考えるべきことは沢山ある(26.02.07)
今回の選挙については誰が結果に責任あるとかないとかより、
責任があろうがなかろうが結果はのしかかる、それにどう対処するか、のが死活問題になるかも知れない。考えるべきことは沢山ある。
* * *
1.
高市早苗首相が体調に関わるアクシデントを理由にNHKの党首討論をドタキャンした同じ日、岐阜だか何処だかまで出張って自党候補の応援をしていた(つまりはズル休み)という話は、
自分の「仲間」しか相手にせず、他は一切無視して、それでこの国を運営していく(いけると思ってる)彼女のスタンスの申し分ない反映としか思えない(
同様の姿勢が河野太郎氏などにも如実だった)。ドナルド・トランプあたりを例外としてアメリカの大統領選挙で勝敗が決すると負けたほうは即座に「勝者になった新大統領に従おう」と自分の支持者たちに呼びかけ、勝者の第一声も「私に投票しなかったあなたたちも包摂して皆で次のアメリカを作っていく」と(理念的には)なるの(
2021年1月の日記参照)とは真逆。世に言われる「新しい封建制」のあらわれの一端なのかも知れない。
今回の選挙で高市政権が打ち出したスローガンは「皆で助け合え」とか「未来は自分で切り拓け」とか、
そんなんでいいんだったら政府はすることないよなあ?と思うものばかりだが、助け合う気も未来を拓く気概もないのに(ないから)威張られれば威張られるほど、ああこのひとは強いんだと感じ入ってしまい「私も仲間に入れてください」「見捨てないでください」とすがりつく人たちが現政権の岩盤支持層ということになるのだろうか。とりあえず
船底に穴が開いてるって時に、穴を塞ぎに行く人よりも、上のほうに登れば助かると思って甲板に殺到する人のほうが多ければ、船が沈むのは必然とだけ言っておく。船底を腐らせた張本人の船長たちは、とうに自分らだけ救命艇に収まって、「私も仲間でしょう?」「私たちも助かりますよね?」と甲板で騒ぐ人たちなど洟も引っかけないだろうと思うのだけど。
* * *
2.
一方で投票率の低さ・選挙に行かない有権者について。
鼓腹撃壌の故事のとおり暮らしが豊かで不満がなければ政治に関心は持ち得ない・というのがひとつ。いわゆる先進国では投票率はおのずと下がるという説がある。
・参考:
鼓腹撃壌(四字熟語辞典ONLINE/外部リンクが開きます)
けれど、もう一方で、政治や社会に期待できない・強い言葉でいえば「絶望している」から積極的に投票を「ボイコット」する選択もあるのかも知れない。選挙のたび話題になる「白票を入れよう」というキャンペーンは、そうした無力感を「あなたには力がある」とすり替える手管(てくだ)かも、とも言える(
いちど開票のアルバイトをしたことがあるので自信をもって請け合えますが、投票所で白票が数えられることはないので、白票は「意思表示」にすら成りえません。「こんなに白票が」って可視化できないんですもの)
レストランで出された食事やサービスに不満があるとき、店に文句を言いつつ改善を期待して同じ店に通い続けるか、その場は黙って耐えて店を見限る(その店には二度と行かない)か、日本人は後者=黙って去るを選択しがちだという説もある。
「説」だし「日本人」と「よその国の人」をステレオタイプ化する話なので取り扱い注意だけど、投票をボイコットすることは、この「黙って去る」マインドかも知れない。
ただ、ホラー映画の謳い文句にあるように、世の中には「You can run. You can hide.
BUT YOU CAN NEVER ESCAPE(逃げることはできる、隠れることもできる、
だが脱出することは出来ない)」ということもある。排外主義者が言う「文句があるならこの国から出て行け」を自分自身に適用しないかぎり、投票から逃げても隠れても、希望のない状況からエスケープは出来ない。
日本の少子化じたいが、この社会に希望がないことへのボイコット、消極的な「店を去る」報復だという説もある。
海外からも、次のような指摘があがっている:
・
フランス人文化人類学者が語る 日本の「推し活」は、自らを生け贄に捧げた一種の「焦土作戦」だ(クーリエ・ジャポン/25.12.19/外部リンク/会員限定記事ですが無料会員登録で月2本まで記事全文が読めます)
フランスの人類学者アニエス・ジアールが列挙する事柄は「そんなの全部、日本人だって分かってるよ」かも知れないけれど
「バーチャル上の(男性にとって都合のいい)女性キャラクターは"お飾りの女性"や"よき主婦"といった実社会で押しつけられるジェンダー規範をグロテスクに誇張することで、実社会で世間(まあ言うたら家父長制)が押しつけようとしてる男女観だってバーチャルな幻想なんじゃね?と切り返している(ようなものだ)」
「推し活は大量消費とマーケティング戦略に乗っかっているが、一部の政治家や大企業がそこに成長=GDPの増大を期待することを、当事者のオタクは強く拒否して言う―
"物質主義文化は我々の敵だ。このお金は我々を搾取する大企業のために使っているのではなく、「溶かして」いるのだ"」
「自分を孤独と不幸に追い込んでいる社会で無意味な日常を続けるより、愛せる推しにお金は全部注ぎ込もうというのは一種の焦土作戦だ」
といった一連の指摘は、多くの議論や反論の余地がありつつ(最大の反論は「
なぜそれではいけないのか」かも知れない)、いやむしろ多くの議論や反論の余地があるからこそ一考(再考?)に値するだろう。たとえば世のジェンダー規範の拡大再生産でない・より自由な性のありかたを提示するコンテンツもありはしないかとか。
社会を変革するのでなく、むしろ性差別を拡大再生産しながら社会そのものを「溶かして」いく。フランスの人類学者は(この記事では)口に出していないけれど、焦土作戦だけでなく日本の悪名高い「特攻」作戦=自爆攻撃も連想したかも知れない。繰り返すけれど、この「作戦」では逃げも隠れも(そして「無理心中」も)できても、この状況から「脱出(エスケープ)」することは出来ない。
もちろんこうした一連の指摘・認識は、どう考えてもオタクであるし、次の世代の「生産」に貢献していない僕じしんに突き刺さる(だからこそ「それではいけないのか」という反論も即座に浮かぶ)。けれど、今の世の中ではこういうのを「ブーメランwww」と嘲笑するけれど、
逆に自分自身に突き刺さらない批判はいかほど生産的なのだろう。あ、いや、政治家や大企業がいう「生産的」ではなくて。
* * *
3.
ひと昔前のディストピアのイメージでは、人々を監視する(かのような)独裁者の巨大なポスターが街じゅうに林立していたものだが

今どきは巨大ビルボードなど用意しなくても、皆が手元の液晶画面に背中を丸め、通信費じぶん持ちで自分からプロパガンダに見入ってくれる。パノプティコンとシノプティコンのように。

* * *
4.
社会の行方よりセクシャルな事が好きさ
社会の悲鳴よりセクシャルな声が好きさ
(「See-Saw Girl」THE YELLOW MONKEY/作詞作曲・吉井和哉)
かつて井上陽水は「傘がない」で
「吾が国の将来の(略)
深刻な(略)
問題」よりも恋人に逢いに行くのに傘がないと嘆く若者を歌って、社会問題に背を向けパーソナルな関係に閉じこもる(立てこもる?)風潮の象徴だと称されたという。数十年後の「最後のニュース」でも社会の問題を列挙する視線はよりクリアになりながら
「今あなたにグッドナイト」に収斂してしまうのでは何も変わってないじゃないかという評を読んだことがある。
物議をかもした
「外国で飛行機が墜ちました…」の強烈な閉塞感も
「こんな夜は君に逢いたくて」と「君」への想いに向かってしまうイエモンの「JAM」も同じ「コード進行」だと言えるし、
「戦争の始まりを知らせる放送もアクティビストの足音も(略)
取るに足らない(略)
あなた以外なんにもいらない」と謳った宇多田ヒカルの「あなた」はこの路線の完成形・終局点なのだろう。ずいぶん身勝手な話じゃないかとも思うのだが(でもそういう弱音も必要だろう人はそんなに強くないしとも思うのだが)
昨年の紅白で白組のトリになった「ミセス」の「GOOD DAY」は、深刻な社会の問題にたいして無力なのでパーソナルな関係に引きこもる・救いを求める従来の路線を超えて
「不安定な情勢も」「僕の中にある小さな優しさでどうにかなるかな」「ここらでちょっくら忠告をした方がいいかな」こいつ「小さな優しさ」とやらで社会に忠告できると思ってやがる、あ、いや、新しい局面に入ってしまった感があった。
陽水やロビン(吉井和哉)のような切迫感も具体性もない、ちょっと言ってみましたくらいに解像度の低い「不安定な情勢」。優しさでどうにかなる「かな」と責任は聴き手=他の誰かに押しつけ逃げ道を確保している小狡さ。
宇多田ヒカルでも「あなた」さえいればと唄うとき社会に背を向ける拒否という意志があった。ミセスの歌は、社会に対峙しなくても「ありのままで」社会は良いほうに進む(
「かな」)と謳う。これを真に受けた人は、社会にたいして何もしないだろう。これが世の人々のアンセムになると「吾が国の将来」はますますヤバい。けれど天下の大NHKは、これを国民のアンセムにしようとしている(ようだ)。
上述した高市自民党の
「未来は自分で切り拓く」もそうだし、参政党のメッセージもそうなのだけど、今の右寄りと分類される政党の選挙に際してのアピールに、政治はこういうことをします・吾が党はこういう政策を実行しますよりも「あなたは出来る」「あなたは素晴らしい」といった(
それは選挙で政党が言うことじゃないだろう、な)メッセージが前面に出ているのも困ったものだと思っている。
それは政策ではないだろう(
ただし国民に自助努力・自己解決させるという意味では限りなく政治的ではある)と思う反面、でも政策とかでなく
「あなたは素晴らしい」というのが今の有権者が何より言ってほしいことだという意味では、残念ながらきわめて適切な選挙戦略だとも思う。
実際には「素晴らしいあなた」「未来を切り拓くあなた」になるには、それこそ「働いて、働いて、働いて…」みたいな滅私奉公が必要なのだけど、政治家に「あなたならできる(時に「あなたは日本人だから」)」と言われたら、実際には「できる」は「しなければ」できるにはならないんだけど、何もしないまま「そうだ、私にはできる」という気分になれてしまう。前向きな自己肯定感に浸っていれば「不安定な情勢」も「どうにかなる」「かな」と、
ああ違うな、もしかしたら皆で「未来は自分で切り拓く」と言えば、圧倒的得票で選挙に圧勝すれば、「誰かが未来を切り拓いてくれる」「不安定な情勢もどうにかしてくれる」と思ってるのかも知れない。
・ちなみに「皆あなたは素晴らしいと言われたすぎ」は何年も前から自分が固執してるテーマで、トリュフォーの映画版『華氏451度』をテーマにした
21年1月の日記など参照。
* * *
もうひとつ今回(今回にかぎったことではないけど)の各党アピールで気になってるフレーズは「成長」で、保守も成長、中道も成長。まあ絶えず成長しないと廻らないのが資本主義なのだけど、だからこそ(特にその「成長」の果実が大企業の株価に吸収され個人にはトリクルダウンしてこない日本では)「成長」を疑え、資本主義や消費社会・
「物質文化主義」を疑うなら「成長」も疑ってみてはどうかと…まあ「これは別のお話」。
距離と暴虐〜デュピュイ『ツナミの小形而上学』・ヴェイユ『前キリスト教的直観』(26.02.15)
ジャン-ピエール・デュピュイは本サイトでも幾度か取り上げている。
ルネ・ジラールと
イヴァン・イリイチの影響を強く受け(イリイチには直接師事していたのではなかったか)両者の統合という魅力的な試みを土台に、思索を繰り広げている現役の思想家だ。
『ツナミの小形而上学』(原著2005年/嶋崎正樹訳・岩波書店2011年/外部リンクが開きます)の「ツナミ」は原著の発行年(2005年)でも分かるとおり、東日本大震災のそれではない。6年前の著作が遅ればせに邦訳として出版されたのは、こちらも発行日(2011年7月)で分かるとおり、この国でツナミ(津波)という言葉を「イコール東日本大震災」と固有名詞化した災厄のせい(ため)なのは間違いないが。デュピュイに本書(原題も
petit metaphysique des tsunamis)を書かせたのは2004年12月に南太平洋で発生し、スマトラ諸島に甚大な被害を及ぼした津波(tsunami)のようだ。
…こう書くことで、すでに今回の日記(週記)の主題は始まっている。はい今回
『ツナミの小形而上学』じたいの主題には(ほぼ)
ふれません。天災は人にはどうしようも出来ない神か自然の仕業か、人が対策しコントロールしうる人災かという二元論を踏み越えて、いやいや人類は人為であるはずの核拡散も環境破壊も・そして組織的大虐殺も何処から停めたらいいか分からない自走機械にしてしまってるではないか(かなり自分の語彙で言い替えてます)というデュピュイの主張には、一部反論したくなる処も、にわかに咀嚼しきれない部分もある。たとえpetit(プチ)でも形而上学は難しいのだ…主題に「ふれるの」はこれで終了。いつか別の機会もないではないでしょう。
本サイト的に今回、気にかかったのは、とある別の本(
日記タイトルでバレバレですけど)で示唆されていた「
人は"遠い"悪は意識できない」という指摘の実例が、天災・人災をめぐるデュピュイの小著のあちこちに見られたことだ。「ツナミ=東日本」とイコールで結ぶようになった吾々が(そうでなくても)2004年のスマトラの被災を思い出すことが(たぶんほぼ)ないように。
たとえば、1755年にリスボンを壊滅させた地震と津波がヨーロッパの社会や思想に与えた衝撃の大きさは、たぶん日本ではあまり知られていない。
いや僕がきわめて無知というのもあるのだけれど、この地震でポルトガルは一気に衰退し、またヴォルテールが「リスボンの災厄についての詩」を書くなど哲学的な問い(巨大な自然の「悪意」を人はどう捉えたらよいのか)を引き起こしたという。
これはデュピュイの著書とは別の話だけれど、どうかするとヨーロッパ人にとっては(第二次世界大戦よりも)第一次世界大戦のほうがショックだったと読んだことが一度ならず、あるように思う。もちろん、いわゆるホロコーストのように別の意味で衝撃を与えた災厄はあったけれど、この破壊は何だ・人類は進歩してきたんじゃなかったのかと哲学的なアイデンティティの危機をもたらしたのは、むしろ第一次世界大戦だったというのだ。
一度目の大戦で戦場となることはなく、むしろドイツが太平洋で手放した植民地をタナボタで取得した日本が(ヨーロッパ人に衝撃を与えた)その破壊をようやく疑似体験したのは1923年の関東大震災ではなかったか、とは
2012年3月の日記で取り上げた
荒井信一『空爆の歴史』(岩波新書2008年。名著だと思います)での指摘ではなかったか。
『ツナミの形而上学』に話を戻す。本書が示唆する見解のなかで、とくに飲み込みがたいと思ったのは、フランス人であるデュピュイの目線ですら、アウシュヴィッツと(多くの粘り強い抗議が続いているにせよ)広島・長崎への原爆投下は「人道に対する罪」として同格ではない、後者はどうかしたら
「聖バルテルミーの虐殺と同じように、過去の蛮行や恐怖に対するやや距離感のある知的関心以外の勘定を、私たちの中に湧き上がらせる力はない」という証言だ。まして落とす側だった当のアメリカにとっては、広島・長崎への原爆投下は
「五〇万人のアメリカ人兵士の命が犠牲になっただろうとされる日本での本土決戦」を回避するための「必要悪」として容認される。この容認(もしくは免罪)にデュピュイは批判的でもあるのだけれど

それはそれとして純粋な指摘として「1)ソ連が日本に宣戦すること(アメリカがそれを容認すること)・2)降伏後も天皇の存命と皇位をアメリカが保証すること、の二点が確保されれば日本はすぐにでも降伏する状態だった(がアメリカのトルーマン大統領は原爆を落としたいがために原爆投下を選んだ)」と主張する歴史学者はアメリカにすら存在するが、その主張は
「修正主義」と呼ばれている、というのもまたショックで、彼我の「距離感」の違いを認識させられる話ではないか―この「修正主義」が「ホロコーストはなかった」や「日本の戦争はアジア解放のためだったと感謝されている」みたいな「歴史修正主義」と同じ語彙だとしたら。
加えて言えば、1945年3月の東京大空襲は広島・長崎の原子爆弾に匹敵する非武装市民の死者を出しているし、デュピュイも間接的にふれているように連合軍はドイツの都市ドレスデンにも同規模の爆撃を行なっている(カート・ヴォネガットJrの小説『スローターハウス5』はこの爆撃をモチーフにしている)。
つい規模や被害者(死者)の数を引き合いに出してしまったが、人々(吾々)の災厄にたいする「距離感」は数量で測れるものではない。ずっと少ない死者数の災厄が言うなれば哲学的な惨事として長く取りざたされることもあれば、ずっと大きな死者数の出た惨事が無視され、忘れ去られることもある。
何が取りざたされつづけ、何が忘れ去られるか。「距離感」は「距離感」とは言いながら、物理的な距離や時間的な距離とも別の基準をもっている。直近の出来事がすみやかに忘れ去られる(あるいは起きた時点でネグレクトされている)こともあるし、当事国の人々が国外の人々より自国の問題が見えてないこともある。
2020年ごろ「アメリカでは今BLACK LIVES MATTERの激しい運動が巻き起こっているが、そうした深刻な人種対立や平等を求める闘いと無縁な日本は平和なものだ」と語る日本人がいたけれど、その人物が知らなかっただけで、まさにその頃、規模こそ違えど東京の警察が街頭でなしたレイシャル・プロファイリング(外国人を見た目で判断しての職務質問や拘留)に抗議して、新型コロナ下で外出すら勇気が必要だった真っ只中に警察署前に抗議の人々が詰めかける事件が起きていた(僕は出向けなかったけど)。
BLMやロシアのウクライナ侵攻・あるいは香港の雨傘運動やパレスチナ問題などに反応して何らかの意見を表明しても、自分が住んでて何なら選挙権も有している土地で起きている差別や迫害には知らん顔・むしろ移民を白眼視して排除に与する、そんな逆転した「距離感」を持つ人たちも、いないではないだろう。こう指摘し再考を促すのはWhatabaoutism(自分が認めがたい苦言にたいし「だったらアレはどうなんだ(あっちも責めろ・なぜ責めないんだ)」と食ってかかる主義)ではないはずだ。
ホロコーストの悪について哲学的に思索を深めるデュピュイは『ツナミの…』原著から20年経った今、アメリカもヨーロッパも(かつての原爆投下以上に熱意をもって)「容認」しているガザでの虐殺を、どのような「距離感」で捉えているのだろうか。
* * *
言えば際限ないし、容易に「だったら自分はどうなんだ」と墓穴を掘りかねないので(
墓穴を掘る=己を省みることは重要なんですけどね)このあたりで停める。最後にひとつだけ。というか、むしろ積極的に墓穴を掘る話。
『ツナミの…』に先立って(そして無関係に)読んでいた
シモーヌ・ヴェイユ『前キリスト教的直観 甦るギリシア』(原著1951年/今村純子訳・法政大学出版局2011年/外部リンクが開きます)では、デュピュイが「距離感」と呼んでいたものを「遠近法」と呼んでいる。
「一般にエゴイズムと言われているものは(中略)
は遠近法のもたらす結果である。
自分のいる場所から(中略)
少しでも離れたところにある事物は目に見えない。
中国で十万人の大虐殺が起こっても、自分が知覚している世界の秩序は何の変化もこうむらない。
だが一方、隣で仕事をしている人の給料がほんの少し上がり自分の給与が変わらなかったとしたら、世界の秩序は一変してしまうであろう。(中略)
秩序の観念を、自分の心情に近いところにしか用いられないのである」(改行は引用者の任意)
上にBLMやウクライナの例を挙げて書いたように、自分が当事者でない「遠く」の正義には敏感でも「自分のいる場所」で自らも関わっている不正義には(選択的に)鈍感になる…そんな逆の形でも、この「遠近法」は働くだろう。ヴェイユも(そしてデュピュイも「被災地へのチャリティ」のような形で発揮される)いっけん他者への献身に見えるものが「エゴイズム」に過ぎない事例を手厳しく指摘している。

その手厳しさも含めてヴェイユ『前キリスト教的直観』いやあ、面白いっすよ。法政大学出版局の本にしては手頃な価格で「図書館で借りられる本は極力手元に置かない」当面の方針を破りたくなる。
今回の日記の主旨とは関係ないんだけど
「人々が自分では美や真理・慈善や隣人愛のつもりで追求しているのは、実は社会的な威信に他ならない。
飲食の快楽ですら
一見そう思われるよりもはるかに社会的なのだ。
社会的威信は文字通り純然たる錯覚であり、どんな現実的な存在ももたない。
しかしながら、力の九割は社会的威信からなっており、力はこの世界のすべてを決定している」
としたうえでの
「だが、力は同時に、絶対的に軽蔑すべきものでもある」(改行・強調は引用者の任意)
という畳みかけなど、本当に感動的だし、もっと引き続き引用したくなる。
けれどサッサと主題に戻って、今週の日記(週記)を終わらせよう。
先ほどの引用でヴェイユは書いていた。
「中国で十万人の大虐殺が起こっても、自分が知覚している世界の秩序は」
…最初は見過ごしていた、この箇所の意味に思い当たったのは、ようやく同書を読み終えようという時だった。この「中国での十万人の虐殺」って何のことだ?
遠いことの例えとして「中国で(あるいはアフリカで、南米で、火星で)虐殺が起きたとしてもさー」と挙げたわけでは、ないのではないか。薄ぼんやりと軍閥時代や清国や明国・あるいはもっと昔の唐やら漢やらでは(とくに王朝交替の混迷期には)そんな虐殺もあったろう、という話でもなければ、毛沢東が誤った農業政策で出した大量の死者のことでもないはずだ。なにしろ後者に関しては、第二次世界大戦中に亡くなったヴェイユは、中華人民共和国の成立さえ知らないのだから。
というか彼女の没後・1951年に刊行された同書の基になる原稿が書かれていたのは1941年11月〜翌42年の5月。この時期のヨーロッパ人にとって(ヴェイユに言わせれば人々に影響を与え得ない)「中国で(の)十万人の虐殺」は、南京で日本軍がなした虐殺以外にありえない。この自明のことに気づくのに少しのタイムラグを要したことが、僕じしんの「距離感」「遠近法」を体現していると自虐をこめて言わざるを得ない。
当時のヴェイユにとって日本とは、間接的に彼女の命を奪った宿敵ナチスドイツの同盟国「大日本帝国」に他ならなかった可能性はきわめて高い。彼女の文章で、日本に言及したものが他にあっただろうか。少なくとも、例によって根拠のない・あるいは距離感を誤って肥大化した自己愛(エゴイズム)で吾々が「シモーヌ・ヴェイユはなんとなく親日っぽい」とか思っていたら大きな間違いだとは言える。そんな人さすがにいないと思うけど念のため書き添えておく次第です。
レーガン大統領と贈る言葉〜(たぶん)オリヴァー・サックス『妻を帽子と間違えた男』(26.02.22)
※
今週の日記(週記)
には海援隊「贈る言葉」への悪口が含まれます。ファンのひとにはゴメンナサイ。もとよりあの歌が大キライで
「せっかく忘れてたのに思い出させるな」というひとには、もっとゴメンナサイ。無理に読まなくていいですから。
*** *** ***
今月の中旬、
【もう寝床に入ろうかという時になって、ふと昼間みた「明日このへん雪になるかも」というニュースを思い出し(よくよく確認したら東京は多摩・神奈川も西部で夕方から可能性ありだそうです)雪を詠んだ
東直子さんの短歌がふたつ、ああ細部が思い出せないなあと思ってネットで確認。
え、という癖は今でも直らない どんな雪でもあなたはこわい
雪が降ると誰かささやく昼下がりコリーの鼻の長さひとしお
↑これ順番を逆にすると連作みたいですね。誰かが雪が降るねって言ってるのを偶然きいて別の誰かが「え」と狼狽えてるの。いや、そうでなく、昔から好きだった詩歌を思い出せなくなってる悲しみ。ふたたび思い出せたよろこび。
「コリーの鼻の長さひとしお」ってすごく好いです。また世の鼻の長い犬たちへの愛情を上書き出来そうです。】
みたいな話を小ネタで書いた(すぐ消した)。今週の週記はそのリサイクルで、
例によってとんでもなく遠い処まで行きます。
その後つらつら思い出すに、自分が東さんの雪をめぐる二首が好きなのには、もっと前からこよなく愛聴してきた
鈴木祥子さんの歌詞を連想するから、という個人的な事情もあるようだった。具体的にはセカンドアルバム『
水の冠』の掉尾を飾る「
ムーンダンスダイナーで」の一節
誰かを待ってるシェパード 鼻先にちらつく雪
ちなみに作詞は渡辺美里「マイ・レボリューション」などで知られる川村真澄さん。余談だけれど川村氏が全面的に歌詞を手がけていた(スズキは作曲と歌唱・ドラム演奏)デビュー当初の鈴木祥子さんは「和製スザンヌ・ヴェガ」路線でプロデュースされた側面があって、この曲名はヴェガの「トムズ・ダイナー」を彷彿とさせるし、濃い目のファンは鈴木氏のデビュー曲「夏はどこへ行った」の(川村氏が詞をつける前の)仮歌はスズキ作曲のメロディはそのままに同じくスザンヌ・ヴェガの「ジプシー」の歌詞で録音されていたのを知っているはずだ。
・参考:
鈴木祥子 - 夏はどこへ行った(YouTube/外部リンクが開きます)
・同:
Suzanne Vega - Gypsy(同)
いちじるしく話が逸れたが詫びない。
鈴木祥子さんには「
雪の夜に」という、こちらはサードアルバムの最後を飾る曲があって、こちらは(
自分の中では)
「雪が降ると誰かささやく昼下がり」と呼応する:
はかない思い出が心に積もるように 白い雪 舗道を埋めてゆく
昼間の半月は雲に隠れ いま水銀のあかりが灯(とも)りだす
喜びや悲しみをすべて包んで
遠い街 眠るひとに
あなたに逢えて嬉しかったと どうか伝えて
こっちは一字一句わすれず憶えている(笑)。このサードから作詞も手がけるようになり(あるいは採用されるようになり)そっち方面の才能も開花させていく鈴木氏。学生時代から太宰治や中原中也のファンで、ラジオ番組で「好きな百人一首の歌はなんですか」というリスナーからの問いに、激しい恋歌などではなく
「秋風にたなびく雲の絶え間より もれいづる月の影のさやけさ」(左京大夫顕輔)という叙景歌を挙げるセンスが
「昼間の半月は雲に隠れ いま水銀のあかりが灯りだす」といった情景描写にも炸裂しているのが、お分かりでしょうか…

…
で、ようやくここから今週のテーマに移る。同年デビューだった遊佐未森さんのコーラスもこよなく美しく、完成度の高い「雪の夜に」だが―え?あれ?雪の
「夜」?「昼間」の半月じゃなかったの?
よくよく考えるまでもなく、遠い街で眠るひとだって昼間から布団をかぶってるわけではないだろう。いや、冗談ではなく冬季鬱という疾病も存在するし、もしかしたら「遠い街」は時差の関係で夜なのかも知れないが、おそらく「遠い」といっても同じ雪が伝言をつたえてくれる程度には近い・同じ空の下ではないのか。
いろいろ理屈をこねなくても、要するに「水銀のあかりが灯りだす」から「喜びや悲しみをすべて包んで」までの間に、昼から夜にシームレスにジャンプしてしまっている。
いやコレも理屈だ、どうにも不自然な、要はチョンボではないのか。なにせ曲名も雪の「夜に」。

こうした歌詞のチョンボ、後逸、ボーンヘッドは存外すくなくない。有名なのは布施明の歌唱で知られる「シクラメンのかほり」(作詞・小椋佳)だろうか。
真綿色したシクラメンほど清しいものはない
この詞が書かれた当時、真綿色=純白のシクラメンは存在しなかったし(のちに開発されたらしい)、月影の「清けさ(さやけさ)」や「清々しい(すがすがしい)」という言葉はあっても「清しい(すがしい)」という日本語はなかった。
「
もうひとつの土曜日」は
浜田省吾・通称ハマショーの代表曲のひとつだ。名曲である。
昨晩(ゆうべ)眠れずに泣いていたんだろう 彼からの電話待ち続けて
いたわりの言葉から始まる歌詞は
もう彼のことは忘れてしまえよ
まだ君は若く その頬の涙 乾かせる誰かがこの町のどこかで君のことを待ち続けてる
まあ誰かも何も「おれ」なんですけど
君を想う時 喜びと悲しみ ふたつの想いに揺れ動いている
君を裁こうとする その心が 時におれを傷つけてしまう
とか、いいじゃないですか。恋心は優しく暖かい気持ちばかりとは限らない。
「時に喜ばせ 時に悲しませ だけど何より君は俺を怒らせる ベイビー君は俺を激怒させる」と歌ったのはルー・リード("Pale Blue Eyes" - the Velvet Underground)。冒頭にあげた東直子さんにも
「一度だけ「好き」と思った 一度だけ「死ね」と思った非常階段」という短歌がある。
また大幅に話が逸れた。話を土曜日、「もうひとつの土曜日」に戻す。
冷たくなった彼氏をあきらめられない「君」を時に悲しみ、時に腹を立てる(そして自己嫌悪で傷つく)語り手は、ついに「俺にしなよ」と持ちかける。
今夜町に出よう 友達に借りたオンボロ車で海まで走ろう
この週末の夜は おれにくれないか たとえ最初で最後の夜でも
なんかすごいことになってきた、と聴き手が悶えるのもかまわず曲はシームレスに終局になだれこむ。
受け取ってほしい この指輪を
ちょっと待て。「海まで走ろう」どころか
指輪まで用意してるのか。「たとえ最初で最後の夜でも」じゃないのか。飛ばしすぎじゃないかハマショーいや語り手。
いや冷静に考えるに、この詞の時制はどうなってるんだろう。もしかしたら「昼間の半月」がシームレスに「遠い街であなたが眠る夜」までジャンプしたように、「昨晩眠れずに泣いていたんだろう」から「もう彼のことは忘れてしまえよ」「この週末の夜はおれにくれないか」そして「受け取ってほしいこの指輪を」まで
各々の一節の間にはすごい時間経過が挟まれているのか。「たとえ最初で最後の夜でも」と
「子どもの頃きみが夢みてたこと叶えることなど出来ないかも知れない ただいつも側にいて手を貸してあげよう 受け取ってほしい この指輪を」(いい歌詞でしょう?)の間に「よっしゃ、指輪を渡せそうだ」というくらいの進展があったのか。
考えてみたら浜省、これも代表曲の「路地裏の少年」も一曲のなかで16歳から22歳までの語り手の半生(?)を8分半の長いヴァージョンとはいえ一曲に違和感なく凝縮する力業だった。いや、それに比べると「もうひとつの土曜日」の違和感よという話なのですが。ぜんぶ現在形なのがいけないのか(「路地裏の少年」は過去形)、いや浜省ファンのかたゴメンナサイ。
・参考:
浜田省吾 - 路地裏の少年(YouTube/外部リンク/それにしてもブルース・スプリングスティーンが日本のミュージシャンに与えた影響の大きさよ…)
一方でたぶん浜田省吾氏、溢れる想いを暴走させる(ゴメンナサイ)(そこがいいのだが)傾向もあって、
これはまあ関係ないんですけど
海に着いたら起こしてあげるから もう少し眠りなよラジオを消して
サイドシートに話かけてみる そこには誰もいないのに
という別の歌を聴いて「
怖い怖い怖い怖い」と爆笑した知人がいて
ファンのひと本当にゴメンナサイ。いや、言われるまでふつうにいい曲だなーと思ってた(今でも思ってる)自分に免じて許してほしいのですが。ともあれ「もうひとつの土曜日」は、書いてるうちに作詞者が盛り上がっちゃって夜のお誘いからプロポーズまで暴走しちゃったんじゃないか、という疑いが捨て切れず
本当にすみません。
* * *
さて、ここまでは「好きなんだけど」ちょっと違和感な話だった。
ここから遠慮なく、好きじゃない歌の話をする。

海援隊の「贈る言葉」というヒット曲なんですけど、えー、海援隊のリーダーである武田鉄矢氏の作詞作曲、同氏が主演したTVドラマ『三年B組金八先生』の主題歌として一世を風靡した。中学校の卒業式や予餞会で合唱なんかもされたのだ。
ひょっとして今もそうなのか。知りたくない。これがまた、とんでもない歌詞なのだ。存在しない色の花や単語が出てくるわけじゃない。時制がいきなり昼から夜に、「この街のどこかに君を想ってる誰かがいるかも知れないよなぁー」から「実はおれなんだ指輪を受け取ってくれ」まで跳ぶわけじゃない。
もっと酷い。
暮れなずむ街の光と影のなか去りゆく貴方へ贈る言葉
どこから斬って、もとい切り出していこうか。まずは
求めないで優しさなんか 憶病者の言い訳だから
とか抜かすのが
人は悲しみが多いほど 人には優しく出来るのだから
と歌った舌も乾かぬうちだとジャブを打とうか。優しさは憶病者の言い訳じゃないんかい。言ってることのスジが通らない。まあ指輪を渡しちゃうまで想いが暴走することもあるから大目に見よう。だが浜省の「君を好きだけど他の男にうじうじしてるのが腹立たしい、でもそんな自分が厭」と自省する(
浜省だけに自省…うっさいわ)繊細さは「贈る言葉」の作詞者にはない。
これから始まる暮らしの中で誰かが貴方を愛するだろう
だけど私ほど貴方のことを深く愛したヤツはいない
何この臆面のなさ。しかも前後して前のほうの歌詞では
初めて愛した貴方のために
たかが初恋(失礼)で「これからお前を愛する誰よりも俺がお前を愛してた」とか言うのかコイツは。いや、初恋だからそれくらい増長してるのか。しかもその「贈る言葉」の内容はといえば「ああすべき」とか「こうしたほうがいい」とか
「ここらでちょっくら忠告をした方がいいかな」あ、違う
これはミセスだ(
嬉しそう)。しかも、そのあと何を言うかと思えば
初めて愛した貴方のために
飾りもつけずに贈る言葉
うわー、キモい!キモい!キモい!キモい!「キモい」では説明に足りないので正確に言分けするならば
厚・か・ま・し・い!
通訳するとこうでしょ:たかが初恋で「俺は悲しみとか優しさとかよく知ってるんだ」「他の奴らの優しさとか愛に比べて俺だけが本物なんだ」「そんな本物の愛だから飾りなんか要らないんだ」「みずぼらしいと否定するな、本物だからこそ飾りのない俺のお説教を受け取れ」
ごめん、やっぱキモい。
冷静に読めばこんなにも厚かましく身勝手な歌を、よくも皆が受け容れ愛唱すらしたものだと考えるに、ひとつ思い当たるエピソードがある。
オリヴァー・サックス『妻を帽子と間違えた男』(原著1985年/高見幸郎、金沢泰子訳・晶文社1992年→ハヤカワ文庫2015年/外部リンクが開きます)の一挿話だ。
…同じ著者の『火星の人類学者』だったかも知れない(サックスの著者を間違えたかも知れない自分)…いずれにしても事故や疾病によって生じた脳機能の障害がもたらす様々な認識のズレを描いた医学エッセイで、
つまりセンシティブな話題なのだけど「嗤うつもりはないよ」それどころか後で見るように
「正常だと思ってるマジョリティのほうがおかしい場合だってあるよ」という例証として話(引用)を続けます。
「贈る言葉」と同じ80年代のこと(むろんサックスは海をへだてた日本のヒット曲など知る由もなかろうが)同書によればアメリカのとある病院に、左右の脳いずれかに障害のある患者たちが収容されていた。感情を司る右脳に障害のある患者は(SFドラマ『スター・トレック』のヴァルカン星人のように)感情というものを理解できず、逆に論理を司る左脳に障害のある患者は物事を論理で考えることが出来なかった。
いつも左右のグループに分かれて打ち解けることがない、この患者たちがレクリエーション室の同じテレビ放送を観て、一緒になってゲラゲラ笑っているという珍事が起きた。医師たちが尋ねたところ、彼ら彼女らが観ていたのは、当時アメリカの大統領だったロナルド・レーガンの演説だった。
何がそんなに可笑しいのか。感情を解せず演説を聞いても論理しか理解しない左脳派の患者たちは答えた。「
だって可笑しいよ、彼の話は全く筋が通らないデタラメなんだ」逆に感情しか理解しない右脳派の患者たちは言った。「
可笑しくないことがあるかね、私は皆さんを騙そうとする詐欺師なんですと全身で表現してるのに」
論理だけ、感情だけを抜粋すれば噴飯物のペテンが、「言葉」と「調子」が一体になると、名演説(とは言わないまでも「熱弁」)として、いとも容易く有権者たちに受容されてしまう。呑み込まされてしまう。片側の脳機能しか働かないことを欠損と考えがちな(論理も感情も機能する)標準的な現代人のほうが結果として「間違った判断をする」ことは、謙虚に受け止められていいのではないか。
ましてその支離滅裂で身勝手な主張が、感情を動かすメロディや伴奏=音楽に乗っていたらどうだろう。もしかしたら
ウィルソン・ブライアン・キイがザ・フーのアルバムを分析して「大変じゃん」「こんな恐ろしい歌詞をティーンは喜んで聴いてるのか」と動転してみせた(
20年3月の日記参照)のも、音楽のもつ隠蔽効果への警鐘だったかも知れない。
聴く者の心を強く揺さぶるマーティン・ルーサー・キング牧師の演説は、彼のバックグラウンドである黒人教会の聖歌=ゴスペル・ミュージックのエッセンスを十全に採り入れたものだと読んだことがある。それと比べるのは失礼かも知れないが、今の日本の首相の「働いて、働いて、働いて」「成長のボタンを押して、押して、押して」のリフレインも音楽的といえば音楽て…いや音楽に失礼なので止そう。
いずれにしても「
論理的には無茶苦茶だったり酷い話だったりするのを、感情を刺激する口調や身振り(非言語的メッセージ)込みだと丸めこまれてしまう」「
私はふつう(標準)と思ってる人のほうが、かえって(丸めこまれてしまうとか)
不適合に陥ることもある」この二つを時々ハマショーもとい自省したほうが良いのだろう。
そのトリックがあるからこそ時に飛躍や無理がある物語や音楽などを楽しめているとはいえ。
*** *** ***
(26.02.23追記)口直しというか鈴木祥子さんでシングルカットもされてないし、どちらかというと地味な楽曲だと思うんだけど時々ふいに脳裏に浮かんで「いい曲だなぁ」とシミジミする、4thアルバムのこの曲。作曲はもちろん、作詞も祥子さん。
・
鈴木祥子 - 水の中の月(YouTube/外部リンクが開きます)
タイトルからしてそうだし
「悲しみの川底に沈む月のかがやき」という一節の良さ。「雲に隠れた昼間の半月」もそうだし「水の中の月」「川底に沈む月」もっと言えば「漏れいづる月の影のさやけさ」、どれも間接的で、いわゆる幽玄・新古今のセンスなんです(
本当)。
どストレートな「あかあかや月」(明恵)みたいのもいいですけどね。
小ネタ拾遺・26年2月(26.03.01)
(26.02.02)春はココだぜ一足お先。

寒さ 寒さって何だ… 起きられないことさ…ま、こうして起きてるけどね。気を取り直して、2月です。
(こうして旧主題歌をもじって書いたものの、リブートされた新『ギャバン』は「…」な内容でした。下記02.22あたりを参照)
(26.02.16)【続報】そういえば、少し前の記事ですが・
諏訪湖の御神渡り8年連続で出現せず 戦国時代以来の最長記録に並ぶ(朝日新聞/26.02.04/外部リンクが開きます)悲しいけれど気象予報士・森田さんの分析どおりなのかも(
先月の小ネタ1/29あたり参照)。いずれにせよ上諏訪・下諏訪あたりをのんびり散策してみたい(下諏訪は再訪)気持ちは生まれたので、孵るか分からないけど大事にフトコロで温めていこうと思います。
(26.02.17追記)諏訪とか台湾とか、
お前はただ単に「ここに居たくない」「逃げ出したい」だけではないのかという疑惑が自分でも捨て切れない。別に名所でも観光地でもない(ただ単にかつて佇んだことがあるだけの)街角や交差点なんかが不意に恋しくなったりするからなぁ。
(26.02.07)
キュアアルカナ・シャドウ(『名探偵プリキュア』公式/外部リンクが開きます)の声をあてているのがアニメ版『ゆるキャン』しまりん(志摩リン)と同じ東山奈央さんと知りて描ける:

怪盗団ファントムの皆さん、お宝「マコトジュエル」を全てコレクションしたら氷漬けにされた愛しいひとを救出できると信じて、心ならずも悪事に手を染めてるのでなければ良いが(それ怪盗団じゃなくて「快」盗戦隊…)
(26.02.21追記)『名探偵プリキュア!』2027年を生きる主人公がタイムスリップして1999年の世界でプリキュアになる話なのだけど、現地?当時?で出逢ったショタ妖精のジェット先輩によれば「嘘で覆われた世界」を造らんとする怪盗団ファントムを阻止するのが、この時代のプリキュアの使命らしい。「でも
私の時代(2027年)
は嘘で覆われた世界じゃないし、ここ(1999年)
と変わらないよ?平和だよ?」(大丈夫なんじゃない?)と反論する主人公に先輩は
「未来は絶えず変わるんだ。僕たちが頑張らないと此処も、お前の時代も嘘で覆われた世界になるかも知れない」と奮起を促す…
いや、2027年を待たずして既に世界は嘘で覆われてるのだが?
ひょっとして今って、1999年にプリキュアが負けたほうの世界?
それこそ1999年より前に完結してる漫画なのでネタバレを許してもらえば、
清水玲子のSFサスペンス『
月の子』が人類滅亡の引き金となるチェルノブイリの原発事故を、主人公たちが阻止する話だった(作中で「良かった…人類が滅びなくて」と安堵してる主人公たちを見ながら
「ちょっと待って、事故が起きてしまった世界に吾々いるんですけど?」と読者たちだけ絶望させられる仕掛け)(しかも主人公が事故を阻止できなかった「こっち側の世界」を幻視して「大丈夫、そんなのは悪い夢だ」と恋人に慰められて終わる念の入りよう。こっちの世界は悪夢か…まあそうですよな…)を思い出すなど。
・
Suede - Life is Golden(YouTube/外部リンクが開きます)
↑息を呑むほど美しい晩秋の落葉に覆われた廃墟がじつはチェルノブイリ事故で街ごと放棄されたプリピチャの風景(2018年)というSuedeのMV。放射線で人が立ち入れない区域だからこそドローン撮影の滑らかさが際立つのもテクノロジーが人間を追い越してしまった感があって皮肉。
(26.02.22追々記)「1999年で頑張らないと未来(2027年)も嘘で覆われてしまう」設定で「
嘘はダメ」「
人の夢や真心を踏みにじる嘘はゼッタイにダメ」と繰り返し強調する名探偵プリキュア、やはりフェイク・トゥルースが生成量産される現実への異議申し立てではなかろうか。
むろん番組制作にあたって最優先されるのは玩具や関連グッズの売り上げであるにせよ(
24年4月の日記参照)とくに『プリキュア』には「お子さま向けなのでキチンとした(コンプライアンス面で糾弾されない)建前は守ろう」という意識も明確にあるようだ。
・参考:
おうちのかたへ(東映アニメーション『名探偵プリキュア!』公式/外部リンクが開きます)
一昨年に同じニチアサ枠で放映されてた『爆上(バクアゲ)戦隊ブンブンジャー』もお子さまが大好きな自動車モチーフで主人公たちの名前が大也(タイヤ)に未来(ミラ)・先斗(サキト)、敵の名前もイターシャにデコトラーデ、悲鳴から得られるエネルギー「ギャーソリン」を奪いに来たとふざけ倒した設定なのに、終盤になってラスボスが「
この星(地球)はイイねえ…戦争に環境破壊、上質の悲鳴で溢れてる」と嘯(うそぶ)き、ギャーソリンだけ上納して「
そのままでいろ」と地球の偉い人たちに持ちかけるなど(まあ爆上戦隊に子どもたちが「お届け」したポジティブな応援のエネルギーで阻止されるんだけど)痛烈な社会批判に余念がなかった。
比べると戦隊シリーズに替わって登場したギャバンは、異星人を「犯罪をはたらく移民」として描く冒頭から「海外で流行ってるのでマネしたくなりましたが根幹が理解できてないので変に情緒に流されてグダグダです」なテロリストの造形・「暴徒に襲われる機動隊員さんたち可哀想・たすけてギャバン」…あまりの体制翼賛ぶりに、これは今後の軌道修正は困難かなあと先週の第一話で撤退しました。テロとか飛びつくわりに全然描けてないの、前にチラ見した刑事ドラマ『相棒』なんかもそうだったし、あれもテレ朝か…
(26.02.01)裏金裏金って「コッソリお金もらってる!ズルい!」じゃなくて「で、その裏金とやら何に使ってるの?」と考えたら高級料亭でドンチャン騒いだり革張りのソファーで猫を撫でたりするのに使うわきゃなくて、まあそういうのにも多少はトリクルダウンするのかも知れないけど、一番の使い道はふつうに考えて「今の地位をまた金で買うために使う」だろうと。てゆか裏金なんて、他に使い道なくない?
別に有権者に直に札束バラまいてるわけじゃなくて(まあそういうのも多少は以下同文)これは別の事例だけど今回の選挙で立憲と公明が急に合体して中道になって、街に溢れてた公明党のポスター(公明党を支持すれば収入が増えて寿司が食べれますってやつ)がアッという間に中道のポスターに替わった、
それに必要な費用と人力は何処から来たかと考えたら、まあ流石だなあ…という話。
褒めてない。
ポスターだけでなく運動員を雇ったり、根回しするのにどっかの会議室なり何なりを借りたり、そういう活動には合法的なものも非合法もスレスレもあって、あるいは合法でも道義的にどうよとか、SNSのインフルエンサーを育成したり、こういうのだって何処でお金が動いてるのか分かったもんじゃない→
・
選挙争点や各党の政策比較巡り「偽番組」、世論水増し「誤解与える可能性」…量産する男性「ウソはついていない」(読売新聞オンライン/26.01.31/外部リンクが開きます)
裏金を投入して選挙で勝つ、選挙で勝てば裏金が寄ってくる。素敵な永久機関…
ここまで書いたことには何の裏づけもないのだけど(もしかしたら裏金とやら全部ソファーと猫に消えてるのかも知れない)もし自分の見立てが間違ってないとしたら、そのサイクルの中で何のおこぼれにも与って(あずかって)ないのに、裏金で作られた「高市さんスゲー」とか「共産党!共産党!」とかに踊らされて、票を献上しつづけてる有権者は、さすがに可哀想すぎないだろうか。いやまあ「踊れる」「いい気分になれる」だけで十分報われてるのかなあ。
(同日追記)大雪など天災に見舞われてるわけでもない(
見舞われてる地域の方々には心からお見舞い申し上げます)横浜みたいな首都圏の大都市で、ついに国政選挙一週間前の日曜まで投票券が届かず期日前投票を見送った(もちろん制度上は投票券なしでも本人証明書の提示で期日前投票できるはずですが)って、高市早苗氏って行政府の長には甚だ不向きな一個人が引き起こした「例外状態」(そのとおりイレギュラー・仕様ではなくバグって意味と、それが仕様になってる無法状態をさす政治学用語のダブルミーニングです)なんだけど、同時に、この社会のガタつきがもう「徴候」とは呼べない「症候」(
それぞれ辞書で調べてね)・それもかなり末期に来てるのではと実感させられる。
たとえば日本の電車運行は素晴らしくて時刻表どおりで、こんなの外国では見られない的な自国褒めをする人は今だに居るんだけど、僕の体感では首都圏で電車が遅延しない日ってない程なんよ?それも「日本すごい」の人が言いたいみたいに外国人はルーズだけど日本人はシッカリしてる的な状況とも少し違って、ルーズではないんだけどドアの不具合から痛ましい人身事故まで、それこそイレギュラーな事態が仕様みたいに恒常化して毎日のように電車が遅延している。これは最初からルーズなのとは別の意味で、深刻な症候なんじゃないだろうか?
そのほか、民営化の結果として郵便物の即応性が失なわれたとか、地震や豪雨の被災地が当然のようにネグレクトされるとか、つまり「
日本は勤勉な日本人がキッチリ回して上手くいってる国」
という幻想は、もう幻想だってくらいガタガタになってる。
SNSで誰かが言ってたけど、戦争も「世相が暗くなって限界まできて始まる」感じじゃなくて「街や世間・TVやネットの花やかな処は花やかなままで、
でもそういえば戦争が始まってる」そういう始まりかたをするモノなんじゃないかと。地方の被災地が捨て置かれたまま、皆が万博に嬌声をあげていた昨年って、そういう意味ではもう壊れてたんじゃないかと愚考する次第です。
(26.02.04)もうなんかすごく暗い情念が渦巻いたりもした(してる)んですけど、
昨日ようやく届いた(渦巻いてる)投票案内で期日前投票を済ませてきました。どうやら自分、世界が滅びる前日でも林檎の苗木を植える派だったらしい(
渦巻いてる渦巻いてる)。

古え(いにしえ)の同人誌者にはお馴染み「レザック66」用紙を長らく使ってきた横浜市の投票証明書、のっぺりした普通紙に替わって(カラーにはなったけど)個人的にはショモくなっちゃった感…と思ってはいかんのか。まあ仲良くしようぜ。
(26.02.08)自分が関心ないから気づかずにいたけれど、そうか今は冬季五輪の真最中だかクライマックスだかなんですな…鼓腹撃壌タイプの人たちはますます選挙から遠ざかるし、投票に出向くひとたちもメダル報道で演出されたナショナリズムに行動を左右される(あ、「左」はされず専ら「右」される)。何から何までよく出来ている。褒めてはいない。
(26.02.09)でも心配してくださる(?)かたが居らしたら申し訳ないけど昨日の選挙の結果がショックだ!絶望した!て状態でもなくて(
その割りに左右違う靴で外出し一日過ごしたようですが)だってその、昨日今日で何が変わるってくらい詰んでたわけで、何手も前から。

だもんで
先日の週記にも書いたけど、誰に責任があるの自分には責任がないの言っても、
結果は皆にのしかかる。それをどうするか考えたほうがいい。たとえば下の記事に詳しい「政府は復興所得税2.1%を1.1%に軽減すると言っているが、半分になった代わり復興所得税の年限は二倍に伸び(つまり取られる額は変わらない)そのうえ
浮いた1%は恒久的に防衛費に転用される」とか。
・
増え続ける防衛費…安保政策「大転換」の是非 復興税を防衛の税に転用も 被災者の思いは【報道特集】(TBS NEWS DIG→niftyニュース/26.02.06/外部リンクが開きます)
はい、一昨年の暮れから本サイトの左に貼ってあるバナーのコレです。

あるいは、記事の中ほどで重点的に取り上げられている呉の製鉄所跡地への巨大防衛施設の誘致など、美少女の萌えキャラをマスコットにでもすれば(そうでなくてもミリタリー大好きな)声の大きいオタクはコロッとまいってしまうだろう…それに(再)軍国化をよしとしないオタクはどう抗していけばいいのだろう等々、さながら日常のように考えています。
(一瞬後に追記)というわけで、こちらに賛同しました。
署名:
高額療養費の限度額引き上げを撤回してください(change.org/外部リンクが開きます)
(26.02.11)ふだんは「パズルを解いて王様を救うゲーム」とか「この薬を飲むと○○○がドバドバ出て痩せる」とかショウモナイ動画ばかり表示されるスマートフォン(ネット接続時)の強制広告に、ここしばらく原発(柏崎刈羽)の近隣住民に
「もしもの原子力災害時に内部被ばくのリスクを抑えるため安定ヨウ素剤を事前配布しております」という新潟県の広報が頻発している。

よくよく見ると配布対象者は
「(1)40歳未満か(2)40歳以上の妊婦・授乳婦・妊娠希望のある女性とあって、おお自分は見事に対象外だとか、要するに少子化対策に貢献できる者のみ対象かとか、いや「俺が対象じゃないなんてズルい」
みたいな気持ちはあんまりないんだけど、それ以前に
いつのまにか「皆さんリスクを負いますよ、引き受けるんですよ」と当然のように言われてるのが何げにヤバい。3.11以前と以後しばらくは「(福島で事故は起きましたが)原発は原則ノーリスクです」「正しく怖がれば安心安全なんです」が原発推進・再稼働プロパガンダの言い分ではなかったっけ?これも動画広告でよく見かける「放射性廃棄物の地層処分のことを皆で考えよう」という広告も「
だって私たちはもう原発の再稼働じたいは受け容れたのだから」という文脈になっている。
1)本当に「皆で考えよう」なら「そもそも原発やめるって選択肢はどうなったの?」から「考える」べきじゃないの?
2)「原発は安全なので受け容れましょう」じゃなく「廃棄物処理とかヨウ素剤の配布が必要とかリスクはありますが(安全ではありませんが)皆さんリスクを背負ってください」に文脈が変わってません?
敷衍(または牽強付会)すればNISAなんかもそう。いつのまにか国民(という言いかたをしますが)みんながリスクを背負うのが当然です、って文脈になっている。前回(今回じゃない)あたりの選挙で参政党のポスターが、キリッとした顔の西郷隆盛や太平洋戦争の特攻隊員たちのイラストに「次は私たち(オレたちだったかな?)の番だ」みたいなキャッチコピーがついてて「なんで西郷隆盛w」とか「(次は私たちが)日本人の誇りを見せてやる的なことを言いたいんだろうけど特攻隊員じゃ戻ってこれないじゃんww自分たちの命を捨てさせたいのかよwww」みたいに突っ込まれてたけれど「
そうですよ(西郷隆盛はともかく)
特攻隊員のように皆さんにも死んで(少なくとも死ぬ覚悟で「働いて、働いて、働いて、働いて」)
ほしいんです」と、受諾した憶えのない決断を呑まされているのでは、という不安がある。
これだけだと悲しいので同じ新潟の(
なんで神奈川県で表示されるんだろうね、いいけど)別のネット広告で知った話題も。殺風景な有料駐車場を幼稚園児の描いた絵で飾って景観を変えよう、という試みを新潟の企業がしているらしい。
・
株式会社スペースアイが新ブランド「やさしい駐車場」を発表。10月1日からのテレビCMには佐藤日向(アミューズ)が出演。(PR TIMES/25.10.01/外部リンクが開きます)
佐藤日向さん(声優)、新潟出身なんですね。水島新司・高橋留美子(ということは同級生だった近藤ようこも)など輩出してる新潟県、昨年末の「あれを旅行と呼んでいいのか」ではじっくり眺めたり写真に収めたりする暇はなかったけど新潟駅前(新潟市)の地元案内パネルを地元大学の漫画学科とかそのあたりの人たちが手がけていて、その路線で進んでくださいと思ってる。二次元とお米。(と書いて改めて思う、国内有数の米どころに原発か…)
(26.02.12)
昨年末に池袋で道に迷って行き着いた「ひもかわうどん」のお店、逆にどう迷えば再訪できるのか分からん…と思ったらまた
同じ迷いかたをして(不器用なんだか器用なんだか)再度逢着、よく確認したら前回去ったの(それで目的だった雑司が谷の駅には直行できたので間違いではない)と逆方向に進んだら直ぐ、ジュンク堂書店のある大通りにつながっていたと知る。今回はひもかわと普通うどんの合い盛りを辛味のきいた温つけ汁でいただきました。

で、前回は気にかけつつスルーした同じ小路の、書店というより「本屋」という佇まいの小さな本屋が実はなかなか。コンパクトな店内で文庫中心なんだけど、それが人文系・芸術系・生活や生きかた・エッセイなどテーマ別に目利きされている。たとえば國分功一郎『暇と退屈の倫理学』『中動態の世界』『ドゥルーズの哲学』ぜんぶ文庫で揃ってて…というか全部もう文庫になってるんですね…どれも好い本なので文庫なら手が届きやすいというかたは是非…あと芸術や音楽のコーナーにコレは単行本で「
ルー・リード(晩年に傾倒していた)
太極拳を語る」みたいな本があって(しかも国書刊行会)うおお!とトキメクが、よ、四千円…お財布の都合もあり、この晩はちくまプリマー新書から出ていた山本直樹氏の『エロってなんだろう?』を購入。持ち歩きにくい書名を隠すブックカバーをありがとうございます。

この場所にこのお店を出してって訳じゃないんだろうけど創業80年。いや本当に「ジュンク堂は何でもあるけど、そこがなぁ」と贅沢な悩みに気づいたら、小路に入って進んでみては。ひもかわうどんのお店は、天ぷらも自慢みたいで食べてほしそうです(為念)。
(26.02.13追記)だから『エロってなんだろう?』みたいな確信犯ならまだしも、
そうでもない歴史書や学術書にわざわざ無駄に扇情的な表紙はありがた迷惑なんだってば。読む人はテーマや主題に関心があって読むんだから。わざわざ自分でカバーかけなきゃいけないんだから。人前で読めないんだから。

エリック・ホブズボーム『素朴な反逆者たち』。半分くらい読み進めましたが表紙みたいな乳まるだしの尼さんは出てくる
気配すらありません。逆に(ヨーロッパの千年王国運動では)
「男性と女性の間に(中略)
性を抜きにした(中略)
清潔で慎み深く暖かい関係がはぐくまれた」みたいな指摘しかなくて面映ゆいばかりよ。
(26.02.18)というわけで
エリック・ホブズボーム『素朴な反逆者たち』(原著第一版1958年→第三版1971年/水田洋・安川悦子・堀田誠三訳・社会思想社1989年)読了。市民革命・社会主義・共産主義…と社会変革が思想的にも組織的にも合理化・近代化される「前」の前近代的な義賊やマフィアや秘密結社・千年王国運動やオカルトめいた儀礼が、近代思想に圧倒され徒花として消えていく一方、伏流として現代の反社会運動にまで痕跡を残しているさまを活写する斯界の古典なのですが(ちなみに革命運動から前近代的な迷信を排除することを厳しく主張・先導したのが「宗教は民衆のアヘン」と言い放ったカール・マルクスその人だというのも納得な話)
個人的には前近代の民衆反乱の再評価をブチ上げたフェデリーチ『キャリバンと魔女』(
23年10月の日記参照)の先駆者として、またブラジルの千年王国運動を描いたバルガス=リョサ『世界終末戦争』(
昨年6月の日記参照)の副読本として興味ぶかく読んだ同書。「社会運動における儀礼」と名づけられた第九章で、フリーメイソンなどを源流とし19世紀前半に最盛期をむかえた秘密結社(兄弟団)の名称が列挙されていて、いわく
「ヨーロッパ愛国者たち」「決意の人々」「短剣の人々」「三色団」「四色団」「七文字団」「八文字団」あたりはいい(?)として
「エデンの人々」「最高の親方たち」「うつくしいコンスタンティーナ」「煉獄の高貴な魂社」「地表すべてにおよぶ雷神ユピテルの決意団」までエスカレートすると、まさに素朴な
「玉ねぎ団」がちょっと可哀想になってくる。味方したい
「玉ねぎ団」。ぜんぜん関係ないし名は体をあらわすで後悔はないんだけど「RIMLAND」とかいうサークル名も不憫ちゃ不憫でしたね…同人誌即売会のサークルカタログは五十音順なので、だいたい終わりあたりに来ちゃうのだ。
(26.02.22)探してリンクを貼ろうとは思わないけど、たった今またネットで目にした動画広告はアニメ仕立てで、桃太郎がネットに流された中傷やフェイク動画で信頼を失ない、お供の動物や村人たちに糾弾される(実は鬼の仕業だった)という内容。なんか陰惨なノリだけど例によってAC(公共広告機構)なのかと救いのない最後まで観ていたらACではなく、悪意をもった「外国人」が作ったかも知れない偽情報に気をつけましょうという内閣官房が作成した政府広報だった。いや、ACの広告も表現が暗かったり怖かったりするほうに流れることもあるけれど、ここまで陰険な雰囲気じゃなかったなと思い直し…今の内閣になってから何度目かの「ついにヤバいのが始まっちまったか」という、毒物を口に入れてしまったような気持ち悪さを感じている。信じやすい人は、こんな僕の批判も「外国」製のフェイクだと言うかも知れないけれど。
(26.02.14)名古屋市長(前市長だっけ?金メダルかじ郎)が酷すぎたせいか、相対的に良識派なイメージがある愛知県の大村知事だけど、彼は彼でリニア推進派の面(
僕的には暗黒面)もあり、そっちが勝ると、こういう方向に流され与してしまうのかぁと残念な思い。まあリニアなんか作って何になるという問いに「カジノに人を送り込む」は局所的には最適解なのかも知れないが
局所的すぎでは。
・
愛知県がIR誘致検討 知事が会見へ 2カ所目の認定となるか注目(毎日新聞/26.02.12/外部リンクが開きます)
問題は様々あれど、それこそ「鼻をつまんだ」市長選で(じっさい最大の争点だったと思う)IR誘致だけは斥けた吾らが横浜市。もうひとつの争点でもあった中学校の全員給食にようやく漕ぎ着けもしたらしい。ずっと粘りづよく訴えてきた人たちがいるに違いないので(まだゴールではないかも知れないけど)敬意を表するし、IRに反対する愛知の人たちにもヒッソリとエールを送る。
(26.02.23)
1)塩水の沼地やマングローブなど沿岸の湿地帯は地球の陸地面積に占める割合わずか5%で土壌に存在する炭素の1/4を貯蔵している。その炭素貯蔵力は高地にある森の15倍、「健康な」沿岸湿地帯は同じ面積のアマゾンの密林よりはるかに大量の空気を洗浄するという。
2)だがその「健康」は急激に失なわれつつあり、気候変動がもたらす海面上昇や台風・ハリケーンの強大化で沿岸湿地帯は生物多様性も人(多くは先住民族や貧困層)の暮らしを巻きこんだ破滅の一途にある…
エリザベス・ラッシュ『海がやってくる 気候変動によってアメリカ沿岸部では何が起きているのか』(原著2021年/佐々木夏子訳・河出書房新社2021年/外部リンクが開きます)は、同書が日本ではすでに品切れ・重版未定になっていることも含め世間の無関心まで含めた問題の深刻さと、それに抗する人々の営みを浮き彫りにする渾身のルポルタージュ。

巨大すぎる破滅の前では、かえって悪しき気休めになるのかも知れないが文字どおり湿地回復(
すまんこんな時に駄洒落だ)に挑む科学者たち。その姿に共感を示しながら著者が引用する
「畏怖と謙虚さをもって科学を実践すること、それは(中略)
私たちが(略)
人間の皮を脱ぎ、(略)
出来るかぎりきちんと他者(略)
人間以上の世界(more-than-human-world)(略)
を知ろうとする方法に過ぎないのだ」
という言葉に、吾々は近代をはじめたあたりから(デカルトを口実に)
「科学=数量化で、数量化=世界を人間サイズに切り詰め縮減してコントロールすること」だと取り違えてしまったのではないかと気づかされた。もっとえげつなく言えば、
利得や損失を算定(
メネ・テケル・バルシン)できるもの(
だけ)が科学、もっと言えば「知」なのだと勘違いしたのが吾々なのだと。
幼稚なイメージでソクラテスやら孫子やらを登場させた日本企業のCM動画に「人間より大きな世界への畏怖」や(ついでに言えば取り上げた「賢人」たちへの)謙虚さがあるようには思えない。
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日立ハイテク 企業広告「知る力」会議篇(30秒)(YouTube/外部リンク/人によっては観ると「うえっ」となるので注意)
一度は切り捨て追放したつもりの「人間より大きな部分」はシュレディンガーの猫や三体問題だけでなく、気候変動やカタストロフ、ジャン-ピエール・デュピュイに言わせれば(
先週の日記参照)大量虐殺や核拡散のように人為さえ制御不能と化すかたちで戻ってくる(まあ人間だって世界の一部なので)。今はわりかし人類規模でというか先進国全体が、驕ったツケの支払いを迫られてる時期なのではないか。
そんな中、どうにか負債を軽減しよう・環境や住民の生活を救おうと尽力する人々がいる一方で、
巨大資本や社会の大勢はとっくに「住民すべてを救う気など毛頭ない」現実に、あらためて能登を思ったりもしたのです。
(26.02.25)数年来ほぼ毎日(=忘れてない時には)続けていながら
パレスチナ難民支援のクリック募金(arab.org/外部リンクが開きます)、クリックした後に現われる「ありがとう!」ページ、に舞う紙吹雪(のようなグラフィック)を適宜クリックすると、その場所から花火みたいに紙吹雪(のような)が弾けるの、今の今まで気づきもしなかった。

眼福眼福。こちらこそありがとう。
(26.02.27)ふだん「たった大さじ2杯の油で出来る焼き唐揚げ」とか「多摩川にはびこる外来種ソバで年越し蕎麦作る」みたいな動画ばかり観ていると、こういう動画がオススメにサーブされてくる↓まずは観てほしい。
たぶん2:40あたりで噴くので、電車の中とかでは注意。
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【第2弾】日本のおうちで作れる激うまコンゴ料理レシピ!(YouTUbe/外部リンクが開きます)
ゆるふわな猫撫で声のまま「これを○○○○ます」(2:40)も噴くけど、やがて随所に挟まれる低音に「ああそうか、天然じゃなくて『キャラ』として完全にコントロールしてるんだ」と気づかされる快さ。しかも本職は渋谷でITエンジニア。ここまで芸達者(?)な人ばかりじゃないにせよ、こんな豊かな現実が、ずっとイメージとして貧しい排外主義者のファンタジーに負かされてしまうのは悔しかないか。鍋に具材を投入しながら「いってらっしゃーい」と真似する楽しさを、あの人たちは(まだ)知らない。
(同日追記)ふざけて(キャラ作って)
ないジョスピンさんの動画→
コンゴ人社員の母国の大統領になるための10年計画(YouTube/外部リンクが開きます)
(26.02.28)石川県知事選、災害対応(不対応)で不人気の現職を追い上げる前金沢市長は参政党シンパの極右と、毒しか選択肢のない能登の方々は不憫だ…などと思っていたら、アジアの反対側で、あああああ。また来月…(来月も世界ってあるの?)
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イスラエルがイランを攻撃(TBS NEWS DIG/@niftyニュース/26.02.28/外部リンクが開きます)
(5分後追記)ああああああ。
米軍も攻撃 トランプ氏発表(時事通信/@niftyニュースは2026年3月31日をもってサービスを終了いたします/26.02.28/外部リンク)
(26.02.28)お別れはつらい(Breaking Up Is Hard To Do)。ニール・セダカの訃報。日本では「悲しき慕情」として知られる代表曲、のちにスローバラードとして再リリース、こちらもヒットさせたといいます。
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Neil Sedaka - Breaking Up Is Hard To Do (original)(YouTube/外部リンクが開きます)
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同スロー・バージョン(同/コンディションによっては真剣に悲しくなってしまうので注意←今がそうか…)