記事:2014年11月 ←1412  1410→  記事一覧(+検索)  ホーム 

パラノイアの誕生〜スタンリー・キューブリック『シャイニング』(14.11.06)

 今年最大級のヒットを記録した『アナと雪の女王』の元ネタは、スタンリー・キューブリック監督のホラー映画『シャイニング』である、という珍説をアメリカの評論家が発表してるらしく、記事を読んで朝から大笑いした。
http://www.buzzfeed.com/declancashin/all-work-and-snow-play?bftw=main
 氷の城に閉じこもるエルサはジャック・ニコルソン、無邪気なアナは息子のダニー、一見常識人で実は…のハンス王子はブレイディ(そして「ギュッと抱きしめて!」のオラフで噴いた)。ひとけのない城の廊下を幼いアナがさまようシーンは『シャイニング』でホテルの廊下を行くダニー坊や、エルサがLet It Goしながら自らの魔力で作った氷の階段を駆けのぼるシーンは「ジャックは今に気が狂う」の原稿を見られたニコルソンが階段を登って奥さんに迫るシーンがモデルらしい。
 でも最後に氷漬けになるの、『シャイニング』だとジャック・ニコルソンだけど『アナ雪』だとエルサじゃん!と記事を見てツッコミたくなったが(まあそれ以前の問題ではあるが)それとて、自分が同説を支持する立場になれば「ここでアナがエルサの身代わりで凍ることで、エルサが完全にニコルソン化し破滅する運命を書き換えたのだ。アナ雪はシャイニングの延長にありつつ、その破滅を回避し愛が勝利した物語、素晴らしい!」みたいに強弁することは出来る。
 いや、支持はしないが。
 こういう珍説、冗談としてはキライじゃないが。
 そして「ビューティフルな誤読」という言葉があるように、観客が何を受け止めるかもまた一つの創作であり、そこに美しい・あるいは愉快な物語が立ち上がれば、それはそれとして祝うべきことなのだが。

 だが、その関連(?)で「The Shining Code 2.0(シャイニングに隠された暗号)」という80分あまりの動画をYouTubeで観て、うーんと考えこんでしまった。
 なお、こちらの動画にリンクは張らない。時間の浪費だと思うので。どうしてもという人は自力で探されるとよかろう。
 内容を簡単に言うと「アポロ11号の月着陸はNASAによる作り事であり、その偽映像を作ったのはスタンリー・キューブリック監督だった。のちに作られた映画『シャイニング』には、そのことを伝えようとする暗号が隠されている」というもので、動画は『シャイニング』に出てくるこの植木の形はA(アポロを暗示)、この場面の黒板に引かれたラインは11本、厨房管理人ハロランが列挙する牛肉・豚肉・冷凍ハンバーグ…の数を合計すると、など、など、などで80分。
 つきあう自分も相当な暇人だが、この動画の制作者もたいがいだなと呆れて観てるうち、話が映画『シャイニング』の枠を踏み越え、(アポロ打ち上げに使われた)サターンV型ロケットでは月まで到達できないと主張する論文や、月面着陸して残された足跡がヘンみたいな画像が出てくるに及んで、とうとう笑えなくなってきた。見せられる順番次第では信じてしまう人がいてもおかしくはない。急に怖くなってきたのだ。
 現に、ガンは放っておいてもいいとか、ホロコーストはなかったとか、「常識で考えれば」とうてい信じられないような奇説を信じる人たちはいる。奇説を提供する側にも、いかにもインチキな代物でなく、学術論文や証拠画像の体裁を取った資料を作れる者はいくらでもいる。信じる側に立ってしまえば、相当に理性的・知性的な人でも、とんでもない珍説や悪意ある偏見に囚われてしまうことは「出来る」のではないか。

 人は多くの場合、資料1や2や3を見て「つまり結論はA」と決めるのではなく、先に「結論はA」と決めたうえで資料1や2や3をその結論に合うように取捨選択・解釈しているのではないか。
 たとえば自分が支持しないBに1という事が起きたとき「ほら1だ、だからBはダメなんだ」と糾弾する人が、同じ1が自分の支持するAに起きたときには「1くらい何だ、むしろ1のほうが正しいんだ」と強弁するさまは何度も見てきた。
  悪いことばかりではない。たとえば「人を殺してはいけない」とか「人は平等である」といったことは、根拠1や2や3を並べて論証できるものではない。あるいは「なんで人を殺してはいけないんですかー」「人は平等なんて根拠ないじゃん」と言う相手に対して、根拠を並べることは有効な反撃にならない。なんとすれば「人は平等である」「殺してはならない」といったセオリーは、それを採択することで人の社会が住み良くなった・皆が幸せになったという結果でしか効力を確認しえない・未来に向かって投げる「結論先にありき」だからだ。

 少し話が行き過ぎた。
 「人は平等」「殺してはいけない」といった極端な例は措くとして。
 Aを支持する・Bは支持しないという結論にあらかじめ凝り固まった人が、その基準によって資料1や2や3の真偽好悪を判定し、ますますAやBに対する確信を深めていく。
 だがその最初にAと決めさせた、いわば資料ゼロは、どんなものなのだろう。
 それは一つの決定的なキッカケかも知れない。そうではなく、徐々に積み重なった「どちらかといえばAじゃない?」という判断が、あるとき境界線を越え確信に変わるのかも知れない。
 僕はその誕生=その人にとっての「常識で考えれば」が生まれる瞬間=ジャック・トランスが狂気に陥り、エルサが雪の女王に変じる瞬間を知りたい。人を殺してはいけないのだと、人は平等なのだと信じるに至る、あるいはホロコーストはなかったと、もう日本にアイヌはいないと目が据わるメカニズムを知りたいと思う。
 正直、経済に対する世の論評などはAを説く論説1も、Bを説く論説2も「最初に結論ありきなんじゃない?」という疑いなしに、もう見ることは出来ない。困っているのだ。
 
左は初版時「ビューティフルな誤読」と帯のつけられた、気鋭の哲学者(当時)による井上陽水の歌詞読み解き。
右は、広告や映画などに隠されたサブリミナルな暗示が、消費者や観客を操っているという怪著。トンデモすれすれだと思うが(すれすれアウトかも)時々むしょうに「お話」として読み返したくなる。
(c)舞村そうじ/RIMLAND ←1412  1410→  記事一覧(+検索)  ホーム