記事:2012年9月 ←1210  1208→  記事一覧(+検索)  ホーム 

先生はえらい〜たなかのか『すみっこの空さん』(12.09.07)

「革命を成功させるのは希望であり、絶望ではない」ピョートル・アレクセイヴィッチ・クロポトキン(1842-1921)

 今日の日記タイトル『先生はえらい』は内田樹センセイの著書名(ちくまプリマー新書)から。さまざまな叡智をたたえた好い本ですが、もっとも大きなテーマを一言につづめると「誰かを師匠と仰ぐことで、弟子(あなた)の知的パフォーマンスは爆発的に開花する」ということを説いています。
 もっと(そして今ふうに)つづめると「師匠もってみろ、色々と捗るぞ」。師匠が知識や何かを伝授してくれるからでなく、弟子の側で勝手にいろんなものが開花する。自分のオリジナリティに固着するより、先達を理想として「自分は先達の後を追っているに過ぎません」と言う姿勢をとったほうが、想像力はどんどん湧きたつ。
 これはたぶん本当です。たまさか自分も丸谷才一先生を(勝手に)師と仰いでいるので分かる。そのわりにお前ぜんぜん捗ってないじゃないかと言われそうですが、違います。師匠がいなければ今の域にすら達していない(自慢することではないが)。

 でも、今日の日記の本題はウチダ先生でも丸谷先生でもなく。
 誰かを師匠と仰ぐことで、弟子の想像力は果てしなく広がる。師匠(とされたひと)の一挙手一投足が叡智に輝く。世界は発見のよろこびでキラキラ活性化する。…それがそのまんま、たなかのか『すみっこの空さん』(マッグガーデンBLADEコミックス・現在単行本二巻まで)でみごと具現化されているので唖然としてしまったのだ。それは唖然としますよ。何しろ主人公は一匹のリクガメで。このカメ君が「このひとが私の師だ!」と電撃的に悟ってしまった相手は、小学校に入りたての隣家の幼女で。にもかかわらず師弟関係の奇跡はまさしく発動し、かぎりない学びと発見の日々が始まるのだから!

※ついでながら、この小学一年生がなぜか「かみさま」と思いこんでしまったのがカメ君のご主人である凡庸な青年で、これもまた「人間は神(のような超越的存在)をもつことで、その思索を飛躍的に高め深める」さまを描くかのようです。

 尾道を舞台に、終わりのない一日の繰り返しに閉じこめられた少年少女たちの脱出を描いた傑作ジュブナイル『タビと道づれ』。その作者の最新作です。今回の舞台はまだ特定が難しい、もしかしたら架空かも知れない田舎だけれど、どうやらまた広島らしく(赤地に白いマークの野球チームが熱烈に愛されてるようなので)繊細で美しい風景描写は前作と同様。
 「今作では『読んでもらう方も、描く方も、軽い気持ちで』を目指しています」とはいうものの
そこは前作で、マシュマロか黄味しぐれのように愛くるしいキャラクタたちにドロドロ、いや、スパスパと触れた手が切れて血を噴くような痛い痛い心理劇を展開させしめた作者。カメ君のご主人は挫折した絵本作家だし、少女の従姉は高校で友達が見つけられず将来も見つからずで孤立状態。なんだか少女を挟んで『よつばと!』のとーちゃんと風香をひっくり返したような関係なのに、こちらのご主人は初手から女子高生の逆鱗に触れてしまい二人の間はいきなりギスギス…
 …裏『よつばと!』という見立てが可能かも知れない、と思いました。
 『よつばと!』が「語らず・描く」ことで読者の目の前に広げた、まったく新しい世界。それをスクリーンの裏側から「語る」ことで反対側から登りつめる。
 『よつばと!』が読者がそれまで見逃していた小さな驚きを「よろこび」として描く一方で、『すみっこの空さん』は美しく暢気な田園にも避けがたくある不本意や「かなしみ」を固いウロコのように描きながら、それを一枚一枚すこしずつ、将棋のコマのように幸せなほうへとひっくり返していきます。
 『よつばと!』とは違った意味で、まんがをあまり読みつけないひとに「まんがってこんなすごい」とオススメしたい。また、まんがばかり読んでいるひとにも「まんがってこんなすごい」とオススメしたい、最近のイチ推しです。


誰のための歴史か〜アミン・マアルーフ『アラブが見た十字軍』(12.09.11)

 まったくの余談なのだが、十字軍の遠征で、初めて中東の進んだ文化に接したヨーロッパ人たちは、シャラブsharabという冷やしフルーツジュースに出会う。これというか、この概念が西欧に持ち帰られ、甘い液体はシロップ(仏語sirop・英語syrup)・凍らせた甘い液体をシャーベット(仏語sorbet…ソルベですね・英語sherbet)と呼ぶようになる。両者の語源は同じだったのだ。

 てなわけで。
 先月の魔女狩りの話ではないけれど、少なくとも今の日本に暮らす僕たちの中に、
a:十字軍はヨーロッパのキリスト教徒が聖地エルサレム奪回のため起こした善行にして偉業である
と今なお信じ主張する人は、ほぼ居るまい。
:十字軍とはaを口実にした恥知らずな侵略行為であり
  (少年十字軍やラテン王国といった自爆も含め)多くの災難を引き起こした
というのが大まかな認識ではなかろうか。
 ベイルートで生まれ育ち、政変のためパリに移り住んだジャーナリスト、アミン・マアルーフがフランス語で著した『アラブが見た十字軍』(リブロポート/原著1983年・邦訳1986年)は活き活きと力強く、そして明晰に、千年前の中東世界の騒乱を−侵略されたムスリム世界の側から−まとめた力作である。
※読み物として面白く、退屈とは無縁・しかも一冊で十字軍時代を一望できる良書です。
 だからもちろん、aのような西洋賛美ではない。だが同時に、その裏返しでヨーロッパ人たちの悪行を暴き、責めたてるb視点の告発書でもない。
 同書では「十字軍」という用語じたい使われず、当時のアラブ世界での呼称「フランク人」が一貫して用いられる。もちろんフランクたちは非道である。自分たちだけの理屈で勝手な侵略を行ない、征服にあたっても征服地の運営にあたっても残酷と粗暴をきわめた。だがそれは、彼らの大義と同じくらい、侵略されたアラブ視点にたつ著者にはどうでもいい。それを暴き、痛烈に反省するのは、侵略した西洋の歴史家の仕事だという、痛烈な、無言の皮肉。

 代わりに著者が炙り出すのは、侵略に当初やられっぱなしの情けないアラブの姿だ。果敢な指導者も、ムスリム世界あげての反抗を訴える聖職者もいる。だが権力者たちは自分の都に迫っていない異邦人よりも、身内の足の引っ張り合いに夢中で、必死の抵抗をつづける城塞都市は救援を得られず次々と陥落する。
 ほとんどの争いは、歴史の教科書や、よく出来た戦争物語のように歯切れいいものではない。自己保身。優柔不断。停滞と遅延。裏切りと裏取り引き。しまいには二つに仲間割れしたフランクそれぞれと、二つに仲間割れしたムスリム領主がそれぞれ結託し、フランク・ムスリム連合と別のフランク・ムスリム連合が剣を交えるグロテスクな光景が砂漠に出現する。
 それでも救世主ザンギー、その息子の聖王ヌールッディーン、その腹心の家系からアイユーブ朝の創始者となった英雄サラディンなどの出現により、ようやくイスラム勢は反撃の態勢を整え、キリスト教暦だとキッカリ百年後に、フランクたちを中東世界から追放する。
 だが著者の真の、痛烈なメッセージが始まるのは、その後だ。

 終章で著者は言う。
「うわべから見ると、アラブ世界は輝かしい勝利を得た」
十字軍の撃退。さらにはオスマン・トルコ帝国による東ローマ攻略。だがその後は歴史が知るとおり、科学も医学も世界の知的先端は中東から西欧に移り、アラブは世界の後進地域に転落・その苦悶は今に至るも続いている。
 なぜそんなことになってしまったのか。それは中東に押しよせたフランクたちが、征服したアラブから進んだ知識を吸収し西欧に持ち帰ったのに対し、アラブは西欧から学ぶことが出来なかったからだ。たとえば優れた法体系を持ちつつスルタンの専横なども制度的に許していた彼らは、粗暴だが王でも騎士でも農民でも一面で公正・平等に扱うキリスト教世界の素朴な率直さを受け容れ損ねた。
「たぶんこのことこそ、彼らが犠牲者となった侵略のもっとも不幸な結果なのだ」
著者は述べる。侵略者であるフランクは、征服した民の言葉や制度を学ぶことに抵抗はなかった。だが、征服されたアラブにとって征服者の言葉や文化を学ぶのは妥協であり、裏切りでさえあった。
 外形的には領土を拡張しても、ムスリム世界はその発展の基にあった先取の気質を失なってしまった。外からの知識をかたくなに拒否したまま、彼らは時代の激変に取り残された。そしてムスリム世界は今でも、伝統を捨てて近代化に走るか・近代化を捨てて伝統に固執するかの二者択一以外を選ぶすべを知らない…。

 著者や研究者は(誰だってそうだが−作家だって)自身の対象とする事象が世界に一番重要な影響を与えた・与えるものだという物語を作らずにはいられない。十字軍=フランク侵略の体験が、現在に至るムスリム世界の怯えと拒否を決定づけたという著者の見解は、あくまでひとつの物語だ。だがその物語は、ある真摯さをもって、読み手の吾々を揺り動かす。
 それは、その物語が、なぜ「吾々アラブは」こうなってしまったかという自責の物語として、著者の故郷・著者自身の世界に向けられているからだ。
 もう一度いうが「西欧は十字軍の暴虐を反省しろ」などということは、著者にとっては二の次だ。まして「反十字軍の書」などという先入観に釣られ、同著を通じて、西洋の傲慢を非難して溜飲を下げられると期待した第三者など、まるでお呼びでないのだ。最初この本を手にしたとき、そのような内容を多少は期待した僕自身、最後まで読んでそれを大いに恥じた。

 この本はジョージ・ウォーカー・ブッシュJr的な(TPP的な?オスプレイ的な?)欧米の暴虐を非難する役には立たない。
 また「征服者は征服した先の進んだ文化を容易に取り入れ得る(が、非征服者は征服者の文化を受け容れること自体を屈辱として退ける)」という著者の分析は、少なくとも20世紀以降の西欧列強や日本の植民地政策・敗戦後の日本の実情にはそぐわない。
 言い換えれば『アラブが見た十字軍』が至る苦い認識は、その時代・その地域にのみ当てはまる真実で、吾々は吾々のための真実を自前で創出しなければいけない。…という歴史観には反対の「いや!真実はいつだって一つだ!」ってひとも居るだろうけど、十字軍時代のアラブからは地理的にも時代的にも遠い部外者=今の日本の吾々が同書から学べることがあるとしたら(学ぶばかりが読書じゃないけど)、それはまず同書が告げる「自分たちだけの真実」への果敢さなのではないだろうか。


出ていくためのアジール〜麻生みこと『路地恋話(完結)』(12.09.27)

 理想の楽園を想像してみよう。森なす樹木には甘く蜜たっぷりの果実が手もぎ出来るように豊富に実り、何処かから楽の音が聞こえる。金の皿と銀の器に盛りつけられた酒池肉林。瑠璃のグラスで極上のワインを捧げもつのは薄衣の美少女もしくは美青年たち。…そんな贅沢でなくても好いかも知れない。必要十分な暮らしがあって、でも美しい事物に囲まれ、集うのは笑ったり凹んだり生き生きとした表情が見飽きない気のいい男女。
 ほぼ完璧なその楽園を、もっと完璧にしてみたくないか。あなたの耳に誰かが囁く。たぶんそれは悪魔だろう。昔から悪魔の言うことは(困ったことに)たしかに正しい。それは囁く。理想の楽園を、もっと理想的にするには、期限を設けて終わりにすればいい。実はもうすぐ失なわれれる楽園・期限が過ぎて永遠に失なわれた楽園は、よりかけがえのない憧れの光を放つだろう−。

 ちょっと昔話をさせてもらうと、同人まんがを描き始めたころ圧倒的な影響を受けた作品に、わかつきめぐみ『So What?』がある。この作品のすごい処は、主人公の少女に友人・マッドサイエンティストの祖父・その弟子や研究を狙う産業スパイたちが集ってできる和やかに緩い共同体が、その成立からヒロインの親友(になる)異世界の少女を元の世界に返す=やがて解体し皆が離れ離れになることを目的にしていたことだ。物語はいつか終わらなければならない、その悲しみをこれほど見事に描いた作品は(自分のなかでは)なかった。

 麻生みことサンのデビューは『So What?』が終わってからの雑誌『LaLa』で、わかつきサンの何期か後輩にあたるのだなと、今回(こじつけながら)思ったのである。
 『路地恋話(ろおじコイバナ)』(講談社グッドアフタヌーン・コミックス)が先ごろ出た4巻で完結となりました。麻生作品は白泉社で連載中の脱力系リーガル・コメディ『そこをなんとか』がNHKでドラマ化だそうですが、個人的に本命はコチラ。
※ま、大本命は少女まんがとして発表された『ことのは』(白泉社・花とゆめコミックス/全一巻)ですが。あれの演劇部の話、何度読んでも爆笑かつ感動する。マイベスト麻生みこと。

 現代の京都で江戸〜昭和の古い佇まいを残す町家(まちや)。その一角=装丁家・銀細工職人・ロウソク職人・ガラス職人・染め物師などなど、何かを「つくる」人々が集まる路地(ろおじ)を舞台にしたオムニバス。中には美しく花を飾る花屋・人の髪を扱う美容師・書けなくなった小説家などの少しイレギュラーも入りますが
 総じて若く、無名で、つましいけれど恋愛適齢期まっただなか(ただし相当ぶきっちょ+臆病)な男女の一喜一憂が京都っぽい真綿でくるんだような笑いと、細やかな手仕事描写で紡がれます。もっともっと、この二倍(八巻?)くらいまで続いても嬉しかったシリーズですが、人の心の春夏秋冬を巡るように四巻で完結。

 完結して、改めて実感させられたのは、この『路地恋話』意外と主人公たちが舞台の路地(ろおじ)を去ってゆく話が多い。気持ち的には半分を占めるほどに。
 去ってゆく→巣立って、というべきか。もちろん腰を据えるひとも居るけれど、この路地に集った面々は基本はヒヨッコか若雛で、より大きなチャンスや、より自覚的なプロフェッショナルへの道を掴んで路地を旅立ってゆく。正直に言えば、自分みたく趣味の同人でとどまってる人間には、このあたり少し痛くてツラいのだけれど、
 アーシュラ・K・ル=グウィンがいみじくも言うように「お前は生きかたを変えなければいけない」というのは、古今の物語の主要なテーマのひとつであります(『夜の言葉』)。
 物語を愛する者は…現実世界ではそうは変われなくとも…せめて物語の主人公たちが変わり、巣立ち、羽ばたいて去っていくことは受け入れなければなりますまい。ずーっとぬるま湯という作品も今は少なくないし、それはそれでアジールとして読み手の僕たちには(あと描き手の僕たちにも)必要なのだけれど、読むことを通じていわば擬死してゼロから生き直すことも避けてはいけないのだと思います。

 それは物語のもう半身を彩る恋愛も同じで。(でもまあ路地にとどまりながら恋愛を成就させてゆくキャラもけっこう多いので、このモチーフはいずれまた別の作品を題材に語りますが)
 恋愛の成就=アジールだった路地からの卒業となるキャラクタも少なくなく。また、そうでなくとも、恋愛モノの終わりってハッピーエンドでもせつない処がありますね。今回は最終巻だけあって、いろいろ迫るものが(ネタバレになるので言いませんが、とくに第十九話が「かいらしくて(可愛らしくて)(←京言葉)」たまらん)。
 そして蛇足。これくらいのネタバレはよいだろう→全二十話の最後を飾るのは、第一話で登場した・その後も主役としてサブとして・路地の古参としてシリーズを盛り上げつづけた装丁家の小春さんなのですが
 メガネっ子の彼女が十八話で理由あって少し泣く。その泣きかたが、かけたままのメガネを下から人差し指でちょい持ち上げて目元をぬぐうというもので、メガネフェチの人はこの描写を見逃してはいけないと思います。←こんな終わりかたでいいのか今日の日記。

気に入ったひとは『そこをなんとか』も、そして『ことのは』も如何。
(c)舞村そうじ/RIMLAND ←1210  1208→  記事一覧(+検索)  ホーム