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失なわれる受難(2020.09.13)

 ●8.6と9.1の注目点が慰霊から「ヘイト」に移ったこと
 9月1日と8月6日は、かたや関東大震災・かたや広島への原爆投下で10万人単位の命が奪われた日だ(以下9.1、8.6と略する)。前者(1923年)の二年後に治安維持法が制定され、原子爆弾投下をもって降伏(1945年)が決定づけられたと考えると、日本がファシズムに傾倒した時代を二つの災禍が標識のように挟んでいるとも取れる。

(むろんそれ以前に台湾併合や韓国併合があり、また治安維持法の1925年は男性のみとはいえ普通選挙法の年でもあるのですが)
 8.6には広島で平和記念式典が開かれ、9.1は防災の日。ともに人々の受苦に思いを馳せ、死者を追悼する節目だった二つの日付。だが今年はどちらも、まったく異なる意味合いで語られることになった。

 まず8.6について。今年はNHK広島がキャンペーン「ひろしまタイムライン」を実施した。1945年にSNSがあったらという設定で成人男性・成人女性・少年=三人の「アカウント」を作成し8.6の数ヶ月前から人々の生活や見聞をTwitterで発信、現代の人々が原爆禍を追体験する主旨のコンテンツだ。啓発的な試みと評価される一方、一面的な切り取りになることへの懸念もあり、賛否両論だった同イベントは、しかし予想外の形で大炎上することになった。
 最年少の男子という設定のアカウントが、8.6を経て8.15→敗戦後の混乱の日々に、吾々は戦勝国の人間だと驕る朝鮮人たちに暴力を振るわれ嘲弄された…と憤る「発言」を発信。遡って6月の時点から彼らが蛇を食べていただの「もうじきお前たちは敗けるヨ」と片言の日本語で言われた等、当時の広島にも多く居た朝鮮人たちへの侮蔑や憎悪を煽る発言を繰り返していたと判明したのだ。
 実際の広島では朝鮮半島出身の住民もまた、原子爆弾の惨禍に見舞われた被害者であった。当時の人々が置かれた状況を思えば、日本人より過酷なこともあったろう。「普通の日本人」三人のみに集約された「当時の再現」は、そうしたマイノリティの存在を拾いそこねてしまうのではないか。そんな懸念は皮肉にも、斜め上(だか下だか)の形で的中してしまった。少年のモデルとなった人物の当時の日記にない発言が別の資料から盛り込まれたり、アカウントの文言を作成する現代の中学生たちが「当時の感覚になるため」教育勅語の書き取りをさせられたり、「ひろしまタイムライン」は多くの問題を抱えたコンテンツだったことが明らかになる。
 その後も新たな問題点の掘り起こしが跡を絶たないのだが、とりあえず暫定のまとめ→
(1)"炎上"は何故起きた?5分で理解る「ひろしまタイムライン」の抱える大きな課題。(Acceso./NOTE)(外部サイトが開きます)

 順番が逆になってしまったが、9.1にまつわるヘイトの問題は「ひろしまタイムライン」に先行していた。2017年に就任した小池百合子都知事が、それまで歴代の都知事が9.1に発していた朝鮮人虐殺に対する追悼文を出さないと決めたためだ。
 さらに横網町公園の朝鮮人犠牲者追悼碑の前で行なわれていた慰霊祭に、虐殺を否認する右翼団体が押しかけ、同じ場所でヘイト街宣をする問題が生じていた。これに対し今年、都が慰霊側とヘイト側の双方に「騒ぎを起こさない」とする誓約書の提出を要求。慰霊祭をヘイトスピーチで挑発し、カウンターや反発が起きようものなら「騒ぎが起きた」として諸共にイベントを中止に出来る。ヘイト側を利する要求は、多くの反対が寄せられ取り下げられたが、今年の9.1でコロナ禍を鑑み朝鮮人犠牲者追悼式典がオンライン開催となる一方、ヘイト団体は構わず公園で「真実の慰霊祭」を実行したようだ。
 このヘイト団体で、かつて(都知事になる前の)小池氏は講演を行なっている。朝鮮人の犠牲者も「関東大震災の犠牲者」として一緒に追悼しているから良いのだという都知事になってからの見解が、こうしたヘイト団体の主張に適うことは言うまでもない。地震や火災などの災害で命を落とすことと、「井戸に毒を入れている」などのデマを信じた日本人によって虐殺されるのは「一緒」でないことも、説明するまでもないだろう。
 このあたりで釘をさしておくと、問題なのは1923年や1945年のこと(ばかり)ではない。過去に朝鮮人に対する憎悪を日記につづった人が、後に当時の自分を省みて考えかたを変えることもある。逆に過去のあやまちを「あやまちではない」と否認することも。そして、過去にことよせてヘイトや差別を訴えるものが、現在のマイノリティに対して、どのような態度で臨むか。
 ●過去をどう扱うかは、現在の吾々自身をどう扱うかの問題であること
 ここまでは、すでに知られていることの再確認である。
 ここから、あまりされていない(と思われる)話をする。

 ●朝鮮人を除外することで日本人の「慰霊の取り分」が増えたわけではないこと
 当時、あるいは自発的に、あるいは半ば強制的に、あるいは強制的に日本に住まっていた朝鮮半島出身の人々。8.6と9.1、二つの惨事で被害を受けた彼らから「被害者」という属性を剥奪することで、同じ惨禍に遭った日本人は「被害者」としてより多くの取り分を得ることが出来るのだろうか。
 そうではないように思われる。
 
 ●むしろ日本人の慰霊まで一部「ヘイト」に置き換えられてしまったこと
 ひろしまタイムラインや、(草の根から都知事まで一体となった)関東大震災における朝鮮人虐殺の否認が示しているのは、8.6や9.1という本来は「被害を受けた人々を追悼する機会」だったものが「レイシストのヘイト祭り」として簒奪されてしまった現状だ。その簒奪された分には、当然、日本人の被害者に向けられるべきだった慰霊も含まれている。
 「サヨクがあれもヘイトだこれもヘイトだと騒ぐから、本来は慰霊の機会だったものが台なしにされたのだ」という反論は(どちらが先に「仕掛けた」か考えれば)盗人たけだけしい見当違いだと分かる。「ひろしまタイムライン」の少年アカウントは進駐軍の兵士ではなく、自分たちが抑圧し差別してきた朝鮮人に憎悪と被害者感情を向けた。それは戦争に対する抗議ですらない。8.6や9.1に対する意識が、災禍を被った人々の追悼や痛みの共有から、差別感情の肯定・再生産へとシフトしつつあるのではと懸念する所以だ。

 ●「被害者の追悼」が「日常を生きた人々の顕彰」に変質しつつあること
 ヘイトによる簒奪だけではない。ひろしまタイムラインと並行して今夏、マスメディアが主導するかたちで行なわれた1945年を振り返る企画が「あちこちのすずさん」だ。
 すずさんは(これまた)言うまでもないかも知れないが、こうの史代氏の漫画と片渕須直監督による映画化作品『この世界の片隅に』の主人公だ。戦時中の窮乏や原子爆弾の投下・敗戦までを一人の主人公の体験に集約した物語が、逆に沢山の「すずさん」が居たのだと普遍化されたことになる。
 問題は「すずさん」が「戦争の中にも日常はあった」「泣くこと笑うこと、愛したり悲しんだりすることは、戦時中でも平和な時代でも変わらない」というメッセージの担い手として認知されたことだ。社会現象としての「すずさん」は、異様に水増しされた代用ごはんに四苦八苦したり、呉の軍港で暢気にスケッチをしていて憲兵に嫌疑をかけられ「こんなに抜けてるスパイがいるものか」と嫁ぎ先で笑い話になるユーモラスな存在だ。
 原作の漫画や映画は、すずさんと彼女を取り巻く世界を多面的に描く。だが、本人の意思なく結婚を決められ、嫁ぐや家政すべてを(それも戦争末期の窮乏下で)背負わされる、あるいは銃撃で義理の姪と自らの片手を失なうといった受苦・被害の側面は、すずさんが「すずさん」的なもの・「あちこちのすずさん」として普遍化されるにあたり、脱色され漂白されはしていないか。あるいは、憲兵に見咎められても笑い話では済まず、それこそ治安維持法や何やかやで拷問され、落命した多くの人たちがいた事実は。
 ロングランの大ヒット作となった映画が再上映された劇場の物販コーナーでは、パンフレットなどと並んで「すずさん」のイラストを箱にあしらった帝国海軍の戦艦のプラモデルまで販売されていたという。
 
 原作や映画には、すずさんが自らの加害性に気づき号泣する(と取れる)場面がある。だが、そうした他者への加害性も、被害=吾々自身に対する加害性も「戦争中でなくても、とかく人生はままならないものだ」という形で中和する危険性が「すずさん」受容のストーリーにはある。「そうした苦労をユーモアや丁寧な暮らしで乗り切るのが良いのだ」あるいは「戦争だろうと窮乏下だろうと、あるいは結婚も自分の意思で決められない家父長制社会でも、泣いて笑って愛した人生は輝かしいのだ」という「話のずらし」がある。
 もちろん、どんな暗い時代でも抑圧下でも人生は輝かしいし、その尊厳を他にはない形で照らし出したからこそ『この世界の片隅に』は傑作たりえた。けれど、すずさんの「すずさん」化には、戦争という特別に加害性を持った人や社会の営為をあたかも自然災害と同様のように漂白し、そのシステムに押しつぶされた人々を「健気に生きていた」「輝かしかった」「いっそ勝ったと言ってもいい」「勝者」に仕立て直す、詐術がありはしないか。
 もういちど言う。過去をどう扱うかは、現在の吾々自身をどう扱うかの問題だ。1945年のすずさんを「健気に生きてたから素晴らしい」「すずさん」に変形するのと同じメカニズムで、吾々は3.11(東日本大震災)の被災者や、日付のないコロナ禍に見舞われた現在の吾々に「ポジティブに立ち向かう」ことを強いてはいないか。助けてくれと泣き言をいうな・自ら助け「絆」で共に助け合え、そして何なら己を犠牲にして公を助けろ。
 そのような物語を公によって押しつけられる人々の類型を、カギカッコつきで仮に呼ぶ「すずさん」とは別に、もっとモデル化された存在として、吾々はすでに知っている。戦争に駆り出され、戦地で落命しながら「彼らの犠牲のおかげで現在の繁栄がある」と呼ばれる存在―「英霊」だ。吾々はすでに8.15を知っている。閣僚や、軍服のコスプレをした人々が靖国神社で(当事者たちの意思を無視して)「英霊」を称える日。そうした参拝が、旧日本軍の侵略を受けた近隣諸国の感情を害し、傷つけると分かったうえで行なわれるヘイト祭り。すずさんの「すずさん」化が、8.6や9.1のヘイト化が、あるいは自助や共助を押しつける政策が行きつく先は、災害や疫病・あるいは困窮による「被害者性」を奪われた「英霊」化ではないだろうか。

     *      *      *

 ここまでモタモタ言ってきたことを簡潔にまとめると、こうだ。「被害者性を剥奪される日本人」。
 8.6や9.1といった追悼の機会を「ヘイト祭り」に乗っ取られ、また「戦禍や災害に負けない私たち」であることの称揚(強制)によって、吾々は他ならぬ吾々自身の被害者性を削り取ってきたのではないか。そして
 ●被害者性の剥奪は「ヘイト」の帰結であること
 どちらが卵で、どちらがニワトリか、今は断定できない。けれど現在のヘイトをめぐる問題として、いま自分の中には二つの言葉というかイメージがある。
 ひとつは新約聖書にある「迷いでた羊」のたとえ話だ。イエスが弟子たちに言う。「羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷いでた一匹を探しに行かないだろうか」「もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹よりも、その一匹のことを喜ぶだろう」(マタイによる福音書)。
 もうひとつは、今回のコロナ禍に関連して、古田肇・岐阜県知事が述べたという「私たちは在住外国人のことを外国籍の岐阜県民と言っている」という言葉だ。
外国人にコロナ予防周知 自治体、多言語チラシやSNS活用(岐阜新聞)(外部サイトが開きます)
 
 実を言うと、羊のたとえが若い頃にはピンと来なかった。はぐれた一匹の羊を探してる間に、残り99匹の羊が迷子になったり、狼に襲われたりはしないのだろうか。だが時を経て、今では違う視点から考えられるようになった。社会が災禍に見舞われたときに、在住外国人を「外国籍の吾々」として助けることは、はぐれた一匹の羊をまず助けることだ。はぐれた羊は外国人とは限らない。病気の者、困窮する者、障害のある人、シングルマザー、高齢者…はぐれた一匹を助けない羊飼いは、残り99匹の羊も見捨てることになる。
 もちろん吾々は羊の側でもある。自らが羊飼いを兼ねる百匹の羊だ。「天災や戦禍に乗じて、マイノリティを呪い排除したとき、吾々は吾々自身を被害者として遇する資格をも失なってしまう」という言いかたは少し乱暴で、ここまでの話の一面しか集約できていない。だが一匹の羊を見捨てることにした99匹の羊は、他のどの羊が「次の一匹」になっても、もうそれを助ける道理を持っていない、弱い者から次々に見捨てられていくという理解はどうだろうか。
 イエスは宗教家だから、その発言を社会に直に当てはめるのは、ときに危険かも知れない。だが福音書のこの言葉には(善きサマリア人のたとえなどと併せ)天国のことだけでなく、地上で人がどう社会を営んでいくべきか、示唆するものがあると思う。

●「慰霊」そのものの機能が社会から失なわれつつあること
 戦争や災害による被害者性を奪う者には、どうしても避けられない「風化」「時の経過」もある。
被爆資料2万点がほぼ死蔵 長崎原爆資料館 学芸員不足、調査分析追いつかず(石川陽一/共同通信)(外部サイトが開きます)
先の戦争のことを、原子爆弾の被害を、受難を忘れてはいけない。忘れてほしくない。そう考える人たちがまだ沢山いらして、資料の供出を続けている。だが「対応にあたる学芸員はたった2人」「とてもじゃないが一つ一つの資料の精査まで手が回らない」。ここにあるのは単に(それはそれで大問題なのだが)文化全般にたいする軽視なのかも知れない。だが、この軽視にはまた行政の「いつまで被害の話をしているんだ」という意識もはたらいてはいないか。
人知れず消えた慰霊碑(NHKニュース)(外部サイトが開きます)

 ●「愛国」は「弱者としての国民を愛する」ことではなく「ヘイト」と「英霊の称揚」で出来ている
 ヘイトを振りまき、歴史を否認し、軍備や戦争への寛容を煽る者は「愛国」と口にする。だがそれは、国を構成する国民たる吾々自身を「愛する」ことではない。私は戦争や災害や疫病や困窮で被害を受けています、国を愛すると言うなら国民であり受難している私を救ってくださいと訴える者が「愛国」の対象として受け容れられることはない。「愛国者」に許されているのは、吾が国はすごいと称えること・それと表裏一体のヘイトと、自己を犠牲にして公に尽くすことだけだ。
 弱者や被害者を「社会の一員」として迎え入れず、他所者や足手まといとして排除し放逐し「吾々を憎んでくる敵」としてヘイト祭りの生贄に祭り上げるような社会は、自分たち自身からも弱者・被害者といった属性を剥奪し「英霊」の群れとなる。
 
 ヘイトはいけない、ということを「マイノリティへの攻撃だから」たとえば女性という不利な立場にいる者として、民族差別などで不利を被る人たちに共感できる・老いなどで弱者の局面に陥ることもあるのだから…という視点から考えることは、むろん大事だ。だが、ヘイトはマジョリティの側をも損なうのだ、あるいは数的にはマジョリティでありながら弱者になることだってあるのだ(収奪される国民=英霊にさせられるように)といった側面で考えられる機会は少ないように思う。今回の日記は、今まで使ってなかった筋肉を使うように疲れた。あるいは、間違った・無理な筋肉の使いかたをしているかも知れない。
 などと留保しつつ、最後につけくわえたいことは、こうだ。
 マイノリティや弱者の迫害と、社会の中心層(マジョリティ・いわゆる「普通の日本人」)からの被害者性の剥奪が連動しているだけではない。もうひとつ。日本人が日本人自身を保護されるべき被害者として・つまり「人として」敬意をもって遇さなくなったことと―先月末、病気を理由に辞任を表明した首相にたいして「まず感謝の言葉を述べるべき」「退任"される"と敬語を使え」といった崇拝が求められることも、おそらく無縁ではない。崇拝の強要は、すでに現首相の後継者と目される官房長官にたいしても「失礼なことを言うな」という形で現れている。それもまた、一方から削った分を、もう一方に盛ったに等しい、算数の問題なのだと思う。たぶん。
 ●ヘイトと被害者性の剥奪が、支配者への敬意の強要とも連動していること
 

 私たちは、ひと握りの支配者が独占しようとしている同情や敬意を、私たち自身の手元へと取り返さなければならない。そしてそのとき、同情や敬意に値する「私たち」には、真っ先に排除される対象であった弱者やマイノリティが、当然のように含まれていなければならない。
 最初にはぐれた羊のように。外国籍の岐阜県民のように。

香港がワルだった頃〜バリー・ウォン監督『追龍』(2020.09.20)

 冒頭、こんな主旨の字幕がスクリーンに現れる。「かつて香港は腐敗した悪徳の都だった。ヤクザと警察が裏で結託し、麻薬で街を支配していた」…これから始まるのは、それに敢然と立ち向かったヒーローの物語、そう期待しても無理はない。だが違う。本作品はけっして暴力を賛美し、犯罪を助長するものではありません的な形式上の「おことわり」だったのかも知れない。『追龍』は、腐敗時代の香港でヤクザ(いわゆる黒社会)と警察それぞれを牛耳った、二人のワルをこそ描く映画だった。
 2017年・香港、バリー・ウォン監督。ちょうど同年秋、旅行で訪れた台湾・台北でも劇場公開中で…時間を作れず見逃した。ひょっとしたら日本には来ないのではないか。どうやら来ないらしい。諦め半ばに想いは募り2020年3月、ついに6月下旬の日本公開がアナウンスされる。だがその直後からコロナ禍で映画館が軒並み自粛を余儀なくされ、業界自体の存続が危ぶまれ…この時期が一番つらかったかも知れない。最終的に「7月に延期」だけで済んだのは御の字でしょう。
 
 そう御の字。逆に期待しすぎず行こう、多少出来が残念でも観られただけで御の字くらいの気持ちで行こう…そんな覚悟で公開初日の映画館に向かい、映画館に入り、上映が終わり、映画館を出て、主演のドニー・イェンとアンディ・ラウが立ち並ぶサイン入り特設ポスターを観ながらボンヤリ思った。…現時点で本作、今年のベストなのでは?

 ドニー・イェン。ジャッキー・チェン、ジェット・リーの後に続き(もっと言えばその前にはブルース・リーがいたわけですが)香港アクション界を牽引するスーパースター。二つ名は「宇宙最強」。ハリウッドに進出しての『ローグ・ワン〜スターウォーズ・ストーリー』では、ライトセイバーも銃も使わず長い棒一本で帝国軍をバッタバッタと薙ぎ倒す武僧を演じた。ブルース・リーの師匠にあたる詠春拳マスターを演じた『葉問(イップ・マン)』シリーズの完結編も、同じ7月に日本公開されたばかり。
 「幅の広い演技者」と言われたいタイプなのだと思う―近作は坊主に近い短髪がデフォルトだったが『追龍』ではまさかのパーマ。出落ちか、ネタかと思いきや、得意のアクションも封印・義理がたいが直情的なマフィアのボス・シーホウで新境地を開いた。
 

 一方、どの作品でも安定のアンディ・ラウ。こちらも香港を代表する俳優にしてミュージシャン。タフでクールで、イヤミなくらい格好よく、悪役も映える「心にやましいところがありそうな」ハンサム。警察がマフィアに送りこんだ潜入捜査官と入れ違いで、マフィアのほうが送りこんだスパイとして警察内部でまんまと昇進していく『インファナル・アフェア』でブレイク。自らの出世作にもなった同作に立ち返るように、『追龍』では上司の娘との婚約を足がかりに栄達の道を邁進する・逆に言えば己の魅力と才覚以外に後ろ盾のない、野心家の警察官ロックを演じている。
 
 シーホウとロック。お互い何物でもなかった二人が出会い、手を結び、ここから義理あり人情あり恩義あり裏切りあり、意地と卑屈と忍従と怒りのちゃぶ台返し、暴力、暴力、暴力の物語が展開していく。
 そう、香港なら香港という器に「盛れるだけ盛った」、描けるすべてを描きつくしてやろうという、こういう作品に自分は弱い。ここがイイ、ここが刺さるとピンポイントで突いてくるのでなく「面」で、これでもかと全面で面白さを押しつけてくる。観ているうちに「ありがとう、あの頃の香港の姿をこんな形でそっくり描き残してくれて」と、知りもしない「あの頃の香港」をこよなく愛していた錯覚に陥る。

 圧巻は成り行きで悪の道に踏みこんだシーホウと仲間たちが逃げこみ、根城にしていく九龍城砦だ。その、せせこましい存在感。登場早々はチンピラのケンカ・後半は杖をつく身となったドニー・イェンゆえ華麗なカンフー・アクションなど見せられないかわりに、人ひとり通る幅しかない・そのかわりドアあり隠し扉あり段差あり上下からの攻撃ありと、ダンジョンばりな城砦内での乱闘は泥くさくもトリッキーで(その風物が今は失なわれたことを思うと)文化遺産のよう。
 
 九龍城は映画の描く「あの頃の香港」を凝縮させた中心だが、物語の香港は遠心的にも広がっている。シーホウ率いる一党は、食い詰めて密航してきた大陸出身者で、香港で一旗あげてさらに家族を呼び寄せるのが夢だ。のし上がった彼が郎党とともに乗りこむのは、タイの麻薬地帯。一方、ロックが属する権力組織の頂点には「本国」イギリスから赴任してきたラスボスがいる。
 「本国」イギリスから来たワルに、それと癒着した黒社会の旧支配層。共通する敵を相手に結託した、若い二人は出世するにつれ、しだいに反目も深めてゆく。互いにスパイを送りあい、猜疑心で罠を仕掛けあい…
 それでも裏切りや疑心暗鬼より、圧倒的に「信頼」が幅をきかすのが『追龍』だ。同郷の絆でむすばれたシーホウの手下たちは命を落としかねない異郷の銃撃戦のなかでも「俺たち最期まで仲間でいれてよかったな」と言わんばかりの兄弟愛を見せつける。シーホウの実の弟・ヘロインで身を持ち崩していくインテリ少年が見せる意気地。終盤にサプライズで明かされる、思わぬ人物の献身。後ろ盾のない…と書いたロックの傍らにも、食えない部下(演ケント・チェン)がひとり付き従い、彼に忠誠を尽くしていく。片足の自由を失なったシーホウを看たことがキッカケで二度目の妻となる看護士も、悪行の果てに香港脱出を画策するロックの(元は出世目当てで結婚した)妻も、愛情というより「ワルの同志」のように見えてくる。
 
 まとめます。香港なら香港という器で出来ることをすべて盛りこんだ作品。アクションあり策謀あり「人の業を肯定する」と言わんばかりにあらゆる負の感情を憐れみながら描きつくしてなお、それらを(共犯意識とも言える)信頼と献身が圧倒する物語。いや、まだ足りない。
 そうやって怒涛の「面」で押してくる物語が、あらゆる局面で火花を散らしながら、しかも最終的には(手を結びつつ別々の道を歩み続けた)主人公ふたりの訣別に収斂していく。世界に二人だけが残され、その二人が袂を分かつとき、暴れまわったドラゴンの目に、点睛が刻まれる。
 「語り尽くせない見どころと、それらを貫く、ただ一本の線
 …こういう時とかく使ってしまいがちな「とにかくすごい」を、どうにか別の一文に置き換えることが出来ただろうか。

 クライマックスシーン。それまで疑いあい反目しあい、なんなら命を狙いあったシーホウの名を、悲痛な声でロックが呼ぶ。たぶん通り名の「跛豪」と呼んだのだろう。それがまるで「阿豪!」(「阿○」で○○さん、○○ちゃんという愛称になる)と叫んだように聞こえた。ロードショー期間は終わり、次に観られるのは配信かDVDかだけれど。そのころ、本作でかくも愛された香港がどうなっているか、どうか香港らしい香港のままでと祈るほかないけれど。別に「跛豪」と呼んでいてもいいのだ―アンディ・ラウの悲しい叫びを再確認したい。
 ・映画『追龍』公式サイト(外部サイトが開きます)
 
 (すみません、もう上映終わったかのように書いちゃったけど、鹿児島市・刈谷市では9/24まで・そのほか9月下旬以降に公開の映画館たくさんあります。公式サイトをご参照…)
 

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