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冥界の灯火〜池澤夏樹『アトミック・ボックス』(2017.06.05)

 チョーヘーキヒシャという言葉が頭の中で漢字になるのに時間がかかった
 そんなフレーズに、それまでグイグイ引きずられるようにページを繰っていた手が、停まった。

 【往路
 先月末に横浜・名古屋間を往復する機会があった。18切符のシーズンでもないが、逆にゴールデンウィークで高速バスも軒並み高く、通常料金の普通電車で行き帰りしたほうが若干まだ安いということで、片道6時間ずつ読書の時間が出来た。
 往路に選んだのは、創作の師と私淑している丸谷才一先生の『別れの挨拶』(集英社文庫)。単行本に未収録だった原稿をまとめた、編集部いわく「最後の文集」だけれど、亡き著者の思索が満遍なく網羅され、むしろ入門にピッタリのセレクションになっている。たとえば、こんな文章。
 なつの夜は浦島の子が箱なれやはかなくあけてくやしかるらん (中務)
 …「明く」と「開く」のほうはもともと同じ語ゆゑ、別にどうといふことはないけれど、
「箱」と「はかなし」との掛け方は…わづかにずれてゐるその分だけ、
かへつて気がきいてゐておもしろい。
かういふ藝が可能なのは、中務がよほど耳がよかつたせいではないか。
…第三句以下の、つまり「箱なれやはかなくあけてくやしかるらん」における
h音とk音との微妙で花やかなもつれ具合はこの上なく楽しい。
…母の華麗な才気(…)を受けつぎながらいつそう軽妙にそして明るく仕立てることこそ
中務の藝の見せどころであつた。
(※中務の母=伊勢)
 少し話を逸らすけれど、この文章、旧仮名遣いなのに異様に当たりが柔らかく、読みやすくはないだろうか。これはまだ和歌や発音の話だけれど、初めて豆腐が古代中国の文献に現れるのは的な四方山話などは、読んでて旧仮名なのを忘れることさえある。
 それは丸谷氏が文章の心得として美麗さ華麗さではなく、達意(意味が通じること)を第一と重んじていたからだろう。美麗だが非論理的な文章ではいけない。華麗だが無意味な文章ならば、書く甲斐がない。
 生涯、旧仮名を通したのも(もちろん自身が読み書きを習得した「第一言語」で使い勝手がよいこともあったろうが)・旧仮名を使っていれば江戸や平安時代に書かれた文章の富と地続きでいられる・動詞の活用において新仮名は無理があり旧仮名のほうが理にかなっている=旧仮名のほうが明晰で汎用性が高く、つまりは伝達に適しているという信念に基づいていた。
 残念ながら21世紀の今、敢えて旧仮名を使う発言者の多くは、文章を格式高くとか、ちょっと斜に構える・いっそ威圧的なこけおどしのために、つまり伝達を妨げる手段にしているのではないか。「自分はこうして言葉を玩具に出来るんだぜ」と戯れ「どうだこの崇高さが、お前らには分からないだろう」と自身の優位を保つために使われる旧仮名が、モタツキなしに読めるわけがない。それは同じ旧仮名でも、氏が(新仮名ネイティブで、たぶん今後も新仮名を使い続けるだろう自分にも共感できる形で)示そうとしたのとは真逆の使われ方なのだ。

 そして伝達のためには「理にかなってる」だけではない。『別れの挨拶』でも、読点には論理的な区切りとリズム的な区切り・二つの役割があるので厄介だ、みたいな今まさに吾々がツイッターで困ってること(困ってますよね)も指摘されてたり。クリムトの風景画はなぜ正方形なのかとか、先にあげた中務の歌のもそうだけど、論理だけでなく、感触や感覚面にも目配りする先生だった。
 あるいは、鎖の最も弱い輪か、経絡秘孔でも突くように松栄千代田神徳(まつのさかえちよだのしんとく)』というタイトルひとつで明治時代の歌舞伎「改良」運動の問題点をあぶり出しこの外題を見ただけでも、おもしろくない芝居だとわかるでせう)とダメ押しのコメントでリングに沈める、選球眼と底意地の悪さ。
 未発表曲だけで出来たベスト盤みたいな、ありえない(実はよくある)奇跡を思わせる白鳥の最期の絶唱。編集部は、いい仕事をしたと思う。
 …と、例によって、ここまではマクラである。

 【復路
 そんなわけで、さて帰路は何を読もうかと飛びこんだ金山(名古屋)の本屋で、池澤夏樹『アトミック・ボックス』(角川文庫)に手が伸びたのは、自然な成り行きだった。
 丸谷先生は池澤氏の父にあたる福永武彦氏との共著もあり、いわば池澤氏は旧友の息子となるわけだが、それ以上に純粋に作家として「新しい才能が出てきた」と喜んでいたフシがある。自身の作家以外での大きな仕事と誇っていた新聞書評欄の顧問も池澤氏に譲り渡したことを『別れの挨拶』でも嬉しげに語っている。そんな『別れの挨拶』を読んだ直後だったので、読みそびれていた池澤氏の長篇にすんなり手が出た。
 
 『アトミック・ボックス』は題名が示すとおり核がテーマ。サスペンスか冒険小説のようなエンターテインメントな展開の底には、3.11以後の原子力に対する著者の姿勢が伏流のようにある。が、そのことは別の機会に考えるとしてー
 無実の罪で嫌疑をかけられ、瀬戸内海の島づたいに逃亡する主人公が、ある老人の助けを得る。その老人が言うのだ、自分の叔父も第二次世界大戦の徴兵忌避者であったと。
「俺の叔父は逃げた」
「昔の話だ。戦争が終わる少し前、赤紙が来た」
「赤紙って……?」
「召集令状だ。戦争に行って戦えという国からの命令だ。叔父はそれは嫌だと思った」

 徴兵忌避をモチーフにした文芸作品をひとつ挙げよと問われたら、(答えられる人が)挙げる作品は決まっているだろう。
 小説家・丸谷才一の代表作は何かと問われた人の回答も、たぶん同じ作品になるのではないか。『笹まくら』である。故・米原万里氏の書評集は『打ちのめされるようなすごい本』という題だったが、その「打ちのめされるようなすごい本」とは実はこの『笹まくら』だった、という話は前にも何処かでしたと思う。
 『アトミッック・ボックス』が新聞連載されたのは2012年9月〜2013年7月。丸谷先生が亡くなったのが2012年10月。もちろん事前に構想は練られていただろう。けれど、そのエピソードが登場する部分と連載の進度を目分量で測ると、同作のチョーヘーキヒシャが先生の逝去を受けて、手向けとして新たに書き起こされたーその可能性は高いと思われた。ちょうど映画のスタッフロールの最後に、撮影中に死去したキャストやスタッフへの献辞が掲げられるように。
 果たして市立図書館に出向き、平成24年の縮刷版にあたってみたところ、連載小説『アトミック・ボックス』に徴兵忌避のエピソードが登場するのは11月3日〜4日。丸谷先生が逝去した10月13日から三週間後のことだった。
 そして確認すると少なくとも連載当時、これは分かる人にだけ分かる目配せではなかったようだ。というのも先生の訃報を告げる10月の紙面には他ならぬ池澤氏の弔辞が掲載され(書評欄を引き継ぎ、ちょうど同紙で小説を連載中の作家だ、当然の人選だろう)そこでは逝去した作家の代表作が『笹まくら』であること、徴兵忌避者を題材にした小説であることがハッキリ指示されているからだ。この鳩を出しますよと明白にネタバレしてからの、三週間後の鳩だった。連載をリアルタイムで追いかけていた人は誰もが「ああ、あの鳩」と思ったのではないか。
 その鳩が「分かる人には分かる目配せ」になったのは、むしろ五年後の今だろう。
 どんなに生前もてはやされ人気を得た作家でも、ひとたび没すると忘れられる。再び評価される者も、それまでに一度は冥界・煉獄をくぐらなければいけない。そう書いたのは他ならぬ池澤氏だった(出典は…すまん、すぐには出てこない)。五年前に彼が自身の小説に登場させたチョーヘーキヒシャの文字は、今は冥界・煉獄を歩む先達の路が真っ暗にならぬよう、忘れ去られてしまわぬよう、残された若い継承者が、そっと用意しておいた灯火のように思える。
 (だからこうして、それに気づいた者が「ここに灯火がある」と言いたくての、この日記である)

 そうした視点で『アトミック・ボックス』を読むと、最後に主人公がとある人物と対決する場面で丸谷先生の『女ざかり』を連想したりもするのだが、これは別にそういう狙いではないだろう。
 二人の作家が同じように参照してきた水源があって、そこからそれぞれが引き出してきたのだと思う。自作に元ネタがあることを恐れない、むしろ過去の伝統や好きな作品を源泉に創作することを積極的に捉える流儀もまた、僕がこの二人から学んできたことだ。
 読む側もまた、さまざまな水源から水を汲み上げながら本を読む。
 たとえば『アトミック・ボックス』には主人公の母親が「あんな変なもの食べたくない」と、とある食べ物をdisる場面がある。自分の母親の食の好き嫌いなど子供の頃には考えもせず、後で「お母さん、あれ、キライだったんだ!」と驚いた体験は僕自身にもあるため、この最後に近い場面での、主人公の驚きには妙に「分かる!それ!」と共感してしまったのだ。
 

失なわれる十年(2017.06.17)

  組織的犯罪処罰法改正案(いわゆる「テロ等準備罪」もしくは「共謀罪」。以下「共謀罪」とする)が強行採決された。
 法案の内容だけでなく、委員会採決を行なわず「中間報告」なる禁じ手を用い、いきなり本会議採決した手法の強引さも非難の的だ。加計学園問題の追及を避けるため、すみやかに拙速にでも国会そのものを終了させたかったのだとも言われている。
 もちろん法案の内容も酷い。加計学園の件もあるのだろう。だが「中間報告」の悪用による強行採決は(むろん非道だが)意外や驚愕とは思えない、むしろ必然と思える展開だった。なぜなら昨年すでにTPP法案を国会で成立させる際、本会議の議長も知らされない状況で突然採決する「実績」を上げているからだ。今度はもっと酷いことをしないと格好がつかないだろう、という予感はあった。
 冗談で言っているのではない。潜在意識で自滅願望を持つ政治家が、どこまでやれば弾劾されるかとチキンレースをしてるとも思わない。酷い法案を通すために無理やりな手法をやむなく取っているのではなく、無理な形で法案を通すことは、現政権の本懐なのだと考えたほうが理にかなっている。法案が提出され、反論も含め審議され、重要な法案は委員会と本会議の二段構えで採決し…といった国会の機能を破壊すること自体、現在の安倍政権の本懐なのだ。
 ・強行採決や騙し討ちは法案を通すためのやむない手段ではなく、
  国会を無力化する安倍政権の意図的な目標遂行でもある。
このことは過たず理解されなければならない。
 もちろん、その先にある究極の目的達成は憲法の廃止だ。憲法とは国=政府をしばり、好き勝手させないものであるとするならば、その前提自体を無視し、否定し、覆す自民党の改憲案は、改憲ではなく実質上、憲法の廃止である。共謀罪が成立した今、この改憲=憲法廃止にもリーチがかかっている。

 * * *
 第一次安倍政権が崩壊し、自民党じたい野党に転落した屈辱から、再び政権の座についた彼らが選んだ指針が「次は失敗しない」ではなく「次は失敗と言わせない」だったことは、この国だけでなく、彼らにとっても大きな不幸だった。いや、もちろん彼らの不幸は再び吾々に戻ってくるのだが。
 * * *

 国会の無力化、共謀罪による国民の監視と恫喝、最終的には憲法の廃止。さらに言えばマスメディアを「忖度」させ、道半ばながら、すでに安倍政権ほどフリーハンドの権力を掌握した政権は戦後史において稀有だろう。
 だがそのフリーハンドで強行に採択してきた施策はどうか。
 海外で戦災に巻き込まれた日本人を自衛隊が救出するだの、南シナ海を中国の脅威から守るだの(法案の主旨からすればありえない)夢想をぶちあげた安保法制は、南スーダンで何の貢献を成すこともなく実質上の戦闘状態が隠蔽され、自衛隊員が無事生還できただけ僥倖という結果に終わっている。
 TPPに至っては、横紙を破って成立させたものの主たるアメリカがトランプ政権になって梯子を外し、いや、梯子を外されたことが明白でありながら法案を強行採決し、何の結果ももたらしていない。
 世界一安全な首都で、最も廉価に開催するはずだったオリンピックは国立競技場の建設費の急騰、選考委員の買収疑惑そしてオリンピックを名目にした共謀罪が国際的な批判の的である。
 さらに原発産業に固執したあおりを食った東芝の壊滅状態、カジノ建設計画。(これは内閣主導ではないかも知れないが)オリンピックの次は大阪に万博を招致だといって、会場にバンジージャンプ台を設置して「タナトスを体験する」のが世界中から観客を呼ぶ企画なのだという。

 もうハッキリさせたほうがいいだろう。うだうだ先に進まない衆愚の議会制や民主主義でなく、専制的に決定・処断できるリーダーが登場すれば世の中うまくいくという『銀河英雄伝説』みたいな幻想は、少なくとも現実の世界では通用しない。
 「権力は腐敗する、絶対権力は絶対に腐敗する」とは、汚職や情実が横行するというだけの意味ではなかった。政権がかつてないフリーハンドの決定権を手にしたとたん、(それはもう触れるもの全てが黄金に変わってしまうマイダス王の呪いを反転したように)決定したやることなすことが劇的に使い物にならなくなったことは、教訓として定式化されていい。反論や吟味を排除した決定は、もれなく劣化すると。
 加えていえば、森友学園の問題で一番やるせない気持ちにさせられたのは、首相や首相夫人まで噛んで便宜をはかり特権的な恩恵を与えた学校の建設が、児童への愛国教育といった現政権が最も肝要にしたいはずの施策を実現するはずの(それ自体ちっとも良いこととは思わないが)施設が、ゴミの搬出さえ手抜きする杜撰なものであったことだ。この一事は現政権の施策の、根本的な欠陥を端的に示していると思う。次節で説明する。

* * *

 安保法制、TPP、原発推進、オリンピック。これにもうじき、とても上手く行くとは思えないカジノと万博誘致が加わる。運用次第で絶大な「成果」をあげそうな共謀罪をのぞき安倍政権が強行採択してきた施策は、ことごとく暗礁に乗り上げている。なぜそれでも政権は困らないのだろう。
 結果がどうなれ、フリーハンドの権力を得られれば、採択された施策がどうなろうと知ったことではないのか。(それも一理あるかも知れないが)それだけではないはずだ。
 ヒントは昨年末のTPP強行採択に発見できる。先述のとおり採択の時点で死文となることが明白だった法案が、それでも無理に可決された背景には、すでにTPP加盟を前提とした莫大な予算が組まれてしまっていた事情があった。 オリンピックでもカジノでも、あるいは愛国小学校でも、それ自体が収益や効果を上げられず失敗しても関係ない、採択され着手した時点で利得にあずかり権益を得る者がいる。そうした者が潤い繁栄すれば成功であり、後の始末は関係ないというシステムが現在のこの国を動かしていると思えば、多くのことに筋は通る。
 ルール違反の強行採決も、肥大化するオリンピックの費用も、不思議なこと・不可解なことは何もないのだ。
 ただ、不思議でないから理不尽でもないとは言えない。こうした議会の荒廃や施策の頓挫はすべて、この国で暮らす吾々に返ってくる。共謀罪をめぐる議論で端的に見られた国際社会への敵意・あるいは排外主義の加熱は、この国がふたたび世界から孤立する秒読みをしているかのようだ。このあと共謀罪が施行され、憲法が廃止され、オリンピックを迎える。
 場合によっては戦争も起きるだろう。内閣か自衛隊の独断で、宣戦布告もなく、もちろん議会の審議も経ず、突然どこかの海域で日本が武力を行使する。そして「宣戦布告してないので戦争にはあたらない」と閣議決定される…というオチ以外はすべて、過去に日本がしてきたことだ。70年前の話だけではない。つい最近、都知事だった石原慎太郎が尖閣諸島で同じことをしたではないか。
 日本とは結局そういう国だという認識は、いずれ世界でふたたび共有されるだろう。もうされているかも知れない。これらすべての杜撰な施策が、たとえば今後十年で、対外的にも、内面においても日本から奪うものがどれだけ大きいか。考えると気が重い。

 しかしまずは改憲である。
 一日で二倍に増える蓮が、池を埋め尽くし窒息させるのに30日かかるとしたら、池がまだ半分しか埋まっていなかったのは何日目かという喩え話がある。むろん答えは29日目だ。まだ半分と思っていても、窒息までは一日しか残されていない。
 共謀罪が参院を通過したとたん、これは酷い・あんまりだという声が随所で上がった。テロ対策法と言いながら、テロとは何の関係もないではないかと。それらが全て30日目の嘆きであることを、必要以上に責めようとは思わない。むしろ30日目に上がった非難の声が31日・32日になっても(Twitterのアイコンが四角から丸になった的な四方山話に押し流されず)途切れなければ、それは実際の施行の牽制・抑制につながるだろう。
 だが30日目の嘆きに「どうしてこうなるまで看過していたのか」という反省が含まれるならば、すでに次の池に蓮の種が撒かれていることを、なおさら看過してはならない。
 現政権が倒れでもしないかぎり、共謀罪までは通ったから改憲はやめておきましょう、なんてことは理屈としてありえない。おそらく国会での審議は最短に、場合によっては新たな議会無視の手法を発明して、国民投票が開始される。すさまじい広告戦略がなされるだろう。その広報を請け負うことで、結果がどうなろうと利得と権益を得る最大手の広告会社があるからだ(新人社員を過労死自殺された会社である)。
 それに対する反撃・反抗は多角的で遊撃的、時には互いの趣味や志向を措いて結束し大人数の絵を作ってみせながら、多くの局面で分散し迂回する柔軟さ機敏さが鍵となるだろう。それは「全面的に参与・没入できない者は去れではなく、その正反対動ける局面では逃さず動く、そして動ける局面じたいを見逃さない」運動になるはずだ。

 共謀罪採択がなされた朝、電車のなかで『アベノミクスの正体』なる本を、表紙もタイトルも剥き出しで広げ読む女性がいた。それもまた次の池の蓮を摘む、反撃の形なのだと思った(勝手に)。

 共謀罪採決の前夜、国会周辺での抗議に参加した知己によれば、安保法制の時には一体となって国会正門前に押しよせ時間を区切って同じ場所をシェアした二つの大きな団体が、今回は同じ時間に正門前と裏手それぞれでコールをし議事堂をサンドイッチにしたという。分裂と後ろ向きに捉えず、そういう絵の作りかたもアリかなとも考えたのだ。

『ドラゴン×マッハ!』はいいぞ〜総集編(2017.06.18)(2017.06.18)

 いや実際、劇場公開当時はポスターなど見るに配給元もマックス・チャンは完全ノーマーク・少なくとも「まだ知名度ないから表看板には出来ない」「観てスゲーと思ってくれ」というスタンスだったと思うのだ。


 そんなわけで『ドラゴン×マッハ!』すごく好かった。今年を振り返って色んな名作ヒット作があったねと話が出たら「ちょっと待て『ドラゴン×マッハ!』を忘れてないか?」今後も様々なアクション映画が現れ凄いと語られるたび「ドラゴンマッハを忘れてないか?」と口を挟みたくなる、新たな傑作の誕生だ。
 香港(ドラゴン)×タイ(マッハ!)で『ドラゴン×マッハ!』と安易…いやいや、苦渋の邦題だが原題は『SPL2(殺破狼2)』。「宇宙最強」ことドニー・イェンと悪役に開眼したサモ・ハン・キンポーの壮絶なバトル、香港ノワールとカンフーアクションが融合した前作『SPL〜狼よ静かに死ね』で、狂犬のようなナイフ使い役が強烈なインパクトを残したウー・ジンが、今度は情に篤く、心身ともボロボロにされながら信念を貫く潜入捜査官を熱演。こういうのが観たかった!
 臓器売買組織を追ううち正体がバレ、香港からタイの刑務所に放り込まれる主人公。そこに現れるのが難病の娘をもつ看守トニー・ジャー。お互いの言語も分からない二人が、スマホの翻訳機能で意志を疎通しあうなどハイテク小道具の使いかたも巧い。
 そして巧い小道具といえば、組織のボス(ルイス・クーが怪演)が子飼いの刑務所長に言う「いいネクタイだな」。主人公たちノーネクタイの下っ端組に対する身分の高さを示すと同時に「その高い身分も私(黒幕)が仕立ててやったんだぞ」という、上には上がいる力関係を示唆する…と見せかけておいてーそのネクタイが最後の最後「あーっ、あの『いいネクタイ』コレのための伏線かーっ!」という脚本の律儀さ!あと、いいネクタイ=頭脳担当と思わせておいて、中盤いきなりこの所長が自ら暴れ出し、終わってみたら一番強かった、その落差も効果的だった。
 実際、香港とタイを代表するツワモノが二人がかりで向かって、てんで歯がたたないのだ。序盤うだつのあがらない平看守だったトニー・ジャーの怒りに火がつき、クライマックス、ついに鎖を拳に巻いて「来たーっ!ムエタイのロープを腕に巻くやつ、鎖で来たーっ!無敵モード、入りました!」とトニー・ジャーの他の作品を観てるファンには思わせておいて、そこまでしても倒せない。その無茶むちゃ強い刑務所長はマックス・チャン。『グランド・マスター』で八卦掌の秘伝を奪い蓄電した馬三を、『イップ・マン 継承』ではドニー・イェンと詠春拳の正統を争う悲運の天災武闘家を演じる。本作を加え、いずれも「ものすごく強いが運に恵まれず悪堕ち」キャラなので、そのうち(本作のウー・ジンみたく)いいひと役が観たい。

 【一旦まとめ】アクションもすごいが、ストーリーも好い

 たとえばトニー・ジャーが正面から迫る護送車の窓を飛び膝蹴りで突き破るアクションと同じくらい、怒るトニー・ジャーがハンドルを奪った護送車を停めるため、悪党が一般人を車線に突き飛ばす(トニー・ジャー急ブレーキする)場面が雄弁に善悪をキャラづけるエグい演出。
 格闘シーンも「テンション上がる!スカッとするカタルシス!」ばかりではなく、むしろ「上がるのは当たり前」切々としたバラードや、レクイエムのようなオケ曲を劇伴にしてアクションで感動させようとする、その貪欲さが好い。
 …思えば『イップ・マン 継承』もマックス・チャンやマイク・タイソンといった強敵との対決(マイク・タイソンの強敵演出うまかったなあ)に劣らぬほど、作中最強の格闘の才をもってしても変えられない運命に直面し、愛するひとの前で黙々と木人に向かう主人公の背中が強烈な印象だったし、
 サモハン主演の『おじいちゃんはデブゴン』も暢気な邦題とは裏腹に、認知症で隣人の名前も思い出せない老デブゴンが、人を倒す技術だけは身体が覚えていて雑魚敵・強敵を次々屠っていくラストバトルは悲哀と悔恨の炸裂で、
 自分のなかで「泣けるカンフー」「泣かせるアクション」が今年キテるかも…と思ったりしたのでした。

 前作『SPL』とは設定自体ちがうので『ドラゴン×マッハ!』単体でも楽しめるけど、随所に前作へのオマージュ(同じ監督の作品なのでオマージュは変か)が散りばめられてるので、先に見とくとより楽しめます。ただし『SPL』が好きで好きで、という人は逆にちょっと「面白いけど、求めてたのはコレじゃ…」となるかも知れない。『エイリアン』と『エイリアン2』、『荊の城』と『お嬢さん』のような関係なのです。

 その『1』と『2』の違いは、トニー・ジャーにあるのかも知れない。ストーリーにみなぎる道徳観や倫理観は『マッハ!!!!!!!!』『トム・ヤム・クン!』などタイでのジャー主演作品を踏まえたものにも思えます。
 ・『ドラゴン×マッハ!』を大傑作と呼ぶべき理由
  人間ドラマとしての側面から読み解く(加藤よしき/リアルサウンド)
←良いレビューです。
 『マッハ』や『トムヤムクン』が声を失なった喉頭がんの富豪や異性装者・ドーピングで勝とうとするムエタイ使いなどを悪役に配してきたのは「悪党も弱者だったりマイノリティだったりするのだ」という同情や憐れみ・共感によるのか、ジャーが演じるような田舎で素朴に育った伝統的な主人公が勝つべきという勧善懲悪なのか、判断に迷うところがないでもなかったが、『ドラゴン×マッハ!』は主人公ふくめ皆を弱い人間として描くことで前者にメーターを振りきっている。

 ツイッターやら一次創作の即売会の無料配布ペーパーやらで(一次創作めあてに来たひと大迷惑)で散発的に発露してきた「いいぞ」を無造作に並べて、大幅に加筆したものの統一感のない投げっぱなしレビューとなりました。
 観ればまだまだ魅力を発見・再発見できる奥行きのある作品だと思います。
 恰幅のいい怖そうな看護師長さんが、小児科の子供たちには懐かれてることで「あ、きっとイイひとなんだ」と察せられるのも細やかでいい。
 あと最後に、ウー・ジンとトニー・ジャーそれぞれ出自のことなる二人が「ふたりはドラゴンマッハ!合体攻撃だ!」となかなかならない、最後の「お前が必要だ!」という時でも直接に手を握り合わないし、最後の最後の大団円でも間にジャーの娘を挟んでニコニコしてる、その関係性がまた面白いのです。
 
(c)舞村そうじ/RIMLAND ←1707  1705→  記事一覧(+検索)  ホーム