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消えたコロナ禍(2020.11.23)

 (11月前半は「充電」でサイト日記をお休みしていました)

 「コレ」こと、コロナ禍は続いている。
 「コロナ禍は続いている」という枕詞で、何度このサイト日記(正確には週記)を書いたことだろう。と言いたいところだけど、実際には三回でした。毎週日曜には更新していた日記で、どうやら6月でこの記述は止まっている。
 もちろん、その間もコロナ禍は続いていた。社会に背を向け、フィクションの世界に没入していたわけではない(むしろ社会的な発言は多かった)。だけれど自分もまた「コロナより社会的不公正が(少なくともこの国においては)先に吾々を害しそうだ」という名目で、コロナを二の次にしてはいなかったか。
 
 今年4月の日記で、フィクションはどうコロナ禍と対峙するのだろう、という話を書いた。
 他のことを色々と書きすぎて今ふりかえると読みにくいのだが、たとえばプリキュア(子供向けアニメ)の送り手は「どうしてプリキュアたちはマスクをしないで外で出歩いたり、遊んだりできるの?」という子供の疑問に困ったりはしないか、という主旨の話だ。プリキュアだけではない。現代を舞台にした漫画の描き手が「これから漫画をどう描けばいいのだろう?登場人物にマスクさせる?それとも、この作品中では『ないこと』にする?」と悩んでいた。
 今は11月。コロナ禍は続いている。
 僕の観測する(とても狭い)範囲では、現代を舞台にしたフィクションの一部だか大半だかは、コロナを「ないこと」にして話を進めているらしい。
 せっかくなので例を引き継ぐと『プリキュア』は二ヶ月ほど制作がとどこおり、それまでのエピソードの「ふりかえり」放送でつないだ後、夏から再開された本放送ではプリキュアも街の人々もマスクなしで外出し、ショッピングや食事を楽しんでいる。他のアニメやテレビドラマでも、登場人物たちが律儀にマスクをして外出し、食事シーンでも透明な「パーテーション」のない座席を囲んでいる。ようだ。
 漫画は分からない。ビジネスパーソンを主人公にした人気漫画では、コロナ禍への対処そのものをモチーフにした作品もあるようだし、たとえば今日は9ヶ月ぶり?のコミティアなのですが(自分はサークル参加・一般参加ともに欠席しています)マスクやソーシャル・ディスタンスをテーマにした新作を携えたサークルもあることだろう。

 ただまあ、少なからぬ現代もののフィクションは、コロナを「ないこと」「なかったこと」にしているようだ(違ってたらすみません)
 気持ちは分かる。恋や友情を深めたり、出世をめざして駆け引きしたり、殺人事件の捜査をしたり、アイドルになって歌い踊ったりする=それらの基本になる感情表現は、マスクつきでは難しい。逆に「なぜ殺したんですか!?」とか「一度もかわいいって言ってくれたことないよね!?」といった場面でキャラクターがマスクをしていたら、台詞に合わせてヒョコヒョコ動くマスクが気になって仕方ないだろう。
 それに、作品は残るものだ。再放送もあればDVD化・ブルーレイ化もある。何年も後にリピートして、あるいは初めて出会う受け手もいる。コロナ禍がどうにか収束した後、マスクをした人々が出入りする紙面や画面を見るのは、作品そのものへの没入を妨げることだろう。
 だから理解はする。いいでしょう。コロナ禍は「ないもの」として話を進めましょう。コロナ禍の有無にかかわらず、世の中には語られるべきことが沢山あり、その本質に肉薄するために、マスクや透明なついたては余計なのだから。
 (繰り返し言うが、いま供給されてるコンテンツの多くが、意識的にマスク着用を描いてたらすみません)
 
 それでも、少しだけ「これでいいのか」と思うのは、仕方ないことではないか。物語を愛好し、物語が個人や社会に及ぼす影響・社会から受ける影響を考える、自分のような(ひょっとしたら迷惑な)趣味を持つ者の場合は。
 液晶画面の中でマスクなしに笑い、泣き、青春を謳歌するキャラクタを観て(素晴らしいな)と思う反面、少しだけ思うのだ。
 たとえば政府や経済界は、コロナ禍を「ないこと」のように振る舞っている。GoToキャンペーンや都構想の住民投票を強行し「人類が感染を乗り越えた証として」オリンピックを開くと豪語し、社会保障や、何より必要な医療機関への支援を怠っている。…そう批判し、非難するとき、お前が愛好し、お前自身が生産にたずさわってる「物語」=フィクションもまた、コロナ禍を「ないこと」として振る舞っていないかと。そのことは、お前=僕自身がコロナに対して「油断」することの遠因になってはいないかと。
 4月の日記と同様、この11月の日記にも「答え」はない。
 4月には、こう書いた。「結局はいつもの綱渡り、「社会のことなんか知らねぇ楽しければいいんだ…で、いいのか?」と「社会に有効で有意義でなきゃダメだ…は罠じゃないのか?」の間で各自、右往左往するしかないのだろう」
 しかし、4月にはこうも書いていた。「それでも、やがて作家たちは適応するのかも知れない。コロナ後の世界に」。今のフィクションは「コロナのある世界」に適応しているだろうか?「コロナを『ないこと』にしている社会に適応しているだけでは、ないだろうか?
 お前=僕は、どうなのだ?

I've had my share.(2020.11.29)

 子供の頃や若い時、崇敬の対象となるのは、たいてい自分より年上の存在だ。だから齢を重ねると、憧れだったスターや導き手だった作家が先んじて、次々と「向こう側」に籍を移し、自分もいずれ…と意識させられる。自身の一部だった好きな景色を少しずつもぎ取られ、そのぶん現世は疎遠になる。たぶん(夭折せずに済んだ)誰もがたどる道だ。
 言い替えれば、毎年おなじように星々は夜空から消え去っていたのに、それを惜しむ世代でなければ気づかなかったのだ。けれど自分より少し前を走っていたランナーたちがコースから消えだすと、にわかに痛感させられる。最近あまりに打ちひしがれる訃報が多くないか。世界、滅びちゃうんじゃね?もちろん勘違いだ。けれど真実でもある。私という現象を構成するのは「私」を取り巻く世界で、それは「私」とともに消滅していくものらしい。
 と、頭では分かっていても「なんで今年はこんなにも」と打ちのめされる「厄年」がある。自分の場合は2016年だったかも知れない。1月にデヴィッド・ボウイが、4月にプリンスが相次いで世を去り、年の終わり11月にはレナード・コーエン、ダメ押しで12月にジョージ・マイケルを奪われた。ちなみに前半と後半の狭間ではイギリスでブレグジットが可決、アメリカでドナルド・トランプが大統領選挙に勝ち、自分にとって大事な世界の何かが死んだりもしたのですが、それは別の話。
 ま、この国に住んでたら2012年以降、心は死にっぱなしですが…

 さて、2016年に自ら「スターマン」となってしまったデヴィッド・ボウイだが。彼の代表曲「ロックンロールの自殺者」と、彼の盟友で2013年に没しているルー・リードの「スウィート・ジェーン」が、おおむね同じようなことを歌ってると気づいたのは心なぐさめられ、勇気づけられる出来事だった。
 どんな歌でもたいがい「アイラブユー」で同んなじと言えるんじゃないの、というほど粗いくくりではない。もう少し細かくて、ビートルズの「エイト・デイズ・ア・ウィーク(1週間に8日キミを愛したい)」と五月みどりの(古いなぁ)「一週間に十日来い(とことん、とことん)」が同じという程度には似ているらしいのだ。自分の解釈違いかも知れないが。
 「ロックンロールの自殺者 Rock'n'Roll Suicide」はボウイを一躍スターダムに押し上げた名盤『ジギー・スターダスト』のラストを飾る名曲だ。話せば長いし、抽象的でコレと自分には確証できない歌詞だけど、若くして人生に倦み果て、絶望したと思しき主人公に向け、ボウイは呼びかける。
 Oh no love, you're not alone
  (ああ違うよ愛しいひと、君は一人じゃない)
 You're watching yourself but you're too unfair
  (君は自分のことしか見てないけど、そんなのアンフェアすぎる)
 分かりやすい英語ですねえ(笑)。分かりにくい行を少し飛ばして核心部に進もう。
 I've had my share, I'll help with your pain - You're not alone!
 I've had my shareという表現は、フランク・シナトラの「マイ・ウェイ」にも、クイーンの「伝説のチャンピオン」にも登場するらしい。私は私の取り分を取ったよ≒(世界が与える)人生の苦痛の、自分に割り当てられた分をもう自分は取ったよ≒人並みにつらい目は見たよ、くらいの意味だろうか。
 でもそれが、他者へのエンパシー?につながるのが、ボウイの、この歌の稀有なところだ。ロックンロールに自ら埋葬され、殻に閉じこもり(watching yourself)、命を絶つことすら考えてるかも知れない人に、ボウイは叫ぶのだ。I've had my share、気持ちは分かるよ、僕だって同じように絶望したことがある、けれど(あるいはだからこそ)「苦しいなら僕が力になろう ― 君は一人じゃない!」
 

 なにしろボウイ畢生の絶唱なので「ロックンロールの自殺者」の歌詞や、その意味を熟知している人は少なくないだろう。
 でも「スウィート・ジェーン Sweet Jane」の歌詞を正しく理解している人は、ほとんどいないかも知れない。理由がある。ルー・リードが60年代後半に結成し、ボウイほか後進に多大な影響を与えたバンド=ザ・ヴェルヴェット・アンダーグラウンド。「スウィート・ジェーン」は、活動中は不遇に終わった彼らの四枚目のアルバム『ローデッド』中の一曲だが、そこで歌われ収録された歌詞には重大な欠落があるのだ。
 VUを聴いたことない人でもアンディ・ウォーホルがデザインしたバナナのジャケットは見たことがありそうな、彼らのファースト・アルバムに収録された「ヘロイン」。ソロになったルー・リードの大ヒット曲「ワイルド・サイドを歩け」。この二曲に並ぶほどの、ルーの代表曲が「スウィート・ジェーン」だと思ってほしい。これも簡単には要約できないが、ショップ勤めのジェーンと銀行員のジムという、ロックらしからぬ堅実なカップルが主人公らしい。そしてロックバンドに所属する「俺」。もしかしたら二人は、ルーが大学で詩人デルモア・シュワーツに師事していた頃の同窓生なのかも知れない。
 貯金が第一・暖炉を前にラジオでクラシック音楽を聴く…そんなジェーンとジムを、語り手は「落ち着きやがって」と嘲ったり、責めたりはしていない。「踊りに行くのが好きな連中もいる 働かなきゃいけない者たちもいる - この俺を見てみろよ」ニューヨークで成功できず、拠点となったボストンで精力的にステージをこなしていたVUにとって、ロックは生活のかかった「仕事」だった。
てゆか、自分の解釈が間違ってなければだけど、ステージで観客を前に「これ仕事なんだぜ」と歌ってるとしたら、ルー・リード、逆に最高にロックじゃないですか…
 続くパート=歌の核心部はこうだ。
 And there's some evil mothers
 They're gonna tell you that everything is dirt
 You know that women never really faint
 And that villains always blink their eyes
 And that, you know, children are the only ones who blush
 And that, life is just to die
 踊りに行く人々もいる、働く人々もいる、そしてevil mothersもいる…と羅列されるから、その後の行も語り手が「ああでこうで、人生ってのは結局死ぬためのものさ」と唄ってる、と、思ってはいけない
 実はここに秘密がある。唐突にあらわれる思わせぶりなevil mothersとは、実は「邪悪な母親たち」ではないのだ。1993年にVUは再結成し「スウィート・ジェーン」も演奏されたが、1969年当時は卑語としてレコードに収録できなかった真の歌詞がそこで歌われている。「And there's some evil motherfuckers」マザーファッカー=クソ野郎どもがいると。なぜクソ野郎か。どうクソ野郎なのか。
 They're gonna tell you that(クソ野郎どもは君に言う) - このthatも見逃せない。And that, And that...「何もかもdirt(汚い、まやかし)だ」から「本当にfaint(失神)する女なんているもんか」「villains(ヴィラン=悪党ども)はいつも目配せしてる」「顔を赤らめる(blush)のは子供だけ」「人生なんて死ぬためのもの」ここまではすべて、語り手=ロックンロール・バンドにいる俺ではなくクソ野郎ども=Evil motherfuckersの言い分なのだ。
 1993年のライブ版には、スタジオ盤にはない、もう一つの重要な「加筆」がある。ここまでが「クソ野郎ども」の言い分で、ここからは「俺」=語り手のターンに戻ると明白に分かる「But I tell you some(thing)」=だけど「俺」からも言わせてもらうとだな…という前置きだ。

 But everyone who ever had a heart wouldn't turn around and break it
 And anyone who ever played a part wouldn't turn around and hate it
 前置きがなくても「But」と入れば、ここから話が切り替わるのだなと分かる。だが今、Googleで「Sweet Jane」を検索すると出てくる歌詞は、このButがAndになってしまってる。歌詞を正しく理解している人がほとんどいないのではと危惧する所以である。けどまあ、スタジオ盤をキチンと聴けば確かに「But」と言っている。ライブでは丁寧に「話を切り替えるぜ」と前置きがついてくる。吾々はもう、そう承知したことにしましょう。
 では、どう切り替わるのか。ここは意訳で「いやしくも」とタンカを切らせてもらいたい。クソ野郎どもは「全てdirtで、人生はjust to dieだ」と言う。(でも俺なら言うね)「いやしくも心ってものを持ったことのある奴なら そんなふうに背を向けてit(人生)を壊したりしない」
 そして「Anyone who ever played a part」とは何だろう。「役を演じた(played a part)」ことのある奴なら誰でもとは。日本語でも「役回り」という言葉がある。銀行に務めたり、店員として働いたり、あるいは詩を勉強したりロックンロール・バンドで演奏したり。あるいは笑ったり傷ついたり。世界の、人生の中で何らかの「役回り」を演じたことのある人間なら「背を向けてit(人生)をヘイトしたり(蔑んだり)しない」。

 異口同音、ならぬ異「句」同音とでも言うのだろうか。
 デヴィッド・ボウイとルー・リード、自分にとってはスターの中でも特大のキラ星(間違った日本語)だった二人が、かたや「I've had my share」かたや「Anyone who ever played a part」と、つまり「僕だってつらい目に遭ったことはある」「しょっぱい目を見たことがあるなら」経験というものがあるから「君を助けよう」「人生を蔑むな」優しい心をもつことが出来ると、それぞれの代表曲で(ものすごく大雑把に言えば)同じメッセージを発していた。
 繰り返し言うが、それはとても心なぐさめられ、勇気づけられる出来事だった。
 

 自分にとっては2016年が「魔の年」だった。けれど他ならぬ今年=2020年こそ、北極星や南十字星のように仰ぎ見て憧れ、指針にもしていた存在を立て続けに失なった厄年だったという人もいるだろう。
 というか(「だろう」ではなく)5月にジョージ秋山氏・つい先日には矢口高雄氏の逝去が報じられ、この両氏がピンポイントで「推し」だった人を知っているので、あまりのことに声のかけようもないのだった。代わりにここで、こうして日記(週記)を書いている。
 むしろ当人には届かなくてもいいのだ。ボウイとルー・リードは異口同音に「気持ちは分かる」と言うが
 You speak of my love
  like you have experienced love like mine before
 But this is not allowed. You're univited.
「あなたは私の愛を語ってみせる 自分も同じような愛を経験したことがあると言わんばかりに
 でもそんなのは許されない あなたは招かれてない(あんたなんかお呼びじゃない)」
という強い拒絶も吾々は知っている(アラニス・モリセット「Univited」)。つらさの真っただ中にいる者には「私のこのつらさを勝手に分かるな」と全てを憎む権利がある。
 同情や慰めの言葉が、実はそんな「優しい自分」を認めさせたい「ものほしげな言葉」になることを僕は恐れる。だからこれは、今だれかに直接あてた言葉ではない。
 今ではなく、いつか不特定な「あなた」が推しを失なって悲嘆に暮れたとき、ボウイとかルー・リードといった人たちが「つらい・しんどい目に遭ったから他人のつらさ・しんどさも分かる」と歌ったことを思い出して、それがいくばくかでも慰めになればいい。
 あるいはいつか、不特定な「あなた」の近しいひとが推しを失なって悲嘆に暮れたとき、手が届くなら親切にしてあげてほしい。あるいはそっとしておいて、気持ちの中で「分かる、分かるで」と思ってあげてほしい。I've had my share, you're not aloneと。それが「心ってものを持ったことのある奴」のあるべき姿だから。

夏以降、創作の時間が作れず約束をすっぽかしたりして申し訳ないかぎりです。12月は生活も落ち着いてきたので、ちょっと頑張るつもりです。

(c)舞村そうじ/RIMLAND ←2012  2010→  記事一覧(+検索)  ホーム