金融危機が発生した―という物語を終盤、作者バルキファスは提示する。えー、理想の社会じゃなかったのという気持ちと、よしよし理想のまま終わられてたまるかという気持ちが半々になるけれど、あっさりネタを割ってしまえば(ネタバレ注意)この危機は世界的な協調によって素早く回避され、すみやかに防止策も整備される。
 やはり向こう側の世界はすべてが願ったりかなったりなのか。皆が自由でしあわせな社会は、こんな手が届くところにありえたのか―そう思わせたところで、この危機はどうやら読者の注意をそらすためのミステリで言うところのレッド・ヘリング=偽の容疑者だったと分かる。向こう側の世界も、けっしてユートピアではなかった―ある一点の問題が結局は解決されておらず、にも関わらず社会がなんだか上手く行ってしまってるので解決はより遠くなった―こちら側の主人公のひとり・怒れるアイリスは見ため楽園な「もう一つの世界」への徹底的な拒絶を示すのだ。
 はい、ここには書きません(楽しいなあ―最後にヒントだけ提示しときます)。やっぱりソコになるよなあ・それが2020年のマナーだよなあと、一応おなじ創作者として納得しきりだったことは申し述べておくとして―
 僕が僕で「この世界は理想かも知れないが―これはこれで僕にはキツいかも知れない」と思ってしまった理由は別にある。アイリスのまっとうな怒りよりは、ずっと卑小だが、それはそれで深刻な理由だ。
 コスタならぬコスティが暮らす「もう一つの世界」では、たった一人のCEOが巨大な資産をほしいままにして末端の零細労働者を搾取したり、まして株だけ持ってる大株主が株価のためだけに戦争に加担したり環境を汚したりすることは原則上ありえない。話せば長いが企業に属した個人は、まずもって全員が一律の俸給を得て、そこに働きに応じたボーナスが加わる。「働きに応じた」というのは少し端折りすぎで、各社員が投票権をもっており自身以外の誰かに「私はこの人がボーナスに値すると思う」と一票を投じることができ、それぞれの得票に応じてボーナス用の資金が分配されるというのだ。これなら地位による報酬の階層化はなくなり、皆が納得・皆がしあわせになるとバルキファスは提案する。
 これもまた要約しすぎで上手く伝わってないかも知れないが、要はこれが僕にはつらい。もちろん「私の一票は、いつもトイレをきれいに清掃してくれる清掃員さんに」みたいな再配分のしかたもできる。できるけど、いや出来ればこそ、それは「あなたの『存在』はどれだけ同僚や社会に貢献していますか」と社長も平社員もたえず評定される究極の成果主義・自分も他人をたえず評定しなければならない究極の相互監視社会・「まなざしの地獄」なのではないだろうか。
 んー、著者バルキファスは不公正とされる現実の現代社会でも教壇に立ち議員になり、己の実力が(まあ当人には「まだまだ」という気持ちはあるかも知れないが)評価され、また評価されるに値する実力を自身は有していると誇れる人間なのだろう。主人公のコスタ・アイリス・イヴァたちも、それぞれの形で挫折したとはいえ社会で一定の評価を得て…あーめんどくさい、要は先週の日記(週記)で紹介した『スーパーノヴァ』の主人公たちと同様の成功者たち。だから分からないのかも知れない。この文章を読んでいる「あなた」にも分からないかも知れない。
 世の中には「真に公正に自身の実力や存在が評価されたなら」自分なんて消しゴムのカスだろうと悲観せずにはいられない、めちゃめちゃ自己評価の低い人間もいるのだ。現にここにいて、今キーボードを叩いている
 けっこう重要なことなのに誰の言葉か忘れてしまったが(少子化を解決できるのはお前らだと言われながら実際に出産すると誰も助けてくれないシングルマザーとか本当に深刻な格差は解決が必要として)あるていど不公平で、実力や「真のポテンシャル」ではなく運やコネ・家柄などで差がついてしまう世の中は、それが完全に自分の実力・自己責任・自分の器・自分のせいとされるより「仕方ない、運もなかった」と思えるだけフェイルセーフ(落下防止装置)がついている、とも言えるのだ。
 「赤いピルを選んだ」という慣用句を先に使ったので(スクロールして上のほうを見直してね)出典である映画『マトリックス』を引用させてもらうと、あの映画=続篇の『マトリックス・リローデッド』が告げていた「人は完全な支配には反抗するが、ある程度の選択肢を与えてやれば自分が選んだという理由で隷属を受け容れることだってできる」(選択の自由が人を安心させる)もまた一面の真実なのだろうけれど、逆に「選択の余地がない領域」の存在もまた、人を安心させる。
 これは一方でとても有害な発想でもあり、たとえば国民みずから歓迎して起きた米不足や戦争すら「あれは仕方なかった」「私たちにはどうしようもなかった」と天災のように扱うことも出来る。
 それがバルキファスは許せないのだろう。2008年の世界金融危機で人類が「青いピル」を選んだ・あそこで格差と搾取と間違った資産運用の社会を根本的に変えられたのに変えなかった・それを「選べなかった」「仕方なかった」と言うのは許せないと。僕もまあそう思う。結果としては許せないことばかり残ってしまったと。でもそこで具体に何が出来ただろうと考えると、そのころ大学で経済政策を説き、後には選挙に打って出て大臣としてEUに対抗しようとした著者のように行動できる人は限られてもいた。2008年の僕は向いてない(そして同僚たちは毎日のように仕事あとの飲みニュケーション=相互評価が必須の)仕事で暗礁に乗り上げ、鬱病の発症直前だったのではないだろうか。
 とっちらかった話を要約する。
 バルキファスは「世襲やコネに関係なく、各々の資質(実力・成果)が正しく報酬として報われる社会」をユートピア候補として提示する。
 僕は人より抜きんでた資質や実力がなく成果を出せない人間でも、安心して生きられる社会にこそ到来してほしい。ついでに言うと、他人の資質やなんかを「一人一票」で評定させられるのも、たまらなく厭だ。
 もちろん「向こう側の世界」は実際そうなってると仮定しての話だ。何の役にも立たなくてボーナス査定ゼロの人でも、いっそ読書とか散歩とか非生産的なことにひたすらかまけていても、安心して生きていけるだけのベーシックなインカムは保証されているのだろう。それで安心という(現時点での)僕のような人間と、そのうえで(そのうえで、なの?)真の実力に見合った報酬をと説くバルキファス氏とは、強調したい点が違うということなのだろう。
 余計に余計を重ねると、バブルが弾けて低成長といわれて数十年このかた「自民(自公)はダメだ」「別の与党を」とあがる声の大半が、自公のような不公平をやめて「私の実力を正しく評価しろ」という勢に占められてるような気がして、みんなよくそんなに自分を高評価できるなあと思う自分もいる。かつて民主に・そののち維新や国民民主に・最新モードでは参政党に排外主義こみで期待をよせる人たちの…ああもういいや以下同文だ。とくに昨今の「私=真の日本人はもっと高く査定されるべきなのだから、その果実を横取りしてる外国人を排斥しろ」という言いがかりは「それ自体が老い・衰えなんじゃないのか」と問いかけたくなる。だとすればますます、弱って、老いて、衰えた者でも安心して生きられる社会のほうを模索すべきではないのか。バルキファスの説く一人一票の公正な評価には、そうした者にも存在意義を認める別の評価軸があるのだろうか。

 さんざ(しかもまとまってないことを)言いましたが、これだけ語りたくなるほど面白い本だったとはお伝えいたしたく。先週の日記(週記)もそうですが、なんだ舞村さん(仮名)が作品に異論を唱えてるってことは読まなくていいんだな、読む気がなくなっちゃったと思われでもしたら心外なので一応(まあ僕がどうこう言って何か読んだり読まなかったり変わるとも思っちゃいないけど←自・己・評・価・の・低・さ!)(※ここでよく知らないまま読書メーターに言及したのですが恥ずかしい思い違いをしていたようなので御指摘いただき削除しました)
 
 「人の実力が正しく評価される社会を」「その社会では実力ない人でも生きていけるの?」という僕みたく自己評価低い人間の小股すくいとは別に、作中でバルキファスが真正面からぶつけてくる「異論」はまた面白い。いっけん平等で公正に見えるユートピアには、実は不公平な罠が仕掛けられているのではないか、それは…という問題意識のありかたが、ああ、あの時代(この時代)に同じ世界の空気を吸っていれば、そこに行き着くよねとなるもので興味ぶかかったのです。というかバルキファスが「それ」を世に問うた時期、まだコロナ禍が社会的にも鎮静していない頃に(言い忘れていたけれど『クソッタレ資本主義が倒れたあとの、もう一つの世界』には新型コロナのパンデミックが世界に、とくに欧州の政治や経済に与えた影響もコンパクトにまとめられている)たまさか自分も創作者として、似たようなことを考え、似たような結論に至っていたのです。
 「クソッタレ」と「もう一つの」が手書き文字になっているため「資本主義が倒れたあとの世界」とも読める『クソッタレ資本主義が倒れたあとの、もう一つの世界』書影。隣には少しボカシを入れて著者名のクリステヴァは完全に読めないけれど法政大学出版局の『ボーヴォワール』を。
 今回の主題でないので写真にボカシを入れましたが、そして今回の主題と直接に関係はないのだけれど、これは日記(週記)なのでいいでしょう、次に読んだ本はジュリア・クリステヴァがシモーヌ・ド・ボーヴォワールを語った本で、直接ではないけれど、ゆるやかにつながってる感じでまた好かったです。クリステヴァが引用しているボーヴォワールの「私はしあわせよりも、まず自由を問題にしたい」という主旨の言葉には、マジョリティの最たる男性(しかも異性愛者のシスジェンダー)でも頷けるなあと。
 アイリスたちの(と大雑把に括ってしまっていいのかは知らないが)語る「異論」を、もっと読みたい。

小ネタ拾遺・25年6月(25.07.02)

(25.06.01)ネット広告で耳を揃えて返しやがれ!と凄んでる漫画の一コマを見て『和尚の逆襲・平家の亡霊を追え』みたいな内容を想像するなど。6月。※よりストレートに『芳一の逆襲』でも良かったんだけど逆襲は芳一のキャラじゃないなーと思い(和尚だってキャラじゃないだろう)

(25.06.04)結局6月も原稿どころじゃなかったのですが、ちゃんとペン入れしてドアの外に出す。「銀河パトロールが、いつも、銀河中のありとあらゆる知的生命体を守っているのです」
 まんがのラフ画。「今そこに誰かいませんでしたか?」と誰もいない背後を指さす梯アスミ。「何ソレ怖い怖い」「花澤先輩の後ろ」「梯さんスゴイな…ホラーも行ける派?」「いや本当に西高の制服っぽい子と幽霊みたいに青白い糸目の男が」「怖い怖い怖い怖いっ」幽霊みたいに青白い糸目の男と西高の制服を着た斎藤にれ、もう校舎の外に居る

(25.06.06)諸説はあるみたいだけど英語圏ではシェイクスピアが『ヴェニスの商人』で「起用」するまでジェシカという女性名はポピュラーでなかったらしい。それが今ではジェシカ・ラングにジェシカ・ハーパー、ジェシカ・チャステイン…ぜんぜん珍しくないのを思うに
 
十年前(9年前)初登場したときには「いくらフィクションでも日本語圏でそんな名前を子どもにつける親がいるとは思えん」とツッコミしきりだった黒澤さんちの「ルビィちゃん」も、ここまでバズると十年後くらいにはありふれた名前になってるかも知れない。幸あれと今のうちに祈っておこう。四季ちゃんと歩夢ちゃんも。

(25.06.08)御大ブライアン・イーノ、好きなんだけど時に困惑させられることも皆無ではなくて(Underworldとの共作とか)、Beatie Wolfeというひとと共演した新曲のMVが美とかポジティブな明るさを感じる一方で率直に怖い、というか慣れたら忘れてしまうかも知れない初見で感じた違和・不穏・不気味さも今は大事にしよう…
Brian Eno, Beatie Wolfe - Play On(YouTube/外部リンクが開きます)
2017年頃?にTwitter(現X)でバズったネタ動画・TUBEの映像にブライアンイーノの曲を合わせる遊びをしていたらめちゃくちゃ不安になってきた。(これはYouTubeにサルベージされたもの/外部)を思い出してしまった(本当にすみません)。
あと言うほどには怖くないけど「怖いCM」に分類されてた(制作者側も狙ってたと思われる)協和発酵 ザ・オリエンタルカクテル 美食酒家YUM(外部)も少し思い出しました(すみません)

(25.06.10).** Happy pride month **.…ということで久しぶりにクリスティーナ・アギレラ『ビューティフル』のMVを見返す。LGBTQのアンセムというだけでなく「あなたは(私たちは)美しい―誰がとやかく言おうと」と歌うことで逆説的に「美しくない」「キモい」と嘲られ忌避される(あるいはそういう規範を内面化して自ら傷つく)人たちに光を当ててきた、この歌とMVがリリースから20余年を経て
 
20年前にはシンパシーを感じたり・感じなかったりしながら、けれど他人ごとだと捉えていたマジョリティが「加齢」という事態を経て、改めてこの曲とMVを切実だと感じる可能性について考えてしまった。えー、つまり、いかに社会で多数派の民族に属し、性的にもマジョリティでも「老い」によって自身がスタンダードから滑り落ちることが、他の要因によってマイノリティな人たちを理解し尊重する契機になりはしないかと―そうでなくして老いや衰えに何の意味があるのか、とは言いすぎなのだろうけれど。せんじつ実家で久しぶりに観たテレビで痛感した「いつまでも若々しく」と謳う健康食品やサプリメントのCMの多さを思うと「とやかく言う側」にしがみついていたい願望は強固で動かしがたく思えるけれど、あれもまあプロパガンダですからね。書き直したけど結局よく説明できませんでした。撤収撤収!
(25.06.11追記)実はアギレラの「ビューティフル」にはリリース20周年の別バージョンMVがある。だいぶ図式的で初代MVのインパクトとは比べ物にならないとも言えるけど
 Christina Aguilera - Beautiful (2022 Version)(YouTube/外部リンクが開きます)
「美」を梃子(てこ)に尊厳を救おうとする同曲のアプローチは劇薬でもあって「スタンダードでない美」の称揚が「美というスタンダード」への屈従=ルッキズムに容易く乗っ取られてしまう危うさに、警鐘を鳴らさずにおれなかったのでしょう。
(同日追記)しかし大体みんな一人で悩んだり一人で頑張ったりしてる中「愛する人の存在」に救われてるのが新旧どちらのMVでも男子カップルなところにアギレラ先生の意外なこだわりが(???…台無しだ…)

(25.06.12)先月くらいだったか「○○クレジットカードより、お支払い金額確定のお知らせです。30,000円 お心当たりのない方は次のリンクから御連絡ください…」みたいな詐欺メール(内容も内容だし「○○カードです」と言いながら発信元はyhnj?Xae$@何何ドットコムみたいなインチキ丸分かりのメアドなんだもん)が毎日毎日届いた時期があって、毎日毎日30,000円、毎日毎日迷惑メールとして通報してたら功を奏したのかパタリと来なくなって…それが半月だか一ヶ月ぶりだかに再び到来。
「お支払い金額確定のお知らせです。18,000円
条 件 下 げ て く る な よ。別に値切る駆け引きで通報してたわけじゃないから。
(後日追記)その後ななんと「99,000円」に値をつり上げてくる。理不尽な!

(25.06.13)今でこそネタとして積極的に広めてこうって感じだけど数十年前「ダブルチーズバーガーですね」と笑顔で承ったマクドの店員さんが奥の厨房に向かって「オーダー『ダブチ』ワン」と呼ばわるのを初めて聞いた時は衝撃だった。ちなみに同じ頃モスバーガーの店員さんがスパイシーモスチーズバーガーを「スパモッチ」と呼ぶのも聞いたことがある。
そうした従業員サイドの内輪の隠語・略語・符牒で久しぶりに遭遇したのは「ご注意ください!当店のごはん普通盛りは他のお店の大盛りくらいです」と謳う伝説的な肉丼屋。なんかむしょうに荒々しいものが食べたくなって温玉スタミナカレー・だけど加齢から来る己が胃の弱りを鑑みて「ごはん少なめ」を選んだら店員さんが
 温玉スタミナカレーごはん少なめ・お味噌汁つき。
「温玉カレー『シャリスク』入りまーす」
これまで伝説の某店を食べ支えてきた世代もそろそろ胃袋的に厳しくなってくるお年頃かもだし、このまま米の高値が続けば別のよんどころない事情もあるしで、流行るかもね、シャリスク。

(25.06.14)ホロライブENのオーロ・クロニーさんによる「好き好き大好き」のコピー・「完コピ」と呼びたくなる再現度のカヴァー。もちろん昔から愛されてた楽曲だけど(扉に愛してるって言わなきゃ殺すの歌詞をエピグラフであしらった同人誌を「コミティア」で見たことは一度ならず…笑)動画コメントにどなたか書いてらっしゃるように、
 【Cover MV】好き好き大好き - オーロ・クロニー(YouTube/外部リンクが開きます)
戸川純氏のオリジナルの頃には(まだ)この特異な世界をどう売り出していいか掴みかねていたのが「ヤンデレ」と言語化されネタ化された現在はじめて「適切に」描ききることが出来た観は確かにあるかも(もちろんそれで零れ落ちてしまったものはあるかも知れない。拾い上げるのは「零れた」と思った表現者の役割であろう)
オーロ・クロニーさんでは仲が良かったらしい七詩ムメイさん(卒業しちゃいましたね…T_T)に捧げたワン・ダイレクションの替え歌が好き。英語が分からなくても「あー何かすごくくだらないことしてる」と分かる可笑しさ、それでいて原曲とアレ?言ってること同じだ?となる愛らしさ。
 Kronii Sing "What Makes You Insecure" for Mumei(YouTube/外部リンクが開きます)
連呼されるinsecureが歌い手にまで伝染して「キミの髪が翻るのを見るとボクまで不安になるところ、たまんない。
(25.06.16追記)ちなみにクロニーさん、半年ほど前の日記(24.10.12)で紹介した「baby goat or matter baby」のジョークに引っかかって悶絶してる人です…と言いつつ逆に彼女の仕事?作品?workはこの三つくらいしか知らないので、世にいわゆる「強火のファン」とは正反対の弱火も弱火、よく存じ上げないが楽しそうでいてほしいと願うていどの「とろ火ファン」という概念を提唱したいところです。

(25.06.17)あれ?コンロの火つけっぱなし??(怖)…いや「素」で台所が暑いだけかハハハ…という時季が早くも到来しました。早くもって、もう6月下旬ですけどねハハハハ…

(25.06.18)イスラエルの蛮行や気候変動や(この国内での)排外主義のことなど山積してるのに巫山戯た話ばかりなのも遺憾なのだけど、道に迷って右往左往の果て「あ、この看板は見覚えがある(こっち方向で間違いなかった)」と見つけた・憶えてたのがベル○イユの豚なるレストランで、まあ忘れにくい店名だし方角は間違ってなかったけど、何か間違ってる気がする。
 真っ赤な地に貴族っぽい書体で「ベルサイユの豚」と書かれた看板の写真。
道に迷ってる間にとんかつ ○に、揚げる。なる別のお店も見かけて、この街(池袋)の人たちは豚を何だと思ってるのか。
 上:「とんかつ 君に、揚げる。」の看板写真。下:豚バラ肉とニラを炒めて卵黄をトッピング・ライスの上に盛りつけたキッチンABCのオリエンタルライス。お味噌汁もおいしい。
まあ豚だけど、どちらとも別の、ジュンク堂書店そばの洋食屋でオリエンタルライスなるものを食べました。何枚かある看板メニューの別メニュー「元祖ポークたれ焼き肉」、金沢(石川県)宇宙軒食堂の名物・とんバラ定食と同じオーラを感じるので、近いうち再訪して、遠い古都を思い出すヨスガにしたい。気候配慮した肉以外のタンパク源は自炊で追求するとして…(いちおう気にしてはいるのです)
(同日追記)んでジュンク堂から雑司が谷方面に少し歩いたところにあるタイ焼き屋の数量限定・チーズあんこタイ焼きを、やはり遠い豊橋の銘菓チーズあん巻きを思い出すヨスガにしたい。どこもかしこも遠いなあ。

(25.06.19)店頭スピーカーで小田和正がエンドレスに流れ看板の売り文句ジンギスカンしよ(ハート)分かる世代にはじわじわ来る横浜・伊勢佐木町の「東京ラムストーリー」は別の店に替わられたのを先日確認。いや2022年には開店を確認してるので、逆に健闘した部類でしょう。美味しかったのかも知れない(踏。ヒツジだけに。うっさいわ。)
 左:「羊と酒」と書かれた赤提灯に「ジンギスカンしよ(ハート)」の看板も派手派手しい「東京ラムストーリー」在りし日の姿。右:「日本一白米が合う 町焼肉ホルモン・たぬき」なる新店舗。
そして新店は羊からタヌキへ…ひょっとして化けた?あまり憶えのない「町焼肉なる新概念をシレッと標榜してるあたり、もしかして中の人は同じかも知れない。キライではないよ(下戸なのでコチラがお呼びじゃないけど)。

(25.06.21)トルコ料理って食べる機会あんまりないんだよね、気軽に行けそうなお店も(ダンスショーとか敷居が高すぎる)近場で思い当たらないし…などとテキトウなことを話していたら
 トルコ料理のイメージ?茄子や何かの煮込み・ヨーグルトをかけた何か・キャロットラペ・フライドチキン・串焼き肉・レモン的な使い方をするライム・サフランライスなど…
※横浜だと神奈川県庁の近くに昔からの小ぢんまりした食堂がある。
※そういや昨夏に金沢でバクラヴァとトルココーヒーのお店に行ったわ…
ケバブサンド、手軽なんじゃない?
ああそうか、ケバブサンド、トルコなの?まあトルコですよね?
 最後に盛られたフライドポテトが前面を覆ったケバブサンドの断面。
近所のスタンドでSサイズを持ち帰り。真ん中を割いて袋状にした薄切りのピタパンに千切りキャベツをワッと入れケチャップ・マスタード・オレンジ色のソース(オーロラソース?)をかけ回す。ケバブ肉を盛りつけてまたケチャップ・マスタード・ソース。最後にフライドポテトをワシャと載せて500円。高年齢にはけっこうな食べごたえ。これでS?ドSなのでは?これのMを頼むひと、ドMなんじゃない?
 そこそこ野菜(キャベツ)が取れるのも好いところ。塩味のヨーグルトドリンク「アイラン」を自宅で作って冷やしておけば、ちょっとした旅行気分を味わえるかも知れない。というより、もうとっくに「向こう」が「こっち」に来てるんですよね。

(25.06.22)
 可憐な紫ホタルブクロ(花)の写真を背景にロゴ「戦争反対」
(25.06.24追記)言葉が足りなかったので補う。「どっちもどっち」とか言いたいんじゃない。「アメリカは」理不尽な爆撃をやめろ。あと日本、便乗して軍備増強モードに入ろうとするなよ。

(25.06.24)Just because you're paranoid doesn't mean they aren't after you.(たとえお前がパラノイアでも、本当は監視されてないって理由にはならないぜ)というニルヴァーナの歌詞が、有名な小説『キャッチ22』からの引用だったと(別の本経由で)知る。
・1:25あたりから→Nirvana - Territorial Pissings(YouTube/外部リンクが開きます)
別の本経由で今ごろ知るということは、当然原典は未読なわけで、なのに「あのキャッチ22」とか「まさにキャッチ22な状況」とか言い出しかねない自分、ニルヴァーナ(とかジョイ・ディヴィジョンとか)ロクに聴いたこともないのにニルヴァーナやジョイ・ディヴィジョンのTシャツ着てる連中をとやかく言えませんな…(いや、ああいうTシャツ着てる人たちは皆ファン、もしくはTシャツがキッカケで聴いてみたくらいの義理はキチンと果たしてる人たちなの?ヴェルヴェット・アンダーグラウンドは?『エクソシスト』みんな観ててTシャツ着てていいくらいに好きなの?)←パラノイア的な詮索

(25.06.25)おいしいものに貴賤なし。これはこれで贅沢な夕餉。
 写真:納豆。豆カレー。お味噌汁(豆)。

(25.06.26/もしかしてスゴく初歩的な話してる)今夏、肉がほしい場面での代用として期待の大きかった車麩。食味・食感は申し分ないのだけれど(親子丼の替わりにすると優しくて好いお味)栄養面では重量の25%がタンパク質。おお、いいじゃないのと思ったのは一瞬で、おつゆを吸う前の車麩は一枚が約8gつまり2g…鶏卵が含むタンパク質は一個あたり6g・麦ごはん一膳(150g)約4.5g、ごはんにすら負けてる…
 車麩の玉子とじ丼と、小松菜と油揚のお味噌汁。
えっと…調べると鶏もも肉50g(タンパク質は4倍)の、カロリーは1/3ですので、ダイエットにはいいかも…

(25.06.28)防衛省がヨーロッパと共同開発しているらしい次期戦闘機に、前の戦争で零戦の後継機種に使われるはずだった「烈風」という名称を復活させたがってると知り、悪いが本当にゲンナリしている。育毛剤くらいにしときなさいよ…いや、育毛剤に戦闘機の名前(紫電改)とかつけちゃうセンスもどうかとは思うが…
(同日追記)烈風が実用化されていれば戦況だって…みたいなロマン(ファンタジイ)については・アメリカも性能面で優る後継機種を投入したろう的なこと以前に・どのみち勝てる戦争ではなかったし・勝っていい戦争ではなかったとしか言いようがない。実はこの最後の大前提(あれはやっていい戦争ではなかった)が防衛省に+この国の有権者の大半に、大前提として共有されてないことに静かな危惧を憶える。
(25.06.29追記)とはいえ、若い人は御存知ないと思うけど少なくとも昭和50年代の子どもたちはジャンケンのグーチョキパーをグー=軍艦・チョキ=朝鮮(もしくは沈没)・パー=ハワイと呼び変える遊びをしていたし、追いかけっこに水雷・駆逐(艦)・艦長とランクをつける遊びは小学校のレクリエーションで先生がおおっぴらに指導してもいた。ある意味で戦争はおおっぴらに「ネタ化」されていたし「あれはやっていい戦争ではなかった」も何もなかったというレイヤーは日本人の生活にずっと一枚あったのだと思う。ただまあ「そうはいっても現実として戦争はまずい」というレイヤーが建前としては上位にもあったはずで、その建前上の上位が通じなくなりつつあることを危惧してるのかも知れない。
同じく昭和50年代に中島みゆき氏はガラスの靴を女は隠して持っています 紙飛行機を男は隠して持っていますと歌ったけれど(「誘惑」)今となっては随分ティピカルな喩えだと揶揄するのは簡単だけれど、少なくとも「隠して持つ」ことが「たしなみ」だった紙飛行機をおおっぴらに振り回すことが恥ずかしくなくなった・それは(昭和50年代の次に来た)オタクの時代の勝利の、僕視点では「負の側面」になるのかも知れない―とくにオタク的なコンテンツを通してガラスの靴を「男も」隠し持ってると気づかされた僕の視点では。多分に「いい歳してやめろよ、子どもか」的な気持ちが「烈風」復活へのゲンナリ感の根っこにあるのかも知れない。中島違いで中島梓氏の、何度も引用したけれど「今後オタクがマジョリティになれば、子どもの柔軟さと大人の良識を兼ね備えた理想の人格が生まれるかも知れない。けれど子どものワガママと大人のズルさを兼ね備えた最悪の存在になるかも知れない」(大意)という予言/戒めは、僕の物事を判定するレイヤーのかなり上位にありつづけている。
(追々記)念のため、レイヤーってこういうもの(画像に移動します)過去の日記で(こちらよ)同じ場所に居てさえ人によって体験するものは違う=それはレイヤーが違うから的な話をしたけれど、レイヤーは一人ひとりの中にもあるのだろう。SNSでパレスチナやウクライナに連帯するアイコンを自分のアカウントに貼りつけながら、自国の排外主義には賛同ということも(腹立たしいけど)多々あって、たぶんこれも僕がSNSから撤退した理由の(別の)ひとつ。

(25.06.30)今年の半夏生は7/1ということで、先んじて冷凍だけどタコ焼きを確保。といっても地域によってネギを食べたり鯖を食べたり芋汁を食べたり様々みたいで、本来タコを食べるのは主に近畿一部の習慣だとか(さもありなん)。讃岐ではうどんを食べるそうな(さもありなん)。
 冷凍タコ焼きの写真。
てゆか今日6月末日は京都では「水無月」を食べる日なんですね。あれも風情があって素敵なお菓子。あらゆる場所のネギやうどんやタコや芋汁そのた諸々に、それらを愛でるひとたち・それを供するひとたちに、国籍とか性別とか関係なく幸あれ。また来月。


(c)舞村そうじ/RIMLAND ←2507  2505→  記事一覧  ホーム