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早く「人間」をやめたい?〜ミシェル・フーコー『性の歴史II〜快楽の活用』(15.08.09)

 おがきちか氏のファンタジー漫画『エビアン・ワンダー』(全4巻。傑作なので是非読みなさい)にヨーヨーという小さな妖魔が登場する。ヒトの掌くらいの大きさで三本の腕と肩羽だけの翼をもつ彼女はさよならフレデリカ…寂しい?物語の最後、皆が離れ離れになる大団円の場面で主人公のフレデリカに言う。それってヨーヨーにはわかんないけど

 「人間」とは「その日付けの新しさが容易に示されるような発明」にすぎない。哲学者ミシェル・フーコーはその代表的な著作『言葉と物』(1966年)の結末でこう告知する。いずれ人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろうと。
 もちろんそれは核戦争や何かの災害で、あるいは摩訶不思議な現象で煙のように、地上から人類という生物がかき消えてしまうという意味ではないだろう。「もっと人間らしい社会を」「お前ら人間じゃない!」「その人間中心主義みたいの、やめたほうがいいんじゃないかな」といった文言が当たり前に前提としている、人間とはこういうものだ・こう考えるものだという「人間」がガラリと変わる日が来る。
 ヒトというハードウェア・知性や言語といった基盤のアーキテクチャは変わらないまま、その上に現在の「人間」とは違うOSを走らせるように。たとえばヒトと同じように考え判断し、ヒトの言葉を同じように話しながら寂しいってわかんないけどと笑顔で言う妖魔のように。それってヨーヨーにはわかんないけど、ねえフレデリカ、生きててよかったね!
※総集編。紙が薄いそうです…
 人間中心主義・ヒューマニズムと言いながら、その中心である人間が自ら作った「人間らしさ」に規制され抑圧される。また互いを抑圧しあう。20世紀で最も明晰な知性の持主(という人もいる)フーコーは、その「人間」の負の側面を見過ごせないほど明晰で、その「人間」とは別の知性や良心のありかたを、見果てぬ夢とは承知で追い求めていたのかも知れない。
 『性の歴史』は、『狂気の歴史』『言葉と物』『監獄の誕生』などで名声を博したフーコーが短い生涯の晩年に取り組んだ著作で(というか急逝で結果的に晩年となった)、当初は【第1巻『知への意志』、第2巻『肉欲と身体』、第3巻『子供の十字軍』、第4巻『女、母、ヒステリー患者』、第5巻『倒錯者たち』、第6巻『人口としての住民と人種』】という構成で、今度は「性(セクシュアリテ)」という側面からヨーロッパ人の「人間」としての自己形成を解明していく予定だったという。
 本国フランスでは「フランスパンのように売れた」という『言葉と物』だが、少なくとも邦訳で読むかぎりフランスから運んできたフランスパンを日本でカジるように硬くて硬くて寝た!二頁に一度は読みながら寝た!というくらい晦渋だったのだけど、『性の歴史』はかなり読みやすく、第1巻にあたる『知への意志』も「通説はこう、というのを青ペン・それに対してフーコーの見解はこう、というのを赤ペンで色分けしたい!」と焦れるものの
(ぜんぜん分野は違うけど神学者バルトの『ローマ書講解』も同じように思った。そういうタイプの「知性」のありかた、ヨーロッパに多いのかも)
眠気も起こらずスイスイ読めた。この路線で進む第6巻までを通読してみたかったという思いもある。

 だが現実には『性の歴史』は第2巻で突然ヨーロッパから古代ギリシャに先祖返りし、2巻・3巻ではギリシャ・ローマにおける性意識が追求される。
 長いマクラになりましたが、『性の歴史』第2巻にあたる「快楽の活用」読了しました。面白く、まだ読み切れてない処もあり、刺激的な読書でした。

 分かった(気になった)範囲で大づかみに言うと、ヨーロッパ的な教会に指導された人々の性意識・性道徳においては性≒性欲や性行為・それにともなう快楽は「夫婦和合や子孫繁栄のため完全になくすことは出来ないが、出来るだけないのが望ましいもの」で、その模範的な人間像・人間らしさの中心は性行為の能力を有するがそれを行使しない「処女」(それとたぶん修道士)であった、とフーコーは唱える。また個々の性的行為についても「それはしちゃダメ」「これも望ましくない」と綿密なルールの体系が作られていたと。
 これに対して古代ギリシャでは、性欲や性行為はそれ自体としては否定されない。ただ性的なエネルギーに呑まれ、性行為が過剰になったり、立派な振る舞いが損なわれたりすることを避けねばならない、性欲を上手にコントロールし「活用」できる者こそが、自身や奴隷などの使用人・ひいては社会や国家をも上手に運営できるとされる。
 そこにはヨーロッパのような個別的な禁止のルール・法律のように行為や欲望を規定し体現する体系もなく「上手に自らの性欲を運営しなさい。運営のしかたは状況に応じて判断」という方向性だけが示されている(とフーコーは言う)(というように自分は理解した)。また、こうした性意識ではその理念を体現するのはヨーロッパのような乙女ではなく、性的能力を闊達に行使する成年男性となる。

 以上はたぶん本書(第2巻)の内容の最初の二割くらいで、後にいろいろ留保や疑問や撤回の可能性などもつくのですが、フーコーが古代ギリシャに見ようとしたヨーロッパ的「人間」とは別のOS(とでも呼ぶべきもの)は興味深く、想像力を活発にする。
ちょうどこれを読みつつ描いていた同人まんがの新作で「ヒトとは違う知性のありかた」に少し触れてるのは、この影響だったりします。作品自体は娯楽コメディですが。
 厳密な法体系を作り上げ、世界を統御するとともに自らも統御されるヨーロッパ的「人間」に対し、倫理の方向性だけを定め状況に応じた適切さを行使しようとする古代ギリシャの知性観、というまとめは雑駁に過ぎるだろうか。
 同じくらいの雑駁さだが、個人的には、法律について審議しながら「法的にはそうでも、そんなことはない。なぜなら総理大臣の私が言うのだからみたいな言説がまかり通る−まあそれは極端な奇形であるにせよ−たぶんヨーロッパ的な法体系とは違う正否判別の基準を土台に持っていそうな日本の「OS」に思いを馳せたりしたのだが、まあその話は措く。(そこからの脱出を希求しながらやはりヨーロッパの「人間」だったフーコーから見て、日本人は「人間」だったろうか?)

 大急ぎで言うと、もちろんフーコーは古代ギリシャを無条件に称揚しているのではない。
 「快楽の活用」の中盤後半では、そうは言っても古代ギリシャにも「やはり性行為は健康上の理由から抑制されたほうがいい」あるいは「美少年との恋愛は実際の性行為を伴わないほうが、より気高さに近づける」といった性欲忌避の思想の萌芽があったのではという綿密な資料探求と考察が続く。
 なにより、古代ギリシャが理想とした成年男性の「性」の行使は、女性や少年あるいは奴隷といったものを「行使される側」として抑圧し搾取する構造と切り離せない、そのこともフーコーは十分に理解している。彼にとって古代ギリシャは今の「人間」にとって代わるべきものではない。ただ、今の「人間」とは違う知性のありかた・その知性や「性」を活用して今の「人間」とは違うルートで「真実」に肉薄する方法があった、そのことが彼を古代ギリシャ研究に向かわせたのだと思う。
 それまでの議論を覆すように終盤あらわれる少年愛についての考察は、初読では十分に読みきれないほど大胆・スリリングで、当該部分だけで独立した価値を有するように思われるけれど、今回の日記では割愛する。フーコー自身が同性愛者であったことは、言い添えておくべきだろうか。
 
経済的な事情で『性の歴史』は古本屋にイイ出物があれば買う、という形になっているため第3巻『自己への配慮』を読むのは先になりそう。
ところでフーコーの「人間」の終焉・「人間」とは別のありかたという視点は、たとえば伊藤計劃のこの小説などに遠くから影響を与えている気がする。
あるいは「イスラム教徒は西洋人(やその仲間だと思ってる日本人)とはモノの考えかた自体まったく違う」などと言うとき、フーコーが唱えた【「人間」の期間限定性】は思い起こされて好いと思う。
あと最後に当然の前提として加筆しておくけれど、もちろんフーコーは「人間」に代わるモノが、今より良いモノだろうなんて一言も言ってない。「人間」にも、どの「人間でない」ヒトのありようにも、たぶん限界や抑圧はついて回る。だが、あるいはだからこそ、より自由なとか抑圧のないとか言った可能性を探求することが大事なのだろう。現実に「人間」として生きるフーコーは、時には思想的には相容れない論敵と肩を並べても、社会の一員として街頭に立った。
(c)舞村そうじ/RIMLAND ←1509  1507→  記事一覧(+検索)  ホーム