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はしょっておさらい煉獄と地獄(12.08.11)

 またしても、ずいぶんと間が空いてしまいました。
 前回の日記は、中世キリスト教絵画においては天国や神の世界の異質性をモノクロミー(単色)で表現した→ダンテの『神曲』ではどうだったっけ、という引きを作って終えたのでした。しょうじき誰得(俺得ですらない)な話題。でもまあ、言い出しっぺが責任を取るべしと、これを機会に天国篇を、色彩描写ばかりに着目して再読してみました。結果そこそこ面白かったのだけれど

 いちお「まったく知らないひと」を想定して、地獄篇・煉獄篇についても先におさらいを試みるのが今回です。超おはしょりで。
 ダンテ・アリギエーリ(1265〜1321年)。フィレンツェ生まれの詩人。片思いの相手・他所に嫁いだのち若くして亡くなった佳人ベアトリーチェを作中で崇めつづけました。
「人生の道の半ばで正道を踏みはずした私が 目を覚ました時は暗い森の中にいた」
これが↑『神曲』出だしの一節。1300年というキリスト暦で節目の年に、人生に迷ったダンテが、天国にいるベアトリーチェ様の導きで(地獄・煉獄を経て)天国を生きながらに体験したという超越世界の訪問譚です。年もそうですが、地獄篇34歌・煉獄篇33歌・天国篇33歌でキッチリ100歌なんて処にも、当時としては最上級に精緻な世界観・宇宙観を現そうとした姿勢が見て取れる気がします。
※天国篇ではトマス・アクィナスの説を批判的に検証してたりします。

 ダンテを救おうとしたのはベアトリーチェ様だけれど、地獄・煉獄を案内するのは彼女に依頼された古代ローマの詩人ヴェルギリウス。彼は地獄の一丁目=生前に罪を犯してはいないけれど、未洗礼の死者がいる「辺獄(リンボー)」の住人。彼やヘクトル、ソクラテスやプラトン、つまりキリスト誕生=キリスト教の成立以前に死んでるので、生前に洗礼の受けようがなかった偉人たちは皆この辺獄の住人です。
※原理的には辺獄にいるはずのモーゼなどは特例で天国におり、このあたりダンテも苦慮考慮したようです。

ヴェルギリウスを先達に、まずダンテは地獄めぐりをします。
「われを過ぎんとするものは一切の望みを捨てよ」
  ↑けっこう知られてる気がする、地獄の門に記された文句。
 地獄にいるのは生前の罪を償う余地がなく、永遠に罰を受ける死者たちで、その罪に応じて次の各地に振り分けられてます。
・第一の圏谷:辺獄
・第二の圏谷:肉欲の罪を犯した者が落ちる
  ↑不倫の罪でここに落ちたパウロとフランチェスカの悲恋物語が読者に愛されているようです。
・第三の圏谷:大食の罪を犯した者が〃
・第四の圏谷:吝嗇家と浪費家が〃 ←同じ穴に落ちるんだね、この人たち…
・第五の圏谷:憤怒の罪を犯した者が〃 
・第六の圏谷:異端の者が〃 ←マホメットなんかがココにいます。ひどい話ですが。
・第七の圏谷:暴力を用いた者が〃
・第八の圏谷:欺瞞の罪を働いた者が〃
・第九の圏谷:裏切りを働いた者が〃
地獄はどんどん地下に掘り進む谷ですが
 煉獄は山を登っていくイメージ。罪を犯したけれど生前に悔悛し、教会で浄めを受けた者が罪を浄め、浄め終えたら天国に入れる。こちらは七つの大罪にピタリ対応していて
・第一の環道:高慢の罪を清める
・第二の環道:嫉妬の罪を〃
・第三の環道:憤怒の罪を〃
・第四の環道:怠惰の罪を〃
・第五の環道:貪欲の罪を〃
・第六の環道:大食の〃
・第七の環道:色欲の〃
 辺獄・煉獄という概念は、本来シンプルだった(おそらくは革命・パンクスとして始まった)キリスト教を、世界と折り合わせるために出てきたもので、それによって中世カトリック世界は複雑で豊かになる一方、俗で妥協的なものにもなったのでしょう。とくに煉獄は、死後に遺族などがミサを上げることで浄めの負担が軽くなる的な形で、教会を通した遺族の(死者に対する)心の安寧などにつながる一方、本来のキリスト教にはない教会の金儲けの道具として、宗教改革の時期には(免罪符などとともに)批判を受けたようです。

 ともあれ、地獄と煉獄を生きながらに通過・見聞したダンテは忘却の川レテを渡って、いよいよ天国入りするわけですが
 ここで案内役がヴェルギリウスから、天国のベアトリーチェに交替します。先に示唆したとおり未洗礼のヴェルギリウスは天国に入れないためです(また逆に天国の住人たるベアトリーチェは地獄や煉獄を歩けないと見てよいでしょう)。
 読んでみたらけっこう面白く、ぐいぐい読めるというのが(たいがいの古典はそうですが)『神曲』の印象です。地獄篇はスペクタクルだし、煉獄篇には清らかなカタルシスがある(個人的には煉獄篇が好みです)。
 天国篇は難解な教理問答が続いて読み苦しいというのが正直な初読時の感想で。キャラ的にも、天国篇そのものにも似て堅苦しく高圧的・ダンテにお説教ばかりしているベアトリーチェより、優しく頼れるヴェルギリウスのほうが、なんというかBL的に萌えるのですが(←この罪は地獄のどのあたりだろう…)
 こんかい再読してみると…という話は、えー、次回です。

 多くの訳がある『神曲』ですが、個人的には二読目に採った平川祐弘訳の河出文庫版が原文のリズムに気を配りつつ、きびきびした訳文・注なども行き届いて読みやすいと思いました。今回の日記も(本巻末尾の解説等ふくめ)この版を下敷きにしています。
 最初に読んだのは寿岳文章訳の集英社文庫版で、これはキリスト教文学の世界を仏教用語に置き換える試みなどが批判されてもいるのですが、全体的に「たおやか」で、平川訳とはまた違った魅力がありました。でもまあオススメは平川訳かな。次回も同文庫をテキストに、天国へと続きます。


色彩を通して見える、天国でも予想以上なダンテの大人げなさ(12.08.12)

「天の剣が裁断を下す時期は遅きにも早きにも失しません。ただ到来を待つ望む人には遅く、到来を惧(おそ)れる人には到来が早く感ぜられるまでのことです」
(平川祐弘訳『神曲』天国篇・第二十二歌)

 思い返せば、ダンテにおける天国は、イコール宇宙・星の世界なのでした。
 煉獄の山を登りつめ、ベアトリーチェに導かれ天に昇ったダンテが最初に赴くのは月面。それぞれの惑星と恒星圏が、地獄の圏谷や煉獄の環道のように層をなす。それが『神曲』で描かれる天の世界です。
・第一天 月光天
・第二天 水星天
・第三天 金星天
・第四天 太陽天
・第五天 火星天
・第六天 木星天
・第七天 土星天
・ヤコブの梯子
・第八天 恒星天
・第九天 原動天
・第十天 至高天
地獄や煉獄で罪人が、それぞれの罪状に応じて場所を割り当てられたように、天国もまた故人の生前の徳目に応じた場所が用意されているようです。たとえば主に愛情生活に心を尽くした者は(至高天などよりは程度の低い)ヴィーナス=金星天に落ち着き、自ら満ち足りる。
 生前キリスト教で善行と看做される聖戦に従事した者が行く場所は、むろんマルスの火星天です。シャルルマーニュやローランが居る火星天には、次のような描写があります。
「ただならぬ赤みを帯びた星の火のように燃えたつ笑いが、
 私が上へ昇ったことをはっきりと自覚させた」(天国篇・第十四歌)
 そう、ダンテの天国における色彩の話でした。

 ありていに言えば、ダンテは天国においては色彩にはあまり頓着しているようには見えません。
 天国イコール星の世界であり、またその住人(死者)たちも、光り輝く魂の形でダンテの前に姿を現します。
「千余の光明が私たちの方に向かって集まってくるのが見えた。
 そして一つ一つが近づくにつれて、歓喜に満ち溢れた魂の姿が、魂から発する光明の中に鮮やかに浮かびでた」(天国篇・第五歌)
「そこで私は(中略)たずねた。。
 「失礼ですが、誰方(どなた)でいらっしゃいますか?」」(天国篇・第八歌)
光輝と化しているので、訊ねて名乗ってもらわないと、相手が誰だか分からないわけです。
 色彩に関連した表現では
「いま一人の喜ばしげな魂が、。
 日光に照り映える美しい紅玉もさながらに、眼前に現われた」(第九歌)
「魂の一つ一つが、まるで紅玉のように熱い太陽の光を受けて燃え熾(さか)った」(第十九歌)
とあるけれど、この紅玉は光り輝く美しさを例えたもので、べつだん紅玉(ルビー)の赤色は意図されていないのではないか。
 中に一箇所、恒星天において
「澄みわたった空の青みをさらに紺碧に染める この美しい碧玉を、いま冠のごとくおおう天上の竪琴の楽の音」(第二十三歌)
という描写があって目を引くのだけれど(えっ、青いの?)、基本的に
「日光に燦めく金剛石の感じ(中略)この永劫の真珠」(第一歌)
「第六の星は、見ると光彩陸離、宝石珠玉を鏤めて輝いていた」(第二十歌)
「光まばゆい黄金色の梯(はしご)が」(第二十一歌)
「私の目が防ぎきれぬような鮮明な光」(第三十歌)
「とこしえの薔薇の黄色い芯の中へ」(第三十歌)
「ごらんなさい、白衣の人の群がなんと多いことか!」(第三十歌)
「こうして聖(きよ)らかな軍隊が真白の薔薇の形をして私の前に現れてきた」(第三十一歌)
「かれらの顔はみないきいきとした炎に燃え、金色の翼と、雪もこれには及ぶまいとおもわれるほど真白な体をしていた」(第三十一歌)
といった一連の描写も白や黄金色・真珠色という具体の色彩より、光そのものを示しているように見受けられます。

 ところが。
 そんな、あまりに眩しく色彩さえ光輝と化した天国で、文字どおり異彩を放つ描写が第八天国の恒星天で現れる。
「見る見るその外見は、木星(ゼウス)が火星(マルス)と、
 それらが鳥であるとして、羽を取り換えた時のような色を呈した」(第二十七歌)
光り輝く魂が、木星のような白から、火星のような赤に色を変えたという描写です。
「私が色を変えようとも、別に驚くことはない。
 私が話すその間にも ここの人々がみな色を変えるさまが見えるだろう」(第二十七歌)
この「驚くことはない」と言っている「私」はピエトロ=ローマで殉教し、のちに初代教皇と位置づけられたイエスの直弟子・聖ペテロ。
「夕方や朝方、向かい側にある雲を太陽は赤々と照らすが、
 その時それと同じ色で天がことごとく染められるのを私は見た」(第二十七歌)
戦いの神・マルスのような。それは「怒り」。キリスト教会の礎を築いたペテロや天国の重鎮たちが、今の地上の教会の堕落に怒り、火星や夕焼けのように真っ赤に燃え上がっている

 『神曲』におけるダンテの地獄煉獄天国巡礼(があったとされるの)は前述のとおり西暦1300年。その翌々年の1302年にダンテは政争に敗れ、生まれ故郷のフィレンツェを追放されている。いわば『神曲』は「後に流浪の運命となるとも知らない私は」という苦い回想の形を取っているのですが−
 −実は地獄ではフィレンツェ時代の彼の政敵が煮えたぎる瀝青(チャン)の池に浸かったりしてたのですね。河出文庫版の訳者解説(平川祐弘)によれば、ダンテと同時代のローマ教皇七名のうち、一人と存在自体をスルーされた一名・ダンテより長らえ未評価の一名を除いた残り四名はことごとく地獄に落ちた(る)ことになっているという。
 高邁な教理問答が延々続く、ような気がしていた天国篇も、その住人=偉人たちによる現世の腐敗の弾劾・非難が実は激しいのでした。第二十七歌といえば終盤も終盤・天国の中でもとくに高邁な魂が行くであろう場所になってまで、予想以上に大人げないぞダンテ

 てなわけで再読+色彩にのみ着目した超・飛ばし読みのおかげもあって、意外と生々しく面白く印象の変わった天国篇。
※ツンかクールばっかりでデレた記憶のないベアトリーチェ様が、聖ペテロまで真っ赤になって怒りだした場面で「あいたたた」とばかり色を失なってる描写があり、はじめてベア様にちょっと萌えた(笑)
 初読時は疲れはてて忘れていたけれど、白と光をまとった人々が天空すなわち星の世界を飛び回るさまは『未知との遭遇・特別編』といった感じで(いやむしろ『未知との遭遇』が宗教的なんだろう)けっこう盛り上がりますね。最後の最後、ベアトリーチェとも離れたダンテはついに父なる神そのかたと遭遇するのですが、さすがに感動的です。そのネタバレはさすがにしませんが、そこで
「三色の◯◯◯◯」
という形容があらわれ、色彩めあてで再読した身としては「具体的にはソレ何色なの!?」と激しく問い詰めたくなったことだけ明かしておきます。(この項おわり)


魔法を信じるかね?〜カルロ・ギンズブルグ『夜の合戦(ベナンダンティ)』(12.08.18)

 1692年、リトアニアで、とある老人が狼男という嫌疑のもとに裁かれた。
 正確には、彼みずからが自分は狼男(wahrwolff)であると法廷で公言したのである。それだけではない。彼が自ら明かした狼男のプロフィールは、判事たちも、現代の吾々をも困惑・そして驚愕させるものだった。
 いわく、狼男は教会が考えているような人間の敵・悪魔の手下ではない。むしろ神のしもべ・果敢な番犬なのだ。
 彼らは年に三回−クリスマス前の聖ルチーアの祝日、ペンテコステ(聖霊降臨祭)、そして聖ヨハネの祝日の夜、狼の姿となって地獄に赴き、大地の恵みを奪おうとする悪魔や魔法使いと戦う。狼男たちが首尾よく悪魔から家畜や穀類を取り返せば、その年の豊作が保証されるのだ。
「収穫のために悪魔と戦っているのはリトゥアニアの狼男たちだけではございません」
彼は証言する。
「ドイツの狼男たちもまた戦っておりますが、彼らは彼らの別の地獄へ参ります」
「またロシアの狼男たちも同じく戦っておりまして、彼らは今年も去年も彼らの土地に順調で豊富な収穫を確保して参りました」

 だが、この驚くべき挿話(神の番犬=正義の狼男!)はカルロ・ギンズブルグ『夜の合戦〜16-17世紀の魔術と農耕信仰』(みすず書房)の、ほんの一傍証でしかない。同書が主題とするのはイタリアの長靴の付け根・東欧中欧との境のフリウリ地方で(少なくとも)16世紀に人心を惑わせた「ベナンダンテ」と呼ばれる謎の力をもつ者たちである。
※みすず書房刊『夜の合戦』は同書の仏・英訳の題に合わせたもので、現在、イタリアでの原題に
 合わせ『ベナンダンティ』の新題で「せりか書房」から出ている本と同じものです。

 相変わらず古い本の話ばかりで申し訳ない。原著の刊行は1966年。そっち方面に詳しいかたなら「今さらベナンダンティ?」かも知れません。でも初めて読む機会に恵まれ、面白さに引きずり込まれた。
 同書はカルロ・ギンズブルグの最初の著作で、最初の作品には著者の本質・著者のすべてがある、の好例かも知れません。その本質とは何か。
 たとえば魔女裁判。現代の吾々は異端審問が裁いた「魔女」や反キリスト的な「サバト」をどう考えているだろう。
:そんなものは裁く側の狂信によって造り出され、無実の人に押しつけられた偏見にすぎない。
:いや、そういうエクソシスト的・悪魔的なものは存在したかも知れない。
おおかた健全な見方は1であり(うがった見方でもありますが…)、たまに夢見がちなひとが2を選ぶような気がするが、カルロ・ギンズブルグが提示した問い(答え)は、どちらでもなかった。
:たしかに異端審問官は偏見に満ちていただろう。だが、その論難は全く根拠のないものだった
  だろうか

  ヨーロッパにはキリスト教の伝来以前の信仰や習俗があり、それが形を変えて生き延びていた
  ものが、魔女狩りによって「反キリスト的な悪魔崇拝」のレッテルを貼られたのではないか。
  つまり、そこにはたしかに(悪魔的ではないが)キリスト的でもない、別の信仰と宗教があったの
  ではないか


 リトアニアの狼男と同様、本書が主題として扱う「ベナンダンテ」もキリストに仕え、魔女と戦う者である(が、言うまでもなく、教会の考えるキリスト像や魔女像とは一致しない)。
 ベナンダンテ(benandante)。別名ヴァガボンド・ヴィアンダンテ(viandante=旅に出かける者)・ベネ=アンダンテ(beneandante)・ビアンダンテ(biandante)・ボナンダンテ(bona andante=良きアンダンテ。bianも同様か)。
 生まれた時に胞衣を被っていた者はベナンダンテとなるよう運命づけられており、逆らうことは出来ない。四季の斎日になると彼らの魂は肉体を離れ、異世界でストレーガすなわち魔女(別名マランダンテMal andante=悪いアンダンテ)と戦う。ストレーガたちはトウモロコシの茎で武装し(魔女のシンボルである箒からの転らしい)、ベナンダンテたちはウイキョウの束で武装する。ストレーガたちは豊作を妨げようとするもので、これに戦い勝つことで、ベナンダンテは村に豊作をもたらす。
 あるいは(後世になると?)ベナンダンテはストレーガたちの魔女集会にも連れて行かれる。だが魔女たちと違い、彼らは悪魔的な儀式には参加しない。同じ集会に参加するのでベナンダンテは誰が魔女かを知っているし、またストレーガの鼻の下にある悪魔の印を見分けることも出来る…
 これらは、ほんの「さわり」でしかなく、興味のあるかたはぜひ実物を手にして読んでいただきたいのだけれど(それだけの価値はある本です。ぞくぞくするように面白い)

 これらの信仰は悪魔=反キリストというよりは、非キリスト・キリスト外のもので、異端審問を務めるべき教会は事実上その断罪を保留しつづける。著者が丹念に当たった資料から読み取れるのは、教会の論理では理解すら出来ない(魂だけ肉体を離れて飛んでいくってどういうことだ!?)異文化を目の当たりにした司祭や判事たちの困惑であった。
 一方、ベナンダンテたちの「信仰」も揺れ動く。そもそもキリストの使いを自称していた時点で純粋ではなかった彼らの「信仰」は、それを悪魔的な魔術ということにしたい教会や周囲の人々の圧力に耐えかね、しだいに自らサバト的な儀式への関与を証言しはじめる。
 だが大事なのは「元々あったキリスト教以前の農耕儀礼(?)だけが真実で、後から加わった物はすべて歪みや偽り」ではない、そう決めてしまっては歴史ではないというギンズブルグの基本的な姿勢だ。キリスト教を取り込んで(取り込まれて?)も、周囲の期待に合わせ悪魔崇拝を演じるようになっても、そこには時代時代の、過去と現在にせめぎあう当事者のドラマがある。それはそれとして受け止めるのが、歴史に対峙するということなのだろう。以上の乱雑な紹介でギンズブルグに興味を持ったひとも、持たなかったひとも、これだけは土産に持ち帰っていただけると幸いです。

 つまり今日の日記の要点はココまでで、以下は余談
 
 後にギンズブルグは、スラブ圏を中心にした前キリスト教的シャーマニズム文化の解明に取り組んでいくようなのだが、それはまた別の話。
 そしてこれもまた別の話。西欧のキリスト教(と反キリスト)の枠内にとらわれがちな自分を改めて反省しつつ、読みながらずっと気になっていたのは、ベナンダンテたちが敵とする悪魔の使い=ストレーガたちのこと。(彼らの主観として)善いことのために行動するベナンダンテはともかく、人々を呪い豊穣を妨害するストレーガたちの存在は、あまりにベナンダンテに都合がよすぎる。
 ふたつの村の代表が、一方にのみ与えられる豊作を求めて争う(そういう儀礼はありそうですよね)なら分かる。誤解によって悪のレッテルを貼られた集団や、正義のつもりで悪をなす集団なら兎も角、そんな「豊穣を邪魔しよう」とか、もとから悪意で活動する集団がいてたまるか。と思ってしまうわけで。ベナンダンテによってストレーガと名指された人たちは、そのあたり、どう考えているのだろうと思っていた。「とんでもない、私らのほうが良いアンダンテで、マランダンテは向こうだよ」とか。
 ところが。
 最後の最後、最終章に近くなって、1648年に聖庁に出頭した自称魔女の証言が紹介されていて、ひっくり返った。まあサバトに参加したり人々を呪ったり、キリスト教会のガイドラインに則った模範的な反キリスト的魔女なのですが
「いまはもうストレーガではいたくないのでございます。
 善良なキリスト教徒になりたいのでございます」
と告白する彼女は、年貢の納め時と覚悟した理由として「魔女の集会でベナンダンテに出くわして以来、告発するぞとうるさいので、すっかり厭になった」と証言しているのだ。
 ちょっと待て。実在するのか(ベナンダンテが言うとおりの意味の)ストレーガ。

 身体から魂だけ抜け出し飛んで行っても、ウイキョウとトウモロコシで叩き合い収穫の多寡を争っても、「人の心にはそれくらい突飛なことでも現実と思いこむチカラがある」=だから頭ごなしに迷信迷妄と否定すべきではないと言いつつ「でも言い換えれば、ぜんぶ心的現象だよね」と思っていたところに、突然ぬっと顔を出した本物の魔女。これはどう解釈したらよいのか。とんでもない謎を残したまま『夜の合戦』も、この日記も終わるのでした。むむむむ。


(c)舞村そうじ/RIMLAND ←1209  1207→  記事一覧(+検索)  ホーム