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ドラゴンの名をもつ女〜パク・ソリョン『滞空女』(2021.04.04)


 パク・ソリョン滞空女 屋根の上のモダンガール』(萩原恵美訳/三一書房/原著2018年・邦訳2020年)について、語れることは多くない。実物で味わってほしさが強すぎて、1センテンス書けば1センテンス分、一行書けば一行分「これをまっさらな状態で読む」愉しみが奪われてしまうからだ。
 そして思うに、この強烈な磁力を放つ、本体のアートワークだけで十分ではないのか。群青の表紙に白く大きく滞空女という謎めいたタイトルとあそこに人がいる。そして怖くはないんですか。という帯文。
「誰か死にはしまいかと怖いです。それが自分だったら怖いし、他の誰かでも怖いです。
 人が死ぬことを何とも思ってないやつらが怖いです。」

これで読みたくならないほうが、どうかしている。と思いつつ数ヶ月。ようやく手にして読んだ。期待は裏切られなかった。以上。

三一書房『滞空女 屋根の上のモダンガール』公式(外部リンクが開きます)

 …で終わってしまったら日記(週記)にならないので、なるべく興を削がないよう話を進める。帯裏の紹介によれば「滞空女」の本名は姜周龍(カン・ジュリョン)。1931年の平壌で「朝鮮の労働運動史上はじめて「高空籠城」と呼ばれる高所での占拠闘争を繰り広げた」とある。
 物語はそんな周龍が数え二十歳で嫁いだ五つ年下の夫・全斌(ジョンビン)を熱愛、

彼の願いをかなえるべく、ともに婚家を出奔し独立軍に身を投じる前半で始まる。負けん気の強い彼女は、女は炊事洗濯係かと上層部に食ってかかり、武器の輸送などでメキメキ頭角を現していく。ちなみに周龍も夫も実在の人物。帯裏の説明では、その生涯が「1901〜1932」の短さであったと、あらかじめ提示されている。冒頭の時点で、彼女にはもう十年余の時間しか残されていない。つらい。焦る。だがそんな読む側の心配など蹴散らして主人公は突っ走る。
 波瀾万丈の展開と、彼女の行動力に引っ張られ、ページを繰る手が止まらない。本当に余計なことを言いたくないので説明を可能なかぎり端折ると、後半はストーリーが一転。読者は平壌のゴム工場で働く龍ねえさんに再会する。貧しいながらも自由を謳歌する彼女はしかし、今度は労働争議に巻き込まれ、というより自ら渦中に踏み込んでいく。ストライキの計画。共産党のオルグ。ひょっとしてこれは、プロレタリア文学というやつか?社会主義リアリズム?
 しかし小説の主人公は人間で、イデオロギーではない。相変わらずの負けん気で工場に楯突く、インテリの共産党員にも噛みつく。
「あたしに近づいたのも最初から看板が必要だったんじゃありませんか。
 無学な女工はエリート男の言うことを素直に聞かず拒否しそうだから、
 それらしい操り人形にお先棒を担がせる戦術だったんでしょ」
「そのとおりです。私は周龍さんを利用しています。最初から利用するつもりで近づきました
(中略)
 いくらそうしたくても私は周龍さんのようにはできません。女性のゴム職工の当事者性を真似ることも奪うこともできないのです(中略)
 周龍さんも利用すればいいんです。私を、私の組織をいくらでも利用してください」
言うだけのことはキッチリ果たし、持ち出しの献身まで上乗せするドラゴンの女。義侠心に篤く、直情的で、手足を思うまま振り回すように自由でありたいと心はいつも燃えている。そんな主人公に、傑物と一目置かれる男たちも惚れこむ。周龍自身が「惚れて」いたのは夫の全斌ただ一人だけれど、前半では独立運動のリーダー白狂雲・後半では共産党のエリート鄭達憲が、彼女の潜在的な力を見抜き、なにかと目をかける。
 とくに後半の達憲が(たえず口喧嘩しながら)周龍に寄せる厚意は「男女バディ」のように優しくも熱く、そして自分のコントロール下に置けないほどの奔馬だからこそ彼女に思い入れずにいられなかった悲しみに満ちている。映画のフィルムの巻き戻しのようなラストシーンの語り口は今時それほど珍しくもないかも知れない。けれど実際には手の届かないところにいる周龍に達憲が呼びかける場面は、半ばクリシェになりはじめた技法が、まだまだ心を打つ表現になりうると示している。

 小林多喜二の『蟹工船』が1929年。哲学教師だったシモーヌ・ヴェイユが病弱な自身を投げ打つように工場労働に身を挺したのが1934年。姜周龍の高空籠城は、海を隔てた日本に現れた煙突男(労働争議のため工場の煙突に登る)と、互いの存在も知らずにシンクロしていたという。
 歴史学研究所のパク・チュンソンが本書に寄せた解説によれば、労働運動が長いあいだ弾圧・抑圧されてきた韓国で1990年・高さ82メートルのクレーンを70人が占拠し「高空籠城」が復活した。そして両者の橋渡し的な存在として、1970年に焼身自殺した全泰壱「烈士」の名が挙がっていた。先月の日記で取り上げた李珍景『不穏なるものたちの存在論』で、著者が「幽霊が存在することを信じる。強い力を持って実存することを確信する」と書いた「若者」の名前だった。
 もちろん同じ国で書かれた本だから、同じ名前に巡りあうのは、そこまで珍しい話ではない。それでも、かたや小説・かたや思想書と装いの異なる二冊の本が、自分にだけ見える磁力で引き合っていたようで感慨ぶかかった。本も御縁なのだという、いつもの話です。
 
 『無謀なるものたちの共同体』も読了。資本主義を代替するコミューン=共同体は、資本主義の廃絶後にしか到来しないユートピアではないと著者は説く。たとえば賃労働の現場でも業務を動かしてるのは無償の助け合いであり「冷徹な資本の論理」はそのたび穴を開けられているのだという指摘は「マルクスが言うように労働者が生産工程の支配権を奪取したところで、各々バラバラに寸断された業務を強いられる以上、疎外は解消しないじゃないか(大意)」と厳しく指摘しながら、その疎外された工場労働に自ら挑んだヴェイユの「無謀なる」思想を補完するもののようにも思われました。

ハルキ殺し〜イ・チャンドン監督『バーニング 劇場版』(2021.04.11)

 ※今週の日記には『バーニング 劇場版』および村上春樹の小説(直接の原作とされる「納屋を焼く女」だけでなく)に関する遠慮のないネタバレがあります。御注意ください。

    *    *    *

 主人公は中年男。自らの技能を活かし、会社組織の歯車ではない自由な立場で生計を立てている。妻とは離婚しているが、同年代の愛人(夫がいる)がいて性的にも満足な境遇だ。そんな彼が不可解な事件に巻き込まれる。謎めいた少女が彼の探索をアシストし、主人公を性的に導きもする。やがて主人公は、先の戦争の時代から続く、とある裕福な一族の呪わしい過去を暴くことになる…
 …ミスディレクションで申し訳ないが、村上春樹の小説ではない。『ねじまき鳥クロニクル』でも『海辺のカフカ』でもない。スウェーデン発のベストセラーで本国でドラマ化・ハリウッドで映画化もされたスティーグ・ラーソンミレニアム ドラゴン・タトゥーの女』のストーリーの要約だ。スウェーデン版のドラマで主人公ブルムクヴィストを演じたミカエル・ニクヴィストが(自分の考える)「ハルキ顔」だったから思いついた類似かも知れない。あるいは原作で「いや都合よすぎだろ」というほど主人公がモテる(映像版では控えめになっている)ので連想に至ったか。もちろん、意図的な類似だったかは定かでもないし、そこに関心もない。都会的なトレンディ小説…という安易なイメージとは別に、「こういうのがハルキ的」と呼べそうな要素があり、そっち方面で似通った作品があるのを興味ぶかく思ったのだ。
 逆に春樹作品のほうがミステリから多くの養分を得ているって話でもありますね

 ※というわけで今週の日記には『ドラゴン・タトゥーの女』のネタバレもあります。御注意ください。

 もう三年も前の映画だからネタバレ全開でもいいだろう。イ・チャンドン監督の『バーニング 劇場版』は村上春樹の短篇「納屋を焼く」の映像化だが、大胆な翻案でもある。公開当時、先行して入ってきた評として(原作者が描かながちな)格差や貧困の問題を正面から描いている、というものがあった。なるほど、上にも書いたように春樹作品の小説の主人公は「食べていくのに困らない」印象が強い。原作「納屋を焼く」でもそうだ。語り手となる主人公は、作者を想像させる31歳(既婚)の作家。性的な関係はないらしいが月に2回くらいデートしているガールフレンド20歳。彼女が外国から連れ帰ってきた恋人の青年(年齢不明)。いずれも仕事の内容は多く語られない。「年齢とか家庭とか収入とかいったものは(中略)要するに考えてどうにかなるという種類のものではないのだ」とは冒頭の言である。Skip a life completely, stuff it in a cup。
 やがて(主人公の奥さんは放ったらかしで)三人の奇妙な交遊が始まり、やがて語り手の関心は彼女のボーイフレンドのほうに移っていく。彼は(彼女が寝てる間に、主人公だけに)好さげな納屋をいくつも見繕っていて、二ヶ月にひとつくらいガソリンをかけて焼くという変わった趣味の話をする。他人の、というか誰のものかも知らない納屋だ。ふつうに犯罪である。火をつけた後は遠めの場所から望遠鏡でのんびり眺める。「外車に乗った身なりの良い若い男がまさか納屋を焼いてまわってるなんて誰も思わない」。原作には原作の語り口でのみ立ちのぼるペーソスや詩情があるのだろう。こうして抜き出してみると、ずいぶん不穏で剣呑な話だ。
 その剣呑さを(原作をも振り切る勢いで)最大限に引き出したのが、映画『バーニング』だとも言える。まず、登場人物たちのコンポジション・力関係が違う。主人公は彼女と同年代・というか元同級生で、卒業後そうそうに職を失ない実家の農業を継ぐような継がないような、どっちつかずの場所で呻吟している若者。スーパーの前でキャンペーンの景品を配っていた彼女と再会して、恋愛のような状態になるが、生活が重荷となり関係は長続きしない。次に再会したとき、彼女は外国帰りで裕福でハンサムな新しい恋人を連れている。三人の奇妙な交際が始まり、やがて彼女が寝ている横で、納屋を焼く打ち明け話が始まる…
 ユ・アインが演じる主人公の若者を、若い頃の作者=村上春樹を彷彿させる・させないと吟味する評もあった。だがむしろ「ハルキ顔」をしているのは裕福な新しい恋人のほうに思われた。スウェーデン版『ドラゴン・タトゥーの女』のミカエル・ニクヴィスト。映画化された『ノルウェイの森』(未見)で主人公を演じた松山ケンイチ。それに村上春樹に似てるといわれるポール・サイモンや羽田孜(第80代内閣総理大臣)。

 スティーヴ・ユァン演じる新しい恋人は30代。裕福で生活に困らず趣味がよく、そしていつでも含み笑いをしている。隠し事があるように。それを見抜けない周囲の人々を面白がるように。要するに、この『バーニング』のハルキ似の彼は、人々が「こんな感じ」といって村上春樹(作品)を批判したり揶揄したりするときの「軽薄な村上春樹(作品)」像の具現化みたいなキャラなのだ。しかし監督による「大胆な翻案」の本領はここからだ。観れば分かることなので、勿体ぶる必要はないだろう。
 ※ここから、本当に踏みこんだネタバレになります
 映画『バーニング』の裕福な男は、納屋を焼く放火犯ではなく連続殺人犯であることが示唆されるのだ。

 原作でも映画でも、ガールフレンドの新しい恋人に「納屋を焼くのが趣味なんです。実はこのへんにも好い物件がありましてね。今日はその下見も兼ねて来たんです」と言われた主人公は、地図で近所のいくつかの納屋に目星をつけ、焼かれてないか・もう焼かれたか確認するためジョギングを始める。そのうちガールフレンドとは音信不通になってしまい、恋人のほうと二人だけで会うことになる。裕福な恋人は、目星をつけていた納屋はもう焼いたと言う。だが主人公は近所で焼けた納屋を確認できていない。見逃したんでしょうと微笑まれる…
 『バーニング 劇場版』では、この新しい恋人がシリアルキラーで、主人公の想い人でもあった彼女を愉しみのために殺害したことが示唆される。「納屋を焼くんです」「新しい物件にも目星をつけてます」「このへん(あなたの近く)ですよ」という台詞が、急に禍々しい色合いを帯びる。
「十五分もあれば綺麗に燃えつきちゃうんです。まるでそもそもの最初から存在もしなかったみたいにね。誰も悲しみゃしません。ただ―消えちゃうんです。ぷつんってね」(原作「納屋を焼く」より。太字部分は原典では傍点つき)
彼の含み笑いは、『ドラゴン・タトゥーの女』で連続殺人の真犯人が探偵役のブルムクヴィストに「この前、君を招いてディナーを楽しんだ、まさにその時(食卓の足元の)地下室には、次に私に殺される被害者が監禁されていたのだよ」と嬉しげに告げた時みたいな、深みのない邪悪さを漂わすかのようだ。
 そうした意味で、本作は単なる「納屋を焼く」の映像化というより「納屋」と、シリアル・キラーを描いた『ダンス・ダンス・ダンス』のマッシュアップと言ってもよいだろう。
 そもそも、村上春樹の作品には主人公の分身・オルターエゴのような人物がよく現れる。最初の三部作の「鼠」。『ノルウェイの森』のキズキ。そして『ダンス・ダンス・ダンス』の五反田くん。『スプートニクの恋人』もドッペルゲンガーがモチーフだった。…物語において、ドッペルゲンガーは妄想の第一レッスンのように描かれがちな現象だ。僕がよく、村上春樹作品が世界中に読者を得たのは、描かれる幻想が高度消費社会の成立にともない発生した心の病にフィットしたからではないかと書いてることにも関連する。
 オリジナルの作者ラーソンの急逝後、別の作家によって書き継がれた『ミレニアム』のシリーズが「ドラゴン・タトゥーの女」リスベットと、双子の妹カミラとの殺し合いを描いていることを、ここで述べるべきだろうか。三部作の「鼠」、『ノルウェイ』のキズキ、『ダンス』の五反田はそれぞれ「親しい友人の死を乗り越えて」主人公を成長させるためのように、主人公も持っていたかも知れない負の属性を引き受けて処分するように、破滅的な生を生き急いで死の世界の住人となっていく。

 …とはいえ『バーニング』の彼女をめぐる二人の男は、双子のようなドッペルゲンガーではない。ハルキらしさを体現しているのは裕福な含み笑いのハンサムで、若く貧しい主人公は、経済的なハードルゆえハルキ的な世界に参入できない「その他おおぜい」の具現化なのかも知れない。ハルキ=「やれやれ」といった安易な揶揄でなく、ファンですら完全には否定できない春樹作品の鼻持ちならなさを、一人のハンサムに集約して断罪する、『バーニング』はそんな「父親殺し」・ハルキ殺しの所業として興味ぶかかった。
 案外その(有名なミステリ小説に出てくる、一人ではナイフを振るう残酷さをもてない者たちが十人がかりで悪党を断罪するような)殺害者の中には、学生結婚して喫茶店の経営に追われ「ホールのチーズケーキから切り出した・フォークで支えないと倒れてしまうくらい薄い切片のような」貧乏暮らしだったという、小説家として成功した後の作品には反映されない・ハルキ的世界には参入できない、作家になる前のハルキ氏自身も含まれているのかも知れない。いや、これはちょっと話を盛りすぎですか。

 原作を翻案する・何かをベースに新しい作品をつくる場合、原作や元ネタの良さを忠実に写し取る・さらに発展させる、の他に「むしろ原作を倒す」「葬る」方向で乗り越えていく。嫌いではありません。(批評もそういうとこあるし)。
 

いま求められるホラー〜ジョーダン・ピール監督『アス』(2021.04.18)

 劇場公開当時は見逃していたジョーダン・ピール監督の『アス』(2019年)は、ドッペルゲンガーをモチーフにしたホラー(超現実スリラー)だった。黒人の青年が恋人の白人一家に招かれ異様な恐怖を体験するデビュー作『ゲット・アウト』が絶賛された新鋭の、第二作にあたる。今度はルピタ・ニョンゴを中心とする黒人一家(妻と夫・娘と息子)の前に、自分たちと瓜二つの不気味な一家があらわれ、取って代わろうという話だ。同時期に話題をまいたポン・ジュノ監督の『パラサイト』との(類似ではないが)テーマ的な近しさを論じた評もあったと思う。それも納得の、思考を刺激する巧妙な寓話だった。おそらく、シンプルな『ゲット・アウト』のほうが評価は高いのだろうけれど、この第二作も個人的に非常に気に入りました。

 けれど『アス』がどう気に入ったか、説明するには回り道が必要だ。

 まず、多くの他のジャンルと同様、ホラーもまた、道徳的な教訓や価値に関する葛藤を描けるテーマだということを再確認したい。無差別なはずの殺人鬼が、たいてい性的に「ふしだら」な男女から餌食にするというのは、パロディの題材にもなっている「お約束」のひとつだ。もちろん理不尽に怪異や暴力に襲われる話も多いが、強欲や傲慢・過去の悪業が報いを受ける話も少なくない。
 イーライ・ロス監督の『ホステル』(2005年)は東欧を舞台にしたホラー映画だ。冷戦後、遅ればせで資本主義社会に参入した東欧。その時間差による格差を利用して「いい思い」をしようと、つまり本国では庶民レベルでも東欧では「リッチなアメリカ人」として美女にモテモテだと舐めてかかった若者たちが体験する、想像を絶する苦痛と恐怖を描く。
 しかし話はさらに遡る。『ホステル』を観て―ちなみに非常にゴア、つまり漢字四文字だとインパクトが強すぎるので間に平仮名を挟むと、いわゆる人の体を切って断つような描写がエゲツなさすぎて相当に後悔もしたしオススメも出来ないのですが―思い出したのは、さらに十年前のヒットソングだ。

 オアシス・ブラーなどがブレイクした90年代イギリス。ブリット・ポップと呼ばれたムーブメントを代表するバンドのひとつが、十年以上の下積みを経てついに正当に評価されたパルプだ。彼らの「コモン・ピープル」は語り手の平凡なイギリス青年が、ギリシャから来た裕福なガールフレンドに「あなたみたいな普通の人たち(コモン・ピープル)みたいに暮らしてみたい」と口説かれる顛末を歌って大ヒットした。長く続く不況と、格差の拡大で「普通の人たち」の鬱屈は頂点に達していただろう。
 とりあえずスーパーマーケットに行って、お金なんてないって顔してみせなよ。何それ面白ーいと君は笑うけど、ごらん?他の誰も笑ってないよ?

部屋にゴキ○リが出てもパパに電話すればどうにかしてもらえる君が「普通の人たち」みたいに暮らすなんて無理だよ。
「他に何にもすることがないから」踊って、飲んで、性交する僕らの気持ちなんて分からないよ。
「貧乏ってクール」と思ってる君のこと、みんな嘲笑ってるんだよ?

 3分半に切り詰められたMVで伏せられてるのは「性交」を意味する俗語のscrew(※ほぼfxxkと同義語)だけではない。あ、ちなみにゴ○ブリはMVでも音は消されてません。6分近いフルバージョンでは「僕たちみたいなのが存在するだけで驚きだろう?君がなんで?ねえなんでって思ってる間にまばゆく燃えつきていく僕らみたいなのがさ」(あ、このへん全部意訳だし端折ってます)という鮮烈なフレーズとともに、テレビでは流しがたい呪詛の言葉が歌われている―
 奴らは警告なしで君に噛みつくよ 君を引き裂いて裏返しにするよ
 みんな観光客(ツーリスト)がキライだからね

「コモン・ピープル」はスラム・ツーリズムと呼ばれる現象を痛烈に皮肉った歌である。その名のとおり、貧しい人々の、貧しい暮らしを娯楽として鑑賞し、消費する観光。日本でも最近、大阪の新今宮=西成のあいりん地区を「貧しいけれど人情のある街」として消費しようとした電通がらみのコンテンツが炎上した。
ホームレスとデートの記事の残酷さ〜貧困消費と感動ポルノ〜(ヒオカ/note)(外部サイトが開きます)

 

 そしてこの「君に噛みつき、引き裂いて裏返しにする」逆襲を実際に描いたのが『ホステル』だった。
 30前後だろうか、家庭をもつ者もいるヤンチャ者たちが青春を卒業する(←ただし信じられない理不尽な暴力によってだが)なんともいえない風情もある作品だ。ちなみに東欧のホステルには、美女にモテたいアメリカ青年だけでなく、ヨーロッパ人とのアバンチュールを夢みる日本人の少女たちもいる。彼女たちも含め、無邪気な観光客たちが次々と誘拐され、拷問と殺人を愉しむ秘密クラブの獲物にされる。「ディープ東欧にある、あとくされない恋と乱交のホステル」は餌を釣るための罠だったのだ。
 自分たちの尺で測って「開発度が低い」地域や階層を劣った・愚鈍なものと見くびり、いわば格差を利用して利得を得ようとする都会人が、その思い上がりを暴力的に戒められる。…そこまで誇張されてないにせよ、(自称)文明人が非文明的なもの・野生の、野蛮なものたちに襲われるホラーを「赤頭巾型のホラー」と仮に呼ぶとする。むろん『ジョーズ』のような実際にモンスターが野生動物な作品も想定されるし、テキサスの田舎でエンストした自動車乗りがチェーンソー男をはじめとする殺戮一家に襲われる『悪魔のいけにえ』なども赤頭巾型=オオカミ怖い型のホラーに数えることができるだろう。『ホステル』で高く評価されたイーライ・ロス監督はその後も、南米に文明を持ち込もうとした欧米人が先住民族に逆襲されたり、ガイアナの人民寺院をモチーフにした、つまり文明を脅かす非文明をテーマにした映画を撮り続けているようだ(怖くて観ていない)。
 反面、階層や文化度・文明度が高い者が「趣味」のシリアル・キラーとして、下民と蔑んだ相手を獲物にコレクションしていく作品は「青髭型のホラー」だとも言える。前回の日記で紹介した、あんな作品やこんな作品は、こちらに分類できそうだ。『ホステル』は見るからに赤頭巾タイプのホラーだが、思い上がった観光客を餌食にする秘密クラブ自体は、どうやら大金をはたいても人の体を切ったり断ったりしてみたい富裕層が顧客らしく、青髭ホラーの要素もあるのだけれど、まあ話をすすめるための仮の、ゆるい概念なので深くは追求しない。

 …問題は、東欧に行けばオイシイ目に逢えるというアメリカ人の思い上がりを戒める要素を持っていたはずのホラー映画が結果的に「ほら見ろ、東欧の、文明化されてない奴らは恐ろしいんだぞ」と、余計に蔑視を煽る副作用も有していることだ。「気をつけな、奴らは君を引き裂くぞ」という台詞は「奴ら=僕ら」と捉えれば貧しいコモン・ピープルのやるせない遠吠えだが、「奴ら」を本当に「奴ら」と対象化できる者が発すればゼノフォビア・マイノリティへの差別・迫害の犬笛になる。それはまさに元祖「赤頭巾」で悪役にされたオオカミがヨーロッパで害獣として迫害・駆除されていった歴史が示している。

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 ようやく『アス』に話が戻る。
 前作『ゲット・アウト』は裕福な白人が黒人を捕獲する青髭ホラーだった。同時に、都会っ子の主人公が田舎の閉鎖的な白人コミュニティで捕獲されそうになる赤頭巾ホラーでもあったのだが、いちおう主人公は善良で、モンスターは邪悪。マイノリティとして迫害を受けてきた黒人を主人公に、あらたな迫害を描く作品だった。
 
 『アス』の主人公もまた(監督自身の出自でもある)黒人の一家だが、彼女ら/彼らは別荘地で白人一家とも親しくつきあい「黒人だから」という属性からは一応、切り離されている。ではどのような属性に属しているのか。それは一家の前に突然あらわれたドッペルゲンガーの不気味な一家が問わず語りに示している。私たちはアメリカ人よと。
 「アス」は英語ではUS。「私たち」でもあり、文字どおり「アメリカ人」=US(United States)でもある「ゼム(THEM)」。このUSを名乗るTHEMに、監督が仮託したのは主人公たち=「私たち」アメリカ人が、些細な不平はあるけれど豊かで満足な暮らしを送ることで、踏みつけにしている「私たち」になれない存在全般だ。いや、実際に監督がそう言っているのだ。
 それは「私たち」の豊かな暮らしを、薄給で支えている国内の外国人労働者かも知れない。あるいは「私たち」が入手できる安価な衣料品を、薄給で提供する国外の労働者かも知れない。「私たち」の満足な暮らしは「ゼム(THEM)」の搾取のうえに成り立っており、「私たち」には報われるべき罪過が、借財がある。
 だが、それを直に脅威・モンスターとして描けば「ほら、やっぱり奴らはオオカミなんだ」と偏見を煽ることになる。この隘路をジョーダン・ピール監督は「私たちにそっくりな、しかしいびつな、けれどそのいびつさは吾々に責任がある、地下に封じ込められたドッペルゲンガーたち」という架空の存在・荒唐無稽ともいえるSF的なアイディアで奇跡的に切り抜けた。
 
 主人公がドッペルゲンガーに遭遇し、また、地下に恐るべき真相が隠されているという意味で、個人的にはダンカン・ジョーンズ監督のSFスリラー『月に囚われた男』(2009年)を思い出さずにはいられなかった。
 あるいはクライマックスで回想される、地上で踊られるバレエにシンクロして地下で繰り広げられる痛々しくグロテスクな模倣は、2018年のルカ・グァダニーノ監督によるリメイク版サスペリア』を彷彿とさせる。
 監督なら当然なのだが各国の映画に造詣が深いと思われる作者なので、これらは意図的なものかも知れない。けれど、映画でなくても、それこそ先日の西成をめぐる炎上さわぎでも、ファストファッションの衣料品が弾圧されているウイグル産の(つまり搾取や奴隷労働が疑われる)綿を使っていた件でも、吾々のまわりにある多くの事象を投影できる、精緻さと懐の深さをもった作品が『アス』だと思う。
 多くの他のジャンルと同様、ホラーもまた、道徳的な教訓や価値に関する葛藤を描けるテーマだと再確認できた一本でした。
 おそらく、シンプルな『ゲット・アウト』のほうが評価は高いのだろうけれど、この第二作も個人的にオススメです。(ゴアじゃないよ)
 
 いや…さすがに『ホステル』をココに貼るのは…

さよなら救世主〜ティム・ミラー監督『ターミネーター:ニュー・フェイト』(2021.04.25)

 『ターミネーター』『ターミネーター2』の発案者にして監督だったジェームズ・キャメロンが製作総指揮に返り咲いたシリーズ通算6作目・『ターミネーター:ニュー・フェイト』(ティム・ミラー監督/2019年)も、映画館で見逃して、今さらながらDVDで観た一本。
 今さらながらの感想ですが、すごい百合でした
 またまたぁ、と言われそうだがフカシじゃない。実際、最後の最後まで「百合のようで百合じゃない、ちょっと百合」食べるラー油の按配で展開するが、終わるのかと思ったラスト1分で全てをひっくり返すような熱烈な百合に成り上がる。わー!わー!ばんざーい!という、まさかの大逆転。

 だが興奮が静まるにつれ、考えがまとまってきた。最後に大逆転であらわれたのは百合要素だけか。百合を軽んじるわけではないが、もっと大変なことが起きていたのではないか。

 そんなわけで今回の日記、『ターミネーター』シリーズの大規模なネタバレがあります。
 『ニュー・フェイト』を観ないまま読んだら、絶対に後悔します。


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 まず今さら、今さらだけどシリーズ全体を振り返っておこう。
 『ターミネーター』(1984年)の舞台は現代=1984年のアメリカ。近未来にスカイネットと呼ばれるAIが反乱を起こし核ミサイルで人類を殲滅、世界の支配者となる。しかし生き残った人類の中から、今度は機械の覇権を脅かすレジスタンスのリーダーが登場。この人類の救世主=ジョン・コナーの誕生そのものを阻止するため、スカイネットは頑健な金属骨格に分厚い筋肉をコーティングした最強のロボット兵士=ターミネーターT-800をタイムマシンで現代に送りこみ、ジョンの母親となる予定のサラ・コナー抹殺を試みる。
 未来の人類もサラを守るため、人間の兵士カイル・リースを送りこむ。手に手をとってT-800から逃れるうち、恋に落ちる二人。カイルはT-800と相討ちになり敢えなく落命するが、生き残ったサラが宿した子が、後の救世主となることを暗示して物語は終わる。ジェームズ・キャメロン監督ならびに、強面の悪役T-800を演じたアーノルド・シュワルツェネッガーの出世作となった。

 『ターミネーター2』(1991年)では、母サラの庇護のもと流浪生活を送る少年ジョン・コナーを直接ターミネートするべく、液体金属で自在に姿を変えられる新型のターミネーター・T-1000が未来から送り込まれてくる。対抗して未来の人類が送ってきたのは電子頭脳をハッキングしてジョンを守るようプログラムしなおした「良いターミネーター」T-800だった。
 サラとジョン・T-800はT-1000から逃れつつ、スカイネットが人類を滅ぼす「審判の日(ジャッジメント・デイ)」自体の阻止を図り、成功する。死闘の果てにT-1000をも倒した三人だが、未来の危険な兵器である自身の存在が再びAIの支配を招くことを回避するため、T-800は自ら溶鉱炉に姿を消すのだった。

 ジェームズ・キャメロンが製作から外れた『ターミネーター3』(2003年)の監督はジョン・モストウ。『2』で滅びたはずだったスカイネットは生存しており「審判の日」も遅延のみで阻止には至っていなかったという設定で、今度は女性型ターミネーターT-Xと、良いターミネーター(シュワちゃん)T-850が到来。青年となったジョンの命と、ふたたび審判の日の阻止をめぐってドラマが展開する。
 『ターミネーター4(T4)』(マックG監督/2009年)では、シュワルツェネッガーも姿を消す。もっぱら年齢によるもので、最後にちらりと、現役ボディビルダーにシュワちゃんの顔だけを合成したT-800が現れるのだが…
 タイムスリップもなし。『4』の舞台は「審判の日」後のレジスタンス世界だ。若手の新リーダーとして頭角を現しつつあるジョン・コナーは散り散りになった逃亡民の中に、後に自分の父となる、まだ少年のカイル・リースを発見。仲間をつかわし保護しようとするが、まだ肉をまとわない旧式ターミネーター・T-600の群れが逃亡民を襲う。助けに入るのは、今度は「過去から来た男」・マーカス。スカイネットの開発プロジェクトの一環として、「審判の日」以前に検体に応じ冷凍睡眠されていた元死刑囚だ。人間でありながらターミネーターのように金属骨格で内部強化された彼の設定は、『ニュー・フェイト』にアイディアとして引き継がれる。

 シリーズ5作目にあたる『ターミネーター 新起動(ジェニシス)』(アラン・テイラー監督/2015年)のことは、申し訳ないがよく憶えていない。新型ターミネーターとしてイ・ビョンホンが抜擢されたものの、作品によっては登場して1分で全裸になる肉体美を見せることもなく、扱いが少なかったことも一因かも知れない。タイムスリップによる出し抜き合いがインフレ気味で把握しにくかったこともあるのだろう。ただ「T-800は機械だが、そのまま時間軸に留まり続けると人間と同様に外皮は老化する」というアイディアで『4』のような合成(シュワちゃん)でなく、今のシュワルツェネッガー(シュワさん)を出演させるアイディアは、これもまた『ニュー・フェイト』に引き継がれた。
 『4』と同時期に製作されたTVシリーズ『サラ・コナー・クロニクルズ』は未見で今回の日記には間に合いませんでした…

 ここまで踏まえて、と言いながら『ターミネーター:ニュー・フェイト』ではキャメロンが離れた『3』以降の設定がバッサリ切り落とされる。
 つまりサラ・コナーによる「審判の日」阻止は成功。転じてジョン・コナーが救世主になる未来もなし。だがAIの支配とターミネーター的なロボット兵士の襲撃は続く。過去に戻ってナポレオンなりヒトラーなりの出現を「阻止」しても、歴史の流れ自体は変えられないというタイプの理屈なのだろう。スカイネットは滅びたが、とって替わるAI「リージョン」がTシリーズとは異なる独自のターミネーター・Rev-9を送り込んでくる。
 舞台は2020年のメキシコ(つまり「審判の日」の阻止によって機械が支配する歴史は変えられなかったものの数十年は遅延されたことになる)。新たなターゲットとなった娘ダニーをめぐり、未来から来たRev-9、同様に未来から彼女を守るため到来したサイボーグ戦士グレースが争い、ターミネーター・ハンターとして歳月を重ねたサラ・コナーと、かつて送られてきたものの「審判の日」阻止で自身の属する未来も存在目的も失ない、人として隠棲してきたT-800が加わる。
 

 結論を急ぐと、「ターミネーターが狙ってるのはあんたじゃなくて、あんたの子宮だよ」という老サラ・コナーの台詞や、カールという名で家庭をもったT-800の、義理の息子(年頃)の登場で(この子が未来の救世主の父親かな?)と深読みさせたりのミスディレクションがあるが、新しいバージョンの未来で救世主=人類の司令官となるのはダニーの息子ではなく、ダニー自身であることがクライマックスで明かされる。骨格を金属に変え、命がけで闘うグレースの献身は「司令官の母親を守る」ではなく、新バージョンのポスト・アポカリプス世界で逃げ惑っていた少女時代の自分を救ってくれた「司令官」ダニー本人を守りたいという動機に支えられていたのだ。ぐんぐん上がる百合メーター(まだこの設定、生きてたのか…)ここから完全なネタバレになります
 しかし、まるで個体サイズに凝縮された戦争のように2020年の世界を破壊しまくるRev-9を倒すため、結局、やはりグレースは自らを犠牲にしてしまう。いや、そういうのはいい、そういうのはもういいんだよ。こんな結末で「すごい百合でした!」と絶賛なんかしない。ところが最後の大逆転が、ラスト1分で訪れる。老サラを後見人に、未来の救世主となるべく歩みだしたダニー。訪ねるのは、未来の自分が救い、また現在の自分を救うために命を落としたグレースの、まだ何も知らない少女時代。家族と笑う幼いグレースをフェンス越しに見守るダニーは、遠くから囁く。今度こそ、私があなたを死なせない。(完)。

 …後悔したでしょ?実物を観ないで日記を読んじゃった人、後悔したでしょ?

 大急ぎで回収しておくと、Rev-9の造形、かなり好い。寡黙で無機質・無感情だったスカイネット製のTシリーズに対し、ずばり「如才がない」。上手いんだか上手くないんだか分からない軽口を連発し円滑にゲートをくぐる。言うならばスマート家電型。それでいて、ゲートをくぐったらバッサバッサと斬りまくる。殺陣と呼ぶに相応しい、21世紀型のアクションだ。他にも強烈なキャラ立ちになっている新機能や、対して強化兵士グレースが最終決戦で繰り出すエモノの格好よさなど、語り草はいくらでもあるが、ネタバレ自体が目的ではないので伏せます。すごかったですよねえ。
 そして関東から消えたと思った「カールおじさん」こんなところに居たのか…という冗談はさておき。シュワさんも良かった。俳優業に本格復帰して以降、スタローンと組んでの強面+余裕綽々路線での仕事も続ける一方、近年の彼は力だけではどうにもならない運命に対峙する者の悲哀を表現することに、試行錯誤で挑んできた印象が強い。武装グループのリーダーが配下を次々と殺される『サボタージュ』。最愛の娘がゾンビになってしまった父親の苦悶を描く『マギー』。悲惨な航空事故の遺族として、何も生み出さない復讐にすがるしかない『アフターマス』…志は分かるものの、まだこの分野で真芯を捉えた作品はないと思っていたが、どうにかして人間になりたい・なりきれない元ターミネーターの役柄は、彼が挑む新しい(最後の?)テーマの完遂とは言わないまでも、重要な手がかりに成りおおせていたと思う。その「当たり」をもたらしたのが、かつて彼をスターダムに押し上げたキャメロンなのも考えさせられるところだ。

 …話を戻します。
 『ニュー・フェイト』の結末が驚きだったのは(ものすごい百合であるにとどまらず)、これまでシリーズの根幹にあった自己犠牲のドラマを製作者みずから覆し、否定してみせたからだ。
 それはそもそも、未来の救世主の父親になることと引き換えにカイル・リースが命を落とした『ターミネーター』第一作から続く呪縛だった。『ターミネーター2』の「良いT-800」はスカイネットが支配する未来を阻止するため、自ら溶鉱炉に姿を消す。『ターミネーター3』は、これもひどいネタバレになるけど、救世主であるジョン・コナーを温存するために「審判の日」は阻止できなかったけど仕方ないという倒錯した結末となる。『ターミネーター4』は、実はけっこう好きな映画なのだけど、サイボーグ戦士マーカスが身を賭して守るカイル・リースも結局は「未来の救世主の父親となって死ぬために今はまだ死んではいけない」駒であること、そしてマーカス自身ジョン・コナーを救うため心臓ドナーとなって落命する結末と「そうは言いながら皆、駒でないかけがえのない生を生きたのだ」というメッセージはあるにせよ、犠牲の称揚を免れなかったとも言える。
 『ニュー・フェイト』での、ダニーの最後の台詞は、この「救世主を守るため皆が犠牲的献身をするシステム」自体に中指を立てる。なにしろ、未来は変えられるとサラ・コナーが証明してみせて以降の世界線なのだ。つまり、スカイネットが倒れてもリージョンが…とAIの支配が変わらず現れるなら、救世主だってジョン・コナーでなくても、ダニーでなくてもいい。自分が倒れても、人類を率いる指導者は別に現れてくれる。だから自分のためにグレースを犠牲にはしない。自分だって、救世主をまっとうするためではなく、自分が守りたいものを守るために生きる。
 これはものすごい思想なのではないだろうか。あなたはあなたの人生の主人公だが、皆に犠牲を強いてでも生き延びるべき呪われた(祝福された)救世主ではない。ターミネーターが襲ってきても、優先的に守られる特権などない。あなたの命には、周りにいる名も知らない人々ひとり一人と同じだけの、一人分の重みしかない。だからこそ、あなたは自由で、あなたが守りたいものを守るために生きることができる。
 
 
 映画がメキシコを舞台に始まったとき、予算の都合なのかな?と思ったが、そうではなかった。たぶんシリーズを通して描かれてきた「救世主のため皆が犠牲になることを厭わない」価値観は、どこか合衆国の理念と通じるもので、その負の側面を解毒するためにはダニーを合衆国の外に置く必要があったのだろう。半生をターミネーター狩りに捧げてきたサラ・コナーもまた、合衆国そのものに立入禁止という設定で描かれていた。これらについて深く追究するだけの手札が、残念ながら今の自分にはない。宿題にさせてください。
 …まとめて言えば、キャメロンの手を離れた3〜5作目+(ドラマを未見)も含め、シリーズをしめくくるに相応しい、挑戦的な完結編だと思います。いい最終回だった。まあスカイネットが滅びてもリージョンが現れるように、商業的な目論見でまた、シリーズも甦るかも知れませんが…

 
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 2019年12月以来なので、わずか一年半たらずとは言え、続けてきたサイト日記の毎週更新。以前も取り上げた中谷宇吉郎のエッセイの
I駅の一夜(青空文庫)(外部サイトが開きます)
先の戦争中に東北の田舎で、岩波文庫を棚に揃えつづけることで何かに抵抗していた女性の話が念頭にあったのだと思う。2020年のオリンピック強行開催+それに続く憲法改正という想定された暗い未来にたいし、なにがしか残る言葉と思考を積み上げておこう的な意図がありましたが、予想外に運命も変わった。状況は改善していませんが、このあたりで「負けた」「力尽きた」ということで終了したいと思います。
 Web拍手というのは、実は二回目のメッセージつき拍手が送られないと、どのページが評価されたか分からない困ったシステムで、何が反応されているのか、自分の書いたことは誰かに多少でも届いているのか、正直まったく手応えのない一年半でした(今頃しれっと大変なことを言う)。でもそれは別に苦ではなかった。自分ひとりの関心のために毎週、一定の時間を使って文章を組み上げることは孤独で、自分に向いた楽しみでした。
 しばらくは充電か、時間のかかることの下ごしらえに専念しようと思います。次のサイト更新は、創作の、新作のお知らせになればよいのですが。

久しぶりに二次創作のページを更新。昨年暮れ〜新年にかけて描いてた『虹ヶ咲学園スクールアイドル同好会』関連・あいりな両片想い12ページ+小ネタ集です。箱推しです。下の画像か、こちらから。(21.04.25)

第15回いっせい配信「2021年3月」にて電子書籍版百年の眠りを公開しました。無料です。

2018年に公開したのと(ほぼ)同内容ですが、絵を少し整えました。(21.03.20)
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