記事:2026年3月 ←2604  2602→  記事一覧  ホーム 

地上には居られないほど〜シモーヌ・ヴェイユ『前キリスト教的直観』(26.03.08)

 今週の日記(週記)にはb>シモーヌ・ヴェイユ前キリスト教的直観 甦るギリシア』(原著1951年/今村純子訳・法政大学出版局2011年/外部リンクが開きます)の核心?に踏み込んだ記述があり、これから読むので先に内容を知りたくないひとは(後半に出てくるヤン・パトチカも)スキップ推奨です。まあ自分ごときの上っ面の理解で原典の汲み尽くせない興趣がそう削がれることもないと思いますが。そしてむしろ「なんだ、この程度の本なのか」と誤解され読まれなくなるほうが心配ですが。

    ***   ***   ***

 近年は夏目漱石や澁澤龍彦の漫画化を手がけて評価の高い近藤ようこ氏。自身も「最も好きな作品」と語る『水鏡綺譚』(→ちくま文庫2015年/外部リンクが開きます)は狼に育てられ「(良い)人間になること」を目指す少年ワタルと、記憶を失なった少女・鏡子(かがみこ)、二人の「まだ(もう)人間でない者たち」の旅路を描く傑作だ。先取りして結末を言ってしまえば、鏡子の記憶は戻り、ワタルもどうやら人として生きていけそうな見通しを得て終わるがゆえに、もう共に旅をつづける理由はなく袂を分かつのが(えーナイスカップルなのにと)喪失感きわまりない。けれど元々は未完で、人でない状態の鏡子を愛おしく思ってしまい「このままでは自分は当人のためにならない愛(執着)で鏡子をダメにしてしまう」とワタルが歯を食いしばる場面で中断されていた、十年くらい経って加筆され大団円を迎えるとは思わず「なんて悲しい話なんだ…」と読む当方も歯を食いしばっていた作品なので、完結はまことに喜ばしかったのだが。
 そんな鏡子の「人間でなくなってしまった」さまを雄弁に活写するエピソードは中盤あたりにある。あ、言い忘れていましたが物語の舞台は戦国時代の日本です。大河ドラマや網野善彦の世界。寄る辺ない主人公たち二人は行く先々で貧民救済の施しにあずかって旅を続けているのだが、他にも施しを求める人たちが列をなす中、ワタル・鏡子・それに通りすがりの男という三人でひとつの粟団子を施される。受け取った鏡子は団子を二つに割り、ワタルと通りすがりの男に渡すのだが、二つに割ってしまったもので自分の取り分がない。それじゃダメだろうとワタルにたしなめられつつ童女のようにポカンとする鏡子。それは微笑ましくも気高いように見えて、しかし記憶とともに自分が人間であることも忘れてしまった鏡子の悲劇でもあった。
 だが実は善意や施しとは、時に・しばしば「自分の取り分まで他人に分け与えてしまう」無私を、人に要求するものではないだろうか。端的に言えば、電車の中で人に座席を譲れば、自分は立つしかない。救世主と讃えられるイエスに、一人の青年が問う。どうすれば神の国に入ることができますか。イエス答えて「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい(中略)それから私に従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。(マタイによる福音書19.16・新共同訳)。盗賊に襲われ傷ついた旅人を救けた「善きサマリア人」も、旅人のために全財産を差し出したわけではないだろう。それに比べると苛烈に過ぎるイエスの教えだが、それですら「そのあと私についてきなさい」というからには命まで他人のために捨てろと言っているわけではない。
 ただしイエス自身は自分の命まで他人に分け与えてしまった。そしてイエスと同様に、自分の命まで他人に他人に分け与えてしまう人たちがいる。そのこと自体を責めているのではない。極限状況ではかかる事態もありうるだろう。だが(この国であまりに多くの人々が「天皇陛下のために」自ら命を投げ打ったように間違った対象に命を賭けてしまうのは別としても)人のために座席ばかりか命まで譲るのは、事実として、もう人であることを失なった状態なのだと鏡子は教えてくれる。だからこそ、それは人にとっては「極限状況」=人間である条件すら剥奪された状況なのだ、とも言える。
 ナザレのイエスは鏡子とは別の意味で人ではない(いや人でもあるんだけど)神の子であった。だから神としての彼は、己は命を投げ打ちながら(そして人間として「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」と苦悶しながら)、救いを求める人間の命までは奪わず「すべてを捨てて、そのうえで(残った命ひとつで)私に従え」と言ったのではなかったか。

      *     *     *
 昨年の読書旅行(今年1月の日記参照)から続いていたギリシャ悲劇『アンティゴネー』(しかしタイミングが取れず未読のまま)との縁。
 ジャック・デリダが先立つ『コロノスのオイディプス』で父オイディプスが死に場所を明かさない行方知れずとして最期を迎えてしまったため、娘として嘆き弔う喪の権利を奪われてしまったアンティゴネーの悲嘆を語り、ヴァージニア・ウルフは『アンティゴネー』で今度は造反者として埋葬を禁じられた兄の葬儀を遂行し、みずからも落命するアンティゴネーの悲劇をとおして(兄=自身にとっては甥の弔いを禁じた)テーバイのクレオン王を、女性の意志を抑圧する家父長制の権化として告発した。
 この流れで実はシモーヌ・ヴェイユ『前キリスト教的直観』(先月の日記参照)にもアンティゴネーが登場していた。自分としては、この順番で良かった。クレオンが国家の法(≒家父長制)を、アンティゴネーが愛や親族の・あるいは大地の法を代表するという、デリダやウルフも踏まえている読解を究めた結果、またもヴェイユは極限まで進んでしまうのだ。
 国の法に逆らった者の追悼を禁じる王クレオンに対し、ソフォクレスが描いたアンティゴネーはこう抗弁する。
「わたしは憎しみをわかち合うために生まれて来たのではありません。愛をわかち合うために生まれて来たのです」
「アンチゴネー
(中略)のこの最後の一文はすばらしい」とヴェイユは書く。だが続いて彼女はこうも書くのだ。「だが、クレオン(略)の言い返しはさらにいっそうすばらしい。」その台詞とはこうだ:
それならあの世に行くがよい。愛する必要があるならば、あの世の者どもを愛すればよかろう(強調は引用者)。
アンティゴネーが、というか人間が愛せるのは死者だけだと「この世界で愛することは、許されてはいない」とヴェイユは言う。なぜなら真実も真の愛も、この世の外にしかないからだ。神の統べる天上も、死者たちとともに神が住まう地下の冥府も、本質(もうひとつの世界)に変わりはない。だからアンティゴネーは(つまり人間は)死者しか愛せないのみならず、真に愛するためには自らも冥府に去らねばならない。それを冷徹にあばき、かえって姪を導くがゆえに、ヴェイユにとってクレオン王の死刑宣告は「すばらしい」ということ、なのだろうか。
 それはあまりに苛烈が過ぎる。だからこそ彼女の思想は自分(を含めた読者を)惹きつけるとはいえ。

 シモーヌ・ヴェイユの「悲劇的なほどの明晰さ」を最初に感じたのは、実際に彼女が女子高等中学(リセ)で講義した記録であるヴェーユの哲学講義(原著1951年/渡辺一民・川村孝則訳・ちくま学芸文庫1996年/外部リンクが開きます)でのことだったと思う。以前まんがにもしている話を(もう忘れられてるか知られてもいない可能性が高いので)再び蒸し返すと
 下辺に等距離の点ふたつを、両者の中点の上に三者が等距離となるよう三つめの点を置いた図像「これが何に見えますか?」を「この図を見て『この三角が何に見えるって?』というひとは、話をスムーズに進めてくれるとてもイイ人です」と指さす羊帽の女の子(ひつじちゃん)のイラスト。「なぜならここにあるのは単に『三つの点』で『三角』ではないから」(後述する自作まんが冊子『物語の話をします。』からの引用。)
それより以前から「人間は三つの点の間に勝手に線を引いて『三角形』を見る」というゲシュタルト心理学の発見を梃子に「物語とはバラバラの点(事物)のあいだに線を引き、星座をつくる営為ではないか」という観点で僕は自身の物語論をあたためはじめていた。だとすれば現実の世界において「人は平等だ」とか逆に「世界の中心で輝く日本」とか言うのも、自分にとっては物語だ。そして正三角形を上下さかさに(上に点がふたつ・下の真ん中に点をひとつ)すれば、それだけで人の顔に見える→かつて一世を風靡した「恐怖の心霊写真」が大概そうした誤認であったように、人は間違った線も引きうる等々。だがそれは措く。詳しくはこちらをどうぞ→電子書籍『物語の話をします』試し読みページ

(外部リンクが開きます)
 そこにも書いたとおり、それとほぼ同じことを人は二つの点の間に線を見てしまうよう呪われていると書いたのがヴェイユで、三つでも良かった点を二つという最小単位まで切り詰める徹底ぶりと、それを呪われていると呼ぶ彼女の悲劇的な明晰さに震撼させられた。
 同じく『物語の話をします』からの引用。「ちなみにこれ(点三つが三角に見える)を『人は二つの点の間に線を見てしまうよう呪われている』と喝破したのが、かの天才シモーヌ・ヴェイユで、三つでも良かった点を二つという最小単位まで切り詰める徹底ぶりと、それを『呪われている』と呼んでしまう彼女の悲劇的な知性についても別の場所で語るとして…」という文章に、ヴェイユ(1909-1943)の肖像を添えて
 邦題では「甦るギリシャ」と副題がついた『前キリスト教的直観』は(不勉強で詳らかではないが、たぶんアリストテレスとキリスト教の融合を図ったのだろう中世ヨーロッパのスコラ哲学、とは別の仕方で)アリストテレスを飛び越え、もっと以前のギリシャ哲学を後に出現したキリスト教の本質を予言する(古代ギリシャはキリストの出現で初めて成就した)ものとして、両者を力業で結びつける試みだ。
 具体的にはプラトンのイデア論は「真実はこの世の外にしかない」という上述した『アンティゴネー』読解にも見られる思想を語り
 イラスト。「最新の宇宙論の「吾々が知覚する三次元(+時間で四次元)の宇宙は、より高次元な宇宙のホログラムにすぎない」って説、真実の世界はこの世の外にあって、吾々が見る世界はその影絵にすぎないってプラトンのイデア論の最新版とも言えませんかホーキング先生…」と話しかける舞村さん(仮名)と「それはどうかな」と応じるスティーヴン・ホーキング、横で「…」と見ている『物語の話をします』のムスリマの女の子。
同じ根を「持たない」数字どうしを結びつけ調和させる(「似ているものや同じ根をもつものに、調和は必要ではない」)幾何学あるいは関数というピタゴラス派の発見を、人と人・人と神・人と「この世界にはない」真実を媒介するイエスの存在に結びつける。
 ちなみに、この「媒介者としてのイエス」という着想は、アフリカの神話伝承からアメリカでのブードゥー信仰・ひいては「悪魔に魂を売ったギタリスト」ロバート・ジョンソンの伝説まで連なる十字路(クロスロード)の神話的位置づけにもつながるものだ。そのあたりを山口昌男『アフリカの神話的世界』に基づき詳らかにした2009年11月の日記サルベージし忘れていたので急遽サルベージしました(ダメな子…)。こうしてアフリカにも遡る・波及できる哲学が古代ギリシャまでしか掘り下げられず、西洋の哲学や現代思想においてまでギリシャがすべての起源のように扱われてしまうことへの不満・歯がゆさについては、別の場所で小出しにしているし、今後も小出しにしていくでしょう。

 けれど話の核心はやはり、そうして「媒介者である神の子イエス」を古代ギリシャと(力業的に)結びつけたヴェイユの、人でない半神であるがゆえに成しえた(と僕には思われる)イエスの十字架での死を、人もまたなぞるべきだ・なぞるしかないという結論だ。細かい論証は端折る。神も真実も愛も、この世の外にあるとするヴェイユの推論は、力が支配する現世では認められない真実や愛のためには(アンティゴネーがしたのと同様)人は命を投げ打つしかないという結論に至る。そして言うのだ、「犠牲は人間の唯一の目的であり(中略)人間がその凡庸さと傲慢さにもかかわらずその存在を許されているのは(中略)神への愛のために、人間がその存在を放棄できるようにするためである」
 大昔に大学受験のために紐解いて、結局あまり身につかなかった英文法の例文集に「二人の恋は地上で成就するには純粋すぎた」という言い回しがあった。身につかなかった証拠に英文でどう言うのかは全く憶えていないのだけれど、この言い回しが実は、ただ単に「二人の恋は成就しなかった」心変わりだろうがケンカ別れだろうが、恋人どうしが破局に至ったとき周囲が「ああ、地上で成就するには純粋すぎたんだね」と話をボカすためのフレーズだと知り、なんかちょっぴりガッカリした記憶がある(身についてないので記憶違いかも知れません)。しかしこの「現世には存在できないほど純粋」という言いようは長く自分の脳裏に刻まれ、たとえば今こうしてヴェイユの殉教的な思想を垣間みた反応として自ずと出てしまう。
 たしかに理屈として間違ってはいない。他の者が妥協してウヤムヤにしてしまう極限まで突き詰めた論理・倫理は、自分を(人を)強く惹きつける。だがその純粋さは人が現世に生き、現世を・現世で愛することを洞窟に映った影(偽り)として否定せずにはいられない、惹かれて近寄る者をそのままで焼き尽くしてしまう炎のような「正しさ」ではないか。

      *     *     *
 デリダ『歓待について』で紹介されていたチェコの哲学者ヤン・パトチカ(1907〜77)もまた、ヴェイユと同様の慄きを読み手に与える思想家だった。
 その主著歴史哲学についての異端的論考(原著1975年/石川達夫訳・みすず書房2007年/外部リンクが開きます)はフッサール・ハイデガーの批判的継承からヨーロッパの哲学史を独自の視点で凝縮した一冊。読むと(こんな形で西洋哲学史を要約できるんだ)と感心しきり。あらためて、カフカがおりチャペックがおり、ムカジョフスキーのチェコ構造美学論(24年12月の日記参照)があり、美術ではミュシャがおりと…あらためてチェコってヨーロッパ文化の奥の院・裏の首都くらい存在感あるんじゃないか…て24年12月にも似たようなこと書いてますが。少し抜粋すると
「魂の配慮は(中略)ローマ帝国において(略)法的な状況(法的な公正さ)を求める努力という様相を帯びる」
すなわち「自由はもはや、自分と平等な者たち(他の市民たち)との関係によってではなくて、超越的な〈善〉との関係によって規定される」
そのような形(正義や公正が人間同士ではなく神=超越的な善のための義務として遂行されるという形)で「魂の配慮は、ヨーロッパを創り出したものなのである」
しかし「西ヨーロッパの生活における大きな転換期は、十六世紀であるように思われる(中略)魂の配慮、在ることの配慮ではなくて、持つことの配慮、外的な世界とその支配についての配慮が、優勢になる」
いいでしょお?
生はもういいかげんに喜んで生きたいのだが(強調は引用者)、しかし、戦争を生み出すのはまさに生自体なのであり、生は自らの手段によって戦争から身をふりほどくことができない(中略)我々が〈力〉を支配して〈力〉の助けを借りた安全保障を期待すると思っている所で、我々は実際には(略)狡猾に形を変えても終わっていない戦争に負けているのである。(略)このような見通しの終わりは、どこにあるのであろうか?」
という慨嘆には、ヴェイユの「力」への軽蔑に通じるものがある。
 しかしながら「真理を持つこと」より「真理を探求すること」に重きをおいたことでソクラテスは「恐らく最大の哲学者ではないにしても最も真の哲学者である」としたパトチカもまた、ヴェイユとは別のかたちで「滅私を通じてのみ到達できる真実」という発想に与しているように取れなくもない。二つの世界大戦に立ち会った彼は、前線でぶつかる兵士たちに敵味方を超えた共感・魂の震えを見出していると読めてしまう―そして僕は、そのような形での戦争の称揚(とも取れかねない主張)に危うさを憶えてしまう。
 実際ヤン・パトチカは70歳にもなって、後に民主化チェコの初代大統領となったハヴェル(ああハヴェルも読まなきゃなあ)に協力し、まだ全体主義まっただなかの状況下で民主化を訴える「憲章77」に協力し、苛酷な訊問がもとで落命してしまう。ヴェイユと同様、それが自身の哲学や善にたいし忠実だった・誠実だった結果なのは分かる。ただまあ、真正直に究めたら本人が命を投げ打たざるを得ない哲学って…「何だ」とか「それでいいのか」とかは言えない。言えないけど、その苛烈さにたじろぐ自分がいる。

 ちなみにデリダ『歓待について』の共著者であったアンヌ・デュフールマンテルも、ちくま学芸文庫の訳者あとがきによれば2017年「溺れかけた子どもを助けようとしてみずからが溺れ死去」したという。日本でも同様の亡くなりかたをした漫画家のかたがおられましたね…自作のキャラに安倍政権批判を言わせるイラストを投稿し「政治を持ち込むな」と批判されたりもしていたのではなかったか。それはまったく正しい・「溺れかけた人を助けようとするのは危険」といった常識とは別の次元で正しいとしか言いようがない行為だと「は」思うのです。けれど、それだけが哲学か、「善も愛もこの世の外にしかない」以外の善や愛はまやかしなのかと思う心情も(まだ)大事にしたい。
 ヴェイユが選んだ衰弱死という末期より、生きて残した思索が後の人々に残した麦(一粒の麦もし死なずば…の麦ですよ)として劣るかと言えばそんなことはないと思うし、亡くなった漫画家さん(ものすごい商業的成功を収められた方だった)もそうでしょう。
 こんなあたりで悶々うろうろとしながら、日々電車で座席を譲っております。

      *     *     *
 ヤン・パトチカについて、もう少し書きたいことがあるのだけれど(本サイトあるある=実は今週の日記はその「マクラ」で納まるはずだった)来週は確定申告の〆切があるので少し先になるかも知れません…

    ***   ***   ***
(追記)おおむね奇想に溢れ、おおむねサッパリ分からない現代宇宙論のなかでも、きわめつけの奇想かつ最強に意味不明なホログラム宇宙論。トマス・ハートッホとの共同論文に、より分量の多い解説を加えたスティーヴン・ホーキング(およびハートッホ)ホーキング、最後に語る 多宇宙をめぐる博士のメッセージ』(原著2018年/佐藤勝彦・白水徹也訳と解説・早川書房2018年/外部リンクが開きます)を読むと、相変わらずサッパリ分からないんだけど「ブラックホールが有する情報は(三次元の)内部ではなく(曲がってるけど面としては)二次元の表面にすべて現われている」という話が、漠然と(つまりホログラム宇宙論も同じようなもの?)とイメージを描く手助けになった感じ。この分野には特別に不案内なので、間違ってる可能性も限りなく無視できないのですが。

仕事ぎらいの哲学〜ヤン・パトチカ『歴史哲学についての異端的論考』(26.03.22)

 もうすぐ四月。新入社員に贈るにには一般的に不適切とは思うが、数十年前、他ならぬ僕自身が貰った、こんな助言がある。
どんな仕事も、やってみたら


…つまらないものだよ

 いや普通は逆、面白いものだよとか言うもんじゃないのかと思ったりもしたが、人を見ての助言だったのかも知れない。その後「まあ原則つまらないものだし」で乗り切れる時もあったし、乗り切れない時もあった。
 というわけで今週の日記(週記)
 まんが「フルーティーって要は酸味ですよね?」1:長い黒髪を後ろで持ち上げるようにクリップ留めして喫茶店のお仕着せを着た給仕の女性(マスク着用・お盆を持ってカトレアの花をしょってる)、ふと目をやると 2:ゆるふわ髪に眼鏡の女性客がメニューを睨んでいる 3:「ご注文でお悩みですか?」と声をかけると「あっ…」 4:「あの私、酸味が苦手なんですけど、そんな人でも飲みやすい酸味とか、本当に美味しい酸味を教えてあげますよとか、そういうのはいいんです(やめて!)」という女性客に「苦労されているんですね…」と苦笑する給仕さん「マンデリンの深煎りをお薦めしました」
(上の画像かココをクリックで少し大きめの画像が開きます)

 「そんなあなたも仕事が楽しくなる哲学」みたいな話はしません。するもんか。
 どうしても働くのが楽しいとは思えない、この気持ちを怠け心とかでなく正当化したい、そんな人と一緒に頑張ろう・頑張って仕事をイヤがろうがテーマです。
 あと逆に、趣味や娯楽で時々「自発的に楽しんでるはずなのに、なんでこんなにしんどいんだ(これじゃまるで仕事じゃないか)」みたいな状態に陥る人の、考えるヒントになるかも知れません。なるといいですね。
 イラスト。「推しがよすぎてしんどい」と「陸王さま」「LOVE」のうちわを手にして号泣するブーケ嬢と、推しの陸王。あ、その「しんどい」じゃなくてね…ともあれナンバーワン戦隊ゴジュウジャー完走おめでとうございました。
      *     *     *

基本的に仕事は嬉しくない(要素も多分に含む)と認めること
 映画監督の伊丹万作(1900〜46)は「人生の意義は」と問われ「遊ぶこと」と即答したらしい。
 「人生の意義は働くことではないのですか」と問うた取材記者に、さらに万作答えていわく「私はあなたのようには思わないのですが、なんなら炭坑の奥底で働いている人にも訊いてみたら如何ですか」
 これを少々厳密に言い直すと、次のようになる:
「十二時間の機織り・紡績・穿孔・廻転・建築・シャベル仕事・石割が、彼の生命の発現だ、彼の生活だといえるであろうか?(中略)その逆である。(略)生活は、彼にとっては、この活動が終わったときに、食卓で、飲食店の腰掛けで、寝床で、はじまる
 (カール・マルクス『賃労働と資本』岩波文庫/強調は引用者)(2014年6月の日記参照)
 個人的につけくわえるならば、人生の意義は遊ぶこと・私の生活は趣味がメインで、給料をいただく仕事はあくまで(趣味を含めた)生活費のためと割り切っている人も、こと正規雇用においては「なに言ってんだ、人生の意義は働くことだ」と全人格的な参与を強要されがちと思う。子どもの頃から将来の夢=就く職業であり、勤務が終わったあとの「食卓で、飲食店の腰掛けで」話すこと考えることは仕事のこと、仕事が趣味で生き甲斐という人は少なくない。伊丹万作に「更問い」した記者もそうだったのかも知れない。
 それはそれで、幸福なことだ。
 だが、そうではない人に向けた話を今はしている。

労働は罰かも知れないということ
 ミシェル・フーコー(1926〜84)は歴史の発展が必然的に社会革命に帰結するという信念を拒絶した点で、たしかに非マルクス「主義」的だったけれど、マルクスと同様に、資本主義の成立が社会や人間を大きく変えたと認識して(も)いたようだ。
 彼(フーコー)が着目したのは18世紀、工場労働の普及により、労働の価値は(農場で収穫した農産物や、マニュファクチュアで紡いだリンネルの量ではなく)労働者の数×労働時間で量られるようになったという変化だ。
 ※ちなみにシルヴィア・フェデリーチ「資本主義によって発展した最初の機械とは、蒸気機関でも時計でもなく人間の身体だった」その変化はエンクロージャーにより農村の自律が破壊された16世紀には始まっていた・それを18世紀だと捉えていた「フーコーは甘い」と批判している。23年10月の日記参照。
 ともあれフーコーに話を戻すと、労働の価値が(収穫物でなく)労働時間で量られるようになると、刑罰の形態まで変わる。それまで罪人を追放したり、八つ裂きにしたり、あるいは罰金を科したりだった刑罰が、量刑(期間)を確定したうえでの禁固・懲役に変わる。つまり肉体的苦痛(八つ裂き等)や経済的な償い(罰金等)ではなく自由な時間を奪うことが刑罰になった。
 だもんで、これを逆転する。工場で働いて労賃を稼げもしただろう時間を、監獄のなかでむざむざ奪われる刑→転じて、時間給で労賃を稼ぐ仕事も「時間を奪う」罰みたいなものでは。本サイトが提示する、もっとも仕事向けでない人のための労働観(その1)はこうだ:なるほど、これは人生の時間を奪う刑に違いない
 では何の罪に対する刑罰なのか。
 通勤電車で運ばれる人々(吾々)を鎖に繋がれた囚人になぞらえたザ・プリテンダーズ「チェイン・ギャング」(考えてみれば正に「労働=刑罰」観の歌だった)は「愛しあうことが罪だった」と歌っている。ひゃー、ロマンチック!しかし「私たちを引き裂いたかどで、いつかみんな滅びるだろう(They'll fall to ruin one day for making us apart)」という呪詛はクリッシー・ハインドの歌唱だとなおさら胸を打つ(16年9月の日記参照)
 そこまでロマンチックになれない吾々は「まあ反社会の罪だろうな」と思うのが妥当ではないだろうか。だって罰を受けてるのに社会に反抗してないんじゃ割にあわないよ…というのは本末転倒な冗談として「仕事は生き甲斐」「労働は楽しい」と思えない時点で、すでに反社会的・反国家的とは言えるだろう。
 オー・ヘンリーの短篇「警官と賛美歌」は厳しい年の暮れ、なんとか刑務所に収監され飢えと寒さをしのごうと目論む無職男が、さまざまな犯罪を試みては失敗→教会の外で漏れ聞いた賛美歌に改心させられ「やっぱり働いてマトモに生きよう」と決意したところで警官に呼び止められ「何をしてるんだね」「見りゃ分かるでしょう何もしてないんでさ」→浮浪罪で収監される皮肉な話だった。これを中学生の頃、英語の授業で読んだ時は意味が今ひとつ理解できなかった。「教会に盗みに入るつもりだな」と誤解されたとかじゃないの?そうではなく、賃労働に就かずフラフラしていること自体が犯罪という時代があったのだ。フーコーも書いている。監獄に収監されたのは働かない人たちだったと。フェデリーチも書いている。働かないことは反抗であり、群を為して移動し、そして働かなかったと。

これはSNS(マストドン)で読んだ受け売りだけど
 言われてみるとたしかに「勤怠」ってなんだよって思いますよね。なんだよ「怠」って

そもそも労働は罰であるということ
 ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論IV』ゲオルグ・ジンメルの次のような指摘を引用している:
(肉体労働にあっても)その代価が求められているのは結局はむしろ労働の内面や、骨折りを厭う気持ちや、意志力をふりしぼることに対してである」(『貨幣の哲学』1900年/強調は本サイト)。
ベンヤミン自身はジンメルのこの見解を「プチブル的」と斥けているのだけれど(そしてベンヤミン自身は『ボードレール』で「読者は詩人の汗を愛飲する」と書いていたように思う)、労働の労賃は骨折り自体ではなく骨折りを厭う気持ちへの報酬だというのが今回の文脈では興味ぶかい。
 ものすごく基本的な、そして仕事向けでない人のための労働観(そのゼロ)として、たとえば美輪明宏が説く「仕事の報酬=我慢代」(『あゝ正負の法則』)という、これも仕事生き甲斐説のひとには怒られそうな価値観がある。
 先々週の日記(週記)で少しだけ紹介したチェコの哲学者ヤン・パトチカ。70歳にもなってハヴェルなど若い仲間を助けて当時の共産党政府に刃向かい落命するという、まるでフーコーが(盟友ドゥルーズに絶賛された)エッセイ「汚辱に塗れた人々の生」で書いた「結局のところ、私たちの社会の根本的な特性の一つは、運命が権力との関係、権力のとの戦い、あるいはそれに抗する戦いという形を取るということではないだろうか」(『フーコー・コレクション6 生政治・統治』ちくま学芸文庫)を体現するような末期を遂げたパトチカは、その著書『歴史哲学における異端的論考』で、おそるべき事実を告げる。そもそも旧約聖書の創世記が書いているではないか、知恵の木の実を食べた原罪の罰に、人はエデンの園から追放され「生涯食べ物を得ようと苦しむ」「額に汗を流してパンを得る」(新共同訳)を義務づけられたと。あらゆる労働讃歌に反して(聖書の)神が言っているのだ「罰として労働を与えた」と。はい解散。
 …いや、まだ解散は出来ないだろう。もう少し引用と思索を続けます。
 詳細に見れば原罪とは、神に逆らって「禁じられていたリンゴの実を食べた」ことではなく「神に逆らって」自分の意志を持ったこと自体である(あくまで聖書の話)。ダメ押しとして、その実の効用は「善悪を知る」善悪を自分で判断する判断力を持つことであった。アリストテレスが言うように、動物は本能として生存や生存のための捕食に従事するが「何のために生きてるんだ」といった自意識はない(とされる)。自意識を有するのは、リンゴの実を食べた人間だけだ。
 けれど人間は自意識をもった途端、その自意識で(動物と同じように)生存や生存のための食糧調達を考えなければならない。せっかく得た自発性=自由を労働にしか使えないのだ
 人はエデンの園の安逸が素晴らしいものだと知るには知恵の実をかじる必要があったが、かじった途端あれは素晴らしいもの「だった」と失なわれた形でしか、それを知ることが許されなかった。まして自由については、そういうものがあると知ったとたん「それは手に入らない」と知ったことになる。知恵のかなしみ。

遊びすら労苦かも知れないこと
 いちおう言っておくと「罰としての生であり労働」は世界のあくまで一部(ただし西洋的価値観という現代できわめて強力な一部)の価値観で、それとは別の脱出口を探すことが、社会に逆らい労働は楽しくないと考える者たちの使命となるだろう。えー結局「使命」なのとボヤいてはいけない。全力で労働を厭うのだ。
 人は自発性を知った途端その自発性を生存(労働)に全振りしなければならない、だから労働はつらいというパトチカのテーゼ(あるいはパトチカへの言いがかり)は「どうして遊びまでしんどくなるのか」という派生的な問いに答える手がかりになるかも知れない。ならないかも知れない。
 台湾文学コレクション1 近未来短篇集(早川書房2024年/外部リンクが開きます)を読んで、地球がまるごと流浪したり(未読)都市まるごと何層ものレイヤーを物理的に入れ替えたりとスケールが大きな大陸(中華人民共和国)のSFと比べ、台湾のそれがAIやバーチャルリアリティなどの導入で変わる個々人の自意識のような(切実ではあるが)小ぢんまりした物語に収束しがちなのは小さな島国という事情のせいだろうか―などと一般化するのは危険だが(でも伊格言『グラウンド・ゼロ 台湾第四原発事故』―2018年9月の日記参照―も日本の3.11を念頭においた架空の原発事故をテーマにしながらも、事故で記憶を失なった主人公の自分探しが主軸であったように思われます…)
 収録作のひとつ・林新恵の短篇「ホテル・カリフォルニア」も、そうした傾向が強く出た一作だ。イーグルスの同名曲を思わせる倦怠感と「チェックアウトしても去ることは出来ない」という有名な歌詞そのままに、ヴァーチャル世界に閉じこめられた主人公(自覚あり)が興味ぶかい。もしかしたら、外の現実世界はこんなだったのだろうとAIが分からぬなりに推定したのかも知れない、主人公が起きてから寝るまで従事する「仕事」があって、それは画面の中のブロックを動かしては積み上げて消す「テトリス」だか「なんとかマッチ」みたいな「作業ゲー(ゲーム)」と判別がつかないのだ。
 またも叱られそうな説ではございますが、仕事向けでない人のための労働観(その2)として、特に事務系の反復作業に従事している人は、書類を開く→処理する→しかるべく保管する作業の繰り返しが「これでは作業ゲーと変わらんな」と思うことは多少あるのではなかろうか。
 逆に言うと(ものすごく醒めた目で見ると)吾々があんなに夢中でのめりこんでるゲームの数々も「報酬もないのに仕事と同じことをしている」営為に見えなくもない。実際「ノルマ」があり「スキル」を駆使して「ゲージ」を上げていく「作業」は、限りなく「仕事」に近い(かも知れない)。いや、ペースを守って同人誌即売会のための漫画を描きあげるのも、綿密に計画を立てて旅行を「楽しむ」のも、気がつけば作業=仕事と同じメソッドで行使されている・違うのは報酬があるかないかだけ、そう考えて吾に返り「スン…」となることも出来る。
 ましてある種の作業ゲーは報酬がある「ポイ活」だったりする(それらの実体はクリア後に表示される動画広告を延々眺めることへの報酬だったりするのだが)。同人誌は儲け度外視の「持ち出し」に終わる人も多いだろうが「稼ぎ」を得ている人も少なくないだろう。今のようなデジタルゲームが普及する前に日本人の娯楽の代表格だったパチンコを「端から見ると終業後にまで機械を操作して、別の仕事をしているようだ」と評したのは、ロラン・バルトの『表徴の帝国』だったろうか、ヴィム・ヴェンダースの映画『東京画』だったろうか。

労働と仕事は別かも知れないこと
 イタリアの碩学ジョルジョ・アガンベンはその著作身体の使用(原著2014年/上村忠男訳・みすず書房2016年/外部リンクが開きます)でハンナ・アーレントの議論を踏まえ「そもそも古代ギリシャ・ローマの語彙として労働とは奴隷の労働をさす言葉だった(市民のすることじゃなかった)」という身もフタもない確認をしている。
 諸説あるけれどパトチカと同じチェコ(チェコ・スロバキア)の作家カレル・チャペックの造語になる「ロボット(robot)」の語源はチェコ語の「強制労働(robota)」およびスロバキア御の「労働者(robotonik)」であるらしい。前者robotaには、さらに古代教会スラブ語で「隷属」という意味もあるらしく(Wikipedia調べ・外部リンクが開きます)、まあ「robotの語源は"万能"です」と唱える向きもあるようだけど(←これが諸説)、隷属やロボットであることが「労働」と直結しているのは面白い、いや笑えはしないが。こうした語源を踏まえて『機動警察パトレイバー』では同じ「労働」を語源とする「レイバー(labor)」をロボットに替わる呼称にしていた。
 ハンナ・アーレントに話を戻すと、アガンベンが要約したとおり彼女(の研究)においても労働(labor)は元々奴隷のそれなのだが、それじゃ人生絶望しかないじゃないかと言えばそうでもなくて、アーレント『人間の条件』においては労働とは別の「仕事(work)」というカテゴリがある。同じworkという言葉が「成果物」「作品」をさすように(オタクに親和性の高い例だとイラストレーション・ワークスとか言うでしょ)「仕事(work)」は形に残るアウトプットのあるもので、本来「労働(labor)」は形の残らない家事労働(古代ローマではまさに奴隷の仕事―2010年5月の日記参照)を言ったらしい。
 では奴隷と聞いて吾々が思い浮かべちな(家事奴隷ではなく)綿花プランテーションの黒人奴隷が強制されたような生産に関わる工程は成果品が残るから「仕事(work)」か。そうではないだろう。作るそばから取り上げられる・もっと言えば生産工程も作業内容も自分でコントロールできない綿花奴隷たちの業務は・もっといえば現代アパレルの衣料品の縫製を実作業として担っている零細労働者の業務も・同じくらい薄給と言われる末端アニメーターの業務も、やはりロボットのような隷属という意味で労働(labor)だろう。それを成果・自分の仕事(work)と誇れるのは、綿花を「吾が農園」の製品として出荷できる農園主やファッションショーで「私の仕事(work)です」とお立ち台に立つデザイナー、「作家」として遇されるアニメーションの監督だけだろう。
※いや、アニメーションの制作に至ってはプロデューサーでさえ、スポンサーの意向の「奴隷」に過ぎないこともある―何度も蒸し返している24年4月の日記参照。
 そしてこれまた何度も何度も蒸し返しているヴェイユ『自由と社会的抑圧』に言わせれば、自分の労働が流れ作業の一部分に過ぎず、「成果」を生みだす全工程に関与しコントロールできない限り、個々人にとって労働は苦役でしかない。
 そこで今回の日記(週記)がようやく提示できる前向きな(?)提案は「自分で起業するのが一番じゃない?」である。小商いのすすめ。たしかに自分が立ち上げた醸造所を「有頂天醸造」と名づけたり、大量生産品の「一生懸命営業中」みたいな看板の代わりに手書きで「やってます」と書きつけた紙で済ませたりするのは、いかにも自由で楽しそうだ。
 左:上諏訪駅周辺・有頂天醸造を示した地図。右:「本日はヤボ用につきましてお休みします」とコピー紙に書いて貼りつけた居酒屋の入口(撮影地・横浜)。
ただしコレとて、楽しいのは創業者であるうちだろう。日々の作業が旧約聖書的な労苦でないかという問題は別にしても、事業がひとりで賄いきれなくなり、たとえば帳簿を税理士に委ねるなどはともかく、従業員を雇って使役するようになれば、個々の従業員にとってソレはもう工程の一部のみを命じられたままにこなす「労働(labor)」に他ならない。
 創業者になって人を使役し支配するのが楽しいんだよ、みたいな話は今回もっとも唾棄すべきなので捨象する。
 逆に漫画家のような個人事業主ですら、それが商業出版となり編集者や出版社にある程度コントロールを奪われると「仕事(work)」の喜びは希薄になる。酷い(ひどい)編集者のせいで作家としての幸福を断たれたという酷い(むごい)話もネットには散見される。
 まして支配される労働者(robotonik)でありながら自分の業務を仕事(work)のように思え・経営者マインドで自発的な創意工夫を成果(work)として献上しろという社員教育・まして零細労働者に強要される個人事業主化などは、成果はよこさず隷従を強化する、大いなる詐術だろう。喜んで「仕事で自己実現」をめざす人もいるのだろうが、それに限界を感じた人を想定して今回の日記(週記)は書いている。
 冒頭のマルクスに話を戻せば、かの『資本論』(未読)は、自分たちの生活の範囲内で作って使うぶんには使用価値のみ問われていればよかった布や衣料などの成果品は、市場に出されるや商品として買ってもらえるか・もらえないかという「命がけの跳躍」をしなければならないと説いた(らしい)(未読)。そこらで自分の労働条件・いくら貰えるかと夢中で話している人たち・そんな人たちを焚きつける転職案内の広告など、あるいは「チャンネル登録・高評価をよろしくね」と売りこむことに余念がない個人動画主(いわゆるYouTuber)を見ると、自分を命がけで商品化しようとする味気なさに時々感じ入ったりしてしまう―だったらどうしろと言うのか、と問われれば現状では答えようがないのだが。

 そこで急遽、今回の日記(週記)の結論ではないがオチに入る。
 ハンナ・アーレント『人間の条件』の分類は(奴隷としての)労働・(事業主としての)仕事のほかに、もうひとつのカテゴリを設けている―公共・政治と言われる分野での責務(あるいは責務を負う権利)の行使がそれだ。
 己のために利権を回すとか、そうゆう日本人が「政治」と考えているものとは別の、自分だけの利益ではないインフラの整備など公共の利益に関わる責務を果たす権利・義務は、古代ギリシャやローマでは市民だけに認められたもので(奴隷や女性には政治に参画する「権利」がない)その権利は兵卒として戦場で自らの命を危険にさらすことと不可分であったというアガンベン的(?)な由来譚は一旦措こう。
 多くの人が言っていて・僕は松岡正剛氏の文章で知ったのだけど、日本だと「カセギ」と「ツトメ」という分類があったらしい。「カセギ」はその名のとおり生活の資を稼ぐこと。それに対して「ツトメ」は、たとえば町火消し(消防団)に加わるとか御隠居として若い衆に助言をするなどの社会的責務を言ったらしい。
 こうした「ツトメ」も、ともすれば国家への奉仕みたいな強要に簒奪されかねない危険があることは踏まえたうえで、ここまでつきあうくらい暇で物好き(いつもすみませんねえ)・かつ「労働がつらい」のみならず・趣味や消費ですら「カセギ」や「成果」を強要されてる気がして息が詰まってる人に、それとは違う「ツトメ」という別のカテゴリもあると。
 それは面倒な責務の上積みかも知れないし、なんらかの脱出口かも知れない。脱出口でもあるといいですね。

    ***   ***   ***
【追記】なんで今回いきなり漫画かというと、精神修養のために入手した中国の古典『菜根譚』(岩波文庫)をパラパラめくっていたら「人心に一部の真文章あれども、都(すべ)てに残編断簡に封錮し了らるる(人間の心には、一冊のりっぱな書物が備わっているのに、古書の散り残りや切れ切れに、全く閉じこめられてしまっている)」という一節が目に入り、うわー図星=他人(ひと)が書いた本の引用や紹介ばかりしてる自分みたいだ、しかし自分の中に(それらを必要としない)一冊の書物なんてあったっけ→立派かは知らんけど借り物でない創作があるやんと久しぶりにペンを入れたくなった次第。あと見てのとおり今回の日記(週記)と内容(レトリック)がかぶるため、いま描いておかないと「前に文章で同じ言い回ししたからボツ」となり勿体ないと思いましたゆえ…
 そんなわけで今週は頑張りすぎたため、来週はお休み。月末か月はじめに小ネタのサルベージをします。

【26.03.29追々記】途中うろ憶えでベンヤミンの(ボードレール論にあった)言葉として「読者は詩人の汗を愛飲する」という一節を引いたけれど、やっぱりうろ憶えでした。大塚の宇野書店に当面行く機会がなさそうなので、お土産で買った『パサージュ論2』(岩波文庫)が一冊ほぼボードレール論のための覚書き集で
 「ベンヤミンの歴史哲学はボードレールが試みた『現代性』(モデルニテ)の探究とである」と帯文に銘打った『パサージュ論2』の書影と、短い断章が並ぶ本文の写真にキャプション:『パサージュ論』、前は「読む19世紀パリ滞在」的に書いたけど、短い断章が延々続くのはSNS世代フレンドリーでもあるかも。
その断章のひとつにボードレール自身の言葉として、二流の作品でも作者の「意志」が「一つの個性を与えるに与えるに足る」「意志とは、よほど立派で、常に実り多い能力であるに違いない」…どうやら皮肉なのだった。作品じたいではなく作者当人への(しばしば下世話な)人間的興味=ヒューマン・インタレストがベストセラーを生むというのは「そういう時代(タレントの書いた小説が売れるとか)」が日本で本格化した1980年代に中島梓氏が指摘(批判)していたように思う(←本当は確信あるけど今が今なので少し謙虚になっている)。まあボードレールはそこまで踏みこんでるわけじゃないと思うけど、
作者がこんなに・こんなふうに頑張って作品を作り遂げたと勘繰るのは批評・あるいは単にそこまでいかない「観賞」でもかなりの部分を有する要素ではあるまいか。むろん努力が透けて見えるのは浅ましくていけない・天の衣に縫い目がないように「なんにも努力なんてしてませんよー私のはぜんぶ才能ですからー」みたいな顔でシレッとすごいことしなさいよという意見も世の中にはある。つまりいつもどおり物語の話をしています。自分がうろ憶えていたボードレールの言葉は、正しくはこうでした:見る者は努力を味わい、眼は汗を飲む

小ネタ拾遺・3月(26.04.01)

(26.03.01)シェリー・カリー(Vo)の下着姿と「チチチチチチチ、チェリー・ボム!」という代表曲でイロモノ・キワモノ扱いされてるかも知れないザ・ランナウェイズ「たぶん舞村さん(仮名)は好きだと思う」と譲ってもらったファースト・アルバムはなるほど極めて真っ当な(早すぎた?)ガールズ・バンドの先駆者だと分かる佳品だった。
5歳にして退屈に絶望しきっていた少女がラジオから流れてきた曲にぶっ飛んだ・たまらず踊りだした彼女はそう、ロックン・ロールに人生を救われたのさ―と歌うザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンドRock & Roll」のカヴァーは、原曲がヴェルヴェッツの本拠地だった「NYの」ラジオ局(New York station)と歌ってるのに対し、自分たちの本拠地である「ロサンゼルスの」ラジオ局(LA station)と歌い替えているのが「らしくて」泣かせるのでした。
 
 ランナウェイズの解散後、リーダー格だったソングライターのジョーン・ジェット(g。ちなみにリードギターのリタ・フォードもソロで成功しています)は自分名義のバンドJoan Jett & the Blackheartsで、これもカバーだけど今度は「I Love Rock'n'Roll」をヒットさせる。
 
で、こちらの「(アイラブ)ロックンロール」も歌詞をよく聴くと「ロックンロールが大好きさ だからジュークボックスに次のコインを入れて一緒に踊ろうよ」またしても、あくまでもリスナーとしてロックを愛する幸せ(救われ)を演奏する側になっても忘れない心意気が好きなんです。
 というわけで、明日3/2はLAのロック少女を退屈から救ったのかも知れないルー・リード(ヴェルヴェッツ)の誕生日←そっちかとお思いでしょうが、すまん、ジェット先輩(誰がジェット先輩だ)の誕生日は存じ上げないのでした+今年は変化球で祝ってみました。ちなみにVUの元祖ロッケンロールはこちら。まあパンキッシュなランナウェイズ版に比べると、こっちのが先と思えないほど洗練されててアーティストって感じがすると思います→
The Velvet Underground - Rock & Roll(外部リンクが開きます)
(同日追記)先週のメイン日記で「キライな歌の話をする時なんだか嬉しそうな自分」と書いたのは戒めのためで、好きな歌の話だと十倍くらい嬉しそうなことも自覚している。尻尾ぶんぶん。

(26.03.02)てひひ、買っちった。嬉しくて本屋の店主さん(?)に「今日この人の誕生日なんです(それで買いに来ました)」と話すと「高額なんで売れないかなあと思ってました」と笑っておられました。はい、高額です。今月の残りは卯の花とか食べて暮らすぞ!
 ルー・リード『俺の太極拳』書影。イタリア産のレモンジュースを添えて。
(26.03.03)【まだ生きてるひとも褒めよう先月の小ネタで「晩年、太極拳に傾倒していたルー・リード」と書いちゃったんだけど、昨日買ったルー・リード 俺の太極拳(国書刊行会/外部リンクが開きます)のサワリだけでもと開いたページで「1980年には太極拳を始めてた。まだ見るからに初心者だったけど」という目撃談を披露してました、「私も武道経験でね」(!)と語るボブ・エズリン(!!)が。もうこれだけで4100円の元は取れた(大袈裟)
ボブ・エズリン、最初の名声を確立したアリス・クーパーとの仕事には疎いのですが(宿題?)ルー・リードの『ベルリン』やピンク・フロイドの『ザ・ウォール』で知られる伝説のプロデューサー。
Lou Reed - Lady Day(YouTube/外部リンク)
Pink Floyd - Comfortably Numb(同上)
ルー・リードの『ベルリン』も手がけてるけどベルリンの「愛は吐息のように」も手がけてるので「ほら、ベルリンをプロデュースしてる人」っていうと「どっちだ?」てなる。どっちもだ(笑)←貼らないけど。独特のアトモスフィアはデフトーンズのような激しいバンドを手がけても健在なのでした。
Deftones - Rats!Rats!Rats!(外部リンクが開きます)
そんなエズリン先生、ちょうどほぼ(どっちだ)一年前に米国の激しい政治的分断を理由に米国籍を放棄 母国カナダに帰国(amass/25.02.28/外部リンクが開)していたそうな。多くは言わないけど、まともな人だってことですよ。そして彼のようには去れない人たちの安寧も願う。

(26.03.04)有言実行の卯の花。でもこういうものチョイチョイっと作れる心のゆとりが先月までなかったと思えば(今月はこじあけていく所存)これはこれで豊かな生活。発色と隠し味にカレー粉ふってます。
 左:中華鍋で水を飛ばしてる卯の花。ひじき、刻んだ長ネギ、人参とごぼうの切れ端いってらっしゃーい。右:和風の器に盛りつけた卯の花(完成品)と、中国茶器に入れたお茶。
(26.03.05追記)シモーヌ・ヴェイユが書いた「飲食の快楽は、一見そう思われるよりもはるかに社会的である」(先月の日記参照)は、むろん卯の花にも当てはまるわけで、ましてそれをネットで吹聴すれば完全なパフォーマンス【私は慎ましいが健康にも環境にも配慮し充実した生活を志しているアピール】だと自分でも分かっててやってるわけです。仮に観客がいなくて一人でも、スタバでラテを注文するのも、PADMA(ハラル食材メーカー)の豆を買うのも、それぞれ己の社会的威信を賭ける行為で、今の自分の言葉で言い直せば、きわめてすぐれて政治的。「それ、政治です」舞村(仮名)のひとりごと。(また読んでない本を元ネタに…)
 PADMAの豆画像。左はレンズ豆、右はムングダル(皮むき緑豆)
そう考えたとき、食そのものを拒絶して死に至ったヴェイユ自身の振る舞いは、彼女が心から軽蔑した力や威信からの撤退だったのか、それとも(心から力を軽蔑しながらも)彼女にできた最大の力・威信の行使だったのか、残酷な問いだと思いながらも少し考えてしまう。じっさい同時代の哲学者も偉人も、なんなら彼女が命を賭して精神的な闘いを挑んだ独裁者さえも、彼らが何を好んで食べたかなど、彼女が「食べなかった」ことほど後世に伝わってはいない。

(26.03.07)台湾文学セレクションと銘打たれた陳又津霊界通信(原著2018年/明田川聡士訳・あるむ2023年/外部リンクが開きます)は「持ち主が死んだあとも残りつづけるSNSのアカウント」という現代あるあるに「えっ待って更新も続いてる」というひねりを加えて(死者にとっては)死後も続く生・(生者にとっては)死者とともに在り続ける生を描く。若者のリアルな生活感と異世界の交錯は韓国作家で個人的に好きなチョン・セランと通じる感じで、日本にもこういう作風のひとっているのかしら、いるんでしょうね(ゆる募)。
 『霊界通信』書影。となりにチョン・セラン『保健室のアン・ウニョン先生』をチラ見せで。
身寄りがいなくなり、自身の記憶すら失なわれる不安と対峙し、肉体が衰え死を迎える前から「忘れられる」という形で社会的な死を先取りする高齢者たちが現実とどう折り合い受け容れるか。また死よりも前にまだ人生の前で立ちすくむ若い世代との交流は可能か。可能なのではという希望が提示できるのは物語ならでは、なのだろうか。自身の性別に違和を感じ「どんなに頑張っても身長170センチの男の肉体では」と苦悶する「男の娘」が、「この歳になると性別とかどうでもよくなるんだよ(本当かしら)君はかわいいなあ」と己を認めてくれるヤバいお爺さんの喪を通して自身のセクシュアリティを受け容れていく「美少女体験」の章は全編の白眉かも。ただし前章からの設定や登場人物を引き継ぐ連作長篇なので最初から読むこと。

(26.03.11)小野不由美『十二国記』に登場する聖獣「麒麟」は獰猛な妖怪どもを自在に使役する代償に、己が死んだら(妖怪にとっては)すこぶる美味だという遺骸の肉を貪り喰われる契約を結んでいるという。翻って一般に、現代の日本人が亡くなると遺体は葬儀までドライアイスで腐敗を抑えられ、葬儀の後はすみやかに荼毘に付されるのだが(焼け残った白骨はそれはそれで貴い)どちらかというと「事故物件」になる可能性も低からぬ独居者の自分は、これまで腸内などで仕えてくれた常在菌たちに己を与えるのも悪くない気がしないでもない。でも実際はむしろ、人菌一体で外敵として斥けてきた悪玉菌や虫や禰豆子ちゃん(婉曲表現)の哀れ餌食という方が正しいのだろう。どう頑張っても生物学的には、死は敗北であるらしい。
…そんな縁起でもないことを考えてしまったのは
 リンギス『信頼』書影。隣に少しぼかして十二国記(風の万里)。
「われわれの口のなかには、六百種の嫌気性バクテリアが生息し、すべての植物が敵を追い払うために生成する毒素を無毒化している。腸内には四百種が生息するが、その助けなしには摂取した食物を消化吸収することはできないだろう」という指摘とともに、修行者が悪鬼どもの餌食となる(ように見える)チベットの幻覚儀式を叙述した※一冊まるまるソレではなく他にも合わせて20の逸話がちりばめられてます(重要)アルフォンソ・リンギス信頼(原著2004年/岩本正恵訳2006年青土社→2026ちくま学芸文庫/外部リンクが開きます)のせいらしい。
ここ二・三年で自分の読書歴に猛然と割りこんできた異色の哲学者(1933-2025)の、たぶん初の文庫化。日本での代表作と思しき『何も共有しない者たちの共同体』(23年5月の日記参照)というタイトル(元はバタイユの言葉だそうです)に痺れるほどの魅惑を感じた人、あと「事故物件」になる可能性が高い人(縁・起・で・も・な・い!)は心の積ん読棚に。

(26.03.13)最高スペックより「廉価で中くらいの性能」に惹かれるタイプ+最初に持ったMacがメモリ8MB・ハードディスク80MBのPowerBook145Bだった自分、ほぼ同じ値段のMacBook Neo(Apple公式/外部リンクが開きます)で久しぶりに著しく物欲を刺激されたのだけど「おまけにコンパクトだし」と思ったのは店頭マジックで帰宅して確認したら今もってるMacBookAirと縦横ほぼ同じ。危ないところでした。
そして灰色の強化プラスチックだったPB145Bすら(入門機の100や上位機種の170・後継機種の150と比べても)「なんだかデザインに可愛げがある」と勝手に思っていた=デザインに可愛げを求めがちな自分、
 イラスト:左からステンレス色のiMac(2019)とパステルピンクのiMac(2023)・ステンレス色のMacBookPro(2023)とパステルイエローのMacBookNeo(2026)
家でメイン機として使ってるMac miniのモデルチェンジの「何故そっち方向に」感は未だに拭えていない。
 イラスト:ステンレス色の四角いデザインは変わらないままサイズだけ小さくなったMac mini(2023→24)。
今うちにあるbefore2023のデザイン(二代目)は気に入ってるんですけどね。

(26.03.16)二輪のことは全然分かんないけど四半世紀前に仕事で3年ほどスーパーカブに乗ってたことがあって、同じホンダから出た22万円の電動スクーターにまたしても心を揺さぶられております。買わないけどね。
ICON e:(HONDA公式/外部リンクが開きます)
三色それぞれの名前が「パールスノーフレークホワイト」「キャンディラスターレッド」そしてポセイドンブラックメタリックなのは御愛嬌。
1回の充電で81km走れる、ということは理論的には東京から札幌まで15回くらいの充電で行ける(なんですぐ世界じゅうを僕らの涙で埋め尽くそうとするのよ)と思うとスゴイ…何処かで充電場所に巡りあえず詰みそうな気もしますが(繰り返し言うとEVも含め、その方面のことは全く分かっておりません。)…自動車を延々と押しながら歩いて進む大昔のCMみたいな姿が浮かばなくもない…
参照→【昭和のテレビ】Mobilガソリン 「気楽に行こう」【懐かしいCM】(YouTube/外部リンク)
僕も乗ってた50ccのスーパーカブは25万くらいか。PowerBook145Bを買ったのと同じくらい前に読んだ本に「ガソリン価格によっては、人力で自転車を漕いで人間がカロリー消費して食べ物で補うより、スーパーカブのほうが"燃費"がいい時もある」とあってウヒャーと思ったこともありますが、あれは初期費用(カブと自転車それぞれの代金)は度外視なんでしょうね。

(26.03.14)最近読んだ本によれば、生き物には植物→動物→人間と階層があって「善く生きる能力」は人間にしかないとしたアリストテレスに対し、とりわけ植物を愛していた新プラトン主義の創始者プロティノス(205?−270年)は「すべての生き物に幸福への性向がある」そう考えないのは「善く生きることを生命以外のなにものかのうちに(たとえば理性のうちに)置く」点でおかしい(命を測るのに、いつのまにか命より理性のが基準だと取り違えてんぞ?)と唱えたらしい。(ジョルジョ・アガンベン『身体の使用』)。
たしかに動物で「私はなんで生きてるんだ」などと悩むのは宮澤賢治の「よだか」くらいだと考えるとき、吾々もアリストテレスと同じ陣営にいるのだけれど、それだとたとえば東アジアの(?)虫やケダモノも徳を積めば人間に輪廻転生できる的な教え(昨年5月の小ネタ参照)も「でも人間以外は徳の積みようがないじゃん」となってしまう。アリストテレス的な生命観を受け容れたとき、吾々は世界の、もしかしたら半分以上を占めていたかもしれない認識の巨大な大陸をごっそり失なったとも言えそうだ。  左:小学校のたぶん梅の木。隣はまだ花もつけてない、たぶん桜。右:梅(たぶん)の拡大。大枝→中枝から伸びた小枝が30cmくらいに切りそろえられ、けれどそこに各々びっしり白い花がついている。
振り返って頭上の高台を眺めれば、近所の小学校の、これは梅の木?小枝をきれいに切り詰められて、ずいぶん憐れな姿になっていましたが、構わず花は咲くのでした。善き生。

(26.03.15追記/これも一項目たててメイン日記にすべきだったか?)とはいえ。むしろ原始仏教でも草木は有情でない(心を持たない)とされ、植物まで救済の対象に広げるのは中国の華厳宗とか比較的あたらしい(?)着想だったという話から、わりとよく聞く「山川草木悉皆成仏」に至っては近年も近年、今となっては批判される事のが多い気がする梅原猛氏の造語だったという記事→
「山川草木悉皆成仏」の由来(1)(「宮澤賢治の詩の世界」/2020.3.1/外部リンクが開きます)
だいたい植物を仏性から排除した原始仏教すら「新しい」都市的な発想だったとも言えるわけで(上記の記事が依拠している論文東アジア的環境思想としての悉有仏性論岡田真美子2002年/外部PDFが開きます・など参照。とくに肉食戒の浸透と同時に「植物は食べていい 'cause they don't have any feelings(←byニルヴァーナ=涅槃だけに!←うっせえわ)」で仏性否定に傾いたという指摘が面白い)、、逆に新しいから悪いとも言えないのだが、少なくとも「何に対して何のがより古層・オリジンだ(から正しい)」的な考えかたは時に判断を誤らせる。剣呑剣呑。

(26.03.17)酷い世の中の口直しに自分的には結構よく出来たと思う茄子の揚げ焼き(甘酢和え)でも見てくれ。
 ざく切りにして片栗粉をまぶし、中華鍋で揚げ焼きにした油てらてらの茄子。
最近いろんな素材で作ってる「片栗粉まぶして大さじ二杯くらいの油で揚げ焼き→同量のお酢とお醤油と砂糖で味つけ」中まで上手く火を通せれば、片栗粉あたりをツナギに重ねて角切り肉ふうにした豚バラ(薄切り)で疑似酢豚が作れそうな気がしてきた。来月あたり試してみよう。

(26.03.22)近頃「肉のハナ○サ」で700グラム800円のボイル豚もつ盛り合わせを買うようになって。下処理で脂を落とすと500gにカサが減るので100グラムあたり160円は生活水準としてどうでしょう皆様。カレーに入れたり麺類に載せたりしてるのですが、串で焼いてもいいかなと思い、フライパンでタレと絡めながら火を通してこんな感じです。函館名物の焼き鳥弁当が「焼き鳥」と言いながら豚肉(鶏より豚肉が安かった時代の名残り)で、ボリュームとか全然ちがうけど、ちょっとそれを思い出すなど。つまり・人生を旅のように楽しんでいる・これはこれでしあわせであるってことです。
 各種ホルモン・ねぎま風に短く切った長ネギ・オクラ・ぶなしめじを串に通して甘辛しょうゆダレでこんがりめに焼き上げた串と、かつおぶしを振った小松菜のおひたし。
上機嫌だから世にたてつく必要ない・ではなく・上機嫌に過ごすという反抗。

(26.03.26/小ネタ/すぐ消す/月末に拾う)またモツを浸かって、老抽王という仕上げの色づけに使われる中国醤油で言ったもん勝ち「神奈川ブラック」あ…やっぱ怒られるかな…むしろほんのり甘味のある味、ひょっとして牛肉麺なんかもこんな感じ?生姜と五香と七味でアクセントを。朝食と昼食がカ■リーメイトだったとは思えない(簡単だけど)生活感ある夕餉。うましかて。
 左:小さめの器に陽春麺用の細麺・白髪っぽく縦細切りにした長ねぎ・色あいで小松菜と黄色パプリカに豚もつを盛り合わせ、老抽王で黒く仕上げた「横浜ブラック(仮)」。右は具材のアップ。
この後は明日の昼食用にこんにゃくを炒めます(あ、さすがに副菜ですから!!)

(26.03.23)卯の花で過ごすと言いながら、けっこう外食にも走ってしまった。
倒産したチェーン「牛丼太郎」のスタッフが看板の一文字を消して、茗荷谷で今も続ける「丼太郎」の話は前にしたけれど(昨年7月の日記参照)、今度は往年の洋食チェーン「キッチンジロー」の本社撤退後、お店のオーナーが独立して始めた(こういうお店を「ジロー系」と言うとか言わないとか…)定食屋を大塚で発見、とゆうかこの看板のロゴを路面電車から見て「あれは…キッチンジローのキッチンの書体!」と数十年ぶりでも余裕で思い出せた自分が怖い。
 左:日が落ちたあと白い蛍光灯で光る「キッチン」の文字だけよく見え黒地に書かれた「のとや」は見えにくい看板。中:もう少し明るいときの看板。「キッチン」「のとや」両方の字がコントラストよく並ぶ。右:お店正面の看板。チェーン店らしくデザインされた「キッチン」に手書きの「のとや」。
 キッチンのとや(南大塚店)。日曜のみ定休でランチと、夕方は6時頃から。店主おまかせの三種ミックスも気になったけど、キッチンジローと言えば個人的にはホワイトソースのクリームコロッケだったので、間違いなくありつけるようチキン南蛮との盛り合わせを注文。もうスマホどころかデジカメもよう使わない時代以来なので実はよく憶えてないけれど、出てきたメニューは職人的なアウラがあって、今の自分にはオリジナルの「ジロー」より好ましいほど?つけあわせの豚汁も嬉しい1,180円。コンパクトな厨房では出前館やロケットナウの注文チャイムがひっきりなしで、生き延びて、今を生きてるお店なんだなと感じました。
 昨年の暮れにも同じようなことを言ってた気がするけど、今度こそ(雇用契約が延びてました)そろそろ池袋近辺とはお別れ。あっという間に消えてお別れを言う間もなかったキッチンジローとも、気持ちよく訣別できたかも。近場に縁のある人は「宇野書店」とハシゴでどうぞ?
 キッチンのとやのチキン南蛮(右ふたつ)とクリームコロッケ(左・わざと白い中身が見えるよう割ってます)。つけあわせにキャベツたっぷり・白ごはんに豚汁セット。
 ところでずっと「大塚で洋食…大塚で洋食…グリルオーツカって名前に記憶があるけど、あれは大塚じゃないよな…?」と悩んでたら、思い出した。石川県金沢市にある「ハントンライス」の名店でした。
 組写真「金沢の写真へたくそ選手権」。真ん中に光があふれてグリルオーツカの「オ」しか読めない看板と店舗写真。左に緑地で判別できる「グリルオーツカ」の看板写真。右に看板メニュー「ハントンライス」の写真。

(26.03.29)先週の週記では聖書まで持ち出して「仕事はつまらんもの」と力説したものの、仕事を通じてこそ知れた面白もはある。職場のPCがWindowsで(自宅ではマカーです)世界の絶景が次々デスクトップに表示されるのだけど、先日表示されたアルプスの青い宝石(Bing画像ギャラリー/外部リンクが開きます)と題されたイタリア・モルヴェーノ湖の写真が、麓の湖が灯火きらめく夜景なのに、背景の山麓は青空=つまりルネ・マグリットの絵画光の帝国(美術手帖/外部リンクが開きます)現実版!?とびっくり。地球が丸いから、こうなるんですかねえ。人生(世界)(宇宙)は発見でいっぱいだ。
 図解。地球が丸いとちょうど日没あたりの地域では麓が地球の陰に入って既に暗くても、山の上のほうは太陽の光が当たってまだ明るい…こういう理解でOK?
(26.03.31追記)今日は今日とて、サハラ砂漠の写真がPCに。アルジェリアはタドラルト・ルージュなる絶景の写真なんだけど、名前のとおり(?)鉄分を含んで赤い砂漠の真ん中に…人が??4WDのタイヤの跡が四方を走り、それに撮影者も存在してるわけだけど、それにしたって写ってる人影??をそこまで運んだ車の影は見当たらないし「黒いスポーツウェアに白いチノパン(に見えてならない)」という格好は、どう考えても砂漠に相応しくない。違うかなあ、でも左を向いてうつむき気味の人影に見えるんだよなあ…と思いつつ、帰宅後に掘り出した解像度が一番高い画像で確かめたら→
こちら(外部リンクが開きます)
あ…違う。これは(何だか分からないけど少なくとも)人影ではない、ないね、ないよね…左向きじゃなくて背を向けて歩み去っていく人影では…ないよね??
そんなわけで今日は一日、頭の中でZELDAの「黄金の時間(とき)」がリピートしていました(懐かしいな、おい)。「あなたを見失ったのはサハラの砂漠 あれから私はずっと貴方を探し求めている」という歌詞は『星の王子様』がモチーフなのだと思います。また来月。
ZELDA - 黄金の時間(外部リンクが開きます)

(c)舞村そうじ/RIMLAND ←2604  2602→  記事一覧  ホーム