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浜の真砂が尽きる時〜『砂戦争』『砂と人類』(23.9.3)

「でたらめな諺によると、平和の意志を貫徹させるためには戦争の準備をすべきそうだが、
 事実は逆で、戦争の準備はまず双方の心に相手が決裂を望んでいるという確信を作り上げ、その確信が決裂を導き、しかもいざ決裂となった場合にこれを欲したのは相手方だというもう一つの確信を双方にもたらすのだ」

100年前、第一次世界大戦の惨禍を目の当たりにして書かれたプルーストの言葉。その後50年にわたる冷戦がもたらした核抑止という神話と、平行して米ソ(および今のロシア)が行なってきた大国による一方的な侵略戦争で風化しがちだった戦争観かも知れないけど、今いちど見直してもいいのでは。
『囚われの女II』書影
 『失われた時を求めて』第五部『囚われの女I・II』を読了。風説と予断から、難渋するのではと懸念してたけど(7月の日記参照)いや全然おもしろかった(個人の感想です)。そのわりに時間がかかったのは完全に夏バテのせい。考えてみたら個人スケールでも各々の人生で最暑の8月だったわけで、皆様おつかれさまでした。

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 そして9月。ユーユー誘惑の摩天楼にユーユー夢が花咲く9月。雨が冷たく愛がこんなにつらいので一人で生きていけない9月。ラブという言葉だけ切り抜いて辞書を返す9月。
 キャプション「昭和育ちにしか分からない話やめい!と言いつつ「九月の雨」(太田裕美/作詞・松本隆)の歌詞「愛はこんなにつらいものなら 私ひとりで生きてゆけない」おかしくない?「愛が」「つらいものなので」となるべきなのでは?と長年モヤモヤしているのでした…」にジャパン『孤独な影』のジャケットふうに雷雨のなか傘を差した舞村さん(仮名)の挿し絵。
そして舟を出すのなら9月(中島みゆき)。あーなたーがいーなくても愛は愛は愛は 愛はどうせ砂のようにあぁぁぁぁぁーるぅぅぅー(なんでそうヤサぐれた唄が好きなの?)

 ところが、その砂が枯渇の危機にあるらしい。
 石弘之砂戦争 知られざる資源争奪戦』(角川新書/2020年/外部リンクが開きます)
が紹介する「砂資源は想像以上に希少化している」という国連環境計画(UNEP)の提言は2014年。この時点で、世界じゅうの川が1年に運ぶ土砂の2倍にあたる量の砂が毎年コンクリートの材料として採掘されているという。
 つまり砂を貴重な資源にしたのも、希少化をもたらしたのも、世界各地に林立する超高層建築・急ピッチで進む巨大都市化らしい。「人口1000万人以上の「メガ都市」は、2018年現在、世界の20カ国で33ある」。他人事ではない、その筆頭は1960年代なかばに2000万人を超え現在3700万の人口を抱える=今まさに自分が住んでる横浜を含めた日本の首都圏なのだった(ただし2050年までに約1300万人まで減少する見通し…それはそれで怖い)。
 メガ都市・メタ都市(というそうな)は、それ自体が巨大な経済効果と利権を産み、人口の流入で大量の貧しい都市住民を産み、周囲の環境を破壊し、さらに材料となる砂を得るため遠い何処かの砂の産地でもまた利権や人権侵害・環境破壊を産み出す。本書は上海・ドバイ・ジャカルタ・ムンバイ・ナイジェリアの商都ラゴス・シンガポール…世界最先端のメタ都市を巡回する皮肉なガイドブックでもある。
 言い換えると「砂の乱獲(?)」にとどまらない多面性をもった、単調でなく読ませる本です。傘寿を迎える著者の語り口もあるのでしょう、砂漠が巻き上げる砂塵が多いと夕焼けの赤色が濃くなる話をするのに、夕日を描写したカズオ・イシグロの一節から始めたり、1883年・インドネシアのクラカタウ噴火でもたらされた異様な色の夕焼けがムンクの『叫び』の背景に影響したのではという説を取り上げたり、随所に遊び心が見られながら、全体のシリアスさは損なっていない。

 ちなみに砂は砂でも、角が取れて粒も揃った砂漠の砂は引っ掛かりがなく建材にならない。採掘は河川や砂浜でなされ、洪水や環境破壊をもたらす。太平洋の沈む島として話題になるツバルも、温暖化による海面上昇より砂採掘による海岸浸食が深刻だという。
 そして採掘の多くは違法・脱法的に行なわれ、危険な作業で健康を損なう末端から国によっては賄賂を受け取る政治家まで巨大な「砂マフィア」を形成している。採掘に異をとなえる環境活動家やジャーナリストの殺害も後を絶たない。石川五右衛門の辞世の句と言われる「浜の真砂は尽きるとも 世に盗人の種は尽きまじ」が、まさかこんな形でリアリティを持つとは。今昔物語は「受領は倒るる所に土をつかめ」と言ったけど、本当に土砂そのものを強欲に握って暴利にするとは。
 『砂戦争』(砂戦争の著者が「石」さん…)と、『砂と人類』(近ごろ文庫化されたようです)書影
 砂漠の砂が建材に適さないことを「四角い積み木と丸いビー玉はどちらが積みやすいか」という卓抜な比喩で説明しているのが、ヴィンス・ヴァイザー砂と人類 いかにして砂が文明を変容させたか』(原著2018/藤崎百合訳・草思社2020→草思社文庫2023/外部リンクが開きます)だ。
 副題のとおり、こちらは(結論として環境破壊への警鐘なのは同じだけど)近代近代・とくに20世紀に各分野で人類が「資源としての砂」を発見・再発見した経緯にも注力している。コンクリート、アスファルト(90%が土と砂)、ガラス、あらゆる電化製品に使われるシリコン、シェールガス・シェールオイルの採掘にも大量の砂が使われる。
 砂は観光資源ですらある。フロリダのマイアミビーチ、ハワイのワイキキビーチが他所から運んできた砂で人工的に造成されたリゾートだという話にはヒトという生き物の業を感じずにはいられない。シンガポールやドバイは国土そのものを(やはり他所からの砂による)造成で生み出し、ドバイなどは得られた土地を不動産として売り出すことで、さらなる利益を産んでいる。
 
 SFの世界では吾々のような炭素ベースでない、ケイ素ベースの生物が発生・進化した異星が想定されたりするけれど、コンクリートと強化ガラスで作られた摩天楼でコンピュータを操り、砂を使って掘り出した燃料でアスファルトの道路網を行き来する人類は、とっくに+急激に砂=ケイ素とのハイブリッドに変貌していたのかも知れない…なんて与太はともかく。
 両書を通して再認識させられたのは、砂なんてありふれた、それこそ「砂のようにある」とまで言われる平凡な物質まで価値ある資源にしてしまった人類の凄みと、そうなったらなったで止められないスピードで採取してしまう・環境破壊のみならず貧富の拡大やマフィアの跳梁による社会の破壊まで含めコントロールできない悪を作り出してしまう人類の(別の意味での)凄み・度しがたさだ。
 キャプション「今月のまとめ:・砂なんてものまで価値ある資源にしてしまう人類の凄み・そうなったとたん乱獲で枯渇させてしまう救われがたさ」賢いんだか愚かなんだか、賢くて愚かなんだか…としみじみする「ひつじちゃん」の挿し絵
 『砂戦争』は日本の砂事情・砂史にも一章を割いている。皮肉なことに、日本的な景観の象徴である白砂青松の美しい砂浜は、逆に近世の新田開発や製鉄の需要拡大による環境破壊(「花崗岩の山で侵食や崩壊が進んで河川によって運び出されたもので(中略)内陸の山々が荒れていることの証である」)の産物だったらしい。防風の松を根気よく植えつけ、それなりに安定した環境として整った砂浜は、今度はテトラポットや消波ブロック(どちらも砂が材料だ)に置き換えられ、新たな景観破壊や環境破壊を呼んでいる。丁度よく真ん中ということが出来ないのか。いや、出来ないのがヒトの性(さが)であり業なのだろうか。

 『砂と人類』が提示し、『砂戦争』も終章で引用する結論はこうだ:「人間はあらゆるものの使用量を減らすことに取り組まねばならない」
「人類が毎年使っているすべての原料を持続可能な形で確保するためには、だいたい地球1個半が必要となる。もしも世界のすべての人がアメリカの生活水準で暮らすとすれば、地球4個半が必要である」(『砂と人類』)
 同じことを『砂戦争』は「地球オーバーシュートデー」という概念で説明している。カリフォルニアの環境NGOが毎年発表しているもので、地球が1年間で再生できる資源=つまり1年分の資源を人類が使い切ってしまう日付(残りは当然「未来からの借金」「未来へのツケ」となる)をさす。世界全体でみると1990年には10月11日だった日付が、2020年の時点では8月22日だったという。
 冒頭でも書いたとおり今年も人類は、もう9月を迎えている。すでに未来の貯金を取り崩しているのだ。ちなみに日本だけで見ると、オーバーシュートデーは5月12日。この罪深さよ。

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 これはまったくの余談ですが『砂戦争』によれば多摩動物公園には「シフゾウ」がいるらしい。こういう本筋でない情報が得られる意味でも、良書だと思いました。

うたかたのヒビ/DO THE EVOLUTION(23.9.10)

 いや、もともと本サイトの日記(週記)は生存報告のためだから、考えることに疲れたら「今週は休みます」で全然いいのだった。身辺雑記で全然よかった。今週は「日常回」です。
 大きめの飯碗。うっすら中央から入ってたヒビとは別に、周囲の縁ぞいに幅2cm・奥行き1cmくらいの小さな四角片を欠き取れそうなヒビが新たに入ってしまった
ニャンコめし(玉子かけ+αごはん)やミニ丼に使ってた瀬戸物の器にヒビが入った。旧来うっすら中心から入ってたのとは別に、どうして入ったか分からないけど、昔のカセットテープの「つめ」みたいにバキッともぎ取れそうなヒビが。「バキッ」が来るまで使い続けてもいいのだけど、いや良くはないだろう。100円ショップで購ったシンプルな器で、それだけに遠慮なく使えて好かったのだけど、惜しいことに付喪神には成り損ねたらしい。他も合わせて食器を整理する機会かも知れない。今夏はMacも故障・買い替えとなったし、他の家電だって経年的にあやうい。そういう時期なのかも。

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 社会が荒れても生活はつづく。よく買っている150g×3個パックの豆腐、三つをまとめる帯状のラベルに賞味期限がプリントされてるものだが、商品によっては個別のパックにも各々おなじ期限がプリントされる仕様になったようだ。最近では玉子でも6個入りや10個入りパック・それぞれの玉子の白い表面に(も)消費期限が小さくプリントされてる物があり、ベルトコンベアーで出荷(?)される新生児の額にバーコードがプリントされる往年の皮肉なMV:Pearl Jam - Do the Evolution(YouTube/公式/外部リンクが開きます)を思い出したりするのだが(んなもん思い出すな)
 左:カレールウのパッケージ。右:「濃厚 絹」のラベルを巻かれた150g×3個パックの豆腐
玉子はともかく豆腐については三個パックを買ってきて家族三人で三つをいっぺんに、より、一人で一個ずつ三日以上かけて、みたいな使い方が増えたためかも知れない。そういえば数年前からカレールウの箱にも電子レンジで1皿分から作れますという個食用のレシピ(分量の指南)がプリントされるようになった。
 左:豆腐三つをまとめるラベルに書かれた消費期限 中:個々の豆腐に書かれた消費期限 右:カレールウの箱に書かれた「電子レンジで1皿分から作れます」の文言
 これも個食化という社会の趨勢への適応であり進化(evolution)なのだろう。仮に袋小路への進化であるとしても、現状一人で生きていく人たちが増えるなら、対応するのは悪いことではないはずだ。先鋭的すぎたか定着しなかったようだけど、一時は個食用=1個だけでパッケージされたショートケーキをスーパーで売っていた。まあ個食者の自分も、そんなにケーキは利用しなかったからな…
 (個食用のケーキがありがたい層は、個食用でもケーキはゼイタクで手が出なかった…とは考えたくない)

 逆の(?)ケース。横浜の伊勢佐木町に昔からある庶民的な台湾料理のお店、新型コロナが流行りだした頃はつぶれないかと心配したけれど今も健在のようで何より。改装なんかもしていたと思う。久しぶりに訪ねたら、豚の角煮がゴロンゴロンと乗った魯肉飯は値段が上がって具材の盛りも何だか間延びしてしまったけれど、それが時代の趨勢でしょう。生き延びてくれればいい。
 「時代なんだなあ」と感心したのは注文が口頭からタッチパネルに変わって
コンパクトな丼にみっしり具材が乗った2013年の魯肉飯(左)と、平たく大きな器で白ごはんが目立つ2022年の魯肉飯および玉子スープ。
支払いも伝票をセルフレジに読み取らせる方式を導入していたこと…だけではなかった。セルフレジに伝票を読ませて金額が確定すると、なんとまあ「まとめて(一人で)支払い」と「割り勘」を選べる仕様。これが進化だぜ、ベイビー!(笑)
 他のお店でもふつうに導入されてるかも知れないし「割り勘」が金額の人数割りなのか、それぞれが食べた品目を選べるのかは不明だけど、それは多人数で外食をさかんにする他のひとが確認すればいいこと。誰か教えてくれたら嬉しい。

 割り勘で思い出したけど、これは「待夢(たいむ)」とか「来夢来人(らいむらいと)」とか、そういう店名が(「茶恋路(ちゃれんじ)」とか)好きではないけど気になってしまう自分が最近「こう来たか」と思った物件。
看板。居酒屋「和利館(わりかん)」
退屈を知らない楽しそうな人生でよかったね舞村さん(仮名)…

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 ヒビが入った旧い器(左)と、キーマカレー卵黄のせ丼を盛りつけた新しい器(右)
そんなわけで「お値段以上」のお店にて新しい器を購入、まずは挽き肉をレンズ豆でカサ増ししたドライカレー丼など。小分けで冷凍した豚ミンチがまだ少し残ってるけど、それを使い切ったら挽き肉のほうも中華街で買ってきた大豆肉(長野県産)に切り替える予定です。少しずつでも、生活を変えられたら面白い。面白おかしく(?)生き抜きましょう。←「生き延びましょう」じゃなくなってる処が…

解毒できるかな〜『プラットフォーム資本主義を解読する』『ハンバーガーを待つ3分間の値段』(23.9.15)

「だが、あくまでもユーザーの自発性に任せて「通報を待つ」という姿勢は適切なのだろうか。本来であれば企業がすべき監視・チェック・配慮を、外部化(アウトソーシング)しているというのに。(中略)レイシズムを見抜き抵抗する認知能力をもつ多数のユーザーに創造的かつ無賃の労働を行わせ、自らは「場所貸し」で利潤の増大に努めているわけだ」
(ケイン樹里安「人種化するプラットフォームと向き合う 指先で抑圧に加担しないために」-『プラットフォーム資本主義を解読する』)

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 サイトトップにも掲示したけれど
リビア洪水被害 緊急支援募金(Yahoo!基金)(外部リンクが開きます)
モロッコ地震 緊急支援募金まとめ(同上
Tポイントでも寄付できるYahoo!募金。両方のリンク先に、500万円達成を上限として各々の寄付と同額をYahoo!が供出して2倍になる…キャンペーン?…キャンペーンではないな…があって、少し考えてしまった。
 2011年3月の東日本大震災のとき、サイトをクリックすると1日1円相当が被災地に寄付される「クリック募金」が多く提案され、まとめサイトまで用意された。年月が経つごとにスポンサーとなる企業は少しずつ減って、最後に残ったのがガソリン関連と不動産仲介業で「なるほど今はここが余裕がある(儲かっている)業種なんだな」と妙に感心してしまったのだ。余裕のしるしでもあるだろうし、寄付が節税にもなるのだろう。社会や、何より被災地・被災者に還元されるのだし、傲慢なCEOや内部留保に加算されるよりは良い気もする。

 今は(ずっと前から?)Yahoo!が(も?)その「余裕ある」ポジションなのかも…と妙に意識したのは、丁度
水嶋一憲・ケイン樹里安・妹尾麻美・山本泰三編著プラットフォーム資本主義を解読する スマートフォンからみえてくる現代社会(ナカニシヤ出版/2023/外部リンクが開きます)
を読み終えたからだろう。一つ一つのトピックが短くて読みやすい。良書だと思います。
 『プラットフォーム資本主義を解読する』書影(タイトル部分)
 例によって話を少し飛ばすと、僕自身が「プラットフォーム資本主義」的なものを意識するようになったのは
齋藤由多加『ハンバーガーを待つ3分間の値段 ゲームクリエイターの発想術』(幻冬舎/2006/外部リンク)
を読んで以来だったと思う。
 副題のとおりゲーム作家のエッセイで、疑似対話ゲーム「シーマン」が開発当時は不備だった音声認識を補うため「あ?ナニ言ってんのか聞こえねえよ」と「シーマン」にしゃべらせ「ごめんごめん、分かりやすく言い直すから」とプレイヤーのほうに歩み寄らせる話は、自作の同人誌でも取り上げたことがある。
  BOOK WALKER電子書籍『物語の話をします』無料試し読みページへのリンク(外部リンクが開きます)
 そして主タイトルのとおり「契約者以外の駐車は1万円いただきますって言うけどオレは本当に急ぎだったら1万円払うよ?領収書くれるの?と言う知人」みたいな話ばかりの本書が結論として?でもないのだろうけど、終盤に取り上げるのは、求人情報のような「自らは情報を持たないが場所を提供する者が儲ける」現象だった。
 今にして思えば「シーマン」の歩み寄らせも、本来なら売る側の持ち分だったサービスを上手いことユーザーに負担させている事例と言えるけど、今回は深く追及しない。逆に言えば食事を作る手間や出版社に直に本を注文する手間を有料で代行するのが外食産業や本屋だし、本や映画などは読む側・観る側が歩み寄って意味を作り上げる側面があってなど、広げたらキリがない。
 ただまあ「場所を提供する(だけの)プラットフォーム業者が絶大な影響力と収益を独占する」現象は強く心に残った。もっと知られた、世間で使われがちな言葉でいえば「中抜き」ということだ。

 キリがないと言いつつ話を広げると、社会運動と報道の関係。この十年ほど、不当な差別や政治問題があると街頭に出てデモや抗議のスタンディングを繰り返してきた(さすがに疲れた)けれど、そういうとき新聞などが腹立たしいほど問題を報じないことに焦れることが多かった。
 悪辣な改「正」案が国会で強行可決された後で「この改正には憂慮すべき問題が…」と言い出す報道に「だったら先に言えよ!」と腹を立てたことも一度や二度ではない。
 あるいは大規模なデモがあると、やっと報道される。しまいにはデモに参加する側でも「これで報じられるかも知れない」と期待をかけるようになる。しかし参加者として「どう思いますか」などと新聞記者などに取材され、しどろもどろで答えて、もちろん記事に談話が採用されなどせず、後でモヤモヤすることもあった。そもそも意見を練って発言し、その発言に責任を持つのが記者の役目じゃないのか。いや「役目じゃない」と思っているのか。政治家が何か言えば問題も指摘せずそのまま報道し、デモの参加者に意見を言わせ責任を負わせる。プラットフォーム気取りか。要は中抜き業者じゃないかという憤懣が次第に募った。
 大手の報道機関だけではない。誰かの意見や創作物をSNSで「リツイート」「ブースト」「リポスト」して並べてきた僕たち自身「キュレーション」と言えば聞こえはいいけど、己の声望や、Xの場合はもっと具体的にインプレッションを「稼ぐ」ために他人を利用するプラットフォームに自分は化してるかも知れないと、己を省みることは少しでもあっただろうか。
 デモで高々と差し上げられたプラカード。戦争法案(白字)+反対(赤字)の太いロゴには「ANTI WAR!」の白字が添えられ、ザ・クラッシュのアルバム『ロンドン・コーリング』ジャケットの、ベースギターを振り上げ床に叩きつけるポール・シムノンのシルエットが、ベースを自動小銃に差し替えてプリントされている(2015年・渋谷)
 洋楽ファンならニヤリとしてしまうプラカード(どうして?と思うひとは「LONDON CALLING」で検索)。だが自分が作ったわけでないプラカードを「拡散」する行為は、どこからが純粋な伝達で、どこから自己表現のための他者の盗み取りになるのか。

 『プラットフォーム資本主義を解読する』は中抜きの透明化=スマートフォンやSNSといったネット利用・検索のような基本的な所作まで情報として吸い上げられ、それぞれのユーザーに合った広告を送りつけるために利用されていることに警鐘を鳴らしている。(そのわりに汚い歯ぐきの写真とか追放された聖女がどうたらとか求めてもいない広告が表示されるのは何故だという話は今回はしない)
 冒頭に取り上げたYahoo!の募金もそうだけど、ブラウザの上部に表示されるURLをよく見ると
http://寄付のページ.html
で本来は済むべきURLが
http://寄付のページ.html+○○○○+△△△△
と長いアドレスになってることが多々ある。これは「Yahoo!の天気情報に寄付へのリンクがあったので来た」とか「SNSで誰それがポストしているのを経由して来た」などの情報であるらしい。僕もよく利用する署名サイトだと、その○○○○を利用して「あなたのツイートで誰それが署名しました」みたいな「成果」を送ってくる。言いたくないが「誰それ」さんも△△△△で情報を吸い上げられているわけで、しょうじき遺憾きわまりない。
 そんなわけなので、上記の寄付リンクは○○○○や△△△△を取り除いたhttp://寄付のページ.htmlだけのアドレスを貼っている。そんなおまじないでプラットフォーム資本主義を「解毒」できるかは覚束ないけど。
 これは大声では言いたくないので たたみます。(クリックで開閉します)。
 マルクスは資本主義の利潤の源泉を、労働者の生産活動からの搾取「だけ」に求めたけれど、いや労働には商業も含まれるので商品を通した利潤(搾取)も販売するという労働からの搾取で算定できる・労働なら労働と決めないと搾取が二重三重に計上されてしまうというのも分かるけど。
 消費活動を通じた搾取も結構あるよなあと、とくに昨今はよく思う。現代の搾取の稼ぎ場所が生産から消費に移行したこと・その典型がローンだということは、社会学者バウマン(23年1月の日記参照)の主張のひとつでもあったようだ。
 ローンがいつの間にか消費者の負担を増やしているように、プラットフォーム資本主義も、より巧妙に、訳の分からない形で収益をかすめ取っているらしい。どうすればそれを軽減できるか考えている。

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(同日追記)生産から消費への搾取ターゲットのシフト、急いでたので書き落としていたけど一番実感できるのって消費税だよ消費税!バカじゃないの?バレてないとでも思ってんの?

ツンデレ俊寛の謎〜A・T・ヴォーン&V・M・ヴォーン『キャリバンの文化史』(前) (23.9.17)


 英語のジェシカという人名はシェイクスピア『ヴェニスの商人』で高利貸しシャイロックの娘として登場したのが最初だと読んだことがある。
 調べてみると旧約聖書・ダビデ王の父エサイに由来する男性名ジェシー(またはジェセ/Jesse)の女性形らしいのだが、創世記に登場するハランの娘イスカー(lescaまたはJeska)が語源だという異説もある。いずれにしてもJessicaという綴りと名前を最初に用いたのは沙翁のようだ。
 今ではジェシカといえばジェシカ・ハーパー、ジェシカ・ラング、ジェシカ・アルバにジェシカ・チャステイン…漢字と読み仮名の組み合わせで新しい名前をいくらでも作れる日本と違い、西洋の人名で発案者がはっきりした創作の「キャラ名」がデフォルトとして普及し定着するのは珍しい気がします。しないのかな。

 『テンペスト(あらし)』のキャリバンもシェイクスピア発案の名前で、こちらは起源すら不明だという。
 現代ではジェシカの父・ユダヤ人シャイロックの悪役扱いが不当な差別として問題になっているが、それ以上に議論を呼び解釈が右往左往してきたキャラクターだ…と言えばもっともらしいけど、はい、
アルデン・T・ヴォーン&ヴァージニア・メイソン・ヴォーンキャリバンの文化史(原著1991年/本橋哲也訳・青土社1999年/外部リンクが開きます)
を読んで初めて知ったことばかりです。
 同書の詳細な追跡によれば、キャリバン(Caliban)という名の語源として最有力とされているのは、人肉食を意味するカニバル(canibal)のアナグラムという説らしい。
 『羊たちの沈黙』のハンニバル・レクターが「ハニバル・ザ・カニバル(人喰いハンニバル)」と呼ばれるからカルタゴの武将ハンニバル(BC247-BC183)と同じくらい昔からある言葉かと思ったら
 ほろりと落涙する自画像にキャプション:後々わかってくると思いますが、今日の日記のテーマはこの「○○だと(勝手に)思っていたが」です←「私」が。命長ければ恥多し。
ヨーロッパがアメリカ大陸・いわゆる「新世界」を発見して西インド諸島の先住民を、あいつら人喰い(caniba)だぜと蔑称したのが始まり・比較的新しい(新しい?500年は経ってますが?)言葉らしい。正直このあたり非常にややこしく
・参考:ブラジルの食人風習(Antropofagia)を識る【前編】(田所清克/日本ブラジル中央協会/外部リンク)
 あの地域・海域の人々をさすカリビアン(Caribbean)がキャリバンの語源でいいんじゃない?と部外者の僕などは思うのだけど―そもそもカリブ(Carib)という地域名もcanibaと同義らしい―『テンペスト』の登場人物は人肉を食べたりはしないのに、なぜだか語源の由来を説く人々はカニバルにこだわるようだ。
 というか「キャリバン人肉食べないし」を根拠のひとつにした異説も多々ある。わざわざ大西洋の向こうまで行かなくても近場のアフリカ沿岸にCalibiaという町があるじゃないかという指摘。下劣な犬を意味するアラブ語のカレボン(kalebon)ではという説。
 ロマ語族(いわゆるジプシー)の言葉で「黒い」を意味するCauliban・kaliban説はプロスペローがキャリバンを「この土くれ」などと罵っていること(土くれは黒い)などを根拠としている。ロマ語族に対しては「魔女」のイメージ(偏見)が古来からありそうだし、キャリバンの母シコラクスがチュニジアの魔女だったことを思うと多少は説得力が増す気がする。
 昔からのMacユーザーなので「クリスタル・カリバーン」てピンボール・ゲームがあったよね、あれは何だったの?と思い出しもしたけれど、あのカリバーン(Caliburn)はアーサー王の剣エクスカリバーの異称と言われつつ他でその名を確認することは出来なかった。
Crystal Caliburn(Little Wing/外部リンクが開きます)

 だいたい大航海時代がもたらした新大陸にまつわる知見の影響・具体的にはバミューダ島近辺での遭難などをヒントに創案されたと言われがちな『テンペスト』だけれど、プロスペローが流された島までイコール大西洋とは考えにくい。
 元ミラノ領主の主人公が来る前に島を支配していたシコラクスは前述のとおりアルジェリア出身だし、プロスペローを追放した弟と共謀者のナポリ王が遭難し島に引き寄せられるのは、ナポリ王が娘をチュニスの王に嫁がせた帰りの船旅なのだ。
 挿し絵。ヨーロッパ側のミラノ・ナポリとアフリカ側のアルジェ・チュニスに囲まれた地中海の一部を指さし「ストーリー的にはこのへんで完結してるから大西洋に出る必要ないんですよね…」と説明する「ひつじちゃん」
「新世界」の影響があったにしても、舞台としては地中海(の人知れぬ小島)に盛り込んだと考えるのが妥当かと思われるけど、どうでしょう。
 シェイクスピアに多大な影響を与えたという「影響」の筆頭に挙げられるのは(食人の風習じたいは批判しつつ)新世界の先住民を初めて同情的に論じたモンテーニュの「人食い人種について」だという。収録の『エセー(随想録)』が手元にあるので一応こちらに目を通す間、悪いが話を脱線させてもらう。

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 島流し&島の位置といえば、『平家物語』で平清盛に刃向かった俊寛(しゅんかん)が流された鬼界ヶ島を、長らく瀬戸内海にあると思っていた。いやこれ、本サイトではしてなかったと思うけど自慢の(?)持ちネタのひとつで。岡山名物「きびだんご」は美味い→桃太郎は岡山の話(この時点で既に色々と騙されている)→鬼ヶ島は瀬戸内海にある→鬼ヶ島と鬼界ヶ島を混同→鬼界ヶ島も瀬戸内海→あんな温暖で魚も果物もおいしいところで悲惨だ不幸だ言いやがって京都しか文明圏だと思ってない平安貴族はよぉ…くらい早合点していたのだ。
 
 ちなみに自分の勘違い自慢(だからそれは自慢にならん)で最強ネタも坊主関連で←俊寛が坊主(法勝寺の執行)なのと関連づけるの無理すぎんか…「毒を食らわば皿まで」と「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」を混同して、かなり長い間「坊主食らわば袈裟まで」だと思いこんでいた。なんなら『たのきゅう』に出てきそうなウワバミ(大蛇)がガタガタ震えて命ごいする坊さんを前に「坊さんが着る袈裟を食べるなんて罰当たりだが構うものか、そもそも坊さんを食べちまう時点でアウトなんだし」と大口を開けてる様子まで想像していた。
 図解「坊主喰らわば袈裟まで」命乞いする坊主を前に大口を開けて固まる大蛇。
 島流しがテーマにしたって話が流されすぎである。俊寛に戻すと(テンペストじゃないの?)
 吉川英治の性格というか作風を一言でいうと「見栄っ張り」だと茶化すエッセイを丸谷才一先生が書いていた。宮本武蔵が飛んでる蝿を箸でつまむとかパフォーマンスが過ぎるよ、だいたい汚いじゃないか(ドヤった後で食事に戻る前に箸を洗ったりするの?)等々。それを強烈に思い出したのが『新・平家物語』を原作にしたNHKの『人形歴史スペクタクル 平家物語』。たまたま観たのが、まさに俊寛の回だった。
 「新」がつかない平家物語だと、ともに流刑となった藤原成経・平康経は仏の慈悲にすがろうと木を削って千本の卒塔婆を作り海に流すも、自棄になった俊寛は参加しない。ところがその卒塔婆が平氏の氏神がある厳島まで漂着し、感銘を受けた清盛は二人の赦免を決める。ただし俊寛は選から漏れた。島に来た迎えが最初に出会うのが俊寛で「私か、私の恩赦か」と問いかけるのも哀れなり。あなたも赦してくださるよう取りなすからと去る二人に取りすがり、出る船にしがみつき、置いていかないでくれ、せめて近くのまともな島まで連れてってくれという哀訴の声が鬼界ヶ島に響く…
 …や、通しでは児童向けのダイジェスト版しか読めてないんですけど平家物語。念のため該当の部分だけでもと口語訳つきの原典を確認したら、おおむね記憶と合っている。盛られてなかった。児童書の鑑でした。
 ところが「新」がつく吉川英治原作・人形劇の俊寛は違う。さすがに最初は無情な仕打ちに呆然とするが、自分ひとりを除け者に二人を乗せて去る船に罵声を浴びせるのだ。「帰れ帰れ!泣きべそばかりのお前らがいなくなれば、この島はワシひとり、せいせいするわ!」←いや、この台詞もこんなニュアンスだったのかなあと自分が想像で補ってますけど(こうやって歴史は捏造されていくのよ)、去っていく船を断崖から眺めて高笑いする俊寛はたしかに実在した。
わっはっは!わーはっはっはっは……
 ……ううっ
(船が十分に遠ざかったところで泣)

 何たる浪花節。あるいはツンデレ。もしかしてツンしゅん(ツンツンした後シュンとなる。藤原ここあ『妖狐×僕SS』より)。シュン寛だけに。違うか。悪女(中島みゆき)か。
 ツンしゅんの具体例として、美少女化した俊寛「ではなく」白鬼院凛々千代(いぬぼく)の挿し絵。まさか自分がりりちよ様を描く日が来るとは…
 三国志の、劉備の母のエピソードも吉川英治の創作(付け足し)であるらしい。
 これもたまたま音声ドラマの該当回を聴いたのですが、桃園の誓いを結ぶ前。まだ何物でもない劉備元徳は貧しい暮らしの中で母に飲んでもらおうとコツコツお金を貯めて買ったお茶を賊に奪われてしまう。お茶というだけで稀少だった時代。それを取り返してくれたのが後に義兄弟となる張飛で、感謝した劉備は先祖伝来の剣を礼として譲る。
 親孝行で義理にも篤い息子を老母は褒めるかと思いきや、せっかく取り返した貴重な茶葉を河にぶちまける。剣を、大志を捨てるとは何ごとか。息子の将来のため心を鬼にした母の、涙ながらの叱責に、ただただ劉備はうなだれる…
 意地っ張りというか、やせ我慢というか、こういうパフォーマンスが吉川英治の、そして彼を国民的作家と呼んだ日本人の琴線にふれる物語の「型」なんだなあと後で腑に落ちた(聴いたその場では「またか吉川英治!」と大笑いしていた)のだが…

 実は違った。ぜんぜん違った。
 念のため吉川英治の「原作」新平家物語も確認したら、わっはっは→(泣)のエピソードなど存在しなかった。
 鬼界ヶ島に着く前の船上から、二人と一人は仲たがい。細々ながら島民もいる島に俊寛はさっさと適応して酒を呑み、女を抱いて、あきれる二人を嘲笑う。
 卒塔婆流しも都で二人の復帰を画策する者たちが捏造した話で(まあ薩南諸島から瀬戸内海の厳島に卒塔婆が流れ着くのは海流的に難しいのでは的な近代的に醒めた視点もあったのかも知れない)赦免を受けた二人も「俊寛の悔しがる顔が見たい」とほくそ笑む始末。しかし俊寛は片腕に若い女を抱いたまま「お前たちが帰る都こそ本当の地獄ぞ」と毒づくのだった!
 ご丁寧にも吉川平家は、都に戻った二人が「俊寛は置いていくなと船に取りすがって泣いておりました」と言いふらす様子まで書き添える。さらに無印平家にもある俊寛の稚児だった有王丸が主人を案じて鬼界ヶ島に赴くエピソードも、戻ってきた有王が二人の捏造に話を合わせるかのように「俊寛は都を恋しがって亡くなりました」と原作どおりなんだけど現地での破戒坊主ぶりを知ってる読者は「???本当に死んだの???」と首をかしげる謎めいた終わりかた。
 意地っぱりどころか、底意地が悪い。国民作家どこに行った?吉川英治、思わぬニヒルさを隠し持っているじゃないかと『鳴門秘帖』くらいしか読んだことのない自分は驚くばかり。やっぱり本は実物を読んでこそと思い直すことしきり(文庫で十数巻ある吉川平家を今さら読める気もしないが)でした。

 つまりは高笑い→涙のツンデレ俊寛は吉川英治ではなくNHK人形劇のさらなる創作・吉川ではなくNHK制作陣の好みだったのか。
 そういえば同じく川本喜八郎の人形をフィーチャーした『三国志』では、劉備に仕え本領を発揮する前は伏竜(まだ伏せているがアレは竜だぞ)と呼ばれた諸葛孔明に対し鳳雛(雛は雛でも鳳凰の雛だ)と呼ばれた軍師の…ああ…本サイトでは出ない文字だわ…ホウトウが
 ホウトウの似顔絵(人形劇準拠)と漢字の図示。ホウは「まだれ」に龍・トウは統一のトウ。
「原作」の三国志では単に矢を射掛けられ呆気なく死亡するところを「主君の劉備に影を落とした死の凶運を、敢えて吾が身に引き受けた」とストーリーを変えていた。この程度の矢では身代わりにならない、もっと、もっとだと四方からの攻撃に進んで身をさらすホウトウ。たぶん前代未聞だろう。ネットで確認すると(たぶん)この人形劇版だけを観たひとの「ホウトウの命がけの忠義に感動した」みたいなコメントが見つかって、もうどうしていいか僕には分からない。

 ついでに言うと、話を盛ったのは吉川英治だけでも、NHKだけでもない。
 この人形劇版『三国志』漫才コンビの紳助竜介をモデルにした紳々(シンシン)・竜々(ロンロン)という小物が劉備らの周囲をうろちょろしつつ物語のナビゲーター役をつとめるのだが、たしかコバルト文庫で(?)出ていた「人形劇・三国志」のノベライズ版は数十年後、出世はしなかったが生き延びた二人が「英雄も豪傑も皆、死んでしまったなあ」としんみりする老後で幕を閉じる。劉備が興した蜀漢は今でいう四川省。夜も更けた竹林には、後に世界的に有名になるジャイアント・パンダ(大熊猫)の姿が…いや、そんなエピソードTV版の最終回にはなかった。全然なかった。何がパンダじゃ。
 …最後の一場面のためだけに、老いた二人を人形として用意するのは手間だったのだろうとも考えられる(あとパンダも)。それにしたって、腑に落ちるよう、うまい話になるように変えてしまおうという衝動にきりはないのか。あとよくそんなとこまで押さえてて、なおかつ憶えてるなあ自分

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 【今週のまとめ】後の世の解釈や改変は、厄介だけど面白い。
 考えてみたら、ここまで「原典」扱いしていた平家物語や三国志・『宮本武蔵』自体、起点ではなく史実を再話・改変した創作なのだ…と繋いだところで、やっと来週は後解釈と改変の西の横綱『テンペスト』とキャリバンの話に戻ります。(この項つづく)

キャリバン、エアリエル、そしてプロスペラの娘〜『キャリバンの文化史』(後)(23.9.24)

今週のまとめ】そもそも(特にSNS時代の)吾々は物語を「こういう意味だ」「こうだから正しい ・正しくない」と要約することに囚われすぎて、かつて詩人が「これはどういう意味ですか」と問われ「ここにあるとおりです。他の言いかたで説明できるならそうしたでしょう」という形でしか答えられないとした氷山の大きな本体を忘れがちなのではないか。

 本サイトの文章、基本的に長すぎなので『テンペスト(あらし)』そもそもどんな話かという概要は「いや俺様テンペストとはツーカーの仲だし」という人は(←こういうこと書くから長い)開かず進めばいいでしょう、
たたみます。(クリックで開閉します)。
 死者の出ないハッピーエンドに加え、魔法を手放し観客に挨拶を送るプロスペローの姿が、劇作家として引退を期した晩年のシェイクスピア自身を思わせるのも、本作が人気な理由だろう。だが。
 挿し絵。「私の無事を願ってくれるならミラクルライトを振ってくだされ」とスクリーンから呼びかけるプロスペローと「がんばえーぷおすぺおー」と上がる声援。映画館の暗闇に光る数々のミラクルライト。

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「シェイクスピア劇の主要人物のほとんどが、激しい再解釈の波に洗われてきた。シャイロック、クレオパトラ、それに『じゃじゃ馬ならし』のケイト(中略)どれも近年、従来より好意的な解釈がされるようになった(略)ハムレット、マクベス、オセロといったキャラクターも舞台や学問的批評においてさまざまな解釈に晒されてきたが(略)キャリバンほど波乱に満ち、両極を揺れ動くような変容を遂げたものはほかにない」
 アルデン・T・ヴォーン&ヴァージニア・メイソン・ヴォーンキャリバンの文化史(原著1991年/本橋哲也訳・青土社1999年/外部リンク)。読めばキャリバンが分かる・テンペストやシェイクスピアの理解が深まるという本ではなかった。いや理解は深まったかも知れないが、分からなくなった。今まであまり迷わず受け容れていたことを、実は何も分かっていなかった―そんな風に分からされる本だった。無知の知!

 まずもって驚かされるのは『テンペスト』は1611年のジェイムズ王の御前での初演から、1838年のマクレディによるシェイクスピアの原典どおりの再演まで、最初の少なくとも150年はオリジナルの内容が半分も残っていない改変版ばかりが上演される氷河期のような時代が続いていたことだ。簒奪され、追放されていたのはシェイクスピア自身だった。
 17世紀中葉から人気を博した改作では、母ではなく妹として登場するシコラクスを従え、キャリバンはポン引きまがいの下品な乱痴気騒ぎを繰り広げたという。求められたのは純粋な悪役・それも獣や(いわゆる)未開人のような他者ではなく、自分たちの社会の枠内に存在する「人間」が堕落した姿・悪徳の体現者だった。人間らしい不道徳が具現化した悪魔の子キャリバンを、プロスペローが理性という魔法の杖で制圧するのだ、という解釈は18世紀・啓蒙主義の時代まで続く。
 原典どおりの上演が復活して以降も、キャリバンの位置づけは右往左往する。奴隷制への批判が高まればキャリバンの境遇にも同情が集まり、19世紀初頭のロマン派は欲に忠実な反逆者キャリバンを賛美した。ダーウィンの進化論が一世を風靡するとキャリバンは人間への進化途上の劣った存在とみなされる。飲んだくれ船員の「何だ、こりゃ?人間か魚か?(中略)魚臭い(略)妙な魚だ」「脚がついてら(中略)鰭は腕みたいだ」(松岡和子訳)というボケを真に受けて半魚人や魚類・亀類としてキャリバンを描く解釈も長く続いた。
 19世紀の中南米では自身を善良なエアリエルと位置づけ、強欲な北米のアングロサクソンをキャリバンと呼んだ。1930年代アフリカのジャーナリストはアパルトヘイトを推し進める白人植民者をキャリバンと呼んだ。キャリバンが植民地支配の犠牲者として、アメリカ大陸の先住民・さらに抑圧された人々全般と同一視され「吾々こそがキャリバンだ」と一人称で語られるのは20世紀半ばを過ぎてから、わりと新しい解釈だった。
 書影:左に『キャリバンの文化史』・右に今回使用した松岡和子訳(ちくま文庫)の『テンペスト』
 『キャリバンの文化史』が書かれた1991年には既に、キャリバン=アメリカ先住民という解釈も(執筆当時のシェイクスピアが取りえた立場を超えて)現在の社会情勢を投影しすぎではないかという声も上がっている。シェイクスピアが何を考えて書いたかより、現在の吾々が何を引き出すかが重要だという反論もある。かなり乱暴に端折ったけれど「本当のキャリバン」「テンペストの正しい解釈」を求めれば求めるほど、簡単にこうとは決められない不確定さが増していく、その雰囲気は伝わっただろうか。
 
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 『テンペスト』って何だと改めて考えると、見直しを迫られるのはキャリバンだけではない。
 孤島育ちのミランダは劇の終盤、生まれて初めて沢山の人間・それも貴族たちに遭遇し感激する。
「O wonder!
 How many goodly creatures are there here!
 How beauteous mankind is! O, brave new world
 That has such people in ’t!」
「ああ、不思議!こんなにきれいな生き物がこんなにたくさん。人間はなんて美しいのだろう。
 ああ、素晴らしい新世界!こういう人たちが住んでいるの!」
(松岡和子訳)
後にオルダス・ハクスリーがこの「素晴らしい新世界(Brave New World)」をディストピア小説(実は未読)の題に用いたのは、原典とは裏腹な皮肉なのだろうか。
 20世紀なかばにシェイクスピアの諸作品を政治と権力闘争のドラマとして捉え直し、従来の解釈を一新したヤン・コットは指摘する。なんてgoodでbeauteousだとミランダが夢中になるのは父プロスペローの地位を奪った弟、その簒奪に手を貸したナポリ王、さらに王の暗殺をたくらんだ王弟といった悪党どもではないか。
「プロスペローにはミランダに向かってごく短い答えしかできない。だがこの答えには、どれほど多くの苦い知恵がこめられていることか。シェイクスピアの原文ではわずか四語でこれがいいつくされているのだ―
 おまえには珍しいからな。
('Tis new to thee.)
(シェイクスピアはわれらの同時代人原著1961/邦訳・白水社1967→2007年/外部リンクが開きます))

 プロスペローもそうだ。
 ミランダの「素晴らしい新世界」と同じくらい人気な私たちは夢と同じもので出来ている(We are such stuff as dreams are made on)」は、シェイクスピアの台詞が随所にちりばめられ虚実が入り交じる押井守の実写初長篇『紅い眼鏡』でも最後に引用されるが、江戸川乱歩が物語を愛する者の業を毒の効いた甘さで表現した(と思しき)「うつし世は夢 夜の夢こそまこと」とは違い、このプロスペローの台詞は娘と恋人の前途を祝して彼が催した妖精たちの幻想の踊りが、キャリバンのクーデターを思い出したことで中断され、訝しむ若い二人を前に「気弱になってすまない」と詫びながら吐き捨てられる失望の言葉なのだ。

 『キャリバンの文化史』の著者たちは、シェイクスピア本人にも容赦しない。その作品が世界中で愛好されてきたのは「イメージの美しさや力で人々を魅了し」「人間の運命を実によく映し出しているから」「だけ」ではない。それが「イギリスの文化帝国主義の道具であり、イギリスの言語や文字がイギリス国旗(=侵略による大英帝国の植民地拡大)に従って伝播する過程で(中略)世界の国々の教育システムの中に組み入れられていったからである」
 コカコーラやハンバーガーが世界中の味覚をアメリカ味に上書きしてしまったように、シェイクスピアもまた世界を英語とイギリス文化で成形しなおす教化の道具だった。「お前に言葉を教えてやったのに」と不服従をなじるプロスペローに「言葉を知ったおかげでお前を罵れる」と毒づくキャリバンには、知恵を押しつけられた者の皮肉な悲しみが横溢している。そこには押しつけられたシェイクスピアの語彙を逆手にとって、世界中で反抗の語彙に捉え直していった人々の矜持もある。

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 今の僕などがダース・ヴェイダーの声として知るジェームズ・アール・ジョーンズが60年代に演じたキャリバンは赤い舌をチョロチョロさせる緑の顔の爬虫人だったという。BBCの名探偵ポアロでおなじみデヴィッド・スーシェが70年代に扮したキャリバンは「第三世界」的なキャリバン像の集大成だったと言われる。

 ヘレン・ミレン主演で男性だったプロスペローを女性のプロスペラに置き換え、ミランダにフェリシティ・ジョーンズ、キャリバンにジャイモン・フンスー、そのほかベン・ウィショーやクリス・クーパー、アラン・カミングやトム・コンティなど芸達者を揃えた2011年の映画『テンペスト』は原作の過不足ない映像化だが、そのぶん困惑は増す。絵作りは見事で、ストーリーも分かりやすい。だが「これをどう思えばいいのか」。
 似顔絵と説明:「ディカプリオ主演といえど実質主役だった『ブラッド・ダイヤモンド』やみんな大好き(決めつけ)『コンスタンティン』のジャイモン・フンスーが演じた2012年のキャリバン。 最の高でした。
 忠実でありながら自由を渇望するエアリエルのひそめた眉は、キャリバンと同じ被征服者の不満を隠し持っていないか。道化た船員たちの前で妖精のエアリエルよりナイーブな表情を垣間みせるキャリバンもまた、エアリエルが雇用者に囁く「私を愛していますか?」(愛してるなら解放してくださいませんか?)という問いを冷酷な主人に対して抱いてはいなかったか。
 そして父を追放した政敵たちを賛美し「どこの馬の骨とも知れない王子様」に一瞬で心を奪われたミランダは、道化者たちを神とあがめ初めて飲んだ酒に酔いしれるキャリバンより聡明だろうか。いや、娘の婚姻による新しい縁戚関係を頼りに、魔法を手放し、吉川英治の俊寛なら「本当の地獄ぞ」と嘲笑するだろう(先週の日記参照)権謀術数の現世に戻るプロスペラ/プロスペローは。
 (もっとも娘は手段でななく、むしろ娘の安泰な将来のためにこそ敵を赦し帰郷を決めたのでしょうが)
 かつて自分を追い出した大企業にCEOとして返り咲いたスティーブ・ジョブスのような復活劇はアリだろうか。島の魔法は人界に持ち帰れない。魔法は人界では通用しない。
 いや魔法は島の中ですら、たった二人の被征服民をも馴致させきれず、後継者と見込んだ実娘すらコントロールできない(ミラノを追われた親の苦労話を話半分に寝落ちしてしまうミランダの世代間ギャップを皮肉に指摘するのは『羨望の炎』で自身のシェイクスピア論を総括したルネ・ジラールだ)。旧敵という外来者をもたらす「テンペスト」によって座礁させられたのは、むしろ思い通りにならない「子供たち」を前に危うい小康を保っていた孤島の小世界ではなかったか。
 …というのは「補助線だけでも引ければ少し安心する」程度の、穴だらけな思いつきにすぎませんが
 キャプション「ちなみに2012年のアニメ『絶園のテンペスト』(原作は未読)は今の自分とは解釈違いですが原典からの引用をふんだんに盛り込み、復讐に囚われたハムレットの悲劇を覆す、幸福な和解の物語としてテンペストを位置づける正統派解釈の総決算として&そういう視点なしでもふつうに面白く見ごたえある作品でした。キャリバンについても  最後は解放されてハッピーエンドでしたよねという解釈。」と、好きになったらダメだぁ〜と自分の頭をポカポカ殴る葉風さん(かわいい)のイラスト。
 そうなると気になるのは最近、シリーズ初の女性(少女)主人公と同性婚で話題になった『機動戦士ガンダム 水星の魔女』という新作アニメ(波に乗りそこねて未見)だ。
 ヘレン・ミレンが演じたのと同じ「プロスペラ」という名の母と、「エアリエル」「キャリバーン」2機のガンダムを操縦するらしい主人公・風聞によればミランダのように騙されやすそうな娘の物語は、名前を借りただけ以上の=『テンペスト』を投影することでより深く理解できるような、あわよくば『テンペスト』の理解もより深くなるような、つながりや共通点があるのだろうか。オタク特有の牽強付会・我田引水にならないよう気をつけつつ、機会があれば確認したいところです。
 「とりま先に確認するのはこちらとして(返却期限あるし)」と添え書きしたシルヴィア・フェデリーチ『キャリバンと魔女』の書影・『キャリバンの文化史』と並べて。

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 これは(例によって)まったくの余談なのですが2011年の『テンペスト』でミランダを演じたフェリシティ・ジョーンズ(『スターウォーズ・ローグワン』でもお馴染み)がダニエル・クレイグ主演『フラッシュバック』で、グラムロックに夢中な1970年代の少女に扮して披露するリップシンクは21世紀の映画史に本来なら残るべき名シーンだと思います。
Scene from "Flashbacks of a Fool" with "If There Is Something" by Roxy Music(YouTube/外部)
しかしこの光り輝く少女が横で精いっぱい化粧してる主人公とは結ばれず失意の生涯を送るしんどみ。

小ネタ拾遺・九月(23.09.30)

(23.9.1)肉吸いとかメロンパンの皮だけ等々あるけれど、これは流石に「単なるトンカツ」なのでは…
店頭のメニュー写真。キャプションいわく「ソースカツ丼の頭だけ 長野県B級グルメの代表、ソースカツ丼の頭だけ、ソースカツです。もちろんご飯のご用意もできますので是非

(23.9.2)ものすごく久しぶりに入った喫茶店なる施設で、もうリタイア済みらしい白髪の男性と、ひとまわり若く見える(とは言っても60代くらいの)男性の会話が断片的に聞こえてきて「ヘーゲルの弁証法が…」「カオス…離散関数的な」そんな会話ができる茶飲み友達を作るorキープする人生もありえたんだなあと、ちょっと感動してしまった。
扇堂(松本駅前店)の手前・左から「たぬきケーキ」「りんごのケーキ」ブラックコーヒー。奥にミルクと砂糖をそれぞれ入れた銀の器。木のテーブル
自分はもう手遅れっぽいので、ここ(本サイト)で一人で、もうちょっと世俗的な四方山話を続けますが、お暇なひとはおつきあいくださいな。お茶とお茶請けは各自ご用意で。(逆に逐一相槌は打てないにせよ「あなたの話」を聞けるようアンテナを伸ばしてもいる。いつか僕に届け「あなたの話」)

(1928→1972→2023.9.4)クラシックや現代音楽には(も)まったく疎いので、バルトーク弦楽四重奏曲第4番(1928年)の第五楽章
Bartok: String Quartet No. 4, BB 95, Sz.91 - V. Allegro molto(エマーソン弦楽四重奏団/YouTube/外部)
キング・クリムゾン太陽と旋律パート1(1972年)(BeatClub公式/YouTube/外部リンク)の元ネタすぎて今頃びっくりしている。ロックだけ聴いてると分からないことってありますね。
すごいオリジナルに聞こえていた楽曲に意外と元ネタが…という話だと、自分的には
・The Velvet Underground "I'm Waiting for the Man"(1967)に確かに似てるJimmy Reed - Bright Lights, Big City(1961/YouTube/外部リンクが開きます)
・The Who "Pinball Wizard"(1969)の元ネタにしか聞こえないPretty Things - Old Man Going(1965/同)
天の下に新しき物なしとはいえ、とくに後者はびっくりでした。

(23.5.19→23.9.7)今年の5月に逝去されてました…ザ・スミスのベーシスト、アンディ・ルーク死去(amass/外部リンクが開きます)。7月に訃報が伝えられたシネイド・オコナーの2ndでも、彼が参加したJump in the River(YouTube公式/外部リンク/冒頭いきなり銃声でギョッとするので注意)は好きな一曲で、悲しみが深い。とゆかシネイドに関していうと実は彼女同様アイルランドで愛されたザ・スペシャルズのテリー・ホールも昨年末に亡くなっていて、まだ髪を伸ばしていた頃のシネイドと共演したSinead O'Connor & Terry Hall - All Kinds of Everything(YouTube/非公式/外部リンク)もすごくチャーミングで心に残る楽曲だったので相次いで二人とも連れ去った時の無情を嘆いていたところでしたよ。
スミス時代の(彼の)代表曲Barbarism Begins At Home(Live)(YouTube/外部)も貼っておきますね。SNSから離れて世事に疎くなった僕が知らずにいた4ヶ月前に悲しんでいただろうファンの方々に、心からお悔やみ申し上げます。

(23.9.9/い←→し)ゆるゆるとブラウズしていたSNSに「こいがしたい」という一行だけの投稿が。そうかそうか、せつないねえと二度観したらこしがいたいだった。そうかそうか、せつないねえ…

(23.9.12)Web拍手のアンケートで訊けば好かったことを今ごろ思い出した:「今夏人気の新商品だった首に巻く冷たい輪っか、どうでした?」良かったよ!そうでもなかった!伝えたいかたは下記ボタン→「もっと拍手する」からどうぞ。(23.9.30追記:とくに御教示はいただけなかった→10/1に御教示あり末尾参照)
こちらも交換で情報を出すと「湯上がりの肌に塗ると冷感ジェル」は(自分的には)あまり役立ちませんでした。試さなかった人も、来夏のご参考までに…

(23.9.16)X氏が史上最低の総理大臣だったことは譲れないが、その理由のひとつに「自分よりさらに悪い後継者しか作れなかった」というのも確実にあって、あれでX氏は「好かれたい」という欲が強烈にあったから国際基金の頭文字をABEにしたり(African Business Education)桜を見る会に地元有権者を招待したり吉本新喜劇に出たりブラジルでスーパーマリオのコスプレを披露したり星野源の曲をバックに猫を撫でる動画を配信したりドナルド・トランプとのゴルフでお道化てバンカーに落ちてみたり使えないマスクに自分の名前をつけて配ったり、そのほとんどはトンチンカンだったのだけど最初はお肉券だったのを一回きりとはいえ10万円配りもしたのだが、X氏の後継者だったY氏は「そっちからチヤホヤしろよ」という態度で好かれるために自分から何かしようという意欲は薄めだったように思われるし(そう考えるとX氏は好かれるために何かすること自体が好きだったのかもな)、Z氏に至っては身内(親族)と首相官邸で酒盛りできれば満足で好かれたい気持ちなど皆無らしいのが口惜しいっちゃ口惜しい。一度きりの10万円は○回分の家賃に消えたので、あらためて憤懣やるかたないのだった。

(23.9.17)瀬戸内〜厳島方面の勘違いと言えば、違うな?と気づくまで数十年「夏こそカレー」みたいな意味で「秋の宮島」なのだと思いこんでいたし、しょうじき今も脳内の誤変換を上書きしきれてない。
左から厳島神社の海の真ん中に立つ鳥居・白壁に朱塗りの柱が並ぶ厳島神社の内殿・きよもりうどんの看板・厳島神社の境内にいた鹿。

(23.9.19)「襟なしのシャツに10月が来ても夏は終わらないと歌う杉山清貴とオメガトライブ「ふたりの夏物語」(副題がENDLESS SUMMER)が40年早すぎた「ただ当然のことを唄った歌」になったらどうしようと思っていたが、今週末からようやく涼しく(?)なる模様。
ただしそう言ってるお天気サイトさん、毎日のように「今日は危険!外出じたい控えて!明日は少し和らいで厳重警戒・外出は炎天下を避けてだよ!」と言っては翌日「やっぱり今日も危険だった!明日こそ厳重警戒に和らぐよ!」と言い直す今夏だったので(今はそれでも毎日厳重警戒で済んでいる)ので油断はならない。この小ネタを月末に拾うとき、どうなってるか興味津々。
(追記)23.9.30の現時点で、横浜の明日=10/1の予想最高気温は30℃です…

(23.9.20)半年というか作中時間だと二千年に及んだ人類と地底人の争いをまさかの「両方悪かったで謝って手打ち」で収めた王様戦隊キングオージャー(公式/外部リンクが開きます)、シリーズ後半は宇宙からの強大な敵が新たに登場・結局ふつうの勧善懲悪に路線変更しちゃうのかなと懸念していたら、いくつも文明を滅ぼしてきたと称する敵の方針が「星の内部で争わせて自滅させようククク」で、互いの国民がデマに扇動され排外主義が蔓延して食糧や電力の相互供給がストップ・戦争の危機をどう止める…となる展開に「確信犯だな制作陣!」と感嘆する一方、これが(狙った以上に?)タイムリーな社会批判として機能しすぎな今の世相に改めて絶望する2023年9月でした、とさ…
 キャプション「しかし相互不信による民衆の暴動を回避するため、わざと悪役を引き受けて追放されるジェラミーが、他所者の出自とかルネ・ジラール言うところの理想的スケープゴートすぎて笑えないことおびただしい…」と、またね…と微笑んで手を振るジェラミーと「あの…来週も出番あるみたいです…」と焦るゲロウジームのイラスト。
 (ジラールのスケープゴート論については2021年1月の日記ほか参照)
 一方でスーパー戦隊、歴代作品の元司令官が(別の現場の)性加害での告発が続発して、そういうのしちゃ一番ダメな職種だろう正義の味方…と現実世界への失望はさらに深い。

(23.9.22)スマートフォンの一部アプリで表示される広告(なので見たことない幸運な人も多いでしょう)で、パズルが解けないと貧しい母子が飢えと寒さに震えるゲームのそれが本当にストレスで憎んですらいたのだけど、近ごろは白ヒゲの王様が「HELP ME!」と叫ぶゲームに切り替わったので実に好い。広告は「ほらほらパズルが解けないとこうなりますよ」と失敗例ばかり出して煽るのだけど、王様が溶岩に呑まれようが水攻めに遭おうが驚くくらい心が痛まず安心して観ていられる。この調子で続けていただきたい。

(23.9.23)賞味期限9/29未開封の豆腐が酢豆腐になってて著しくショック。秋分とは思えない連日の暑さのせいか、いちばん冷えなそうな扉上の玉子スペースに置いてたとはいえ逃げ足、速くないですか。落語の「ひとくちに限る」をまさか実体験するとは思わなんだよ…(替わりを買うため半泣きで下山)

(23.9.24)今年の「もうクリスマスか!」第一号は、まさかの「ブックサンタ」でした。9/23から開始。
ブックサンタ2023 あなたも誰かのサンタクロース(外部リンクが開きます)
ここ三年ほど自分はとしょかんライオン(福友由美子訳/岩崎書店2007年/外部リンク)かルリユールおじさん(いせひでこ/理論社2006→講談社2011年/外部)いずれか一冊を贈っていたけど、今年はダークホースで(さいきん知った)じごくのラーメンや(苅田澄子・作 西村繁男・絵/教育画劇2010年/外部)の、斜め上どころか垂直に雲上の極楽までぶちぬく展開に心が揺らいでいます。どれにするかアンケートでも取るか(笑)
※ちなみに、おにぎり画像のSNS投稿が食糧支援の寄付になる「おにぎりアクション(外部)」今年は10/4〜11/17。Xに戻る気はないのでInstagramのアカウントを取得しないとですね。

(23.9.26)スマートフォンも買い替え。昨年ごろから次はAndroidかと迷っていたけど、いいなと思っていた赤いモデルの中古品を(旧機種の下取りと合わせて)費用も抑え目に入手できたので結局またiPhoneに。新旧並べた記念写真を撮るのにスマホ自体では無理でも「そうだコレにテレビ電話用のカメラがついてた」とノートパソコンをひっくり返す自分は(たぶん)かなり間抜けだった。
左から順番に1:今までのiPhone7(左)とNEWのSE(右)それぞれの裏面。2:同じく表面。3:新しいiPhoneの「こんにちは」と表示された起動画面のアップに「はいこんにちわ」とキャプション。4:ノートパソコンをひっくり返し「よいしょ」と机上に並んだiPhoneを撮るの図(イラスト)。
旧機種がサポート外になるための=特に新しいことを求めてではない交換で、色以外しょうじき盛り上がる要素は乏しいなと思っていましたが「旧機種の下取り対価はPayP○yの口座に振り込まれます」「え?」「ですからPayP○yの」…スマホ決済(PayP○y)だけは強制的に導入決定みたい。

(23.9.29)ウィシュマさん収容中発言は「看守の注目集めるため」 国側が意見書(朝日新聞デジタル/23.9.27/外部リンクが開きます)
こんな「不名誉な」国が滅びないわけがない(人命も樹木も収奪しつくして「高い配当」として株主に分配しつくして「倒産」するのがお似合いだ)と吾がことのように恥じ、滅びるのはご自由にだけど手始めに他所の国の人たちを巻き込んで死なせるの「他国の人たちに申し訳ないから」やめいと思う程度には、自分にも愛国心や愛郷心があって、また国家という思考の枠組みから自由ではなかったと逆説的に再認識するなど。だってそうでしょ、野球チームの「ファン」だって贔屓チームがコテンパンの完封負けを10回も20回も続けたら監督の采配なり何なりに毒づき、呪詛するはずだ。

(23.9.29)中秋の名月というので、新調したiPhone(中古の2020年モデル)で早速パチリ。
マンションの間、雲の下に輝く満月。しかしアップにしても模様ひとつない、ただの白い円盤。
いや知ってたし!すごいカメラ性能とか期待してなかったし!なんならモノアイ(?レンズいっこだけ)のままだし!…赤くてモノアイなので「ザクさん」と呼ぶことにしました。また来月。

(23.9.30追記)ちなみにMacのほうですが、名前をつけてなかった先代が「まず通信装置(Wi-Fi)から不調になる」(7月の日記参照)最期が『2001年宇宙の旅』のHAL9000みたいだったので「春さん(ハルさん)」と諡(おくり名)→新しく迎えた機体は夏秋をスキップして+SFのAIつながりで「冬寂(ウィンターミュート)」さんと呼んでいます。自分でつけといて何だけど、すげえ名前ですね。

(追記の追記)と思ったら冬寂、検索しても本家ではなく本家にあやかって命名された後続ネタしかヒットしない、まさに『プラットフォーム資本主義を解読する』(今月15日の日記参照)で問題視されてた(されてたのよ)事態…だいじょぶなのかGoogle、そしてwebli○辞書(いちおう伏せ字/外部リンクが開きます)
 野暮ですが冬寂(ウィンターミュート)は本来、ウィリアム・ギブソン/1984年のSF小説『ニューロマンサー』(2020年8月の日記参照)に登場したAIの名前でした。

(23.10.01追記)首の輪っか、拍手経由で使用感をいただきました。「29度くらいになるよ、といわれ冷たくないじゃん……と思ったら」プラス10度くらいの暑さだったので余裕で「涼しい!」と重宝されたとのこと。ありがとうございます。なんか催促したみたいですみません(催促したくせに!)

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