(24.12.02)一日遅れでメイン日記(週記)更新。インドネシア・北マケドニア・中華人民共和国…未知な国の物語にグローバルを見ること。画面を下にスクロールするか、直下の画像をクリックorタップ、または
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24.12.8のメイン日記(週記)はお休み。代わりでもないんですけど↓
(24.12.08)毎月あるとは限らない不定期刊の月刊RIMLAND、今月は3ページの小ネタ「
向いてない職業」をアップしました。そうは見えないかも知れませんが「人に優しく、ジェントルな者たちに幸あれ」という12月らしい?お話。来年の1/4まで無料公開です。直下の画像をクリックorタップ、または
こちらから。
(24.12.12/小ネタ/すぐ消す/月末に拾いますよ)『
監獄の誕生』読了。いやー面白かった。フーコーの最高傑作とも言われてる一方、本人が最後
「ここでこの書物を中断する」と言って擱筆したため「未完なのかぁ」みたいな評価?風説?もあって、でも一応ちゃんと終わってる。小ネタの枠を超えちゃうので月末に加筆しますが、むしろ最終章の追い込みがすごい。
そしてその最終章
「監禁網は外部の世界をもたない」罪人・逸脱者も無法者(アウト・ロー)として排除されるのでなく逆に
「法の中心」規律社会の
「機構のまんなかに位置している」(逃げられない)とする言いようが、本サイトで何度も言及してるドゥルーズ=ガタリの
「人種差別の観点には外部というものはなく、外部の人々は存在しない」(
参照)とやっぱり呼応してるなと考えたとき。本書の訳者解説が1977年だから日本の事例として引き合いに出してる「監獄」は網走刑務所や巣鴨プリズンだけど、2020年代の今だったら想起されるべきは(監獄であり人種差別の場でもある)入国管理局ではないかと…品川の東京入国管理局の十字形の建物がパノプティコンに見えたのを改めて思い出したのです。
(24.12.07→13)ゆる募。札幌周辺で見物・見学系のオススメ。旭山動物園は時間的に少し困難。ウ○ポイは脳内審議中。他にあれば拍手経由でお願いします。
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(24.12.06)
東京電力による柏崎刈羽原発の再稼動に反対する署名(change.org/再稼働阻止全国ネットワーク事務局/24.11.30/外部リンクが開きます)に賛同しました。
こちらは当面存置。署名:
「国保料が高すぎる!国の責任で払える保険料にしてください!」(中央社保協/24.6.19/Change.org/外部)
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リトル・キックス e.p.』成長して体格に差がつき疎遠になったテコンドーのライバル同士が、eスポーツで再戦を果たす話です。BOOK☆WALKERでの無料配信と、本サイト内での閲覧(無料)、どちらでもどうぞ。
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扉絵だけじゃないです。
side-B・本篇7.1話、6頁の小ネタだけど更新しました。
(外部リンクが開きます)
今回ひさしぶりにシズモモの過去エピソードを見直し「やっぱり好きだな、この話とキャラたち」と再認できたのは幸せなことでした。そして色々あったり無かったりしても、ペンを持って物語を紡いでいる時が、自分は一番幸福らしいとも。次に手をつける原稿は(また)シズモモではないのですが、何しろ描くことは沢山あるのです。
ちなみに今話タイトルの元ネタは井上陽水の「
愛されてばかりいると(星になるよ)」。同曲が収録されたアルバム『ライオンとペリカン』のB面(side-B)に入ってる「
お願いはひとつ」は個人的に一番好きなクリスマスソングの最有力候補です。レノンと争う。
RIMLAND、電子書籍オンリーですが20ヶ月ぶりの新刊『
読書子に寄す pt.1』リリースしました。
タイトルどおり読書をテーマにした連作に、フルカラー社畜メガネ召喚百合SF「有楽町で逢いましょう」24ページを併催・大量リライト+未発表原稿30ページ以上を含む全79ページ。頒布価格250円(+税)で、一冊の売り上げごとに作者がコーヒーを一杯飲める感じです。下のリンクか、
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書誌情報(発行物ご案内)はおいおい更新していきます。(22.11.03)
【生存報告】少しずつ創作活動を再開しています。2022年に入ってから毎週4ページずつ更新していたネーム実況プロジェクト、7/29をもって終了(完走)しました。
GF×異星人(girlfriends vs aliens)
これまでの下描きは消去。2023年リリース予定の正式版をお楽しみに。(2022.08.08→滞ってます)
ゼノフィリア?〜『ザ・レイド』『ペトルーニャに祝福を』『死亡通知書 暗黒者』(24.12.02)
ショービニズム(排外主義)・レイシズムなどとは別に
ゼノフォービア(外国人ぎらい・外国人恐怖症)という言いかたがある。もしかしたら自分は逆に、言うなれば「ゼノフィリア」の気があるのかも知れない。
と言うよりゼノフォビアと表裏一体であるような愛国心・愛郷心・身内フィリアみたいな心情、に、対する嫌悪や忌避感・苦手意識。思えば何度も(とくに近ごろ)本サイトで頻繁に取り上げているサマリア人の教え・他人どうしの連帯・「何も共有しない者たちの共同体」といった概念もそうだ。そもそも「オタク」「オタク」と言うけれど、自分にとって吾が意にかなったオタクの定義は
中島梓氏が『コミュニケーション不全症候群』で描写した「人間よりも非人間を仲間だと思う」だったりする。…現実の「オタク」は非人間を媒介にして結局は人間どうし・仲間同士での共感や盛り上がりを重視する社交的な人たちで…という話は兎も角、異国好き・異国人好きと訳せそうなゼノフィリアには「赤の他人にしか性的な関心を持てない」意味もあるという話は含蓄に富む。いや、これも別の話。
日本人による、日本を舞台にした映画やドラマが近年ますます苦手になっている。質の問題に帰そうとは思わない。昔から得も言われず苦手で、その理由も上手く説明できない。「生々しい感情を見たくないのかも」と話したら「韓流のドラマのほうがずっと生々しいよ」と返されたこともある(たぶんそうなのでしょう)。要は目の前の現実を見たくないのだろうか。まんがやアニメ・あるいはSFみたいなクッションを置けば、つきあいやすい。実写でも子ども向きの特撮ヒーロー物なら観れるというのは重症かも知れない。
思考を内向きにスパイラルさせていくと、
まあ元々そんなに多くの物語を必要としない(
それでいて自作は読まれてほしいってダメですよねえ)傾向もあるかもなぁと思わないでもない。映画館に行くのは年に10回ないくらいだし、昔はそれなりに観ていたハリウッド発の大作なども「どうせ強大な力を手に入れた主人公が中途イイ按配の苦境に凹みつつ人間的に成長して最後は巨大ビル群が崩壊するスペクタクルで敵を倒して、エンドロールの後に続篇の匂わせがあるんでしょ」みたいに思ってしまう(マーベル物のどれかに抜擢された監督が自ら同じようなことを言うてはりましたね)、もっと疲れてるときは「
どうせまたハラハラドキドキして最後は感動させられるんでしょ」くらいに思ってしまう。
もしかしたら身内フォビアでもゼノフィリアでもなく「ネオフィリア(新しもの好き)」なのかも知れない。
昔から皆がとうぜん押さえてるメジャーどころを外して、妙にマイナーなものに手を出すところがある。世界一の興業成績を誇るメガヒット作より、あまり観る機会のない国や地域の映画に、わりと心を惹かれる近年らしい。マーベルの『アベンジャーズ』が
「日本よ、これが映画だ」という宣伝文句で公開されてきた時も「
よく言うよ」と思ったし、アイルランドやスーダン(
20年6月の日記参照)・ミャンマーの作品(
昨年8月の日記参照)にこそ「
むしろコレが映画だろ」と思うことが少なくない。
* * *
たぶん「インドネシア発」というだけで観に行った
ギャレス・エヴァンズ監督『
ザ・レイド』が「味をしめる」キッカケだった。2011年か12年。
いや、インドネシア発「というだけで」は嘘で、実際には多少の予備情報があった。舞台はジャカルタ…それは意識してた記憶ないけれど、麻薬王のアジトである建物に警察の特殊部隊が急襲をかける。だがそのアジトは、公団住宅みたいな建物の
各部屋が子分たちの住居になってる職住一体(!)の暴力マンションで、突入したとたん入口を閉められた警察部隊は「住人たち」の反撃で絶対絶命…これに主人公の警官は「
世界最強の格闘技」
シラットで立ち向かう、というものだ。
そして新宿の単館で二週間限定くらいの上映。観なきゃ、と思うでしょ?
ちなみにタイのムエタイも世界最強の格闘技だった気がするし、マット・デイモンがCIAエージェントを演じた『ボーン』シリーズで駆使していたカリも世界最強の格闘技だった気がするけど、細かいことはいいんだよ。ああいうノリで「世界最強の格闘技・スモウ」がブロンクスあたりで暴れ回るまんがを描いてみたい…というのは冗談半分として。
この『ザ・レイド』が世界のバイオレンス・アクション映画史に爪痕を刻む傑作だったわけです。サミュエル・L・ジャクソンも好きな映画5本に選んでいたと思います(他の4本まるで憶えてない…)。
インドネシアで作られ、インドネシアのアクション俳優イコ・ウワイスやヤヤン・ルヒアンを世に出した同作、監督はアイルランド人で音楽は日系アメリカ人のマイク・シノダが担当と、ローカル映画でありながらグローバルだったのも現代的な現象なのだと思います。
* * *
世界各地の映画を(語れるほど観てはいないけど)観て気づかされるのは、昭和に育ち平成で人格を形成した自分が捨てがたく身に染みつかせてしまってる「日本は進んでる」という感覚だ。
もちろん今でもこの国には経済力も文化的な影響力もあるだろう。でも、それ以前に(一位は物量でアメリカだったり、社会面で北欧だったり観点によって評価は変わるにせよ)欧米が一番すすんでいて、日本はそれに追随する二番手・その他のG7だか20だかに含まれないような国々は遅れていて、トップ欧米の先進文明が二番手の日本を経由して三番手の「途上」諸国にトリクルダウンしていく、そんな無意識の誤解・偏見に気づかされるのだ。
なんなら(かつて第三世界と呼ばれたような)世界の各国は「日本のようには」文明化していない、あるのは昔ながらの前近代的な生活か・さもなくばスラム街みたいな、大仰に言ってしまうとそんなイメージが自分の中にありはしないか。
実際には世界じゅうの国々が日本など通らず、じかに欧米の物質文明とつながっている。それをすごく表わしてるなと思ったのが2014年のインド映画『
銃弾の饗宴 ラムとリーラ』(
14年9月の日記参照)のオープニングだ。いかにもボリウッドらしい民族衣裳と大量のモブを従えた歌にダンスは、日本でも(たぶん欧米でも)エスニックな・何なら遅れた文化をエキゾチックに楽しむ的な文脈で捉えられてるけれど、そのクライマックスはサリーに身を包んだ=つまり伝統的な装いそのものの女性たちが群がってハンサムな主人公をスマホで撮るというものだ(4:00くらい〜)
日本のゼノフォーブ(外国人排斥論者)もしくは単に人権ギライな人間が「難民がスマホなんて持ってるのは変だ」と見当違いなイチャモンをつけたことが思い出される。相当に政治的位置の高い人物が「飛行機に乗ってこれる難民などニセモノだ」みたいな発言をしたこともなかったか。それまでいた国では大卒でITを駆使する仕事をしていたような層でも政変が起きれば亡命を余儀なくされるのが難民というものだし、現代においてスマートフォンは贅沢どころか最低限度の生活を守るための必需品だったりする。
そんなわけで欧米や日本以外の国々の映画を観ることは、地理的な辺境に残った手つかずの前近代・
ではなく21世紀グローバリズムの現在を「グローバルとローカル」という視点で見ることだし(
今週のまとめ1)
先月の小ネタで取り上げた(
参照)パキスタン映画『ジョイランド』のように、むしろ作品の中で描かれる「前近代性」が、まさに2024年現在の日本にも共通する桎梏だと見て取れたりもする。(
今週のまとめ2)
* * *
2021年に観た北マケドニア映画『
ペトルーニャに祝福を』も面白かった。主人公ペトルーニャは32歳・大卒・ゆえにまともな職に就けず(そういう社会なのだ)非正規の独身女性。またしてもハラスメントまがいの屈辱的な面接で落とされ憤懣やるかたない彼女は帰路、河に浮かべた十字架を手にした者に一年の幸運が恵まれる伝統行事に出くわす。問題は行事が男子限定・女人禁制だったことだ。衝動的に河に飛びこんだペトルーニャは男たちより先に、幸運の十字架をゲットしてしまう。
たちまち村は大騒動。過干渉な母・娘の味方だが病弱で無力な父・社会問題にしようと食いつくジャーナリスト・実は(十字架争奪が女人禁制って変だよなー)と心の底では理解してそうな司祭・十字架は男のものだ返せ盗人めアバ○レめと詰め寄る男たち・そして叩かれるたび何かを目覚めさせてゆくペトルーニャ。
ついには警察に拘留され一夜を過ごす。十字架を譲ろうとしない彼女を、むしろ暴力から保護するためもあったのだろうか←ちょっと記憶が曖昧ですけど、警察の外にまで押し寄せ、フーリガンよろしく汚い言葉を連呼する男たちが次第に、これが聖十字架にふさわしい?という腹立たしさを通り越し、滑稽で哀れな存在に見えてくる。そんな中、警察署のなかで珍しく彼女を理解してくれそうなハンサムな警官とイイ雰囲気になったりして、言うなればペトルーニャは惨めさの外に出られない男たちを置き去りに、(まだ内面的にだけど)ずんずん先に進み出す。警察署に面会に来た司祭にペトルーニャが
★まあ見当つくかもだけど、ネタバレなので一応たたみます(クリックで開閉します)
「幸運の十字架の権利は放棄します。私より、あの人たちに必要そうだから」
と告げる結末は皮肉が利いている。本当に十字架の救いが必要なのは誰なのか?本当に十字架が救いになるのか(十字架の救いが男たちを愚かで哀れなままに留めているのではないか?)。いやそれでも、十字架はやっぱりペトルーニャには(にも?)救いをもたらしたのではないか。
・参考:
『ペトルーニャに祝福を』(シネマ・ジャックアンドベティ/外部リンクが開きます/日本版公式サイトは消失済)
今週のまとめ3として、興業収入1位の「バズった」作品に皆が押しよせ共通体験でひとつになるよりも、こうして世界じゅうのリムランド(辺境)の物語を、地続きの「自分の世界の物語」として享受できるほうが豊かなのではないか…という話は先月もした(
参照)ばかりだ。それは正論かも知れないし、何度も言ってるように自分の趣味・性癖・嗜好なんならコミュニケーション不全「症候群」の「症例」かも知れないと思う程度には慎み深い自分ですが、でも「バズり」やメガヒットにばかり関心を狭められて好き嫌い・「萌え」すら単一化されていくこともまた「症例」ではないだろうか?
* * *
この国(日本)に住んでいて今、最も意識的に「遠い」国は中華人民共和国かも知れない。大都市では日本をゆうに凌駕するハイテク文明が栄え、超管理社会と思われる一方、(日本もそれを言えた義理ではないはずだが)人々の人権や少数民族にたいしては抑圧的で「前近代的な」独裁国家のイメージ。いや、分からない。平均的な日本人がもつ中国像が正直わからない。
分からないけど『三体』のメガヒットで注目された中国SFも一方で「やっと日本に追いついた」みたいに思われている部分がありはしないか。実際、かの国のSFは近年になって進境いちじるしいにしても、小説ジャンルの隆盛の早い遅いに関係なく、作品じたいは「今」の世界を描き、そこに「古さ」「遅れ」はないように思われる。
周浩暉『死亡通知書 暗黒者』(原著2008年/稲村文吾訳・早川書房2020年/外部リンクが開きます)
「華文ミステリ最高峰」は、まあ翻訳出版元が言ってることですけど(あまり考えず手に取った)たしかに圧倒的な読みごたえ。
法が裁かぬ悪人を裁き、処刑する連続殺人犯。ネット上での犯行予告が匿名性の高いネットカフェのパソコンから行なわれたという冒頭から「あ、そうか…中国にもネットカフェがあるんだ…そりゃそうだよね…」と思ったひとは
自分の中の先入観を補正するためにも読んだほうがいいかも知れない。たとえば警察側の登場人物ひとつ取っても、FBI流の犯人プロファイルを専門とする心理分析官や、ハリウッド映画などではお馴染みのギークなハッカー捜査官など、リアルタイムでグローバル水準な面々が肩を並べる一方で、警察内の組織統制は日本などの(ミステリで描かれる)それよりはるかに統制的だ。と思う。いや自分、鮫も相棒もコナンもようよう存じ上げないのですが。
匿名の犯人は、そんな警察を出し抜くように次々と、衆人環視の真っ只中で常識なら不可能な「処刑」成功を重ねていく。その恐ろしいほど鮮やかな手口・ハウダニットが最後まで本作の見せ場だ。これは余談だしネタバレなので例によってたたむけど「これが二番目の犯行現場です」と示された、誰もいない廃工場が写った何枚もの写真に「どれがその写真だ?被害者が写ってないじゃないか」
★伏せます(クリックで開閉します)
「写真ぜんぶです。爆殺された被害者が肉片になって飛び散ってるんです」
という場面の恐ろしいこと。
そして名も知れぬ犯人の狙いが体制的な警察機構そのものの不正を暴くことで、通常の捜査系統から外されていながら本事件の専従として招聘された主人公こそが真犯人なのでは?という疑念をはらみつづける、フーダニット(犯人は誰か?)のみならず「誰が探偵か?」誰を謎の解き手・正義の執行者として信頼すればいいのか最後まで分からないサスペンス。その謎解き・フーダニットとホワイダニット(犯人の真の動機)はまあ、上に書いた「どうせ感動するんでしょ」風にいえば「どうせ驚かされるんでしょ」の範囲内なんだけど(
厳しいお客さんだなあ)ハウ・いかにしての部分の練り上げが半端ない。ミステリというよりサスペンスとして読む手が止まらない内容でした。
映像化もされてるんじゃなかったかしら。世界がグローバルであることを、否応なく実感させられる力作でした。
* * *
ちなみに小説では、前にも紹介したと思うネットSF誌
『Kaguya Planet』(外部リンクが開きます)が少し前に掲載したギリシャの短篇「
ボーンスープ」がSFというか現代に残るローカル呪術的な物語で面白かったです。「ふうん…こういうのが面白いのね舞村さん(仮名)」と少し冷たく思ってもらえれば幸い。
またパレスチナ作品特集で掲載の「
ムニーラと月」は、語弊あるかもですが「
…百合ファンタジイじゃん」な内容で、これと昨年観た映画『ミャンマー・ダイアリーズ』(
昨年8月の日記参照)のタピオカミルクティーのエピソードが、
どちらも非道な弾圧の行なわれている場所だけど「物語の語り手が考えてることはロマンチックで、少女まんがが好きな日本の自分とあまり変わらない(かも)」というのが、今夏のまんが新作『リトル・キックス』で異国を舞台にしながら日本が舞台と変わらないラブコメを描いて問題なしと自分を納得させる根拠にはなっていました。
実際、欧米→日本経由で→他地域というトリクルダウンこそないにしても、対等なコンテンツのソースとして日本が今でもそれなりの存在なのは事実で、現在ニチアサで放映中・自動車モチーフな戦隊物『
爆上戦隊ブンブンジャー』の中華圏での漢字タイトルが
なの(意味は「走る人」だそうです)、宇宙をモチーフにしたアニメ『スター☆トゥインクル・プリキュア』で主人公の「
キラやば〜っ☆」という決め台詞が英語圏で「
TwinCOOL」と訳されていた(らしい)のを彷彿とさせ、趣味は国境を越える=最高にバクアゲだな!と思った次第。
このさき日本が没落しても滅びても、萌えとかオタク文化の良いところは(ルッキズムやミソジニーなど人を幸せにしない部分は削ぎ落とされつつ)世界に散布され根づいて残るといいなあと願っています。
小ネタ拾遺・24年11月(24.11.30)
(24.11.01)夢の中でホワイトボードに描いていた楽描きを起きて20分で。「
札ビラのビラって何」
11月。深夜3時。また寝ます。
(24.11.02)「迷星叫(まよいうた)」「壱雫空(ひとしずく)」「無路矢(のろし)」「影色舞(シルエットダンス)」などなどトリッキーな難読を究めてきた(
それでいて「栞」は「しおり」なの本当にトリッキー)
MyGO!!!!!の楽曲タイトルですが、新曲「
霧周途」を布施明に引っ張られて「
ましゅうこ」と誤答した人はたぶん昭和世代。(正解は「ミスト」だそうです)
(24.11.03→07)前回2020年・トランプが下野した時の選挙で「(これで)アメリカという制度は最終的には秩序を取り戻す」の後いちおう「
失敗すればアメリカは崩壊する。それだけのことだ」と一文だけ保険を掛けておいたのが(
21年1月の日記参照)掛け捨てにならなかった悲しみ。それだけ同国の分断は深いということか。
選挙の終盤、民主党の応援に起用され今めっちゃ叩かれてるハリソン・フォードがスピーチで
「カマラ・ハリスとティム・ウォルツ(中略)
の政策すべてに賛成なわけじゃない。二人が完璧だとも思わない(中略)
でも二人は法の支配を信じている。科学を信じている」と語った「法の支配」と「科学」とくに後者をトランプ政権と支持者たちがどう遇するか。アメリカで最も脱炭素に積極的な州知事と呼ばれたウォルツが敗れたの、20世紀から21世紀への節目で気候変動対策を訴えたアル・ゴアがブッシュJrに敗れた再現のようで、んー、ゴアやウォルツの環境対策が「完璧だとも思わない」けど、今夏(10月第三週くらいまで「今夏」だった気が)の酷暑を思うと…
…今はハリス陣営のまずかった点ばかりが(トランプに批判的な層でも)強調されてるけれど、トランプ2024で得られなかった「たられば」(当初は期待されたのにハリス陣営が選挙途中で手放してしまったものも含め)を惜しむ気持ちが強い。その「たられば」(人権とか環境とか)を求めるコンフリクトは続くのだから。あと、どうやら向こうでも起きている「オールドメディア」を蔑視しながらSNSやショート動画には容易く煽動されてしまう傾向も。で、その「新しい」ネットメディアはAI多用で原発再稼働を要求…
(24.11.04)
まあ選挙権もない海の向こうのことで思い悩む義理もないんだけど、アメリカが今後こうなると危惧されることの一部(もしかしたら根本的な部分)が、海のこちらのこの国では政府与党と多くの国民・そして何なら最大の労組までもが支持するマジョリティの政策・生き方として実装済みかも知れないことは、さらに深い憂慮に足る。
ケイト・ブッシュが自身の過去曲にどう見てもガザを想定した反戦アニメを載せた新作ビデオを公開してて、それをYouTubeで眺めた後すかさず入るのが、かつて日本で有数の花形だった気がする女優が往年カンフー映画の手垢のつきまくったパロディで消費者ローンを宣伝する広告動画で、目的が違うのだから比べるものではないとはいえ、彼我の落差がしみじみ哀しい。
(24.11.30追記)件の宣伝広告、最新作は来日観光客を小馬鹿にする感じで当の消費者ローンのキャッチフレーズをリピートアフターミーさせる内容で、なんかますます頭が痛い。
(24.11.08)
【署名】「帰る国」のない若者の永住許可を取り消さないで!(永住許可 有志の会/change.org/24.10.9/外部リンク)
これは参考に:
日本育ち外国籍の20歳女性、8日にも強制送還 うつ病で在留資格喪失し収容、入管の対応に「人道配慮欠く」の声(東京新聞/24.11.6/外部リンク)
「こうしたケースでは、国連の関連機関である国際移住機関(IOM)から、帰国後の住居探しや家賃の援助、職業訓練などの支援を受けられる。しかし、女性は「入管に、IOMの支援を受けると二度と日本に入国できなくなると言われた」といい、支援を断ったという。IOM駐日事務所の担当者は「支援を得たから再入国が不利になることはない」と説明。支援者らは、入管が女性を早く帰国させようと虚偽の説明をしたとみて問題視している」(記事本文より/強調は引用者による)
あなたは次のどちらが「自分だ」「自分の仲間だ」と思いますか?と訊いてみたい気はしますね。1)強制送還される女性 2)入管の担当者。…3)大リーグで活躍する日本人選手?
(24.11.09)読書週間も今日で終わり、ということで本にまつわる本を一冊。
点滅社という小さな出版社が編んだ
『鬱の本』(2024年/外部リンクが開きます)は84人が寄稿した「鬱にまつわる本」をテーマにしたアンソロジー。多くは当事者で、鬱の時に自身をつなぎとめた本について述べてます。未病のひとも、眠れない夜などに。
ちなみに自分は、寄稿者のひとり谷川俊太郎さんが言うところの
「気が滅入ることはあるが、それが鬱まで行かない」に「あ、自分」と思った現状なので、まあ大丈夫といえば大丈夫です。ただし詩人が
「ので、我が晩年は呑気に明るいと続けてるのに対して、自分は6:4か7:3で「ぼんやり暗い」し、時々は大きな黒い犬が首元までやってきて息を吹きかける感じに陥ったりしますが、それは今日ではない。大丈夫。(※強烈な鬱や念慮に飛びこむ元気すらない、という気もしますが…)(黒い仔犬が絶えずまとわりついてる・または
「小さな緑の車輪がついてまわる」感じかなあ)
(追記)谷川俊太郎さん、亡くなっちゃいましたね…
(24.11.16)それはそれとして今年も(初日出遅れたけど)おにぎりアクション完走。
(24.11.17)おにぎりアクションの精進明けでもないんだけど(別に44日、毎食おにぎりだったわけじゃない)翌日は横浜中華街で肉圓と豆花を食べてきました。どちらもモノホンの台湾名物で、口にした途端、本場の肉圓や油飯・小豆が乗ったかき氷や潤餠・夜市やら街頭やら地下街・車窓・四回ほど訪れた台北周辺の記憶がワーッと甦って「
マドレーヌかよ!!!」と内心でツッコミを入れていましたとさ。食べ物が記憶のトリガーって本当にあるんですね。
(24.11.20)おにぎりアクションが終わったら次はカレー三昧よね!という心境を見透かされたかのように−下の画像は今夜つくった普通の豆カレー(市販のルウ使用)なんですけど−
Web拍手経由で400以上のレシピが掲載された本格スパイスカレーの電子書籍(無料)を御紹介いただき「すげー」とパラパラめくっている処。具体的な書名などは実際に何か作ってみて、成果が出た時点で共有しようかと思います。今月末をメドにした宿題です(
追記:翌月以降になります)。まずは御教示の御礼まで。
(24.11.13)BTSのファンはARMY、ピチカート・ファイヴのファンはピチカートマニア。人間椅子のファンは檀家、Ave Mujicaのファンは共犯者。
トマカノーテ(スパスタ三期)のファンは(嘘注意)
(24.11.22)「頑張って生き延びましょうね」というのは、実は必ずしも果たしえない(というか長期的には誰も果たしえない)約束なのだけど、逆に「生き抜く」は仮に途中で倒れても不履行にはならない誓いなのかも…などと考えてしまうのは、昨年まさに「生き抜いた」櫻井氏のためかも知れない。※国語的には異論もありそうな考えなのは認めます。
新メンバーを迎えることなく、ギタリストふたりのツインボーカルで制作されたBUCK-TICKの新曲。欠落は欠落のまま残った四人で生き抜く(それって実質、五人で生き切ると同義じゃないか)選択に名状しがたく打たれている。
BOYS & GIRLSを煽りたてるサビが、「女の子男の子」と唄った「スピード」へのセルフアンサーのよう。
(24.11.14)「パキスタン映画」「トランスジェンダー」というキーワードふたつに惹かれて観た
『ジョイランド 私の願い』(公式/外部リンクが開きます)一分の隙もなく丹念に描かれた力作でした。観賞中なんども「
家父長制 IS UNKO」という感想が脳内をよぎったのは、人類学の学士号も持つ監督の狙いそのものだったようで(いや監督は「UNKO」とまでは言っていませんが、公式サイトの監督ステートメントなど参照)。家父長制が誰も幸福にしない・なんなら家「父」と呼ばれる者すら幸せにしない、けれどまず劣位に置かれた女性たちを・そして男社会を降りたい男性を「幸せにするものか」と苛むさま・を・コレでもかと描きながら、叶わずとも求めずにいられない自由や希望を目映(まばゆ)く提示していました。
射落とさんとした的は違うけど、たとえば『
PLAN75』(
22年6月の日記参照)
に射ぬかれたひとには、こちら(ジョイランド)もオススメです。
横浜での上映は11/22まで(シネマ・ジャックアンドベティ/外部リンク)ですが、これから上映の劇場も(首都圏ふくめ)まだまだあるので是非。「マララ・ユスフザイ」「リズ・アーメッド」が上映を後押し、というキーワードで惹かれた人も。
(24.11.23)『モンキーマン』は『ジョイランド』と同様に(インド文化圏で「第三の性」と呼ばれる)ヒジュラーが展開の大きなカギとなる映画だった。(とくに白々しくも現代的・先進的を自称する社会で)急速に進むトランス差別へのカウンターの意味合いもあるのだろうと思う一方、多数派が少数者に自由や反逆の夢をロマンティックに投影しすぎることへの懸念もあり…しかしどちらも敵(悪)の社会的な造形に仮借がなく果敢でした。
個人的には『ジョイランド』のが好み。急速に薄れつつある記憶頼りで間違ってたらゴメンナサイだけど、主人公夫婦が映画前半・それぞれ別の場で「停電の危機をスマートフォンの光で切り抜ける」機転を見せるのが(やがては固陋な社会に叩きつぶされてしまう)二人の絆を示してるようで愛おしかった。(というかモンキーマン、日本だと評者として起用されてるのが格闘家や芸人・叩きつぶす側な差別ラッパーとかで中々ガッカリ…届くべき人にはもう届いてる映画だと思うので、公式サイトとかは貼りません…未見で関心ある人は本サイトなどに惑わされず観て各々で見定めてね…)
『モンキーマン』のラスボス、言行不一致ぶりが怪物めいてて凄かったですね…最後、主人公が丸め込まれちゃうんじゃない?くらいの怖さがありました。
(24.11.24)『ジョイランド』ネタバレなので
★たたむけど(クリックで開閉します)
親に「あの娘と結婚しろ」と命じられた主人公が夜中に単身で彼女を訪ねて「厭ならそう言ってくれ。男のほうから断ったほうが破断にしやすいから僕が断る」と持ちかけ、その思いやりを見て彼女は結婚を承諾する
というエピソード、ああいう制度(かつて日本にもあった)では実は結構あることかも知れないと思ったのでした。そうした互いへの敬意に基づく絆が、あの映画でのように圧殺されてしまうことも。逆に旧ソ連を舞台にした映画で、男性は自由恋愛で互いに惹かれあったつもりで結婚したのに妻のほうは「あなたのように強い立場の人間を断れるわけなかった」と怒りを募らせていた事例もあり、板子一枚下は奈落かもですよ(モンキーマンの感想と合わせて、こちらを今週のメイン日記にしたほうが良かったのでは…)
(24.11.29)兵庫県知事選がらみでPR会社という語が連呼されてて思い出したけど無関係な話。ハリウッドなど外国映画のエンドロールでスタッフに日本ルーツらしき人名を探しては「よしよし、異なる土地に根づいてるね」と満足するのが自分の数少ない愛郷心の発露なのですが(?)、基本インド映画らしくて(撮影はインドネシア)流石に無いかなと思っていた『モンキーマン』で最後の最後に配給関連で
DENTSUの文字を見て複雑な気分に。
インドネシア発のアクション映画で度肝を抜いたイコ・ウワイス主演の『ザ・レイド』(もう13年も前なのか…)も監督はウェールズ出身で劇伴の音楽はリンキン・パークのマイク・シノダが担当とか、コンテンツの魅力一本で世界がグローバルにつながる自体は、それがプラットフォーム資本主義に回収される危うさも含めて興味ぶかいなと思ってます。
ちなみに『モンキーマン』(DENTSU以外にも)VFX担当でサトウ・スミスさんが居ましたね…後で確認したらオーストラリア在住のクリエイターで『ソニック・ザ・ヘッジホッグ』の映画なんかにも関わってるみたい。
(24.11.26)『監獄の誕生』有名なパノプティコンとかで囚人を「管理」するより前の、前フリの段階で既にめっぽう面白い。18世紀の拷問をともなう死刑=「身体刑」がスプラッタ映画ばりに残虐を極めたのは、法に逆らう犯罪で王の権威も挑戦を受けたという観点から→罪人を完膚なきまでに粉砕できる王の力を改めて誇示する必要があった・直接の被害者より王の復讐だったと説明される(
雑な理解注意)のを読んで、いちおう分かったつもりでいたフーコーの権力概念:かつての王権は民草の「死を司るが、生のほうは勝手に生きるに任せた」のに対し近代の生権力は労働力としての国民の「生を管理するが、死ぬほうは勝手に死ぬに任せる」だという定義の前半=「王権は民の死を司る」が改めて体感(?)できた気がします。
(24.11.27)日曜価格とはいえ
小ぶりのキャベツひと玉500円はビビるて。安い日・安い処でも400円。こちらは特価だった小麦粉で、久しぶりにお好み焼きでも…と思っていた予定を変更、手元にあったニラとタマネギで急遽チヂミに。これはこれで幸せだけど、うーむ。
(同日追記)逆にしばらく高値だったパプリカが近頃お安くなってるので喜んで使ってます。
生き延びれるかは分からないけど、生き抜きましょうね。
息抜きも挟みつつ。また来月。
『知恵の樹』と燃える船〜選挙の後に(24.11.24)
さいきん読み終えた
鶴見俊輔『戦時期日本の精神史 1931〜1945年』(親本1982年→岩波現代文庫2001年/外部リンクが開きます)に「ぐぬぬ」と唸ってしまう箇所があった。イギリスでは第一次世界大戦の時には130%上がった食料の値段が、二倍ほど長い期間にわたった第二次世界大戦では20%の上昇に抑えられたというのだ。
「政府からの補助金がなかったとしても、その増加率は五〇%にすぎませんでした」(「戦時下の日常生活」)…たった一年で日本の白米って倍・つまり100%ほど値上がってません?戦時並み・戦時以上の主食高騰が平時に起きる国って何?
※永井荷風の戦中記録に基づけば、1943年の日本では一年で米価が250〜400%高騰したそうですが…
*** *** ***
アメリカ大統領選の逆転劇を見て、これは兵庫県の出直し知事選も…と危ぶんだ人も少なくなかったのではないか。かくて懸念どおりとなった今、思うところを少し整理しておきたい。
世の中すごい勢いで変転してるので(この文章をアップした日の晩には名古屋市長選が開票され「はい次はこっちー」と市井の関心は移るかも知れないし、移らないかも知れない)備忘のために書いておくと、海の向こうとこちらで「好ましくないと名指されていた候補がSNSやショート動画の力で逆転勝利した」という構図だ。アメリカの場合は民主党への失望が回復されなかったことも大きいけれど、同時にイーロン・マスクがX(旧Twitter)を私物化してのプロパガンダも本来は無視できない要素だったはずだ。
とはいえ、分析から感想まで
既に十分すぎるほどの言葉が発せられてるようだし、本サイト的にも
前々から言ってきたことの答え合わせ・いよいよ来るところまで来たかという伏線回収の段階なので、新たに書き起こすことは実は少ない。
・フェイク・トゥルースについて書いた
2019年9月の日記と、
あと今の自分のやるせない気持ちの表明として
・引き返せないポイントはずっと前に通過しているものだという
16年6月の日記へのリンクを貼っておけば十分だろう。
十分だろうと言いつつ話を広げるのですが、前者(19年の)の末尾で少しだけふれた「この惨状はたぶん
言語の運用法を間違ったために生じた」の話をしたい。
2016年にイギリスの新聞だかが選定した「今年の新語」が、フェイク・トゥルースと同義のpost truthだった。ドナルド・トランプが一度目の勝利をキメた年だ。
言語運用のレベルでおかしい、というのは国会答弁でデタラメを連発し、しかもそれを閣議決定で正しいことにしてしまう第二次安倍政権への憤りが主燃料だったのだろう。けれど、そもそもの元ネタは、少なくとも自分の場合は別にあった。
ウンベルト・マトゥラーナと
フランシスコ・バレーラの共著
『知恵の樹 生きている世界はどのようにして生まれるのか』(原著1984年/管啓次郎訳1987年→ちくま学芸文庫1997年/外部リンクが開きます)は、オートポイエーシスという生物学の新理論を提示した画期的な書物…という触れ込みなのだけど。
強く印象に残ったのは難解な本文ではなく、訳者あとがきに記された同書の成立経緯だった。
「一九七三年、アジェンデ社会主義政権にたいする軍部のクー・デタによって、チリは凄惨な混乱に陥った」自らも亡命を余儀なくされた二人の著者たちは、代わって祖国の支配者となった独裁者ピノチェトの
「恐怖政治の原因がまちがった認識論にあると考えるようになった」というのだ。
別のところでは、二人の発想はむしろアジェンデ時代の自由な空気から生まれたとする紹介もあるようだ。それは正鵠を射ているのかも知れないし「フェイク」なのかも知れない。いずれにしても生物学の新理論が社会への異議申し立てから生まれた・それも社会の不正が「まちがった認識論」に起因するとした…という物語が自分に与えた影響は大きかったのだと思う。
『知恵の樹』自体は難解な書物で、とくに外界から切り離され内部でループを描く生命が、どう他者とつながり社会を形成していくか説いた後半の飛躍が咀嚼しきれないまま今日に至るのですが(かわいそう)
自分が最終的にSNS(Twitterや代替)から距離をおくようになったのも、認識というか言語活動の「運用まちがい」への違和感が強くなったからとは言える。何度も何度も何度も言ってる「記憶を紙で・暗算を計算機で外部化したように、(自分で)考える脳のはたらきをリツイート・リポストで外部化してしまった」にとどまらず、色々と考えている。今回の二選挙の結果は、まさにSNSの「まちがった」機能が遺憾なく発揮された結果でもあったとか。
とくに兵庫で、二大政党とか大統領とか(あるいはイーロン・マスクとか)巨大なプロパガンダ装置ではなく、見た目「草の根みたい」な中心の見えにくいムーブメントがこぞって選挙結果を覆したの、
この分野ではまだまだ世界のトップランナーかも知れない日本という厭な感慨を新たにしましたな…
* * *
別に『知恵の樹』を読みなさいねという話をしているのではなく(自分だって読み切れてないものを安易に推奨できませんて)
・
社会へのアプローチには迂回した道もある(ピノチェトのせいで生物学の新説とか)
・
なにげない一言や一節が心に残りつづけ、思考の方向性を決定づけることもある
という話をしている。人は言葉で思考するのだから、善かれあしかれ言葉の影響は決定的だ。
他ならぬ彼女が言ったので、という「箔」がつかない人にとっては凡庸に響くかも知れないが、写真家
ダイアン・アーバス(1923〜71)がメモに残した「燃える船」のイメージも鮮烈だった。
「船が火事でゆっくり沈んでゆくのを、わたしは知っていました。みんなもそれを知っているのに、明るく踊り、唄い、キッスして浮かれ騒いでいます」
今やすっかりミームとなった映画『シャイニング』の双子(厳密には双子ではないのだけど)の元ネタになった、モノクロのポートレートを撮った(参考:
【作品解説】ダイアン・アーバス「一卵性双生児」Artpedia/2019/外部リンクが開きます)アーバスは、実はキューブリックが映画に転身する前にカメラマンとして勤めていた雑誌社で彼を指導した先輩で、『シャイニング』の双子(双子ではない)は後輩が捧げたオマージュでもあった。
フリークスと呼ばれるような人々や性的マイノリティといった社会のアウトサイダーを撮りつづけたアーバスは、自身も鬱と困窮に悩まされ、件のメモの数ヶ月後には自らの船を燃やしてしまう(比喩)。
そのメモに続きがあると知り、驚かされたのは数年前のことだ。船は燃えているのに、みんな浮かれている…そんな絶望的な記述は、こう続いていた:
「希望はありませんでした。でもわたしは恐ろしいほど興奮していました。撮りたいものがなんでも撮れるのです」
彼女の捨て鉢のような「興奮」が、今は分かるような気がする。
厳密に、そして身もフタもなく言ってしまえば「燃えた」のは彼女ひとりで、世界はその後も50年以上つづいている。それでも今は、今だからこそダイアン・アーバスの捨て鉢な「興奮」が分かる。
船は燃えてるのに皆は浮かれている。希望はない。けれど自分も、やりたいことは何でも出来る。もちろん実際に何でも出来るわけではないけれど、描きたいものは何だって描けるし、読みたい本は何だって読める。たしかに今「恐ろしいほど」自由なのだ。
横浜の自宅から鎌倉駅まで徒歩だと約6時間、帰りは電車に乗るとして、往路は歩けない距離ではない。
と言いつつ最初に挑んだ時は手前の大船で引き返し、二度目に鎌倉駅に到達した時は日没後でカレーを食べてすぐ帰るしかなかった。三度目の正直で今回は16時前に現地到着、前回は寄れなかった古本屋も二軒ほどは回り、最後は由比ヶ浜に出て江ノ電沿いを長谷駅まで歩くことまで出来た。
新刊書店のたらば書房では文庫クセジュから出ていたルネ・ジラールの解説書、古書くんぷう堂では未読だった丸谷先生のコラム集、そして公文堂ではミシェル・フーコー『監獄の誕生』の状態のいい古本を入手←レジで現金が足りなくて「すみません今日は見送ります」って返したあと近くに信金を見つけて三千円だけ下ろして買いに戻ったりした(笑)
さっそく『監獄の誕生』を読み始めてます。強い関心を持ちながら、今生では読む機会はないかもと諦めかけていた本だったので、まさに「
読みたい本がなんでも読めるのです」という喜びがある。
少なくとも僕が生きてきた期間では、こんなにも人の世が限界を露呈した時はない。兵庫の選挙は公職選挙法違反などが言われて今後まだ二転三転するかも知れないけれど、同じようなことが国内の別のどこかで起きて、次はみんな慎重に立ち回るとは到底思えない。底が抜けちゃったんだもの。改憲発議でもされたら「ふつうの日本人」は当面ひとたまりもなかろう。
だからこそ、これから起きる全てをカメラ代わりの目に収められる。なんで世の中はこんなことになってしまったのか、迂遠なアプローチでも読みたいもの全て読み尽くせる。ヤケッパチかも知れないけれど、今以上に自由であるべき時もまた、そうそうない―ネガティブだかポジティブだか分からないけど、ストレートな現在の所感です。(
そう思うならますます鋭意まんがを描けって話ですよねえ)
*** *** ***
望みはない!だから自由だ!で終われば統一感ある日記(週記)なのに、公正を期すために反対側の天秤にも錘を載せてしまうのが本サイトの惰弱なところで、「こうなったら何でも出来る」に「
あきらめ悪く社会に関与しつづける」が含まれることも否定しないのです。レベッカ・ソルニットなら「まだ家に帰る時間じゃない」と言うところ(
先月の日記参照)。
宮城県の県立医療センターを名取市から移転しないでという署名は賛同したことも忘れていたのだけど、たぶん隣接する仙台市の、社会運動にも積極的な古本屋さんの拡散で知ったのだろう。名取市の閖上には東日本大震災のあとボランティアに行った縁もあって、署名のことも気にかけたのだと思う。
その活動が実を結び、移転が白紙になったという報告をメールで(もちろん一斉配信だけど)いただいた。
・
篤く御礼申し上げます(青木もらん/change.org/24.11.23/外部リンクが開きます)
あらためて確認するとネット署名じたいは千筆に満たないもので、当然、他の地道な働きかけが大きかったはずだけど、すごく小さな一助になれていたのかと思うと、ささやかでも手を動かして良かったと思う。自分が何かすること・したことを無意味だと性急に決めてしまうのも、また、傲慢なことなのかも知れない。主催者のかたの
「ときには嫌になってさぼったり、ぶらぶらしたりしながら(中略)
自分たちのペースでしつこくねちこくやってきた(中略)
小さな声でも、動かないとされたものを動かすことが出来るという、一つの証明になれたら嬉しいです」という言葉(
出典/外部リンク)に敬意を表したい。
誰のための生産性〜山本義隆『リニア中央新幹線をめぐって』/フレッド・ピアス『ダムはムダ』(24.11.17)
あの犬は他でもない俺に吠えたんだろう
幽霊でも見たように
人間は誰も気づかないほど
一瞬なスパークが 見えたんじゃないかな
「なあ あんた スローダウンしろよ 速度を落とせ
馬鹿が スローダウンしろ 速度を落とせって」
"The tourist" Radiohead
(イスラエル国家の非人道的政策に「寛容な」トム・ヨークの現状を支持はしませんが、25年前の詞は今だに使い勝手が良いので引用。あまりにも目まぐるしく移動するのでスパークしか、それも犬にしか見えないという旅行者の歌です)
*** *** ***
今年6月の日記にも書いた、しらばっくれたまま廃止ではと騒がれた夏季の販売アナウンス遅延も前兆だったのだろう。JRは青春18きっぷを廃止に追いこみたいようだ。
新たに発表された今冬からの仕様変更は、従来「5回」普通列車が乗り放題で「4日間の長旅と1日の日帰りに分けて使う」「一枚の18きっぷを5人が共同で使い一緒に日帰り旅行する」といった応用が利いたものを「5日または3日」「一人だけ」の日を空けない連続使用に限ると改変するものだ。
自動改札機を通すようになれば、毎回わざわざスタンプを押し・スタンプを確認する駅員の負担が減る。「みどりの窓口」漸減も影響しているのだろう、いつも改札口横の窓口に行列が出来ている現状を思えば(18きっぷも自動改札を通したいのは)理解できる。自動改札だと日を空けての使用や、まして一枚の18きっぷで複数人を通すことは技術的に難しかろうというのも分かる。
ただし「だとすれば、18きっぷ自体を普通列車一日乗り放題の切符5枚セットとして売り出せばいい」だけの話だ。いや、そう考えると逆に従来の18きっぷが如何にベラボウな大盤振る舞いだったかも分かる。
カギは「経営者目線」という言葉・観念・概念だ。
机上の空論だし今回の主題からも逸れるので畳むけれど、
18きっぷ存続によるJRの損失は売上の0.5〜1%未満。(クリックで開閉します)。
18きっぷの販売枚数は推定で年70万枚(参考:
青春18きっぷの販売枚数と売上高/青春18きっぷ研究所/外部リンクが開きます)。18きっぷの使用1回でJRの「損」は7000円と仮定する。東京から京都まで(ちなみに9時間かかる)普通料金8300円から18きっぷ自体の一日あたり代金2300円を引いたものだ。70万枚×5回×7000円=245億円の損失で…計算は合ってるだろうか?5兆円といわれるJRグループ全体の売上(参考;
合計売上高5兆円超…「JR東日本」「JR東海」「JR西日本」鉄道3社、”格差”の目立つ平均給与額/THE GOLD ONLINE/23.7.18/外部リンク)に対しては0.5%、これを些細と見るか許せないと捉えるかも目線によって変わるだろう。
なお、18きっぷがなければ普通列車ではなく顧客は新幹線を使ったはずだ…と考えると東京・京都間の特急料金は14000円、損失は0.85%と算定できる。
いずれにしても「18きっぷがなければ」旅行回数じたい減るだろう、あるいはJRではなく高速バス等の使用に走るだろうなど都合の悪いことは考えない皮算用だ。とにかく今回は深く追及しない。
むしろ気にかかるのは「18きっぷは、それほど安いか?」という逆説だ。
運賃だけで見ると一日乗り放題で2300円は安い。だが移動に時間がかかり、それが複数日に及べば、行った先で宿泊費が発生する。食事もいきおい外食がちになり、それらは旅先の各地に落ちる。もっと言うと、新幹線なら日帰り一日で済む旅行を二日や三日かけてすることは、
その時間で働いていれば得られた賃金を棒に振るということだ。
「経営者目線」で言い直す。18きっぷなんかを思う存分に利用された日には、社会全体の生産性が下がる。交通費が変わらなければ多少時間がかかっても、大都市から少し離れた小さな街の宿を選好する旅行者は少なくないだろう(エビデンスは僕)。途中下車が自由なら「せっかくだから」と食事や観光・買い物の機会が広く薄く分散され(東京から名古屋に行く間に静岡で地元ローカルの「さわやか」でハンバーグを食べるとか)非効率的だ。そして日数をかけた旅行じたい「国民」の生産性を下げる。よく言われる「時間がある時はお金がない、お金がある時は時間がない」の前半は、経営者目線では許されないこと、なのだろう。まるでミヒャエル・エンデの寓話に登場する灰色の男たちではないか。
fitter, happier, more productive(より適応し、より幸福に、より生産的に)―これもトム・ヨーク(レディオヘッド)の一節だけど。
資本主義の利潤はすべて生産者からの・生産工程における搾取だとカール・マルクスは説いた。それで計算が合うならそうなのだろう。けれどポスト資本主義・プラットフォーム資本主義(
23年9月の日記参照)の現代は、消費の現場からの搾取・収奪が目立って見える。左記の日記にも書いたことは改めて蒸し返しはしないが「より生産的で・効率的であれ―消費においても」という圧力は強まる一方だ。
18きっぷの利用が、使用者にとっては非効率的で無為な時間の浪費であり(
そこがいいんだよというのが本サイトの立場ですが)食事や宿泊・各種サービスの提供者にとっては広く薄い利益の分散であるとするならば。対極にあるのは高速・超高速の移動手段をフル活用した「タイパ」のいい消費、特急・超特急が停車する大都市に集中した効率のいい(そしてハイコストで画一的な)消費だろう。
ハイコストでハイパワーな都市への集中と、都市をつなぐハイスピードな交通手段。吾々(おっ久しぶりに「吾々」が出たね)が強いられ・あるいは自発的に参与する「強い経済」は20世紀に推し進められ、一度は反省されたはずの資源浪費や環境破壊を、再度「それでも構わない」と推し進めるバックラッシュでもある。
長くかかってしまったが、これが今回の日記(週記)の主題だ。
『磁力と重力の発見』(
2011年11月の日記参照…この頃の日記は短くて良かったなあ…)などで知られる
山本義隆氏。近年は原発批判などの発信も際立つ彼が近著
『リニア中央新幹線をめぐって 原発事故とコロナ・パンデミックから見直す』(みすず書房/2021年/外部リンクが開きます)で挙げるのは、物体の移動に必要なエネルギーは
速度の二乗に比例するという基礎的で覆せない事実だ。
速度が倍になると衝突した時の衝撃は(二倍ではなく)四倍になる。交通安全の指導などでも言われることだ。時速60kmの自動車がぶつかると30kmでぶつかる四倍の衝撃がある。単純に考えて、時速600kmを公言するリニア中央新幹線は、時速300km弱な従来線の四倍以上のエネルギーを浪費する。
もちろん事はそう単純ではない。モーターを回してレールの上を走るのと、超電導の磁力で走るのでは摩擦など異なる要因もあるだろう。だが超電導の路線は全体を常に帯電させておく必要があり…細かいことは端折るが、結局「倍ではなく四倍」という浪費の規模はそう変わらない。非現実的で環境に多大な負荷を強いる地下トンネル敷設を措いても、リニア中央新幹線は高コスト・高エネルギー消費の怪物で、その電力供給が原発再稼働と直結する可能性は極めて高い。
「それでいいのだ、高いエネルギーコストを消費して高い生産性をあげる路線で今後もますます行くのだ」という路線が、人類的に許されるとは思えない。ここ数年、18きっぷで旅行するたび「もう夏の旅行は無理だ」と痛感させられた、その体感からも思う。これ以上のエネルギー消費は、社会の存続そのものを不可能にする。
* * *
ここから『V』(
2020年12月の日記参照)の
トマス・ピンチョンが1984年という意味深長な年に書いたエッセイ「
ラッダイトをやってもいいのか?」に繋げるのは、さすがに話を広げすぎだろうから控えたい。
世界最初のハッカーは19世紀アメリカの
ハッカー・べリーフィンという少年で、彼が筏で自身と奴隷ジムを逃がす行為がテクノロジーの脱法的利用=ハッキングと呼ばれた…という(ちょっと苦しい)ジョークも話だけにしておこう。
「すべてのエネルギーは多少なりとも政府の補助金を受けている。(中略)
発電にからむ環境保護上の負担をすべて需要家が支払うことになれば、省エネルギーがいままでよりもはるかに、あらゆる種類の発電所新設にまさる魅力的な代替策になることだろう」
「いずれにしろ、われわれは電気がほしいのではない。電気がもたらすサービスがほしい。灌漑システムにしても、水がほしいわけではない。生産される食物がほしいのだ。」
フレッド・ピアスのルポルタージュ
『ダムはムダ 水と人の歴史』(原著1992年/平沢正夫訳・共同通信社1995年/絶版―紀伊國屋書店の外部リンクが開きます)は一見ふざけた邦題だけど、実は原著の題名も「
THE DAMMED」…the damned(忌々しい・神に呪われた…ルキノ・ヴィスコンティ監督の映画のタイトルでは『地獄に堕ちた勇者ども』と邦訳されてました)とダム(dam)を引っかけた駄々洒落で、方向性としては忠実な訳。そして軽い表題に相反して、ちょっと人類に絶望したくなる厳しい内容の書物でもあった。
オススメです(こらっ)
本書の主張はシンプルで・太古のほうが人類は水を上手に活用していた・その知恵を無視した近代西欧の技術至上主義が生活も環境もダメにした、となる。
たとえば地中海沿岸の段々畑は山腹に仕方なく、ではなく、むしろ
「大雨の水が急斜面を流れ落ちて、豊かな土壌をさらっていくことのないように」「山腹に小さなダムのような段をいくつも」作る積極的な選択であったという。「エジプトはナイルの賜物」で知られるように、エジプトに限らず多くの地で、河川の定期的な氾濫に合わせ耕作地の位置すら変えながら、流れてくる豊かな土を利用した農耕が行なわれてきた。
年によって耕作地が変わっても人は生き、収穫できるが、資本は毎年の収量を算定・計画できる平野の画一的な耕作地を求めるだろう。もちろん、より多くの収量・より多くの売上もだ。さらに水力を利用した発電という収益が求められる。そして巨大な水利設備は、その建設自体が国家の威信となり、巨益を生む事業となり、時宜に適わぬお荷物となっても事業として自走を続ける。本サイトで何度も何度も引用している
ドナルド・『誰のためのデザイン?』・ノーマンの警句「原発が危険なのは(放射能のせいではなく)大きすぎる規模のせいだ」は、原発に比べればエコと思われる発電ダムにも残念ながら当てはまる。
自然に合わせた農耕がもたらす富は必ずしも潤沢ではなかったろう。近代の豊かさと利便に慣れきった先進国の住民に、ダイレクトに昔に戻れると説くのは欺瞞でもある。これも本サイトで何度も引用しているはずだが「灰色の男」を批判したエンデですら「私たちはもう水洗トイレのなかった世界には戻れない」と言っているのだ。
それでも「
われわれはサービスや食物を停めたいわけではない。過剰なエネルギー消費や、さらにその絶えざる拡大を求める経済を停めたいのだ」と言うことは出来るだろう。
先々週の日記になぞらえて言えば、観客動員数ナンバーワンを更新するのでなく、良作であれば12年前の台湾の映画が、あるいはインドネシアやパキスタンの映画が(もちろん日本で作られる小規模な映画も)観られる・選択肢の幅という形の豊かさもあっていいはずだ。
* * *
これは極端な例かも知れないが、自分が18きっぷを使う楽しさを知ったのは、メンタルを損ねて「絶えざる拡大と成長」の経済からドロップアウトしてからだ。それまで旅行の楽しみ自体、ほとんど知らずにいたと言ってもいい。何処に行っても・何処まで行っても基本料金は変わらないと思えばこそ、駅ビルもない東北の村をてくてく歩いて仏像を拝んだりした。大分の別府を深夜に出たフェリーの中、始発電車が出るまで松山港で二等船室にゴロ寝して朝を待ったこともある。
上の畳んでる中でも引用している
青春18きっぷ研究所(外部リンク)では
「国民170人に1人が年に1度は利用している」計算になると概算で算定している(算の字が多すぎますね)。同じ人が春夏冬フルで利用していれば170×3=500人に一人と「密度」は一気に下がるが、いずれにしても。
170人に一人だか、500人に一人だかは、18きっぷという扉で「消費すら効率的・生産的(そして画一的)であれ」という要求を一旦降りている。あるいはより積極的に、日頃ない形で世界(まあ日本国内ですが)と「接合」しなおしている。
・接合について参考:
私の「生」・ゾウリムシの「性」―樋渡 宏一(JT生命誌研究館/2019年/外部リンクが開きます)
別の170人だか500人だかに一人にとって、扉は登山かも知れない。編み物かも知れない。ボードゲーム、スパイスから作るカレー、数学や語学かも知れない。人には「まだ居たんだ」と言われるようなバンドを追いかけること・まんがを描いてコミティアに出ること・あるいはスマホを脇に置いて本を読むことかも知れない。
もちろん一人が複数の扉を持つこともある。むしろ多いのではないか。5時間も10時間も続く旅程の中で、これはと思った本を読みふけるのは18きっぷ旅行の楽しみのひとつだ。
エネルギー問題にまで風呂敷を広げてしまったけれど、要は扉の一つを閉じてほしくない。それらの扉は多くの場合、社会の中で「つらたん」「もうダメだ」と思ったとき・「お前など要らん」「消えてなくなれ」と大きな声に言われたときに、人を現世につなぎとめてくれるものだから。
18きっぷの半分を使って到達した先で腰を落ち着け、二泊や三泊くらい過ごしてから帰路につくのも佳いものですよ。連続使用しか出来ない改訂版では、それも出来なくなる。
・署名:
JR旅客6社に対し、「青春18きっぷ」を従来の制度に戻すよう要望します。
(鉄道が好き!/change.org/24.10.24/外部リンクが開きます)
に賛同しました。
* * *
(同日追記)
「企業収益が高水準にあり、個人消費や設備投資は上向くなど持ち直しの動きが続いている(ので)
我が国経済はスタグフレーションと呼ばれる状況にはない」と結論づける
内閣府のレポート(2022年/外部リンクが開きます)を目にして、そっと溜め息をついている。先の総選挙でも各党が「強い経済」を訴えたけれど、その「経済」が企業収益や株価であるかぎり、それはもう個々人の生活とは乖離した観念…強い言葉でいえばファンタジイであり、そこを立脚点に不況ではないだの経済が強いだの言われても、そうかいこっちは別の扉を開けるぜとしか言えないんじゃないかな。
哲学の実践〜米山さんの部屋『アランの言葉から』(24.11.06)
YouTubeで毎日更新されている『
アランの言葉から』を少し駆け足で追いかけて、最新回にようやく追いついた。
・
米山さんの部屋(YouTube/外部リンクが開きます)
20世紀前半=後半に実存主義や構造主義・現代思想の嵐が吹き荒れる前の(古き良き?)フランスの哲学者・アランの思想を毎回7〜8分くらいに分けて紐解く動画シリーズ。大仰な字幕もケレン味もなく、学校の授業や講義・あるいは授業や講義が終わった後の研究室での茶飲み話のように穏やかな、淡々と進む話はこびが心地いい。いや現実には、試されているような緊張感から逃れられず、実在の「先生」と打ち解けることなど(少なくとも学生時代には)ついぞなかった自分には、遅れてやってきた第二の学生時代のようで得がたい体験。落ち着いた年齢になってから放送大学に挑戦する人の感覚に近いのかも。
おそらく自分のアンテナの張りかたが拙くて、こうしたタイプの音声コンテンツに中々アクセスできないので(世に流通するものは文芸かビジネス・自己啓発書の朗読といった感が強い)現状では貴重な体験でもある。NHK教育のラジオとか、もっと聴けばいいのだろうけど…
↑上のカットで文字を青くしてた時に思い出したけど、そういえば夜の灯を青白くすることで駅のホームからの飛び込みを少なくできたという話もある。一般向け著作として名高い『幸福論』を実は読めてないのだけど、身体のほうから精神を制御していく話はアランの真骨頂という印象がありますね。
* * *
たとえば27日目の講義。人間嫌いは他人の反応を気にしすぎ傷つくことを極度に恐れることから生じる(すごく大雑把な理解)としたうえで、ではどうしたらいいのか。
「ひとつの可能性ですが」「難しいですけど」と断ったうえで米山先生は言う。
「見返りを求めれば裏切られます。見返りを求めれば、敵を愛することなどできません。見返りを求めれば隣人愛などおそらく存在しないでしょう。だからこそアランはですね、彼自身はカトリックの信仰をほとんで捨てているにも関わらず、博愛(フランス語のシャリテ)は人間嫌いに陥るまいとする一種の誓いであると述べているんですね」(27:人間嫌い)
90年代に人気を博した漫画『
MASTERキートン』(勝鹿北星/浦沢直樹)の、ナチスの空襲を受け壊滅したロンドンの学校で「屈せず学問を続けよう」と老教授が人々を鼓舞するエピソードは、ネットミームのように好まれ引用される。けれどそれを吾が事として引き受け、自身が学問を実践しつづけることは難しいのかも知れない。まして学問で得た知見を天上や別世界におかず、日々の行動に取り入れていくことは。
いわゆる人気動画とは程遠い再生回数も気にかけないかのように、「米山先生」が講義を進めるさまは、まさに「見返りを求めない」で、解説する哲学と自身の実践が乖離していない。すごいなあと(大学などでの講義の人数を思えば、これが普通の感覚なのかもですが)いや、自分もかくありたいと素直に敬意を抱くのですが、以下は動画から離れた話。
調べるとフランスの三色旗でも知られる革命のスローガン「自由・平等・博愛」の博愛はフラテルニテで、シャリテはcharite(最後のeにはアクサンテギュがつきます注意)たぶん英語のチャリティと同じ意味でしょう。慈愛などという訳語で、アランはシャリテのほうを重んじているようだ。
※ちなみに
先月の日記で紹介したデリダ『友愛のポリティックス』の友愛はamitie。めんどくさい。
人と関わるのが煩わしい(amitieに馴染めない?)・自分と異なる人の意見にクヨクヨ思い悩み、人を恐れ人を憎む人間嫌いが、それでも人類全般を嫌いにはなるまいとチャリティに走るのは、実はよくあることではないか。他ならぬ自分が実例なので分かりみが強い(可哀想)。
狭義の人間嫌い(対人恐怖)とチャリティは両立しうる・後者は前者の克服には必ずしもなりえない。そう考えたとき頭に浮かぶのは、いつの間にか覚えた遠人愛というタームだ。近しい隣人への愛ではなく、もっとも遠い者を愛するのが超人への道だというニーチェ『ツァラトゥストラ』の用語らしい。何度も引き合いに出しているサマリア人の喩え(新約聖書・ルカによる福音書10章25節)は、つまりニーチェが言う遠人愛・もしかしたらアランが言うシャリテにも近いのではと思われるのだけど、ちょっと話を走らせすぎか。
* * *
創作や芸術に関わる話も多くて、個人誌や同人誌など作ってるひとにも(まだ皆コミティアで頑張ってるのかなあ)オススメできると思いたい。
「芸術家は、どう見ても一つの目的を追求しているかのようだが、その目的を実現し、自分で自分の作品の観客となり、最初に驚く者となった後でなければ、当の目的を認識できないのだ。いわゆる表現の幸福とは、このことに他ならない」(37:アランと実存主義)
創作まんがも(少なくとも一次創作においては)描いてみて初めて「こういう話だったのか」と分かる部分はある・とゆうかソレがないと描いても達成感に欠ける。『野火』などで知られる大岡昇平の
「僕は別に文学を書きたかったわけではなく、ただ知りたいと思っていただけでした。しかし文学は一体書かれずに知れるものだろうか」(孫引き)という言葉にも、アガンベンが回りくどい彼にしては割とストレートに述べている「芸術家の幸福」(
今年2月の日記参照)にも通じる話ではないでしょうか。
短めの日記ですが、小ネタに収まる短さでもなかったので、こうして一項目を立てました。おーしまいっ←口調が移ってしまった…
*** *** ***
(24.11.08追記)40回目の講義で思い出したのだけど、フランスの大学で哲学を教えていたアランが出した「女性が橋の上から飛び降りて死のうとしているのを説得して停めなさい」という試験問題に、「僕と結婚してください(と言う)」と書いて合格した若造が後に作家・フランスの文科相になったアンドレ・マルローだったという逸話がありましたね…すっかり忘れてたし、そういうのが「気の利いた話」だったのは吉行淳之介(さんあたりのエッセイなんかを面白がって読んでた世代)くらいまでで・今時なら「キモっ」と一刀両断かもなともいう気もして、どっちの世代の感覚も理解できる自分は「一身にして二生を経る」思いなのでした。
(追記の追記)「米山さん」の講義だとアランの設問は「停めろ」ではなく「橋から身投げしようとする女性と哲学者の対話(を想定して書け)」というものだったようなので、マルローも「結婚してくれで説得しようとする哲学者の小説」を書いた、が逸話の真相だったのかも…などと妄想したりもしましたが、今「アラン/試験/橋/マルロー/結婚」あたりで検索をかけても、それらしいエピソードの一つもかすらず。ネットは万能のように思われるけど、手に入らないものは手に入らない。
南陽街の優しい夜明け前〜ホウ・チーラン監督『狼が羊に恋をするとき』(24.11.03)
大陸と台湾とを問わず、中国には格言というか箴言・あるいは端的に「ポエム」と呼ばれるような短文を好む文化があるのだろうか。
それとも最近の流行なのかしら。思い出されるのは江小白だ。昔から伝わる白酒(パイチュウ)の古びたイメージを一新した重慶発のヒット商品。スッキリしたミニボトルと(なぜか)幾種類かの詩的な短文がプリントされたラベルというデザインも、人気というか少なくとも話題になった一因なのだろう。
少し調べてみたら中国語で
「すべての旅を一生として扱う 一度しか見られない景色」「本当に大事なものは それを持ってる人よりも持ってない人のほうが知っている」そんな感じ。
日本の焼酎「いいちこ」の、
「風で眠り、波で起きる」「億年の海、百年の人」「倒れた木が若い木を育てます」みたいな広告コピーを自然志向から人間寄りに・ポスターから商品そのものに移した感じとでも言いましょうか。
・参考:
江小白 100ml(輸入販売元・日和商事株式会社/外部リンクが開きます)
・ついでに参考:
いいちこポスター集(三和酒類株式会社/外部)
2019年に台湾で見かけた色つき牛乳のパッケージも(記録のために全部買った。同行の家族はつきあってくれず一人で飲んだ)そんな感じだった。日本のジブリアニメを思わせるパッケージに添えられた短文を、それっぽく和訳すると
・バナナ牛乳
「歩くのがゆっくりでもいい、でも後戻りはしないで」
・ココア牛乳
「つらくても、微笑みを忘れずに」
・イチゴ牛乳
「低く膝を折ってこそ、高く跳躍できるんだ」
ちなみにバナナ牛乳の裏は
「世の中に難しいことなんてないワン、諦めさえすればね」ココアの裏はなかったから撮ってないんだと思うけどイチゴ牛乳の裏は
「失敗を恐れることはないニャー、もう失敗するって決まってるんだから」と皮肉な内容。いかにもナイーヴな表側への照れかも知れない。
重慶の白酒と台北の牛乳、どっちが元ネタとか、あるのかも知れないし、ないのかも知れない。東京神田・神保町で見かけた中国語教室のポスターも
「あなたは“美”しか語れないか?」などと謎めいた問いを中日併記で発していて、(背中がキレイなお姉さんも含め)ちょっと好きになってしまうタイプです。
(後日追記)謎めいたと書いたけど、美女を前に「き、キレイ…」以外の語彙力が欲しくないですか?みたいな意味かも知れない。
* * *
そんな短文がスパイスになった(?)映画を観た。
台湾・台北・台北駅の南、予備校がひしめく南陽街。付箋に書かれたメモ一枚で去った元カノを追い、トランクひとつでやってきた青年タン(阿東)は癖の強い印刷店主に拾われる。いつか再会できるかもと淡い期待を抱きつつ、各校の試験用紙をひたすらコピー・箱を抱えてひたすら配達の毎日。そんな中、とある予備校の試験用紙に毎回、手描きの小羊のイラストがあるのに気がつく。
受験生たちを励ますような、独り言のような短文が添えられた小羊のイラストを描いているのは、ややこしいんだけど小羊(シャオヤン)と呼ばれるイラストレーター志望の女の子。やはり恋人に去られた小羊(人)の、淋しいとショゲる小羊(羊)のイラストつきコピー原稿に「淋しいのは僕も一緒だよ」と狼の絵を描き加えてタンが遊んでいたら、修正液で消すつもりだった狼も一緒に大量コピーされてしまう。「何だコレ」「返事がついた」「羊と狼で仲良く出来んのかよ」「ホッキョクグマとペンギンは?」「誰にも食べられないゾウのほうが孤独よね」と意図せずバズって、ついには贋物の「オオカミ魯肉飯店」まで現れる始末…
『狼が羊に恋をするとき』(公式/外部リンクが開きます)
2012年の台湾映画。事情は後で詳述するけれど、12年後の今になって日本公開された作品が、個人的にはmy cup of (Chinese)teaと呼びたくなるような←そんな言い方あるのか?「めっけもん」でした。
ベージュのコートを見かけると指にルビーのリングを探してしまう寺尾聰のように(
古いなあ)街を行く女性がみんな元カノに見えてしまうタン。100数えたら待つのをやめると言いながら、元カレを待ち続ける小羊。彼らだけではない。コピー仕事の合間にタンが引き受ける(店主に引き受けさせられる)人助けは、行方不明の愛犬探しだったり、1314(中国語だと「一生愛す」と読める)のメッセージが残ったポケベルの持ち主探しだったり。
予備校を満杯にした受験生さながら、愛を失ない、次の一歩を踏み出せず宙ぶらりんな人たちの吹きだまりとして、映画は台北の街を優しく描き出す。それでも受験生の予備校通いが必ずどこかで終わるように、宙ぶらりんの日々にも次のステップへの出口があると、ある者は自覚し、ある者は気づけないまま(元カノが心残りなつもりで実は小羊を愛しはじめているタンとか)…
…
いかん、紹介がまとまってしまった。
忘れてしまう前に語りたい人物や場面が沢山あるのだ。女の子たちに大人気の、実はワケありイケメン炒飯売り。殺到する注文に「私が勤める塾と契約すれば顧客が○○倍に」と割り込んでくる銭ゲバ娘。一見ワンマンだけどテストに無関係な小羊のイラストを許しつづけてるあたり人がいいかも知れないカリスマ塾長。いかにもギーク(機械オタク)然とした短髪メガネの携帯ショップ店員(たち)。なぜか屋台で乾麺(汁なし麺)を商っている牧師(いや「なぜか牧師をしている乾麺屋台のおじさん」なのか?)。犬猫への愛情が深い女性たち。世界有数の人口過密都市らしい狭苦しい室内。ズラリと並んだスクーター。深夜のコンビニ。夢遊病のようにさすらう、眠れない人々。まだシャッターも開かないビルの前、地べたに座り込んだ新聞売りたちが居並ぶ夜明け前。
箴言めいた短文に話を戻すと、個性的な人々の中、とりわけ濃ゆい印刷店主が格言好きらしく…あるいは彼に限らず年配者全般なのだろうか、狭苦しい(←二度目)店内のあちこちには諺や仏典由来らしき標語が貼られ、物語の最後までアクセントをつけ続ける。古式ゆかしいフォーマルな格言と、小羊の即興のつぶやき、新旧の箴言が交叉する交点に、狼のヌイグルミ帽をかぶった主人公が立ち尽くしているようだ。
あとは小羊と狼のアニメーションを始め、コミカルなファンタジーが生活感あふれる現実描写と融合した作風が、吾ながら「ああ、いかにも自分の好みだ」と思ったことを付記すべきだろうか。(この項目は来月になったら消す→)人に勧める要素としては逆効果っぽいので言いにくいけど、今ちょうど自分が公開してる短篇まんがが「この作品を描いた人は、この映画を気に入ってます」ドンピシャなのでした。
* * *
配給元は
台湾映画同好会。自分にとっては思いがけない良作だったとはいえ、2012年の映画がどうして今…と思ったら、そもそも
「日本未公開・権利切れ映画の自主上映を行う」団体らしい。
自己紹介 小島/台湾映画同好会(外部リンクが開きます)
代表の小島あつ子さんは
『書店本事 台湾書店主43のストーリー』(サウザンブックス/外部リンクが開きます)邦訳クラウドファンディングの発起人でもあり、細い糸ながら前々から自分は知っていたことになる。
映画配給の公式サイトがnoteなのも異色だし、映画館でパンフレットとして売られていたのが440円の実質リーフレットだったのも「同好会」感が満載で、いや、軽んじたり馬鹿にしているの
ではない。良作であれば12年前の作品でも日本初上映にこぎつける・大がかりなプロモーションなどなくても成し遂げられるのは、興行収入や観客動員数・まして経済効果≒要は「いくら儲かった」とGDPだか株価だかで量れる経営学や経済学の物差しとは別の「豊かさ」だろう。
来週(この映画のために来週に延びました)18きっぷの話題でも蒸し返すと思うけど「
GDPや平均株価で量れるのとは別の豊かさがある」…白酒のラベルやイチゴ牛乳・答案用紙に添えるには、ちょっとポエジーが足りないか。
『狼が羊に恋をするとき』東京(下北沢)・横浜では終映したけれど、名古屋・京都ではコレからなので
行けるひとは是非(公式サイトを参照)。
小ネタ拾遺・24年10月(24.10.31)
(24.09.30)本サイトは訃報拡散マシーンじゃないんだがと思いつつ、
クリス・クリストファーソンは丁重に遇すべき存在。本業はカントリーのシンガー・ソングライターだけど特徴的な風貌で俳優としても活躍、自分が生まれて初めて映画館で観た映画は彼の主演作だったのです(流石に『天国の門』ではない←後にこっちも完全版を映画館に観に行ったけど)(『ジャケット』も不思議で面白い映画でした)。そして90年代、カトリック教会の児童虐待を訴えるためアメリカのTV生放送でローマ教皇の写真を破る挙に出て猛バッシングを受けたシネイド・オコナーが直後の合同コンサートで大ブーイングを食らった時、登壇していたミュージシャンで唯一彼女を助けたのがクリストファーソンだったという、シネイドのファンにも忘れられない逸話の主。
一時はつきあっていたともいう
ジャニス・ジョプリンに提供した楽曲、本人のバージョンを貼っておきます。魂よ安かれ。
(24.10.03)少し前の記事だけどオクトつながりで10月まで取っておいた件。
・
タコが魚たちを率いて狩り、タコパンチで「喝」も、研究 リーダーはワモンダコ、探索者はヒメジ、アカハタがトラブルメーカー(ナショナルジオグラフィック/24.9.25/外部リンクが開きます)
記事には最近出た類書へのリンクが張られていて、そちらを読んでもいいのだろうけど、個人的には
P.G.スミス『タコの心身問題 頭足類から考える意識の起源』(原著2016年/夏目大訳・みすず書房2018年/外部リンクが開きます)が、その年(二年前だったかな)に読んだ本のベストというくらい興味ぶかかったです。特にタコが人間に比べ(そしてヒトが亀やメタセコイアに比べ)極端に短命な理由を利己的遺伝子論で解くくだりは衝撃。
(24.10.05)1986年の
ユン・ピョウ主演映画『
検事Mrハー 俺が法律だ!』は豪快なアクションはいいものの、主人公の恩師が公衆の面前でいきなり暗殺され「私の愛用品を新任検事の君に譲ろう」的に託されたばかりの(日本でいう)六法全書的なものが逃げまどう人々に踏みにじられる寓意感あふれる冒頭から、敵も味方も次々と横死、共闘していた女刑事(80年代香港で活躍した白人アクション俳優
シンシア・ロズロック)も悪徳上司だったラスボスの手にかかり、最後はユン・ピョウも相打ちで落命というダウナーな展開&結末だったのですが、20年くらい前にネット投稿された不採用の別エンディングを今ごろ発見。
・
Righting Wrongs Alternate Ending(YouTube/外部リンクが開きます)
正規版エンディングでは飛行機から落下&血の海に浮かんで死亡エンドだったユン・ピョウを※どう見ても生存できる高さからの落下じゃないのは変わらないんだけど、やはり生きてた(殺害場面をカット+脱出シーンに置き換えられた)ロズロックが救命艇で救出…しかし法律を無視して復讐を強行した検事ハーは懲役刑というソレはソレでどうだかなオチ(
俺が法律じゃなかった!)なんだけど、正規版がやるせなかった人には救いになるかも←局所的すぎるニーズだけど、現にこうして一人(僕)救われたから一応。
(24.10.06)米が高いです野菜が高いです私が苦しいんですと言いながら自分より苦しいだろう人は見捨てるならば、蜘蛛の糸の盗賊と変わらないじゃないか。
「妻と次男はトルコの仮設住宅に入れば」東京入管、在留資格認めず クルド人Mさん一家は離散するしかないのか?(東京新聞/24.10.04/外部リンクが開きます)本サイトでは強制退去に反対の署名リンクをトップに貼っていたのですが、無力でした…
(24.10.08)映画で「これは絶対に外さないから趣味嗜好に関係なく騙されたと思って観てほしい」と自信をもって断言できるのは昨年の『リバー、流れないでよ』以来かも知れない(
←ずいぶん最近じゃないか(笑))。日本では初公開になるのかしら、2006年の台湾映画
『花蓮の夏 4K修復版』(外部リンクが開きます)。互いに思いやるがゆえに傷つけあう二人+ひとりの三角関係が「どうなるのこの三人」から「誰が一番の切り札を握ってるか」物語上の主導権の取り合い(というか譲り合い?)になだれこむ海辺の結末は圧巻そのもの。
(同日追記)次いつ観れるか分からないから自身の備忘のため書いておくと
★ネタバレにつきたたみます(クリックで開閉します)
物語とゆうか世の中の規範として「恋は友情より特別なワンダフル」ってことになっていて、まあそれは間違いでもないし、それは同時に恋はおそろしい破壊力を持ってるってことでもあるんだけど(あまり関係ないけど帰り道ユルスナールの小説『最後の一撃』を思い出したりしていた)本作では恋が何もかもメチャメチャにしてしまう様がこれでもかと描かれたうえで、なおそれと拮抗しうる「恋愛と同じくらい重たい友情」というカードが最後に切られて
その破壊力に圧倒されたのでした。
(同日追記2)これはまあどうでもよいのですが、台湾のゲイシーンを描いた小説なども読んだことがあった関係で
★こちらもたたみます(クリックで開閉します)
「あっ、ココっていわゆるハッテン場」と
そういう展開になる0.5秒前に勘づいてしまった自分に苦笑するなど。
(24.10.08)
袴田さん無罪、検察が控訴断念発表 「捏造には不満」異例の総長談話(朝日新聞デジタル/24.10.8/外部リンクが開きます)←
改 悛 の 状 が 認 め ら れ な い (悔悟の情が認められない・更生意欲がない・再犯のおそれがある) 検察のトップ罷免くらいあっていいと「社会の感情」は思うが。
(24.10.11)ハン・ガンのノーベル文学賞受賞で『少年が来る』が描いた光州事件や軍政の暴力が改めて西欧世界に知れ渡る・再認識されるんだなと思ったけれど、すでに世界的にヒットした映画『タクシー運転手』があの暴虐を改めて周知していたことを思い出す。あの国の人たちには自分たちの一番の恥部を克服したこと・克服すべきこととして物語化(なんならエンタメ化・コンテンツ化)する力がある。今この国で一般受けする物語をつくる人たちは、自分たちの腹を裂いて傷(瑕)をさらけ出す手筈を何重にも奪われている。出羽守と言ってしまえばそこまでだけど…
(24.10.12)
「赤ん坊の山羊(baby goat)とマターベイビー(matter baby)食べるならどっち?」
と尋ねて、matter babyなんてものは(英語でも)存在しないので
「What's a(the) "matter baby"?」(マターベイビーって何?)
と相手が訊き返すと
「"What's the matter", baby?」(どうかしたの、ベイビー?)
と同じ意味になるので
「Nothin' much suger, what's the matter with you?」(別にどうもしないわカワイコちゃん、あなたはどうかしたの?)
と返すという高度かつ(調べないと意味わからんかった)超絶くだらないヂョークに興じる英語圏VTuberの皆さん;
Kronii Falls for Fauna's "Matter Baby" Joke(YouTube/外部リンクが開きます)
ショート動画で止めないと延々リピート再生されるんだけど、リアクションが完璧で何度観ても飽きない。まんまと釣られて
「うわーうわぁぁーI'm in pain(つらいよぉ)…」と悔しがってるところに
「What's the matter, baby?」(どうしたの悶絶しちゃって)
「うわぁぁーっ!」と追い討ちをかけてる(処まで切り抜いた)版もあり。
(24.10.14)
「これには、やんごとなき事情が…」みたいな言い回しに、ソレって「
よんどころない事情」じゃないの?と思ったら、学校の古典などでは「高貴な身分」を意味するとされる「やんごとない」も、本来の意味は止む事ない=捨てておけない・なおざりに出来ない(蜻蛉日記などに使用例がある由)らしく、今の使い方も間違いではないと。むしろ「やんごとなき御方」的な概念のが古語として過去に封印される方向で世の中が進んでいくのかも。バックラッシュがなければ。
参考:
第16回 「やんごとない」はもともとの意味が復活しているのか?(ジャパンナレッジ/2010年/外部リンクが開きます)
バックラッシュの一例:
官邸SNSが首相視察に敬語の投稿 官房長官 適切な表現を指示(NHKニュース/24.10.7/外部)。とくに第二次安倍政権以降、政府与党は皇室から「やんごとなさ」を簒奪しようとしてるな(周囲も自発的隷従でそちらに偉大さを広げようとしてるな)?という傾向は本サイト
20年9月の日記終わりのほうなども参照。※息を吸って吐くように政治ネタにつなげるなあ…
(24.10.16)2017年に旅行先の台湾の映画館で予告篇を観て、興味を持ったけど日本には来ないだろうなーと諦めていたタイのホラー映画が配信で観られるようになってて、世の中プラマイ色々あるけれど(昔ながらのDVDレンタル実店舗はほぼ消滅しましたよね)これは良かったの類:
・
プロミス/戦慄の約束(JAIHO/外部リンクが開きます/予告篇から
虫注意)
高校時代に親友と心中を図るも生き延びてしまった女性が、死んでしまったほうの少女の霊に苛まれる人情ホラー。個人的には期待どおりの傑作…とは行かないものの(ムニャムニャ)、最初に二人を追いつめたのが1997年のバーツ暴落=いわゆるアジア通貨危機による困窮と家庭崩壊で、20年後の主人公も親友の呪いと不動産事業の行き詰まりで板挟みという、いわば経済ホラーでもあったのは隠れた見どころかも。
JAIHO以外でも配信はあるようですが、U-NE×T(いちおう伏せ字)のコレは何かの間違いだろう…
(24.10.19)現在の室内気温28℃。ヤケっぱちでビーチ・ボーイズを流してます(笑)まあ窓全開+エアコンを冷房でなく「送風」で凌げる温度ではありますけどね。
(24.10.21)SNSで「戦争だけはいけません。いつもどおり自民党に入れました」という期日前投票の報告を見て途方に暮れる。首相が替わるたび上がる内閣支持率もそうだけど「
こういう考えの私が支持(投票)するのだから、先方も私の思いを汲んだ政策を実行してくれるはずだ」と念力や、古代の呪術みたいに信じてる側面もあるのだろうか。メロスには分からぬ。
(24.10.22)昨日「分からぬ」と書いた「戦争はダメ。自民党に投票しました」と仰有る人、「そう思う私が投票すれば政治家もそう行動してくれるはず(念力説)」の他に実は「戦争を避けるためには武力や米軍の後ろ盾が必要・だから自民党」と考えてる節はあるのだろうか。とすればソレは一つの見解だけど、沖縄その他で自由を侵害されてる人・軍事費のために福祉や災害復旧を削られてる人を踏みつけにした「平和」でいいのかと思うし「軍備増強による平和」じたい結局オーウェルの
「戦争は平和である」と変わらないのではと勝手に推測して勝手に思う。勿論もっとしょうもない、ただの困った人なのかも知れない。
(24.10.23)スキマ読書で細切れに読んでる
ヴィトゲンシュタインの断章集。まあ主著に比べると余技っぽいとゆうか今となっては今どきのちょっと気の利いたSNSアルファと変わらんなあとか失礼な印象も受けていますが、目に留まったのは
「ある人が部屋にとじこめられている。ドアには鍵がかかっていない。ドアは内側に開くようになっている。だが、とじこめられた人は、ドアを外側に押すだけで、内側に引くことは思いつかない」(1942年/原典の傍点を強調に置き換え)という中々含蓄のある一節。ヴィト氏たぶん同じような事を何度も言ってるんでしょう、「ドアに鍵がかかってないことに気づかず外に出られない―外には青空があるのに」という別バージョンが
山本直樹氏の、(森山塔名義ではない)山本直樹名義の商業デビュー短篇「私の青空」のモチーフになっていたっけ!と数十年ぶりに思い出したのですよ。ニッチ過ぎて誰も「ああ、アレ!」と思い当たらなそうな話で申し訳ないけど、んーやっぱり、このところ人生の伏線が回収期に入ってる感が強くて個人的には面白い(あるいはメンタルが弱ってる)。
(24.10.24)今月はじめの能登はケチケチ旅行だったので中でお茶するでもなかったんだけど金沢の本屋(うつのみや書店だけど金沢)に併設されていた「文豪カフェ」の名前が「
あんず」で、
あー金沢という。いや『杏っ子』どころか室生犀星オール未読なのですが(
今回の人生では諦めた!)読まなくても思い当たるのが一般知識ってやつで、洒落てますね金沢。悔しいけど歴史が育んだ文化の重みを感じるので(本屋の入れ替わり自体は激しい印象があるますが)そのまま憧れの古都でいてね。
なにせ歴史的にはポッと出の吾がヨコハマだとネーミングセンスが「○○○・○○ー」だもんな…相鉄線「星川」駅前…
(24.10.25)
クルド人ヘイトが激化…「逃げ場所」を外国ルーツの子どもたちに NPOが日本語教室の常設に向け寄付募る(東京新聞/24.10.24/外部リンクが開きます)。寄付(クラファン)の窓口はこちら→
みんなでつくる、いっしょに生きる。「いつもあいてる」日本語教室(認定NPO法人メタノイア/READY FOR/外部リンク)寄付金控除型。10/31まで。
←こういう事業に「少しですが」と言いながら善意の人たちが色々やりくりして寄せてるだろう資金の何倍ものお金を、非公認の裏金議員にポンと渡して「選挙には使わない」とか何とか、
たまんねえよなという気持ちを(ないことにはしたくないので)もっと柔らかい言葉で言えたらいいのだけど…
(24.10.28追記)衆院選の翌日、一気に寄付が増えたように見えるのは排外主義の台頭への危機感かも。それが国政には期待できないという自助・共助だとすれば、まさに公助を削りたい者の願いどおりでもあるのが切なく苦しい。
(24.10.27)人間は点が二つあるとソレを直線で結んで「しまう」よう「呪われている」(『ヴェーユの哲学講義』ちくま学芸文庫)と言われる通り、裏金が・裏金が・裏金の使途をなぜ隠すみたいに言われてる真っ只中で解散総選挙という流れは、多少なり想像力のある人が「なぜ隠すも何も、公に言えないような使い方で票を買うためだろう」と直線を作るには十分すぎて、あーそうなんだぁという認識・暗黙の了解は、真偽はともかく遅効性の毒みたいに(また)この社会を腐蝕させていくように思われる。先日は永田町で火炎瓶が投げられたりしたそうですね、とまた直線を作る衆議院選挙投票日。
(24.10.30)いちおう言うとボンドになるずっと前、『ロード・トゥ・パーディション』以来いちおう
ダニエル・クレイグのファンなのです。その主演最新作が
ルカ・グァダニーノ監督で
A24制作の(未読だけど)
ウィリアム・バロウズ原作『
QUEER』。そして予告篇の選曲で(実際に使われるかは不明だけど)ありがとう…ありがとうA24…となる自分。あ、予告篇は
ムカデとヘビ注意。
(同日追記)念のため答え合わせしておくと『QUEER』予告で使われてるのは昨年亡くなったシュハダ・サダカット(シネイド・オコナー)の「
All Apologies」。大好きなカヴァーだし、彼女の楽曲を大事にか、少なくとも得がたく思ってる人がまだ居ることが嬉しかったのです。
ちなみに原曲はニルヴァーナで、あとオアシスのWonderwall・blink182のI Miss Youで
ロックでクラシカルな低音弦の名曲ご三家と勝手に思ってます。
これは10/12にリンク張った動画で「警告したのに〜」と言ってる
七詩ムメイのKARAOKEカヴァー。また来月。
共同体なき共同体は可能か〜選挙の前に(24.10.20)
「法治国家」は、それらが何を所有していようと、生存の共同体とは無関係な「富の生産」のメカニズムに従属しているのだ
(ジャン=リュック・ナンシー『否認された共同体』)
*** *** ***
1)ツァイトガイスト
プルースト『失われた時を求めて』の中に、こんな一節がある:
時代精神は、ひとりの人間において、階級(カースト)よりもはるかに重要な位置を占めており(中略)
ルイ=フィリップ時代の大貴族は、ルイ十五世時代の大貴族よりも、むしろ同じルイ=フィリップ時代のブルジョワの方に似ている
(『ソドムとゴモラI』鈴木道彦訳・集英社文庫)
まさに時代精神を描いた作品全体の主題の凝縮でもあるし、ちょっと気の利いた、面白い見解だと思いメモしておいた一年後。十四世紀の昔からアラブでは
「人間は自分の父よりも自分の時代に似る」という諺があったと別の本で知った(出典は前にも言及したギー・ドゥボール『スペクタクルの社会についての注解』)。プルーストは念頭において書いたのかも知れないし、知らずに同じ見解に達したのかも知れない。どちらでもいいことだ。
いずれにしても思想や発想・アイディアが無人島のように孤立していると考えるほうが間違いなのかも知れない。多くの島は海面下で繋がった飛び地であったりするらしい。
書名としても概念(アイディア)としても百点満点だなと感心していた
アルフォンソ・リンギスの『
何も共有していない者たちの共同体』(
23年5月の日記参照)もまた、リンギスの独創ではなく、実は
ジョルジュ・バタイユが最初に提示した概念だったようだ。これは今年の夏に
ジャック・デリダ『友愛のポリティックス1』(原著1994年/鵜飼哲ほか共訳・みすず書房2003年/外部リンクが開きます)で知った。
自分にとっては縁遠い、どちらかというと関心の埒外に置いて良さそう程度に思っていたバタイユが、20世紀から21世紀の思想家たちにとっては想像以上に重要であることが、にわかに分かってきた。そういえば、戦間期に彼自身が試みた(共同体なき)共同体=パリに居た岡本太郎も関与したといわれる秘密結社アセファル(無頭人)を題材にした浩瀚な新作ミステリを、やはり昨年読んだばかりだ(ネタバレになるため書名は伏せますが、心当たりのある人のため答え合わせのリンクを一応張っておくと→
こちらです)
パッと確認できるだけでも、バタイユが提示した「共同体なき共同体」に触発された著作が以下のように並ぶ。
●ジャン=リュック・ナンシー『無為の共同体』(原著1983年/未読)
●モーリス・ブランショ『明かしえぬ共同体』(同1983年/未読)
●ジャン=リュック・ナンシー『否認された共同体』(原著2014/邦訳読み途中)
それぞれが互いの著作への応答らしい上記三冊に加え別個に
●ジョルジョ・アガンベン『到来する共同体』(原著1990年)
●アルフォンソ・リンギス『何も共有していない者たちの共同体』(原著1994年)
上に挙げたデリダ『友愛のポリティックス』を、この系譜に連ねてもいいだろうか。どうなんでしょう?正直、自分の読む限りではどの著者たちの論述も難解すぎ、今ここで分かりやすく抽出するのは難しい。
強いて言うなら、ことさら難解・迂回をきわめるアガンベン
『到来する共同体』(新装版2022年・上村忠男訳・月曜社/外部リンク)が例によって中世ラテン語の世界から19世紀メルヴィルの小説まで迂回に迂回しつつ、性質や肩書き(
「イタリア人であるとか共産主義者であるとか」)で説明されることを拒否する
「なんであれかまわない個物ないし単独者」でありたいという要求が、国民たれという国家・政府の要求と衝突した結果が1989年・中国の天安門事件であったと唐突に結論づける、そのことが興味ぶかい。
その性急な結論は(彼が提示する多くの概念と同様に)物議をかもしたらしいし、
最終的には、国家はどんなアイデンティティ要求でも承認することができる。(中略)
国家自体の内部にあっての国家的アイデンティティですら承認することができる
という一節は、ウイグルやチベットの少数民族のアイデンティティに対する中国の態度を見れば(最終的にはと留保はついてるものの)現状では首を捻らざるを得ない。けれどその性急な結論が
しかし、複数の単独者が寄り集まってアイデンティティなるものを要求することのない共同体をつくること(略)
所属の条件を(略)
もつことなく共に所属(co-appartenere)すること―これこそは国家がどんな場合にも許容することのできない(略)
脅威なのだ
と続けられる時(それが著作の前年に起きた天安門事件への過敏な反応だったかも知れないにせよ)アガンベン流に言えば「なんであれかまわない単独者」バタイユ〜リンギス流に言えば「共有なき共同体」が、こうして一応それなりに重要視されていることに、ちょっとした感慨を憶えてしまったのだ。
最近また蒸し返した記憶があるけど(不詳)自分には長らく「
内部での結束の強制や外部への敵対視を条件とする「集団」ではなく、互いに干渉しない他人同士の親切で社会を構築することは出来ないのか」という思いがある。そして
それは、あまりにも孤独な考えで人と共有したり、まして多数の大きな声には出来ないものだと思ってきた(
16年7月の日記参照)。…
意外とそうでもないんじゃね?現にこうしてリンギスやらアガンベンやらが(自分なんかよりずっと難解だし、もしかしたら辿り着く場所は違うのかも知れないけれど)同じような起点から考えている。
そして「社会を変えたいけれど、手前の時点で運動に失望したり、違和感で参与しきれなかった」という人も実は少なくないのでは…とも考えられる。
党の忠実な信者にならなくても、あるいはデモの後で主催者と談笑できなくても、社会参加は出来るべきではないのか。それがアガンベンの言うように最後は戦車を呼ぶものだとしても、それって逆に世の中にたいして最もクリティカルって事ではないのか…そんなことを少しずつ考え始めている。ひねた自分だけが持ってる偏った願望(だと思っていたもの)を、私的な言葉を、公的なイシューに書き改めることが出来たらと。
もちろん、今はまだ勉強(読書・インプット)も思索も、それをアウトプットできる言葉も足りない。
そのうえで、まだ固まってないながら、ひとつ言いたいことがある。
「狭い共同体の仲間意識(の強制)でなく、他人同士の親切をベースにした社会」って、
本来それを保証してくれるものが国家ってやつじゃないのか。
そうでしょう。あなたが僕が何物であろうと負担できるだけの税金や社会保障費を払い、それがインフラや社会保障に公平に分配される。それ以外に何の国家の存在理由があるというのか。どうしてそれが一部の大企業を利したり、ましてや国家・ましてや政府に忠誠を誓い・国家の敵(外国だったり外国人だったり「足を引っ張る」同国人だったり)を憎めということになるのか。おかしくないか。
* * *
1.5)断章1
今度の衆院選で新興政党の参政党が掲げる
「日本をなめるな」というキャッチコピーについて言いたいことは多々あるけれど、ひとつだけ。約10年前に、第二次安倍政権が強行した安保法制に反対して国会前で・また各地で人々が叫んだシュプレヒコールの一つが
「国民なめんな」だった。
もちろん、そのコールは「国民」でない外国籍住民を結果的に排除していることが内輪でも問題視されたと記憶している。
「言うこと聞かせる番だオレたちの」というフレーズが男性中心との批判を受け、途中から
「言うこと聞かせる番だ私たちの」と若干ぎこちなく(音読してみると分かる)言い替えられたように「国民」も何かしら対応があったか、なかったかは思い出せない。
いずれにせよ、国家・政府に対して統治・支配される人々が「なめんな」と叫んだのが、たった十年で(意図的なパクリではないだろうけど)国家・政府と一体化した人々の「日本をなめるな」になってしまったことに、まあ分かってたけどね!と吐き捨てたくなるような嫌悪感がある。
* * *
2)国家の起源にまつわる詐術
アイリス・マリオン・ヤングの
『正義への責任』(原著2011年/岡野八代・池田直子訳・岩波現代文庫2022年/外部リンク)は、かねてより読んでおきたい本の一冊だった。こちらの日記では書いてなかったけど2021年の12月に横浜の自宅から鎌倉駅まで一日かけて歩いて(帰りは電車に乗った)、鎌倉駅の西口にあったコンパクトだけど選書が冴える「たらば書房」で手にした
レベッカ・バクストン+リサ・ホワイティング編
『哲学の女王たち もうひとつの思想史入門』(原著2020年/向井和美訳・昌文社2021年/外部)という好著で
ソクラテスの師匠だったディオティマから近現代のボーヴォワールやアーレントまで並ぶ中、取り上げられていたのがヤングで、『正義への責任』は彼女の思想の集大成と呼ぶべき遺作だったのです。
と言いつつ、本書の紹介は省略します。社会の中で、とくにシングルマザーのような弱者が本人の咎ではないのに選択肢を制限され、また周囲も悪を為そうという意志はなくルールに従っているだけなのに結果的に弱者を排斥し、ついには困窮者やホームレスになるまで蹴り落とす。従来の強者の論理では自己責任とされていた、こうしたプロセスをヤングは
「構造的不正義」と呼び、その分析と打開策の追究にあたっている―とだけ述べるに留める。
多くの人が実際に手にして読むに値する本だと思います。とりあえずは「構造的不正義」という術語だけ憶えといてください(きっと役に立つから)。ここで述べたいのは別の、もしかしたらヤングの著作じたいでは瑣末に思えるかも知れないことだ。
ロールズやアーレント、時にはレヴィナスまで縦横無尽に援用しあるいは批判し(実は1で挙げたデリダ『友愛のポリティックス』も本書での言及に関心を持って手を出した)構築されるヤングの提言は、社会の構造的不正義を正すためには国家への働きかけも不可欠だという結論に至る。あー…と心を挫く結論だ。そうだろう。国政選挙が間近に迫っている。そこで思いどおりの結果を出そうとするよりも、デモに参加したり署名したり、あるいは一個人として被災地にボランティアに行くほうが簡単と言えば簡単なのだ。選挙というイベントを前にしての無力感・徒労感は(もしかしたら上で挙げた「共同体と一体化できない感じ」以上に)「分かる」「それな」と思う人が多い感覚かも知れない。
それでもヤングは行政・わけても国政を動かさねばと訴える。もちろんそれは正論だ。だがその根拠として彼女が
「不正義を是正するために国家行為に頼るべきである(中略)
なぜならば、国家だけが正当に強制的な権力を行使することができるからだ」と述べているのを読んだ時、これもまた正論でありながら、別の意味で「あー…」と嘆息したくなった。
ヤングを責めているのではない。ただ「国家は(国家のみが)正当に強制的な権力を行使できる」と言われるとき―そもそも「権力(power)」というもの自体「人に当人が望まぬことを強制する力」だという社会学による定義を代入すれば「国家のみが権力を独占できる」と約分?通分?できるのだけど、事実上そうなのは事実として、
なぜそうなのかと考えた時、西欧がリードし日本も含む非西欧も追随した観念(物語)はホッブズやら誰やらの社会契約論ということになる。人々は原初のままだと互いに互いが争う修羅の巷となるため、皆が一致して国家に権力(強制力)を預けたというものだ。…
でもソレって嘘なんじゃない?おためごかしなんじゃない?国家が権力を独占した経緯って、そんなキレイゴトじゃなくて、もっと力による強制とか、自発的隷従とかえげつないモノで、でもそれを「私たちは進んで国家に権力を預けたのだから、国家に従うしかない」みたくダマくらかしてない?と今さらながらに思ってしまうのだ。
もちろん「私たちが国家に権力を預けたのだから、私たちは国家に働きかけ、国家を動かして不正義を正す能力も義務もある」と考えることは出来る。でもやっぱり根本に詐術がある気がしてしまう。とくに「能力」が認められてないのでは?と事あるごとに思わされる立場にあっては、だ。
* * *
2.5)断章2
基本的人権の尊重や9条の平和主義ゆえに、現行の日本国憲法を護持しようとする立場の人たちは多い。というか自分もその一人ではある。その一方で(人権なんてワガママだ戦争できる日本へという路線とは真逆に)現行の憲法でも平等や人権尊重が足りないので最終的には改憲をと考える人たちもいる。多くの人たちが問題視するのは天皇にまつわる規定だが、僕にはまた別の思いもある。
「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない」(第十一条)
「すべて国民は、個人として尊重される」(第十三条)
「すべて国民は、法の下に平等であつて…」(第十四条)
国家とはそういうものだと言えばそこまでなのだけど、近年「国民」でない住民が少なからず受けている人権侵害を見るに、世界で一番先進的だなどと自賛される憲法にしてなお「ただし国民に限る」という壁がある事実はどうにかならないのだろうか。
なお
「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない」(第十八条)
など主語が「何人(なんぴと)」である場合、また
「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」(第十九条)
「通信の秘密は、これを侵してはならない」(第二十一条2)
のように保障される主体が誰か明示されてない(ということは万人に当てはまる?)条文も多々ある。たぶんこのあたりは法学を専門にしている人たちがキチンと考えているのでしょう。部外者の思いつきです。
* * *
3)通過点としての選挙
『正義への責任』と併せ、夏の旅行で旅の供だったのが
レベッカ・ソルニットの
『暗闇のなかの希望 増補改訂版』(原著2005年/井上利男・東辻賢治郎訳・ちくま文庫2023年/外部リンクが開きます)。
注目される女性思想家の、ここ数年の文庫化で、たまたま自分が続けて読んだという以上の共通点はない。むしろ(社会正義という)同じ山の頂に、正反対から登ろうとするアプローチにも思えた。
つまり対にすると補い合える二冊です(と、自分の体験を普遍化する)。
もちろん、今回の日記(週記)の主旨からして
内容の紹介は省く。でも今回取り上げた本の中で、おそらく一番とっつきやすいし、多くの人に読まれるべき、なので文庫化が相応しい一冊だと思います。時間がない人は書店の店頭か図書館の棚の前で115ページ、
ジョージ・オーウェル『カタロニア讃歌』から引用されたスペイン内戦のエピソードを読んでみるといい。
惚れますよ(公衆の面前で噴くことになっても責任は負いかねるけど)。
もう少し時間のある人は、ほぼ冒頭に近い45ページのエピソードを読むべきだろう。雨のなかで反核の抗議運動に立ちながら
「なんてばかばかしく無駄なことをやっているのか」と惨めになっていた主婦が、後に運動を主導し成功に導いた著名な博士に
「私にとっての転機は、女性たちの小さなグループが、ホワイトハウスの前で雨に打たれながら抗議しているのを見かけたときであり、あの人たちがあんなに熱心にやっているのなら、私も問題をもっと真剣に考えなければならないと思ったのです」と教えられたという。ソルニットは結論づける。社会を変えようとする人たちは
「いつも家に帰るのが早すぎる」。
ヤングは(最終的には)国政を動かさなければいけないと説く。ソルニットのゴールも一緒かも知れないけれど、彼女はタイムスケールをより大きく取っている。極端に敷衍すれば、個々の選挙の勝敗、ジョージ・ウォーカー・ブッシュ・ジュニアや(本書が書かれた後の出来事だけれど)ドナルド・トランプが最高権力の座に就こうと、それは通過点に過ぎない。選挙で勝とうが負けようが、誰が大統領になろうが、社会問題(反核や環境問題、貧困やジェンダー、差別を巡るあれこれ)は続き、市井でのコンフリクトも続いているのだ―
道義的に弁明しようのないイスラエルへの肩入れで四年の任期をメチャメチャにしてしまった(僕目線の総括です)ジョー・バイデンが辞退し、カマラ・ハリスが民主党の大統領候補になった時、スーパースターの
ビヨンセと
テイラー・スウィフトが即座にハリス支援のコンサート開催を表明した。痛感したのは、二人がそれを即断できたのは大統領選挙よりずっと前から、彼女たちが女性の権利(など)のために公に意見し、活動してきたから、彼女たちを含め多くの「意識が高い」アメリカ人にとって「争点」は大統領選に関係なく存在し、大統領選は通過点に過ぎないということだった。
無論それは、大統領選が終わって、新しい大統領が決まっても、アメリカでは人権派や環境派と・それに反するバックラッシュ勢の、内戦のような葛藤は続くということでもある。ソルニットは言う。
「希望はソファに座って宝くじを握りしめながら幸運を願うこととは違う(中略)
希望はあなたの戸外に引きずり出す(略)
それはあなたの持つすべてのものを動員して(略)
地球の宝物の消滅を防ぎ、貧しい人びとや周縁にいる人びとを虐げることをやめさせるものだ」
「意識が高い」という、今の日本では揶揄や悪口として使われる言葉を敢えて用いたのは、それが揶揄や悪口になりうる社会ばかりではないとも思うからだ。空間的にも(つまり世界の中で)時間的にも(つまり歴史の中で)冷笑や揶揄がイケてると思われる状況は限られていて、他の場所・他の時間では、それらは40年前のアニメの巨大ロボットを万博会場の目玉展示に据えつけるくらい寒くてダサくて恥ずかしい。お気の毒さま。
* * *
3.5)断章3
自分にとって能登でのボランティア(特に二回目)は「共有するものがない共同体」が瞬間的には可能なのだと解釈できる体験だった。2011年の東日本大震災・さらに遡って1995年の阪神淡路大震災で積極的にボランティアに従事した人は、多かれ少なかれ同じものを先んじて感じていたのだろう。ソルニットが提唱した「災害ユートピア」という概念も、深く掘り下げる必要があるのだろう(今後の宿題とします)。
ただ泥を取り除けるという目的で集まった人たちが、互いの立場や属性に関係なく目的だけを果たした。実際、自分が一緒に泥をすくったメンバーには、産経の会社づとめを休んで駆けつけた人もいた(笑)。僕は手荷物入れに「FREE PALESTINE」のトートバッグを持参していたけれど、これも場所によっては物議をかもすアイテムだろう。これから始まる国政選挙で組み分けや、まして内ゲバのような足の引っ張り合いに賭ける人たちからすれば、腹立たしい呉越同舟かも知れない。
「身内の結束より他人の親切」は安定した世界が通用しない淵(エッジ)や、災害のような時に、むしろ普遍的に出現するもの、なのかも知れない。新約聖書のサマリア人の逸話からしてそうだ。ジャン=リュック・ナンシーによれば、ブランショはフランスの68年の「革命」が(アガンベンの目に映った天安門と同様)何者であることも求めない反抗だったと捉えている。
逆に言うとそれは、何か党を立ち上げたり為政者を選び直したりする大きなムーブメントには繋がりがたいものだった。リンギスの「何も共有していない者たちの共同体」もまた、言葉も通じない旅先で急病を救われるという、社会や政治から切り離された体験だったことが思い出される。天安門は戦車で、2019年の香港はゴム弾で制圧された。二千年前にサマリア人の教えを説いた三十男は、ダグラス・アダムスの『銀河ヒッチハイクガイド』風に言えば
「木に釘付けに」された。
* * *
4)学期末テスト〜短めの結論
有権者にとって選挙は期末試験みたいなものだから「学期中」まともに政治のことを考えてこなかった・考えずに済んできて試験前に突然どこに投票しようとか騒がれてもなあという気持ちはある。そしてメディア(テレビ等だけでなくSNSも含む)で今どき「どこに投票すればいいか分からないのに」と声高に言ってる人たちの大半は「だから試験なんてバックレちゃえよ」「隣の人の答案を丸写しでオッケー」「現状維持で今まで困らなかったし、これからも困らない・何とかなるよ」と他の人たちを巻き込むために言っている。
皆がまともに回答できないと平均点は下がり、学級は崩壊する。家柄がいい子や腕力が強い奴・口のうまいお調子者がスクールカーストで大きな顔をして「卒業」まで逃げ切れればと学級を崩壊させたままにする。
崩壊学級で幅を利かせるタイプ、ひとつ忘れてた―「いじめっ子」。橋下徹が若者に白票を呼びかける記事の見出しで思い出した。記事を掲載してるのはプレジデント・オンライン。そういうこと。
本来なら数回に分けて、それぞれ考察・説明すべきトピックを流れ図だけでまとめて、これはこれで分かりやすく提示できたと思う(?)けど、まあ疲れました。来週のメイン日記(週記)は休むと思います。
*** *** ***
(同日追記)ソルニットの話あたりから派生して、アメリカのいわゆるリバタリアンも(賛否は別にして)気になっていると書いておくのを忘れていた。「共有なき共同体」への関心はゾミアやアナキズム・蜂起、ひょっとしたら山口昌男の「徒党」などとも繋がっていくのかも知れない。きっと誰かはこういうの先に踏破してて「今ごろ?ふひひ」と笑っているのでしょう、こっちは独学なんすよ…
(24.10.25追記)
ジャン=リュック・ナンシー『
否認された共同体』読了。やー、読む前に日記本文を書ききっておいて良かった。自分がボンヤリ考えてたことに立脚点が相当近くて、しかし言うことが斜め上すぎて手がつけられない=読んでたら呑まれちゃう処でした。
どうやらバタイユが、ブランショが、68年フランスの5月革命が、20世紀の社会運動そのものが、僕の言葉でいう「他人同士の社会ではダメなのか」に近い問題意識であったという。それは(ブランショを語る)ナンシーの言葉で言うと
「ブランショは何にも増して、共同性や共同体に対する不信感に突き動かされていた(中略)
ある全体、グループ、評議会、集会などに所属していると主張している人びとに共通する何か(略)
卑俗なもの、群生的なもの、規範的なものに対する不信感(略)
。
共同性〔共通するもの〕は必然的に疑わしいものなのだ」
となるのだろうか。けれど多少なり問題意識を共有しているだろうナンシー本人は
「私たちは皆、多少なりとも、目覚めていると思い込みながら、ある混乱した夢を見ているのであり、何も排除しないことを夢見ているのです」
という美しい一節で「何も排除しない」党派性なき共同体は結局「混乱した夢」ではないかと留保をつけてるようでもあり…
同じフランスの哲学者
ジゼル・ベルクマンの
「近接と対立:モーリス・ブランショ『明かしえぬ共同体』の試練にかけられるジャック・デリダとジャン=リュック・ナンシー」(亀井大輔訳/首都大学東京・人文学報2017年/東京都立大学/外部リンクが開きます)が、三者の三角形を測るための補助線として有益そう。
小ネタ〜ハン・ガンとマーク・ロスコ(24.10.17)
9月の日記で訪問記を書いたDIC川村美術館ですが、来年1月に予定されていた休館が、二ヶ月だけ先に延びたようです。
・
当館の休館開始予定の延期に関するお知らせ(公式/24.10.1/外部リンクが開きます)
同館の目玉展示のひとつであるマーク・ロスコの絵画について
・参考(再):
ロスコ・ルーム(DIC川村美術館公式/外部リンク/前にも書いたけど実際はもっと暗い部屋です)
先日ノーベル文学賞を受賞と報じられたばかりの韓国の作家
ハン・ガンが
「あらかじめ断っておくようなことでもないが マーク・ロスコと私は何のゆかりもない」と断りを入れたうえで、二つの詩を彼に捧げています。そういうところも宣伝していけば相乗効果などもあるのになと思いつつ、「
マーク・ロスコと私2」を少し長めに引用します(全文ではない)。
僕はロスコ・ルームで現世と冥界を隔てる線を踏み越えて向こうに行くような、つまり死後の世界を疑似体験するような気持ちになって、それは思いのほか心地よかったのだけど、画家が長い葛藤の果てに最後は自ら命を絶ったと訪問の後で知り、またそれを踏まえたハン・ガンの詩を読むと、あの暗い赤は画家の身体をかつて満たし・そして命とともに流れ落ちた血液の赤にも思えて来るのでした。暗いのに不思議と心地よい感覚は変わらないまま。
* * *
マーク・ロスコと私2
ひとりの人間の霊魂を切り裂いて
中を見せてくれたら こうなのだろう
それで
血の匂いがするのだ
筆ではなくスポンジで塗りつけた
永遠に滲んでいく絵の具の中から
静かな 赤い
魂の血の匂い
このようにして止まるのだ
記憶が
予感が
羅針盤が
私が
私であることも
(中略)
どんな音も
光線も届かない
深海の夜
千年前に爆発した
星雲のかたわらの
古い夜に
染み込んでくるもの
滲んでくるもの
(以下略)
* * *
音楽のつかない詩歌が苦手な自分にとっては、(音楽と同様)絵画という取っ掛かりがあることで詩を飲み込みやすくなるという話かも知れない。
ハン・ガンの詩集
『引き出しに夕方をしまっておいた』(原著2013年/きむ ふな・斎藤真理子訳・CUON・2022年/外部リンク)は版元のCUONが神保町に出してるリアル書店の
「CHEKCCORI」(外部リンク)で買った。今はハン・ガンの本は人気で入手しづらいかも知れないけど、他の作家・他の版元のコリアン書籍(邦訳)も取り扱っているので、たとえば今月末からの神田古本祭りなどで足を運ぶひとは靖国通りに面した店の、細い階段を上ってみてもいいのでは。※CUONは古本祭り・すずらん通りの各出版社アウトレットのコーナーにもブースを出してると思います。
短い日記ですが、突発的に今日はこれだけ。
誰がモーセを殺したか〜ジークムント・フロイト『モーセと一神教』(24.10.13)
「お〜いお茶」及びその後追いで派生した「はいお茶」「あなたのお茶」等々の中で、いちばん臆面もない名称と思われた「
素晴らしいお茶」を遥かに凌駕する「
偉大なおむすび」なる商品名に出会った午後。
ちょうど読んでいた『モーセと一神教』の、ちょうど読んでいた箇所が「偉大さとは何か」と説いている箇所で、
これってシンクロニシティ?とフロイトならぬ
ユングの用語を思い出してしまった…という冗談はさておき。フロイト先生に言わせると「偉大さ」とは(単なる優秀さや卓越ではなく)人が屈服したい・支配されたい・なんなら虐待されたいとすら思うような権威、すなわち「父親の属性」なのだった。うーん、するとコレはいわゆるエディプスの父殺しか、と思いつつ「偉大な」おむすびをムシャムシャ…という冗談もさておき。
僕などは
ジョージ・オーウェル『一九八四年』にインスパイアされた
デヴィッド・ボウイの名盤『
ダイアモンドの犬』(1974年…
いつもボウイの話ばかりですみません)のラス曲のサビを思い出してしまう:
「Someone to claim us(私たちに強いる者)/Someone to follow(追随すべき者)/Someone to shame us(私たちを辱める者)/Some brave Apollo(アポロン神のごとく雄々しき者)/Someone to fool us(私たちを馬鹿にする者)/Someone like you(貴方のような者)」
『一九八四年』の国民になりきったボウイが狂おしげに「私たちが求めてるのは貴方なんです」と呼びかけるSomeone(誰か)が、スターリンをモデルにした独裁者=「
偉大なる」兄弟であったように(
We want you, Big Brother)
20世紀とはスターリン、もちろんヒトラー、あるいは毛沢東、ポル・ポト…「偉大な」首領たちが人々を屈服させ辱める時代だったとも言える。その真っただ中で迫害されるユダヤ人だったフロイトは「偉大さ」を奪い返すことで反撃を試みたのかも知れない…
今週の日記(週記)、もう
まとまってしまった?
…
そんなことはありません。順を追って説明します。
* * *
ジークムント・フロイト『モーセと一神教』(原著1939年/渡辺哲夫訳・ちくま学芸文庫2003年/外部リンクが開きます)。はい、夏の18きっぷ旅行・岐阜で行きあった古本屋で「この店が勧めるなら」と手にした一冊(
7月の日記参照)です。
本人も19〜20世紀の「偉人」には違いないフロイト。世に多大な影響を与え、同じくらい批判も拒絶もされている。実は僕も食わず嫌いで、気にはかけつつ
本人の著作を読むのは初めて。それも最晩年の、支持者にも「どうなのコレは」と言われる(らしい)異色の書。でも自分には、思った以上に「フロイトらしさ」が一貫した遺著に思えました。
しかし、まずは前半が純粋に読み物として面白い。著者がフロイトでなくても良いタイプに面白い前半・の話をさせてほしい。
本書がいうモーセ・日本では一般に「モーゼ」として知られるユダヤの宗教的指導者。説明はいいでしょう。十戒。
発破かけたげる(そっちじゃない)。出エジプト。
海が割れるのよ(そっちでもない)。
旧約聖書における彼の出番=出エジプト記は創世記の次にあたる。神ヤハウェ(エホバ)による天地創造もアダムとイブの楽園追放も、カインとアベルもノアの洪水も、バベルの塔もソドムとゴモラの滅亡も、アブラハムと七人の子も、なべてモーセ誕生以前のエピソードだ。
にも関わらず、唯一神ヤハウェ(ヤーウェ)への絶対的な帰依・ユダヤ教の根本は途中から現れたモーセによって確立された・旧約聖書に記された彼以前のあれやこれやは遡って作られた(少なくとも整頓された)という解釈が、そもそもフロイトの立論の大前提となる。たとえばユダヤ教の慣習である男子の割礼は、旧約聖書だとアブラハムの時代に神との契約で定められたのだけれど『モーセと一神教』ではモーセがもたらした掟とされる。
そのうえで。本書が提示するのは、モーセ自身はエジプト人で、外来者として、被支配民族だったユダヤ人に唯一神ヤーウェの宗教をもたらしたという説だ。しかもソレは、天地創造によってエデンの園に生まれたユダヤ人の創案ではなかった・だけでなく、ユダヤの民に十戒をもたらしたモーセ個人の発明でもないという。中学や高校で学んだ世界史を思い出す人も少なくないはずだ。そう、古代エジプトの王(ファラオ)
アメンホテップ四世。彼が自らの名を
イクナートンと改め、太陽神アトンのみを崇める新宗教=歴史上で確認できる最も古い一神教を興すも、その改革は一代で潰えたとは歴史の教科書で知られるとおり。だが潰えたと思われたイクナートンの唯一神崇拝を引き継ぎ、思想的に純化したのがモーセ(とその後継者たち)がユダヤの民に与えたヤーウェ崇拝だとフロイトは主張するのです。
すごいでしょ?
世界史上のトップスターであるモーセとイクナートンがつながってしまう驚き。カッコウの托卵のように、一つの国や民の拠って立つ基盤が実は外来であるという驚き。後者は日本も百済との関係などあるわけで、こうした事例って意外にむしろ普遍的なのではと思ったりもするのですが勉強不足なので措きます。もちろん、フロイトの説に関しては「すごい」と「ヤバい」は紙一重で、晩年になって怪説を唱え出した、と取ることも出来てしまうのだとは思う。それにしたって面白い。ヤバいけれども面白い。
けれど、既に記したとおり、ここまでなら唱えたのがフロイトでなくても構わない話ではあった。
『モーセと一神教』が単にユダヤ教(モーセ自身)エジプト由来・それもイクナートンの継承者という面白みを超えて凄み(ヤバみ)を増すのは、そのモーセが教化を拒んだユダヤの民に殺されたと主張する後半に入ってからだ。
* * *
おぼろげにでも旧約聖書のことを知っていれば、民が厳格なヤーウェを厭って(聖書的には邪神とされる)バアル崇拝に走ったこと、民の造反に怒ったモーセが十戒の石板を叩き割ったこと、それに何より国じたいがイスラエル王国とユダ王国に二分されたことなど、思い当たるふしがあるだろう。ユダヤ人にとって「ユダヤ教」と呼ばれるモーセの教え・唯一神ヤーウェが外来の異物であったと言われれば、納得できてしまう要素は少なくない。
しかしフロイトは、ユダヤの民はモーセの新宗教を拒絶しただけでなく、反発のあまりモーセその人まで殺害してしまったという伝承を歴史的事実・真実として採用する。この唐突で血なまぐさい仮説は何処から来て、何をもたらすのだろう?
(自分の場合)すぐに想起されるのは、冬の到来=春の王の死→春の再来=春の王の復活という四季の擬人化ならぬ擬神化だ。本来ならば正当だった神もしくは半神が非道によって斃れ、しかし正しさゆえに復活するという神話パターンは、のちに同じユダヤから出たイエス・キリストによって反復される。
だが、フロイトが採るのは、この説でない。
それまでエジプトとユダヤの歴史を追っていた『モーセと一神教』は、後半に入って突然のように、フロイトの原著を読んでない人にもお馴染みなエディプス・コンプレックスの「神話」を説き始める。しょうじき僕などは「えー、この話すんのー?」と辟易させられたのだけど、幼い息子は強い父親に去勢される恐怖で母親への欲望を断念させられ…というアレだ。言い替えると
『モーセと一神教』は後半でそれまでのフロイトの学説をざっとおさらいしてくれるので、これ一冊でかなり学習復習になります。
同書の「おさらい」を見るに、当初は患者ひとりひとりの症状を診断するために採用された・あくまで個々人のものだったエディプス・コンプレックスの物語は、後年『トーテムとタブー』で人類史ぜんたいの物語へと拡張される。もともと人類は(類縁種のサルたちに見られるのと同様)一匹の強いボスザルが雌を独占するハーレム制であったとフロイトは仮定する。これに対し、雌にありつけない息子たち=他の若いサルたちは一致団結して父たるボスザルを殺害し、その肉を皆で喰らう(フロイトがそう言ってるんです)。しかし「父」に成り代わった「兄弟」たちは、そのままだと自分たちがまた雌を争って殺し合いになるため、近親相姦の禁止=族外婚の掟を定めて内部での雌の取り合いを回避する。また父殺しの罪の意識は父を投影したトーテム崇拝を、やがては宗教を生み出していく…
人類全体の父殺しの記憶が、エディプス・コンプレックスとして個々人に引き継がれたのか(個体発生は系統発生を繰り返す)、フロイトが個々人に見出したエディプス・コンプレックスを人類全体に敷衍したのかは、今は問わない。彼が論考を編んだ頃には事実とされた原始ハーレム制も、個体発生と系統発生も、現代では疑義が付されていることも措く。問いたいのは当否ではなく、フロイトの中でどのような物語が構築されたかだ。
フロイトが支持する「殺害された指導者モーセ」像は、エディプス・コンプレックスで愛憎の対象となる父・原初に殺されたボスザル=兄弟たちを屈服させ虐待する・恐怖され憎まれるがゆえに崇拝もされる「偉大な」父の像と、上手すぎるくらい一致する。言い替えるとフロイトはモーセを殺害することで、自身が属するユダヤ民族の歴史を、自身の理論に最も合致した模範例たらしめたことになる。ミステリ風に言えば、モーセが殺されて一番トクをするのはフロイト自身だった。
(フロイトに言わせれば聖書の途中であらわれるモーセがユダヤ教のあれこれを定めたように?)キリスト教もまたイエス本人や四福音書より後の使徒パウロが教義を確立したと言われる。そのパウロが使徒言行録で打ち出したのが割礼の廃止だ。ついでに従来の戒律ではタブーとされていた類の食物を問題なしとした。大事なのは慣習的な掟ではなく神への信心・信仰だとすることで、パウロは救済の可能性をユダヤ民族以外にも開いた…というのがキリスト教目線での割礼(とその不必要性)の意味だ。
フロイト目線では、男子のナニをアレする割礼は、偉大な父による去勢(の恐怖)の再現であり、エディプス・コンプレックスの神話にユダヤ教(モーセの教え)が連なる証左となる。それを廃止したキリスト教は、人類の原初の物語からの逸脱・後退・抑圧・否認と捉えられる。
言い直そう。フロイトにとっては、人類の歴史はボスザル(偉大な父)の支配→息子たち(兄弟)による父殺しと相互牽制(近親相姦の禁止)→父殺しの記憶の抑圧によって押さえつけられていた「偉大な」父への崇拝の回帰(トーテム・宗教)として把握される(らしい。
極度に単純化してるかも知れません)。偉大な父の殺害→兄弟の相互牽制→神として回帰する父。忘れられた唯一神→多神教→イクナートンによる一神教改革。イクナートンの一神教→エジプト人による拒絶・廃棄→モーセによる再布教。モーセ殺害→バアル信仰の復活→預言者たちの根強い活動によるモーセ教の復活(旧約聖書的なユダヤ教の確立)。サイクルは何度も反復される。
知への愛(フィロソフィー=哲学)と彫刻や古代オリンピックに見られる肉体への賛美を調和・両立させた多神教のギリシャ文明に対し、イクナートンの流れを汲み知=真実の追求のみを良しとするユダヤの一神教崇拝のほうが卓越しているとフロイトは捉える。父ではなく息子を犠牲者として崇めたキリスト教もまた不徹底で、聖母マリアや数多の聖人崇拝は多神教への後戻りに過ぎない…
…訳者解説によれば『モーセと一神教』はフロイトがそれまで確立したエスの理論とユダヤ的な思想が両立不可能な焦点でせめぎあう書物であるらしいけど、難しすぎるので措く。フロイト自身は強固な無神論者だったという話も措く。
べつだん神を信じているわけでもない(はずの)フロイトが最晩年、モーセ殺害というトリック(という言い方は冷淡すぎるが)によって、それまで築き上げた自身の理論をユダヤ民族の物語に(理論家に言わせれば強引に)アダプトし、自身の属する民を人類の代表たらしめた。その背景には、むろん個人フロイトの老い・人生の終焉もあったろう。だがそれだけでなく、ナチに代表される反ユダヤ主義が世界を席捲し、自身も生まれ育ったウィーンを追われ、民族の運命がかつてない危機に晒された中で「なぜ吾々なのか」「なぜユダヤ人はこうも迫害されるのか」それはユダヤ民族こそが抑圧された人類の秘密の復活者・完成者・体現者だったからだという悲壮な自負があったのではないか。
それは端から見ると、怪物に対抗するために怪物の力を自らに取り込む(
しかもモーセが生贄)ような破滅的な理論の構築だったように思えなくもない。その鬼のような気迫が、本書に説得力…とは呼べないにせよ無視できない「読ませる力」を付与していたのかも知れません。
むろん誤読の可能性も高いので注意ですが。
* * *
念のため言えば、フロイトが晩年の全てを賭けて現出(幻出)させた「ユダヤ民族の卓越」・彼自身を含め幾多の偉人(フロイト的な意味ではない)を輩出したユダヤ民族の特性=真実の追求と、
現在イスラエル国家が行なっている暴虐は似ても似つかない別物と見なさざるを得ないし、フロイトが到達した「だからユダヤ人は迫害される」という論理を「そうだ、そのとおりだ」と
ユダヤ人排斥の根拠にすることは尚更に許されない。
かつて全力でユダヤの民の倫理的な卓越を説いたフロイトが、現在のイスラエル国家の暴虐・フロイト的な意味での「偉大さ」は持ちえないがひたすら自己中心的なベンヤミン・ネタニエフの(兄弟的な?)所業を見たら何と思うか・「ねえ今どんな気持ち?」と問うことも残酷だろう。もしもフロイトの霊が世界にまだ残存しているなら、小田原で安らかに提灯を作っていてもらいたい、そのくらいの同情心は僕にだってあるのだ。
* * *
まったく余談なんだけど『フロイト1/2』に登場する提灯、最重要アイテムなのに全然デザインが小田原提灯じゃなくて、これだから川原くんは…(天才なのが弱点)と改めて思いました。
能登ボランティアと石川県立図書館(24.10.06)
ちょっと驚いたこと。金沢で見かけた宅配ピザ店、「STRAWBERRY CONES」というピザ屋らしからぬ名前におぼろげな記憶があって、たぶん15年くらい前にバンクーバーで一人ブランチをしたのが同名のピザ店だった、気がする。北米資本の外食チェーンが日本まで進出したかぁと確認してみたら
逆に日本のチェーン店の海外進出だったらしい;
ストロベリーコーンズ(Wikipedia/外部リンクが開きます)。日本での同店は宅配中心だし、ネット地図で確認したバンクーバー店の位置は記憶と違う感じもするので、記憶の捏造かも知れないけれど、もし実際そうだったなら…
面白いけどつまんないなあ(わざわざカナダで日本のチェーン店)(まあバンクーバーのチャイナタウンでチェーンのピザ食べてる時点で相当つまんないのですが)(貧乏旅行だったんだもん)…
*** *** ***
9/21の豪雨で居ても立ってもいられなくなり、10月頭の日程をこじ開けて一日だけ能登にボランティアに行ってきました。
申し込んだ行き先は前回(
7月の日記参照)と同じ輪島市。
・
令和6年能登半島地震・令和6年奥能登豪雨 石川県災害ボランティア情報(外部リンクが開きます)
前回は地震発生から半年ということもあり、行き届かないところは行き届かないなりに(
それは全然よくないのですが)、ボランティアが引き受けられることは縮小ぎみな感もあったのですが、今回の豪雨で輪島や能登町それぞれ100人単位の大規模の募集がかかり、事態が急すぎて募集枠が埋まらない9月最終週の様子など歯がゆく見ながら、10月頭の日程を取りつけました。
同時に前回「あった方が良かった」と思ってたヘルメットと安全靴・後者は水害関連を想定して長靴タイプを追加購入。かなり抑えた(貧乏なんだもん)今回の費用はこんな感じ:
高速バスで石川入り→作業→宿泊せず高速バスで帰るのも理論的には不可能ではないけど体力的に無理だなと思い、現地で一泊してから帰りました。宿代が異様に安いのは貯まってたポイントや期間限定クーポン使用のため。
往路のバスが4列席なのは金沢駅での集合時間(朝6時半)に間に合う(5:50到着)便が他になかったため。そもそも高速バスで東京から石川まで行って、その足でボランティア作業ってキツくない(舐めてない)?という懸念もあったのだけど、東京からの夜行が出る新宿のターミナルで、自分以外にも大荷物にヘルメットをくくりつけた人たちが次々とバスに乗り込み、この人たちは流石に観光かなと思った御夫婦も金沢に降りたったら作業靴に履き替えて集合場所に向かっていくのは壮観でした。リュックにヘルプマークをつけたひとがいたのも。
少しお話したところでは大阪から栃木から神奈川から(これは自分)、自分と同じように夜行バスで、あるいは「いい機会だから新幹線で」、自家用車の車中泊で、今回が初めてのひとも、30回くらい足を運んでる猛者も「これは自分が行くべきだ」と思った人たち。まるで映画『パシフィック・リム』でKAIJUの襲撃を防ぐため凍土壁の建設現場に参集した人たちのようだと思った…というのは、もちろん映画の凍土壁ではKAIJUの猛攻を凌げず、巨大ロボ・イェーガーで倒すしかなかった、
イェーガーを操縦できるパイロットは何してんだよ?いるんだろ?という憤懣も含めた比喩。なので抑える。
金沢駅からボランティア送迎用の無料バスが出ていて、ここでの集合時に配られた案内書(ボランティア活動の注意書きなどある)に印刷されたQRコードを使って、スマートフォンで最終登録をする仕組み。輪島の場合は片道2時間ほどバスに揺られて現地のボラ基地に到着します。
事前のオリエンテーションで、社会福祉協議会の人から「個人や(倒壊家屋を含め)個人のお宅などプライバシーに関わるものでなければ、どんどん写真を撮っていい、積極的にSNSで発信していい」と発言があって、前回7月はそうゆうの無かったので、担当の人によるのかも知れないけれど、
特に今回の豪雨で「このまま見捨てられてしまうのでは」という切迫感・危機感があるのだと思った次第。
同じ輪島市内でも特に水害救援のため振り分けられた地区の募集があったけれど、ふつうの募集も作業は概ね豪雨被害からの復旧作業だったようです。かく言う自分が割り当てられた班も、泥かきに参加。
なので今までにもまして破傷風ワクチンの接種は必須と思われました。そしてワクチンは接種から効果が出るまで一ヶ月くらいかかるので注意。
全10班それぞれに用意されたスコップ・スクレイパーやデッキブラシ等々の用具は全国から貸与されたもの。底が抜けたバケツという不思議な備品もあって「知ってる、水を呉れって言う妖怪に船を沈められないよう底が抜いてあるやつだ」
違います。泥をしゃくって袋に詰め土のうにする、そのとき袋のほうを持ち上げると重いから底を抜いてバケツのほうを抜ける仕組みだそうです。
もっとも作った土のうも重すぎたら運ぶのに不便なため、実際は底のある小ぶりなバケツに一人で運べる量の泥を入れ、どんどん運ぶ形をとったりもしました。
そのバケツやらスコップやらを携えて、自分の班が訪ねたのは市の中心部を貫く河原田側から数十メートル離れた一軒屋のひとつ。川の随所に渡された橋は通行止め・橋桁には塊になった流木が残っており、これが豪雨の当日には川を塞き止めて水を周囲に溢れさせた由。玄関横の郵便受けの高さまで水が来て、表向きは水が引いた一週間後も、床を剥がすと深さ20cmはあるダークチョコレート色のねっとりした汚泥が池になっている。
掻き出し担当が長靴で足を踏み入れ、先の平たいスコップや、水位が低くなったらチリトリ、で汚泥をすくい袋に入れる。バケツの口で袋を広げていた袋担当が重たくなった袋を引き上げ、外に運び出す担当に渡す。リレー方式で午前午後あわせて実働時間は3〜4時間くらい。金沢との往復だけで5時間はかかるし、体力や集中力を考えると(なにしろボランティアが怪我したり事故になったら元も子もない)取れる精一杯の時間なのだけど、四畳半あるかないかの小部屋の下の汚泥をおおむね掻き出して一応の達成感を分かちあったけど、家全体の床下には全然およばない、ましてそうした家が何軒も何十軒、あるいはそれ以上も…と考えを巡らすと、やはり思うところはあります。
「正月の地震より今回の水害のほうがキツい」という声も現地で伺ったことも特筆しておきたい。乾けば乾いたで粉塵が目に入るなどの声も既に聞かれていました。もちろん泥や乾いた粉塵はまったく衛生的ではない。東日本大震災で津波の被害を受けた気仙沼の、一面が瓦礫→更地になった一帯で鼻をつく異臭が二年後も三年後も残っていた、その中を地元の中学生たちが自転車で行き来している、十代の時期をそんな環境で過ごす子たちの心境を想像して、途方に暮れたのを思い出した
…こういう話に何処かで接して逆効果で「やだーフケツで関わりたくない」と思うひとたちがいたら心外だし、そんな人たちがそもそも震災後の復旧をここまで遅らせてると、
あーダメだまた憤怒が出てしまう。
泥水に踏み入れスコップで掻き出す担当になった自分は、買ったばかりの長靴はもちろん、元々不器用なのもあって作業用ズボンの膝上まで泥まみれ。作業後は濡れるのも構わず水をぶっかけブラシで泥をそぎ落とし、まあビショ濡れなんだけど金沢までには乾くだろう、夏で良かった(
10月)、これが冬だとどうなるんだろう…バスのほうはかかる事態も折り込み済みで、戻ると座席にビニールシートが隙間なく張られていて、それでも床のじゅうたんに落ちた泥のカケラとかは大変でしょう…
こうしたバスの費用などは
全国社会福祉協議会(外部リンクが開きます)への寄付などで賄われてるはずなので、自分は動けないが…という人はそちらも御検討いただけると幸いです。
そんなわけでバスの運転手さんにも感謝とねぎらいの気持ちしかないけれど
行き帰りのバスのガタガタ揺れが、日中の泥かきよりハードだったのも事実。震災後の復旧や整備が追いついてないのだろう、海沿いも里山の中も風光は至って明媚なんだけどガタピシぶりが半端ない。往復ぶんの液キャベをコンビニで確保しといたほうがいいと思います。いや本当に風光明媚で、ボランティアではない魚のほうの
ボラ待ちやぐら(ほっと石川旅ねっと/外部リンク)なども拝めて眼福でした。でも液キャベ推奨。
*** *** ***
深夜の高速バスで金沢に駆けつけ、その日の新幹線で東京に戻った人もいるのでしょう。僕は上記のとおり一泊してから翌日の夜行バスで帰路につきました。むかし何度か、まさにカプセル型のホテルに泊まって無理だと思ってた自分ですが、高い天井の空間をベッド一枚分だけの横幅で区切ったキャビン形式は存外快適に休めたのも夏の二回の金沢泊での発見でした。
翌日は休息だけが目的の余暇だったので、観光やグルメなど特筆すべきことはありません。
と言いたいところだけど、石川県立図書館は本当に良かった。向かいの金沢美術工芸大学もグッドルッキングな建物群だったし(余力がなかったけど、あれば散策したかった)
世界で10だか20だかの美しい図書館だか何だかに選ばれた県立図書館も、本好き・読書好きには心から癒やされる場所なはず。金沢は海のほうにある市立図書館も世界なんとかに選ばれてるけど、個人的にはこちら(県立)のが一段上だと思う。内側だけでなく、建物まわりにも気候のいい時は読書に最適なベンチなど多く配置されてるし
さらに中の、これでもかな本と読書の空間。様々なタイプの座席が用意されていて、図書館でもここまで本が読みやすい場所って中々ない。ここの蔵書じゃないけれど、持参していたミステリ小説をひたすら読んで過ごしたのでした。併設されたカフェの季節メニュー・かぼちゃのキッシュも美味しかった。
生活が破壊された土地で泥を掻き出した翌日に、まるで正反対の穏やかな場所を味わったのは皮肉とも言えるけど、この社会がカギカッコつき「復興」のゴールとしている【高額なブランド品を売るショップが建ち並び・それを広告代理店が巨額のギャランティで宣伝し・広告代理店が都庁や何やらをライトアップで飾り立て・国家がオリンピックやら万博やらブルーインパルスやら軍備増強で飾り立てた「回る経済」】が、本当に被災地が(数多くの「被災地」を抱えた日本が)導かれるべきゴールなのか、それとは別に「公で共有される沢山の本に囲まれ、椅子に腰かけて心ゆくまで心を休められる」そういう「正反対」もあるんじゃないか―そんなふうに今は考えている。
外国から日本に観光で来ている人たちは金沢でも少なからず見かけたけれど、そうした人たちが求めているのも世界中どこでも変わらない寡占ブランド品ばかりではないとは考えられないか。いや、このへんは未だ上手くまとまってないから言わないけれど。
お寿司でも治部煮でもハントンライスでもない、サラリーマンが詰めかけるような食堂で、自分と同じように豚バラ定食を食べる白人の二人連れを見て(通りすがりの観光客とは限らないけど)こういうところまで来て「くれる」人たちがいるのだなあと思ったりしていた。
宿に向かう道すがら、夜の金沢駅前で地図を片手に立ち往生している白人の老夫婦を見かけ「May I help you?」と声をかけたら英語が分からないイタリアから来た人たちで「しまった…」と思った話、県立図書館の近くにイイ感じの洋食屋があった(お値段もイイ感じかも知れなかったのでスルーした)(貧乏旅行だから…)話は、気が向いたら別の機会にでも。
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