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森を見て木を見ない〜小石川植物園(25.12.14)

 まだボウイでなくジョーンズだった頃かも知れない、駆け出しアーティストのデヴィッド・ボウイ(ジョーンズ)にドラッグの手ほどきをしたのはレッド・ツェッペリンのジョン・ポール・ジョーンズだった…と読んだ気がする。例によって記憶違いの可能性もあるので注意(うかつに吹聴しないように)。でももし本当なら、他に教えることは色々あったろう教えたほうのジョーンズ。
 教わったほうのジョーンズ(後のボウイ)が最初に試したのは大麻かLSDつまりはダウナーな幻覚系のドラッグだったのだろう、「(頭が働かなくなって)そのへんの舗道の何でもないひび割れに、ひたすら魅了されていたね」と述懐していた…と記憶している。これもまあ大昔なので確証はない。でも、こちらも本当だとしたら…この若年ボウイの初ドラッグ体験と、15年くらい後にリリースされたデュラン・デュランの「僕は舗道のひび割れを探してる」という唄は何か関係があるのだろうか?いや、ないとは思うけど(サイモン・ル・ボンが書いた歌詞は他のメンバーにすら理解不能らしい)あるにしても、たぶん解けない生涯の謎なのだった。
 Duran Duran - [I'm Looking For] Cracks in the Pavement(YouTube/外部リンクが開きます)
【今回の要旨・1】舞村さん(仮名)はデヴィッド・ボウイが好き。デュラン・デュランも。あとジョン・ポール・ジョーンズも。

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 通勤定期があるうちにと、東京・山手線の西のほう(渋谷・新宿・池袋)から東のほう(上野・神田・永田町)へ歩いて横断するルートの開拓につとめた半年だった。正確にはJRでなく東急東横線の延長で東京メトロ副都心線を使っているので、新宿は正確には少し東寄りで有利な新宿三丁目が起点(そして戻ってきたときの終点)になるのだが
 模式図。内容は下記のとおり。
 まず最初に開拓したのは国会議事堂のある永田町に、スタンディングやら何やらで渋谷から足を運ぶため使っていた(5)のルート。細かくは(5)渋谷−六本木−永田町と、六本木のかわりに(より北の)青山墓地を経由するルートがあって、こちらもよく使っていました。
 永田町には(4)新宿三丁目から四谷を抜けて向かうルートも近ごろ開拓したのだけど、六本木と比べてもなお望月の欠けたる事なんてないんじゃねと驕れる花金ビジネスパーソンの通りな感じで、自分の趣味とは真逆な感じでした(ま、よりによって当方は高市総理の存立危機発言への抗議に参加する道すがらだったので尚更)…
 新宿三丁目からは(3)靖国通りをひたすら歩いて神保町に向かう・神保町から帰ってくるルートを多用。とちゅう市ヶ谷の防衛庁・そして通りの名の由来でもある靖国神社の前を通るのがシャクと言えばシャクですが、風情があって楽しいルートです。
 んで今年、池袋まで通勤の足が伸びて開拓したのが(1)の池袋サンシャインから茗荷谷を経て東京ドームを目印に・直進すれば上野や御徒町・南に折れれば秋葉原や神保町に至るルート。また帰路には東京ドームの南を通って、神楽坂を経由して西早稲田の駅に戻るのも悪くないルートで、(1)〜(5)それぞれ片道1時間半くらい。
 左から茗荷谷「丼太郎」の牛丼・秋葉原「サンボ」の牛丼・神田「六九」のチーズとんかつ写真。
【今回の要旨・2】山手線は縦長の楕円なので横切るのは比較的難易度が低い。楽しいよ。東京なので起伏はソコソコある。

 (1)の茗荷谷ルートを使うのは金曜の仕事が終わったあと・一週間のストレス解消に歩くかぁ!となった時なので、そもそも開いてる時間ではなく素通りしていた「小石川植物園」。11月の連休を利用して「昼に」訪ねてきました。
 てゆかまず茗荷谷から北折して植物園に向かうまでの道からして眺めがよい。500メートルくらい、ゆるやかに下る播磨坂桜並木。桜=春じゃなくて残念でしたね?いやいや、ピンク一色の春とは違った良さが、黄色・オレンジ・紅色まで多彩な色を見せる秋の桜にはあって、そこまで愛でられてのココまでの普及ではないかと思ったり思わなかったりするのだが。
 播磨坂桜並木の紅葉写真(2枚)。
 で「国指定名勝及び史跡・東京大学小石川植物園」。おにぎりアクション用に添えたおにぎりは気にしないで良い。いい感じに古びた建物も開いてはいなかったので気にしない。
 左:「国指定名勝及び史跡・東京大学小石川植物園」の表札に持参のおにぎり。中・さっそく樹々が出迎えるエントランス。右:研究施設らしい古い建物。
 で【今回の要旨・3】なんだけど小石川植物園、すごく良かった…
 温室の珍しい植物(小物)あれこれ。
 植物に関して何の知識もない自分が楽しめるかと行く前は懸念したけど、行ってみたら楽しい楽しい。もちろん、珍しい植物はある。アリ植物とか。ニュートンが万有引力を発見したのと同じ種類のリンゴとか。
 低木らしい細い幹の根元をジャガイモのように膨らませたヒドノフィツム・モセレヤヌム(アカネ科・マレーシア)の写真。このコブにアリを住まわせる由。
 でもそういうアトラクティブ(あ、ニュートンの「引力」とかけてやがる)なブツでなくても、てゆか無知だから各々の植物の真価なぞ分からないままでも、そこそこ楽しめてしまう。
 左:落葉しきったゆえ逆に見事に広がった枝ぶりが際立つヘラの木の群れ。中:真っ赤に染まったカエデの葉。右:名称は失念したけれどツバキ科っぽい花を咲かせる常緑低木。
 ベンチや広場のような場所もあり、完全にピクニック感覚でくつろいでる人・イーゼルを立てて樹木をスケッチしてる人などもいて、もう少し過ごしやすい気温の時季なら、本など持ちこんで半日過ごしても良さそう…あ、いや、もちろんそういう使いかたも良いんだけど。
 
 こういう性格だから(そこそこ堪能して園を出たあと)改めて考えてしまった。
 さほど植物への知識がなくても、目に楽しいだけで十分に楽しい。それはたとえば水族館や美術館に行っても同じだろう。魚の種類や美術史にてんで疎くても、日ごろ接する機会のない(そして美しい)ものを人の目は愛でる。
 けれど、こと植物にかぎっては、吾々はわざわざ専門の植物園に行かずとも日々毎日、自分の身の回りでしぜんと目の当たりにしているのだ。ふだんそれらをスルーしている・なんなら実家に帰っても植木や鉢植えの世話を手伝いもしない自分が、専門の植物園なら「やー、いくら見ても飽きない」となるのは大した欺瞞ではないか←事前にもそう思ったのも行く前に「そう楽しいかなあ小石川植物園」と少し構えた理由のひとつ。
 でも行ってみると「ひたすら魅了され」たのは、なぜか。たしかに珍しい植物もある(さっきも言いました)。
 もふもふの多肉植物。
小石川植物園というネームバリューもあるだろう。入場料500円の元を取りたかったのかも知れない(とことんケチくさい奴だなお前は)
 けれど基本的に違うのは、そもそも植物園という場所が「日頃はありふれたものとしてスルーしている植物が、各々個性的で美しく、魅力的であることを知らしめる」ことを目的とした施設だということだ。いや本来は研究のための施設かも知れないが、一般に開放されている時点で必然的にそうなっている。
 たとえば名札だ。美術館に麗々しく飾られた作品の横に作者や年代・素材や時に細かい解釈まで記された小さなプレートがあるように、小石川植物園に展示された植物は、ほぼそのすべての名前を名札で確認できる。
 小石川植物園の植物に各々つけられた名札。シマサルスベリ・ハリグワ・モミジバスズカケノキ・ツワブキ・シチヘンゲ・ヘラノキ。
美術館のプレート同様、ひとつひとつ読み込むことも出来るし、スルーもできる。だが各々に付された名札は(美術館のそれと同様)そこにあるのが名札と解説を付されるに足る、いわば価値ある事物だと示している。その意味で、小石川植物園という施設の機能を集約しているのは、園の中心に設置された「分類標本園」だろう。「植物の分類体系を生きた植物によって理解できるように、主要な科を代表する約500種の維管束植物をほぼエングラーの分類体系に従って配列した「生きた植物図鑑」」を標榜するその庭は、季節外れなこともあってか、その機能を十全に発揮はしていなかったけれど「生きた植物図鑑」という呼称は、大きな樹木まで含めた小石川植物園ぜんたいの別名でもあるのだった。
 あまりにキレイに整理・分類されてしまうことの(あるかも知れない)弊害については一旦措こう。
 小石川植物園に行ってよかった・行ったほうがいいよと思った大きな理由は「わざわざ専門の植物園に行かなくたって身の回りに植物はいくらでもあるじゃん」と思う・その「身の回りにいくらでもある植物」本来のポテンシャルまで「見過ごしていたかも」と気づかされることだ。いや実際に見過ごしていたのだろう。
 面白いことに、小石川植物園を訪れてから「身の回りにいくらでもある植物」の美しさや個性にも、改めて注意が向くようになった。というより考えさせられた。
 近所の樹木写真×3。
冷静に考えれば、公園や学校・私邸の庭でも街路樹でも、都会で吾々の身の回りに(意外と豊富に)ある植物は、そのほとんどが本来、美観になるよう配慮して植えられているのだ。美しくないはずがない。けれど同時に、そこで配慮されているのは全体としてのバランスの良さ・美観でもあるだろう。もちろん公的な場所には名札の添えられた花や草木もあるけれど、小石川植物園のようには徹底されていない。街の植物が求められているのは全体としての美観で、むしろそれらは吾々が注意を惹かれすぎないよう・いわば「森を見て木を見ないよう」作られているのだ。ドラッグで酩酊した若者が舗道の割れ目に「ひたすら魅了」されてしまったように、ひとつひとつの草木にのめりこんでしまっては、生産なり消費なりといった(この社会で)人が生きていくための活動が成り立たないから
 逆に言うと、狩猟採集に生きていた(いる)人々の「労働」時間は、現代の産業社会に生きる吾々よりずっと短いという話の、その空いた時間で森や平野に生きる人々は何をしてるのかという問いの答えも、存外このへんにあるのかも知れない。「何ってもっと草木なり何なりを注意を払って見てるんだよ。あんたらがなるべく端折ろう端折ろうとしてる世界ってやつに、耽溺してると言ってもいいかも知れないな(仮)(憶測)(妄想)」

 小石川植物園という施設は(僕にとっては)ドラッグの助けを借りなくても、吾々が日ごろ周囲を見るのにしている「手加減」を少なくとも一旦は解除する機能を持っていた。それは「働いて働いて働いて…」と強いる社会への対抗手段、生産性がなくても・他人に「買った物」を誇示しなくても(楽しく)生きていける逃亡の経路につながる機能かも知れない。
 最近YouTubeで見かけた動画では、自分が住んでる近所の駅前を訪ねて「ここに突出した高台がありますよ…いいですね、さっそく登ってみましょう」という配信者がいらして、そういうのが楽しめるなら際限なく楽しめちゃうなあと感心させられた。
 話を戻すと、小石川植物園を訪ねた「効果」で面白かったのは、そのあとハシゴして出向いた上野の科学博物館で、しょうじき今までになく(実は今までそれほど関心・感心があったとは言えない)恐竜の化石に「魅了」されてしまったことだ。写真には撮らなかったけど、ステゴサウルスの背中のアレ、ぜんぶ骨が入ってるって相当じゃない(何を今さら)?ティラノサウルスの肋骨じゃなくて・その下・胃腸のあたりを覆ってる骨のカバーなんて初めて気づきましたけど?
 科博のティラノサウルス。腹部を覆うカゴみたいな骨is何。

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 【今回の要旨・その4】効果的に整理・分類された施設が(時にドラッグがそうするように)日頃は日常の経済活動に支障がないよう「手加減」している・「森を見て木を見ない」ようにしている細部への関心を、賦活し解放することもある。
 小石川植物園で特に心を惹かれた樹木のひとつがプラタナス(スズカケ)だ。街路樹として、いくらでも見かける可憐な樹木が、手加減しなければココまで大きく育つものだと迂闊にも今まで知らずにいた。
 
一度そのポテンシャルを知った後、あらためて街路樹としてのプラタナスを見れば(植物園で制限なしに育った姿ほどではないにしても)ふつうでも意外と背の高い木だと再認識させられたりもしたのだけど、それはまあいい。
 日頃みなれた草木を改めて個々のものとして見直す・注意力を賦活する方法として「本来の大きさ」が効果的だった、そのことで思い出されたのは、たぶん前にも何処かで引用しているだろう伊丹万作の言葉だ。少し長いが再度引用する:
「そこらにいくらでもいる甲氏や乙君や丙さんを拉しきたつて、その中の甲と乙の相違や、乙と丙の差を克明に描き分けているのがいわゆる性格描写というものだとすれば、ユロのごとき、何万人に一人というような桁はずれの存在を扱いながら、しかも「人間というやつはね、みな要するにこいつによく似たしろものさ」といって神様がひよいとつまみ上げて見せそうな人物を描くことは、まさしく偉大なる典型描写というべきであろう。(中略)小説の最高の境地は決して個々の性格を描き分けて見せたりするところにはなく、むしろ人間の典型を描くところにあるように思われる」(『全集』)
 平均的な一本ではなく「桁はずれ」に突出したプラタナスの木が、なんなら樹木というもの全体への注意力を賦活するように。
 四六時中がラッシュアワーのような街で、おそらくは互いを疎ましく思い合い(いや狷介な自分ひとりの感覚で、皆様はいつも「みんな素晴らしい!人間大好き!」と思ってらっしゃるのかも知れないが!!!)目の前の他人など居ないようにスマホの画面に没入している群衆(モブ)としての吾々を、個々の人間の集まりとして再認識させるプラタナスの巨木のような効果を(身の回りの樹木ではなく)人に、取替え可能な人の「森」に対して発揮できる力が、芸術とか物語というものにあるのだと、吾々はまだ信じられるだろうか。

 そんなプラタナスの木を提示してみせるための時間が(まだ)自分にあればいいのだけれど。

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【追記】
多くの人は自分ちの庭(だけ)を丹精するように「森」は放っておいて自分の身の回りの親しい人だけを人間らしく遇することで心の平和を保てるのでしょうし、それ以上を人に求めるのが勝手な無理難題なのも分かってるつもりです。
 あと「舗道の割れ目にひたすら耽溺する」ドラッグの効果が、逆に社会よりさらに狭い小さな世界への耽溺でありかねない反作用(基本ドラッグはこちらのほうが主)であることも理解してはいます。
 あと今回の最初の模式図を作成した後で(1)ルートのさらに北=池袋から大塚・巣鴨・駒込まで山手線沿いに歩いたあと東折して(田端とかパスして)西日暮里いわゆる谷中まで同様に1時間半で歩くルートも開拓したんですけど、このルートは住宅地が多くて寂しくなっていけない。
 金網の向こう・線路を隔てて向こうに見える集合住宅、窓はすべて背を向けてて見えない中、下のほうのホールみたいな小さなところにクリスマスツリーが光ってるのだけ視認できる画像。
うわーやめろ、こういう日もとっぷり落ちた後だと余計に寂しくなる光景やめろー。

疾病としての老い・アクシデントとしての(あるいは取引としての)死〜『偶発事の存在論』『タコの心身問題』(25.12.21)

 半村良が古代ムー帝国の建国を描いた『太陽の世界』に、まだ部族集団という規模だったムーの民の最初の王(部族長)を若年期から補佐してきた長老、知らぬことなどない賢者が死の床に就くエピソードがあった。お前が死ぬなどあってはならん、何という病気だ治す術はないのかと狼狽する王に賢者は答える。これは老い=老衰というものでございます。病ではなく治す術もないのです。
 何しろ読んだのが子どもの頃だったので流石に途中で挫折した大河小説を、数十年ぶりに思い出したのは(そうではないかも知れない)という疑問のためだ。老いだって治癒できる、と言いたいのではない(どちらかという人類・とくに豊かな人類はそちらの可能性に御執心なようだが)。賢者は言った−老いは病ではないのです。果たして本当にそうなのだろうか
 今回の日記にはスミス『タコの心身問題』の重大なネタバレがあります。また老いや死を主題にしたセンシティブな内容なので無理に読む必要はありません(メンタルに余裕がある時にでもどうぞ)…と注意喚起する羊帽の女の子「ひつじちゃん」の挿し絵。
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 小石川植物園の刺激が恐竜の化石への関心まで賦活した(先週の日記参照)ように。
 カトリーヌ・マラブー偶発事の存在論 破壊的可塑性についての試論』(原著2009年/鈴木智之訳・法政大学出版局2020年/外部リンクが開きます)は例によって正直よく理解できた!とは言えないけれど(植物のことはサッパリだけど出向いた植物園と同様)とにかく景色が良くて、本論とは関係なく自分の身の回りの色んな物事が改めて新鮮に思えたわぁという、それはそれで快い読書でした。もちろん著者は「いやタコ(後述)とか関係ないだろ私の本論と向き合えよ」とキレるかも知れないけれど。
 マラブー『偶発事の存在論』書影。本書も後半『失われた時を求めて』への言及があるので想像の新書「哲学者が見たプルースト」に加えてほしいところ
 もちろん本論だって面白い。片手にヘーゲル・片手に脳科学の二丁拳銃で『男たちの挽歌』のチョウ・ユンファのように現代思想を撃ちまくる著者。本書では後者(脳科学の知見)を駆使して「事故や疾病などで人が全く以前の人でなくなってしまった時、前と同じ人と言えるのだろうか」という問いを提出する。古代ギリシャの変身物語では純潔な乙女が樹に変じても、乙女らしい本質は何処かに残っている(星座になった後のサソリやオリオンもそうだろう)。そうではなくて、以前の性質が全く失われても、人は前と同じ人だと言えるのだろうか?
 マラブーの問いは(いやだから早速お前の都合で逸らすなよと怒られるかもだが)逆に、全く変わるほどではなくても日々刻々と変わり続ける自分を、どうして自分と思い続けていられるだろうという疑問を呼び起こす。十年前や二十年前あるいは子ども時代の自分は、なんであんな言動をとったのだろう、もはや今の自分は共感もできない、なんてことはないだろうか。大体こんなにも日々(ここから軽くジャブで死の話につき注意)死ぬこと=己の存在が消え去ることを恐れながら、どうして同じくらい激しく眠り=意識を失なうことを欲するのか(逸れてる逸れてる)
 人は徐々に老いるのでなく、ある日とつぜん老けこむ・あるいは不意に「このひと(あるいは鏡で見た自分)すっかり老けてるじゃないか」と気づかされるものだ…という後半の論説も「分かりみ」が著しい。映画『2001年宇宙の旅』ってあるでしょ(逸れてる)。むかし観たよ、けっこう好きだったよという人は観直してみるといいよ。数年おきに観直してると、ある時ふいに、猿が骨を使うシーンでも、HALと人類の殺し合いでもなく、そして何の説明もない謎の八面体でもなく
 挿し絵;『2001年』の八面体のイラスト。コレめっちゃ気になりません?
謎の部屋に「招待」された主人公の老けきった顔が、映画の中で一番強烈なシーンに見える時が来るから。
 「コレ→」と矢印つきで『2001年』主人公の老け顔。(夭折を免れれば)いつか鏡で自分の顔を見て「ああ、アレだ」と思い出す日が来るよ…とキャプションつきで、鏡をのぞきこむ(老けたなぁ)筆者のイラスト。
 個人的には(いや今までだって個人的な話しかしてないのだが)マラブーが「脳はこれまで一度も哲学の対象とはされてこなかった。(『情念論』における)デカルトも、(『物質と記憶』における)ベルクソンも」と苦言を呈してるところで、いやドゥルーズ=ガタリは?と疑問が生じて面白かった。ふたりが最後の共作になる『哲学とは何か』で、そのままでは把握できない世界というカオスを人間が把握(操作)可能とするには・哲学・科学・芸術と三つのアプローチがあってと説いていて「へぇドゥルーズとガタリ、芸術をそんなに評価してくれてんだ嬉しいなぁ」と思った話は前にもしたと思う。だが実はそのあと最後に(急に)著者たちは「つまり最後は脳の問題なんだよ」と言い出して読者の僕を困惑させてもいたのだ。わざと読み落としてるのかなぁ、その程度じゃ及第点を出せないのマラブー先生?

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 そして逆に、ここまで老いや死に肉薄しながらマラブー先生「アレ」は御存知ないのかなと改めて思ったのが『タコの心身問題』に出てくる死と老いの話だ。
 先ほどの『偶発事の存在論』の隣に並べて置かれた『タコの心身問題』書影。表紙に描かれたタコの絵に「コンニチワ」とフキダシを書き加えている。
 本サイトで何度か「2021年じぶんが読んだ本のベスト」と言及してきたピーター・ゴドフリー=スミスタコの心身問題 頭足類から考える意識の起源』(原著2016年/夏目大訳・みすず書房2018年/外部リンクが開きます)。しかし最も驚愕させられた箇所を紹介することは今までなかった。けれど皮肉なことに、マラブー先生が「それ」に触れていないことが、かえって書いておく動機のひとつになった。世に「老いとは、そして死とは何か」と説く本は(科学的アプローチであれ哲学的アプローチであれ)数多あれど、同書ほど大胆な捉えかたは、やはりタコという特殊すぎる対象を経由することなしには有り得なかったのではないか。その着想の極北を、改めて知らされた気がしたのだ。
 『タコの心身問題』前半のハイライトは、やはりタコと人間では脳の(また脳!)つくり自体が違うという処だろう。人間どころか犬や猫・いやトカゲやカエル・魚類まで含めた脊椎動物全般の先祖とタコが進化の途上で枝分かれした時点で(神経系はあっても)まだ脳は存在していなかった。枝分かれした後に初めて脳らしきものを別々に進化させたのだ。(ちなみに昆虫の「脳」もまた別個に進化した、いわば収斂進化の産物)
 そのため、人の全身の神経系は指の先まで頭部に鎮座まします大脳小脳のコントロール下にあるが、タコは手足(いやぜんぶ手か。いや足か。どっち?)に脳みたく「考える」神経の塊があって、頭部の脳が「し、鎮まれ俺の右腕(どれが右腕かは知らんが)」みたいなことが起きないでもないらしい。あまり面白いので、以前まんがにしたことがある
「くっ…鎮まれ吾が右手」と厨二全開の妹に「お前タコか?」とツッコミを入れる兄のまんが。

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 かように独自な脳構造を有し、カメレオンのように体色を変え、著者の主張によれば海底に集落(オクトポリス)を形成し、別の研究者によれば他の小魚を猟犬のように使役して狩りを行ない、なんならサッカーの試合の勝敗まで予言する…と最後のはまあ冗談だけど、
・参考:タコが魚たちを率いて狩り、タコパンチで「喝」も リーダーはワモンダコ、探索者はヒメジ、アカハタがトラブルメーカー」(ナショナル・ジオグラフィック日本語版/2024.09.25/途中から会員限定記事/外部リンクが開きます)
 そんなタコが、わずか数年という異様に短い寿命しか有さない。
 樹木ならば何千年も生きる。人間だって80年は生きる。タコに限って、この衝撃的な短命の理由は何なのか。著者が提出する「答え(仮)」は問い以上の衝撃だった。
 この先は『タコの心身問題』最大のネタバレであり、また人によっては強く打ちのめされかねないセンシティブな内容なので
「伏せます」と指でバッテンをつくるタコを頭に載せた女の子(ひつじちゃん)のイラスト
(上のカットかココをクリックで開閉します)

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 たたまれた部分を開いて読んだ人はお分かりのとおり、同書が提示した「生と死の妙案」には、仏陀も嘆いた老いと死の苦しみを解消する処方箋は・ない。もちろん人類は、どうにか死神との取引を出し抜けないかと、たぶん今この時も実験を続けている。その余慶で自分もこの齢まで生きられたと思えば、それを愚かな傲慢なと嘲る資格もない。
 タンポポの綿毛の写真。
 けれど老いや死を容赦ないほど科学的に解明されることには、そうまでして与えられた生命への畏敬を新たにさせる効果もあるようだ(個人の感想です)。ひょっとしたら一秒前の自分を、現在の自分と「同一」の存在と認識することすら厳密には錯覚なのかも知れない。自分が今ここに「在る」ことなんて広大な銀河宇宙の中では、小さな素粒子がひとつ・X線だかニュートリノだかを放つ極微な現象と、儚さにおいては大差ないのかも知れない(どうしてそう読むひとの心を挫くようなことばかり言うのだ)。
 けれどその儚さは、かえって儚さゆえに今ある生命だか意識だかへの畏敬の念を新たにさせる。死があるからこそ生は美しいなどと気持ちわるいこと言う気はサラサラないが、死さえ精妙なファクターとして組み込んだ、生というシステムの奇跡的なバランスに舌を巻かざるを得ないとでも言おうか。
 そうまでしてでも光を放ちたかった生命たち。その「仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明」、いや「無数の」青い照明「たち」を得がたく、いとおしく思うのだ。んー、結論が弱いかなあ。齢(よわい)の話だけに。

小ネタ拾遺・25年12月(25.12.31)

(25.12.04)申し送り:親愛なる自分の無意識さま。『ちいかわ』みたいな絵柄で悪夢(桃太郎に監禁された犬サル雉)を見せるの、やめてくれませんかね…まあ本物の『ちいかわ』も悪夢っぽい要素が皆無ではないし「それじゃあ」と気合いを入れて漫☆画太郎みたいな絵柄で悪夢をお出しされても困るっちゃ困るので悪夢じたいやめてほしい。

(25.12.03/小ネタってレベルじゃねーぞ)何年か前に今年の流行語は「ゲゲゲ」だか「ゲゲゲの」だかだと仄聞して世間に疎い僕が「それってどういうこと?みんな日常会話で『ゲゲゲ』とか言ってたの?ジェジェジェじゃなくて?(ジェジェジェだって能年玲奈さん以外が日常使いしていたわけでもなかろうが)」と訊くと「そうじゃないけど流行ったじゃない『ゲゲゲの女房』」…でもそれは流行ったテレビドラマであって流行「語」ではないんじゃないの!?と思って以降、それ以前にも増して(この国で発表される)流行語・新語大賞・「今年の新入社員は○○型」のたぐいには軽蔑と無関心しかないのだけれど(海外のたとえばOEDが選ぶ新語などはそれなりに敬意を払ってる。十年ほど前に同年を象徴する新語は「フェイク・トゥルース」ですと言われた時には「やばい時代がきた…」と慄いたものだ)
 僕が単独で今年というか今この国の世相の一局面を呼ぶのに一番ふさわしい(かも知れない)言葉として思いついたのは「ノイジー・マジョリティ」だった。もちろん元々言われていたのはサイレント・マジョリティとノイジー・マイノリティという対比であって、「ノイジー・マジョリティ」なる語はWikipediaにも、たぶん現代用語の基礎知識にも広辞苑にもない。僕の観測範囲ではネット言論(?)に軸足を置いた「ニコニコ大百科」だけが同様の語を「発見」していて、その記述への賛否はともかく「さもありなん」とうなづけた。いや、「多数派であることを利用して、多数派に認められるべき範囲を超えた権利を行使する、あるいは主張しようとする」という要約は過不足なく正鵠を射てはいるだろう。
 ・参考:ノイジー・マジョリティ」(ニコニコ大百科)(外部リンクが開きます)
 キャプション:ここで(わざわざ出典を明かす必要ないほど自明の理ですが)「マイノリティとマジョリティは数の大小で区別されるものではありません。マイノリティのほうがマジョリティより数が多いこともあるからです」という言葉を挟んでおくのも無意味ではないでしょう。G・ドゥルーズ『記号と事件』河出文庫p347。(『記号と事件』を手にした羊帽の女の子「ひつじちゃん」のカットを添えて)
 誰かが何かを強弁するにあたり「なぜなら、これがマジョリティの意見だから」が盾にされる時代。マジョリティが、マジョリティであることを盾に無理筋を通す時代。端的には高市政権の誕生=ノイジー・マジョリティがついに天下を獲ってしまった年として2025年は総括できるかも知れない。これが「頂点をきわめたら、後は落ちるだけ」なら良いのだけど。
 まあ何年か前にやはり、この国の政治をあらわすのに最適な言葉じゃないかと思った「クレプトクラシー」(何それというひとは検索してね)も別に日本語化しなかったし、ノイジー・マジョリティも世間的に流行りはしないだろうとは思うけれど、オタクすら自分の推しが「覇権」であることにすがろうとする現状では(そうでない人まで)マジョリティの価値観で振る舞おうとする「マジョリティ憑依」の時代も、残念ながら続くのかも知れない←これも本来は「マイノリティ憑依」という揶揄の言葉の裏返しなのだけど、すでに「(平社員やそれ以下のくせに)経営者目線」みたいな言われかたで顕在化はしてますよね?「ルールを守れ」と自分に都合のいいルールだけ遵守を叫ぶのも、このマジョリティ憑依の一環ではあろう。もしかしたら、こちらは急激に共通語化しつつある(?)「エキストリーム・センター」も。What d'you say? (どう思います?)

(25.12.09)ペットショップ・ボーイズのドキュメンタリーぽい映像がYouTubeに投稿されていて、彼らの出世作「ウエストエンド・ガールズ」は
荒削りな最初のバージョン(1984年)(外部リンクが開きます)は全然売れなくて、
テンポを落として丁寧に録り直したバージョン(85年)(外部リンクが)で初めて評価された―という内容は(知らんかった+そりゃあ後者が売れるわ)いいんだけど、動画ではメンバーがスタジオで試行錯誤する当時の様子が生成AIで「再現」されていて、ちょっと待ってコレって悪い言いかたをすれば「ディープフェイク」って代物じゃないの?
 同じ投稿者はヴァン・ヘイレンやデュラン・デュランの「裏話」も上げてるようで、僕は反射的にチャンネルごとブロックしてしまったのだけど、そのうちもっと日本人ウケする「×-JAPAN(いちおう伏せ字)解散の真相」とか、いや「悪夢の民○党・政権崩壊の裏側」「C○LAB○(いちおう伏せ字)影の悪事」などAI生成で出回ったら(もう出回っているのかも)吾々ひとたまりもないのでは。
 件の洋楽動画は海外からの翻訳ではなく日本で作成された物のようで、もちろんこうゆうのは日本人の専売特許じゃなくて、世の中には「ジブリ映画の画風で凛々しく生成されたイスラエル兵士」なんて代物まであるみたい(見たくない)だけど、こうゆう分野で少なくとも抜きん出ようとしないでほしい…という程度には自分にも祖国や同胞を想う(憂う)心情はあるらしい。なにしろ「さすがにやりすぎでは」という自制や「たしなみ」センスや趣味(テイスト)以外こうした動きに歯止めがない現状、誰ぞに「プリンシプルがない」と言われた日本人には悪い意味で最良の環境かも知れず、そのうちビートルズの「新曲」とか出てきそうで今から憂鬱な、ジョンの命日の翌日。

(25.12.10)てゆかAI生成なんかの手を借りるまでもなく、この日本はジョンの「あなたが望めば戦争は終わる」という歌詞すら(誰に忖度したのか)販売者が差し替え「なかったこと」にして恥じることのない国だったことを、そろそろ思い出したほうがいい。
John & Yoko Plastic Ono Band + Harlem Community Choir - HAPPY XMAS (WAR IS OVER)(YouTube/外部リンクが開きます)
これはいつもの「うろ憶え」ではなくハッキリ断言できる話だ。かつて東芝EMIが売り出した「ハッピークリスマス」のシングル盤は最後のWar is over if you want itという中学生でも聴き取れる英語を「ハレ ラマ あなたがお望みなら」と謎の宗教用語(?ハレ・ラマって何だよ)に差し替えただけでなく、冒頭でヨーコとジョンが各々の離婚で離れ離れになった吾が子に呼びかける「ハッピークリスマス、キョーコ(京子)」「ハッピークリスマス、ジュール(ジュリアン)というメッセージまで「ハッピークリスマス、ヨーコ」「ハッピークリスマス、ジョン」と書き換えていた(なんで自分に呼びかけるんだよ)。反戦とか離婚といった「ハッピー」らしからぬ要素を抹消したかったのか。世界はひどく間違ってる・「だからこそ」ハッピークリスマスと唄った歌詞を「そういう面倒なこと抜きに、ただただ甘やかし甘やかされたい」という理由で「なかったこと」に出来てしまう、そんな国、世界の他にあるだろうか。
 それがこの国だ。色んな形でみんな見知ってるはずだ。反戦ひとつ取っても、War is overより宗教(??)のほうが「安全」だという思い込みから、地下鉄サリン事件や元首相狙撃事件を見ても、まだ醒めないか。そろそろ向き合ったほうがいい。

(25.12.11)昨年の今ごろは旅に出てて戻ったら完全に時機を逸していたため、今年は忘れぬうちにと近場のKALDIへ。「??すいません、去年はもう少し大ぶりのがありませんでしたっけ??」「申し訳ありません、大きいのはもう売り切れてしまいました」おおお、早々にシュトーレン、なんちて…
※昨日・一昨日と悲憤慷慨だったため今日は無害な駄洒落でバランスを取ろうとした模様。客観的には「支離滅裂」にしか見えない気もするが。
 ミニ和風シュトレン。大きさ比較用の新書判を並べて。
「在庫がある店舗をお調べしましょうか」と言う親切な店員さんのいる(あ、大丈夫です自分で探してみますハハハ)その店舗で小ぶりな和風のを購入。抹茶味、いちど食べてみたかったんですよね。他の店舗にも大きいのが無かったら、小さくてふつうのを買い足して、交互に食べてクリスマスまで保たせます。

(25.12.06)レジに絵本を持ってって「これ、ブックサンタ(外部リンク)でお願いします」と言うときの晴れがましさ。今年は久しぶりにミシェル・ヌードセン作/ケビン・ホークス絵/福本友美子訳としょかんライオン(岩崎書店/外部リンクが開きます)を選びました。愛のために自らの愛を断念する試練から逃げなかった者こそが、真の愛を得るという、ほろ苦くもハッピーな寓話。そしてキャロットケーキの本体のようにスパイシーで複雑な味わいのオトナたち(含む成獣)の三角関係と、その上に乗ってるフロスティングのように真っ直ぐ甘い子供たちの(ライオンへの)愛の対比が、また良いのよ。
 左:私物の英語版『Library Lion』とブックサンタ参加記念品のステッカーと絵はがき。右:それはそうと池袋ジュンク堂そばで売ってたタイ焼き、厚さ1インチほども盛られたあんこ、すごくないですか?
ちなみに自分が自分のために所有してるのが英語版なのは、邦訳より300円ほど安かったからです。そんなケチンボウもニッコリのタイ焼き屋はこちら:新宿椿庵・池袋店(外部リンクが開きます)厚焼き240円。代官山と笹塚にも店舗がある由。

(25.12.13/例によって小ネタにしちゃ長いが)
「子供の頃からお仕え申し上げてきましたが(中略)今やめてくださいと申し上げるほどの/ご奉公はないと思います」
 古代ローマの無神論者ルクレティウスの再発見が「死後の復活」を基盤にしていたキリスト教社会を根底から崩壊させ(かつ虚無への恐怖に裏打ちされた現世利益の追求=近代の悪夢に導い)たと説く『一四一七年、その一冊が世界を変えた』の著者グリーンブラット。その彼が本分であるシェイクスピア研究のキャリアを叩きこんだ暴君(原著2018年/河合祥一郎訳・岩波新書2020年/外部リンクが開きます)は「一五九〇年代初頭に劇作をはじめてからそのキャリアを終えるまで、シェイクスピアは、どうにも納得のいかない問題に繰り返し取り組んできた。−なぜ国全体が暴君の手に落ちてしまうなどということがありえるのか?(強調は引用者)という冒頭から、民もまた当てにならないとしながらも、拷問を命じる侯爵を諌めて秒で刺殺される『リア王』の名もなき端役に希望を託す末尾まで、コンパクトながら渾身の一冊。
 『暴君』書影。横には牛丼(いいもん食ってんじゃねーか)
 シェイクスピアが生きたエリザベス朝は「治世者を暴君と呼ぶ者は謀反人なり」と法に定められた時代で、同時代の劇作家たちの投獄や暗殺を目の当たりにした彼は薔薇戦争や古代ローマ=過去に舞台を移して「今」の政治を描き続けた(と著者は説く)−同様の理由で江戸の歌舞伎が鎌倉時代や室町時代を舞台にしたように。その意味で(本当はこの日記も赤穂浪士討ち入り当日に合わせたかったけど前日にフライング)この時季に相応しい読書だったし、何より「過去の」シェイクスピアを語ることで著者グリーンブラットが標的にしているのが「選挙が最悪の結果になってしまっ」た(さて、どの選挙でしょう?※)現代・現在なのも疑いようがない。※ヒント:本書では『ヘンリー六世 第二部」で識字者を吊るせとポルポトばりに主張する暴徒の首魁が「make Britain great again」扱いされてます…
 「暴君は、法に無関心なだけではなく、法を憎んでおり、法を破ることに喜びを感じる」「ポピュリズムは、持たざる者の味方をするように見えるが、実は巧みに民意を利用するものでしかない」「普通なら、公的人物が嘘をついたと露されたり、真実がわかっていないと赤恥をさらしたりすれば、政治家としておしまいだ。ところが、その常識が通用しない」そして「どんなに狡猾に頭角を現そうと、一旦権力の座に就くと、暴君は驚くほど無能」だと看破し、そんな「暴君の手に落ちてしまった社会を襲う恐ろしい結果」を語る言葉は、著者自身が意図した2018年の「現在」すら超えて、シェイクスピアが生まれた島とユーラシア大陸を挟んで反対側にある、2025年の極東の島国で今こそ読まれるべきなのかも知れません。

(25.12.14)それはそうと年末は年末でも昭和16年の年末にタイムスリップしたような文藝春秋(最新号)の表紙とヘッドライン(外部リンクが開きます)に改めて最悪の歳の瀬だなあと。これで上手くいかなくても(上手くいくはずないんだけど)こいつら絶対に反省しないし、80年前にも反省なんかしなかったんだよね…

(25.12.15)そういえば父は「吉田健一では『瓦礫の中』が好かった」と言ってたことがあったっけと思い出し、あてずっぽうで古書店街に出向くも当然のように見つからず。後で調べたらお目当ての文庫版は絶版久しくてAmaz○n(いちおう伏せ字)なんかだと数万円。単行本だと二千円そこそこだが、まあ年末に実家に帰省して探すのが先か。
代わりでもないけど『汽車旅の酒』(中公文庫)を。これ、すごく好いですよ。読みやすくて入門に最適だと思う。そして「毎日毎日仕事してると厭になるので数ヶ月に一度くらい旅に出たい」という冒頭から異様な共感性の高さ。「仕事をするとか、稼ぐとかいういことの他に、人間の生活が広大に横たわっている」のを実感できるのが旅先でのんびり過ごしてる時だけなのはおかしい・「これをどうにかして取り戻す他ない。東京にも生活があっていい筈なのに」とか「それな」のつるべ打ち。ただし周知のとおり(?)このひと「旅費を出すのでNYに行きませんか」「呑み放題できる?」「そこまでは出せませんけど、NYですよ?」というやりとりの後二十四時間しらふでいい気持ちになっていられる国が、世界中のどこに行ったってあるとは思えない(からヤダ)と拒否っちゃう人なので、僕みたいな下戸じゃなく呑んべの人のがさらに共感度は高いかも(ただし東北を愛する人は逆鱗に触れるかも知れない箇所もあるので注意)。旅先で呑んでたら現金を使い果たしてしまい、残りの日程で一日一杯しかビールが飲めない、つらい、悲しいみたいな話が何度も出てきて、同じネタを使い回してるのかと思いきや別々の旅先で何度も路銀を呑みきって窮地に陥ってるのであった。そういうの真似できないけど・真似できないだけに痺れる憧れるというひとにオススメです。
 書影。『汽車旅の酒』と『父のこと』
一緒に買った『父のこと』は言うまでもなく父・吉田茂を語ったエッセイをまとめたもの。これは日を空けてゆっくり読むつもり。そういえば近ごろエッセイストとして話題の(?)彬子女王、太郎の姪ということは健一の遠縁でもあるわけで、文才の隔世遺伝を少しは感じさせるものがあるのだろうか。このまえ帰省したら、吾が母が楽しそうに読んでいたけれど。

(25.12.19)例によって池袋で道に迷って、迷った先で桐生名物「ひもかわうどん」のお店に遭遇。いや流石に歩いてて群馬まで行っちゃった訳じゃなく豊島区内の話。でも店内のフリーWi-Fiで確認したら、たしかに道を逆走してました(笑)。画像のとおり帯のように薄く幅広い生地を実際に食べるのは初めてだけど、これがモチモチでトゥルットゥル、おいしい!折角なので一緒に注文したタルタル鶏天も、極厚の鶏むね肉が割り箸で切れるくらいの柔らかさ(もちろん繊維に沿ってですが)。カウンターに束で置いてある伝票に赤エンピツでチェックを入れて、店員さんに渡して注文するシステムは台湾風(中国風?)、それでいてレジはタッチ決済やスマホ決済まで対応と「新しいローカル」な感じ。
 左から・のれんに書かれた「ひもかわうどん桐生」のロゴ・こぢんまりした入口・エンピツでチェックを入れるタイプの伝票・分厚い鶏天タルタルがけを添えた「ひもかわうどん」。
うどん+唐揚げ1150円+ひもかわ変更110円で1260円。不況に負けず愛され長く続いてほしい。
折角なので5年ほど前「ひもかわうどん」の名前と存在だけ知ったころ描いたまんがも再掲。
 1コマ目:「指を切らないようにね」と言われながら「うんっ」と緊張しつつ・生地を練る・生地を寝かす・生地を伸ばすまで全部お兄ちゃんがやったうどん生地をぎっぎっと包丁で刻む中薗理恵さん。2コマ目に:れんこん・ししとう・茄子にかぼちゃ(人参かも)海老まで揃った天ぷら(やっぱりお兄ちゃんが揚げたもの)を挟んで、3コマ目:「屈辱…ちゃんと細く切ったつもりが…(あ、でも味や歯ざわりは最高…」と泣きながら幅2センチくらいあるうどんをズズズとすする理恵きゅんと「想定内想定内(茹でると結構太くなるよね…)きしめんだと思えば」と涼しい顔でうどんをすするお兄ちゃん。いもかわ(妹かわいい)うどん、なんつて。

(25.12.21)長野県のローカル記事「上田市が恒例の「ささえあい年末市」開催を断念」(信濃毎日新聞/25.12.20/外部リンクが開きます)に考えこんでしまう。「コメの他、レトルトカレー、乾麺、缶詰など2千円相当を袋に詰め、生活が苦しい人たちに配ってきた。口づてに広まり、利用者は年々100人ほどずつ増え、昨年は456人。上田駅周辺から約1`の車列ができたという」それが米はじめ食材の高騰により支援=寄付するほうも力尽きた感じのようだ。今年も開催されれば更に列を伸ばしていただろう、全国各地で同様の催しに並んでいるだろう人々の姿を、人里に迷い出たクマに重ねると怒られるかも知れないが、逆に「クマは迷惑」「自衛隊に駆除させろ」と言うひとたちは「食材を求めて並ぶのがヒトなら、そちらは助けねば」と思うかどうか。
東日本大震災にも耐え抜いた(生存者バイアス)、新型コロナ禍も耐え切った(生存者バイアス)社会の背骨が、ついに折れたように見えなくもない―気候変動を見ないフリも含めた、ぶっちゃけ人災によって。僕もしょうじき旅行など「これが最後(から三番目か四番目)の贅沢」みたいに感じながら、いそいそ旅程を編んでます。

(25.12.22)人麻呂の長々し夜「禍々し夜」だったらホラーだよなと思ひて詠める:
 「悪しき日の 山狩りの斧 妄り(みだり)斧 禍々し夜に 独りか無念」いつも人道的な事しか言わないサイトだと思うなよ…
(年に一度の流血祭りに沸きかえる呪いの里をそうとも知らず訪れてしまい、襲いかかる村人の二、三人は斬り伏せて山に逃げ込んだものの多勢に無勢・孤立無援なれば生きて都へは帰れさうになひ)

(25.12.23)ロクでもないこと(昨日の小ネタ参照)を思いつくのは失調のサインだったのかも。夜中に腹痛で何度も目が醒め、やー久しぶりに嘔吐まで。もちろん下げるほうも下げてる(ビロウですみません)。皆様まあ御存知のとおり吐くと内臓がよじれるように苦しく、あのアルコールで吐く人たちは、この苦痛と引き替えでも酔いたいものかねと感心したり(いや…そう苦しくない嘔吐とガチ苦しい嘔吐があった気もするが)やっぱり寝床で動けなくなった高校生のころ「実存とか吾思うゆえに吾在りとか言うけど、当の本人が腹痛になったら哲学者だって哲学どころじゃねえよな」と思ったりしたのを思い出すなど。
朝の時点では体温36.5℃で「熱はありません」と欠勤の報告をしたけれど、そのご寝てるうちに36.8℃・36.9℃まで。漫画なんかだと「熱が38℃も!無理しないで」とかあるけれど、この37℃手前の時点で既に身体のふしぶしが痛くて起き上がれないの、もしかして自分が極度に苦痛に弱いのか。今は痛み止めで動けるようになり、こうして実況などしています。きのう冬至の南瓜も食べたんだけどなあ。
(同日追記)寝て起きたら37.7℃マークしてた午後8時…逆にこの域に達すると節々の痛みとかない感じかも…とりあえず寝て、寝て、下がらなければ発熱外来ですね…おやすみなさい…
(12.24/1:30)37.2℃。
(12.24/3:55)36.9℃。はい、今日も休むですよ。
(12.24/18:38)36.5℃。クリスマス・イブといえばチキンにしなぁーい?ということで手羽元のスープ。大根の健胃作用に期待。シュトレンは明日のクリスマス当日に食べ切る予定。
 右から手羽元と大根と茸のスープ・おにぎり・りんご。

(25.12.25)『炒飯狙撃手』を読みながら始まった一年が『炒飯狙撃手 弐』で暮れていくのも悪くない気がする…実際には1月も先に何冊か読んでたし、この後まだ何冊か読む予定だけど。良い本を沢山読めたし、前半は良い映画にも恵まれた。原稿は全然進まなかったし良いことばかりでもなかったけれど、身の詰まった一年だったとは言えましょう。
 左:『炒飯狙撃手』と自分ちで皿に盛りつけた冷凍チャーハン。右:『炒飯狙撃手 弐』と壱番館の焼き肉チャーハン。
 なお朗報として『炒飯狙撃手』本国台湾では第三作が刊行済だとか。ふふふ楽しみ。

(25.12.31)12月は二つの小さなシュトレンを少しずつ食べたので
 左:KALDIのミニ「和のシュトレン」とミニシュトレン。右:餠太郎30袋入りパック。
1月は久しぶりに「餠太郎30袋入りパック」を一日ひと袋ずつ食べていく所存。いや、それ以外のおやつを避けてけって話で…そっか、こういうのを「来年のことを言うと鬼が笑う」て言うんだな。鬼を笑い返せるかな。

 

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