能登ボランティアと石川県立図書館(24.10.06)
ちょっと驚いたこと。金沢で見かけた宅配ピザ店、「STRAWBERRY CONES」というピザ屋らしからぬ名前におぼろげな記憶があって、たぶん15年くらい前にバンクーバーで一人ブランチをしたのが同名のピザ店だった、気がする。北米資本の外食チェーンが日本まで進出したかぁと確認してみたら
逆に日本のチェーン店の海外進出だったらしい;
ストロベリーコーンズ(Wikipedia/外部リンクが開きます)。日本での同店は宅配中心だし、ネット地図で確認したバンクーバー店の位置は記憶と違う感じもするので、記憶の捏造かも知れないけれど、もし実際そうだったなら…
面白いけどつまんないなあ(わざわざカナダで日本のチェーン店)(まあバンクーバーのチャイナタウンでチェーンのピザ食べてる時点で相当つまんないのですが)(貧乏旅行だったんだもん)…
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9/21の豪雨で居ても立ってもいられなくなり、10月頭の日程をこじ開けて一日だけ能登にボランティアに行ってきました。
申し込んだ行き先は前回(
7月の日記参照)と同じ輪島市。
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令和6年能登半島地震・令和6年奥能登豪雨 石川県災害ボランティア情報(外部リンクが開きます)
前回は地震発生から半年ということもあり、行き届かないところは行き届かないなりに(
それは全然よくないのですが)、ボランティアが引き受けられることは縮小ぎみな感もあったのですが、今回の豪雨で輪島や能登町それぞれ100人単位の大規模の募集がかかり、事態が急すぎて募集枠が埋まらない9月最終週の様子など歯がゆく見ながら、10月頭の日程を取りつけました。
同時に前回「あった方が良かった」と思ってたヘルメットと安全靴・後者は水害関連を想定して長靴タイプを追加購入。かなり抑えた(貧乏なんだもん)今回の費用はこんな感じ:

高速バスで石川入り→作業→宿泊せず高速バスで帰るのも理論的には不可能ではないけど体力的に無理だなと思い、現地で一泊してから帰りました。宿代が異様に安いのは貯まってたポイントや期間限定クーポン使用のため。
往路のバスが4列席なのは金沢駅での集合時間(朝6時半)に間に合う(5:50到着)便が他になかったため。そもそも高速バスで東京から石川まで行って、その足でボランティア作業ってキツくない(舐めてない)?という懸念もあったのだけど、東京からの夜行が出る新宿のターミナルで、自分以外にも大荷物にヘルメットをくくりつけた人たちが次々とバスに乗り込み、この人たちは流石に観光かなと思った御夫婦も金沢に降りたったら作業靴に履き替えて集合場所に向かっていくのは壮観でした。リュックにヘルプマークをつけたひとがいたのも。
少しお話したところでは大阪から栃木から神奈川から(これは自分)、自分と同じように夜行バスで、あるいは「いい機会だから新幹線で」、自家用車の車中泊で、今回が初めてのひとも、30回くらい足を運んでる猛者も「これは自分が行くべきだ」と思った人たち。まるで映画『パシフィック・リム』でKAIJUの襲撃を防ぐため凍土壁の建設現場に参集した人たちのようだと思った…というのは、もちろん映画の凍土壁ではKAIJUの猛攻を凌げず、巨大ロボ・イェーガーで倒すしかなかった、
イェーガーを操縦できるパイロットは何してんだよ?いるんだろ?という憤懣も含めた比喩。なので抑える。
金沢駅からボランティア送迎用の無料バスが出ていて、ここでの集合時に配られた案内書(ボランティア活動の注意書きなどある)に印刷されたQRコードを使って、スマートフォンで最終登録をする仕組み。輪島の場合は片道2時間ほどバスに揺られて現地のボラ基地に到着します。

事前のオリエンテーションで、社会福祉協議会の人から「個人や(倒壊家屋を含め)個人のお宅などプライバシーに関わるものでなければ、どんどん写真を撮っていい、積極的にSNSで発信していい」と発言があって、前回7月はそうゆうの無かったので、担当の人によるのかも知れないけれど、
特に今回の豪雨で「このまま見捨てられてしまうのでは」という切迫感・危機感があるのだと思った次第。

同じ輪島市内でも特に水害救援のため振り分けられた地区の募集があったけれど、ふつうの募集も作業は概ね豪雨被害からの復旧作業だったようです。かく言う自分が割り当てられた班も、泥かきに参加。
なので今までにもまして破傷風ワクチンの接種は必須と思われました。そしてワクチンは接種から効果が出るまで一ヶ月くらいかかるので注意。
全10班それぞれに用意されたスコップ・スクレイパーやデッキブラシ等々の用具は全国から貸与されたもの。底が抜けたバケツという不思議な備品もあって「知ってる、水を呉れって言う妖怪に船を沈められないよう底が抜いてあるやつだ」
違います。泥をしゃくって袋に詰め土のうにする、そのとき袋のほうを持ち上げると重いから底を抜いてバケツのほうを抜ける仕組みだそうです。

もっとも作った土のうも重すぎたら運ぶのに不便なため、実際は底のある小ぶりなバケツに一人で運べる量の泥を入れ、どんどん運ぶ形をとったりもしました。

そのバケツやらスコップやらを携えて、自分の班が訪ねたのは市の中心部を貫く河原田側から数十メートル離れた一軒屋のひとつ。川の随所に渡された橋は通行止め・橋桁には塊になった流木が残っており、これが豪雨の当日には川を塞き止めて水を周囲に溢れさせた由。玄関横の郵便受けの高さまで水が来て、表向きは水が引いた一週間後も、床を剥がすと深さ20cmはあるダークチョコレート色のねっとりした汚泥が池になっている。
掻き出し担当が長靴で足を踏み入れ、先の平たいスコップや、水位が低くなったらチリトリ、で汚泥をすくい袋に入れる。バケツの口で袋を広げていた袋担当が重たくなった袋を引き上げ、外に運び出す担当に渡す。リレー方式で午前午後あわせて実働時間は3〜4時間くらい。金沢との往復だけで5時間はかかるし、体力や集中力を考えると(なにしろボランティアが怪我したり事故になったら元も子もない)取れる精一杯の時間なのだけど、四畳半あるかないかの小部屋の下の汚泥をおおむね掻き出して一応の達成感を分かちあったけど、家全体の床下には全然およばない、ましてそうした家が何軒も何十軒、あるいはそれ以上も…と考えを巡らすと、やはり思うところはあります。
「正月の地震より今回の水害のほうがキツい」という声も現地で伺ったことも特筆しておきたい。乾けば乾いたで粉塵が目に入るなどの声も既に聞かれていました。もちろん泥や乾いた粉塵はまったく衛生的ではない。東日本大震災で津波の被害を受けた気仙沼の、一面が瓦礫→更地になった一帯で鼻をつく異臭が二年後も三年後も残っていた、その中を地元の中学生たちが自転車で行き来している、十代の時期をそんな環境で過ごす子たちの心境を想像して、途方に暮れたのを思い出した
…こういう話に何処かで接して逆効果で「やだーフケツで関わりたくない」と思うひとたちがいたら心外だし、そんな人たちがそもそも震災後の復旧をここまで遅らせてると、
あーダメだまた憤怒が出てしまう。

泥水に踏み入れスコップで掻き出す担当になった自分は、買ったばかりの長靴はもちろん、元々不器用なのもあって作業用ズボンの膝上まで泥まみれ。作業後は濡れるのも構わず水をぶっかけブラシで泥をそぎ落とし、まあビショ濡れなんだけど金沢までには乾くだろう、夏で良かった(
10月)、これが冬だとどうなるんだろう…バスのほうはかかる事態も折り込み済みで、戻ると座席にビニールシートが隙間なく張られていて、それでも床のじゅうたんに落ちた泥のカケラとかは大変でしょう…
こうしたバスの費用などは
全国社会福祉協議会(外部リンクが開きます)への寄付などで賄われてるはずなので、自分は動けないが…という人はそちらも御検討いただけると幸いです。
そんなわけでバスの運転手さんにも感謝とねぎらいの気持ちしかないけれど
行き帰りのバスのガタガタ揺れが、日中の泥かきよりハードだったのも事実。震災後の復旧や整備が追いついてないのだろう、海沿いも里山の中も風光は至って明媚なんだけどガタピシぶりが半端ない。往復ぶんの液キャベをコンビニで確保しといたほうがいいと思います。いや本当に風光明媚で、ボランティアではない魚のほうの
ボラ待ちやぐら(ほっと石川旅ねっと/外部リンク)なども拝めて眼福でした。でも液キャベ推奨。
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深夜の高速バスで金沢に駆けつけ、その日の新幹線で東京に戻った人もいるのでしょう。僕は上記のとおり一泊してから翌日の夜行バスで帰路につきました。むかし何度か、まさにカプセル型のホテルに泊まって無理だと思ってた自分ですが、高い天井の空間をベッド一枚分だけの横幅で区切ったキャビン形式は存外快適に休めたのも夏の二回の金沢泊での発見でした。
翌日は休息だけが目的の余暇だったので、観光やグルメなど特筆すべきことはありません。
と言いたいところだけど、石川県立図書館は本当に良かった。向かいの金沢美術工芸大学もグッドルッキングな建物群だったし(余力がなかったけど、あれば散策したかった)

世界で10だか20だかの美しい図書館だか何だかに選ばれた県立図書館も、本好き・読書好きには心から癒やされる場所なはず。金沢は海のほうにある市立図書館も世界なんとかに選ばれてるけど、個人的にはこちら(県立)のが一段上だと思う。内側だけでなく、建物まわりにも気候のいい時は読書に最適なベンチなど多く配置されてるし

さらに中の、これでもかな本と読書の空間。様々なタイプの座席が用意されていて、図書館でもここまで本が読みやすい場所って中々ない。ここの蔵書じゃないけれど、持参していたミステリ小説をひたすら読んで過ごしたのでした。併設されたカフェの季節メニュー・かぼちゃのキッシュも美味しかった。

生活が破壊された土地で泥を掻き出した翌日に、まるで正反対の穏やかな場所を味わったのは皮肉とも言えるけど、この社会がカギカッコつき「復興」のゴールとしている【高額なブランド品を売るショップが建ち並び・それを広告代理店が巨額のギャランティで宣伝し・広告代理店が都庁や何やらをライトアップで飾り立て・国家がオリンピックやら万博やらブルーインパルスやら軍備増強で飾り立てた「回る経済」】が、本当に被災地が(数多くの「被災地」を抱えた日本が)導かれるべきゴールなのか、それとは別に「公で共有される沢山の本に囲まれ、椅子に腰かけて心ゆくまで心を休められる」そういう「正反対」もあるんじゃないか―そんなふうに今は考えている。
外国から日本に観光で来ている人たちは金沢でも少なからず見かけたけれど、そうした人たちが求めているのも世界中どこでも変わらない寡占ブランド品ばかりではないとは考えられないか。いや、このへんは未だ上手くまとまってないから言わないけれど。
お寿司でも治部煮でもハントンライスでもない、サラリーマンが詰めかけるような食堂で、自分と同じように豚バラ定食を食べる白人の二人連れを見て(通りすがりの観光客とは限らないけど)こういうところまで来て「くれる」人たちがいるのだなあと思ったりしていた。

宿に向かう道すがら、夜の金沢駅前で地図を片手に立ち往生している白人の老夫婦を見かけ「May I help you?」と声をかけたら英語が分からないイタリアから来た人たちで「しまった…」と思った話、県立図書館の近くにイイ感じの洋食屋があった(お値段もイイ感じかも知れなかったのでスルーした)(貧乏旅行だから…)話は、気が向いたら別の機会にでも。
誰がモーセを殺したか〜ジークムント・フロイト『モーセと一神教』(24.10.13)
「お〜いお茶」及びその後追いで派生した「はいお茶」「あなたのお茶」等々の中で、いちばん臆面もない名称と思われた「
素晴らしいお茶」を遥かに凌駕する「
偉大なおむすび」なる商品名に出会った午後。

ちょうど読んでいた『モーセと一神教』の、ちょうど読んでいた箇所が「偉大さとは何か」と説いている箇所で、
これってシンクロニシティ?とフロイトならぬ
ユングの用語を思い出してしまった…という冗談はさておき。フロイト先生に言わせると「偉大さ」とは(単なる優秀さや卓越ではなく)人が屈服したい・支配されたい・なんなら虐待されたいとすら思うような権威、すなわち「父親の属性」なのだった。うーん、するとコレはいわゆるエディプスの父殺しか、と思いつつ「偉大な」おむすびをムシャムシャ…という冗談もさておき。
僕などは
ジョージ・オーウェル『一九八四年』にインスパイアされた
デヴィッド・ボウイの名盤『
ダイアモンドの犬』(1974年…
いつもボウイの話ばかりですみません)のラス曲のサビを思い出してしまう:
「Someone to claim us(私たちに強いる者)/Someone to follow(追随すべき者)/Someone to shame us(私たちを辱める者)/Some brave Apollo(アポロン神のごとく雄々しき者)/Someone to fool us(私たちを馬鹿にする者)/Someone like you(貴方のような者)」
『一九八四年』の国民になりきったボウイが狂おしげに「私たちが求めてるのは貴方なんです」と呼びかけるSomeone(誰か)が、スターリンをモデルにした独裁者=「
偉大なる」兄弟であったように(
We want you, Big Brother)
20世紀とはスターリン、もちろんヒトラー、あるいは毛沢東、ポル・ポト…「偉大な」首領たちが人々を屈服させ辱める時代だったとも言える。その真っただ中で迫害されるユダヤ人だったフロイトは「偉大さ」を奪い返すことで反撃を試みたのかも知れない…
今週の日記(週記)、もう
まとまってしまった?
…
そんなことはありません。順を追って説明します。
* * *
ジークムント・フロイト『モーセと一神教』(原著1939年/渡辺哲夫訳・ちくま学芸文庫2003年/外部リンクが開きます)。はい、夏の18きっぷ旅行・岐阜で行きあった古本屋で「この店が勧めるなら」と手にした一冊(
7月の日記参照)です。
本人も19〜20世紀の「偉人」には違いないフロイト。世に多大な影響を与え、同じくらい批判も拒絶もされている。実は僕も食わず嫌いで、気にはかけつつ
本人の著作を読むのは初めて。それも最晩年の、支持者にも「どうなのコレは」と言われる(らしい)異色の書。でも自分には、思った以上に「フロイトらしさ」が一貫した遺著に思えました。
しかし、まずは前半が純粋に読み物として面白い。著者がフロイトでなくても良いタイプに面白い前半・の話をさせてほしい。
本書がいうモーセ・日本では一般に「モーゼ」として知られるユダヤの宗教的指導者。説明はいいでしょう。十戒。
発破かけたげる(そっちじゃない)。出エジプト。
海が割れるのよ(そっちでもない)。
旧約聖書における彼の出番=出エジプト記は創世記の次にあたる。神ヤハウェ(エホバ)による天地創造もアダムとイブの楽園追放も、カインとアベルもノアの洪水も、バベルの塔もソドムとゴモラの滅亡も、アブラハムと七人の子も、なべてモーセ誕生以前のエピソードだ。
にも関わらず、唯一神ヤハウェ(ヤーウェ)への絶対的な帰依・ユダヤ教の根本は途中から現れたモーセによって確立された・旧約聖書に記された彼以前のあれやこれやは遡って作られた(少なくとも整頓された)という解釈が、そもそもフロイトの立論の大前提となる。たとえばユダヤ教の慣習である男子の割礼は、旧約聖書だとアブラハムの時代に神との契約で定められたのだけれど『モーセと一神教』ではモーセがもたらした掟とされる。
そのうえで。本書が提示するのは、モーセ自身はエジプト人で、外来者として、被支配民族だったユダヤ人に唯一神ヤーウェの宗教をもたらしたという説だ。しかもソレは、天地創造によってエデンの園に生まれたユダヤ人の創案ではなかった・だけでなく、ユダヤの民に十戒をもたらしたモーセ個人の発明でもないという。中学や高校で学んだ世界史を思い出す人も少なくないはずだ。そう、古代エジプトの王(ファラオ)
アメンホテップ四世。彼が自らの名を
イクナートンと改め、太陽神アトンのみを崇める新宗教=歴史上で確認できる最も古い一神教を興すも、その改革は一代で潰えたとは歴史の教科書で知られるとおり。だが潰えたと思われたイクナートンの唯一神崇拝を引き継ぎ、思想的に純化したのがモーセ(とその後継者たち)がユダヤの民に与えたヤーウェ崇拝だとフロイトは主張するのです。
すごいでしょ?
世界史上のトップスターであるモーセとイクナートンがつながってしまう驚き。カッコウの托卵のように、一つの国や民の拠って立つ基盤が実は外来であるという驚き。後者は日本も百済との関係などあるわけで、こうした事例って意外にむしろ普遍的なのではと思ったりもするのですが勉強不足なので措きます。もちろん、フロイトの説に関しては「すごい」と「ヤバい」は紙一重で、晩年になって怪説を唱え出した、と取ることも出来てしまうのだとは思う。それにしたって面白い。ヤバいけれども面白い。
けれど、既に記したとおり、ここまでなら唱えたのがフロイトでなくても構わない話ではあった。
『モーセと一神教』が単にユダヤ教(モーセ自身)エジプト由来・それもイクナートンの継承者という面白みを超えて凄み(ヤバみ)を増すのは、そのモーセが教化を拒んだユダヤの民に殺されたと主張する後半に入ってからだ。
* * *
おぼろげにでも旧約聖書のことを知っていれば、民が厳格なヤーウェを厭って(聖書的には邪神とされる)バアル崇拝に走ったこと、民の造反に怒ったモーセが十戒の石板を叩き割ったこと、それに何より国じたいがイスラエル王国とユダ王国に二分されたことなど、思い当たるふしがあるだろう。ユダヤ人にとって「ユダヤ教」と呼ばれるモーセの教え・唯一神ヤーウェが外来の異物であったと言われれば、納得できてしまう要素は少なくない。

しかしフロイトは、ユダヤの民はモーセの新宗教を拒絶しただけでなく、反発のあまりモーセその人まで殺害してしまったという伝承を歴史的事実・真実として採用する。この唐突で血なまぐさい仮説は何処から来て、何をもたらすのだろう?
(自分の場合)すぐに想起されるのは、冬の到来=春の王の死→春の再来=春の王の復活という四季の擬人化ならぬ擬神化だ。本来ならば正当だった神もしくは半神が非道によって斃れ、しかし正しさゆえに復活するという神話パターンは、のちに同じユダヤから出たイエス・キリストによって反復される。
だが、フロイトが採るのは、この説でない。
それまでエジプトとユダヤの歴史を追っていた『モーセと一神教』は、後半に入って突然のように、フロイトの原著を読んでない人にもお馴染みなエディプス・コンプレックスの「神話」を説き始める。しょうじき僕などは「えー、この話すんのー?」と辟易させられたのだけど、幼い息子は強い父親に去勢される恐怖で母親への欲望を断念させられ…というアレだ。言い替えると
『モーセと一神教』は後半でそれまでのフロイトの学説をざっとおさらいしてくれるので、これ一冊でかなり学習復習になります。
同書の「おさらい」を見るに、当初は患者ひとりひとりの症状を診断するために採用された・あくまで個々人のものだったエディプス・コンプレックスの物語は、後年『トーテムとタブー』で人類史ぜんたいの物語へと拡張される。もともと人類は(類縁種のサルたちに見られるのと同様)一匹の強いボスザルが雌を独占するハーレム制であったとフロイトは仮定する。これに対し、雌にありつけない息子たち=他の若いサルたちは一致団結して父たるボスザルを殺害し、その肉を皆で喰らう(フロイトがそう言ってるんです)。しかし「父」に成り代わった「兄弟」たちは、そのままだと自分たちがまた雌を争って殺し合いになるため、近親相姦の禁止=族外婚の掟を定めて内部での雌の取り合いを回避する。また父殺しの罪の意識は父を投影したトーテム崇拝を、やがては宗教を生み出していく…
人類全体の父殺しの記憶が、エディプス・コンプレックスとして個々人に引き継がれたのか(個体発生は系統発生を繰り返す)、フロイトが個々人に見出したエディプス・コンプレックスを人類全体に敷衍したのかは、今は問わない。彼が論考を編んだ頃には事実とされた原始ハーレム制も、個体発生と系統発生も、現代では疑義が付されていることも措く。問いたいのは当否ではなく、フロイトの中でどのような物語が構築されたかだ。
フロイトが支持する「殺害された指導者モーセ」像は、エディプス・コンプレックスで愛憎の対象となる父・原初に殺されたボスザル=兄弟たちを屈服させ虐待する・恐怖され憎まれるがゆえに崇拝もされる「偉大な」父の像と、上手すぎるくらい一致する。言い替えるとフロイトはモーセを殺害することで、自身が属するユダヤ民族の歴史を、自身の理論に最も合致した模範例たらしめたことになる。ミステリ風に言えば、モーセが殺されて一番トクをするのはフロイト自身だった。

(フロイトに言わせれば聖書の途中であらわれるモーセがユダヤ教のあれこれを定めたように?)キリスト教もまたイエス本人や四福音書より後の使徒パウロが教義を確立したと言われる。そのパウロが使徒言行録で打ち出したのが割礼の廃止だ。ついでに従来の戒律ではタブーとされていた類の食物を問題なしとした。大事なのは慣習的な掟ではなく神への信心・信仰だとすることで、パウロは救済の可能性をユダヤ民族以外にも開いた…というのがキリスト教目線での割礼(とその不必要性)の意味だ。
フロイト目線では、男子のナニをアレする割礼は、偉大な父による去勢(の恐怖)の再現であり、エディプス・コンプレックスの神話にユダヤ教(モーセの教え)が連なる証左となる。それを廃止したキリスト教は、人類の原初の物語からの逸脱・後退・抑圧・否認と捉えられる。
言い直そう。フロイトにとっては、人類の歴史はボスザル(偉大な父)の支配→息子たち(兄弟)による父殺しと相互牽制(近親相姦の禁止)→父殺しの記憶の抑圧によって押さえつけられていた「偉大な」父への崇拝の回帰(トーテム・宗教)として把握される(らしい。
極度に単純化してるかも知れません)。偉大な父の殺害→兄弟の相互牽制→神として回帰する父。忘れられた唯一神→多神教→イクナートンによる一神教改革。イクナートンの一神教→エジプト人による拒絶・廃棄→モーセによる再布教。モーセ殺害→バアル信仰の復活→預言者たちの根強い活動によるモーセ教の復活(旧約聖書的なユダヤ教の確立)。サイクルは何度も反復される。
知への愛(フィロソフィー=哲学)と彫刻や古代オリンピックに見られる肉体への賛美を調和・両立させた多神教のギリシャ文明に対し、イクナートンの流れを汲み知=真実の追求のみを良しとするユダヤの一神教崇拝のほうが卓越しているとフロイトは捉える。父ではなく息子を犠牲者として崇めたキリスト教もまた不徹底で、聖母マリアや数多の聖人崇拝は多神教への後戻りに過ぎない…
…訳者解説によれば『モーセと一神教』はフロイトがそれまで確立したエスの理論とユダヤ的な思想が両立不可能な焦点でせめぎあう書物であるらしいけど、難しすぎるので措く。フロイト自身は強固な無神論者だったという話も措く。
べつだん神を信じているわけでもない(はずの)フロイトが最晩年、モーセ殺害というトリック(という言い方は冷淡すぎるが)によって、それまで築き上げた自身の理論をユダヤ民族の物語に(理論家に言わせれば強引に)アダプトし、自身の属する民を人類の代表たらしめた。その背景には、むろん個人フロイトの老い・人生の終焉もあったろう。だがそれだけでなく、ナチに代表される反ユダヤ主義が世界を席捲し、自身も生まれ育ったウィーンを追われ、民族の運命がかつてない危機に晒された中で「なぜ吾々なのか」「なぜユダヤ人はこうも迫害されるのか」それはユダヤ民族こそが抑圧された人類の秘密の復活者・完成者・体現者だったからだという悲壮な自負があったのではないか。
それは端から見ると、怪物に対抗するために怪物の力を自らに取り込む(
しかもモーセが生贄)ような破滅的な理論の構築だったように思えなくもない。その鬼のような気迫が、本書に説得力…とは呼べないにせよ無視できない「読ませる力」を付与していたのかも知れません。
むろん誤読の可能性も高いので注意ですが。
* * *
念のため言えば、フロイトが晩年の全てを賭けて現出(幻出)させた「ユダヤ民族の卓越」・彼自身を含め幾多の偉人(フロイト的な意味ではない)を輩出したユダヤ民族の特性=真実の追求と、
現在イスラエル国家が行なっている暴虐は似ても似つかない別物と見なさざるを得ないし、フロイトが到達した「だからユダヤ人は迫害される」という論理を「そうだ、そのとおりだ」と
ユダヤ人排斥の根拠にすることは尚更に許されない。
かつて全力でユダヤの民の倫理的な卓越を説いたフロイトが、現在のイスラエル国家の暴虐・フロイト的な意味での「偉大さ」は持ちえないがひたすら自己中心的なベンヤミン・ネタニエフの(兄弟的な?)所業を見たら何と思うか・「ねえ今どんな気持ち?」と問うことも残酷だろう。もしもフロイトの霊が世界にまだ残存しているなら、小田原で安らかに提灯を作っていてもらいたい、そのくらいの同情心は僕にだってあるのだ。
* * *
まったく余談なんだけど『フロイト1/2』に登場する提灯、最重要アイテムなのに全然デザインが小田原提灯じゃなくて、これだから川原くんは…(天才なのが弱点)と改めて思いました。
小ネタ〜ハン・ガンとマーク・ロスコ(24.10.17)
9月の日記で訪問記を書いたDIC川村美術館ですが、来年1月に予定されていた休館が、二ヶ月だけ先に延びたようです。
・
当館の休館開始予定の延期に関するお知らせ(公式/24.10.1/外部リンクが開きます)
同館の目玉展示のひとつであるマーク・ロスコの絵画について
・参考(再):
ロスコ・ルーム(DIC川村美術館公式/外部リンク/前にも書いたけど実際はもっと暗い部屋です)
先日ノーベル文学賞を受賞と報じられたばかりの韓国の作家
ハン・ガンが
「あらかじめ断っておくようなことでもないが マーク・ロスコと私は何のゆかりもない」と断りを入れたうえで、二つの詩を彼に捧げています。そういうところも宣伝していけば相乗効果などもあるのになと思いつつ、「
マーク・ロスコと私2」を少し長めに引用します(全文ではない)。
僕はロスコ・ルームで現世と冥界を隔てる線を踏み越えて向こうに行くような、つまり死後の世界を疑似体験するような気持ちになって、それは思いのほか心地よかったのだけど、画家が長い葛藤の果てに最後は自ら命を絶ったと訪問の後で知り、またそれを踏まえたハン・ガンの詩を読むと、あの暗い赤は画家の身体をかつて満たし・そして命とともに流れ落ちた血液の赤にも思えて来るのでした。暗いのに不思議と心地よい感覚は変わらないまま。
* * *
マーク・ロスコと私2
ひとりの人間の霊魂を切り裂いて
中を見せてくれたら こうなのだろう
それで
血の匂いがするのだ
筆ではなくスポンジで塗りつけた
永遠に滲んでいく絵の具の中から
静かな 赤い
魂の血の匂い
このようにして止まるのだ
記憶が
予感が
羅針盤が
私が
私であることも
(中略)
どんな音も
光線も届かない
深海の夜
千年前に爆発した
星雲のかたわらの
古い夜に
染み込んでくるもの
滲んでくるもの
(以下略)
* * *
音楽のつかない詩歌が苦手な自分にとっては、(音楽と同様)絵画という取っ掛かりがあることで詩を飲み込みやすくなるという話かも知れない。

ハン・ガンの詩集
『引き出しに夕方をしまっておいた』(原著2013年/きむ ふな・斎藤真理子訳・CUON・2022年/外部リンク)は版元のCUONが神保町に出してるリアル書店の
「CHEKCCORI」(外部リンク)で買った。今はハン・ガンの本は人気で入手しづらいかも知れないけど、他の作家・他の版元のコリアン書籍(邦訳)も取り扱っているので、たとえば今月末からの神田古本祭りなどで足を運ぶひとは靖国通りに面した店の、細い階段を上ってみてもいいのでは。※CUONは古本祭り・すずらん通りの各出版社アウトレットのコーナーにもブースを出してると思います。
短い日記ですが、突発的に今日はこれだけ。
共同体なき共同体は可能か〜選挙の前に(24.10.20)
「法治国家」は、それらが何を所有していようと、生存の共同体とは無関係な「富の生産」のメカニズムに従属しているのだ
(ジャン=リュック・ナンシー『否認された共同体』)
*** *** ***
1)ツァイトガイスト
プルースト『失われた時を求めて』の中に、こんな一節がある:
時代精神は、ひとりの人間において、階級(カースト)よりもはるかに重要な位置を占めており(中略)
ルイ=フィリップ時代の大貴族は、ルイ十五世時代の大貴族よりも、むしろ同じルイ=フィリップ時代のブルジョワの方に似ている
(『ソドムとゴモラI』鈴木道彦訳・集英社文庫)
まさに時代精神を描いた作品全体の主題の凝縮でもあるし、ちょっと気の利いた、面白い見解だと思いメモしておいた一年後。十四世紀の昔からアラブでは
「人間は自分の父よりも自分の時代に似る」という諺があったと別の本で知った(出典は前にも言及したギー・ドゥボール『スペクタクルの社会についての注解』)。プルーストは念頭において書いたのかも知れないし、知らずに同じ見解に達したのかも知れない。どちらでもいいことだ。
いずれにしても思想や発想・アイディアが無人島のように孤立していると考えるほうが間違いなのかも知れない。多くの島は海面下で繋がった飛び地であったりするらしい。
書名としても概念(アイディア)としても百点満点だなと感心していた
アルフォンソ・リンギスの『
何も共有していない者たちの共同体』(
23年5月の日記参照)もまた、リンギスの独創ではなく、実は
ジョルジュ・バタイユが最初に提示した概念だったようだ。これは今年の夏に
ジャック・デリダ『友愛のポリティックス1』(原著1994年/鵜飼哲ほか共訳・みすず書房2003年/外部リンクが開きます)で知った。
自分にとっては縁遠い、どちらかというと関心の埒外に置いて良さそう程度に思っていたバタイユが、20世紀から21世紀の思想家たちにとっては想像以上に重要であることが、にわかに分かってきた。そういえば、戦間期に彼自身が試みた(共同体なき)共同体=パリに居た岡本太郎も関与したといわれる秘密結社アセファル(無頭人)を題材にした浩瀚な新作ミステリを、やはり昨年読んだばかりだ(ネタバレになるため書名は伏せますが、心当たりのある人のため答え合わせのリンクを一応張っておくと→
こちらです)
パッと確認できるだけでも、バタイユが提示した「共同体なき共同体」に触発された著作が以下のように並ぶ。
●ジャン=リュック・ナンシー『無為の共同体』(原著1983年/未読)
●モーリス・ブランショ『明かしえぬ共同体』(同1983年/未読)
●ジャン=リュック・ナンシー『否認された共同体』(原著2014/邦訳読み途中)
それぞれが互いの著作への応答らしい上記三冊に加え別個に
●ジョルジョ・アガンベン『到来する共同体』(原著1990年)
●アルフォンソ・リンギス『何も共有していない者たちの共同体』(原著1994年)
上に挙げたデリダ『友愛のポリティックス』を、この系譜に連ねてもいいだろうか。どうなんでしょう?正直、自分の読む限りではどの著者たちの論述も難解すぎ、今ここで分かりやすく抽出するのは難しい。
強いて言うなら、ことさら難解・迂回をきわめるアガンベン
『到来する共同体』(新装版2022年・上村忠男訳・月曜社/外部リンク)が例によって中世ラテン語の世界から19世紀メルヴィルの小説まで迂回に迂回しつつ、性質や肩書き(
「イタリア人であるとか共産主義者であるとか」)で説明されることを拒否する
「なんであれかまわない個物ないし単独者」でありたいという要求が、国民たれという国家・政府の要求と衝突した結果が1989年・中国の天安門事件であったと唐突に結論づける、そのことが興味ぶかい。
その性急な結論は(彼が提示する多くの概念と同様に)物議をかもしたらしいし、
最終的には、国家はどんなアイデンティティ要求でも承認することができる。(中略)
国家自体の内部にあっての国家的アイデンティティですら承認することができる
という一節は、ウイグルやチベットの少数民族のアイデンティティに対する中国の態度を見れば(最終的にはと留保はついてるものの)現状では首を捻らざるを得ない。けれどその性急な結論が
しかし、複数の単独者が寄り集まってアイデンティティなるものを要求することのない共同体をつくること(略)
所属の条件を(略)
もつことなく共に所属(co-appartenere)すること―これこそは国家がどんな場合にも許容することのできない(略)
脅威なのだ
と続けられる時(それが著作の前年に起きた天安門事件への過敏な反応だったかも知れないにせよ)アガンベン流に言えば「なんであれかまわない単独者」バタイユ〜リンギス流に言えば「共有なき共同体」が、こうして一応それなりに重要視されていることに、ちょっとした感慨を憶えてしまったのだ。
最近また蒸し返した記憶があるけど(不詳)自分には長らく「
内部での結束の強制や外部への敵対視を条件とする「集団」ではなく、互いに干渉しない他人同士の親切で社会を構築することは出来ないのか」という思いがある。そして
それは、あまりにも孤独な考えで人と共有したり、まして多数の大きな声には出来ないものだと思ってきた(
16年7月の日記参照)。…
意外とそうでもないんじゃね?現にこうしてリンギスやらアガンベンやらが(自分なんかよりずっと難解だし、もしかしたら辿り着く場所は違うのかも知れないけれど)同じような起点から考えている。
そして「社会を変えたいけれど、手前の時点で運動に失望したり、違和感で参与しきれなかった」という人も実は少なくないのでは…とも考えられる。
党の忠実な信者にならなくても、あるいはデモの後で主催者と談笑できなくても、社会参加は出来るべきではないのか。それがアガンベンの言うように最後は戦車を呼ぶものだとしても、それって逆に世の中にたいして最もクリティカルって事ではないのか…そんなことを少しずつ考え始めている。ひねた自分だけが持ってる偏った願望(だと思っていたもの)を、私的な言葉を、公的なイシューに書き改めることが出来たらと。
もちろん、今はまだ勉強(読書・インプット)も思索も、それをアウトプットできる言葉も足りない。
そのうえで、まだ固まってないながら、ひとつ言いたいことがある。
「狭い共同体の仲間意識(の強制)でなく、他人同士の親切をベースにした社会」って、
本来それを保証してくれるものが国家ってやつじゃないのか。
そうでしょう。あなたが僕が何物であろうと負担できるだけの税金や社会保障費を払い、それがインフラや社会保障に公平に分配される。それ以外に何の国家の存在理由があるというのか。どうしてそれが一部の大企業を利したり、ましてや国家・ましてや政府に忠誠を誓い・国家の敵(外国だったり外国人だったり「足を引っ張る」同国人だったり)を憎めということになるのか。おかしくないか。
* * *
1.5)断章1
今度の衆院選で新興政党の参政党が掲げる
「日本をなめるな」というキャッチコピーについて言いたいことは多々あるけれど、ひとつだけ。約10年前に、第二次安倍政権が強行した安保法制に反対して国会前で・また各地で人々が叫んだシュプレヒコールの一つが
「国民なめんな」だった。
もちろん、そのコールは「国民」でない外国籍住民を結果的に排除していることが内輪でも問題視されたと記憶している。
「言うこと聞かせる番だオレたちの」というフレーズが男性中心との批判を受け、途中から
「言うこと聞かせる番だ私たちの」と若干ぎこちなく(音読してみると分かる)言い替えられたように「国民」も何かしら対応があったか、なかったかは思い出せない。
いずれにせよ、国家・政府に対して統治・支配される人々が「なめんな」と叫んだのが、たった十年で(意図的なパクリではないだろうけど)国家・政府と一体化した人々の「日本をなめるな」になってしまったことに、まあ分かってたけどね!と吐き捨てたくなるような嫌悪感がある。
* * *
2)国家の起源にまつわる詐術
アイリス・マリオン・ヤングの
『正義への責任』(原著2011年/岡野八代・池田直子訳・岩波現代文庫2022年/外部リンク)は、かねてより読んでおきたい本の一冊だった。こちらの日記では書いてなかったけど2021年の12月に横浜の自宅から鎌倉駅まで一日かけて歩いて(帰りは電車に乗った)、鎌倉駅の西口にあったコンパクトだけど選書が冴える「たらば書房」で手にした
レベッカ・バクストン+リサ・ホワイティング編
『哲学の女王たち もうひとつの思想史入門』(原著2020年/向井和美訳・昌文社2021年/外部)という好著で

ソクラテスの師匠だったディオティマから近現代のボーヴォワールやアーレントまで並ぶ中、取り上げられていたのがヤングで、『正義への責任』は彼女の思想の集大成と呼ぶべき遺作だったのです。
と言いつつ、本書の紹介は省略します。社会の中で、とくにシングルマザーのような弱者が本人の咎ではないのに選択肢を制限され、また周囲も悪を為そうという意志はなくルールに従っているだけなのに結果的に弱者を排斥し、ついには困窮者やホームレスになるまで蹴り落とす。従来の強者の論理では自己責任とされていた、こうしたプロセスをヤングは
「構造的不正義」と呼び、その分析と打開策の追究にあたっている―とだけ述べるに留める。
多くの人が実際に手にして読むに値する本だと思います。とりあえずは「構造的不正義」という術語だけ憶えといてください(きっと役に立つから)。ここで述べたいのは別の、もしかしたらヤングの著作じたいでは瑣末に思えるかも知れないことだ。
ロールズやアーレント、時にはレヴィナスまで縦横無尽に援用しあるいは批判し(実は1で挙げたデリダ『友愛のポリティックス』も本書での言及に関心を持って手を出した)構築されるヤングの提言は、社会の構造的不正義を正すためには国家への働きかけも不可欠だという結論に至る。あー…と心を挫く結論だ。そうだろう。国政選挙が間近に迫っている。そこで思いどおりの結果を出そうとするよりも、デモに参加したり署名したり、あるいは一個人として被災地にボランティアに行くほうが簡単と言えば簡単なのだ。選挙というイベントを前にしての無力感・徒労感は(もしかしたら上で挙げた「共同体と一体化できない感じ」以上に)「分かる」「それな」と思う人が多い感覚かも知れない。
それでもヤングは行政・わけても国政を動かさねばと訴える。もちろんそれは正論だ。だがその根拠として彼女が
「不正義を是正するために国家行為に頼るべきである(中略)
なぜならば、国家だけが正当に強制的な権力を行使することができるからだ」と述べているのを読んだ時、これもまた正論でありながら、別の意味で「あー…」と嘆息したくなった。
ヤングを責めているのではない。ただ「国家は(国家のみが)正当に強制的な権力を行使できる」と言われるとき―そもそも「権力(power)」というもの自体「人に当人が望まぬことを強制する力」だという社会学による定義を代入すれば「国家のみが権力を独占できる」と約分?通分?できるのだけど、事実上そうなのは事実として、
なぜそうなのかと考えた時、西欧がリードし日本も含む非西欧も追随した観念(物語)はホッブズやら誰やらの社会契約論ということになる。人々は原初のままだと互いに互いが争う修羅の巷となるため、皆が一致して国家に権力(強制力)を預けたというものだ。…
でもソレって嘘なんじゃない?おためごかしなんじゃない?国家が権力を独占した経緯って、そんなキレイゴトじゃなくて、もっと力による強制とか、自発的隷従とかえげつないモノで、でもそれを「私たちは進んで国家に権力を預けたのだから、国家に従うしかない」みたくダマくらかしてない?と今さらながらに思ってしまうのだ。
もちろん「私たちが国家に権力を預けたのだから、私たちは国家に働きかけ、国家を動かして不正義を正す能力も義務もある」と考えることは出来る。でもやっぱり根本に詐術がある気がしてしまう。とくに「能力」が認められてないのでは?と事あるごとに思わされる立場にあっては、だ。
* * *
2.5)断章2
基本的人権の尊重や9条の平和主義から、現行の日本国憲法を護持しようとする立場の人たちは多い。というか自分もその一人ではある。その一方で(人権なんてワガママだ戦争できる日本へという路線とは真逆に)現行の憲法でも平等や人権尊重が足りないので最終的には改憲をと考える人たちもいる。多くの人たちが問題視するのは天皇にまつわる規定だが、僕にはまた別の思いもある。
「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない」(第十一条)
「すべて国民は、個人として尊重される」(第十三条)
「すべて国民は、法の下に平等であつて…」(第十四条)
国家とはそういうものだと言えばそこまでなのだけど、近年「国民」でない住民が少なからず受けている人権侵害を見るに、世界で一番先進的だなどと自賛される憲法にしてなお「ただし国民に限る」という壁がある事実はどうにかならないのだろうか。
なお
「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない」(第十八条)
など主語が「何人(なんぴと)」である場合、また
「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」(第十九条)
「通信の秘密は、これを侵してはならない」(第二十一条2)
のように保障される主体が誰か明示されてない(ということは万人に当てはまる?)条文も多々ある。たぶんこのあたりは法学を専門にしている人たちがキチンと考えているのでしょう。部外者の思いつきです。
* * *
3)通過点としての選挙
『正義への責任』と併せ、夏の旅行で旅の供だったのが
レベッカ・ソルニットの
『暗闇のなかの希望 増補改訂版』(原著2005年/井上利男・東辻賢治郎訳・ちくま文庫2023年/外部リンクが開きます)。
注目される女性思想家の、ここ数年の文庫化で、たまたま自分が続けて読んだという以上の共通点はない。むしろ(社会正義という)同じ山の頂に、正反対から登ろうとするアプローチにも思えた。
つまり対にすると補い合える二冊です(と、自分の体験を普遍化する)。
もちろん、今回の日記(週記)の主旨からして
内容の紹介は省く。でも今回取り上げた本の中で、おそらく一番とっつきやすいし、多くの人に読まれるべき、なので文庫化が相応しい一冊だと思います。時間がない人は書店の店頭か図書館の棚の前で115ページ、
ジョージ・オーウェル『カタロニア讃歌』から引用されたスペイン内戦のエピソードを読んでみるといい。
惚れますよ(公衆の面前で噴くことになっても責任は負いかねるけど)。
もう少し時間のある人は、ほぼ冒頭に近い45ページのエピソードを読むべきだろう。雨のなかで反核の抗議運動に立ちながら
「なんてばかばかしく無駄なことをやっているのか」と惨めになっていた主婦が、後に運動を主導し成功に導いた著名な博士に
「私にとっての転機は、女性たちの小さなグループが、ホワイトハウスの前で雨に打たれながら抗議しているのを見かけたときであり、あの人たちがあんなに熱心にやっているのなら、私も問題をもっと真剣に考えなければならないと思ったのです」と教えられたという。ソルニットは結論づける。社会を変えようとする人たちは
「いつも家に帰るのが早すぎる」。
ヤングは(最終的には)国政を動かさなければいけないと説く。ソルニットのゴールも一緒かも知れないけれど、彼女はタイムスケールをより大きく取っている。極端に敷衍すれば、個々の選挙の勝敗、ジョージ・ウォーカー・ブッシュ・ジュニアや(本書が書かれた後の出来事だけれど)ドナルド・トランプが最高権力の座に就こうと、それは通過点に過ぎない。選挙で勝とうが負けようが、誰が大統領になろうが、社会問題(反核や環境問題、貧困やジェンダー、差別を巡るあれこれ)は続き、市井でのコンフリクトも続いているのだ―
道義的に弁明しようのないイスラエルへの肩入れで四年の任期をメチャメチャにしてしまった(僕目線の総括です)ジョー・バイデンが辞退し、カマラ・ハリスが民主党の大統領候補になった時、スーパースターの
ビヨンセと
テイラー・スウィフトが即座にハリス支援のコンサート開催を表明した。痛感したのは、二人がそれを即断できたのは大統領選挙よりずっと前から、彼女たちが女性の権利(など)のために公に意見し、活動してきたから、彼女たちを含め多くの「意識が高い」アメリカ人にとって「争点」は大統領選に関係なく存在し、大統領選は通過点に過ぎないということだった。
無論それは、大統領選が終わって、新しい大統領が決まっても、アメリカでは人権派や環境派と・それに反するバックラッシュ勢の、内戦のような葛藤は続くということでもある。ソルニットは言う。
「希望はソファに座って宝くじを握りしめながら幸運を願うこととは違う(中略)
希望はあなたの戸外に引きずり出す(略)
それはあなたの持つすべてのものを動員して(略)
地球の宝物の消滅を防ぎ、貧しい人びとや周縁にいる人びとを虐げることをやめさせるものだ」
「意識が高い」という、今の日本では揶揄や悪口として使われる言葉を敢えて用いたのは、それが揶揄や悪口になりうる社会ばかりではないとも思うからだ。空間的にも(つまり世界の中で)時間的にも(つまり歴史の中で)冷笑や揶揄がイケてると思われる状況は限られていて、他の場所・他の時間では、それらは40年前のアニメの巨大ロボットを万博会場の目玉展示に据えつけるくらい寒くてダサくて恥ずかしい。お気の毒さま。
* * *
3.5)断章3
自分にとって能登でのボランティア(特に二回目)は「共有するものがない共同体」が瞬間的には可能なのだと解釈できる体験だった。2011年の東日本大震災・さらに遡って1995年の阪神淡路大震災で積極的にボランティアに従事した人は、多かれ少なかれ同じものを先んじて感じていたのだろう。ソルニットが提唱した「災害ユートピア」という概念も、深く掘り下げる必要があるのだろう(今後の宿題とします)。
ただ泥を取り除けるという目的で集まった人たちが、互いの立場や属性に関係なく目的だけを果たした。実際、自分が一緒に泥をすくったメンバーには、産経の会社づとめを休んで駆けつけた人もいた(笑)。僕は手荷物入れに「FREE PALESTINE」のトートバッグを持参していたけれど、これも場所によっては物議をかもすアイテムだろう。これから始まる国政選挙で組み分けや、まして内ゲバのような足の引っ張り合いに賭ける人たちからすれば、腹立たしい呉越同舟かも知れない。
「身内の結束より他人の親切」は安定した世界が通用しない淵(エッジ)や、災害のような時に、むしろ普遍的に出現するもの、なのかも知れない。新約聖書のサマリア人の逸話からしてそうだ。ジャン=リュック・ナンシーによれば、ブランショはフランスの68年の「革命」が(アガンベンの目に映った天安門と同様)何者であることも求めない反抗だったと捉えている。
逆に言うとそれは、何か党を立ち上げたり為政者を選び直したりする大きなムーブメントには繋がりがたいものだった。リンギスの「何も共有していない者たちの共同体」もまた、言葉も通じない旅先で急病を救われるという、社会や政治から切り離された体験だったことが思い出される。天安門は戦車で、2019年の香港はゴム弾で制圧された。二千年前にサマリア人の教えを説いた三十男は、ダグラス・アダムスの『銀河ヒッチハイクガイド』風に言えば
「木に釘付けに」された。
* * *
4)学期末テスト〜短めの結論
有権者にとって選挙は期末試験みたいなものだから「学期中」まともに政治のことを考えてこなかった・考えずに済んできて試験前に突然どこに投票しようとか騒がれてもなあという気持ちはある。そしてメディア(テレビ等だけでなくSNSも含む)で今どき「どこに投票すればいいか分からないのに」と声高に言ってる人たちの大半は「だから試験なんてバックレちゃえよ」「隣の人の答案を丸写しでオッケー」「現状維持で今まで困らなかったし、これからも困らない・何とかなるよ」と他の人たちを巻き込むために言っている。
皆がまともに回答できないと平均点は下がり、学級は崩壊する。家柄がいい子や腕力が強い奴・口のうまいお調子者がスクールカーストで大きな顔をして「卒業」まで逃げ切れればと学級を崩壊させたままにする。
崩壊学級で幅を利かせるタイプ、ひとつ忘れてた―「いじめっ子」。橋下徹が若者に白票を呼びかける記事の見出しで思い出した。記事を掲載してるのはプレジデント・オンライン。そういうこと。

本来なら数回に分けて、それぞれ考察・説明すべきトピックを流れ図だけでまとめて、これはこれで分かりやすく提示できたと思う(?)けど、まあ疲れました。来週のメイン日記(週記)は休むと思います。
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