まんがなど
(16.12.25更新)
『ペーパーまんがの総集編2016』
追加。



発行物ご案内
(17.02.18更新)
ここ一年の作品に、電書の案内も。
電書化、始めました。
電書へのリンク
こちらから
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過去日記一覧(随時リカバリ中)

↓過去日記キーワード検索

Author:舞村そうじ/RIMLAND
 創作同人サークル「RIMLAND」の
 活動報告を兼ねつつ、物語とは何か・
 どんなメカニズムが物語を駆動し心を
 うごかすのか、日々考察する予定。

【お知らせ】
2月東京ティア乙でした。
新刊『物語の話をします』発行。

WebまんがSide-B遅々として更新中。

note絵更新。(16.05.26)

旧サイトは2014年8月で終了しました(お運びいただき感謝)。再編集して、こちらの新サイトに少しずつ繰り入れますが、正直、時間はかかると思います。

[外部リンク]
comitia
(東京名古屋新潟関西みちのく)
あかつき印刷
POPLS

sumabo(クリック募金)
日本赤十字社
JEN
ALL OUT

if you have a vote, use it.(save kids)

「レプレゼンテーション」という鍵言葉が今、注目されているようです。
…過去日記(11年11月)をサルベージしました。感想三篇。サイード『オリエンタリズム』、
わかつきめぐみ『やにゃか さんぽ』、山本義隆『磁力と重力の発見』。こちらから


すごく間が開いてしまいましたが【お知らせ】です。(2017.4.23追記)
4/30開催の名古屋コミティア50(売り場H-3)
5/6の東京コミティア120(売り場え02a)
5/14の関西コミティア50(売り場P-11)
RIMLAND名義でサークル参加します。

連続ペーパーまんが「神様のギフト」特設ページつくりました。↓下の画像か、こちらから。
特設へのリンク

まだ仮設ですけど、1月コミティア東京でリリースした第一話(この頃は通しタイトル決めてなかった)「悶える男」再公開しました。予習にどうぞ。(2017.4.22)

【追記】
今回の名古屋コミティアは50回。ということでスタンプラリーが開催されるそうです。RIMも参加するので(シール作らなきゃ<自メモ)遠慮なくどうぞです。サークルごとに自由設定のスタンプ付与条件は「ペーパーを貰ってくれたひと」とします。
50回記念の寄せ描きも募集されると、参加申込の時点では知らなかったのでサークルカットを祝メッセージに描いちまった…名古屋といえば大須の団子。(2017.4.24)


ジラールとニカウさん、そして〜デュピュイ/デュムシェル『物の地獄』(2017.02.26)

 ジャン=ピエール・デュピュイポール・デュムシェルの共著『物の地獄〜ルネ・ジラールと経済の論理』(法政大学出版局)を再読している。40年くらい前に書かれた、副題のとおりルネ・ジラールの思想・理論の発展的な展開を試みた論考だ。
 二人がそれぞれ前半・後半を分かち書きする構成。自分の見る範囲では、デュピュイのほうが東日本大震災に関する書籍もモノするなど多作家の印象があるが

 後半デュムシェルの「稀少性のアンビヴァランス」がまた興味深い。

 デュムシェルによれば、近代の経済学・それを正しいとする社会思想がよって立つのは「世界には全人類の必要を満たすだけの物資(やサービス)がない。窮乏や不公平・戦争などの不幸は大半がこの希少性によるもので、世の富を増やすことを目的とした経済学・経済学的な姿勢こそが、そうした悲惨を解消する『たったひとつの冴えたやりかた』だ」という、それはそれで説得力のある仮説だ。
 アダム・スミスに始まる古典経済学は、それまで道徳が「奪うな」「ねたむな」「欲張るな」と禁じてきた個々の私益の追求こそ最終的に皆を豊かにするものとして肯定した。マルクスでさえ生産力の発展こそ革命の前提条件と考えた。そもそも生活実感として、あるいはそれに基づき世の中を見渡して「もっとお金があれば」「みんな貧乏が悪い」という結論が妥当と思われることは多い。
 だがこの「希少性」は、本当に必要なモノが足りないのだろうか。生産力が高まれば全人類に富が行き渡り、争いが消滅するのだろうか。物価は上がるし、生活水準もあがる。あのミヒャエル・エンデでさえ「いくら私たちが文明を否定したくても、今さら水洗でないトイレには戻れない」と述べたが、今ではウォシュレットのないトイレに戻ることさえ心理的抵抗のある人が多いだろう。30年前で価値観の停まってる人には贅沢に見えるスマートフォンは、国を追われて逃げる難民や、低賃金バイトを転々とする苦学生には、むしろ必須の命綱だ。希少性とは、追いついたと思えばまた遠くなる逃げ水ではないか。あるいは「ほら、今度はこれが足りない」と絶えず人々を競争に駆り立てるニンジン・いっそ栄養のないルアーではないのか。

 嘘っぱちとは言わないまでも、稀少性は神話や物語のひとつに過ぎないのではないか。稀少性を生産力の発展で埋める(その名目のために人々から国家間まで競争する)以外に、社会を運営していく道がありえたのではないか。
 デュムシェルはマーシャル・サーリンズの研究・そしてジラールの著作を援用し、石器時代や原始社会の人々には「別のやりかた」があったことを示唆する。
 稀少性vs生産力の発想に慣れた近現代人には物資不足・窮乏のきわみに見える原始社会はむしろ、必要なだけのモノが全員に行き渡る誰も餓死しないか、さもなくば全員が餓死する相互扶助社会であったと(デュムシェルが援用する)サーリンズは仮説する。そのためには、不平等を呼ぶ富の偏在・稀少性は全力で排除される。
 部族の長は自分に集まった富を共同体の他の成員に惜しみなく振る舞わなければならないし、それでも間に合わなければ神に捧げて焼き払い消尽しなければならない(ポトラッチ)。他のひとが持っている・自分が持ってないモノを羨望し欲しがることは、近現代社会では経済の原動力そのものだが、原始共同体では際限ない争いと破壊を呼ぶタブーとして徹底的に忌避されるのだ。

 言いたいこと・思うことは色々ある。だがここで例によって、話は大きく横にそれる
 思い出したのは、かれこれ40年近く前=つまりデュムシェルがこの論考を世に問うていたのと同じ頃、日本でも大ヒットしたコメディ映画のことだ。
 年配の皆様は憶えておいででしょうか、『ブッシュマン』という映画。アフリカ・カラハリ砂漠で狩猟生活を営む先住民族と、現代文明の出会いを描くドタバタ喜劇。そもそもブッシュマンという題名自体が不適切で、後に作られたシリーズ作品は『コイサンマン』という名で公開されたように思う。もしや内容にも、今の観点から見て如何という処があったかも知れない。現在DVDなどもリリースされてないようだし、おそらく再び観ることはきわめて困難な作品なのだろう。
 何の話をしているかといえば、この『ブッシュマン』(邦題)のストーリーだ。
 平和な暮らしを営むカラハリ砂漠の先住民族たち。その頭上から、透明でキラキラ光る、不思議なものが落ちてくる。不心得なパイロットが飛行中に空に投げ捨てたコーラの瓶だ。たったひとつしかない、その不思議で素敵な物体をめぐって、平和だった共同体に争いの危機が生じる。これはいけないと、選抜された勇敢な主人公は単身、その不思議で素敵で厄介なコーラの瓶を、世界の果てへ捨てに旅立つ…どう考えても、ほんらい不要な稀少性が侵入して平和を乱すので、あわてて排除・追放する原始共同体の話ではないか

 人が争うのは稀少性のせいだ、だから稀少性がなくなるよう富を増やせばいい。という発想で近代経済学は、それまでの道徳に取って代わった。そう冒頭(アダム・スミス)のあたりで要約した。
 言いかえれば「奪うな」「ねたむな」「欲張るな」という道徳観・それに基づく物語は、ほんの短い歴史しかない近現代のすぐそばまで、なんならスマートフォンとウォシュレットの現代生活の只中でも、死に絶えず息づいている。
 古い道徳は共同体への忠誠を誓わせるもので、私欲を肯定する新しい道徳と同様、功もあれば弊害もある。それは分かっている。そうではなく、デュムシェルや彼が援用するサーリンズ、ジラールが理論として精緻に検証してることを、ポピュラーな物語はいわば「目分量」で語っている、それが興味深いと思ったのだ。
 『ブッシュマン』(邦題)の主演俳優・ニカウさんは映画の公開当時に来日も果たしており、腰に履くパンツ一枚の狩猟スタイルでテレビに登場し人気者になっている。そして例によって…と言っていいだろう、エレベーターを見て「魔法の箱だ」とビックリしたり、彼から見れば贅沢にみえる衣服を取っ替え引っ替えする文明人を「理解できない」と眉をひそめたりしたと伝えられている。と記憶する。現代文明に驚嘆しながら、その浪費や欺瞞を批判する「高貴な原始人」という物語。シェイクスピアもサン=テグジュペリも使った手法で、そうした「文明を批判する南太平洋の酋長」をまるごと創造し一冊まるまるの本を造り上げた例さえある。かなり高い可能性として、ニカウさんもカメラの回ってないところではシャツにズボン、ひょっとしたらスーツにネクタイくらい着用する俳優だったのではないか、そうも思う。
 …だが、それらの疑わしさも含め、これら一連の「物語」には学ぶところが多い。映画のなかで貧相に描かれた山の古老やジャングルの番人が、おごったハンターたちに警告を発し、それが的を得た教訓として(大蛇に呑み込まれる段になって)実証されるように。たかが娯楽作品の怪しげな教訓が、理論的に正鵠を射ることは少なくない気がしている。

 世の中にはサーリンズの他にクラストルという人がいて、こちらの人は原始社会が国家のような権力の集中をやはり必死に排除しようとしてきた(ために現代人からは未開と思われるが、それもひとつの社会のありかただった)と説いているらしい。やはり同じくらいの時代のひとだ。こちらも併せて、いずれ読む機会を作りたいと、今わりと切実に考えている。
 …と終われば格好がつくが、実はさらにもうひとつ気になってることがある
 1980年前後の映画『ブッシュマン』(邦題)。不思議で素敵でキラキラ光る、争いを呼ぶ災いの根源を「世界の果て」に捨てに行く、選ばれた主人公。旅の過程で文明人たちの争いに巻き込まれつつ、最後は使命を貫徹する。ニカウさんがコーラの瓶を投げ捨てるのは山の天辺から足元に拡がる雲海なのだが(そのころ小学生だった子供たちは「で、これがまた空から落ちてきて最初からやりなおしだったりなー」などと茶化したものだが)この話、どこかで聞いたことがないだろうか。
 ないとは言わせない。主人公が平和な故郷を離れ、自分より大きいが欲にかられて愚かな人たちの争いに巻き込まれつつ、世界の果てに捨てに行かなければならない、誰もが欲しがり争いを呼ぶ「いとしいしと」。そう、指輪!
 『ブッシュマン』(邦題)の製作者は、その頃すでにカウンターカルチャーの聖典だった『指輪物語』のことを念頭に、アフリカの砂漠を舞台にしたコメディ映画を作ったのだろうか。それとも、両者はともに共通する古い道徳・古い神話・古い物語を源泉とする兄弟なのだろうか。
 そして、サーリンズやデュムシェルが説いた稀少性、ジラールの羨望・彼が模倣の分析で析出した「分身」といった主題などで、あの壮大な『指輪』は新たな切り分け・解釈が可能なのだろうか。

 いいかげんな日記だが、自分に向けた結論は書き換えねばなるまい。サーリンズと、クラストルは、そのうち読みたい。それに加えて、いつか本当に時間が許せば、映画でも原作でも『指輪』に再挑戦してみたい。誰か別のひとが「ジラールで読み解く指輪物語」とか、書いてくれるといいのだけど。

新世紀の尺度〜テッサ・モーリス-スズキ『自由を耐え忍ぶ』(2017.01.14)

 著者あとがきの日付を見て、笑ってしまった。すげえ!未来の書物だ!

もちろん誤植である。マーティン・リース宇宙を支配する6つの数』(林一訳/草思社)は2001年発行。原著はその前年。
 宇宙を支配する6つの数、といっても「アルファにしてオメガである1。父と子と精霊の3。神の子の死を暗示する13。そして獣の数字666…」みたいな内容では、ない。同書が取り上げるのは
 ・原子間にはたらく電気力の強さを重力の強さで割った数値N…10の36乗
 ・原子核を結びつける「強い相互作用」の値ε…0.007
 ・宇宙が膨張するエネルギーと重力エネルギーの比Ω…0.04
 ・反重力の強さλ
 ・物質が凝縮する強さを示すQ…10のマイナス5乗
 ・空間次元の数…3
 それぞれ、より基本的な要素に還元できない(たとえば「温度」は原子の運動エネルギーに還元できる)・その数値である理由を説明できない6つの数値。だが、たとえばεが0.006でも0.008でも宇宙は現在のような姿でなく、地球も人類も生まれてなかったろう6つの数値。ビッグバンから銀河の形成・超新星爆発や元素の誕生・ブラックホールから超ひも理論に至るまで、西暦2000年現在の宇宙と物理学のトピックを、本書はこの6つの数値を鍵に手際よくまとめている。
 ニュートリノの重量や、ダークマターなど、扱われる内容は読者が以前に見聞きしており、未知ではないかも知れない。だが「6つの基本的な数値」という尺度が、個々の内容を相互に結びつけ、構造的な理解を助けてくれる。なかなか好い啓蒙書だと思った。

 さて、実はここまではマクラである。
 昨年読んだ、とあるインタビューで「哲学とは何ですか」と問われた哲学者が概念を作ることです」と答えているのに感銘を受けた。
 物事を切り取ったり、まとめたりして、抽象化した概念・カテゴリというものは、誤って・あるいは悪意をもって用いればレッテル・ラベリングとなるが、いっけん複雑な事象をキレイに分割する補助線・理解するための尺度となりうる。
 実はここまでもマクラである。

 そうした「尺度の力」を銀河や素粒子ではなく、人が生きる社会を扱った書物で感じた。
 テッサ・モーリス-スズキ自由を耐え忍ぶ』(辛島理人訳・岩波書店)は9.11同時多発テロの余波がまだ残る2004年、「ブッシュの戦争」が泥沼化する中での論考。
 少し古い書物ということになるが、その批判はまだ有効で、逆に、この一年「どうしてこんなことに」と吾々をうろたえさせてきた社会の変動・Post Truthと呼ばれるような規範の崩壊が一年だけの突発事ではなく、21世紀の幕開けから・さらに前から連綿とつづいてきた継続事の帰結なのだと再認識させてくれる。
 そして同書を特徴づけるのは、(重力と斥力の比のように・しかし宇宙ではなく)現代の人間の世界を決定づけている尺度を、21世紀にふさわしく刷新して再定義・再提示していることだ。

 著者は、国家の枠を超えた経済活動…と地理的に・水平方向に捉えられがちな「グローバル化」という尺度を、娯楽や健康・教育や安全保障など(それまで経済外だった領域)への企業活動の浸食というタテ面で捉え直し「市場の社会的深化」という概念を提唱する。
 あるいは近代資本主義のモットーであった自由放任主義=「なすに任せよ(laissez faire レッセ・フェール」が実は絶えざる自己拡大を強迫的に必要とする「成長するに任せよ(laissez croitre)」であったと、エレン・メイスキンス・ウッズの言葉を引用する。
 ベンサムのパノプティコン=少数による多数の監視と「監視されているという意識の内面化」に対して提示されるのは、ジグムント・バウマンが提唱したシノプティコン(Synopticon)という概念だ。リアリティ番組やネットリンチの形で具現化した「多数による少数の監視」と自警団意識をさす。
 ・グローバル化→市場の社会的深化
 ・なすに任せよ→成長するに任せよ
 ・パノプティコン→シノプティコン
 こうして定義しなおされた尺度は、物理学の6つの数がブラックホールやクエイサーを説明するように、互いに連関しあって現代社会のきしみを説明する。
 民間軍事企業の台頭を典型とする、かつては国家が担っていた安全保障の分野への市場経済の浸食は、別の場では「法治国家」の前提が無効化されるワイルドゾーンの出現につながる。本書が提示する重要な概念のひとつだ。
 この超法規的な権力行使の場=ワイルドゾーンの典型として著者が2004年の時点で挙げているのが出入国管理所であることは、数式による予言が実際の天体観測で証明されたように吾々を震撼させる。(日本国内に在住する外国人・非国籍保持者に対する行政や社会の冷酷が昨年いくつもニュースになったことは思い出されてしかるべきだ)

 概念というと思い出すのはジョン・レノンの「神なんて概念(コンセプト)だ」という一節だ。
神なんて尺度にすぎない 僕らの苦しみを測るための
 『自由を耐え忍ぶ』でモーリス-スズキが提示する「市場の社会的深化」「成長するに任せよ」「シノプティコン」「ワイルドゾーン」といった概念は、21世紀初頭の吾々の苦痛を測るための、「神」に代わる有効で有用な尺度だ。「この定規を使えば、こう補助線が引けるのか」と驚かされる明晰さと、それを根底で支えているだろう危機感。
 本当はこういう本が新書くらい手に入りやすくコンパクトに、廉価に、どこの書店にも置かれる形で出れば好いのだよなと思ったのである。今を読み解く物差しと、そうした物差しを定義する理性への信頼を(再び)与えてくれる、有用な一冊でした。

 『自由を耐え忍ぶ』どちらかというと四方山話的エピソードであるが、ソ連崩壊後、ウラル地方の軍需物資工場が(戦闘機などに使われる)チタンを農耕用のスコップに転用し生産販売したが、まあさすがにチタンだけあって土を掘るのに有効である・以上にチタンそのものの価値に目をつけられ、どんどん輸出され、輸出された先で兵器の原料に転用された(と見てほぼ間違いない)という逸話が強烈。
 ちなみに「そんな世界をどう補正していくか」という見通しの一歩前くらいのことも語られています。

新成人の皆さんへ2017(2017.01.09)

 今年は手短かにということで、はい、手短かに参ります。
 今日の目出度き門出にあたり、新成人の皆さんに申し上げたいことはひとつ。
 皆さんに若い時の苦労は買ってでもしろとかいうのは、おおむね皆さんに苦労を売りつけたい者、苦労を売って利得のある輩が、自分の利得のために言うことですから、真に受けなくてよろしい。
 皆さんの中には小学校を卒業するにあたり、自分たちが使ってきた教室の机に感謝を示すため、真冬の川に裸足で入り、冷たい川の水で机をジャブジャブ洗わされた人たちがいるかも知れません。そういうのも含めます。
 生ぬるい安寧の中にいると人間は堕落する、大きな災害や戦争にでも見舞われたほうが人々は結束し謙虚にも懸命にもなるとか妄言を吐く奴もいます。そういうのも含めます。
 基本的に、そういう犠牲を称揚する人間は自分自身を犠牲にすることはありませんし、よしんば仮に万が一でも自身をも犠牲にした場合でも、それが自分以外の人間に犠牲を強いていい理由にはなりません。

 「戦争や国難(隣国の脅威など)があったほうが国民は結束する」と説く者は、これから増えるかも知れません。「科学技術は軍事関連で飛躍的に発展してきたのだから、兵器産業に注力するのは良いことなのだ」というのも、その亜種であり同類です。
 皆さんが生まれる遥か以前(実を言うと私が生まれるより遥か以前です)の映画に「ボルジア家が支配したイタリアの、戦争と流血の30年間はルネサンスを生んだ。スイスの同胞愛と500年にわたる平和と民主主義は何を生んだ?鳩時計だけさ」とうそぶく男が現れます。
 こういう耳あたりのいい警句は、しばしば大体おおむね事実無根かも知れないと疑う想像力が皆さんには必要です(気になるひとはルネサンスや、スイスの歴史についてでも調べてみるとよろしい)。実際この男は−むろん映画の中の話ですが−戦後の混乱をダシに人の不幸で悪銭を稼ぎ、その稼ぎで何の美しい物も生み出すことなく、下水道から出られずにくたばります。
 恵まれてあることは僥倖です。それが先人たちの苦労や犠牲を伴ったとしても、その恵みをもたらしたのは「恵まれてあるべきだ」「苦労はいやだ」「犠牲はたくさんだ」という願いであり、「今の人々は恵まれすぎている。もっと苦労が必要だ」というのは本末転倒です。そういうことを抜かす連中は、キアヌ・リーブスに聖なるガトリングガンで顔面ガチ殴られればいいのです。『コンスタンティン』という比較的あたらしめ、皆さんが小学生の頃の映画です。あれは実に好いので、ぜひ観なさい。若いうちに、買ってでも観なさ…

 あー、その、「買ってでもしなさい」を信じてはいけないという話でした。
 アレですよ、こうして皆さんに「皆さんのためになる話ですよ」といって何かを教唆する話は、あくまで話半分に聞くタヌ、いえ、聞かなければいけません。
 時間も巻いて参りましたし、隠していたシッポが尻の後ろからポロリしそうになっても参りましたので、ここらでドロン、いえ、皆さんの洋々たる前途を祈念して、祝辞とさせていただきタヌ…
(ざわつく場内。スーツの後ろから出たシッポを押さえつつ、ピョンピョン跳びはねて退場)

小学校の机に感謝をこめて冬の川で洗う奇習は、昨年のニュースで伝わってきた話なので、最近になって新たに出現した悪習かも知れない。こういう「いかにも昔の悪習っぽい」ことが新たに始まる現象には、とくに気をつけたほうが良いタヌ。

今年の一曲(2016.12.31)

Brian Eno - Fickle Sun (iii) I’m Set Free

 原曲は50年近く昔の、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドのサード・アルバム収録曲。
 「実際に活動していた当時、ヴェルヴェッツのレコードはほとんど売れなかった。だが、それを聴いたごく少数の者は、みな自らもバンドを始めた」と、その早すぎた先進性を形容したのがブライアン・イーノだった。それは一般論にことよせた己語りで、別の場所ではもっと端的に「自分はVUのアルバムを聴いてバンドを始めた」と語っている。
 だからそんなイーノが、VUのリーダーで実質的なソングライターだったルー・リード(〜2013)と距離を取り続けたのは、歴史のIFを思わせる、奇妙で興味深いできごとだった。

 音楽的には、その最初期からVUの「Candy Says」やルーのソロ曲「Caroline Says(I, II)」の影響があきらかな「Cindy Tells Me」があったり
(ちなみに「Caroline Says II」はスザンヌ・ヴェガに歌の道を進むことを決意させた曲でもある)
生涯ドローン(自動飛行するロボットではなく、長く伸びる持続音のこと)を愛し続けたルーの『メタルマシーン・ミュージック』や最晩年の『ハドソン・ウィンド・メディテーションズ』『ルル』などの試みに対応しては、キング・クリムゾンのロバート・フリップと共作した『ノー・プッシーフッティング』をはじめ数々のアンビエント・現代音楽系の仕事がイーノにもあり、また60年代後半ヴェルヴェッツが時代の尖端を切り開いたパンクな暴力性を80年代初頭・同じニューヨークで隔世遺伝のように再生させたノイズ系バンドのコンピレーション『ノー・ニューヨーク』をプロデュースしたのもイーノだったりと、両者は親しく近しく、イーノの関心の先にはルーがいた。あるいはルーにはないポップ性や時代への嗅覚で、その関心の先へ進んだ・ルーの狷介さを補完したのがイーノだった。
 けれどVUの解散後、後を追うように音楽界に踊りでたイーノが接近したのはセカンドでVUを脱退したジョン・ケイルのほうで、ルーではなかった。もちろんイーノとケイルは『アナザー・グリーンワールド』や『ロング・ウェイ・アップ』で素晴らしい共同作業を残している。デヴィッド・ボウイとの交流もある。70年代前半にソロの方向性で迷うルーにプロデュースの手を差し伸べたボウイが、自身の方向性を模索していた70年代後半に今度はイーノがボウイをプロデュースし、二人の交友は今年はじめのボウイの逝去まで続いた。一方70年代後半には疎遠となったルーとボウイも友情を取り戻し、その友情もルーが亡くなるまで、ルーが亡くなってからも続いた(ハードロック界の重鎮メタリカと共作し、主にメタリカのファンから酷評された遺作『ルル』をボウイは高く評価し、未亡人のローリー・アンダーソンを励ましたという)。ルーとケイルもバンドメイトだったスターリング・モリソンやバンドの支援者だったアンディ・ウォーホルの死を機会に和解している。

 だがこうしてルーの友人とは長い交流をつづけ、音楽的にも似た領域を模索しながら、イーノとルーが共演する、イーノがルーに直接アプローチすることは、驚くほどなかった気がする。人物的に合わなかったのかも知れない。また電子楽器を駆使するイーノと、生涯ギターにこだわったルー・リードでは、音楽の志向的に共有するものが多いぶん、逆に共有しないものが互いを斥けたのかも知れない。もちろん自分が何か大事な共同作業を忘れてるのかも知れない(えー)。
 あー、ごほん。
 だもんで原曲から、まだ何物でもなかったろう二十歳のイーノがそれを聴いてから約50年が経過して、ルーの楽曲が正面から取り上げられたことには、長い回り道がようやく出発点に戻ってきたような、何か「成就」に似たものを感じてしまったのだ。身も蓋もなく言うと「え?イーノ、死んじゃうの?と不安になったりもした(ひどい)。幸い、残された者たちにとっては悪夢か世界の終わりのようだった2016年をイーノはつつがなく生き延びた。明日=来年の1月1日にはまたアンビエントの新作をリリースするという。多くのひとが政治的に狼狽し、不安にかられた今年、音楽を離れて社会的なステートメントを幾度も発したりもした。正直「神様ありがとう、まだイーノを残しておいてくれて」と思うことすらあった。
 そう正直、今年はあまりに多くのスターがこの世を去った。ボウイが去り、プリンスが去り、春にはキース・エマーソンが冬にはグレッグ・レイクが、夏には吉良知彦と森岡賢が去った。ピート・バーンズが去りジョージ・マイケルが去り、ジョージ・マーティンもレナード・コーエンもこの世を去った。ミュージシャン以外にも作家や俳優、あまりに多くの人がこの世を去った。ついでに言えばアメリカも死んだ(少なくとも一度は死んだ)。
 50年ぶりのイーノの原点回帰は、ひどい言い方をすれば「これでイーノがいつ行っても受け容れるしかない」と覚悟を決めさせる出来事でもあったし、実際に死ぬかわりに一度その生涯を成就させる・実際に死ぬことなく聴く者に死と生涯を考えさせる「快活な脅し」イーノならではの実験にも思えた。ついでに言えば多くの作家が原点回帰というとき、自らのキャリアの原点に戻る・受け手もそれを期待するものだが、自身の音楽が始まる前に回帰したという意味でもイーノの「I'm Set Free」は実験であり、ヒントでもあった。

 何も知らずに聞けば長閑に聞こえそうなバラードだが、今年もっとも印象に残った曲に選ぶ由縁である。

 「僕は自由になった 僕は自由になった」
 ブライアン・イーノはこう唄うまでに、50年をかけた。
 そして彼の、ルーの詞はこう続く。
「僕は自由になった 新しいイリュージョンを見つけるために」
 それでは皆様、よい2017年を。

ライン。(2016.11.14)



モーガン・フリーマンとマイナンバー制度(2016.11.13)

 手短かに行こう。まずはクイズだ。デヴィッド・フィンチャー監督の『セブン』とクリストファー・ノーラン監督の『ダークナイト』二つの映画には、ある共通点がある。
 どちらも敵は邪悪きわまるサイコパス、そうだね。ダークナイト=バットマンが暗躍するゴッサム・シティのモデルは『セブン』の舞台でもあるニューヨークではなかったっけ?そう。いいや、もう日記のタイトルで示してるのに、思わせぶりはよそう。二作とも血気にはやる若いヒーロー(刑事ブラッド・ピットと、バットマン)を支える老練な善の守護者としてモーガン・フリーマンが登場する。
 問題は街を兇悪な犯罪者・秩序の破壊者から護るため、彼は何をしたかだ。
 『セブン』でモーガン演じる刑事サマセットとブラピが飯を食ってるダイナーに、一人の男がやってきて、こそこそとサマセットにメモを渡す。男はニューヨークの図書館の職員で、彼が渡したメモは利用者の貸出記録だ。サマセットは言う。たとえばヒトラーの著書・たとえばキッチンで原子爆弾を造る解説書を借りるような人間を、FBIは監視していると。本来は違法の情報提供をもとにサマセットたちは連続殺人犯の身元を突き止める。
 『ダークナイト』でモーガンが演じるルーシャス・フォックスは、バットマンの装備を造り上げた技術者。彼が主とゴッサム・シティの窮地を救うためにしたのは、市内すべての携帯電話の盗聴・傍受によって仇敵ジョーカーの居場所を特定する、禁断のハイテク技術の行使だった。
 違法と書いたし、禁断と書いた。誇張ではない。プライバシーの自由・私的通信の秘密・内面の思想良心の保護は、現代の十戒の最重要項目のひとつだ。
 それが証拠に、刑事サマセットは目の前でブラピを失ない、ルーシャスに通信傍受を命じたバットマンは『ダークナイト』で街を追われ、続篇で自らを抹殺するに至った。ある種の暴力は、それをもってしか悪を倒せない。だがその行使は「悪を倒すためには仕方なかった」だけで埋め合わせがつかず、行使した者も滅ぼして初めて帳尻が合う(もしくは、合わずに遺恨が残りさえする)。正義を名目にした暴力を戒める、それは寓話だ。そして二つの映画で、その「振るってはいけない禁断の剣」は通信の秘密・読書の秘密の侵害だった。二つの映画でモーガンがしたのは、作品の主人公を破滅させるに足る「罪」だったのだ。二作を作った社会(ハリウッド・ニューヨーク・アメリカ)が、いかにそれを神聖視しているかの証左だろう。

 翻って、この国の社会では図書館の利用記録の秘密は、それほどの重大事と捉えられてはいない。
 学校図書館で自分の前に同じ本を借りた子が気になって追いかけ始め、恋に落ちる物語はいくつか思い当たるし、まあ微笑ましいのだけれど、それが許されたのはせいぜい20世紀頃までだろう。それが微笑ましいで済まなくなったのは、同人誌の奥付に作者の実の住所氏名が記載されなくなった時期と重なるかも知れない。
 だから一年か二年前、小説家(具体的には村上春樹)の在籍した中学だか高校だかの学校図書館の貸し出し記録が暴露され「なるほど、あの作家は青春時代こんな読書を」と、まるで好ましく微笑ましい話のように捉えようとされた件には「まずくない、これ?」と思ったし、
 総務省が図書館の貸出カードと、マイナンバーの統合を構想しているという話は本当にまずいと思っている。
嫌な予感しかしない、全国の図書館をマイナンバー個人番号カード1枚で利用可能にする方針が決定 (BUZZAP!・2016年11月11日) 】
http://buzzap.jp/news/20161111-library-mynumber/
 本来なら逆に、図書館のカード「なんか」に個人情報や納税記録まで分かるマイナンバーが紐づけられるなんて!と恐れるべき処だろう。でも、それは記事がやってくれている。ひねくれてる僕は図書館の貸出カードにマイナンバー「なんか」(笑)が関わるのは面倒だし「何かマズい」と言っておきたい。
 今の世の中は同人誌の奥付で身元が知れることはないけれど、通販サイトで何か買えば・あるいは閲覧しただけで「これもオススメです」と宣伝が押しつけられてくる。ある意味で便利とも言えるが、何かマズい気もする。そして、それが「マズい」となったとき、図書館の利用記録が侵害されるのが特に「ヤバい」と思われるのは、通販サイトやポイントのつく会員カードを使っての「売買」とは別の原理で動くアジール・聖域だから(図書館は)という意識があるから、かも知れない。
 少し前にネットでは「図書館の従業員は待遇を良くしたければ貸出を増やすなどの業績をあげるべき」と「売買」を業とする経営者がつぶやき紛糾したことがあった。レンタルDVDや書籍の「売買」をする企業(具体的にいえばTSUTAYAだ)が運営に乗り出した図書館が、貴重な史料をゴミに出したり中身のない背表紙を棚に並べたりして壊滅的な事態にもなっている。たぶん図書館は、「売買」の原理とは別の原理で動いているからこそ、「売買」の原理で動いてる社会が「ちょっとマズくね?」となったとき、それが如実に「ヤバい」こととして現れるリトマス紙・炭鉱のカナリヤのような存在なのだ。
 こんなに長く書くつもりはなかった。要するに「図書館と、そこを利用する人々を守れ」と言いたい。同じように売買とは別の原理で動いている「青空文庫」にも、その商標を売買の原理で乗っ取ろうという動きがある。So I ask you to focus on.(だから注意して見ていてほしい)。
 

誰がそのシャツを縫うのか〜アントン・コービン監督『誰よりも狙われた男』(2016.11.12)

(レナード・コーエンまで向こうに行ってしまい、すごく凹んでいます)
(それとこれとは関係ないのですが、2015年2月…ISによる日本人人質事件が最悪の結末となった頃、当時はあまりに生々しくてドアの外に出せなかったメモを久しぶりに読み返し、ほぼ原文のままサルベージすることにしました。この陰鬱な文章が、当の映画を観る人を増やすことに貢献できる気はあまりしないのですが…)
  *   *   *
 池袋の名画座でジョン・ル・カレ原作の映画『誰よりも狙われた男』を観てきました。ロードショー公開は昨年(2014年)11月。急逝したフィリップ・シーモア・ホフマンが主演した最後の作品で、監督はアントン・コービン。写真家としてデペッシュ・モードやU2などのアートワークを手がけ、また独自の(いびつな?)美しさをもつミュージック・ビデオ※を数多く作ってきた彼の劇場長篇が→
※たとえばこんな感じ:人の(男女の?恋人同士の?)分かり合うことの不可能性を無言劇のように描くマーキュリー・レヴ「Opus40」(Youtube)

→幻想性を完全に廃したリアルな諜報もの(エスピオナージュ)なのは意外でしたが、地味なものを地味なまま美しく捉える(山ほどの資料とメモが乱雑に積まれたデスクが絵になる、みたいな感じ)映像はさすがで見飽きない、とは先入観・贔屓目・プラシーボ効果のなせる業ですね、はい…。
 物語の舞台は9.11直後のドイツ・ハンブルク。ロシアでの迫害から逃れ、不法入国してきたチェチェン人・ムスリムの青年。迫害逃れは口実で、本当はテロを目論む過激分子ではないか…と監視を始めた対テロ秘密チームのリーダー(ホフマン)は、主イエスと同じ「イッサ」という名を持つこの青年を生贄の山羊に、さらなる大物を釣り上げようとする。
 (これも贔屓目かも知れないけれど)冷徹に抑えた気迫を演じきるホフマンを観ると切なくなって、役柄だし演技なんだけど煙草とかやめて…と思ってしまうのだが、その行動自体は悪辣で酷薄。人権派の若手弁護士や、善意の銀行家(ウィレム・デフォーがまた実に好いです)の弱みをえぐり、恫喝し、言うことを聞かせる。けれどその真意は…というストーリーで。

 以下、映画には何の責もない、勝手に結びつけた政治の話になる。
 同作を観ながら思わずにいられなかったのが、最悪の形で収束したイスラム国(IS)による人質事件のことだ。湯川遥菜・後藤健二の両氏に加えヨルダン人パイロット・カサスベ氏も殺害され、ヨルダン政府は囚えているISメンバーをこれから次々処刑すると報復を宣言した。
 むろん今回の誘拐・殺害に認められる正当性などない。彼らがとった行動は(綿密な計算に基づくというより)残酷と場当たりの混合に思われるし、そのほか伝えられる数々の蛮行に対しても共感や同情の余地はない。加えて言うと「イスラム国」を名乗る彼らと、大多数の平和に暮らすムスリム(イスラム教徒)は別のもの・むしろ後者こそ前者の最大の被害者であり、両者を混同したバッシングや排斥も厳に慎まれるよう注意しなければならない。
 こうした当然のことを踏まえたうえで−たぶん多くのひとが賛同せず怒るだろうし、僕じしんも間違ってるかも知れないと半分あやぶんでいることを言う。
 彼ら(IS)を共感も共存も不可能な絶対悪と規定し、いくらでも嫌っていい・憎んでいい相手とすることに落とし穴はないだろうか。
 今回の事件にあたっては、ISが公開した人質の写真を自ら「クソコラ」と呼ぶような嘲笑をもってコラージュした画像がネットに投稿され、それをテロなど鼻にもかけないという意思表示と評価する声もあがった。また、日本が中東各国に支援を約束していた2億ドル※追記参照と同額の身代金要求に対し「2億ドル払って、けれど他の国にさらに2億ドル払ってやればいい」という発言も目にした。こうした意見は「人質は自己責任だから救出する必要はない」とか逆に「日本政府は軍事行動で報復すべき」といった意見よりは穏健に見える。だが、そうした穏健そうな意見すら、テロリストにギャフンと言わせたい・突きつけられた悪意や嘲弄に報復したいという感情が、人質の救出のために必要なことを考えるより優先した結果ではなかったか。
 僕はそれは、人として自然な反応だと思う。心理的な脅威やダメージを押しつけられれば、人はもう物理として感情反応を返さずにはいられない。ただ嘆き人質の無事を願うのも、テロリストを憎悪し嘲弄し返したいと思うのも、逆に日本の現政権の不手際を責め国会前に詰めかけるのも、(半分は最善を考えた計算のつもりであれ)半分は感情の発散だ。そうしないと、自分がダメージで潰れてしまう
 だがそのうえで、最初から挑発に挑発で返そうとした人の多かったことに、僕は若干の不安を憶える。非常に悪辣な・死者に礼を失するかも知れない言い方になるが、挑発に対し「クソコラ」を送りつけた人たち・それを評価した人たちは、相手はその気になれば本物の死体を投げ返してこれると本当に理解していたのだろうか。
 ISにパイプがあるとされる日本人イスラム研究者の「身代金を払うが、中東で一定の尊敬を得ている赤新月社(赤十字社の中東版。十字がキリスト教のシンボルであるのに対し、ムスリムのシンボルとして月を象る)がIS支配地域で人道的活動を行なうための援助の形を取る」という提案は、今回の事件でなされた数少ない妥当で実現可能性のある提案だったと僕は思う。だが多くのひとは目立ちたがり・あるいはISの手先として彼自身もろとも、その提案を斥けた。

 もう一度まとめると、挑発にたいし挑発で、悪意には悪意で反応するのは人として自然なことだ。それを政府が公式見解としてやれば大変なことになるが、冷たい言い方をすれば「たかが個人」が意見として表明したところで、単体レベルでは何ごとかを大きく動かすことは(あまり)ない(いわゆる「クソコラ」が相手方の目にとまり、余計に態度を硬化させることはありうる)。
 また、実際に相手は交渉可能な相手だったかと問われれば正直「どんな交渉不可能な相手とでも交渉しなければならないのが現実だろう」と言い切る自信は僕にもない。サリン事件前夜のオウム真理教(※)と、あるいはカンボジアで粛清を繰り広げていたクメール・ルージュと、彼らISは同等のものではないのか?
※ただしこのようにオウム真理教を絶対悪とすることについても、たとえば森達也氏の辛抱づよい理解の試みを知る以上、留保せざるを得ない。
 そのうえでなお、相手がどんなに残虐で悪辣でも、たとえ救出の可能性が限りなくゼロに近くても、誰かが泥を飲むように交渉にあたらなくては、人質の救出の可能性はゼロなのだ。ISの挑発に挑発で、嘲弄に嘲弄で返していた人たちは、そうして自分たちは相手を拒絶しても、政府や外交の誰かは泥を飲んで交渉にあたってくれているとでも思っていたのだろうか。あるいは最初から人質は帰りっこないと思っていたのか。それとも何も考えていなかったのか。
 全力で人質解放のため努力するかのように宣言していた政府は、そのじつテロリストに接触さえしていなかったと自らコメントした。湯川・後藤両氏の拘束後すぐに設けられた外交チームの士気がいちじるしく低かったとする報道もある。もとより相手も悪かった(交渉が成り立ちがたい相手なのは事実だ)。総じていえば今回の件では、第三者の仲介など、交渉のルートを日本は構築できなかった。それはこの十年くらいをかけ中東の憎しみや暴力・報復がISというきわめて妥協性の低い鬼っ子として濃縮されてしまったためでもあろうし、その十年のあいだ日本が中東に十分な人道的コネクション・人脈を作れなかったということでもある。
 ISの行ないは非道で、同意の余地はない。だがISの残虐性にすべてを帰して「そもそも交渉不可能な相手だった」とすることで、日本の外交的な不作為や失策まで帳消しにされるのは、あやういことではないのか。

 『誰よりも狙われた男』は、その泥を飲むような仕事を引き受けた者の物語であるように、僕には思えた。彼は脅し、恫喝し、偽り、小悪を見過ごし泳がせすらして「よりマシ」な成果を勝ち取ろうとする。汚れたヒーローだ。実は間違っており、ヒーローですらないかも知れない。
 そのような彼の苦悶が、テロリストとの交渉可能性を非難し冷笑する今のこの国の善意ある人々に理解できるだろうか。あるいは映画を観れば主人公に共感し、その苦さを理解しても、いざ現実にテロリストの脅迫を受ければ、物語に共感するのと現実は違うとなるのだろうか。
 僕には分からない。ここまで書いてきたことが正しいのかさえも。
 
アントン・コービン、他にも何本か劇場映画を撮ってますにゃ。右は彼のPVコレクション。
※追記:約二年前の当時は自明のことだったので書き落としていたけれど、そもそもこの二億ドル支援自体が失策で、それを挑発と正しく把握したISの報復が一連の事件だった。僕はそう捉えたし、そこを落としてはいけないと今でも思っている。

地上でもっとも高貴なものは〜オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』(2016.11.09)

詩人のリルケがアポロンの像を眺めたとき、アポロンは詩人に語りかけました。
お前は生き方を変えねばならない
(アーシュラ・K・ル・グィン『夜の言葉』)

 社会は貴族的「でなければならない」なんて私が主張してると思ったら大間違いだからな。『大衆の反逆』で著者オルテガ・イ・ガセットは言う。私に言わせれば社会とは本質的に貴族的なもので、貴族的じゃなければ社会じゃないくらいなんだぜと。
 そんなオルテガ、自ら「歴史を徹底的に貴族主義的に解釈することで知れわたっている私」と名乗って誇らしげですらあるオルテガだが、彼の言う「貴族」とは吾々がふつうに連想するソレではない。先代が成し遂げた偉業にあぐらをかき、遺産を食い潰すだけの貴族階級は、彼の思い描く「貴族」から最も遠い「貴族主義の腐肉」にすぎないのだ。

シリーズ・古典を読む
 逆に「このへん読んでなかったの?」と怒られそうだが、『大衆の反逆』(寺田和夫訳/中公クラシックス)。今はちくま学芸文庫で出ているようだ。金色の表紙の角川リバイバル文庫で登場したこともあり、古書店などでも手に入れやすいと思う。むろん図書館で借りてもいい。読まれるに値する本だ。
 1930年の著作だが、驚くほど読みやすい。著者の「あやまたず理解されたい」という気迫がみなぎる丁寧な語りは文章そのものが面白いし、おそらく30過ぎたひとなら学識や教養というより社会経験や世間知で納得しながらスイスイ読める。それでいて「騙されてないかコレ、乗せられたらヤバい処に同意させられてないか」と怖い気分にもさせられる。とっつきやすいが危険な書物でもあった。
 そもそも題名から想像されるような内容ではない。自らも大衆でありながら大衆を蔑視するのが大衆の特徴、などと(また)大衆を蔑視する言い方があるが、同書はそうした特権的なポジションを読者に許さない。
 すでに見たように、貴族階級ですら腐肉扱いなのだ。多少なり恥を知っている人間ならば「今日の平均人は必要なものをすべて自分が持っていると慢心し、聞こうとはせず裁く側にまわる」「理由を述べて人を説得しようとせず、相手が何を考えているか調べようともせず、ひたすら自分の意見を押しつける」という痛罵を受け「自分は違う」とはいえないだろう。「自分がクズじゃないと慢心する奴こそクズだ」と言われて反論することは難しい。汚いトリックとも言えるが、それを駆使して著者は読者を「許さない」ことに全力を尽くす。
 なぜか。彼は今ここではない先に読者を導きたいからだ。「自分は著者のおメガネに叶っている」と慢心させず、彼が目指すさらなる高みへ読者の注意を向けたいからだ(と、勝手に考える)。それは何処か

 それを知るために、まずは彼の大衆批判をまとめておこう。その主張は大きく二つに分けられる。
1)過去の伝統や教養と切り離された者はみんな大衆で救いがない。
2)創業者の遺産で食べてる者はみんな大衆で救いがない。
 1については割愛する。芸術など分かりもしないのに劇場を満員にするお前らは何だ?と罵倒するオルテガは、彼のいう芸術ですらなさそうなロックコンサートやサッカーの試合で劇場どころかスタジアムが満員になる現状を見たら失神するかも知れない。
 興味深いのはだ。オルテガ自身は使ってない言葉だが「イノベーション」という言葉がある。大衆や貴族といった誤解されやすい言葉を排して言えば、彼が主張しているのはイノベーションをその場で生み出してる階層・世代だけが貴いということだ。
 彼は基礎科学の重要性を説く。自分たちでは作り出せない自動車やアスピリンをただ成果として享受する層を、彼は大衆と呼ぶ。
 彼は市民社会が議会制や民主主義を「発明」した時代を称揚する。その成果として得られた民主制を既存の、当然の権利として主張する世代を、彼は大衆と呼ぶ。
 最初に戦功をあげ領地を征服し支配を確立したイノベイターだけが彼の言う貴族で、その利子で生きる後続者が貴族の腐肉であるなら、現代に生きる吾々は(彼自身はこうは言っていないが)先達が成し遂げた科学革命・市民革命の精神的遺産を食い潰す近代の腐肉なのだ。
 しかし重要なのは、かようなイノベーション主義・大衆を蔑視するエリート主義が「しかるに民主主義ほど気高い人類の達成はないという宙返りのような結論に帰着することだ

 古代ギリシャ・ローマ世界でオルテガが「たった二人の秀でた人物」と賞賛するのはテミストクレスカエサルだ。テミストクレスについては、名前以外は語られていない。彼のカエサル讃を見よう。
カエサルの解決策は、保守主義者の解決策とは全然逆である。それまでのローマ(中略)を正すためには、
 ローマの背負った激しい運命を徹底的に受けいれ、征服を続行する以外手のないことを彼は理解した」
 すでに爛熟し旧弊化した東方オリエントで既存のシステムに乗り、既存の王に取って代わるのでなく、今後あらたな脅威となりうる西方ガリア世界の征服をカエサルは選んだ。そのイノベーションは異民族をローマ化・文明化することであり、逆にいえばローマの文明や理念を異民族にも及ぶものとして拡げることだった。
 同様に著者はアラゴンとカタルーニャが融合してスペインとなったことを祝福する。イングランドとスコットランド、アイルランドが融合してグレートブリテンになったことも彼の良しとすることだろう。逆にいえばアーリア人だけが優生民族で他の劣等民族を支配するだけの第三帝国を、彼はおそらく認めない。外国人の観光客にワサビ大盛りの寿司で嫌がらせする国民などはもってのほかだろう。
 彼は言う。
文明はなによりもまず、共同生活への意志である。
 他人を考慮に入れなければ入れないほど、非文明的で野蛮である。野蛮とは、分解への傾向である。
 だからこそ、あらゆる野蛮な時代は、人間が分散する時代であり、
 たがいに分散し敵意をもつ小集団がはびこる時代である」
 彼の主張を敷衍すれば、民族や集団は孤立していてはいけない。異なる集団・異なる文化が融合し、融和すればするほど前進したと言える。アラゴンとカタルーニャからスペインへ。ヨーロッパ諸国からヨーロッパ共同体へ、そして世界へ。国家は、世界史は、そういう方向と目的を持っているのだという著者の信念は、読者をたじろがせ恐怖させる処がある。
 にも関わらず「他人を考慮に入れ、共に生きよ」という著者の諫言は胸を打つ。
 そこから必然として導き出される次の一節は、本書の最も美しい部分だろう。
政治的に共存への意志がもっとも高く表現される形式は、自由民主主義である。
 それは、隣人を考慮に入れる可能性を極限まで推し進めたものであり(中略)
 最強者、多数者と同様には考えず、また感じもしない人々も生きていくことができるように(中略)
 たとえ犠牲を払ってでも、余地を残しておくことに努める政治的権利の原則である」
自由主義は−今日、次のことを想起するのはたいせつなことだ−最高に寛大な制度である。
 なぜならば、それは多数派が少数派に認める権利だからであり、
 だからこそ、地上にこだましたもっとも高貴な叫びである。
 それは、敵と、それどころか、弱い敵と共存する決意を宣言する

 1930年代に『大衆の反逆』を著したオルテガが、アメリカという国にほぼ期待しなかったのは、その歴史の無さを回復しがたい欠陥と判断したからだった。彼の目には新興の経済国アメリカは基礎科学が根づかない技術の国と見えたのだろう。
 現実にはアメリカは20世紀後半のイノベーションの牽引者となった。科学だけではない。あまたの移民を受けいれ人種間の平等・男女の平等・LGBTまで「国民」が示す意味を絶えず拡張しつづけている点で、またアメリカ的な民主主義を世界に広めようという拡大の意思において、かの国こそは現代のカエサル≒オルテガの指さした国家や世界史が向かうべき方向の体現者ではなかったろうか。
 (その拡大主義が世界にもたらした惨禍・弊害はオルテガの目的をもった国家観・方向性のある世界史観のもつ危うさの体現であるとも言える)
 だがそのアメリカも、オルテガが期待したヨーロッパ統合の理想も、急速に潰え、崩壊の危機にさらされている。先に紹介した『大衆の反逆』の自由主義論が次のようなペシミズムに引き取られるのを見る時、彼はやはり人々には期待しないと決め、心底世界に幻滅していたのかという悲しい疑いが頭をよぎる。
「人間という種族が、これほど美しい、これほど逆説的な、これほど優雅な、これほど軽業に似た、これほど反自然的なことを思いついたとは、信じがたいことだ」
だからこそ、この同じ種族がじきにそれを捨ててしまおうと決意したからといって、驚いてはならないのである。この地上で確立するには、これはあまりに困難で複雑な制度である
 それでも、この嘆きは1930年代に書かれたものだ。これから来る分断・彼が言う「非文明的で野蛮」な分断は、彼のスペイン・彼のヨーロッパを蹂躙したものに匹敵するか、それよりも酷いものかも知れない。けれどその後の数十年には、彼が想像もしなかったような(科学的な、そして社会的な)イノベーションもあったのだ。
 あきらめてはいけないと言うのは簡単で、ある意味で安易だ。けれど言うほど容易くないことは承知のうえで、あきらめてはいけない。「最強者、多数者と同様には考えず、また感じもしない人々」それは最初は、直接に吾々ではないかも知れない。吾々ではない人々に加えられる分断や抑圧に鋭敏であれるか。
 本は、書物は、物語は、鋭敏であれと絶えず吾々の目を覚まさせるだろう。あるいは願う。本や物語との出会いは、そのようであるようにと。とってつけたようですが(実際とってつけたわけですが)読書週間が終わっても、よい読書の日々が皆様に続きますよう。

本を読め。いいから読むんだ。〜読書週間2016(2016.11.01)


今年は出遅れました。そしてこんなポンチ絵…

 ミシェル・フーコー『性の歴史III〜自己への配慮』(田村俶訳/新潮社)を読んでいる。古代ギリシャ・ローマ社会を舞台にした前作『II〜快楽の活用』(自サイトでの感想はこちら)では伸び盛りの若者があふれる精力をコントロールし有効に活用することが、主人として家庭を・支配者として社会を運営することと同列に捉えられ推奨された事情を描いたのに対し、本作では「(下品な言い方になりますが)溜めすぎても身体に悪いし、出しすぎても虚脱する」弱い自己への配慮として性のコントロールが推奨される、時代の微妙な変化が示唆されている…ようだ。それはそれとして、本書を88頁目まで読み進めたところで「あっ」と思った。

…お前、お前ーっ!!先月の日記で書いた、ドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』でサッパリ意味不明だった謎単語ヴォルプタス
 きらびやかで美しく、そしてサッパリ意味が分からない。
 〔ヌーメン〕て何?〔ヴォルプタス〕って、〔器官なき身体〕って何??
 再挑戦してみた。やっぱり、よくは分からない。
 ヌーメンて何だ。ヴォルプタスも器官なき身体も、相変わらずサッパリ意味不明だ。
(先月の日記より)でおなじみの、あのヴォルプタスに、こんな処で再会するとは。やっぱりドゥルーズとフーコー、仲いいな?
 分からんものも色々読んでるうちに分からんまでも親しくなる・読書は孤ならず((c)池澤夏樹)なんてことを思ったりするのでした。そうか逸楽か。まだよく分からんが。

 お金より大切なものはない、なんて言うひとがいる。理由を聞くと(いや、訊かずとも向こうが勝手に吹聴するのだが)お金で買えないものはないから、と言う。
 でもそれはお金で買えるアレやコレやに価値があるのであって、お金じたいは逆に一番つまらんとも言えるわけだ。お金で買える事物(健康や命まで含まれる)を軽んじてるわけではない、そうした事物が買えるなら、たしかにお金は大切だ。だが、それは「いざというとき価値のある事物に変えられる」可能性の大切さ・ありがたさで、お金そのものに価値があると取り違え、お金そのものを崇拝し愛でるのは逸脱というものだ。
 本も同様で、積み上げた蔵書は「いつでもこれを読める」可能性の価値であって、その価値は読んで初めて意味を持つ。でも積み上げた本そのものに価値があると取り違え、威張るひともいる。「お金より大切なものはない」「お金で買えないものはない」と豪語する人と、積ん読を誇る人は、どこか似ている。

 もうひとつ。身銭を切って買った本でないと、(教養は)身につかないなどと説教する人が時々いる。若い人はそんな寝言、真に受けなくていい
 本を買えば著者や出版社・出版業界が潤う。それは本当だ。
 出版業界が潤えば、もっと沢山、いい本が出るかも知れない。それも正しい。
 逆に本を買わなければ、著者や出版社・業界は干上がる。それも確かだ。
 本を買うべきだと、もっと読みたければ買うべきなのだという訴えには心を留めるべきだろう
 (そういう風に言う人たちが、たとえば買う側の最低賃金を1500円に上げろといった訴えに概ね冷淡で無関心なのもどうかと思うが)。
 けれど、身銭を切って買った本でないと、(教養は)身につかないは真に受けなくていい。本を買わせたいがためのウソならば、そんな脅しみたいなウソに耳を貸す必要はない。もしそのひとが本を買うのが好きで・あるいは本をもっぱら買う人生を送ってきて、そんな自分を肯定したいがために、自分のような生き方だけが正しいのだと主張してるなら、その人の誇る教養なんざ、たかが知れている。
 真に受けなくていいのだ。
 なんなら、大英博物館の図書室にこもって『資本論』を書いたマルクスに訊いてみるといい
 それで足りなければ、同じ大英博物館の図書室で本を読みまくった南方熊楠も連れてくればいい
 さいきん知ったのだが、コリン・ウィルソンも同じ図書室で本を読みふけって『アウトサイダー』を書いたのだそうだ

 もちろん、買って手元に置きたい本は、買えばいい。新刊を定価で買えば、著者も出版業界も潤う。なんなら新刊を片っ端から買っては積み上げ、読まずに死蔵してる人のほうが、世の経済を潤しているのかも知れない。
 だが読書週間くらい言ってもいいだろう。本は読んでこそだ。身銭を切る切らないは関係ない。読んだ本だけが教養になる。
 言い替えれば、本は読ませてこそだ。図書館なのに本を貸し出す利便を没優先にして、壁面に本の模型をしきつめ美しいだろうと誇る、そんな施設は滅びればいい…と呪うまでもなく、そうした施設はすでに命の鼓動を失なっている。
 読めない本の敷き詰められた伽藍より、ひと一人にとっては、その小さな掌の上で開かれた一冊の本のが大事に決まってる。いいから本を読め。本当とウソを見定めるために、読むのだ。

人はなぜ権力におもねるのか、という痛烈な問い〜ジル・ドゥルーズ=フェリックス・ガタリ『アンチ・オイディプス』(2016.10.12)

「資本は死んだ労働である。これは、吸血鬼に似ていて、生きた労働の血を吸うことによってしか活力をえない。そしてその生は、生きた労働の血を吸いあげれば吸いあげるほど活発となる。」

 難解な本が読みたかった。
 この世で一番むづかしそうな本には、世界で一番重大な秘密が、世界を超えた彼方にある秘密さえ、隠されているような気がしていた。
 ジル・ドゥルーズフェリックス・ガタリ(ドゥルーズ=ガタリ)の思想書『アンチ・オイディプス』を背幅3cm半はある重量級のハードカバー版(市倉宏祐訳・河出書房新社)で手にしたのは10年近く前のことだ。期待は叶った。冒頭から、こんな感じで飛ばしていた。
「一切は機械をなしている。天空諸機械。天の星々や空の虹。アルプス諸機械。
 これらの機械は、レンツの身体のさまざまの機械と連結している。
 ここにあるのは機械のたえまなく唸る音。」
 求めていたのはコレだった。草原に落ちた朝露が透明な宝石と化したように、きらびやかで美しく、そしてサッパリ意味が分からない。
 いや、本当にワケが分からなかった。なんでフロイト的なオイディプス=エディプス・コンプレックス理論を批判しているのに、未開文化で身体に刻む刺青の話を延々としているのか。〔ヌーメン〕て何?〔ヴォルプタス〕って、〔器官なき身体〕って何??
 当時かろうじてつかんだイメージは、ひとコマ漫画にするならば
【「残業ばかりの仕事に歓びを感じられません。家でも家事を押しつける夫が疎ましくて、ノイローゼ状態なんです」とうなだれる患者を前に精神分析医が「それはあなたが幼いころ、父親のような大きなおちんちん(ファロスとか言う…)が自分についてないことで、無意識に刻まれたコンプレックスのせいですね」と診断してる後ろで「いやいやいや、それチンチン関係ないだろ、今の労使環境や家庭の歪みを見直そうぜ!?」とツッコミを入れている】
 そんな光景だった。たぶんそんなには間違ってないと思うし、それなりに感銘を受けたが…

 そうして一度は遠ざけたドゥルーズ=ガタリだが、次の大著『千のプラトー』が文庫化されたのを読み(やっぱりよく分からんが、前よりは分かる気がする)と、同じく文庫化された『アンチ・オイディプス』に再挑戦してみた。
 やっぱり、よくは分からない。ヌーメンて何だ。ヴォルプタスも器官なき身体も、相変わらずサッパリ意味不明だ。
 ちなみに宇野邦一氏による文庫版の訳は、かなりスッキリしたものになっている。先にあげたくだりは、こんなだ:
「すべては機械をなしている。天上の機械、星々または虹、山岳の機械。
 これらが、レンツの身体のもろもろの機械と連結する。諸機械のたえまないざわめき。」
 けれど、いくぶんシンプルになった訳文と、再読ということも手伝って、散りばめられた宝石(当然それらも重要なものだが)と、それらを貫く糸の要石を見分けられるようにもなったらしい。初読時にも鉛筆で囲いをつけ、メモまで付しておきながら、他のきらびやかなパーツに埋没していた一節が、あらためて目を惹いた。
政治哲学の根本的問題とは、スピノザがかつて提起したものと同じなのだ
 (それをライヒは再発見したのである)。
 すなわち「何ゆえに人間は隷属するために戦うのか。まるでそれが救いであるかのように」。」
(文庫版上巻・62ページ)
 人が率先して支配を求め、隷属を欲するのはなぜか。
 「より義務を、より課税を」と求める現象を、「騙されている」だけで説明がつくのか。
 罰を恐れてでなく、進んで権力におもねるメカニズムが、あるのではないか。
 損することが自明の人たちまで、なぜ権力に自らを同化させるのか。
 スピノザが、ライヒがそれを問うたと言うように、『アンチ・オイディプス』もまた、それを「根本的問題」として問い、糾弾する書物ではなかったか。

 「民主主義というものは、飢饉のときに放棄しなければならない贅沢などではない
これは単著での、フェリックス・ガタリの言葉。
「民主主義というものは、現実の外に浮遊する、何かある超越論的な徳といったものでも、
 プラトン的な観念といったものでもない」
「それはむしろ、ちょうど種々のスポーツにおける「フォーム」のようなものなのである。
 すなわち、それは、人々がそのためにおこなうトレーニングしだいで豊かになることもできれば、衰えることもできるのだ」
これも単著での、ガタリの言葉。(ともに杉村昌昭監訳『闘走機械』松籟社より)。

 病弱で内省的な哲学者ドゥルーズと、精神分析医として現場からの改革を目指した活動家のガタリ。そんな風に両者の役割を勝手に割り当てていたこともあった。
 だが単著でスピノザの評伝を書いたのはドゥルーズのほうだ。一旦『アンチ・オイディプス』を脇に置き、ドゥルーズの単著『スピノザ〜実践の哲学』(鈴木雅大訳・平凡社ライブラリー)を手にする。やはり難解だ。だが『アンチ・オイディプス』同様、冒頭に掲げられているのは不正を受け容れる人々への「なぜ」という叫びだ。
「一六六五年、スピノザが『エチカ』を一時中断して『神学・政治論』の執筆に取りかかったのも驚くにはあたらない。
 『神学・政治論』の中心に据えられた問題のひとつは(中略)なぜひとびとは隷属こそが自由であるかのように自身の隷属を「もとめて」闘うのだろう、なぜ自由をたんに勝ち取るだけでなくそれを担うことがこれほどむずかしいのだろう、なぜ宗教は愛と悦びをよりどころとしながら、戦争や不寛容、悪意、憎しみ、悲しみ、悔恨の念をあおりたてるのだろう−ということだった」
 同じフランスの哲学者ミシェル・フーコーが、思想的には相容れない宿敵と見なされていたサルトルと肩をならべ、政治的なデモに立つ有名な写真がある。80年代に急逝したフーコーに、ドゥルーズは深い敬意と友情を寄せていた。フーコーがデモに立てない時は、病弱を押して自ら代理として街頭に出たという。
 もちろんガタリも行動(と思索)の人だった。だがドゥルーズも同様に行動(と思索)の人であり、そのモチーフは「なぜひとびとは進んで隷属するのか」だったとしたら。難解な『スピノザ』も、浩瀚きわまる『アンチ・オイディプス』も、わざわざ冒頭で明言されたそのモチーフを真に受けて読んで、よかったのではないか。

 『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』二部作の副題は「資本主義と分裂症」である。人の身体に刺青・文身としてコードを刻み込む未開文化から、土地への登記を通じて大地をコード化する専制君主の時代を経て、あらゆるものを身体や大地から切り離しつつ資本(カネ)の運動に回収する資本主義の現代まで。難解な用語をカッコに入れて虚心に読み進めれば、延々と語られているのは「社会システムは、いかにして人々を収奪するか」ということでは、なかったろうか。
 日本でドゥルーズ=ガタリが紹介された80年代は、むしろ社会が資本主義のもたらす成長と飽和・富とバブルに夢中になっている時期だった。そうした時期に輸入された彼らの著作は「リゾーム」「ノマド」といった消費や情報化を祝福するような用語ばかりに目が向けられ、『スピノザ』や『アンチ・オイディプス』冒頭で明示されていた社会的・政治的な問題意識は見過ごされてはいなかったか。それは著者たちと読者たち、双方にとって不幸な出会いかたではなかったか。

 彼らは思った以上に「ガチ」で、世の不正に憤っていたのではないか−そう気づいたのは『千のプラトー』が一章を割いて、人々の差別意識を糾弾しているのを読んだときだった。差別は少数者を他所者として追放するのでなく「劣った吾々」として逃さず押しつぶす、と看破し(いじめとは関係性の強要であるという田口ランディ氏の指摘を思い出す)それを無能と断ずる彼らは、雲の上でスプーンに乗る天使の数をかぞえる知的遊戯をしているのではなかった。
差別のメカニズム〜曽野綾子氏の発言をめぐって(本サイト・15年2月の日記)
 たとえば『千のプラトー』が、交易だけでは貨幣は生まれない・貨幣が必要とされ発明されるのは租税・徴税のためだったと説くとき。多数派が先にあり・その意に沿わない者を少数者として排斥するのではなく、まず特異者を選別排斥する動きがあり・それが「多数派」を生み出すのだと『アンチ・オイディプス』が説くとき。「今の社会はなんでこんなに抑圧的なのか」「どうして吾々は抑圧の袋小路から逃れられないのか」考えるためのヒントが散りばめられた、抵抗や運動の道具として、彼らの著書を読む。そんな読み方も可能なはずだった。

 正直「今の社会をどうしたら変えられるか」問うためには、彼らの著作は難解で遠回りすぎるかも知れない。人においそれと薦められる本ではない。
 けれどもし、自分などより知識と知性に恵まれ、読解力のある読み手が「リゾーム」や「ノマドロジー」「戦争機械」や「器官なき身体」でなく「人が権力に隷従するメカニズムと、そこからの脱出の手引き」という、最初から明示されているモチーフに従って同書群を読み直すことが出来たら。
 それは80年代には80年代の読み方しか出来なかったように、また「今」という時代の要請に有用なよう原書を捻じ曲げ、誤読することでしかないかも知れない。それでも「今」わざわざドゥルーズ=ガタリを読むのであれば、そうした身勝手な読み方をする以外に、意義はないように思われるのだ。ノマドという言葉が、スターバックスでノートパソコンを開き、会社の外で仕事するくらいの意味まで矮小化されてしまったのが、彼らの著作に対する唯一の正当で適切な読み方とは、とても思えない。
   
 ちなみにマルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』も「人はなぜ損することが自明なのに権力におもねるのか」がテーマだと最近聞き知り、こちらも再読せねばと思っている。初読の時はそこまで詰め切れなかったのだ。

「私」の範囲〜バリントン・J・ベイリー『カエアンの聖衣』(2016.10.08)

※自分自身は「衣裳SFという珍品しかし傑作」という以外に何の予備知識もなく手にして、とても楽しい読書体験だったにも関わらず、今日の日記は『カエアンの聖衣』に関する若干のネタバレがあります。御注意+御容赦ください。

 今回も余談から始まる。
 世界初、3人のDNAを持つ赤ちゃんが誕生 米チームがメキシコで成功】というニュースに「えっ」と思ったが、要は「父の精子のDNA+母の卵子核のDNA+卵子提供者のミトコンドリアのDNA」で三人分ということらしい。
 ヒトの細胞と・細胞が寄り集まって出来る人体の設計図となる「核」のDNAは、父の精子の核DNAと・母の卵子の核DNAのミックスだ。が、個々の細胞の中で酸素呼吸を司るミトコンドリアは核とは別の独自のDNAを持つ。精子は核だけの存在なので、ミトコンドリアは父とのミックスとはならず、母の持つミトコンドリア(とDNA)が代々受け継がれる。
 ニュースの事例は母のミトコンドリアにDNA起因の疾患があるため、別の女性から(疾患のないミトコンドリアを持つ)卵子の提供を受けたというものだ。

 「核とは別のDNAを持ってて、別の伝達ルートで勝手にやっている」「酸素がATPでエネルギーとかいう機能を一手に引き受けている」ことから、ミトコンドリアは元々ヒト(の祖先の単細胞生物)とは別の、酸素が好きな珍しい単細胞生物で、それが吾々のご先祖の細胞に取り込まれ・共生し・現在のように細胞内パーツの一つになったと推測される。もう定説・事実扱いでいいのだろうか。だとすれば単細胞の祖先だった頃から、吾々は身のうちに「これって自分に含めていいの?」という他者を持っていたことになる。人体内のミトコンドリアが意志を持ち、別の生物として人類を脅かすホラーSF(未読)などが書かれる所以である。

 【シリーズ・古典を読む
 バリントン・J・ベイリーカエアンの聖衣〔新訳版〕』(大森望訳/ハヤカワ文庫SF)。原書は1979年。もう古典と呼んでいいでしょう。独自性あふれる「衣裳SF」の名作だ。
 服は人なり、をモットーに高度な服飾文化をつくりあげた惑星カエアン。その装束は着る者の気質や精神にまで影響をおよぼし人の能力を拡張する。彼らの衣裳プロパガンダを侵略とみなし敵視するザイオード星系で、御禁制のカエアン服の密輸入をはかった小悪人たちは、そのパワーに幻惑され…
 うさんくさい人物ばかりが登場する導入部。闇取引業界の大立者は人をウンザリさせるイタズラが大好きで、広い庭を持つお屋敷には、彼が仕掛けたトリックがいっぱい…というエピソードに「これが作品全体のDNAだったら厭だなあ」と思った自分は、はい、残念ながら(発表当時は売り物のひとつだったらしい)奇想人を驚かす的・きらびやかで露悪的なビジュアル感(ワイドスクリーン・バロックと呼ぶらしいです)の魅力が、あまりよく分からないらしい。「SFは絵だねぇ」という人・宇宙に進出した日本人の末裔「ヤクザ・ボーズ(ギャングにして僧侶)」みたいなギミックが嬉しい人は、そっち方面でも楽しめる一作だと思います。
 そうでない自分でも、さいわい楽しめる小説でした。どう楽しんだか。

 まず最初に思ったのは、これはまるで「依存症」の物語だな、ということ。
 カエアン衣裳の最高峰フラショナール・スーツを身につけた者は、自我が拡張し、(究極の香水をまとったように)人々の好意を思うまま惹きよせる。そうして得られる地位と栄誉・加えて衣服そのものがもたらす高揚感は、脱げば消え失せ、翌朝まで不安に震える夜を過ごす。
 白状すると、自分はかなり依存的なものに弱い。頭が痛くなるのでは・喘息の発作が起きるのではと心配になるだけで薬に、何か更新があるのではと電源を入れるたびネット閲覧に手を延ばしてしまう。そして小説も。この本は朝夕の通勤電車で読んでいたのだけど、すきあらば本を開いて文字を追いたい、続きが気になるんですけど!という禁断症状が、「ああ早くまた、あの服を着たい、着ると自分が変わってしまうようで実はイヤだ、でも着たい、やめたい、ああああ」な小説の中身とシンクロするのは愉快な経験でした。

 実際この「着たい、やめたい」の葛藤は重要で。
 さらに読み進め、考えさせられたのは「ヒトはどこまで〔自分〕なのだろう」ということだった。
 衣裳を向精神薬のように用い、進んで意識を委ねるカエアンの人々。それを危険視するザイオードの、もっとも頑迷な原理主義者は当然のように全裸だ(おっちゃんだけど)。そのほか、さまざまな形で提示される人体の拡張としての「衣服」。
 現実に当てはめれば、それは衣服だけではないだろう。たとえばメガネ。たとえば自動車。肩書き。頭痛薬。
 あるいは言葉。
 テレビで放映されるアニメーションなどで、放映に合わせて感想を投稿する「実況」という遊びがあるけれど、『天空の城ラピュタ』のクライマックスシーンで皆が一斉に「バルス」「バルス」と投稿したり、女性キャラ同士が親しげな雰囲気になると(百合的表現が「来ましたわ」に由来する)「キマシ」「キマシ」という言葉がネット上に溢れかえったり、男性キャラ同士だと、より露骨で此処には引用を控えたくなる差別的な表現だったり。シチュエーションに応じて、元は何かの作品に由来する決まり文句が自動反応のように引き出されるのを見ると、その言葉を発している者は、当人は自分が考えてフレーズを選択しているつもりでも、逆に「バルス」「キマシ」という己の外にある言葉・概念の伝達装置として脳や当人が自我と思ってるものを使われてるようにも見えてしまう。
 むろん「それが楽しいんだよ」ということもあるだろう。また、何も「バルス」「キマシ」といった短いフレーズに限らない。極端な話『カエアンの聖衣』のような小説を読んでいる時、あるいは別に哲学書でも政治的なプロパガンダでもいいけれど、「私」が本を読んで考えていると言い切れるだろうか。メガネで弱った視力を補正するように、あるいは昔のコンピュータが整数しか計算できないのを「小数点計算ユニット」みたいな別の部品をつなぐことで機能を拡張したように、本を読むとき「私」の自我は「私」をはみ出していないか。いっそ考えているのは誰かが書いた本のほう、とすら言えはしないだろうか。

 私はどこまで「私」なのか。これは逆方向の内向きにも言えることだ。
 冒頭、マクラで書いたように吾々は細胞ひとつひとつのレベルで別のDNAを持つ他者と共存している。腸内を筆頭に口腔内や皮膚の上に、吾々は大量の細菌を棲まわせており、知らずしらずのうち共生体と化している。他者だけではない。自分自身の手指の先や、あるいは胃がしくしく、頭がズキズキ痛むとき、吾々はそれらを「私」でなく「こいつ」と思いはしないか。記憶ですら。思い出したくない過去の失敗などしつこく再生する自身の自我を「まったくお前は」と突き放して考え、疎ましく思う・あるいは道具のようにコントロールしようと思うことはないだろうか。
 そう考えると、全裸になれば偽らぬ自分自身で居られると思うザイオードの裸体主義者は、ずいぶん無邪気でもある。でっぷり肥った己の下腹部をさすり「なんでこんなことになっちゃったかねえ…お前は」と思うことがないのだろうか、彼は。
 
 …かような感想が、読んでる間パチパチと脳内にハジけたのだが、さてコレは果たして『カエアンの聖衣』の感想だろうか。どうも小説の意図とやらを「正しく」汲んでいるようには思えない。しかしこんな暴走した感想もまた、本という外部計算ユニットを自分に接続し「一緒になって」思考した結果のアウトプットなのだ。
 SFと呼ばれる作品の多くは『2001年宇宙の旅』に代表されるように「ヒトとは別の知性に出会いたい」「ヒト自身がヒトであることを超えたい」という二つのモチーフにドライブされている。『ニューロマンサー』も押井守が監督した劇場アニメ版の『攻殻機動隊』もそうだ。
 現実の世界でも、コンピュータが囲碁で人間を打ち負かし「何を考えてるか分からない斬新な手だ」とヒトの名人を困惑させたり、あるいは三人のDNAを受け継ぐ赤ん坊が生まれたり、そんなニュースを聞くようになり、僕は「このままだと、ヒトはどうなってしまうのだろう」という不安と「どこまで行けるのだろう」という依存症のような期待を感じたりしている。私が「私」でなくなるのは怖い。だが私はいつでも「私」でなくなりたい。『2001年』がモノリスに、『ニューロマンサー』や『攻殻』がコンピュータ・ネットワークに託した夢を、生化学に求めた『ブラッド・ミュージック』で新しい知性は、受容を拒もうとする登場人物に言う。君は大人になるのが怖かったことはないのかい(それとヒトを超えるのを拒むことは、どう違うんだい?)
 ネタバレをしてしまうと、同じ問いに対して『カエアンの聖衣』の結末は、少し腰が引けているかも知れない。しかし作中では「選ばれなかった」未来像について考えさせられるなど、どこまでも読む側の機能をエンハンスする小説だった。つまりカエアンの聖衣とは、小説『カエアンの聖衣』あるいは書物全般そのものだった。単細胞生物の頃にミトコンドリアとなる好気性生物を受け容れ、二本足で立った頃に言葉を憶えた昔から、吾々はもうカエアンの聖衣を着てしまっているのだ。
 全裸には戻れない。

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