記事:2021年4月 2103→  記事一覧(+検索)  ホーム 

ドラゴンの名をもつ女〜パク・ソリョン『滞空女』(2021.04.04)


 パク・ソリョン滞空女 屋根の上のモダンガール』(萩原恵美訳/三一書房/原著2018年・邦訳2020年)について、語れることは多くない。実物で味わってほしさが強すぎて、1センテンス書けば1センテンス分、一行書けば一行分「これをまっさらな状態で読む」愉しみが奪われてしまうからだ。
 そして思うに、この強烈な磁力を放つ、本体のアートワークだけで十分ではないのか。群青の表紙に白く大きく滞空女という謎めいたタイトルとあそこに人がいる。そして怖くはないんですか。という帯文。
「誰か死にはしまいかと怖いです。それが自分だったら怖いし、他の誰かでも怖いです。
 人が死ぬことを何とも思ってないやつらが怖いです。」

これで読みたくならないほうが、どうかしている。と思いつつ数ヶ月。ようやく手にして読んだ。期待は裏切られなかった。以上。

三一書房『滞空女 屋根の上のモダンガール』公式(外部リンクが開きます)

 …で終わってしまったら日記(週記)にならないので、なるべく興を削がないよう話を進める。帯裏の紹介によれば「滞空女」の本名は姜周龍(カン・ジュリョン)。1931年の平壌で「朝鮮の労働運動史上はじめて「高空籠城」と呼ばれる高所での占拠闘争を繰り広げた」とある。
 物語はそんな周龍が数え二十歳で嫁いだ五つ年下の夫・全斌(ジョンビン)を熱愛、

彼の願いをかなえるべく、ともに婚家を出奔し独立軍に身を投じる前半で始まる。負けん気の強い彼女は、女は炊事洗濯係かと上層部に食ってかかり、武器の輸送などでメキメキ頭角を現していく。ちなみに周龍も夫も実在の人物。帯裏の説明では、その生涯が「1901〜1932」の短さであったと、あらかじめ提示されている。冒頭の時点で、彼女にはもう十年余の時間しか残されていない。つらい。焦る。だがそんな読む側の心配など蹴散らして主人公は突っ走る。
 波瀾万丈の展開と、彼女の行動力に引っ張られ、ページを繰る手が止まらない。本当に余計なことを言いたくないので説明を可能なかぎり端折ると、後半はストーリーが一転。読者は平壌のゴム工場で働く龍ねえさんに再会する。貧しいながらも自由を謳歌する彼女はしかし、今度は労働争議に巻き込まれ、というより自ら渦中に踏み込んでいく。ストライキの計画。共産党のオルグ。ひょっとしてこれは、プロレタリア文学というやつか?社会主義リアリズム?
 しかし小説の主人公は人間で、イデオロギーではない。相変わらずの負けん気で工場に楯突く、インテリの共産党員にも噛みつく。
「あたしに近づいたのも最初から看板が必要だったんじゃありませんか。
 無学な女工はエリート男の言うことを素直に聞かず拒否しそうだから、
 それらしい操り人形にお先棒を担がせる戦術だったんでしょ」
「そのとおりです。私は周龍さんを利用しています。最初から利用するつもりで近づきました
(中略)
 いくらそうしたくても私は周龍さんのようにはできません。女性のゴム職工の当事者性を真似ることも奪うこともできないのです(中略)
 周龍さんも利用すればいいんです。私を、私の組織をいくらでも利用してください」
言うだけのことはキッチリ果たし、持ち出しの献身まで上乗せするドラゴンの女。義侠心に篤く、直情的で、手足を思うまま振り回すように自由でありたいと心はいつも燃えている。そんな主人公に、傑物と一目置かれる男たちも惚れこむ。周龍自身が「惚れて」いたのは夫の全斌ただ一人だけれど、前半では独立運動のリーダー白狂雲・後半では共産党のエリート鄭達憲が、彼女の潜在的な力を見抜き、なにかと目をかける。
 とくに後半の達憲が(たえず口喧嘩しながら)周龍に寄せる厚意は「男女バディ」のように優しくも熱く、そして自分のコントロール下に置けないほどの奔馬だからこそ彼女に思い入れずにいられなかった悲しみに満ちている。映画のフィルムの巻き戻しのようなラストシーンの語り口は今時それほど珍しくもないかも知れない。けれど実際には手の届かないところにいる周龍に達憲が呼びかける場面は、半ばクリシェになりはじめた技法が、まだまだ心を打つ表現になりうると示している。

 小林多喜二の『蟹工船』が1929年。哲学教師だったシモーヌ・ヴェイユが病弱な自身を投げ打つように工場労働に身を挺したのが1934年。姜周龍の高空籠城は、海を隔てた日本に現れた煙突男(労働争議のため工場の煙突に登る)と、互いの存在も知らずにシンクロしていたという。
 歴史学研究所のパク・チュンソンが本書に寄せた解説によれば、労働運動が長いあいだ弾圧・抑圧されてきた韓国で1990年・高さ82メートルのクレーンを70人が占拠し「高空籠城」が復活した。そして両者の橋渡し的な存在として、1970年に焼身自殺した全泰壱「烈士」の名が挙がっていた。先月の日記で取り上げた李珍景『不穏なるものたちの存在論』で、著者が「幽霊が存在することを信じる。強い力を持って実存することを確信する」と書いた「若者」の名前だった。
 もちろん同じ国で書かれた本だから、同じ名前に巡りあうのは、そこまで珍しい話ではない。それでも、かたや小説・かたや思想書と装いの異なる二冊の本が、自分にだけ見える磁力で引き合っていたようで感慨ぶかかった。本も御縁なのだという、いつもの話です。
 
 『無謀なるものたちの共同体』も読了。資本主義を代替するコミューン=共同体は、資本主義の廃絶後にしか到来しないユートピアではないと著者は説く。たとえば賃労働の現場でも業務を動かしてるのは無償の助け合いであり「冷徹な資本の論理」はそのたび穴を開けられているのだという指摘は「マルクスが言うように労働者が生産工程の支配権を奪取したところで、各々バラバラに寸断された業務を強いられる以上、疎外は解消しないじゃないか(大意)」と厳しく指摘しながら、その疎外された工場労働に自ら挑んだヴェイユの「無謀なる」思想を補完するもののようにも思われました。

ハルキ殺し〜イ・チャンドン監督『バーニング 劇場版』(2021.04.11)

 ※今週の日記には『バーニング 劇場版』および村上春樹の小説(直接の原作とされる「納屋を焼く女」だけでなく)に関する遠慮のないネタバレがあります。御注意ください。

    *    *    *

 主人公は中年男。自らの技能を活かし、会社組織の歯車ではない自由な立場で生計を立てている。妻とは離婚しているが、同年代の愛人(夫がいる)がいて性的にも満足な境遇だ。そんな彼が不可解な事件に巻き込まれる。謎めいた少女が彼の探索をアシストし、主人公を性的に導きもする。やがて主人公は、先の戦争の時代から続く、とある裕福な一族の呪わしい過去を暴くことになる…
 …ミスディレクションで申し訳ないが、村上春樹の小説ではない。『ねじまき鳥クロニクル』でも『海辺のカフカ』でもない。スウェーデン発のベストセラーで本国でドラマ化・ハリウッドで映画化もされたスティーグ・ラーソンミレニアム ドラゴン・タトゥーの女』のストーリーの要約だ。スウェーデン版のドラマで主人公ブルムクヴィストを演じたミカエル・ニクヴィストが(自分の考える)「ハルキ顔」だったから思いついた類似かも知れない。あるいは原作で「いや都合よすぎだろ」というほど主人公がモテる(映像版では控えめになっている)ので連想に至ったか。もちろん、意図的な類似だったかは定かでもないし、そこに関心もない。都会的なトレンディ小説…という安易なイメージとは別に、「こういうのがハルキ的」と呼べそうな要素があり、そっち方面で似通った作品があるのを興味ぶかく思ったのだ。
 逆に春樹作品のほうがミステリから多くの養分を得ているって話でもありますね

 ※というわけで今週の日記には『ドラゴン・タトゥーの女』のネタバレもあります。御注意ください。

 もう三年も前の映画だからネタバレ全開でもいいだろう。イ・チャンドン監督の『バーニング 劇場版』は村上春樹の短篇「納屋を焼く」の映像化だが、大胆な翻案でもある。公開当時、先行して入ってきた評として(原作者が描かながちな)格差や貧困の問題を正面から描いている、というものがあった。なるほど、上にも書いたように春樹作品の小説の主人公は「食べていくのに困らない」印象が強い。原作「納屋を焼く」でもそうだ。語り手となる主人公は、作者を想像させる31歳(既婚)の作家。性的な関係はないらしいが月に2回くらいデートしているガールフレンド20歳。彼女が外国から連れ帰ってきた恋人の青年(年齢不明)。いずれも仕事の内容は多く語られない。「年齢とか家庭とか収入とかいったものは(中略)要するに考えてどうにかなるという種類のものではないのだ」とは冒頭の言である。Skip a life completely, stuff it in a cup。
 やがて(主人公の奥さんは放ったらかしで)三人の奇妙な交遊が始まり、やがて語り手の関心は彼女のボーイフレンドのほうに移っていく。彼は(彼女が寝てる間に、主人公だけに)好さげな納屋をいくつも見繕っていて、二ヶ月にひとつくらいガソリンをかけて焼くという変わった趣味の話をする。他人の、というか誰のものかも知らない納屋だ。ふつうに犯罪である。火をつけた後は遠めの場所から望遠鏡でのんびり眺める。「外車に乗った身なりの良い若い男がまさか納屋を焼いてまわってるなんて誰も思わない」。原作には原作の語り口でのみ立ちのぼるペーソスや詩情があるのだろう。こうして抜き出してみると、ずいぶん不穏で剣呑な話だ。
 その剣呑さを(原作をも振り切る勢いで)最大限に引き出したのが、映画『バーニング』だとも言える。まず、登場人物たちのコンポジション・力関係が違う。主人公は彼女と同年代・というか元同級生で、卒業後そうそうに職を失ない実家の農業を継ぐような継がないような、どっちつかずの場所で呻吟している若者。スーパーの前でキャンペーンの景品を配っていた彼女と再会して、恋愛のような状態になるが、生活が重荷となり関係は長続きしない。次に再会したとき、彼女は外国帰りで裕福でハンサムな新しい恋人を連れている。三人の奇妙な交際が始まり、やがて彼女が寝ている横で、納屋を焼く打ち明け話が始まる…
 ユ・アインが演じる主人公の若者を、若い頃の作者=村上春樹を彷彿させる・させないと吟味する評もあった。だがむしろ「ハルキ顔」をしているのは裕福な新しい恋人のほうに思われた。スウェーデン版『ドラゴン・タトゥーの女』のミカエル・ニクヴィスト。映画化された『ノルウェイの森』(未見)で主人公を演じた松山ケンイチ。それに村上春樹に似てるといわれるポール・サイモンや羽田孜(第80代内閣総理大臣)。

 スティーヴ・ユァン演じる新しい恋人は30代。裕福で生活に困らず趣味がよく、そしていつでも含み笑いをしている。隠し事があるように。それを見抜けない周囲の人々を面白がるように。要するに、この『バーニング』のハルキ似の彼は、人々が「こんな感じ」といって村上春樹(作品)を批判したり揶揄したりするときの「軽薄な村上春樹(作品)」像の具現化みたいなキャラなのだ。しかし監督による「大胆な翻案」の本領はここからだ。観れば分かることなので、勿体ぶる必要はないだろう。
 ※ここから、本当に踏みこんだネタバレになります
 映画『バーニング』の裕福な男は、納屋を焼く放火犯ではなく連続殺人犯であることが示唆されるのだ。

 原作でも映画でも、ガールフレンドの新しい恋人に「納屋を焼くのが趣味なんです。実はこのへんにも好い物件がありましてね。今日はその下見も兼ねて来たんです」と言われた主人公は、地図で近所のいくつかの納屋に目星をつけ、焼かれてないか・もう焼かれたか確認するためジョギングを始める。そのうちガールフレンドとは音信不通になってしまい、恋人のほうと二人だけで会うことになる。裕福な恋人は、目星をつけていた納屋はもう焼いたと言う。だが主人公は近所で焼けた納屋を確認できていない。見逃したんでしょうと微笑まれる…
 『バーニング 劇場版』では、この新しい恋人がシリアルキラーで、主人公の想い人でもあった彼女を愉しみのために殺害したことが示唆される。「納屋を焼くんです」「新しい物件にも目星をつけてます」「このへん(あなたの近く)ですよ」という台詞が、急に禍々しい色合いを帯びる。
「十五分もあれば綺麗に燃えつきちゃうんです。まるでそもそもの最初から存在もしなかったみたいにね。誰も悲しみゃしません。ただ―消えちゃうんです。ぷつんってね」(原作「納屋を焼く」より。太字部分は原典では傍点つき)
彼の含み笑いは、『ドラゴン・タトゥーの女』で連続殺人の真犯人が探偵役のブルムクヴィストに「この前、君を招いてディナーを楽しんだ、まさにその時(食卓の足元の)地下室には、次に私に殺される被害者が監禁されていたのだよ」と嬉しげに告げた時みたいな、深みのない邪悪さを漂わすかのようだ。
 そうした意味で、本作は単なる「納屋を焼く」の映像化というより「納屋」と、シリアル・キラーを描いた『ダンス・ダンス・ダンス』のマッシュアップと言ってもよいだろう。
 そもそも、村上春樹の作品には主人公の分身・オルターエゴのような人物がよく現れる。最初の三部作の「鼠」。『ノルウェイの森』のキズキ。そして『ダンス・ダンス・ダンス』の五反田くん。『スプートニクの恋人』もドッペルゲンガーがモチーフだった。…物語において、ドッペルゲンガーは妄想の第一レッスンのように描かれがちな現象だ。僕がよく、村上春樹作品が世界中に読者を得たのは、描かれる幻想が高度消費社会の成立にともない発生した心の病にフィットしたからではないかと書いてることにも関連する。
 オリジナルの作者ラーソンの急逝後、別の作家によって書き継がれた『ミレニアム』のシリーズが「ドラゴン・タトゥーの女」リスベットと、双子の妹カミラとの殺し合いを描いていることを、ここで述べるべきだろうか。三部作の「鼠」、『ノルウェイ』のキズキ、『ダンス』の五反田はそれぞれ「親しい友人の死を乗り越えて」主人公を成長させるためのように、主人公も持っていたかも知れない負の属性を引き受けて処分するように、破滅的な生を生き急いで死の世界の住人となっていく。

 …とはいえ『バーニング』の彼女をめぐる二人の男は、双子のようなドッペルゲンガーではない。ハルキらしさを体現しているのは裕福な含み笑いのハンサムで、若く貧しい主人公は、経済的なハードルゆえハルキ的な世界に参入できない「その他おおぜい」の具現化なのかも知れない。ハルキ=「やれやれ」といった安易な揶揄でなく、ファンですら完全には否定できない春樹作品の鼻持ちならなさを、一人のハンサムに集約して断罪する、『バーニング』はそんな「父親殺し」・ハルキ殺しの所業として興味ぶかかった。
 案外その(有名なミステリ小説に出てくる、一人ではナイフを振るう残酷さをもてない者たちが十人がかりで悪党を断罪するような)殺害者の中には、学生結婚して喫茶店の経営に追われ「ホールのチーズケーキから切り出した・フォークで支えないと倒れてしまうくらい薄い切片のような」貧乏暮らしだったという、小説家として成功した後の作品には反映されない・ハルキ的世界には参入できない、作家になる前のハルキ氏自身も含まれているのかも知れない。いや、これはちょっと話を盛りすぎですか。

 原作を翻案する・何かをベースに新しい作品をつくる場合、原作や元ネタの良さを忠実に写し取る・さらに発展させる、の他に「むしろ原作を倒す」「葬る」方向で乗り越えていく。嫌いではありません。(批評もそういうとこあるし)。
 

第15回いっせい配信「2021年3月」にて電子書籍版百年の眠りを公開しました。無料です。

2018年に公開したのと(ほぼ)同内容ですが、絵を少し整えました。(21.03.20)
(c)舞村そうじ/RIMLAND 2103→  記事一覧(+検索)  ホーム