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Author:舞村そうじ/RIMLAND
 創作同人サークル「RIMLAND」の
 活動報告を兼ねつつ、物語とは何か・
 どんなメカニズムが物語を駆動し心を
 うごかすのか、日々考察する予定。

【お知らせ】
2月東京ティア乙でした。
新刊『物語の話をします』発行。

WebまんがSide-B遅々として更新中。

note絵更新。(16.05.26)

旧サイトは2014年8月で終了しました(お運びいただき感謝)。再編集して、こちらの新サイトに少しずつ繰り入れますが、正直、時間はかかると思います。

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日記更新。『ドラゴン×マッハ!』はいいぞ。こちらから


連続ペーパーまんが『神様のギフト
ツイッターその他で描き散らしてる小ネタを「番外」としてまとめました。
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本編は第5話「内通者」まで進行中。『神様のギフト』特設。
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第6話は7月の「みちのくコミティア」で。これから参加申込します。
(2017.06.21)
自分も東京や横浜で賃金関係のデモに参加してる関係で拡散に協力してみました。
どうにか703筆。署名してくださったかた(いるのかなあ?)ありがとうございました。


『ドラゴン×マッハ!』はいいぞ〜総集編(2017.06.18)

 いや実際、劇場公開当時はポスターなど見るに配給元もマックス・チャンは完全ノーマーク・少なくとも「まだ知名度ないから表看板には出来ない」「観てスゲーと思ってくれ」というスタンスだったと思うのだ。


 そんなわけで『ドラゴン×マッハ!』すごく好かった。今年を振り返って色んな名作ヒット作があったねと話が出たら「ちょっと待て『ドラゴン×マッハ!』を忘れてないか?」今後も様々なアクション映画が現れ凄いと語られるたび「ドラゴンマッハを忘れてないか?」と口を挟みたくなる、新たな傑作の誕生だ。
 香港(ドラゴン)×タイ(マッハ!)で『ドラゴン×マッハ!』と安易…いやいや、苦渋の邦題だが原題は『SPL2(殺破狼2)』。「宇宙最強」ことドニー・イェンと悪役に開眼したサモ・ハン・キンポーの壮絶なバトル、香港ノワールとカンフーアクションが融合した前作『SPL〜狼よ静かに死ね』で、狂犬のようなナイフ使い役が強烈なインパクトを残したウー・ジンが、今度は情に篤く、心身ともボロボロにされながら信念を貫く潜入捜査官を熱演。こういうのが観たかった!
 臓器売買組織を追ううち正体がバレ、香港からタイの刑務所に放り込まれる主人公。そこに現れるのが難病の娘をもつ看守トニー・ジャー。お互いの言語も分からない二人が、スマホの翻訳機能で意志を疎通しあうなどハイテク小道具の使いかたも巧い。
 そして巧い小道具といえば、組織のボス(ルイス・クーが怪演)が子飼いの刑務所長に言う「いいネクタイだな」。主人公たちノーネクタイの下っ端組に対する身分の高さを示すと同時に「その高い身分も私(黒幕)が仕立ててやったんだぞ」という、上には上がいる力関係を示唆する…と見せかけておいてーそのネクタイが最後の最後「あーっ、あの『いいネクタイ』コレのための伏線かーっ!」という脚本の律儀さ!あと、いいネクタイ=頭脳担当と思わせておいて、中盤いきなりこの所長が自ら暴れ出し、終わってみたら一番強かった、その落差も効果的だった。
 実際、香港とタイを代表するツワモノが二人がかりで向かって、てんで歯がたたないのだ。序盤うだつのあがらない平看守だったトニー・ジャーの怒りに火がつき、クライマックス、ついに鎖を拳に巻いて「来たーっ!ムエタイのロープを腕に巻くやつ、鎖で来たーっ!無敵モード、入りました!」とトニー・ジャーの他の作品を観てるファンには思わせておいて、そこまでしても倒せない。その無茶むちゃ強い刑務所長はマックス・チャン。『グランド・マスター』で八卦掌の秘伝を奪い蓄電した馬三を、『イップ・マン 継承』ではドニー・イェンと詠春拳の正統を争う悲運の天災武闘家を演じる。本作を加え、いずれも「ものすごく強いが運に恵まれず悪堕ち」キャラなので、そのうち(本作のウー・ジンみたく)いいひと役が観たい。

 【一旦まとめ】アクションもすごいが、ストーリーも好い

 たとえばトニー・ジャーが正面から迫る護送車の窓を飛び膝蹴りで突き破るアクションと同じくらい、怒るトニー・ジャーがハンドルを奪った護送車を停めるため、悪党が一般人を車線に突き飛ばす(トニー・ジャー急ブレーキする)場面が雄弁に善悪をキャラづけるエグい演出。
 格闘シーンも「テンション上がる!スカッとするカタルシス!」ばかりではなく、むしろ「上がるのは当たり前」切々としたバラードや、レクイエムのようなオケ曲を劇伴にしてアクションで感動させようとする、その貪欲さが好い。
 …思えば『イップ・マン 継承』もマックス・チャンやマイク・タイソンといった強敵との対決(マイク・タイソンの強敵演出うまかったなあ)に劣らぬほど、作中最強の格闘の才をもってしても変えられない運命に直面し、愛するひとの前で黙々と木人に向かう主人公の背中が強烈な印象だったし、
 サモハン主演の『おじいちゃんはデブゴン』も暢気な邦題とは裏腹に、認知症で隣人の名前も思い出せない老デブゴンが、人を倒す技術だけは身体が覚えていて雑魚敵・強敵を次々屠っていくラストバトルは悲哀と悔恨の炸裂で、
 自分のなかで「泣けるカンフー」「泣かせるアクション」が今年キテるかも…と思ったりしたのでした。

 前作『SPL』とは設定自体ちがうので『ドラゴン×マッハ!』単体でも楽しめるけど、随所に前作へのオマージュ(同じ監督の作品なのでオマージュは変か)が散りばめられてるので、先に見とくとより楽しめます。ただし『SPL』が好きで好きで、という人は逆にちょっと「面白いけど、求めてたのはコレじゃ…」となるかも知れない。『エイリアン』と『エイリアン2』、『荊の城』と『お嬢さん』のような関係なのです。

 その『1』と『2』の違いは、トニー・ジャーにあるのかも知れない。ストーリーにみなぎる道徳観や倫理観は『マッハ!!!!!!!!』『トム・ヤム・クン!』などタイでのジャー主演作品を踏まえたものにも思えます。
 ・『ドラゴン×マッハ!』を大傑作と呼ぶべき理由
  人間ドラマとしての側面から読み解く(加藤よしき/リアルサウンド)
←良いレビューです。
 『マッハ』や『トムヤムクン』が声を失なった喉頭がんの富豪や異性装者・ドーピングで勝とうとするムエタイ使いなどを悪役に配してきたのは「悪党も弱者だったりマイノリティだったりするのだ」という同情や憐れみ・共感によるのか、ジャーが演じるような田舎で素朴に育った伝統的な主人公が勝つべきという勧善懲悪なのか、判断に迷うところがないでもなかったが、『ドラゴン×マッハ!』は主人公ふくめ皆を弱い人間として描くことで前者にメーターを振りきっている。

 ツイッターやら一次創作の即売会の無料配布ペーパーやらで(一次創作めあてに来たひと大迷惑)で散発的に発露してきた「いいぞ」を無造作に並べて、大幅に加筆したものの統一感のない投げっぱなしレビューとなりました。
 観ればまだまだ魅力を発見・再発見できる奥行きのある作品だと思います。
 恰幅のいい怖そうな看護師長さんが、小児科の子供たちには懐かれてることで「あ、きっとイイひとなんだ」と察せられるのも細やかでいい。
 あと最後に、ウー・ジンとトニー・ジャーそれぞれ出自のことなる二人が「ふたりはドラゴンマッハ!合体攻撃だ!」となかなかならない、最後の「お前が必要だ!」という時でも直接に手を握り合わないし、最後の最後の大団円でも間にジャーの娘を挟んでニコニコしてる、その関係性がまた面白いのです。
 

失なわれる十年(2017.06.17)

 組織的犯罪処罰法改正案(いわゆる「テロ等準備罪」もしくは「共謀罪」。以下「共謀罪」とする)が強行採決された。
 法案の内容だけでなく、委員会採決を行なわず「中間報告」なる禁じ手を用い、いきなり本会議採決した手法の強引さも非難の的だ。加計学園問題の追及を避けるため、すみやかに拙速にでも国会そのものを終了させたかったのだとも言われている。
 もちろん法案の内容も酷い。加計学園の件もあるのだろう。だが「中間報告」の悪用による強行採決は(むろん非道だが)意外や驚愕とは思えない、むしろ必然と思える展開だった。なぜなら昨年すでにTPP法案を国会で成立させる際、本会議の議長も知らされない状況で突然採決する「実績」を上げているからだ。今度はもっと酷いことをしないと格好がつかないだろう、という予感はあった。
 冗談で言っているのではない。潜在意識で自滅願望を持つ政治家が、どこまでやれば弾劾されるかとチキンレースをしてるとも思わない。酷い法案を通すために無理やりな手法をやむなく取っているのではなく、無理な形で法案を通すことは、現政権の本懐なのだと考えたほうが理にかなっている。法案が提出され、反論も含め審議され、重要な法案は委員会と本会議の二段構えで採決し…といった国会の機能を破壊すること自体、現在の安倍政権の本懐なのだ。
 ・強行採決や騙し討ちは法案を通すためのやむない手段ではなく、
  国会を無力化する安倍政権の意図的な目標遂行でもある。
このことは過たず理解されなければならない。
 もちろん、その先にある究極の目的達成は憲法の廃止だ。憲法とは国=政府をしばり、好き勝手させないものであるとするならば、その前提自体を無視し、否定し、覆す自民党の改憲案は、改憲ではなく実質上、憲法の廃止である。共謀罪が成立した今、この改憲=憲法廃止にもリーチがかかっている。

 * * *
 第一次安倍政権が崩壊し、自民党じたい野党に転落した屈辱から、再び政権の座についた彼らが選んだ指針が「次は失敗しない」ではなく「次は失敗と言わせない」だったことは、この国だけでなく、彼らにとっても大きな不幸だった。いや、もちろん彼らの不幸は再び吾々に戻ってくるのだが。
 * * *

 国会の無力化、共謀罪による国民の監視と恫喝、最終的には憲法の廃止。さらに言えばマスメディアを「忖度」させ、道半ばながら、すでに安倍政権ほどフリーハンドの権力を掌握した政権は戦後史において稀有だろう。
 だがそのフリーハンドで強行に採択してきた施策はどうか。
 海外で戦災に巻き込まれた日本人を自衛隊が救出するだの、南シナ海を中国の脅威から守るだの(法案の主旨からすればありえない)夢想をぶちあげた安保法制は、南スーダンで何の貢献を成すこともなく実質上の戦闘状態が隠蔽され、自衛隊員が無事生還できただけ僥倖という結果に終わっている。
 TPPに至っては、横紙を破って成立させたものの主たるアメリカがトランプ政権になって梯子を外し、いや、梯子を外されたことが明白でありながら法案を強行採決し、何の結果ももたらしていない。
 世界一安全な首都で、最も廉価に開催するはずだったオリンピックは国立競技場の建設費の急騰、選考委員の買収疑惑そしてオリンピックを名目にした共謀罪が国際的な批判の的である。
 さらに原発産業に固執したあおりを食った東芝の壊滅状態、カジノ建設計画。(これは内閣主導ではないかも知れないが)オリンピックの次は大阪に万博を招致だといって、会場にバンジージャンプ台を設置して「タナトスを体験する」のが世界中から観客を呼ぶ企画なのだという。

 もうハッキリさせたほうがいいだろう。うだうだ先に進まない衆愚の議会制や民主主義でなく、専制的に決定・処断できるリーダーが登場すれば世の中うまくいくという『銀河英雄伝説』みたいな幻想は、少なくとも現実の世界では通用しない。
 「権力は腐敗する、絶対権力は絶対に腐敗する」とは、汚職や情実が横行するというだけの意味ではなかった。政権がかつてないフリーハンドの決定権を手にしたとたん、(それはもう触れるもの全てが黄金に変わってしまうマイダス王の呪いを反転したように)決定したやることなすことが劇的に使い物にならなくなったことは、教訓として定式化されていい。反論や吟味を排除した決定は、もれなく劣化すると。
 加えていえば、森友学園の問題で一番やるせない気持ちにさせられたのは、首相や首相夫人まで噛んで便宜をはかり特権的な恩恵を与えた学校の建設が、児童への愛国教育といった現政権が最も肝要にしたいはずの施策を実現するはずの(それ自体ちっとも良いこととは思わないが)施設が、ゴミの搬出さえ手抜きする杜撰なものであったことだ。この一事は現政権の施策の、根本的な欠陥を端的に示していると思う。次節で説明する。

* * *

 安保法制、TPP、原発推進、オリンピック。これにもうじき、とても上手く行くとは思えないカジノと万博誘致が加わる。運用次第で絶大な「成果」をあげそうな共謀罪をのぞき安倍政権が強行採択してきた施策は、ことごとく暗礁に乗り上げている。なぜそれでも政権は困らないのだろう。
 結果がどうなれ、フリーハンドの権力を得られれば、採択された施策がどうなろうと知ったことではないのか。(それも一理あるかも知れないが)それだけではないはずだ。
 ヒントは昨年末のTPP強行採択に発見できる。先述のとおり採択の時点で死文となることが明白だった法案が、それでも無理に可決された背景には、すでにTPP加盟を前提とした莫大な予算が組まれてしまっていた事情があった。 オリンピックでもカジノでも、あるいは愛国小学校でも、それ自体が収益や効果を上げられず失敗しても関係ない、採択され着手した時点で利得にあずかり権益を得る者がいる。そうした者が潤い繁栄すれば成功であり、後の始末は関係ないというシステムが現在のこの国を動かしていると思えば、多くのことに筋は通る。
 ルール違反の強行採決も、肥大化するオリンピックの費用も、不思議なこと・不可解なことは何もないのだ。
 ただ、不思議でないから理不尽でもないとは言えない。こうした議会の荒廃や施策の頓挫はすべて、この国で暮らす吾々に返ってくる。共謀罪をめぐる議論で端的に見られた国際社会への敵意・あるいは排外主義の加熱は、この国がふたたび世界から孤立する秒読みをしているかのようだ。このあと共謀罪が施行され、憲法が廃止され、オリンピックを迎える。
 場合によっては戦争も起きるだろう。内閣か自衛隊の独断で、宣戦布告もなく、もちろん議会の審議も経ず、突然どこかの海域で日本が武力を行使する。そして「宣戦布告してないので戦争にはあたらない」と閣議決定される…というオチ以外はすべて、過去に日本がしてきたことだ。70年前の話だけではない。つい最近、都知事だった石原慎太郎が尖閣諸島で同じことをしたではないか。
 日本とは結局そういう国だという認識は、いずれ世界でふたたび共有されるだろう。もうされているかも知れない。これらすべての杜撰な施策が、たとえば今後十年で、対外的にも、内面においても日本から奪うものがどれだけ大きいか。考えると気が重い。

 しかしまずは改憲である。
 一日で二倍に増える蓮が、池を埋め尽くし窒息させるのに30日かかるとしたら、池がまだ半分しか埋まっていなかったのは何日目かという喩え話がある。むろん答えは29日目だ。まだ半分と思っていても、窒息までは一日しか残されていない。
 共謀罪が参院を通過したとたん、これは酷い・あんまりだという声が随所で上がった。テロ対策法と言いながら、テロとは何の関係もないではないかと。それらが全て30日目の嘆きであることを、必要以上に責めようとは思わない。むしろ30日目に上がった非難の声が31日・32日になっても(Twitterのアイコンが四角から丸になった的な四方山話に押し流されず)途切れなければ、それは実際の施行の牽制・抑制につながるだろう。
 だが30日目の嘆きに「どうしてこうなるまで看過していたのか」という反省が含まれるならば、すでに次の池に蓮の種が撒かれていることを、なおさら看過してはならない。
 現政権が倒れでもしないかぎり、共謀罪までは通ったから改憲はやめておきましょう、なんてことは理屈としてありえない。おそらく国会での審議は最短に、場合によっては新たな議会無視の手法を発明して、国民投票が開始される。すさまじい広告戦略がなされるだろう。その広報を請け負うことで、結果がどうなろうと利得と権益を得る最大手の広告会社があるからだ(新人社員を過労死自殺された会社である)。
 それに対する反撃・反抗は多角的で遊撃的、時には互いの趣味や志向を措いて結束し大人数の絵を作ってみせながら、多くの局面で分散し迂回する柔軟さ機敏さが鍵となるだろう。それは「全面的に参与・没入できない者は去れではなく、その正反対動ける局面では逃さず動く、そして動ける局面じたいを見逃さない」運動になるはずだ。

 共謀罪採択がなされた朝、電車のなかで『アベノミクスの正体』なる本を、表紙もタイトルも剥き出しで広げ読む女性がいた。それもまた次の池の蓮を摘む、反撃の形なのだと思った(勝手に)。

 共謀罪採決の前夜、国会周辺での抗議に参加した知己によれば、安保法制の時には一体となって国会正門前に押しよせ時間を区切って同じ場所をシェアした二つの大きな団体が、今回は同じ時間に正門前と裏手それぞれでコールをし議事堂をサンドイッチにしたという。分裂と後ろ向きに捉えず、そういう絵の作りかたもアリかなとも考えたのだ。

冥界の灯火〜池澤夏樹『アトミック・ボックス』(2017.06.05)

 チョーヘーキヒシャという言葉が頭の中で漢字になるのに時間がかかった
 そんなフレーズに、それまでグイグイ引きずられるようにページを繰っていた手が、停まった。

 【往路
 先月末に横浜・名古屋間を往復する機会があった。18切符のシーズンでもないが、逆にゴールデンウィークで高速バスも軒並み高く、通常料金の普通電車で行き帰りしたほうが若干まだ安いということで、片道6時間ずつ読書の時間が出来た。
 往路に選んだのは、創作の師と私淑している丸谷才一先生の『別れの挨拶』(集英社文庫)。単行本に未収録だった原稿をまとめた、編集部いわく「最後の文集」だけれど、亡き著者の思索が満遍なく網羅され、むしろ入門にピッタリのセレクションになっている。たとえば、こんな文章。
 なつの夜は浦島の子が箱なれやはかなくあけてくやしかるらん (中務)
 …「明く」と「開く」のほうはもともと同じ語ゆゑ、別にどうといふことはないけれど、
「箱」と「はかなし」との掛け方は…わづかにずれてゐるその分だけ、
かへつて気がきいてゐておもしろい。
かういふ藝が可能なのは、中務がよほど耳がよかつたせいではないか。
…第三句以下の、つまり「箱なれやはかなくあけてくやしかるらん」における
h音とk音との微妙で花やかなもつれ具合はこの上なく楽しい。
…母の華麗な才気(…)を受けつぎながらいつそう軽妙にそして明るく仕立てることこそ
中務の藝の見せどころであつた。
(※中務の母=伊勢)
 少し話を逸らすけれど、この文章、旧仮名遣いなのに異様に当たりが柔らかく、読みやすくはないだろうか。これはまだ和歌や発音の話だけれど、初めて豆腐が古代中国の文献に現れるのは的な四方山話などは、読んでて旧仮名なのを忘れることさえある。
 それは丸谷氏が文章の心得として美麗さ華麗さではなく、達意(意味が通じること)を第一と重んじていたからだろう。美麗だが非論理的な文章ではいけない。華麗だが無意味な文章ならば、書く甲斐がない。
 生涯、旧仮名を通したのも(もちろん自身が読み書きを習得した「第一言語」で使い勝手がよいこともあったろうが)・旧仮名を使っていれば江戸や平安時代に書かれた文章の富と地続きでいられる・動詞の活用において新仮名は無理があり旧仮名のほうが理にかなっている=旧仮名のほうが明晰で汎用性が高く、つまりは伝達に適しているという信念に基づいていた。
 残念ながら21世紀の今、敢えて旧仮名を使う発言者の多くは、文章を格式高くとか、ちょっと斜に構える・いっそ威圧的なこけおどしのために、つまり伝達を妨げる手段にしているのではないか。「自分はこうして言葉を玩具に出来るんだぜ」と戯れ「どうだこの崇高さが、お前らには分からないだろう」と自身の優位を保つために使われる旧仮名が、モタツキなしに読めるわけがない。それは同じ旧仮名でも、氏が(新仮名ネイティブで、たぶん今後も新仮名を使い続けるだろう自分にも共感できる形で)示そうとしたのとは真逆の使われ方なのだ。

 そして伝達のためには「理にかなってる」だけではない。『別れの挨拶』でも、読点には論理的な区切りとリズム的な区切り・二つの役割があるので厄介だ、みたいな今まさに吾々がツイッターで困ってること(困ってますよね)も指摘されてたり。クリムトの風景画はなぜ正方形なのかとか、先にあげた中務の歌のもそうだけど、論理だけでなく、感触や感覚面にも目配りする先生だった。
 あるいは、鎖の最も弱い輪か、経絡秘孔でも突くように松栄千代田神徳(まつのさかえちよだのしんとく)』というタイトルひとつで明治時代の歌舞伎「改良」運動の問題点をあぶり出しこの外題を見ただけでも、おもしろくない芝居だとわかるでせう)とダメ押しのコメントでリングに沈める、選球眼と底意地の悪さ。
 未発表曲だけで出来たベスト盤みたいな、ありえない(実はよくある)奇跡を思わせる白鳥の最期の絶唱。編集部は、いい仕事をしたと思う。
 …と、例によって、ここまではマクラである。

 【復路
 そんなわけで、さて帰路は何を読もうかと飛びこんだ金山(名古屋)の本屋で、池澤夏樹『アトミック・ボックス』(角川文庫)に手が伸びたのは、自然な成り行きだった。
 丸谷先生は池澤氏の父にあたる福永武彦氏との共著もあり、いわば池澤氏は旧友の息子となるわけだが、それ以上に純粋に作家として「新しい才能が出てきた」と喜んでいたフシがある。自身の作家以外での大きな仕事と誇っていた新聞書評欄の顧問も池澤氏に譲り渡したことを『別れの挨拶』でも嬉しげに語っている。そんな『別れの挨拶』を読んだ直後だったので、読みそびれていた池澤氏の長篇にすんなり手が出た。
 
 『アトミック・ボックス』は題名が示すとおり核がテーマ。サスペンスか冒険小説のようなエンターテインメントな展開の底には、3.11以後の原子力に対する著者の姿勢が伏流のようにある。が、そのことは別の機会に考えるとしてー
 無実の罪で嫌疑をかけられ、瀬戸内海の島づたいに逃亡する主人公が、ある老人の助けを得る。その老人が言うのだ、自分の叔父も第二次世界大戦の徴兵忌避者であったと。
「俺の叔父は逃げた」
「昔の話だ。戦争が終わる少し前、赤紙が来た」
「赤紙って……?」
「召集令状だ。戦争に行って戦えという国からの命令だ。叔父はそれは嫌だと思った」

 徴兵忌避をモチーフにした文芸作品をひとつ挙げよと問われたら、(答えられる人が)挙げる作品は決まっているだろう。
 小説家・丸谷才一の代表作は何かと問われた人の回答も、たぶん同じ作品になるのではないか。『笹まくら』である。故・米原万里氏の書評集は『打ちのめされるようなすごい本』という題だったが、その「打ちのめされるようなすごい本」とは実はこの『笹まくら』だった、という話は前にも何処かでしたと思う。
 『アトミッック・ボックス』が新聞連載されたのは2012年9月〜2013年7月。丸谷先生が亡くなったのが2012年10月。もちろん事前に構想は練られていただろう。けれど、そのエピソードが登場する部分と連載の進度を目分量で測ると、同作のチョーヘーキヒシャが先生の逝去を受けて、手向けとして新たに書き起こされたーその可能性は高いと思われた。ちょうど映画のスタッフロールの最後に、撮影中に死去したキャストやスタッフへの献辞が掲げられるように。
 果たして市立図書館に出向き、平成24年の縮刷版にあたってみたところ、連載小説『アトミック・ボックス』に徴兵忌避のエピソードが登場するのは11月3日〜4日。丸谷先生が逝去した10月13日から三週間後のことだった。
 そして確認すると少なくとも連載当時、これは分かる人にだけ分かる目配せではなかったようだ。というのも先生の訃報を告げる10月の紙面には他ならぬ池澤氏の弔辞が掲載され(書評欄を引き継ぎ、ちょうど同紙で小説を連載中の作家だ、当然の人選だろう)そこでは逝去した作家の代表作が『笹まくら』であること、徴兵忌避者を題材にした小説であることがハッキリ指示されているからだ。この鳩を出しますよと明白にネタバレしてからの、三週間後の鳩だった。連載をリアルタイムで追いかけていた人は誰もが「ああ、あの鳩」と思ったのではないか。
 その鳩が「分かる人には分かる目配せ」になったのは、むしろ五年後の今だろう。
 どんなに生前もてはやされ人気を得た作家でも、ひとたび没すると忘れられる。再び評価される者も、それまでに一度は冥界・煉獄をくぐらなければいけない。そう書いたのは他ならぬ池澤氏だった(出典は…すまん、すぐには出てこない)。五年前に彼が自身の小説に登場させたチョーヘーキヒシャの文字は、今は冥界・煉獄を歩む先達の路が真っ暗にならぬよう、忘れ去られてしまわぬよう、残された若い継承者が、そっと用意しておいた灯火のように思える。
 (だからこうして、それに気づいた者が「ここに灯火がある」と言いたくての、この日記である)

 そうした視点で『アトミック・ボックス』を読むと、最後に主人公がとある人物と対決する場面で丸谷先生の『女ざかり』を連想したりもするのだが、これは別にそういう狙いではないだろう。
 二人の作家が同じように参照してきた水源があって、そこからそれぞれが引き出してきたのだと思う。自作に元ネタがあることを恐れない、むしろ過去の伝統や好きな作品を源泉に創作することを積極的に捉える流儀もまた、僕がこの二人から学んできたことだ。
 読む側もまた、さまざまな水源から水を汲み上げながら本を読む。
 たとえば『アトミック・ボックス』には主人公の母親が「あんな変なもの食べたくない」と、とある食べ物をdisる場面がある。自分の母親の食の好き嫌いなど子供の頃には考えもせず、後で「お母さん、あれ、キライだったんだ!」と驚いた体験は僕自身にもあるため、この最後に近い場面での、主人公の驚きには妙に「分かる!それ!」と共感してしまったのだ。
 

男たちのいらない女〜『お嬢さん』『荊の城』『マリア様がみてる』(2017.05.07)

 今回の日記は19世紀ロンドンを舞台にしたサラ・ウォーターズの小説『荊の城』と、それを日本による植民地時代の韓国に移したパク・チャヌク監督の映画化作品『お嬢さん』、そしてなぜか今野緒雪『マリア様がみてる』それぞれについて遠慮ないネタバレがあります。かく言う自分自身、十年以上前に出ていた『荊の城』を手に取り読了したのが映画を観る前日だったくらいなので「読んで(観て)ないなんて!」とは思いません。ですが、それはそれとしてネタバレはネタバレです。それぞれの作品で気持よく「そう来たかあ!」と驚きたい人は、伏せた部分(および第三部)を読まないことを推奨します。

第一部
 そんなわけで、映画『お嬢さん』を観る前に大急ぎで読んだ『荊の城』。上巻まで読み終えた時点での感想が「なんて大人のマリみて」。
 (後の伏せ字部分で答え合わせしますが)まずミステリに見せかけたガチ◯◯小説だった時点でマリみて。それを極限まで押し切った時点で大人のマリみて。マリみてが得意とする語り(騙り)の技法を遺憾なく駆使している点でマリみて。そしてマリみてが夢見る乙女の楽園から全力で排してきたものを、むしろ全力で招き入れ話の芯にしてる時点で負のマリみて、裏マリみて、大人のマリみて。
 いやいや、もうちょっと他に言うことあるだろうと一気呵成に下巻まで読み終えた時点での感想が「思った以上にマリみて」。どういうことだ。答え合わせに入ります。
以下、ネタバレにつきたたみます。読むひとは自己責任でどうぞ。(クリックで開閉します)。 まるで「マリみてが好きな人にはこちらもオススメです」な内容。
 いや、もちろん思いつきで言っている。ひとつの作品を読み観ることは、それまでに自分が読み観てきた先行作品と響きあう部分を、勝手に過去作の残響のように聞き取ることだ。作中で言及されてるとおり、本来ならディケンズの残響を聞き取るのがより適切な読みかただろうし、他にもいくつも思い浮かんだ作品はある。ことさらマリみてと対比するのも、それを補助線に『荊の城』を味わい尽くす便宜にすぎない。
 ちなみに◯◯(いやもう、マリみてと対比してる時点でバレバレだろう、百合だ百合!)視点で見た場合、最後の最後の描写からしてモードお嬢様が
再度たたみます。(クリックで開閉します)。 したところで終わる」ラストも、なんだかアニメやまんがやドラマでお馴染みのパターン。重厚な大道具小道具のわりに、存外コテコテの娯楽作品で「海外ミステリなんて…」と尻込みする若い人にもアピールしそうな気がする。
 秘密も詐欺も小説も物語もひっくるめた「嘘」が主人公(たち)を欺き、いたぶり、翻弄した挙句、最後に強いられた屈辱的な「嘘」が、屈辱的と言いつつ歪んだ救いになるアイロニー(それが最後の最後に「嘘から出たまこと」になることも含め)。ひねくれた嘘(=小説)の賛歌とも読め、楽しい読書でした。そう、登場人物の誰かが書くことに目覚め、作家になって終わりましたとさ、というのも(マリみてにはないけど)数多くの先行作品と「響きあう」コテコテ、ガッチガチの夢要素だったりするのだ。

第二部
 ちなみに原作の「レディ・ガラテア」についての妄想ですが
たたみます。(クリックで開閉します)。
 原作では徹底して描かれなかった「悪党への報い」が貫徹されていた。それだけでパク・チャヌク監督の映画化作品『お嬢さん』は、監督自身「私ならこうしたいという形に改変しました」と語ってるとおり、『荊の城』を読者として体験した者のドリームが詰まった二次創作になっている。
 いや、楽しかった。原作が陰鬱だけどグイグイ引きこまれるゴシック・ロックだとすれば、それを「ホーン・セクション中心に編曲しちゃいました!」みたく、黒い笑い・さらに黒ささえ吹き飛ばす陽性の哄笑にアレンジした映画化作品『お嬢さん』。
 成人指定の作品としては異例の大ヒット、ということで自分が観た回では、まさに「最初に観るR18作品コレにした」とキャイキャイしながら列に並ぶ女子三人組がいたりして…稀有な体験ができたのではと思う。
 何しろ、この『お嬢さん』。たしかにR18の内容で、ものすごくエロくて、ありえないほど卑猥。でも(先にも書いたとおり)美しいお嬢様に男どもが群がるポスターを見て「こんなお嬢様がR18に、グヘヘヘ」みたいな期待をした観客は超ションボリする、どころか都市伝説に登場する「歯の生えた女性器」に男根を食いちぎられたようにシュンとしてしまうだろう。というのも
たたみます。(クリックで開閉します)。
 映画はそんな(主に男たちと想定される)スケベどもを「騙されるお前らが悪い。詐欺の映画を観に来て何を言ってるんだ」と嘲弄するように、作中の男どもをコケにし・痛めつけ・ボロボロに破滅させる。こういう作品でR18デビューできた観客の「お嬢さん」たちは非常にラッキーだったと思う反面、「身につまされる」という意味では男性客のほうにも、より親身に「イタタタタ」と痛がれる・復讐されコケにされた気分を満喫できるアドバンテージがあるのかも知れない(マゾか)。
 そして「男」の欲望や劣情を強圧的な力として描く一方、徹底的に遂げさせずコケにし痛めつけるように、本作にはもう一つ、強圧的な「力」として描かれつつ同時に・あるいはだからこそ滑稽な代物としてコケにされる対象がある。これは伏せるまでもないだろう−日本語だ。おそらく本作の卑猥さを世界で一番たのしめるのは日本語圏の観客だろう、けれど一番「イタタタタ」と痛がれるのも日本人かも知れない。もちろんパク・チャヌク監督は植民者にへつらい、植民者の文化に憧れる当時の自分の同胞も存分にコケにしている。両者のイタタタ度合いは痛み分けといったところだろうか。
 そして、このイタタタに関して、ひとつの疑問は残るのだった。−すなわち、
たたみます。(クリックで開閉します)。

第三部
 ここまで来たら伏せ字でもないでしょう。ネタバレも閉じなし・先に閉じていた内容も踏まえてのフルスロットルで行きます
 「マリみての後の心に比ぶれば昔は物を思はざりけり(マリみてを読む前の自分はまるで本当の百合も本当の萌えも知らなかったかのようだ)」とはよく言ったものである。言ったの僕だけど。すなわち筆者(僕)は『マリア様がみてる』を崇めている。けれどそれは作品を無謬と言い張り、どんな批判も認めないことではない。むしろ「この、客観的には瑕疵と思える部分も含めて面白い」と開き直る厄介な信者だ。
 小説『マリア様がみてる』を読み進めていくと、こそばゆい現象に気がつく。「恋愛対象としての男性の、周到な排除」だ。たしか単行本(コバルト文庫)第一作にあたる無印『マリア様がみてる』の冒頭で、痴漢を避けるためリリアン女学園の生徒たちはバスなどの中で女子どうし固まってクラスタを作る、という描写がある。ヒロインである少女たちを脅かす男性の存在が示唆されるのは、大袈裟に言えばそのくらいだ。祥子お嬢様の婚約者である柏木は「僕は同性愛者だが、このまま結婚しよう。君も好きな相手と交際すればいい」と言い放ち、自分に憧れていた幼なじみの心を−強引な侵犯ではなく、逆に拒絶によって−引きちぎる存在として登場する。もちろん話が進展するにつれ彼の真意が明らかにされ(新たな「真意」が過去に遡る形で設定され)実は不器用な好青年だったことに設定は改変されていくわけだが、祥子さまは激しい男性恐怖症を患ってしまう。
 その柏木青年と、祐巳の弟・祐麒が籍を置く男子高の生徒会役員たち−リリアン女学園の生徒会たる山百合会のヒロインたちと交流することになる少年たちの属性はさらに顕著だ。心は女子な乙女男子。物語の定番である、何を考えているか分からない双子(実際の双子はそうでもないはずなのだが、物語においては双子はまるで同期して存在・思惟・行動する一体の、不可思議な存在として描かれることが多い)。マザコン。ヲタク(笑)。そして実の弟。前後した別のエピソードで黄薔薇さまこと令の婚約者候補として現れるのは、年端もいかないショタっ子だ。
 面白いのは女性を脅かさない存在というより「女子から見て恋愛対象にはなりえない・恋人失格な存在なので(ヲタクや双子・親友の弟だから恋人失格というのも乱暴な話だが)、この少年たちは脅威にならないという不思議な認識の歪みが生じてる感もあるところ。まるで、ファンがアイドルに恋し劣情するのは構わないが、アイドルが誰かに恋するのは許さないという奇妙な純潔主義のよう。
 読者には周知のとおり、この周到な男子排除の結果、連作『マリア様がみてる』では唯一「男性」として現れるのが「子持ちの男」という謎の倒錯が生じた。先代・黄薔薇こと鳥居江利子さまが一方的かつ熱烈な恋に落ちた相手が、子持ちの男やもめ山辺氏だったのは、まあ江利子さまの奇人ぶりを示すエピソードでもよい。だが、祐巳の妹候補だった可南子の父親が、妻子持ちでありながら教え子を妊娠させ離婚・可南子を祥子さま以上に傷ついたキャラにさせた設定はどうにもおかしい。まるで男子を排除するためアレも失格・コレも失格と理由をこじつけていたら、逆に「女性を妊娠させる能力のある男」という男性性の最たる存在を正面入口からノーガードで通してしまった、そんなシステムエラーが『マリみて』には存在した(と、僕は認識した)のだ。

 さて、ここまで来て『荊の城』そして『お嬢さん』である。
 お嬢様=モード・もしくは秀子は、あんなエロのことしか考えていない男どもに自由を奪われた状態で、なぜ自身がその性欲の餌食になることを回避しえたのか。
 もちろん回答案のひとつは「別に男だって(エロ本の収集に躍起になる男たちだって)目の前に女がいたら考えなしに押し倒すほど見境ないわけではない」である。たしかに『荊の城』の「紳士」は「僕は色より金だ」と言い放つ。叔父はモードを虐待するが、モードを性の対象としては扱わない。ホートリー氏もモードの扱いに困って彼女を女郎屋に売り飛ばそうとするが、自らモードを手篭めにするわけではない。
 はっきり言えば『荊の城』を駆動しているのは「紳士」の言うとおり、性欲よりもビジネスだ。性は手段にすぎない。モードを翻弄するのはビジネスで、たまたまビジネスの領域が猥褻物だっただけだ。
 『荊の城』という邦題は秀逸だった(原題はFingersmith≒スリ・手業師)。幽閉されていたプライア城を出ても、モードを待ち受けているのは次の荊の城ではないか、と読者に予感させ、その予感は裏切られない。モードに(そしてスウに)とって、世界全体が脱出できない荊の城なのだ。

 一方『お嬢さん』の叔父=上月は姪である秀子との結婚を画策している。彼女に言い寄る「紳士」=藤原も偽装結婚後あわよくばその肉体を手に入れようとする。『マリみて』では作者の周到な排除が、『荊の城』では実は性すら二の次という資本主義社会のシビアな現実が、ヒロインを男との恋愛や性交から遠ざけていた。『お嬢さん』で秀子と男たちの間に置かれた剣・ジェリコの壁は何か。
 たぶんそれは、ひとつには上月を中心とするポルノ愛好家たちの嗜癖そのものだったろう。そう憶測せざるを得ないように作品はできている。春画や、朗読されるポルノ小説には欲情するが、現実の、生身の女性には手を出せない男たち。上月は秀子との結婚を画策していたが、本当に上月は秀子を抱くことが可能だったのだろうか。藤原に拷問を加える上月、その藤原に秀子との初夜はどうだったと目をランランと輝かせ訊く上月が、あんなに生き生きしていたのは、そういうこと=実際の性交には欲情できず、性的でない権力行使(暴力ともいう)や覗きめいたポルノグラフィーに劣情を傾ける恋人(夫もしくは情夫)失格な男たちの代表だったからではないか。
 この日記の題は「男たちのいらない女」だが、実は『お嬢さん』で上月亭に集う男たちもまた「(本物の)女のいらない男たち」だったかも知れない。
 そう考えると藤原を拷問し、秀子との(実際には未遂に終わった)初夜の様子を問いただす上月が、そんな時まで女性器を「オ◯◯◯」と他言語・宗主国の言葉で呼んでいるのは、爆笑を呼ぶ場面だが、同時に何事かを示唆している。それに対し、藤原が「チ◯ポ」と日本語ではなく、自らの母語で述懐することも。

 宗主国のポルノグラフィーを崇拝する男たちの間にあって、それを出し抜こうとする藤原は、ただひとり現実の女性を押し倒しうる存在だ。その彼が秀子との性交を成し得なかったのは、秀子が刃と血をもって、それを拒絶したからだ。
 これが、もうひとつのジェリコの壁だった。マリみてでは作者の作為・『荊の城』では市場原理によって回避された男女の情交は、『お嬢さん』では(大半の男たちの不能と)ヒロインの恋と意志で拒絶された。それは快挙なのだが、その勝利を初めて提示しえたのが男性のパク・チャヌク監督だったことは、逆に女性である今野緒雪氏やサラ・ウォーターズの、世界に対する絶望の深さを示しているのではないか−そんな疑念が脳裏をよぎらないでもないのだ。
 『荊の城』が脱出不可能な「荊の城」であったのに対し(そして『マリみて』がそうした荊の城から作者の作為により人為的に作成されたアジールであったのに対し)『お嬢さん』は「荊の城」の外はある、外に脱出できるという設定で描かれた物語である。『荊の城』でスウの暮らす貧民街・Fingersmithたちの根城は「次の荊の城」・無慈悲なビジネスの世界だったが、『お嬢さん』では珠子(スッキ)の仲間たちが藤原を出し抜く共謀者・手助けの側に回る。
 上月の虚構(ポルノグラフィー)・(ポルノ愛好という形でひねくれ復讐めいた)宗主国崇拝という人工に対し、スッキ(珠子)と秀子はヴァナキュラーは盗人庶民階級を味方につけ国外に脱出し、なにより互いの生身の肉体で愛しあう。女性器を宗主国の言語で呼ぶ上月は敗れ去り、同様に敗れる藤原は男性器を自国語で呼ぶことで最後の面目を保つ。人工vsヴァナキュラー・そしてヴァナキュラーが勝つという映画『お嬢さん』の二元論は、一元論だった原作とはまったく別の構図だ。それは『エイリアン』と『エイリアン2』が、『SPL・狼よ静かに死ね』と『ドラゴン×マッハ!(SPL2)』が違うくらい違う。

 どれが、より適切という話ではない。『お嬢さん』は痛く快く、マリみての江利子さまは可愛く(好きな男の娘に「パパとキスしたの?」と問われ「してない」と即答、「キスしてなくてよかったー!」と内心ガッツポーズする江利子さま、可愛いすぎだろう)、そして『荊の城』には極限まで切り詰められたシェルターのような、悲しい救いがある。
 ある意味で『お嬢さん』の哄笑も痛快も、『荊の城』の静謐な絶望あっての裏返し・二次創作なのだろう。暗く小さいほうが真の太陽で、大きく明るいのは大きく明るくても月、そんな不思議なケースが、物語の場合には存在するのだ。
 
サラ・ウォーターズは荊の城、マリみては「いばらの森」。試験に出ます。

ジラールとニカウさん、そして〜デュピュイ/デュムシェル『物の地獄』(2017.02.26)

 ジャン=ピエール・デュピュイポール・デュムシェルの共著『物の地獄〜ルネ・ジラールと経済の論理』(法政大学出版局)を再読している。40年くらい前に書かれた、副題のとおりルネ・ジラールの思想・理論の発展的な展開を試みた論考だ。
 二人がそれぞれ前半・後半を分かち書きする構成。自分の見る範囲では、デュピュイのほうが東日本大震災に関する書籍もモノするなど多作家の印象があるが

 後半デュムシェルの「稀少性のアンビヴァランス」がまた興味深い。

 デュムシェルによれば、近代の経済学・それを正しいとする社会思想がよって立つのは「世界には全人類の必要を満たすだけの物資(やサービス)がない。窮乏や不公平・戦争などの不幸は大半がこの希少性によるもので、世の富を増やすことを目的とした経済学・経済学的な姿勢こそが、そうした悲惨を解消する『たったひとつの冴えたやりかた』だ」という、それはそれで説得力のある仮説だ。
 アダム・スミスに始まる古典経済学は、それまで道徳が「奪うな」「ねたむな」「欲張るな」と禁じてきた個々の私益の追求こそ最終的に皆を豊かにするものとして肯定した。マルクスでさえ生産力の発展こそ革命の前提条件と考えた。そもそも生活実感として、あるいはそれに基づき世の中を見渡して「もっとお金があれば」「みんな貧乏が悪い」という結論が妥当と思われることは多い。
 だがこの「希少性」は、本当に必要なモノが足りないのだろうか。生産力が高まれば全人類に富が行き渡り、争いが消滅するのだろうか。物価は上がるし、生活水準もあがる。あのミヒャエル・エンデでさえ「いくら私たちが文明を否定したくても、今さら水洗でないトイレには戻れない」と述べたが、今ではウォシュレットのないトイレに戻ることさえ心理的抵抗のある人が多いだろう。30年前で価値観の停まってる人には贅沢に見えるスマートフォンは、国を追われて逃げる難民や、低賃金バイトを転々とする苦学生には、むしろ必須の命綱だ。希少性とは、追いついたと思えばまた遠くなる逃げ水ではないか。あるいは「ほら、今度はこれが足りない」と絶えず人々を競争に駆り立てるニンジン・いっそ栄養のないルアーではないのか。

 嘘っぱちとは言わないまでも、稀少性は神話や物語のひとつに過ぎないのではないか。稀少性を生産力の発展で埋める(その名目のために人々から国家間まで競争する)以外に、社会を運営していく道がありえたのではないか。
 デュムシェルはマーシャル・サーリンズの研究・そしてジラールの著作を援用し、石器時代や原始社会の人々には「別のやりかた」があったことを示唆する。
 稀少性vs生産力の発想に慣れた近現代人には物資不足・窮乏のきわみに見える原始社会はむしろ、必要なだけのモノが全員に行き渡る誰も餓死しないか、さもなくば全員が餓死する相互扶助社会であったと(デュムシェルが援用する)サーリンズは仮説する。そのためには、不平等を呼ぶ富の偏在・稀少性は全力で排除される。
 部族の長は自分に集まった富を共同体の他の成員に惜しみなく振る舞わなければならないし、それでも間に合わなければ神に捧げて焼き払い消尽しなければならない(ポトラッチ)。他のひとが持っている・自分が持ってないモノを羨望し欲しがることは、近現代社会では経済の原動力そのものだが、原始共同体では際限ない争いと破壊を呼ぶタブーとして徹底的に忌避されるのだ。

 言いたいこと・思うことは色々ある。だがここで例によって、話は大きく横にそれる
 思い出したのは、かれこれ40年近く前=つまりデュムシェルがこの論考を世に問うていたのと同じ頃、日本でも大ヒットしたコメディ映画のことだ。
 年配の皆様は憶えておいででしょうか、『ブッシュマン』という映画。アフリカ・カラハリ砂漠で狩猟生活を営む先住民族と、現代文明の出会いを描くドタバタ喜劇。そもそもブッシュマンという題名自体が不適切で、後に作られたシリーズ作品は『コイサンマン』という名で公開されたように思う。もしや内容にも、今の観点から見て如何という処があったかも知れない。現在DVDなどもリリースされてないようだし、おそらく再び観ることはきわめて困難な作品なのだろう。
 何の話をしているかといえば、この『ブッシュマン』(邦題)のストーリーだ。
 平和な暮らしを営むカラハリ砂漠の先住民族たち。その頭上から、透明でキラキラ光る、不思議なものが落ちてくる。不心得なパイロットが飛行中に空に投げ捨てたコーラの瓶だ。たったひとつしかない、その不思議で素敵な物体をめぐって、平和だった共同体に争いの危機が生じる。これはいけないと、選抜された勇敢な主人公は単身、その不思議で素敵で厄介なコーラの瓶を、世界の果てへ捨てに旅立つ…どう考えても、ほんらい不要な稀少性が侵入して平和を乱すので、あわてて排除・追放する原始共同体の話ではないか

 人が争うのは稀少性のせいだ、だから稀少性がなくなるよう富を増やせばいい。という発想で近代経済学は、それまでの道徳に取って代わった。そう冒頭(アダム・スミス)のあたりで要約した。
 言いかえれば「奪うな」「ねたむな」「欲張るな」という道徳観・それに基づく物語は、ほんの短い歴史しかない近現代のすぐそばまで、なんならスマートフォンとウォシュレットの現代生活の只中でも、死に絶えず息づいている。
 古い道徳は共同体への忠誠を誓わせるもので、私欲を肯定する新しい道徳と同様、功もあれば弊害もある。それは分かっている。そうではなく、デュムシェルや彼が援用するサーリンズ、ジラールが理論として精緻に検証してることを、ポピュラーな物語はいわば「目分量」で語っている、それが興味深いと思ったのだ。
 『ブッシュマン』(邦題)の主演俳優・ニカウさんは映画の公開当時に来日も果たしており、腰に履くパンツ一枚の狩猟スタイルでテレビに登場し人気者になっている。そして例によって…と言っていいだろう、エレベーターを見て「魔法の箱だ」とビックリしたり、彼から見れば贅沢にみえる衣服を取っ替え引っ替えする文明人を「理解できない」と眉をひそめたりしたと伝えられている。と記憶する。現代文明に驚嘆しながら、その浪費や欺瞞を批判する「高貴な原始人」という物語。シェイクスピアもサン=テグジュペリも使った手法で、そうした「文明を批判する南太平洋の酋長」をまるごと創造し一冊まるまるの本を造り上げた例さえある。かなり高い可能性として、ニカウさんもカメラの回ってないところではシャツにズボン、ひょっとしたらスーツにネクタイくらい着用する俳優だったのではないか、そうも思う。
 …だが、それらの疑わしさも含め、これら一連の「物語」には学ぶところが多い。映画のなかで貧相に描かれた山の古老やジャングルの番人が、おごったハンターたちに警告を発し、それが的を得た教訓として(大蛇に呑み込まれる段になって)実証されるように。たかが娯楽作品の怪しげな教訓が、理論的に正鵠を射ることは少なくない気がしている。

 世の中にはサーリンズの他にクラストルという人がいて、こちらの人は原始社会が国家のような権力の集中をやはり必死に排除しようとしてきた(ために現代人からは未開と思われるが、それもひとつの社会のありかただった)と説いているらしい。やはり同じくらいの時代のひとだ。こちらも併せて、いずれ読む機会を作りたいと、今わりと切実に考えている。
 …と終われば格好がつくが、実はさらにもうひとつ気になってることがある
 1980年前後の映画『ブッシュマン』(邦題)。不思議で素敵でキラキラ光る、争いを呼ぶ災いの根源を「世界の果て」に捨てに行く、選ばれた主人公。旅の過程で文明人たちの争いに巻き込まれつつ、最後は使命を貫徹する。ニカウさんがコーラの瓶を投げ捨てるのは山の天辺から足元に拡がる雲海なのだが(そのころ小学生だった子供たちは「で、これがまた空から落ちてきて最初からやりなおしだったりなー」などと茶化したものだが)この話、どこかで聞いたことがないだろうか。
 ないとは言わせない。主人公が平和な故郷を離れ、自分より大きいが欲にかられて愚かな人たちの争いに巻き込まれつつ、世界の果てに捨てに行かなければならない、誰もが欲しがり争いを呼ぶ「いとしいしと」。そう、指輪!
 『ブッシュマン』(邦題)の製作者は、その頃すでにカウンターカルチャーの聖典だった『指輪物語』のことを念頭に、アフリカの砂漠を舞台にしたコメディ映画を作ったのだろうか。それとも、両者はともに共通する古い道徳・古い神話・古い物語を源泉とする兄弟なのだろうか。
 そして、サーリンズやデュムシェルが説いた稀少性、ジラールの羨望・彼が模倣の分析で析出した「分身」といった主題などで、あの壮大な『指輪』は新たな切り分け・解釈が可能なのだろうか。

 いいかげんな日記だが、自分に向けた結論は書き換えねばなるまい。サーリンズと、クラストルは、そのうち読みたい。それに加えて、いつか本当に時間が許せば、映画でも原作でも『指輪』に再挑戦してみたい。誰か別のひとが「ジラールで読み解く指輪物語」とか、書いてくれるといいのだけど。

新世紀の尺度〜テッサ・モーリス-スズキ『自由を耐え忍ぶ』(2017.01.14)

 著者あとがきの日付を見て、笑ってしまった。すげえ!未来の書物だ!

もちろん誤植である。マーティン・リース宇宙を支配する6つの数』(林一訳/草思社)は2001年発行。原著はその前年。
 宇宙を支配する6つの数、といっても「アルファにしてオメガである1。父と子と精霊の3。神の子の死を暗示する13。そして獣の数字666…」みたいな内容では、ない。同書が取り上げるのは
 ・原子間にはたらく電気力の強さを重力の強さで割った数値N…10の36乗
 ・原子核を結びつける「強い相互作用」の値ε…0.007
 ・宇宙が膨張するエネルギーと重力エネルギーの比Ω…0.04
 ・反重力の強さλ
 ・物質が凝縮する強さを示すQ…10のマイナス5乗
 ・空間次元の数…3
 それぞれ、より基本的な要素に還元できない(たとえば「温度」は原子の運動エネルギーに還元できる)・その数値である理由を説明できない6つの数値。だが、たとえばεが0.006でも0.008でも宇宙は現在のような姿でなく、地球も人類も生まれてなかったろう6つの数値。ビッグバンから銀河の形成・超新星爆発や元素の誕生・ブラックホールから超ひも理論に至るまで、西暦2000年現在の宇宙と物理学のトピックを、本書はこの6つの数値を鍵に手際よくまとめている。
 ニュートリノの重量や、ダークマターなど、扱われる内容は読者が以前に見聞きしており、未知ではないかも知れない。だが「6つの基本的な数値」という尺度が、個々の内容を相互に結びつけ、構造的な理解を助けてくれる。なかなか好い啓蒙書だと思った。

 さて、実はここまではマクラである。
 昨年読んだ、とあるインタビューで「哲学とは何ですか」と問われた哲学者が概念を作ることです」と答えているのに感銘を受けた。
 物事を切り取ったり、まとめたりして、抽象化した概念・カテゴリというものは、誤って・あるいは悪意をもって用いればレッテル・ラベリングとなるが、いっけん複雑な事象をキレイに分割する補助線・理解するための尺度となりうる。
 実はここまでもマクラである。

 そうした「尺度の力」を銀河や素粒子ではなく、人が生きる社会を扱った書物で感じた。
 テッサ・モーリス-スズキ自由を耐え忍ぶ』(辛島理人訳・岩波書店)は9.11同時多発テロの余波がまだ残る2004年、「ブッシュの戦争」が泥沼化する中での論考。
 少し古い書物ということになるが、その批判はまだ有効で、逆に、この一年「どうしてこんなことに」と吾々をうろたえさせてきた社会の変動・Post Truthと呼ばれるような規範の崩壊が一年だけの突発事ではなく、21世紀の幕開けから・さらに前から連綿とつづいてきた継続事の帰結なのだと再認識させてくれる。
 そして同書を特徴づけるのは、(重力と斥力の比のように・しかし宇宙ではなく)現代の人間の世界を決定づけている尺度を、21世紀にふさわしく刷新して再定義・再提示していることだ。

 著者は、国家の枠を超えた経済活動…と地理的に・水平方向に捉えられがちな「グローバル化」という尺度を、娯楽や健康・教育や安全保障など(それまで経済外だった領域)への企業活動の浸食というタテ面で捉え直し「市場の社会的深化」という概念を提唱する。
 あるいは近代資本主義のモットーであった自由放任主義=「なすに任せよ(laissez faire レッセ・フェール」が実は絶えざる自己拡大を強迫的に必要とする「成長するに任せよ(laissez croitre)」であったと、エレン・メイスキンス・ウッズの言葉を引用する。
 ベンサムのパノプティコン=少数による多数の監視と「監視されているという意識の内面化」に対して提示されるのは、ジグムント・バウマンが提唱したシノプティコン(Synopticon)という概念だ。リアリティ番組やネットリンチの形で具現化した「多数による少数の監視」と自警団意識をさす。
 ・グローバル化→市場の社会的深化
 ・なすに任せよ→成長するに任せよ
 ・パノプティコン→シノプティコン
 こうして定義しなおされた尺度は、物理学の6つの数がブラックホールやクエイサーを説明するように、互いに連関しあって現代社会のきしみを説明する。
 民間軍事企業の台頭を典型とする、かつては国家が担っていた安全保障の分野への市場経済の浸食は、別の場では「法治国家」の前提が無効化されるワイルドゾーンの出現につながる。本書が提示する重要な概念のひとつだ。
 この超法規的な権力行使の場=ワイルドゾーンの典型として著者が2004年の時点で挙げているのが出入国管理所であることは、数式による予言が実際の天体観測で証明されたように吾々を震撼させる。(日本国内に在住する外国人・非国籍保持者に対する行政や社会の冷酷が昨年いくつもニュースになったことは思い出されてしかるべきだ)

 概念というと思い出すのはジョン・レノンの「神なんて概念(コンセプト)だ」という一節だ。
神なんて尺度にすぎない 僕らの苦しみを測るための
 『自由を耐え忍ぶ』でモーリス-スズキが提示する「市場の社会的深化」「成長するに任せよ」「シノプティコン」「ワイルドゾーン」といった概念は、21世紀初頭の吾々の苦痛を測るための、「神」に代わる有効で有用な尺度だ。「この定規を使えば、こう補助線が引けるのか」と驚かされる明晰さと、それを根底で支えているだろう危機感。
 本当はこういう本が新書くらい手に入りやすくコンパクトに、廉価に、どこの書店にも置かれる形で出れば好いのだよなと思ったのである。今を読み解く物差しと、そうした物差しを定義する理性への信頼を(再び)与えてくれる、有用な一冊でした。

 『自由を耐え忍ぶ』どちらかというと四方山話的エピソードであるが、ソ連崩壊後、ウラル地方の軍需物資工場が(戦闘機などに使われる)チタンを農耕用のスコップに転用し生産販売したが、まあさすがにチタンだけあって土を掘るのに有効である・以上にチタンそのものの価値に目をつけられ、どんどん輸出され、輸出された先で兵器の原料に転用された(と見てほぼ間違いない)という逸話が強烈。
 ちなみに「そんな世界をどう補正していくか」という見通しの一歩前くらいのことも語られています。

新成人の皆さんへ2017(2017.01.09)

 今年は手短かにということで、はい、手短かに参ります。
 今日の目出度き門出にあたり、新成人の皆さんに申し上げたいことはひとつ。
 皆さんに若い時の苦労は買ってでもしろとかいうのは、おおむね皆さんに苦労を売りつけたい者、苦労を売って利得のある輩が、自分の利得のために言うことですから、真に受けなくてよろしい。
 皆さんの中には小学校を卒業するにあたり、自分たちが使ってきた教室の机に感謝を示すため、真冬の川に裸足で入り、冷たい川の水で机をジャブジャブ洗わされた人たちがいるかも知れません。そういうのも含めます。
 生ぬるい安寧の中にいると人間は堕落する、大きな災害や戦争にでも見舞われたほうが人々は結束し謙虚にも懸命にもなるとか妄言を吐く奴もいます。そういうのも含めます。
 基本的に、そういう犠牲を称揚する人間は自分自身を犠牲にすることはありませんし、よしんば仮に万が一でも自身をも犠牲にした場合でも、それが自分以外の人間に犠牲を強いていい理由にはなりません。

 「戦争や国難(隣国の脅威など)があったほうが国民は結束する」と説く者は、これから増えるかも知れません。「科学技術は軍事関連で飛躍的に発展してきたのだから、兵器産業に注力するのは良いことなのだ」というのも、その亜種であり同類です。
 皆さんが生まれる遥か以前(実を言うと私が生まれるより遥か以前です)の映画に「ボルジア家が支配したイタリアの、戦争と流血の30年間はルネサンスを生んだ。スイスの同胞愛と500年にわたる平和と民主主義は何を生んだ?鳩時計だけさ」とうそぶく男が現れます。
 こういう耳あたりのいい警句は、しばしば大体おおむね事実無根かも知れないと疑う想像力が皆さんには必要です(気になるひとはルネサンスや、スイスの歴史についてでも調べてみるとよろしい)。実際この男は−むろん映画の中の話ですが−戦後の混乱をダシに人の不幸で悪銭を稼ぎ、その稼ぎで何の美しい物も生み出すことなく、下水道から出られずにくたばります。
 恵まれてあることは僥倖です。それが先人たちの苦労や犠牲を伴ったとしても、その恵みをもたらしたのは「恵まれてあるべきだ」「苦労はいやだ」「犠牲はたくさんだ」という願いであり、「今の人々は恵まれすぎている。もっと苦労が必要だ」というのは本末転倒です。そういうことを抜かす連中は、キアヌ・リーブスに聖なるガトリングガンで顔面ガチ殴られればいいのです。『コンスタンティン』という比較的あたらしめ、皆さんが小学生の頃の映画です。あれは実に好いので、ぜひ観なさい。若いうちに、買ってでも観なさ…

 あー、その、「買ってでもしなさい」を信じてはいけないという話でした。
 アレですよ、こうして皆さんに「皆さんのためになる話ですよ」といって何かを教唆する話は、あくまで話半分に聞くタヌ、いえ、聞かなければいけません。
 時間も巻いて参りましたし、隠していたシッポが尻の後ろからポロリしそうになっても参りましたので、ここらでドロン、いえ、皆さんの洋々たる前途を祈念して、祝辞とさせていただきタヌ…
(ざわつく場内。スーツの後ろから出たシッポを押さえつつ、ピョンピョン跳びはねて退場)

小学校の机に感謝をこめて冬の川で洗う奇習は、昨年のニュースで伝わってきた話なので、最近になって新たに出現した悪習かも知れない。こういう「いかにも昔の悪習っぽい」ことが新たに始まる現象には、とくに気をつけたほうが良いタヌ。

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