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美しい絵本〜いせひでこ『ルリユールおじさん』(10.05.02)

 例によって私的な思い出から始めますが、村下孝蔵の「踊り子」に「写真をばらまいたように 心が乱れる」というフレーズがあって、
 いせひでこの絵本『ルリユールおじさん』(理論社)を初読したとき、それを思い出した。少女が手にした植物図鑑の綴じ糸が切れて、大判のページがばらばらとほどけ落ちる瞬間で物語が始まるのだ。
 とくにオフセットの同人誌など作り慣れ、無線綴じの本になじんでいた身には、糸が切ればらける場面は鮮烈で印象的。それだけで「旧い本(=大事に読み継がれてきた)」というイメージが読み手の無意識に焼きつけられる。oldies but goodies−その無意識の印象は、ほどけた本をどうにかしてもらおうと街に出た少女の言葉で裏づけられる。
「本やさんにはあたらしい植物図鑑がいっぱいあった。でもこの本をなおしたいの」

 昨年なかばだったか、はじめて本屋の店頭で存在を知って(そのうち、そのうち手元に)と思っていた本をようやく手に入れて。それで気づいたのだが、実は図鑑がばらける場面が「始まり」ではなかった。最初は見開きで描かれたパリの景色。よく見ると家々の左ページの窓に少女が、右ページのバルコニーにルリユールおじさんが小さく描かれている。この二人がどう出会い、語りの主導権がキャッチボールのように(あるいは本のページをかがる糸のように)往復し、ラストに至るかは各自で確かめ、楽しんでほしい。
 たとえば先に引いた少女の台詞だけれど、本屋も「本や」と言うくらい幼い子が「植物図鑑」は漢字を当てる処ひとつ取っても、文字のはしばしまで考え抜かれてるのが分かる。
 もともと(オンライン書店の期限つき割引を使うため)何かいい本はないかと思い悩んでいたら「(活字にこだわらず)画集や写真集はどう?」とアドバイスを受けたのがきっかけで思い出したくらいで、青をキーカラーに描かれた水彩のパリの景色がまた美しい。でも言葉もみごとで、映画のように場面もカット割りも瑞々しくて、要はやっぱり「絵本」として素晴らしいのだと思う。大人になればなるほど楽しめる一冊だと思います。少し大きな本屋なら置いてると思うので、立ち読みでも是非。2007年「この絵本が好き」国内絵本1位・第38回講談社出版文化賞受賞。

箱庭の洪水〜村上春樹『1Q84 BOOK3』(10.05.07)

 デスクトップ機、戻って起動して5時間で故障再発・再入院決定。つらい。いちどガタが来ると長引くとこなんか、まるで人間のようですね。
 村上春樹『1Q84 BOOK3』読了。待った甲斐があったし(僕は二冊目の結末で大満足したけど、三冊目があるよって聞いた時はすごい嬉しかった。「それは別腹」みたいなもんすね)よい意味で読んで疲れ果てた。まだ消化できてない部分がほとんどだし、この先ずっと訳わかんない部分も残ると思う。たとえば、結局リトル・ピープルって何なの?と問われたら100%間違いなく「見当もつきません」と答える。それが善いものか悪いものか両方かも分からない(ただ三冊目の最後の登場のタイミングにはすごく納得した)。誰かが「アレはこれこれでね」と丁寧に教えてくださっても、あまり熱心に聞かないと思う。
 じっさい山のように出たと思われる一冊目・二冊目の読み解き・解説のたぐいも僕はほとんど読んでない。読み方を人に教えてもらうような本じゃないだろと僕は思うし、あの小説を受け入れたほとんどの人が同様に、人の解説はアテにせず自身独自の受け止めかたをしたんじゃないかと想像する。僕みたいに「いや、それはどういう意味なのとか全然わかんないです。面白かったけど」という人も多いのではないか。むしろ今時めずらしい「圧倒的に分かんない体験」を求めて、あれだけ多くの人が一冊目・二冊目を読んだのではないか。と仮説を提示してみるけど、(僕がほかの人の解説をスルーするのと同様)全然スルーしてもらっていいし、記した自分自身どっか言葉にするとウソっぽいなと思う。

 …と、人さまの解説を拒否する以上、お前も語るなよと自分でも思うし、以下のような印象は誰でも抱くもので凡庸すぎるとも思うが、厄落としというか(じっさい三冊目よんで体の節々がガタガタに痛くなった/単にここ数日の暑さのせいかも知れませんが)精進落としで語らせてもらう。興味のない人はスルーで。

 二年くらい前か。「エレベーターを使って異世界に行く方法」という都市伝説がネットをにぎわしたことがあった。詳細が気になる人は検索してくれればよいけど、適度にぼかしつつ書くと
「10階以上の建物のエレベーターに一人で乗りこむ」
「決められた順番に従ってボタンを押し、階を行き来する(この間に他の人が乗ってきたら失敗)」
「ある手順まで進むと、ある階でひとりの女性が乗ってくるが(実はそれは人間ではない)話しかけたりせず操作を進める」
「すべての手順が完了し、指定の階で降りると、そこはすでに元いたとは別の世界。後のことは不明」
…なんと異常心理っぽい雰囲気…と戦慄半分に感心すると同時に、なんと春樹的な、『ダンス・ダンス・ダンス』のドルフィン・ホテル話そっくりじゃないかと思ったのを憶えている。

 村上春樹の作品に、ことに近年すごく需要がある一因は(一因でよければ何でも言えますよね)今の社会で「正常でない」とされる精神状態を描いているためではないか。
 幽霊とか異世界とか夢の中での交流とか。羊男とかドッペルゲンガーとかシンクロニシティとか。それらは「怪奇」や「超常現象」とも理解しうるけど、同時にメンタルな症例と見ることもできる。実証のない単なる物語にすぎないけれど、村上春樹が大好き・共感できるという人には、今の社会に齟齬を感じる・適応できず悩んでいる人のが多いのではないかと。
(もちろん「私は健全で正常で現代社会にバッチリ適応してるが村上春樹が大好きだ!」という人もいましょう。だからあんまり意味はないんだけど、春樹にことよせたオレ語りとして話半分にお聞きください。自分自身がすごく不安定な時に『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』を再読して、それこそ持ってかれちゃいそうな非常に危険な状態に陥ったことがあって、そこから出た所見です。)
 「今の社会」とは平成の日本をもちろん狭義には指しますが、より広く「近代合理主義」と取ってもらってもいいかも知れない。
 『遠野物語』で起こる怪異現象をすべて幻覚・それも人が社会の中に位置づけられるためのシステムとして働く幻覚(異常心理)という視点から解析する試みが吉本隆明にあって(『共同幻想論』。ただし自分のあの本への理解は「ほとんどわからなかった」なので間違った理解かも知れない)…えー、留保の多い文章で申し訳ない…逆に村上春樹の諸作品には、今の合理主義の社会では異常心理・社会機能としての幻覚と見なされる現象を、それ以上のもの・より深い世界や別世界への通路として「取り返す」契機みたいなものがあって、そこが合理主義に収まりきらない・さりとて遠野の昔には戻れない人の心を引きよせているのではないかと。

 吉本隆明ついでに、前にも引いたことのある彼の言葉を再度引用すると「第三次産業が発展すると、今度は心の公害が発生するだろう」
 池澤夏樹は「ラブストーリーを単純に、愛する二人が結ばれるのを妨害するどんなハードルを設定するかという視点で見た」場合、『ノルウェイの森』の「心の病」というハードルは新しかった、と語ったことがある(『読書癖』『沖に向かって泳ぐ』)。かくいう池澤が『タマリンドの木』で、女性が海外ボランティアに行くというハードルを設定したのは、いかにも彼らしくて面白いのだけれど、それは別の話。
 いま思うのは(夏樹にとっての海外ボランティア同様)春樹にとって心の病は、ハードルとして目先の変わったものを選んでみたとかじゃなく、自身の作家的モチベーションの中心に来るような、切実な問題だったろうということだ。現に小説家以外の仕事としても、アメリカの死刑囚に材を取ったノンフィクションの翻訳・地下鉄サリン事件に取材した自らのノンフィクション執筆には、こうした「正常からの逸脱」に対する強い関心が見てとれる。そして物語作家として自身のスタイルを確立しきった時期に、彼が対談の相手に選んでいるのは河合隼雄だ(『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』)
(海外での村上春樹の受容はその国のGNPに関係する・つまりGNPが一定水準を超えると人々は村上春樹を読み出すという説がある。もっともらしい考察なのだが、GNPとともに増大するものは第三次産業でもあり、ひいては不安をムラ社会の怪異に還元できない人々の心の病でもあるだろう。それをしたり顔でGNPに帰するひとは、まだ村上春樹を商品ブランドが沢山出てくるので消費生活者にウケるカタログ小説と思っている可能性がある(というか『風の歌を聴け』の頃から、村上春樹が実際そのようなカタログ小説の作者だったことは一度としてないと思うのだが)。そういう意味でも、人は自分が見たいと思うものしか見ない。)

 『1Q84』三冊を読み終わって、最初に頭に浮かんだのは、この話の意味は・リトルピープルとは何か等ではなく、
 河合隼雄のところに来た、心に鬱屈を抱える少年が箱庭療法に取り組み、最初は淡々とした事物並べをしていたのが、あるとき突然ばーっと箱庭全体を洪水にしてしまい、そこから急速に元気になっていくというエピソードだった(原典失念)。
 作者自身にも描くことで自らに箱庭療法をほどこす的な意義はあるのだろうけど、それが読み手にも伝わる。主人公たちに思い入れ、それからどうなるのと思いながら読み進めるうちに、読む側の心の中で箱庭が築かれ、それが洪水で押し流される。いま村上春樹がこんなに受け入れられているのは、この「箱庭の洪水」を読み手自身のものとして体感・追体験させる能力において、今いる作家たちのうちで最も秀でているからではないか。見たまんまだし如何にも月並だが、そんなことを改めて思った次第です。
 今回の三部作ではタマルさんが気に入りでしたが(なぜかあの人だけ作画オノナツメで脳内再生された)まさか最後あそこまでするとは。まあそれも面白く。

B級県民必携?〜今柊二『かながわ定食紀行』(10.05.12)

 ヒメ(iMacG5)二度目の入院から帰還。前回は治って戻って5時間で再故障したので、気は抜けないながら色々リストア中。
 市立図書館で他の本と一緒に借りてきて、読むなり後悔したのが今柊二『かながわ定食紀行』(神奈川新聞社かもめ文庫)。と言っても「これは買って手元に置かなきゃダメな本だ!」と、そういう意味での後悔。
 後づけで調べたところ、どうやら著者は山手線ぐるりの定食屋研究とか、立ち食いそば紀行とか、そんなことばかりしてる人らしく。自分と同じく昭和40年代生まれ、軽くて読みやすい文章。取り上げられた店は50軒。「やわらか揚げたてイカフライ」「中華街で本格四川の五百円ランチ」「お代わりがうれしいカツ定食」そんな庶民的な誘惑に満ちた見出しが並ぶ。いけないなあ、これはいけない本だよ。どこの店のオーナーは若い頃どこの店で修業してたとか、相模原の餃子屋は千葉の「ホワイト餃子」と技術提携してるとか、そんな横のつながりもうっすら見える。なにより巷のグルメ指南と違い、一食あたり安いのがいいやね。チェーンの牛丼やハンバーガー食べるなら、レバ炒めでも食べようかという気になる。
 もっとも、この本で紹介されてる店を半分制覇するだけでも、かなりの行動力が必要とは思うけど。現実の食べ歩きの指南書としては、2006年ごろ神奈川新聞に掲載された元のコラムに、2008年の文庫化の時点での追記(○○定食に値段の変更、など)がある姿勢が好い。中には「残念ながら閉店」という店もあるけれど…
 おそらく各都道府県にこうした本はあると思うので、皆様それぞれに自分の一冊を探してもらえばいいのだけれど、さしあたり神奈川県民の自分はこの一冊。Amazonで見ると古本の在庫しかなく、だが他のネット書店をあたると新刊在庫ありで、品切れかどうか微妙な線だ。近所の大型書店(と町の小さな本屋)で探したら、ふだん見つけないせいか、どこの本屋にもありそうな「郷土資料」の棚じたい見つけられない。とりあえず近いうち伊勢佐木町にある地元密着型書店の本店に探しに行ってみようと思う。でもってついでに野毛町の洋食屋で「トルコライス」か「スパゲティとチキンカツの盛り合わせランチ」だな!!

追記:やべぇ、いま見たら続編2冊も出てた。入手せねば。

大阪あそび歩き(10.05.17)

 【1】
 「果てしなく自然飲料を追求する」サンガリアの新製品・ミックスジュースいちご味。うーん、個人的にはバナナベースのふつうのミックスジュースのが好いかな。

 天保山にあるサントリーミュージアムが年内で閉館になるらしい。「客足が伸びず赤字のため」「みな隣接する海遊館水族館で満足してしまい美術館まで来ない」といった報道の後半まさに自分なので反省の意をこめて、今回は同美術館をキーに(年に一度の関西コミティア参加)前日観光の日程を組んでみました。
 宿泊地も南寄り(新今宮)ということで、深夜バスで現地入りの降車もキタ(梅田)でなくミナミ(なんば)に設定。朝7:00にバスを降り、まずは24時間営業の餃子の王将で朝食。そのまま徒歩で日本橋を南下・通天閣を経由して天王寺の大阪市立美術館へ。ここは近代以前の東洋美術がメインです。仏像に掛け軸。掛け軸は朝鮮・中国のものは日本のと微妙にセンスが違って面白い。そして日本のものが心地いいようセッティングされた自分に気がつく。特別展の扇絵名品展には入らなかったけれど、それに合わせて常設展のほうでも収蔵品の中から扇絵関連を並べていて見応えがありました。屏風絵なのに全面に扇を散らして、それぞれの扇に異なる題材を描いたものや、扇をかたどったシルエットの小物入れなど。
 JR線で天王寺から大阪港…の手前・弁天町駅で途中下車。ここで降りたのは昼食を「いずみカレー」で食べるため。近辺の情報をネットで調べてたら評判のよかった店です。写真は牛すじカレーと別注文の島らっきょう。カレーは欧風のダシがきいた(よい意味での)洋食カレー。ライスがアーモンド型に盛られています。じんわり辛さがきて、おいしうございました。
 腹ごなしに大阪港のサントリーミュージアムまでは歩くことに(約3km)。
 美術館ではIMAXシアター『ハッブル宇宙望遠鏡3D』とギャラリー「レゾナンス 共鳴 人と響き合うアート」を鑑賞。後者は現代美術の展覧会で、絵画からインスタレーションまで様々。美術には(も)てんで疎い自分だけど、とくに抽象絵画は美術館に足を運んで現物を見て、実際の筆づかいやストロークを眺めると、観念的なこととは別次元の楽しさがある(というか観念とかどうでもよくなる)。現代美術ちゅうと理論先行・コンセプト先行というイメージがあるけど、逆に手触りや「絵の具が筆でキャンバスに乗るだけで楽しい」的な原初的快感・初期衝動を抽出した面もあるのではないか。とくにヴァルダ・カイヴァーノという人の抽象風景画(?)が、見ていてとても心地よかったです。
 そして帰路は弁天町を通過し、さらに九条まで歩く。本を読みながら歩けるので、HPが残ってて時間さえあれば、まして本を読めるだけの明るさがあれば、歩くのは全然苦じゃないんです。九条まで運んだ、その目的は次項。

 【2】
 大阪港から九条まで歩くと午後の5時ちょっと前。早めの夕食には悪くない時間だ。ここでのお目当ては洋食の「ゼニヤ食堂」。
 先日の日記で取り上げた『かながわ定食紀行』に載っていたのだ。なぜ神奈川を題材にした本で大阪かというと、著者の今柊二氏、トルコライスというメニューに学術的興味があるらしいのですな。ちょっと引用すると
「長崎で広く食べられているメニューで「カレー(ピラフ)+トンカツ+ナポリタン」が一つの皿に載っている食べ物。(中略)
 長崎以外にも、大阪、京都、高知などで見られる。いずれにしても西日本だと思っていたら、横浜・日の出町近くの(中略)
 長崎とは形態が違いケチャップライスの上に、トンカツが載り、キャベツの千切り付き(以下略)
 そもそもなぜトルコなのかも諸説紛々(興味のある人はウィキペディアあたり参照してください。『かながわ定食…』には「昔はライスの中にカツを埋めていた。それがトルコの蒸し風呂風なので」という新説も紹介されてます)。で、大阪に名前はトルコライスながら、そうとう別種の料理があったということで本は『かながわ…』だけど一項を設けて紹介されていた次第。
 写真のこれがゼニヤのトルコライス。鉄板カレーピラフに豚肉のカレー粉炒め卵とじが載り、さらに上から生玉子。写真には入ってないけれど、これにさらにお味噌汁がつきます。お味噌汁は陶器のカップで、レンゲが添えられているのが面白い。キリンビールのマーク入り水グラスが下町っぽくていい感じ。他にもオリエンタルライスなど気になるメニュー。後ろ髪を引かれつつ去る。九条という街じたいも今まで行ったことなかったし、今後ふたたび訪なう機会があるかも不明だけど、それなりの大きさのアーケードを駅前に擁し、独自文化がありそうな風情のある処でした。深く踏みこめなかったのが残念。
 そして気がつけば九条から心斎橋までは約2km。歩けるじゃん!
 はじめてアメリカ村なる場所に足を踏み入れ、通過するだけで大量にMPをロストする。10代の若者向けの場所は、もう年寄りにはついていけない(若者の頃からついていけはしてなかったが)。そのままなんばに移動・日本橋をふらふら歩いて通天閣を通りすぎ、宿に入って眠りに落ちました。翌日は関西コミティアです。

 【3】
 実は最近まで知らなかった大阪名物「たこせん」。大判のえびせんべいで、たこやきをサンドしたもの。たこやきよりも手軽な量とお値段。おいしいです。
 宿を出て、まず銭湯へ。銭湯はいいねえ。朝から開いてると尚いい。吉野朔実『少年は荒野をめざす』の台詞じゃないけど、自分以外のいろんな年代の同性の裸体を見る機会って悪いもんじゃない。100まで数えて湯あがりサッパリ、古代ローマの風呂設計家が現代日本にタイムスリップする漫画で、さいきん評判のフルーツ牛乳を飲む。
 日本橋を今度は北上(歩き)。チェーンのうどん屋で朝食。きつねうどんだけじゃ足りないかなと思い、いなりずしも注文。お盆に並んでから気づく、どんだけ油揚げ好きだ自分!
 なんばで野暮用すませて、その足で(さすがに電車に乗って)天満橋へ。天満橋で関西コミティア参加。今回は関西初売りの新刊一冊きり・しかも東京2回・名古屋・新潟で出してきてるものなので、まったりモード。もちろん当人は(ベテラン通り越しロートルの域に片足つっこんだ)サークルとして悩みも覚悟もあるけれど、ペーパーふくめ作品を手にしてくださるかたには「このひとは同人がほんと楽しそうだな!」と思っていただければ(で、その楽しい感じが少しでも伝染れば)十分だし理想だと思う。じっさい楽しいし。おはこびいただいたかた、ありがとうございました。お目当てのサークルさんの新刊も入手して満足。
 イベント後、中之島公園を散策。ちょうど路上バラ展をやっていて、いい雰囲気。
 そして前から気になっていたけど入る機会のなかった東洋陶磁美術館に。
 はじめて気がついたけど、ここ大阪市立ですね。私立の、具体的には東洋陶「器」の美術館だとずっと思ってた…(TOTOの美術館はこっちだよ!東京だよ!)内容はそのまま、アジアの陶芸。前日の大阪市立美術館で、日本と中国・朝鮮で掛け軸はだいぶセンス変わるなと思ったけれど、陶芸はあまり変わらない印象。例によって知識はないけど、見るのは好きなのでうっとり。
 白磁というと模様はコバルトの青だけど、銅で絵つけした皿というのがあって、銅は仕上がりが安定しないらしく、花だけ紅で葉は茶のような面白い絵面になっていた。たしか中国の。
 あと好かったのはミニコーナーの設けられた「鼻煙壷(びえんこ)」。鼻煙壷って何だか分かります?…中国で流行った「かぎ煙草入れ」だそうです。おお、これが推理小説の古典の題名にもなっている(未読)…というのもさることながら、自分の年代だと「大どろぼうホッテンプロッツ」が思い浮かぶ、魅惑のアイテムかぎ煙草。いや問題はその入れ物だ。日本人が根付に凝ったみたいなものかな、5〜7センチくらいの小瓶にすごい意匠が凝らされてる。陶製に細かく絵つけしたものあり、七宝焼をほどこしたものあり、例外的に金属製のものあり。とくに惹かれたのが鉱石づくりのもの。文様の入ったラピスラズリと、針入り水晶の二品、すごく美しくてよかった。この鼻煙壷の中でも白磁のものをイタリア語で…いや、言うな、皆まで言うな…
 読む本が切れたので心斎橋のブックオフへ。そのまま道頓堀まで足を伸ばして夕食は串カツか、お好み焼きかなと思ったけど現地に着いてみると気が進まず、自分でも「どこまで歩く気だ」と思いつつ、なんとまた通天閣に足を運んでしまったのでした。続く。

 【4】
 通天閣に足を運んだのは「かすうどん」を食べてみたかったため。専門店の看板、気になってたんですよね。
 文化的に背景のある食べ物なんだけど、知りたい人は各自で調べてください。ソウルフードは奥が深いのだ。探せばなんばにも店はあったかも知れないけど、まあ探すのが面倒だった(大阪港付近でも店を見かけたが)。自分が注文したのは「ぶっかけ」で、といっても熱く茹であがり湯切りしたうどん+具に、正油だし基調のつゆをかけ回すもの。ふつうのかすうどんも、関西の白いおつゆ(母方が西なので、あれはあれで食べなれてるし大好きですが)ではなく、黒いおつゆな気がしたが、たしかではないです。名の由来になってる「あぶらかす」はオプションで大盛りにしたほうが充実感あってよかったかも。やはり大阪名物らしい「かやくごはん」は売り切れで残念でしたが、ずいぶん大阪の味覚を広げられた今回の訪問だったと思います。
 そしてまた歩いて梅田まで。夜行バスに乗りこむなり出発前から昏倒。気がついたらバスが動いてて京都に着いてる・次に気がついたら南足柄(神奈川県)のSAと熟睡でした。
 基本的に、手がけてる長篇が終わるまでは(そして一人でも読み手がいるかぎり)今後も大阪に年一度は通うつもりではあるけれど、明日のことは分からないと言えば分からない。だもんで気持ちはいつも一期一会。じっさいサントリーミュージアムは最初で最後になってしまったし。
 二日間の日程では持参した池波正太郎のエッセイと哲学者・木田元の読書自伝を読了。古本屋で買い足しした福岡伸一『生物と無生物のあいだ』、吉本隆明『わが「転向」』も好著でした。幾冊かの本については、また項をあらためて取り上げます。あと中古CDでプリンスの『1999』。

おひとりさまカレー革命(10.05.24)

 関東・関西と続いた5月の同人イベント。そりゃー面白い本・考えさせられる本や冊子は少なからずあった。けど。
 いちばん具体的な影響力が大きかったのは、某サークルさんの無料ペーパーの身辺雑記だったかも知れない。「とつぜんカレーが食べたくなった」という話。「タマネギ一個みじん切り→レンジで加熱→一人前分の水とルウ追加→レンジで再加熱。絶対おいしくならないと思いつつ食べてみたら、ちゃんとカレーになっていた」…んじゃ自分もとタマネギカレーを試してみたわけではない。「カレーは一回分・一人前分だけ作って何の問題もないんだ」と初めて気づかされたのである。
 これだけ書けば分かる人は(それがどんだけすごいことか)分かると思うし、とっくにやってたぜという人も居るでしょう(そういう人は「やっと時代がオレに追いついたか」と思ってください)。だもんで以下は贅言だけど、まあお聞きなさいな。
 つまりルウひと箱で水1.2リットルという商品ならば、折り目ぞいに1/6だけ割って200ccの水+それなりの具材で一回分だけのカレーを作ればよいのです。仮にベースはタマネギ+少々の肉。量が量なので多種類の具は入れにくいけど、逆に一回こっきりと思えば実験し放題。あまった南瓜があれば南瓜を入れればいいし、スーパーでオクラが安ければオクラを刻む。肉のかわりにアサリ缶でもいいし、それこそタマネギのみの素カリーに出来あいのコロッケ・メンチカツのトッピングもありだろう。
 写真は白アスパラ+大根カレーの温玉添え。調理は小鍋どころか目玉焼き用の小フライパンでOK。水の量が少ないので調理も早い。炒めた具材に水くわえて沸騰まで5分・後は火を止めタイミングでルウ加えてタイミングで混ぜての余熱まかせ。30分も待てばよいか。冷凍ごはんをレンジでチンする間に再加熱・煮詰めて出来上がりだ。
 一回分こっきり・宵越しは持たねえ江戸前カレー。二日目以降の(主に煮詰まりとじゃがいもの煮くずれに起因する)劣化もなければ、ついおかわりして食べすぎる懸念もない。しかし何より(と言いつつ以下マユツバ)

 改めて気づくのは、日本におけるカレーは「大鍋で作り集団で食べる」神話的メニューであったということだ。起源としての海軍カレー。小学校の林間学校の定番(キャンプ地で起こす火の弱さからして不向きであるにも関わらず!)。いきなりマリみてで恐縮だが『マリア様がみてる』のヒロイン祐巳が後輩の瞳子を妹(スール)として迎え入れるきっかけになった食事がカレーなのも象徴的。かつて世間を騒がせた毒入りカレー事件さえ、日本カレーがすぐれて集団食であることの陰画であった(眉つば、眉つば)。
 こうした「みんなでカレー」神話に、たとえば独身者が抗するには従来レトルトのインスタントカレーしかなかった(さもなくば外食)。集団性を受け入れるか、大量生産の規格品に甘んじよという従来の二者択一を破棄する「一回分カレー」は、よくもあしくも革命なのだと思う。もちろんそこには「と○けるカレー」「こく○ろカレー」といった、あまり煮込まずソコソコの味が作れるルウの技術革新もあったろう。ことカレーに関して吾々は「本来集団の一員なのだが、たまたま分かち合う者がいない不幸な者」として大鍋カレーをひとり悲しくつつく必要はなくなった。もとより誰とも分かち合う余地のない一回分カレーを決然と食べる「おひとりさま」は余計に悲しいかも知れないが(よくもあしくもとは、そういう意味である)
むづかしいことはさておき(自分でむづかしくしといて何を言う)やってみたら楽なのですよ、一回分カレー。インドではカレーという料理自体はなく「しょうゆ味」「みそ味」くらいの意味しかないという(説がある)けど、それこそお味噌汁なみに楽。個人的には、もう大鍋カレーには戻りがたいかもというくらいのインパクトがある。もともと自炊はするけど凝った料理にあまり興味のない自分にとっては、近年では「ガッテン流やきそば」と並び立つ発明・発見と言ってもいい(これを知ってから自分の焼そば率は飛躍的に向上した)。そして面白いことに「ガッテン流やきそば」も、一人一回分こっきりが基本。この国はどこに行くのでしょう。

 ま実際、祐巳さまの家の夕食にカレーが多いのは、弟のほうが友達をいきなり連れてくることが多く、人数に変動があっても取り分けられるためと本文中で説明がある。やはりカレーは、共食のメニューとしてこの国に根づいてきたのだ(眉つば)
 そして4年後、とうとう「煮込んだジャガイモや南瓜をつぶしてトロミを出せば、市販のルウもいらない、カレー粉で十分」の境地に達する。一人分ならルウを使うより場合によっては手間が少ない。(14.10.19)

ベクトル〜吉本隆明『わが「転向」』(10.05.26)

 もちろん今の新書の疑問文ブームを決定づけたのは『さおだけ屋』だと思うけど(あれ自体は読ませる好著だったので、他の本も読めばそれなり面白い可能性まで否定しようとは思わない)
 昔は『言語にとって美とは何か』のせいで『○○にとって○○とは何か』という書名が流行ったとか流行らないとか、とにかく負の反響がうずまいたらしい。

 吉本隆明『わが「転向」』(文春文庫)は大阪の古本屋で気まぐれに手にした一冊ですが一読「何これ、分かりやすい!
 …あのですね、吉本隆明の本を読んで「分かりやすい」なんて思ったこと、今までないですよ?それこそ件の『言語にとって』とか『共同幻想論』とか読んで(まあ学生時代で若かったせいもあるが)理解できた部分て大鍋からスプーンひとすくい程度だし、正直「なんかすごそうだけど、何いってるかサッパリ分からん」状態。あるいは「言ってることは言葉として理解できなくもないけど、なぜそうなるかが分からない」←それはふつう「理解できてない」と言う。
 それが『わが「転向」』で突然わかった。すごく大づかみだけど:
【マルクスは人間社会が農業(第一次産業)中心から工業(第二次産業)中心にシフトした時代を扱っている。
 でも70年代以降の日本は、さらに第二次産業(生産)から第三次産業(消費)にシフトしている。
 だからマルクスにしがみついたままでは今後のことは分からないし、
 まして第一次産業的な世界観に戻ろうとするのは(エコロジーとか)無理。
 思想の側も、否でも応でも先に進むしかない。そのように私は「転向」した】
もっと早く、最初にこれを読んでればなあ!読んでればあれもこれも理解できた。たとえば漫画論などについても、なぜ漫画かというだけでなく、漫画表現自体を「どんどん先に進むもの」として捉えてるんだなと今なら納得できる。コム・デ・ギャルソンの服を着て雑誌アンアンに出たのも(それが批判されたのも)理解できるし、テレビ番組『電波少年』で洗面器の水に顔を沈められた(らしい)のさえ理解できる気がする。

 90年代後半か終わり頃このひとが「これからイスラムの時代が来るという人もいるが、そんなことはない」と言い切ったことがあって(出典は忘れましたが、たしかに言ってます)。その頃すでに9.11に至る負の感情はビリビリ高まっていたし(あそこまで破滅的な形で噴出するとは思っていなかったが)、人口の推移から見ると21世紀後半にはヨーロッパもイスラム化するという予測も出ていたと思う。だもんで「このひとは何を的外れなことを言ってるんだ」と思ったものだが、それも今なら理解できる。逆戻りに未来はない・あるべきではないと主張していたのだ。「言ってることは正しい気もするが、なぜそうなるか分からない」より「言ってることは見当違いかも知れないが、なぜそうなるかはすっごくよく分かる」ほうが、はるかに納得はしやすいのだ。
 トンチンカン(かも知れない)といえば、この本の発行は95年。まさか15年後の今に至るまで日本経済が再浮上してないとも、社会の上流下流化(というか主に下流化)がドミナントな物語になってるとも予期されてない時期なので、「一億総中流化が極限まで進行したら」という彼の問題設定は今そのままでは通じないのかも知れない。それでも、もう一度いうと、なぜそう考えるか=思考のベクトルが分かるので、いちいち納得して面白く読める。
 世の中には「そんなこと、とっくに分かってる」ひとと「そんなこと、ハナから興味ない」ひとしか居ない気もするけど、もしかしたら居るかも知れない「わからないけど知りたい」「なんとなく興味ある」人には『わが「転向」』、吉本隆明入門として超絶おすすめです。本サイトで何度か出典不詳として取り上げた「第三次産業が発展すると、こんどは心の公害が発生するだろう」というフレーズも、この本で何度も出てきます。

池波正太郎『エイリアン』を語る〜『映画を見ると得をする』(10.05.28)

 なに突飛な日記タイトルを、と思われるかも知れないが事実ありのまま、そのまんま。タネを明かせば『映画を見ると得をする』(新潮文庫)は内容まるまる、某ホテル(伊豆だったかな)で編集者相手にいちどきに語り下ろした内容の聞き書きらしく、そのセッションが行なわれたのが昭和54年=1979年。他にも『ラッシー』『アバランチ・エクスプレス』など当時封切りの映画について言及されてるけど、わけても例の、顔にがばーと貼りついて、胸を突き破ってぐあーで、シガニー・ウィーバーに退治られるアレ(初代)が(お気に召した…)らしいのだ。
・原題のままだからって当たらないことはない。「ジョーズ」は、大当たりをした。新しいところでは「エイリアン」というのがある。これは「恐怖の宇宙」などと訳してつけたのでは味も素気もない。
・コッポラ監督だって、ついこの間までは新人ですよ。あの後に続くのは、あまりにもたくさんいるけれど、たとえば「エイリアン」を撮ったリドリー・スコット。テレビのコマーシャルの方では大変なベテランだけれども、劇映画は「エイリアン」が二本目ですからね。これを単なる娯楽映画とかたづける人もいるでしょうが、演出技術は凄い。
・音楽などについては解説を読んでおくといいですね。(中略)「エイリアン」なら、これはもう音楽は決まっている。ああいう映画の音楽は十八番の人、ジェリー・ゴールドスミス。(中略)このジェリー・ゴールドスミスのお師匠さんがミクロス・ローザなんだ。
・親の判断で、これはいい映画だと思うものなら、わかってもわからなくても、とにかく子どもに見せればいいと思う。(中略)「エイリアン」なんていうのは、見せてもわかるだろうけど、ちょっと刺激が強すぎるかも知れない。
 ベタ惚れではないですか。よほど気に入ったか、監督はといえば『エイリアン』、音楽といえば『エイリアン』。何かというと持ち出したがる。
 これも熱心なファンには常識かも知れないけど、『鬼平』『梅安』『剣客商売』の作者が『エイリアン』にご執心って、なんとも意外というかハイカラというか。フェイス・ハガーに貼りつかれた同心を見てビビりまくる尾見としのりを見てみたいというか(それはない)
 そのご気の片隅に留めつつ本屋を見ると『最後の映画日記』なんて本もあって、自ら誇らしげに語るように心底のシネマディクト(映画中毒)だったらしく。批評とか理論とか偉そうなものでなく「粋」「通」なイメージ。
 そんな高級なことも高踏なことも言ってないじゃん、たくさん映画を観てる人ならふつうに言えることだよと安くする向きもあろうかと思うが、それがいいってこともある。小説(と舞台)という同じエンタテインメントの世界で叩き上げられた・地に足のついた経験知は、上から下ろした演繹的な理論に劣らず勉強になるし、読んでも面白い。たとえばこんな指摘:
「ゲッタウェイ」だったかな。マックイーンが撃つと血が出るけど、アリ・マックグローが撃っているときは遠くで撃っているのを写すだけですよ。それだけ女の主役に対して監督がいたわりを持っている。そういう繊細な神経を持っていて血を流させているわけだ。

 今すぐ本屋に駆けつけて読めという本ではないけど(そもそも今まだ新刊書店の棚にあるかな?)何か読むものないかなと思って古本屋や図書館の棚に偶然あれば、手にして損なしの一冊。『スクリーン』『ロードショー』といった雑誌名・『水曜ロードショー』『金曜ロードショー』『ゴールデン洋画劇場』『日曜洋画劇場』なんてテレビ番組名に、なんともいえない郷愁を憶えるひとは、読めば感慨もひとしおかと。語り下ろしの形式だけど、例の池波節も
「いまのB級映画はちょっと見逃せない……」
「男同士のドラマ……」
(脚本家は誰か……)
「屋根一枚、つけないでください……」
「わかってくれる人だけ観てくれればいい……」
(ああ、これは観てもしようがない……)
随所で再現されてます、って、これは本当にどうでもいい情報。

新品、ありました。

プリーズ・テルマエ・ナウ〜豊穣と洗練そして奴隷制(10.05.30)

 入場していきなり度肝を抜くのが、当時の会計官(だったかな)の銅像。他の展示はだいたい大理石の全身像なのだけど、その像は首から上のブロンズで、碑文の刻まれた大理石の柱に造られている。のはいいとして、その柱の下のほうにブロンズの性器もついてるんですけど(いちおう画像にはモザイク入れときました)。それはわざわざ積極的に出さなきゃいけないモノなの?…知恵の実を食べて最初にしたのが葉っぱで性器を隠すことだった民族もある一方でコレ。古代ローマ人の感覚って想像以上に今の吾々には想像しがたいのかも知れない。

 横浜美術館がまた茶目っ気のある催し。古代ローマの浴場を舞台にしたヤマザキマリの漫画『テルマエ・ロマエ』とのタイアップで、現在開催中のポンペイ展に同作の漫画単行本か掲載誌である雑誌コミックビーム、もしくは作中に登場する古代ローマの金属製アカスリ「ストリジル」のいずれかを持参すると入場料が通常1,400円→1,010(=銭湯)円に値引きという企画があって(5/21と5/28の夕方〜夜限定)。残念ながら金属製アカスリは手元にないので(ある人がいるのか?)単行本持参で美術館へ行ってきました。
 為念で概要だけ押さえとくと、ポンペイは南イタリアの都市。ベスビオス火山の噴火で紀元79年に滅亡。ちなみに『テルマエ・ロマエ』はそれより後・ハドリアヌス帝(在位117年〜138年)時代の話。18世紀の再発掘まで当時の街や生活の姿が火山灰の下に手つかずのままで保持され、貴重な遺産となっている由。
 為念ついでに帝国でのキリスト教公認は紀元313年・国教化は392年で、滅亡当時のポンペイはローマ古来の多神教。邸内の祭壇にはコルヌコピア(豊穣の角)を掲げた神像が飾られ、調度品には獣の頭などをいちいち装飾、台の脚の先までライオン(?)の足先になっている。さらに公共の場所に神々や名士の大理石像−と考えると、アニミズムというのか、神話や物語でくまなく周囲を意味づけていたさまが想像できる(想像しすぎかも知れないが)。今となっては冗談のような「柱から性器わざわざ丸出し」だって、打ち出の小槌的な豊穣の角信仰と根は同じなのかも知れない。合理的な直線ばかりで出来た今の周囲の家具や建物をめぐり見ると、その意味や物語の過剰は(かつて日本にもあったはずの)別世界で、考えさせられるものがありました。

 また、そうした装飾をほどこした家具や日用品、壁に飾られた・あるいは壁そのものに描かれた絵画・彫刻などを眺めると、あらためてその完成度に驚かされる。
 たとえば鎌倉時代の木彫りの仏像などを見ても思うのだけれど、ギリシャの流れをくむローマの人物像(全身)もそう。写実的には人物彫刻はとっくに「出来ちゃってる」モノ、なんですよね。だから現代の芸術家は逆にわざとデフォルメや奇手に走るしかない。
 昔は未開で野蛮で未熟で、歴史がくだるほど完成度が高まり、今が一番すぐれてる、ではなく。エジプトでも中国でもローマでも、文明文化の完成度では千年も何千年も前に現代と遜色ない洗練のピークがあった。ピークは何度も歴史上に存在した。そう考えることは、現代に浸かりきった自我を解毒する、もうひとつのよい方法なのかも知れません。
 しかし。
 彫刻にかぎらず、食器類の完成度、家に絵画を飾る生活など、紀元79年のポンペイでは現代の日本に劣らず生活が美的に洗練されている。その完成度にほわーとなりつつ、(違いといえば電気や動力がないことくらいだな)と考えたとき。
 思い当たったのは、電気のかわりに、この高度に文化的な「おいしい生活」を成り立たせていたのは…人力すなわち奴隷制だったかも知れないということ。

 むろんそれは「奴隷」と言われて吾々が連想するほど非道ではなく、もっと民主的(?)なものだったかも知れない。でもそう考え振り返ると、この「ポンペイ展」の最も最初に展示されていたのが(件の柱像の次か、前くらい)奴隷を懲罰房につなぎとめるための枷(かせ)と枷受けであったのは象徴的だったかもと、深読みせずにはいられない。そして電化し動力化・工業化した現代なら奴隷的なものは存在しないのか(いや、するだろう)とも。

 意味の豊穣・文明の洗練・奴隷制の存在。そんな三題噺として振り返りつつ、あと「ポンペイ展」で印象的だったのは、祭壇系の小さな神像のなかに「二流の職人が造ったらしく、完成度の低い」ものがあったこと。逆にそれは完成された一流品の質の高さを裏づける・とともに、この時代にも二流品を造ってしまう下手な職人がいたのだなあと。いかにも完成度の低い絵ばかり描いてる二流としては、同情を禁じ得ず(泣)
 常設展(横浜美術館オリジナル収蔵品からの展示)も充実。今は1920年代アメリカ写真と、シュールレアリズム関連の展示が見ものでした。
 で、今回の割引。『テルマエ・ロマエ』にちなんで1,010(銭湯)円も悪くないけど、だったら990円にして「浮いた410円で銭湯へ!」だと、さらにタイアップの幅が広がってよかったのにとも。だもんで展覧会あとは差額390円に自分で70円プラスして、弘明寺の銭湯で薬風呂に浸かってきました(410円じゃなく450円だった+コイン式ドライヤー代20円)。予算の都合で今回はフルーツ牛乳はナシ。

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