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『ペーパーまんがの総集編2016』
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Author:舞村そうじ/RIMLAND
 創作同人サークル「RIMLAND」の
 活動報告を兼ねつつ、物語とは何か・
 どんなメカニズムが物語を駆動し心を
 うごかすのか、日々考察する予定。

【最近の動向】
2月東京ティアで発行の
『物語の話をします』が最新刊。

WebまんがSide-B遅々として更新中。

note絵更新。(16.05.26)

旧サイトは2014年8月で終了しました(お運びいただき感謝)。再編集して、こちらの新サイトに少しずつ繰り入れますが、正直、時間はかかると思います。

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久しぶりの日記更新。この夏は、フーコーの講義録を読んでました。
←これでフーコー・ドゥルーズ=ガタリそしてジラールそれぞれの反差別論が出揃いました。
記念に立て続けで日記もう一本。こちらから(17.08.27)


第4回いっせい配信「創作同人2017年9月」に参加します。
電書へのリンク

RIMの代表作のひとつ『図書館妃(としょかんひめ)』と、一昨年ネパール震災復興支援チャリティ冊子として発行した『plus』を電書化。配給はBOOKWALKER(他のプラットフォームにも的なリクエストがあったらくださいね)いつもどおり値段は紙版の半額で『妃』150円、『plus』は無料です。
【ちょっと小むづかしい話をすると】
『図書館妃』はブッシュJrのイラク侵攻と、それに追随する自衛隊派遣の危機感の中で描かれた作品。今の自分だとこうは描けないかも知れない(逆に図書館城は「戦争協力」を最初から拒否しなければならない、と考えて「しまう」と思うのです)、他にも今だと違う見解を取るかな、という箇所がある。けれど「今」が最適とは限らない。このころ自分が描いたものには、今の自分も傾聴すべき処があるのではと近頃は考えています。もちろん読むひとは、それぞれに楽しんでいただければ。
【小むづかしい話おわり】
『plus』は実は『図書館妃ビギニング』じゃないけれど『妃』の図書館城の始まりは、どんなだったろうとボンヤリ考えていた、それが博物館に形を変え具現化されたものでした。
秋の夜長に図書館と博物館の物語を、電書の書棚に加えてみてはいかがでしょう。(17.09.20)
連続ペーパーまんが「神様のギフト」は、どうにか第7話に漕ぎつけました。こちらから

赤いチャイナドレスの女性に気を取られて事故る安全講習ビデオは実在です。免許更新で観て「おお、マトリックスだ!」「しかもチャイナ!横浜=中華街のイメージか?(二俣川で更新)」と思ったものでした。人生すべてネタ、すべて取材。
次回11/23の東京コミティア(申込済)で完結の予定です。(17.08.20)

40年前の「現代」思想を今、読む意味〜國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』(2017.08.27)

 東京都の小池都知事が通例を覆し、毎年9月1日の関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式への追悼文送付を断ったという。
 【東京新聞記事】
 http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/list/201708/CK2017082402000130.html

 同知事による、先行しての朝鮮学校への補助金停止には、むろん北朝鮮を仮想敵国・脅威とみなすことで国内を統合しようという目論見もあったろう。だがそれ以前に日本人には、かつて朝鮮・韓国や中国を宗主国として支配していた成功体験と、彼らを劣位の人種・民族として蔑むという玩具だけは、何があっても手放したくないという拭いがたい願望があるのではないか。そんな風に思えて暗澹とすることがある。(そして春桜亭円紫師匠のドスの効いた台詞を思い出す:遊ぶなら、自分の玩具で遊ぶんだよ)

 昨日の日記で、はからずも、フーコー・ドゥルーズ=ガタリ・そしてジラールと、40年前のフランス「現代」思想を代表する(ジラールは早くに渡米しているが)論客が、それぞれ「差別」を糾弾している発言が出揃った。
・人は自分たちの肩書きや個性が無効になる状態に置かれると、まだ差異化できる『敵』を迫害することで自分が自分である根拠を取り戻そうとする
 ルネ・ジラール(2012年2月の日記)
・差別主義者は異分子を排除しているのではない。むしろ少数者が異邦人であることを認めぬまま自分たちの価値観に組み入れ〈劣った吾々〉として押しつぶす
 ドゥルーズ・ガタリ(2015年2月の日記)
・現代の権力(生権力Bio Politics)は、権力が望む形での生や健康を人々に強制し、それに合致しない者を異人種として排除する
 ミシェル・フーコー(昨日の日記)←new!
 繰り返しになるが、互いに立場も意見も異なり、中には不倶戴天の関係もあったりする彼らが、しかし異口同音に差別を批判・糾弾していることには打たれるものがある。そして日本で彼らの思想がさかんに輸入されていた80年代には(残念ながら)知的遊戯の玩具か消費社会の肯定とされがちではなかったか+彼らの有する社会悪への異議申立てという側面は、今こそ積極的に読み取られるべきではないかと思う次第ですが、どうでしょう。

 『暇と退屈の倫理学』『中動態の世界』などの著作で、また積極席な社会活動への関与や発言で知られる國分功一郎氏の『ドゥルーズの哲学原理』は、数あるドゥルーズ論のなかでも、おそらく異色のものだ。どう異色かというと、分かりやすい(笑)。
 あ、いや、分かりやすいだけではない。おそらくドゥルーズ(=ガタリ)を理解したい入門者が期待する「リゾーム」「ヴォルプタス」「脱コード化・超コード化」「戦争機械」「器官なき身体」などのキーワードに関する説明は、ほぼ一切ない。そのかわりに同書は帰納vs演繹・経験論vs合理論(超越論)といった近代哲学史のおさらいをしながら、その真理探究の歴史の終着点としてドゥルーズを活写し「なるほど、(リゾームや器官なき身体のことはサッパリだが)ドゥルーズという人が、ものすごく頭のいい人なのは分かった」と納得させる。ちょっとせつなくさえ、なる。オススメです。

 で以下は私的な余談。この『ドゥルーズの哲学原理』、著者が編集者にこのドゥルーズ論が面白くなかったら絶交ですと言われ必死で書いたと「あとがき」で明かしてるとおり独自の仕事なのだが、
「それゆえであろうか、第IV章の終わりが見え、末尾で『アンチ・オイディプス』からの一節を打ち込んでいた時には、なぜか泪が出てきた
と書かれている『アンチ・オイディプス』の一節、つまりこの本でドゥルーズ(=ガタリ)の一番のキモとして取り上げられている一節が、自分が昨年『アンチ・オイディプス』を再読して「この本の一番のキモって、ココなんじゃね?」と思った箇所と一緒だったのだ(2016年10月の日記)。
 自分の「ココ」は、言うたらカンで挙げた箇所だったのだけど、それと専門家の見解が一致するのって、無学な市井の素人の直感あんがい捨てたもんじゃない気がした(無学な市井の素人って自分だけど)。
 と同時に、この國分氏じしん積極的な社会活動への関与や発言でも知られていることが、おのずと思い出された。

 話は飛ぶが今年の都知事選前日、秋葉原の街頭宣伝に現れた安倍首相にたいし観衆から激しい非難のコールが上がり、首相の対応も含め大きな話題となった。(体調が許せば僕も行きたいと思えず果たせなかった)そのコールを上げた人々の中に『永続敗戦論』の白井聡氏も加わっていたという話が目を引いた。あの読むと目の前が真っ暗になる、この国の来歴とその意味する袋小路の帰結に全ての希望を失ないたくなる、シビアな著作の著者が、にもかかわらず自身は社会への異議申立てを諦めない。國分氏にせよ、あるいはフーコーやドゥルーズにせよ、かつてドゥルーズやスピノザを苦悶させた問いとは真逆に「どうして絶望し諦めるに十分なだけの知性と判断力を持った人たちが、それでも諦めず社会の正義を求めて声を上げられるのか」そんな感嘆に近い疑問を、僕に抱かせる。
 むろんその問いは、真逆の問い「なぜ人は進んで権力におもねるのか」と表裏一体だ。知性ある専門家(中にはドゥルーズ研究者もいる)から、市井の人々・その代弁者まで、あまりに多くのひとが差別と収奪をよしとする現在の権力におもねり、自ら加担していくさまを今の僕たちは目の当たりにしている。
 読書がこんなに抵抗そのものと密接に関わる時代は、充実してるかも知れないが、不幸でもあるだろう。だが不幸の原因をなんとかしない限り、無邪気な日々には戻れない(かも知れない)。
 
ちなみに2013年刊の『ドゥルーズの哲学原理』は、そのあとがきで「本書の問題設定はこれで完結するのではない。来たるべきドゥルーズ=ガタリの哲学原理』へと続いていく」と書いている。こういう仕事に5年や10年ふつうにかかるのは承知なので、諦めず待ってます!

大人の夏期講習〜『ミシェル・フーコー講義集成』(2017.08.26)

 ホッブズは言った。主権者に権力を委譲する前の世界は万人の万人に対する闘争状態であったと。クラウゼウィッツは言った。戦争とは、別の手段で行なわれる、政治の延長であると。
 そしてフーコーは問う。互いが敵な無政府状態は、互いの力量に大きな差があれば一方的な制圧で終わるだろうし、大きな差がなければ(絶え間ない闘争ではなく)相互に牽制する闘争抑止の状態になるのではないかと。クラウゼウィッツの言う「戦争は政治の延長」は、先にあった政治は戦争の延長へのアンチテーゼだったのではと。ホッブズの言葉も、クラウゼウィッツの言葉も、それを独立したテーゼとして捉えると見えてこない、それが反論し否認しようとしたものとの関連を見るべきではないかと。
 何が真理か・真理とはどのようなものか、ではなく、人はどのように真理を扱うか・どう真理にアプローチするかを問い続けた、フーコーらしいフックではないか…

 コレージュ・ド・フランスの講義は公開制で、単位は与えられないが誰でも聴講できる。教授たちは年26時間の講義を義務づけられ、その内容は毎年新しいことが要求された。ヘーゲル研究の第一人者であったジャン・イポリットの逝去を受け、後任となったミシェル・フーコーは1971年に初講・1984年まで毎年1月から3月、聴衆が埋め尽くす水曜朝の教壇に立ち続けた。

 大人のいい処は、自分の好きなペースで勉強を続けられることだ。(資格を取るばあいは別だが)単位は取得できないかわり、単位が取れるか気に病む必要もない。万人に公開され、単位は無関係だったフーコーの講義は「ひとり夏期講習」にピッタリではないか。毎週=月4〜5回×三ヶ月の講義は通勤電車の行き帰りなどで1日一週分を読み進めると、図書館の貸出期限の二週間で読了するのに丁度よかった。
 いや、オススメしているのだ。1日一週分を目安に進めば、貸出期限で読める『フーコー講義集成』。不思議と著作ベースの著書より、読みやすく分かりやすい気がする。それは紙を相手に思考と表現を極限まで尖鋭化できる著作と違い、(もちろん草稿が用意され、それを講堂で読んでるわけだけど)目の前にいる聴衆に「聞いて分からせる」ことを想定した語り口や、時間配分のためではなかろうか。日本の新書で大ヒットした『バカの壁』が書き下ろしではなく聞き書きの形式を取っていたこと・同じような聞き書きタイプの書籍が受け入れられてるのも、同じ分かりやすさがあるように思われる。
 狂気・エピステーメー・近代・言表・監獄・規律・性・生政治・そして突然の古代ギリシャ・ローマ探究…常に考察の対象を変化させつつ、一貫して人と制度を問い続けたフーコー。それぞれの年代の講義録を追うのは、たとえばプリンスやデヴィッド・ボウイ、鈴木祥子さんなど、時代とともに作風をチェンジさせていくミュージシャンの軌跡を、アルバムで追うのに似ている。
 今夏、自分がチャレンジしたのは1976年の講義『社会は防衛しなければならない』、1980年の『生者たちの統治』そして1984年の最後の講義『真理の勇気』。

 冒頭に挙げたホッブズとクラウゼウィッツの再解釈は「社会は防衛しなければならない』からのもの。
 すごく大雑把に言うと、ローマ帝国崩壊後ヨーロッパに林立した中世諸国が、当初は自身の権力の源泉・正当性を「素晴らしい治世者だったローマを継承している」ことに求めていたのが、やがて(ノルマン・コンクエストに代表される)征服に支配の根拠を見出し「戦いに勝った者が統治する」史観に取って代わられた経緯を語る。闘争の担い手としての民族という概念の発明・市民革命や階級闘争の発生と時代を追って解説するフーコーの講義は、3月の最終日に突然「生政治」の出現を語り出す。
 生政治(Bio-Politics)。かつての権力は臣民に死を強制できる権力であったとフーコーは言う。死を命じるか、あるいは「生きるに任せる」政治。それに対し近代に出現した生政治は、臣民を人口として捉え、健康管理によって(おそらくは経済単位としての)生を強制する=生を命じるか、あるいは「死ぬに任せる」政治だと。それは分かる。でもそこに何の問題が?そしてなぜ突然その話をここで?という疑問は、すぐさまフーコー自身によって答えられる。
 本質的に生かすことを目標とする権力が、どうして」「殺せと命令を与え、敵だけでなくみずからの市民をも死に曝すことができるのか?
 そこに、人種主義が介入してくるのだと思うのです」「それは権力が引き受けた生命の領域に切れ目を入れる方法なのです。そうやって生きるべき者と死ぬべき者を分けるのです
国民の健康管理において先進的だったナチスが、同時に「死ぬべき人種(そこにはユダヤ人だけではなく障害者や性的マイノリティも含まれる)」を絶滅収容所に送り込んだ、そのメカニズムがここで暴露され、それまで語られてきた暴力の歴史にピタリと位置づけられる。むろんそこには自らも性的マイノリティーであったフーコーの、権力にとっての健康を・権力が望む形での生(そして表裏一体の排除)を強制されることへの鋭い問題意識と異議申し立てがある。と同時に、さすが毎年よく伏線を回収してオチをつけるなあと感心させられてしまう。
 逐一まとめるための日記ではないので詳細は省くけれど、1980年の講義『生者たちの統治』も、古代ギリシャ・ローマ社会における「真実は自分を突き詰めれば中心にある」という思想が、キリスト教社会で「真実は神にあり、自分の中心ほど信頼できないものはない」という服従の姿勢にシフトしたことを最終回で示唆する。
 大人になってする勉強のいいことに、もうひとつ、職に就いたり失職したり、家庭を持ったり持たなかったり、そして社会の矢面に立たされたりして、書物が語る哲学や思想を受け止める下地は19やハタチの若者より出来ていることが挙げられると思う。年を重ねてから読む人文書・社会書は「身につまされ度」が一味ちがうのだ。

 最終的にナチスに帰着する生政治の誕生を『性の歴史』六部作で追究する予定だった70年代後半のフーコーは、途中で大きく方向転換し、古代ギリシャ・ローマにおける個の倫理に傾注する。
 1984年2月から3月の『真理の勇気』はフーコーの生涯最後の講義であり、6月に彼はエイズで死去する。フーコーは罹患に自覚的で、D.エリボンの浩瀚な伝記によれば、彼の学界入りを支援した恩師・宗教学者のデュメジルには自らの病を打ち明けていたという。2月の講義二週間分を、フーコーはこの年長の畏友の著作を敷衍し、ソクラテスの思想・とくにその最後の言葉の謎解きに割いている。いわばフーコーにおける「アビイ・ロード』とも言える(そしてその言い方はどうかと思う)同年講義のなかでも、2月22日の講義の締めくくりは、彼の死後30年以上が経過した今でも、胸を締めつけるものがある。
「以上のとおりです。今回で間違いなく、ソクラテスの話を終わりにします。
 哲学教師である以上、生涯のうち少なくとも一度はソクラテスとソクラテスの死についての講義をやっておかねばなりません。事はなされました。
(中略)
 次回はキュニコス主義についてお話しすることを約束しましょう」

 
 ちなみにこの講義集成、一冊5000円とか6000円とかするので、図書館で借りて読みましょう。図書館で本を借りることが今なんだか色々言われていますが、図書館で借りて読むことを推奨します。なんとなれば、これをおいそれと買えはしない・図書館で借りるような人をこそ支え、救うかも知れない講義群だからです。(暴論かも知れんが、こんな値段の書物をポンポン買える人に、フーコーが代弁しようとする「強制される健康な生」からさえ爪弾きされる者の声が届くだろうか?)
 そしてついでに、まだ一介の講師だったフーコー自身、赴任先だったスウェーデン・ウプサラのカロリーナ・レディヴィヴァ図書館に通いつめ、その数万冊の蔵書を資料に博士論文『狂気の歴史』を書き上げたというエピソードも紹介しておきたい。マルクスだって熊楠だって、大英図書館に入り浸ってその博識をつちかったのだ。
 
5000円の本をおいそれと買えはしないけど、2000円でお釣りが来るレベルなら時々えいやっと思い切って買えるぜという場合、ちくま学芸文庫から出ている『フーコー・コレクション』が役に立ちそうです。
 入門書・解説書も多く出ているフーコーだけれど、本人の肉声とも言うべき著作に触れることは、やはり違った理解や共感をもたらします。吾々はもう大人なのだから、フーコー自身の著作に挑んでもいいのです。

本物のワイン(2017.07.08)

 7/9に新宿・名古屋・大阪・福岡・新宮・旭川で同時開催される「安倍政権に退陣を求める緊急デモ」に寄せた賛同文を、こちらにも転載しておく。
 こういう角度からデモに賛同する、デモの参加者に呼びかける言葉が、ひとつくらいあってもいいと思ったのだ。
    *     *     *

 道徳の教科書といえば評判が悪いけど、小学生の時に読んだ印象的な話がある。
 とある村で長く務めた村長がせめて老後は故郷でと引退することになり、
 村人は今までのお礼に特産のワインを贈ろうと決めた。
 一人がグラスに一杯ずつワインを持参し、樽を一杯にする。
 だが中には不心得者もいる。
 …言うまでもなく「樽の中身は真水でしたとさ」という結末だった。

 僕が街頭で見てきたものは違う。
 特定秘密保護法や安保法制・共謀罪に反対し、雨の中コールする人々、
 プラカを持って立つ人たちを何度も見てきた。
 これでいいのかと迷うことも、立場の違いや内輪で起こる反発もあったろう。
 失望し心が離れた人も居るだろう。
 それでも
 「許さない、なんて敵意むきだしの言葉で賛同は得られない」
 「お行儀よく整列してる日本のデモはダメだ」
 正反対の批判に挟まれながら、それぞれグラスに一杯ずつ、
 本物のワインを運びつづけた人たちを、僕は心からリスペクトする。

 気負う必要はないけれど、少しだけ胸を張ってもいいと思う。
 日曜日、樽を本物のワインで一杯にしよう。

「安倍政権に退陣を求める緊急デモ」リンク


『ドラゴン×マッハ!』はいいぞ〜総集編(2017.06.18)

 いや実際、劇場公開当時はポスターなど見るに配給元もマックス・チャンは完全ノーマーク・少なくとも「まだ知名度ないから表看板には出来ない」「観てスゲーと思ってくれ」というスタンスだったと思うのだ。


 そんなわけで『ドラゴン×マッハ!』すごく好かった。今年を振り返って色んな名作ヒット作があったねと話が出たら「ちょっと待て『ドラゴン×マッハ!』を忘れてないか?」今後も様々なアクション映画が現れ凄いと語られるたび「ドラゴンマッハを忘れてないか?」と口を挟みたくなる、新たな傑作の誕生だ。
 香港(ドラゴン)×タイ(マッハ!)で『ドラゴン×マッハ!』と安易…いやいや、苦渋の邦題だが原題は『SPL2(殺破狼2)』。「宇宙最強」ことドニー・イェンと悪役に開眼したサモ・ハン・キンポーの壮絶なバトル、香港ノワールとカンフーアクションが融合した前作『SPL〜狼よ静かに死ね』で、狂犬のようなナイフ使い役が強烈なインパクトを残したウー・ジンが、今度は情に篤く、心身ともボロボロにされながら信念を貫く潜入捜査官を熱演。こういうのが観たかった!
 臓器売買組織を追ううち正体がバレ、香港からタイの刑務所に放り込まれる主人公。そこに現れるのが難病の娘をもつ看守トニー・ジャー。お互いの言語も分からない二人が、スマホの翻訳機能で意志を疎通しあうなどハイテク小道具の使いかたも巧い。
 そして巧い小道具といえば、組織のボス(ルイス・クーが怪演)が子飼いの刑務所長に言う「いいネクタイだな」。主人公たちノーネクタイの下っ端組に対する身分の高さを示すと同時に「その高い身分も私(黒幕)が仕立ててやったんだぞ」という、上には上がいる力関係を示唆する…と見せかけておいてーそのネクタイが最後の最後「あーっ、あの『いいネクタイ』コレのための伏線かーっ!」という脚本の律儀さ!あと、いいネクタイ=頭脳担当と思わせておいて、中盤いきなりこの所長が自ら暴れ出し、終わってみたら一番強かった、その落差も効果的だった。
 実際、香港とタイを代表するツワモノが二人がかりで向かって、てんで歯がたたないのだ。序盤うだつのあがらない平看守だったトニー・ジャーの怒りに火がつき、クライマックス、ついに鎖を拳に巻いて「来たーっ!ムエタイのロープを腕に巻くやつ、鎖で来たーっ!無敵モード、入りました!」とトニー・ジャーの他の作品を観てるファンには思わせておいて、そこまでしても倒せない。その無茶むちゃ強い刑務所長はマックス・チャン。『グランド・マスター』で八卦掌の秘伝を奪い蓄電した馬三を、『イップ・マン 継承』ではドニー・イェンと詠春拳の正統を争う悲運の天災武闘家を演じる。本作を加え、いずれも「ものすごく強いが運に恵まれず悪堕ち」キャラなので、そのうち(本作のウー・ジンみたく)いいひと役が観たい。

 【一旦まとめ】アクションもすごいが、ストーリーも好い

 たとえばトニー・ジャーが正面から迫る護送車の窓を飛び膝蹴りで突き破るアクションと同じくらい、怒るトニー・ジャーがハンドルを奪った護送車を停めるため、悪党が一般人を車線に突き飛ばす(トニー・ジャー急ブレーキする)場面が雄弁に善悪をキャラづけるエグい演出。
 格闘シーンも「テンション上がる!スカッとするカタルシス!」ばかりではなく、むしろ「上がるのは当たり前」切々としたバラードや、レクイエムのようなオケ曲を劇伴にしてアクションで感動させようとする、その貪欲さが好い。
 …思えば『イップ・マン 継承』もマックス・チャンやマイク・タイソンといった強敵との対決(マイク・タイソンの強敵演出うまかったなあ)に劣らぬほど、作中最強の格闘の才をもってしても変えられない運命に直面し、愛するひとの前で黙々と木人に向かう主人公の背中が強烈な印象だったし、
 サモハン主演の『おじいちゃんはデブゴン』も暢気な邦題とは裏腹に、認知症で隣人の名前も思い出せない老デブゴンが、人を倒す技術だけは身体が覚えていて雑魚敵・強敵を次々屠っていくラストバトルは悲哀と悔恨の炸裂で、
 自分のなかで「泣けるカンフー」「泣かせるアクション」が今年キテるかも…と思ったりしたのでした。

 前作『SPL』とは設定自体ちがうので『ドラゴン×マッハ!』単体でも楽しめるけど、随所に前作へのオマージュ(同じ監督の作品なのでオマージュは変か)が散りばめられてるので、先に見とくとより楽しめます。ただし『SPL』が好きで好きで、という人は逆にちょっと「面白いけど、求めてたのはコレじゃ…」となるかも知れない。『エイリアン』と『エイリアン2』、『荊の城』と『お嬢さん』のような関係なのです。

 その『1』と『2』の違いは、トニー・ジャーにあるのかも知れない。ストーリーにみなぎる道徳観や倫理観は『マッハ!!!!!!!!』『トム・ヤム・クン!』などタイでのジャー主演作品を踏まえたものにも思えます。
 ・『ドラゴン×マッハ!』を大傑作と呼ぶべき理由
  人間ドラマとしての側面から読み解く(加藤よしき/リアルサウンド)
←良いレビューです。
 『マッハ』や『トムヤムクン』が声を失なった喉頭がんの富豪や異性装者・ドーピングで勝とうとするムエタイ使いなどを悪役に配してきたのは「悪党も弱者だったりマイノリティだったりするのだ」という同情や憐れみ・共感によるのか、ジャーが演じるような田舎で素朴に育った伝統的な主人公が勝つべきという勧善懲悪なのか、判断に迷うところがないでもなかったが、『ドラゴン×マッハ!』は主人公ふくめ皆を弱い人間として描くことで前者にメーターを振りきっている。

 ツイッターやら一次創作の即売会の無料配布ペーパーやらで(一次創作めあてに来たひと大迷惑)で散発的に発露してきた「いいぞ」を無造作に並べて、大幅に加筆したものの統一感のない投げっぱなしレビューとなりました。
 観ればまだまだ魅力を発見・再発見できる奥行きのある作品だと思います。
 恰幅のいい怖そうな看護師長さんが、小児科の子供たちには懐かれてることで「あ、きっとイイひとなんだ」と察せられるのも細やかでいい。
 あと最後に、ウー・ジンとトニー・ジャーそれぞれ出自のことなる二人が「ふたりはドラゴンマッハ!合体攻撃だ!」となかなかならない、最後の「お前が必要だ!」という時でも直接に手を握り合わないし、最後の最後の大団円でも間にジャーの娘を挟んでニコニコしてる、その関係性がまた面白いのです。
 

失なわれる十年(2017.06.17)

 組織的犯罪処罰法改正案(いわゆる「テロ等準備罪」もしくは「共謀罪」。以下「共謀罪」とする)が強行採決された。
 法案の内容だけでなく、委員会採決を行なわず「中間報告」なる禁じ手を用い、いきなり本会議採決した手法の強引さも非難の的だ。加計学園問題の追及を避けるため、すみやかに拙速にでも国会そのものを終了させたかったのだとも言われている。
 もちろん法案の内容も酷い。加計学園の件もあるのだろう。だが「中間報告」の悪用による強行採決は(むろん非道だが)意外や驚愕とは思えない、むしろ必然と思える展開だった。なぜなら昨年すでにTPP法案を国会で成立させる際、本会議の議長も知らされない状況で突然採決する「実績」を上げているからだ。今度はもっと酷いことをしないと格好がつかないだろう、という予感はあった。
 冗談で言っているのではない。潜在意識で自滅願望を持つ政治家が、どこまでやれば弾劾されるかとチキンレースをしてるとも思わない。酷い法案を通すために無理やりな手法をやむなく取っているのではなく、無理な形で法案を通すことは、現政権の本懐なのだと考えたほうが理にかなっている。法案が提出され、反論も含め審議され、重要な法案は委員会と本会議の二段構えで採決し…といった国会の機能を破壊すること自体、現在の安倍政権の本懐なのだ。
 ・強行採決や騙し討ちは法案を通すためのやむない手段ではなく、
  国会を無力化する安倍政権の意図的な目標遂行でもある。
このことは過たず理解されなければならない。
 もちろん、その先にある究極の目的達成は憲法の廃止だ。憲法とは国=政府をしばり、好き勝手させないものであるとするならば、その前提自体を無視し、否定し、覆す自民党の改憲案は、改憲ではなく実質上、憲法の廃止である。共謀罪が成立した今、この改憲=憲法廃止にもリーチがかかっている。

 * * *
 第一次安倍政権が崩壊し、自民党じたい野党に転落した屈辱から、再び政権の座についた彼らが選んだ指針が「次は失敗しない」ではなく「次は失敗と言わせない」だったことは、この国だけでなく、彼らにとっても大きな不幸だった。いや、もちろん彼らの不幸は再び吾々に戻ってくるのだが。
 * * *

 国会の無力化、共謀罪による国民の監視と恫喝、最終的には憲法の廃止。さらに言えばマスメディアを「忖度」させ、道半ばながら、すでに安倍政権ほどフリーハンドの権力を掌握した政権は戦後史において稀有だろう。
 だがそのフリーハンドで強行に採択してきた施策はどうか。
 海外で戦災に巻き込まれた日本人を自衛隊が救出するだの、南シナ海を中国の脅威から守るだの(法案の主旨からすればありえない)夢想をぶちあげた安保法制は、南スーダンで何の貢献を成すこともなく実質上の戦闘状態が隠蔽され、自衛隊員が無事生還できただけ僥倖という結果に終わっている。
 TPPに至っては、横紙を破って成立させたものの主たるアメリカがトランプ政権になって梯子を外し、いや、梯子を外されたことが明白でありながら法案を強行採決し、何の結果ももたらしていない。
 世界一安全な首都で、最も廉価に開催するはずだったオリンピックは国立競技場の建設費の急騰、選考委員の買収疑惑そしてオリンピックを名目にした共謀罪が国際的な批判の的である。
 さらに原発産業に固執したあおりを食った東芝の壊滅状態、カジノ建設計画。(これは内閣主導ではないかも知れないが)オリンピックの次は大阪に万博を招致だといって、会場にバンジージャンプ台を設置して「タナトスを体験する」のが世界中から観客を呼ぶ企画なのだという。

 もうハッキリさせたほうがいいだろう。うだうだ先に進まない衆愚の議会制や民主主義でなく、専制的に決定・処断できるリーダーが登場すれば世の中うまくいくという『銀河英雄伝説』みたいな幻想は、少なくとも現実の世界では通用しない。
 「権力は腐敗する、絶対権力は絶対に腐敗する」とは、汚職や情実が横行するというだけの意味ではなかった。政権がかつてないフリーハンドの決定権を手にしたとたん、(それはもう触れるもの全てが黄金に変わってしまうマイダス王の呪いを反転したように)決定したやることなすことが劇的に使い物にならなくなったことは、教訓として定式化されていい。反論や吟味を排除した決定は、もれなく劣化すると。
 加えていえば、森友学園の問題で一番やるせない気持ちにさせられたのは、首相や首相夫人まで噛んで便宜をはかり特権的な恩恵を与えた学校の建設が、児童への愛国教育といった現政権が最も肝要にしたいはずの施策を実現するはずの(それ自体ちっとも良いこととは思わないが)施設が、ゴミの搬出さえ手抜きする杜撰なものであったことだ。この一事は現政権の施策の、根本的な欠陥を端的に示していると思う。次節で説明する。

* * *

 安保法制、TPP、原発推進、オリンピック。これにもうじき、とても上手く行くとは思えないカジノと万博誘致が加わる。運用次第で絶大な「成果」をあげそうな共謀罪をのぞき安倍政権が強行採択してきた施策は、ことごとく暗礁に乗り上げている。なぜそれでも政権は困らないのだろう。
 結果がどうなれ、フリーハンドの権力を得られれば、採択された施策がどうなろうと知ったことではないのか。(それも一理あるかも知れないが)それだけではないはずだ。
 ヒントは昨年末のTPP強行採択に発見できる。先述のとおり採択の時点で死文となることが明白だった法案が、それでも無理に可決された背景には、すでにTPP加盟を前提とした莫大な予算が組まれてしまっていた事情があった。 オリンピックでもカジノでも、あるいは愛国小学校でも、それ自体が収益や効果を上げられず失敗しても関係ない、採択され着手した時点で利得にあずかり権益を得る者がいる。そうした者が潤い繁栄すれば成功であり、後の始末は関係ないというシステムが現在のこの国を動かしていると思えば、多くのことに筋は通る。
 ルール違反の強行採決も、肥大化するオリンピックの費用も、不思議なこと・不可解なことは何もないのだ。
 ただ、不思議でないから理不尽でもないとは言えない。こうした議会の荒廃や施策の頓挫はすべて、この国で暮らす吾々に返ってくる。共謀罪をめぐる議論で端的に見られた国際社会への敵意・あるいは排外主義の加熱は、この国がふたたび世界から孤立する秒読みをしているかのようだ。このあと共謀罪が施行され、憲法が廃止され、オリンピックを迎える。
 場合によっては戦争も起きるだろう。内閣か自衛隊の独断で、宣戦布告もなく、もちろん議会の審議も経ず、突然どこかの海域で日本が武力を行使する。そして「宣戦布告してないので戦争にはあたらない」と閣議決定される…というオチ以外はすべて、過去に日本がしてきたことだ。70年前の話だけではない。つい最近、都知事だった石原慎太郎が尖閣諸島で同じことをしたではないか。
 日本とは結局そういう国だという認識は、いずれ世界でふたたび共有されるだろう。もうされているかも知れない。これらすべての杜撰な施策が、たとえば今後十年で、対外的にも、内面においても日本から奪うものがどれだけ大きいか。考えると気が重い。

 しかしまずは改憲である。
 一日で二倍に増える蓮が、池を埋め尽くし窒息させるのに30日かかるとしたら、池がまだ半分しか埋まっていなかったのは何日目かという喩え話がある。むろん答えは29日目だ。まだ半分と思っていても、窒息までは一日しか残されていない。
 共謀罪が参院を通過したとたん、これは酷い・あんまりだという声が随所で上がった。テロ対策法と言いながら、テロとは何の関係もないではないかと。それらが全て30日目の嘆きであることを、必要以上に責めようとは思わない。むしろ30日目に上がった非難の声が31日・32日になっても(Twitterのアイコンが四角から丸になった的な四方山話に押し流されず)途切れなければ、それは実際の施行の牽制・抑制につながるだろう。
 だが30日目の嘆きに「どうしてこうなるまで看過していたのか」という反省が含まれるならば、すでに次の池に蓮の種が撒かれていることを、なおさら看過してはならない。
 現政権が倒れでもしないかぎり、共謀罪までは通ったから改憲はやめておきましょう、なんてことは理屈としてありえない。おそらく国会での審議は最短に、場合によっては新たな議会無視の手法を発明して、国民投票が開始される。すさまじい広告戦略がなされるだろう。その広報を請け負うことで、結果がどうなろうと利得と権益を得る最大手の広告会社があるからだ(新人社員を過労死自殺された会社である)。
 それに対する反撃・反抗は多角的で遊撃的、時には互いの趣味や志向を措いて結束し大人数の絵を作ってみせながら、多くの局面で分散し迂回する柔軟さ機敏さが鍵となるだろう。それは「全面的に参与・没入できない者は去れではなく、その正反対動ける局面では逃さず動く、そして動ける局面じたいを見逃さない」運動になるはずだ。

 共謀罪採択がなされた朝、電車のなかで『アベノミクスの正体』なる本を、表紙もタイトルも剥き出しで広げ読む女性がいた。それもまた次の池の蓮を摘む、反撃の形なのだと思った(勝手に)。

 共謀罪採決の前夜、国会周辺での抗議に参加した知己によれば、安保法制の時には一体となって国会正門前に押しよせ時間を区切って同じ場所をシェアした二つの大きな団体が、今回は同じ時間に正門前と裏手それぞれでコールをし議事堂をサンドイッチにしたという。分裂と後ろ向きに捉えず、そういう絵の作りかたもアリかなとも考えたのだ。

冥界の灯火〜池澤夏樹『アトミック・ボックス』(2017.06.05)

 チョーヘーキヒシャという言葉が頭の中で漢字になるのに時間がかかった
 そんなフレーズに、それまでグイグイ引きずられるようにページを繰っていた手が、停まった。

 【往路
 先月末に横浜・名古屋間を往復する機会があった。18切符のシーズンでもないが、逆にゴールデンウィークで高速バスも軒並み高く、通常料金の普通電車で行き帰りしたほうが若干まだ安いということで、片道6時間ずつ読書の時間が出来た。
 往路に選んだのは、創作の師と私淑している丸谷才一先生の『別れの挨拶』(集英社文庫)。単行本に未収録だった原稿をまとめた、編集部いわく「最後の文集」だけれど、亡き著者の思索が満遍なく網羅され、むしろ入門にピッタリのセレクションになっている。たとえば、こんな文章。
 なつの夜は浦島の子が箱なれやはかなくあけてくやしかるらん (中務)
 …「明く」と「開く」のほうはもともと同じ語ゆゑ、別にどうといふことはないけれど、
「箱」と「はかなし」との掛け方は…わづかにずれてゐるその分だけ、
かへつて気がきいてゐておもしろい。
かういふ藝が可能なのは、中務がよほど耳がよかつたせいではないか。
…第三句以下の、つまり「箱なれやはかなくあけてくやしかるらん」における
h音とk音との微妙で花やかなもつれ具合はこの上なく楽しい。
…母の華麗な才気(…)を受けつぎながらいつそう軽妙にそして明るく仕立てることこそ
中務の藝の見せどころであつた。
(※中務の母=伊勢)
 少し話を逸らすけれど、この文章、旧仮名遣いなのに異様に当たりが柔らかく、読みやすくはないだろうか。これはまだ和歌や発音の話だけれど、初めて豆腐が古代中国の文献に現れるのは的な四方山話などは、読んでて旧仮名なのを忘れることさえある。
 それは丸谷氏が文章の心得として美麗さ華麗さではなく、達意(意味が通じること)を第一と重んじていたからだろう。美麗だが非論理的な文章ではいけない。華麗だが無意味な文章ならば、書く甲斐がない。
 生涯、旧仮名を通したのも(もちろん自身が読み書きを習得した「第一言語」で使い勝手がよいこともあったろうが)・旧仮名を使っていれば江戸や平安時代に書かれた文章の富と地続きでいられる・動詞の活用において新仮名は無理があり旧仮名のほうが理にかなっている=旧仮名のほうが明晰で汎用性が高く、つまりは伝達に適しているという信念に基づいていた。
 残念ながら21世紀の今、敢えて旧仮名を使う発言者の多くは、文章を格式高くとか、ちょっと斜に構える・いっそ威圧的なこけおどしのために、つまり伝達を妨げる手段にしているのではないか。「自分はこうして言葉を玩具に出来るんだぜ」と戯れ「どうだこの崇高さが、お前らには分からないだろう」と自身の優位を保つために使われる旧仮名が、モタツキなしに読めるわけがない。それは同じ旧仮名でも、氏が(新仮名ネイティブで、たぶん今後も新仮名を使い続けるだろう自分にも共感できる形で)示そうとしたのとは真逆の使われ方なのだ。

 そして伝達のためには「理にかなってる」だけではない。『別れの挨拶』でも、読点には論理的な区切りとリズム的な区切り・二つの役割があるので厄介だ、みたいな今まさに吾々がツイッターで困ってること(困ってますよね)も指摘されてたり。クリムトの風景画はなぜ正方形なのかとか、先にあげた中務の歌のもそうだけど、論理だけでなく、感触や感覚面にも目配りする先生だった。
 あるいは、鎖の最も弱い輪か、経絡秘孔でも突くように松栄千代田神徳(まつのさかえちよだのしんとく)』というタイトルひとつで明治時代の歌舞伎「改良」運動の問題点をあぶり出しこの外題を見ただけでも、おもしろくない芝居だとわかるでせう)とダメ押しのコメントでリングに沈める、選球眼と底意地の悪さ。
 未発表曲だけで出来たベスト盤みたいな、ありえない(実はよくある)奇跡を思わせる白鳥の最期の絶唱。編集部は、いい仕事をしたと思う。
 …と、例によって、ここまではマクラである。

 【復路
 そんなわけで、さて帰路は何を読もうかと飛びこんだ金山(名古屋)の本屋で、池澤夏樹『アトミック・ボックス』(角川文庫)に手が伸びたのは、自然な成り行きだった。
 丸谷先生は池澤氏の父にあたる福永武彦氏との共著もあり、いわば池澤氏は旧友の息子となるわけだが、それ以上に純粋に作家として「新しい才能が出てきた」と喜んでいたフシがある。自身の作家以外での大きな仕事と誇っていた新聞書評欄の顧問も池澤氏に譲り渡したことを『別れの挨拶』でも嬉しげに語っている。そんな『別れの挨拶』を読んだ直後だったので、読みそびれていた池澤氏の長篇にすんなり手が出た。
 
 『アトミック・ボックス』は題名が示すとおり核がテーマ。サスペンスか冒険小説のようなエンターテインメントな展開の底には、3.11以後の原子力に対する著者の姿勢が伏流のようにある。が、そのことは別の機会に考えるとしてー
 無実の罪で嫌疑をかけられ、瀬戸内海の島づたいに逃亡する主人公が、ある老人の助けを得る。その老人が言うのだ、自分の叔父も第二次世界大戦の徴兵忌避者であったと。
「俺の叔父は逃げた」
「昔の話だ。戦争が終わる少し前、赤紙が来た」
「赤紙って……?」
「召集令状だ。戦争に行って戦えという国からの命令だ。叔父はそれは嫌だと思った」

 徴兵忌避をモチーフにした文芸作品をひとつ挙げよと問われたら、(答えられる人が)挙げる作品は決まっているだろう。
 小説家・丸谷才一の代表作は何かと問われた人の回答も、たぶん同じ作品になるのではないか。『笹まくら』である。故・米原万里氏の書評集は『打ちのめされるようなすごい本』という題だったが、その「打ちのめされるようなすごい本」とは実はこの『笹まくら』だった、という話は前にも何処かでしたと思う。
 『アトミッック・ボックス』が新聞連載されたのは2012年9月〜2013年7月。丸谷先生が亡くなったのが2012年10月。もちろん事前に構想は練られていただろう。けれど、そのエピソードが登場する部分と連載の進度を目分量で測ると、同作のチョーヘーキヒシャが先生の逝去を受けて、手向けとして新たに書き起こされたーその可能性は高いと思われた。ちょうど映画のスタッフロールの最後に、撮影中に死去したキャストやスタッフへの献辞が掲げられるように。
 果たして市立図書館に出向き、平成24年の縮刷版にあたってみたところ、連載小説『アトミック・ボックス』に徴兵忌避のエピソードが登場するのは11月3日〜4日。丸谷先生が逝去した10月13日から三週間後のことだった。
 そして確認すると少なくとも連載当時、これは分かる人にだけ分かる目配せではなかったようだ。というのも先生の訃報を告げる10月の紙面には他ならぬ池澤氏の弔辞が掲載され(書評欄を引き継ぎ、ちょうど同紙で小説を連載中の作家だ、当然の人選だろう)そこでは逝去した作家の代表作が『笹まくら』であること、徴兵忌避者を題材にした小説であることがハッキリ指示されているからだ。この鳩を出しますよと明白にネタバレしてからの、三週間後の鳩だった。連載をリアルタイムで追いかけていた人は誰もが「ああ、あの鳩」と思ったのではないか。
 その鳩が「分かる人には分かる目配せ」になったのは、むしろ五年後の今だろう。
 どんなに生前もてはやされ人気を得た作家でも、ひとたび没すると忘れられる。再び評価される者も、それまでに一度は冥界・煉獄をくぐらなければいけない。そう書いたのは他ならぬ池澤氏だった(出典は…すまん、すぐには出てこない)。五年前に彼が自身の小説に登場させたチョーヘーキヒシャの文字は、今は冥界・煉獄を歩む先達の路が真っ暗にならぬよう、忘れ去られてしまわぬよう、残された若い継承者が、そっと用意しておいた灯火のように思える。
 (だからこうして、それに気づいた者が「ここに灯火がある」と言いたくての、この日記である)

 そうした視点で『アトミック・ボックス』を読むと、最後に主人公がとある人物と対決する場面で丸谷先生の『女ざかり』を連想したりもするのだが、これは別にそういう狙いではないだろう。
 二人の作家が同じように参照してきた水源があって、そこからそれぞれが引き出してきたのだと思う。自作に元ネタがあることを恐れない、むしろ過去の伝統や好きな作品を源泉に創作することを積極的に捉える流儀もまた、僕がこの二人から学んできたことだ。
 読む側もまた、さまざまな水源から水を汲み上げながら本を読む。
 たとえば『アトミック・ボックス』には主人公の母親が「あんな変なもの食べたくない」と、とある食べ物をdisる場面がある。自分の母親の食の好き嫌いなど子供の頃には考えもせず、後で「お母さん、あれ、キライだったんだ!」と驚いた体験は僕自身にもあるため、この最後に近い場面での、主人公の驚きには妙に「分かる!それ!」と共感してしまったのだ。
 

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