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ヒューマニズムについて〜ハンナ・アーレント『人間の条件』(2017.11.12)

 今度のコミティアで出す旅行記でも少し書いたのですが(この似顔絵、ちょっと「らしく」描けてるでしょ)、台北の本屋でも『人間的條件』が面陳になってたりして評価の機運が高まってるのかも知れません、ハンナ・アーレント。
 ちょうど自分も邦訳『人間の条件』を読んでいた時期で…いや、読み終えるまでに余裕で数ヶ月かかった、予想以上の難書でした。

【シリーズ・古典を読む】
 『人間の条件』でアーレントは、人間のすることを活動・仕事・労働の三つに分ける、本来この三つは別のものだったのだと説く。まずこれが分かりにくい。
 アーレントによれば、
労働は生命を維持するために必要な消耗品(食物に代表されるもの)を生産し消費すること
仕事は家具や芸術のように消費されず作った人間から独立して長く残るもの
・そして政治的な活動はその二つどちらとも違う別のパフォーマンスになる。
とくに実感しにくいのは「活動」だ。
 現在の政治は、活動であったことを忘れ、いかに労働と消費を支えるか≒経済的な分配の議論になってしまっている、そうアーレントは説くのだが、正直いまの吾々には「経済的な分配の問題でない政治」を考えることは、「今の野球はボールに支配されている」と言われてボールを使わなかった過去の野球を想像するくらい難しい。そうではないか。
(そして意外なことに、分配そっちのけで国防意識の高揚や憲法停止・歴史の改変・「輝く日本」に邁進する今の政権を見て、アーレントのいう政治ってコレなのかなと思わなくもなかった。
 だとしたら、古代ギリシャの「政治らしい政治」が参政権を持たない奴隷や女性の下支えで初めて成り立っていたのと同様、今この国が突き進む「政治」も、分配を蔑みながら経済から搾取することで成り立っているのではないか、逆にそんな考察に及んだりもした。
 進まないどころか悪化する保育や長時間労働の問題・一国を代表しえた企業を傾けてまでの原発への傾倒ばかりではない、経済第一を掲げたはずのアベノミクスすら国が株式に金をつぎこむ・政治的成功のために経済を奉仕させ犠牲にすることが本質ではなかったか。だがそれは別の話だ)

 もうひとつ、『人間の条件』が読みづらいのは、本当に博識で聡明なんだなあと舌を巻くしかない知見を、アーレントが「これはもう当然のことだと思うが」と平気な顔でポンポン繰り出すことにある。
 直前まで読んでいたフーコーの講義が異様なほど読みやすかったのは、聴衆を前にした「語り」だったせいではと前の日記で少し書いたが、同時にフーコーの議論には「こういう問題があり、こういう解答らしきものがあると、私は(吾々は)こうして発見・理解しつつあります」というプロセスの提示があったからかも知れない。
 アーレントの議論にはプロセスがない。本当はあるはずだが「もうこれが答え。これ自体が証明」という感じなのだ。ちょうどガロアだったかガウスだったか、数学の天才が初等教育で証明の問題を出され「えっ、自明じゃないですか」と答えたように。
 そういう意味で同書におけるアーレントは天才めいている。人の孤独について、生命の保持が至高の課題となることについて。二十年・三十年後にジラールやフーコーが懸命にプロセスを提示し解き明かすことについてさえ、アーレントは「もう答えの出てること」として何気なく提示してみせる。
 言い換えれば、それまでの読み手の読書や思索が多ければ多いほど「答え合わせ」のように響く部分が多い読書とも言える。バットがボールについて行ければだが。

 難解で晦渋で、たぶん重要なことを言ってるはずなのだが、それが何か説明しがたい。
 そんな消える魔球みたいなアーレントの文章がふいに真芯に当たり出すのは、ようやく五章に入ってからだ(個人の感想です)。ホームラン級の「分かる」が出始め、最後の第六章は「分かる」「それな」の連打になる。
 労働と仕事は違うと言われても、現代においては創作でさえ仕事ではなく労働化していないか・自分の創作物が消費されすぐ捨てられるのでなく仕事(ワーク)として自分より長い生命を持つとは信じがたくないか…かなり前のほうで感じたそんな疑問も、最後の最後の数ページになって「うんそれ。困ってる」と著者自身に回収される。
 なので、難しそうと二の足を踏んでいるひと(←この日記、それを助長してないか?)・一度は挑んで早々に挫折したひとは、ハンナ・アーレント人間の条件いきなり第六章から読み始めることを推奨する。あくまで個人の感想ですが、六章が一番よく分かりやすく、知見を広げるにあたり即効性も高い。
 ただし、同書でもっとも感動的で、心を熱くさせるのは第五章の後半・終わりの部分だと思う。

 アーレントの本領がどちらかは分からない。
 『イェルサレムのアイヒマン』はアイヒマンに代表される「凡庸な悪」を告発し、ユダヤ人の中にもホロコーストに消極的に加担した者のあることを暴いて、読者の心を凍らせた。だが一方で、追われるユダヤ人を助けるために自身の命を危険に晒したドイツ人もあったことを示し、人間の気高さを再び信じさせようともする。
 政治も、本来は後に残すためだった仕事も、生命を維持するためだけの消費に飲み込まれてしまったと『人間の条件』で語るアーレントは、その状況に絶望すべしと冷徹に説いているようにも、そもそも政治も仕事も虚しいが…と達観しているようにさえ見える。その反面で五章の終わりには、人間性に対する熱い賛美があるようにも思える。

 ここで全く関係のない話をする。もう亡くなった、20年〜30年ほど前に多くのエッセイが翻訳された、スティーブン・ジェイ・グールドという古生物学者・進化論者がいた。進化論者といっても、すべては遺伝子が生き残るための冷徹な戦略だとするドーキンスとは相容れず、そして論争には敗れたとされる。今は憶えている人も少ないかも知れない。
 短篇エッセイ・コラムの名手で、とくに印象に残っているのは
ミッキーマウスの目が登場以来どんどん大きくなっていった過程
・アメリカを代表するチョコバーのマーズが、値上げしたけどサイズも増量と言いながら、値上げ率を超える増量は一度もなされなかった検証(泣)
・そして「なぜ大リーグから四割打者は消えたかの考察」だ。
いずれも本業の生物学とは関係ないが、むしろ関係ない分野でダーウィニズムや科学的手法を活かした好エッセイだった。

 わけても興趣にあふれるのが四割打者の消失で、これは後に本の半分を占める大作にリライトされ単行本『フルハウス』に収録されている。
 大リーグの黎明期には何人もいた、打率四割を超えるスーパーバッターが、次第に減って消滅し現在に至るのはなぜか。バッターを不利にするようなルールの改訂やボール・球場などの仕様の変化・あるいは「要するに昔は本当の名プレイヤーがいたんだ。今の野球選手は器用かも知れないが、みんな小物になっちまったのさ」といった昔はよかった論を丁寧に却け(しりぞけ)、グールドが出す答えは知的にもエキサイティングで、また感動的だ。
 同じようなことを漫画や即売会の世界でも「昔は突出した天才や個性派がいた、巨人たちの時代だった(野球の話じゃないよ)。今はみんな小さくまとまってしまってる」みたいなことを言うひとがいてモヤモヤするたび、この「答え」には気持ちを助けられた。
 ぜひ実際の本で確かめてほしいと言っても、人が読書に割ける時間は有限なので白抜きで開示しておくと
四割打者が消えたのはルールや仕様が変わったせいでも、まして能力が下がったからでもない。
むしろバッターの技術は向上し、かつてより優れている。しかし同じ向上がピッチャーや守備のレベルも押し上げ、皆が高いレベルでゲームするようになった結果、突出した四割打者のような「ムラ」が出なくなったのだ
」というグールドの指摘には、人間というもの・その高みを目指す(こともできる)アビリティへの信頼・というより、それに賭けることにしたという信念や意志を感じる。

 無国籍者としての人生を余儀なくされ、ユダヤ人排斥に翻弄された、博覧強記で人間社会の脆さを説くアーレントに、ときどき感じる(もしかしたら「らしからぬ」かも知れない)人間性の賛美。それを信じるにはあまりに「信じがたくさせるもの」を体感した思想家が、それでもなお示す人間性への共感。人はときに気高い生きかたも出来るという信念もまた。
 ヒューマニズムとは、そういうものではないだろうか。
 そればかりを書物や人に求めるのも、また危険だとはいえ。
   
真ん中のアーレント解説書、入門者向けで分かりやすかったです。
あと全然関係ないけど今は『イーリアス』読んでます。
(c)舞村そうじ/RIMLAND 1708→  記事一覧(+検索)  ホーム