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失なわれる受難(2020.09.13)

 ●8.6と9.1の注目点が慰霊から「ヘイト」に移ったこと
 9月1日と8月6日は、かたや関東大震災・かたや広島への原爆投下で10万人単位の命が奪われた日だ(以下9.1、8.6と略する)。前者(1923年)の二年後に治安維持法が制定され、原子爆弾投下をもって降伏(1945年)が決定づけられたと考えると、日本がファシズムに傾倒した時代を二つの災禍が標識のように挟んでいるとも取れる。

(むろんそれ以前に台湾併合や韓国併合があり、また治安維持法の1925年は男性のみとはいえ普通選挙法の年でもあるのですが)
 8.6には広島で平和記念式典が開かれ、9.1は防災の日。ともに人々の受苦に思いを馳せ、死者を追悼する節目だった二つの日付。だが今年はどちらも、まったく異なる意味合いで語られることになった。

 まず8.6について。今年はNHK広島がキャンペーン「ひろしまタイムライン」を実施した。1945年にSNSがあったらという設定で成人男性・成人女性・少年=三人の「アカウント」を作成し8.6の数ヶ月前から人々の生活や見聞をTwitterで発信、現代の人々が原爆禍を追体験する主旨のコンテンツだ。啓発的な試みと評価される一方、一面的な切り取りになることへの懸念もあり、賛否両論だった同イベントは、しかし予想外の形で大炎上することになった。
 最年少の男子という設定のアカウントが、8.6を経て8.15→敗戦後の混乱の日々に、吾々は戦勝国の人間だと驕る朝鮮人たちに暴力を振るわれ嘲弄された…と憤る「発言」を発信。遡って6月の時点から彼らが蛇を食べていただの「もうじきお前たちは敗けるヨ」と片言の日本語で言われた等、当時の広島にも多く居た朝鮮人たちへの侮蔑や憎悪を煽る発言を繰り返していたと判明したのだ。
 実際の広島では朝鮮半島出身の住民もまた、原子爆弾の惨禍に見舞われた被害者であった。当時の人々が置かれた状況を思えば、日本人より過酷なこともあったろう。「普通の日本人」三人のみに集約された「当時の再現」は、そうしたマイノリティの存在を拾いそこねてしまうのではないか。そんな懸念は皮肉にも、斜め上(だか下だか)の形で的中してしまった。少年のモデルとなった人物の当時の日記にない発言が別の資料から盛り込まれたり、アカウントの文言を作成する現代の中学生たちが「当時の感覚になるため」教育勅語の書き取りをさせられたり、「ひろしまタイムライン」は多くの問題を抱えたコンテンツだったことが明らかになる。
 その後も新たな問題点の掘り起こしが跡を絶たないのだが、とりあえず暫定のまとめ→
(1)"炎上"は何故起きた?5分で理解る「ひろしまタイムライン」の抱える大きな課題。(Acceso./NOTE)(外部サイトが開きます)

 順番が逆になってしまったが、9.1にまつわるヘイトの問題は「ひろしまタイムライン」に先行していた。2017年に就任した小池百合子都知事が、それまで歴代の都知事が9.1に発していた朝鮮人虐殺に対する追悼文を出さないと決めたためだ。
 さらに横網町公園の朝鮮人犠牲者追悼碑の前で行なわれていた慰霊祭に、虐殺を否認する右翼団体が押しかけ、同じ場所でヘイト街宣をする問題が生じていた。これに対し今年、都が慰霊側とヘイト側の双方に「騒ぎを起こさない」とする誓約書の提出を要求。慰霊祭をヘイトスピーチで挑発し、カウンターや反発が起きようものなら「騒ぎが起きた」として諸共にイベントを中止に出来る。ヘイト側を利する要求は、多くの反対が寄せられ取り下げられたが、今年の9.1でコロナ禍を鑑み朝鮮人犠牲者追悼式典がオンライン開催となる一方、ヘイト団体は構わず公園で「真実の慰霊祭」を実行したようだ。
 このヘイト団体で、かつて(都知事になる前の)小池氏は講演を行なっている。朝鮮人の犠牲者も「関東大震災の犠牲者」として一緒に追悼しているから良いのだという都知事になってからの見解が、こうしたヘイト団体の主張に適うことは言うまでもない。地震や火災などの災害で命を落とすことと、「井戸に毒を入れている」などのデマを信じた日本人によって虐殺されるのは「一緒」でないことも、説明するまでもないだろう。
 このあたりで釘をさしておくと、問題なのは1923年や1945年のこと(ばかり)ではない。過去に朝鮮人に対する憎悪を日記につづった人が、後に当時の自分を省みて考えかたを変えることもある。逆に過去のあやまちを「あやまちではない」と否認することも。そして、過去にことよせてヘイトや差別を訴えるものが、現在のマイノリティに対して、どのような態度で臨むか。
 ●過去をどう扱うかは、現在の吾々自身をどう扱うかの問題であること
 ここまでは、すでに知られていることの再確認である。
 ここから、あまりされていない(と思われる)話をする。

 ●朝鮮人を除外することで日本人の「慰霊の取り分」が増えたわけではないこと
 当時、あるいは自発的に、あるいは半ば強制的に、あるいは強制的に日本に住まっていた朝鮮半島出身の人々。8.6と9.1、二つの惨事で被害を受けた彼らから「被害者」という属性を剥奪することで、同じ惨禍に遭った日本人は「被害者」としてより多くの取り分を得ることが出来るのだろうか。
 そうではないように思われる。
 
 ●むしろ日本人の慰霊まで一部「ヘイト」に置き換えられてしまったこと
 ひろしまタイムラインや、(草の根から都知事まで一体となった)関東大震災における朝鮮人虐殺の否認が示しているのは、8.6や9.1という本来は「被害を受けた人々を追悼する機会」だったものが「レイシストのヘイト祭り」として簒奪されてしまった現状だ。その簒奪された分には、当然、日本人の被害者に向けられるべきだった慰霊も含まれている。
 「サヨクがあれもヘイトだこれもヘイトだと騒ぐから、本来は慰霊の機会だったものが台なしにされたのだ」という反論は(どちらが先に「仕掛けた」か考えれば)盗人たけだけしい見当違いだと分かる。「ひろしまタイムライン」の少年アカウントは進駐軍の兵士ではなく、自分たちが抑圧し差別してきた朝鮮人に憎悪と被害者感情を向けた。それは戦争に対する抗議ですらない。8.6や9.1に対する意識が、災禍を被った人々の追悼や痛みの共有から、差別感情の肯定・再生産へとシフトしつつあるのではと懸念する所以だ。

 ●「被害者の追悼」が「日常を生きた人々の顕彰」に変質しつつあること
 ヘイトによる簒奪だけではない。ひろしまタイムラインと並行して今夏、マスメディアが主導するかたちで行なわれた1945年を振り返る企画が「あちこちのすずさん」だ。
 すずさんは(これまた)言うまでもないかも知れないが、こうの史代氏の漫画と片渕須直監督による映画化作品『この世界の片隅に』の主人公だ。戦時中の窮乏や原子爆弾の投下・敗戦までを一人の主人公の体験に集約した物語が、逆に沢山の「すずさん」が居たのだと普遍化されたことになる。
 問題は「すずさん」が「戦争の中にも日常はあった」「泣くこと笑うこと、愛したり悲しんだりすることは、戦時中でも平和な時代でも変わらない」というメッセージの担い手として認知されたことだ。社会現象としての「すずさん」は、異様に水増しされた代用ごはんに四苦八苦したり、呉の軍港で暢気にスケッチをしていて憲兵に嫌疑をかけられ「こんなに抜けてるスパイがいるものか」と嫁ぎ先で笑い話になるユーモラスな存在だ。
 原作の漫画や映画は、すずさんと彼女を取り巻く世界を多面的に描く。だが、本人の意思なく結婚を決められ、嫁ぐや家政すべてを(それも戦争末期の窮乏下で)背負わされる、あるいは銃撃で義理の姪と自らの片手を失なうといった受苦・被害の側面は、すずさんが「すずさん」的なもの・「あちこちのすずさん」として普遍化されるにあたり、脱色され漂白されはしていないか。あるいは、憲兵に見咎められても笑い話では済まず、それこそ治安維持法や何やかやで拷問され、落命した多くの人たちがいた事実は。
 ロングランの大ヒット作となった映画が再上映された劇場の物販コーナーでは、パンフレットなどと並んで「すずさん」のイラストを箱にあしらった帝国海軍の戦艦のプラモデルまで販売されていたという。
 
 原作や映画には、すずさんが自らの加害性に気づき号泣する(と取れる)場面がある。だが、そうした他者への加害性も、被害=吾々自身に対する加害性も「戦争中でなくても、とかく人生はままならないものだ」という形で中和する危険性が「すずさん」受容のストーリーにはある。「そうした苦労をユーモアや丁寧な暮らしで乗り切るのが良いのだ」あるいは「戦争だろうと窮乏下だろうと、あるいは結婚も自分の意思で決められない家父長制社会でも、泣いて笑って愛した人生は輝かしいのだ」という「話のずらし」がある。
 もちろん、どんな暗い時代でも抑圧下でも人生は輝かしいし、その尊厳を他にはない形で照らし出したからこそ『この世界の片隅に』は傑作たりえた。けれど、すずさんの「すずさん」化には、戦争という特別に加害性を持った人や社会の営為をあたかも自然災害と同様のように漂白し、そのシステムに押しつぶされた人々を「健気に生きていた」「輝かしかった」「いっそ勝ったと言ってもいい」「勝者」に仕立て直す、詐術がありはしないか。
 もういちど言う。過去をどう扱うかは、現在の吾々自身をどう扱うかの問題だ。1945年のすずさんを「健気に生きてたから素晴らしい」「すずさん」に変形するのと同じメカニズムで、吾々は3.11(東日本大震災)の被災者や、日付のないコロナ禍に見舞われた現在の吾々に「ポジティブに立ち向かう」ことを強いてはいないか。助けてくれと泣き言をいうな・自ら助け「絆」で共に助け合え、そして何なら己を犠牲にして公を助けろ。
 そのような物語を公によって押しつけられる人々の類型を、カギカッコつきで仮に呼ぶ「すずさん」とは別に、もっとモデル化された存在として、吾々はすでに知っている。戦争に駆り出され、戦地で落命しながら「彼らの犠牲のおかげで現在の繁栄がある」と呼ばれる存在―「英霊」だ。吾々はすでに8.15を知っている。閣僚や、軍服のコスプレをした人々が靖国神社で(当事者たちの意思を無視して)「英霊」を称える日。そうした参拝が、旧日本軍の侵略を受けた近隣諸国の感情を害し、傷つけると分かったうえで行なわれるヘイト祭り。すずさんの「すずさん」化が、8.6や9.1のヘイト化が、あるいは自助や共助を押しつける政策が行きつく先は、災害や疫病・あるいは困窮による「被害者性」を奪われた「英霊」化ではないだろうか。

     *      *      *

 ここまでモタモタ言ってきたことを簡潔にまとめると、こうだ。「被害者性を剥奪される日本人」。
 8.6や9.1といった追悼の機会を「ヘイト祭り」に乗っ取られ、また「戦禍や災害に負けない私たち」であることの称揚(強制)によって、吾々は他ならぬ吾々自身の被害者性を削り取ってきたのではないか。そして
 ●被害者性の剥奪は「ヘイト」の帰結であること
 どちらが卵で、どちらがニワトリか、今は断定できない。けれど現在のヘイトをめぐる問題として、いま自分の中には二つの言葉というかイメージがある。
 ひとつは新約聖書にある「迷いでた羊」のたとえ話だ。イエスが弟子たちに言う。「羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷いでた一匹を探しに行かないだろうか」「もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹よりも、その一匹のことを喜ぶだろう」(マタイによる福音書)。
 もうひとつは、今回のコロナ禍に関連して、古田肇・岐阜県知事が述べたという「私たちは在住外国人のことを外国籍の岐阜県民と言っている」という言葉だ。
外国人にコロナ予防周知 自治体、多言語チラシやSNS活用(岐阜新聞)(外部サイトが開きます)
 
 実を言うと、羊のたとえが若い頃にはピンと来なかった。はぐれた一匹の羊を探してる間に、残り99匹の羊が迷子になったり、狼に襲われたりはしないのだろうか。だが時を経て、今では違う視点から考えられるようになった。社会が災禍に見舞われたときに、在住外国人を「外国籍の吾々」として助けることは、はぐれた一匹の羊をまず助けることだ。はぐれた羊は外国人とは限らない。病気の者、困窮する者、障害のある人、シングルマザー、高齢者…はぐれた一匹を助けない羊飼いは、残り99匹の羊も見捨てることになる。
 もちろん吾々は羊の側でもある。自らが羊飼いを兼ねる百匹の羊だ。「天災や戦禍に乗じて、マイノリティを呪い排除したとき、吾々は吾々自身を被害者として遇する資格をも失なってしまう」という言いかたは少し乱暴で、ここまでの話の一面しか集約できていない。だが一匹の羊を見捨てることにした99匹の羊は、他のどの羊が「次の一匹」になっても、もうそれを助ける道理を持っていない、弱い者から次々に見捨てられていくという理解はどうだろうか。
 イエスは宗教家だから、その発言を社会に直に当てはめるのは、ときに危険かも知れない。だが福音書のこの言葉には(善きサマリア人のたとえなどと併せ)天国のことだけでなく、地上で人がどう社会を営んでいくべきか、示唆するものがあると思う。

●「慰霊」そのものの機能が社会から失なわれつつあること
 戦争や災害による被害者性を奪う者には、どうしても避けられない「風化」「時の経過」もある。
被爆資料2万点がほぼ死蔵 長崎原爆資料館 学芸員不足、調査分析追いつかず(石川陽一/共同通信)(外部サイトが開きます)
先の戦争のことを、原子爆弾の被害を、受難を忘れてはいけない。忘れてほしくない。そう考える人たちがまだ沢山いらして、資料の供出を続けている。だが「対応にあたる学芸員はたった2人」「とてもじゃないが一つ一つの資料の精査まで手が回らない」。ここにあるのは単に(それはそれで大問題なのだが)文化全般にたいする軽視なのかも知れない。だが、この軽視にはまた行政の「いつまで被害の話をしているんだ」という意識もはたらいてはいないか。
人知れず消えた慰霊碑(NHKニュース)(外部サイトが開きます)

 ●「愛国」は「弱者としての国民を愛する」ことではなく「ヘイト」と「英霊の称揚」で出来ている
 ヘイトを振りまき、歴史を否認し、軍備や戦争への寛容を煽る者は「愛国」と口にする。だがそれは、国を構成する国民たる吾々自身を「愛する」ことではない。私は戦争や災害や疫病や困窮で被害を受けています、国を愛すると言うなら国民であり受難している私を救ってくださいと訴える者が「愛国」の対象として受け容れられることはない。「愛国者」に許されているのは、吾が国はすごいと称えること・それと表裏一体のヘイトと、自己を犠牲にして公に尽くすことだけだ。
 弱者や被害者を「社会の一員」として迎え入れず、他所者や足手まといとして排除し放逐し「吾々を憎んでくる敵」としてヘイト祭りの生贄に祭り上げるような社会は、自分たち自身からも弱者・被害者といった属性を剥奪し「英霊」の群れとなる。
 
 ヘイトはいけない、ということを「マイノリティへの攻撃だから」たとえば女性という不利な立場にいる者として、民族差別などで不利を被る人たちに共感できる・老いなどで弱者の局面に陥ることもあるのだから…という視点から考えることは、むろん大事だ。だが、ヘイトはマジョリティの側をも損なうのだ、あるいは数的にはマジョリティでありながら弱者になることだってあるのだ(収奪される国民=英霊にさせられるように)といった側面で考えられる機会は少ないように思う。今回の日記は、今まで使ってなかった筋肉を使うように疲れた。あるいは、間違った・無理な筋肉の使いかたをしているかも知れない。
 などと留保しつつ、最後につけくわえたいことは、こうだ。
 マイノリティや弱者の迫害と、社会の中心層(マジョリティ・いわゆる「普通の日本人」)からの被害者性の剥奪が連動しているだけではない。もうひとつ。日本人が日本人自身を保護されるべき被害者として・つまり「人として」敬意をもって遇さなくなったことと―先月末、病気を理由に辞任を表明した首相にたいして「まず感謝の言葉を述べるべき」「退任"される"と敬語を使え」といった崇拝が求められることも、おそらく無縁ではない。崇拝の強要は、すでに現首相の後継者と目される官房長官にたいしても「失礼なことを言うな」という形で現れている。それもまた、一方から削った分を、もう一方に盛ったに等しい、算数の問題なのだと思う。たぶん。
 ●ヘイトと被害者性の剥奪が、支配者への敬意の強要とも連動していること
 

 私たちは、ひと握りの支配者が独占しようとしている同情や敬意を、私たち自身の手元へと取り返さなければならない。そしてそのとき、同情や敬意に値する「私たち」には、真っ先に排除される対象であった弱者やマイノリティが、当然のように含まれていなければならない。
 最初にはぐれた羊のように。外国籍の岐阜県民のように。

香港がワルだった頃〜バリー・ウォン監督『追龍』(2020.09.20)

 冒頭、こんな主旨の字幕がスクリーンに現れる。「かつて香港は腐敗した悪徳の都だった。ヤクザと警察が裏で結託し、麻薬で街を支配していた」…これから始まるのは、それに敢然と立ち向かったヒーローの物語、そう期待しても無理はない。だが違う。本作品はけっして暴力を賛美し、犯罪を助長するものではありません的な形式上の「おことわり」だったのかも知れない。『追龍』は、腐敗時代の香港でヤクザ(いわゆる黒社会)と警察それぞれを牛耳った、二人のワルをこそ描く映画だった。
 2017年・香港、バリー・ウォン監督。ちょうど同年秋、旅行で訪れた台湾・台北でも劇場公開中で…時間を作れず見逃した。ひょっとしたら日本には来ないのではないか。どうやら来ないらしい。諦め半ばに想いは募り2020年3月、ついに6月下旬の日本公開がアナウンスされる。だがその直後からコロナ禍で映画館が軒並み自粛を余儀なくされ、業界自体の存続が危ぶまれ…この時期が一番つらかったかも知れない。最終的に「7月に延期」だけで済んだのは御の字でしょう。
 
 そう御の字。逆に期待しすぎず行こう、多少出来が残念でも観られただけで御の字くらいの気持ちで行こう…そんな覚悟で公開初日の映画館に向かい、映画館に入り、上映が終わり、映画館を出て、主演のドニー・イェンとアンディ・ラウが立ち並ぶサイン入り特設ポスターを観ながらボンヤリ思った。…現時点で本作、今年のベストなのでは?

 ドニー・イェン。ジャッキー・チェン、ジェット・リーの後に続き(もっと言えばその前にはブルース・リーがいたわけですが)香港アクション界を牽引するスーパースター。二つ名は「宇宙最強」。ハリウッドに進出しての『ローグ・ワン〜スターウォーズ・ストーリー』では、ライトセイバーも銃も使わず長い棒一本で帝国軍をバッタバッタと薙ぎ倒す武僧を演じた。ブルース・リーの師匠にあたる詠春拳マスターを演じた『葉問(イップ・マン)』シリーズの完結編も、同じ7月に日本公開されたばかり。
 「幅の広い演技者」と言われたいタイプなのだと思う―近作は坊主に近い短髪がデフォルトだったが『追龍』ではまさかのパーマ。出落ちか、ネタかと思いきや、得意のアクションも封印・義理がたいが直情的なマフィアのボス・シーホウで新境地を開いた。
 

 一方、どの作品でも安定のアンディ・ラウ。こちらも香港を代表する俳優にしてミュージシャン。タフでクールで、イヤミなくらい格好よく、悪役も映える「心にやましいところがありそうな」ハンサム。警察がマフィアに送りこんだ潜入捜査官と入れ違いで、マフィアのほうが送りこんだスパイとして警察内部でまんまと昇進していく『インファナル・アフェア』でブレイク。自らの出世作にもなった同作に立ち返るように、『追龍』では上司の娘との婚約を足がかりに栄達の道を邁進する・逆に言えば己の魅力と才覚以外に後ろ盾のない、野心家の警察官ロックを演じている。
 
 シーホウとロック。お互い何物でもなかった二人が出会い、手を結び、ここから義理あり人情あり恩義あり裏切りあり、意地と卑屈と忍従と怒りのちゃぶ台返し、暴力、暴力、暴力の物語が展開していく。
 そう、香港なら香港という器に「盛れるだけ盛った」、描けるすべてを描きつくしてやろうという、こういう作品に自分は弱い。ここがイイ、ここが刺さるとピンポイントで突いてくるのでなく「面」で、これでもかと全面で面白さを押しつけてくる。観ているうちに「ありがとう、あの頃の香港の姿をこんな形でそっくり描き残してくれて」と、知りもしない「あの頃の香港」をこよなく愛していた錯覚に陥る。

 圧巻は成り行きで悪の道に踏みこんだシーホウと仲間たちが逃げこみ、根城にしていく九龍城砦だ。その、せせこましい存在感。登場早々はチンピラのケンカ・後半は杖をつく身となったドニー・イェンゆえ華麗なカンフー・アクションなど見せられないかわりに、人ひとり通る幅しかない・そのかわりドアあり隠し扉あり段差あり上下からの攻撃ありと、ダンジョンばりな城砦内での乱闘は泥くさくもトリッキーで(その風物が今は失なわれたことを思うと)文化遺産のよう。
 
 九龍城は映画の描く「あの頃の香港」を凝縮させた中心だが、物語の香港は遠心的にも広がっている。シーホウ率いる一党は、食い詰めて密航してきた大陸出身者で、香港で一旗あげてさらに家族を呼び寄せるのが夢だ。のし上がった彼が郎党とともに乗りこむのは、タイの麻薬地帯。一方、ロックが属する権力組織の頂点には「本国」イギリスから赴任してきたラスボスがいる。
 「本国」イギリスから来たワルに、それと癒着した黒社会の旧支配層。共通する敵を相手に結託した、若い二人は出世するにつれ、しだいに反目も深めてゆく。互いにスパイを送りあい、猜疑心で罠を仕掛けあい…
 それでも裏切りや疑心暗鬼より、圧倒的に「信頼」が幅をきかすのが『追龍』だ。同郷の絆でむすばれたシーホウの手下たちは命を落としかねない異郷の銃撃戦のなかでも「俺たち最期まで仲間でいれてよかったな」と言わんばかりの兄弟愛を見せつける。シーホウの実の弟・ヘロインで身を持ち崩していくインテリ少年が見せる意気地。終盤にサプライズで明かされる、思わぬ人物の献身。後ろ盾のない…と書いたロックの傍らにも、食えない部下(演ケント・チェン)がひとり付き従い、彼に忠誠を尽くしていく。片足の自由を失なったシーホウを看たことがキッカケで二度目の妻となる看護士も、悪行の果てに香港脱出を画策するロックの(元は出世目当てで結婚した)妻も、愛情というより「ワルの同志」のように見えてくる。
 
 まとめます。香港なら香港という器で出来ることをすべて盛りこんだ作品。アクションあり策謀あり「人の業を肯定する」と言わんばかりにあらゆる負の感情を憐れみながら描きつくしてなお、それらを(共犯意識とも言える)信頼と献身が圧倒する物語。いや、まだ足りない。
 そうやって怒涛の「面」で押してくる物語が、あらゆる局面で火花を散らしながら、しかも最終的には(手を結びつつ別々の道を歩み続けた)主人公ふたりの訣別に収斂していく。世界に二人だけが残され、その二人が袂を分かつとき、暴れまわったドラゴンの目に、点睛が刻まれる。
 「語り尽くせない見どころと、それらを貫く、ただ一本の線
 …こういう時とかく使ってしまいがちな「とにかくすごい」を、どうにか別の一文に置き換えることが出来ただろうか。

 クライマックスシーン。それまで疑いあい反目しあい、なんなら命を狙いあったシーホウの名を、悲痛な声でロックが呼ぶ。たぶん通り名の「跛豪」と呼んだのだろう。それがまるで「阿豪!」(「阿○」で○○さん、○○ちゃんという愛称になる)と叫んだように聞こえた。ロードショー期間は終わり、次に観られるのは配信かDVDかだけれど。そのころ、本作でかくも愛された香港がどうなっているか、どうか香港らしい香港のままでと祈るほかないけれど。別に「跛豪」と呼んでいてもいいのだ―アンディ・ラウの悲しい叫びを再確認したい。
 ・映画『追龍』公式サイト(外部サイトが開きます)
 
 (すみません、もう上映終わったかのように書いちゃったけど、鹿児島市・刈谷市では9/24まで・そのほか9月下旬以降に公開の映画館たくさんあります。公式サイトをご参照…)

狼のトライアングル〜イ・ウォンテ監督『悪人伝』(2020.09.27)

 もし先生が宰相に取り立てられたら、どのように国政を改めますか。弟子に問われ、孔子は「必ずや名を正さんか」と答えたという。
 名とは名詞、という理解で良いのだろうか。政治の話なのに、なんだってそんな迂遠なことを…と訝しむ弟子に、孔子は言う―いや子曰くですかね―
「名が正からざれば、則(すなわ)ち言は順ならず。言の順ならざれば、則ち事は成らず。事が成らざれば、則ち礼楽も興らず。
 礼楽が興らざれば、則ち刑罰は中(あた)らず。刑罰が中らざれば、則ち民は手足を措くところなし」

 
孔子の教え=儒教すべてを肯定するつもりはない。しかし「物事に与えられた名が正しくなければ(中略)司法も正当に行なわれず、民草は手足の置き場もなくなる」と(礼楽などは端折って)まとめると、昔も今も機能不全に陥った国家への嘆きは変わらないのだなあと、2500年前の孔子先生に妙な親しみが湧いてくる。
 政府による脱法行為が通例化した第二次安倍政権・8年間の罪状として「言語の破壊」を筆頭にあげる人は少なくない。国税を使って自身の支持者だけを「桜を見る会」に募集したのではないかという国会での追求に対する答弁は幅広く募ったが、募集はしていない

 「レイシズム」「ヘイト」のように政治的に重要な言葉の意味を、差別する側が勝手に捻じ曲げ、議論不能にしてしまう―Linguistic Hijacking(言語的ハイジャック)という術語が提唱されているらしい。日本語圏でも言葉を「簒奪」すると近頃よく言われる(僕もよく使っている)のと、同じ現象だろう。「表現の自由」は元々、国家権力による検閲や言論弾圧からの自由をさす言葉だったが、今は発言や作品を批判されたときに振りかざす言葉として便利に「ハイジャック」されてしまっている。
Linguistic Hijacking(Derek Anderson/ボストン大/Feminist Philosophy Quarterly)
 (英文)(未読)(外部サイトが開きます)
 「憲法改正」「歴史修正主義」も、「正」という字を入れてくれるなと思う。これまで物証や傍証・研究を積み重ねて確定してきた史実を「虐殺はなかった」と感情で攻撃する行為が、あたかも議論に足る主張であるかのように粉飾される。まず「名」を正すべきなのではないか。

 …無差別殺人も、「誰でもよかった」という弁明とともに、正されるべき「名」かも知れない。実際に行なわれるのは、往々にして「差別殺人」だ。誰でもよかったと言いながら、自分より体力で劣る女性や子供をターゲットにする。
 本当に「誰でもいい」なら、自衛隊の駐屯地かヤクザの事務所にでも刃物を持って乗りこんでみやがれ―そんな怨嗟の声もしばしば上がる。自衛隊とて民間人に銃は向けられないし、ヤクザにも人権はあるから、実際にはそれでも良くはないのだが―
 韓国でも同様の「言語的ハイジャック」があるのかは不勉強で存じ上げない。だが「誰でもよかった」連続殺人犯が、本当に「誰でもよくて」ヤクザの親分マ・ドンソクを襲撃する映画『悪人伝』が、その設定だけで日本で喝采されたのも無理はない。

 もう一度いいます。「誰でもよかった」とうそぶく(まあ劇中でうそぶいたりはしないけど)無差別殺人犯が、本当に誰でもよくてヤクザの親分マ・ドンソクを襲撃する
 設定勝ちである。出落ち感もある。だが出落ちではない。『悪人伝』の面白さが引き出されるのは、ここからだ。
 誰でもよかった標的の一人として、たまたまヤクザの親分を襲った快楽殺人犯。刺されるわメンツを潰されるわで激怒するヤクザの親分。そこに、各地の事件を同一犯の連続殺人と見抜き、犯人確保に血道を上げるヒラ刑事が絡むことで、ガゼン話が立体的になる。
 
 予告編では(ただの「刑事」だと他の二人とバランスが悪いので)「暴力刑事」と謳われてるが―実際に乱暴な言動の男だが―ドンソク親分が率いる反社会的組織(違法ゲームで稼いでいる)を目の敵にして抜き打ち摘発を仕掛けるし…ということは警察とヤクザの間で「抜き打ち摘発はよそう」的な手打ちが打たれてるわけで、それにも批判的な「はみ出し刑事」「正義のためには手段を選ばない」むしろ悪を憎むという点では模範的なデカ。つまり刑事にとっては連続殺人犯もドンソク親分も、裁かれるべきホシ。ドンソク親分にとっては刑事も殺人鬼も敵。殺人鬼は…まあ二人のことなど知ったこっちゃないが話が進むにつれ逆襲に出る。互いが互いに相容れない「料理の三角形」のような関係なのだ。
 この、互いに相容れないはずの狼のうち、刑事とマ親分が、まずは最凶の狼を倒そうと手を組む。
 
 警察内部での対立関係と、ヤクザ組織の内部抗争をそれぞれ抱えながら共同戦線を張る二人。一方、淡々と殺人を重ねる犯人。悪には妥協しないはずの刑事が、マ親分に捜査情報を横流しし、ともに対立組織に襲われ一緒に殴られるうち、だんだんヤクザと同類になっていく。もともと似たような軍隊的・体育会系・ホモソーシャルな組織なのだろうとは語弊があるか。ついには親分と刑事、二人がギャング映画ふうに並んでスローモーションで闊歩し(両脇にはズラリと並んで頭を下げるヤクザの子分たち)、警察とヤクザが「よーし頑張ってホシを捕まえようぜ!」と宴会で盛り上がってしまうさまは笑いを誘う。刑事ときたら、宴席の乾杯でうっかり親分に対し「目上の人を前にしたときのビジネスマナー」をやらかしてしまうのだ。

 しかし、この「似た者同士」かも知れない二人は結局、相容れることはない。単純な追いかけっこでなく狡猾な頭脳戦・最後には法廷バトルまでサービスされる殺人鬼との闘い=「この殺人鬼を野放しにして逃してしまうのか」というサスペンスは、同時に「犯人として法で裁きたい刑事」「私的に殴り殺したい親分」どちらが先にホシを確保できるのか・観ている自分はどちらに肩入れするのかというハラハラに乗っ取られてゆく。映画は終盤に二転三転。具体的には述べないが、最後は法と正義をつらぬく刑事と、暴力に生きるしかない親分の訣別に終わる。栄えある場で表彰される刑事とのコントラストで、「悪人」の道を破滅にひた走る親分の姿は、雄々しくも悲劇的に見えてしまう…

 …と思ったら、わりとそうでもない。7月の初映を観て、この9月に地元のミニシアターで再上映があったので、自分の印象の細部を検証すべく再び観に運んだのですが、ヤクザ道=暴力しか生きる道のないマ・ドンソク親分、イキイキしてて楽しそうじゃないですか。
 たぶん観る側のスタンスや、なんならコンディションによるのかも知れない。「お前だって俺と同類だ、人を殺すのが楽しいんだろう」と愚弄する殺人鬼を「ふざけるな」と拒絶するドンソク親分は虚勢を張っているのか、本当に二人の暴力は(言うなれば)「筋のとおった暴力」と「理不尽で無差別な暴力」に二分できるのか。ドンソクの「家族を殺されて黙ってられるのか」という台詞がヒントにはなるだろう。だが、その内心は外からは確定しがたい。
 しかしそこを深く考えて眉根をよせることが、本作の味わいかたではない気がする。基本的に「面白かれと考え抜かれた娯楽作」として、伏線の回収や展開の妙味を満喫していい作品ではないでしょうか。
 そう観ているわけでもないが、韓国映画の連続殺人鬼ものは、観ていて本当にしんどい。ハリウッドのサイコ・サスペンスとはわけが違う。「お前ら、人が殺されるなんて酷いことを娯楽として消費して、いい気分で帰れると思うなよ」そんな倫理観の発露ではないかと思われるほど、観たあと後悔する。秀逸なストーリーや、よく出来たサスペンスをもってしても、その陰惨さは変わらない。『チェイサー』『殺人の追憶』『悪魔を見た』『殺人の告白』…いや、もう無理だ、どんなに高潔なメッセージがあろうと、逆にどれほど面白い作品でも、韓国映画で無辜の市民が無残に命を奪われる映画はいいです…そんなふうに思う人は、自分だけではない気がする。
 『悪人伝』は、無差別の連続殺人を描きながら(韓国映画では)奇跡的に見やすい作品になっている(それがいいことなのか悪いことなのか分かりませんが)。実際には無力な人々の命も無慈悲に、残酷に奪われているはずなのだが「よりによって親分(しかもマ・ドンソク)を」のインパクトと、並行して描かれるヤクザの内部抗争で「無差別殺人」そのものの残虐性に手心が加えられ、観る者を削らないのかもしれない(いいことなのか悪いことなのか分かりませんが)。

 登場人物たちが皆、見てて気持ちのいい連中だということもある(半分は反社会的な組織の人間なので、これも良し悪しですが)。ドンソク親分の腹心・対立する親分の腹心・はみ出し刑事の部下くらいまではキャラ立ちもキッパリしていて、かつ基本的に性格がいい。いや、対立する親分の腹心の部下あたりは狡猾そうで性格も悪そうっちゃ悪そうなんだけど、己の本分を忠実に守ってる感があって不思議と憎めない(そうした忠誠心は儒教と同じで全肯定していいのか疑問だけど)。
 その憎めなさの要が、マ・ドンソク親分なのは言うまでもないだろう。かつて彼の演じる役柄を「己の凶暴さを自覚して「お嬢さんお逃げなさい」と村娘を促す、森の熊」と評したのは自分ですが。
 「誰でもよかった」で老若男女を無差別に刺す殺人鬼とは対照的に、ドンソク親分はカタギに暴力を振るわない。敵と決めたら半殺しにし、腕力で相手の歯を(えーと、後は言えません)する暴力の鬼だが、雨に降られた女子高生に「たくさん勉強しなさい」と中年男の説教をかましながら傘を貸す。殺人鬼との対決シーンで、巻き込まれた女性たちを救う場面はヒーローそのもの。それどころか、自分を襲おうと車を追突させてきた殺人鬼まで「弁償とかいいから」許そうとしてしまうのだ。
 もちろんそのジェントルさは、無辜のカタギの人々を「はなから相手にしてない」冷たさかも知れない。たとえばそのカタギ衆が、自分の運営する違法ゲームにのめりこんだら、親分は容赦なく「自分たちの同類」として食い物にするだろう。その意味で彼は、やはり救われがたい悪人・暴力の世界に生きる男だ。それでも、その善行ゆえ、そして暴力を振るうときの「チェッ、仕方ねぇな」という表情ゆえ、本作でも彼は暴力の世界にどっぷり浸かりながら、それを批評的に体現した存在として「有害な男らしさの称揚」を奇跡的に免れているような気がした。
 (マ・ドンソクが体現する「有害な男らしさの解毒」と、その限界?について、こちらで詳述してます→2019年12月の日記参照)。

 まあ分かりません。先述した警察とヤクザの宴会シーンで、下っぱのチンピラのひとりが「俺、アイドル研究生だったんス!盛り上げるために歌います!」とダンスを始めるのには笑ったし、その後しっかり反社会勢力としてお縄になってるのを見て(ヤクザにも人生があるんだなあ…)と、いやソコは何か「人の業の肯定」みたく暖かい目で見ちゃっていいのかと悩みはすると思います。けれどまあ、それも含めて上質な娯楽作。
 地元ヨコハマのミニシアターでの再上映に合わせ、内容とぼしいわりに水増しして字数の多い日記ですが、取り急ぎまとめてみました。長雨の季節、湿っぽく肌寒い伊勢佐木町に、なんだか似合う佳作ですので是非。
悪人伝(10/2まで・シネマ・ジャック&ベティ)(外部サイトが開きます)

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