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蜘蛛の糸(2020.04.05)

 メメントはとうにモラれていたのだ。(正しくないラテン語の活用法)
 2020年は、どうしたって厳しい年になると思っていた。ただその要因は多大な犠牲を要求するオリンピックであり、昨年だけが特例とは思えない夏の酷暑と晩秋にまで及ぶ台風害であり、国庫をつぎこんだ株価維持の限界であり、悪い場合にはさらに憲法改悪だろうと構えていた。昨年末から毎週サイト日記を更新していたのも、備えの一つだった。や、何かの助けになるとも思えないけど、揮発性の高いツイートや、まして誰かの言葉のリツイートでなく、毎週きちんと頭を使って言葉を練る拠点を確保しておきたかった。
 実際にはコロナが来た。
 今わりと重要な漫画作品を手掛けており(近日公開。ご期待ください)あまり時間は取れないので、手短かに、最低限のことだけ書いておきたいと思う。

 まず自分は、医学の専門家でないので、マスクは効果あるのないの、クラスターがどうのは分からない。
 ただ、ここ数ヶ月の行政府の対応は無為、無策、放置。首をすくめていれば頭上を通り過ぎるとでも言わんばかりの無為ぶりだったことは確かだ。
 韓国で修学旅行生たちの命を奪ったセウォル号事件が、韓国社会全体の病弊の象徴とされたように(2018年12月の日記参照)、横浜港に停泊したまま放置された客船ダイヤモンド・パール号は、この国の無為という病弊のミニチュア版だったかも知れない。「外国籍の船だから制度的に立ち入った介入は出来なかったのだ」という訳知り顔の擁護も、何週間も感染の危機に晒された乗客を、ようやくの下船後は公共の交通機関で帰らせる無責任な措置まで含めてだ。
 木曜日に首相がとつぜん言い出し、翌週から強行された学校の閉鎖。とりあえず二週間。その二週間で何をしたか?何もしなかった。マスクが増産され、十分に行き渡るはずだったが、まだ全然行き渡ってない。とつぜん学校がなくなり、給食用の牛乳などが消費されず悲鳴があがった。他国では実施されている検査を、また理由をつけ避けまくって「なぜか日本は感染者数が少ない。特別な風土のせいだろうか」などと寝言を抜かしていた(偵察を極力減らした結果、敵の発見率が非常に低いので安全です?)。
 そして学校は閉鎖し、ライブハウスは感染の発生源だと名指ししながら、同じくらい人が密集する通勤電車はそのまま。パチンコもなぜかお咎めなし。議員や首相夫人が率先してタレントや力士をはべらす宴を開いて範を垂れれば、東京マラソンやオリンピック聖火を観るために数千・数万の人々が押し寄せる。
 自粛を求めておきながら、休業補償はしない。ようやくするかと思ったら「畜産の振興もかねて和牛の商品券を配る」非難されたら「偏りはいけないと批判を受けました。お魚券も検討します」そして「なんと!一世帯あたりマスクを二枚郵便で送ります」。最新の思いつきは30万円の補助金だが、収入が半減したことを証明する書類を役所の窓口に提出する必要があるという。接触を避けねばならない時に、人々が押しよせ身を寄せ合ったまま長時間待たされ、提出された書類は(おそらく最低賃金ていどの)非正規労働者が、これまた閉鎖した環境で精査することになる。これが最新の報せだ。もっともっと挙げられるけど、余裕がない。
 それにここまでは「今までのあらすじ」なので、知ってる人も多いだろう。実のところ読み飛ばしてもらってもよかった
 こうした現状を踏まえ、記録しておきたいことが二つある。これもまた双方とも、わざわざ言わなくても十分に理解されていることかも知れない。ので可能なかぎり簡潔に述べる。

 ひとつ。これは包摂と独占(排除)どちらを取るかという決断の問題だ。
 埼玉という県があるらしいのだが、学校にマスクを配るというとき朝鮮学校だけ対象から外した(抗議を受け改めたらしいが)。逆にコンビニエンスストアのローソンは、おにぎりを学童に配布したとき朝鮮学校も対象にして「当然のこと」と見解を示した。
 ペルーから日本への帰国者を乗せるチャーター機は、日本国籍でない日系人学生の搭乗を拒否した(西日本新聞という地方の勇気ある新聞が報じ、これも改められた)。その一方で同じくペルーから飛び立った台湾のチャーター機は現地で足止めされていた日本人観光客も受け容れた。
 自粛を余儀なくされた人々を救済するための補償の対象は日本人に限るべきと、与党の国会議員が主張している。外国籍の住民も税金を払っているのだが?という当然の問いに対しても「それは関係ない。保護されるのは日本人だけであるべき」という。まるで外国籍の住民が参政権など多くの権利をもたないことを、因果を逆転させ「権利をもたないということは二流の人間なのだ」と思い込んでいるかのようだ。
 何が言いたいか。こういう思考の延長線上に、同じ日本人が相手でも「劇場やライブハウスは娯楽だから補助する必要がない」「風俗業は休業補償の対象から外す」といった排除があり、終局的には「マスク2枚でありがたく思え」がある。ぜんぶ一直線なのだ。マスク2枚に怒っている人たちは、自分以外の人々が排除の対象となった時、同じように怒ったか。
 自分が蜘蛛の糸の切られるより上にいる前提で「下にいる奴らは邪魔だから早く糸を切れ」と叫ぶような思考は、やめなければいけない。そういうルールのゲーム自体を、やめなければならない。なぜなら自分だけ良かれと思って弱者を切り捨てれば、その弱者が突き落とされる感染や経済破綻が、社会全体を崩壊させかねないからだ。
 人を人として扱うという人道的な公正さが、社会を保持するためにも必要な局面が、今だ。この期に及んで、まだ「価値のない連中にパイを切り分けるのは嫌だ」という発想で事に臨んでいる者は、どうしようもなく愚かだ。それが政府なら、なおのことだ。

 もうひとつは、政府の対応の遅れや不作為を「仕方なかった」と擁護することの欺瞞についてだ。
 ダイヤモンド・パール号についてと同様、現在の国レベルでの遅滞や不作為についても「制度上の限界だ、仕方ないのだ」という弁護があるのだろう。馬鹿げた言い訳だと思う。
 ただでさえ問題の多かった従来の範囲すら大いに逸脱する新任務での、自衛隊の中東派遣を、国会の審議を経ず閣議だけで決められる政府だ。首相みずからが刑事告発を避けるため、検事の人事に介入し定年を勝手に延長する政府、それを「法の解釈を変えたからいいのだ」と強弁し決裁は「口頭でとった」と主張する政府だ。木曜に首相が「来週から学校は休んで」と言い出し(会議に同席していた与党議員すら事前に聞いていなかったという)何の法的根拠もないのに月曜から全国で休校が実施され、関係者の悲鳴に対しては「要請を受けた側が自己解決する側で、私に責任はない」と涼しい顔ができる政府だ。
 はっきり言って、今の政府に出来ないことはない。外国籍の船に「法の解釈を変えた」と介入することだって出来たろう。これほどオールマイティで、しかも「要請」だから責任を取らなくてもいい、こんな強い権限をもった政府を「制度上できないからだ、責めても仕方ない」と擁護するのは欺瞞もいいところだ。出来なかったのではない。検査の拡大も、人々の救済も、したくないから、しないだけだ

 …今の政府に、ただ一つ出来ないことがあるとしたら「他人の意見を聞く」ことだ。
 場当たりで、有効性に乏しく、デタラメで、それでいて人々の役には決して立たない。そのように政府の取る行動が劣化してしまったのは、この「他人の意見を聞く」プロセスを徹底的にネグレクトした結果ではないのか。自ら招いた憲法学者が異を唱えても、野党の議員が数時間におよぶ反対演説をしても、最後には圧倒的多数で押し切ってしまう。「検討して直すというプロセスを経ない政策が、上手く行くはずがない。これほど単純なことが、どうして分からないのか。
 「検討して直す」ことをしない政府が、どんどん頭を使わなくなり、出される政策はどんどん劣化する。「初めからダメダメだった」ではない。劣化は進行性で、独断を重ねれば重ねるほど専横もひどくなり、より組織として無能になっていく。
 言い替えれば、誰もが多かれ少なかれ、欠点や偏りは持っているものだ。平時なら「あの人はアレさえなければイイひと(まだつきあえるひと)」ということはあるものだ。他人から見た僕だってそうだろう。だが、諌められ(あるいは自分で恥ずかしいと思い)たえず補正を試みなければ、欠点や偏りは増大する。増大して、最後には他の美点も呑み尽くしてしまう。

 こうして最初の論点(排除でなく包摂)と、二番目の論点がつながる。個人も組織も、たえず自身を補正するため、参照するためにも「外部」が必要なのだ。それが政府なら、なおのことだった
 それを吾々は、見ないフリしてきた。現実の利益や、精神的な満足(日本スゲー)という「おこぼれ」ほしさに、そっち側に乗る人間もいた。選挙で投票さえすれば免罪符が貰えると思ってなかったか。諌めてきた者だって、もっと方法を探るべきではなかったか。これから課される代償は、吾々では支払いきれないほど重いかも知れない。
 今週は、とても素敵なことを書ける気分ではなかった。文章もこなれていない。これはどうかと思うひとは、あなたが文章を組み立ててほしい。誰かのコピーで済ませるのでなく。本当は、そこから始まるはずなのだ。

声の名前〜『ルパンレンジャーVSパトレンジャー』(2020.04.12)

「青春是個巨大的謎團」(青春は巨大なミステリー)

 昨年、絵本を一冊どうにか読み終えてから中断していた、中国語の勉強を再開しました。
 少し違う。語学の習得を目指しているわけではない。台湾で(読めもしないのに)と思いながら心惹かれて買ってしまった中国語の本を、やっぱり読みたい、何が書かれてるか知らずに置いとくのは口惜しいという気持ちが溢れてしまった。なので四声も文法も勉強しない。Google翻訳の助けを借りつつ逐語訳する、いわば現代版ターヘル・アナトミア。

 二冊目の課題図書は、張嘉真の青春小説『玻璃弾珠都是猫的眼晴』(日本語にない漢字を少し置き換えてます)。猫の眼はガラス玉(玻璃弾珠)、くらいの意味だろうか。これを毎日、少しずつ読んでいる。いや、本当に少しずつ。日に1/3ページしか進まない。五つ収録された連作の、最初の一つでも読了できたら、自分に褒美をやってもいいと思っているところです。
 そんなカタツムリのような歩みでも、やっぱり語学は面白い。中国語(繁体字)の原文を1センテンスごと、Google翻訳に叩きこむ。そのままでは意味の取れないものを、英訳と日本語訳を使い分け(中国語は語順的に日本語より英語に近いので、そちらのほうが把握しやすい)特にニュアンスの難しいフレーズは切り分けて別に検索し、理解していく。それらがいちいち面白い。

 それに、同じような日本語なら読み流してしまう文章も、時間をかけて読むので連想や妄念がかきたてられる。「大人になる目前の境界線上で足踏みし」「世界が期待する道に順応できなくなる」なんて山程ありそうなフレーズさえ日本語で享受してきた幾多の物語を想起させ、夜食の(台湾式)おでんが湯気をあげてる「塑膠袋」(ポリ袋?)というだけで心ときめいてしまう。

「そのじつ」が中国語でも「其實」(というか、たぶん中国語のが先)という気づき。
同時にホルモンが身体の中で蠢動する
ホルモンは中国語でも荷爾蒙(He er meng)か。

 なつかしい単語に再会した。

 日本の漢字にはない文字で、金へんに堅・金へんに將。Google翻訳の英語だとsonorous、日本語訳に切り替えても「ソノラス」。「嘉真の筆致はソノラスだ」。英単語の検索で調べ直すと「朗々と、鳴り響く」くらいの意味。
 過去に一度だけ、この単語に遭遇したことがあった。吉行淳之介がホストの『恐怖対談』シリーズだったと思う。この緊急時から考えると、なんとも長閑な話だが文壇三大声みたいな、今でいう「いじり」があった。その一人に数えられた開高健(だったと思う)が博識を駆使して、私もたしかに声が大きいが一緒にしないでほしい、誰それさんはこんな声、誰それさんはこんな声(破れ鐘を叩くようとか、そんな感じ)だが、私の大声は「ソノラス」音楽的に美しいのです。
 四半世紀か、それ以上ぶりに見たよ「ソノラス」。懐かしいなあ。まさか中国語の勉強をしていて再会するとは。

 声に関する表現で、もうひとつ。あっと思うことがあった。
 日曜朝の子供向け特撮ヒーロー番組、いわゆるニチアサ。数年前に放映された『ルパンレンジャーVSパトレンジャー』が、レンタルDVDの旧作=月額会員には借り放題枠に入ったので、いそいそ観始めたと思し召せ。
 通称ルパパト。正式名称『快盗戦隊ルパンレンジャーVS警察戦隊パトレンジャー』タイトルどおり、言うたら義賊みたいな戦隊トリオと、警察の戦隊トリオ、それに世界征服を企む怪人「ギャングラー」三つ巴の戦い。これ絶対に自分の好みだ!との期待にたがわぬ面白さ。まあそれはいい。
 警察側のレッドすなわちリーダー格、直情径行なパトレン1号くんがおのれ快盗ー!」「国際警察の権限において実力を行使する!と叫ぶたび、頭に浮かぶ単語が「胴間声」。

 胴間声…調子はずれの濁った太い声。 胴声。(ネット調べ)
 いや正直、正しい用法か自信がない。知ってても、使うの初めてだから。生まれてこのかた「胴間声」という単語を実際に使ってみようと思う機会がなかったのだ。よもやニチアサの熱血主人公(いや、直情的なようで懐の深い好青年なのですが)で思い当たるとは。面白いよねえ人生。

     *     *     *
 不要不急だけど、ちょっと感慨ぶかかった声の名称の話、ふたつでした。
 観始めたばかりの『ルパパト』だが、こんな折だし初老の自分が借り出し中では、今この作品を切に観たいだろう子供たちに迷惑かと中断してるうち、レンタルショップに出向くこと自体、差し控えたほうが良い状況になった。我慢できなくなったら配信など別の手段を模索するとして、このコロナ禍が通り過ぎた後の世界を憂い9割で慮っています。

物語の未来〜『ヒーリングっどプリキュア』(2020.04.19)

 生存報告も兼ねて、毎週日曜には何か書くことにしているのですが、今週は題材がない。
 前々から語りたいと思っていた映画はDVDを借りれなくなってしまったし(配信はない)、新しく読みだした本は100ページも進んでいない。かれこれについて誰それが興味深いことを指摘していた気がするが、肝心の文章が見つからない。そして政治の話は状況が目まぐるしく変転するので(その迷走ぶりへの批判も含め)現時点でのまとめは断念した。

 とりあえず即興で、とりとめのない話をします。

 プリキュアのことを心配している。
 先週はニチアサ=日曜日朝の特撮ヒーローだったが、今週は同じ時間帯のアニメの話だ。伝説の戦士「プリキュア」に選ばれた思春期の女子たちが、友情や将来のことで悩みながら、男児向けヒーロー顔向けに暴れまわって世界を守る。女児向けコンテンツとはいえ、大のオトナのファン・いわゆる「大きいお友だち」も多い。10年以上つづいてる人気シリーズで、毎年数人ずつ誕生するプリキュアが、毎年交替して新シリーズが始まるため、今では「歴代プリキュア大集合」すると赤穂浪士47人より多い。
 今年3月に始まった新シリーズは『ヒーリングっどプリキュア』。ヒーリングとグッドをかけている。この小っ恥ずかしさに耐えるところから大人のプリキュア鑑賞は始まる
 タイトルどおり、テーマは「癒やし」。数年前「明るい未来を抱きしめて」がテーマだった『HUGっと!プリキュア』(耐えるのだ)では、敵が未来から来たブラック企業「クライアス社」で、クライシスとかクライアントみたいな語感だけど、あ!「暗い明日」かぁ!と気づいて大爆笑したのだけど、今作の敵の一人は「グアイワル」。なぁにフランス語っぽくしてるんだと片腹を痛くしていたら、良いほうの司令官的な存在がサルーキみたいに優美な妖精「テアティーヌ様」。手当て+イヌか!!

 滑り出しの現時点で、プリキュアを務める仲良し三人組がいわゆる普通人なのも久しぶりで面白い。子供の憧れの存在だけあって、そして話に幅を持たせるために、中学生とはいえアイドルだったりジュニアモデルだったり、大金持ちだったり世界的アスリートだったり、妖精だったり王族だったり宇宙人だったり魔法使いだったりアンドロイドだったりするメンバーが入り混じりがちなシリーズで、今年は良い意味で凡庸さがポイントになっている。特に毎年リーダーになるピンク枠が「病気あがりで体が弱い」設定は、地味ながら挑戦的で興味ぶかく見守っている、のだが。
 ここまで来て、けっこう心配になっている。何しろテーマが「世界征服をたくらむビョーゲンズを斥けて、傷ついた地球さんをお手当てする」だ。あまりにタイミングが良すぎて、荷が重すぎないだろうか。
 そして、もうひとつ。このまま5月・6月を迎えたら、頑是ないお子様たちの中には「どうしてプリキュアたちは学校に通って、毎日たのしそうにおしゃべり出来るの?」と疑念や不信の声があがってこないか。

 漫画家の中からも、困惑の声が上がりだしている。
 生活的な悲鳴は(申し訳ないが)いったん措く。外出自粛が求められ、人と人の濃厚接触が忌避される現状で、今までどおりの物語を描いててオーケーか?ちょっと居酒屋に立ち寄って、見知らぬおっさんと隣り合って意気投合みたいな漫画を描きあげて「…なんかパラレルワールド感がすごい」と眉をハの字にしているのだ。
 ファンタジーやSF・歴史ものはいいだろう。プロ・アマ問わず現代もので新作を描きたいひと・まして続き物が継続中の人はどうすればいいのか。あらかじめ言っておくと、今週は即興なので結論や、まして処方箋はないです
 先の震災の時はどうだったろう。ニチアサならぬ月9などのトレンディーなドラマが、東京の洒落たオフィスやイケてる業界を舞台に美男美女の恋を描いていたとき(観てないので適当です)その世界と地続きに、瓦礫になった海辺の街や、放射能はあったのか。
 自分自身は恵まれた状態にある。あ、同人作家をしているのですが。ふたつ抱えてる続き物の片方はファンタジーで、片方は舞台が十年前だ(まだたどり着いてないが、それこそ先の震災を織り込んだ展開になる予定だった)。そのほかについては元々「しばらく即売会も休んで充電する」と宣言していた。それに自作では三年くらい前に大学の用地をめぐる不正が追及され首相が更迭済なので、そっちの世界線に沿った作品なら、コロナ禍はあっても、ここまで悲惨な事態になってはいない。
 (てゆうか皆、どうしてこんなことになるまでアレを放っておいたの?)
神ギフ電書へのリンク
 それでも、なんだかだで現代物のネタは浮かぶ。やはり自分も、どう描いたもんかなぁと悩む一人だ。

 さっそく営業休止や自主隔離、接触厳禁をテーマにした一コマ漫画・スケッチ風の小品は生まれているようだ。
 特に苦境にある人の存在を可視化する作品は重要だろう。だけど皆が皆、コロナや社会状況にフォーカスしたコンテンツを提供しなければ「生産的」でない、というのも違う気がする。「こういう作品を描こう」と設計・計算できる人ばかりでなく、「とにかく話のほうから降ってきた」でないと描けない、自分みたいな作家もいる。逆に社会的なトピックにすぐ飛びつき、ただ面白おかしく洒落のめす「大喜利」と化すことで、問題意識がウヤムヤにされ「やってる感」だけに終わる危険もある。

 結局はいつもの綱渡り、「社会のことなんか知らねぇ楽しければいいんだ…で、いいのか?」と「社会に有効で有意義でなきゃダメだ…は罠じゃないのか?」の間で各自、右往左往するしかないのだろう。

 それでも、やがて作家たちは適応するのかも知れない。コロナ後の世界に。
 携帯電話にまだインターネット機能すらついてなかった頃でも「こんなものが出来たから、もう連絡が取れずスレ違うエピソードが作れない。風情のない時代になってしまった」みたいな意見はあったと思う。たしかに駅の伝言板みたいに失なわれたモチーフはある。けれど今はどうか。逆にメッセージの既読未読で恋する少女たちは悶々と枕を抱きしめ(百合)、スマホの動画投稿が投獄されたバジュランギおじさんや占拠されたホワイトハウスを救ったりする。もともと駅の伝言板だって、鉄道路線と一緒に現れた情報テクノロジーだった。
 隔離をテーマにした物語も、どうやら隔離の必要はなくなったけど大きな傷を負った世界を舞台にした物語も生まれるだろう。もちろん、それらを巧みに見えないところに追いやって、相変わらずを繰り広げる物語も。手紙くらいしか伝達の手段がなかった時代の物語を楽しむように「この頃は不特定多数の人たちが現実の店舗でぐうぜん隣り合わせて意気投合したり、してたんだなあ」と懐かしむことも出来るだろう。
 そもそも作家と読者、それぞれが創作を楽しむ生活の余裕とプラットフォームが残っているか…と案じるのは、また別の話だ。「何、いざとなればコピー用紙にボールペンで描いて、スマホで撮ってSNSに上げるだけでも漫画は続けられるんだぜ」という話を近日中に描く予定です。

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 ご意見募集(首相官邸に対するご意見・ご感想)←「公金投入を惜しまず医療従事者にマスクや防護服の供給と危険手当を!」みたいなことを書くと良いと思います。
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 追記1:『ヒーリングっどプリキュア』休止しちゃいましたね…もちろんストーリー的に世界を背負いきれなくなったのではなく、制作環境の維持困難のためでしょう。これを機にアニメーターの労働環境や賃金なども改善されると良いですね…
 追記2:「いざとなればコピー用紙にボールペンで描いて、スマホで撮ってSNSに上げるだけでも漫画は続けられる」話、描きました。やるんだよ私は。(20.04.26)

極楽の箸は長い〜ひろさちや『世間も他人も気にしない』(2020.04.26)

天国へ行くのさ ここよりはまだマシだろう(「LION」BUCK-TICK)

 当然ながらコロナ禍はまだ続いている。
 医療現場は「崩壊寸前だ」「まだ崩壊していない」と言い続けることで、かろうじてまだ崩壊してないことになっている。会社が休みにならないのだから自粛要請などあって、ないようなものだ。それでいて小売店などは次々と廃業を余儀なくされている。ウイルスによる感染症と、経済の崩壊に社会が挟み撃ちされている。

 数年前にも日記で書いた「宗教の説く未来や来世を、現在の現実として考える」ことを思い出すのも、無理からぬことと思っていただきたい。
 福音書に造詣の深いルネ・ジラールが黙示録の破滅は現代(つうても40年前ですが)社会で実現しているではないかと指摘し、仏教からはひろさちや氏が地獄も修羅道も餓鬼道も現世で吾々の陥った状態だと説いていた。
 このところ頭に浮かぶのは、別の何処かで読んだ「極楽の箸は長い」という話だ。極楽で食べ物に困ることはない(血が滴るレアステーキなんてものは、ないかも知れないが)。ただし箸がやたらに長い。たぶん菜箸よりも、腕をいっぱいに伸ばしたよりも長い。目の前に御馳走が積まれても、自分の口に運ぶことが出来ない。
 だから互いの長い箸で、誰かの口に御馳走を運ぶ。自分も誰かに食べさせてもらう。それが極楽だ。
 たぶんコロナ下で、そしてコロナ以後にも社会を存続させるには、長い箸で互いを支援しあう必要がある。感染症の発生した地域に、他の各地から医療機器や物資・資金が提供される。周囲の協力で感染を抑え込んだ地域は、今度は周囲に物資や新たに得たノウハウを送り返す。…そうした相互扶助のループから、一国だけ切り離された国がある。他国で感染が始まるや、いち早く「外国人お断り」と貼り出した国。わが国は特別なので感染者は少ないのだと言い張り続けた国。そうして世界から孤立すると、内輪で互いを排除しはじめる社会。
 地獄や極楽が来世でなく、現世の状態の喩えだとすれば(ちょっとヤバい言いかたになるけど)吾々は暫定的でも社会を極楽の、長い箸の原理で動かす必要がある。そうでなければ地獄や餓鬼道・修羅道を現世で体験することになる。(今日の日記・前半終り)

 さて、ここからは別の話。
 いい機会なので当該の書、ひろさちや世間も他人も気にしない』(文春文庫)を読み返して、正直また困惑に陥ってしまった。
金儲けができますよ。病気が治ります。人間関係のトラブルが解消されます。
 そんな宣伝文句を謳っているのはすべてインチキ宗教。騙されてはいけません

受験に合格したいと願うのが信仰ではない、不合格でも受け容れるのが人間らしい生きかただと仏は、著者は説く。正義はいけない、自分が正義と信じる善人は他人に善が足りないと責めるからいけないとも言う。義憤に燃え上がり、仏教の教えに社会の処方箋を求める自分が「インチキ」に思えてくる。悩んで仏にすがったつもりが、逆に悩みは増えるばかりだ。
 …ニーチェの『ツァラトゥストラ』を所有していながら(たしか笹塚の古本屋で買ったのだ。懐かしい)読まずに積んでいることを思い出した。読まない理由は「社会に対して腹を立てるなんてルサンチマン。偽りの正義感や怒りなど捨てて超人になろうぜ!」という内容だと困るなー、もうちょっと社会に対して怒らなきゃいけないから、まだ超人にはなれない…という予断に基づくものだった。そういう内容じゃなかったら申し訳ない。

 ガチの信仰は、簡単に人を救ってはくれない(ことが多々ある)らしい。私も救われたいのですとイエスを訪ねた裕福な男は「全財産を手放して、貧しい人に全て与えてから来なさい」と言われ、泣きながら立ち去った(ルカによる福音書18.18)。まあインチキ宗教でも壺とか買わせて全財産を巻き上げることがあるのでアレなんですけど。話が逸れた。
 『世間も他人も気にしない』で劇薬だけどスゴいと思ったのは、一億円(か五千万か)で救いを買う話だ。私は救われたいのです、という人が一億円(か五千万か)払えば救ってあげるよと仏に言われても、そんなお金ないですと言うだろう。でも人生には、払えないはずの一億円(略)を払える、払って救いを買える局面がある。このまま今の会社で働き続けていたら魂が死ぬ、心身や生命を損なうという時。家族と過ごしたい大事なときに単身赴任を命じられたら。断ればクビになる、辞めれば元の賃金水準には戻れないかも知れない。生涯ベースで一億や五千万円くらい失なうかも知れない。でも命や健康・人間らしさを選んだとき、人は一億円(五千万)で救いを買ったことになる。簡単には使えないが、過ぎるほどに強力なカードだ。自分がメンタルを患って職を失なったとき…自分は五千万も稼げるアレではなかったけど(これで命を買ったんだ)と思ったのを憶えている。
 これを著者は、仏は「一億円出さないと救ってあげないよ」と言ってるのではないと言う。「あなたが一億円出さないと、阿弥陀仏はあなたを救えないのです」。同じことを言って、あなたにサリンを撒かせる教祖もいるだろう。だからこの考えは劇薬だ。けれど信仰は、救いは、時に劇薬なのだ。今までの自分を変えることなく、持ち物も全て持ったまま救われたい…そうは問屋が卸さない。

 仏教の本来の教えは執着から逃れ、六道輪廻から解脱することを説く。社会は極楽を目指せという論は、ここで仏教のお墨付きを貰えないことになる。仏教の視点では極楽だって別に羨ましがるものではないからだ。だがこれは、逆に思考のヒントになるだろう。
 念のため言うと『世間も他人も〜に箸の話は出てこない。同書で示唆される極楽のつらさは主にその最期にまつわるもので(極楽での死は人間のそれの26倍も苦しいのだそうだ)後は長寿ゆえの孤独くらいだ。だが「長い箸」もまた、気づかいの地獄といえば地獄ではないか(いや、極楽なのですが)。何が言いたいか。
 暫定的にでも長い箸に持ち替えて、社会を極楽にしなければならない…という主張は、そうすれば皆ハッピーで豊かでGo to eat・Go to travelですよという話ではないということだ。幸福を安請け合いするのは止そう。極楽だって、そう願ったり叶ったりなものではない…それを踏まえてなお、吾々はそろそろ極楽に移り住むことを考えなければならない、という話だ。まだマシだから。そうしないと買えない「救い」や命があるから。少なくとも戦争は防げるだろうし、現世を地獄や餓鬼道・修羅道にするよりは、まだマシだと思うから。

『心がやすらぐ仏教の教え』のほうも「かわいそうだから援助してやる―という考え方は、絶対に仏教の布施の思想ではない」とか、心やすらがない人には圧倒的に心やすらがない、己の不自由さを痛感させられる本ですよ…

(c)舞村そうじ/RIMLAND ←2005  2003→  記事一覧(+検索)  ホーム