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ゴーストと転生と〜ポール・フェイグ監督『ゴーストバスターズ』(2016.09.03)

 例によって遠いカラメテから話を始める。
 この数ヶ月、近所の楽器店の横を通るたび目に入るポスターが気になっていた。アニメ調の可愛らしい少年少女が金管の楽器を持ってるポスターで、調べてみると『ハルチカ』というライトノベル原作のアニメとのタイアップらしい。
新学期!新楽器!購入キャンペーン〜ハルチカと一緒に青春しよう!(ヤマハ楽器)
 …悪くないな、と思ったのは(『けいおん!』に惹かれてギターを買ったり、『動物のお医者さん』を読んで獣医を志したりではなく←いや、勿論そういうのも悪くないのだが)すでに色んな事情で楽器を始めてる子にとって、このフィクションの愛らしい少年少女がロールモデルになることは「いま自分はこんな感じで青春してるんだ」、日々のおそらく地味で地道だろう練習の励みになるかもなと想像したからである。
 でもどうなのだろう。今はオタク的なものが一種メジャーになり、アニメやゲーム関連のグッズを身につけた十代や二十代の若者が街を闊歩してるけど、やっぱり逆に「こんなの恥ずかしい」と厭がる子もいるのだろうか。「こんなの恥ずかしい、人に見られたらオタクっぽいと笑われそうでイヤだ…本当はなんだか気になるけど」と。

 さて、リブート版『ゴーストバスターズ』(以下新GB)である。すっごく好かった。でも以下の感想は「これこそ自分のための映画だ!痛快で怖いものナシ、最高!」という人には向かないかも知れない。
 今ならまだ間に合うから撤退したほうがいいネタバレもあるし

 …撤退しましたか?しましたね?話を続けます。
 新GB、すっごい好かった。殺人狂の令嬢が開かずの間に閉じ込められた19世紀のお屋敷で、観光ガイドが説明をしてると何もしてないのに燭台がガタと落ち…という冒頭からヒネリが効いていて…いや、もう前置きはいいだろう。すみやかに本題に切り込もう。
 自分の中では新GB、自分の中での『アナと雪の女王』の発展形・系譜につらなる作品として感じ入るものがあった。
想像力のモンスター〜『アナと雪の女王』(2014年4月の日記)
 日記にも書いたように、自分の中で『アナと雪の女王』とは「人に見られたらオタクっぽいと笑われそうな」趣味をもつ少年少女を励ます物語だった。こう書いている:
「才能は人を傷つけ、孤独をもたらし、けれど爆発的な自由がそこにある。
 たとえば十代のクリエイター志望の少年少女の中に、エルサほど壮麗な宮殿をいきなり造れる者はそうはいないと思うけど。それでも想像力は周囲に害をなすほどの怪物で、たぶん一度は世界・世間を拒絶してその暴力的なまでの力を十全に解放することなしには本物にならない」
 当時から分かっていながら、力不足で書ききれなかったのは「でも、その想像力のモンスターは、一度は解放して大暴れさせても、最終的には世界と折り合いをつけ、周囲をしあわせにするために使えるようにしなければならない。そうして初めて自分もしあわせになれる(という物語があって、それはかなり説得力がある)」ということだ。( )内の留保をつけたのは「そうは言ってもエルサは周囲を拒絶して壮麗な宮殿を築き上げた時のほうが最大のポテンシャルを発揮していた・映画ラストの人々を喜ばせる女王は角が取れスケールダウンしてしまった」という意見も鑑みて、である。
 この「想像力というモンスター(いや、折角だから「ゴースト」と呼ぼうか)を飼い慣らし、世界とも自分とも折り合いをつける」物語として、新GBは自分にとって感銘ぶかい作品だった。
 簡単に言ってしまえば、僕は新GBを「オタクを卒業したつもりの主人公(社会人)が、高校時代の最初のオタ友に昔の合同誌を無断でネットに上げられ色々崩壊、怒鳴りこむが→意気投合・やっぱオタクは愛だ・友達に乾杯!な話」と脳内変換して観たのだ。
 これはたぶんオタク道に限らずなのだろうが、ひとが本物の自分になるのは、そう簡単なことではないのだ。『雪の女王』エルサのように周囲と折り合いがつかず、周囲を拒絶して趣味を大暴走させることもあれば、新GBのエリスのように周囲に負けてオタクな自分(と己の半身)を裏切ってしまうこともある。それぞれの失敗例が教えてくれるのは
失敗はある(わりと避けられない。最初から上手くいくことは少ないのだから)
でも失敗は取り返せる(というか取り返さなくてはいけない)そして
取り返すものは人(世界)との絆だということではないだろうか。
 『アナ雪』も新GBも、自分の見立てではオタクの物語・オタク賛歌である。でもオタク賛歌とは「オタク最高!オタク最強!」ということではない。むしろオタクであること(自分であること)は厄介で失敗もあり、モンスターやゴーストを手なづける面倒もあるが、それで初めて本当のしあわせが(束の間)見える、という厳しい話である。厳しいのだ。「自分を救えるのは、最終的には自分だけ」だが「自分で自分を救うにも、それは自分ひとりでは成し遂げられない」という話なのだから。
 そんなわけで新GBの悪役、あれは「レリゴーしたまま戻ってこられなくなったエルサ」であり、「もしエリスとアビー(あるいはアビーとホルツマンが、そして三人とパティが)出会ってなかったら、ありえた姿」なのだろう。だからNYを襲った巨大ゴーストを最終的に封じるには、エリスがアビーを・一度は捨てた自分の半身を・オタクである自分を取り返す儀式が必要だったのだ。

 そんな風に考えると、何の迷いもなくクールに自分街道を突っ走る無敵キャラとして圧倒的な支持を受けるホルツマンも、また違った容貌を見せてくる。
 いや、もちろんホルツマンはクールだ。ポテチとか、ギターとか、とにかく最高だ。そのうえで敢えて地雷を踏むのだが「新GB=オタク再始動」の見立てで見ると、ホルツマンもなかなか味わい深い。
 エリスが足を洗った元オタで、アビーが学生時代のその相方とすれば、今のアビーの相方ホルツマンは、めっちゃ画力のある作家だ。のこのこ帰ってきてアビ先輩と元の鞘におさまるエリ子を見て、あんがい心穏やかではなかったのかも知れない。「エリ子さんだっけ?あんたの画風、ちょっと古くない?と牽制したり、逆に自分のペースに巻き込もうとちょっかいを出したり。ああ「迷わないホルツマン」が好きなひとには、本当にすまない。
 でも、すっげ絵が上手くて、もうオレは自分の才能を遺憾なく発揮できて幸せなんだから、というホルツマンが「え?アタシ?アタシは会計とか得意だから売り子とか手伝ってやろうってだけだよ?なんでアタシまで原稿を?」というパティ(※見立てです)にピンチを救われたうえ、アビーを乗っ取ろうとしたゴーストにアタシの友達に手を出すな!あ、こないだ来た、オタクのことなんか全然わからないパティがもう「アタシの友達」まで距離を詰めてる、こういう踏み込みかたってあるんだ、とグラグラ価値観ゆさぶられて。かと思ったら今度はエリスにピンチを救われたうえ、最終決戦で「お前らプリキュアか!」(※あ、ホルツマンじゃなくて自分自身の感想です)てくらい熱い友情を見せつけられて、
わーん!オレだってアビ先輩が好きで、アビ先輩がいるからオタクやってきたんだから!
とデレる話と曲解も出来なくはないわけで…本当にすみません。もちろんクールなホルツマンは全部さいしょから分かってる、完成されたキャラだったことも十分ありうる。
 でも。いずれにしても。
 前に別の場所でも書いたのだが、第一作の『ゴーストバスターズ』で好きなのは、途中加入するウィンストンの役回りである。他の強烈なキャラに比べ常識人で印象のうすい彼は、一体なんのために出てきたのだろう?という問いへの答えは、物語の最後に明らかになる。夜の街にガオー・世界を滅さんとする悪霊の化身マシュマロマンとの死闘を制し、マシュマロまみれになったビルの屋上で、他の三人がやれやれと引き揚げたあと、彼は夜空と摩天楼に向かってニューヨーク万歳!と叫ぶのだ。なるほど、それはアクの強い三博士には出来ない、物語の舞台=世界への祝福だった。
 それを踏まえたうえで、この「周到に考えられたエンターテインメントの枠をはみ出すように、こぼれる(あるいはわざとこぼす)世界への祝福」役を、新GBではホルツマンが演じたのが興味ぶかく、また感慨ぶかかった。
 そして、第一作ではニューヨークに向けられた祝福が、新GBではもっとパーソナルな人間関係に向けられたこと+逆にニューヨークがゴーストバスターズをささやかに祝福したことが、オリジナルを踏まえリスペクトしつつ、新たな解釈を乗せるリブート版として、なかなか好かったと思う。

 以下は余談である。
 余談だけどまた強引な解釈です。再撤退を促します。
 新GB、あらためて言うけど面白かった。いま現在の映画だけあって、オリジナルの第一作より練られてテンポがよい感もあったと思う。ホルツマン発明になるビーム兵器のバリエーションなども顕著なアップデート点だろう。
 そのうえで、オリジナルの第一作や『ゴーストバスターズ』というもの自体へのリスペクトも、きっちり表現されていたと思う。
 そのひとつが第一作キャスト総カメオ出演だ。以下ほぼ完全なネタバレになるけどとくにウィンストン役のアーニー・ハドソンと、ディナ役のシガニー・ウィーバーの再登場は印象的だった。前者ではパティが第一作と新作をつなぐギア(「役回り」ですね)のように思え、後者に至っては「第一作ではゴーストに振り回されるだけだったディナ、その気になればパワーローダーでクイーン・エイリアンもぶっとばせる彼女(※混ぜるな危険)が、新作では一番ぶっとんだメンバーとしてゴーストバスターズに転生した」ような感動を憶えたのだ。そして、たたみかけるようなエンディング・クレジット最後でのハロルド・ラミスの登場。ジンと来た。
 転生という意味では、いろいろ騒がれた(なんて可愛いモノではなかった。ほんっと、くだらなかった)女性キャストも、第一作同様「サタデーナイト・ライブ」の今のエースが登板という意味でリブートにふさわしかったし、オリジナル・キャストでの続篇を断念して新しい世代に『ゴーストバスターズ』を託した、アイバン・ライトマン監督とダン・エイクロイド=今回は製作に廻った二人の心情にも想像するだけだがホロリとさせるものがある。
 …と、振り返ったところで「あれ?オリジナル・キャスト総出演といっても、あの気の毒なリック・モラニスはどうしたんだ?」と疑問がわき、これが本日記さいごの暴言なのだが「いたじゃないか、いちばん悪目立ちする形で『転生』して」と思い直したのである。あのクリス・ヘムズワース演じる作品のバランスを崩しかねないほど強烈な大バカキャラ、メガネ(レンズないけどな!)でハンサムで筋肉質だけど大バカで無能なうえ最後はラスボスにまで成り上がる(軍隊制圧シーン、しびれた。あんな発想、七たび生まれ変わっても出てこねえ!)大迷惑な姿こそ、新しい肉体を得たリック・モラニスの「役回り」ではなかったか。
 とくに最終決戦のエリスとアビーが友情を確かめ合う一番いいシーン、ここで颯爽と助けに加わったらカッコいいよな、ここでキメるだろ!と思ったら現れもしないところ、最高だった。サンドイッチとか食べてるし。なんだ自分、好きなのか。『コードネームU.N.C.L.E.』のナポレオン・ソロ(ヘンリー・カヴィル)といい、仲間が大変なことになってる時に暢気にサンドイッチ食ってるキャラが

そんなわけで素晴らしかった新GBですが、個人的に残念なところが三つだけ。1)また最後は核だのみか!核を兵器として使うことに無頓着だったり、核テロを阻止できず「爆発させちゃったけど市街地じゃなくてよかったね」とか、洋画は核を使いすぎ!なんだそれ、願望か!という点。2)一度くらい「うまそうなワンタンスープ」が観たかった。そして3)興業的に可能性が薄い分、続篇の可能性を示唆するラストが逆に哀愁かもされて困った。
 『U.N.C.L.E.』も続篇、観たいんだけどなあ…

仲良くしたい〜クール教信者『小林さんちのメイドラゴン(2巻まで)』(2016.09.17)

 パール・ジャムのボーカル、エディ・ベイダーは、まあなんというかイイひとだ。2000年に発売されたDVD『touring band』は全曲歌詞に日本語字幕のついたスグレモノだが、全米各地を廻ったステージ上で、客席にいた坊やを引っ張りあげ肩車して熱唱したり、舞台の下のほうにいた手話通訳の女性を(また引っ張りあげ)ダンスしたり、曲の途中とつぜん「冤罪で収監された三人の少年を救え」と支援Tシャツをさらけだしたりする姿を観ることができる。海賊版業者や、高額の手数料を取るチケット業者との(おおむね自腹を切るような)闘争でも知られる。マジメなのだ。「硬骨漢」「ナイスガイ」と正直、僕でも呼びたくなる。
 だから彼がバンドの代表曲「ルーキン」の演奏中、曲を止めさせ、女性客にセクハラ行為をしていた男性客を「そう、君だよ。出て行ってくれないか」とお引取り願ったニュースに不思議はなかった。ベイダーは被害に遭った女性客をステージ上から気遣い、セクハラを停めようとしていた連れの男性客をねぎらい、また演奏を再開した。なんらおかしなことはない。

 ただモヤっとしてしまったのは、この椿事を伝える日本語のネットニュースのたぐいが、こぞってベイダーの行動を男気あふれる」「(おとこ)だ」と絶賛したことだ。
 先にふれたように自分だって、彼のことを「好漢」「硬骨漢」と思う。でもさ、それを言ったらセクハラ男も「痴漢」「卑劣漢」なわけで、残念ながらセクハラも痴漢行為も非常に「男性的」な行動だ。同じ男が、いかにも男性的かつ恥ずかしい振る舞いをした。それを諌めた人物を讃えるのに「男」「漢」という言葉を使わざるを得ない居心地の悪さ。
 たとえば人種差別をする日本人がいたとして、それを諌めた人物を「いいね!」「彼(彼女)こそ真の日本人だ」みたいに言われたら、なんかモヤっとしないだろうか。むろん「男らしいとはセクハラを許さない男であること・日本人らしいとは人種差別を許さないこと、そういう風に認識を変えていきたい」というのであれば理解できる。でもその前提なしに、男性の良い行ないは「男らしい」「漢らしい」のだ当然だ、という言語運用が、コンサート会場での痴漢行為みたいな「男らしさ」の負の側面があからさまになった場でまで為される違和感というか。
 ベイダーに問題はない。彼の行動を賞賛した人たちにも悪気はないだろう。自分だって好ましい人物が男性であれば「いい男」女性であれば「女を上げた」などと使ってしまう。今回のような行動を、たとえばステージ上のレディ・ガガが取れば「さすがガガ姐さん」と、その女性性に特化した言葉(姐さん)で賞賛していたかも知れない。
 でも時にそうした言語運用はそれで適切なの?という「縁(へり・エッジ)」に突き当たることがある。今回が自分にとってはそうだった。「ああ、なんだか今じぶんが居る社会で使われている言葉は時に、とても不自由だ」とモヤモヤする自分がいた。もっと自由な言葉はないものか。「人として好ましい」みたいな、性別からフリーな言葉が。あるいは「人として」にもヒトであることの傲慢さがつきまとうとしたら、どうしよう。いっそ「神対応」とでも呼ぶか(注:ややこしい話になったので、少し茶化してます)。

 Aでモヤっとしたという話に、Bは好ましいと話をつなげるのは、悪手である。
 それは十分わかっているのだが、そんなことやあんなことがあったのと並行してクール教信者小林さんちのメイドラゴン』(双葉社)を読んで、思ってしまったのだ。自分が願っていた自由は、こんなものだったかも知れないと。
 まんがである。まだ二巻までしか読んでない(もっと出てるようです)。でも二巻までの時点で、すごく好ましい。ごくふつうの、少しオタクの入った(でも今どきソレは「ごくふつう」ですよね?)女性システムエンジニア・小林さんは、酔っ払って入った山で、異界から逃れて傷を癒していたドラゴン(牝)・トールに遭遇し「なんならウチに来る?」と意気投合・真に受けたついでに小林さんにラブしてしまったトールは美少女の姿に変成し、シラフに戻った小林さんのアパートにメイドさんとして押しかける…というコメディだ。
 この小林さんや、その同僚でオタク友達な滝谷くんの、トールたちに対する「別にドラゴンでも構わない」という態度がすごく好い。
 ファンタジイ的な題材を日常コメディの枠におとしこんだ作品は少なくない。本作が必ずしも飛び抜けて秀でた作品とも限らないのだろう。けれど、そうしたファンタジイ日常化作品が時に陥る「ドラゴンだって人間だ」「神様のような能力を持つ者が人間レベルのことで右往左往するのが楽しい」的な、異様なものを人間サイズに切り詰め「理解する」罠(そういう作品が、そういう作品で面白いことはあるけど…)を、本作は自覚的に回避している(ように思われる)。小林さんたちの日常に押しかける異世界の住民たちは、その気になれば東京くらい簡単に壊滅できるモンスターで、弱く愚かな人間たちを度しがたいとも「チョロい」とも思っている、そのことは作中で何度も明示される。かれらは異者なのだ。そのうえで、トールたちは人間を理解したいと願い、その存在を知る一部の人間も、かれらと共存できないかと願う。
 示唆される、性別も国籍も、人間であることも越えた、共存への希求。

 今はなき中島梓(a.k.a.栗本薫)氏は著書『コミュニケーション不全症候群』(ちくま文庫)で、仲間だけを「人間」とみなし非・仲間を「人間でない」と排斥してきた従来の人間像に対し、人間を仲間とみなさず・むしろ非・人間を仲間とする者、と「オタク」を定義した。そのうえで、その非・人間まで仲間とする融通無碍さを保持したまま、その大らかさでヒトとも協調していく「子供らしさを保持した大人」の出現を望んでいた。平成が始まる頃、オタク=幼女殺人犯やその予備軍と偏見の目で見られていた頃の話である。
 もちろんオタクは(当時から)その非・人間への愛着をわかちあう・あるいは誇示しあう観客としての「ヒトの仲間」を大概は必要としていたし、そうしたオタクが「子供のわがままと大人のズルさを兼ね備える」最悪の存在になることも、氏は懸念していた。
 『小林さんちのメイドラゴン』の設定だって「美少女でメイドさんですごい能力を持つドラゴンで、そのうえ人間のように面倒ではない」究極に都合のいい存在、と意地悪く読むことも可能ではあるのだ。作者の意図はともかく、それを読者の自分があんまり持ち上げるときには、その心根の底にある「ズルさ」も意識したほうが良いだろう。
 …と予防線を張ったうえでなお、同作には「本来かくありたかった理想的なオタク」の姿がほの見える。ともすれば性別や国籍どころか「クラスタ」と呼ばれる単位にまで自らを細分化し、このカップリングは許せる・いや許せないと争い合うオタクの姿とは真逆であるが。オタクに限った話ではない。SFを愛でるとき・あるいは異文化を学び・神を崇拝するとき、吾々は「吾々の理解を超えた存在に圧倒されたい・困惑したい」そのうえで「理解を超えたそれを理解したい・あわよくば仲良くしたい理解しあいたい」と願ってきたのではなかったか。
 第二巻まで読んだ時点で、モンスターたちは殺し合いが続く・しかも争いが深刻化しているらしい異世界に疲れ、和める避難所として人間界を求めている的な事情がほのめかされている。人間界にも地上の地獄と思えるような圧政や殺戮はある、そのことは承知のうえで、地上にはいくらか「マシな」場所もある、その貴重さを思ったりもする。

 また説教くさい話になってしまったが、それは読んだ僕自身の問題。『小林さんちの〜』は基本コメディである。海は危険ですよねー、後ろ姿でラハブと間違えてリヴァイアサンに呼びかけて殺されそうになりましたみたいなギャグは、正直ハイ・ファンタジーすぎて自分にはよく分からない。そういうのでゲラゲラ笑えるひとは、より本作を楽しめるでしょう。
 ときどき登場する、美少女からドラゴンに戻ったトールを小林さんが愛でる場面はとてもチャーミングだ。自分がこのように恐れ知らずになれると、想像するのは難しいけれど。
   
パール・ジャムの「ルーキン」は、エディ・ベイダー本人のストーカー被害をもとにした曲らしい。家にいた奥さんの被害が連想される歌詞を聴きながら、よくセクハラ行為ができたものだと思うが。ちなみに歌詞で「犯人」の性別は判別できない。

通勤する囚人たち〜プリテンダーズ「チェイン・ギャング」(2016.09.24)

 理不尽な客のクレームに耐えかねた駅員が、その場で職場放棄、線路に飛び降り逃走したというニュース。
 事件自体もやるせないし、それをああだこうだ言う人たちも「駅員が悪いか乗客が悪いかは自分たちのサジ加減ひとつで、しかも自分たちは自動的に正義のほうに乗っかって、悪いほうを好きなだけ糾弾できる」みたいな姿勢でいるのが厭わしい。どっかの市場の盛土をめぐる話題も、聴覚障害をモチーフにしたアニメ映画をめぐる言い争いもそう。皆が互いに「先に仕掛けたのは向こうだ」と言い張り「ごらん、相手の口汚い言いかた」と同じ口汚さで相手を罵る。
 もちろん真面目に問題を考える人もいるだろう。そうやって「どっちもどっち」と外野から言われるのが一番腹立たしいのも分かる(自分もそういう叩き合いに参じることがあるから)。けれどそうでなく最初から、あるいはいつのまにか問題自体を離れ、自分と反対の意見を持つ者と叩き合うことに夢中になる人たちもいる。
 そして、そういう日和見や付和雷同を「いつかこういう人たちの力も借りなければ、巻き込まなければ、理不尽な体制をひっくり返すことは出来ないだろうから」と、どこかマキャベリ的な理由で黙認している自分も情けない。

 そんなことがあったり、それとは関係なくだったりして、ザ・プリテンダーズの「バック・オン・ザ・チェイン・ギャング」を聴き直し、歌詞を読み直していたら、思った以上に現代的で悲しい内容に感じ入ってしまった。
 鎖につながれた囚人=チェイン・ギャングのように毎朝の通勤電車に乗るひとたち、という光景は、日本だけでないのだなあという妙な感慨。
 私たちにこんな生き方を強いるパワーは、非人間的な勤めを強いる社会(前にも書いたと思うが、英語のpowerはそのまま「権力」と訳しうる。ジョン・レノンの「Power to the People」は「皆にパワー(注入?)」とか暢気な内容ではなく、ずばり「権力を民衆に」を意味する。ついでに言うならば権力=powerの定義は、納税や兵役など「相手が望まぬことを強いる力」である)を指す政治的な言葉とも取れるし、愛する人と添い遂げられなかった「私」の無念=世の中はままならないものという非政治的な嘆きとも取れる。
 pegion from hellとか、descended like fliesみたいなフレーズは、(目に砂をかける=眠らせる、のように)何か元ネタや別の意味があるのかもと思いつつ調べきれず、そのまま丸投げにしてます。あと日本語として通りやすいよう適当に意訳したところもあるので、内容はあくまで参考程度に。

I found a picture of you, oh oh oh oh
What hijacked my world that night
To a place in the past
We've been cast out of, Oh oh oh oh
 あなたの写真を見つけた晩
 私の心はあの頃に引き戻されてしまった
 私たちが追放される前の あの場所へ
Now we're back in the fight
We're back on the train
Oh, back on the chain gang
 でも私たちはまた 今の戦いに戻る
 また電車に乗り込む
 鎖につながれた囚人に戻る

A circumstance beyond our control, oh oh oh oh
The phone, the TV and the news of the world
Got in the house like a pigeon from hell, oh oh oh oh
Threw sand in our eyes and descended like flies
Put us back on the train
Oh, back on the chain gang
 状況は制御不能
 電話が テレビが 世界のニュースが
 地獄から来た鳩のように家に押し入って
 私たちを眠らせ 蝿のように取りつき
  私たちをまた電車に押しこむ
  鎖につながれた囚人の列に

The powers that be
That force us to live like we do
Bring me to my knees
When I see what they've done to you
 私たちにこんな生き方をさせる力は
 あなたへの仕打ちを見せつけ
 私の膝を折ろうとする
But I'll die as I stand here today
Knowing that deep in my heart
They'll fall to ruin one day
For making us part
 それでも私は今日と同じように
 死ぬまで立ち続けよう
 私たちを離れ離れにした報いに
 いつか世界が滅びると心から確信して

I found a picture of you, oh oh oh oh
Those were the happiest days of my life
Like a break in the battle was your part, oh oh oh oh
In the wretched life of a lonely heart
Now we're back on the train
Oh, back on the chain gang
 あなたの写真を見つけた
 吾が生涯 最良の日々
 孤独な魂が送る 惨めな人生の
 束の間の休戦状態 それがあなただった
  今また私たちは電車に乗りこむ
  ああ、また鎖につながれた囚人に戻る…

("Back on the Chain Gang" lyrics by Chrissie Hynde (c)Sony/ATV Music Publishing LLC)

 
(c)舞村そうじ/RIMLAND ←1610  1608→  記事一覧(+検索)  ホーム