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男たちのいらない女〜『お嬢さん』『荊の城』『マリア様がみてる』(2017.05.07)

 今回の日記は19世紀ロンドンを舞台にしたサラ・ウォーターズの小説『荊の城』と、それを日本による植民地時代の韓国に移したパク・チャヌク監督の映画化作品『お嬢さん』、そしてなぜか今野緒雪『マリア様がみてる』それぞれについて遠慮ないネタバレがあります。かく言う自分自身、十年以上前に出ていた『荊の城』を手に取り読了したのが映画を観る前日だったくらいなので「読んで(観て)ないなんて!」とは思いません。ですが、それはそれとしてネタバレはネタバレです。それぞれの作品で気持よく「そう来たかあ!」と驚きたい人は、伏せた部分(および第三部)を読まないことを推奨します。

第一部
 そんなわけで、映画『お嬢さん』を観る前に大急ぎで読んだ『荊の城』。上巻まで読み終えた時点での感想が「なんて大人のマリみて」。
 (後の伏せ字部分で答え合わせしますが)まずミステリに見せかけたガチ◯◯小説だった時点でマリみて。それを極限まで押し切った時点で大人のマリみて。マリみてが得意とする語り(騙り)の技法を遺憾なく駆使している点でマリみて。そしてマリみてが夢見る乙女の楽園から全力で排してきたものを、むしろ全力で招き入れ話の芯にしてる時点で負のマリみて、裏マリみて、大人のマリみて。
 いやいや、もうちょっと他に言うことあるだろうと一気呵成に下巻まで読み終えた時点での感想が「思った以上にマリみて」。どういうことだ。答え合わせに入ります。
以下、ネタバレにつきたたみます。読むひとは自己責任でどうぞ。(クリックで開閉します)。 まるで「マリみてが好きな人にはこちらもオススメです」な内容。
 いや、もちろん思いつきで言っている。ひとつの作品を読み観ることは、それまでに自分が読み観てきた先行作品と響きあう部分を、勝手に過去作の残響のように聞き取ることだ。作中で言及されてるとおり、本来ならディケンズの残響を聞き取るのがより適切な読みかただろうし、他にもいくつも思い浮かんだ作品はある。ことさらマリみてと対比するのも、それを補助線に『荊の城』を味わい尽くす便宜にすぎない。
 ちなみに◯◯(いやもう、マリみてと対比してる時点でバレバレだろう、百合だ百合!)視点で見た場合、最後の最後の描写からしてモードお嬢様が
再度たたみます。(クリックで開閉します)。 したところで終わる」ラストも、なんだかアニメやまんがやドラマでお馴染みのパターン。重厚な大道具小道具のわりに、存外コテコテの娯楽作品で「海外ミステリなんて…」と尻込みする若い人にもアピールしそうな気がする。
 秘密も詐欺も小説も物語もひっくるめた「嘘」が主人公(たち)を欺き、いたぶり、翻弄した挙句、最後に強いられた屈辱的な「嘘」が、屈辱的と言いつつ歪んだ救いになるアイロニー(それが最後の最後に「嘘から出たまこと」になることも含め)。ひねくれた嘘(=小説)の賛歌とも読め、楽しい読書でした。そう、登場人物の誰かが書くことに目覚め、作家になって終わりましたとさ、というのも(マリみてにはないけど)数多くの先行作品と「響きあう」コテコテ、ガッチガチの夢要素だったりするのだ。

第二部
 ちなみに原作の「レディ・ガラテア」についての妄想ですが
たたみます。(クリックで開閉します)。
 原作では徹底して描かれなかった「悪党への報い」が貫徹されていた。それだけでパク・チャヌク監督の映画化作品『お嬢さん』は、監督自身「私ならこうしたいという形に改変しました」と語ってるとおり、『荊の城』を読者として体験した者のドリームが詰まった二次創作になっている。
 いや、楽しかった。原作が陰鬱だけどグイグイ引きこまれるゴシック・ロックだとすれば、それを「ホーン・セクション中心に編曲しちゃいました!」みたく、黒い笑い・さらに黒ささえ吹き飛ばす陽性の哄笑にアレンジした映画化作品『お嬢さん』。
 成人指定の作品としては異例の大ヒット、ということで自分が観た回では、まさに「最初に観るR18作品コレにした」とキャイキャイしながら列に並ぶ女子三人組がいたりして…稀有な体験ができたのではと思う。
 何しろ、この『お嬢さん』。たしかにR18の内容で、ものすごくエロくて、ありえないほど卑猥。でも(先にも書いたとおり)美しいお嬢様に男どもが群がるポスターを見て「こんなお嬢様がR18に、グヘヘヘ」みたいな期待をした観客は超ションボリする、どころか都市伝説に登場する「歯の生えた女性器」に男根を食いちぎられたようにシュンとしてしまうだろう。というのも
たたみます。(クリックで開閉します)。
 映画はそんな(主に男たちと想定される)スケベどもを「騙されるお前らが悪い。詐欺の映画を観に来て何を言ってるんだ」と嘲弄するように、作中の男どもをコケにし・痛めつけ・ボロボロに破滅させる。こういう作品でR18デビューできた観客の「お嬢さん」たちは非常にラッキーだったと思う反面、「身につまされる」という意味では男性客のほうにも、より親身に「イタタタタ」と痛がれる・復讐されコケにされた気分を満喫できるアドバンテージがあるのかも知れない(マゾか)。
 そして「男」の欲望や劣情を強圧的な力として描く一方、徹底的に遂げさせずコケにし痛めつけるように、本作にはもう一つ、強圧的な「力」として描かれつつ同時に・あるいはだからこそ滑稽な代物としてコケにされる対象がある。これは伏せるまでもないだろう−日本語だ。おそらく本作の卑猥さを世界で一番たのしめるのは日本語圏の観客だろう、けれど一番「イタタタタ」と痛がれるのも日本人かも知れない。もちろんパク・チャヌク監督は植民者にへつらい、植民者の文化に憧れる当時の自分の同胞も存分にコケにしている。両者のイタタタ度合いは痛み分けといったところだろうか。
 そして、このイタタタに関して、ひとつの疑問は残るのだった。−すなわち、
たたみます。(クリックで開閉します)。

第三部
 ここまで来たら伏せ字でもないでしょう。ネタバレも閉じなし・先に閉じていた内容も踏まえてのフルスロットルで行きます
 「マリみての後の心に比ぶれば昔は物を思はざりけり(マリみてを読む前の自分はまるで本当の百合も本当の萌えも知らなかったかのようだ)」とはよく言ったものである。言ったの僕だけど。すなわち筆者(僕)は『マリア様がみてる』を崇めている。けれどそれは作品を無謬と言い張り、どんな批判も認めないことではない。むしろ「この、客観的には瑕疵と思える部分も含めて面白い」と開き直る厄介な信者だ。
 小説『マリア様がみてる』を読み進めていくと、こそばゆい現象に気がつく。「恋愛対象としての男性の、周到な排除」だ。たしか単行本(コバルト文庫)第一作にあたる無印『マリア様がみてる』の冒頭で、痴漢を避けるためリリアン女学園の生徒たちはバスなどの中で女子どうし固まってクラスタを作る、という描写がある。ヒロインである少女たちを脅かす男性の存在が示唆されるのは、大袈裟に言えばそのくらいだ。祥子お嬢様の婚約者である柏木は「僕は同性愛者だが、このまま結婚しよう。君も好きな相手と交際すればいい」と言い放ち、自分に憧れていた幼なじみの心を−強引な侵犯ではなく、逆に拒絶によって−引きちぎる存在として登場する。もちろん話が進展するにつれ彼の真意が明らかにされ(新たな「真意」が過去に遡る形で設定され)実は不器用な好青年だったことに設定は改変されていくわけだが、祥子さまは激しい男性恐怖症を患ってしまう。
 その柏木青年と、祐巳の弟・祐麒が籍を置く男子高の生徒会役員たち−リリアン女学園の生徒会たる山百合会のヒロインたちと交流することになる少年たちの属性はさらに顕著だ。心は女子な乙女男子。物語の定番である、何を考えているか分からない双子(実際の双子はそうでもないはずなのだが、物語においては双子はまるで同期して存在・思惟・行動する一体の、不可思議な存在として描かれることが多い)。マザコン。ヲタク(笑)。そして実の弟。前後した別のエピソードで黄薔薇さまこと令の婚約者候補として現れるのは、年端もいかないショタっ子だ。
 面白いのは女性を脅かさない存在というより「女子から見て恋愛対象にはなりえない・恋人失格な存在なので(ヲタクや双子・親友の弟だから恋人失格というのも乱暴な話だが)、この少年たちは脅威にならないという不思議な認識の歪みが生じてる感もあるところ。まるで、ファンがアイドルに恋し劣情するのは構わないが、アイドルが誰かに恋するのは許さないという奇妙な純潔主義のよう。
 読者には周知のとおり、この周到な男子排除の結果、連作『マリア様がみてる』では唯一「男性」として現れるのが「子持ちの男」という謎の倒錯が生じた。先代・黄薔薇こと鳥居江利子さまが一方的かつ熱烈な恋に落ちた相手が、子持ちの男やもめ山辺氏だったのは、まあ江利子さまの奇人ぶりを示すエピソードでもよい。だが、祐巳の妹候補だった可南子の父親が、妻子持ちでありながら教え子を妊娠させ離婚・可南子を祥子さま以上に傷ついたキャラにさせた設定はどうにもおかしい。まるで男子を排除するためアレも失格・コレも失格と理由をこじつけていたら、逆に「女性を妊娠させる能力のある男」という男性性の最たる存在を正面入口からノーガードで通してしまった、そんなシステムエラーが『マリみて』には存在した(と、僕は認識した)のだ。

 さて、ここまで来て『荊の城』そして『お嬢さん』である。
 お嬢様=モード・もしくは秀子は、あんなエロのことしか考えていない男どもに自由を奪われた状態で、なぜ自身がその性欲の餌食になることを回避しえたのか。
 もちろん回答案のひとつは「別に男だって(エロ本の収集に躍起になる男たちだって)目の前に女がいたら考えなしに押し倒すほど見境ないわけではない」である。たしかに『荊の城』の「紳士」は「僕は色より金だ」と言い放つ。叔父はモードを虐待するが、モードを性の対象としては扱わない。ホートリー氏もモードの扱いに困って彼女を女郎屋に売り飛ばそうとするが、自らモードを手篭めにするわけではない。
 はっきり言えば『荊の城』を駆動しているのは「紳士」の言うとおり、性欲よりもビジネスだ。性は手段にすぎない。モードを翻弄するのはビジネスで、たまたまビジネスの領域が猥褻物だっただけだ。
 『荊の城』という邦題は秀逸だった(原題はFingersmith≒スリ・手業師)。幽閉されていたプライア城を出ても、モードを待ち受けているのは次の荊の城ではないか、と読者に予感させ、その予感は裏切られない。モードに(そしてスウに)とって、世界全体が脱出できない荊の城なのだ。

 一方『お嬢さん』の叔父=上月は姪である秀子との結婚を画策している。彼女に言い寄る「紳士」=藤原も偽装結婚後あわよくばその肉体を手に入れようとする。『マリみて』では作者の周到な排除が、『荊の城』では実は性すら二の次という資本主義社会のシビアな現実が、ヒロインを男との恋愛や性交から遠ざけていた。『お嬢さん』で秀子と男たちの間に置かれた剣・ジェリコの壁は何か。
 たぶんそれは、ひとつには上月を中心とするポルノ愛好家たちの嗜癖そのものだったろう。そう憶測せざるを得ないように作品はできている。春画や、朗読されるポルノ小説には欲情するが、現実の、生身の女性には手を出せない男たち。上月は秀子との結婚を画策していたが、本当に上月は秀子を抱くことが可能だったのだろうか。藤原に拷問を加える上月、その藤原に秀子との初夜はどうだったと目をランランと輝かせ訊く上月が、あんなに生き生きしていたのは、そういうこと=実際の性交には欲情できず、性的でない権力行使(暴力ともいう)や覗きめいたポルノグラフィーに劣情を傾ける恋人(夫もしくは情夫)失格な男たちの代表だったからではないか。
 この日記の題は「男たちのいらない女」だが、実は『お嬢さん』で上月亭に集う男たちもまた「(本物の)女のいらない男たち」だったかも知れない。
 そう考えると藤原を拷問し、秀子との(実際には未遂に終わった)初夜の様子を問いただす上月が、そんな時まで女性器を「オ◯◯◯」と他言語・宗主国の言葉で呼んでいるのは、爆笑を呼ぶ場面だが、同時に何事かを示唆している。それに対し、藤原が「チ◯ポ」と日本語ではなく、自らの母語で述懐することも。

 宗主国のポルノグラフィーを崇拝する男たちの間にあって、それを出し抜こうとする藤原は、ただひとり現実の女性を押し倒しうる存在だ。その彼が秀子との性交を成し得なかったのは、秀子が刃と血をもって、それを拒絶したからだ。
 これが、もうひとつのジェリコの壁だった。マリみてでは作者の作為・『荊の城』では市場原理によって回避された男女の情交は、『お嬢さん』では(大半の男たちの不能と)ヒロインの恋と意志で拒絶された。それは快挙なのだが、その勝利を初めて提示しえたのが男性のパク・チャヌク監督だったことは、逆に女性である今野緒雪氏やサラ・ウォーターズの、世界に対する絶望の深さを示しているのではないか−そんな疑念が脳裏をよぎらないでもないのだ。
 『荊の城』が脱出不可能な「荊の城」であったのに対し(そして『マリみて』がそうした荊の城から作者の作為により人為的に作成されたアジールであったのに対し)『お嬢さん』は「荊の城」の外はある、外に脱出できるという設定で描かれた物語である。『荊の城』でスウの暮らす貧民街・Fingersmithたちの根城は「次の荊の城」・無慈悲なビジネスの世界だったが、『お嬢さん』では珠子(スッキ)の仲間たちが藤原を出し抜く共謀者・手助けの側に回る。
 上月の虚構(ポルノグラフィー)・(ポルノ愛好という形でひねくれ復讐めいた)宗主国崇拝という人工に対し、スッキ(珠子)と秀子はヴァナキュラーな盗人庶民階級を味方につけ国外に脱出し、なにより互いの生身の肉体で愛しあう。女性器を宗主国の言語で呼ぶ上月は敗れ去り、同様に敗れる藤原は男性器を自国語で呼ぶことで最後の面目を保つ。人工vsヴァナキュラー・そしてヴァナキュラーが勝つという映画『お嬢さん』の二元論は、一元論だった原作とはまったく別の構図だ。それは『エイリアン』と『エイリアン2』が、『SPL・狼よ静かに死ね』と『ドラゴン×マッハ!(SPL2)』が違うくらい違う。

 どれが、より適切という話ではない。『お嬢さん』は痛く快く、マリみての江利子さまは可愛く(好きな男の娘に「パパとキスしたの?」と問われ「してない」と即答、「キスしてなくてよかったー!」と内心ガッツポーズする江利子さま、可愛いすぎだろう)、そして『荊の城』には極限まで切り詰められたシェルターのような、悲しい救いがある。
 ある意味で『お嬢さん』の哄笑も痛快も、『荊の城』の静謐な絶望あっての裏返し・二次創作なのだろう。暗く小さいほうが真の太陽で、大きく明るいのは大きく明るくても月、そんな不思議なケースが、物語の場合には存在するのだ。
 
サラ・ウォーターズは荊の城、マリみては「いばらの森」。試験に出ます。
(c)舞村そうじ/RIMLAND ←1706  1702→  記事一覧  ホーム