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ジラールとニカウさん、そして〜デュピュイ/デュムシェル『物の地獄』(2017.02.26)

 ジャン=ピエール・デュピュイポール・デュムシェルの共著『物の地獄〜ルネ・ジラールと経済の論理』(法政大学出版局)を再読している。40年くらい前に書かれた、副題のとおりルネ・ジラールの思想・理論の発展的な展開を試みた論考だ。
 二人がそれぞれ前半・後半を分かち書きする構成。自分の見る範囲では、デュピュイのほうが東日本大震災に関する書籍もモノするなど多作家の印象があるが

 後半デュムシェルの「稀少性のアンビヴァランス」がまた興味深い。

 デュムシェルによれば、近代の経済学・それを正しいとする社会思想がよって立つのは「世界には全人類の必要を満たすだけの物資(やサービス)がない。窮乏や不公平・戦争などの不幸は大半がこの希少性によるもので、世の富を増やすことを目的とした経済学・経済学的な姿勢こそが、そうした悲惨を解消する『たったひとつの冴えたやりかた』だ」という、それはそれで説得力のある仮説だ。
 アダム・スミスに始まる古典経済学は、それまで道徳が「奪うな」「ねたむな」「欲張るな」と禁じてきた個々の私益の追求こそ最終的に皆を豊かにするものとして肯定した。マルクスでさえ生産力の発展こそ革命の前提条件と考えた。そもそも生活実感として、あるいはそれに基づき世の中を見渡して「もっとお金があれば」「みんな貧乏が悪い」という結論が妥当と思われることは多い。
 だがこの「希少性」は、本当に必要なモノが足りないのだろうか。生産力が高まれば全人類に富が行き渡り、争いが消滅するのだろうか。物価は上がるし、生活水準もあがる。あのミヒャエル・エンデでさえ「いくら私たちが文明を否定したくても、今さら水洗でないトイレには戻れない」と述べたが、今ではウォシュレットのないトイレに戻ることさえ心理的抵抗のある人が多いだろう。30年前で価値観の停まってる人には贅沢に見えるスマートフォンは、国を追われて逃げる難民や、低賃金バイトを転々とする苦学生には、むしろ必須の命綱だ。希少性とは、追いついたと思えばまた遠くなる逃げ水ではないか。あるいは「ほら、今度はこれが足りない」と絶えず人々を競争に駆り立てるニンジン・いっそ栄養のないルアーではないのか。

 嘘っぱちとは言わないまでも、稀少性は神話や物語のひとつに過ぎないのではないか。稀少性を生産力の発展で埋める(その名目のために人々から国家間まで競争する)以外に、社会を運営していく道がありえたのではないか。
 デュムシェルはマーシャル・サーリンズの研究・そしてジラールの著作を援用し、石器時代や原始社会の人々には「別のやりかた」があったことを示唆する。
 稀少性vs生産力の発想に慣れた近現代人には物資不足・窮乏のきわみに見える原始社会はむしろ、必要なだけのモノが全員に行き渡る誰も餓死しないか、さもなくば全員が餓死する相互扶助社会であったと(デュムシェルが援用する)サーリンズは仮説する。そのためには、不平等を呼ぶ富の偏在・稀少性は全力で排除される。
 部族の長は自分に集まった富を共同体の他の成員に惜しみなく振る舞わなければならないし、それでも間に合わなければ神に捧げて焼き払い消尽しなければならない(ポトラッチ)。他のひとが持っている・自分が持ってないモノを羨望し欲しがることは、近現代社会では経済の原動力そのものだが、原始共同体では際限ない争いと破壊を呼ぶタブーとして徹底的に忌避されるのだ。

 言いたいこと・思うことは色々ある。だがここで例によって、話は大きく横にそれる
 思い出したのは、かれこれ40年近く前=つまりデュムシェルがこの論考を世に問うていたのと同じ頃、日本でも大ヒットしたコメディ映画のことだ。
 年配の皆様は憶えておいででしょうか、『ブッシュマン』という映画。アフリカ・カラハリ砂漠で狩猟生活を営む先住民族と、現代文明の出会いを描くドタバタ喜劇。そもそもブッシュマンという題名自体が不適切で、後に作られたシリーズ作品は『コイサンマン』という名で公開されたように思う。もしや内容にも、今の観点から見て如何という処があったかも知れない。現在DVDなどもリリースされてないようだし、おそらく再び観ることはきわめて困難な作品なのだろう。
 何の話をしているかといえば、この『ブッシュマン』(邦題)のストーリーだ。
 平和な暮らしを営むカラハリ砂漠の先住民族たち。その頭上から、透明でキラキラ光る、不思議なものが落ちてくる。不心得なパイロットが飛行中に空に投げ捨てたコーラの瓶だ。たったひとつしかない、その不思議で素敵な物体をめぐって、平和だった共同体に争いの危機が生じる。これはいけないと、選抜された勇敢な主人公は単身、その不思議で素敵で厄介なコーラの瓶を、世界の果てへ捨てに旅立つ…どう考えても、ほんらい不要な稀少性が侵入して平和を乱すので、あわてて排除・追放する原始共同体の話ではないか

 人が争うのは稀少性のせいだ、だから稀少性がなくなるよう富を増やせばいい。という発想で近代経済学は、それまでの道徳に取って代わった。そう冒頭(アダム・スミス)のあたりで要約した。
 言いかえれば「奪うな」「ねたむな」「欲張るな」という道徳観・それに基づく物語は、ほんの短い歴史しかない近現代のすぐそばまで、なんならスマートフォンとウォシュレットの現代生活の只中でも、死に絶えず息づいている。
 古い道徳は共同体への忠誠を誓わせるもので、私欲を肯定する新しい道徳と同様、功もあれば弊害もある。それは分かっている。そうではなく、デュムシェルや彼が援用するサーリンズ、ジラールが理論として精緻に検証してることを、ポピュラーな物語はいわば「目分量」で語っている、それが興味深いと思ったのだ。
 『ブッシュマン』(邦題)の主演俳優・ニカウさんは映画の公開当時に来日も果たしており、腰に履くパンツ一枚の狩猟スタイルでテレビに登場し人気者になっている。そして例によって…と言っていいだろう、エレベーターを見て「魔法の箱だ」とビックリしたり、彼から見れば贅沢にみえる衣服を取っ替え引っ替えする文明人を「理解できない」と眉をひそめたりしたと伝えられている。と記憶する。現代文明に驚嘆しながら、その浪費や欺瞞を批判する「高貴な原始人」という物語。シェイクスピアもサン=テグジュペリも使った手法で、そうした「文明を批判する南太平洋の酋長」をまるごと創造し一冊まるまるの本を造り上げた例さえある。かなり高い可能性として、ニカウさんもカメラの回ってないところではシャツにズボン、ひょっとしたらスーツにネクタイくらい着用する俳優だったのではないか、そうも思う。
 …だが、それらの疑わしさも含め、これら一連の「物語」には学ぶところが多い。映画のなかで貧相に描かれた山の古老やジャングルの番人が、おごったハンターたちに警告を発し、それが的を得た教訓として(大蛇に呑み込まれる段になって)実証されるように。たかが娯楽作品の怪しげな教訓が、理論的に正鵠を射ることは少なくない気がしている。

 世の中にはサーリンズの他にクラストルという人がいて、こちらの人は原始社会が国家のような権力の集中をやはり必死に排除しようとしてきた(ために現代人からは未開と思われるが、それもひとつの社会のありかただった)と説いているらしい。やはり同じくらいの時代のひとだ。こちらも併せて、いずれ読む機会を作りたいと、今わりと切実に考えている。
 …と終われば格好がつくが、実はさらにもうひとつ気になってることがある
 1980年前後の映画『ブッシュマン』(邦題)。不思議で素敵でキラキラ光る、争いを呼ぶ災いの根源を「世界の果て」に捨てに行く、選ばれた主人公。旅の過程で文明人たちの争いに巻き込まれつつ、最後は使命を貫徹する。ニカウさんがコーラの瓶を投げ捨てるのは山の天辺から足元に拡がる雲海なのだが(そのころ小学生だった子供たちは「で、これがまた空から落ちてきて最初からやりなおしだったりなー」などと茶化したものだが)この話、どこかで聞いたことがないだろうか。
 ないとは言わせない。主人公が平和な故郷を離れ、自分より大きいが欲にかられて愚かな人たちの争いに巻き込まれつつ、世界の果てに捨てに行かなければならない、誰もが欲しがり争いを呼ぶ「いとしいしと」。そう、指輪!
 『ブッシュマン』(邦題)の製作者は、その頃すでにカウンターカルチャーの聖典だった『指輪物語』のことを念頭に、アフリカの砂漠を舞台にしたコメディ映画を作ったのだろうか。それとも、両者はともに共通する古い道徳・古い神話・古い物語を源泉とする兄弟なのだろうか。
 そして、サーリンズやデュムシェルが説いた稀少性、ジラールの羨望・彼が模倣の分析で析出した「分身」といった主題などで、あの壮大な『指輪』は新たな切り分け・解釈が可能なのだろうか。

 いいかげんな日記だが、自分に向けた結論は書き換えねばなるまい。サーリンズと、クラストルは、そのうち読みたい。それに加えて、いつか本当に時間が許せば、映画でも原作でも『指輪』に再挑戦してみたい。誰か別のひとが「ジラールで読み解く指輪物語」とか、書いてくれるといいのだけど。
(c)舞村そうじ/RIMLAND ←1705  1701→  記事一覧(+検索)  ホーム