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生政治とレイシズム(2020.08.02)

 ミシェル・フーコー1975-1976年度コレージュ・ド・フランス講義『社会は防衛しなければならない』(筑摩書房)について蒸し返す。
 この講義に関しては、すでに2017年8月の日記で取り上げている。ただ、その時の記述はフーコーの講義シリーズ全体を紹介する体裁だった。今回は、その時も一応ハイライトではあった「生政治とレイシズム」の箇所だけを、いわばズームするように取り上げ直したいのだ。
 
 周知のとおり、コロナ禍は続いている。
 しかし日本では、感染爆発がもう来るぞ、今に来るぞと言われながら中途半端な宙づり期間が続く一方、先んじて社会のほうが軋み(きしみ)の音をあげている。医療機関に一向に予算が回らず、内閣も地方自治体も明後日の方向でエゴを追求する姿をもう隠そうとすらしない。倒産や雇い止め、貧困への転落、格差の拡大。
 ウィルスそのものより速い社会崩壊を、端的に示していそうで怖いのが「安楽死」「尊厳死」「優生思想」など口あたりのいい字面で「命の選別」を持ち上げる思潮が盛り上がっていることだ。(優生思想・優生主義にまったく良いところはないのだが「優」の一文字で何だか良さげに響くことが忌まわしい。歴史修「正」主義にも通じる言葉のトリックだ)。テキトウにHINOMARUを持ち上げ批判されたミュージシャンが今度は「才能のある者には優良な子孫を残すため国家がふさわしい配偶者をあてがうべき」と発言。政府与党も「親しみやすい絵柄」でダーウィンの誤った解釈をばらまく。
 7月には京都で医師が、嘱託を受けたという形で難病患者を殺害。石原慎太郎・元東京都知事が(さっそく)(また)嬉々としてしゃしゃりでて「命の選別」を礼賛、当然のように非難されゴニョゴニョと謝罪。
 さらに確信犯的なのが維新だ。「人工透析患者は税金食いだから治療させず殺せ」と主張する男を候補に立てたように、本質がそうなのだろう。京都の事件を受け「尊厳死を政治的課題として検討すべき時だ」と公言。それどころか、自身が難病患者である、れいわの舩後議員が尊厳死の前に「生の尊厳」の確保をと訴えると「議論の旗振り役になるべき舩後議員なのに残念」と揶揄。さらに松井一郎・大阪市長は「舩後氏は難病でも生きる価値を見つけられたが、生きる価値を見つけられない難病患者もいる」と発言。
 神奈川県・相模原市で、知的障害者施設の利用者が元職員によって数十名、殺傷された事件から4年。よりによって事件のあった7月に、(死刑判決を受けても改心の意を示していないという)犯人に与するような声が、地方自治や国政を担う者・人気のミュージシャンから上がっている、おぞましさ。この国では、自身の犯罪が安倍首相に賞賛してもらえると信じていた犯人が「結局は正しかった」ことになってしまうのか。

   *   *   *

 1976年3月17日。この年、全26回の講義でヨーロッパにおける戦争観の推移を分析してきたフーコーは、近代における生権力の誕生について語りだす。
 生権力は、国家や権力が臣民の「健康」に介入し、より衛生的で、より健やかであるようコントロールする19世紀の発明だった(と、フーコーは主張する)。その発明は資本主義の成立とシンクロするもので、それまで「生きるに任されていた」人々は生産の単位として統計に組み込まれていく(生経済20年7月の日記も参照)。レディオヘッドの曲にあるように"Fitter Happier More Productive"(より適応して、より幸福に、より生産的に)というわけだ。
 それでは「本質的に生命を最大化し、その持続期間を延ばし、そのチャンスを増大させ、偶発事を回避したり、欠損を補ったりすることがめざされている」権力が、どうしてその同じ口で「殺し、死を要求し、死を求め、殺させ、殺せと命令を与え、敵だけでなくみずからの市民をも死に曝すことができるのか?」とフーコーは問い、自ら答える。
「そこに、人種主義が介入してくるのだと思うのです」
 人種主義、直訳すれば(あれ、逆か?ともかくだ)レイシズム差別。もちろん差別・レイシズムといったものは以前からあったと、フーコーは急ぎ注釈をつける。だが昔の人種主義は国家とは「別の場所で機能していたと思うのです」としたうえで、彼は言う。
「人種主義を国家のメカニズムに組み込むことになったのは、生権力の出現なのです」
「その時、人種主義は(中略)権力の根本的メカニズムとして定着したのであり、
 その結果、なんらかの時期に、なんらかの範囲内で、そしてなんらかの条件下で、
 人種主義を経由しない国家の近代的機能などほとんど存在しないのです」

 ここで言われているのは、恐ろしい話だ。先月の日記で紹介したとおり、イタリアの思想家カヴァレーロは近代国家はテロルの延長上にあると主張している。アガンベンは法律を無視した行政の専横(例外状態)は例外でなく国家の本質だと説く。同じようにフーコーは、レイシズムこそが近代国家を駆動する「根本的メカニズム」なのだと言う。
 それこそ「近代的精神」と呼ばれるような理性や博愛や平等意識が近代社会を生んだ…という幻想はくつがえされ、三者三様に国家の原罪があばき立てられる。世界の経済を裏であやつる委員会があるとか、人類の文明は異星人がもたらしたとかいうオカルトも色あせる「怪物は…お前だぁーっ!」ガチのヤバい話。だが先を急ごう。

 生権力・生政治は臣民を、生産力を有する「人口」として扱い、その生産力が最大になるよう健康を管理する。しかし人種主義・レイシズム・差別は
「権力が引き受けた生命の領域に切れ目を入れ」
「権力が引き受けた
(人類全般という)種を、(中略)人種という下位区分に分割できるように」
する機能を持つ。なぜそんな機能が必要か。それはおそらく、生権力の目的が「最大多数の最大幸福」などではなく「効率的な生産」にあるからだ。
 医療や衛生にはコストがかかる。まして、それが経済のマターであるなら、健康の保障にも「損益分岐点」がある。生権力・生政治を「生経済」と置き換えることで、そのような理解が可能になる。人口の再生産に寄与しない者・より高い生産力を持たない者は「コストカット」の対象になる。「吾々の」社会にいながら「別の」社会に属し、スムーズな生産には望ましい社会の同質性を低める者…外国人の排斥は、そのような「計算」の結果なのだろうか。
 だが、ここでボールをフーコーに、生経済から生権力に戻そう。
 
 彼は言う。いったん引き受けた全人口を(必要に応じて)再分割するのがレイシズムの第一の機能。そして第二に
「「殺せば殺すほど(略)より多くを死ぬに任せれば、
 その事実自体によっておまえはより生きることになるだろう」といったタイプの、
 ポジティブな関係を確立する役割を、人種主義は持つことになるのです」

 これは以前からある「戦争型の関係―「おまえが生きたければ、他者が死ななければならない」」と同等だが、その現れが全く別質なのだとフーコーは説く。生政治と結びついた人種主義=レイシズムが提示するのは、軍事や戦争ではなく「生物学的」な関係で、つまり
「劣等種が消滅すればするほど、異常な個人が抹殺されればされるほど、(略)
 個人としてではなく種としての私―はより生きることになるし、より強く、より活力に溢れ、より繁殖力を持つことができる」

 不健全な者が排除されれば「私たち」は全体として、より健やかになる。人々の生を増進するはずの生権力が、全体の生を向上させないものを排除する死の権力に転換される―人種主義=レイシズム=差別を蝶番に。1976年3月17日、ミシェル・フーコーはこのように語った。生産性の側面から見れば尚更…と、もう一度ボールを生経済に戻す必要があるだろうか?

   *   *   *

 生命力や生産力において劣る者を排除すればするほど、残った者たちは「より生きる」ことになる。
 大阪の「維新」が体現しているのは、このようなレイシズムに裏打ちされた生権力ではないだろうか。彼らが公務員や公営バスの運転手の給与が高すぎると引き下げを要求したとき、逆に民間の給与を合わせて上げるべきだという異論は聞き入れられなかった。自身の生産力を上げるのでなく、他者を削ることで相対的に自身の生命の価値が高くなったと計算する。そのようにして図書館を削り、文楽を削り、朝鮮学校を、そして保健所を、医療機関を削ってきた。
 その行き着く先が二つ―ひとつには、難病の当事者に「尊厳死の議論を進める旗振り役になれ」と要求する死の論理の噴出であり、もうひとつは東京ですら青ざめる急速な感染拡大だ。劣った者・異質なもの不要な者は排除せよという維新の論理は「にもかかわらず」ではなく「そんなだから」という順接で、感染拡大に結びついていると、なぜ維新に拍手する人々は思わないのか。

 もちろん、フーコーだ生権力だを持ち出さなくても、現在の大阪の破滅的な凋落(遠い関東からだと、そのように見える)は「ドケチ」のひとことで説明できるのかも知れない。
 「ドケチ」と、大阪人は(愚鈍な他地域の連中と違って)何にでもオチをつけなければ気が済まないし「おもんない」と言われるのが何より屈辱なのだという「お笑い体質」は、実際には体質ではないのだと思う。一方で大阪には「知らない人にも飴ちゃんをあげるおばはん」というドケチとは真逆の行動様式がある。朴訥な大阪人もいるだろうし、『細雪』のような細やかさもあったはずだ(そうでなくて、どうして文楽が生まれ得ただろう)。(とゆうか、それを「体質」と言ってしまったら、それこそレイシズムだ)
 だが「ドケチ」と「お笑い体質」が大阪なのだと主張する者の声が大きく、人々の思考を水路づければ、それがもたらす弊害は現実のものとなる。今の大阪が「お笑い」だと思っているものは序列の押しつけであり、内輪でのくすぐりあいであり、ツッコミという罵倒であり、「いじり」という「いじめ」であり、強者への媚であり、劣位の者を小馬鹿にする「嗤い」だ。他者を下げれば下げるほどおもろくて自分らの生命力は増す…その思考様式はやはり生権力の負の側面や、レイシズムと親和性が高いものではないか。
 今回の日記、維新を生んだ大阪ということで罵り倒してますけど、北新地の「すんどぅーふ」屋など心からつぶれないでほしい…
 ナチスの「生権力」や「優生思想」は、国民の健康増進を謳いながら大量の他国民のみならず大量の自国民まで死に追いやった。それは「にもかかわらず」ではなく、「生権力」にビルトインされた排除の論理がもたらした「だからこそ」の帰結ではなかったろうか。レイシズムの度合いと、感染拡大が比例してるように見える自治体は、大阪だけではない。それは「外」を排しているように見えるレイシズムが、実は同じ排斥の原理を共同体の内にも振るっていることで、説明できるのではないか。
 今回の日記に、これといった「オチ」はない。「おもんなく」て、結構。
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