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オオカミと表象と想像力〜E.W.サイード『オリエンタリズム』(11.11.13)

 大丈夫、難解な話はしない(たぶん)。ただし一部のひとの尻尾を踏んづける話はする。
 以前ネットの何処だかでこれ文系は知らねえだろという理系の必須用語を皆であげて盛り上がるみたいな企画があり、まあカルマン渦だの色々あがってて(文系なのでいちいち憶えてません)あーはいはいと思ったのだけれど、
 ひるがえって理系が聞いたら頭かかえそうな文系用語の筆頭として「表象」が浮かんだ。
 「表象」。見てサッパリ意味が分からないけど(文系でも分からない)いったん意味が通じると非常に便利なので「オレ分かってるぜ」自慢も含めて使われがちな言葉。
 実はもとの横文字にすると分かりやすい。ほんらい仏語らしいけど、英語だとre-presentationreはre-birthやre-born(なんで復活ばかりやねん)と同様「もう一度」。presentは「今、ここに存在する」(at a present timeで「いま現在」)なのでre-presentationは「もう一度、ここに存在させること」。
 つまりシベリアの猟師が雪の降りしきるツンドラで見かけたトナカイはpresentだけど、家に戻って「やーこんなデカいトナカイがさぁ」と誰かに話したり(撃っておけばよかった、あのときのトナカイ…)とひとり思い出したりするトナカイは、すでにre-presentation=ヒトの頭の中を一回とおして再現された「表象」のトナカイ、ということになる。
 この「表象」が便利で面白いのは、猟師が実際に見かけたトナカイだけでなく、見かけなかったトナカイも、ひとくくりに出来ること。「撃っておけばよかった、(実在した)あのトナカイ」も表象なら、もとから存在しない「ああ、森中を埋め尽くすトナカイの群れが冬じゅう供給されればなあ」というトナカイも表象。それどころか「赤い鼻を光らせて、サンタのソリを引く空飛ぶトナカイ」も表象なら、ありえる。さらに言えば「赤い服を着て、子供にプレゼントをくれるサンタクロース」や「青いスーツに赤いパンツとブーツとマント、空を飛んで人々を助けるスーパーマン」みたいな純然たる空想の産物まで「ヒトの頭の中を一度とおして、思考や言葉・表現で現前させられたもの」はみな表象ということになる。

 そこで話を逆にしてみよう。あなたが「実際に見た」と言ってるトナカイだけど、あなたの頭を一度とおしてるという意味では、サンタクロースやスーパーマンと同じ「表象」つまり物語だよね?あなたが「そうは言ってもトナカイは実在するし」というトナカイは、どこまでが実在そのもののトナカイで、どこからがあなたが勝手な空想や期待で都合よく補った架空のトナカイ
 トナカイだとピンと来なければオオカミ
 実在そうであるより残忍とか貪欲とか凶悪というレッテルを貼られた「表象のオオカミ」は、さらに『赤ずきん』や『三匹の子豚』『七匹の子やぎ』それに「人狼・オオカミ男」といった物語で負のイメージを補強されてきた。
 そしてヒトが、その表象のオオカミに対する態度で現実のオオカミを遇した(つまりは迫害した)ために、現実のオオカミはヨーロッパで絶滅の危機に瀕した。森を切り開き、居場所を奪うにあたり「だって(表象の)オオカミは悪い生き物だから」というイメージが迫害の言い訳・エクスキューズになった。たぶん。
 ここまでが今日のマクラ。

シリーズ・古典を読む
 しばらく架空話(読書週間に書いてたコチラのこと→Side-B「氷が水になるとき)に専念していて、こちらでは御無沙汰さまでした。間に読書週間がありましたが、素敵な出会いはあったでしょうか。自分はあまり時間は取れず、毎日すこしずつE.W.サイードオリエンタリズム』(上下巻/平凡社ライブラリ)を読み進めていました。まだ読み途中ですが…。
 名前は有名で、いつか読まなきゃと思っていた同書、まさに現実からかけ離れた「表象」を批判する本です。オオカミではなく動物ではライオン(に対する偏見の押しつけ)がたとえに使われているけれど、著者のサイードが批判するのはヨーロッパ人が作り上げてきた「東洋(オリエント)」という表象の身勝手さ。オオカミと同様、実際に実在する非ヨーロッパの人々を一緒くたにして、勝手な思いこみや偏見でふくらませて「オリエント」という表象を作り上げる、そしてその表象の「オリエント」を根拠や足がかりに、現実の非ヨーロッパを制圧し収奪する。自身がパレスチナ出身のサイードはそのような、一旦「表象」を通すことで徹底化される迫害のメカニズムを検証します。
 それだけでなく。サイードが怒りをもって告発するのは、そうしてオリエントという外部に負の部分を押しつけることで、ヨーロッパは自らを定義していたということ、のようです。
 ヒトが、実際にはヒト以外しないような理不尽な残虐行為を逆に「けだもののような所業」と動物に押しつけることで「そうではない立派なのが人間」と自己を定義してきたように
(※実際には、動物行動学の進歩により動物でも蕩尽的な残虐行為のあることが発見されてきましたが、それは措きます)
表象のオリエントの人々に「非論理的で、性的にふしだらで怠け者、自ら治めることの出来ない人々」という属性を押しつけることで、逆にヨーロッパ人は「論理的で、節制があり勤勉、自治のできる真の人間」という自己像を作り上げた。そのうえで「自ら治められないオリエント人たちは、吾々が統治してやる必要がある」と植民地支配を正当化した。というのがサイードの告発の主文なわけですが…
 …この、相手に負の属性を押しつけることで自らを定義する、自らを定義するために負の属性を押しつける相手を必要としている・依存しているというシステムは、今この国でも時々見受けられるものではないでしょうか。吾が国はすばらしい国だ、この素晴らしい吾が国を愛せと唱えながら、具体的にどうするの?というと吾が国民の利益を損ねている外国人を排除せよ、吾が国の侵略支配をたくらむ凶悪な外国に立ち向かえ、と言う人たち。なにしろ奴らは卑怯で劣悪で万事がカネでと、外国にヒトが持つ負の要素すべてを押しつけて、それに引き換え素晴らしい吾が民族という人たち。相手に寄生し、依存してるのはどちら?

 実在しない存在も、実在する存在も、いちど人の頭の中をとおればすべて表象という考えかたは想像力とは、ないものを空想するだけでなく、実際ここにあるものを見るのにも必要な力だという考えに通じるものだと思います。これは大江健三郎新しい文学のために』(岩波新書)で紹介されていたロシアン・フォルマリズムという20世紀ロシア(ソ連)の文学理論で言われていることで、遊びにきた友達に「君の家のネコ、足ひきずってるね。ケガしてるの?と言われて、初めて自宅の飼いネコの不調に気づいた家主は「想像力が欠如していた」と捉えられます。
 トナカイやオオカミ、ライオンに対してそうであるように、実在するものでも簡単に空想に出来てしまうのが人間です(そこが面白く素晴らしくもあるのですが)。自分の足元のネコを見るにも、想像力は必要です。
『オリエンタリズム』や「表象」という考えかたへの踏み込みかたとしては、中学生レベルになってしまいましたが、まあ自分の読解力・表現力・問題意識の限界ということで。
 
【追記】
 6年ほど前に書いた本日記をサルベージしようと思ったのは、ここで鍵言葉になっているre-presentationが今、欧米の映画などエンターテインメント作品において話題というか問題の焦点になっているからだ。
攻殻機動隊からセサミストリートまで、海外エンタメのキーワード「レプリゼンテーション(representation)」とは何か(FUZE)
 記事が取り上げているのはハリウッド映画『攻殻機動隊』や『ドクター・ストレンジ』などで、原作ではアジア人だったキャラクターが白人俳優に置き換えられた問題だ。俗にホワイト・ウォッシュなどと言うが、記事は非西洋人(だけではないマイノリティ)が物語のなかで十分に「レプレゼンテーション」されていない、呼ばれかたこそマイノリティだが社会の中の決して少なくない層の存在を、現在の物語がすくい上げ損ねていることを問題視する。それは語られないマイノリティの不遇だけでなく、彼らを表象できない社会の不全を示す。そして、白人中心の社会が提供しそこねてきた、非西洋人がヒーローとして表象される物語を提供したのが、他ならぬISのようなテロリストだったという指摘は看過できないものがあると思うのだが如何か。

知らない小路に通じる扉〜わかつきめぐみ『やにゃか さんぽ』(11.11.14)

 まさかのムーンライダーズ活動休止宣言で、自分は正直ここしばらく近作は聴きそびれていた不人情者で申し訳ないのですが、熱心なファンのかたがたの心痛は察するに余りあります。
 自分のばあい、そして実は少なくない気がするのだけれど、ムーンライダーズは、わかつきめぐみさんのまんが(に添えられたフリートーク)で興味をもったクチ。週末に久しぶりに熱の出る風邪を引いて(もう治りました)、熱の引いた後おなかに入れるものを買いに出るのに「わかつきファンなら、ここは桃のシラップ漬けだな」と、いそいそ缶詰を調達したりして。

 今年の四月に出ていた新作『やにゃか さんぽ』(白泉社)を買ったまま読みそびれ、積ん読にしてたのを思い出した。おうどん作って食べながら読了。鍋用の薄切り餅で具材と一緒に巻いて食べるおうどん、おいしいね!いや、そうじゃなく。
 わかつきめぐみといえば、自分が本気で創作に踏み出し(踏み外し?)はじめた頃、いちばん影響を受けた作家。だもんで最新作、実はちょっと読むのが、ためらわれていた。『So What?』や『黄昏時鼎談』『ご近所の博物誌』といった絶好調期の作品に比べると、近作は少し迷いというか、読み手の自分が望まぬ方向にフラフラ誘われてる感があって、失望を重ねるのが恐かったのだろう。
 でも今作『やにゃか さんぽ』は楽しく読めました。
 タイトルで分かるように(分からんわ!)東京の下町=谷中を舞台にしたネコたちの物語。特筆すべきは、この描かれた谷中の町の魅力的なこと。最近まんがでもアニメでも御当地モノが増えたけど、こんなに強く舞台になった町に「ぜひ訪れてみたい!」と惹きつけられたのは、本作が初めてかも知れない。いや、まあ、それは半分以上、とか神社とか岡倉天心のお堂とか、参加者が自分で値段つけた段ボール箱いっぱいの古本を持ちよって開く「一箱古本市」とか、取り上げられたアイテムが個人的にツボってだけかも知れませんが(笑)。
 思えば、わかつき作品は、ムーンライダーズだけでなく、いろんな世界への扉になったなあと今さらながらに思い出す。音楽でいえばナーヴ・カッツェ、本だと寺田寅彦の随筆や澁澤龍彦『都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト』・石川淳『夷斎風雅』など。世界への扉といっても大きく野原に開けるよりも、茶塗りの木戸を押し開けると、見知らぬ小路に通じていた感じ。『やにゃか さんぽ』もまた、とびきり魅惑的な小路に通じていて、年来のファンとして嬉しかったのだ。
 地元密着まんが+わかつきめぐみの組み合わせは非常によろしいことが分かったので、ネコもかわいいけど『夏目家』みたいなクセのあるヒトの面々が実在の町で繰り広げる作品も読んでみたい気もする。でもそれは「かなえばいいな」の夢半分、今はこれで満足です。『So What?』などに極度の思い入れがあるファンには、必ずしもオススメではないかも知れません。前のと同じわかつきじゃない。「でも私は今度のわかつきも、けっこー好きだよ

ミエナイチカラ〜山本義隆『磁力と重力の発見』(11.11.26)

 幼年時代のアインシュタインを科学に目覚めさせたのは、手を触れてもいないのにいつでも北を指す、方位磁石の不思議だったという。
 まんが版の伝記にも出てくる、このエピソードには実は深い意味があると著者はいう。なぜなら、磁石を動かす見えない力=離れたところから及ぼされる「遠隔力」の実在の有無・その探究こそ、西欧において迷信や魔術を近代科学に生まれ変わらせた、もっとも本質的な謎であったのだから−。
 まとまった日記を書く時間がなくて、しばらく御無沙汰していました。実は先月に読み終えていた本の話です。
 『磁力と重力の発見』。もうこのタイトルだけで「なんか面白そう」と思っちゃう同志に告げよう、その期待は決して裏切られない(笑)。山本義隆著、みすず書房刊。題名どおり古代ギリシャからニュートン、クーロンの時代まで、主に磁力(そして最後のほうでようやく重力)がどう捉えられてきたかを、ひたすら語る大作。
 そもそも、磁石が磁性を帯びた鉄であるとか、だから鉄を磁石でこすると磁石になるとか。
 それが北極を指すとか。
 あらゆる磁石にN極S極があり、二つに割れば割った磁石にN極S極ができ決して片極だけ(モノポール)にはならないとか。
 そういった今の吾々なら子供でも「知って」いることを、人類が一度こっきりの歴史のなかでゼロから一つずつ発見しなければならなかった、それに千年も二千年もかかった事実に胸が熱くなる。
 そして、その磁力なるものが何なのか。重力(万有引力)の発見前には磁力と静電気しかなかった「触れてなくても遠くから働くチカラは果たして実在するのか。「ミエナイチカラ」があるのだとする立場は、天の星と地上の吾々は運命でつながっている的な魔術思想に根拠を与えた。一方で「接さず遠隔から働くチカラなどない」とする立場は見えない粒子が磁石から出入りして鉄を押し引きすると考えた。この「遠隔力は存在する・いやしない」という対立こそが近代科学を成立させる最大のドライブになったと著者は捉える。いっけん突飛なトピックを持ってきて、でもそれが本当に世界の中心なのだと主張するマジ加減が同書の魅力になっています。
 とはいえ、やっぱり突飛なからめ手ではあるわけで。磁力(と重力・ときどき静電気)をダシにした西欧思想史の総ざらえとして読めるのも同書の魅力。なにしろ磁石について語ってるとあらば聖アウグスティヌスだろうと聖トマス・アクィナスだろうと連れてくる。幻視で名高いビンゲンのヒルデガルドを「磁石について何か言ってるかという視点から(だけ)取り上げるなんて考えたひと、今までいたんだろうか?
 本書の主題はあくまで磁力(と重力・ときどき静電気)なので、その深い本質には敢えて踏みこまないし、踏みこむ力量もないと、西欧思想史上の諸子百家を磁力(と重力・ときどき静電気)のためだけに呼び出しては、(偽悪的に言えば)使い捨てる姿勢を取ってはいるけれど、基本はきっちり押さえられている。古代ギリシャ・ヘレニズムからローマ・初期キリスト教世界に中世シチリア王国の先進性、アリストテレスの再発見とスコラ哲学、ルネサンスやパラケルススなどの錬金術、魔術と機械論の確執を経て近代前夜まで「あんなこともあった」「こんなひともいたっけ」が一本の筋として学べる面白さ。
 読書の秋、はもう終わってしまったけれど、たとえばコタツの中での冬ごもりに。図書館などで借りられるひとは如何(というか、こういう本を置いてくれなきゃ図書館は)。楽しい全三巻でした。

著者の山本義隆氏、実はすごい人だった…『一六世紀文化革命』もオススメ。
(c)舞村そうじ/RIMLAND ←1202  1106→  記事一覧(+検索)  ホーム