斜め下の国〜レベッカ・ソルニット『災害ユートピア』ほか(26.05.10)
「当局は問題を無視し、次にはそれを最小限に見せようとし、最後には犠牲者のほうを責めた」(ソルニット『災害ユートピア』)
*** *** ***
図書館に出向いた目的のひとつは『
21世紀事典』(原著1998年/柏倉康夫ほか訳・産業図書1999年)の「日本」の項目を再確認するためだった。著者は
ジャック・アタリ。ミッテランからマクロン時代に至るまでフランスの政権運営に何度も関わっては何度も追放され、イギリスで欧州復興開発銀行を創設した(追放された)経済学者で、未来学者≒予見者としても知られる人物だ。
タイトルどおり事典を模してアルファベ順に記載された同書でJの項・エルサレム(JERUSALEM/
「宗教,政治,民族,文化,地勢,経済の矛盾は頂点に達している.正当であると同時に矛盾する諸権利を認めた上で,人々を一緒に生活させる方法を見いだす必要がある」)のひとつ手前「JAPON」の項は、次のように始まる。
日本(JAPON ジャポン)
21世紀のはじめの3分の1における完全な敗者である。
初読した当時も、この強烈な「予言」は本サイトで紹介したと思う(何度ものサイト移転で零れ落ちてしまったが)。自分の視点では完全に的中(
アタリだけに―うっさいわ)だったように見える彼の洞察、だが細部はどうだったろう。再確認できた、当時のアタリ氏による日本の「敗因」はこうだ:
「破滅的な人口問題の動向,可動性がないこと,変革がほとんど見られないこと,産業と研究開発に情報工学,生物工学,航空学が欠如していることなどが問題だ」
「破滅的な人口問題」は人口の減少と、それにともなう社会保障費の増大をさす。具体的には
★重くて簡単に結論の出せない話なので、たたみます。(クリックで開閉します)。
あ、その前に
「1975年の動向調査は,日本の1人当たりの所得は,1985年にアメリカを追い抜くと予測した.今日(1998年)
それはその83%に過ぎない.」
…うわあああ。ま、そこは軽く飛ばすとして(飛ばすんか)
「日本は老化し,発育不全にならざるをえない.人口は2025年で1億2500万人以上にならない.出世率が回復しないかぎり,その後人口は減少に向かう.2025年には2人の社会保険加入者に対して,年金受給者1人の割合になる.現在は4人に1人である」
「医療保険の支出は,国民所得の30%を越える.医療保険と年金の現在の水準を維持するためには,保険料の義務的な徴収を,国民所得の37%から50%以上に引き上げなければならない」
「このような極端な事態を避けるためには,女性と外国人の労働市場への大量の参入を認める必要があろう」
2025年1月時点での日本の人口は「1億2500万人以上にならない」という98年当時のアタリの想定を大きく下回り
1億2443万690人・このうち「日本人」は
1億2065万3227人で外国人が
367万7463人となっている。
・参考:
2025年1月1日の日本人人口は1億2065万3227人で前年から0.75%減少、65歳以上人口が29.58%を占める―総務省(Gem Med/2025.08.08/外部リンクが開きます)
「外国人367万7463人」と言うと「ぎゃーそんなに!排斥!排斥!」と悲鳴を上げる人も居るかもしれないが1億2400万人の中では3%だ。アタリが言う「大量の参入」には程遠いだろう。
とまれ、これらの数字をどう読むかは各々の作業。浅学の僕に言えることはあまりない。
たたんでない本文では別の話をします。

女性や外国人の労働市場への参入=平等やダイバーシティ(多様性)の推進が経済の発展にも利する、そのように自身の正義を「実際そのほうが有利でもある」と功利性に結びつけられるアタリ氏は幸福な人だ。しかるにこの国では「少子化!衰退!大変だ!」と叫びながら、ますます性別や出自での格差を広げようとする不幸な人たちが決定権を握りしめている。
「日本の民主主義はまだ成熟したものではなく,大方のところ腐敗した党派によって支配されており」
「没落を避けるためには,他国の思想,文化,産業に開放的になる以外,ほかの道はない」
と書くとき、彼が想定しているのはアメリカからの独立かも知れない。アメリカに依存して危機を切り抜けていくことは、積み上げた大量の黒字をアメリカに献上し、自らは痩せ細っていくことを意味するからだ。その一方で現状(1998年)アジアの「友好国」の中でも孤立している日本は、積年の確執を解消して中国と同盟できれば
「アジアを1つの大陸のように結び付けることもできよう」が、それはアメリカから独立した日本が核兵器を保有し、避けがたく中国と対決するという試練を克服できた後の話だと30年前のアタリ氏は言う…
予言なり予見なり洞察なりには、当たるものもあれば外れるものもある。というのが今回の日記(週記)のモチーフだ。
こう行けば破滅する、こう行けば克服できる、両方のマスに賭けのチップを置く(「パレスチナの民族的な地位の承認を拒み、併合を推し進めればイスラエル自身の破滅は避けられない―しかし隣人と和解できればヨーロッパとアジアの架け橋にもなれるだろう」)慎重なアタリ氏でも読み違えはある。30年後の日本が相変わらず「腐敗した党派によって支配され」民主主義は成熟どころか立ち枯れに向かっていること・対米従属を抜け出せずますます全てをアメリカに献上する勢いであることは積んだチップが倍額になって戻ってきた感があるけれど、一方、仮に今アメリカから離れたとして
自力で核武装できるだけの技術力が日本にあるとは思えない。
(ついでに言えばアメリカから独立した日本が敵に回すのは中国以前にアメリカではないかとも思うが、そのあたりは地政学とやらに詳しい皆様のほうがよく存じ上げているのだろう。これも今の僕に言うことはない)
それとも、日本はまだまだ優れた技術を持っているし金融資産は莫大で、国民もよく教育されている、人口動態の逆転だって不可能ではない―と楽観的なほうに張られたチップは「手をこまねいていれば、このチップも減耗して30年後には逆転の大勝負を賭けることすら出来なくなっている」という冷徹な損切りを言外に含んでいたのだろうか。
* * *
「手をこまねいていれば」今回の原油危機は東日本大震災や、新型コロナ禍に匹敵するダメージを経済や日々の生活に及ぼすだろう(
これが今週の二番目のモチーフ)―そっち側に賭けのチップを積むにあたり「前回」コロナ禍の事情を振り返ってみるのも悪くない。あるいは過去の知見に習い今後の備えに資する最後のチャンスかも知れない―
―煽っておいて申し訳ないが、改めて確認したのはアタリ氏の核武装(への懸念)と同様「
申し訳ないが、これも参考にならん」だった。
ジョルジョ・アガンベンの
『私たちはどこにいるのか? 政治としてのエピデミック』(原著2020年/高桑和巳訳・青土社2021年/外部リンクが開きます)は、重要な概念をいくつも打ち出しながら「軽率すぎる」と叩かれがち・ポジティブにいえば人々の思想を鍛えるうえで恰好の叩き台にもなってきた彼の仕事のなかでも(たぶん)傑出して叩かれたものだ。つまりエピデミックの初期段階で「これはたいした事にならない」という見込みのもとで「にも関わらず権力は大変な厄災さと騒ぎたて民衆の隔離や分断・管理を推し進めようとしている」と猛批判し、「大変な厄災だったじゃないか」と猛批判返しを食らったのだ。
ジャン=ピエール・デュピュイの
『カタストロフか生か コロナ懐疑主義批判』(原著2021年/渡名喜庸哲訳・明石書店/外部リンク)は批判の急先鋒ともいえる渾身の一著で、アガンベンの主要概念である「剥き出しの生」やフーコーまで遡る「生政治」にまで強い否を叩きつける。
どちらの著者にも関心をもってきた、言うたら両方のマスにチップを置いてきた身からすると、相反する両者の著作はともに面白い。
訳者の高桑氏は「本書はアガンベン思想の分かりやすい入門書ではない」と釘を刺しているけれど『私たちは』はアガンベンの生政治や権力批判の「おさらい」としてよくまとまっているし「仮にコロナ禍が大ごとになったとしても、それを奇貨にした管理や分断は変わらず賛成できない」という態度は一貫している。「隔離やリモート化は他者と対面で交流する機会を奪い、人をますます非人間的(ただ生きてるだけの剥き出しの生)にする」という主張・その健全な信念は、ますます社会的に引きこもり書物だなんて間接的な交流に耽溺する自分には受け容れがたい・あるいは
アガンベン先生のほうが僕を受け容れてはくれまいと無念に思うのだけど、
まあそれはいい。
デュピュイの反・反コロナ論も多くの含蓄をふくみ(ルネ・ジラールの後継者という位置づけから若く見積もっていたけれど、この人ももう80代なのだなあ…)アメリカにおけるプラグマティズムとサイバネティックスの誕生とか、「死ぬこと自体はこわくない死に至る病気や苦痛がこわい」なんてウソだよ死ぬのが一番こわいよ(めっちゃ共感できる・ジャンケレヴィッチという哲学者が参考になるそうです)とか興味ぶかいトピックに溢れている。その一方で肝心の「剥き出しの生」「生政治」批判は、やや誤解とゆうかアガンベンの主張の核心よりずっと手前で空パンチを出している印象が強く、なんなら「いやそれこそアガンベンが批判してることなんですけど」と取れる部分すらないではない。
シロかクロか、正解か不正解かで二分できる科学と違い、人文系の本や思索は
互いに矛盾しそうな見解それぞれに各々が正しく適用できる(納得できる・理解に資する)局面があるので、一方が正なら反する一方は不正と切り捨てられないし切り捨てるべきではない、というのが
今週の要点その3だろうか。
ただし「何だってその立場からは正」などとは言えない、議論の土俵にも上げられない根本的な間違いはある。これが要点4だ。
アガンベンは新型コロナ禍が「行きすぎた対策」を呼ぶと批判し、デュピュイは「適切な対策」がむしろ必要な状況で何を言うと反論した。けれど、この国で見られたのは両者の論争のはるか手前で、むしろ「なぜもっと対策しない?」と大声をあげたくなる状況だった。
たしかに自粛はあった。皆がマスクをつけ、ワクチン接種の列に並んだ。映画館・小さなライブハウス・飲食店は営業自粛を余儀なくされ、同人誌即売会も中止になった。でも自粛の多くは自発的に、自腹を切る形で行なわれ、政府や行政による補償は可能なかぎり「ケチられた」。「コロナ禍の休業に対する補償なんて世界的にも例がない」と安倍首相(当時)は虚偽の答弁をし(実際は世界じゅうにあった)小規模店舗が「つぶれるに任せる」一方、満員の通勤電車を停めようはせず

さらには(一年延期したものの)東京にオリンピックまで誘致した。政府の方針は「行きすぎた対策」とは真逆で、映画『ジョーズ』で観光客を変わらず呼び込むため人喰いザメの被害を隠蔽しようとする市長に限りなく近かった。
そもそも政府が最初に打ち出した「対策」は、有力な支持者におもねる「お米券」「牛肉券」の配布だったし、隣国が高機能な不織布マスクの開発を進める一方で配布されたのはカビやダニの温床と懸念される布マスクが二枚で、それすら当時の首相と縁故の企業を潤すためだと言われた。さらにそんな時期に旅行を推奨するGOTOキャンペーンが為され(まあ実際に平常時なら一泊数万円する京都のデザイナーズホテルが3500円で泊まれたりしたので旅行・宿泊業界への補助は必要だったろうが、
それにしてもだ)精度の高いPCR検査がなぜか批判され「あてにならない」と言われながら優先された抗体検査も、治療すら五類移行で補償から外され、今では「そもそもあんなに騒ぐ必要なかった」「行きすぎた自粛だった」と言われているが、
実際は今も年3万人の死者が出つづけている。
・参考:
年3万人超死亡、日本人の死因8位 新型コロナ5類から3年の現在地(朝日新聞/2026.05.08/外部リンクが開きます)
あーもう長くて嫌になっちゃうなあ。もう記事本体は削除されているが
「保育士の感染「保護者に知らせず続けて」横浜市が指示」という当時の見出しさえある(朝日新聞デジタル/20.04.15)
エピデミックに付随する管理の是非を喧々諤々になって論じあうことが
間違っていたと言うつもりはない。ただ、それらは「経済を回す」ことを感染症対策より優先し、人々を生かす代わりに管理する「のではなく」小規模事業者は早々に見捨てて与党と縁故のある一部にだけ恩恵を与える、言うなれば「斜め下」の存在を前提にしていなかった。彼らの議論は重要だが、この国に適用するには高邁すぎた。この場合「根本的に間違っていた」のはどちらだろう?
* * *
「災害で助け出された人の八〇パーセントが、別に特殊な技能などない人により救助されている」
レベッカ・ソルニット』
『定本 災害ユートピア なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか』(原著2009年/高月園子訳・亜紀書房2010年→定本20年/外部リンクが開きます)は、邦訳が出た直後に東日本大震災が起きたため、吾が国でも広く読まれたという。今それを読むのは、またしても完全に出遅れた形になるけれど、やはり今から来る(かも知れない)原油ショックの前では、また違った意義があるだろう。
佳い本だと思います。
1906年のサンフランシスコ大地震から
「核兵器の発明前では、史上最大の人為的な爆発事故」と言われる1917年カナダ・ハリファックスの惨事、1940年の(ドイツによる)ロンドン大空襲、1985年のメキシコシティ大地震を経てニューヨークの9.11そして2005年ハリケーン・カトリーナによるニューオリンズの壊滅的な被害まで取材した同書は、破滅的な災害のあと「パニックに投げ込まれた人々は利己的になり互いに略奪・暴行・殺し合いを始めるだろう」という通念とは真逆に人々が協同し、助け合いのネットワークが自ずと発生し、無私に与えあう喜びから来る多幸感さえ見られたことを論証する。
ちなみにこうした相互扶助の出現・
自分ひとり生き残ろうとするより皆で頼りあって生き延びようとすることこそ生きるモチベーションかも知れないというテーマを僕は
ナオミ・クラインの『
楽園をめぐる戦い』(
23年11月の日記参照)で知って、ソルニットの書はその再確認になったのだけど、本書でソルニットはクラインの主著『ショック・ドクトリン』(
未読)を「災害で人々は自発性を失なうという旧説に従順すぎ」と批判しているのが興味ぶかい。
人は放っておけばエゴで奪いあう―ホッブズの『リバイアサン』やマルサスの人口論など西欧近代の基調になっている思想そのものに異議を申し立て、苦境にあって自発的に立ち上がる相互扶助を称揚するソルニットの著述は、
しかしながら理想どおりにならなかった反証例として
「一九二三年に日本で関東大震災が起きたときの韓国人と社会主義者」に起きたことを想起させる。
冒頭に掲げたソルニットの言葉
「当局は問題を無視し、次にはそれを最小限に見せようとし、最後には犠牲者のほうを責めた」は21世紀のハリケーン・カトリーナにおけるブッシュ政権を批判したものだが、それは東日本大震災の、また新型コロナ禍の日本で、政府とメディア・それに「ふつうの日本人」と呼ばれる特権を享受する人々が一体となって示した態度ではなかったか。
* * *
まとめる。ジャック・アタリの未来予測。感染症対策をめぐるアガンベンとデュピュイの論争。ホッブズやマルサスに抗して自発的な相互扶助の発生を説くソルニットの議論。どれもこれもが適用できない・無効化されてしまうほどレベルが低い、1975年頃には「アメリカを追い越す」とすら言われたという、この国の「完全な敗者」ぶりはどうだろう。
慎ましげに言えば四半世紀前に「敗者だ」という視点を植えつけられてしまった・だからその後の日本のやることなすこと「完全な敗者」に見える、そんな「
予言の自己成就」
の可能性だって、無いとは言いきれない―いや、どうでしょう。これも前に本サイトで書いたかも知れないが、再生紙の再生率○○%というパッケージにも記載されている数字が長年にわたり「採算が取れない」という理由でメーカーにより捏造された虚偽のものだったというニュースで「あ、ダメだ」「課題を技術革新(モノづくりがどうとか)じゃなくて数字の胡麻化しで"解決"しちゃう国なんだ」と思ったとき、「完全な敗者」というフレーズは既に自分に吹き込まれていただろうか。そんな現実と、それを端的に説明してくれる言葉、両者の相乗効果ではなかったか。
僕に見えるのは、仮に核武装に踏み切ったとしても、実際には自前の核兵器など実装できず、ただただ核武装のための予算を(政権与党と癒着した)大手企業に注ぎつづける姿だ。そうやって、この国は3.11も新型コロナも「乗り切って」きたのだから。

日本国憲法の前文が
「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」「諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と謳ったとき、それは非戦という以前に、特に日本は「他国と協調しないと生存もおぼつかない」という現状認識を含んではいなかったか。その「信頼」を放棄して「無視」した中国やイランに、戦争のはるか以前でキャンと言わされている現実を前に、憲法前文を「おめでたい」と虚勢をはる首相に、それに喝采する有権者に、おめでたいのはどちらだと言いたい。
本来なら少なくともジャック・アタリの話とそれ以外は二つに分けて書くべきだった話かも知れない。けれど日本を「21世紀の完全な敗者」たらしめている病巣を摘出することは、可能なうちにしておくべきことなので一気呵成に書かせてもらった。デュピュイは「このままでは滅びるぞ」という預言はしばしば、破滅を回避させるために為されると言う。この国では人々は助けあわないし、社会は富める一部しか救わない―そんな陰鬱な予想が外れればいいと思う。
*** *** ***
(追記1)ジャック・アタリの「エンパシー」をめぐって見つけた文章。
・
インタビュー 人はなぜ攻撃的になるのか(東北大学新型コロナウイルス対応特別プロジェクト/2020.10.30/外部リンクが開きます)
本当に僕はこのあと来る(かも知れない)災厄を心配しているので、こうした直近の教訓を復習しておくことは必要だし意義のあることだと思うのです。
(追記2)今回の日記(週記)の主旨とも、同書の主旨じたいとも離れるけれど、ソルニットの『災害ユートピア』には
「驚きではないが」としたうえで
「北ベトナム人の戦いを続ける意志(中略)
に、(米軍の)
爆撃が及ぼす間接的影響は明白な形では表れていない」という一節がある。本サイト
12年3月の日記でも取り上げた話であり「大規模爆撃や原子爆弾は、それが実際にもたらす効果でなく、そのプロジェクトに注ぎ込まれる経済的資源の大きさゆえに自走し停まらない」というテーゼは、僕がオリンピックや万博、兵器開発に向ける視線の冷ややかさを、かなり根底で規定している。
愛は理解、理解は死〜秋山瑞人『イリヤの夏、UFOの空』(26.05.16)
昨今あらためて「恐怖」の対象となっている熊について、前にも何度か引用したと思うけど
隆慶一郎未完の時代小説『
死ぬことと見つけたり』は九州・佐賀の山林に江戸時代の火縄鉄砲ひとつで熊と対峙する主人公を描出して書いている。熊狩りは狩る人間と狩られる熊が互いの存在の痕跡を消し、消された痕跡を読んで先回りする相互理解の過程であり、そして理解のまさったほうが勝負=生死をめぐる闘いを制すると。
*** *** ***
先週の週記では要点だけに話をしぼりたかったので(
あれで)省略したのだけど、ジョルジョ・アガンベンの大いに叩かれた新型コロナ論『
私たちはどこにいるのか?』は末尾に付された「
恐怖とは何か?」が興味ぶかかった。いわく
「「事物」は世界との関係をひとたび失うと、それ自体において恐慌をもたらす(中略)
近代においては人間が事物性へと救いなく引き渡されてしまうということが起こっているが、恐怖とはそのように引き渡されるときに人間が陥る次元のことである」
例によって晦渋なフレーズなので自分なりに咀嚼すると、かつては精霊が宿ってたり象徴だったり(森のクマさんが白い貝殻の小さなイヤリングを拾ってくれたり、百年こわれなかった器に魂が宿ったり)「人間的」な意味を持っていた身の回りの事物が近代以降のっぺりした「モノ」になってしまった・それが人を恐怖させる、つまり恐怖とはすぐれて近現代を象徴する現象なのだ―といった処だろうか。そんなモノ化が人間自身にまで及んだ状況こそ、彼が糾弾してやまない「剥き出しの生」と言えるかも知れない。言われてみれば『ハロウィン』のブギーマンや13金のジェイソン、テキサスのチェーンソウ男など現代ホラーのアイコンが無表情な仮面+無言で押してくるのもモノ性=理解(意思疎通)の不可能性をなるほど示していそうだ。

理解あるいは意思疎通・関係構築の不可能性は
「恐怖を定義づける無力感」を生じさせる。もうひとつ興味ぶかいのは、この無力感についてアガンベンが
「恐怖は力への意志とは逆のものとして定義づけることができる。
すなわち、恐怖の本質的性格は無力への意志(中略)
恐怖をもたらす事物に対して「無力でありたいという欲」である」
と指摘している処だ。むろんアガンベンの狙いは「安全を保証するはずのセキュリティが逆にセキュリティ不安を募らせる(それで人々はますます支配の強化を求める)」という管理社会批判なのだけど「無力への意志」「無力でありたいという欲」は、ゾンビが猛スピードで走りだす前の古き良き「向こうはゆっくり迫ってくるのになぜか逃げられない恐怖」

いやそもそも人がホラーを見たがる「怖いもの見たさ」、
イヤだイヤだと思いながらイヤな方に引き寄せられてしまう感じを上手く説明していると思うのですよ。
無力への意志。
* * *
そんなわけで人生の一時期、ネットに流れる「この絵を見たら死ぬ」とか「あのCMが怖い」みたいな小ネタに没入したこともあって―すぐ飽きましたが―大体は「正体見たり枯れ尾花」なんですね―80〜90年代だろうか、出演者が死んだとか観た人も死ぬとか言われたティッシュペーパーのCMは背景で唄われてるのが「死ね〜死ね〜みんな死んでしまえ〜」というドイツ語の呪いの歌だという触れ込みだったのだけど、いざ現物を観ると「今日はいい天気〜今晩もいい晩〜明日も素敵な日〜♪」
英検三級=中学卒業ていどで余裕に聴き取れそうな英語の歌詞で、あれをキャーキャー言ってた中心層はまさに「中二病」リスニングがおぼつかない学習途上の中学生だったかも知れない。あるいは「怖がりたくて」聴き取れる英語にわざと耳を塞いだか。
要は石ばっかりの玉石混淆で、もちろん秀逸な出来のネタ(それでもやっぱり「ネタ」なわけだが)もあった。元は「2ちゃんねる」あたりに投稿された短文だと思うのだけど
「同じ画像なりマークなりを毎日見せることによって、
それがあっても、それが目に付いてもおかしくない、
不自然ではない状態にすることは洗脳の第一歩だよ。(1)
仮に君の部屋の壁紙に
普通では視認できないメッセージが刷り込まれていたらどうする?
連日連夜、気づかれないように少しずつ少しずつメッセージを刷り込んでいくんだ。(2)
時々、突然気分が悪くなったり、めまいがしたことはないか?(3)
金縛りにあったことは?(4)
お昼ごはんを食べたのを忘れたことは?(5)
大きな都市が丸ごと停電する夢を見た経験は?(6)
球形プラズマ、蜃気楼、観測気球、写真に撮るとしたらどれ?(7)
マンテル、チャイルズ・ウィッティド、その次は?(8)
『アルミホイルで包まれた心臓は六角電波の影響を受けない』というフレーズ知ってる?(9)
螺旋アダムスキー脊髄受信体って言葉に聞き覚えはある?(10)
さっきからずっとあなたの後ろにいるのは誰?」(11)
(強調は引用者)
あ、はい、つい強調してしまったけれど、この最後「…
お前だぁー!」みたいな感じで驚かせる構成はかなり巧い。というか恐い。とはいえ
整理のために(1)(2)…と番号を振ってしまった時点で、かなり興が削がれてる=恐怖が薄まってるのは「世界に関係づけられる」ことと恐怖は相反する説の実例かも知れない。
この短文が往年のライトノベルからの引用なのだと仄聞して、また例のアレですよ「生きてるうちに現物を読んでおこう(
まあふつう死んだ後では読めん)」で、読んでみた。実はかなり前から同書が元ネタらしいと知ってはいたのだが、世が世なので重い腰を上げたとゆうか、今年は巻きに入ってる。
・
秋山瑞人『イリヤの空、UFOの夏』(電撃文庫2001年/外部リンクが開きます)
あ、今「ぐはぁぁっ!俺(私)の青春!!」と吐血してる人がいるかも知れない。すまん本サイトなんかが、しかも今頃ノコノコと。

まずはサクサク本題から済ませると、件の「元ネタ」は全四巻の開幕早々で展開される。第一巻で保健室に運び込まれた中学生男子の主人公が
「何かアレルギーはある?」
「気分が悪くなったとき、ひどいめまいがしなかった?」(3)
と問診を受けるうち、次第に話がおかしくなって
「球形プラズマ、蜃気楼、観測気球、あなたが写真に撮るとしたらどれ?」(7)
「マンテル。チャイルズ=ウィッテッド。その次は?」(8)
「さっきからずっとあなたの後ろにいるのは誰?」(11)
「螺旋アダムスキー脊髄受信体、って言葉に聞き憶えがある気はする?」(10)
と畳みかけられる場面だ。(6)と、特に謎めいたフレーズとして印象に残る(9)が出てくるのは終盤の第四巻になってからだ。
「大きな街が丸ごと停電する夢を見た経験は?」(6)
信号機の四つ目の色は何色ですか?
『アルミホイルで包まれた心臓は六角電波の影響を受けない』というフレーズに聞き覚えがある気はしませんか?」(9)
比較すると、ネットに流布したヴァージョンが、より怪談として効果的に練られているのが分かる(逆に言えばネット怪談として効果的に「落とす」より、話を前に前に牽引しつづけることが望ましい小説では「後ろにいるのは誰?」のウェイトは軽いほうがよい)。結局のところ「螺旋アダムスキー脊髄受信体」や「六角電波」が何であるかの説明はなく、作者の創意・思いつきでない限り、元ネタ(小説)にはさらに元ネタがあることになる―それを知るにはUFOやオカルト全般の玉石石石石石石石混淆を掘り返す必要があるだろう。あるいは、そういう方面に明るいひとが「元ネタはラノベなんだって」という聞きかじりで「分かった」ことにせず、元ネタの元ネタまで掘り起こしてくれる(くれてた)ことを期待するか。
怪談ヴァージョンの(1)(2)で示される洗脳のくだりは、小説『イリヤの空』には存在すらせず、また別の小説などを掘り起こす必要があるのだろう。ただ『イリヤ』の四巻には
「放送終了後のテレビのホワイトノイズが何事かを語りかけてくると感じたことはありませんか?」という畳み掛けもあり、隠されたメッセージによる無意識へのはたらきかけ(洗脳)というモチーフが、これくらいの時代までの時代精神(ツァイトガイスト)だったことが見て取れる。
アニメ『
新世紀エヴァンゲリオン』が1995年・
谷川流のライトノベル『
涼宮ハルヒの憂鬱』が2003年で大ヒットしたアニメ版が2006年。2001年〜03年にかけて雑誌連載が文庫化された『イリヤ』を両者の橋渡し的存在と雑に位置づけたくなるのは物語の中心となる謎の転校生「イリヤ」の造形が『エヴァ』の綾波レイや『ハルヒ』の長門有希に対比されそうな、感情に乏しい無表情少女の系譜に連なるからだろう。ただし「イリヤ」は主人公をめぐって恋のライバルとなる勝ち気な少女・晶穂と「食べきれば無料・食べられなかったら四千円の爆盛り中華三本立て」のフードバトルで雌雄を決する斜め上の展開でニヒルな仮面を自ら引き剥がし、引っ込み思案だが感情ゆたかな14歳の少女に成長しおおせる。

今回の日記の流れ的に言えば本作は、互いに疎ましく何なら「恐い」存在だった転入生とクラスメイトが互いの世界にお互いを位置づけ「イリヤ」が主人公のことを「分かった」と告げて、一人の人間としての物語=人間性を取り戻した処で終わる。それが彼女にとってトゥルーエンドではあっても必ずしもハッピーエンドではないことも含め、人間にとって物語とは何かという批評性をもつ作品かも知れない。
本作には「UFOと謎の転校生」というフォーマットの他に―
本当にお前がネタバレとして伏せる基準と伏せない基準よう分からんと自分でも思いますが
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というのも本作、謎の転校生に主人公はじめ在校生たちが幻惑される作中の日本は(ソ連は消滅しているが)どうやら北朝鮮らしい仮想敵国と、米軍の支援をうけ自衛「軍」を保有するに至った日本が戦争前夜くらいに対立し―その対立すら本当なのかという疑惑を最後まで保持しつつ―すでに戦時下のような軍国主義の支配が行き渡ったパラレルワールドになっているのだ。
その緊迫感は発表された2001年当時より、2026年現在のほうが身につまされるものがあり、いま読まれるべき作品かも知れない。
ただし、その緊迫感もメインストーリーの牽引力に引っ張られページを繰るとアレよアレよと霧散してしまう。異様な世界が眼前に
「あっても、それが目に付いてもおかしくない、不自然ではない状態に」馴らされてしまうというわけだ←あ、いや、この一節は『イリヤ』が原典ではないと判明したわけだが。
その反面、本作が反映していた時代精神=「サブリミナルなメッセージで吾々は日々洗脳されている(かも知れない)という物語」は、もう現代(少なくとも2010年代以降)には説得力を無くしているだろう、今はもう陰に隠れた「サブ」リミナルなどなく、すべて開けっ広げに「バズる」顕在的な洗脳・顕在的な虚偽・顕在的な陰謀ばかりだ―とは、すでに本サイトで再三にわたり主張しているところだ(90年代に一世を風靡した「サブリミナル陰謀論」を取り上げた
20年3月の日記参照)。手厳しく言えば、とっくに開けっ広げなフェイク・トゥルース、の、信奉者たちが今だに(共産党の)陰謀!などと居もしない鬼の首をとったように騒いでいるのは、自分がもうマジョリティおじさんであることに気づかず反抗「児」を気取ってるオタク戦士と同様に、愚鈍で厚かましく、総じて恥ずかしい痴態だろう。
* * *
そんなわけで、アダムスキーの頃なら兎も角「政府の隠蔽工作」「政府とエイリアンの共謀」といった地上的な陰謀論に帰着して俄然つまらなくなってしまったUFO界隈、そのなかでも空飛ぶ円盤が墜落しただの異星人の遺体が運び込まれただの・の風説で特権的な聖地の座を保持しているアメリカ本土の基地「エリア51」をめぐる騒ぎには一貫して冷淡だった自分が。
食わず嫌いを克服すべく(?)視聴したナショナル・ジオグラフィックの動画
・
UFOと宇宙人:エリア51機密解除 (声:若本規夫) (YouTube/2021.05.14/外部リンクが開きます)
が「暴いた」同基地の「真相」は
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政府がひた隠しにしていたのはユーフォー(UFO)ではなくユーツーだった=同エリアが冷戦下で敵国ソ連を超高空からスパイするU2偵察機や、その後継機種であるA12(のちのSR71)、ステルス機F117など最先端機を極秘開発する拠点だという秘密だった。この秘密を隠蔽するため、逆に米軍はUFOの噂を流れるに任せ、時に利用すらしたという。
というもので、申し訳ないけど政府と異星人の密約をめぐる陰謀論より、
ずっと面白く、わくわくする「真相」だった。
事実は小説より奇なりと言うより両者がめざす方向は最初から別であり、そして事実は陰謀論より面白いし、小説も陰謀論より面白い。オカルトや陰謀論に飛びついてしまうのは(時に自分もそれに引き寄せられることを踏まえて言うのだけど)事実やフィクションの面白さを咀嚼できないくらい「胃」が弱っている時なのかも知れない。
実をいうとこの動画が面白かったため、長年の懸案だった『イリヤの空、UFOの夏』も読んで、この周辺に一つのケリをつけておこうと思っての遅ればせの読書でした。リアルタイムで読んでいたら刺さりっぷりも違ったかも知れない(残念ながら
「本も御縁なのだ」)。今はちょっと「こんなに批評性の高い作品を読んでおきながら今なんとかアノンに染まっちゃってる貴方がたは」とか、それでも皆この『イリヤ』ではなくエヴァやハルヒを選んだんだなぁという、まだ腑分けできてない気持ちがないでもないです。
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(追記/かなりネタバレ)『イリヤの空』(2001〜03年)は『エヴァ』と『ハルヒ』の間という捉え方も出来るけど、同時にたとえば新海誠監督が脚光を浴びた自主制作アニメ『ほしのこえ』(2003年)あたりと同列に扱ってもいい作品かも知れない。戦闘美少女とかセカイ系とか。こうして書くと「すまん、そういうのは詳しいひとに任せたい」となるし、オタクを名乗りながら今まで自分は何を読み見聞きしてきたんだと思わないでもない。
アンティゴネー、親鸞に出逢う(出逢わないけど)〜守中高明『他力の哲学』(26.05.23)
「結局のところ、私たちの社会の根本的な特性の一つは、運命が権力との関係、権力のとの戦い、あるいはそれに抗する戦いという形を取るということではないだろうか」
(これを引用するのはたぶん二回目だけどミシェル・フーコー「汚辱に塗れた人々の生」)
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そんなわけで
ソポクレース『アンティゴネー』(原著…原著?紀元前442年か前443年/中務哲郎訳・岩波文庫2014年/外部リンクが開きます)読みました。
たぶん「初めてアンティゴネー読んだ」と言うひとの中では最年長の部類ではないかと思うけど、別に恥じることではない。読んで得るものがあった・面白かったというほうが重要。
はい、面白かったです。そりゃあ面白いだろう、2500年も読まれ続けてるんだからというだけでなく、
本当に読んで面白い。ソポクレース(ソフォクレス)最も有名なのは『オイディプス王』だろうけど、この『アンティゴネー』が最高傑作と呼ばれてるのも分かる。なんつうかプロットが明解で、それでいて単純でない。いい読書でした。
半分くらいのひとには「おさらい」かも知れない整頓をしておくと『オイディプス王』より前に書かれた『アンティゴネー』だが作中での時系列的には後日譚にあたる。

テーバイの王ライオスは「自分の子に殺される」という予言を恐れ、妃イオカステーとの間に生まれた赤子を遠方に放逐するが、放逐された子オイディプスは自分が養子と知らぬまま彼は彼で「自らの父を殺し、母を娶る運命」という神託に恐れをなし故郷を離れての旅先で、実の父ライオスを、そうと知らずに殺めてしまう。そしてテーバイの民を苦しめていたスフィンクスの謎かけを解いて倒し、英雄となったオイディプスは王として迎えられ、そうと知らずに実の母であるイオカステーを娶って子をなすが、今度はテーバイに疫病が流行り、その原因が父を殺し母を娶った己の罪によるケガレと知ったオイディプスは自ら盲目となり(妻であり母であるイオカステーは自害)娘アンティゴネーに手をひかれ放浪の旅に出る…
分かり切ったことを書くのは簡単で楽しいなあ。
ソポクレース自身の作品として、放浪者オイディプスが埋葬場所を秘匿したまま亡くなったため、父の弔いができなくなったアンティゴネーの悲嘆を描いた『コロノスのオイディプス』(未読)があるのは昨年末の読書旅行で確認したとおり(
今年1月の日記参照)。
で、満を持して『アンティゴネー』。『オイディプス王』の最後で自らをテーバイから追放するオイディプスに「お前の子どものことは心配するな」と請け合った
クレオーン(1月の日記でライオスの弟と誤記していましたが、妃イオカステーのほうの弟でした)だったが、今度はその子どもたち―具体的には二男二女をなしたオイディプスの二人の息子が王位を争って、敗れた
ポリュネイケースは亡命先アルゴスの軍を率いてテーバイに押しよせ、迎え撃った
エテオクレースと相討ちで戦死する。いよいよ仕方なく(?)王位を継いだクレオーンは国を護ったエテオクレースを丁重に葬る一方、逆賊ポリュネイケースの亡骸は放置し、犬か鳥の餌食にせよと布告を出す。『コロノスの〜』の筋立てを知らなければ(そしてデリダに示唆されなければ)知らなかった、父も弔えなかったアンティゴネーが兄までも、と、そこにどれくらい重みがあったかは詳らかではないが、今度は決然とポリュネイケースの葬儀を強行し、叔父クレオーンの怒りを買って死罪を申しつけられる。

かくして『アンティゴネー』の主要登場人物はアンティゴネーと叔父であり現王のクレオーン、相討ちになった二人の兄たち、アンティゴネーの妹
イスメーネー。クレオーンと妃
エウリュディケーの間に生まれた王子
ハイモーンはアンティゴネーの婚約者であり、つまり現王はオイディプスへの「子どもは任せろ」の約束をキチンと果たしてはいたわけだ。そして終盤、オイディプスに呪わしい運命を告げた盲目の予言者
テイレシアースが今度はクレオーンの破滅を告げに来る―
もう一人、禁を破って叛徒ポリュネイケースを弔う者がいないよう見張る役目の
番人がいて、名もなき役ながら減らず口が達者で(古代ギリシャなのにシェイクスピア劇の登場人物みたいだ…こういうキャラって存外、古代の昔から確立されてたんだな)と思ったら、訳者解説で早速(?)この番人とシェイクスピア劇の近しさへの言及への言及(訳者自身はシェーに寄せすぎた解釈に批判的)があり、
まあ2500年も皆によってたかって有ること無いこと言われてきたんだから今さら誰もひっくり返して裏を見てない小石なんてありゃせんのでしょう。
そんな中でも一応「他の誰からの入れ知恵もなしに自分だけで発見した見どころ」ゆえ愛着あるクレオーンの変節(?)。1月の日記(週記)でも書いたとおり、前日譚の『オイディプス王』では王位ほしさに義兄ライオスを殺したのではないかとオイディプスに詰問され「
王の義弟として尊敬され、そのうえ王のような責務もない楽な身分を進んで手放す理由がない」と答えたクレオーンが、いざ自分が王位に就いたら頑なな権勢欲の権化となってしまうのが、逆に権力に、立場に縛られ呑み込まれてしまうってことなのかなと思う。
これは余談なんですけど、かつて丸谷才一先生がされてた話に印象ぶかいものがあって、クラシックコンサートだか歌舞伎の公演だかで先生が劇場を訪ねたところ、ロビーで見憶えのある人物を見かけたらしい。いや見たことがある気がするのだけど思い出せない、誰だつたかしらと少し悩んで、はたと思い当たったのが先日まで政府与党・自民党の幹事長だった人物だという。丸谷センセが見かけた「元」氏は好々爺然とした穏やかな佇まいで、つい先頃までニュースなどで目にしていた瘴気を放つような陰険さが霧消していたため彼だと分からなかったのだ―自民党の幹事長と云ふのは、なるほど人をあんなにも陰惨な容貌にする(権謀術数で気苦労の絶えない)役職なのだなあと改めて得心されたという話である。幹事長に限らず、たとえば防衛大臣の中に、任期中は党内のタカ派の方針を固守する横暴な人物にしか見えなかったのが、その座を退いてしばらくすると自党の右傾化に苦言を呈したり、人権寄りの発言をして反党分子あつかいされる人がいたりで、そういう側面もある人もゴリゴリの権勢モンスターに変えてしまう、やはり立場というのは恐ろしい(かも)と思ったりしないでもない。
まあ重要な役職に就く前からロクでもなくて、就任したらロクでもなさに拍車がかかる人物もいるし(現首相とか)、逆にずっとタカ派だタカ派だと警戒されていた石破茂氏がいざ首相になってみたら、ここ数代でいちばんマトモで穏健だったみたいな反証例もあるので「だから立場は人を変えるんだ、クレオーンしかり…」と完全に一般化できるものでもないのだろう。石破氏、韓国で大統領の座を退いたあと小さな本屋を開いたという文在寅氏にならって書店か古書店でも開いてみては如何だろう。僕の趣味には合わないような本が並ぶことになるのだと思うけど、まあ『丸』と『鉄道ファン』のバックナンバーを揃えて、同好の士に愛される姿がわりと浮かぶのだが(というか政界引退後、本屋を開いた姿を想像できる閣僚は少なくとも与党には他にいない気がする)
大幅に話が逸れたけど、まだ本題にすら入ってないんだぜ…
対立を深めるアンティゴネーとクレオーンが互いの主張をエスカレートさせてゆくのに対し、進んで危地に進む姉を案じる妹のイスメーネー、権力の虜となった父を翻意させようと遠回しに遠回しに(けれど結構ズバズバと)諌言を重ねる息子ハイモーン、それぞれ魅力的なキャラだけど、諌める言葉が対立する者をますます頑なにさせる悲喜劇については後に回して、そろそろ今回の日記(週記)の本題に入ろう。
今度はついこないだ・
今年3月の日記の「おさらい」になるけれどシモーヌ・ヴェイユも取り上げた
「私は憎しみではなく、愛を共にするために生まれてきたのです」という台詞はヴェイユならずとも『アンティゴネー』の中でも特に知られた名台詞らしいのだが(とゆうかヴェイユはそれに血も凍るような解釈を加えたというのが3月の日記の主題。実はそれも今回の日記の主題につながる)

今回の初読で心をつかまれたのは、その台詞・ではなく・むしろその直前にあるやりとりだった。
クレオーン (私が弔いを禁じたのは)
この国を滅ぼそうとした奴だ。一方は、守って立ち上がった。(中略)
立派な人間は受け取るものが悪人と同じではない。
アンティゴネー そんなことがあの世でも正しいかどうか、誰が知るものか。
この会話にあっとなった。ここでオイディプスの娘が叔父たる王に言い放った言葉を、別の言いかたで吾々はよく知っているはずだ。そう、ソポクレースの時代から1700年後・鎌倉時代の日本で言われた
「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人においてをや」である。
* * *
守中高明氏は浄土宗の僧侶として住職を務める傍ら、ジャック・デリダの翻訳も手がける異色の哲学者だ。
いや、仏教と(西洋)現代思想の融合なら他にも居るかも知れない。その著作
『他力の哲学』(河出書房新社2019年/外部リンクが開きます)に驚かされたのは、その驚きが
佐藤嘉幸・廣瀬純『三つの革命 ドゥルーズ=ガタリの政治哲学』(講談社選書メチエ/2017年/外部リンクが開きます)を読んだときの驚きと同種のものだったからだ。
これも「おさらい」で繰り返すと(
23年3月の日記参照)佐藤・廣瀬の両氏が『三つの革命』で打ち出したのは、ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリが連名で著した『アンチ・オイディプス』(←あらこんな処にもオイディプス)『千のプラトー』『哲学とは何か』は三冊が三冊とも
「資本主義の打倒という明確な目標設定の下で」書かれたものだという読解だ。
その三冊目『哲学とは何か』の主題「マジョリティであることの恥辱を痛感し、自らマイノリティに変成する」に、わざわざ変成しなくたって私ら黒人は最初からマイノリティですが?(あなたがた白人も遠からずマイノリティになるよ)と痛烈なツッコミを入れたカメルーンの哲学者
アシル・ムベンベ『黒人理性批判』(原著2013年→宇野邦一訳・講談社現代選書メチエ2024年/外部リンクが開きます)については
昨年11月の日記で紹介したとおりだ。
この(近年ひしひし感じる「マジョリティであることの恥辱」と比べて)最初は咀嚼が必要だった「マイノリティへの変成」について、
法然・親鸞・一遍がしたことがそうだと説いたのが『他力の哲学』だった。ブルデューの言う「文化資本」の権化=国権と一体化したエリート層からなる当時の仏教界に反旗を翻し、女人往生を含め、仏による救済を万人に開いた法然。自らも妻帯し、殺生を禁ずる仏教の道徳観で「悪人」とされた狩猟民や皮工職人などを同類・仲間と捉える(自らを「そっち側の人間」と規定する)ことで、まさにマイノリティへの変成を果たした親鸞。そして阿弥陀の救済を頼まなくても一方的に押しつけてくる恩寵として捉えた一遍の思想と実践を、著者はマルセル・モースの『贈与論』で説明するのだが、それはまた(モースのみならず)いわばレヴィナスの先取りとしても読み解き可能だと感じたのだけど、それは後日の宿題として―
佐藤=廣瀬がドゥルーズ=ガタリをズバリ
「革命」のため結成されたユニット・革命のためのプロジェクトと名指したように、『他力の哲学』は法然―親鸞―一遍の流れを「三つの革命」・
日本で最初に大衆運動(市民運動)
が出現した契機と捉える。権力構造の末端で国家や強者のおこぼれ=トリクルダウンにすがる「庶民」ではなく、トリクルダウンの構造から排除され自らもそんな構造「知るものか」と拒絶するマイノリティ。牽強付会?そうだろうか?事実この「大衆運動」は戦国時代、加賀に至っては百年近く住民自治がつづく「革命」すなわち一向一揆として結実したのではなかったか。

* * *
『アンティゴネー』に話を戻す。
この戯曲が読んでても痛快なのは―文字どおり「痛くで快い」だったりもするけれど―最初は「こちらの言い分も理がある」と思えるほどマトモに見えるクレオーンの物言いが、姪に噛みつかれ、息子にも苦言を呈されるうち、どんどん独善的に崩壊していくところだ。
クレオーンに限らない。作中をとおして変化せず一定の役割にとどまり続ける人物をフラット・キャラクター(平板な登場人物)と呼ぶらしいが、逆に『アンティゴネー』の主要人物はドラマチックに自身の発言をエスカレートさせていく。クレオーンの息子で婚約者アンティゴネーに与するハイモーンなど、短い会話のあいだで父に対する態度が
「あなたは有益な意見で私の規範となって下さいますし、私もそれに従うつもりです」
という服従ぶりから
「あなたの今のお言葉の、どの点がまともでないなどと、私には言えませんし、言えるようにもなりたいとも思いません。(しかし、他の考え方がよいということもあるかもしれません)」
(最後の台詞に括弧がついてるのは削除している版もあるため)と少しずつ叛意を差しこみはじめ―あくまで穏当に翻意を促そうとしたんだろうなあ―けれどかなわず最後には
「あなたは人の住まぬ土地なら、一人でさぞ立派に治められましょう」「あなたは喋りたいだけ喋って、聞く気はないのだな」「もう二度と、この私の顔を、その目で見、目撃することはあるまい。後は仲間内の唯々諾々連を相手に、狂っているがよい」
罵倒と完全な訣別に終わってしまう。
すまん、気の毒だけど、めちゃくちゃ面白い。まさに劇的。勉強になる。じゃなかった。
この
「仲間内の唯々諾々連を相手に狂っている」という諌言も含め、クレオーンの造形とゆうか彼が吐く言葉のいちいちは、まるで「頑迷な保守政治家」のテンプレートだ。
「祖国こそわしらを守る船であり、傾かぬ船に乗っていてこそ、友ができる」
「他人の奴隷にすぎぬ者は、大それた思いを懐(いだ)いてはならぬのだ」
「何事につけ、父親の意見には一歩下がることだ」
「国が任じた人物の言うことは、些細なことも正しいことも、否、その反対のことでも、聞かねばならぬ」
「女に屈服するなど、もってのほかだ。どうしてもというなら、男に追い落とされる方がましだ」
「国民がわしに統治の仕方を教えるのか」「わしは他人の顔色を見ながら国を治めなければならぬのか」「国というのは権力をもつ者のものとは認められていないのか」
これに対する息子ハイモーンの諌め
「ただ一人のものであるようなのは、国ではありません」も効いている。それを「独裁者」とか「家父長制の権化」とか責める言葉すら必要なく、こうして並べるだけで「
常軌を逸した為政者あるある」として現存の政治家の批判になってしまうのも2500年前の戯曲の手柄だろう。

なので今、国会議事堂前や各地の駅前でスタンディングしてる人たちには「2500年前からこういうのと闘ってきたんだよね」と実感できて勇気が与えられる古典かも知れない―モヤモヤしてることに名前が与えられる・言語化されることは、それだけで力になるものなのだ。
* * *
だからこそ、この独裁者に抗するアンティゴネーが拠って立つところが「国の法に対する家族の紐帯」「男性原理に対する女性原理(
いま反戦を訴えてプラカやペンラを掲げている人たちの女性優位に通じるものがある)」だけでなく、
地上の国家に対する「もう一つの国」神々が住まう天上や、死者が眠る地下世界の原理であることには、考えさせられるものがある。
前に述べたとおり(
昨年8月の日記参照)偶然ではあるが?親鸞と同じ頃のアッバース朝トルコの将軍が「慈善をなす時は見返りを求めるな」と子息に断言できたのは「
地上で報われなくとも善行はちゃんと神(アッラー)
が数えておられる」という確信が持てたからではないか…そんな感慨が、今もこうして自分の思考を規定している。
もちろん宗教がすべて正しいなどと言うつもりはない。9.11、魔女裁判、人民寺院、地下鉄サリン…反証はいくらでもある。多くの宗教が神の名のもとに地上の人々を虐げ、さらに非道いことには地上の国家原理と結託して暴威を振るいさえしてきた。
国家権力を体現したクレオーンに抗するアンティゴネーを、全肯定して神格化することも出来ない。ポリュネイケースは「奴隷ではなく」正しく弔われる資格があるという抗弁は、現代の吾々には受け容れがたい(彼女自身が女性であるがために奴隷と同様の扱いを受けていたことに激しく反発しながら、奴隷制には疑問を持っていなかったことは他山の石にはなるだろう)。
けれども改めて、一番の困難は、アンティゴネーが昂然と「
私たちは現世に生きているよりも、自らも死者となり死者とともに過ごす時間のほうがずっと長い(だから死者を尊ぶべきなのだ)」
と言える、その来世への確信が、現代の吾々にはないことではなかろうか。
今週の日記(週記)は・地上の法(クレオーン)→死者の法(他力の哲学)→地上の法(クレオーン)→死者の法とフーガのような構成になってしまったが、いま吾々が太平洋の反対側から見ている世界最強国家・の・指導者の狂態は、彼が地上の富と権力を吾がものとしながら、死後の生があることをどうしても信じられない悲劇に由来しているのではないか。彼がなりふり構わず地上の権勢を喰らい尽くそうとするのも、AI作成の画像で自らを死者を甦らせるキリストになぞらえさえするのも、どれだけ足掻こうが自分に死後の生があると信じることができない絶望ゆえに見えて仕方がないのだ。
その意味でドナルド・トランプという人物はとても正直なのだとも言える。彼は自らをキリストになぞらえるのでなく、自身がラザロのように死からキリストに救い出されるAIフェイク画像を作るべきだったが、誰かが―たとえキリストでも―そんなことを自分にしてくれるとは信じられないから作れなかったのだろう…
※
と思ったら自分がキリストに抱き寄せられるAI画像も投稿してた。どんだけ図々しいんだ。
・参考1:
トランプ氏、教皇を批判し自分をキリストのように見せた画像を投稿 支持基盤から批判(BBC NEWS/26.04.14/外部リンクが開きます)
・参考2:
トランプ氏、キリスト画像を再び投稿 「とても良い」(時事通信/26.04.16/外部リンク)
なんかすごい結論になっちゃったけど、いや結論じゃない、話の流れで最後のほうに出てきちゃっただけで(これがアンティゴネーもクレオーンも、もしかしたらハイモーンも陥った「話してるうちにエスカレーション」ですよ。ドラマツルギー。)ほんらい想定していた結論はこうだ、いや、死者の法を信じられないがゆえに(?)地上で絶賛崩壊中のトランプ氏の狂態を踏まえてなおこうだ:
「国というのは権力をもつ者のもの」と言い放つ独裁者の戯画が、戯画どころではなく現実と化した現代に生きる
吾々は、けれどそれに抗するのに、アンティゴネーや法然親鸞一遍・アッバース朝の将軍とは違い、死者や仏・アッラーなしに、
人間どうしの助けあいの枠内だけで「もうひとつの国」の法を打ち立てなければいけない。(権力者をしばる法である)憲法がそうだと言えるだろうか。心もとない気がする。いま権力に抗する人々は、わけても現代の日本で日本人として生まれ育った・神や死後の生を信じられない人々は、アンティゴネーや親鸞よりも困難な闘いを強いられているのだ。

ダビデがゴリアテに振りかざした投石器のかわりに、ペンライトを掲げて、今日も街頭に立つアンティゴネーたちの、悲壮な勇気に敬意を表する。
*** *** ***
(追記1)
いや実際、入管行政や在留条件の厳格化と称する改悪で、家族ぐるみや家族と引き離されて国外退去を余儀なくされる外国籍の人たちの苦境を見ると、まさに
「奴隷にすぎぬ者は(以下略)
」とうそぶく「国の法」に泣かされる「家族の紐帯」という意味で2500年一日にアンティゴネー的状況と思えるのでしたよ…
(追記2)
レヴィナスの思想を「人間は存在してる時点でその存在を神から一方的に贈与されている→だから直接神には返せないその負債を返すため自らも同じ地上の隣人に惜しみなく贈与するのだ(そうして神の意にかなった贈与のサイクルが地上で実現する)」と、すごく俗に解釈してるのだけど、神と言わずとも「全ての人は物心つくまで全く無力だった間に必ず何がしかの形で家族なり周囲の人間や社会なりに存在(の基盤)を贈与されている=近代人が自然人と称する人間の原初的モデルにロビンソン・クルーソーみたいに最初から独立した人間を想定するのはおかしい」と批判(あーだから「自然人」概念の批判であってレヴィナス批判ではなかった)したのは誰でしたっけ…?たぶん調べれば分かるんだけど(たしか女性)この路線なら神や死後の生は必要ないけれど、代わりに親や社会・国家への恩返し・忠誠を誓わされる方向に悪用されかねず「神が」「死者が」と言う時ほどの対抗力は(簡単には)持てない気もする。重要な論点なのですけどね。
『台湾でしたい50のこと』第2話 更新しました(26.05.28)
諸々の思惑により…具体的には週末には小ネタの拾遺をしたいので、予定(5/31)より少し前倒しで第2話を更新しました。
『台湾でしたい50のこと』第2話:羽田から飛行機で桃園へ

今回は羽田空港から飛行機に乗って台湾の桃園国際空港に到着・空港を出るまでということで、2017年に1回目と2回目の訪台(15年・17年)を題材に描いた同人誌と内容が少しかぶっています。
『行ってみようか台北に。』(BOOK☆WALKER)
(リンクを開いただけなら料金は発生しません。まずは試し読みからどうぞ)
今回は1ページ半で省略した羽田空港での前泊も4ページ位かけて描いてるので、
空港での前泊に興味がある未経験者(
ニッチすぎる)には参考とゆうか「あ、いいんだ空港に前泊して」と背中を押すキッカケになるかも知れません。
2017年頃はまだ線画をペン入れする段階までは紙の上で、ペン入れの完了した原稿用紙をスキャナでMacに取り込んで、Mac上でホワイト(細部の修正)・台詞入れ・スクリーントーンなど仕上げの工程を進めていました。2020年の新型コロナ禍をめどに紙の同人誌やリアルな即売会から撤退したのは、紙の上での作画が肩や肘に与える影響が耐えがたくなったのも一因で、酷い時には椅子に座って机の上で描くことも出来ず、床にベタ座りして机かわりのアイロン台の上に背中を丸めてかがみこみ、
版画を彫る棟方志功のように(
ほぼ誰にも分からない喩えを出すな)紙に目を近づけて作画していたのです。
・参考:
仏も鬼も人も花も愛おしい――棟方志功が彫った慈悲の美(WEB太陽/23.10.11/外部リンクが開きます)
それから液晶タブレットでの作画に移行し、慣れるまで1〜2年はかかったというか、
実はまだ慣れきっていない、のかも知れない。
いちおう絵の「解像度」は上がってるかも。今回描いた桃園国際空港の内側から見た屋根はこんな感じ。

台北駅のシンボルでもある吹き抜けの大ホールは、こんな按配。

上には上がいるし今どき絵を描いてる人たちの中では雑も雑だけど、まあ自分レベルでは細密度が目に見えて上がっている。
逆にアナログ作業だった2017年にも十分がんばっていたとも思うけど(自分レベルでは)。

この当時は光る板(同人専用のトレス台もあったけど、自分は写真用の薄型のパネルを使ってた)の上で写真と原稿用紙を重ねて、透けて見える写真をなぞっての作画でしたが、今はパソコンの画面上で線を引いたりできる。何度もやり直しできるし、紙のように目を限界まで近づけなくても画面のほうを拡大できる。
より細かい作画が出来るようになったとは、一歩まちがえば、いくらでも凝ったことができてしまうので「このくらいでいいや」という見きわめ・投げ出しも必要になる。
結局プラスマイナスで作業時間の劇的な縮小、とはなってない気がします(これがつまり「まだ慣れきってないかも」ということ)。
だったらもう、特に旅行記なんてのは
実際の写真ばんばん貼っちゃえばいいじゃんと思わないでもないけど、そうしないのは結局「それではつまらない」
なんだかんだ言って自分は「まんが」という面倒きわまる表現形態が好きなのでしょう。
そのうち写真を読み込めば「自分の望む画風」に書き換えてくれるツールが出来るのかも知れません(あるいは既にあるのかも)。そうなったら自分は、それで旅行記まんがを作りたいか。わりと作りたい気もします。もっと欲をいえば、自分の画風で登場人物の容姿を3Dモデルに読み込んで、それを人形のようにポーズ取らせて「演出」できるようになったら、自分はそれに作画全部お任せで「監督」に徹して満足か…
たぶん満足な気はするんですよね。いやどうだろう、目と口の表情くらいは自分で描きたいと思うか。「ほっぺの赤線は自分で入れたい」とか。フェチか。
ともあれ、現状おそろしく需要がない感じの手すさびですが、自分が楽しいので細々と続けられたらと思います。毎月、更新のたびに何かしら四方山話をして(今回だと作画の話)埋め草にしていく所存。
ちなみに台湾ドル(元)のレートは5/28現在1TWD=5.07円。少し下がったのか、台湾空港の両替レートが少し高め設定だったのかは不明です。
小ネタ拾遺・26年5月(26.05.31)
(26.05.02)
先月の小ネタの最後で、CDをパソコンに読み込んだとき一緒に読み込まれる曲名が時に不正確という話をした矢先。ずっと前に再読み込み(アップル製品でしか使えないファイル形式から汎用性の高いMP3形式に移行中)していた
Aphex Twinの二枚組「
SELECTED AMBIENT WORKS VOLUME II」(名盤)のCD二枚目がよくよく見ると

7曲目から最後の12曲目まで全て同じ曲名になってて(気づかず聴き流していた自分の迂闊さも含め)笑ってしまった。まあたしかにHexagonは親しみやすくて良い曲だけど、だったら全部Hexagonでいいじゃんとはならんでしょ。手作業で修正しました。
・
Aphex Twin - Hexagon(YouTube/外部リンクが開きます)
ちなみにCDを読み込むとき、曲名リストで複数の候補が出ることも多いのだけれど、
U2のサードアルバム『
WAR』は流石にバンドが気の毒というか、データベースを作った人たち舐めすぎじゃないか。
・

このリストの中では(WARの次に出た)The Unforgettable Fireが地味ながら一番好きなんだけど、だったらThe Unforgettable Fireでいいとはならん。そして「洋楽」の大雑把さは何だ。
(26.05.04)ひとつ前の小ネタで真正直にリンクを開いたひとは
素直すぎて投資話などに騙されないよう注意―ではなくて
・
Aphex Twin - Hexagon(再掲/YouTube/外部リンクが開きます)
を開いた先にある公式の曲名がHexagonではなく味も素っ気もない「#19」なことに気づいたはずだ。実はこれすら便宜上の呼称(てゆうか通し番号でしかない)でオリジナルのアルバムはCD二枚目の冒頭に収録されたBlue Calx以外は曲名も番号もない状態でリリースされている。
※Blue Calxだけは他のアルバムにGreen Calx、Yellow Calxがあるから何か思い入れのある曲名なのだろう(単に気まぐれかも知れないが)。
一昨年の自分の誕生祝いに買った
Marc Weidenbaumの解説書『
SELECTED AMBIENT WORKS VOLUME II』によれば(こんなニッチな本まさか邦訳はあるまい今後もされまいと思って洋書を買ったのだけど、ななんと邦訳もあったと後に判明…)

このHexagonとか、他はDominoとかSpotsとかついた曲名は、この謎めいたアルバムがリリースされた1994年=インターネット黎明期でGoogleもSNSもWindows95もなかった当時、ニューカッスル大学のサイトでテクノ関連のレコードを紹介するページを作っていた学生が、うえっこのアルバム曲名ないじゃん…ないとレビューとか書くのに不便だなぁ…なんかCDのスリーブには曲名のかわりにヘンテコな写真があるので

この写真はラジエーターっぽいからRadiator(仮)、この写真はルバーブの葉っぱぽいからRhubarb(仮)、ボンヤリしてるからBlur(仮)、こっちのボンヤリしてるのは白っぽいからWhite Blur(仮)、あっまた白くてボンヤリしてるコッチはWhite Blur 2(仮)だ…まさか世界中に広まると思わず適当につけた名前が「そうかこの曲はRhubarbなんだ」と世界中に広まってしまったらしい。
・
公式では「#3」として提供されているAphex Twin - Rhubarb(YouTube/外部リンクが開きます)
さらに後になってAphex Twin自体が類似した名前の別曲をリリースしたので、あーやっぱり何とかCalxみたく(ちなみにCalxも曲調はそれぞれ全然違う)Rhubarbって単語にもこだわりがあるんだねと誤解は深まったのでした。ややこしいことしてくれるわ→
・
Aphex Twin - Donkey Rhubarb(同)
ちなみにAMBIENT WORKS II、まだ日本語盤も出てない頃どこかの雑誌で「(中のひとリチャード・D・ジェイムズが)
夢の中で聞いた音楽」と紹介されていて、まあそんなこともあるのだろうと長年なんとなく受け止めていたのですがWeidenbaum氏の解説書によればリチャD、本作の制作中はガチに夢の中で聞いた音楽を起きてすぐ録音できるよう
寝室に録音機材を持ち込んだか録音機材の揃った部屋にベッドを持ち込むだかして寝泊まり生活を続けていたらしい。奇人なんです(今さら)。
(26.05.05)自分の中では生涯三大カレーに入る新潟の万代バスセンターカレー・を・再現してのけたと称する動画をいくつか観賞。九州ラーメンに使うようなとんこつスープを用いるのがコツらしいが近所のスーパーにはとんこつ「醤油」スープしかなく、コンビニの「とんこつ」カップ麺とスープ交換してみる。

しかし先に食べてみた麺のほう。カップラーメンじたい食すのも数年ぶりなんだけど、
か…かやくが…ない…麺とスープだけ。これが□ーソン(いちおう伏せ字)が売り出して物議をかもしてる○○だけ(白ごはんにソーセージのっけただけ弁当とか)ってやつかぁ。んー、もとよりカップ麺の具材に栄養面で期待は出来ないと言われればソコまでだけど、調理の手間とか省いて
オールインワンを(←ここ重要)すぐ食べられますってのが、この手の商品の存在価値ではなかったのか。とりあえず自分で端物の野菜だの肉だの入れてみる←こういうことが出来るひとなら鍋でお湯わかして市販の袋麺なり好きな麺+スープなり準備したほうがいいだろうに…

ま、本題はカレー。ラードで炒めた具材をラーメン用とんこつスープで一煮立ちさせ、水溶き小麦粉とカレー粉・黄色みづけのウコンを加える。あ、もちろん一味唐辛子も。けっきょく鶏ガラスープ(顆粒)や砂糖・ウスターソースなど加えて出来たものは「…たぶん違う」。新潟のバスカレーを僕は勝手に「小学校の給食カレーの完成形(理想形態・最高峰)」と呼んでいるのだけど、自分が作ったのは「まあ及第点な給食カレー」がせいぜいでしょう。いや謙遜でなく、学校給食を作ってくださってる方々のノウハウを舐めてはいけないというお話でした。

あらためて、万代バスカレーは(あんな穏やかそうな見た目で)辛さはバッチリ後を引くので、唐辛子はもう少し増やしていいのかも知れない。市販ルーを使わない小麦粉カレーの按配は分かった気がするので、次の機会には(入手が容易い)とんこつ「醤油」スープを使ってみよう。
(26.05.08)今年のGWは徒歩圏内を出なかったのだけど(
ただし自分の「徒歩圏内」は往復で三万歩までOKとしている)歩いて行ける地元で「反戦読書シッティング」という催しがあったので足を運んできた。コールなし・スピーチなし、皆ただただ本を読みふけるイベントで
「反戦・反差別・民主主義etc」「小説・ノンフィクション・絵本・漫画」「あなたの読みたい本をお持ちください」という文言に多くの方々は反戦の本・金子文子の本・公民の教科書などなど…プラカなども持参されていて、とくに「etc」「読みたい本を」あたりに甘えてしまい、深く考えず読み途中だった本を持参した自分はちょっと恥ずかしかった。
X(旧Twitter)のアカウントを持ってて「反戦・反差別・民主主義etcと言われて皆が読む本」に関心のあるひとは
主催者「のち」さんのポスト(X/外部リンクが開きます)に連なるツリーで撮影に応じた方々が掲げた書影を確認できます…
…が、言い替えると
Xのアカウントがなくてページを開いたひとは連なるツリーも、サムネとして切り取られた写真の全体像も見れないんですよね←ちょっと試して無理だった。XがTwitterだった頃はもう少し融通が利いたと思う。マスク本当にメルドだなぁ。
とゆうわけで、Xのアカウントを消した・あるいは最初から持ってない(
だからそっちのが健全な判断だと思う)人は、たぶんサムネは開けないと思うので不完全ですが
★こちらをどうぞ。(クリックで開閉します)。
ツリーひとつひとつにリンクを張ってみました。いやコレを全部開くひとは余程の本好きか、正義に飢えてる人でしょうけど。
その1(外部リンクが開きます)
その2(外部リンクが開きます)
その3(外部リンクが開きます)
その4(外部リンクが開きます)
その5(外部リンクが開きます)
その6(外部リンクが開きます)
その7(外部リンクが開きます)
その8(外部リンクが開きます)
その9(外部リンクが開きます)
その10(外部リンクが開きます)
その11(外部リンクが開きます)
その12(外部リンクが開きます)
その13(外部リンクが開きます)
その14(終)(外部リンクが開きます)
こう見るとテーマ選ばず系の人、自分以外にも結構いらしたようですね…とりあえず『光の犬』(小説)と『閑吟集』(中世の詞華集)が気になりました。次に機会があったら(わりとテーマに沿う方向で)アミン・マアルーフの『アイデンティティが人を殺す』あたりを持参して再読しようかと思ってます。
(26.05.10)基本いつも上の空なので、いつかやらかすとは思っていたけど最近よく作ってる米粉の蒸しパン(
先月の小ネタ参照)の砂糖をまるまる入れ忘れ「甘くない蒸しパン」を爆誕させてしまう。まあ最悪ベーキングパウダーを入れ忘れてペシャンコになる以外は
誤差の範囲(
自分の料理の腕に求める水準低すぎ)なので

甘辛く炒めた具材を割包ふうに挟んでみる。実は作るたび(毎食30gの砂糖は摂りすぎでは…)と気になってはいたので、こっち方面を伸ばしていく手もアリか。
(26.05.12)
5月10日のメイン日記が重過ぎたのでバランスを取りたくて言うのだけれど、AC/DCのファンのひとは漫才コンビ「タイムマシーン3号」関さんの半ズボンをどう思っているのだろう…(どうも思ってない説あり)
・参考1:
タイムマシーン3号 - 歴史を太らせる(YouTube/外部リンクが開きます)
・参考2:
AC/DC - Who Made Who(同上)
・参考3:
AC/DC - If You Want Blood(同上/終盤ショッキングな展開をするので注意)
ちなみにIf You Want Bloodの「ギターで刺されるアンガス・ヤング」は同名ライブ盤のジャケットにもなってるんだけど
・参考4:
『ギター殺人事件 AC/DC流血ライブ』(TOWER RECORDS/外部リンクが開きます)
日本のグループが作ったパロディのCDジャケ(未聴)が忘れがたいのでした。なんで情熱で殺されにゃいかんねん、いや、それを言ったらなんでギターで殺されなきゃなんだけど。
・参考5:
UP AND UNDER『情熱』(Yahoo!オークション/外部リンクが開きます)
(26.05.13)そして
5月10日のメイン日記で書き落としたこと。今年3月の石川県知事選は一昨年の地震・豪雨災害で無為無策ぶりを晒した現職(前職)馳浩が敗れたけれど、実は「順当に敗れた」わけではなかった。金沢市長だった対立候補の得票が勝ったのは金沢市と・隣接する白山市・野々市市くらいで、その他の市町は大きな被災のあった地域を含め現職(前職)馳の支持が勝ったことが選挙結果で見て取れる:
・参考1:
令和8年3月8日執行石川県知事選挙開票結果調(石川県/PDF書類が外部リンクが開きます)
・参考2:
石川県知事選、勝敗分けた金沢の得票 託される能登復興のかじ取り(朝日新聞/26.03.09/外部リンクが開きます)
参考2の新聞報道でも
「地震の被害が大きかった奥能登4市町では、山野氏を1・6〜2倍上回る得票で、復興政策への評価が、勝敗に直接結びついていないとみられる」とあるとおり、馳知事のもとで復興が進んでいない認識は共有されていたと考えた場合。にも関わらず有権者の多数が無策の現職を支持した「前例」が、ポテトチップスのパッケージが白黒になるくらいの「災害」に遭っても「被災者」は同様の行動をとる≒変化を忌避し与党の現職にすがるのではないか、という予測(懸念)につながり暗澹としてしまう。
石川県ではまだ災害対策本部による、豪雨で流入した土砂や泥水の除去・廃棄物撤去のためのボランティアの募集が続いている。
(26.05.14)巷間すでに言われていたことだけど、新聞記事の形になると自分のなかで確実度のレベルが一段上がる気がする、外国人労働者の日本離れ。
「日本で働く外国人は257万人(中略)
最大の送り出し国、ベトナムの現場に迫る」と銘打った東京新聞の連載記事。
・
連載 移民ビジネスを追う(全5回)(東京新聞/26.5.10/外部リンクが開きます)
5回それぞれの見出しは
(1)日本に来るため「相場の2倍」を請求され…「だからもっと働きたい」 お惣菜工場で頑張るベトナム人女性の事情(無料公開)
(2)「日本で働く魅力」が薄れてきた…ベトナムで募集をかけても人が集まらず「サクラ」を動員するケースまで
(3)働くなら「日本より韓国」の変化が起きている ベトナムの人材送り出し機関が懸念する「日本語の要求水準」
(4)外国人材の獲得は「国と国との競争」の時代 ライバル韓国は高給の専門人材を留学生から育成する新戦略
(5)外国人材にとっての「日本の魅力」とは? ベトナムで日本のものづくりを学び日本に就職を決めた若者の考え
今年の国会で成立した訪日・滞在手数料などの(「2倍」どころではない)大幅値上げが現実に施行されれば「日本で働く魅力の薄れ」にはますます拍車がかかるだろう。どうするつもりなのか。
東京新聞の記事は無料会員登録で月3本まで読めるので、少しずつ読んでいくつもり。
(26.05.15)自分の狭い観測範囲では既に「話題の記事」なので、わざわざ本サイトで紹介する必要はないのかも知れないけれど
・
カルビーの白黒印刷問題、ナフサは確保していると政府の発言がなぜ民間の実感とズレるのか(坂口孝則・Yahoo!ニュース/26.5.12/外部リンクが開きます)
筆者が
「簡略化して説明しています」と断っていることを、さらに端折ってまとめると、この原油供給危機にあって政府がガソリン価格のみに傾斜して補助金を与えているため、原油を精製する企業はナフサ生産を没優先にするのが合理的、それでポテトチップスのパッケージが白黒になるほどのナフサ不足が生じているという。
そしてこの不足しているナフサは、安定して大量を買い付けてくれる大手に優先して売られるため、資本金1億円未満の中小企業に調達リスクが集中しているらしい。
この、合理的な判断による没優先が、悪を為そうとは思っていないのに結果として弱者(この場合は中小企業)を窮地に陥れるメカニズムは、
アイリス・マリオン・ヤングが
『正義への責任』(原著2011年/岡野八代・池田直子訳・岩波現代文庫2022年/外部リンクが開きます)で説いた「
構造的不正義」
そのもので、今すぐ中学校の公民や、高校の倫理の時間に教えられてもいいくらい(悪い意味で)模範的な実例になってしまっている。
腹立たしいけど、やはり本を読んでおくのは(理解のために)いいことだと改めて思ったので書いておく次第。
その「構造的不正義」を是正できるのは結局のところ国家なのだ、と説いたヤングの言葉を(そもそも今回の窮状を招いたのは他でもない政府の短慮なのに?と)苦々しく思い出してもいる。(
24年10月の日記参照)。
(26.05.17)久しぶりに横浜市・弘明寺のアーケード街へ。今年2月にオープンしたばかりだというカレー屋の看板メニュー「スタミナ満天カレー」はカレー・肉・玉子の定番トリオに甘辛い刻みニラをトッピングしたのが味変で面白い。別に頼んだ日替わり野菜つけあわせ三点セットも○。今の住所からだと訪れる機会はなかなか作れないのだけど(あと外食自粛中)愛されて定着してほしいところ。健闘を祈る。

(26.05.18)署名:
華やかな-大阪-関西万博-の裏で苦しむ建設業者を救って-370億円の黒字の一部で-未払い10億円の解決を(万博工事未払い 解決を求める会/change.org/外部リンクが開きます)に賛同しました、いちおう良心とかあるので。
(同日追記)いや、全米図書賞で話題になった
柳美里『
JR上野駅公園口』で描かれた、東京オリンピック(など)が土木や建設の労働力として東北の人口を吸いよせ、消耗品として使い捨てていった無情が50年一日のごとく・より悪辣に再演されているかと思うと、心が痛むというか、ふつふつと煮えたぎるものがね…
(26.05.20)署名:
中東情勢によるナフサショック等の建設資材緊急対策を求める請願署名(建設労働組合 川崎市建設労働組合協議会/change.org/外部リンクが開きます)にも賛同しました。署名の提出先は(内閣総理大臣殿とか)集まればそのうちつくでしょう。
(26.05.20)署名ばかりだとアレなので載せておこうか、悪くない角煮丼に見えるだろ?車麩なんだぜ…

味はまあ、悪くない車麩ですね。もうちょっと焼き目をつけたほうが視覚・味覚(触感)とも向上しそう。精進します。←お麩だけに!
(26.05.21)近所のスーパーで値引きされていたドイツのビスケット。
LEIBNIZ(ライプニッツ)という名前だけで「なんとなく買わねば」と購入したのですが―別にライプニッツについて何か言えるほどの知識もないのだけど(
24年8月の小ネタや
25年9月の日記参照)―甘いビスケットの上に甘いクリームと小粒のマーブルチョコみたいのがトッピングされたコレ、一つ一つが「モナド(
よく分かってない)」ってことも、まあ、ないでしょう…

調べてみたらLEIBNIZ(菓子メーカーのほう)について言及してる記事を発見。ちょうど10年前の記事ですが「変わらぬ良い味(oldies but goodies)」みたいなイメージらしいので大丈夫でしょう、貼っておきます:
・
LEIBNIZ -ドイツのビスケット-(ドイツ不思議発見!/2016.11.06/外部リンクが開きます)
(26.05.22)
松本市の市街地に出現した熊、捕獲 公園の木に登る(信濃毎日新聞デジタル/26.05.22/外部リンクが開きます)市街地ったって松本市も広うござんすでしょ、と思ったらネットカフェがあるような最寄り駅から人間の足で徒歩30分(徒歩50分の南松本駅方面に向かっていたともあり)。周辺のイオンやドンキ、ツルハドラッグはそろそろ棚に熊除けスプレーを並べるべきかも…なんて悪い冗談は、冗談にもならないのだった。なにせスプレーの材料がそのうち枯渇する。いやそうじゃなくて。熊でも出没できる松本に自分は行く余裕がないのか(少しお金が貯まったら台湾なんて行っちゃうから)そうでもなくて。
(26.05.25)少し前に「猛暑→酷暑→次の段階の名称は」なんて大喜利みたいな公募がありましたが「虐暑」あるいは「滅暑」とか、どうですかね。暑すぎて滅。(
おじさんなのでネタが半年ほど古い)。ま、それは(良くないけど)いいとして。
熊本名物「いきなり団子」に添えられていた説明書き。間違ってないけど自分が知りたい「いきなり団子の由来」はそうじゃない。

で終わってしまっては話にならないのでネットで確認。いきなり団子の「名前の」由来は・さつまいもの輪切りを団子の皮で「いきなり」包んだ・「いきなり」の来客に対応できる簡単料理などだそうです。
・
いきなり団子(熊本市観光ガイド)(外部リンクが開きます)
なお同ページの解説によれば熊本ことばで片づけが出来ないひとを「いきなり」な人と呼ぶことから、雑につくる(つくれる)→いきなり団子という説もあり。思わぬ方向から流れ弾が飛んできました…(部屋の片づけをおろそかにして、こんな戯れ文を書いている)
(26.05.26)アニメ版
『上伊那ぼたん、酔へる姿は百合の花』オープニング映像(YouTube/外部リンクが開きます)40秒くらいからの、屋内で窓際に立つ「いぶき」さんを撮ってるカメラが引いていく映像。たぶん(
たぶんですよ)実際に寮の廊下の3DCGモデルを「組んで」、その中でヴァーチャルなカメラを後ろに引っ張るように「撮って」いるのだと思う(そうでないと右の窓枠の見えかたとか刻々と変わっていかない)。30年くらい前、そのへんすべて手作業だったろう時代のアニメでは、こういう映像を作るのは(刻々と奥行きが変わる背景を全部手作業で描かなきゃいけないわけで)えらく大変だったと当時のインタビューで読んだ記憶がある。押井守監督の映画版『攻殻機動隊』の最後、逆に建物の奥にいる少女版の「素子」にカメラが近づいていく場面の話だったのだが、あれが「手描きで大変だった」のか「手描きだと大変なのを当時は最新技術だったCGでやってのけた」のだったか、肝心なところが思い出せないのだけど。わざとローファイに仕上げられた映像が、実は最新の技術に裏打ちされてるとしたら、なんかそれだけで「今が未来」って改めて思う(それに引き替え、せっかく今回は最新作アニメの話を出来たのに、また30年前の作品を蒸し返してしまう自分…)
(26.05.29)で、
先週のメイン日記(週記)で宿題にしていた
守中高明『浄土の哲学 念仏・衆生・大慈悲心』(河出書房新社2021年/外部リンクが開きます)を読了。週記では前作『他力の哲学』(2019年)を足がかりに「死後の世界を担保にした現世権力への対抗」に親鸞(法然・一遍)とアンティゴネーを重ねたのだけど、さらに思索が深められた新著では(まあ先週の議論すべて無効化されるわけではないけれど)とくに親鸞・一遍の実践が「死後に浄土で安楽を得る」を超え「現生のうちに浄土を到来させる」階級闘争の側面が追求される。
その分、じゃあその実践を具体的にどう現代の社会生活に接続するかという困難は増すとして―
とくに打たれたのは、人が平等や普遍的人権を説くとき、それぞれの差異に先立つ同一性(おなじ「人間」じゃないか)を根拠とする思考は
「なにかを取り逃がしてはいないか」「なにか重大な欺瞞を隠してはいないか」という指摘だ(p61〜)。
※同じ人間だからという同一性に平等や人権を根拠づける方法の限界は、たとえば重度の障害者を前に石原慎太郎が「この人に人格はあるの」と問うた事件を個人的には思い出させる
【
29.05.31追記】つまり「同じ人間じゃないか」は「ここから先は人間扱いしないでいい」という線切りと表裏一体ではないか。人の健康を管理し「生きさせる」生政治は「生かすべきでない」者たちの排除と表裏一体だとフーコーが告発したように。あるいは「条件つきの歓待は、けっきょく排除の正当化ではないのか」と、アルジェリア生まれのデリダが告発したように(
今年1月の日記参照)。【追記ここまで】
…それ(ら)は自分ひとりの宿題として―
むしろ互いの差異を前提にした共同性―このところ本サイトで何度も取り上げている
「何も共有しない者たちの共同体」であるとか、また「死後をテコにする」に戻っちゃうけど「同じ人間だから」の積極性とは別の立脚点をもつように思われる
「土くれより創られし我が身なれば、それがありし何処も我が祖国にて、世の人すべて我が同胞なり」(11世紀シチリア出身のアラブの詩人アブー・アルアラブ・アッシキッリー)―のヒントを、たとえば手にしたばかりの
「わかりあえない他者を、敵にしないために」と帯文に謳う
朱喜哲『バラバラな世界で共に生きる リチャード・ローティの哲学』(NHK出版新書/出たばかり/外部リンクが開きます)にも見出せないかと読む前から期待しています。また来月。←早いか。
(26.05.30)「また来月」「また来月」と、いつまで此処に書けるのだろう。改憲が、廊下の奥に立っていた。
・
【速報】自民、国民投票法改正案提出へ賛同呼びかけ(共同通信47NEWS/26.05.29/外部リンクが開きます)
(26.05.31)
チョン・セラン、最初のころ読んだ『地球でハナだけ』の
「ダイオキシンみたいなヤツ、PM2・5みたいなヤツ、いや、マイクロプラスチックみたいなヤツ(中略)
メトキシケイ皮酸エチルヘキシルみたいなヤツ(中略)
もっとひどい罵倒を浴びせたかったのに、残念ながら語彙が足りない」も笑ったけど(強調は引用者…そんだけ語彙があれば十二分じゃね?)いま読んでる短篇の
「草花も迷惑かけずに挿入によって交わってほしいんだよね。草花の繁殖のために、なんであたしが苦労しなくちゃならないのよ」も理不尽でたまらない。てゆか世の草花が挿入によって交わってたら相当イヤな光景だと思う僕は幸運にして(ほぼ)花粉症は出ないのだけど、出る・重篤に出るという人は来春まで憶えてたら(そして来春なんてものがあったら)思い出してね。

終わりを迎えようとする世界に乾杯。「また来月」。