内奥まで・けれど等距離で〜大岡昇平『武蔵野夫人』『事件』(26.08.02)
「僕は別に文学を書きたかったわけではなく、ただ知りたいと思っていただけでした。しかし文学は一体書かれずに知れるものだろうか」大岡昇平(孫引き)
* * *
本当のことを言おうか。私は文学(小説)を知らない。
そんな谷川俊太郎ばりの告白をしたくなるような、実は自分は小説のことなんて何も分かってなかったんじゃないか・「またしても何も知らない舞村さん(仮名)」だったんじゃないかと動揺が停まらない、異様な小説に出逢ってしまった。
大岡昇平『
武蔵野夫人』(1950年/新潮文庫)。
いや今ごろ『武蔵野夫人』を初読するほうが余程おどろきだが。もう何十年も前に「そういう小説がある」と知ったものの、その時は読むタイミングがなくて、それが先月、市立図書館の棚で偶然「目が合って」せっかくだから読んでおくかとカウンターに持っていった。
凄い小説だった(自分的には)。
戦後すぐの武蔵野。国分寺市のあたりに恋ケ窪という地名があって、その周囲で展開する若い人妻・道子とビルマの戦場から引き揚げてきた従弟・勉の悲恋の物語だ。『野火』(さすがに読んでる)でも見られた自然風景への執拗ともいえる観察眼は本作でも健在で、

まだ農地か山林(里山?)で緑が深い東京西部の情景描写は一度「聖地巡礼」で現地を訪れてみたい・でもまあ当然のように小説で描かれた景色などコンクリに替わって見る由もあるまいと相反する感情にとらわれる…と言いつつ物語の後半、望みの薄い恋を諦めようと勉が移り住む五反田の風情は、たぶん間違いなく今の五反田には残ってすら居ないのだろうけど、ちょうど本書を読みながら(
また歩きながら本を読んでやがる)歩いたそのあたりに、なんとなく「ぽい」雰囲気を感じてしまったのは文学の魔術と言えるだろうか。
とはいえ「凄い」とたじろいだのは、そこではない。

たいがいの小説は、主人公の視点・目線で描かれる。たとえば「走れメロス」なら、メロスがどう思った(
まあのっけから「激怒した」なわけですが)か・何を見て何を考えたかは描かれる。けれど奸佞邪智の王(名前を忘れちまったなあ)や親友セリヌンティウス・妹やましてその婿や走るメロスに襲いかかる盗賊の内面までは語られない。
いやどうだったろう、語られたっけ。王はかれこれこういう理由で人を信じなくなり暴君と化したのだ、みたいなことは1)人々の伝聞という形で描かれた2)王自身の台詞として語られた・ならいいけど3)「このように王は思ったのだ」とか地の文で軽く書いてやがったっけ大宰。
まあ1)だったろうと思うことにして話を進める。
進めると言いつつ横道に逸れると、
あだち充氏のまんがでは、たとえ主人公であっても内面の声がフキダシで語られることはない。これは自分で読んで発見したこと。むかし兄が持ち帰ってきた『H2』を当時の最新刊(20何巻だったと思う)だけ軽い気持ちで読んでみたら存外おもしろく「念のため一冊前の巻だけ」「もう一冊前の巻も」と遡り遡り、最初の一巻まで読んでしまった不思議な体験をしたことがある。自分が夢中になるタイプの話でもないけれど、やはり一流なのだとは思った次第。

まんがでありながら手法は映画的といえるのかも知れない。カメラは人物の姿や言動を外から捉えるのみで、その内面にフキダシをつけて語りだすことはない。
小説にも映画的に外面だけ描かれるキャラと、内面まで描かれるキャラがいる。とくに顕著なのは一人称「私」で語られる物語だろう。『アレクサンドリア四重奏』でも『失われた時を求めて』でも語り手=主人公の「私」は(外面しか見えない)周囲の人々の内面を測りかね、思い違えては振り回される。
『武蔵野夫人』で読者が目にするのは、真逆の事態だ。道子。従弟の勉。道子の夫である秋山。秋山夫妻の隣人である大野。大野の妻で秋山と不倫関係にある富子。登場人物は少ないが、その全員の内心・内面が均等に地の文で語られる。それも「道子はこう思った」ではなく「
道子はこう思った。それはつまり、当人はこう思ってるが、実はこういう本心を自分でも気づかず抱いている欺瞞だった」みたいに当人の内心すら超えた冷徹な分析をもって描かれる。
「こうして彼の思想は自分の恋を社会化することによって、それを殺す方に傾いた。しかしそれは彼に、今この時道子は何をしているであろう、ほんとに自分のことはもう思ってくれないのであろうか、などと考えるのを妨げない。恋は思想によって殺し尽くせるものではなかった」
作者当人の述懐によれば、本作のこうした技法は
レイモン・ラディゲの小説『
ドルジェル伯の舞踏会』(1924年)に倣ったそうで、つまり先例のあるものらしい。
「盤上のチェス駒を動かすように」人心の機微を描くと評されるその作風・技法は『武蔵野夫人』ではチェス盤の駒というより、三次元の世界に住む吾々が二次元世界の人々の愛憎を、その内臓まで見透かすように見てしまう凄み・怖さを感じさせた。ラディゲの本歌を知らないので断言はできないけれど『武蔵野夫人』の筆致には、冷徹の一線を越えたニヒリズムのようなものさえ感じてしまう。どうかすると
「東京の山手の焼跡に彼は崖端浸蝕谷の美しさだけを見た。戦場で人間に絶望していた彼は、すべてを自然に換算して感じた」
と描かれるような(本作を支える重要な要素である)勉の自然観察への愛着と細やかさ(何しろストーリー的にも彼は多摩湖を観にいくのに従姉を誘った帰路、台風のせいで帰れなくなり連れ込み宿で一夜を過ごすことになる)すら、終盤では
「古代多摩川の三角州(す)が俺に何の関係がある(中略)
彼は初めて復員後彼に憑(つ)いていた地理的興味が一種の感情的錯誤ではないか、と疑った」
迷妄に過ぎなかったと断じられてしまうのだ。
『野火』の大岡昇平だ。この突き放したニヒリズムは戦場で培われたものでないと―いや安易に決めつける資格は吾々には、ないのだけれど。
ともあれ、すべてを(冷徹に・そして等距離に)提示しようという本作での著者の姿勢は、たとえば
「事件がそれを要求するまで、財産について語らなかったからといって、読者を欺(あざむ)いたことになるだろうか」
という一節にも明らかだ(強調は引用者)。【
ここから8/4加筆】ふつう物語の中で起きていること(まして各々の登場人物の内面や・さらにその奥に潜む人間的な本質など)すべてが読者に開示されることはない。むしろ読者は登場人物たちの言動から「これはこういう意味ではないのか」と読みを広げていくものだ。

すべてを読者に開示する(べきだ)という『武蔵野夫人』の姿勢は、読み手に誤読や深読みの余地を与えない。
【
加筆ここまで】
主要な登場人物すべての心理の動きを描きだす中、唯一その内面が明かされないのは大野夫妻の娘で九歳にしかならない雪子なのだが、まだ描くに足る内面の機微を持たない年齢ゆえに描かなかっただけと言わんばかりに「彼女のように両親に心を傷つけられた娘は、やがて誰かを傷つける女になるだろう(
メモを取りそびれたのでニュアンスです)」と、まだ来てもいない未来の姿を分析される(そしてその分析も、相当に肯定感が低い)。
なんて息苦しい、けれど濃密な小説。いや世の中の、大学でも文学部を選んだり、ちゃんと文学文芸・小説に向きあってきた人たちは、こんなものを読んでいたのか。
* * *
そんなわけで『武蔵野夫人』を読んで、ちょっと思ったのは「
この技法で書かれたミステリがあったら読んでみたい(かも?)」だった。いや、そんなこと可能なんだろうか。探偵も容疑者も、真犯人すらも「内心でこう思ってる」「が、それはこういう自己欺瞞なのであった」とすべて手札が開示され「読者を欺かない」ミステリ、あるいはアンチミステリ。
ところがここに、同じ作者の『事件』という小説がある。これは読むでしょう。

『
事件』(新潮社1977年→創元推理文庫2017年)。第31回日本推理作家協会賞。
欺かないよう大急ぎで言っておくと『武蔵野夫人』みたいな小説では、もちろんない。ほとんどの人物は外面の言動のみを描かれる。それはそれとして、本作も緻密きわまりない。神奈川の田舎町で起きた女性刺殺事件、容疑者として逮捕されたのは19歳の少年だったが、公判では思いがけない展開が…という内容なのだけど

やー法廷サスペンスなんて読むの『
カラマーゾフの兄弟』以来じゃないか、いや
佐藤賢一『
王妃の離婚』があったっけ、なんて与太はともかく、それくらい充実の読書。そして
「事故によらなければ悲劇が起らない。それが二十世紀である」
という『武蔵野夫人』の謎めいた一節を『事件』の「事件」に投影したり、まして「このあと彼は怪物になってしまうかも知れない」と言われた勉の「その後=怪物になること」を『事件』で裁かれる未成年の「宏」に投影するのは直前に読んだ別の本に引きずられすぎと言うべきだろう。けれど物語は宏の弁護を引き受けた老練な菊池弁護士を中心に描きながら、彼をも正義の主人公として理想化し感情移入させることは避けるように「ここで彼は(法廷上の駆け引きを)ちょっとやりすぎて判事に悪い印象を与えた」みたいに書いたり、あるいは終盤・判決前の打ち合わせで今まで名前しか出てこなかった若手判事が「異議あり」を唱えて最後までハラハラさせたり、明らかに弁護側に肩入れしてはいるだろうけど、やはり冷徹なまでに全てをニュートラルに捉える(まるで地形を眺めるように)独自な立ち位置は共通しているように思われた。
それを「突き放している」と断じてしまうには、僕は氏の小説を(そして小説全般を)読んでなさすぎる。突き放して描くことの是非も分からないし。

『武蔵野夫人』が敗戦直後の中産階級の没落を描いてどうとか、『事件』が都市化で変容する若者のとか、そういう社会的なテーマまでは到底到達しませんでしたが、こういう感想(日記)もいいでしょ。
要は「攻めあぐねました」「完敗でした」と両手を上げるしかない二冊。でもちょっとだけフフッてなってしまった箇所も『事件』にはあった。「内面」が語られる主人公格の一人=野口判事(ちなみに僕の地元ヨコハマの妙蓮寺に住んでいる・もちろん半世紀くらい隔たっているのだけど、なかなか好い処なので妙に嬉しいですね)を描く終盤の描写に
「判事にとって、一番いやなことは、法廷へ出ることである。といったら、大切な人民の裁判にたずさわる人間としてけしからん、と抗議が出るかも知れないが、どんなことでも、それが職業となれば、そういう心理になるのは止むを得ないのだ。弁護士だって、朝起きて一番気の重いのは、裁判のある日だし」
と寄り添ったあと
「新聞小説作家は毎日書き継がねばならぬ小説を、毎朝、重荷と感じているのである」
(強調は引用者)
果たして本作、1977年に単行本が刊行されながら60年代が舞台なのを訝しんでいたら、もとは61年から62年が舞台の新聞小説だったことを読後に知った。単行本の刊行が遅れに遅れたのは(希望の持てる話だ)考証の厳密をきわめるためだったらしいが、十五年を経て、またさらに後年も加筆を経てなお、この「新聞小説家はつらい」の一節が削られることがなかったのには、冷徹冷徹と重ねて評してきた作者の、思わぬ可愛さがこぼれ出ているようで微笑ましかったのである。やられっぱなしの今回、一矢報いた感じでしょうか。
この世の外に出る〜『ブードゥーの神々』『この世界からは出ていくけれど』『はじめて、びじゅつ』(26.08.08)
0) (マクラ)
前にも書いたかも知れないけれど『狂気の歴史』(口惜しいが未読)で一躍脚光を浴びたミシェル・フーコーは、どうしてそんなに狂気にこだわるんだ・あなたは狂気というものを肯定的にロマンチックに捉えすぎなのではないか―そんな風に問われ、こんな風に切り返している:「私ひとりが狂気というテーマに肩入れしすぎだと仰いますが、
私たち人類がパーティーだといって集まって、することと言えば何でしょう?お酒を飲むか、ドラッグをやって、皆で正気を失なうことではないですか」(正確な出典をいま思い出せないし探す余力がないので記憶による引用です)
もちろん『狂気の歴史』(返す返すも未読)でフーコーが描いた(
らしい)のは「ロマンティックな狂気」ではなく、おそらくそうロマンティックでもないだろう「狂気」を排除し隔離することで「正常」が作られていった歴史なのだろうけど、まあ生きてるうちに読めたらいいなと思っている同書のことはさておき。
* * *
1)ブードゥーの神々
ゾラ・ニール・ハーストン『ブードゥーの神々 ―ジャマイカ、ハイチ紀行』(原著1938年/常田景子訳・ちくま学芸文庫2021年/外部リンクが開きます)は、自分のために用意された―とは言わないまでも、ここ数年の自分の関心からは避けて通れない一冊だった。副題のとおり、ハイチにまつわる本だ。

本書が描くのは、
スーザン・バック=モース『
ヘーゲルとハイチ』がヨーロッパより早く人権憲法を打ち立てた先駆者と称揚したハイチではない。その「奴隷にあるまじき先駆」への報復としてヨーロッパや合衆国に発展の芽を摘まれつづけたと
浜忠雄『ハイチ革命の世界史 ―奴隷たちがきりひらいた近代』(岩波新書2023年/外部リンクが開きます)が告発する(
23年10月の日記参照)被害者としてのハイチでもない。
言い直す。自由や平等・人権や理性といった近代が賜った宝玉(ほうぎょく)を取り合う視点から、バック=モースはその宝玉は本来ハイチのものだったと画期的な論考をぶちあげ、一方で浜氏などは人類普遍に得られるべき近代の宝玉を西欧の暴虐で取り上げられつづけてきたハイチ(はじめ植民地)の悲惨を告発してきた。
※
その宝玉が実はキズモノで、外面(ソトヅラ)
では自由平等博愛を謳いながら、内面では差別と収奪が本質だったかも知れない二面性については一旦措く。一旦措くと言いつつ
24年4月の日記を蒸し返しておくし、その前週まさにバック=モースの見解として紹介した「
初めから革命は裏切られていた」も蒸し返しておくし、その破綻がパレスチナに顕現したことを告発するスラヴォイ・ジジェクのショート動画もリンクを張ってしまうわけだが
・
ガザで起きていることはヨーロッパの死であると語るジジェク[日本語字幕](YouTube/25.02.06/7分くらい/外部リンクが開きます)
けれどアメリカの人類学の草分けたるフランツ・ボアズ(
未読←正直)の、黒人女性としては最初の教え子だったハーストンが(奴隷階級から立ち上がりハイチ建国を成し遂げた初期の英雄ルヴェルチュールやデサリーヌには一定の敬意を示しつつ)1938年に描き出すのは、人権や平等あるいは理性といった近代の(ソトヅラの)精華に背を向け、別のルールのゲームを続ける=
だから近代化というゲームでは西欧に到底かなわないハイチの姿だ。
その「別のゲームのルール」とは、前近代的な権力争いであり、むせかえるような男尊女卑であり、そしてブードゥーの呪術だ。
今では原形をとどめないほど独り歩き…どころか近年は全力疾走するほど変わり果てた概念であるが、なにしろ「ゾンビ」概念発祥の地であるハイチ。死者と生者がふつうに共存(?)し、互いに影響を及ぼしあう、一時の富と引き替えに家族の命を差し出す取引をした人々の破滅の物語が複数形(人々)で伝えられるような地に取材して、現地の呪術師たち(複数形)に順調に弟子入りまでして、著者は、近現代の物質文明に生きる吾々が知らない「もうひとつの世界」に踏みこんでゆく。なにせ本書には「
この人はゾンビ」とキャプションのついた白黒の肖像写真まで収録されているのだ。
これは異世界の疑似体験、文化や制度の違いによって(個人どころか社会集団まるごとが)こんなに異なる様相で世界を認識しうるという疑似体験としては、相当なものではないでしょうか。
しかも世に流布するオカルト譚の多くが「エイリアンと裏取引している現政府」とか「成功をもたらすスピリチュアルな法則」みたいに現行の制度の中でチート(裏ワザ・ズル)をする話か、さもなくば○○の呪いのように現行の社会から滑落する恐怖しか語っていないのに対し、ハーストンが取材したブードゥーの世界は彼ら彼女らに上から課せられていた世界経済や世界情勢とは別の(死者たちの)世界を見ていた・別のルールに従っていたと思うとなおさらに興味深い。いや、もちろん命の取引で「富」を得るとか俗な利益はともなっているのだけど。

第一の問題は先に示唆したように、この「異なる世界の捉えかた」に―キリスト教やイスラム教が・あるいはサパティスタ運動の根幹にある中米先住民の世界観が持っていたような―社会そのものまで転覆する力はないこと。
第二の問題は、示唆される「別の世界」が、それはそれであまり感心できるものでないことだ。
同書解説(今福龍太)によれば、黒人ゆえの差別を受けない境遇に恵まれて育ったハーストンは、まず被害者として自己定義して→そこからの解放を唱えた当時の人種闘争に対し、白人社会など歯牙にもかけないコスミックな存在としての黒人(そして女性)の生の喜びを謳い上げる作家として、トニ・モリスンなど後の世代に多大な影響を与えたという。それはいい。
ただ彼女が取材したハイチやジャマイカの呪術社会は、搾取も不平等も男尊女卑もえげつない。フェデリーチが中世ヨーロッパの農村社会に・グレーバーらが北米先住民の社会に見た、近現代の吾々が良しとする自由や平等といった価値観の先取りは、残念ながらブードゥーの世界観にはない。アルコールやドラッグ・あるいは「狂気」によって異なる認知を得られますよと言われても、それが悪酔いやバッドトリップだったり「皆に陰口を言われている」みたいなパラノイアだったら、誰が(変化に飛び込む)赤いカプセルを選ぶだろう。
ブードゥー社会に(せっかく死者と生者の境界を取っ払いながら)みなぎる不平等・不公正は、その淵源であるアフリカの部族社会で既にそうだったのか。もしかして
アシル・ムベンベが告発するように部族社会の文化が西欧の植民地支配によって歪んでしまった(
昨年11月の日記参照)側面はないのか、それを確認する余裕は当面じぶんにはないのだけれど…
* * *
2)この世界からは出て行くけれど
ベンヤミン・ネタニエフやドナルド・トランプや(以下略)あるいはGAFAMやイーロン・マスクがのさばる現行社会の転覆については、いったん措こう。
またまた
キム・チョヨプで申し訳ないが
『この世界からは出ていくけれど』(原著2021年/カン・パンファ ユン・ジヨン訳 早川書房2023年/外部リンクが開きます)は逆に、世界や社会どころか生物的な条件が変わったため異なる現実認識をもつに至った人々を描く作品ばかりを収録した特異な短篇集だ。
ちょっと昔の本だけど、事故による脳の欠損で自分の右側しか認識できなかった患者など、さまざまな「異なる認知」を持つ人たちを紹介した『妻を帽子と間違えた男』ほか脳外科医
オリヴァー・サックスの著作のSF版といった趣きでもある。

事故などで後天的に失なわれた腕や足をまだあるように感じる幻影肢(ファントム。たとえば義足に馴染むために有用と読んだことがある)を敷衍して、本来なら有してない三本目の腕の幻肢に焦れる人々を描いた「ローラ」は全編の白眉であるように思う。同作が提示する「
理解できない相手を愛することは可能か」という問いは、腕の本数に関わらぬ本質的な問いかも知れない。
* * *
3)はじめて、びじゅつ。
亡くなった山田五郎さんが美術館や博物館は(他所から目玉作品を呼んでくる企画展も良いかも知らんけど)その館じたいの収蔵品を常設展で観なさいよ安いしという話をされてて、ちょうど東京都現代美術館が真夏の夜の時間延長をしていたのでコレクション展「
はじめて、びじゅつ」を400円で観て来ました。
・
サマーナイトミュージアム2026開催のお知らせ(東京と現代美術館/外部リンクが開きます)
・
コレクション展『はじめて、びじゅつ』(同/〜26.08.16)

作品じたいの写真が撮れなかったので相変わらず画像がさびしいのは仕方ないとして。
ナイトミュージアム本体は21時まででもレストランはオーダーストップの19時にギリギリ間に合わず、前に来たとき結構おいしい印象のあったパフェ(期間限定ものでメニューは変わっているけど)を試せなかったのは無念だったけど、それもさておき。はい、
ふつうに好い展示でした。

さまざまな作家の作品を少しずつ・雑多とは言うまい・ゆるい括りで並べた展示は、逆にSNSやショート動画の細切れに慣れた今の吾々には親しみやすいのかも知れない。(とくに日本で現代美術とゆうとイメージされがちな?)作家個人のアティテュードやパーソナリティ≒俺が俺がという自己主張とも違って、
Let me show you the world in my eyesとゆうか
If I can make the world as pure as strange as what I seeとゆうか(どっちも有名な歌詞なんで気になったひとは検索してください)それぞれの作家が異なる感性で捉えた世界の美しさ―ストレンジな美しさを、観賞という形で追体験できる感じ。
死者と生者の併存を社会単位で成立させたブードゥーの呪術世界。今の吾々とは異なる世界認知のありかたをSFという力業で提示したキム・チョヨプの短篇集。なんのことはない、(とくに現代)美術もまた、世界の認知を歪ませる・ぜんぜん別の感覚がありうることを観る者に示してくれるものでもあるのだ。これも前出の再度再度の蒸し返しだけれど、初めてドラッグを試した若年デヴィッド・ボウイが何てことない路上のひび割れに魅了され延々眺めて飽きなかったたという話を思えば、すぐれたアートはドラッグなしで・ドラッグのように異様な世界を見せてくれる。いや「異様な世界を」でなく、ラリったボウイがそうだったように、何の変哲もないと思っていた「この世界」こそ延々眺めて見飽きることのない「異様な」美しさに満ちていることを教えてくれる。
今回の展覧会では金氏徹平やガブリエル・オロスコの写真に「写真」「アート」として切り取ることで見慣れた風景が見慣れない「アート」として立ち上がる不思議な感覚を味わえた(オロスコの写真「
僕の犬のカウチ」はひとしきり感心したあと「
bokete(画像に可笑しなキャプションをつける大喜利)
じゃん」とも思ったけど)。
そして展示された「アート」から視点を横や下に外すと、目に入った周囲の壁や板張りの床に「この壁や床だって同じようなモノじゃん」「アートとして展示されてるモノと何が違うんだ」と気づく。悪口ではない。
昨年の暮れに
小石川植物園に行ったとき書いたように(あ、若年ボウイのドラッグ話はココでしてますね)植物園の中で珍しい植物を観て魅惑されるだけでなく、園の外に出ればふつうにある周囲のなんてことない街路樹や植え込みの草木・雑草までもが同じように美しく個性的なものとして立ち上がってくる・日常で摩耗したその感覚を賦活させるだけでも「植物園」としてキュレーションされた場所に出向いて良かったと感じた。同じように(すぐれた)アートは「この作品スゲー」だけでなく、そのスゲーと思った視線を美術館の外に逸らせば、外の世界=この世界も同様にスゲーと(再)認識させてくれる。
便器を美術展に出品したアート作家は「何が美術だ、この便器と変わらないじゃないか」と言いたかったのかも知れない。けれど逆に、いちどアートを鑑賞した目は「
なんだ、身の回りの事物だってアートじゃないか」と認識を改めることができる。

そんなんじゃツマラナイ、もっとこうドーンと!バーンと!認知が書き換えられる異常体験がしたいんだよ、という中学二年生みたいな抗議は
自分の中でいったん棚上げにしよう(
あ、そういう気持ちはあるのね)(そして「いったん」てことは
完全には諦めてないのね)
いま確認しておきたいことは二つ。
ひとつは疑問で「アルコールやニコチン・ドラッグで酩酊する皆さんは世界の認知が変わったと思うんでしょうか」自分は知覚の変容にすごい興味があるけど下戸なので、アルコールで酔えるひとが羨ましいと言いすぎて「そんな期待するようなもんじゃないよ」と窘められたことがあるけれど、どうなんだろう。
ふたつめは疑問というより課題・宿題なのだけど、
アートが人の認知を変えるとして、それを社会(の不公正)の転覆にどう接続していけるのだろう。
アルコールがもたらす酩酊・知覚の変容は―最後の晩餐の「このワインを私の血と思って飲みなさい」から金曜夜の居酒屋の「イェーイ!乾杯」まで―(既存の)共同体の結束を強めるか、あるいは共同体から一人酔いへと滑落するひとを生むばかりで、まあ歴史上「タバコ喫って革命」「酔った勢いで政権転覆」なんてことはなかった気がする。ボストン茶会事件を思えば、紅茶のほうがよほど既存体制への異議申し立てにつながったというのは冗談として―
ブードゥーの世界観が、近代西欧のネガである植民地支配に抗するのに利さなかった(らしい)ことは書いた。
アートが時に体制を翼賛する諸刃の剣になるのは分かっている。せめて諸刃ならば一方の刃は、人の世界の近くを揺さぶり賦活するとともに、その揺さぶりが「このままではいけない」「もっと公正な社会を」という変革や転覆に接続できるものには、なれないものだろうか。
今回の展覧会のタイトル「はじめて、びじゅつ」の由来になったという作家・大岩オスカールの組作『
戦争と平和』には、厚顔無恥に「戦争できる国へ」を標榜する官産複合体の政治家たちに冷や水をぶっかける政治的な力が確かにある。
作品は作品そのもののために作られるので、メッセージ性などは邪道だという意見にも一聴の価値はある。けれどアートと通して世界を認知する仕方を変えられるなら、せめて悪酔いやバッド・トリップでなく、もちろん体制への迎合でもなく、より望ましい世界への変成を願ってもいいのではないだろうか。
追記1)とはいえ「現代に生きる吾々」の世界認知だって一枚岩ではない。まだ勉強中で何か知ったげに言えることはないけれど、障害者やLGBTQ(SOGI)の人たちに見える世界のことを少しずつ読んでいる。
追記2)ずっと行きそびれてるのだけど、東京都現代美術館の向かいには(バーミヤンなんかと並んで)ミールスやマサラドーサなど南インド系のカレー店があって気になっている。日中に訪なうひとには試してみてほしい。
追記3)高校の美術の授業でメゾチントを制作したことがあって、もちろん高校生が週に一時間だか二時間だかの授業で銅板に刻み目をつけるわけにもいかず透明なプラ下敷きを削ったのですが、世界的にも珍しいというカラー版メゾチントで知られる
浜口陽三の展覧会が丁度やってたのを観に行ったことがあった。今回の現美の展覧会では彼の代表作・さくらんぼのメゾチントも一点展示されていて、そーか、現代美術だったのか浜口陽三。
・参考;
ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション(外部リンク/ここも十年以上前に観に行ったなあ)
【電書新作】スポーツ漫画を描いてみませんか?と遠い昔に誘われたことがあって、ハハハ無理ですと丁重にお断りしたけれど「20年後なら描けるかも」と答えていれば良かったか。人は変わるし世界も変わる。『
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書誌情報(発行物ご案内)はおいおい更新していきます。(22.11.03)