しょうがないなあ、終わっちゃっていいよ。〜『ささめきこと』『誰も寝てはならぬ』(12.02.02)
『戦争と平和』も『カラマーゾフの兄弟』も本来書かれる予定だった長篇の前日譚だったという話は前にもしたけれど。これにチェーホフの「犬を連れた奥さん」も加えるに。少なからぬ作品において、登場人物たちの真の物語は、吾々が読む話が終わってから始まると言えるかも知れない。そういうふうに思わせてくれる作品は、なんだかんだで好ましい。
マジで長らく心の支え・拠り処だった二つのまんが−
いけだたかし『
ささめきこと』(メディアファクトリーMFコミックスAlive)と
サラ イネス『
誰も寝てはならぬ』(講談社ワイドKCモーニング)が、それぞれ9巻と17巻でダブル完結。これから何を支えにすればと、正直へこみもしましたが(笑)
どちらも、幸せにできる・くっつけられるキャラは可能なかぎりカケコミで片づけて終わる大車輪の結末。そう、それは川原泉いうところの
「まるで皆が春に向かって全力疾走しているような」(『笑う大天使』)。そして、さねよしいさ子が唄うところの
「さっきまで一緒だったみんなも 二人きりに帰ってゆくんだ」(「二人で描こう夜空いっぱいのハート」)を思い出させるような。置いてかれる読者には少し悲しく、もう二人同士しか選べない当人たちにも少し厳粛で、けれどやっぱり幸福な結末で。
『ささめきこと』は、よく挿入される「名もなきモブキャラたちも、それぞれ生きている(その中で主人公たちも生きている)」描写が、とても好ましいという話は前にもしたと思う。蒼井さんは恋人より先に友達ができるべきだったので安心したという話も前にした。最終話にかけては、これまで「何も気づいてない要員」だったキョリちゃんの描かれかたが秀逸で、とくに最後の出番になる後日譚の小ネタで、どういう形にせよ楽器を続けてる処が、愛があって、そして「ささめきこと」らしくて、すごく好かった。
『誰も寝てはならぬ』にも(『ささめき』のモブのように)とても好きな描写があって、それはコマの手前で誰かと誰かがしゃべってる時に、
後ろのほうに誰かがいて「…」と無言でいる・あるいはただ関係なく「いる」場面。けっこう多い。もっともらしく言えばタテの奥行きある構図。これもやはり世界に対する包括的な目線が好ましく、こちらのハッピーエンドも作品にふさわしかったと思います。
そして『ささめきこと』は1巻から、絵の構図と位置関係だけでヒロインふたりの距離感から心情までが語られる「表紙」に定評がありましたが(最終9巻もすごくよかった)
他の巻は兎も角『誰寝』最終17巻の表紙も表1の次に表4を見ると、むっちゃときめいた。「
しょうがないなあ、終わっちゃっていいよ」と白薔薇さまを見送る福沢祐巳さんのようにつぶやきたくなる、どちらもよい最終巻でした。
天国も地獄も、この地上にある。(12.02.06)
「教会は、超越界を世界に導き入れようとする−
しかし、哲学は、世界を超越界に導き入れねばならぬ」
(ゲオルグ・ジンメル『愛の断想・日々の断想』岩波文庫)
その昔「
Heaven Is a Place on Earth」というヒット曲があり、それならHellもそうだろうよと思ったのである。別に自分の独創ではない。洋の東西で今(現代)、同じようなことを言ってるひとが居て、少し以上に興味ぶかいのだった。
ひろさちやさんという、仏教関連の人生指南書を多くものしてるらしいかたの本で、極楽や地獄・修羅道・畜生道といった六道輪廻(でしたっけ)を死後の世界ではなく、吾々が生きてる
現世で陥る状態として捉えるという視点が提示されていて、なるほどと思ったのである。
一方で『世のはじめから隠されていたこと』という本で著者の
ルネ・ジラールが説いているのは、黙示録で、キリストの死後じきに蒼い馬がきて大破壊と疫病と争いでぎゃー(うろおぼえ)とあるけど、そんなの一向に来ないじゃないかでも、いやもうすぐ来るんだよでもなく・
もう来てるじゃん、そういうの!人々の相争い・いがみあいという意味で
黙示録の世界はとっくに到来してるんだよと捉える視点で、やはり、なるほどと思ったのである。
地獄も修羅道も極楽も今ここで人の心にある。黙示録の悪魔の支配も神の勝利も、今ここで人々のなかにある。今に始まった考えではないのかも知れないが、
大まかに見て現代(ジラールの本は20世紀後半)=宗教や神など信じられないとなった現代において、仏教とキリスト教それぞれで、同様にこういう解釈が現れることは、護教の試みとしても、今にあって宗教を真に生かす試みとしても、興味ぶかいと思うのだけれど、如何でしょう。
ちなみに、言葉として有名な「天人五衰」。ひろさちや氏の本で知ったのだが、極楽は幸福なぶん、天人の死は人間界の人間のそれの十倍も苦しいのだそうである。五つの衰えの最初は、極楽なのに「楽しくなくなる」のだそうだ。そしてそれまで芳しい香りを漂わせていたのが、悪臭を放ち始めるらしい。おつむりに咲いている花が萎れる、みたいなこともあった気がする。うろ覚えなのである。
なぜうろ覚えかというと、実は今この本、手元で参照できる状態にない。ものすごくメンタル的に厳しい時期があって、たまさか同書を読んで「なるほど、今こんなに苦しいのは、たぶんもうじき(ある意味で)死んで生まれ変わらなきゃいけないから、なんだな」となんだか腑に落ちて
その後いろいろあって、ひととおり嵐が過ぎ去った後、その本は本棚の何処かで見つからなくなってしまったのである。
たぶんあの時とくに必要な本だったので、今は何処かに隠れてしまったのだ。実はこういう経験、初めてではなくて、その程度の不思議なら(心理的理由に還元できるかもという意味も含めて)あっておかしくないと思っている。
迫害のメカニズム〜ルネ・ジラール『身代わりの山羊』(12.02.09)

その(←前日の日記)ルネ・ジラール1985年の著書『身代わりの山羊』(法政大学出版局)。昨年11月の神保町古本祭りにて半額で入手したのを、先日のイベント中にようやく読了しました。付せん貼りまくりでも分かるように、すごい本です。先の日記でも記したとおり、キリスト教(福音書)の意義を現代に甦らせる護教者という立ち位置に裏づけられた圧倒的な自信。「
この世界で一番の秘密を、私が開示しよう」と言って、これ以上に説得力のある人物は少ないかも知れません。
では、その彼が開示する世界の秘密とは何か。
身代わりの山羊』はタイトルのとおり「スケープゴート」のメカニズムを説き明かす本です。社会が危機に瀕したとき、人々は危機の原因を特定のスケープゴートに帰して、迫害し追放・虐殺することで一体感を取り戻す。では「社会の危機」とは何なのか。
吾々の通念とは逆に、それは
社会の成員ひとりひとりが「互いの区別がつかなくなる」差異の消滅した状態なのだ−というのがジラールの着眼です。
社会が危機に瀕する、いわゆる
「父と子が、兄弟姉妹が互いに骨肉相食む」状態は、父と子や兄弟姉妹の階層的な対立なのではない。むしろ父子、兄弟姉妹といった関係に上下がなくなり、階層差があった時には抑制・迂回されていた暴力の応酬に歯止めが利かなくなる。
この本の冒頭でジラールが例に挙げているのは、中世の
ペストです。ペストは階層も貧富の差も関係なく人々を襲う。私は富裕だから、働き者だから、よき市民だからといった肩書きは一切通用せず、人々は自分が自分である根拠を失なう。
「群衆は(中略)
人間を互いに他者とはことなる存在にしてくれるものをすべて奪われ、文字どおり無差別になった共同体にほかならない」とジラールは言う。
そして、この群衆は、かかる状況をもたらした自然の状況(この場合ペスト)には関与できないかわり、内部で差異を消失した自分たちに対し、まだ差異を保持している者=不純分子=よそものを、危機の原因として迫害する。
「どんなに閉鎖的な文化にあっても、人間は自分たちが自由であり普遍的なものに向かって開かれていると考えている。(中略)
この幻想を危うくするものはすべて、ひとをおびえさせ、迫害を好む太古からの性向をめざめさせる」
集合的な非難の対象となるのは、よそものだけではない。ジラールは語る。
「あらゆる類の両極端(中略)
富める者と貧しい者(中略)
成功と失敗、美と醜、悪徳と美徳、人気と不人気などの
両極に属する者が次つぎとその非難の対象となる。(中略)
社会的弱者はもとより、最強の力の持ち主もまた、多数の前では無力になる。
群衆はきまって、以前自分たちに絶対的な支配をおよぼした者の迫害に向かうものである」
迫害の
表面的な理由口実の正当不当に興味はない、私の目指すのはただ、それより根底にある迫害のメカニズムの解明だとジラールは言います。たとえばマリー・アントワネットの処刑にあたって、彼女が実際にどんな悪業を働いた(あるいは善行を施さなかった)以前に、外国から嫁してきた「よそもの」であったことに、世界の秘密をあばこうとする者は注意しなければならないと。
以上、全体の二割にあたる第三章までの要約です。再度まとめると、
「
人は自分たちの肩書きや個性が無効になる状態に置かれると、
まだ差異化できる『敵』を迫害することで自分が自分である根拠を取り戻そうとする」
といった感じでしょうか。
先に例であげたペスト(誰が貧乏くじを引くか分からない)を「放射能」と置き換えれば、今のこの国の状況は理解しやすいかも知れない。もっと言えば、それより以前から経済的困窮が誰に(自分に)襲いかかってこないとは限らないという漠然とした恐怖が、身代わりの山羊さがしの機運をヒソカに盛り上げていたのかも知れない。
誰が貧乏くじを引くか理詰めで予測できない(と感じる)とき、人は攻撃的になり、分かりやすいターゲットの迫害に走る。これは
自分自身の過去の行動にも当てはまったことで、自省を余儀なくされたりしたのでした。
残りの章でジラールは議論をさらに精緻にし、また福音書を手がかりにこの状況から脱出するすべを探ります。とくに後者に関しては、素直に首肯できないところもありますが、いずれにせよ21世紀を1/10過ぎた現在もなお、異様な迫力のある、読むに値する本かと思われます。それだけの衝撃が伝わらなかったとしたら、これは紹介した自分の力不足ということで。
今まとめなおすと「自分が自分である根拠を失なった人々は、その責任を、まだ根拠を持っているように見える少数者に帰して迫害する」となるのかも知れない。自分が帰属できる物語を見失なった人が、それらしい自己賛美の物語に飛びつく一方、自前の物語を持っていそうな少数者を憎む、そう考えると悄然とする。それはものすごく下賎に言い換えると「いいよな語れる不幸がある奴は」ということでもあり、少数者にとっては迷惑の上塗りであることは言うまでもない。(14.10.25追記)
うちの子になりなさい(12.02.10)
次回から一次創作オンリー同人誌展示即売会「コミティア」のジャンル分けに「百合・GL(ガールズラブ)」が新設されるそうで、創作者各位の愛と熱意のたまものと思えば素直に祝福されてしかるべきだと思う。おめでとうございます、と、ここまではマクラ。
近年とくに勢いよく普及し認知されるに至った百合というジャンル。に、続くかどうかは知らないが、これは誰か適切な名前をつけジャンル化・カテゴリ化して考察の対象にすべきじゃないかと思う、一連の作品群がある。「
社会人として収入を得ているが独り身の主人公が、ひょんなことから幼児〜中学生くらいの子供(主に女子?)を引き取ることになり、一緒に暮らす」というものだ。
ずばりジャンル「若紫」でよいのではないか、という御教示もあり、多くの誤解を蹴飛ばして訴求力を優先するならソレもアリかと思ったが
若い男が少女を→
そして恋愛へ、と必ずしも至らないのが面白いところ。引き取る側(男)と引き取られる側(女子)が実の親子のケースもあり、引き取る側も引き取られる側も女同士で恋愛ではなく親子関係を築くケースも、引き取る側・引き取られる側とも女同士だが恋愛関係に至るケースもあり(笑)、むろん若い男が少女を引き取りモヤモヤという話も。考えてみたら、あの『
よつばと!』ですら、このジャンルに原理的には包摂されうるのだ。
自分の乏しいまんが読書歴で、この傾向の(自分の中での)嚆矢かなと思うのは榛野なな恵『Papa told me』で、無論あれは二人暮らしのパパと娘は実の父子で、若くして亡くなった奥さんとの三人暮らしすら過去にはあったと想定されるわけだが、その魂のありかた、すなわち「連れ合いはいないが子供はいる状態」が、今のジャンル若紫(仮)の基調を成しているように(自分の中では)思われるのだ。
それを悪しとする視点から見れば「結婚は面倒だが子供はほしい」という願望には何かズルい処があるのかも知れない。若紫的な願望にひそむ不道徳については言挙げするのも面倒だ。
だが、品行方正どこから見ても優等生、だけが物語ではない。いびつな夢を映す鏡が存外に真っ平らなこともある。(
大急ぎで捕捉しとくと、現実にそのような家族関係を営んでいるひとたちを、いびつと言うてるわけでは
ありません。そうでないのに、そのような人間関係をファンタジイとして夢みることに、読み手はいくぶんの自己警戒はすべきだろう、そのうえで楽しめという話です)
ジャンル「突然親子」(仮)系の話には、他の人間関係では描きづらい
親密圏を構築できる強味がある。とつぜん家族暮らしが始まることで、炊事や洗濯といった日常が新鮮なモノとして捉え直される作品もある。
言い忘れていたが、このあたりの作品群で「引き取られる子供」はたいがい聡く、しっかりものだ(よつばのように暴走する聡さもあるが…)。逆に引き取る側の大人は、いちおう仕事は出来る〜仕事バリバリだけど、家事や私生活はダメ人間な場合も多々あり。それでも気ままな独身生活を謳歌していたものが、先に子供的な存在を得ることで、何かしら大人として成長し、つれあいを得ようとするに至る話もある。
…「他の人間関係では描きづらい親密圏を構築できる」とは、実は自分が百合ものを描いてみて、ヘテロと違ってなんて楽なんだ!と思ったことなのだが、描き手ごとに百合にいろんな力点・アプローチがあるのと同様、ジャンル「うちの子になりな」(仮)にも「けっ、また突然親子かよ(どちらかというと道徳性うんぬんより今はこちら=陳腐化が問題ですね)」と捨てるには惜しいだけのバラエティと見どころがある、と思いたい。

このジャンルの最新の?成果品として、1月に18きっぷで東北に遊んだとき旅先の仙台の本屋で購ったのが
陸乃家鴨『
一緒に暮らすための約束をいくつか(1)』(芳文社)。どちらかというと、仕事できるがエロいわりに純情な巨乳のおねえさんとの濃厚な情事を描いて(自分的には)定評のある著者まで、中学生少女を引き取り同居モノか!と思ったのですが
なんだか引き取られ娘(主人公の亡き親友夫妻の忘れ形見)は小姑的な位置づけで、
ふつうだったら当て馬・おジャマ虫になりそうな主人公のセフレ(大学時代の映研の後輩で、今はフリー映像作家の主人公に仕事をくれるヤリ手の制作。そして巨乳)さんが、体だけの割り切った関係と見せかけて実は主人公を
「なんとか言いくるめて結婚しちゃえと思うくらいには好き」なのを中学生少女に見透かされ動揺しまくる等、
かわいいところ持って行き放題で「うんうん、やっぱり陸野家鴨だ」と安心する一方
本当にこのジャンルは出口が広いなと妙な感心をしたのでした。子どもには見せられん程度にはエロいので、まあ人さまにオススメはしませんが、続きが楽しみなまんがが、また増えました。
Eのフォルマント(12.02.17)
これは実際に声に出してもらえば明瞭に分かると思うが、日本語を聞き取れる人を相手に
「
べーけ」
と言っても、言われたほうは「ばーか」と認識でき、しかも「ばーか」というより馬鹿にされた気がするという。
これで思い出したのは
中島らも氏がエッセイで書いていた「Eのフォルマント」という話だ。
たとえば船の汽笛が「ぼぉーっ」と鳴るとき、「ぼぉーっ」を延ばすと「おーっ」Oの音が残る。これをO(オー)のフォルマントというと。
そしてEのフォルマントを含む音は、人の耳には下品に聞こえるのだそうな。
ゆえに、と、らも氏は言う。「べーん」「テケテケ」などE音を多く含む形で形容されるエレキギターの音は、とても下品に聞こえるのだと(最近ではエレキギターの音を「テケテケ」もないもんですけど)。これは何だか、分かる気がした。なにしろ「エレキ」である。「
シェケナベイベー」である。
実際、ロックな声のメートル原器とも言うべきジョン・レノンの声は、かなりE音が入ってると思う。ポールのまろやかなO音とは好対照だ。もちろん僕はそういうジョンの声が好きなわけだが、ロック全般がよしとするタイプの声を、品がないという人がいるのも分かる気がする。
冒頭に挙げた「べーけ」>「ばーか」に似た実験で「
テムレです」と言ったほうが「タムラです」というより
田村正和っぽく聞こえるという話もある。カッコいい・色っぽいのと下世話は紙一重。要するにEの音は軟派でキザなのだろう。キザ(気障)という語は気障り(きざわり)・気に障るに通じる。
このEのフォルマントは気障りに思う人には本当に気障りに感じられるのだ、という例証が実はうちの母である。
母は兎に角
ヒロミ・ゴーが嫌いなのであった。年末の紅白歌合戦でヒロミゴーの出番が来ると問答無用でチャンネルが(教育テレビの)ショパンの演奏に切り替わる。母は河村隆一も憎んでやまなかった。かつてソフトバレエのフジマキ君に「日本のロック界きっての下世話な声」と絶賛された河村隆一である。くどいようだがロックにおいては下世話とカッコいいは紙一重か、コインの両面だ。だいたいが紅白とは「こんなのどこがいいか分からん」とaikoやラルク・アン・シエルをくさす両親に対し「これにはこれのよさがあって」と帰省した次男が力ない弁護に廻るイベントでもある。aikoについては昨年ついに「
等身大」という(擁護のための)マジックワードを見つけたのだが、
話がそれた。
河村隆一はそうでもない気もするが、郷ひろみはまさにEのフォルマント声である。そう僕は思っている。もうお分かりですね、実証してみればいい。「
ケメてちおんネのキョ」ほーら「君たち女の子」とヒロミゴーが唄ってるようではないか。「セツジン現場にぇーレンゲが落ちていたー」後半は少し無理がある。これでは犯人はラーメン屋まわりにかなり特定できてしまう。だがまあ。
僕はぜんぜん気にならないのだが、スマパンの
ビリー・コーガンも気障りな人には、ずいぶん気障りな声なのかも知れない。
カエルのような声、という評を目にして納得した記憶がある。と同時にカエルのような声、と言われてブライアン・イーノの唄声を連想もしたのである。
哀れ、お姫様に眉をひそめられるカエル王子たちよ。言うまでもなくイーノの歌は大好きだ。ヒロミ・ゴーにも「ハリウッド・スキャンダル」など好い曲はある。母がヒロミゴーを厭うのは、その芸風や生き方をよしとしていない可能性も高いが。紅白では満場一致で松田聖子もチャンネルを変えられた。長渕剛の時には僕が風呂に逃げた。両者のファンには申し訳ない。
女優さんだと、常磐貴子さんが(それより新しい世代の女優さんは見当もつきません)いい具合のE音だなあと思っている。いろいろ角の立つことを書いてしまった気がするので+ずいぶん身内をネタにしてしまったので、この日記は後で消すかも知れません。
ブリティッシュ・ロック下世話声の中興の祖(?)ともいうべきジャパン時代のデヴィッド・シルヴィアン。ソロでは次第に木管楽器のような深い響きを持つに至った。大好きだ。
想像力の銀のプラズマ〜ジャクソン・ポロック展(12.02.29)
ずいぶん日が開いてしまいました。すみません。
横浜といい東京といい、けっこうな降雪となった(午後すぎには小止みになったけれど)今日、美術展に行くならチャンスだなと思い、東京国立近代美術館に足を運んできました。

お目当てはこれ。
ザ・ストーン・ローゼズ。違う。もちろんエミリアと旦那様でもない。それらの大元ネタ=
ジャクソン・ポロックの展覧会です。面白かったです、はい。元々このての現代美術や超抽象画は、美術館で現物を見ると、頭でっかちな理論とは別に、画材や画布・絵の具そのものの質感が気持ちよく感じられる。期待どおりポロックも、とてもキュートで好かったです。
でも今回は、展覧会のストーリーづけが非常に分かりやすく出来ていて(?)頭でっかちな理論のほうでも、興味ぶかく楽しむことができました。以下は自分の頭の中でデッチあげた物語なので、話半分に読んでください。
会場に入って、からくも思い出したのが3年前に観たドキュメンタリーでロック歌手・詩人のパティ・スミスが、ポロックについて語っていた話(あやうく思い出さずにいる処だった)。20世紀の美術的な実験を、あらかたピカソにやられてしまったポロックが、唯一ピカソが忌避した「ドリップ」に活路を見出したという→
09年9月の日記参照。
なるほどたしかに、ドリップを手法にする前のポロックの(いわば)助走時代は、ピカソやミロ、同時代の先行者の模倣とまでは言わなくとも、後追いの印象が強い。ただ逆にそのため、20世紀の西洋美術(の、少なくとも一つの)ベクトルが、ポロックひとりに集約される形になって、分かりやすくも面白かったのだ。
具体的に説明すると、ドリップ以前のポロックは、抽象的にデフォルメされた人物像から始まり、アフリカや北米先住民族の影響を思わせる作風へと展開する。それは十九世紀の終わりから二十世紀に、フロイトやユングにより「無意識」が、マリノフスキーやレヴィ・ストロースにより「野生」が発見・再発見されたことと関係している(と、ストーリー化すると自分には分かりやすい)
もともと芸術とは、目に見える描写や理屈を通して、描写や理屈の圏外にある真実に触れようとする試みである。
ただ、その圏外の真実を何処に設定するか。
それまでの写実というか審美的というか、正統派の描写や理性を究めることで天上の真実に至る、西洋的な芸術観が崩壊し、より野生的なもの・無意識のようにプリミティブな原始・原型に芸術の力の源泉を見ようとするベクトルが20世紀にはあったのではないか。
それが非西洋的な民族芸術を取り込もうとする試行錯誤としてポロックの前半には展開し、後半には芸術の初期衝動・無意識に直接ふれるようなドリッピングの技法として爆発・開花したのではないかと。
で、ここから話はさらに個人的かつ突飛になるのだが、そんなポロック全盛期のドリッピング絵画を観て思い出したのは、四半世紀も前に書かれた国産のSF小説である。
もう随分と古い話なのでネタバレも許されよう、その小説では、進化のステージを登る人類の競合相手として、木星に棲まう生命体が登場する。生命といってもそれは人類のような肉とDNAではなく、超高圧のメタンの海底でプラズマ化した
水銀が電子の流れで思考する液体コンピュータと化した、金属生命体なのである(
山田正紀『
最後の敵』)
いま思うに、その水銀生命体が強く印象に残ったのは、それが物語の向こう側だか基底だかにある初期衝動、そのものをモデルにしてるように思えたからだろう。
ポロックのドリッピングの実物を見て、そんな銀のプラズマを思い出したのである。もう一度まとめると
・芸術や物語は、描いた先に描ききれない真実をほのめかすための営為である
・西洋では写実や論理的な思惟で、天上の真実にたどりつくものと思われていた
・それが民族的な野生や、無意識といった根源・基底に真実を求めるようになった
・民族的モチーフに始まり、後年ドリッピング技法を開花させたポロックは
そうした西洋美術の20世紀の一局面を、ひとりで体現しているように思えた
・
途中のSFの話はなくてもよかった
・でもポロックのドリッピングは銀色のプラズマのように美しかった
久しぶりの更新がこんなですみません。では、また来月。
* * *
ボブ・ディランの『ブロンド・オン・ブロンド』も「水銀のような音を作りたかった」という当人のコメントが有名。
(c)舞村そうじ/RIMLAND
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